『グランドホテル』を観劇して、遠い遠い初演の記憶との差異に首をかしげた。

 いちばんの違い。

 男爵とバレリーナの物語って、もっと美しいと思っていた。

 夢のように美しかったんだが……。
 えーとソレ、わたしが盛っちゃってる? 長い年月、脳内で勝手に盛りまくって、美しいモノを創っちゃってる?
 事実と違う?


 前日欄でも書いたが、事実と違っているかどうかは、ひとまず置く。
 過去のわたしがアホで作品をまったく理解出来ていないとか、勝手に解釈して脳内で別モノにしているとか、それは別にどーでもいい。
 や、初演ファンの人には「そうじゃないよ、間違ったことを書くな!」てなもんかもしれないが、「正しい初演『グランドホテル』はどうであったか」を語りたいわけではないので、勘弁して欲しい。
 あくまでも、わたしが観た・わたしが思い込んでいる、わたしの脳内の『グランドホテル』の話だ。
 「正しい初演『グランドホテル』」の話はわたし以外でも出来るけど、わたしの脳内にある『グランドホテル』の話は、わたしにしか出来ない。

 初演『グランドホテル』で、わたしは男爵を「かっこいいおじさま」だと思っていた。
 ヒゲのダンディ。イケオジ。借金あったり情けないことになってはいても、基本かっけー大人の男。

 そして、バレリーナのことは「美しい人」だと思っていた。
 落ち目だと言われているが、人気の盛衰なんて芸能社会でよくあること、彼女の年齢とか技術や容姿の問題だとは思ってなかった。
 だって、目に映る彼女は妖精のように美しいんだもの。

 だから、ふたりが出会った途端恋に落ちるのは納得だった。
 そして、その恋が一瞬で破局することも。

 物語の主人公が冴えない中年男でヒロインがビッチ系だってことで、その反動でより美しく受け取ったかもしれない。
 本筋が好みでない人たちの方で、男爵とバレリーナはあくまでもサブストーリーでしかない、という露出具合もまた、彼らをより美しく見せたのかもしれない。
 事情はともあれ、わたしには美しく哀しい人たちに見えた。


 ……ので。

 あ、あれ。
 男爵@たまきちとバレリーナ@ちゃぴが、美しくない……。

 ということに、びびった。

 えええ。こんな話だったのぉ?
 23年前のわたしは、ナニを見ていたんだ??


 まず、フェリックス・フォン・ガイゲルン男爵。
 この人の年齢設定はどうなっているんだ?

 登場した瞬間は、ふつーに大人の男に見えた。外見は適度に老けている。久世男爵の先入観もあるので、「おっさん役だものね」と素直に受け取った。

 が、どうやら若いらしい。観ていると、若さが伝わってくる。
 実際まだケツの青い若造年齢を告げる場もあった。

 若者だったのか!!

 四半世紀前と現代では、年齢の受け取り方がチガウ。大雑把に言っちゃうと、昔の20代は大人でも、現代の20代はコドモだ。テレビドラマを見ても、描き方がまったくチガウ。たとえば、モラトリアムでぐたぐた言うのは昔は19歳だったのに、今は29歳主人公で扱うテーマだ。

 だから、初演のノンちゃん男爵も実は20代だったのかもしれない。当時のアラサー男性はあれくらいおっさんだったということ、かもしれない。
 そして、たまきち男爵はリアルな現代の若者。年齢は大人だけど、中身はコドモ。

 だとしても。
 たまきち氏は難しい。
 彼はふつーにスーツを着ていると、貫禄ある男性に見えてしまう。わたしには。
 だから「おっさんなのね」と受け取る。
 でもたまきち自身は若い。おっさん役でない以上、当然、若さが出る。
 若くない外見とにじみ出る若さと若い年齢の役と……わーん、どっちかに振り切ってくれ!
 若い役なら、若い外見にしてくれ! 貫禄ある二重顎を、若者らしいシャープさにしてくれ!

 おっさんなら、頬や胴回りが豊かでも、貫禄になってかっこいい。
 しかし、若くて顔の肉が豊かなのは、……わたしには、残念に思える。

 丸くても「かわいい」タイプなら、混乱はしないのになあ。若いから丸いのね、と思える。
 でもたまきち、かわいこちゃんじゃないやん……。男臭い系やん……。
 ガタイの良さは魅力だと思ってるけど、顔の肉は控えめな方がいいなあ。


 という、「男爵」というキャラクタへの混乱がひとつ。
 そしてもうひとつ、バレリーナ……エリザヴェッタ・グルーシンスカヤの年齢設定について。

 39歳と39ヶ月、だっけ。作中の台詞。
 つまり42歳ってこと?
 たしかに数字で聞くと「うわっ、そんなトシなのか!」とびっくりするけれど。
 でも実際、大した年齢じゃないよね。現代なら。
 ただ、当時だと大年増、ぶっちゃけ初老ってことなのかな。また、一般人としてでなく、バレリーナとしては老女ということなのかもしれない。

 が。
 そんな年齢設定とか、当時だとか職業としての年齢概念としてではなく。

 ちゃぴの演技が、老齢過ぎてびびる。

 なんであんな声? バレリーナは「悪声」設定じゃないよね? 声が悪くてもバレエに関係ないし。

 見た目には、美しい大人の女性だ。
 でも演技が痛々しい初老おばさんであるがゆえに、美しく見えない。
 え、え、この人、年齢いくつ? 若く美しいけど、実は老婆? でも背筋伸びてて、現役バレリーナで、でも声も表情も年期入ったおばさんで……わ、わからないっ。


 男爵は一見おっさんで、でもプリケツの若者で、青くて幼いメンタルをしていて。
 バレリーナは一見美女で、でもカンチガイ老婆で、ヒステリーと諦念できーきー言っていて。

 どこに基点を置いて観ればいいのか、わからない。

 困ったぞ。
 そんなわけで、初観劇は、1月3日。
 3日だけど、お正月記念ポスカもらえたー。昔は元日のみだったと思うけど、今年は3日までかな。
 ヅカはじめ、観劇はじめです。

 作品はお楽しみの『グランドホテル』
 初演を観て、とても感動した記憶あり。

 とはいえ、初演をよくおぼえている、というわけでもない。なにしろ1回しか観られなかったんだ、チケットが手に入らなくて。1階22列目で友だちと並んで観た。(当時は21列目だった。中通路挟んだすぐ後ろ)
 とにかく「タカラヅカらしくない」舞台に圧倒されて終わった。

 わたしは当時の月組トップスターの涼風さんが苦手だったため、月組はほとんど観たことがなかった。だから出演者にもあまり馴染みがない。主要メンバーしかわからない、それ以外は一切見分けついてない、そんな状態。
 それでも、圧倒された。
 ただ、すごかった、感動した、という漠然とした記憶だけ抱いて、現在に至る。
 細部はまったくもっておぼえてないんだ。

 回転ドアと椅子かな、印象強かったの。
 椅子ってのは、電話交換手が坐ってた、たくさんある椅子ね。
 タカラヅカの舞台って、植爺の『ベルサイユのばら』みたいに、大きな書き割りセットがどーんとあって、お屋敷です、とか、オスカルの部屋です、とかやるもんだと思っていたの。豪華なセットです、タカラヅカといえば豪華絢爛、1場面ごとに独立したセットを作ります、大道具動かすだけで別の場面です、背景なにもないけど想像してね!なんて貧乏くさいことはやりません! ……てのがタカラヅカだと思っていたの。つか、タカラヅカを観てそこにびっくりしたから。
 ゆえに、椅子を移動させて場面を作るのが新鮮で。わー、タカラヅカじゃないみたいー、外部のお芝居みたいー。という感動(笑)。
 舞台も暗くて、『ベルばら』みたいに煌々と舞台全体が同じ明るさじゃない、薄暗くて神秘的!
 ……どんだけ『ベルばら』基本のタカラヅカ認識だったのわたし。

 『グランドホテル』に抱いていたのは、暗い部屋での合わせ鏡のような美しさと神秘的さ。
 鏡のフチは金古色の額縁ね。鈍く光る枠と鏡面。無限に世界が連なり、美しさと不思議さ、一抹のこわさがある。
 そこで展開される人間模様。現実の色にセピアを加えたような、ノスタルジックな印象で。

 主役だというオットー@かなめさんのことは、あまりおぼえていない。なんでトップスターがこんな役? というのと、退団がこんな役だなんて、わたしがファンなら嫌だな、と思ったことは、おぼえている。
 ヒロインのフラムシェン@よしこちゃんの記憶も薄い。タカラヅカのヒロインらしくない役だなあ、と思った。この役は、ラストシーンがいちばん納得出来てないかもな。
 オットーとフラムシェンがハッピーエンド的に終わることに、頭も心も付いていかなかったの。打算しか見えないっていうか、「えっ、それでいいの?(わたしなら嫌だ)」と思ったのな。

 トップコンビの役に感情移入出来ないわたしが、それでも感動したのは男爵@ノンちゃんがかっこよかったことと、彼と恋に落ちるバレリーナ@はねちゃんの物語が、美しかったためだ。
 ふたりの瞬間湯沸かし器的恋の盛り上がりと、短く儚く不幸に終わる結末に、タカラヅカ・ハートを満たされた。
 わたしはタカラヅカが好きで、タカラヅカを観に来ている。
 冴えない中年男と、打算的なビッチ女が、お金で手を取り合う物語を観たいわけじゃない。美しい恋の物語を観たいんだ。

 「オットーとフラムシェンで描かれていたモノはそんな低俗なモノじゃないわ、奥深くて高尚なモノよ!」というツッコミは勘弁。そーゆーモノだったのかもしれんが、わたしはそんな難しいことまで理解出来ず、ごく浅いとこしか観てないし理解出来てない、という、過去の事実の話だから。
 事実は事実、今回の観劇はそんな偏った思い込みと、薄い記憶しかない状態からのスタートなんだってこと。


 そんなだから、今回の『グランドホテル』が、男爵とバレリーナの物語中心である、ということを素直に喜んでいた。
 初演をろくにおぼえていないので、どこがどうチガウ、というのは、さっぱりわからない。
 比べられるのは、印象のみ。

 その印象が、ずいぶん違ったんだ。
 ところで、新年早々のカンチガイ。
【テレビ】NHK BSプレミアム特集番組
2016/12/01
番組名
「新春 宝塚スペシャル ~レビュー誕生90年~」
  
放送局
NHK BSプレミアム   
放送日時
2017年1月3日(火)16時30分~17時59分
放送内容
・宝塚大劇場月組公演『カルーセル輪舞曲(ロンド)』舞台映像(録画)
・珠城りょう、愛希れいかへのインタビュー
・レビュー90年の名作のアーカイブ映像
・宝塚歌劇団卒業生へのインタビュー

当該番組に関する詳細な情報については こちら をご覧下さい。(以下省略)

 というニュースがHPに掲載され、わたしは「ふーん」と流し読みした。
 お正月からBSでタカラヅカの舞台中継流すんだー。久しぶりやな。
 昔はよくやっていたし、特集組んで数日間放送してくれたりもしたけど、100周年のお祭りを除けばそんなこともう、なかなかやってくんないよねえ。
 TCAとNHKではカメラアングルがチガウし、NHKは高画質。お正月関係なく、NHKが腰を上げてくれることがうれしい。

 『グランドホテル』は版権問題で中継できないのかな、ショーだけなんだ。まあ仕方ないな。
 ……ん? 放送日は1月3日? え、わたしこの日ムラへ行くわ。
 つーと中継日に当たってるのか!
 
