失敗はその時点よりも、そのあとに響くのだ。

 とんでもない駄作があったとする。
 駄作だ、と言われるその作品自体も興行成績がふるわない……のは、当然のこと。
 問題は、そのあと。
 その駄作を観て、「もうタカラヅカは二度と観ない」「この組は観なくていいわ」と思われる危険性がある。
 現時点だけでなく、未来の評価まで失うんだ。

 こわいこわい。

 『A-EN』が発表になったとき、期待する気持ちだけでなく、不安も大きかった。

 ワークショップで学園モノ……。
 しかも、作品解説に「ツンデレ男子」「残念女子」「不思議系男子」「イケメン」など、通常のタカラヅカ世界にナイ単語があたりまえに書かれている。

 こわいわ……これは、こわいわ……。

 だってタカラヅカには、『Young Bloods!! −青春花模様−』という黒歴史があるんだもの……!!

 別名「青春そのか学園」。サイトーヨシマサ作。
 この作品がもう、ひどい品質で。
 バウだからワークショップだからという言い訳では収まらない、学芸会を通り越して宴会芸レベルの脚本だった。

 出演者や舞台クオリティの話じゃないよ、脚本の話。
 植爺(全方向破綻)やこだまっち(倫理観欠如)ともまたベクトルのチガウ、ひどい作品だった。

 実際、この「青春そのか学園」の悪印象ゆえに、『A-EN』観劇を見送った人もいた。
 あーさはじめキャストに興味も好意もある、しかし作品解説が地雷過ぎる、と。

 学園モノって、「舞台人スキルが低くてもなんとかなる」ジャンルなので、完全な内輪ウケに終始して、成長や発見の度合いが他公演より低いからねえ。
 その上、黒歴史のトラウマありじゃあ……。

 キャストを好きだから、わたしは「青春そのか学園」も楽しんだ。
 が、演出家への評価は一気に落ちた。楽しいことと、作品レベルの低さにあきれることは別だ。
 あれから10年近く経つのに、『A-EN』の作品解説読んで「まさか……」と疑心暗鬼になるくらいには、アレルギーが出来ている(笑)。
 罪深いわ、サイトーくん。


 『A-EN』も学芸会的ワード付きの学園モノだ。
 解説を読んで「青春そのか学園」を思い出した……が、わたしは一応、「いくらなんでも、アレ以下の作品ではあるまい」と思った。

 根拠はある。

 舞台が、現代日本ではナイからだ。

 『A-EN』の舞台は、アメリカ。
 「アメリカのハイスクールで卒業シーズンに開催されるダンスパーティー“PROM(プロム)”を巡って若者たちの葛藤や淡い恋模様を描き出すミュージカル」と解説にある。
 脚本が「そのか学園」と同レベルであったとしても、これだけで「大丈夫」だと思えた。

 タカラヅカはどんなジャンルでも三次元化する優れた機能を持つが、唯一苦手なモノがある。
 現代日本を舞台とした作品だ。
 ファンタジーを築きにくい現代モノだけは、心からやめておけと思う。
 『メイちゃんの執事』が成功したのは稀な例(あとで語る)。『逆転裁判』すら、舞台をアメリカに変更しなければならなかった。
 サイトーくんの学園モノの作品レベルを下げているのは、内容のくだらなさももちろんだが、舞台が現代日本だということもある。

 わたしたちの生きる場所と陸続きの世界を描いてファンタジーを構築するのは、至難の業。
 優れた脚本と演出、そして高い水準の演技者が必要。

 安易に下級生ワークショップで出来る題材じゃない。

 が、舞台をアメリカにするだけで、ファンタジー度が上がる。
 だってここはアメリカじゃないし、わたしたちはアメリカ人じゃないからだ。
 異世界が舞台なら、ファンタジーになる。

 現代日本が舞台じゃない、それだけで野口くんの勝利を確信した。


 そして実際に、観劇してみて。

 さらに、サイトーくんの失敗理由を再確認した。

 つづく。
 わかりやすい歌ウマは、わかりやすく話題をかっさらうのだ。

 新人公演『ガイズ&ドールズ』を観て思う。
 観劇後の人々が口々に「まあやちゃんすごい」と言いながら歩いていることについて。

 以前、『心中・恋の大和路』でも同じよーなことがあった。幕が下りたあと、人々が口にするのは「まっつすごい」で、それは彼の歌がわかりやすくすごかったからだ。
 ミュージカルで歌ウマさんが本気でぶっ飛ばすと、公演の印象を偏らせてしまうんだ。
 歌の力はそんだけ大きく、わかりやすい。

 『心中・恋の大和路』のときのまっつはらしくもなく空気を読まない芝居をしていて、ラストの大ナンバーも「作品の中の1曲」ということより、別の次元で歌っていた。その歌声はものすごくて、いいもん聴いたと思うけど……「作品」には合ってなかったと思う。
 歌ウマさん、ブレーキング大事。そう思った。

 まあやちゃんのアデレイドを観て、そんなことを思い出した。
 まあやちゃんの歌は「わかりやすくすごい」。だから、作品の印象を変えてしまう。

 まあやちゃん無双。

 ことちゃんが脇に回ったこの公演、まあやちゃん無双になるんじゃないかなと思っちゃいたが、ほんとにそうだった。
 全部吹っ飛ばしてひとり勝ち。

 たまにいるよね、こういうタイプ。
 ええ、近くにいるじゃん、星組。みっちゃんがまさにこのタイプ(笑)。
 みちこVSまあや観てみてええ、とニラニラしました。どっちも譲らないから摩擦部分から火花散るのかなとか。
 ただ、経験から圧倒的にみっちゃんが上だから、勝敗はわかっちゃいるんだが、その火花具合は観客には愉快なものだろうなと。ハイクオリティな応酬ですもの。

 とりあえず、まあやちゃんのアデレイドは新公の中で浮いてしまう出来でした。
 周囲の子たちとのバランス悪い。

 役者ならば合わせなきゃいけないんだけど、新公だからこそ合わせずに存分にやってくれてよしとも思う。たった1回の限られたチャンスに、周囲に合わせて実力セーブして、セーブした実力をMAXだと誤解されたら切ないもんな。
 それに、突出したひとりに引っ張られて、全体のクオリティが上がったりするし。新公の一か八か空気は好きよ、ミラクルな可能性。

 なんにせよ、アデレイドを娘役がやるとこうなるのか!! と、新鮮でした。
 2002年の『ガイドル』本公新公含め、娘役の演じるアデレイドははじめて観た。(02年『ガイドル』時点でるいるいは男役)

 タカラヅカによくある、クラブの色っぽい女の子だった。本来は下品な役なのかもしれないけれど、タカラヅカ比での下品さでちゃんと不快感のないラインでまとめてある、よくあるアレ。
 すでにカタチのあるモノにあてはめてるだけだから、とてもわかりやすかった。

 わかりやすいというのは、いいこと。余計な疑問に思考を取られることなく、あるがままを受け止められる。そして、歌声を堪能できる。

 まあやちゃんはすでに出来上がっているのかな。
 タカラヅカの娘役としてはまだ発展途上としても、舞台人としてのスキル部分は。
 入団前にどっかの劇団にいたとか? なんか、役の作り方とか舞台での居方がタカラヅカとは別の計算式で瞬時に答えを出せる回路がすでに備わっているみたい。
 彼女が無双になっちゃうのって、その別の計算式を使ってるからかも? 他の子たちが紙に数字を書き連ねていちいち計算していってるのに、まあやちゃんひとり式に当てはめてさっさと解答している感じ。

 ソレはそれで面白いので、この子がこれからどうなるのか楽しみだ。
 てゆーかみっちゃんと絡むのが観てみたいなあ。別箱でもなんでもいいから、芝居で絡まないかしら。


 ヒロインのサラ@キサキちゃんには、新たな発見は特になし。相変わらずかわいかった。

 ただ、作品的に難しかったかなと思う。
 『ガイドル』は、スカイに包容力が必要。リカくら、みち風と劇団が「大人の男役」「がくんと学年の離れた若い娘役」にやらせているのは、そういうこともあるだろう。
 スカイが百戦錬磨で、その手の内で小娘サラを転がして、だけど本気になっちゃって最後は逆転、という話だから。

 初主演でいっぱいいっぱい、周囲を見回す余裕のないせおっちと、ヒロイン経験十分でそれゆえの落ち着きを持ったキサキちゃんでは、役割が逆。
 今回の新公は、キサキちゃんにとってヒロイン力をあまり発揮できない作品と役だったなという印象。
 新人公演『ガイズ&ドールズ』あれこれ。

 わーいスーツ物だ、男役がみんなかっこよく見えるナンバーてんこ盛りだ、チェックが忙しいぞ~~!

 と思うわたしが、顔が好み!!と注目したのが、朝水りょうくんです。
 や、前々から気になってはいたけれど。好みの系統だけどもう一声足りない、あたりだったのが今回は、かっけーー!!と素直に思いました。

 学年が上がって、わたし好みに削ぎ落とされてきてるなあ、と。
 スーツ姿がたまりません。
 気がついたら彼を追いかけてる(笑)。

 が、クバーナの歌手にはときめかないので、スーツ限定か(笑)。クバーナの歌手こそが見せ場で、スーツ男(ジョーイ)は台詞僅少、ほとんどがモブ状態なのに、その台詞もないモブ状態こそ好み。ってソレ、本公演でもそうだから、新公の意味薄いよこあらさん!

 クバーナの歌手をやれているように、歌だって歌えるのに、役付き上がらないなあ。
 このテの顔が大好物なので、これからももっといい男になって、長く舞台にいて欲しいな。


 美貌ゆえにオペラテロしてくるたくてぃー。や、見るつもりなくても美貌ゆえに視界を奪いに来るから(笑)。
 芝居の善し悪しはわからない。ほぼモブだし。台詞もろくにない分には、別に「二度見するようなへたっぴ」ではないんだが……役付かないなあ。

 好みど真ん中ではないのだけど、ハンサムだなと思うのが天華くんと綾くん。
 本公演でも目に付く美形枠だけど、今のとこわたしにはふたりの差がわかりにくい……。本公演は仕方ないかと思ってたけど、新公でもわかんなかった……ナニこのニコイチ感。


 新聞売り少年@湊璃飛くんがかわいかった。
 あのはしこさはいいなー。なんつーか、本役よりよく「動く」少年だな。


 ネイサン@しどりゅーは、印象が薄い。
 外見も芝居も。
 悪くなかったし、出来てないわけでもなく……ただ、わたしの海馬に残っていない。

 むーん?
 先日の某公演で、わたしの割と近くの席に96期トリオ(キサキちゃん、たくてぃー、しどりゅー)がいて、キサキちゃんかわいい、たくてぃー美形過ぎうひゃー! で、ひとりすっきり薄い顔のしどりゅーが、予想外に好みの顔だったという記憶がありましてな。
 キサキ&たくてぃーにはさまれた並び(観劇座席も香盤順なのか)だとしどりゅーだけなんか人種がチガウ感じだったんだけど、そのひとり薄くて目鼻口が遠くから見えにくい人こそが、わたしの好み系だったという、目からウロコな事実。
 以来、はじめての新公なのでしどりゅーが気になっていたはずなんだが……むーん?
 舞台化粧すると、好みの顔じゃない……。
 素顔の方が、よっぽど好みだわ。テレビで素顔を見てもなんとも思わなかったから、ほんとナマで見ると好みっぽいという、なかなか難しいラインではあるのだけど。

 しどりゅーの場合、相手役が悪かった、てのはあるかもな。
 アデレイド@まあやちゃん相手じゃ、分が悪すぎるわ。
 全部彼女が持ってったもん……ネイサンはアデレイドに吹っ飛ばされちゃったよ……。

 まあやちゃんに太刀打ちできないのは、しょうがないかも。
 とはいえ、薄かったなあ。
 ところで新人公演『ガイズ&ドールズ』ですが。

 ……あれえ??

 チガウよね?
 前はこんなじゃなかったよね??

 年寄りなので記憶が衰えまくってるけど。
 2002年の再演時の新人公演は、こうじゃなかったよね??

