オスカルの決意。~「嫌い」物語~@ベルサイユのばら
2013年7月15日 タカラヅカ わたしは、植爺の『ベルサイユのばら』が嫌い。
嫌いな理由は星の数ほどあるけれど、中でも最大級に嫌いなことを語る。
嫌いというか……疑問?
植爺は、『ベルサイユのばら』という物語の最高のクライマックス、パリ出動の意味を、まったく理解していないよな?
わたしが間違っているだけかもしれんさ。
でもわたしはわたしの意識、感情において、植爺の考える「パリ出動」~「オスカル戦死」までが、許せない。
1789年7月13日。
オスカルは衛兵隊を率いて、パリへ出動する。
パリには国王軍が集結、民衆たちはそれに対し、武装蜂起を辞さない覚悟。
まさに、一触即発。
パリへ出動するということは、戦場へ行くと同義語。
てことで、植爺『ベルばら』では、ジェローデルだーのジャルジェ家の人々だーのが、大騒ぎする。「オスカルを止めてください。オスカルは女なんですよ、女なのにそんな危険なところへ行くなんて……!!」と。
たしかにオスカルは7月14日のバスティーユの戦闘で落命する。戦死するくらい激しい戦闘でだったわけで、そんなところへ行くのだから、家族が心配して止めるのは当たり前。
と、植爺は考えている、らしい。
ちょっと待ってくれ。
オスカルが戦死するのは「結果」だ。
出動前には誰もそんなこと知らない。
第一。
国王軍とパリ市民たちは、武力に圧倒的な差があるんだってば。
国王軍の将校である限り、戦死のリスクはとっても低い。
相手は訓練を受けたわけでもない、烏合の衆。かき集めた銃器を持っているとはいえ、素人の集まりだ。軍隊の敵ではない。
圧倒的な武力差があり、国王軍としては「暴動鎮圧」認識。「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」わけじゃない。
そして、オスカルは軍人だ。それも、昨日今日入隊したばかりの新米じゃない。この道20年のベテランで、首飾り事件や黒い騎士事件など、兵を率いて行動したり、命を賭して任務に当たっている。今にはじまったことじゃない。
だからジャルジェ家の人々が大騒ぎするのはおかしい。
現に王宮では宴会してたんだ。勝利が当たり前だから。ベルサイユに出仕する貴族のジャルジェ家だって、その空気の中にいるべきだろう。身内を心配する気持ちとは別にして。
ジャルジェの人々が「女なのに」と大騒ぎする場面を見るたび、嫌悪感で苛立つ。
『ベルサイユのばら』と銘打っている物語なのに、この舞台を書いている作者(植爺)が、『ベルサイユのばら』をまったく理解していないことがわかるからだ。
植爺は、オスカルが結果として「死ぬ」から、「パリへ行くという話は重要」だと思っている。生死という「目に見えること」しか、わかっていない。
植爺が原作を理解していない、そもそも読んだこともないんじゃないかと思うのは、そこだ。
オスカルがパリで死ぬのは結果でしかない。
問題はソコじゃない。
パリ出動が何故、物語のクライマックスなのか。
主人公が「死ぬ」からじゃない。
オスカルという人物の、「心」が「生き方」が、最大の変化を、「答え」を得るからこそ重要なんだ。
出動命令を受けたあと。
オスカルが思い悩んでいるのは、「死ぬかもしれない」ことではない。「身分を、家族を、国王一家を、それまでの自分の人生すべてを捨てて、民衆の側に付くかどうか」だ。
つまり、革命に身を投じるかどうかだ。
そして、パリへ出動する前に、オスカルは答えを出している。
だから「前夜」があれほど緊迫している。
オスカルはもう、二度とここへは戻らないと、覚悟を決めている。
「出動であって、出撃ではない」……最後の賭け。もしこのまま、国王軍が民衆に対し攻撃を仕掛けなければ、まだ信じようと思う。だけど、戦闘になるならば……民衆側に、付く。
「民衆に銃を向けろとおっしゃるのですか」と動揺する衛兵隊に「わたしが直接指揮をとる」と言うのは、国王でも貴族たちでもなく、自分個人を信じてついてこいと言うのは、その決意があったからだ。
でもこの決意は、誰にも言えない。アンドレにさえ。
「わたしが臆病者にならぬよう、しっかりとそばについていてくれ」……そう言うのみ。
そしてアンドレは、オスカルの言葉にしない覚悟を察している。
パリへ出動したあと、オスカルがまだ行動を起こさないことに「なぜオスカルはだまっている?」と疑問を持っていたように。で、暴動発生を知ったオスカルが「自由であるべきは心のみにあらず!」と民衆側に付くのを黙って見守った。
オスカルが「決断」するのは、「出動前」だ。
「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」かのように空気が濃いのは、彼女が民衆側付くつもりだから。
愛する父にも母にも、二度と会えない。会わない。そうわかっているからこそ、別れの挨拶をしている。
「たとえなにがおころうとも、父上はわたくしを卑怯者にはお育てにならなかったと、お信じくださってよろしゅうございます」
父もまた、すべてを察し、受け止めている。「いくがいい、おまえのえらんだ道を。その情熱の命ずるままに…」
ばあやだけは引き留めているし、泣き言も言っているけれど、彼女は「命が危険だから行かないで」とは、ひとことも言ってない。「女なのに、そんな危険なところに行くなんて」とは、言ってない。
オスカルが戻らないのではないかという「別れの予感」に泣いている。
オスカルの決意、覚悟に対し、作中ではあえて、言葉にされていない。
7月13日、パリで暴動発生の報を受け、そこで突然オスカルが勲章をむしり取る、その「転身」がより際立つように、あえて前宣伝をしていないんだ。
だけど、それまでの彼女の考え方、性格、物語の流れを理解していれば、言葉がなくてもわかる。
決めていたんだ、と。
続く。
嫌いな理由は星の数ほどあるけれど、中でも最大級に嫌いなことを語る。
嫌いというか……疑問?
植爺は、『ベルサイユのばら』という物語の最高のクライマックス、パリ出動の意味を、まったく理解していないよな?
わたしが間違っているだけかもしれんさ。
でもわたしはわたしの意識、感情において、植爺の考える「パリ出動」~「オスカル戦死」までが、許せない。
1789年7月13日。
オスカルは衛兵隊を率いて、パリへ出動する。
パリには国王軍が集結、民衆たちはそれに対し、武装蜂起を辞さない覚悟。
まさに、一触即発。
パリへ出動するということは、戦場へ行くと同義語。
てことで、植爺『ベルばら』では、ジェローデルだーのジャルジェ家の人々だーのが、大騒ぎする。「オスカルを止めてください。オスカルは女なんですよ、女なのにそんな危険なところへ行くなんて……!!」と。
たしかにオスカルは7月14日のバスティーユの戦闘で落命する。戦死するくらい激しい戦闘でだったわけで、そんなところへ行くのだから、家族が心配して止めるのは当たり前。
と、植爺は考えている、らしい。
ちょっと待ってくれ。
オスカルが戦死するのは「結果」だ。
出動前には誰もそんなこと知らない。
第一。
国王軍とパリ市民たちは、武力に圧倒的な差があるんだってば。
国王軍の将校である限り、戦死のリスクはとっても低い。
相手は訓練を受けたわけでもない、烏合の衆。かき集めた銃器を持っているとはいえ、素人の集まりだ。軍隊の敵ではない。
圧倒的な武力差があり、国王軍としては「暴動鎮圧」認識。「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」わけじゃない。
そして、オスカルは軍人だ。それも、昨日今日入隊したばかりの新米じゃない。この道20年のベテランで、首飾り事件や黒い騎士事件など、兵を率いて行動したり、命を賭して任務に当たっている。今にはじまったことじゃない。
だからジャルジェ家の人々が大騒ぎするのはおかしい。
現に王宮では宴会してたんだ。勝利が当たり前だから。ベルサイユに出仕する貴族のジャルジェ家だって、その空気の中にいるべきだろう。身内を心配する気持ちとは別にして。
ジャルジェの人々が「女なのに」と大騒ぎする場面を見るたび、嫌悪感で苛立つ。
『ベルサイユのばら』と銘打っている物語なのに、この舞台を書いている作者(植爺)が、『ベルサイユのばら』をまったく理解していないことがわかるからだ。
植爺は、オスカルが結果として「死ぬ」から、「パリへ行くという話は重要」だと思っている。生死という「目に見えること」しか、わかっていない。
植爺が原作を理解していない、そもそも読んだこともないんじゃないかと思うのは、そこだ。
オスカルがパリで死ぬのは結果でしかない。
問題はソコじゃない。
パリ出動が何故、物語のクライマックスなのか。
主人公が「死ぬ」からじゃない。
オスカルという人物の、「心」が「生き方」が、最大の変化を、「答え」を得るからこそ重要なんだ。
出動命令を受けたあと。
オスカルが思い悩んでいるのは、「死ぬかもしれない」ことではない。「身分を、家族を、国王一家を、それまでの自分の人生すべてを捨てて、民衆の側に付くかどうか」だ。
つまり、革命に身を投じるかどうかだ。
そして、パリへ出動する前に、オスカルは答えを出している。
だから「前夜」があれほど緊迫している。
オスカルはもう、二度とここへは戻らないと、覚悟を決めている。
「出動であって、出撃ではない」……最後の賭け。もしこのまま、国王軍が民衆に対し攻撃を仕掛けなければ、まだ信じようと思う。だけど、戦闘になるならば……民衆側に、付く。
「民衆に銃を向けろとおっしゃるのですか」と動揺する衛兵隊に「わたしが直接指揮をとる」と言うのは、国王でも貴族たちでもなく、自分個人を信じてついてこいと言うのは、その決意があったからだ。
でもこの決意は、誰にも言えない。アンドレにさえ。
「わたしが臆病者にならぬよう、しっかりとそばについていてくれ」……そう言うのみ。
そしてアンドレは、オスカルの言葉にしない覚悟を察している。
パリへ出動したあと、オスカルがまだ行動を起こさないことに「なぜオスカルはだまっている?」と疑問を持っていたように。で、暴動発生を知ったオスカルが「自由であるべきは心のみにあらず!」と民衆側に付くのを黙って見守った。
オスカルが「決断」するのは、「出動前」だ。
「勝つ見込みの薄い戦場へ、二度と帰らぬ覚悟で赴く」かのように空気が濃いのは、彼女が民衆側付くつもりだから。
愛する父にも母にも、二度と会えない。会わない。そうわかっているからこそ、別れの挨拶をしている。
「たとえなにがおころうとも、父上はわたくしを卑怯者にはお育てにならなかったと、お信じくださってよろしゅうございます」
父もまた、すべてを察し、受け止めている。「いくがいい、おまえのえらんだ道を。その情熱の命ずるままに…」
ばあやだけは引き留めているし、泣き言も言っているけれど、彼女は「命が危険だから行かないで」とは、ひとことも言ってない。「女なのに、そんな危険なところに行くなんて」とは、言ってない。
オスカルが戻らないのではないかという「別れの予感」に泣いている。
オスカルの決意、覚悟に対し、作中ではあえて、言葉にされていない。
7月13日、パリで暴動発生の報を受け、そこで突然オスカルが勲章をむしり取る、その「転身」がより際立つように、あえて前宣伝をしていないんだ。
だけど、それまでの彼女の考え方、性格、物語の流れを理解していれば、言葉がなくてもわかる。
決めていたんだ、と。
続く。
安心の中村B(笑)。@Fantastic Energy!