 テレビ局が来ていたからといって、一観客にはなんの関係もナイ。テレビに映るわけでもインタビューされるわけでもない。(されそうになったら逃げる)
 それでも、そんな特番のテレビ局スタッフが来ている日、っていうのは、華やいでいいですな。
 出演者たちも気合い入ってるだろうしなー。なんか楽しそうだなー。
 初観劇が生中継かー。初日でもなんでもないのに、そこに当たるなんて、なんかその「当たりの良さ」が縁起いい感じ。
 2017年のヅカライフはいいことあるかな?


 と、思ってました。

 よく見て、こあらった。
 舞台映像(録画)って書いてある。

 えー……っ。

 マジ、気づいてませんでした。
 今上演中の公演を、わざわざお正月に放送する=生中継、だと信じてた……。
 だって昔はそうやったやん……。

 家族に中継の話してて、気づいた。
 ナマちゃう……!

 幕開いて3日目で、録画……? えーと、1日と2日しか、映像データないよね? 初日か翌日の録画を流すの? 慣習的に初日か? だとしたら初日に生中継の方が盛り上がるんじゃ……? 2日遅れで放送ってその時差が微妙。
 とかなんとかぶつぶつ。

 要するに、わたしのカンチガイ。
 お正月にNHK、現在やっている公演、というだけで、生中継だと脳内回路が直結してた。だって今までがそうだったから。

 自分の観劇日時が生中継に当たる、なんかその「当たりの良さ」が縁起いい感じ……と、なんの根拠もなく思っていたわけだから。

 それがカンチガイだとわかったときの、縁起の悪さってば……!

 新年早々コレって、やばくない?
 初観劇がソレって、先が思いやられない?

 あー……。
 最初から、縁起悪いわー。
 詰んだわー。


 役替わり忘れてたし、カンチガイはするし。
 なんか終わってるわー。
 2017年最初の公演は、『グランドホテル』……だけど、初日はスルー。初詣に行ってました。

 理由は単純、友会でチケットが当たらなかったから。
 当たったら、ふつーに元日からムラへ行っていた。元日からなにがなんでも!と思うのは、ライトなヲタであるわたしにとっては雪組初日だけかなあ。

 ヅカヲタ度が落ちているのだと思う。

 だってさー、この『グランドホテル』にしても、役替わりがあるの、忘れてたもん……。

 役替わりが発表になったのって、去年の7月よね。新トップになってもまだ番手誤魔化しやんのかと嘆いた覚えがある。んで、9月に日程発表があって。
 その後、友会入力が一次二次とあって、先行と一般発売があって。
 都合4回もチケットを取るチャンスがあったのに。
 役替わりのこと、忘れてた。

 友会抽選は一次二次とも落選。だから結局、いつものように先行で買った。
 てきとーに。
 役替わりの認識なく。

 あらら。

 AとCしか持ってないわー。

 月組の役替わりって『1789』のときも思ったけど、無駄に細かいというか。4パターンもあるのね。

A ラファエラ@暁千星、エリック@朝美絢、フラムシェン@早乙女わかば
B ラファエラ@朝美絢、エリック@暁千星、フラムシェン@海乃美月
C ラファエラ@暁千星、エリック@朝美絢、フラムシェン@海乃美月
D ラファエラ@朝美絢、エリック@暁千星、フラムシェン@早乙女わかば

 3つの役を4人でやる。すべての役を見たい、というだけなら、2回で済む。つーか、ふつーはそれで済ませるだろう。それぞれ独立した役で、絡まないわけだし。
 でもわざわざ4パターン設定するのは、露骨に動員対策だなあ、と思う……。

 2回で済むんだから、そのつもりでチケット取るべきだった、『1789』のときのように。
 でも、ヲタレベルの落ちたわたしは、きれーさっぱり抜け落ちていた……。

 2回分買っていたのは、役替わり目当てじゃない。どの公演も最低2回観る。初日と、後半。初日はSだと取れないから大抵B席。友会なら10列目センターとか来るもんな。2階からまったり全体を眺めて。
 後半はいつものタケノコ。花道の下級生にかまってもらいたくて(笑)。どんな駄作でも前方で観れば楽しい、底上げされる、それを期待して。
 今回は初日は手に入らなかったので、ふつーにS席で2回観る。初日以外ならSも手に入るものね。
 なんのツテもお金もないので、自分で入手できる範囲で。

 初日か、それに近い日にちに自分で観てみて、面白ければチケットを増やせばいいし、もう観なくていいかなという場合は……わたしがそう思うくらいの公演は、大抵巷にチケットが余っていて、定価ではさばけない状況になっているので……結局自分で観ることになる、ゆえに、最低2回は観ている(笑)。

 だから今回も2回分持っていて、それがAとCってことは、だ。
 フラムシェンはわかばちゃんとくらげちゃん、それぞれ見られるけど、ラファエラは暁くん固定で、あーさのを見られないわ……。
 えー。あーさのラファエラも見たかったなあ。

 見たかった、とはじまる前から過去形になっているあたり……。ほんと、レベル落ちたわ……。

 今までのわたしなら、失敗に気づいた段階でチケット探ししている。
 でも、今のダメダメなわたしは、チケット探すのが億劫でなあ。
 『グラホ』のチケット事情、さっぱりわからないし。名作ミュージカルだから即日完売してるのかしら。初演は発売日に朝からプレイガイドに並んだのに、買えなかった思い出。
 や、ネット見ればいいだけなんだけど、それすらせずに、「観に行って、チケット増やしたいと思ったら、その足で劇場の残席モニター見ればいっかー」と考えるのだった……どんだけダメダメなん……。

 フラムシェンが両方観られるなら、まだいいか。この役は重要。
 2016年の演目で好きだったのは、ぶっちぎりで『ドン・ジュアン』だ。

 作品とキャストにどハマリ。
 演出はKAATがいい。DCは変更されてしまって残念。

 この作品をやれる人だから、わたしはだいもんが好きなんだ。
 真彩ちゃんが組替えで来ることだし、いつかだいもん&真彩で再演して欲しい。歌えるヒロインで観たい。
 他キャストは初演ままでヨロシク!
 DCじゃなく、梅芸メインホールの方がいいかな。作品とだいもんのパワーは、DCでは狭すぎた。

 ここがおかしいとかわからないとか、些細なことはいい。この作品の醍醐味は、突然の嵐に翻弄され、一気に異世界へ連れて行かれる感覚だろう。
 空から伸びてきた大きな腕に鷲掴みにされて、この世とは別の混沌たる空間に連れて行かれ、脳をぐしゃぐしゃにされる感じ。
 苦しいはずなのに、脳はこの刺激を快感と判断している……ような、とんでもなさ。
 わたしがタカラヅカに求める「異世界感」を堪能させてくれる。
 オサ様時代を思い出すわ。わたしのカリスマに異世界へ連れて行かれた、あの陶酔感。
 ヒロインがミスキャストだったために、あちこち水を差されたのが残念。


 次に好きなのは……『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』かなあ。
 『金色の砂漠』かなあ。

 作品の完成度でいえば、絶対『金色の砂漠』だ。『Shakespeare』はぶっ壊れすぎている。
 でも、感動するのは『Shakespeare』なんだよなあ。
 ……って、わたしが生田せんせと波長が合うだけかな。いっくんの書く物語が好きだわ。ぶっ壊れていても、そこにあるハートが好き。

 『金色の砂漠』はストーリーが好き。うまく組み上がった立体パズルを見る感じで、わくわくする。
 そのうまく組合ったところが好きなのであって、感動するとか泣けるとかいうことじゃない。や、泣くけど、わたしのなかでは涙のカテゴリが違っている。
 ウエクミ作品って、ハートで泣くというより、技巧で泣かされる感じ。『星逢一夜』で最後子どもたちが出てきて、「反則や、そんなん泣くに決まってるやん!」と言いたくなるような。
 わたしはそういう小賢しいギミック(笑)が好きなので、巧く仕掛けをしてくれると胸がすっとする。好き。

 いっくんはそういう巧さが欠けていて、むしろヘタっつーかヲイヲイ大丈夫か、って感じなんだけど、それすら勢いに変えて、心が勝手に泣き出す感じ。
 こういう作風は問答無用でわくわくする。好き。


 好きな作家がふたりもいてしあわせだなー。


 嫌いだったのが、『こうもり』と『NOBUNAGA<信長>』。
 整合性に欠ける作品はダメなのよー。ぐちゃぐちゃ過ぎて無理。
 その上、心も感じられないし。や、わたしには。
 相性が良くないのでしょう。
 谷せんせ、昔は好きだったんだけどなあ。英雄ばっか書いていた頃。せんせ自身の「オレはこれが好きなんだ、書きたいんだ」という鼻息が感じられた頃。今は消化試合している感じ。
 もう書けないなら、書かなくていいのになー。
 大野せんせはどうした。大野作品で最低ランクの出来だわ。物語としておかしい上に、誠意が感じられない……なんなのこのやっつけ仕事。
 タクジィは職人肌っぽいイメージだから、自分がやりたい仕事に当たれば、いい仕事をしてくれるかな。次回に期待。


 再演をあえてはずしたわけじゃなく、ほんとに好きな作品は新作ばかりだった。
 その年の当たり作が新作だなんて、しあわせだわー。未来は明るいわー。これから先、もっともっとステキな作品に出会えるかもしれないってことだもの。
 ……嫌いなのも新作だけど(笑)。
 それでも、わたしはタカラヅカに新作を求めるわ。タカラヅカならではの、オリジナル作品を求めるわ。
 え、『ドン・ジュアン』はオリジナルじゃないって? でも、タカラヅカ化してあるっしょ。その昔、イケコが『エリザベート』をタカラヅカ化したように。海外ミュージカルをそのまま持ってくるんじゃなくて、タカラヅカらしい潤色を施すこと。それは、タカラヅカの座付き作家の仕事だもん。

 2017年も、新作が豊富な年でありますように。
 2016年の上演作品で観なかったモノは、宙組博多座『王家に捧ぐ歌』と、星組バウホール 『One Voice』 のみ。
(DSなど、劇団HPの「公演案内」に載らないジャンルのモノは省く。それと、『タカスペ』は中継のみ)

