さて、今日は早々と、昨日の日記の続きだ(笑)。

 TCAスペシャルDREAM。
 ええ、生で観たLOVEではなく、ビデオでしかなかったDREAMの方よん。

 さて。
 DREAMのビデオを観る前、わたしと殿さんは「トウコちゃんを観るんだ」「トウコちゃんのために7時まで残るぞ」と、そればっか言っていた。ええ、主にトウコちゃんの話しか、してなかったな。

 だが。当日券を買ってロビーを横断しているときに、ふと気づいた。
 そっか、トドも出てたんだ。
 いかん、忘れていた。

 わたしは、トド様のファンである。

 なのになんで忘れるかなー。いやはや。

 現在の雪組公演を観て、トドがそこにいないことには、なんの感慨もない。
 不思議でもなく淋しくもなく。
 ふつーに、ブンちゃんを中心とした雪組を観ている。応援している。
 てことはつまり、トドがいなくてもいいわけか、わたし?

 だけど実際DREAMのビデオ上映がはじまって、トド様がいかにもトド様な、いつものあの調子で現れたのを観て。

 自分が今、ここにいることを確認した。

 おかえり、わたし。
 そんな感じ。

 トドがいなくても、わたしは変わらずにタカラヅカを好きだろう。わたしは一度好きになったものは、一生好きだ。想い出に変化し、せつないだけの記憶になろうとも。
 でも、そこにトドがいると、そのせつないよーな記憶ごと愛しさがあふれる。
 長くひとりの人を好きでいるというのは、こういうことなんだなあと思う。

 愛しているのは、時間かもしれない。

 時間というものは連続していて、今現在だけで成り立っているわけじゃない。
 今、誰かを好きだと思うこの気持ちは、「わたし」という人間を構成してきたすべてのものに、関わりがある。
 みんなみんな、つながっている。
 なにかを好きだとすれば、それを好きになるための要因があったはず。それを好きだと思う感性は、どこかで培われ、なにかに連動している。

 わたしには、好きなものが多い。
 「緑野って、いつもたのしそうだよね」と言われる。
 わたしに好きなものが多いのは、いつもたのしそうなのは、「みんな」がいるからだよ。
 「好き」だって「たのしい」だって、わたしがこの世でただひとつの思考する生命体であったなら、生まれなかった感情だ。
 わたしが関わり合ったすべて、知り合った人たちすべて、眼にしたもの耳にしたものすべて、それらがみんなみんな化学合成して、「わたし」がいる。
 そう思えば、愛しくないものなんて、存在しない。
 ……いやもちろん、ムカつくものも、たくさん存在しているけどねー(笑)。

 トドは、わたしを構成するものの、ひとつだ。
 あんまり長く見つめてきたから、彼の存在自体が、せつない愛しさに満ちている。
 彼の中に、失ってしまった人や、幼かった自分自身、たのしかった出来事、なにもかも詰まっている。
 わたしが変わっていくように、彼も変わっていくだろう。
 わたしが最初に舞台で彼を観たころは、なんかえらくマイペースなやんちゃ坊主だった。メディアに発信している意見も、傍若無人というか、コワイもの知らずで愉快だった。
 まさかトップになるなり、優等生でおもしろみのない人に変身するとは思わなかったよ。
 きっとこれからも、なにかしら変わってはいくんだろうね。
 TCAの舞台に立つトドを観ながら、わたしがそこに観ているのは、自分自身の姿なのかもしれない。
 わたしが彼と出会い、彼と関わりながら過ごした、すべての歴史を、観ているのかもしれない。
 だから思う。
 わたしが今、ここにいること。
 ああ、帰ってきたんだなあ。原点回帰。
 トドを舞台で観ることは、これから減っていくだろう。わたしはわたしとして、わたしの人生を生きているから、トドがいなくてもいい。わたしの人生は、タカラヅカだけでできあがっているわけじゃない。
 普段は、忘れている。その存在を。
 だけどこうして、思い出す。
 わたしがわたしである、わたしを創った時代のひとつである、かの人を。

 いやあ。
 殿さんが笑いをかみ殺すようにして、言ったよ。
「緑野さんの恋が再燃しているのが、隣の席でもよーっくわかったよ」
 『ノバボサ』から『エリザベート』、そして『凱旋門』、『風と共に去りぬ』。トド様の必殺メドレー。
 あれ、そんなに身もだえてました? わたし的には、トウコちゃんの五右衛門様の方が、破壊力すごかったんだけどな。
 トド様への想いは、恋じゃないんだなあ。愛着、というのがいちばん近い。家族に対する愛情みたいなもんだ。あるのが基本だから、忘れてます、みたいな。
 しかし、たった数年前の歌がこんなになつかしくて泣きたくなるのは、わたしがババアだからですか。
 たかが『凱旋門』で、せつなくてせつなくて、たまらないのは。

 『凱旋門』はねえ、ハマったねええ。3日とあけずにムラへ通っていたから、往復の電車と開演前と休憩時間は、ずっとノートとパソコン持ち込んで、仕事してたよ。そうでもないと、時間足りなかったもん。
 それでも、観ずにはいられなかったんだ。
 わたしがわたしで、あるために。

 ……今は仕事、ホサれてるもんなあ。人間落ちるのは早いよ。いつか売れっ子になったら、この仕事なくてかなしー今の状態も、「なつかしい想い出」になるかなっ。頼むなってくれ!(笑)

 想い出が交錯して、せつなく愛しい。
 タカラヅカは、88周年。
 伝統伝統とアナクロなものにこだわりながら、改革改革とファジィなものを掲げる。
 これからも、いろんな感情が鏡のように、そこに映し出されるだろう。
 創っている人々の感情だけではなく、観ているわたしたちの、感情が。

 さてと。
 トウコちゃんは「彼女」だけど、トドは「彼」だなあ、三人称。なんでだろーねえ?(笑)

     
 トウコちゃんのことは、ずっと好きだった。

 『風共』の新人公演でその実力を見せつけられてから、認識はしていた。どの公演も。
 「トウコのことは好き?」と聞かれたならば、「好き」と答える。だが、「じゃあトウコのファン?」と聞かれれば、「べつに」と答える。
 好きか嫌いかなら、もちろん好き。でもべつに、ファンじゃない。
 興味を持てなかったんだ。
 好みの顔だし、歌うまいし。目立つ人だから、ずっと認識はしていたし、好意も持っていた。……ただし、一定以上の興味はわかない。
 だって、安定しきってるんだもの。新人なのに、おどろきがない。どんな役を与えられたとしても、「ああ、トウコならやり遂げるだろーねー」と思い、またまったくもってその通り。
 わたしが応援しなくても、エリートコースを突っ走るのだろう。興味ないっす。
 わたしにとってトウコちゃんは、そーゆー人だった。

 ずっと好きだった。それは、確か。
 わたし基本的に、うまい人が好き。ヘタで華だけある人より、なにかひとつでも必殺技ともいえる実力を持った人が好き。
 だから歌っても演技しても、十二分にうまいトウコちゃんのことは、ずっと好きだったさ。長く観ているから、愛着もあったさ。
 ただ、ファンじゃないだけで。

 しかし。

 しかーしっ。

 人生なにが起こるかわからない。
 新公『エリザベート』もバウ『イカロス』も、ケロちゃん目当てで行った、このわたし。嫣然たるトート様より、あぶなっかしい歌声のフランツ・ヨーゼフ様、うるんだ瞳の天使イカロスよりも、枯れた雰囲気のオヤジ作家アーノルドに釘付けだった。
 トウコちゃんは好きだし、舞台にいてくれるとありがたかったけれど、それだけのことだった、このわたし。
 そんなわたしが。

 恋に堕ちた。

 『花吹雪恋吹雪』の、石川五右衛門様に、だ。

 な、なんで?!
 なんで今、トウコちゃん?!
 トウコちゃんのこと、どれだけ長く観てるよ? そりゃーもー、いやってほど観てきたよ? こんなに長い間、なんとも思わなかった人なのに。

