『星逢一夜』公演中盤。源太@だいもんが初日あたりと別人過ぎる件。
 泉のために、村のために土下座するんだよ、源太いいヤツ。……だったはずが、土下座が反対の意味になっていた。なんてこったい。


 そして、源太ショックはこれだけでは収まらない。
 彼の眼に宿る、狂気。
 一揆がはじまってからの彼は、鬼気迫る様相になる。

 こわい。
 源太から、目が離せない。
 なにが起こっているの、どこへ向かっているの。
 もう何度も観た物語なのに、先が読めない。
 晴興@ちぎくんとの一騎打ちの凄まじさ。

 降りしきる雨。
 泥が見える。
 何度も地に転がる、地を這う源太は、泥にまみれていく。
 晴興は美しいまま。彼は地に這うことなく立ち続け、源太だけが汚れる。
 清と濁。
 ふたつの差は埋まらない。
 それがまた、源太を狂気へ駆り立てる。

 えーとこのひと、すでにおかしいよね?
 あっちがわへいっちゃってるよね?

 一騎打ちのクライマックス、晴興と源太が背を合わせて笑うところがあるじゃないですか。
 なんで笑うのか理解出来なくて違和感ばりばりだったけど、初日あたりは笑ってた。
 その場面で、源太は笑ってない。
 前に観たときも晴興はともかく、源太はすでに笑いはしていなかったけれど……今回のこれは……これは……。

 源太が、すごい顔をしていた。

 半分白目剥いてるっていうか、とてもおかしな、醜い顔。
 少なくとも、タカラジェンヌが舞台でしていい顔じゃない(笑)。
 狂気はある意味耽美っていうか、タカラヅカでもアリな美しい表現のひとつだけど、だいもんさん、それすら行きすぎて、ほんとうにおかしくなってる。現実ならそういう顔になるかもしんないけど、タカラヅカでそこまで表現する必要ないよ、ってとこまで、「狂気表現」から半周くらい行きすぎてる。
 タカラヅカでここまでやるのは反則で、タカラヅカ的でないことをやって舞台を掻き回すのはまずいかもしれない。
 が、わたしは、掻き回された。そのまんま受け取って、心臓ばくばくして、恐怖に泣いた。

 恐怖……源太こわい、のは確かだけど、ここまでくるともうそういう次元のことではなくて、源太単体ではなく、源太を通して「人間」という存在そのものに恐怖した。

 今の源太を作った状況、ひとの心、そして今の源太がもたらすだろう歪みにまで、すべてひっくるめて掻き乱され、恐怖した。

 こわい。

 そして。
 改めて、思った。

 源太は、死ななければならない。

 可哀想だとか、最善の道が他にとか、遺された者が……とか、情ゆえに生きていて欲しいと思うのではなく、ここまで来たら、死ぬしかない、と思った。
 ひととして、ここにたどり着いてしまった者は、もう、果てるしかないよなあ。

 晴興を、可哀想だと思った。
 彼は、源太を殺させられたんだ。
 源太を殺すしかない、と、逃げ道のないところへ追いやられた。
 藩主として幼なじみとしてそうするしかなかった、という域を超えて、この状態に巻き込まれた者として、役割を押し付けられたんだ。
 可哀想だ……あれは、可哀想だ……。
 あんなものを、あんな感情を、見せつけられ、押し付けられ、すべて背負わされて、殺すしかなくなるとか。
 どんだけ酷いんよ……。

 いやもお、壮絶過ぎて。
 いつもは源太死んだあとから、櫓の上でのちぎみゆいちゃいちゃから泣けるわたしが、このときは源太の生き様の凄さに息も絶え絶えで、そのあとの場面が、番外編に思えた。
 なんつーんだ、夜空が白むほどの花火の大連発、大音声、光光光、うわーーっ!! となって、何万人の観客がわーっと拍手して、ああ、終わったー! すごかったねー!! ってなってるなか、ぽつんぽつんと送り花火が上がってる……あの感じ。
 送り花火もたしかにきれいで、花火大会の一部には違いないんだけど、「ああ、花火大会終わったねー」「きれいだったね」「来年も来ようね」って会話しながら眺める程度のモノで……。
 終わった……! という、集中のあとの脱力感で、肩で息をしながら呆然と眺めている感じ。

 すごかった……。
 あのちぎみゆ櫓ラヴシーンが色を失うほど、源太すごかった……。

 そして、混乱する。
 源太すごかった。
 巻き込まれた。
 掻き乱された。
 が。
 どうなんだそれ。
 ただもう巻き込まれて奔流に流されただけで、なにがなんだかわからない。
 整理出来ない。

 依然、源太がわからない。

 いや、わかる。
 前回わからない、と言ったあの感覚とは違う。情報量少ない、源太が見えてこない、そう思ったのはチガウ。
 情報量自体は変わってないかもしれないんだが、今はそのわずかな量が濃すぎて、重すぎて、混乱する。

 だいもん……勘弁してくれよ~~。
 ほんと、ひどい役者だな(笑)。
 この人が何故こんなに人気あるのか、そりゃそうだろ、こんな舞台やる役者、そりゃ人気出るわ。

 年功序列の花組では、これをやりたくてもやれる役を与えられなかった。
 やっていい立場、立ち位置を与えられれば、こんだけのことをしてのける。
 そりゃ、人気出るわ。
 舞台の上で、奔流を起こせる人。空気を作り、動かす。その中心になる、起点になる人。
 ライブ・エンターテインメントで、「主役」に求められる資質って、まさにソレよね。
 生きた空気を動かすこと。それがなければ、映像でいいんだから。時間と場所を共有して「その場」にいることの意味。

 いや~、いい体験しました。
 そしてさらにまだまだ、体験させてもらえる、公演は続く。
 そのことが、震えるほどうれしい。

 源太は、面白い。
 『星逢一夜』という作品は、面白い。
 ツッコミどころはいろいろある。よく出来た作品だけど、物申したい部分はいろいろある。なまじきれいな造作だから、継ぎ目の穴が気になるとか裏地の処理が気になるというか。作品自体破綻していたら、そんな些末はどうでもいい、てなことになるけどさ。
 穴あるなあ、ゆるゆるだなあ。そう思う。が、その穴とかゆるさゆえに、だいもんが、暴れられるのなら、それでいい。


 送り花火を眺めるくらい、遠くぼーっとしていたのに、やっぱりちぎみゆ最強、櫓芝居では途中からまた引き込まれたし。
 面白いなあ。こんな風に、心が引っ張られたり暴力的に振り回されたり、また戻って来たり、フィクション味わう醍醐味だよなあ。

 もっと観たい。
 役者のモノになった、『星逢一夜』を。
 そして、4回目の『星逢一夜』。幕が開いてから、半月ほど経過。

 だいもん、加速。

 初日はおとなしめだと思った。初日にやり過ぎてないだいもんめずらしい、そんな話を友人とした。
 先週観たときに引っかかりを感じた。情報量が少ないと思った。脚本のせいだが、そのことに今さら気づかされるのは何故か?と首をかしげた。
 喉の調子が良くないせいかとも思った。本調子でないがゆえに、不足感があるのかと。
 でも、体調面やそれゆえの表現面云々ではなく、だいもんの芝居自体になにか引っかかりを感じるのではないかと思った。どうにも引っかかった。

 そして、公演期間もちょうど半ば、芝居も温まり、連日満員の客席で、順調に進んでいる……そんな頃に。

 源太@だいもんが、別人になる。

 ひとことで言うと、こわかった。

 子ども時代は、初日付近が好きだった。
 紀之介@ちぎと泉@みゆが「うっかり接近☆ドッキドキ」と恋の予感に微妙な空気になっているときに、源太@だいもんはそんな空気にかけらも気づかず渾天儀に夢中になって、「なんじゃこりゃーー!」と割って入る。
 紀之介と泉よりも、恋愛に関してはずっと幼い少年。
 だからこそ、泉は源太には友情以外を抱かずにいたのだろうし、あとから現れた紀之介には異性として惹かれたんだろうと思う。紀之介個人の魅力云々とはべつのところで、泉と源太は心の成長度がちがっていたんだろう。

 それが、ちょっと経ってからはだいもんの芝居が変わり、源太は「男女の微妙な空気を理解できる」少年になった。
 紀之介と泉が「男と女」として微妙な空気になっているのを、渾天儀を抱えたままおろおろ見守って、その空気を壊すために「なんじゃこりゃーー!」とKYな声を上げてふたりの間に割って入る、という演技に変わっていた。
 恋愛モノとしては、この方が正しいのだと思う。
 紀之介と泉の「微妙な空気」は、「壊さなければならないモノ」だと、源太は理解した……この時点では無自覚でも、将来的にふたりの恋愛を「壊したい」という本能がある、という証明エピソード。
 三角関係の、主役でない方の男なんだから、これくらい「お邪魔キャラ行動」をしても仕方ないし、その方が設定や展開がわかりやすい。

 ただわたしは、最初の空気を理解出来ない源太が好きだった。男の子と女の子では、心の成長度がチガウ、女の子の方が早熟、というのは、リアルでいい。そこのズレに萌えを感じるんだなー。

 ここの演技が変わるだけで、次の「泉は紀之介が好き」とちょび康@咲が言い出す場面の意味も変わる。
 恋愛にうとい「子ども」の源太は、ただおろおろと「今ここでそれを言っても……」と、紀之介と泉を気遣うのみで済む。
 が、すでに恋愛脳の源太だと、さらに踏み込んだ意味で紀之介と泉を気遣うおろおろぶりになる。

 そうやって子ども時代からたしかに、変わっていた。

 初日あたりの源太は、全年齢通して「いい人」だった。
 純粋で、ただひたすらやさしかった。
 ふつーこんだけやさしいと「ただのまぬけ」になりそうなもんだが、それでもちゃんとかっこいい二枚目に作ってるあたり、だいもんすげーという感想だった。
 それが、途中からなんか、「あれ? 変だぞ?」と思うようになり。

 源太が、「いい人」ではなくなった。

 子どもの頃から幼いなりに泉を愛していて、「男」として見守っている。
 そして、「欲」が強い。
 愛欲や独占欲、承認欲求。

 それでも、やさしく強い人だから、そういう黒い感情(人間らしい感情、ともいう)は押し込めて生きている。
 相手を思いやることが出来るから、前半の「紀之介と世界を信じている」時代の源太は、やさしくおおらかに生きている。
 だが後半、紀之介にも世界にも不信感を持ったあとは、己れのなかの、黒いものを隠そうとしない。こと、紀之介に対しては。
 青年時代まではいいんだけど、壮年になってからが、こわすぎる……。
 藩主・晴興に向けるまなざしの冷たさってば。

 一揆のことを問うために晴興が「源太、待て」とやるじゃないですか。あのときの、源太の眼。
 こええぇ。こええよ、源太。底光りする、冷たい眼。
 呼び止められるまで、あえて晴興のことガン無視してるのね。で、呼び止められたら凍り付きそうな眼を向ける。
 晴興が無表情というか、役割での冷徹さをまとっているだけに、源太の生々しい闇がこわい。
 源太から……ひとから、こんな眼を向けられる晴興に、そしてちぎくんに、心から同情した。こんな眼を向けられたら、闇をぶつけられたら、あたしなら泣いてるわ……。
 マジ、震え上がった。

 そして、土下座ですよ。
 眼を見つめながら、挑みかかるように、膝をつく源太。

 泥が、見えた。
 唐突にわたしは、そこに泥と地面を見た。
 舞台の上だから、ナニもないけど。
 雨の夜、もうやんだかもしれないけど、地面は確実にぬかるんでいる。
 水たまりができ、泥になっている。
 そこにあえて、源太は膝をつく。
 着物が濡れ、泥に汚れる。
 そしてさらに、顔をつける。
 泥の中に。
 コンクリートや畳の上の土下座じゃない。好天の祭りの夜の土下座じゃない。土下座という行為だけのことに留まらない、その行為によってわかりやすく酷い汚れ方をする、無残な姿になる。
 汚泥の中の土下座。
 そして源太は顔を上げる。失望を口にしながら、泥だらけの顔を上げる。

 晴興に、見せつけるために。

 かつての友を、泥まみれに……ここまで、みじめな姿にしたのだと、見せつける。責め立てる。

 背筋が、凍った。
 本気で、ぞっとした。
 なにこの復讐?
 復讐、という言葉が浮かんだ。源太は今、晴興を傷つけ、辱めるためだけに土下座した……!

 こわっ。だいもん、こわっ。

 源太がこわいんだけど、それはわかっているけど、だいもんこわっ、と思った。だって、初日の源太は同じことをして、「いい人」だったもん。こんなにこわい人じゃなかったもん!!


