永遠少年・その1。@金色の砂漠
2016年12月15日 タカラヅカ 『金色の砂漠』の主人公ギィ@みりおくんには、あまり興味がわかない。
いいキャラだと思うし、みりおくん自身は美しくてこの難しい役を説得力を持って演じきっていて素晴らしいと思う……けど、このキャラはわたしの好みじゃないんだよなあ。
タルハーミネ@かのちゃんは面白いキャラだと思うし、彼女のことはもっと突き詰めて考えてみたいと思うけれど。
ギィはなあ。
なんでこんなにギィに興味ないんだろう?
わたし、間違ったキャラとか歪んだキャラ、大好物なのに。
実際、ジャハンギール@ちなつは大好きだ。子どもを人質にとって女をモノにするようなひどい男なのに。
自分を裏切った女の国に攻め込んで、力尽くで女を手に入れる、ギィもステキなこじらせっぷりなのに。
と考え、あー、そうだ、この復讐が好みじゃないんだよなあ、と思い至る。
フィクションにおける「復讐」は良いネタだと思っている。
わくわくするじゃないですか、復讐。
「なんでもいいから小説が読みたい」って書棚を眺めて、『ミミ・クインの復讐』というタイトルだけで「あら、面白そう」と手に取るくらい、「復讐」って萌え単語だわ(笑)。
(あ、『ミミ・クインの復讐』はふつうに面白かったです。やっぱ女は競ってこそ華!よねえ)
だから、親の仇とか悪者を成敗とかは別にいいのよ。や、主人公に義のない逆恨みでも別にイイ。
わたしは物語に「正義」は求めない。聖人君子が心正しく生活する様なんか、別に見たくないもの。
主人公は歪んでいても間違っていてもいい。
だから、ギィの復讐が好みではないのは、「こいつ、なんもわかってねーのな」的ながっかり感があるためなのだわ。
ギィがタルハーミネを愛した。
タルハーミネもギィを愛し、奴隷の妻になる、共に逃げるとまで言った。
ふたりで駆け落ちしようとし、力足らず失敗した。
ここまではいい。
ふつーなら、愛する男女は互いをかばい合い、自分の命と引き替えに恋人の命乞いをしたり、あるいはふたりで美しく心中したりするもんだ。
だが、タルハーミネはふつうじゃなかった。
ギィの命を差し出すことで、自分の命乞いをした。
駆け落ち相手から、まさかの裏切り。かばうどころか、生贄にされるとか……!
それでギィは復讐に燃える。あの女許すまじ。
それはわかる。
そりゃまーそーだろーよ。あの状態で見捨てられるとか、踏み台にされるとか、誰が思うよ?
男のプライドずたずたですよ。カラダも心も痛いよ。
そりゃそうだろうとは思うけど。
でも。
タルハーミネって、そもそもそういう女じゃん。
あそこで「ギィを殺せ、でなければオマエを殺す」と言われ、素直に「愛のために死にます」と言う女じゃない。
かかっているのが命だけだったら、彼女はおとなしく死を選んだだろう。タルハーミネは、誇りのために死ねる女だ。
だが、天秤にかけられたのは、命ではなく、誇りだった。
愛のためになら死ねる。
だが、誇りを傷つけられて、死ぬことは出来ない。
タルハーミネは、王女としての誇りを選んだ。
奴隷ごときを愛した、とは、王女の矜持に懸けて、認められなかった。
だから、ギィの死を選んだ。
愛よりも自分の心よりも幸せよりも、誇りを選んだ。
なんて苛烈な魂だ。
なのにギィときたら。
裏切られたから復讐する?
……ちぃせぇ男だな。
翌日欄へ続く!
いいキャラだと思うし、みりおくん自身は美しくてこの難しい役を説得力を持って演じきっていて素晴らしいと思う……けど、このキャラはわたしの好みじゃないんだよなあ。
タルハーミネ@かのちゃんは面白いキャラだと思うし、彼女のことはもっと突き詰めて考えてみたいと思うけれど。
ギィはなあ。
なんでこんなにギィに興味ないんだろう?
わたし、間違ったキャラとか歪んだキャラ、大好物なのに。
実際、ジャハンギール@ちなつは大好きだ。子どもを人質にとって女をモノにするようなひどい男なのに。
自分を裏切った女の国に攻め込んで、力尽くで女を手に入れる、ギィもステキなこじらせっぷりなのに。
と考え、あー、そうだ、この復讐が好みじゃないんだよなあ、と思い至る。
フィクションにおける「復讐」は良いネタだと思っている。
わくわくするじゃないですか、復讐。
「なんでもいいから小説が読みたい」って書棚を眺めて、『ミミ・クインの復讐』というタイトルだけで「あら、面白そう」と手に取るくらい、「復讐」って萌え単語だわ(笑)。
(あ、『ミミ・クインの復讐』はふつうに面白かったです。やっぱ女は競ってこそ華!よねえ)
だから、親の仇とか悪者を成敗とかは別にいいのよ。や、主人公に義のない逆恨みでも別にイイ。
わたしは物語に「正義」は求めない。聖人君子が心正しく生活する様なんか、別に見たくないもの。
主人公は歪んでいても間違っていてもいい。
だから、ギィの復讐が好みではないのは、「こいつ、なんもわかってねーのな」的ながっかり感があるためなのだわ。
ギィがタルハーミネを愛した。
タルハーミネもギィを愛し、奴隷の妻になる、共に逃げるとまで言った。
ふたりで駆け落ちしようとし、力足らず失敗した。
ここまではいい。
ふつーなら、愛する男女は互いをかばい合い、自分の命と引き替えに恋人の命乞いをしたり、あるいはふたりで美しく心中したりするもんだ。
だが、タルハーミネはふつうじゃなかった。
ギィの命を差し出すことで、自分の命乞いをした。
駆け落ち相手から、まさかの裏切り。かばうどころか、生贄にされるとか……!
それでギィは復讐に燃える。あの女許すまじ。
それはわかる。
そりゃまーそーだろーよ。あの状態で見捨てられるとか、踏み台にされるとか、誰が思うよ?
男のプライドずたずたですよ。カラダも心も痛いよ。
そりゃそうだろうとは思うけど。
でも。
タルハーミネって、そもそもそういう女じゃん。
あそこで「ギィを殺せ、でなければオマエを殺す」と言われ、素直に「愛のために死にます」と言う女じゃない。
かかっているのが命だけだったら、彼女はおとなしく死を選んだだろう。タルハーミネは、誇りのために死ねる女だ。
だが、天秤にかけられたのは、命ではなく、誇りだった。
愛のためになら死ねる。
だが、誇りを傷つけられて、死ぬことは出来ない。
タルハーミネは、王女としての誇りを選んだ。
奴隷ごときを愛した、とは、王女の矜持に懸けて、認められなかった。
だから、ギィの死を選んだ。
愛よりも自分の心よりも幸せよりも、誇りを選んだ。
なんて苛烈な魂だ。
なのにギィときたら。
裏切られたから復讐する?
……ちぃせぇ男だな。
翌日欄へ続く!
彼を跪かせることができるのは、愛のみ。@金色の砂漠
2016年12月14日 タカラヅカ 『金色の砂漠』でもっともときめいたのは、ジャハンギール@ちなつ。
男らしくてかっこいい。
というのは基本スペックに過ぎない。
彼が魅力的なのはなんといっても、「愛に膝を折る男」だからだ。
わたしは、強い男が「愛のために信念を曲げる」瞬間が好き。
愛に敗北する男が好き。
『ガイズ&ドールズ』でも語ったと思うけれど、『ガイドル』という作品を好きなのは、愛に敗北する男たちを明るく肯定して描いた作品だから。
浮気者が、強面が、愛する女のために一途になる、へなちょこになる。
主題歌で歌われる、女のために右往左往する男たち、それをユーモラスに「しあわせなこと」として語った世界観が好き。
女を泣かせて自己完結する男の方が、かっこいいよ、そりゃ。物語としては。盛り上げるための簡単な方法。
行かないでとすがる女をうち捨てて、男は旅立つ。あらかっこいい。片手にピストル、心に花束、男は誰でも不幸なサムライ、花園で眠れぬこともあるんだよてなもんだ。
反対に、女のために生きる男は簡単にかっこ悪くなる。女の買い物荷物を山ほど持ってよたよた後ろを付いて歩く姿、背中を丸めて赤ん坊にガラガラを振って百面相する姿、エプロン付けて赤ん坊背負って洗濯したり、って『ガイドル』にふつーに出てきた姿だけど、かっこ悪いよねええ。滑稽だよねえ。
その、「簡単にかっこ悪くなること」をして、それがかっこ悪くならないくらいかっこいい男が、いいの。
卑怯者や偽善者が好きな女のためになにかしても、かっこよくない。そもそも人生がブレブレだから、その上ナニかしたところで「ああ、自分がかわいいだけですね」だけど。
強くストイックな男が犠牲を覚悟の上で愛を選ぶ……本来ならばソレは「かっこ悪い」選択なんだけど、それまでの生き方があまりにかっこいいから、多少マイナスが付いても高評価が揺るがないの。
むしろ、これほどの人物がこんな愚かな決断をした、それほどまでに愛しているのか……! と盛り上がる。
それくらいきちんと「いい男」が出来上がっていることが重要。
フランツ@『エリザベート』が、「君を失うくらいなら信念も曲げよう」と歌う場面がめちゃくちゃ好き。
それまでの彼の闘いを知っているから、苦悩に満ちた人生を知っているから、それすら投げ捨て愛を選ぶことに感動する。
それゆえに。
ジャハンギールが好き。
アムダリヤ@仙名さんを愛してしまったがために、ジャハンギールの人生は変わった。間違った。
欲しいモノは、力尽くで得る。己の才覚で、実力で、手に入れる。小細工も駆け引きもない。シンプルに猛々しく。
そんな男らしさを誇っていた英雄が、ひとりの女を愛したゆえに、己の矜持を捨てた。
女の子どもを人質に取り、自分のモノになれと脅迫する。
戦争で敵を殺すのとはまったく意味が違う、卑劣な行為。
何千人殺したとしても己の正義に胸を張れる、そういう生き方をしてきた男が、その手を汚した。心を汚した。
どんな卑劣な手段でも、自分自身を許せなくなったとしても、アムダリヤが欲しかった。
ジャハンギールは敗北した。
不敗を誇った猛将は、愛の前に膝を折った。
ジャハンギールが魅力的なのは、強くてかっこいいからではなくて、強くてかっこいいのに、愛のために道を違えたから。
自分の心を殺して、自分ではない誰かの心を欲した。
そして、その過ちを、罪を、自覚している。
正しく、背負っている。
だから彼は、アムダリヤを得るために生かした彼女の息子、イスファンディヤール@みりおくんに討たれることを、受け入れる。
わたしの逆ツボ、「愛さえあればナニをしてもイイ」という感性と、対極にあるモノ。
自分の歪みと罪を自覚した上で、そんな自分を嘲笑するキモチすら持ちながら、それでも、愛を止められない。
ジャハンギールとアムダリヤの生活がどのようなものだったのか。
強奪と脅迫ではじまり、夫婦として長年暮らす男と女は。
最後の最後、自分を討ちに来た、死んだはずのイスファンディヤール、この結果を引き起こしたのがアムダリヤだと知ったジャハンギールの心中。
ちなっちゃんの演技が秀逸で。
あそこで一気に涙出る。
ジャハンギールには、伝わっていたんだろうか。アムダリヤが彼を愛していたこと。
知らないまま、誤解したまま逝っちゃったのかもなあ。
せめて愛を告げない、ことを、矜持にしていそうだもんな、アムダリヤ。先王の妃として自決出来なかった咎を、自らに科していそうだ。
強く、潔い生き様が切ない。
ジャハンギールも。アムダリヤも。
このふたりには、妄想がわく。彼らの物語を知りたいと思う。
いやあ、王道メロドラマだよねえ。
憎い仇に力尽くで奪われて、炎のような憎しみをたぎらせているのに、次第に惹かれていってしまう。憎い憎い、でも愛しい。
強引なその男は、権力があってハンサムでセクシーで。
強い男に嵐のように求められ、奪われる愛憎のドリーム。ああうっとり(笑)。
ジャハンギールとアムダリヤでスピンオフ希望。
大衆向け大劇場ではなく、ファン向けにトバしていいバウかDCあたりで、とことん熱っぽく。エロく。←
男らしくてかっこいい。
というのは基本スペックに過ぎない。
彼が魅力的なのはなんといっても、「愛に膝を折る男」だからだ。
わたしは、強い男が「愛のために信念を曲げる」瞬間が好き。
愛に敗北する男が好き。
『ガイズ&ドールズ』でも語ったと思うけれど、『ガイドル』という作品を好きなのは、愛に敗北する男たちを明るく肯定して描いた作品だから。
浮気者が、強面が、愛する女のために一途になる、へなちょこになる。
主題歌で歌われる、女のために右往左往する男たち、それをユーモラスに「しあわせなこと」として語った世界観が好き。
女を泣かせて自己完結する男の方が、かっこいいよ、そりゃ。物語としては。盛り上げるための簡単な方法。
行かないでとすがる女をうち捨てて、男は旅立つ。あらかっこいい。片手にピストル、心に花束、男は誰でも不幸なサムライ、花園で眠れぬこともあるんだよてなもんだ。
反対に、女のために生きる男は簡単にかっこ悪くなる。女の買い物荷物を山ほど持ってよたよた後ろを付いて歩く姿、背中を丸めて赤ん坊にガラガラを振って百面相する姿、エプロン付けて赤ん坊背負って洗濯したり、って『ガイドル』にふつーに出てきた姿だけど、かっこ悪いよねええ。滑稽だよねえ。
その、「簡単にかっこ悪くなること」をして、それがかっこ悪くならないくらいかっこいい男が、いいの。
卑怯者や偽善者が好きな女のためになにかしても、かっこよくない。そもそも人生がブレブレだから、その上ナニかしたところで「ああ、自分がかわいいだけですね」だけど。
強くストイックな男が犠牲を覚悟の上で愛を選ぶ……本来ならばソレは「かっこ悪い」選択なんだけど、それまでの生き方があまりにかっこいいから、多少マイナスが付いても高評価が揺るがないの。
むしろ、これほどの人物がこんな愚かな決断をした、それほどまでに愛しているのか……! と盛り上がる。
それくらいきちんと「いい男」が出来上がっていることが重要。
フランツ@『エリザベート』が、「君を失うくらいなら信念も曲げよう」と歌う場面がめちゃくちゃ好き。
それまでの彼の闘いを知っているから、苦悩に満ちた人生を知っているから、それすら投げ捨て愛を選ぶことに感動する。
それゆえに。
ジャハンギールが好き。
アムダリヤ@仙名さんを愛してしまったがために、ジャハンギールの人生は変わった。間違った。
欲しいモノは、力尽くで得る。己の才覚で、実力で、手に入れる。小細工も駆け引きもない。シンプルに猛々しく。
そんな男らしさを誇っていた英雄が、ひとりの女を愛したゆえに、己の矜持を捨てた。
女の子どもを人質に取り、自分のモノになれと脅迫する。
戦争で敵を殺すのとはまったく意味が違う、卑劣な行為。
何千人殺したとしても己の正義に胸を張れる、そういう生き方をしてきた男が、その手を汚した。心を汚した。
どんな卑劣な手段でも、自分自身を許せなくなったとしても、アムダリヤが欲しかった。
ジャハンギールは敗北した。
不敗を誇った猛将は、愛の前に膝を折った。
ジャハンギールが魅力的なのは、強くてかっこいいからではなくて、強くてかっこいいのに、愛のために道を違えたから。
自分の心を殺して、自分ではない誰かの心を欲した。
そして、その過ちを、罪を、自覚している。
正しく、背負っている。
だから彼は、アムダリヤを得るために生かした彼女の息子、イスファンディヤール@みりおくんに討たれることを、受け入れる。
わたしの逆ツボ、「愛さえあればナニをしてもイイ」という感性と、対極にあるモノ。
自分の歪みと罪を自覚した上で、そんな自分を嘲笑するキモチすら持ちながら、それでも、愛を止められない。
ジャハンギールとアムダリヤの生活がどのようなものだったのか。
強奪と脅迫ではじまり、夫婦として長年暮らす男と女は。
最後の最後、自分を討ちに来た、死んだはずのイスファンディヤール、この結果を引き起こしたのがアムダリヤだと知ったジャハンギールの心中。
ちなっちゃんの演技が秀逸で。
あそこで一気に涙出る。
ジャハンギールには、伝わっていたんだろうか。アムダリヤが彼を愛していたこと。
知らないまま、誤解したまま逝っちゃったのかもなあ。
せめて愛を告げない、ことを、矜持にしていそうだもんな、アムダリヤ。先王の妃として自決出来なかった咎を、自らに科していそうだ。
強く、潔い生き様が切ない。
ジャハンギールも。アムダリヤも。
このふたりには、妄想がわく。彼らの物語を知りたいと思う。
いやあ、王道メロドラマだよねえ。
憎い仇に力尽くで奪われて、炎のような憎しみをたぎらせているのに、次第に惹かれていってしまう。憎い憎い、でも愛しい。
強引なその男は、権力があってハンサムでセクシーで。
強い男に嵐のように求められ、奪われる愛憎のドリーム。ああうっとり(笑)。
ジャハンギールとアムダリヤでスピンオフ希望。
大衆向け大劇場ではなく、ファン向けにトバしていいバウかDCあたりで、とことん熱っぽく。エロく。←
そして、残された者。@金色の砂漠
2016年12月13日 タカラヅカ 『金色の砂漠』のジャー@キキくんが好きです。
ドラマチックな物語のエキセントリックな人々の中、ただひとりまともで湖のような静かな青年。
いい人、という設定の役を、ほんとうにただ「いい人」に、違えることなく形作っていることを、愛しく思う。
ギィ@みりおくんとの双子設定は、正直どうかと思うんだけど……まあ、たぶん、双子でも育った環境の差で似ても似つかなくなるもんだしな。
環境の差ってのはもちろん、彼らが付いた王女様の性格の差な。
ギィだって、ビルマーヤ@べーちゃん付きの奴隷だったら、あんな性格にはならなかっただろう(笑)。
ジャーはまともで、優しい。優しすぎるし、物わかりが良すぎる。嘘くさい。ご都合主義っぽい。作者の作為を感じる。作者が物語を転がすために、都合良く作って動かしているだけだろ、とも思う。作者の愛をいちばん感じない、他を全部設置したあとで齟齬を埋めるために作り出した、隙間家具みたいなキャラクタだと思う。
……けど、それでもなお、好きだな。いや、そういうところが萌えだと思うな。
主人公より脇に魅力を感じる性癖があるので(笑)。
ジャーの扱いの雑さにこそ、ときめく。
この役がご贔屓だったらわたし、萌え狂ってると思う。その昔、『天の鼓』の樹役(鼓よりも軽い命!)にときめきが止まらなかったように!
作者が愛してくれない分、わたしが愛するわ!的な、逆境ゆえに恋が花咲く感じ?
なんて冗談はさておき。
わたしの萌えツボに、「残された者」てのがある。
ドラマチックに傍迷惑に、生きるの死ぬのと大騒ぎする主人公たちの横で、ドラマからは取り残され、生き残ってしまう人。すべてを見ていたけれど、なにもできずにただそこにいることしか出来なかった人。
そういう人って、大抵やさしい、まともな人なのよ。そういう人に萌えるの。
大騒ぎして燃え尽きられる人はいいよ。ある意味楽だもの。
でも、それを見守っていた者は……そして、これからなおも、長い人生を、そのときの記憶やら後悔やら責任やらを背負って生きていかなければならない「ふつうの人」は、どんだけ大変よ?
