このブログは、タカラヅカ感想、ヅカ絡み雑談のみを書いている。

 だが、最初からそうだったわけじゃない。
 最初はもちろん、ふつーに「日記」だった。日常のあれこれを書いていた。
 テレビドラマや映画の感想も書いていたし、ゲームの話も書いていた。
 それがまあ、なんかヅカの割合が大きくなって、途中から日常日記はよそに移して、こちらはヅカのみにした。

 その、ヅカ感想ブログにする前。
 ふつーに「日常日記」だったころ。

 このブログに幾度となく登場していた友人、あらっちが、亡くなった。

 「あなたが伴侶に求めるモノ」
 http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-434.html
 とかで、わたしが「外見はケロちゃん」と答えるもんで、「わかったわかった、こあらちゃんはそのケロさんね、んじゃそのケロさんで想像して」と、あきれもせずに会話につきあってくれていた子だ。

 ケロの最後のディナーショーのポスターを、わたしが後生大事に持ってコーラスのレッスンに行ったとき、「よかったね、ディナーショーに行けて」と一緒によろこんでくれた子だ。

 ヅカ友だちではなかったので、ヅカ日記になってからは、ここにも登場しなくなっていたけれど。
 ヅカ友だちに比べれば、会う回数も少なかったけれど。

 彼女との交友を書いていた場所だから、今日は日常日記として、ここに書く。

 あったかい人だった。
 やさしい人だった。
 おだやかで、安心できる人だった。
 わたしはいつも甘えていた。

 きれいで正確な歌声。音痴なわたしは、あらっちの声を手本に、いつも音を探していた。
 人生でもまた、ときどきあらっちのカオをのぞきこんでは、「あたし、まちがってないかな?」と探っていたよ。

 わたしより、2つ年上だっただけだよ。
 早すぎるよ。

 
 つーことで、今日は仲間たちと献杯。
 最初はみんな、あまりに暗くて、どーなることかと思った。
 最後はいつもどーり、にぎやかに馬鹿騒ぎで終わったけれど。
 ここにあらっちがいないことがさみしいね。
 いつもいたのにね。
 あのときも、あのときも、いたのにね。
 
 笑顔しか、思い出さないな。
 いつも笑っていた。

 
 ……つーことでも明日からはまた、ふつーのヅカ日記行きます。


 ヘコんだときは、前向きな話を書く。

 他に書くつもりのこと、順番、考えていたこともいろいろあるけれど。
 ただぼーっとまっつのDVD眺めて、無邪気に『TUXEDO JAZZ』とか口ずさんで過ごしたりしつつ。
 なんで博多座『マラケシュ』は放送してくんないんだよ、わたしにクリフォード@まっつを見せろ〜〜じたばた!とか、あの役に出会ってなかったらこんなにまっつまっつな人生じゃないぞとか、あああスーラ@まっつが見たい、オサ様の絵を抱きしめて号泣するまっつが見たいとか、や、ゴッホ@オサ様なのは説明するまでもないだろうとか、そーゆー自分だけにわかる話でぐるぐるしつつも、もっと前向きな話をしましょう。

 
 龍真咲の、キラキラっぷりについて。

 月組バウホール公演『大坂侍』において、なににびっくりしたかって、まさきのアイドルぶり。

 なんなんですか、あの子。
 幕開きから、あたりまえにセンターで踊っていて、アンタどこのスター様?!と、びびった。
「商売繁盛で笹持って来い♪」と、大阪人なら誰でも知っているフレーズで踊りまくるまさおさんに、くらくらしました。
 手です、手。手に注目。
 なんかやたらきれーだったんですけど、手の動き。

 「大坂侍」こと鳥居又七@きりやんの弟分、極楽の政@まさき。
 まさに、アイドル・ポジション。
 他愛なくもかわいらしく、舞台に花を添える存在。
 たぶん、地味な子がやったら、ただの脇役になる……。ストーリー的には、いてもいなくても同じ。少なくとも、クライマックスまでは。
 このままただのお花で終わるのかと思いきや、クライマックスでやたらオイシイことになっていたけれど。てゆーか、伏線だったのか、このお調子者の存在って。

 幕開きでセンター取ってて「まさき2番手? ちょっと待て、上級生スターがあと何人かいたはずだぞ?!」とびびったものの、作中では固定2番手はなさげで、まさきを偏重したキャスティングはしていなかったから、胸をなで下ろした。
 や、やっぱ学年と番手は守ってもらった方が安心だからさ。
 スターシステムを守って、もりえ、マギーがそれぞれ見せ場のあるいい役・味のある役をやっており、まさきの出番が彼ら以下であることにほっとしたのさ。

 お調子者としてあちこちに罪なく出ていたけれど、役のインパクトは大してない。
 最後にオイシイところを持っていくとはいえ、美形悪役@マギーだとか、不細工メイクでお笑いに徹して話題騒然@もりえに比べて、地味な役だなあ、と思う。

 それでも、無意味にキラキラ。
 かわいこちゃんオーラびしばし。
 善良ぶりつつじつはいちばん腹黒?的キャラクタも、似合いすぎ。

 なんかもー、彼のこのTPO関係なくキラキラしているところが、ツボでした。

 いいなー。
 正しく、「タカラヅカ・スター」だー。

 そーだよ、スターたるもの、これくらい、無意味に輝かなきゃ。

 彼がきれいでかわいくて、キラキラしていて腹黒くて、大変眼福でございました。

 物語は又七@きりやん争奪戦。
 登場人物ほぼ全員が彼を愛し、彼を得るために奔走するという話。いやあ、潔いまでに主人公が愛されまくる話ですわ。
 その昔、『更に狂わじ』とかゆー作品で、チャルさん×きりやんという、濃ぃ〜いカップリングがあったんですが、またしても同じ顔ぶれですよ。
 大和屋源右衛門@チャルさんは、又七に惚れ込んで、金の力で彼を自分のモノにしようと……いやその、娘の婿にしようと画策。大変だニャ。
 なんでみんな、チャルさん×きりやんなんて玄人ウケの強そうなカップリングにしたがるんだろう……需要あるのかソレ。

 わたしは素直に、政×又七でいいです。

 力関係とか、『NAKED CITY』のバーナード×ビリーを彷彿とさせるんだけど、バーナードはヘタレ攻で、政はちゃっかりモノ攻になる。どっちもヘタレな弟キャラのはずなのに……演じている人の持ち味のせいか。

 政のスウィートすぎる外見とキラキラオーラ、ときおり見せる黒さにときめきました。
 あんなどーでもいい役なのに。
 ただにぎやかしに同じ画面にいるだけなのに。
 なのになんで、あんなにキラキラしてるのよー。

 だからクライマックスのどんでん返し、政がちゃっかり現れたことに、膝を打った。
 そーだよな、そーでなくっちゃな。
 あのまま、いてもいなくても同じ、ただの画面のお花で終わっていい男ぢゃないよな(笑)。
 そーやって大仰に再登場したわりに、やっぱりどーってことない扱いであるあたりがまた、ステキ(笑)。

 
 若者が伸びていく様を見るのは、心地いい。
 まさきが成長していく様を見るのは、心地いい。

 その黒さを持ったまま、正統派の白い二枚目ぶっていい男になってほしいと思う。

 きりやんの質実剛健ぶりと、まさきのアイドルぶりは、なかなか素敵なコントラスト。
 このふたりの並びって、けっこー好みだー。
 うれしい発見。

 あ、わたし的には山崎さん@アルフォンソくん(『血と砂』以来彼はこの呼び名……って、何年前だよ?!)と政と又七の三角関係希望です、はい。
 あ、もちろんきりやん総受で。(役名で書きましょう、誤解を受けます)

 ……って、前向きな話を書いていたら、腐女子話に落ち着くのかわたし?!


「ねえ、アンタ司馬遼太郎全部読んでるよね? 『大坂侍』ってどう?」
「ああ? 短編だろ。読んだけど……べつにどーってことない話」
「今度ソレ、ヅカでやるんだよ」
「……阪急電車のポスター、アレ、タカラヅカか」
「知ってるの? てゆーか、ポスター見て、なんだと思ったのよ」
「そんな、ちゃんと見てないから、ただ『ああ、芝居のポスターだな』って」

 ふつーに、芝居のポスターに見えた……つまり、ふつーに男の人に見えたんだ、きりやん。

 や、ヅカにカケラも興味のない弟が、車内吊りポスターをおぼえている+ヅカだと思わないクオリティ、だなんて、きりやんステキ。

 つーことで、『大坂侍−けったいな人々−』の話。

 いつものよーに初日から観に行きたかったのに、チケット難民していたので、無理でした。ま、バウの初日は無理だわな。友会ではもちろんはずれちゃって、チケット1枚もないままだわ、サバキも出ないわ。……どーなることかと思ったぞ。

 司馬遼はかなりの冊数読んでいるけど、『大坂侍』は読んでない。ので、予備知識ナシ。
 えーと、誰が出てるんだっけ。たしか、ヒロインがねねちゃんで、まさきとマギーが出ていたはず。それからもりえもいたよな。……いつもなら出演者を誰も知らないのに、かなり理解しているぞ、今回。
 でも、それ以外は誰が出ているかわかっていなかったので、いちいちおどろいた。わ、マチヲ先輩出てたんだ、とか、よしづきさんいたんだ、とか、マヤさんとチャルさんってすげー豪華!とか。

 時は幕末、舞台は大坂。士農工商ならぬ商工農士、いちばんえらいのが商人、いちばん立場が弱いのが侍、という世界で、頑なに時代遅れに武士であることを貫く男・鳥居又七@きりやん。
 彼に惚れた豪商のわがまま娘・お勢@ねねちゃんが、父親の大和屋源右衛門@チャルさんと結託して「金」の力で又七を手に入れようと表に裏に画策・爆走、それと同時に時代も急変、えーと世の中では後世に「明治維新」と呼ばれる大騒ぎの最中なんですが、大坂はなにやってんですか? そう、大坂は「金」の力で戦争すら回避、金さえあればなんでも出来るっつーことでヨロシク。
 そんな大坂人のなか、「武士」であることを貫く又七は、死を覚悟して彰義隊に参加することを決意。悲壮な決意と覚悟で大坂侍は江戸を目指すが……。
 笑いと涙の、歴史ファンタジー。

 そう。
 幕末という動乱の時代を借りた、ファンタジーだ。
 すべては金だという独特の世界観がしっかり構築された異世界で、「人間」たちが右往左往喜怒哀楽している。
 歴史の渦の中で、出来事ひとつひとつが「金」という世界観で洗われていく。「んなわけあるかい!」な展開も、世界観が正しく機能しているから、どんなにナンセンスでも「アリでしょう!」と思わせる。

 やりすぎなおかしな人たちの間で、主人公の又七ひとりがわたしたちと同じ価値観を持っている。彼のみを「まとも」だと思うのは、観客であるわたしたちの目線に合わせてあるから。
 視点となる主人公になっておかしな……「けったいな人々」に翻弄され、それでもいつしかその「けったいな人々」を愛し、また、不器用な生き方しかできない又七を愛していく。
 又七はわたしたちの視点でありながら、わたしたちが持たない強さ、人としての正しさを持つ。だからこそ、彼の存在は心地いい。彼を視点としてこの世界にいるのは心地いいんだ。

 ファンタジーとして、たのしんだ。
 や、たのしかったよ、ほんと。

 『維新回天・竜馬伝!』と陸続きというか、石田せんせ、作風確立したな、という感じ。
 下手にシリアス歴史物として大上段に構えず、「ファンタジー」であること、史実に足を取られ過ぎず「別の世界」を構築することにこだわった作品。

 ファンタジーの鉄則として、主人公と同じくらい、「世界描写」が大切なんだよね。
 わたしたちが生きている現実社会とは別の世界なわけだから、そこをしっかり教えておいてもらわないと、ついていけなくなるからね。
 んじゃどーやって解説するかとゆーと、1列に並んで順番に説明台詞を長々言うだけが解説方法ではなく、「いろんなサブキャラを出す」ことで、彼らの言動全部ひっくるめて「世界描写」。
 石田芝居はもともとサブキャラ多すぎで下級生までなんかしら役があって画面のあちこちでごそごそやっているもんだけど、バウで小品なんでその手法もいい感じに機能、「銭が命」「銭次第」と体現する彼らのエピソードが混在することによって、「世界」を解説する。
 主人公・又七の話だけなら、シンプルであっちゅー間に終わるんだけどね。サブタイトルにもなっている「けったいな人々」を描くのに時間を割いてあるからさー。
 「けったいな人々」を描いてあるからこそ、又七のキャラクタが浮かび上がってくるし。

 コメディだから、素直に笑って観ていたんだけど、意外なほど泣けたんですが。

 笑いと涙なら、わたし的には涙の方が多かった。

 「異世界ファンタジー」であり、その世界観の中で人々の人生に共感してしまったら、そりゃ泣けるって。

 「戦う」とか、「強く生きる」とか、「命ぎりぎり愛」とか「命がけの友情」とか、そーゆーのはなにも、戦争とかSFとかことさらにドラマティックな時代背景や道具立ては必要ないのよ。
 イタリアンレストランが舞台でも「学校」と戦う女弁護士でもなんでもいいの(今期ドラマで出来がいいものを例に挙げてみた)。「世界」がきちんと描かれていて、そこで「生きている人間たち」がきちんと描かれていれば、歴史巨編に遜色ない「人間ドラマ」を描くことができる。
 「金がすべて」という価値観に貫かれた舞台で、その金の力ですべてを回していく「人間」たちの物語。
 道具立てがちがっても、やはり「人間」の物語だから。
 それは哀しく愛しく、ある意味滑稽で、そして感動的だ。

 ド真面目公務員・又七のコツコツとした人生を、「金さえあればなんでも出来る」大金持ちお嬢様・お勢がひっくり返すのがおもしろい。
 徳川の家臣であり、その禄を受けてきた鳥居家の存在意義や誇りや歴史も、金持ちお嬢様にかかっちゃーひとことだ。鳥居家が得てきた30年分の俸禄なんぞ、お嬢様の一声で全額返金できるってか。
 金で買えること、そして、金でもどうしようもないこと、このパワーバランス絶妙に、綱引きしながら物語が転がっていく痛快さ。
 金文化を否定する又七も、金文化の申し子お勢も、どちらもかわいいし、愛しい。

