花組『エリザベート』東宝楽へ行った。

 とにかく『エリザベート』はチケ難で、わたしごときのゆるいファンはろくに観ることがかなわなかった。もっと観たかったんだけどな。
 東宝でも観たかったんだけど、2回東京遠征して、2回ともチケット手に入らず、劇場前を眺めるだけに至ったという(笑)。や、『伯爵令嬢』観たからいいんだけど、一緒に『エリザベート』も……はかなわなかった。
 それで3度目の正直、今回ばかりはチケット用意しての遠征……でも、午前公演はサバキ取れずにすごすご敗退したけどな(笑)。

 もう観られないんだ、仕方ない。そう思っていたのに、結局千秋楽を観ることにしたのは、いちかのラストを観納めたい、という気持ちがむくむくわきあがったためだ。

 桜一花。近年のタカラヅカの、無冠の女王。
 新公ヒロインもしていない、もちろんトップ娘役でもナイ……されど、花組の舞台に置いて、独自の華と存在感を刻みつけた人だ。ヒロイン以上にヒロインらしい役も、専科さんのような渋い役も、娘役やタカラヅカを超えたような個性的な役もこなしてきた人。
 この「舞台人」のラストステージを見届けよう。
 って、いちか自身への愛着と敬意はもちろんだけど、わたしの場合ソコにもうひとつ理由があって。

 まっつの「相手役」の卒業を見送りたい。

 や、ヅカにおいて「相手役」がいるのはトップスターのみ。それ以外は公式設定ないんだと、わかってる。本人たちもそんなつもりはないだろうし、公式設定がナイ以上、「相手役」と勝手に思うことは、ジェンヌに対して失礼かもしれない。
 でもわたしは、「まっつに相手役がいるとすれば」、最後の公演で恋人役だったせしこや、妻役を演じたことのあるあゆみちゃんやきゃびいではなく、「いちか」を思い出す。
 わたしだけの偏った思いかもしれないが、まっつといえばいちか、まついちペアを思い出す。
 小柄で芸達者なふたり。ぴったりのサイズ感、組んでいるだけで微笑ましかったり、萌えだったり。
 花組にいたときは、正直いちかの方が舞台人としては上だと思っていた。まっつにはいろいろと足りないところが多かった。でもそれは、経験の違いもあったと思う。年功序列の花組で、何年も何年も番手外だか番手に加えてもらえるのか台詞数個しかもらえない、ってとこをうろうろしていたまっつと、娘役2番手のいちかとでは、得られる経験が段違いだった。現に、雪組で3番手になってからのまっつの伸びは著しく、経験大事と痛感。
 大人になったまっつと、いちかのペアをもう一度観たかった。まっつが専科に残り、花組に出演することがあれば、同じ舞台に立つまついちを観られたのになあ。そんな詮なきことを夢想する。

 いちかもずっと前へ進んでいて、まっつとペアだったころの「小さくてかわいいいちかちゃん」じゃない。まっつが組替えしてからいちかは、それまでの「恋愛もしちゃうかわいい女性」の役はあまりなくなった。舞台人として、さらに幅を広げていった。……まっつが云々、というよりトップが代替わりしてから、と考えるべきだと、わかってはいるけど。←

 なつかしいいちか。
 なつかしい、あの頃のまっつといちか。
 いちかはいちかで、まっつ無関係だとわかっているけど、わたしの思い入れゆえに余計に寂しい。切ない。
 こうしてまた、時代が進んでいく。


 だいもんの組替えを、花組最後の舞台を観納めたい、というのもあった。
 わたしが花組を観るときの視点のひとつであった男の子。そのがつがつした舞台欲に目を奪われてしまう子。
 まっつとふたりでトークショー出演してタニちゃん愛語ってた、あの小さなだいもんが。まっつを見たいのに、隣でもないのに、視界の端に入るだいもんがうるさすぎて(←)気になって仕方なかった『エンカレ』、ふたりのハーモニーの美しさに瞠目した彩音ちゃんMS……あれはMC面白すぎたな、ドSまっつとあわあわするだいもん。てゆーかまっつ初新公主演時の相棒の片割れだし。
 いったいどんだけだいもんを見てきただろう。
 花組のだいもん、とてもとても「花組らしい」花男。

 だいもん組替えを見届けたかった……てのはあるけどさ。
 いやあ、きついね!
 いろいろ思い出しちゃってさ。
 まっつ組替えのとき。
 まとぶんにすっげー甘やかしてもらって、持ち上げられまくってたなー。突然挨拶振られたりしてさ。千秋楽のショーではみんなにいじられまくって大変なことになってたっけ。めおちゃんとか、まっつのこと姫抱っこしようとして拒否られてたねー(笑)。雪組での退団公演よりよっぽど祭りっぽく扱われてたな。
 みりおくんに見守られて組替えしていくだいもんに、4年前のまっつの記憶が甦って、二重写しになって、もお大変。

 袴姿の退団者を見るのもきつい。
 記憶はいろいろ生々しくて。

 でも、ヅカファンをやってく以上、リハビリしていくしかない。
 今はまだつらいし、たぶん次の雪組本公演がいちばんつらいんだと思うけど、克服していかなければ。
 わたしは、タカラヅカが好き。
 まっつがいた、まっつと出会えたタカラヅカが好き。
 これからもタカラヅカを愛し、フェアリーたちの創る舞台を愛し続ける。

 いちかが卒業し、だいもんが組替えになった。
 わたしのなかで、またひとつ時代が変わった。
 星組全ツ『風と共に去りぬ』のヒロインは、男役のことちゃんが演じている。

 ことちゃんのファンは、女役がうれしいのかな?
 ことちゃんを、両性具有、あるいは無性のフェアリーだと思っているんだろうか。
 ファンがよろこぶのがいちばんだと思うから、そうならいいなと思う。
 ただわたしは、人気男役スターが女役ばかりやらされることを、歓迎しない。だってここはタカラヅカだ。タカラヅカの華は男役。「トップスター」という言葉が男役を指すように、男役をやってなんぼだと思っている。それは娘役軽視とは別の意味よ? そういう次元の話ではなくて。
 早くから抜擢され、ずーーっとずーーっと「スター」だったみわっちが、人気を得るために必要な時期に何公演も何公演も女役や子役をやらされ、その都度失速していった……それを目の当たりにしていることもある。路線スターは人気を得るカンフル剤として女役をさせられるけど、それはあくまでの一時のことだ。男役の女装は注目につながるが、打ち続けたら逆効果になる。
 観客のほとんどが女性である以上、かわいい女の子や子どものことは「かわいい」と愛でるけれど、夢中にはならないからだ。かっこいい男性にこそ、ときめくのだから。
 ことちゃんに関しては、せっかく男役として飛ぶ鳥を落とす勢いの人気スターなのに、「男役」として売らないなんて、もったいないことするなあ。そう思う。
 でも全国ツアーのヒロイン、しかも『風と共に去りぬ』だ、劇団のただならぬ期待を感じるから、今回はこれでいいのかもしれない。平成以降の全ツ『風共』スカーレットを演じた男役は、総じて未来のトップスターだ。劇団はことちゃんを超トップコースに乗せたということかと思う。
 でも、これを最後に、女役は控えて欲しいなあ。路線スターの女装、というなら、ショーで1場面女役するだけで十分だよ。

 と、いうのも。
 ことちゃんの魅力はいろいろあるだろうけど、そのなかでいちばん「基本」となる力……「美声」に、無理をさせないで欲しいんだ。
 歌は、歌わない限りうまいもヘタもわからない。ダンスもそうだ。
 しかし、声は……歌劇団が「芝居」をする劇団である以上、もっとも普段から必要とするスキルなんだ。
 多くの男役が「男役声」が出ずに苦労する。女子校の文化祭みたいな甲高い声でしか喋ることが出来ず、それゆえに表現の幅も限られる。入団して舞台に立ちながら、長い長い時間をかけて、本名の女の子の声から、「男役声」を作り上げていくんだ。
 声は持って生まれたモノも大きいから、訓練や努力だけでは動かせない部分もあるだろう。だからこそ、余計に。
 ことちゃんの「男役らしい低い声」に、余計な負担をかけさせないでくれえ。
 女の子らしい高音が出ずに苦労している様を、女役らしい声音で話すために相当作っている様を見ると、はらはらする。これであの低い声に変な癖や傷がついたらどーしてくれるんだ、と。
 ベテラン舞台人ならどんな声も変幻自在かもしんないが、新公学年の子になんでこんな負担を強いるんだ。男役としての基礎を確実にしなければならない時期に、その根本を揺すぶるようなことはさせないでやってくれ。
 同じ男役のスカーレットでもタータンは、地声は女の子まんまの甲高いべちゃべちゃした声だったからなあ。ごく自然に女声で演じていた。外見以外(←)ふつーに女性のスカーレットだった。
 トド様がひとり芝居で少女役を演じたとき、録音した声を早回ししてなんとか「女の子の台詞」にしてたっけ……。素では女の子らしい甲高い声が出なかったらしい。そこで無理をする意味はない、早回しで高くするので十分だよ、喉大事。

 わたしはヅカの男役の魅惑のアルトが大好きだ。男役に惚れるときは声重要。ことちゃんは、せっかくその魅力的な声を持っているのだから、ソレを大事にしてほしい……劇団にこそ、舞台人の声の大切さを理解して欲しい。

 ことちゃんを女役にしたがる人は、きっとナマで舞台観てないんだろうな……あの声で娘役はナイわー。上層部のおじさんたちは、男役も娘役もみんな同じ、かわいい女の子なんだからどっちでもいいじゃん、程度の認識なんじゃね?

 もっともこれは、わたし個人の意見ですわ。世の中の人は「男役の演じる女役大歓迎、毎公演でもよし! 私の贔屓も何度でも女役をやって欲しい!」とか「娘役なんか誰でも出来るんだから、なくしてしまって、男役が順番に女役もやればいい」とか思ってるのかもしんないけど。
 わたしは、娘役ってのは一朝一夕でできるものじゃないと思っているから、娘役ならではの技が観たいし、男役にはいつも素敵な男役であって欲しい。

 わたしは世間狭いからよくわかんない。盲目暴走ことファンが友人にいるけど、彼女は「ことちゃんの女役嫌~~!!」とわめきまくってる。が、なにしろ盲目暴走だから、彼女がことファンのスタンダードなのか、かえってわからない……(笑)。

 まあともかく、そんなスタンスのわたしがことちゃんスカーレットを観て。

 まずオープニング。
 白と緑のドレスで歌い踊るところからスタート。

 顔、こわい。

 笑顔なの。もー、すっげー笑顔。「笑顔」と書いたお面をつけているかのような、笑顔。
 くっきり濃ぃいメイクに、不自然なまでの力みまくった作りきった笑顔。
 こわい……ことちゃん顔、こわいよ~~。
 どんだけがんばってるんだ。プレッシャーも半端ナイだろう。まだ番手もはっきり付いてない新公学年の男の子が、ヒロイン……というか、事実上の主役みたいな役で全国ツアーを任されたんだ。舞台での重責と、それに反する下級生という立場の微妙さで、近年のスターが背負ったことのないモノを背負っての公演初日だ。
 そりゃ、大変だろう……。
 ことちゃんって、良くも悪くも下級生らしくない、っちゅーか、お茶会でも初々しさより「スターです」という印象しかないくらいなんだけど、それでもやっぱ、大変だろうなあ、と。

 最初から、手に汗握りました。
 技術や舞台度胸に関しては、なんの心配もない。ことちゃんならやるだろうなと。むしろ主演さんの方がいろいろと心配だ(笑)、くらいの気持ちだったんだが。
 ことちゃんの人を食いそうな赤い口を見て、ちょっとびびった。え、これ、思ってたより大変かもよ?と。

 声が出ないというのは、芝居の幅を狭めるな。
 たぶんここは、もっと高い声で表現したいんだろうな。そう思える箇所がいくつもあった。
 でもことちゃんはその音が出ないから、平板な表現になる。感情を表すツールが、うまく使えていない。
 全体に作り声だから、そのハンドルの切り方が自然ではナイっつーか。
 ……大変だな。

 それでも声はよく通るし、よく動く。……なんだろ、ことちゃんのスカーレットって、「よく動いてる」イメージ。現実的なアクションで? 表情で?
 表情自体はそれほど豊かだった気がしないんだが……お化粧のせいかな、なんかずっと怒ってるみたいな。
 よく弾むゴムまりみたい。
 うまいかどうか、タカラヅカ的かどうかは、微妙? 同じ脚本だから、まぁくんを思い出していたんだけど、やっぱまぁくんほどタカラヅカ!って感じがしない……。外部の舞台みたい。
 そもそもことちゃんって、外部っぽい持ち味あるから、女役だとそれが顕著になるかも。男役だと、タカラヅカならではだからそうでもないんだけどなあ。

 結論。ことちゃんは男役でいてください。


 ベニーとことちゃんのがっつり組んだお芝居も観てみたいんだが、バトラーとスカーレットは、チガウわ、わたしには。
 ことちゃんはともかく、ベニーの分が悪すぎる。
 梅田芸術劇場メインホールで、『風と共に去りぬ』を観ました。

 えーと。
 この劇場で、『風共』観たよな。ついこの間……。
 え? あれって1月のこと? ついこの間、って感じなんですが。年寄りの1年なんてあっちゅー間だし?