 幼馴染みにうっかり恋してしまった大人の女、みたいな身の置きどころのなさ。ええっ、嘘、今さらなんでアイツにときめくのよ?! こまるわよそんな、どんな顔して会えばいいのよ。おろおろ。赤面。……てな。

 いやいや。
 トウコちゃんはずっとずっと、素敵でしたともさ。
 ただ、わたしに見る目がなかっただけで。

 『花恋吹雪』には、ときめきっぱなし。どきどきどきどき、ああ、どうしよう。
 あの眼に射すくめられて、動けない。

 わたしはあまり、誰かに入れあげるタイプではない。好きな生徒さんはいろいろいるけれど、ミーハーしながらも「あの作品は構成がなってないね」とか、理屈こねているタイプのヅカファンだった。
 いくら好きな人が出演していても、駄作は駄作、観る価値ナシ。公演は出演者よりも演出家の名前で選ぶ、作品の出来で選ぶ。
 てな、かわいげに欠けるこのわたしがだ。
 どうしよう、めろめろ(死語)だ。

「トウコちゃんがいいの、めちゃくちゃ素敵なの、五右衛門様が美しいの」
 身もだえして語るわたしに、友人たちはあきれ顔。
「あたし、緑野ちゃんがこんなにコワレてるの、はじめて見た」「緑野って、誰かの熱いファンになったりはしない人だと思ってた」「こいつ、バカだ(笑)」……など。さんざん揶揄された。
 いや、今までだって内心熱くファンしている人はいたけど、こんなふーにいてもたってもいられないよーな想いははじめてで以下略。
 時間が経つと落ち着いたけれど、雑誌などで不用意に五右衛門様の写真なんぞ見てしまった日にゃあ、
「はうっ!!」
 と叫んで、のけぞりそうになったよ。マンガならここで鼻血吹いてるね。

 とにかく、劇的だった。恋は突然やってくる。

 そこまで簡単にかつ深く堕ちておきながら、わたしがそれ以上踏み込むことはなかった。
 わたしの苦手な人がトウコちゃんの組にいたり、どー考えても見ているのがつらいよーな役ばかりたてつづけにあたったりで、「運命がわたしの恋の邪魔をしている?!」ってくらい、わたしは彼女の舞台を観に行けなかった。
 そうしているうちに、幸か不幸か熱はおさまっていったさ。
 恋は愛情に変わり、静かに見守る気持ちになった。
 どんな役でも、似合わない衣装でも、わたしはその舞台で君がいちばん好きだよ(はぁと)、てな想いで、遠くから見つめたさ。届けわたしのラヴラヴビーム!

 ねえ。
 今でも、星組の舞台は、トウコちゃん目当てで観に行っているさ。わたしは一度好きになった人は、一生好きなんだから。その時間ごと、想い出ごと。
 それが過去の美しい恋のひとつにすぎないにしても。今はちがう恋をしていたとしても。
 どの恋もまた、愛しいのだから。

 ………………今日、思い知ったよ。
 恋に堕ちる瞬間。
 ときめく胸。

 ええ。
 またしても、
「はうっ!!」
 って、のけぞりそうになった。鼻血吹きそーな衝撃。

 ムラの客席で、TCAスペシャルDREAMを観て。

 五右衛門様っっっ。

 トウコちゃん、歌ってくれるんだもの、『花恋吹雪』を! しかも五右衛門様の着物を片袖通して。
 じたばた。
 どうしようどうしよう、どきどきが止まらないっ。

 バカなのはわかってる。わかってるから、つっこまないで。

 トウコちゃんがこれからどんな人生を歩むのか知らないが、わたしはずっと応援してる。
 ときめいているこの瞬間、わたしは少女のころに戻っているのだから。
 時間をさかのぼる魔法。
 そのよろこびを、忘れることはないから。

 ああもおっ、なんてしあわせなんだ。TCAスペシャルDREAM。至福のとき。

 夢見心地で、劇場をあとにしたさ。

 …………注意。
 わたしが行ったのは、ムラです。大劇です。
 大劇なのに、何故DREAM? 大劇で上演されたのはLOVEの方だろ?

 ええ。LOVEも観ましたとも。昨日Be-Puちゃんがメールで報告してくれた通り。

> TCAはやっぱりTCAでした

 「参加することに意義がある」。得られるのは「観た」という満足感だけ、内容については触れまい、触れたらかなしくなるだけだ、な、いつものTCA。客をナメてるよな、歌劇団、と言いたくなる、いつもの金だけ高いTCA。

 ムラと東宝と、なんでこんなにレベルちがうのっ?!
 ムラの客をなんだと思ってるの?!
 この構成の差はなによ、センスの差はなによ??

 わたしと殿さんは、LOVEを観たあと、残ってDREAMのビデオ上映を観たのです。

 観て良かった、DREAM!!

 もしもLOVEだけ観て帰ってたら、とても淋しい気分のままでした。「所詮TCA」に踊らされた自分に落ち込みながら、帰るところだった。
 ヅカにハマって1年未満、はじめてTCAを観た殿さんは、本気で怒ってたもの、「これがTCAっていうものなの? こんなにしょーもなくてセンス悪いものなの?!」って。「なにがリンゴ追分よっ、ふざけんな!」って。
 なのに、帰り道はふたりともご機嫌さ、「今日はビデオを観に来たんだよね、わたしたち!」「そうよ、メインはビデオよ!」。

 たのしかったよ、TCAスペシャルDREAM!! ありがとうDREAM!!(笑)
「TCAってさ、所詮TCAなんだよね」

 とゆーのが、何年か前からの、わたしと友人たちの間の共通認識。
 所詮、ただのイレギュラー。ただのお祭り。
 ショーとして見るなら、ものすごーくショボい、大したことないレベルの催し。
 演出も振り付けも、そして生徒たちの技量も。

 わかってる。
 わかってるけど、ああ、毎年TCA狂想曲。

 観るまでは、大騒ぎするのよ。チケット取れないんだもの。なんとかならないものかと。
 で、実際にチケット手に入れて、意気揚々と観に行くと……。
 劇場出たときには、首をひねってる。なんでわたし、こんなもののために、あんなに目の色変えてたんだろー、と。
 憑き物が落ちるのね。

 わかってるのよ。
 毎年そうなんだから。
 ふつーに考えたって、わかることよね。年に1度のお祭りで、演出には制限ありまくりで、お稽古期間なんかろくにない。数回しかやらないのに、セットや衣装にお金かけるわけないし。
 わかりきったことなのに。

 それでも観たい、TCA。

「参加することに意義がある、TCA」

 というのも、わたしたちの共通意見。
 TCAがショボいことなんかわかってる。大騒ぎして観に行って、大抵しょぼんとして帰る。わかっていて、それでも毎年大騒ぎする。

 観ないで後悔するよりは、観て後悔しろ。それが人生だ。
 てなもんで、開き直って突撃。
 所詮TCA。観ることさえできたら、納得する。大切なのは結果ではなく過程だ。今年も努力した。そしてチケットを得た。観に行った。……それが肝要。
 作品がショボいなんて結果は、気にするな。

 好きな人がいる舞台を観ることができたなら、それでいいんだ。

 ほんとにイベントだよなあ、TCA。

 いや、わたしが観に行くのは明日なんだけど。
 今日観に行ったBe-Puちゃんからメールが来たのさ。

> TCAはやっぱりTCAでした

 ……覚悟はしておこう(笑)。
 今日は別になにをしていたわけでもないので、『ON THE 5th』の感想いきまーす。

 たのしいショーだった。
 初日、芝居ではどこにいるのかわからなかったしいちゃんんも、ショーではちゃんとわかったし。
 あ、言い訳をしておくと、初日は立ち見してたの。金欠でねー。だから、舞台が遠かったせいなのよ。普段なら、しいちゃんがわからないなんてことは、あり得ないもん!
 ……ナルセに釘付けだったせいもあるんだけどさ……他を見ている余裕がなくて……。
 初日は殿さんとふたりで観ていたんだけど、「ナルセの黒燕尾観られただけで、お金出した値打ちあったねえ」とうなずきあいました。……ファンってそういうものよね。涙。

