違和感の正体。@さくら
2007年5月1日 タカラヅカ ちょっくら松本悠里お姉様のこと。
今回、ミエコ先生出演の『さくら』を観ながら、考えたんだ。
なんでこんなに、違和感があるんだろう。
わたしは日舞の善し悪しはわからないので、ミエコ先生がどれほどすごい踊り手なのかはわからない。
日舞に興味がないので、彼女の美貌ぐらいしかわかっていない。
ミエコ先生は、フェアリーだと思いますよ。わたしが子どものころから今とまったく同じ姿だもん。わたしの記憶にあるいちばん最初からすでに、ひとりだけ日本物メイクでプログラムに載り、フィナーレもひとりだけ着物姿で大階段を下りてくる人だったさ。
何十年経っても、変わらない。
彼女はフェアリー。
人間ぢゃない(笑)。
その妖精ぶりを、今なお舞台で発揮してくれるのはかまわない。
わたしは彼女のすばらしさをろくにわかっていないので、彼女の舞台を「長いなー」と思い遠く眺めているだけなんだが、それでも、彼女の出演を「アリ」だと思っていた。
彼女の舞を、わたしは理解できないし大してたのしめもしないけれど、彼女は「タカラヅカ」に必要な人であり、必要な場面なのだろうと思っていた。
今まで。
ところが今回、はじめて、疑問を持った。
松本悠里は、この「作品」に不要なのではないか?
最初に思ったことは、「奇妙」だった。
踊るミエコ先生を見て、「なんか変?」と思った。
ミエコ先生はいつもと変わらぬ美しさなのに。何故こうも違和感があるのか。
答えが出たのは、「竹灯籠」でトウコの相手役を務めているのを見たときだ。
「相手役」なのに。恋人同士の設定なのに。
ふたりは、あまりに異質だった。
同じ世界の人間ではなかった。映画と現実くらいチガウ。アニメとマンガくらいチガウ。
同じ世界で向き合っているとは思えない。
トウコ云々ではなく、ミエコ先生が、違うんだ。「世界」と。
彼女には、「表情」がない。
笑顔もなければ泣き顔もないんだ。
人形のような、無表情。
もちろん、彼女は舞の中で喜怒哀楽を表現するし、ほんのわずかに眉根を寄せる、口の端を持ち上げるなどで感情を表している。
だがソレは、この「作品」に必要とされる演技ではないんだ。
日舞ならそれでいいのかもしれない。
だがここはタカラヅカで、これは日本物ショーだ。日舞発表会ではない。
トウコたちが演じているのは日舞ではなく、タカラヅカのショーなんだ。
日本物だから、所作など決まり事の中で演じているけれど、「日舞」ではないんだ。
だから、最初のミエコ先生ソロの場面でも、背景で踊る娘役たちには「表情」がある。
舞ではなく、カラダすべてで「演技」している。
演技しているショースターたちの中に、ひとりだけ「日舞」を踊る人がいる……から、「奇妙」だったんだ。
『ベルサイユのばら』のマンガの中にひとりだけ、墨一色で描かれた日本画美人がいるよーなもの。
マンガの中の人たちはおしゃべりしたり笑ったり、怒ったり決闘したりしているけれど、日本画美人はポーズを取って静止しているだけ。
……なんでいるの、この人?
「世界」に合ってないんですけど?
「竹灯籠」も、ヒロインが「演技」していないので、盛り上がりようがない。
苦悩も哀しみも、すべて無表情。唇は絶対に閉じたまま。お付きの侍女たちは喜怒哀楽ものすげーことになってるのに。
そして主役のトウコは、「タカラヅカ」の男役として、トップスターとしての演技をしているのに。
ひとりだけ、別世界。
「作品」にも共演者にも、合わせる気一切無し。
なんなんだコレは。
今まで漠然と感じていた「なんでこの人、ここにいるんだろう」の正体はコレか。
他の専科さんたちには感じたことのない違和感は、コレか。
今まで「そーゆーもんだから」と思って、深く考えないできたけれど。
濃ぃ〜〜い星組のおかげで、答えが見えた(笑)。
昔のタカラヅカはもっとちゃんとした日舞発表会テイストだったのかもしれない。
だが、今のヅカの日本物ショーは、なによりも「ショー」であることの方が大きい。エンターテイメントなんだよ。
今の時代と、ミエコ先生は相容れない。
彼女は「タカラヅカ」をやる気はないんでしょう?
エンタメの、ショースターになるつもりはないんでしょう?
あくまでも、「日舞の師匠」なんでしょう?
