まっつと『アデュー・マルセイユ』その2。
2007年12月11日 タカラヅカ 今さらこっそりと『アデュー・マルセイユ』のまっつ語り。
★★こあらった目線の、見どころまっつ。★★
ホテル・ネプチューンのスイートにて、「まあ一杯やりたまえ♪」と酒を勧めるところからはじまるジオ様@まっつ。
次々登場する悪役たち。
気になるのは、グラスの行方。
悪党ズの紹介したりなんだりで、ジオ様は一旦グラスを手放します。ジェラール@オサ様もまた、一度はグラスを返す。
グラスはサイドテーブルへ。
人数分用意されたグラスの中へ混ざってしまう。
そして悪党たちはそれぞれグラスを手に「乾杯」することになるわけだが。
ちょっと待て。
そのグラス、すでに2個は使用済みだったのよ? 小道具だから空のままできれいなままだけど、実際には使用済みなのよ?
さも新しいみたいに全員に配っちゃっていいものなの?
……いいんです。
確認しましたよ、あたしゃ。
ジオ様は、自分とジェラールのグラスをきちんと選んで、勧めてます。
一旦集められたグラス。クラウディア@としこさんが悪党たちに配るのは、まっさらなグラス。
ジオ様はちゃんと自分が飲んだグラスを手に取り、さらにジェラールが飲んだグラスを手に取って、彼に勧めてるの。
あ、細かい。
小道具だからきれいなままなのに、ちゃんと「Myグラス」「彼のグラス」を決めた上で演技してるんだ。
あたりまえのことかもしれないが、そんなことに感動する。
最初はそのへんのことが、観ててもわからなくて。
使用済みグラスとか未使用まっさらグラスとか、区別なく眺めているだけだったし。
よーするに。
ジョジョとジオラモ(モーリスでも可)が、間接キスしてたらおもしろいのに。……と、思ったことがグラスの行方に注目した動機です(笑)。はい。
気になるのは、グラスの行方。
グラスを戻したりまた手に取ったりしているのに、間接キスしてないんですよ、誰とも!
つまんね〜〜。
つまんねーよなあ?
ジオ様1回くらい、グラス交換しちゃえよ。でもってオサ様と間接キスしちゃえ(笑)。とか、仲の悪いモーリスとジェラールを間接キスさせちゃえ、いたずらしちゃえ(笑)。とか、思ってました。……や、小道具ですから舞台ですから、実際に口は付けないですけどね。わかって言ってますけどね。でも、誰にも内緒でジオ様がそんないたずらしてたら、すげーたのしいのになあ。
や、たとえグラスが入れ替わっていても誰も気づかないだろうし、気づいたとして「まっつ、間違えたんだな」で終わるだろーけど。
ひそかに萌えさせてくれてもいーじゃんかよぅ。
まっつの「ひとりミュージカル」は回数を重ねるほど巧くなっていって、「もともと『歌手』カテゴリで、歌ウマさんだと思っていたけど、まだ伸びるのか!」とうれしいおどろきだった。
語りかけるよーに歌うところも好きだが、途中何カ所かある「歌い上げ」部分が特に好き。ぞくぞくするほど好き(笑)。
『舞姫』のときにパクちゃんが「まっつって歌うときに後ろへ反り返る(笑)」と指摘してくれたけど、ええ、その通りっすね。彼は歌への気合い度によって姿勢が変わります。「ここぞ」というときは胸を反らし、のけぞるよーに声を出します。
だからもちろん、「私の出身はシシリア島だ〜〜♪」とか、「マルセイユ・ルート〜〜♪」とかのときは、のけぞってますねっ(笑)。好きですよ、コンパクトなカラダ全体を使って声を出しているまっつ。
ええ、ジオラモの部屋になるなり流れるあの「♪ズンチャ・ズンチャ・ズンチャ♪」のメロディが大好きだー。うさんくさい〜〜♪
さて、男女問わずスキンシップ過多なジオ様は、ジェラールにも臆せず触ります。……触っているはず。演出上では。肩を抱き寄せてひとりミュージカル続行。
前にも書きましたが、まっつはついにオサ様に遠慮なく触ることはありませんでした……。いつもいつも、ずっとずっと、「触っている」ふりで、実はほとんど触れていないという。
さおたさんのことは抱けるくせに、何故っ?! ……失礼、ショーの話です。まっつ、さおたさんには平気で腰に手を回したりなんだりしてるんだけどね……密着度平気で高いんだけどね……オサ様相手だとダメみたい。
「上級生相手だから畏れ多くてダメ」というなら、オサ様よりさらに上級生のさおたさんはどーしていいんだ? 彼だけ特別? 反対に、オサ様は特別だけどさおたさんならいいや、ってこと? ソレは、どっちに萌えればいいの? てな話は置いておいて。(どっちのパターンもそれぞれ萌えです、ハァハァ)
一度くらい、本気で抱き寄せてほしかったなあ。
まっつそんなの、一生の記念じゃん? あの春野寿美礼を強引に抱き寄せた男、なんてさー。
また、これまでがんとして触ってこなかったまっつが、一度だけそんな真似をしたら、寿美礼サマがどんだけ驚くか、反応が見たいっす。
まあ、まっつのヘタレっぷりはともかく。
ジオ様は余裕でジェラールを口説く。
なにがステキかって、ジオ様「オレが口説いてオチない奴はいない」と思い込んでるよね?
最初からジェラールが自分のものになるって信じ切ってるよね? 疑ってないよね?
この調子で生きてきたんだろうなあ。いいなあ(笑)。
でもってここがさらに愉快なのは、ジェラールが快く了承したのは、ジオラモの誘いだけだということ。
「仲間を紹介しよう」とジオ様がリシャール他をひとりずつ部屋に入れるわけだが、ジェラールはそれを喜ばない。
マフィアのボスや刑事という「仲間」にすればお得な人たちが紹介されているっつーに、頼もしい顔をしないのね。
むしろ憮然としている。極めつけはモーリス@壮くん登場、反感を皮肉にこめて表現しちゃう。
ねえねえこれってさ、最初のわたしの「ジオ様に誘われちゃった(はぁと)、ホテルだよスイートだよ、どーしよー。なに着て行こうかしらっ!!」のわくわくぶりと重ならないか?
クラウディアは女だから対象外として、男として誘われたのはオレひとり♪と思ってホテルに出向いて。
案の定「ずっと前からキミのことを見ていたんだ。キミが必要だ。私と共に生きてくれ」てな甘い言葉で口説かれて「はい、末永くヨロシクお願いします。ぽっ」てな展開になってだよ?
「じゃあ仲間を紹介しよう」ってナニ?! ジオ様とふたりっきりぢゃないのかよ?!(クラウディア、アウト・オブ眼中)
リシャール@はっちさん、ペラン警部@星原先輩ときて、「げ、おっさんばっか。……若さでオレの勝ち?」と思っているところへ、キラキラ美青年笑顔でモーリス登場。ジェラール不機嫌絶好調!!
なんつーか、王子様にプロポーズされ、舞い上がってOKしたら「妻たちを紹介しよう。キミは4番目の妻だ」と言われたような展開ぢゃね?(微妙に『有閑倶楽部』ネタ)
……え、チガウ?
なんにせよ、グラスが最初からあれだけ用意してあるのに、ジェラールは他の連中が登場すると驚くし、誘いを快諾するのがジオ様単体のときだけなの。
ふふふ。
つーことで、まだ続く〜〜。
★★こあらった目線の、見どころまっつ。★★
ホテル・ネプチューンのスイートにて、「まあ一杯やりたまえ♪」と酒を勧めるところからはじまるジオ様@まっつ。
次々登場する悪役たち。
気になるのは、グラスの行方。
悪党ズの紹介したりなんだりで、ジオ様は一旦グラスを手放します。ジェラール@オサ様もまた、一度はグラスを返す。
グラスはサイドテーブルへ。
人数分用意されたグラスの中へ混ざってしまう。
そして悪党たちはそれぞれグラスを手に「乾杯」することになるわけだが。
ちょっと待て。
そのグラス、すでに2個は使用済みだったのよ? 小道具だから空のままできれいなままだけど、実際には使用済みなのよ?
さも新しいみたいに全員に配っちゃっていいものなの?
……いいんです。
確認しましたよ、あたしゃ。
ジオ様は、自分とジェラールのグラスをきちんと選んで、勧めてます。
一旦集められたグラス。クラウディア@としこさんが悪党たちに配るのは、まっさらなグラス。
ジオ様はちゃんと自分が飲んだグラスを手に取り、さらにジェラールが飲んだグラスを手に取って、彼に勧めてるの。
あ、細かい。
小道具だからきれいなままなのに、ちゃんと「Myグラス」「彼のグラス」を決めた上で演技してるんだ。
あたりまえのことかもしれないが、そんなことに感動する。
最初はそのへんのことが、観ててもわからなくて。
使用済みグラスとか未使用まっさらグラスとか、区別なく眺めているだけだったし。
よーするに。
ジョジョとジオラモ(モーリスでも可)が、間接キスしてたらおもしろいのに。……と、思ったことがグラスの行方に注目した動機です(笑)。はい。
気になるのは、グラスの行方。
グラスを戻したりまた手に取ったりしているのに、間接キスしてないんですよ、誰とも!
つまんね〜〜。
つまんねーよなあ?
ジオ様1回くらい、グラス交換しちゃえよ。でもってオサ様と間接キスしちゃえ(笑)。とか、仲の悪いモーリスとジェラールを間接キスさせちゃえ、いたずらしちゃえ(笑)。とか、思ってました。……や、小道具ですから舞台ですから、実際に口は付けないですけどね。わかって言ってますけどね。でも、誰にも内緒でジオ様がそんないたずらしてたら、すげーたのしいのになあ。
や、たとえグラスが入れ替わっていても誰も気づかないだろうし、気づいたとして「まっつ、間違えたんだな」で終わるだろーけど。
ひそかに萌えさせてくれてもいーじゃんかよぅ。
まっつの「ひとりミュージカル」は回数を重ねるほど巧くなっていって、「もともと『歌手』カテゴリで、歌ウマさんだと思っていたけど、まだ伸びるのか!」とうれしいおどろきだった。
語りかけるよーに歌うところも好きだが、途中何カ所かある「歌い上げ」部分が特に好き。ぞくぞくするほど好き(笑)。
『舞姫』のときにパクちゃんが「まっつって歌うときに後ろへ反り返る(笑)」と指摘してくれたけど、ええ、その通りっすね。彼は歌への気合い度によって姿勢が変わります。「ここぞ」というときは胸を反らし、のけぞるよーに声を出します。
だからもちろん、「私の出身はシシリア島だ〜〜♪」とか、「マルセイユ・ルート〜〜♪」とかのときは、のけぞってますねっ(笑)。好きですよ、コンパクトなカラダ全体を使って声を出しているまっつ。
ええ、ジオラモの部屋になるなり流れるあの「♪ズンチャ・ズンチャ・ズンチャ♪」のメロディが大好きだー。うさんくさい〜〜♪
さて、男女問わずスキンシップ過多なジオ様は、ジェラールにも臆せず触ります。……触っているはず。演出上では。肩を抱き寄せてひとりミュージカル続行。
前にも書きましたが、まっつはついにオサ様に遠慮なく触ることはありませんでした……。いつもいつも、ずっとずっと、「触っている」ふりで、実はほとんど触れていないという。
さおたさんのことは抱けるくせに、何故っ?! ……失礼、ショーの話です。まっつ、さおたさんには平気で腰に手を回したりなんだりしてるんだけどね……密着度平気で高いんだけどね……オサ様相手だとダメみたい。
「上級生相手だから畏れ多くてダメ」というなら、オサ様よりさらに上級生のさおたさんはどーしていいんだ? 彼だけ特別? 反対に、オサ様は特別だけどさおたさんならいいや、ってこと? ソレは、どっちに萌えればいいの? てな話は置いておいて。(どっちのパターンもそれぞれ萌えです、ハァハァ)
一度くらい、本気で抱き寄せてほしかったなあ。
まっつそんなの、一生の記念じゃん? あの春野寿美礼を強引に抱き寄せた男、なんてさー。
また、これまでがんとして触ってこなかったまっつが、一度だけそんな真似をしたら、寿美礼サマがどんだけ驚くか、反応が見たいっす。
まあ、まっつのヘタレっぷりはともかく。
ジオ様は余裕でジェラールを口説く。
なにがステキかって、ジオ様「オレが口説いてオチない奴はいない」と思い込んでるよね?
最初からジェラールが自分のものになるって信じ切ってるよね? 疑ってないよね?
この調子で生きてきたんだろうなあ。いいなあ(笑)。
でもってここがさらに愉快なのは、ジェラールが快く了承したのは、ジオラモの誘いだけだということ。
「仲間を紹介しよう」とジオ様がリシャール他をひとりずつ部屋に入れるわけだが、ジェラールはそれを喜ばない。
マフィアのボスや刑事という「仲間」にすればお得な人たちが紹介されているっつーに、頼もしい顔をしないのね。
むしろ憮然としている。極めつけはモーリス@壮くん登場、反感を皮肉にこめて表現しちゃう。
ねえねえこれってさ、最初のわたしの「ジオ様に誘われちゃった(はぁと)、ホテルだよスイートだよ、どーしよー。なに着て行こうかしらっ!!」のわくわくぶりと重ならないか?
クラウディアは女だから対象外として、男として誘われたのはオレひとり♪と思ってホテルに出向いて。
案の定「ずっと前からキミのことを見ていたんだ。キミが必要だ。私と共に生きてくれ」てな甘い言葉で口説かれて「はい、末永くヨロシクお願いします。ぽっ」てな展開になってだよ?
「じゃあ仲間を紹介しよう」ってナニ?! ジオ様とふたりっきりぢゃないのかよ?!(クラウディア、アウト・オブ眼中)
リシャール@はっちさん、ペラン警部@星原先輩ときて、「げ、おっさんばっか。……若さでオレの勝ち?」と思っているところへ、キラキラ美青年笑顔でモーリス登場。ジェラール不機嫌絶好調!!
なんつーか、王子様にプロポーズされ、舞い上がってOKしたら「妻たちを紹介しよう。キミは4番目の妻だ」と言われたような展開ぢゃね?(微妙に『有閑倶楽部』ネタ)
……え、チガウ?
なんにせよ、グラスが最初からあれだけ用意してあるのに、ジェラールは他の連中が登場すると驚くし、誘いを快諾するのがジオ様単体のときだけなの。
ふふふ。
つーことで、まだ続く〜〜。
まっつと『アデュー・マルセイユ』その1。
2007年12月10日 タカラヅカ 需要はなくても語りましょう。語らずにはいられないのだ、見どころまっつ。
や、元のテキストを最初に書いたのは10月だ。書くことが他にありすぎてUPできないまま現在に至る。まっつファンの端くれとして、毎公演まっつまっつな話を書かなくては!とゆー意気込み……だったんだが、ぜんぜん書けてないっすよ。
もう今さらだし、東宝では変更があるかもしれないが、それでも今さらムラまっつの話。
スタートから40分出てこない『アデュー・マルセイユ』でのまっつ。
や、ふつー出てこないったって、本編とは関係ないプロローグには群舞として出ていたりするじゃないですか。登場が遅い壮くんだって、ヒゲつけて謎のボス代理やってるし。なのにまっつは出てこない。プロローグにもいないし、待てど暮らせど出て来ない。登場が遅いっつたら『エル・アルコン』の和くんとかもそーだけど、彼はプロローグには出ているから「いる」ことだけは観客にもわかる。もし急用で途中退場するお客さんがいたら、ヘタすりゃまっつは存在すら知られないままっすよ(笑)。
さすがに40分は長いねえぇ。それでも「良い役」と思える役だっつーのがありがたいが。
登場はカジノ・オリオンにて、カッコつけたりせの後ろ。や、個人的にツボなんですが。盆が回り、スポットライトがひとりの男を照らし出す。ポーズを決めたその男は、なんと、へなちょこりせだ!!
初日はりせのものすげー登場に爆笑し、その直後にちょい悪まっつ登場で、笑いのコンボ攻撃をくらった。もー、どうしようかと。
舞台が暗転していることもあり、スポットライトの輝度はりせのものの方が高い。りせより地味に登場するところが、まっつらしくってツボなのだ。……てか、りせのパフォーマンスが謎なんですが。カジノの支配人っつったって、あの演出は変だろ。
黒髪オールバックはてーっかてか。黒塗り口ひげぎーっらぎら。銀のタキシードはきーっらきら。……どうしましょう、外見だけで笑えます。
なんともわかりやすい「金持ち」ぶり。セレブではなく、成金。なんともわかりやすい「権力」ぶり。貴族ではなく、マフィア。
ジオラモ@まっつはいつも、クラウディア@としこさんと一緒にいる。マドモアゼル、だから妻ではなく愛人だろう。彼女を抱く手つきに注目。
ソフトタッチ。角度や仕草を変え、すごーくがんばっていろいろやっているが、ほんとのとこ、ろくに触っていない。エロオヤジ設定なんだから、もっとわかりやすくがしっとかべーーったりとか、本気でイロイロ触り放題でもいいだろうに、実際触る仕草を繰り返しているのに、実はまともに触っていない。
触れるか触れないかの微妙なラインを、羽のようにくすぐるように、なぞっていく。
や、実際に触っちゃうとドーランがついてしまうからとか、理由があるのかもしれないが。それでも触っているかいないかわかる程度に触っていないというのは、なんか愉快です。
いつも生真面目に、本気で触ってしまわないように空間を確保し、だけどさも「触りまくりのエロオヤジ」風に手つき指つきに細心の気を配って演技している、まっつがステキです。
大物っぽく見せるためか、動作はわりとゆるやか。そんなジオラモさんが高速で動く瞬間があります。
クラウディアがうっかりばらまいてしまったお札を、拾おうとしゃがむところ。無邪気ぶったジェラール@オサが手に取り、眺めるのを、横から奪い取る。
ここの場面の意味はついにわからないままだったが(偽札を混ぜたのがジオラモだった、という意味か? だとしてもなんの説明もない)、いかなる場合も大仰にスローモーなジオラモさんが、突然高速キリキリまっつ!になるのは、純粋に変なので、愉快です。キュートです。
さて、フィリップ@立さんにラヴコールしたあとジェラールは、ジオラモの待つホテルに行きます。
長椅子が中央からせり上がって来て、カーテンが開いてジオラモさんが登場します。
はい、ここ見逃さないで。
カーテンが開く瞬間、ジオラモさん、なんかやってます。
クラウディアさんのアゴに手をかけているところを見ると、チューの前後なのかもしれません。
カーテンが開くとなにごともなかったかのように「♪ルイ・マレー」なヒトになりますが。
イケコ的にまっつは「中央カーテンから主役の前に割って入る男」なのかもしれません。海馬教授もまったく同じ登場をしていたのでデジャヴに襲われます。……イケコぐらいだよなあ、まっつを真ん中に持ってくる演出家って。ありがたやありがたや。
さて、ホテル・ネプチューンのスイートでのジオラモさんは全部ステキですが、なかでも気になるのはグラスの行方です。
「まあ一杯やりたまえ♪」
とワインのグラスを薦めるジオラモさん。
サイドテーブルにはグラスがどっさり。
わたしがジェラールなら「ジオ様に誘われちゃった(はぁと)、ホテルだよスイートだよ、どーしよー。なに着て行こうかしらっ!!」なピンクなキモチでドキドキですから、まず部屋に通されて「ちっ、女(クラウディア)付きかよ」とがっかりしてるのに、そのうえこのグラスの数を見たら、「何人来るんだよ!」と、さらに落胆することでしょう。
わ〜〜ん、ジオ様とふたりっきりぢゃないのかよ〜〜っ。
……や、ジェラールはわたしのようにジオ様に期待(なんの?)はしないと思うので、落胆はしないだろーけど。でも捜査員ならグラスの数には注目し、心構えているはずよね?
気になるのは、グラスの行方。
ジオ様はMyグラスを手にしている。で、クラウディアはジェラールにグラスを薦め、ジェラールが受け取る。
そしてジオ様のひとりミュージカルスタート。
うさんくさいですねえ。まっつだと思えると笑えてしょーがないですねえ。それでも「かっこいい」とか「ステキ」とか「……ポッ」とか、思ってしまうあたり、ファンってすげえよな。自分でも「アレにときめくのかよ」とセルフツッコミ入れちゃいますからねー。まっつならなんでもいいんだな、すでに。いいんだよ。
グラスを片手に歌い、オサ様を口説く。オサ様の肩を抱いても、あくまでもソフトタッチ。がしっ、と握ったりはしない。ついにムラでは一度も。ちっ、小心者め。(暴言)
まっつの攻キャラは大好物なので、ジオラモさんはその点ではいい感じです。「恋愛アドベンチャー『アデュー・マルセイユ』」では、是非ジェラールを口説いて欲しいもんです。モーリスを口説き落としてくれても萌えだが(笑)。
ジオラモさんとグラス。
……はい、文字数ないので続きます。
や、元のテキストを最初に書いたのは10月だ。書くことが他にありすぎてUPできないまま現在に至る。まっつファンの端くれとして、毎公演まっつまっつな話を書かなくては!とゆー意気込み……だったんだが、ぜんぜん書けてないっすよ。
もう今さらだし、東宝では変更があるかもしれないが、それでも今さらムラまっつの話。
スタートから40分出てこない『アデュー・マルセイユ』でのまっつ。
や、ふつー出てこないったって、本編とは関係ないプロローグには群舞として出ていたりするじゃないですか。登場が遅い壮くんだって、ヒゲつけて謎のボス代理やってるし。なのにまっつは出てこない。プロローグにもいないし、待てど暮らせど出て来ない。登場が遅いっつたら『エル・アルコン』の和くんとかもそーだけど、彼はプロローグには出ているから「いる」ことだけは観客にもわかる。もし急用で途中退場するお客さんがいたら、ヘタすりゃまっつは存在すら知られないままっすよ(笑)。
さすがに40分は長いねえぇ。それでも「良い役」と思える役だっつーのがありがたいが。
登場はカジノ・オリオンにて、カッコつけたりせの後ろ。や、個人的にツボなんですが。盆が回り、スポットライトがひとりの男を照らし出す。ポーズを決めたその男は、なんと、へなちょこりせだ!!
初日はりせのものすげー登場に爆笑し、その直後にちょい悪まっつ登場で、笑いのコンボ攻撃をくらった。もー、どうしようかと。
舞台が暗転していることもあり、スポットライトの輝度はりせのものの方が高い。りせより地味に登場するところが、まっつらしくってツボなのだ。……てか、りせのパフォーマンスが謎なんですが。カジノの支配人っつったって、あの演出は変だろ。
黒髪オールバックはてーっかてか。黒塗り口ひげぎーっらぎら。銀のタキシードはきーっらきら。……どうしましょう、外見だけで笑えます。
なんともわかりやすい「金持ち」ぶり。セレブではなく、成金。なんともわかりやすい「権力」ぶり。貴族ではなく、マフィア。
ジオラモ@まっつはいつも、クラウディア@としこさんと一緒にいる。マドモアゼル、だから妻ではなく愛人だろう。彼女を抱く手つきに注目。
ソフトタッチ。角度や仕草を変え、すごーくがんばっていろいろやっているが、ほんとのとこ、ろくに触っていない。エロオヤジ設定なんだから、もっとわかりやすくがしっとかべーーったりとか、本気でイロイロ触り放題でもいいだろうに、実際触る仕草を繰り返しているのに、実はまともに触っていない。
触れるか触れないかの微妙なラインを、羽のようにくすぐるように、なぞっていく。
や、実際に触っちゃうとドーランがついてしまうからとか、理由があるのかもしれないが。それでも触っているかいないかわかる程度に触っていないというのは、なんか愉快です。
いつも生真面目に、本気で触ってしまわないように空間を確保し、だけどさも「触りまくりのエロオヤジ」風に手つき指つきに細心の気を配って演技している、まっつがステキです。
大物っぽく見せるためか、動作はわりとゆるやか。そんなジオラモさんが高速で動く瞬間があります。
クラウディアがうっかりばらまいてしまったお札を、拾おうとしゃがむところ。無邪気ぶったジェラール@オサが手に取り、眺めるのを、横から奪い取る。
ここの場面の意味はついにわからないままだったが(偽札を混ぜたのがジオラモだった、という意味か? だとしてもなんの説明もない)、いかなる場合も大仰にスローモーなジオラモさんが、突然高速キリキリまっつ!になるのは、純粋に変なので、愉快です。キュートです。
さて、フィリップ@立さんにラヴコールしたあとジェラールは、ジオラモの待つホテルに行きます。
長椅子が中央からせり上がって来て、カーテンが開いてジオラモさんが登場します。
はい、ここ見逃さないで。
カーテンが開く瞬間、ジオラモさん、なんかやってます。
クラウディアさんのアゴに手をかけているところを見ると、チューの前後なのかもしれません。
カーテンが開くとなにごともなかったかのように「♪ルイ・マレー」なヒトになりますが。
イケコ的にまっつは「中央カーテンから主役の前に割って入る男」なのかもしれません。海馬教授もまったく同じ登場をしていたのでデジャヴに襲われます。……イケコぐらいだよなあ、まっつを真ん中に持ってくる演出家って。ありがたやありがたや。
さて、ホテル・ネプチューンのスイートでのジオラモさんは全部ステキですが、なかでも気になるのはグラスの行方です。
「まあ一杯やりたまえ♪」
とワインのグラスを薦めるジオラモさん。
サイドテーブルにはグラスがどっさり。
わたしがジェラールなら「ジオ様に誘われちゃった(はぁと)、ホテルだよスイートだよ、どーしよー。なに着て行こうかしらっ!!」なピンクなキモチでドキドキですから、まず部屋に通されて「ちっ、女(クラウディア)付きかよ」とがっかりしてるのに、そのうえこのグラスの数を見たら、「何人来るんだよ!」と、さらに落胆することでしょう。
わ〜〜ん、ジオ様とふたりっきりぢゃないのかよ〜〜っ。
……や、ジェラールはわたしのようにジオ様に期待(なんの?)はしないと思うので、落胆はしないだろーけど。でも捜査員ならグラスの数には注目し、心構えているはずよね?
気になるのは、グラスの行方。
ジオ様はMyグラスを手にしている。で、クラウディアはジェラールにグラスを薦め、ジェラールが受け取る。
そしてジオ様のひとりミュージカルスタート。
うさんくさいですねえ。まっつだと思えると笑えてしょーがないですねえ。それでも「かっこいい」とか「ステキ」とか「……ポッ」とか、思ってしまうあたり、ファンってすげえよな。自分でも「アレにときめくのかよ」とセルフツッコミ入れちゃいますからねー。まっつならなんでもいいんだな、すでに。いいんだよ。
グラスを片手に歌い、オサ様を口説く。オサ様の肩を抱いても、あくまでもソフトタッチ。がしっ、と握ったりはしない。ついにムラでは一度も。ちっ、小心者め。(暴言)
まっつの攻キャラは大好物なので、ジオラモさんはその点ではいい感じです。「恋愛アドベンチャー『アデュー・マルセイユ』」では、是非ジェラールを口説いて欲しいもんです。モーリスを口説き落としてくれても萌えだが(笑)。
ジオラモさんとグラス。
……はい、文字数ないので続きます。
新公覚え書き。@新人公演『エル・アルコン−鷹−』
2007年12月9日 タカラヅカ べつに、悪かったワケじゃないんだよ、新人公演『エル・アルコン−鷹−』の、ジェラード@どいちゃん。
彼はよくやっていました。丁寧で、役に対する誠意が見えた。……正直なとこ、うまいとは思わなかったけれど、それはなんつーても難しい役だから仕方ないってば。
しかし、ジェラードが、パーシモン卿の愛人にまざってて、驚いた(笑)。
さすが新公。
ジェラードやってる役者が、何故ドレス着て愛人を(笑)。
アルバイトにしたって無意味でステキ。
しかもどいちゃん、マジでキレイだし。
んじゃ、他の役のこととか、おぼえている範囲でざーっと記録。
ベニーが、美しかった。
や、スペイン海将でヒゲ姿で、めちゃくちゃ美しいってナニ?(笑)
予備知識ナシで観ているため、彼がヒゲの海将役だとは知らずにいて、後半内心ウケまくった。場を壊してるぞ、あの美貌は(笑)。
しかしなんでベニーの役付は上がらないのだろう?
『龍星』や『ソウル・オブ・シバ!!』のころの方が役付が良く、年々下がっていくなんて変だよなあ。演技ができないわけでもないのに。
美貌とスタイルだけでも、十分際立っているのに。
美貌といえば、イザベラ@しずくちゃん。
キャスティングをざーっと眺めたときに、仲間内でいちばん危惧されていたのが、実は彼女だ(笑)。
その演技力のアレさは、前回の新公ヒロインで記憶に強烈すぎて。
イザベラは難しい役だぞ? 大丈夫か??
や、大丈夫でした。
そうか、イザベラって美貌さえあれば、演技しなくてもなんとかなるんだ!(暴言)
イザベラは、「過ぎ去りし幸福」の象徴。無責任に美しい「夢」。
ただひたすら美しく、弱々しければそれでOK。
しずくちゃんは美しく、少女の姿まんまで、ガラスケースの中のお人形のようでした。
それはソレで、イメージとしてアリだ。
で、美貌といえばティリアン側近のマスターズ@みやるり。
どんだけ美しいんだ。
本役のあかしも「本当にあかし??」と目を疑いたくなるほど美しいが、新公のみやるりは砂糖菓子のように甘い、正統派の美しさだ。
こちらもお人形のよう。
最初の「ミッション」の歌がまーったく歌えていなかったり、演技してるのかどうかも、実は美貌だけしか目に入らなかったからぜんぜんわかんないんだけど、とりあえずきれいだった。
眼福。
もうひとりの側近スコット@ミッキーも、美形ではあるんだが……丸い。
スカステの旅行番組で見かける素顔の彼は、びっくりするほど「ふつーに芸能人」として美形だ。ジェンヌというより外部のタレントさんみたい。
女性としては理想的な美しさなんだろうな。
ただ、「男役」としては、まだまだ丸い。
本公演のティリアンの子役ぶりがどんどん熱を帯びてきているので、成長をたのしみにしているひとりなんだけど……今はまだ舞台人としては目にはとまらず。
ペネロープ@まりもちゃんは、うまかった。
本役コトコトとは、まったくチガウ、強さというか野性味のあるペネロープだった。
貴族のお人形さんではなく、芯に強いものを持った、それゆえにわがままだったり生意気な口をきく女の子だった。
それゆえに、剣を握る女の子だった。
この強い少女が、恋に狂い、滅びていく様は哀れだった。
エリザベス@コロちゃんは、もちろんうまかった。
歌がうまい〜〜、歌詞がはっきり聞こえる〜〜(笑)、そして、嘘くさく可愛い〜〜(誉め言葉)。
シグリット@せあらはふつーにうまくて、色っぽくて適度に下品で、とっても「愛人」らしかった。
このシグリットならコールサックと兄妹でもおかしくないな。本役のみなみちゃんは品がありすぎてなー(笑)。
レッド父とスペイン提督@水輝涼は、地味に巧い。本役の組長ほど声に特徴がないので、2役に無理がない。
彼はこのまま脇一直線なのかなあ。たしかにまるまるしすぎている気はするけど、一度思いっきり二枚目役で見てみたいんだけどなあ。
エンカレのときの色男ぶりが忘れられないんだよ……。
なまじ実力あるしさー。なんとかなんないのかニャ。
エドウィン@しーらんは、なんか目立たなかったなあ。難しい役なんだなあ、コレ。
あれだけ派手に見えるのは、すずみんの力業なんだなぁ、と改めて思う。
しかし、アルバイトのパーシモン卿の愛人役は、こわくてステキだった。
やりすぎだからキミ!! や、それでこそしーらん!! 期待を裏切らないヤツだ〜〜(笑)。
ニコラス@れんたは、ええっと……がんばってくれ、と。
『Kean』でもなかなか謎な使われ方をしていたが、劇団的に期待の新人くんなのかな?