 たのしいファンタジーだ。
 素直に、しあわせなキモチになれる。

 
 ……という感想を先に書いていたんだが、腐女子話が先になってしまったのは何故なんだ。


 『大坂侍』で、いちばん泣けたのは、じつはお勢ちゃんだ。
 この子の潔いバカっぷりに、泣けた。

 大和屋のいとはん、お勢@ねねちゃんはそりゃーもー、バカでわがままで猪突猛進、目的のためには手段を選ばない狡猾さと、子どもまんまの純粋な心を持っている。
 やってることはめちゃくちゃで、はた迷惑この上ない。
 「金がすべて」という世界観のファンタジーで、ほんとーに「金」というものがなんなのかを理解した、「金」の力の申し子。

 彼女の、いつも全力疾走、つまずいて顔面から地面に激突するよーな生き方が好きだ(笑)。

 かわいい。
 ほんとにもお、かわいくてかわいくて、どーしようかと。

 バカだけど一生懸命、まちがっているけど一途。
 すごい勢いで転んでは、吠えながら立ち上がる。転ぶときも立ち上がるときも、はた迷惑。

 男子向けマンガなんかによく出てくるタイプのヒロイン。男にだけ都合がいい、男のことを一方的に好きで追いかけ回してくる女の子。
 わたしはこのテの男の妄想具現キャラが苦手なんだが、ソレはキャラ以前に「世界観」が問題なんだと思う。
 客観的に見て、その女のやってること「犯罪」じゃん。ただの自分本位、「好き」と言っている相手の迷惑も考えず、自分が気持ちいいことだけを追求している無神経女。
 やっていることが「犯罪」でも、「世界観」がまちがっていなければいいんだ。わたしが最高に苦手なのは、やっていることは「犯罪」なのに、ソレを「正しい」とする世界。
 男を待ち伏せして、嫌がっているのに拒絶しているのに勝手に家の中に入ってきて、家族に挨拶したり恋人ぶってみたりするとか。男マンガで5万回見た展開だけど、この女の行動を「正しい」とする世界観がダメなの。女の行動自体じゃない。
 「犯罪者」「おかーさん、警察呼んで!」と色めき立つよーな「まとも」な世界なら、なんの問題もない。
 ただその女が「カオがかわいい」というだけの理由で、すべての犯罪行為が許される世界観が、逆ツボなの。
 「美人な女の子に強引に追いかけ回されたい」「なんの苦労もなく、美人とえっちしたい」という、男の妄想が主体でできあがった世界観こそが、問題。
 もちろん、男子向けマンガなんだから、「男だけが気持ち良ければヨシ」という意識で作られていても仕方ないと思っているけれど。

 一方的に男に惚れて追いかけ回す、はた迷惑女がヒロインでもいい。
 彼女を「世界」がどう思っているか、が重要だ。

 彼女を「まちがっている」と認めている世界ならいいんだ。
 ヒロインだから、カオがかわいいから、というだけで許されているのではなく、なにかちゃんとした理由があり、一般常識や倫理、法律から逸脱していることがわかるならば。

 『大坂侍』は「金がすべて」という意識で貫かれたファンタジー作品だ。だから金の力でなんでも手に入れようとするお勢は正しい。
 だが、彼女のキャラクタのかわいらしさは、そこにあるのではない。
 この「金がすべて」という、わたしたちの知る世界とは別の世界「大坂」においても、やはり「大切なモノ」は変わらないわけで。そこだけは変わってはいけない最低ラインはあるわけで。
 ソレが「金で買えないモノ」だ。
 愛とか命とか信頼とか絆とか。
 目に見えない、大切なモノ。
 お勢というキャラクタは、その最低ラインからも、ズレている。
 そしてそのことを、作中でちゃんと指摘されている。

 たしかに「金がすべて」。愛も命も金で買える。
 でもさ、ソレだけじゃないんだよ。
 口ではなんとでも言うけれど、暗黙の了解、言葉にしない、するまでもない最低ラインはあるものさ。
 お勢はついうっかり、ソレすらぶっちぎってしまうわけだから。
 玄軒先生@まやさんに、諭される。

 ただ笑わせるためだけなら、人格なんて関係なく、桁外れな突拍子もない行動だけ取らせておけばいい。
 だけど、そうじゃない。
 「大坂」というこの異世界は、「笑わせるため」だけになんでもありな世界じゃない。
 「人間」が生きて生活する場所なんだ。
 人の心なんてものは、ルールが土地柄ごとに変わっているからといって、根本から変質するものじゃないんだよ。

 さんざんお勢の突拍子もない行動で笑わせておきながら、ちゃんと修正は入る。
 まちがってるよ、と。

 相手の気持ちも考えず、自分の気持ちだけを押しつけていたバカ娘。
 しゅんと肩を落とし、自分が「まちがっている」ことを「自覚」するだけの誠意も素直さもある女の子。
 過ちを知り、認め、反省し……そのうえでまだ、バカを通すしかない、バカ娘。

 まちがっている。
 こんなの、まちがっている。
 でも、これしかできない。
 これが「わたし」だから。

 自殺騒ぎ起こして大騒ぎしているお勢の、レーゾンデートルを懸けたバカっぷりに、大泣きした。

 自分のゆがみを自覚する知能があるくせに。
 ただのサルなら、まだ救われたのに。
 まちがっていることも、みっともないこともわかったうえで、それでもバカを通す。
 「自殺する!」と言って彼女が懸けたのは、生命じゃない。
 彼女の「存在」だ。魂だ。人格だ。
 これ以上は後ろに下がれない。下がったら、落ちてしまう。崩れてしまう。そんなぎりぎりで、虚勢を張るバカ娘。

 世界を敵に回しても、アナタを愛している。

 両手を広げて、バカ娘はそう宣言しているんだ。
 自分の行動が、性格が、世界に対し「まちがっている」と自覚したあとだから。
 愛と世界と、天秤にかけて、彼女が選んだのは愛だった。

 いやほんと、はた迷惑だけど。

 たかが「大坂」、たかが町民たちの愛憎劇。だけどこんなミクロな舞台でも、マクロな愛は表現できる。
 振袖の袂に石を入れて、蝶のように両手を広げるお勢は、名だたる大作ヒロインたちに遜色ない「世紀の恋愛モノ」のクライマックスに立つヒロインっぷりだ。

 かわいいなあ、お勢ちゃん。
 あまりにバカで、おバカ過ぎて愛しい。

 お勢がかわいいことと、異世界ファンタジーであること、又七@きりやんがかっこいいことは、すべてひとつにつながっているよ。
 なにかひとつ欠けても成り立たない。

 それってほんとに、しあわせな物語だ。
 公演として、役者として、役者やカンパニーのファンとして。

 バウはチケ難だったのでリピートするという選択肢はなかったけれど、リピートできたらしあわせだったろうなあ。
 

 なんか、『大坂侍』のことを語りつつも、主演のきりやんのことをあまり書いていないよーな気もするが。
 又七@きりやん、すげーかっこいい。
 なんてことは、もう大前提ですから。

 正直ね、最初はべつにどーってことないの。
 客席から登場して、美女ふたりにやいのやいのと取り合いをされるよーな色男には見えない。
 きりやんならではのひょうひょうとした、とぼけた感じがあるだけに、又七はそんなわかりやすい「外見」の色男じゃない。
 それが。

 物語が進むにつれ、どんどん色男に見えてくるのよ!!

 ビジュアルが命のタカラヅカにおいて、きりやんはいわゆる「ビジュアル」に特化した魅力の持ち主ではない。
 や、もともときりやんが美形であることはわかっているけど。ガイジンさんみたいな目鼻立ちの、おそろしく整った顔立ちのヒトだとわかってますけれど、ヅカの舞台上限定ではほら、カオカタチより別の要素が重要視されるわけだから。

 小柄だということが大きなハンデになる世界において、それでもそのマイナス部分を覆す力を持つヒト。
 最初に「なんてかっこいい人!」と「外見」のみで目を引くことはあまりなくても、実力で観客を納得させることができる人。骨太で誠実な芸風が光を放つ。

 又七はたしかに、きりやんアテ書きだろうなと思う。
 このキャラクタのおもしろさや魅力は、きりやんだからこそのもの。
 見ているうちにどんどん、惹かれていく。一目惚れではなく、その人柄や生き方に恋をする。
 内面からの輝きで、ものごっつー男前に見えますってばよ。

 そしてしみじみ、霧矢大夢という舞台人に対する安心感だとか信頼感を噛みしめるのよ。
 実際に観る前から、きりやんの舞台ならばきっとおもしろいはず、と素直に思える。演出家が誰であれ、題材がなんであれ、「きりやんなら、観る価値がある」と思わせるもの。……や、わたし個人の感覚ですが。
 作品の好き嫌いはあるし(『オクラホマ!』なんか、トラウマもんだ)、ハマるかどうかはまた別の話になるが、きりやんがきりやんである限り、わたしは「観劇理由」のひとつに彼の名前を挙げられるわ。

 ただわたしは「大坂侍」という「きりやんならではの役」よりも、「黒いきりやん」の方が好みなので、又七の素敵さに盛大に拍手しつつも鬼畜なきりやんが見たいなあとか思ってました……。
 いちばんときめいたのは、アルジャノン@『Ernest in Love』だもんよ……。軽妙さと黒さと高い技術力が生んだ超二枚目!がアルジだよなっ。
 きりやんに限らず、アルジに限らず、わたしは毒のある役が好きなので、そっちに反応しちゃうんだよなー。
 そして、きりやん自身は太陽系の健康的な持ち味の人だけれど、その実力ゆえに正反対のモノも演じられるんだよな。持ち味勝負のタカラヅカで、そしてその持ち味っつーのが素の善良さまんまの健康さだけになりがちなタカラヅカで、実力ゆえに「毒」を演じられる人は貴重だってば。
 わたしがきりやんに対して全面の信頼を感じているのは、彼が「毒」を演じられる人だということに対してかもしれない。ソレがあればオールオッケー!みたいな(笑)。

 
 「毒」キャラといえば、この『大坂侍』では、極楽の政@まさき。
 キラキラのアイドル・ポジションのくせに、確実に「毒」がある。自分がかわいいことを理解した上でそれを武器にしている、小型愛玩犬。むきーっ、こいつムカつくわー!(誉め言葉)
 まさきの「毒」は技術で得たモノでも表現しているモノでもなく、ただの「持って生まれた持ち味」なのできりやんのソレとはまったく別物ね。

 悪人と偽善者なら、後者の方がタチ悪いと思うんだよなー。
 たとえば、弱い人を私利私欲のため平気で殺すのが悪人、それをなにもせずに傍観した上で安全なところで悪人を批判するのが偽善者。
 政って、この「偽善者」系だよね? でも法律に触れることはなにもしていないから、「悪人」ではないの。なんてステキ。
 「悪人」は警察に捕まったり受刑したりするけれど、「偽善者」はなんのお咎めもナシ、平和にしあわせに暮らし続けられる。なんてステキ。

 つーことで、「悪人」カテゴリ天野玄蕃@マギーは、「毒」度では政に及んでいない、と思うのです。(や、べつに及ぶ必要まったくナイけどな・笑)

 異世界ファンタジー『大坂侍』において、唯一の「悪」、天野玄蕃。
 いやはや。

 マギー、かーーっこいー!

 最初の着流し姿から、どえらいかっこええです。なんかすげービジュアル系じゃん?
 お笑いに走る「けったいな人々」のなか、ただひとりのシリアス悪人は、すげーオイシイっす。
 官軍入りしてからの赤いカツラの似合いっぷりもすごい。負けてない、負けてないよ、あの派手な色とカタチに!(笑)

 うまくすれば腐女子的にもすごーくオイシイ役のハズなのに、ちっとも萌えがなかったのは残念無念。
 マギーってあんなにいい男なのに、何故にああも色気がないのだ? 強すぎるのかな。全盛期のラオウ@『北斗の拳』とか、そんな感じ。ラオウは挫折してからがさらにいい男になったわけだから、マギーもこれからかなぁ。
 いちどぽっきり折れてしまったよーなマギーが見てみたい……泣きの演技をしてなお戦闘意欲満々だもんな彼。そこが魅力なんだが、ソレだけだと引き出しが増えないから、ここは是非引きの演技にも開眼してほしー。

 
 もりえくんの潔いヘタレ坊っちゃまぶりと、フィナーレの男役群舞の二枚目ぶりのギャップにクラクラした。
 なんだよヲイ、かっこいーじゃないかもりえ!! スタイルの良さが一段と映えてますよ。
 初心者には、あのホクロのアホぼんぼんと、群舞で又七さんの斜め後ろにいた男前が同一人物だなんてわからないんだろうなあ。惜しいなあ。

 
 さて、ひそかな萌えキャラだったのは、又七の同僚・山崎さん@アルフォンソくん。
 いつの間にか男役らしい佇まいになっていたんだねえ、良基くん。アルフォンソ@『血と砂』のころは、声から立ち居振る舞いからなにもかも「わ、勉強中の子なんだよな」「若いんだもん、仕方ないよな」って感じだったけれど。
 彼が地味にいい味出してくれていたので、素直に又七さんとの関係にときめきました。
 山崎さんてば、すげー地味〜〜に又七のこと愛してるよねえ? あの展開ぢゃさ、又七のこと、一生忘れられないよな。
 又七がお勢と結婚して大坂に戻ってくることを知らず、行き違いで江戸務めとかになっていたら、すげー萌えだなあ。で、なにも知らず彰義隊の最期とか聞いて、勝手に胸を痛めていたりな……ふふふ。

 
 とまあ、いい男ウォッチングとしてもたのしい『大坂侍』。
 マギーの手下やってるエリヲくんも、相変わらずステキですわ。目立つよなー、彼。
 あと、美貌という点では海桐望くんが目を引きますわ。壮くん系だよねえ? たのしみだわ〜〜。

 
 ところで又七の父@マチヲ先輩は、アレでいいんですか……?
 石田せんせ、すげーブラックジョーク的な意味でマッチ先輩を使っている?
 又七父の異世界感、ズレてる感、周り見えていない感が、ブラックなアテ書きに見えて笑うに笑えないというか、心冷えてうろたえたというか。


