2週続けてラインアップ発表キターー!
2017年 公演ラインアップ【宝塚大劇場、東京宝塚劇場】<2017年3月~6月・星組『THE SCARLET PIMPERNEL』>
2016/07/08

7月8日(金)、2017年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚大劇場】【東京宝塚劇場】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
  
星組公演
■主演・・・紅 ゆずる、綺咲 愛里

◆宝塚大劇場:2017年3月10日(金)~4月17日(月)
一般前売:2017年2月11日(土)
◆東京宝塚劇場:2017年5月5日(金)~6月11日(日)
一般前売:2017年4月2日(日)

ミュージカル
『THE SCARLET PIMPERNEL(スカーレット ピンパーネル)』

THE SCARLET PIMPERNEL
Book and Lyrics by Nan Knighton  Music by Frank Wildhorn
Based on the Novel “The Scarlet Pimpernel” by Baroness Orczy
Original Broadway Production Produced by
Radio City Entertainment and Ted Forstmann
With Pierre Cossette, Bill Haber, Hallmark Entertainment and
Kathleen Raitt
潤色・演出/小池 修一郎

1997年にブロードウェイで初演後、大ヒットを記録したミュージカル「THE SCARLET PIMPERNEL」。宝塚バージョンのオリジナルを加え日本初上演した2008年の星組公演は、フランク・ワイルドホーンの名曲の数々と共に、冒険活劇としての面白さ、すれ違う夫婦の心理描写をドラマティックに描いて絶賛を博し、第16回読売演劇大賞優秀作品賞、第34回菊田一夫演劇大賞を受賞致しました。続く2010年の月組による公演も大好評を収め、その後も再演の呼び声の高い傑作ミュージカルが、7年振りに宝塚歌劇の舞台に甦ります。新トップコンビ紅ゆずると綺咲愛里を中心とした新生星組が刻む『THE SCARLET PIMPERNEL』の新たな1ページに、どうぞご期待下さい。

 『スカピン』だああ。

 ベニーの運命を変えた作品。
 それまで路線外の脇役、「組ファンだけが知っている、きれいな下級生」に過ぎなかったベニーが、トップへ向かう進路の切符を手に入れた……ヅカファンをスター誕生!!の興奮状態にさせた、『THE SCARLET PIMPERNEL』初演の新人公演は、ある意味伝説。
 それをベニーがトップお披露目でやる、となると、話題性抜群。

 ……というだけなら、誰でも考えつく。
 「らんとむで『ファントム』(ダジャレ)」ぐらい、ネタとしてヅカファンの口に上がる話だ。
 ネタになったとしても、本当にやるかどうかは、別問題。
 ぶっちゃけ、歌唱力が。
 『エリザベート』は音痴勢揃いでやってもいい演目、ってことになってるけど、『スカピン』はトップコンビと2番手までは歌ウマでなくてはならない、という縛りがある……と、されていた。初演・再演と、トップスターは歌ウマさんだし。
 歌唱力不問ビジュアル重視のベニーとキサキちゃんで、再々演するだろうか……?
 風ちゃんが残るならまだしも、キサキちゃんは美少女タイプで、元革命の闘士の美人女優がハマる大人の女ではないし。
 2番手になるだろうことちゃんは、歌唱力はヅカでもトップクラスだが、芸風が幼くてショーヴランがハマるタイプではないし。
 「伝説の新公再び」はセールスには使いやすいけれど、ヅカファンが本当に求めているモノだろうか……?

 それでも、本当にやるんだ。
 おおおっ。なんか、テンション上がってきたー。

 『スカピン』は好きな作品です。初演厨です(笑)。
 なんといっても、曲がいいの。
 またあの曲が聴けるなんて、あの場面が観られるなんて、うれしいわ。

 ベニーもキサキちゃんも、まずなんといっても美しいだろうし。
 コスチュームものは、美しさで楽しませてもらいたいものね。

 そして、ことちゃんのショーヴランが楽しみ。
 幼くても、2番手ならショーヴランでしょ? ことちゃんの声で名曲の数々を聴きたい。
 れおんくんは、あの役でジェンヌ人生分けたよなあ……。いろいろと伝説の詰まった公演だ。
 囚われるのはイヤ。

 『ドン・ジュアン』が面白いのは、単純な答えならあるけれど、それを複雑に考えることが可能だからだ。

 何日か前の欄に、「はじまりは、愛。そして。愛が、最愛の者を殺した。」てな一連の文章を書いた。
 それはそのとき思ったこと。
 『ドン・ジュアン』という物語の「答え」だとは思ってない。
 つか、「答え」をわたしは求めていない。

 だからまたイチから別の話。


 さあ、滅びの宴をはじめよう。
 愛を持たずに生まれたドン・ジュアン@だいもん。
 彼が生まれ直すためには、「愛」を知らなくてはならない。

 「愛」から逆算する物語。

 まず、死ぬ。
 愛のために。

 そこを基点として、必要なモノが生まれる。
 すなわち、亡霊@がおり。
 死ぬために、死を運ぶモノ、死に導くモノが生まれた。
 どこから? もちろん、ドン・ジュアン本人から。

 亡霊はドン・ジュアンを導き、マリア@みちると出会わせる。
 マリアはただの石像、いてもいなくてもいい。
 要はドン・ジュアンが「愛している」と思いさえすればいい。
 石像だって、抱きしめていればあたたかくなる。
 亡霊がマリアを選んだ理由は、彼女が魅力的だからではまったくなく、ラファエル@ひとこという恋人がいる女だったから。
 支配欲の強いラファエルは、女を取られれば激昂し、戦いを挑んでくる。だから、マリア。

 亡霊が登場する布石として、わかりやすく形を取るために、騎士団長をドン・ジュアンに殺させる。そのために騎士団長の娘をドン・ジュアンに誘惑させる。

 すべてはラストシーンにつなげるために、仕組まれていた。

 誰が仕組んだ?
 もちろん、ドン・ジュアン自身。
 亡霊を生み出したのは、彼だから。

 それほどに、世界は苦しかった。彼にとって。
 華やかに生き、快楽と自由を満喫しているように見えて。
 彼はずっと、飢えていた。

 傍若無人にふるまう彼に惹かれる者が絶えないのは、彼に飢えと孤独があるから。
 人は、欠けた存在だから。満ち足りたものには惹かれない。欠けた者が、欠けた者を求める。
 強い生命力を放ちながら、明らかに欠けている者に、惹きつけられる。
 飢えが満たされることなどないのに。

 ひとりだとさみしくない。
 ひとりじゃないからさみしい。

 欠けて、いびつなドン・ジュアン。


 母は死んだ。自殺した。

 そして。

 彼もまた、自ら死を選択した。
 ヒロインのキャスティングにのみ不満があるのですが、かといってマリア役を誰が出来たのかというと、よくわからんです……。

 くらっちならマリアが出来たのかもしれないけど、だとしたらエルヴィラどうすんだ、という問題が。
 というわたしは、エルヴィラ@くらっちがすげー好みです。
 だもんで、マリアでなくてよかったと思ってます。

 『ドン・ジュアン』で、もっとも胸を突かれたのはエルヴィラの闇。

 『銀二貫』のヒロインが好みではなかったので、最近くらっち株が落ちてたんですが、『ドン・ジュアン』を観て思い出しました。
 この子が『伯爵令嬢』でわたしのハートを奪っていった子だということを。

 書くだけ書いてUPできてないよーな気がするが、『伯爵令嬢』初日を観てくらっちに惚れ込みました。
 彼女の「濁」を持つ芝居に。
 『伯爵令嬢』の感想、どこへやったかな……たしか今はもうぶっ壊れたPCで日生劇場の幕間ロビーと帰りの新幹線で書いてたはず……ということは、サルベージできないのかな。なくしちゃった? くそー。

 汚れ役だとか意地悪な役だとか、タカラヅカの娘役らしくない役だとか、そんなことはどうでもいい。
 アンナ@『伯爵令嬢』には、人間の持つ濁った感情を見せてもらった。
 コリンヌ@みゆちゃんを海へ突き落とすときに見せた表情に、わたしは心底ぞっとした。

 それと同じだ。
 エルヴィラに、ぞくっとした。
 背筋が寒くなった。

 ドン・ジュアン@だいもんに裏切られて、ぎゃーぎゃー言ってたり、パパ@エマさんに「なんとかしてよ!」と責任転嫁してぎゃーぎゃー言ってたり、「わたしだって悪いことできるのよ」と自棄になってストリップしたり……というのは、別に、ふつうに観ていられる。
 うまいなーと思う。
 このうまさだけで十分好きだと思う。

 でも、彼女の本領は、闇落ちしてからだ。

 ジュアンパパにクロスを投げつける、その痛み。

 神と共に生き、男に騙されて神を裏切ったと嘆いてなお、神と共に生きている娘が。
 クロスを、投げつけた。

 もうどこか、ボタンが掛け違っている。歪みが出ている。引き返せないほど、壊れかけている。
 崩れだしている。
 砂の城が形を失っていくように。

 彼女の危うさが、痛い。
 苦しい。

「愛する人を傷つければ、傷はいえるのか」
 そう歌う、エルヴィラとラファエル@ひとこ。

 マリア@みちるちゃんに婚約者がいたと知ったドン・ジュアンが、嫉妬に狂う。はじめて愛を知り、はじめて愛に傷つく。
 せっかくしあわせだったのに、エルヴィラがラファエルに告げ口したゆえに。
 苦しむドン・ジュアンを見つめる、エルヴィラの瞳が痛くて。
 自分を傷つけた男が傷ついている……望んだ光景がそこにあるのに、苦しそうで。ドン・ジュアンが苦しめば、同じだけ彼女も傷ついている。ドン・ジュアンが受ける罰は、そのままエルヴィラの受ける罰でもあるんだ。
 傷つけることで、傷つく。悲しい姿が、そこにある。

 なのに。
 マリアがドン・ジュアンにすがりつくのを……なだめているのを見るなり、目にすっと闇が落ちる。

 闇。暗闇。
 光が消えるの。深い井戸みたいに底の見えない深淵が満ちる。

 こわい。
 マジ、ぞっとした。
 この子、こわい。

「愛する人を傷つければ、傷はいえるのか」……?

 答えはない。いらない。
 説教はいらない。
「わたし、気づいたの。あの人を傷つけても傷は癒えないのだと。むしろ、愛する人のしあわせを祈るわ」……とか、「物語の最終章、みんないい人なんだよ」的取って付けた解答編はいらん。
 闇は闇でいい。

 エルヴィラは闇を持つ。
 十字架も投げつけるし、復讐も企てる。他人の不幸も願う。
 それでいて。
 傷つく。
 苦しむ。
 答えも、救いもない。

 それが、生きるってことだろう?

