『ガイズ&ドールズ』、トップコンビ以外の人々のこと。

 アデレイド@ことちゃんが、うますぎる。

 ふつーに娘役スターさんだーー! しかも、ふつーの娘役スターさんより、はるかに濃く、押し出しがいい。
 『風と共に去りぬ』のときは、そんなにいいと思わなかったのよ。なんで無理に女役やらせてんだろう、男役やらせろー!って思ってた。ヲカマ感ゆんゆんだったし、芝居も表情もぎこちなかったし。
 それが今回は、違和感なく女の子。

 あ、ちゃんとかわいい。

 最初に見たときに、すんなりそう思った。

 ほんとうまい子なんだなあ……。
 こんだけなんでも出来るうまい子、ヅカ100年の歴史でも、そうそういなかったんじゃあ……?
 や、芸達者な人はいただろうけど、「トップ路線で」ここまでオールマイティに技術点が高い人は稀有だと思う。
 きりやんもオールマイティな人のひとりだと思うけど、彼の場合「女装した男役」だとわかったからなー。ことちゃんは、そうは見えない、ふつーに「娘役スターですが、ナニか?」。

 さすがに、年増女には見えなかったけれど……大人可愛い女の子、にしか見えないけれど……それにしたって、ここまでやってくれると感心するばかりだわ。

 だからこそほんと、早くことちゃんに男役を!
 スカーレットがあの出来で、アデレイドがこの出来ってことは、経験を積めば成長する、ってことですよ。
 男役として経験を積ませれば、その分成長するってことですよ。女役やらせてる場合じゃないよ、成長期にしっかり男役やらせて、実力とビジュアルを兼ね備えた、かっこいい男役を育成してよおおお。


 んで、アデレイドの婚約者、ネイサン@ベニー。
 えーと。

 わたし、13年前の月組再演時も、実はネイサンはよくわかってないっす。あんときのネイサンは、似合わないヒゲをつけたとっちゃん坊やで、アデレイドとはもちろん、スカイや他の男たちとも実力その他差がありすぎて、よくわかんなかったっす。
 新専科制度でぐちゃぐちゃになった番手制度の中、それまで4番手以下の役しかしたことなかったのに、どさくさに紛れての初2番手役だったんだよねえ。だからひとりだけ新公状態、でも2番手、貫禄と独自の世界観ありまくりのスカイや、実力と押し出しの良さで場を席巻するアデレイドを相手に、なんとも分の悪い状況だったことは確か。
 にしてもバランス悪すぎてどう受け止めていいかわかんなかった……という記憶しかないわたしだから、ネイサンという役への理解度が低い状態で、今回の観劇に至っている自覚はある。
 ある、が。

 うーん。
 やっぱり、よくわかんない……。

 や、表面的なこと、ストーリー的なことは、もちろんわかるんだけど。
 スカイとサラに目からウロコを落としたような発見は、ネイサンにはなかったな。

 でも、ベニーのネイサンは、ことちゃんのアデレイドには合っていると思った。
 ことちゃんが若くて可愛い女の子なので、彼女のダーリンは若いイケメンで、善良だけどいろいろ緩いチャラ男、というのはイメージが合っている。若い子は、こーゆー男に騙されるよねー的な。
 婚約してから14年経過している、という設定はスルーで(笑)。

 月組再演時の刷り込みか、ネイサンは可愛ければいい。と思っているので、なんの問題もない。キリッ。
 (一度でいいからうまい人、スカイと実力差のナイ人でこの役を観てみたい……とも思う。ぼそっ)



 アーヴァイド@みっきぃに驚いた。

 や、キャスティング、チェックしてなかったし。『ガイドル』は13年前に観たっきりで、アーヴァイドの楽器までおぼえてなかったし。つか、気にしてなかったし。
 へー、みっきぃ救世軍なんだー、ギャンブラー観たかったなー、ぐらいの気持ちでいたから、教会の場面になっていざみっきぃが喋り出したのを聞いて、えっ、みっきぃアーヴァイドなの?! って驚愕した。
 ドーナツ言うのはアーヴァイドですがな!! ←ここはおぼえてる。
 でもってアーヴァイドって、老人ですがな!!

 13年前の月組再演時、アーヴァイドやってたのはえりりんだもん! ごま塩頭に太い口ヒゲ付けてたもん。
 ヒロインの後見人の、初老のおじさん……好々爺、って感じの人だったもん。

 でもでも、目の前のみっきぃは白髪頭でも老人ヒゲでもない、ふつーの美青年みっきぃで。……白髪だったのかもしれないけど、わたしにはそうは見えなかったので。
 喋り方は年配者っぽくしているけれど、見た目は美青年で。でも、サラ@風ちゃんの後見人とか言ってて。
 んな若く美しい男性が後見人、って、やばいっしょ、話が違ってきちゃうでしょ、ジュディは最後後見人のあしながおじさんとくっついちゃうのよーー?!

 混乱。

 …………。

 ま、いっか。

 美しいみっきぃが観られてラッキー☆
 白髪とヒゲの老人みっきぃより、若く美しいみっきぃの方がいいもん。
 あんなにきれいだけど、誰よりも美しいけど、「初老設定なんだ」と思って観ることにした。
 タカラヅカだから、美しいに越したことはない。


 キャラクタが月組再演時(わたしの『ガイドル』スタンダード)と違いすぎているのは、なんといってもナイスリー@さやかさん。
 といっても、こちらは最初からわかっていることなので、混乱はない。
 ただ興味深く、「へー、こうなんのかー」と観た。

 うまいってのは素晴らしい。
 ナイスリーはでぶのおじさん、お笑い担当……というのが正当で、月組再演時がイレギュラーだとわかっている。
 だから、正しいナイスリーを堪能した。

 でも。
 わたしやっぱり、ナイスリーは美形キャラ設定の方がいいな……。

 『ガイドル』の見どころは、スーツ姿の男たちの、かわいいいちゃいちゃぶりだと思ってる(笑)。
 ナイスリーたち3人組はアイドルユニット的な愛らしさを振りまき、特にナイスリーはスカイやネイサンとも愛のある絡み方をし、女性ファンの目を楽しませる、という効果がある……と、思ってる。
 ギャンブラーたちがイケメン揃いで、どこを観てもウハウハ、なのが『ガイドル』の醍醐味、どの並び、どの絡み、どのカップリングもOK!(笑)的な楽しさ。
 それが、ギャンブラーのセンターグループに、ひとり別カテゴリのキャラクタがいると、意味合いがまったく違ってくる……。

 ナイスリーがカテゴリ外である、というだけで、こんだけ萌えがなくなるのか……、と、ある意味新鮮だった。

 さやかさんをdisるつもりはない。さやかさんのナイスリーこそが正しいと思っている。
 だからこれは、ただの趣味の問題。
 ナイスリー@かいちゃん、相棒ふたりがまおポコ だったら、どんだけ萌えただろうか、と。
 星組『ガイズ&ドールズ』楽しかったーー! ってことで、思いつくままに萌え語り。


 ハバナで酔っ払っちゃって、わけわかんないこと言って絡んで、歌い踊っちゃうサラ@風ちゃん。
 危なっかしい彼女をあやしながらなだめながら、付き従うスカイ@みっちゃん。

 『ガイドル』はわたしにとって「女の子を見るモノ」なので、ここでも当然わたしはサラを見ている。
 無茶振りしてケラケラ笑ってる、みっともない酔っ払い女……お堅い救世軍の女軍曹とは思えない醜態。
 そんな状態のサラを見ながら、わたしは彼女がうらやましくてならなかった。

 サラが醜態をさらしていられるのは、そこにスカイがいるからだ。

 自分を愛し、守ってくれる男性がいる。
 愛にあふれた目で、見守ってくれている。

 そばにいる男の愛情を感じているから、安心し、ゆだねているからこそ、彼女は自分を解放出来ている。

 いいなあ。
 わたしもあんな風に、見守られたい。
 愛されたい。

 そう思った。

 あ、サラが若い女の子だからいいのよ? いいなあ、てのは、わたしにはもうない「若さ」「幼さ」も含めての憧憬。わたしは年寄りだから、若い子が若さゆえに輝いているのを見るのが好き。愚かさでも情熱でも、それは「若さ」の特権。わたしにはもうないもの。
 手の届かないモノこそキラキラして、愛しくなる。わたしがタカラヅカを好きなのは、そこに「ファンタジー」があるから。

 サラの、幸せそうな酔っ払い姿。
 愛し、愛されているからこその、傍若無人さ。
 それがもう、すごくかわいい。

 で、見守ってるスカイが、ちょーオトコマエで!!

 こんないい男にあんな目で見守られてたら、そりゃしあわせでコワレるわな!!


 みっちゃんの芝居は、個人的に苦手なので(すまん)、ところどころ正気に返らされたんだけど、ハバナはほんとに良かった~~。
 芝居は好み・相性の部分が大きいので、NYに戻ってからの銀橋は、またちょっと「みっちゃん……」になって苦手だったりもしたんだけど。や、あくまでもわたしには。
 それでもほんと、苦手なことを差し置いても、恋愛モノ見たーー!って思った。そしてわたしは恋愛モノ大好きです、満足感パネェ。
 
 1幕ラストのスカイは、今まで「かっこいいスカイ」を見る場面だと思ってたんだけど、ごめん、わたしがなんもわかってなかったんだね。
 ここは、そんな表面的なことではなく、スカイの切ない胸の内に涙するところだったんだ!

 嘘からはじまった恋。
 賭の景品でしかなかったサラに、本気で恋してしまって。
 負い目があるからハバナでは自制していて、恋に全力疾走のサラをたしなめていたりして。でも、途中から「ええいっ、ままよ!」てなもんでブレーキはずして、恋に突っ込んで。
 束縛を嫌うギャンブラーが、根っからの自由人が、ひとりの女の子に捕まった。逃げようとしていたのに、覚悟を決めて捕まりに行った。
 ……なのに、そこまで覚悟して、本名明かして、心を預けた次の瞬間、「住む世界が違う、愛し合ったのは間違いだった」とサラに扉を閉められてしまう……。
 こーれーはー、痛いわー。
 きゅんきゅんだわー。

 ハバナの盛り上がりがすごかった分、きちんと恋の破局も伝わったのね。や、わたしの鈍いアタマにも!

 だから1幕ラストのスカイさんには、大いに泣かせてもらったー!! みっちゃんすげえええ。ありがとーー!!

 スカイが本気でサラに恋している、とわかって見る2幕の楽しいこと!
 てゆーかわたし、なんで13年前はそれがわかってなかったんだろう……? むしろそっちが不思議……。や、わかってたけど、わかってなかったの。こんな風には、理解してなかったの。
 あんときは、むしろアデレイド@きりやんに感情移入して泣いてたな……。

 今回は、スカイとサラの恋愛にずっぽり夢中になって観たので……。

 オチが不満だっ。

 愛するがゆえに身を引くスカイ。命懸けの大勝負をしてまでサラのために動き、彼女の成功を見届けてから、そっと去って行く。
 そんなスカイを、追いかけるサラ。
 ふたりはどうなるの?
 ぎりぎりのところでサラがスカイに追いついて、スカイの名を呼んで、それで……!

 なんで、いちばんいい場面が、存在しないの?!

 スカイとサラが、愛を確かめ合う場面が、なんでないの?!

 サラ、アデレイド@ことちゃんとぐだぐだ歌ってる場合じゃないわっ、スカイのとこに行きなさいってば!

 『ベルばら』でいったら、「今宵一夜」よね? 愛を告白し、結ばれる場面よね? いちばん盛り上がる、いちばんおいしい場面よね?
 なんでそれがないのおおおおっ。のおおおおっ。

 『ガイドル』がそーゆーもんだとわかっているし、スカイとサラの恋愛をいまいちわかってなかった13年前ですら、肩すかしだと思っていたけれど。
 今回スカイとサラにきゅんきゅん☆ハートで観ていると、ほんっとにもお、心の底から、納得いかんわー。
 ブロードウェイミュージカルには不要でも、タカラヅカには必要だってば。
 毒殺シーンのあと、何故か突然パリの橋の下で「この戦闘が終わったら結婚式だ」「オスカル……!」とやってるよーもんじゃん、『ベルばら』(しかも、アンドレとオスカル編)でいうと!
 えっ、アンドレ片想いやったやん、なのになんで突然結婚?? つか、次の瞬間アンドレ死ぬし!! 「今宵一夜」のないオスカルメイン版なんぞ、ブーイングの嵐ですがな!!

 と、まあ、月組再演時には思わなかった不満点爆発。

 月組再演時は、スカイとサラより、ネイサンとアデレイドが好きだったので、このふたりが「どうやってプロポーズから電撃結婚、ネイサンは人生180度変えちゃいました、テヘ☆」になったか、二次小説書いて自分なりに補完して満足したけど(笑)。
 あー、今回はスカイとサラだわー。誰か二次書いてわたしに補完させて。←他力本願


 わたし、風ちゃんのお芝居好きだなあ、と改めて思ってみたり。
 ビジュアルがあまり好みでないため(すまん)、それほど意識しないままに観ているのに、彼女にエンジンが掛かると、ぶわっと持って行かれるのね。
 ピントが合うというか、わたしの意識が散漫であるがゆえのぼやけた視界を、彼女が「ここを観なさい!」と力尽くでピントを合わせてくる感じ。
 で、そうやって「注目させられる」と、彼女がすっげーチャーミングに見える。
 物理的に美形かとか好みかとかを超えて、美しいキャラクタに見える。愛しくなる。
 これって気持ちいいわー。舞台観ている醍醐味。
 みっちゃんも同系統の役者さんだから、このふたりは良いペアだと思う。
 『ガイズ&ドールズ』初日観劇。
 みっちゃん、風ちゃん、トップスターお披露目おめでとー。開演アナウンスに拍手してきましたー。

 で、『ガイズ&ドールズ』……仲間うちでは、『ガイドル』と略していた。2002年の再演時。今ほどネット文化が浸透していない時代なので、ファン共通の呼び名があったのかどうかは知らない。
 あと、初演は知りません。はじめて観たのが、月組の再演。だから、月組再演『ガイドル』が、わたしにとっての『ガイドル』スタンダード。
 当時のご贔屓が出演していたので、その再演『ガイドル』に機嫌良く通っていた。
 ええ、好きな作品ですわ。

 そんなわたしが観た、今回の星組での再々演。

 先に言う。

 大泣きした。

 星組『ガイドル』よかった、すっげーよかった、泣いたーー!
 こんなに泣くとはかけらも思ってなくて、傍から見たらすげーみちこファン?ってなくらい、笑い成分多めのハッピーミュージカルで泣き続けました(笑)。
 もともと好きな作品なんだけど、昔好きでリピートしていたころとは違う意味で泣けた。

 これって、恋愛物だったんだ?!

 すすすすいません、知りませんでした。
 再演時にけっこうな回数観たのに……あの頃は一度も思ったことなかったっ!

 そりゃあね、あのころはね、真ん中見るより画面の隅っこでいちゃいちゃしてるスーツの男ふたり見るのに忙しくてだね、きちんと作品を見てなかったのかもしんないけども。
 でもでも、BJとナイスリーが出てない場面の方が多かったし、ちゃんと作品自体を楽しんでいたのよ?
 ……なのに今さら、驚く。
 『ガイズ&ドールズ』って、恋愛物だったのか!! 知らなかった!!

