『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』青年館版の演出が良くなっていた……のは確か。
 だからといって、完全にこちらが良いわけじゃない。

 なにしろわたしは、まっつファンなので。


 DCの最初の演出では、なにかにつれ、まっつの歌唱力・技術力頼みの演出だったんだ。伴奏も音響も、まっつソロの邪魔をしない。つまり、なんの底上げもなく、ただまっつの声だけが響く作りだった。
 作品の構成自体が、まっつの歌う「主題」にて、物語すべてを集約させる作りだしね。目に見える起承転結がないわけだしね。
 いろんな意味で、いろんな部分が、まっつに丸投げされたような作り。

 まっつの声が好き、歌が好き、な者からすりゃ、この「完全ファンアイテム」的な構成は、楽しかった。

 まっつの声にも歌にも思い入れのない人には、青年館演出の方がいいんじゃないかな。コーラスや編曲によって、まっつソロコンサートみたいな作りじゃなくなってる。

 青年館が初見の人は、予備知識がない限り変更点はわかんないだろう。
 そうなっているのは、青年館版の方がわりと「ふつー」の作りで、DC版は偏っていたせいだなーと思う。
 正塚せんせ、ほんとにまっつを好きで、まっつを信頼しているんだなあ。
 その半端ナイ比重で声を出し続けることが出来なかったのは残念だけど、それゆえに「まっつのBJ」が「みんなのBJ」になった印象。
 主題を担うのがまっつだけでなく、カゲコーラスのみんなも一緒になって担う。
 それは、BJが言葉にはしない部分の主題を、図らずも表現する結果になったのではないか。

 ……と思ってはいるけど、なにしろわたしはまっつファンなので。
 主題をまっつが独り占め、まっつの声だけにすべてを託されていたDC版は、心地よかったなあ、と(笑)。
 まっつが歌うときは余計なモノ一切なし、ただまっつの声だけを楽しむ作り、って、ヲタが夢見るまっつですよ!


 まあその、ヲタ以外には、まっつはいろいろと「薄い」とか「小さい」とか言われる人だし。身長のことだけじゃなくて。
 爆発的になにを表現する人ではなく、しみじみと内側が何層にもなる、浸透系の芝居をする人で。

 染みるのではなく爆発することを求める人には、伝わる部分が少ない芸風だろうなあと思う。
 歌声も、しかり。

 だから、まっつ個人技中心のDCより、青年館の方が「作品として」進化したと思うんだ。

 また、まっつ自身も。
 本調子じゃないから、派手な歌い上げはない。そのかわり、いつもにも増して「演技」して歌う。
 地味で小さくて温度の伝わりにくいまっつが、全霊をあげて「芝居」をしていた。ここまで大きく演じることがかつてあっただろうか、って勢いで、表現することに必死になっていた。
 内側に向かいがちな芸風の人が、外側へと意志を持って新しい表現を模索していた。

 ……また一皮剥けたんじゃないか、この人。

 2009年辺りから、変化が毎回すごい人なんだけど。なんかまたさらに、役者としてタカラヅカスターとして、レベルアップした気がする。
 いや今まさに、変わりつつあるさまを、目撃しているんじゃないかと思った。

 舞台に立つ組子たちの熱量もすごいし。
 まっつにアクシデントがあった分、彼らの「まっつさんを支え、作品を共に作り上げる!!」という意識が、ベクトルが、より強くクリアになった感じ。
 それまでが足りていなかったということではなく、余分なモノが振り落とされ、研磨され、鏡面になった矢印が自然と光を乱反射している。

 青年館版が、えらいことになっている。
 いや、今、なっている途中。

 そこに立ち会っていることに、ぞくぞくする。


 とはいえ、やっぱどーしても残念な部分もあって。
 まっつの「声」を堪能できた、DCがなつかしいですのよ……。
 欲張りですなー。
 なにがあろうと、まっつには全幅の信頼を置いている。

 DC楽日前に喉を痛めてしまったけれど、その瞬間からすべて見ているし、どんだけ大変なことになっていたかも、すべて見ていたけれど、それでも、心配していなかった。
 まっつの心や身体の心配はしても、舞台クオリティに、心配はなかった。

 まっつなら、必要なレベルをクリアして、差し出してくる。
 半端なものは、見せない。

 そう信頼しているから、まっつのコンディションが不安でも、公演的には安心して東下りした。
 青年館公演、初日。

 なんの問題もなかった。

 まっつは美声だし、安定しているし。
 演出も変わり、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』はなおも進化していた。

 もちろんまっつは本調子ではない。
 でも、そんな予備知識のない人にはわからないレベルで、歌い、演技している。

 DCでは、声量のないまっつを支える意味でしかなかったカゲコーラスが、まともにコーラスとして機能していた。

 音楽として、機能しているの。ハモっているし、メロディを盛り上げる効果として使われている。
 その場しのぎのユニゾンではなく、演出として編曲されたカゲコは問題なく作品に溶け込んでいて、青年館から付け加えられたとは思えない感じ。
 最初から、あったみたいに。

 てゆーかこれ、いいよ。まっつの声が絶好調だとしても、あってよし。なお音楽に深みがますから。多層的になるから。

 手を加えられたことで、さらに音楽が良くなってる。
 ケガの功名とはいえ、大阪公演と東京公演で、こんだけ音楽効果が手直しされることってそうそうないだろうし、なんかお得な感じだぞ。


 そしてなんつってもBJ@まっつの演技がいい。
 怒鳴らない、っていいなあ。

 いろんなインタビューで、まっつはBJの人間らしさについて「怒鳴る」ことに触れていた。
 正塚的脚本で、最初から「怒鳴りまくる」ことが盛り込まれていたんだろう。

 でも実際、怒鳴る必要性は薄かった。
 まっつの声と話し方って、怒鳴る必要がないのね。怒鳴ったからといって、格段の効果はない。
 なにしろ声がいいもんで、怒鳴らなくても鋭い声を出せるんだもん。
 喉を痛めてから怒鳴らなくなったんだけど、なんの遜色なく感情の高ぶりを「怒鳴らずに」表現している。

 声を汚して怒鳴らなくても、美しい鋭い声で感情を表す方が、「BJ」というキャラクタには似合っている。
 マンガの怒り表現を、単純に「怒鳴り声」としか認識しなかった演出家の問題ぢゃね? 怒鳴らなくても、いいのに。

 大きな声を出すことで感情の起伏を表していた場面で、音量は低いけれど深く慎重な声を出す……単純に怒鳴るよりも、内に秘めたモノが大きく感じる。

 最初からこれでよかったのに。
 正塚がやたらめったら「怒鳴る」ことにこだわったばっかりに。

 でもこれ、まさしくケガの功名というか、まっつが喉を潰さないと、正塚せんせは気づいてくれなかったんだろうなあ。

 BJの怒鳴りは主にカイト@咲ちゃん絡みと、後半の空港あたりかな。
 カイトと最初に出会ったときは、怒鳴ってないけれどすげー鋭い声で、かえってぞくぞくする。
 次に、撃たれて助けを求めて来たときの、ヤクザ@真地くんたちに対峙するとき……が、もお、やためたったら色っぽい(笑)。
 ヤクザが怒鳴りまくってるからって、それに対し同じように怒鳴り返していたDC版のBJと違い、穏やかである分凄みが増しているというか。

 なんつっても、カイトに語りかける声が、めちゃくちゃやさしい。そしてエロい(笑)。

 芝居に関しては、ほんとこっちの方がいいよ。


 まっつの歌自体は、DCの通常版(A)とも、X-Day後のとりあえず版(B)とも、青年館版(C)は違っていた。

 オープニングの「かわらぬ思い」は、A完全ソロ、B・Cカゲコ付き。
 最初のピノコへの歌は、A完全ソロ、Bカゲコ付き・半分以上台詞朗読、Cカゲコ付き・ソロ。
 2回目のピノコへの歌は、Aソロ+カゲコ、B台詞朗読的ソロ+カゲコ、Cソロ+ラストだけ台詞+カゲコ。
 バイロンとの掛け合いソングは全バージョン歌ってた。喉つぶした当の回以外は。

 1幕のエンディングは、1・影たちのセンターにてBJのソロ→2・ピノコへの語りかけソロ→3・全キャストのセンターでのBJソロ~合唱、となっている。
 これが、Bでは、1・BJも歌っているけれどカゲコ大音量、2・カゲコ付き・半分以上台詞朗読、3・最初から合唱。
 Cでは、1・BJ歌まるっとカットでカゲコのみ、2・ソロ+カゲコ、3・最初から合唱。

 2幕の夕暮れの歌は、Aソロ、Bカゲコ付き・ほとんど台詞朗読、Cソロ+カゲコ
 夜明けの歌は、Aソロ+ラストはカゲコ入り、B半分以上台詞朗読+カゲコ、Cソロ+真ん中だけ台詞+カゲコ
 作中ラストの「かわらぬ思い」は全バージョン、ソロで歌ってた。根性。サビ以降コーラスなのは同じ。
 フィナーレの「かわらぬ思い」はAソロ→合唱、Bソロ+カゲコ→合唱、Cソロ+カゲコ→合唱。

 DCラストのB版ではほんと、歌ってなかったなあ。
 それが青年館C版ではどこまで復活するか、が注目点だった。

 大体復活していたのに、反対に1曲だけまるっとカットされていて、かえっておどろいた。
 ここ、カットなんだ! そんなに喉に負担のかかる箇所だと素人にはわからなくて、よりによってここ、ということに驚いた。

 あと、一旦台詞になって、このまま朗読で終わるのかと思いきや、歌に戻る、ってのは、かえってドラマティック。よりミュージカルっぽいというか。

 いろんなバージョンを観たなあ。
 まっつの試行錯誤、戦いが如実だった。


 ところで、青年館版の変更点で、わたしがいちばん感心したところ。

 2幕の空港にて、職員役の大樹くんの台詞。

 もともとは「怒鳴りちらしやがって」だったのよ!
 喉を潰して怒鳴れなくなったDCラストあたりは、ここ、台詞削れないのかとやきもきしたよ。怒鳴りちらしやがって、だけ削って、「なんなんだあいつ」から台詞言っちゃダメなの?!と。

 それが、青年館初日。

 「文句ばっか言いやがって」に、変更されてる!!

 すごいや正塚!!

 植爺だったら絶対そのままだ! 『ベルばら』でどんだけ整合性なくても台詞まんまつぎはぎしてるもん。
 なのになのに、正塚はちゃんと演出変えたら台詞も変えてる!!
 ……当たり前のことだけど、なにしろ劇団でいちばんえらい演出家が一切そんなことをしないので、そんな当たり前のことをするってだけでもハンカチ握りしめて震えるくらい、感動した。
 ……宝塚歌劇団って……。
 挽歌、という言葉で思い出すのは、ひとつのフレーズ。

 倭建(ヤマトタケル)に、挽歌を。

 氷室冴子作『ヤマトタケル』の、最後の1行。

やすみしし、倭の大王よ。
高光る、日の御子よ。
わたしの大王よ。
あなたに、いや栄かの誉れを。
すべての功を。
すべての恵みを。
すべての幸を。
倭建に、挽歌を。


 無教養なガキだったので、「ヤマトタケル」というとゆうきまさみぐらいしか知らなくて(所詮アウシタン)、大した知識もなく読みはじめ、ちょっとびっくりするくらい大泣きしたもんだ。

 あー、氷室冴子の『ヤマトタケル』、雪組でやってくんないかなー。ちぎくんとか、ヤマトタケルOKぢゃね? や、単に大王@まっつを見たいだけだが(笑)。ちぎまつでなら、オスアンよりよっぽど見たいわ……。
 間違った父親役のまっつ、って、ハマりすぎる……。


 それゆえ、わたしにとって「挽歌」ってのは、相当重い単語だった。
 胸が引き裂かれるような悲しさや切なさをもって、「挽歌」が在る。

 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』というタイトルが発表になったとき、まず脳裏に浮かぶのは「ヤマトタケルに、挽歌を。」ですよ。
 死者を悼む歌、だから、誰か死ぬんだなと。

 BJは天才外科医、誰をも救ってしまう腕を持つけれど、それでもなお、誰か罪びとが死ぬんだなと。
 神の手を持つ男がいてなお、死せる者がいる。そして、死者を悼む歌。

 ……なんかすごく、切ない、痛いモノを想像するぢゃないですか。心がひりひりするよーな、ハードなものが差し出されるかと思うじゃないですか。

 まさかなー。
 ハートウォーミングなホームコメディだと、誰が思うんだよ(笑)。

 BJ@まっつ自身が、毎回カーテンコールで言ってます、「『BJ』を観て、あったまってください」……心がほっとあったかくなる物語だからって。

 いやいやいや、「挽歌」だから! 「許されざる者」だから!!(笑)


 初日を観たとき「これってどうよ」と言っていたまっつメイトが、翌日には「回数増やす。楽しい」と言っていた。
 あらすじ紹介の出来ない、困った物語だから、初見ではとまどう。
 でも、それをわかった上で観ると、まったく違ってくる。

「よーするに、ふつーの人の話ですね」

 うん、そう。
 ふつーの人の、ふつーの話。

 ツートンカラーのつぎはぎ男で神の手を持つ天才外科医だったり、不死身の化け物だったり、こぶの中から生まれてアッチョンブリケだったり、負け犬で銃振り回してたりするけど。
 ふつーでない人たちばっか出てくるけど。

 そのふつーでない人たち……この世界で、存在を許されていない人たちが、わたしたちとなんら変わることなく、ふつーに生きている、生きていこうとしている、物語。

 なんのために生きるのか。
 どこへ行けばいいのか。
 すべての人々が抱いている、普遍的な問い。

 千年生きるバケモノだろーと神の手だろーと負け犬不良少年だろうと、ヅカヲタのこあらだろうと、なんら変わりはしない。

 「普通じゃない」と、台詞でくり返される。
 バイロン侯爵@ともみんもそうだし、ピノコ@ももちゃんもそうだ。

 それに対して、BJが答えにたどり着く。

「悪いことじゃないよ」

 わたしがあなたとちがうこと、それぞれがみんな、なにかしら別の存在であること。
 それは、悪いことじゃない。
 ……いいことばっかじゃない、それによっても傷つきもする。
 だけど、悪いことじゃない。それだけは、チガウ。

 だから怯えないで。
 今、ひとりぼっちでふるえている、すべての命よ。
 あなたがあなたとして生まれてきたのは、悪いことじゃない。
 わたしがわたしとして生まれてきたのは、傷つきながら泣きながら、それでも生きているのは、悪いことじゃない。

 許されているよ。

 それだけは、たしか。


 観劇していちばんキたのは、初日翌日の昼公演、つまり2回目のときだった。
 1幕序盤から泣きすぎて、消耗しまくった。
 いろんなもの絞り出しすぎて、ふらふらになったわ……。


 名作かどうかはわかんない。
 問題点というか、「ここをなんとかしてくれたら、だいぶ変わるのに」がてんこ盛り。
 それでも、なんかいちいち「響く」。わたしには。


 サブタイトルの意味は、よくわかんない。
 「許されざる者」って誰よ。「挽歌」ってなによ。

 「許されざる者」は、いろいろと想像することは出来る。
 メインの人たちはみんな、「存在を許されなかった」人たちだし。
 そしてそれは、もっと広い意味で、すべての人たちにもあてはまるし。

 ただなあ、なにしろ「挽歌」だしなあ。

 初日翌日の昼公演、これ以上なく大泣きしながら、消耗しまくりながら、うわあああん、大好きだーー!!と思いながら。

 考えていたのはさー。

 この話ってさー、「挽歌」だから引っかかるんだよなー。
 いちばん、誰もがすんなり納得できるサブタイトルってさー。

 「許されざる者への応援歌」なんぢゃないのー?

