発表があってしばらくしたころ。
 別にどーってことのない日常の中、ふと、思った。

 わたしはもう、ハマコに救ってもらえることはないんだ。

 足元に、ぽんと闇が開いたような。
 いや、闇自体はあたりまえにいつもそこにあるんだけど、お気楽に生きているわたしには普段見えないし、感じることもない。
 でもたしかにある闇が口を開け、そこに落ちたら最後、もう誰も助けてくれないんだ、てなことに気がついてしまった。

 わたしのご贔屓はまっつだけど、まっつはわたしを助けてはくれないな。
 まっつを好きだというわたし自身の萌えハートがめらめらして(笑)、それゆえに自分で闇に落ちないように踏ん張ることができるだけで、まっつがわたしを救ってくれることはないだろう。や、生きる希望というか煩悩、欲望(笑)をかきたててくれるのはすげーことだと思いますが。

 その舞台でわたしを救ってくれる人、って、ハマコしかいないじゃん。
 なのにハマコがいなくなっちゃったら、もう誰もわたしを救ってくれないじゃん。
 
 舞台で救う、ってのも、おかしな話だけど。
 なにを勝手にジェンヌに妄想してるんだってことになるけど。

 ハマコの舞台は、舞台でのハマコは、その強い力で、健やかなまっすぐさで、わたしを救ってくれる。

 もしもわたしがなにかしら絶望していて、もう駄目だってときにハマコ(の舞台)と出会えたら、わたしはきっと救われる。
 泣きやむことができると思う。

 わたしにとって、タカラジェンヌ未来優希はそーゆー人だ。

 ご贔屓かどうかではなく、彼の舞台上のキャラクタを、わたしが勝手にそう受け取っている。

 ハマコがヅカを去るからといって、彼ほどの舞台人・表現者がこのまま市井に埋もれるとは思えず、きっとどこかのステージには立つのだろうけれど、わたしが求めているのはヅカの舞台での彼だ。
 ヅカを観ることはわたしの日常であり、わたしが救われたい・安心を得たいと思うのはその日常でだ。日常とはかけ離れたところに出かけていくのは、主旨からはずれている。
 さらに、「彼」ではなくなってしまうわけだし。今のハマコは男だから、女性のわたしから見て包容力あふれる人だけど、同性になってしまうと趣が変わる。

 ハマコを失う。
 その事実が、あとからじわじわと効いている。

 ショー『Carnevale睡夢』は、ストーリーがあるのかないのかわかんないが、ハマコは通し役だ。
 ハマコだけでなく、チギコマヲヅキ他通し役に近い、「同じ人たち」がたくさんいる。
 ショーでこんだけの大人数を狂言回しめいた扱いにすると、「いつも同じ衣装の人たち・お着替えナシな人たちがたくさん」になる。
 ふつーまとまった人数にどの場面も同じ衣装・同じ顔ぶれでうろうろさせるなら、それは組長クラスとかいっそ若手とかで主要メンバーははずすもんなんだが、今回は路線とそれ寄りの配置だから諸刃の剣。
 「ヲヅキはずーーっとあのカツラのまんまなんですか?(泣)」by某ヲヅキファン友人談、とかなー。

 ハマコもおかげでずーーっと同じ衣装、もしくは同じテイスト。場面ごとにまったくチガウ色で登場したりしない。場面ごとを楽しむという通常のショーではない。
 最後のショーでソレってどうなの、とも思うが。

 芝居も兼ねていると思えば、OK。

 ……ごめん、やっぱりわたし、植爺アレルギーが浸透しているようで。さらに、前回の贔屓組『ベルばら』の後遺症が深くって。タカラヅカをキライにならないためにも、植爺には近づかない方がいいっす。
 ジェンヌの熱演はわかるし愛しいんだけど、やっぱりダメだ植爺……。
 
 てことで、ショーに集中します。
 てことで、やりました、『Carnevale睡夢』中ハマコのみピン取り一部始終。ハマコが舞台にいる間は、ハマコだけオペラグラスで追いかける。浮気ナシ、誰が出ていてナニが起こっていても、ハマコだけ。

 ショーだけど芝居みたい。ストーリーはほんっとさっぱりわかんないし、今のところ妄想する気にもならないが、通し役としてのハマコを追いかける分には問題ない。
 ショーってのは芝居とちがって「役」を演じるよりも、「当人のキャラ」で勝負って部分があるじゃないですか。それが『Carnevale睡夢』はハマコ個人のキャラクタ、元気でパワー炸裂でってな感じではなく、ずっと「仮面屋の男」という役を演じている。芝居をしている。
 だから、男役、としての佇まいを堪能できる。

 純粋に、二枚目だよね、仮面売りのハマコ。ユーモラスな表情もするけれど、やさしい楽しそうな目で人々を見つめていたりもするけれど、概ね男らしい美しい面持ちをしている。

 ああ、この顔が好きなんだ、と思う。
 顔立ちではなく、顔。表情を含めた顔全部。
 黙って立っていると、明るさよりも暗さの勝る、こわさのある強い顔。

 ハマコは底抜けに明るい光を持つ人だけど、彼の芸風自体には毒がある。その強さゆえ実力ゆえに持ち味とは正反対の不安な暗さ、闇をまとうことができる。
 わたしが彼に惹かれてやまないのは、その闇と毒ゆえだ。一面的な明るさだけでない、深さゆえだ。
 こわいと思わせることのできる人が、黄金の光を放ち救いあげてくれる、ギャップゆえだ。

 美しいハマコを、焼き付けるために。
 もうわたしを救ってくれない、わたしの手の届かないところに行ってしまうつれない人を、愛し続けるために。

 ほんとにいなくなっちゃうの、ハマコ。
 未練たらたらですよ、まだわたし。

 ハマコがいなくなったらもう誰も……と考えて、あ、えりたんがいるか、そのとびきりの光でわたしを救ってくれる人、と思い至る。
 壮くんもたしかにわたしの癒しの君なんだが、ハマコとはまったくチガウ意味でだから。

 やっぱりハマコはいてくれなきゃいやだ。
 ほんとにもお、未練たらたら。

 ハマコを失うという現実に、足元に開いた闇はどうすればいいのか。や、お気楽に生きているわたしは、やっぱり気にせずお気楽に生きるしかないけれど。
 
 ハマコがハマコとして、いつでもタカラヅカの舞台にいてくれる。
 それがわたしには、「日常」という名の救いだった。

 『タランテラ!』のDVDを引っ張り出す。どんだけ愛したか、この作品。「メメント・モリ」寄せては返す波のような歌声。
 ハマコの翼はゆるがず間違いなどなく、飛び立っていくんだろう。

 ……『Carnevale睡夢』よりも、『タランテラ!』を語りたくなるあたり、どーしたもんか(笑)。

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