 再演時で泣けたのは、なんといってもサラ@えみくらとアデレイド@きりやんの「結婚するわ!」の場面……てのはいいとしても、次に泣けるのがナイスリー@ゆーひが歌うテーマソング……「男たちが星を欲しがる、みんな女の子のために♪」の場面……という偏り方だから、わたしの感覚なんてまったくもって正しくないのだろうと思ってはいるけれど。
 かっこいい男性主人公のタカラヅカ、というより、ほっこりする別ジャンル舞台として楽しんでたのよねえ。
 だからメインは女の子。男役じゃない。
 女の子ふたりが恋に悩み、それらを突き抜けて「結婚するわ!」と立ち上がるところにじーんとしたし、愛が現実に勝つってところが大好きだったの。
 ナイスリーたちの歌だって、かっこいい男たちが愛する女のために微笑ましくもなさけない姿になることを、ユーモラスに歌う場面だし。
 そういう部分を楽しむ話で、主役とヒロインが恋愛してるかどうかは、興味の範囲外だった。
 や、恋愛してるんだと思うよ? だって主役とヒロインだし。タカラヅカだし、トップコンビの役だし。恋するんでしょ? くっつくんでしょ? 前提だから、それ以上気にしてない。
 てことで、それ以外の部分を楽しんでいた。

 それが。
 今回、再々演にて。
 主役とヒロインが、恋愛していることに気付いた。

 主人公とヒロインが恋愛してたら、それって恋愛物やん!!
 だって話は主人公とヒロイン中心に進むんだし! だから主人公であり、ヒロインであるわけだし。

 ……いやあ、今さらの発見。
 目からウロコ。

 スカイとサラが、恋愛してた。

 しかもこれ、切ない系の話やんーー!
 愛し合ってるのに、共に生きて行けず、別れを決意する話やんーー!
めっちゃ切ないやんーー!

 ……今さら、ナニ言ってんでしょうねえ……。

 月組再演時は、スカイ@リカちゃんはひたすらカッコよくて、キザでポーズのひとつひとつが決まっていて、カッコよくて、カッコよくて……それで……それだけ、だった気がする。わたしには。
 かっこいいリカちゃん、を堪能するだけで、それ以上を考えてなかったみたい。あくまでも、わたしが。
 スカイがサラに恋している、ということに、気づかなかった。「スカイとサラはくっつく」という「前提」を見ていただけだった。

 今回はじめて、スカイがサラに恋していること、サラがスカイに恋していることを、知った。

 ということで、いちばん泣けたのが、ハバナだ!!

 あの明るく楽しい場面で、まさかの大泣き。
 しあわせそうなサラ@風ちゃん。
 自制心と恋心の間で揺らめくスカイ@みっちゃん。
 やだーー、切ないーー、きゅんきゅんするーー!!

 そうやって盛り上がったのちに、1幕ラストの「教会でクラップしていたギャンブラーたち」で、サラが恋から身をひるがえし、スカイも彼女を追うことが出来ずひとり背を向けて……って、うわああ、この終わり方すげえ、めっちゃ恋愛モノ! 切ない!!

 ……いやその、そんな重要なシーンで風ちゃんがまさかのドア位置間違えで、場内爆笑になっちゃいましたけども……わたしも恋愛モードに水ぶっかけられて鼻白んだけれど……。
 そのあと、みっちゃんがまったくたじろぐことなく、空気を切ることなく「恋愛つらいぜ切ないぜ」全開で幕を下ろしてくれたので、わたしもまた気持ちをすぱっと切り替え、さっきまでのモードに戻して、切なく終わる事ができました。

 はー~~、みっちゃん感謝!

 幕間はぐちゃぐちゃになった顔を整えるのに必死ですよ……泣くとは思ってなかったからさー……。

 てことで、ほんっと楽しかったっす、星組『ガイドル』。
 新しい発見。新しい感動。
 ……ゆえに、作品への不満も新たに芽生えたけれど、それはともかく、わたしは好きだなあ、この作品。

 新生星組は、これまた「強い」人がトップさんとして真ん中にいるなと、しみじみ思った。
 れおんくんも、とても「強い」人だった。舞台人としての技術や、客席に働きかける力が、強い。みっちゃんはれおんくんとタイプは違うけれど、舞台を支える上での力は、同じように「強い」人だと思う。
 みっちゃんのトップお披露目公演を、いろんな意味で「良かったね」と思う。

 が、個人的に、カーテンコールの拍手は、終演後の追い出し音楽が終わったあとからしてほしかったなあ……。
 オケのみなさんがせっかく演奏してくれてるのに、それをかき消すように大きな音でえんえん拍手してるのは、「チガウんじゃ?」と思った。
 追い出し音楽への手拍子じゃないのよ、「幕を開けて!」の催促拍手で、音楽を聴いてない、むしろ音楽を邪魔だと思ってるのよ……だから、音楽より大きな音でリズムも無視して拍手を続けるの、音楽に負けたら幕を開けてもらえない、とでも思ってるみたいに。
 追い出し音楽はちゃんと聴いて、それが終わってから一斉にカテコの手拍子をはじめたら、きれいだったのになあ。

 と思うのは、単にわたしが慣れていないだけで、追い出し音楽を打ち消す拍手でカテコ要求が演劇界の定番なのかもしれない。
 わたしはほら、小心者だから、ひとさまが必死に演奏しているのにそれを聴かずに爆竹拍手を続けるのって、弾いている人に悪い気がして、気が気じゃなくてなあああ。そこは気にしなくていいもんなのかな?
 それはともかく、『オイディプス王』

 オイディプス@トド様、クレオン@みつるのやり取りを観ながら、このふたり、前は「おかしな二人」だったよな、と思うとニヤニヤしちゃいました。

 トド様がお調子者のダメ男で、みつるがエプロン姿で。
 かわいかったなーー!

 同じ役者で、今度はコレをやっているのだと思うとなおさら、役者ってすげえ!!と思います。

 みつるさんは年々いい男になっている。
 存在の軽さが取れ、説得力を増している。
 歌が苦手なためにいろいろハンデあった人だけど、芝居においてはそれもう、大丈夫じゃないかい?

 みつるの立役的な成長を観、それに対するハートでコマつんの可憐さを観る。

 みつるもコマも、育ってきた環境は似ていると思う。
 共に路線スターで、ワークショップで同じ役をやり、新公主演もバウ主演もして。
 組ではスター枠として銀橋をソロで渡り、カーテン前で1曲歌う。

 そして、組が新しくなるときに、専科へ異動。
 組に留まり、同じポジションにいるのはいろんな面で難しい、と判断されただろう、ベテラン学年のスター。

 境遇は似ているし、得意分野が芝居、小柄な美形、という点も似ている。
 なのに、その「芝居」においての威力がずいぶん違うな。

 みつるきゅんは、強い。
 派手で、前へ出て来る。
 濁りはあるけれど赤とか緑とかの強い色だ。

 一方コマつんは、薄い。
 じんわりあたたかく、輪郭が淡い。
 中間色だけど、透明ではなくグレーがかっている。

 役から来るイメージではなく、本人の色だと思うな。
 そしてそれは、彼らが育った組の色でもあるように思える。

 花組と雪組。

 どちらも贔屓組としてディープに通ったことがあるだけに、ふたりの持つ「色」がなつかしく、愛しい。

 真紅の薔薇が咲き誇る花組、陰影で色を作る桜の雪組。
 みつるくんの強さとコマつんの儚さ。

 ふたりの若き専科スターに、タカラヅカの伝統と特色を感じ、そして、未来を思う。

 わたしはコマつんの繊細さと暗さが好きなのだけど、この公演には弱かった気がするなあ。
 というか、トド様と合わない気がする……。
 そして、みつるくんはトド様と相性いいんだよなあ。コマつん不利だわ……。

 コマつん、雪組に戻っておいで……。
 と、また思った。


 でもって、でもって。

 カチャ様が、美しい……っ!!

 イオカステ@カチャ。
 配役が発表になったとき、文句言ってごめん、はっちさんで観たかった、スターさんだからってヒロインやらなくていいじゃん、専科公演だから組所属スターさんは専科さんに譲ってよ! とか言ってたの撤回する。

 カチャで良かったっ!!

 めっちゃ好みでした。

 まずなんといっても、あのカラダ。

 スタイル、なんてぼかした言い方はしません。
 カラダが好みだっ(笑)。

 デコルテから胸まで……特に、胸が好き。
 細いからだに、女性的に盛り上がったバスト。下品ではない、ドレスが美しく見えるために必要な高さと丸み。
 わたしが最も好きな形と厚みだわ……うわああ、眼福ーー! あの胸好きーー!
 巨乳ちゃんも好きなんだけど(笑)、そうではない、スレンダーな身体の薄めの美しいバストも大好きなのよ。

 小顔に長い手足は、理想的なモデル系美女の造形。

 そして、ヅカメイクの映える顔。
 ヅカには、お花様系という、ヅカならではの美女顔があるよね。女性らしい小さな丸顔に長い首、メイクでは唯一誤魔化しがきかないからこそ重要な、高い鼻。魔女っぽいかぎ鼻の方がよりお花様っぽいという(笑)。

 あと、もっとも必要なこと。

 品がある。

 タカラヅカにおいて、コレ重要。
 どんだけ美女でもスタイル良しでも、品がないとヅカではアウトだもん。

 いやあ、美しくて気品があって、小娘ではない大人っぽさがあって、すっげー良かった、カチャ様!!
 男役としてマイナスな部分のほとんどが、女役なら美点になる。

 トド様の母親役とか、どんだけ無茶振り、と思ったけれど、特別感ある雰囲気ゆえに、年齢不詳っぽくて良かった。
 肌とかどう見ても若いけど、実はそれなりに年食ってんだ?的な想像力を働かせることができた。

 そーだよねえ、いくら腰が悪いことを笑いに出来るような年齢の役とその相手役、だとしても、『ME AND MY GIRL』のジョン卿とマリアをガチ専科の見るからに年配の方々で見たいわけじゃない、のと同じハートよねえ。
 ヒロインであるイオカステは、これくらい若くて美しくなくちゃだわ。

 と、観る前の意見は全撤回しました。
 いやまあその、トド×はっち、が見たい気持ちは変わらずにありますけどね……(笑)。

 カチャさんもなあ……。
 彼の容姿は見事に女役向きで、男役に向いてないんだよなあ。
 下級生時代は「女役向き」な部分も「少年らしい」「可愛いらしい」でアリだったけれど、「大人の男」が求められる学年になった今では、他のなによりもビジュアルのハンデが大きくなるばかりで、どうしたもんかと惑うよなあ。
 文化祭ではじめて彼を見たときは、ナルセ系のスタイルの持ち主!と思ったんだけど、なるぴょんのようなスーツの似合う紳士には、今現在なってないもんなあ。

 女役に転向するにしても、学年が行きすぎてるかなあ。
 少女役は今さら出来ないにしろ、大人の女役はこんなに魅力的なんだし……ってそれは、カチャよりはるかに小柄でも、それをモノともしないトド様の貫禄あってのことで、ふつーの男役相手だと、大きすぎるのか……。
 難しいなあ、カチャ様。

 なんかほんとにもう、もったいないなあ。
 専科公演『オイディプス王』観劇。

 初日はムラにいながら、観られなかった……。前に書いたけど、雪組観てたので。チケット、間違えて取っちゃったのだわ……。トド様ファンとして、初日・千秋楽は是非観たい人なんだけど、叶わなかった。
 チケ難だったしね。手に入らないし、日程的にも難しかったし。
 ということだけでもなく、今回は初日も楽も観ませんでした。


 なんというかもう、なんて、ゼイタクな公演!!

 トド様が「専科」であり「理事」である意義は、こういうところにあるのだな! と思えた。
 「タカラヅカ」の枠を超えた公演。

 ギリシャ悲劇という題材云々よりも、「スター制度」の宝塚歌劇団には向かない登場人物構成だ。
 ひとり芝居でも可、という、主人公偏重っぷり。
 他キャストの出番の少なさ。老人率の高さ。
 これは、タカラヅカでは無理だ。
 バウ公演でも、ありえない。

 主演スター以外「いなくてもいい」レベルの扱いで、主役以外もれなく老人とかヒゲとかで、通常のバウ公演やったら、どんだけすばらしい作品や芝居だったとしても、演出家フルボッコで駄作のレッテル貼られてる。

 タカラヅカでは、上演出来ないタイプの作品を、それでもやっちゃえる。
 それはトドありき、専科筆頭であり、理事である、特別な立場であるからこそ。

 作品をぶっ壊しても、「スターに相応しい衣装と台詞量と見せ場時間を」という考え方の劇団で、それらを無視して作品を作る、ってのは、最高峰のゼイタクだよ。
 平民役でも王侯貴族並の豪華衣装、他の役とのバランスがおかしくても「タカラヅカにおいて格が高いとされるタイプの衣装」着用、ストーリーに無関係などーでもいい役でも何ページにも亘る長文台詞と誉め讃えられる見せ場!が必須の劇団ですよ。
 スターをなにより大切とする、というスタンスの劇団で、他公演なら格のある役と見せ場をもらって当然の名のある方々が、地味な衣装や姿で、わずかな出番しかない、ということに、驚愕する。
 や、作品から想像は付いていたけれど、実際に目の当たりにすると、驚くし、感心する。
 なるほどなあ、こうやっちゃいますかあ、と。

 通常では出来ないことを、やってしまえるのだから、トド様主演公演ってのは面白い。
 この人真ん中に持ってくれば、無理が通る。

 だから、トド様は、タカラヅカの可能性だと思う。

 トド様担ぎ出して、いろんなことをやるがよろし。
 コメディからギリシャ悲劇まで、なんでもやっちゃうよ?
 前例作って枠を広げて、後進のための道を作る。それも、トド様の役目のひとつだと思う。

 でもってトド様、時代劇というか型芝居というか、重さのあるものが似合う。
 わたしは無学ゆえギリシャ悲劇たるものをよく存じませんが、こーゆー作品に、トド様の重さとうるささ(言葉悪い)は、合っていると思う。
 真ん中で吠える役が似合う。

 なので、トドファンとしては楽しい時間でした。
 作品も濃く無駄なくまとまっているし。破綻ないし。


 ただ。

 わたしはこれ、タカラヅカで求めてない。

 『オイディプス王』自体は面白いプロットなんだけど、料理の仕方が直裁的で、わたしの好みではなかった。

 わたしにとっての小柳タンの苦手なところが、まんま出ていたのでつらかったっす。

 ほんと、好みの問題。
 『Shall we ダンス?』も『ルパン三世』も『かもめ』も同じ部分がダメ。
 小柳タンのタカラヅカらしくないところ、タカラヅカ軽視なところ。
 おかしいお菓子があって、外の包み紙や箱だけ、パッケージだけキラキラしたものに変えて「はい、タカラヅカ特製スイーツです」と出される感じ。
 そのお菓子を「タカラヅカ」として出すなら、何故お菓子自体もいじらないんだろう。パッケージだけじゃなくて、お菓子自体にもヅカっぽいモチーフを入れるとか、ロゴを入れるとか、制作段階から工夫できるじゃん? 素材部分まで見直して、製法からオリジナルで作る、のは大変すぎるから「そこまでやってられるか」かもしんないけど、すでにあるレシピにちょい付け足すだけでもぜんぜんチガウのに。外箱だけ変えられてもなー……。