 好きにもいろいろあって。
 同じように好きな人なんて、ひとりもいない。

 春野寿美礼に対する「好き」は、いったいなんなんだろう。

 好きなジェンヌを、自分の中でジャンル分けしたことがある。
 たとえば、ダーリン系で好きなのは、水くんだ。彼のことは、ドキドキする恋愛対象として好き。男性としてときめく相手。
 1ファンとして、「かっこいい!」ときゃあきゃあ無邪気に言えるし、生真面目ぶりだとかをつついて遊べるくらいの親近感もある。本人の人柄なんか知るよしもないが、「きっといい人」だと思いこみ、その人間性まで勝手に好意を持っている。
 技術的にも、安心している。や、歌がアレなことはわかっているが、それを含めて「男役」として高水準の仕事をする人だという信頼感がある。体温の感じられる舞台が好き。

 ゆうひくんも、ダーリン系。水くんが「文武両道の生徒会長にときめくキモチ」ならば、ゆーひくんは「どこか寂しげな不良少年にときめくキモチ」だ。彼の「どこか欠けた」ところが、ハートをきゅんきゅん(笑)させる。
 成長してえらくきらきら輝く人になってしまったけれど、彼の持つ「月」の魅力(反対語=太陽)が胸をざわめかせる。
 ヲトメハート全開で恋をしていたい人。

 職人系で好きなのは、トウコちゃん。彼女の「プロ」としての生き方自体に感動し、その高い技術とパッションに、これまた一方的にあこがれている。この人の創るものを見たい、見届けたい、と渇望する。
 ただ、ダーリンとしてはときめかない。わたしは男役を「彼」という三人称で書くが、役名で呼ぶときはともかくとして、トウコちゃん本人には「彼女」の方がしっくりくる。女性として好きなんだと思う。

 ネタ系で好きだったのは、まっつ、だった。
 いじってあそんでいたはずだったのに……どっからこんなことに。
 ネタ系のベクトルが上がりきると、ダーリン系に近くなるのがわたしの萌え構造式らしい。(おかげで、最近は壮くんがヤヴァイかも・笑)
 いちばんのご贔屓はまっつであり、いちばん好きなのも、ときめく……というか、見ていてしあわせになれるのもまっつだ。
 まっつはただ、眺めているだけでうれしくて、幸福感に浸れる。

 じゃあ、春野寿美礼はなんなんだろう。

 いちばんのご贔屓、だったことは一度もないのに、「このひとがいなくなったら、あたしはどうしたらいいんだろう」と、途方に暮れる、この喪失感はなんなんだろう。

 ダーリンとするには距離を置いているし、職人にしてはときめき過ぎている。ネタとして愛でてもいるが、それにはあまりにも尊敬しすぎている。

 恋というより尊敬、尊敬というにはエロスを含みすぎた想い。
 「タカラヅカ」でしかありえなかった、この想い。

 わたしは、「タカラヅカ」の力を信じている。
 フィクションの力、世界平和にも地球の未来にもなにも役に立たない、「娯楽」でしかないものの力を信じている。
 女が男を演じ、わざわざ台詞を歌にしたりダンスにしたりする、効率の悪い、「なんでそんな不自然で無駄なことをする必要あるの? バッカみたい」と言われるこの文化を、愛している。

 ひとのこころを動かすことの出来る、「所詮作り物」の力を信じている。

 フィクション。嘘。ありえないもの。異世界。
 生物活動には空気と水と食料があればそれですむことだけど、社会生活には服と食べ物を得る仕事と住む家さえあればそれですむことだけど。
 生物として在ることにも、人間として社会で生きることにも、不必要だけれど。

 わたしには、「フィクション」が必要だ。

 「こころ」をふるわせるものが必要だ。

 わたしには、「タカラヅカ」が必要だ。

 そして。

 春野寿美礼は、タカラヅカそのものかもしれない。

 わたしにとっての、「異世界」。
 わたしのカリスマ。
 わたしの王。

 わたしを、「ここ」ではない別の世界へ連れて行くことのできる人。

 オギー作品のような位置づけかもしれない。
 オサちゃん自身はオギー役者ではないけれど、それとは別の意味で超越した人。

 「世界」を構築する力。

 わたしがわたしとして生きるために、必要なモノを、創り出すひと。

 だからこんなに、途方に暮れる。

 春野寿美礼を失ったら、わたしはどうすればいいんだろう?

 ただ、途方に暮れる。
 どうすればいいのか、わからない。

 
 ……そして、この事実のうえで、まっつの去就についてもいろいろ思いをめぐらせ、さらにうちひしがれる。
 こわいよ。

 
 世界が、真っ暗だ。
 こわいよ。


 寿美礼サマのことで心はざわめいたままだし、ついでにまっつのことを考えても落ち着かない。
 集合日まで、生殺しのままか……。
 あああ、まっつ……まっつ……まっつ……。

 と、うだうだ言っても見苦しいだけなので、別の話。
 罪なく意味なく、妄想配役。

 どりーずで『コンフィダント・絆』の妄想配役して遊んでいたんですよ。

 わたしのベスト配役は、

 ゴッホ@オサ様
 ゴーギャン@まとぶ
 シュフネッケル@壮
 スーラ@まっつ


 なんですよ! もー、絶対ガチ! これ以外ないっ!!
 天才オサ様が見たいよ〜〜! そんなオサ様を愛しながら憎む(憎みながら愛する)まとぶが見たいよ〜〜!! まっつの白衣プレイが見たいよ〜〜! でもって、壮くんの空気読めないっぷりがめちゃくちゃ見たいよ〜〜っ!!

 ほら、自分のご贔屓、自分の贔屓組で考えちゃうじゃん?
 上から順に当てはめただけでも、花組ハマり過ぎ。(みわさんがいないことに他意はありません。持ち味的に彼はスーラではないし)
 nanaタンが「雪組で上から順に配役したら、ゆみこがゴーギャンになる、ゆみこはゴーギャンキャラじゃない」と言っているのを見て、いやそもそも水くんは絶対ゴッホキャラぢゃないから! と、ツッコミつつ。

 この4人の男たちは、あまりにもキャラが立っている。
 ヅカの男役たちをあてはめるとしたら、誰が誰キャラだろう?
 と、考えたんだ。

 役者なら、役に合わせて演じてナンボだが、ヅカはチガウから! まず持ち味ですから!
 

 天才ゴッホ。
 絵の天才であっても、人生では落伍者。ふつーに生活する、という、誰でもあたりまえに出来ることが出来ない、社会生活不適応者。
 性格は、ウザイのひとこと。
 ナイーヴ過ぎてベッタベタにウェット過ぎて、重いわジメッてるわ、幼児入ってるわで、ろんなもんぢゃない。
 でも、天才。
 その異次元へイッちゃってる才能と、現実のギャップに生涯苦しみ続ける人。

 現在ヅカでこのゴッホがもっとも自然に演じられる人は、春野寿美礼だと思う。
 今のオサ様なら、まんまハマる。
 暴走する才能。奔放な天才。
 相当ウザい性格のゴッホを、それでも「にくめない」「かわいい男」として演じることが重要。

 オサ様とはまったくチガウ意味で、タニちゃんもアリかなと思う。
 彼もまた、技術とは別の部分の才能だけで、ここまで来た希有な能力の持ち主だから。

 
 色男ゴーギャン。
 生活力があり、器用で力強く、いつでも自分の意志で勝ち組の人生を掴み取れる能力のある、男性的な色男。
 すべてを持ち合わせている彼は、唯一絵の才能でだけゴッホに叶わない。だからこそ彼は、絵以外のすべてにおいてゴッホを凌駕しようとする。
 ほんとうに欲しい、ただひとつのものだけが、手に入らない。
 そのゆがみを抱えて、ゴッホを愛し、憎む。

 4人の中で、もっともヅカの男役スターらしい役が、このゴーギャンだ。
 トップスターとしての正しい持ち味がある人は、大抵このゴーギャンがハマると思う。

 まとぶ、水くん、らんとむは絶対ゴーギャン。
 ゆーひくんもココだと思う。抑えられた情念とか表現するのに適した持ち味の人だからだ。(exプルミタス@『血と砂』)
 みわっちも、入るとしたらココかなー。
 
 色男全開、フェロモンだだ漏れに愛し、憎み、苦悩してほしい(笑)。

 
 偽善者スーラ。
 知性と計算高さ、尊大な自尊心と臆病な羞恥心を持つ、孤独な男。善人ぶりつつ、人格者ぶりつつ、有事には他人を蹴落として自分だけ助かるタイプの男。
 そんな自分の「器」を、誰よりも痛く自覚し、闇として抱える男。ちなみに、仕事着は白衣(笑)。

 まっつ! まっつ! まっつで見たい!! クールビューティで、実は小物!! ゴッホを陥れるくせに、彼の絵を抱いて号泣する男。
 あとはすずみん希望。わくわく。

 
 哀しき凡人シュフネッケル。
 善良な常識人。ふつーに生活できる、ふつーの感覚を持った、ふつーの人。市井で生きるならソレで十分だったんだけれど、彼が共に過ごしていた3人の男たちはみな非凡な存在だった。
 無知の罪。そして、それゆえの功績。物語の核となる人物。

 壮くん。絶対に壮くんで見たいっ!!

 人間たちに飼われていた犬は、自分も人間だと信じていた。人間たちも犬を仲間として扱ってきた。だから犬はずっと気づかなかった。自分が犬だということに。
 ある日犬は、真実を突きつけられる。ふつーに乗り込もうとした車のドアが、目の前で閉められた。仲間たちは車に乗っていってしまう。どうして? ボクはまだ乗っていないのに!
「犬は乗れないんだ、さっさとどこかへ行け」

 自分を人間だと信じ、得意満面になっている犬@壮くん。真実を知り、慟哭する壮くん。
 見たい……見たいよ、そんな壮くん。
 ぐるぐる回っちゃうくらい見たいよー。

 ゆみこが入るのはココだと思う。でもって、しいちゃんもすっげーハマると思う。

 
 ゴッホは特殊な役だから置くとして、ゴーギャンが路線系真ん中の役、スーラは芝居巧者で路線でも脇でもいいけど知的美形がハマる人、シュフネッケルはマジに芝居が巧いか、あるいは持ち味が合う人が才能勝負する、って感じかな。

 でもって、トウコちゃんときりやんは、4つの役どれでもOKだと思う。
 このふたりは持ち味が天才系ではなく、もっと地に足のついた人たちだと思うけれど、役者としての「技術」とスターとしての「華」で、ゴッホを演じられると思う。
 ゴーギャンは路線系のかっこいい役だからそのままでOKだし、芝居巧者だからスーラ、シュフネッケルも余裕でOKっしょ。

 みっちゃんは、ゴッホ以外の役は全部OK。
 でもってハマコ先生は、スーラとシュフネッケルOKだと思う。

 OGでは、かしちゃんとさららんのスーラが見たかったりする……(笑)。

 でもって、水くんがゴーギャンキャラだということで、前雪組での妄想配役。

 ゴッホ@コム姫
 ゴーギャン@水くん
 シュフネッケル@壮くん
 スーラ@キム


 や、上から順番に……って、あれ? ここでもやはり、シュフネッケル@壮?!

 あああ、シュフネッケル@壮くんが見たい〜〜!! じたばた。

 
 ……罪のない、意味のない、妄想配役です。ミーハーしているだけなんで、深く突っ込まないでください……。


 はいはいはい、現実逃避の妄想配役は続きますよ。

 『アデュー・マルセイユ』って、どんな話になるんだろう……?

 漁師だの魚屋だの息子たちがギャングになって、ひとりの女の子を争う、友情と恋のアクション・コメディなんだよね?

 このふたりのギャングが、オサ様とまとぶだろう。で、ふたりに恋される女の子が彩音ちゃん。

 小池のオリジナル作品の場合、2番手は大抵悪役だ。それも、世界征服を企まなければならない。
 だがまとぶが親友役だとすると、オイシイ悪役は3番手の壮くんがやることになる……?

 壮くんが、世界征服?!

 
 ……す、すいません。
 ここですでに、盛大に、ツボりました。

 世界征服を企む壮くん!!
 ダークスーツをびしりと着こなし、世界は俺のモノ@壮くんのテーマソングを歌っちゃうの?!
 トンデモ機械登場、オサ様が改造されそーになったり、カプセルに入れられたり電気椅子でビリビリされちゃったりするの?!

 銀橋で大きな瞳をキラキラさせて、悪の帝王化する壮一帆に、抱腹絶倒!!

 ど、どうしよう。
 そんな壮くん、ステキ過ぎるっ!!

 ここで妄想は横滑り、『さらば港町』から「悪の帝王@壮一帆」しか考えられなくなる。

 今いちばん記憶に新しい、トンデモ世界征服野望キャラといえば。

 言わずとしれた、海馬の帝王@『MIND TRAVELLER』。

 ああもしも、もしも壮くんがリチャード・モリス教授を演じていたとしたら。

 白衣を着て、「君を海馬帝国のファーストレディに迎えよう」とか言っちゃう壮一帆。
 高いところで「♪海馬に乗った征服者」と歌い上げる壮一帆。
 金髪ロン毛で「ヒポキャンパス・エンパイア」で帝王として長ハチマキを揺らして踊る壮一帆。

 震撼。

 心が震え、血が沸き立ちます!!
 見てえ。
 見てえよ、そんな壮一帆!!