現在に、そして、物語には書かれていない「未来」にも、切なくなるの。
『双頭の鷲』の感想でも書いたけど、わたしは「死にEND」は好きじゃない。死んで楽になるより、つらくても哀しくても、歯を食いしばって生きていく人が好き。
だから、「残された者」が好き。彼がどう生きるのか、思いを馳せるのが好き。
脇役体質、脇役萌えなんだと思うよ、根っからの。
華々しく散る人より、地味に生き延びる人が好きなんだもん。
ジャーの優しさが好き。
そして、ジャーの良さをわかっているビルマーヤが、彼と同じタイプであるゴラーズさん@タソを選ぶのがわかる。そうだろう、そうだろう。ゴラーズさんもほんと、脇役体質な人だもんねえ。
欲を言えば、ジャーにももう少し人間味というか、濁った部分・ものわかりのよすぎない部分が欲しかったけど……ここまで作者に都合良くせんでもええやん、と思うけど……とことんまで「きれい」にしたかったのかな、とも思う。
ジャーの持つ透明感が、この美しい物語の方向性を決めているのだから。
……彼がいなかったら、もっとドロドロが剥き出しになっていたと思うよ。ジャーは紗幕みたいなもん、きつすぎる色をふんわり淡くする。
ドラマチックな物語のエキセントリックな人々の中、ただひとりまともで湖のような静かな青年。
いい人、という設定の役を、ほんとうにただ「いい人」に、違えることなく形作っていることを、愛しく思う。
ギィ@みりおくんとの双子設定は、正直どうかと思うんだけど……まあ、たぶん、双子でも育った環境の差で似ても似つかなくなるもんだしな。
環境の差ってのはもちろん、彼らが付いた王女様の性格の差な。
ギィだって、ビルマーヤ@べーちゃん付きの奴隷だったら、あんな性格にはならなかっただろう(笑)。
ジャーはまともで、優しい。優しすぎるし、物わかりが良すぎる。嘘くさい。ご都合主義っぽい。作者の作為を感じる。作者が物語を転がすために、都合良く作って動かしているだけだろ、とも思う。作者の愛をいちばん感じない、他を全部設置したあとで齟齬を埋めるために作り出した、隙間家具みたいなキャラクタだと思う。
……けど、それでもなお、好きだな。いや、そういうところが萌えだと思うな。
主人公より脇に魅力を感じる性癖があるので(笑)。
ジャーの扱いの雑さにこそ、ときめく。
この役がご贔屓だったらわたし、萌え狂ってると思う。その昔、『天の鼓』の樹役(鼓よりも軽い命!)にときめきが止まらなかったように!
作者が愛してくれない分、わたしが愛するわ!的な、逆境ゆえに恋が花咲く感じ?
なんて冗談はさておき。
わたしの萌えツボに、「残された者」てのがある。
ドラマチックに傍迷惑に、生きるの死ぬのと大騒ぎする主人公たちの横で、ドラマからは取り残され、生き残ってしまう人。すべてを見ていたけれど、なにもできずにただそこにいることしか出来なかった人。
そういう人って、大抵やさしい、まともな人なのよ。そういう人に萌えるの。
大騒ぎして燃え尽きられる人はいいよ。ある意味楽だもの。
でも、それを見守っていた者は……そして、これからなおも、長い人生を、そのときの記憶やら後悔やら責任やらを背負って生きていかなければならない「ふつうの人」は、どんだけ大変よ?
現在に、そして、物語には書かれていない「未来」にも、切なくなるの。
『双頭の鷲』の感想でも書いたけど、わたしは「死にEND」は好きじゃない。死んで楽になるより、つらくても哀しくても、歯を食いしばって生きていく人が好き。
だから、「残された者」が好き。彼がどう生きるのか、思いを馳せるのが好き。
脇役体質、脇役萌えなんだと思うよ、根っからの。
華々しく散る人より、地味に生き延びる人が好きなんだもん。
ジャーの優しさが好き。
そして、ジャーの良さをわかっているビルマーヤが、彼と同じタイプであるゴラーズさん@タソを選ぶのがわかる。そうだろう、そうだろう。ゴラーズさんもほんと、脇役体質な人だもんねえ。
欲を言えば、ジャーにももう少し人間味というか、濁った部分・ものわかりのよすぎない部分が欲しかったけど……ここまで作者に都合良くせんでもええやん、と思うけど……とことんまで「きれい」にしたかったのかな、とも思う。
ジャーの持つ透明感が、この美しい物語の方向性を決めているのだから。
……彼がいなかったら、もっとドロドロが剥き出しになっていたと思うよ。ジャーは紗幕みたいなもん、きつすぎる色をふんわり淡くする。
彼のマドモアゼル。@双頭の鷲
2016年12月12日 タカラヅカ 『双頭の鷲』2幕最初。
そらくんの客席登場があった。
彼は解説をしつつ、客いじりをする。話しかける。「マドモアゼル」と呼びかける。
特に、ひとりの客をつかまえて、デートの誘いをかける。パリジャンらしく、粋に。
タカラヅカの男役冥利に尽きる役。現実の男がやったらサムイを通り越してアタマがおかしいと思われるレベルのキザ台詞の洪水。タカラヅカだからこそ成立するお遊び。
それを、そらくんがやっている、というのが感慨深い。
そらくんって、子犬キャラというか三枚目キャラというか弟キャラというか、「いわゆる、美形スター」という認識がなかったためだ。や、世間は知らん、わたしが。
優等生でなんでもできるけどいじられキャラで踏まれてきゃんきゃん言ってる感じ……って、まぁくんのブリドリがかわいすぎたせいで、そっからイメージ止まってるのよ。
それが最近かっこよく見えてドキドキ、というのが現在のわたしの立ち位置。
そんな気になる彼が、客席登場して客いじりしてる。とことんキザに口説いてる……きゃあああ。
とまあ。そのときはテンション上がった。
わざとかっこつけてるそらくんを観るのは楽しかった。
だが終演後、冷静になって考えると。
べつに、うらやましくはないなあ。そらくんに「マドモアゼル」と一本釣りされている誰かのこと。
いやその。
まっつが客席降りして客いじりしてたら、うらやましかったと思うのね。目の前で立ち止まって顔覗き込まれてデートに誘われる人が。いいなあ、うらやましいなあ。あの席のチケット欲しいな、なんとかならないかしら、と強く思うだろう。
でも、そらくんだとぺつに、そうは思わないなあ。あらあらいいわね、楽しいわね、と遠く眺めて拍手するだけ。
そうか。まだ、ポストまっつは空席なんだなあ、と思う。
この場合、そらくんだからうらやましくない、のではなくて。
わたしの問題だ。
そらくん大好きで、宙組観るときの観測ポイントのひとつなのにね。
それとも。
そらくんに「マドモアゼル」ってやられたら、一気に恋に落ちるかしら……。先日、レイラくんに顔のぞきこまれてドッキドキにときめいた単純おばさんだからなー。
ご贔屓ではないけれど、各組にいる「かなり好き」な色男さんたち……そういうあたりの人から「君の瞳に乾杯☆」的な口説き文句を目を見て言われたら、こあらさん一気に落ちるかしら……。
わたしがそらくんの「マドモアゼル」だったら? 次の瞬間から「そらくん追いかける、とりあえず今出てる彼のブロマイド全買いして、そらくんグッズ作って持ち歩く!」とか、痛ファン生活に目覚めたりするかしら……。
や、わたしが彼のマドモアゼルになれるチャンスはもうナイので、考えるだけ無駄だけど。
そんな夢を見られるくらい、そらくんはステキな役をやってました。
ちくしょー。
なんか、ちくしょー。……言葉悪いわね。
もっともっとステキになってね、そらくん。
もっともっとステキになるよね。
そらくんの客席登場があった。
彼は解説をしつつ、客いじりをする。話しかける。「マドモアゼル」と呼びかける。
特に、ひとりの客をつかまえて、デートの誘いをかける。パリジャンらしく、粋に。
タカラヅカの男役冥利に尽きる役。現実の男がやったらサムイを通り越してアタマがおかしいと思われるレベルのキザ台詞の洪水。タカラヅカだからこそ成立するお遊び。
それを、そらくんがやっている、というのが感慨深い。
そらくんって、子犬キャラというか三枚目キャラというか弟キャラというか、「いわゆる、美形スター」という認識がなかったためだ。や、世間は知らん、わたしが。
優等生でなんでもできるけどいじられキャラで踏まれてきゃんきゃん言ってる感じ……って、まぁくんのブリドリがかわいすぎたせいで、そっからイメージ止まってるのよ。
それが最近かっこよく見えてドキドキ、というのが現在のわたしの立ち位置。
そんな気になる彼が、客席登場して客いじりしてる。とことんキザに口説いてる……きゃあああ。
とまあ。そのときはテンション上がった。
わざとかっこつけてるそらくんを観るのは楽しかった。
だが終演後、冷静になって考えると。
べつに、うらやましくはないなあ。そらくんに「マドモアゼル」と一本釣りされている誰かのこと。
いやその。
まっつが客席降りして客いじりしてたら、うらやましかったと思うのね。目の前で立ち止まって顔覗き込まれてデートに誘われる人が。いいなあ、うらやましいなあ。あの席のチケット欲しいな、なんとかならないかしら、と強く思うだろう。
でも、そらくんだとぺつに、そうは思わないなあ。あらあらいいわね、楽しいわね、と遠く眺めて拍手するだけ。
そうか。まだ、ポストまっつは空席なんだなあ、と思う。
この場合、そらくんだからうらやましくない、のではなくて。
わたしの問題だ。
そらくん大好きで、宙組観るときの観測ポイントのひとつなのにね。
それとも。
そらくんに「マドモアゼル」ってやられたら、一気に恋に落ちるかしら……。先日、レイラくんに顔のぞきこまれてドッキドキにときめいた単純おばさんだからなー。
ご贔屓ではないけれど、各組にいる「かなり好き」な色男さんたち……そういうあたりの人から「君の瞳に乾杯☆」的な口説き文句を目を見て言われたら、こあらさん一気に落ちるかしら……。
わたしがそらくんの「マドモアゼル」だったら? 次の瞬間から「そらくん追いかける、とりあえず今出てる彼のブロマイド全買いして、そらくんグッズ作って持ち歩く!」とか、痛ファン生活に目覚めたりするかしら……。
や、わたしが彼のマドモアゼルになれるチャンスはもうナイので、考えるだけ無駄だけど。
そんな夢を見られるくらい、そらくんはステキな役をやってました。
ちくしょー。
なんか、ちくしょー。……言葉悪いわね。
もっともっとステキになってね、そらくん。
もっともっとステキになるよね。
「美しい世界」をぶっ壊す美しい人。@双頭の鷲
2016年12月11日 タカラヅカ 『双頭の鷲』は、とことん美しいけどタカラヅカらしくない、というのも、わたしには残念ポイント。タカラヅカでしか出来ない美しい作品なのに、タカラヅカらしくないとはこれいかに。
タカラヅカは大衆演劇であると思っているから。エンタメだと思っているから。『双頭の鷲』はチガウなと。
『双頭の鷲』はエンタメよりも純文学寄りの作りだと思う。美しくあることを優先して、タカラヅカの持つダサい部分を排除した。
芸術性の高さをすごいなと思う。
けど、わたしは高尚なものより俗っぽいものが好き。アタマ悪いから、難しいモノは理解できないの。てへ。
この高尚っぽい静かな凪のような作品で、突然ざっぱーーんとマンガちっくな波を立てる、愛ちゃんが素敵すぎる。
愛ちゃんひとり、世界観違うんだけどいいのアレ。
景子せんせの計算なのか、愛ちゃんにはアレしか出来ないのか、判断つかなくて混乱する(笑)。
狂言回しのそらやパパラッチたちは、物語を割って入るからトドとみりおんのふたり芝居に集中してガーガー泣いてたりするわたしは、水を差されて正気に返り、水増し要因イラネと思う。
が、彼らはべつに、世界観を壊すとは思わないんだ。
彼らは演劇的手法でそこにいるだけで、いらないけど同じ作品内にいる、同じカラーを持っている。
でも、愛ちゃんは逆だ。
物語には必要な役。なのに、世界観が違う。
繊細な筆致の絵画の中に、紙と絵の具や鉛筆の世界に、突然デジタルなアニメキャラが登場する。
画材も次元も違いますがな、愛ちゃん今どきの今どきのフルCGアニメだよね? ちょっとマネキン入ってる、表情や動きが不自由な感じのやつ。
愛ちゃんがあまりに愛ちゃんで、心震える。
だって、愛ちゃんが出てくると、突然そこが「タカラヅカ」になるんだもの!
タカラヅカを超えた高尚な舞台から、一気にただのタカラヅカになる。
そしてわたしは、タカラヅカが好き。
世界観ぶち壊して「ザ・タカラヅカ!!」をはじめる愛ちゃんに腹筋鍛えられる。マジ面白い。好き。
景子せんせが狙ってやってるのか、ただの愛ちゃん効果なのかはわからないけど。そして、狙ってなくてああなって、それでも許容されているのだとしたら、さらにすごいことだと思うけど。
いいなあ、ほんと。
フェーン伯爵@愛ちゃんがスタニスラス@トド様と絡むとことか、素晴らしいわ。トド様がすっぽり腕の中に入ってしまう、体格差がイイ。愛ちゃんってほんとカラダ美形さん。
高尚すぎず、ずっとこの「タカラヅカ」的世界観で作ってくれたら、もっと好きだったな、きっと。
愛ちゃんがいてくれて良かった。
タカラヅカは大衆演劇であると思っているから。エンタメだと思っているから。『双頭の鷲』はチガウなと。
『双頭の鷲』はエンタメよりも純文学寄りの作りだと思う。美しくあることを優先して、タカラヅカの持つダサい部分を排除した。
芸術性の高さをすごいなと思う。
けど、わたしは高尚なものより俗っぽいものが好き。アタマ悪いから、難しいモノは理解できないの。てへ。
この高尚っぽい静かな凪のような作品で、突然ざっぱーーんとマンガちっくな波を立てる、愛ちゃんが素敵すぎる。
愛ちゃんひとり、世界観違うんだけどいいのアレ。
景子せんせの計算なのか、愛ちゃんにはアレしか出来ないのか、判断つかなくて混乱する(笑)。
狂言回しのそらやパパラッチたちは、物語を割って入るからトドとみりおんのふたり芝居に集中してガーガー泣いてたりするわたしは、水を差されて正気に返り、水増し要因イラネと思う。
が、彼らはべつに、世界観を壊すとは思わないんだ。
彼らは演劇的手法でそこにいるだけで、いらないけど同じ作品内にいる、同じカラーを持っている。
でも、愛ちゃんは逆だ。
物語には必要な役。なのに、世界観が違う。
繊細な筆致の絵画の中に、紙と絵の具や鉛筆の世界に、突然デジタルなアニメキャラが登場する。
画材も次元も違いますがな、愛ちゃん今どきの今どきのフルCGアニメだよね? ちょっとマネキン入ってる、表情や動きが不自由な感じのやつ。
愛ちゃんがあまりに愛ちゃんで、心震える。
だって、愛ちゃんが出てくると、突然そこが「タカラヅカ」になるんだもの!
タカラヅカを超えた高尚な舞台から、一気にただのタカラヅカになる。
そしてわたしは、タカラヅカが好き。
世界観ぶち壊して「ザ・タカラヅカ!!」をはじめる愛ちゃんに腹筋鍛えられる。マジ面白い。好き。
景子せんせが狙ってやってるのか、ただの愛ちゃん効果なのかはわからないけど。そして、狙ってなくてああなって、それでも許容されているのだとしたら、さらにすごいことだと思うけど。
いいなあ、ほんと。
フェーン伯爵@愛ちゃんがスタニスラス@トド様と絡むとことか、素晴らしいわ。トド様がすっぽり腕の中に入ってしまう、体格差がイイ。愛ちゃんってほんとカラダ美形さん。
高尚すぎず、ずっとこの「タカラヅカ」的世界観で作ってくれたら、もっと好きだったな、きっと。
愛ちゃんがいてくれて良かった。
そして、「美しい世界」を作るためのドーピング。@双頭の鷲
2016年12月10日 タカラヅカ 『双頭の鷲』思いつくままに。
わたしは所詮トドファンなので。
トドロキの美しさだけで泣ける。
トド様というと学年からも立場からも芸風からも、骨太さ・男らしさを求められる。
芸歴何十年、研いくつだっけ。の、駆け出しの若造には表現出来ない貫禄と重み。理事という肩書。そして、若いときから一貫して立役であった芸風。
英雄で指導者で男くさくて、ヒゲが似合って野太い声で吠えている役が似合う、そんなイメージ。
そんな役割を担ってきた人だが。
いや、だからこそ。
わたしがときめくのは、繊細で傷つきやすくてうつむいている、多感な青年の姿だ。
『凱旋門』のラヴィックだとか、『オネーギン』だとか。
『双頭の鷲』のトドは見たかったトドで、さすが『オネーギン』の景子たんだ、ありがとう!!
2回目の観劇では、他は捨ててトドのみをオペラグラスで追った。
『オネーギン』もそうだったなあ。「このトド様を一瞬たりとも見逃してはならない!!」と思えたから。
心の揺れが細かく整った顔に映し出されて、観ていて心臓がハクハクする。
特に最初の警戒と怯えのある顔が最高っす。反発と自棄に瞬間針が揺れて、またすぐ意志の力で強くこの場に踏みとどまって暗殺者の顔を作り……。
暴挙に及んでいるけれど、脳筋なのではなく、繊細な文系青年ゆえに爆発してここにいるんだとわかる。
彼を注視するだけで楽しい。
泣ける。
それでも、わたしは根本的にこのテの物語は好みではない。
わたしはわかりやすいハッピーエンドが好き。死んじゃうENDは相当出来が良くないと、ふつーのハピエンにかなわない。世間の評価がではなく、わたしのなかで。
特に、「美しく終わるための死にEND」はわたしの中で点数が下がる。
だって簡単じゃん、手法として。
生きて美しい・ハピエンで美しい、の方が創るのは困難。生きていたりハッピーだったりするとどうしても、ダサさが含まれるから。現実の泥臭さがあるから。
どんな物語も、主人公殺してENDにするなら、ドラマチックだったり美しかったり出来る。構成に詰まったら主人公殺して終わらせればいい。主人公死ねば観客泣くし、お手軽感動作の出来上がり。
『双頭の鷲』は計算された美しい作品なのでお手軽とは思わないが、それでも死にENDだからこそ出来た、というドーピング感はある。
それに加え、同じ死んで終わりでも、「責任を投げ出して死ぬ」のが好きじゃないんだなあ。
初日に観たときは、王妃としての再生を、政治と国とを全部まるっと投げ出すことに「ヲイ!」とツッコミ入れたもん。わたしはやっぱ、高貴なるものの義務を果たしてほしいと思うんだよなあ。
や、原作があるからどうのという話ではなくてね。んなこといったら原作にパパラッチがいて歌い踊っているのかって話で、景子たん作品『双頭の鷲』の話をしているんだから。
晴興@『星逢一夜』もそうだけど、わたしは「責任を投げ出し、自分だけが得をして終わる」主人公より、「自分にとって死ぬよりつらいことを背負い、自分ではない誰かのために責任を果たす」主人公が好きだ。主人公が死んでいいのは、そのあとだ。真に美しい死にENDは、そういう死に方だと思う。
「死にENDならなんでも美しい」という観点で作られたもっとも極端な例が、植爺の『外伝 ベルサイユのばら-アラン編-』だと思うし。周囲の人間が「最後まであきらめるな。希望を捨てるな」と言っているのに、肝心の主人公は「もう無理、しんどいのは嫌だ、あとのことは知らない、誰かがなんかしてくれるさ」と言って自殺。それを美談として囃し立てる作品。死ねば正義。みんなどんどん自殺しようぜ!!