2013年7月14日 タカラヅカ 『Fantastic Energy!』感想、おぼえてるだけ、簡単に。初日1回観ただけなのでうろおぼえ、まちがってるとこありまくりだろーけど。
しかし中村Bのショーって、タイトルおぼえられない……。
内容がみんな一緒で、タイトルも当たり障りのないヨコモジなんで、どれがどれだかもお……。
オープニング衣装のネオンカラーは「中村B……(笑)」って感じだけど、娘役がスカートを、男役がジャケットの裾を、一斉にばっさーっと振り回した瞬間、「キャッホウ!!」気持ちになった。
やっぱタカラヅカってすごい、楽しい! そういうアがり方したね!
そしてなんつっても、ちゃぴのパンツ姿!!
娘役トップがショーのオープニングでパンツルックってのはイイね、たまにだからこそクるね! いやその、長身の娘役に限る、だけど、いいよねこーゆーの。
ちゃぴがもーかっこよくてかっこよくて。
OPのあとのお約束のトップ銀橋になってはじめて、銀橋の階段の存在に気がついた。下手側だけ。ああ、今回客席降りないんだな。
トップさんが足を掛けて客席を釣る、それだけのために設置(笑)。
トップ銀橋の次はもちろん2番手場面。
みっちゃんセンター、コマとかちゃがその後ろ。舞台後方にお立ち台アリ、そこも使って。
すげー人数が踊りまくってるけど、スター的には「歌」の場面?
元気いっぱいがちゃがちゃ。けっこー長い。
2番手場面の次はもちろんトップスター様登場。
みっちゃんの場面がダンスだけだったから、こっちはストーリーありーので来るかなと思った、なにしろダンスはアレなまさおさんだし。
でも、おっとどっこい、本気でダンス場面です。
まさおくんというか、ちゃぴちゃんのための場面に見えた、気もする……。なんせ人には得意分野っつーのがあってだね……ゲフンゲフン。
でも、ちゃぴは踊りながら歌わなくていいっす……。芝居ではあんなにきれいに歌ってたのになー。
『Shining Rhythm!』の「クールリズム」を思い出す場面だった。テーマは違うけど構成似てるー。あゆっちもあんりちゃんも、歌大変だったなー。
ストーリー性に逃げずに本気でダンスだし、周囲も踊れる人で固めてるし、振付は小粋だし……きっとこれからよくなっていくんだと思う。
前半終了、中詰めスタート。
4番手あたりのせり上がりではじまるよね、と身体がおぼえている(笑)、そしたらほんとにかちゃが上手すっぽんからせり上がってきた。
気持ちスパニッシュ?の、銀橋使っての「スターが次々登場!」メドレー。いつもの中村B。
既視感バリバリっすよ……。
リュウ組長にソロがあった。
彼の歌好きだからうれしい。
リュウ様の歌で、ちゃぴが踊る。
組長の歌でトップ娘役が踊る、なかなかめずらしい場面。
でもこーゆーのいいなー。特別感がある。ちゃぴがまたかっこよくてだな……!
でもここまでえんえん同じテイストだから、ちょっとあきるなー。
いっつも舞台に人がひしめいていて、強い音楽で、全員ががんがん踊っていて。
少人数でしっとりとか、ストーリーありとか、入れればいいのに。
たぶん中詰めのあと、「メインテーマ」はストーリーもので来るな。それを楽しみにしよう。
と、マギーのムード歌謡を聴きながら思う。ほんとにもー、とことん中村B。
中詰めもスペイン系だったと思うけど、中村Bが大好きなタイプじゃなかったから、きっとメインにスパニッシュ来る、と身体が身がまえていたら、ほんとにその通り!でツボる。
お耽美系ですよ、ダークファンタジーですよ!!
中村Bは「いつも同じ」ものしか作らない。構成には黄金ルールがあるし、キャストは「上から順番、1、2、3」だし、群舞ばっかだし、ヘタすりゃ単調であきる。
でも、「歌ウマトップ」とは相性がいいんだな。
そう思った。
いつも群舞で大人数がひしめいていて、容赦なくダンシングショーだから、ダンサートップの方がいいと思いがちだけど。
最初から最後まで大勢ダンスが基本だと、トップがダンサーでも、同じ色の中に混ざっちゃうのね。
むしろ、歌ウマトップの方が、大人数の中でどーんとソロを歌って、色を変えることか出来る。
もちろんある程度踊れてくれないと困るけど、ダンス一筋の音痴トップよりは、ダンスいまいちでも歌ウマトップの方が、中村Bショーにはハマる。
50人とかが一斉に踊っているんだもの、神がかりなほどのダンスの天才ならいざ知らず、ただひとり「声を出す」人の方が、わかりやすく目立つわ。
まさおくんは、「歌」のトップスターとして、スタンスが決まったかな。
このメイン場面を観ながら、そう思った。
なんつーか、気迫がすごかった。
前半のダンスでのセンター場面よりも、物語のある、「神」的な役割で数十人の間でひとり歌う場面で。
この場を掌握する、君臨する、その気概がばんばん伝わってくる。
これから、だよね。
ひとりで組を背負って立って。
今日、新しいスタート。これから、まさおくんも、月組も、さらに変わっていくはず。
メイン場面が終わったあとの、お約束の若手銀橋。
……翔くんがたまきちくらいうまければなあ、とトホホな気持ちになるくらいには、ふつーにたまきちはうまい。つか、初銀橋ソロ?
ロケットは衣装は微妙、でも帽子かわいい。センターみゆちゃんかわいい。
男役の子がソロ場面もらってたなー。
フィナーレに娘役トップの銀橋があるのもお約束だよね、中村B(笑)。
そして大階段が舞台に登場、まさおくんと娘役たちの場面に。
この「まさお+娘役」さん場面、まずぼーっとゆずはちゃんを眺めていたんだけど、……な、なんか「あれ?」って感じで、あわてて他の女の子たちもひとりずつ確認……このドレス、胸の位置、やばくね?
タカラヅカの娘役衣装って、一見露出高めに見えるけど、実はちゃんと隠すところを隠してるよね。ハイレグでもお尻は出さないし、肩出しでも谷間は見えない。
このドレス、谷間っつーか胸がかなり見える……2階席だからか? あまりのことに女の子の胸元眺めているだけで終了してしまった。……まさお……。
黒燕尾が必ずあるのも、中村Bのお約束のいいところ。
V字をあとから埋めていく登場を、ほへーっと眺めました。段階踏んで登場してくれると、点呼取るのに助かります(笑)。
まさおがいなくなったあと、スタークラスの男たちが残ってトップ娘役を迎える、この演出は好き。
美女ひとりにイケメンよりどりみどりっすよー。
上から順番にツーショで絡んで。
マギーとちゃぴのリフトがきれい。
でも、コマつんとは絡んでくれなかった……見たかったのに。
トップになって3作目、ようやくふたりだけのトップコンビ、再スタートのデュエットダンスなんだなと感慨深く、ラストのまさちゃぴダンスを見守り。
まさおさん、歌わないのね、と、デュエットダンスで歌う必要ナイのに、そんなことを思ったり。や、歌ってくれてもわたしはいいから。
やっぱショーはいい。楽しい。
わたしこのショー好きだわー。
次は1階席で観る予定なので、どう見えるかとても楽しみ。
しかし中村Bのショーって、タイトルおぼえられない……。
内容がみんな一緒で、タイトルも当たり障りのないヨコモジなんで、どれがどれだかもお……。
オープニング衣装のネオンカラーは「中村B……(笑)」って感じだけど、娘役がスカートを、男役がジャケットの裾を、一斉にばっさーっと振り回した瞬間、「キャッホウ!!」気持ちになった。
やっぱタカラヅカってすごい、楽しい! そういうアがり方したね!
そしてなんつっても、ちゃぴのパンツ姿!!
娘役トップがショーのオープニングでパンツルックってのはイイね、たまにだからこそクるね! いやその、長身の娘役に限る、だけど、いいよねこーゆーの。
ちゃぴがもーかっこよくてかっこよくて。
OPのあとのお約束のトップ銀橋になってはじめて、銀橋の階段の存在に気がついた。下手側だけ。ああ、今回客席降りないんだな。
トップさんが足を掛けて客席を釣る、それだけのために設置(笑)。
トップ銀橋の次はもちろん2番手場面。
みっちゃんセンター、コマとかちゃがその後ろ。舞台後方にお立ち台アリ、そこも使って。
すげー人数が踊りまくってるけど、スター的には「歌」の場面?