 なんかすっげーひどい構成だった。
 1幕をほぼそのままやって、盛り上がったぞ、さあ次は?! ってときに、いきなり2幕のラストシーン、ネイサンが更正して新聞スタンドで働いている、という場面になってた。
 拍子抜けどころの話じゃない。
 両脚を上げてひっくり返るギャグマンガ的「びっくり!!」展開。

 どの場面を残してどの場面を削るか、新公担当の新人演出家に決められることではナイのかもしれない。
 版権ガチガチで、2幕物をツギハギして1幕に収める、なんてことをしてはいけない、のかもしれない。

 それにしても、最悪な短縮方法。

 物語としてありえねー。
 いくら「本編を抜粋して上演します」と前置きしてたって、未完成作品を見せられても。

 ついでに、構成以外の演出もひどかったのだわ……。
 本公演まんまコピー。
 役者の持ち味無視。
 本役がスタイル抜群のリカちゃんですよ。彼だからこそキマる仕草や役作りを、美形だけどスタイルはいまいちのさららんに、そのまんまやらせたんですよ……。

 なんつーかもー、うわ~~、って感じで。

 さららんなら、もっと別のアプローチのスカイがあったろうに、って。
 リカちゃんのコピーをやるには、その、いろいろと苦しい。同じ仕草でキザられても、手足の長さが、その。

 さららんのやたらと好戦的な、熱量のある芸風が好きだったので、持ち味無視な演出は残念でした。

 ヒロインだって、本役はロリータえみくらで、新公はアダルトなあいあい。持ち味がチガウのに、本役コピーだしな……。
 他の役もみんなコピー。本公演をなぞることが目的です、的な。
 や、わたしにはそう感じられた。

 演出家出て来い、なんじゃこりゃあ。
 と、当時思ったもんです。

 あ、ちなみに新公の演出家はこだまっちでした。コピーが得意な(笑)。←


 演技がコピーだったのはこだまっちに文句言っていいかもだけど、構成がひどかったのはこだまっちのせいではなく、原作サイドの要請かな、と当時も自制しておりました。ほらわたし、坊主憎けりゃで嫌い演出家をなんでもかんでも悪く思いがちだし。
 ダメよこあら、こだまっちのせいじゃないかもだわ。1幕ラストに2幕ラストをくっつけるしか、原作サイドが許してくれなかったのよ……!

 そう思って、「ふざけんな、なんじゃこの演出?!」という憤りを収めていたのに。


 時は流れ、2015年。星組新人公演『ガイズ&ドールズ』にて。

 1幕のあとに突然ラストシーンじゃない! 話が続いてる!!
 と、心からびっくりしました……。

 ハバナから戻ったあと、サラに拒絶されたスカイが別れを決めて去って行く……その次のシーンでいきなり、ネイサンとアデレイドは結婚することになっていて、スカイとサラは「結婚しました!」になっている、あのトンデモ展開は……?!

 ええええっ?!!

 ふつーの新公だ、1幕2幕通して、必要な場面だけピックアップして1幕に収めた、ふつーの新公だーー!

 じゃあ、2002年の再演時の新公は、なんだったの……?
 あの「カネ返せ」的な落胆と憤りは……?

 10年以上経って、わたしの記憶が偏って置き換えられ、いろいろ構成を誤解しているのかもしれない。
 10年以上経って、版権管理が緩くなったのかもしれない。昔は切り貼り禁止だったのが、今は「ご自由にどうぞ」なのかもしれない。
 演出家の問題ではないのかもしれない。
 演出家に罪はないのかもしれない。
 かもしれない。
 かもしれない。

 しかし。

 こだまっち……。

 こだまっちにいい感情を持っていないわたしは、13年の時を経て、今また新たにこだまっちへの不信感を強く持ったのでした(笑)。


 はー……。

 星組新公、楽しかった!!

 ちゃんとストーリーがある!
 かっこいい場面、楽しい場面がある!

 こんな「あたりまえ」のことに感動。
 新人公演『ガイズ&ドールズ』観劇。

 せおっち新公主演おめでとー!

 将来トップになるならないはともかく、新公主演事実大事。それによって舞台での扱いが変わるもの。
 もっとせおっちを観たいから、主演歴を得てくれたのがうれしい。

 たとえ、作品が『ガイドル』であっても。

 映像が残らない公演で最初で最後の新公主演をする子は、気の毒だ。

 や、花組のあきらが「なんで新公主演出来なかったの?」とか「1回でいいから新公させときゃよかったのに」とふつーに言われるから。
 してるから! あきら、新公主演してるから!
「え? ナニで? 観たことない」ってそりゃ、映像に残ってないからだよ、スカステで放送されてないからだよ。
 本公演の映像ソフトは発売されてるけど、スカステ放送頼みの新公は、放送されなきゃ「なかったこと」になっちゃうんだもん、人の心理として。
 ソフト発売されたりテレビ放送されれば、あとから来た人に見せることができるからね。そうやって、去年からヅカファンになった人でもふつーに、初演『エリザベート』の感想を語れるわけじゃん。「現在」ヅカファン同士で語れるわけじゃん。
 映像が残らないと、「観た人」は年々減るのみで増えることがない。減るのみなんだから、いつしか「そんなことあったっけ?」になるのは自然の摂理。

 映像ナシ・東西2公演のみの新公は、「当時」ナマで観た人以外感想を語ることも出来ない。「現在」のヅカファン同士で語ることも出来ない。アクティブになってない出来事は、記憶に残りにくい。

 そんな演目での主演は、ラストチャンスの子にさせてほしくないなあ。
 そんな演目だからチャンスが回ってきたのかもしんないけど。

 だから今回は絶対に観たい!と思った。
 や、どの公演だって観たい!と思っているけど、今回は特に。あきらの新公『麗しのサブリナ』が素敵だったように、せおっちの『ガイドル』だって素敵に違いない! この目に焼き付けるんだーー!


 と、いうことで。
 せおっち中心に観劇したわけですが。

 観ながら、改めて考えた。
 えーとわたし、なんでせおっち好きなんだっけ? 好きというか、わりと好きなジェンヌさんで、舞台にいるときは意識して観てみるうちのひとり。

 なんで彼に好意を持っているかというと、美形だから。コレに尽きる。

 タカラヅカだもん、美しい人が観たい。
 せおっちはモブにいても、モブを眺めるのが好きなわたしが「あ、あそこにきれいな人がいる!」とオペラを止める美形さんだ。
 で、いっつもモブに毛が生えたよーなもんだから、「もっとちゃんとした役で観たいなあ」とか「もっとたくさん観たいなあ」と思う。
 ゆえに、役付き上がれ! 新公主演来い! と願っていた。

 そーして今、念願の新公主演! ものすごくいい役!

 念願の……ってことは、ほんと、こんだけ大きな役を演じる彼を見るのがはじめてってことだ。
 これまでは、彼の顔が好きなだけ、興味あるだけでしかなかった。

 ようやく役者としての彼を見ることが出来て……。

 ちょっと、首をかしげたわけだ。
 なんでわたし、好きだったんだっけ、と。や、他意はなく、単純にふと。

 うーん……。

 別に、悪くはなかった。
 よくやっていた。
 初の大役、これまでの立ち位置からしても、プレッシャー半端なかったろうに、よくやりきったと思う。
 悪くはないんだけど……。

 好みでも、ない、かなあ?

 そういや、今までの別箱公演でも、脇でちょろちょろしている分にはいいんだけど、出番や台詞が多いとあまり響いてこなかった印象がある。いやその、顔がいいからそれだけでヨシ!的な気持ちだったっつーか。顔がいいから、それ以上のことをわたしが考えてなかったというか。

 なんだろう、この不自由さは。
 ワンサイズ小さな服を着せられているみたい。や、現実の衣装のことではなくて。
 手を伸ばすべきところで伸ばしきれない感じというか、不自然なぎこちなさがある。
 経験不足のせい?

 だからといって、舞台が進むにつれてエンジン掛かってくる風でもなく。
 ぎこちなさと不自然さはずーーっとそのまま。

 調子に乗るタイプではなさそうだ。かといって、あまり周囲を見れるタイプでもなさそうだ。
 目の前のことだけを観て演技している感じ。や、現実はそれでいいけど、舞台を、世界を作るっていうのはそうじゃなくて、舞台全体を観て演技しなきゃなんないわけで……うおー。
 なんかむずむず、手に汗握る。

 そして。
 手に汗握っていると、どんどん彼に感情移入する。
 がんばれー! 行けー! もう少しだー!
 握るのは汗ではなく拳? 心の拳を振り上げて、応援しまくりさ(笑)。

 結果。
 うん、なんか、良かった!(けろり)

 さっきと言ってることチガウけど、正直な気持ちだから。
 せおっち、良かった!
 なんかすがすがしく観終わった。

 足りないところがあるにしろ、素直な芸風が心に響くんだと思う。役の気持ちが、というより、役者本人の気持ちが、というのは課題だとしても、いいじゃん、今の段階はソレで!
 マラソンランナーを応援するような、一緒に汗をかいたような、そんな観劇後。

 てゆーかさ……。
 そうやって伴走する気持ちで長距離走り抜いたあと、挨拶があるじゃないですか、主演者の。
 大抵の初主演者は感極まって泣いちゃって(泣かなかったのはまっつとマギーくらい?)、大変微笑ましいヅカならではの「アマチュア感」があるアレ、アレがあるわけじゃないですか。
 せおっちも初主演だもの、きっと涙ながらに挨拶して、客席ももらい泣きするんだわー。
 と、思ってたら。

 人は、頭が真っ白になったとき、ほんとうに「首をかしげる」のだ。

 小説の常套句、「彼は首をかしげた。」
 まさかそれを、目の当たりにするとはっ!!(笑)

 挨拶の途中で、たぶん突然頭が真っ白になっちゃったんだろうなあ。焦点の合ってない目で沈黙して、ゆっくりと首をかしげた……。
 言葉に詰まる人はいくらでも見てきたけど、これは初体験だわ。

 マラソンランナー応援ハートでいたところに、コレですよ。
 ああなんかもう、まさしく!! って感じ。試合直後で放心してるアスリート!!

 …………愛しいっす。


 ラストチャンス新公主演はいいよね、それだけでドラマだよね、感動的だよね。
 終演後の挨拶時、ベテラン主演のことちゃんが、保護者の顔を見守っているのもまた見どころのひとつ。
 その昔、いっぱいいっぱいな様子で挨拶するベニーを、まひろくんが見守っていたように。

 こうやって、物語は受け継がれていく。
 やっぱりもう一度観たい! と強く思い、千秋楽へ駆けつけました、『A-EN』ARTHUR VERSION
 若手バウこそ初日とそれ以外の差が大きいもの。……1週間余りの公演を経て観たみなさんは、なんつーかこー、調子に乗ってた(笑)。
 楽しくて仕方ない様子。やりがいに満ちている様子。それは観ていて、気持ちいい。
 2度目の観劇でストーリーや出番を知っているので、それ以外をじっくり観られるし、新たな発見もある。

 オープニングのカッコ良さったらナイ!!
 制服男子最強!
 ここはまゆぽんのカッコ良さにうちのめされているのだけど……。
 えーと、本編とは別扱いなのかな?
 ハートは女子のアダム@佳城くんが、バリバリにキザってイケメンしてる!!
 そういや髪にお花を付けてない……本編とは別人設定なのか!
 まゆぽんだって、本編とはチガウもんな……ストーリー内ではこんなにがつがつしたイケメンじゃないもん。ゆるい二枚目半だもん。

 別モノ設定いいな!

 役にとらわれず、ただもうシンプルに、カッコ良さを追求できる。
 役のキャラクタでのダンスもいいけど、それじゃ三枚目はずーっと三枚目だもんね。ストーリー内のダンスはふつーに各キャラでのダンスなんだし、オープニングぐらい別でいいよね。
 佳城くんのファンなんて特に、1幕ずっとヲカマキャラだもの。すっごくいい役で観ていて楽しいだろうけど、ひとつぐらい「男役として」カッコいい場面があっていい。
 まゆぽんだって、マジ二枚目だし……マイルズくんとして踊ってたらこうはいかんやろ。オープニングのカッコ良さにドキドキして、本編観て肩を落としたもんな、初日。や、いいんだけど、オープニングがカッコ良すぎてな……。

 イケメンたちが本気で「カッコ良さ」を追求し、攻撃的に客席を食おうとしている姿が素敵過ぎる。

 ここに加われない大人役のファンは残念だろうなあ、と、『フットルース』の大人組ファンだったわたしは勝手に想像する(笑)。
 制服でキザる贔屓、誰だって観たいよねえ? そうそうある機会じゃないし。
 とはいえ、さすがにジョー先生はまじれないか……。グレンせんせはともかくとして。


 別箱公演のお楽しみは、新たな出会いがあること。
 今までノーマークだった子に注目したり、本公演では捕捉できない人まで眺められたり。
 男子でまったく知らなかったのは最下のふたりだけなんだけど、女子は知らない子ばっかだったので新鮮。
 脇の女の子たちが、みんなキャラ作ってきててかわいい!
 ストーリーに絡まないし、個々にエピソードがあるわけでもなく、みんな一斉に現れて一斉にはけていくんだけど、それでもひとりずつキャラがわかるの。
 モブやってるときも、ちゃんとそのキャラらしい仕草で小芝居してて、見てて楽しい。
 本公演でもきっとそうやってひとりずつがキャラ作ってモブやってるんだろうけど、大劇場じゃ見てられないもんなあ。
 バウホールならではだわ。