 翌日欄へ続く。
 『星逢一夜』、ここいらでちょっくらキャスト感想。

 何回目に観たときだったかな、専門学校かなんかの学生団体が入ってて。
 終演後、男の子のグループが「泉やばい」と話しているのを見かけた。「泉やばいわー、俺、ああいあタイプやばい」……そ、そうか、やばいのか……。櫓の上の泉と晴興の別れの場面の話をしていた。あんな風に言われたらたまらん、てなことを冗談めかしつつ。
 
 お泉ちゃん、かわいいもんなー。男子としてはそりゃたまらんじゃろうて……。
 いつも精一杯背伸びして強がって生きている女の子が、時折ぶわっとくずれるの、男子的にも萌えポイントなんだろうなあ。


 大ちゃんはいつも大ちゃん、子役であるとかおっさんであるとか、そんな次元にはナイ。
 大ちゃんの資質をうまく使ってるなあと思う。

 きんぐには、子役は出来ないらしい。
 この人も芸幅せまいなー(笑)。おっさんをやっても美形なのは、本気の老け役が出来ないだけかも、と思ってはいる。が、きんぐはそれでいいと思っている。それがいいと思っている。わたしはきんぐに甘い(笑)。
 冒頭の子役場面、もっとも子役が出来ていない。大ちゃんみたいに「キャラクタとして突き抜けた存在」でもなく、本人は真っ当に子役をやっているつもりらしいのに、子役になっていない、というあたりがもお、情けなくもあり、愛しくもあり。
 祭りの青年が、得意分野。二枚目でチャラくて。あんりちゃんといちゃいちゃしてて。
 きんぐもすごくきんぐらしい役回りかな。

 咲ちゃんがいい感じだなーー。
 子役場面が「大人の男役になれない若者が、結果的に子どもに見えている」のではなく、ちゃんと「子どもの演技」をしていた。
 ああ、芝居で子どもやってるんだ、とわかる。
 ちょび康は儲け役だけど、その「目立つ」役割を、きちんとモノにしてるんだなと思うのは、大人になってからの芝居について。
 一揆について話し合う人々の中、ずっと黙って聞いているちょび康がいい。今朝息子を亡くしたばかりの男が、自失の体から徐々に現実に……怒りと憎しみのある世界へ戻って来て、「俺はやりたい」と気持ちを吐き出すに至る……その悲しい歪みに胸を突かれる。
 咲ちゃんを注視していると、この男の中でなにが起こっているのかがわかる。
 咲ちゃんを見てなくても、これまであんだけ「紀之介大好き」だった優しい男が、一揆に決意を固めている、という外側の情報だけで彼らの状況がわかるわけだし。

 「息子を殺された」と声高に台詞で説明しないのがいいよなあ。植爺や谷ならどんだけ重複台詞たたみ掛けて「1から説明し直し、どころか、-10くらいまで戻って全解説」させて、それを聞いた全員が泣き崩れる芝居させるだろう、と思うだけに、解説台詞一切なし、が気持ちいい。

 あ、そだ、初日の翌日観たときの残念ポイント。
 冒頭の子ども時代、ヒメがまた暴走をはじめていること。
 初日はふつーだった「子どもたちを怒鳴りつけて連れ帰る」芝居が、翌日から「ヒメお得意のスタンドプレイ」になっていた。
 ドスきかせて、わざと滑稽にデフォルメした言い方にして、笑いを取る。
 ヒメのヒメらしい見せ場はそこだけかもしれんし、だからこそそこで個性を出したいのはわかるが、お笑いのためのお笑いはやめてくれええ。
 そこで「うわ、ヒメがまたはじめた」と思ってたら、3回目に観たときはさらにエスカレートしていて震撼。
 序盤でコレだと、今後どんだけひどいことになるのか、考えるとこわい。
 滑稽な声を出せば観客は笑うけど、その笑いって正当? 必要?
 演出家意図なのかな? ここは、世界観から浮き上がるくらいおかしな声を出して、笑いを取れと。悲劇とのコントラストに必要なのだと。
 わたしはここでコントは不要だと思った。初日くらい、ふつーにやるだけで、十分ほっこりすると思った。
 ヒメの役が、今後もなにかと登場し、「おばちゃんやない、おねーちゃん!」とやるなら、キャラ立てとして必要かなと思うけど、ほぼモブみたいな役だから、ここで無理に観客の意識を奪う必要はないんじゃないかと思う。

 ヒメの真骨頂はスタンドプレイのわざとらしいお笑い芝居ではなく、包容力のある大人芝居だと思うの。
 一揆の最中、みゆちゃんを抱き留める姿にきゅんとした。ただ力尽くで押さえ込むのではなく、抱いて、あやしている。
 つらいね、つらいね……、自分たちではどうすることもできない奔流の中、せめて抱きしめ、いたわる年長者。
 『フットルース』のときも、奇声を上げる場面より、「母親」らしい芝居がステキだったよなあ。

 翔くんはこれまた、ヘタさが浮き上がってるなー(笑)。
 他のキャストとの実力差がはっきり見えるだけに、存在感すごい。あの、やたらきれいな顔で、頓狂な台詞回しの人はなんなの? と、観客の記憶に残るはず。
 後半、そこにいるだけで台詞もない役だから、翔くんぐらい目立つひとがやるのは意味があるかなと。晴興@ちぎくんのそばに、親友が付き従っていること、は重要なポイント。
 ……今回の翔くん、その芝居の微妙さも含めて、なんか好きだ。ツボに入る。

 翔くんは翔くんだというだけで目立つから解説なくていいけど、がおりさんは解説必要ですよ、前半後半で「誰?!」ってくらい、老けすぎてる。
 がおちゃんの役名が「鈴虫」なのはうまいなあと思う。これがふつーに時代劇にいくらでもありそうな名字だったら、キャラクタを見失う観客が続出するだろう。
 鈴虫、という、「え、今ここで聞くとは思わない音を聞いた?」と注目する固有名詞だから、意識に残る。そのあとどんだけ姿を変えて立ち姿や話し方を変えても、「鈴虫」と名乗るだけで「ああ、あの人か」とわかる。
 ……にしても、老けすぎやろ……(笑)。
 そして、江戸の橋の下の場面は意味不明。遊女たちが客と世相を語るなら場面としてアリだと思うけど、そこに鈴虫さん出すのは不自然すぎる。

 きゃびいがかっこいい。
 遊女もだが、晴興母が毅然として、「武士の妻」らしくて素晴らしい。
 これだけ端正な佇まいの女性を前にして「血筋が悪い」と言ってしまう藩の重鎮方の態度に、「側室」が日常的に蔑まれているのかわかる。
 晴興が泉を側室にしなかったわけだよなあ。下級武家出身の晴興母でコレなら、農家の娘の泉では絶対ムリじゃろ……。

 で、きゃびいがかっこいいだけに、あの情けない晴興父@あすと、どんな経緯で側室におさまったのか、またその夫婦生活を見てみたいっす(笑)。


 レオ様がカッコよすぎてたまらん……。
 青年期以降、モブとして村人にまざってるんだけど、とにかくかっこいい……美しい……なにあの神ビジュアル。

 ひとこは3回目にしてようやく見つけた……。子役時代が別役者だと、モブと変わらんな、この役。
 完全モブのレオ様や真地くんの方が目立つ。
 翼くんは髪型似合ってない……(笑)。
 まっつがいた頃は、週2で雪組公演へ通っていた。
 いなくなってしまったから、週1でいいかな。ご贔屓を持たぬライトなヅカヲタですから、まったりと。
 てなわけで、幕が開いてから10日後ぐらいにようやく、3回目の観劇に出かけた。
 『星逢一夜』

 人気ないのがデフォルトの日本物なのに、なんか評判いいらしい。うんうん、いい作品だものねえ。
 平日午後公演なのに、劇場はほぼ満席。……まだ100周年バブル続いてるの?とびびりつつ。

 初日と翌日続けて観て、なんか納得しちゃって、とりたてて「もう一度観たいっ!!」と思うほどでもなかったのですが。
 良い作品は何度観てもいいし、雪組スキーなので雪組っこたちが舞台でキラキラしている姿を観るのは楽しい、何度でも。

 3回目は前方席での観劇だったため、いろんな子たちを眺めるのに必死。芝居もショーも、オペラなしで下級生たちまでばっちり見えるー! 目線もらえるー!(カンチガイ含む)

 そうやってわりと、「作品よりも人」を見てる感じで、浮ついた状態。

 そして。
 「おなかいっぱい」だと感じた『星逢一夜』にざらりとした感触を持つんだ。

 3回目は2回目より、さらに泣けない。
 もっと乾いた感じで見ている。俯瞰している。

 わたしは泉@みゆちゃんに感情移入して見た。
 そして、主役だからもちろん晴興@ちぎくんも見ている。
 加えて、だいもんスキーなので、定点観測的に源太@だいもんを見ている。

 このトリデンテの中で、初日にいちばん「がんばれ」と思ったのは、ちぎくんだった。
 みゆちゃんがすげー勢いで「女優」っぷりを披露しているし、だいもんはあの難しい役を立派にタカラヅカとして成立させている。
 そのふたりに比べると、いちばん出番と書き込みが多いはずの主人公ちぎくんが、足りていないように思えたんだ。

 だけど3回目にして、引っかかったのは、源太だった。

 源太の情報量の少なさは、ナニゴトだ?

 源太がわからない。
 これまでは、「いい人」だと思っていた。
 泉を晴興に譲ったり、土下座したり、めちゃいい人。
 「ごちそうさん」にしろ、「雨の中に出して悪かったな」にしろ、言葉の選び方がありえないほどやさしい。
 やさしすぎて、かえって人を傷つける、そんな人。

 そして、物語冒頭のモノローグで、晴興はこう語り出す。「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」
 2回目の観劇で感じた違和感が、3回目でさらに大きくなる。

 あの娘と、あの少年?
 あの娘は泉、あの少年は源太。それはわかる。
 でもさ。

 源太を、泉と同列に語るのはおかしくないか?

 どう考えても、晴興にとって源太は大した存在じゃない。や、大切な友だちかもしれないけれど、泉とは比べものにならない。
 だって、源太と晴興が「親友」だったエピソードがない。
 晴興を好きだった、というなら、ちょび康@咲ちゃんの方がわかりやすい。
 源太はいつも他の仲間たちと一緒にいて、晴興との個別エピソードは出会ったときに「泉の説明をする」のみだ。そこでも晴興(紀之介)は、自分を気遣ってくれた源太には関心がなく、泉のことばかり言及している。

 親友だとは、とても思えない。

 さらに、7年後だっけ、晴興が星逢祭りの日に帰って来たとき。
 せっかく再会した源太と晴興は、「昔のクラスメートにばったり会った」ような感覚で、「離ればなれになっていた親友とようやく会えた」様子はまったくない。
 初見時、「ふたりは親友に違いない」と思い込んで見ていたから、すげー拍子抜けしたんだ。

 源太は泉を愛していて、泉がずっと晴興を愛していることを知っている。そして晴興が藩に戻って来たことを知り、胸騒ぎを感じている……から、泉の様子がおかしかった、気になる、泉を探さなくては、という心の動きはわかる。
 が、それでも源太が晴興を親友だと思っているなら、「泉が気になるから」と挨拶だけで晴興を振り切るのはおかしい。
 身分の差からしても、もう二度と晴興とは会えないかもしれないのに。

 ああ、源太は別に、晴興のこと大してなんとも思ってないんだな。
 別の世界に生きる人、ということで、割り切っている。小学生のときに引っ越していった幼なじみとイベント会場でばったり会った、みたいな。
「久しぶり~~! テレビ見てるよ、すっかり有名になったなあ。幼なじみが人気アイドルなんて俺も鼻が高いよ……あ、泉見なかった? ちょっと様子が変だったからさー。いろいろ話したいけど、またな! 会えてうれしかった!」

 晴興も源太に「なつかしいなあ、忙しいからバイバイ!」とやられても、「やれやれ」ぐらいの感じ。こちらも源太に対してなんの含みもないらしい。

 源太にとっての晴興、晴興にとっての源太が、特別な意味合いを持ったのは、泉をめぐってのあの土下座事件があってからじゃないの……?

 あくまでも、泉ありき。
 なのに晴興は語る。「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」

 ざらり、と疑問が肌に残る。
 違和感のある、手触り。

 源太のいい人っぷりだとか、一騎打ちで背中合わせで笑うとか。
 なんだか、空々しい。

 脚本にある通りに、わたしの心が進まない。

 泉中心なら、なんの齟齬もない。
 泉も情報量少ないけど、みゆちゃんがきっちり埋めてきているから。
 でも、晴興と源太には違和感がある。
 圧倒的に書き込みされているはずの晴興の薄さ。
 そして、書き込みが少ないことが大きいとは言え、源太の不透明さ。

 なんで、源太の銀橋ソロがないんだろう?
 ふつー、2番手は心情を歌うソロがあるよね? なのにそれがない。ゆえに、源太には「ナニを考えているか、独白する場がない」。
 源太という難しい役の、舵取りが決まらないのはそのせいか?

 ざらり、ざらり。
 整った話だと思った、よく計算された、破綻ない物語だと。
 足りない部分はあるにせよ、短い時間でこれだけの人数を使って、しかもデビュー作で、よくぞこれだけまとめてきたなと。
 あざといくらいに泣かせどころを押さえて、盛り上げているし。気持ちよく感動させてくれて、気持ちよく泣かせてくれる。
 わかりやすいハッピーエンドじゃないから、気軽にリピート出来る話じゃないかもしれないけど、これだけ美しい物語を観られることはうれしい。
 そう思っていたのに。

 すげえ、引っかかる。

 2回目観劇のあと、おなかいっぱい、もう観なくてもいいかな、てなもんだったのに。
 3回目観劇のあとは、みょーに気に掛かる。
 いろんな場面や台詞を心の中で反芻する。
 ナニ、このあとの引き方。気になり方。

 観に行きたい。
 もう一度。
 雪組公演は、初日と翌日連続で観る。
 それがここ数年の習慣だった。

 正確には、「まっつのいる公演は」だったんだよね。
 まっつは初日と2回目とで演技変わるから、それを見逃すなってことで(笑)。
 また、わたしは目もアタマも残念な人なので、1回観ただけだといろいろ見逃すし、理解も出来ない。続けて2回観てはじめて整理出来る、と。

 昔は初日を観たら次は日にちを空けて……と思ってたんだけど、それじゃどうも自分的に収まりが悪くて、2回続けて観たらすとんと納得して、そうかコレだったのかと開眼、以来続けて観ることにした。

 これはまっつ限定だったんだけど、まっつがいた雪組をそうやって観てきたから、まっつがいなくなっても雪組は2回続けて観る。
 習慣ですな。

 他組・他の公演では1回観るだけだったり、複数観るにしろ初日と楽前だったりするのに。
 雪組は、続けて2回観なきゃ収まらない。

 特に今回はウエクミだし。
 てゆーかわたし、ウエクミ作品続けて観たかったの。今までは他組だったから観られなかったけど、今回は雪組! 晴れて連続観劇できる!
 きゃっほーい。


 ……なんだけど、正直、初日を観た段階ではテンション上がらなかったなあ。
 続けて観るのはしんどいなあ。と、そんな感想。

 「2回目は最初から泣けるだろうね」と『星逢』を観た友人たちが口を揃えて言うように、このテの作品には「結末を知って観る」楽しみがある。
 ラストシーンの子どもたちに泣けたのと同じ現象が、次に観たときは冒頭の櫓を作る子どもたちの場面から起こるわけだ。
 ラストのちびっこたち再びで泣けたのだから、きっと幕開きから泣けて泣けて仕方ないんだろうなあ。
 そう思い、そう思うことに、疲れを感じる。

 年取ったわねえ。
 最初から「泣ける」とわかってると、腰が重くなる(笑)。

 でも、チケット取ってあるから行くわよ、2日目。
 泣くわよ、泣いてやるわよ。
 そう構えて観劇し。

 あまり、泣けなかった。

 てっきり、最初の子役場面から泣けると思ったのに。
 そのへん、ぜんぜん。

 結局泣けるのは、初日と同じ、ラストの泉@みゆちゃんと晴興@ちぎくんのラブシーンからだ。

 周囲の人は早くから泣いてたし、もちろん最初の子役登場からぶわーっと泣く人たちもいたけど。
 2回目だから、結末を知っているから、という意味で泣けることがないというか。
 や、もともと涙もろいので、あちこち泣くけど、自分的に涙が出るぐらいは「泣いた」にカウントしてなくてだな、「泣いた」と思えるのは泉の「どうしてこんなになってもまだ、あなたを好きなんでしょう」あたりからだ。
 他の泣きポイントも大抵泉だしな。子役の泉がぼろぼろになって水泥棒に向かっていくとことか、「星逢は今日だから田んぼは大丈夫だ」と紀之介@ちぎくんに言われて泣き出すとことか、瞳きらきらで星を見ているとことか、紀之介を見ているとことか……とにかく泉がかわいくていじらしくて、初見から泉絡みは泣ける。
 そして、2回目も初見と同じところで同じように泣けるから、これはもう「ストーリー云々」より、みゆちゃんなんじゃないかなあ?
 咲妃みゆが泣くと、世界が泣く。……そんな感じで、お泉ちゃんに感情移入して見てるんですが。
 んで、泉を視点としていると、彼女はブレることなくずーーっと「紀之介」なので、ラストの小太刀を抱きしめて上がる櫓、まで一本すーっとつながっていて、カタルシスがどーんと来る。

 そしてたぶん……泉を視点にしていると、ラストの「子役再び」で幕が下りるのは「蛇足」なのかもしれない。
 彼女の物語には、「星があんまりきれいだから泣ける」と子どもたちに語る「エピローグ」がある。
 エピローグのあとにもひとつエピローグを付けるから、「蛇足」になる。

 泉ではなく、紀之介の物語なら子役場面がエピローグでいいんだけど……うーん? いいのか?
 やっぱりあざとさを感じる……?
 泣けるけれど、ナニかチガウ、引っかかる……?