 同じ劇場で、同じ演目。

 再演しすぎだっ。

 ということで、星組全国ツアー版の、『風と共に去りぬ』を観ました。ちなみに初日。

 全ツは、最良の日生・梅芸バージョンではなく、最悪な宙組バージョンでした。
 フィナーレ、宙組まんま。植爺&谷、手抜き乙。
 メラニー役のはるこが、まんまみりおんポジだった。
 なんか、いろいろつらい。
 はるこなら「良かったね」と思える扱いでも、トップ娘役のみりおんがこの扱いだと、複雑だった。みりおんへの好悪云々ではなく、トップ娘役を軽んじる演出は、ヅカファンとして拒絶反応が出る。
 そして、なんといってもともちん……。
 宙『風共』の、あのなんとも言えない腑に落ちなさ、納得の出来なさを、ありありと思い出しちゃったよ。
 星全ツ版の演出で良かったのは、宙で最悪だと思った2幕冒頭の無意味なショー場面が全カットだったこと。
 よかったね。


 そして、観ながら過去に思いを馳せていた。
 年寄りってコレだから。過去過去過去、いつもいつも。

 んで、その過去ってのは、星組の過去だ。ワタルくんがトップスターだったころだ。
 植爺と言えば星組だったよな?
 星組と言えば、植爺担当だったよな?
 初夏に植爺新作やって、全ツで植爺『ベルばら』で回って、そのまま韓国まで行っちゃって、さらに次の新年本公演も植爺『ベルばら』やったよな。
 本公演2作連続、その間の別箱も全部全部植爺植爺、植爺尽くしの11ヶ月間。
 天下の植爺組。みんなふつーに言ってた、「星は植爺組だから」。ツレ様とかマリコさんとか、植爺が贔屓にしていたイメージのあるトップスター輩出の組。
 ワタさんも植爺に愛されたトップスターという印象。植爺ああいうガタイのいいバーンとした男役好きだよね? や、本来のワタさんの魅力やファンのイメージとは別に。トッププレお披露目からして植爺作品だったよね? 植爺率ハンパなく高いスターのひとりだったよね?
 んで、ワタさんをはじめ、星組ってのは、植田歌舞伎・大芝居のハマる、コスプレ任せろの派手でバーーン!とした組だった。多少歌の音程はずれていようが大味だろうが、細かいことは気にスンナ、どーん! ばーん! イェーイ!!

 今も星組はコスプレ得意な派手でバーーンとした組だけど……。
 こんなに植爺芝居ヘタなんだ?! と驚き、思わず過去に思いを馳せてしまったんだな。
 ちょっと待て、なんでこんなことになってんだ? と、自分の記憶に問いかける。前に植爺芝居やったのいつだっけ? と、遡る。

 ワタさん時代のあとは、トウコの全ツ、植爺らしくない『外伝ベルナール編』のみ。『ベルナール編』ってたしか、植爺名前だけで実質関わってないという噂だよね……?
 そっから先は、植爺芝居……なし?
 えええ?!

 ワタさんが『ベルばら』やったのって、2006年の新春……つまり、93期が入る前。
 確実に93期以降は『ベルばら』知らないし、90期くらいまでは知ってても植爺芝居を語れるほどの経験を積んでないのか……。

 ひょっとして星組って、植爺という天災にさらされていない、超ラッキーな組?
 や、植爺作品ってのは、天災と同じく、この世に在る・人智では避けることのかなわない「災害」という認識なもんで。しがない一ファンにはどうすることも出来ない、神の仕業的な。
 嘆いても仕方ない、在るもんは在る、災害に負けない生き方を考えるべき、てな。
 や、日本物ショーがあったのはわかってるけど、ショーは所詮ショーだもん……芝居の破壊力に比べたら……。
 なんかもー、心からうらやましいわ。
 植爺苦手過ぎて、当たっていない組を考える気もなかった。当たってしまった自分の組の不幸や、植爺連発の宙組の不幸とかに胸を痛めるだけで、もういっぱいいっぱい。
 そっかあ……いいなあ、星組。
 今、ベニーたちがこうして植爺の洗礼を受けているわけだけど、本公演じゃないしなあ。人数少ないし、期間短いし。最小の被害で済んでるよな。

 てなことに思い至り、嘆息する。
 植爺芝居の経験者がほとんどいない、初心者状態じゃあ、そりゃ仕方ないわ……。
 てなことに気持ちの何割かを持って行かれる観劇でした。

 植爺芝居がうまく出来るより、大切なことは他にいくらでもある。
 だから植爺芝居をヘタでもぜんぜんかまわないんだが、ただあるがままに、星全ツ、植爺芝居ヘタやな、と思った。
 特に「カーテン前で横一列、一言ずつ順番に台詞を言う」のとか……みなさん、大変なことに。
 がんばれれんた。れんたの芝居がこんなに浮いてるのはじめて観た。

 モブのみなさんも大変そうだけど、なんつっても、ダントツに大変そうなのは主演のバトラー@ベニーさんでなあ……。
 植爺が星組で猛威をふるい続けていたら、きっとベニーは路線に乗ってないだろうな……植爺の好みからすげー離れた持ち味だニャ。
 植爺芝居にハマる持ち味なんぞ、なくてぜんぜんかまわない。でも、「トップスター芸」の一端として、植爺芝居をこなすことは必要だと思う。だからがんばれ、これも勉強、これも経験。
 ……つか、トップ目前の2番手スターが、今頃お勉強というのもどうかと思うが。
 がんばれ。と、しか。


 ワタさんの時代は、遠くなったんだなあ。
 年寄りはすぐ、昔話をする。
 『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』の、素朴な疑問。

 「ヴァーサ王の剣」って、ナニ?

 途中で、なんかすっげー大仰に出て来るから、ナニゴトかと。
 現代物……とは時代的に言わないが、魔法とか超能力とか出て来るファンタジー作品ではないと思って観ていたので、突然「伝説の剣」がばばーんと出てきて、「剣が手に入ったので、すべて問題解決!」となっていて、盛大に置いていかれた。
 伝説の剣には、なにかオールマイティの力が秘められていたの? エクスカリバーみたいに、それを抜くことの出来た人が王の資格を得るとか、そーゆーの?
 そうとしか思えない演出と展開だったんですが。
 もともと王様やってる人が伝説の剣を手に入れても「ソレがナニか?」でしかないと思うんだが……。
 しかも、どうやって見つけたのかもわかんない。クーデター失敗して失意のまま銀橋歌って渡って、本舞台に戻ったら扉があって、開けたらそこに伝説の剣が……!!
 ぽかーーん……。

 ねえねえ、このエピソード、必要なの?

 伝説の剣を手に入れたグスタフは、胸を張って悪党たちの前に、水戸黄門の印籠みたいにかざして見せるんだけど。
 それによって悪役は別に、なんにもなってないよね?
 悪役が失脚したのはあくまでも、不正の証拠を突きつけられたからだし。

 伝説の剣よりも、失意のグスタフが悪役の不正の証拠を手に入れる場面を作るべきじゃあ……?

 んで、結局この剣、ここでばばーんと出ただけで、あとは、存在を忘れられてる。

 なんのためにあったの……?
 ヴァーサ王の剣って、ナニ?

 わかんない……。


 もひとつ、根本的な疑問。

 白夜の誓い、ってナニ?

 なんか誓ってた?

 まず、白夜がわかんない。
 や、言葉としてはわかるよ? 夜でも太陽が沈まない、明るいっていう現象でしょ? 北欧舞台のロマンよね。
 言葉上のことじゃなくて、タイトルにもなっている「白夜」が、作品内でちっとも活かされてないと思うんだ。
 舞台となっているのがフランス、ベルサイユだと言われても違和感なし。「らしさ」がまったくない。
 別に無理矢理お国自慢や観光案内をしろと言っているわけじゃなくて、よりによって「タイトル」にしているわけだから、効果的に使うことは出来なかったのかと。

 で、「誓い」だけど。
 1回観ただけだからか、なんのことかよくわかんない。
 同じく1回観ただけの友人が、「タイトルがおぼえられない」と言っていたのもわかる。タイトルになっているのがなんのことか、わかんないくらいなんだもん。
 このポンコツ海馬で「あれのことかな?」と思い当たるのは、冒頭の少年グスティが「みんなを守る!」と言う……あれ?
 そのあとかなめサマが登場して、主題歌を歌っていた。主題歌で「偉大な王の名に誓おう」とか歌ってるから、やっぱこれが「誓い」ってことか。
 それ以外、なんか誓ってたっけ?
 イザベルを祖国に迎える云々は、フランス留学中に言っていたことだから「白夜」=「スウェーデン」での誓い、ではないよなあ。
 作品中もたしか主題歌歌ってたから、「主題歌を歌う」=「誓い」なのか?