テレビで見る素顔はかわいいし、学年から考えてもなにが悪いってこともないんだが、まだ男役になっていないのが気になる。やる気は見えるから、前進してくれるといいなあ。
ええっと、こんなとこで。
彼はよくやっていました。丁寧で、役に対する誠意が見えた。……正直なとこ、うまいとは思わなかったけれど、それはなんつーても難しい役だから仕方ないってば。
しかし、ジェラードが、パーシモン卿の愛人にまざってて、驚いた(笑)。
さすが新公。
ジェラードやってる役者が、何故ドレス着て愛人を(笑)。
アルバイトにしたって無意味でステキ。
しかもどいちゃん、マジでキレイだし。
んじゃ、他の役のこととか、おぼえている範囲でざーっと記録。
ベニーが、美しかった。
や、スペイン海将でヒゲ姿で、めちゃくちゃ美しいってナニ?(笑)
予備知識ナシで観ているため、彼がヒゲの海将役だとは知らずにいて、後半内心ウケまくった。場を壊してるぞ、あの美貌は(笑)。
しかしなんでベニーの役付は上がらないのだろう?
『龍星』や『ソウル・オブ・シバ!!』のころの方が役付が良く、年々下がっていくなんて変だよなあ。演技ができないわけでもないのに。
美貌とスタイルだけでも、十分際立っているのに。
美貌といえば、イザベラ@しずくちゃん。
キャスティングをざーっと眺めたときに、仲間内でいちばん危惧されていたのが、実は彼女だ(笑)。
その演技力のアレさは、前回の新公ヒロインで記憶に強烈すぎて。
イザベラは難しい役だぞ? 大丈夫か??
や、大丈夫でした。
そうか、イザベラって美貌さえあれば、演技しなくてもなんとかなるんだ!(暴言)
イザベラは、「過ぎ去りし幸福」の象徴。無責任に美しい「夢」。
ただひたすら美しく、弱々しければそれでOK。
しずくちゃんは美しく、少女の姿まんまで、ガラスケースの中のお人形のようでした。
それはソレで、イメージとしてアリだ。
で、美貌といえばティリアン側近のマスターズ@みやるり。
どんだけ美しいんだ。
本役のあかしも「本当にあかし??」と目を疑いたくなるほど美しいが、新公のみやるりは砂糖菓子のように甘い、正統派の美しさだ。
こちらもお人形のよう。
最初の「ミッション」の歌がまーったく歌えていなかったり、演技してるのかどうかも、実は美貌だけしか目に入らなかったからぜんぜんわかんないんだけど、とりあえずきれいだった。
眼福。
もうひとりの側近スコット@ミッキーも、美形ではあるんだが……丸い。
スカステの旅行番組で見かける素顔の彼は、びっくりするほど「ふつーに芸能人」として美形だ。ジェンヌというより外部のタレントさんみたい。
女性としては理想的な美しさなんだろうな。
ただ、「男役」としては、まだまだ丸い。
本公演のティリアンの子役ぶりがどんどん熱を帯びてきているので、成長をたのしみにしているひとりなんだけど……今はまだ舞台人としては目にはとまらず。
ペネロープ@まりもちゃんは、うまかった。
本役コトコトとは、まったくチガウ、強さというか野性味のあるペネロープだった。
貴族のお人形さんではなく、芯に強いものを持った、それゆえにわがままだったり生意気な口をきく女の子だった。
それゆえに、剣を握る女の子だった。
この強い少女が、恋に狂い、滅びていく様は哀れだった。
エリザベス@コロちゃんは、もちろんうまかった。
歌がうまい〜〜、歌詞がはっきり聞こえる〜〜(笑)、そして、嘘くさく可愛い〜〜(誉め言葉)。
シグリット@せあらはふつーにうまくて、色っぽくて適度に下品で、とっても「愛人」らしかった。
このシグリットならコールサックと兄妹でもおかしくないな。本役のみなみちゃんは品がありすぎてなー(笑)。
レッド父とスペイン提督@水輝涼は、地味に巧い。本役の組長ほど声に特徴がないので、2役に無理がない。
彼はこのまま脇一直線なのかなあ。たしかにまるまるしすぎている気はするけど、一度思いっきり二枚目役で見てみたいんだけどなあ。
エンカレのときの色男ぶりが忘れられないんだよ……。
なまじ実力あるしさー。なんとかなんないのかニャ。
エドウィン@しーらんは、なんか目立たなかったなあ。難しい役なんだなあ、コレ。
あれだけ派手に見えるのは、すずみんの力業なんだなぁ、と改めて思う。
しかし、アルバイトのパーシモン卿の愛人役は、こわくてステキだった。
やりすぎだからキミ!! や、それでこそしーらん!! 期待を裏切らないヤツだ〜〜(笑)。
ニコラス@れんたは、ええっと……がんばってくれ、と。
『Kean』でもなかなか謎な使われ方をしていたが、劇団的に期待の新人くんなのかな?
テレビで見る素顔はかわいいし、学年から考えてもなにが悪いってこともないんだが、まだ男役になっていないのが気になる。やる気は見えるから、前進してくれるといいなあ。
ええっと、こんなとこで。
「聖域」を葬り去る音が、世界に響く。@エル・アルコン−鷹−
2007年12月8日 タカラヅカ 『エル・アルコン−鷹−』の新人公演を観て、しみじみと思う。
ジェラード@立樹遥の魅力について。
今回わたしは、ジェラード@しいちゃんがダイスキだ。や、もともとしいちゃん好きだけど、ソレとは別にジェラードが好きだ。
彼を見ていると、せつなくてせつなくて胸が痛い。
それはつらい、かなしい痛みであるのに、とびきりあまくもあるんだ。
大人になったティリアン@トウコと再会したときの、ヒゲのおっさん姿には、あまりときめかない(笑)。や、ソレはソレで萌えではあるので、好きは好きなんだけど、意味がチガウので今は置いておく。
ティリアンの記憶にある、青年時代の「若く、強く、美しい」ジェラードにときめくの。
わたしが年寄りだからかもしれない。
「若さ」が象徴する痛さ……傲慢さや愚かさ、無意味な攻撃性などが、愛しいんだ。
「若さ」が象徴するはかなさ……壊れやすさや繊細さ、いずれ失うことがわかっている刹那性などが、愛しいんだ。
ジェラードの美しさは、「青春の象徴」だ。
ティリアンが葬り去ることになる「少年時代」だ。
何故ジェラードと、母イザベラ@柚長との記憶があんなにも美しいのか。
それが「聖域」であるからだ。
ティリアンの野望の原動力というより、「癒し」だったのだと思う。
彼の強く固い精神の中にある、やわらかな美しいもの。それがあるからこそ彼は冷酷になれたし、また、彼なりのやさしさを心に残したまま戦えた。
ティリアンが悲しいのは、その「美しいもの」を、自分で葬り去るからだ。
ふつーの人には、そんなことできないし、また、する必要もない。
だけど前へ進むことを強く欲するティリアンは、自ら自分の中の大切な「聖域」を葬り去った。
母の死を道具にし、ジェラード自身をその手に掛けた。
母の墓の前で、ティリアンがふと、「ここにオレンジの木を植えては?」と口にする。
そのときの、トウコの表情を見て欲しい。
大きなつばの帽子をかぶっているし、客席には斜めに背を向けているのでろくに見えないと思うが。
前方下手からなら見える。
ぽつんと。
それまでとはチガウ、空白な表情で。
あまりに真っ白な、いや、色がないから白い、透明な顔で言う。
少年というにも痛々しい、生まれたままの、むき出しの魂がふと浮かんできたように。
ぽつんと、本人の意識とは関係なくこぼれ出て。
その「意志の不在」さが、横顔の幼さが、切なすぎて。
……ほんとうに一瞬で、彼はすぐにいつものティリアンにもどるのだけど。
帽子に隠れて、彼のそんな表情は誰にも見とがめられないし、他愛ない一言も彼自身に否定されてしまうのだけど。
この一瞬の表情が出来る人だから、安蘭けいはとんでもない「役者」なんだと思う。
そして彼のこの表情は、まっすぐにつづいている。彼の、「あの日」に。
若き日のジェラードとイザベラと、少年だったティリアン自身。
オレンジを語った、ただ、美しかった日々。幸福だった日々に。
「若く、強く、美しい」ジェラードに。
まっすぐに、せつないほどのか細い美しさで、続いているから。
ジェラードは、「青春の象徴」だ。
無知だからこそ幸福だった「少年時代」の記憶だ。
ジェラードが持つ若さ、美しさ、力強さ、やさしさ、そしていくばくかの愚鈍さと無神経さが、愛しくてならない。
彼は若く、自分の能力と可能性を信じている。
傲慢で、無神経でもある。
人妻と不倫関係にあり、その女に不義の子を産ませ、夫の実子として育てさせている。父親の名乗りはせずに、しかし父としての情愛で息子に会いに来る。
その厚顔さ。その傲慢さ。
立樹遥の太陽の笑顔が、その歪みを覆い隠す。
ジェラードの歪み、過ちが、しいちゃんの大きさでかすむ。それは、少年時代のティリアンが、自身の幼さゆえにジェラードの卑小さに気付かなかったように。
しいちゃんは、「失った夢」だ。
わたしはもう若くない。わたしはもう、失望とか傷とか涙とか、いろんなものを知っている。
ただ無邪気に笑っていられた子どもの頃には戻れない。
だから、なんの傷も歪みもない、美しいだけの夢やあまいだけの美には酔えない。
歪みを内包した太陽にしか、惹かれないんだ。
しいちゃんは太陽だ。
若い頃の彼……それこそ雪組でロケット・ボーイをやっていたり、新公主演をしていた頃の、なんの傷もないキラキラキラキラ無邪気に輝いていた頃のアイドルとしての光ではなく。
年齢と経験を重ね、だけど演技がうまくなったわけではなく(笑)、あちこち年相応のほつれや傷を重ねながら、それでも、太陽であり続けることができる、魂の大きさ……そのことが、泣けるほど愛しい。
だから、彼の演じるジェラードが痛いほど愛しい。涙が止まらなくなるほどせつない。
ジェラードが美しければ美しいほど、格好良ければ格好良いほど、切なくて仕方がない。
ティリアンは、ジェラードを殺す。
これは決定事項だ。
彼が七つの海七つの空を、鷹のような生き方を志したときから、決まっていた。
ジェラードは英雄でも偉人でもなんでもない。ただの卑小な野心家だ。
ジェラードが幼いティリアンを誉めたのは、「自分の息子」だからだ。
彼は「自分自身」を誉めたんだ。
その厚顔さで。その傲慢さで。
だからティリアンは、ジェラードを殺さなければならない。
その手で葬り、超えてゆかねばならない。
サンクチュアリを、葬らなければならない。
安蘭けいと立樹遥は、正反対でありながら、どこかしら似たカタチの影を持つ。
トウコは月の魅力、陰と淫の魅力を持つ役者であり、しいちゃんは太陽の魅力、光と康(ゆたか、すこやか、おおきい等)の魅力を持つ。
トウコの影は大きく濃く、しいちゃんの影は少ない。
だけどふたりの影は意外なところで重なる。大きさが違っても濃さが違っても、形が似ているから。影の伸びた長さはチガウのに、相似形になる。
このふたりが並び立つとき、他にはない魅力を感じるのは、そのためかと思う。
それはオスカルとアンドレだったり、ウッドロウとカールトン監督だったり、ティリアンとジェラードだったりと、トウコを抱擁する立場にしいちゃんが来たとき。
そのとき艶めいた月は、いびつな太陽と同じ影を描く。太陽は影を増す。
……ティリアンが、ヒゲ中年男ジェラードを殺す前に抱きしめるのが、萌えです。
しいちゃんはヘタレても別の芳醇さを発するステキなヒトですから。
青年時代の美しさや切なさとは、まったく別。
こちらは純粋に萌えです。ヘタレっぷりが(笑)。
新人公演を見て、「ジェラードがチガウと、こんなにつまんないのか……」と愕然としたもので。
しいちゃんが特別に演技しているとか、とくに思わないから(しいちゃんはいつでも、ナニをやってもしいちゃん♪)、ほんとにキャラクタだけで勝負してるんだよなあ。
そして、新公だからもちろん足りない部分は大いにあるにしろ、敗因のほとんどが「しいちゃんぢゃないから」だけだなんて、あんまりだよなあ。
ティリアンの少年時代のエピソードに重点を置いたこの作品において、ティリアンが魅力的になる要因の何割かは、ジェラードが魅力的であること、にかかってると思うんだが、どうだろう。
ジェラード@しいちゃんが、格好良すぎるんだってば。
ステキすぎるんだってば。
ときめいちゃうんだってば。
ジェラード@立樹遥の魅力について。
今回わたしは、ジェラード@しいちゃんがダイスキだ。や、もともとしいちゃん好きだけど、ソレとは別にジェラードが好きだ。
彼を見ていると、せつなくてせつなくて胸が痛い。
それはつらい、かなしい痛みであるのに、とびきりあまくもあるんだ。
大人になったティリアン@トウコと再会したときの、ヒゲのおっさん姿には、あまりときめかない(笑)。や、ソレはソレで萌えではあるので、好きは好きなんだけど、意味がチガウので今は置いておく。
ティリアンの記憶にある、青年時代の「若く、強く、美しい」ジェラードにときめくの。
わたしが年寄りだからかもしれない。
「若さ」が象徴する痛さ……傲慢さや愚かさ、無意味な攻撃性などが、愛しいんだ。
「若さ」が象徴するはかなさ……壊れやすさや繊細さ、いずれ失うことがわかっている刹那性などが、愛しいんだ。
ジェラードの美しさは、「青春の象徴」だ。
ティリアンが葬り去ることになる「少年時代」だ。
何故ジェラードと、母イザベラ@柚長との記憶があんなにも美しいのか。
それが「聖域」であるからだ。
ティリアンの野望の原動力というより、「癒し」だったのだと思う。
彼の強く固い精神の中にある、やわらかな美しいもの。それがあるからこそ彼は冷酷になれたし、また、彼なりのやさしさを心に残したまま戦えた。
ティリアンが悲しいのは、その「美しいもの」を、自分で葬り去るからだ。
ふつーの人には、そんなことできないし、また、する必要もない。
だけど前へ進むことを強く欲するティリアンは、自ら自分の中の大切な「聖域」を葬り去った。
母の死を道具にし、ジェラード自身をその手に掛けた。
母の墓の前で、ティリアンがふと、「ここにオレンジの木を植えては?」と口にする。
そのときの、トウコの表情を見て欲しい。
大きなつばの帽子をかぶっているし、客席には斜めに背を向けているのでろくに見えないと思うが。
前方下手からなら見える。
ぽつんと。
それまでとはチガウ、空白な表情で。
あまりに真っ白な、いや、色がないから白い、透明な顔で言う。
少年というにも痛々しい、生まれたままの、むき出しの魂がふと浮かんできたように。
ぽつんと、本人の意識とは関係なくこぼれ出て。
その「意志の不在」さが、横顔の幼さが、切なすぎて。
……ほんとうに一瞬で、彼はすぐにいつものティリアンにもどるのだけど。
帽子に隠れて、彼のそんな表情は誰にも見とがめられないし、他愛ない一言も彼自身に否定されてしまうのだけど。
この一瞬の表情が出来る人だから、安蘭けいはとんでもない「役者」なんだと思う。
そして彼のこの表情は、まっすぐにつづいている。彼の、「あの日」に。
若き日のジェラードとイザベラと、少年だったティリアン自身。
オレンジを語った、ただ、美しかった日々。幸福だった日々に。
「若く、強く、美しい」ジェラードに。
まっすぐに、せつないほどのか細い美しさで、続いているから。
ジェラードは、「青春の象徴」だ。
無知だからこそ幸福だった「少年時代」の記憶だ。
ジェラードが持つ若さ、美しさ、力強さ、やさしさ、そしていくばくかの愚鈍さと無神経さが、愛しくてならない。
彼は若く、自分の能力と可能性を信じている。
傲慢で、無神経でもある。
人妻と不倫関係にあり、その女に不義の子を産ませ、夫の実子として育てさせている。父親の名乗りはせずに、しかし父としての情愛で息子に会いに来る。
その厚顔さ。その傲慢さ。
立樹遥の太陽の笑顔が、その歪みを覆い隠す。
ジェラードの歪み、過ちが、しいちゃんの大きさでかすむ。それは、少年時代のティリアンが、自身の幼さゆえにジェラードの卑小さに気付かなかったように。
しいちゃんは、「失った夢」だ。
わたしはもう若くない。わたしはもう、失望とか傷とか涙とか、いろんなものを知っている。
ただ無邪気に笑っていられた子どもの頃には戻れない。
だから、なんの傷も歪みもない、美しいだけの夢やあまいだけの美には酔えない。
歪みを内包した太陽にしか、惹かれないんだ。
しいちゃんは太陽だ。
若い頃の彼……それこそ雪組でロケット・ボーイをやっていたり、新公主演をしていた頃の、なんの傷もないキラキラキラキラ無邪気に輝いていた頃のアイドルとしての光ではなく。
年齢と経験を重ね、だけど演技がうまくなったわけではなく(笑)、あちこち年相応のほつれや傷を重ねながら、それでも、太陽であり続けることができる、魂の大きさ……そのことが、泣けるほど愛しい。
だから、彼の演じるジェラードが痛いほど愛しい。涙が止まらなくなるほどせつない。
ジェラードが美しければ美しいほど、格好良ければ格好良いほど、切なくて仕方がない。
ティリアンは、ジェラードを殺す。
これは決定事項だ。
彼が七つの海七つの空を、鷹のような生き方を志したときから、決まっていた。
ジェラードは英雄でも偉人でもなんでもない。ただの卑小な野心家だ。
ジェラードが幼いティリアンを誉めたのは、「自分の息子」だからだ。
彼は「自分自身」を誉めたんだ。
その厚顔さで。その傲慢さで。
だからティリアンは、ジェラードを殺さなければならない。
その手で葬り、超えてゆかねばならない。
サンクチュアリを、葬らなければならない。
安蘭けいと立樹遥は、正反対でありながら、どこかしら似たカタチの影を持つ。
トウコは月の魅力、陰と淫の魅力を持つ役者であり、しいちゃんは太陽の魅力、光と康(ゆたか、すこやか、おおきい等)の魅力を持つ。
トウコの影は大きく濃く、しいちゃんの影は少ない。
だけどふたりの影は意外なところで重なる。大きさが違っても濃さが違っても、形が似ているから。影の伸びた長さはチガウのに、相似形になる。
このふたりが並び立つとき、他にはない魅力を感じるのは、そのためかと思う。
それはオスカルとアンドレだったり、ウッドロウとカールトン監督だったり、ティリアンとジェラードだったりと、トウコを抱擁する立場にしいちゃんが来たとき。
そのとき艶めいた月は、いびつな太陽と同じ影を描く。太陽は影を増す。
……ティリアンが、ヒゲ中年男ジェラードを殺す前に抱きしめるのが、萌えです。
しいちゃんはヘタレても別の芳醇さを発するステキなヒトですから。
青年時代の美しさや切なさとは、まったく別。
こちらは純粋に萌えです。ヘタレっぷりが(笑)。
新人公演を見て、「ジェラードがチガウと、こんなにつまんないのか……」と愕然としたもので。
しいちゃんが特別に演技しているとか、とくに思わないから(しいちゃんはいつでも、ナニをやってもしいちゃん♪)、ほんとにキャラクタだけで勝負してるんだよなあ。
そして、新公だからもちろん足りない部分は大いにあるにしろ、敗因のほとんどが「しいちゃんぢゃないから」だけだなんて、あんまりだよなあ。
ティリアンの少年時代のエピソードに重点を置いたこの作品において、ティリアンが魅力的になる要因の何割かは、ジェラードが魅力的であること、にかかってると思うんだが、どうだろう。
ジェラード@しいちゃんが、格好良すぎるんだってば。
ステキすぎるんだってば。
ときめいちゃうんだってば。
雪組すげぇ。@2008年宝塚歌劇公演ラインアップ
2007年12月7日 タカラヅカ コメント (3) 体力気力共に落ち込んでいるため、なにもできずにおりますが、「公式に反応」しておきましょう。
小出しに、小出しに、「2008年宝塚歌劇公演ラインアップ」発表。2006年12月16日には、「2007年後半ラインアップ」が発表になっていて、「『アデュー・マルセイユ』って、小池って、マジかよ……」とガクブルしてたってゆーのに、まだよーやく8月公演の発表だ。
雪組、すごいね!!
大劇場にて、荻田&正塚!!
盆と正月が一緒に来た感じ? うっわー、たのしみだー。またしても毎週nanaタンとムラでデート、いつもの店で5時間以上ダベリングがデフォルトな日々がやってくるのかしら?(笑)
通いますよ、作家名だけで!!
ただ、水しぇんファンとしては、両作家のこれまでの水くんの扱いを見る限り、ちょい不安はあるんですがね……。
オギーもハリーも役者の好きキライ激しいっちゅーイメージがある。
そしてふたりとも「ひょっとして水くんにキョーミない……?」てな扱いをしてくれた。
不安はあるにしろ、だからこそ水夏希を主役にしてどんなものを書いてくれるのか、かえって楽しみでもある。
そして個人的に。
オギー作品のこれまでのパターンから推測して。
ゆみこVSハマコ、どちらが「語り部(歌手)」として選ばれるか、すげーたのしみっす。
オギーの好みからすればゆみこ<ハマコは明白だが、ゆみこは2番手だからなー。どんなことになるかなー。
そして、ナニ気にオギーのお気にであるだろーキムの扱いがたのしみだー。
雪WSの『凍てついた明日』は、トウコ×あすかで再演熱望作品だっただけに、その点では残念ですが。
再演自体はうれしい。
とゆーのも。
荻田浩一たるもの、ただのコピーは作るまい。
と、思っているからだ。現にもう、タイトルちがってるし。
『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅−』ってナニ?! 全改稿前提? 書き直すのね? 新しいのね? オリジナルなのね? ワクテカ。
ベテラン・キャストのために書き下ろした『凍てついた明日−ボニー&クライド−』を、新人たち用に書き直し、『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅−』として上演。
オギーファンとして、その変化をたのしみたい。
WS主演経験者のかなめくんが今さらWSを、しかも通常2名でやるところを独占することに関しては、劇団のアホさ加減に嘆息するばかり。
『お笑いの果てに』以来、すっかり成長が足踏み状態のかなめくんが、どーんと男ぶりを上げてくれることを祈るキモチで願ってます。
実際のところ、主役よりもヒロインを危惧している。ボニーは「娘役」の範疇を超えた難しい役だからな……。「娘役」としての基礎を完璧にした上で、ようやく挑戦することの出来る役だ。
さらに衣装まで難しいぞー。いろんなとこでボニーの衣装が使い回しされているのは見かけるが、いつも微妙。あの服を着て「ヒロイン」として立つには、「華」と「スタイル」と「美貌」が必須……せめてこのうちのふたつはナイと自滅かも。
あとは今の雪組には「風早優」がいない、つーことを危惧してます。
初演『凍てついた明日』のキモになったのは、クライドが愛する「幻の兄」、クライドが道を誤るきっかけとなった「保安官」、クライドを追いつめる「捜査官」をひとりの役者が演じるということ。
この配役には、震撼したもの。や、みやたんは他にもいろいろ演じているけどさ。とくにこの3つ、なかでも「兄」と「捜査官」は『凍てついた明日』を語る上で絶対ハズせない、重い重い意味を持つ。
現役でこの役を演じられるのはハマコのみかなと思うけど。……ハマコで見たいけど。ハマコだったら、って考えるだけで背筋がぞくぞくするけど。
でもって、ヲヅキがこの役だったら、チガウ意味で震撼、萌え狂いますがな(笑)。
月組日生劇場は『華麗なるギャツビー』再演ですか。
こちらもmixiで妄想配役書いて遊んでいたくらい、某組と某組で見たかった作品なんで、その点では残念ですが。
名作なので、再演自体はたのしみっす。
ただ。
ただの再演ではなく、一幕モノを二幕モノに書き直しとゆーことで、不安が……。
『凍てついた明日』も『華麗なるギャツビー』も、妄想配役して遊んでいて、そのキャスティングではもう見ることが出来ない、という点では残念だが、再演自体はたのしみ。そして、どちらも改稿前提ときてる。
なのに。
『凍てついた明日』の改稿はうれしい限りだが、『華麗なるギャツビー』の改稿は、……えっと……。
頼むよ小池。
過去の自分の名作を、自分で改悪しないでくれよ? ……初演はそれでも、カリンチョの力量、鮎ちゃんの美貌でもって成り立っていた部分は多分にあるんだし……。
や、良い作品になることを、一観客として祈ってます。
せっかく改稿するなら、番手を考え直してね〜〜。いっちゃんのやった役は、2番手の役ぢゃないっすから。
月組博多座はきりやん主演で『ME AND MY GIRL』かー。
『ME AND MY GIRL』は好きぢゃないので特別「観たい」とは思わないのに、「きりやん主演」だと「観たい」と思えるのは何故だろう……。
「霧矢大夢」というのは、そーゆー役者なんだなぁ。
……ところでゆーひくんは、なにに出るんだろう?
それによって観劇予定が変わるなー。西と東、両方は無理だから(あたしゃそのころ雪組のオギー&ハリーに通っている予定)、ゆーひくん次第になるなー。
宙組WS『殉情』は、たのしみなふたりが主演。
や、ちぎは鉄板だと思っていたが、ちーが予想外、すっげーうれしい。いやその、正直ちーくんを真ん中で観られることは、ないのかもと思ってたんで……(全ツ階段降り、カチャ以下の扱いだもんよ)。
しかし、作品に関しては、劇団のアホさ加減に嘆息するばかり。
たしかにWSは「お勉強の場」なんだろーけどさー。それでも、ここでがっちり「人気」を取るのも仕事ぢゃないのか?
幕末モノならともかく、現代人が理解しにくい価値観をテーマにした地味な日本物を「今」やらせなくてもいいだろうに……。
画面もストーリーもキャラも、ナニもおいしくない作品がWSなんて。
試練だなー。がんばれ宙組若手たち。
と、言いつつも。
ちぎの演じるドM男は、見てみたい気がする(笑)。
そして、ちーくんではあまり見たくない……彼で見たいのはドSの方だ。
はっ、ちぎバージョンの春琴を、ちーが演じればいいんだっ(笑)。ちぎよりでかいけど無問題、どーせ日本髪で誰がやってもデカくなるんだしっ。
……なんて、熱を押してまで夜中に長々書いた文章の最後がコレか(笑)。
小出しに、小出しに、「2008年宝塚歌劇公演ラインアップ」発表。2006年12月16日には、「2007年後半ラインアップ」が発表になっていて、「『アデュー・マルセイユ』って、小池って、マジかよ……」とガクブルしてたってゆーのに、まだよーやく8月公演の発表だ。
雪組、すごいね!!
大劇場にて、荻田&正塚!!
盆と正月が一緒に来た感じ? うっわー、たのしみだー。またしても毎週nanaタンとムラでデート、いつもの店で5時間以上ダベリングがデフォルトな日々がやってくるのかしら?(笑)
通いますよ、作家名だけで!!
ただ、水しぇんファンとしては、両作家のこれまでの水くんの扱いを見る限り、ちょい不安はあるんですがね……。
オギーもハリーも役者の好きキライ激しいっちゅーイメージがある。
そしてふたりとも「ひょっとして水くんにキョーミない……?」てな扱いをしてくれた。
不安はあるにしろ、だからこそ水夏希を主役にしてどんなものを書いてくれるのか、かえって楽しみでもある。
そして個人的に。
オギー作品のこれまでのパターンから推測して。
ゆみこVSハマコ、どちらが「語り部(歌手)」として選ばれるか、すげーたのしみっす。
オギーの好みからすればゆみこ<ハマコは明白だが、ゆみこは2番手だからなー。どんなことになるかなー。
そして、ナニ気にオギーのお気にであるだろーキムの扱いがたのしみだー。
雪WSの『凍てついた明日』は、トウコ×あすかで再演熱望作品だっただけに、その点では残念ですが。
再演自体はうれしい。
とゆーのも。
荻田浩一たるもの、ただのコピーは作るまい。
と、思っているからだ。現にもう、タイトルちがってるし。
『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅−』ってナニ?! 全改稿前提? 書き直すのね? 新しいのね? オリジナルなのね? ワクテカ。
ベテラン・キャストのために書き下ろした『凍てついた明日−ボニー&クライド−』を、新人たち用に書き直し、『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅−』として上演。
オギーファンとして、その変化をたのしみたい。
WS主演経験者のかなめくんが今さらWSを、しかも通常2名でやるところを独占することに関しては、劇団のアホさ加減に嘆息するばかり。
『お笑いの果てに』以来、すっかり成長が足踏み状態のかなめくんが、どーんと男ぶりを上げてくれることを祈るキモチで願ってます。
実際のところ、主役よりもヒロインを危惧している。ボニーは「娘役」の範疇を超えた難しい役だからな……。「娘役」としての基礎を完璧にした上で、ようやく挑戦することの出来る役だ。
さらに衣装まで難しいぞー。いろんなとこでボニーの衣装が使い回しされているのは見かけるが、いつも微妙。あの服を着て「ヒロイン」として立つには、「華」と「スタイル」と「美貌」が必須……せめてこのうちのふたつはナイと自滅かも。
あとは今の雪組には「風早優」がいない、つーことを危惧してます。
初演『凍てついた明日』のキモになったのは、クライドが愛する「幻の兄」、クライドが道を誤るきっかけとなった「保安官」、クライドを追いつめる「捜査官」をひとりの役者が演じるということ。
この配役には、震撼したもの。や、みやたんは他にもいろいろ演じているけどさ。とくにこの3つ、なかでも「兄」と「捜査官」は『凍てついた明日』を語る上で絶対ハズせない、重い重い意味を持つ。
現役でこの役を演じられるのはハマコのみかなと思うけど。……ハマコで見たいけど。ハマコだったら、って考えるだけで背筋がぞくぞくするけど。
でもって、ヲヅキがこの役だったら、チガウ意味で震撼、萌え狂いますがな(笑)。
月組日生劇場は『華麗なるギャツビー』再演ですか。
こちらもmixiで妄想配役書いて遊んでいたくらい、某組と某組で見たかった作品なんで、その点では残念ですが。
名作なので、再演自体はたのしみっす。
ただ。
ただの再演ではなく、一幕モノを二幕モノに書き直しとゆーことで、不安が……。
『凍てついた明日』も『華麗なるギャツビー』も、妄想配役して遊んでいて、そのキャスティングではもう見ることが出来ない、という点では残念だが、再演自体はたのしみ。そして、どちらも改稿前提ときてる。
なのに。
『凍てついた明日』の改稿はうれしい限りだが、『華麗なるギャツビー』の改稿は、……えっと……。
頼むよ小池。
過去の自分の名作を、自分で改悪しないでくれよ? ……初演はそれでも、カリンチョの力量、鮎ちゃんの美貌でもって成り立っていた部分は多分にあるんだし……。
や、良い作品になることを、一観客として祈ってます。
せっかく改稿するなら、番手を考え直してね〜〜。いっちゃんのやった役は、2番手の役ぢゃないっすから。
月組博多座はきりやん主演で『ME AND MY GIRL』かー。
『ME AND MY GIRL』は好きぢゃないので特別「観たい」とは思わないのに、「きりやん主演」だと「観たい」と思えるのは何故だろう……。
「霧矢大夢」というのは、そーゆー役者なんだなぁ。
……ところでゆーひくんは、なにに出るんだろう?