 ってことだったり、した(笑)。

 笑いあり涙あり、心があったまるホームドラマなわけだしさー。
 応援歌だよねえ、挽歌じゃなく。


 しかし。

 『ブラック・ジャック 許されざる者への応援歌』だと、ポスターのBJ先生もあんなにハードでクールな美形様としてキメキメではなくなるだろうし。

 「挽歌」というカッコイイ単語のおかげで、なんか、なんとなーくカッコイイ作品っぽく見えるので、いいか。

 そして、「許されざる者」というのが発音しにくい音の連なりで、カテコの挨拶でまっつ先生が盛大に噛みまくるので、なお素敵!(笑)

 まつださん、カミカミになるとテヘペロするんですよ……舌出すの……ナニあのかわいすぎるイキモノ!!
 ナニよ、ちょっとかわいいと思って! かわいいけど!!(笑)
 BJ@まっつが、カイト@咲ちゃんを嫌いなのは、よくわかる。

 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』第1幕にて、BJはカイトに対してブチ切れる。

 足が不自由なカイトは、自分のすべての不幸をそのせいにしていた。安上がりな自己憐憫と自己正当化、責任転嫁。さいてーだ。

 カイトが幼稚で卑劣で、クズなのはかまわない。そんなの、カイトの勝手だ。勝手に不幸でいればいいし、もっと不幸になればいい。
 BJは最初、カイトを嘲笑っている。「金がないと殺されるかも」と言うカイトに、「知ったことか。どうせ博打でつくった借金だろう」と。

 BJがキレるのは、そこにピノコ@ももちゃんがいるから。

 ほんのついさっき、ピノコはBJを助けるためにカイトを超能力で攻撃した。
 つまりピノコは起きているし、BJとカイトの会話を聞いている。

 「足が不自由だから幸せになれない」という泣き言も、「(身体が不自由なら)死んだ方がマシだ」「どうせまともに生きられない」という決めつけも、全部全部、ピノコは聞いている。

 BJを守るために超能力を使ったピノコが、沈黙している。カイトを攻撃することもなく。
 彼女はどんな想いで、カイトの言葉を聞いたのか。

 カイトに金を渡して追い払ったあと、BJは再度ピノコに語りかける。
 ついさっきも同じよーなことを言って、同じよーな流れで歌い出したよね。
 でも、この2曲のピノコへの歌は、意味合いがぜんぜん違うんだ。

 1回目のときはやさしく希望に満ちた歌だったのに、2回目はかなしい苦痛を含んだ歌になっている。

 生まれてくるべきではなかった。
 求められていない、居場所がない、しあわせになれない。

 カイトの決めつけはピノコに対してであり、自分自身に対してでもある。
 そして。
 ピノコと自分を重ねている、BJのことでもある。

 存在を許されない彼ら。
 誰にも理解されず、孤独の底にいる彼ら。

 だからBJは、ピノコを助けなければならない。彼自身が、生きるために。


 そこまでカイトを嫌っていたのに、次にカイトと会うとき、BJは態度を一変させている。

 ヤクザ同士の抗争で、傷ついたカイトはエリ@あゆみちゃんに支えられてBJの家までやって来た。

 ケガ人だから助ける。だって、医者だから。
 ……という範囲を、超えた態度なんだ、BJ。

 カイトを追ってきたヤクザ@真地くんたちの銃口に身をさらし、カイトを守る盾となる。

 それはカイトが、生きたいと切望して、ここまでやって来たからだ。

 最初に会ったとき、自暴自棄だった強盗が。
 「自分が殺されるかもしれない」からと強盗を思いつくような幼稚で自分勝手な青年。うまくいかないと、駄々をこねるだけ。
 あのままのカイトだったら、BJのところまで来ずに、そうそうにあきらめていただろう。自分の不幸を呪って、他人を恨んで。自分では、なにもせずに。

 それが、恋人らしい女の子と一緒に、BJを頼ってきた。
 BJの家って、町中ではなく、崖の上にあるんでしたっけね。ただ医者にかかりたいだけなら、そんなところまで来るはずがない。

 カイトは、おぼえていたんだろう。自分にやさしくしてくれた、ぶっきらぼうな医者のことを。
 叱り飛ばし、金をくれた。自分と同じ「生まれてくるべきではなかった」子を、助けようと必死になっている変わり者。

 カイトの気持ちがわかるから、BJにスイッチ入った。
 「いやしくも私は、自分の患者を見殺しにしたことは一度もないんだ」「この男は絶対に渡さん」……ピノコに語りかけていた、あの言葉だよ?
 見捨てたりしない、助けてやる……。

 “お前は今 怯えながらも ひたすら生きようとしている"……。

 カイトを抱きしめるBJが、やさしすぎてびびる(笑)。

 BJせんせ、落ち着いて。それ、ピノコちゃうから! せんせよりはるかにでかい(縦にも横にも)男の子だから!! せんせにそんなことされたら、誤解しちゃうから! いろいろとやばいから!!
 と、心配しちゃうくらい、この瞬間カイトへの心の向き方が一途で無防備で、こわいです、BJ先生。

 おかげでカイトくん、すっかり誤解しちゃってるしねー。
 BJに治療費のことを言われるまで、なんか思い込んでたみたいよ?
 「あんたやっぱり、金だけの人なのかな」「なんだと思ってたんだ」……ほんとに、なんだと思ってたんだ(笑)。

 命懸けで銃口の盾になってくれた人ですよ?
 生きるか死ぬかのときに、抱きしめてくれた人ですよ?
 耳元で、やさしい声(しかもあの美声、かつ無意味にセクシーヴォイス!)でささやいてくれた人ですよ?!

 そりゃオチるわ……吊り橋効果ありすぎるだろ……。

 一生かかって、BJに治療費を払う……つーか、関わり続けるんだろーなー。
 つか「一生」って、それプロポーズ……ゲフンゲフン。

 エリは出来た子だから、カイトがどんだけBJせんせ大好きで、なにかっちゃーせんせのことをうっとり話しても、それごと全部受け止めてくれるんだろうなー。


 いやその、腐った意味は置いておいても、カイトの物語はピノコやBJ自身とリンクした、ドラマティックな物語だと思うんですよ。たかが日本のヤクザの抗争で、規模は小さいけど、心のドラマとして。
 バイロン@ともみんの話は1幕ラストで完結してるよーなもんだし(相愛の恋人同士の痴話喧嘩以上の事象を描いてないからなー)、ストーリーのあるカイトの方をじっくり描いて欲しかった。
 ともみんとせしこのいちゃいちゃは大好物なので、毎度がっつり堪能しましたし、熱血侯爵様がツボ過ぎるので楽しかったけれど、それとは別に、「作品」として、カイトとバイロンの物語の尺の取り方が間違っているだろうと。
 ……まあいろいろ事情があったのかなと思う。


 カイトを襲ったヤクザたちは、「このままで済むと思うなよ」と捨て台詞を残しているけれど、それはBJの「私の患者は、お前らの世界の人間も大勢いるんだよ」が関係して、問題なしになったんだろーなーと思う。
 BJ先生が一言、裏社会のボスに脅しをかければ、それで解決。「あのBJ先生になんてことを……!」てなもんで。
 や、なんかすでにホロボロンテさん@『エロイカより愛をこめて』的な展開しかアタマに浮かばない……暗黒街のボスがBJせんせの大ファンなんだよね……それで誰もBJに手を出せないのよね……(笑)。


 生まれてきたことを恨んでいたら、誕生日なんか祝えない。
 カイトはBJによって生まれ直した。それは、人間のこぶの中から生まれ直したピノコと同じように。

「誕生日おめでとう」
 カイトの言葉は、自分自身に向けたものでもある。

 居場所のなかった負け犬は、この「世界」を受け入れ、歩きはじめた。
 それはそうと、カイト@咲ちゃん。

 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』での、彼への印象はなんといっても、うまくなったねええ!!だ。

 や、だって、最初が『ロジェ』だったんだよ? ナニあのへたっぴ!! って、声を出すたび悪目立ち。黙っていても、まるまると健康的に太ったオンナノコが男装してしてる、ナニよあれ?? って、悪目立ちしていたのよ? 今だから言えるけど!(笑)
 で、次が『はじめて愛した』よ? ナニあのへたっぴ!! って、声を出すたび悪目立ち。黙っていても、まるまると健康的に太ったオンナノコが……以下略。今だから言えるけど!(笑)

 今も、めっちゃうまいわけでもないし、オンナノコまんまのお尻やぱんぱんの太股を見ると、どーしたもんかと天を仰いじゃうけど。

 それでも、うまくなった。
 姿も、よくなった。

 『マリポーサの花』新人公演で、その卓越した歌唱力に劇場内が震撼した……のに、そっから歌は劣化する一方、今では歌が得意でない若手に分類されているよーな気もするが。
 歌以外は、うまくなった。


 『はじめて愛した』だって、ぱつんぱつんな上にへたっぴだったけど、それでもなんか、味があるというか、無視できない芝居ではあった。
 正塚作品で抜擢され続け、かなり鍛えられたというか、正塚色に染められているんだろうなあ。
 それが今回、見事に花開いた感じ。

 ええ、カイト、好きです。

 説明台詞のない、短いやりとりだけで進む正塚芝居が心地いい。
 わたし、なにがどーしてどーなった、の説明台詞はリピート観劇しているとあきちゃうみたい。最初の1回2回はいいんだけど。
 正塚節の方がそこから広がるものがあるから、リピートしても新鮮でいられる。

 カイトは物語自体もあまり尺を取って語られていないので、その分想像力が働く。

 まず1幕のカイトの、どーしよーもないダメンズぶりに、泣けた。

 天涯孤独で足が不自由。
 「BJになめられてる」と思ったときに、「足が不自由だからだ」と思うくらいに、今までさんざん足のことを蔑まれてきたんだろう。

 たしかにそれは可哀想。それは不幸なことだろう。

 だけどそれは、カイトの不幸の本質じゃない。
 BJ@まっつが言う通り、「もっと不自由な身体でも、幸せに暮らしている人間はいくらでもいる」。

 カイトの不幸は、足が不自由だってことに、逃避していること。

 思い通りにならないすべてのことは、足が不自由なせい、オレが悪いわけじゃない。
 いつも、すべて、なにもかも、オレは悪くない。オレはナニも悪くないのに、いつも不幸なオレ、なんて可哀想。

 そういう考え方自体、ちょームカつく。
 だからBJも激怒する。

 それはそうなんだけど、わたし、カイトのこのどーしよーもないダメダメぶりに、けっこう感情移入しちゃうのな。

 どっから見てもカイトは完璧に間違ってる。観客全員に「こいつ、間違ってる!」と思わせることを目的にして、作者はこの幼稚で卑劣な言動を書いていると思う。
 間違っていることは疑いようもないけれど、わたしはその、「そこまで追い詰められてしまった弱さ」に、感情移入する。

 誰だって、好きで歪むわけじゃない。歪まずにいられなかったカイトの孤独を想像すると、泣ける。

 「オレは悪くない。悪いのはオレ以外のすべてだ」って思わないと、生きてこられなかったんだね。
 自分を守るために、他人を恨んだり傷つけたりするしか、なかったんだね。

 BJにお金を渡されたとき、たぶんカイトは「ありがとう」って言おうとしたんだと思う。素直に。反射的に。
 うれしかったんだと思う。
 自分よりも不幸な人間を、助けようと必死になっているBJ。どんな人間も幸せになれるかもしれない、そう言うBJ。
 そんなBJに、お金を渡されて。
 ……でもBJがひどい態度で追い払おうとするから、カイトはお礼を言いそびれた。悪態をつくことになった。

 バカだけど、芯から腐っているわけじゃない。
 そう思わせる、単純さ。


 大金を得たことで気が大きくなって、仲間たちに奢ったり、気になっていた女の子エリ@あゆみちゃんを口説いてみたり。
 ほんとにバカ。

 エリはもともと、カイトのことをけっこう好きだった。
 だから姿を見ない間は心配していたし、店に現れたときは自分から声を掛けている。
 「お前も他の女と同じだ。オレなんか相手に出来ないっていうんだろ」と言うカイトに、一瞬キレかける。

 エリはちゃんと、足が不自由で借金だらけのカイトのこと、好きだったんだろうにね。そのまんまのカイトを受け止めていたんだろうにね。
 そういうつきあいをしてきたつもりだったろうにね。

 なのに、「足が不自由だから、相手に出来ないって言うんだろ」とか言われたら、キレるわ。バカにすんな!って思うわ。


 そのままヤクザ@レオくん、おーじくんの前で見栄張って、組に入ることになって。

 カイトのソロが、泣かせるのだわ。

 「♪どうせ負け犬。吠えることでしか守るすべはなく」「♪世間見返してやれるなら、この命さえ、今さら惜しんでみてもはじまらねえ」

 彼の人生が、まんま見える。
 バカにされるくらいなら死んだ方がマシだ……そう吠えるのは、いつも蔑まれてきた、と思っているから。

 ヤクザになりたいわけじゃない。そこまで落ちたいわけじゃない。
 だけど、居場所がない。
 この世界に、求められていない。

 世界が自分を拒むなら、世界を傷つけて、自分がここにいることを示すしかない。
 最初に拒んだのは、世界の方。
 だからオレは悪くない。


 自暴自棄になって、鉄砲玉を引き受けて。

 ヤクザ@レオくん(役名は白田)はたぶん、最初からカイトを利用するつもりだったんだと思う。
 舎弟にするつもりなんかなく、鉄砲玉として使い捨てる予定。
 組に入るためとかなんとか理由を付けて、敵対する組のボスを殺すように言いつけた。

 見栄張りカイトは拒めない。殺しぐらいなんでもねえ、と銃を受け取り、敵対ヤクザのボスを襲い……失敗した。
 敵には追われるし、組には戻れない。

 どこにも行き場がなくて。

 たぶん、エリのところに行ったんだろうなあ。

 このままだと、殺される。
 死ぬ前にもう一度、会いたい人って……カイトの貧しい半生には、エリぐらいしかいなかったんだろう。

 で、エリと一緒のときか、彼女に会う直前に撃たれて。
 エリは出来た子だから、見なかった振りも警察に通報することもせず、カイトに肩を貸して、一緒に逃げて。

 カイトは「いつ死んでもいい」と口では言っていたけれど……ほんとうに、最後の最後、死ぬかもしれない、と思ったときに。

 死にたくない、と思ったんだろう。

 敵対ヤクザ@真地くんたちに追われながら、自分を見捨てないエリの声を聞きながら、ぬくもりを感じながら。
 「オレの人生なんか、どうせこんなもん」とあきらめていたけれど。いや、あきらめた振りを、していたけれど。

 死にたくない。
 生きたい。

 だから。

 彼は、BJのところへ行った。
 まあぶっちゃけ、わたしはまっつファンなので、まっつが舞台にいるだけでうれしい。
 なにがどうあれ、まっつが主演で、まっつがいっぱい見られる。
 それだけで、たのしい。


 ということは、置いておいて。
 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品の「作り方」を改めて考えた。

 まっつが喉を痛め、自在に歌うことが出来なくなったことにより、作品がどうにも、違って見えて。

 この作品は、BJ@まっつを幹に、バイロン侯爵@ともみん、カイト@咲ちゃんのエピソードが、枝葉として広がっている。
 バイロンとカイトの物語はそれぞれどんな描き方であろうと、起承転結する。
 しかし、根幹であるBJの物語は、わかりやすい起承転結をしない。

 ピノコ@ももちゃんは1幕終わりに無事誕生したし、あとはほのぼのホームドラマを繰り広げているだけ。
 よーやくなんか展開がありそうだ、と期待する「指が動かなくなる」話は途中で放置。

 じゃあBJ先生の物語はどうなってんの?

 や、彼の物語もちゃんと起承転結してるんだよ。わかりにくいし、とっても地味だけど。
 指の件は解決まで書くべきだと思うけど、作者的にはわざと書いてないらしいしな。
 その「明確な答えを提示しない」部分も含め、ちゃんと完結している。

 BJの物語は、「なにがどうなって、だからどう思って、どうなりました」と口で説明するようなことじゃない。
 感じろ。それでわからなかったら、わからないままでいろ。
 そーゆーことだと思う。

 そんな不親切な表現をされているんだ、よりによって主役が(笑)。
 正塚ェ、と思うけど、それが正塚ワールド、彼の美学。
 正塚の美意識全部まるっと任された、まっつってばどんだけ信頼されてんだ、とにらにらする(笑)。

 それはともかく、表現方法。
 今回の正塚ワールドは、「まっつの歌声」に因るところが大きい。

 台詞で長々説明する気はない。そんなかっこ悪い(と、ハリーが思っている)ことはしない。
 歌で、制限された歌詞だけで、あとは観客の感性に託す。
 だから2幕のBJは、大きな事件も出来事もないまま、ただやたらと歌う。観念的な歌を。

 何故そこでその歌なのか。
 説明はされない。

 歌詞だけ抜き出したところで、それがすべてではない。
 作品すべてを味わい尽くし、感じ続けた上で、ここでBJが歌う歌を聴いて、それゆえに伝わるモノを受け止める。

 BJの歌には、総合的な「BJの物語」が表現されている。

 だから。

 まっつが歌わない、ただ歌詞を朗読するだけになると……『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品自体が、揺らぐ。

 ちょっと、呆然とした。
 こういうことになるのか、と。


 まっつは歌えない分、ものすごい勢いで表現していた。発光していた。
 あの地味とか小さいとか低温とか言われているまっつが、高速回転して燃え上がり、スパークしまくっていた。
 未涼氏、渾身の演技。
 正直、ここまで「前へ」出る芝居をするまっつを、見ることがあるなんて、思ったことがなかった。
 「歌」という武器を封じられたまっつは、それ以外のところでカバーしようと、すごいことになっていた。
 いいもんを観た。すごいものを観た。そう思う。

 ……思う、けど、それとは別問題。


 ハリー新作『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』は、BJの「歌」で完成する作りになっているんだ。
 だから、まっつの「歌」は必要不可欠な、作品を構成する主要部品なんだ。

 それは、どんだけまっつがまっつの域を超えた熱演をしていたとしても、届かないんだ。
 だって、そういう作りじゃないんだもの。
 もしも歌ナシの語りだけで完成するモノなら、それ用の「台詞」を書いていただろう。
 いくら歌詞を朗読しても、それはただの「歌詞」、音楽と共に在ってはじめて完成するものだ。

 歌詞の朗読だけで「歌」を超えられるなら、この世にミュージカルは不要ってことになってしまう。歌う必要ナイじゃん。
 ただ語るだけでなく、メロディを得ることによって、言葉を超えた感動を創り出すもんでしょう? だからミュージカルが存在するわけでしょう?