 闇を持つから、神を求める。
 聖人君子に救いなど必要ない。

 エルヴィラだけ追った映像が欲しいな。この子の感情の動きをコンプリートしたい。
 かなしいほど、リアルだ。この子の存在は。

 今回は役のせいか、ところどころ顔立ちがまっつを思い出させる。普段は似てるとは思わないんだけどね。
 暗い、闇系の役だと彷彿とするのか(笑)。
 でも、だからこそ声でびびる。女の子だーー。

 エルヴィラ好きだ。
 『Crossroad』のヘレナ@あすかを好きだった感覚を思い出す。ヘレナの孤独な叫びを文章化したいと切望した、あの感覚。
 エルヴィラの物語を文章化できたら、楽しいだろうなあ。とことん幸福に世界へ没入出来るだろう。
 観るのでも書くのでも、その物語世界へ……「異世界」へ入り込む、それこそが快感だもんな。
(だから、そのトリップに水を差して現実に引き戻す人は苦手)

 エルヴィラを見て思う。
 神を裏切り、否定してなお。
 この子は結局、神と共に生きていくんだろう。

 闇があるからこそ、そこに光がある。
 だいもんは相手役を選ばない男だと思っていた。
 だいもんさんの中の人のことは知りません。舞台上のことっす。
 見た目には体格とか映りとかいろいろあると思う。だいもん小さいから、長身の娘役とは合わないだろうし。
 でも、芸風としては、誰でも合うと思っていた。トドロキとかトウコとかがそうであるように「男」としての技術が確定しているから、相手がはるかに年上でも年下でも、ノミの夫婦になろうとも、なんでもどんとこい!だと思っていた。

 合わない人って、いるんだな……。

 マジで、考えたことがなかった。
 ヒロインするほどの立場の娘役スターさんなら、大抵ある程度の実力も美貌もあるのが当たり前だし。
 娘役は男役より旬も出来上がりも早いから、学年関係なくカタチにはなっているものだし。
 だからほんと、考えてなかった。

 『ドン・ジュアン』のヒロイン、みちるちゃんもまた、ふつうにかわいくてうまい娘役さんだ。
 ふつうにかわいくてうまい。
 そう思っていた。
 いや、ふつうよりうまいと思っていた。
 『るろうに剣心』の弥彦が、とてもうまかったから。かわいかったから。
 新公ヒロイン姿はそれほどでもなかったけれど、1回きりの新公より、東西2ヶ月通して上演し続ける本公演でかわいくてうまい方がよっぽど重要。よっぽど尊い。

 一定以上のスキルを持ち、本公演の大役と新公ヒロを重ね、着実に経験値も上げている。
 それで十分じゃん? なにを不安に思う必要がある?
 だから、なんも考えてなかった。

 『ドン・ジュアン』を、観るまでは。

 すでに書いた通り、KAAT初日のみちるちゃんの出来には首をかしげたけれど、「まだ初日だし」と思った。
 もっとも経験の浅い下級生娘役ちゃんだもの、ベテランさんたちと比較して足りてないのは当たり前。初日で判断するものではないわ。

 そして、DCにて。
 KAAT初日同じように「足りない」と思った咲ちゃんが、見事に成長していた。いいものを見せてくれた。
 それなら、期待するじゃん?
 さすが神奈川で1興行打ってきたメンバーだ、この迫力、このまとまり、すごいハイクオリティ。出演者の気合い半端ナイ、成長半端ナイ。
 よーし、このまま未曾有の感動へ突き進むぞおーー!

 えーと。

 マリア@みちるちゃん……?
 何故ひとりだけ、成長してないんだ……?

 盛大に、水を差された。
 盛り上がるぞおーー! と振り上げた心の拳が、虚しく宙を切る。
 高揚したカラダに、ばっしゃーん、と冷水をぶっかけられた。
 あ、あれ?
 ナニが起こったかわからない。
 わたし今、すごく興奮して、感動して、盛り上がって……?
 混乱。

 ほら、KAAT初日感想でわくわくと書いたじゃないですか。
 次々と実力者が歌い出す。この人も歌ウマ、この人も歌ウマ、なんなのこれすごい、ついに主役が歌い出した、これがまためちゃ歌ウマだーー!! えええ、すごいーー!!
 興奮が連鎖し、拡大しているわけですよ。
 次から次へと実力者が登場し、世界を何倍にも深めていく。
 なのに。
 この世界に突然、別の世界の人が混ざってくるんですわ。

 『ベルばら』の劇画界に、『ちびまる子ちゃん』キャラが現れたような肩すかし感。

 しかも、ヒロインとかいう……。
 えええ。

 だいもんの歌声が盛り上がる、うわああすごい……っ、と興奮したところに、素人っぽい歌声が割り込む。え……っ。びっくりする。
 びっくりして、素に戻る。
 のめりこんでいたのに、現実に戻される。
 だいもんがまたぶわーっと盛り上げる。うわあああ、気持ちいい……っ、と思ったところに、素人っぽい歌声が割り込む。え……っ。びっくりする。
 びっくりして、素に戻る。
 現実に、引き戻される。

 そのくり返し。

 つ、つらい……っ。

 なんだこりゃ。
 この実力の差はなんなの。

 ミュージカル俳優たちの舞台に、事務所だかスポンサーだかの都合で、ひとりだけテレビアイドルが出ている感じ。ひとりだけ、明らかに異質。
 しかもこの場違いアイドルさん、ヒロイン役だし。

 きついわ……。

 歌唱力がない分、天才的な芝居をするとか。
 あるいは、絶世の美女だとか。
 そういうこともなく、「こどもっぽくかわいい」だけの女の子が、ひとりだけレベルの低い歌を歌い、色の違う芝居をしている、という現実。
 うわーん。

 みちるちゃんも、この公演でなければ別に問題ない人だと思う。
 ただ、今回ばかりはミスキャストだ。
 これだけ公演数重ねても成長しないってことは、彼女の許容量を超えた役割を与えられてしまっているのだろう。

 ヒロインがどうであれ、だいもんは誰でも合うだろうし、誰でも実力で引っ張り上げてくれると思ってた。安心してた。
 そんなわけじゃ、ないんだね。
 誰でもいいわけじゃない、合わない子がいるんだ。

 最低限、「ここまでは歌える」というレベルが必要なんだ。

 「どんなに相手役が難アリでも、本当に素晴らしい役者ならば観客にそんなことを感じさせないはずだ。相手役が歌うたびに夢から覚めるというなら、それは主演にその程度の力しかないためだ」……という意見もあるだろう。その通りなのかもしれない。
 「その程度の主演」でしかないとしてもだ。ヒロインに足を引っ張られていい理由にはならん。
 むしろ、だいもんが「その程度」なら、彼を盛り立てられるヒロインを付けてくれ、と思う。

 だいもんどうこうというより、ひとえに「わたしが」がっかりした。
 わたしが、気持ちよくいたのに。もっと気持ちよくなりたかったのに。
 水を差されて、落胆した。

 別に、みちるちゃん個人に対し、どうこうは思わない。他の作品なら、たとえだいもん主演でも問題なかったろうと思う。ここまで、「歌」に力のある作品でさえなければ。『アル・カポネ』のヒロインは、音痴と定評のあるせしこだったくらいだし。

 縣くんがひとりヘタでも作品は壊さない。彼の役割は少ないからだ。咲ちゃんがヘタだった場合も、カルロ役はドン・ジュアンに吹っ飛ばされて色を失うだけだからなんとでもなる。ドン・ジュアンがカルロを軽んじているから。
 でもマリアは。この役だけは、ヘタな人は務まらない。ドン・ジュアンが人生を変えることになる役、作品のキーだ。そこがもっとも力のない役者だと、作品にヒビが入る。
 わたしは、ヒビの入っていない『ドン・ジュアン』を観たかった。

 このヒビごと、『ドン・ジュアン』だと思っているけど。


 運が悪かった。
 みちるちゃんにとっても、わたしにとっても。

 ただもう、残念だ。
 ヒロインに、こんなにストレスを感じることになるなんて。
 『ドン・ジュアン』DC版を観て。

 うれしい驚きは、咲ちゃんがうまくなっている! でした。

 KAAT初日に観て、ドン・カルロ@咲ちゃんが「足りない」と思った。
 歌声も演技力も存在感も。
 ああ、ひとり経験不足の新人が板の上にいるな。そう思えた。
 なまじ、周囲がうますぎるから。エマさんや圭子ねーさまと絡むんだもの、そりゃ不利だわ。

 咲ちゃん単体でいる分には「弱いな」「歌残念だな」で済んだけど、ドン・ジュアン@だいもんと対峙すると、その色の薄さゆえに存在がかすみ、吹っ飛ばされる。
 「悪の華」とか、同等の力が必要な場面で、ドン・ジュアンの独壇場になっている。
 それだけドン・ジュアンが圧倒的な存在だという演出、と受け取ることも出来るので、いいっちゃーいいんだが。
 わたしは、カルロにもがんばってほしかった。

 カルロはしどころのナイ役……に見えるけど、そうしているのは役者の問題だ。
 本当は、すごくオイシイ役だ。……ベンヴォーリオ好きのわたしは、ドン・カルロをただの脇役に下げてしまう咲ちゃんに肩を落としていた。ベンヴォーリオだって、演じる人次第でおいしくもつまらなくもなる……演者の裁量に任された部分の大きな役なんだよ。

 だから、KAAT公演を経て、DCで咲ちゃんカルロが見違える出来になっていることに、感動した。

 歌えている。
 声が出ている。
 だいもんのうるさすぎる芸風に、暴力的な圧に、真っ向から対抗している……!

 存在を、打ち出している。

 そうなると、咲ちゃんは強い。
 だって、美しいからだ。

 輪郭や色の薄い、半透明人だったときは目に付かなかった、姿の美しさが力を持つ。
 コスチューム似合うわー、かっこいいわー。

 ただちょっと、気になる点。というか、え、それはどうなの?とびびった点。
 前は台詞のない傍観しているときなどに、「抜け」ているのが気になった。役がカラダに入ってないんだな、と思えた。
 今はそれはない……んだと思う。ベンヴォーリオ好きのわたしは、ベンヴォーリオ的役割の役はちょー好み。カルロ役だけでなく、どんな作品でも積極的に眺める。目で追う。だから、ただのモブにまざっちゃっているときのカルロも観ていたけれど、今回は「抜け」ているとは思わなかった。
 でも。
 その傍観しているときのカルロ……ドン・ジュアンを「恋する目」で見てますがな……、そ、それってどうなの? いいの?