 てゆーか。

 グスタフさん、人望なさ過ぎ。

 どこかでなんか誓ってたっけ? と考えたとき、グスタフさんが「誓い」をたてるほど他人と関わっていないことに思い至る。

 誓いってさあ、自分の心に、って場合ももちろんアリだけど、他人の前で宣言しないか? 『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』ってタイトルで、まさか誓いを口に出来る相手もいないとは、思わなかったよ……。

 少年グスティは親友のヤコブやじいやの前でそう宣言したのかもしんないけどさー、子ども時代はノーカウント、大人になってから、本編になってから、グスタフさん、誰ともまともに関わり合ってないんだもん……。
 クーデターやりましょ、な仲間たちのことだって、十把一絡げ扱いしかしてないし。
 ヤコブが親友なら、もっと親友らしく描くべきだし、妻のソフィアを同志と受け入れたなら恋愛じゃなくても国を守る上での親愛を明かすべきだし、イザベル@うららに心を残しているなら彼女への思いを明かす場面を作るべきだし……。

 「主題歌を歌う」=「誓い」。
 ひとりで主題歌歌って、ひとりで誓う。
 ザ・自己完結。

 どんだけ「偉大な王~~、ららら~~♪」と持ち上げたところで、こんな人、ちっともえらく見えない。
 ただの残念な人ですよ……。

 てことで、タイトルのはずの「白夜の誓い」がなんのことか、わたしにはわかんない……。
 もう1回観たらわかるのかな。ヴァーサ王の剣の謎も?
 『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』を観ているとき、いろんな作品を思い出したんだ。

 まず最初は『太王四神記II』。プロローグで彷彿としたのはわたしの偏った思い込みゆえ。
 でも、なんかあちこちで思い出した。親友同士が争い、片方が死んじゃうあたり。グスタフ陛下@かなめくんの最期は、ホゲ様の最期を思い出したわ。
 「みんなを守る王になる」と誓う少年とその幼なじみの忠臣……フランス留学時代のグスタフとヤコブ@ヲヅキは、『銀英伝』のよう。ヲヅキがキルヒアイスだったら、こんな感じだったのかあ。
 また、ふたりの「対等な話し方」から、『ベルばら』も思い出した。オスカルとアンドレね。
 王子様と貴族青年が、たったふたりだけで「徒歩」で国境越え……もとい、悪役の領地へ入るくだりもまた、『ベルばら』を思い出した。逆ギレフェルゼンと筋肉ジェローデルが警備隊相手にチャンバラするやつね。遠い目。
 あー、この「王子様がお供1名だけ」で徒歩帰国も目が点だったけど、「王宮(しかも王の執務室!)に簡単に単身忍び込む田舎者の一平民」にも盛大に突っ込んだわね……オスカル様、ロザリーに教えてあげて、王宮ってのは建物一戸が「王宮です」とぽつんとあるんじゃなく、そこを取り巻く施設や土地全部が田舎もんが足を踏み入れられなくなってるんだってことを。
 カーテン前に1列に並んでひとことずつ喋る人々に植爺芝居のデジャヴ、海戦シーンは『エル・アルコン』(『TRAFALGAR』はわたしの記憶からかなり薄くなってるため、思い出すのはこっち)。

 そしてなんといっても、『黒い瞳』。
 ストーリー上とてつもなく唐突に、脈絡もなく、ソフィア@みりおんとエカテリーナ@せーこがカーテン前で「いい話」をおっぱじめる。
 この「取って付けた感」はひどい。それまでの話の流れと、あきらかに別モノ。どこかから別のモノを貼り付けたように見える。
 別のモノ……『黒い瞳』のマーシャとエカテリーナの場面。
 「名場面」だと有名な、女性ふたりの場面。
 マーシャとエカテリーナの場面が「名場面」なのは、それまでしっかりとマーシャが描かれているからだ。彼女の生き方、彼女の愛が、彼女の行動と共に描かれているから、ここでこの会話なのだとわかる。また、エカテリーナも物語冒頭から登場し、強く厳しい「揺るぎない女帝」として描かれていた、それゆえに彼女がここで見せる人間性、女としての顔が観客の胸を打つんだ。
 それをまあ、表面だけなぞって、人格描写皆無のヒロインと、ついさっきちらりと顔見せしました、なだけの「アンタ誰?」な描き方の女帝で猿真似……ゲフンゲフン、再現、するって……。唖然。

 いやその、再現でもなんでもなく、原田くんはまったくのオリジナルでエカテリーナとソフィアの場面を一から創り上げたのかもしれないけどな。
 だとすると、この場面の脈絡のなさや物語の中でのおかしさを理解せずに作ったってことで、ますます彼の構成力というか認識力に疑問を持っちゃうけど。
 エカテリーナ相手にどうこうやる時間があるなら、まともにソフィアの「ヒロインとして」「トップ娘役が演じている役として」の基本書き込みをしようよ。グスタフと心が通じ合う場面を描こうよ。

 あとは先日欄に書いた通り、『ブルボンの封印』を思い出した。無意味なヒロイン設定において。

 全体的に、えんえんえんえん、これなんだっけ、なにか思い出すぞ、と記憶を探るのに意識の何割かは持って行かれる感じの公演だった。

 この世のなににも、まったく似たところ皆無のモノなど存在しないのだから、似ててもかまわないと思うけど……似ているところが多すぎてちょっととまどう。
 これが、かなめくん出演作品にのみ酷似している、とかなら「退団公演ゆえにオマージュしました」と考えられんこともないが、のべつまくなしなので、そういう意図は感じられないなー。

 ま、いいや。
 原田くんだし。(ばっさり)
 『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』を観ての、素朴な疑問。

 原田くんってさー、自分の作品、好きじゃないのかな。

 『白夜の誓い』から感じられるのは、「作品」に対しての不実さ。

 興味も愛情もなく、ただ「豪華な衣装」を着せて「ストーリーとは無関係ないい場面」だけ単体で与えて、「はい、これがヒロインです」。

 事情があってヒロインだけそんな描き方になってしまった、でもその他の部分は、渾身の情熱を注いで表現しているぜ!!
 てなこともなく。
 ただツギハギで薄っぺらいだけ。
 箇条書きに「やること」を説明して原稿用紙を埋めました、さあこれで提出できるぞ、な夏休みの課題作文みたいに。

 という作り方が、わたしには理解できない。
 自分の作品を愛しているなら、こんな不誠実な姿勢は無理。

 なんのためにクリエイターやってるんだろう?
 昔のキムシンや、いつも絶好調に自分作品大好き!な景子せんせを見習って欲しいわ(笑)。
 わたしに見えないだけで、作品への愛や自尊心はあるのかな?


 でさ。
 ヒロインのソフィア@みりおんが「いなくてもいい役」で、2番手娘役演じるもうひとりのヒロイン・イザベル@うららちゃんだって、言い訳程度の扱いで。

 結局のところグスタフ@かなめくんの愛憎はすべて、ヤコブ@ヲヅキに集約されているのですよ。

 これも、よくわかんないことのひとつ。

 だって、原田くんがホモスキーだとは思えないんだもん。
 ウケるからやってる、という作為は感じるけどさ。

 好きなら、もっと描き方や姿勢に情熱を感じると思うんだ。
 やらされてる感というか、規定演技だから得意でもないし興味もないけどジャンプは種類と回数入れときます、てな温度感。

 これって、テルキタ配慮ですか?
 裏トップ娘役(……)のヲヅキさんを、かなめサマの相手役として、大劇場でラブストーリーさせろ、という指示があったの?

 腐女子視点でいうと、余計な配慮だ! か、もしくはわかってねーよ! ですわ。


 トップと2番手の「腐女子萌え」の最高峰は、『マリポーサの花』だと思います。
 作品としては相当アレだけどねー。クオリティはいびつだけどねー。萌えだけはすごいことになってるわねー(笑)。

 や、マサツカ作品はほんとひどいからねー。←誉めてます。
 ヅカを知らない腐女子属性の友人をヅカにハメるためには、ナニをさておきマサツカ作品を見せて転ばせたわね。『Crossroad』はバイブルですよ……(笑)。

 マサツカ作品のように粗のない、良作で萌えのある作品というと、なんつっても柴田せんせの『黒い瞳』っすよ。

 これらの作品には、トップと2番手に深い愛と、濃い陰影がある。
 それをただ「台詞だけで」言い合ったり、説明しているのではなく、ドラマの中で発展させている。

 原田くんの描き方は、「見よう見まねでやってみた」って感じで、うすらかゆい。
 かゆさすら、薄い。

 どうせやるなら、観ている側が赤面するくらい濃くやるとか、めちゃくちゃに盛り上げるとか、なんとかしてくれえ。
 なにもかも中途半端で、扱いに困る。

 ……そう、「困る」というのが、正直なところかな。
 腐女子としては、「こんな感じかなあ? これでいい? どう? チラッチラッ」と顔色をうかがった描き方をされると、すごく「困る」。
 萌えることも出来ない。
 いや、そんなに無理してサービスしてくれなくていいっすよ……と、言いたくなる。
 ぶっちゃけサービスになってないしー? と。
 ツボぢゃないとこえんえん押されてもさー。かえって肩凝るからさー。

 や、これはわたしが枯れたヲタ女だからそう思うだけで、世のお嬢さん方は「萌えるー!!」と大喜びしているのかもしんないけど。

 女キャラをあんだけ「どーでもいい」扱いにするならば、せめて、本気で、真正面から、ガチで、男ふたりの愛憎を描いてくれ。
 そこには、BLとか腐女子とか、テルキタ萌えとか、そんなもんは一切なく、ただ物語として、人間同士、愛憎にもつれまくってくれ。
 マサツカも柴田せんせも、腐女子におもねって上記作品を書いてはいないはずだ。彼らは本気で「人間同士のもつれあう、濃い物語」を書いたはずだ。
 その結果、男ふたりが「ちょっと待て、それはもう友情じゃなくて愛だろう!!」という関係になっているだけで。


 でもって、ここが重要なんだが。
 「男同士の濃ゆい物語には、女性のヒロインが必須」だ。

 わたしは腐女子ですが、ヅカでガチホモはいらん、と思ってます。
 トップスター演じる主人公には、ちゃんと女の恋人や妻がいるべきです。愛する女性は不可欠です。
 その上で、行きすぎた友情なり憎しみや執着なりを、男同士で展開して欲しいのです。
 男の友情って、もともと行きすぎたモノが多いし。

 男性向けのマンガでも映画やドラマでも、親友のために人生懸けたりとか、兄貴のために弟分が命を捨てたりとか、当たり前にあるし、男たちはそーゆーのが大好き。「ここは俺に任せてお前は先へ行け!」とか、男の大好物のシチュエーションだよなー。恥ずかしいなー。
 それを「友情」とするのが男で、「いやソレ友情超えとるがな恋愛やがな」と捉えるのが女子(腐女子?)。
 男が言うところの「友情」をガチでやってくれていいです。兄貴のために死ぬ弟分にだって、ふつーに女の恋人や女房がいるんだから、彼らの世界では「セーフ」なんでしょ? ヅカもソレでいいよ、女の恋人がいれば、あとはどんだけ男同士で愛憎しててもヨシ。

 だから、グスタフとヤコブが愛し合ってる分には、いいんです。そこがメインテーマで、物語の中枢、クライマックスで。
 ただ、ヒロインはちゃんと作れ。たまたまやってきた団体のおばあちゃまとかが混乱しないように、たとえ公演時間の大半がトップスターとその同期がいちゃついているだけの話であったとしても、「主人公さんはあの女の子と結ばれなくて可哀想だったわねえ」と思えるだけの「わかりやすい相手役」は提示してくれ。
 トップ娘役の役を愛してないし大した関心もないまま終わらせるとか、勘弁してくれ。

 しかしほんと、原田くんはナニがしたくてこんな作品にしちゃったのかな。
 なにがしたかったのか、作品に愛はあるのか。

 わからなくてとまどうし、腐女子としては、困る。
 いろいろツッコミどころ満載な『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』
 前日欄で、ソフィア@みりおんの役を「いなくても支障のない役」と書いた。
 みりおんを「いらない」と言っているわけじゃないので、誤解なきように。
 あたしゃ素直に、イザベルをみりおんにして欲しかっただけだ。そしたらふつーにグスタフ@かなめくんと両思いで、きれいなラヴシーンや、愛のソロ歌や、デュエットも聴けただろうと残念に思う。
 もしくは、ソフィアをもっと、まともに描く。
 今の描き方だと「豪華な衣装」で「たくさん台詞を喋る」「銀橋を歌いながら渡る」から、「いい役」としているだけ。ザ・植爺価値観。
 物語の中での、主人公との関係性での「重要さ」は無視。

 ソフィアの初登場場面はいいんだ。
 美しく大仰に、「敵」あるいは「障害」として登場。
 主人公とヒロインは「敵同士」として出会った……ここが「タカラヅカ」である以上、主人公とヒロインは愛し合うことになるはず……敵対するふたりが、これからどんなドラマを経て愛し合うのか……高まる期待!!
 で、次の場面で。
 ソフィア「グスタフLOVE!!」
 …………椅子から転げ落ちるかと。

 トップとトップ娘役の愛を描かずに、ナニが「タカラヅカ」だっ。

 「そうよ、レットだわ。彼にお金を借りるの。彼は私を愛してるんだから、貸してくれるはず。そうよ、私はレットと結婚します!」……と、意気を上げるスカーレット、「結婚はしない、情婦なら持ってもいい」と公言するバトラーと、彼の愛を拒絶していたスカーレットなのに、こんなことを言ってスカーレット、どうするの?? これからどうなるの??  ふたりは愛を認め合い、結婚することになるの??……高まる期待、で、次の場面で。
「スカーレットとバトラーの結婚&新築披露パーティへようこそ!」

 こんな阿呆がまかり通るのは、植爺だけでたくさんだっ。

 突然、なんの伏線も脈絡もなくグスタフを愛するソフィア。
 一億歩くらい譲って、それをよしとする。「トップスターの役とトップ娘役の役は、愛し合う」というタカラヅカならではのお約束に頼り切って、「そーゆーもん」として観客は納得すべき、とする。
 ソフィアはグスタフを愛した。しかしグスタフは愛してない。ソフィアがグスタフに惹かれる場面はなんかしらの事情で描けなかったとしても、ふたりが両思いになる、グスタフがソフィアを愛するようになる話を、これから見られるわけだな?
 と、一億歩譲って期待すると。
 グスタフとの関係が変化するエピソードは、なんもない。

 えええっ??