 つっても、『Shall we ダンス?』や『ルパン三世』とは違い、『オイディプス王』は本格的にタカラヅカ風に作り直す必要がない気もするし、だからこれはこれでいいのかなー、とも思う。
 わたしの周りでこの公演を観た人が少ないので、ナマの感想があまり聞けないのだけど、誰もコレを「ウチの組で観たい!」「是非わたしのご贔屓に出演して欲しい」「**ちゃんにやってほしい!」という声を聞かないので、それが答えなのかなあ、とも思う。

 トド様主演公演として、専科公演としては楽しかった。
 トドファンとしては、美しく吠えるトド様、苦悩するトド様、絶望するトド様が観られて楽しかった。
 タカラヅカの可能性、枠を広げられた、という点でも良かった。

 でもわたしこれ、求めてないわ……。


 わたしがトド様観つつ「コレジャナイ感」を味わっていた直後に、トド様DC主演公演が発表になり、膝を打ちましたもの、コレダー!!と。
 ……演出家が原田くん、てとこには肩を落としましたけどね……(笑)。
 『星逢一夜』が好き。主人公・晴興@ちぎくんのことも大好き。泉@みゆちゃん、源太@だいもんはもちろん、他のキャラも好き。

 でも。

 わたし、「藩主・晴興」のしたことは、納得出来ないの。
 キャラとしてではなく、「物語」として。

 物語ってのは、なにかしら答えを出すべきだと思っているの。キャラクタがいて、出来事があって、なにかしら変化する。物理的ななにかかもしれないし、精神的なことかもしれない。ぐるっとまわって元に戻る、なにも変わっていない、というのは、「物語」の甲斐がない。
 物語るからには、別のところへ着地したい。

 なのに晴興のしたことって、なんの意味もないのよね。
 貧しい三日月藩は、貧しいまま。
 みんな傷ついて、みんなつらい思いをした。それだけ。
 晴興が途中で投げ出してしまったから、未来も暗い。晴興に代わって三日月藩を任された細川さん@れいこはアンチ三日月藩なわけだし。悪意を持った藩主に治められるとか、お先真っ暗。
 エピローグで蛍村の人々がのんきに祭りをしていたけれど、かなり無理あるよね、あれ。それまで語られてきた村の困窮ぶりと、一揆の爪痕でさらに生活は苦しくなっているはず。
 それでも祭りだけはと楽しげにしているとしても、「晴興はナニやってたんだ」ということは、変わらない。

 物語一本費やして、なにもよくならないなんて。
 そんなの、物語の甲斐がない。

 や、そういう物語もありだということはわかっている。現実なんてそんなもん、個人がどうあがいたところで、歴史の歯車の前では無にも等しい。そういうところにこそ意義を持つ作品だってあるだろう。
 ただわたしは、そーゆーのは好きじゃない。
 可哀想、からはじまったなら、最後はよかったね、でなきゃ嫌だ。
 可哀想な主人公が可哀想なまま終わったとしても、主人公と関わったナニかが変わり、他の人がよかったね、になっていた、主人公は知らないけど、とか、ナニかしら「別のところ」へ着地させる。
 現実なんか知るか、わたしはファンタジーが好きなんだ。

 晴興がすべての責任を負って罪人となる、恋も友も失って去って行く、それでももちろんかまわない。
 だがそれなら、三日月藩は、救う。
 晴興の苦しみや哀しみを、無駄にはしない。それと引き替えに、みんなを救う。
 たとえ、藩の者たちが、それを知らなくても。晴興を誤解したままであっても。
 晴興の存在が、彼の努力や苦悩が、無駄ではなかった、という終わらせ方にする。

 『星逢一夜』は、一見晴興がみんなを救ったように見えるけど。
 救ってないから。
 投げ出して、晴興が楽になっただけだから。

 誰ひとり、救われてない。

 友を殺し、主君を裏切り、愛した女を残し、自分ひとり「なにもしなくて済む」檻の中に逃げ出した晴興も。
 夫を殺した男に想いを残したままの泉も。
 家族や健康を失い、貧しい土地で冷酷な支配者のもとで暮らしていかなければならない、蛍村の人たちも。
 共に歩むと誓った愛する者に裏切られ、なおも荒野にて闘い続けなくてはならない、吉宗や貴姫も。

 90分もかけて物語っておいて、誰ひとり救われないなんて、アリか。
 こうして、みんなみんな不幸で終わりました。みんな等しく不幸だから、痛み分けですね。悲劇って美しいですね。美しく終わったから、めでたしめでたし。……てか。
 いや、そんなのしあわせチガウ、目を覚ませ~~。

 ほんとうなら晴興は、そのあとも「みんなのしあわせ」のために、傷だらけになりながら政治改革を進めなきゃならないのよ。
 でないと源太たちは犬死にじゃん?
 今回限り、一揆に関わった者たちは延命したかももしんないけど、翌年餓死してるかもしれないのよ?

 結局晴興、なにもしないのかよ!
 彼の生き様に、そうすることが精一杯の優しさと悲しさに涙するけれど、わたしなら、こんな物語は書かない。そう強く思う。

 こんなの片手落ちだ、と思う。
 晴興と泉の恋を美しくまとめた。晴興たち、櫓の上の子どもたちで美しくまとめた。
 その「美しさ」を書くことを最優先して、肝心の「物語り甲斐」を犠牲にした。

 そこが、わたしの好みと大きくはずれている。
 悲しさも切なさも悲劇も、大好物だけど、「ぐるっと回ってナニも変わらない」物語は、わたしの好みじゃない。

 だから手放しで、この作品を好きだとは思えないんだろう。
 や、好きだよ? 好きだけど。
 でなきゃこんだけ考えないし、語ってない。

 すすり泣きに満ちる初日の客席で、どんな作品でも大抵泣いてるわたしが周囲の温度に取り残されつつ、あまり盛り上がらなかったのは、たぶんそのせい。
 情報を自分の中で処理しきれなかった。
 うまいと思う、好みの部分もすごくある、でも「物語」の根本が、わたしの好みから大きく外れている。
 これで晴興が最後逃げ出さずに、誰かを救っていたら、わたしも救われるのに。
 感動して終わるのに、心に割り切れなさが残る。そのもやもやは、わたしが求める「余韻」じゃない。

 こんなに好きなのに、こんな大事なとこが好みじゃない、というのが、くやしいんだ。
 別にわたしのために書かれた物語じゃないから、そんなの作者からすれば「知らんがな」なことであっても(笑)。


 なんで晴興を、あんなにしちゃったのかなあ。
 無責任すぎるよなあ。
 ラダメスが「武勲の褒美に、エチオピアの開放を」と願い出たように、晴興も三日月藩の嘆願をすればよかったのに。
 極刑ではないものの、それなりに重い罰をくらった藩のみんなからは恨まれたまま、晴興は江戸に戻ることになる。そこでは、さらに過酷な日々が待っている。三日月藩を守る代償に、なにかしらのペナルティを受けるから。それでも晴興は逃げずに、務めを果たす覚悟だ。
 櫓の上での泉との場面は同じ。泉だけは、晴興の真意を知る。修羅の世界に身を置く晴興に、泉は「逃げて」と言う。晴興は「一緒に行くか?」と返し、泉は……。ここのやりとりも、すべてそのままに。
 それなら、エピローグの星逢祭りがのんきでもいいのになあ。だって晴興が、江戸でしっかり三日月藩を守っているんだもの。民たちからは誤解され、憎まれたままだけど。それでも彼は、決して逃げ出さず、「未来」のために尽力している。
 晴興の血涙は、苦しみは、無駄ではなかった……そう思える結末に着地する。
 ラストの子どもたちの場面もそのまま。

 本筋はナニも変わらない。
 ただ、晴興を無責任な弱虫にしない、源太を犬死にさせない、三日月藩の人々を救う。
 それでも、今と同じモノを描けるのに。

 江戸城で、晴興の一人称が揺らいだところと併せて、納得出来ない部分だ。
 チケットがない。

 どういうことだ雪組!!

 いつも大劇場公演なんてもんは、好きなときに好きなだけ観ることが出来た。不便な田舎にある、広大な劇場だ、前売りで埋まることなんてほとんどないし、当日券だって2階最後列と立見が最低100枚(最大で120だっけ?)発売される、行けばどこかしらの席で、あるいは立見で観ることが出来る。
 そこが美点だった。
 あんな遠いところまで行くんだ、「必ず観られる」とわかってなきゃ!

 贔屓の雪組なので、前もって週1でチケット用意していたけれど、後半「もっと観たい」と思った……ときには、チケットがなかった。

 前売り、売り切れてる……。

 また、自分がチケットをすでに持っている平日午後公演に行った際、立見まで完売しているのを観た日にゃあ、目を疑うっていうか、マジかよヲイ、みんな大丈夫か、ナニが起こっているんだ。

 盛況なのはうれしいけれど、自分が観られないのは困る。
 わたしにとってムラは遠いんだ、「観られるかどうかわからない」状態で、休みを1日つぶして行くのはハードルが高い。
 そりゃ、始発で当日券に並べば確実に観られるけれど、ごめん、そこまでしたいわけじゃない。
 若い頃はね、チケットなくても、観られるかどうかわからなくても、平気でムラへ通ったし、門の前にお財布握って立ち続け、サバキ待ちをしましたさ。
 暗いうちから当日券に並んで、確実にチケットを手に入れようともしましたさ。
 でももう、わし、年寄りなんや……。精神的にも肉体的にも、それはかなり難度が高いんや……。

 わたしみたいなゆるい年寄りファンには、なんとも困った状況になりました。
 おかげで、「前もって持っている公演」以外は、観られませんでした。
 母が観たがっていたけれど、チケット取れるかどうかわかんない公演に連れて行けないし。

 通常日時でもそんなだったのに、ましてや千秋楽なんて……。

 ということで、『星逢一夜』千秋楽。

 チケットなくて、直前までばたばたしてました。
 徹夜で公演二次書いてたり、なんかもー、興奮冷めやらず! ですな。


 わたしにとって『星逢一夜』は、源太@だいもんに途中から全部持って行かれた感じです。
 初日は泉@みゆちゃん視点だったし、いつだって泉絡みは泣けるし、作品自体に目を向けると晴興@ちぎくん一人称で、こういうまとまった話を読み解くのは大好きで、晴興自体好きなキャラクタなんだけど。
 途中から、だいもん大暴れ。
 源太の変貌に気持ちを掻き乱され、その意味を知ろうと夢中になっているうちに、公演が終わっちゃいました。

 面白いなあ、舞台って!!

 これが映画なら、途中から芝居が変わることなんてないもの。芝居の変化云々でなくても、監督が自分の意志で見せたいモノだけ見せる、見せたくないモノはフレームに入れない。
 映像作品なら、だいもんがどれだけ暴走したって、要は映さなければ済む。ちぎくんのアップ映してストーリー部分だけ追って行けば、源太の変化なんて映像しか見ない人にはわからない。
 だからライブは面白い。一人称視点で作られた物語でも、別方向から眺められる。

 ただ、自分が「これで完璧」と思って書いた作品を、役者が別方向に発展させる可能性がある、という点で、作者的には諸刃の剣? 自分ひとりで完成させるジャンルじゃない、複数の役者という別の存在なしには創り出せない世界だから、それゆえのよろこびや発見も、失望や反発もあるんだろうなあ、と思ってみたり。

 なんにせよ、楽しいわ、雪組公演。
 もっともっと、観たかった。

 公演途中から、ヒメが休演になった。
 急場しのぎの代役のうちは、「すぐに戻って来るよね?」と思っていたけど、本格的に代役が立ったので、「長引くってことか」と覚悟した。
 芝居で悪目立ちするきらいはあるものの、雪組公演にヒメの歌声がないのはさみしい。
 早く元気になって、戻って来て欲しい。
 ……絶対やめちゃ嫌だよ、休演→復帰してすぐ退団、とか、誰かさんみたいなことはやめてね!(トラウマ)

 それはそれとして、『La Esmeralda』での、代役うきちゃんの銀橋!!
 きゃ~~! うきちゃーーん!
 きれい、かわいい!

 えーちゃんの男前さが好きだった。
 本人も自分のオトコマエさを自覚し、売りにしている感じだったのに、どうしてやめちゃうんだろう……しょぼん。
 卒業のお花は、組からと同期からとそれぞれ贈られ、ふたつ合わせてひとつになる。ひとつのデザインを、あえてパーツに分けているわけだ。その完成されたお花を、またふたつに割った人を、はじめて観た(笑)。
 ちぎくんお約束の「絆、絆」をやるために、えーちゃんひとり、お花をぱパカッ……、なんつーオトコマエっぷり……。

 イリヤくんのソロ、最初のうちはライト当たってなかった(あったとしても、暗めのライト?)だったと思うけど、千秋楽はちゃんとライトもらってたよね? 濃くあろう!とする舞台姿に、いつも心意気を感じていたよ。
 雛ちゃんの美女っぷりも、これで見納めか……。雪組美女たちを点呼する楽しみの、定番のひとりだった。
 いのりちゃんはいろんな音色で歌える人だなあ、と今回のショーで改めて思った……もっといろんな魅力を見せて欲しかった。
 さらさちゃんはサイトーのお気に入りだけあって、ショーでは破格の扱い。晴れ晴れした表情にこっちも胸が熱くなる。

 『フットルース』に特別の思い入れがあるわたしは、そこで活躍していた子たちの退団が切なくてならない。
 さらさちゃん、えーちゃん、いのりちゃん、イリヤくん……。キラキラしていた舞台姿を、はっきりと思い出せる。


 『La Esmeralda』は作品としての出来は良くないけど、組ヲタとしては楽しめた。いろんな人に見せ場があって、目がいくつあっても足りなかった。
 そして、『星逢一夜』と相性がいい(笑)。『星逢一夜』のあとだから、『La Esmeralda』くらいナニも考えないで済む、勢いだけのショーがおさまりいい。
 『星逢一夜』だけだったら、リピートしんどいもんなあ。

 とはいえ、『星逢一夜』が好きだった。
 タカラヅカでこの作品を観られたことがうれしい。
 もっと観たかった。
 わたしのなかでまだ、整理が着かない。というか、源太@だいもんが整理出来ない。
 だいもん自身、まだ完成形には至ってないらしく、観るたびにニュアンスがチガウ。闇が広がるダーク源太なのは後半一定してるんだけど、その闇っぷりが揺れ動いている。
 ちぎみゆが安定しているのと対照的。

 千秋楽だから「最終回です」といきなり答えが出るわけでもない、「to be continued」な芝居だったと思う。
 これは東宝まで追いかけるしかないのか……? とも思う。

 キャストへの愛着とは別に、「まだ終わって欲しくない、まだ足りない」公演だった。
 『星逢一夜』のぐだぐだ語り、晴興さん@ちぎくんについてあーだこーだ、その4。

 よく出来たプロットであるからこそ引っかかる謎部分について。
 2度目の江戸場面、冷酷老中になった晴興の謎。

 晴興が変わってしまった、のは、泉@みゆちゃんとの別れが原因じゃない。
 吉宗@エマさんのもとが、晴興の居場所であり、泉のもとではなかった。それは、これまでのキャラの立ち位置、関係を見ればわかる。
 だから、晴興が今、こんなに苦しそうなのは、泉(過去)ではなく、今現在の状況が原因なんだ。