 博多座『王家に捧ぐ歌』は観たかった。けど、博多は遠い。
 観に行くかどうかを、友会に任せた。友会で当たったら、行く。はずれたら行かない。
 結果、はずれたので、行かなかった。
 チケットの入手手段は他にもあるので、友会任せにしたあたりが、わたしの現在の温度だ。ヅカヲタとしてのレベルが下がっている。
 また、誰か連れがいたら行ったと思う。……他力本願。自分では動けないくらい、レベル落ちてる。

  『One Voice』 は最初から観る気がなかった。
 わたしはみっちゃんと気が合わないので、行っても楽しめないだろうと思った。実際、観に行った友人から内容を聞いても「行かなくて良かった」と胸をなで下ろすモノだったし。
 現実問題、チケットも手に入らない。
 トップさんの退団イベントのバウ公演なんてもんは、ガチなファンだけで埋まって、わたしごとき「タカラヅカ好き、関西の公演は全部観る」というだけのゆるいファンのところには回ってこない。
 それでいい、わたしなんぞがいっちょかみするべきではない。

 あとの公演は、とりあえず1回は観劇した。
 本公演は基本2回以上、それに加えて新公1回。
 別箱はチケット取りにくいからあまり回数見られない場合があるな。でも関西公演は基本全部観る。歌バウも全組観たし。


 人事で驚いたのは、仙名さんのトップ娘役発表。これに尽きるわ。
 ヅカヲタやってそこそこ経つけど、新人公演無視人事に出会うのがはじめてだったから。

 みっちゃんとちぎくんの退団時期は見当が付いていたので、寂寥や思い入れゆえのショックはあっても、驚きとはチガウし。
 たまきちトップ発表は、去年のうちに道筋を付けられていたので、驚きはないし。

 ショックだったのは、れいこの組替え。
 れいこには雪組を継いで欲しかった。


 傾向として、劇団の歌唱力へのてこ入れは、わたしにはありがたい。
 やっぱり、「ミュージカルである」ことは、重要だと思うの。歌えないと、そこで表現が止まってしまう。損なわれてしまう。
 スターはある程度は歌えて欲しい。
 新公主演・ヒロインとして選ばれている人たちが、みんな歌える人たちばかりなのがうれしい。
 劇団の考え方って、新公世代に出るよね。


 相変わらずわたしはだいもんが好きで、彼を中心に観劇生活を組み立てた。
 だいもん主演だから『ドン・ジュアン』は神奈川まで遠征したし、作品と、だいもんの役がイマイチなので、『るろうに剣心』も『ケイレブ・ハント』も遠征はせず。

 雪組が好きなので、雪組だけは前もってしっかりチケ取りする。『星逢一夜』で後悔したので、「こんなにチケット取ってどうすんだ、大丈夫か」と思うくらいには、あらかじめ取っておく。
 おかげで『るろ剣』も『ケイレブ・ハント』もたっぷり観られた……正直、取り過ぎたと後悔するほどに(笑)。

 新公学年、宙組ではそらくんを観ている。星組ではあやなくんが気になっている。月組はあちくん浮上中。
 花組がいない……募集中。
 雪組も実は新公学年に目が行ってないのよ……回数いちばん観てるのに、いつも同じとこばっか観てるから。つばさくんのウインク数えてる場合かって(笑)。

 上級生はそりゃいろいろ、好きな人、観ている人はいる、各組。

 そんな感じかな。
 総じて平和なヲタライフ。
 新たな恋を探して彷徨う、愛の迷い子っす。←
2016年を振り返る、その1・回数。
 今年の観劇回数を数えてみた。
 手帳に毎月の観劇数を書いてあるので、それを足すだけの簡単なお仕事。内訳を確認するのはめんどくさい(笑)。

 お手製の『フットルース』手帳に記してあったメモによると、82回ですな。
 2015年の観劇回数と比べるつもりで書いてたのに、2015年分を写すのめんどくせー、と1年間放置しきったのがわかる紙面(笑)。

 2015年が何回だったかおぼえてないけど、とにかく、減りましたな。
 ダブルしなくなったのは大きいな。劇場へ行く回数自体は、そんなに変わってないと思う。
 前はご贔屓の公演を午前午後観てたりしたから。
 今ははるばるムラまで行っても、1公演だけ観て帰る感じ。

 リピートしたい公演があっても、そんな公演こそチケットが取れなくて、大して観られずに終わったり。
 ご贔屓公演はたとえチケ難でもなにがなんでも通っていたから、そのあたりの差が年を追うごとに出て来ている気がする。

 ヲタをやめる予定はないので、ここいらでがつーんと恋に落ちて、ご贔屓に夢中になる日々を送りたいもんだ。
 うーん、恋はするモノではなく、落ちるモノだからなあ。求めたところで、どうしようもないもんなあ。

 だいもんは好きだけど、彼の芝居が好きなのであって、ご贔屓ではないしな。
 ご贔屓ではなくても、もっともっと、彼の芝居を観たいと思う。芝居歌を聴きたいと思う。

 ジェンヌに芝居を求めるから、なかなか恋が出来ないのだろうとは思う。
 だって、芝居って要するに、作品と役だもん。演技の天才がいたとして、モブで暗がりで台詞なし、だと出会うことが出来ない。
 良い作品の良い役をやって、それでわたしのツボにはまる芝居をしてくれて、はじめて注目する、わけで。
 芝居は姿と声がよくなきゃいけないから、さらに狭き門で。

 まっつは奇跡的確率で出会ったんだなあと思う。
 まず顔が好みだったから注目した。たとえモブでも、顔を観ているだけで楽しい。
 そして彼は、声が良かった。整った聞きやすい声をしていたから、表現出来ることが多かった。
 顔と声が好きだから、端役でも眺めること自体が楽しくて、そうやって眺めていたら芝居も好みだった。顔と声が好みでなかったら、芝居に気づくことはなかったか、あるいはかなり遅くなったと思う。番手が上がらないと役がもらえないから。「役がなくても眺めている」状態にはならなかったから。

 どこかに顔がちょう好みで、声が良くて芝居がうまい下級生いないかしら……。ショタの気はないので、ある程度育ってる方がいい……。

 路線スターに惚れたいなあ、と思うのは、芝居好きだから。
 スターでないと、芝居で大きな役はつかないし、恋愛する役も回ってこないもの。
 トップになるならないはこだわらないから、がっつり「芝居」を劇団から与えられる立場の人に惚れたいものです。

 ご贔屓が出来るまでは、観劇回数も増えないだろうな。ん? それはそれでいいのか。
 マサツカ作品は動きが少ないし舞台の情報量も省エネなので、カメラで登場人物をアップで撮るだけで済む。
 坐って会話するふたりを交互に撮るだけ、テレビドラマと同じ手法で問題ない。
 ゆえに、ライブ中継で事足りると思った。
 中継に向いてる、むしろ広大な劇場で見るより細部が伝わっていいはず、中継楽しみ。
 そう思って見に行った、『私立探偵ケイレブ・ハント』東宝千秋楽ライブ中継

 でも、期待に反して、ライブ中継はライブ中継でしかなかった。
 映像だと、伝わる情報が少ない。
 ちぎみゆの濃密な芝居を、映像だと映し切れてない感じ。

 変だなあ、まっつのときは映像の方がよかったのに……と首をひねり、はっと気がついた。
 そもそもわたし、ちぎみゆ場面はちぎみゆ見てるわ!

 えー、「まっつのとき」というのは、『La Esperanza』新人公演を指します。
 ナマ観劇したときと、あとからスカステで新公映像を見たときとで、印象がまったく違ったの。
 映像を見てはじめて、主人公のまっつがとてもいい芝居をしていることを知ったの。てゆーか、まっつが主人公なんだってことがわかったの。
 ナマで見ているときは、ぜんぜん彼が目に入ってこなくてね。
 わたしにとって『La Esperanza』の主人公は、ヒロインのあすかちゃんだった。彼女を中心に見ていたもんだから、まっつは「主人公の相手役」でしかなく、小さくて地味な彼は広大な舞台に埋もれ、意識して見ないとどうしているのかわからなくなりがちだった。

 あすか主役の青春物語。がんばる女の子の仕事と恋、そして人生。日常の中にあるよろこびとしあわせを綴ったハートウォーミング・ストーリー。本公演と違って、主人公カップルが「恋愛」していたから、本公演よりよっぽどラブストーリーだったけど、あくまでもヒロイン中心。
 そう思っていたから、テレビで見たモノが、わたしの見たモノと違いすぎてびっくりした。

 だって、スカステのカメラは忠実に「主演」のまっつを撮っていた。彼が台詞を言うときは、彼が映るのよ。
 ストーリー展開に従って、主役がアップになる。わたしが見たことのない人が、ばんばん映って、その人を中心に話が進む。
 舞台だとどこにいるのかわかんないくらい地味でも、テレビではアップで撮ってくれるから、画面に他の人は映らないから、彼が主役に見える。
 そうか、これ、そういう話だったんだ……!
 ナマで観たときは、知らなかった。

 わたしはナマ観劇派で、映像は基本見ない。『La Esperanza』新公だって、録画だけして、見ることなかった。
 新公当時は「地味で主役に見えない」とひどい評価をしていたにもかかわらず、その後まっつにすこーんとハマって。惚れ込んで。
 昔録画した、彼の新公主演作品を見直したのよ。

 そしたら、まっつはちゃんと「主役」だった。
 ナマとチガウ、「カメラ」という視点によって再構築された作品は、あの日わたしが観たモノとは、まったく別モノだった。

 で、カメラが映してくれるまっつを見ると、とてもかっこよくていい芝居してて、まっつとあすかの「恋愛物語」だった……ガチにラブストーリーだった……しかも泣ける……。

 てな経験が痛烈だったために。
 マサツカ芝居は映像も楽しい。映像イケる。そう思い込んでいた。

 『La Esperanza』新公映像が衝撃的だったのは、わたしが主役のまっつをろくに観てなかったためか。
 ナマで観ていないモノを、映像ではきちんと見せてくれた。だから感動した。
 しかし『ケイレブ・ハント』は。
 わたし、ナマでちぎみゆ観てる……めっちゃ観てる……凝視してる……。
 それで映像見ても、そりゃ情報量落ちるわ……ナマの方が得られるモノ多いわ……。


 期待したほど、楽しくなかったのです、マサツカ作品。
 ごめんよハリー、映像で収まるなんて誤解してて。収まりません、そんなもんであるはずがない。わたしが間違ってた。
 マサツカお約束の「心象をダンスで表現する」踊る男や女も映像だとろくに見えず、魅力半減。
 マサツカ作品だって、他演出家作品と同じです。映像は映像でしかない。
 通常公演も終わり、『タカスペ』も終わり、1年の興行が全部終わった翌日、宙組情報が一気に発表された。