 とくに、ナルコムの黒燕尾ダンス!!
 ありがとう、観たかったのよずっと!
 目に焼き付けて、残りの人生生きるわ。

 たのしくて、おいしくて(笑)、とても好きなショーなんだけど。

 ちょっと、ひっかかることがあって。

 あの、9/11のシーンなんだけど。

 あれって……どうなの?
 他の人はどう思ってるのかなあ。まだ友人たちとはそういう話をしてないんだけど。
 わたしは、いやな感じがした。
 出かけに見た新聞に、「ニューヨークが舞台。テロ事件に黙祷を捧げるシーンも」ってあったんで、そうなのか、とは思って観たんだけど。

 まさかあんなに、露骨に事件を再現しているとは、思わなかった。

 ふつーのショーシーンの中に、賛美歌系の、祈りのシーンがあるのかな、とか、そんな気分でいたから。わかる人には「ああ、テロ事件に対しての哀悼ね」とわかる程度の。

 コメディ・テイストですすむ舞台。明るく楽しく。
 シャインはキュートだし、Mr.フィフスとの出会いもかわいくおかしく、ラヴラヴシーンもロマンチックななかにもちょっとかわいらしいものがあったり。
 なのに。
 いきなり、シャイン死ぬし。
 おしゃれでかわいいコメディじゃなかったの?!
 夢の世界から、現実のダストシュートへGO!!
 びっくりした。
 王子様の舞踏会で踊っていたはずのわたし、いきなり地下のゴミ集積場でぽかんとしている、みたいな。
 あー、あそこから落ちてきたんだー、と、天井にあるダストシュートの穴を眺めてる。
 そーゆー気持ちでした。

 それが悪いのかどうかは、人の感性は千差万別なので、わかりません。
 天国から地獄、幸福の絶頂から不幸のどん底、てな展開をロマンだと思う人もいるだろーし。

 初日はただ、びっくりしたのと、「いやな気持ち」だけを印象とした。

 しかし今になると、整理もついてきたかな。

 なんでいやな気持ちになったのか。
 理由はふたつある。

 ひとつは、まだ生々しい悲劇の記憶をえぐり出されたことへの、生理的嫌悪。抵抗感。

 そしてもうひとつは。
 「ずるい」という思い。

 フィクションにおいて、この世でもっとも簡単な感動のさせ方は、なんだと思いますか?
 それは、登場人物を、殺すことです。

 視聴率の下がってきたドラマを盛り上げたかったら、メインキャラをひとり殺しましょう。視聴率は上向きになります。
 長い物語で、読者があきてくるようなら、とりあえずたくさん人を殺しましょう。無惨な虐殺なんかいいですね。話が盛り上がります。

人間はみな、ひとりひとりちがいます。
 感性も、生きてきた背景も。
 だから、なにをいいと思い、悪いと思うかは、みんなちがいます。
 だから、たくさんの人を感動させるのは、大変です。だって、ひとりひとり感動のツボはちがうんだもの。

 そんな人間たちが、ただひとつ同じ意識を共有しています。
 それが「死」です。
 ありとあらゆる意識の中、「死」だけは共通する「かなしみ」であり、「いたみ」であり、「こころをゆさぶるもの」なのです。

 だから、大衆の感動を得たいときは、登場人物を殺すのです。
 そうすればみんなが泣きます。そして大衆の多くの人たちは、「泣いた=感動した」と思います。
 感動させれば勝ち。殺したものが勝ち。
 手間暇かけて工夫して努力して料理をするのではなく、インスタント食品をなにくわぬ顔で皿に移し、「手料理よ」と食べさせるようなものですねー。食べた人は同じように「おいしい」と言うのかもしれませんが。

 わたしが感じたのは、そういう「ずるさ」だ。
 実際に起きた悲劇を題材にすれば、舞台が多少ショボくても、観客は自分の記憶を揺さぶられて感動するだろう。
 ドーピングみたいなもんだ。いい記録を出すために、薬(共通認識の悲劇)を利用する。ほーら涙、ほーら感動。
 なんてお手軽。

 なぜ、真正面から「感動」を創る努力をしないの?

 9/11に頼らなくても、感動的な舞台は創れるでしょう?
 ニューヨークを舞台にする以上避けて通れない、現実から目を背けられない、ということだとしても、作品の雰囲気をそこだけ断ち切ってまで、あからさまな現実を持ち込む理由にはならないでしょう? コメディ的な作品で、簡単に描くような事件じゃないでしょう?

 タカラヅカって、そんなもん? 演出家自身が、ヅカを軽んじている?
 ここはタカラヅカ。そして、上演されるのはタカラヅカのショー。ならば、「タカラヅカ」で勝負してよ。
 「タカラヅカでしかできない表現」で、哀悼を表現して。誇りを持って。

 ずるい。
 お手軽な方法で、観客を感動させようとして。
 するい。
 軽々しく悲劇を利用して。

 もちろん、舞台で叫ぶMr.フィフスに感情移入したし、教会での歌とダンスには心揺さぶられたさ。
 でもな。
 舞台の上の彼らが真摯に、ありったけの力で表現しているだけに、くやしいのさ。
 これだけやれるのに。真っ向勝負したって、勝てるのに。なのになんで、ドーピングなの? と。

 「さあ感動しなさい、泣きなさい」って上から押しつけられてるみたいで、つらかったわ。
 あれが事件とは関係ないシーンなら、きっと感動できたのに。
 そうか、あれを「偽善の匂い」というんだな。

 しょぼん。

 とまあ。
 なんか、心にわだかまるショーだ。
 こんなの、わたしのヅカ人生ではじめて。

 話を変えよう。いやな気持ちになってきた。生徒さんの話にしよー。演出家の無神経を憎んで、生徒を憎まず。

 実際にショーを見るときは、心の半分にフタをするの。いやな気持ちにならないように。だって生徒さんのせいじゃないんだから。すてきな、たのしいショーなんだから。……あのシーンがあんな背景を持っていなければ。

 で。

 その教会のシーン。相も変わらず、けいこ女史の歌声がすばらしいです。でも、すばらしいのは歌声だけじゃないんだな。
 なんかわたし、女史の力強い振りに心奪われてしまうのです。きれいどころがいっぱい前で踊っているといのに、ああわたしの目は女史に釘付け。
 あああの、握り拳。
 プロレスラーの咆吼シーンのような、闘士が己れの強さを誇示するときのポーズのような、あのすばらしい握り拳に、心がときめいてしまうのです……!!
 強そうだ、女史!!(笑)

 そして。
 ブンちゃんとまひるちゃんは、ほんとにきれいなカップルだ。
 このふたりがこれでさよならなんて、もったいない。
 『パッサージュ』の地獄のシーンみたいなお耽美を、このふたりでもっと観たかったなあ。

         
 昨日はついにやってしまった、文字数オーバー。
 3800字超えで、アウト。100字ほど消したら、なんとかセーフ。
 これからの目安にしよう、3700字まではOKだなっ(笑)。

 でもこの日記のシステムだと、それ以上は日を改めないと書けないのね。めんどーだわ。
 昨日の日記だと、わたしがまるで『追憶のバルセロナ』を嫌っているみたいじゃない。
 あのあとから、「でも好きなのよ!」語りをする予定だったのに。

 昨日、不意に思い立ってムラまで出かけた。
 そーいやわたし、大劇を観るときは大抵チケットは用意せずに行くなあ。行けばなんとかなるから好きだ、大劇。

 最初からA席ねらい。だってお金ないもん。1階9列目より前があったら、S席を買ってもいいかな、いや、9列じゃ買わないかな、などど、ゼータクなことを考えながら行ったんだけど、サバキはろくになかったなー。
 でも、はじめから「A席以下! 金欠だもん!」と思って行った日に限って、3列目だとかあっさりGETしてしまって「うれしいけどかなしい」気分になったりする、タカラヅカ・マジック。人生の罠(笑)。