 『フットルース』のときもそうだったけど、わたしほんと女子の「オンナノコ」全開のキャラクタが好きだな。
 制服女子のオンナノコぶりを見ているだけで楽しい。


 てことで、意外にヒロインのキャラ付けが弱くて気の毒だなと思った。
 登場したときの変な女ぶりはそりゃ強烈だけど、外見を変えたあとは「ヒロイン」という以外のキャラクタがない……。
 シンプルな「ひな形」みたい。
 女の子の形だけ最低限の線で印刷してあって、「自由に色を塗って個性を出してね!」とある、ぬりえとか着せ替えみたい。
 誰もが好感を持つけど、だからといってこの子でなくてもいい、すぐに忘れちゃうような「テレビCМの無名タレント」っぽいかわいさ。

 演じている小雪ちゃんの問題ではなく、演出ゆえだと思う。
 アーサー、浅いなあ。
 ただ最大公約数にだけ着目した「美少女」を育てるなんて。人として男として浅いわー。

 って、高校生なんだから当然なんだけど。

 小一時間の他愛ない短編ドラマで、んなひねったモノはやってられない。
 だからヒロインはこれでいいんだと思う。

 わかっちゃいるが、もっと違うアプローチもあったろうに、ヒロインのステレオタイプさがもったいないなあ、と。


 ふつうの少女マンガと違い、タカラヅカではひたすらヒーローのカッコ良さに酔うモノだから、あーさがカッコいいだけでいいとも言う。
 二次元にしか存在しないイケメンぶりが気恥ずかしくも素晴らしい。

 わたしはまゆぽんスキーなので、彼を中心に見てしまうのだけど……彼がいい男であればあるほど、声が惜しくてなあ……。
 何故あの恵まれた体格で、あの甲高い声なんだ……。


 ショーのラスト、「ツキノミチ」の盛り上がりは、同期ならではだなあ。
 初日もあざとい演出(笑)だと思ったけれど、千秋楽の効果は想像以上。
 タカラヅカのシステム上、このふたりがこんな風にがっつり「トップと2番手」として組む公演は、タカラヅカのシステム上二度とない、だろうから。や、あって欲しいけど。確率的にかなり低い。
 初舞台生のロケットが「苦楽を共にした同期が、同じ舞台に立つ最初で最後」であるように、うれしさ楽しさと同時に切なさ儚さを感じる、ようなもので。

 しきりと、『巌流』を思い出していた。しあわせだったな。大好きな同期コンビの公演。ケロトウがラブラブでさ(笑)。や、いつもケロの片想い気味(大好きオーラが強い)んだけど、青年館楽でよーやくトウコがオトコマエに応えてくれたんだよね……それでケロが泣き出したんだよね……。
 あーさとまゆぽんがトウコとケロに似ている、というわけではなく、いろんな部分がケロトウ好きの琴線に触れるのだわ。あー、まつそのもまずはケロトウ好きゆえに惹かれたんだよなあ。罪が深いわ、ケロトウ(笑)。

 良き同期でいてください。素敵なコンビネーションを、これからも見せてください。心から思う。

 舞台は一期一会。
 この瞬間だけ存在し、消えていくもの。
 だからこそ、より愛しい。

 それを強く感じる千秋楽だった。
 タカラヅカにおけるダブル主演は大人の事情。
 バウ主演をしてもおかしくない立場、だけど劇団的に主演の実績を与えたくない上級生と、バウ主演をするだけの実力その他もろもろには欠けるけれど、劇団的に主演の実績を与えたい下級生。
 上級生側は「本来なら主演出来なかった」のに半分だけとはいえ主演できるし、下級生側は「主演する実力(技術・集客力含む)はない」のに半分だけとはいえ主演できる。
 大人の事情丸出しだけど、わたしはWin-Winの関係だと思う。
 だって以前の劇団は、主演させたくない生徒にはどんだけ需要があっても絶対させなかったし、人気のまったくない生徒にがらがらの客席相手にえんえん主演させ続ける、という誰の得にもならないことを強行し続けていたんだもの。
 バウホールのがらがらはつらいよ? 劇場が小さくて舞台と客席の距離が近いだけに、やっている生徒も観に来ている観客も、いたたまれない空気があるから。ほんとに。頼むよ。あの規模の劇場を売り損なうとか、それはプロデュースする側の責任だろ。

 てことで、ダブル主演歓迎。

 それも「ふたりが主役」のダブルじゃなく、興行期間をふたつに割ってのダブル形態がいい。

 主演ふたりは、脚本を書ける人がいないのでやめとけ。
 主人公ひとりでもまともに書けない場合が多いのに、ふたりとかマジ無理。無理なことはしなくていいっす。
 演出家にとっては「うまく出来なかった。でもま、次がんばればいいや。てへっ」かもしんないけど、ダブル主演という微妙なバウ公演が当たる生徒(の片割れ)にとっては、「生涯でただ一度の機会」である場合が多い。習作は他でやってくれ、出来ないことはしなくていい。
 いつか自在に「主役が何人でも書ける」筆力を得たら、好きなだけやってくれ。

 ふたりが同時に主人公とされるダブル主演は、大抵の場合は「主演はひとり。もうひとりは2番手相当の比重。フィナーレだけふたりで登場してお茶濁し」になっている。
 そんなら最初から公演をふたつに割って、それぞれ単独で「主人公ひとり」、あとは別の子を「比重が高くておいしい2番手」の方がいい。下級生にもチャンスが2倍になる。

 てことでか、一時期劇団はこの2チームに分かれてのダブル主演バウをやりまくった。
 しかし、これが大変。
 主演の学年に合わせて出演者を配分するため、肝心の下級生主演チームにはさらに未熟なひよっこちゃんばかりになってしまう。舞台経験もそんなにないし、ビジュアルも磨かれてないし、無名ゆえにファンも少ないし、必然的に技術もなくて舞台クオリティは上級生チームより劣るし。
 せっかく同じ作品を別キャストでやるのに、片方のチームだけ満員御礼、片方は絶賛発売中。
 これじゃいかん。

 てことで、そこからさらに進化した2チームでのダブル主演。

 ひとつの物語のバージョン違い。2作両方観ることで完結する物語。

 これはいいね!
 これなら、両方観る人が増えるね!

 ダブル主演にすることで、本来なら主演できない人も出来た。
 2チームにすることで、倍の人数に役が付いた。
 さらに、2チーム両方観ざるを得ない仕掛けをして、集客の手助けをした。

 進化してるよ、ワークショップ。
 わたしはこういう進化は歓迎です。


 ただ、問題は。

 複数作にわたる仕掛けのある、複雑なプロットを作ることが、演出家に出来るのか?
 という一点に尽きます。

 なにしろ直近のこのテの作品が大駄作『灼熱の彼方』だからさー……。

 あれほどひどいモノはふつーの人には書けないと思うので、野口せんせがふつーの人なら大丈夫だと思う。

 『A-EN』ARTHUR VERSIONは、他愛なくネタだけで終始した作品だった。
 あちこち粗いという雑なんだけど、萌えネタ優先、ファンサービス優先の姿勢はアリだと思う。
 ARI VERSIONと合わせて、どうひとつの作品として昇華するのか、楽しみだ。
 『DRAGON NIGHT!!』初日観劇。

 ふつーの公演ではない、コンサートの初日ってのは手探りだ。どういうノリなのか、わかんないもんねえ。
 『REON!!』もあれば『Streak of Light』もあるわけだし。
 演出家がフジイくんなので、『REON!!』寄りなんだろうなと想像はつくけれど。

 そして、わたしが「コンサートこそ初日に行かなければ」と思うのは、それが通常の組公演ではなく、主演者の「ファンのためのイベント公演」という位置づけだと思っているため。
 わたしがご贔屓の主演公演は全日程制覇を基本としていたように、多くのファンが同じよーなスタンスでいると思う。現実問題、全公演リピートできるかはともかく、気持ち的にはそういうもんだろ、と。
 つまり、半端な日程に行くと「客席ほとんどがコアなファンかリピーター、初見の外野が取り残される」恐れがある。

 手拍子や拍手のタイミング、スタンディングの有無はもとより、お手製の応援グッズや客席参加のダンスまで、「すでにお約束が出来上がった」ところに、「全組観る、ぬるいヅカファンです、主演さんのことも好きです」レベルの人間がひとりぽつんと参加は、きついわー。

 まったく手探り状態、どう盛り上がるのが正しいのか、まだ誰も知らない初日に行く。
 それは、昔からのわたしのパターン。

 ……だったのだけど。

 うーん、この習慣もセーフゾーンが低くなってきてるなあ。

 過去にもコンサート公演はあったけれど、当時は現在のように公式グッズを大々的に販売してなかった。

 みきちゃんの武道館にも、リカちゃんのバウコンサートにも、あさこの大阪NHKホールにも、たかこの数日で中止になったドラマシティコンサートにも……他にもいろいろ参加してきたけれど。

 今のような、グッズ各種売るぜ! 儲けるぜ! な時代ではなかった。

 他の芝居公演と同じ。販売しているのは、公演プログラムとブロマイドのみ。

 ヅカファンはおとなしく着席して観劇していた。
 スタンディングもあったけど、公式振付があるわけではなく、手拍子しながら揺れてる程度。

 どう盛り上がるか誰も知らなくて、客席は手探り状態……なのは今も昔も確かだけど。
 そして、今も昔も変わらず、初日は、ファン率が高い。
 ファンが多数を占める中規模劇場公演で、しかも公式グッズが前もって販売されている現在は……初日にグッズを用意していないと、肩身が狭い、という事態に陥る。

 いやあ、油断してたわー。

 見渡す限りの客席で、ペンライトを持っていないのがわたしだけだったなんて。

 ここまでペンラ必須とは思ってなくて。

 後方席なら持ってない人もいたのかもしんないけど、ハンパに良席にいたもんで、「ええっ、オレだけ?! オレ、オンリーワン状態?!」に、びびりました……(笑)。

 持ってなかったのはひとえに、びんぼーだからです……。

 積極的に公演を楽しみたいと思っているので、最初は買うつもりだったの。
 わたしの記憶にあるペンラというと、『フットルース』や『REON!!(無印)』。コム姫やワタさんのサヨナラ前楽で客席に配られたのと同じデザイン、たぶん同じメーカーでロゴだけ変えている、あのスティックタイプのペンライトよね。
 知っているわ、定価1000円よね。
 1000円くらいなら、大劇場プログラムと同じ値段だもの、びんぼーなわたしでも買えるわ。

 …………『DRAGON NIGHT!!』のペンライトは、無印でナイ『REON!!』と同じ、豪華で高価なモノでした……。

 1000円までは「記念品」として買えるけど、2000円は無理ーー。
 たった1000円差、大の大人がたった1000円出せないってナニゴト? チケットを買うお金のある人が1000円出せないとかおかしいでしょ、チケットの方が遙かに高額なのに。
 って確かにその通りなんだけど、なんつーか、心のハードルの問題。

 用意していた金額の「倍」は、気持ち的に無理……。

 それでも、贔屓組になら出せた。
 だって、リピートするもん。
 3回観るとしたら、1回あたり700円弱の出費。5回なら400円。
 2000円のグッズはわたしには高価だけど、何回も使うなら減価償却出来る。
 しかし。
 1回しか観ない公演の場合、そのたった1回に2000円使い捨てることになる。

 チケット代7908円+2000円 = 9908円

 高っ。
 定価7800円のチケットなのに、「グッズ購入必須」だとなんかすげー割高感。

 わたしはこの「割高感」に負けた……。

 そして、「大丈夫よ、あんなに高いペンライト、買ってない人だってきっといっぱいいるわ。『REON!!』の1000円のペンライトだって、持ってない人いっぱいいたじゃない」と思って、『DRAGON NIGHT!!』初日参戦。

 ……そして、華麗に敗北する……。びんぼーに(つか、己のびんぼー根性に)負けた……。

 『REON!!』はまだ、グッズ文化のハシリ状態だったかな。そっから、「グッズは売れる!」と踏んで、劇団はばんばんコンサートグッズを販売しだした印象。
 どんどん豪華に、高額に。

 2000円、という金額単体なら、大人だから、決して買えない金額ではないのだけど。
 チケット代だけで盛り上がれた、過去のコンサートを知っている身としては、「プログラム代以上」の設定金額のグッズは「嗜好品」認識で、「観劇に必須」とされると、つらいなあ。

 全公演、全客席に、公演グッズのハンカチ(毎回色違い・公演日時入り)を配布した、ワタさんのコンサートは神公演だったなあ、と、遠く思い出す……。
 チケットだけ握りしめて、手ぶらで行っても、客席全員で同じグッズを持って盛り上がれたのよ……初見のゆるいファンも、コアリピーターも、等しく。


 グッズ商売に目覚めた劇団は、これからもコンサート乱発して、グッズ売りまくるんだろうなあ。
 や、贔屓組ならそれも楽しいしうれしいけど、全組観る場合、贔屓組以外がきつい……。

 おかねもちになりたい。
 わたしは、自分の座高の高さに自信がある。
 自慢じゃないが、胴長ですよ、ええ。
 だからあまり、観劇時に困ったことがナイ。深く坐ってひとりだけアタマが飛び出さないよう気を遣うことはあっても、「前が見えない」と困ることはナイ。

