汐美真帆は、わたしの「はじめての人」である。

 ヅカファンになって19年。
 19年もこの特殊な世界に、浅くではあるが長々とハマって過ごしてきたが、未だケロが「はじめて」なんだ。
 「見送ったご贔屓」というのは。
 なにしろ、その前はトドロキのファンだったもので。(や、今でもトドは愛着持って見守ってますが)

 わたしが自分のファン生活を「浅い」と思うのは、いわゆる会活動をしていないためだ。
 タカラヅカファンの醍醐味は、「私設ファンクラブ」体験だと思う。

 お揃いの服を着て楽屋口前に整列し、立ったりしゃがんだりを繰り返し、声をそろえて同じ台詞を言う人たち。
 同じ人を応援する、という明確な意志で集まった組織。
 独特のルールと人間関係、閉鎖性。
 ……それを体験してこそ、「正しいタカラヅカファン」だと思う。

 いや。
 FCの入会有無ではない。

 タカラジェンヌとの距離感。

 それこそが、タカラヅカの特殊性だと思う。

 好きな人と、直接関われる。
 生徒のポジションにもよるが、一部の人気スター以外ならば本人と直接会話も出来るし、自分を個別認識してもらうことも可能。

 毎日入り出に通い手紙を渡して、生徒自身の日々の機嫌や癖、日常の姿を垣間見る。
 舞台の上での非日常的空間ではなく、あくまでも生身の人間としての姿をも愛でる。

 たとえ雲の上の大スターでも、毎日の出勤帰宅風景を何年も眺め続けりゃー、「あの人って、じつはこんな人」と人となりが見えてくるだろう。人間なんだから。

 ジェンヌとそーゆー関わり方をしてこそ、「真のタカラヅカファン」だと思う。
 会に入って応援すれば、入らなくても舞台以外の姿も愛していけば、それで「真のタカラヅカファン」。

 わたしは時間ばかり長く過ごしてきたが、結局のところ舞台を観るだけで、生身のジェンヌには一切近づいていない。
 FCにも入らないし、入り出待ちもしないし、お茶会にも行かない。スカステだって入らないので、トーク番組を目にすることもなかった。

 タカラジェンヌとは「ファンタジー」であり、現実の存在だとは思っていない。男役は男だと思っている。

 だから、FC入会は必要なかった。手紙であれ会話であれ、本人に「舞台、よかったです」「ステキでした」と伝える意味など無い。だって、「ファンタジー」だから。ジェンヌは生きた存在ではないから。
 アニメの登場人物に、ファンレター書いてどうするよ? 演じている声優さんが読むの?「スナフキンはわたしの初恋です★」とかゆー手紙を? 声優さんは演じているだけで、スナフキンちゃうやん。

 架空の世界、架空の人物を、架空だと割り切ったまま愛する。
 それがわたしのスタンスであり、生きやすい距離だった。

 それでなんの問題もなかった。
 ところが2004年後半、ケロが劇団を去ることになり、わたしは混乱する。

 あれほど頑なに拒んでいたお茶会にもはじめて参加したし、スカステも加入したし、千秋楽は入りも出も見たし、そのあと、OGになった直後のトークショーにも駆けつけた。

 舞台の上ではない汐美真帆を、追いかけた。

 その後、某所でケロが日記を書いているのも、その書きはじめた初日から知ることが出来、以後2年まったりと眺めている。もちろん、こちらからアクションする気などないので、眺めるのみだ。
 
 そーやって、混乱は深まるんだ。

 わたしが愛してきたのは舞台上のケロであり、生身のyokoさんではない。
 もちろん、ケロの中の人だからyokoさんも大切なのだが、やはりどうしてもyokoさんは「知らない人」なんだ。
 だってわたしにとってのケロは、男だし。チェリさんがどれほど「ケロちゃんだって女の子なんですよっ」と言ったって、聞かなかった。ケロは男だから、ふんどしでもいいんだってば。(『厳流』の頃の日記参照してくれ)

 わたしのなかの汐美真帆と、NYでほにゃりとした日記を書いているyokoさんはちっともイコールにならない。

 それでも。
 願うことは、ひとつだった。

 yokoさんがしあわせであればいい。
 それだけを、祈ってきた。

 
 『ドルチェ・ヴィータ!』東宝千秋楽から2年5ヶ月経ったこの日、ケロが再び東京宝塚劇場の舞台に立つという。

 貸切公演の司会者として。

 行くかどうするか、悩んだ。
 ナマのケロを見てみたかった。
 トウコちゃんと同じ舞台に立つ姿を、見てみたかった。

 でも結局、行くことはあきらめた。
 チケットがなかったこともあるが、今の世の中、金さえ出せばどんなチケットでも手に入るのだから、それは言い訳にはならない。
 わたしは、行かなかった。