 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』には、まっつの歌が必要だった。
 正塚せんせはほんと、まっつの歌声好きなんだろうな。改めて、そう思ったよ。
 歌わないと成立しない構成になっているんだもの。
 他の表現方法はいくらでもあるのに、作品の根幹表現を、あえて歌にした。それは、クリエイターとして、いちばんのテーマ部分をまっつの歌声で表現して欲しいと思ったから、でしょう?
 まっつならできる、と思ったからでしょう?


 それが奪われてしまった。失われてしまった。

 DC公演の最後2日は、もちろんまっつのことや、組子や、興行自体のことも心配だったけれど。
 それとはまったく別のチャンネルで、嘆いていた。

 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品を、完全な形で味わえない。

 わたし、この作品好きなのね。
 めちゃくちゃ好きかー?! 名作かー?! って言われると「うーん……」となってしまうけれど、控えめに、「わたしは、好き」と言う感じ。
 たとえば『フットルース』は「全世界に告げよう、すばらしい作品だと! タカラヅカの財産となる公演だと!!」と宣言できるんだけど。
 『BJ』は正直、そこまでは思わない。

 『フットルース』みたいに全方向性のあるエンタメではなく、マニアックな楽しみのある作品だと思う。
 ツボる人間にはとことんツボる、そうでない人には眠いだけ、というような。
 それは、キャストへの思い入れでも左右されるレベルだと思うし。

 及第点は十分あるから、今の駄作だらけのタカラヅカにて、「いい作品だよ」とは言える。
 でも、名作かと言われると「わたしにとっては名作」と答える、そのあたりの位置にある作品。

 誰にも太鼓判の名作ではないにしろ、わたしは好き。
 そして、「好き」な理由はやはり、作品の根幹部分であり、切なくもすがすがしい涙を流せることにある。
 そこを託されているまっつの歌が、ダメだとなると。
 作品自体、びみょーになる……。

 作品を好きだから、残念だ。

 DC公演ラスト2日、わたしは『BJ』という作品を味わい尽くす気でいたんだ。
 そりゃ青年館はある。あるけど、地元公演とはまた別だしさ。
 自分のホームで、思い存分耽溺する予定だったんだよ。

 それが、損なわれた。

 まっつが心配、ということを除いても、「まだあと何回観られるんだ」と楽しみにしていた公演が、なくなってしまった、わたしが愛したカタチ、完全な姿では観られなくなったんだ、ということが、残念でならなかった。

 初見の人には「そういうもん」と思わせるくらいのクオリティに仕上げてきていたから、対外的には問題なしなのかもしれない。
 ただわたしは、やっぱり元のカタチが好きだったなあ。

 青年館でもやっぱり、歌はないんだろうなあ。そう簡単に回復しそうにないもんなあ。
 となると、わたしはもう二度と、あの感動は味わえないってこと?
 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』の完成形は存在しないってこと?
 うわ、それはやっぱ、どうあがいても、残念すぎるよ。

 とまあ、勝手にしょんぼりしてました。


 まあぶっちゃけ、わたしはまっつファンなので、まっつが舞台にいるだけでうれしい。
 なにがどうあれ、まっつが主演で、まっつがいっぱい見られる。
 それだけで、たのしい。

 だから「どんな形の上演でも、ぜんぜんOK」って部分と、「でも、残念だ」って部分が、同時に存在していた。
 ……ファン失格っすかね。自分の「欲」も消えずにあるんだわ。どんなときも。
 いろいろと、しょぼん。
 こわい、と、すごい、は同じかもしれない。
 12時公演で喉を痛めたまっつは、その日の16時公演で、ずいぶん回復していた。
 台詞声はほぼ問題なし。そりゃあファンにはわかるし、「喉やっちゃったらしいよ」と予備知識のある人にはわかると思うけど、初見の人には気にならないレベルだろう。
 12時公演であれだけの状態だったのに、たった1時間ちょっとでここまで持ち直してくる、って、どんだけ強引な手当をしたんだろう。その後の身体への影響よりも、今この瞬間を考えての治療をしたんだろうなと思った。

 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』は、ドラマシティ千秋楽前日に急転した。
 16時公演では、まっつソロにはユニゾンのカゲコーラスが付けられていた。声量がない分の底上げ。
 語りかけ系の歌は歌詞の朗読に。
 それでも「かわらぬ思い」だけは絶対に歌っていた。
 すごい気迫だった。

 16時公演は初見の人と一緒だったんだけど、「まっつの調子が悪いことはわかるけれど、だからどうと思うほどではない、すごくいい公演だ、楽しい!」と言っていた。
 初見の人が楽しめるくらいに、舞台として成立していたらしい。どこが歌で、それが台詞になっているとか、初見の人にはわかんないもんな。


 翌日の17日、千秋楽はさらに舞台もまっつの調子も落ち着いていた。
 台詞声なら問題なし。
 怒鳴り芝居だった部分は変更。怒鳴るのではなく、鋭く太い言い方に変わっている。
 あとは歌だけ。

 オープニングの主題歌はカゲコ付きでソロ、ピノコへの最初の歌は歌詞朗読、2曲目はラストだけ台詞に変更、バイロンとの掛け合いはそのまま。1幕ラストは最初のソロにカゲコ(大きめ)付き、ピノコへの歌はカゲコ付きで少し歌い、半分は朗読、最後のソロは合唱になっていた。
 2幕の2曲は最初だけ歌ってほとんど朗読(カゲコ有り)、芝居ラストの「かわらぬ思い」だけそのまま、フィナーレの方はカゲコ付き。

 歌部分で、全力のフォローが付いていた。
 また、歌詞の朗読にしても、表現として突破口を見つけた様子で、「最初からここは台詞ですがなにか?」的な突き抜け感があった。

 芝居だけで言うならば、わたしの耳にするすべての人が「今の方がいい」と言っているように、アクシデント後の方がいい。
 BJが怒鳴り散らす必要を感じていなかったんだ。怒鳴らないで怒りや苛立ちを表現する今の方がずーーっといい。

 唯一物足りないと思うのは、飛行機に乗れずに自宅へ戻ってきたとき、不審な紙袋を不用意に手に取るピノコへ制止の声かな。あそこは怒鳴る方がピノコのリアクションも含め、説得力がある。
 怒鳴った方が「らしい」ところで、怒鳴る代わりの声がやたらと「美声」でツボった。鋭い通る声を出すもんだから、無意味に美声(笑)。


 なんとか、ドラマシティ公演は乗り切った。
 しかし、中4日空けただけの青年館公演がどうなるかは、わからない。

 不安を抱きつつも、無事に幕が下りたことに安堵する。
 ただの安堵じゃない。
 声が出なくなった回を観ている者としては、「よくぞここまで……!」という感動がある。


 苦節15年、ようやく掴んだはじめての芝居での主演。はじめての東上。
 あこがれたヤンさんの代表作、代表歌を、大好きな演出家の書き下ろしで演じる。タイトルロール、ヒロインも正2番手もいない(プログラムの写真掲載を基準とする)、まさに比重半端ナイ興行構成。
 それでも堂々と主演を務め、好評価を得ていたときに。

 自らのアクシデントでつまずく、って。

 どんだけくやしいだろうと思う。
 舞台人として、あってはならないこと。己れの不調で興行に水を差すなんて。
 神ならぬ身だからアクシデントは起こりうる。それはわかった上で、やはり、あってはならないこと。

 申し訳ないと思っていても、それを口に出すことは許されない。出演者は、観客に謝ってはならない。その方がはるかに失礼だ。
 持てる限りの力を振り絞った。今できることのすべて、最上のものを見せた。それがライブ。たくさんの素材から編集し、「最高」にした映画ではないところ。
 アクシデントごと生の舞台というものだと認識しているが、それにしたって、もっともつらいのはまっつ本人だろうと思う。

 こんな千秋楽を迎えるとは、思ってなかった。

 まっつの実力には安定と信頼しか抱いていないので、心配なのは作品が駄作かどうか、好みかどうか、だけだったもん。
 『ロミオとジュリエット』で喉の調子が悪かったとは言え、ファルセットが出なかったのは数日、あとは調子が悪かろうがどうしようが、技術で歌いきっていた。
 歌いまくり踊りまくりの初主演『インフィニティ』も問題なし。
 熱があったという『フットルース』初日も、原作者に大絶賛される出来映え。
 人間なんだから体調の上下はあるだろうが、まっつはそれに左右されない実力があった。多少の不調は、技術でカバーできた。観客にわからないレベルを保てる人だった。

 そんな人が、技術でねじ伏せられないほどの不調になるなんて。

 そこから、わずかの間に立て直した。
 初見の人には「最初からこうですよ」と言えるほどに。

 どんだけの精神力。
 努力と覚悟。

 まっつだけでなく、共演の雪っこたちも、よく演じきった。
 すごいな。
 ほんとうに、すごいと思う。

 舞台がナマモノであるこわさ。
 そして、舞台がナマモノである、すごさ。

 人間の力の、すごさ。

 舞台が総合芸術であり、人智の結集だっての、わかるわ……。
 あらゆるものが、そこにある。詰まっている。

 ただもお、固唾を呑んで、見守るばかり。


 しかし千秋楽の日は、前日と違って、まっつはカテコでちゃんと通常通り喋っていた。
 16日はいつもの「挨拶にプラスしてもうひとこと」が一切なかった。
 感謝の言葉と、この公演を「やり遂げること」のみを口にしていた。

 それが、楽の日は元通り、「プラスしてもうひとこと」を言っていたし、千秋楽のカテコではよく喋り、最後の緞帳前で「みなさんも流行らせてください、『バイバイロン』」としれっと言って引っ込むという、「まっつ!!」な姿を見せてくれた。

 なんというか。

 強い、人だ。
 2月16日土曜日、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』12時公演。

 わたしははじめて、「舞台がこわい」と思った。

 The show must go on. 舞台は止まらない。
 そのことを、こわいと思った。

 この公演で、BJ@まっつは喉を痛めた。
 体調管理云々よりも、「事故に遭った」的な印象。
 いつもと同じ素晴らしい歌声を響かせ、心のこもった熱演をしていた。それが、カイト@咲ちゃんに怒鳴りまくる場面で、なにか、引っかかった。
 精密に回り続ける歯車の間に、なにかしら異物が挟まった。きれいに詰まったニットの編み目に、なにか引っかかった。

 ぷつん、と、ナニか切れる感じ。

 規則正しい波形に、一瞬乱れが生じ、そこから、変わっていった。
 もとの波形にならない。届かない。

 まっつの声は一瞬の詰まり、引っかかりのあと、濁った。

 透明な板に泥水が跳ね、見る見るうちにグレーに染まっていくように。
 まっつの声はクリアさを失い、濁り、しわがれた。

 それでも車輪は回っていた。
 本体から離れたあともしばらくは転がるタイヤみたいに。
 濁った声で芝居を続けた。

 声のコントロールが、できない。
 まっつの意図したところに声が届かない。
 上がるべきところで上がらないため、台詞が棒読み調になる。

 喋る範囲の音程でも、出ない部分があったのだから、歌になるとどうしようもない。
 カイトが退場したあとのピノコを想う歌が、ひどいことになった。
 声が変質し、ひび割れている上に、音が足りない。ある音程から上は「音」が消える。伸ばすこともできないので、出る音程だとしても途中で消える。

 そんな状態なのに、芝居は続く。
 ただごとじゃない、のは明白だった。それでも舞台は止まらない。

 まっつはそのまま芝居を続ける。
 両翼をもがれたまま、それでも飛ぼうとする。

 揺るがずに。


 不思議な気がした。
 明らかな異変。トラブル。
 これがわたしの知る「日常」でなら、すべてがストップして大騒ぎになるレベル。
 なのに、舞台ではなにも変わらない。そんなトラブルなど存在しないかのように、いつも通りに芝居が進んでいく。


 それが、舞台なんだ。
 人の手で作り上げた別世界。異次元。
 別の世界として「存在している」のだから、こちら側でナニが起こっていたとしても、あちらの世界ではそれに影響を受けてはならないんだ。

 世界創造。

 舞台に立つというのは、そういうことなんだ。


 だけどわたしはこちら側から、無責任に舞台というもうひとつの世界を眺めている人間で。
 こちら側の常識やら感覚やらを引きずったままなので。

 こわかった。

 舞台が、止まらないことが。
 別世界が別世界として存在し、回り続けていることが。

 まっつが舞台から袖に引っ込むたびに、祈るキモチだった。
 誰か、なんとかして。正塚先生はどこにいるの? 演出を変えるなり、SEでフォローするなり、なにかして。医者を呼ぶなりなにか手当をするなり、なにかして。

 だけど、なんのフォローもないまま、まっつはまた舞台に出てくる。
 演出の変化なし。まったくのいつも通り。

 まっつは芝居をする。技術を駆使する。
 台詞声すら、通常ではないんだ。
 出ない音は使わずに喋る。感情は音程ではなく、抑揚や起伏で表現する。

 その集中力。
 舞台の上で、今の自分の傷の範囲を確かめながら、残った武器でだけ戦う。なにが出来るのか判断し、そこから最良を叩き出す。

 がむしゃらに暴走しない。がんばっているんだ、というアピールはない。
 ただ黙々と前へ進む。
 青い炎は、赤い炎より高温である。
 出ない音をがんばってひり出すのではなく、出る音だけでプロの仕事をしようと努める。

 どの音が出るのかわからないので、いったん声を出そうとし、出ない、とわかるとすぱっと切り替える。
 その判断力。


 細かい積み木が、緻密に積み上げられていく様を、見るかのようだった。

 そこにあるべきはずの積み木がない、欠けた分を他の積み木でどう埋めるか。空いたままの箇所はそのままで、どう上に積み木を組めばいいか。
 一歩まちがえれば、全部崩れ落ちる。
 雑に置いても、崩れ落ちる。
 1mm、2mm、わずかな位置を探って、積み木を置く。
 丁寧に、計算に計算を重ね。


 歌おうとし、音が出ない、出たとしても聞き苦しいものでしかないと判断すると、途中からでも台詞に変更する。
 伴奏を聴きながら、タイミングを合わせ、歌詞を台詞として発する。
 音楽の力を借りられない分、顔やカラダの演技で、出る範囲の台詞の音程、抑揚で、補う。表現する。

 それは、壮絶な姿だった。


 わたしは、こわかった。
 わたしなら、逃げ出したいくらいだ。
 声がろくに出ない、歌えないことがわかっているのに、「歌う」ためにひとり舞台に出る、って。
 しかも、自分の肩にすべての成否が掛かっているって。

 いったん舞台袖に入ったら、もう二度とあそこへは出たくない、行きたくない、こわくてこわくて泣き出すだろう。

 わたしとプロの舞台人を比べても仕方ないことはわかっている。おこがましいこともわかっている。
 だけど、人間の感覚なんてそれほど隔たりはないだろう。

 まっつも、こわいはずだ。

 こわいのも、痛いのも、同じ。人間だもの。

 ただ、その恐怖や痛みに対し、どう反応するか。ちがうのはそこだ。

 こわかったろう。つらかったろう。
 それでもまっつは、舞台へ出てくる。
 満身創痍であっても、それを出してはならない場所へ。
 「BJ」の仮面をはずしてはならない世界へ。
 まっつ自身がなにを思っていても、BJとその世界には関係ない。まっつはBJとして、その世界に在る。

 在り続ける。


 下級生たちも、こわかったと思う。
 彼らもまた、逃げることなく立ち向かった。舞台を止めないために。
 闘い続けるまっつを受けて、支えて、共に闘った。


 2幕はまっつソロがすべて台詞になった。
 まっつ自身が生で判断し、台詞に切り替えていた印象。
 水面下で水を掻く白鳥のように、解き放たれた表情の下で、すごい勢いで計算されていたと思う。どう歌詞を言えばいいか、タイミングや表現方法など。

 唯一歌ったのは、最後の主題歌。「かわらぬ思い」……これだけは、なにがあっても歌いたかったんだろう。
 出ない声を絞り出し、それでも歌った。

 演出に変化があったのは、フィナーレのまっつソロ「かわらぬ思い」にカゲコーラスがついたこと。
 1幕前半のアクシデントから、はじめてのフォローが2幕のフィナーレって……演出側の対応力の鈍さにびびる。ちなみに、正塚先生、劇場にいたんだけどね。

 それだけ、まっつが信頼されていたってことか。
 演出の変更がなくても、声が出ないままでも、まっつならなんとかするって。


 舞台をナメていたわけじゃないけれど。
 つくづく、舞台ってこわい、と思った。
 こんなことが起こるんだ。
 それでも、止まらないんだ。芝居として作品として、成り立たせてしまうところまで、どんなことをしても叩き出すんだ。


 すごかった。
 凄まじかった。
「言葉は大切である」
 ってのは、過去の正塚作品でもさんざん語られてきたこと。
 言葉というか、「相手に伝えようとする意志」かな。

 言葉にして伝えなければ、通じないんだ。現実問題。
 「目と目を見れば通じあう」とか「愛し合う宿命だから、言葉はいらない」とか、ありえないから。
 どんな思いも、まず口にしなければ。

 BJ@まっつが、ピノコ@ももちゃんに語る。
「言葉は人間にとって大事なモノなんだ。思いを伝えるのも言葉だ、想像をふくらませるのも言葉だ。そうやってみんな人の心を理解していくんだ」

 また、バイロン侯爵@ともみんにも、BJは同じことを言っている。自己完結して悲劇に浸っていた彼に「本当に彼女を愛しているなら、説得したらどうです」と、まず思いを伝えろと告げる。

 言葉は大切。

 ……って、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』の中で、実は痛感しているのは、こんな「いい話」の部分ではなくて。

 ヤクザ@レオくんや真地くんが口にする「ボス」という単語についてだったりする。

 舞台は昭和時代の日本だ。
 レオくんたちが演じているのは、日本のヤクザ。アメリカのギャングだとかイタリアのマフィアではない。

 だけどあえて、「ボス」という単語を使うことで、無国籍風にしている。

 最初に聞いたときに、痛切に思ったんだ。
 「組長」ぢゃなくてよかったっ!!

