2002年月組のときとは違い、星組『ガイズ&ドールズ』は「恋愛モノ」として楽しんでいる。

 02年月組は、個人の恋愛というより、もっと大きな愛の真理みたいな、漠然としたモノに感動していた。
 街に生きる人すべて、いや、この世界のすべての男と女、的な。

 でも今回はシンプルにスカイ@みっちゃんとサラ@風ちゃんの恋愛に感情移入してる。

 たぶんわたし、風ちゃんのお芝居好きなんだわ。チャンネルが合う気がする。
 風ちゃんは好みの顔でないため、ふつーにしていると視界に入ってこないというか、観ているけれどそれ以上ではナイ、感じなんだけど、彼女が「主人公」を演じていると強引に視点を合わされるのね。
 他にピントの合ったフレームを眺めているのに、風ちゃんが自力で自分にピントを合わせるの。
 あれ、なんか急に関係ないとこにピント合った……世界の焦点が変わって、自動調整かかった。……そんな感じ。
 関係ないっていうか、彼女はヒロインなんだからむしろ彼女にピント合ってて当然なんだけど、わたしがよそ見してたもんだから。
 で、風ちゃんにピントが合うと、世界が一気にクリアになる。
 当然よ、だってヒロインだもん。彼女を中心に物語が作られているんだから、そこへピントが合えば辻褄が合う。よそを観ていた方がおかしい、物語ってのは主人公に合わせた画面がいちばん楽しめるように設計されている。
 確かにその通りなんだけど、正しく「中心」に合った画面が提供され、「観やすい」ことに驚く。
 へえええ、こんな画面なんだ、こんな世界なんだ。……脇観る癖、端を観る癖が染みついたモノに、「真ん中」の視界を見せつけてくれる。

 強引にそれをされちゃうのが、面白いんだよなあ。

 サラに視点が合うと、こんなに「王道ラブストーリーなのか!」と驚くわー。やだ今まで気づいてなかったーー。
 あとはスカイの外見がもう少しわかりやすい二枚目だったらなお良かったんだけど、存在的にかっこいいからいいのか。
 スカイは二枚目っていうより、柴犬的な愛くるしさがある男なのかも。美形タレントが演じるより、性格俳優が演じる的な? 福山雅治よりも大泉洋的な? 02年が色男キャラだったからそのイメージで観ちゃって混乱したけど。

 サラに感情移入して、スカイに恋をする。
 ドキドキしたり、甘えたり、不安になったりする。
 それが、心地いい。

 フィクションの醍醐味だわー。

 02年月組が恋愛脳ナシに観ていただけに、「世界の凝縮感」が心地いい。
 「人間っていいわね。愛しいわね」とGoogle Earthで俯瞰して世界全体を眺めていたのが、視界がぎゅーんと狭くなって、地図がみるみるうちに拡大されていって、ストリートビューで顔がわかるとこまで持って行かれた感。
 で、そこにいた女の子の物語がはじまった。地図ではなく物語がはじまったの。動き出したの。

 楽しい。

 今回もまた、やっぱり『ガイズ&ドールズ』は楽しい。

 オープニングの街の場面からもお、目が足りなくて大変。
 本編も、ギャンブラーたちもっと観たいのに、なんでいつも一斉に出て来るの(笑)。
 サラ中心の視界だから、ギャンブラーたちとはあまりかぶらなくて、そこは助かってるけどラストの教会はマジ目が足りないし。
 組担は楽しいだろうなあ、リピートするたび発見があって。02年はそうやって楽しんでいたもの。

 アデレイド@ことちゃんが観るたびうまくて……初日はそれでも「男役」感があったのに、公演重ねるとそれもなくなり、かといってタカラヅカの娘役でもなく……「外部のミュージカル女優」になってる。
 めちゃくちゃうまいんだけど、タカラヅカの舞台ではちょっと違和感。この子このまま外部臭付けすぎるとまずいから、早く男役に、タカラヅカに戻してやって!と思う。
 あと、場の空気に馴染まない存在感はみっちゃんと双璧(笑)なので、みっちゃんとガチンコ勝負して欲しいと思った……芝居で。

 ネイサン@ベニーとことちゃんは合っていると思う。
 ベニーは良くも悪くもタカラヅカというか、タカラヅカでないと存在しないスターだと思う。
 だからこそ、そんなベニーの横にいることで、ことちゃんのタカラヅカらしくなさが緩和されている気がした。
 いいカップルだと思う。「ことちゃん、このまま紅さんのお嫁さん(トップ時の相手役、つまりはトップ娘役)になって!」という声があるのに、ある意味納得。
 ……でもやっぱりことちゃんは男役で!(笑)
 2002年月組の『ガイズ&ドールズ』では、ナイスリー@ゆーひくんの歌う主題歌に泣かされた。

 ピンク×黒のお洒落スーツに身を包んだ美青年が、明るくコミカルに歌い出す。

「♪男達が星を欲しがる みんな女の子のために」

 雨の中待ち続ける男、高い家賃を払う男、貯金して毛皮を買う男……すべては女のために。

 ナイスリーの背景には、女の尻に敷かれた情けない男達が登場する。
 荷物持ちしたり、赤ん坊の面倒をみたり。
 なんともかっこわるい、滑稽な姿。

 女のために生きる男はかっこ悪い。笑える。
 そう表現するように。

 だけどこの「滑稽な姿」は、なんともあたたかい。

 ナイスリー自身も「女のために生きるなんてくだらない」と言っているわりに、その「くだらない」者たちへの態度がやさしい。

 物語の「クールな男」たちは、女を泣かせて自分の生き方を貫く。物語は大抵そーゆー男をもてはやす。
 女ごときに足を取られない、むしろ女を足蹴にする男こそがかっこいい、と描く。
 『ガイズ&ドールズ』に出て来る男たちだって、ろくでなしばかりだ。ギャンブルに明け暮れて、女を不幸にする。(ここでアデレイドちゃん、くしゃみヨロシク)

 ろくでなしを描き、「女のために生きる男はかっこわるい」と言いながら……じつは、とても女にやさしい。

 ナイスリーの後ろで女の尻に敷かれているモブの男たちの、しあわせそうなこと!

 女のために滑稽になっている男たちは、ちゃんとしあわせなんだよ。
 自分の意志で、そうしているの。
 そして、それを揶揄しているようなナイスリーたち3バカトリオもまた、そんな男たちを結局のところ肯定している。唾棄するような目で見ない。

 ろくでなしのスカイが、ネイサンが、愛した女のために生き方を変える。
 かっこいいギャンブラーをやめて、かっこわるい勤め人になる。サラとアデレイドが妄想した「マイホームパパ」姿のように。

 自分を捨てて生き方を変える、おもねる、曲がる、流される……女のために、それが出来る男たち。
 しあわせそうに、やってしまえる男たち。
 それは滑稽かもしれないけど……最高に素敵。

 人生指南本には書いてあるよ、「他人を変えることは難しい、まず自分が変わりましょう」。
 でも我らがヒロイン、サラとアデレイドは「愛する男の生き方を変えさせる!」「それで結婚するわ!」と拳を握る。
 えー、そんな無茶な。
 でも、その無茶が通ってしまう。
 2時間かけて「生き方は変わらない、変えられない」とやってたのに、サラとアデレイドが「♪結婚するわ」と歌った次の場面では、変わっているし。

 だからそれは、愛の奇跡。

 男たちは、愛の前に敗北した。
 生き方を変えてでも、愛を選んだ。女を選んだ。
 嫌々ではなく、渋々ではなく、意気揚々と。
 主題歌を歌うナイスリーの後ろで女にへこへこ踊っていた男たちのひとりに、なったわけだ、我らがスカイもネイサンも。
 愛に敗北したこと……「♪すべては女のためにすること」と、誇らしく。

 だから泣けるの。
 「ガイズ&ドールズ(野郎どもと女達)」というこの主題歌に、「まさに主題歌!!」を感じて。

 この物語のテーマそのまま、愛に敗北することに、胸を張る男たちの歌。

 それを歌うのが、ナイスリーたち3バカトリオだってのがいいよね!
 たぶんいちばんなんにもわかってない奴らが歌っちゃうのがいいね!
 ナイスリーたちって、この物語の「スタンダード」な男たちだもの。中庸っていうか、基本値っていうか。
 そういう男たちが歌い、最後は主人公の物語がそこに帰着する、というのがいい。


 大好きな主題歌と場面だから、今回の星組再々演版でもたのしみにしていたんだけど……。

 ここでは、泣けなかったっす……。

 さやかさんはうまいから、はじめて(←)まともに歌詞が聴き取れた!てなもんだけど……うまさとは別。
 さやかさんのナイスリーは賢そうで、ゆーひくんのあっけらかんとしたバカさとはチガウのな。

 なにより、見た目が……。

 女に不自由しないだろう美青年が歌うから、よかったのよ~~。
 さやかさんのナイスリーだと、彼を愛する女は、彼自身、彼の中身に惚れてるんだと思える。人生の真理を知った中年男が歌うのは、チガウのよ。
 ゆーひナイスリーだと、中身より外見で惚れる女が後を絶たないだろうってもんで、「愛のなんたるかを知らない」のーみその軽い男の子が歌うのが、よかったのよ。

 や、あくまでもわたし限定のツボの話。
 再演のときの感涙ポイントが、「わー、歌詞わかるー、ふつーにうまいー」で、まったく意味合いのチガウ場面になっていたことに、おどろきました。
 や、もともとナイスリーはでぶ中年の役で、ゆーひくんが特異だったんだってことは、わかってる。さやかさんのが正しいことは。

 でも、正しいことに感動するとは限らないわけで。

 わたしはイレギュラーな再演版のナイスリーと彼の場面に、勝手な視点でテーマを解釈して感動していたのよ。

 勝手上等。
 それが間違いで、そんなこと思っていたのがわたしだけなら、なおさらラッキー、感動できて得したわ~~。


 今回の再々演版は、ツボは別のとこにあるからね。
 別のところで、泣けるから。
 違ってていいんだ。
 それこそが、再演の楽しみ。
 2002年の再演時、『ガイズ&ドールズ』の原作小説を読んだ。

 デイモン・ラニアン作『ブロードウェイ物語』。全4冊。

 ブロードウェイ界隈を舞台にしている、というだけで内容は個々まったく無関係な短編集。時代と舞台が同じだから、同じキャラクタや店が出て来る場合もあるけど、「オムニバス小説」と呼ぶには弱い。別の短編小説と捉えていいと思う。

 特徴は独特の語り口。
 すべて一人称の伝聞調、そのうえ現在形で書かれている。

 文体はクールでスパイシー。起こっている出来事はけっこうトンデモないんだが、飄々と語られてしまう。

 プロットが巧みで複数の事件やキャラクタが絡み合い、思わず「にやり」とする結末に行き着く。

 が、収録作品のクオリティの差がひどく、1~2巻と3~4巻の落差にショックを受けた(笑)。
 1~2巻は面白いのよ。でも、3~4巻のテキトーな感じときたら……。盛大な肩すかし。
 面白いプロットを組める人なんだと思う。それゆえに、「いつものパターン」で軽く書き飛ばすことができるんじゃね? 3~4巻収録作品はそんな感じ。「いつものパターン」「さらりとまとまってるけど、つまらない」「軽い、浅い」「マンガ的トンデモさ・ドタバタ感」。

 それにしても、文体の勝利だわ。「おれ」の目線と語り口が素敵でね。ある意味全編が叙述トリック入ってる感じ。

 ミュージカル『ガイズ&ドールズ』の原作になっているのは、1巻収録の「ミス・サラー・ブラウンのロマンチックな物語」The Idyll of Miss Sarah Brown(1933)。
 「ザ・スカイ」という渾名の男が、伝道師の美女、ミス・サラー・ブラウンに恋をした。彼はなんとか彼女に振り向いて欲しいが、賭博師の彼を彼女は嫌ってしまう。伝道師のサラーのために、ザ・スカイは賭博師のブランディ・ボトル・ベイツと魂を懸けた賭をする。ザ・スカイが勝てばブランディ・ボトルはサラーの教会で魂を救ってもらう、ブランディ・ボトルが勝てばザ・スカイが彼に千ドル払う。この噂が広まったため、たくさんの賭博師たちが押し寄せてくる。ザ・スカイは負け続け、ついに破産。そこへサラーが現れる。ザ・スカイ自身の魂を懸け、サラーと勝負。
 勝ったのはサラー。ザ・スカイは伝道師となり、サラーと結婚。
 だがこれはみんなザ・スカイの計画で、ブランディ・ボトルと一芝居打ったのだ。