 こわかったからだ。

 19年ヅカファンやってきて、「退団後、女になっても好きは好き」だと公言してきた。
 事実、他の人に関してはそうだと言える。異性だったときと濃度はそりゃかわるが、いったん好意を持った人にずーっと好意を持ち続けるのは、ふつーのこと。
 ただ、わたしの愛するものが「タカラヅカ」である以上、「タカラヅカ」でない舞台までは、追いかけられないけれど。(金があれば追いかけたいけど、物理的にこれ以上無理)

 だがそれは、好きのレベルがケロとはちがうわけで。
 ある一定レベルより好きな人全部を、わたしはまるっとまとめて「ファン」という言葉でくくっているけれど、「ご贔屓」と書くのはケロだけだった。「担当」と書くのも、ケロのみだった。

 男役は、男。
 タカラヅカは、存在自体がファンタジー。

 ナマのジェンヌに近づくことがなければ、あくまでも舞台を観ているだけならば、いくらでもソレで完結していられた。

 舞台のケロを愛してきた。
 今でも、ソレは変わらない。

 だからこそ、男子であった汐美真帆と、今の汐美真帆でもあるyokoさんとの存在の差に、おびえている。
 整理がつかない。

 ケロは、わたしの「はじめての人」だ。
 こんなに混乱することなんか、他の人ではあり得ない。他の人なら、「女になっても好き」とシンプルに言えるのに。

 ケロ司会貸切公演を観劇したドリーさんから、詳細な報告をもらった。
 なまぬるいyokoさんクオリティは健在のようで、とほほと思いながらも、微笑ましく思った。
 ドリーさんもまたケロファンで、ケロが去ったあともケロがいた宝塚歌劇団を愛し、現在もまた幸福にヅカファン生活を送っている同志だ。
 彼との恋、そして別れがあったからこそ今のわたしがあり、新しいいくつかの出会いがあり、今また愛する人たちがいる。人生はすべてつながっており、なにひとつ無意味なことなどない。
 ドリーさんは、とてもあたたかいキモチでケロとの再会を受け止めたようだ。
 そしてわたしは、彼女の報告を読みながら、マジ泣きした。

 今もわたしは混乱したままだけれど、それでも、ケロもケロの中の人も特別だ。それだけは、変わりようがない。
 ケロがしあわせであってほしい、これからどんな生き方をするのかわからないけれど、あの人の人生があの人にとって豊かなモノであればいいと思う。
 や、今回の司会にはこわくて近寄れなかったけれど。次にやはり司会とかされても、行けるかどうかわかんないけれど。

 ただ、役者としてのケロを愛していたので、司会とかカルチャースクールの講師とかではなく、役者として舞台に立ってくれたら、どんなに複雑でも混乱していても、やはり観に行くんだろうなとは思う。
 

 ヅカファンになって19年。
 はじめての混乱。はじめての痛み。

 そして、思うんだ。
 もっとちゃんと、ディープにヅカファン経験していればよかったのかな、と。

 わたしは「浅く長く」いただけで、ヅカファンの醍醐味である会活動をしていない。いや、FCの入会有無ではなく、ジェンヌとの距離感の問題だ。
 舞台上だけを愛で、生身の彼ら、女性芸能人であるところの彼らに近づくことがなかった。
 それをちょっと、考え直すべきかなと。

 会に入るとか、出待ちしてジェンヌに声かけちゃうぞとかゆーのではなく。
 「男」だとドリームで囲って愛するだけではなく、女性の部分も愛して行ければいいな、と。

 そうすれば、女性として生きるようになった彼らに対し、あそこまで混乱はしないでいられるかな、と。
 「男役じゃなくなったから、興味がなくなった」は世の中的にもアリだと思うけれど、「男じゃないという現実についていけない」のは、アレだと思うので。

 男だと思ってここまで愛するのは、ケロが最後かもしれない。

 現にまっつのことは、女性でも好きだと思う。てゆーか、女の子だから好きだと思う。
 まっつには、ジェンダー的な混乱はない。素顔のまっつが、「女性として」美しいことが、うれしくてならない。
 ケロとまっつはチガウ。
 今わたしはまっつダイスキで、「ご贔屓は?」と聞かれればまっつだと答えるけれど、まっつにたどりついたのは、ケロがいたからだ。

 今、こんなに誰かを好きでいられるのも、ケロがいたからだ。
 それが、うれしい。
 

 汐美真帆は、わたしの「はじめての人」である。

 そして。
 ある意味。

 汐美真帆は、わたしの「最後の人」である。

 
 ……そーゆーことで。


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