 切ない、恋に身を焦がす瞳。

 えええ。
 ちょっと待てカルロ、立ち位置、立ち位置!

 そりゃわたしは、カルロ→ジュアンで腐った考察をしていますが、だからってそんな、中の人にソレは求めてないんですが。
 公式が最大手とか、ヅカではそんなんシャレならん……(笑)。

 たぶん、咲ちゃんのスキルの問題なんだと思う。
 ドン・ジュアンへの友情を表すのに、……強い、強い、屈折した愛情を表すのに、他に表現方法を持たないんだと思う。
 もしくは、咲ちゃん自身の感情が出てしまっているんだと思う。「男性」を相手に愛を示すと、男役でも役でもなく、女の子の咲ちゃんが出てしまうとか。「女の子」「娘役」への愛情表現は10年かけて学んできたけど、男相手ははじめてだもんね……。
 ある意味「抜け」てるのか……? でも、キモチは確実に入った状態だからなあ。

 このカルロ、ドン・ジュアンに恋してますやん……。

 なんかもう、どっひゃーー!というか、ギャフンというか、いたたまれなくなりました……。

 イザベル@圭子ねーさまに対するときも、同族愛と嫌悪がビシバシ伝わってきて、観ていてびびる。

 咲ちゃん……おもしろいわ。

 こんな風に、演じている役で「入り込みすぎておかしくなっている」感を、咲ちゃんに感じたことがなかった。
 咲ちゃん自身、ブレーキングがうまくいかなくて、とまどっている感じ。
 ただ熱量を上げればいいわけじゃない。ピントを絞り、一点に集中しなければならない、それが高難度、ずれるとぼやける。
 焦点を絞るあまり、他が見えなくなってる感じ? それじゃ行きすぎてるよ、やばいよ。持てあます、うろたえる、見失う。
 時折泣きそうに心許なく見えるカルロが、すっげー愛しい。

 いっそ女なら、泣き崩れることも、恨みを口にすることも出来たのに。
 男だから、ひとり立ち、留まって。どうすることもできず、ドン・ジュアンを見つめていることしか出来ない。

 イザベルがカルロに毒を吐くのがわかるわー。同じ穴の狢のくせに、そうでないような口ぶりで、でも「同じ目」をして寄りかかってこられたら、振り払いたくもなるわ。うぜえ(笑)。
 このへん、カルロに「男のずるさ」を感じる。

 エルヴィラ@くらっちにやさしいのも、シンパシーゆえよね。見ていられないんだよね、自分自身を見るようで。
 せっかくジュアンが真実の愛に目覚め、たったひとりの女性を愛すると言っているのに、マリア@みちるちゃんをアタマから認めないのは、ジュアンへの恋慕ゆえよね。

 ラファエル@ひとこが襲いかかってきたときに、ドン・ジュアンをかばって、あったりまえに剣を抜いて前に出るんですよ。背中にジュアンをかばうんですよ!
 え、なに、ナイトなの、あなたジュアンのナイトなの、ジュアンは姫君なの?!

 いや、もお、カルロがいじらしすぎて、涙で前が見えません(笑)。 
 かんっぺきに片想いだもんね。報われることなんて1ミリたりともなさそうだもんね。そしてそれをカルロ自身知ってるもんね。「友人と思われているかどうか……(自嘲)」だしね。

 あー、カルロ大好きだー。
 『ドン・ジュアン』DC版について。

 回想場面の母@うきちゃんは、聖書を持っていたりロザリオを持っていたり、なんか日替わりでやっていたらしい。
 演出している生田せんせに、答えが出ていないのかな。

 細部はともかく、わかっていることは、「母の死はドン・ジュアンと無関係」ということだ。
 ドン・ジュアンが母を死に追いやったわけではなく、母はなんらかの要因で亡くなり(病死と思われる)、ドン・ジュアンはそれゆえに神を信じなくなる。

 えーと。
 このエピソード、よくわかんない……。

 そんなことぐらいでドン・ジュアンが今の人格になったの?

 そんなこと、って、「母の死」を軽く扱っているわけではなくて。
 母の死は大ごとですよ、もちろん。
 しかし、「ドン・ジュアン」という男の存在が強烈であるがゆえに、「物語あるある」の簡単お手軽理由を取って付けられると、すごく萎えます……。

 マザーファッカーは最悪、いくらなんでも行きすぎ設定、ってことでNGが出たため、仕方なく改編したとしても、今のネタは安直すぎてかえって意味がわからない。
 それならいっそ、「美しい優しい母」が微笑んでくるくる踊っているだけでよかったわ。
 美しい母と、しあわせそうな少年ジュアン@ひまりちゃん。
 それだけで、なんの作為もなく答えもなく、ドン・ジュアン@だいもんが舞台手前でうずくまり、爪を噛んでいる。
 犯さなくていいし、死ななくていい。ただしあわせなだけでいい。
 ……それでも、現在のジュアンの歪みっぷりから、いくらでも観客は想像の翼を広げることが出来るはずだ。
 母とナニがあったの? 母はどうしたの? あの少年が何故こうなったの?
 想像出来ない人は置き去りにしていいよ、そんな「誰もが平等に同じ答えを得られるように導いてくれないなんて駄作だ」てな姿勢の人は放置してヨシ。それぞれが自分の身の丈に合った範囲で楽しめばいい、受け取ればいい。そういう作品でしょコレ。

 DC初日を観て「整理が着かない」と書いた。
 でもわたしはすぐに、投げ出した。

 どう考えても、KAAT版が正しいじゃん?
 企画からKAAT初日まで「母自殺」版で練られてきて、丸1ヶ月かけてお稽古して、KAAT千秋楽まで舞台上で熟成されてきたんでしょう?
 それを変更したのは、なにかしらアクシデントがあったからよね?
 最初から「DCでは演出変更します」と2パターンの芝居を作り、2パターンのお稽古をしてきたわけじゃないよね? だったらDC初日から母の芝居が日替わりで試行錯誤中になるわけないもん。
 急遽変えざるを得なくなった。しかも、あまりに急すぎるから決定稿がDC初日に間に合わなかった。幕開いてからいろいろ試すしかないほどに。……という想像をしてしまう。この迷走ぶり。

 どう考えても、正しいのはKAAT版じゃん。
 劇団のおえらいさんとかスポンサー筋とか、どこから変更指示が入ったのかは知らないが。
 たとえ原作サイドからの変更指示だったとしても、KAAT版を正解だと思う。
 原作は原作でしかなく、宝塚歌劇団で上演が決まった段階で、原作とは別モノだからだ。や、出演者全員女性、ってだけで、別モノ必至でしょ。
 母自殺、マザーファッカーを必要不可欠な要因として、この物語は構築された。
 すべての展開、感情、バランスは、それゆえに。

 原作者だろうと運営側だろうとスポンサーだろうと、作品に口出しすること自体は仕方ないことだし、してもいいと思うよ。
 それによって変更されるのは、残念だけど、商業社会にはままあること。どんなに阿呆な改悪指示であったとしても、だ。
 クリエイターは口をつぐんで、自作にハサミを入れる。「スポンサーに口出しされたから、変更を余儀なくされました。とても不本意です」とは言えない。言ってはいけない。ソレも含めて「仕事」だからだ。

 生田くんも劇団も、変更理由の公式アナウンスはしないだろう。
 KAAT版はソフト化されないらしいし、「なかったこと」にされるのだろう。

 でも、「変更され前の、本来の作品」を観た者が、「変更される前の作品を観て感じたこと」を「肯」としてもいいはずだ。


 DC版を観て「え、なにコレわからない」と思った。
 そしてすぐに、解決した。

 見なかったことにしよう。

 回想シーンは、KAAT版のままってことで。
 ドン・ジュアンの後ろで繰り広げられているのは、「究極の悪徳」ということで。

 ごめんね、うきちゃん、ひまりちゃん。
 熱演はちゃんと見ているよ。
 でも、「物語」としては別なの。

 これは観客の特権。
 フィクションを好きに受け取り、咀嚼する。
 ちょっと待て。
 『ドン・ジュアン』ドラマシティ初日、幕間。
 わたしはけっこー混乱していた。
 なんかすげえ大切な部分の演出がしれっと変わってますが、なんで?
 隣の席のグループとか、開演前に「神奈川で4回観たわ」とか語ってたのに、幕間誰もその話してなくて、「え? なんで? まずその話しないか?? それともすでに神奈川で変更済みだったのか?」と混乱。わたしの友人は今日初見だからわかんないし……。

 わたしはKAAT版『ドン・ジュアン』は初日の1回だけしか観ていません。
 物理的に観られなかったの。
 チケットが手に入らなくて。

 DCだって、チケットは平日1回分しか持ってない。今回、まーーったく当たらなかったの。ほんとにチケットないの。見回しても、ぜんぜんないの。
 だいもん人気をあなどってたわ……。『アル・カポネ』が楽に入手出来たんで、同じくらいの難度かと思っていたわ。
 原田氏オリジナルの内容ナシ箇条書き偉人伝と、生田くん潤色の海外ミュージカルでは、期待度がチガウに決まってるやん。

 こんな状況で土曜日のDC初日なんか観られるわけナイ……と、ダメ元でサバキ待ちしたら、えええっ、サバキ取れたー! あの大量のサバキ待ちの群れの中で、何故か声かけてもらえたー!
 しかも7列目センター……自分で持ってる平日チケットよりいい席だ……。
 神様ありがとう。

 たぶんわたしは観られないわ、バイバイ、と言って劇場前で別れた友人たちと、劇場内で「入れたー!」と再会。
 KAATで通いまくっただいもんファン友人を幕間に探して、「演出変わってるよね? KAATでもう変わってたの?」と質問。

 KAATではずっと同じ演出だった。
 DCで、改訂された。

 ということらしい。
 友人は「DVD撮りがDCだから、アレはまずい、と変更されたんじゃないですかねえ?」と言っていたけれど。
 真実はわからない。

 母親を犯して、それゆえに母自殺……っての、ドン・ジュアンの人格形成の根幹に関わることだと思うんだが……ここを変更ってどうなの。

 母自殺設定だと信じて観ているわけだから。
 オープニングからすでに泣けたし、ドン・ジュアンをめぐるひとつひとつに切なくなっていたのに……基本設定変更済み、って、わたしの涙を返せ(笑)。

 2回目の楽しみじゃないですか。
 結末を知った上で観ると切なさ倍増、とか、感動の質が変わる、とか。
 わたしはソレを楽しんでいたわけですよ。2回目だからこその感動を味わっていたわけですよ。自分が観たモノと同じ、同じ公演の2回目観劇だと信じて。
 そしたら、別モノだった。
 えええ。
 同じものだと思うからこその、涙だったのに。
 別モノだったら、感じ方チガウっつーの。

 なんか騙された(笑)。
 怒っているわけじゃないが、騙された、と思う。

 神奈川に通うことはできなかったし、大阪で堪能するのを楽しみにしていた……あくまでも、同じものを。
 別物になるとか聞いてないよ!