 吉宗と晴興の関係性が、不鮮明である。
 それが、キモチ悪さの原因。

 晴興が吉宗と彼の理想を信じ、昔と同じように澱みなく力になりたい思っているなら、現在の晴興の苦しみは別のものになっているはずだ。
 なんつーんだ、スポーツ選手が過酷なトレーニングをしていて、そのトレーニングの辛さはあるけど、目標があるから耐えられる、みたいな。
 でも、「このトレーニング方法でいいのか? この監督についていっていいのか?」と疑問を持っていたら、トレーニング自体の辛さに加え、心の辛さが加わる。むしろ、問題は身体の辛さではないだろう、根本はそこじゃないだろう、てな。

 晴興に迷いがないのなら、彼は依然星を眺めているはずなんだ。

 なのに、それが出来ずにいる。
 問題は、泉でも三日月藩の思い出でもない。それは、要因のひとつでしかない。

 そんな晴興に、吉宗は言うんだ。
「三日月藩の一揆を平らげ、儂のもとへ戻れ」と。

 意図的にミスリードされている不快感。
 根幹は江戸城のなかにあるのに、「泉との恋」が最重要点であると、強引に持って行く。

 あー、わたし、叙述トリック小説って好きじゃないんだけど、それと同じ臭いを感じるなー。
 ウエクミが意図的にやっているのか、結果的にそうなっちゃったのかは知らないけど。

 晴興さんの一人称が、ブレてますよ?
 この江戸城の場面だけ、三人称になってるの。晴興さんの視点で語られてないの。
 でも、またすぐに晴興一人称に戻るのね。江戸城が終わって三日月藩へ舞台が移ると、視点のブレがおさまる。
 晴興が出ていない場面、源太@だいもんたちの場面はもちろんあるんだけど、晴興が出れば視点は彼に戻る。
 舞台だから、観客は誰に視点を合わせ、誰に感情移入して観るか、自由だけど、演出は丁寧に晴興を視点にしている。(それはつまり、前に語った通り、泉や源太には不親切な作りになっているのよねえ……)

 三日月藩にやって来た晴興には、迷いは見えないの。

 かつての友と闘わなければならない痛みや苦しみは全面に出しているけれど、迷ってはいない。
 まさに、「ならぬものはならぬ」なのよ。答えは出ている。

 もう、矢は放たれている。あとは、的を射貫くだけ。

 実際、一揆の最中の晴興は、泉のこと考えてないしね。ほんとうにテーマがそこにあれば、戦う人々を見下ろすセリの上で晴興は「これが私の生きる道か……」という独白のあとに、「泉……!」と続けるべきだもの。

 晴興の苦しみの根幹は、泉との恋にはない。10年間もずーーっと、祭りで一時過ごした幼なじみのことを思い病む30男は嫌だ(笑)。
 三日月藩から目を背けてきたのは、泉が原因ではなく、別のところにあるはず……だが、それは意図的にスルーされてるっぽい。すべてを色恋沙汰に押し込めているみたいに。

 と、思うわたしは、雨の夜に晴興が泉と再会したのは、偶然だと思っている。
 一揆の会合の間、泉と子どもたちは外へ出される。櫓で雨宿りしていたら、そこへ晴興と秋定@翔くんがやってきた。子どもたちを秋定に任せ、晴興は泉とふたりっきりで話す。
 この場面は、ただの偶然。泉を愛し続けている晴興が、わざわざ泉に会いに来たわけじゃない、と思っている。 

 晴興が会いに来たのは、源太だろう。

 一揆平定出張の最中、藩主様が供を連れて、昔の恋人に会いに来るとか、なつかしい思い出の櫓を眺めに来るとか、あるわけない。

 晴興は仕事で、源太に会いに来た。源太個人ではなく、「一揆の首謀者」の疑いのある人物に。
 戦いになる前に収めたかったから、正式な召喚ではなく、内密に自ら出向いた。

 泉と話している間だけ、「老中晴興」ではなく、晴興個人……昔紀之介だった、あの頃を懐かしむ気持ちのある、素の晴興になった。
 泉のことを同じ濃度で10年間愛し続けていたわけでなくても、今現在の辛さから、しあわせだった記憶を共有する泉に会えたこと、話せたことは、大きな意味があっただろうと思う。
 心情面だけでなく、晴興とはまったく立ち位置も認識も違う源太が、ふたりの逢い引き(!)を目撃してしまったことで、さらに事態が悪くなる……という、ストーリー面で大きな意味があり、ふたりは「偶然に」絶対会うと計算されているのだけど。本人同士的には、「偶然」。

 このときの晴興さんは好きな晴興さんだし、観ていて構成上のストレスがない。つらい展開だからもちろん胸をぎゅ~~っとされる感覚で観ているけれど、構成から「変だ、おかしい、気を取られる、水を差される」という邪魔は入らないの。
 源太土下座から一揆の流れは秀逸、胸が躍る。フィクションてのは、エンタメってのは、こうでなきゃ! こういう感覚を味わえるから、ミュージカルは得がたい魅力を持つ。

 そして、恋愛部分での最大の見せ場である、晴興と泉の櫓の別れ場面。毎回ここは泣けるー!

 晴興の苦しみの根幹は、泉との恋にはない、源太へ託した泉を10年間愛し続けてきたわけじゃない。
 わたしはそう書いた。
 だけどこの櫓の場面では、晴興は確かに泉を愛している。

 この場面の晴興は、老中晴興ではなく、ただの晴興だ。

 ただの晴興は、泉を愛している。
 だが晴興は、晴興のままではいられなかった。晴興が自分で、「老中晴興」になっていたからだ。
 それを手放したあとは、もうそのまんまの晴興になる。
 口調も、三日月藩の方言に戻っている。昔の、晴興。

 晴興を苦しめていたものは、三日月藩でも泉との悲恋でもない。
 だから晴興は、すべての原因であったモノと決別したあとに、泉へ正直な愛を告げる。
 ここの晴興さん、ほんとにやさしいの。やさしくて、かなしいの。
 好きだなー……。


 ほんと、二度目の江戸城部分だけだなー、晴興がわかんなくなるの。
 鈴虫@がおりの橋の下場面の謎さも含め、あの一連は作品中毛色が違う。
 なにがあって、あんなことになっているんだろうか。
 筆が乱れているというか、あそこだけ別の人が書いたみたいに、不自然。
 (なので、ここは別項で語りたい。えーと8/24欄あたりで)

 他の部分の晴興は好き。
 ストレスなく感情移入出来る。


 ほんとに、いい作品だな-、『星逢一夜』。
 観られて良かった。ちぎみゆとだいもんで、今の雪組で、この作品を存分に味わえて良かった。

 そう思う。

 それは、ほんとう。
 でもひとつ、物語の基本部分で引っかかることがある。

 翌々日(!)欄へ続く!
 『星逢一夜』、晴興さんを考える。その3。

 すっかり変わってしまった晴興@ちぎ。やさしく天真爛漫な若者だったのに、今ではすっかり冷酷老中様。
 晴興を盾にして、自分は被弾を免れ涼しい顔をしている吉宗@エマさんにも「はぁ?」と思うけど。

 最大の謎は、晴興。

 晴興は、ナニがしたいの?

 どんな犠牲を出しても、未来のために改革を推し進めなければならない。
 これが、現在の晴興のスタンスのはず。それゆえ、自分が憎まれ役を引き受けている。

 が。
 ……えーとそれ、本気で言ってる?

 星逢祭りでの晴興は、江戸での仕事は自分の意志である、自分がやりたいのだと、瞳をキラキラさせて語っていた。
 彼が想像していたものと違い、実際にはとてもつらい、残酷な仕事であったとしても……「自らやりたい」と語っていたあの姿からは、違和感が強すぎる。

 信念を持って犠牲を払っている、ように見えないんだわ……。

 伝わるのは、「やらされてる感」。
 運命に流され、嫌々従っている。

 冷酷な政治家に変貌していた、というのが、「良い国を作るために、あえてそうしている」のではなく、「嫌なことから身を守るために、消去法でそうなった」ように見える。

 わたしには。


 えー、わたし以外の人には「晴興は心底冷酷、人間の心を持たない鬼に見える!」のかもしれない。
 強い意志で、「逆らう者は皆殺しだ」とさらりと言ってのけている、ように見えているのかもしれない。
 神の名のもとにどんな暴挙も正義とする狂信者のように、「未来の日本」のために弱者を斬り捨てることを、なんの迷いもなく「正義!」と信じている、ように見えるのかもしれない。

 でもわたしには、そうは見えない。
 本心では「こんなことやりたくない」「誰も傷つけたくない、殺したくない」と思っている、ように見える。
 本当はやさしいのに、今は鬼のように振る舞うしかなくて、あえて無表情に冷酷な命令をしているように見える。

 だからこれは、わたしの目に映る晴興についての疑問。

 彼は、ちっとも冷酷に見えない。
 冷酷にならなくては、という、使命感ばかり見える。
 迷いが見える。
 たしかに無表情だけど。冷酷なことを口にしているけれど。
 貴姫が言う通り、「表になにも表さず、痛みを隠している」顔に見える。
 それが貴姫にだけ見えるならいいけど、大名たちの前でも、「痛みを隠している」顔に見えて、それってつまり、痛みを隠せていないってこと。

 能動的な冷酷さが、どこにもないの。
 晴興ならば、それが正しいと思うなら、冷酷な仮面だって能動的に身にまとったろうに。

 舞台上の人々には「完全な冷酷さ」に見えているんだ、ただ客席のみなさんには、晴興が「本当は冷酷じゃないよ、いい人だよ」とわからせるようにしているんだ、ってこと?
 ファントムの素顔が「え、ぜんぜん醜くないですけど?」なのに、舞台上では悲鳴をあげて逃げ出すような醜さである、ようもので?

 だとしたら、そのことも説明してくれなきゃだわ。
 今までは「舞台上の人々と、観客の見ているものは同じ」だったんだもん、ここで突然「別になりました」と教えてくれないと、わかんないよ。

 そんな無茶振りせず、対外的な冷酷な顔、と、本心の迷い悩んでいる顔、を書き分ければ済むことじゃん。

 書き分けしないことも、わざと?
 どっちつかずに「悩んでます」「つらいです」と丸わかりにして、「あんなに苦しそうなのに、みんなから悪者にされて可哀想」って思わせたいのか。

 ここで晴興をとことん「可哀想」としたい、作者の意図は、わかる。
 民衆を虐げる権力者と、悪政に立ち向かう民衆だと、物語では通常、虐げる権力者側が悪とされるからだ。
 あえて悪側、そうせざるを得なかった者の悲劇を描きたいのだから、晴興は「可哀想」でなくてはならない。
 悪がるんるん楽ちん♪で悪だと、観客の共感を得られないものね。

 でも、「可哀想」にするために、吉宗は人格変わってるし、晴興も別人になってるし、……てのは、なんなん?

 晴興がここまで変わるには、泉@みゆちゃんとの別れぐらいじゃ無理なのよ。 

 晴興が精神的ニートになっちゃってるのは、何故か。
 その説明がないの。
 泉との別れが原因であるかのように描いて、誤魔化して、肝心な部分はスルーされてるの。

 泉との別れが原因なら、晴興は少年時代に江戸へ行ってからも泉のことは片時も忘れず、大人になって最初に三日月藩へ帰るときも「泉に会える!」とワクテカしてなきゃおかしいわ。
 人生の目的=泉との恋、でないと、それを失ったから心を閉ざしました、はおかしい。

 イコールではないことを、さもそうであるかのように誤魔化してあるのが、気持ち悪い。

 時間がなくて描けなかった、とか、それをやると主題がズレる、とか、いろいろ事情はあるんだろうけど。
 この描き方はやだな。
 好みじゃない。

 わたしの好みは関係ないだろうけど、ここはわたしの好みを語る場なので、好みで語る(笑)。
 『星逢一夜』、晴興さんを考える。その2。

 星逢祭りまでの晴興さん@ちぎくんは、なんの不思議も齟齬もない。納得出来る。
 それまで忘れてたっぽいのに、泉@みゆちゃんに会うなり、突然恋愛脳全開で、許嫁も立場も忘れて口説いちゃうの。
 ずっと後ろに置いたままだった「過去」が「目の前」に現れたから、前へ進み続ける晴興は、そのまま目の前の泉を求めた。
 でも、目の前には過去以外の「現実」も突きつけられる。
 土下座する源太@だいもんや、泣いている泉。昔のまんまではない、自分たちの姿。
 前へ進み続ける晴興は、目の前の泉や源太をそっとのけて、また進みはじめる。彼らとは、交わらない道を。


 ここまでは、よーっくわかる。
 晴興ならそうだろう。そう思える。

 問題はそのあと。
 さらに時はどーんと流れ、晴興は30代の壮年になっている。

 以前の夢と好奇心にあふれた若者は面差しを変え、冷たく無機質な「命令執行人形」のようになっている。

 えーと。

 なんでこんなに変わっちゃってるの?

 泉との別れがキツかったんだろうな、とは思う。
 初見では、それこそ「ヅカのお約束」で「愛を失ったために心を閉ざしたんだ」と短絡した。
 でも、くり返し観ていたら、それだと変だぞ、と思うようになって。

 恋と少年時代を失ったことと、冷酷政治家ぶりは、イコールじゃない。
 そんなことで冷血人間になるのはおかしい。

 だって晴興は、自分で選んだんだ。
 そうするしかなかった、のは確かだけれど、それが運命だとしても、嫌だ嫌だと泣きわめきながら流されたのではなく、「これが最善の道だ」と顔を上げて選んだんだ。
 もとも晴興は、「吉宗と進む未来」に強い意志と希望を持っていた。泉のことはそこにあとから加わり、やはり奔流ではない、と切り落とした部分だ。
 もともと自分で能動的に選び進んでいた道を、一部分思い通りにならなかったからって、グレて心を閉ざすとか、晴興ではあり得ない。や、世の中にはそうなる人もいるだろうけど、晴興はそんなタイプの人間ではないと、そこまでの物語で描かれている。

 だからここの描き方が、引っかかる。

 幼なじみの恋、成長して再会、瞬間燃え上がるが、運命に引き裂かれる。
 そして、時は流れ、男は心を閉ざして生きる孤独な権力者となっていた……。
 って、テンプレ設定だから、こうしたのはわかる。昼ドラでも、ヒロインとダーリンは、別れたあとは立場や人格が変わるの。お約束なの。

 お約束をやるために、晴興のキャラクタを破壊した……?

 昼ドラや植爺ならそうだとしても、ウエクミがんなことするはずないと思う。
 だからこれは、書き込みの甘さのせい?