それによって観劇予定が変わるなー。西と東、両方は無理だから(あたしゃそのころ雪組のオギー&ハリーに通っている予定)、ゆーひくん次第になるなー。
宙組WS『殉情』は、たのしみなふたりが主演。
や、ちぎは鉄板だと思っていたが、ちーが予想外、すっげーうれしい。いやその、正直ちーくんを真ん中で観られることは、ないのかもと思ってたんで……(全ツ階段降り、カチャ以下の扱いだもんよ)。
しかし、作品に関しては、劇団のアホさ加減に嘆息するばかり。
たしかにWSは「お勉強の場」なんだろーけどさー。それでも、ここでがっちり「人気」を取るのも仕事ぢゃないのか?
幕末モノならともかく、現代人が理解しにくい価値観をテーマにした地味な日本物を「今」やらせなくてもいいだろうに……。
画面もストーリーもキャラも、ナニもおいしくない作品がWSなんて。
試練だなー。がんばれ宙組若手たち。
と、言いつつも。
ちぎの演じるドM男は、見てみたい気がする(笑)。
そして、ちーくんではあまり見たくない……彼で見たいのはドSの方だ。
はっ、ちぎバージョンの春琴を、ちーが演じればいいんだっ(笑)。ちぎよりでかいけど無問題、どーせ日本髪で誰がやってもデカくなるんだしっ。
……なんて、熱を押してまで夜中に長々書いた文章の最後がコレか(笑)。
「舞台に、水くんがいる」
みんな口を揃えてそう言うんだ。
新人公演『エル・アルコン−鷹−』にて。
キャプテン・ブラック@真風涼帆。
入団前から水くんに似ているとかオサ様に似ているとか噂になっていた彼。わたしは文化祭から「水くん似」と書き続けてるなー。にしても今回はまんまバラク@『鳳凰伝』。
「似てるよねー」
「水そのまんまだよねー」
ちょっと待ってよ。たしかに顔はそっくりだし雰囲気もいい感じだったけど、真風くんダメダメだったじゃん。水くんはあんなにヘタじゃないわっ。
「え? うまくないからこそ、水に似てるんでしょ?」
「うまくないとこが似てる」
ちょっと待ったMyフレンズ!! 聞き捨てならないわ、水くんはうまいわよっ。男の中の男よ!
「男なのは認めるけど、うまくはないよね」
「かっこいいとは思うけど、うまくはないよね」
……複数の友人に聞いても、誰も水しぇんが「うまい」とは言ってくれない……。
かくいうわたしも、『銀の狼』まで、彼が演技うまいかどうかなんて考えたことなかったしな。んなこととは関係なく「かっこいい!」とか「ステキ!」とかで舞い上がっていたし。
今は、巧い人だと思っているのよ。心のある演技を、完成された男役芸とともに見せてくれる人だと。
でもそれは、ファン視点なんでせうか。一般認識としては、水しぇんってアレな人なの??
まあ、それはともかく。
友人たちはひとくくりにしてくれた、ブラック@真風。
いやあ、演技も発声もまだまだ、ダメダメレベルです。
でも。
かっこいいっす。
そこにいるだけで、「おっ」と思えるのは、強みです。長所です。や、「水くんに似ている=好み」だっつーことも大いにあるけど。
まだ研2だもんよ。ヘタで当然、ダメダメで当然。『Kean』のときも台詞がうわずっていて、ついでに滑舌も良くなくて大変だったが、この新公ブラックもそれ以上に大抜擢、そりゃー大変だったろう。
薔薇の花くわえてせり上がり登場だもんな。研2でな(笑)。
大変やな〜〜。
イロモノキャラなんで、演技力云々よりも必要なのはハッタリ力。まずソレを磨かせようということかな、期待の新人くん。
まだまだ幼くて拙さが目につくけれど、足りない分をこれからどう埋めていくのか、最初から完成していないところが期待感を煽る。
ビッグに育って欲しい。長身の水しぇんだもんなー。たのしみだなー。
反対に、若いけれど「うまい!」と話題をさらったのが研3の大輝真琴。
小ティリアン役。
本役のティリアン@トウコにつながる演技だった。
本役の小ティリアン@ミッキーは、悪くない。ヘタでもなく、まあうまいんじゃないかなと思われているのだろう、だから話題にものぼらない。や、わたしの周囲では。
うまければ『落陽のパレルモ』や『ファントム』のののすみみたいに「アレ誰?!」と噂になるし、ヘタすぎても「誰よアレ!」と言及せずにはいられないだろうから。ソレが一切ない、誰もナニも言わない、興味がない、つーのは、ふつーに及第点なんだろう。
でも新公の小ティリアンは、巧かった。ふつうに演技が出来ていたということに加え「黒さ」があった。
父親を手に掛け、剣を握り強い意志を解放する。
「悪魔」とののしられながら、七つの海七つの空へ思いを馳せる。
「ティリアン」という人間の遡源がここにある。
小ティリアン@弟くん(『Hallelujah GO!GO!』の、主役の弟役)……もしくはいとーさん(本名まんま・笑)と呼んでいたが、周囲が「まいける」と呼びはじめているので、ソレに倣いますわ、まいけるくん。
純粋な少年として、母と敬愛する男と「オレンジの夢」を語るときも端正に巧いのだけど、やっぱ冒頭の「黒さ」と「強さ」に注目。
なにしろ物語の最初、プロローグだから、ここが弱いと作品がつまずくのよね。
残念ながらジェラード役がいろいろと足りていないのですごーくぼやけてしまったプロローグを、小ティリアンが力尽くで「真ん中」へ話を引き戻した。
彼は、「ティリアン」だ。
幼いけれど、まちがいなく「ティリアン」だった。
その黒さと強さがまっすぐに光を放っていた。
……ティリアンなのよ、彼。
だから、彼が成長して新公ティリアン@ともみんになるのは、変なの。
新公のティリアンは、正義のヒトだから(笑)。
あの白いティリアンには、残念ながらまいける小ティリアンはチガウの。
まいけるの小ティリアンがつながっているのは、トウコのティリアン。
まいけるが成長してトウコになるなら、わかる。
てゆーか、そっちを見たい。そっちが、正しい。
本公演の小ティリアンを見ても、うまいもヘタも思わなかったし、正しいとかチガウとかも思わなかった。
ただ、新公の小ティリアンを見て、「この子からトウコにつながる芝居を見たい」と思った。
や、ソレだけだ。
本役のミッキーに対して含みがあるわけではない。
まいけるはうまい子だと思う。
前回の『シークレット・ハンター』新公でも演技力を高く評価されていたはず。台詞もなかったのなー(笑)。
ただ、子役限定であることを危うく思う。
『Hallelujah GO!GO!』にしろ、新公にしろ、まともに役がついているのが全部子役、少年役だもんよ。
若くて小柄だからどうしてもそうなっちゃうんだろうけど、ヅカで必要なのは「大人の男」だから、子役がどれだけうまくても男役としてのスキルにはならない。
まいけるに、大人の男の役を。
大人役をやるとどーなるのか見てみたいっす。本公演では金髪ロン毛で耽美風(笑)にがんばってるけどさー。群舞ばっかだもんよー。芝居が見たいのよー。
まいけると同期の初ヒロイン、ギルダ@キトリは、ふつーにうまかった。
本役あすかちゃんのコピー。
表情、声、話し方のイントネーションまで、まるまるコピってた。
これだけきれーに模倣できるんだから、うまい子なんだろうと思う。
あすかのコピーというと花組のきほちゃんを思い出すけど、きほちゃんが技術的には完璧にコピーしていながらも情感や華の面で劣化コピーになっていたことを思うと、キトリは十分内面もコピーしていたと思う。
ただ、「コピー」止まりである、という点ではやはりインパクトに欠けるなー。
彼女の本役であるジュリエット役の方が魅力も破壊力(笑)もはるかに上だ。
新公のジュリエットは「ふつー」だった。おバカ度もトンデモなさも、本公には及ばなかった。
てことは役がバカであるという以上に、演じているキトリがすごいんだなと思い知らされた(笑)。
ギルダは特殊な役だし、ジュリエットもトンデモないしで、彼女の娘役としての力はまださーっぱりわかんないっす。
彼女にも、ふつーの役をプリーズ。
みんな口を揃えてそう言うんだ。
新人公演『エル・アルコン−鷹−』にて。
キャプテン・ブラック@真風涼帆。
入団前から水くんに似ているとかオサ様に似ているとか噂になっていた彼。わたしは文化祭から「水くん似」と書き続けてるなー。にしても今回はまんまバラク@『鳳凰伝』。
「似てるよねー」
「水そのまんまだよねー」
ちょっと待ってよ。たしかに顔はそっくりだし雰囲気もいい感じだったけど、真風くんダメダメだったじゃん。水くんはあんなにヘタじゃないわっ。
「え? うまくないからこそ、水に似てるんでしょ?」
「うまくないとこが似てる」
ちょっと待ったMyフレンズ!! 聞き捨てならないわ、水くんはうまいわよっ。男の中の男よ!
「男なのは認めるけど、うまくはないよね」
「かっこいいとは思うけど、うまくはないよね」
……複数の友人に聞いても、誰も水しぇんが「うまい」とは言ってくれない……。
かくいうわたしも、『銀の狼』まで、彼が演技うまいかどうかなんて考えたことなかったしな。んなこととは関係なく「かっこいい!」とか「ステキ!」とかで舞い上がっていたし。
今は、巧い人だと思っているのよ。心のある演技を、完成された男役芸とともに見せてくれる人だと。
でもそれは、ファン視点なんでせうか。一般認識としては、水しぇんってアレな人なの??
まあ、それはともかく。
友人たちはひとくくりにしてくれた、ブラック@真風。
いやあ、演技も発声もまだまだ、ダメダメレベルです。
でも。
かっこいいっす。
そこにいるだけで、「おっ」と思えるのは、強みです。長所です。や、「水くんに似ている=好み」だっつーことも大いにあるけど。
まだ研2だもんよ。ヘタで当然、ダメダメで当然。『Kean』のときも台詞がうわずっていて、ついでに滑舌も良くなくて大変だったが、この新公ブラックもそれ以上に大抜擢、そりゃー大変だったろう。
薔薇の花くわえてせり上がり登場だもんな。研2でな(笑)。
大変やな〜〜。
イロモノキャラなんで、演技力云々よりも必要なのはハッタリ力。まずソレを磨かせようということかな、期待の新人くん。
まだまだ幼くて拙さが目につくけれど、足りない分をこれからどう埋めていくのか、最初から完成していないところが期待感を煽る。
ビッグに育って欲しい。長身の水しぇんだもんなー。たのしみだなー。
反対に、若いけれど「うまい!」と話題をさらったのが研3の大輝真琴。
小ティリアン役。
本役のティリアン@トウコにつながる演技だった。
本役の小ティリアン@ミッキーは、悪くない。ヘタでもなく、まあうまいんじゃないかなと思われているのだろう、だから話題にものぼらない。や、わたしの周囲では。
うまければ『落陽のパレルモ』や『ファントム』のののすみみたいに「アレ誰?!」と噂になるし、ヘタすぎても「誰よアレ!」と言及せずにはいられないだろうから。ソレが一切ない、誰もナニも言わない、興味がない、つーのは、ふつーに及第点なんだろう。
でも新公の小ティリアンは、巧かった。ふつうに演技が出来ていたということに加え「黒さ」があった。
父親を手に掛け、剣を握り強い意志を解放する。
「悪魔」とののしられながら、七つの海七つの空へ思いを馳せる。
「ティリアン」という人間の遡源がここにある。
小ティリアン@弟くん(『Hallelujah GO!GO!』の、主役の弟役)……もしくはいとーさん(本名まんま・笑)と呼んでいたが、周囲が「まいける」と呼びはじめているので、ソレに倣いますわ、まいけるくん。
純粋な少年として、母と敬愛する男と「オレンジの夢」を語るときも端正に巧いのだけど、やっぱ冒頭の「黒さ」と「強さ」に注目。
なにしろ物語の最初、プロローグだから、ここが弱いと作品がつまずくのよね。
残念ながらジェラード役がいろいろと足りていないのですごーくぼやけてしまったプロローグを、小ティリアンが力尽くで「真ん中」へ話を引き戻した。
彼は、「ティリアン」だ。
幼いけれど、まちがいなく「ティリアン」だった。
その黒さと強さがまっすぐに光を放っていた。
……ティリアンなのよ、彼。
だから、彼が成長して新公ティリアン@ともみんになるのは、変なの。
新公のティリアンは、正義のヒトだから(笑)。
あの白いティリアンには、残念ながらまいける小ティリアンはチガウの。
まいけるの小ティリアンがつながっているのは、トウコのティリアン。
まいけるが成長してトウコになるなら、わかる。
てゆーか、そっちを見たい。そっちが、正しい。
本公演の小ティリアンを見ても、うまいもヘタも思わなかったし、正しいとかチガウとかも思わなかった。
ただ、新公の小ティリアンを見て、「この子からトウコにつながる芝居を見たい」と思った。
や、ソレだけだ。
本役のミッキーに対して含みがあるわけではない。
まいけるはうまい子だと思う。
前回の『シークレット・ハンター』新公でも演技力を高く評価されていたはず。台詞もなかったのなー(笑)。
ただ、子役限定であることを危うく思う。
『Hallelujah GO!GO!』にしろ、新公にしろ、まともに役がついているのが全部子役、少年役だもんよ。
若くて小柄だからどうしてもそうなっちゃうんだろうけど、ヅカで必要なのは「大人の男」だから、子役がどれだけうまくても男役としてのスキルにはならない。
まいけるに、大人の男の役を。
大人役をやるとどーなるのか見てみたいっす。本公演では金髪ロン毛で耽美風(笑)にがんばってるけどさー。群舞ばっかだもんよー。芝居が見たいのよー。
まいけると同期の初ヒロイン、ギルダ@キトリは、ふつーにうまかった。
本役あすかちゃんのコピー。
表情、声、話し方のイントネーションまで、まるまるコピってた。
これだけきれーに模倣できるんだから、うまい子なんだろうと思う。
あすかのコピーというと花組のきほちゃんを思い出すけど、きほちゃんが技術的には完璧にコピーしていながらも情感や華の面で劣化コピーになっていたことを思うと、キトリは十分内面もコピーしていたと思う。
ただ、「コピー」止まりである、という点ではやはりインパクトに欠けるなー。
彼女の本役であるジュリエット役の方が魅力も破壊力(笑)もはるかに上だ。
新公のジュリエットは「ふつー」だった。おバカ度もトンデモなさも、本公には及ばなかった。
てことは役がバカであるという以上に、演じているキトリがすごいんだなと思い知らされた(笑)。
ギルダは特殊な役だし、ジュリエットもトンデモないしで、彼女の娘役としての力はまださーっぱりわかんないっす。
彼女にも、ふつーの役をプリーズ。
光と影が手を取り合って。@新人公演『エル・アルコン−鷹−』
2007年12月5日 タカラヅカ しゅんくんの新公芝居はいつも、途中から変わっていく気がする。
火がつくと止められないんだろうか。暴走体質なんだろうか。
なんにせよ、おもしろい。
新人公演『エル・アルコン−鷹−』。
主役は初主演のともみんだし、ヒロインも初終演で抜擢のキトリちゃんだし、2番手は余裕のハズのしゅんくんだし?
えーっと、この『エル・アルコン』って、主役はティリアンで悪役、対立する2番手レッドが正義という、ふつーとは逆のピカレスク・ロマン、だったりする。
少なくとも本公演はそうだ。
しかし。
新公は、善悪が逆転していた。
やー、もー、これだからナマの舞台っておもしろいねっ。どんなに技術がつたなくても、1回こっきりの力任せの新公っておもしろいよねっ。
自爆気味ではじまったティリアン@ともみんは、舞台が進むにつれ演技や佇まいが落ち着いてくる。
もともとタッパはあるしきれいだし、コスプレはある意味トウコより似合っている。やっぱあの大仰衣装には、ある程度の身長が欲しいよな、と、小柄オトコに惚れ気味なわたしでも思う。
持って生まれたモノは、恵まれているんだよな。
そう、そして落ち着いてくるに従って、持って生まれたモノが、出てしまうのだ。
にじみ出ている。出てしまう。
台詞とか演出とかと無関係に。
どうしよう、ティリアンが、善人だ。
すげー真面目で、いい人のティリアンがいますよ!! 夢のために一生懸命で、女(ギルダ)にやさしいまっすぐな人がいますよ!!
世の中の方がまちがっているため、それを正すために耐えてる人みたいだー。
アツいハートが心の中でメラメラ(笑)してるよー。
どうしよう。
こんなの、ティリアンぢゃない(笑)。
素直にヒーローしているティリアンに大ウケ。なんじゃこりゃ。ぜんぜんピカレスクぢゃない〜〜。
それだけなら、まだしも。
悪のティリアンに対する、正義のレッド@しゅん。
最初レッドは、プリマスのおぼっちゃまとしてイキイキとのびのびとたのしそーに現れた。
が。
父が冤罪で処刑され、ティリアン相手に噛みつくようになってからは、どうもチガウところのスイッチが入った模様。
テンションが上がると、余裕とかがどっかへぶっ飛び、不要なほどにエンジンが掛かる。
黒い。
え、えーと?
レッドってたしか、無神経なほどの清廉潔白青年だよねえ?
善良で正義で誰より正しいお子ちゃまだよねえ?
「正義と良心」と言いながら、レッドくんはどーにも黒い。復讐を正統と考える心の歪みが前面に出る。
このレッドってなんかやばくね?
「相手は悪だから、僕は正義だから、なにをしてもいい」と本気で思ってね?
自分を転ばせた同級生を、後ろから押して階段の上から突き落としそうだぞ? 「当然の権利です」って学級会でも胸を張りそうだぞ?
幼い。大学生には見えない。そして、その幼い怒りと正義が、邪悪に見える。
彼に付き従うキャプテン・ブラック@真風がダメダメで(笑)。がきんちょレッドの暴走を止めるだけの度量を持たない。
レッドの熱が高く、そのへんのものを巻き込んでしまうだけのパワーがあるだけに、みんな一緒にキリキリ舞い。高く高く舞い上がる。
どうしよう。レッドが、悪人だ。
歪んだストーカーが、ティリアンを狙ってる!! 逃げて、ティリアン逃げて〜〜!!(笑)
憎しみと使命感に我を忘れたレッドは、ただの悪。復讐鬼。
見えているのは悪者ティリアンと、大切な自分自身だけ。
どうしよう。
こんなの、レッドぢゃない(笑)。
素直に悪役しているレッドに大ウケ。なんじゃこりゃ。ぜんぜんヒーローぢゃない〜〜。
おもしろい。
おもしろすぎるよ、ともみんとしゅんくん。
やー、もー、ふたりともダイスキだ!
誰か止める者はいないのか?!
いないまま、最後の対決だ〜〜!
ギルダを殺されたティリアンは、まさに悲劇のヒーロー。
愛する女性を殺され、我を忘れて悪党レッドに斬りかかる。
悪党レッドは手下のブラックとふたりがかりでティリアンを討とうとする。卑怯だぞ、さすが悪党だ!
がんばれ正義のティリアン!!
いつの世も、正義が理解されるとは限らない。オスカルだってアンドレだって、ええもんだったけど死んでしまった。ティリアンも心正しい正義の男だが、志半ばで倒れるのだった……!
彼の心の美しさを表すかのよーに、白い衣装で再登場し、愛するギルダとめぐりあう。
デュエットダンスが欲しいですな。
ここまで別物だと、いっそ清々しいです。
たのしくてたのしくて。
やっぱりタカラヅカは「悪人」を主役にして物語を進めるのは難しいのよ。
「ヒーロー」の方が演じやすいし、物語を動かしやすいの。
スキルの足りない、キャリアの足りない子が、とりあえずやらなきゃならないことだけやると、「悪人の物語」にならないの。
「悪」でありながら、「真ん中」であり、物語を動かして感動させる、つーのは高等技術。
いやはや、いい経験になりました。悪役が主役の物語自体、今後もそうそうないだろうから、次にいつ見られるかわからない。バウとかならアリでも、大劇場ではレア中のレアケース。
いいもん観たわー。
そうか、ふつーに演じると、ティリアンって、『エル・アルコン』って、こんなことになるのか(笑)。
本役の凄まじさを知ると同時に、作品の難しさ、作品位置の特異さを思い知りました。
でもって、すっかり話が変わっていたので、ティリアンの一代記として、「心正しい青年が志半ばに倒れる話」としてすんなり感情移入でき、ドキドキハラハラ、感動しました。
やっぱドラマティックだわ、この話。
ティリアンが悪であれ正義であれ、夢を語る若者の物語として十分泣ける。
あー、おもしろかったっ。
火がつくと止められないんだろうか。暴走体質なんだろうか。
なんにせよ、おもしろい。
新人公演『エル・アルコン−鷹−』。
主役は初主演のともみんだし、ヒロインも初終演で抜擢のキトリちゃんだし、2番手は余裕のハズのしゅんくんだし?
えーっと、この『エル・アルコン』って、主役はティリアンで悪役、対立する2番手レッドが正義という、ふつーとは逆のピカレスク・ロマン、だったりする。
少なくとも本公演はそうだ。
しかし。
新公は、善悪が逆転していた。
やー、もー、これだからナマの舞台っておもしろいねっ。どんなに技術がつたなくても、1回こっきりの力任せの新公っておもしろいよねっ。
自爆気味ではじまったティリアン@ともみんは、舞台が進むにつれ演技や佇まいが落ち着いてくる。
もともとタッパはあるしきれいだし、コスプレはある意味トウコより似合っている。やっぱあの大仰衣装には、ある程度の身長が欲しいよな、と、小柄オトコに惚れ気味なわたしでも思う。
持って生まれたモノは、恵まれているんだよな。
そう、そして落ち着いてくるに従って、持って生まれたモノが、出てしまうのだ。
にじみ出ている。出てしまう。
台詞とか演出とかと無関係に。
どうしよう、ティリアンが、善人だ。
すげー真面目で、いい人のティリアンがいますよ!! 夢のために一生懸命で、女(ギルダ)にやさしいまっすぐな人がいますよ!!
世の中の方がまちがっているため、それを正すために耐えてる人みたいだー。
アツいハートが心の中でメラメラ(笑)してるよー。
どうしよう。
こんなの、ティリアンぢゃない(笑)。
素直にヒーローしているティリアンに大ウケ。なんじゃこりゃ。ぜんぜんピカレスクぢゃない〜〜。
それだけなら、まだしも。
悪のティリアンに対する、正義のレッド@しゅん。
最初レッドは、プリマスのおぼっちゃまとしてイキイキとのびのびとたのしそーに現れた。
が。
父が冤罪で処刑され、ティリアン相手に噛みつくようになってからは、どうもチガウところのスイッチが入った模様。
テンションが上がると、余裕とかがどっかへぶっ飛び、不要なほどにエンジンが掛かる。
黒い。
え、えーと?
レッドってたしか、無神経なほどの清廉潔白青年だよねえ?
善良で正義で誰より正しいお子ちゃまだよねえ?
「正義と良心」と言いながら、レッドくんはどーにも黒い。復讐を正統と考える心の歪みが前面に出る。
このレッドってなんかやばくね?
「相手は悪だから、僕は正義だから、なにをしてもいい」と本気で思ってね?
自分を転ばせた同級生を、後ろから押して階段の上から突き落としそうだぞ? 「当然の権利です」って学級会でも胸を張りそうだぞ?
幼い。大学生には見えない。そして、その幼い怒りと正義が、邪悪に見える。
彼に付き従うキャプテン・ブラック@真風がダメダメで(笑)。がきんちょレッドの暴走を止めるだけの度量を持たない。
レッドの熱が高く、そのへんのものを巻き込んでしまうだけのパワーがあるだけに、みんな一緒にキリキリ舞い。高く高く舞い上がる。
どうしよう。レッドが、悪人だ。
歪んだストーカーが、ティリアンを狙ってる!! 逃げて、ティリアン逃げて〜〜!!(笑)
憎しみと使命感に我を忘れたレッドは、ただの悪。復讐鬼。
見えているのは悪者ティリアンと、大切な自分自身だけ。
どうしよう。
こんなの、レッドぢゃない(笑)。
素直に悪役しているレッドに大ウケ。なんじゃこりゃ。ぜんぜんヒーローぢゃない〜〜。
おもしろい。
おもしろすぎるよ、ともみんとしゅんくん。
やー、もー、ふたりともダイスキだ!
誰か止める者はいないのか?!
いないまま、最後の対決だ〜〜!
ギルダを殺されたティリアンは、まさに悲劇のヒーロー。
愛する女性を殺され、我を忘れて悪党レッドに斬りかかる。
悪党レッドは手下のブラックとふたりがかりでティリアンを討とうとする。卑怯だぞ、さすが悪党だ!
がんばれ正義のティリアン!!
いつの世も、正義が理解されるとは限らない。オスカルだってアンドレだって、ええもんだったけど死んでしまった。ティリアンも心正しい正義の男だが、志半ばで倒れるのだった……!
彼の心の美しさを表すかのよーに、白い衣装で再登場し、愛するギルダとめぐりあう。
デュエットダンスが欲しいですな。
ここまで別物だと、いっそ清々しいです。
たのしくてたのしくて。
やっぱりタカラヅカは「悪人」を主役にして物語を進めるのは難しいのよ。
「ヒーロー」の方が演じやすいし、物語を動かしやすいの。
スキルの足りない、キャリアの足りない子が、とりあえずやらなきゃならないことだけやると、「悪人の物語」にならないの。
「悪」でありながら、「真ん中」であり、物語を動かして感動させる、つーのは高等技術。
いやはや、いい経験になりました。悪役が主役の物語自体、今後もそうそうないだろうから、次にいつ見られるかわからない。バウとかならアリでも、大劇場ではレア中のレアケース。
いいもん観たわー。
そうか、ふつーに演じると、ティリアンって、『エル・アルコン』って、こんなことになるのか(笑)。
本役の凄まじさを知ると同時に、作品の難しさ、作品位置の特異さを思い知りました。
でもって、すっかり話が変わっていたので、ティリアンの一代記として、「心正しい青年が志半ばに倒れる話」としてすんなり感情移入でき、ドキドキハラハラ、感動しました。
やっぱドラマティックだわ、この話。
ティリアンが悪であれ正義であれ、夢を語る若者の物語として十分泣ける。
あー、おもしろかったっ。
「真ん中」は大変だ(笑)。@新人公演『エル・アルコン−鷹−』
2007年12月4日 タカラヅカ 愉快だったのは、主役と2番手のキャラの違い。
新人公演『エル・アルコン−鷹−』です、仲間内で1階席観劇はわたしだけ、つーことでみんなから「スクリーンがどうなってるか見てね!」と託され任務重大。
『エル・アルコン』本編にて、ホリゾントを使って映像流しまくり、ティリアン、ギルダ、レッドの顔がテロップ付きで流れるのだが、ソレははたして新公でどうなっていますやら。
今まで本公演でキャストの写真(絵)が使われていた場合、新公では顔部分だけ上から紙が貼られていたのだわ。作り直したりしない、ただの写真の切り貼り。『ファントム』でも『落陽のパレルモ』でも。
でも今回は絵ではなく映像じゃん? 上から紙を貼るわけにはいかない。かといって、たかが1回限りの新公のために映像全部撮り直し、なんてお金を掛けるとは思えず……どーなるのかみんな興味津々。でも2階席では見切れてしまうので、1階席の人がちゃんと見てね! ってこと。
や、1階席って言ってもわたし、立ち見なんですけどね(笑)。
なんと、全映像撮り直し、新公オリジナルでした!!
ティリアン@ともみん、ギルダ@キトリ、レッド@しゅんになってるよヲイ!! ともみんはちゃんと後ろ姿で歩いていくとこまであるよ!!
どんだけ金あるんだ、NTT協賛!
スポンサー付き興行の底力を見ました。
そして、「映像」においても、本役さんたちの実力を思い知った。やっぱきれいだわ、トウコたち……。「映像」であっても、「見せ方」を知ってるんだね。
さて、その派手さトンデモなさは「タカラヅカ」としての本領発揮なすばらしい作品、『エル・アルコン』。ポスト『ベルばら』でいいんじゃね? いっそ1本モノにしちまえよ、なドラマティックぶり。
アラはあってもそれを吹き飛ばす勢いのこの作品を、いまいち地味なイメージのあるともみんがどう見せてくれるのか。
……ともみんって、実力うんぬんよりまず、知名度がない気がするんだが、どうだろう。
本公演を見ているときの幕間、いかにも「オレはヅカ通だぜ」ってな感じでチケットのことや組子のことを語っていたおじさんが「夢乃聖夏? 誰?」と素で言って、周囲のおばさんたちに「新公で主演する子ですよ」と言われていたのを見て「うわー」と思った。
さらに、「(『エル・アルコン』本公演の)芝居のどこに出てた?」「さあ、わからないけど……とにかく主演するようよ」「今までどんな役やってた?」「さあ?」とかゆー会話に続き、さらに「うわー」と思った。
たしかに、答えられない……。今までどんな役を、本公演でやってたっけ?
や、そりゃさかのぼって答えられるけれど、「夢乃聖夏? 誰?」とゆーよーな人に、「あの役をやっていた子よ」と言えるほどの役を、本公演でやってないんだよ。
新公主演するよーな子は、下級生の抜擢でもない限り、ふつーは「**で**役をやっていた子」って言えるくらいの扱いは受けてるもんだからなー。
研7なのに、知名度がないっつーのは気の毒だ。知名度が、チケットの売れ行きに反映するもんだし。
そして、「スカイフェアリーズをやっていた」というのもまた、「舞台人としての知名度」には、なんの関係もないのだということを、思い知る。
「何年か前、テレビでニュース読んでた」ってのは、みんな「芸歴」にはカウントしないもんなー。
重要なのは、「舞台」での成果。
それは正しいことだ。
さて、そのともみんティリアンだが。
まず、歌にびっくりした。
そうか、本役がトウコだし、歌が多いんだ。でもって、モロにアニメソングって感じの曲だけど、実は難しいのかな?