 てな話。ほんと短い、さら~~っと終わっちゃう短編小説。
 …………なんか、ぜんぜんチガウんですけど。概ねラインは同じだけど……いちはん根っこになる部分がチガウ。
 サラーを騙して結婚、って、それ、まったくチガウじゃん、これじゃ別の話じゃん。

 ラニアン的にはこの方が正しい。この「騙して終わる」方法は、彼の得意パターン。作品の大半がこういうオチなの。突き放した文体で語られ、ウエットになりすぎず、皮肉っぽい。
 でも、ロマンチックかと言われるとねえ。『ガイドル』の方がロマンチックよね。
 ラニアンの小説のろくでなし共は、ほんとどーしよーもない奴らなんだけど、みんな憎めないというか、かわいいのよ。
 でも、このザ・スカイという男は好きになれないわ。

 それともうひとつ、原作としてよく引き合いに出される短編。「勝ち馬はどれだ」Pick the Winner (1933)。3巻収録。
《穴馬(ホット・ホース)》ハービーとミス・キューティ・シングルトンは、婚約してもう10年近くなる。金ができたら結婚する、と言いつつも、予想屋のハービーではどうにも金が貯まらない。マイアミでウッドヘッドという大学教授をカモにしようと、ハービーはキューティに水晶玉占いをさせた。水晶玉に映ったものを、ハービーは「南風号」だと信じて教授に賭けさせる。しかし南風号は大負け。教授はかんかん……ではなく、なんとキューティと駆け落ちしてしまった。教授から届いた詫び状は、婚約者を奪ったことではなく、水晶玉占いの勝ち馬のことだった。彼は水晶が映したものは「ミストラル号」だと思って、ハービーに内緒で賭けて大儲けをしたのだ。……ちなみにおれも賭けたのは南風号ではなく、「レッグ・ショー号」……風でご婦人のスカートが舞い上がる脚のショーのことさ。

 この話はほんと、おもしろくなかった。
 単に10年近く婚約したまま、男はギャンブラーってだけが『ガイドル』と同じなだけ。
 「ミス・サラー・ブラウン」の方がまだマシだな……っていうか、4冊の中で3巻がいちばんレベル低いものばかり収録されてる……。


 こんだけ「まったくチガウ」話から、モチーフだけ借りてミュージカル『ガイズ&ドールズ』を作ったのはGJ。
 元になっている原作より、ミュージカル『ガイズ&ドールズ』の方がずーーっと好き。

 ただほんと、元になっている短編が好みじゃないだけで、他の話は面白いのよ。
 いちばん好きなのは「サン・ピエールの百合(リリー)」かなー。これ原作にミュージカル作ってくれ……!
 悲しい、やるせない物語なんだけど、ただのウエットな物語におさまらず、ぴりりとした後味。
 すごく、かっこいい物語。
 数ある短編作品の中で、この話を全4巻の1発目にもってきたわけだ。テクニカルであり、デイモン・ラニアンという作家の作風が顕著に出ている。
 ろくでなしで、飄々としていて、ユーモラスで、かっこいい。

 同じハートで「レモン・ドロップ・キッド」も好き。とてつもない愛の物語。泣いた。
 プロットの巧みさでいちばん好きなのが「ブロードウェイの出来事」。こんな話書きたい。

 他のくっだらない話も、大体好き。マンガ的というか、ラノベだろこれ、とか思う(笑)。
 いかにもアメリカな、ブラックすぎる笑いについて行けず、閉口したりもするけどさー。

 語り口のせいかもしれないが、悲惨だったりトンデモだったりする話もみな、ファンタジックだ。

 ナイスリー・ナイスリー、ベニー・サウスストリート、ラスティー・チャーリー、ネイサン……知った名前のキャラクタが、『ガイズ&ドールズ』とはまったくの別人としてあちこちで現れるのもまた、楽しい。
 ビッグ・ジュールとブラニガンが恋敵だったりな……(笑)。ビッグ・ジュールとブラニガンが幼なじみで、ブラニガンが二枚目の若い男、でもって恋愛絡みってことは、BJも見た目のいい若い男なんだろーなー、とか、BJってば恋人からは「ジュリー」って呼ばれてるんだなにソレかわいい、とか。
 わたしはハリー・ザ・ホースが好きだった。バカでまぬけでかわいいの。

 小説を原作に舞台化するなら、これぐらい自由にしてもいいよね、ってくらい、原作とは別モノの『ガイズ&ドールズ』。
 キャラクタもストーリーもナニもかもチガウけど、原作の持つ「空気」はちゃんとあるんだもの。
 年寄りなので、昔話をする。

 2002年月組で上演された『ガイズ&ドールズ』で、わたしの萌えはビッグ・ジュールとナイスリーにあった。

 脚本上ではこのふたり、特に絡みはない。
 BJが絡むのはハリーとスカイとネイサンぐらい。
 脚本上では。

 でもこのふたり、脚本外で絡んでいた。

 ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンは、つかみどころのないお調子者。「ナイス、ナイスでやんすよ」が口癖の、陽気で人なつこい男。初対面でもハグ基本。つか、キス魔だよね。キスしようとしてかわされるの、ハリーにもスカイにも。
 ピンク×黒のスーツなんてトンデモないモノをキュートに着こなした、優男。長い手足を持てあますようにへらへら動き回る。
 テキトーな性格は問題アリだけど、ハンサムだからすべて許される。……そーゆータイプ。
 いつもご機嫌で、いつもお菓子を食べている。……舞台の上で、ほんとーに食べている。

 シカゴの大物ビッグ・ジュール。どう見てもマフィア、という貫禄の中年男……なんだけど、何故か手にはテディベア。寡黙というか他に問題があるのか、「クラップやろうぜ」以外口にしない、極端に無口で無表情の不気味(笑)な紳士が初登場し、ネイサンがたじたじになっている場面にて。
 ナイスリーはポップコーンを食べながら、チャラチャラと現れる。
 舞台中央では物語が進んでいるんだけど、ナイスリーは関係なく、下手端でへらへらしている。

 この下手端で。
 ナイスリーとBJはニアミスする。

 や、BJがナイスリーの前を通り過ぎて下手袖へ引っ込む、というだけのことなんだけど。
 ナイスリーはここで必ず、BJに絡む。

 ナイスリーとBJはこの時点で、まだ面識がナイ。ネイサンはBJと対面しているが、ナイスリーは遅れてやって来るので「BJの紹介場面」にいないのな。
 だからナイスリーにとっては「知らない男とすれ違った」というだけ。
 しかもこの「知らない男」は、手にテディベアを持っている。
 ふつー、テディベア持った強面の中年男が歩いてくるのを見たら、びびるよな? 「触れちゃいけない人だ」って視線逸らすよな?
 だけどナイスリーは何故か、自分からBJに絡む。
 にこやかにポップコーンを勧める。

 ここが日替わりっちゅーか、いつも好き勝手にアドリブしているところで。……たぶん、ポップコーン勧めること自体、アドリブだろう。ふつーに考えたらおかしいから。
 でもお調子者のナイスリーは毎回仏頂面のBJに、ポップコーンを差し出していて。
 BJはそれを無視して通り過ぎたり、振り払ったり……してたと思う。最初は。
 でも気がついたとき、BJはナイスリーからポップコーンをもらうようになっていて。
 あの仏頂面のまま、ナイスリーの差し出すポップコーン受け取って、食べる。
 いや、だからあの、あなたたち、初対面で。
 見知らぬ男から食べかけのポップコーンの箱を差し出されて、食べるかふつう? キモいよね? アヤシイよね?

 ナイスリーとBJ、という役の上では、こんなことをしているのは、おかしい。
 見知らぬ他人同士で、通りすがりのすれ違いざまに、ナニやってんだ。

 ただ単に、ナイスリーとBJの、中の人たちが仲良しだった、というだけだ。

 仲良しだから、アドリブで絡む。
 ふつーの客は中央の芝居を見ている、ビデオカメラだってストーリーに関係ある真ん中を映している、舞台端のモブがナニしてるかなんて、一部の人しか気にしてないだろう。
 それをいいことに、遊び過ぎだ、お前ら(笑)。

 ええ。
 BJはナイスリーのポップコーンを食べるようになっていた。
 けど。
 あるとき、ナイスリーってば箱ではなく手でポップコーンを差し出したんだよね。
 あーん、って、BJに。
 そしたらBJ、食べるし。
 ナイスリーの手から、直接、口で。

 ちょ……っ、お前ら……!!

「あーん」「ぱくっ」
 って、どこのバカップルだよ!!
 スーツのにーちゃんと、強面のおっさんで!!

 萌え死ぬかと……!


 クライマックスの教会場面でも、ナイスリーはBJにちょっかい出しまくりだしね。
 いちゃいちゃ、いちゃいちゃ、ナニやってんだお前ら。

 カメラに残らないところで、ストーリーに関係ないところで。

 いやあ、楽しかった。
 真ん中観てる場合じゃない、モブに紛れているふたりを観るので大忙しだった(笑)。
 それが、わたしにとっての『ガイズ&ドールズ』。

 甘いハンサムでとんでもないチャラ男のナイスリー@ゆーひ。強面無表情、キレるとヤバイBJ@ケロ。
 ナイスリーがBJ好き過ぎて、BJが迷惑そうに振り払って、でもまんざらでもなさそうで。
 横でハリー@越リュウがはらはらしてて、ベニー@さららんとラスティー@みっちゃんがニコイチで空気読まずにわちゃわちゃしてて。
 ハリーが「BJにちょっかい出すな」とナイスリーを牽制する様とか、それでもへらへら首を揺らして笑ってるナイスリーとか……かわい過ぎ。

 楽しかったな。
 ゆーひくんをいちばん好きだった頃かなあ。や、ご贔屓はケロちゃんだったんだけど、『ガイドル』の頃はケロよりゆーひくんに夢中だった。
 ナイスリーが好き過ぎて。
 プルミタス@『血と砂』とのギャップが……(笑)。

 ああいう底の見えない優男、好きなんだよなあ。


 なつかしい。
 再演を観ながら、ただもう、なつかしくて、愛しくて、切なくて、……あたたかいさみしさを噛みしめた。
 思うんだけどさー、マイルズ@まゆぽんって、アダム@佳城くんのこと、ヲカマだから嫌がってるわけじゃないよね。

 と、まだ『A-EN』ARTHUR VERSIONの話。
 てゆーか、マイルズ×アダムの話。

 アダムはマイルズロックオン、なにかっちゃーくねくねモーションかける。
 そしてマイルズは嫌そうに避けるし、逃げ回る。

 最初はヲカマに迫られて嫌がる男子、ごくふつーの反応、だと思ってた。
 でもアダムが本気で告白して、マイルズはそれを拒絶しなかった。
 え、アリなの? とみんながびっくりしたのち……やっぱりマイルズはアダムに迫られて嫌がってる。
 「ヲカマに迫られて嫌がる男」ってのは、定番のコミカルネタよね。ヲカマの出て来るマンガには絶対ある。だから、「マンガあるある」ネタだけで出来上がってる『A-EN』でも、それはあって当然。
 否定しなかったとは言え、やっぱり嫌がるのは「お約束」だから仕方ないのかな。否定しなかっただけで、ラヴラヴカップルになったわけじゃないし。
 笑えるから、いいのか。

 でも、あとになって思うの。
 マイルズくんは、アダムが女の子だったとしても、同じ態度を取るんだろうな、って。

 ラヴラヴカップル、てわけでもないのに、くねくねウッフン、とベタついて来られたら、相手が女の子でも「やめろよ」って引きはがすんだわ、マイルズくん。
 相手が積極的だから、とおいしくいただいちゃったりしない。流されもしない。
 嫌なモノは、嫌。

 ヲカマだから気持ち悪い、触るな、しっしっ、……ではなくて、まだつきあってないのに、べたべたすんな、なんだわ。

 なんか、開眼。
 目からウロコ。
 ラストのマイルズ×アダムが引っかかってたの。

 卒業後もマイルズはあたりまえにアダムと会ってて、アーサー@あーさに、「趣味が違いすぎるんだよなー。ぜんぜん好みじゃない服プレゼントしてくるし、まいったなー」てな愚痴こぼしてたり。
「でもソレ、着てるじゃん」「仕方ないだろ、すっげーうれしそうに持ってくんだもん」……てな。
 アーサーは(なにソレのろけ?)と思いつつ、とりあえず聞いてやる、とかな。
 話だけ聞いてると、女の子とつきあってるのとなんにも変わらない。
 マイルズの中では、区別はない。
 ダブルデートしたりなー。ヴァイオラ@小雪ちゃんとアダムくんは、ふつーに女子トークしながら盛り上がってて、アーサーとマイルズは「これだから女って……」と閉口してたり。