 壮年パートでは、やたらと政治家としての晴興が責められている。
 江戸城内でも、市井の者たちにも、「悪政を強いる、悪の権力者」「みんなの不幸の元凶」として憎まれている。

 最初から、この点がすごく気持ち悪かった。

 晴興は、最高権力者ではない。
 将軍は、吉宗だ。
 晴興はその部下に過ぎない。
 悪政を強いているのは吉宗で、みなを不幸にしているのも吉宗だ。

 なのに誰も吉宗を責めず、その部下に過ぎない晴興を責める。

 貴姫@せしこが「すっかり憎まれ役を引き受けて」と言うから、吉宗を憎ませないために、あえて晴興が矢面に立っていることはわかる。
 だがそれだけだと、説明不足だ。

 吉宗が病で伏せってその間晴興が施政を任されている、ならともかく、吉宗健在で、晴興は吉宗の見ている前で喋っている。吉宗の意志であることは明白なのに、「悪いのは晴興だけ」とするのは無理がある。
 晴興だけを悪者にしたいなら、大名たちに「公方様は晴興に騙されている」系のことを言わせないと。
 悪いのは吉宗だけど、そうは言えないから叩きやすい晴興をサンドバッグ代わりに叩いている、というなら、吉宗への嫌味を混ぜつつ、あえて晴興に異を唱える体を作らないと。現実の江戸城で大名にそんなことが出来たかではなく、物語上の立ち位置表明として。

 吉宗-晴興、の図を世間がどう見ているかもわからないからどう感じていいのか混乱する。加えて致命的なのは、吉宗と晴興の真意が見えないこと。

 享保の改革が、痛みを伴う改革であることを、吉宗も晴興も理解している。だから、それによって世間から責められることも、理解している。
 だが。

 まず、吉宗についてわからないのは、今の「悪者は晴興」という現状を、彼がどう思っているのか。

 施政者が民意を失うわけにはいかないので、あえて汚れ仕事を晴興にのみ任せ、自分はおいしいとこ取りしているのだとしても。
 その現状をどう思っているのか。

 語る場面が欲しかったよ。

 吉宗公は賢人であり、晴興を息子のようにかわいがっている、その才能を高く評価している、とわかって好意的に見ているから、なんとかいい方向に脳内変換しているけれど。

 吉宗公もつらいんだよね、とか、ふたりには信頼があるんだ、とか、相手の痛みを想像して共に苦しんでなお、その先にあるものを求めて進もうとしているんだ……などなど。
 前の場面で培った情報を元に、勝手に想像しているけれど。

 実際に舞台にあるものだけでは、足りなさすぎる。
 今のままだと、吉宗様ってば、弱い立場の者(晴興)に重責を押し付け、自分は美しい理想を語る無責任オヤジ。しかも疑り深いのか、晴興の忠誠心を試すかのように過酷な試練を与える……てな。
 かつての吉宗公の片鱗を見せるのが、晴興に「本物の星は見んのか」と尋ねる部分だけって……。
 むしろ、あの流れでそれを言うのは無神経じゃね? そのあとフォロー入るのかと思ったら、まさかの投げっぱなし。晴興を追い詰めるだけかよっていう。

 前の場面で「吉宗は賢君」だと思ったのに、違ったの……?
 この描き方だと、綺麗事だけ並べる、卑怯な暗君ですよ……。

 描き方がなんか、おかしい気がする。

 翌日欄へつづく。
 晴興さんを考える。

 晴興@ちぎくんと泉@みゆちゃんの恋物語として、『星逢一夜』が大好きなのだけど。

 わたしが晴興さんでいちばん好きなところは、星逢祭りに三日月藩へ戻って来たときの彼が、泉のことを忘れているっぽいところだ。

 「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」なんて、仰々しいナレーションではじまる物語なのに、その「運命の相手」に対し、晴興さんてばなんて雑な言動。

 晴興と泉は、最初に出会った子ども時代から、ずっと「特別」だ。
 作者は、ナレーションで並列している源太には個別エピソードもナニも描いてないのに、泉についてはもう、いちいち細かく「ふたりは愛し合う運命!」とわかる注釈を入れている。
 それはいいんだ。泉はヒロインで、この物語は泉とのラブストーリーだから。大劇場でやるんだから、「そこまでいちいち注釈せんでも……」ってくらい、細かく注釈するくらいで、ちょうどいい。

 で、行間読めない客にもわかるように説明し続けたのに、いざ7年後、大人になった晴興は、泉のことを忘れているっぽい。

 幼い恋心を抱いていた幼なじみのふたりが、運命によって引き離された。でも、たとえ会えなくなっても互いを想い続けているはず……。が。
 時が経った、互いの道を歩くようになった、晴興は貴姫@せしこと結婚?! 泉は源太と結婚?! えええ、晴興が愛してるのは泉でしょ? 泉が愛しているのは晴興でしょ? ふたりはどうなっちゃうの?! ……と、客に思わせるための常套手段だとわかっている。いったん「なかったこと」にするんだよね。
 それで客の注意を引いた上で、次の場面で「変わらず愛していた!」とぶち上げる。お約束のテンプレート展開。

 ただの作劇上の手法、お約束だとわかっている。
 だけど、お約束を超えて、ここの晴興さんが好き。

 江戸に行くことも藩主になることも、晴興が望んだことじゃない。
 泉や蛍村の仲間たちと、この三日月藩で暮らしていたかった、地位も責任もない次男坊でいたかった。
 そんな心残りを抱えつつスタートした、晴興の江戸生活。
 不本意だったはずが、仕方ない、消去法で選んだ道だったはずが。
 吉宗@エマさんとの出会いにより、意義が大きく変わる。

 晴興は、自分の人生を楽しんでいる。

 7年後、三日月藩へ帰って来たときの晴興は、江戸で政治に関わる人生を、謳歌している。
 尊敬する為政者のもとで、その力になること。自分の能力を存分に使い、困難を乗り越えていくことに、生き甲斐を感じている。

 蛍村でのことは、ただの思い出。泉との淡い初恋は、遠い日の記憶。
 現在じゃない。
 今の晴興は、仕事が楽しくて仕方ない、夢にあふれた若者だ。自分の可能性、才能を信じ、キラキラしている。

 そこが好きなのよー。

 大の男が、少年時代の初恋の相手を、いつまでも現在進行形で引きずっていたら、その方がやだ(笑)。
 きちんと恋愛し、本格的に将来を誓っていたなら、その誓いを胸に生きてくれていいけど、「ちょっといいな」と心が動いたに過ぎない「淡い初恋」だ。当時の紀之介にはその「ちょっと」は濃い強い思いだったかもしれないが、大人になれば過去の「いろんな出来事のうちの、ひとつ」に過ぎない。

 晴興が秋定@翔くんという親友を得て、やり甲斐のある仕事をし、将来に希望を抱いている。
 江戸で、ちゃんと自分の居場所を築いている。

 晴興がいつまでも蛍村のことを引きずり、そのことだけを考えているとしたら、それってつまり、江戸ではうまくいかなかった、ってことよね。
 新しい場所で自分の居場所を作れず、失った過去にだけ価値を求める。うわそれ、人として残念。
 それまでとまったく違った場所で、新しい人間関係で、今までとはチガウ価値観で生きなければならない……って、かなり高ハードル、つまずいてもおかしくない……けど、そこでつまずいて引きこもりになっちゃうのは、ヒーローとしてありえなくね?
 無能である、と不当なレッテルを貼られてきた少年晴興は、実は逸材であった。彼が見下されてきたのは、彼を正しく評価出来る者がいなかったためだ……みにくいアヒルの子が、白鳥になる快感。
 環境の違いでもともとハードル高い上に、晴興をねたんで足を引っ張ろうとする者たちも大勢いるのに、それでもそこで、才能を開花させ躍進している。……から、晴興はすごい。

 そこが蛍村じゃなくても、晴興は生きていける子だったんだ。
 もちろんそれは、蛍村での子どもたちと出会い、成長したゆえのことかもしれない。誰からも顧みられなかった妾腹の子ではなく、「別れるのが寂しい」と泣いてくれるたくさんの友を持った子、だからこそ新しい環境でも臆せずに生きられたのかもしれない。

 晴興が、自分の人生を、颯爽と歩いている。

 それが、うれしい。

 やっぱ、仕事に燃える男っていいよねえ。夢を持って邁進する若者ってまぶしいよねえ。

 貴姫のことも、嫌いじゃないんだろう。
 吉宗公から結婚を申し渡されたにしろ、異論はない。仕事のために必要なことだと思っている。
 自分はいいけど、貴姫は嫌じゃないのかな、嫌々するんだったら申し訳ないな……そんな感じか。
 それ以上でも以下でもないのは、貴姫が晴興に惚れている、と聞いても反応しないことでわかる。

 この時点で、泉のことは思い出してないよねえ。
 今の晴興の人生に、「泉」は無関係なんだ。

 泉のことを忘れたわけでも、否定するわけでもなく。
 「今」目の前にない。

 目の前のこと、もっと先のまぶしい未来や理想のこと。
 若者の目は、関心は、それだけでいっぱいだ。
 後ろや過去には向かない。

 だから。
 「今」、大人になった泉が晴興の前に現れ、すべてが変わるんだ。

 前へ進むことしか考えていないから、はるか後ろに置いたままの泉のことは、忘れていた。彼女を愛した気持ちがなくなったわけじゃない。でも、日常には出ない。
 出ては来ないけれど、たしかにある……それが、「今」目の前に泉が現れることで、「過去の想い」が、「今」にワープして来ちゃったんだ!


 この、「さっきまで忘れてたっぽい」でも、再会するなり「運命の恋スイッチ入ったーー!」になるのがツボ。

 ちゃんと人生進んできたんだ、出世という外側のことに留まらず、精神的にも豊かに過ごしてきたんだ……そう思える晴興だから、今さら「過去」と再会して、「過去」の方へ進んでも、かっこ悪くない。
 江戸生活がつらいだけ、後ろだけ見てうじうじしていた、ちやほやしてくれた百姓の子たちだけが心の寄りどころ、なんて情けない男ではないとわかっているから。
 現れた「過去」は「後ろ」ではなく、今現在、彼の見つめる側、「目の前」「前方」なんだ。後ろからすくっと前へ、ワープしてきたの。
 だから晴興は、前へ進む。泉の手を取る。彼女を恋うこともまた、彼の「前進」だから。
 晴興と源太は、親友であるべきじゃね? という観点で語る、『星逢一夜』へのツッコミ、前日欄からの続き。

 晴興@ちぎと源太@だいもんは「ただの知り合い」であって、親友じゃない。
 これを変だと思い、なんとかしたいと思う。現状の作品のまま、最低限の変化で、作品自体を変更する、いつものアタマの体操、

 必要なのは「幼なじみの親友」である設定。つまり、晴興と源太が「親友」になるのは子ども時代。ゆえに最初の仕掛けは、子ども時代に必要。

 子ども時代はいい加減長いし、これ以上エピソードを入れられない。が、わずかな加筆で、ふたりの関係を深められる!

 紀之介(晴興)と源太が最初に出会ったとき、櫓の上でふたりきりになる。その場面で、ふたりに「泉」以外の会話をさせる。

 紀之介と源太が見た目だけ「親友」っぽく過ごすのは、この短いシーンのみ。
 でも、ここで話しているのは泉のこと。
 源太は紀之介が傷つかないように、と気を遣ってその場に残ったのに、紀之介はそんな源太に興味がなく、泉@みゆちゃんのことしか考えてない。
 源太も泉を思いやる紀之介に同調、自分が無視されていることには気づいてない。紀之介に無視されても平気なくらい、紀之介自身には興味がない。
 ふたりにとって大事なのは、泉だけ。互いは、眼中にない。

 ここなー。ひどいよなー。
 ただ物理的に「ふたりでいる」「ふたりで話している」ってだけで、「親友」エピソード……だとしたら、ひどいカンチガイぶりっすよ。
 物理的に近くにいても、心がそこになければ意味はない。

「お前が悲しかったら可哀想じゃと思ったんじゃ」
「悲しかったんは、あいつのほうやろ」
 という会話に、ただひとこと、
「ありがとな」
 と、源太の気遣いを紀之介がねぎらう台詞を入れる。
 自分のために、泉を追いかけずに残ってくれた源太……そのやさしさに、ちゃんと紀之介が気づく。城ではいつもみそっかす、無視されて育った紀之介なら、あたりまえと受け取られるような、ささやかな優しさにだって、ちゃんと気づくはず。その価値を知っているはず。
 紀之介に面と向かって礼を言われ、照れる源太。
 源太が気遣い出来るのもやさしいのも「あたりまえ」のことで、泉にしろ村の仲間たちにしろ、いちいち礼を言ったりしない。泉なんかいつも源太に無茶振りしてるし。
 真正面から礼を言われ、村の誰ともチガウ紀之介に、源太の興味と好意が向く。
 紀之介と源太は、互いを認め合う。

 礼の言葉ひとつと、それに対するリアクションだけ、ですよ?
 それだけで、ふたりの出会いと立ち位置がまーーったく変わってくる。


 そして、星逢祭りでの再会部分は、晴興と源太が、互いを「親友だと思っている」ようにする。
 前振りとして、蛍村の人々と話す源太に含みを持たせる。藩主様が帰ってきた、という話題で、源太は紀之介が偉くなったことに触れるよね。その言い方を少し変えるだけでいい。台詞は全員そのまま。
 紀之介……晴興が帰って来たことはうれしい、出世したこともうれしい、だけどちょっと寂しい……的な。
 今のままだとほんと、「昔の知り合いが出世した(自分とは無関係)」ってだけなんだもの……。や、実際農民にとって藩主様は雲の上過ぎて無関係、想像も付かないだろうけどさあ。「親友」ならいろいろ思うことあるだろうに。
 源太側に軽く細工して、あとは晴興側。秋定@翔くんとの銀橋で、源太のことを話題にする。名前は出さなくてもいいから、村の話をする体で大切な友の話をする。(泉については、源太よりも複雑な思いがあるため、世間話ついでに触れることはない)
 台詞何行か増やすだけ、時間にして1分あるかないか。調節可能だよね?
 晴興と源太、共に心が相手に向かっていること、忘れていないこと。それだけ伝わればいい。

 そのあとで、実際に源太と再会する。
 再会時の台詞は同じでいい。
「達者だったか」
 と晴興が声を発するだけで、舞い上がった源太が勝手にぺらぺら喋る。立場上、源太がそうなってしまうのは仕方ない。
 ただ、そのあとが問題。
 どう話していいかわからない源太が、間が持たなくて勝手にべらべら喋って、その喋りすら途切れて。
 ふたりが、沈黙する。
 ここまで、同じ。
 その次の瞬間、ふたりの心は歩み寄る。心は変わっていない、親友だと思っている……それを表す沈黙。会えたよろこび、変わっていないと互いにわかった、そのよろこび。
 ふたりは実際に、思わず歩み寄るのだけど、……そこに秋定が現れる。

 秋定が晴興に声をかける、タイミングを変えるだけ。

 立派な様子の侍が晴興に声をかけたことで、源太は現実に引き戻される。
 立場の違い、身分の違いを知り、心をひるがえす。
 それで、「この場から離れるために」に、「泉を探しに行くんで失礼する」と言い出す。
 泉を探していたことも、心配していることも事実、なにも嘘はついてない。
 だけど、それを方便に、源太は晴興から逃げ出す。

 晴興もまた、源太の心持ちと自分の立場を思い、それ以上引き留めない。苦く現実を受け止める。親友に会えたよろこびと、まともに会話も出来ない現実と、複雑な心情を、ちぎくんなら表現してくれるはず。

 台詞は一言一句変えず、そのままでいいのよ?
 源太が「晴興に興味ナイ、それより泉が大事!」とやるんじゃなく、秋定という「藩主様の連れ」が登場することで、ふたりの時間が強引に終わってしまうの。
 これ、自然な展開じゃない?