・トップ娘役ナシ
・まぁコンとずんバウ
・ウエクミ新作と稲葉ショー

 うわー、これは……。
 微妙な情報の出し方やな……。

 なんで微妙かというと、今後の人事を予想させる発表だから。
 似てるのはコム姫のときかな。

 トップスターなのに全ツへ行かず、年間公演予定にないバウと青年館の主演を追加発表、しかもその演出家がコム姫をミューズとしているオギー。
 そして、次の本公演がそのオギーの新作アテ書き作品と、景子たんの新作アテ書き作品。タイトルにある「タランテラ」も「堕天使」も、コム姫を表していると、ファンなら即察する特別な単語。

 こんだけ発表されたら、わかるよね。ああそうなんだ、と。


 それと、同じ印象だ。今回の宙組関連の発表。
 ここまで発表して、匂わせるだけで決定打を出さないとか。ファンは生殺しだよなあ。

 と思ったけれど、情報は情報でしかなく、これ以上のことは発表されていないんだから、先走ったことは控える。


 トップ娘役不在は、歓迎しない。
 わたしは古いヅカヲタで、トップスターとトップ娘役が並んでいるのが好き。
 トップ娘役ナシとか、2番手誤魔化しとか、大人の事情人事は嫌だ。宙組はいつまで不透明でいるんだろう。
 れおんくん時代の星組とか、今の雪組とか、ポジションがはっきりした、安定した体制が人気出る時代なのにな。

 とはいえ、うらら様がトップ娘役にならなくて、ほっとした。
 うらら様の魅力は認めているが、「トップ娘役」には不適格だ。劇団が大人の事情優先で彼女をトップ娘役にしなかったことに安堵した。うらら様のことだけでなく、劇団の今後についても。
 さすがに、あのレベルだと、どんな事情があってもトップにはしないんだ。それは朗報だ。劇団人事は不可解なことも多いが、最低限の舞台クオリティは必要だと思っている、ということがわかってよかった。

 音痴でもトップになっていい。だが、「声が存在しない」人は、トップになってはいけない。娘役ならば、「娘役の声」が出ない人は、トップ娘役になってはいけない。
 脇ならばいい。他に魅力があるのだから、声が存在しないならその音を出さなければいいし、娘役の声が出なくても単体で低い声で通せばいい。
 だが、トップ娘役には、「ソロ曲を歌う」「トップスターとデュエットする」という仕事がある。声が出なくてソロが歌えない、娘役の声が出なくて男役とデュエットできない、のでは務まらない。
 務まらないのだから、トップ娘役になってはいけない。
 ……そういう当たり前の決断を、劇団がしてくれたことを、ありがたいと思う。
 や、観客として。
 途中で消える歌声に、舞台への集中力をぶった切られるのはもう嫌だ。

 適材適所。
 うらら様はその美貌と気品で、脇の美女枠で活躍して欲しい。トップにこだわらなければ長くいられるし、持ち味の大人っぽさはむしろ学年が上がってからこそ武器になる。
 ……男役に転向してくれてもいいんだけどな。(まだ言う)

 でも、うらら様をトップ娘役に出来ないから、という理由でまぁ様がやもめになるとしたら、気の毒というか、大変だなあと思う。
 そこまで追い詰められるまで手を打てなかった劇団の思いきりの悪さ、そして、そこまで追い詰められてようやく鉈を振るった事実に、ドラマを感じる……ほんとに、なにがどうってるんだろうなあ。


 まぁ様のコンサートも楽しそうだし、なんつってもウエクミ新作!! すごい楽しみー! まぁ&うらら『翼ある人びと』大好きだったよー。

 ずんちゃんが早々に2回目のバウ主演というのは、宙組ならではだなあと思う。そして、毎回言ってる気がするけど、劇団はずんちゃんを育てる気なんだなと。なんで突然その気になったのか、未だにピンときてないんだけど。
 『New Wave!』『相続人の肖像』次のバウと、3連続主演って破格の扱いなんだけど、宙組だから目立たないというか、他の組で他の人がこの扱いならもっと騒がれるだろうなあ、とか。
 きれいでうまい人だから、大事に育てて欲しい。
 なんかいろいろ発表来た。
 メモとして貼っておく。かなり文字数くったから、感想は翌日欄。

宙組 トップ娘役について
2016/12/26
この度、宙組トップ娘役 実咲 凜音が、宙組東京宝塚劇場公演『王妃の館 -Château de la Reine-』『VIVA! FESTA!』の千秋楽(2017年4月30日付)で退団致しますが、実咲 凜音の退団後、固定的なトップ娘役は当面の間設けず、公演ごとに柔軟な配役を行って参ります。
作品ごとに配役を行うことで、様々な娘役がそれぞれの個性を発揮し、バリエーション豊かで魅力的な公演をお客様にお届けして参りますので、今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。

2017年 公演ラインアップ【梅田芸術劇場メインホール、文京シビックホール】<6月・宙組『A Motion』>
2016/12/26
2017年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【梅田芸術劇場メインホール】【文京シビックホール】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
  
宙組公演
■主演・・・朝夏 まなと

◆梅田芸術劇場メインホール:2017年6月6日(火)~6月11日(日)
◆文京シビックホール:2017年6月23日(金)~6月28日(水)

朝夏まなとアメイジングステージ
『A Motion(エース モーション)』

作・演出/齋藤 吉正

伸びやかでダイナミックなダンスを中心に、更なる進化を続ける朝夏まなとの魅力を余すことなくお届けするライブショー。眩いばかりの光彩を放つ、宙組の“A(エース)”朝夏まなとのスペシャルステージをお楽しみ下さい。

2017年 公演ラインアップ【宝塚バウホール】<6月・宙組『パーシャルタイムトラベル 時空の果てに』(仮題)>
2016/12/26
2017年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚バウホール】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
  
宙組公演
■主演・・・桜木 みなと

◆宝塚バウホール:2017年6月9日(金)~6月20日(火)

バウ・ファンタジー
『パーシャルタイムトラベル 時空の果てに』 (仮題)

作・演出/正塚 晴彦

シンガーソングライターを目指すジャンは、ある少女に導かれるまま訪れた古物商の店で謎めいた金属の塊を目にする。不思議な魅力に取り憑かれ、その金属の塊を購入したジャンは、小さな作動音と共にめまいのような感覚に襲われてしまう。次の瞬間、ジャンの目の前には、かつて歴史の授業で学んだような中世ヨーロッパの景色が広がっていた……。
予測不可能な時空旅行の中で、恋におち、生きる上で大切なものを見出して行く若者の姿を描く、ファンタジック・ラブコメディ。

2017年 公演ラインアップ【宝塚大劇場、東京宝塚劇場】<8月~11月・宙組『神々の土地』『クラシカル ビジュー』 >
2016/12/26
2017年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚大劇場】【東京宝塚劇場】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
  
宙組公演
■主演・・・朝夏 まなと

◆宝塚大劇場:2017年8月18日(金)~9月25日(月)
◆東京宝塚劇場:2017年10月13日(金)~11月19日(日)

ミュージカル・プレイ
『神々の土地』~ロマノフたちの黄昏~

作・演出/上田 久美子

1916年、革命前夜のロシア。皇帝一家を操り民衆の不満を煽っていた怪僧ラスプーチンを暗殺しようとする憂国の青年貴族たちがいた。その中心的人物と伝えられるドミトリー・パブロヴィチ・ロマノフ大公を主人公のモデルとし、ロマノフ王朝の黄昏を生きた人々の肖像を悠久の大地に描き出す。
皇帝ニコライ二世の従兄弟で将来を嘱望される青年将校ドミトリーは、皇帝に仕官するため、共に暮らしていた伯父のセルゲイ大公とその妃イレーネをモスクワに残しペトログラードへ旅立つ。大公の年若い妃イレーネは皇后アレクサンドラの妹で、快活なドミトリーが孤立する皇帝一家と周囲を仲立ちし、革命の危機からロマノフ家を救うことを望んでいた。一方、名門ユスポフ家の令息フェリックスは、皇帝の意に背いてラスプーチンの暗殺を画策、ドミトリーを仲間に引き入れようとする。
皇帝はドミトリーを気に入り、皇女オリガとの結婚を勧める。オリガと結婚してイレーネの望む穏健な形で一家を助けるのか、罪を恐れずラスプーチンを排除するのか。革命の足音は背後まで迫っていた。ドミトリーの選択、そしてドミトリーが愛した人とは──。ロマノフ家の一員として王朝を救う道を模索した青年の、愛と葛藤の物語。

レヴューロマン
『クラシカル ビジュー』

作・演出/稲葉 太地

人の心を掴んで離さず、時に人を惑わせる華麗な宝石(ビジュー)。色とりどりの煌めきを放つ宙組メンバーを、様々な宝石になぞらえた場面で構成するレヴュー作品です。伝統的な男役の美しさを体現する朝夏まなとの魅力を、最高の輝きを放つ宝石に投影し、その輝きを最大限に味わえるレヴューとしてお届け致します。

 『タカスペ』中継面白くなかったー、と言いつつ、『私立探偵ケイレブ・ハント』『Greatest HITS!』東宝千秋楽ライブ中継へ行ってきました。
 『タカスペ』の翌々日。
 またしても、同じシアター。TOHO梅田。

 ライブ中継のパイオニアの雪組、今までトップサヨナラの『ラストディ』か全組あげてのお祭り『タカスペ』などしかライブ中継はなかったのに、雪組『るろうに剣心』から退団関係なく中継スタート。
 これから全組東宝楽は中継するかと思いきや、星組『こうもり』はなくて、花組『ME AND MY GIRL』宙組『エリザベート』があったので、一本モノの大作のみ中継するってことなんだろう、と思った。
 そしたらなんと、大作でも佳作でもない、「ふつーのタカラヅカの2本立て」でしかない『ケイレブ・ハント』『Greatest HITS!』を中継するという。
 今度こそ、作品問わず東宝楽は全組中継するってこだろう。それのスタートを切るのが、またしても雪組だった、と。

 そして。
雪組 中日劇場公演『星逢一夜』『Greatest HITS!』 ライブ中継
2016/12/25
以下の通り、雪組中日劇場公演の模様をライブ中継致します。   
日時
2017年2月26日(日)15:30上映開始

※会場、料金、チケット販売方法等詳細については、2017年1月中旬頃に発表を予定しております。   
イベントに関するお問い合わせ
宝塚クリエイティブアーツ カスタマーセンター
TEL:0797-83-6000(10:00~17:00 日曜・年末年始休業)
http://www.tca-pictures.net/

 別箱ライブ中継キターーーー!

