わたしってもう、どんだけ鈍感になっていたんだろう。

 宝塚大劇場の活気、「祭りだ!!」という雰囲気の中で、改めて思った。

 今回の、『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』のポスターって、めちゃくちゃキャッチーじゃん。

 『ベルばら』の本来の主人公は、アントワネットだろう。作者自身がいちばん最初に書こうとしていたのは「悲劇の王妃・マリー・アントワネット」だ。彼女を彩るサブキャラとして、男装の麗人オスカルが誕生した。
 しかし、オスカルの人気が出すぎてしまったために、連載途中で軌道変更、それに伴いまったくの脇キャラだったアンドレが主要キャラに格上げされる。
 いちばんの盛り上がりはオスカルとアンドレの恋、そしてその死になってしまい、肝心のアントワネットは「本編が終わったあとのおまけ」みたいな扱いになって、終了した。

 読者人気ゆえに作品が変わった。作者が読者のニーズに応えた。
 つまり、それくらい「市井の人々」が求めているのはオスカルだ。
 『ベルサイユのばら』を名前しか知らない人が、唯一キャラクタ名を知っているとしたら「オスカル」で、高い認知度を持っているのも「オスカル」だろう。

 アントワネットはオスカル人気にはまったく及ばないし、フェルゼンに至っては、知名度ほとんどナイのでは? 原作ファンやヅカファンにではなく、「タカラヅカといえば、『ベルばら』でしょ?」「『ベルばら』って名前しか知らない」という人々にとって。

 一般人がタカラヅカに求めるモノ。
 それは、オスカル。

 タカラヅカが「男役」のいる世界だから。
 タカラヅカ=『ベルばら』、タカラヅカ=オスカル。

 外部でヅカがパロられるとき、大抵オスカルもどきが登場するくらい、オスカルこそがタカラヅカであり『ベルばら』だ。

 ……そんな最低認識を、すっかり忘れていた。

 ヅカヲタとしてしかポスターを眺められないから、「トップ娘役がこの扱いってどうなのよ」とか「すっきりしてるけど、なんかサミシイなあ」とか「みりおくんきれーだなあ」とか「らんとむとえりたんアンドレにワクテカ」とか別なことを考えていましたよ。
 や、わたしまさおスキーなので、彼がオスカルコスプレしている段階で、なんかニヤニヤが止まらないしな(笑)。

 そうじゃなくて、わたしがまだヅカヲタじゃなくて、「タカラヅカと言えば『ベルばら』」としか知らなくて、原作やアニメの『ベルばら』が好きな、ふつーの女の子、……つか、ふつーのおばさんだとして。

 『ベルばら』=オスカル。
 タカラヅカ=オスカル。

 そんな認識しかない状態で、このオスカルとアンドレだけが立っている『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』というポスターを見たら。

 たぎる。

 むちゃたぎるわー、あらぶるわー。

 わたしが漠然とイメージしているモノ、「機会があったら体験してみたいな」と思っているもの、そーゆーモノが詰まってるじゃん? 凝縮されてるじゃん?

 うわ、このポスターいいわー。
 観てみたい!! と思うわー。

 アントワネットには出て欲しい、だって豪華なドレスが見たいから。「これぞタカラヅカ!」な華やかな宮廷シーンが見たい。でも、フェルゼンはどうでもいい。オスカルとアンドレさえ出ていれば。
 それくらいの感覚。

 今はヲタだから、主要キャラみんな出て欲しいとか、どんだけキャッチーでも植爺作品嫌いだし、ストーリーとキャラの人格破綻してたら新規顧客開拓につながらないし意味薄いんじゃ、とか、「フェルゼンというキャラの難しさ、どうするよウチの組はフェルゼン編だよ」とかアタマ抱えることはいろいろあるけれど。
 そうじゃない、一般人だったらほんと、今回のポスターはいいよなー。


 『ベルばら』は、ヅカファンのためにあるんじゃない。
 宝塚歌劇のためにあるんだな。

 キャトルレーヴのにぎわい、そして。
 在庫一掃処分市会場めいた品揃えに、震撼した。

 過去の『ベルばら』関連商品、お蔵出し!!
 2001年からあるんじゃないか? 作るだけ作って売れ残ったままの、数々のグッズ!!
 「『ベルばら』ならなんでもいい」「どーせスターの見分けなんかついてない」「オスカルやアンドレの扮装さえしてれば、顔も名前も関係ない」と言わんばかりの、ひどい内容。

 うわー……。
 これはひどい(笑)。

 一般客を騙して売りつける気、満々(笑)。

 だって、現在の公演グッズと同列に並べてあるの、あさこアンドレとかわたるフェルゼンとか。
 「これは何年の公演のものです」という注意書きはナシ。
 なにも知らない、はじめてタカラヅカを、『ベルばら』を観る客が、「『ベルばら』のグッズを記念に買って帰りましょう」と間違って買うのを期待して、一緒に並べているの。

 彼らが求めているのは「今、自分が体験した『ベルばら』の記念品」であって、何年も前のすでにいない人々の写真ではないと思うんだけどなあ。
 「タカラヅカなんてどれも同じ、演じている人だって誰でも同じ、『ベルばら』の扮装さえ映っていればそれでいいのよ」って人も多くいるかもしれないけれど、だとしても、「これは2006年の売れ残りですよ」とか正確な情報を告知した上で、あとは客の判断に任せるべきじゃないのかなあ。

 『ベルばら』の経済効果はすごいんだなあ。
 もう売れることはほとんどないだろう、大昔のグッズまでこうやって、ふつーに売り場に並ぶ、不良在庫処分まで出来ちゃうんだもんなあ。
 そりゃ劇団は伝家の宝刀認識だよなあ。
 や、退団した過去の偉大なるスターさんたちのグッズを不良在庫呼ばわりして申し訳ないけど、彼らの功績とは別の話だから。


 みんなが求めるモノ、を具現化したまさみりと劇団はすげえなと思う。
 この「祭りだ!」状態を創り上げた、今回の公演を、すごいと思う。

 そしてわたしは祭り好きで、大好きなタカラヅカがたくさんの人に観てもらえるのがうれしいので、とりあえず、うれしいのだ。テンション上がるのだ。

 注・こあらは、月組公演『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』をまだ観ていません。
 宝塚大劇場へ行ってきました。

 なんというか……『ベルばら』って、いいね!!

 注・こあらは、月組公演『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』をまだ観ていません。

 門をくぐるなり、行列が出来てるんですよ。
 なんの行列だと思う?

 「シャンシャンを持って記念撮影」に、列が出来てるの!!

 劇場入口前でやっている、アレ。
 写真屋のにーちゃんがひとりぽつんと立っていて、控えめに声掛けしてる、アレ。
 シャンシャンのレプリカ持って記念撮影できますよ、って、吹きっさらしの屋外で。
 団体客向きのひな壇があって、シャンシャン関係なく、団体さんが来たときはふつーに「宝塚歌劇観劇記念」とか撮影している、あそこですよ。

 団体さんたちが記念撮影している姿は見たことあっても、シャンシャン持って記念撮影している人なんか、ただの一度も見たことがナイ。
 劇団が小銭稼ごうとがんばってるけど盛大にスベってる……その姿を毎回見せつけられるようで、苦手だった。真夏も真冬も、誰ひとり立ち止まることのないヅカファン相手に、写真屋さんが寂しく「シャンシャンを持って記念撮影できますー」と声掛けしているのが侘びしかった。

 リピーター基本のヅカファンは、そんなところで無駄金は使わない。
 第一、劇場の中には、「プチミュージアム」っちゅーもんがあってだね、わずか400円で前回公演の展示を見た上で、大階段気分のセットの前で自分のカメラで記念撮影できるのだよ。
 「シャンシャン風」でしかないレプリカを持って、写真屋さんに取ってもらう必要なんか、どこにもない。

 門のところの記念撮影は、ほんとにヅカファン以外、観光客向けのサービスなんだ。

 その、ただの一度も客がいるのを見たことないコーナーに。
 行列が。

 ヅカファンぢゃない人たちだ……。
 「『ベルばら』だから」やって来た、ぜんぜん関係ない、まったくの一般客だ……。
 や、どの公演だって「タカラヅカはじめてです」な人々はいるだろうけど、やっぱ数が違う。勢いが違う。

 「『ベルばら』だから」なんだ。

 『ベルばら』すげえ!!

 改めて、思った。


 劇場内の、賑わいったら。

 最近では星組公演時に、「え、なんで?」ってくらい盛況な雰囲気は味わったけれど(サヨナラ公演の盛況さは色が違うので置いておく)、『ベルばら』の盛り上がりは、また格別。

 星組のときはヅカファンたちがわくわく大挙してきた感じだったけど、『ベルばら』はそうじゃない。
 もっと、雑然としている。
 ヅカファンだけじゃない。もっともっと、客層が広い……つか、雑多な感じ。

 はじめて、タカラヅカに触れる人たち。
 以前、ファンだった人たち。
 ファンとまでもいかないけれど、以前、好意的だった人たち。
 好意的ですらないけど、前に来たことがあって、それは悪い記憶ではなかった、程度の人たち。

 現在のファンや好意的な人だけでなく、その「以前」の人たちや、はじめての人たちが『ベルばら』というタイトルに惹かれてやって来ている。

 それは昔観た『ベルばら』の記憶かもしれないし、「タカラヅカといえば『ベルばら』」という認識ゆえかもしれない。
 とにかくみんな、「これから『ベルばら』を観るんだ」という期待で、わくわくしている。

 たくさんの人の、「わくわく」が、そこにある。
 「わくわく」が、満ちて、キラキラあふれている。


 わたしは、うれしくなった。


 それがなんであれ、「わくわく」が詰まった場所は、こんなにこんなに愛しいのか。うれしいのか。

 みんな一様ににこにこしてテンション高くて、日常ではないお出かけ……ハレの日を、楽しんでる。

 タカラヅカって……宝塚歌劇、って、そういうもんだよなあ。

 わたしはヅカヲタで、タカラヅカはよく知る日常的な空間で、たとえ初日でも日曜日でも、初心者や団体さんの多い日でも、やっぱりそこはいつものヅカファンが大半を占める慣れ親しんだ空気のある場所で。
 ヅカヲタはヲタ度が上がるに従って、無条件で作品を楽しめないじゃないですか。いろいろ雑音入るじゃないですか。
 無邪気に「わくわく」した人たちだけで、場がいっぱいになることって、そうそうないじゃないですか。

 こんなに、ヅカファン以外の人々をも巻き込んだ「祭り」状態は知らずにいた。

 や、これまでも『ベルばら』はあったんだし、そのたびにそんな雰囲気はあったんだろうけど。
 近年のタカラヅカはいろいろ寂しかったし、一般的な娯楽として世間から求められていない様子が顕著だったし、コアに小さく濃く固まっていっていたような、そんな感覚があったから。
 余計に、この空気を、活気を、爆発的に感じるんだろう。

 わたしは、植爺の『ベルばら』が大嫌い。
 キライ過ぎて無視できない、キライだとわめかずにいられないくらい大嫌い。

 だけどやっぱり、『ベルばら』ってすごいと思う。
 そして、『ベルばら』を、好きだと思う。

 こんな風に、たくさんの人たちがキラキラわくわくしている。
 無邪気に、無条件に、「これから『ベルばら』を観るんだー!」ってことで、わくわくしている。

 それって、愛しいよ。
 たくさんの人が、しあわせなキモチでいる。
 それって、うれしいよ。

 なんか、周囲を見回しているだけで、胸いっぱい。
 じーんと、泣きたくなってくる。

 『ベルばら』ってすごいなあ。
 植爺、すごいなあ。


 ……観れば観たで、きっと「植爺キライ! 『ベルばら』キライ!」って怒ってるんだろうけど(『宝塚ジャポニズム~序破急~』はトラウマレベルで嫌い)、まだ観ていない今、すごくわくわくする。

 25年前のわたしも、「これから『ベルばら』を観るんだー!」ってわくわくこの場所にいたんだ。
 「『ベルばら』だから」やって来た、ナニも考えてない女の子のひとりだった。
 ドレスの娘役さんを見るだけで、軍服の男役さんを見るだけで「うおお、タカラヅカだー!」とかテンション上げていた、ストーリーのおかしさなんか気にも留めなかった、そんなひとりだ。

 そこから、はじまったんだ。
 『ベルばら』があったからなんだ。

 だからやっぱり、『ベルばら』はすごくて、好きだ。
南方仁大明神に、願を掛ける。
 あけましておめでとうございます。

 去年はいろいろいろいろ忙しすぎて、未練と後悔てんこ盛りです。
 自分の限界を知りました……気力とか精神力でなんとかなるもんじゃないっすね。
 根がのーてんきなもんで、このトシになるまで絶望することってなかったんですよ。
 んな経験、中学までに済ませとけっての。トシとってからはキツイですな。

 まあ、今年はそんな状態にならないよう、自衛しながらがんばりまっつ。


 書きたいことがあり過ぎて、溜まり過ぎて、つらいっす。
 時間が欲しい。

 いまのしごとがおわったら、すきなだけすきなことかくんだー。かんそうも、ぱろでぃーも、いっぱいかくんだー……うふふ・あはは。

 そう思い続けて、結局去年はまとまった休みなかったなあ……うふふ・あはは。

 まあねえ、138回も観劇してりゃあ、時間なんか残るわけないっすよねー……うふふ・あはは。
 使った金額もわたし的にアリエナイくらいだったので、マジに自制しないと老後がこわいです。ほんと、収入に合った散財をしようよ……びんぼー人がナニをとちくるったんだか。

 てことで、今年は心を入れ替えて生きたいです。
 堅実に、足元を見ながら一歩一歩進むの。


 画像は、男前な仁先生。「南方仁大明神 厄病防ぐ」とあるので、縁起がいいかなと思って。

 『JIN-仁-』の中詰めで、子どもたちが客席に向かって飛ばしていた紙飛行機です。
 けっこー早い段階でキャッチしてたんで、紙飛行機の裏にジェンヌたちが手書きでナニか書いてたことを知らなかったの。
 これは印刷? 手書き?? って、けっこう悩んだ(笑)。

 恭太郎さん@まっつの銀橋デートスタートのタイミングだから、初日からしばらくは、子どもたちが紙飛行機飛ばしてるの知らなかったし。
 気づいてすぐくらいの観劇で、キャッチした。
 目の前に飛んできたのを、そりゃーもーすばらしい勢いで。「誰にもやらねえ!!」的な感じで(笑)。
 ジェンヌが舞台からナニか配ることってたまにあるけど、それを手に入れたのヅカヲタやっててはじめて。だからもお、食いつきましたねー、それがなんだかわかってなくても。

 手書きなんだ、と気づいたときにいたく感動しました。
 他のジェンヌさんならこれから先、ひょっとしたらどこかでサインをもらう機会も、サイングッズを買ったり当たったりすることがあるかもしれないけど、この人のはなかなか難しいのでは?と思って。

 みとさんのサインGET。

 栄さんの台詞も添えてあるんだけど、これがまたすげー達筆。(そのせいもあって、印刷なのかと思った)