 うーん、なんかわたし今回、泣きツボが違うのかなあ?
 幕開きから泣けないのは何故だ。


 そして、「自組でウエクミだと何度でも好きなだけリピート出来てうれしい」と思っていたのに、続けて2回見たら、なんだか、納得してしまった。

 おなかいっぱい。
 もういいや。

 初見時は、「これ、どうするつもりなんだろう?」と思っていた。
 こんな道具立てと展開で、どうまとめるつもりなんだ、と。
 2回目は、結末がわかっているので、ドリルの答え合わせをしているキモチだった。
 ここがこうだから、こうなるんだ。ああ、ここはあそこへ帰着するのか。
 植爺作品とかにある生理的嫌悪感、否定感もなく、論理も倫理もめちゃくちゃの地球外生命体みたいな人間外の感性と知性で作られた破壊作ではなく、正しく機能した端正な物語だから、数式を解く感じで整理していけるのな。

 で、答え合わせをしたら、おなかいっぱい。飢饉だなんだと言ってる芝居に対してアレですが、観ている側は、よく出来た作品ゆえに飢餓感持ってリピートする必然性に欠ける。
 足りない部分を埋める作業がない。
 必要なことは過不足なく舞台の上にある。
 1回で十分だし、2回観たらそれこそレポート書けるくらい情報が詰まってるから、それでもう大丈夫っすよ。

 という気分になってなー。
 リピート意欲がしゅるしゅるっとなくなったのなー。
 これは意外だった。

 わたしが組ファンでなければ、2回続けて観たらもう満足だなあ。
 組ファンだからまた観に行くけど。作品というより、生徒を観たくて。

 すごくいい作品で、この作品を今の雪組で観られて良かった、ウエクミありがとう!!
 心からそう思う。

 でも、わたしが期待していた「鬼リピートするわよう、わくわく!」というキモチは、盛大に肩すかしをくらった。


 ……のよ。
 この段階では。

 問題は、次の観劇時からだ。←
 『星逢一夜』初日を観て思った。

 この役でかっこいいとか、だいもんすごいな。

 2番手役の源太@だいもん。
 農民で、変な髪型してて、きれいじゃない衣装しかなくて、大人になったらすげー老け込んでて、得意技は土下座、棒きれ持って「一揆だーー!」な役でヒロインの泉@みゆちゃんを妻にしているが、泉はずっと源太ではなく主人公の晴興@ちぎを愛していて、武士の晴興に勝てるわけもないのに決闘して殺されてしまう。

 こうして羅列するとすごいな。
 こんだけ「かっこいい要素がない」役で、「それでもかっこいい」あたりがすごいなと。

 ちぎくんの役・晴興は、「悲劇のヒーロー」。
 立場的に悪を演じるしかない、その苦悩を真正面から描いてある、美しい役。

 源太はその美しいヒーローに逆らう役。
 晴興の苦悩は描かれているけれど、源太はない。
 こんなに考えていて、こんなに苦悩している晴興の気持ちも知らず、晴興をさらに苦しめて、勝手に自滅する。

 主役を第一に美しく正当として描くのは当然。
 それに抗う者を、さて、どう描くか? フィクションの醍醐味。

 勧善懲悪をやる場合は、悪役はとことん悪に、「滅ぼされて当然」なくらいひどく描かなくちゃ。日本人は弱い者、負ける者に感情移入しがち、倒される悪役に感情移入して主役のことを「正義の名を騙った偽善者!」と思わせない配慮が必要。
 だからヅカの悪役は、専科のおじさまが演じる徹底的な悪か、「滅びの美学」を持つ番手付き美形スターが演じる悪と、2分化される。
 2番手スターが演じる悪は、「悪を行う理由」と「滅びることも魅力のひとつ」と納得させる工夫必須。

 しかし今回の晴興さんは、立場逆転の「2番手悪役」をあえて主役にした役。
 2番手悪役お約束の「悪を行う理由」「滅びの美学」をこれでもかと打ちだした、美しい役。
 ふつーのピカレスクロマンとも違い、「俺は悪だ」という開き直りもなく、「ならぬものはならぬ」という「俺は正義。しかし、市井の者には理解されない」というスタンス。
 こんな主人公に対する「敵役」って、どうするの?

 悪役主人公だから、敵対する相手は「正義の味方」。
 でも、正義の味方をそのまま描いたらまずい。主人公はあくまでも悪の幹部なんだから。

 源太が農民なのは、必然かなと思う。
 彼が藩や国の政治に関われるほどの学歴・富・身分を持つ者だったりしたら、大変だ。
 身なりも美しく言葉も端正で、真正面から晴興の間違いを指摘し、弱い者の立場に立って闘いを挑んで来たら、どっちが主役かわかんなくなる。しかも彼は晴興に滅ぼされるわけで、そりゃもうますますどっちが主役か……。

 だから、農民なのは必然。
 晴興の正しさを理解出来ない、目の前のことしか理解出来ない存在。
 姿もみすぼらしく、なんの力もない。

 もちろん、大河ロマンなら、対等の力を持つ主人公とライバルのそれぞれの正義と思い、同格であるがゆえの緊迫した闘いを書けるけど、90分の短編ドラマ枠でそれは無理。主人公側しか描く時間ないから、ライバル役は「主人公より劣る役割」にしておくのが安全。

 という、作劇上の事情もあって、かっこ悪い要素てんこ盛りで設定されている役。
 この役でかっこいい、って、どんだけ……。

 観ていて思ったのは、「この役は一歩間違えるととんでもなくバカになるな」だった。

 カンチガイ、空回り、煽動と破滅、人騒がせ。
 大雑把とか無神経とかおバカとか、ジェンヌにありがちな持ち味のある人が演じたら、大変なことになる。
 や、おおらかで下界に足を囚われず明るくキラキラしているのは、スターの魅力だからそれはいいんだけど、その持ち味でこの役やったら大事故になるなと。
 だいもんでよかった……。

 まあ、ウエクミだから、クラッシャーになる人に源太はやらせないだろうけど。それにしても、この役を成立させるのって、タカラジェンヌとしてはなかなか特異だなと。

 そして、この源太役を成立させてしまうからだいもんは「トップスター路線ではない」と、思う人は思うだろうし、この役を成立させてしまうだいもんだからこそ、わたしは好きだと思う。


 そして思うんだ。

 雪組すごい。

 トップスターと2番手が対立する役をやる場合、双方の力量が近くなくてはならない。
 例外を除いて番手は学年順だから、もっともキャリアがあるのがトップであり、2番手はキャリアが少ない分トップに比べて力不足なのはあたりまえ、仕方ない。だとしても、敵役をやるなら2番手に力が必要。
 そして、ピカレスクロマン、トップの演じる役が悪で、対立する2番手が善である場合、さらにさらに、双方に拮抗した力が必要。

 ……いやあ、ふと『エル・アルコン-鷹-』を思い出してさー。
 悪の主人公と、正義の2番手……なんだけど、トップと2番手の力量が違いすぎてねー……本役と新公くらいの差があるもんだから、そりゃーもー正義の2番手がアホっぽくなっちゃって……。大変だったなあ、アレ。
 それも含めて好きだったけど(笑)。

 2番手に力がなかったら、源太はただのアホになったんだろうなと思い、つくづく、しみじみ、だいもんでよかったと思う。
 「日本物で良かった」。
 そう語った内容の続き。というか、後半。UPする欄がずいぶん開いちゃったけど、書いたのは同じ日。
 こっちは「子役で良かった」。


 わたしはタカラヅカの子役芝居が苦手だし、大人が演じるわざとらしい幼児演技が嫌い。
 なんで嫌かっつーと、ヅカの子役の多くは、脳の発達に問題があるかのような、年齢にそぐわない幼すぎる演技をする。それが気持ち悪い。
 ことさら幼く作るのは、大人も子どもも等しく大人の女性が演じる劇団だからだ。役の差異を出すため仕方ない。中の人の身体の大きさも年代も同じようなもんだから、あとは「子どもですよ」という記号優先、小学校高学年でも幼稚園児みたいな喋り方をする(植爺『ベルばら』の革命時のマリー・テレーズ等)。
 理屈はわかっているが、それでも苦手なんだ。
 救いは、タカラヅカは大人の男女の恋愛をテーマにすることが多く、子役はメインにならない、ということ。女性の演じる子役が観たいなら、よその劇団を観ていればいい。男性俳優の間にいるなら、女性の子役は体格・声質ともに違和感が少ない。
 タカラヅカは「大人の女性が子役を演じている」ことを楽しむ劇団じゃない。

 だから、『星逢一夜』に子ども時代がある・ちぎだいもんが子ども時代から演じる、という話を耳にしてげんなりしたし、子役を使えよ、本人たちに幼児プレイさせて笑いを取るのはずるいと思った。

 ヅカはスターありきの劇団だから、人気スターに「通常ならありえないこと」をさせるのはファンサービス……ぶっちゃけると「客引き」だ。
 ショーで男役に女装させるのと同じ。娘役でいいのに、わざわざ男役に脚を出させて客引きをする。作品がつまらなくても、「大好きな**ちゃんの女装が見られる。ナマ脚が見られる」と、それだけでやってくる層を狙ってのこと。
 いい作品を作る努力なんかしなくても、人気スターに「特別なこと」をさせればいい。
 子役もそう。
 子役も女装も似合わないような、大人の男役にあえて子役をやらせ、客席を沸かせる。タカスペのコントと同じハート、「こんなことする**ちゃんを見てみたい♪」というファンの気持ちを引くためのもの。
 わたしだって贔屓が女装するとか、子役をやるとか言われたら、似合わないことがわかっているだけに、大よろこびで観に行くわ。他の客が「似合ってなかったね」「無理ありすぎ。かわいそう」とか言っていても、ファンはそんな姿を見られてたのしいし、むしろ他人には「似合ってない」と言われる方がうれしいし、絶対絶対盛り上がった。
 そういうファン心理がわかるだけに、スターの大半を子役として出すなんて、いい印象を持たなかった。
 客寄せに子役を使うなんてずるいなー、と。ウエクミならそんなことしなくても、内容で客を呼べるだろうに。

 でも、ラストシーンを観て思った。

 これをやるために、本人たちが子役からやっていたのか!!

 物語がすべて終わったあと、帰らないもの、永遠に失ってしまったモノをこれでもかと描いたあとで、なにも知らない・失っていないころの、無邪気な姿を見せて終わる。
 回想シーンはヅカのお約束だけど、それは大抵、子役たちが紗幕の向こうに登場したりで、本人たちは大人の姿で登場があたりまえ。よくあるパターン。

 しかし、『星逢一夜』は違った。
 子役も本人だ。
 お約束の回想シーンだって、本人出演だ。

 ……別人がやっていたら、こうまで泣けないわ……。

 えんえんえんえん子ども場面をやっていた、同じ役者が同じ姿で出て来るからこそ、だ。

 ずるいなーと思い、計算を知って納得する。
 そしてその計算ゆえにまた、ずるいなーと思う。

 結末に納得していないというか、腑に落ちないものを感じていたはずなのに、ラストシーンで全部持って行かれるもん。

 ずるいなー、ウエクミ(笑)。
 花組バウホール公演『スターダム』

 主演のちなつくん、2番手のマイティはよく知っているし、知っているだけの姿は見せてくれるだろう、魅せてくれるだろう、と思っているので、アンテナは他へも向きます。
 バウ公演の楽しみのひとつは、その他のみなさん。
 それまで知らなかった下級生を見つけたり、中堅の魅力を再発見したり。脇の上級生の活躍を楽しんだり。
 本公演にはない楽しみがいっぱい。

 ライトなヅカヲタになりつつあるわたしは、下級生とかぜんぜん知らないしねー。少しでも出会いや発見があればいいな。

 てなわたしが、このバウ公演で注目したのが、ジェイク@あれんくんです。

 リアム@ちなつくんの親友役。
 文化祭的構成であるこの作品唯一のドラマ部分を担う人のひとり。

 前日欄でさんざん足りてないと書いたあとでなんですが、それはちなつくんと同格の役割として足りてないだけで、彼単体ではすげーわくわくします。

 ダイアン@べーちゃん相手でももちろんまったく足りてないんだけど、それでもニュアンスがいいのだわー。

 せっかくの正塚作品なのに、正塚芝居部分が少ない、独特の言い回しと空気感。過去の正塚作品に必ずある、どこか一部分切り取って「クイズです」と出しても「作品名わかんないけど、演出家はわかる。正塚」と答えられるほどの、オンリーワンっぷり。
 わたしは、正塚芝居が好き。
 あの言い回しと空気感が好きなのー。
 でもって、あの言い回しと空気感は、出来る人と出来ない人がいるのー。

 あれんくんとべーちゃんが、がっつり正塚芝居していて胸熱。
 ここか! この作品全部の中で、唯一の正塚がここなのか!(笑)

 正塚芝居が出来たからといって、今後どう役に立つのか知らないが、これが出来る人がわたしは好き。
 あれんくんはまだまだ足りないけれど、正塚芝居やっていた……感じは出ていた。だからわくわく。

 スタイル良いから見栄えするし、歌も歌えるし、いいなあ、彼。


 その、あれんくんがいろいろ足りていないだけに、際立つべーちゃんの巧さ。

 ドラマ部分は、ちなつ・あれん・べーちゃんの3人だけで構成されてたのね。で、比重がちなつ>あれん>べーちゃんだから、2番目の人の弱さ・足りなさを、べーちゃんがすげー勢いで支え、補ってた。
 すごいなああ……。
 芝居で相手役がほとんど動いてない(動けていない)のに、それを観客に悟らせないよう、べーちゃんがひとりでくるくるきりきり動き回って、カバーしてるの。
 あの芝居に引きずられることなくテンション維持して、むしろ引っ張り上げる勢いだった……。すげえや、べーちゃん。これほどまでに頼り甲斐ある人になっていたのか……。