 あらやだ、楽しい。
 いくらでも想像できる。

 あー、好きだなー、マイルズ×アダム。

 うんほんと、好きだわ。(ムーミンゆったくせに!!)←だからごめん。
 マカゼ主演キターーッ!
2016年 公演ラインアップ【シアター・ドラマシティ、神奈川芸術劇場】<2016年5月・宙組『ヴァンパイア・サクセション』>
2015/11/06

11月6日(金)、2016年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ】【神奈川芸術劇場】の上演作品が決定いたしましたのでお知らせいたします。   
宙組
■主演・・・(宙組)真風 涼帆

◆シアター・ドラマシティ:2016年5月3日(火)~5月11日(水)
一般前売:2016年3月6日(日)
座席料金:全席7,800円

◆KAAT神奈川芸術劇場:2016年5月17日(火)~5月23日(月)
一般前売:2016年4月3日(日)
座席料金:S席7,800円、A席5,000円

ミュージカル・プレイ
『ヴァンパイア・サクセション』
作・演出/石田 昌也

ヴァンパイアが、不幸な過去を持つ少女との触れ合いの中で命の尊さを知り、「人間」になろうとする物語。これまでの耽美でシリアスなイメージを覆し、様々な弱点を抱えつつ21世紀に生きるヴァンパイアの親近感溢れる姿を、コメディタッチでありながらもハートフルに描き出します。
現代のニューヨークに甦ったヴァンパイア・アルカードは、700年という時の流れの中で、「退化という進化」を遂げ、生血の為に人を襲うことも十字架を恐れることもなくなっていた。ヴァンパイア研究家の末裔であるヘルシング16世とも友情を育み、彼のゴースト・ライターとして自らが過去に見聞してきた出来事を「幻想ロマン小説」として執筆する日々を過ごしていたのだ。ある時、出版記念を兼ねたハロウィンの仮装パーティに「ヴァンパイア役(本人役)」で参加したアルカードは、歯科医を目指す大学生のルーシーと出会う。次第に彼女に惹かれていったアルカードに人間になりたいという欲望が高まるが、それは「永遠の命」を持つヴァンパイアにとって、「自殺」に等しい決断だった。
 えー、なんか楽しそう。

 わたし、イシダせんせは苦手なんだけど、彼は最低限「商業演劇」レベルの作品は提供してくれる。物語になってないとか、作劇の基本から出来てないとか、そーゆーことだけはない、と思える。
 ふつーに楽しいエンタメ作品を書いてくれるんじゃないかな。ベタに笑わせて、泣かせる系の。
 その点では、楽しみ。
 …………わたしとツボがチガウというか、むしろ逆ツボにはまることも多いんだけどね。それは作劇とかじゃなく、スピリッツ、感性の問題。そこだけ不安なんだけど……。

 てゆーか、イシダでヴァンパイア、ってのが、楽しみだ。

 というのも、イシダせんせにはそういう「ファンタジックなもの」を理解する素養がない、ように思っていたので。
 彼の作るモノって、時代がどうあれ現実的。魔法とか妖精とか、「目に見えないモノ」にロマンを感じている様子が、まったくない。
 厨二的要素皆無のおっさん視点作品を作り続ける人。
 そういう印象だから、ここにきて「ヴァンパイア」という「ロマンチック」な題材を持ってくるとは……興味わくじゃないですか!

 あらすじ読む限り、ふつーのヴァンパイア物ではなく、イロモノ系みたいだけどな……。

 ヴァンパイアよりも、現代モノってのが、いちばんの不安要素かな。
 臓器移植キャンペーンが出ませんように。切実。


 博多座は『王家に捧ぐ歌』。
 まあ順当かな。『王家』は好きだけど、……あうー、アムネリス役が別の人になったら、遠征考える。←
 『A-EN』ARTHUR VERSION千秋楽、楽しく観劇したのだけど……ラストだけが、残念だった。

 千秋楽だから、サプライズはあるだろうなと思っていた。
 ダブル主演の暁くんが、挨拶にくるだろうなと。
 わたしの記憶に、ダブル主演ワークショップ『さすらいの果てに』の前半バージョン、えりたん主演千秋楽の挨拶時に、後半バージョン主演のキムくんが挨拶に来た、というのが焼き付いている。ああいう感じのが、あるだろうなと。

 そしたら実際、お芝居に登場。ARI VERSIONのキャラでアーサー@あーさに絡むのは、公演の宣伝にもなるし、いち早くそのキャラを観られたことは観客的にもお得でうれしいことだし、千秋楽のサービスとして、いい感じ。
 終演後の挨拶程度かと思っていたから、芝居のサプライズ登場は「やるな」と思った。

 しかし……。

 終演後、全プログラムを終えたあーさたち出演者挨拶時に、暁くんも呼ばれた。
 せっかく駆けつけてきてくれたんだもの、ここで舞台上に招くのは正しい。えりたん楽で、キムくんが挨拶したように。
 そこまでは、いい。

 挨拶の場に呼ばれ、登場した暁くんの姿に、驚いた。

 暁くんは、ポスター衣装(フィナーレの正式衣装)に身を包んでいた。
 えっ……?

 お芝居のブレザー姿か、あるいはもう、私服に着替えているかと思った……。
 ちなみに、『さすらいの果てに』のキムくんは、私服+素顔でした。あくまでも、「ご挨拶」に登場しただけ。

 わざわざ着替えて、スタンバイしてたんだ……。

 まあ、お芝居と違って、ショーのフィナーレ衣装に混ざるんだから、私服じゃ気の毒か……。
 そう思って見守っていると。

 いる。
 いつまでも、いる。

 幕が閉まる。
 カーテンコールの手拍子が続く。
 幕が開く。
 客席から声が上がる。
 千秋楽。

 が。
 ただひとり、千秋楽に無関係な人がいる。真ん中に。

 主演のあーさ(青)よりも、派手な衣装(赤)を着て。

 カーテンコールが続く。
 千秋楽おめでとー!!

 その中に、いる。
 いつまでも。
 関係ない人が。

 いちばん派手な衣装で、真ん中に、無関係な人が、居続ける!!

 ぽかーん……。

 あのー……。

 なんなんすか、これ……??

 千秋楽っすよ?
 このメンバーで迎える、最後の最後の瞬間っすよ?
 なんで、関係ない人がいるの?
 一緒に舞台作り上げた子たちが隅っこで、出演していない人が、真ん中にいるの?

 キムくんは挨拶だけで退場し、カーテンコールはえりたんたち、実際に公演を行ったメンバーだけだったよ?

 幕が閉まるたびに「次こそは、暁くんいないよね?」と期待し、幕が上がるたび、裏切られた。
 暁くんは真ん中にいた。
 キラキラ衣装を着て。ばっちり舞台メイクで。
 主役のひとりであるように。

 うあー……。

 月組、こわい……。

 またしても、思ったよ……月組容赦ない……。
 あーさ主演バージョンも、暁くんセンターか……。


 芝居に「役のキャラとして」登場したように、これは「決められた演出」なんだと思う。
 暁くんが出しゃばって、無関係なのにキラキラ衣装でセンターで手を振っているのだ、なんて、まったく思わない。
 演出家なりプロデューサーなり、キャスト以外の大人が指示したことだと思う。
 子どもたちは「みんな仲間」だから、一緒になって盛り上がっているのだと思う。内心「変じゃね?」と思っているかどうかは知らないが。

 だが、劇団のこの「暁くん推し」は、無神経だと思う。
 千秋楽は劇団のものかもしれないが、ファンのモノでもあると思う。
 舞台は観客なしでは成り立たない。同じ空間で、同じ空気を共有する、観客もまた、舞台を構成している一部なんだ。
 明らかな劇団推しのないあーさが、それでも半分だけとはいえ主演し、同期の絆とか演出でさんざん盛り上げた、その有終の美を飾る瞬間に……「劇団の本命様登場、センターに陣取ります」は……冷水浴びせられた気分だ。

 キラキラ衣装で挨拶に出てくれてもいいけど、カーテンコールは遠慮するべきだろう。
 カテコは「出演者」に贈るモノであって、「無関係な人」にいられても困る。

 暁くんも、居心地悪そうに見えた。わたしには。
 もちろん、終始笑顔だ。や、そうするしかないよな、彼としては。
 自分がこの舞台を作り上げたひとりなら、もっと別の表情をしていただろう。

 結婚式で盛り上がっているチャペルで、新郎が親友を壇上に引っ張り出し「僕の親友です、次はこいつも式を挙げるんですよ」と紹介したら、そりゃ参列客は拍手喝采するだろう。
 でもその「次に式を挙げる人」が、そのあともずーっと新郎新婦の間に立っていたら、おかしいじゃん。え、あの人いつまでいるの? 空気読めよ、ってなるじゃん。

 みっちゃんトップ初主演『大海賊』千秋楽に、出演してないのにキラキラ衣装のベニーが出て来て、センターでカテコまでずーっとニコニコ手を振ってたら、どんなことになると思うよ……。逆に、ベニー主演の『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』千秋楽に、出演していないみっちゃんが登場して、何回幕が下りても退場せず、真ん中で手を振り続けたら、どうなるよ……。
 そのときの、客席の空気は。ファンの気持ちは。

 暁くんは、そういう感じになっていた。


 暁くんバージョンの千秋楽にも、あーさは出演するだろう。
 それはダブル主演ワークショップのお約束というか、「すでに公演した実績」をひっさげて、「2バージョン全体の千秋楽」として登場するわけだから、アリだと思う。
 らんとむとみわっちの『くらわんか』なんて、その上専科さんのサヨナラショーまであったしな。
 しかし、まだ公演してもいない暁くんに「公演終了、よくやったカーテンコール」はおかしい。

 そのおかしいことを、暁くんにだけさせる劇団に、ドン引きした。
 こんなことしても、暁くんのためにならないだろうに……。芝居のサプライズ出演と、終演後に私服で挨拶、だけで、詰めかけたあーさファンは「ありちゃんかわいい!!」となったろうに。
 あーさの晴れ舞台を奪うカタチになったら、意味ナイだろうに……。

 月組こえぇ。
 そして、つくづく思う。

 月組って、プロデュースへたすぎる……。
 こんなことしてたら、人気スターを作れないよ。『A-EN』という作品自体は、スター人気を高められる作りなのに。
 いまさらですが、『A-EN』ARTHUR VERSIONの、UPしそこねていたあれこれ。

 わたしはるねくんがわからない……(笑)。

 たぶん彼は「美形」で「耽美」な人なんだと思う。
 新人公演も、そしてこの『A-EN』でも、彼はそういう役割、アテ書きがされている。

 でもわたしには、彼が美形で耽美な人に見えなくてなあ……。
 ここぞ! という耽美場面で美形登場! で彼が出て来ると「え」と思う。

 スタイルがとてもいいこと、学年的に破綻しない実力があること、は、わかるんだけど……美形……耽美……うーん?