 そんなわたしの視界を遮る、って、どんだけ座高高いん。

 『DRAGON NIGHT!!』初日は、前列の男性がステキに視界を遮ってくれたので、舞台中央は、見えませんでした。

 男の人は座高だけでなく頭部が女性より大きいし、身体にも厚みがあるから、「角度を変えて隙間から観る」も出来ないんだよなあ。
 まさに「死角なし!」って感じに、まったく見えなかった。
 ほんとうに長身の人は、自覚があるからか気を遣った坐り方をしていたりするけど、「ナチュラルに視界を遮る男性客」って身長はあまり高くない人が多い。観劇後に通路を前後になって歩くとわかる、「ヲイ、前の席の人、オレより背ぇ低いやん」てな。(実際、この男性はわたしと同じか、あるいは低いくらいだと終演後判明)
 まあ、仕方ない。それもめぐり合わせだ。潔くあきらめよう。

 ってことで、まさみやたま以外の、周囲で踊るみなさんを観ている時間も長かったです。
 それはそれでよし。


 きおくんは、何故ああも動くんだろう。

 モブを観ていると、その動きで目に留まる。
 同じ振付で踊っているのに……他の人より動きが多い気がする。

 せれんくんと対になっていることが多いからか、せれんくんの動きの少なさ(いや、彼がふつーなのか?)と、きおくんのぐわっぐわっ感がすげー対照的で。
 なんだこりゃあ。

 面白い。

 ツボに入りまくって、きおくんばっか観てました(笑)。

 もともと顔が好きなので。
 このダンスの個性も、愉快だなあ。


 貴澄氏がオトコマエ過ぎてびびる。
 登場した瞬間から、アンタ、自分のことカッコイイと思ってるだろ?! と、胸ぐら掴みたくなった(笑)。
 ああ、カッコイイさ、カッコイイとも!
 ちくしょー、カッコイイよ! わーーーーん!!

 朝風先輩に感じるあざとさと同じだわ……。オンナを不幸にする、やばい感じの格好良さよ、あざとさよ!!(笑)
 危険危険! やーん、ステキ~~!


 綾月さんの活躍ぶりにびびる。
 丸い牛さん@『血と砂』と呼んで早15年。今まで観た中でいちばんの扱い。……って、そうか、まさおくんの同期か。


 萌花さんは相変わらずのアンドロイド美女。ミエコ先生的なフェアリーさんだと思う。
 でも、『SAUDADE』 のときに感じた「場面を埋める力の足りなさ」を、今回はさほど感じなかった。
 同じ劇場で同じような役割で、同じ美しさを見せているからこそ、「あ、チガウんだ」と気づいた。
 変わらず美しいけれど……確かに時が流れているんだなあ。


 わかばちゃんはもっと、ヒロインポジションなのかと思ってた。
 なんか物足りない使われ方だニャ……。
 しかし、日替わりのトークコーナーで、バリバリにキザってドヤって歌うわかばちゃんが、オトコマエ過ぎた。
 男役の歌だからなー。それをカメ@まさおと黒燕尾みやるりと同じように、男役張りに歌い踊るドレスの淑女……やだ滾る!!

 からんくん活躍はうれしいな。歌声が好きよ。
 ショーでは、彼の両性具有な持ち味が生きるな。少年であり、美女であり、かつ老成した部分もある、という。

 さちか様は歌声もだけど、コケティッシュさが好き。素顔が個性的なこととは関係なく、舞台の上には、こういう美女が必要。好み。


 いろんな楽曲、そして「ザ・タカラヅカ」な数々、おさかなのかぶり物も含めて(笑)、みんなみんなステキだったーー!


 初日だからか、ペンライトの出番はあまりなかったな。
 ノリノリで振るのではなく、着席して静かな場面で、思い出したように振る、感じ。
 えーとソレ、必要……?
 ペンラなくても成立する作りのコンサートだった気がする。
 初日だから?
 後半行ったらノリノリにスタンディングしてペンラ振り回してる?


 それにしても、ポスターの薔薇柄スーツを着こなすまさおは、偉大だとつくづく思ったわ……。
 ふつー、アレはナイわ……カメと同じくらいナイわ(笑)。

 ナイわ、と思えるモノを着こなすまさおさんに心からの拍手を!
 最高!!
 それはそうと、『DRAGON NIGHT!!』

 楽しかった。

 とにかく楽しくて、わたしがまさおファンなら全公演コンプする!と思った。
 や、まっつ主演公演はフルコンプ基本だったせいで……(笑)、いつも主演が当たり前のトップさんと「次はないかもしれない」の人ではファンの基本位置も違うだろうけど、それにしたってこれは全公演制覇していい公演だよなあ、と。
 わたしは全組観るぬるいヅカヲタでしかないので、こういったファンのための公演をリピートする甲斐性はなかったけれど。
 時間と金があれば、もっともっと観たいなあ、と思った。

 てゆーか、まさお、本気で歌うまいな!

 わたしやっぱ歌ウマさんが好きだな~~。
 歌で魅せられる実力のある人って、気持ちいいわ。
 まさお氏はほんと、あの独特の節回しさえなければな……(笑)。
 芝居より、歌を歌ってくれる方がずっといい。
 昔の彼はそんなことなくて、お芝居も好きだったんだけどな。どうしてこうなった。
 芝居より歌の方が例の癖が薄いので、その分ストレスが軽減される。
 きれいで歌ウマ……加えて、謎のパワーがある。

 あー……。
 そうか。
 わたしがヅカに、タカラジェンヌに求めているモノって、ほんとのとこは歌がうまいことだけではないんだな。
 歌がうまいだけなら他に選択肢もいろいろ多種多様だろうけど、タカラヅカの世界観の中で、「世界を塗りかえるパワー」を持つ人にしびれる。

 劇場という閉鎖空間が、そのまま別次元へひっくり返される。塗りつぶさせる。異次元へ吸い込まれる。
 あの感覚が、好きなんだ。

 このドラマシティの客席で、つい少し前にあじわったっけ。『アル・カポネ』でだいもんが吠え、世界が彼を中心にぎゅいいぃぃん!と収束した。世界が伸び縮みするみたいに彼の元へ引き寄せられた。
 ああいう体験をさせてくれる人に、感動する。

 まさお氏の歌声は、だいもんの吸い寄せられる感覚とはチガウ。
 世界の大きさは変わらない、その変わらない世界に、「まさお」が何層に広がり、ぶつかってくる。
 がつん、がつん。
 ぶつかって砕けて、小さくなった破片すら「まさお」で、空気がまさお濃度を上げていく。

 「まさお」を吸わないと、ここでは息が出来ない。

 だから、まさおを吸う。空気と区別がなくなる、空気よりもアツくネバくエグ味のあるモノ。
 同化する。

 その、快感。

 歌唱力、というのは、表現手段のひとつでしかない。
 「世界を変える」ための。
 その場にいる人を異次元へワープさせるための。

 ダンスでも演技でも美しさでも、わたしを一気に異世界体験させてくれるなら、なんでもいい。
 ただジャンルとして、「歌」はわたしの波長に合いやすいんだと思う。芝居だってストプレではなくミュージカル、歌の力を必要としているジャンルだし。
 歌をうまく歌う技術のナイ人は、ミュージカルで表現出来る幅がその分狭くなっているわけだしね。技術より心が大切という人もいるけれど、どんなに素晴らしい心があっても、それを伝える技術がなくちゃ。

 わたしは異次元体験がしたくて、現実では決して味わえないトリップをしたくて、劇場へ行く。
 だからそれをさせてくれる人を、すごいスターだと思う。


 まさおの芸風自体は好きだった。
 『ロミジュリ』まではほんと、彼の「芝居」も好きだったんだよ。濃度の差こそあれ。
 植爺歌舞伎×まさお節の悪夢のコラボで現在のまさおが完成し、彼はどこかわたしの手の届かないところへ羽ばたいてしまった。
 シリアスな場面で吹き出させる節回しは勘弁してくれ。自分だけ気持ちいい芝居をして、空気を読まないどころかぶち壊すのは勘弁してくれ。
 そう思って幾公演。

 ああでもやっぱ、まさおはいいよなあ。

 行き過ぎたまさお節は心から苦手だけど、彼の持つこの傍若無人で攻撃的なパワーは、見ていてわくわくする。

 舞台に聖人君子は求めてない。
 現実にないもの、現実では御免被りたいモノを、差し出してくれ。

 『DRAGON NIGHT!!』で八面六臂の活躍をするまさおを見ながら、この人は、白鳥のようだ、と思った。
 いやマジで。

 ドヤりながら、水面下では必死にもがいてる。

 あの芸風からはわかりにくいけどこれ、かなりギリギリだよね? 相当無理してやってるよね?
 でもそれを絶対認めないで、「がんばってます加点期待」をせずに、「傍若無人に暴れてる減点上等!」てな勢いでやってるよね?
 いや、それすらなく、単にまさおが好き勝手やってるだけっしょ? と思わせる芸風がまたミラクル。
 いいよなあ、そういうの。

 まさおには、好きなだけ暴れて欲しい。
 その芸風で……それが「似合う」キャラクタでいて欲しい。

 これでもかとくり出される歌の素晴らしさに酔い、カメをアタマに載せてアニメ声で話す「あざとい」かわいらしさに酔う。
 くそー。

 とにかく。

 カメ仮装のまま、本気でドヤってキザって歌う姿が、ステキ過ぎた。

 かっこいい……っ。


           ☆

 えー、この半年遅れでぼちぼち更新しているブログですが、本文自体はもっと前に書いてあるので、UPする前に読み返してちょい手直ししたりしてるわけなんですが。その時間が取れずに、どんどん遅れていったりもしてるわけなんですが。
 今、UPするにあたって久しぶりに自分の書いたモノを読み返し、

> ぶつかって砕けて、小さくなった破片すら「まさお」で、空気がまさお濃度を上げていく。

 あたりのくだりで、小さなまさおが画面いっぱいに散らばっている絵を、『おそ松さん』の絵柄で想像しちゃった……しかも、トッティか十四松系のノリで……うわーーシュール……(笑)。
 『DRAGON NIGHT!!』観て思い出した。

 フジイくんって、ガチムチ耽美スキーだっけ。

 ふつー、女性の想像する耽美って華奢で中性的な美形が繰り広げるものだけど。
 フジイくんは、漢らしいガチムチ兄貴が薔薇の花とばしながら絡み合うのに萌える人だっけ。
 コム姫とかテルとか、線の細い美形がやって絵になるようなことを、あえてらんとむ兄貴にさせたりするのよね。
 らんとむは美形だけど、彼の魅力はくるんくるんロングヘアでフリルに埋もれて男に組み敷かれてうふんあはんするところにはないわ、スーツで男たちを従えてダンディに踊る方が100万倍魅力的だわ。……と思ったなあ。
 でもフジイくんには、ヘラクレスの似合う健康的な筋肉にーちゃんが、耽美で淫靡な中性的魅力の禁断の水仙に見えていたんだなあ。

 男同士の耽美場面の趣味の違いもそうだけど。
 男役を片方あえて女にすることで、官能的な場面を作るというヅカ定番場面でも、フジイくんの趣味はアレでしたっけ。
 中性的な美青年のテルが男で、おじさま得意で野郎系なヲヅキさんを女にしてましたっけ。ふつーソコは逆だろ?!!という全世界からのツッコミもスルーして、華奢な美青年が逞しいヲカマさんを相手にエロエロしてましたっけ……。
 ガチムチ野郎同士の花びら舞うシーンが好みのフジイくんらしい、といえばなんとも一貫した美意識だとは思いますが。

 フジイくんとはつくづく、男の趣味合わないなあ。

 なんて、もうすっかり忘れていた昔のことを思い出しました。

 耽美なたまきちさんを見て。

 …………毎回思うんだけど、タカラヅカ制作側のおじさんたちって、「男役スターに中性的な役をやらせればファンが喜ぶ」って思い込みすぎてないか?
 そりゃ耽美は好物だけど、人には、向き不向きがある。
 誰でも彼でもやらせりゃーいいってもんじゃない。

 たまきちさんは、おじさんたちの思い込みと手抜きのツケを一身に引き受けさせられて、気の毒だなあと思う。
 『ロミオとジュリエット』の死にしろ、新公ロミオにしろ、似合わない役を「劇団推しスターだから」というだけの理由でやらされて。
 『PUCK』のボビーだって、天海の役だから、って。
 たまきちの魅力はソコじゃないだろう、むしろソレは弱点だから触れてやるな……ってとこを、これでもかと強調されて。
 『ロミジュリ』本公演なら大公閣下かな。たまきちの魅力がいちばん活きる役。ガタイのよさと立ち役的雰囲気、作品のいちばん最初にソロを響かせる大切な役。たまきちアゲをしたいというなら、外部にある大公閣下の場面と曲をヅカでも入れればいいんだ。
 『ロミジュリ』新公ではティボルト、愛に滅びる情熱的な色悪キャラ。
 『PUCK』なら絶対ダニエルだろ……。イケコのおいしい悪役。スーツで大人。