「組長には俺から言ってやるよ」とか、「こいつはうちの組長のタマを狙いやがったんだ」とか言われなくてよかったっ!!
 正塚でよかった! イシダなら確実に「組長」連呼で、レオくんはハラマキに草履履きだし、真地くんはサングラスに開襟シャツと金チェーンネックレスだわ。
 カイト@咲ちゃんやエリ@あゆみちゃんの行きつけの店では日本語のナツメロが流れているわ。

 昭和時代の日本のヤクザが、組長を「ボス」と呼ぶはずがないし、エリが踊っていた店もありえないんだけど、いいのよ、そんなことはっ。
 リアルな昭和を描く必要なんかない。そんなもん見たくない。それは、どこか別のカンパニーでやればいい。
 正塚の美学ゆえに、昭和テイストが最低限に抑えられていてよかったー。


 もうひとつ、「言葉」のチョイスのすばらしさについて。

 BJの友人の医師・山野@まなはる。
 彼について、説明台詞はほとんどない。
 BJの大学の同級生である、ということのみ。

 医師免許を持たず、悪い噂に事欠かないBJと親しく、彼になにかと便宜を図っている。
 病院の看護師・五条@きゃびいを、友人の個人宅へ送り込み、看護をさせる、って、ひどい公私混同。なんでこんなことができるんだ?
 きゃびい自身がBJを慕い、喜んで従っているにしろ、立場的におかしいことには、変わりない。
 BJが誘拐されている間、病院の設備を使ってピノコの看護をバックアップしているし。
 28歳の若手医師にできることじゃない。
 彼の所属する病院は、どんな病院なんだ? まなはるが勝手をしても平気なの? まなはるはどんな権力者なの?

 しかしまなはる……山野は、医者としてはなんの役にも立たないへっぽこらしい。
 持てあました手術は、BJを呼んで執刀させてセーフ。
 ……ふつーの病院なら、医師免許も持たない外部の人間に手術を手伝わせたりしない。そんな暴挙を通す山野って何者?

 山野は矛盾している。
 ドジでまぬけな愛されキャラ、ならば、病院内で常識はずれの権力を行使するのはおかしい。
 権力者ならば、看護師にも軽んじられるドジっこ扱いはおかしい。

 ただのご都合主義キャラ? ストーリー内の辻褄の合わないところを背負わせるためだけのキャラ?
 へっぽこ医師として笑いを取るし、友情を押し出して「いい話」にする、便利使いキャラ?

 そんな山野についての「謎」は、別の場面で一気に解ける。

 空港でピノコの診断書が必要になったBJが、「山野病院の副院長なら、この子の状態をよくわかっている」と主張する。

 まなはる、二代目なのか!!

 そうなると、前述の謎は、全部辻褄が合う。

 なんにもできないドジっこ、年齢的にもまだぺーぺー、だけど、院長の息子だから、無問題。
 副院長、という肩書きと権力がある。どんだけ無能でも、彼は次期院長様だ。病院の王子様なんだ。
 父の病院の看護師を、友人の家で働かせることもできるし、自分のミスしたオペに、友人の無免許医をピンチヒッターに使うこともできる。

 看護師にナメられてて、「先生の価値はBJ先生の同級生ということだけです」とか言い切られちゃうけど、そりゃそーだ、副院長とは名ばかりのぼんぼんだもん、看護師の方がキャリア豊富。

 手術は下手でも、検査は得意。
 ついでに、社交も得意。日本医師連盟の執行部にもツテがある。情報収集まかせろ、うまく立ち回ります。おぼっちゃまだから、パパの人脈もあるんだろう。

 きっと、人柄の良さで、重篤でない患者からは愛されているんだろう。
 医療技術とは別のところで、病院に必要な「先生」なんだろう。

 「山野病院の副院長」という、ただこれだけの言葉で、台詞で長々解説されなくても、全部わかった。説明が付いた。

 これが植爺や谷なら大変だ、全部台詞で説明するんだろうな。
 カーテン前で山野と看護師が、えんえん説明するの。
 山野とBJの関係、山野のいる病院の成り立ちから、山野の身分、山野と五条の力関係、BJの依頼に対してなにをどのようにするか……ふたりが出てくるたびに同じことをだらだら喋るんだわ。

 過剰な情報は極力シャットアウトし、少ない会話から背景を想像させる「正塚節」だからこその、山野の描き方。

 いやあ、正塚せんせのこーゆーところ、ほんと好きだわー。


 あと、電話で相手の会話が全部想像できるところとか。
 説明台詞はほとんどないのに、なにを言われたからこう返している、てのがわかるのよね。

 1本目の電話、きゃびいは「先生は今どちらに? わからない?」「大丈夫なんですかっ?!」の間に、BJの「誘拐されたんだ」が聞こえてくるようだ。

 2本目の電話、トラヴィス@ホタテの「誘拐ーーっ?! 発信器はお持ちですか?! そんなことより発信機を……っ!!」てなぎゃーぎゃー台詞のあと、いきなり声をひそめて「犯人がいるんですかぁ!!」の間に、BJの「声が大きい」という台詞が聞こえてくるようだ。
 BJは純粋に、トラヴィスの叫び声がうるさいから、耳に痛いから言ったのに、トラヴィスは「犯人がそばにいるから、発信機のことを大声で言ってはいけない」という意味だと捉えた……その空回り感が笑える、という。

 3本目の電話、BJの「私はいつでもいいですが。なんなら今日でも」「そっちが至急って言ったんじゃないですか」「そういうことじゃなくて、あんまりいい話じゃなさそうだから、早く片づけたいだけです」にしろ、「今日?! ええっ? これからですか?!」「明日以降はお忙しいんですか?」てな医師連盟の人@ゆきのちゃん?それともりーしゃ?の声が聞こえるかのようだ。

 うまいなーと思う。
 相手の台詞を全部説明するわけじゃなくて、会話を成立させる。
 正塚せんせのこーゆーとこ好き。

 「言葉」は大切で、おもしろいでゴンス。
 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』では、主人公のBJ@まっつを幹に、バイロン侯爵@ともみんとカイト@咲ちゃんという枝が伸びて、1本の大きな木になっている。

 カイトは正塚らしい正塚キャラ。
 そしてバイロン侯爵は正塚らしくないものばかりで出来上がったキャラ。

 で、侯爵とカイト、ふたりのキャラクタの配役が、侯爵がともみん、カイトが咲ちゃん、てのが、すばらしいと思う。

 ともみんなら、カイトも十分ハマると思う。
 アタマの悪い体育会系不良青年なら、ともみんの得意分野……つーか、引き出しに十分ある役。
 それこそ、千吉だーのアンソニーだーので、誰もが彼に「アテ書き」してきたタイプ。

 「アツい」「体育会系」「単純」「いい人」……ともみんの、愛すべき個性。

 てゆーか、ともみんに、「高貴」「神秘的」「耽美」を求めるって、どんだけチャレンジャーなの、正塚。
 正反対のイメージばかり。

 いやその、バイロン侯爵って、設定からして「青い血が流れる神秘的な美青年」なわけでしょ? コム姫がやりそうな。
 お耽美な人でしょ?

 …………それを、ともみんが。

 おかげで、素敵なことに(笑)。

 「耽美? ナニそれ、おいしいの?」ってくらい、別次元!!

 ともみん侯爵は熱血火の玉アツ苦しい青春野郎だ。

 火を噴く勢いの暴走特急。
 体育会系まっしぐら。

 お耽美キャラだから不老不死に近い存在なのではなく、頑丈・高温・型破りだから、とーぜん長生きなんですよHAHAHA!!って感じ。

 設定だけなら耽美なのに……いつもの、ともみん……(笑)。

 カイト役がともみんなら、そこに発見はなかったかもしれない。いつものともみん、いかにもともみんらしい役、ってことで。
 それが、本来正反対の役をやることで、バイロン侯爵というキャラクタも、そしてともみん自身も、相乗効果でいい味を出している。

 ああ、ほんとにもお、侯爵、好きだわ。いいキャラ過ぎる~~(笑)。

 星組育ちならではの「コスチュームと大芝居任せろ!」な芸風だし。
 ひとりだけ芝居浮きまくってるけど、そこがまた愛しい。

 歌との相性の問題か、ソロが演歌風になっているのもまた、みょーにツボる。
「♪あンのン微笑み~~ン、よンみンがえれば~~」「♪とンめどンない~~」て、何故そうなる!的なこぶしの回った歌声は、癖になります、はい。
(星担の友人には「ともみんはもともと演歌歌唱ですよ」と、今頃ナニ言ってんの?って感じにすっぱり言われちゃいましたわ……)

 2幕なんてほんと、説明台詞ばっかりだし、正塚せんせが熱烈ラブに慣れていないのか、なんか微妙に変な台詞も立て板に水っちゅーかダム放水並だし。
 本筋的には不要っちゅーか、あっても別にいいけどなくてもかまわない場面だし。
 そんなこんな、大変なあれやこれやを、ともみんが、力尽くでぶっ飛ばす!!
 それが、快感。

 耽美設定なんか無視無視、アレは生命力強すぎるイキモノだから、長生きなのよ~~。
 そりゃ500年でも1000年でも、平気で生きるわ! 何百年でも平気で愛してくれるわ! 嫁に行きたいわ!てな。


 で、最初の話に戻る。
 正塚先生は、どの役もすべて、自分でまず演じてみせる。だからいわゆる「正塚節」はそのまま役者に振り写しされる。

 じゃあ、バイロン侯爵は?

「バイロン侯爵が誰かに似てるってずっとひっかかってたんだけど、わかった。ボルディジャール皇太子だ」
 初日の翌日、友人の言葉にその場にいた全員が膝を打った。
 ソレだ。

 『マジシャンの憂鬱』のパッショネイト皇太子。
 喋り方、声色、性格、言動、そのままだ。つか、設定も根っこが同じか。失った妻を取り戻そうと、金と権力を遣って主人公に助力させる。

 なにもかも、そっくり。

 正塚喋りは、正塚せんせ自身が演じて見せることで、生徒たちに継承されていく。
 いわゆる「正塚的」なアウトローキャラは、カイト。愛を口にする高貴キャラは、バイロン侯爵。
 正塚のなかには、ふたつしかタイプがないらしい。
 ……不自由な演出家だなー(笑)。
 正塚先生は、演技指導の折、すべての役を自分でやってみせるのだと聞く。女性の役も子どもの役も、彼自身が全部ひとりで演じる。

 正塚節と言われる独特の台詞、会話は、そうやって正塚自身から役者たちにコピーされていくんだろう。

 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』にて、カイト@咲ちゃんとエリ@あゆみちゃんの会話なんか、まさに正塚節。
 昭和時代の若者である彼らは、衣装も雰囲気も関係性も台詞も会話も、全部全部正塚ならではの空気に満ち満ちている。

 多くを語らない会話。
 説明台詞はなく、「ああ」「うん」だけで進む。体言止めや文章の途中であとは省略されたような言葉が、山ほど。
 カイトとエリは最初から惹かれあっているわけだし、カイトのケガをきっかけに、恋人同士にまで発展するわけだが、そこにはなんの説明もない。
 愛の告白も、ラブシーンもない。

 だって、正塚だから。
 天下のマサツカ様が、愛の言葉だとかラブシーンだとか、そんなチャラいことをするわけないじゃん。

 ……ここはタカラヅカなんだけど、なにしろ正塚先生はそういう人で。


 それと対極を為すのが、もうひとつのカップル。
 バイロン侯爵@ともみんと、カテリーナ@せしこ。

 このふたりは、正塚らしくない。
 つか、正塚があえてやらないものばかりで成り立っている。

 つまり、なんでもかんでも全部、台詞でしゃべる。

 おかげで、説明台詞のオンパレード。
 なにがどうしてどうなって、そのとき私はどう思って、それでこうしたんだ。
 あのときああしてこうして、だから私はこう思って、それでああしたのよ。

 そして、愛を語りまくる。

 言葉にして、愛してるだの必要だの、ライバルは『ベルばら』ですか?ってくらい、えんえんえんえん愛について語っている。
 てゆーか、それしかない。
 2幕に侯爵とカテリーナの場面が3回あるんだけど、3回とも愛について説明台詞を長々語り続けているだけで、他のことはナニもしていない。

 で、ラブシーンがっつり。
 愛のデュエットソングなんか歌っちゃうし。

 侯爵は金髪ロン毛で時代錯誤なコスチューム。
 舞台となる侯爵のお屋敷も、……たぶんあれ、お屋敷っていうかお城だよね? 崖の上とかに建ってるんだよね? 侯爵のもとを飛び出したカテリーナが崖からダイビングしたわけだから。

 「正塚」と正反対、対極にあるもの……それが、侯爵とカテリーナ。

 「BJ」というタイトルゆえの、正塚せんせの気遣いというか、タカラヅカ愛なのかなあ、とか思う。

 『逆転裁判』とちがって『BJ』は現在直接的な集客力のある作品じゃない。……と、思う。
 有名だけど、それは「昔の名作」として有名なだけで、今現在リアルタイムのファンがアツいわけじゃない。
 『逆裁』ほど、原作ファンは観劇しに来ないだろう。

 とはいえ、誰もが「名前だけは知っている」ような昔の有名作である以上、原作名につられてやってきた、「はじめてタカラヅカに触れる人たち」のことを、考慮して作劇しなければならない。

 原作のテイストを守ることは大前提、そこに「タカラヅカらしさ」「タカラヅカで上演することの意味」を加えなければいけない。
 でないと、『BJ』なんてアニメやドラマでさんざんメディアミックスされているんだ、ふつーに男性俳優や声優が演じているんだ、今さら、タカラヅカで女の子たちがなんでわざわざ『BJ』なのか……その意味を、打ち出さなくては。

 正塚せんせは、「タカラヅカらしくない」作風の人だ。
 だからこそ、『BJ』の演出が似合っている。
 タカラヅカらしくない芸風の人が、タカラヅカらしくない原作を、わざわざタカラヅカの舞台でやる……。
 それでもなお、「タカラヅカ」である意味。
 それをわかりやすい形で担っているのが、ともみんとせしこかなっと。

 タカラヅカをよく知らない人が想像する、「タカラヅカ」。
 時代錯誤なコスチュームの金髪ロン毛の男役が、えんえんえんえん愛を語る。金髪美女が生きるの死ぬのと言いながら、えんえんえんえん愛を語る。
 そして、「愛~~、愛~~」と見つめあいながら歌い出す。