 こんなことなら、どんだけ無理してもKAATで複数回観ておくんだった……。整理が着かないわ、こんなの。

 でも、なにはともあれ、DC初日を観られて良かった。
 このショックを自分で体験出来て良かった。先入観なしで、予備知識なしで、自分で感じたいんだもの。

 サバキの神様、ありがとう。チケット運の神様ありが……ん? そもそも、チケット当ててくれてれば、こんな綱渡りしてないぞ?
 チケット運の神様からは、見放されたままっす。
 月が変わった、今月は『エリザベート』はじまるぞー、『エリザ』情報がいろいろ目に付くところに出て来てるぞー、……という時期ですが、さらに先の公演の情報も出ました。
2017年 公演ラインアップ【宝塚大劇場、東京宝塚劇場】<2017年2月~4月・宙組『王妃の館』『VIVA! FESTA!』>
2016/07/01
7月1日(金)、2017年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚大劇場】【東京宝塚劇場】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。   
宙組
■主演・・・(宙組)朝夏 まなと、実咲 凜音

◆宝塚大劇場:2017年2月3日(金)~3月6日(月)
一般前売:2017年1月7日(土)
◆東京宝塚劇場:2017年3月31日(金)~4月30日(日)
一般前売:2017年2月26日(日)

ミュージカル・コメディ
『王妃の館』

~原作 浅田次郎「王妃の館」(集英社文庫刊)~
脚本・演出/田渕 大輔

太陽王ルイ14世が残した「シャトー・ドゥ・ラ・レーヌ(王妃の館)」を舞台に、個性豊かな登場人物たちが織り成す人間模様をコミカルに描いた浅田次郎氏の小説「王妃の館」。このベストセラーを、宝塚歌劇ならではの演出を加えミュージカル化致します。
パリ、ヴォージュ広場の片隅に佇む「シャトー・ドゥ・ラ・レーヌ」は一見客の宿泊を許さぬ高級ホテルだが、実際は深刻な経営難に陥っていた。そこに目を付けたのは、やはり倒産寸前の旅行会社「パン・ワールド・ツアー・エンタープライズ」。旅行社はホテルとタッグを組み、前代未聞のダブルブッキングツアーを企画。高額の“光(ポジ)ツアー”と格安の“影(ネガ)ツアー”という二種のツアー客に同じ客室を利用させるという奇策に打って出る。しかし集まったのは風変わりな人気作家ら、一筋縄ではいかない癖者ばかり。かつての城主、ルイ王をめぐるエピソードが紐解かれる中、様々な騒動を繰り広げる。果たして、愛と人生に迷う彼らが行き着く先とは……。
なお、この作品は演出家・田渕大輔の宝塚大劇場デビュー作となります。

スーパー・レビュー
『VIVA! FESTA!』

作・演出/中村 暁

祈り、感謝、願いなど、生きる為に大切な想いが集約され、人々が非日常の世界に集うFESTA(祭り)。リオのカーニバル、中欧・北欧に伝わるヴァルプルギスの夜、スペインの牛追い祭りや日本のYOSAKOIソーラン祭りなど、世界各地のFESTAをテーマにしたスーパー・レビュー。宙組のパワー漲る数々の場面をお届け致します。朝夏まなとを中心とした宙組のFESTAに、ようこそ!  

 浅田次郎……?
 何故?

 とりあえず、首をかしげました。
 まあ、冴えないおっさんリーマン主人公の『Shall we ダンス?』を舞台化しちゃったんだから、おっさん向け小説でも大丈夫なのか……と思いつつ演出家名を確認する。
 田渕先生……?

 だ、大丈夫か??
 途端わきあがる不安。

 わたし的2015年上演公演ワースト作品の演出家!ですがな。

 小柳タンを持って来れなかったのか……この題材なら、せめて。『Shall we ダンス?』や『ルパン三世』を舞台化した実績のある小柳タンならまだなんとか、期待も持てたんだが……。
 田渕せんせも原作モノなら大丈夫なのかなあ?

 や、原作は存じません。
 浅田次郎氏の読者対象から、わたしはきっとはずれているだろう自覚があるため、今までノータッチで生きてきました。
 知らないくせにイメージだけで不安を語るのはひどいですが、今のところ不安です、すみません。

 タカラヅカと現代日本は、いちばん食い合わせの悪いジャンルっすよ……。

 無知ゆえ、タイトルだけ見て「またみりおんタイトルロール? すごくない?」と思って、次に原作者名見て「あ、チガウっぽい」と気づき、解説読んでさらに首かしげた次第。

 しかもショーが中村A……。

 『エリザベート』で勢いづく宙組に、どうしてさらに勢いづく企画を与えないのか、純粋に不思議。
 ここは宙組のファン層がよろこぶ題材を持ってくるべきだろうに。

 なんて言いつつ、オリジナル新作2本立ては、わくわくします。
 大作再演よりオリジナル新作2本立てがいい。それがタカラヅカの基本。過去の遺産消費ではなく、未来への挑戦!
 楽しみにしてます。
 新人公演『NOBUNAGA<信長> -下天の夢-』あれこれ。

 お楽しみのひとつだった、ロルテス@あちくん。
 研4で2番手抜擢。

 えーと。
 いちばんの疑問。

 あの微妙ヒゲは、絶対に付けなくちゃならないの?

 あちくんだけでなく、本役のたまきちにも持っている疑問だが。
 なんのためにあるヒゲなのか。
 タカラヅカ的なヒゲじゃないし、付けている人を魅力的にも見せないし、ぶっちゃけ邪魔だし。
 なんのためにあるんだろう?(演出の問題)

 新公では、肝心なところでヒゲがぷらぷらはずれてしまい、歌より演技より、ソレが気になって仕方なかった。
 早く一度袖に戻って、直してくれ……! と願っても、なかなかその機会がないし。
 でもってよーやく一旦いなくなって、立ち直って出て来たのにまたはずれるし。
 2回やられると、事故ではなくギャグになる……。
 せっかくの大抜擢。初の銀橋ソロとか初初尽くしだったろうに、えーらいこっちゃでしたな、あちくん。

 大抜擢といえば『1789』新公もそうだったけど、やっぱ2番手役は大きさがちがうよね。フェルゼンと違ってロルテスは、やることがたくさんありすぎて、あっぷあっぷしている感じ。
 特にヘタだとは思わないけれど、学年なりの、下級生が演じているんだなということは、よーっく伝わった。

 ただわたしは、あちくんの顔が好きなので、それだけでおいしくいただけますが(笑)。
 りくくんにも似てるけど、いちばん似てるのはレオ様な気がする……ほんと、好みの顔だわ……。


 秀吉@ぐっさんと光秀@るねくんがよかった!
 キャラだけでいうなら、本公演より好き。

 わたしはやはり、このふたりはこれくらいキャラがかぶらないようにしてほしい派。
 ぐっさんの秀吉はワイルド系で、今までの彼が演じた役からは想像も付かないくらい、「誰?」ってくらい、かっこよかった。
 こういう役、合う人だったのか!
 いかにも「タカラヅカ」の秀吉っぽい。粗野な男である、という部分で三枚目部分をこなし、あとはワイルド系二枚目でタカラヅカっぽさを出している。
 あー、ぜんぜんアリだ、この秀吉。

 ワイルドな秀吉に対し、るねくんの光秀は王子様系。わかりやすく優男で、神経質そう。この男なら、信長@暁くんについていけなくなる未来も、すんなり想像出来る。


 妻木@くらげちゃんは、ふつうに女子だ。って、娘役だから当たり前なんだけど。
 女の子が演じると、ほんとにオイシイだけのふつーの役だな……。
 この役を出すヒマがあったらヒロインの帰蝶のエピソードやれと、新公見てさらに思ったわ……。(演出の問題)

 くらげちゃんはふつーにうまい。わかっていることなので、あまり発見はなし。
 でもくらげちゃんって、ふつーの女の子より、こういうコスプレ入った役の方がいい気がする。お市みたいな「ふつうの美女」をやると、影薄くなる……。
 女子高生コスプレ@『A-EN』とか、くのいちコスプレとか、アニメ的なキャラの方が魅力的。元の地味さを、アニメコスが底上げしてくれて、安心して「きれいでうまい」部分を堪能出来る。

 本公演と同じく、信長が妻木の胸元に手を突っ込んでいたけど、暁くんにセンサーの働かないわたしは「きゃあ☆」と思うこともなく……。
 あー、早く暁くんがかっこよくなってくれるといいなあ。
 新人公演『NOBUNAGA<信長> -下天の夢-』にて。

 れんこん、ひとり勝ち。

 と、思いました……。

 足利義昭@れんこんが、わかりやすく抜きんでていて、こんなにわかりやすすぎていいのか不安になりました(笑)。
 長の期の新公主演経験者が今回あえて脇に回っているとか、新公卒業した上級生がひとり混じっているとか、そんな感じ。

 新公では、専科さん役を脇の実力派下級生が演じて、「あの年寄り役、すごくうまかったね」と言われることがままあるのだけど。
 宙のかけるとか、雪のおーじとか、新公ですでに「脇の実力派」扱いの人たち。
 こういう人たちは、新公で「うまい!」と感激されても「次の新公では是非主演を見たい」とは、たぶん、あまり、思われなかったと思う。
 彼らは最初から、本専科さんの役とか組長の役とか、脇のおじさん役とかを専門的に与えられ、そういう役で「うまい!」感心されていた。

 でもって今回のれんこんの役。
 …………たぶん、本専科さんの役よね。
 ヒロさんが博多座出演でなかったら、ヒロさんがやっていた役だと思う。
 この役がうまくても……いや、この役をあまりにうまく演じすぎてしまうと、「脇の実力派」カテゴリにまとまってしまうのではないかと、不安になりました。

 いや、わたしは脇の実力派を軽んじる気はなく、そうやって舞台を支える道もぜんぜんアリだと思っています。路線スターの寿命よりも、脇の実力派の現役寿命の方が長いんだもの。ステキな人には長くいて欲しい。