植爺ほどアタマのおかしい死にENDを書く人はまずいないけど、カテゴリ的には『双頭の鷲』も同じになっちゃうのよ。わたしはソレが嫌。
王妃には明るい未来があったのに、それを投げ出すことにカタルシスを求めていることも、理解しているけれど。本人だけの明るい未来じゃなくて、国の未来がかかっているから、わたしには無責任に思えて残念ポイント。
や、わたしの好みの話。反対に、「国と国民の未来を投げ出すほどの愛ってステキ!」と萌える人だっていると思うし。ほら、植爺『ベルばら』のスウェーデン国王が「他国の王妃との不倫を貫け!」と臣下に大々的に命令することを「感動」とするように。そんなことしたら戦争になって多くの人が死ぬけど、たったひとりの愛の成就の方が国民の命より大事なんだ!! この狂った展開が感動場面なんだ!! 驚愕するわたしは少数派なんだ! てな風に。
って、いちいちキチガイ例を出してごめん、でも植爺はわかりやすく狂ってるから、例にしやすくて(笑)。
と、まあ、完全に好みではなくても好きだし泣けるんだから、すごい作品だとも思っている。
なにより、このトド様だけでも感謝。
はー、見られて良かった。
わたしは所詮トドファンなので。
トドロキの美しさだけで泣ける。
トド様というと学年からも立場からも芸風からも、骨太さ・男らしさを求められる。
芸歴何十年、研いくつだっけ。の、駆け出しの若造には表現出来ない貫禄と重み。理事という肩書。そして、若いときから一貫して立役であった芸風。
英雄で指導者で男くさくて、ヒゲが似合って野太い声で吠えている役が似合う、そんなイメージ。
そんな役割を担ってきた人だが。
いや、だからこそ。
わたしがときめくのは、繊細で傷つきやすくてうつむいている、多感な青年の姿だ。
『凱旋門』のラヴィックだとか、『オネーギン』だとか。
『双頭の鷲』のトドは見たかったトドで、さすが『オネーギン』の景子たんだ、ありがとう!!
2回目の観劇では、他は捨ててトドのみをオペラグラスで追った。
『オネーギン』もそうだったなあ。「このトド様を一瞬たりとも見逃してはならない!!」と思えたから。
心の揺れが細かく整った顔に映し出されて、観ていて心臓がハクハクする。
特に最初の警戒と怯えのある顔が最高っす。反発と自棄に瞬間針が揺れて、またすぐ意志の力で強くこの場に踏みとどまって暗殺者の顔を作り……。
暴挙に及んでいるけれど、脳筋なのではなく、繊細な文系青年ゆえに爆発してここにいるんだとわかる。
彼を注視するだけで楽しい。
泣ける。
それでも、わたしは根本的にこのテの物語は好みではない。
わたしはわかりやすいハッピーエンドが好き。死んじゃうENDは相当出来が良くないと、ふつーのハピエンにかなわない。世間の評価がではなく、わたしのなかで。
特に、「美しく終わるための死にEND」はわたしの中で点数が下がる。
だって簡単じゃん、手法として。
生きて美しい・ハピエンで美しい、の方が創るのは困難。生きていたりハッピーだったりするとどうしても、ダサさが含まれるから。現実の泥臭さがあるから。
どんな物語も、主人公殺してENDにするなら、ドラマチックだったり美しかったり出来る。構成に詰まったら主人公殺して終わらせればいい。主人公死ねば観客泣くし、お手軽感動作の出来上がり。
『双頭の鷲』は計算された美しい作品なのでお手軽とは思わないが、それでも死にENDだからこそ出来た、というドーピング感はある。
それに加え、同じ死んで終わりでも、「責任を投げ出して死ぬ」のが好きじゃないんだなあ。
初日に観たときは、王妃としての再生を、政治と国とを全部まるっと投げ出すことに「ヲイ!」とツッコミ入れたもん。わたしはやっぱ、高貴なるものの義務を果たしてほしいと思うんだよなあ。
や、原作があるからどうのという話ではなくてね。んなこといったら原作にパパラッチがいて歌い踊っているのかって話で、景子たん作品『双頭の鷲』の話をしているんだから。
晴興@『星逢一夜』もそうだけど、わたしは「責任を投げ出し、自分だけが得をして終わる」主人公より、「自分にとって死ぬよりつらいことを背負い、自分ではない誰かのために責任を果たす」主人公が好きだ。主人公が死んでいいのは、そのあとだ。真に美しい死にENDは、そういう死に方だと思う。
「死にENDならなんでも美しい」という観点で作られたもっとも極端な例が、植爺の『外伝 ベルサイユのばら-アラン編-』だと思うし。周囲の人間が「最後まであきらめるな。希望を捨てるな」と言っているのに、肝心の主人公は「もう無理、しんどいのは嫌だ、あとのことは知らない、誰かがなんかしてくれるさ」と言って自殺。それを美談として囃し立てる作品。死ねば正義。みんなどんどん自殺しようぜ!!
植爺ほどアタマのおかしい死にENDを書く人はまずいないけど、カテゴリ的には『双頭の鷲』も同じになっちゃうのよ。わたしはソレが嫌。
王妃には明るい未来があったのに、それを投げ出すことにカタルシスを求めていることも、理解しているけれど。本人だけの明るい未来じゃなくて、国の未来がかかっているから、わたしには無責任に思えて残念ポイント。
や、わたしの好みの話。反対に、「国と国民の未来を投げ出すほどの愛ってステキ!」と萌える人だっていると思うし。ほら、植爺『ベルばら』のスウェーデン国王が「他国の王妃との不倫を貫け!」と臣下に大々的に命令することを「感動」とするように。そんなことしたら戦争になって多くの人が死ぬけど、たったひとりの愛の成就の方が国民の命より大事なんだ!! この狂った展開が感動場面なんだ!! 驚愕するわたしは少数派なんだ! てな風に。
って、いちいちキチガイ例を出してごめん、でも植爺はわかりやすく狂ってるから、例にしやすくて(笑)。
と、まあ、完全に好みではなくても好きだし泣けるんだから、すごい作品だとも思っている。
なにより、このトド様だけでも感謝。
はー、見られて良かった。
「美しい」世界。@双頭の鷲
2016年12月9日 タカラヅカ 今更だけど、宙組バウ『双頭の鷲』の話。
2回目を観に行った。
泣いた。
最初っから泣けて泣けてしょうがない。
張り詰めた空気。決まっている悲劇に向かい進んでいく緊迫感。それでもそこに生きる彼らに同調して未来を忘れ、光を見出す切なさ。
美しいということ。
まったく同じ脚本、同じ演出だったとしても、美しくなければこの物語は成立しない。それは「タカラヅカだから」ではなく、もっと根源的なところで。
美しい、ことがテーマのひとつなんだと思う。いや、最大の、と言ってもいいのかもしれない。他のことを表現したいのなら、もっと別のアプローチがあるはず。あえてこうしているのは、「美しくあること」を追求するがゆえ、と思える。
宙組で公演するのも、それゆえなのかと思う。
パパラッチはいらない役だし、わたしは彼らが出てくると集中や物語をぶった切られて不愉快だ。だが、まだ宙組だからこれで済んでいるのかとも思う。
宙のモブさんたちはうるさくない。パパラッチたちはそれぞれキャラクタがあるのだが、キャラがあってなお「薄い」。
宙組というと「動く大道具」「トップコンビと背景」だった歴史の長い組。スターを生み出さずみんなでモブをがんばり、他組から降ってくるスターを支える、というシステムで運用されている。
今現在の宙組がどうなのか、これからの宙組がどうなのかは置いて、過去はそうだった。テル時代も「組子ほとんどモブ」の大作ばかり続き、まぁくん時代になってから3作本公演があったが、うち2本が大作で組子はモブだ。
宙組の育成基盤が、そうなっているのかもしれない。他組からのスターを受け入れやすいように、いつも平らに均してある。突出したモノは作らない。
組体制の是非ではなく、そういった土台の組ならではの「真ん中を盛り上げる美しさ」を、この作品においてありがたいと思う。
だからシンプルに、「美しさ」に酔う。
美しいものを見て、その美しさに息を詰まらせ、涙を流す。
美しいモノには、多幸感と、一抹の哀しみが必要なのだと思う。
もしくは、その真逆。
満ちる哀しみと、一条の光。
それが、「美しさ」を際立たせるのだと思う。
みりおんは宙組の美しさに合うと思う。
花組では薄くて輪郭が分からなかった。花組自体が色濃い組だったから。
でも宙組ではみりおんの端正さはきれいに周囲にはまり、かつ、一定の重さを持った。
今回のみりおんを見ながら、きれいな輪郭と世界観に合った薄い色彩を感じた。それでいて、たしかに重みがあることに気づいた。
そうか、彼女には影がある。
陰でもない翳りでもない、物理的な、影。光を遮って出来るもの。
影がある。
この嘘のように美しい世界で、影がある。
そこに、在るんだ。
そんなことを、しみじみと感じてみたり。
エリザベート役をやった直後にこの作品の「王妃」をやるのは、わざとというか、計算なんだと思う。景子タンにしろみりおんにしろ、観客に『エリザベート』を想像するな、『エリザベート』を上演したことは忘れろ、とは言ってないはず。
『エリザベート』を上演した組で、エリザベートを演じたみりおんで、この物語を作る意味。
『ジャン・ルイ・ファージョン』に感じたモノと同種の気概を感じるな、景子せんせに。〇〇といえば**先生の『☆☆』、という一般認識に対する一石というか。景子タン、好戦的だなと。
みりおんはあらかじめ描かれたガイドラインに沿って忠実に線を引いてくるイメージ。
景子作品に合う。
正しく美しく仕上げてくれる。
そういうところがわたしには物足りないんだろうなとも思う。
それも含めて、「美しさ」だと思う。景子タンの求める世界。濃すぎたり主張が強すぎると美しさを通り越してグロテスクになったりするから。今の薄さと端正さが必要なんだ。
だからもう素直に美しさに酔い、涙を流す。
それが、カタルシスだ。
2回目を観に行った。
泣いた。
最初っから泣けて泣けてしょうがない。
張り詰めた空気。決まっている悲劇に向かい進んでいく緊迫感。それでもそこに生きる彼らに同調して未来を忘れ、光を見出す切なさ。
美しいということ。
まったく同じ脚本、同じ演出だったとしても、美しくなければこの物語は成立しない。それは「タカラヅカだから」ではなく、もっと根源的なところで。
美しい、ことがテーマのひとつなんだと思う。いや、最大の、と言ってもいいのかもしれない。他のことを表現したいのなら、もっと別のアプローチがあるはず。あえてこうしているのは、「美しくあること」を追求するがゆえ、と思える。
宙組で公演するのも、それゆえなのかと思う。
パパラッチはいらない役だし、わたしは彼らが出てくると集中や物語をぶった切られて不愉快だ。だが、まだ宙組だからこれで済んでいるのかとも思う。
宙のモブさんたちはうるさくない。パパラッチたちはそれぞれキャラクタがあるのだが、キャラがあってなお「薄い」。
宙組というと「動く大道具」「トップコンビと背景」だった歴史の長い組。スターを生み出さずみんなでモブをがんばり、他組から降ってくるスターを支える、というシステムで運用されている。
今現在の宙組がどうなのか、これからの宙組がどうなのかは置いて、過去はそうだった。テル時代も「組子ほとんどモブ」の大作ばかり続き、まぁくん時代になってから3作本公演があったが、うち2本が大作で組子はモブだ。
宙組の育成基盤が、そうなっているのかもしれない。他組からのスターを受け入れやすいように、いつも平らに均してある。突出したモノは作らない。
組体制の是非ではなく、そういった土台の組ならではの「真ん中を盛り上げる美しさ」を、この作品においてありがたいと思う。
だからシンプルに、「美しさ」に酔う。
美しいものを見て、その美しさに息を詰まらせ、涙を流す。
美しいモノには、多幸感と、一抹の哀しみが必要なのだと思う。
もしくは、その真逆。
満ちる哀しみと、一条の光。
それが、「美しさ」を際立たせるのだと思う。
みりおんは宙組の美しさに合うと思う。
花組では薄くて輪郭が分からなかった。花組自体が色濃い組だったから。
でも宙組ではみりおんの端正さはきれいに周囲にはまり、かつ、一定の重さを持った。
今回のみりおんを見ながら、きれいな輪郭と世界観に合った薄い色彩を感じた。それでいて、たしかに重みがあることに気づいた。
そうか、彼女には影がある。
陰でもない翳りでもない、物理的な、影。光を遮って出来るもの。
影がある。
この嘘のように美しい世界で、影がある。
そこに、在るんだ。
そんなことを、しみじみと感じてみたり。
エリザベート役をやった直後にこの作品の「王妃」をやるのは、わざとというか、計算なんだと思う。景子タンにしろみりおんにしろ、観客に『エリザベート』を想像するな、『エリザベート』を上演したことは忘れろ、とは言ってないはず。
『エリザベート』を上演した組で、エリザベートを演じたみりおんで、この物語を作る意味。
『ジャン・ルイ・ファージョン』に感じたモノと同種の気概を感じるな、景子せんせに。〇〇といえば**先生の『☆☆』、という一般認識に対する一石というか。景子タン、好戦的だなと。
みりおんはあらかじめ描かれたガイドラインに沿って忠実に線を引いてくるイメージ。
景子作品に合う。
正しく美しく仕上げてくれる。
そういうところがわたしには物足りないんだろうなとも思う。
それも含めて、「美しさ」だと思う。景子タンの求める世界。濃すぎたり主張が強すぎると美しさを通り越してグロテスクになったりするから。今の薄さと端正さが必要なんだ。
だからもう素直に美しさに酔い、涙を流す。
それが、カタルシスだ。
キャスト感想つれづれと。@ 新人公演『金色の砂漠』
2016年12月8日 タカラヅカ 新人公演『金色の砂漠』感想あれこれ。
ラクメ@映見ちゃんはどうしたんだ、今まででいちばん芝居がやばかった。てゆーか、やっぱ難しいのか、あの役。
「熱いね!」がひっくり返っちゃったというか、浮きまくっててなあ……じゅりあ様でも吹き出しちゃうくらいトンデモ台詞のトンデモキャラだもんなあ。
持ち味的に映見ちゃんは、じゅりあ様路線を期待されているんだと思う。
きれいなお姉様枠で、かつ男役とも張り合える色悪キャラ。じゅりあ様は軍服着て鞭振るって高笑いするよーな、ものすげー独自路線もこなしちゃう人だからな。
さすがにじゅりあ様レベルをふつーの娘役に求めるのはどうかと思うが、カテゴリ的に。
仙名さんがポストいちかを目指すように鍛えられていたように、映見ちゃんはポストじゅりあなんだろうなと。
それゆえに今回は女首領で「熱いね!」なわけだ。
映見ちゃんには歌唱力という武器もあるんだし、色濃く豊かに育って欲しいと思う。
……けど、なんつーか、ここぞというところで弱いイメージだ……がんばれー。
あきらは何故、子役だったんだろう……。
いやその、最終的に大人になってはいるんだろうけど、三姉妹(長女でも17~8歳)の末っ子の特別な奴隷ってことは、確実に中学生年齢、末っ子の音くりちゃんが小学生に見えるから、必然的にあきらも小学生……。何故。前回ジョン卿やったおっさんに、何故今更小学生……。
と、愕然とした、本公演。
新公でほっとしました。
若い子が若い役やってるー。目も耳も心も平穏でいられるー(笑)。
プリー@聖乃くん。
若くてかわいかった。
うまいとは思わなかったけど、子役だからきんきん喋るのは仕方ないし。
大人になったあともあまり印象変わらなかったが……とにかく、きれいな子だし、次は落ち着いた役で観てみたい。
ビルマーヤ@ひらめちゃんは、いちばん違和感なかった。
どの役も本公演踏襲しているので、あとは技術が足りているかどうかになるんだよなあ。ひらめちゃんは安心して観られるうまさだった。
ナルギス先生@矢吹くんもふつうにうまかったけど……どうしちゃったんだろう、この役付き。新公主演後にやるならわかるけど、いきなり配役の方向性が変わったなあ。
劇団はいい加減彼を「美少年」として売るのをやめたんだろうか。矢吹くんは「中性的な美少年」「女装が似合うフェアリー」よりも、男っぽさで売った方が魅力が出る、と昔から思っては来たが……男っぽさ通り越してじじい役って……やっぱり劇団とわたしは趣味がチガウみたいだ。
ラクメ@映見ちゃんはどうしたんだ、今まででいちばん芝居がやばかった。てゆーか、やっぱ難しいのか、あの役。
「熱いね!」がひっくり返っちゃったというか、浮きまくっててなあ……じゅりあ様でも吹き出しちゃうくらいトンデモ台詞のトンデモキャラだもんなあ。
持ち味的に映見ちゃんは、じゅりあ様路線を期待されているんだと思う。
きれいなお姉様枠で、かつ男役とも張り合える色悪キャラ。じゅりあ様は軍服着て鞭振るって高笑いするよーな、ものすげー独自路線もこなしちゃう人だからな。
さすがにじゅりあ様レベルをふつーの娘役に求めるのはどうかと思うが、カテゴリ的に。
仙名さんがポストいちかを目指すように鍛えられていたように、映見ちゃんはポストじゅりあなんだろうなと。
それゆえに今回は女首領で「熱いね!」なわけだ。
映見ちゃんには歌唱力という武器もあるんだし、色濃く豊かに育って欲しいと思う。
……けど、なんつーか、ここぞというところで弱いイメージだ……がんばれー。
あきらは何故、子役だったんだろう……。
いやその、最終的に大人になってはいるんだろうけど、三姉妹(長女でも17~8歳)の末っ子の特別な奴隷ってことは、確実に中学生年齢、末っ子の音くりちゃんが小学生に見えるから、必然的にあきらも小学生……。何故。前回ジョン卿やったおっさんに、何故今更小学生……。
と、愕然とした、本公演。
新公でほっとしました。
若い子が若い役やってるー。目も耳も心も平穏でいられるー(笑)。
プリー@聖乃くん。
若くてかわいかった。
うまいとは思わなかったけど、子役だからきんきん喋るのは仕方ないし。
大人になったあともあまり印象変わらなかったが……とにかく、きれいな子だし、次は落ち着いた役で観てみたい。
ビルマーヤ@ひらめちゃんは、いちばん違和感なかった。
どの役も本公演踏襲しているので、あとは技術が足りているかどうかになるんだよなあ。ひらめちゃんは安心して観られるうまさだった。
ナルギス先生@矢吹くんもふつうにうまかったけど……どうしちゃったんだろう、この役付き。新公主演後にやるならわかるけど、いきなり配役の方向性が変わったなあ。
劇団はいい加減彼を「美少年」として売るのをやめたんだろうか。矢吹くんは「中性的な美少年」「女装が似合うフェアリー」よりも、男っぽさで売った方が魅力が出る、と昔から思っては来たが……男っぽさ通り越してじじい役って……やっぱり劇団とわたしは趣味がチガウみたいだ。
2番手の役と3番手の役。@新人公演『金色の砂漠』
2016年12月7日 タカラヅカ 新人公演『金色の砂漠』感想あれこれ。
本公演の感想をちっとも書けていないのだが、本公演で「うっわー……」と思っているのが、テオドロスの銀橋ソロだ。
その美しさに言葉もないのに……歌い出すと別の意味で言葉がなくなるという……(笑)。
テオドロスの美しさはとんでもない。ナニこの二次元感、現実じゃないよね、アニメかゲームのキャラだよねこの人!! と、感嘆するレベル。
その麗人が満を持して歌い出す……と、美貌に反するアレレな歌声に膝が折れる……というびっくり場面。
新人公演でも、ソレを見事に再現していた!