歌がもー、えらいことになっていた。
手に汗握る。が、がんばれ。
前回の新公『シークレット・ハンター』では、こんなに自爆するほど緊張は伝わってこなかったし、歌もひどくはなかったはずだ。てゆーか、本役のれおんまんまのコピーで、ヘタじゃないけど印象にも残らなかった。なまじ顔とかスタイルも似ているので、「キミがれおんのコピーを目指したら、シャレになんないよ?」てなもんだったんだが。
トウコのコピーは、できなかったらしい。
フラフラした歌声、緊張や「あ、ハズした、どうしよう!」てな揺らぎがまんま伝わってくるオープニングに、こっちも泣きそうになった(笑)。
だが。それでも。
真ん中なんだ。
キミが真ん中。キミが闘わなきゃ。
場慣れしていない、声を出すことに慣れていない、歌が得意ではない、という三重苦状態で冒頭の「ミッション」を歌うとどんなすごいことになるか。
サイトーくんらしい、アホっぽいアニメっぽい歌だ、「ミッション ミッション クールに決めろ♪」。なにしろ「野心の炎」が「メラメラ♪」ですよ。ふつーには羞恥心が邪魔して歌えません。
ティリアン@ともみん、マスターズ@みやるり、スコット@天寿でキザりながら銀橋を渡る場面。
……声が聞こえない……オケの音だけがかなしく響く。
銀橋で恥ずかしげもなくキメまくる、つーのはスキルが必要なんだ。や、知らなかった……というか、実感してなかった。
ともみんもだが、みやるりとミッキーはそんなもん、スキル以前の問題だろ。まったくの未知の世界、できなくてふつー、一般人ではありえない。
にしても、ここまでできないとは……。
タカラヅカの「スター」が、どれほど特殊なものかを思い知る。本役のあかしもしゅんくんも、「スター」としての場数を踏んでる子たちなんだなあ。初心者だと、ここまでなにも出来ないんだから。
マスターズとスコットが総崩れなので、ティリアンがひとりで踏ん張った。
途中から、ともみんの声だけ聞こえる。
が、がんばれともみん〜〜!!
やー、もー、心臓に悪いよ、この舞台。どーなるんだヲイ(笑)。
そんななか、登場するとホッとするのは、レッド@しゅんくん。
うまい。
ひとりだけ、うまい。
余裕でうまい。
オープニングでぐだぐだになっているティリアンの歌を聴かされたのち、レッドがせり上がってきて歌い出すと、ホッとしたよ〜〜。あああ、歌える子がいた〜〜、よかった〜〜。
伊達に場数は踏んでない、しゅんくんは「見せ方」を知っている。他がいっぱいいっぱいな中、自分の呼吸で生きているのがわかる。
ティリアンと、レッド。
キリキリ舞いして余裕のないティリアンと、たのしそーなレッド。
このふたりの、キャラの違いときたら……。
なんかすげーおもしろいんですけど。
ともみんは、どーなることかと緊張の連続だが、それでも場が進むにつれ落ち着いていく。歌声も、アレっちゃーアレだが、まだ十分マシになっていく。
しゅんくんの方も、父親が陥れられたあとは絶叫系芝居になるので、たのしそうって感じではなくなる。
うん。このふたりがねぇ、ほんとにもー、おもしろくて。
舞台ってのはいいねえ。たのしいねえ。
つーことで、続く。
新人公演『エル・アルコン−鷹−』です、仲間内で1階席観劇はわたしだけ、つーことでみんなから「スクリーンがどうなってるか見てね!」と託され任務重大。
『エル・アルコン』本編にて、ホリゾントを使って映像流しまくり、ティリアン、ギルダ、レッドの顔がテロップ付きで流れるのだが、ソレははたして新公でどうなっていますやら。
今まで本公演でキャストの写真(絵)が使われていた場合、新公では顔部分だけ上から紙が貼られていたのだわ。作り直したりしない、ただの写真の切り貼り。『ファントム』でも『落陽のパレルモ』でも。
でも今回は絵ではなく映像じゃん? 上から紙を貼るわけにはいかない。かといって、たかが1回限りの新公のために映像全部撮り直し、なんてお金を掛けるとは思えず……どーなるのかみんな興味津々。でも2階席では見切れてしまうので、1階席の人がちゃんと見てね! ってこと。
や、1階席って言ってもわたし、立ち見なんですけどね(笑)。
なんと、全映像撮り直し、新公オリジナルでした!!
ティリアン@ともみん、ギルダ@キトリ、レッド@しゅんになってるよヲイ!! ともみんはちゃんと後ろ姿で歩いていくとこまであるよ!!
どんだけ金あるんだ、NTT協賛!
スポンサー付き興行の底力を見ました。
そして、「映像」においても、本役さんたちの実力を思い知った。やっぱきれいだわ、トウコたち……。「映像」であっても、「見せ方」を知ってるんだね。
さて、その派手さトンデモなさは「タカラヅカ」としての本領発揮なすばらしい作品、『エル・アルコン』。ポスト『ベルばら』でいいんじゃね? いっそ1本モノにしちまえよ、なドラマティックぶり。
アラはあってもそれを吹き飛ばす勢いのこの作品を、いまいち地味なイメージのあるともみんがどう見せてくれるのか。
……ともみんって、実力うんぬんよりまず、知名度がない気がするんだが、どうだろう。
本公演を見ているときの幕間、いかにも「オレはヅカ通だぜ」ってな感じでチケットのことや組子のことを語っていたおじさんが「夢乃聖夏? 誰?」と素で言って、周囲のおばさんたちに「新公で主演する子ですよ」と言われていたのを見て「うわー」と思った。
さらに、「(『エル・アルコン』本公演の)芝居のどこに出てた?」「さあ、わからないけど……とにかく主演するようよ」「今までどんな役やってた?」「さあ?」とかゆー会話に続き、さらに「うわー」と思った。
たしかに、答えられない……。今までどんな役を、本公演でやってたっけ?
や、そりゃさかのぼって答えられるけれど、「夢乃聖夏? 誰?」とゆーよーな人に、「あの役をやっていた子よ」と言えるほどの役を、本公演でやってないんだよ。
新公主演するよーな子は、下級生の抜擢でもない限り、ふつーは「**で**役をやっていた子」って言えるくらいの扱いは受けてるもんだからなー。
研7なのに、知名度がないっつーのは気の毒だ。知名度が、チケットの売れ行きに反映するもんだし。
そして、「スカイフェアリーズをやっていた」というのもまた、「舞台人としての知名度」には、なんの関係もないのだということを、思い知る。
「何年か前、テレビでニュース読んでた」ってのは、みんな「芸歴」にはカウントしないもんなー。
重要なのは、「舞台」での成果。
それは正しいことだ。
さて、そのともみんティリアンだが。
まず、歌にびっくりした。
そうか、本役がトウコだし、歌が多いんだ。でもって、モロにアニメソングって感じの曲だけど、実は難しいのかな?
歌がもー、えらいことになっていた。
手に汗握る。が、がんばれ。
前回の新公『シークレット・ハンター』では、こんなに自爆するほど緊張は伝わってこなかったし、歌もひどくはなかったはずだ。てゆーか、本役のれおんまんまのコピーで、ヘタじゃないけど印象にも残らなかった。なまじ顔とかスタイルも似ているので、「キミがれおんのコピーを目指したら、シャレになんないよ?」てなもんだったんだが。
トウコのコピーは、できなかったらしい。
フラフラした歌声、緊張や「あ、ハズした、どうしよう!」てな揺らぎがまんま伝わってくるオープニングに、こっちも泣きそうになった(笑)。
だが。それでも。
真ん中なんだ。
キミが真ん中。キミが闘わなきゃ。
場慣れしていない、声を出すことに慣れていない、歌が得意ではない、という三重苦状態で冒頭の「ミッション」を歌うとどんなすごいことになるか。
サイトーくんらしい、アホっぽいアニメっぽい歌だ、「ミッション ミッション クールに決めろ♪」。なにしろ「野心の炎」が「メラメラ♪」ですよ。ふつーには羞恥心が邪魔して歌えません。
ティリアン@ともみん、マスターズ@みやるり、スコット@天寿でキザりながら銀橋を渡る場面。
……声が聞こえない……オケの音だけがかなしく響く。
銀橋で恥ずかしげもなくキメまくる、つーのはスキルが必要なんだ。や、知らなかった……というか、実感してなかった。
ともみんもだが、みやるりとミッキーはそんなもん、スキル以前の問題だろ。まったくの未知の世界、できなくてふつー、一般人ではありえない。
にしても、ここまでできないとは……。
タカラヅカの「スター」が、どれほど特殊なものかを思い知る。本役のあかしもしゅんくんも、「スター」としての場数を踏んでる子たちなんだなあ。初心者だと、ここまでなにも出来ないんだから。
マスターズとスコットが総崩れなので、ティリアンがひとりで踏ん張った。
途中から、ともみんの声だけ聞こえる。
が、がんばれともみん〜〜!!
やー、もー、心臓に悪いよ、この舞台。どーなるんだヲイ(笑)。
そんななか、登場するとホッとするのは、レッド@しゅんくん。
うまい。
ひとりだけ、うまい。
余裕でうまい。
オープニングでぐだぐだになっているティリアンの歌を聴かされたのち、レッドがせり上がってきて歌い出すと、ホッとしたよ〜〜。あああ、歌える子がいた〜〜、よかった〜〜。
伊達に場数は踏んでない、しゅんくんは「見せ方」を知っている。他がいっぱいいっぱいな中、自分の呼吸で生きているのがわかる。
ティリアンと、レッド。
キリキリ舞いして余裕のないティリアンと、たのしそーなレッド。
このふたりの、キャラの違いときたら……。
なんかすげーおもしろいんですけど。
ともみんは、どーなることかと緊張の連続だが、それでも場が進むにつれ落ち着いていく。歌声も、アレっちゃーアレだが、まだ十分マシになっていく。
しゅんくんの方も、父親が陥れられたあとは絶叫系芝居になるので、たのしそうって感じではなくなる。
うん。このふたりがねぇ、ほんとにもー、おもしろくて。
舞台ってのはいいねえ。たのしいねえ。
つーことで、続く。
最下層民の溜息。……や、ただの愚痴っす。
2007年12月1日 タカラヅカ サバキへの取り締まりはきびしくなっているのに、当日券売る気ナシの劇団窓口に、盛大に嘆息した、新人公演の日。
立ち見券が売り切れていないことを知っていたので、「行けば観られるな」と思って新公を観にはるばるムラまで行った。
わたしが到着したのが、立ち見入場者の集合時刻くらいかな。
ムラの立ち見は立ち位置が決まっておらず、自由競争。だから立ち見の人はみんな少しでも早く入場して、いい場所を取ろうとする。
しかし。
「立ち見券発売中」と書かれているにもかかわらず、当日券窓口は、閉まっていた。
係員は余っている。カウンターの中にはヒマそーに、両手を後ろに組んでなにをするでもなく、ただ突っ立っている男の人もいたな。それでも当日券窓口は閉鎖され、「予約・前売り窓口」のみが開いていた。
「当日券」が欲しい人は、開いている窓口に並ぶよう書いてある。
前売り窓口には当然、前売り券を買う人たちが並んでいる。
まだ先の公演で、すでに発売日は過ぎているのであまりいい席は残っていない。
数人しか並んではいないのだが、ひとりずつが「**公演の*時の分、席はどこがありますか?」「お待ち下さい。……S席でしたら……**があります」「センターだとどこになりますか?」「……**ですね」「じゃあ*日の*時はどこがありますか?」てなことを、悠長にやっている。
えーと。
当日券は、「立ち見」のみ発売中なわけで。立ち見は早い者勝ちなシステムで、集合時刻っつーのがあって、入場時刻っつーのがあって、ソレに間に合うかどうかでチケットの価値が変わるものであって……。
係員余ってるなら、公演がはじまるまでは、当日券売れよ。
や、余ってなくても、やりくりして窓口開けておくもんだろー、ふつー。
売り切れてるならともかく、まだ発売中の札出しておきながら。
そして、締め切り時刻があるものなのに、その時間無視して別窓口に客を並ばせるって……。
当日券を売る気はないくせに、門の前では係員が立ちはだかり、サバキを見張っている。
そーゆーアホなところが、すごーく「宝塚歌劇団」って感じだ。
や、チケットの売買がいけないから見張っているのであって、当日券云々とは話が別、ということはわかっているが。
客の手持ちチケットの行方を取り締まる前に、まずチケット売ってくれよ、とゆー、寒々しい気持ちになったんだわさ……。
もともと立ち見目的だったこともあり、おとなしく「前売り券」の列に並んで順番を待った。
並んでいるウチに開場時刻を過ぎたさ。
あー、開演時刻までに、チケット買えるといいなー。ははは。
よーやく自分の番になって、窓口のおねーさんに「立ち見チケットを1枚下さい」と言ったら、「今日のですか?」と、驚かれた。
……当日券窓口は存在しないんです、そして、当日以外なら公演や日時を指定するでしょう?
そんな意外なことを言われた、てな反応しないでくださいよ。
あー、ひょっとしたら、「時間命の立ち見券」だから、欲しい人は窓口が閉まっていても「今すぐチケット売ってよ!!」とごり押しするのが前提だったのかな?
どーしても時間までにチケットが欲しいなら、閉まっている窓口の前で叫ぶぐらいするだろー、それをしないで悠長に他公演チケット発売の列の後ろに並ぶような人はいない。……ということかもしれん。だから驚かれたのかも。
そりゃまあ、大して焦ってなかったけどさー。手すり(立ち見1列目)に執着ないんで、後ろの壁にもたれて観れりゃーいいや、てなもんだったからさー。
開演時刻までに売っていただければ、それで結構でございます、ぐらいの気持ちではあったけれど。
手すりで観たい、ちょっとでもいい位置を探したい、と思っている人がもしもこの進みの遅い列に並んでいたら、つらかったろうなあ。
客の列ができていたら、あわてて他のレジを開けて誘導するのが当たり前になっている世の中で、人が余っているのに窓口閉鎖して、客を並ばせてるんだもんなー。しかもよりによって当日券窓口を閉鎖するんだもんなー。
や、立ち位置に焦りがないわたしでも、この理不尽な不便さには、気分を害したからさ。
ほんと劇団って商売ヘタだよな。
殿様商売っつーか。
「あら、立ち見券残ってるんだ、それならちょっと観ていこうかしら」
と思った人が、「当日券窓口閉まってるのね」とあきらめちゃうかもしんないじゃん。前売り窓口は建物入口まで人が並んでるわけだし。
その人が新公を観て、今まで知らなかった新人くんに一目惚れして、「この子の出る公演のチケットは何枚でも買うわ!!」な常得意様になるかもしんないじゃん。
機会を失うことがなにより痛い、って、販売業やってるときさんざん教え込まれたけどなあ。モノの補填はあとからどーにでもなるが、機会だけはどーにもならん、「チャンス・ロスだけはするな」って。
ちょっとしたことで、その企業の考え方とか出るよなー。
で、愚痴ったところで「売っていただく」わけだしな。立場弱いや。客のはずなんだけど、身分制度では最下層にいるんだ、びんぼーな1ファンのわたしは。劇団様に踊らされるばかりっす。
溜息。
立ち見券が売り切れていないことを知っていたので、「行けば観られるな」と思って新公を観にはるばるムラまで行った。
わたしが到着したのが、立ち見入場者の集合時刻くらいかな。
ムラの立ち見は立ち位置が決まっておらず、自由競争。だから立ち見の人はみんな少しでも早く入場して、いい場所を取ろうとする。
しかし。
「立ち見券発売中」と書かれているにもかかわらず、当日券窓口は、閉まっていた。
係員は余っている。カウンターの中にはヒマそーに、両手を後ろに組んでなにをするでもなく、ただ突っ立っている男の人もいたな。それでも当日券窓口は閉鎖され、「予約・前売り窓口」のみが開いていた。
「当日券」が欲しい人は、開いている窓口に並ぶよう書いてある。
前売り窓口には当然、前売り券を買う人たちが並んでいる。
まだ先の公演で、すでに発売日は過ぎているのであまりいい席は残っていない。
数人しか並んではいないのだが、ひとりずつが「**公演の*時の分、席はどこがありますか?」「お待ち下さい。……S席でしたら……**があります」「センターだとどこになりますか?」「……**ですね」「じゃあ*日の*時はどこがありますか?」てなことを、悠長にやっている。
えーと。
当日券は、「立ち見」のみ発売中なわけで。立ち見は早い者勝ちなシステムで、集合時刻っつーのがあって、入場時刻っつーのがあって、ソレに間に合うかどうかでチケットの価値が変わるものであって……。
係員余ってるなら、公演がはじまるまでは、当日券売れよ。
や、余ってなくても、やりくりして窓口開けておくもんだろー、ふつー。
売り切れてるならともかく、まだ発売中の札出しておきながら。
そして、締め切り時刻があるものなのに、その時間無視して別窓口に客を並ばせるって……。
当日券を売る気はないくせに、門の前では係員が立ちはだかり、サバキを見張っている。
そーゆーアホなところが、すごーく「宝塚歌劇団」って感じだ。
や、チケットの売買がいけないから見張っているのであって、当日券云々とは話が別、ということはわかっているが。
客の手持ちチケットの行方を取り締まる前に、まずチケット売ってくれよ、とゆー、寒々しい気持ちになったんだわさ……。
もともと立ち見目的だったこともあり、おとなしく「前売り券」の列に並んで順番を待った。
並んでいるウチに開場時刻を過ぎたさ。
あー、開演時刻までに、チケット買えるといいなー。ははは。
よーやく自分の番になって、窓口のおねーさんに「立ち見チケットを1枚下さい」と言ったら、「今日のですか?」と、驚かれた。
……当日券窓口は存在しないんです、そして、当日以外なら公演や日時を指定するでしょう?
そんな意外なことを言われた、てな反応しないでくださいよ。
あー、ひょっとしたら、「時間命の立ち見券」だから、欲しい人は窓口が閉まっていても「今すぐチケット売ってよ!!」とごり押しするのが前提だったのかな?
どーしても時間までにチケットが欲しいなら、閉まっている窓口の前で叫ぶぐらいするだろー、それをしないで悠長に他公演チケット発売の列の後ろに並ぶような人はいない。……ということかもしれん。だから驚かれたのかも。
そりゃまあ、大して焦ってなかったけどさー。手すり(立ち見1列目)に執着ないんで、後ろの壁にもたれて観れりゃーいいや、てなもんだったからさー。
開演時刻までに売っていただければ、それで結構でございます、ぐらいの気持ちではあったけれど。
手すりで観たい、ちょっとでもいい位置を探したい、と思っている人がもしもこの進みの遅い列に並んでいたら、つらかったろうなあ。
客の列ができていたら、あわてて他のレジを開けて誘導するのが当たり前になっている世の中で、人が余っているのに窓口閉鎖して、客を並ばせてるんだもんなー。しかもよりによって当日券窓口を閉鎖するんだもんなー。
や、立ち位置に焦りがないわたしでも、この理不尽な不便さには、気分を害したからさ。
ほんと劇団って商売ヘタだよな。
殿様商売っつーか。
「あら、立ち見券残ってるんだ、それならちょっと観ていこうかしら」
と思った人が、「当日券窓口閉まってるのね」とあきらめちゃうかもしんないじゃん。前売り窓口は建物入口まで人が並んでるわけだし。
その人が新公を観て、今まで知らなかった新人くんに一目惚れして、「この子の出る公演のチケットは何枚でも買うわ!!」な常得意様になるかもしんないじゃん。
機会を失うことがなにより痛い、って、販売業やってるときさんざん教え込まれたけどなあ。モノの補填はあとからどーにでもなるが、機会だけはどーにもならん、「チャンス・ロスだけはするな」って。
ちょっとしたことで、その企業の考え方とか出るよなー。
で、愚痴ったところで「売っていただく」わけだしな。立場弱いや。客のはずなんだけど、身分制度では最下層にいるんだ、びんぼーな1ファンのわたしは。劇団様に踊らされるばかりっす。
溜息。
愛なき世界の物語。@レビュー・オルキス―蘭の星―
2007年11月30日 タカラヅカ 草野に「生徒への愛」とか、「気配り」とかを求めたわたしがバカだった。
わたしが草野旦作品を「ダメだ、わたしには合わない」と絶望したのは、のんちゃんお披露目の『マンハッタン不夜城』だった。
渋い大人の魅力、言葉を返せば夢夢した王子様が似合わない実力派スター久世星佳に、メルヘ〜〜ンなくるくる巻き毛の王様を演じさせた。
スターの持ち味無視。
ひたすら気味悪い色遣い満載で、とくに大階段が出てからのフラフラした持ち物は気味悪かったなあ。
誰のためでもなく、「自分がやりたいこと」だけをやっていた。
同時上演のミュージカル『CAN-CAN』はすごーくたのしくて大好きで、観終わったあと「もう一度観たい!!」と心から思ったが、そのあとショー『マンハッタン不夜城』を観終わったあと「もう二度と観たくないっ」と力強く思った。
どんなに芝居が好きでも、このショーのために劇場に足を運ぶことは出来ない。そう思わせた。
そして、デジャヴ。
前にコレと同じことがあった。
ミュージカル『ブラック・ジャック』を観終わったあと「もう一度観たい!!」と心から思ったが、そのあとショー『火の鳥』を観終わったあと「もう二度と観たくないっ」と力強く思った。
どんなに芝居が好きでも、このショーのために劇場に足を運ぶことは出来ない。そう思わせた。
ああ、そうだ。『火の鳥』の作者じゃん、この「くさの・たん」って人!!
……や、当時は演出家の名前までチェックしてなかったし、読み方なんか知らなかったから(笑)。
そーだよなあ、のんちゃんにくるくる巻き毛の王ちゃまを演じさせた人だもんな。
1作きりで退団するかしちゃんるいちゃんに、あんな悪趣味なショーを作った人だもんな。
「生徒への愛」とか、「気配り」とか、あるわけないよな。
ただ彼は、「自分がやりたいこと」をやるのみだ。
はい、初日からつらかったです、『レビュー・オルキス―蘭の星―』。
もちろん、幕が開くなりおじーさんとおばーさんが登場したことで、盛大に萎えたことは言うまでもありません。
またじじばばかよ、草野!!
何回目だ? 笑いを取るために老人を使うその神経が信じられない。しかも、トップコンビがいきなり老人役?
それでも、トウあすは本気で「演技」し、草野のワンパターンを「芸」として成り立たせていたけれど。
ふたりがかわいいのは事実だけど。
や、べつにいいんだ。じじばばでも。他がいいなら。
さて、プロローグはじじばば大安売りに、がきんちょ大安売りだ。わざとらしい子役たちに、わざとらしい幼児喋りをさせ、老人が孫に語るカタチで物語がはじまる。
若く美しい姿で登場する、トウコ。そしてあすか。
みなさん派手に、にぎやかに。
蘭をくわえて踊るのは、見た目も当人たちのつらさも考えると「やめてもいいんぢゃ?」て気がするけど、まあ草野的にはいいんだろう。
オープニングから、「あれ?」と思った。
それでも最初だから「そんなもんか」と思ってスルーした。
だが。
場面が進むにつれ、「あれ?」がどんどん加速し、「冗談じゃねえぞ」になった。
場面が変わり、登場人物が変わっても。
なにがどーなっても。
トウコとあすかが、絡まないんだ。
ふたりで踊る場面がない。
ふたりが目を合わせ、ふたりで物語を作る場面がない。
中詰めを過ぎてなお、ふたりは絡まない。
どちらかが出て来ると、どちらかはいなくなる。
なんだコレ??
わざとやってんのか、ヲイ。
プログラムも買ってないし、いつものよーに予備知識ナシだ。だからトウコとあすかが通し役で、ふたりが出会うまでえんえんすれ違うことなんか知っちゃいない。
もちろん知らなくてもわかる。これだけ露骨にされれば。あー、最初のじじばばから話がつながっているんだな、と。
にしても、出会わない時間が長過ぎるだろう、とじれじれしていると。
よーやくふたりは出会い、せっかく出会ったのにタカラヅカ的ダンスではなく、高名な振付家によるタンゴを踊る。
で、さんざん待たされ、よーやく出会った途端。
ふたりは、じじばばになる。
ええっ?!!
コレで終わり?!!
タカラヅカ的シーンは? 美しくロマンティックな、コテコテでワンパターンの、「伝統っていいよなバッキャロー」な世界は?
ぼーぜん。
いや、その。
これが、「トウあすコンビ、トップ5作目」とかなら、ぜんぜんいいよ?
せめて、コンビでのショー2作目なら。
でもね。
トウコとあすかは、組んでからはぢめての、洋物ショー(オリジナル)なのよ? そして、本拠地では洋物ショーはぢめてなのよ?
でもって、次は大作一本物ミュージカルだって、わかってるのよ?
トウコが5作や6作、4年5年とトップを張ることが確定しているなら、どんな個性的なショーがその任期の中に挟まっていても「コントラスト」だの「インパクト」だのになっていいよ?
でもね。
トウコちゃんの学年的に、それほど長い任期も作品数も考えられないわけで。
ひょっとしたら、コレが最初で最後、1本きりのショー作品なのかもしれないんだよ?
なのに、「タカラヅカ的」なことをなにもしない。
トウコとあすかは、ふたりで同じ舞台に立つことがない。
あんまりだ。
あんまりだよ、草野。
限られた作品数、トップコンビのいろんな「恋愛パターン」は芝居だけでは見せられない。
たけどショーでは、場面ごとにいろんな愛のカタチを見せられる。
貴族姫君と彼女に恋した騎士だとか、マフィアのボスの女に恋をして殺される男だとか、三角関係に揺れる男女だとか。さまざまな「夢の世界」を、見せてくれるもんでしょう。
ワンパターンだけど。どこかて観たようなものに、どーしてもなってしまうけれど。
モチーフは同じでも、それをどう見せるか。スターの個性を生かし、時代に合わせて。
それが、座付き作家の仕事でしょう。
トウコとあすかの、はじめての洋物ショー。
ひょっとしたら、最後の洋物ショー。
なのに、タカラヅカらしいシーンは皆無、そればかりか、同じ舞台にすら、立たない。
なんなのコレ。
草野が「空気を読める」人ならば、「生徒への愛」とか、「気配り」がある人ならば、こんな構成・演出にはならなかったはずだ。
高名な外部振付家とやらを連れてきてもいいよ。でも、使い方を考えて。
タカラヅカに合うかどうか、タカラヅカとしてよいものになるのかを考えて。
誰のためでもなく、「自分がやりたいこと」だけをやったんだね。
自分が気持ちいいことが最優先なんだね。
さすが短期トップだったのんちゃんの貴重な1作をあんな作品に、かしるいのたった1作きりのショーをあんな作品に、した人だ。
作品のクオリティ云々もだが、「生徒への愛」のなさは、他のなにより痛い。
作品が多少アレでも、「愛」があふれていたら点数甘くなるもんな。世の中大切なのは愛、愛が世界を回しているのだから。
や、たとえトウあすでなくても、単調でつまんないショーだと思っただろうけどな。
初見から眠くなったもんよ。
星っこたちがどこでなにをしているか見るのに必死だったから寝ているヒマはなかったが。
……それでも見どころや、ツボを探して観ているけどさ。
よーやく出会ったトウあすの白いデュエットダンスは美しいしさ。
『ザ・クラシック』を、『あさきゆめみしII』を観たときと同じ感想だ。
草野、許すまじ。
わたしが草野旦作品を「ダメだ、わたしには合わない」と絶望したのは、のんちゃんお披露目の『マンハッタン不夜城』だった。
渋い大人の魅力、言葉を返せば夢夢した王子様が似合わない実力派スター久世星佳に、メルヘ〜〜ンなくるくる巻き毛の王様を演じさせた。
スターの持ち味無視。
ひたすら気味悪い色遣い満載で、とくに大階段が出てからのフラフラした持ち物は気味悪かったなあ。
誰のためでもなく、「自分がやりたいこと」だけをやっていた。
同時上演のミュージカル『CAN-CAN』はすごーくたのしくて大好きで、観終わったあと「もう一度観たい!!」と心から思ったが、そのあとショー『マンハッタン不夜城』を観終わったあと「もう二度と観たくないっ」と力強く思った。
どんなに芝居が好きでも、このショーのために劇場に足を運ぶことは出来ない。そう思わせた。
そして、デジャヴ。
前にコレと同じことがあった。
ミュージカル『ブラック・ジャック』を観終わったあと「もう一度観たい!!」と心から思ったが、そのあとショー『火の鳥』を観終わったあと「もう二度と観たくないっ」と力強く思った。
どんなに芝居が好きでも、このショーのために劇場に足を運ぶことは出来ない。そう思わせた。
ああ、そうだ。『火の鳥』の作者じゃん、この「くさの・たん」って人!!
……や、当時は演出家の名前までチェックしてなかったし、読み方なんか知らなかったから(笑)。
そーだよなあ、のんちゃんにくるくる巻き毛の王ちゃまを演じさせた人だもんな。
1作きりで退団するかしちゃんるいちゃんに、あんな悪趣味なショーを作った人だもんな。
「生徒への愛」とか、「気配り」とか、あるわけないよな。
ただ彼は、「自分がやりたいこと」をやるのみだ。
はい、初日からつらかったです、『レビュー・オルキス―蘭の星―』。
もちろん、幕が開くなりおじーさんとおばーさんが登場したことで、盛大に萎えたことは言うまでもありません。
またじじばばかよ、草野!!
何回目だ? 笑いを取るために老人を使うその神経が信じられない。しかも、トップコンビがいきなり老人役?
それでも、トウあすは本気で「演技」し、草野のワンパターンを「芸」として成り立たせていたけれど。
ふたりがかわいいのは事実だけど。
や、べつにいいんだ。じじばばでも。他がいいなら。
さて、プロローグはじじばば大安売りに、がきんちょ大安売りだ。わざとらしい子役たちに、わざとらしい幼児喋りをさせ、老人が孫に語るカタチで物語がはじまる。
若く美しい姿で登場する、トウコ。そしてあすか。
みなさん派手に、にぎやかに。
蘭をくわえて踊るのは、見た目も当人たちのつらさも考えると「やめてもいいんぢゃ?」て気がするけど、まあ草野的にはいいんだろう。
オープニングから、「あれ?」と思った。
それでも最初だから「そんなもんか」と思ってスルーした。
だが。
場面が進むにつれ、「あれ?」がどんどん加速し、「冗談じゃねえぞ」になった。
場面が変わり、登場人物が変わっても。
なにがどーなっても。
トウコとあすかが、絡まないんだ。
ふたりで踊る場面がない。
ふたりが目を合わせ、ふたりで物語を作る場面がない。
中詰めを過ぎてなお、ふたりは絡まない。
どちらかが出て来ると、どちらかはいなくなる。
なんだコレ??
わざとやってんのか、ヲイ。
プログラムも買ってないし、いつものよーに予備知識ナシだ。だからトウコとあすかが通し役で、ふたりが出会うまでえんえんすれ違うことなんか知っちゃいない。
もちろん知らなくてもわかる。これだけ露骨にされれば。あー、最初のじじばばから話がつながっているんだな、と。
にしても、出会わない時間が長過ぎるだろう、とじれじれしていると。
よーやくふたりは出会い、せっかく出会ったのにタカラヅカ的ダンスではなく、高名な振付家によるタンゴを踊る。
で、さんざん待たされ、よーやく出会った途端。
ふたりは、じじばばになる。
ええっ?!!
コレで終わり?!!
タカラヅカ的シーンは? 美しくロマンティックな、コテコテでワンパターンの、「伝統っていいよなバッキャロー」な世界は?
ぼーぜん。
いや、その。
これが、「トウあすコンビ、トップ5作目」とかなら、ぜんぜんいいよ?
せめて、コンビでのショー2作目なら。
でもね。
トウコとあすかは、組んでからはぢめての、洋物ショー(オリジナル)なのよ? そして、本拠地では洋物ショーはぢめてなのよ?
でもって、次は大作一本物ミュージカルだって、わかってるのよ?