 本公演でもない、サヨナラ関係ない、ごくふつうの中規模公演で中継やりますか……! すごいなヲイ。や、中日はちぎくんのサヨナライベントではなく、ふつーの組公演だし。
 ライブ中継事業の先陣が雪組なのね。今、組に勢いあるからなあ。ちぎくんは美貌の人だし。
 ……だいもんが映像向きの人ではナイので、そこはちょっとアレかなとは思うが(笑)。

 だいもんは、舞台で熱を発し空間を支配する人。切り取られた映像で顔だけ映されたら、たぶん「変な顔」「ひどい顔」としか伝わらないんじゃないかなと危惧。彼は「舞台役者」であって、テレビタレントじゃないからなー。
 今のタカラヅカには、舞台でパフォーマンスが出来て、かつ、テレビでも映えるきれいな人、が求められてるからな。
 ライブ中継が「あたりまえ」になるということは、その傾向が顕著になるってことだ。

 わたしは映像を「収集する」のが好きなので、すべての公演が映像化されることを望んでいる。
 それは、舞台演劇という「消えることが前提」の世界を愛しているゆえだ。
 舞台はそのときだけのもので、上演される端から消えていく。あとには残らない。
 それを切ないと思う。や、貧乏性なので、もったいないと思う。
 残したい。
 そして、その瞬間その劇場にいた人たちだけでなく、あとから来た人にも知って欲しいと思う。
 映像があれば、時間を超えられる。
 すでに退団したスターの作品だって、映像が残っていればそこからファンになることが出来る。

 映像は必要だと思う。宝塚歌劇が継続していくために。

 その姿勢の一環として、ライブ中継が増えるのも良いことだと思う。選択肢はいつだってなんだって、多い方がいい。

 ……ただまあ、劇団が「映像映え」>「舞台映え」とするようになったら困るなあ、という気の回しすぎな不安がよぎっただけ。
 主にだいもんというかだいもんというか。ほんとにすごい顔するからなあ(笑)。


 『ケイレブ・ハント』はだいもんどーってことない役なので、カメラ映りを気にすることもなく。ほんっと役不足だなー。
 ちぎみゆやれいこがアップで映るからいいか。

 『Greatest HITS!』は東宝での演出変更分を楽しめたので良し。
 あああ、トナカイかわいい~~!

 『タカスペ』中継を楽しめなかった分、どうも後遺症というか、構えてしまっているきらいがあって。
 これからタカラヅカはどんどん映像にも力を入れていくんだし、ファンとしても慣れた方が楽しめるんだから、この固いアタマをほぐしていかなきゃだわ。
 これからもライブ中継楽しむぞー。中継が増えるの歓迎。
 前置きうだうだ、はじめての『タカスペ』中継。
 『るろ剣』中継楽しかったしらくちんだったから、期待期待。『エリザベート』中継はいまいちだったけど、あれは例外的な作品だし。
 なんにもしなくても「見るべき人」を映してくれるライブ中継はありがたいはず。『タカスペ』なんて、スターの顔を見ることを目的としたイベントだもん。作品クオリティは問うな、手抜き演出でもなんでも、ただ豪華キャスト出演をありがたがれ、という。
 何人出てても関係ない、真ん中のスターさえ映していればOK、と、TCA発売DVDと同じ意識でカメラは動くはず。

 そう理解した上で臨んだ、『タカラヅカスペシャル2016~Music Succession to Next~』ライブ中継

 結論から言うと。

 面白くなかった。

 自分でもびっくりするくらい、楽しめなかった。
 いや、「楽しめなかった」わけじゃない。それなりに、楽しかった。
 楽しいか楽しくないかと言えば、楽しいでしょう。タカラヅカは楽しいもの。

 それなりに楽しいし、つまらないわけでもない……けど、面白くはなかった。
 そう、入り込めなかったんだ。

 なんかすごく遠くて。
 スクリーンがというか、わたしのキモチの場所が。
 ぼーっとしているうちに、どんどん時間だけ過ぎていって。
 ちょっとよそのことを考えているだけで、ふと気づくとスクリーンに映っている人が変わっていて。あれ、いつの間に?

 全編通して、置いて行かれた。

 えええ。なんだこれえ?

 …………終わったあとに、なにも残ってない。「見た」というだけで、記憶の引っかかりがない。
 なんたることだ。
 ついに老化が深刻なレベルになったか。

 や、年寄りなのもアタマ悪いのも今にはじまったこっちゃない。
 原因を探るとすれば、これが、初体験だからだろう。

 考えたんだ。
 なんでこうも、入れなかったのか。
 すっげー遠い気持ちだったのか。

 そうわたし、タカラヅカを「映像」で見たことが、ほとんどナイのよ。

 なんてこったい。
 スカステ加入してもう10年以上経ってるんですが、トップさんのラストディ中継だって10年以上前から見ているわけなんですが。
 それでもなお、映像慣れしてないってナニゴト?!

 あー、映像自体は見たことある。当然。
 ただし。
 自分が実際にナマ舞台を観劇したモノに限る。

 わたしにとって「舞台映像」というのは、自分が観劇した「思い出の舞台」を「映像という形に残す」というだけのモノだ。
 写真をアルバムに貼るようなもの。自分の思い出だからアルバムに貼る。自分が知りもしない人のスナップ写真は貼らないし、そもそも持ってない。

 スカステは入っているけど、録画してメディアにダビングするのが楽しいだけで、見てはいない。収集癖のあるヲタクなので、アーカイブ作りが楽しいの。
 たまに見ることはあるけど、自分が観劇した作品を、「あのときの感動をもう一度」という感覚で見直すのみ。
 観劇したことのない作品は、見ない。

 ライブ中継は昔から見てきたけれど、トップさんの『ラストディ』は、東宝千秋楽がナマ観劇出来ないだけで、通常のムラ公演は観ているわけで。ムラと東宝では多少変化があるかもしんないけど、基本、同じ作品。
 『るろ剣』以降『ラストディ』以外の千秋楽も中継するようになったけれど、ムラ公演は全組全公演1回は観る、が日常のわたしは、もちろんナマで観ている。

 一度もナマ観劇していない公演の映像を見ることは、長く生きてるけど、ほとんど経験がない。
 なんかあったっけ……? 記憶にナイ……。
 友人の家でイベント的にきゃーきゃー古いビデオとか見ることはあったけど……それはお喋りするために見るようなもので、また別カテゴリだよな……。

 ああそうだ、『はばたけ黄金の翼よ』はテレビで見たのが最初だった、さすがにあの時代は知らなくて。
 ターコさんがかっこよすぎて奮えたっけ……。

 しかし、それ以外を思い出せない。
 そして、ショー作品を見た記憶が発掘出来ない。

 ひょっとして、はじめてか……? 今回の『タカスペ』が……。


 今まで中継を楽しめたのって、ナマ観劇済み作品だったからか。
 もうすでに「知っている」から、カメラがどこを映していても気にならなかった。この場面、わたしは後ろを見ていたけれど、カメラは当然トップさんを撮ってるわよねえ。わたしの見ていたモノは映らないわねえ。うん、知ってた、だからあえて真ん中はあきらめて、見たいところを見ていたわ、映像に残らないから。……てな風に、達観していた。

 最初から、「他人の目線(カメラ映像)」だと、わたしの少ないのーみそでは、受け止めきれないらしい……!

 なんかすごく、「遠い」。アップで映っていても、ピントが合ってないようなもどかしさを感じる。
 世界へ入り込めない。
 すごく他人ごとっていうか、「お若い方々はいいわねえ、ほほほ」と遠くから眺めているばーさんハートで、一線を引いて眺めている。

 なんてこった……。
 わたしこんなに、のーみそ退化してるのか……。

 若かったらたぶん、環境の変化にも対応出来たと思うの。
 はじめて、でも、スイッチ切り替えることが出来ると思うの。
 年寄りだから、どうしたらいいかわかんないという。

 しょぼん。
 出席カードに判だけもらって、とぼとぼ変える遅刻したラジオ体操の朝みたい。
 わざわざ来たから出席印だけ押してもらったけど、参加は出来なかったっていうか。
 ナニしに来たんだあたし、っていうか。

 それでもいちおー、ニュースで流れてる映像見たら「ああ、コレ見たわねー」とは思った。見たのは確かだから、のーみそには書き込まれたみたい。
 ただ、心には書き込まれなかったらしい。
 わたしには、そっちが問題。


 ……ナマ観劇してない舞台は、中継見ても無理かもしんない? わたしには?
 いやでも、何回か繰り返したら、そのうち慣れるかしら。
 年寄りはなかなか切り替わらないからなー。
 ヅカヲタやってそこそこ長いですが、このたびはじめての経験をしました。
 『タカラヅカスペシャル』を中継で観る。……ってことです。

 『タカスペ』の中継って、もう10年ぐらい続いてるのかな? 興味なかったから、いつからやってるのかおぼえてない。
 そう、興味がなかった。
 だって、わたしのご贔屓は、中継では「映らない」。にぎやかしのモブ要員なんだから、劇団カメラ様が映してくれるはずがない、だから中継を見ても「ご贔屓の出演している公演を観た」ことにはならない。
 ご贔屓はたしかに舞台の上にいるのに、フレーム外だから見られずに終わる、なんて、見る意味ナイ。

 だから、絶対、ナマ観劇。それ以外ない。

 そうこだわりきってきた。
 毎年、駆けずり回ってチケット入手した。

 大劇場でやってくれていた時代は、それでも入手しやすかったのよねえ。2550席+立見100とかだもん。
 なのに、大人の事情で梅芸でやることになり、収容人数が7割強になっちゃった。おかげでチケット取りにくいったら。
 毎年毎年、がんばったわ……。

 今年もまた、「全滅ダイヤモンド」の名に恥じぬ欲しいチケットが当選しない「友の会」、『タカスペ』チケットどうしよう、と遠い目をしていたんだけど。

 ふと気づいた。
 ナマ観劇にこだわる必要なくね?

 ご贔屓いないし。

 群舞の隅っこにいる最低身長男役をオペラグラスで追いかける必要がないのですよ!
 や、去年もそんなことをふと思ったことは、思い出したけど、去年はほら、雪組出てたし。贔屓組はやっぱ、ナマで観たいじゃないですか。

 今年の『タカスペ』は、雪組が出ない。
 雪組は『タカスペ』運のない組で、他組に比べて出ないことが圧倒的に多いんだけど(キムは1回しか出てないし、えりたんは一度も出てない、トップ2代こんだけ出られないって明らかにおかしい)、また今年も出ないんですよ。

 ちなみに、2010年~2016年の間、『タカスペ』に出た回数は、花組5回、月組4回+中継1回、雪組3回、星組5回、宙組5回……みんな5回なのに、雪だけ3回って……!
 しかも2年連続出なくて、その次の年は『タカスペ』開催せず。つまり雪だけ3年間『タカスペ』に縁がなかったの。短いスパンで顔ぶれの変わる現在のタカラヅカにおいて3年は大きすぎる。

 過去の哀しみが込み上げてくるけど、済んだことを残念がっても仕方ない。
 チケット手に入らないなら、無理しない。
 よーし、今年は中継で見るぞー! 初体験だー!