テオドロス@帆純くんは、美しかった。
顔がちょい大きめではあるが、砂漠の国でひとりだけ西洋人、パツキン王子様キャラとして二次元美形感を出していた。
いいよいいよ、テオドロスっていえばやっぱこの世界の違う美形ぶりだよなっ。そういう役割だよなっ。
そして。
銀橋ソロで、へにゃへにゃな歌唱力を披露。
……歌ダメまでがこの役の役割なのか!!(笑)
……そこまでカレーくんを踏襲しなくていいっす……(笑)。
タニちゃんの役を、新公でちぎくんがやっていたことを思い出した。
美形の役は美形が演じる。そして、音痴であることまで、本役に倣う。タカラヅカあるある。
カレーくんの役は、「美形で歌えない子」限定なのか……タニちゃんのときのように。
つか帆純くん、カレーくんの役何回目……。持ち味というか、武器になる魅力と不得手なジャンルが本役と同じ子がやりつづけると、不得手を克服する機会を失いそうで老婆心。
ジャー@亜蓮くんは亜蓮くんらしくなかった。
前もって配役をチェックしないわたしだけど、友人が前からジャー役に言及していたので、そこだけはおぼえていた。
わたしが音くりちゃんに身がまえてしまうように、亜蓮くんに身がまえてしまう人もいるわけだ。
でも、危惧した面はなりを潜めてたと思うな。友人も言ってたけど。
亜蓮くんっぽくなく、真っ当にジャーだった。
危惧した面とか、らしくないとか、なんだソレ説明になってねえよ。……でもほんと、うまく言葉に出来ないんだよなあ。
彼の持つ固い部分が、「芝居」を円滑にしない、というか。
固い、というのは「緊張で固くなっている」とかいうときに使う言葉ではなくて。
「このゴムボール、ここだけなんか固いね、製造時の空気穴部分だけ強度が違ってるのかな」とか、「このチャーハン、ときどきごはんがダマになっててほぐれてない、そこだけ固い」とか、そっちが近い。
本来の質感とはチガウ箇所が、不用意にある物体。
そういうことを、亜蓮くんの芝居に感じる。
それは彼の個性であり、魅力だと思う人もいれば、苦手だと思う人もいるってことで。
ジャーという役には、円滑に流れることを期待したいので、固い部分で摩擦が起こることを危惧した。や、亜蓮くんはそれしか出来ないのでは?と過去の芝居から想像していたので。
なんだ、んなことないじゃん、ふつうにやわらかいままお芝居できるんじゃん。
てことで、ほっとしつつ。
わたしは彼の「不必要に固い物質」っぽい芝居も嫌いではないので、持ち味のまま突っ走ったジャーも見てみたい……気はした。
……まあそんな芝居、ウエクミが許すわけないか。
ジャーが2番手の役で、テオドロスは3番手の役。
なんだけど、新公では逆に感じたな。
ジャーはやっぱり、おいしくはない役なんだと思う。ふつうにやっちゃうと、物語に埋没する。テオドロスの方がわかりやすく目立つ。
ジャーを2番手たらしめているのはキキくんの力なんだなあ、なんてことを、改めて感じてみたり。
本公演の感想をちっとも書けていないのだが、本公演で「うっわー……」と思っているのが、テオドロスの銀橋ソロだ。
その美しさに言葉もないのに……歌い出すと別の意味で言葉がなくなるという……(笑)。
テオドロスの美しさはとんでもない。ナニこの二次元感、現実じゃないよね、アニメかゲームのキャラだよねこの人!! と、感嘆するレベル。
その麗人が満を持して歌い出す……と、美貌に反するアレレな歌声に膝が折れる……というびっくり場面。
新人公演でも、ソレを見事に再現していた!
テオドロス@帆純くんは、美しかった。
顔がちょい大きめではあるが、砂漠の国でひとりだけ西洋人、パツキン王子様キャラとして二次元美形感を出していた。
いいよいいよ、テオドロスっていえばやっぱこの世界の違う美形ぶりだよなっ。そういう役割だよなっ。
そして。
銀橋ソロで、へにゃへにゃな歌唱力を披露。
……歌ダメまでがこの役の役割なのか!!(笑)
……そこまでカレーくんを踏襲しなくていいっす……(笑)。
タニちゃんの役を、新公でちぎくんがやっていたことを思い出した。
美形の役は美形が演じる。そして、音痴であることまで、本役に倣う。タカラヅカあるある。
カレーくんの役は、「美形で歌えない子」限定なのか……タニちゃんのときのように。
つか帆純くん、カレーくんの役何回目……。持ち味というか、武器になる魅力と不得手なジャンルが本役と同じ子がやりつづけると、不得手を克服する機会を失いそうで老婆心。
ジャー@亜蓮くんは亜蓮くんらしくなかった。
前もって配役をチェックしないわたしだけど、友人が前からジャー役に言及していたので、そこだけはおぼえていた。
わたしが音くりちゃんに身がまえてしまうように、亜蓮くんに身がまえてしまう人もいるわけだ。
でも、危惧した面はなりを潜めてたと思うな。友人も言ってたけど。
亜蓮くんっぽくなく、真っ当にジャーだった。
危惧した面とか、らしくないとか、なんだソレ説明になってねえよ。……でもほんと、うまく言葉に出来ないんだよなあ。
彼の持つ固い部分が、「芝居」を円滑にしない、というか。
固い、というのは「緊張で固くなっている」とかいうときに使う言葉ではなくて。
「このゴムボール、ここだけなんか固いね、製造時の空気穴部分だけ強度が違ってるのかな」とか、「このチャーハン、ときどきごはんがダマになっててほぐれてない、そこだけ固い」とか、そっちが近い。
本来の質感とはチガウ箇所が、不用意にある物体。
そういうことを、亜蓮くんの芝居に感じる。
それは彼の個性であり、魅力だと思う人もいれば、苦手だと思う人もいるってことで。
ジャーという役には、円滑に流れることを期待したいので、固い部分で摩擦が起こることを危惧した。や、亜蓮くんはそれしか出来ないのでは?と過去の芝居から想像していたので。
なんだ、んなことないじゃん、ふつうにやわらかいままお芝居できるんじゃん。
てことで、ほっとしつつ。
わたしは彼の「不必要に固い物質」っぽい芝居も嫌いではないので、持ち味のまま突っ走ったジャーも見てみたい……気はした。
……まあそんな芝居、ウエクミが許すわけないか。
ジャーが2番手の役で、テオドロスは3番手の役。
なんだけど、新公では逆に感じたな。
ジャーはやっぱり、おいしくはない役なんだと思う。ふつうにやっちゃうと、物語に埋没する。テオドロスの方がわかりやすく目立つ。
ジャーを2番手たらしめているのはキキくんの力なんだなあ、なんてことを、改めて感じてみたり。
王と王妃とその奴隷と。@新人公演『金色の砂漠』
2016年12月6日 タカラヅカ 新人公演『金色の砂漠』観劇。
ジャハンギール@つかさがかっこよかった!!
本公演をまったく語れていないのでなんですが、わたしはこの物語でいちばんジャハンギールが好きです。毎回ドキドキわくわくしっぱなしです。贔屓にやって欲しい役です。や、まじでまっつで見たかったっ。(落ち着け)
もともといい役だけど、ソレに加えて本役のちなっちゃんがマジ美しくてかっこよくて、実力あって押し出しよくて、彼だからこそここまで形作った役。
いくら役が良くても、演じる人によっては薄くなったり軽くなったり、するかもしれない。
だから新公はどうなるのか、っていうか、そもそも誰がやるのか、配役チェックしてなくてぜんぜんわかってないまま見た。
で、オープニングからして「??!」だった。
一瞬誰かわかんなかった。
かっこよくて。
つかさか! ヒゲ似合うな!
や、ヒゲ役はジョン卿もやってたけど、そのときよりはるかに「色男」としてガツンと来た。や、つかさくん本役も若き日のジャハンギールだけど。でもわたし、そっちの印象あんまりなくてな。新公でこそ、ガツンとキた!
ちゃんと大人だわ。ワイルドでそれゆえの前のめり感がある。がっついているんではなくて、いかなるときも「引いていない」というか、生涯現役の前線に立つタイプの王様なんだなと。
そのせいか、アムダリヤ@うららちゃんに対してのキモチがストレートになっている気がした。本役のちなっちゃんだともっとわかりにくいというか、隠されている感じがしたんだけど。
やっぱわたし、ジャハンギール好きだなー。役者が違っても好きだから、役が好き。
そして、役者が違っても好きだと思わせてくれた、つかさくんも好きだなー。
彼は見るたびにかっこよくなっていて、毎回2度見しちゃうわ。
それとそれと、アムダリヤ@うららちゃんが美しい!
あの横顔! 大きな鼻! つくづく好みの顔だわー(笑)。
うららちゃんは泣きそうな顔をしているときが実にいいと思うのです。役とか場面とかを問わず、瞳がゆらゆら傷ついているところが好みど真ん中なんです。
アムダリヤ役は、そういううららちゃんをいろいろ見られてすげーお得感。
気品あるよね。凛としているよね。それでいて哀しげなのがいい。
わたしあんりちゃんも好きだったけど、あんりちゃんは陽性の魅力があり、うららちゃんは陰性の魅力があると思う。うららちゃんの持ち味好き。……これで頭身もあんりちゃん並にあればなぁ。そこだけ惜しい。
ところで奴隷ピピ@ゆーなみくん。
こちらも最初誰だかわかってなかった。エマさんの役やってるの誰、すごくうまい。台詞はっきり聞こえる、エマさんが滑舌いい人だから新公がべっちゃりしてたらつらいなと無意識に身がまえたけど、ぜんぜん大丈夫だ、聞きやすいし、老け役うまいなー、こんな別格職人の若手いたっけ?
そう思ってよく見ると、ゆーなみくんだった。
なるほど、うまいわけだ!
組配属以来ずーっとスターとして抜擢されてきて、前回はついに新公主演したベテラン下級生。最後の新公は支え役に回ったってことか。
や、「ベテラン」で「下級生」って矛盾してるけど、彼は抜擢とスター扱いが早かったので、もう何年も何年も「若手スター」をやっていて、見ているこっちからしても「いつもの人」「ベテラン並にずっと同じような位置にいる」印象であるため、この表現。
新公主演経験者が、次の新公で専科や組長の役をやるのを、わたしは歓迎している。
新公主演は連続してほいほい与えるもんじゃない、出し惜しみするくらいでいい。一段ずつステップを上がってついに真ん中を経験したなら、次は脇の支えを経験し、芝居に厚みを持てるようにしてほしい。真ん中のキラキラ二枚目しかやったことない人より、老け役とか辛抱役とか経験した人の方が、引き出しが増えるもの。
ゆーなみくんは舞台を支え、いい仕事してた。
今までの彼の役でいちばん好きかも。
……でもって、ここだけの話。
今回のギィ役は、ゆーなみくんの方がハマってたかもなあ、と思った。
やっぱ難しいと思ったんだ。このいろいろと拗らせた役。キャリアのある子の方が、表現出来ることが多かったかも。
ゆーなみくんのキャリアと技術でこの難役を料理したらどうなったか、興味ある。
あかちゃんがよくないとかいう意味ではなく、単に作品の可能性としての向き不向きから。
ジャハンギール@つかさがかっこよかった!!
本公演をまったく語れていないのでなんですが、わたしはこの物語でいちばんジャハンギールが好きです。毎回ドキドキわくわくしっぱなしです。贔屓にやって欲しい役です。や、まじでまっつで見たかったっ。(落ち着け)
もともといい役だけど、ソレに加えて本役のちなっちゃんがマジ美しくてかっこよくて、実力あって押し出しよくて、彼だからこそここまで形作った役。
いくら役が良くても、演じる人によっては薄くなったり軽くなったり、するかもしれない。
だから新公はどうなるのか、っていうか、そもそも誰がやるのか、配役チェックしてなくてぜんぜんわかってないまま見た。
で、オープニングからして「??!」だった。
一瞬誰かわかんなかった。
かっこよくて。
つかさか! ヒゲ似合うな!
や、ヒゲ役はジョン卿もやってたけど、そのときよりはるかに「色男」としてガツンと来た。や、つかさくん本役も若き日のジャハンギールだけど。でもわたし、そっちの印象あんまりなくてな。新公でこそ、ガツンとキた!
ちゃんと大人だわ。ワイルドでそれゆえの前のめり感がある。がっついているんではなくて、いかなるときも「引いていない」というか、生涯現役の前線に立つタイプの王様なんだなと。
そのせいか、アムダリヤ@うららちゃんに対してのキモチがストレートになっている気がした。本役のちなっちゃんだともっとわかりにくいというか、隠されている感じがしたんだけど。
やっぱわたし、ジャハンギール好きだなー。役者が違っても好きだから、役が好き。
そして、役者が違っても好きだと思わせてくれた、つかさくんも好きだなー。
彼は見るたびにかっこよくなっていて、毎回2度見しちゃうわ。
それとそれと、アムダリヤ@うららちゃんが美しい!
あの横顔! 大きな鼻! つくづく好みの顔だわー(笑)。
うららちゃんは泣きそうな顔をしているときが実にいいと思うのです。役とか場面とかを問わず、瞳がゆらゆら傷ついているところが好みど真ん中なんです。
アムダリヤ役は、そういううららちゃんをいろいろ見られてすげーお得感。
気品あるよね。凛としているよね。それでいて哀しげなのがいい。
わたしあんりちゃんも好きだったけど、あんりちゃんは陽性の魅力があり、うららちゃんは陰性の魅力があると思う。うららちゃんの持ち味好き。……これで頭身もあんりちゃん並にあればなぁ。そこだけ惜しい。
ところで奴隷ピピ@ゆーなみくん。
こちらも最初誰だかわかってなかった。エマさんの役やってるの誰、すごくうまい。台詞はっきり聞こえる、エマさんが滑舌いい人だから新公がべっちゃりしてたらつらいなと無意識に身がまえたけど、ぜんぜん大丈夫だ、聞きやすいし、老け役うまいなー、こんな別格職人の若手いたっけ?
そう思ってよく見ると、ゆーなみくんだった。
なるほど、うまいわけだ!
組配属以来ずーっとスターとして抜擢されてきて、前回はついに新公主演したベテラン下級生。最後の新公は支え役に回ったってことか。
や、「ベテラン」で「下級生」って矛盾してるけど、彼は抜擢とスター扱いが早かったので、もう何年も何年も「若手スター」をやっていて、見ているこっちからしても「いつもの人」「ベテラン並にずっと同じような位置にいる」印象であるため、この表現。
新公主演経験者が、次の新公で専科や組長の役をやるのを、わたしは歓迎している。
新公主演は連続してほいほい与えるもんじゃない、出し惜しみするくらいでいい。一段ずつステップを上がってついに真ん中を経験したなら、次は脇の支えを経験し、芝居に厚みを持てるようにしてほしい。真ん中のキラキラ二枚目しかやったことない人より、老け役とか辛抱役とか経験した人の方が、引き出しが増えるもの。
ゆーなみくんは舞台を支え、いい仕事してた。
今までの彼の役でいちばん好きかも。
……でもって、ここだけの話。
今回のギィ役は、ゆーなみくんの方がハマってたかもなあ、と思った。
やっぱ難しいと思ったんだ。このいろいろと拗らせた役。キャリアのある子の方が、表現出来ることが多かったかも。
ゆーなみくんのキャリアと技術でこの難役を料理したらどうなったか、興味ある。
あかちゃんがよくないとかいう意味ではなく、単に作品の可能性としての向き不向きから。
拗らせヒーローなんて規格外すぎるよね。@新人公演『金色の砂漠』
2016年12月5日 タカラヅカ 新人公演『金色の砂漠』観劇。
新人公演を観たあと友人たちとごはんしながら、しみじみ語った。
「ギィは、みりおくんの役だね」
拗らせ少年。
鬱屈と爆発、そして歪み。
この役をやって違和感なくハマリ、かつ魅力的に見せる、ってナニその高すぎるハードル。
ふつうの男役には、無理だわ。
つか、無理でイイよ。
タカラヅカの正統派スターには、そんなスキルはなくても無問題。
いじけててステキ、とか、歪んでて美しい、が出来なくても、堂々としてステキ、とか、まっすぐで美しい、が出来ればそれでいい。
だからほんと、この役で新公主演するあかちゃんは、大変だなあと。
出来なくても仕方ないよなあと。
彼もきっと、ふつうのかっこいい主人公役なら、きっとふつうにかっこよく出来たんだと思う。
新公のギィくんは、なんかずっと怒ってました。
表情がずっと一緒。なにをしていてもどの場面でも、印象が変わらない。
難しかったんだろうなあ。それしか出来なかったんだろうなあ。
しかもこの主人公、途中で役者替わるし。
子ども時代は別の子が演じる。
子役を使う場合は通常なら1場面だけであっという間、のはずなんだけど、この作品の子ども時代は何場面もえんえん続き、しかもそこで語られるのがかなり重要な内容だ。
作品の核のひとつを、主人公の核のひとつを、主人公役のあかちゃんは演じることが出来ない。別人が演じたモノに乗っかって芝居を続けるしかない。
タルハーミネはふたりの演者が乖離しすぎていて、その後も見ていて混乱した。
ギィに関しては、そこまでの違和感はなかった。子役の子、うまいなー、娘役ちゃんなのかー、と思って眺めたのみ。
下級生娘役であっても、トップスターみりおくんの役だから、みりおくんと比べて「薄いなあ、軽いなあ」とは思ったけれど。
この子ども時代をあかちゃん自身で演じていたら、もう少し違っていたのかな?
鬱屈した時代のみだったためか、とにかく眉が逆八の字で固定されていた。
自分のために恋人を裏切り死に追いやるタルハーミネも大概なキャラだけど、ギィもレイプに復讐とやってることだけ見れば問題アリまくりキャラ。
そういうキャラクタを演じてかつ、観客に「それでも好き」と思わせるのは、大変なことだよなと。
表面的な出来事を超えた魅力がないと。
このややこしい役は、みりおくんのためにある役。こんな大変な役でそれでも成り立ってしまう明日海りおの美形力を改めて実感した。
あかちゃんは、役の持つ複雑さは感じなかったけれど、若さゆえのアツさがあったから、アレな行動はすべて「若さゆえ」ってことでアリかなー、という感じはした。
実力に破綻はないし、ナニより歌えるのはありがたい。や、一観客として、歌えるスターさんはありがたいんだ。ヅカの「スター」は音痴でも務まるジョブだけど、歌ウマであるにこしたことはない。
今度はふつーのタカラヅカらしい二枚目役を見たい。
て、ゆーか。
役替わりではなく、通し役が見たい。
……今日の欄の冒頭に、「あかちゃん、単独新公主演おめでとー」と書きかけて、あ、コレなんかチガウ、とあわてて消したんだもん。
みりおくんの演じる「ギィ」を、あかちゃんひとりで演じてない。子役の華優希ちゃんと分け合っている。公式には「主演・綺城ひか理」だけど、実質的には華ちゃんとふたりで「ギィ」というひとつの役を演じている。
次はぜひ単独主演を……って、でも『ミーマイ』と『金色の砂漠』と2作主演しちゃったら、次は難しいか。3作主演だとガチ路線ってことになるから、劇団も慎重になるもんな。
しかし劇団は、ひとりのスターに新公で日本物ばっか当てたりマンガ原作ばかり当てたり、役替わりばかり当てたり……なんでこう偏ってるんだ。
新人公演を観たあと友人たちとごはんしながら、しみじみ語った。
「ギィは、みりおくんの役だね」
拗らせ少年。
鬱屈と爆発、そして歪み。
この役をやって違和感なくハマリ、かつ魅力的に見せる、ってナニその高すぎるハードル。
ふつうの男役には、無理だわ。
つか、無理でイイよ。
タカラヅカの正統派スターには、そんなスキルはなくても無問題。
いじけててステキ、とか、歪んでて美しい、が出来なくても、堂々としてステキ、とか、まっすぐで美しい、が出来ればそれでいい。
だからほんと、この役で新公主演するあかちゃんは、大変だなあと。
出来なくても仕方ないよなあと。
彼もきっと、ふつうのかっこいい主人公役なら、きっとふつうにかっこよく出来たんだと思う。
新公のギィくんは、なんかずっと怒ってました。
表情がずっと一緒。なにをしていてもどの場面でも、印象が変わらない。
難しかったんだろうなあ。それしか出来なかったんだろうなあ。
しかもこの主人公、途中で役者替わるし。
子ども時代は別の子が演じる。
子役を使う場合は通常なら1場面だけであっという間、のはずなんだけど、この作品の子ども時代は何場面もえんえん続き、しかもそこで語られるのがかなり重要な内容だ。
作品の核のひとつを、主人公の核のひとつを、主人公役のあかちゃんは演じることが出来ない。別人が演じたモノに乗っかって芝居を続けるしかない。
タルハーミネはふたりの演者が乖離しすぎていて、その後も見ていて混乱した。
ギィに関しては、そこまでの違和感はなかった。子役の子、うまいなー、娘役ちゃんなのかー、と思って眺めたのみ。
下級生娘役であっても、トップスターみりおくんの役だから、みりおくんと比べて「薄いなあ、軽いなあ」とは思ったけれど。
この子ども時代をあかちゃん自身で演じていたら、もう少し違っていたのかな?