元気いっぱいがちゃがちゃ。けっこー長い。
2番手場面の次はもちろんトップスター様登場。
みっちゃんの場面がダンスだけだったから、こっちはストーリーありーので来るかなと思った、なにしろダンスはアレなまさおさんだし。
でも、おっとどっこい、本気でダンス場面です。
まさおくんというか、ちゃぴちゃんのための場面に見えた、気もする……。なんせ人には得意分野っつーのがあってだね……ゲフンゲフン。
でも、ちゃぴは踊りながら歌わなくていいっす……。芝居ではあんなにきれいに歌ってたのになー。
『Shining Rhythm!』の「クールリズム」を思い出す場面だった。テーマは違うけど構成似てるー。あゆっちもあんりちゃんも、歌大変だったなー。
ストーリー性に逃げずに本気でダンスだし、周囲も踊れる人で固めてるし、振付は小粋だし……きっとこれからよくなっていくんだと思う。
前半終了、中詰めスタート。
4番手あたりのせり上がりではじまるよね、と身体がおぼえている(笑)、そしたらほんとにかちゃが上手すっぽんからせり上がってきた。
気持ちスパニッシュ?の、銀橋使っての「スターが次々登場!」メドレー。いつもの中村B。
既視感バリバリっすよ……。
リュウ組長にソロがあった。
彼の歌好きだからうれしい。
リュウ様の歌で、ちゃぴが踊る。
組長の歌でトップ娘役が踊る、なかなかめずらしい場面。
でもこーゆーのいいなー。特別感がある。ちゃぴがまたかっこよくてだな……!
でもここまでえんえん同じテイストだから、ちょっとあきるなー。
いっつも舞台に人がひしめいていて、強い音楽で、全員ががんがん踊っていて。
少人数でしっとりとか、ストーリーありとか、入れればいいのに。
たぶん中詰めのあと、「メインテーマ」はストーリーもので来るな。それを楽しみにしよう。
と、マギーのムード歌謡を聴きながら思う。ほんとにもー、とことん中村B。
中詰めもスペイン系だったと思うけど、中村Bが大好きなタイプじゃなかったから、きっとメインにスパニッシュ来る、と身体が身がまえていたら、ほんとにその通り!でツボる。
お耽美系ですよ、ダークファンタジーですよ!!
中村Bは「いつも同じ」ものしか作らない。構成には黄金ルールがあるし、キャストは「上から順番、1、2、3」だし、群舞ばっかだし、ヘタすりゃ単調であきる。
でも、「歌ウマトップ」とは相性がいいんだな。
そう思った。
いつも群舞で大人数がひしめいていて、容赦なくダンシングショーだから、ダンサートップの方がいいと思いがちだけど。
最初から最後まで大勢ダンスが基本だと、トップがダンサーでも、同じ色の中に混ざっちゃうのね。
むしろ、歌ウマトップの方が、大人数の中でどーんとソロを歌って、色を変えることか出来る。
もちろんある程度踊れてくれないと困るけど、ダンス一筋の音痴トップよりは、ダンスいまいちでも歌ウマトップの方が、中村Bショーにはハマる。
50人とかが一斉に踊っているんだもの、神がかりなほどのダンスの天才ならいざ知らず、ただひとり「声を出す」人の方が、わかりやすく目立つわ。
まさおくんは、「歌」のトップスターとして、スタンスが決まったかな。
このメイン場面を観ながら、そう思った。
なんつーか、気迫がすごかった。
前半のダンスでのセンター場面よりも、物語のある、「神」的な役割で数十人の間でひとり歌う場面で。
この場を掌握する、君臨する、その気概がばんばん伝わってくる。
これから、だよね。
ひとりで組を背負って立って。
今日、新しいスタート。これから、まさおくんも、月組も、さらに変わっていくはず。
メイン場面が終わったあとの、お約束の若手銀橋。
……翔くんがたまきちくらいうまければなあ、とトホホな気持ちになるくらいには、ふつーにたまきちはうまい。つか、初銀橋ソロ?
ロケットは衣装は微妙、でも帽子かわいい。センターみゆちゃんかわいい。
男役の子がソロ場面もらってたなー。
フィナーレに娘役トップの銀橋があるのもお約束だよね、中村B(笑)。
そして大階段が舞台に登場、まさおくんと娘役たちの場面に。
この「まさお+娘役」さん場面、まずぼーっとゆずはちゃんを眺めていたんだけど、……な、なんか「あれ?」って感じで、あわてて他の女の子たちもひとりずつ確認……このドレス、胸の位置、やばくね?
タカラヅカの娘役衣装って、一見露出高めに見えるけど、実はちゃんと隠すところを隠してるよね。ハイレグでもお尻は出さないし、肩出しでも谷間は見えない。
このドレス、谷間っつーか胸がかなり見える……2階席だからか? あまりのことに女の子の胸元眺めているだけで終了してしまった。……まさお……。
黒燕尾が必ずあるのも、中村Bのお約束のいいところ。
V字をあとから埋めていく登場を、ほへーっと眺めました。段階踏んで登場してくれると、点呼取るのに助かります(笑)。
まさおがいなくなったあと、スタークラスの男たちが残ってトップ娘役を迎える、この演出は好き。
美女ひとりにイケメンよりどりみどりっすよー。
上から順番にツーショで絡んで。
マギーとちゃぴのリフトがきれい。
でも、コマつんとは絡んでくれなかった……見たかったのに。
トップになって3作目、ようやくふたりだけのトップコンビ、再スタートのデュエットダンスなんだなと感慨深く、ラストのまさちゃぴダンスを見守り。
まさおさん、歌わないのね、と、デュエットダンスで歌う必要ナイのに、そんなことを思ったり。や、歌ってくれてもわたしはいいから。
やっぱショーはいい。楽しい。
わたしこのショー好きだわー。
次は1階席で観る予定なので、どう見えるかとても楽しみ。
安定の中村B。@Fantastic Energy!
2013年7月13日 タカラヅカ ショー『Fantastic Energy!』は、あまりに「中村B」で、ウケた(笑)。
いつもの中村B。どこを取っても中村B。ここまで中村Bだといっそ潔い、清々しい。
目に痛い衣装のオープニング、銀橋にひとり残ったトップスターが客席釣りながらのソロ、セットのほとんどない平らな舞台に人・人・人、ラッシュ状態でちょー大勢が踊りまくり、順番に銀橋使って中詰め、銀橋ラインナップで中詰めがじゃんっと終わって暗転したあと、ひとり残ってムード歌謡キターーッ!! あー流れからいって次はスパニッシュでメイン来るなー、そのまんまキターーッ!! 次は若手銀橋からロケット、そろそろ黒燕尾かなー。
なんかもお、「俺、エスパー?」ってくらい、次の盤面、演出が見る前から脳裏に浮かび、浮かんだ通りのモノが展開されて、途中から笑いを殺すのに必死でした。
暗闇にムード歌謡が流れ出したときはどうしようかと……そして、「ムード歌謡担当」がマギーだとわかった瞬間の衝撃たるや……わ。わらいしぬかとおもった……。
わたしは2階席だったんだが、なんかもーしみじみと感心してしまった。
宝塚大劇場の舞台って、広いなあ。
同時に、こんなものすごい人数が踊れるんだ。
って、そんなことに感心するくらい、フラットな舞台に、ものすごい人数がひしめいて踊っていた。
一場面じゃないよ? ほとんどの場面でだよ?!
これ、1階席で観たらどうなるんだろう。贔屓を探せるんだろうか? 立体セットはほぼナシ、ほとんどがフラットだよ? 2列目以降の子は見えるのか? しかも、5列目とかまでふつーにあるんだけど、なにしろ人数すごいから。
あの人数であの密度で、ぶつからずに踊れるってすごいなー。
そんな、あさっての方向の感心をしちゃうくらい、不思議な画面でした。
そして、画面の不思議さというと、ここってナニ組だっけ、ということもそう。
まさお、みっちゃん、かちゃ、みやるり、マギー、コマ……並ぶ男役スターの姿に、軽く混乱する。
月、宙、宙、星、月、雪?
えーとえーと、みりおくんどこ? まさおくんの隣って、みりおくんの定位置でしょ?
としくんたち、月組生え抜きさんたちもどこー?!
わかってるんだけど、とっさに混乱するなあ。
下級生時代からずーっと抜擢されて「スター」として月組のメイン画面に当たり前にいたみりおくんがおらず、別の組の人たちが何人も代わりに入っていると、違和感大きいわー。
みっちゃんは元月組だけど、……彼は不思議にどの組でも「チガウ」気がする。それは彼が「スター」であるからか、あるいはそれこそが「専科」になった理由なのか。
ともあれ、みっちゃんは期待通りの素晴らしい歌声披露。ラストに大きな羽根も背負っていたし、ひとつずつ階段を上っている模様、おめでとー。
上記の男役スターの並びに、たまきちも入っていた。
上級生ごぼう抜き、出世スピード速ぇー。
どこの組も、次世代スターを一気に上げて来てますな。(宙組除く)
そしてコマつんの位置にちょいへこむ。や、『ME AND MY GIRL』からしてもわかってたけどさー。この扱いなら、組替えしなくてよかったじゃんよー、と思っちゃいますよ……。
結局、「準トップ」という謎の体制時代は、ショー作品がなかった。
あのままみりおくんがいたとして、いつかあっただろうショー作品では、やはり役替わりがあったのだろうか? それとも、芝居は役替わりしてもショーは固定?
その場合、準トップ様の出番はダブルトップ並?
