思うんだけどさー、生田くんてさー、恋愛興味ないよね?

 デビューから2作連続、まともに恋愛描いてないっつーのはさー、本人の興味の在処を表してるよねえ?

 『ランスロット』はいちおー、ランスロット@マカゼ、アーサー@みっきー、グウィネビア@わかばの三角関係を描いている。
 ランスロットはグウィネビアLOVEっつーてあーだこーだ言っているし、忠義と恋愛で悩み、恋愛を取って間男しちゃうという設定だ。

 でもコレ、ほんとに恋愛モノかぁ?

 作者が好きなのは初恋、もしくは過去の思い出であって、現在の生身の恋愛ではないと思うんだ。

 デビュー作『BUND/NEON 上海』では、主人公とヒロインは恋愛関係になかった。主人公の恋人はヒロインの妹で、現実味のないアニメ的萌えキャラだった。主人公が愛しているのは過去の美しい思い出、いかにもな萌え萌え美少女の萌えエピソードが「恋愛」パートのすべてだった。

 そして今作『ランスロット』。
 もっとも力を入れて描かれているのは少年ランスロットと少女グウィネビアの「初恋」であり、過去の美しい思い出だ。
 現在の、大人のランスロットとグウィネビアの恋愛についてはあまり描かれていない。
 過去の出来事があるから、現在も愛し合っているんですよ、みたいな。過去の延長というより、過去こそが大事、現在はおまけ。

 作者が描きたいモノが「恋愛」ではないいちばんの証拠は、ヒロインがクライマックスに出てこないことだ。

 グウィネビアと手に手を取って逃げたはずなのに、ラストは彼女のことより他のことにかまけている。
「戦場に女を連れて行けない、だから安全なところで待っていろ」という流れはわかる。
 だが、さあこれからクライマックスだ、というときにヒロイン退場、あとは出てこない、てのは、変。

 なにも戦場にしゃしゃり出てこいというのではない。
 舞台隅でも奥でもいい、別空間を作って、イメージ的に出すなりすればいい。
 ドラマの鉄板、恋人の身になにかあったときは「はっ」とかするもんじゃん。ランスロットの名を呼ぶ場面とか作ればいいじゃん。

 この物語が「ランスロット」の物語で、彼にとってグウィネビアがいちばん大切なら、死の瞬間に彼女のことを考えるべきだ。
 「待っていろ」と言ったまま存在を忘れて死にオチはないよなー。命がけで愛を貫いたヒロインの立場ナイじゃんよー。

 作者が描きたかったのは「ランスロット」であり、「ランスロットとグウィネビアの恋愛」でも、「ランスロットの恋」でもない。
 あくまでも「ランスロット」単体。
 彼の自分探し(笑)がメインなので、グウィネビアにしろ恋にしろ、彼の通り過ぎた一部でしかない。
 聖杯サマに見初められるほどのヒーローの中のヒーロー、ランスロット、を描くことだけが目的。王の中の王アーサーに認められ、王の中の王に愛されながらもランスロットを選ぶ美女の中の美女グウィネビア……と、三角関係すら、「オレのランスロットすげー!」という生田テーマを描くための道具、という気がする(笑)。
 そして「オレのランスロット」ってのはすなわち作者自身の投影なんぢゃないかとか、余計なことを考えちゃいます(笑)。

 ランスロットって男、客観的に見るとぜんぜんすごくないし、間違ってるしつまんないし、しょーもない男なんですよ。
 だけど作者が「ランスロットすげーっ!!」と思って描いていることが伝わる。
 それが、恥ずかしい(笑)。
 『BUND/NEON 上海』の「劉衛強すげーっ!!」って作者の鼻息がものすごすぎて恥ずかしかった、あの感覚っすよ。
 そういうところがまた中二病的というかねえ。

 現実の女とのリアルな恋愛ドロドロはスルーして、思い出の中の少年少女のアニメ的な恋だけを繰り返し繰り返し大切に描き続ける芸風……。
 うわー……。

 作者が現実の女に興味がないのか描くスキルがないのか、クライマックスは「自分との決着」「親友の腕の中で死ぬ」ですよ。
 自分自身や同性の友人・友情の方が、女や恋愛より近しいモノなんだろうなあ。

 『BUND/NEON 上海』だけでも大概てんこ盛り過ぎて恥ずかしかったのに、『ランスロット』でも同じことをやられちゃうとなあ。
 なまあたたかいキモチが胸一杯に広がります。

 グウィネビア無視して、アーサーの腕の中。
 ははは、イイデスヨ、ソレもあり。
 ぜんぜんOKです、面白いから。


 とりあえずわたしは、アーサー×ランス郎です。
 でかい受だなー(笑)。

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