 かわいこちゃんとか中性的なフェアリー、耽美キャラって、彼がいちばん似合わないモノ……。

 そんなたまきちさんは、またしても似合わないモノ、苦手なジャンルをやらされてました。

 乙。
 似合わないことを無理にやらされているたまきち本人も、女子プロレスラーみたいなガチムチ「美女」を相手に耽美をしなきゃならないまさおさんも。
 頭が下がります。

 ……フジイくんがなんも考えていないのか、あるいは「ガチムチ女装男ハァハァ」と本気で萌えて書いているのか、わからないだけに複雑です……どっちもあり得るから余計に……。

 たまきちに耽美パートをやらせたこと以外は、すっげー楽しかったっす!
 いやその、たまきち耽美も、楽しくないわけではなかったけど……多分、演出家が見ているものとわたしが実際に見ているものは違うんだろうなと。

 上級生が相応の扱いを受けている点でも、安心して観られました。
 これで最下のふたりがソロパートももらいながら客席登場してて、綾月さんやからんくんがモブのみだったりしたら、きつすぎたわ。

 とまあ、数日前に『A-EN』観て「月組こええぇ……っ!!」と思っていたところだったので。
 人事に振り回されない、落ち着いたキャスティングはいいなあ。安心して観ていられるわ。
 まさおくんが圧倒的な主役力を発揮し、みやるりが2番手としてがっつり彩りを添え、たまきちがそこにプラスしてスターとしての存在感を見せ、綾月さんやからんくんたち上級生・中堅たちが堅実に舞台を支えて。その周囲で若手たちがキラキラしてて。
 きれいなピラミッドは落ち着くわー。

 と、思っていたのでラストの挨拶順にひっくり返りました。
 たまきちとみやるりの順番、変わってますがな!!

 作品中はふつーにみやちゃんが2番手で、たまきちは3番手に見えましたが? なんの疑問もなくそう観ていましたが?
 なのにラストの挨拶順だけ逆転て……。

 こわい……月組こわい……。


 そして、ラストで驚かされたあと、公演を思い返してみて、「たまきち2番手初披露作品で、いちばんの目玉があのごつい女役場面……?」と、さらにさらに、混乱したのでした。

 ソレまったくたまきちのためになってねええ……。
 劇団も演出家も、プロデュースがヘタ過ぎる。てゆーか彼らはたまきちにナニを見て、ナニを求めてるんだ。
 なんてこったい。
 『DRAGON NIGHT!!』初日の感想が、なくなってた……。

 メモじゃないの、走り書きじゃないの、マジに感想、ブログ記事1本分。文字サイズ指定のタグまで入れてあったヤツ。

 毎度のごとく初日に劇場へ駆けつけ、休憩時間と帰りの電車で書ききった。や、わたしPCさえあればどこでも文章書けるんで。外野うるさくてもOK。電車の中で平気で仕事出来る系。
 で、まだUPする順番じゃナイから、これはまたいずれ、と保存。

 てなわけで『DRAGON NIGHT!!』の感想はすでにあるから安心、他のことやりましょう。

 そしてよーやくブログの日付が進み、9月1日だ、『DRAGON NIGHT!!』初日だー、あのとき書いた感想を…………あれ?

 ない。

 HDDにも、クラウドにも。

 ノートパソコンのHDDかカード、あるいはクラウドに保存してるはず。そりゃもう自動的にどこかに。
 なのに何故ナイ??

 あ。
 9月1日。
 このときって、まだ、前のPCだっけ……?

 PCクラッシュしたのって、たしか10月……。

 がーーん。

 そりゃ、今のPC探しても、ナイわ。9月に使ってたPCとは別モノだもの。
 クラウドじゃなく、PC本体に保存してたらしい……そのへんてきとーというか、そのときどきだから。

 あー……。

 わたしは「書く」ことでいろいろ整理するから、文章化する前の情報はのーみそに残っているんだけど、「書いた」と安心したら、抜け落ちるのよ……別データに上書きされてなくなっちゃうのよ、容量少ないから。

 ナニを書いたか、多少はおぼえちゃいるが、臨場感というものが……。今さら、「今幕間!」的なノリでは書けぬ……。
 てゆーかもう、喉元過ぎちゃうと「わざわざ書かなくてもいいか」と思う。うん、ほんとどーでもいいことを、観劇後の興奮のままに書き綴っていたなと(笑)。

 や、その他にも感想はあって、文章化されていないモノは、これから書くことが出来るのだけど、一度書いたモノは無理だわ。残念。
 すごくどーでもいいネタだったんだけど、そのときのわたしは心から楽しく書いたのでした……。だからわたし自身が、それを読み返したかったの。ちぇ~~っ。

 ということで、残ったメモ書きを元にした感想のみ、「今幕間! 今帰りの電車!」のアツくイタい感想は失ったまま。

 …………まあ、消えてて良かったのかもしれん(笑)。
 観劇後すぐの感想なんて、真夜中のラブレター状態、謎の興奮に支配され、冷静ぢゃないもんな。



 えーと、つまり。

 『DRAGON NIGHT!!』、面白かったのよ。



 という記事を書いて、でもUPしそこねている間にさらに時は過ぎ(書いてからすでに3ヶ月経過って……)、今さら感満載ですが、このブログの時間はまだ2015年9月なので(笑)。
 人事の感想とか、答えを知ってしまったあとで「これってどういうこと?」と混乱している文章載せるのもアホっぽいけど、数年後に読み返す分には問題ないから、あくまでも時系列に沿って進みます。
 『A-EN』ARTHUR VERSION初日を観て、作品内容とは別に、「月組こええぇ……っ!!」と震え上がったのが、人の使い方。
 月組が「スターを上げる組」だとわかっている。天海やタニちゃん、今ならたまきちや暁くんを早々に抜擢している、組内下克上当然の組だ。
 感情をはさまず、企業として上げたい人を上げる、そうでない人は落とす。劇団は営利企業なのでそーゆービジネスライクな部分は必要です。

 にしても、月組こわい。
 長年ゆるく全組観てきて、ここまですっぱり人を使い分けるのは、月組だけだ。

 実験的な別箱公演だって、タカラヅカの習性として上級生尊重、スター枠でないにしろ、学年は考慮される……というイメージ……幻想を、わたしは抱いている。
 だから、上級生が完全モブで最下学年の子が見せ場もらってる舞台を観ると、習性ゆえに震え上がる。

 新公ヒロイン経験者で、この前の本公演でWキャストの上級生側だったみくちゃんが、ヒロイン経験なしのはーちゃん以下の扱いとか。
 完全別格コースとはいえ実力者で最上級生のジョーが研1生以下の扱いとか、誰が思うのよ……。

 ジョーとみくちゃんは、芝居では目立つ役をもらってるけど、完全イロモノでふたりだけで完結、今回の主眼である育成予定の若手とは絡まない、本筋に関係ない、いなくてもいい役。
 ショーではモブ、よくても脇の歌手。場の中心とか少人数での「スター」的場面や役割からは、見事に外されている。そして、最下の研1くんや研2くんが、客席降りして「スター」としてソロもある歌を歌っていたりする。

 雪組でいえば、縣くんが場面もらってて、まなはるやあすくんあたりがモブでしかないショーを観る感じ? 朝風先輩なんか完全モブで声もろくに聞けてませんよ的な?
 …………ぶるぶるぶる、雪でそんなことやったら研1生のためにならんわー、そんな育て方に免疫がないもん。
 年代を変えて考えれば、2008年の星組で、ベニーやみやちゃんがモブで研1のまおくんが見せ場もらってる感じ? 当時のベニーやみやちゃんはワークショップの2番手がようよう回ってくるぐらいの、新公主演できるかどうかも危ない脇の人で、まおくんは入団から騒がれた劇団推しのスター。
 まおくんは将来のトップスターかもしんないけど、その売り方を星組でやったらまずいと思う。

 でも、月組ならアリなんだろうなあ。
 周囲に月組ファンがいないからわたしに届いて来ないだけかもしんないけど、この人使いを誰も疑問に思ってない感じ。素直に受け入れてる感じ。

 星那くん、優くんあたりも、この香盤順ならおいしいかも?、スター枠じゃなくても、メンバーには舞台経験ほとんどない子も多いし、キャリアだけでも相応の役割を与えられるのでは? と思えるのに、実際は完全モブだし。

 いやあ……年功序列の花組でファン生活を長く送っていたわたしには、心臓痛い公演でした(笑)。
 もしもまっつが中堅時代の花組でこんな趣旨の公演あったら、まちがいなくジョーポジションで、劇団が推したいと思っている研1くんのモブをやってたんだろうなあ、てな。
 まっつの中堅時代、全組上演の『エンカレッジ・コンサート』というものがあったけれど、他の組は別格寄りでもスター枠でも、新公主演済み中堅スターが中心の公演だったのに、花組だけは年功序列で唯一の新公主演済み中堅スターのまっつは完全モブだったもんな。まっつってそーゆー扱いされてきた人。もしも劇団が「研1の方が大事」と思ったら、気遣いもされず、容赦なくモブにされていただろう。
 まだ上級生尊重、はわかる、っていうか「仕方ないか」と思えたけれど、あのときのエンカレが研1とかが中心で、まっつがモブだったら、わたしかなりへこたれてたわ……。
 年功序列は年寄りにやさしいシステムなのかも……。し、しんぞうにわるい……。

 スターと脇を分けて育てるのは必要なことで、スターにするつもりの人には経験を与えるべき。
 だから、スター修業の必要のない人をモブにして、初舞台踏んだばかりの素人でも、将来のスターを「スターらしく」扱うのは正しい。

 だから月組こそが、正しいのかもしれない。

 ただ、あまり月組に馴染みのない、アタマの固い年寄りのわたしは、ただもうびっくりして、勝手に「これが〇組だったら……」と想像逞しくして、心をひりひりさせました、てな。

 と、思いながらも。
 勝手なもので、組ファンでない者からしたら、「上級生だ」というだけで、良い役を「誰あれ?」的な人が占めているより、同じ「誰あれ?」でも「大抜擢された下級生」の方が、わくわくする。
 これが組ファンと一般ヅカファンの違いかなあ。
 常に名もなき役をやっている生徒さんに愛着が薄いゆえ、とても無責任に「新進スターキターーッ!」と盛り上がれるのね。

 愛着を持っている人が多ければ、たとえその人が路線スターでなくても「**さんの扱いは不当だわ」と不満の声が多くなるだろうし、声が上がらなければ、その扱いは妥当なのかもしれない。
 どの生徒さんにも、もちろんファンや愛着を持つ人はいるのだろうけど、その総数の問題で。

 わたしは花組エンカレのまっつの扱いは不当だと思ったけれど、他の4組と同じように扱えやゴルァ!!と思っていたけれど、わたしと同じように思う人が少なかったんでしょう。
 世の中を動かすほどのムーブメントにならない以上、ないのと同じ。結果まっつは年功序列の花組で、その後何年も足踏みを続けたし。
 全ツやバウ主演で下級生に抜かされたときも、下克上は人事の花、わたしはへこんでいたけれど、わくわく盛り上がる層もあったはず。

 月組はスターとそれ以外をすっぱり区別することによって、スター以上にファンを選別しているのかもしれない。
 完全なる劇団主体による抜擢制度、劇団が選んだスター以外は別箱ですらモブになる、それを楽しめる人のみが、月組ファンとして楽しめる。
 劇団推奨マーク付きのスターのファンになるか、あるいは生徒を二次元のコマと認識し、個人に感情移入したりせず、抜擢や下克上を楽しむ育成ゲーム感覚か。

 これが自分の贔屓組だったらつらいけど、月組だからアリ、新進スター抜擢にわくわく、てのは育成ゲーム感覚だよなあ、と自分を省みる。

 タカラヅカには5つの組があるのだから、実験組がひとつは必要なのかもしれない? 劇団が200年、300年続いていくために?