 で、中を見たあとにもとの紙飛行機に戻したかったんだけど……折り方が、わからない。不器用でなあ……。ほろほろ。


 いつもの神社のおみくじは「大大吉」だった。どんな望みも思うまま、だそうですよ。
 去年が後悔だらけなので、今年はがんばりたいです。

 今書きたいのは、雪組公演の続き。
 『JIN-仁-』も『GOLD SPARK!』も、まっつのことも。キムくん卒業の日のことも。コマつん組替えのことも。

 てゆーかベニーバウ書いてない。『銀英伝』も途中だし、新公書いてないし、星全ツ書いてないし、まさちゃぴ『愛短』書いてないし、てゆーか『STUDIO 54』書いてないからみりおくんのことちっとも書けてないし、星新公途中だし、途中といえばだいもんバウもまだ足りてないし、蘭寿さんコンサート書いてないし、『おかしな二人』書いてないし、『タカスペ』書いてないし……あとなんかあった? フランス版『ロミジュリ』なんか書けるわけないな、こんなんじゃ……つか某作品の立さん萌えも書きたかったのになー。

 全部自分の力足りなさだ。
 今年こそは、後悔しないように、毎回ちゃんと書き残したい。

 望みが思うままというなら、書きたいことを、好きなだけ書きたい。
 思いは時間と共に変貌する。記憶は薄れる。
 だから「今」書かなくてはならない。
 書くことが好き。
 1週間です。

 大晦日というより、年末というより、あれから、1週間。
 あれから……雪楽から。

 1週間前の今日、キムくんがタカラヅカを卒業したんだ。

 まるで、夢のよう。
 実感がわかない。



 今年の観劇回数は、138回。
 たぶん、人生最多。

 つか、1年って12ヶ月だよね。1ヶ月に10回観劇したとして120回だよね。
 1年って365日だよね。今年は閏年だから366日か。3日に1回観劇したとして122回だよね。

 ……来年は、おとなしくしよう。


 キムみみ卒業が悲しくて寂しくて仕方ないのだけど、今年の収穫というか、ヅカヲタ人生の収穫は、『フットルース』に出会えたことだ。

 この作品に出会えた、それだけでわたしは、ヅカヲタやってきて良かった。
 そう思える。

 人生に無駄なことなどナニもない。
 わたしが大阪に生まれ、子どもの頃から宝塚歌劇に親しみ、たまたま雪組を観に行き、雪組贔屓にヅカヲタをはじめ、贔屓が変わったり卒業したりを経てまた雪組に戻って来た、音月桂をずっと好きで眺めてきた、未涼亜希にハマり追いかけてきた、なにもかもがこの夏、『フットルース』という作品に出会うために必要な布石だった。

 出会えて良かった。
 あの、奇跡のような公演。

 これから先、宝塚歌劇団に裏切られたり失望したりすることがあっても、この作品を、この公演を生み出した劇団である、というだけで、未来を信じられそうな気がする。
 この『フットルース』を創れたカンパニーならば、また未来に新たな感動を創り出してくれるかもしれない、と。

 それくらい、わたしには意味のある公演だった。

 たとえ、年末特別番組「タカラヅカ歌謡祭-歌で振り返る2012年の宝塚歌劇-」ガン無視されても、な(笑)。存在すら、なかったことかよ……。


 いつか、映像が解禁される日が来ることを祈り続けるわ。
 音月桂のレンを、雪っこたちの「I’m Free」を、見ることが出来ますように。
 タカラヅカの愉しみ方のひとつは、「成長を見守る」ことだ。

 同じ衣装、同じ髪型、性別女子の脚上げラインダンスで初舞台を踏んだひよっこたちが、経験を積むことで舞台人として変わってくる。性別が男女に分かれ、個性が出てくる。その人自身の「顔」が出来上がっていく。
 その変化の過程、成長する姿を眺めるのもまた、まぎれもないタカラヅカの醍醐味。

 最初から完成されたモノじゃない。
 タカラジェンヌは変わっていく。成長していく。
 それを見守ることが、楽しい。

 舞台は生もの、常に変化し続け、幕が下りればみな消えていく。
 未熟な下級生はもとより、経験を積んだベテランだって、変化する。
 たぶん、わたし自身が人生を重ね、変わっていくように。
 タカラヅカを、タカラジェンヌを好きでいることは、人生そのものの追体験でもあるんだ。

 わたしはまっつのファンになって、その「タカラヅカの醍醐味」を体感しているのだなと思う。

 『MISUZU 未涼亜希~My style~』は、解説通り“「未涼亜希の流儀(スタイル)」をさまざまな角度から紐解くスペシャルな一冊です。”という、内容。

 オフ写真、インタビュー、キムくんとのツーショ写真、稲葉せんせとの対談、組子(花組含む・笑)からの質問、過去の舞台写真など、内容は多岐に亘り、ボリューム満点。

 前もって阪急ブックスHPにコンテンツ紹介が上がっていたので、「そこにナニが載っているか」は、ある程度理解していた。

 どの写真、企画も実にツボを突いたニクいもので、愛情とこだわりのあるステキな本になっている。
 それぞれうれしくてきゃーきゃー。
 なんて素晴らしい本だろう……と、ページを繰りつつ。

 あるページで、心臓を鷲掴みにされた。

 スカステのSKY MOOK press gallery「未涼亜希」で、まっつ自ら語っていたけれど、「過去に演じた役を、今演じたらどうなるか」という企画。
 放送ではルイ@『琥珀色の雨にぬれて』のみが映っていたけれど、実は全部で3つ、あとのふたつは見てのお楽しみ、だった。

 過去の役を3つ、そのうちひとつはルイ、たぶんもうひとつはフランツ・ヨーゼフ@『エリザベート』だろうなと見当が付く。
 3つめが、わからなかった。

 企画ページの最初がルイ、次にフランツ・ヨーゼフ……ああやっぱり、ここまでは想定内。
 ページをめくって、息を飲む。

 ジオラモ@『アデュー・マルセイユ』!!


 あれは5年前。
 オサ様退団公演『アデュー・マルセイユ』初日、幕が開いて30分は優に経つのに、まったく舞台上に登場しないまっつに焦りまくった。どういうことなの、わたし、まっつを見逃したの?!と。
 そして、登場するなり……爆笑した。
 http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1478.html ←当時の日記。

 わたしだけじゃない、友人たちみんな大ウケしていた。
 まっつはすごくがんばってた。がんばってたけど……柄違い、格違いの役に、なんともむず痒い、組ファンなら大ウケしてしまうよーなみょーなキャラクタになっていた。

 「まっつ、がんばってたね」と、みんな口々に言うけれど、「まっつ、かっこよかったね」とは、誰も言わない。努力を誉めはしても、出来映えを誉めてはくれない。
 「まっつが面白かった」とは言うけれど、「まっつがセクシーだった」とは、誰も言わない。……セクスィな役なのに……。面白がられちゃ、いかんやろ……面白いけどさ……。

 研10で、その前の公演でも、その前の公演でも、台詞3~4つしかもらえていない、そんな扱いの脇の中堅スターだった。
 薄幸キャラで、泣きそうな表情のヘタレキャラだった。頼りない若者役が、任だと思われていた。

 そんなまっつが、いきなり大人の男の役。
 星原先輩よりも、はっち組長よりも、格上の悪役。

 わたしは大笑いして、ウケまくって、そして、そして。
 うわああぁぁあん、まっつ好きだーーっ!! と、叫んでいた。

 あのカユさごと、足りなさごと、大好きだった。


 あれから、5年。

 今のまっつなら、ジオラモ役を笑う人はひとりもいないだろう。「まっつらしい」役だと言われるだろう。

 この5年で、まっつは変わった。


 「今」のまっつが演じるジオラモの写真に、心臓を鷲掴みにされた。

 5年前、見るなり爆笑した、あの役が。
 大好きだったけど、こそばゆくて笑えたあのうさんくさいおっさんが。

 本物の、「大人の男」として、ここに在る。

 タカラヅカって、こういうことなんだ。
 「成長を見守る」愉しみ。変化していくタカラジェンヌを愛し、彼らの人生を自分の人生と同じように愛しむ。

 わたしは今、「タカラヅカの醍醐味」を味わっているんだ。

 うわあああ。
 もお、もお、まっつ大好きだーーっ!!


 ヅカヲタでよかった。
 まっつファンでよかった。

 そう思える本だ、『MISUZU 未涼亜希~My style~』。

 サイズ感も好き。
 きゅっと詰まった小さな本。
 カバー付きなのがうれしい。
 タカラヅカのムック本って大抵カバーないんだもの。トップスターの写真集くらい?

 中身もなにもかも、うれしいけど。
 好きだけど。

 特に、カバーを取ったあとの、「裏表紙の内側」に、撃ち抜かれた。

 ありがとう。
 この本を作ってくれた人、ほんとにありがとう。
 うれしすぎて泣けた。
 どこか、かわいい子猫いませんかね……。

 いい加減限界だー。
 こんな寒い朝、寒い夜、猫がいない生活なんて。


 トコはその夜、よろよろのカラダでわたしの部屋にやって来た。
 それまでずっと、1階のコピー機の陰に隠れるように、誰にも触られない・見られないところで寝込んでいたのに。
 骨と皮だけのカラダで、2階まで上がってきた。

 彼女が全快する未来を疑ってもいなかったわたしは、「よくなってきてるんだ」と喜んだ。
 今まで飼っていた猫は、ほんとうに具合が悪いと、ほんとうに別れのときが近いと、人間の目と手の届かないところを望むようになったから。

 その1日半後、トコは死んだ。

 やっぱり、わたしの部屋から逃げ出して、1階のコピー機の陰で、だったけど。
 そこがいちばん楽な場所だったんだろうに、それでもわたしの部屋までやって来た。
 わたしのそばまで来て、横になっていた。
 カラダの許す限界まで、わたしのそばにいてくれたんだ。

 よくなると信じていたから、薬もエサも与え続けた。
 手遅れなら、そっとしておいたのに。あんなに嫌がるのを押さえつけて、飲み込ませなかったのに。
 治るって信じていたから。疑ってなかったから。

 エサを食べなくなったトコの口をこじ開けて、獣医さんから指示されたエサと薬を注射器で飲み込ませるのが、わたしの日課だった。
 噛みつかれ、引っかかれ、手が腫れ上がり仕事もできなくなり、わたしも病院へ通い、指にプラスチックを巻いてガードして、それでもエサと薬を与え続けた。
 嫌がるのを捕まえてケージに入れ、獣医さんに連れて行った。

 嫌がることばっか、してたなあ。
 なのに、それでも、部屋まで来てくれたんだね。


 手のケガが治っていくのを、爪の中の出血のあとが、消えていくのを悲しく見ていた。
 手が治る頃には、またトコに会えるかな。きっとすぐに生まれ変わって、会いに来てくれるよね。
 この内出血した親指の爪が生え替わる頃には、新しいトコに会えているよね。

 そう思って待っているのに、まだ出会いがないよ~~。

 爪は生え替わってしまったよ。
 血の色の残った最後の爪を切ったとき、泣けて泣けてしょうがなかった。

 トコが残したモノが、わたしから消えてしまった。


 どこかに子猫、いませんか。
 新たに縁があった子猫を、トコの生まれ変わりだと思って、大切にします。
 『めぐり会いは再び 2nd』新人公演、主演以外の人々の覚え書き。

 プルギニョン@レイラ、よくやっていたし、本役さんほどアホでもキモチ悪くもなかった。……でも、その分キャラが弱いっちゅーか、「……だから?」な役になっているよーな。
 アテ書きだから、本役さんのキモチ悪さを新公で再現しても意味ナイし、レイラくんにはそんな風にはなってほしくないし、ぜひぜひ骨太でかっけー男になってほしいと思っているし、芝居はふつーに学年と過去の役付のわりにうまいんだから、このまままっすぐ育って欲しい。

 ……あ、本役さんを「キモチ悪い」呼ばわりして申し訳ない。ベニーの魅力のひとつ、個性として受け止めてます。つか、ベニーはそーゆーベニーだから好きだー。
 プルギニョンはベニーだからこその役。……他人がやっても成立しない役だよなあ……。


 エルモクラート@麻央くん。
 麻央くん、かっこよくなったなあ。本公演でも思ったけど、痩せたよね?
 彼の武器はなんつってもあのスタイル。コスプレ映えるわー。
 うまくないし、ナニが得意なのかよくわかってないんだけど、とりあえず、衣装着て立ってるとかっこいい。
 この役もマカゼへのアテ書き、マカゼくんのみょーな愛らしさで成立させてしまう役。
 愛嬌の足りないヘタレってのは、ただの責任転嫁男になっちゃうんだなあ、と遠く眺めた。


 クラウス@飛河くん、うまかった。ヒロインのシルヴィア@風ちゃんとふたり、群を抜いてうまかった。
 前回はみきちぐの役をやっていた人かあ。前回の役はKYな台詞を言う役で、たぶん全配役中ダントツの難易度だった。そんな役を任されたんだから新公学年では芝居巧者なんだろう……けど、なにしろ役が難しすぎて盛大にすべっていた。
 あそこまで難しい役じゃなければ、ふつーにうまいよこの子。キラキラした美形さんではないが、いい役者に育ちそう。

 クラウスも嘘っぽいキャラクタなんだけど、今回の「同人誌みたいな話」の中で唯一「動き」のある役。
 だから他のキャラに比べてアテ書き度が断然低い。そして、二枚目寄りの役なので、タカラヅカの男役が演じやすい役。……「アテ書きではない、本役のキャラクタ依存じゃない」という点において、この作品の中で、いちばん演じやすい役かもなああ。


 クラウスの後輩、ルナール@紫藤くん、うまかった。この役も上記のクラウスと同じ、「アテ書きではない、本役のキャラクタ依存じゃない」ため、演じやすいのだとは思う。
 でもちゃんと仕事を果たしていたし、ハンサムだった。


 座長@礼くんが、めちゃうまかった。つか、この役がこんなにうまくて大丈夫かと、彼の路線スター人生を心配した(笑)。
 声がいいのは強いなあ。ナレーションがきちんと出来る。
 このときはまだ、ショーの方であれだけ大活躍していると知らないから、素直にうまさだけに感心していたけど……本公演であんだけ活躍してて、新公ショーでは裏主演で、新公芝居でもこのクオリティなの?! まこっちゃん、おそろしい子!!


 大人役の人たちはみんなうまかった印象。オルゴン伯爵@輝咲くん、ラルゴ伯爵夫人@ゆあちゃん。

 あと、美味しいとこをきちっとモノにしたな、と思ったのがユリウス@夏樹くん。
 ラストの手紙を読むところ、それぞれのキャラになりきってのひとり芝居、ちゃんとメリハリついてた。
 歌える子って、声のコントロールがうまいんだろうな。礼くんしかり。


 レオニード@綺咲ちゃんが、安定の棒読みぶり。他のどこかを見ていたとしても、「あ、今の綺咲ちゃんだ!」とわかるアニメ声+大根喋り。
 外見はかわいいんだけど、ここまで芝居音痴でこれからどこへ向かうんだろう。……いや、それでも姫花よりはマシか。姫花ほど美少女でもない代わり、姫花ほど破壊的に大根でもない……?