 
 いやその。
 海馬の帝王は、愛しのまっつだけに与えられたすばらしい称号だと思っていますし、「リチャードはまっつの役よ! 誰にも渡さないわ!!」とかも、イタいファンとしてふつーに本気で思ってますが(心配しなくても絶対再演とかあり得ないって)、つい……。

 寿美礼サマの退団と、まっつの去就についてこんなにこんなにヘコんだり不安になったりしているというのに、壮一帆は偉大だ、わたしを救いあげてくれる。

 『タランテラ!』で、底辺にのめり込むくらい絶望したときに、壮くんがあっけらかーんと救いあげてくれたように。

 小池オリジナルには不安こそあれ、期待はできやしないのだが。
 壮くんがいる、と思うと、なんだか光が射すような気がするよ。

 ありがとう、壮くん。


 年寄りなので、昔話をする。

 雪組の初演『エリザベート』で、忘れられないエピソードがある。

 1幕、教会での結婚式シーン。銀橋のトートと本舞台にいる結婚式出演者たち、そして舞台にいない人たちも陰コーラスとして参加している、歌の掛け合い。
 トートがまず歌い、それを継ぐように他出演者全員が歌う。

 トート@いっちゃんが、歌詞を間違えた。

 次の瞬間、組子全員が、その間違った歌詞で歌った。

 誰も、本来の歌詞で歌わず、全員がトートについて行った。

 彼らは、ひとつだった。

 これは、いっちゃんが自身がエッセイで書いていることだ。
 「間違えたことより、みんながついてきたことに興奮した」と。

 わたしはこのアクシデントを実際に見ていないと思うが(見ていても気づかないだろう、全員が同じ歌詞で歌ったなら!)、想像して興奮した。
 あの場面で。
 ハプスブルクの終焉を歌うあの神秘的かつ押し出しの強い場面で、あれほどの人数の声が重なっている状態で。
 全員が、なんの打ち合わせもなく、本来とチガウ歌詞を歌うことができるなんて。

 『エリザベート』は、そーゆー「奇跡」をあったりまえに孕んだ作品だったんだよなあ。

 
 わたしは一路真輝のファンではない。
 長く雪組のファンをしていたので、「わたしの組のトップさん」ということで愛着は強かったが、とくに好きだったことはない。

 それでも、彼女の退団記念エッセイ『真実』は購入した。
 96年5月、いっちゃんのタカラジェンヌ人生があと1ヶ月ほどで終わるころのことだ。

 や、たんに『エリザベート』フィーバーしてたんだよ。なんせわたし、小池修一郎作『小説版・エリザベート』まで買ってたからな!(笑) 「小説」と呼ぶには相当アレな、高いだけのあんな本まで!! 

 いっちゃんのエッセイは、衝撃的だった。
 わたしがそれまでに読んだことがあったのは、杜けあきと大浦みずきのエッセイのみだった。
 どちらも、明るく楽しくタカラヅカ生活が綴られていた。
 大浦氏は雑誌に連載されていたエッセイを単行本化したものだったから、1章ごとの書かれた間隔が空いていたのだと思う。最初はかなりアレだった文章が、どんどんうまくなっていくのだわ。おお、進化している! と、そんなことでも感動したな(笑)。

 それらに比べ、いっちゃんの『真実』はひたすら重く暗いものだった。

 ずっと隠していた身体/障/害の告白からはじまり、父親の事件のことまで書かれていた。
 父親の事件の具体的な内容については書かれていなかったけれど、事件があったことと、それによっていっちゃん自身がどんな目に遭ったかは書かれている。
 90年代、タカラヅカの暴露本が次々出版されていたので、いっちゃんの父親の事件のことは、自然と情報として耳に入った。
 いっちゃん自身の手で書かれた、幸福な幼少時代から綴られたエッセイだからこそ、あのしあわせそうな家族がズタズタに引き裂かれる様は読んでいてショックだった。

 「一路真輝」だからというより、「タカラヅカ」だからというより、「ひとつの青春小説」として、わたしのツボにハマったのだと思う。
 わたしはなにかっちゃー、この本を読み返していた。

 そのころのトップスターは、誰もが必ずエッセイを出さなければならなかった。
 雪組ファンだったわたしは、カリンチョさん、いっちゃん、タカネくん、トドロキと4世代のトップスター・エッセイを購入したもんだが、いちばんふつーだったのはカリさん、がっかりしたのはユキちゃん、衝撃的だったのはいっちゃん、そして最悪だったのはトドだ(笑)。
 タカネくんのエッセイにがっかりしたのは、本人の作品ではなかったことだ。『歌劇』の「えと文」でタカネくんはユニークな文才を披露していたので、すごーく期待していたの。「ユキちゃんのエッセイなら、絶対おもしろいはず!!」……なのに、ライターさんが書いたもので、タカネくん自身の文章ではなかったのだわ。ちゃんとライター名が書いてあった。
 まあ、タカネくんの例があったために、「ヅカのエッセイってほんとに本人が書くんだ!」と反対におどろいたよ。芸能人本はゴーストライターが基本、とか、世の中的に言われてるじゃん?!
 まあ、「えと文」みたいな、素人丸出し、絵文字だらけのすごい文章を載せてしまうカンパニーだから、エッセイがほんとーに本人執筆でもおかしくないっちゃーないんだが。
 トドのエッセイは、ちがった意味で最悪だった。どう最悪だったかを書くと話が長くなるので割愛するが、トップスター・エッセイ企画がなくなったのは、この最悪な作品が原因ではないかと思うくらい、記念的なものすごさだった。
 所詮わたしはトドファンなので、盛大に肩を落とし、「トド、さいてー」とつぶやきつつも、その落とした肩がふるふる笑いに震えたけどな(笑)。

 どう考えても、いっちゃんの『真実』だけは色が違っている。

 わたしは疑り深いので、エッセイだろうと伝記やノンフィクションだろーと、「心にあるまま正直に書いた」「出来事を正しく書いた」などと謳われていても、そのまんま信じられない。
 「心」を持った人間が「文章」という技術を利用して具現化する以上、絶対になんらかの「作為」「装飾」「歪曲」がある。
 自動筆記マシンじゃないんだから、「真実」そのまま、なんてことあるはずがない。

 てな認識だから、いっちゃんの書いた『真実』という本の内容が、どれだけ「真実」かについては、どーでもいいんだ。
 そんなことより、そこに「書かれていること」を受け止め、愉しむ。

 一路真輝の『真実』は、「青春小説」として、ふつーにおもしろかった。

 「宝塚歌劇団」という、わたしのよく知っているジャンルを舞台とした、ひとりの女の子の「自分」との戦いの記録。
 彼女が抱えた「闇」は、特別でもなんでもない、誰もが持つ普遍的なモノであると思うからだ。

 傷つくことがこわくて、優等生を演じてきた。
 嫌われることがこわくて、自分を押し殺してきた。

 身体の障/害や家族の事件などはたしかに特別な不幸で、それゆえに心を殺してしまうのはストーリー的にアリだと思うが、そーゆー特別なことがなくったって、人間は多かれ少なかれ似たような痛みを抱えている。

 幼いがゆえに闇や痛みを抱え、頑なに殻をまとって自分自身を守ってきた少女が、スターへの階段を上りつつ、さまざまな出来事を通し、人間的に成長していく。
 そしてついに、心を開き、闇の部分を解放するに至る。

 や、完璧な青春小説だよ。TVドラマ化OK!的な、見事な起承転結ぶり。
 その「物語」のクライマックスが、冒頭に書いた『エリザベート』の場面だ。

 長い間心を閉ざすことで自分を守ってきたヒロイン。舞台に立つことで、少しずつ心を開き、仲間たちに「自分」を見せられるようになってきていた。
 その仲間たちとの最後の公演で、彼女は歌詞を間違えた。致命的な失敗。彼女に続けて出演者全員が掛け合いで歌わなければならないのに、間違えるなんて!! 混乱した出演者たちの歌声が乱れたら、バラバラになったら、舞台はどうなる?!
 だが仲間たち75人全員は、一糸乱れず彼女と同じ歌詞で歌った。
 迷わず、彼女について行った。

 ひとりじゃない。
 ひとりじゃないんだ。
 心を開き、弱さや汚さを見せたって、本当の仲間なら赦してくれる。

 少女・一路真輝のナイーヴさ、いじらしさ。
 栄光への道と、内側に抱え込んだ闇。
 そして、それらからの解放。

 魂がカタルシスへ到達する物語。

 文章が巧いわけでもないし、あちこち引っかかるところも相当あるんだが、それも含めて、ある意味お約束通り、ベッタベタな「青春小説」として、わたしはこの本を愛しく思っている。

 
 や、その。
 予定以上に、現在の再演版雪組『エリザベート』に散財してしまったもんで。
 どれほどわたしにとって『エリザベート』が特別かとゆー意味で、『エリザベート』絡みの昔話でした。

 2007/06/20追記。
 あまりに毎日「一路真輝 身体/障/害」で検索が来るので、スラッシュを入れてみる。キャッシュが反映されるのはいつになるやら。
 カラダのこともパパのことも、詳細を書く気はありませんのでここには来ないでくださいよぅ。てゆーか当時からのヅカファンならみんな知ってることだよぅ。
 

「『運動会』をタイトルに作文を書きましょう」
「やだやだやだ。書きたくない」
「書かないと2学期の成績表がつけられなくなりますよ」
「やだやだやだ。作文きらい」
「嫌いでも書くのです。みんなだって書いているでしょう?」
「やだやだやだ」

 さんざん逃げ回って末に、提出された作文は。

「『運動会』 四年三組 とどろきゆう
 朝起きました。
 お母さんが「おはよう」と言いました。
 ぼくも「おはようございます」と言いました。
 家族で朝ごはんを食べました。
 手を合わせて「いただきます」と言いました。
(中略)
 学校へ向かって歩いていると、みのるくんに会いました。
 みのるくんは、「おはよう」と言いました。
 ぼくも「おはよう」と言いました。
 それから、まことくんに会いました。
 まことくんは「おはよう」と言いました。
 ぼくも「おはよう」と言いました。
 まことくんは「今日の運動会、たのしみだなあ」と言いました。
 ぼくも「たのしみだね」と言いました。
(中略)
 こうして、運動会がはじまりました。
 たのしかったです。」

 てな具合の「その日の出来事箇条書き」で、しかもどーでもいいことだけをさも「書くことないんだよ」と書いてマス目を埋めて、結局運動会の感想は「たのしかったです。」だけ。

 ……はい、トド様の「最初で最後のエッセイ」(本人談)は、こーゆー感じの本でした。

 前日欄でちょろっとトドロキのエッセイの話をしたので、どう最悪だったのかを書いておこうかと(笑)。

 当時のトップスターはすべからく、自筆エッセイを出さなければならなかった。
 これは「トップスターとしての義務」だった。……たぶん。
 それ以前、3番手のころトドは、同期のマミ・ノル・タモと一緒に『すみれ四重奏』というエッセイを書く予定だったが、「書きたくない」と言ってひとりだけ逃げ切り、『すみれ三重奏』というタイトルで出版された。
 これはどっかでトド本人が語っていたぞ。「同期(マミ・ノル・タモ)から恨まれた(笑)」と。

 3番手のころは「嫌だ」で済んだけれど、トップになればそうはいかない。
 「トップの義務」で仕方なくトドは筆を執った。

 轟悠の唯一のエッセイ。タイトルは、とってもやる気なく『My Stage』

 わたしはトドファンだったので、発売日にわくわく買いに行きましたよ。
 そして、アゴを落とす。

 まず本文1ページ目にデカい活字でひとこと。

 わたしは

 作家では
 ありません。

 1ページ、コレだけ。
 究極の、開き直り。

「オレは作家ぢゃねーんだよ、こんなもん書けるわけねーだろ、仕事だから仕方なく、嫌々やってんだよ。うまくなんか書けるわけねーんだから、内容がどれだけアレでも文句言うなよ?」

 ジェンヌ自筆のエッセイに、「巧さ」なんか誰も期待してないって。
 ファンが買うものであり、スター本人の人となりや過去のエピソード、舞台裏がのぞければソレでいいんだってば。
 つたない文章でも、どんな子どもだったとかどんなふうにタカラヅカに出会って、どんなふうにがんばって受験して、音楽学校時代はこんなことがあって、入団してからはこんなことがあって……と、本人の「想い」が伝わればソレだけでいいんだって。
 他の人のエッセイはそうだったってば。

 なのにトドエッセイは、それすらなかった。

 初舞台からの仕事を、箇条書き
 それも、資料としてもらった写真を見ながら、思い出したことを書いてあるだけ。
 ひどいときは、「新人公演*月*日」と、ほんとに日付だけ書いてある。
 「この写真の私は、**さんとなにを話しているんでしょうね」って、おぼえてもいないのに、ただ写真見て書いてるだけかよ?!……とかな。
 「このお衣装は好きでしたね」「**役は**さん、**役は**さんでした」「この公演は大変だったことをおぼえています」って、終始この調子。

 エッセイぢゃ、ない……。
 こんなの、エッセイぢゃないよーっ!

 備忘録以下。
 目的は、「原稿用紙を埋めること」。マス目を無駄に稼いで、「とにかく、終わらせたい」という本音プンプン。
 全編通して、「書きたくて書いてんぢゃねーよ! 嫌なんだよ!」という、トドの叫びが伝わってくる……。

 あまりのことに、口は開いたまんまふさがらないわ、目は点だわ……。
 『歌劇』の「えと文」を、格言を書き写すだけで3ヶ月埋めたという伝説の持ち主は、やることがチガウわ……。

 本当に、モノを書くのが嫌いなんだな。

 わたしはこの通りモノを書くのがダイスキなので、さらに唖然としましたわ。
 文章書くのなんか、どーってことないじゃん。踊ったり演技したりより、ぜんぜん簡単で、誰にだってできることだろうに。

 最低最悪、こんなもんを世に出すくらいなら、本人のためにもファンのためにも、出版しなければよかったのに。と、心から思いました。

 でも、だんだん慣れてきたのか、記憶に新しくなるからか、後半になると「舞台の思い出」らしい記述も増えていくので、ほっとする。

 あっ、そーいや新人公演の『ベルサイユのばら』の記述のころはまだただの「箇条書き」で、なんの思い出も書かれていなかったのだけど。
 あのころいろんなインタビューでたかこが、「ファーストキスの相手はトドロキさん♪」と宣伝して回っていたのに、トドはオスカル@たかこにキスをしたことなんか、完全スルーしていたことに、ウケたっけ。
 たかちゃんがあんなにうれしそーに、トドとの新公『ベルばら』の話をしているのに、トドにとってソレは黒歴史、記憶から抹殺したいような出来事なんだ……(笑)。
 後年トドも大人になったのか、いろんなところで「ファーストキスの相手はたかこ」と言うようになっていたけれど。
 
 『ベルばら』みたいな大きな作品での初新公主演すら、出演者の名前を数名挙げただけの箇条書きレベルで済ませていた、実にやる気のない文章。
 
 ほんとにひどい本だと思いつつ。
 それでも、ファンにとっては愛すべき1冊であることも、たしかだ。

 ここまで書くのを嫌がりながら、それでも気力を振り絞って書いた1冊。
 この投げやりな文章が、やけっぱちな態度が、彼の性格を物語っていて、それこそが愛しい。

 くそお、ファンってやつは、どーしよーもねぇな。

 この最低最悪なエッセイの最後のページには、

 やっぱり
 わたしは
 作家では
 ありませんでした。

       あしからず。

 と、まるまる1ページ使ってデカい活字で書き捨ててある。

「だからオレは作家ぢゃねーんだよ、嫌々やってんだよ、わかって読んだんだから文句言うなよ?」

 って、書き逃げかよっ?!(笑)

 帯のあおり文「舞台人・轟悠が溢れる思いの丈を綴った、ファーストエッセイ集。」が、ひたすら哀しい……(笑)。

 
 あの人は、やさしい人です。
 頼りがいがあって、思慮深くて。行動力にも富み、勇敢です。
 私が国を出る覚悟を決めたのも、あの人がいたからこそです。

 再会したときは、うれしかった。
 運命だと思いました。
 祖国をあとにし、困難な闘いに身を投じようとしていた。そんなときに、あの人と再会したのです。
 あの人はいつも、道を指し示してくれます。
 私が暗闇の中で膝をついてしまったとき、あの人が導いてくれるのです。

 あの人は、光です。

 強く、美しく、清廉で……だが……これは仲間たちにも言っていませんが、私はあの人に背徳の艶を感じます。
 いいえ! あの人が私になにか仕掛けたとか、そういうことではありません。あの人は、私に触れようとはしなかった。
 あの人からは、誘惑されているような、抗いがたい力を感じていました。その力に屈した私が一歩を踏み出すと、あの人はなにもかもわかっているかのように、するりとすり抜けていくのです。

 そして私はさらに、あの人を追ってしまう。

 祖国の独立、現政権の打倒、なによりも諸悪の根元ともいえるあの美貌の皇后の呪縛から解き放たれること。
 それらは私の悲願であったはずなのに、ときに混乱する。わからなくなる。
 本当にこれは、私の意志なのか?