 あー、でも、「新進スターキターーッ!」は、最低限なにか納得出来るモノを持っている子に限る。
 見た目がビミョーで、歌が壊滅音痴とか、ひと声発しただけで「今のナニゴト?!」と刮目するほどの悪声大根芝居の子は、勘弁。
 完璧でなくていいけど、「足りていない部分は将来的に補える」と思える範囲の欠点にして。

 今回の抜擢さんたちは、特に破綻はないしきれいなので、単純に無責任に「新進スターキターーッ!」とわくわくしていられました。
 見たいモノを見せてくれる。
 それが、『A-EN』ARTHUR VERSIONのあーさだと思う。

 あーさは、現代的な持ち味のスターだ。

 現代……ネットが生活の中心にあり、誰もが手のひらの中で欲しい情報を無料で得られる、タカラジェンヌが舞台の上だけでないテレビ画面でも活躍する、この時代。
 舞台の実力・魅力とは別に、「素顔の美しさ」「舞台とは無関係に楽しめるキャラクタ」が必要とされる。

 あーさは、今この時代に生きるタカラジェンヌだと思う。

 素顔が美しくて、男子アイドル的。
 少女マンガの実写化が相次ぎ、「少女マンガの彼氏役」を演じられる男子アイドルが求められる今、一般女子の支持を得やすいタイプ。
 テレビのアイドルを愛でるように、「ナマの舞台を観なくても」楽しくファン出来るキャラクタ性を持つ。

 今までになかったタイプのタカラジェンヌだと思うの。

 もちろん、このタイプが登場するのは、紅5とかのフロンティアな先人あってこそだけど。

 で。
 せっかくのテレビアイドル的セールスポイントを持つスターですよ。
 テレビアイドル的に売らずに、いかがしますか。

 アイドル俳優のお仕事は、人気少女マンガのお手軽実写映画に出ること。
 硬派なドラマなどに出るのは、そこで人気を掴んでからですから。
 ……このセオリーを、ヅカにも使うの、いい案だと思う!

 『A-EN』ってほんと、よくある少女マンガ。
 よくあり過ぎて、たぶん、「少女マンガあるある」をネタとして作ったネタ作品だと思う。
 ネタ作品で主演ってどうなの、なんて考えちゃダメだ、自虐を逆手に取って、大化け狙いだ!

 求められる役割を、期待通り返す力。

 横暴なドS彼氏、壁ドン顎クイ、上から告白、ネタでしかないことを、そのまま本当にやってしまう力。
 現実にあると寒いだけの少女マンガあるあるを、三次元化するのは、これぞタカラヅカ!だ。

 大昔に『ベルばら』が舞台化されたように。
 ありえない、二次元だから許される、ことを、生身の人間がやってしまう感動。

 歌舞伎調大芝居の『ベルばら』でなく、アイドル映画的な『A-EN』を息づかせるのが、現代のタカラヅカスター。

 だから『A-EN』は、いい公演だと思う。

 あーさの強みである、テレビアイドル的持ち味をプラスに使っているから。
 あーさのファンが「見たい」と思うモノを、見せてくれるから。


 これであーさが、「素顔がきれいなだけ」で他にはナニも出来ない人、なら、話は違ってくるけど。
 彼が「顔だけの人」だったら、こんなネタだけの作品で主演しても「舞台人として」プラスになることが少なすぎるから、アタマの固い年寄りであるわたしはぶーぶー言ってると思う(笑)。
 だがしかし。
 あーさは顔だけの人ではないっ。

 ちゃんと、バウ主演して破綻しない実力がある。

 だから、彼の美点を活かせる役と作品で、真ん中経験を積むという意味でこの作品をやるのは、いいことだと思った。


 って、四の五の言ったところで。
 本音としてはもう、ただ、きゃーー! あーさステキ~~!! 楽しいーー!! ってだけですわ(笑)。

 芝居だけでなく、ショーも、「見たいあーさ」。

 バウのショーらしくいろんなジャンルが盛りだくさん! なわけだけど、その盛りだくさん!の中に、美青年はべらして軍服+鞭、ドSエロエロ場面があるのが、あーさ!! ですわ(笑)。
 『TAKARAZUKA 花詩集100!!』新公で彼のキャラを決定づけたハードゲイ再び……(笑)。

 これか。
 あーさといえば、コレなのかっ!!
 もー、客席で悶絶しました(笑)。

 いいなあ、わかってるなあ。
 潔いまでに「あるある」を、ネタとしか思えないモノを、「大真面目に」差し出してくれる。

 客が見たいモノを見せるのが、エンタメの基本じゃないの?(素)

 作家が見せたいモノじゃなくて。よくわかんない高尚なナニかじゃなくて。キャストの「お勉強」のためのカリキュラムじゃなくて。
 お金を出して時間を割いて、客席にいるお客がよろこぶモノを出すのが、制作側の仕事なんじゃないの?
 ……そんな、「原点」を感じさせる公演でした。

 全公演コレをやれと言ってるんじゃなくて、このキャスト、このタイミングでこの箱で、と、いろんな要因が重なった「今」、この公演は正しく機能していると思った。
 コレを大劇場本公演でトップスター以下組子全員で東西2ヶ月かけてやられたら怒るけど(笑)。


 ダブルキャストやダブル主演公演において、劇団がその役をやらせたいのは下級生の方のみである、というのは定番。上級生は、無理を通すための「言い訳」に使われただけ。
 今回も、劇団が主演させたかったのは暁くんであり、あーさはその言い訳に使われただけだと思う。

 だけど。
 劇団の思惑がどうあれ、経験を積み、力に変えていって欲しい。
 『明日への指針』新公のように、舞台に立ってしまえば、その場を支配するのは役者だから。
 (わたしは、『明日への指針』新公があってこそ、現在のあーさがあると思っている。暁くんは大器かもしれないが、現時点では未熟、ゆえに「今」力を持つモノが舞台での評価を獲ることが可能)

 きれいな人が見たい。
 きれいなだけでナニも出来ない人ではなく、きれいでうまい人の舞台が観たい。
 あーさは、きれいでうまい。
 うまいったってそりゃ、今の学年や立ち位置に対しての評価であり、上を見ればキリがないけれど。
 美しさも実力も、経験で磨かれるものなのだから、彼にはもっともっと、これからも機会を与えて欲しい。

 だからわたしはもっともっと、彼の舞台を観たい。
 『A-EN』ARTHUR VERSION初日観劇。

 もう最初から、テンション上がりまくり。
 かっこいい。

 あーさが麗しいのは言うまでもないが、わたし的「心臓ハクハク」ポイントは、まゆぽん。

 輝月ゆうまが、本気でかっこいい!

 あのまゆぽんが、ブレザー姿でかっこつけて踊ってるの。自分のこと、「かっこいい」と思ってるの!
 や、まゆぽんはもちろん普段からかっこいいし、それは事実だから自覚していていいし、いやむしろ自覚してなきゃ職業柄まずいわけで、能動的にかっこつけてくれてていいんだけど!
 それにしても、こんだけ、本気で、「かっこいい俺」を打ち出して踊っているまゆぽんを、わたしは観たことがなくて。
 なにコレかっこいいっ……!
 体格も相まって、男役とかジェンヌとかを超えて、ただもーほんとに、ガタイのいいイケメンにーちゃんに見えてだね……!
 はぁはぁはぁ……。
 オープニングだけで、死ぬかと思った……。

 ……ただ、そこまでストレートにイケメンなのはオープニングだけで、本編はいつもの「見慣れた」まゆぽんだった……(笑)。
 かっこいいけど三枚目養分大目で「いい人」オーラ漂ってる「お友だちキャラ」。オープニングとは別人設定?? や、いつものいい人キャラも好きだけどさ……あの本気のイケメンは……。
 そして、オープニングを観るためだけでも「もう一度観たい。いや、観に行く!」と決意を新たにしたわたしがいる……(笑)。

 2幕のショー部分もね、まゆぽん大活躍だし!
 あーさとの同期売りを期待したけど、うん、ほんとにあざとく同期の絆売り物にしてくれてたまらんわ。

 芝居もショーもアテガキぶりが楽しく……ちょっと複雑、そしてやっぱり愛しい。
 あーさが本気の美形ポジションで、まゆぽんはかっこいい範疇だけど美形売りではナイ、それが芝居だけでなくショーでも、てのが。
 ショーにあーさならではの耽美場面があって。
 ポジション的に、ここはトップと2番手が絡むだろう、てな既視感あふれる設定なのに、まゆぽんはその場面にはいない。
 でもって、その場面の直後に「雰囲気を変える」のがまゆぽんなんだ。
 耽美は彼の役割ではナイ、耽美場面を「はい、まゆぽん出たから次は耽美ぢゃないよ、アタマ切り替えてね!」とぶった切る使い方。
 この役割かよ!って、納得しつつ、ちょっと肩を落とした(笑)。
 場面切り替えは、存在感と実力が必要。経験値、かな。やり方のわからない子に任せると、場が盛り下がる。
 せっかく耽美場面で盛り上がり、こっからクライマックスに向けてアクセル踏み込もうってときに、ブレーキかけられちゃたまんない。そこでまゆぽん投入なのは、いい判断。
 うまい使い方だと思うし、タイプ的にそうだろうと思うけど、この学年で下級生ワークショップのこの立ち位置で、この役割を自然に振られてしまうまゆぽんって……。
 と、まあ、納得しているのに、そこがいい!と思っているのに、どこか引っかかるあたり、わたしはやっぱりまゆぽん好きなのね、と再確認してみたり。
 不親切な文章だが、これ以上説明しない、自己完結して終わる。
 や、耽美場面のあとの、これまたヅカお約束のマタドールの光と影をがっつりあさまゆでやってくれるのも、そのあとの同期の絆キターーッ!につなげていくのも、王道で大変楽しみました。

 ただ、自分的にいちばんウケたのが、耽美あーさ→ぶった切りまゆぽん、の場面変換。

 まゆぽんが登場した瞬間、なつかしき昭和のかほりをどーん!と感じ、膝を打った。

 あー、タカラヅカだわー。半世紀くらい前から続いているだろう、現在のタカラヅカの根幹たるタカラヅカっぷりだわー。
 そう思って、ウケた。

 その差が、あーさとまゆぽんの持つ、大きなカラーの違いなんだろうなと思ってみたり。


 とりあえずわたしは、あーさとまゆぽんの並びが好きです。
 美形様と大型犬同期。
 ひとりは歌ウマ美形路線スターで、ひとりはおっさんタイプの別格。
……ケロトウファンだったわたしのDNAが滾ります。
 嫌だ~~!!

 という本能的な叫びは置くとして。
2016年 公演ラインアップ【宝塚大劇場、東京宝塚劇場】<4~7月・花組『ME AND MY GIRL』>
2015/08/28
8月28日(金)、2016年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚大劇場】【東京宝塚劇場】の上演作品が決定いたしましたのでお知らせいたします。   
花組
■主演・・・(花組)明日海 りお、花乃 まりあ

◆宝塚大劇場:2016年4月29日(金)~6月6日(月)
一般前売:2016年3月26日(土)
◆東京宝塚劇場:2016年6月24日(金)~7月31日(日)
一般前売:2016年5月22日(日)

ミュージカル
『ME AND MY GIRL』

Book and Lyrics by L.ARTHUR ROSE and DOUGLAS FURBER
Music by NOEL GAY
Book revised by STEPHEN FRY Contributions to revisions by MIKE OCKRENT
作詞・脚本/L・アーサー・ローズ&ダグラス・ファーバー
作曲/ノエル・ゲイ
改訂/スティーブン・フライ
改訂協力/マイク・オクレント
脚色/小原 弘稔
脚色・演出/三木 章雄

1937年にロンドンで初演され、1646回のロングランを記録した大ヒットミュージカル。1930年代のロンドンを舞台に、下町で育った名門貴族の世継の青年ウィリアム(ビル)が一人前の紳士に成長するまでを、恋人サリーとの恋物語を絡めて描いたロマンティックコメディです。宝塚歌劇では、1987年に剣幸、こだま愛を中心とした月組での初演が大ヒットとなり、同年再演。1995年には天海祐希、麻乃佳世、2008年には瀬奈じゅん、彩乃かなみを中心とした月組で上演され、その後も度々再演を重ねて参りました。今回は、明日海りお、花乃まりあを中心とする花組が、このハートフルな名作ミュージカルの世界に挑みます。

 今回のラインアップでわかったことがある。
 別箱落ちした作品も、本公演でやることがあるんだ!

 本公演で上演された作品で、いったんその他劇場で上演することになった作品は、もう二度と本公演ではやらないのかと思ってた。
 タカラヅカはやっぱ大劇場本公演が華、もっとも力の入った公演。組全員投入だし、製作費も人件費もいちばんかかるのが本公演なんだろうなと思ってる。
 だからその、豪華な本公演作品を、出演者半分でセットもちゃちくなった別劇場で上演するのは「別箱落ち」……一段下がる認識だった。

 そうやって、一度落ちた作品は「別箱用演目」として、もう本公演に戻ってくることはないんだと思ってた。
 本公演との差別化? 本公演はそれくらい特別なんですよっていうか、「半分の人数と半分の経費で公演可能」とわかっちゃったものを、また「人数とお金かけてやるから観に来てね!」はないだろうっていうかね。や、半分で出来るなら半分でやってろよ、大劇場本公演は、大劇場でしか出来ないものをやってくれ、っていうかね。
 勝手な思い込みです。根拠なし。

 根拠はないけど、思い込んでたから。
 『ミーマイ』が別箱落ちしたとき、胸をなでおろしたもんじゃった。再演されること自体は残念だけど、梅芸落ちしたってことは、本公演で観ることはなくなるんだ。それだけはよかった……って。
 トップコンビしか若くてきれいな役がなくて、ヒロインが下品で、主人公カップルの次に重要な役が中年以上の年配男女で、専科役っぽい中年三枚目や頭空っぽのお色気美女とヘタレ男しか役がない、組子のほとんどがモブの、怒涛の役替わりしか売りのない作品なんか、本公演でやらなくていいよ。豪華なセットもダイナミックな舞台機構も銀橋も、豪華絢爛な衣装もいらないしね。
 半分の規模で外の劇場で十分ニャ。よかった、『ミーマイ』が別箱用演目になってくれて。
 そう思っていただけに。

 戻ってくることもあるのか……!!