 コレット@城妃さんは、経験不足、新人なんだろうな、てのがひと目でわかる感じ。そして、新人さんにしては、悪くないかな、という感じ。
 ヲタ風味が強くてやりにくい役だとは思うけどなー。

 城妃さんは前回の新公が良かったし、バウはさらにすげーうまかった記憶しかないんだが、今回はそれほどでもなくて、あれ?って感じ。
 回数の出来るバウであれだけ出来るんだから、たぶん1回こっきりの新公だから、まだ足りていなかったんだろう。東宝では化けるかも。


 そしてわたし、前回の『ダンサ セレナータ』新公にて、「瀬央くんが気になった」と書いていた。
 「ナニが気になったのかわかんない……顔かなあ」と。

 わかりました。

 顔です(笑)。

 好きだわ、この顔。

 相変わらず、前もって配役のチェックをしていないので(今回はしようと思ってたんだよ、芝居とショーの2本立てだから! 思ってただけで出来なかったけど!)、どの役が瀬央くんか知らないし、そもそも前回「なんで気になったのかわかんない」あたりの子のことは、きれーさっぱり忘れてます。

 それが、実際見て見ると、「ん? んん?」となって、「あれ、なんかあたし、前回もこの顔に引っかかったような……?」と記憶が揺り起こされました。
 で、あとから配役を見て、あ、この名前、となる。

 ルーチェ@瀬央くん、いろいろと好みでした。

 ルーチェもアテ書きでキャラ依存の役なので、新公は大変。
 二次創作みたいなゆるい世界観には、ルーチェは年齢よりさらに幼い美少年、いわば子役でなくてはならない……のですが、瀬央くんは、ふつーに「少年」でした。
 本公演では「娘役さんが子役をやっているのね」だけど、新公では「男役さんがやっている少年役なのね」になってました。
 そのため、物語的には違和感。少年……つまり、性別男で、ある程度の精神年齢があれば、あの言動はおかしいだろ、と。本役さんくらい「ボク、小学生」なら、セーフだけど。
 キャラ依存のパロディ作品としての世界観にはそぐわないけど、せっかく男役が演じているんだから、ちゃんと「男役が演じている」とわかる少年だったのは、いいと思うんだ。子役をやるためにタカラヅカに入ったわけでも、男役になったわけでもないんだろうし。


 とにかくこの新公は、終始「アテ書きという名の、本役キャラ依存作品の壁」に、下級生たちがぶつかっていた。
 別人なんだもん、そりゃそうだよ。
 ひとりっ子政策反対、劇団推し路線様主役独占は百害あって一利なし!……と、常々思っている人間なので、配役発表が出たときは喜びました。
 『めぐり会いは再び 2nd』新人公演、主演者。

 十碧れいやくんと、妃海風ちゃん。
 初主演おめでとー!!

 ……が、そのあと『Étoile de TAKARAZUKA』新人公演の主演が、いつものひとりっ子、マカゼ&わかばとわかり、苦笑した。
 芝居は40分、ショーは55分……芝居はおまけ……本編がショーの方……。

 劇団は正直だ、つーか、わかりやすすぎて苦笑するしかないが、それにしたって新公主演は新公主演だ。
 なにしろわたしのご贔屓は、3本立てのおまけでしかない1時間の芝居で主演した人だからなっ!(笑) 新公プログラムが唯一、二つ折り4ページだった人だからなっ!←通常新公プログラムは三つ折り6ページ構成。

 今回の新公プログラムは、あくまでもれいやくんが「主演」というカタチで作られていました。
 表紙写真もれいやくん、インタビューもれいや&風。

 ただし、芝居の配役欄は6分の1で、残り6分の5はショー、プログラムの大半がショーのために作られておりましたが。

 ……れいやくん、新公主演にカウントされてるんだよね? 大丈夫だよね?


 ともかく、『めぐり会いは再び 2nd』新公。

 れいやくんは長身美貌の人。風ちゃんは実力者。
 どうなるのか、わくわくしておりました。


 えーと。

 アテ書き芝居の新公は、大変だね。

 ということが、終始よーーっくわかりました。骨身に染みました。

 『めぐり会いは再び 2nd』自体が、完全ファンアイテム。スターたちのキャラクタを理解し、前作もわかった上で楽しむもの。作品としてのクオリティは二の次。
 てゆーかコレ、小柳たん作品の初新人公演なんだ。

 「ヲタクはタカラヅカを救う!」が、小柳せんせのキャッチフレーズ。……いやその、わたし的に。

 小柳せんせは今までなんか男子ヲタク的な作風で、ヲタクゆえにツボはわかるんだけどズレがいろいろ気になっていた。それが最近は女子ヲタクのツボも心得てきて、実に心地よい作風になってくれたと、わたしはウホウホ喜んでおりました。
 小柳作品の「ヲタのためのヲタ作品」ってとこが、わたし好みだし、実際「ヲタの世界」であるタカラヅカでうまく融合して、成功しているし。
 ヲタク特有の閉鎖性や馴れ合い、楽屋落ちに頼った部分は、スルーしていた。

 わたし『めぐり会いは再び 2nd』好きだもの! ちえねねが好きで、彼らの演じるドラントとシルヴィアが大好きなんだもの!
 それだけでもういい、ファンアイテムなんだから、ファンが楽しければいいのよ!

 しかし。
 ヲタ作品の「続編」の新公ともなると、作品の欠点が浮き彫りになるね。

 ひどい作品だわ~~、これ(笑)。

 キャラクタもストーリーも、ひとつひとつの展開・反応も全部、楽屋落ちっちゅーか、ヲタ目線の役者頼み。
 ひとつの「作品」として成り立ってない。

 それら、作品の粗を全部、新公キャストが背負わされたわけだ。
 まあ大変。

 と、とてつもなく大きなハンデがあったわけだ。
 だから、仕方ないとは思う。

 思う、けど。

 れいやくん、へたやな。

 ドラント@れいやくんの、役者としての実力に、なかなかどーしてびっくりした(笑)。
 この間の全ツ、かっこよかったのになあ。……ってそれは、見た目のことか? 出番も台詞もろくになく、もちろん歌もなかったためか?

 最近の若者は、ある程度なんでもそこそここなす、小器用なイメージがあったので、かえってびっくりした。
 『My dear New Orleans』のままかい。と。

 いやその、わたしがれいやくんを最初に認識したのが『My dear New Orleans』新公で。
 しいちゃんの役を、硬直したかのような棒立ちで芝居をしていた、とてもきれいな男の子……という印象。
 そこからスタートしたもんで、あとはなにをやっても「うまくなった」と思うっていうか、「がんばってるなあ」と思うっていうか。

 うまくなった、と思い込んでいたから、思い込みほど変化していなくて、びっくりしたっす。

 くり返すが、大変な役、大変な作品だったことはわかってる。
 しかも、ショーのお稽古もあって、芝居だけに集中できる状態でなかったことも、わかってる。

 しかし、基礎的なことが軒並み、その、高くなかった、とは、思う……。

 特に、歌、すごかった……。

 星組に歌唱力は求めてないけど、やっぱり、ぴっくりしたっす。

 ただ。

 きれいだったっ!

 それは確か。間違いない。
 初新公だから、そのヴィジュアルだけでいいのかもしれない。……ここから先は、ともかく。


 そして、初ヒロインの風ちゃん。
 これまで新公やバウ等でやってきた役からして、うまいことはお墨付きの子。

 劇団の考え方として、「新公ヒロインに巧さなど必要ない」という意識が根強いのか、実力のある子は新公ヒロインさせてもらえない傾向があるよーな気がしてた。
 新公ヒロとはすなわち、トップ娘役を視野に入れた役。娘役の旬は短いため、新公ヒロやってすぐトップになる場合も多々あるわけだから。
 実力は、トップになったあとに磨いてもいい、立場がひとを作る……そういう考え方からか、まず美貌やスタイル、華やかさ重視、実力は評価外、みたいな? 
 それを覆してのヒロイン抜擢が、素直にうれしい。

 そして、期待通りシルヴィア@風ちゃんは、うまかった。
 いろいろやばい人たちが多い中、ぶっちぎりの巧さと安定っぷりだった。

 てゆーか、シルヴィアが、バカに見えなかった……。
 その分、なんか「こざかしい」女の子に見えて、ソレはそれで困ったな、というか。本役さんもバカ過ぎウザ過ぎなんだけど(笑)。これはなんつっても、脚本の問題。

 しかし……。

 相手役のドラント@れいやくんと、芝居がまったく噛み合っていないのは、どうしたものか。

 風ちゃんはうまい。うまいんだよ。で、れいやくんはもー、いろいろと大変なことになっている。
 へたな方が悪いのかもしんないけど、それにしても、ここまで噛み合わないまま芝居を続行されると、見ていて落ち着きが悪かったナリ。

 れいやくんに合わせることとか、あるいは、彼を引っ張り上げることとか、出来なかったのかなあ。いくら風ちゃんがうまいからって、そこまで求めるのは酷かぁ。
 そーいや前回の新公も、相手役がうまくなくて、風ちゃん大変そうだったもんなあ。
 けっこう、相手の芝居に揺らいじゃうのかも?

 お芝居が苦手だったり歌が苦手だったりする男の子を相手役にし、相手の技術が上がって見えるよーな支え方が出来るようになったら、風ちゃんはすごく「強い」武器を手に入れられるのかもしれない。風ちゃん単体ではちゃんと、うまいんだから。
 かわいいけど、「ヒロイン」としての美貌や華やかさには、ごめん、欠けていたと思う。だからこそ、「風ちゃんと組むと、男役がかっこよく見える」スキルを手に入れてくれたら、得がたい「ヒロイン」になるなと。
 ショーの新人公演は、どの組も等しくやるべきだ。

 『Étoile de TAKARAZUKA』新人公演を観て、痛感した。

 今星組はとてもパワーがあり、華やかな組。トップのれおんくんの実力と人気もさることながら、下級生たちのパワーもすごい。
 層が厚い、って武器だよな。
 ……と思ったあとで、冷静にひとりずつの顔を思い浮かべて、他組の同じ立場や学年子たちと、個人個人はそんなに差異を感じないことに思い至る。
 個人の技能だけの話じゃないな。
 「ショー」に力を入れている、って、直接的なパワーになるんだ。

 星組は去年の『ノバ・ボサ・ノバ』に続いて、2回目のショーの新人公演だ。
 芝居は役が付かないと勉強する機会は限られるけれど、ショーだともっと範囲が広がる。
 なんつーか、「スター!」としての練習は、ショーが適しているんだ。
 無名の下級生たちもが「スター!」修行を2年連続でできるんだもの、そりゃあ個々以前に組としてのパワーが上がるでしょうよ。他組の台詞ひとつふたつであとはモブ、なんて芝居の新公を続けてきた同じくらいの立場の子より、多く経験値稼ぎできたことでしょう。

 ショー、レビューは、タカラヅカならではのもの。大劇場ならではのもの。
 外部の俳優養成所では学べないもの。
 だからこそ、劇団が今、力を注がなければならないもの。
 小器用に小さく地味にまとまりがちな、現代の若者たちにこそ、「自ら発光する」ことは、必要な経験。

 だからすべての組で、等しくショーの新人公演をするべきだ。
 タカラヅカは今、ほんっとーに「スター!」を必要としているのだから。


 とはいえ。

 「スター」のいないショーは、観ていてつらい。

 ショー力の低下は、劇団も危惧したことがあるんだろう。で、2006年、2007年とショーのバウ・ワークショップを5組通して公演した。
 芝居との2本立てで「主演スター」を据えた『Young Bloods!!』はともかく、ダンスのみで主演も立てない『ハロー!ダンシング』は興行的にもスター育成的にも、芳しい結果を残さなかった、と思う。

 ショーで「客から金を取る」ってのは、難しい。

 芝居なら、ミュージカルなら、とりあえず物語自体で興味を引き、場を持たせることはできるけど。

 ダンスや歌の技術があったって、それだけで「タカラヅカのショー」は成り立たない。

 ショーの新公は、ほんとに大変なんだろうなあ。
 演じる生徒たちもだし、支えるスタッフもだし、また、下級生たちでそれをやって「成立させる」こと自体が。

 『ノバ・ボサ・ノバ』はミュージカルに近い作りなので、出演者に力がなくてもある程度「芝居的に」フォローできる。
 しかし、まったくガチのショーとなると、「スター」がいないと空中分解する危険がある。


 てな前置きをしつつ。

 うまいな、と思った。

 主演はマカゼくん。
 本公演で役替わり2番手を務めたことのある、新人とは名ばかりの年季の入ったスター。

 いくら劇団推しでも、経験値のない下級生では、大劇場のショーで真ん中を務めることは出来ない。大劇場ってのはそれくらい特別な、とんでもないところだと思う。
 その点マカゼくんは、今までもさんざん大劇場で真ん中に立ってきて、「今さらなんで新公に出てるの?」的な子だ。
 大階段でも総スパン衣装でも、なんでも来い。彼はもう新人カウントじゃない、押しも押されもせぬ星組3番手スターだ、そりゃショーの主演もこなせるでしょうよ。
 3番手主演公演をわざわざ用意してあげたみたいなもんだー。

 が。
 なにしろマカゼ氏は、いろいろと不自由な人だ。
 「スター!」としてのヴィジュアルは問題ないんだが、なにしろ基礎技術力が低い。歌苦手、ダンス苦手、得意技は「スターです!」と真ん中に立つこと。
 いくらスター力があっても、この実力でショー1本まるまる君臨しろというのは、あんまりだ。……いやその、見せられる、観客が(笑)。

 つーことで、「スター!」としてのハッタリのみ場面はマカゼ。
 見てくれだけでない技術を発揮して歌やダンスを「魅せる」場面は、礼くんが受け持った。

 わたしは相変わらず下準備ができておらず、「芝居はれいやくん主演、ショーはマカゼ主演」程度の認識で観劇した。
 だもんで、れおんくんの役を、マカゼ以外がやることを、知らずにいた。
 や、少しは役割を別の子に振るのかもしれない、とは思ったよ。芝居と違って、通し役じゃないんだから。

 しかし、あそこまで礼くん大活躍とは思わなかった……!

 配役の潔さに、膝を打った。

 マカゼはきれーな衣装でばーんっ!!とポーズ取るだけ!!
 難しいところ、技術半端ないところは礼くんに丸投げ!!

 すげえ!!
 これなら、つらくない!!

 過去の「スターのいないショー」「下級生だけの、場の持たないショー」を知っているだけに、それらの欠点を改善したこの星新公に感動した。

 マカゼは、スターだ。
 足りないところが山ほどあるけど、彼は真ん中に立つことが相応しい。
 彼がわたし好みの容姿をしているっちゅーことも個人的に大きい(笑)んだけど、顔立ちだーのでかい図体だーのだけじゃない、「愛らしさ」があると思うんだ。
 足りないところを補う魅力というか。
 ヘタレかわいいっちゅーか、危なっかしいところも含めて、彼を魅力的だと思う。

 この『Étoile de TAKARAZUKA』新公に、トップスターがいる。
 この面子の中では、揺るぎなくトップスターだ。

 しかし、彼だけでは55分持たない。彼はスターだけど、練習中の身だ。実力ナシのハッタリ力のみで1公演支えられない。

 トップとして実力を見せつける場面は、礼くんが受け持つ。
 「ホンモノ」ってのは、こーゆーもんなんだ、と見せつける。

 男役らしい顔立ちとか体格とかを持たず、丸っこいオンナノコな顔とカラダで、ただ技術のみで、「真ん中であること」を見せつける。
 足りない部分を吹っ飛ばす、たぐいまれな実力で。


 面白かった。

 ベニー主演だった、『スカーレット・ピンパーネル』新人公演を思い出した。

 ベニーとまひろが好対照でね。
 ベニーがてかーーっ!!と彼独自の明るさで、実力以前のところで舞台を占領し、客席を沸かせたあと、まひろが真っ黒に熟れて登場し、実力と熱で舞台を支配する。
 この繰り返しだった、あの伝説の新公。
 面白すぎて、客席で悶えたわー(笑)。


 適材適所、良い新公でした。
 通し役の芝居では、こうはできない。

 どの組でもショーの新公してくださいよ。
 華担当、実力担当とか、分けて使えば、作品を空中分解させずに済むんだから。

 ……なのに来年、ショーなしばっかだし……。
 こんな辺境ブログですが、秋ぐらいになると毎年ある言葉で検索される。

 「1万人の第九 服装」

 このふたつの単語の他、「ブラウス」とか「スカート」とかくっついている場合もある。

 そうだよなあ、はじめて参加する場合、わかんなくて困るよなー。
 わたしは初参加のとき、経験者の友だちと一緒だったから、いろいろ教えてもらえた。「去年はこうだったよ」「こうするといいよ」と。
 もしもひとりで、教室で友だちも作れてなかった場合、困ったろうなあ。友だちがいても、初心者ばっかだったら、結局は同じことなわけだし。
 誰も、正解を知らない。

 『1万人の第九』、コンサート当日の服装は、「女性は白の長袖ブラウス、黒のロングスカート、黒のタイツまたは靴下、動きやすい黒靴(スニーカー可)、華美な装飾品禁止」です。

 情報は、これだけ。

 白ブラウス、って、ザッパー過ぎやろ。星の数ほどデザインありまんがな。ナニがよくて、ナニが禁止なの??
 黒のロングスカート、って、長さどれくらい? クラシックなイメージのマキシ丈だとしたら……スニーカー可、ってナニゴト?! シックなロングスカートにスニーカー??