 のばした私の手に添えられた、青白い手。
 その手が指し示したものを、私は必死に得ようとしているだけではないのか?

 あの人はたしかに男性ですが、ときどき迷います。
 女性だと思うわけではありません。
 男だとか女だとか、そういう有り体の枠を超えた、言葉では表せないなにかを感じるのです。

 あの人は、人間ではなかったのかもしれません。
 いつの頃からか、あの人は私たちの前から姿を消しました。
 だけど、いつもあの人の意志を感じました。街角であの人の姿を見たような気もしました。私はすっかり年を取っているのに、あの人は出会った頃と同じ、美しい青年の姿のままでした。

 宿敵であったはずの皇后の息子、若き皇太子が私たちの前に現れたのも、偶然だったとは思えません。そこには、あの人の導きを感じました。
 ナイーヴで理想主義の皇太子は、息をのむほど皇后に似ていました。彼もまた、あの人に魅せられたひとりなのかもしれません……私と同じように。
 皇太子が誰もいない部屋で、たしかに誰かと話しているのを聞きました。あの人と話しているのでしょうか。

 そう、私の胸にあったのは、嫉妬かもしれない。
 もう私には姿を見せてもくれないあの人に、今現在導かれている皇太子に対し。
 あの人がもっとも執着した、今もまだ執着しているのかもしれないあの皇后そっくりの青年に。

 この皇太子では、革命は為せない。わかっている。
 それでも皇太子にかしずき、彼を扇動するのは、あの人の意志。あの人がのぞんでいる。それがわかるからです。
 今、立ち上がる。長年の悲願、祖国のために……たしかに私自身の意志であるはずの闘い。私の意志だった、はずの。
 わからない。
 私が欲したものは、なんだったのか。

 時が流れ、年老いた私の前に、あの人が現れました。
 出会った頃……私が血気盛んな若造だった頃に見た姿のまま。
 年老いた元革命の闘士の元に、美しい神が舞い降りた。

 あの人は、やさしい人です。
 頼りがいがあって、思慮深くて。行動力にも富み、勇敢です。
 ……それらはみんな、私自身が求めた、私の姿。私の夢。
 あの人は、私自身がなりたかった私になって、私の尊敬を集め、私を利用したのです。

 ウィーンのカフェで、「新しい時代をこの手で今掴み取ろう!」と民衆と共に意気をあげたあのとき。
 中心にいたのは、あの人です。私ではない。革命を!と叫ぶのは私であるはずなのに。私は民衆のひとりでしかなかった。
 すべてが、あの人の意志。

 それでもあの人は、やさしい人です。
 こうして今、私を迎えに来てくれた。
 受けた銃弾が元で動かなくなった片足を引きずりながら、私は両手を伸ばし、あの人のもとへ行く。
 その抱擁を、接吻を受けるために。


          ☆

 記憶に残っている、いくつもの『エリザベート』、何人かのエルマーを思い起こしてみても、現在の雪組『エリザベート』のエルマー@ひろみちゃんはかなり特異なタイプだなー、と思う。

 エルマーだけにとどまらず、シュテファン、ジュラも含めて、今回の革命家トリオ、弱すぎ。
 こいつらじゃ、絶対革命なんて起こせない。
 公演を重ねるごとによくなってきているとはいえ、やっぱり弱すぎてどーしよーもない。

 でも。
 だからこそ、おもしろいんだよな。

 ひろみちゃんのエルマーは、弱いぶんとても繊細だ。
 ルドルフとかなりかぶるところがある。

 彼はもうひとりの「ルドルフ」なのではないか? ってくらいに。

 ナイーブで美しい、理想主義の青年。
 魂が潔癖であったがゆえに、汚濁を含む現実ではうまく生きられない……。

 トートはシシィに対しては異次元生物全開の気持ち悪い愛情表現しかしていないけれど、エルマーやルドルフに対してはくすぐったくなるほど「甘い顔」をして見せている。
 「人間」がどういう「飴」を求めているか知っているんだ。
 そしてソレを、与えてやることが出来る。
 ……のに、愛するシシィにだけはソレをしない、つーのがまた萌えなんだが。

 トートの異次元生物感が際立っているからこそ、カフェでの「奇遇です」「どうぞ我らのお仲間に」が嘘くさくて、たのしい。
 エルマー、アンタ絶対騙されてるって! その男、やさしいふりしてるだけだから! 逃げて〜〜!!(笑)

 水くん×ひろみちゃんって、すげー美しいカップリングだよなあ……しみじみ。

 革命家の弱さは、トートを際立たせるための計算か。
 ただの傀儡にしか見えない、埋没する地味さ、力のなさ。
 トートに翻弄される、力無き人々カテゴリ。
 今回のトートはとっても化物なんで、彼とのコントラストとして、革命家たちの姿は「正しい」のだろうと思うよ。


 雪組再演『エリザベート』に、予定外に散財している。
 オサ様退団公演もあることだし、他の公演は抑えよう、と思った矢先なのに。
「結局あたし、初日からこっち1階S席でしか観てない……当日B席2000円でリピートする予定だったのに」
 と言えば、同じく予定外に良席観劇しかしていないため絶賛散財中!というnanaタンに、
「水さんファンだから仕方ないってことでしょ」
 と返された。
 そうなの。とどのつまり水しぇんのカオを眺めているだけで幸せなので、前方席があるとつい、金もないのにふらふらと買ってしまうのですよ!!

 とゆーわたしは、この日は最前列観劇でした……や、タケノコですけどね……マジ深刻に金ナイのに、ナニやってんだ。
 nanaタンもまた、やっぱり前方席を押さえていて、「お金ナイ……でも、陛下がステキすぎるの……」と、幸福そうにコワレていた(笑)。

 さて、そのトート@水くんですが。

 初日にあまりの異次元っぷり(メイクも、演技も)でびっくり仰天させてくれたのち、途中「わかりやすい、スタンダードな『エリザベート』」の方向へ進み、公演期間後半は、初日方面へ戻ってきてました。

 トートは、異次元生命体です。
 いちいちキモいです。言動全部含めてヘンです。
 過去のどのトートともチガウ。
 新しい、水くんだけのトート。

 それが成功なのかどうかはわかりません。
 ぶっちゃけ「新しさ」なんか求められていない気がするし。
 もっとわかりやすい、「いつものトート」の方がファンのニーズに適っているんじゃないかと思ってみたり。

 でもわたしは、このトートが好きです。

 そもそも外見が好きなのでどんなにキモくても、嫌だとは思えない。
 この異次元感、爬虫類系所作、アリでしょう!
 べつにエロいとは思えないんですが。エロさではなく、別のナニかを醸し出しているよなー。

 ただ彼は、エリザベートを愛しているように見えない。

 愛してはいるんだと思う。思うけれど、そう見えない。
 だって彼は、人間ではないから。
 人間が理解できるようなカタチで愛を表現するはずがない。
 だから彼は彼のままで、「正しい」のだと思う。
 そうであるからこそ、切ない。
 彼の愛は、人間であるエリザベート@となみには伝わらないから。人間が「死」を愛する、なんてことがあるんだろうか?……そうルキーニ@キムが問いかけるように、ふつうはありえない。
 ありえないのに、愛してしまった。

 その姿が、せつなくて、キュンキュン(笑)する。

 初日に感じたように、トートは異世界生物で、ルドルフの死後シシィを突き放すときまでは「別次元」の感覚で生きていたのだと思う。
 「死は逃げ場ではない!」と彼女を拒絶し、銀橋で「愛と死のロンド」を歌うとき……彼は「人間」になったのだと思う。や、概念上のことですが。
 今までは、あまりに別次元にいた。エリザベートがどう思うかなんて関係なく、自分の感覚とやり方でアプローチしていた。だが、真の意味で「愛」を知ってしまったトートは、もうもとには戻れない。
 翼を失い、地に堕ちた。

 そこから「物語」がすこーんと断絶するのは、そういうことなんだ。
 トートが「愛」を知ってしまったから、今まで通りの物語は展開できなくなったんだ。

 ここで「トート」の物語が断ち切られてしまうことで、ルキーニの意図を強く感じる。
 そうだ、そもそもこれは、彼が語る物語だった。
 ではトートたち登場人物すべて、どこまでが彼の「創作」なのだろう?

 はじめての疑問。

 主人公って、実はルキーニなんじゃないの?

 今まで、トドのルキーニが秀逸で、彼の自由自在ぶりから「黄泉の帝王トートすら操っていそうだな」と思ったことはあったけれど。それでも、ルキーニを「主役」と感じたことはなかった。

 トートがあまりに人間離れしているので、「通訳」が必要だ。誰か「人間」の目を通して言葉を借りて「物語」を展開する必要がある。
 それが、ルキーニだ。
 今までの歴代『エリザベート』はトートが人間の理の内側にいたから、別に通訳なんか必要なかった。トート自身を見ていればそれで彼の感情は理解できた。トートはたしかに「主役」でいられた。
 でも、今回の『エリザベート』は。

 なんか、おもしろいことになってるよなあ。

 トートがチガウだけで、こんなになにもかも、物語の根幹から変わって来るんだ。

 ルキーニとトート、ルドルフとトート、そしてエルマーとトートに、アンテナがびんびん動きます(笑)。なんと想像力を刺激するトート像だろう。

 水夏希を好きで良かった。
 こんなに興味深いトートと向き合うことができる。

 ……で、そのために金欠なんですよ、どうしよう(笑)。

 最前列観劇、全体を眺めるのではなく、ただただ役者のカオを見るためだけにある席。
 最初の宮廷場面では本舞台そっちのけで(ヲヅキのソロだけ見た)、下手花道にいるルキーニ@キムをガン見してたし。
 ミルクの場面は銀橋鈴なりの市民たちがめっさこわいし。目の前が新公小ルドルフくんで、めちゃかわいかったのだが。
 なんつっても「闇が広がる」の色男ふたりが目の前だし。
 かなめくんと水しぇんですよ! 目の前、触れそうなところでモツレてくれてるんですよ?! 呼吸荒くなりますってば!(落ち着け)

 でも、いちばん感動したのは、最後のパレード。

 なんかみなさん、目線ふりまきまくってくれるんですわ。
 以前の雪組は、こんなに真下に目線くれなかったと思うんだけど。なんか今回、みんなみんなすごくって。
 コマくんに目線もらった、となみちゃんに微笑んでもらった、と心臓ハクハクさせて大喜びしていたんですが。

 トート閣下に、手を振ってもらった。

 えええっ。手ェ振ってくれるの、トート閣下?!
 隣の席の人が、水くんが目の前に来たときに手を振ったの。そしたら水くん、にっこり笑って手を振り返してくれた。持ってるシャンシャンごと。
 わたしもつい、便乗してみる(笑)。

 めっさこわいトートメイクなのに、愛想良さ全開の水しぇん。

 あのカオの水くんに、笑顔で手ェ振ってもらった……。
 震撼。

 閣下、どこまでもついて行きますっ!!(鼻息)


 ルドルフって、どーゆー人なんだろう。

 今回の『エリザベート』を観ながら、真面目に考える。

 わたしずーっと、ルドルフってオイシイキャラクタだと思っていたのね。
 この役をやれば絶対人気沸騰する、劇団が将来を期待する人にやらせる役。もしくは、なにかしら「この人がルドルフをやる」ことが客寄せになる「売り」を持つ役。

 タータン、たかこ、ブンちゃん、コム姫、樹里ちゃん、ゆみこ、ゆーひ。
 歴代のルドルフは、やはり「オイシイ役」だと思う。

 だが、何故だ。
 なんか今回、オイシく見えないんですけど?

 かなめくんは、この役をやることで人気がブレイクしているのでしょうか……。

 で、考える。
 ルドルフ役って、なんなんだろ。
 ルドルフって、どんな人なんだろ。

 わたし的には、彼の人となりをいちばんに表す台詞だと思っているのは、シシィに助けを求めるところ。
「最悪の事態に陥ってしまったんだ」
 と歌う彼が、ママに「助けて」と懇願する内容は、「パパがボクを皇位継承者からはずすって言うんだ、大ピンチ! ママから取り直して、ボクの地位を守って!」ではない。
 流れからいって、そう訴えても不思議ではないのに。

 彼が歌うのは、帝国の未来だ。

「今ハプスブルクを滅亡から救える道は、ドナウ連邦しかない」

 この青年は、本気で祖国の未来を考えているんだ。自分の保身よりも、世界の行く末を憂いているんだ。

 この、「政治家」としての「未来の皇帝」としての部分が活きることで、ルドルフというひとりの男の「強さ」になる。

 たしかにマザコンで「ママ、ママ」で、トートに誘惑されて革命家たちに持ち上げられて、後先考えずに行動して破滅するおバカさんだけど。
 それだけではない、一国の皇子としての気骨を持った人物であるということ。
 繊細さとは別。美しさとは別。

 かなめルドルフには、この「政治家」としての部分が感じられないんだ。
 多感な男子中学生みたいだ。
 はじめて万引きして現行犯逮捕され、親が金を使って黙らせました、でも学校は転校させるからな、今の友だちとは縁を切れ! ……てなことを父親に言われて、その日のうちに自殺した、よわよわな中学生みたいだ。
 一度の失敗で人生全部投げ出しちゃうよーな。小さな擦り傷でも、傷ついたことがショックで、耐えられなくて逃げ出してしまうよーな。

 ルドルフという役の持つ、耽美だとか美しい部分だけがもてはやされてきた結果の、ルドルフ役という印象。
 ただきれいなだけ。

 弱いことだけがすべてなのかな、この役?