 『追憶のバルセロナ』はもちろん、ナルセのアントニオにくらくらしながら観ているのだけど。

 ある意味、とってもツボだったのはコム姫のロベルトだ。あーゆー男、好きなのよね。
 正塚作品って、どーしてこう、主役カップル以外に、わたしの興味を引くカップルを持ってくるのかしら。ヒロインと、恋愛感情以外でつながりのある重要な位置にいる男、って、ヅカ作品ではほとんどお目にかからないから新鮮だしな。
 そーいやWHITEちゃんも「はじめてコムちゃんをかっこいいと思った」って言ってたっけ。

 もっとちゃんと書き込んでくれたら、いい話になるのになあ、『追憶のバルセロナ』。なんでこんな、ずさんな作りなんだろうなあ。惜しいなあ、くやしいなあ。

 と思うのは、わたしが正塚芝居を好きだからだろう。
 この、あきることなくつづけられる「自分探し」。ライフワークなんですかね。
 まったくもって、いつもの正塚。代わり映えナシ。だから、正塚作品を嫌いな人は絶対嫌いだろうし、好きな人は苦笑しながらも好きでいられるだろー。
 なんだかんだ言っても、評価してるのよ。だって今回、プロローグ派手じゃん! がんばったのね、正塚せんせー。いつも泣けるほど地味だもんね。ライトだってわりとあたってるし、主要人物数人以外、顔も見えないっていう、いつもの作りじゃないじゃん! すごいわ正塚、ふつーのタカラヅカみたいよ!!
 なんかあちこち、「うわ、正塚さんがんばってる」と、微笑ましかったっす。
 勝手に親しみを持って、客席から演出家を応援してしまう、ファン心理(笑)。ファンってのは勝手なもの。だからこんなところで暴言も吐く。クリエイターって大変だ。

 んでもって。
 わたしが正塚作品を好きな、もうひとつの理由。

 オタクだもん、わたし。
 正塚作品、ホモ度高し!!(笑)
 おいしいのよ、妄想的に。

 だーかーらー、期待したんだけどなあ。
 萌えを。

 今回は、萌えませんでした。残念なことに。
 アントニオ単体には萌えられたんだけどなー。単体じゃなー。相手役がいなくちゃなー。

 萌えがなかったのは、今の雪組の布陣が大きく関係してると思う。

 ブンちゃんとナルセって、合わないんだもんなあ。

 ブンちゃんにしろナルセにしろ、月型の男役なんだよな。
 太陽じゃない。
 こーゆー男たちは、横に太陽型がいてこそ、より輝くんだ。
 トドかワタルがいたら、ちがったのかしら。
 コム姫も分類するなら月型だし、かしげは……やっぱ月だろー。太陽にしては薄すぎるよ(いや、髪の毛じゃなくて)。
 唯一の太陽はキムちゃんだが、あの位置ではどーしよーもない。
 わたしの大好きなしぃちゃんは、ごめん、初日に観たときはどこにいるのかもわからなかった。君は太陽だと思うけど、今かなりかげってるからなあ。

 受ばっかなんだもん、今の雪組。
 攻キャラぞろいの月組がうらやましい……。

 オタクハートで今、心から応援しているのはかっしーだ。
 がんばれかっしー、ファイトだかっしー。
 だってかしげちゃん、今回おいしい役でしょ。かっしーさえがんばって化けてくれたら、とってもとってもたのしいことになるのよ。
 だってあなた、ナルセを拷問する役よねっ?!
 見えないところでなにが行われているのか、考えるとたのしーじゃないですか。

 ああだけど、所詮はかっしー……。

 わたしのオタクハートの友(これぞ心の友、という)かねすきさんにそれを報告したところ、

> 拷問されるナルセか・・・・・・・・・・・・。
> 夢みそう。
> でも、拷問するのがかっしーかー・・・。
> 夢見る前に夢さめそう。

 とゆー、見事なメールを返してくれた。(ごめんね、かねすきさん、わたしたちの愛のメールをこんなところにさらして・笑)
 ええ、かねすきさん。
 わたしがこの妄想力で、どれほど萌えな妄想をしようとしても、かっしーではちっとも色っぽいことになりません。
 なんでああも健康的なのか。
 なんでああもさわやかさんなのか。
 今回、初の鬼畜攻役に、本人とってもがんばってるのに。でもでも、ぜんぜん萌えないよーっ。涙。

 かっしーがここで鬼畜キャラに開眼してくれることを、こころから祈ってます、やほひの神様。

 うーん、強いていうなら、レオポルド×アントニオかなあ。……ってわたし、渋すぎるよ、このカップリング。きっと誰もついてきてくれない。泣。
 『ガイズ&ドールズ』で、ハリー×ビッグ・ジュールならまだわかる、って周りから言ってもらえたのに、わたしの一押しカップリングはナイスリー×ビッグ・ジュールだったしな……。
 また孤独かなー。

 ショーの話までできないなあ。また後日、か。

          ☆

今日はソフィー・マルソー主演の『ルーブルの怪人』を見てきたんだけど。
 ……予備知識のない日本人には、口をあんぐり開けちゃうよーな話だった……。
 フランスでは誰もが知ってる有名な伝説なのかもしれんが、わたしはそんなもん知らねーから、キャラクターの反応が理解できないよ。
 人が殺されたらそれは殺人事件であって、悪霊の仕業とは思わない。なにかトリックがあるはずだって思うよ。なのになんでみんな、そんなにはっきりすっぱり悪霊だと思うのよー。なんで「怪人の仕業だ!」なのよー。警察まで一緒になって。
 意識の差よね。「ルーブルには怪人がいる」というすり込みが、わたしには存在しないから。
 なんか、「わたしなんかが見に行ってごめんなさい」ってくらい、感情の折り合いをつけられない映画だった。
『追憶のバルセロナ』って……どうよ?

 はじめに宣言すると、わたしは正塚先生のファンだ。
 ヅカの演出家の中で、いちばん好きだ。
 それは、彼が美しい方程式を持っているからだ。

 わたしはあと、荻田先生と斎藤先生のファンなのだけれど。
 ある意味では、正塚氏よりも、このふたりの方が好きだったり、評価していたりもするんだけど、総合力ではやはり、正塚氏に軍配をあげてしまう。

 荻田せんせーは、天才型の才能を持つ人だと思っている。だからこそ、その感性はとんでもない方向へ突っ走りがちだ。観客は置き去り。
 オギーが地に足をつけ、他者を自分の世界に受け入れることではじめて、彼の作品は正しく昇華される。

 斎藤せんせーは、ぶっちぎりの俗っぽさと萌えを持つ作家。その偏った情熱は評価に値するが、なんといってもまだ技術が伴わない。

 その点、正塚は「仕事」のできる人だ。俗であることを潔しとしなくても、俗であることを受け入れた作品を、あえて創ることの出来る人。
 大衆に歩み寄りながら、自分の世界を構築する。

 クリエイターってのは放っておくとすぐ、自分の世界へ入っちゃうからねえ。客観性と大衆性を失ったら、だめだよ。エンターテイメントである以上はね。

 タカラヅカのもつ、ベタな大衆性からは離れているため、正塚芝居は「異質」な感を放つ。
 でもちゃんとタカラヅカしてるよ。タカラヅカである、という前提の上で、自分の世界を展開しているんだから。
 わたしはそれを、とても高く評価していた。
 美しい方程式。
 ヅカだから、ヅカでしかできないことを、ヅカであることをふまえて、それでもヅカの描かないものを描く。
 正塚晴彦マンセー。

 だからこそ。
 『追憶のバルセロナ』って、どうよ?

 最初に観たときも、ものすごーく気になったんだけど。
 この芝居ってさ、クライマックスどこよ?