 わけわからんわー。

 不安になって、ネット検索もするよなー。
 KYな格好で参加して、くすくす笑われたくないもん。
 テレビ放送だってあるわけだし。場違いな格好でテレビに映っちゃったらどうするの??


 えー、10年以上連続で『1万人の第九』に参加して、身をもって知ったことは。

 上が白、下が黒ならなんでもよし、+光り物禁止。……これだけです、ルール。

 トップスは白ならなんでもいい。
 カッターシャツでも、フリルビラビラ発表会ブラウスでも。カットソーやTシャツでも可。
 ただ、ライトとテレビカメラがあるから、光を反射するアクセは禁止ってだけで、あとは自由。

 何故か。

 1万分の1なんか、米粒以下の存在だから、です。

 スタンドに並んだら、誰がどんなブラウスを着ているのかなんて、誰にもわかりません。
 女性参加者なんぞ、ただの白い横断幕です。白けりゃいいんです。

 他人の目なんか、気にする必要ないです。大人ばっか集まって、ドレスコードの白+黒を身に付けている、ソレだけでもう、誰もナニも言いません。
 思わず二度見しちゃうほど「あんなものすごいブラウス、どこで売ってんだ……?」なブリブリブラウスを着ていても、「それ、会社の制服……?」てな身もフタもないただのカッターシャツでも、誰にもナニも言われません。

 ボトムも同じです。
 黒けりゃいいんです。
 スカートの長さも、別にミニでも引きずり丈でも、なんでもいい。肌色を出さずにいれば、なんでもよし。

 スタンドに並んだら、下半身なんか見えません。
 黒いボトムを穿いている、それだけです。
 スカートにこだわる必要ありません。ズボンでも可。

 真冬なので尻が見えそうなミニを穿いてくる子はいないけど、スカートの長さもデザインも自由なんで、タイトスカートもあれば、ゴスロリ系の黒地に黒レース付きもあり、お姫様みたいなチューリップラインもあり。
 センタースリット深々と、やたらセクシーな人もいたし。

 足もとも、自由です。
 黒ならなんでもいいし、別に、黒でなくても大丈夫。
 どーせ見えません。腰から上しか見えないのに、足もとにナニ履いてたって、誰も言及しません。

 運営側は、口出ししません。白+黒である以上。
 合唱参加者は、お客様でもあるわけですから。毎日放送さんは丁重に扱ってくれます。

 だから、自分が用意できるものを、着て来てよし。
「『1万人の第九』だから、クラシック・コンサートの出演者だから、ちゃんとしなきゃ」と、いかにも合唱やってます!な、二度と着ることのないフリフリ白ブラウスや床に付くよーな黒ロングスカートを新調する必要はありません。

 「でも、テレビに映っちゃうかもだし……」なんて、考える必要なし。
 テレビには、映りません(笑)。

 確かに、毎年あるテレビ放送で、合唱している人々のバストアップが抜かれている。一瞬アップになる。あんな風に映る人がいる。

 でもあれ、アリーナ席の人たちだけだし。

 アリーナでも、かなり前方の人だけです。
 参加者のほとんどはスタンド、米粒以下です。白い横断幕です。テレビカメラがアップにすることはまず、ありません。
 スタンドでも、最前列なら可能性皆無じゃないけど、それ以外は「ない」と思って間違いないっす。

 女性はほんと、映りません。
 参加者の数に対し、テレビに映る範囲の席が、あまりに少ないんです。
 カメラが捉えることが出来るのは、距離と明るさの関係で、ほんとに前方の一部だけのようです。
 スタンド席はマジでカメラから遠く、また、暗いんです。
 ナニか特別な目的でもない限り、スタンドの女性参加者をアップにはしません。
 誰でもいいわけだから、近くて明るい場所にいる人をアップにします。
 座席チケットをもらった瞬間に、「テレビに映る可能性があるかないか」はわかります。
 アリーナ席の一桁列だったら、張り切って衣装を用意してください。それ以外は、白+黒ならなんでもよし。


 ただ。
 せっかくの晴れの場。
 気負いすぎる必要はないけど、いつもよりちょっとフリフリなブラウスだとか、シックで大人っぽい長め丈のスカートを着ちゃうのは、ありだと思う。
 きれいな格好は、それだけでテンション上がるし。
 「ここ以外で二度と着られない」よーな舞台衣装めいたモノじゃなくても、ちょっとした場で使えそうな、華やかブラウスとスカートで着飾って、友だち同士で楽しんだりなー。
 花火大会の浴衣みたいなもんで、女子的に、「せっかくだから」ってことで、イベントとして盛り上がるのは、楽しいと思う。


 わたしはここ数年、デザインよりオシャレより、防寒第一のコーデです。
 今年はマシだったけど、例年会場が、極寒なんですわ。
 「風が吹き込まないだけマシ」ってだけで、外気温と変わらないじゃないの?って感じ。
 コート着たまま発声練習、てな人々がいっぱい。
 なのに、「11時のリハから、上着は脱いでください」とか言われるしなー。昔は本番の1部まで私服OKだったのに。

 来年以降の室温がどうなるかわからないけど、「寒い」場合があるってことを忘れずに。
 どんだけ室温がツンドラでも、女性はブラウスにスカート姿なんです。上着着れないんです。男たちが着ているのに!


 今年はもう終わったからしばらくナイだろうけど、また来年の秋口に検索がばらばら来るかもしんないので。
 コンサートの記憶や興奮があるウチに、勢いで書き記しておく!
 毎年恒例、『1万人の第九』に参加してきました。
 「30周年」ということで、記念すべき公演、だそうです。
 延べ1万人×30年=30万人が参加した、ものすげーイベントです。30万通りの人生がある、ということです。

 やたらめったら「30周年」「特別」をくり返していて、ただの1参加者であるわたしは「よくわかんないけど、すごそうだなー」「なんか派手にやるのかなー」と漠然と考えてました。
 去年は震災絡みでやたら盛り上がったし。感動的だったし。
 今年はそれ以上の盛り上がりを約束されているのかしら。

 そう、思ってました。


 で。

 参加してみた感想は、この公演、ナニがやりたかったんだろう??でした。

 やたらとくり返される「30周年」「お祭りだから」。
 なのに、メインゲストは森山良子、メインの歌は「家族写真」。

 「家族写真」って、日本国民が歓喜の涙に暮れるような、ものすごい名曲なんですか? 誰もが知っていて、イントロが流れるだけで歌詞完璧、子どもからお年寄りまで熱唱できるような?
 わたしは無知なので知らなかったっす。
 リハーサルで生まれてはじめて聴いた。
 わたしの周囲、話し声が聞こえてくる範囲でも「この歌知ってた?」「知らない、はじめて聴いた」「何度聴いてもおぼえられない。単調で」てな会話がくり返される。
 わたしや、たまたまわたしの周囲の人たちみんなが知らないだけで、1度聴いたらその曲の素晴らしさや、馴染みの良さに高揚する・感動する、なら、納得の選曲だけど。

 「いい曲」ではあるけど、イベント向きの曲じゃない……。
 とにかく、地味。
 盛り上がる曲の合間に組み込まれているならアリだけど、単体で「30万人」を謳うイベントのメインに据えるようなパワーのある曲じゃない。

 メインゲストに力がないのに、その上、東北会場との中継。
 ナマのコンサートで、えんえん映像スクリーンを見せられる微妙さ……。

 確かに去年、震災ゆえ、復興へのエールを込めて、東北との中継があり、とても感動的だった。成功だった。
 だからといって、今年もやってどうするんだ?
 震災のことも被災地のことも、テーマじゃない。テーマは「30周年」「お祭り」だ。スタッフの人がはじまる前にマイクでそう説明していた。明るいテーマなんだから、みんなで盛り上げてくれ、と頼んでいた。

 明るいお祭り!と言いながら、それに徹し切れていない。
 半端にあっちにもイイ顔、こっちにもお愛想、その結果……ぐたぐたに。

 「30周年」「この30年を振り返って」と繰り返しアナウンスするわりに、そんなプログラムは一切ない。
 冒頭に過去映像が一瞬流れただけ。
 30年の歴史とは無関係な「天才ピアニスト」(コンサートの総監督とリアルで仲良し)の演奏と、森山良子の歌だけ。
 30年の懐古がテーマなら、それに徹すればいいのに。

 東北会場とのリンクは盛り下がるだけだし、「平原綾香が第九に挑戦!」も、わたしたちのコンサート自体には関係ない。あーやは東北会場、「1万人の第九」の会場にはいない。

 たぶん、例年通りあーやの第九挑戦は、テレビ番組のための企画だろう。彼女の第九挑戦をドキュメントにして番組を制作する。テレビ番組が主体で、素人が集まったコンサート自体の重要度は低い。
 主催が毎日放送である限り、テレビ番組がいちばん大切なのはわかるけれど、今回は他の企画がお粗末だったために、その順位付けがさらにあからさまになってしまった印象。

 事前アンケートで、「過去29年の『1万人の第九』で印象に残った回は?」という質問があった。
 去年の震災ネタの回がものすごく盛り上がったのは確かだけれど、あれは特別というか、一緒にしてはいかんだろうと思うのではずして、わたしは2009年の第27回を選んだ。
 ゲストはマッキー。「1万人の第九」の前座である第1部で、(わたしが知る10数年の間で)前代未聞のカーテンコールがあるくらい、盛り上がりすぎてすごい回だった。
 「世界に一つだけの花」という、日本国民のほとんどが「知っている・歌える」曲を持って来たのも強かった。
 会場が一体となって盛り上がった。

 ……てことで、その回を支持した意見がわたし以外にも圧倒的に多かったんだろう。
 記念すべき30周年も、シークレット・ゲストがマッキーで、1部のラストソングは「世界に一つだけの花」だった。

 なんつーか……。

 ヘタだなあ、企画……。

 盛り上がらなくて、どーしようこの空気、ってとこに、マッキー登場。
 たしかにその瞬間は盛り上がるし、なんつっても「世界に一つだけの花」は曲自体にパワーがある。
 はじめて「祭りだー!」という空気になった……が、即終了。

 シークレットだから、ほんとにラスト数分に1曲歌って終わり、1部終了、なんだもん。
 せっかく盛り上がった、これから巻き返しできるかも? ってとこで、幕。

 消化不良感が、ひどい。

 今年のプログラム、ひどいなー。
 なまじ去年が東北絡みで成功したからって、2匹目のドジョウ狙って、佐渡せんせの「お友だちと一緒にステージやりたい病」が再加熱して、だけど主催側は「ウチが企画して運営して30年も続けてこれたんだからね!」と鼻息荒くて、……結果、こんなことに。

 いろいろとお疲れ様です。いろんなところの力関係とか事情とか絡み合って、大変だったんだろうなあ。


 よかったことは、会場の室温が、あまり低くなかった。
 毎年毎年、大半を占める女性参加者のことは考えず、極寒の室温だったのが、今年はそれほどでもなかった。
 運営している側や男性陣はスーツ着用だし、スタッフは走り回ってるし、ステージ上はライト燦々だし、で、薄暗いスタンドでブラウス1枚で唇真っ青にして凍えている数千人の女性のことは念頭にない、のが当たり前だったもん。

 わたしは自衛して、ものすごーく前準備して、それなりの装備で臨んだので、それゆえに寒くなかったのかもしれないけど、わたしが覚悟していたより寒くなかった。
 周囲の人たちも、「思ったほど寒くない」と言っていたし。

 それと、「合唱団当日スケジュール」記載が、復活していた。

 朝9時から夕方6時まで完全拘束なのに、去年はスケジュールを教えてくれなかったんだ。
 一昨年までは、当日スケジュールは前もって告知されていた。ただ、ここ数年ゲネの進行がぐたぐたで、スケジュール通りに進んでなかった。なまじ告知しているから「休憩時間がスケジュールと違う!」とか文句言われるんだ、それなら最初から告知しなければいい!……と、思ったんだろうか。
 去年は一切シークレット。はじめて参加する人は、いつどこで食事をして、いつトイレに行けばいいか、想像することも出来なかった。
 なにしろ極寒で女性たちは震えきっている。休憩時間はトイレの大行列で終了が当たり前、そんな居住環境なのに、スケジュールは一切教えない。いつまで我慢すれば次の休憩があるのか、トイレに行けるのか、わからないまま・教えないまま、1万人を整列させておくんだから、すごかったよ。
 運営しているのがスーツを着た男の人たちなのが、すごーくよくわかる(笑)。女子トイレ行列の過酷さとか、想像したこともないんだろうな。

 苦情が多かったんだろうなあ。改善されて良かった。


 肝心の「1万人の第九」自体は……まあ、ふつうだったんじゃあ? わたしみたいな凡人の耳には詳しいことはわかりません。
 わたしのテンションは1部のぐたぐたぶりに、あまり上がってなかったけど、まあ例年通りに歌えたので。
 キヨハラせんせーに「この5年のうちでいちばんヘタ」と言わしめた、今年の合唱団ですが。


 長く続くイベントなので、良いときもあれば、悪いときもある。人間が作るモノである以上、いつも「最高!」なわけないし。
 「最高!」じゃなくても、1万人で心をひとつにして歌うこと自体には他にはない感動がある。
 大好きなイベントなので、これからも参加し続けたい。


 「30周年」「特別」「お祭り」……そう謳いまくりながら、見事に空回りした姿に、どっかの歌劇団を思い出し、「頼むよ……」というキモチになったのは、内緒です(笑)。
2012/12/01

キャトルレーヴ限定企画!「MISUZU 未涼亜希~My style~」発売キャンペーン
『MISUZU 未涼亜希~My style~』発売にあわせて、キャトルレーヴ各店にて本誌をご購入いただきますと、選りすぐりの未掲載写真1枚を、2L版ブロマイドにしてプレゼント!
この機会にどうぞご来店ください。
特典は数量限定となりますので、お早めにどうぞ! 