 『タカスペ』中継のチケット事情がよくわかんないんだけど、プレリザーブであっさり取れた。……から、これでいいや。それ以降を知らないので、世の中的にチケットが足りていたのか余っていたのか、まったく知らない。

 場所はいつものTOHOシネマズ梅田SCREEN2。TOHO梅田で2番目に座席の多いスクリーン。『るろ剣』も『エリザベート』もここだった。
 梅田は家から近いので、気軽に行ける。(ムラは遠いから、気軽に行けない。……行けないのよ?)オペラグラスもいらないし、荷物も軽いわー。らくちんだわー。

 ということで、初体験。
 つづく。
 他の記事に押し出されてUPする場所がないままだったシリーズ、その2。……ってナニそのシリーズ名。



 『ケイレブ・ハント』の話ばっかしで、ショーの感想をぜんぜん書けずにいたわけだが。
 『Greatest HITS!』は、大好きだ!

 なんかめっちゃかわいくない? あちこちかわいくて、楽しくて、でも芯になる部分がこうがっつり固くて、バランスいい作品だと思うの。

 わたしは毎度の『1万人の第九』のレッスンに通いながら、ムラにも通っていたわけなんだけど。
 あるとき、がつんと思ったのよ。気づいたのよ。

 ああ、この作品は「歓喜の歌」なんだ、って。

 世界中の人が、ひとつになる。
 ばかばかしいけど、笑われるだろうけど。
 心が通じ合って、許し合って、手を取り合う。
 それを希む歌。

 ああ、これは第九と同じテーマの作品なんだ……。
 みんな大好き! 大好きでうれしい! 世界は美しい! まるっと全部愛しい!
 そう歓喜の声を上げるうた。

 ちぎくんの歌う主題歌聴きながら、泣けてきた。

 夢物語だと笑われてもいい。
 こころがつながり、こえをあわせて、ひとつのうたを、うたえたら。
 それはどんなに、しあわせなことだろう。
 いとしいことだろう。

 そんな、やさしく愛しいテーマで貫かれた作品。
 明るく楽しいオープニング。耳馴染みのある曲から、わかりやすい主題歌へ。
 スターの歌い継ぎ。そうか、声と歌がいいのはだいもんか、えソレいいの言っちゃって、とツッコミ入れつつ(笑)。

 みゆちゃんの「マテリアルガール」がかわいすぎるっ。
 イモ娘のときもかわいいけど、変身後のキュートさにめろめろ。
 うわああ、こういう女の子好き。

 白燕尾咲ちゃんが「王子様です」と出て来るのもいい。そうか、こんな役をやるようになったんだな。
 そこで改めて今の体制になって、はじめてのショーなんだということに気づく。
 お芝居よりも顕著に、スターの立ち位置がはっきりするからね、ショーって。
 咲ちゃん、本格的に3番手として始動だな。

 というか、あちこちれいこの上げっぷりにびびる。
 「遅れてきた」路線スターのかなとくんは、モブ要員だった時代が長いため、ショーの経験が圧倒的に少ない。
 そんな彼に少しでも経験を積ませ、華々しく送り出す……今回の組替えの意図というか覚悟みたいなものが、劇団の扱いから伝わってくる。
 がんばれー。

 そのれいこと、大ちゃんの「赤鼻のトナカイ」のかわいさに悶絶。
 ちぎサンタにも。

 季節的にクリスマスは早いけど、わたしにとってタカラヅカで使われる曲は「タカラヅカで使われる曲」でしかない、10月なのにクリスマスなんて気分が乗らないわ、冷めるわ、なんてことにはまったくならない。真冬でも中詰めラテンでオラオラ、とか、季節関係ないのがヅカだもん。

 季節先取りは気にならない。それより、公演中に当日がやってくるハロウィンの方が「11月になったら演出変えるんだろうか?」と気になるわ。

 ハロウィンネタぶっ込んでる、翔くん中心のゴーストバスターズがかわいくてかわいくて。「ゴーストバスターズのポーズ」とか、アホかわいくてたまらん……。レオ様、クールな美貌であーた、ナニやってんの。

 後半メインの「運命」は、まるでそこだけひとつのミュージカルのよう。
 だいもんのドラマティックヴォイスと咲ちゃんの美スタイルを活かしたダンス、総力戦の混沌から、ちぎみゆの清浄な美しさまで。
 なんかすげーもん観たー、という気になる。

 タカラヅカってすごい。
 踊るちぎみゆの美しさに、心から思う。
 よどんだ色彩を引き裂く光、絶望が昇華されて破片をきらめかせながら、解けていく。

 みんなみんな、しあわせになれ。
 夢物語だと笑われても。
 みんながいつか、ひとつになる。
 みんなで、かんきのうたをうたおう。

 いやあ、このショー好きだわー。


 ……ちぎくんとだいもんのお耽美場面は、えーっと。
 ちぎくんはともかく、だいもんにあのテのは鬼門だと、何故演出家は理解しないんだー。
 だいもんに耽美やらせたいなら、いかにもなお耽美衣装じゃなく、ダブルのスーツでも着せてくれ。マフィアですよね?という姿で、美青年ちぎくんと絡ませろ~~、それなら絶対絵になる!

 あの場面は女の子たち見るのに忙しいっす……。ヒメのパワーヴォイスに酔いながら。
 かなり前に書いてあったんだが、他の記事に押し出されてUPする場所がないままになっていたヤツを発掘してきた。前日欄の『桜華に舞え』書きながら、「あれ、たしかショーの方でも『スキジャナイ』話書いたよな、どこやったっけ?」と思い出して。
 つーことで、ふたつ続けて「スキジャナイ」話になっちゃった。好きじゃないっつーか、嫌いだなー、苦手だなーという。


 『ロマンス!!(Romance)』というタイトルが好きになれない。
 ただの好みの話なんだが、あーこれやだなーと思うことから、アタマの体操と気持ちの整理をしたいと思う。

 なんで『ロマンス!!(Romance)』が嫌なのか。

 なんつっても、タイトル『 』の中に( )があること。
 ( )付きタイトルってなんだ。

 ふつう( )って注釈とか説明よね。

>『月雲(つきぐも)の皇子(みこ)』-衣通姫(そとおりひめ)伝説より-

 みたいな感じで。
 本来なら文字の欄外にふりがなを付けるんだけど、ネット上ではそうもいかないから本文中に( )を挿入して表記する。

 だとしたら、さらにおかしい。
 『ロマンス!!(Romance)』は本タイトルがカタカナで、ふりがなが英語。
 ……注釈や読み説明ではない、ということだ。

 『Romance(ロマンス)』ならわかる。『Etoile de TAKARAZUKA(エトワール ド タカラヅカ)』と同じで、タイトルに日本語使いたくない、アルファベットの方がオシャレとか表現広がるとか思ってるけど、「それじゃ子どもやお年寄りが読めない!」って企画会議でNG出て、折衷案で「ヨコモジ語と日本語並記」ってことでしぶしぶ飲みました、的な。

 でも、カタカナが本タイトルで、注釈に英語って……英語、いらなくない?

 ぶっちゃけ、すげーかっこ悪いと思う……。

 『舞音-MANON-』みたいに、漢字のフリガナ的な使い方はふつうだと思う。漢字は表音文字ではないので、表音文字でフリガナを打っても不思議じゃない。
 それと、この場合の-MANON-はフリガナというだけではなく「装飾」の意味もあるんだろう。ただのフリガナならカタカナでいいのに、アルファベットを使っているから。

 でも、表音文字のカタカナのふりがなが表音文字のアルファベットで記された英語って、わたしにはとても収まり悪く感じる。じゃあこれはフリガナではないのか。
 フリガナではなく、英単語のRomanceが持つ意味を( )で追記したかったのか。

 それなら、そもそもカタカナのロマンスを使わなくてよくね?
 『Romance』をタイトルにすればいい。カタカナのロマンスだと、それ1個の意味しかないけど、英語のRomanceなら、「“Romance”とはフランス語で冒険、恋愛、空想といった意味の“ロマン”に由来」という、HPで岡田先生が語っている意味のことを含められるだろう。

 タイトルは『Romance』。だけど、万人に読めるようにとカタカナで(ロマンス)とフリガナを付けざるを得なかった。
 ……これなら、わかるんだ。今までもいくらでもあったことだから。無粋だけど、仕方ない。小学生でもお年寄りでも、等しく楽しんでもらう前提の興行だから。

 なのに何故『ロマンス!!(Romance)』。カタカナとアルファベットの使い方の意味がわからない。

 さらに理解出来ないのが、( )であること。
 「カタカナ」+「英語」にしたかった、譲れないこだわり、というなら何故に( )なんだろう。
 -Romance-じゃなくて、(Romance)なのは何故。

 『ロマンス!!-Romance-』ならまだ、わかる。- -で挟んだ言葉はフリガナや注釈ではなく、サブタイトルや追記になる。
 『桜華に舞え』-SAMURAI The FINAL-はアリだと思うけど、『桜華に舞え(SAMURAI The FINAL)』はナイわ。ナニを注釈してんだ、と思うもん。

 これは感覚の問題。
 A(Aの注釈・よみがな)、A-Aのサブタイトル-
 と、意識するまでもなく思っていた、その常識部分に引っかかるから。
 なんでこんな文字遣いをしているのか、どういう意味があるのか、岡田先生はどこかで説明しているのかしら。HPにはなさそうだったし、過去の岡田作品にもこんな使い方をしたモノはない。
 深い意味があるならどこかで語っていそうだし、ないのにこんなことしていたら変だし。

 つくづくわたしと感性の合わない人だな、と思う。
 ……昔は好きだったんだけどね。お互い、年を取ったってコトかな。
 でも、『ロマンス!!(Romance)』という作品自体は好きだったから、我ながらややこしい(笑)。
 焼き直しの話が出たので、今ごろですが、『桜華に舞え』の感想で書き損なっていたことをば。

 わたしは、『桜華に舞え』は好きじゃない。
 『JIN-仁-』をさんざん観たから、もう飽きた。……というのは冗談だけど。いちいち『JIN-仁-』を思い出すのでめんどくさい。
 べつに、『JIN-仁-』も好きじゃなかったし~~。や、思い入れはあるし、面白がってはいたし、萌えはあったけれど、ぶっ壊れすぎていて、あくまでひとつの作品としては、わたしの好みではなかった。

 『桜華に舞え』は『JIN-仁-』の焼き直しだろう。わたしはそう思っている。白いジグソーパズルに別の絵を印刷したみたいな印象。絵は違うけど、ピース自体は同じ。
 そして、『桜華に舞え』は『JIN-仁-』ほど予算がなかったのか、同じことをやったら画面が寂しくなっちゃった感じ。『エル・アルコン-鷹-』の焼き直しで作られた『TRAFALGAR』が、予算が雲泥の差で残念になっちゃったように。(『TRAFALGAR』は軍服新調したらセットにかけるお金がなくなったんだろうなー、と)