 源太が泉を言い訳にこの場を去った、とわかるし、秋定がすでに横にいるから、晴興が「泉」というワードに反応しなくてもおかしくない。
 現状だと、「運命の恋人」のはずの泉の名前を聞いても、しかも「泉の様子が変だった」と源太があわてていても、晴興はなんの興味も持ってないない。
 源太だけでなく、泉のことも、どーでもよかったんや……。

 実際晴興は、蛍村のことなんか忘れていたのかもしれないし、江戸でのやりがいある仕事に夢中、政略結婚をいいとも悪いとも思わないくらい、恋愛にも女にも興味はなかったのかもしれない。
 それが、成長して美しい娘になった泉と再会したことで、一気に恋愛脳になっただけ、「仕事一途」が一転して「宿命の恋」になる姿こそを、作者は描きたかったのかもしれない。

 だったら子役場面はえんえんいらない、江戸から話をはじめて回想シーンで子ども場面やる程度でよくね?
 子ども時代あってこその、成長してからの恋よね?

 バランス悪いんだよなあ。

 それらが全部、秋定のタイミングを変えるだけで解決するのになー。

 そのあとの晴興と泉の再会、源太土下座、もそのままでよし。

 後半の壮年になってからのやりとりも、そのままで。
 一揆と一騎打ちを「ただの知り合い」同士、「女を取った・取られた」だけの私怨めいた私闘、にしないために、それまでのふたりの関係を「幼なじみの親友」にする。
 それがこのツッコミの目的なので、後半は変更なし。

 「幼なじみの親友」にすれば、冒頭の晴興のナレーション、「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」も、正しくつながる。
 「ただの知り合い」レベルの相手を掴まえて、この仰々しいナレーション、おかしいって!!
 ……はっ。
 これが老年の晴興さんの昔語りだとしたら、すっかり物忘れの酷くなった晴興じいさんの脳内で「俺たちは無二の親友だった……」てな風に変換されてるのかもしれない。自分に都合良く。過去は美しく見えるもんだから。
 ウエクミ、そこまで計算して書いたの?! ……なんてな。

 源太をちゃんと「親友」にする。
 それから、ほんとなら一揆前に銀橋ソロ一本入れる。たかが4分くらいのもんじゃん、星逢祭りのオープニング焼き直しダンスを短縮すれば入るわ。
 泉にも銀橋ソロで、彼女自身の「想い」を歌わせる。

 それだけで、ずいぶん変わるはず。
 なんやかんや言ってやっぱり、大きな不満点は、源太の書き込み少なすぎじゃね?だな(笑)。

 『星逢一夜』

 構造上、晴興@ちぎくんと、源太@だいもんは、「親友」であるべきだと思うのよ。
 なのにあのふたり、別に親友じゃないんだもん。

 ふたりの一騎打ちを物理的なクライマックスにするなら、源太は晴興の親友であるべきよね。
 心理的なクライマックスが泉@みゆちゃんとの櫓のシーンであるとしても。

 というのもだ、「ル・サンク」の脚本を読んだのだわ。

 晴興と源太の一騎打ちにて、どーしてふたりが笑うのか、マジでわかんなかったの。
 脚本にはなにか答えがあるのかなって。
 ふたりが笑うくだりは特になくて、ただ「立ち回りは昔を思い返すようなもの」とある。
 ?
 昔を思い返す?

 晴興と源太は、昔殺し合いをしたことがあるのか??
 負けた方の命を奪う、という戦いをしたのか??

 命懸けの戦いで、ナニを思い返すんだ……。

 てな意地の悪いツッコミは置くとして。

 これってたぶん、アレだな。
 『太王四神記』のタムドクとホゲ。
 幼なじみのふたりは、剣術の稽古をして、友情を育んでいた。
 大人になり、敵同士になったふたりは、宿命的に一騎打ちをすることになるけれど、命懸けの殺し合いのはずが、子どもの頃、親友だった頃の記憶が甦る……ってやつ。

 『太王四神記』に限らず、「幼なじみの親友が敵対する」設定の定番だから、そのことなんだろうなとは想像が付く。

 だがしかし。

 それは、タムドクとホゲが本当に親友で、実際に剣術の稽古をしていたから、通る話であって。

 百姓の子であり、やさしく手先が器用な源太と、藩主の子だけど剣術の稽古もせずに星ヲタクをやっていた晴興では、「剣を交える」=「昔の記憶」になんねーよ。

 えーと、本来は晴興と村の子どもたちがチャンバラをして遊ぶエピソードがあったのか?
 そしてそこで、紀之介(晴興)と源太が親友である、とわかるエピソードがあったのか?
 時間の都合かなんかで直前に削られちゃって、でも親友設定だけはそのまま調整するヒマもなく残ってしまった、とか?

 晴興と源太って、子どもの頃、ちょっと親しくしていたけれど、そのあとは友だちでもなく、会わなくても話さなくても平気、レベルの「昔の知り合い」だよね?
 その後、泉のことで気まずい別れ方をしたから互いにライバル心とか嫉妬心とか持っちゃってるけど、「ふつーの友だち→ただの知り合い→気まずい相手」なだけで、人生一度もまともに「親友」だったことってないよな?

 なのに、「構造上、親友である方が適している」ってだけで、観客が勝手に「親友」だと思って見てるんだよね?

 いやあ、純粋に不思議です。
 ウエクミはなんで、こんな基本事項を忘れて作劇してるんだろう?
 ヅカのお約束だから、その「お約束」におんぶにだっこで自己完結しているのかしら。
 他の作家なら「推敲してないんだろう」とか思うだけで終了、だけど、ウエクミはそのへんちゃんとしているイメージだからなあ。
 時間が足りなくて、「お約束だから、削ってもヅカファンは勝手に脳内補完してくれる」と思ったのかな?

 晴興と源太の「親友」エピソードがあれば、物語はどんな風に見えたのかなあ。

 ふたりが親友に見えないいちばんの原因は、星逢祭りでの再会部分よね。

 晴興と源太は立場の違いから、晴興が藩に戻って来ていたとしても、会うことなど叶わないかもしれない、会っても親しく会話することは出来ないかもしれない、そんな状況。
 なのに祭りのどさくさでばったり会って、これが生涯最後の機会かもしれないのに、源太は気もそぞろ、生涯一度の晴興よりも、毎日会える泉に気を取られている。晴興もまた、源太のそんな態度になんの感慨もないくらい、彼に興味を持っていない。

 ただの「昔の知り合い」と、顔を合わせた、というだけ。「なつかしいな」と挨拶しただけ。

 運命に引き裂かれていた親友と、ようやくめぐり会ったようには、まったく見えない。

 ここを変えるだけで、ふたりの関係はかなり印象が変わるのにな。
 源太が勝手にあたふたしてかしこまるのはわかるけど、もっとちゃんと目の前の晴興に興味と愛情を抱かせればいいのに。
 晴興もまた、源太にかしこまられて寂しく思うとか、すればいいのに。敬語使われてびびりまくられてるのに、それを当然だと思ってるもんなあ。

 惜しいなあ。

 ふたりにあるのは、あくまでも、泉。
 晴興は、源太が泉の夫でなければ興味も持ってないし、源太も同じ。あくまでも、泉ありき。

 幼なじみの意味ねえぇぇ。

 もっとうまく使えばいいのに。
 『星逢一夜』は晴興@ちぎの一人称小説だと、前日欄で書いた。

 短編作品なんだから、それでいいと思う。
 登場人物が多く、視点が多くなると、どうしても時間が必要になる。
 短くまとめるには、リスクを減らすが吉。

 それを、うまいな、と思う。

 同時に、ずるい、と思う。

 この物語さあ、最低限、泉@みゆちゃんの物語も描くべきなんじゃないの?
 泉がなにを思っているか、語られる場面ないんですけど?

 冒頭で「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と」と語らせるからには、源太@だいもんも描くべきなんじゃないの?

 泉と源太、枚数かけて書き込むべき人たちをスルーして、晴興ひとり書き込んで「いい作品できました」はナイだろ。
 90分かけてひとり描くだけなら、誰だって出来るわ。……誰でもっつーか、オレは無理だけどな(笑)、わたしではなくて、プロの劇作家なら。

 ずるいなー。

 んで、ずるいことがわかりにくくしてあるあたり、よりずるいなー、と思う。

 飛車落ちで指しておいて、さも実力で勝ちました的な?
 ヅカはトップ娘役と2番手まで使い切ってナンボですよ、そのうえ、他の番手スターや若手たちに役と見せ場を与えなきゃなんないんですよ?
 主人公ひとりしかまともに描く気なしとか、あり得ないっしょ。

 とまあ、勝手なことを言ってみる(笑)。

 まあようするに、のろけだな。

 『星逢一夜』が好きよ。だから、口を出したい。
 他にもっと可能性はなかったのか? と想像する。

 泉と源太を、きちんと描いていたら、どうなったのか。

 源太に銀橋ソロを、どれだけ昔から泉が特別だったか、愛していたかを歌わせる。
 彼の立ち位置表明。
 ここに冷酷藩主となった晴興が関わってきても、源太のスタンスが揺るがないのだとわからせるような。
 こう考えているからこそ、ああするしかなったのだと。

 ソロ歌の位置が星逢祭りより前なら、初日のまんまの善人源太でいられたのかな。
 まだ晴興との友情を信じている青年時代なら、源太の歌はやさしい温かいものになるだろう。
 晴興に裏切られたあとの壮年時代なら、怒りと激しさのあるものになるだろう。
 対泉の歌になるのか、対晴興の歌になるのか。それでずいぶん違う。

 だいもんが暴走したのって、源太の情報量の少なさにも原因はあるかな。
 ソロで指針が決められていないから。
 お稽古場でどれほど理を説かれたところで、舞台の上で動く感情は別だものな。
 舞台上にあるものだけだと、源太は闇にも聖にも、どちらにも進むことが出来る。


 泉がふたりの男をどう思っていたか。
 明言する歌があっていいと思った。
 もちろん、語らなくてもわかる。
 源太を夫として愛していたのは事実だろうし、それでも晴興に恋していたのも、まぎれもない真実だろう。
 だけど、如何せん描かれていることが少なすぎる。関係ない里の歌を歌わせる時間があるのなら、彼女の立ち位置を示すべきだ。行間を読み解く小劇場公演じゃない、2500人の大劇場だ。

 星逢祭りの「三人模様」ダンスも、晴興視点でしかなく、泉の心情は貴姫@せしこ程度にしか語られていない。
 あそこはもっと短くして(オープニングで長々見たから、使い回しいらない)、一揆前の壮年時代にこそ、「三人模様」を歌とダンスでどーんと入れるべきだろう。

 泉も歌うし、源太も歌う。もちろん晴興も歌う。
 千々に乱れる心を。

 星だの定めだの「全体テーマ」を歌って「きれい」にまとめるんじゃなくて、多少泥臭くなっても、生きて泥に愛執に汚れている人間たちの心の声を。


 晴興の物語に、泉と源太の物語が加わったら、どんだけ深い物語になったろう。
 晴興と同じ濃度で彼らの生活が、思いが、語られたら。
 幾重にもなった陰影は、どれだけの濃さと虹彩を描いただろう。

 それは大劇場でやるべきことでもなく、物理的に不可能なことなのかもしれないけれど。
 それでも、夢想する。

 ウエクミなら、出来たんじゃないの?

 ……そう思わせるあたりが、ウエクミせんせ。
 植爺だーの谷だーのに、そんなことぁカケラも思いません。

 出来るのにやらない、汚すことを避け、きれいにまとめることを選んだ、観客の視線も支配したいから意志を持って頑なに一人称にした。
 そう思わせる、オレのウエクミDREAM(笑)。
 『星逢一夜』はいい作品だと思う。

 でもさー、気になるのは「主人公の一人称作品」であることなんだよねえ。

 物語冒頭、晴興@ちぎのナレーションが入る。
「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」
 語っているのは、晴興。
 しかも過去形だから、この物語は晴興が陸奥へ流されたあと、なにもかも失ったあとで回想しているのかもしれないね。
 そう思うと切ないことだ……というのは、置いておいて。

 初見のときはわからなかったけれど、2回目からは気になった。

 ミュージカル作品なのに、歌が晴興@主人公にしかないこと。

 歌……合唱でも歌い継ぎでもない、まったくのソロ歌は、その人物の見せ場だ。
 タカラヅカでは主に銀橋ソロとして使われる。
 物語の一部、前後の流れを受けて歌うにしろ、物語とまったく関係なく「番手スターだから」と歌うにしろ、間違いなく「見せ場」だ。

 そして、個人の見せ場である以上、大抵の場合は「そのキャラクタの歌」になる。
 90分しかない短編作品で、たったひとりで舞台を占領するのだから、そこに情報を詰めないことにはもったいない。
 だから概ね、銀橋ソロはそのキャラの心情を歌う場面になる。

 人生に悩んだり、恋しい人への愛の歌だったり。なにかしら決意をしていたり。
 歌うキャラクタの、一人称。心情を歌にする。
 私は誰々を愛してる、私は悩んでいる、私は苦しい立場にある、私はこう生きたい……などなど。
 情報量の少ないキャラクタでも、銀橋ソロ1本あるだけで「こんなこと考えてるんだ」とわかったりする。

 だが、『星逢一夜』には、ソレがない。

 銀橋で歌うのは晴興のみだ。

 たしかに、他にも歌はある。
 源太@だいもんは祭り場面で銀橋センターで声を発するし、泉@みゆちゃんも歌いながらひとりで銀橋を渡る。

 が。
 源太の歌は「祭りの歌」であり、彼自身の歌ではない。
 ぶっちゃけ、源太ではなく「祭りの男A」が歌ってもイイ。

 泉になると、もっとひどい。
 せっかくの銀橋ソロなのに、心情とは関係ない歌。
 「歌いながらひとりで銀橋を渡る」ということでヒロインを差別化しているだけで、「泉」としての見せ場じゃない。

 祭りの歌に、里の歌に、源太や泉がそれぞれの思いを重ねているのだ、それを読み解くのだ、という見方は置いておく。もちろん、そういう意味もあるだろうが、その話は今はしていない。

 この作品は、とても頑なに、他者の意識を排除している。

 泉がなにを思ったか、源太がなにを思ったか、彼らは言葉を発してはならないんだ。語ってはならないんだ。
 口を開いていいのは、主人公の晴興だけ。

 観客が目で追うのは、主人公である晴興だけ、が正しいんだ。

 壮年になってからの晴興と源太の再会場面、源太の土下座から晴興の銀橋ソロ、そして一揆になるあの流れ、わたしはあそこを秀逸だと思う。
 あそこがいちばん、「正しいな」と思う。「容赦ないな」とも思う。

 主人公は、晴興。

 この前提が、一切揺らがない。

 親友同士の対峙から一揆になる、そのドラマティックな流れで、揺らがずにカメラは晴興だけを追いかける。
 多面的に盛り上げられる場面だから、ここで源太にもカメラを向けたくなるものなのよ、作る側としては。や、作るっちゅーか、こちらは観る側だから、「見たい」と思う、それを作者は感じて作っているわけでしょ?
 なのに、そこで揺るがず源太排除、晴興だけピックアップする、って、すげえなと。

 その昔、『天の鼓』というぐたぐた作で、作者はクライマックスで「主人公が誰か」わからなくなった。
 それまで主人公を追っていたはずのカメラが、いちばんの盛り上がりで別の人を追いだしたの。主人公は、その別の人の背中越しにしか、見えなくなった。
 そう古くもない昔、『フットルース』という作品で、何故か主人公ではない人がカメラの中央でタイトルでもある「魂が解き放たれる」場面を演じ、主人公は背中を向けたまま傍観者として収束した。

 そんな風に、もっとも盛り上がる場面で、主人公が主人公でなくなってしまうことが、ある。
 視点の振り分けがうまくまとまらなかった、『The Lost Glory』という作品もあったねー。クライマックスでカメラがブレるの。ふたりの男のどちらを視点に、あるいは両方、あるいは誰でもない神視点に、この場面を表現するか、作者の意識の鈍さを感じた。
 とまあ、ぱっと思いつくままに、ヅカの女性クリエイター作品を例にしてみました。
 視点の混同。混乱。

 主人公よりそれに対峙する役、障害となる役の方がドラマティックで、起承転結の「転」を動かす起爆剤になることが多いのね。物語ってもん自体が。
 作者はその物語の「神」であり、すべてのキャラクタを知っているから間違えやすいの。それまで主人公の目線で進んできた物語なら、なにがあってもそこは間違えちゃいけないんだけど。なまじ主人公以外も見えているから、混乱するのね。
 クライマックスだろうと、カメラが追うのは、物語の盛り上がりではなく、主人公の心の変化。どんなドラマティックな出来事も、主人公の目を通す。主人公と無関係にしない。
 や、盛り上がり追った方が気持ちよかったり、楽だったりするけど。そこはぐっと我慢、主人公大事。
 もともと神視点の三人称作品ならいいけど、主人公の一人称作品なら、クライマックスも主人公視点で統一してくれないと!