 ちなつくんはあれんくんの相手はしていたけれど、手出しはしていない印象。放置というか、距離がある。
 べーちゃんは、あれんくんの胸ぐらむんずと掴み、「こっち見る、次、右向いて左向いて!」と逐一世話焼いて、相手が動き出したら「はい、ひとりでやる!」と突き放し、また揺らいでくると「こっち見て!」と肩を揺さぶる……そんなおかーさん的な立ち位置。
 んで、べーちゃんが愉快なのは、そこまで世話焼いておきながら、自分がのってくると息子放置して、自分だけぶわーっと走り出したりもすること(笑)。
 面白いなー。

 やっぱ芝居って人間同士の関係性、ドラマがあってこそだよなー。ったく、「みんなが主役の文化祭」もいいけど、ちゃんとしたドラマを見たかったよ……って、しつこいですねすみません。


 じゅりあ&タソのうまさと華。
 センターにばーーん!と出て来るのが納得の力がある。

 るなくんは芝居はうまい人じゃないんだけど、それでも場数の分だけ慣れてきてるなーと思う。

 そして、るなくんをさらにへたにしたのが舞月くん……。この人は相変わらず謎だ。やっぱりうまくなくて、上級生チームで浮いていた。
 新公学年ならわかるんだけどなあ、そこそこきれいでうまくはないけどまあこんなもんか的な感じで。しかしもう研8で芸達者な94期組内首席で何故この実力……。

 鞠花ゆめちゃんの扱いにびびる。同期枠ってやつ?
 みんなが主役的作りの作品だから、学年に応じて比重が割り振ってあるにしろ「若者枠/お姫様系」には驚いた。ふつーならタソと同じく「大人枠」よね……?
 この面子で、鞠花さんに若者やらせる正塚にびびった(笑)。
 や、鞠花さんは素敵にやってらっしゃいました。違和感ナイです、押し出しもよく、新公学年だったら「新進スター?」って感じだった。

 ひらめちゃんは気の毒に、ヒロインになりそこねたなあ。
 主な役発表時にヒロインとして堂々名を連ねなくても、実質ヒロインとか、準ヒロインとか、幕が上がると役割があるもんだ。新公ヒロイン済みの若手スターなら、ここいらでバウヒロやってもおかしくない、せめて準ヒロインぐらいは回ってくるのがセオリー。
 だからそうなのかと思っていたら、んなことぁーない。
 主役ですらドラマ30分のこの作品に、ヒロインも準ヒロインもあるわけない。
 ひらめちゃんも、「みんなが主役の文化祭」ゆえにその「みんな」のひとりに過ぎなかった。
 オーディション参加者たちは、みんなそれぞれ事情や思いがあるから、その事情をひとりで喋るのみ、単独技量披露するのみだった。
 がっつりドラマ展開させて、人と人との芝居を経験すべき学年と組内立ち位置なのになあ……。

 正塚的には「ヒロイン衣装」を着せているし、気は遣っている模様。
 しかし正塚せんせ、ヒロインにはピンクを着せる、ってその記号っぷり、いい加減考え直した方が……(笑)。


 いろんな子が歌っていたので、歌える子がいっぱいいる、とわかったのはうれしい。
 でも、その歌も英語歌詞だったりで、芝居歌ではなく、文化祭の歌唱披露でしかないんだよね。内容に関係なく、場を盛り上げるBGMとしてしか使われていないので、「その人が歌う意味」がない。
 意味を持ってはじめて伝わる「うまさ」とは別だからなあ。
 音楽流しておけ、を、下級生に歌わせておけ、になったことは、もちろんすごくいいことだと思う。ただの演奏テープ流されるより、生徒のナマ歌聴ける方がはるかにいい。
 しかし、それだけじゃなあ……。正塚ェ……。

 この公演では微妙でも、この経験があったがゆえにさらにステップアップして、素敵な舞台を魅せてくれるといいなあ。
 花組バウホール公演『スターダム』初日観劇。

 主演のちなつくんはうまいしかっこいい。
 が、作品が気の毒で印象がとっちらかる。
 文化祭的手法のごちゃごちゃした作風と、彼のある程度出来上がった男役像が相性悪いんだろうな。
 この作品、主人公のリアム@ちなつにしか物語がナイのだけど、そのたったひとつの物語が、2時間中30分くらいしかない。体感なので、実際の時間とはチガウかもしれんが、ドラマ部分は全体の4分の1程度、という印象。
 そのわずかなドラマ部分と、「みんなが主役の文化祭!」部分との収まりの悪さがねー……。
 文化祭部分も、うまい人たちがやっているなら群像劇たり得たかもしれないけれど、こっちは「若手ワークショップ」状態で技術は低く勢いだけあって、わずかなリアムのドラマにノイズを入れられる感じ。
 そして、ちなつくんもそのノイズを吹っ飛ばすほどの実力は現段階では得ていないため、そっちに引きずられてざらざら不鮮明、
 なんとも不完全燃焼。や、わたしが(笑)。
 もっとちなつくん主役の作品が見たかった、

 また、「天才現る?!」系のオーディション物を舞台でやることの難しさを感じたり。
 ちなっちゃんうまいしかっこいいし、他の出演者がキャリアのナイ下級生たちで、それに比べて段違いにうまいことはわかるけど、「不作だなー、と首をかしげる審査員たちが、リアムの歌で『こ、これは……っ?!』『逸材キターーッ!』となる」という導入部は、ちなっちゃんを持ってしても「苦しいなあ」と思った。
 これがラストシーンならもっと演出で差異を出せるんだろうけど、あくまでも予選、ここから1ヶ月レッスンやってスターを作る、という場だから、「才能めっちゃある、でもまだ未熟、その点では他の不作メンバーたちと同じ」ということを、歌1曲で表現て……。難しすぎるやろ。
 審査員がどよめくほどの逸材なら、他の不作さんたちと同じレッスンに入れずに特別養成コース作って「天才現る」とした方が、番組が盛り上がるのでは?
 オープニングだから仕方ないんだろうけど、「天才キターーッ!」的な盛り上げ方(主役スター登場演出)と、「でも、他の雑魚と同じ扱いしかしないからね」というストーリー内容(オーディションに懸ける若者群像劇)が矛盾している……。

 ある意味その矛盾をリアルに表現していたのかな。審査員の反応ほどすごく思えないけど、すごいのかな? というあたりのちなつくんの歌声や存在感は。

 なんにせよ、せっかくちなつくんを主役にして、ドラマ部分がわずかだったことが残念でならない。
 彼ならもっと、濃い物も深い物も演じられただろうになあ。

 また、ちなっちゃんのドラマ部分の相手役が、キャリア不足のあれんくんだってのが、これまたもったいないなと。あれんくん、よくやってたけど、ちなっちゃんの同格親友役にはいろいろ足りない……。
 なんでマイティ相手にドラマやらなかったんだろうなあ。

 disるわけではなく、役者としての力量が釣り合っていない場合、見応えという点では残念に思う。
 たとえば新公なら、ほとんど同じ力量だから気にならなくても、本公演に新公レベルの子がいると気になる、ように。
 ちなつくんとあれんくんの場面は、あれんくんの力不足を感じた。
 そして、ちなつくんとタソの場面は安心して観られた。
 タソからはアドバイスを受けるだけで、ドラマはあれんくんとのみなんだから、あれんくんにはタソと同程度がそれ以上の実力が欲しい。や、そんなの無理だとわかっているけど、役割として見た場合。
 ひとり芝居でない以上、組んで芝居する相手の力量によって、本人のパワーもメーターが上がり下がりするのは仕方ない。

 MAX100パーのちなつくんを、見てみたかった。
 相手役との相乗効果で、主演だからこそ得られる役とストーリーで、熱く深い芝居空間で、過去のMAXを超えるちなつくんを、見てみたかった。

 や、公演が進めばまた違ったと思うけど、なにしろ初日だから。
 ちなつくん自身もいっぱいっぱいっぽいし、それで下級生たちのお守り的な役割の主人公で、MAX超えしろってのは無理な話。
 わかっちゃいるが、ちなつくんスキーとしては、いろいろしょぼん。

 わたしがちなつくん主演で1本書いていいと言われたら、そりゃーもーいろいろと夢が膨らみまくるのに!!
 彼のあの暗い色気のある瞳を最大限に活かせる、濃くて骨太な、いろんなところに愛憎渦巻く心理描写大事ネタにして、そしてそこはかとなくエロい話をだな……!(鼻息)

 求めるモノが、期待するモノが大きすぎた。
 ガチなファンなら親心で「うちの子がセンターで歌ってる、台詞言ってる」だけでほろほろうれし泣きしてるのかもしんないが、ライトに「ちなつくんも好き!」と思っているだけの一般ヅカヲタとしては、貪欲に「もっと出来るのにー、もっとやらせろー!」とか思っちゃうのさ。すまん。

 でもほんと、ちなつくん主演はうれしい。
 きれいでうまくて人気もある人が、バウ主演している。って、それだけでもすごいことだよー。
 や、ヅカヲタやってると、それこそがレアだと思えるから不思議(笑)。
 きれいだけどうまくない人、きれいでそこそこうまいけど人気ない人、とかが主演する機会の方が多いよね、タカラヅカって。
 テレビタレントを見ても、きれいなだけ、だと評価されなくなってきた昨今。劇団もようやく、うまい人の価値を見直してくれてるのかな? と、各組若手スターを見て思う。タカラヅカだから「きれい」なのは基本として、その上でちゃんと実力ある人を引き上げてくれると、観客としてはうれしいなあ。
 「きれい」は基本スキル、そこに実力があれば人気は付く。そこそこうまい、とか、音痴ではない、程度じゃなく、ちゃんとなにかしら「うまい」と言えるものがある人は、商品として売れる、だから売る……そういう時代になってくれたのはうれしい。


 んでもって。

 主人公リアム@ちなつくんの親友、ジェイク@あれんくんですが。

 いいよね、彼!!

 ……という話は、翌日欄で。
 花組バウホール公演『スターダム』初日観劇。
 ちなつくん、バウ主演おめでとーー!!

 ……なんだけど、うーむ、この作品ってどうよ。
 正塚せんせの新作書き下ろし、歌手を目指す若者たちのオーディション番組を舞台とした、「夢を追い求める若者達と、彼らを支えるスタッフ達の姿を描く群像劇」。
 出演者の大半は下級生、プラス、別格スキル潤沢な精鋭上級生が支えに回っている。
 バウなんて大抵下級生てんこ盛りだから、この公演が特別「下級生バウ」だとは思わない。

 しかし……なんなんだろう、このワークショップ的な作り。

 新作ミュージカルを観に行ったら、文化祭の発表会を見せられてしまった、ようなとまどい。

 どうしちゃったんだ、正塚せんせ。


 この公演が発表になったとき、作品解説を見て「文化祭の焼き直しだったらどうしよう」と思った。
 音楽学校文化祭の演劇を、高確率で正塚せんせが演出している。そして毎度書き下ろしのはずのその作品は、いつも「同じ」。
 バックステージ物というか、ある劇団が舞台で、そこの劇団員たちが次の公演のために稽古をしている。劇団員として喋っていたかと思うと、役になりきってライトを浴びたりする。役を得るためのオーディションがあり、そのためにがんばっていたりする。
 んで、さらに最近は、その「劇団」が公演する「演目」が、過去の正塚作品の使い回しだったりして、骨組みから道具立てまでリサイクル! というものすごさ。
 正塚せんせ、新作書けなくなってたりしない……よね? 大丈夫だよね? と、老婆心。
 なんかこの『スターダム』のあらすじ、文化祭作品っぽい……。まさか、焼き直しじゃないよね? ちゃんと書き下ろしだよね?

 失礼しました、焼き直しなんかじゃありません、ちゃんとオリジナル作品でした!! ……や、わたしが知る限り。

 今回の公演のために、書き下ろされた新作なんだと思う。
 それはいい。
 それはいいんだけど。

 新作だけど、作りが文化祭仕様だった。


 通常のタカラヅカ公演と、文化祭作品の違いとは?
 他の演出家のことは置いておいて、ハリーにのみ限る。

 通常のタカラヅカ公演は、「主人公がいる、ひとつの物語」である。
 文化祭作品は、「主人公はいるけど、みんなが主役。みんなに出番を」という意図で作られている。

 『スターダム』を観て驚いた……というか、うろたえたのは、物語がない、ということだった。

 主人公をめぐるドラマ。
 ひとりの男が人と出会い、出来事に遭遇し、精神的な変化を経験し、人間関係や出来事に決着や新展開を迎え、スタート地点とは別のところに心が着地する。
 これがまず幹として真ん中にあり、他のキャストはその幹から広がる枝葉、彩る花や果実だ。
 当然、主人公にとって大切な出来事や人間はクローズアップして描かれるし、関係ないモノはモブにしかならない。
 正塚作品はこの「主人公とモブ」の落差が激しく、数名の主要人物以外は薄暗いところで帽子を目深くかぶり、タンゴを踊るくらいしか役目がない……という、「ファン泣かせ」の演出家だった。

 だが、文化祭作品の正塚はチガウ。
 目的はまず、「生徒全員に出番と見せ場を」。
 ストーリーはそのためのガイドレール。ひとりずつが「自分の出番だ」と真ん中へ出て来て、与えられた台詞を喋る。台詞が終わったら交代、次の子が「わたしの出番だ」と台詞を喋る。
 植爺の「横一列で一言ずつ台詞」ではなく、ひとりである程度まとまった枠割りを与えられる。だから、そのまとまった役割をどうこなすか、それが生徒の腕の見せどころ。
 主役はいるし、ストーリーもある。だが、主人公が物語を回すのではなく、入れ替わり立ち替わりいろんな人が語り部をすることで、話を進めていく。
 文化祭にトップスターはおらず、みんな平等に「生徒」だからだ。

 『スターダム』は、この文化祭の方程式で作られていた。
 主人公のドラマを中心にすべてが配置されるのではなく、まず「オーディション番組」という「みんなに見せ場を作る」ためのお膳立てがされて、後付けに主人公の話も盛りつけた。

 だから、主人公であるはずの、ちなつくんの物語部分は少ない。
 べーちゃん、あれんくんが出て来る30分くらい? にしか、ドラマがない。
 マイティに至っては、ドラマなしっすよ……。

 ドラマというのは、人間同士の絡み合いだ。

 ひとりで小道具相手に台詞を言うことじゃない。
 唯一のネタである、父親との確執も、父親舞台に存在せず、マイティのひとり芝居で終了て……。

 ちなっちゃんやマイティに限らず、出演者たちみんな、下級生に至るまでひとりずつに見せ場はある。
 が、それはあくまでも、「ひとりずつ」だ。
 単体で技術披露しているだけのこと。
 それじゃ、「2時間の枠を持った、長編芝居」である意味ナイじゃん。

 芝居って、ひとりでは出来ないんだと思う。
 人間同士で向き合って、濃い心の動き、やりとりをしなければ。
 バウホールで主演、2番手、3番手……あたりの役割を得た子たちってさ、本公演では体験出来ない、本気の芝居をやれるもんなんじゃないの?
 オーディション仲間です、程度の会話なら、他でも回ってくる機会あるだろ。そうじゃなくて、バウ作品だからこその、ちゃんとした、本気の芝居を、何故やらない……?