 いちばん、どこが盛り上がるの?
 それまでの展開に多少無理があろうと、キャラクターに感情移入できなかろうと、たるくて眠かろうと、この1場面、ここがある限り、そんなもんは吹っ飛ばしてくれるわ、てな、いわば最終兵器、切り札、必殺技。
 クライマックスってのは、そういうもんだろ?
 がつんとかまして、観客の度肝を抜け。カタルシスに酔わせろ。

 もちろん、クライマックスには2通りある。
 精神面でのクライマックスと、出来事としてのクライマックス。
 エンタメで短編なら、このふたつは同じであるのが好ましい。だって両方やってる時間がないからね。短い時間で両方べつにやるには、テクニックが必要。

 この作品で首を傾げるのは、そのクライマックスが、あまりにも平坦かつ散漫であるということだ。

 ふつー、プロットの段階で考えることだよね?
 クライマックスをどこに設定して、どうやってそこにつなげていくか。ストーリーとは、クライマックスをいかに盛り上げるかの、下準備。点火された導火線。どかんと一発、でかい花火を打ち上げるための。
 それは計算だ。最大の効果を考えて、エピソードを構成する。緻密な計算があってこそ、カタルシスは光臨する。

 この作品の「出来事」の上でのクライマックスってのは、アントニオの公開処刑と、黒い旋風の襲撃、ここだよね?
 なのにどーしてここ、こんなにつまんないの?

 いちばん盛り上がってしかるべきところが、盛り上がらない。何故だ。

 非道な公開処刑、あからさまな罠、それを知っていてなお立ち向かっていく主人公。
 蟻の子一匹入る隙のない警備をどうやって崩し、アントニオたちを救出するのか。仲間たちの団結、勇気、そして高まる緊張、盛り上がるサスペンス。

 の、はずよね。本来は。

 ちっとも緊張しません。
 だってコメディになってるんだもん。
 まぬけなフランス軍の密偵をひとり、脅して踊らせただけで、作戦完了。

 なーんだ、こんなことでなんとかなっちゃうよーな、そんななんでもないことなんだ。
 この調子で行けば、フランスを滅ぼす日も近いなっ。
 とゆー、嘘くささ。くだらなさ。

 自分でクライマックスを叩きつぶすよーな演出してどーするよっ?!
 作戦の困難さを打ち出さないと、成功のすごさもよろこびも地に落ちるでしょー??
 幼稚園児にケンカで勝ってうれしい? 強大なライバルを、努力して自分の力で打ち勝つんでもなきゃ、よろこびにはならんでしょう。
 敵をただの愚か者にすることで、主人公グループを強く見せるなんて、ひどいよ。

 どうしてこんなことをしちゃうのよ〜〜! じたばた。
 くやしいわ。こういう安直さが。

 もいちどプロットを、あの襲撃シーンを中心に組み直して。懇願。
 卑怯な罠を、緻密な準備と作戦、大胆な行動と勇気で打ち破って。敵はバカでもまぬけでもないの。強大で狡猾なのよ。それに勝利するために、真摯に走る様を見せて。
 もちろん、小難しい戦略をくどくど説明しろと言ってるわけじゃない。「緻密で困難な作戦」をみんなで一丸となって実行しているのだということを、想像させてくれればいいんだから。情報を集め、仲間を潜伏させ、人々の意識を掌握し。簡単じゃないからこそ、それをする彼らの強さを見せて。
 そうすれば、作戦成功後の、仲間たちに演説一発決めるフランシスコにも、説得力が増すよ。これだけのことを指揮したんだから、そりゃあんたは演説かますでしょう、と。

 精神面でのクライマックスだって、この出来事に集約できる。
 危険な作戦、生命の危機。それでもやるのだと。
 そのなかで、フランシスコとイサベルは互いの気持ちを確かめ合う。明日、死ぬかもしれない。だからこそ。
 って、よくあるパターンだが、出来事と精神面のクライマックスを一致させるには、これがいちばんだからなー。
 ひとの心なんて、なんかよっぽどのことがないと、動きませんて。動いていたって、それに気づくにはきっかけがいる。現実にはいらなくても、物語である以上、目に見える形でなにか必要だからねえ。
 ここでふたり気持ちを向き合わせることができれば、ラストのあの、唐突でのーてんきな、ふたりのラヴラヴデュエットのシーンはいらなくなるしな。

 まあ、ラストまであえて主人公カップルを結びつけたくないっちゅーなら、それはそれでもかまわんが。
 だが、襲撃シーンだけは、きちんと盛り上げてくれ。

 ばたばたみんなで走り回って、なにやってんだかさっぱりわからないままに、マヤさんが笑い取って終わり、なんて、それクライマックスとして機能しねーよ。
 罠なんじゃなかったの? 困難なんじゃなかったの?
 ものすごく、つまらないただのドタバタになってますけど?

 まあねえ。黒い旋風のあたりからすでに、ドタバタ劇だったんだけど。
 黒い旋風って、具体的になにやってたの? 遊んでいるよーにしか見えません……。
 フランス兵を襲って、人殺しをつづけてたの? それって戦略的にはどうなってるの? フランス人全部殺したら、スペインから追い出したことになるの?
 たとえば基地を襲って食料や武器を奪ったとか、政治犯を奪還したとか、動きがわかればよかったんだけど。
 コメディ的にチャンバラだけされても、彼らが偉大なのも民衆の支持を集めているのも理解できない。
 フランシスコは誇りだ誇りだと言ってるけど、その誇りのために具体的になにをしているのか、教えてください。

 コメディが悪いと言っているわけじゃない。
 ただ、笑いに逃げないで。

 描くのが難しい部分を、役者に滑稽なことをさせて客を笑わせ、それで煙に巻かないで。
 今回の芝居の過剰な笑いの部分は、脚本で描くことのできない部分の煙幕だ。

 マヤさんの役は、あそこまでギャグメーカーにする必要があったのか? かしげの部下で、その個性で異彩を放つ、それだけでも十分だろう。
 作品の不備をすべてマヤさんの個人技にまかせてしまうなんてのは、力業が過ぎる。

 はー。
 正塚作品でなきゃ、こんなことわざわざ言わないんだけどなあ。
 なんか最近の正塚作品、レベルが落ちてるんだもん。なんで?
 『Practical Joke』もそうだったけど、ストーリーのいびつさを、安直に誤魔化している。
 ほーら、マミさんかっこいいだろ、だから他のことは言及するなよ。
 『追憶の…』も、ラスト、あれはなんだい? いきなりラヴラヴになった主役2人がかわいらしく明るく歌い踊ってEND。
 ほーら、見たかったろ、ブン&まひるのラヴラヴしあわせデュエットだよー、だから他のことは大目に見てくれよな。

 ……誤魔化されるよ。わたしもヅカファンだからな(笑)。マミさんかっこよかったらうれしいし、ブンちゃんまひるちゃんがハッピーエンドもうれしいさ。
 でもな。
 誤魔化される自分もくやしいが(笑)、そんな誤魔化しを通してしまう正塚せんせーのことも、くやしいぞ。

 もどってきてくれ、正塚晴彦。あなたはそんなレベルの作家じゃないはずだ。
 人間、いつもすんばらしー名作ばかりを作れるはずがない。不調なときもあるだろうさ。
 だからまだまだわたしは、正塚作品を愛し、新たな出会いに期待しつづけるよ。

 って、なによー、この長文。
 他に書きたいこといろいろあったのに。
 正塚先生へのラヴレターで終わりかいっ。


 わたしは高校生のときから、読書記録をつけている。当時はノートに鉛筆書き、そのうちボールペンや万年筆を使うようになり、次にワープロ使用、そして現在はもちろんパソコンで書いている。
 高校時代はとにかく、読むことと感想を書くことがたのしくて、今から思えばものすごい数を読み、また書いていた。おかげで卒業するときには表彰されたな、学校図書館の最多利用生徒のひとりとして。

 しかし、年々読書量は落ちた。
 今はもう、読書が趣味だなんて言えない程度だなあ。
 そして、読書記録も滞りがち。

 今ごろになって、年末に読んだ『血と砂』の記録が半端なままだったことに気づく。
 携帯用のハンドヘルドPC(ミニパソ、とわたしは勝手に呼んでいる)で書き殴ったままだわ。

 そう、『血と砂』。月バウの『血と砂』があまりにもすばらしかった(笑)ので、興味を持って読んだ。絶版しているうえに、最寄りの図書館にはなく、他自治体の図書館まで出向いて読んだ。
 いちおーほら、名作とか文豪とか呼ばれている作品だし。映画化されたりしてるわけだし。なにより、同じような立場の『凱旋門』だってすばらしかったのだから、きっとなにかしらたのしめる作品であるにちがいない。

 ははは。

 最悪、でした。この本。

 作者がどうとか、ストーリーがどうとか以前の問題で、わたしはつまずいた。
 訳文。

 この翻訳、さいてー。

 『レッド・ドラゴン』の翻訳を超えたわ。それまでは、わたしのなかで最悪といえばトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』だったんだけど。

 『レッド・ドラゴン』は、たんに文章がヘタだったの。「てにをは」が変だった。主語と述語、そして視点の混乱なんかあったりまえだったし。
 そうか。どんなに日本語ヘタでも、とりあえず読めたよなあ、『レッド・ドラゴン』。まだましだったんだなあ。
 ……そんなふうに、思わせてくれる。

 それくらい、わたし的には最悪だった、『血と砂』東京創元社版!