 救いは、『桜華に舞え』が『JIN-仁-』の上位互換であること。
 元は同じであっても、『桜華に舞え』の方がまともな作りになっている。『JIN-仁-』での失敗を踏まえて、それよりは良いモノを作れたんだろうなと。
 ……というか、原作アリの『JIN-仁-』より、オリジナルの『桜華』の方が、サイトーくんのリビドーに合っているから、作りやすかったのだと思う。

 サイトーくんのリビドー。萌えシチュ。
 男ふたりの愛憎。クライマックスはふたりの決闘。死にEND。破滅萌え。
 主人公はチームのリーダー。義賊だと最高。男には「義」がなくちゃね! 権力者に逆らうのだ! そして、チームの仲間たちは戦って次々と息絶えていく。
 主人公を憎み、追い続ける妄執キャラ(顔に傷あり)。
 アニメ的「心の声」多用。
 ずばり、アニメ(もしくは実写映像)を使う。
 マザコン。実母にヨシヨシされる。
 ヒロインに求めるモノは母性。ヒロインにヨシヨシされる。

 ……てのを、高確率で満たしてるよね、『桜華』。てゆーか、初心に返ったかのように、萌えに忠実に作られてるよね。

 わたしはサイトーくんのリビドー作品好きだから、それは別にいいんだ。彼の恥ずかしいまでの赤裸々な欲望は、観ていて面白かった。
 多少ぶっ壊れていても、エンタメとして盛り上がれば良し。キャラ萌え、シチュ萌えは整合性はより優先してイイ。あくまでも、面白ければ。
 面白ければ正義。美しければ正義。

 ……なんだけど、『桜華』はわたし、面白さも美しさもいまいちだから、評価低い。

 幹となるストーリー自体は、いつものサイトーくんだから、それはいい。
 その幹を彩る枝葉が……タカラヅカ的じゃない。

 近代日本の戦争モノなんて、タカラヅカでは観たくないわー。
 美しくないんだもん。ファンタジーが少ないんだもん。
 しかも2番手格が西郷隆盛って、ヅカで取り上げるキャラじゃないでしょう。
 や、西郷隆盛でも徳川家康でも、なんでもタカラヅカ的にしちゃえばありよ、キラキラの美青年なら。
 『花のもとにて春』の武蔵坊弁慶@トドロキなんか、登場した最初の口上で「弁慶は中年の醜男だという説は忘れろ! この物語ではこの通りの美青年だ!」と観客に宣言して、「ああ、この作品ではこういう世界観なんだ」と納得させてくれたわ。
 タカラヅカを観に来た客は、「西郷隆盛がキラキラ美青年だなんて、さすがタカラヅカ」と思うだけのことよ。「タカラヅカってそういうもん」という認識が、一般人にも浸透しているのだから。

 で、台詞が方言重視で聞き取りにくいし。そんなリアルさは求めてない。
 『ベルサイユのばら』をフランス語で上演しないように、どこが舞台でも現代日本語・共通語で上演していいのよ。

 ファンタジーが足りない。
 ゆえに、好きじゃない。

 『Young Bloods!!』で太平洋戦争と東京裁判やったのと同種の自己中さを感じた。自分が好きだからやりました、この題材がヅカに合うかどうかは考えてません、的な。

 作品クオリティは『JIN-仁-』の方が遙かに低かったけれど、あっちはファンタジーがあったからまだマシだー。

 でもって『JIN-仁-』でも大嫌いだった「秘技オウム返し」がえんえんと、パワーアップして再現されて、かなり辟易したよ、『桜華に舞え』。

「日本が美しくあって欲しか」
「日本が」
  ~間、台詞ふたつ~
「おい達みたいなみたいなもんは足枷になる」
「足枷?」
「おい達侍は死して次の時代へのこやしになる」
「死して次の時代へ」
  ~間、台詞ふたつ~
「ボケ桜じゃあ」
「ボケ桜?」

 てな風に、オウム返しで会話が進む。
 わたしコレ、ほんとキライで。
 会話を進めるためのオウム返しはいいのよ。ふたりの人物が同等に会話しているなら。
 この「秘技オウム返し」は、喋らせたいのがひとりだけで、その「喋らせたい台詞」があまりに長いので、ひとり芝居じゃあるまいしキャラが正面向いてえんえん客席へ演説する場面にしたくないから、「合いの手係」を用意しただけ、という場合に使用する。
 よーするに、手抜き。
 
 『JIN-仁-』で主人公とヒロインの会話でやってたことを、そのまま今回も主人公とヒロインの会話でやるってのがもう、「焼き直しなのはわかったから、少しは取り繕ってくれ」と頭抱えたニャ……。
 台詞で主人公の考えだとか生き方を「解説」できるから、「ヒロインとのイイ場面」に使うんだろうけど、「ヒロインとのイイ場面」っていうのは「主人公の、今までのあらすじ」を解説することじゃないのになー。
 『JIN-仁-』にしろ『桜華に舞え』にしろ、恋愛部分が薄いのは、ラブシーンの有無ではなく、こういうところにあると思う。
 主人公とヒロインの場面で「恋愛」の発展がなく、「あらすじ解説」しかしない。サイトーくんが女性との恋愛に興味ないんだろうけどさー。手抜き反対ー。


 みっちゃんには合った作品で、みっちゃんがかっこよかったから、それだけで点数が底上げされてるけどさ。
 役が多くて組ファンなら楽しい、というのも『JIN-仁-』と同じで、そこはもちろん評価上がるけどさ。
 わたしは好きじゃないのだわ。
 『金色の砂漠』を観て。

 しっかしウエクミ、何回同じ話を書くんだろう、とは思った。

 『月雲の皇子』『星逢一夜』ときて、『金色の砂漠』で3回目?
 愛し合う主人公とヒロインが権力や立場ゆえに引き裂かれて、主人公が反乱軍を組織して為政者たる恋敵へ挑むけれど、主人公は力足らず反乱失敗、滅ぶ。
 というストーリーラインの物語。

 『月雲の皇子』も『星逢一夜』も『金色の砂漠』も、同じ話だよね?
 『月雲の皇子』の2番手役、為政者側を主人公にしたのが『星逢一夜』、『月雲の皇子』をさらにメロドラマ展開にしたのが、『金色の砂漠』。
 おかげで後半の展開同じ、反乱だー! 一揆だー!
 反乱成功しても、結局主人公滅ぶし。

 笑えるのが、反乱軍には、かっこいい女リーダーがいること。
 主人公が加わることでチームのリーダーは主人公になるんだけど、それまではかっこいい姐さんがリーダーだった。
 『月雲の皇子』ではチューちゃん。『金色の砂漠』ではじゅりあ様。
 『星逢一夜』は主人公が為政者側なので、反乱軍リーダーではなく主人公の戦場であった城内にいる、強く美しい姫君せしこ。

 主人公のそばには、彼を愛し見守る女丈夫が必須。
 ……って、そのマンガ的設定が笑える。なんつーんだ、俗っぽすぎて。
 3作連続ブレないってのは、ウエクミの性癖つーか、譲れない部分なんだろうなあ。俗っぽいなあ(笑)。


 同じ話の焼き直しを続けて、1作ごとに腕が上がっているので、次が楽しみだ。
 サイトーくんがその昔、同じ話を焼き直し続けていた。『花吹雪恋吹雪』書いて『血と砂』書いて『ヴィンターガルテン』書いた。全部同じ話。
 でも、進化はしなかった。つか、1作ごとに退化した。……や、ぶっ壊れてたけど『血と砂』は大好きだった……ここまではアリだけと思う……けど、『ヴィンターガルテン』は無理、ここまでひどいと許容出来ない。
 他にも『エル・アルコン-鷹-』の焼き直しで『TRAFALGAR』書いたりしてたな。『JIN-仁-』の焼き直しが『桜華に舞え』だしな。
 景子タンも『HOLLYWOOD LOVER』と『My dear New Orleans』とか、やってましたな。てゆーか景子タンの作品は大半が「クリエイター」が主人公だの視点だのの話で、根っこは同じなのよね。
 マサツカは「あの戦争」だし、谷せんせに至っては、ずーーっと同じ「俺の英雄」の話を書き続けていたなあ。

 焼き直しというか、同じ話を書くのはアリだと思う。
 ライフワークのように、同じテーマを突き詰めて書き続ける、てのは。
 要は、おもしろけりゃいい。
 面白ければ、同じネタでも、何度でも楽しめる。

 面白くない、ただの手抜き目的での焼き直しは最悪だけど。

 ウエクミはちゃんと面白いから、焼き直しでも別アングル作品でも、呼び方も含め、なんでもいいわ。


 ……いい加減、ハッピーエンドも観たいんだけどな。
 勝手に『金色の砂漠』妄想展開。
 主人公ギィがわたし的につまらないから、どうやったらわたし好みになるか、というアタマの体操、続き。


 ギィは、復讐などするつもりはなかった。

 理由があって、あえて「復讐」という言葉を使っていただけ。
 本当は、タルハーミネを恨んでなどいない。
 だって、タルハーミネがタルハーミネだから、愛したんだもの。彼女が誇りを選び、ギィを殺そうとしたのは当然のこと。そういう彼女だから愛した、むしろ惚れ惚れした……くらいなのに、恨むはずがない。

 ギィが求めたのは、因果応報。
 ジャハンギールは力尽くで王になり、先王の妃だったアムダリヤを妻にした。
 その話をアムダリヤから聞き、自分が成すべきはタルハーミネと逃げて貧乏暮らしをすることではない、自分が王になってタルハーミネを妃にすることだと気づいた。
 ジャハンギールが撒いた種は、時を経て、同じ花を咲かせる。彼がしたように、ギィも力尽くで王になる。

 復讐のふりをしたのは、その方がタルハーミネが楽になるから。
 復讐者に力尽くで奪われる。家族の命を盾に取られ、仕方なく従う。昔、自分がギィに惨いことをしたのだから、報復されるのも仕方がない。
 そう、彼女が彼女自身に言い訳を出来るように。

 たとえギィが立派な王になって戻って来ても、タルハーミネはギィを受け入れない。
 ギィを殺せと命じた自分を責め、苦しみながら生き続けるだけ。
 それなら、ギィはあえて悪役になり、復讐で惨い行為をしてみせることで、タルハーミネの心を救おうとした。

 ジャハンギールとアムダリヤが、愛し合いながらも「簒奪者と被害者」であり続けたように、ギィとタルハーミネも「復讐者と罪人」のまま共に生きることは出来る。
 ジャハンギールとアムダリヤが、それでも、愛し合いながら暮らしたように。
 共に生きることで、ギィとタルハーミネは、癒し合うことが出来ただろう。