 今回の作品がファンには受けていることは、わかる。
 正塚の、数名以外はすべてモブ、舞台にはいつも少人数、えんえん会話するだけ、歌もダンスも極少、といういつもの作品に比べ、そりゃ楽しいだろうさ。
 でもさ、その楽しさって、『New Wave!』が楽しい、的な楽しさっしょ?
 芝居の楽しさじゃないよ。
 濃い芝居をやらず、みんなで歌って踊ってれば楽しい、ファンがよろこび、公演は大成功! ……って、ソレなんかチガウ。

 そして、ちなつくんは「ワークショップの主な出演者」じゃない。ちゃんとしたバウ公演の「主演」だ。
 なのにこんな、ドラマ部分がわずかな「みんなが主役の文化祭」みたいな作品って、腑に落ちないよ。


 『スターダム』は、悪い作品じゃない。
 こういう構造の公演は、これからも是非やるべきだ。
 下級生に活躍する機会を与えるのは大切だ。

 だからさ、使い方なんだよ。
 たとえば主演は別格上級生とか、専科さんとか、「通常ならバウ主演しないよね?」的な人にまとめ役をかってもらって、下級生たちのステップアップに尽力してもらう。
 あるいは、最初からワークショップと銘打って、まだ主演するには心許ない若いスターに主演させる。ドラマ部分が少なく、役割の大半は真正面向いてひとりでパフォーマンスするだけだから、なんとかなる。

 スターの通常の「バウ主演公演」とは分ける。
 これ重要。

 ふつうに、ちなつくん主演で、マイティ2番手のバウ公演だと思って観たから、コレジャナイ感半端ナイ……。

 楽しかったよ。みんなが活躍してて歌いっぱいで。
 楽しかったけどね。
 パソコンがぶっ壊れたので、書き溜めていた感想も取り出せなくなっちゃった……。なんでさっさとweb保存しとかなかったんだ……あとでまとめてやろうとHDDに残したままだったニャ……認証キーがあればサルベージできるかもなんだが、どこやったかわからん……。

 神様、次こそは整理整頓します、いろんなもの!!

 ここ1ヶ月ほどの間で次々と電化製品が壊れ、予定外出費に泣いてますニャ……。あー、パソコンだけは今すぐないとどーにもならんので、いろいろ調べるヒマもないし、使っていたヤツの後継機をなんも考えんと即行ポチッたわ……来月のカード引き落としがこわい……。

 という泣き言からスタート。
 失ってしまったので、書くのはこれで2回目、同じことを書けるわけもないけど、まあともかく、花組バウホール公演『スターダム』感想だーー!!

 『スターダム』初日観劇して、いちばんおどろいたこと。

 マイティが、美しい。

 …………。
 …………?!
 …………!!!

 マイティが、美しい。(2回言いました)

 わたしはもともとマイティスキーです。元贔屓に似ているので、ニヤニヤドキドキします。
 でもって元贔屓はダブルのスーツでマフィアのボスやってるのが似合う系の色男だったので、ソレに似ているマイティもフリルブラウスの王子様よりはスーツのマフィアが似合うタイプだと思ってました。
 だからこそ、マデレーネ@『エリザベート』では、女子プロレスラーみたいな姿になっていたわけだし。元贔屓が女装しても、きっと似たようないかついヲカマさんになっていたでしょう。
 や、素顔は、マイティは元贔屓より美人さんだと思ってますが。舞台姿限定で、似てる。
 舞台では色男、もちろん美形男役だと思っているけど、ジャンル的に「男臭い系」とか「骨太系」とかに振り分けられるタイプだと思っていたのよ。
 フリルブラウスと薔薇が似合うタイプではなく、スーツに拳銃が似合うタイプ。

 なのに、だ。

 マイティのジャンルが、変わってる……!!

 これは、ちなつ効果……?!

 主演のちなつくんもまた、マイティと同じく「スーツに拳銃」が似合うタイプだ。ちなつくんはマイティよりさらに陰影の濃い、品と色香のある二枚目。
 ヒロイン不在の男バディ物の場合、主役と相棒のタイプは対極にするのがエンタメの基本。
 ルパンが女好きのお調子者なら、相棒の次元はクールガイとかね。
 ちなつくんが彼のキャラクタアテ書きの男っぽいタイプで来るなら、2番手のマイティは優男をやることになる。
 マイティの優男……? 今までなら、マイティが骨太な男で、カレーくんが優男だった。そのカレーくんポジをマイティが……?

 主演にアテ書きした余波で、優男役が回ってくる。
 かつ、男っぽい黒系ちなつくんとの差を出すならキラキラ美貌方面にがんばるしかない。
 また、ちなつくんがどーんと自分のカラーを出しているから、相乗効果でマイティはより優男っぽく見えるのかもしれない。

 だから、ちなっちゃんの効果かもしんないけど。

 マイティが、ちゃんと優男やってるーー! 優男になってるーー!
 金髪キラキラのおぼっちゃまだよーー!!
 ちなつがテリィなら、マイティはアーチーだよーー!(古い。しかも、アンソニーぢゃないあたり……)

 元贔屓に似ている、と思っていることは変わらないのだけど。

 元贔屓より、きれいだ。

 と、思った。
 その、キラキラ美形度において。
 ケロちゃんはそーゆータイプではまったくなかったからなあ。マイティもそうかと、勝手に思ってた。そうじゃないんだ、そっちもいけたんだ!!

 目からウロコ。

 はー。ジェンヌさんってすごいねえ。変わっていくんだねえ。
 若い子を応援するのって、楽しいだろうなあ。こんな風に変身しちゃうんだもんなあ。

 そしてもひとつ、マイティ絡みで感慨深いこと。

 ちなつ&マイティが並んでいる、不思議さ。

 別の別の組にいて、決して交わらない、別次元の存在だと思っていたふたりが、並んでいる。
 この不思議さは、そのかが月組に組替えして、ゆーひくんと並んで踊っているのを見た(よりによって、そのかにダンスを教える役がゆーひ……)、あのときの感覚に似ている……。

 えーとつまり。
 ケロゆひは永遠です☆ てなことかしら。
 『星逢一夜』の感想途中だけど、ここいらでちょっくら『La Esmeralda』の感想も。
 翌日欄からは花バウ感想になるし、『星逢一夜』感想の方はまだまだ終わりそうにないし、このままじゃ『ラ』の初見感想がいつになるかわかんないわ、と。

 サイトーくん新作ショー、『La Esmeralda』。アルファベット表記より、『ラ・エスメラルダ』とカタカナ表記の方がいいのかも。

 というのもだ。
 ショーの開演5分前ですか、緞帳が前もって上がるじゃないですか。

 その途端、わき上がる、苦笑。

 ほんとに客席、笑うんだもん。ざわざわくすくす、苦笑というか、失笑というか。

 舞台には、「ラ・エスメラルダ」と身もフタもなくカタカナで書かれた吊り物が、ぴかぴか輝いていた。

 その字体というか雰囲気が、容赦なく「昭和」テイストだった。
 レトロというより、「古っ」て感じ。「ダサっ」でもいい。
 とにかく、緞帳上がるなり、開演前なのに客席から笑い声が起こるという、なかなかめずらしい状態。

 「ラ・エスメラルダ」と書かれた吊り物、と書いた。
 だがチガウ。

 正確には、「エスメラルダ」だ。

 「ラ」はどこへいった?

 2階のわたしの席からは見えなかった。
 1階席の人からは見えたらしい。
 ……なんでわざわざ、「ラ」だけそんな、隠しアイテムみたいなことにするんだ??

 ショーがはじまると何故かカタカナ・タイトルは収納され、ちゃんとした「La Esmeralda」という公式表記通りのタイトルがセットされた。
 だから余計にわき上がる疑問。
 いったい、なんなんだ。ナニがしたいんだ。

 わっかんねーな、ヨシマサ。


 なにはともあれ、『行方不明のラ』の初見感想。

 ナニこの駄作!!

 そして。

 でも楽しい!!

 ……ショーとしては、ぜんぜんよくない、いつものサイトーショーだと思う。
 緩急ナシ、終始ドタバタ、終始全力疾走。
 ずーーっと同じテンションだから、疲れる。

 なんつっても、耳への厳しさは、とんでもないレベル。

 サイトーくんって、「歌」をなんだと思ってるんだろう?
 その場面に相応しい、そのスターさんに相応しい……というか、表現する、という意味で選曲し、演出しているんだろうか?
 『ROYAL STRAIGHT FLUSH!!』のときも思ったけれど、ジェンヌの歌唱力無視して、テキトーに選んだ歌を押し付けて歌わせている、気がする。
 そのジェンヌの魅力を出し、場面を豊かなものにしたいなら、この曲はないやろ、と思う。
 ある程度歌えるスターさんすら、うまく聞こえない、歌詞を載せるのに向いてない曲やテンポで、しかも踊らせたり動き回らせながら歌わせるもんだから……大変なことに。
 ジェンヌに楽をさせろと言っているわけじゃなく、せめて主題歌くらい、まともに歌わせろと思うんだ。
 ナニ歌ってんのかわかんねえ……つか、歌詞の意味も通じねえ……自動翻訳した外国語みたいだ……。

 ヅカヲタ長いんで、音痴耐性のあるわたしも、さすがに「ヲイヲイ」と思う歌声が多すぎて、どうしようかと(笑)。
 とりあえずちぎくんにあの運動量で、あんなに歌いにくい曲を歌わせるのはやめようよ。酸欠で倒れるんぢゃないかと思ったわ。

 それでも、楽しかった。
 雪組スターたちが、これでもかっ、と見せ場をもらっていて。

 次から次へと登場する、スターたち。
 大安売りかってなぐらい、銀橋渡る。ソロをもらう。見せ場をもらう。
 あの子もこの子も、みんな素敵。目が足りない。

 どんなにスタイリッシュなショーだとしても、特定のスターにしか出番も見せ場もないんじゃ、わくわくしない。
 下級生も別格も、みんなどんどん場をもらって、どんどん登場してくる!
 組ファンとしては、それが楽しい。うれしい。


 オープニングが終わり、銀橋に残ったのがきんぐで、腰抜かした。
 きききききんぐ? なんなのそれ、すげーすげー。
 きんぐは相変わらずきんぐで見ていて気恥ずかしく(ほめてます)、ナニ歌ってんのか、わからない。
 きんぐさん、年々歌唱力が落ちてる気がする……(笑)。や、きんぐスキーなので、とほほと思いつつも愛でてますが。

 咲ちゃん、かっこよくなったなああ。
 ジプシーの場面の、黒い咲ちゃんがかっけー。

 れいこが歌い出してびっくりした。どこにいたんだ、いつ出て来たんだ。くらっちソロうれしい、迫力。
 ジプシー点呼してたら、真ん中でナニが起こったのか見られなかった。

 なんかなつかしい曲で、翔くん登場、レーシングスーツ姿って……サイトー……何故よりによって翔くんにコレを着せるんだ。
 歌詞を載せにくい曲に、翔くんの歌唱力も加わって、すげーカオス。

 叶くんがカッコよすぎてびびる。なんか彼、急激に男ぶりを上げてるよな。
 真地・叶のふたりが並んでると、それだけで俺得感満載。
 そーいやひとこ見るの久しぶり……と思うのは、芝居で見つけられなかったためだ……。

 だいもんが、すげー花男だ。

 上着脱ぎ脱ぎばっさばっさ踊る姿が、花男臭ぷんぷん。楽しい。
 つばさくん歌ってる? ソロじゃないから単体での声が聞こえない。
 コスプレきんぐが気になる……が、実はその後ろにいるエマさんとにわさん、夢のおっさんコンビ競演ぶりに胸熱。あああ、素晴らしいわー! エマさんショーも出てくれてありがとー!

 中詰めのだいもんの歌がいちばん好き。聞きやすい歌がここだけという……。
 そしてサイトーショーならではのアイドル系お手振りダンス。

 「トリデンテ!」はデジャヴでちょっとつらい。

 咲ちゃんの場面はよくわかんない……何故あの衣装、あの曲?
 ひーこかっこいいなー。

 突然カラーぶった切りのれいこ王子様登場にびびる。そして、あんだけ特別っぽく登場して、なんもせずに終了という、意味不明さにびびる。
 シーレーン感想は「……桃娘……!!(白目)」で終了。何故あのカツラなの、だいもんさん……。

 白ターバンちぎくんがめちゃくちゃ美しい。
 そしてここの歌が、作中もっとも破壊力あった……。何故神は二物を与えてくれないのだろう。


 初日に走り書きしたメモがここで途絶えている……力尽きてラストシーンまで書けなかった模様(笑)。
 またいずれ。
 『星逢一夜』初日観劇、「日本物で良かった」と思った件について。

 わたしは、日本物も好きだ。
 タカラヅカの伝統のひとつだと思っているし、タカラヅカならではの美しさを表現出来るジャンルだと思っている。

 が。

 日本物は、人気がない。

 これはまぎれもない事実。
 人気がない、ということは、求められていない、ということだ。

 地味だからねー、日本物。豪華絢爛派手派手が売りのタカラヅカで、わざわざ見たいジャンルじゃない。

 日本物は好きだけど、人気がないのも当然と思っている。
 日本物は難しいからだ。

 作品が難解だと言ってるんじゃないよ?
 「求められていないモノ」を、それでもあえて、わざわざ、欲しくない人たちに高いお金を出させて「買おう」という気持ちにさせることが、難しいという意味。

 フランス料理を食べたくて、洋館を改造して作ったレストランに入ったのに、和食のメニュー出されたら、閉口するでしょ?
 食べたいのはこれじゃないのに……他の店へ行こうか。そう思って背を向ける人たちを振り向かせ、テーブルに着かせて、料理を注文させるだけの工夫、乗り気ではないまま食べた人に「えっ、これおいしい!!」と感激させるだけの味。
 それって、フランス料理を食べたくて自分から料理を注文してフランス料理を食べる人を満足させるより、はるかに、とてつもなく、難しいことでしょ?