 これはもう、センスの問題。好き嫌い、生理的嫌悪感の問題。
 なかには、この訳文が「すばらしい! これほどの名文がこの世にあるだろうか、いやない!」と思う人も、あるかもしれない。
 だがわたしは、嫌いだ。

 舞台はスペイン。
 そして、主役は花形闘牛士。
 彼はスター。多くの人々が、彼をたたえ、彼にあこがれる。
 彼は若く才能にあふれ、富と名声を得、それによる高い自尊心をも持ち合わせている。おしゃれで粋な男でもある。けっこーいいかっこしいでもある。
 とにかく、男前で、かっこいいのだ。映画ではバレンチノがやっていたくらいだ。
 なのにそのクールぶってる傲慢系ハンサムは、こう言うのだ。

「ちょっと待っておくんなせえ、旦那さん方。あっしはいろいろと忙しいんでやんすよ」

 なんなのこれぇええ。号泣。

 なんでスペインの花形闘牛士が、べらんめえ喋りなの? 江戸の鳶みたいな喋り方なの?!
 「光の衣装」と呼ばれる、あの華やかな闘牛士の衣装や、19世紀の丈の長いオシャレなスーツ着て、なんで時代劇の町人喋りなの?

 訳者はかっこいいと思ってやったのかもしれない。
 訳者にとっての「かっこいい男」ってのは、時代劇の町人ヒーローなのかもしれない。
 「こんなにイカした表現をするなんて、おれだけだろ」と悦に入って書いたのかもしれない。「闘牛士のいなせさを、江戸の男の喋り方で表現するなんて、他に誰もいないよな。おれって天才!」と思って書いたのかも、しれない。

 そしてこれが、世間的にかっこいいのかどうかも、わたしは知らない。

 だが、わたしは大嫌いだ。
 イメージ台無し。

 訳者はへんなことしなくていいよ。ふつーに訳してくれよ。
 ふつーでいいんだよ。べつにわたし、へんなこと要求してないだろ?(泣)

 古いからか? とも思った。
 出版が1958年だから、この時代の翻訳小説はみんな時代劇調なのかもしれない、と。
 だが、同じくらいに出版された『凱旋門』はふつーの日本語だったぞ?!
 だからやはり、訳者の趣味じゃないのか??

 とにかく、最低最悪の翻訳だった。
 おかげで小説をたのしむなんて、できなかった。

 わたしゃ想像力に欠けるし、アタマもよくないから、文章がヘタレた小説は読めないのよ。脳内で補ってあげられないの。ふつーのものなら、読めるけど。
 多くはのぞまない。ふつーレベルの仕事をしてくれ。

500円×600日。

2002年5月29日 その他
 毎週なにやってんだろうなあ……。

 今週もまた、Be-Puちゃんがやってきた。
 「『十二国記』録画失敗した、ダビングしてぇ」と言って。
 先週はわたしが彼女のテープを借り、今週は彼女がわたしのテープからダビング。
 ふたりそろって録画しそこなう日が来ないことを祈るよ。

 Be-Puちゃんのおみやげは、「30萬円CAN BANK」でした。500円玉を入れていっぱいになるころには、30万円になるぞ、というスチール缶の貯金箱。100円ショップ勤務のBe-Puちゃんは、いろいろおみやげをくれるのだ。
 しかしこれ、なんか陥没してるとことかありますけど?
 「そうなのよ、傷んでるから、売り物にならないの」
 なるほど。捨てるよりましだから、ともらってきたらしい。
 「あたしはもう必要ないけど、緑野さんはこれから必要でしょ。これでご贔屓の退団貯金がんばってね」
 ありがとね……。ぼこぼこの貯金箱を……。

 いつかこの缶いっぱいに、お金を貯めることができるのかしら。
 突っ込みどころ満載だぞ、『ニューヨークの恋人』(笑)。

 えーと、主演はメグ・ライアンと、ヒュー・ジャックマン。現代のキャリアウーマンと、19世紀の公爵様が、時空を超えて恋に落ちる話。

 生活費はどうしてたのとか、どうやって生活したのとか、料理は誰がしたのとか、給仕はどうしたのとか、その服洗濯できたの、誰がしたの、とか、数えていくとキリがないぞ、公爵様。

 でもいいか。
 エンタメだもんな(笑)。

 いやあ、ラブストーリーってのは、ここまでやるもんなんだねえ。
 も、おなかいっぱい! てなくらい、ロマンチックてんこ盛り!!
 それもかなりめちゃくちゃ路線。「そりゃないやろ!」の大阪人突っ込みがあちこち炸裂したよ。タカラヅカもまっつぁおだー。

 ところであのふたり、しあわせになれるのかな。それだけが心配だ。
 某am/pmにて。
 15分前からスタンバイ。戦闘開始、14分に勝利。合計30分ほど。

 CNプレイガイドで、キリヤンバウのチケ取りをしたわけだ。三番街は微妙にはずれちゃったからさ。並んだ友だち、全員の分のチケットを求めて、いざTEL勝負。

 梅田界隈のコンビニではライバルがいるだろうからと、元職場があった某所まで歩いた。根性。
 まずはレジにいる店員さんにご挨拶。チケ取りのため、10時までここにいます。お邪魔でしょうが、勘弁してください。……んなことする必要もないだろーけど、そこはそれ、大人ですから(笑)。
 端末の前を陣取り、10時ジャストからコール開始。
 で、つながったのが14分。無事に購入。……つーか、念のために多めに買ったから、1枚余ってしまった。これから他の友だちに声かけよう。

 ひとり端末の前にいたのが、およそ30分。

 この端末がなあ。
 鏡の前に置いてあるわけなんだわ。

 30分、することないから、鏡見てた。
 リダイヤルしてる間も、他に見るところも考えることもないんで、ただ鏡見てた。

 …………うう。痩せなきゃ。

 頬のラインが、丸くなったよーな気がする。
 この間、久々に体重計ったけど、数字はべつに変わってなかった。高校生のときから、同じ体重。スリーサイズも変わってない。
 ああでも、やっぱトシだわ。顔、丸くなってるっ。
 がーん……。

 突き詰めたくなんかなかった、己れの現実。
 とほほ。

 CANちゃんの希望日チケットだけ、手に入らなかったんだよね。あとは全員、希望が通ったけれど。
 さららんファンのCANちゃんが、無事に観劇できますように。
 ナルセの退団を惜しむ。心から、惜しむ。
 つーことで、ナルセくんを目に焼き付けて帰って来ました。雪組初日。

 こんなに好きになるなんて思わなかったんだもの。
 最初の印象は、「気持ち悪い顔の人」。
 次は月組時代の、スターの小部屋での「……天然?」な喋り方。こいつ、変。ナチュラルに男の子??
 次は雪組で、「双子屋に似てる……」。正確には「双子師」ね。『クーロンズゲート』の悪役(?)の、何人いるんだお前ら、の双子師。
 わたしとWHITEちゃんは、ナルセを「双子屋」と呼んでいたものだったわ。
 こんなこんな、ファンの人には死んでも言えないような、ひどい印象しかなかったのに。