 失礼なことを言って申し訳ない。
 ただの好みの話、わたしにはこう見える、思える、というだけだ。

 耽美キャラとして鳴り物入りで登場するるねくんを観るたび、「彼の魅力は別の方法の方が活きるのではないか?」と首をひねっている。
 ハムスターのような愛くるしい顔立ちを活かした、役割。あの子かわいい!と、大人のおねーさま方のハートをくすぐる方法は、「エロエロ耽美」「女装させたいほどの美青年」ではなく、むしろだめっこ少年ではないのかな。
 素直さとか誠実さとかを武器に、いじらしく一途にがんばっちゃう系。ちょっと自虐入っている、自信ナイ系。うつむいて涙目で、ダメダメなんだけど、いちばん大切なときにしっかりがんばれる男の子。

 勝手な妄想です。
 ただほんと、ルーベルトくんって、わかりやすい美形がやるから面白い役で、美形でない子がやってもただのカンチガイ男で格好良さがわからないっていうか……ごめん。
 アーサー@あーさに匹敵する美形が登場してくれないと、ライバルとして成立しないっていうか……。美形だけど変な人、だからキングにはなれない(アーサーが優勝)、という役だよね? 最初からアーサー以外選択肢のないコンテストじゃないよね?
 2部のショーでも、たぶんこれは美形枠なんだよなと……。

 もりえちゃんを思い出す。
 お顔は残念なんだけど、スタイル抜群だった。
 そしてもりえちゃんも、最初はわたし「お顔残念」と思っていたけど、晩年は「もりえかっけーー!!」って感嘆していたから、単に学年の問題かもしれない。
 大人になって、顔立ち以上に「男役」としてのビジュアルを磨き上げてくれたなら、スタイルの良さも加わって「最強!!」な美形に仕上がる。
 今はまだ、過渡期なだけかも。

 お顔が個性的なおかげで、大劇場のどこにいても「あ、るねくんだ」ってわかるもんな。これはすげー強みだし。
 今現在、偏った好みのこあらが、こんなことほざいてるけど、将来「あんなこと言ってごめんっっ!!」とひれ伏しているかもしれないし。(前科アリ。もりえとか、めぐむとか!)
 ソレを楽しみに、今現在の違和感を記す。


 単なる好みの問題、その2。

 かわいいヲカマちゃんアダム@佳城くんは、なんとも不思議な味わい。
 わたし、ヲカマちゃんは美形がやるものだと、勝手に思っていたの。女性向けコンテンツでは、オネエキャラって大抵美形だから。男性向けだと、ゴツイ不細工だったりするけど。
 『A-EN』は少女マンガだと思って観ていたから、アダムくんのビジュアルが不思議で。少女マンガ的「女より美しい美少年」ではなく、ふつうにクラスにいそうなビジュアルの、男の子。
 アダムの言動は少女マンガのオネエキャラの鉄板なのに、見た目は少女マンガではなくて、現実的。
 それが不思議で……初見では違和感だった。
 マイルズ@まゆぽんに迫って、最終的にオトしてしまう子なら、もっと美形であるべきでは……? 何故にムーミン系の子がやってるの……? と。

 でも、なんかソレもアリかなー、とは結果思うようになった。
 少女マンガ的美形じゃなく、丸顔のふつーの子がオネエで「プロムキング候補」にもなる好感度高い青年の恋のお相手になっても……それはそれで、楽しいか。

 てゆうか、うまいよね、佳城くん。
 ビジュアル含め、存在がリアルで困る(笑)。ヲカマキャラなんてイロモノで、しっかり芝居してるんだよなあ。

 マイルズが最後、アダムくんを否定しないのが、いいんだよな。
 アダムくんが美形なら「顔がいいなら男でもいいのか」と片付けられてしまうかもしれないけど、そうじゃないから、マイルズの男前度が上がるというか……顔ではなく中身で、アダムくんが魅力的だということだし。
 実際、いいヤツだし、アダムくん。好きだもん、あのキャラ。おかげで2回目はオープニングから佳城くん探しちゃったし。


 わたしが丸顔全般苦手なので、るねくんも佳城くんも絶対割り食ってる。
 でもでも、これだけ文字数使って語りたいくらい、気になってる。

 いやほんと……彼らの次の役が、出演作が気になる。
 やだ、なにこれ、ツンデレ感想? あ、あんたたちのことなんて、好きでもなんでもないんだからねっ。的な?
 宝塚大劇場の絨毯のやわらかさを知っていますか?

 大劇場の赤い絨毯、やわらかいです。クッションいいです。
 わたしは知りました。
 自分の顔で。

 そう、顔面で。


 えー、緑野こあら、ヅカヲタやって長いですが、このたびはじめて、大劇場の階段で転びました。

 大劇場、チケットもぎってもらった目の前って、大きな階段あるじゃん。
 銀杏型っていうの? 下はひとつで、真ん中に踊り場があって、そこから左右に分かれて階段が伸びているやつ。
 宝塚大劇場っていうとまずそこが映る、特徴的な豪華なエントランス。

 あの階段で、コケました。
 顔から。

 ふたつに分かれた下手側の階段を降りているとき、前へつんのめった。
 階段を降りているときにつまづくと、どうなるか。

 落ちます。
 顔面から。

 いやあ……相当長く生きてるけど、階段で、顔から落ちたのははじめての経験だ。

 スローモーションになるのね、感覚が。
 あ、つまづいた、と思った次に「落ちる」って思った。因果関係が咄嗟に理解できた。
 階段が、近づいてくる。
 足で踏むための段が、絨毯が、目の前に迫ってくる。
 このままだと、顔から落ちる。
 階段に、絨毯に、顔から着地する。
 そして、やべ、と思った。手、ふさがってる。利き手はトートバッグ持ってるから使えない。

 ちょ、待て、顔面から?
 それまずくね?
 まずいって!!
 ひえーーーー!!

 スローモーション。つか、意識のみが高速回転?
 つまずく→こける の間なんて1~2秒? そんな間に、いろーんなこと考えた(笑)。
 てゆーか、階段が目の前に迫ってくる、自分が顔から落ちている、あの感覚、あの視界……今でも思い出すわー。こーわーいー。

 へたすると死んでるわねー。首の骨折ったら逝ってるわねー。こあら、宝塚大劇場にて死す。……本望だけど、そんな傍迷惑な。
 生きてるから笑いごとだけど。

 高速回転でいろんなこと考えてたのに、実際、建設的なことはなにも考えられず。
 自分がどう落ちたのか、おぼえてないの。

 顔からダイビングしたはずなのに、顔から階段に激突することはなかった。
 咄嗟に顔をかばったみたい。
 そのときはわかんなかったけど、あとになって右の手のひらと左肩が痛んだので、咄嗟に右手(トートバッグ持ってたのに)突いて、左肩から落ちたみたい。
 そのあとで、顔も着地。顔はぶつけるのではなく着地、そのときに、あ、絨毯ふかふか、と思った。

 さて。
 顔から階段に激突、という状況は避けられた。
 しかし、「顔から階段落ちた」のは事実。その場合、どうなってしまうか。

 答え。
 起き上がれません。

 頭を下にして、階段にうつぶせで寝っ転がってる状態ですよ。うつぶせ大の字ですな。
 頭が下で、足が上。階段に沿って、逆立ち状態。

 起き上がろうとするんだけど、立てない。
 どこに力を入れればいいのかわからない。逆立ちしてるんだもの、足を動かしたって上体は倒れたまま。腕を動かそうにも、体重が上半身に向かってかかっている状態じゃ、ちょっとやそっとじゃどうにもならない。

 え、嘘、起き上がれない。……てことで、プチパニック。
 自分の身体が自分の意志で動かせない、って、あせるね。

 階段から落ちて、顔から落下(大ケガ)だけは避けられた、となればもう、あと考えることってひとつじゃん?

 恥ずかしいっっ!!

 少しも早く、ここから逃げ出したいっ!!

 わたしが起き上がれずにもがいているあたりで、「大丈夫ですか?」と声をかけられたと思う。
「大丈夫ですっ」
 めっちゃ本気の声で、即座に返して、転がるようにして起きた。
 身体を丸めるしかないんだね、逆立ちから起き上がるのって! 広がったまんまじゃ重力に負けて、動けない。勉強になったよ!

 身体丸めて転がるみたいに踊り場へ降りて、ぺたんとお尻ついてる状態で、そっから立ち上がって。ええ、段階踏んで、ようやく立ち上がれた。
 落ちても転がってもトートバッグは肩にかけたまんま、脇でしっかり挟んでて、落ちた携帯も拾い上げて、あとはダッシュ。
 階段降りて、ラウンジの方へ逃げた。

 逃げた。
 まさしく。

 階段の裏側であるラウンジからは、わたしが転んでいる様が絶対に見えないから。
 目撃者のいないところへ、逃げた。


 そこまで行ってからだ。
 あらためて、こわくなったの。

 よ、よく無事だったなヲイ。
 そこではじめて、手のひらと肩が痛んでいることに気づき、ついでに脛をぶつけていたことにも気づいた。階段で逆さ大の字になっているときは、痛みどころじゃなかった。

 そしてつくづく、幸運だった、と震撼した。

 いちばんの幸運は、周囲に誰もいなかったこと。

 わたしひとりが落ちて死のうが骨折しようが自業自得だけど、周囲に誰かいて、落ちるときに巻き込んでしまったら……?
 わたしみたいなデカい肉の塊に降ってこられたら、大抵の女性は吹っ飛ばされ、わたし以上の勢いで階段オチすることになるだろう。

 幕間の半端な時間で、ロビー中央階段にはわたしとあとひとりくらいしかいなかった。
 そのひとりが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた人だと思うけど、わたしが落ちてから何拍も経過してからだったと思うから、咄嗟に声もかけられなかったんだろーなーと思う。わたしだって、目の前で「顔から階段落ちして動かない」人がいたら、びびって石になるわ。
 その人が騒がずにいてくれたから、人だかりになることもなく、係員を呼ばれることもなく、わたしはそそくさと逃げることが出来た。

 危なかった……あと少し動けずにいたら、人を呼ばれて騒ぎになっていたかも。

 スカートじゃないから見た目的にもそう見苦しい姿で倒れていたわけじゃないと思うし、血は服の下で外からは見えないし、フタのないトートバッグなのに脇を締めていたから中身飛び散ってないし、バッグのポケットに入っていた携帯電話は飛びだしていたみたいだけど、何故か起き上がったときに「あ、携帯落ちてる」って冷静に階段から拾い上げられたし……不幸中の幸いっていうか、「落ちた」あと、リカバリ完璧じゃね??

 不幸と幸運に、心臓ばくばく。
 てゆーかケガしたところもそこに脈打つモノがあるみたいにバクバク(笑)。

 そして思った。しみじみと。

 大劇場の絨毯、やわらかい……!

 95周年のときだっけ、絨毯張り替えられたの。『太王四神記』初日の鏡割りのとき、大劇場に入って「あ、絨毯変わった……!」って思ったっけ。エントランスだけで、階段はどうだったっけか。
 あのとき、絨毯の柄よりナニより、踏んだときにふかっとして、そのやわらかさで「変わった」と思った……あのやわらかさを、まさか頬で味わうことになるとは。
 いやあ、出来れば一生知りたくなかったなー。(笑顔)

 や、いい経験をしました。長く生きてると、いろんなことがあるもんですな。
 てゆーか気をつけような、年寄りなんだから、足元には!!

 『新源氏物語』『Melodia』の、3回目の観劇時のことです。たしかポスカプレゼントがあった日のことニャ。
 『新源氏物語』3回目の観劇時に、いちばん惹かれたのが、六条御息所@カレーくん。

 ごめん、わたし勝手に「大人の女役をするカレーくん? そんなん、ぐだぐだダメダメになるに決まってるやん」てな思い込みがあった。
 初日から「あれ? 意外にいいじゃん?」とは、思っていたけど。

 なんか、泣ける……。六条御息所。

 六条御息所ってさ、源氏に似てる?
 なんか、心の弱い部分が似ている気がする。
 だから出会った最初はそれゆえに惹かれて、距離がなくなると、それゆえにつらくなる気がする。

 人間、弱点には敏感だよ。誰よりも自分自身が知ってる。だから過剰反応もするし、守ろうとするし、攻撃に転じたりもする。
 六条御息所と源氏は、ただもう、痛々しく見えた。一緒にいてもきっと痛いばかりで、だからといって無視することも出来ない、悲しい関係に見えた。
 いっそ離れてしまえばいいのに、たぶんそれも無理なんだろうなあ。濡れた傷口が触れあって、不自然に融合してしまい、引き離すには流血必至、肉ごと引きちぎるか、外科手術が必要、てな。
 それが出来ないから……共に目を逸らす性格だから、傷口がいつか乾いてかさぶたがはがれるみたいに皮膚からこそげ落ちるのを待っている。
 ……と、女の方がそれに耐えられずに暴走した、と。ナイフもって強引に傷口に突き立てた……みたいな。

 うわ、痛い。
 つらい。

 そう思った。


 みりおくんの光源氏が魅力的なのは、彼が卑怯だからかもなー、なんてことも、つらつら考えた。
 卑怯……って、言葉悪いけど、自分が罪を犯していることを知りながら、そこから逃れられずにいる、そこでもがき続けている……その、もがき続けること自体を肯定しているというか、受け入れている感じ。
 罪を犯している、では改めよう! とはならないの。
 より深い闇を見つめ、ずっしりと背中に苦悩を背負ったまま、粛々と歩き続ける。
 改めも反省もしない、だからこれからも罪を継続するし、もう一度やり直せるとしても同じことをするだろう、てな。
 そして自分だけでなく、周囲にも苦しみを与える。
 ずるいねー。ひどいねー。