 「もうひとりのエリザベート」であるはずなのに?

 ルドルフを思春期の少年として描くのもべつに、悪くはない。少年だからこそ持つ、青臭い理想論を胸に若さで突っ走って破滅した、という設定はアリだと思う。
 万引きが見つかって自殺する中学生のよーなメンタリティでも、べつにいいっちゃいいんだが。

 かなめくん……外見が中学生に見えないんだもんよ……。
 ハタチ過ぎているよーに見えるから、精神年齢が低すぎて、つらい……。

 ルドルフ自身の「欲」や「闇」が見えないので、トートのひとり勝ちになってしまう。
 革命家たちと同じ。
 トートが一方的に支配して、弱い人間を利用して終わり。

 拮抗してくれないと、緊迫感が生まれないっす……。
 いやその、ビジュアルは最高に美しいんですがね。

 なんかかなめくん、「翻弄される=ヘタレ」だと誤解してないか?
 もう少し、知性とか精神年齢とか、上げてくれるとうれしいんだが……ってまあ、つまりはわたしにショタ属性がないってことなんですがな。
 幼児プレイには萌えないんですよ(笑)。
 大人が好きです、はい。

 かなめくん自身は、今までになくテンション上げてがんばっていると思うのだけど。
 その姿にエールを送ってはいるのだけど。

 でもさあ、このルドルフ、シシィ@となみが「ママはボクの鏡」には見えないよねえ?
 シシィはすげー強いしさー。
 

 新公のキングにも、かなめくんとまったく同じモノを感じたので、今回の『エリザベート』の演出意図なのかもしれないとも思う。

 トートのトンデモなさ、人間じゃないっぷりを表現するために、出てくる人間たちをみーんな弱くした。
 ルキーニ、シシィ、フランツ、ゾフィ以外のキャラはモブと同じ、ひたすら弱く、色を薄く。
 その淡い色合いの世界で、トートの毒々しい緑が浮かび上がる。

 それが、狙いなのかもな。

 
 新しい演出ならソレで仕方ないけれど、わたしの好みはルドルフもモブではなく「主要キャラクタ」である演出の方だな。


 ルキーニ@キムの歌唱力が、どんどん上がっていっている。

 もともと歌える人だということは知っていたけれど、どこまで伸びるんだろう、この子。
 年齢的にも今がいちばん伸びる時期だとは思うし、この年齢、学年でこれだけの機会を与えられることは、今のタカラヅカでは希有なこと。
 貪欲に吸収し、伸びていって欲しいと思う。

 声が伸縮自在で、聴いてて気持ちいい。
 音を愉しんで、ミュージカルのなかに存在しているのがイイ。

 エロさもいいなー。エロス、というより、ずはりスケベって感じで(笑)。
 マデレーネちゃん@愛原実花ちゃんとナニやってんですか。どさくさにまぎれて2回はキスしてる? ルキーニが味見してどーすんだよ、ソレは陛下への献上品だってば。

 歌うことに余裕が出た分、演技の幅も広がっているようで。

 といっても、キムの歌にはフランツ@ゆみこのような「きれいさ」はないんだけどなー。
 歌声のタイプがまったくチガウよね。

 わたしは歌手スキーなので、歌ウマさんはそれだけで好感度UPなのさ。

 さて、このルキーニ。

「フランツのことは嫌いというか目にも入ってなくて、トートのことも好きじゃなくて、シシィのことだけは好きみたい」
 と、評したのはnanakoさんだが。(たびたび名前が出てすまんな、なにしろ毎週ムラで会ってるもんで・笑)

 ほんとに、その通りだわ。
 まずまちがいなく、フランツのことは歯牙にもかけてない。

 シシィのことは、好きみたい。
 バートイシュルでのふたりのじゃれっぷりが、かわいいのなんの。
 ルドヴィカとゾフィーがあーだこーだやってる間、シシィとルキーニはラヴラヴ(笑)。
 幼なじみみたい。……同期だからなー。今まで夫婦だの恋人だの姉弟だので組んできてるしなー。
 ルキーニの帽子をとぼけてかぶるシシィと、ソレを見て「ヲイヲイ」ってあきれて取り返すルキとか、かわいすぎ。

 そして、トートは。
 好きじゃない、というか、なんかチガウ気がするなー。

 ルキーニとトートの距離の取り方が、なんか独特で。

 今回のルキーニに強く思うことは、たのしそうだなってこと。

 キム自身が「成長期」である今を愉しんでいるんだと思う。
 自分が変わっていくこと、伸びていく実感は、役者としておもしろくてならないだろう。
 努力が確実に実って結果として返ること、手応えがひとつひとつ感じられること、って、そりゃーたのしくてならないだろうよ。

 その上昇気流の役者の生命力まんまに、ルキーニが活き活きとしている。

 一般的にルキーニとは「狂気」が必要だとされる。
 狂気の定義なんて人それぞれだから、なにをもってソレを「ある」「ない」と言うのかは知らんが。

 キムのルキーニは、「狂ってはいない」と思う。
 精神病云々で言うならば。

 だけど、「人として」は十分別世界にいる人だと思うよ。

 たとえば、人が真面目に話しているのに、聞きもしないでおちゃらける人。
 努力している様を笑う人。
 他人を傷つけて平気な人。ソレをおもしろがる人。
 そーゆー人たちは、病気として判定はされないかもしれないが、「人として」十分やばいだろ。

 ルキーニは、嗤い続ける。
 懸命に生き、もがき苦しむ人たちを見て。

 自分だけが理の外側にいて。
 安全な場所、高見にいて、悦に入って見下ろしている。

 たしかに彼は狂ってはいない。
 だが、人として「おかしい」。確実に。

 このたのしそうなルキーニに、「狂気」のスイッチが入るのが「最終答弁」のあとだ。
 この豹変こそが、あきらかに「おかしい」だろ。

 
 なんかねえ、今回の『エリザベート』って、今までの『エリザベート』で疑問に思っていても「ま、そんなもんなんだろ」とスルーしていたことが、いちいち浮かび上がってくるの。

 「生きたお前に愛されたい」って言って、夫を浮気させたり息子を殺したりして、なんの意味があるの? 生きてるのを嫌にさせるってこと?
 絶望させて自殺させることが「人間が死を愛する」ことなら、何故死にたがったシシィをトートは「死は逃げ場ではない」と言って拒絶するの?
 ルキーニはなにを裁かれているの? 裁判官って誰?
 最終答弁はなにを争っているの? フランツに言い負かされたトートが実力行使に出て終わり、ってソレひどすぎない? 都合が悪くなったら暴力で解決、みたいな。
 で、結局ルキーニは有罪なの? だとして、なにがどうなるの?

 タカラヅカらしい色つけで、今までは解釈できていたけれど。
 でもそもそも、基本として、疑問を持つよね?
 『エリザベート』初見の人がよく言ってる、上記の疑問。

 それらのことが、クリアになっていく。
 今回の『エリザベート』。

 異世界トートと、たのしそーなルキーニを中心にしての、独断と偏見、思いこみだけでここまで語るか『エリザベート』をやってみましょー。

 はい、翌日欄へ続く!


 異世界トートと、たのしそーなルキーニを中心にしての、独断と偏見、思いこみだけでここまで語るか『エリザベート』をやってみましょー。
 

 トートは異次元生物だから、わたしたちと同じ理で生きていない。
 だから彼は、愛情表現としてシシィを苦しめまくる。
 それが、いざ彼女から「死なせて」と言ってきたときはじめて「チガウ」ことに気づく。
 それ以降トートとシシィの場面はないが、おそらくトートは愛情表現を変えたのだろう。人間の側にまで、堕ちてきたんだ。

 「最終答弁」のトート閣下は、「変わった」あとの閣下だ。
 あれほど喜怒哀楽が人間離れしていたのに、フランツごとき(ごめん)を相手に「ただの人間」のようなうろたえ方をする。
「アナタは恐れている。愛を拒絶されるのを!」
「チガウ!!(絶叫)」
 で、ルキーニを使ってのシシィ暗殺。「拒絶なんかされないもん! ちゃんと愛されてるもん!」てか?

 重要なのは、「描かれていない部分」だと思う。
 すなわち、トートがシシィを拒絶したあとから、シシィ暗殺までの、間。
 トートが「人間」になり、「人間」の感性でひとりの女を愛した部分。

 トートは「人間」だから、迷ったんだ。
 エリザベートを見守ってきた。彼女とはたしかに心の交歓があったと思う。愛があると、思う。
 でも……ほんとうに?
 自分のカンチガイ、思いこみに過ぎないんじゃないだろうか。
 フランツが言うように、自分は黄泉の帝王なのだから、人間の女が愛するはずがないんじゃないのか?

 だから彼は声を荒らげ、「チガウ!」と絶叫する。
 それでも、己の正しさを証明するために、ルキーニにナイフを渡す。

 トートとエリザベートの関係は、今回の新演出で答えが出た。

 では、残りはルキーニの裁判、最終答弁とはなにか? ってことだけど。

 そもそもコレはすべて、ルキーニの「中」の物語なんじゃないの?

 裁判も、トートもシシィも、なにもかも。

 だから、時代も場面もとびまくる。ルキーニが選ぶままに。
 たのしそうなルキーニ。
 脳内世界、彼のインナーワールド。彼が「神」である世界。

 登場人物は、実在だと思うよ。
 彼らが痛みを持って生きたのはほんとう。
 だが、それを物語るルキーニが、好きにゆがめ、脚色しているのだと思う。

 トートだけが、虚像かもしれないと思うんだ。

 エリザベート、フランツ、ゾフィー、ルドルフたちは全部ホンモノ。
 そこに「トート」という「ありえないもの」を組み込み、創作した。
 史実を元にしたファンタジー。

 トートが「人間」になってシシィと愛し合う場面は全カット。
 「夜のボート」のときにシシィはもう、トートとの愛を無意識にでも認めているのに。そうなるに至った場面は描かれない。

 「最終答弁」も話途中。
 なんの決着もつかないのに、突然ぶった切り。
 そしてルキーニは、今までの「語り手」から「登場人物」になる。

 彼のこの豹変ぶりがねー。
 物語の作者が、自分の作品の中に自分役で登場して、うれしがって張り切りすぎているよーに見えるのよー(笑)。

 トートがルキーニの「創作」した唯一の「オリジナル・キャラクタ」ならば、その思い入れは特別だと思うのよ。

 ほら、アレだ。
 「新撰組」の大ファンが「新撰組」の小説(でもマンガでも舞台でもいいや)を書いてさ、隊士のひとりを「自分自身」に置き換えて視点とし、オリジナル・キャラクタを主人公にして物語を描くの。
 たとえば、山崎さんが語り部で、田中一郎というオリジナル・キャラクタ(剣の達人で沖田の親友、でもじつは男装の美少女、とか。妄想炸裂)を出して「新撰組」の物語を展開、「自分自身」でもある視点の山崎主役の回とかは、すっげー力入ってます、てへ☆ てなもん。
 語り部で視点は山崎だけど、描きたかったのは男装の美少女・田中一郎と土方歳三の恋だから! みたいな。田中一郎こそが、実は「自分自身」の妄想の権化だから! みたいな。

 ルキーニは、シシィが好き。
 語り手でしかないくせに、シシィとだけはラヴラヴ遊んでいる。

 トートがかっこよく「黄泉の帝王」としてシシィをはじめ、人間たちを翻弄している場面は描く。
 でも、ほんとうの恋に落ちて、「人間」として、みっともなく悩んだだろう、展開が地味になっただろう場面はさくっとカット。
 語り手であった自分が「登場人物」として、物語の中に登場する場面は描く。活き活きと、「狂気のテロリスト役」を演じる。過剰なほどの狂気っぷりで。
 そして、シシィがトートを選び、ふたりはハッピーエンド。

 トートが、ルキーニの「妄想」ならば、すべて辻褄が合う。

 トートはルキーニの、「夢の自分自身」。ドリーム小説の主人公だ。
 ルキーニが好きなシシィを、「夢の自分自身」であるトートも好き。もちろん。「閣下」と敬ってみせるのも、「自分を好き」なだけ。
 そして、「夢の自分自身」になって、好きな女の子とハッピーエンドになるんだ。

 田中一郎、というキャラを生み出して、脳内ストーリー「新撰組」で大好きな土方さんと恋に落ちるよーなもんだ。

 ルキーニは「ニヒル・キャラ」ってことで、物語すべてを俯瞰し、「神」の傲慢さで嘲笑しながら眺めている。
 活き活きと、自由自在に歌い、たのしそうに。

 行き過ぎた爬虫類系トート、彼が強い分弱く淡くなったルドルフ、革命家たち。
 全部全部、ルキーニの思いのまま。

 ルキーニはトートを好きだと思うよ。
 大切な、「夢の自分自身」だもん。
 でも、この物語を創作した「神」である自分の方がもっともっと好きなんだけどね。

 ルキーニが「人として」あんなにコワレているのも、ここが彼の脳内だから。
 現実の社会の彼は、もっとまともかもよ?
 ネットでえらそーに書き散らして悦に入っている人が、リアルでは地味で小心なふつーの人だったりするようにな。(えっ、あたしのことですか?!)