 『凱旋門』のマルクス・マイヤーでリーチをかけられ、『SAY IT AGAIN』のピエールでロン、『猛き黄金…』の三野村さんではもー、完敗。
 諸手をあげて降伏。

 すみません。わたしが悪うございました。
 あなたにめろめろ(死語)です。

 黒燕尾が似合う男役はそれなりにいるけれど、彼ほど白燕尾が似合う男役はいないっ!
 顔は相変わらず双子屋だけど(すまん)、それでもいいの、美しいわ。
 双子屋なのに美しいなんて、ひとの美意識は想像力に裏打ちされたトリックね。フィルターかかってる? でもいいの、このフィルターは墓場まで持って行くわ。

 ああ、いい男だよなあ、ナルセ。
 1000daysの『凱旋門』の当日券に並んでいたとき、ちょーどナルセの楽屋入りを見ることができた。
 そのとき、隣に並んでいた親子連れの息子くんが、「あ、ナルセさんだ。かっこいいー」と溜息まじりにつぶやいていたのが、忘れられない。
 そうか、中学生の男の子から見ても、かっこいいのか、ナルセ。
 当時のわたしはまだナルセの魅力に開眼してなかったので、「男の子が誉めてる?!」ということにおどろいてしまっていたのだが。

 今ならいっしょに「かっこいいよねえ!」と騒げたのにな。

 残念だ。ナルちゃん。
 もっともっと、その気品あふれる男性像を見ていたかったよ。
 弟のリクエストで、『バイオハザード3』を買ってきた。
 バイオ3のマニュアルを見ながら、「グッズ展開のしにくいシリーズだな」てなことを、弟は言う。
 そうだねえ、最初からこんな壮大なシリーズになるってわかってたら、なにかもっと商売になりそうなアイテムを、作品中に出していたろうにねえ。
 定番っていうか、「これはまぎれもなくバイオハザード!」てなアイテム、特にないもんなあ。銃じゃダメだし、ゾンビもかわいくないし。

 あ、ひとつある。

 アイテムBOX!

 アイテムBOXだけは、どのシリーズにも出てるよね? そんでもって、一目で「うわ、バイオだ!」とわかるよね?
 アイテムBOX型のメモリーカード入れとか、発売したら売れるんじゃない?

 なーんてことを言ってたら弟、

「ランスロットのオルゴール」

 と、つぶやいた。
 どーやら、アイテムBOXからの連想らしい(笑)。
 ランスロットのオルゴール。ええ、商品化してくれたらわたし、買うけどな。

 それにしても、強烈に意識に残ってしまうアイテムって、あるよなあ。
 『タクティクス・オウガ』の「ランスロットのオルゴール」は、忘れられないアイテムのひとつ。
 おっさん、そこで少年を口説くかね? 「妻の形見のオルゴール」なんぞ出して。
 あー、わたしはデニムの初恋の人は、ランスロットだと思ってます。ちなみに、デニムは攻だと思ってます。つーと、ランス受?! いやまあ、彼は受だけど、それにしてもデニム相手でも受かあ。
 希望としては、デニム×ヴァイスだけどな……。

 あ。書いてて思い出した。
 忘れられない、強烈アイテムというと、最大はやはり、『クーロンズゲート』の「男油」!!
 厭すぎるアイテム、として、忘れられない(笑)。
 『クーロン…』をプレイしたヤツはみんな、口をそろえて「男油ってナニ、厭すぎ!」と言う。HPの回復アイテムだから、使わずにはいられない、だけど使いたくなくなる、すばらしいネーミングだ。
 あー……『クーロン…』……すばらしいクソゲーだったなー……でも、ハマると抜けられない、麻薬のやうなゲームだったなー……遠い目。

 ところで、『真珠夫人』は、母親と一緒に見るもんじゃないなあ、と再確認。
 母よ、あんた恥ずかしいよ……なんで瑠璃子さんの純潔の話(笑)を見ながら、自分の「純潔だったころ」の話をはじめるのよー。わたしはTVを見ているんであって、母の「さらば純潔よ」の経験談を聞きたいわけじゃないっ。
 つーか、萎えるだろ、んな話。
 ほんの数年前のことだ。
 わたしは今の家に、家族3人で暮らしていた。
 祖父母とわたし。あと、猫1匹。
 1階が祖父母の部屋で、2階がわたしの部屋だった。
 だけど祖父母が相次いで亡くなり、猫も後を追うようにして逝き、家に残されたのはわたしと、新しく飼った猫1匹。

 気がつくと、1階の時計は止まっていた。

 祖父母の部屋であり、家族の団らんの場所であった1階の部屋には、振り子時計がひとつだけあった。おそらく、わたしの年齢よりも古い時計だ。
 まだわたしが幼く、祖父母が元気だったころには、毎時チャイムを鳴らしていた。それが、時が経つにつれチャイムはなくなり、時を刻む音も小さくなっていった。
 そして、祖父が亡くなり、1階に誰もいなくなったころ、時計もまた動かなくなっていた。

 おばーちゃんが逝き、おじーちゃんが逝った、誰もいない部屋で、振り子時計も、その役目を終えたんだ。

 電池を替えればまた、動くのかもしれない。新しい時計を置けばすむことかもしれない。
 だけどわたしはあえてそれをせず、止まったままの時計を置いている。
 昔、この家にはわたしの他に2人、家族がいたんだよ。この部屋で暮らしていたの。
 震災の朝には、おばーちゃんの布団にもぐりこんだよ。わたしの部屋は家具がすべて倒れてきて、「よく生きてたねアンタ」な状態だったから。
 おじーちゃんの布団には猫がいて、当たり前の顔で丸くなっていたよ。
 布団にはいると、よく見えた。天井に近い壁にかけられた、古い振り子時計。

 この家で、動いている時計があるのは、2階のわたしの部屋だけだ。
 あとの部屋には、どこにも時計は置いてない。

 ひとりぼっちになってしまった、結果のように。

 で。
 なにが言いたいかというとだ。

 1階で喋りこんでいたBe-Puちゃん、「ところで今何時?」「さー?」
 「あたし時計持ってないし」「あたしも今日携帯忘れたから、時計ないの。あそこの時計はずっと10時半だし」
 …………数日前に、6時間喋りまくって、午前様だったわたしたち。
 今回はわたしの家でまた、長っ尻。
 ちょっとぉ、もう11時じゃん! Be-Puちゃん、あれほど「今日は早く帰るからね!」と言い切っていたのに……。

 ごめんね、あの時計はもうずっと止まっているのよ。
 そして、2階のわたしの部屋は今、足の踏み場がなくて立入禁止なのよぉ。ほほほ。

 でもおかげで、『十二国記』をダビングできました。ありがとーBe-Puちゃん!
 ミステイク。『十二国記』を録画し忘れた……。

 昨日、ガイチバウを見たあと、星大劇を見たBe-Puちゃんと待ち合わせ、買い物のあと某24時間営業の喫茶店で喋りまくってた。
 いい加減喋り疲れて、「そろそろ帰ろうか」と時計を見た。
 午前1時半過ぎ。
 えっ?!
 わたしの時計、狂ってる?
 あわてて、てくてくエンジェルの方の時間を見る。
 向かいの席ではやはりBe-Puちゃんが青ざめてる。
「……まだ10時ぐらいだと思ってた……」

 ちなみに、わたしたちがその店に入ったのは、7時半だったんですけど。
 ろ、6時間?!