実現しなかったので、謎のまま。
そして、準トップのみりおくんがいなくなり、はっりした2番手が誰かもわからないまま専科のみっちゃん特出。
なんとなく、ショーはみっちゃんが2番手以上の扱いを受けるのかなーと思っていた。ただの2番手ではなく、準トップ様の抜けたあとに入るわけだし。
準トップじゃないけど、近年では花組の『カノン』なんかは、トップスターと2番手スターがほぼ同格っちゅーか、交互に出てきてセンター務めて、デュエットダンスまで2組で踊っている、落ち着きの悪いショーだった。
あそこまで変な作りにはしないだろうけど、もう少し「準トップ」がいたときのショー寄りになるのかな? と、なんとなーく、漠然と思った。まさおくんの単独トップ姿をまだ知らないわけだから。なんでもみりおくんと「半分こ」しているイメージが強くてなー。
でも、みっちゃんは「ふつーの2番手さん」の扱いだった。みっちゃんメインの場面って結局ひとつだけだしね。
作品の中核となる場面では、他の組子と同じように群舞の中にいたし。
つか、さすがは「上から順番、1、2、3」の中村Bってことか。特出スターがいても、いつも通りの中村Bって(笑)。
だからこそ、準トップ様体制の中村Bショーを観てみたかった気がする。
初日を観劇するかどうかは最初、迷っていた。や、スケジュール的に、行ける日じゃなかったのよ。翌日の土曜なら行けるけど。
でも友人から「越リュウの挨拶が聞ける最後の日」と言われ、「初日行く」になった。
組長は、公演初日に挨拶をする。
通常、千秋楽もするけれど、自分が卒業するときは、その役はナイ。
てことは、リュウ様の挨拶を聞ける最後の日。
厳密には貸切公演挨拶もあるだろうし、東宝初日の挨拶もある。
でもわたしが観ることの出来る最後の挨拶は、ムラ初日だ。
万難を排して駆けつけましょうぞ。
……てことで、ごくふつーに挨拶をするリュウ様を、感慨深く見つめていました。
もうリュウ様の初日挨拶を聞くことはないんだ……。
次に挨拶するときは、袴を穿いての退団挨拶なんだ……。や、楽のチケット持ってないけど。
さみしいなあ。さみしいなあ。
ショーはとっても楽しかったさ。やっぱ定番はイイ。ふつうがいちばん(笑)。
キムくんやオサ様という、「歌手」トップスターが演じる中村Bショーに慣れ親しんだ者としては、まさおくんの中村Bショーは馴染みやすいというか、入りやすい。落ち着くわー。
いつもの中村B。どこを取っても中村B。ここまで中村Bだといっそ潔い、清々しい。
目に痛い衣装のオープニング、銀橋にひとり残ったトップスターが客席釣りながらのソロ、セットのほとんどない平らな舞台に人・人・人、ラッシュ状態でちょー大勢が踊りまくり、順番に銀橋使って中詰め、銀橋ラインナップで中詰めがじゃんっと終わって暗転したあと、ひとり残ってムード歌謡キターーッ!! あー流れからいって次はスパニッシュでメイン来るなー、そのまんまキターーッ!! 次は若手銀橋からロケット、そろそろ黒燕尾かなー。
なんかもお、「俺、エスパー?」ってくらい、次の盤面、演出が見る前から脳裏に浮かび、浮かんだ通りのモノが展開されて、途中から笑いを殺すのに必死でした。
暗闇にムード歌謡が流れ出したときはどうしようかと……そして、「ムード歌謡担当」がマギーだとわかった瞬間の衝撃たるや……わ。わらいしぬかとおもった……。
わたしは2階席だったんだが、なんかもーしみじみと感心してしまった。
宝塚大劇場の舞台って、広いなあ。
同時に、こんなものすごい人数が踊れるんだ。
って、そんなことに感心するくらい、フラットな舞台に、ものすごい人数がひしめいて踊っていた。
一場面じゃないよ? ほとんどの場面でだよ?!
これ、1階席で観たらどうなるんだろう。贔屓を探せるんだろうか? 立体セットはほぼナシ、ほとんどがフラットだよ? 2列目以降の子は見えるのか? しかも、5列目とかまでふつーにあるんだけど、なにしろ人数すごいから。
あの人数であの密度で、ぶつからずに踊れるってすごいなー。
そんな、あさっての方向の感心をしちゃうくらい、不思議な画面でした。
そして、画面の不思議さというと、ここってナニ組だっけ、ということもそう。
まさお、みっちゃん、かちゃ、みやるり、マギー、コマ……並ぶ男役スターの姿に、軽く混乱する。
月、宙、宙、星、月、雪?
えーとえーと、みりおくんどこ? まさおくんの隣って、みりおくんの定位置でしょ?
としくんたち、月組生え抜きさんたちもどこー?!
わかってるんだけど、とっさに混乱するなあ。
下級生時代からずーっと抜擢されて「スター」として月組のメイン画面に当たり前にいたみりおくんがおらず、別の組の人たちが何人も代わりに入っていると、違和感大きいわー。
みっちゃんは元月組だけど、……彼は不思議にどの組でも「チガウ」気がする。それは彼が「スター」であるからか、あるいはそれこそが「専科」になった理由なのか。
ともあれ、みっちゃんは期待通りの素晴らしい歌声披露。ラストに大きな羽根も背負っていたし、ひとつずつ階段を上っている模様、おめでとー。
上記の男役スターの並びに、たまきちも入っていた。
上級生ごぼう抜き、出世スピード速ぇー。
どこの組も、次世代スターを一気に上げて来てますな。(宙組除く)
そしてコマつんの位置にちょいへこむ。や、『ME AND MY GIRL』からしてもわかってたけどさー。この扱いなら、組替えしなくてよかったじゃんよー、と思っちゃいますよ……。
結局、「準トップ」という謎の体制時代は、ショー作品がなかった。
あのままみりおくんがいたとして、いつかあっただろうショー作品では、やはり役替わりがあったのだろうか? それとも、芝居は役替わりしてもショーは固定?
その場合、準トップ様の出番はダブルトップ並?
実現しなかったので、謎のまま。
そして、準トップのみりおくんがいなくなり、はっりした2番手が誰かもわからないまま専科のみっちゃん特出。
なんとなく、ショーはみっちゃんが2番手以上の扱いを受けるのかなーと思っていた。ただの2番手ではなく、準トップ様の抜けたあとに入るわけだし。
準トップじゃないけど、近年では花組の『カノン』なんかは、トップスターと2番手スターがほぼ同格っちゅーか、交互に出てきてセンター務めて、デュエットダンスまで2組で踊っている、落ち着きの悪いショーだった。
あそこまで変な作りにはしないだろうけど、もう少し「準トップ」がいたときのショー寄りになるのかな? と、なんとなーく、漠然と思った。まさおくんの単独トップ姿をまだ知らないわけだから。なんでもみりおくんと「半分こ」しているイメージが強くてなー。
でも、みっちゃんは「ふつーの2番手さん」の扱いだった。みっちゃんメインの場面って結局ひとつだけだしね。
作品の中核となる場面では、他の組子と同じように群舞の中にいたし。
つか、さすがは「上から順番、1、2、3」の中村Bってことか。特出スターがいても、いつも通りの中村Bって(笑)。
だからこそ、準トップ様体制の中村Bショーを観てみたかった気がする。
初日を観劇するかどうかは最初、迷っていた。や、スケジュール的に、行ける日じゃなかったのよ。翌日の土曜なら行けるけど。
でも友人から「越リュウの挨拶が聞ける最後の日」と言われ、「初日行く」になった。
組長は、公演初日に挨拶をする。
通常、千秋楽もするけれど、自分が卒業するときは、その役はナイ。
てことは、リュウ様の挨拶を聞ける最後の日。
厳密には貸切公演挨拶もあるだろうし、東宝初日の挨拶もある。
でもわたしが観ることの出来る最後の挨拶は、ムラ初日だ。
万難を排して駆けつけましょうぞ。
……てことで、ごくふつーに挨拶をするリュウ様を、感慨深く見つめていました。
もうリュウ様の初日挨拶を聞くことはないんだ……。
次に挨拶するときは、袴を穿いての退団挨拶なんだ……。や、楽のチケット持ってないけど。
さみしいなあ。さみしいなあ。
ショーはとっても楽しかったさ。やっぱ定番はイイ。ふつうがいちばん(笑)。
キムくんやオサ様という、「歌手」トップスターが演じる中村Bショーに慣れ親しんだ者としては、まさおくんの中村Bショーは馴染みやすいというか、入りやすい。落ち着くわー。
ふつうがいちばん。@ルパン -ARSÈNE LUPIN-
2013年7月12日 タカラヅカ ふつうでいいのに。
芝居を観ながら、ずーっとずーっと、しみじみと、心から、思っていました。
準トップ様のいなくなった、月組初日へ行ってきました。
正塚先生の新作『ルパン -ARSÈNE LUPIN-』。原作モノを手がける正塚! どうなるんだろ、わくわく。
……原作モノを舞台化する正塚せんせ、を楽しむなら、原作読んでなきゃダメじゃん。
行ってから気づきましたよ、しょぼーん。
原作未読なので知らないんですけど、「モーリス・ルブラン」ってキャラクタは、原作でもああやってストーリー上にずーーっといるんですか?
作者だから、語り部として舞台のオリジナルキャラとして正塚が出したのかなとわたしは思った。
もしも原作にも登場していて、原作を尊重して原作まんまの登場をしているとしたら、すまん。
すまんけど……あの役、いらない。
ふつーでいいんだよ。ふつーにしてくれれば、それでいいのに。
何故にこうなった。しょぼん。
アルセーヌ・ルパン@まさおは「ルパン」引退、平和に暮らしていたんだけど、ある陰謀に巻き込まれる。陰謀の渦中にいるのは、社交界の華・美貌の令嬢カーラ@ちゃぴ。騙られた「ルパン」の名とカーラのために、ルパンは再び怪盗紳士として静かに闘いをはじめる……。
で。
この物語に、ずーっとずーっと、作家のモーリス・ルブラン@みっちゃんが、いる。
とにかく、いる。
ただ、いる。
ルパンさんがシリアスにキメているときも、ヒロインとラブシーンをしているときも、ヅカ定番の幻想のデュエット(歌)をしているときも、とにかく、同じ画面に作家がいる!
なんで? なんでいるの?