 ソフィアはソフィア単体で、「けなげなこと」をしている。言っている。
 グスタフ相手に、直接なにかするわけじゃない。単体で「お祈り」している、そうな。
 ろくに休まず、お祈りだって。
 それくらいしか出来ることないから、だって。

 それははたして「けなげ」なのか……?
「スウェーデンなんて下等国に慣れる気はないわ、母国のスタイルを通しますからね、ツンツン!」って言って、王宮内をモメさせる種を撒いたんだから、ソレを撤回するとか、いくらでもやれることはあるんじゃあ……?
 それを、ただ祈るだけ?
 ひでー自己満足。

 ソフィアの「愛の証」も相当どーでもいいレベルだが、グスタフがソフィアの愛に気づく、というふつーに考えれば「最大級のドラマ」である部分が。
 ソフィアがけなげなことしてますよと「人から聞いて」、へーそうなんだ、と納得する。

 えええ?!

 「フェルゼンLOVE! あなたになじられるのがいちばんつらい」と内股でうじうじ女の腐ったような態度を取るオスカルが、フェルゼンから「アンドレは君を愛している」と手紙をもらい、「そうだったのか! アンドレLOVE!!」と心変わりする……最悪な植爺『ベルばら』を思い出した。

 ヒロインは、直接主人公にナニも働きかけない。
 主人公は、直接ヒロインにナニも働きかけない。

 だけどふたりはLOVE! 他人に気持ちを伝えてLOVE、他人から気持ちを聞いてLOVE。ハッピーだLOVE。
 タカラヅカ万歳、愛愛愛、愛は素晴らしい。

 すげえな。
 主人公とヒロインの話は、これだけ。

 ちなみに、ヒロインではない脇役、主人公のエピソードのひとつ、という扱いで描かれているイザベル@うららちゃんの役とは、ちゃんと愛の場面がある。そりゃこっちも薄いけど、いちおー、ふたりでなにかしら育んできたらしいことはわかる。

 そしてこれは、原田くんのこだわりなのかな。
 グスタフは、最後までソフィアを愛さない。

 敵対を解いて、「まあアリだな」と受け入れはするが、愛してはいない。積極的な愛の言葉はない。最大限の歩み寄りが「君は勝利の女神だ」……。
 そりゃまあ、人から「こんなにけなげですよ」と聞いただけじゃあ、心が動かないのは道理だけど、それにしてもさあ……。

 じゃあなんで、ソフィアをヒロインにしたんだと。
 もう、それに尽きるよ。
 そんなに「描きたくない」「主人公に愛させたくない」キャラを、なんでヒロインにするんだ。

 描きたくない、愛させたくない、言い訳のように、主人公とも本筋とも関係ないところで、エカテリーナと「いい場面」を作ってお茶濁し。「いい場面」があるんだから、これで納得してよねてか。

 グスタフとの愛が上記のように「敵!」として登場、次の場面で「グスタフLOVE!」、他人から話を聞いただけ、直接会話もしてないけど「両思い!」……しか描かれてないのに、エカテリーナ様が「ふたりの愛に負けたわ」と言うのには、全わたしが突っ込んだ。んなわけあるかいっ。
 ギャグか? 両脚を上げてどんがらがっしゃん、と椅子から落ちればいいのか?

 ほんとに、わけわかんないす。
 どうしてソフィアがヒロインなのか。
 なにがしたかったのか。

 ツッコミ待ちをしているとしか、思えない。
 で、原田くん新作『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』についてなんだけど。

 知りたいのは、何故にこうなった?かなあ。

 強く感じたのは、骨組みのバラバラさ。
 ふつうに「物語を構築する」だけなら、こんなとっ散らかり方はしないと思うんだ。や、わたしの思う常識において、だから、世間様的にどうなのかは知らんけど。
 グスタフが主人公で、彼の社会的立場・人生での愛憎のメインはヤコブ、恋愛はイザベルだよね。ふつーにこの3人メインで書けば、なんの問題もない。
 イザベルが実際にグスタフに絡むのが最初と最後だけだとしても、あちこちでイメージだーの「遠く離れて想い合うふたり」だーので出番を増やし、フォローできる。
 んで、あとは現実世界で政敵と闘ったりヤコブとあーだこーだやってりゃあいい。
 どうエピソードを組んでどう見せるかはいろいろあるだうけど、まず基本の骨組み、グスタフを中心とした三角関係は鉄板だろう。

 なのに何故か、ヒロインのひとりであるはずのイザベルが、「エピソードのひとつ」でしかない脇役扱いで、ストーリーに無関係な正妻ソフィアが無意味に尺を取って登場する。

 もちろん、ここが「タカラヅカ」である以上、トップ娘役が演じるソフィアに出番が多く、現段階で脇の下級生でしかない一娘役が演じているイザベルに出番が少ないのはわかる。「タカラヅカ」のピラミッド的に正しいのはわかる。
 わからないのは、そうやって無関係なキャラクタをトップ娘役に演じさせ、無意味に登場させるんだ? その結果、ストーリーが意味不明になる。

 重要な役は3つ。主人公と、ヒロインふたり。ヒロインのうち、ひとりは女性。……なら、そのたったひとりの女性役を、いちばん大きな役をつけなければならない、出番を確保しなければいけないトップ娘役にさせるよな? 常識で考えてそうだよな?
 何故、重要なヒロイン役を脇の娘役にさせて、いなくても支障ない役をトップ娘役にさせて、作品を壊さなくてはならないんだ? 自分の作品が大切じゃないのか??

 ごくふつーにモノを作るだけなら、こうはならないと思うんだ。
 だから、いったいナニがあったのだろうと。
 ナニか、やんどころない事情があり、トップ娘役をヒロインには出来なかった。いなくてもいい役を「女性キャラでいちばん出番を多くしなければならない」必要があった。
 や、それならそれでも、書きようはあったと思う。古い話で恐縮だが、それまで歴史ドラマで重要視されていなかった妻の存在をクローズアップして描いた『おんな太閤記』が大ヒットしたみたいに、それ以降やたら女性キャラ持ち上げた大河ドラマが乱発されるよーになったように、描き方ひとつでフィクションはいくらでも面白く出来る。
 不仲で有名な正妻ソフィアをヒロインにして、グスタフ三世を描くことは可能だ。
 出来てないだけで。

 んでわたしは、シンプルに思う。
 出来ないなら、やるな。

 いなくてもいい役を「女性キャラでいちばん出番を多く」して、たった90分で70人とかの人数使って起承転結するって、至難の業だよ? 相当難しいよ?
 出来もしないのに、なんでわざわざこんな難しいことをやったの?

 ふつーに、イザベルがヒロインで、それでも原田くんだからつまらないモノになっていたとしても、「あー、はいはい、予想の範囲内」で済んだ。
 でも、根っこから間違った作りで、それで結局失敗してる、って、ナニ? 意味わかんない。
 予想の斜め上を行くなあ。
 いくら原田くんだからって、こんなみょーちくりんな失敗はしないと思うの。基本じゃん? 『伯爵令嬢』をアラン主役にして舞台化するのに、ヒロインがアンナで、コリンヌは脇役、最初と最後しか出してはいけません、てな縛りで舞台化する? するわけないよね??
 や、アンナだって「伯爵令嬢」を名乗り、アランに恋するんだから、ヒロインで書けないことはないけど、難しいよ? わざわざそんな変化球投げる必要ないよね?

 だから、なにかしら事情があったのかなあ。
 原田くんは被害者? 「オレだって好きに書かせてもらったら、こんなことにはなってねーよ」と思ってるのかも?

 『ブルボンの封印』を思い出したなあ。
 強引なヒロイン変更。
 原作のヒロインを別の下級生娘役にさせて、悪役をトップ娘役にさせた。ヒロインはもちろん主人公と愛し合う設定で、悪役女は横恋慕してもちろん振られて死亡エンド。
 脇役をトップ娘役にやらせたため、ストーリーは破綻。話の主軸が「下級生娘役」にあることが、原作を知らなくてもわかるから、そして主軸である彼女よりも、「ストーリーないよね?」なトップ娘役の役を底上げするから、本筋がわからなくて観客はストレス。結局最後までわけわからんままトップ娘役死亡で幕が下りる。
 ひどい作品だった。
 前述の『伯爵令嬢』のアンナをトップ娘役がやるよーなもん。そもそも原作の主人公はコリンヌで、コリンヌの相手役でしかないアランをトップスター演じる主人公に据える変更だけでも大変なのに、悪役がヒロインって……。そりゃストーリーもなにもぐちゃぐちゃになるわ、てな。
 『白夜の誓い』はまだ、イサベル主人公の原作があるわけじゃないから、『ブルボンの封印』ほど壊れておらず、ただ「盛り上がらない」作品になってる。

 だから、いちばん強く思った。
 何故にこうなった?

 や、どんな制約があり、どんなところからどんな無茶振りなオーダーがあったにしろ。
 原田くんに実力があれば、問題なかったんだけどね。
 商業作品だもん、クライアントの注文に沿って書くのは基本っすよ。だから、横やりがいろいろあってこの結果なら気の毒だなとは思うけど、それでも、評価されるのは裏事情云々ではなく、表に出た「作品」だけだから。
 過去のいろんな駄作と比べればマシだけど。下を見ればキリがないのがタカラヅカ(笑)。アレよりマシ、コレよりマシ、そう言って慰められるけど。
 とても残念な作品だと思うよ。

 なんの制約も横やりもなく、原田くんが物語の骨組み構築の基本を知らない人だった、てなオチだったら、そっちの方がホラーだから、考えない。
 だって、『伯爵令嬢』読んで「アンナがヒロインだよね、コリンヌは出番ほとんどナシの脇役だよね」と思う認識力の人が演出家としてこれから何十年もヅカに関わるとか、考えたくないっす(笑)。


 あ。
 グスタフ主人公の物語で、ヒロインはふたり、そしてひとりは女性と書いた。
 もうひとりのヒロインってのはもちろん、ヤコブ@ヲヅキだけどなっ。
 原田くん作品のヲヅキさんはホモ限定だな。
 『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』初日観劇。

 自分の意識がどこへ向かうのかなんて、まったくわからない。わかってない。
 だから、その都度驚くことになる。

 思い出したのは、『太王四神記II』だ。

 オープニング、少年グスタフが剣で敵をやっつけるのではなく「みんなを守る」……そういう王になるのだと宣言し、その姿と入れ替わりにせり上がってくるグスタフ三世@かなめくんを見て。