 だからあえて、復讐という言葉を使った。
 苛烈な怒りを装った。

 すべては、タルハーミネのために。
 因果はめぐり、ジャハンギールは己の行いゆえに、身を滅ぼす。
 ギィもまた、いずれ応報を得るだろう。それでもいい。

 ただ、愛のために。


 だけどタルハーミネは、すべてを察していた。
 ギィが復讐するために戻って来たのではないことを、知っていた。

 だって、見てしまったから。
 ギィの処刑を宣言したタルハーミネに向けられた、あの微笑みを。
 ギィは、こんな自分をあるがまま愛してくれたんだ。
 そんな男が、復讐なんて考えるはずがない。
 それを装っているとしたら、すべては自分のためだ。

 誇りのために、愛する男を殺そうとした、そんな度しがたい女のために、悪鬼にまで堕ちてみせた……そんな男に、なにを返せるというんだ。

 砂漠へさまよい出るタルハーミネと、彼女を追うギィ。
 金色の砂漠を探して。

「焼け付くような憎しみの中で、俺はお前に恋したのだ!」
 キメ台詞は同じ。
 だけどタルハーミネは笑う。
「うそつき」
 復讐なんて、考えてないくせに。そんな愚かな人ではないくせに。
 あの微笑みが真実なのに、憎しみに憑かれたふりをして。
 優しい自分を殺して、冷酷なふりをして、何年も何年も、闘い続けた男。

 誇りのために、愛を殺すしかなかった女。
 そんな女を愛したために、自分を殺すしかなかった男。

 ふたりは金色の砂漠で、ようやくひとつになる。
 あるがままの、むきだしの魂で。


 ……というのが、わたし好みのギィ、わたし好みの展開。
 ストーリーも台詞もウエクミまんま。ラストシーンに補正を入れるだけで変更可能。
 ギィが復讐者になっていると、観客をミスリードして、最後に真実を明かしてどんでん返し。全部演技だったんだ、タルハーミネの心を救うための!と。でもってタルハーミネ、全部わかってたんだ!と。

 幼いメンタルしか持たなかったギィが、愛を知り、劇的に変化する。
 度量の深い大人の男になって、戻ってくる。それこそカタルシス。

 や、勝手な妄想です、アタマの体操です。
 ああ楽しい。
 それじゃあ、どうあれば好みだったのか。
 『金色の砂漠』の主人公ギィを考える。

 今のギィは好みじゃない。
 愛を求めるだけで愛しはせず、相手を理解もせず、成長もしない、幼いメンタルの小さな男。
 ギィでいちばん好みじゃないのが、彼が「復讐」を考えるところだ。
 作品のキャッチコピーに使われているくらいだから、興行側のいちばんの「売り」、作者のテーマなんだろう、なのにそこがわたし的にいちばんひっかかる、という悲劇。……や、好きなのにひっかかるって、悲劇です、わたしには。

 『金色の砂漠』は魅力的な物語だ。
 愛を選ぶのがお約束の「ヒロイン」なのに、愛よりも誇りを選ぶタルハーミネはいいキャラだし、王女と奴隷、出生の秘密、復讐と王位奪還、という設定と筋立てもイイ。
 だから、それらを全部そのまま使って、わたし好みのファンタジーにするなら。ひっかかりをなくすなら。

 ギィの精神的立ち位置を変える。

 ギィが幼いまま、ちぃせぇ男のまま、ってのが、わたしの好みじゃないので、彼を大人の男に成長させる(笑)。

 幼い子どもが幼いメンタルなのは別にイイ。でも、成長したら、心も成長してくれないと、つまらない。おもちゃを欲しがって泣く駄々っ子に、大人のわたしは恋出来ない。わたしはママになりたいんじゃないもの。

 ギィは「なんであいつはありがとうって言わないんだ?」とふくれている、小さな男の子。
 自分の行動に、見返りを求めている。
 子どものうちは、それでいい。
 子どもだから、ノープランのままタルハーミネを求めて、駆け落ち失敗しちゃった。
 助けてあげたんだから、感謝されるはず。
 愛したんだから、愛されるはず。
 自分の定規で決めつけて、タルハーミネに見返りを求めていた。

 だけどタルハーミネは、ギィの思うようにはならない。収まらない。
 「奴隷を愛したことなどない」と宣言するタルハーミネを見て、ギィは知る。

 彼女が、ひとりの人間であることを。

 や、そんなことはわかっていたけれど。
 それでも、そのときまでは「なんでありがとうって言わないんだ」と思っていた、子どもの頃のままの思いだった。
 自分の思うままに、相手を変えることだけを考えていた。だから、彼女を奴隷の妻に変えようとした。

 愛していると、妻になると言った、それが真実であるにも関わらず、彼女は王女であることを捨てられなかった。
 そんな風にしか生きられない。
 それが、タルハーミネだ。
 なんでありがとうって言わないか? 言わないのが、タルハーミネだからだ。

 そのことに、はじめて気がついた。

 ありがとうって言って欲しかったら、言ってくれる子を愛すればいいだけのこと。
 言わない子を愛した。
 「誇りなんかどうでもいい、愛が大事」「恥辱なんか平気、愛さえあればいい」そう言う女が欲しかったら、最初からそういう女を愛せばいい。
 誇りを捨てるくらいなら、自分の心も愛する男の命も捨てる、そういう女を、愛したんだ。

 そういう女だから、愛したんだ。

 ギィを見下ろし、「殺せ!」と命ずるタルハーミネに、ギィは微笑みかける。
 自然と浮かんだ微笑みだ。

 ああ、そうだよなあ。あなたなら、王女タルハーミネなら、そうだよなあ。
 そう思ってしまった。
 だから、ギィは微笑む。

 間違っているとかいないとか、誠実ではないとか、裏切りだとか。
 そんな次元の話じゃない。

 そういうあなただから、愛したんだ。

 微笑むギィを見て、タルハーミネは動揺する。激しく。
 それでも彼女は、王女として毅然と立ち続ける。

 そこから先の展開は同じ。
 拷問されて死にかけているギィを、アムダリヤが救う。そして、出生の秘密を告げる。
 男ゆえの潔癖さと身勝手さで、「貞女二夫にまみえず」とならなかった母アムダリヤを激高したその瞬間だけ責めるけれど。
 ねじれた宿命の出口を、母の話に見いだす。

 ギィが復讐を誓う展開も同じ。

 そして、7年後。
 反乱軍のリーダーとなったギィが、仇であるジャハンギール王を倒し、力尽くで王国を得るくだりも、タルハーミネを妻にすると宣言するのも同じ。

 タルハーミネがひとり砂漠へ出て行き、ギィがそれを追うのも同じ。

 ただ、チガウのは、ギィの精神的立ち位置。
 「復讐」を歌いながら、彼の心は別のところにある。



 ……というところで、翌日欄へ続く。
 『金色の砂漠』の主人公ギィ@みりおくんのキャラクタについてあーだこーだ言う、続き。


 ギィへの愛を否定し、王女としての立場を守ったタルハーミネ@かのちゃんを見て、ギィが感じるべきなのは「裏切られた」ではなく、「それでこそ、タルハーミネ!!」であるべきだ。

 タルハーミネという魂を理解し、丸ごと愛しているなら、復讐なんか考えないはずだ。
 王女として命令するタルハーミネに微笑みかけ、胸を張って処刑されるべきだ。そんな風にしか生きられない苛烈な魂を持つ恋人に「君は正しい、君は君らしく生きてくれ」とうなずいてやる。それが、タルハーミネを愛した男の任ってもんだ。

 ギィはあまりに未熟だ。
 彼がすべきことは、犯して連れて逃げることではなく、自分ひとりで城を出て、功を成すことだ。
 ジャハンギールがやったように、国でも盗って、堂々とタルハーミネに求婚することだ。
 タルハーミネはギィの妻になれても、王女であることを捨てることは出来ないのだから。ふたりで逃げても心中以外に未来はなかった。みじめな生活に、タルハーミネが耐えられるはずないのだから。

 タルハーミネを恨んで復讐するような男は、タルハーミネに相応しくない。
 結局、タルハーミネの魂なんて関係なく、自分の都合だけで恋してただけじゃん。
 カラダだけじゃなく、心まで小さい男。

 ……と思うから、好みじゃないんだよなあ。

 歪んだ人間は好きだけど、こういう虫けらハートの男は、主人公では見たくない。脇ならそれなりに萌えるけど(笑)。
 親の仇ってだけなら別に、復讐してくれてもいいんだけど、タルハーミネへの復讐は「チガウやろ」と思う。

 コトが大きいからわかりにくいけど、要するに「思ったように愛してくれないから、逆恨みする」ようなもんじゃん。
 仕事が生き甲斐の女性を口説き落とし、退社させてハッピーウェディング!にこじつけたはいいけど、結局「ごめん、やっぱり私仕事を捨てられない! 仕事を捨てたら、私は私でなくなるの」と言って結婚断られた……もう式場押さえて招待状出して上司の仲人も頼んであって、今さら婚約破棄ってちょっと待て俺の立場は?! かわいさ余って憎さ百倍、ストーカー一丁上がり!
 仕事を生き甲斐としている彼女を愛したんじゃなかったの? 彼女から彼女自身である仕事を取り上げて、自分の用意した箱の中に歪めて押し込むことが愛だったの? それ、彼女を愛してないよね? 愛したのも、大切なのも、自分自身だけよね?

 とまあ。

 タルハーミネはいいキャラだし、王女と奴隷、出生の秘密、復讐と王位奪還、という設定と筋立てもイイ。
 だからあとはほんと、ギィのキャラクタなのよねえ。

 ギィって、少年時代からまったく成長してないじゃん?
 「なんであいつはありがとうって言わないんだ?」とふくれていたときのまま。
 言わないのがタルハーミネなんだよ。たとえ思ったとしても、口には出来ないの。そういう女性を愛したんだって、何故わからない。

 タルハーミネに裏切られ、盗賊団のリーダーになっても、結局成長しないまま。
 ギィを自ら葬ったタルハーミネは、成長したのに。

 成長しない主人公は、つまんない。
 物語として。
 主人公の精神的変化が、カタルシスだもん。
 ギィにあるのは「立場の変化」だけなんだもん。
 ストーリーが動くから変化しているように見えているだけで、ギィ自身は幼少期から変わってない。

 ギィの幼少時代をみりおくん自身で演じる意味が、よーっくわかる。
 彼は妖精のように、変わっていない。
 幼く美しいまま。
 少年の潔癖さと自己愛に満ちている。

 みりおくんならではだと思う。
 この役をやってなお、美しく魅力的に見せるなんて。

 みりおくんはすごいと思うし、みりおくんにこの役をアテ書きしたウエクミもすごいと思う。

 ただ、ギィという男は、わたしの好みではない。
 それだけのこと。

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