いらねーよ、気が散るよ。
ただの空気ではない。でも、その場面に関連してもいない。
ルキーニでもオーディエンスでもない、中途半端な立場で、ただ、いる。
二転三転する陰謀の話なので、解説役は必要。
ルパンさんは作家さん相手に「これはこういうことだ」「そうか、わかったぞ」とかやって、ストーリー解説をする。
作家さんの基本属性は「コメディ」。
ルパンが「カッコいい」「クール」だから、それを際だたせるために、ルパンの推理や行動に振り回されたり驚いたりする。
ガニマール警部@マギーほど完全なお笑いキャラではなく、「くすっ」程度だけど、基本はコメディ。深刻キャラではない。
ルパンの物語に感情移入して入り込むには、作家が邪魔。
物語と別次元のものが画面にあると、正気に戻る。現実に引き戻される。
なんだろ、お茶の間でスカステを見ている感じ? どーせテレビの中だけのこと、家族が同じ部屋で別のことをやっている現実が、視覚のどこかに存在している、ような。
『ベルばら』の「今宵一夜」でも『ロミジュリ』の「天使の歌が聞こえる」でもいいよ、その世界にずっぽりはまりたい、集中したい、と思える主役カップルの場面に、「作者」という役の人が突っ立ている、それを想像してよ。
『ロミジュリ』で愛と死が画面のどこかに立っている、とは別よ? ラブシーンの後にひとこと感想入れたり、ツッコミ入れたりするのよ?
い、いらねーーっ!!
せっかく、正塚にしては「まっとーにタカラヅカ」やってるのに。
いや、ひょっとしてそのせいか?
あまりに「タカラヅカ」な画面や台詞を使ったりしているので、「うひょっ、俺ってばすっごく『タカラヅカ』みたいなモノを描いちゃってる!!」と自分で自分に照れて、ツッコミ入れずにはいられなくなってるの?
素直に「タカラヅカ」やるのが嫌で、わざとハズして見せてるの?
ふつーでいいのに。
変なことはしなくていいのに。
ルパンは作家とだけ会話して、事件を解き明かしていく。
陰謀云々の本筋は解説付きだから、わかりやすくなっていいとしても、「ルパンの物語」が、盛り上がらない。
2個イチで行動する相手が、親友でも仲間でもないんだ。
なにしろ、作家とそのモデル。
もちろんふたりの間にプラスの感情はあるが、別に親友ってわけでもないし、一蓮托生の仲間でもない。
だから「ルパン」はいつも「ひとり」。
「話し相手がいる」「解説の合いの手がいる」というだけで、気持ちの上でのドラマがない。
なんで相方を親友とか仲間にしないのよ?
そこにもナマの愛憎を絡めれば、物語はさらにさらに、面白くなったはずなのに。
いちばん長く一緒にいる相手が「ただの他人」じゃ、つまらなさすぎる。
ルパンの回想・現実・過去・現在を混在させるカタチで描いているもんだから、作家の存在……というか、「居方」はとても独特になっている。
作家の存在、ルパンとの関わり方は、とても「めずらしい」っていうか、「新しい」っていうかさ……。
ルパンに惚れ込んでその伝記を書く作家だから、もちろんルパンに好意を持ってそこにいるわけなんだけど、あくまでも作家とモデルだから、きれいに線が引かれているというか距離感があってだな。とにかく、ややこしいんだわ。
だから作家役のみっちゃんは大変。無駄に難しいことをやらされている。
でもそれ、「物語の力」になってない。
ダンディなヒゲ男、フロックコートの着こなし、なんつっても素晴らしい歌声……それらで「舞台を支える」ことはしているけれど、……それだけ。そしてそれは、みっちゃん自身の力、彼が技術面でいい仕事をしているってだけで、正塚の功績じゃない。
なんでこんなことに?
ふつーでいいのに。
めずらしくなくていい、新しくなくていい、ふつーでいいっ!!
単に「特出スター様」のために、「たくさん舞台の上にいる役」「トップスターと沢山お芝居する役」をこじつけたみたいな。
そんなことよりも、「心」が深く絡む役の方が役の意味はあるだろうに。
解説役として作家を使いたかったのなら、よくある狂言回しににすれば良かったのに。
みっちゃんならいい仕事したと思うよ。
主人公と「心」で絡む役なら、越リュウの役をもっと膨らませて、みっちゃんがやるとかさー。で、ルパンと一緒にもっと活躍するとかさー。
もしくは悪役の方をさせるとかさー。
とにかく、今の作家役、いらないよ……わたし、「タカラヅカ」は「タカラヅカ」として楽しみたいよ。主人公とヒロインのラブシーンや幻想の場面は、ふたりだけで見たいよ。
何回も観る人には、また違って受け止められるんだろう。
ラブシーンしてる主役の横に関係ない人が立っていても、何度も観れば「そーゆーもん」って慣れるだろうし。
でも、初見では無理だわー。「いらんっ」としか思えなかった……なぜこんな演出にしたんだ……。
芝居を観ながら、ずーっとずーっと、しみじみと、心から、思っていました。
準トップ様のいなくなった、月組初日へ行ってきました。
正塚先生の新作『ルパン -ARSÈNE LUPIN-』。原作モノを手がける正塚! どうなるんだろ、わくわく。
……原作モノを舞台化する正塚せんせ、を楽しむなら、原作読んでなきゃダメじゃん。
行ってから気づきましたよ、しょぼーん。
原作未読なので知らないんですけど、「モーリス・ルブラン」ってキャラクタは、原作でもああやってストーリー上にずーーっといるんですか?
作者だから、語り部として舞台のオリジナルキャラとして正塚が出したのかなとわたしは思った。
もしも原作にも登場していて、原作を尊重して原作まんまの登場をしているとしたら、すまん。
すまんけど……あの役、いらない。
ふつーでいいんだよ。ふつーにしてくれれば、それでいいのに。
何故にこうなった。しょぼん。
アルセーヌ・ルパン@まさおは「ルパン」引退、平和に暮らしていたんだけど、ある陰謀に巻き込まれる。陰謀の渦中にいるのは、社交界の華・美貌の令嬢カーラ@ちゃぴ。騙られた「ルパン」の名とカーラのために、ルパンは再び怪盗紳士として静かに闘いをはじめる……。
で。
この物語に、ずーっとずーっと、作家のモーリス・ルブラン@みっちゃんが、いる。
とにかく、いる。
ただ、いる。
ルパンさんがシリアスにキメているときも、ヒロインとラブシーンをしているときも、ヅカ定番の幻想のデュエット(歌)をしているときも、とにかく、同じ画面に作家がいる!
なんで? なんでいるの?
いらねーよ、気が散るよ。
ただの空気ではない。でも、その場面に関連してもいない。
ルキーニでもオーディエンスでもない、中途半端な立場で、ただ、いる。
二転三転する陰謀の話なので、解説役は必要。
ルパンさんは作家さん相手に「これはこういうことだ」「そうか、わかったぞ」とかやって、ストーリー解説をする。
作家さんの基本属性は「コメディ」。
ルパンが「カッコいい」「クール」だから、それを際だたせるために、ルパンの推理や行動に振り回されたり驚いたりする。
ガニマール警部@マギーほど完全なお笑いキャラではなく、「くすっ」程度だけど、基本はコメディ。深刻キャラではない。
ルパンの物語に感情移入して入り込むには、作家が邪魔。
物語と別次元のものが画面にあると、正気に戻る。現実に引き戻される。
なんだろ、お茶の間でスカステを見ている感じ? どーせテレビの中だけのこと、家族が同じ部屋で別のことをやっている現実が、視覚のどこかに存在している、ような。
『ベルばら』の「今宵一夜」でも『ロミジュリ』の「天使の歌が聞こえる」でもいいよ、その世界にずっぽりはまりたい、集中したい、と思える主役カップルの場面に、「作者」という役の人が突っ立ている、それを想像してよ。
『ロミジュリ』で愛と死が画面のどこかに立っている、とは別よ? ラブシーンの後にひとこと感想入れたり、ツッコミ入れたりするのよ?
い、いらねーーっ!!
せっかく、正塚にしては「まっとーにタカラヅカ」やってるのに。
いや、ひょっとしてそのせいか?
あまりに「タカラヅカ」な画面や台詞を使ったりしているので、「うひょっ、俺ってばすっごく『タカラヅカ』みたいなモノを描いちゃってる!!」と自分で自分に照れて、ツッコミ入れずにはいられなくなってるの?
素直に「タカラヅカ」やるのが嫌で、わざとハズして見せてるの?
ふつーでいいのに。
変なことはしなくていいのに。
ルパンは作家とだけ会話して、事件を解き明かしていく。
陰謀云々の本筋は解説付きだから、わかりやすくなっていいとしても、「ルパンの物語」が、盛り上がらない。
2個イチで行動する相手が、親友でも仲間でもないんだ。
なにしろ、作家とそのモデル。
もちろんふたりの間にプラスの感情はあるが、別に親友ってわけでもないし、一蓮托生の仲間でもない。
だから「ルパン」はいつも「ひとり」。
「話し相手がいる」「解説の合いの手がいる」というだけで、気持ちの上でのドラマがない。
なんで相方を親友とか仲間にしないのよ?
そこにもナマの愛憎を絡めれば、物語はさらにさらに、面白くなったはずなのに。
いちばん長く一緒にいる相手が「ただの他人」じゃ、つまらなさすぎる。
ルパンの回想・現実・過去・現在を混在させるカタチで描いているもんだから、作家の存在……というか、「居方」はとても独特になっている。
作家の存在、ルパンとの関わり方は、とても「めずらしい」っていうか、「新しい」っていうかさ……。
ルパンに惚れ込んでその伝記を書く作家だから、もちろんルパンに好意を持ってそこにいるわけなんだけど、あくまでも作家とモデルだから、きれいに線が引かれているというか距離感があってだな。とにかく、ややこしいんだわ。
だから作家役のみっちゃんは大変。無駄に難しいことをやらされている。
でもそれ、「物語の力」になってない。
ダンディなヒゲ男、フロックコートの着こなし、なんつっても素晴らしい歌声……それらで「舞台を支える」ことはしているけれど、……それだけ。そしてそれは、みっちゃん自身の力、彼が技術面でいい仕事をしているってだけで、正塚の功績じゃない。
なんでこんなことに?
ふつーでいいのに。
めずらしくなくていい、新しくなくていい、ふつーでいいっ!!