 王となる宿命を負った少年が実際に王となって現れる、物語の導入部、とてもよくあるお約束の演出。
 そこで思い出したのは、タムドク@れおんくんだ。
 強い光を持った、颯爽とした若き王。希望と野心にあふれた強き王。
 かなめくんが演じたのは、その真の王タムドクのニセモノ……王位簒奪を目論み、結局器の違いに破滅するかなしい凡人ヨン・ホゲの役だった。
 初演の花組版では、ホゲ役は王の器を持ちながら宿命の前に敗れる哀しき天才だったが、星組版では、凡人が見てはならない夢を見た悲しさに満ちていた。
 ぶっちゃけわたしは、かなめくんのヨン・ホゲが大好物だった。どうあがいたってタムドクと器がちがいまくっているのに、そんなん一目瞭然、むしろわかりすぎてて哀れな域なのに、本人はタムドクに勝ちたいとあがいている……その小物っぷり、空回りっぷり、それでいてとにかく美しい!姿に、きゅんきゅんキタ。
 どうあがいてもキミ王の器じゃないよ……いや、相手が悪かったよ……王者ちえ様相手じゃ勝てないって……てな分の悪さもまた萌え要素。

 だから、王様のかなめくんがせり上がって来たとき、「おお。ヨン・ホゲだったのに、ついに王様かあ」と感慨深く思った。

 その次の瞬間。

 振り返ったかなめくんを見て……ぶわっと泣けた。

 だから、自分の意識がどこにあるかなんて、わかってなくて。
 無意識に、思い出していたわけだ。王者タムドクの顔を。あの晴れがましい強い表情を。

 王、グスタフ三世@かなめくんは、かなしいかおをしていた。

 哀しい、寂しい顔。
 英雄とか王とか、晴れがましい肩書きとは反対に。

 これが、凰稀かなめだ。
 咆哮する獅子のような王じゃない。
 愁いに満ちた苦悩する王なんだ。

 ちえちゃんがタムドクで、テルはホゲだった。このふたりが好きだった。萌えだった。
 わたしが好きなのは、この凰稀かなめなんだ。
 笑っていてもどこか寂しそう、陰のある退廃的な美青年……それが、わたしが見たい凰稀かなめなんだ。

 いやあ、オープニングから泣くとか、思ってなかったし。自分でもびびったわー。
 てゆーか、ここでヨン・ホゲとか。そんな役をやっていたこと、すっかり忘れてた。
 思うに、『銀英伝』がアリだったのも、ラインハルトの最期を知っていることも、大きかったのかも。盟友を失い、孤独のなかで戦い抜き、果てに宿敵すら失い、栄光直前に舞台から去る哀しい英雄だと知っていた……から余計に、かなめくんに合っていたのかも。
 みんな違ってみんないい、じゃないけど、かなめくんの陰の魅力は素晴らしいな。


 と、最初からとてもテンション上がったのだけど……。

 えーと、なんちゅーか、かなめくん初登場のこの瞬間が、もっとも感動MAXで、それ以降は全体的に低空飛行、責任者出て来い(笑)。

 いろいろ思うところはあったんだが、どこから突っ込めばいいのやら。

 原田くんって、植爺の愛弟子だっけ?

 植爺の弟子というと、谷せんせとスズキケイ。植爺遺伝子おそるべし、どんな原作もどんな作品も、全部もれなく植爺テイストになるという。
 原田くんには今まで別に、植爺テイストを感じたことがなかったのだけど、今回の作品からは植爺のかほりが、ゆんゆん。
 これって植爺作品だっけ? 植爺原案、演出原田くん?

 そして、植爺作品ほど嫌悪感もなければ、盛り上がりもない。

 減点もないが、加点もない……むーー?

 すっげー植爺臭いし、「何故にこうなった!」はてんこ盛りだけど、大丈夫、『愛プレ』よりはマシ!!

 植爺DNA全開に植爺弟子が作ったちょー駄作、しかもトップの卒業公演ゆえに破壊力倍増、という点で、スズキケイ作『愛のプレリュード』 を挙げてみる。

 他の人の名前を出すのがお門違いというなら、大丈夫、『華やかなりし日々』よりはマシ!!

 植爺臭は特に感じなかったけれど、ストーリーのぶっ壊れぶりとキャラクタの卑劣さがとんでもなかった原田くんが作ったちょー駄作、しかもトップの卒業公演ゆえに破壊力倍増、という点で『華日々』 を挙げてみる。

 主人公のグスタフ三世がアホの子に見える、ってことをのぞけば、植爺作品や『愛プレ』のような嫌悪感はないから、ぜんぜんOKな公演かなあ。(OKの基準値が低すぎですよ、こあらさん!!笑)

 とにかく、かなめ様が美しいです。
2014/11/07

雪組 退団者のお知らせ


下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。

(雪組)

夢乃 聖夏
帆風 成海
舞園 るり

2015年3月22日(雪組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団

 ホタテ……!!

 ヅカヲタ長いから、いろいろ考える。
 どのジェンヌが卒業を考える頃かって。
 学年とか立場とか、いろんなことを加味して。
 そして集合日前は緊張する。あるいは怯える。
 フェアリーが消えてしまう事態に。

 そうやって身がまえていなかった人の卒業は、とても堪える。
 そろそろかなあ、あり得るなあ、と覚悟していた人を「ああ、やっぱりそうなんだ」と肩を落とす感覚とは、また別に。

 正直、ホタっちゃんは、想像してなかった。

 実力者が早々にヅカに見切りを付けることはよくあることだけど、ホタっちゃんはヅカにいてくれるんだと思い込んでいた。
 今日の発表でいまっちのことを思い出したけれど、ホタっちゃんは劇団の扱いにも折り合いをつけているように思えた……わたしには、そう見えていた。
 そして、ちぎちゃんを思った。探偵SAGIRIとホタテマン。大好きなSAGIRIさんがトップになるのだから、彼の治世の間はいてくれるのだろうと、考えるまでもなく、思い込んでいた。

 わたしがモバタカメールを見たのが宙組初日開演5分前で、携帯を切るために鞄から出したらメールが来てて。
 ヲヅキのラスト芝居を見ながら、ホタテまでいなくなるのかと、アタマの中でくわんくわん鐘が鳴っていた。

 芝居巧者が、またひとりいなくなる。

 勘弁してよ。キラキラきれいなだけじゃ、芝居は成り立たないんだってば。
 タカラヅカはキラキラきれいを愛でるところだけど、だからこそそこに、稀に本物の役者がまざっていることに感動するんだ。技術以外の部分に高得点が割り振られているとわかっている世界に、技術で立ち向かっていく職人の心意気と情熱に感動するんだ。

 ホタっちゃん……。
 ずっとずっと、いて欲しかったよ。

 てゆーか、辞めるなら、正塚芝居に出てから辞めて。
 ホタっちゃんの技術と魅力を、もっとも引き出せる脚本とキャラ造形を提供できる演出家。そして、マサツカの方でもホタっちゃんを求めているよ絶対。
 ……まっつのときも思ったけどね。辞めるなら、マサツカ作品に出てから辞めてと。
 そりゃ、『ブラック・ジャック』はあったけどさ。


 そう、『ブラック・ジャック』。
 ともみんもホタっちゃんもるりるりも、みんなみんな『BJ』組だ。
 わたしが愛してやまないあの舞台を創り上げた人たち。
 るりるりは『インフィニティ』組でもあるしさ。下級生離れした超実力者。

 ともみん……えりたんの相手役だったからなあ。えりたん見送って、ちぎくんのトップ姿を見届けて、卒業するのか。
 ジェンヌはみんな個々に魅力的だけど、ともみんみたいなスターは、そうそう出ないよ。

 てゆーかさ、BJ姫と4人の騎士のうち半数が同時、って、ヲタ的にも破壊力半端ナイんですが……。



 配役発表を見て、『ルパン三世』をとても面白そうだと思う。
 いいなあ。

 うらやましいなあ。

 なんでここに、名前がないのかなあ。

 や、まだ病んでますから。まだまだ立ち直れません(笑)。
2014/09/25

宙組 退団者のお知らせ


下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。

(宙組)

凰稀 かなめ  -すでに発表済み-
緒月 遠麻
風羽 玲亜
留美 絢

2015年2月15日(宙組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団

 ヲヅキには、残って欲しかった。

 わたしはテルキタ萌えな人間だけど、テルキタ添い遂げは嫌だった。
 萌えと役者・緒月遠麻への評価は別だ。
 役者としての彼を、タカラヅカで見続けたかった。テルの相手役という位置づけではなく。

 ヲヅキには、残って欲しかった。


 それと。
 えまおゆう、最悪だ。
 まっつもそうだけど、えりたんがもうヅカにいないとか、嘘みたいだわ……。
 キャパオーバーでちゃんと考えられなかったけど、なんかしみじみと寂しいな。

 まっつより、えりたんを先に個別認識してたわけだしね。
 えりたんを初認識したのは、バウの『マノン』2001年。愉快な逆ギレ爆走男がわたしと友人の話題をさらった。そのときまっつも同じ舞台にいたはずだが、まったく知らない、見ていない。
 えりたんが雪に来たときは、その美貌と華にわくわくした。あのミゲル役の子が、頭の中将役の子が、雪組にやってきた!と。
 えりたんの「車内マナーポスター」、探せば家にあるはず。友人が入手してくれたんだよね、「こあら、いっぽくん好きだったよね」と。

 ずっと同じ濃度で好きだったわけじゃない。苦手だった時期もある。
 でも、それもまるっと含めて、愛着のある特別なジェンヌだ。
 『マノン』の頃から、って……かれこれ13年かあ……。干支ひとまわりして、さらに1年経ってますがな。


 今さら、自分の書いたえりたん関連記事を読み返してみた。
 ほんとわたし……えりたん好きやなああ。ちゃかしてるような書き方もしてるけど、要は彼が愛しいという、それだけを根っこにしている。


肯定の輝き。−壮一帆万歳−@タランテラ!
http://koala.diarynote.jp/200611021540150000/

癒しの輝き。−壮一帆万歳・2−@タランテラ!
http://koala.diarynote.jp/200612301518040000/

白馬に乗った王子様。−壮一帆万歳・3−@あさきゆめみしII
http://koala.diarynote.jp/200708010228540000/

小さな地球を抱きしめて。−壮一帆万歳・4−@愛と死のアラビア
http://koala.diarynote.jp/200806200257030000/

小さな地球を抱きしめて・その2。−壮一帆万歳・4−@愛と死のアラビア
http://koala.diarynote.jp/200806200410260000/

巨大怪獣のように。-壮一帆万歳-@オグリ!
http://koala.diarynote.jp/200906031524035629/

「タカラヅカ」のミューズであれ。-壮一帆万歳-@復活
http://koala.diarynote.jp/201204142106103210/


 とりあえず、「壮一帆万歳」だけ抜粋したけれど、ふつーの観劇感想にもえりたん万歳は書いてるしなー。『虞美人』とか『麗しのサブリナ』とか、えりたん爆発!だもん。

 えりたんのえりたんらしさに、泣けてくる。
 ほんとに、この人がわたしの救いだったなあ……。

 えりたんとまっつが同時退団とか、ほんとやめてよ。わたしのHPを減らすのが目的なの。しくしく。
 トラウマジェンヌ。
 友人たちの間で、そう呼ばれていたりする。
 マジで共感、納得。
 トラウマ以外のナニモノでもない。ヅカファンやってて、……こういっちゃなんだが、たかが趣味、たかが芸能人のことで。
 こんだけ傷つくことがあるなんて、思ってなかった。
 マジでトラウマ。このままずっと、じくじく痛み続ける。傷の記憶は残る。


 でも、好きだよ。
 まっつまっつまっつ。
 タカラヅカは、夢の世界である。
 タカラジェンヌは、夢の世界を構成する一員である。

 わたしはモノを書くことが好きで、小説を書くことが好きで、日々なにかしら書き散らかしているけれど。
 こうしてパソコンの上で、文字の上だけでも、「架空の世界」を作り上げることはけっこうな労力がいる。