 だけど、魅力的だね。
 胸が痛くなるような、切ない男だね。
 こんな男を愛したら、ずっと彼の背負った闇に片恋することになるね。
 彼の闇ほど、彼の心を自分に向けさせることが出来なくて。


 みりおくんのお芝居自体は、とくにわたし好みということはなく、むしろわたし、みりおくんには鈍感というか、伝わりにくい体質みたい。
 だから彼から受け取る情報量が少ないために、勝手に思い込んでいる節は大いにある(笑)。
 いいのよ、私は観たいモノを観るんだから。
 みりお様は今のままのみりお様で、わたしは彼にドリームするのよ。


 カレーくんとみりお様で、ドシリアス芝居観てみたいっす。
 ふたりは色が違うのだけど、持っている濁りが同系色なのかなと思った。別の色でも、同じ色の影が付くと1枚の絵として落ち着く、みたいな。
 初日に観たときは、めちゃくちゃ感動して、大泣きした『新源氏物語』ですが……。

 何故だ。
 2回目観に行ったら、すっげー眠かった。

 なんつーかこー、平板な演出だなあ……。
 もう少し緩急付けることは出来なかったのか、とか、話わかりにくくね? とか、台詞聞き取りにくいなあ、とか。
 席の問題かなあ。初日は2階席で、2回目は1階上手前方だったんだけど。

 席が近い分、キャストの顔はよく見えて、それは楽しいんだけど、話がどうにも……「遠い」なあ。わたしの心が、物語に対して距離を感じている。
 なーぜーだー。

 ジェンヌさんの顔を見ることにかまけちゃって、気持ちが散漫だったのかな。
 わたしには多分にそーゆー面がある。浅い人間なので、「舞台に近いー、きゃ~~うれしい~~」「ジェンヌさんと目が合った~~」だけでお手軽に舞い上がれる。で、そっちに気が行って、物語をまともに咀嚼できなくなる。
 『ガイズ&ドールズ』もそうだったんだよなあ。初日は2階B席で観て大泣きしたくせに、2回目は1階5列目で観てぜんぜん泣けない、とかな。
 いやあ、人間小さいっす。

 わたしの問題ではあるのだけど、それにしてもこの『新源氏物語』、客を選ぶ話じゃないか?
 わかりにくいわ~~。
 なんつーか、「積極的に物語に入っていかないと、閉め出される」感じ。
 なんの気概もなく、「与えられて当然」な気持ちで椅子に坐っていると、目の前にカーテン閉められちゃうの。紗のカーテン。なにが起こっているのか透けて見えるからわかるんだけど、ぼやけた状態でしか見えないから、入り込めない。
 なにもしなくても「与えられる」と思わずに、自分から「関わってやるぞ!」と前のめりになってはじめて、物語が見えてくる。

 初日はわたし、すっげー前のめりだから。気持ちが。
 すべてを味わってやる、って鼻息荒く舞台に集中している。
 だから、物語への耽溺度がすごい。
 めっちゃ入り込んで感情移入して、わんわん泣く。

 わたしは欲深いから。
 余計な雑音なく、自分で、すべてを味わいたい。
 すでに観た人の評価だとか感想だとか、耳に入れたくない。それがなんであれ、「わたしが」判断したい。
 「わたしが」感動したいんだ。
 わたしはわたしが欲しいモノを得るために、最大限の努力をする。
 チケットを取ることも、その日時に劇場へ行けるようにすることも、努力。
 そして、「味わってやる!」とゆるい感性叩き起こしておんぼろ集中力に激飛ばして、目の前の舞台に食らいつくのも、努力。
 わたしが、そうしたいから。
 わたしが、愉しみたいから。

 初日はねえ、体調や精神状態がどうあれ、テンションMAXで臨むからなー。
 でもリピートだと、そこまでいかないというか、ゆるむというか……。

 あああ、せっかくの良席で、なんでこうゆるくなっちゃうんだわたしは。
 もっともっと、研ぎ澄ませて受け取りたいのに。いろんなことを。
 もったいない、や、「わたし」が。

 くそー。
 集中力の衰えは、ほんと加齢を思い知りますわ。若い頃はもう少し、自在に視点を置けたのにな。老いるというのは切ないことですわね……ほろほろ。
 でもま、そのときそのときに感じたことが財産、わたしの糧となる。それは、これから先さらにわたしが衰えたとしても、変わらない。
 そのときそのときが、その時点での真実。その時点でのわたし。

 集中力の低い状態で観ると、紗のカーテン越しのように感じてしまうのもまた、まぎれもなくわたしの感想。

 はー、みりお様美しい……。
 それだけのことに感動する。それもまた、まぎれもない真実。
 新生宙組だー! とか、まぁくんとマカゼががっつり組んで全ツってわくわく! とか、まぁくん時代のはじめてのショー作品! とか、いろいろ期待があるけれど。
 ちょっと待って、わたしなんか忘れてる。

 ……はじめての、ショー作品。
 て、ことは、だ。

 まぁくん、初主演?!

 ショー作品にて。

 芝居なら、それこそ新公からはじまって、何十回と経験してきたろうけど。
 役として真ん中に立つのではなく、「朝夏まなと」本人として真ん中に立つのは、はじめて?

 おおお?
 なんかすごくね?

 と、実は幕が下りてから気づいた、『シトラスの風III』初日。

 ショーの主演、てのはトップスターだけの特権と責任だからねえ。
 そうか、まぁくんがついにトップスターかあ……あの貧ちゃんがねえ……。(こあらはまぁくんが貧ちゃんを演じた回を観劇してます。それがまぁくんを個別認識した最初でした)

 それまで完全モブだったのに、『マラケシュ・紅の墓標』新公で突然主演に抜擢された研4のときから、丸10年。「スター」と扱われ続けたまぁくんなので、「ショー初主演」だからナニ?ってもん。
 こちらもすっかり忘れてました。
 まぁくんは真ん中に立つ人、と、ずーっとずーっとあたりまえに劇団が示してきた通りに。
 違和感なく受け止めていた。

 でもなんか、疲れたなあ、と思って。

 幕が下りたあと。
 楽しかったんだけど、なんだ? なんか、疲れたぞ?

 なんでだろ、と考え、まぁくんなんか力入ってたな、テンション上がって力んでるっていうより、なんだ、抜くことが出来ないから硬いままって感じで…………あれ? あ、そういえば、初主演??

 遅ればせながら、気がついた。
 そうか、はじめてだったんだ。そりゃ力も入るわ。
 ベテランの域であることと、はじめてであることが融合して、なんとも疲れるアツさがあった。

 あとになればなるほど、ちょーしこいて……もとい、調子に乗っていくようで、彼のスピード感が頼もしく、でも完全安心も出来ない感じがスリリングで。
 いいよなあ、まぁ様(笑)。


 そして思うんだ。
 あれ、マカゼ氏も……ひょっとして、初全ツ2番手?

 マカゼ氏もほら、抜擢続きでここまで来た、超路線スター様じゃないですか!
 入団した翌年には、大劇場で薔薇の花くわえてせり上がりしちゃうような(新人公演)、とんでもない扱いを劇団からされてきた人ですよっ(笑)。
 しかも若手時代から大物感漂う人でしたから。

 ピンときてなかったわ……こちらも初体験だったのね……。

 マカゼ氏はショーの新公主演経験者なので、キャリア面でまだマシっちゃーマシだけど。
 でもマカゼって全ツ経験自体圧倒的に少ないよね。いつも別箱で芝居やってるイメージ。

 組替えしてきてそれほど経っているわけでもなく、経験自体僅少の全ツで、組としてはじめてのショーで、いきなり2番手スターとして全国回れ、てか。
 そりゃ大任だなああ。
 いっぱいいっぱいにもなるか。

 新公のときは貫禄すらおぼえたのに、今回はなんか余裕ナイ感じだなあ、と思って観てたんだ。そりゃそうか、はじめてなんだ。顔はちょーベテランだから、わかってなかった……。

 といってもわたし、マカゼ氏がノリノリでちょーしこいてるとこ、観たことナイわ。彼はいつも余裕ナッシングな感じ。わたしが初日ばっか観てるせいかもしんないけど。
 表情乏しいせいもあるかもしんないけど。


 まぁくんのギリギリぶりはアツく外に向かっていて、マカゼのぎりぎりぶりは静かに冷や汗かいてる感じ。
 いいコンビじゃないですか、このふたり?

 芝居もショーも、初日の段階ではあまり噛み合っているとは言えず……や、別に悪くないんだけど、相乗効果による+αがなかったので……きっとこれから、なんだろう。
 このふたりは、これからはじまる。
 持ち味の違いが、きっと思いもしない化学反応を起こす。
 わくわくっ。

 見た目の格好良さは、周知のこと。長身の男前がふたり並んでるだけで、なんという破壊力。「ええもん観た~~!」感。
 これで芝居の相乗効果まで加わったら、こわいものなしだな!

 わたしが宙ファンなら、すっげー楽しみに全ツを追いかけただろうなあ。
 ダニエルとスタンは掛け合い命の役だし、ショーは「これから」変わっていくことが予想できる余白がいっぱいだし。

 いいなあ、宙組。
 わくわく。


 みりおんは、なんつーか、変わらずみりおんで。
 いやはや逞しい(笑)。

 まぁくんとマカゼでみりおんを取り合う、ドシリアスなメロドラマとか観たいなああ。
(だから『哀しみのコルドバ』が観たかったってばよ……)


 あ。
 ショーではやたらとかずきそらが目に入りました。
 かずきそら、って実はふたりか3人いるんじゃね?(てくらい、やたら見かけた。どうした、わたしの目)
 『シトラスの風III』の創作意図はどこにあるのだろう?

 『シトラスの風』初演は「宙組スタート」として意欲に満ちたものだったんだなあ、と、焼き直し作『シトラスの風III』を観て、改めて思う。

 初演は、新しく出来た組、新しい意識の組、タカラヅカの未来を担う組……その希望と誇りがびんびん伝わってくる公演だった。
 「タカラヅカ」としてやれること、全部やっちゃいます的な。それが行きすぎて、「高校生の創作ダンス・青年の主張演説付き」みたいな、トホホな場面があったりな。

 宙組創設公演の作品を、新生宙組スタートに再演する。
 それだけなら、「スタートだ!」というわくわく感があり、まぁ様率いる新生宙組、今の宙組に相応しいモノだと思える。

 ……けど、実際はどうだろう。
 新生宙組スタート、っぽくなってるか?
 どのへんが?

 初演時は、トップコンビのずんはな、2番手たかこ、3番手ワタル、と、きれいにピラミッドが出来ていた。つか、当時のタカラヅカはそれがあたりまえだった。
 もともとタカラヅカは、トップを中心としたピラミッド制度が似合うカンパニーだった。妙齢の女性だけで構成された劇団ゆえ、表現できるモノに制約がある。限られた範囲で「世界」を構築するのは困難で、それを潤滑にするツールのひとつとして「スター制度」「明確な序列」が有効なんだ。
 なんで何十年もこのシステムで来たのか。それが、有効だからだ。「みんなが主役」「公演ごとに序列が変わる」だと、興行として成立させるのが難しかった。長い歴史の中で、有効なシステムが自然と構築され、根付いた。
 大階段でのパレード、最後に大羽根を背負ったトップスターが登場する、など、無から突然ソレが出来たのではなく、必然的にソコへ行き着いたのだと思う。
 有効だから。
 『シトラスの風』初演もまた、その「タカラヅカの基本」を、「有効なツール」を、当時としてはごくふつうに、そのまんま活用していた。

 のに、『シトラスの風III』では初演のスター配置を無視し、近年のタカラヅカの迷走ぶりを表している。
 つまり、初演のきれいなピラミッドは影を潜め、「トップコンビとその他大勢。番手ぼかしが最優先事項」という構成。

 テル時代の宙組は、トップ以外は誰ひとり立場が決まっておらず、2番手が誰か3番手が誰か不明なだけでなく、トップ娘役が誰かも秘密になっていた。
 たぶん、トップ娘役はみりおんで、2番手がまぁくんなんだろうけど、実際の舞台は、たぶん、としか言えない曖昧なモノだった。
 わたしは裏トップ娘役兼裏2番手のヲヅキファンだったので、彼が宙組で「トップの次の位置」にいるのを、愉しまなかった、というとまったくもって嘘になっちゃうのだけど、古いヅカヲタとして、そーゆー宙組の状態に疑問も持っていた。愉しんでるくせに不満ってなによダブスタひどい。そうなのよ、ダブスタなのよひどいのよ、でも本心。

 テルキタ時代が終わり、新しい時代が来た。
 まぁくんの治世に合わせて組替えしてきたマカゼは、入団前から折り紙付きのトップ候補生、揺るぎない路線人生を歩んできたスターだ。番手ぼかしされることなんてあり得ない、鳴り物入りスター様。
 お披露目公演の『王家に捧ぐ歌』は男役2番手がやるほどの役のない、番手ぼかし作品のひとつだったけど、マカゼに限ってソレはない、たまたま『王家に捧ぐ歌』だっただけで、彼は宙組の単独正2番手だ、今度こそ宙組で、美しいピラミッドを観られるんだ……そう、思っていただけに。

 なんで、せっかくの「新生宙組」で、宙組誕生の番手はっきり『シトラスの風』を持って来て、「番手ぼかしが最優先事項」やっちゃうかな。

 初演で2番手が演じていた役をすっしーに、そして3番手中心だった場面は消去。
 おかげで2番手に大きな役はなくなり、3番手に至っては場面も持たせてもらえず。
 トップコンビ以外は目立たないように気を遣う、宙組の悪しき伝統再び。

 えーと、まぁくんの宙組もこーゆー体制で行くの……?
 まぁくん時代の「はじめてのショー」で、トップから3番手まで全員出演したショーでこういうことされると、「ああ、そうなんだ」と思われても仕方ないよねえ?