鬱屈した時代のみだったためか、とにかく眉が逆八の字で固定されていた。
自分のために恋人を裏切り死に追いやるタルハーミネも大概なキャラだけど、ギィもレイプに復讐とやってることだけ見れば問題アリまくりキャラ。
そういうキャラクタを演じてかつ、観客に「それでも好き」と思わせるのは、大変なことだよなと。
表面的な出来事を超えた魅力がないと。
このややこしい役は、みりおくんのためにある役。こんな大変な役でそれでも成り立ってしまう明日海りおの美形力を改めて実感した。
あかちゃんは、役の持つ複雑さは感じなかったけれど、若さゆえのアツさがあったから、アレな行動はすべて「若さゆえ」ってことでアリかなー、という感じはした。
実力に破綻はないし、ナニより歌えるのはありがたい。や、一観客として、歌えるスターさんはありがたいんだ。ヅカの「スター」は音痴でも務まるジョブだけど、歌ウマであるにこしたことはない。
今度はふつーのタカラヅカらしい二枚目役を見たい。
て、ゆーか。
役替わりではなく、通し役が見たい。
……今日の欄の冒頭に、「あかちゃん、単独新公主演おめでとー」と書きかけて、あ、コレなんかチガウ、とあわてて消したんだもん。
みりおくんの演じる「ギィ」を、あかちゃんひとりで演じてない。子役の華優希ちゃんと分け合っている。公式には「主演・綺城ひか理」だけど、実質的には華ちゃんとふたりで「ギィ」というひとつの役を演じている。
次はぜひ単独主演を……って、でも『ミーマイ』と『金色の砂漠』と2作主演しちゃったら、次は難しいか。3作主演だとガチ路線ってことになるから、劇団も慎重になるもんな。
しかし劇団は、ひとりのスターに新公で日本物ばっか当てたりマンガ原作ばかり当てたり、役替わりばかり当てたり……なんでこう偏ってるんだ。
去年の花にあらず。@1万人の第九
2016年12月4日 タカラヅカ ヅカブログではありますが、昔はここ、単なるヅカヲタの日記であり、日常のことも書いてました。
その名残で、第34回『1万人の第九』メモ。
朗読は佐々木蔵之介だった。
……いやあ、蔵之介氏が朗読やるってわかったときの、女性陣の食いつきすごい。
わたしが『1万人の第九』のレッスンに通っている、と知っている人たちが、それ自体にはなんのコメントもなかったのに、出演が発表になるなり「佐々木蔵之介出るんだって?」と複数の人から声を掛けられた。え、そこ食いつくんだ。ちなみに、男性からはなんの突っ込みもなし。
うーん、同年代女子に人気高いんだな、蔵之介氏。や、わたしも大好きだ(笑)。
実際、佐々木蔵之介の朗読はすごかった。
わたしは2年前の井川遥の朗読しか知らないわけなんだけど、そのときは間違いなく「朗読」で、文章を正しく声に出して読んでいた。
1万人の合唱団と数千人の観客と何百人のスタッフと何十人のオーケストラとマスコミとテレビカメラに注視され、広大なホールでただひとりスポットライトを浴びて古めかしい詩を朗読する、ってどんだけ緊張するだろう。
噛まずに読むのだけでも大変だよなああ。仕事とはいえ、重責だなああ。
そんな風に思って、眺めていたっけ。
それがアタマにあるもんだから、蔵之介氏にはもう、第一声からびっくりさせられた。
蔵之介氏は、吠えた。
「朗読」ではなかった。
突然、「演劇」がはじまった。
読んでいる詩は、同じモノなんだけど。
表現方法が、まったくチガウ。
古典劇でも観ているかのような、パワーの塊が叩きつけられた。
言葉に熱と重さが加わり、物語が形作られる。
物語の一片であり、それ自体が一篇の物語であるようにも思えた。
す……っ、げえ……!!
「朗読」って、こんなのもアリなのか。
ここまでかっとばしていいもなのか。
兄弟たちよ! 語りかけられ、拳を握った。
熱いモノが確かにおなかの奥にずしんときた。届いた。
そうだ、わたしたちはひとつになる。よろこびのうたを歌う。
……てことで、めっちゃ盛り上げていただきました、佐々木蔵之介! 彼の舞台演劇調の朗読から、ドラマチックに「第九」を堪能、歌うことが出来た。気持ちいい!(笑)
ところで。
意外に知られていない『1万人の第九』の小ネタっていうか“『1万人の第九』あるある”をひとつ。
『1万人の第九』でいちばん驚かれることって、実は参加者は抽選で当選した者だけであるってこと。
ほんとコレ、いろんなとこで驚かれる。毎年確実に、何人にも言われる。
「週末空いてる?」「ごめん、第九のレッスンあるから無理ー」「え、第九歌うの?」「うん、『1万人の第九』って知ってる?」「ああ、名前だけ知ってる……へええ、あれに参加するんだー。レッスンとかあるんだ?」てな会話を、毎年必ずどこかでする。生活していたら、どうしても話題に出してしまう。
そして言われる。
「『1万人の第九』って毎年あるけど、こあらちゃん、毎年行ってるの?」「毎年応募してるけど、去年ははずれちゃったから行けなかったよ。今年は当たったの」「……え? 抽選なの??」
抽選なんです。
1万人なのに、抽選で当たらなきゃ、参加出来ないんです。
けっこう、狭き門なんです。
当落発表時期は悲喜こもごもですよ。当たった、落ちたで話題になるもん。
去年はわたし、はずれたから行ってない。
参加出来たのは、2014年、第32回。
まっつが退団した年。
8月31日、『一夢庵風流記 前田慶次』『My Dream TAKARAZUKA』東宝千秋楽。
翌日9月1日、18きっぷで東京を出て、雪丸様の公演二次なんぞを書きながらまったり列車に揺られ、夕方大阪へ。
旅行荷物は先に宅配便に出してあるから、ふつうのバッグのみの軽装。なにしろウィークリーマンションタイプのホテルに腰を据えてのお見送りでしたからな。持って移動出来るような荷物じゃない。
そして、旅のつづきで、大阪の街を歩いた。大阪駅から天満橋のエル・シアターまで。
第九レッスンの1回目が、9月1日だった。
未涼亜希がいなくなった最初の日。
陽の傾いた中之島を歩いた。大川沿いを歩いた。難波橋の獅子を眺め、欄干からシルエットのように浮かぶ大阪の街を眺めた。
……あれから、2年。
今年もまた、わたしは同じように梅田から天満橋まで歩いてレッスンに通った。……や、ふつーは歩く距離ではないらしいが、大抵どこでもてくてく歩いているわたしには、1時間以内は徒歩圏内だ。気に入った景色を撮影しながら町歩きするの好き。
去年ははずれて参加出来なかったので、わたしの記憶は2014年で止まっていた。
だから2016年のレッスンは、「前にここを歩いたときは、まっつが退団した年」と思い返しながら、となる。
同じ風景を眺めながら、「2014年」を思い返していた。
難波橋から中央公会堂を眺める光景がなあ、なんか泣けるんだよなあ。切ないんだよなあ。
あれは2014年。それより前にここを歩いたときは、まだまっつがいて、父もいて……そんな風に、「間が何年か空いて、同じ風景を見る」ことで、記憶の海に溺れそうになるのさ。
年寄りって大変ね。生きてきた分、切ないことが増えていく。
そんな、切なさや愛しさや寂寥や悔恨なんぞを抱えて、どうしようもないもんをしこたま抱え込んで、集大成として、1万人のひとりとなって、第九を歌う。
だからこんなに、泣けるんだよなあ。
泣けますよ、『1万人の第九』。
今回もまた。
その名残で、第34回『1万人の第九』メモ。
朗読は佐々木蔵之介だった。
……いやあ、蔵之介氏が朗読やるってわかったときの、女性陣の食いつきすごい。
わたしが『1万人の第九』のレッスンに通っている、と知っている人たちが、それ自体にはなんのコメントもなかったのに、出演が発表になるなり「佐々木蔵之介出るんだって?」と複数の人から声を掛けられた。え、そこ食いつくんだ。ちなみに、男性からはなんの突っ込みもなし。
うーん、同年代女子に人気高いんだな、蔵之介氏。や、わたしも大好きだ(笑)。
実際、佐々木蔵之介の朗読はすごかった。
わたしは2年前の井川遥の朗読しか知らないわけなんだけど、そのときは間違いなく「朗読」で、文章を正しく声に出して読んでいた。
1万人の合唱団と数千人の観客と何百人のスタッフと何十人のオーケストラとマスコミとテレビカメラに注視され、広大なホールでただひとりスポットライトを浴びて古めかしい詩を朗読する、ってどんだけ緊張するだろう。
噛まずに読むのだけでも大変だよなああ。仕事とはいえ、重責だなああ。
そんな風に思って、眺めていたっけ。
それがアタマにあるもんだから、蔵之介氏にはもう、第一声からびっくりさせられた。
蔵之介氏は、吠えた。
「朗読」ではなかった。
突然、「演劇」がはじまった。
読んでいる詩は、同じモノなんだけど。
表現方法が、まったくチガウ。
古典劇でも観ているかのような、パワーの塊が叩きつけられた。
言葉に熱と重さが加わり、物語が形作られる。
物語の一片であり、それ自体が一篇の物語であるようにも思えた。
す……っ、げえ……!!
「朗読」って、こんなのもアリなのか。
ここまでかっとばしていいもなのか。
兄弟たちよ! 語りかけられ、拳を握った。
熱いモノが確かにおなかの奥にずしんときた。届いた。
そうだ、わたしたちはひとつになる。よろこびのうたを歌う。
……てことで、めっちゃ盛り上げていただきました、佐々木蔵之介! 彼の舞台演劇調の朗読から、ドラマチックに「第九」を堪能、歌うことが出来た。気持ちいい!(笑)
ところで。
意外に知られていない『1万人の第九』の小ネタっていうか“『1万人の第九』あるある”をひとつ。
『1万人の第九』でいちばん驚かれることって、実は参加者は抽選で当選した者だけであるってこと。
ほんとコレ、いろんなとこで驚かれる。毎年確実に、何人にも言われる。
「週末空いてる?」「ごめん、第九のレッスンあるから無理ー」「え、第九歌うの?」「うん、『1万人の第九』って知ってる?」「ああ、名前だけ知ってる……へええ、あれに参加するんだー。レッスンとかあるんだ?」てな会話を、毎年必ずどこかでする。生活していたら、どうしても話題に出してしまう。
そして言われる。
「『1万人の第九』って毎年あるけど、こあらちゃん、毎年行ってるの?」「毎年応募してるけど、去年ははずれちゃったから行けなかったよ。今年は当たったの」「……え? 抽選なの??」
抽選なんです。
1万人なのに、抽選で当たらなきゃ、参加出来ないんです。
けっこう、狭き門なんです。
当落発表時期は悲喜こもごもですよ。当たった、落ちたで話題になるもん。
去年はわたし、はずれたから行ってない。
参加出来たのは、2014年、第32回。
まっつが退団した年。
8月31日、『一夢庵風流記 前田慶次』『My Dream TAKARAZUKA』東宝千秋楽。
翌日9月1日、18きっぷで東京を出て、雪丸様の公演二次なんぞを書きながらまったり列車に揺られ、夕方大阪へ。
旅行荷物は先に宅配便に出してあるから、ふつうのバッグのみの軽装。なにしろウィークリーマンションタイプのホテルに腰を据えてのお見送りでしたからな。持って移動出来るような荷物じゃない。
そして、旅のつづきで、大阪の街を歩いた。大阪駅から天満橋のエル・シアターまで。
第九レッスンの1回目が、9月1日だった。
未涼亜希がいなくなった最初の日。
陽の傾いた中之島を歩いた。大川沿いを歩いた。難波橋の獅子を眺め、欄干からシルエットのように浮かぶ大阪の街を眺めた。
……あれから、2年。
今年もまた、わたしは同じように梅田から天満橋まで歩いてレッスンに通った。……や、ふつーは歩く距離ではないらしいが、大抵どこでもてくてく歩いているわたしには、1時間以内は徒歩圏内だ。気に入った景色を撮影しながら町歩きするの好き。
去年ははずれて参加出来なかったので、わたしの記憶は2014年で止まっていた。
だから2016年のレッスンは、「前にここを歩いたときは、まっつが退団した年」と思い返しながら、となる。
同じ風景を眺めながら、「2014年」を思い返していた。
難波橋から中央公会堂を眺める光景がなあ、なんか泣けるんだよなあ。切ないんだよなあ。
あれは2014年。それより前にここを歩いたときは、まだまっつがいて、父もいて……そんな風に、「間が何年か空いて、同じ風景を見る」ことで、記憶の海に溺れそうになるのさ。
年寄りって大変ね。生きてきた分、切ないことが増えていく。
そんな、切なさや愛しさや寂寥や悔恨なんぞを抱えて、どうしようもないもんをしこたま抱え込んで、集大成として、1万人のひとりとなって、第九を歌う。
だからこんなに、泣けるんだよなあ。
泣けますよ、『1万人の第九』。
今回もまた。
ふたりのタルハーミネ・その2。@新人公演『金色の砂漠』
2016年12月3日 タカラヅカ 新人公演『金色の砂漠』を観て、とても困ったこと。
ひとさまがどうではなく、わたしが。
音くりちゃんの演じるタルハーミネを観て、とても困った。
繰り返すが、芝居は好みの問題なので、音くりちゃんに罪はなく、わたしの問題だ。すまん。
彼女はとても芝居がうまい。歌がうまくて台詞が良く聞こえて、学年以上の実力を持っている。
そう納得していてなにがここまで無理なのか、説明する言葉を持たないことがもどかしい。
彼女が悪いわけではないし、わたしでない人は彼女の演技に感動したり感情移入したりして、ふつうに楽しんでいるのだろうから、これはもうほんと、「困った」としか言いようがない。
実際、音くりちゃんはいい人やかわいい人の役をやる分にはただ好みじゃないとか、苦手だなーと思うだけで、ここまでの破壊力を感じないので、「この手の役」が鬼門なのかもしれん。
この手の役……本役のシャラデハがそうであるように、無神経な役。相手の気持ちを想像出来ない人の役。
音くりちゃんに非がなくても、わたしの目線では「このタルハーミネはナイわー」となってしまっているので、作品をちゃんと味わえていない。
未熟だわわたし。なんでこう引きずられてしまうの。
子ども時代のタルハーミネは気持ち悪いと思うけど、それは一旦忘れよう、現在のタルハーミネとは別人よ、と思う。
思うけど、それならそれで、なんで別人がひとつの芝居で同じ役をやっているの、という演出意図への疑問がわいてこれまた集中出来ない。
未熟。
それでもクライマックスを迎える頃には、みれいちゃんのタルハーミネを受け入れられた。
いやあ、みれいちゃんは大河ロマン調のタルハーミネですな!
運命に翻弄されつつ、流されることなく立ち続けたヒロイン、って感じゆんゆん。
ギィ@あかちゃん相手にぎゃーすかわがまま言ってた女の子、というよりも、タルハーミネの周囲をギィがぐるぐる回ってなんやかんや言っていたような、物語の重心がギィではなく彼女へ移動しているような、色の強さがある。
ああ、これぞみれいちゃんだな、と思う。
この強さ、ドラマを自分に引きつける力が彼女の武器。
長い別人格の子ども時代が真ん中にえんえん入っていたり、タルハーミネとしてぶつ切り過ぎて、わたしにはナニが「タルハーミネ」なのかよくわかんない。
ただ復讐者ギィが城に攻め入るあたりの「王女タルハーミネ」の持つドラマは、女性向けエンタメとして正しく機能しているなと思う。
ヒロインに感情移入できないと、ラブロマンスは面白くならない。
や、感情移入ってのは「わたしがタルハーミネになって、ギィに愛されるの、疑似恋愛するの♪」とかいうことではなくて。物語を動かすキャラクタの感情を理解出来ないと、物語自体意味不明になるということ。
みれいちゃんの「わたしがヒロイン!」「わたしが物語を動かす!」というパワーに巻き込まれて、なんか一緒になって怒濤展開を味わい、最後は「おおっ、なんかいいもん観たな」と思わせてくれた。
ラスト、デュエットダンスまで入れてくれ、と思ったよ。
芝居部分だけで幕、だとつらい。
本公演でも、デュエットダンスで泣けたもの。ああ、よかったね、って。
メリバだとしても、芝居だけでENDはつらい……と思うくらいには、最後で一気に持って行ってくれた。
……とはいえ、やっぱりわたしが観たい「タルハーミネ」ではなくて。
みれいちゃんはうまいけど……や、限定項はまずいか、みれいちゃんも、うまいけど……。
うーん、わたしは一体ナニを求めているんだ。
とりあえず、これで3人のタルハーミネを観た。
そしてわたしは新公後にもこの芝居を観る。……から、最後に本役、かのちゃんのタルハーミネで締めるの。やっぱりこの役は、かのちゃんの役だなあ、とも思うから、本公演を観るのが楽しみだ。
ひとさまがどうではなく、わたしが。
音くりちゃんの演じるタルハーミネを観て、とても困った。
繰り返すが、芝居は好みの問題なので、音くりちゃんに罪はなく、わたしの問題だ。すまん。
彼女はとても芝居がうまい。歌がうまくて台詞が良く聞こえて、学年以上の実力を持っている。
そう納得していてなにがここまで無理なのか、説明する言葉を持たないことがもどかしい。
彼女が悪いわけではないし、わたしでない人は彼女の演技に感動したり感情移入したりして、ふつうに楽しんでいるのだろうから、これはもうほんと、「困った」としか言いようがない。
実際、音くりちゃんはいい人やかわいい人の役をやる分にはただ好みじゃないとか、苦手だなーと思うだけで、ここまでの破壊力を感じないので、「この手の役」が鬼門なのかもしれん。
この手の役……本役のシャラデハがそうであるように、無神経な役。相手の気持ちを想像出来ない人の役。
音くりちゃんに非がなくても、わたしの目線では「このタルハーミネはナイわー」となってしまっているので、作品をちゃんと味わえていない。
未熟だわわたし。なんでこう引きずられてしまうの。
子ども時代のタルハーミネは気持ち悪いと思うけど、それは一旦忘れよう、現在のタルハーミネとは別人よ、と思う。
思うけど、それならそれで、なんで別人がひとつの芝居で同じ役をやっているの、という演出意図への疑問がわいてこれまた集中出来ない。
未熟。
それでもクライマックスを迎える頃には、みれいちゃんのタルハーミネを受け入れられた。
いやあ、みれいちゃんは大河ロマン調のタルハーミネですな!
運命に翻弄されつつ、流されることなく立ち続けたヒロイン、って感じゆんゆん。
ギィ@あかちゃん相手にぎゃーすかわがまま言ってた女の子、というよりも、タルハーミネの周囲をギィがぐるぐる回ってなんやかんや言っていたような、物語の重心がギィではなく彼女へ移動しているような、色の強さがある。
ああ、これぞみれいちゃんだな、と思う。
この強さ、ドラマを自分に引きつける力が彼女の武器。
長い別人格の子ども時代が真ん中にえんえん入っていたり、タルハーミネとしてぶつ切り過ぎて、わたしにはナニが「タルハーミネ」なのかよくわかんない。
ただ復讐者ギィが城に攻め入るあたりの「王女タルハーミネ」の持つドラマは、女性向けエンタメとして正しく機能しているなと思う。
ヒロインに感情移入できないと、ラブロマンスは面白くならない。
や、感情移入ってのは「わたしがタルハーミネになって、ギィに愛されるの、疑似恋愛するの♪」とかいうことではなくて。物語を動かすキャラクタの感情を理解出来ないと、物語自体意味不明になるということ。
みれいちゃんの「わたしがヒロイン!」「わたしが物語を動かす!」というパワーに巻き込まれて、なんか一緒になって怒濤展開を味わい、最後は「おおっ、なんかいいもん観たな」と思わせてくれた。
ラスト、デュエットダンスまで入れてくれ、と思ったよ。
芝居部分だけで幕、だとつらい。
本公演でも、デュエットダンスで泣けたもの。ああ、よかったね、って。
メリバだとしても、芝居だけでENDはつらい……と思うくらいには、最後で一気に持って行ってくれた。
……とはいえ、やっぱりわたしが観たい「タルハーミネ」ではなくて。
みれいちゃんはうまいけど……や、限定項はまずいか、みれいちゃんも、うまいけど……。
うーん、わたしは一体ナニを求めているんだ。
とりあえず、これで3人のタルハーミネを観た。
そしてわたしは新公後にもこの芝居を観る。……から、最後に本役、かのちゃんのタルハーミネで締めるの。やっぱりこの役は、かのちゃんの役だなあ、とも思うから、本公演を観るのが楽しみだ。
ふたりのタルハーミネ・その1。@新人公演『金色の砂漠』
2016年12月2日 タカラヅカ 新人公演『金色の砂漠』観劇。
タルハーミネというキャラクタが好きなわたしは、新人公演のみれいちゃんのタルハーミネを楽しみにしていた。
……が、新公はまさかのダブルキャスト。ひとつの役をひとつの芝居の中で、ふたりの役者が分担して演じることになっていた。
タルハーミネ、子ども時代と現在が別人過ぎる……!!