 その労力を必要とすることを、タカラジェンヌは自分の人生を使って表現する。
 それは、並大抵のことではない、だろう。

 ジェンヌって個性が出るまでに何年もかかるし、キャラが確立するまでまた数年必要。
 そして大抵のジェンヌは「キャラが確立」したあたりで辞めていく。
 もちろんそこにはいろんな要因があるのだろけれど。

 ひとつ、言えることは。
 「キャラクタ」を保つことは、容易ではない。

 人生をかけて、架空のキャラクタを演じる、ということ。
 キャラを確立できる年数いるとしても、露出の少ない上級生たちはバランスを取りやすいかも。
 でも「番手スター」だと、「芸名」で日々の大半を生きることを使命づけられる。
 路線スターとして若い頃からその意識、生き方を順番に学ばされた人ならともかく、研14にもなって突然立場が変わった人は、混乱しただろうなと思う。

 それでもまっつは、最後まで「未涼亜希」だった。

 架空の世界で、求められる役目を果たした。
 そりゃあもお、頑ななまでに。
 本人が、宣言した通りに。

 舞台での美しさ。演技の神がかりっぷり。ダンスのキレ。歌声の確かさ。長台詞も古語ゆえに難解な言い回しも任せろ滑舌抜群。
 それはまさしく、「未涼亜希」だった。

 わたしが退団してほしくないから、わたしがもっともっと「未涼亜希」を見ていたいから、納得できていないだけで。
 まっつはきちんと完成して、卒業したのだと思う。

 頑ななまでに、完結。ちくしょー。

 本当に、美しい男役だった。未涼亜希。
 ムラの千秋楽で、まっつのスタンスはわかった。
 「卒業」というタカラジェンヌ最大のイベントに対し、どういう演出をするのか。

 演出というと大袈裟かもだけど。
 わたしたちふつーの人間でも、家族に見せる顔、会社で見せる顔が違うように、タカラジェンヌにもいろいろな顔があるはず。役ではなく芸名で舞台に立つ卒業セレモニーにて、どのあたりの顔を出すのだろうか。
 まっつだけでなく、すべてのタカラジェンヌが、芸名で舞台に立つ場合考えることだろう。意識・無意識の濃度は別として。

 タカラヅカにおいて、「卒業」はイベントである。劇団もジェンヌも、そして観客も、それを認めている。数々のお約束があり、ルールやエチケットがあり、それを遵守した上で楽しむ。ルールを守れない・理解できない人は、プレイを楽しむことはできない。この世のすべてのことと同じく。
 だからタカラジェンヌも、そしてファンも、ルールの中でのプレイを楽しむ。
 ……である以上、そこでどんなパフォーマンスをするのかは、ジェンヌ個々の意識による。

 まっつは「あのキャラ」で通すんだなあ。てことは、千秋楽ではなにかしらオチをつけるのかしら。

 まっつの退団を知ったあと、たしかスカステを見ているときにふと、思ったんだよなあ。
「感謝の気持ちでいっぱいです」って、まっつも言うのかしら。
 タカラジェンヌの定型句。挨拶するとき高確率で言う。100周年イベントでインタビューされている黒木瞳までもが言っていて、ヅカDNAすげえなと思った。
 や、ヅカだけでなく世間一般でも常套句だけど、世間一般よりヅカではなにかっちゃー口にしている印象だから。

 退団挨拶で、もっとも多く使われる言い回しは、個人的に以下のふたつだと思っている。

 話の途中で「感謝の気持ちでいっぱいです」と1回言い、ラストは「感謝の気持ちを込めまして(ふつうの声)、ありがとうございました!!(大声)」で締める。
 ってコレ、定番中の定番よね? 統計取ってないけど、かなりのパーセンテージ占めるよね?
 とくに最後の「感謝の気持ちを込めまして~」は、日本語として変なので、聞くたびに「あ、まただ」と記憶に残る。
 漠然と、まっつに「定番中の定番」は言って欲しくないなー、と思っていた。
 ハタチそこそこの若い子が、定例句をつなぎあわせて話すのはいいとして、勤続17年の超ベテランが、新人と同じマニュアル通りの挨拶ってのもねー、と。
 まさか感謝の言葉、礼の言葉皆無になるとは思ってなかったけど(笑)。
 どんだけマニュアル破り。

 ムラであんだけオリジナルな……長いモノに巻かれない挨拶をしておいて、東宝ではどうするのかと思った(笑)。

 ネタ振りしたんだから、回収してくれなきゃやだな。
 よろしくお願いします、と進行形にしたからには、エンドマークをつけてもらわないと。ふつーはありがとうございました、で締めるけどー。まっつさんが、さらにハズしたらどうしよう。

 東宝楽のまっつの挨拶は、ムラ楽と呼応したモノだった。「いってきます」「ただいま」とか「いただきます」「ごちそうさま」くらい、対になる内容だったので、最初から決めてたのかなーと思う。
 カーテンコールでのえりたん大好き発言も、ムラでウケたネタをグレードアップさせてたので、こちらも計算の上だなと思った。

 計算というと言葉が悪いかもだけど、「舞台」の上で観客に見せるのだから、ネタを仕込むのはプロとして当然のことだ。
 まっつは観客から求められる自分のキャラクタや立ち位置に応えた。
 キムくん時代のアフタートークで見せたキャラが大変ウケが良かったので、それを踏襲したのかもしれないな。
 スカステで見せるキャラともお茶会とも違う、間違いなくまっつではあるけれど、「観客」を意識したキャラクタ。
 「舞台」の上だとそうなるのかもしれない。ギアが換わるというか。とことん、舞台人だ。

 見事だと思ったのは、まっつが「この場をお借りして」と組子たちの方を振り返って話し出したとき、下級生たちが、ぶわーっと泣き出したこと。
 わたしの視界にいちばんよく入ったのが咲ちゃんだったのだけど、彼が「崩壊」って言葉が似合う勢いでくしゃくしゃに泣き出したのを見て、こっちも崩壊した。まっつに、というより、組子たちの涙にもらい泣き。

 最後のお茶会で、自分が卒業したあともタカラヅカを見て欲しい、雪組を見て欲しいと言ったことを、思い出した。
 正直、そんなことを言うとは思ってなかったんだな。自分のことしか語らない人だったから。

 雪組を、仲間たちを、愛していたんだね。
 そして、雪組に、仲間たちに、愛されていたんだね。

 それがわかる挨拶だから、ファンはそれでいいんだけど、もう少し、「お客様への感謝」を打ち出すべきだったとは思うよ(笑)。劇場にいるのもスクリーンで中継を見ているのも、まっつ個人のファンだけじゃないからねー。
 でも、そういうところも含めて「未涼亜希」というキャラクタだと思う。

 まっつの「卒業」パフォーマンスは、入りのヒョウ柄+黒パンツ(インナー白だったわ、あれって精一杯の歩み寄り?!とファンを沸かせた)高速歩み去り(会の人は声かけできず。去っていく背中に向かって遠く「いってらっしゃい」とばらばらに叫ぶのみ)からはじまって、袴姿での高速歩み去りパレードに至るまで、一貫していた。
 そのなかで、「舞台」の上でこそ、もっとも輪郭のあるキャラクタを出してきた。個性的な退団挨拶、ネタ会話、客席大ウケ、笑い声と大きな拍手。
 「舞台人・未涼亜希」の卒業にふさわしく。
 きっぱりと起承転結、振ったネタは回収してオチまでつけた。きれいな構成に舌を巻く。

 もちろん、ふつーに愛と感謝の言葉だけで、ネタ振りもオチもない、気持ちだけでつづられた、素朴な挨拶も好きだけど。
 まっつはまっつらしくオチをつけた。そのこだわりが愛しい。

 最後まで、小憎いまでに、かっこいい人だ。
 エトワールのときににさ。

 まっつの目線がこっちに来たの。
 別に向こうはわたしを見ているわけではナイんだろうけど、こっちは客席で、「あ、目が合った」と思う、タカラヅカあるある。

 最後の最後の場面で。
 スポットあびて朗々と歌うそのときにさ。

 まっつと目が合った、気がした。

 よりにもよって、歌詞が。

「君への思いをここに残して」


 …………。

 君への思い、でわたしを見た。ように思えた。
 おお……。すげーなそれ。カンチガイでも偶然でも、なかなかナイ神タイミング。

 ファンなのでもちろんこれは、グッとくる。てゆーか反射的に泣けた。

 しかし。
 それと同時に、別の思いも込み上げた。

 あたし、なんでコレを信じられないんだろう?

 「タカラヅカ」なんて、「嘘」で成り立っている世界だ。
 そもそも女性が男を演じている時点で嘘。日本人なのに金髪にしてガイジンのふりしてるのも嘘。なんで日本人がコスプレしてガイコクのために生きて死ぬ話とか真剣にやってんのよあり得ない。
 嘘、嘘、嘘。舞台なんて全部嘘。
 卒業するスターはみんな「ありがとうソング」歌うけど、他人が書いた歌詞じゃん。本人の言葉じゃない、つまり全部台本、ヤラセ、全部嘘。
 …………と、わかった上で、それを楽しむ。それが「タカラヅカ」。
 「嘘」を楽しむことが出来ない人は、「タカラヅカ」を楽しめない。
 虚構を虚構とわりきって、夢を見る。楽しむ。

 だって、たとえそれが嘘でも台本でも、演じているひとの心は本物だからだ。

 男役はほんとうに男性になりきってその役の人生を舞台で生きるし、ライトの当たらないすみっこの子でも、舞台を愛し誠心誠意演じ歌い、踊っている。
 ほんとうのこと、って、伝わる。
 ひとの心って、伝わる。
 「嘘」で成り立った舞台の上で、「真実」を込めて存在するジェンヌたちがいるから、「嘘」は「夢の世界」になる。

 そしてわたしは、その「夢の世界」を愛している。

 このルールでいけば、わたしはまっつの「舞台上の言葉」を額面通りに受け取るべきなんだ。
 「♪君への思いをここに残して」「♪君を強く強く抱き寄せて」「♪離れていても君のことを思い続ける」……せっかく演出家が卒業する生徒へのはなむけに言葉を贈ってくれているのに。
 わたしはそれを、「まっつの言葉」としては、受け取れずにいる。

 まあな、まっつに関してはいろいろ余計なことを知りすぎていて、それで素直に受け止められない、というのはある。確実にある。

 でも、それ以上に。
 それこそ、「嘘を嘘として楽しむ」わたしの立ち位置からすれば、だ。

 愛の言葉を信じられない、と思わせる「未涼亜希」というドリームが成立している、てことなんだな。

 わたしのまっつ観ってやつぁ。

 素直に「まっつがわたしへの思いを歌ってくれてる☆」と思えるような、そんなドリームを描けるジェンヌ像だったらよかったのに。
 「与えられた歌詞を歌っているだけにしろ、愛を歌うまっつを見るのって萌えだわ」というややこしいドリームは、まっつだけ。まっつならでは。

 最後の最後、神タイミングで目線来て、ズキュンとなりつつも、同時に思う、「あー、なんであたし、これをこのまま信じられないんだろ?」。

 最後の最後に、泣き笑い。

 信じられないのがあたしで、信じさせてくれないのがまっつだった。

 こんなジェンヌは他にいない。

 だから、まっつなんだ。
 まっつ以外、いないんだ。

 だから、どこにもいかないで。
 「嘘」で作られた「夢の世界」にいて。
 ややこしいわたしに、ややこしい夢を見させ続けて。
 『一夢庵風流記 前田慶次』の破壊力がすごすぎて、息も絶え絶え……のまま、『My Dream TAKARAZUKA』へ。

 どこを観るかどうするか、なにも考えてなかった。
 本能に任せよう。
 泣いても笑っても最後なんだもの、理屈は捨てて、観たいように観よう。

 ……と、開き直ったら、あらま、記憶が、ありません。

 まいったねー、なんもおぼえてないわー、ははは。

 千秋楽だから、最後だから、どうこう、というのは、まつださんにはあまりナイんだろうなと思う。それよりもまず、自分の仕事をしっかり勤めあげることを、最優先にしていそう。

 前楽は下手、楽は上手と、バランスいい席だったので、前日に見えなかったものが最後に見えて、最後に見えなかった分は前日の記憶をたぐって、かなり満足な視界でした。

 記憶はなくても、まっつが最高に美しいことは、わかっている。

 おぼえていることの中で、声を大にして言いたいことが、ふたつ。

 まず、ジゴロの髪型。

 最後の最後で、これをやりますか!! これを出してきますか!!
 唸ったね。

 最高の美乱れ髪キターーッ!