 なんで初演でも人気のあった「トップ娘役(美女)を、トップスター(美男子)と2番手(美男子)が争う」という、タカラヅカ定番場面を、「トップコンビの場面」にしてしまうのか。
 たかはな時代はたしかにそうやって、たかはな以外は活躍しないよう気を遣われてきたし、テルキタ時代も番手ぼかしに精を出していたけれど。
 代替わりしてもまだ、そーゆーことをするのか。

 いやあ、たかこの演じた2番手役ですっしーが出て来たときは、アゴが落ちました。
 中日再演時は「2番手」がそもそも出演していない公演で、「トップスター候補」以外にこんな大きな役をやらせるわけにはいかない、ということで、あえてすっしー、という「宙組らしい」配役も仕方なかったのかもしれないけど。(若手にやらせりゃいいじゃん!とわたしは思うけどなー)
 マカゼという劇団お墨付きの「トップスター候補」にすら、「大きな役をやらせるわけにはいかない」のか。宙組って……。
 や、前後にマカゼ中心の、2番手に相応しい場面と役が用意されていて、それゆえにこの役をやることが出来なかったんだと、勝手思って観てたから、それすらなくてさらにアゴを落としたのですよ……宙組ェ………。

 3番手はたぶん愛ちゃんなんだと思うけど、彼にはろくに見せ場がナイ……。真ん中に並んでたから、あの場面は愛ちゃん中心とカウントしていいのかな?程度の、よその組なら番手外の若手でもやっていそうな役割のみ。
 初演では、ワタルくんがやたらめったら長い場面を、タキさんとふたりして任されてたっけ……ちょーびみょーな場面だったけど、それでも「3番手」として立ち位置を示すことは出来た。

 トップコンビ以外は、扱いが軽い。
 今までの宙組と変わらずに。違和感なく。

 新生宙組も、こうなんですかい。
 せっかく『シトラスの風』なのに。
 新しい風が吹かねえ……。


 はじめてのショー作品なんだ、トップから3番手まで勢揃いして出演しているんだ。
 この体制でやりますぜ!! と、お披露目してくれてよかったのに。

 「代替わりしました、でも現状維持です、ヨロシク」てのは、わくわくしない……。
 全国ツアーは再演作品になる。
 これは基本。だから、再演自体に問題はない。

 ただ、新鮮味のない「再演」はつまんないなあ。
 特に、ショー。

 中日公演の『シトラスの風II』を観ていないので、わたしが『シトラスの風』を観たのは前世紀が最後だ。84期初舞台公演、宙組創設公演。
 たかちゃんファンだったわたしはもちろん複数回ナマで観ているし、新しい組の誕生にどきどきわくわく、感動して観ていた……のを覚えている。
 再演を観ていないんだから、17年ぶりの『シトラスの風』体験になるわけだ。

 なのに。
 『シトラスの風III』の、新鮮味のなさはどうだ。

 ぶっちゃけ、「明日へのエナジー」見飽きた。

 この17年の間に、「明日エナ」何回やったよ……。

 『シトラスの風』はこれでようやく2回目の再演なのに、「明日エナ」だけは何回も何回もあちこちで、えんえん。

 「名場面」と言われる場面を、1回限りの使い捨てで終わらせるのは惜しい。ショーなんて場面ごとが独立した存在だから、名場面だけ別の作品に入れても構成的には破綻しない。だから、リサイクルする。
 ……のは、別にいい。実際「明日エナ」は素晴らしい場面だ。

 しかし、そうやってリサイクルに出した作品は、もう元の作品としては不完全である。
 1枚の絵から、「この風車だけはよく描けたんだよねー。このまま埋まらせるのは惜しいから、今描いてる絵に貼り付けようっと」と、一部分切り抜いた。新しい絵はそれで1枚の絵に仕上がったかもしれないが、元の絵は、一部分が切り取られて空洞になっている。
 その空洞になった絵を、「商品です。お金出して買ってください」と出してくるのはよせ。
「空洞じゃないですよ、切り抜いた風車はまた新しい絵から引っぺがして、元の場所に貼りましたから!」……って、そういう問題じゃない、切り取ったあとが残ってるし、この風車を使った別の絵で商売したあとじゃん!

 繰り返すが、「明日エナ」は名場面だから、使い回すこと自体は別にいい。
 でも、「明日エナ」ありきの『シトラスの風』を再演するのは、「なんかチガウ」と思う。
 なまじ、「明日エナ」が正しく機能していた初演『シトラスの風』を知っているから。
 あちこちで便利使いされて色褪せた「明日エナ」を「貼り戻した」様を見せられてもなあ。

 なんで今、『シトラスの風』で、なにが『シトラスの風III』なんだろう?
 まぁ様と新生宙組に、はたしてこの作品がベストか? 他に選択肢は、可能性はなかったのか?
 何故『シトラスの風』の焼き直し、『シトラスの風III』か。

 ……わたしには、ただの手抜きに見えた。


 まあねえ、岡田せんせになんの期待もしてないけどさー。
 過去作品の切り貼りだけでなんとか体裁取り繕ってるご老体だもんなー。
 『Rose Garden』の薔薇を水仙に変換しただけで『ナルシス・ノアールII』にしちゃうくらい、プライドも意欲も霧散した人だからなー。テーマ部分変えたら意味ナイ、ってふつーの創作者なら思うことを、まったく考えず、楽することしか頭にないっぽいもんなー。

 それでもみっちゃんの全ツ『Amour それは・・・』は成立していたと思う。
 みっちゃんが昭和スターで、岡田作品と合っていたからだ。
 スターに合うなら、昭和でも過去の遺物でもなんでもいい。タカラヅカはスターありき。

 しかし、まぁくんとみっちゃんを、同じ手法でまとめるのはよせ。

 まぁくんも実は古いタイプのスターさんだと思ってはいるんだけど、それでもみっちゃんとはチガウから! まったくもってチガウから!

 岡田せんせの「ナニも考えてない」ところが痛いです……。

 まぁくんの客席降りの長さはナニゴト。

 みっちゃんはまだ、成立した。
 本気で歌ウマ、プラス、主張の激しい歌声だから。押しつけがましいから、声だけでも存在感ある。や、悪い意味に取らないでくれ、昭和のスターさんってのはそれくらい「やさしくない」強さががあった。
 でも、まぁくんはチガウ。
 空っぽの舞台を客に何分間も眺めさせて問題なし、なほどの圧倒的歌声、では、ごめん、まったくない。歌唱力も、表現力も、押しつけがましさも、すべてにおいて。

 星組全ツと同じく3階席だったんだけど、ちょー歌ウマみっちゃんでも「演出家クソだな(毒舌)」と思ったのに、まぁくんでも同じことをするとか、わたしの岡田嫌いにさらに拍車が掛かりました(笑)。

 創作者としていーかげんな人が嫌なのよ。
 手抜きとか不誠実とか、ほんと無理なのよ。

 創作者として、誇りとこだわりをもって作劇していたら、過去作の切り貼りとか恥ずかしくて出来ないじゃん?
 過去は過去として大切にしたいけど、「それよりもっといいモノを創ってやる」と思うじゃん? 「私の最高傑作は次回作だ」であるべきでしょう?
 そうでなければ、クリエイターなんかやめちまえ。

 と、思っちゃうのよねえ。他人事だから、気軽に。


 今の岡田さんは「終わった人」だと思っているけれど。

 「明日へのエナジー」は素晴らしいと思っている。

 見飽きたとか言ってごめん。
 見飽きるぐらい何度も安く再演され続けてきた、それでも風化しない力強さのある名場面だと思う。

 いいものは何度観たっていい。
 感動する。

 だから。

 こんな素晴らしいモノを創った人に、誠意のナイ作劇をされるのが、エンタメ好きフィクション好きとして、とてもとても残念なんだ。
 フォンダリ@すっしーのひとり勝ちに見えた。
 宙組全国ツアー『メランコリック・ジゴロ』のフォンダリ一家。

 ルシル@うらら様を観ながら、不自由な人だなあ、と思った。
 なんでこんなに似合わない格好してるんだろう、せっかく美人なのに。
 そう思った。
 まずビジュアルから違和感を持ったわけだ。
 ……「ルシル」として生きているなら、思わないよなあ、「似合わない格好」とは。だってルシルはそのテイストでその年齢まで生きて、日常を送っているんだもの。
 美しいのも品があるのも考えもの。なんとも収まりが悪い。
 そして、「柄違いの役」をねじ伏せるほど、演技力に恵まれた人でもナイので……彼女の最大の武器「美貌と、そこから出る雰囲気」を使えないと、アウェイ感丸出しになっちゃうのな。

 ミスマッチのおかしさ、というものはある。
 気品ある美女が下品な格好で野蛮なことを言う、ギャップゆえの面白さ。
 演出家もそれを狙って配役したのかもしれない。

 でもそれなら、相手役は彼女の芝居を受けられる人にしないと……。
 ルシルの相手役は、バロット@愛ちゃん。

 愛ちゃんはコメディを得意とするスターさん。
 でも、彼の得意なお笑いキャラって、バロットと対極にあるキャラじゃね?
 能動的というか、自分からガツガツおかしなことを言い、笑わせるタイプ。
 バロットは正塚作品らしい「間」で笑わせるキャラクタだからなあ。正塚芝居出来ない人がやると、キャラの色がくすむなあ。

 うらら様と愛ちゃんは、シリアスに愛を語るとかの方がハマるんじゃないかな。
 正塚芝居のコメディリリーフは任じゃないというか……向いてなさ過ぎて分が悪いというか……。すっしーひとり勝ち。


 てなわけで、わたしにはよりくっきりと、主役ダニエル@まぁくんが浮かび上がって見えた。

 ああ、ダニエル主役だねえ……。
 彼がこの物語の中心にいて、彼がなんやかんや言いつつ回しているんだねえ。
 や、そもそも主役ってそういうもんだけど。『メラコリ』って主役がいちばんふつうで常識人、周囲はとんでもない人ばっかで大変、へたすりゃ主役目立たないよ!的な作りだから。
 ふつーの言動をしてるだけでも、ちゃんと主役として立ち、話を進めていることに感心。
 かっこいいなあ、まぁくん。

 フェリシア@みりおんは、言うほどトロい女の子には見えず……図書館でも先輩とフェリシアだと、先輩の方がイラッとくるキャラだよな、と思えちゃうあたりなあ……(笑)。
 ダニエルとの場面も、台詞もちょっと変わってる? どこか忘れちゃったけど、観ていて「あれ? 違う?」と思う箇所があったよーな。
 つか、ラストがいちばんちがっているような。

 みりおんが演じると、リアルになる。現実味のある女の子が浮かび上がってくる。
 だから、いかにもフィクションなトロ子ではなく、現実の範囲内の不器用な女の子になるんだろうな。
 ファンタジー感は薄れるのだけど、それはみりおんの持つ味、カラーってやつだから、それゆえの魅力を出していけばいい。

 まぁ様は適度に嘘くさい人(褒め言葉)なので、みりおんの現実味とバランスが取れるといいな。


 なんか勝手に「正塚ってかずきそらタイプ好きじゃね?」と思い込んでいたので、そらくんがモブっていることに違和感を持ちました。や、勝手に。なんの根拠もなく。メインキャラじゃなくても、もっとオイシイ使い方するのかなと。勝手に。
 『スカウト』でだいもんモブなんだー、へー、と思ったのを思い出した。や、だから根拠なし、ただなんとなく、わたしの中でこの辺つながっているらしい(笑)。


 全ツは再演作品が基本とはいえ、まぁくんに正塚が来るとは意外だった。
 だって正塚作品のまぁくん、扱いがいつもひどかったからなー。
 『La Esmeralda』新公では台詞ひとつふたつのモブ(同期や下級生が番手役)、『カナリア』再演では3番手役が7期も下の子で、まぁくんは4番手役やってたんすよ、大劇場本公演で3番手役を役替わりで演じているようなときに、別箱公演で番手オトされるって……。
 まあ、正塚せんせ、個性的な配役するからなー。
 『カナリア』を観たモノとしては、感慨深いっす……正塚作品で主役を演じているまぁくん!!