 不安になったのは、別の意味で。

 脇の実力派に分類されるくらいきちんとうまくて、かつ、新公主演を望む声のあがるジェンヌは、早く辞めてしまいがち、という不安。

 いつも専科さん役の人たちとは違い、路線役もする、2~3番手の役をやったりもする、「ちょっと地味かもしんないけど、こんだけうまいんだし、一度真ん中も見てみたい」「学年と作品によっては、新公主演もあるんじゃない?」と思えるようなあたりの人。
 そういう人が、新公主演出来なかった場合、あっさり退団してしまうケースが脳裏に焼き付いている。

 トップスターだけが目標ではないと、いい別格スターになってくれればいいと、見ているだけのわたしなんかは思うけど、ジェンヌさん本人にはいろいろ思うところがあるのだろう。
 新公主演出来ませんでした、はい退団決まりました、は切なすぎる……。

 難役であるはずの将軍様を活き活きと演じ切るれんこん氏を見て、目指すのが別格スターならいいけど、新公主演を望むのなら、その役がそんなにうまいとかえって不安だぞ、と。

 このままれんこんが新公での専科さん役専門になってしまうのは、もったいない。
 うまいだけでなくて、彼には色気がある。
 ハゲヅラかぶってなお。
 チョビ髭オヤジを演じてなお。
 この色気は、脇のおじさん専門ではなく、もっと真ん中寄りの役に必要なスキルだ。
 せっかくうまくて独特の色気もあるんだから、真ん中に寄せて育てて欲しいよなあ。

 トップスターになるかどうかだけではなく、舞台を締めることのできる役者を育てるためにも、いろんな人に新公主演させてほしいんだよなあ。

 や、めぐり合わせが悪くて主演出来なかったとしても、別格スターとして長くいてくれればうれしいけど。
 いまっちやホタテみたいに、ぽーんと辞めちゃったらどうしよう、と。アーサーやめぐむだって、わたしにとっては「新公主演見たかった」、「別格スターとしてがんばってほしい」と思っていた矢先の退団、だった人たちだ。
 新公で番手役もらって別箱とかで活躍もしていて、中堅になればもっと活躍が期待出来るのに……というところで、卒業してしまった。
 新公主演出来ていたら、辞めずにもっといてくれたのかな、と、勝手に寂しく考える。
 とし・がおり・あきらが長くいてくれるのも、新公主演出来た、ことが関係しているかもしれないし。

 その記憶があるから……トラウマがあるから。
 れんこんくんがなにを目指しているかはわからないけれど、勝手に不安になりました。
 専科さん役、うますぎる。
 他の子たちが「新公レベル」であるなかで、そんだけわかりやすくひとり勝ちしていると、ますます専科さんっぽい。

 次こそれんこん主演見たいな。彼は男爵でもオットーでも、どっちでもうまく演じられると思うの。や、どっちかっつーと男爵で見たいけども。

 あああ。まゆぽん辞めないでね、長くいてね。←突然不安になったらしい。(上記の例に当てはまるもんだから!)
 新人公演『NOBUNAGA<信長> -下天の夢-』観劇。

 冒頭の「敦盛」はなく、シンプルに若き信長からスタート。
 しょっぱなから、信長@暁くんの若さ全開で、勢いに満ちて気持ちいい。

 新公演出も大野せんせ。
 『一夢庵風流記 前田慶次』の例もあるので、なにかしら変えてくるだろうなとは思ったけど、「サヨナラ演出」を「未来ある若者へのエール」に変更していた……『一夢庵風流記』のときと同じく。
 それはいいんだけど。
 森蘭丸役をなくすことで感動ポイントが増えていて、複雑なキモチになった……。や、あーさ好きだから森蘭丸@あーさはうれしいんだけど、「やっぱこの役いらない、作品的に間違ってる」と作者自ら手がける新公で証明されちゃうとね……。
 複雑だわ……。

 それはともかく。
 暁くんは堂々と信長を演じてました。このいかにも英雄然とした様子がいい。
 暁くんで見たい役、というのが今までぴんときてなかったんだけど、そうか、こういうのが合うのか!と目から鱗。

 若き英雄。
 どーん、ばーん、とした役。(擬音に頼るのやめなさい)

 明るさと強さ、「選ばれたるもの」だけが持つ「強い」役……ある種無邪気で傲慢な、それゆえにこそ輝く男。
 『太王四神記II』とかいいかも。れおんくんバージョン。

 と、若き英雄ドリームが広がったように、……トシ取ってからの信長はチガウっす……。
 登場シーンはよかったのになあ。若者役はよかったのになあ。
 晩年の信長は、童顔のせいで見た目はとっちゃんぼうや、そして、外見の不利さを覆すほどの圧倒的な演技力はなく……うーむ、難しい……。
 本役のまさおさんだって別におっさんにはなってなくて、「フェアリーまさお☆」のままだったけどさー。だから暁くんが「ヒゲを付けた少年」でもいいのかもしんないけどさー。まさおはもうキャラ確立してて「仕方ない、だってまさおだもの」で済んでるところを、「それでは済まないんです、ふつうは」という現実を見せつけられた感じでなあ、いろいろといたたまれない。

 うん、ほんと。言葉にしてようやく実感した。あの感覚は「いたたまれない」だ。

 暁くん、歌も声も整ってきているし、新公では周りと比べてそれほど芝居がヘタだということもない。それなりに出来ているはずなのに、こうも画面にハマらないというか、無理がある感ゆんゆんなのは。
 いたたまれない、んだなあ。

 いつも通りのまさおの「キラキラ☆」だけでやれる役だったら、よかったのにね。暁くんの持ち味でそのままやれたのに。
 持ち味にナイ役だとこんなに大変なことに。

 いや、でも、大物感はあるので、今は単に学年が足りていない、というだけか。
 経験だけは上級生スター並に与えられてきているけれど、本人はまだ下級生だもんなあ。
 いつか大人になったらまた、こういう役にも挑戦して欲しい。


 暁くんがいろいろ大変なことになっている上に。

 ヒロインの帰蝶@小雪ちゃんがまた、大変なことに。

 小雪ちゃんは美少女だし、実力あるし、すでにバウヒロ経験者だし、初新公ヒロインだからって別にどうってことないよね……と思って安心していたら、そうでもなかった。
 いや、本人はどうってことなく演じていたのかもしれないが。

 ただもう見た目が、気に毒なことになっていた。

 そうか……帰蝶の衣装や髪型って、人を選ぶんだな……。
 長身小顔のちゃぴだから着こなせるのであって、小柄で顔大きめ、子役テイストのかわい子ちゃんがやると、こんなに大変なことになるのか。

 小雪ちゃんが美少女であることはわかってる。素顔だけでいうなら、ちゃぴよりわかりやすくかわいいのでは?
 だけど、舞台の上で美しいかどうかは、また別なんだなあ。

 さくらちゃんといい、どうして歌ウマ美少女の娘役は、みんなこう顔大きめなんだ……。舞台での頭身の低さが残念過ぎる。


 『A-EN』の頃、「どうしてあーさ×小雪で、暁×くらげなんだろう。ヒロインは逆でもいいんじゃない? 見てみたいなー」と思ったこともあったけど。
 や、物語のキャラクタ的に、そうあるべきなのはわかってたけど。それとは別に、学年的な意味で。ふつーダブル主演ワークショップって、上級生チームと下級生チームに分かれるから。下級生チームはヒロインも下級生だから。

 「どうしてあーさ×小雪で、暁×くらげなのか」わかったわ……。

 暁くんタイプに小雪ちゃんタイプを付けると、それぞれの欠点が相乗効果になるのだわ。
 きれい系×かわいい系、キツネ系×タヌキ系、てな風に組合わせないと、タカラヅカ的につらいということなんだ。
 『ドン・ジュアン』初日感想にて、「ドン・カルロ@咲ちゃんが弱い」と書いた。

 でもわたし、今回ドン・カルロ萌えなのです(笑)。

 観劇しながら「ああこれ、『ロミジュリ』だ」と思った。
 ドン・ジュアン@だいもんはロミオなのだと。マーキューシオも兼ねた、闇のロミオ。

 亡霊@がおりが「死」、ラファエル@ひとこがティボルト、ドン・カルロがベンヴォーリオ。

 そして、『ロミオとジュリエット』でわたしがもっとも愛するキャラクタはベンヴォーリオだ。ロミオの親友ですべての事件の渦中にありながら、ただひとり生き残る男。
 そう、もうひとつの『ロミジュリ』にマーキューシオはいなくていいけど、ベンヴォーリオは必要。

 『ロミジュリ』のベンヴォーリオは、基本、おいしくない。おいしいところは相棒のマーキューシオが持って行くから。
 ふたりでいる場合、派手なリアクションでキャラを強く打ち出すのはマーキューシオ。そして、片方が派手だと、もう片方は地味にするしかない。ふたりして派手にしたら、両方のキャラが死ぬ。
 しどころのない役。キャラクタ。
 ……それゆえのキャラ立ての工夫や魅力も、もちろんあるし、だからこそわたしはこの役がいちばん好きなんだけど。
 ぱっと見、目立つ役じゃない。
 わかりやすく、オイシイ役じゃない。

 実際ドン・カルロは弱く、薄い。演じている人が、役を持てあましているように見える。
 派手に暴れ回るドン・ジュアンをただ眺めている場面も多いのだけど、突っ立っているだけというか、表情の「抜け」方が、ああ、演技し切れてないんだな、と思えた。

 まあなあ。難しいよなああ。
 アクティブに、自分からがんがん行くキャラの方が作りやすいんだよね。動作を追うだけで格好がつくから。むしろ、なにもしない役の方が、なにもしていないときをどう作ればいいのか、わからなくなるんだろう。

 でもね。ドン・カルロは、あのしどころのなさがいいの。

 物語の中心に割って入ることは出来ず、周辺でおろおろしている無力さが、すっげー好みだ。
 なにも出来ないし、出来ないことに言い訳して自分を守っているくせに、役に立たない良心ゆえに完全に背を向けることも出来ずに中途半端にうろうろしている。
 うざいよねー、こんなヤツ。
 だが、それがいい。

 咲ちゃんの芝居が足りてないとか整理できてないとか、そんな理由でドン・カルロが役として中途半端になっているとか、おいしくなくなっているとか、たとえそうなんだとしても、わたしは思わない。
 今あるものを「正解」として受け止める。今のドン・カルロを「完全版」と受け取る。
 あの中途半端にうろうろしている姿を、「ドン・カルロとして正しい姿」とする。

 となると、ドン・カルロの立ち位置のあやふやさに説明をつける必要がある。

 第2章の方に初日の夜にUPしたけど、ドン・カルロは昔一度、ドン・ジュアンとやっちゃってるんだろうなと。
 それゆえに、男でありながら、ドン・ジュアンを取り巻く女たちに近い位置にいる。
 ドン・カルロがもっともシンパシーを得るのが、ドン・ジュアンの昔の女イザベル@圭子ねーさまですから。ふたりは同じ位置にいるのね。同じ感覚を共有しているのね。