■キャンペーン詳細
キャトルレーヴ各店にて「MISUZU 未涼亜希~My style~」をご購入いただきました方に、本誌未掲載写真(2L版ブロマイド)1枚をプレゼント。

■キャンペーン開始日
12月14日(金)より

■商品情報
商品名:「MISUZU 未涼亜希~My style~」
定 価:1,500円(税込)
発売日:12月14日(金)発売予定

■詳しくはキャトルレーヴ各店へお問い合わせください。
・梅田店 TEL:06-6315-6757
・宝塚店 TEL:0797-85-6740
・東京劇場店 TEL:03-5251-2074
・日比谷店 TEL:03-3503-8289
・名古屋店 TEL:052-263-7580(代引対応店舗)
・福岡店 TEL:092-752-1515(代引対応店舗)
※代金引換サービスご利用の方も対象となります(名古屋・福岡店のみ)

 宝塚歌劇公式HPの「新着情報」欄に、まっつ個人名で、お知らせが載っている……。

 そして、まっつ単体で、キャンペーンが企画されている……。

 なんかもお、ぽかーんですわ……。

 写真集発売ってだけでも、ぽかーんだったんですわ。
 ジェンヌ個人のミニ写真集で、シリーズとして刊行する、という前例がパーソナルブックしか記憶にない。
 今回の「~My style~」は、本のサイズも内容も、パソブとはまったく違っているようだけど、前例を他に知らないため、パソブに求める。
 で、そのパソブは毎回、なにかしらキャンペーンをやっていた。

 てことで、期待してはいた。
 ナニかキャンペーンやってくれないかしら、って。

 でも、個人名で、1冊単位でやるとは思ってなかった。

 パソブみたいに「応募券を何枚か集めて送ったら、非売品写真プレゼント」かなーと思ってた。それでわたし、水しぇんとゆーひくんの非売品写真セット、それぞれ持ってるもん。←何冊買ったんだ(笑)。
 あ、予約特典のポストカードも持ってるなー。昔から非売品とか初回特典とかに弱い……(笑)。

 「~My style~」は、昔のパソブと違って、最初にラインアップを発表しないから、「応募券を何枚集めたら」とかができないのかも。
 いちばん新しいパソブシリーズも、ラインアップは最初に発表しなかったっけ?
 ヅカはどんどん、いろんなことの発表を1度にしなくなったね。

 応募券を集めて、でもいいんだけど、それだと本を切らなきゃいけないからつらい。
 購入特典だと、本が無傷で残る。
 ありがたいなー。


 前日に、表紙画像が阪急ブックスにアップされた。

 かっこいい、美しい。……と、思うのと同時に。

 暗っ!(笑)と、思った。

 や~~、安定の暗さ、ですわよ(笑)。
 まっつ本で、キラキラとか暖色とかふわふわとか、あるわけナイよな~~(笑)、と。
 満面の笑顔で、とか、さわやかな画面で、とか。

 そーゆーのがなくて、期待通りのまっつクオリティに満足です。

 ほんとに顔の造作がきれいな人だ。
 額から頬のラインとか、アニメキャラみたい。

 写真集というカテゴリになっているけど、
率直な思いを語るロングインタビュー、演出家との対談、舞台写真、稽古場写真をはじめ、都会の夜を舞台にした撮り下ろしポートレート、彼女をかたちづくるものや男役としてのこだわりを紹介するコーナー等、オリジナル企画も数多く掲載。 「未涼亜希の流儀」をさまざまな角度から紐解くスペシャルな一冊です。
 という内容紹介からして、読み物系なのかなー。

 ところで、第2弾としてともちが発表されているんだけど、この解説文の違いが面白いの。
率直な思いを語るロングインタビュー、演出家との対談、舞台写真、稽古場写真をはじめ、「“STAR”の光と影」をテーマにした大人の雰囲気溢れる撮り下ろしポートレート、悠未自身が描くイラスト&エッセイのコーナー等、オリジナル企画も数多く掲載。「悠未ひろの流儀」をさまざまな角度から紐解くスペシャルな一冊です。

まっつ
・都会の夜を舞台にした撮り下ろしポートレート
・彼女をかたちづくるものや男役としてのこだわりを紹介するコーナー

ともち
・「“STAR”の光と影」をテーマにした大人の雰囲気溢れる撮り下ろしポートレート
・悠未自身が描くイラスト&エッセイのコーナー

 ポートレートでは、まっつが「夜」で影のみで、ともちんは「光と影」両方! ……てのに、まずウケた。
 ともちんは上級生になって色悪・立役を演じるようになったけど、もともとは「陽」の持ち味の人だもんねー。

 個人コーナーでは、まっつは紹介のみで、文章やイラストは他人任せ? ともちは自らがんばっちゃってる?
 ふたりのこの、温度差っちゅーか、やる気の違いがまた、ツボる(笑)。

 今後誰の本が出るかわかんないけど、きっと個性的なんだろうなあ。楽しみだわー。
 や、ともちん本ももちろん買うし、まっつ、ともちん、と来たら、たぶんそのあとのメンバーも買いたくなるよーな面子な気がする……(笑)。
 パソブは第3弾まではいろいろ買ってたけど、第4弾はまったく買ってないもんなー。トシとって購入ラインが変わっちゃったんだな。


 とりあえず、なにかとうれしいので阪急ブックスの宝塚トップページや、まっつ写真集案内ページをスクショで保存してみたりな。

 まっつが表紙の本って、これで3冊目かあ。

 宝塚ファンタジーVOL.9(2005年)
 宝塚ヤングスターガイド2008
 MISUZU 未涼亜希~My style~(2012年)

 どんどん本は小さくなり、代わりに写真は大きくなる?(笑)

 「宝塚ファンタジー」が発売された頃、わたしはまだまっつファンじゃなかった。だから、少し遅れて、買ったんだ。
 遅れて……といっても、まだキャトルレーヴで平積みされている時期ではあったけど。
 発売されて3ヶ月後くらいに、まっつオチしたのよね、あたし。
 で、「まっつが表紙の本なんて、最初で最後だろうから、買っておかなくちゃ!」って、あわてて買った。なんか使命感持って買った。

 あれから、7年。
 まっつ個人の本が発売されるんだ……。

 うれしい。



 ところで、このサイトのレビュー機能を使って「MISUZU 未涼亜希~My style~」について書いたんだけど、画像が表示される未来は来るのかしら?(ショボいサイトだもんなー、DiaryNote)
 『Victorian Jazz』の疑問点を、全部一気に、まるっと解決する方法、その続き。

 タカラヅカは、愛が命。恋愛至上主義ですから。

 降霊術オタクのかわいこちゃん、コナン・ドイルくん@おーとりくんに一目惚れし、彼の期待に応えるためだけにインチキ降霊術をくり返してきたナイジェルさん@だいもんくん。

 ついに、ドイルくんに真実を打ち明けるときが来た。
 降霊術師なんかじゃないんだ、最初から騙していたんだ。

「ドイルは、俺が降霊術師だから、そばにいたんだ。ただの詐欺師じゃ、なんの価値もない……」
 ナイジェルのことを好きだと言った、あれはナイジェル自身に対しての言葉じゃない、天才降霊術師への言葉だ。
 愛されてなんかないんだ。しょぼん。

 ドイルくんへの恋に無自覚だったとしても、ここで強烈に自覚する。恋に気づいた、認めた、それが胸の痛みゆえだなんて。

 女王から依頼された事件解決なんか、もうどうでもいいよ。ナイジェルさんはドイルとの破局でへこみまくり。
 そんなナイジェルさんをサラ@べーちゃんが一喝、軌道修正する。……んだけど、女王の事件を解決することが、どーしてドイルのためになるのか、サラの説明はちっとも理解できなかったよわたし。
 サラとしては、「恋敵のドイル退場、上等じゃん。ここでナイジェルがドイルを追って行ったら、あたしはどうなるのよ。ドイルから気を逸らさせなきゃ!」ってもんですよなあ。
 目の前の事件が大事、ドイルのことは放っておけばいいのよ、そのうち許してくれるわよ。……こんなテキトー言うヒロイン、他で見たことナイ……(笑)。主人公が親友と仲違いしてへこんでいたら、もっと親身に助力するするよねえ? なのに、「そのうち許してくれるわよ(棒読み)」……こわっ。恋敵を排除する、女の本能こわっ。

 本気の恋も、失恋もはじめてのナイジェルさん。すっかり血迷って、サラに説得されてしまう。「女王陛下を助ければ、ドイルも許してくれる!」……よくわかんないけど、目標が出来たから、それに向かって爆走。

 えー、ドイルくんヒロインなら、ここでちゃんと、ドイルがナイジェルのもとに戻ってくる場面、エピソードを描くべきですな。

 騙されていた、とわかったドイルくんの失意のソロ、降霊術へのこだわり、降霊術師ではなかったけれど、ナイジェルがどれだけ頼りになる男か、彼の存在を心強く思っていたか……。
「カリスマ降霊術師だから、好きだったんじゃない。彼が彼だから、好きだったんだ!」

 つーことで、ナイジェルさんのところに戻って来たドイルくん。
 ふたりの和解は事件捜査のどさくさ、今のままなし崩しでもいい。男同士だから、派手にじゅてーむだのあむーるだの、やらなくていい(笑)。
 見つめ合って、ふたりの世界を確かめ合うだけで。……同じ画面で、サラが「ちっ」と足を踏みならしてくれれば十分だ(笑)。

 で、無事に女王陛下とバカ息子の騒動を見守って。

 ……ちなみに、クライマックスでパパ幽霊が降臨するのは、ナイジェルであるべきだと思うんだが。
 ドイルくんが神がかりになるのは、「笑いを取るため」なのが見え見えで残念だ。
 そして、物語の鍵、いちばん重要な「変化」をもたらすのは、主人公であるべきだ。
 ナイジェルさん、事件解決の肝心の場で、傍観者でしかないんだもん……。
 ナイジェルさんが主人公なのに、舞台の中心はロイヤルファミリーの親子ゲンカでしかなく、ナイジェルさん自身の物語がナイんだもん……。

 彼がロイヤルファミリーの親子ゲンカに巻き込まれるハメになったのが、ドイルくんへの恋、ナイジェルを降霊術師だと信じるドイルくんのためだった、となると、物語の中心がナイジェルさんになる。

 で、ハナからバカにして、信じてなかった降霊術。
 そんなナイジェルさんに、パパの霊が降りてきた。ここのナイジェルさんはそりゃーもー、ひたすらかっこよく。
 「やっぱりナイジェルさんは、降霊術の才能があったんだ! まったくの嘘じゃなかったんだ!」感動するドイルくん。真の降霊術を目撃したわけだから、それを小説に書く、という言葉も説得力が増す。ドイルくんが依り代になってたら、記憶がなくて書けないもん。
 自分が体験したわけだから、「バカにして、詐欺のネタにして悪かった」と反省するナイジェルさん。奇術だけじゃなく、降霊術も真面目に勉強するかな、と考えを改める。
 奇術の延長に、降霊術もありかなと。

 つーことで、ナイジェルさんはアメリカへと旅立つ。
 「しめっぽいのは苦手だ」と、ドイルくんには手紙を残して。

 だけどドイルくんは涙ながらに追ってくる。
 で、あの街角での抱擁、になるわけだ。

 前の晩、ふたりはどうしてたのかなあ、ドイルくんへの手紙は、ベッドの枕元に残されてたりしたのかなあ、とか。
 まあそこは一切言及されず。

 ナイジェルはアメリカで技術を極める、ドイルくんはロンドンに残り、探偵小説を書く。
 ふたりはそれぞれの夢に生きる。
 またいつか会おう。
 ナイジェルは有名な奇術師として、ドイルくんは作家として。
 ナイジェルはアメリカでドイルくんの書いた小説を読む日が来るし、ドイルくんはロンドンでナイジェルの活躍を載せた新聞記事を読む日が来る。
 離れていても、互いの消息はわかるはず。
 そうだよね、と。


 ほーら、完璧な物語ですよー。

 なんせナイジェルさん、ドイルには別れの手紙を残したのに、サラにはなんもナシだからねー。サラが追ってこなかったらそれでENDだったわけだし。
 「追ってくることがわかっていた」って、彼女とはぜんぜんナニもなかったっぽいし、すげー無理のある展開。
 本命のドイルくんと美しく別れたあと、ぎゃーぎゃーうるさいサラをとりあえず黙らせるために、その場限りの睦言で誤魔化しましたね?
 手錠でふたりをつないで「俺様」な口説き文句。でも、その次の角で彼女だけ街灯に手錠でつなぎ、自分ひとりで旅立つんでしょ? 冒頭で警官を街灯につないでいたのはその伏線だよね?


 ナイジェルさん周辺の、物語のおかしなところ、不満なところは、全部ドイルをヒロインにすれば、辻褄を合わすことが出来る。

 ホモにするのがまずいなら、ドイルを女性キャラにして、べーちゃんに演じさせれば良かったんだ。
 サラは、立ち位置がヒロインじゃないよ。ヒロインじゃない子と無理に恋愛させようとするから、話が壊れるんだよ。

 有名な「コナン・ドイル」を使いたい、それゆえに全部壊れたんだな。谷せんせみたいな失敗の仕方。

 それならいっそ、コナン・ドイルをそのまま女性キャラにするとかな。「あの『シャーロック・ホームズ』の作者は、実は女性だった!」でいいじゃん。「女が探偵小説なんて、と言われるから、男性だということにしているの」でいいじゃん。
 「女なのに新聞記者」というサラの設定そのまま、ビジュアルもあのままの眼鏡っ娘で。
 世のシャーロキアンにぶっ叩かれるかもしれんが、別にこんな辺境の地(宝塚バウホール)でナニしてたって、かまやしないって。


「何故ナイジェルは降霊術師だと嘘をつき続けた? 動機は?!」
「Un Grande Amore、偉大なる愛だ!!」

 すべて解決。
 なんかいろいろ疑問書いてますが。
 この『Victorian Jazz』の疑問点を、全部一気に、まるっと解決する方法がある。

 ここはタカラヅカ。
 タカラヅカは、愛が命。恋愛至上主義。

 ならばここは、「動機は? ルキーニ!」「Un Grande Amore、偉大なる愛だ!!」ってことで。

 万能なる解決法。

 ナイジェルさんは、コナン・ドイルくんに、一目惚れした。

 はい。
 これですべて、片が付きます。説明が付きます。

 ナイジェルさん@だいもんはびんぼー奇術師。食い詰めてつい、犯罪を思いつく。
 1回だけだ、商売道具の金庫を買い戻せさえしたら、あとはまたどこか別の土地に行って奇術師としてがんばる……そう思っていたのに。

 騙すつもり、利用するつもりで近づいたカモに……「英国心霊主義協会」のコナン・ドイルくん@鳳くんに、すこんと一目惚れしてしまう。

 だから、「犯罪行為は1回だけ。金を手に入れたらトンズラする」はずが、そのままずるずると協会公認の降霊術師として詐欺をがんばってしまう。
 ドイルくんのそばにいたくて。その笑顔が見たくて。

 ナイジェルさんが自覚していてもいいし、無自覚でもいい。
 自覚している場合は、「惚れてどーすんだよ、相手男だし、バカだし! 目をさませ俺!」とか自問しつつ。
 無自覚の場合は、「なんで俺、いつまでもここにいるんだろう……1回だけのハズなのに……」と首をかしげつつ。

 どっちにしろ、「もう逃げだそう」と決意した端から、ドイルくんの信じ切った子犬のような笑顔を見て「……かわいい」ととろけて、足を止めてしまう。
 や、ドイルくんに対しては上から目線でツンツンしてるんですけどね。こっそりデレてるんです。

 ドイルくんを喜ばせたい一心でがんばっていたら、すっかり彼はスーパースター。カリスマ降霊術師として有名人。
 女王陛下から召喚されてしまう。1回だけの詐欺だったのに、何回も調子のってくり返すから、こんな大ごとに。どうする俺!