トウコが5作や6作、4年5年とトップを張ることが確定しているなら、どんな個性的なショーがその任期の中に挟まっていても「コントラスト」だの「インパクト」だのになっていいよ?
でもね。
トウコちゃんの学年的に、それほど長い任期も作品数も考えられないわけで。
ひょっとしたら、コレが最初で最後、1本きりのショー作品なのかもしれないんだよ?
なのに、「タカラヅカ的」なことをなにもしない。
トウコとあすかは、ふたりで同じ舞台に立つことがない。
あんまりだ。
あんまりだよ、草野。
限られた作品数、トップコンビのいろんな「恋愛パターン」は芝居だけでは見せられない。
たけどショーでは、場面ごとにいろんな愛のカタチを見せられる。
貴族姫君と彼女に恋した騎士だとか、マフィアのボスの女に恋をして殺される男だとか、三角関係に揺れる男女だとか。さまざまな「夢の世界」を、見せてくれるもんでしょう。
ワンパターンだけど。どこかて観たようなものに、どーしてもなってしまうけれど。
モチーフは同じでも、それをどう見せるか。スターの個性を生かし、時代に合わせて。
それが、座付き作家の仕事でしょう。
トウコとあすかの、はじめての洋物ショー。
ひょっとしたら、最後の洋物ショー。
なのに、タカラヅカらしいシーンは皆無、そればかりか、同じ舞台にすら、立たない。
なんなのコレ。
草野が「空気を読める」人ならば、「生徒への愛」とか、「気配り」がある人ならば、こんな構成・演出にはならなかったはずだ。
高名な外部振付家とやらを連れてきてもいいよ。でも、使い方を考えて。
タカラヅカに合うかどうか、タカラヅカとしてよいものになるのかを考えて。
誰のためでもなく、「自分がやりたいこと」だけをやったんだね。
自分が気持ちいいことが最優先なんだね。
さすが短期トップだったのんちゃんの貴重な1作をあんな作品に、かしるいのたった1作きりのショーをあんな作品に、した人だ。
作品のクオリティ云々もだが、「生徒への愛」のなさは、他のなにより痛い。
作品が多少アレでも、「愛」があふれていたら点数甘くなるもんな。世の中大切なのは愛、愛が世界を回しているのだから。
や、たとえトウあすでなくても、単調でつまんないショーだと思っただろうけどな。
初見から眠くなったもんよ。
星っこたちがどこでなにをしているか見るのに必死だったから寝ているヒマはなかったが。
……それでも見どころや、ツボを探して観ているけどさ。
よーやく出会ったトウあすの白いデュエットダンスは美しいしさ。
『ザ・クラシック』を、『あさきゆめみしII』を観たときと同じ感想だ。
草野、許すまじ。
黒い翼は誰にも負けない……はず。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月29日 タカラヅカ 『エル・アルコン−鷹−』を観て、思う。
わたしがサイトーくんを好きなのは、とんでもないドラマティックさにあるのだと。
その昔『花吹雪恋吹雪』に心ときめいたように。
わたしは「そのジャンルでしか表現できないモノ」が好きだ。
いろんなモノがあふれかえったこの現代で、何故ミュージカルで、何故タカラヅカなのか。「ここでしかできない」ことをやってくれるモノが好き。
他で代用がきくモノには、興味ない。
サイトーくんの「とんでもないドラマティックさ」は、他では表現しえないから、こんなにわくわくするんだ。
ティリアン@トウコ側の物語を進めつつ、話題が女海賊ギルダ@あすかのことになる。
すると盆が回り、女海賊たちを従えてギルダがせり上がってくる。ドレス姿で剣を握り、彼女のテーマソングを高らかに歌い上げる。
たとえば小説ではありえないよね。ふつーに情景描写と台詞のやりとりになるだけ。
じゃあ映画やアニメというなんでもありーのの映像作品なら歌とダンスを使って同じことはできるけれど、そこでの表現方法は異なってくるだろう。「ブランシュ・フルール♪」というテーマソングはBGMとして背景に流れるのみで、本人たちが歌い踊る必要はない。船の華麗さや女海賊たちであるという驚きの事実をいろんなカメラアングルで見せ、海賊たちのそれらしい会話から彼らの立ち位置を教えながら、それらを束ねる美女ギルダをアップで映すとか、そーゆー演出になるだろう。
ミュージカルだからこその演出。ミュージカルであっても、「ここまでやらなくても……」まで突き抜けた、場の流れを一気に逆流させる勢いのとんでもなさ。徹底的にエンタメ。
ミュージカルって、ダメな人はダメだよね。
「なんで歌うの? ふつーに喋れば済むことなのに」って。
そりゃそーなんだが。
でも、「感情」を盛り上げる上で、「音楽」は有効な手段なんだ。
その「有効手段」を、サイトーくんは、わたしのバイオリズムに合うカタチで表現してくれる。
わたしが「サイトー☆サーカス」を好きでしょうがないのは、そのためだと思う。
とんでもない派手派手オープニング。女海賊ギルダ登場シーン。や、「プリマス・プリマス♪」に続いてこの「ブランシュ・フルール♪」の歌声には、ちと眩暈を感じたりもしますが……あああ星組ってどーしてこうアンサンブルがアレなのかなぁ……コーラスだけでなく、ソロもえーらいこっちゃ、だし。
で、でもいいのっ、耳にやさしくなくても好きよ!!
海戦場面はどれも好き。
最初のティリアンVSギルダ。
舞台の上で大仰な船も海もナニもないのに、それでも状況がわかる。
壮大な闘いが、ギルダの戦上手さと統率力が、そして地の利を取られてなおそこから態勢をひっくり返すティリアンの優秀さと決断力が、ありありと見せつけられる。
かっこいい。
どちらかがおバカさんではダメなんだ。
相手を敬服させるだけの力を持つからこそ、認め合うことで主人公たちはなお魅力的になっていく。
「戦闘」をただなんとなーくどたばたしてみせたりダンスだけでお茶を濁すのではなく、ちゃんと真正面から描き、画面を派手に、主人公をさらにかっこよく、とんでもなくドラマティックに盛り上げたサイトーくんすげえ。
わくわくわくっ。
ティリアンVSギルダ、再戦の方もたのしいけれど、こちらはちょい控えめ。つーか、ここではふたりの一騎打ちがメインだから艦隊戦はあまり描かれていないしな。
それよりも、ティリアンVSレッド。
ティリアンに剣を突きつけながらも止めを刺さないレッド、あくまでも「正義と良心」、「法」によってティリアンを裁こうとするレッドを尻目にティリアンが勝利を宣言する。
スペイン海軍登場シーン。
ここがもう、心がざわざわするくらい好き。
個人レベルのことしか考えていないレッドと、彼が想像もつかない野望を抱くティリアン。
ふたりの男の差が、強大な艦隊の姿となって影を落とす。
ティリアンがひたすらいい男で。悪であろーがなんだろーが、その姿はひたすらかっこよくて。
正義を振りかざすレッドはただ無力で幼いばかり。ここから這い上がり、いい男になっていく、そのどん底具合。
これが、「舞台」であること。「ミュージカル」であること。「タカラヅカ」であること。
それらすべてを「代用のきかない」方法で盛り上げてくれる。
たのしい。
たのしいよー。
このスペクタクルさ。
ここまでやんなきゃ〜〜、せっかくのタカラヅカ、せっかくのミュージカル。
細かいことは、全部吹っ飛ばして、ただ「わくわくわくっ」としていられる。
今回のサイトーくんのサイトーくんらしいむちゃくちゃさ、大味さは大好きさ。
ただ。
ひとつだけ。
たのむっ、旗艦エル・アルコンに見せ場を!!
切実だ。
念願のスペインに渡り、スペイン海将たちに嫌味を言われながらも「最高の戦艦」を建造するティリアン。
これぞ彼の夢の結晶。
その名も「エル・アルコン」! タイトルにもなっているキーワード。
高まる音楽、登場人物総出で意思表明、これぞクライマックス!!の盛り上がり!!
なのに。
「出航だ!!」
「火のついた海賊船が突進してきます!」
どっかーーん。
エル・アルコン、ぼろぼろ。
早っ。
どこのコントですか?!!
大仰に登場した、次の瞬間敗北って。
まずいっしょコレ。
書き直してよ、少しも早く!
エル・アルコンがどれほどすごい船かを、まず見せつけるんだ。
海戦一発、あまりの力の差にイギリス軍も海賊たちも、またティリアンに反感を持っていたスペイン軍たちも、みんなあぜん。
ティリアンが実力で、すべての波をねじ伏せる様を描いてくれ。
で、一旦引いたのち、レッドたち海賊たちががんばって、エル・アルコンをやっつける。
それならいいんだ。
とにかく、エル・アルコンに見せ場を。
1回くらいは勝たせてやってくれ。小うるさいじじい提督たちを唸らせてくれ。
「新しい歴史をつくるのは老人ではないっ!」by某赤い軍服の人@仮面無しバージョン……てなもんでな。
エル・アルコンのダメさ加減で、ティリアンの株も暴落だよ……。あれじゃただの空気読めないアホな人だよ……。
たのむよサイトーくん。エリザベス@エレナの歌を短くするなりなんなりして、改稿してくれぇ。や、エレナに含むところはなんにもないが、ここしかないし削れるところ。
や、わたし的には草野ショーいらないから、1本立てにして、海戦を描いてくれ、と、素直に思いますがね(いい笑顔)。
草野作品苦手っす。理解できないっす(笑)。
わたしがサイトーくんを好きなのは、とんでもないドラマティックさにあるのだと。
その昔『花吹雪恋吹雪』に心ときめいたように。
わたしは「そのジャンルでしか表現できないモノ」が好きだ。
いろんなモノがあふれかえったこの現代で、何故ミュージカルで、何故タカラヅカなのか。「ここでしかできない」ことをやってくれるモノが好き。
他で代用がきくモノには、興味ない。
サイトーくんの「とんでもないドラマティックさ」は、他では表現しえないから、こんなにわくわくするんだ。
ティリアン@トウコ側の物語を進めつつ、話題が女海賊ギルダ@あすかのことになる。
すると盆が回り、女海賊たちを従えてギルダがせり上がってくる。ドレス姿で剣を握り、彼女のテーマソングを高らかに歌い上げる。
たとえば小説ではありえないよね。ふつーに情景描写と台詞のやりとりになるだけ。
じゃあ映画やアニメというなんでもありーのの映像作品なら歌とダンスを使って同じことはできるけれど、そこでの表現方法は異なってくるだろう。「ブランシュ・フルール♪」というテーマソングはBGMとして背景に流れるのみで、本人たちが歌い踊る必要はない。船の華麗さや女海賊たちであるという驚きの事実をいろんなカメラアングルで見せ、海賊たちのそれらしい会話から彼らの立ち位置を教えながら、それらを束ねる美女ギルダをアップで映すとか、そーゆー演出になるだろう。
ミュージカルだからこその演出。ミュージカルであっても、「ここまでやらなくても……」まで突き抜けた、場の流れを一気に逆流させる勢いのとんでもなさ。徹底的にエンタメ。
ミュージカルって、ダメな人はダメだよね。
「なんで歌うの? ふつーに喋れば済むことなのに」って。
そりゃそーなんだが。
でも、「感情」を盛り上げる上で、「音楽」は有効な手段なんだ。
その「有効手段」を、サイトーくんは、わたしのバイオリズムに合うカタチで表現してくれる。
わたしが「サイトー☆サーカス」を好きでしょうがないのは、そのためだと思う。
とんでもない派手派手オープニング。女海賊ギルダ登場シーン。や、「プリマス・プリマス♪」に続いてこの「ブランシュ・フルール♪」の歌声には、ちと眩暈を感じたりもしますが……あああ星組ってどーしてこうアンサンブルがアレなのかなぁ……コーラスだけでなく、ソロもえーらいこっちゃ、だし。
で、でもいいのっ、耳にやさしくなくても好きよ!!
海戦場面はどれも好き。
最初のティリアンVSギルダ。
舞台の上で大仰な船も海もナニもないのに、それでも状況がわかる。
壮大な闘いが、ギルダの戦上手さと統率力が、そして地の利を取られてなおそこから態勢をひっくり返すティリアンの優秀さと決断力が、ありありと見せつけられる。
かっこいい。
どちらかがおバカさんではダメなんだ。
相手を敬服させるだけの力を持つからこそ、認め合うことで主人公たちはなお魅力的になっていく。
「戦闘」をただなんとなーくどたばたしてみせたりダンスだけでお茶を濁すのではなく、ちゃんと真正面から描き、画面を派手に、主人公をさらにかっこよく、とんでもなくドラマティックに盛り上げたサイトーくんすげえ。
わくわくわくっ。
ティリアンVSギルダ、再戦の方もたのしいけれど、こちらはちょい控えめ。つーか、ここではふたりの一騎打ちがメインだから艦隊戦はあまり描かれていないしな。
それよりも、ティリアンVSレッド。
ティリアンに剣を突きつけながらも止めを刺さないレッド、あくまでも「正義と良心」、「法」によってティリアンを裁こうとするレッドを尻目にティリアンが勝利を宣言する。
スペイン海軍登場シーン。
ここがもう、心がざわざわするくらい好き。
個人レベルのことしか考えていないレッドと、彼が想像もつかない野望を抱くティリアン。
ふたりの男の差が、強大な艦隊の姿となって影を落とす。
ティリアンがひたすらいい男で。悪であろーがなんだろーが、その姿はひたすらかっこよくて。
正義を振りかざすレッドはただ無力で幼いばかり。ここから這い上がり、いい男になっていく、そのどん底具合。
これが、「舞台」であること。「ミュージカル」であること。「タカラヅカ」であること。
それらすべてを「代用のきかない」方法で盛り上げてくれる。
たのしい。
たのしいよー。
このスペクタクルさ。
ここまでやんなきゃ〜〜、せっかくのタカラヅカ、せっかくのミュージカル。
細かいことは、全部吹っ飛ばして、ただ「わくわくわくっ」としていられる。
今回のサイトーくんのサイトーくんらしいむちゃくちゃさ、大味さは大好きさ。
ただ。
ひとつだけ。
たのむっ、旗艦エル・アルコンに見せ場を!!
切実だ。
念願のスペインに渡り、スペイン海将たちに嫌味を言われながらも「最高の戦艦」を建造するティリアン。
これぞ彼の夢の結晶。
その名も「エル・アルコン」! タイトルにもなっているキーワード。
高まる音楽、登場人物総出で意思表明、これぞクライマックス!!の盛り上がり!!
なのに。
「出航だ!!」
「火のついた海賊船が突進してきます!」
どっかーーん。
エル・アルコン、ぼろぼろ。
早っ。
どこのコントですか?!!
大仰に登場した、次の瞬間敗北って。
まずいっしょコレ。
書き直してよ、少しも早く!
エル・アルコンがどれほどすごい船かを、まず見せつけるんだ。
海戦一発、あまりの力の差にイギリス軍も海賊たちも、またティリアンに反感を持っていたスペイン軍たちも、みんなあぜん。
ティリアンが実力で、すべての波をねじ伏せる様を描いてくれ。
で、一旦引いたのち、レッドたち海賊たちががんばって、エル・アルコンをやっつける。
それならいいんだ。
とにかく、エル・アルコンに見せ場を。
1回くらいは勝たせてやってくれ。小うるさいじじい提督たちを唸らせてくれ。
「新しい歴史をつくるのは老人ではないっ!」by某赤い軍服の人@仮面無しバージョン……てなもんでな。
エル・アルコンのダメさ加減で、ティリアンの株も暴落だよ……。あれじゃただの空気読めないアホな人だよ……。
たのむよサイトーくん。エリザベス@エレナの歌を短くするなりなんなりして、改稿してくれぇ。や、エレナに含むところはなんにもないが、ここしかないし削れるところ。
や、わたし的には草野ショーいらないから、1本立てにして、海戦を描いてくれ、と、素直に思いますがね(いい笑顔)。
草野作品苦手っす。理解できないっす(笑)。
黒い翼を追い求める限り。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月28日 タカラヅカ ティリアンとギルダの恋愛がメインになってしまったために、割を食ったのがティリアンを愛する男たち。
すなわち、レッド@れおんと、ニコラス@ゆかり。
星組公演『エル・アルコン−鷹−』の話。や、ヅカですから、大劇場ですから、ホモ話はあきまへん。恋愛は男と女でなきゃ。
これがバウなら、ホモもぜんぜんアリですが。……なにしろサイトーくん、『エル・アルコン』とほとんど同じ枠組みの話『血と砂』で、兄弟心中話描いてるからな(笑)。女キャラはただの言い訳、兄と弟が愛し合い、憎み合い、最後は手を取り合って死んでいく話。
原作ではティリアンに女(恋愛)の影はなく、ヒロイン・ポジションはニコラスか、あるいはレッドであるはずだった。
ニコラスは「七つの海七つの空」という「夢」を語る相手としての部分を、まるっとギルダ@あすかに取られてしまったので、出番的にも扱い的にもどーにも分が悪い、というのはある。
それでも演技巧者なら実力でなんとかするだろーが、まあ、今回は出番がアレだけだったせい(ムニャムニャ)、ということにしておいて。
レッドに関しては、「改善の余地アリだろーがヲイ」と、笑顔で思うよ?
どーしてレッドくんは、ああも無惨に色気がないですか?(笑)
ブラック@和くんとふたりして、さわやか体育会系学生なのは何故ですか?(笑)
レッドは「正義と良心」なんてしゃらくせぇことを本気で言うおにーちゃんで、そーゆー意味では正統派過ぎて美味しくないキャラだ。
彼の「美味しさ」は、宿敵ティリアンへの愛憎でしょう。
行き過ぎた憎悪は、激しい恋情と同じ。
紙一重。
裏返ってしまった感情。
他のすべてを捨てて、ティリアンだけを追い求める。ティリアンだけを想う。
恋するヲトメのよーに、ナニを見てもダレを見てもティリアンにしか見えない。
そうすることで、「美味しく」なる役。
『血と砂』のプルミタス@ゆーひが背徳の色気ダダ漏れでエロエロ復讐鬼を演じていたよーに。
主人公を憎むがゆえに手を汚し、復讐の鬼となる美青年、つーのはそれだけでオイシイはず。
たしかにレッドは「健全」さがウリの清廉潔白好男子だけど、そんな彼が憎しみに我を忘れ、人が変わったようにティリアンだけに固執する様、そしてティリアンの死に涙する様が、重要なはず。
てゆーか、そうする方が単純に「オイシイ」のに、何故色気のカケラもなく体育会系一直線?
サワヤカさんなのはいいから、ティリアンとの対峙場面だけにょろっとエロ気を出して、メリハリをプリーズ!
そしてサイトーくん、れおんは放っておくと健全一直線無神経風味になるから、脚本でそれらしくフォローしてやってくれ。
ラストシーンは、レッドを泣かせてくれよ、原作みたいに。
周囲のいい男、いい女たちがこぞって惚れるからこそ、主役の格が更に上がるんだ。
もともとアニメ的なのがサイトー作品の味なんだから、とことんまでアニメ的に盛り上げて、「主人公の愛♪争奪戦」をやってくれよ。
登場人物全員が、主人公の愛をめぐって争うの。彼に無関心でいられるモノなんかひとりもない。愛(あるいは憎悪)を向けられるのよ。
そんななかだからこそ、ただひとり主人公に愛を向けず、彼を愛する男のひとりを愛し続ける脇役が「脇スキー」のハートを射止めたりするのよ。
つまり、ティリアンを愛(憎悪)するレッドに惚れて、献身的に尽くすブラックの存在が光るっちゅーわけだ。
他の主な登場人物はもれなく「ティリアン、ティリアン」言ってるなか、ブラックひとりが「レッド、レッド」なのよ。そりゃ目立つわよ(笑)。
スピンオフ、とゆー言葉が市民権を得る前から、BLでは脇キャラが別シリーズの主役になるのがお約束だった。主役カップルの攻に片想いしている脇キャラ(受)に横からちょっかい出したり支えたりしているいい男(攻)、このふたりを主人公に別シリーズスタート、てのは定番中の定番、5万回は見た。
お約束キャラと設定なのに、レッドとブラックに色気がないのがもったいなさすぎて。
なんかこいつら、ほのぼのを通り越してお笑いキャラに到達しそうだ……お笑いはジュリエット@キトリだけでいいのよぅ、君たちは踏み止まってくれぇ。
『仮面ライダー』シリーズ(大人も鑑賞可)ならまだいいんだけど、その前の『戦隊モノ』(ターゲットは幼児)にまで視聴対象精神年齢オトされると、つらいなあ。
や、ティリアンとギルダがアダルトだから、レッドたちでバランスを取っているんだ、すべてわざとだ、と言われればそれまでですが。
原作と舞台は別物だと思っているけれど、精神ベクトルだけは変えて欲しくないと思う。
ティリアンとギルダの恋愛も、別物だけどベクトルは変わっていない。
ニコラスも、薄くて弱いけれど変わっていない。
レッドだけが、原作からかけ離れているのが気になる。
ティリアンを愛してくれ。
誰よりも強く。「あの男は誰にも渡さない」と、全世界に向けて叫んでくれ。
……たんにわたしが、健康優良児なれおんより、まっすぐすぎて歪んだれおんが好みなのですわ(笑)。いやあ、プリンス@『Kean』はサイコーでした。
すなわち、レッド@れおんと、ニコラス@ゆかり。
星組公演『エル・アルコン−鷹−』の話。や、ヅカですから、大劇場ですから、ホモ話はあきまへん。恋愛は男と女でなきゃ。
これがバウなら、ホモもぜんぜんアリですが。……なにしろサイトーくん、『エル・アルコン』とほとんど同じ枠組みの話『血と砂』で、兄弟心中話描いてるからな(笑)。女キャラはただの言い訳、兄と弟が愛し合い、憎み合い、最後は手を取り合って死んでいく話。
原作ではティリアンに女(恋愛)の影はなく、ヒロイン・ポジションはニコラスか、あるいはレッドであるはずだった。
ニコラスは「七つの海七つの空」という「夢」を語る相手としての部分を、まるっとギルダ@あすかに取られてしまったので、出番的にも扱い的にもどーにも分が悪い、というのはある。
それでも演技巧者なら実力でなんとかするだろーが、まあ、今回は出番がアレだけだったせい(ムニャムニャ)、ということにしておいて。
レッドに関しては、「改善の余地アリだろーがヲイ」と、笑顔で思うよ?
どーしてレッドくんは、ああも無惨に色気がないですか?(笑)
ブラック@和くんとふたりして、さわやか体育会系学生なのは何故ですか?(笑)
レッドは「正義と良心」なんてしゃらくせぇことを本気で言うおにーちゃんで、そーゆー意味では正統派過ぎて美味しくないキャラだ。
彼の「美味しさ」は、宿敵ティリアンへの愛憎でしょう。
行き過ぎた憎悪は、激しい恋情と同じ。
紙一重。
裏返ってしまった感情。
他のすべてを捨てて、ティリアンだけを追い求める。ティリアンだけを想う。
恋するヲトメのよーに、ナニを見てもダレを見てもティリアンにしか見えない。
そうすることで、「美味しく」なる役。
『血と砂』のプルミタス@ゆーひが背徳の色気ダダ漏れでエロエロ復讐鬼を演じていたよーに。
主人公を憎むがゆえに手を汚し、復讐の鬼となる美青年、つーのはそれだけでオイシイはず。
たしかにレッドは「健全」さがウリの清廉潔白好男子だけど、そんな彼が憎しみに我を忘れ、人が変わったようにティリアンだけに固執する様、そしてティリアンの死に涙する様が、重要なはず。
てゆーか、そうする方が単純に「オイシイ」のに、何故色気のカケラもなく体育会系一直線?
サワヤカさんなのはいいから、ティリアンとの対峙場面だけにょろっとエロ気を出して、メリハリをプリーズ!
そしてサイトーくん、れおんは放っておくと健全一直線無神経風味になるから、脚本でそれらしくフォローしてやってくれ。
ラストシーンは、レッドを泣かせてくれよ、原作みたいに。
周囲のいい男、いい女たちがこぞって惚れるからこそ、主役の格が更に上がるんだ。
もともとアニメ的なのがサイトー作品の味なんだから、とことんまでアニメ的に盛り上げて、「主人公の愛♪争奪戦」をやってくれよ。
登場人物全員が、主人公の愛をめぐって争うの。彼に無関心でいられるモノなんかひとりもない。愛(あるいは憎悪)を向けられるのよ。
そんななかだからこそ、ただひとり主人公に愛を向けず、彼を愛する男のひとりを愛し続ける脇役が「脇スキー」のハートを射止めたりするのよ。
つまり、ティリアンを愛(憎悪)するレッドに惚れて、献身的に尽くすブラックの存在が光るっちゅーわけだ。
他の主な登場人物はもれなく「ティリアン、ティリアン」言ってるなか、ブラックひとりが「レッド、レッド」なのよ。そりゃ目立つわよ(笑)。
スピンオフ、とゆー言葉が市民権を得る前から、BLでは脇キャラが別シリーズの主役になるのがお約束だった。主役カップルの攻に片想いしている脇キャラ(受)に横からちょっかい出したり支えたりしているいい男(攻)、このふたりを主人公に別シリーズスタート、てのは定番中の定番、5万回は見た。
お約束キャラと設定なのに、レッドとブラックに色気がないのがもったいなさすぎて。
なんかこいつら、ほのぼのを通り越してお笑いキャラに到達しそうだ……お笑いはジュリエット@キトリだけでいいのよぅ、君たちは踏み止まってくれぇ。
『仮面ライダー』シリーズ(大人も鑑賞可)ならまだいいんだけど、その前の『戦隊モノ』(ターゲットは幼児)にまで視聴対象精神年齢オトされると、つらいなあ。
や、ティリアンとギルダがアダルトだから、レッドたちでバランスを取っているんだ、すべてわざとだ、と言われればそれまでですが。
原作と舞台は別物だと思っているけれど、精神ベクトルだけは変えて欲しくないと思う。
ティリアンとギルダの恋愛も、別物だけどベクトルは変わっていない。
ニコラスも、薄くて弱いけれど変わっていない。
レッドだけが、原作からかけ離れているのが気になる。
ティリアンを愛してくれ。
誰よりも強く。「あの男は誰にも渡さない」と、全世界に向けて叫んでくれ。
……たんにわたしが、健康優良児なれおんより、まっすぐすぎて歪んだれおんが好みなのですわ(笑)。いやあ、プリンス@『Kean』はサイコーでした。
黒い翼と傷痕と・その2。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月27日 タカラヅカ ティリアンとギルダが愛し合うこの物語は、原作とは別物だ。原作のティリアンは置いておいて、宝塚歌劇『エル・アルコン−鷹−』の、トウコ・ティリアンの話。
ティリアン@トウコは、捕らえたギルダ@あすかに対して言う。「服を脱いでください」と。
サイトーくんは原作の台詞をTPO無視して使い回しているので、他はともかくラヴシーンではサムいことになっている。
サイトーくんは原作ファンなので、たぶん「この台詞かっくいーっ。絶対トウコに言わせたい〜〜! 萌え〜〜」とか思ってまんま使い回しているんだと思う。植爺のように意味もわからずパッチワークしているのではないのがわかるため、微笑ましいっちゃー微笑ましいんだが。
マンガと舞台では表現方法がチガウため、マンガまんまをやってしまったために、ペネロープとの場面では初日に観客から爆笑されたりとえーらいこっちゃなことになっていた。
それでも、エロパワー炸裂で演じきってしまうトウコ様に拍手。
ペネロープとの場面はティリアン自身が「手段」と割り切っているのである意味義務的(笑)だが、ティリアン自身が求めているギルダとの場面はさらにエロ度がアップしている。
「生々しさ」「妖精ではない、猥雑さ」という魅力を持つトウコの、本領発揮。
嫌がる女を力尽くではなく(ポイント)、強引に抱いてしまう様が、トウコならでは。
ギルダに対し、「最大の敬意と愛情を持つ」、「海の勇者への讃美の気持ち」と、まるで皮肉のように言いながら。
強引に服を脱がせ、のしかかっていく。
言葉では、彼の性格、生き方通りの刃をきらめかせながら……それでも、カラダでは……ギルダとの一夜では、ほんとうに、彼女への「最大の敬意と愛情」「海の勇者への讃美」を示したんじゃないだろうか。
ヅカでベッドシーンがあったって、それは「愛のカタチ」、美しいキスシーンと変わらないただの記号のようなモノだと思っている。それ以上の生々しいことなんか考えない。
だが、トウコだと、ほんとーに「それ以上」を考えてしまう。
『エル・アルコン』でいうと、ティリアンが、どんなふうにギルダを抱いたのか、想像してしまう。
今の少女マンガは性描写もえげつないが、昔の少女マンガは直接シーンは描かず、抱き合ってキスのあとは暗転、翌朝「チチチ…」と鳥の声がするところからはじまったもんだ。
ヅカのベッドシーンも昔の少女マンガと同じく「朝チュン」(暗転のあとは翌朝、鳥が鳴く)と同じだし、それでいいと思っているんだが。
星組公演『エル・アルコン』は、「朝チュン」にあらず。
暗転せず、今の少女マンガのよーに行為がある、と思えてしまう。むしろそこにいちばんわかりやい「愛の在処」があると思う。
ティリアンはほんとうに「最大の敬意と愛情」を持って、ギルダを抱いたのだろう。
醜い傷に口づけ、愛撫したのだろう。
ただの「愛」や「恋」ゆえのやさしさではなく。
勝者が敗者を貶めるためではなく、その価値を知り、敬うための行為。
ややこしい男だ、ティリアン。言葉だけ台詞にして書き出せばやさしい色男的なことを言っているけど、態度も口調も冷淡。おかげでやさしげな言葉は全部皮肉に聞こえる。でも実際抱かれてみれば、その言葉が嘘でないことがわかる。
手法としては「朝チュン」なのに、実際にナニがどうあったかは描かれていないのに、暗転のあとを、想像してしまう。させてしまう。
トウコのもつ生々しさが、せつなさを加速させる。
ギルダに感情移入できるから。
ただ「悪」としてしか、「敵」としてしか見てこなかった男に、恋をする。
冷酷な言動の野心家。言葉ではない、表面には決して現れない部分で彼の「真実」に、文字通り、触れる。
肌でしかわからないことがある。言葉を持たない獣のように。本能でしか、魂でしか、伝えるすべを持たない男と女が在る。
やー、サイトー版『エル・アルコン』をノベライズしていいなら、「朝チュン」でなく、ちゃんとふつーの恋愛小説みたく愛の行為のあれこれも全部書き込みたいですな。そしてそこが、ヲトメ心を刺激する、せつない、泣ける場面になるはず。
世間知らずの小娘ではないギルダが、「抱かれたから」ティリアンになびいたはずがない。
次の場面で少女時代の思い出を歌う彼女は、ティリアンの真実に触れたから、記憶の底に眠っていた「孤独な少年」のことを思い出しちゃったりしてるわけだ。
や、この「幼なじみ」設定は心から「いらん」と思っているけどね。「人を信じることのない瞳が自分を見るようだった」とかギルダは言うけど、ティリアンはともかく、ギルダはチガウやろ。領主の娘として、島民たちに慕われて育ったんぢゃねーの? だからこそ、故郷を守るために自ら傷だらけになっても戦うんでしょ?