 盛り上がったーー! というところで、カメラがだいもんではなく、ちぎくんを追うこと……ちぎくんが銀橋に出て来て歌うことに、心躍った。
 ここでだいもんじゃないんだ!! だいもんも使った方が盛り上がるのに! それでもあえてちぎなんだ!!
 よっしゃーー! と、拳握ったねー。

 そのあとの源太の歌も短い短い。
 心情を語るのではなく、あくまでも「一揆」の歌。
 源太単体の歌でも見せ場でもない。

 ここで源太にソロを与えがちなのが、ヅカの演出家だと思う。だいもんが、ちぎが、というのではなく、作品のキャラクタ位置関係。
 単純に盛り上がるもん。
 盛り上がる方がいいに決まってるもん。

 盛り上がりは抑えめになるけれど、ブレずに晴興視点、
 源太は晴興を通してしか、語られない。表現されない。
 小説ではなく舞台だから、観客は舞台上のどこでも観ることが出来る。ゆえに完全な一人称はあり得ないのだけど、全方向性の視界の中で、物語の中心がどこかを演出で押さえてくる。だから、これは一人称作品。

 徹底してるな。容赦ないな。

 作劇部分で「よっしゃーー!」なのに、「だいもんに歌わせろ~~! 耳が欲求不満じゃ~~!」と思うのも正直なところだけど(笑)。

 ほんとに、頑なに一人称なのよ。

 良くも悪くも。
 新人公演『星逢一夜』にて。

 キャラクタの印象の違いがツボだったのは、猪飼秋定@たっちー。

 うまい。

 台詞が、ちゃんと聞こえる、ナニ言ってるのかわかるー!!
 しっかりしていて、優秀な青年だってわかるー!!

 本役の翔くんとあまりに違って、ウケてしまった。
 そしてつくづく、翔くんってどんだけ経験積んでもうまくならないんだなと思った。

 だけど、本公演の翔くん猪飼さん、好きだな~~、と改めて思ったりもした。

 新公を観てわかる、わたし、本公演でけっこう翔くんのこと見てるんだなと。
 や、自分では意識してなかった。
 新公を観て、あ、ここがチガウ、ここもチガウ、と思うたびに、そうかわたし、ここで晴興さんじゃなくて猪飼さん見てたんだなと思い至る。

 猪飼さんは、晴興を中心に存在している。
 最初の場面では、晴興が言い出した月食の件で。
 晴興の弁を否定するために発言し、それが正しかったとわかったあとは責任を取ると言い出して、晴興に一喝されて。
 三日月藩での晴興との友人トーク、2度目の三日月藩では晴興のお付きとして、彼だけを見つめて。
 あくまでも、晴興ありき。

 その、「晴興ありき」の翔くんの居方が、わたし好みなんだ。なんかとてもセンシティヴに揺れ動いている気がして。
 や、幼いだけかもしんないね。

 たっちーは、論理的だなと思った。
 「猪飼秋定」という役割なら、こうだろうなという芝居。
 翔くんが呆然と晴興を見つめているところでたっちーは頭を垂れていたり、晴興より「自分自身」を見ている。
 必要以上に晴興には傾倒せず……依存せず? まともな距離感を持って仕事と友情を構築しているように見えた。

 滑舌いい声も、関係しているかもしれない。
 はきはきしっかり喋ってくれるから、気持ちいい。歌ウマさんは、台詞声でもしっかり音色を作ってくれるよな。
 技術だけなら、本役さんより上だよなあ……。
 それだけではないのが、舞台の不思議なところだ。

 こちらの猪飼も、一度本公演で見てみたいと思った。
 滑舌良く説明台詞を喋る猪飼秋定が見てみたい(笑)。


 うまいのがわかっているから、あまり新たな発見はなかった、吉宗@まからくん、鈴虫@翼くん。
 彼らはいつも同じような役……いやその、まからくんは前回美青年役で苦戦していたから、新公ではそーゆー役をやらせるべきなんじゃないかなと思ってみたり、でもへたっぴさんに重要な役をやられて作品ぶっ壊されるより、うまいとわかっている人にやってもらった方がいいのかと思ってみたり。


 そして、つくづく思う。

 役ないな、この作品。

 主人公の友人の村人役は、たくさんいる。
 ちょび康とか大ちゃんの役とか、話題になる役はある。
 が。

 それを含めても、役がない。
 ちょび康にしろ大ちゃんの役(氷太、という名だが、作中で個別認識される名前じゃない)にしろ、新公で下級生が演じると「モブ」になってしまう。
 ちょび康@陽向くんはうまいし、氷太@真地くんは大きいんだけど……。

 まなはるの役@おーじくんすら、モブ化してるもんなあ……。

 一斉に出て来て口々に喋るだけじゃあ、1回限りの新公ではキャラ立て難しいわ……。


 ありちゃんは相変わらず安定してうまいし、姫君@うきちゃんは美しい。
 叶くんは実力ゆえに代役を任されるのはわかるけど、目立つ人なので「あれ? さっきと同じ人??」と混乱する。
 細川慶勝役は、目が利く分、強くてこわいね。高温な感じ。


 真ん中もだけど、脇に至るまで「本公演と同じ」印象の役がほとんどでなあ……。
 ここまで同じことをさせるのなら、ほんと本公演だけで十分、って感じ。
 新公とはなんだろう……と、ここでも考え込んでしまう。


 本公演でも縣くんは目に付くし、芝居しているところを楽しみにしていたんだけど、うーん、ひとこの役って3回見るまでひとこだとわからなかったくらいのモブみたい役だし、演技力どうこうわかるほどでもなかったっす……。

 まち、叶、縣の3人でなんかやって欲しいと思ったわ。濃ゆいトリオで。
 新人公演『星逢一夜』感想。

 興味深かったのは、貴姫@くらっちだ。

 この役、娘役が演じるとこうなるのか!

 と、新鮮だった。
 男役が演じる男勝りな姫君ではなく、女の子が演じると晴興と同世代の才気煥発少女の役になるんだ……と、考え、待て待て、本役も娘役だ、と思い至る。
 途中で間違いに気づいたが、感覚は変わらないので、そのまま語る。

 本役の貴姫は、晴興よりはるかに年上の、大人の女だ。
 『ベルばら』ならナントカ伯爵夫人とかで、ナントカ伯爵家令嬢、ではない。同世代の女性だけで演じる劇団ゆえに、見た目だけでは年齢設定がわかりにくいため、「令嬢」「少女」は大袈裟なくらい幼く若く、「夫人」「大人」との差異を打ちだしてくる。
 『星逢一夜』は植爺や柴田せんせたち昭和時代の巨匠様ほどあからさまにやらないけれど、年代ごとに芝居を変えている。
 だから貴姫も、大人なんだろう。皇太子教育を受けていない晴興が年より幼いとしても、貴姫はかなり年上に見える。

 本公演の貴姫は傾いて見せるけれど、それは「少女」ゆえのこわいもの知らずさではなく、大人の女のしたたかさ。将軍の姪であり、どう振る舞えば伯父の興を得られるか熟知した上での強い言動。
 スカーレット@『風と共に去りぬ』が男役の役であるように、こういうアクの強い美女役は、娘役よりも男役に向いている。
 男役の演じる女性は、少女ではなく基本大人の女だ。男役は幼さを脱することで創り上げられるのだから、その魅力で作る以上必然。
 だから、せしこの貴姫が大人の女なのは、当然。大人の男役に、今さら年若い少女の役などわざわざやらせないだろう。

 せしこが今男役ではない、ということはわかっているし、彼女の女役を否定しているわけではない。でもせしこは生粋の娘役ではないし、元男役ゆえの地力と魅力を持つ。
 せしこが女役である、と認めていることと、男役の演じる女役感をぬぐえていないことは、わたしの中で同時に存在している。
 ゆえに、せしこの役を「娘役で見たかった」と思ったり、新公を観て「娘役がやるとこうなるのか!」と思ったりする。
 せしこに失礼だとは思うが、事実なのでしょうがない。
 繰り返すが、せしこの魅力とは別次元のことなので、それでせしこを否定しているわけじゃない。

 貴姫と晴興。
 美しい年上の姫君と、田舎育ちの粗野な美少年。「惚れている相手にこそツンツンする」プライドの高い美女と、鈍感な仕事一途な年下青年。
 そんなふたりの恋物語なら、大好物だ。そーゆー女性は多いだろう。
 だから、本公演の貴姫の設定自体はいいと思っている。

 本公演を否定するわけではなくて、新公の「晴興と同世代の少女」である貴姫が、実に新鮮だった。

 貴姫が、女の子だ!!

 気の強い、自尊心の高い女の子。
 空気を読まないパフォーマンスも、幼さゆえ。
 14歳くらいのときって、驕り昂ぶって暴走したり、するよね?
 いちばんイタい年代。
 自己愛に盲目的で、無意識に他人を見下して、「俺すげー!」って盲信してるの。
 や、それはそれでかまわないから、少しは周囲を見回して、隠そうな? 「俺すげー!」「俺ダイスキー!」を全方向に宣伝するのは、恥ずかしいよ? って、大人になったらわかるんだけど、当事者は「自分がすごい」ことだけしか見えてないから、気づかないのな。

 わたしは年寄りなので、若い人の「若さゆえの」行きすぎとか間違いとか、愛しくなる。
 自分はもう、あんなことは出来ない。なにかするにも周囲を見て取り繕う。
 子どもがバカなのは、恥ずかしいことじゃない、いくらでもバカやろうよ、それでアタマ打って恥かいて傷ついて、大人になろうよ。バカのままではいられないことを知っているから、今現在バカであれる若い人が、愛しいよ。
 吉宗公のように、はねっかえっている貴姫を見て、目を細めるよ。かわいいなあ、愛しいなあ、って。
 他の姫たちは自分の立場を取り繕うことや、枠からはみ出さないことばかり考えているのに、貴姫だけは「わたしってすごい!」って好きなだけ暴れてるんだもの。
 愛しいよ。

 貴姫が若くて、若さゆえの不遜さを持っているのが、かわいくて。
 まだ子どもだから、思い通りにいかない晴興に、感情のままに切腹を迫るんだな。
 大人の女が「余興の席」で田舎から来た少年に切腹を迫るのは、彼女の格を下げる言動だけど、中学生の女の子なら「子どもゆえ」の過ちだとわかる。

 お姫様育ちで、型破りな言動も「大器ゆえ」ととがめられずにいたんだろうな、それで才気と不遜さを臆さず発してきたんだろうな。
 それがはじめて、人前で「ギャフン」と言わされる事態になって。
 今までさんざん大人を言い負かしてきたのに、同世代の男の子にこてんぱんにされるなんて。

 も、好きになるしか、ない。

 貴姫が晴興に恋するのは、必定。
 きっとあのやかましい姫は、ことあるごとに晴興に絡んで、鈍い晴興は無理難題言われて本気で振り回されて、苦手意識を強くするんだろうなあ。
 貴姫自身子どもだから、それが恋だと気づかずに、イライラして本気で腹を立てて、傷ついて、実にもどかしい初恋物語を展開するんだろうなあ。

 そう、想像出来る。

 本公演の、ちぎくんの晴興で見てみたい気もする。
 貴姫が同世代……少し年下設定。
 年下のお姫様に振り回され、それでも姫君から「そなたに嫁いでやる」と言わせるまでの物語。


 もともと貴姫っていいキャラクタなんだけど、新公でまた夢が広がった(笑)。
 新人公演『星逢一夜』

 初ヒロインの泉@みちるちゃんと、2番手源太@ひとこには、同じ感想を持った。

 ふつうにうまい。
 そして、本役まんまの芝居。

 ただ役者の顔だけスライドしたみたい。役割がそのまんま。
 ……同じ役なんだから、芝居が同じであたりまえだろう、ということではなくて。同じ役でも演者が違えばまったく同じ芝居にはならない、だって機械ではなく人間だから。

 新公では「本役のコピー」芝居をしていることが、よくある。声色や言い回しをまったくそのまま写し取って芝居しているの。
 模倣は勉強の基本だから、本役さんを真似るのはかまわない。観る側からすると面白いものではないにしろ、それはそれでアリだと思う。
 ただ。
 みちるちゃんもひとこくんも、「本役のコピー」とは、チガウと思ったの。


 本役を模倣しても、演じるのが別人であるからこそ「コピー」だとわかる。
 個性とは別のところで、別のモノを写し取って表現しているわけだから。

 コピーじゃないのに、同じ芝居。
 別人が演じていることはわかるのに、表現されるニュアンスがそのまま。

 すでにあるモノを写し取ったのではなく、1から「泉」「源太」という役を創り上げたら、やっぱり本役と同じ芝居になった、という感じ。

 新人公演用の芝居ではなく、このメンバーのための芝居ではなく、本公演と同じ芝居なの。

 作品と役はすでに「こう」と決められていて、あとは誰が演じても「こう」にしかならない、してはいけない……そんな、感じ。

 みちるちゃんである意味、ひとこである意味が、この役とこの新人公演にあったのだろうか……?

 特にみちるちゃんは、初ヒロインという重責ゆえか、ほんとうに「作品に必要な役目」だけでそこにいる気がした。
 かわいいしうまいし、なんの破綻もないのだけど、コピーですらなく「ヒロインの役割」だけを忠実に表現する姿に、なんとも息苦しさを感じた。
 新公ってなんなんだろう。
 そんな、「今ソレ考えてどうする?」的な疑問を持ったわ。


 ひとこの源太に対する感想は、みちるちゃんと同じなんだけど、だいもんのせいでちょっとチガウ。

 新公源太を観て、そうそう、初日の源太はこんなだった! と、膝を打った。

 本公演の源太が初日付近と別人で、観て混乱して、整理つかなくてぐるぐるしているところに、すこーんと「初日の源太」を差し出された。
 「いい人」で「やさしくてかっこいい」、みんなの大好きな源太だ!!