 「このままじゃダメだ。ドイルのことばっか考えてる場合じゃない。俺、ノーマルだし。女の方がいいし!」自分に言い聞かせているところへ、都合良くサラ@べーちゃん登場。最初から喧嘩腰のウザい女、この女ならちょうどいい、つまみ食いしよう、ドイルを忘れるために!
 舞台上で会うのが2回目、しかも敵対していた相手に、いきなりべらべら「俺は詐欺師なんだ」と打ち明けたのは、そのせい。口説きモード入ってます。ほーら、俺がその気になれば、敵対していたサラもぽわんとなっている、このままこの娘を取り込んでしまおう。
 相手の気持ちを読み、操ることなんか得意中の得意。なにしろインチキ降霊術のナイジェルさん。サラごとき、手のひらの上。

 「インチキ降霊術師は地獄へ落ちろ、それを暴いて記事にする」と息巻いていた娘に、あのナイジェルが会って間もないのに1曲デュエットしただけで「俺は君の言う通り、インチキ降霊術師なんだ」と告げ、「これを記事にするかい?」と聞く……この流れ、ほんとひどいもんなー。どこの原田作品だっつー(笑)。
 サラも突然心変わりして「どうしようかしら」とか言い出して、観客は「お前ら、人生変えるほどナニも起こってへんやん!」と総ツッコミを入れたことでしょうよ。
 せめてここでナイジェルに「取引しよう。女王陛下の脅迫状について知りたくないか? 俺がインチキ降霊術師だということを書かないでくれたら、この事件の情報を教えるよ」と言って欲しかったっす。
 たかが一介の詐欺師と、女王陛下と国家規模の陰謀、新聞記者ならどちらを大事と思うか、わかりきっている。
 ナイジェルは情報屋としてサラを利用したかったし、サラも大スクープが欲しい。ふたりの利害は一致している。だから会って2回目で、いきなりインチキだと明かした、と理由が付く。

 ……それプラス、色仕掛けね。ナイジェルさん、保険としてサラをオトしに掛かってる。
 娘役とのラブも必要、だってここはタカラヅカ。

 女王陛下脅迫事件を解決するため、ナイジェルはどーしてもドイルに真実を話す必要があった。
 ドイルくんは真摯にナイジェルを信じ切っている。ナイジェルの降霊術でなにもかも解決すると疑いもせず、そこから一歩も考えが進まない。

 女王陛下とサラ、つまりは女たちに背を押され、ナイジェルさんはしぶしぶドイルくんに告白する。
 降霊術師なんて真っ赤な嘘。「騙すつもりはなかったんだ! ……いや、騙すつもりだったけど、その、悪気はなかったんだ」ドイルくんを傷つけたくなくて、彼の期待に応えたくて、ただそれだけでここまで来てしまった。

 ドイルくんは大ショック。その場から去ってしまう。
 ナイジェルさんも大ショック。彼は自由で、誰にも囚われずに生きてきたのに。誰を利用しても平気だったのに。
 ドイルくんに嫌われた、それだけでもうなにも手に付かない。女王陛下の依頼? もうどうでもいいよ。


 大変なところで、翌日欄へ続く(笑)。
 しつこくナイジェルさんの話です、『Victorian Jazz』

 奇術師と降霊術師は似ている、よね?
 わたしは最初なんの違和感もなく受け止めた。奇術師が、降霊術師のふりをする、ってことに。
 奇術師はトリックを扱うプロ。そして、降霊術をトリックで行うことが出来る。
 だから、似たよーなもん。

 ……すみません、わたしはどうも、「降霊術」というものを信じていないようです。
 降霊術と聞いて反射的に「トリックで行う」と連想するくらいに。

 ほんとに信じている人は、「降霊術」という単語を聞くだけで、まったく別の連想をするんだろうなあ。

 オカルト的なことは好きなんだけど(『零』や『SIREN』の大ファンですから! 新作を待ち続けてる!!)、現実として信じているかはまた別みたい。わたしの住んでいる部屋、アレな現象が起こるんだけど、わたしが信じてないから無問題だし。

 作者の田渕せんせとわたしは、同じよーなオカルト感なのかもしれない。
 信じてないけど、都合良く使う分にはステキな存在、と。
 降霊術=インチキ、現実社会において霊なんか信じてない、でも作品のクライマックスに幽霊を登場させて盛り上げるのはアリ、だっておもしろいもーん、という感覚。

 『Victorian Jazz』においての「降霊術」の位置づけが、なんとも「現代日本人感覚」。
 自称新聞記者のサラ@べーちゃんが、降霊術師を騙るナイジェルさん@だいもんのことを「インチキ」だと最初から言い切っているんだが、それはナイジェルに対してどうこうじゃない。そもそもサラは降霊術を信じてない。
 彼女は19世紀のロンドンで新聞記者を目指すほど、進歩的な女性という設定。だから当時の人々が熱狂する降霊術を信じていないのだ……というようには、見えない。
 サラが「彼女の生きる現代の通説」を否定するに至るだけの確固たる考えを持っているように見えないんだ。なにゆえにそう思うのか、裏付けがない。
 彼女はただ、観客のわたしたちが「降霊術? ナイナイ(笑)」と思うのと同じ程度のメンタルで存在している。

 降霊術を信じる人たちはみな滑稽に、アホっぽく描かれている。
 降霊術など存在しない。……そういう意識で描かれているんだ、世界自体が。作者自身が、「降霊術が存在したかもしれない時代の空気」を理解していない。存在の有無ではなく、それを信じる人々が実在したことを、想像できずに作ったみたいだ。
 それゆえ、オチに平気で霊を出す。信じてないから、道具として便利使いする。

 そんな世界観での、奇術師と降霊術師。
 わたしはストレートにシンプルに、「似ている」と思った。
 どっちも人を騙す仕事じゃん、と。


 えー、本物の降霊術師のことは、置いておきます。
 霊媒とかイタコとか? シャーマンな人々の真偽を問うこととは、別次元の話です。

 ここでの降霊術師ってのは、インチキのことです。

 奇術師のナイジェルは、降霊術師のふりをして金を稼ぐことを思いつく。
 透視でも読心でもなく降霊術なのは、当時のロンドンで降霊術が流行っていたから。UFOが流行っていたら宇宙人だと言ったろうし、超能力が流行っていたらエスパーだと言ったんじゃないかな。ひとが求めているものを読み取って差し出すのが、奇術の一歩だから。

 ナイジェルは、信じてないんだろう。霊の存在も、降霊術も。彼の相棒だった興行師@和海くんも。だからそれを騙ることを思いつく。
 本気で信じていたら、霊を馬鹿にするよーなことは出来ないはず。
 主人公も、その相棒らしい男も、当たり前に降霊術を否定する。現代のわたしたちと同じ感覚で。物語がスタートして最初の登場人物がコレだもんよ。

 奇術師と降霊術師は、同じようなもの。
 ナイジェルも、物語の世界観自体も、そう言っている。……ように、わたしには見えた。

 同じ? 似ている? そうなの?

 まったくチガウよね?

 どちらも、客を騙して金を取る。そこは同じかもしれない。
 しかし。

 奇術師は、最初から「嘘」だと明かしている。
 奇術には種も仕掛けもある。超能力も神の力も持たないふつーの人間が、消えたり無から有を生み出したり、宙に浮いたりする。
 観客は「トリックがある」とわかっていて、それでも「魔法のような」ひとときを楽しむ。

 芝居と同じだね。
 俳優たちが舞台で演じている、それはあくまでもフィクション、本当の出来事ではない。わかっていて、その「嘘」を理解した上で、観客は芝居を楽しむし、それに対してお金を払う。

 だが降霊術師はチガウ。
 彼らは「真実だ」と言って、種も仕掛けもあるショーを見せる。
 観客は「真実」にお金を払うのであって、「嘘」だったらハナから相手にしない。

 奇術師にとって、噴飯ものの職業だろうな、降霊術師って。
 観客に対してふるう技術は同じ、しかし片方は「トリック/人間のやること」だと前置きして、片方は「奇跡/人間を超えた存在の技」と讃えられて。

 ナイジェルさんが奇術を愛し、奇術師として生きることに誇りやこだわりを持っているなら、降霊術師を騙ることだけは、やらないと思うんですよ。
 矜持に懸けて。

 奇術の舞台の上で、演出として「降霊術を披露します」ならアリなの。シャンドンさん@『マジシャンの憂鬱』で、マジックを披露した延長で透視術をやって見せたように。
 それを「マジックの演出」と受け止めるか「彼は本物の超能力者!」と思うかは、観客にゆだねられているから。

 冒頭部分で、警官がナイジェルさんを馬鹿にする。奇術師も犯罪者も似たようなものだ、と。
 それに対してナイジェルさんは報復行動、「降霊術」だと言って警官をとっちめるわけだ。

 警官は「嘘をついて金を取る」奇術師を、詐欺師と同じだと罵るわけだ。それに対して憤るナイジェルさんは、奇術師と詐欺師の境界線を理解しているし、一緒にされたらたまらない、という矜持があるわけだ。
 なのに彼は、次の瞬間詐欺師に落ちぶれる。警官が嘲笑った通りの存在になる。

 ナイジェル自身が、奇術師を汚している。

 ここがなー、わかんないんだよなー。

 詐欺師呼ばわりされて怒って、その次の瞬間詐欺師になる、って。しかも罪悪感なし、明るく楽しく人を傷つけよう私腹を肥やそう、なんて。
 それなら、「奇術師を犯罪者呼ばわりする者たちへの復讐だ、奇術を使って完全犯罪をやってやろうじゃないか」と開き直る方がいいよ。

 もしくは、「同じ技術を使っているだけなのに、奇術師だとひとから見向きもされなかった。降霊術師ならスターとして扱われる。必要なのは肩書きだけで、俺の技術は本物だったんだ」と落としどころをつけるとか。
 ナイジェルさんがやりたかったことは「奇術」そのものであり、奇術師として名を成すことじゃない。彼のトリックで人々が夢を見られれば、それがマジックでもオカルトでもなんでもいいんだ。……てな。

 奇術師にこだわりながら、奇術師を汚し、オチに幽霊を使いながら霊の存在も降霊術も信じてない。
 ナイジェルさんが、というか、作者の「軽さ」が気になる。
 わからないことがあるの。

 『Victorian Jazz』は他愛ないお話。悪役もバカだし、誰も死なないし、気軽に観られる軽快な小品だから、考え過ぎちゃいけないことはわかってる。
 その上で、基本的な疑問。

 主人公ナイジェルさんは、ナニがしたかったのか。

 ナイジェルさん@だいもんは、「脱出王」を自称する奇術師。本人はすごいつもりらしいが、実際には売れないパフォーマーで、借金まみれ。
 食い詰めて仕方なく犯罪を働くことになった。

 人を騙して、金を入手する。
 立派に、犯罪。容赦なく、犯罪。

 似たところでシャンドンさんという人がいる。『マジシャンの憂鬱』という作品の主人公で、職業はマジシャン。彼は「透視術」を使う奇跡のマジシャンとして時代の寵児になり、ついにはその国の皇太子に召喚される。

 シャンドンさんはぎりぎりセーフだと思う。
 だって彼は最初から「マジシャン」だと名乗っている。マジックには種も仕掛けもある。その上で本物の魔法のように、超能力のように見せかけるのが、仕事。
 シャンドンさんはマジシャンであり、後付けで超能力者ってことになっているので、たとえ透視が全部嘘でも「だからマジックだと言ったでしょう? マジックに種や仕掛けがあるからって責められても困ります」と言える。
 彼はマジックの延長で「透視術」を使い、結果超能力者のように祭り上げられることになる。あとに引けないので、皇太子の前で茶番劇を演じ、ほんとうに透視しているかのように振る舞うはめになった。
 それは「マジック」の範囲を逸脱し、詐欺と呼べる行動だけど、スタートは「マジック」。最初から詐欺目的でやったわけじゃない。

 でもナイジェルさんはチガウ。
 彼は明確に、金欲しさに、詐欺を計画する。

 懸賞金目当てに、降霊術師のふりをする。
 自ら「英国心霊主義協会」へ出向き、「降霊術師のナイジェルです」と名乗る。

 えーっとこれって、マジで犯罪だよね?
 詐欺だよね?
 シャンドンさんはマジシャンだけど、ナイジェルさんは詐欺師だよね?

 降霊術は、嘘っぱち。お金を得るために、フリをしただけ。観察眼に長けた彼は、その人を見るだけで背景がわかる、だから「霊が教えてくれる」ことにして真実を言い当てる。

 ザ・詐欺師。

 依頼主の求める答えを差し出すわけだから、答えと報酬が等価交換、釣り合っているから問題なし?
 いやいや、結果としてそうであったとしても、提示する初期情報が違っていたら犯罪でしょ?
 おいしい桃が食べたくて「産地直送、今朝採れた桃を販売してます」という店で桃を買った。払った金額に見合うだけおいしかった。……でもその桃は、産地も出荷日も嘘っぱちだった、……って、おいしかったとしても、「騙された!」と思うよね? 古い某国産の桃を照明や包装で誤魔化して「本日何時出荷・国内産」とシールを貼って売っていたなら、詐欺だよね?

 まあ、犯罪でもいいや。
 ナイジェルさんは、目的のためになんでもやっちゃう人、そういう設定なのね? 悪人ヒーローは、物語の中ならアリ。

 で、わかんないのはここから。

 ナイジェルさんは、なんの罪もない人々から、お金を騙し取ることに成功した。……ふつーなら、そこで逃げ出すよね?

 協会の人たちから支援を約束された。それって「歩合制」だとか「年間契約でひと月ごとの支給」だったりしたの?
 そんな長期スパンで詐欺行為を続ける前提だったの?
 ふつー、「降霊術師だ」と信じ込ませることに成功したなら、そこでどんと大金を出させるよね? 理由はなんでもでっちあげて。
 だって、犯行時間は短い方がいいし、関係者は少ない方がいい。
 信じさせることに成功した、そしたら即お金を出させるよね? ナイジェルさんはなにしろアタマが良くて舌先三寸で人を騙すことが得意なんだもの。言いくるめられて、お金を得られないはずがない。

 目的はお金。お金は手に入った。んじゃ、逃げなきゃ。

 なのに彼は、何故かそのまま、機嫌良く嘘をつき続けていた。詐欺行為を続けていた。
 お金が手に入らずしぶしぶ、には見えない。
 ナイジェルさんは堂々と本名で降霊術師を名乗り、マスコミに取り上げられる。カリスマとしてもてはやされる。
 それこそ、町中でサインを求められるのが日常になるくらいに。

 とーーっても、スターライフを満喫している、ように見えた。

 ナイジェルさんは、ナニがしたいの?

 目的はお金ではなかったってこと?
 彼は売れない奇術師だった。てっきり奇術で名を成したいんだと思っていた。お金が必要なのも、奇術で使う金庫を買い戻すためだったし。
 でも、どうやら違うようだ。
 ナイジェルさんは、「降霊術師」だと名乗ってしまった。

 マジシャンがジョブチェンジして超能力者になることはできる。シャンドンさんのように。
 それと同じで、奇術師がジョブチェンジして降霊術師になることはできる。

 マジシャン(奇術師)は、技術を駆使する「人間」だ。本当は超能力者だが、人間のフリをしていた、なら通用する。高次の能力を持つ者が、あえて身分を隠していたならば。

 だけどその逆はない。
 降霊術師から奇術師のジョブチェンジは、できない。
 一旦「私は超能力者です」と言って報酬を得ていた者が、「実はただの奇術師で、みんなトリックだったんです」では通らないためだ。

 本名で降霊術師としてデビューし、しかも世間にちやほやされてしまったら、もう奇術師には戻れない。

 降霊術師を辞めるときは、なにもかも捨てて逃げ出すとき。
 顔と名前の知られたところでは、もう新しいことはナニも出来ない。

 ナイジェルさんの目的は、世間にちやほやされること?