 という記事に、UPした当時同意のメールをいただきましたよ、あざーっす!
 しかしリアル友には「ドン・ジュアン受が理解出来ない、カルロが女役じゃないの?」と言われたりもしました。
 えー? ジュアンさんが好きこのんで男を抱くとでも? そしてカルロさんはふつーに男子だから、行動するときは抱く側にしかならないっすよ、気の毒なことに。
 なんで気の毒かというと、カルロが受……抱かれる側の方が、救いがあるからなの。「ドン・ジュアンに無理矢理奪われた」と言い訳出来るから。でも、そうじゃない。無慈悲な友人は、カルロにそんな言い訳を許さない。
 カルロが、ジュアンを抱くからこそ、カルロはその罪の意識に縛られ続けるのよ。

 「悪の華」でドン・カルロを押し倒し、その腰の上に跨がるドン・ジュアンの、悪魔的な笑みの素晴らしいこと。
 いやあ、萌えますなあ。

 ドン・カルロ萌えです。
 わくわくします(笑)。
 美しいモノを見た。

 舞台というのは、演劇というものは、美しいものなんだねええ。

 と、しみじみしてしまう、『ドン・ジュアン』

 役者個々の話ではなく、舞台全体。や、もちろん出演者も美しいけど、今は舞台の話。
 幕開きの、静かな悲しみに満ちたプロローグ……「今は亡き友」へ語りかける場面の、遺跡っぽいセット……それもまた「過去」「失われたモノ」を象徴している……。
 その聖なる・静なる場面から、巨大な真紅の薔薇のピックアップ、その薔薇から、ドン・ジュアンが登場する、美しさ。視覚効果。
 薔薇があんな風に砕け散る……ばらばらになるとは、夢にも思わないから、その予期せぬパーツの軌跡にも目を奪われる。
 騎士団登場の踏みならす靴の音、遺跡の上に並んだ姿……。
 セリが上下するわけでも盆がぐるぐる回るわけでもないのに、画面は次々変わり、左右と手前奥だけでなく、上下も変化に富む。

 フラメンコの美しさ。女性の美しさ。
 あるのは、野生のエロス。
 褐色の肌と黒髪、濁りのある多彩なドレス。
 暗い色を基調とした舞台だから、「エメ」で白いドレスの女たちが踊り出した瞬間、息を飲む。
 その、美しさに。その、清浄さに。

 美しい音楽が豊かに流れ続け、闇であれ毒であれ、……愛であれ、救いであれ……彩り満たす。
 感情は音楽となり、台詞は歌となり、あるがままに発せられる。

 ミュージカルという、贅沢さ。
 それを存分に味わう。


 いやあ……美しい、って、いいな。
 生田せんせの美意識がこれでもかと注入されてる。ヲタク万歳、厨二万歳。つかこのパソコン、「ちゅうにゅう」を打っている途中、「ちゅうに」で「厨二」と変換するのよせ(笑)。

 美しいものを見られて、大満足だーー。


 よくぞこのメンバーで、この作品を上演してくれました。

 ……とはいえ、ヒロインのマリア@みちるちゃんは、なんか不自由感がつきまとった。足りてないというか、そもそも大きさがチガウ箱の中にいる感じ? その箱の中で手足を伸ばしても、その箱以上の大きさにはならないよ的な。

 そして、ドン・カルロ@咲ちゃん。
 ひとことで言うと、弱い……。
 歌声も、存在感も、ドン・ジュアン@だいもんとの関係性も。
 ドン・ジュアンと肩を並べる存在でなきゃならないのよね? や、火のついてるだいもんに立ち向かえなんて、無理難題だとわかっちゃいるが、どうかもう少し食い下がってくれ。

 このふたりだけかな、主要キャストで気になったの。
 それ以外はほんとにもう、見事に作品世界に酔わせてもらいました。
 まだ初日だしね。みちるちゃんと咲ちゃんも、きっとこれから変わっていくんだと思うし。


 エルヴィラ@くらっち、すげー良かった!
 『銀二貫』のヒロインの芝居に首をかしげたので、不安もあったんだけど、今回はすごくいい。歌声も演技も。
 実力あるっていいよな。

 わたし、ひとこの悪役ってはじめて見るかも。
 ラファエルは別に悪役ってわけじゃないんだけど、善悪で言えば主人公のドン・ジュアンがいちばんの悪だし。
 でも、闇落ちするからなー、ラファエル。明るいあっけらかんとした持ち味のあるひとこが、闇を演じるとこうなるのか。や、期待以上に闇が広がってた!
 この男やばい、そう思わせるものがある。
 いいなあ、ラファエル。

 レオ様、叶くんがいい男で。
 レオ様、男役として落ち着いてきたなあ。「喋らなければオトコマエ」だったのが、喋ってもオトコマエをキープできるようになってきてる。
 叶くんはほんと学年不明だわ。上級生っぽいよね、新公学年なのに(笑)。もっと歌って欲しい。
 縣くんはただひとり、声を発すると「あ、ヘタな子がいる」とわかってしまう。周りがうまい人ばかりで占められているから仕方ないんだけど、せっかくの抜擢続きなんだ、がんばってくれー。

 きゃびいは安定のいいお姉さんぶりだわ。芝居に浮つきがない。締めてくれるとドラマ性が上がる。

 少年ドン・ジュアン@ひまりちゃんがすごい。
 む、娘役だよね……?
 なのに、スミレコードやばい芝居してますよ、男役として!!
 すっげーだいもんに似てる。だいもんらしい芝居をする。
 そのくせ、娘役やってるときはえっちで魅力的な女性として、ドン・ジュアンに絡んでるんですわ。
 ひまりちゃん、今回の衣装と髪型? お化粧? すごく合ってる、いい、めっちゃ美人。モブ女性キャラの中でいちばん好みだ。

 すわっちにソロがあって、翼くんにないことが残念です……や、すわっちに含みはない、彼は良い声です。
 ただ、翼くんの歌も聴きたかった……。
 がおりの亡霊が素晴らしすぎる件について。

 『ドン・ジュアン』初日を見終わって、帰りの新幹線で感想を走り書きしてる間、やたら脳裏に浮かんで困る、がおりさん。

 亡霊さん、スタイル良すぎ。

 や、がおちゃんがスタイル美形だということは、昔から知っていたけれど、今回ほど痛感したことはない。
 ドン・ジュアン@だいもんと同じ髪型で、一緒に出ることが多いせいだろうか。だいもん氏は男前だけどスタイルはアレな人っすから。そしてがおちゃんは、顔はともかくスタイルは良し。ふたりは好対照。や、もちろんジェンヌさんはみんなきれいだけど、がおちゃんは個性が強く出てる顔立ちかなと。
 今回は亡霊役で、地顔がわからないほどの仮面メイクになっている。思わず二度見するくらい特異な顔になっているので、かえって顔自体はスルー、スタイルの美しさだけが印象的。

 なんかね、あのスタイルだけで恋出来そう。

 歌っても踊っても、とにかくそこにいれば、目を奪われる。
 かっこいい……っ。

 がおちゃんがいる。それだけで、「この公演、勝った!」と思った。勝つ……成功するとか、そんな意味で。

 本編も素晴らしかったけれど、終演後がまたすごい。
 亡霊さんメイクのままカーテンコールももちろん登場、他の出演者と1列に並んでいるわけで。
 いや、もう、その存在感たるや……!
 芝居中のヒールぶりが嘘のように、動作のひとつひとつがおちゃめでかわいくて……。
 だいもんが客席に向かって「愛してるよ(イケボ)」と言った途端、出演者全員男女問わず一気にうっとり腰砕けになったんだけど、唯一亡霊さんだけは亡霊さんのままで……!!(笑)
 わーん、がおちゃん好きーー!!


 でもって、わたしは基本スカステを見る習慣がなくて(録画してメディアに焼く習慣はある・笑)、ひとさまのつぶやきを拾って知ったのだけど、カテコのがおちゃん亡霊様、リアクション映ってないんだって??
 なんでそんな……と思い、がおちゃんの立ち位置を思い起こす。
 そうだ、がおりは「脇役」という位置にいるんだった……。

 わたしの私感では、亡霊さんは2番手役だ。
 役の番手……重要度を計るとき、わたしは「その役が必要か」どうかで考える。

 『ドン・ジュアン』ってさ、ぶっちゃけ、ドン・ジュアンと亡霊のふたり芝居でも表現可能じゃん?

 マリア@みちるちゃんも、ドン・カルロ@咲ちゃんも、いなくても成立するよね?
 それくらい、亡霊の役割は大きい。
 だって、「もうひとりのドン・ジュアン」でしょ? あちこち動きシンクロしてたし、髪型も同じだし。

 トート@『エリザベート』が、主人公エリザベート自身が生んだ存在のようなもので。
 だから、ドン・ジュアンと亡霊の「愛と死の輪舞」なわけでしょ、『ドン・ジュアン』って。
 プラス『ロミオとジュリエット』で。ずっと共に在った、ロミオと死で。

 ドン・カルロ2番手は鉄板だというならせめて、3番手としてクレジットが欲しい。
 なのに、ヅカの番手の壁に押しやられて、カメラのフレームから切れちゃうような外側にいるわけだよ……がおちゃん。

 ミューズまなはるを、3番手位置に立たせた原田くんは、つくづくすごいなと……(笑)。
 海中に産まれてしまった鳥に、なにを望めばいいのだろう。

 魚は陸地では生きられないし、鳥は水中では生きられない。
 魚は水に、鳥は空に。

 だけど彼は、海中に産まれてしまった。周囲のものたちは、彼に泳げと言う。水の中で呼吸しろという。
 彼の持つ流線型のカラダは水中の生き物に似ていたかもしれないけれど、それを覆うのは鱗ではなく羽毛だった。彼が持つのはヒレではなく、翼だった。
 大空を羽ばたくための。
 だけど、そんなことは誰も知らない。彼自身も、周りのすべてのものも。
 呼吸しろ、泳げ。なぜできないんだ、誰もが生まれたときから当たり前に出来ることなのに。
 呼吸さえままならず喘ぐ彼を、周囲の者たちは責めたてる。なぜできないんだ。なぜ。なぜ。何故。
 彼は翼を広げる。
 魚たちが持たない翼を。理解出来ないものを。
 そうして威嚇する。「花びら散るのは悪の華だけじゃないさ」