 子役時代の「なんじゃこりゃーー!」は空気を読んでの発言になっていたけれど、それ以外は初日付近の源太まんま。
 おそらく、作者のイメージする、脚本にあるまんまの源太像だ。
 みちるちゃんと同じ、誰がやっても「こう」なるんだ、というそのまんまの芝居。

 それを観てますます、本公演に疑問を募らせた(笑)。今のだいもん源太、絶対脚本からはずれてる……。
 初日に創り上げてきたモノ、そして作者自身が演出している新公で創り上げてきたモノがまったくのイコールであった場合、作者はかなり強い意志を持って初日の源太をイメージしているんだろうに。

 初日の源太はかっこよかった、本来なら彼がヒーロー、ちぎくんの晴興は敵役……そう思える作りだった。この物語は、敵役をあえて主役にして、その苦悩と哀しみを描いたのだなと。
 なのに今の源太は、彼こそがアンチヒーロー、ヒーローに敵対する役になってしまっている。
 わたしはその方が好みだし、面白いと思っているけれど、作者の意図とはチガウのではないか……そう、思う。

 ひとこくんの芝居に、「模範解答」を見せられた気がした。

 正しいのはコレですよ。
 本公演は、間違いです。

 …………正解が初日や新公だとしても、今の『星逢一夜』を知ってしまった身としては、もう戻れないな。
 今の、源太が間違っている『星逢一夜』の方が、ずっと面白い。

 この作品は晴興の一人称小説で、それ以外のキャラクタはほとんど描かれていない。その内面にまで言及されていない。
 世界に晴興しかいないことで、とてもまとまった作品になっていた。登場人物が多いとそれだけまとめるのが大変になるんだ。少なければ少ないほど、完成度は上がる。
 なのに、ほとんど書き込みされていない脇役の源太が、むくりと起き上がった。平面に描かれた絵に過ぎなかったのに、実体化した。
 それゆえに作者が机上で展開していた「よくまとまった」物語からは、逸脱した。
 初日に差し出されたキャラクタとも物語とも別モノだが、ほつれは大きくなったかもしれないが、こちらの方が、面白い。
 
 その差を、見せてもらった。
 もう一度、初日まんまの源太、作者が求める源太の役割を、新公で見せてもらえて。


 みちるちゃんもひとこくんも、うまい人たちだと思う。
 新公学年で、ここまで「役割」を果たせるのだから。

 ただ、今回は彼ら個々の実力や魅力についは、よくわからない。
 これまでに露出の多いひとこはともかく、みちるちゃんは、この泉役だけでは、どんな子なのかわたしにはわからない。
 ある程度のスキルのある子なら誰でも同じ「泉」という型にはめられてしまったのではないかと思う。
 みちるちゃんだから、ではなく。
 そしてわたしが見たかったのは、「泉」という型が「誰がやっても同じ」なくらい「完璧に構築された役割であること」はなく、「みちるちゃん」自身だった。

 ので、今後に期待。
 初日を観て、すっげーわくわくした。
 この作品、このキャラクタを、月城かなとが演じる。なにその俺得感。あたしの観たいモノが詰まってますがな、キャッホウ!!

 てことで、わくわくが止まらない! 状態で駆けつけた新人公演『星逢一夜』

 かなとくんが喉潰してると友人から聞かされたけど、昼公演はふつーに嫌味藩主やって、ジプシーでドスきかせて歌ってたし。大丈夫だよね?

 ……大丈夫じゃなかった。
 肝心の新公では、見事に声出てません……。

 肝心の、というのはおかしいのか。本公演が第一、そこでちゃんと声出して役目を果たして、そのあとの新公では声出ませんでした、って、プロとして叶う限りの選択か? お勉強の場の新公より、本公演が大事。

 声を潰したまま芝居をする、という点で、思い出すのはえりたんの『一夢庵風流記 前田慶次』。
 えりたんはそれでも、なんとか誤魔化し歌ってた。男役声では調節がきかないようで、出ない音はふつーに女声に切り替えて乗り切ってた。そんな方法があるのか、と感心したな。
 なんでここでえりたんを思い出すのかというと、歌えなくなったえりたんの代わりに、かなとくんが急遽カゲソロに抜擢されていたからだ。
 いつもならかなとくんも舞台にいるのに、姿が見えない。代わりに、聞こえてくる歌声が、かなとくんの声。
 これ、かなとくんが歌ってるんだ……! 昨日までえりたんが歌ってたのに、今日、急に変更されたんだ。

 舞台にアクシデントは付きもの。
 問題は、それをどう乗り切るか。

 かなとくんは「出ない声で、誤魔化して歌い切る」スキルはなかったみたい。
 出ない声は、出ないままだった。

 そしてこの『星逢一夜』という芝居、主役以外は、ほとんど歌わないという、偏った作りなんだ。つまり、主役が歌わないと、成り立たない作りなんだ。
 それで主役が喉潰して歌えないとなると……。

 きつー……。

 盛り上がり部分でばーーん!と歌をキメてくれないと、肩すかしになる……。

 そういう意味でほんとに、残念でした。
 一人称小説みたいな作りの芝居なので、その一人称小説である地の文、主役がしっかり語ってくんないと、作品自体きちんと味わえない。
 わたしはこの『星逢一夜』という作品自体が好きだから、別キャストで作る『星逢一夜』を観たかったの。キャストの不調で作品を味わう機会を失ったことは、残念だし、くやしい。

 歌えないなら芝居で取り返す!というほど、かなとくんの演技が珠玉の出来って風にも見えなかった。
 不器用な人なんだなと思った。
 歌えない、ということに足を取られて、芝居もくずれている。……そう見えた。

 かなとくんは尻上がりに良くなっていく印象なので、喉の不調さえなければ中盤以降よくなっていったと思うんだけど、要所要所に歌があるんで、その都度温まってきたエンジンがリセットされた感じ。
 あ、エンジンかかってきた → 歌だ、声出ない! うろたえ、幕開きのたどたどしさに戻る → またエンジンかかってきた → 歌だ、声出ない! うろたえ……てなくり返し。

 期待したビジュアルも、微妙だし。

 これは、痛いなあ。
 ムラ新公は所詮練習台(映像残らない、放映されない)、本番は東宝新公(スカステ放映前提)だとしても。

 病気も事故も人間である以上不可抗力、仕方ないことはわかっているけれど、とにかく残念だ。


 てな残念話はここまでにして。
 こっからは、萌えを語る。

 ……所詮ファンですから! かなとくんスキーだから!
 残念は残念だけど、それとは別に、楽しく観劇出来るのです。好きな人が舞台にいるだけで! ザッツ・ヅカヲタ!


 子役の似合わなさが、かわいすぎる(笑)。

 まだ研7ですよ、下級生ですよ。本役さんより10歳近く若いんですよ。
 なのになのに、その子役の似合わなさは、ナニゴト?!

 棒立ちした姿に、大人がバカボンコスプレしているような、サイズの合わない浴衣を着た長身のガイジンさんを見るような、なんとも愉快なモノを見ている気がしました。

 似合わなすぎて、かわいい。
 泉@みちるちゃん、源太@ひとこが違和感ないだけに、れいこひとり場違いになってるのが、ツボる。
 ……好きだなー、そういう芸風。
 若いから若い役が出来る、というのに、興味がなくて。
 若いから子役が出来る、よりも、若いのにおっさんくさい、方が好き。

 そして、その子役の似合わなさに、次のバウ主演大丈夫か?!と危惧する。
 『銀二貫』って子役時代あるよね……子役もかなとくん自身が演じるとしたら、相当な罰ゲーム状態だぞヲイ……。

 いやその、ファン目線だからできないことも「かわいい」で済ましてるけど、技術を磨いて子どもも演じられるようになってくれよ……な……?


 かなとくん演じる晴興は、とても、人間臭かった。

 何故だろう。
 同じ脚本演出で、かなと晴興はより泥臭く、大地に両脚をでーんと付いている印象を受けた。
 農耕民族感が強いというか。

 この晴興は、大地に生きる人なんだな。
 土に根を下ろし、ひとつところで生きる。獲物を求めて居場所を変える器用さは持っていない。
 誠実に、愚直に、同じ場所で大地と共に生きる。
 そういう男に見えた。

 だからこそ彼は、星を見上げたんだろう。

 そこから動けない不器用さのままに。
 翼を持たぬゆえのあこがれを込めて。

 ちぎくんの晴興は、もっと星の見えるところを目指し、いつか冒険の旅に出ることがあるかもしれない躍動感を感じたけれど、かなとくんの晴興は、あこがれはしてもどこにも行かない、今ある場所で強く生きていく太さを感じた。

 だから、藩主になるとか江戸勤めだとか。
 より、「向いてないのに、気の毒に」と思った。
 でも、それはそれでなんとかなるか。とも思わせる、鈍さというかしぶとさも、同時に感じるのなー。

 みちるちゃんはかわいくて可憐で、彼女と絡むとかなとくんの男前度が上がっている気がした。
 『ルパン三世』新公も同じコンビなわけだけど、役柄ゆえか、かなとくんに包容力が出た気がした。

 が、ひとことはあんまし合ってない気がしたニャ……。
 晴興VS源太は、あまり鬼気迫った感がナイ……。いや、これが正しくて、本公演が間違ってるのか?
 一騎打ちクライマックスで、背中合わせの晴興と源太が笑顔になることに、すげー違和感。新公ではやっぱここ、笑うんだ。本公演はもう笑ってないのに。


 てことで、新公では、カップリングは源太×晴興ぢゃないっす。
 新公ではズバリ、細川慶勝×晴興だ!!

 慶勝@叶くんがこわいのよ、美しいのよ。きゃー、いいわー、晴興をもっといぢめて~~! と、思う(笑)。
 江戸勤め中のいろんな物語を妄想出来ますよ、ちょっと!!(誰も聞いてません、そんな話)
 ちぎくんを、天使だと思った。

 『星逢一夜』新人公演の感想です。
 新公感想なのに、ちぎくん。

 タカラヅカは、なにしろタカラヅカなのだから、なにがなんでもまず、美しくなければならない。
 そして、タカラジェンヌはみな、「容姿端麗」が条件となった音楽学校を経て入団しているのだから、美しい人たちである。これ前提。
 その前提の中でも、特に美人だと言われる人たちがいる。
 ちぎくんも、新公でちぎくんの役を演じるかなとくんも、その特別美しい人たち。
 タイプは違うけど、美しい。素顔も舞台の上も、超美形様。
 なのに……。

 『星逢一夜』新公のかなとくんは、ビジュアルが微妙だった……。

 かなとくんは日本物の新公主演が2回目だ。ここ30年のヅカ史上、日本物で2回新公主演をしたスターはほんのわずかだ。加えて、日本物公演の経験値が同世代のスターに比べて、かなとくんはダントツに高い。
 つまり、「経験不足」は原因じゃない。
 『一夢庵風流記 前田慶次』の新公も、『星逢一夜』本公演も、かなとくんは実に美しい青年姿を披露している。
 もともと美しくて経験もあり、過去の実績もあるのに。

 何故だ。

 冒頭から、首をかしげた。
 オープニングの青く美しいダンスシーン。ポスターまんまの姿で現れる晴興@かなとくん……。
 ヅラ……似合わねええぇ……。

 ポスターにもなっているあの前髪ありの若衆カツラが、相当難しいシロモノ、人を選ぶ高難度ヅラなのだということを知る。

 美貌のかなとくんがかぶっても微妙になってしまう、って、どんだけ難易度高いヅラなんや……。

 このヅラが難しすぎるだけかと思ったら、次の試練。

 子役。

 子ども役はふつー、役者が若い方が成立しやすい。だから大抵下級生がやるわけで。本人の若さ=子どもらしさってことで。
 そう考えれば、研15で実年齢**歳のちぎくんより、研7でちぎくんより8歳だか9歳だか若いかなとくんの方が、なにもしなくても子どもに見えるはず。(ジェンヌはフェアリーです、年齢などありません)

 なのに。
 かなとくん、子どもに見えねええぇぇ!!

 子どものコスプレした痛い大人に見える……。

 身長が高い分難しいってのはあるだろうけど、それにしたってその「無理です、ごめんなさい」なビジュアルは、いったい……。

 相手役の泉@みちるちゃんが幼い少女に見える分、犯罪感パネェ。

 子役に見えなくて、青年ヅラが似合わなくて、公演の半分以上を「どうしよう……」なビジュアルで過ごした主役に対し、もう祈るような思いで「早く、少しも早く月代を……!」と切望した。
 壮年時代になり、つるつる青天マゲ姿になり、よーーっやく、これぞ月城かなと!!と、胸をなで下ろした。
 あああ、月代武士姿は美しい……知ってる、本公演ソレだもん……あああ、それって新公の意味は……ううう。

 不器用な人だな、れいこちゃん。なんてイメージ通りなのかしら。(勝手なイメージです)


 かなとくんの華麗なる自爆っぷりはともかく。
 ここで語りたいのは、ちぎくんのこと。(かなとくん語りは別項で!)

 誰もが認める美貌のかなとくんをしても、今回の役と姿は難しいのだ。
 幼い子どもからはじまって、元服して城勤めしてるはずなのに前髪ありの若衆姿で三角関係やって、月代裃着こなさなきゃならなくて。
 この3点全部で合格ラインのビジュアル作れる人が、世界に何人いる? ヅカを超えて、「世界」で語っちゃうよ(笑)。まず、現実の男性には無理だしな!

 もう、つくづく、心の底から、ちぎくんすげえええ!! と思ったのですよ。

 どの場面もはずさず、必ず、「美しい」ということ。
 これってすごい。
 美形が前提のタカラヅカでも、ここまでちゃんと美しいってのは、才能。そして、技術。

 もって生まれただけじゃ無理だし、技術だけでも無理。
 美貌に生まれ、その上技術を磨いて得た「実力」。

 タカラヅカという、舞台という、「架空の世界」を作る力。
 なんかしみじみと、感動しました。そして、誇らしかったっす。

 でもって、ビジュアル以上に感心したこと。

 ちぎくんは美しいだけでなく、異世界感がある。

 かなとくんを観て驚いたのは、彼の演じる紀之介&晴興が、人間臭いこと。
 なんだろ、みょーな泥臭さがある。
 そうだよな、人間だもんな、こうなるよな。

 それを観てはじめて、気がつくのですよ。
 ちぎくんのファンタジーさに。

 美貌だからというだけではなくて。
 晴興なんて苦悩しまくる、人間らしい役じゃないですか。実際ちぎくんはアツく人間らしく演じてるじゃないですか。ホットな持ち味の人だから、そりゃあもおアツく、血の通ったキャラクタを演じてくれてるわけですよ。
 人間らしい温度と湿度を持つ人なのに。

 やっぱり彼はどこか、浮き世離れしている。
 わたしたちの生きる泥臭い世界ではなく、美しい異世界に住んでいる。

 「タカラヅカ」だ。
 なんて、途方もなく、「タカラヅカ」。

 『星逢一夜』は美しいけれど、かなりハードな物語。
 この物語が「タカラヅカ」として成立しているのは、作者のウエクミの美意識もあるだろうけど、ちぎくんが真ん中で「揺らがずに、タカラヅカ」であり続けていることが、大きいんだ。

 そのことを、思い知った。

 ゆえに、痛感したんだ。

 ちぎくん、マジ天使。

 背中に羽が見えるレベル。
 ちぎくんで良かった。
 雪組トップが彼で、彼の雪組で『星逢一夜』が観られて。

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