 わたしが観た回数なんてたかだか40回に満たないんだけど、そのなかで最高の髪型来ました!
 乱れ具合の美しいのなんのって。
 最初の登場から、ちょいラフな部分がいつもよりほんのわずかに多くて、その分量が絶妙でまっつの整った額のラインを飾っていて。
 踊るに従って、ラフ部分がさらに多くなってきて。
 でも、えりたん登場あたりで最初の掻き上げきて、せっかくの前髪ぴたっと抑えて、しかししかし、踊っているうちにまたふんわり広がり、落ちてきて。
 ラストの激しいダンスで、髪もまた、踊る踊る!!

 かかかかっけーっ! かっけーっ! かっけーっ!

 なんなのあの美しさ!! 神ビジュアル!

 うおーーっ、この髪型で映像に残って欲しかった~~!!

 や、千秋楽が1年後にスカステで放送されることはわかってますよ。
 でも、スカステは「まっつアングル」ないから、えりたん中心っしょ? ラストディ映像と兼ねているわけだから、通常の楽撮りよりも、トップのアップ中心。
 DVD撮りのときにこの髪型ならな……(笑)。

 でも、最後の最後に最高の出来を持って来てくれるなんて、ファン孝行ですよ。いや、罪作りかな。最後またどかんとファンを悶えさせ、病を重くするなんて(笑)。

 はー、まっつ、美しすぎ。


 そしてもうひとつは。

 ありがとう、ちぎまつハグ!!

 「伝説誕生」にて、ちぎくんと並んで坐ってえりたんダンスを見ているちぎまつ。
 いわゆる「明星」場面ですな。
 えりたんダンスご披露場面が終わり、立ち上がったちぎまつは、笑顔で握手をする。
 ……というところまでは、通常運転。

 問題はそのあと。

 ふたりは、どちらからともなく抱き合った。

 ま、最後だしね。
 あるかな、って、期待はしてた。
 でも実際にあると……目の当たりにすると、うおおおーーーっ、とテンション上がった。

 そして、いちばん忘れられないのは……というか、それだけしかおぼえてない、他のことぶっ飛んじゃった、のは。

 ちぎまつが抱き合う、までは想定内だったの。
 『舞姫』のときもそうだったしね。「ここはもう、やっときますか」的に、男同士ハグしますぜ、てな。

 ちぎまつが抱き合ったーー! うっひょーー! と、思っている、わたしの目の前で。

 えーと、どっちがどっちなのかすでにわたしの海馬が混乱してるし、友だちに聞いてもわかんなかったんだけど。
 ちぎくんが上手側で、まっつが下手側であってる? ふたりの立ち位置的にはそうだから、抱き合いながらくるりと反転したりしてない限り、まっつ-ちぎという立ち位置であってるとは思うんだけど。

 とにかく、わたしの席からは、ちぎくんの背中が見えたわけね。
 まっつを抱くちぎくんの背中、まっつはアタマとデコあたりが、ちぎくんの肩越しに見える、ぐらい。

 おお、ちゃんと抱き合ってるわー、まっつの両手がちぎくんの背中に回ってるわー、と思って眺めてた。

 そのわたしの目の前で。や、オペラ越しの「目の前」ですがな。
 ちぎくんの背中へ回ったまっつの両手に、「きゅっ」と、力が入ったの。

 ただ背中に腕を回した、というだけのハグじゃないの。
 きゅっ、て。
 抱きしめたの。

 軽い形式だけのハグではなくて。

 強く、抱きしめ合ってたの。

 一瞬だけど。
 互いに、ぎゅって。

 手に力が入るのが、わかって。

 わたしから見えたのはまっつの手だけだけど、たぶん、ちぎくんも同じようにしてる。
 むしろ、ちぎくんの方が先? 両手を回してから、少し時差があったから。
 ちぎくんがぎゅってしたから、まっつも応えた? そのへんはわかんない、ドリーム入ってるかもだけど。

 とにかく、男ふたりがぎゅって力強く抱き合ったのよ!!

 マーキューシオとベンヴォーリオ。

 わたしのちぎまつの原点。
 最後にもう一度、夢を見せてくれた。

 もうそこで、アタマぱーーーん! ですよ。
 記憶も飛びますよ。

 ええもん見た……。
 『一夢庵風流記 前田慶次』東宝千秋楽。

 最後の最後になって、わたしはこれが雪丸の物語だと気づいた。

 脚本の粗に負けて見えなかったいろんなことが見え、すべての線がつながった。
 まっつの演技が、すごかった。
 だからもう、他を見ることはあきらめて、雪丸だけを見ることにした。
 アタマが拒否したの、今はこの感動以外を入れたくない、って。これは本来『一夢庵風流記 前田慶次』という物語で、主人公の慶次だけでなく、重太夫や捨丸も、きちんと起承転結まで描かれている。だから、ふつうにしていたら、彼らの物語、彼らの一人称も頭に入ってくる。それを拒否したのね。今はチガウ、今わたしが脳に入れていいのは、心で味わっていいのは、雪丸だけだ、って。

 てことで、2014年8月31日に、わたしが見た雪丸様@まっつ像語りの続きの続き、行きます!
 あくまでも、わたしの目と脳に映ったまっつだ!!


 これは、「雪丸」の物語だと気づいた。思い知った。
 アタマが、空白だ。
 雪丸以外はなにも入らない。
 そうやって場面が進み、また雪丸が登場する。さあ、スタートだ、わたしの中の感性が、心が、動き出す。
 雪丸の物語を観る。そのためだけに。

 今までわからなかった雪丸の言動が、すべて理解できる。バラバラに見えた点が、線でつながる。

 「惚れているから抱いた。男が女を抱く理由が他にあるか」……慶次のドヤ顔台詞や、鉄砲隊登場のとき、奥村助右衛門登場のとき。
 雪丸の思い。

 忍びに生まれた雪丸は、「惚れているから」という理由だけで、加奈は抱けない。慶次は「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言っているようなもんだ。慶次の慶次たるおおらかさは、雪丸の身分に生まれていたら、培われなかったかもしれない。
 恵まれた身分の者が、恵まれたものを捨てて、傾いてみせている。もとからなにも持たない者の前で。

 助右衛門が鉄砲隊を率いて現れた。
 そこで雪丸はすべてを察する。

 加奈が裏切った。加奈が密告した。

 それと同時に。
 そういう加奈だから、愛した。

 すべてを察する。納得する。
 これが自分の運命。やるだけやった。あがくだけあがいた。それこそ、狂うほどに。

 雪丸のやっていることは、めちゃくちゃだ。まともな者から見れば、整合性のなさ、雑さにツッコミしかない。
 そんな状態になるほど、おかしくなるほど、求めた。光を。

 人事は尽くした。
 だから雪丸は、家康に刀を預ける。

 家康が雪丸を斬るまでの間、わりと空白がある。時間がある。
 家康の中の人が疲れてきてて、素早く動けないだけなのかもしんないけど、「そんだけ時間あったら逃げられるじゃん?」てな間、雪丸はただ立ち尽くしている。
 ルキーニの凶刃に身をさらすシシィみたいだ。トートに呼ばれ、立ち尽くす。

 斬られることがわかっていて、雪丸は動かずにいる。

 加奈が裏切ったこと……そういう女だからこそ愛したこと……そして、逃げた加奈が、自分の後を追って自害するだろうこと……すべてわかって、雪丸は天命を待つ。

 天命を告げるのは、徳川家康。のちの天下人。
 証人たるのは、現在の国家元首・豊臣秀吉。
 陽のあたる場所に出ることを夢としてあがき続けた、名もなき忍び、草でしかない身が、なんという破格の扱い。
 悔いなし、だよなああ。
 完結、してるよなああ。

 確固たる愛がそこにあって、自分のすべて出し切った仕事して、たとえ敗北であろうと誠心誠意闘い切って、ゲームセットの声を聞いた瞬間、終わるんだよ。
 なんつー人生。
 ハッピーエンドじゃん。

 これ、ハッピーエンドじゃん。

 震撼した。
 マジに、震えた。

 雪丸の人生。
 その輪郭のあざやかさに。

 取捨選択したから、迷わない。
 心臓ばくばくしたまま、次の場面を待つ。目に映るモノ、耳に聞こえるモノがあっても、惑わない。
 わたしが見ているのは雪丸の人生。雪丸の物語。それ以外のモノは紗がかかったように遠く薄く見える。
 場面が進み、次に雪丸が登場するのは、エピローグ。

 雪丸は、加奈とふたり、穏やかな笑顔で現れる。
 加奈の肩を抱く。加奈がうれしそうに笑う。そんな加奈の隣で、雪丸もうれしそう。

 わたしの席からは、加奈をエスコートして歩き去る雪丸の表情はよく見えなかった。
 だけどわかる。
 きっと彼は、しあわせそうに顔をしている。

 ハッピーエンドだもんな。

 やりきった、生ききったあとだもんな。
 そりゃ、しあわせだわ。

 再度登場し、慶次の「散ちらば花のごとく」で口角を上げる。
 うん、そうだね。
 花のようだったね。
 あなたの人生も。

 咲き誇り、咲ききって、そして潔く散ったんだものね。


 最後の最後に、答えを得た。
 たったあれっぽちの出番で、書き込みで、「雪丸の人生」を完結させた。
 説得させた。

 すごい。
 やっぱ、まっつってすごい。
 すごい役者だ。

 感動とか、そんな言葉では言い表せられない、足りない。
 すごいもん見た。
 すごいもん見た。
 ああだから、舞台ってすごい。自分で主人公決められるんだよ、映画じゃこうはいかないよ、だってカメラは必ず「制作側が決めた意図」に従ったモノしか映さないからね。
 タカラヅカのファンでよかった。まっつのファンでよかった。
 このカタルシス、ただ日常を生きてるだけじゃ、絶対味わえない。

 すごいモノを見た……。
 と思うことと、「こんな感動はもう味わえないんだ。だってまっつはもう、いなくなる」という絶望が同時に押し寄せてきて、息が出来ない。

 タカラヅカファンでよかった、まっつのファンでよかった、そう思う気持ちがそのまま裏返って、心に闇が広がる……から、始末に負えない。
 まっつのバカ(笑)。
 初日からずっと、「雪丸様、わけわかんねえ(笑)」と書いてきました。
 稲妻とともに登場して、すっげえ大物感ゆんゆんなのに、やってることバカっぽいし、女の子と力比べして負けるし、腕斬られたぐらいで取り乱すし、黒幕の名前連呼して台無しにするし。
 「なにを致すのかは、この傷が教えてくれよう」とか、思わせぶりなこと言ってるくせに、やってることむちゃくちゃだし。

 脚本の粗を全部押しつけられちゃったんだろうなあ。
 わけわかんない人になってるなあ。
 でもま、かっこいいから、いっか。
 てな人だった、雪丸様。

 それが、『一夢庵風流記 前田慶次』東宝千秋楽。
 すべての線が、つながった。

 納得がいった。
 答えを得た。

 わけわかんなかった、すべてのこと。

 楽の数日前から上京、ヅカ三昧まっつ三昧な日々を送っており、ラストスパートに入った雪丸様の演技がますます磨き抜かれていたことは、わかってたんですが。
 方向性としてそちらに向かっていたことは、わかっていたんですが。

 ラストアクトにて。

 雪丸様の狂気が、ハンパなかった。

 あ、この人、狂ってる。

 まともに見えるし、実際ちゃんと生活……というか、忍びの頭領もやれてるんだけど。
 根っこのところが、最初からすでに壊れてる。

 この人が引き起こした一連の出来事、行動は、そういうことなんだ……。

 てことで、2014年8月31日に、わたしが見た雪丸様@まっつ像語りの続き、行きます!