 「はいはい、はじめて宝塚歌劇をごらんになるお客様、これがタカラヅカですよ、ほーら、想像した通りのことをやっているでしょう?」……と、解説しているがごとく。

 正塚が書きたかったカップルは正塚節のカイトとエリで、侯爵とカテリーナは副次的なものなんだろうな。
 と、思う。

 尺だけはやたら取ってあるけれど、この作品の根幹部分……「誕生日おめでとう」というキーワードを言うのはカイトとBJだ。
 ぶっちゃけ、侯爵は、2幕に出なくても、話は通じる。
 ピノコ@ももちゃんにカラダを移植するだけの役目なんだし。
 BJ@まっつが1幕の終わりに「カテリーナと話し合ってみるべきです」と言い、侯爵が納得した……そこでもう、侯爵の物語は完結したも同然だし。
 2幕は、冒頭のピノコの「バイバイロン」のあとは、カテリーナとの結婚式だけ登場、で十分だよ。
 それよりも、カイトの物語をがっつり描く方が、正塚としても『BJ』という作品としても、正しかったと思う。

 カイトは舞台にただひとりで1曲歌うし、フィナーレも単独ソロで、いつもカテリーナと2個イチ登場のバイロンより2番手っぽい演出をいろいろとされている。これが大劇場なら、カイトには銀橋ソロがあるけれど、バイロンさんにはないっぽいもんなー。
 カイトに時間を割いて描いていれば、完璧に2番手の役だ。バイロンはアクセント的な役どころだろう。
 カイトとバイロンのポジション的な隔たりは、単に出番の多さに由来する。

 かといって、学年的にともみんが2番手ポジションであるから、ともみん演じる侯爵の出番を多くした、とも思えない。。
 だって、出番だけの問題なら、カイト役をともみんにすればいいだけのこと。
 役の比重をややこしくしてまで、なんで本筋ではないバイロン侯爵にあれだけ時間を割いたのか。

 バイロンの物語が正塚作品としても『BJ』としても不要でも、「タカラヅカ」には、必要だったんだ。

 一般人が思い描くような、『ベルばら』的なメロドラマが。
 ここが「タカラヅカ」だから。
 「タカラヅカ」と手塚治虫……『BJ』のコラボだからこそ。

 それゆえに、バイロンはともみんで、力強く展開されなければならなかったんだ。
 コスチュームと大芝居・歌舞伎を得意とする星組育ちの、ともみんの力が。
 で、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』って、面白いの?
 ……てことはわかんないけど、とりあえず、正塚晴彦、復活だと思った。

 正塚節満載の会話だとか、普遍のテーマ「自分探し」×3だとか、薄暗い舞台にモノトーンの衣装、コロス多用だとか、行き交う雑踏の人々だとか、お約束に満ちていることだけでなく。

 実は、わたしがもっとも痛感したのは、モノローグ(録音)が、ない!!ってこと。

 主演のまっつはナレーション力の高さを評価されている人でもある。こりゃー『BJ』も録音されたBJのモノローグだらけだろうな。BJの台詞の何分の一かは録音テープかもしれないな。
 そう、危惧していた。
 そんな状態であっても絶望しちゃダメだぞ、と覚悟していた。

 なのに、なのに。
 フタを開けてみたら、なんと、モノローグなし!!

 やった~~!! ばんざーーい!! ヒャッホウ~~!!


 正塚晴彦のモノローグ依存は、どこからはじまったんだろう。
 その場で役者に喋らせれば済むことなのに、わざわざ全部録音だった。
 また、その録音されたモノローグだって、ある必要のない繰り言だった。
 だらだら言葉で説明するより、芝居で、物語で描くべきことだ。なのに、まるで小説のように主人公の一人称の語りがえんえん入った。

 舞台はナマモノ。1回1回別モノだし、初日と千秋楽も違っている。なのに主人公の「心の声」だけは、初日以前の録音テープ。芝居・舞台がイキモノである、ということを否定した姿勢。
 そのときの舞台がどんな色でどんな盛り上がりで進んでいても、水を差すかのように、録音テープ挿入。役者はそのときのナマの舞台を、ナマの感情を捨てても、録音に合わせた芝居をしなくてはならなかった。

 わたしは、録音テープが大嫌い。
 映画を観に来たわけじゃない、生の舞台を観に来ているんだ。音楽がテープなのは予算上仕方ないとわかるけれど、役者にナマで喋らせない意味がわからない。

 作者のエゴなんだろうなと思った。
 舞台にどうしても必要、というわけではない録音モノローグ乱用は、役者も観客も軽んじている、作者の姿勢の表れだろうと。
 「観客はバカだから、言葉で説明しないと理解できない」から、「そのとき俺はこう思った」と台詞で解説。「役者には技術が足りないから、長台詞を言いながら芝居なんかできない」から、テープをBGMに顔芸をさせる。
 もしくは、「舞台を完全に支配するため、完全監修の録音モノローグを全体に散りばめて、役者や観客が作者の意図した以外のモノを作ったり観たりできないようにする」ことが目的か? 舞台は役者のモノ、舞台がナマモノなんて許せない、演出家は神、という意味か?

 理由はわからない。だって、誰も得をしない「不要」なものをわざわざ自作に山ほど使って、作品クオリティを下げるクリエイターのキモチなんか、わたしには理解できないもの。
 クリエイターなら自作がかわいい、それをすることが「よい」と思ってやっているんだろうから……それが1観客のわたしの目には「不要」「欠点」「悪癖」と映っているので、それを強行し続ける以上、作者のエゴなんだろうなと。


 もう正塚晴彦は、戻って来ないのかもしれない……。
 そう思っていた。

 いつまでも「あの国」「あの戦争」の話をし、やりたいのはストレートプレイの会話劇なのに、仕方なく無理矢理ダンスシーンを入れるために、主人公を「クラブ・オーナー」とか「クラブのダンサー」とかにし、忘れた頃に主人公が1曲長々と歌って「ミュージカルだから仕方ないんだ、さあ、銀橋ソロやってやったから、あとはもういいよな」とまた会話劇、えんえん続く録音モノローグ、主人公はまともに恋愛しない、しても「タカラヅカがたら仕方ないんだ」という言い訳程度、クライマックスも盛り上がりもなく、自己満足な「男の美学」で終了。

 昔はそうじゃなかったし、迷走しながらも10年くらい前はまだ、いろいろ新しいことに挑戦しようとしていた。
 なのにここ数年はもう、「タカラヅカ」にも「ミュージカル」にも飽きたのかと思えるような、雑な作りの「焼き直し」ばかりだった。

 それでもわたしは、正塚作品好きだけど。
 彼の持つカラーやテーマ、そしてロマンチストっぷりが、ツボだったけど。

 長年の悪癖から解き放たれ、昔の正塚の「良さ」が戻って来た。
 その象徴に思えたんだ、「録音モノローグが、ない」。


 もひとつ、『BJ』で「よかった」と思ったことは。

 主人公に、友だちがいること。

 正塚せんせの間違ったハードボイルド観が炸裂しているときって、主人公に友だちがいないの。
 クールで孤独な男こそ至上!と思うあまり、根本をまちがえてしまう。
 クールでも孤独でもいいけど、それと「他人すべてを軽んじている」ことは、別。
 べたべたした恋愛や友情を繰り広げる必要はない。
 主人公が人間を愛し、尊んでいること。根底に人としてまっとーなものがあり、表面的にはクールで孤独、「男が憧れる男」であればいい。

 正塚せんせの作風で、主人公が間違っていると、もー目も当てられない。
 なんせ、ストーリーに起伏がないし、ドラマティックなラブもないし、派手なクライマックスもないんだ。ただ淡々と会話劇が進むだけなのに、主人公が関わるすべての人に無関心。
 や、表面上は仲間がいたり、昔の女がいたりするんだけど、「アンタ、誰のことも好きじゃないよね? 興味もないし、大切でもないよね?」というのが透けて見える。
 そーゆー淡々とした男を「カッコイイ」と正塚おじさんが思うのは自由だけど、タカラヅカの舞台でやらなくていい。
 感情未発達のナニを考えているかわからない男を主人公にしたいなら、ストーリーだけは派手にしろ。ストーリー主導型なら、主人公が薄くてもエンタメとして成り立つ。
 なのに主人公もストーリーもどっちも未発達なままじゃあ、どうしようもない。


 『BJ』はストーリー性の薄い、正塚らしい作品。
 これで主人公まで「クールという名の、なにも考えていない男」だったら、いつもの悪く転んだ正塚。
 どーなることかといろいろ危惧したけれど、BJ先生はとてもハートフルで人間くさい人でした。
 どんだけクールぶっても悪ぶっても、BJが愛情深い人だということが見える。
 なにしろBJなので女性と恋愛はしないけれど、恋に匹敵する深さで他人とつながっている。関わり合っている。

 BJが、愛すべき生身の人間である。

 だから、ストーリーが平坦であっても、生身の人間の心の起伏だけで、作品が成り立つ。

 ああ、正塚作品だなあ、と思う。

 正塚晴彦、復活。
 そう思ったんだ。
 とりあえず、母に言ってみました。

「あたし、生まれてきて良かったと思う。父と母に産んでもらって、感謝してる」

 んなことを突然言い出したもんだから、寝室へ行こうとしていた母も、ごはんを食べていた弟も、ぎょっとしてわたしを見る。

「いやその、今日観た芝居が、いい芝居でさー。それを観たらなんか、そう思ったのよ」
 と、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』の話をしました。

 あらすじとか、カイト@咲ちゃんの最後の台詞とか、BJ@まっつの最後の台詞とか、作品のテーマを説明して。

「それはいい話ねええ。そんなお芝居を観たなら、そういうキモチになるのはわかるわ」
 と、母。

 ねえ?
 生まれてきて良かった。わたしをこの世界に誕生させてくれた父よ母よありがとう、ってキモチになるよね。
 つらいことばっかだけど、今も大変なことになっているけれど、それでも、前を向いて歩いて行こう、って思うよね。

 そう、いい感じにしみじみしていたのに。
 黙って聞いていた弟が、ぽつりと口を挟んだ。

「で、その『いい話』をいったい何回観たんだ?」

「…………5回」

「狂ってる」
「狂ってるわ」

 「いい話」も台無し。
 同じ芝居を何回も観るなんておかしい、理解できない、と、一刀両断。
 そこでせっかくの「感動話」は終了しました。

 …………同じモノを5回なんて、ささやかなもんです。もっともっと観るんです。東京にも、同じモノを観るために行くんです。てへ。

 うちの家族は、タカラヅカも同じ公演をリピートすることも、まったく理解してはくれないけれど、それでもわたしが好きでやっていることには理解を示してくれます。「自分には理解できないけど、やりたいことはやればいいよ」というスタンス。
 わたしがこんな、ふらふらへらへらした半人前な生き方をしていても、許してくれている。
 ありがたいことです。

 『ブラック・ジャック』を観ていると、家族や友だちや、いろんな人への感謝がわき上がってくる。
 そして、自分の人生も愛しくなる。

 とはいえ。

 初日からこの三連休、5公演フルで観劇したのに、まっつキューピーは、かすりもしていません。
 このくじ運のなさには泣けるわー。あたしの人生って!!

           ☆

 BJ@まっつはたまりません。
 よくぞこんなキャラクタを創り出してくれた。

 ザ・二次元!な美しさ。
 頑固で短気、口が悪くて容赦なくて。
 職人肌でマイペース。

 そして、人間と世界を愛している。
 人間と世界の不条理を、醜さや過ちを誰よりも知りながら。
 それらも含めて、愛している。

 誰よりも優秀なのに、不器用で。
 生きることが、うまくない。

 「歌劇」の正塚先生との対談にあった通り、「BJ」はまっつへのアテ書きなんだってことが、よくわかる(笑)。

 てっきり「『BJ』を上演する」という前提がまずあり、「たまたままっつになった」のかと。
 そうじゃなく、「まっつ主演でなんかやれってよ。まっつまっつ……そーだBJ合うんじゃね?」という流れで決まったっていうのが。

 原作があっても「アテ書き」は存在する。わたしたちが「ぴったり配役」とか「妄想配役」をして楽しむように。
 役者の個性に合わせて役を配し、イチから作品を作るのなら、アテ書き認識。……わたしはね。

 正塚せんせのアテ書きがぴたっとはまったとき、作品の深みは爆発的に増すね。
 バイロン侯爵@ともみん、カイト@咲ちゃんもそうだ。彼らのハマリ方も半端ナイ。


 まっつはもともとうまい人だし、正塚芝居とも相性がいい。
 ……にしても、この巧さはすごい。
 会話のテンポ、日常会話的やりとりだけで笑わせる技術の高さってば。
 アドリブなし、毎日同じことをやっているのに、それでも笑える。
 パロット@『メランコリック・ジゴロ』がものすげーおもしろいことになっていたよなあ、となつかしく思い出す。他の人が演じたときは別におかしくもなんともなかったいろんなことに、まっつのときだけずーっと客席が沸いていたっけ。

 芝居の巧さと声の良さ、歌のうまさをひっさげての、堂々たる主演。

 ラブシーンもダンスもなく、派手なエピソードやドラマティックな展開は他のキャラに任せ、地味で淡々としたことだけを綴る主役なのに、それでも根の部分の揺るがなさときたら。
 どんだけ上で他の人が暴れても、花開いても、BJ@まっつがしっかりと土台をつなぎ止めている。

 細かいのに、強い。
 細いのに、弾力がある。

 BJを見て、それと同時に未涼亜希という舞台人を見る。
 この人を好きで良かったと思う。


 BJとピノコ@ももちゃんは、萌えです。
 いちいちいちいち、「うきゃ~~っ!!」となるかわいさに満ちあふれています。

 冷たいような、突き放しているような物言いをしているけれど、その実愛情にあふれている。
 相手が子どもだからと容赦しない。ツッコミの数々が素晴らしい(笑)。

「BJとピノコ見てると、思うのよ。まっつがこの先いつか結婚して子どもが出来て、子育てするとしたら、こんな感じのお父さんになるんだろうな、って」

 わたしが心から、素直にシンプルに思っていることを口にすると。
 友人たちからはツッコミ入りました。

 「ソレ間違ってる」「いや、途中までは合ってるけど」……えー?

 いいお父さんだと思うよ。
 クチではきびしかったり、突き放していたりしても。
 娘のために、タバコは玄関ポーチやベランダに出て吸うんだよね。黙って自発的に、そうしているんだよね。
 娘を守るために、敢然と立ち向かうんだよね。

 あー、ピノコになりたい(笑)。
 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』って、どんな話?

 公式サイトにもプログラムにも、「あらすじ」がまったく載っていない、謎の公演。
 ポスターからすれば、ドシリアスの暗い物語を想像するか。なにしろサブタイトルが「許されざる者への挽歌」とハードだし。

 舞台はおそらく、1970年前後。今から40年前、原作の『ブラック・ジャック』の時代じゃないかな。作中に「1678年」という数字が出てきて、次に「(1678年から)300年近く」経ったとある。
 また、主人公のBJは「少年時代の事故」から「20年」経っているとある。
 わたしは漠然と「BJっておっさんだから、45歳くらいかなあ」と思っていた。アニメでは大塚氏だし、ドラマでは壮年以上の役者(宍戸錠とか、加山雄三とか)がやるイメージだし。
 原作ファンに聞いて驚愕した、「事故に遭ったのは8歳のとき。だからBJは28歳」。

 28歳なのか、まっつ!!(叫ぶ)

 ごめん、初日はふつーに45歳だと思って見てたよ……。
 まなはる(BJの同級生)、45にしては若いなー、まなはるだし、しょーがないなー、とか思ってたよ……どっちもごめん……。

 てことでええっと、70年代、28歳のBJが主人公。

 BJ@まっつはご存じ天才無免許医師。その腕で奇跡のごとき手術を行うが、かわりに法外な治療費を要求するアウトロー。
 BJは今現在、人間のこぶの中からひとりの少女(であるはずのもの)を摘出し、足りないパーツを補って人間として作り上げようとしていた。

 というBJ自身の物語に、別のふたつの物語が絡む。

 ひとつは、ヨーロッパの大金持ち、バイロン侯爵@ともみんの物語。
 彼は恋人のカテリーナ@せしるが事故で重傷を負ったため、BJに手術を依頼してくる。
 少女の治療に専念したいからとBJが断ると、力尽くで誘拐した。それくらい、手段を選ばす。

 もうひとつは、日本人のびんぼー青年カイト@咲ちゃんの物語。天涯孤独で足が不自由な彼は、世をすね他人を恨み、自暴自棄な生活をしている。
 BJが大金を稼ぐ悪徳医師だと知り、その屋敷へ強盗に入るが、成功するはずもなく。

 この3つの物語が、同時進行する。


 この3つの物語に、3人の男たちに、共通するものはナニか。

 「生まれてきた意味を、探すこと」。

 出たっ。
 正塚せんせのライフワーク、「自分探し」!!