ギルダとティリアンは、「七つの海七つの空」に憑かれた男と女、つーことで十分愛し合う理由になる。
同じカタチの魂を、互いの中に見つけることができる。
愛し愛され、それゆえの誇りを持って育ったギルダ。心を閉ざし、それゆえに強く育ったティリアン。環境はちがっても、磨かれ方はちがっても、今、光を放つふたつの宝石はたしかに同じものだった。
……て、そーゆーことっしょ?
だからふたりは、決して愛を語らない。
彼らが口にするのは、「七つの海七つの空」。
同じ魂が、同じ方角を見据えている。
ふつーの男と女のように、ふつーの恋愛のように、互いの欠けた部分を埋め合うことなく。癒やし合うこともなく。
同じところが欠けたまま、いびつなまま、かなしいまま、それでも光を放つ。同じ夢を見る。
原作のティリアンとも『エル・アルコン』とも別物だけれど。
でもこれもまた、たしかにティリアンであり『エル・アルコン』である。
ギルダと出会うことで、ギルダを知ることで、ティリアン自身の輪郭が浮き彫りにされていく。
だから。
ギルダになって、ティリアンに恋をする。
「愛している」とは、死んでも言わない恋だけど。言われることのない恋だけど。
抱き合うことより、守られることより、癒すことより、背を合わせて闘う、肩を並べて走る、そんな関係だけど。
それでも、黒い翼は七つの海と空を目指す。翼の向かう方角に、その彼方に思いを馳せる。
ヘタに「これみよがしに恋愛を匂わせる」ことをしなくても、トウコとあすかなら、大人の愛憎をエロく見せてくれるよ、サイトーくん。
トウコは放っておいてもイヤラシイし、あすかもそれを真正面から受けて立ってくれる。
ああ、よくぞこのふたりがティリアンとギルダを演じてくれた。
ベッドなだれ込みシーンで、演出以上のエロさを見せてくれることが、うれしくてならない。
プラトニックよりはるかに、せつなくて愛しいから。
傷痕を介する男と女の愛欲が。
ティリアン@トウコは、捕らえたギルダ@あすかに対して言う。「服を脱いでください」と。
サイトーくんは原作の台詞をTPO無視して使い回しているので、他はともかくラヴシーンではサムいことになっている。
サイトーくんは原作ファンなので、たぶん「この台詞かっくいーっ。絶対トウコに言わせたい〜〜! 萌え〜〜」とか思ってまんま使い回しているんだと思う。植爺のように意味もわからずパッチワークしているのではないのがわかるため、微笑ましいっちゃー微笑ましいんだが。
マンガと舞台では表現方法がチガウため、マンガまんまをやってしまったために、ペネロープとの場面では初日に観客から爆笑されたりとえーらいこっちゃなことになっていた。
それでも、エロパワー炸裂で演じきってしまうトウコ様に拍手。
ペネロープとの場面はティリアン自身が「手段」と割り切っているのである意味義務的(笑)だが、ティリアン自身が求めているギルダとの場面はさらにエロ度がアップしている。
「生々しさ」「妖精ではない、猥雑さ」という魅力を持つトウコの、本領発揮。
嫌がる女を力尽くではなく(ポイント)、強引に抱いてしまう様が、トウコならでは。
ギルダに対し、「最大の敬意と愛情を持つ」、「海の勇者への讃美の気持ち」と、まるで皮肉のように言いながら。
強引に服を脱がせ、のしかかっていく。
言葉では、彼の性格、生き方通りの刃をきらめかせながら……それでも、カラダでは……ギルダとの一夜では、ほんとうに、彼女への「最大の敬意と愛情」「海の勇者への讃美」を示したんじゃないだろうか。
ヅカでベッドシーンがあったって、それは「愛のカタチ」、美しいキスシーンと変わらないただの記号のようなモノだと思っている。それ以上の生々しいことなんか考えない。
だが、トウコだと、ほんとーに「それ以上」を考えてしまう。
『エル・アルコン』でいうと、ティリアンが、どんなふうにギルダを抱いたのか、想像してしまう。
今の少女マンガは性描写もえげつないが、昔の少女マンガは直接シーンは描かず、抱き合ってキスのあとは暗転、翌朝「チチチ…」と鳥の声がするところからはじまったもんだ。
ヅカのベッドシーンも昔の少女マンガと同じく「朝チュン」(暗転のあとは翌朝、鳥が鳴く)と同じだし、それでいいと思っているんだが。
星組公演『エル・アルコン』は、「朝チュン」にあらず。
暗転せず、今の少女マンガのよーに行為がある、と思えてしまう。むしろそこにいちばんわかりやい「愛の在処」があると思う。
ティリアンはほんとうに「最大の敬意と愛情」を持って、ギルダを抱いたのだろう。
醜い傷に口づけ、愛撫したのだろう。
ただの「愛」や「恋」ゆえのやさしさではなく。
勝者が敗者を貶めるためではなく、その価値を知り、敬うための行為。
ややこしい男だ、ティリアン。言葉だけ台詞にして書き出せばやさしい色男的なことを言っているけど、態度も口調も冷淡。おかげでやさしげな言葉は全部皮肉に聞こえる。でも実際抱かれてみれば、その言葉が嘘でないことがわかる。
手法としては「朝チュン」なのに、実際にナニがどうあったかは描かれていないのに、暗転のあとを、想像してしまう。させてしまう。
トウコのもつ生々しさが、せつなさを加速させる。
ギルダに感情移入できるから。
ただ「悪」としてしか、「敵」としてしか見てこなかった男に、恋をする。
冷酷な言動の野心家。言葉ではない、表面には決して現れない部分で彼の「真実」に、文字通り、触れる。
肌でしかわからないことがある。言葉を持たない獣のように。本能でしか、魂でしか、伝えるすべを持たない男と女が在る。
やー、サイトー版『エル・アルコン』をノベライズしていいなら、「朝チュン」でなく、ちゃんとふつーの恋愛小説みたく愛の行為のあれこれも全部書き込みたいですな。そしてそこが、ヲトメ心を刺激する、せつない、泣ける場面になるはず。
世間知らずの小娘ではないギルダが、「抱かれたから」ティリアンになびいたはずがない。
次の場面で少女時代の思い出を歌う彼女は、ティリアンの真実に触れたから、記憶の底に眠っていた「孤独な少年」のことを思い出しちゃったりしてるわけだ。
や、この「幼なじみ」設定は心から「いらん」と思っているけどね。「人を信じることのない瞳が自分を見るようだった」とかギルダは言うけど、ティリアンはともかく、ギルダはチガウやろ。領主の娘として、島民たちに慕われて育ったんぢゃねーの? だからこそ、故郷を守るために自ら傷だらけになっても戦うんでしょ?
ギルダとティリアンは、「七つの海七つの空」に憑かれた男と女、つーことで十分愛し合う理由になる。
同じカタチの魂を、互いの中に見つけることができる。
愛し愛され、それゆえの誇りを持って育ったギルダ。心を閉ざし、それゆえに強く育ったティリアン。環境はちがっても、磨かれ方はちがっても、今、光を放つふたつの宝石はたしかに同じものだった。
……て、そーゆーことっしょ?
だからふたりは、決して愛を語らない。
彼らが口にするのは、「七つの海七つの空」。
同じ魂が、同じ方角を見据えている。
ふつーの男と女のように、ふつーの恋愛のように、互いの欠けた部分を埋め合うことなく。癒やし合うこともなく。
同じところが欠けたまま、いびつなまま、かなしいまま、それでも光を放つ。同じ夢を見る。
原作のティリアンとも『エル・アルコン』とも別物だけれど。
でもこれもまた、たしかにティリアンであり『エル・アルコン』である。
ギルダと出会うことで、ギルダを知ることで、ティリアン自身の輪郭が浮き彫りにされていく。
だから。
ギルダになって、ティリアンに恋をする。
「愛している」とは、死んでも言わない恋だけど。言われることのない恋だけど。
抱き合うことより、守られることより、癒すことより、背を合わせて闘う、肩を並べて走る、そんな関係だけど。
それでも、黒い翼は七つの海と空を目指す。翼の向かう方角に、その彼方に思いを馳せる。
ヘタに「これみよがしに恋愛を匂わせる」ことをしなくても、トウコとあすかなら、大人の愛憎をエロく見せてくれるよ、サイトーくん。
トウコは放っておいてもイヤラシイし、あすかもそれを真正面から受けて立ってくれる。
ああ、よくぞこのふたりがティリアンとギルダを演じてくれた。
ベッドなだれ込みシーンで、演出以上のエロさを見せてくれることが、うれしくてならない。
プラトニックよりはるかに、せつなくて愛しいから。
傷痕を介する男と女の愛欲が。
黒い翼と傷痕と。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月26日 タカラヅカ さて、トウコだからエロ話いきます。
トウコだから。
ええ、ティリアンを演じているのがトウコちゃんだから、です。星組公演『エル・アルコン−鷹−』。
そもそも『エル・アルコン』にはベッドシーンが2回ある。
大劇場で通常の2本立て公演で、たった1時間半に2回のベッドシーン、つーのは前代未聞ぢゃないのかヲイ。
もちろん原作がそーゆーもんで、原作はもっとベッドシーンあるし、みんな露出度高いしティリアンなんか何回ケツ見せたよ?てなもんであることは、わかっている。(原作は中高生時代に読んだ。手元には何故かない。……どこへやってしまったんだろー。『七海空』はあるのになー)
サイトー演出のこの公演も、原作の台詞まんまで「必要だから」2回もそーゆーシーンがあることも、わかっている。
そうじゃなくて。
ベッドシーンがあるから、そーゆー話だから、エロ、というわけではない。
トウコだから、エロい。
とゆーことを話したいんだ。
トウコと他のジェンヌとをもっとも別モノたらしめている要因はなんじゃろ? と考えたときに、浮かぶ答えは「生々しさ」にある。
トウコには「妖精らしさ」がない。
女の子が男役を演じるタカラヅカでは、舞台の上全部が作り物というか、「架空」であることをたのしむ、ファンタジーとしての世界観に貫かれている。
ベッドシーンやきわどいラヴシーンがあっても、そこに「性」はなく、「愛のカタチ」のひとつの表現として受け止める。
そこで語られるのは美しさやロマンティックさであり、ほんとーにぬめぬめした肉感的な話ではない。
それが、トウコがそのテのシーンを演じると、そこに「肉」を感じさせてしまう。
男役のときはそれでも「創って」いるからそこまで露骨にはならないが、彼女が女役をするとそのへんが赤裸々になっていた。
『王家に捧ぐ歌』のアイーダのエロさ。そこまでエロくする必要はないだろうし、本人もエロさに主眼を置いた役作りなんかしてないだろうに、妙にエロい。
ラダメス@ワタルに抱きしめられたときの吐息とか、男を愛撫する指使いとか、妙にリアルな「女」だった。
『ベルサイユのばら』のオスカルの生々しさ。大昔の人が演出した謎のエビ反りラブシーンで、形骸化した「型」を眺めるだけのはずが、そこに「性」を感じさせてくれた。
ふたりの男と女がこれから結ばれる……実際にあれやこれやするんだ、ということをはじめて思い知らせられ、見ていてうろたえた。や、『ベルばら』は何十回と見てきたけど、「今宵一夜」の意味なんか考えなかったもん。
『王家』のときはあくまでもラヴシーン止まりだったせいかそこまで思わなかったが、『ベルばら』では、何故トウコを嫌う人たちが一定数いるのかを思い知った。
これほど「生々しい」持ち味のあるスターは、たしかに両刃の剣だな、と。
タカラヅカは夢の世界。現実を持ち込んではいけないところだ。
なのにトウコには「ナマ」の部分がある。そこは夢の世界なのに、ひどく現実的な、猥雑なものがあるんだ。
これは、拒絶反応が出る人たちがいても、おかしくない。
ただ苦手とかキライ、とかじゃなくて、生理的に受け付けない、という類いの反応。
だが、トウコの抗いがたい魅力を形成しているのも、その「生々しさ」所以だと思う。
他の「妖精」たちと一線を画する「生々しさ」。夢の世界に現実を匂わせるイヤラしさ。
これは、拒絶反応が出るのと同じように、熱狂的に支持される独特の部分だろう。
『エル・アルコン』は男役だが、ティリアンはもともと「そーゆーキャラ」、もともとベッドシーン多し、ということで、トウコの生々しさが女役のときのように解禁になっている。
ペネロープ@コトコトに対しては利害意図によってだからそれほどでもないんだが、ギルダ@あすかに対して、エロさが高まっている。
「いやよいやよ」と言っていた女が、抱かれた翌朝から男にめろめろ、というのは、あまりに安っぽく馬鹿っぽいので、ヅカでは見たくない展開のひとつである。
それでも、なお。
トウコだと、ソレもアリだと思える。
敗北した陣営の女が勝者に陵辱されるのは、現代を除いたほとんどの時代に、ふつーにあったこと。
女は、殺されるだけでは済まない。死ぬより辛い目に遭うかもしれない。また、男と違って即殺されない分、生き残るチャンスがあるかもしれない。それだけの覚悟があって、ギルダは男と同じように海に出ていただろう。
男と同じように、たくさんの傷を躯に刻みながら、戦い続けてきた。
その傷はたしかに勲章である。
ギルダの、故郷と海への愛情の証であり、彼女の強さを示すものである。
だとしても。
彼女が「女」である以上、カラダの醜い傷痕は「女」としての彼女を損なうモノ、彼女の「傷み」であるはずだ。
男なら誇りとして見せびらかしてもいいモノが、女には恥になる。
理不尽だと思うけれど、事実として「そう」なんだから仕方ない。
誇りと、傷みと。海の戦士であり、女であるギルダの持つ矛盾。
その矛盾を、ティリアンが射抜いたのだと思う。
つーことで、翌日欄に続く。
トウコだから。
ええ、ティリアンを演じているのがトウコちゃんだから、です。星組公演『エル・アルコン−鷹−』。
そもそも『エル・アルコン』にはベッドシーンが2回ある。
大劇場で通常の2本立て公演で、たった1時間半に2回のベッドシーン、つーのは前代未聞ぢゃないのかヲイ。
もちろん原作がそーゆーもんで、原作はもっとベッドシーンあるし、みんな露出度高いしティリアンなんか何回ケツ見せたよ?てなもんであることは、わかっている。(原作は中高生時代に読んだ。手元には何故かない。……どこへやってしまったんだろー。『七海空』はあるのになー)
サイトー演出のこの公演も、原作の台詞まんまで「必要だから」2回もそーゆーシーンがあることも、わかっている。
そうじゃなくて。
ベッドシーンがあるから、そーゆー話だから、エロ、というわけではない。
トウコだから、エロい。
とゆーことを話したいんだ。
トウコと他のジェンヌとをもっとも別モノたらしめている要因はなんじゃろ? と考えたときに、浮かぶ答えは「生々しさ」にある。
トウコには「妖精らしさ」がない。
女の子が男役を演じるタカラヅカでは、舞台の上全部が作り物というか、「架空」であることをたのしむ、ファンタジーとしての世界観に貫かれている。
ベッドシーンやきわどいラヴシーンがあっても、そこに「性」はなく、「愛のカタチ」のひとつの表現として受け止める。
そこで語られるのは美しさやロマンティックさであり、ほんとーにぬめぬめした肉感的な話ではない。
それが、トウコがそのテのシーンを演じると、そこに「肉」を感じさせてしまう。
男役のときはそれでも「創って」いるからそこまで露骨にはならないが、彼女が女役をするとそのへんが赤裸々になっていた。
『王家に捧ぐ歌』のアイーダのエロさ。そこまでエロくする必要はないだろうし、本人もエロさに主眼を置いた役作りなんかしてないだろうに、妙にエロい。
ラダメス@ワタルに抱きしめられたときの吐息とか、男を愛撫する指使いとか、妙にリアルな「女」だった。
『ベルサイユのばら』のオスカルの生々しさ。大昔の人が演出した謎のエビ反りラブシーンで、形骸化した「型」を眺めるだけのはずが、そこに「性」を感じさせてくれた。
ふたりの男と女がこれから結ばれる……実際にあれやこれやするんだ、ということをはじめて思い知らせられ、見ていてうろたえた。や、『ベルばら』は何十回と見てきたけど、「今宵一夜」の意味なんか考えなかったもん。
『王家』のときはあくまでもラヴシーン止まりだったせいかそこまで思わなかったが、『ベルばら』では、何故トウコを嫌う人たちが一定数いるのかを思い知った。
これほど「生々しい」持ち味のあるスターは、たしかに両刃の剣だな、と。
タカラヅカは夢の世界。現実を持ち込んではいけないところだ。
なのにトウコには「ナマ」の部分がある。そこは夢の世界なのに、ひどく現実的な、猥雑なものがあるんだ。
これは、拒絶反応が出る人たちがいても、おかしくない。
ただ苦手とかキライ、とかじゃなくて、生理的に受け付けない、という類いの反応。
だが、トウコの抗いがたい魅力を形成しているのも、その「生々しさ」所以だと思う。
他の「妖精」たちと一線を画する「生々しさ」。夢の世界に現実を匂わせるイヤラしさ。
これは、拒絶反応が出るのと同じように、熱狂的に支持される独特の部分だろう。
『エル・アルコン』は男役だが、ティリアンはもともと「そーゆーキャラ」、もともとベッドシーン多し、ということで、トウコの生々しさが女役のときのように解禁になっている。
ペネロープ@コトコトに対しては利害意図によってだからそれほどでもないんだが、ギルダ@あすかに対して、エロさが高まっている。
「いやよいやよ」と言っていた女が、抱かれた翌朝から男にめろめろ、というのは、あまりに安っぽく馬鹿っぽいので、ヅカでは見たくない展開のひとつである。
それでも、なお。
トウコだと、ソレもアリだと思える。
敗北した陣営の女が勝者に陵辱されるのは、現代を除いたほとんどの時代に、ふつーにあったこと。
女は、殺されるだけでは済まない。死ぬより辛い目に遭うかもしれない。また、男と違って即殺されない分、生き残るチャンスがあるかもしれない。それだけの覚悟があって、ギルダは男と同じように海に出ていただろう。
男と同じように、たくさんの傷を躯に刻みながら、戦い続けてきた。
その傷はたしかに勲章である。
ギルダの、故郷と海への愛情の証であり、彼女の強さを示すものである。
だとしても。
彼女が「女」である以上、カラダの醜い傷痕は「女」としての彼女を損なうモノ、彼女の「傷み」であるはずだ。
男なら誇りとして見せびらかしてもいいモノが、女には恥になる。
理不尽だと思うけれど、事実として「そう」なんだから仕方ない。
誇りと、傷みと。海の戦士であり、女であるギルダの持つ矛盾。
その矛盾を、ティリアンが射抜いたのだと思う。
つーことで、翌日欄に続く。
黒い翼は夢を飛ぶ。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月25日 タカラヅカ「ひどい主人公でどうなるかと思ったけれど、最後に改心してくれてよかったわ(笑)」
とゆー会話が耳に入り、気が遠くなったりもした、『エル・アルコン−鷹−』。
してないからっ。改心なんてこれっぽちもしてない……つーか、そもそもそーゆー次元の話ぢゃないから。
あー、うー、最後に白い衣装で現れたからかなあ、「改心した」とかいう誤解を生んでいるのって。
悪人が死んで改心する話、だと受け取る人がいることへの衝撃。
いやあ、人間って人間の数だけ感じ方があるんだよなあ。すげえなあ。
アクロバティックなサーカス的ド派手オープニングの直後、野望の人ティリアン@トウコと彼を慕う少年ニコラス@ゆかりとのふたりきり場面になる。
「罪」と「野心」を載せた黒い翼……しかしここで歌うのは一転して「七つの海七つの空」……夢だ。
ええ、2回目は幕開きから泣いてますが、ここでもガーガー泣けます。
ひたすら「強い」オープニングのあと、「純粋な夢」を歌う美しいシーンになるわけですよ。
彼は、鷹なんだ。
大きな翼で空を飛ぶ。
小動物を捕らえて喰らう。
何故、飛ぶのか。
何故、弱者を喰らうのか。
鷹にそんなことを問うても無意味だ。
だって、鷹だから。
そうすることが本能であり、それが「彼が彼で在ること」なんだ。
ティリアンを「悪」と感じるのは、人間の勝手な尺度でしかない。
巣に掛かった蝶を喰べる蜘蛛を「悪」、喰べられる蝶を「可哀想」と感じるのと同じ。
わたしは人間だからもちろん彼を「悪」だと思うが、それとは別に彼の生き方を認めている。
彼が彼で在ること。
ただそれだけの物語のせつなさを、噛みしめている。
そんなふうにしか生きられない……その、「業」のようなものを感じ、泣けて仕方がない。
この物語は、「七つの海七つの空」に憑かれた者たちの物語でもある。
ティリアンも、ギルダ@あすかも、そしてレッド@れおんも、みな「海」と「自由」に憑かれ、焦がれている。
何故彼らが「海」に魅せられるのか、理由はない。
彼らの魂のカタチである、としか言いようがない。
鷹がその翼で空を飛ぶのと同じ。
彼らは、他の誰でもない彼らだから、海に生き、海に死んでいくんだ。
それは善悪という次元の話ではない。
ミミズがミミズに生まれミミズとして生き、オケラがオケラに生まれオケラとして生き、アメンボがアメンボとして生まれ死ぬ、そーゆー次元の話だ。
7年間土の中にいて、ひと夏だけ精一杯鳴いて死んでいく蝉に、善悪を解いても仕方がない。
そーゆー次元の話ではないが、蝉の一生を思うとなにかしらせつないものを感じる、てゆーのが人間で。
『エル・アルコン−鷹−』全体に感じるせつなさは、「彼が彼で在ること」に対するせつなさだ。
ティリアンを悪だと思い、それでも美しいと思い、それでもそんなふうにしか生きられない彼に涙する。
志半ばで散っていく最期を知っているから「可哀想」で泣けるのではない。ティリアンは別に「可哀想」な人ではない。
「自分」がなんであるかを知り、そのためにまっすぐに生きた、ただ今回は力足りずに倒れた……それはちっとも哀れではない。
無念だろうと思うけれど、憐憫ではない。
鷹は自由に己れの翼で飛んだのだから。
「自分」がなんなのか、自分の居場所は、行きたい場所はどこなのか、わからずにただなんとなく漂っている多くの人間たちに比べ、目的を持って飛び、前のめりに倒れた夢追い人の、どこが哀れだというのか。
彼は幸福だ。
幸福で、そして、孤独な人だ。
自分がなんであるかもわからず、わからなくてもなにも感じず漂っている者たちとちがい、明確なビジョンが見えている彼は、ひとりちがう世界にいる。
他の人間たちが知らない美しい光景を知っているかわり、他の人間たちが受けることのない痛みを背負い、血を流しながらも前へ進もうとしている。
彼が彼で在ること。
ただそれだけの、せつなさ。
ニコラスとの関係を描くエピソードが欲しいのはほんとうだが、この最初の「夢」を語る場面があるのだから、それだけで十分っちゃ十分なのかもしれない、と思う。
ティリアンが他人に「七つの海七つの空」を語るのは、ニコラスとギルダにのみだからだ。
それだけで、彼らが「特別」であることはわかる。
描く必要があるのは「ニコラスが誰か」であって、彼との個人的なエピソードではないな、と観劇2回目以降思った。
台詞の応酬でいいから、ニコラスが子どもの頃にティリアンに助けられ、以後恩人として敬愛し、成長した今ティリアンの片腕を務めるよーになったんだ、つーことを入れるべきだ。
説明台詞になっちゃうけどさー。エピソードを描くヒマがないなら、キャラ説明だけでもしよーよー。「アンタ誰??」状態だよ、いきなり出てこられても。
ある意味光源氏と紫の上だっつーことを、観客に示そうよ。
冒頭のこの場面だけでも、ニコラス役に演技力があれば、もっとなんとかなったと思う。
だが如何せん、演じているのはゆかりくんだ。美貌は七難隠す、つーことでゆかりくんはゆかりくんだからいいんだが、「脚本に書いてある」以上のモノを出す力はない。
ゆかりくんに合わせて、もっとわかりやすくするべきなんぢゃないかなぁ、ニコラス役。
まあ、脚本の足りない部分、ゆかりくんの足りない部分を全部背負って、トウコがガンガンいってるから、それはソレでいいのかな。
幕開きからここまでダダ泣きなのに、次の「♪プリマス プリマス♪」のシーンで涙は引っ込む。
いやその、星組、アンサンブルすごすぎ。
ええっと、コーラスもすごいけど、ソロもそれぞれ、けっこーすごくないか……?
どういう基準で選んでいるんだろう。
ふつーアンサンブルにしろソロ歌手にしろ、歌がうまい人がやるもんだけど、星組は、キャラ(個性)で選んでる?
いやあ、いいなあ。一気に正気に返るっていうか、みんな小芝居やりすぎてて、メロディは奔放(笑)で。
水輝涼ひとりぢゃどーにもなんねーなー、ここのものすごさは(笑)。
や、誉めてます。
そりゃ歌はうまいにこしたことないが、多少アレでも芝居の中として雰囲気出てるから。
たのしいから好き。
どこ見ていいか迷う。
こっから先は、「キャラもの」として、それぞれのキャラクタのハマりっぷりを堪能。
エドウィン@すずみんのお貴族サマぶりとか!
あーもー、すずみんステキ〜〜、なんなのあのキラキラ。さすがジェローデル役者、お貴族サマ似合い過ぎ。
ペネロープ@コトコトのお人形さんぶりとか。
まさしく貴族の令嬢、気位の高いお姫様。世間知らずの壊れ物っぽいところがたまりません。
てゆーかマスターズ@あかしの美貌は、なんなんですか。
やばい、やばいっすよ彼!! かっこよすぎ。原作まんまの髪型、すげえ。
てなふーに。
次にせつなさに胸を焦がすのは、ティリアンとギルダの心が近づいてからだ。
つーことで、続く。
とゆー会話が耳に入り、気が遠くなったりもした、『エル・アルコン−鷹−』。
してないからっ。改心なんてこれっぽちもしてない……つーか、そもそもそーゆー次元の話ぢゃないから。
あー、うー、最後に白い衣装で現れたからかなあ、「改心した」とかいう誤解を生んでいるのって。
悪人が死んで改心する話、だと受け取る人がいることへの衝撃。
いやあ、人間って人間の数だけ感じ方があるんだよなあ。すげえなあ。
アクロバティックなサーカス的ド派手オープニングの直後、野望の人ティリアン@トウコと彼を慕う少年ニコラス@ゆかりとのふたりきり場面になる。
「罪」と「野心」を載せた黒い翼……しかしここで歌うのは一転して「七つの海七つの空」……夢だ。
ええ、2回目は幕開きから泣いてますが、ここでもガーガー泣けます。
ひたすら「強い」オープニングのあと、「純粋な夢」を歌う美しいシーンになるわけですよ。
彼は、鷹なんだ。
大きな翼で空を飛ぶ。
小動物を捕らえて喰らう。
何故、飛ぶのか。
何故、弱者を喰らうのか。
鷹にそんなことを問うても無意味だ。
だって、鷹だから。
そうすることが本能であり、それが「彼が彼で在ること」なんだ。
ティリアンを「悪」と感じるのは、人間の勝手な尺度でしかない。
巣に掛かった蝶を喰べる蜘蛛を「悪」、喰べられる蝶を「可哀想」と感じるのと同じ。
わたしは人間だからもちろん彼を「悪」だと思うが、それとは別に彼の生き方を認めている。
彼が彼で在ること。
ただそれだけの物語のせつなさを、噛みしめている。
そんなふうにしか生きられない……その、「業」のようなものを感じ、泣けて仕方がない。
この物語は、「七つの海七つの空」に憑かれた者たちの物語でもある。
ティリアンも、ギルダ@あすかも、そしてレッド@れおんも、みな「海」と「自由」に憑かれ、焦がれている。
何故彼らが「海」に魅せられるのか、理由はない。
彼らの魂のカタチである、としか言いようがない。
鷹がその翼で空を飛ぶのと同じ。
彼らは、他の誰でもない彼らだから、海に生き、海に死んでいくんだ。
それは善悪という次元の話ではない。
ミミズがミミズに生まれミミズとして生き、オケラがオケラに生まれオケラとして生き、アメンボがアメンボとして生まれ死ぬ、そーゆー次元の話だ。
7年間土の中にいて、ひと夏だけ精一杯鳴いて死んでいく蝉に、善悪を解いても仕方がない。
そーゆー次元の話ではないが、蝉の一生を思うとなにかしらせつないものを感じる、てゆーのが人間で。
『エル・アルコン−鷹−』全体に感じるせつなさは、「彼が彼で在ること」に対するせつなさだ。
ティリアンを悪だと思い、それでも美しいと思い、それでもそんなふうにしか生きられない彼に涙する。
志半ばで散っていく最期を知っているから「可哀想」で泣けるのではない。ティリアンは別に「可哀想」な人ではない。
「自分」がなんであるかを知り、そのためにまっすぐに生きた、ただ今回は力足りずに倒れた……それはちっとも哀れではない。
無念だろうと思うけれど、憐憫ではない。
鷹は自由に己れの翼で飛んだのだから。
「自分」がなんなのか、自分の居場所は、行きたい場所はどこなのか、わからずにただなんとなく漂っている多くの人間たちに比べ、目的を持って飛び、前のめりに倒れた夢追い人の、どこが哀れだというのか。
彼は幸福だ。
幸福で、そして、孤独な人だ。
自分がなんであるかもわからず、わからなくてもなにも感じず漂っている者たちとちがい、明確なビジョンが見えている彼は、ひとりちがう世界にいる。
他の人間たちが知らない美しい光景を知っているかわり、他の人間たちが受けることのない痛みを背負い、血を流しながらも前へ進もうとしている。
彼が彼で在ること。
ただそれだけの、せつなさ。
ニコラスとの関係を描くエピソードが欲しいのはほんとうだが、この最初の「夢」を語る場面があるのだから、それだけで十分っちゃ十分なのかもしれない、と思う。
ティリアンが他人に「七つの海七つの空」を語るのは、ニコラスとギルダにのみだからだ。
それだけで、彼らが「特別」であることはわかる。
描く必要があるのは「ニコラスが誰か」であって、彼との個人的なエピソードではないな、と観劇2回目以降思った。
台詞の応酬でいいから、ニコラスが子どもの頃にティリアンに助けられ、以後恩人として敬愛し、成長した今ティリアンの片腕を務めるよーになったんだ、つーことを入れるべきだ。
説明台詞になっちゃうけどさー。エピソードを描くヒマがないなら、キャラ説明だけでもしよーよー。「アンタ誰??」状態だよ、いきなり出てこられても。
ある意味光源氏と紫の上だっつーことを、観客に示そうよ。
冒頭のこの場面だけでも、ニコラス役に演技力があれば、もっとなんとかなったと思う。
だが如何せん、演じているのはゆかりくんだ。美貌は七難隠す、つーことでゆかりくんはゆかりくんだからいいんだが、「脚本に書いてある」以上のモノを出す力はない。
ゆかりくんに合わせて、もっとわかりやすくするべきなんぢゃないかなぁ、ニコラス役。
まあ、脚本の足りない部分、ゆかりくんの足りない部分を全部背負って、トウコがガンガンいってるから、それはソレでいいのかな。
幕開きからここまでダダ泣きなのに、次の「♪プリマス プリマス♪」のシーンで涙は引っ込む。
いやその、星組、アンサンブルすごすぎ。
ええっと、コーラスもすごいけど、ソロもそれぞれ、けっこーすごくないか……?