 奇術であろうとインチキ降霊術でも、なんでもよし? 世間から「天才現る!」「ナイジェル様~~ステキ~~!」と言われれば、それで人生成功なの?

 あちこちで奇術へのこだわりを見せていたし、ラストはアメリカへ奇術修行に旅立つし、あくまでもナイジェルさんの基盤は「奇術師」だと思っていたから、わけわかんない。

 ナイジェルさん、ナニがしたいの?

 奇術師としての自分を大切にするなら、そもそも犯罪なんかに手を染めないし、あえてそうしたとしても、1回限りでやめるよね?
 得たお金でそれこそアメリカへ渡って、名前を変えて奇術師として生きるよね?

 降霊術師として大スターになって、ナニがしたかったんだろう……。

 だいもん主演、とわかったときから、初日と楽は観に行くつもりだった。
 が、初日は当たったけど、楽ははずれた。友会抽選。
 友会ではずれたら、大抵どーしよーもないのがバウ。一般発売では、まず買えっこないし。
 わたしは楽より初日派なので、もしこれが逆なら死ぬ気で初日チケットを探したけれど、とりあえず初日が手に入ったんだから、楽のことはあとから考えよう、と、わりと楽観。完売していてもチケットが流通するのが、ヅカのいいところ。

 や、無事に観に行けて良かったっす、『Victorian Jazz』
 千秋楽、まさかの機器トラブルで中断、最初から上演し直しになり、「ちょっと待て。6時半梅芸に間に合うのか?」と青ざめたけどな(笑)。←もともとの終演予定時刻は4時55分。実際に終演したのが5時半。ぎりぎり間に合いました。


 今回、ふと考えたんだ。

 望海風斗が真ん中に立つ舞台を、次にいつ見られるのか。

 わたしはトド様ファンからスタートしたヅカヲタなので、そのあたりが鈍感なのだと思う。
 トド様は主演舞台の少ない人だったけれど(研13でトップになるまで、主演バウは2回しか経験していない)、彼がトップスターになることを疑ってなかったので、「またいずれ、真ん中の姿を見られる」「また次がある」と思い込んでいた。
 「今」にがっつく必要がなかった。未来は潤沢で、希望に満ちていた。いくらでも与えられるのがわかっているから、飢える心配がない。

 次に好きになった人は新公主演していなかったので、彼が真ん中の舞台なんてもんに、ハナから夢は見ていなかった。(結果としてバウ主演もあったけど。結果でしかない)

 その次に好きになった人は、新公主演していたのでバウ主演の資格はあったけど、いつまで経ってもその機会は来ず、下級生に抜かされ、もう一生ないんだろうと達観していた。なくても、わたしの贔屓は変わらない、ってことで。
 が、まさかのまさか、研14にもなって初バウ主演、はじめて「真ん中に立つ」意味をわたしが実感した。

 スタートがトドだから、ぴんときてなかった。
 主演ってのは、いくらでも与えられる、何度でも与えられるものじゃないんだ。
 まだ下級生だから、まだ若いからとか、関係ない。次があるかなんて、誰にもわからないんだ。

 そんな当たり前のことに、今さら気づいたんだ。

 で、望海風斗。
 大好きなだいもんくん。
 彼が真ん中に立つ舞台を、何故観納めずにいられる?

 初日は「どーなることか」と見守ること、情報を処理するだけでいっぱいいっぱいだった。
 それが千秋楽は、すっかり「近所のおばちゃん」モード。

 こんなに、大きくなって……!!
 だいもんとの(一方的な)思い出が次から次へと浮かんできて、それだけでもう感無量。

 まぁくんとだいもんは、6年前にふたりでW主演とかさせちゃえばよかったのよ。
 まぁくんが新進スターできらめき半端なくて、だいもんが下級生だけど実力半端なくて、このふたりでがつんとカマして、「男役の花組ここにありっ!」て見せつければ良かったんだわ。
 『MIND TRAVELLER』で、どんだけ夢を見たか……。好きだったんだもんよー。

 年功序列の花組で、なかなか順番が回ってこなくて。
 ようやくようやく、真ん中に立てたね。
 なまじ実力があることと、半端に「スター」として推されていたことで、華やかな部分はあまり味わえず、でもその他大勢ではないからスターとしての責任もあり、大変なこともいっぱいあったね。
 おいしいところはトップ人事絡みの某ちゃん独占、実力ガチンコな部分だけだいもんの肩に、とか、出ずっぱりでかけずり回り、ちょっと体力大丈夫なの?の全ツとか。

 ミュージカルが好き、歌うことが好き、とことあるごとに語っていた印象の89期。わたしがはじめて観た文化祭の、主役の男の子。

 わたしの中では、もうずっと前から「真ん中」な男の子だった。
 トップスターになるかどうかではなく、ずっとずっと、「スター」。
 彼を真ん中に、舞台やっていいじゃん。なんでやらないの? という。

 『BUND/NEON 上海』にしろ『CODE HERO』にしろ、場を与えたら、スイッチ入っちゃったら、主役食っちゃうよーなブレーキきかないとこあるけど(笑)、だからこそ、真ん中に置いておこうよ。
 主役やらせようよ。おもしろいから。
 観客として、おもしろいものが観たいから。


 てことで、ほんと自分のために、観に行きました。
 だいもんを見たくて。ほんと、それだけで。

 『Victorian Jazz』は、初日のいっぱいいっぱい感はなく、いい感じにみんな舞台を楽しんでいた印象。
 だいもんも「やること多くて大変!」だった初日と違い、彼らしいプラスアルファを感じられた。

 だけど実際のところ、この舞台、この芝居、だいもんには、役不足だと思った。

 曲が無駄に難しいとか、出ずっぱりとか、やることがたくさんあるとか、そういうところではやり甲斐っちゅーか、「克服」とか「達成」とかに快感がありそうだけど。
 だいもんのスイッチ入っちゃって、爆走して戻って来ない……そういう系の作品じゃなかった。

 というのも、策士策におぼれる、というか、ミュージカルとしての小洒落た演出、技術面ばかりにこだわって、キャラクタがうすっぺらくなっている。……脚本自体が。
 ひととひととのつながり、心の動きなどが、とても浅い。

 目指したところが「小粋で肩の凝らないミュージカル」「ディズニーアニメ」みたいな世界観だから、それで十分なんだろう。
 でもそれ、だいもんの芸風じゃないなあと。
 彼、ぎとぎとに濃いじゃん?
 そんなパステルカラーを求められてもな。

 「小粋で肩の凝らないミュージカル」をさらっとやってのける実力がだいもんにはあるから、彼にそれを求めるキモチはすごくわかるし、ギトギトに濃くて重い物はこの現代にあまりウケないから、これくらいの軽い作品が良いこともわかる。
 てゆーか、デビュー作から『BUND/NEON 上海』をやっちゃった生田くんが、恥ずかしいだけで(笑)、田渕くんや原田くんの軽さは現代の若者として正しいんだとも思うし。
 ……最初からアレはねー……恥ずかしいよねー……(笑)。

 だからわたしの、ないものねだりだ。
 真ん中に立つ望海風斗、に対する。


 に、してもだ。
 この軽い作品において。

 だいもんが、めちゃくちゃかっこいい。

 初日は、それほど思わなかった。ナイジェルさんのキャラクタが薄くて。
 でも、楽のナイジェルさんときたら、もー、なにかにつれ、いちいちかっこよくて、笑った。いやその、笑うのはわたしが近所のおばちゃんだからだ。
 アヤコちゃん、こんなに大きくなって~~、みたいなノリの。

 ああもお、かっこいい。クドい。たまらん。
 わたしが「タカラヅカ」に求めるモノ、男役に求めるモノ、それを見事に突いてくる。
 やだもうこの子、かっこいい。好き。


 フィナーレも終わり、最後の最後だっけか。
 だいもんの「耐えている」ような表情が、気になった。

 終わってしまう。それを、噛みしめているんだな。
 勝手に、そう思った。

 口を一文字に引き結んで、劇場中を見回しているの。
 挨拶じゃない、フィナーレの中で。
 この瞬間を、惜しむように。

 そんな風に思う人は、はじめてだ。


 戻っておいで。
 また、ここへ。
 舞台の真ん中へ。

 タカラヅカは実力だけじゃないけれど、なにがどうなるかわかんないけど。
 また、戻っておいで。
 君の主演する舞台が、また観たいよ。

 そんな風に思う人は、はじめてだ。
 轟悠が、恋しい。

 『エリザベート スペシャル ガラ・コンサート』へ行ってきました。
 もちろん、初演バージョン。
 トート@イチロ、エリザベート@花ちゃん、フランツ@タカネくん、ルキーニ@トド。
 ゾフィー@朱未知留ちゃんで観たかったけれど、東京だけで残念。ルドルフはわたし的にコム姫がベストなので、ルドルフ@コムはありがたい。

 「戻りたいのは場所じゃなくて、時間なんだよ」……なんの台詞だっけ、忘れられない台詞がある。
 なつかしい故郷。……チガウ、求めているふるさとは、ここじゃない。もうどこにもない。
 求めているのは、時間。
 あのころ過ごした時間、自分、そして、仲間たち。

 なつかしいのは、戻りたいのは、場所じゃない。
 あのころの、自分だ。


 ガラ・コンサートのキャストが発表になったときから、いっちゃん、花ちゃん、ゆきちゃん、トドの4人が揃うこと、これだけが重要だった。
 に、加えてルドルフ役を選べるなら、ごめん、タータン以外、という選択肢。
 わたしは初演厨だけど、ルドルフだけは当時から納得できてなかった。新公のかっしールドルフに軍配だった人ですもん。

 それ以外のキャストはアタマにない。全バージョン観に行けるお金と時間があればともかく、選ぶしかないなら、欲望に忠実に。
 自分がいちばん大切なモノを。

 誰が出ているのかも知らないから、客席でいちいちおどろいた。ねったんいるんだ、とか、しゅうくんいるんだ、とか。あかしは歌アレな人なのに、何故コンサートに?!とか。いや、あかし好きだけど。めぐむとしゅん様ってナニこの並び(笑)とか。
 軍曹、やっぱ変わっちゃったなとか、はっちゃん変わらなさすぎてこわい、とか(笑)。
 トド様と並ぶまりえったに、彼の雪組デビューはトド様の従者役だったよなとか、なつかしく思い出したり。

 隅から隅まで味わい尽くす気満々でいたのだけど、実際に観てみると、わたしの視界は、わたしの思っていたものとちがっていた。

 わたしのオペラグラスは、ルキーニを追っていた。

 こんなことはもう2度とない、いっちゃんを、花ちゃんを、タカネくんを見なきゃ。
 そう思うけれど、わたしはまず、トドロキを見る。見て、しまう。

 そう。
 時が、戻ったんだ。

 いっちゃんがいて、花ちゃんがいて、ゆきちゃんがいる。
 なにもかも同じではないけれど、この主要メンバーがいれば、気持ちは安定する。
 わたしは無意識に、戻っていた。
 あの頃に。

 わたしの、『エリザベート』の視界。

 もちろん真ん中も見ている。物語も観ている。
 だけど、それ以上に。

 轟悠だけを、見ていた。

 友人たちと並んで観た、初演雪組『エリザベート』初見の日。初日だったっけ?
 出番が終わってなお、ルキーニ@トドロキは舞台にいた。下手花道に立ち、にやにやと本舞台を眺めていた。
「あの人、ずっとあそこにいるの?」……友人のひとりがそうささやいてきたのを、おぼえている。トドファンじゃないのに、物語の外側にいるルキーニの存在が気になったらしい。
 それくらい、目を奪う存在だった、トドロキルキーニ。

 初演は何回観たんだっけ。チケットが取れず、いつも2階席だった。1階席で観られたのは新公だけ、あとは千秋楽も含め、2階S席が定位置だった。梅田のプレイガイドで売っている席しか買うすべを知らなかったから、いつも同じあたりの席で、同じ角度で観ていた。

 いつも同じ。
 いつも、同じ視界。

 自在に暴れ回る、トドロキルキーニを視ていた。


 あれから16年?
 初演『エリザベート』は、映像でしか見られない。
 だからもちろん、映像だけを繰り返し見ていた。
 映像は、わたしの視界ではない。当たり前だけど、他人が差し出した視界を受け入れ、それで満足していた。

 それが、今、「あの頃」と同じモノを差し出されて。

 わたしはなんの迷いもなく、とまどいもなく、「同じ視界」を得ていた。

 時が戻る。
 16年前、大劇場の2階席で、必死にオペラグラスを握っていたわたしに。

 トドが好きで、だからといって彼の舞台力にそれほど実力を感じていたわけではなくて(役幅せまかったもん、出来ることと出来ないことがきっぱりしてたもん)、だけどこの『エリザベート』で、ルキーニ役で、「この人、わたしが思ってるよりすごい人なんじゃない?」とハクハクした。

 所詮、顔で一目惚れした人だ。
 平成元年の雪組『ベルサイユのばら』。『ベルばら』だから、と観に行った、ライトな観客だった。ヅカと言えば『ベルばら』でしょ、『ベルばら』やるなら観なきゃね。
 それで、主役のアンドレでもなく、オスカル様でもなく、2幕からしか出番のないアランに一目惚れした。今思うとすげーへたっぴ。棒読み台詞。
 リピートしてはじめて、同じ人が1幕では近衛兵をやっていることに気づいた。

 顔はきれいだけど、へたっぴな人。
 タカラヅカにくわしい子に「轟悠が好き」と言うと、「アンタ、顔だけで選んでない?」と鼻で笑われた。
 そうか、轟悠を好きって言うと、ツウな子には馬鹿にされちゃうもんなんだ。たしかに顔だけ、実力なさそうだもんな。
 ヅカ初心者だったので、右も左もわからない、ツウな人が鼻で笑うってことは、世間一般にそういう認識のジェンヌなんだろう。
 そう素直に思い込むところから、スタートした。
 世間の評価がどうであれ、わたしは好きだからいいや、と。
 プログラムに蛍光ペンでライン引いて、出番を見逃さないようチェックした。群舞の中から彼を探し、オペラグラスで追いかける。それがわたしの「タカラヅカ観劇」だった。

 時が戻る。
 トドをオペラで追いかけていた、あの頃に。

 わたしにとっての『エリザベート』。
 ルキーニの一挙手一投足。

 いっちゃんがいて、花ちゃんがいて、タカネくんがいて。
 大好きな雪組で、わたしは安心してトドを視る。彼を追う。

 今、いっちゃんのトートも、花ちゃんのシシィも、うれしいけれど、興味深いけれど、わたしのほんとうの関心は、そこになかったらしい。
 いやもちろん、彼らも大好きで、彼との再会がうれしくて、彼らも見ていたのだけど。味わっていたのだけど。

 ひとりずつをじっくり眺めて「ここはどうだ」「誰はどうだった」と論じたいのではなく、ただ単純に、戻りたかったんだ。「あの頃」に。

 いや、過去は過去でしかなく、ほんとの意味で「戻りたい」わけでもない。
 今この一瞬だけ、この時間だけ、「あの頃」を、体験したかった。

 愛しい時間。
 愛しい人々。
 大好き。大好き、大好き、だいすき。

 いっちゃんの歌声に包まれながら、安心して、トドロキを見ていた。
 彼に恋していた時間を、思い出していた。


 ……そうやって16年の時間を飛び越えさせてくれた、キャストに感動する。感謝する。
 よくぞこれだけ、演じてくれた。

 まあその、タカネくんはやり過ぎっちゅーか、「アンタそれ、すでにフランツちゃうやろ」と思ったけど(笑)。そのやり過ぎなところがいかにも「タカネくん」で、うわ、変わってねえ!とウケた。
 それも含めて、愛しい。

 トド様のすごさ、素晴らしさも改めて思った。
 この人を好きで良かった。
 そう思った。

 観る前は漠然と「他キャストの日も、時間とチケットがあったら観に行ってもいいかな」と思っていたし、オサ様トートにはとても会いたかったのだけど。
 見終わったあとは、トドロキ以外のルキーニは見たくない。と、思った。
 他のルキーニ役者さんがどうとかではなく、わたしの思い入れ的に。
 他で唯一観たいのはキムルキーニだし。……トドルキをオペラで追いながら、思い出した。同じように唯一オペラで一挙手一投足追ったルキーニがいたことを。

 初演メンバー以外は、今回もう観られない。わたしのキャパ的に。入る余地がない。
 コム姫ルドルフで、キムトート@『アルバトロス南へ』ががーーんと浮かんできて、ここでも轟沈したしな。

 トド様、好きだな。
 ほんと好きだわ。しみじみ。
 なのにわたし、『おかしな二人』のチケット持ってないとかいうし。や、努力はしてるけど、ほんと手に入らない。最悪サバキ待ちしに行くけど。
 つか、チラシすら手に入ってないし。あー。


 あ、でも、『ブラック・ジャック』のチラシは手に入れた!! キャッホウ!