 『ドン・ジュアン』について、思いつくままに記す。

 悪人が愛を知って改心し、愛ゆえに自殺する話。
 てな試験問題の「何文字以内で答えよ」的解答は拒否する。
 たぶん、そうまとめ上げて解答することが可能だよね、この話。筋立て自体はシンプル。だからこそ、それは拒否。
 否定(チガウ!)ではなく、拒否(イヤだ!)ね。

 わたしは、わたしの見たいモノを見る。

 答えの出ないもの、曖昧なものこそがこわくて、たのしくて、魅力的なんだ。
 亡霊@がおりはなにをしたかったんだ、マリア@みちるとはなんだったんだ、ドン・ジュアン@だいもんは何故突然死を選んだんだ、呪いとは、愛とは、なんだったんだ……。
 挙げていくとキリがない。
 そして、それらにひとつひとつに「解」を与えることは可能。でもそれは「解く」ことではなく、「縛る」ことだと思う。「囚われる」ことだと思う。
 ほどき、はなつことではなく、閉じ込める行為。
 それはつまらないわ。わたしはもっと遊びたい。

 だから遊ぼう。
 わたしの脳内、囲いのない場所で。

 これはひとつの想像。明日になれば変わるかもしれない。

 ドン・ジュアンの特異性は、持って生まれたモノだろう。
 でなければ、母を犯しはしないだろう。
 少年じみた仕草でうずくまるだいもんさんオペラで見てて、ふと後方に視界を向けると、母@うきちゃんが少年ジュアン@ひまりちゃんに押し倒されてて、オペラグラス落としそうになった。
 なななななにやってんですかあああっ。
 動揺している間に、うきちゃん自殺するし。……そりゃ死ぬやろ……無理ないやろ……。
 だけどそれは、ドン・ジュアンをさらに追い立てることになる。

 母を犯したのは、悪意からではないだろう。
 愛していたから。
 愛がはじまりだった。どんなに間違ったものでも。歪んだものでも。
 はじまりは、愛。
 そして。

 愛が、最愛の者を殺した。

 父@エマさんは、知らないんだろう。何故妻が死を選んだのか。事件の最中、パパはそちらは見ずに歌っている。
 ママは誰にもナニも言わずに逝ったんだね。言えるわけがない。言えば、言葉を受けた人の数だけ不幸を増やす。
 知らないからこそ父は、放蕩息子を心配したり呆れて手を離したりしている。真実を知れば、彼も無傷ではいられないはず、息子を殺して自分も死ぬくらいしてるんじゃないの?
 ママは自分を罰することで、夫と息子を守ろうとした。夫のことは、守れたかも。
 でも、ドン・ジュアンのことは、守れなかったね。

 愛への不信は、ドン・ジュアンの人生を決定づける。


 母の面影なんぞは追わなくてイイ。
 なんでもかんでも「母に似ている」で愛の理由をまとめあげるのキライ。
 ドン・ジュアンが彷徨し続けるのは彼本来の魂の問題。
 海中に産まれてしまった鳥のように。

 海の生き物たちは、翼を忌み嫌い、また、惹きつけられる。そんなの知らない、見たことナイ。知らないからキライ、コワイ。知らないからステキ、ホシイ。
 異端であるからこそ、憎み、恋い焦がれる。


 彼の翼。
 海面から出て、陽を浴びる。
 太陽。海中にはないモノ。
 彼の白い翼は、陽を浴びて輝く。暮れゆく太陽。海面を染める色。

 赤。

 彼が手にする、華のいろ。
 『ドン・ジュアン』KAAT初日観劇。

 ああ、そうかこれ、『ロミオとジュリエット』だ。
 観ながら思った。
 作者の意図なんぞ知らん。わたしが、そう思った。

 ドン・ジュアン@だいもんは、ロミオだ。
 白いベッドで白い姿で、愛するマリア@みちるちゃんと戯れる姿に、タカラヅカの『ロミジュリ』が重なって見えた。

 ロミオ登場のソロ「遊びなら何人かとつきあったけれど虚しいだけ。どこにいるの本当の恋人、僕のためだけに生まれてきた人♪」は、そのままドン・ジュアンにも当てはまる。ドン・ジュアンは虚しさにも、求めているものにも気づいてないけれど。

 ドン・カルロ@咲ちゃんがベンヴォーリオ。ラファエル@ひとこがティボルト。

 そして、この世界に「愛」はいない。
 ロミオを導くのは「死」のみ。

 亡霊@がおりが、ドン・ジュアンを翻弄する。

 ドン・ジュアンはロミオの純粋さと危うさ、そしてマーキューシオの狂気を併せ持つ。
 「愛」のいない世界で、「死」と出会い、その導きによって恋に落ちる。
 死へたどり着くことによって、生まれ直すために。

 人生を逆回しするかのように、死からはじまるロミオ。
 なんと愛すべき男なのか。

 や、クズだけどな。クズ過ぎるけどな(笑)。
 だけど、彼が持つ闇と狂気、そんな彼を中心に置く世界が、好み過ぎる。

 ドン・ジュアンはクズだし、感情移入もナニもない主人公。
 だが、そこがいい。

 わたしがもっとも苦手とするのが、「間違った倫理観」。植爺などが標準装備している、「主人公の言動・思想を正しいとするために、世界の理を歪める」という。
 やってることはただの悪なのに「愛があるから正義です」「信念があるから正義です」と、ストーカーの言い分みたいな世界観が苦手。
 『ドン・ジュアン』のように、最初から「ドン・ジュアンは悪」「ドン・ジュアンはクズ」と言い切ってくれる物語は好き。

 「ドン・ジュアンは悪、ドン・ジュアンはクズ」「だけど、魅力的。だけど、愛しい」……この「だけど」がいい。

 世界と愛の齟齬。
 世界は彼を「間違っている」とする。だけど、彼は「魅力的」だ。間違っているのに、「愛しい」。
 正しくありたい、幸福でありたい、人として生物として生理が求めるものを、心が、感情が、無視して走り出す。
 それでも、彼が愛しい。

 人間の不思議、愛の不可解さ。
 大いなる矛盾として、ドン・ジュアンが在る。

 ドン・ジュアンが作る世界を許容出来る者たちだけが、彼と良好な関係を築ける。イザベル@圭子ねーさまとか。一夜限りの愛で満足する女たちとか。
 本心はともかく、彼を失いたくなければ、彼を受け入れるしかない。

 ドン・ジュアンを愛しながらも、彼の世界を認められず、自分たちの理に従わせようとする者たちは、果てない苦しみに落ちる。ドン・カルロやエルヴィラ@くらっち。
 正しい者こそが、より深い絶望を知る。

 なんて理不尽な。
 ……でもそれは、人生の縮図。
 なにもかも思い通りになることなんて、正しい者がすべて報われるなんて、ありえないでしょう?

 易しい答えを出していただかなくて結構。
 ドン・ジュアンを導く亡霊が、毒に満ちた饒舌さを持つように。
 混沌のまま、ドン・ジュアンは在っていい。

 そこが、この物語の魅力だと思う。

 純粋さより闇を深く映し出すロミオ。
 『ロミジュリ』をダークアレンジして描いたような物語。「すべては愛のために」……1枚の紙の表は、反対から見ると裏になる。
 『ドン・ジュアン』KAAT初日観劇。
 この物語は、ドン・ジュアン@だいもんというひとりの男が生まれ直す物語なんだなと思った。

 本当なら、最初の人生で知るのよ。愛すること。
 だけどこのクズ野郎ときたら、1回目の人生ではそれを体得できなかったのね。
 だからやり直す必要があった。
 愛を知り、嫉妬を知り、人間としてあたりまえのものをはじめて知り。
 ようやく「人間」スタートラインに立ったから、そこで死ななければならなかった。犯してきた罪の清算をしなくては、「人間」として生きられない。
 観ながら、『100万回生きた猫』を思い出していた。

 ゲームやってると「そんなスキル、ファーストプレイでは無理」ってことが当たり前にある。1回ラストまでクリアして、2周目のプレイでようやく得られるスキル。クリア後でないと開かない扉や宝箱が設定されてたりするからなー、「2周目のお楽しみ」ってやつで。「真のエンディング」は2周目以降のプレイでないとたどり着かないようになってたり。
 ドン・ジュアンにとっても、人生はそーゆーことだったんだなと。
 あんだけなにもかも持ち合わせていて、何周もしなきゃクリア出来ないとか切ないわ。


 「愛を知る」というミッションが、マリア@みちるちゃんと出会い、相愛になった、というだけではクリア出来ないことに震撼する。

 はじめての相思相愛、ベッドでじゃれてキャッキャウフフのおふたりさん、「家を建てて犬を飼おう」「白い壁に赤い屋根がいいわ」てなドリームを語ったり(会話はイメージです)、そんなしあわせ絶好調なだけでは、「愛」を知ったことにはならないのね。

 愛する女性が出来た。→STEP.1
 相愛になった。→STEP.2
 愛する女性に騙されていた。怒り、嫉妬する。→STEP.3
      ↓
 よーやくクリア!
 「ドン・ジュアンは"愛"を知った!」チャラララ~~(スキル取得メロディ)

 嫉妬に狂うドン・ジュアンを見てしみじみと。
 甘いだけの恋じゃない。ここまで経験してようやく「愛」を知ったことになるんだ、と思うとこわい話だ。

 作品のキャッチコピーとして、「愛」が使われているのもわかる。
 "愛に、呪われた男--"

 そして。
 この物語は、「愛」がいない。
 「死」のみが踊る、『ロミオとジュリエット』だ。
2016.06.21 宙組 全国ツアー公演『バレンシアの熱い花』『HOT EYES!!』一部の配役決定

主な配役
フェルナンド・デルバレス朝夏 まなと
ラモン・カルドス真風 涼帆
イサベラ伶美 うらら
マルガリータ星風 まどか
※その他の配役は決定次第、ご案内いたします。

 あれ? 主な配役発表、早くない? つい先日ラインアップ発表された(そしてわたしが文句たれてた)ような?
 と思って日付をたしかめて、唖然。

 あれから1ヶ月経ってるのか!!
 5月20日発表だから、別に早くはない……ってゆーか、「つい先日」じゃないっ。
 あー……時間感覚おかしいわー。

 まあとりあえず、1ヶ月前に予想として書いたまんまの配役でした。
> まぁくん乙。がんばれ。アタマおかしいよーなアホな役でも、まぁくんならきっと、なにかしらの説得力を持って演じてくれると思う。
> マカゼはラモン一択だな。ロドリーゴはナイ(笑)。
> イサベラはうらら様、マルガリータはまどかちゃんだなー。キャラだけでいうとまんまハマるわー。

 タニちゃんお披露目公演時は、ラモンとロドリーゴは「同格」に近い扱いだった。ゆえに2番手と3番手が役替わりしても問題ない的な持ち上げ方。
 でもオイシイのは明らかにラモンだから、ラモン2番手でいいんだろうとは思う。
 ただわたしは、ロドリーゴ@らんとむが好きだったので、2番手ロドリーゴ、3番手ラモン認識(笑)。
 たぶんわたしのジェンヌの好みが、ラモンがハマるタイプより、ロドリーゴがハマるタイプであるせい。まっつはラモンより絶対ロドリーゴだもん! いなせな下町のあんちゃん(三枚目風)より、狭量な貴族の美青年(いつもドシリアス)がハマる人が好き。
 ロドリーゴもヤなヤツなんだけど、好みを計る、という点ではいい。つまり、妄想配役、希望配役で、ロドリーゴはこの人!と思うジェンヌは、わたしの基本的な好みに合った人である、という。

 なんてことを考える以前に、ふつーに思っていた。

 ロドリーゴは、あっきーだよね?