どういう基準で選んでいるんだろう。
ふつーアンサンブルにしろソロ歌手にしろ、歌がうまい人がやるもんだけど、星組は、キャラ(個性)で選んでる?
いやあ、いいなあ。一気に正気に返るっていうか、みんな小芝居やりすぎてて、メロディは奔放(笑)で。
水輝涼ひとりぢゃどーにもなんねーなー、ここのものすごさは(笑)。
や、誉めてます。
そりゃ歌はうまいにこしたことないが、多少アレでも芝居の中として雰囲気出てるから。
たのしいから好き。
どこ見ていいか迷う。
こっから先は、「キャラもの」として、それぞれのキャラクタのハマりっぷりを堪能。
エドウィン@すずみんのお貴族サマぶりとか!
あーもー、すずみんステキ〜〜、なんなのあのキラキラ。さすがジェローデル役者、お貴族サマ似合い過ぎ。
ペネロープ@コトコトのお人形さんぶりとか。
まさしく貴族の令嬢、気位の高いお姫様。世間知らずの壊れ物っぽいところがたまりません。
てゆーかマスターズ@あかしの美貌は、なんなんですか。
やばい、やばいっすよ彼!! かっこよすぎ。原作まんまの髪型、すげえ。
てなふーに。
次にせつなさに胸を焦がすのは、ティリアンとギルダの心が近づいてからだ。
つーことで、続く。
黒い翼は夢を見る。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月24日 タカラヅカ 初日に観たときは、ツボ突かれて笑ったり、あまりものサイトーくんぶりになまぬるく笑ったり、演出上のポカに失笑したり、ある意味意識散漫だったのかもしれないが。
それでも「愉快」だから、きっとこの作品を愛せるだろうと思った。星組公演『エル・アルコン−鷹−』。
が。
どーゆーことだ。
2回目に観たとき、プロローグから泣きっぱなしだった。
若さゆえの野心を感じさせるジェラード@しいちゃんと、駆け込んでくる小ティリアン@天寿。ふたりのやりとりはほんの一瞬なのに、心の交流が見える。
「失われること」を前提とした美しさ。あたたかさ。
しいちゃんという人。
演技力があるとはまったく思ってないし、なにをやっても「しいちゃん」である彼は、だからこそ光を放つ。
若く美しく力強くやさしく、そしていくばくかの愚鈍さと無神経さを持つ青年。
彼は飛び込んできた少年に対し、慈愛の瞳と言葉を与える。
ふわりと空気が動く。
あたたかい。
彼がどんな役で誰なのか、このあわただしいプロローグでは大して語られないが、ただ彼が「あたたかい」ことがわかる。
世界を包む夕陽にも似た、あたたかなオレンジ色の光。
少年が、彼を慕っていることがわかる。
あたたかいから。
そのあたたかさで、やさしい光で、すとんと納得できる。
失われることがわかっている、あたたかさ。やさしい光。
プロローグから、ジェラードの姿を見たときから、切なくて切なくて。
幕が開くなり涙腺決壊ってどうなのよ。
スパイであるジェラードを逃がした少年に、父親の怒りと不信が爆発し、身を守るために少年は父を刺す。
いやあ、展開早すぎ、原作知らない人はついてこられるのか? せめておっさん登場時に小ティリアンに「父上」と呼ばせようよ、突然出てきて「そんなにあの男が好きか!」と怒り狂うおっさんは「ホモ?」「お稚児さんをめぐっての三角関係?」とか、見えないでもないぞっと。(え? そんなこと誰も考えない?)
父を刃にかけた少年が、己れの魂のありかたを宣言する。
「私を殺そうとするモノは父上でも許さない」だっけ。
強い自我。だからこそ輝く孤独。
「野心のままに生きてごらん。君にはそれが出来るはずだ」
愛し、あこがれていた相手から与えられた言葉は、少年の道しるべとなる。
肯定。
それは、肯定の言葉。
子どもっちゅーのは、ただもぉ第一に「愛されなくてはならない」。
しつけとか教育とかとは、別の次元で。
「生まれてきてよかったんだよ」
「ここが君の居場所だよ」
と、周りの大人はまず子どもに教えなければならない。
ただ、愛することによって。
ティリアン少年は、それを与えられていなかった。怒濤のプロローグからわかること。
父に疎まれていたことから察せられる。
彼が彼として生まれてきた、彼が彼であること、を、否定されてきた。
父親に。あるいは、イギリス人らしくない容貌ゆえ周囲に。
ただ愛されなければいけない時期に、彼は満足な愛を得られなかった。
彼が彼であることを否定されていた。
だからこそ。
そのままのティリアン少年を「肯定」したジェラードの言葉が「呪文」になる。
肯定。
君は正しい。
君は君のままでいい。
父を刺した少年は知っている。それが「罪」であると。
それでも彼は、「自分」を貫くことを選ぶ。
世間の常識や倫理でどれほどまちがっていようと、関係ない。
他人の決めた価値観より、己れの意志を肯定する。
「罪」に手を汚してなお、信じる道を進む。欲望のままに。
そこからはじまる物語。
少年は野心に濡れる美しい青年となり、怒濤のオープニングがはじまる。
サイトー☆サーカス極まれり(板/野/サーカス的イメージで言ってみる・笑)。
アニメソング系のこっ恥ずかしくもノリのいい主題歌にのって、これでもかと派手な演出が続く。盆は回るわセリは上下するわ映像は流れるわ。や、正直「舞台」なんで映像はどーでもいいんだけど。にぎやかしとしてはアリだろう。
このオープニングで、だだ泣きする。
これでもか、これでもか。
他のどのジャンルでもありえない豪華さととんでもなさで。ドラマティックに「物語」が開幕する期待感。
わたしがタカラヅカに求めるもののひとつが、このオープニングに集約されている。
「物語」の「真ん中」に立つティリアン@トウコ。
その美しさと、眼の力。
これは、彼の物語。
大きな強い翼で生きた彼の物語。
「肯定」の物語。
他人の価値観ではなく、自分の信念を貫く物語。
次々登場してくる人々は、ティリアンの人生を彩る人々。モブのダンサーやコーラス隊じゃない。ひとりひとりがこの世界に生きる人々。
交差する人生。歌声。
キャラクタが多すぎて、どこを見ていいかわからない。
2回目観劇時はいつもの下手端にいたんだけど、真横の下手セリから誰かせり上がってきて、それがまひろで、びっくらこいた。
あわてて上手を見れば、同じようにあかしがせり上がってるし!
ちょお待て、マスターズ@あかしとスコット@しゅんって、原作では大した描かれ方してない脇役がせり上がりってなにごと?!(白目)
や、初日もせり上がりがあったことは知ってるけど、なにしろ出演者多すぎにぎやか過ぎで「誰か出てきたけど、誰だろ」くらいで見ていられなかった、認識できなかった。
あかしとしゅんだったのか! てか、んな脇役までなんでわざわざせり上がり?! 原作ファンならわかってるだろーけど、作者による思い入れor主と脇の区別で絵も主線の太さもまったくちがい、ティリアンの部下であるこのふたりは大した比重のないキャラなんだってば。
その無意味っぷり、その大仰さにウケまくる。いいなあ、この無駄さ。や、派手になるんだから、いくらやってもいいんだよ。
演出が派手であればあるほど、ティリアンの「物語」が大きくなる。
彼が偉大になる。
原作を好きで、トウコを好きなわたしは、このてんこ盛りさに胸が熱くなる。余力を残すことない、なりふりかまわない全力ぶりに、サイトーよくやった!!と叫びたい。
女海賊ギルダ@あすかの美しさ、華やかさ。
登場するなり、「彼女の物語」がそこに見える。
白い大仰なドレスに細身の剣。
海にも戦艦にも海賊にも、まったくそぐわない貴婦人姿で、剣を握るその存在感。
男装の女海賊たちの中に立つ、ドレス姿の船長っつーのは、アニメ的「記号」としてもすばらしい。
加えて登場する「第三勢力」、レッド@れおん。
ギルダにしろレッドにしろ、彼らがナニモノでティリアンとどう関わるのかは説明されていないけれど、とにかくとびきりのドラマを予感させてティリアンへの敵愾心を歌う。
ティリアンは「黒き翼」と歌い、ギルダは「翼をわたしの海に落とす」と歌い、レッドは「憎い黒い翼」と歌う。
ティリアンを中心に、世界が隆起し、回りはじめる。
「罪」とその自覚、それを超えてなお「肯定」を貫くところからはじまる、力強い物語。
わくわく。
わくわくわくっ。
興奮して、体温が上がって、うれしくてうれしくてたまらなくなる。
心臓がばくばく脈打つから、涙が出る。
「ドラマティック」……それが今、ここにすべてある。
つーことで、ジェラードのプロローグに引き続いて、オープニングでも泣けてしょーがないんだってぱ。
それでも「愉快」だから、きっとこの作品を愛せるだろうと思った。星組公演『エル・アルコン−鷹−』。
が。
どーゆーことだ。
2回目に観たとき、プロローグから泣きっぱなしだった。
若さゆえの野心を感じさせるジェラード@しいちゃんと、駆け込んでくる小ティリアン@天寿。ふたりのやりとりはほんの一瞬なのに、心の交流が見える。
「失われること」を前提とした美しさ。あたたかさ。
しいちゃんという人。
演技力があるとはまったく思ってないし、なにをやっても「しいちゃん」である彼は、だからこそ光を放つ。
若く美しく力強くやさしく、そしていくばくかの愚鈍さと無神経さを持つ青年。
彼は飛び込んできた少年に対し、慈愛の瞳と言葉を与える。
ふわりと空気が動く。
あたたかい。
彼がどんな役で誰なのか、このあわただしいプロローグでは大して語られないが、ただ彼が「あたたかい」ことがわかる。
世界を包む夕陽にも似た、あたたかなオレンジ色の光。
少年が、彼を慕っていることがわかる。
あたたかいから。
そのあたたかさで、やさしい光で、すとんと納得できる。
失われることがわかっている、あたたかさ。やさしい光。
プロローグから、ジェラードの姿を見たときから、切なくて切なくて。
幕が開くなり涙腺決壊ってどうなのよ。
スパイであるジェラードを逃がした少年に、父親の怒りと不信が爆発し、身を守るために少年は父を刺す。
いやあ、展開早すぎ、原作知らない人はついてこられるのか? せめておっさん登場時に小ティリアンに「父上」と呼ばせようよ、突然出てきて「そんなにあの男が好きか!」と怒り狂うおっさんは「ホモ?」「お稚児さんをめぐっての三角関係?」とか、見えないでもないぞっと。(え? そんなこと誰も考えない?)
父を刃にかけた少年が、己れの魂のありかたを宣言する。
「私を殺そうとするモノは父上でも許さない」だっけ。
強い自我。だからこそ輝く孤独。
「野心のままに生きてごらん。君にはそれが出来るはずだ」
愛し、あこがれていた相手から与えられた言葉は、少年の道しるべとなる。
肯定。
それは、肯定の言葉。
子どもっちゅーのは、ただもぉ第一に「愛されなくてはならない」。
しつけとか教育とかとは、別の次元で。
「生まれてきてよかったんだよ」
「ここが君の居場所だよ」
と、周りの大人はまず子どもに教えなければならない。
ただ、愛することによって。
ティリアン少年は、それを与えられていなかった。怒濤のプロローグからわかること。
父に疎まれていたことから察せられる。
彼が彼として生まれてきた、彼が彼であること、を、否定されてきた。
父親に。あるいは、イギリス人らしくない容貌ゆえ周囲に。
ただ愛されなければいけない時期に、彼は満足な愛を得られなかった。
彼が彼であることを否定されていた。
だからこそ。
そのままのティリアン少年を「肯定」したジェラードの言葉が「呪文」になる。
肯定。
君は正しい。
君は君のままでいい。
父を刺した少年は知っている。それが「罪」であると。
それでも彼は、「自分」を貫くことを選ぶ。
世間の常識や倫理でどれほどまちがっていようと、関係ない。
他人の決めた価値観より、己れの意志を肯定する。
「罪」に手を汚してなお、信じる道を進む。欲望のままに。
そこからはじまる物語。
少年は野心に濡れる美しい青年となり、怒濤のオープニングがはじまる。
サイトー☆サーカス極まれり(板/野/サーカス的イメージで言ってみる・笑)。
アニメソング系のこっ恥ずかしくもノリのいい主題歌にのって、これでもかと派手な演出が続く。盆は回るわセリは上下するわ映像は流れるわ。や、正直「舞台」なんで映像はどーでもいいんだけど。にぎやかしとしてはアリだろう。
このオープニングで、だだ泣きする。
これでもか、これでもか。
他のどのジャンルでもありえない豪華さととんでもなさで。ドラマティックに「物語」が開幕する期待感。
わたしがタカラヅカに求めるもののひとつが、このオープニングに集約されている。
「物語」の「真ん中」に立つティリアン@トウコ。
その美しさと、眼の力。
これは、彼の物語。
大きな強い翼で生きた彼の物語。
「肯定」の物語。
他人の価値観ではなく、自分の信念を貫く物語。
次々登場してくる人々は、ティリアンの人生を彩る人々。モブのダンサーやコーラス隊じゃない。ひとりひとりがこの世界に生きる人々。
交差する人生。歌声。
キャラクタが多すぎて、どこを見ていいかわからない。
2回目観劇時はいつもの下手端にいたんだけど、真横の下手セリから誰かせり上がってきて、それがまひろで、びっくらこいた。
あわてて上手を見れば、同じようにあかしがせり上がってるし!
ちょお待て、マスターズ@あかしとスコット@しゅんって、原作では大した描かれ方してない脇役がせり上がりってなにごと?!(白目)
や、初日もせり上がりがあったことは知ってるけど、なにしろ出演者多すぎにぎやか過ぎで「誰か出てきたけど、誰だろ」くらいで見ていられなかった、認識できなかった。
あかしとしゅんだったのか! てか、んな脇役までなんでわざわざせり上がり?! 原作ファンならわかってるだろーけど、作者による思い入れor主と脇の区別で絵も主線の太さもまったくちがい、ティリアンの部下であるこのふたりは大した比重のないキャラなんだってば。
その無意味っぷり、その大仰さにウケまくる。いいなあ、この無駄さ。や、派手になるんだから、いくらやってもいいんだよ。
演出が派手であればあるほど、ティリアンの「物語」が大きくなる。
彼が偉大になる。
原作を好きで、トウコを好きなわたしは、このてんこ盛りさに胸が熱くなる。余力を残すことない、なりふりかまわない全力ぶりに、サイトーよくやった!!と叫びたい。
女海賊ギルダ@あすかの美しさ、華やかさ。
登場するなり、「彼女の物語」がそこに見える。
白い大仰なドレスに細身の剣。
海にも戦艦にも海賊にも、まったくそぐわない貴婦人姿で、剣を握るその存在感。
男装の女海賊たちの中に立つ、ドレス姿の船長っつーのは、アニメ的「記号」としてもすばらしい。
加えて登場する「第三勢力」、レッド@れおん。
ギルダにしろレッドにしろ、彼らがナニモノでティリアンとどう関わるのかは説明されていないけれど、とにかくとびきりのドラマを予感させてティリアンへの敵愾心を歌う。
ティリアンは「黒き翼」と歌い、ギルダは「翼をわたしの海に落とす」と歌い、レッドは「憎い黒い翼」と歌う。
ティリアンを中心に、世界が隆起し、回りはじめる。
「罪」とその自覚、それを超えてなお「肯定」を貫くところからはじまる、力強い物語。
わくわく。
わくわくわくっ。
興奮して、体温が上がって、うれしくてうれしくてたまらなくなる。
心臓がばくばく脈打つから、涙が出る。
「ドラマティック」……それが今、ここにすべてある。
つーことで、ジェラードのプロローグに引き続いて、オープニングでも泣けてしょーがないんだってぱ。
気分はジェットコースター。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月23日 タカラヅカ 『エル・アルコン−鷹−』で心配なのは、原作を読んでいない人が、登場人物の多さについてゆけるだろうか? ということだ。
なにかと衣装を替えて出てくるたーーっくさんの人たちの、名前と立ち位置と目的を、理解できるのかということ。
あまりにたくさんキャラが出過ぎる。しかもみんな国と立場と目的がバラバラで、国が同じでも目的はちがったり、係累が複数いたり、時代によって立場が変わったり、ややこしいことこの上ない。
わたしは原作ファンなのでそのへんの混乱が存在しないところからスタートしているので、原作未読の人がどう思い、どこまで理解できるのかはわからない。
ただ、わたし的に問題なのは、「多すぎるキャラクタの区別が付くか、理解できるか」だけだと思っている。
ここさえクリアでききるなら、あとは、どーでもヨシ。
キャラさえわかればいい。
ストーリーなんか、わからなくても無問題。
キャラ萌え作品なんて、そんなもん。
萌え系アニメとなった『ガンダム』がいい例よ、ストーリーなんか関係ない、どことどこがどんな理由で戦っていて、このミッションにどんな意味や政治的背景があり、具体的になにが行われているのか、知らなくても平気だもん。
要は、萌えなキャラクタたちが萌えなことをしている、やりとりをしている、会話をしている、なにかしら派手でドラマティックな場面がある、関係がある、それだけの連続で、たのしめるもの。
細かい理屈なんかどーでもいいのよ。
波に乗れ。大きな波だ、ざっぱ〜〜ん!!
ちまちま砂の上になにを作っていたって、波にはかなわない。
波をたのしめばいい。
だから最低限、キャラだけは理解・区別できないとねえぇ。
原作知らなかったり、星組生徒を半分以下しか区別つかない人は、ついて来れているのかしら?
サイトー作品のいいところは、こういう潔いまでのバカ作品、「大きな波だ、ざっぱ〜〜ん!!」を作れることにあると思うのよ。
コワレた作品はヅカにいくらでもあるけれど、みんな「小さい」のよ。せせこましいのよ。どーせ壊すなら、大波の上でサーフィンできるような愉快なバカッパワーが欲しいのよ。
前後のつながりも、意味もなくても、セリがんがん使って派手な音楽と派手な衣装で、盆回してスクリーンに映像流して、舞台装置使えるモノ全部使って、ここはテーマパークだ! たのしんでなんぼ! と宣言する。
ストーリーぶった切ってかっこいいダンスと歌の場面入れて、いちいちキメポーズ。何回クライマックス、何回「ここで幕が下りる?」と思わせるか。
気分はジェットコースター、絶叫系アトラクション、退屈されるくらいならあきれられた方がマシだぞホイ!
やー、バカでいいですなぁ。
気持ちいいですよ。
ストーリーがどうとか、コワレてるとかは、言いっこなし。そこを突っ込むような作品ではない。「コワレてる」を前提にして、「ありえない」を前提にして、それでヨシ。
もちろんソレでも不満はあるけれど。
とりあえず今すぐ、心の声@録音テープ流すのやめろとかな(笑)。
ニコラス@ゆかりが何故ティリアン@トウコにとって特別なのかを描け、とか、シグリット@みなみの出番、アレだけかよ、とか、てゆーかティリアン口説かせろ、エロ入れろエロ(ハァハァ・笑)とか、レッド@れおんの女装はどーした、とか、ジェラード@しいちゃんが死んだあと「自分で歩いて移動している」ことが客席から丸見えなのをなんとかしろ、とか、些細なことを言い出すとキリがないんだが(笑)。
サイトーくんの言語感覚が変なのは今にはじまったことではないし、むしろソレをたのしんでいるので、「ラジャー」「ミッション」「リベンジ」等のバカっぽい単語の大安売りも、笑いながら受け入れた。
なにしろ「グラン・ブルー グラン・メール グラン・スカイ」だもんなあ。
唐突なスペイン語の応酬とかも、「キタ来たキタ(笑)!」って感じだー。『血と砂』でもやってたなー(笑)。
『キル・ビル』という、これまた潔いバカ映画があるんだけど、ハリウッド女優たちがわざわざ日本でチャンバラやって、普段は英語喋ってるのに、キメ台詞だけわざわざ日本語なのよ。もちろんチョーへたっぴで、日本語なのに字幕必至なのよ。なんでキメ台詞だけ無意味に日本語?!(しかも超絶へたっぴ)と、爆笑させてくれる、愉快な映画。や、アメリカ人的には、キメ台詞が日本語だと「COOL!」てなもんなんでしょうよ。
それと同じだよね、サイトーくん。キメ台詞が「よくわからない言語」だと、「かっこいい」んだよね(笑)。
ジュリエット@キトリちゃんの思いきったバカぶりとか、オカマもまじった愛人ズのダンスとか、エリザベス女王@エレナと取り巻きたちの場面とか、星組ファンへの、サービスだよね?(笑) てな、生徒の使い方もマニアックでヨシ。
基本「なんでも来〜い」、おもしろいからコワレてても許すぞ〜〜、なんだけど、心から「いらない」と思うのは、ティリアンとギルダの、幼なじみ設定。
安い。
安すぎるよ、このサイトー・オリジナル設定。ほんとに安い想像力つっーか情緒に欠ける男だな。まあ、そんな人だからこれだけ大雑把にぶっ壊れられるんだろうけど。
幼なじみ設定にしたために、ティリアンとギルダ@あすかの結びつきが、安っぽく簡単プーに「子どものころ、やさしくしてもらったから特別な人」という展開に結びついちゃうでしょー。
せっかく「七つの海七つの空」という魂の共鳴を描いているのに、台無しだ。
まあなあ、サイトーくんの主人公は、泣き崩れて女の子に「あたしがアナタを守ってあげる」と言われないといけないので、孤独な少年ティリアンが、少女ギルダにやさしくしてもらわないといけないのかもしれないが。
『花恋吹雪』でも『血と砂』でも、主人公とその恋人は「幼なじみ」設定だから、サイトーくんのリビドーとして、「幼なじみ」というのはハズせないのかもしれないが。
幼なじみと心の声放送をなくしてくれりゃー、言うことないのになー。残念。
たのしいですよ、『エル・アルコン』。
なにかと衣装を替えて出てくるたーーっくさんの人たちの、名前と立ち位置と目的を、理解できるのかということ。
あまりにたくさんキャラが出過ぎる。しかもみんな国と立場と目的がバラバラで、国が同じでも目的はちがったり、係累が複数いたり、時代によって立場が変わったり、ややこしいことこの上ない。
わたしは原作ファンなのでそのへんの混乱が存在しないところからスタートしているので、原作未読の人がどう思い、どこまで理解できるのかはわからない。
ただ、わたし的に問題なのは、「多すぎるキャラクタの区別が付くか、理解できるか」だけだと思っている。
ここさえクリアでききるなら、あとは、どーでもヨシ。
キャラさえわかればいい。
ストーリーなんか、わからなくても無問題。
キャラ萌え作品なんて、そんなもん。
萌え系アニメとなった『ガンダム』がいい例よ、ストーリーなんか関係ない、どことどこがどんな理由で戦っていて、このミッションにどんな意味や政治的背景があり、具体的になにが行われているのか、知らなくても平気だもん。
要は、萌えなキャラクタたちが萌えなことをしている、やりとりをしている、会話をしている、なにかしら派手でドラマティックな場面がある、関係がある、それだけの連続で、たのしめるもの。
細かい理屈なんかどーでもいいのよ。
波に乗れ。大きな波だ、ざっぱ〜〜ん!!
ちまちま砂の上になにを作っていたって、波にはかなわない。
波をたのしめばいい。
だから最低限、キャラだけは理解・区別できないとねえぇ。
原作知らなかったり、星組生徒を半分以下しか区別つかない人は、ついて来れているのかしら?
サイトー作品のいいところは、こういう潔いまでのバカ作品、「大きな波だ、ざっぱ〜〜ん!!」を作れることにあると思うのよ。
コワレた作品はヅカにいくらでもあるけれど、みんな「小さい」のよ。せせこましいのよ。どーせ壊すなら、大波の上でサーフィンできるような愉快なバカッパワーが欲しいのよ。
前後のつながりも、意味もなくても、セリがんがん使って派手な音楽と派手な衣装で、盆回してスクリーンに映像流して、舞台装置使えるモノ全部使って、ここはテーマパークだ! たのしんでなんぼ! と宣言する。
ストーリーぶった切ってかっこいいダンスと歌の場面入れて、いちいちキメポーズ。何回クライマックス、何回「ここで幕が下りる?」と思わせるか。
気分はジェットコースター、絶叫系アトラクション、退屈されるくらいならあきれられた方がマシだぞホイ!
やー、バカでいいですなぁ。
気持ちいいですよ。
ストーリーがどうとか、コワレてるとかは、言いっこなし。そこを突っ込むような作品ではない。「コワレてる」を前提にして、「ありえない」を前提にして、それでヨシ。
もちろんソレでも不満はあるけれど。
とりあえず今すぐ、心の声@録音テープ流すのやめろとかな(笑)。
ニコラス@ゆかりが何故ティリアン@トウコにとって特別なのかを描け、とか、シグリット@みなみの出番、アレだけかよ、とか、てゆーかティリアン口説かせろ、エロ入れろエロ(ハァハァ・笑)とか、レッド@れおんの女装はどーした、とか、ジェラード@しいちゃんが死んだあと「自分で歩いて移動している」ことが客席から丸見えなのをなんとかしろ、とか、些細なことを言い出すとキリがないんだが(笑)。
サイトーくんの言語感覚が変なのは今にはじまったことではないし、むしろソレをたのしんでいるので、「ラジャー」「ミッション」「リベンジ」等のバカっぽい単語の大安売りも、笑いながら受け入れた。
なにしろ「グラン・ブルー グラン・メール グラン・スカイ」だもんなあ。
唐突なスペイン語の応酬とかも、「キタ来たキタ(笑)!」って感じだー。『血と砂』でもやってたなー(笑)。
『キル・ビル』という、これまた潔いバカ映画があるんだけど、ハリウッド女優たちがわざわざ日本でチャンバラやって、普段は英語喋ってるのに、キメ台詞だけわざわざ日本語なのよ。もちろんチョーへたっぴで、日本語なのに字幕必至なのよ。なんでキメ台詞だけ無意味に日本語?!(しかも超絶へたっぴ)と、爆笑させてくれる、愉快な映画。や、アメリカ人的には、キメ台詞が日本語だと「COOL!」てなもんなんでしょうよ。
それと同じだよね、サイトーくん。キメ台詞が「よくわからない言語」だと、「かっこいい」んだよね(笑)。
ジュリエット@キトリちゃんの思いきったバカぶりとか、オカマもまじった愛人ズのダンスとか、エリザベス女王@エレナと取り巻きたちの場面とか、星組ファンへの、サービスだよね?(笑) てな、生徒の使い方もマニアックでヨシ。
基本「なんでも来〜い」、おもしろいからコワレてても許すぞ〜〜、なんだけど、心から「いらない」と思うのは、ティリアンとギルダの、幼なじみ設定。
安い。
安すぎるよ、このサイトー・オリジナル設定。ほんとに安い想像力つっーか情緒に欠ける男だな。まあ、そんな人だからこれだけ大雑把にぶっ壊れられるんだろうけど。
幼なじみ設定にしたために、ティリアンとギルダ@あすかの結びつきが、安っぽく簡単プーに「子どものころ、やさしくしてもらったから特別な人」という展開に結びついちゃうでしょー。
せっかく「七つの海七つの空」という魂の共鳴を描いているのに、台無しだ。
まあなあ、サイトーくんの主人公は、泣き崩れて女の子に「あたしがアナタを守ってあげる」と言われないといけないので、孤独な少年ティリアンが、少女ギルダにやさしくしてもらわないといけないのかもしれないが。
『花恋吹雪』でも『血と砂』でも、主人公とその恋人は「幼なじみ」設定だから、サイトーくんのリビドーとして、「幼なじみ」というのはハズせないのかもしれないが。
幼なじみと心の声放送をなくしてくれりゃー、言うことないのになー。残念。
たのしいですよ、『エル・アルコン』。
「齋藤吉正見参!!」てな作品。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月22日 タカラヅカ その昔。
バウホールで『花吹雪恋吹雪』という作品を観た。
はっきり言ってめちゃくちゃだった。ストーリーも時代考証もキャラ設定も。
時の流れとか場面のつなぎ方とかも変だし、ストーリーをいちいちぶった切ってアニメのオープニングみたいなキメ・シーンが長々と入るし、わけわかんねー。
まともなことなんか、ぜんぜんないのに。
おもしろくて、仕方なかった。
血が全身を駆けめぐる感じ。
「おもしろい!!」と拳を握り、頭上に突き上げたり、リズムを取って振り回したくなる、そんなじっとしていられない高揚感。
アタマの半分は冷静に「ありえねー、コワレてる」と思っているのに、もう半分は「ありえねー、おもしれー」と、興奮している。
右脳だっけ、左脳だっけ、理屈ではなく感覚を司る部分。直感がすべてな動きをするの。
『花恋吹雪』は、アタマの半分だけで愉しむ作品だった。
理屈で考えちゃダメ。本能で感じろ、五感全部で愉しめ。
当時のわたしは、『花恋吹雪』主演の安蘭けいのファンではなかった。
好きかキライかと聞かれれば「好き」だと答えるが、ファンなのかと聞かれれば「別に」と答える。そのあたりの温度。
贔屓組である雪組の御曹司だったから愛着はすげーあったし、『凱旋門』のハイメ役がすごくよくてヲトメ心がきゅんきゅん(笑)していたので大分株は上がっていたが、まだ「ファン」と呼べるほどのものではなかった。
それでも、『花恋吹雪』には夢中になった。
おもしろさに、理屈は不要だと、痛感した。
いつもわたしは、「コワレてる」だの「物語の方程式からはずれている。これじゃ途中で論理崩壊して答えが出ない」とか、てきとーなこと言って文句垂れてるけど、そーゆー細かいことを全部まるっと「どーでもいいや」と思わせる力があったんだ。
やーもー、うっかり五右衛門サマ@トウコちゃんに、恋してしまうし。
あれほど華々しいFall in Loveは他にない(笑)。音がしそうなほど、一気にオチた。
以来、五右衛門サマの写真とかを不意に目にすると「うッ」とうめいてのけぞったり、そのあとフニャフニャに熔解したりして、友人たちから「バカだこいつ」とバッサリやられたりしたもんだ。
わたしが恋したのは五右衛門サマで、どうやらトウコちゃんではなかったらしい(最初は混同していたが、あとからチガウとわかった)が、それでもこのことにより、「安蘭けい」という人はわたしのなかで「トクベツ」になった。
ファンなのかと聞かれ「好きだけど別にファンじゃない」と答えていたのに、このときから「ファンです、トウコちゃん大好き」と言えるようになった。
あああ、なつかしいなあ、『花恋吹雪』。当時、石田三成@まとぶんのへたっぴさ(特に歌!!)に眩暈がしていたっけ……(笑)。
まとぶさんのわたしの最初の印象って、『エピファニー』と『花恋吹雪』だから、いい印象なかったんだよなあ、あまりになにもかもへたっぴで。まさか今、こんなにいい男になり、好きになろうとは……(笑)。
そのなつかしい……つまり昔の作品、『花恋吹雪』。
未だにわたしは、『花恋吹雪』を齋藤吉正の最高傑作だと思っている(笑)。
コレを超える魅力的なトンデモ作を、彼自身まだ作れずにいる。
そのあとのサイトーくんの劣化は凄まじく、去年の『Young Bloods!! 』のときなんぞ、「もう見捨てようか」と思ったほどだ。
だけど今。
『花恋吹雪』から、なんと7年もの時を経て。
『花恋吹雪』を彷彿とさせる作品が登場した。
や、彷彿とさせる、つーことで、超えてはいないんだが、当時のテイストにここまで近いモノを、今さら作れるなんて。
サイトーくんは、大人になっていないんだ。
そのことに、驚く。
『花恋吹雪』のおもしろさは、「めちゃくちゃさ」にあった。
良識とか羞恥心とか理性とかを持ち合わせた、ふつーの大人は作れない。
「お月様にはウサギさんが住んでいるんだよ。さあ、そのウサギさんのお話をしようね」
と言われても、「んなもんいねーよ」と知っている人と、本気で「月にいるウサギさんに会いたいなあ」と思っている人とでは、作る物語がチガウでしょう。
『花恋吹雪』とその焼き直し作品『血と砂』以後、サイトーくんは迷走を続けた。
誰だよ、齋藤吉正に「月にウサギはいない」って教えたの。たとえ真実でも現実でも、彼にはそんなもん、教える必要なかったのに。
「月のウサギさん」を信じているからこそ、ふつーの大人には想像も付かない奇天烈な世界を展開していた斉藤作品は、「大人の目を意識した」余計な部分が見えるようになった。
いらん知恵がついたために、作品がコワレているのはそのままなのに、小さく、つまらなくなっていった。
もうあの、子どもゆえの、常識を知らないゆえのめちゃくちゃさは、なくなってしまったんだ……。
そう思っていたのに。
あの安蘭けいを主演に迎えての齋藤吉正最新作、『エル・アルコン−鷹−』。
齋藤吉正が、帰ってきた。
ふつーの大人には作れないめちゃくちゃさで、『エル・アルコン−鷹−』を作ってきましたよ!!(笑)
や、『花恋吹雪』のころに比べれば十分、「大人の分別」をわきまえた上で、それでもあのころのバカッパワーを持って。
だからおもしろかった、『エル・アルコン』。
サイトーくんのリビドーまんま、過去作品使い回し! どこを切ってもサイトーヨシマサ!!