単に「特出スター様」のために、「たくさん舞台の上にいる役」「トップスターと沢山お芝居する役」をこじつけたみたいな。
そんなことよりも、「心」が深く絡む役の方が役の意味はあるだろうに。
解説役として作家を使いたかったのなら、よくある狂言回しににすれば良かったのに。
みっちゃんならいい仕事したと思うよ。
主人公と「心」で絡む役なら、越リュウの役をもっと膨らませて、みっちゃんがやるとかさー。で、ルパンと一緒にもっと活躍するとかさー。
もしくは悪役の方をさせるとかさー。
とにかく、今の作家役、いらないよ……わたし、「タカラヅカ」は「タカラヅカ」として楽しみたいよ。主人公とヒロインのラブシーンや幻想の場面は、ふたりだけで見たいよ。
何回も観る人には、また違って受け止められるんだろう。
ラブシーンしてる主役の横に関係ない人が立っていても、何度も観れば「そーゆーもん」って慣れるだろうし。
でも、初見では無理だわー。「いらんっ」としか思えなかった……なぜこんな演出にしたんだ……。
「嫌い」物語・20。~パリ進駐を嘆く人々~@ベルサイユのばら-フェルゼン編-
2013年7月11日 タカラヅカ 『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
なんで2幕を時系列順にせず、オスカルの死を「回想シーン」にしたんだろうねえ。
ジェローデルに「今宵一夜」を語らせるとか、おかしすぎるだろ。
ただでさえおかしいのに、「現在」から「回想」に入るときの導入台詞の酷さときたらもお……。
第2幕
第2場 フェルゼン邸の庭園
はるばるスウェーデンまでやって来たジェローデルが、フェルゼンにオスカルの死を告げる。
ジェローデル「アンドレと共にバスティーユの戦闘で…」
フェルゼン「オスカル…」
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
フェルゼン「可哀想に…。オスカル…オスカル…君はどれだけ苦しかったことか…」
ジェローデル「そのことでジャルジェ一家をどれだけ悲しませたことか…」
フェルゼン「オスカル…」
そのことって、どのことよ?
「オスカルの戦死」だと思うよね? 話の流れ的に。それしか語ってないんだから。フェルゼンはオスカルの死を知って「可哀想」と言っているわけだし。
「パリ進駐」を「可哀想」と言っているとは思えない。ここではまだ、オスカルが王家を裏切ったことを語られていないのだから。しかも、「隊長はアンドレと強く結ばれ」と言われているんだ、「可哀想」なのは進駐ではなく、戦死だろう。
この台詞に続いて、カーテンが閉まり、ジャルジェ家の人々……ジャルジェ夫人とオルタンスの場面になる。
「オスカルの戦死で、ジャルジェ家の人々が悲しんだ」と解説されたんだから、「オスカルの戦死を悲しむジャルジェ家の人々」が描かれるんだと思うじゃん。
なのに、そうじゃない。
オスカルがパリ進駐することを、嘆くジャルジェ家の人々、だ。
だからわたし、無駄な説明台詞とか記述の混同とか嫌いなのよ~~っ!
「オスカルがパリ進駐することを、嘆くジャルジェ家の人々」を描くなら、フェルゼンとジェローデルに関係ない説明台詞を言わせるなっ。
「戦死」と「進駐」、そして「家族が悲しんだ」。家族が悲しむのは「戦死」だろそりゃ。戦死で悲しむ以上に、進駐で悲しむはずがナイ。「進駐」につなげたいなら、相応の誘導が必要だ。
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
フェルゼン「パリ進駐……それがどれだけ危険なことか、オスカルもわかっていただろう…」
ジェローデル「はい、ジャルジェ家の人々は、オスカルのパリ進駐に反対していました。でもオスカルの決心は揺るぎませんでした」
とか言っておけばいいんじゃん!
きちんと説明出来ないなら、説明台詞なんか使うな言うな。
ジェローデル「アンドレと共にバスティーユの戦闘で…」
フェルゼン「オスカル…」
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
だけで残りカット、そのままカーテン閉めてジャルジェ家の人々にすればいいじゃん。
「進駐していった」という台詞のあとを受けて、「進駐に反対!」とわめくオルタンスに続くから、スムーズにつながる。
余計に行数を稼いで、中身をぶち壊すのが植爺。
それとも、この小賢しい小細工は、スズキくんの手によるモノだろうか?
そして、「第5場 カーテン」、ジャルジェ夫人とオルタンスの場面。
わたし、この場面嫌いです、カット希望。
前にも書いたけど、『ベルばら』における、ジャルジェ家の場面はすべて嫌い、なくして欲しい。
原作にありませんから。
原作至上主義、原作にないものは一切認めない! というわけではなくて、原作になくても「原作を損なわない」ものならどんだけオリジナルで付け加えてくれても、発展させてくれてもいい。
原作と正反対のモノでも、ちゃんと理由があって存在し、作品をよくするために機能しているなら、かまわないと思っている。
でも、原作を否定する、貶める上に、そうまでして描いたモノが作品に貢献しないばかりか、ぶち壊しているんじゃ、なんの意味もない。原作は冒涜され損ってことじゃん。
ジャルジェ家の最低最悪な場面は、いつも同じ。
自分の信念に従ってパリへ出動するオスカルを「女なのに、そんな危険なところへ行くなんて!」と心配して、大騒ぎする。
オスカルが20年以上軍人をやって来たことも、数々の危険な任務を果たしてきたことも、どんな思いを抱いて生きてきたかも、全否定。
危険だ、心配だ、そんなことを許すお父さまはひどい、と同じ意味の説明台詞を、無意味に何度もくり返す。
新しい情報は、ナニもない。
それまでの場面で、他のキャラがすでに言った台詞を、くり返すだけ。
カーテン前に1列になって、順番に。
今回は、ふたりだけだから、ジャルジェ夫人とオルタンスの掛け合いになっているだけだけど。
オルタンス「お母さま、お願いです。もう一度お父さまにお願いしてみてください。このままではオスカルは行ってしまいます。それからでは遅いんですよ!」
ジャルジェ夫人「でもお父さまがお許しになったのです!」
オルタンス「お父さまは軍人です! フランスを守るためにオスカルを犠牲になさろうとしているのです!」
パリ進駐が危険だ、って話題はすでに、1幕でジェローデルがしている。
もうそれ聞いたよ……また聞かされるの……? うんざり。
そして必ず、話している相手を責めるんだ。
ジェローデルもアンドレを責めていたよね。「誰がオスカルを護るんだ」って。アンドレには護れない、という前提で。
で、責められた相手が哀願口調で説き伏せる。
ジャルジェ夫人「だからこそ! 誰よりもお辛いのはお父さまなのです。毎晩毎晩どれだけ苦しみ、人知れず涙を流しておられるか! あの苦しむ姿を陰ながら見ていたら…お父さまがお気の毒で…私たちが何かを言えば言うほどお父さまを苦しめることになるのです…」
(略・同じことの繰り返し)
ジャルジェ夫人「(強く打ち消して)お願い‐何も言わないで! お父さまの苦しい胸のうちを私たちが理解してあげなければ、お父さまがお可哀想です!」
アンドレの「お願いです! この通り!(土下座)」みたいなもんでな。
この流れが大嫌い。
感情だけでぴーちくわめく無神経さも、情に訴えて論理無視の解決法も。
無駄なお涙頂戴、作為が透けて見える泣かせ演出ほど、心が冷えるモノはない。
植爺のこの「歌舞伎」的姿勢が大嫌い。
へたくそめ。もっといくらでも「泣かせ」に走ることは出来るだろうに、なんでこうアタマ悪いことをするんだろう。
むきーっ。
なんで2幕を時系列順にせず、オスカルの死を「回想シーン」にしたんだろうねえ。
ジェローデルに「今宵一夜」を語らせるとか、おかしすぎるだろ。
ただでさえおかしいのに、「現在」から「回想」に入るときの導入台詞の酷さときたらもお……。
第2幕
第2場 フェルゼン邸の庭園
はるばるスウェーデンまでやって来たジェローデルが、フェルゼンにオスカルの死を告げる。
ジェローデル「アンドレと共にバスティーユの戦闘で…」
フェルゼン「オスカル…」
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
フェルゼン「可哀想に…。オスカル…オスカル…君はどれだけ苦しかったことか…」
ジェローデル「そのことでジャルジェ一家をどれだけ悲しませたことか…」
フェルゼン「オスカル…」
そのことって、どのことよ?
「オスカルの戦死」だと思うよね? 話の流れ的に。それしか語ってないんだから。フェルゼンはオスカルの死を知って「可哀想」と言っているわけだし。
「パリ進駐」を「可哀想」と言っているとは思えない。ここではまだ、オスカルが王家を裏切ったことを語られていないのだから。しかも、「隊長はアンドレと強く結ばれ」と言われているんだ、「可哀想」なのは進駐ではなく、戦死だろう。
この台詞に続いて、カーテンが閉まり、ジャルジェ家の人々……ジャルジェ夫人とオルタンスの場面になる。
「オスカルの戦死で、ジャルジェ家の人々が悲しんだ」と解説されたんだから、「オスカルの戦死を悲しむジャルジェ家の人々」が描かれるんだと思うじゃん。
なのに、そうじゃない。
オスカルがパリ進駐することを、嘆くジャルジェ家の人々、だ。
だからわたし、無駄な説明台詞とか記述の混同とか嫌いなのよ~~っ!
「オスカルがパリ進駐することを、嘆くジャルジェ家の人々」を描くなら、フェルゼンとジェローデルに関係ない説明台詞を言わせるなっ。
「戦死」と「進駐」、そして「家族が悲しんだ」。家族が悲しむのは「戦死」だろそりゃ。戦死で悲しむ以上に、進駐で悲しむはずがナイ。「進駐」につなげたいなら、相応の誘導が必要だ。
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
フェルゼン「パリ進駐……それがどれだけ危険なことか、オスカルもわかっていただろう…」
ジェローデル「はい、ジャルジェ家の人々は、オスカルのパリ進駐に反対していました。でもオスカルの決心は揺るぎませんでした」
とか言っておけばいいんじゃん!
きちんと説明出来ないなら、説明台詞なんか使うな言うな。
ジェローデル「アンドレと共にバスティーユの戦闘で…」
フェルゼン「オスカル…」
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
だけで残りカット、そのままカーテン閉めてジャルジェ家の人々にすればいいじゃん。
「進駐していった」という台詞のあとを受けて、「進駐に反対!」とわめくオルタンスに続くから、スムーズにつながる。
余計に行数を稼いで、中身をぶち壊すのが植爺。
それとも、この小賢しい小細工は、スズキくんの手によるモノだろうか?