 
 なんか、自分的に辻褄合っちゃったんですけど、ダメかなっ?
 ルキーニに愛はある、ということで(笑)。


「豊太郎さいてー。女の敵!」

 とゆーのが、森鴎外作『舞姫』を読んだ女子高生の感想のほとんどだった。
 わたしもそうだったし、周囲の反応もそうだった。

 マザコンで優柔不断で大勢に流されて、おなかの赤ん坊ごと女を捨てる男。いちばんつらい役目を親友に押しつけて、自分はなにもしなかったくせに、その親友のことを恨んで終わる男。

 ふつーにやっても、これらの基本設定が変わらないのなら、主人公・豊太郎は女性の共感を得られるヒーローにはならないだろう。
 ソレをどう料理するのか。
 演出家の腕の見せどころ。

 花組バウホール公演『舞姫』
 景子タンは見事に、上記のマイナス要因をひっくり返し、豊太郎@みわっちを、悲劇のヒーローとして描ききった。

 すげえ。

 「主人公をかっこよく描く」という、それだけのことを終始一貫完遂させた。
 アタマのいい人の作品って、見ていてキモチいいなあ。

 や、『舞姫』初日行ってきましたよ、もちろん!
 

 武士の誇り、武家の嫡男であるという、「日本人の志」を最初からがんがん描く。
 『大坂侍』もそうだけど、武士というのは、愛よりも生命よりも、別のモノを尊ぶものなんだ。愚かかもしれない。不器用すぎるのかもしれない。だけど彼らは、「美しい」ものを魂に抱いて生きる。

 豊太郎の「仕事」がなんであるかを描く。
 日本が近代国家として「世界」に認められるかどうかの瀬戸際。日本が他のアジア諸国のように、欧米列強の植民地となるか、独立国として生き残るか。
 そんなギリギリの時代に、「国」の未来を背負った「戦士」であるということを描く。

 太田豊太郎は、戦場にいた。
 彼は愛する祖国のため、愛する人々の未来のために戦う、ストイックなソルジャーなんだ。

 原芳次郎@みつるという志半ばで倒れる「戦友」を配置することによって、豊太郎の戦いはさらに重さを増す。
 「日本の未来を頼む」と、戦友が腕の中で息を引き取った。
 彼の分まで、豊太郎は戦わなければならない。
 色恋にかまけて、「使命」を投げ出せるはずがない。

 と、ここまで彼の「外側」の理由を完璧に創り上げて。

 そして。
 これがいちばん感心したことなんだが。

 エリス@すみ花を、妄想女設定にした。

 彼女の母親が、なにかっちゃー豊太郎との交際を反対する理由が、コレ。
 変だな、原作ではたしか、エリス母は「金ヅルを逃がすんじゃないよ!」的モーレツババアだったよーなイメージがあったんだが。父親の葬式代のために娘を売ろうとしたよーな母親が、なんで「どうせ幸せになんかなれないから」と金を運んで来そうな男との交際に反対するんだ?

 エリスはもともと、精神を病んでいる娘だった。
 豊太郎と出会ったときは、まともだったけれど。
 今は正常なまま生活しているけれど、いつどこで再発するかわからない。
 だからエリス母@光さんは反対したんだ。恋にのめりこむことで、エリスの病気がひどくなるかもしれないから。

 エリスの妊娠は、彼女の妄想だった。
 だから豊太郎は子どもを捨てる男にはならない。

 豊太郎は日本のために戦うソルジャー。国のために愛を捨てなければならない。彼は日本の、武士なのだから。義のために生き、死ぬことをヨシとする哀しい戦士なのだから。
 愛がすべてのエリスには、豊太郎の価値観は理解できない。
 ふたりが破局を迎えるのは、仕方のないことなのだ……。

 と。
 見事に、豊太郎の行動が、正当化された。

 加えて、エリスを狂気に追いやった親友・相沢@まっつと、
「私を恨んでいるか」
「恨むのは自分自身だ」
 とゆー会話をわざわざさせることで、「親友を逆恨み」という原作のマイナス面もクリア。

 さらに駄目押し、ラストシーン。
 昔の豊太郎のように、無限の未来と可能性に瞳をキラキラさせた若者@ネコちゃんが、豊太郎と同じようにドイツに留学すると言って現れる。
 彼は、あの日の豊太郎。
 ご丁寧にも、昔の豊太郎と同じ衣装で、演じているのは豊太郎の学生時代を演じていたネコちゃんだ。彼はまちがいなく「もうひとりの豊太郎」なんだ。

 その、「失ってしまった青春」を懐古するように、「大人」になってしまったひとりの男が、胸の痛みを抱きしめながら終わる。

 弱い男が女を捨てた物語、ではなく、ひとりの若者が、青いモラトリアムを完全に脱し、「大人」になる物語。
 恋愛ドラマであるが、テーマ自体は恋愛ではない。それを内包した、もっと大きなモノだ。

 失われた青春、失った楽園を見つめる、切なさ。
 イメージの中のエリス=青春の、神々しいまでの美しさと、哀しさ。

 ままごとのように恋をする若いふたりの「しあわせの象徴」だった「舞扇」が、ラストシーンでは「哀しみの象徴」となる、小物使いの巧さ。

 すげえよ、見事だ。

 みわさんの凛とした美しさ、誠実さが際立つ。
 歌も十分許容範囲だよね? うまくなったよね?

 すみ花ちゃんの可憐さ。いじらしさ。

 まっつの堅実さと、みつるの輝きとゆまちゃんの美貌と胸の谷間とふたりのかわいらしいラヴラヴっぷり、嫌味日本人トリオのいやったらしい二枚目ぶり(笑)と、マメの達者さ、ミトさん、星原先輩の存在感。

 舞台の美しさと、音楽の美しさ。

 派手な作品ではないけれど、しみじみといい作品だわ。
 みわさんファンは絶対見逃しちゃだめだよー! 後悔するよー!

 ……つーことで、まっつ萌えは別欄にて。


 バウホール公演『舞姫』において。

 相沢@まっつのいちばんの萌えシーンは、

「君に私の気持ちはわからない!」
 と豊太郎@みわっちに言われたときの、

 ぎゅっ、と握った拳だ。

 豊太郎を愛し、彼のために必死で助言しているというのに、聞き入れてもらえない。
 拒絶される。

 突き放される。

 だが相沢は、顔は冷静なままなんだ。
 なじられて言葉を失うけれど、表情は大して動かない。

 ただ、拳を握る。
 甲を半分隠したフロックコートの袖の中で。

 その拳が、震えている。

 ……めちゃくちゃ、傷ついてるんじゃん。
 なのに顔には出ない。
 クールビューティのまま。

 だから豊太郎は気づかない。自分がどれほど親友を傷つけたのか。
 や、もともと彼は自分の不幸に手一杯で、暴言を吐いたあとは背を向けてしまうのだけど。

 感情を出さず、黙って痛みを飲み込む男、相沢。

 あのクールな横顔と、震える拳のギャップに、クラクラきました。

 
 えー、つーことでまっつ語り行きます。
 日曜日はチケット取れなかったんで、バウ日程中ムラ詣で皆勤はあきらめます(笑)。平日だけ観に行くっす。

 1幕は、予想通りあまり出番がありません。

 ただ。
 そんなことを吹っ飛ばす勢いで、わたしは舞い上がっておりました。

 て、ゆーのもさ。
 幕が開いて、みわっちが登場して、わたしはすっげ油断してみわっちを眺めていたのよ。
 主役ひとりが舞台に現れ、えんえんやるのは当然ですから。疑いもせずそーゆーもんだと眺めていた。

 ……ら。
 一瞬だけ、わたしの目の前にライトが当たった。
 当たって、すぐに消えた。

 さすが初日。あちこちライトのミスは目についたんだが、一発目のミスは幕開きすぐ。

 舞台上手にライトが当たり、あわてて消えた。
 それでわたしははじめて、そこに誰か立っていることに気づいたんだ。

 わたしは、前補助の上手隅にいた。ドリーさんが譲ってくれた席だ。

 舞台はまさに目の前。そこに、誰か立ってる……と思った次の瞬間、今度こそちゃんとライトが当たった。

 まっつだった。

 まっつが立っていた。

 目の前。
 触れそうなところに、スーツ姿の美形まっつ。

 えええっ。

 そう。
 1幕は日本にいるので出番のない相沢くんは、なにかっちゃー舞台端に現れては手紙を読んだりするのですよ。
 しかも最初のウチは、上手限定なんですよ。
 出てくるたび、上手なんですよ。

 今この劇場で、まっつのいちばん近いところにいるのは、あたし?!

 ……こあらったは舞い上がったまま、しばらく帰ってこられませんでした。
 ああああありがとードリーさん。よくぞこの席をわたしに!!

 まっつの顔だけ眺めてハクハクして、最初のうちはなにがなんやら。

 んで、よーやく落ち着いてきたし、まっつも上手だけでなく下手にも登場するようになったと思ったら。

 学ラン姿キターーッ!!

 『明智小五郎の事件簿』に続いて、学ランまっつ!!(笑)
 またしても学ラン!!

 明朗快活、親友ベタ惚れの純な笑顔が、まぶしいです。
 豊太郎のことを誉めちぎってやがんの。もー、恥ずかしいほどに。その全開の笑顔はなんだ、見ているこっちがうろたえるだろおっ?

 学ラン姿を目にするなり、笑いツボ入っちゃって、声殺すのに必死(笑)。

 あ、学ランは下手ですよ! まっつ学ラン目当ての方は下手をGETだ!

 2幕は相沢くん、渡独しているので元気です。豊太郎にまとわりついています。

 フロックコートとシルクハットが、どーしてあんなに似合うんだ!!
 クラシカルな格好が似合いすぎだまっつ。

 豊太郎を天方伯爵@星原先輩に引き合わせた相沢、意気揚々。豊太郎を誉められると、自分もすっげーうれしそう。
 そんな相沢を慮って、天方氏とドクトル・ヴィーゼ@ふみかは身を引くのだ。
「ここから先は、お若い人同士で……」
 てな、見合いの仲人みたいなことを言って、相沢と豊太郎をふたりっきりにさせる。

 やったー、太田とふたっりきりだーっ!!
 と、内心大喜び、デートだデートだ、どこへ行こう、なにを食べようなにを飲もう、それからそのあとは……と、いろいろ計画をドリームしていただろう相沢の前に。

 ダメダメめがねっこ岩井くん@マメが現れた!

 ふたりっきりだと思ったのに! これからデートなのに!
 ダメめがねっこは、豊太郎相手にえんえんラヴコール。
 なんだよこの男、俺の知らないうちに、こんな男と仲良くしてたのか……?

 豊太郎と岩井くんが話している間、相沢は何故、あんなに不機嫌なのデスカ?!!

 
 この作品でのいちばんのアイドル・ポジションは、豊太郎ではなく、じつは岩井くん@マメだと思っている。
 岩井くん、なんかもー、すげー愛されキャラでね。
 かすが・しゅん様・らいらいの色男3人の誰がマメのラヴァーなのか、はっきりさせたくてうずうずしてますよあたしゃ。

 
 とまあ、愛くるしいマメがみわっちを独占していたりすりゃ、そりゃまっつだって妬くよなあっ?!

 いやはや。
 スカステの稽古場映像でも流れていた、エリスVS相沢のまっつソロも、いい感じでございました。
 誠実さと真剣さが感じられる親友っぷりです。……もっと情念の世界を展開してくれてもいいんだが、なにしろまっつだから、どうだろうな。

 エリス@すみ花は野生の勘で、相沢が恋敵だと察していたようだ。

 豊太郎が最初に相沢の名前を出したときに、ものすっげー反応するの。まだ相沢が誰なのか、どーゆー人物なのかもわかんないのに。

「相沢……? 不吉な予感……!」(白目)

 で、実際会ってみたら、豊太郎を日本へ連れて帰るって言うし。マジ敵じゃん!!
 つーことで、エリス発狂。

 ははは。

 
 相沢と豊太郎のステキ・ポイントは、相沢は豊太郎を「お前」呼びで、豊太郎は相沢を「君」呼びするところですなっ。

 「お前」……お前呼びかよ、相沢! 男らしいなヲイ!! まっつのくせに!(こらこら)

 豊太郎を想って悶々としている相沢さんを想像するだけで、ごはん三杯いけます、はい。

 まっつまっつまっつ。


「日曜日はチケット持ってないからあきらめる」……と書いた舌の根も乾かないウチに、結局ムラへ行って『舞姫』観てきました。
 だって明日は(日付は今日だが)水くん観るんだもん、今日観ないと火曜日まで観られないんだもん……てなわけで、「まっつ〜〜!」と叫びつつムラ通い。はい、今日は17日です。日付追い越してます(笑)。

 
 やばい。

 2回目の方が、ハマる。

 「わかって」から観ると、泣きツボ全開。
 全編通してただひたすら、美しく切ない。

 豊太郎@みわさん、最高っす。
 彼がすげー愛のこもった、「愛しい」と書いて「かなしい」と読ませるような瞳でエリス@すみ花ちゃんを見つめています。

 すべてが「夢」だからこそ、壊れること、失うことが前提だからこそ、なにもかもがきらめいて、はかなくも美しい。

 みわっちって、こんなに演技できるひとだっけ?
 ……と考え、そーいやわたし、愛音羽麗主演『くらわんか』で大泣きした人だった。らんとむ版ではべつに、泣かなかったのに。
 ひょっとしたらみわっちって、わたしのツボに入る役者なのかもしれない……。

 
 とまあ、本筋のことは置いておいて。(いずれ腰を据えて語る)

 相沢です、まっつです。

 今日気づいたこと。

 相沢くんは、親友・豊太郎くんを「太田」と名字で呼びます。「お前」呼ばわりしているけれど、あくまでも名字で呼ぶのみ。(ちなみに豊太郎くんも相沢くんのことは「相沢」と名字で呼びます)

 されど。

 「豊太郎」と、名前で呼ぶときがある。

 遠く離れた日本の地で、ドイツにいる豊太郎からの手紙を受け取り、うれしそうに読んで……そして。

 「豊太郎……」と、名前で呼ぶ。呼びかける。

 本人のいないところで。
 ごく自然に。

 心の中ではいつも、「豊太郎」って呼んでるわけ?!

 本人には、名字で呼びかけ。
 本人がいないところでは、名前呼び捨て。

 ちょ、ちょっと待った、ソレって。

 あと、東大卒業時の「我が親友絶賛モード」で語っているときも、「すごいよ太田!」って豊太郎には名字で呼びかけ、そのあとどんどん相沢の中で幻想が盛り上がり、豊太郎本人を見ることなく夢見るよーな目つきで客席に向き直り、「豊太郎……」と、うっとりとつぶやく。(学ラン着用・笑)

 どこまで、豊太郎のこと好きなんだよ、相沢!!(笑)

 心の中では、いつも「豊太郎」と呼んでいる。呼びかけている。
 てゆーか、毎日話しかけてるんじゃないのか? 「ボクの豊太郎(はぁと)」とか言って?!