 昔はトップスターの名前だけでオールオッケーだったのかもしれない。
 このスターさんの出る公演ならなんでもいい、スターさんが出て、歌って踊っていれば、その内容なんかどうでもいい。
 フランス料理でも日本料理でも、ハンバーガーでもたまごかけごはんでも、このシェフの料理が食べたくて来たんだから、あとはどうでもいい、てな。

 でも今は、そんな時代じゃない。
 あのれおんくんだって、植爺の駄作付き三本立ては集客に苦労した。ある程度のお膳立ては必要だ。

 そして日本物は「日本物だ」というだけで難しい。
 得意の洋物だって、ストーリー破綻して大変なことになっているのに。そこから「みんなが求めている豪華さ」「美しさ」をさっ引いて、それでも「良い作品」を作るって、どんだけ高難度。

 わたしは日本物も好きだ。
 というか、良い日本物なら、見たいと思う。

 洋物よりも構築が難しいのだ、ということを理解して、日本物ならではの武器を使い、洋物以上にきちんと練り上げられた作品なら、見たいと思う。
 だが、日本物の一部は……一部に留まらない気もしてるけど……「人気がないのは、日本物だから仕方ない」と、駄作なのを「日本物のせい」にしている気がするんだ。
 「最近の観客は、日本物を理解する素養がない」ゆえに、日本物が受け入れられない、とかな。
 素養がないとわかっているなら、その素養がない人にも受け入れられる工夫をして、なおかつ高尚な日本物を作ればいい。
 最初からアウェイなんだ。求められていないのだから。
 食べたかったのはこれじゃない、のに、無理に出された「高尚な」和食を、それでもおいしく食べてもらう工夫が必要なんだ。
 それをせずに、洋物を作るときと同じ濃度でいつもの凡作や駄作を作って、酷評のすべてを「日本物だから」と言い逃れる。

 日本物の駄作は、洋物の駄作よりも、さらにつまらない。
 同じ駄作なら、美しいドレスや軍服、テンポのいい音楽を楽しめる洋物を見たいじゃないか。せめて目で耳で楽しみたいじゃないか。

 日本物は好きだけど、人気がないのも当然と思っている。
 日本物は難しいからだ。
 この難しさを理解していない老演出家の作品には、うんざりしている。

 あえてアウェイで戦う。
 アウェイであることを理解し、それでも「勝つ!!」と意気を上げる人の作品なら見たい。

 大野せんせの日本物が好きなのは、その意気を感じるからだ。
 や、ちっとも勝ててないと思うけど(笑)。本人は、勝てると思ってやがる……そのカンチガイを含めて、「いいぞもっとやれ」と思う。
 大野くんの敗因は、「自分が好きなモノはみんなも好き」だと思い込んでるところだと思うけどな……って、話がずれるからこのネタはまたいつか。

 上田せんせの大劇場デビュー作が日本物で、よりによって江戸物と知って、本人の自信と、劇団の期待を感じた。
 だから、日本物はアウェイなんだよ。
 デビューの新人作家を、いきなりアウェイに放り込むとは。
 劇団はひょっとしたらなんも考えてないかもしれんが、ウエクミ自身は確信犯……なにもかも理解した上でやっている、気がする。

 よほどのハイクオリティ作品を出さないことには、失敗するよ?

 なんでわざわざ日本物?
 いくらでも選択肢はあるはずなのに、それでもあえて、江戸物。ちょんまげ物。ヅカファンがいちばん避けるジャンルを、わざわざデビュー作で選ぶ……って。

 バカか自信家か。

 わたしなら絶対避ける(笑)。自分でそんなハードル上げない。「お話はつまんないけど、画面がきれいだからいいわ」とスターのファンにお目こぼしもらえる時代設定にする。

 そういう点でも、ウエクミすげえなあ、と思う。
 そして、それでもなお、ウエクミならいいものを見せてくれるのでは? と期待させてくれる、今までの実績と。

 また、自信と実績はいいけど、最初からこのジャンルを選ぶウエクミの姿勢に、引っかかりを感じているのだと思う。
 観客<自分、という匂い。
 タカラヅカが大好きで、まずタカラヅカファンがよろこぶモノを創りたい、と考えるならば、同じテーマやストーリーでも、タカラヅカらしい、みんながよろこぶ装飾をしてもいいんじゃないかな?
 いやむしろするべきじゃないかな?
 フィクションが素晴らしいのは、テーマを表現するための舞台を自由に選べることだもの。
 歴史上のこの事件を実名で扱いたい、ということでなければ、架空の世界を構築して、そこで物語を展開すればいいんだ。
 権力者の悲哀、農民の反乱、幼なじみの三角関係を書きたいとしても、暗くて泥臭い江戸時代にせんでもええやん、と思う。ヨーロッパの小国とかにして、ドレスと軍服の物語にすればええやん、と思う。

 ヅカファンにおもねらず、自分の腕頼み。
 クリエイターとしてはかっこいいけど、ヅカファンとしては、その姿勢にちょっと引っかかる。

 ファンのことも考えてくださいよ? と。

 わたしがウエクミ作品に耽溺出来ないのって、そーゆー部分が引っかかってるからなのかなあ?


 とまあ、つらつらながなが語って来ましたが。

 この「なんでよりにもよって、わざわざ日本物?」という疑問は、晴興と泉の結末で腑に落ちたのでした。

 これをやるなら、日本物しかない、と。

 ここで涙を呑んで別れるから、やせ我慢するから、我欲を否定するから、日本的な決着なんだ。
 日本物の真骨頂! だよなあ。

 わたしだって、このテーマをやるなら日本物を選ぶか……日本物でなきゃダメだな、この風情は出ない、と思う。


 引っかかりはあるのだけど、それはともかくとして、「デビュー作からアウェイで勝負!」に、ウエクミは勝利したんじゃないかと思う。いろんな意味ですごい。
 『星逢一夜』初日・初見時の感想をつらつら語る、その3。これでラスト。
 元が箇条書きメモなので、箇条書き風味。……なんだけど、だんだん箇条書きにしては書き込みが多くなっている(笑)。
 箇条書きは主にツッコミが多い。また、ほんとーにいろいろ思っている部分はスルーしている。箇条書きの走り書きに出来ないせいだな。


 一揆起こして、源太@だいもん死んじゃった。晴興@ちぎくんに殺された……。
 三角関係が醍醐味のタカラヅカ、めずらしいことではないが、問題はヒロインの泉@みゆちゃんが源太の妻だってこと。
 いくら「ヅカの定番」ネタとはいえ、別に源太は泉を力尽くで奪った悪役ではなく、むしろ晴興が泉を捨てて村の仲間たちを裏切った、的な悪役に見える設定なんですが?
 この話、どうやって収める気なんだ……?

 源太主役なら、権力者と戦って死んだ英雄、あとは悪の道に染まった親友・晴興が改心して村人を助けて去り、ヒロインが源太の思い出を胸に生きていく……村人全員のコーラスのなか、幻の源太登場で主題歌……とかだよな。
 でも、晴興主役だし、どう続けるんだ?

 と、思っていたら。

 櫓の上で、ヒロインと晴興ラブシーン!!
 そっちへ行くのか!!

 主役を決める大きな要因。
 ヒロインの愛が、どこにあるか。

 『月雲の皇子』がたまきち主役たり得たのは、ヒロインみゆがたまきちを愛してたからだ。これでみゆちゃんがちなつを愛してたら、たまきちを主役として成り立たせるのは相当難しくなる。

 とはいえここで、ヒロインに晴興選ばせるか……。すげえな。

 それはともかく。

 咲妃みゆが泣くと、世界が泣く。

 ののすみかが泣くと、世界が泣く。……そう書いたことがありましたな。あのフレーズ再び。

 みゆちゃんすげえわ。
 そっち?! てな展開を、全部ぶっ飛ばす力!

 晴興と泉の物語のラストに、ああ、だから日本物なんだ、と思った。

 『若き日の唄は忘れじ』を思う。
 あのラストシーンを観て、「日本物っていいな」と思った。また、「このラストにしみじみと泣ける、日本人に生まれてよかった」とも思った。

 それと同じだ。
 この結末は、実に日本人ならではの美意識、日本人だからこその感覚だ。

 日本物っていいよな。

 今回もまた、そうしみじみ思った。

 てゆーか櫓、丈夫やな!
 大人が乗って絡んでもつれても、びくともしないんや……。


 村人たち、ほとんど死んでないんだ。
 なんかいっぱい斬られてたと思ったのに、元気に生きてるんだ……。
 よかったけど、元気でなによりだけど、ちょっと拍子抜け。
 死んじゃったのは咲ちゃんとだいもんぐらい? それが晴興の功績ってことなんだろうけど、……そうか、あんなに「うわあああ!」で「……っ(涙)!!」だったのは、ただの盛り上げるための演出だったか……。

 皆殺しがいいと思ってるわけじゃないので、みんな無事でよかったねと。
 しかしウエクミ、あざといなー。


 そして、最後の子ども時代。

 これは、泣くわ。

 反則やろ!! ってくらい、泣けるわ。

 劇場内のすすり泣き度がすげえ。
 MAX!!って感じにみんな泣いてる。
 すごいなあ……。
 や、わたしも泣いたけど、ちょっと他人行儀というか、俯瞰している感じもあってだね……。
 ウエクミ作品ならではの感覚。泣けるけど、なんか壁を感じるんだ……手放しで没入出来ないっちゅーか。
 うーん?


 ところで。

 この話ってさ-。

 吉宗と晴興のラブストーリーなんじゃないの?(素)

 いちばん愛があるの、このふたりじゃね?
 美しい悲恋だよねえ……。
 まあその、吉宗役がエマさんというのは、その、なんだ、耽美系にならないっちゅーか、えーっと。
 エマさん云々じゃなくて、脚本上の純愛は吉宗と晴興かなと。

 こんなに素晴らしい設定で、こんなに素晴らしい純愛物語なのに、「エマさんだと萌えない」と惜しがるわたしに、連れがすげー哀れなモノを見る目で「あー、はいはい」的な流し方をしてくれました……。

 や、ちゃんと泣きましたよ?
 ちぎみゆの櫓場面から泣き通しましたよ?
 でも、それと腐女子ハートは別腹なんです。
 そこのアナタ、哀れなモノを見る目で見ないで!!(笑)
 『星逢一夜』初日・初見時の感想をつらつら語る、その2。元が箇条書きメモなので、箇条書き風味。


 ながながと子役のまま物語が進み、ついにちぎくんは仲間たちと別れ、藩主の子としての務めを果たすために江戸へ。
 さあこれで時が流れて、次は大人になったちぎくんたちの話かな、と思いきや。

 まさかの江戸編もが、子どものままスタート。
 ちょ……っ、ウエクミ、マジで時間配分……! 大人になって恋愛するんでしょ? 描けるの? こんなにえんえん子どもやってて!!

 エマさんキターーッ!

 やー、いいなあ、エマさん。この別格感。専科さんはこうでなくちゃだわ。

 あすくん、ちぎパパ!
 あのちゃきちゃき喋りのあすくんが、ぼそぼそキャラやってる! つか、顔見えねえ!!
 しかし、顔伏せてぼそぼそ喋りしてるのに、台詞がしっかり聞こえる口跡の良さよ。さすがだわー。

 れいこかっけー。なんかすごくいい役?!

 せしこさんはいくつの役なんだろう?
 ちぎたさんの役と、ひとまわりくらい違うように見えるけど、子ども相手にいい大人がやることじゃないし……。

 星を見る案山子。
 や、なんかいいなあ、これ。

 で、次の場面になって。

 だいもんが、だいもんになってるーー!!

 おかしな言い方だが、第一印象。
 子役ではなくて、いつものだいもん。つまり、よーやく大人だーー!!

 髪型もふつーに……ふつー……か?
 なんだあの不思議なパーマヘア……?
 でもまあ、危惧したほど変じゃない……。いいのか……。

 きんぐ、どこにいたの?
 あんりちゃんといちゃつくきんぐを見て、彼が点呼から漏れていたことに気づく。きんぐスキーとしてあるまじきこと。

 ちぎくんも大人になってる。そして、翔くん、変わってナイ……。相変わらず時の流れを表現出来ない人だな(笑)。
 つかこの既視感。
 山田先生@『JIN-仁-』……!

 ちぎくんとみゆちゃんの再会シーンは、制作発表会のパフォーマンスで見た……場面だよな?
 ああ、そういえばポスターの衣装だ。

 三角関係、エマさんやせしこまで登場。何故かわたしはここで景子タンの『舞姫』を思い出す。星原先輩、元気かなあ。

 幻想シーンから現実の続きへ、もつれるふたりの前に、だいもん登場だーー!

 だいもん登場でわーっと思うのは、「三角関係キターーッ!」と思うから。
 やっぱ醍醐味じゃん。いちばん見られたくない最悪のタイミングでもうひとりが登場するの。キターーッ!だよね。これこそ三角関係のお約束、醍醐味だよね!

 と思うからこそ。
 だいもんがみゆちゃんをちぎくんに譲ることに、アゴが落ちる。
 オープニングダンスのアレはこういうことか!
 このシチュエーションでヒロイン譲る恋敵役……。土下座は衝撃。

 なんかまた派手に時間が飛んでる。
 ……あれ? かなとくんの出番というか、役割ってこの程度? 登場したときは本筋に絡んで来そうな、いい役に思えたのにな……。

 ちぎくんが正しいちょんまげ姿……月代姿なのに、けっこうあとから気づく。だって、違和感なさ過ぎて。似合うよなー、きれいだよなー。

 ちぎくんはきれいに大人になっているのに。

 だいもん・みゆ夫婦の老け込みっぷりに驚く。

 あー、うん、貧しい農村での暮らしは大変だよね。老け込むよね。わかるけど……。てゆーか子ども?! 3人もいるの?!
 すげー時間が飛んだので、子どもがいるのはわかる。想像出来る。3人いる、というのが想像の範囲外でびびった。や、史実以外で、ヅカのメイン夫婦が子だくさん、ての、見た記憶がなくてだな。
 夢の世界だから、かなあ。恋愛を描く劇団で、ヒロインに大勢子どもがいたら、ロマンスを盛り上げるのが難しいからなあ。

 だいもんの「ごちそうさん」はいいなあ。みゆちゃんすげー年配演技だけど、あたたかい。

 櫓、丈夫やな! まだあるのか……。あれから何年……何十年単位で時が流れているような?

 だいもん、土下座2回目。
 源太、ええ奴やなあ……。

 てゆーかこの話、どうやって収めるつもりなんだ……?
 退路がないというか、かなり描くのが難しい方向へいってないか?

 一揆場面の既視感。
 コレ見た、コレ知ってる、『月雲の皇子』だー。

 ちゅーちゃん役がいない……。わたし、『月雲の皇子』では、かなり彼女が気に入っているんだなー。ちゅーちゃんポジションの役がいると盛り上がるのになー。
 村人たちが、子役から書き続けてるわりにモブ臭強い。たぶん、多すぎるんだな。

 えっ、だいもん死ぬの?!