 初恋の人を語り、現在のダーリンの話で終わる(笑)。
 で、作品ファンとして。

 『ロミオとジュリエット』という作品を、大切にして欲しい。

 初演が成功したのは、おかしな人事事情に振り回されていなかったからだと思うんだ。
 あ、初演キャストの力とは、別の次元の話として。

 所詮は海外ミュージカル。タカラヅカのお約束に沿った作りの作品じゃない。
 でもそれを、「タカラヅカ」のルールに落とし込み、「タカラヅカの『ロミジュリ』」にしたのは、『エリザベート』『スカーレット・ピンパーネル』と同じように、小池先生の手腕だと思う。

 『エリザベート』初演がもしも、タイトルロールの主人公、エリザベート役を、研1の素人が演じていたら、今日の成功はあっただろうか?
 あるいは、トート役とフランツ役が日替わりだったら?
 生徒個人がどうとか以前に、ヅカファンの感情を無視した、無茶な人事を押しつけた配役だったら?
 『スカピン』初演にしてもそうだ。

 どんだけ素晴らしい「海外ミュージカル」という雛形があったにしろ、それをタカラヅカに持って来て、「タカラヅカの」作品に生まれ変わらせるときに、タカラヅカの持つ「タカラヅカ力」は不可欠だ。
 歌劇団が100年近く懸けて研磨してきたシステム。トップスターを頂点としたピラミッド。
 トップスター制度ができたのはいつからだ、それまではそんなもんなかったとか、そういう話ではなく。
 トップスター制度が最良である、と、今のカタチにたどり着いたんだ。
 これから先、変わっていくのかもしれないが、あくまでも今の話。
 新専科制度もあったけれど、なし崩しになくなったことからしても、トップスターを中心にしたピラミッドが必要だということだろう。

 タカラヅカのタカラヅカらしいトップ制度は、現代から未来に懸けても、別に間違っていないと思う。
 問題は、そこじゃない。
 制度では同じでいい。古いからダメなのではなくて、古くてもなんでも、それが特色なのだから、そのままであるべきだ。
 スターの人選や、育て方、プロデュースの仕方が、時代と共に変わっているのに、古いままである、こちらが問題。
 人の育て方は旧態依然として不透明のまま、変えてはならない根幹のトップ制度をいじるから、カンパニーの屋台骨がグラついているように見えて、こわくて仕方ない。

 『ロミジュリ』初演はまだ、劇団の「トップ制度」が揺らいでいなかった。

 世界で最も有名なラブストーリー、誰もが知っているロミオとジュリエットを、トップコンビが演じる。
 ヒロインに横恋慕するのが、2番手。

 海外ミュージカルがタカラヅカにのルールに沿っていなくても、「恋愛至上主義」のタカラヅカが、最も有名なラブストーリーを上演し、数々のラブロマンスをコンビで演じるトップスターとトップ娘役が誰もが知っている悲劇のカップルを演じる。
 ……これだけで、「タカラヅカ」としては正しい。合致している。

 主人公が高齢だとか、恋愛なしとかヒロインなしとか、「タカラヅカ」に合わない作品はいくらでもある。
 それに比べて『ロミジュリ』は、なんとタカラヅカ的であることか。

 作品とタカラヅカの特色が、同じベクトルを持っている。
 作品の力を、タカラヅカに当てはめるだけでいい。
 それを、タカラヅカをよく知る演出家が手練と愛情を持って潤色すれば、まぎれもない「タカラヅカの『ロミジュリ』」になる。

 だから、成功したんだ。
 初演キャストの力ももちろんだけど、人事的悪因のなさも重要事項として。

 星組の揺るがないピラミッドにて、天下の悲恋が美しく感動的に、「タカラヅカ」にて花開いた。
 ちえねねのコンビ人気は、ここにて爆発的に盛り上がる。

 『ロミジュリ』ってのは、トップコンビの人気を確立させる力のある演目だ。
 双方の魅力を引き出し、さらに、カップルとしての魅力を打ち出してくれる。

 当時の星組も、番手スターとして引き上げたい生徒と、彼の上にいる数名の生徒の立ち位置に苦慮している様は見て取れたが、トップコンビと2番手が盤石であったので、無問題。
 3番手以下が群雄割拠なのは過去に多数例がある。3番手まで決まっている方が美しいが、最低限トップコンビと2番手まででピラミッドは形成可能。


 よーするに。

 愛し合う、稀代の悲恋カップルを、役替わりで演じるなんて、魅力半減。

 複数キャストで上演する、外部カンパニーならともかく、トップ制度のあるタカラヅカで、ロミオとジュリエットを役替わりするなんて、本末転倒、ナンセンス。
 トップコンビという関連性込みで観劇するのに、二股状態では夢が見られない。

 雪組版も月組版も、残念だった。
 何故この演目を、よりによってこの恋愛作品を、二股キャスティングにするのか。

 雪組版も月組版も、楽しんだし大好きだけど、それとは別の話。

 まともな、『ロミジュリ』が観たい。

 トップコンビが愛し合っていて、2番手がヒロインに横恋慕する、ふつーのタカラヅカが観たい。

 ヅカファンとして、当たり前の、最低限のモノが、観たい。


 星組は、トップコンビの人気がすごいので、雪や月のような悲劇はくり返されないと思う。
 二股になることなく、ちゃんと愛し合うふたりのポスターが見られるのだと思う。

 そうであってほしい。
 頼むよ劇団。

 2番手の役は、ティボルト。そして、ちゃんと2番手が演じる。
 当たり前のことをしてくれ。


 他のキャスティングがよくわからない、というか、星組さんって、「歌えるスター」がいないので、どうなるのか、そこだけは不安だ。
 今やっている『Étoile de TAKARAZUKA』で、「歌えるスター」の場面で、専科のエマさんがセンターせり上がりソロをやってるくらい、他にいないんだもんよー。

 『エリザベート』と同じで、主役含めいろんな役は「スター力」でなんとかなるが、唯一例外の主要キャラクタがある。
 それが、フランツ@『エリザベート』であり、ベンヴォーリオ@『ロミジュリ』だ。
 別格さんでも専科さんでもいいが、この役だけは最低限「音痴」の人は出来ない……やっちゃいけない……。作品が立ち行かなくなる。

 星組さん、真ん中近くに歌える人がいない……。
 今の公演では、まさこが単独4番手扱いだけど、彼の歌はマジすごいからなー……全組合わせて、番手のあるあたりの面子でぶっちぎりの実力だからなー……このまま、彼がやるんだろうか?
 や、彼は美形で魅力的な人だから、スターとして活躍してくれることは歓迎なんだが。
 歌なしに変更してなら、キャラクタと役割だけなら合ってると思うが。

 星組さんみんなキャラ立ってて大好きだけど、どうなるんだキャスティング。
 役替わりなんて飛び道具ナシで、がっつり『ロミジュリ』が見たいんだけど……。
 蜃気楼のような夢かもしれないけど。

 ベンヴォーリオが出来る人、つーと専科のみっちゃんだけど、『オーシャンズ11』で2番手に昇格した人が、3~4番手役のベンヴォーリオをやるとは思えないし。比重変えたところで、ベンヴォーリオはティボルトより上の役にはなりっこないし。
 『オー11』で正式2番手でなければ(もともと2番手不在作品だし)、『ロミジュリ』出演も夢見られるんだが、それはそれで、みっちゃん的にどうなんだろう、だし。


 作品ファンとして、気が揉めるのだった……(笑)。
 『EXCITER!!』再演が決まったとき、「うれしい」と言っている人がいる、ことに驚いた。喜ぶのか? そこは、嘆くか、憤るところだろう。

 同じ作品を同じ組同じメンバーで再演なんて、得をするのは経費を削減できる劇団の懐だけ、あとは生徒もファンも誰も得しないじゃん。

 よそのカンパニーなら、再演でも何ヶ月だの何年だのに亘るロングラン公演でも、好きにやればいい。
 だがタカラヅカは、「有限の楽園」だ。フェアリーたちが立てる舞台、出演できる公演には限りがあるんだ。

 入団後7年前後で辞める人が多く、まったくのモブからちょっとした見せ場や役をもらえるようになるのに5年くらいかかるとして、「ちょっとした見せ場がある」本公演は、ジェンヌ人生のうち、ほんの数公演、てな人たちも多いわけですよ。
 俳優人生・舞台人生活は退団後何十年続けられるかもしれないけれど、タカラヅカでの舞台は、限りがある。いわゆる「番手」のあるスターさんたちだって、主要キャラとして立てる本公演は、ジェンヌ人生で何作ある? 5年10作あれば御の字?

 その限られた、数作しかない貴重な機会を、「同じ作品」で潰されるなんて……。
 どんな名作でも、とんでもないことだわ。

 それに『EXCITER!!』って別に、名作じゃないし。ふつーの良作程度の出来だし。
 わたしは好きだったけど、好きとかキライとか、そんな次元の話じゃない。

 再演が決まったとき、へこんだわ……落ちたわ……。
 自分の大嫌いな、生理的に無理なあれとかこれとか、過去のいろんな作品を思い浮かべ「アレをうちの組で再演するって言われるより、たった7ヶ月前にやった、好きなショーを再演される方がマシ」と、自分を慰めた。

 それくらいへこむもんだ、「同じ演目を同じメンバーで再演」は。

 そして、恐怖した。
 劇団、潰れそうなのかな?
 新作ショーを作るお金がない、ってことなのかな。

 今まですごーく華やかに着飾っていた知人が、あるときから同じ服ばかり着るようになって、散財もしなくなって外食もしなくなって、本人は相変わらず陽気で楽しそうにテンション高く話してるけど、つきあい悪くなったなー、と思ってたら、破産して夜逃げしたみたいよ、てなオチにたどり着く、てな。

 劇団は今、そういう状態なのかな。


 期限のあるタカラジェンヌの公演機会損失についても、劇団の未来についても、暗いキモチにしかならない。
 そーゆー大きな視点においても嘆きと憤りしかないし、さらにもうひとつ。
 すでに20回観た作品を、またさらに20回観ろっていうのか?!という、まったくもって個人的な都合でも、不満でしたわ。

 わたし程度のヲタでもそうなのよ、もっと回数観ている人たちは、さらにきついでしょう。同じモノを何回観ろっていうのよ。リピーターに支えられている劇団のくせに。


 ……という一連の記憶を思い出しました。
2012/11/22

2013年 公演ラインアップ【宝塚大劇場、東京宝塚劇場】<5月~8月・星組『ロミオとジュリエット』>

星組
■主演・・・柚希礼音、夢咲ねね

ミュージカル
『ロミオとジュリエット』     
Roméo & Juliette
Le spectacle musical de GÉRARD PRESGURVIC
D’après l’œuvre de WILLIAM SHAKESPEARE
原作/ウィリアム・シェイクスピア
作/ジェラール・プレスギュルヴィック
潤色・演出/小池 修一郎

世界で最も知られている永遠の純愛物語、ウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が、作詞家、作曲家、そして演出家であるジェラール・プレスギュルヴィック氏によって新たにミュージカル化された本作品は、潤色・小池 修一郎により、2010年7月に星組により梅田芸術劇場、博多座で日本初上演。素晴らしい楽曲と史上最高のラブストーリーで連日劇場を感動に包み絶賛を博しました。2011年には雪組で、そして2012年には月組により再演され、いずれも高い評価を得ました。今回、初演を務めた星組が、大劇場の舞台で、よりグレードアップしたステージをご覧入れます。

 星組『ロミジュリ』再演キターー!

 これで来年、劇団創立99年目、プレ100周年として意味のある年の、前半分の演目が発表になった。

月組・再演・ショーなし
花組・再演・ショーなし
宙組・オリジナル・ショーあり2本立て
雪組・再演・ショーなし
星組・再演・ショーなし

 ……宝塚歌劇団って、潰れちゃうの?

 今まですごーく華やかに着飾っていた知人が、あるときから同じ服ばかり着るようになって……以下略。

 劇団は「豪華!」なつもりで出してきた企画なのかもしれないが、反対の意味に感じられて、ガクブルしちゃったよ……(笑)。

 2010年の『EXCITER!!』再演をはじめとして、ショーなし一本モノ、経費の掛からない再演モノばかりだったとき、劇団存続について怯えたけれど、まあそれでもあれから2年、存続しているわけだから、あと2年、100周年までは大丈夫なのかな。
 潰れて欲しくないので、がんばって欲しいナリ。


 で。
 最初の話に戻るが、『EXCITER!!』再演を無邪気に喜ぶ人々がいたのは、事実。
 「『EXCITER!!』好きだったから、また観られるのうれしい」とか、「観てないけど、評判良かったから観てみたかった。再演はありがたい」とか。

 ガチな組ファンほど落胆に声も出ない状況、外野やライトファンのみが気楽に喜んでいた印象。

 なるほど。
 我が身に起こって、実感したわ。

 「ちえねねの『ロミジュリ』がもっぺん観られる~~、楽しみ~~」

 と、思った……。

 好きだったから。大好きだったから。純粋に、「好きなモノをもう一度観られる」ことがうれしい。

 ガチな星担さんの落胆と憤りも、良い公演だったからこそ、美しい記憶のままにしておきたいキモチも、ショーなし一本モノで、役の少ない海外ミュージカルゆえのモブ決定の組子の扱いに憤慨することも、理解できるけれど。
 そこのところはヅカヲタとして、『EXCITER!!』再演に憤慨したひとりとしても、とても同感するところなのだけれど。

 それらを置いておいて。

 わたしは、『ロミオとジュリエット』という作品が好き。

 4年連続上演することの是非や、ましてや同じ組で同じ主演で、という疑問点はあるにしろ、それとは別に。

 いろんなキャストで観られることが、うれしい。

 楽しみだと思う。
 星組さんの人気半端ナイから、チケット取れるのか心配だけど、複数回観に行って、堪能したいと思う。
 初演、大泣きしたもんなあ。ちえロミオ、ねねジュリエット……ほんと、大好きだった。


 『ロミジュリ』が好きだから、結果として「楽しみ」なのであって、こんなカタチでの再演は、ヅカヲタとして、「うれしく」はない。
 ダブスタかもしれんが、劇団の未来を危惧し、やり方を嘆くキモチと、『ロミジュリ』が好き、というキモチは、わたしの中に同時に存在している。

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