音くりちゃんのタルハーミネは、彼女の本役である第三王女シャラデハと同じ破壊力を持っていた。
わたし、シャラデハは苦手。現実にも物語にもこういう人間はいるだろうけど、関わり合いになりたくないタイプ。や、物語においてはわかりやすく「悪役」として描かれるよね。学園モノだったら、ヒロインを苛めるグループのリーダー(優等生)とか。
実際、『金色の砂漠』においてもシャラデハは「現代の価値観にて、悪い王族の典型のひとつ」として描かれている。
だから本公演の音くりちゃんはそれでいい。露悪的に描かれているんだから、見ただけで「うわ、嫌なキャラ」と思わせてくれる演技は正しい。
でも、タルハーミネをそれと同じテイストでやられちゃうと……。
確かにタルハーミネもワガママで傲慢な、「悪い王族」の見本みたいな言動の女の子だけど。でも、シャラデハと違って、ソレだけではないキャラクタなのよ。
音くりちゃんが意識してタルハーミネを「記号のような傲慢キャラ」に演じているとは思わない。タルハーミネとシャラデハが同じでいいなんてアタマ悪いことは考えないはずだ。
だから、本人的には演じ分けているんだと思う。実際、違うんだろうと思う。
だけどわたしには、同質の「苦手」を感じる。細かい演技分けなんぞ吹っ飛ばすほどの「破壊力」を感じる。
それはたぶん、わたしが彼女の芝居を苦手とする根幹部分なんだろうなと思う。
うまく表現できないが、「酷い人」を演じる音くりちゃんは、ふだんの彼女が醸し出す「苦手オーラ」をさらに純度高く放ってくれるのだわ。
単なる「酷い人」の役が酷くてもいいけど、「実は酷い人じゃないんだよ」の役が酷いと……つらい。
幼いタルハーミネは、なんというか、気持ち悪かった。ただワガママとか傲慢とかいうんじゃなく、人として傾いている気がした。
なんだろ、ふつーの人が生まれつきまっすぐに持っている芯が、微妙に斜めになっている感じ。そして、それゆえに世界を見る角度が違っていて、酷い言動や感情の爆発につながっている。彼女にとってはその傾いた軸が「当たり前」だから、他人との違いなんか想像することもなく、その傾いた目線ですべてを断罪する。
そう、断罪。齟齬はすべて、攻撃して叩きつぶすの。正義の鉄槌として。
王女だから、という後天的理由によるズレではなく、先天的なズレ。芯が傾いている。
という、キモチ悪さ。
どんだけ気持ち悪くても、シャラデハなら「嫌な王女ねー」で済むけど、タルハーミネはそうじゃない。ヒロインなんだから、彼女の心を理解し、愛さなければ、物語を楽しめない。
……その生まれつき芯が傾いている感が「特別な女性」を表しており、音くりちゃんが大人時代も通してタルハーミネ役を演じることが出来たなら、大きなカタルシスにつながるナニかを秘めていたのかもしれない。
でも、彼女はあくまでも「タルハーミネの一部」でしかない。その一部でしか計れない。
芝居は好みの寄るところが大きいので、あくまでもわたしにとっては、というだけの話。
わたし以外の人に好評ならそれでいいのだろう。
しかし、わたしはめっちゃ戸惑った。
要するに、子ども時代のタルハーミネが苦手過ぎて、「タルハーミネ」というキャラクタに感情移入出来ない。うわ、この子キライ、と思ってしまって、タルハーミネちゃんがその後どんなにがんばっても切ない思いを抱いて苦しんでいても、心がそこに寄りそわない。
大人のタルハーミネ@みれいちゃんは、子ども時代の音くりちゃんとはまったく別人で、こっちは苦手感はないけど、あの嫌な子どもと同一人物と言われてもキモチがついていかない。
困った。
正直、困った。
タルハーミネというキャラクタが好きなわたしは、新人公演のみれいちゃんのタルハーミネを楽しみにしていた。
……が、新公はまさかのダブルキャスト。ひとつの役をひとつの芝居の中で、ふたりの役者が分担して演じることになっていた。
タルハーミネ、子ども時代と現在が別人過ぎる……!!
音くりちゃんのタルハーミネは、彼女の本役である第三王女シャラデハと同じ破壊力を持っていた。
わたし、シャラデハは苦手。現実にも物語にもこういう人間はいるだろうけど、関わり合いになりたくないタイプ。や、物語においてはわかりやすく「悪役」として描かれるよね。学園モノだったら、ヒロインを苛めるグループのリーダー(優等生)とか。
実際、『金色の砂漠』においてもシャラデハは「現代の価値観にて、悪い王族の典型のひとつ」として描かれている。
だから本公演の音くりちゃんはそれでいい。露悪的に描かれているんだから、見ただけで「うわ、嫌なキャラ」と思わせてくれる演技は正しい。
でも、タルハーミネをそれと同じテイストでやられちゃうと……。
確かにタルハーミネもワガママで傲慢な、「悪い王族」の見本みたいな言動の女の子だけど。でも、シャラデハと違って、ソレだけではないキャラクタなのよ。
音くりちゃんが意識してタルハーミネを「記号のような傲慢キャラ」に演じているとは思わない。タルハーミネとシャラデハが同じでいいなんてアタマ悪いことは考えないはずだ。
だから、本人的には演じ分けているんだと思う。実際、違うんだろうと思う。
だけどわたしには、同質の「苦手」を感じる。細かい演技分けなんぞ吹っ飛ばすほどの「破壊力」を感じる。
それはたぶん、わたしが彼女の芝居を苦手とする根幹部分なんだろうなと思う。
うまく表現できないが、「酷い人」を演じる音くりちゃんは、ふだんの彼女が醸し出す「苦手オーラ」をさらに純度高く放ってくれるのだわ。
単なる「酷い人」の役が酷くてもいいけど、「実は酷い人じゃないんだよ」の役が酷いと……つらい。
幼いタルハーミネは、なんというか、気持ち悪かった。ただワガママとか傲慢とかいうんじゃなく、人として傾いている気がした。
なんだろ、ふつーの人が生まれつきまっすぐに持っている芯が、微妙に斜めになっている感じ。そして、それゆえに世界を見る角度が違っていて、酷い言動や感情の爆発につながっている。彼女にとってはその傾いた軸が「当たり前」だから、他人との違いなんか想像することもなく、その傾いた目線ですべてを断罪する。
そう、断罪。齟齬はすべて、攻撃して叩きつぶすの。正義の鉄槌として。
王女だから、という後天的理由によるズレではなく、先天的なズレ。芯が傾いている。
という、キモチ悪さ。
どんだけ気持ち悪くても、シャラデハなら「嫌な王女ねー」で済むけど、タルハーミネはそうじゃない。ヒロインなんだから、彼女の心を理解し、愛さなければ、物語を楽しめない。
……その生まれつき芯が傾いている感が「特別な女性」を表しており、音くりちゃんが大人時代も通してタルハーミネ役を演じることが出来たなら、大きなカタルシスにつながるナニかを秘めていたのかもしれない。
でも、彼女はあくまでも「タルハーミネの一部」でしかない。その一部でしか計れない。
芝居は好みの寄るところが大きいので、あくまでもわたしにとっては、というだけの話。
わたし以外の人に好評ならそれでいいのだろう。
しかし、わたしはめっちゃ戸惑った。
要するに、子ども時代のタルハーミネが苦手過ぎて、「タルハーミネ」というキャラクタに感情移入出来ない。うわ、この子キライ、と思ってしまって、タルハーミネちゃんがその後どんなにがんばっても切ない思いを抱いて苦しんでいても、心がそこに寄りそわない。
大人のタルハーミネ@みれいちゃんは、子ども時代の音くりちゃんとはまったく別人で、こっちは苦手感はないけど、あの嫌な子どもと同一人物と言われてもキモチがついていかない。
困った。
正直、困った。
求めよさらば与えられん。@タカラヅカスペシャル2016
2016年12月1日 タカラヅカ 素朴な疑問。
みんな、客席参加って、そんなにしたいもんなの?
いただける【頂ける・戴ける】
( 動カ下一 )〔「いただく」の可能動詞形から〕
① もらうことができる意の謙譲語。 「案内の葉書を-・けるとありがたいのですが」
② 飲食することができる意の謙譲語。 「毎日の食事がおいしく-・けます」
③ 評価できる。受け入れられる。多く「いただけない」の形で用いる。 「あの絵は-・けないね」
④ (補助動詞) 「いただく④ 」の可能動詞。 「詳しく話して-・けませんか」 「今度お越し-・けるのはいつでしょう」 「御理解-・けましたでしょうか」
【大辞林 第三版】より
「参加してもらうことができる」って意味よね。
参加してもらうことが出来る……つまり、観客は「参加したい!」と思っている。それが前提の考え方よね。
参加させてさせて、お願い歌劇団様! しょうがないな、そこまで言うなら望みを叶えてあげますよ、はいどうぞ、待望でしょう、そちらの要望に応えるわけだから「参加いただける」という表現ですよっと。
劇団側からの要求なら、「参加をお願いする場面」よね?
そうか、タカラヅカファンっていうのは、客席で踊りたい人たちなんだ。観劇するのでなく、一緒に演技したいんだ。
見解の相違。
生きにくいわ。
や、別に強制でないことはわかってるし、そんな意味で言ってないことはわかっているけど。
こんなうれしそうに「ご参加いただける」とか言われるとね。いや、望んでないし!とすねたくなる(笑)。
みんな、客席参加って、そんなにしたいもんなの?
『タカラヅカスペシャル2016 ~Music Succession to Next~』におけるお客様参加の演出についてお客様と出演者が一緒にご参加いただける場面って、いただける、って、なんだろう?
2016/12/01
『タカラヅカスペシャル2016 ~Music Succession to Next~』(梅田芸術劇場メインホール:2016/12/22~12/23)では、お客様と出演者が一緒にご参加いただける場面を予定しております。
振付は動画でレクチャーいたしております。
ご観劇の際には、ぜひご一緒にお楽しみください。
いただける【頂ける・戴ける】
( 動カ下一 )〔「いただく」の可能動詞形から〕
① もらうことができる意の謙譲語。 「案内の葉書を-・けるとありがたいのですが」
② 飲食することができる意の謙譲語。 「毎日の食事がおいしく-・けます」
③ 評価できる。受け入れられる。多く「いただけない」の形で用いる。 「あの絵は-・けないね」
④ (補助動詞) 「いただく④ 」の可能動詞。 「詳しく話して-・けませんか」 「今度お越し-・けるのはいつでしょう」 「御理解-・けましたでしょうか」
【大辞林 第三版】より
「参加してもらうことができる」って意味よね。
参加してもらうことが出来る……つまり、観客は「参加したい!」と思っている。それが前提の考え方よね。
参加させてさせて、お願い歌劇団様! しょうがないな、そこまで言うなら望みを叶えてあげますよ、はいどうぞ、待望でしょう、そちらの要望に応えるわけだから「参加いただける」という表現ですよっと。
劇団側からの要求なら、「参加をお願いする場面」よね?
そうか、タカラヅカファンっていうのは、客席で踊りたい人たちなんだ。観劇するのでなく、一緒に演技したいんだ。
見解の相違。
生きにくいわ。
や、別に強制でないことはわかってるし、そんな意味で言ってないことはわかっているけど。
こんなうれしそうに「ご参加いただける」とか言われるとね。いや、望んでないし!とすねたくなる(笑)。
新人公演『金色の砂漠』では、主人公とヒロインを演じる生徒の出番が削られていた。
本公演では、子ども時代もトップスターのみりおくんと、トップ娘役のかのちゃんが演じている。
でも、新公では子ども時代を、別の子が演じている。
子ども時代ぐらい、別の子が演じてもいいじゃん。新人公演は多くの若手に経験を積ませるためにある、役が増えるのはいいことじゃん。
というのはアリだと思うけど。
この『金色の砂漠』という作品においては、それはNGだ。
だって、子ども時代は長い。
しかも、主人公とヒロインの関係性の核に関わる部分だ。
これを別の役者にやらせてしまうと、物語に一貫性がなくなる。
一本モノの芝居をツギハギしたみたいな、「あ、あの場面なくなってる、カットされたんだ、いい場面なのに」と同じことになる。
主人公とヒロインの関係性の核に関わり、物語の一貫性に必須だから、みりおくんとかのちゃん本人が、幼少時代も演じていたんだ。
それが、よーーっくわかった。
別の人が演じていたら、物語が成り立たないんだわー。キモチが続かないんだわー。
この間までやってた『私立探偵ケイレブ・ハント』だと、主演ひとこ、ヒロインりさちゃんだけど、誕生日デートだけ別の下級生がやっちゃう感じ? 本公演ではちぎみゆだけど、新公だから多くの下級生に経験を積ませたいから、本筋に関係ないバカップルデート場面は別の子で! 事件に関わる部分はちゃんとひとことりさだから問題なし!みたいな?
ナイわー。
それってつまり、「役替わり」に近いよね。
主人公ギィをあかちゃんと華優希ちゃん、ヒロインのタルハーミネをみれいちゃんと音くりちゃんでやる、ってことよね。
ランベスウォークが終わったら、別の人がサリーの衣装着て出てきた、なんで??となった、『ミーマイ』新公再び、ってことよね?
いやあ、マジぶった切り感すごかった。
子ども時代だけ別モノで、大人っつーか、18歳だっけ? 現在の若者バージョンとイコールにならない。
あかちゃんと華ちゃんはともかく、みれいちゃんと音くりちゃんの隔絶感はすごかった。
せっかく面白いプロットの物語で、新人公演という別配役バージョンを楽しむ気満々で来ているのに、途中で話ぶった切られるなんて。え、誰この子? ギィ? ……まあ、ギィはなんか面影あるかもだけど、タルハーミネはどこ? 顔も雰囲気もまったく共通点ナイ、てゆーかこの子シャラデハだよね?? タルハーミネどこいったー!
また、子ども時代の回想が終わったあと、ギィ@あかちゃんとタルハーミネ@みれいちゃんが出て来ると、あ、久しぶり!と思った。
主人公とヒロインが舞台に出て来て「久しぶりに観た」と思うなんて……本公演ではふたりは出ずっぱりなのに。
ナイわー。
なんでこんな演出にしてしまったか、心からわからない。
なにか意図があったんだろうか?
せっかくの新公主役の出番を削ることが? 久しぶりに観たなー、と思わせるくらい、何場面も活躍の場を削ることが?
それとも、あかちゃんには子ども役は演じられないと……はっ。
身長か? 身長の問題か? こんなでかい幼児いねーよっ!というウエクミのツッコミが入って、それでまさかの主役降板、重要で長い場面だけど幼児に見える子が代役を務めることになった。タルハーミネのみれいちゃんはその巻き添え、とか?
そっかー、みりおくんもちぎくんもだいもんも、子役OKな身長だもんなー。ははは。これからウエクミ作品に出るトップスターと新公主演候補の二枚目たちは、低身長でないと「ザッツ・ウエクミ!!」な作品には出られないぞっていう……。
そんなつまらんことを考えつつ、さらに、はっ、こんなでかい幼児いねーよっ!が原因だったら、れいこはどうなるんだ、でかくて幼児姿が実写版バカボン的な痛々しい頭身になってたぞ、それでも無理矢理幼児をやってたぞ……はっ、れいこで懲りたから、もう長身男役には幼児役をさせなくなったのか? じゃああかちゃんはれいこのとばっちり??
……すんません、どーでもいいタワゴトです。
でもそれくらい、意味わかんないキャスティングだってことで。
わたしは、どんなに嘘くさい幼児姿になったとしても、あかちゃん自身で幼少時代のギィを観たかったし、なにより、みれいちゃんのタルハーミネを通し役で観たかったっす。
本公演では、子ども時代もトップスターのみりおくんと、トップ娘役のかのちゃんが演じている。
でも、新公では子ども時代を、別の子が演じている。
子ども時代ぐらい、別の子が演じてもいいじゃん。新人公演は多くの若手に経験を積ませるためにある、役が増えるのはいいことじゃん。
というのはアリだと思うけど。
この『金色の砂漠』という作品においては、それはNGだ。
だって、子ども時代は長い。
しかも、主人公とヒロインの関係性の核に関わる部分だ。
これを別の役者にやらせてしまうと、物語に一貫性がなくなる。
一本モノの芝居をツギハギしたみたいな、「あ、あの場面なくなってる、カットされたんだ、いい場面なのに」と同じことになる。
主人公とヒロインの関係性の核に関わり、物語の一貫性に必須だから、みりおくんとかのちゃん本人が、幼少時代も演じていたんだ。
それが、よーーっくわかった。
別の人が演じていたら、物語が成り立たないんだわー。キモチが続かないんだわー。
この間までやってた『私立探偵ケイレブ・ハント』だと、主演ひとこ、ヒロインりさちゃんだけど、誕生日デートだけ別の下級生がやっちゃう感じ? 本公演ではちぎみゆだけど、新公だから多くの下級生に経験を積ませたいから、本筋に関係ないバカップルデート場面は別の子で! 事件に関わる部分はちゃんとひとことりさだから問題なし!みたいな?
ナイわー。
それってつまり、「役替わり」に近いよね。
主人公ギィをあかちゃんと華優希ちゃん、ヒロインのタルハーミネをみれいちゃんと音くりちゃんでやる、ってことよね。
ランベスウォークが終わったら、別の人がサリーの衣装着て出てきた、なんで??となった、『ミーマイ』新公再び、ってことよね?
いやあ、マジぶった切り感すごかった。
子ども時代だけ別モノで、大人っつーか、18歳だっけ? 現在の若者バージョンとイコールにならない。
あかちゃんと華ちゃんはともかく、みれいちゃんと音くりちゃんの隔絶感はすごかった。
せっかく面白いプロットの物語で、新人公演という別配役バージョンを楽しむ気満々で来ているのに、途中で話ぶった切られるなんて。え、誰この子? ギィ? ……まあ、ギィはなんか面影あるかもだけど、タルハーミネはどこ? 顔も雰囲気もまったく共通点ナイ、てゆーかこの子シャラデハだよね?? タルハーミネどこいったー!
また、子ども時代の回想が終わったあと、ギィ@あかちゃんとタルハーミネ@みれいちゃんが出て来ると、あ、久しぶり!と思った。
主人公とヒロインが舞台に出て来て「久しぶりに観た」と思うなんて……本公演ではふたりは出ずっぱりなのに。
ナイわー。
なんでこんな演出にしてしまったか、心からわからない。
なにか意図があったんだろうか?
せっかくの新公主役の出番を削ることが? 久しぶりに観たなー、と思わせるくらい、何場面も活躍の場を削ることが?
それとも、あかちゃんには子ども役は演じられないと……はっ。
身長か? 身長の問題か? こんなでかい幼児いねーよっ!というウエクミのツッコミが入って、それでまさかの主役降板、重要で長い場面だけど幼児に見える子が代役を務めることになった。タルハーミネのみれいちゃんはその巻き添え、とか?
そっかー、みりおくんもちぎくんもだいもんも、子役OKな身長だもんなー。ははは。これからウエクミ作品に出るトップスターと新公主演候補の二枚目たちは、低身長でないと「ザッツ・ウエクミ!!」な作品には出られないぞっていう……。
そんなつまらんことを考えつつ、さらに、はっ、こんなでかい幼児いねーよっ!が原因だったら、れいこはどうなるんだ、でかくて幼児姿が実写版バカボン的な痛々しい頭身になってたぞ、それでも無理矢理幼児をやってたぞ……はっ、れいこで懲りたから、もう長身男役には幼児役をさせなくなったのか? じゃああかちゃんはれいこのとばっちり??