 それはうれしくない情報だわ。
 別箱もあれば本公演もある、のは『ベルばら』『風共』の良くも悪くも特別なタカラヅカの看板作品のみかと思ってた。
 他にもあり得るのか……。
 別箱だから耐えられる、本公演でコレ再演されたらきっついわーー!てなあれやこれやが、本公演に戻ってくる可能性アリってことか……! 震撼。

 今回の例は、『ベルばら』や『風共』と同じ、「『ミーマイ』だから」という特殊例でありますように。別箱落ちした作品は、つまりは別箱レベルでいい作品ってことなのよ、本公演に逆流させないで。
 や、作品にはふさわしい箱ってもんがあるじゃないですか。別箱落ち、という言葉を使ったあとで言うのもなんですが、小劇場向きだから格下、大劇場向きだから至高、というわけではなく、純粋に作品を表現するのに相応しい大きさが。

 別箱落ちした作品で、「大劇場で、組子70人使って観てみたい」と思う作品って、ナニかあったかしら……。
 あ、『黒い瞳』は戦闘場面に人数欲しいから、本公演で観たかった、と思ったかな。
 それくらいだなー。
 『銀の狼』は全ツではなくDCあたりで腰を据えて観たいとは思ったけど、本公演でなくてもいいや(笑)。


 再三語っていますが、わたしは『ミーマイ』が苦手なので、本公演で、しかもすでに上演したことのある人と組で再演、ということに盛大に肩を落としています。
 『Ernest in Love』やって『ME AND MY GIRL』やるとか、企画する人にセンスなさ過ぎや……。
 『星逢一夜』についてうだうだ語る、前日欄からの続き。


 以前別欄で書いたけれど、櫓の上での晴興@ちぎくんと泉@みゆちゃんの別れの場面では、晴興はもとの晴興に戻っている。
 もとの、というのは、蛍村の子どもたちと一緒にいた頃の紀之介、ではない。
 吉宗と出会う前の晴興、だ。

 藩主の跡取りになっても、名を晴興としても、また父に連れられ江戸城に赴いても、晴興は晴興、本質は変わらないままだった。
 彼が変わったのは、吉宗@エマさんと出会ったためだ。
 吉宗と出会い、彼と共に生きようとしたことで、変わったんだ。
 だから吉宗を捨てたあと、晴興はシンプルな「晴興」自身に戻る。ゆえに、泉に「一緒に行くか」と言えるんだ。

 8/24欄の器とメモリの話でいうと、吉宗との確執が全部なくなったので、メモリ3の段階まできれいさっぱり消えて、星逢祭りで本能のままに泉を口説いた、あのあたりの晴興に戻ってるのな。
 昔の晴興まんまじゃない、だってもう彼は吉宗を知っている。その上で、吉宗という錘から解き放たれたことで、押さえられ見えなくなっていた恋心を素直に表しているんだ。


 最初に挙げたわたしの疑問はすべて、「吉宗を描かなかったため」で説明が付く。
 この物語が要求する「2番手」の役割は、源太ではなく吉宗にある。
 なのに、物語の主軸を歪めてまで、吉宗を脇役にし、源太を2番手役にしている。
 それゆえにいろいろと齟齬が生まれた。

 パズルのピースを当てはめ、ひとりよがりだろーとなんだろーと結論を出して一息ついて。

 新たな疑問。

 何故、主軸を歪めてまで、「2番目に重要な役」を変更しなければならなかったか?

 単純に時間がなかったためか。
 2時間以上時間を取れる別箱でなら、晴興の2本の軸をしっかり書き込めたろう。
 恋と仕事、どちらかしか描く時間がない場合、タカラヅカなんだから恋を取るのは正しい。日曜9時のTBS系ドラマなら、仕事メインにするだろうけど。(『半沢直樹』とか『下町ロケット』とかの男たちのお仕事ドラマ枠ね)
 それはそれでいいんだけど、変な誤魔化しはせず、「時間ナイから省略しました!」とすぱっとやってほしかったなー。2度目の江戸城の場面のキモチ悪さはナイわー。

 てゆーかなんで吉宗2番手役じゃいかんかったんやろ。

 おっさんだから?
 劇団が大好きな海外ミュージカルは、2番手役が容赦なくおっさんですよ? 『エリザベート』だって2番手が若いのは一瞬であとはほとんどヒゲオヤジだし、『ME AND MY GIRL』も『ガイズ&ドールズ』もヒゲオヤジですよ? 『ファントム』なんか父親役ですよ?

 男同士の愛憎劇はまずいと判断?
 でも、トップスターと2番手なんて、愛憎してなんぼでしょうに。晴興と源太だって、本当なら泉をはさんで愛憎するはずだし(現脚本では、ろくに愛憎関係にないけどなー)。

 主人公の「宿命の相手」「愛憎の相手」がびんぼーな名もなき農民であるより、一国の君主である方がドラマチックだし、「タカラヅカ」的にも正しいのに。

 吉宗がダメだった理由は、まったく想像が付かない。
 だいもん氏が「子どもにしか見えない、若々しい持ち味の2番手さん」だというならともかく……おっさんOKな貫禄ありまくりの人ですよ?
 わからんわー。

 吉宗2番手はNG、源太を2番手にしなければならない大人の事情なり、ウエクミのこだわりなりがあったとして。
 それなら、なんでもっとちゃんと源太を描かないんだ? 主軸を歪めるなら、本腰入れて変更しなきゃ。吉宗2番手のときと同じレベルの描き方(昔友だちだったけど、今は無関係で互いに興味なし)のままじゃまずいわ。
 主人公が興味も接点もない相手を「愛憎渦巻く2番手の役」にするのは高等技術が必要、てゆーかそんなもん描くには時間が掛かりすぎるからよせ。
 シンプルに、「親友とひとりの女を取り合う」でいいじゃん。なんで源太を「ただの知り合い」としか描いてないんだ?

 前に書いたように、今の脚本のままで「源太と晴興を親友同士にする」事は出来るんだ。台詞と演出を少し変更するだけで、ふたりは親友になれる。

 何故こんなことになっているのだろう?


 作品を好きだと思うからこそ、残念な部分が気になる。
 脚本のツケを背負わされたのが源太で、それを払うべく奮闘しているだいもんがえらく魅力的だから、結果オーライ、それでいいのかな。

 そしてわたしは、まっつを恋しく思う。
 まっつの吉宗見たかったなあ、と。←しつこい(笑)
 『星逢一夜』についてうだうだ語る、前日欄からの続き。

 泉ライン、吉宗ラインと2本の軸で進んできた晴興@ちぎの物語。
 2度目の江戸城の場面では、どちらのラインも消えてしまい、なにを語りたいのか不明のまま、実に気持ち悪く次景へ引き渡される。
 この場面に晴興の心情表現はなく、ただ「10年経った。晴興は変わってしまった」という、外側の説明のみがある。

 なのに、次の三日月藩場面になると、2本の軸は復活、気持ち悪く歪められた吉宗ラインもなにごともなかった顔で復活している。

 でもって、三日月藩の一揆にて、晴興が思い悩んでいることってなんだ?
 これがこの物語のクライマックス、起承転結の転。
 もっとも大きく物語が、そして主人公の心が変わるこの場面で、主人公が抱え、苦悩し、変わるのは、なんだ?

 泉@みゆちゃんとの恋? 源太@だいもんとの友情? 三日月藩の農民たちとのこと?
 全部チガウ。

 吉宗@エマさんとの、関係だ。

 晴興が捨てたのは、泉でも源太でも三日月藩でもない。
 だって彼はそんなもんで悩んでなかった。一揆の最中、「これが私の生きる道か」「これがあなたのお生まれになったお立場でございます」と、鈴虫@がおりと話すように、泉のことではなく、自分の宿命について悩んでいる。
 そして、一揆平定は藩主としてというより、吉宗の命令ゆえだ。藩主としてだけなら、それこそ農民たちと結託して幕府に楯突く側に回ることだって出来るし、お上の顔色をうかがいつつ自分の藩だけは得をするように立ち回ることだって選択肢としてはあるのだから、「反乱する農民たちを殺す」のが「生まれつきの宿命」じゃない。
 「良い殿様とはなにか?」や「三日月藩の幸福」よりも、「吉宗の命令、吉宗の掲げる理想を遂行する」ことを、晴興は重要として生きてきた……それゆえの苦しみだ。

 吉宗と共に生きようと思った。
 恋を捨て、故郷を捨てても、吉宗の描く理想を追うことをよしとした。
 それでいいはずだった。
 なのに、それに迷いが生じた。
 吉宗との関係に、影が差した。
 心が通じ合わないまま、吉宗の命令を受けて三日月藩の一揆平定に出向き、藩の混乱と仲間たちの血を目の前にして、さらに吉宗への疑問が募る。吉宗に付き従う自分自身に、疑問が募る。

 その結果、吉宗との決別にたどり着く。

 本当なら晴興は、一揆後も三日月藩を守るべきだ。
 藩の民衆からは悪者扱いされても、政治の中央である江戸にて、藩を守るべく闘い続けるべきだ。三日月藩の味方であり得る政治家は、晴興ただひとり。その晴興が政治から手を引いたら、もう藩を守る者はいなくなる。
 どんなにつらくても、苦しくても、江戸で政治に関わり続けるべきだった。

 だが、それは出来なかった。
 晴興にとって最重要の関心事は三日月藩でも泉でもなかったから。

 吉宗から、離れること。

 泉と三日月藩が飢えて死に絶えるかもしれないことより、晴興はまずなにがなんでも、自分が吉宗から逃れたかった。それが最優先だった。
 それゆえに、追放を望んだんだ。

 晴興の性格からしたら、藩を投げ出して逃げて終わりなんて、おかしいもの。
 とりあえず目の前の処刑だけ防ぎました、あとは餓死や、生き長らえてもよりきつい管理が待っていても知りません、なんて。
 今まで流してきた血を無駄にしないために、心を鬼にして戦ってきたはずなのに、それを全部投げ出して終了、なんて、おかしいもの。
 源太はじめ、晴興が指揮して行ってきた改革で死んだ人たちみんな、犬死にですか。

 おかしいし、理不尽。
 だから、そんな晴興らしくない無責任なことをするくらい、ただもうひたすら、吉宗から逃れたかった、ということなんだろう。

 晴興はある意味、三日月藩を贄として差し出したんだ。
 吉宗の手を振り切るためには、血を流すしかなかった。吉宗と晴興は深く関わりすぎていて、毛細血管が絡み合っているレベル。癒着してしまった患部を切り離すには、外科手術……血を流すことが必要だった。
 だから晴興は、三日月藩を犠牲にした。
 晴興が愛し、見守るはずだった故郷を「今後どんな扱いをしてもかまいません」と刑場に引き渡した。
 そのことで晴興が傷付き、血を流すことが前提。大切なモノを差し出し、傷付くかわりに、どうか自由を。

 もちろん吉宗も、2度目の江戸城の場面にて晴興との不和を自覚しているし、三日月藩平定が賭であることを知っている。
 晴興を三日月藩に返すことで、試したかったんだと思う。晴興と自分の絆を。
 晴興が再度三日月藩を捨て、自分を選ぶことを望んで……危惧も抱きながら、それでもあえて野に放ったんだと思う。
 たぶん、そうして穴を開けねばならないくらい、吉宗と晴興の関係はやばいところにまでいっていたんだろう。荒療治に出なければ、近い将来破綻する……そう思えるほどに。
 だからこそ吉宗は、賭に出た。

 賭に敗れた吉宗は、晴興の望みを叶える。

 すなわち、自分から、解き放つ。

 江戸に連れ帰り責を負わせるのではなく、遠く目の届かない場所へ追放した。
 死罪でも永蟄居でも、晴興の望みは「吉宗のいないところへ行きたい」なのだから……三日月藩を犠牲にしてまで切望した彼の望みを、叶えてやったんだ。


 続く。
 『星逢一夜』についてうだうだ語る、前日欄からの続き。

 以上のことから、結論する。

 『星逢一夜』のすべての歪みの原因は、吉宗にある。

 ……結論する、ですよ、ナニこの人断言してますよ。ナニ言ったところでわたしが勝手に思っているだけのことで、他人様から見れば「え、マジで言ってんの、的外れ過ぎる」てなもんだとしても、考えることが、語ることがたのしいから、勝手に語っちゃいますのよ(笑)。


 これまでわたしが抱いてきた疑問。違和感。

・源太の情報量の少なさ
・冒頭ナレーションの違和感
・2度目の江戸城場面の不可解さ
・逃げ出す晴興、誰も救われない物語

 源太@だいもんを、晴興@ちぎの親友だと思って観ていたから、「ただの知り合い」レベルの描き方に驚いた。
 泉@みゆちゃんをめぐっての三角関係であり、がっつり組んだ2番手の役柄だと思うからこそ、その書き込みの少なさに首をかしげた。

 初見で「なんだ、源太は親友じゃなかったのか」と思った翌日、2回目の観劇で「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」という冒頭ナレーションを聞いて、すげー違和感を持った。
 運命の恋人・泉と同じレベルで語られるほど、晴興は源太に好意も興味もないじゃん? 「2番手の役だから、持ち上げておくしかない(消去法にて、仕方なくそうした)」ということ?