 莫大な財産と美貌と不死に近い肉体を持つ、バイロン侯爵。
 なにもかも持ち合わせた、誰よりも幸福な存在であるはずの彼は言う。
「私は何故生まれてきたのでしょうか」
 ずっと孤独だった。そんな彼がはじめて愛を知った。なのに。
 たったひとりの女性すら幸せにできない……いや、彼ゆえに恋人は不幸になった。
 ならば私は、なんのために。

 健常な肉体も家族も金もない、カイト。
 自分はどうせ負け犬だから、幸福になれるはずもないと絶望し続ける。
 未来は見えない。ただ、昨日と同じ闇があるだけ。
 博打、借金、強盗……そして、誘われるままに組に入り、鉄砲玉として使われて。
 つらいだけの人生。
 こんなことなら、最初から生まれてこなければよかった。


 正反対のふたりの男は、同じ問いを口にする。

「何故、生まれてきたのか」

 絶望し、苦悩するためだけに、生まれてきたのか。
 孤独を味わうためだけに、生まれてきたのか。
 他人を傷つけるためだけに、生まれてきたのか。


 一方、BJは自分の「生きる道」を自覚している。
 彼は医者であり、彼の患者を救う。「命懸けで」手術をする。

 そんなBJは、「生まれるべきではなかった」少女を、生き長らえさせていた。
 そのとんでもない医療技術で。さらに、莫大な金を掛けて。

 「人間」とは言えないような、いびつな生まれ、いびつな姿で生き続けている少女。
 彼女に語りかけ、「お前を見捨てたりしない。お前を必ず自由にしてやる」とくり返すBJ。

 BJもまた、そのツートンカラーのつぎはぎ顔からしても、少女と似た境遇を持つことが推測される。
 少女に語りかける言葉は、自分自身に向けられたもの。

 少女が抱える孤独に誰も気づかなかった……そう歌う彼は、自分の中の闇を見つめている。

「何故、生まれてきたのか」……その答えを、反芻するように。


 これは、傷を抱えた男たちの物語。
 「生まれてきた意味」を探す物語。

 傷つきながら、間違いながら、闇の中であがきながら。

 バイロンとカイトを、BJは医術で救う。
 BJに手術されたふたりの男は、それぞれBJとの出会いをきっかけに、人生を見つめ直す。
 闇を超えて、光を見つける。

 ふたりの男に、光を見つけるきっかけを与えたBJは。

 彼自身、医者生命の危機と直面しながらも、自分の歩く道を、生きる世界を、再確認する。
 それは、「もうひとりのBJ」である少女ピノコ@ももちゃんが生まれ、まっさらな目で世界を見回すことにリンクする。

 「ふつうじゃない」からと差別され、突き放されながら。
 それでも、生きてゆく。

 この過酷で、美しい世界で。


 物語の最後、カイトはピノコにケーキを届けにやって来る。
 1年前、カイトがBJの屋敷へ強盗に入ったとき、ピノコを手術してまだ2週間だとBJが言っていたことを、おぼえていたらしい。
 自分が強盗に入った2週間前が、ピノコが奇形腫から摘出された日=誕生日。

 人間とは言えないような姿をしていたピノコを見て、カイトは「死んだ方が楽だ。どうせまともに生きられやしない」と決めつけた。
 それはカイト自身が、そう思っていたからだ。

 「生まれてこなければよかった」……自分の生を呪っているからこそ、自分の人生を認められない、愛せないからこそ、そう言った。
 苦しみだけの人生なんか、最初から与えられなければ良かったのに。

 自分自身を否定していた彼は、ピノコの生をも否定した。

 その、彼が。

 ピノコに、バースデーケーキを届けに来た。
 顔を合わせられずに、ケーキと手紙だけ置いて立ち去ったけれど。

「誕生日おめでとう」

 そう言うことが出来たのは、彼が、自分の人生を祝えたからだ。

 生まれたことを恨んでいた青年が。
 世界すべてを憎んでいた青年が。

 「誕生日」を……この苦しみ多い世界に生まれたことを、肯定した。

 世界を、自分を、愛した。

 だから彼は言った。
 はにかみながら、微笑んで。
「誕生日おめでとう」

 この世界に生まれて、よかったね。


 そして、BJもまた。
 いろんな苦しみを内に秘め、それでも世界に「美しくあれ」と願う彼は。

 歩き出したばかりのもうひとりの自分に、微笑んで言う。

「ハッピー・バースデー」

 この物語は、主人公BJのこの台詞で終わる。幕を閉じる。
 人生讃歌・人間肯定の主題歌「かわらぬ思い」を背景に。

 誕生日おめでとう。
 君が、そしてわたしが、この世界に生まれた。この世界に生きている。
 そのことを、祝おう。



 だから。
 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』って、どんな話?
 公式サイトにもどこにも、あらすじすら載ってないしねえ。
 聞かれたら、こう答えるかな、わたしなら。

「正塚の、もっとも正塚らしい話。自分探しと人生讃歌、人間肯定を、男の美学(笑)でラッピングしたハートフルな物語」

 んで、付け加えとかなきゃねー。

「まっつ、28歳の若者役だから!!」

 ……きっと、言わなきゃわかんない。(言っても通じない、気もする・笑)
 『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』初日観劇。

 …………………すみません。
 ひとつ、聞きたいです。

 この芝居、面白いんですか?


 1幕が終わったあとの、ぽかーん感……。

 幕が閉じたんだっけか正塚らしくただ舞台暗転で客電が点いたんだか忘れたけど、1幕が終わったとき、客席は拍手もなくしーんとしていて、まっつのアナウンスが流れてよーやく「あ、終わりなんだ」とわかり、パラ、パラ、と拍手が起こる。
 そして、不穏なざわめき。
 「ついて行けなかった……」「わかんない」「わけわかった?」「さあ……」
 あちこちから、困惑の声が聞こえる……。

 すみません。
 わたしここでちょっと、ツボりました。
 そして、不安になりました。

 ツボったのは、不謹慎ですが、この客席のみょーな雰囲気。
 初日なんて、ファンがほとんどだろうに、それでも反応に困るような舞台って。

 不安になったのは、この客席のテンションの低さは、舞台越しにキャストにも届いているんじゃないかってこと。
 現実として、拍手、少なかったもん。
 初日の1幕が終わったんだよ? 作品の出来がどうあれ、観客は割れんばかりの拍手を送るでしょう、通常。

 なんか、『マラケシュ・紅の墓標』初日を思い出した。
 幕が閉じきるまで、芝居が終わったことに観客が気づかず、パラパラととまどいがちな拍手が起こる。
 「わかんない」「なにこれ……?」観客置き去り。

 いやあ、なつかしい空気だ(笑)。

 1幕が終わった段階で、客席のびみょーな空気も含めて、大変な話だな、どうなるんだこりゃ。と思った。
 それとは別に。

 わたしコレ、好きだわ。と、思った。

 なんか、正塚作品を観ている気がしなかった。
 オギー作品の匂いを感じて、ワクテカしていた。
 いや、もちろんまぎれもなく正塚作品で、正塚らしさ満載なんだけど。それでも。

 あちこちで登場する、幻想の少女(ピノコの影)。
 包帯だらけで、非人間的に横たわる少女(ピノコ)と、そんなニンギョウにしか見えないものに、やさしくあたたかく……かなしく、語りかけるBJ。

 ことさら台詞で説明されるわけではないのに、BJは強く傲慢に己れを貫き、周りを振り回しているのに……物語のあちこちに、透明なかなしみがつきまとう。
 なにかしら、「イタイ」ものがある。見え隠れしている。

 それは、BJを演じるまっつの特性かも知れない。
 どこか寂しげであること。
 影があること。


 初日で、客席の誰もが「これから観るモノ」を知らない。
 『ブラック・ジャック』は、名前こそ有名だけど、どんなものであるか熟知した人・原作信者は意外に少ないと思われる。なにしろ40年前の男性向けマンガだ。
 ヤンさん主演の舞台を観たヅカファンは多いだろうから、最初に抱いているイメージはそこがいちばん大きいんじゃないのかな。でも、再演ってわけでもないしな。

 つまり、心の立ち位置が定まっていないんだ。
 『ブラック・ジャック』って、なんだろう。これから、ナニを見せられるんだろう。
 わからないまま、幕が上がって、休憩時間になって。

 ぽかーん。

 ええっと、これ、どこに立ち位置を置けばいいのかな?
 笑っていいの? ハードボイルドなの? ファンタジーなの? くだらないの? 高尚なの?

 たぶん、2日目からは、変わる。
 観客が、「ポジション」を決めて観るから。
 初日だけ、この「ぽかーん」感は。

 どう変わるのか。
 それを感じることが、楽しみでならない。


 2幕になると、客席の雰囲気も変わっていた。
 ポジションが「わかって」きたからだ。
 ああそうなんだ、これはこーゆー愉しみ方をすればいいんだ。

 だから物語が終わったとき、芝居の幕が下りたとき、大喝采になった。
 割れんばかりの拍手になった。

 1幕最後のパラパラ拍手が、嘘のようだ。

 や、だって初日だし。
 所詮、ファンばかりの空間だし。


 真面目に、聞きたいです。
 いろんな人に。
 いろんな方面の人に。

 まっつファンに。
 ともみんファンに。咲ちゃんファンに。
 出演者のファンに。
 組ファンに。
 ヅカファンに。

 原作ファンに。
 タカラヅカも観る、演劇ファンに。
 はじめてタカラヅカに触れた人に。

 この芝居、面白いんですか?

 ……いやそのわたし、マジで、さっぱりわかりません。
 面白いんですか、これ。
 「観る」立ち位置に迷うような、混乱するような話。
 どの立場の人に、どんな風に映るんだろう?

 冗長な場面がいくつかあること、盛り上がりに欠けること、つかクライマックスどこよ?とか、「かわらぬ思い」が名曲なのはわかるが使いすぎだろう!とか、BJの指の話はどーなったんだとか、空港のシーン長過ぎだろとか、ぶっちゃけBJあんまし活躍してなくね?とか、そもそも「許されざる者」って誰? 「挽歌」ってナニ? どこにいた? あった? と、いろいろいろいろツッコミはあるんだが。
 そこを突かれるとぐうの音も出ない気もするが。

 まっつヲタとしてまっつのダンス少なすぎ。せめてフィナーレで踊らせろ。と、声を大にして言いたいですが。

 わたし、この話好きだ。

 1幕が終わって、客席の雰囲気微妙で、「どーしたもんかね」と思いつつ、ニヤニヤが、止まらなかった。

 どうしよう。
 好きだ、これ!!(笑)

 リピートするのが楽しみだ。
 発見がたくさんあるだろう。

 鉱脈を掘り当てた気分。
 きっとこれから、楽しくなる。
 もっともっと、愉しめる。

 その予感に、ふるふるする。


 とりあえず。

 BJ@まっつ、好きだーーっ!!

 ナニあの萌えキャラっぷり!!
 ついでに、総受っぷり!!

 美しくてかわいくて(笑)、持って帰りたいです、マジ!
 うおお、BJ先生、ちっこい! どこ見てもちっこい!
 だけどえらそーで、強くてカッコ良くて、面白くてかわいくて(また言った)、たまらん萌えキャラっぷりです。

 そして、まさかの総受!!(笑)
 バイロン侯爵@ともみんに後ろから抱きつかれた日にゃあ……ちょ、すっぽり、腕の中にすっぽり!! 「なにをする、やめろ」って腕の中で抵抗して、ついには床に転がって、上にともみんが馬乗りになって……。

 ちょ、マジすごいもん見た!!

 カイト@咲ちゃんのことも、すっかり虜にしてるしなー。
 「一生掛けて」ですよ、ふふふ。

 山野@まなはるの前で、無防備に仰向けに横たわるのやめてーっ、誘ってる? ソレ誘ってるの?!!(違います)

 なにより、トラヴィス@ホタテマンですよ!!
 ほたっちゃん、うますぎ!! 『はじめて愛した』でも素敵だったけど、正塚に気に入られてるよなー、絶対。
 BJ先生のツンデレ炸裂してますわ。
 ホタテマン、完璧にオチてますわ……。(役名で言いましょう)


 萌えだらけで、大変です。
 ピノコ@桃ひなちゃんに対するBJ先生は、すべて萌えです。たまりません。
 いちいち拾って書けないほど、萌えどころがあり過ぎるっ。


 世間の評価は、まったくわかりません。
 1幕終了時の「ぽかーん」とパラパラ拍手、あれが正しい評価なのかも知れない。

 それでも、わたしはこの作品が好き。
 助かった。いやその、リピートするのに、性に合わなかったらつらすぎるから。
 通える作品で良かったっ。

 まっつ好き。
 正塚せんせも、雪っこたちも、みんなみんなありがとー!
2013/02/08

花組 宝塚大劇場公演 休演者(部分休演)のお知らせ


花組宝塚大劇場公演『オーシャンズ11』の休演者(部分休演)をお知らせいたします。

花組 華形ひかる

【部分休演場面および代役】
(一幕)
S2 FATE GUY
   華形ひかる → 瀬戸かずや
   瀬戸かずや → 真輝いづみ
   真輝いづみ → 千幸あき

(二幕)
S15 ストリートの男A
   瀬戸かずや → 柚香 光
   ストリートの男
   柚香 光 → 蘭舞ゆう

S16 フィナーレの男A
   華形ひかる → 瀬戸かずや
   フィナーレの男
   紅羽真希 追加

怪我のため、2013年2月8日(金)15時公演(花組公演初日)より部分休演いたします。復帰時期は現在のところ未定です。

 いきなりこんなニュースが飛び込んできて、心配・混乱したまま、『オーシャンズ11』初日に行ってきました。

 みつるくんはダンス場面にこそ出ていないものの、イエン役としてはふつーに舞台に立っていました。
 舞台人根性すごい……。


 今後ゆっくり感想を書ける日はいつ来るのだろうかと思いつつ、本日の感想を走り書きします。

 ダニー・オーシャン@らんとむ、かっけー!!

 ダニーってこんな人だった? なんかいっつもニヤニヤしてさ、サムい台詞吐いてさ、ちょームカつくんですけどっ?!
 なによこいつ、きぃ~~っ、カッコイイ!!

 けしからんです、はい。
 いちいちめんどくさい男なの。ストレートに言えばいいところを、わざとひねって言葉にする。ああめんどくせー、ああうぜー。そんな言い回しとか、斜に構えた態度とか、自分でカッコイイと思ってるんだろう。……かっこいいけど。
 で、口から出まかせ、たしかに詐欺師だこんちくしょー、すらすら言葉流れすぎ……のヤな男がさ、ところどころで少年のような純粋さ、「真実」を垣間見せる。
 あああ、やだやだこんな男!! リアルでは絶対出会いたくないです、めんどくさいです、苦手です。

 でもとりあえず、舞台の上で見る分には、本気で、カッコイイです。

 らんとむの変な……失礼、癖のある言い回しが味になっている。
 いやあ、彼に合ってますよ。


 『オーシャンズ11』という作品自体は、別に好きでもないっす。
 やっぱ中身がなさ過ぎてな……ゲフンゲフン。
 だから勢いを楽しむ作品なんだろうな。
 話はつまんなくても、星組さんはその豪華さでワクテカさせまくってくれたもの。

 花組版は勢いだけで突っ走る感は薄い。
 なんだろ、この地に足着いた感じ。

 「祭りだーっ!!」というよりは、生身の男たちの物語に見える。

 それは、敵役テリー・ベネディクト@だいもんの芸風も、大きく関係していると、思う。

 ベネディクトさんは、イッちゃった悪役ではなかったっす。
 真面目に働いて、成功した青年実業家です。
 傲慢なのもワンマンなのも、実績があるから。社会の底辺からスタートして、自分の才覚と努力でこつこつ築き上げてきた、自負があるから。
 「法律スレスレ」のことをやってきた、と歌っていたけど……えーと、法律スレスレってことは、法律は、守っている。犯罪は、犯していない。ってことよね?
 うんうん、わかるわかる、根が真面目だもんねー、本当に悪いことなんかやらないよねー。

 ベネディクトさんが、リアルに「自分の人生を戦うストイックな企業戦士」であるだけに……「義賊が悪い権力者をやっつける、痛快活劇」になってない。
 ふつーに、現実を生きている男たちの戦いです。

 いいのか悪いのか。
 好みの問題かなー。
 祭りだー!と思ってはっぴ着て駆けつけたら、真面目な勉強会だった、この場違い感をどうしよう(笑)。

 とりあえずわたしは、ベネディクトさん主役のスピンオフが見たいです。
 だって彼、別に悪役ぢゃないし。彼は彼なりに夢中で生きているだけだし。
 ベネディクトさん主役で書いても、一般人の共感できる物語になるんじゃないかな。
 日本人って、詐欺で人を騙して一攫千金成功するより、こつこつがんばってそれが報われる話の方が好きでしょ?
 だいもんベネさんって、苦労人だし、傲慢Sキャラでいながら女に一途だし、みんなの共感を呼ぶいい主人公になると思うなー。

 てゆーか、だいもん、かっこいい。(ファン目線上等!)