そして、「第5場 カーテン」、ジャルジェ夫人とオルタンスの場面。
わたし、この場面嫌いです、カット希望。
前にも書いたけど、『ベルばら』における、ジャルジェ家の場面はすべて嫌い、なくして欲しい。
原作にありませんから。
原作至上主義、原作にないものは一切認めない! というわけではなくて、原作になくても「原作を損なわない」ものならどんだけオリジナルで付け加えてくれても、発展させてくれてもいい。
原作と正反対のモノでも、ちゃんと理由があって存在し、作品をよくするために機能しているなら、かまわないと思っている。
でも、原作を否定する、貶める上に、そうまでして描いたモノが作品に貢献しないばかりか、ぶち壊しているんじゃ、なんの意味もない。原作は冒涜され損ってことじゃん。
ジャルジェ家の最低最悪な場面は、いつも同じ。
自分の信念に従ってパリへ出動するオスカルを「女なのに、そんな危険なところへ行くなんて!」と心配して、大騒ぎする。
オスカルが20年以上軍人をやって来たことも、数々の危険な任務を果たしてきたことも、どんな思いを抱いて生きてきたかも、全否定。
危険だ、心配だ、そんなことを許すお父さまはひどい、と同じ意味の説明台詞を、無意味に何度もくり返す。
新しい情報は、ナニもない。
それまでの場面で、他のキャラがすでに言った台詞を、くり返すだけ。
カーテン前に1列になって、順番に。
今回は、ふたりだけだから、ジャルジェ夫人とオルタンスの掛け合いになっているだけだけど。
オルタンス「お母さま、お願いです。もう一度お父さまにお願いしてみてください。このままではオスカルは行ってしまいます。それからでは遅いんですよ!」
ジャルジェ夫人「でもお父さまがお許しになったのです!」
オルタンス「お父さまは軍人です! フランスを守るためにオスカルを犠牲になさろうとしているのです!」
パリ進駐が危険だ、って話題はすでに、1幕でジェローデルがしている。
もうそれ聞いたよ……また聞かされるの……? うんざり。
そして必ず、話している相手を責めるんだ。
ジェローデルもアンドレを責めていたよね。「誰がオスカルを護るんだ」って。アンドレには護れない、という前提で。
で、責められた相手が哀願口調で説き伏せる。
ジャルジェ夫人「だからこそ! 誰よりもお辛いのはお父さまなのです。毎晩毎晩どれだけ苦しみ、人知れず涙を流しておられるか! あの苦しむ姿を陰ながら見ていたら…お父さまがお気の毒で…私たちが何かを言えば言うほどお父さまを苦しめることになるのです…」
(略・同じことの繰り返し)
ジャルジェ夫人「(強く打ち消して)お願い‐何も言わないで! お父さまの苦しい胸のうちを私たちが理解してあげなければ、お父さまがお可哀想です!」
アンドレの「お願いです! この通り!(土下座)」みたいなもんでな。
この流れが大嫌い。
感情だけでぴーちくわめく無神経さも、情に訴えて論理無視の解決法も。
無駄なお涙頂戴、作為が透けて見える泣かせ演出ほど、心が冷えるモノはない。
植爺のこの「歌舞伎」的姿勢が大嫌い。
へたくそめ。もっといくらでも「泣かせ」に走ることは出来るだろうに、なんでこうアタマ悪いことをするんだろう。
むきーっ。
「嫌い」物語・19。~お姉様と妹と~@ベルサイユのばら-フェルゼン編-
2013年7月10日 タカラヅカ 『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズ、なにこの長さ。
タイトルが「嫌い」物語、なのは、わたしがただ「嫌い嫌い」とわめいているだけの実のナイ話、マイナスの意識だけで書かれた文章なんて醜悪! せめて「物語」、フィクションだと思ってくださいよ、という逃げの姿勢の表れなのだ(笑)。
「嫌い」より、「好き」を語る方が楽しいのにね。なんでこんな、誰のためにもならないことを……って、わたしにはこの作業が必要。
文章にすることで、解脱出来るのなー。
「嫌い」とわめいておりますが、演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話です、念のため。
ようやく第2幕です。
「第2場 フェルゼン邸の庭園」、登場人物はフェルゼンと妹ソフィア、そして執事のデュガゾン。
植爺『ベルばら』の特色、切り貼りしても、微調整はなし!が発揮されているため、つじつまが合っていない。
2006年の『フェルゼンとアントワネット編』では、ここでフェルゼンと話すのは「妹ソフィア」ではなく、「姉シモーヌ」だ。
ソフィアは原作に登場するけれど、シモーヌはいない。
なんで原作キャラを捨ててまで、オリキャラを出したかっていうと、副組長救済のためだ。
副組長に役をつけないわけにはいかない。だが、役がない。それで無理矢理フェルゼンの姉というキャラを作った。副組長の学年や持ち味からして、いくらなんでも「妹」役は無理だと判断したためだろう。
今の星組『ロミジュリ』で、キャピュレット家の仮面舞踏会になんの意味もなく唐突にフラメンコがはじまるのと、同じ理由だ。
「妹」ならいざ知らず、30過ぎのフェルゼンの「姉」がどうして実家にいるのか謎だが、そういうことになった。
前にも語ったけれど、副組長のために台詞の行数を増やしたからか、無駄な説明台詞をくり返しているしね。
フェルゼン家を守っているのは、姉のシモーヌ。だから執事のデュガゾンは、「館の女主人」であるシモーヌに来客の報告をする。
「姉」のつもりで作ったキャラクタ、作った流れ。
それをそのまま、なんの調整もせずに、「妹」に変更した。
そのため、執事のデュガゾンは「館の主人」であるフェルゼンを無視し、フェルゼンの客をソフィアへ報告する、という奇妙な場面になっている。
また、これまた別の作品にて、執事デュガゾンは、フェルゼンの見張り役というネタがあった。えーと、2005年の全ツ版だよね。フェルゼン家に仕える目つきの悪いデュガゾンは、ヨルゲン陸軍大臣のスパイでした!てな。
そのエピソードを削ったのに、演出はそのまま。
だから執事は主人に敵意を持ってそうな態度で、主人を無視して妹にだけ話しかける、ということになっている。
なんでちゃんと微調整しないんだろう。
切り貼りのぶった切り、投げっぱなしになっているネタが「作品の幅を広げている」「キャラクタの深みを増している」とでも思っているのかな。
ナニも知らない観客が「デュガゾンは何故フェルゼンを無視するんだろう」「ソフィアにだけ話しかけるんだろう」と、本筋とは関係ないところに引っかかるのが、「作品の幅」? 「デュガゾンってひょっとして、ソフィアを好きなのかな」とか、本筋とは関係ない、むしろ間違っている想像などに誘導するのが「キャラクタの深み」?
バカじゃないの? ……と、わたしは思う。
デュガゾンに案内されて、ジェローデル登場。
ここの会話が、ひどい。
「オスカルは死にました」じゃないよ? これは台詞がというより、構成の失敗だと思うから。
全ツ版ではこの台詞で笑いが起こったしね……ギャグだよね、さんざん煽って「主要人物です」と持ち上げたあとで、「死にました」。どっかーん。
だから、そのことではなくて。
フェルゼン「…なに…死んだ…」
ジェローデル「アンドレと共にバスティーユの戦闘で…」
フェルゼン「オスカル…」
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
フェルゼン「可哀想に…。オスカル…オスカル…君はどれだけ苦しかったことか…」
あの、わたし、下線部分の台詞、いりません。
可哀想だとう?! ナニを上から目線で哀れんでやがるんだ、この偽善者。
あんたに「可哀想」呼ばわりされる覚えはナイっ。
と、がるがる威嚇しちゃいますね。
第一、この時点でフェルゼンは、オスカルの死の真相を知らない。
「パリに進駐」「バスティーユの戦闘で戦死」ってだけの情報だと、オスカルは、国王軍として民衆を攻撃し、民衆に殺されたと思うよね。オスカルは貴族で、アントワネットの腹心だったんだから。
こんな、話の途中、オスカルのドラマもなにもわかってない状態で、「可哀想」とか言われたくないわ。
で、さらにわたしの嫌いな台詞。
ジェローデル「そのことでジャルジェ一家をどれだけ悲しませたことか…」
フェルゼン「オスカル…」
そのことって、どのことよ?
つーことで、次項へ続く。
回想シーンへの導入の拙さについて!
タイトルが「嫌い」物語、なのは、わたしがただ「嫌い嫌い」とわめいているだけの実のナイ話、マイナスの意識だけで書かれた文章なんて醜悪! せめて「物語」、フィクションだと思ってくださいよ、という逃げの姿勢の表れなのだ(笑)。
「嫌い」より、「好き」を語る方が楽しいのにね。なんでこんな、誰のためにもならないことを……って、わたしにはこの作業が必要。
文章にすることで、解脱出来るのなー。
「嫌い」とわめいておりますが、演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話です、念のため。
ようやく第2幕です。
「第2場 フェルゼン邸の庭園」、登場人物はフェルゼンと妹ソフィア、そして執事のデュガゾン。
植爺『ベルばら』の特色、切り貼りしても、微調整はなし!が発揮されているため、つじつまが合っていない。
2006年の『フェルゼンとアントワネット編』では、ここでフェルゼンと話すのは「妹ソフィア」ではなく、「姉シモーヌ」だ。
ソフィアは原作に登場するけれど、シモーヌはいない。
なんで原作キャラを捨ててまで、オリキャラを出したかっていうと、副組長救済のためだ。
副組長に役をつけないわけにはいかない。だが、役がない。それで無理矢理フェルゼンの姉というキャラを作った。副組長の学年や持ち味からして、いくらなんでも「妹」役は無理だと判断したためだろう。
今の星組『ロミジュリ』で、キャピュレット家の仮面舞踏会になんの意味もなく唐突にフラメンコがはじまるのと、同じ理由だ。
「妹」ならいざ知らず、30過ぎのフェルゼンの「姉」がどうして実家にいるのか謎だが、そういうことになった。
前にも語ったけれど、副組長のために台詞の行数を増やしたからか、無駄な説明台詞をくり返しているしね。
フェルゼン家を守っているのは、姉のシモーヌ。だから執事のデュガゾンは、「館の女主人」であるシモーヌに来客の報告をする。
「姉」のつもりで作ったキャラクタ、作った流れ。
それをそのまま、なんの調整もせずに、「妹」に変更した。
そのため、執事のデュガゾンは「館の主人」であるフェルゼンを無視し、フェルゼンの客をソフィアへ報告する、という奇妙な場面になっている。
また、これまた別の作品にて、執事デュガゾンは、フェルゼンの見張り役というネタがあった。えーと、2005年の全ツ版だよね。フェルゼン家に仕える目つきの悪いデュガゾンは、ヨルゲン陸軍大臣のスパイでした!てな。
そのエピソードを削ったのに、演出はそのまま。
だから執事は主人に敵意を持ってそうな態度で、主人を無視して妹にだけ話しかける、ということになっている。
なんでちゃんと微調整しないんだろう。
切り貼りのぶった切り、投げっぱなしになっているネタが「作品の幅を広げている」「キャラクタの深みを増している」とでも思っているのかな。
ナニも知らない観客が「デュガゾンは何故フェルゼンを無視するんだろう」「ソフィアにだけ話しかけるんだろう」と、本筋とは関係ないところに引っかかるのが、「作品の幅」? 「デュガゾンってひょっとして、ソフィアを好きなのかな」とか、本筋とは関係ない、むしろ間違っている想像などに誘導するのが「キャラクタの深み」?