……すんません、どーでもいいタワゴトです。
でもそれくらい、意味わかんないキャスティングだってことで。
わたしは、どんなに嘘くさい幼児姿になったとしても、あかちゃん自身で幼少時代のギィを観たかったし、なにより、みれいちゃんのタルハーミネを通し役で観たかったっす。
引き続き役替わり公演。@新人公演『金色の砂漠』
2016年11月29日 タカラヅカ 花組新人公演『金色の砂漠』観劇。
面白い作品は、新人公演も楽しみになる。初日を観た段階から、こりゃ新公楽しみだー、絶対観たい!と思った。
作品としてもだが、そこにわたしはもうひとつ「別の人が演じるタルハーミネを見たい」という気持ちが痛烈にあった。
かのちゃん演じるタルハーミネが、どうにもダメで。いや、通常はいいんだけど、タルハーミネの心が大きく動く、鍵になる場面の芝居がどうにも苦手で。違和感で水を差されてしまって。
新公のタルハーミネ@みれいちゃんに、めーっちゃ期待していた。
みれいちゃんはうまいからな。実力安定しているし、主人公体質だ。弱い主演なんか押しのけてしまう強さを持つ。これくらいの子でないと、タルハーミネという役はこなせないだろうと思う。
だから最初からタルハーミネ注視するつもりだった、ん、だけど……。
開演前、座席配布のプログラムを見て首をかしげる。
幼少時代のタルハーミネ……?
子どもの役は子役(下級生とか娘役とか)が演じるのがふつうだ。だが『金色の砂漠』では、主人公ギィとヒロインのタルハーミネは、子ども時代もみりおくんとかのちゃん自身が演じている。幼少時代も重要かつ長いので、コレを別の役者にやらせるわけにいかない作りだからだ。(でも他の役は子役が演じているんだよなー。バランス的に変だよなー、本公演。……というのは置く)
なのに、新人公演は主人公とヒロインの幼少時代を別の役者が演じる。本公演と、配役が変更されている。何故?
新公では脚本を変えて、幼少時代は短くまとめられているとか? いや、短いならなおさら、別の役者を立てる必要がナイ。
ではなにか、演出的な意図があるんだろうか??
ウエクミが新公でそこまで自作を変更するとは、わたしには思えなかった。新公で役者が別になっても、がんとして同じモノ(本脚本にあるモノ)を要求するイメージがある。
じゃあどうして、主人公役とヒロイン役の出番を減らすんだろう?
本来ひとりの役者が演じているひとつの役を、ひとりの役者が全部演じるのではなく、別の子と分け合う、っていうのは、ある意味役替わり公演? ダブルキャスト? 前回の新人公演『ME AND MY GIRL』と同じカテゴリだよね?
「わざわざ子ども時代と役を分けるってことは、子ども時代を演じる子を劇団が推したいってことじゃないかな?」
と、つい思ってしまった。
タルハーミネの幼少時代を演じるのは、音くりちゃんだ。『ME AND MY GIRL』で新公ヒロインをした彼女に、続けてヒロインをやらせたかった、ということでは?
『ミーマイ』新公ヒロは、みれいちゃんと音くりちゃんのダブルキャストだった。そして今回、わたしは単純にみれいちゃんヒロインだと思っていたんだけど、何分の一かは音くりちゃんがヒロインじゃないか。役替わり2連発? しかも、本公演にはない役を作ってまで(HPの配役表には、わざわざ新公のみ幼少時代の配役が別欄で作られている)彼女にヒロインをやらせる?
なにそれこわい。
いやその、音くりちゃん苦手なので、配役知ってびびったんす……。
しかしそんなのはわたしのうがち過ぎってやつでしょう。
「幼少時代のギィ役の子は娘役だし推されてる子でもないし、そんな意図はないんじゃない?」
と、花担友人にはさくっと言われてしまった。
そう、「劇団が推したいから、わざわざ役を作った」と勘ぐるなら、ふつーは主人公のギィ役についてだろう。友人はわたしが音くりちゃんについて言っているとは、思わなかったようだ。
そうだよねえ。タカラヅカは男役中心だから、娘役のためにわざわざトップスター役の出番を減らさないよねえ。
わたしがタルハーミネ役にめっちゃこだわっていたせいです、はい。
でもほんとわたし、タルハーミネが役替わりだと当日まで知らなくて。新公配役はとっくに出てたはずだけど、どの組でもそうなんだけどぜんぜんチェックしてないし。
ああそして、新公を観て本当に、何故本公演で幼少時代までみりおくんとかのちゃんが演じているかの意味を思い知ったのですわ……。
面白い作品は、新人公演も楽しみになる。初日を観た段階から、こりゃ新公楽しみだー、絶対観たい!と思った。
作品としてもだが、そこにわたしはもうひとつ「別の人が演じるタルハーミネを見たい」という気持ちが痛烈にあった。
かのちゃん演じるタルハーミネが、どうにもダメで。いや、通常はいいんだけど、タルハーミネの心が大きく動く、鍵になる場面の芝居がどうにも苦手で。違和感で水を差されてしまって。
新公のタルハーミネ@みれいちゃんに、めーっちゃ期待していた。
みれいちゃんはうまいからな。実力安定しているし、主人公体質だ。弱い主演なんか押しのけてしまう強さを持つ。これくらいの子でないと、タルハーミネという役はこなせないだろうと思う。
だから最初からタルハーミネ注視するつもりだった、ん、だけど……。
開演前、座席配布のプログラムを見て首をかしげる。
幼少時代のタルハーミネ……?
子どもの役は子役(下級生とか娘役とか)が演じるのがふつうだ。だが『金色の砂漠』では、主人公ギィとヒロインのタルハーミネは、子ども時代もみりおくんとかのちゃん自身が演じている。幼少時代も重要かつ長いので、コレを別の役者にやらせるわけにいかない作りだからだ。(でも他の役は子役が演じているんだよなー。バランス的に変だよなー、本公演。……というのは置く)
なのに、新人公演は主人公とヒロインの幼少時代を別の役者が演じる。本公演と、配役が変更されている。何故?
新公では脚本を変えて、幼少時代は短くまとめられているとか? いや、短いならなおさら、別の役者を立てる必要がナイ。
ではなにか、演出的な意図があるんだろうか??
ウエクミが新公でそこまで自作を変更するとは、わたしには思えなかった。新公で役者が別になっても、がんとして同じモノ(本脚本にあるモノ)を要求するイメージがある。
じゃあどうして、主人公役とヒロイン役の出番を減らすんだろう?
本来ひとりの役者が演じているひとつの役を、ひとりの役者が全部演じるのではなく、別の子と分け合う、っていうのは、ある意味役替わり公演? ダブルキャスト? 前回の新人公演『ME AND MY GIRL』と同じカテゴリだよね?
「わざわざ子ども時代と役を分けるってことは、子ども時代を演じる子を劇団が推したいってことじゃないかな?」
と、つい思ってしまった。
タルハーミネの幼少時代を演じるのは、音くりちゃんだ。『ME AND MY GIRL』で新公ヒロインをした彼女に、続けてヒロインをやらせたかった、ということでは?
『ミーマイ』新公ヒロは、みれいちゃんと音くりちゃんのダブルキャストだった。そして今回、わたしは単純にみれいちゃんヒロインだと思っていたんだけど、何分の一かは音くりちゃんがヒロインじゃないか。役替わり2連発? しかも、本公演にはない役を作ってまで(HPの配役表には、わざわざ新公のみ幼少時代の配役が別欄で作られている)彼女にヒロインをやらせる?
なにそれこわい。
いやその、音くりちゃん苦手なので、配役知ってびびったんす……。
しかしそんなのはわたしのうがち過ぎってやつでしょう。
「幼少時代のギィ役の子は娘役だし推されてる子でもないし、そんな意図はないんじゃない?」
と、花担友人にはさくっと言われてしまった。
そう、「劇団が推したいから、わざわざ役を作った」と勘ぐるなら、ふつーは主人公のギィ役についてだろう。友人はわたしが音くりちゃんについて言っているとは、思わなかったようだ。
そうだよねえ。タカラヅカは男役中心だから、娘役のためにわざわざトップスター役の出番を減らさないよねえ。
わたしがタルハーミネ役にめっちゃこだわっていたせいです、はい。
でもほんとわたし、タルハーミネが役替わりだと当日まで知らなくて。新公配役はとっくに出てたはずだけど、どの組でもそうなんだけどぜんぜんチェックしてないし。
ああそして、新公を観て本当に、何故本公演で幼少時代までみりおくんとかのちゃんが演じているかの意味を思い知ったのですわ……。
王女と奴隷の恋、の王道パターンの話。@金色の砂漠
2016年11月28日 タカラヅカ なんてこったい、『金色の砂漠』の感想をUP出来ていない。
や、周回遅れブログなので、のんきにテキストをカレンダーに当てはめてUPしていってるようなもんなんだが。
うーん、文字量気にせずに書いてるから、「あれ、このネタで1日分のつもりだったのに、なんだか長いわ。ふたつに分けてUPしましょう。……となると、あれ、このあとのUP予定内容がズレるわ。んじゃ、こっちのテキストを後回しにして……」てなことになり、どんどんズレていくのよねえ。
で、気がついたら翌日欄からは、『金色の砂漠』新人公演感想予定ですがな。本公演語ってないのに。
『金色の砂漠』好き。
面白いプロットだと思う。
特に、タルハーミネをいいキャラクタだと思う。
王女と奴隷の恋、でよくあるのは、ビルマーヤとジャーの関係だと思う。
心優しい王女と、彼女を包み込むように守る身分違いの男。
奴隷相手にも優しい王女は観客からも温かく迎え入れられるヒロインだし、彼女にかしずき片時も離れずに世話を焼く美形、ってのは女性が好むシチュエーション。
現実世界でなら、彼氏にいちばんに求めるのはお金や地位かもしれないけれど、ラブロマンスでは「現実にあり得ない」美味しさを楽しむもの。「身分違いの恋」は鉄板ネタ。
ただ、初恋身分違いモノで、身分が高いのが女性の方だと、実のところストーリーは広げようがない。
だって、女が身分を捨てれば済む話じゃん。家のためとか家族のためとかで泣く泣く恋人と別れる……って、つまりはその程度の恋だった、家族を犠牲にしたりなにかしら負い目を持つことになっても貫きたい想いではなかった、ということ。
男側が身分が高い、権力がある、という場合だと、いろんなパターンが出来るけどなー。身分を捨てる・捨てないからはじまって、身分を捨てない場合も女と恋を続行させる方法がいろいろある。
が、女の場合は、恋の成就は「身分を捨てる」ほぼ一択だ。王女だろうと令嬢だろうと、そのままの身分で下層の男と結ばれることは出来ないから。
ゆえに、すべてを捨てて恋に生きる!のなら、決意した次の瞬間身分違いの恋人と逃げてハッピーエンドだ。逃げ切れないなら、そのまま心中END、愛の成就。清らかな初恋、至上の愛の物語。
もっと夢夢しくご都合主義にハッピーエンドにするなら、「奴隷は実は王子様でした」END。
これならヒロインはナニも失わずに済む。裕福な暮らしと愛を手に入れ、誰も不幸にならないおとぎばなしEND。
ビルマーヤとジャーはコレよね。ジャーが一念発起してビルマーヤ姫との結婚をジャハンギール王に願い出ればいい。
ジャハンギールは「国を治める」「王妃アムダリヤを自分のものにする」ことを第一にしているのだから、前の王国の王子であり、アムダリヤの息子であるジャーが、自分の娘と結婚するのは政治的にも私情的にもまずいことではない。
王女と奴隷の恋、ああ身分違い切ないわ……王女様に縁談が! ああどうなっちゃうの切ないわ……ああらびっくり、奴隷は実は王子様だった!
愛し合うふたりのすったもんだに、王と王妃のロマンスも絡めて、王道ラブストーリーの出来上がり。
なのに、あえてその王道をやらずに、ツンデレだの愛憎だの盛り込んで折ってたたんで裏返しの盛りまくり……が、タルハーミネとギィ。
さて、バリエーションが限られる、「身分の高い女と、身分の低い男の恋愛」モノ。駆け落ち(心中)、実は王子様、の他にもうひとつ、次善作として、「王様になって略奪END」がある。
男の身分が低いために恋が実らない、というならば、身分を上げればいい、実力で。ただしこの場合、何年か時の流れが必要なので、女は別の男に嫁いでいるのがお約束。人妻略奪モノにシフトチェンジ。清らかな初恋ってわけにはいかない。
だけどこれも女性が好きなパターン、初恋のダーリンが強くセクシーになって戻って来て、不幸な結婚生活から救い出してくれるの。清らかな初恋もいいけど、大人のドラマチックロマンスもいいわよね。
タルハーミネとギィは、こっちのパターンね。わたしのアタマの中には『華の嵐』のテーマ曲が回ります、炎の中で見つめ合う柳子お嬢様と天堂一也(笑)。
この「人妻略奪モノ」にするためには、まずヒロインに人妻になってもらわないといかん。
「恋に生きる」ヒロインが、何故愛する男と別れて別の男へ嫁ぐのか。理由付けが必要。
大抵……というか、99%は「家のため・金のため」。父親が事業に失敗して、とか、停戦のために敵国へ嫁がねばならないとか、「政略結婚しないと誰かが不幸になる」という脅迫めいた状況で、泣く泣く恋をあきらめ、愛してもいない男の妻になる。
これがふつう……というか、これ以外に理由があるのかってもんだが。
誰も傷つけないなら、傷つくのが自分だけなら、迷わず恋を選ぶよね? でなきゃ奴隷と恋はしないよね?
タルハーミネにはそんな「理由」も「事情」もなかった。
なのに、彼女は恋を捨てた。
100%、自分のために。
奴隷のギィと駆け落ちします、ふたりですべてを捨てて生きていきます。……そう決めて逃げようとしたけれど、王に見つかってしまった。
王は不貞を許さない。王女も奴隷もその場で殺されるはず。タルハーミネが助かる道はひとつ、愛を否定し、ギィを殺すこと。
……この展開で、恋人を殺すことで命乞いするヒロインって。
身分違いの恋、から略奪愛へチェンジするきっかけが、「誰も傷つけないために私が犠牲になります」ではなくて、「私が傷つかないために恋人を殺します」って、新しいな!(笑)
だから好き。
タルハーミネが選んだのが、自分の命ではなく「誇り」だというところが、たまらなく好み。
そして、この土壇場で恋人に裏切られたギィが復讐の鬼となるのも、すっげーわかるっていうか、こんだけひどい目に遭う主人公もそうそうないよな(笑)ってことで、心から納得。
ふつー、愛し合った恋人同士が敵対するのって、誤解やすれ違いが原因なのに、間違いなく片方が悪い、酷い、って、なかなかナイわー。
そして、誤解やすれ違いが原因でないからこそ、この愛憎は救いがナイ。そこがイイ。
タルハーミネというキャラクタが好き。
わたしにノベライズさせてくれ、と思う。いや、ウエクミはきっと自分以外の者の目と脳を通した「自分の作品」を認めないと思うので、二次創作でいいや、わたしが好きにこの物語を文章化したい。
……てとこで文字数尽きた。またいずれ。
や、周回遅れブログなので、のんきにテキストをカレンダーに当てはめてUPしていってるようなもんなんだが。
うーん、文字量気にせずに書いてるから、「あれ、このネタで1日分のつもりだったのに、なんだか長いわ。ふたつに分けてUPしましょう。……となると、あれ、このあとのUP予定内容がズレるわ。んじゃ、こっちのテキストを後回しにして……」てなことになり、どんどんズレていくのよねえ。
で、気がついたら翌日欄からは、『金色の砂漠』新人公演感想予定ですがな。本公演語ってないのに。
『金色の砂漠』好き。
面白いプロットだと思う。
特に、タルハーミネをいいキャラクタだと思う。
王女と奴隷の恋、でよくあるのは、ビルマーヤとジャーの関係だと思う。
心優しい王女と、彼女を包み込むように守る身分違いの男。
奴隷相手にも優しい王女は観客からも温かく迎え入れられるヒロインだし、彼女にかしずき片時も離れずに世話を焼く美形、ってのは女性が好むシチュエーション。
現実世界でなら、彼氏にいちばんに求めるのはお金や地位かもしれないけれど、ラブロマンスでは「現実にあり得ない」美味しさを楽しむもの。「身分違いの恋」は鉄板ネタ。
ただ、初恋身分違いモノで、身分が高いのが女性の方だと、実のところストーリーは広げようがない。
だって、女が身分を捨てれば済む話じゃん。家のためとか家族のためとかで泣く泣く恋人と別れる……って、つまりはその程度の恋だった、家族を犠牲にしたりなにかしら負い目を持つことになっても貫きたい想いではなかった、ということ。
男側が身分が高い、権力がある、という場合だと、いろんなパターンが出来るけどなー。身分を捨てる・捨てないからはじまって、身分を捨てない場合も女と恋を続行させる方法がいろいろある。
が、女の場合は、恋の成就は「身分を捨てる」ほぼ一択だ。王女だろうと令嬢だろうと、そのままの身分で下層の男と結ばれることは出来ないから。
ゆえに、すべてを捨てて恋に生きる!のなら、決意した次の瞬間身分違いの恋人と逃げてハッピーエンドだ。逃げ切れないなら、そのまま心中END、愛の成就。清らかな初恋、至上の愛の物語。
もっと夢夢しくご都合主義にハッピーエンドにするなら、「奴隷は実は王子様でした」END。
これならヒロインはナニも失わずに済む。裕福な暮らしと愛を手に入れ、誰も不幸にならないおとぎばなしEND。
ビルマーヤとジャーはコレよね。ジャーが一念発起してビルマーヤ姫との結婚をジャハンギール王に願い出ればいい。
ジャハンギールは「国を治める」「王妃アムダリヤを自分のものにする」ことを第一にしているのだから、前の王国の王子であり、アムダリヤの息子であるジャーが、自分の娘と結婚するのは政治的にも私情的にもまずいことではない。
王女と奴隷の恋、ああ身分違い切ないわ……王女様に縁談が! ああどうなっちゃうの切ないわ……ああらびっくり、奴隷は実は王子様だった!
愛し合うふたりのすったもんだに、王と王妃のロマンスも絡めて、王道ラブストーリーの出来上がり。
なのに、あえてその王道をやらずに、ツンデレだの愛憎だの盛り込んで折ってたたんで裏返しの盛りまくり……が、タルハーミネとギィ。
さて、バリエーションが限られる、「身分の高い女と、身分の低い男の恋愛」モノ。駆け落ち(心中)、実は王子様、の他にもうひとつ、次善作として、「王様になって略奪END」がある。
男の身分が低いために恋が実らない、というならば、身分を上げればいい、実力で。ただしこの場合、何年か時の流れが必要なので、女は別の男に嫁いでいるのがお約束。人妻略奪モノにシフトチェンジ。清らかな初恋ってわけにはいかない。
だけどこれも女性が好きなパターン、初恋のダーリンが強くセクシーになって戻って来て、不幸な結婚生活から救い出してくれるの。清らかな初恋もいいけど、大人のドラマチックロマンスもいいわよね。
タルハーミネとギィは、こっちのパターンね。わたしのアタマの中には『華の嵐』のテーマ曲が回ります、炎の中で見つめ合う柳子お嬢様と天堂一也(笑)。
この「人妻略奪モノ」にするためには、まずヒロインに人妻になってもらわないといかん。
「恋に生きる」ヒロインが、何故愛する男と別れて別の男へ嫁ぐのか。理由付けが必要。
大抵……というか、99%は「家のため・金のため」。父親が事業に失敗して、とか、停戦のために敵国へ嫁がねばならないとか、「政略結婚しないと誰かが不幸になる」という脅迫めいた状況で、泣く泣く恋をあきらめ、愛してもいない男の妻になる。
これがふつう……というか、これ以外に理由があるのかってもんだが。
誰も傷つけないなら、傷つくのが自分だけなら、迷わず恋を選ぶよね? でなきゃ奴隷と恋はしないよね?