 イケコ1本物お約束の「フィナーレの2番手せり上がり→銀橋ソロ」がだいもんで、テス@蘭ちゃんへのラブソング熱唱なのは、まずいと思う。
 マジでうまいの。
 で、ベネディクトが朗々とテスへの愛を歌うと、本編の彼がまともで真面目な人に見えた分、シャレにならんっつーか……(笑)。

 こんだけ「歌ってもいい」と解放されただいもんを、本公演で見るのははじめて。
 もっともっと、その表現欲の求めるままに、歌い上げていってほしい。


 リビングストン@鳳くんの吹っ切れぶりがすごかった。イレブンの中で、ある意味いちばんすごいかも。
 モロイ兄弟@マイティ&カレーがかわいすぎる。
 ライナス@ききくんはちゃんと「若者」だった。

 ラスティ@みっちゃんは相変わらずうまい。懸念していた癖はあまり感じられず、ほっとした。……でも、いちばん拍手をもらった場面がハゲヅラ医者って、ジェンヌとしてどうなんだろう。どこへ行くんだみちこ、帰ってきて~~。

 みーちゃんは役以前に、オープニングのダンスだけで格好良さにびびる。
 ナニあのエロ美形様!! つか、耽美よ耽美!!

 あきらがんばれー。いろいろとがんばれー(笑)。

 ダイアナ@いちか様は、まかせて安心。お見事。
 銀橋からいきなり落ちてびびり、ナニゴトもなかったかのような戻りっぷりにもびびった。あの超ハイヒール(しかもピンヒールっすよ!)であの高さから落ちて、何故無事でいられるんだ……身体能力すげえな。

 マイク@がりん、3ジュエルズ@くまくま、ななくら、仙名さん、いい仕事してた。
 てゆーか、がりんくんが想像した以上によくやっていた。


 ヒロインのテス@蘭ちゃんは、想定内の出来だったので、あまり印象に残らず。男役祭りな演目だし。
 フィナーレのデュエットダンスが好きだなー。


 年功序列の花組ゆえ、役の比重をいじるのかと思いきや、んなこたぁない。
 星組『ロミジュリ』が雪組『ロミジュリ』になったとき、ティボルトのソロがカットになり、銀橋を使うのをやめた。……それくらいの改稿でしかない。
 イエン@みつるに銀橋ソロがあった……それだけでイエンが重要人物になるわけじゃないんだがな……そんなら素直にベネディクトに銀橋ソロがあった方が、タカラヅカとしては収まりがいいのになー。
 バシャー@みーちゃんの銀橋は、構成的にも配役的にも、意義がよくわかんニャいし……。
 そしてみっちゃんは、『JIN-仁-』に引き続き、銀橋ソロなし。

 みつるがエトワールで、本気で驚いた。
 なにがなんでも、番手を不明にするつもりらしい。つか、『オーシャンズ11』って「2番手不在」専用演目なの??
 タカラヅカのタカラヅカらしいピラミッドが、好きなんだけどなあ。
 なつかしいなつかしい『Shining Rhythm!』
 通いすぎて大好きすぎて、もーなにがなんだかわからない。

 「いつも同じ」の中村Bの、安定作。
 彼の作品は、デビューから一貫していつも同じ構成。同じ色。

 その中でも、『Shining Rhythm!』は良い出来の作品だった。

 ……ん、だけど。
 正直、中日公演版はあまりうまくはなかったなあと思った。

 いつも同じ構成でのみショーを作り続ける中村Bは、アレンジや変更は苦手ってことか。
 そーいや『ラブ・シンフォニー』も、新生花組向きに施したアレンジが秀逸だったとは、別段思わなかったもんなあ。

 『Shining Rhythm!』がいつもの中村Bでありながら、マンネリと一線を画することができたのは、場面ごとの色の違い。振付家を変えて、メリハリを付けた。

 それが中日版では、メリハリが減った気がするんだ。

 1・オープニング→ 2・スーツものの現代的ダンス場面→ 3・コスプレでいかにもタカラヅカなストーリー場面→ 4・中詰めラテンメドレー→ 5・ムード歌謡銀橋→ 6・作品テーマ部分の総力戦場面→ 7・フィナーレ、という構成だった、大劇版。

 それが、3のコスプレストーリー場面を、ただのコスプレダンス場面にしちゃったことで、山がひとつなだらかになった。
 4のムード歌謡も、恥ずかしさダウン。ふつーっぽくなっている。

 他にも、いろいろと地均しされたっていうか、おとなしい方向へ変更されてる?

 まとまりが出来た、というべきなのかな?
 わたしには、期待していた「ここで上がるぞー!」というメーターの動きが、思っていたより低い位置で止まって、またもとの位置に戻っていくので、「あ、あれれ?」とつんのめってしまった。
 あちこちで。

 これが「新たなる誕生」というアレンジなのか?
 どーせなら、もっと派手な方向にばーんとアレンジしちゃえば良かったのに。


 と、中村Bと作品への疑問はさておき。


 出演者のみなさんには、わくわくハクハク、とーっても楽しませてもらいましたっ!!

 まず、えりたんとはっちさんとみとさんがいる。

 オープニングから、「ここはナニ組??」(笑)
 いやあ、見慣れた光景だわー。違和感ナイわー。


 「Cool Rhythm!」で、めちゃくちゃテンション上がった。
 声が出そうになった。

 うきちゃん、かっけーーっ!!

 ナニあれすごい、すごすぎる!!
 色っぽくて強くてこわくて、素敵すぎる!

 もお釘付け。
 まずい、オトコノコたちが見られない……っ。もったいない、目が足りないっ。

 わたしの大好物、小悪魔。「オンナ」という魔物。
 あの美貌、あの底なし感、たまらんわ。

 うお~~っ、誰かに言いたい、伝えたい、あの子好き、大好き。地団駄踏んでじたばたしたい、そんなキモチだった。


 や、この場面まず、センターがあんりちゃんで。
 …………歌が、ものすごかった…………。

 このショー全部通して、いちばんすごい歌が、ここのあんりちゃん。
 彼女が従えているのが、さらさちゃんといのりちゃんなんだわ、よりによって。

 や、本気で、歌はサイドのふたりに任せてくれ!! と、思った……。

 歌ウマのふたりが無言で、歌がアレなあんりちゃんが声ひっくり返らせてソロ……って……誰得なの……。

 あんりちゃんはキュートな美少女。それでいいじゃん、歌いながらハードに踊って登場、なんてウルトラ難度のことさせないで、ダンスに集中させようよ。

 ナガさんバーテンダーが健在、がんがん踊って歌ってくれるのが、泣けるほどうれしかった。

 ナガさんだ……あああナガさんだー。

 ゆめみポジのヒメも、場に合わせた歌声。素敵。

 あとねあとね、順番前後しちゃってるけど、最初は男たちだけが登場して踊るでしょ、きんぐが、アクセル全開なの。
 きんぐ見てるだけでおなかいっぱいになるよー。

 うきちゃんにしろ、きんぐにしろ、この場面入るのはじめてよね?
 このものすげーかっこいい場面で、本気で「獲るぜ!!」な感じで鼻息荒いの。
 それがもお、かっこいいやら愛しいやら。

 目が足りないまま終了しちゃった。
 この場面好きだー。もっぺん見たいよー。


 次の「アンダルシア」は消化不良。
 なんか、ずいぶん地味な場面になったなあ。ドラマティックな場面だったはずなのに。
 そのままやればよかったのに。

 ただ、朝風くんソロに、大喜びした。
 彼にソロがあるとは思わなかったよ!! どーしちゃったの中村B、脇の歌ウマさんを使うなんて。いつもなにがあっても「上から順番、1・2・3!」の人が。

 つくづく朝風くんが好みだ。

 あの無駄に濃く、ワルい顔しまくって、ひとりでドラマ作って踊ってるとことか……ライトろくにあたってないのに、それでもひとりでずーーっとやってるとことか、ツボ過ぎる。


 中詰めのはじまる前、セリが落ちている段階で、ワクテカが止まらなかった。
 あそこから出てくるのは、以前はヲヅキさんだった。
 それが今回は……。

 大ちゃんキターーッ!!

 安定の大ちゃんですよ、きゃ~~!


 この中詰め、なんかわたしやたらとかなとくんビューでした。
 目に入るの! つか、目を奪うの!!
 かなとくん、その髪型反則! もともと美形だけど、さらに美しすぎてやばい。好み過ぎてやばい。
 ……そして、ダンスの不自由さ、もったり感もまた、やばい……(笑)。

 コマつんの「まっつステップ」!!
 てゆーか、「まっつステップ」、やるんだ……変更なしなんだ……。
 まっつがまっつステップ、っていうネタじゃなくて、マジだったんだな……。そんなことに感心する。

 また、前回に引き続き、ナガさんがまっつステップをやっているのを見て、胸熱……。

 そーいやオープニングだっけ?
 「大ちゃんの後ろの男役さん、すっぽり隠れちゃってカケラも見えない! 大ちゃんのサイズ感、雪組ではびびる」とハラハラしたら、その真後ろの小柄さんが、ナガさんだった……。

 そして。

 はっちさんとみとさんのデュエット。

 え、ええっと?
 これはナニ?
 前回はたしか、ちぎみみデュエットだった、よ、ね……?

 2番手とトップ娘役の場面が、何故専科さんと組長……?!!(白目)

 いやその、いいんだけど……中村B、ナニを考えているんだ……?

 客席降りは楽しかったー!
 うきちゃん近かったの! あああ、うきちゃん!!(落ち着け)


 「光と影」の影は翔くん。
 ダンスだけで、歌はカットか別の人が歌うのかと、勝手に思っていたよ……。

 歌もそのままだった(笑)。

 いろいろと構えていたので、思ったよりはずっと歌えていたので、ほっとした。

 えりたんはほんと、えりたん。
 彼の光は、「光」という役をやるのに遜色ない。


 なんかいろいろ混乱していたせいか、フィナーレでコマつんの歌声を聴いた途端、どーっと泣けた。

 無意識のうちに、力が入っていたらしい。
 緊張していたものが、コマくんによって解放された。
 彼は、変わらない。
 わたしが知っている『Shining Rhythm!』まんまの歌声を、やさしく響かせてくれた。


 そして、そのあとのロケット。

 ロケットボーイ@あすくんの、歌声。

 このショーのなか、最高の歌声だったと思う。
 耳に優しい、やわらかで豊かな声。

 ほっとした。
 なんかすごく、ほっとした。
 キムくんがいないと歌唱力がここまで変わってくるんだ、という公演にて、ほんとに素直に通るきれいな歌声を聴けて、耳がほっとしたらしい(笑)。

 あすくんがまた、いい表情で。
 踊り終わったときの笑顔ときたら。まさに会心!!って感じ。
 はじめての大役。その初日。
 やり遂げたね。


 芝居では髪型やお化粧のせいかと思っていたけど。
 やっぱあゆっち、太い……と、ショーでも思った。
 リフトはなくていいんだけどなあ。
 トップコンビに合ったショーと振付で。

 あと、さらちゃんもなんか丸かったなー。

 そしてうきちゃんは、やさしい笑顔で淑女っぽく踊っているときは、わたしのセンサーが反応しないらしい……(笑)。


 結局のところ、楽しいんだ、『Shining Rhythm!』。
 いいショーだと思う!
 中日公演、お披露目、えりたん……。

 『Shining Rhythm!』を観ながら思いだしていたのは不思議と、まとぶんお披露目『メランコリック・ジゴロ』『ラブ・シンフォニーII』だ。

 あれは5年前の2月。
 新生花組のプレお披露目に、名古屋へ駆けつけたんだった。

 わたしはオサ様ファンで、オサ様退団公演のショー『ラブ・シンフォニー』を観すぎていて、新トップと新生花組で再演されることに、軽い惑乱を感じながら客席にいた。
 や、全トップの退団公演がそのままプレお披露目になるのはよくあることなので、それはかまわない。
 純粋に「細胞に染みつくぐらいリピートした作品を、別モノとして観る」ことに神経が混乱した。

 トップがオサ様。2番手がまとぶん。3番手が壮くん。
 オサ様が卒業するんだから、当然次はトップがまとぶん、2番手が壮くんだと思った。3番手にはみわっちがなるんだと思った。オサ様と共に花組を盛り立てたみんなで、新生花組を作っていくのだと思った。

 それが、トップまとぶんはその通りだったけど、2番手は壮くんじゃなかった。壮くん以下は番手据え置き。
 『メランコリック・ジゴロ』と『ラブ・シンフォニーII』、トップがまとぶん、2番手役が壮くん、3番手がみわっち……と、オサ様退団発表時に想像した次代の花組の顔ぶれでの公演なんだけど。
 次の本公演からは、そうじゃない。

 番手据え置きかあ……有限であるジェンヌ人生にて、トップ代替わり時のポジションアップなしって、大きなペナルティだよなあ。
 そう思ったことを、今さら、思い出した。

 5年前、中日公演で新生花組の2番手役を務めていたえりたんは、番手据え置きな人だった。
 そして今、中日公演で新生雪組の2番手を務めているちぎくんも、番手据え置きな人だ。

 組替えはタカラヅカにあってしかるべきものなので、それに対してどうこう思うのでも、組替えでやって来た人に対してどうこう思うのでもない。
 わたしの贔屓も、番手据え置きも組替えも、経験者だし。

 ただ、シチュエーションが似ているために、いろいろと混乱した。

 何十回と観たショー。
 新生組のプレお披露目。
 中日劇場の2月。
 代替わりしたけれど、中心の番手の人たちがポジションアップなし。

 どちらの公演にも出演している、えりたん。
 えりたんの笑顔。
 えりたんの声。

 なんだろう。変に切ない。

 いろんな要因が重なって、花組時代のいろんなことまで思い出して、より切ない。

 『メランコリック・ジゴロ』で、客席通路に隠れてたまとぶんや彩音ちゃん、えりたんのドヤ顔、すみ花の泣き顔、みわっちのオトコマエぶり、まっつ一花のカップル……いろんなことが浮かんできて。
 なつかしくて、愛しくて、切なくて。

 あのときえりたん、トップになれるかどうか、わかんなかったよなあ。
 雪組で2番手に上がれるタイミングだったのに、3番手のまま花へ組替えになって、花組で2番手に上がれるタイミングだったのに、3番手据え置きで。
 さすがに2回やられたら、不安になるよな。
 それでもえりたんはえりたんで、ぺかーっと輝いていた。

 そのぺかーっとした笑顔を、思い出した。

 そして。

 『ラブ・シンフォニーII』で、えりたんのダンスのアレさに目を覆ったことも、ついでに思い出した(笑)。

 えりたん、ダンス苦手な人だったよね……。

 ダンスがやたら多く、群舞だらけの中村Bショーだと、ダンス苦手な人は大変だよなー。
 花組はしばらく中村Bあたってなかったんだなー。『ラブ・シンフォニー』以来なのか……壮くん、『ラブシン』は全ツ合わせて3回も出てるんだよなー、だから『ラブシン』は慣れたけど、それ以外の中村Bは久しぶりだよな……それでこんなことに……。

 いや、それでも、5年前に比べると「スターらしいダンス」になったと思う。
 ダンスの善し悪しなんかさっぱりわからない、ド素人のわたしが言うのもおこがましいですが、見せるのがうまくなったなあと。

 「壮一帆が、真ん中にいる」ということが、不思議な感じがする。

 あたし、ずいぶん長い間えりたん見てきてたんだなあ。
 その彼が、ついに真ん中にいるんだ。

 「壮一帆が、真ん中にいる」ということが、うれしい。

 芝居のときは、感じなかった。大劇場じゃないし。中劇場で主演することなんて、スターさんならあって当然だし。

 ショー作品で真ん中にいる。
 それは、トップスターの証。

 壮くんのことは、うれしい。

 しかし、それと同時に、今観ているモノが『Shining Rhythm!』であるということに、とまどう。

 『Shining Rhythm!』、観すぎてきたから。細胞に染みついているから。
 キムみみちぎまっつヲヅキ……という「順番厳守!」の中村Bの構成する布陣を観すぎていたから。