恥ずかしいほどのサイトー節に、おかしいやら泣けてくるやら。
初日に観たとき、いろんなとこで眩暈を感じつつも、にやけてしょーがなかった。
「好きだ!!」と叫んでいる、この作風。
大人は叫ばないよ、理性とか羞恥心とか持ってるからね。
「原作が好きだ、安蘭けいが好きだ、タカラヅカが好きで、それから自分も好きだ〜〜!!」
と、ハダカで叫んでいるよーな、作品。背中には「バカで悪いか」と油性マジックで殴り書き、「LOVE」と書いた長ハチマキ。
そんなイメージだ、サイトーくん(笑)。
好きなモノを「好きだ」とおそれずひるまず取り繕わず叫び、叫ぶことにさえよろこびを感じている子どものよう。
恥ずかしいけれど、大好きだ。そーゆー作品。
世界を動かすのは、愛ですよ。愛であるべきですよ。だから、「愛」が動機でできあがっている作品には、愛情を感じるのですよ。
見終わったあと、「♪エル・アルコン〜〜」と歌が脳裏を回って仕方がなかった。
「♪マドリッド マドリッド 我ら夜の鷹 エル・アルコン♪」
「♪帰るあてのない エル・アルコン♪」
男と女がベッド(長椅子)で重なり合って暗転、その部屋のセットの上には、その男を仇と狙う青年がスタンバっていて、暗転のあと降りてくる。
男と彼を憎む青年、男と愛憎関係にあるヒロインの唐突な三重唱で、トライアングルを描く動きをする。
復讐を誓う青年には若い仲間たちがいて、クライマックスの乱戦前に「道は俺たちがつくる!」と言う。
♪エル・アルコン エル・アルコン♪
……ええもちろん、『血と砂』(齋藤吉正作)の方ですよ。『血と砂』は、『花恋吹雪』のエロ+シリアス度アップした焼き直しだしね。
あまりに似すぎていて、ウケてしまった。サイトーくんのリビドーまんま、恥ずかしいなあ(笑)。
バウホールで『花吹雪恋吹雪』という作品を観た。
はっきり言ってめちゃくちゃだった。ストーリーも時代考証もキャラ設定も。
時の流れとか場面のつなぎ方とかも変だし、ストーリーをいちいちぶった切ってアニメのオープニングみたいなキメ・シーンが長々と入るし、わけわかんねー。
まともなことなんか、ぜんぜんないのに。
おもしろくて、仕方なかった。
血が全身を駆けめぐる感じ。
「おもしろい!!」と拳を握り、頭上に突き上げたり、リズムを取って振り回したくなる、そんなじっとしていられない高揚感。
アタマの半分は冷静に「ありえねー、コワレてる」と思っているのに、もう半分は「ありえねー、おもしれー」と、興奮している。
右脳だっけ、左脳だっけ、理屈ではなく感覚を司る部分。直感がすべてな動きをするの。
『花恋吹雪』は、アタマの半分だけで愉しむ作品だった。
理屈で考えちゃダメ。本能で感じろ、五感全部で愉しめ。
当時のわたしは、『花恋吹雪』主演の安蘭けいのファンではなかった。
好きかキライかと聞かれれば「好き」だと答えるが、ファンなのかと聞かれれば「別に」と答える。そのあたりの温度。
贔屓組である雪組の御曹司だったから愛着はすげーあったし、『凱旋門』のハイメ役がすごくよくてヲトメ心がきゅんきゅん(笑)していたので大分株は上がっていたが、まだ「ファン」と呼べるほどのものではなかった。
それでも、『花恋吹雪』には夢中になった。
おもしろさに、理屈は不要だと、痛感した。
いつもわたしは、「コワレてる」だの「物語の方程式からはずれている。これじゃ途中で論理崩壊して答えが出ない」とか、てきとーなこと言って文句垂れてるけど、そーゆー細かいことを全部まるっと「どーでもいいや」と思わせる力があったんだ。
やーもー、うっかり五右衛門サマ@トウコちゃんに、恋してしまうし。
あれほど華々しいFall in Loveは他にない(笑)。音がしそうなほど、一気にオチた。
以来、五右衛門サマの写真とかを不意に目にすると「うッ」とうめいてのけぞったり、そのあとフニャフニャに熔解したりして、友人たちから「バカだこいつ」とバッサリやられたりしたもんだ。
わたしが恋したのは五右衛門サマで、どうやらトウコちゃんではなかったらしい(最初は混同していたが、あとからチガウとわかった)が、それでもこのことにより、「安蘭けい」という人はわたしのなかで「トクベツ」になった。
ファンなのかと聞かれ「好きだけど別にファンじゃない」と答えていたのに、このときから「ファンです、トウコちゃん大好き」と言えるようになった。
あああ、なつかしいなあ、『花恋吹雪』。当時、石田三成@まとぶんのへたっぴさ(特に歌!!)に眩暈がしていたっけ……(笑)。
まとぶさんのわたしの最初の印象って、『エピファニー』と『花恋吹雪』だから、いい印象なかったんだよなあ、あまりになにもかもへたっぴで。まさか今、こんなにいい男になり、好きになろうとは……(笑)。
そのなつかしい……つまり昔の作品、『花恋吹雪』。
未だにわたしは、『花恋吹雪』を齋藤吉正の最高傑作だと思っている(笑)。
コレを超える魅力的なトンデモ作を、彼自身まだ作れずにいる。
そのあとのサイトーくんの劣化は凄まじく、去年の『Young Bloods!! 』のときなんぞ、「もう見捨てようか」と思ったほどだ。
だけど今。
『花恋吹雪』から、なんと7年もの時を経て。
『花恋吹雪』を彷彿とさせる作品が登場した。
や、彷彿とさせる、つーことで、超えてはいないんだが、当時のテイストにここまで近いモノを、今さら作れるなんて。
サイトーくんは、大人になっていないんだ。
そのことに、驚く。
『花恋吹雪』のおもしろさは、「めちゃくちゃさ」にあった。
良識とか羞恥心とか理性とかを持ち合わせた、ふつーの大人は作れない。
「お月様にはウサギさんが住んでいるんだよ。さあ、そのウサギさんのお話をしようね」
と言われても、「んなもんいねーよ」と知っている人と、本気で「月にいるウサギさんに会いたいなあ」と思っている人とでは、作る物語がチガウでしょう。
『花恋吹雪』とその焼き直し作品『血と砂』以後、サイトーくんは迷走を続けた。
誰だよ、齋藤吉正に「月にウサギはいない」って教えたの。たとえ真実でも現実でも、彼にはそんなもん、教える必要なかったのに。
「月のウサギさん」を信じているからこそ、ふつーの大人には想像も付かない奇天烈な世界を展開していた斉藤作品は、「大人の目を意識した」余計な部分が見えるようになった。
いらん知恵がついたために、作品がコワレているのはそのままなのに、小さく、つまらなくなっていった。
もうあの、子どもゆえの、常識を知らないゆえのめちゃくちゃさは、なくなってしまったんだ……。
そう思っていたのに。
あの安蘭けいを主演に迎えての齋藤吉正最新作、『エル・アルコン−鷹−』。
齋藤吉正が、帰ってきた。
ふつーの大人には作れないめちゃくちゃさで、『エル・アルコン−鷹−』を作ってきましたよ!!(笑)
や、『花恋吹雪』のころに比べれば十分、「大人の分別」をわきまえた上で、それでもあのころのバカッパワーを持って。
だからおもしろかった、『エル・アルコン』。
サイトーくんのリビドーまんま、過去作品使い回し! どこを切ってもサイトーヨシマサ!!
恥ずかしいほどのサイトー節に、おかしいやら泣けてくるやら。
初日に観たとき、いろんなとこで眩暈を感じつつも、にやけてしょーがなかった。
「好きだ!!」と叫んでいる、この作風。
大人は叫ばないよ、理性とか羞恥心とか持ってるからね。
「原作が好きだ、安蘭けいが好きだ、タカラヅカが好きで、それから自分も好きだ〜〜!!」
と、ハダカで叫んでいるよーな、作品。背中には「バカで悪いか」と油性マジックで殴り書き、「LOVE」と書いた長ハチマキ。
そんなイメージだ、サイトーくん(笑)。
好きなモノを「好きだ」とおそれずひるまず取り繕わず叫び、叫ぶことにさえよろこびを感じている子どものよう。
恥ずかしいけれど、大好きだ。そーゆー作品。
世界を動かすのは、愛ですよ。愛であるべきですよ。だから、「愛」が動機でできあがっている作品には、愛情を感じるのですよ。
見終わったあと、「♪エル・アルコン〜〜」と歌が脳裏を回って仕方がなかった。
「♪マドリッド マドリッド 我ら夜の鷹 エル・アルコン♪」
「♪帰るあてのない エル・アルコン♪」
男と女がベッド(長椅子)で重なり合って暗転、その部屋のセットの上には、その男を仇と狙う青年がスタンバっていて、暗転のあと降りてくる。
男と彼を憎む青年、男と愛憎関係にあるヒロインの唐突な三重唱で、トライアングルを描く動きをする。
復讐を誓う青年には若い仲間たちがいて、クライマックスの乱戦前に「道は俺たちがつくる!」と言う。
♪エル・アルコン エル・アルコン♪
……ええもちろん、『血と砂』(齋藤吉正作)の方ですよ。『血と砂』は、『花恋吹雪』のエロ+シリアス度アップした焼き直しだしね。
あまりに似すぎていて、ウケてしまった。サイトーくんのリビドーまんま、恥ずかしいなあ(笑)。
人数分の「君を、愛してる。」を、ぜひ。
2007年11月21日 タカラヅカ 水しぇんの作り込まれた美しさに感動する日々。
毎日スカステで流れる「……君を、愛してる」攻撃に、息も絶え絶えですよ。
いやあ、いいなあ、すげえなあ。水くんを好きでよかったなあ。こんなこっ恥ずかしいキモチを味わえるなんて。
や、あの恥ずかしさがいいんですよ、「きゃ〜〜っっ!!」って顔を覆って悲鳴上げながら、指の間からしっかり見ている状態、そーゆー恥ずかしさ(笑)。
水くんくらい美しくて、リアルに男キャラとして萌えられる人だからこそのドリームですわ。……あああ、やっぱ初日から行くべきなのか、雪組公演。
各組男役もアレ、やってくんないかなあ。
TCAがDVD発売すればいいんじゃん。各組男役全員(笑)がひとり15秒ずつ「……愛してる」とキメるヤツ。
トップから3番手くらいまでのスター様は何バージョンか収録してあって、番手外はみんな一律15秒のみ
贔屓の出番が15秒であったとしても、みんな買うと思うけどな。や、わたしは買う。贔屓以外にも「……愛してる」を見たい人が山ほどいるし!
はっち組長の「愛してる」とか、まりえったの「愛してる」とか、腰リュウ様の「愛してる」とか、見たいじゃんか、なあみんな?!
そしてなにより、マチオ先輩の「愛してる」に、興味ないか? あるだろ?
らんとむの「愛してる」攻撃に身悶えたいし、しいちゃんにヲトメ心を鷲掴みにされたい。
花男たちは下級生の「アンタ誰?」な男の子まで本気で勝負かけてキザってくるだろうし(らいとネコちゃんがたのしみだ・笑)、マメとかお笑い系をキメつつもグッと来る告白をしそうだし、めぐむは盛大にスベりそうだし(ここぞというときにカマすイメージ有り)、想像するだけでたのしいよー。
ゆーひくんとか、さぞや美しいだろう……。あのクール・ビューティにカメラ目線でんなこと言われた日にゃあ……。
今収録すれば、オサ様の「愛してる」も見られるわけだし。絶対売れるよおぉぉおお。
TCA様、劇団様、どーかどーか出してくださいませぇぇええ。
……はい。
いろいろゆーてますが、とどのつまり、まっつの「愛してる」が見たいだけです。
まっつのそんな映像作ってもらえるわけないし、よしんばあったとして、まっつ単体ぢゃ、売れるわけないし、それなら生徒全員、つーことにすれば、まっつも混ぜてもらえるかな、という姑息な考えでゆーてます……。や、他の人も見たい、つーのも本心だけどな。
宝塚歌劇団では、スター様でないと「愛を語ることが出来ない」のですよ。
主要人物しか恋愛しないんだもん。役者の数が多すぎるから、脇まで描いてるヒマないもん。
だもんでわたし、愛を語るまっつを、ファンになってから一度も見たことないんだってば。
あ、「海馬帝国のファーストレディに迎えよう」は、「愛の言葉」として却下です(笑)。あーゆーイロモノではなく、まともに恋愛して、愛を語るまっつが見たいのよ〜〜。
まっつの「愛してる」映像があったら……き、きっと直視できないけどな。
見るまでにひとりで大騒ぎして、音を消して画像だけ見たりスローモーションにしたり、意味のないことをいろいろやって、で、1回だけ勇気を振り絞って見たら……そのまま封印、2度と見ない気がする……や、「見られない」が正しいかな……。
ヘタレなんだよ、ヲレ……。
なんにせよ、水しぇんの「愛してる」攻撃は心臓に悪いですよ。番組の合間に、不意打ちしてくるからなー(笑)。
つくづく、「男役」として美しい人だ。
いったい何パターンあるんだろー。全種類コンプできるかなー。
毎日スカステで流れる「……君を、愛してる」攻撃に、息も絶え絶えですよ。
いやあ、いいなあ、すげえなあ。水くんを好きでよかったなあ。こんなこっ恥ずかしいキモチを味わえるなんて。
や、あの恥ずかしさがいいんですよ、「きゃ〜〜っっ!!」って顔を覆って悲鳴上げながら、指の間からしっかり見ている状態、そーゆー恥ずかしさ(笑)。
水くんくらい美しくて、リアルに男キャラとして萌えられる人だからこそのドリームですわ。……あああ、やっぱ初日から行くべきなのか、雪組公演。
各組男役もアレ、やってくんないかなあ。
TCAがDVD発売すればいいんじゃん。各組男役全員(笑)がひとり15秒ずつ「……愛してる」とキメるヤツ。
トップから3番手くらいまでのスター様は何バージョンか収録してあって、番手外はみんな一律15秒のみ
贔屓の出番が15秒であったとしても、みんな買うと思うけどな。や、わたしは買う。贔屓以外にも「……愛してる」を見たい人が山ほどいるし!
はっち組長の「愛してる」とか、まりえったの「愛してる」とか、腰リュウ様の「愛してる」とか、見たいじゃんか、なあみんな?!
そしてなにより、マチオ先輩の「愛してる」に、興味ないか? あるだろ?
らんとむの「愛してる」攻撃に身悶えたいし、しいちゃんにヲトメ心を鷲掴みにされたい。
花男たちは下級生の「アンタ誰?」な男の子まで本気で勝負かけてキザってくるだろうし(らいとネコちゃんがたのしみだ・笑)、マメとかお笑い系をキメつつもグッと来る告白をしそうだし、めぐむは盛大にスベりそうだし(ここぞというときにカマすイメージ有り)、想像するだけでたのしいよー。
ゆーひくんとか、さぞや美しいだろう……。あのクール・ビューティにカメラ目線でんなこと言われた日にゃあ……。
今収録すれば、オサ様の「愛してる」も見られるわけだし。絶対売れるよおぉぉおお。
TCA様、劇団様、どーかどーか出してくださいませぇぇええ。
……はい。
いろいろゆーてますが、とどのつまり、まっつの「愛してる」が見たいだけです。
まっつのそんな映像作ってもらえるわけないし、よしんばあったとして、まっつ単体ぢゃ、売れるわけないし、それなら生徒全員、つーことにすれば、まっつも混ぜてもらえるかな、という姑息な考えでゆーてます……。や、他の人も見たい、つーのも本心だけどな。
宝塚歌劇団では、スター様でないと「愛を語ることが出来ない」のですよ。
主要人物しか恋愛しないんだもん。役者の数が多すぎるから、脇まで描いてるヒマないもん。
だもんでわたし、愛を語るまっつを、ファンになってから一度も見たことないんだってば。
あ、「海馬帝国のファーストレディに迎えよう」は、「愛の言葉」として却下です(笑)。あーゆーイロモノではなく、まともに恋愛して、愛を語るまっつが見たいのよ〜〜。
まっつの「愛してる」映像があったら……き、きっと直視できないけどな。
見るまでにひとりで大騒ぎして、音を消して画像だけ見たりスローモーションにしたり、意味のないことをいろいろやって、で、1回だけ勇気を振り絞って見たら……そのまま封印、2度と見ない気がする……や、「見られない」が正しいかな……。
ヘタレなんだよ、ヲレ……。
なんにせよ、水しぇんの「愛してる」攻撃は心臓に悪いですよ。番組の合間に、不意打ちしてくるからなー(笑)。
つくづく、「男役」として美しい人だ。
いったい何パターンあるんだろー。全種類コンプできるかなー。
ファン・アイテムだから、を言い訳に・その2。@THE SECOND LIFE
2007年11月20日 タカラヅカ 『THE SECOND LIFE』の問題点の根っこは、「主人公が安直に入れ替わる」ことだ。
そのために「主役がだれかわからない」という致命的な事態になっているし、主人公マークと恋人ルシア以外のキャラが無意味になっている。
舞台となっているのは、「ジェイク」が生きていた世界だ。最初物語は、さもジェイクが主人公のようにスタートする。そこへ異邦人のルシアが現れることになるんだ。
さらに、ルシアにくっついてもうひとり異邦人マークがやってくる。そして主人公は途中からマークに変更される。
マークにとって舞台となるホテルもそこに暮らす人々も「知らない人」だ。愛着も思い出もなにもない。
必然的に、彼が大切なのはルシアと自分だけになる。彼をジェイクだと信じて頼ったり親切にしたりする人たちはすべて彼にとって「障害」でしかない。
観客もマークと同じ視点ならいいが、生憎ジェイクとしての人生や人間関係をも見せられて知っているから、「障害」としてだけ受け止められない。
ここでも作品の「不誠実さ」が如実になる。
2番手格として配役されるべき、若手スターのちぎ。
彼は気の毒なことにこの不誠実な物語の割を食らい、2番手ではなくなってしまった。
ストーリー上、存在しなくていいキャラクタは、準主役ではない。
ただのにぎやかし。おいしい場面ひとつ与えられて、それでおしまい。名前がついているだけの、脇役のひとりでしかない。
主人公がマークに途中変更されてしまったため、ケリー@ちぎの存在意義は主人公視点ではゼロになった。ストーリーにまったく絡まない。いなくても問題ナシ。意味なく出てきて「ブートキャンプ」を踊るだけの人。
マークが主人公なのだから、主要人物はマークと関係がある人のみということになる。
マークとジェイクが入れ替わり、ジェイク役をほっくんが演じることがハズせない「決まり」ならば、準主役はマーク役以外にない。上記の通り、マーク入りジェイクにとって、ジェイクの関係者はすべて「知らない人」でしかないからだ。
何故マーク役をちぎにしなかったんだろう。
1幕目は2番手かいくんかと思ってびっくりした。
「入れ替わりモノ」で入れ替わる前と後を同じ役者を主役で描くならば、入れ替わることになるふたりは「同等」でなくてはならない。そうしないと物語のバランスが崩れる。
この作品はコワレまくっていて手が付けられないが、マーク役を2番手男役に演じさせれば、まだ少しはマシだったんじゃないのか?
かいくん自身に問題がなくても、タカラヅカのルールとして、新公主演経験アリの路線スターをさしおいて、現時点で路線扱いを受けていない子が2番手役としての役割や露出をするわけにはいかない、から。
主要人物がマークしかいないのだから、マーク役を2番手が演じる。
そうすれば、ジェイクの中に入ったあとも、なにかとマーク(魂)として登場できる。
ジェイクは本当に死んでしまい、魂も地上にはないとしても、マーク(魂)として真情を吐露したりできるし、時折戻ってくるジェイクの魂に励まされたりなんだり愉快なこともできる。
入れ替わりモノの王道として、マークの姿のままジェイク(魂)としてキザりまくってヨシ、もしくは、ヘタレジェイクの後ろでヘタレマイクのまま2個イチで行動するとか。
マーク(魂)役が舞台上から抹殺された理由って、演じているのがかいくんだから、でしょう?
現時点でちぎより上の扱いをしてはならない子の演じる役だから、これ以上2番手のように扱ってはならない。すなわち、マーク(魂)役は二度と出せない。
番手だけが理由なら、最初から2番手に演じさせておけばいいのに。
そーすりゃ入れ替わったあとも、どちらの役も舞台に出すことが出来る。タカラヅカ的に問題ない。
繰り返すが、かいくん自身がどうとか、ちぎの現在の役がどうとかという意味ではなく、「物語」として見た場合、変だろコレ、と言っているんだ。や、ちぎの扱いは不満っつーか疑問だらけだが、ちぎが「いらない役」でも、そうすることによって「物語」が正しく機能するなら、そーゆーもんか、と思うよ。
そうでなく、ちぎの扱いは気の毒なことになってるし、それによって「物語」も壊れてるし、かいくんも着ぐるみに入るくらいしか仕事がなくなる。……いったいどーゆーことなんだ?ってこと。
主人公であるマーク役を抹殺し、主役だったはずのジェイクを殺し、2番手スターのはずのちぎの存在価値を粉砕し、鈴木圭はなにがしたかったのだろう。
マークがジェイクになるなら、ジェイクとしての前半場面は不要。描かなくていい。ジェイクのことは観客もなにも知らない。マーク視点で「ええっ、ボクがギャング?!」と驚いていけばいい。
そしてあくまでもマークとして、ジェイクを取り巻く人々と「心の関係」を築いていく。ルシアのことだけにかまけないで、ジェイクとして生きるならその仲間や環境にも興味を持て。
ジェイクの弟分ケリーとの間に友情を成立させろ。たとえばケリーにだけは真実を告げ、仲間になってもらうとか。2番手スターの演じる役を、ストーリーに絡めろ。
それまで観客にわざわざ時間と手間をかけて見せていた、ホテルの人々との人間関係、設定すべて反故にする意味はどこに。
「みっちゃんをステキに描くためだ。これはストーリーをたのしむものではなく、ファンだけが『ステキなみっちゃん』を見てたのしむモノだからだ」……ということも、理由にはならない。
だって、主人公を固定しても、誠実な作劇にしても、みっちゃんを魅力的に描くことは可能だもの。
ジェイク役を描かずマークひとりを主役にしても、ファン・アイテムは成立する。かわいいヘタレなマーク、ピアニストで弾き語りをするマークは描ける。かっこいいジェイクとしてのシーンも「死んだばかりのカラダに入ったので、生前の記憶がある」という設定ゆえにいくらでもキザにかっこよくも描ける。
何故安直な「入れ替わり」で「主役が誰かわからない」ことにしてしまったのか。
物語として致命的な失敗をして、平気でいられるのか。
わけわかんねえ。
たしかにこの作品は「ファン・アイテム」であり、「主役さえおいしければそれでいい」という作りになっているが、そしてソレはタカラヅカでは正しいのだが、それにしても作品自体は失敗しているだろ。あきらかに。壊れているし、まちがっている。
たのしいし、おしゃれなんだけどなあ。ラストシーンとかきれいなんだけどなあ。
みっちゃんもたっちんもちぎも、がんばっているしステキなんだけどなあ。
脚本が、アレすぎるよなあ。
そのために「主役がだれかわからない」という致命的な事態になっているし、主人公マークと恋人ルシア以外のキャラが無意味になっている。
舞台となっているのは、「ジェイク」が生きていた世界だ。最初物語は、さもジェイクが主人公のようにスタートする。そこへ異邦人のルシアが現れることになるんだ。
さらに、ルシアにくっついてもうひとり異邦人マークがやってくる。そして主人公は途中からマークに変更される。
マークにとって舞台となるホテルもそこに暮らす人々も「知らない人」だ。愛着も思い出もなにもない。
必然的に、彼が大切なのはルシアと自分だけになる。彼をジェイクだと信じて頼ったり親切にしたりする人たちはすべて彼にとって「障害」でしかない。
観客もマークと同じ視点ならいいが、生憎ジェイクとしての人生や人間関係をも見せられて知っているから、「障害」としてだけ受け止められない。
ここでも作品の「不誠実さ」が如実になる。
2番手格として配役されるべき、若手スターのちぎ。
彼は気の毒なことにこの不誠実な物語の割を食らい、2番手ではなくなってしまった。
ストーリー上、存在しなくていいキャラクタは、準主役ではない。
ただのにぎやかし。おいしい場面ひとつ与えられて、それでおしまい。名前がついているだけの、脇役のひとりでしかない。
主人公がマークに途中変更されてしまったため、ケリー@ちぎの存在意義は主人公視点ではゼロになった。ストーリーにまったく絡まない。いなくても問題ナシ。意味なく出てきて「ブートキャンプ」を踊るだけの人。
マークが主人公なのだから、主要人物はマークと関係がある人のみということになる。
マークとジェイクが入れ替わり、ジェイク役をほっくんが演じることがハズせない「決まり」ならば、準主役はマーク役以外にない。上記の通り、マーク入りジェイクにとって、ジェイクの関係者はすべて「知らない人」でしかないからだ。
何故マーク役をちぎにしなかったんだろう。
1幕目は2番手かいくんかと思ってびっくりした。
「入れ替わりモノ」で入れ替わる前と後を同じ役者を主役で描くならば、入れ替わることになるふたりは「同等」でなくてはならない。そうしないと物語のバランスが崩れる。
この作品はコワレまくっていて手が付けられないが、マーク役を2番手男役に演じさせれば、まだ少しはマシだったんじゃないのか?
かいくん自身に問題がなくても、タカラヅカのルールとして、新公主演経験アリの路線スターをさしおいて、現時点で路線扱いを受けていない子が2番手役としての役割や露出をするわけにはいかない、から。
主要人物がマークしかいないのだから、マーク役を2番手が演じる。
そうすれば、ジェイクの中に入ったあとも、なにかとマーク(魂)として登場できる。
ジェイクは本当に死んでしまい、魂も地上にはないとしても、マーク(魂)として真情を吐露したりできるし、時折戻ってくるジェイクの魂に励まされたりなんだり愉快なこともできる。
入れ替わりモノの王道として、マークの姿のままジェイク(魂)としてキザりまくってヨシ、もしくは、ヘタレジェイクの後ろでヘタレマイクのまま2個イチで行動するとか。
マーク(魂)役が舞台上から抹殺された理由って、演じているのがかいくんだから、でしょう?
現時点でちぎより上の扱いをしてはならない子の演じる役だから、これ以上2番手のように扱ってはならない。すなわち、マーク(魂)役は二度と出せない。
番手だけが理由なら、最初から2番手に演じさせておけばいいのに。
そーすりゃ入れ替わったあとも、どちらの役も舞台に出すことが出来る。タカラヅカ的に問題ない。
繰り返すが、かいくん自身がどうとか、ちぎの現在の役がどうとかという意味ではなく、「物語」として見た場合、変だろコレ、と言っているんだ。や、ちぎの扱いは不満っつーか疑問だらけだが、ちぎが「いらない役」でも、そうすることによって「物語」が正しく機能するなら、そーゆーもんか、と思うよ。
そうでなく、ちぎの扱いは気の毒なことになってるし、それによって「物語」も壊れてるし、かいくんも着ぐるみに入るくらいしか仕事がなくなる。……いったいどーゆーことなんだ?ってこと。
主人公であるマーク役を抹殺し、主役だったはずのジェイクを殺し、2番手スターのはずのちぎの存在価値を粉砕し、鈴木圭はなにがしたかったのだろう。
マークがジェイクになるなら、ジェイクとしての前半場面は不要。描かなくていい。ジェイクのことは観客もなにも知らない。マーク視点で「ええっ、ボクがギャング?!」と驚いていけばいい。
そしてあくまでもマークとして、ジェイクを取り巻く人々と「心の関係」を築いていく。ルシアのことだけにかまけないで、ジェイクとして生きるならその仲間や環境にも興味を持て。
ジェイクの弟分ケリーとの間に友情を成立させろ。たとえばケリーにだけは真実を告げ、仲間になってもらうとか。2番手スターの演じる役を、ストーリーに絡めろ。
それまで観客にわざわざ時間と手間をかけて見せていた、ホテルの人々との人間関係、設定すべて反故にする意味はどこに。
「みっちゃんをステキに描くためだ。これはストーリーをたのしむものではなく、ファンだけが『ステキなみっちゃん』を見てたのしむモノだからだ」……ということも、理由にはならない。
だって、主人公を固定しても、誠実な作劇にしても、みっちゃんを魅力的に描くことは可能だもの。
ジェイク役を描かずマークひとりを主役にしても、ファン・アイテムは成立する。かわいいヘタレなマーク、ピアニストで弾き語りをするマークは描ける。かっこいいジェイクとしてのシーンも「死んだばかりのカラダに入ったので、生前の記憶がある」という設定ゆえにいくらでもキザにかっこよくも描ける。
何故安直な「入れ替わり」で「主役が誰かわからない」ことにしてしまったのか。
物語として致命的な失敗をして、平気でいられるのか。
わけわかんねえ。
たしかにこの作品は「ファン・アイテム」であり、「主役さえおいしければそれでいい」という作りになっているが、そしてソレはタカラヅカでは正しいのだが、それにしても作品自体は失敗しているだろ。あきらかに。壊れているし、まちがっている。
たのしいし、おしゃれなんだけどなあ。ラストシーンとかきれいなんだけどなあ。
みっちゃんもたっちんもちぎも、がんばっているしステキなんだけどなあ。
脚本が、アレすぎるよなあ。