 あわててBe-Puちゃんちに行き、借りる予定だったゲーム機一式を借り、家まで車で送ってもらったのが、午前2時過ぎ。
 置き去りにしてきた猫が、「よくも1日放っておいたな」と、ぎゃーぎゃー鳴いて責める。ごめんよ、バウが終わるのは5時、まさかこんな時間まで外出してる気はなかったんだぁ。

 友だちと喋りすぎて、時を忘れる。
 昨日で反省してたのに。

 「夕飯の支度までには帰らなきゃ」と言う友と喋りまくって、気がつくと6時半。
 「夕飯の支度がっ」と青ざめる友、「『十二国記』見忘れたっ、WHITEちゃんに録画たのまれてたのに!」と青ざめるわたし。

 お喋りはほどほどにな、自分……。

 猫はわたしが1日家にいるのがうれしいらしい。
 オークションで買ったペラシモの赤コロで、機嫌良く熟睡している。……毛だらけだよ……。
 パラドックスに満ちている。
 ガイチのバウコン。

 初日に行ったときは、本物の男の人を舞台に上げることによって女性が演じる「男役」というものについて、考えさせられた。
 そして今日千秋楽では、コンサートという「音」をたのしむ場でありながら、「無音の世界」について考えさせられた。

 バウの千秋楽のなにがたのしいかって、やっぱペンライトよねえ。あると思ったけど、やっぱしあった。
 座席に使い捨てのペンライト(正式の名前はちがうよねえ?)がセットしてあった。わーい。
 そしてもひとつ、あると思った。
 ゴム風船。
 このコンサートでは、毎回ひとりのお客さんに、ガイチが舞台から風船をプレゼントしていた。
 ゴム風船を抱いて音楽を聴くと、とても気持ちいいんだって。それを体感して欲しい、という意味でのイベント。
 千秋楽はきっと、全員に風船がもらえるんじゃないかと、実は期待していたのだ。
 あともうひとつ。これは意外だった。公演ロゴ入りの、おしゃれな金色のシャープペンもが、もれなく袋に入っていたの。記念品をもらったのははじめてだよー。うれしー。

 風船は、かわいらしいハート型だった。わたしのは、きれーなブルー。
 見れば、いろんな色があるようだった。隣の人は赤だった。いいなあ、赤がよかった。やっぱハートなら赤でしょう。
 音楽をたのしむために、いそいそとふくらませた。……ゴム風船をふくらませるなんて、何年ぶり? 10年? もっと?

 おどろいたよ。
 ほんとに、揺れるんだ。
 音楽で、風船が揺れているのがわかる。振動が抱きしめた身体に伝わる。

 音がないときは、自分の鼓動がわかる。
 揺れてる。
 わたしの、生命の音。

 心地よい音楽の中、わたしは「無音」について考えた。
 音って、振動なんだ。
 いやもちろんそれは、知っていたよ。空気をふるわせて、耳に届いているもんなんだってことは。
 でも、それをこんなふうに「振動」として、たしかに感じることはなかった。
 音と共に揺れる。
 存在している。

 ではもし、「音」が聞こえなかったら?

 聴覚を失ってしまったとしたら。あるいは、生まれつき聴覚を持っていなかったら。

 目に見えない。もちろん、聞こえない。
 だが、それはある。
 抱きしめた風船が揺れている。
 風船が揺れ、わたしの身体を揺らしている。

 目に見えないけれど、たしかにここにあるもの。

 ここにあるものが、わたしを揺らしているよ。存在を訴えかけているよ。

 たとえばそれは、ひとの心のようなもので。
 目に見えないけれど、たしかにここにあるもの。

 音に包まれながら、「無音」に想いを馳せた。

 ガイチの歌が、わたしを揺らしている。
 抱きしめた、青いハート。

 とてもとても、たのしいコンサートだった。
 豊かな歌声もさることながら、彼女の「みんなをたのしませよう」「今をとびきりの時間にしよう」という気持ちが、胸いっぱいに伝わってきた。
 ありがとう。とても、たのしかった。
 この箱を出たら、待っているのは現実。その現実と、戦っていくための力が、わいてくるよ。

 わたしのペンライトは、赤く発光した。
 何回目かのカーテンコールのとき、膝の上に置いた青い風船の下から透けて、赤いペンライトが見えた。
 まるで、青いハートをつらぬく赤い矢のようだった。
 初体験だ、すみれ募金ミーハー。

 すみれ募金、とかゆー行事があることは、知ってたんだ。でも日曜日は仕事があったから、行ったこと無かったの。
 でも今のわたしは晴れて無職。行けんじゃん、すみれ募金!!
 イベントはとにかく参加しとけ! がモットーなこのわたし。わかんねー場合は、とりあえず行っとけ!

 ……すみません、募金はせずに、生徒さんの顔だけ見てきました。
 だってなんか、はにかんじゃうんすよ、近くに寄るの。話しかけるなんて、とんでもない! わたしはシャイなんでありんすよ。
 と言いつつ、写真撮ってました。もーなにがなんだかわかんねーが、わかんないなら、とりあえず撮っとけ!(こればっかや)
 つーことで、わたしは即席カメラ小僧。ちゃちなカメラで人混みの後ろからシャッター押してました。

 いやー、すごかったわ。あの人の数。
 やる気に満ちあふれた人は、インスタントカメラでひとりずつ撮り、できた写真にその場で名前を書いてもらってた。そしてすぐさまファイリング。
 なるほど、ああやるものなのか。
 だって、誰が誰だかわかんないもんなあ。
 大劇入口前にいた、あのきれーなお嬢さんは、なんて名前なのじゃろう……ほろり。
 わたしは遠くで見つめるだけー。よよよ。

 あまりの人の多さにめげて、とっとと外へ出た。おばさん、体力ないんや。
 そしたら偶然、そこで生徒さんの記念撮影が行われるらしい。
 あら、労せずしてわたし、ベストポジションでカメラ構えてます。あら、撮り放題ですか。
 はー。
 たしかに、ベストポジションだった。わたしはふつーの女性よりは背が高いから、2、3列目ならこわいものなし。
 でも。
 あとからあとから、押してくるのよ、カメラ小僧たち!
 しかもなんなの、この男性率の高さ。
 ヅカの客席って、あんまし男の人いないよね? なのにカメ小は男がやたら目につくんですけど? 小僧っちゅーか、おっちゃん?
 「ちょっと、かがんでよ!」とか言って、わたしの隣の女性、後ろから男の人に肩掴まれてた。
 あの、後ろから知らない女性の肩掴みますか? それって、通常なら悲鳴上げられてますよ? 痴漢呼ばわりされる場合だって、あるのでは?
 こーわーいー。
 なんかみんな、変だよー。
 本能剥きだし、エチケットとか常識とか、吹っ飛んでる?

 びっくらこいたわたし、ここでも早々に退散。

 わたし、あまり入出待ちしたことないけど、ここまでひどいことってないよね?
 他人押しのけて、写真撮るなんて。

 やー、疲れきりました。
 最後の記念撮影バトルで。
 自発的に中腰になってたもんで、膝ががくがく。

 つきあってくれたCANちゃん、ありがとー。おかげですみれ募金初体験できたわ。ひとりじゃこわくて行けなかったの(だからわたしはシャイなんだってば)。
 それから、いっぽくんのマナーポスターもありがとー。

 ちょっと笑えたこと。
 行きの電車で、劇場内の売店で働いている友人とばったり会ったんだけど(ちょーど出勤時間だったらしい)、わたしがすみれ募金のために朝もはよからムラに向かっていると言ったら、しきりに感心していた。
 「募金ってそれ、会社は認めてるの?」とか「そんなことして大丈夫なの?」とか、なんかよくわかんないことを言う。
 ……ヅカのことをなにも知らないし興味もない彼女、まず、募金を求めて立つのはスターさんだと思ったらしい。だからそんなことをしたら、ファンが殺到して混乱するのではないかと危惧した。
 ちがうよ、募金をつのるのは、まだ学生さんだから、そこまで混乱はしないと思うよ。
 「なあんだ」と納得した彼女、だけどまだ「そんなことするなんて、阪急も追いつめられてるのねえ」と、やはりわからないことを言っている。

 募金、というのは、阪急がお金に困って、客に「寄付をしてくれ」を哀願している……のだと、思ったのだそーな。

 おいおい、募金って、チャリティ、慈善なんですってば。阪急が物乞いしてるわけじゃないっすよー(笑)。
 どーゆー誤解だそりゃ。

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