 主な配役が出て、これでまたロドリーゴ@あっきー決定だなー、と確信を新たにしたんだ。
 友人がそれ以外の可能性をつぶやいていて、驚くくらいには、も、最初から思い込んでた。え、あっきーの他に誰がいるっていうの? 学年、立場、持ち味的にあっきーだよね?

 最近タカラヅカ力の落ちているわたしは、ロドリーゴ@もえこの可能性を考えずにおりました。
 先述の通り、ロドリーゴにいちばん相応しいのはあっきーだけど、劇団は「相応しい」だけで配役はしない。「扱いを上げたい人」にいい役を付ける。ついこの間も持ち味ガン無視でエスカミリオ@暁くんとかやってたじゃん……。
 劇団による、あっきーの今までの扱いを鑑みれば、「順番的にいってあっきよーよね」と、無邪気に期待出来ない現実……。

 ルカノール@あっきーも覚悟するべきか。似合うだろうけど……すごく似合うし、かっこいいだろうけど……。
 あー。過去のもやもやが甦るから、ルカノール@あっきーは嫌だなあああ。(もやもやについては2007年宙組上演時、えんえん書いてるので省略)

 とりあえず、わたしはロドリーゴ@あっきー希望っす。
星組 次期トップスター、トップ娘役について
2016/06/20
この度、星組 次期トップスターに紅 ゆずる、次期トップ娘役に綺咲 愛里が決定しましたのでお知らせいたします。

なお、紅 ゆずる、綺咲 愛里の新トップコンビとしてのお披露目公演は、2017年1月6日に初日を迎える星組東京国際フォーラム公演『オーム・シャンティ・オーム -恋する輪廻-』となります。

 おめでとー!!
 順当万歳。トップから2番手へ、組内で引き継ぎがあるのっていいよな。
 プレお披露目演目は意外すぎてびっくりだけど、きっと楽しいものになるだろう。

 ベニーを最初に知ったのは、数日前の外部出演語りでもちらりと書いた、2005年1月の『タック』だったねええ。たったひとりで、しいちゃん宛のお花を入れていた、知らない下級生。
 そして、舞台で認識したのが、その翌月にあったバウ公演『それでも船は行く』。あのお花の子だ、って。
 5月の本公演『ソウル・オブ・シバ!!』では、トップコンビ以下多くの組子に芸名もじりの役名がついているけど、さすがに路線でもない研4のモブには役名もなく、仲間うちで勝手に「ベニー」と役名を付けて愛でていた。
 9月のDC公演『龍星』で、みきちぐとニコイチの和ませキャラを演じ、「今日のアラン・ダラン」てな風に仲間うちの話題をさらったっけ。
 新公でも本公演でも役は付かないし、みきちぐの相棒だったこともあり、きっと個性的な別格候補なんだろうと思った。
 でも、きれいだから、路線寄りに来て欲しい……そう思っていた。
 それが、最後の最後、2008年の『THE SCARLET PIMPERNEL』でまさかの新公主演。星組ファン以外にはまったく無名の研7。
 あそこから、彼の運命が動き出した。

 そしてついに、ここまで来たんだねえ……。

 路線育ちでないゆえの基礎力の低さに不安も持ったけれど、それでも誰ともチガウ唯一無二の魅力で、頂点まで登り切るんだね。
 なんかすごく、感慨深い。

 しいちゃんの最後のお茶会に、「しぃ様LOVE」と書かれたタスキ姿で現れて、空気ぶった切って大騒ぎして去って行った……あのときのベニーを、思い出す。
 しいちゃんファンが、どんだけキミに感謝したか。
 ピュアしい様ファンの友人が、ヅカファン卒業しても、ベニーの主演だけは観る、と言っていたのを思い出す。
 なつかしい、愛しい記憶。


 キサキちゃんも、最初に認識したのが2012年3月のバウ公演『天使のはしご』で、続く『ダンサ セレナータ』新公で、なんつーんだ、その、2作揃っての潔いまでの大根ぶりにびびったんだけど……。
 あそこから、ここまで。
 うまくなったよなあああ。しみじみ。


 ベニーとキサキちゃんは、お人形さんのように美しい一対だ。
 現在の実力重視のトップコンビから、ビジュアル重視のトップコンビに交代するわけだ。振り幅すごい。
 いろんなトップがいて、その都度組の持ち味が変わるのがタカラヅカの面白いところ。ずーっと同じだったら、100年続いてない。

 最近わたし、ベニーさんから遠ざかり気味。こんだけ思い出も愛着もあるのに、さみしいことだ。
 トップ内定を機に確変起こして、新たな魅力に開眼!とかあるかもしんない。
 次の星組さんも、楽しみにしている。
 『ドン・ジュアン』KAAT初日観劇。
 予備知識なし。どんな話か、まったく知らずに観た。
 そして思った。

 恋はひとりではできない。

 なんかすごい勢いで恋に落ちたドン・ジュアン@だいもんさん、自分が殺した男の像のお披露目式典に乱入。
 いや君、言ってることめちゃくちゃ過ぎですよ……と目を点にしていたら、マリア@みちるちゃん「この像があるせいで、この広場に入れないというなら、こんな像は壊してやる!」って、突然像をぶっ壊した。石の巨大な像なんですが……ばこーん、と。
 まさに、あうんの呼吸。
 ドン・ジュアン単体で「変な人キターー!」だったのが、マリアのリアクションで「こっちも変な人だったーー!」で、死角なし! 全面的に変だー!!

 このトンデモ展開に「割れ鍋に綴じ蓋」という言葉が脳裏をよぎりました。
 なるほど。運命のふたりね。凸に凹。うまく噛み合ってる。
 ドン・ジュアンのこのテンションにマリアがすかさず付いて行ったことに「よかったね」と思いました。

 恋はひとりではできない。マリアたんがドン・ジュアンの奇行にドン引きするキャラじゃなく、共に暴走特急に飛び乗る娘でよかったね。


 なーん書き出しですが、『ドン・ジュアン』すっげえ良かったです。

 いろんな意味で、タカラヅカじゃないみたいだ……。

 扱うテーマの暗さと重さ。
 凝縮された濃密な舞台空間。
 キャストのレベルの高さ。

 いやあ、マジすげえな。

 最初、ドン・ジュアン@だいもんはなかなか声を出さないのですよ。登場はするけれど、ダンスと演技のみで、歌も台詞もない。
 歌うのは他の人たち。
 冒頭のドン・カルロ@咲ちゃんの歌声は弱いかなと思うけど、彼はプロローグなので置くとして。
 物語開始で本格的に歌い出すのがイザベル@圭子ねーさまですよ。そして、ファニータ@ヒメですよ。さらにエルヴィラ@くらっちですよ。たたみ掛けるように、歌ウマが歌唱力を披露するわけですよ。
 こんだけ歌ウマが歌って、これだけの歌唱ののちに「満を持して」登場する主役が……これまた素晴らしい歌声って……。
 「タカラヅカ」に慣れきってるもんで、これだけでかなりびびった。歌ウマさんたちのあとに歌い出す主演スターが歌ウマって!! そんなのタカラヅカじゃないみたい!!←

 次々と実力者が歌い出す。この人も歌ウマ、この人も歌ウマ、なんなのこれすごい、ついに主役が歌い出した、これがまためちゃ歌ウマだーー!! えええ、すごいーー!!
 音痴のいない舞台?! なにそれこわい、わたしの知ってるタカラヅカじゃない!
 ……ドン・ジュアンの最初のソロまでで、相当びびりました。
 タカラヅカでもこんなことが出来るんだ……。

 圭子ねーさまは素晴らしい歌声の持ち主だけど、舞台荒らしというか、彼女のレベルがすごすぎて「劇団が用意したスター」をぶっ飛ばしてねーさまの独壇場にしちゃう場合が、ままある。
 そんな圭子ねーさまが浮かない舞台。
 ヒメもくらっちもすごい。
 そしてなにより、だいもんがすごい。
 圭子バズーカに負けないんだもん……そんなひと、現役では一握りしかいないよ……。

 そして、なんといっても亡霊@がおりのクオリティ。
 開演前に開いたプログラムの写真ですでに、異彩を放っていたけれど。
 メイクの特異さは問題じゃない。
 演技、ダンス、歌、存在感……すべてにおいて神がかってる。


 芝居を観て、人間の演じる技術、能力を見て、背筋がぞくぞくする感じ、それを久しぶりに味わった。

 すごい舞台だな、『ドン・ジュアン』。
 よくこれを、上演した。
 よくぞ今のだいもんに、今の雪組に、この物語を与えた。
 感謝しかない。


 ドン・ルイ@エマさんのうまさも言うまでもないし、意外にラファエル@ひとこが役と作品に食いついて、いい味を出している。
 フェルナンド@レオ様がすっげーかっこいいしねえ。
 ひーこはじめ美女たちもダンスと色っぽさがたまらんわ。
 ドン・ジュアンの母@うきちゃんの美しさときたら、そりゃもうあんなことになっちゃう、その理由としてわかる、仕方ないよなという透明感だし! いや、あの展開には心底驚いたが。

 みんなすごいなー。

 あー、えーっと。
 そんでもって。

 アンダルシアの美女@レオ様が、すごかったです。
 迫力。腹筋。目力。
 そして。
 見事に、ヲカマ。

 あー、なるほど……ドン・ジュアンってヲカマもアリなんだなー。趣味広いなー。悪食だなー。
 という、主人公のキャラ説明に役立ってました。ほんっと悪徳の限りを尽くしてるんだね、ドン・ジュアン。

 重ね重ね、素晴らしい。

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