 壮あゆちぎ翔大……だと、ナニ組を観ているのか、わからなくなる。
 や、あゆっちもちぎくんも翔くんも、前回の『Shining Rhythm!』に出演しているけど、ちぎくん以外ポジションが持ち上がりではなく総入れ替えになってるもんだから、画面が違いすぎて。

 「上から順番、1、2、3」の中村Bなのに、コマくんが持ち上がりでまっつのポジに入ってない……。
 まっつポジはいろんな人に振られていて、コマつんはその中の一部、オープニングと中詰めの短いメドレーダンスと最後のパレードぐらい。
 まっつの見せ場であった「アンダルシア」の恋敵役、中詰めのソロ、「光と影」の影Aは、全部コマくん以外だった。こんな振り方って……。劇団め……。組替えしていくコマくんに、晴れ舞台用意してくれよー。


 キムくんの『Shining Rhythm!』が染みつきすぎていて、いろいろと不思議だった。

 えりたんとキムくんでは、別モノ過ぎて、比較することは出来ない。

 だから、「比べる」のではなく、「ちがう」ことだけに、わたしの少ない脳細胞が混乱しまくっていた。

 えりたんがすごいのは、ダンスが苦手でも、歌がキムくんほどうまいわけではなくても、キムくんの役を、全部まるっと「自分のモノ」にしてしまうところだ。

 これはえりたんだ……別モノだ……比べる気にもならん……。

 や、そんなつもりがなくても、比べちゃったりするじゃん、人間だもの! 覚悟していたつもりだけど、反対にそれがまったくなくて、そっちにびびったわ。

 あ、もうひとつ思い出していた。
 「キムと同じ役を演じるえりたん」というキーワード。
 『お笑いの果てに』とわたしが呼んでいる、抱腹絶倒のバウ公演。中村Aに芝居を書かせるな、としみじみ思う破壊作。えりたんとキムくんが、同じ作品で主演したのだわ。最初がえりたん、次がキムくん。
 ……えりたんがもお、へたっぴでね……この空気読めない大根役者、どうなることかと思いましたよ(笑)。
 同じ役をやったキムがめちゃくちゃうまくてね……同じ作品とは思えなかったもんですよ……。

 えりたん、ほんっとうまくなったよなあ。歌も芝居も!!
 早くから完成されていたキムと違い、えりたんってばえりたんらしさはそのままに、ほんとに大人になったんだー。

 そんなことも思い出し、さらに胸がきゅんとなる。
 キムも好き。えりたんも好き。
 昔の雪組も、そしてこれからの雪組も。
 

 えりたんの『Shining Rhythm!』。
 わたしの中では、なんの問題もなく、キムの『Shining Rhythm!』と同列に、存在している。
 両方アリだと思う。
 すごい。


 えりたんの『Shining Rhythm!』。
 それでいい。
 ただ、5年前の『メランコリック・ジゴロ』や、過ぎていった時や、もういなくなったジェンヌや、そのときや今の複雑な思いや、タカラジェンヌたちへの愛しさが、全部いっしょくたになって、ただもお、苦しい。
 えりたん、あゆっち、新生雪組公演スタートおめでとー。

 毎年恒例、在来線を乗り継いで名古屋へ行ってきました。
 慣れたもんだ、時刻表いらねえ(笑)。

 電車の中からいつも見かける雪景色もなく、名古屋の街も落ち着いたお天気で、ああキムくんはいないんだなあと思った……。
 雪組の初日というと、雨か嵐か雪か台風かだったもの。

 そしてはじまる中日公演。
 演目はまず、『若き日の唄は忘れじ』

 初演は観ています。大変良いお話でした。でも、好みの話じゃなかった。「何故この話を、タカラヅカで、大劇場でやっているんだろう?」という疑問がぬぐえなかった。
 物語の最初が主人公たちの子ども時代で、しかもそれがけっこー長い。
 トップスターが子ども時代も演じる場合は多々あるが、こんなに長くはふつーやらない。
 子ども時代がえんえん続く物語は、タカラヅカに向かない。
 また題材も渋すぎて、梅田コマ劇場でやった方がいいんじゃないかと思った。

 いい話だよ。泣けるよ。感動するよ。
 ……でも、それとは別。タカラヅカで、大劇場でやらなくてもいいんじゃ? 

 と、思っていた。

 それが今回。
 まず、大劇場じゃない。年配客も多い中日劇場。大劇場より小さいし、出演者も少ない。
 コンパクトな箱と少ない出演者、そして渋い客層。
 これだけで、初演で抱いた疑問の半分は解消された。
 衣装やセットや演出も、中劇場でなら問題ない、寂しくない。

 そして。

 壮さん、マジ妖精。

 半分子ども時代なのに、違和感ない!!
 わたしが苦手な「大人が無理をして子どもを演じている」感じ、しかもその子どもが、設定年齢より遙かに幼く、いびつになりがちなタカラヅカの子役っぽさがない!!

 子ども時代といっても16歳設定なんだけど、なにしろタカラヅカだから、16歳でも小学生みたいな発声や所作を取らせるでしょ? わたし、アレがものすごく苦手で。
 『若き日の唄は忘れじ』はそこまで頭の中幼児みたいな芝居はしていなかったと思うけれど、大人っぽい持ち味のシメさん、あやかちゃん、マリコさんたちが「子役」をやっている姿は、「わたしが見たいトップスターさんはこんなじゃない、わたしが観たい『タカラヅカ』これじゃない」という思いがぬぐえなかった。
 後半、大人時代がどんだけカッコ良くても、最後大泣きして終わっても、「大人時代メインで書いてくれてもよかったのに……」と思えた。

 その「苦手感」がずっと心に残っていて。

 当時高齢トップと言われていたシメさんより、さらに高学年でトップに就任するえりたんが、しかもすっかり大人になってしまっているえりたんが、あの「文四郎16歳☆」をやるのか……と思うと。
 どうなるんだろう……。

 って。

 えりたん、16歳ぜんぜんOK。

 いや、「16歳」がOKなんじゃないな。
 えりたんはえりたんというイキモノなので、年齢とか関係ないんだ。
 文四郎が16歳らしいか、16歳として違和感がないかというよりも、えりたんがぺかーっとした笑顔で「文四郎16歳☆」って言うと、「ああ、そうなんだ」とうなずいてしまう。

 この人、妖精だわ。タカラジェンヌという妖精さんだわ。

 大人になったあとも、劇的な変化はない。なのに、ちゃんと大人なんだ。大人の男なんだ。

 そしてもお、姿の美しさ。
 剣を構える端正さ。

 うわあああ、えりたんすごい。
 えりたんかっこいい。


 文四郎の親友たち、逸平@ちぎくんと与之助@コマ。

 コマはドジなめがねっこ。コマの得意分野、場をさらっていく。この人の持つ空気感、間、って、得がたいモノだなあ。

 意外にいろいろ不自由そうに見えたのがちぎくん。少年時代も大人になってからも。
 こんなにしどころのない役だっけか? キャラが立っていないというか。
 初演では豪放かつカッコイイ役だと思ったんだが……。
 芝居ラストのソロには、椅子から転げ落ちるかと思った……ちぎくんの歌、わたしはかなり耐性付いてきてると思ってたんだけど、これは驚いた……。しょ、初日だからだよね?

 ふく@あゆっちは、芝居も声もいいんだけど……。
 見た目が……ええっと。

 頬のラインがシャープだったら、きっときれいなんだろうな。顔立ちは華やかにかわいらしいんだもの。
 また、日本髪があゆっちの輪郭の欠点を際立たせている。それは気の毒なんだけど、タカラヅカは日本物もやる劇団なんだから、がんばって似合うようになってくれとしか。

 野風@『JIN-仁-』と同じ感想だ。芝居も声もいいのに、ビジュアルに難あり。
 残念だ……痩せさえすれば、完璧なのに。ただ、痩せさえすれば。

 トップ娘役として君臨すれば、きっとどんどん痩せてきれいになっていくんだと思う。きっと、これから。


 意外に良かったのが、武部@きんぐ。

 きんぐが、悪役。

 最初のいい人っぷりから、変貌がステキ。
 ちょっとちょっと、きんぐなのに悪役ですよ、ちょっとちょっと、きんぐなのにカッコイイですよ。(きんぐをなんだと思って……)

 含み笑いとか侮蔑の瞳とか、台詞のないところがいちいちかっこいい。
 今までのいろいろすべってきた彼を見てきた身としては、「ちゃんとカッコイイきんぐ」に胸がハクハクします(笑)。


 改めてこの『若き日の唄は忘れじ』という作品を観て、オトコノコの夢が詰まった話なんだなと、微笑ましくも半笑いなキモチになった。

 幻の必殺技に、初恋の女性とその子どもを守って戦うヒーローな俺、だもんなあ。
 ハードボイルドや少年・青年マンガの鉄板ネタかあ。最後、愛する女性と結ばれないのも、男子らしさ。男はそーゆーの好きだよなー。

 『めぐりあいは再び』とか『Le Petit Jardin』とかが、女子が書いた女子の夢の詰まった物語、であるのと好対照。
 男子が書いた、男子のための夢物語(笑)。

 えりたんは「男子的なモノ」が似合う人だと思う。
 からっとしていて、女女したところが芸風にナイ。無機質すぎて、昔は変な方向に行っていたくらい。
 彼が『ベルばら』役者なのも、『ベルばら』が男尊女卑の権化みたいな植爺の男脳で書かれた作品だということも、根底にあるのかもしれない。

 いや、いい作品、いい公演でした。
 初日だからいろいろ大変そうだったけど。せっかくの幻想のラブシーンで、袴がきちんと着れていないことに気が行っちゃって、「いったん引っ込んだから大丈夫、きっときちんと袴を穿いて出てくるはずだわ……って、そのままかよっ」とか、「スカステの編集さん大変だな、こっち側はテレビで放送できないじゃん。こっち向いてるこの瞬間だけ流して、次はカットを変えて、とかしなきゃダメじゃん」とか、どーでもいいことに気を取られちゃったりなー。
 や、どんな格好でも、えりたんは白くすがすがしく美しかったです。
 ともちん本を手にしたときの第一印象は、「かっこいい」「ステキ」などでなく……いやもちろんそれも「きゃ~~っ!」という黄色い悲鳴と共にわき上がってきたけれど、それ以前に、それ以上に。

 ふつうだ。

 と、思った。

 え? え?

 ともちが、クマの着ぐるみ着て寝転がってるんぢゃないのっ?!

 と、最初にカバーめくって、ふつーなことに驚いちゃったよ。
 誰かさんの影響で!! パンダの着ぐるみ着て、うれしそーにキザったりポーズつけたりしてた人がいたせいで!(笑)

 そっかー……カラダ張ってお笑いやる必要はないんだなー……。
 ふつーに二枚目で終始していいんだー。


 先に出ていたまっつ本を熟読しすぎていたせいで、いちいち比べてしまう。
 いやあ、なんつーか。

 個性が際立つね。

 ともち本は、派手だ。明るい。
 表紙に使われている色数からして違う。
 ともち本はフルカラー、まっつ本は2色刷って感じ。
 どっちがいいと言っているのではなく、個性が出ていて、双方いいなと。

 ともちんの明るさや派手さをいいなあと、うらやましいなと思うけれど、かといって、コレをまっつにやって欲しいとは思わないんだもん、これでいいってことなんだろう。

 男役を極めつつある彼らは、侵しがたい個性を持つ。
 良くも悪くもそれは確固たるモノで、半端なことで揺らいだりしないのだ。

 そのことがよーっく現れていて、愛しい(笑)。


 あー、ともちかっこいい……。
 ともちん本の方が、より「写真集」っぽいな。素顔写真ページが多いからかも。まっつは扮装写真が多く、素顔ショットは(インタビューの間のカット以外は)冒頭のみだったため、企画モノ・読み物的な印象。

 わたしはともちの素顔も大好物なので、ありがたくいただきます。うまうま。

 で。
 単純に「ともち好きだしー、まっつ本が読み応えあったしー、ともち本もきっと楽しいぞー」てなキモチで発売日にいそいそ梅田キャトルレーヴへ行き、特典写真もいただいて、わくわく帰宅したわけなんですが。

 写真を眺めてきゃーきゃーするだけでなく、対談やインタビューもじっくり読んで。

 ……インタビューで、泣けてしょーがなかったっす。

 なんだろ。
 「悠未ひろ」の人生を、順を追って語ってある……その言葉に、そのときのともちの姿が、そしてそれを見たわたしがどう思っていたかが、あざやかに浮かび上がるんだ。

 ヅカ最長身長、っていう、ただそれだけで入団前から注目されていた。騒がれていた。だから、抜擢されていた印象があった。
 でもわたしは、好きじゃなかった。
 大きいだけでちやほやされて、それ以上の魅力を感じなかった。
 ゴジラ認識だったもんなあ。カラダが大きいから、だけでなく、顔が似てる、てな。……ひどい。

 それがまさかの、『Le Petit Jardin』でともちオチ。
 ともちがかっこよく見える……今までゴジラ認識だったのに……ゴジラだと思っていたはずの過去映像を見てすら、かっこよく見える……。

 以来、わくわくともちを眺めていたのに。

 危惧したのは、かしちゃんのサヨナラ公演『維新回天・竜馬伝!』。
 ともちひとりが浮いていて、「これからこの人、どうなるんだろう」と思った。
 居場所がない……花道でだけ芝居をさせて、他の人と絡ませない、絡ませられない。大きすぎるともちは、たか花も対で使われていたあひちゃんもいなくなった宙組で、これからどうなるんだろう。
 下級生のみっちゃんが、ともちんより上の番手としてやってきた。劇団としては、学年逆転の生え抜きスターなんて、目の上のたんこぶだろうし。
 すごく嫌な胸騒ぎを感じた。

 不安は的中というか。
 次の本公演、タニちゃんお披露目の『バレンシアの熱い花』で専科さん役になって……ともちんも「わきまえた」たたずまいになっていて。
 このまま七帆くんにも抜かされて、完全な脇に、または退団するしかないんだろうな、って空気が漂っていて。

 不安を感じる合間合間に、ぽーんと跳ね上がる空気があった。
 それが、タニちゃん時代の『A/L』や、『Paradise Prince』で。

 ともちん本の対談相手がサイトーくんだと知ったときに「さもありなん」と思った。
 あの『維新回天・竜馬伝!』を観たあとに『A/L』を観て、どんだけよろこんだか。
 それまでともちんは「動く背景」「(どうでも)いい人」ばっかやってきたんだ、たか花時代。
 ともちんに「悪役が出来る」と新たな道を示したのが『A/L』のサイトーくんだ。
 そしてともちんは、『A/L』以降ずーーっと悪役、敵役ばかりやらされるようになる。
 それがサイトーくんの『TRAFALGAR』で、突然ともちん本来の持ち味の役、「いい人」の役。
 そっから先は、みんな思い出したかのようにともちにも「いい人」をさせはじめる……。

 ともちの岐路には、いつもサイトーくんがいた。

 そんなこんなが、鮮やかに浮かぶ。

 わたしがともちんを見て危惧していた、そのときほんとにともち自身も途方に暮れていたんだ、迷っていたんだ……当時のことが思い出されて、気がついたら泣いていた。
 ずいぶん読み進んでから、顔がびちゃびちゃなのに気がついて、ちょお待てオレ泣いてんのか、とびびる……。いつから泣いてたんだ、泣くとは夢にも思ってなかったから油断しまくってた。

 や、わたしなんかゆるいファンなので、各組に好きな人がいて、「宙組ではともち!」だっただけの、その程度のファンで、だから本気のファンの人に対して「なにをおこがましいことを言ってんだ」ってもん。
 だけど、ゆるくだけど、ライトにだけど、ともちを好きで、彼を眺めて来た年月は、たしかにわたしの中にあって。


 「女優さんや歌手を目指してきた訳ではない」というともちの言葉に、また、改めて泣く。
 「宝塚の男役」を目標に突き進み、今、タカラヅカの男役である、ともち。
 タカラヅカは有限の楽園。みんないずれはここを旅立ち、他の世界で生きることになる。
 人生は長く、タカラヅカは一瞬。

 その儚いものにこだわり、愛し続ける姿が、愛しい。
 誇らしい。

 「悠未ひろ」でいてくれて、ありがとう。
 心から、そう思う。



 いい本だ。
 ほんっとにいい本だ、『My style』。
 出してくれてありがとう。



 ところで、『My style』の3冊目は誰?
 なんでまだ発表になってないの?
 まっつ本発売時には、とっくにともちん本が発表になっていたよね?

 『オーシャンズ11』上演時期に合わせて、みつる本だと信じてるんだけど……出るよね、みつる本?

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