 ただ、なんつーか、まぁくんは正塚役者ではないんだなあ、と思った。正塚芝居で主役を演じているからこそ、感じた。
 育ちってのは出てしまうものなのか……まぁくんって現代の若者なんだけど、植爺-谷ラインにがっつり育てられた人、という感じ。大芝居系っていうか。
 だからこそ正塚とは接点なくきたんだろうな、とか、だからこそ真ん中向きなんだろうなとか、とりとめなく考えた。

 まぁくんの持つ嘘くささ(褒め言葉)は、ヅカの骨組みである「大仰な嘘」にしっかり根っこを張って育ってきたところにあるのかなと思ってみたり。
 タカラヅカに必要なのは「幻想(嘘、ハッタリ)」だもん。
 植爺や谷の歌舞伎や時代劇は、タカラヅカというファンタジーを作る方法のひとつだった。や、現代では古すぎて、そのまんまじゃ無理なんだけど。
 まぁくんは花組御曹司として劇団重鎮に育てられたもんだから、その古い基盤をしっかり踏襲していて、その上で今風のチャラい芸風を後天的に意識的に身に付けたもんだから……イイ感じにミックスされてる。

 これからも愉しみだなー。
 いーやーだーー!!
月組公演『GOLDEN JAZZ』におけるお客様参加の演出について
2015/10/27
月組公演『GOLDEN JAZZ』(宝塚大劇場2015/11/13~12/14、東京宝塚劇場2016/1/3~2/14)では、お客様と月組出演者が主題歌にのって一緒にご参加いただける場面を予定しております。

振付は月組出演者たちが動画でレクチャーいたしております。
ご観劇の際には、ぜひご一緒にお楽しみください。

 勘弁してくれええ。
 おばちゃん、振付とか参加とか無理なんや。運動神経もリズム感もないんや。勘弁してくれええ。

 えーと。
 マジな話、客席参加って、求められてるんですか?

 もちろん、それが楽しい、好き、やりたい、って人もいるだろう。
 でもさ、客席参加が需要あるなら、なんで100年も経つのに参加型の公演が基本になってないの?
 男役と娘役に分かれたように、男役がヒゲをつけたように、それが必要なら、歴史の中でそれが「あたりまえ」に進化していくでしょう。
 100年経ってもなお、観客は客席で歌ったり踊ったりしない、てのはつまり、不要だから、やっていないってことじゃないの?

 ステージと一緒に踊りたい人は、ヅカではなく他のジャンルに行けばいいだけじゃん。
 ヅカはあくまでも「観劇」なんだからさー。

 コンサートの直後の公演でコレっての、ほんとにやだなあ。
 コンサートで味をしめてまたやりたいと思った、ってこと……のように思えて。

 ジェンヌさんはね、楽しいと思うの。いつも一方的に与えるばかりで、目に見える反応が薄くて。
 でもコンサートやると、生の反応が返ってくる。それはライブパフォーマンスを生業とする人にとって、とても快感なんだと思うのよ。

 でも。
 タカラヅカって、そういうところじゃないし。

 星組がコンサートやってから「タカラヅカ」からはずれた方向に盛り上がっていったように、コンサートって諸刃の剣だなあと思う。
 安易に盛り上がるけれど、「タカラヅカ」からは乖離する。

 このまま、「客席参加」がタカラヅカのスタンダードになったら嫌だなあ。

 個人のコンサートなら、わたしはありがたくないにしろ、「アリ」だと思ってるけど……大劇場本公演では、勘弁してくれ。
 ナニも知らずにやってきた団体のおじーちゃんおばーちゃんがぽかーんとする、内輪ウケ状態は嫌だ~~。わたしが町内会の幹事なら「これがタカラヅカなら、来年の観劇会は別の劇団にしよう。タカラヅカってファン以外は置いてけぼりにされるモノなんだわ」って思うわ~~。

 はあ。
 せめてチケット発売前に発表してくれよ。
 もう何枚もチケット買っちゃってるんだよ。定価でさばけると思えないあたりがまたつらいし。(ごめんよ~~、でも現実問題……)
 しょんぼり。
 『相続人の肖像』、ヒロインはイザベル@まどかちゃん。

 主人公チャーリーのことばかりあーだこーだ書いてきたが、ヒロインのイザベルもひどい。

 最初から、なんか変な子ではあったけど……。

「喪も明けていないのに、パーティなんて!」とその恥知らずさをヴァネッサにさんざん嘆かせておいて。
 ヴァネッサの娘で、母に似た「やさしいいい子」として描くつもりだったろう、イザベルが、父の喪中だけど白いドレスを張り切って着ちゃいました、だってダンス踊りたいんだもん!!って……えええ?

 あかん……この子も、無神経や……。

 若い娘さんだから、ドレスやパーティにものすごーく強いあこがれを持っていたにしろ。
 はじめて会うハンサムな義兄チャーリーに惹かれていて、理屈を付けてダンスを踊りたかったにしろ。

 父の喪中にしていいことやないやろ。

 いや別に、してもいいとは思うよ。
 そこは考え方の違い、喪服を着続けることだけが「死者を悼む」ことじゃない。華やかに振る舞いつつ、心の中で悲しみに暮れている場合だってある、「喪中に不謹慎な!」と単純に揚げ足を取りたいわけじゃない。

 そうじゃなくて、彼女の場合、母のヴァネッサが「喪中にパーティなんて!」と強い拒絶を示している。
 母の悲しみを理解している娘なら、自分が継父の死をどう思っているかだけでなく、母の気持ちを慮らないか?
 母を傷つけることになる、と想像しないのか?
 母を傷つけても平気なんだ、とは思わない。そんな子じゃないのはわかる。でも、結果そんな行為を易々としてしまうのだから、想像できなかった、ということだろう。
 …………おバカさん?

 で、この最低主人公とヒロイン、ダンス1曲踊っただけで心変わりするし。
 いがみ合ってたのに、惹かれ合うよーになる。

 ひでーなー。

 チャーリーに比べればよっぽどマシだけどさ。
 ハロルドを振るんだけど、イザベルは最初からずーーっとハロルドの求愛には「迷惑・困惑」という態度だったから。
 カネのためにベアトリスの心を弄んで捨てたチャーリーとは、根本からチガウ。

 にしても、無神経なツンツンキャラは、観客の感情移入を得ることが難しい。
 性格の難をフォローするには、よほどの美貌か演技力か……天性の愛嬌が必要。

 ……なんでこんな難しい役を、研2のお子さまにやらせるかな。

 まどかちゃんは研2のキャリア不足新人にしては、十分よくやっている。よくやってはいるけど……不利だなあ。

 ヒロインをやることだけで手一杯、脚本の粗を補填できるだけの地力がない。

 新人公演『王家に捧ぐ歌』のアイーダは、大任ゆえの必死さが、そのまま役に結びついたと思う。お手本もあったし。
 しかし今回の作品と役は、ただ必死にやっているだけだと、愛らしさが出ないんだよなあ。

 たぶちくんも、まどかちゃんの少女っぽさに着目して「妹キャラ」を振ったのだと思うけど。
 かわいい系にも生意気系にもメーターの振り切れていない、中途半端な妹キャラに、どう萌えればいいのか、正直とまどった。
 てゆーか恋愛部分、雑すぎるやろ……。「1曲デュエットすれば恋に落ちる」って、ヅカの演出家はお約束に頼りすぎてるわ。

 せっかくの若いロリっ娘的新進スターだもの、いっそ思い切り萌えキャラを演じるところを観てみたいわー。
 アイーダのときより太った? って感じの健康的なほっぺを見ながら、どんな役が合うのかしら、と考えた……。
 まあともかく、これ以上丸くならないでほしいなー。


 ヴァネッサ@せーこは、この作品の良心。彼女だけがまとも。
 うまいよねー。ありがたいよねー。
 せーこちゃんって、ずんちゃんとお芝居のカラーが合っていると思うの。
 重みとか陰影とか。
 だから、もっとまともな芝居でずんちゃんと絡んでほしかった……。


 おばーさま@まりんは、なまじうまい人だからか、偽善者を演じると憎らしさ半端ないな。
 ブラックネル夫人@『Ernest in Love』は良かったんだけど、その前のマックス@『エリザベート』がひどかったからさ……その記憶が鮮烈すぎて、「うわ、マックス系再び!」と震撼した。
 自分しか愛していないシシィパパはこわかったわ……そりゃこんな男の血を引き、この男にあこがれている娘の人格と人生、さもありなん、つーか。
 冷血パパを演じたこわい人……その記憶を思い起こさせるような、まりんさんの人でなしぶりがこわかったっす。
 いい加減、たぶちくんうきーっ! 以外のことを書こう(笑)。

 『相続人の肖像』は、ずんちゃんバウ初主演おめでとー!公演。

 いやあ、ずんちゃんは学年上がるにつれ、どんどん「美形!」様になっていくねえ。大人になって、頬のまるぷく感がおさまってきて、途端美貌のエンジンかかった感じ。

 チャーリー@ずんちゃんはほんと、カッコイイ。
 クラシックな紳士スタイルが似合う。ノーブルな美しさがいい。
 歌もうまいよねー。

 あと、持ち味が軽くないのが、いいと思う。
 この作品だとずんちゃんの無駄にシリアスな芸風が裏目に出ているのかもしれないけど、チャラくない、真面目な持ち味は「正統派」に通じる。
 マジにドシリアスとか悲劇モノ見てみたいなあ。かっこいいだろうなあ。

 ……だからほんとにもお、作品のひどさが気の毒で。
 なんでこんなキチガイ役をやらされてるんだ……かっこよくもなんともないクズ男を演じつつも、それでも外見はかっこよく見せなければならない、という試練? そんな試練いらない、素直にかっこいいと思える役が見たい……。

 でもほんと、作品がカスな分、ずんちゃんの株は上がった。
 こんな役を、よくがんばって演じた……!