 景子先生が狙って書くわけナイから、素でやってんだよなあ、コレ。
 で、まっつはどこまでわかってやってるんだろう……。お茶会がいつか知りませんが、誰か聞いてきてくださいよ、「豊太郎のことどう思ってますか」「あ、建前と本音、両方お願いします」って。わくわくっ。

 まっつの出番は多くはないけれど、歌声が、すごいです。

 曲がキレイだし、物語はいつも深刻にドラマティックだし。

 まっつの低音が、響き渡ってる。

 掛け合いで歌うところとか、まっつが歌うと「うわ、低音キター!」って感じでゾクゾクする。
 他のアンサンブルを、下から支えている。

 最後のソロは圧巻。
 キモチいい。

 世界征服を歌うより、愛を歌う方が、まっつには合っている。

 いや、その「愛」っつーのが、ラヴラヴな主人公カップルを別れさせるための歌なんだけどな(笑)。
 なにしろ「あなたが彼を愛するように 私も彼を想っている」つー、トンデモな「愛の歌」だからなー。
 「海馬に乗った征服者」という歌詞を聴いたときとはまーーったくチガウ意味で、しかし同じように耳を疑ったわ。は? あのちょっとアナタ今なんと歌いました?って。
 
 相沢って、豊太郎本人には告げられずにいるけれど、他のところでは彼への愛を全開にしてるんだよなー。
 天方大臣@星原先輩とか、きっともーえんえんえんえん「豊太郎マンセー」を聞かされて、
「わかったわかった、このプロジェクトにそのラヴリー豊太郎くんも入れるから、ちょっと落ち着け」
 根負けしたんじゃないだろうか。
「君のことは相沢から聞いている」……って、どんだけ聞かされたんだか。
 大変だな大臣。愛にコワレてる男を部下に持つと。

 
 基本クールなんですけどね、相沢くん。
 豊太郎絡みだと、コワレる……。

 たのしいです、『舞姫』。


 退団者のいない千秋楽。
 ただしあわせに、拍手を続ける千秋楽。

 おめでとう。
 これがはじまり。
 これから、このしあわせが続いていくんだ。そう思えることのしあわせ。

 東宝チケットが手に入らなかったわたしにとって、これが最後の『エリザベート』
 2巡目がはじまったのだから、これからまたどこかの組で再演されるのだろうけれど、それがいつかわからないし、同じように愛せるかもわからない。
 さようなら『エリザベート』。
 わたしはやっぱり、『エリザベート』が好き。
 正直見飽きた感はあるし、初演への懐古とこだわりが強く、ヅカで上演するのは芝居とショーの2本立てがいいと思っているけれど。
 それでもやっぱり、好きだ。

 『エリザベート』という、作品が持つ力。

 千秋楽だからっつーんで、『エリザベート』なのにお遊びがありました。
 ルキーニ@キムは「ハトが出ますヨ」の場面で本当に鳩を出すし。……いまいち、失敗していたよーな気もしたんだが(笑)。音声さんとの打ち合わせはしていなかったのか、シャッターの音が派手にずれていたぞ。
 公演期間中、ずーっとアドリブがんばったねえ、キム。ますます骨太ないい男になった。

 あと、ラウシャー大司教@にわくんが、「宅配疑惑」をグリュンネ伯爵@雪組きってのフェアリ−(笑)、初演からトシとってません、のナガさんに押しつけていたし。

 もひとつお遊びシーン。
 ゾフィー@ハマコが昇天するとき、黒天使だけでなくトート閣下まで登場。
 閣下は客席に向かってにっこり笑ってくれたけど、あまりに意外だったから、みんなついて行けていない。

 トート登場。 
「…………?」

 トート、にっこりアピって、ゾフィーと一緒に退場。
「…………(息をのむ)…………えええ?(よーやく反応)」


 って感じ。
 トートがいなくなってから、客席からかすれた声が長く上がっていたのが印象的。

 退場してからよーやく観客が声を上げたせい?
 終演後、何回目かのカーテンコールで水くん、「アドリブしたのに反応がなかった」と嘆いてました。
 や、反応する間もなかったんだよ。
 みんなの「えええ?」ってかすれた声は、水くんには届かなかったのかな?
 そもそも雪組ファンはおとなしいし。花とか星ならもっと大騒ぎしていたかも(笑)。

 水くんがアドリブの話をしたとき、ゾフィー@ハマコがやたらうれしそうにしていた。同期愛、同期愛。
 てゆーかトート閣下、いっそのこと「死の接吻」までしちゃえばよかったのに。
 そしたら、ゾフィー・シシィ・ルドルフと親子三代喰っちゃうことになって爽快でしたわよ(笑)。
 水×ハマコかぁ……濃いぃなー。(好み的には、ハマコ×水だなっ)

 そう。
 初演ゾフィー@朱未知留ちゃん(いつもこの子のことはフルネームで呼んでいたわ、その実力に敬意を込めて)が言っていたんだよね。
「ゾフィーが死ぬときにも、トート閣下に迎えに来て欲しい」って。
 初演『エリザベート』で卒業だった朱未知留ちゃんのため、ムラ楽ではルキーニ@トドがアドリブで「トート閣下の迎えが来た」って歌ったんだっけ。
「すごくうれしかった」と、朱未知留ちゃんがどっかのインタビューで言っていたことを、おぼえている。

 それをほんとに舞台でやってのけるとは思わなかったぞ、現雪組! 

 あ、90年代雪組が誇った歌姫・朱未知留ちゃん、キャラクタは今の雪組で言うとヒメちゃんです。最近のヒメを見て、「誰かを思い出す……」と思ってたんだけど、そーだ、朱未知留だー。
 顔立ちでなく、「キャラクタ」ね。ええ、朱未知留ちゃんってアレ系の芸風だったのよ。『ライト&シャドウ』の女優役とか、ぶっとび方がすごかった。

 
 泣いても笑っても、『エリザベート』は今日で最後。
 長かったような、短かったような。

 アンサンブルも熱が入り、雪組生全員、モブの下級生ひとりひとりまで意志を持って演じているのが感じられて、わくわくした。
 トート閣下の「黄泉の帝王」としての切れ味もすばらしく、その魅力を堪能。あああ、かっこいー。
 フランツ@ゆみこはねえ、歌声がさらにクリアに豊かに響いてね、鳥肌もの。この人の声は、どこまでのびるんだろう、と感心した。

 やっぱり好きだもの、『エリザベート』。
 いろんな萌え、いろんな解釈を展開できる深さと寛さを持った作品。

 東宝ではみんなさらに進化するんだろうな。
 観られなくて残念だ。

 シシィ@となみちゃんは、わたしにはよくわかんなかったんだけど、彼女もまた、わたしが見た・感じただけがすべてではなく、これからも変わっていくんだろう。
 ナマモノっておもしろいよなー。

 これがはじまり。
 それが、うれしい。

 千秋楽オメデトウ。


 すみません。
 今さらでなんですが。
 叫ばせてください。

 相沢@まっつ、好きだ〜〜っ!!

 花バウ『舞姫』にて。
 腐女子的にオイシイとか、役割がオイシイとか、歌があるとか、そーゆーことではなくて。
 や、そーゆーのもいちいちうれしいけれど。

 そうじゃなくて。
 そーゆー次元のことじゃなくて。

 「相沢」というキャラクタが好き。そして、相沢を相沢たらしめている、まっつが好き。

 観劇3回目、今度こそ「まっつONLY視界」完遂。
 初見で全体、2回目で豊太郎@みわっちを中心に作品を脳髄に叩き込み、3回目ではじめて、他を捨ててまっつだけを堪能した。
 まっつを「視る」ためだけに、1幕と2幕で席を替わったぐらいだ。
 1幕目は上手側、2幕目は下手側。……nanaタン協力ありがとー!

 「相沢」という男がどんな表情でなにを言っているか、なにを考え、なにを感じているか、それだけを追った。
 オペラのいる席ではなかったのに、オペラ握りしめてた。てゆーかわたし、この公演のために、オペラグラス買い直しましたから。おニューですよ、ははは。

 あいかわらず、まっつの演技は地味だ。
 しかし、嘘がない。
 そのときどきの感情を、大切に、丁寧に表している。

 情があふれ出ているところ、哀切なところ、強い意志で前へ出ているところ、そして、切り捨てたかのように、冷酷になる一瞬。それらが、細かく細かく変化する。
 同じ感情、一本調子でなにか言っていることなんかない。

 常に、揺れ動いている。
 ひとの「こころ」がそうであるように。

 それがね。
 その姿がね。

 泣けるほど、好きだ。

 対豊太郎、そして対エリス@すみ花、それぞれなんと誠実な演技をしているか。

 わたしは黒い人、毒のある人が好みなので、相沢は残酷なまでに正しい人、鬼畜な人の方がうれしかったと思うの。
 実際、まっつが相沢役だとわかったときはクールビューティ&鬼畜を期待したくらいだし。

 でも、まっつはそうではないのね。
 『MIND TRAVELLER』のときも、そうだった。いっそわかりやすいマッド・サイエンティストとして突き抜けてしまった方がキャッチーなのに、地味に「まとも」な研究者を演じていた。
 相沢もまた、クールで強引な男にしてしまった方がよりキャッチーだと思うのに(愛のために暴走する男って、女子の好きなタイプだってば)、なんかまたしても地味にリアルなキャラクタを創っている。

 相沢は、誠実な男だ。

 悪人ではまったくない。
 誠実さ、やさしさがベースになって、なにもかも動いている。

 そして、彼がかなしいのは、自分を「正しい」と思っていても、その「正しい」ことをするために、「斬り捨てられるモノの痛み」を理解していること。

 正しい人というのは、多くの場合とても無神経だ。
 『炎に口づけを』の狂信者たちほど極端でなくても、「正義」の名の下にはナニをしてもいい!と思い込んでいることが多い。
 本人が「正しい」と思い込むことで、すべての悪・身勝手・自己愛が正当化される。
 そーゆーキャラクタの方が、動かしやすいんだろう。や、たんに作者が無神経だっちゅーだけの場合も多いだろうけど。

 相沢も、「正義」を振りかざすだけなら簡単なんだ。だって、彼はほんとうに「正しい」んだもの。
 自信を持って、正しさを貫けばいい。
 卑しい踊り子との愛欲に溺れた親友の目を覚まさせ、相手の踊り子には分不相応だということを教えてやればいい。
 たとえ、心弱き親友に一時恨まれたとしても、いずれ目が覚めたときに感謝されることはたしかなのだから。

 この「正しさ」を、強く冷たく、表現する。
 そーゆー「相沢」を見たかったんだ。
 「正しい」ゆえの残酷さを、わたしは「鬼畜」だと受け取るし、萌えたと思う。

 だけど、この作品の相沢は、そうではない。

 「正しい」のに、傷ついている。
 これしか方法がないし、いちばんみんながしあわせになる決断だとわかっている。

 このまま豊太郎がエリスとドイツに残っても、ふたりはいずれ破局する。
 エリスが病気だからとかではなく。
 鳥と魚は一緒には生きられないんだよ。どちらかが、窒息してしまう。

 豊太郎と、豊太郎の愛した女性を守るためにも、ふたりを別れさせなければならない。

 正しいことをしているのに、それは愛情や誠実さから来ている行動なのに、それでも彼は、苦しんでいる。
 今現在、相手を傷つけることに。
 相手の痛みを理解して。

 傷つけることで傷ついている。

 オペラグラスで、まっつだけを見ていた。

 今、まっつが一瞬、迷った。弱い表情をした。次の瞬間、なにかを振り切るように、すみ花ちゃんに辛い言葉を投げた。
 すみ花ちゃんが傷ついた。たぶん、彼女の胸から血が流れた。すぱっと、肉が裂け、鮮血があふれた。
 同じように、まっつの胸からも血が流れた。
 彼は言葉を発するたび彼女を血まみれにし、自分もまた血を流す。

 でも彼は、自分の血などかまわず、強い目をする。
 冷酷な眼で、とどめを刺す。

 一気に刺し貫く方が、痛みが少ないから。
 彼女のために。

 自分も、血まみれになりながら。

 エリスが発狂したとわかったとき、相沢は子どものように顔をゆがめる。
 暗転の間際。

 幼い子どもの顔になる。

 血まみれになりながらも冷徹に剣を振り下ろした、誠実な大人の男が、子どもの顔になって叫ぶ。

 その、痛々しさ。

 そして。

 舞扇を手にするエリスと、彼女を抱く豊太郎。
 ふたりを見守る相沢は、自分の罪を、受け入れている。

 正しいことを、愛ゆえに、思いやりゆえにしただけでも。
 正しさを言い訳にはせず、「罪」であることを認めている。

 最後に豊太郎に問うのは、ただの確認だと思う。
 なにかを決したかのように「私を恨んでいるか」と問う相沢に、豊太郎は否定を返す。
 そう、相沢は知っていたはずだ。
 豊太郎が、相沢を恨むはずがないと。己こそを責める男だと。
 わかっていた答えを得て、噛みしめるのは、相沢自身の罪だろう。

 「恨んでいない」と言われて、ほっとしているようには見えない。
 むしろ、それゆえに決意が深まったように思える。

 この罪を、一生背負うことを。

 豊太郎が、相沢を逆恨みするよーな男なら、「私のせいじゃない、お前の自業自得じゃないか」とも思えたかもしれないけれど。

 ひとりの少女の心を破壊してまで、進もうとした道だ。親友を傷つけてまで、貫こうとした想いだ。
 まっすぐに前進することで、彼の償いは続くのだろう。

 相沢が、あまりに善良で。愛を基盤にした人で。そしてある意味、とてつもなく、まともな人で。
 クールビューティ&鬼畜を期待していたわたしは、アテがはずれたことにおどろきつつ、感動するの。

 ああまたこんな、地味でリアルな役作りをして。
「私は正しい」って善意ゆえの強引さで、取り返しのつかないことをする人、でよかったじゃん。わかりやすくて。派手で。

 あああもお、まっつ好きだ〜〜……。

 傷ついて、傷ついて、それでもスパッと冷酷な顔になるときが、すごい好き。
 意志の力による、冷酷さ。
 それがもお、痛々しくて。

 地味でいいよ、小さくていいよ、「バウホールサイズの演技」って言われてもいい。

 この人の、演技が好き。


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