 2度目の江戸城の場面のみ、視点が乱れている。
 晴興も吉宗@エマさんも、突然人格が変わっている。
 人格が変わった理由を、「泉との別れのせい」だとミスリードしている。他に理由があるはずなのに、そこには触れない。ことさら三日月藩を俎上に載せて、それこそが原因であるように見せかける。

 一揆を起こした三日月藩の農民たちは、処刑は免れたけれど状況は上向くどころか悪化。一揆前より酷い生活になる。晴興ひとり重責から逃げ、楽になる。源太犬死に。
 檻の中へ逃げた晴興も含め、登場人物誰ひとりしあわせにならないEND。

 これらの疑問はすべて、「吉宗の描き方」に起因がある。

 晴興にとって最も重要な人物が、吉宗だからだ。

 「天野晴興」という人物にいちばん大きな影響を与えたのは、恋人・泉でも恋敵・源太でもない。
 吉宗だ。

 極端な話、泉がいなくても、源太がいなくても、吉宗がいれば、『星逢一夜』を今とまったく同じストーリーで、構築出来る。

 泉はヒロインだからいてもいいけれど、ぶっちゃけ、源太はいなくていい。
 物語の本筋に絡むキャラ(吉宗)を脇役にし、いなくてもいいキャラ(源太)を無理矢理本筋に絡めた……ことに、すべての歪みが生じている。

 『星逢一夜』は晴興と泉のラヴストーリーだが、晴興は恋愛だけ考えて終わる男ではなく、恋愛しつつも別の軸で人生を生きている。
 国政に関わる者としての、人生だ。
 将軍・吉宗の下で、享保の改革を行う、という大物人生。

 そして、このふたつのファクタは、相反する位置にある。
 愛(泉)を取れば、仕事(吉宗)を捨てねばならない。
 第一段階、星逢祭りの時点で、晴興は泉を捨てて吉宗を取っている。
 祭りの幻想ダンスにて、吉宗が登場し、泉-晴興-吉宗の三角関係を表現している。晴興の泉への愛に立ちふさがる者は、源太ではなく吉宗。
 晴興は、泉か吉宗か、どちらかしか取れないんだ。
 惑った結果、晴興は吉宗を取った。

 だが、最終的に晴興は吉宗を捨てる。
 共に歩むと誓ったのに、吉宗ひとりを修羅の道へ残し、晴興はケツをまくる。
 櫓の上で泉と再会し、愛を語るのは、吉宗を捨てたあとだからだ。
 晴興は、どちらかしか得られない。泉に愛を告げるには、吉宗と別れるしかなかった。……泉とも共には生きられないけれど、たとえ一時の夢であれ「共に逃げる」話が出来たのは、吉宗を捨てたあとだから。

 や、泉と吉宗を同列に語ってるけど、別に腐った意味じゃないよ(笑)。
 恋と、仕事・同志への敬愛は、男にとって同等の重みがあるから。

 晴興一人称小説を書こうとすると、物語の軸は2本になる。泉を中心にした恋愛面と、吉宗を中心にした仕事面と。
 2本軸で展開する物語なのに、そのうちの1本を「なかったこと」にしているから、話がおかしくなる。

 途中まではいいんだ。蛍村の子どもたち+泉との出会い、江戸での吉宗との出会い、三日月藩に藩主として戻り、星逢祭りで泉と再会、泉と生きることは出来ない、自分の居場所は吉宗の下だと決断。
 ここまでは、ちゃんと2本軸で描かれている。
 が、次の江戸城の場面。ここがおかしいのは、軸の片方、吉宗ラインを描くべき箇所で、それをしていないためだ。

 晴興の人格が変わってしまったのは、泉や三日月藩が原因ではない。
 泉ラインは星逢祭りまでしかない。それきり10年、無関係な場所で生きているのだから。
 星逢祭りのあとも続いているのはもうひとつの軸、吉宗ラインだ。
 吉宗ラインで10年の時が流れ、晴興になにかあり、人格が変わってしまった。

 ……となれば。
 どう考えたって、その原因は、吉宗にある。

 なのに、それを無視して、「10年も前の泉との別れ・三日月藩が原因」だと説明台詞をたたみ掛ける。

 おいおいおい、なんだそれ気持ち悪いな。
 目の前に転がった死体を無視して、「腐臭がするわ、なにかしら」「10年前に何百キロも離れた場所に死体があったから、それが原因よ」って話してる、ゆがんだ絵を見せられてるみたい。
 や、そこに死体あるじゃん、足元見ようよ、みんなわかってるんでしょ? なんで見ないフリしてるの?
 気づくとまずいから、不都合があるから、わざと「死体なんかありませんよ」という体で他の話をしているの。その場にいる人たち全員が結託して。
 ホラーですわ。

 吉宗が原因、だということを気づかせないために、この場面のみ晴興の一人称ではなくなっている。
 地の文で嘘は書けないから、晴興自身の語りでは、書けなかったのね。ここだけ三人称にして、でも、三人称だということが読者に気づかれないよう細工する。うわお。

 ……続く。
 『星逢一夜』はよくまとまった物語だと思う。
 が。
 途中、2度目の江戸城の場面のみ、筆が乱れている。
 それまで晴興@ちぎくんの一人称で進んできた物語が、そこだけ視点がブレている。

 小説で考えると、「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」と、地の文が「私」=晴興の語りになっているのね。
 あきらかに晴興が出ていない場面は章を変えて三人称で書かれているし、読者も「ここは晴興の一人称パートとは別だな」とわかって読むことが出来る。
 そうやって進んできているのに、晴興も出ている2度目の江戸城の場面でのみ、突然「私」という文字が地の文から消えるの。
 それまでは「私は、『~~』と言った。」「私は彼の方に向き直った。」とか書かれていたのに、「『~~』と言った。」「彼の方に向き直った。」てな風に、「私」とは書かれなくなっている。
 でも、今までが晴興の一人称だったから、読者はそのまま「コレを語っているのは晴興」だと思い込んでいる。「私」と書いてなくても「言った。」のが晴興だとわかるから、脳内で補完してしまう。
 叙述トリック。必要な情報を伏せることで、あえて読者をミスリードする。

 トリックを用いて、読者をミスリードする、その意味はなにか?
 そこに、隠したいものがあるためだ。

 ここで作者が隠したかったのは、晴興の人格が変わった理由。
 それまでの場面と、晴興はキャラクタが変わっている。
 初恋の泉@みゆちゃんに心は残しているけれど、江戸での仕事に希望を持ち、自分の意志で吉宗@エマさんの片腕として働くことをよろこびとしていた才能ある青年。
 再会した泉へ強い恋心を持ったけれど、自分の立場や泉のしあわせ、友人の源太@だいもんのことを考え、やさしく、理性的な決断をすることの出来る青年。
 恋を失ったこと、人生の選択肢をひとつ失い、自分の歩む道が際立ったことで、悩み、傷付きはしただろう。自分で選んだからって、痛みや迷いを持つのが人間だもの。
 だとしても。
 それで、人形のように冷酷無表情な政治家、になるのは、チガウ。

 10までメモリのある「晴興」という入れ物があるとする。
 誰からも顧みられなかった子ども時代の晴興は、メモリ1まで水が入った状態。
 そこに、泉や源太たちと出会うことで成長し、メモリ1つ分水が加わる。→メモリ2まで水が入った状態。
 江戸へ行き、吉宗にその才能を見いだされる。華やかな首都でドラマチックに成長、プラス1→メモリ3まで水が入った状態。

 星逢祭りで泉と再会し、その恋を失ったことで、2の水を入れる。
 3+2=5。
 だから、次の場面に登場する晴興は、メモリ5まで水の入った状態のはず。
 が。
 冷酷老中晴興は、10まで水が入っていた。
 えええ? なんで10? メモリ5つ分の水は、いつどこで、なんで入ったの??
 メモリ10と考えた理由は、完璧に別人、正反対の人格になっていたから。5のはずなのに、正反対になるほど違っている、から、同じ5という量を足した状態だと判断。

 泉との別れが2ではなく、7もの大きな出来事だったってこと?
 いや、そんなはずないよ、だって晴興は、再会するまで泉のこと忘れてたもん。貴姫@せしことの縁談が決まっても平気なくらい、江戸で生きているときの晴興は、蛍村のことは気にしてなかった。
 泉との別れをメモリ2つ分と考えたのは、泉たちと過ごした子ども時代(メモリ1つ分)、江戸でバリバリ仕事をはじめた青年時代(メモリ1つ分)と同じ……晴興が天秤にかけたのは同じ重さのモノ、という想像から、メモリ2が妥当な量かなと判断。

 5のはずの水が、10入ってる。
 おかしい。

 そのおかしさを、叙述トリックで誤魔化しているの。

 泉との別れがメモリ2つ分ではなく7つ分だって。
 愛を失ったがゆえに、晴興は冷酷な為政者になり果てたのです!! てな。

 7??
 それまで晴興が生きていた人生がメモリ3つ分なのに、その倍以上のことが泉との別れのみってのは無理がある。

 老中晴興がメモリ10だというなら、10-5=5、メモリ5つ分、足りないのよ。
 本当ならなにか別の出来事があって、5つ分加えられているの。
 ただそれを、意図的にか無意識にか、観客にわからないようにしているの。

 じゃあそのメモリ5つ分とは、ナニか。

 答えは、「一人称」にある。


 この物語を、「晴興の一人称」にしている要因はナニか。
 ナレーションをしているのが、晴興自身だからだ。

「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」

 冒頭から、晴興が「私」と語り出す。
 これは晴興自身が語る、晴興の物語だと。

 そして、晴興のナレーションは全編中、3回ある。
 冒頭と、その直後の「3年後」解説と、最初の江戸城。
 ふたつめの3年後解説に意味はない。時間の問題だろう。やたらとぽんぽん時間の経過するこの物語にて、時間が跳ぶ場合はわざわざ「モブ解説」を入れている。「もうあれから何年経ったね」という話をさせるのな。3年後だけはモブ解説するヒマがなくて、手っ取り早く晴興にナレーションさせた、というだけだろう。語られているのが時間経過と作劇上の煽りのみで、固有名詞が入ってないから。
 だから、意味があるのは最初と3つめ。

 『星逢一夜』はちゃんとキャラクタを動かしたり、会話させたりして、話を進める物語だ。
 なのに、「主人公の録音ナレーション」という禁じ手を使って「主人公の心の声」を「解説」している箇所が、ふたつだけある。

 心の声(録音)は、最終手段。
 だって、言葉で全部解説してしまうんだもの。
 「**は、〇〇と思った。」って録音音声が流れてしまったら、舞台上で**がどんな表情でなにをしていても、それを観て観客が××と思ったとしても、それは全部ノーカン、「**は〇〇と思った」ということになる。
 役者の演技も観客の想像力も全部封じ込める、作者(神)の手。

 その、最終手段を使っている2箇所。
 そこでは主人公「私」にとって、最大級に重要な人のことを語っている。

 冒頭で語っているのは、「あの娘と、あの少年」……つまり、泉と源太。
 物語の中心人物。このキャラがいないと、晴興の物語は語れない、という相手。

 そして。
 泉と源太という、最重要キャラと並列して、ナレーションで語られているのが。

 吉宗だ。

「その人は、すべての者の父親のように、強く大きかった。その人は、みじめな少年に手を差し伸べ、少年はその人のため力を尽くそうと心に誓った」

 晴興の心の声で語られるのは、3人だけ。
 泉と源太と吉宗。

 この物語が、晴興と泉の恋物語で、そこに親友であり恋敵である源太が加わって3人の物語であるというなら。それゆえにナレーションで晴興が語っているというなら。
 同じ大きさで、吉宗も加えるべきだろう。

 脚本でそう、書かれているんだ。
 ナレーションでわざわざ語ることで。

 なのに、晴興と泉と源太、この3人の物語であり、吉宗はそれ以下の役割とすることに、破綻がある。


 てことで、続く~~。

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