 と、同時に、『月雲の皇子』だーー! と思う。

 ああ、そうか。
 これって『月雲』の裏バージョンか。ちなつ主役バージョンだ。物語では大抵、反乱を起こす貧しい人々が主役。武力で押さえつける権力者は悪役。でもあえて、その悪役の悲哀を描こうとしたわけか。

 ふつーに考えれば、源太主役だよなあ。ちぎくんは「おいしい2番手役」「黒い役」だ。都会へ行って、冷たい権力志向者に変貌してしまった親友、ってやつだ。

 で、さらにここで思う。
 この話、どうやって収める気なんだ……?


 続く。
 『星逢一夜』初日・初見時の感想をつらつら語る。元が箇条書きメモなので、箇条書き風味。
 役名ではなく生徒名なのも初見ゆえ。

 オープニングは静かなダンスシーン。
 とても美しい。
 ポスターまんまの空気感であり、画面やなあ……なのだが。

 ここでのトピックスは、だいもんの髪型っ!! どうして?! まともだわっ!!

 あの変な、2時間ドラマの「ちょっとうるさいわね、お隣は昨日から留守よ」と刑事に言うためだけに出て来るおばちゃんみたいなパーマヘアじゃなく、ふつーに日本物らしいストレート・ポニーテール!! 月代なしのヅカらしい美形キャラヘア!!

 なんだ、まともじゃん! ふつうに美しいわ! よかったーー!

 登場の仕方が、ザ・恋敵。うんうん、お約束でいいねー。ヅカの醍醐味は三角関係よね。
 女ひとりをめぐる男ふたり。その関係性を表すダンス。うんうん、これよね。
 と思っていたら、だいもんが、みゆちゃんをちぎくんへ差し出した。

 えええ?! 差し出すの? 恋敵じゃないの? ショーの方では絶対毎回ある「ひとりの女を取り合う男たちダンス」で、女が差し出されちゃうの、観たことない。草野だったらそれで絶対誰か殺されるのに。ひどいときには棺桶飛んだりもするのに。
 それくらい定番なのに。

 差し出すのかー。
 どんなドラマや、それ……。

 ということはともかくとして、実はものすげー気になっていること。
 このきれいで静かなオープニング……曲が激しくなってもやっぱり静か……だって、「声」がない。みんな無言のパントマイム状態。
 結構長い時間過ぎたけど、歌はなし。
 このままオープニング終わっちゃうの?

 ちぎくん、2作連続歌なし?! 「ちぎには歌わせるな指示」劇団から出ているの?!

 と、ガクブル。
 だってありえないもの、トップスターが登場したのに歌わないなんて。前作の『ルパン三世』はかなりおかしかった。いつ歌うんだ、いつ歌うんだと待ち構え、ついに歌がなかったときの衝撃たるや……!
 あれは『ルパン三世』、演目が特殊過ぎたのだと考えることは出来るが(でも、やっぱ変だよ小柳タン)、2作連続だったらそれ、意図的なおかしさってことなる……?

 と、思ってたら、歌い出した。

 ああなんだちぎくん、歌あるじゃん!!
 ふつーじゃん!
 歌禁止令出てないんだ、よかったあああ。


 そして、子役編スタート。
 前日欄に書いた、独特の空気でスタート。

 みゆちゃん、かわいい。

 女の子の方が早熟なんだよね。性別未分化の子どもの部分と「少女」の部分の融合が心地いい。

 ちぎくんは子役でも美形。美少年。
 だいもんは……。

 だいもんはあれ、「少年」ではなく、容赦なく「子ども」だよな……。
 きれいじゃない。ビジュアルのことじゃなくて、表情とかが「タカラヅカの少年役」ではなく、「子ども」。
 ちぎくんは「タカラヅカの少年役」なんだ。だからきれい。

 また、それゆえにだいもんの「待って~~」はかわいいんだろう。

 ……他の子たちはろくに観るヒマなく。一斉に出過ぎなんや。
 レオ様の悪童ぶりにニラニラ。

 あれ? そーいやいつの間にか着物が汚れてる。

 ところで櫓って、あんな丈夫で立派なモノが、仕事が終わったあとから日暮れまでの数時間で作れるものなの??
 秘密基地って何日もかけて作るイメージ。……1日の出来事だよね? 違った? 自己紹介してたし?

 あー、子役編長かったなあ。
 こうして時が流れ、次の場面では大人に……なってない?!

 まさかのまだ子ども。
 次の場面、エピソードでも、まだ子ども。

 かわいいけど、微笑ましいけど、えっとこれ、何分の芝居だった? ウエクミ、時間配分大丈夫?
 子どもミュージカルでないタカラヅカで、主役たちの少年時代を描いていい時間って、せいぜい1場面、数分間でしょ? 『カリスタの海に抱かれて』レベル。一本モノならまだ、『眠らない男・ナポレオン』ぐらい学生時代やっててもいいかもだけど。

 しかも、子ども、増殖してる!!

 水盗みに来た連中も、ふつーに仲間やってる……?

 しかし、櫓丈夫やな……。足の踏み場もないくらい子ども載ってる。

 こうして子どもたちはそれぞれの立場に分かれていったのでした……ってことで、次こそ大人に……。

 まだ子ども?!


 続く。

 初日は観ておくものだな!
 と、思う。

 その公演を「はじめて観る」、その公演の出演者への愛も予備知識もある人たちで埋まった、ある意味特殊な客層、それゆえに出来上がる空気。

 幕が上がり、ざわざわ、どよどよ……っ、と、空気が動く。

 今自分が目にしているモノを、どう受け止めていいのか、どう反応すればいいのか、情報処理が追いつかず困惑している状態。
 そんな空気が、劇場まるまる、全部に満ちる。

 特殊ですよ……!

 『星逢一夜』初日。

 オープニングのダンスシーンが終わったあと、主人公ちぎくんの郷愁に満ちたモノローグに導かれ、本舞台の幕が上がった……なんかのどかな田舎風景。
 そこに現れる、子どもたち。

 子ど……も?

 最初に声を出すおさげ髪の少女、あれは、みゆちゃん……よね。
 まあ、みゆちゃんが子役でもそれほど違和感はない。つい1年前も子役みたいな男装の少女役をやってたんだし。

 が。
 そのみゆちゃんと話している男の子……あれは……。

 だいもん?!(白目)

 下手側からは、わいわいと子どもたちが登場する。
 やたらでかいのに脛を剥き出しにした、あれは、大ちゃん??
 咲ちゃんが、これまたでかい図体で泣き出した……!
 さらさもでかい、大人っぽい。でも、やっていることは幼女。

 ゆきぐみの、いろおとこ、びじょたちが、こんしんの幼児演技をしている……!(震撼)

 ざわざわ、どよどよ……っ。

 困惑する客席。

 なんなの、これ?
 総幼児プレイって。
 子役時代があるとは、わたし以上に他の組ファンのみなさんは知っていたと思うけど、それにしたって客席の空気!!

 笑えばいいの? 静観するべきなの?
 と、とまどってる。

 最近おっさん度が増しただいもんの、子役芝居。いくつ設定の役なのかわからないが、かなり幼い作り。
 クラッシャー系大男・大ちゃんの幼児プレイ。いつもの大ちゃんで、いつもの大ちゃんなのに「やーいやーい」なジャイアン幼児だから、さらに意図が判別出来ない。

 キャストへの予備知識があればあるほど、その姿だけ切り取れば「滑稽」とも見える。愛情ゆえに知識ゆえに、笑いそうになる。
 だが、笑っていいのかわからない。だから、空気を読む。これはどういうことなの……? と。

 さらに、ちぎくんまでが現れた。
 さすがに、笑う人も出て来た。ざわざわ、のなかに、少しばかりくすくすも入る。

 ちぎくんの子役がおかしいということではなく、今までの状態で十分おかしくて反応に困っているのに、とどめ、って感じにトップスター様まで脛を出した幼児で登場されたら、臨界点突破、緊張ゆえに笑ってしまう人が、一部出てしまうのだろう。生理現象だね。
 笑いは笑いを呼び、ああなんだ、笑っていいのか、と思った人がつられて笑い、さざ波みたいに時間差で笑いが広がる。

 笑われながらちぎくんはセリの上でよいしょよいしょとナニか作っており、だいもんたちも階段を上がってそこに合流する。
 どんなに客席の空気が微妙でも、彼らはかまわずに芝居を続ける。

 ゆえに、客席も理解する。
 ああ、お芝居がはじまっているんだ、このまま続くんだ。それなら観なきゃ、集中しなきゃ。

 あの困・惑っ!という空気は、すーーっと静まった。
 ファンがほとんどを締めているわけだからね! この辺の切り替え早いよね。連れて来られたとか、ナニかの間違いでここにいるとかじゃなく、積極的に舞台を「味わう」つもりの人たちが大半なわけだからね。
 芝居がはじまっているんだ、と理解したら、芝居に集中するさ。

 もう誰も、くすくすしない。
 ざわざわしない。

 あるがまま、目の前の「幼児プレイ」……もとい、子どもの演技を見つめている。

 そして、不思議だよね。
 あんなにびみょーで、ざわざわ音になるくらいの違和感バリバリだった子役姿が、観ているうちに馴染んでくる。
 ひとりだけそうならつらいかもしれないけど、舞台にいる全員が子役だからな。
 小さなトトロのぬいぐるみの横なら「大きいな!」と思えるうちの猫が、巨大なムーミンのぬいぐみの横だとそれほど大きく見えない……ようなもんだ。視覚マジック、比較対象によって、錯覚が起こる。
 全員子役だから、「そういうもん」だと思えてくる!! 大人役が出て来るのは目に馴染んだあとだし!

 で、「そういうもん」だと思って見ていたら、どんどんかわいく見えてくる!!

 ちぎくんとみゆちゃんに置いていかれ、「待って~~」と銀橋を走るだいもんに、「かわいい……っ!!」と感嘆の声が漏れるほどに!!

 少年だいもん登場したときみんな、白目剥いたじゃん!! ざわ…ざわ…、って、カイジ張りに緊張感漲らせたじゃん!
 なのになのに、わずか十数分とかで、「かわいい……っ!!」って。

 いや、実際、かわいいから!!

 すごかった、あの空気。
 子どもたち登場から、だいもんの「待って~~」まで。
 変わる、変わる。
 空気が変わるの。

 面白えぇぇえ!!

 自分も、まちがいなくそのひとりだから。同じ感覚を、空気を共有したから。

 初日は観ておくものだな!
 だから、初日はやめられない。できるたけ初日に参加したいと思う。

 翌日、早々に2度目の観劇をしたのだけど、もう情報は行き渡っているし、わたしのようなリピーターも多いのだろう、幕が上がって子役たちが登場しても、一部の初見組が反応するだけで、大半は「芝居を観るモード」に入っていて、「え、子役?!」ということに足を取られない。
 空気は、動かない。

 ……だからこそ、初日のあの特異な空気は、愉快だった。
 体験出来て良かった。

 幕が開いて2日目、もう「子役だから」ということに過剰反応する人は少なかったけれど、初日と変わらず、だいもんの「待って~~」には、「かわいい……っ!!」の声が上がっていた。
 だいもんがかわいいのは、まぎれもない事実であり、客観的視点においても感動的なのだろう。
 うむ。
 大雨です、嵐です、雪組初日です。

 いやあ、揺るがないな! 雪組初日=荒天。思えば前の大劇場公演初日も荒天だった……目の前が真っ白で数メートル先がナニも見えない吹雪状態でね……。
 今回は大雨かあ。
 どっちにしろ電車止まって大変☆ てな。

 それでもタカラヅカは磐石ですとも、なにごともなく幕を開けるのです。

 『星逢一夜』『La Esmeralda』初日。

 サイトーくん作の『La Esmeralda』には過大な期待はまったくしておりません、興味はなんつっても上田久美子先生の大劇場デビュー作『星逢一夜』ですよ。
 『月雲の皇子』『翼ある人びと』と、デビュー時から実力を見せてくれている、期待の演出家。別箱で佳作を生み出すウエクミが、はたして大劇場でどんな作品を見せてくれるのか。
 ……とりあえず、駄作とか地雷作にはなりようがないだろうから、それだけでも安心、あとはわくわくしているだけでいい、という幸福な初日。

 初日ですから、ロビーには関係者がずらり。
 ウエクミもいました。
 わー、生ウエクミだー。美人さんニャ~~。知的な感じがいいっすね~~。
 若くて美人で才能もあって……か。すごいなー。

 女性演出家はいいよねえ。テレビとかより、ナマで見る方がみんな素敵よね。人生充実している人たちは、ハリがチガウのかもな。
 『Shall we ダンス?』東宝初日に見た小柳たんもかわいかったなー。振袖姿でさー。ファンの人から頼まれて撮影会みたいなことになってたから、誰かOGが来てるのかと思ったわ(笑)。
 わたしみたいな年寄りからすれば、女の子はみんなかわいく見える。はー、がんばっている若い人を見るのはいいわねえ。

 ウエクミ作品は好きだけど、なんとなくわたしの心に壁があるので、「ファンなんです! サインください!」と突撃する気にはなれず、話しかけている人々を遠目に眺めるだけで座席へ向かった。

 心に壁。
 遠い。
 他人行儀。
 ウエクミは好きだけど、手放しにファンなんじゃなくて、なんか1枚も2枚も間に挟まったような、そんな感じなの。

 たぶんそれは、「好き」と思った作品を、わたしがきちんと咀嚼しきっていないためだろうなと思う。
 いいな、と思う。が、手放しで夢中になるにはなにかしら、引っかかるところがある。ブレーキが掛かる。
 それがなんなのかをきちんと考える余裕がなく、スケジュールに追われ、リピートすることもなく終わってしまう。

 それはもったいない。
 他の作家はともかく、ウエクミはもっと味わうべきでしょう。
 常々そう思っていたから、雪組公演がうれしい。
 『月雲』や『翼』にハマれなかったのって、贔屓組公演じゃなかった、てのが大きい。贔屓組なら何度もリピートするけれど、それ以外の公演は叶わない。単純に、びんぼーだからだ。情けない話だが、お金も時間もなくて、他組を贔屓組と同じ濃度でリピート出来ない。

 あー、馴染みの薄い組でも、本公演ならリピートしやすいんだよね。びんぼーヒマなし、であったとしても、期間が長いから都合を付けやすいし、チケットは取りやすいし、安い席もある。
 期間が短くてチケット枚数が少なくて一律料金のバウや、他はともかくチケットの割高さナンバー1のDCじゃ、1回観るのが精一杯だわ……。
 贔屓組じゃなくても、大野くんの『夢の浮橋』は通ったわねええ……と思って、ああそうか、大劇だ、と思い至った。本公演なら通えるんだ。

 そしてこのたび晴れて、贔屓組でウエクミ。しかも、大劇場公演。
 いくらでも通えるわー。堪能できるわー。
 わくわく。

 いつも通り予備知識はほとんどなし。
 制作発表のパフォーマンスをテレビで1度見ただけで、インタビュー系は見ていないので、話の内容はほぼナニもわかってない。
 そのパフォーマンスだって、だいもんの髪型しか記憶に残ってない……。衝撃だったもん……。