タルハーミネにはそんな「理由」も「事情」もなかった。
なのに、彼女は恋を捨てた。
100%、自分のために。
奴隷のギィと駆け落ちします、ふたりですべてを捨てて生きていきます。……そう決めて逃げようとしたけれど、王に見つかってしまった。
王は不貞を許さない。王女も奴隷もその場で殺されるはず。タルハーミネが助かる道はひとつ、愛を否定し、ギィを殺すこと。
……この展開で、恋人を殺すことで命乞いするヒロインって。
身分違いの恋、から略奪愛へチェンジするきっかけが、「誰も傷つけないために私が犠牲になります」ではなくて、「私が傷つかないために恋人を殺します」って、新しいな!(笑)
だから好き。
タルハーミネが選んだのが、自分の命ではなく「誇り」だというところが、たまらなく好み。
そして、この土壇場で恋人に裏切られたギィが復讐の鬼となるのも、すっげーわかるっていうか、こんだけひどい目に遭う主人公もそうそうないよな(笑)ってことで、心から納得。
ふつー、愛し合った恋人同士が敵対するのって、誤解やすれ違いが原因なのに、間違いなく片方が悪い、酷い、って、なかなかナイわー。
そして、誤解やすれ違いが原因でないからこそ、この愛憎は救いがナイ。そこがイイ。
タルハーミネというキャラクタが好き。
わたしにノベライズさせてくれ、と思う。いや、ウエクミはきっと自分以外の者の目と脳を通した「自分の作品」を認めないと思うので、二次創作でいいや、わたしが好きにこの物語を文章化したい。
……てとこで文字数尽きた。またいずれ。
ハリーワールド、長期連載中!@私立探偵ケイレブ・ハント
2016年11月27日 タカラヅカ 『私立探偵ケイレブ・ハント』で、マサツカェ……と思うこと、その2。
ああ、この「マサツカェ……」てのは、あきれたり辟易したり失笑したりするマイナスな思いと、かわいいよねイイよね好きだよねというプラスの感情も含まれた、複雑な「ェ……」です、はい。
探偵事務所の面々がひどい。
まなはるときゃびいと桃ひな。お気に入りばっかりかよ!
マサツカ氏は、役者使いに好みが大きく出る演出家だ。座付き作家だから、劇団指示には従うが、それ以外のところでは通常の役付きルールを無視して、自分の好みでキャスティングする。
他の演出家作品では当たり前に役をもらえている人がモブで、いつもはモブの人が重要キャラを与えられたりする。
クリエイターなんだから、番手とか学年とか関係なく、「いい作品を作るためにいい役者を使いたい」というのはわかる。自分の作品なんだから、自分の気に入った人を使いたいよね。わかる。わかるよ。
しかし、わかりやすすぎるわ。
探偵事務所の事務員コートニー@きゃびい、経理のダドリー@まなはる、秘書のグレース@桃ひななんて、個性なしのただのモブキャラでいい役割だ。
なのに、彼らのキャラクタを紹介する場面がえんえん挿入されている。
きゃびいが「マサツカ作品のきゃびい」全開でかっ飛ばしていて、そこに「まなはるらしいまなはる」が絡んでいて、それだけで十分「マサツカェ……」とニラニラしていたのに、トドメとばかりにももちゃん投入、しかも「以前働いていた」という、現在の物語に無関係なエピソードぶち込んでまで……!!
いやあ、震撼したわ。ここまでやるかと。
たまたまなにかの縁ではじめて宝塚大劇場にやって来て、なにも知らないままこの『私立探偵ケイレブ・ハント』を観たお客さんは、混乱すると思う。
女優の死をめぐる事件、という本筋に、関係ないキャラクタとエピソードを「重要です、そうでなきゃこんなに時間と場面割いてまで演じてません」と見せつけられたら、わけわかんないって。
ただでさえミステリ部分がお粗末なのに、不要なエピソードとキャラクタを入れてさらに本筋を薄くして、観客の気をよそに向けさせて混乱させるとか、ありえない。
50ページの長編読みきりならアリだけど、16ページの短編でなにやってんの。プロット段階で編集さんに削られるわ、商業作品なら。
同じ16ページでも、連載作品なら、アリだけど。この事件は16ページで完結するけど、『私立探偵ケイレブ・ハント』という連載長編作品はずーーっと続いていて、来週も誌面に掲載されるんだから、読者は続けて読むんだから、今回の事件と無関係でもレギュラーメンバーの物語を入れていいけど。
マサツカせんせは、今回の公演を「短編読み切り」だと思わず、「連載長編のうちの1回」だと思って作っている。
つっても、『ケイレブ・ハント』は1作きりだ。前にもあとにもない。
マサツカせんせが思っている「連載」「長編」というのは、「宝塚歌劇」における「タカラジェンヌ」と「正塚晴彦」のことだ。
きゃびいもまなはるも桃ひなも、「みんな、知ってるよね?」という前提。そして、過去のマサツカ作品で彼らがどう使われてきたか、どんなキャラクタを演じてきたか。「みんな、知ってるよね?」
大劇場の客席にいる人は、長期連載をずっと読んでいる人。いつもの面々で、今回はどんなお話かな? と思って、ページをめくる人。
だから、1から設定とかキャラの紹介をする必要はない。みんな知ってることは説明しなくていい。知っている人なら「またこのキャラがこんなことしてる(笑)」とウケるし、「この話はこうだな」と理解出来る。「うん、これこそハリーワールドだ」とか、最初から「わかっている人」に向けて書かれている。
座付き作家で、固定ファンで支えられている劇団なんだから、それはそれでアリだと思う。
思うけど。
そんなことは、バウホールでやれ。
ほぼヅカヲタしか公演の存在もチケットの入手も出来ない手持ちの小劇場でやれ。
一般客相手の大劇場本公演でやるな。
独立した一本の作品を観に来た客に、「全100回予定の長期連載作品の、第58話のみ上演中」なんてもんを見せんな。
甘えてるなー、と思う。
劇団にも、ファンにも。
お気に入りの役者で、不要な場面をえんえん入れる。
本筋の構成はゆるゆるで、組み立てが間違っている。
それでも、トップコンビの力技で、なんとか成立させてしまう作品。
実にタカラヅカらしい作品で、最近のハリーの悪いところが出まくった作品だと思う。
それでもわたしは、所詮長期連載中のハリーワールドのファンなわけで。
「きゃびいがいつものきゃびいだ」「まなはるがまなはるだ」「ほんとマサツカおじさん、どうしようもないな」「桃ひなキターーーー!! 笑うしかない!」とか、ちゃっかり楽しんでいる。
間違っていると思う。
そう思うことと、楽しいことは別だから。
探偵事務所の場面好き。
コーヒーメーカーのくだり大好き。
マサツカにあきれながらも、そういうとこも受け入れている。
ああ、この「マサツカェ……」てのは、あきれたり辟易したり失笑したりするマイナスな思いと、かわいいよねイイよね好きだよねというプラスの感情も含まれた、複雑な「ェ……」です、はい。
探偵事務所の面々がひどい。
まなはるときゃびいと桃ひな。お気に入りばっかりかよ!
マサツカ氏は、役者使いに好みが大きく出る演出家だ。座付き作家だから、劇団指示には従うが、それ以外のところでは通常の役付きルールを無視して、自分の好みでキャスティングする。
他の演出家作品では当たり前に役をもらえている人がモブで、いつもはモブの人が重要キャラを与えられたりする。
クリエイターなんだから、番手とか学年とか関係なく、「いい作品を作るためにいい役者を使いたい」というのはわかる。自分の作品なんだから、自分の気に入った人を使いたいよね。わかる。わかるよ。
しかし、わかりやすすぎるわ。
探偵事務所の事務員コートニー@きゃびい、経理のダドリー@まなはる、秘書のグレース@桃ひななんて、個性なしのただのモブキャラでいい役割だ。
なのに、彼らのキャラクタを紹介する場面がえんえん挿入されている。
きゃびいが「マサツカ作品のきゃびい」全開でかっ飛ばしていて、そこに「まなはるらしいまなはる」が絡んでいて、それだけで十分「マサツカェ……」とニラニラしていたのに、トドメとばかりにももちゃん投入、しかも「以前働いていた」という、現在の物語に無関係なエピソードぶち込んでまで……!!
いやあ、震撼したわ。ここまでやるかと。
たまたまなにかの縁ではじめて宝塚大劇場にやって来て、なにも知らないままこの『私立探偵ケイレブ・ハント』を観たお客さんは、混乱すると思う。
女優の死をめぐる事件、という本筋に、関係ないキャラクタとエピソードを「重要です、そうでなきゃこんなに時間と場面割いてまで演じてません」と見せつけられたら、わけわかんないって。
ただでさえミステリ部分がお粗末なのに、不要なエピソードとキャラクタを入れてさらに本筋を薄くして、観客の気をよそに向けさせて混乱させるとか、ありえない。
50ページの長編読みきりならアリだけど、16ページの短編でなにやってんの。プロット段階で編集さんに削られるわ、商業作品なら。
同じ16ページでも、連載作品なら、アリだけど。この事件は16ページで完結するけど、『私立探偵ケイレブ・ハント』という連載長編作品はずーーっと続いていて、来週も誌面に掲載されるんだから、読者は続けて読むんだから、今回の事件と無関係でもレギュラーメンバーの物語を入れていいけど。
マサツカせんせは、今回の公演を「短編読み切り」だと思わず、「連載長編のうちの1回」だと思って作っている。
つっても、『ケイレブ・ハント』は1作きりだ。前にもあとにもない。
マサツカせんせが思っている「連載」「長編」というのは、「宝塚歌劇」における「タカラジェンヌ」と「正塚晴彦」のことだ。
きゃびいもまなはるも桃ひなも、「みんな、知ってるよね?」という前提。そして、過去のマサツカ作品で彼らがどう使われてきたか、どんなキャラクタを演じてきたか。「みんな、知ってるよね?」
大劇場の客席にいる人は、長期連載をずっと読んでいる人。いつもの面々で、今回はどんなお話かな? と思って、ページをめくる人。
だから、1から設定とかキャラの紹介をする必要はない。みんな知ってることは説明しなくていい。知っている人なら「またこのキャラがこんなことしてる(笑)」とウケるし、「この話はこうだな」と理解出来る。「うん、これこそハリーワールドだ」とか、最初から「わかっている人」に向けて書かれている。
座付き作家で、固定ファンで支えられている劇団なんだから、それはそれでアリだと思う。
思うけど。
そんなことは、バウホールでやれ。
ほぼヅカヲタしか公演の存在もチケットの入手も出来ない手持ちの小劇場でやれ。
一般客相手の大劇場本公演でやるな。
独立した一本の作品を観に来た客に、「全100回予定の長期連載作品の、第58話のみ上演中」なんてもんを見せんな。
甘えてるなー、と思う。
劇団にも、ファンにも。
お気に入りの役者で、不要な場面をえんえん入れる。
本筋の構成はゆるゆるで、組み立てが間違っている。
それでも、トップコンビの力技で、なんとか成立させてしまう作品。
実にタカラヅカらしい作品で、最近のハリーの悪いところが出まくった作品だと思う。
それでもわたしは、所詮長期連載中のハリーワールドのファンなわけで。
「きゃびいがいつものきゃびいだ」「まなはるがまなはるだ」「ほんとマサツカおじさん、どうしようもないな」「桃ひなキターーーー!! 笑うしかない!」とか、ちゃっかり楽しんでいる。
間違っていると思う。
そう思うことと、楽しいことは別だから。
探偵事務所の場面好き。
コーヒーメーカーのくだり大好き。
マサツカにあきれながらも、そういうとこも受け入れている。
救急車を呼ぶ男。@私立探偵ケイレブ・ハント
2016年11月26日 タカラヅカ 書き切れていない、『私立探偵ケイレブ・ハント』のこと。
マサツカ的なお遊びなんだろうな、と思う点。
冒頭の映画スタジオで、女優が事故死する。
その際にモブのみなさんがいろいろ叫ぶ。その中に、
「救急車を呼べ!」
という一言がある。
中盤、ジム@だいもんが狙撃され、モブのみなさんが騒ぐ。
「救急車呼んで!」
パニックになっているモブたちのところへ。もうひとりモブが現れて言う。
「もう呼んだよ」
ここを見るたび、「マサツカェ……」というキモチになる。
このやりとりの、ナニが面白いのか。どこがお遊びなのか。
冒頭の映画スタジオで「救急車を呼べ!」と叫んでいる男と、街角で「もう呼んだよ」と言う男は、同一人物である。
目の前で人が撃たれてパニックになって「救急車呼んで!」とわめく通行人の前に現れた、なんの関係もない通行人が、ものすごく淡々と「もう呼んだ」と言う……こと自体、おかしい。わらえるのではなく、奇妙だ。
狙撃にしろ救急車を呼ぶ行為にしろ、平常の出来事ではないのだから、ふつうなら、「もう呼んだよ」と答える男も焦っていたり声を荒らげていたりするのがふつうだ。
だけど現れた男は淡々と答える。
……人間の生理としておかしいよね?
なんでこんなおかしな演出になっているかというと、あとから現れた通行人は、冒頭の映画スタジオで「救急車を呼んだ」男だから、「救急車を呼んで」と言われて「(冒頭の映画スタジオで)もう呼んだよ」と答えているんだ。
男としては、今偶然通りかかっただけで、そこで人が撃たれていることなんか知らない。突然見知らぬ女から出会い頭に「救急車呼んで」と言われたから、反射的に「もう呼んだ」と返しているだけ。……たぶん、ジムのための救急車はこの時点で呼ばれてない。少なくとも、この男は呼んでないだろ。可哀想なジム。
……というネタなんだってことを、観劇した客の何%が気づいただろうか?
わかりにくっ。
というか、それすら通り越して、わかるか、アホ! と、ツッコミ(手振り)入れたいわ。
わたしが早々に気づいたのはひとえに救急車男がつばさくんだから、だ。
モブの中からつばさくんを探すのが日課なので、最初のスーツダンスからつばさくん探して、出て来るのけっこうあとの方のグループだな、立ち位置悪いな、と思ってたらアデル@あゆみちゃんの事故場面になって、「救急車を呼べ!」ってわざわざ客席へ向き直って叫んでるから、あ、台詞あった、しかもわざわざ顔を見えるようにして叫んでる、めずらしいな、モブなら後ろ向き(事故の方を見て)で言うだろうに、と引っかかった。
つばさくんの見せ場は唯一、サンタモニカの歌手。ポーリーン@くらっちのバックコーラス隊。
で、あとはもうほんとに出番ないし。モブのダンスにも入れてもらってないし。
ようやく出てきたのが、ジムの狙撃シーン。
出てきたと思ったら、台詞いっこで終了だし。しかも、パニック場面で淡々と答えるとか、流れ的に変な芝居だし変な台詞だし……あ。
つばさくんファンでないと気づかんわっ!!
冒頭のモブ男と街角のモブ男が同一人物だなんて。
わざわざ客席へ向き直って台詞言ってたけど、それだけでみんな同じスーツ着たモブを誰が見分けるのよ。まなはるあたりの人ならアリかもしれんが、つばさくんがソレやっても誰もおぼえないし、気づかない。
マサツカがつばさくんに与えた見せ場って、コーラス隊よりもむしろ、通し役(笑)である救急車男の方なんじゃ? 救急車男ってすごくマサツカ的。
しかし、ピント外れすぎ……。
つばさくんは、マクシミリアン@れいこのパーティですらただの客で、ダンス場面には入れてもらえなかったし。
ポーリーンが「スカウトされた!」って喜んでたから、コーラス隊もかと思ったら、ポーリーン単独だったらしく、コーラス隊はもう影もカタチもないし。ちぇー……。
「救急車を呼べ!」「もう呼んだよ」……これでニヤリとしろとか。できるとか。
ハリーは、本気で思ってるんだろうなぁ。つか、絶対ニヤリとしてるんだろうなあ。
マサツカェ……。
マサツカ的なお遊びなんだろうな、と思う点。
冒頭の映画スタジオで、女優が事故死する。
その際にモブのみなさんがいろいろ叫ぶ。その中に、
「救急車を呼べ!」
という一言がある。
中盤、ジム@だいもんが狙撃され、モブのみなさんが騒ぐ。
「救急車呼んで!」
パニックになっているモブたちのところへ。もうひとりモブが現れて言う。
「もう呼んだよ」
ここを見るたび、「マサツカェ……」というキモチになる。
このやりとりの、ナニが面白いのか。どこがお遊びなのか。
冒頭の映画スタジオで「救急車を呼べ!」と叫んでいる男と、街角で「もう呼んだよ」と言う男は、同一人物である。
目の前で人が撃たれてパニックになって「救急車呼んで!」とわめく通行人の前に現れた、なんの関係もない通行人が、ものすごく淡々と「もう呼んだ」と言う……こと自体、おかしい。わらえるのではなく、奇妙だ。
狙撃にしろ救急車を呼ぶ行為にしろ、平常の出来事ではないのだから、ふつうなら、「もう呼んだよ」と答える男も焦っていたり声を荒らげていたりするのがふつうだ。
だけど現れた男は淡々と答える。
……人間の生理としておかしいよね?
なんでこんなおかしな演出になっているかというと、あとから現れた通行人は、冒頭の映画スタジオで「救急車を呼んだ」男だから、「救急車を呼んで」と言われて「(冒頭の映画スタジオで)もう呼んだよ」と答えているんだ。
男としては、今偶然通りかかっただけで、そこで人が撃たれていることなんか知らない。突然見知らぬ女から出会い頭に「救急車呼んで」と言われたから、反射的に「もう呼んだ」と返しているだけ。……たぶん、ジムのための救急車はこの時点で呼ばれてない。少なくとも、この男は呼んでないだろ。可哀想なジム。
……というネタなんだってことを、観劇した客の何%が気づいただろうか?
わかりにくっ。
というか、それすら通り越して、わかるか、アホ! と、ツッコミ(手振り)入れたいわ。
わたしが早々に気づいたのはひとえに救急車男がつばさくんだから、だ。
モブの中からつばさくんを探すのが日課なので、最初のスーツダンスからつばさくん探して、出て来るのけっこうあとの方のグループだな、立ち位置悪いな、と思ってたらアデル@あゆみちゃんの事故場面になって、「救急車を呼べ!」ってわざわざ客席へ向き直って叫んでるから、あ、台詞あった、しかもわざわざ顔を見えるようにして叫んでる、めずらしいな、モブなら後ろ向き(事故の方を見て)で言うだろうに、と引っかかった。
つばさくんの見せ場は唯一、サンタモニカの歌手。ポーリーン@くらっちのバックコーラス隊。
で、あとはもうほんとに出番ないし。モブのダンスにも入れてもらってないし。
ようやく出てきたのが、ジムの狙撃シーン。
出てきたと思ったら、台詞いっこで終了だし。しかも、パニック場面で淡々と答えるとか、流れ的に変な芝居だし変な台詞だし……あ。
つばさくんファンでないと気づかんわっ!!
冒頭のモブ男と街角のモブ男が同一人物だなんて。
わざわざ客席へ向き直って台詞言ってたけど、それだけでみんな同じスーツ着たモブを誰が見分けるのよ。まなはるあたりの人ならアリかもしれんが、つばさくんがソレやっても誰もおぼえないし、気づかない。
マサツカがつばさくんに与えた見せ場って、コーラス隊よりもむしろ、通し役(笑)である救急車男の方なんじゃ? 救急車男ってすごくマサツカ的。
しかし、ピント外れすぎ……。
つばさくんは、マクシミリアン@れいこのパーティですらただの客で、ダンス場面には入れてもらえなかったし。
ポーリーンが「スカウトされた!」って喜んでたから、コーラス隊もかと思ったら、ポーリーン単独だったらしく、コーラス隊はもう影もカタチもないし。ちぇー……。
「救急車を呼べ!」「もう呼んだよ」……これでニヤリとしろとか。できるとか。
ハリーは、本気で思ってるんだろうなぁ。つか、絶対ニヤリとしてるんだろうなあ。
マサツカェ……。