 雪丸のキャラクタがもっとも出るのって、加奈との場面だと思うのね。
 本心が見える場面というか。
 だから、「セクシー立ち回り」と「Wラヴシーン」が重要なの。ここでの雪丸様は、最高に美しく色っぽい、というだけでなく、本心が垣間見えるから。

 わたしはいつもまっつをあなどっているというか、毎回「ごめん」な気持ちになる。わたしが思っているよりすごいものを、彼はどんと出してくるんだなこれが。
 今回もそうだ。
 退団公演だし、なんかめちゃくちゃな役だし、これが限界……というか、ここまでやってくれたらもう十分だよな的な枠を、わたしは勝手にはめて見ていたらしい。
 差し出されるモノで十分、楽しかったし。
 不満があるとすれば退団することだけだもん。それさえなかったら、なんの問題もない出来。

 なのに。
 最後の最後に、すごいもんキタ。

 芝居で、演技で、ここまで表現するのか。

 加奈と指を「ぎゅっ」と握り合ってセリ下がっていく雪丸様を見て、死にそうになった。

 あたし今まで、なにを見ていたんだろう??

 この芝居は、雪丸の物語だ。
 カットされまくったそうで、雪丸の出番も見せ場も当初の台本とは掛け離れ、わけわかんない変な人になっているらしいよ、ひどいよ大野くん! でもま、エロ見せ場があるからそれでいいか、てな落とし方ではなくて。
 そんな半端な描き方しかされていないのに……中の人は、まっつは、ガチに勝負懸けてる。
 「雪丸」という男の生涯を、描いている。

 加奈との場面だけで、「雪丸」の人生を浮き彫りにしてきた。

 そのまっつの芝居に、まさに雷に打たれたようになった。
 心臓ばくばくアタマがんがん、涙でオペラグラスが曇る。
 アタマが切り替わらない。次の場面になっているのに、目には映っているのに、神経に届かない。

 むしろ、不思議だった。今、舞台の上にあるモノが。
 わたしには、雪丸しか見えない。
 なのに、雪丸がいない舞台で、なにかやっている?

 いやいやいや、これは『一夢庵風流記 前田慶次』というお芝居で、慶次が主役、でもってえりたん最後なんだからえりたん見なきゃ、あたしがどんだけえりたんスキーで来たと思うのよ、『タランテラ!』ではずしきった音とリズムで歌うあの銀橋の壮くんのぺかーっとした笑顔に救われたのよ命の恩人なのよ……理性はそう解説するけど。
 けど、ダメだ。
 ごめんえりたん。
 えりたん好きだけど、今は無理。

 わたしは、まっつが好き。いちばん好き。

 まっつの芝居と、波長が合うのだと思う。
 彼ほどわたしに感動をくれる役者はいない。今のとこ。
 想像力と萌えをくれる役者はいない。

 そのまっつが、消えてしまう。
 いなくなってしまう。
 それだけでも重大事件だっつーに、そのうえ彼は、最後の舞台で最大級の爆弾を落としてきた。
 今まで見た、最高の芝居をしてきた。

 それはもう、受けるしかないでしょう。
 受け止めるしかないでしょう。

 他は、見ない。
 決めた。腹をくくった。切り替えた。

 これは、「雪丸」の物語。他は、不要。

 いい悪いじゃない。わたしには、それだけのキャパしかない。
 二兎を追って自滅する猶予はない。まっつのラストアクトなんだ。
 ふだんのわたしなら、そこまで極端なことはしない。えりたんえりたん、えりたんへの愛着、過ごしてきた日々が悲鳴をあげる。
 だけど、人生が取捨選択で成り立っていることを知っている、ひとつしか選べないというなら、わたしはまっつを選ぶ。

 続く。
 『一夢庵風流記 前田慶次』東宝公演千秋楽観劇。

 最後の最後で、雪丸様に気づいたこと。

 この人……狂ってる。

 そうかもう、狂ってたんだ。
 おそらく、先の野望が潰えたときに。加奈に顔を斬られたときに。
 自分はここまでだと。これが運命だと。

 人生を賭して切望し、裏切られた。忍びに生まれ主家の小姓となり……って、何年も何年も、人生の時間すべて懸けて抱いてきた野望ですよ。これが潰える、イコール=死ですよ。
 魂懸けて望んだ、挑んだ……しかし、叶わなかった。その痛みから、雪丸は狂った。

 その狂気の中で、「加奈は俺を殺さなかった」「加奈は俺を愛している」ということが、唯一の救いだった。

 身分という、己ではどうすることもできない壁の中、唯一超えられたのは、加奈の愛だ。
 武家娘が、卑しい身分の自分を愛した……それは雪丸の人生の、唯一にして最大の勝利であり、正解なんだ。
 だから、再び野心を持ったとき、加奈と、彼女につけられた傷が問題……いや、「答え」になっている……「なにを致すのかは、この傷が教えてくれよう」。

 表面上は、ふつうに生きている。忍びの頭領として、冷徹な策士として、家康のような天下人の器を持つ男とも渡り合っている。
 でも、誰も……ひょっとしたら、本人すら気づかないところで、すでに細かいヒビが走っていた。蜘蛛の巣のように。
 なにか大きな力が加われば、粉々に崩れ落ちる。
 そんな、破滅の予兆。

 すでに狂っているから、作戦は杜撰で意味不明。そして、うまくいかなくなったときは、みっともなく取り乱したんだな。

 加奈の愛が生きる意味……というか、狂った男をこの世にようやくつなぎ止めている糸なんだ。
 だから、彼女に突き放されると、怒る。
 「邪なそなたに騙された」と言う加奈に対し、本気の怒りが見える。加奈に嫌がられたり逃げられたりする、その都度瞳に怒りが見える。
 「それしか手立てがなかったのですよ」と己の宿命を語るときも、暗い怒りが熱を持つ。すぐにまた「悪役ぶった笑い」の奥に隠されるけれど。


 千秋楽の雪丸様は、狂気度がハンパなかった。
 それまでも、どんどんそっち系に際立っていたけれど、ラストアクトはその比ではなかった。
 あ、狂ってる。
 シンプルにそう思えるほど。

 偸組や又左衛門たちの前では、一定した「悪役」の顔を見せている。
 雪丸様の真実が垣間見えるのは、加奈との場面。いわゆる「セクシー立ち回り」と「Wラヴシーン」。
 それまでの「悪役」の仮面から、雪丸本人の素顔が見える。仮面を全部はずすのではなく、水面に光が揺れるように、ちらちらゆらゆらと見えて消える、のぞいて消える。
 その様が、壮絶だ。

 雪丸はあくまでも「いつもの顔」でいようとする。ことさら悪ぶった忍びの顔、目的のためには手段を選ばぬ「悪人」の顔。
 だが、そこから素顔が、本心が、垣間見える。本人の意図ではなく、無意識に、こぼれてしまう。
 相手が、加奈だから。

 己が宿命に対する怒り。「世界」に対する怒り。
 そして、雪丸にとって加奈は「世界」に等しい。
 家柄と育ちと現在の地位、品性と美貌。闇社会から遠く憧れるすべてのモノが、加奈に集約されていた。
 奥村家の娘を正式に伴侶として迎えることのできる男……てのが、すなわち「雪丸が望んだ表社会で生きる姿」だよね。
 地位も身分も財産も教養も、全部持ち合わせてなきゃ彼女には釣り合わない。

 加奈は、雪丸が求めた「世界」そのもの。
 だから加奈が雪丸を拒絶すると、怒りを露わにする。が、すぐに律して冷徹な顔で抱き寄せる。
 セクシー立ち回りからWラヴシーンは、雪丸の人生そのものだ。
 闇社会から這い出ようとあがく、光を求め焦がれる。「世界」と対峙し、勝利しようとする。

 雪丸の赤裸々な「人生」まんまの場面で。
 狂気の度合いがハンパなくて。
 「世界」に対し、ここまで狂ってしまっている……彼の生き様が、悲しくて。切なくて。

 そのくせ。

 「世界」を……加奈を見つめる瞳に、愛があって。
 狂っているのに、愛があって。

 や、いっそ愛がなければ、救われるのに?
 こんなになって、こんな姿になって、それでもまだ、愛してるの?

 最後の最後、加奈を抱きしめたあと、口づけする。
 その、最後の口づけのときに。

 加奈の左手が雪丸に縋るようにのばされる。雪丸の胸に。
 雪丸はその手を覆うように掴む。
 ……だけじゃない。
 雪丸の手は……加奈の手を握る。
 指を、ぎゅっと。
 加奈もまた、雪丸の指を握る。ぎゅっと。

 ふたりの指が、絡み合う。

 恋人同士の指。

 ただの色事なら、色仕掛けなら、その必要はない。
 今までの雪丸がやってきたように、顎に手を掛けて強引に口づける、縋ってくる手を掴む、それで済む。

 雪丸様、あれでどうしていろんなパターンがあってね、「キスしながらセリ下がり」「キスを手で隠したりしませんことよ」という、男役17年は伊達じゃねえぜ!ってな、見事なキスシーンでセリ下がっていくだけじゃなく、地味にいろいろやってるんだわ。
 お茶会前後あたりから、たまにこの「手を握る」バージョン披露してくれて、客席のまっつファンを即死させてくれてたんだよ、まつださん。手をぎゅっ、ですよ。優しく性急に、ですよ。
 篭絡目的ならそんなことする必要ないよね、それって加奈のこと愛してるってことじゃん! 口では悪ぶってても、ほんとは愛してるってことじゃん!! きゃ~~っ! まっつメイトと「あれいいよね! いいよね!」と大騒ぎ(笑)。
 それだけでも十分「きゃ~~っ!」だったのに。
 千秋楽前あたりから、「指ぎゅっ」をやり出した!!
 こ、これは……、はじめて見たとき、心臓止まるかと。ヲトメ心鷲掴みですよこの人殺し! けしからん!

 いつもやるわけじゃなくて、エロ勝ちしてるときは顎掴んで強引にキスしてたし、雪丸様の演技はそのときどきでいろいろ違っていたので、千秋楽がどうなるかなんて、まったくわかってなかった。
 そして、実際にはじまってみれば、狂気全開。痛々しいまでに、狂ってる。
 そうやって、もっとも狂っているときに。

 最後に、指ぎゅっ、ですよ。

 加奈が、雪丸に縋る。
 愛しい男を抱く手つき。
 その加奈の手を、雪丸の手がなぞる。口づけの激しさと裏腹に、ひどくやさしい動き。
 そして、求め合うように、互いの指が絡み合う。

 そう、探していたんだ。
 ふたりの指。
 愛する人を。
 愛する人と、結ばれるときを。

 だから、雪丸の指が加奈の指にたどり着いたとき、双方の指がきゅっと絡み合った。

 ようやく、逢えたね。

 愛し合うふたり。
 求め合っていたふたりが。
 ようやく。

 雪丸、狂ってるのに。
 それでも、愛してる。この愛だけは、ほんとう。


 いや、もう、マジで。
 なんか、すごい。
 すごいことになってる。

 今までずっと雪丸様に対して抱いていた不透明なモノ、疑問、そんなもんが、全部ぶっ飛んだ。
 すごい。

 すごい芝居になってる。
 まっつ。
 最後の最後に、なんてもんを出してくるんだ。

< 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 >

 

日記内を検索