 だいもんファンとのメールのやりとりでも、
わたし「とっても楽しみです。(髪型以外・笑)」
ファン「とっても楽しみです。(髪型も含めて・笑)」
 ……だったりして、あー、ガチのだいもんファンでも、あの髪型がびみょーだと思ってるし、そしてそれも含めてアイシテルんだなー、といろんな意味で胸熱だった。

 ちぎみゆだいもんで三角関係。子ども時代もあるらしい。それくらいの予備知識で、さあ観劇、っと。
 さて、宙組『王家に捧ぐ歌』
 初日、中日、新公、楽前、と万遍なく通って楽しみました。好きな作品だからねー、やっぱ楽しいわー。
 ドラマチックな物語にどわわーっと感情移入して、ぐわーーっと泣く、そしてフィナーレで「タカラヅカ」を堪能して、「はー、いいもん観たわー!」と満足して帰路につく。
 タカラヅカっていいな。

 歌えないアムネリス様以外は、楽しんで観劇してます。……すまん、うらら様は今回パス。次回の彼女に期待。

 最初、「どーすんだ?」と首をかしげたサウフェ@りくくんが、なんか愉快にイッちゃってて、これはこれで面白いなと思いました。

 そして、マイ楽で気になったのは、女官役の女の子。

 出来るだけいろんなとこを観よう! 定点観測ばっかしてんじゃねえ! と自分に檄を飛ばし、ふだん観ない人たちを眺めておりましたらば。

 まるまるしたお顔の女官の女の子……頭痛が痛い、みたいな字面になるなー、街の男役の男役、みたいな。(どうでもいい)
 アイーダ@みりおんをいたぶる、こわーい女官ズのみなさま。同じ髪型同じ衣装、宙組にうといわたしには、誰が誰だかさっぱりわかりませぬ。
 わかるのはせーこちゃん、エビちゃん、ありさちゃん、ららちゃん……ぐらいかなあ。彩花まりちゃんはこの役では判別出来ないまま終わっちゃった。
 えーと、残りの女官って何人だ? 動くからよくわかんない……点呼する間は止まっててー。なんて、勝手なことを考えつつ。

 ふと気になったのが、アイーダに水ぶっかける女官。
 その悪魔的な表情があざやかで。

 こわっ、と、思った。

 女官のみなさんみんなこわいんだけど、なかでもその子の顔は、ただ意地悪なんじゃなくて、「愉悦」があったのね。

 なんかめっちゃこわい子がいる。いくら芝居とはいえ、すっげー顔するなああ。
 と思って、そのあとも彼女を目で追っていると。

「おやめなさい!」
 と、アムネリス様@うららちゃんが登場して、女官たちは一斉に控える。
 他の女官たちが言葉通りにあわてて控えている中で、その子はすっげーわくわくしていた。

 アムネリス様のいないところでしていた、いじめが見つかったというのに。
 他の人たちが「やばっ」て感じにあわてているのに。
 なんでこの子、うれしそうなの? わくわくしてるの?

 すぐに、わかった。
 そうか、この子、ほめられると思ってたんだ。アムネリスに刃向かった、いやしい奴隷に折檻したことを、「よくやりました」とほめてもらえると思ってる。
 なのに、アムネリス様は、彼女が期待したのと反対のことを言いはじめる。
 アムネリス様のお言葉を聞きながら、はじめはぽかーんと、次第にがーーん、と、すっげー傷ついた顔をする。
 ほめられる! と、あんなにわくわくして、誇らしげにしていたのに。期待に反して叱られて、ショックを受けている。
 呆然と、泣きそうにうなだれて。
 それが次第と、上向きになっていく。
 アムネリス様のお言葉を聞くうちに、どんどん感動していくんだ。
 最後の方はもう、すっげーキラキラした目で、アムネリス様を見つめている。
 うっとりと。崇拝の瞳で。

 面白ぇ。

 この子、めちゃくちゃ面白いわー!!

 愉悦の顔でアイーダをいたぶっていたのもわかる。彼女にとっては正義、アムネリス様にほめていただける行為だったんだもの。
 アムネリス登場時の、あのわくわくした顔。一転、傷ついて泣き出しそうな顔。そこからの立ち直りまで、物語がある。

 てことで、1幕ラストもはじめて、舞台後方で動く背景みたいになっている女官を見ました。えーと、丸顔の子、丸顔の子……なんか複数丸い子がいるんですけど、下手のいちばん端の子であってる?
 わたしのポンコツ海馬はなかなか人の顔をおぼえないのですよ。特に女の子がわかりにくくて。
 いちばん端の子は、ラダメス@まぁくんの「あり得ない提案」に愕然、もんのすげーショックを受けてました。
 許容量オーバーしたみたいで、灰になってた。ぼーぜん、って感じで、異を唱えたり怒ったりする余裕もないようだった。
 あんだけアムネリス様に心酔しているのだから、アムネリスの想い人ラダメスのことも、神聖化していたんだろう。神に裏切られたとき、こんな顔になるのかな、って感じだ。
 や、別の子だったらすまん。

 幕間にプログラムを確認したんだけど、わたしが見分けの付いていない女官は6人もいて、そのうち彩花まりちゃんだけは「チガウ」とわかるので、残り5人……ダメだ、プログラム写真じゃ判別できねー。
 花咲あいりちゃんか、瀬戸花まりちゃんだと思うけど……自信ナイ……。


 ミクの方でつぶやいておいたところ、東宝公演になってから、東在住宙担友人から、答えをもらいました。
 瀬戸花まりちゃんだそうです。

 よかった、まだ新公学年だ。面白い芝居する子だ、これから新公でもチェックしてみよう。
 極端な話をする。
 ある日、観劇しながら思ったんだ。
 そもそもミュージカルってなんなの? と。
 台詞が歌になる意味ってナニ? そんなんおかしいやん、ありえないやん。
 無理に歌わなくていいじゃん、もともとありえない、おかしなことをやってるんだから。
 舞台から、おかしなことをやってる、ということが、ひしひしと感じられた。無理なことをしている、ということが、ひしひしと感じられた。
 歌になるたびに、無意味だ、無理だ、これは無理に作った絵空事で、作り物を、役者ががんばって演じているのだ、と思った。物語からアタマが切り替わり、無意味だ、と思った。

 ミュージカル否定論。台詞を歌にするなんて不自然、不要。


 ……わたしは、ミュージカルが好きだ。
 台詞が歌になるのも好き。歌と台詞が乖離しているモノ(例・植爺作品)より、物語の中にふつーに融合している作品の方が好き。
 心が動き、気持ちが歌になる。
 ただ言葉で発音するだけよりも、メロディにのせることで、何乗にも感情が豊かになる。多くの情報が伝わる。
 わたしは、ミュージカルが好き。

 だから。

 ごめん、『王家に捧ぐ歌』のうらら様は、ダメだ。わたしには。

 許容できない。

 たかが歌じゃないか。
 そう思おうとした。
 うらら様の美貌が素晴らしいことはわかる。彼女の顔は大好きだ。
 美貌はアムネリス様に相応しいと思う。あの豪華衣装を、ばーーん!と着こなしてしまうことには感服する。だから極力、美貌を愛で、足りないモノには目をつぶろうとした。歌以外を楽しむのよ。歌だってがんばってるし、うらら様比でよくなってるんだし。きっとものすごくがんばったんだわ。その努力を想像しなきゃ。
 初日はそうして乗り切った。2回目も、出来るだけ心を閉ざし、開いた部分で良いところだけ見るようにと努力した。
 だけど、3回目の観劇で。
 思った。

 たかが歌、とは思えない。
 だって、歌、は、在るんだもの。
 台詞が歌、になっているこの作品で、大切な部分、盛り上がる部分は、歌、になってるんだもの。

 たかが歌……。それ以外を……美貌とか、芝居とか……。
 芝居もいいのかもしれない。『翼ある人びと』は良かった。
 でも今回は、芝居も無理だ。わたしには。
 だって芝居と歌が、密接な関係にあるんだもの。

 なまじわたしは初演厨だ。「初演は神、再演は『初演ではない』というだけで糞」という思考に陥る危険性を持っている。わたしがこんなに反応するのは、初演厨だからじゃないのか? 生まれてはじめて見る『王家』が宙組で、生まれてはじめて出会うアムネリスがうらら様なら、こうは感じないのではないか?
 そうかもしれない。すべては、わたしが初演厨で、無意識に、初演以外、檀ちゃん以外認めないっっっ、と思い込んでいるためかもしれない。だから、偏った見方をしているのかもしれない。

 だが。

 そうだとして、なんだっつーんだ。
 「ミュージカルなんていらない」……わたしにそう思わせるような歌唱をするアムネリスを、「初演厨にならないために」許容する方が、おかしくないか?

 うらら様のタカラジェンヌとしての才能を、女優としての可能性を、否定するわけじゃない。したいわけじゃない。
 ただ、今回に限って言うと、「勘弁してくれ」と、思った。

 物語に没入する、観劇する、異世界に酔う、この世を離れ、ドラマティックな世界を堪能する……その感動を、いちいち、ぶった切られるのだ。
 ザッと冷水を浴びせられる。
 ここから盛り上がる、感情が高まる……、という、まさにその瞬間、あるはずの音は消え、不自然な、不快な音がする。
 感情が高まり歌になる……のなら、人はこんな「出ない音を無理に出す」ことはしない。ない音を絞り出したり、無理をして誤魔化したり、しない。
 そうだ、これは「作り事」だ、嘘だ。
 今わたしが心を動かしたモノは、全部全部、真っ赤な嘘、ニセモノだ。

 喉を潰したときのえりたんを思い出した。
 声が出なくなったえりたんは、「出る音」だけで歌おうとした。が、途中で音が消え、出るはずだった声はおかしな音だけ残し、聞こえるはずだった歌詞は消えてなくなった。
 観ているわたしは、はらはらした。手に汗握って見守った。応援した。がんばれ、えりたん。もう少し、あと少しで曲が終わる。ああ、音がはずれた、ああ、音が消えた……がんばれ、がんばれ、なんとか歌いきって!!
 可哀想だから、もう歌わないで、とは思わない。彼はプロで、自分の意志でここにいる。だから、どんな姿であろうと、歌いきることが使命。そしてわたしは、彼が彼の選んだ使命を全う出来るよう、応援する。がんばれ。

 同じく喉を潰したときのまっつは、少し違っていた。出ない音を出そうと苦闘したのはわずかな間で、あとはすぱっと切り替えて、歌を台詞に変えて乗り切った。どうしても歌わなければならないところも、声をコントロールすることでねじ伏せた。……普段から声のコントロールを得意とする人は、アクシデントに対しても強かった。
 それでももちろんわたしは、客席で手に汗握っていたけれど。

 喉を潰した人の舞台を、思い出した。
 出るはずの音が出ずに、ヒッとかウッとか、おかしな音がして、無音になる。
 がんばっていることがわかるから、客席で応援した。
 プロなのに喉を潰すなんて、とんでもない。プロ失格だ!! とかゆー議論は置いておいて。

 今、目の前で、「喉を潰した人が、必死に出ない音を出そうとして、結局出せずに終わっている」のと、同じことが展開されている。
 喉を潰した人がプロ失格、舞台人として最低、と言われたりする世の中で……今、わたしが見ているモノは、なんなんだろう?

 もともと歌える人が、故障で歌えなくなるのは最低、どんなに努力しても歌えない人が歌えないのは仕方ない、それを責めるのは人として間違ってる?
 いやソレ、そもそもそういう人は、「歌わなくてイイ」のでは?

 じゃあなんで歌うの? そうか、歌があるから悪いんだ。なんで歌なんかあるの。台詞を歌にするなんてナンセンス、ミュージカルなんてものがおかしい。
 てことで、やっぱり「ミュージカル否定論」にたどり着いてしまう。

 ぐるぐるぐるぐる。

 こんなことを思うのは、はじめてだ。

 タカラヅカに音痴は付きもの。音痴が嫌ならタカラヅカを観るな。……よくある台詞。
 わたしは歌ウマさんが好きだが、なにしろヅカヲタ長いので、音痴スターさんにも免疫がしっかり出来ている。
 どんな音痴スターさんにも、こんなことは思ったことがない。
 音痴だな、とか、歌ひでえな、とは思う。ふつーに耳があるから。
 が、音痴さんが歌っているからって、「この世にミュージカルは不要だ」と飛躍したことはない。
 だって音痴さんの歌って、「声はある」んだもの。ただ、音がはずれているだけで、音自体はある。
 そしてミュージカルってのは、「表現方法として、歌う」ものでしょ? 音を使って表現する、その音が迷っていても彼方へ飛んでいって元がわからなくなっていたとしても、「音」はある。そのはずれた音も、「表現」だと思える。心の動きがその「音」になったのだと思える。
 また、物語に没入していたら、音程のやばさや歌詞の不明瞭さごときに水は差されない。それすらも物語の一部だからだ。

 が。
 「音」自体が「なくなる」のは、ソレもう、歌がうまいとかヘタとかの次元じゃない。

 喉を潰している人をはらはら見守ったように、「次の歌、歌えるのかしら」「ここから音上がる、出るのか? ……(息を詰める)……な、なんとか乗り切った、でも次は……っ?!」て、はらはらしながら、「それが通常」の人を、なんで見守らなきゃならないの?

 それは趣味の問題? 世の中には、音が外れることの方が、音がなくなることより不快な人もいる。世の中には、美貌がすべてで、美人が出す音なんて、途中でなくなっていても気にならない人もいる。
 もちろん、そういう人もいるでしょう。
 でもそれならそもそも、歌いらなくね? 歌劇である意味なくね? なくてもいい音なら、最初からなければいいんだもの。

 ヅカヲタ長いから、「音痴」「歌が致命的にヘタ」なスターさんは数多く(多いのよ……)見てきたけど、「声が存在しない」スターさんは、うらら様がはじめだ。
 だからこれは、はじめて感じたこと。はじめて知った感情。

 うらら様のアムネリスは、芝居以前の問題。
 ミスキャスト。

 彼女がどんなに素晴らしい演技をしていたとしても、「歌が台詞」のこの作品で、出ない音を無理に絞り出したり、不自然に消音したりしている段階で、わたしには伝わらない。
 アムネリスのうらら様がアリだというなら、ミュージカルなんて不要だ。


 だからどうして、うらら様にアムネリスをさせたのか。
 ここまで作品を破壊しない、彼女のために書き下ろした作品と役をやらせればいいのに。
 故障した役者をはらはら見守る、ようなことを観客に強いることなく、彼女の魅力や才能を発揮させる方法はあるはずだ。

 ただもう、残念だ。
 本当に、かなしい。むなしい。

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