 ハロルド@りくくんはなー……。
 ほんと、へたやなー……(笑)。

 ビジュアルは好みですとも! 昔から一貫して、りくくんは好きだー。
 だからこそ、切ないな。あんなにバリバリ上げられていた時期があったのに、下級生主演バウの脇役をやるようになっちゃったか……。
 ほんとに、もう少し、うまくなってくれればなあ。「ザ・タカラヅカ!」という容姿の持ち主なだけに、惜しいなあ。
 昔のタカラヅカなら、それでももう少し違ったのかもな。以前は「いちばん大切なのは顔と華」で、「実力は不問(音痴大歓迎、問題なし)」だったもんな。今もそりゃ顔と華は重要だけど、「ある程度の実力(歌唱力)」が必須になった模様。歌ウマ好きとしては今の路線基準は大喜びなんだけど……基準変更により路線スターの立ち位置が変わるのを見るのは切ないな。(や、そんな単純なことではないと思っているけれど)

 でもりくくん、楽しそうだ。
 活き活きと舞台にいる姿を見られるのはうれしい。

 しかしハロルドって、どういう役で、どこを狙って作った役なんだろう。
 たぶちくんの脚本も大概だが、演じているのがりくくんなので、さらに破壊力が上がった気がする……。

 演出家の問題以外で、もっとも大きな原因は、ずんちゃんとりくくんの芸風の違いにあるんじゃないかな。
 ずんちゃんのクラシカルな歴史モノ少女マンガみたいな絵柄と、りくくんの現代モノ少年マンガ風の絵柄がミスマッチ。
 ずんちゃんは女性の描いた美形キャラだけど、りくくんは男性の描いた二枚目半キャラなんだよねえ。
 少女マンガを読みたい女性客(タカラヅカファン)には、少女マンガ画風で統一してくれた方が親切だったと思う。
 りくくんは持ち味少年マンガ(の、美形キャラ。顔は濃い)だけど、だからこそ意識して少女マンガのキャラを演じさせるべきだったと思う。
 や、りくくんの破壊的な瞬発力、ある意味ツボだけどさ(笑)。


 株を上げたのはベアトリス@もあちゃん。
 年増のメガネブス(だからひどい扱いしてもヨシ)、という男性向けマンガの記号みたいな扱いのキャラだが、ここはタカラヅカで男性向けじゃない。ヒロインよりもよっぽど感情移入しやすい。

 かわいくていじらしくていいよね!
 ……ただ、観客が揃ってベアトリスに肩入れしちゃうとまずいんじゃないかと思う……作者が想定した役割は「勘違いおバカキャラ、憎めない可愛さはあるけど、主人公がこんなコ選ぶわけないじゃん、問題外!」だと思うので、こんなに真っ当にかわいくていじらしくてよかったのかどうか……。
 ベアトリスがいい子だから、主人公もヒロインも間違いなくより株を下げたわ(笑)。


 下級生バウの楽しみは、大劇場本公演だとモブでしかない子たちの活躍を見られること。
 本公演半分以下の人数、かつ、本公演よりも長い時間使ったミュージカルだ、役が下級生たちにも行きわたる。
 ……が、なんかこの芝居、役が少なかったような。
 ほとんどが屋敷の使用人かー……。
 それぞれ個性出そうとしてたけど、本筋に絡まないので「なくてもいい」モブ会話だけが見せ場とか。
 リピーターなら楽しめるかな。1回だけじゃ彼らの「ストーリー上不要な人間関係」を整理するために意識を向けるのは、あまり楽しいことではなかった。や、2回観たんだけど、2回目も「本筋に関係ない」とわかって観るとさらに、さーっと流れちゃって……わたしには。
 本筋に関係ある上で、その奥の人間関係も匂わせる、なら読み解くのは楽しかったろうけど。
 るいまきせくんの休演が残念だったけど、彼がいたとして使用人のひとりだったわけで……ほんと役がないなー。

 わたし、『the WILD Meets the WILD』は好きじゃなかったんだけど(生田株が暴落した・笑)、今になって「いっくん、やっぱうまいなー」と思った。
 コワレっぷりは『相続人の肖像』とどっこいだけど、とにかく、役が多かった。本筋忘れるくらい、ごちゃごちゃと(笑)。
 モブに近い役でも、なんか萌えがあった。「リピートできたら、あの子もあの子もチェックするのに!」と前のめりにもどかしくなった。

 あの「萌えキャラ尽くし」という厨二な作風は、ヲタクならではだよなー、いっくん。

 美月くんがさー、作品内ではちゃんとした役がついてるにも関わらず、萌え度でいったらちょい役だった『WMW』の方がはるかに上だったなと。
 ベアトリスパパ、他のキャラクタと同じく整合性なさすぎ……この作品の登場人物ってみんなこんなんや。
 しょぼん。
 『相続人の肖像』を、キャラクタもストーリーも今のままで、別モノにしてみよう。改善案を考えてみよう、その2。

 この物語に必要なのは、ツッコミ役。

 チャーリーはおかしい。ストーリーもおかしい。
 だけど、作者自身が「んなアホな」とツッコミをしていけば、その「おかしい」ことが「必然」になる。

 ツッコミ役は、新キャラでもいいし、ハロルド@りくでもいい。
 チャーリーを幼い頃から知っていて、気の置けない間柄。ずばすば本音で話せる相手。

 たとえば幼なじみの「親友」役だとすれば、「お前って昔からそうだよな」とチャーリーのアホな言動にツッコミつつ、ときに叱り、ときになぐさめ、相談相手になり……「そんなバカなことをしたら、お前もみんなも不幸になる。それでもやるって言うなら、もうオレは知らないからな」とケンカ別れエピソード付けて。
 チャーリーは親友のツッコミのおかげで、自分の考えややっていることが「最低」で「バカ」だとわかっていて……それでも、そうせずにはいられない、というあとに引けない状態になっていて。
 それでどれだけたくさんの人を傷つけて、みんなみんな不幸にして、自分も含めてつらいだけだとしても……「僕は、そうしたかったんだ」。

 自分がどんだけ「最低」か、主人公はそれを自覚している。
 そして、その「最低」な男を、「お前は最低だ」と言いながらも、味方になってくれる友人がいる。
 この「自覚」が必須なの。

 壊れた話のキチガイキャラクタたちは、最低なことをしているのにそれを自覚しない。主人公は自分が心地よいというだけで、その行いを「正義」だとし、主人公の信者(作者は友人だと思っている)は、それを止めるにしろ応援するにしろ主人公の正義自体は認めている。
 この行動は「間違っている」、だけど、自分はこうしたい。
 親友の行動は「間違っている」、だけどそんな親友を切り捨てられない自分もまた「間違っている」……そう、「自覚」している。
 主人公を「正義」にするために、世界を歪める……それがいちばん気持ち悪い。植爺とスズキケイの作風の最大の特徴。
 正義でなくていい、間違っていていい、「世界」は歪めるな。

 聖人君子のみが「主人公」にあらず。別に主人公は未熟でも卑怯でも犯罪者でもいい。それは「設定」のひとつだ。その設定を元に、なにを描くか。
 大切なのは、そこだろう。

 主人公は最低。だけど、その事実から逃げず、受け止めている。その上彼には、なにがあっても見捨てず、そばにいてくれる「親友がいる」。
 友人の有無はその人間の「格」に関わる。つまらない男には、ろくな交友関係しかない。権力によって不当に放校されたチャーリーのことを、助けてくれる友人がひとりもいなかったようにね。

 ケンカ別れした親友は、それでもクライマックスで、ここぞ!というところで、チャーリーの味方をしてくれるんですよ。盛り上がりますねえ。

 このツッコミ役を「親友の男」とするのも、ヅカヲタ的にはおいしいです。男同士の友情モノってのは強いニーズがありますから。
 今の友人役として出て来るハロルドくんは、「家が近所」ってだけで、友だちかどうかもあやしい、薄いぺらぺらな関係だから、チガウ。そんなんじゃない、ほんとうの「親友」。


 でも、いちばんいいのはツッコミ役を「幼なじみの女の子」にすることだな。
 古くから屋敷にいる同世代のメイドとか。ぽんぽんケンカして、「ほんとバカですねー」「メイドのくせに主人をバカとか言うな」的な会話をして。
 政略結婚大作戦も、イザベルに恋しちゃったどうしよう!も、そのアホな考えを全部メイドに話していて、その都度きついツッコミされて。
 そして最終的に、そのメイドとくっついちゃえばいいよ。どんだけ最低でもバカでも、なにがあっても赦してくれる、そばにいてくれる、存在。チャーリー、バカだから「メイド」ってだけで軽んじて恋愛対象にしたことなくて、気づいてなかっただけで。

 主人公のチャーリーが人格破綻しているだけあって、ヒロインのイザベルも感情移入しにくい無神経な子なんだよな。
 最低男と無神経少女の恋にときめけ、ってなにソレ、難問過ぎ。
 最低男が主人公なら、ヒロインはその最低さを受け止められる度量が必要。

 ヒロインの設定間違えてるよなー。


 親友でも、恋人でもいい。
 チャーリーが「間違っている」ことを、ストーリー展開が「おかしい」ことを、ツッコミまくり、それでも「すべてを肯定し、見守る」キャラクタをひとり出す。

 これだけで、『相続人の肖像』は今のまんまのキャラとストーリーで、帰結できる。


 ……てさー、考えながら、なんかデジャヴってたんだよねー。
 あれえ? あたしこれなんか知ってる、似たようなことしてたよなー?

 『Victorian Jazz』だ。

 http://koala.diarynote.jp/201212040306192575/ 彼の、生きる目的。@Victorian Jazz
 http://koala.diarynote.jp/201212041521276258/ 人を騙す仕事。@Victorian Jazz

 まず、主人公の言動おかしいって話。↑
 そして、作者の作劇の不誠実さを嘆いている。物語を「軽く」考えているのが引っかかる、と。

 http://koala.diarynote.jp/201212050404506559/ すべての動機は、愛ゆえに・その1。@Victorian Jazz
 http://koala.diarynote.jp/201212050424207288/ すべての動機は、愛ゆえに・その2。@Victorian Jazz

 で、打開案。↑
 キャラもストーリーもそのままに、ひとつ変更するだけで、すべての問題点をクリア出来る、と。

 デジャヴ……つーか、デビュー作から、作風変わってないのか、田渕せんせ。
 不誠実な作劇、ってソコ、わたし的にはいちばんダメだわ……。
 つか、デビュー作と構成的な欠点は同じで、最新作の方がさらに手抜き感強い、って、退化してるってことっすか?
 こわいなソレ。
 『相続人の肖像』について、文句をしこたま書いておりますが。

 ムカつくー! きらーい! と思うと同時に、打開案も考えているのよ。
 ぶっ壊れてる、ありえねー!作品だけど、立て直すことは可能。
 わたしは1から別モノを書き直すのではなく、「今あるモノ」をできる限りそのままで、最小限の改稿だけで「別モノ」に作り直すのが好き。
 そういう構成し直しっちゅーか、アタマの体操するのが好きなのね。

 『相続人の肖像』は、1箇所直すだけで、別モノにすることが可能。

 『相続人の肖像』の問題点を整理すると、

・主人公チャーリーが最低最悪
・ストーリー破綻

 というのが、内容的な二大問題点で、わたしはこれによって、

・最低最悪の人物を「魅力的」とする世界観
・ぶっ壊れたあり得ない話なのに、誰も指摘せずに進む(作者の都合)

 ことが逆ツボ、生理的に許せない。

 フィクションだから、主人公が人格者である必要はない。最低な卑怯者でも犯罪者でも、フィクションならアリだ。そこに作劇上の誠実さと、作品内での魅力があれば。
 どっちもないから問題。
 その上、ストーリーが破綻してるときたもんだよ。しかも破綻を隠すためにキャラクタの人格破壊したり、滑稽なお笑い芝居にして誤魔化そうとしたり。

 こんだけ大きくてわかりやすい問題点があると、かえってリカバリがしやすいのよ。

 最初の二大問題点は「今の作品の根幹」だから、そのままとする。ここを変えると、作品を1から作り直すことになってしまう。
 だから、変えるのは後者の二点。最初の問題点によって起こる事象、これを変更する。

 簡単です。

 チャーリーに、ツッコミ役を付ける。

 チャーリーは最低最悪な男だ。これは変わらない。邪悪でバカだからこそ、他人を傷つけ攻撃し、とんでもない騒ぎを起こす。辻褄も整合性もない、ありえないストーリー展開になる。それはすべて、今のまま。

 わたしがダメなのは、チャーリーが最低なのに「魅力的な人物」だとこの世界では思われていること。や、他のキャラクタに責められたりはしてるけど、結局のところ「ボク苦悩してます」とソロ歌ったりして、「正当化」されてるでしょ? ずんちゃんかっこいいし、この歌だけ抜き出して考えたら、なんかいい話みたいだし?的な。
 おかしいのに、「この世界では、おかしくない」とされると、気持ち悪い。や、どこの世界でもおかしいから!

 この矛盾を、「ツッコミ役を作る」ことで、解消できる。

 チャーリーが最低なことを言い出す。→ ツッコミが「アホかお前」と言う。
 チャーリーがバカなことを考え、実行しようとする。→ツッコミが「アホかお前」と言う。

 今のままだと、チャーリーが最低でもバカでも、誰も突っ込まないから「最低でバカがこの世界のふつう」になってしまってるの。感覚が異次元なの。
 それを、ツッコミ役を出すことで、「あ、チャーリーが最低なんだ、最低だと思うわたしはおかしくないんだ」と、感覚の摺り合わせをしてくれる。

 ストーリーを進めるためにあり得ない言動を取らせているのだとしても、そこでいちいち「なんでそんなバカなことをするんだ? おかしいだろ?」と突っ込むキャラがいれば、「作者の都合であり得ない言動をしているんじゃない、あり得ない言動をすることすら、計算なんだ」ということになる。
 だって、作者自身が「ありえねー」って作品中でツッコミ入れてるんだもん、それは「わかった上でボケている」ってことになるよね。
 あ、ツッコミ付きだから今よりずっとライトに、コメディタッチに。


 ……てことで、具体的にどういうキャラを出せばいいのかを次項で語る。

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