彼女を出演させるならば、彼女が浮かないちゃんとした日舞発表会にする必要がある。
エンタメ性を排し、高尚で厳粛なモノにする。
そーでないと、芸風が違いすぎて双方不幸だ。
みんなが「演技」しているなか、ひとりだけ無表情の人形がいるのは、はっきりいってホラーだよ……。
「竹灯籠」はこわかったよ……ドラマティックな物語なのに、周囲はみんなドラマティックに演じているのに、ひとりだけ埴輪のような無表情で踊られたら。いやその、顔はもちろん美しいのだけど。
「時代」と松本悠里は乖離していっている。植田芝居がそうであるように。
伝統を守ることは大切だが、その方法を考えるべきなのではないのか。
……なんてな。
今回、ミエコ先生出演の『さくら』を観ながら、考えたんだ。
なんでこんなに、違和感があるんだろう。
わたしは日舞の善し悪しはわからないので、ミエコ先生がどれほどすごい踊り手なのかはわからない。
日舞に興味がないので、彼女の美貌ぐらいしかわかっていない。
ミエコ先生は、フェアリーだと思いますよ。わたしが子どものころから今とまったく同じ姿だもん。わたしの記憶にあるいちばん最初からすでに、ひとりだけ日本物メイクでプログラムに載り、フィナーレもひとりだけ着物姿で大階段を下りてくる人だったさ。
何十年経っても、変わらない。
彼女はフェアリー。
人間ぢゃない(笑)。
その妖精ぶりを、今なお舞台で発揮してくれるのはかまわない。
わたしは彼女のすばらしさをろくにわかっていないので、彼女の舞台を「長いなー」と思い遠く眺めているだけなんだが、それでも、彼女の出演を「アリ」だと思っていた。
彼女の舞を、わたしは理解できないし大してたのしめもしないけれど、彼女は「タカラヅカ」に必要な人であり、必要な場面なのだろうと思っていた。
今まで。
ところが今回、はじめて、疑問を持った。
松本悠里は、この「作品」に不要なのではないか?
最初に思ったことは、「奇妙」だった。
踊るミエコ先生を見て、「なんか変?」と思った。
ミエコ先生はいつもと変わらぬ美しさなのに。何故こうも違和感があるのか。
答えが出たのは、「竹灯籠」でトウコの相手役を務めているのを見たときだ。
「相手役」なのに。恋人同士の設定なのに。
ふたりは、あまりに異質だった。
同じ世界の人間ではなかった。映画と現実くらいチガウ。アニメとマンガくらいチガウ。
同じ世界で向き合っているとは思えない。
トウコ云々ではなく、ミエコ先生が、違うんだ。「世界」と。
彼女には、「表情」がない。
笑顔もなければ泣き顔もないんだ。
人形のような、無表情。
もちろん、彼女は舞の中で喜怒哀楽を表現するし、ほんのわずかに眉根を寄せる、口の端を持ち上げるなどで感情を表している。
だがソレは、この「作品」に必要とされる演技ではないんだ。
日舞ならそれでいいのかもしれない。
だがここはタカラヅカで、これは日本物ショーだ。日舞発表会ではない。
トウコたちが演じているのは日舞ではなく、タカラヅカのショーなんだ。
日本物だから、所作など決まり事の中で演じているけれど、「日舞」ではないんだ。
だから、最初のミエコ先生ソロの場面でも、背景で踊る娘役たちには「表情」がある。
舞ではなく、カラダすべてで「演技」している。
演技しているショースターたちの中に、ひとりだけ「日舞」を踊る人がいる……から、「奇妙」だったんだ。
『ベルサイユのばら』のマンガの中にひとりだけ、墨一色で描かれた日本画美人がいるよーなもの。
マンガの中の人たちはおしゃべりしたり笑ったり、怒ったり決闘したりしているけれど、日本画美人はポーズを取って静止しているだけ。
……なんでいるの、この人?
「世界」に合ってないんですけど?
「竹灯籠」も、ヒロインが「演技」していないので、盛り上がりようがない。
苦悩も哀しみも、すべて無表情。唇は絶対に閉じたまま。お付きの侍女たちは喜怒哀楽ものすげーことになってるのに。
そして主役のトウコは、「タカラヅカ」の男役として、トップスターとしての演技をしているのに。
ひとりだけ、別世界。
「作品」にも共演者にも、合わせる気一切無し。
なんなんだコレは。
今まで漠然と感じていた「なんでこの人、ここにいるんだろう」の正体はコレか。
他の専科さんたちには感じたことのない違和感は、コレか。
今まで「そーゆーもんだから」と思って、深く考えないできたけれど。
濃ぃ〜〜い星組のおかげで、答えが見えた(笑)。
昔のタカラヅカはもっとちゃんとした日舞発表会テイストだったのかもしれない。
だが、今のヅカの日本物ショーは、なによりも「ショー」であることの方が大きい。エンターテイメントなんだよ。
今の時代と、ミエコ先生は相容れない。
彼女は「タカラヅカ」をやる気はないんでしょう?
エンタメの、ショースターになるつもりはないんでしょう?
あくまでも、「日舞の師匠」なんでしょう?
彼女を出演させるならば、彼女が浮かないちゃんとした日舞発表会にする必要がある。
エンタメ性を排し、高尚で厳粛なモノにする。
そーでないと、芸風が違いすぎて双方不幸だ。
みんなが「演技」しているなか、ひとりだけ無表情の人形がいるのは、はっきりいってホラーだよ……。
「竹灯籠」はこわかったよ……ドラマティックな物語なのに、周囲はみんなドラマティックに演じているのに、ひとりだけ埴輪のような無表情で踊られたら。いやその、顔はもちろん美しいのだけど。
「時代」と松本悠里は乖離していっている。植田芝居がそうであるように。
伝統を守ることは大切だが、その方法を考えるべきなのではないのか。
……なんてな。