バカじゃないの? ……と、わたしは思う。
デュガゾンに案内されて、ジェローデル登場。
ここの会話が、ひどい。
「オスカルは死にました」じゃないよ? これは台詞がというより、構成の失敗だと思うから。
全ツ版ではこの台詞で笑いが起こったしね……ギャグだよね、さんざん煽って「主要人物です」と持ち上げたあとで、「死にました」。どっかーん。
だから、そのことではなくて。
フェルゼン「…なに…死んだ…」
ジェローデル「アンドレと共にバスティーユの戦闘で…」
フェルゼン「オスカル…」
ジェローデル「隊長はアンドレと強く結ばれ、ベルサイユからパリに進駐していきました…」
フェルゼン「可哀想に…。オスカル…オスカル…君はどれだけ苦しかったことか…」
あの、わたし、下線部分の台詞、いりません。
可哀想だとう?! ナニを上から目線で哀れんでやがるんだ、この偽善者。
あんたに「可哀想」呼ばわりされる覚えはナイっ。
と、がるがる威嚇しちゃいますね。
第一、この時点でフェルゼンは、オスカルの死の真相を知らない。
「パリに進駐」「バスティーユの戦闘で戦死」ってだけの情報だと、オスカルは、国王軍として民衆を攻撃し、民衆に殺されたと思うよね。オスカルは貴族で、アントワネットの腹心だったんだから。
こんな、話の途中、オスカルのドラマもなにもわかってない状態で、「可哀想」とか言われたくないわ。
で、さらにわたしの嫌いな台詞。
ジェローデル「そのことでジャルジェ一家をどれだけ悲しませたことか…」
フェルゼン「オスカル…」
そのことって、どのことよ?
つーことで、次項へ続く。
回想シーンへの導入の拙さについて!
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
ようやく第1幕のラストです。
「嫌い」ということだけを語りたくて、この文字数! なんて情熱!(笑)
ここまで語らずにいられなくなるくらい、やっぱ力があるんだと思うよ、植爺の『ベルばら』。
月組の『オスカルとアンドレ編』でも相当溜まっていたんだけど、書き起こすガッツがなかったのね。わたしもう年だし。
書くこと、語ること、文章を組み立てること、それらを全部放棄していた。面倒だから。
もういいや、『ベルばら』にそんなに労力割けないよ、どーでもいいよ。そう思っていた。
2006年にかなり腰入れて書いたしね。もう一度、1からやるのはめんどくさい……。
そう思っていた。
でも、えんえんリピート観劇するうちに、「嫌い」が溜まりまくり積み重なりまくり、どんなに面倒でも大変でも、吐き出さずにはいられなくなった。
今でしょ?
いつやるかじゃないっすよほんと。
今、書かなくてはならない。
そう思ったんだ。
はあ、やれやれ。
てことで、1幕ラストの「第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間」という場面。
フェルゼンが「愛について」語る、前半のクライマックス。
舞台冒頭「第5場 王家の紋章」の3バカ(プロバンス伯爵・ブイエ将軍・ルイ16世)がおかしなことをほざいているのは置くとして。
フェルゼンさんが、わたしにはわかりません。
たぶん「婚約ネタ」はメルシー伯爵発案なんだろう。フェルゼンとアントワネットの不倫関係などなかった、そういうことにして送り出したかったんだろう、すべての人のために。
それが嘘だとわかっていても、「言葉にしている部分」と「あえてしていない部分」をわきまえ、宮廷の人々も婚約ネタを受け止めるはずだった。
ふつーなら。
植爺はふつうじゃないから、全部自分でぐちゃぐちゃにしちゃったけど。
フェルゼンはメルシー伯爵にお説教をされて、アントワネットのために帰国することにした。お説教されたときは逆ギレして、あんだけひどいことを言ってたのにねー。心変わりしたらしいよ。
フェルゼンの「帰国の挨拶」とやらを仕切っているのがメルシー伯爵だから、たぶんふたりは和解したんだろう。……フェルゼンはちゃんとメルシー伯爵に謝ったのかしら。
まあともかく、「帰国する」のは「愛する人のため」なわけだ。
実際にフェルゼンはこの場面で、「たとえ偽りを告げてそのお方を悲しませることになっても、こうすることが真実の愛だと悟ったからでございます」と言っている。
それは殊勝な心がけだ。うん、いいこと言ってる。
でもさ。
フェルゼンの言葉、矛盾してるんですけど?
「愛する人のために偽りを告げても身を引く」と言いながら、「婚約はしていない」と言う。
はあ? 偽りなんか告げてないじゃん。フェルゼンが言っていることって、「愛する人のために身を引く俺かっけー!」だけで、「偽りを告げて、悪役になる」ことはしていない。
「婚約したから帰国する」こそが「愛する人のための偽り」でしょ? 「もう君を愛してなんかいないよ、俺は別の女と結婚するのさ」と、たとえ相手を傷つけたとしても、すぱっと別れることが必要よね? それによって、不倫の噂を完全否定してこそ「愛する人のため」よね。
なのに、
フェルゼン「婚約などしておりません。決して…それは私の心を裏切ることになるからでございます」
フェルゼン「このままフランスに滞在することは、愛する人に迷惑がかかるからでございます」
よーするにこれって、「不倫してます、今も絶賛恋愛中、だけど身を引く俺」を宣伝してるだけだよね。
王宮で、すべての要人が見守る中で「不倫宣言」するフェルゼンは、自分のことしか考えていない。
言うだけ言って帰国するフェルゼンはいいけど、このままベルサイユに残されるアントワネットは、地獄だわな。夫も含め全員が不倫の事実を知っている、しかも「今も愛し合っているけれど、周囲のせいで無理矢理別れさせられた、と恨んでいる」と思われるよーな状況。
ほんとひでえ。得をするのはフェルゼンのみという、「アン・ドゥトロワ、私のための道」と歌う男のやることって突き抜けてる。
言葉に偽りあり、行動に矛盾ありまくり、こんな男に「愛について」語られても、ぽかーん。
特にルイ16世は作品冒頭からずっと、出てくるたびに「ただのバカ」として描かれていたため、ここで「困る」と言い出すのはバカに付ける薬なし!!状態だし。
つか、アホとかまぬけを通り越し、触っちゃいけない人みたいだよ……。
いくら夫がアホで「不倫していいよ」って言ってくれたからといえ、町内会のうるさがたの揃う中で「そっちのお嬢さんに愛されてました、そこの奥さんとは今もラブラブです」って宣伝しなくても……。
そして、不倫を認めてくれた夫に「それらすべてを包み込むような大きな愛」って……その持ち上げ方が打算が透けて見えすぎて、キモチワルイ……。
ここで表現されているのは、フェルゼンの身勝手さ。
まったくもって、彼の美点になっていない。
なのに「ものすごく感動的な場面を書いたぜ!」と作者の鼻息が見えるようで、心から辟易する。
重ねて書くが、演じている人とは無関係。
こんだけ「嫌い」とか「きもちわるい」とか書いてるのに、それでもリピート観劇出来るのは、ジェンヌさんの演技が素晴らしいせい。
植爺がどんだけ間違っていても、言葉の意味を脳に送らないようにして、彼らの演技だけ見て感じ入ることができるんだもの。
ほんとタカラジェンヌってすごいわー。
間違いまくった「ベルサイユ宮殿」場面が、大仰なクライマックス。
ほんとこの場面、わけわかんない。
唯一良かったことって、「グスタフ3世とスウェーデン宮廷場面を観ずに済んだ」ってことだけかな。
あれはもっともっと最低最悪な場面だからなー。
ようやく第1幕のラストです。
「嫌い」ということだけを語りたくて、この文字数! なんて情熱!(笑)
ここまで語らずにいられなくなるくらい、やっぱ力があるんだと思うよ、植爺の『ベルばら』。
月組の『オスカルとアンドレ編』でも相当溜まっていたんだけど、書き起こすガッツがなかったのね。わたしもう年だし。
書くこと、語ること、文章を組み立てること、それらを全部放棄していた。面倒だから。
もういいや、『ベルばら』にそんなに労力割けないよ、どーでもいいよ。そう思っていた。
2006年にかなり腰入れて書いたしね。もう一度、1からやるのはめんどくさい……。
そう思っていた。
でも、えんえんリピート観劇するうちに、「嫌い」が溜まりまくり積み重なりまくり、どんなに面倒でも大変でも、吐き出さずにはいられなくなった。
今でしょ?
いつやるかじゃないっすよほんと。
今、書かなくてはならない。
そう思ったんだ。
はあ、やれやれ。
てことで、1幕ラストの「第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間」という場面。
フェルゼンが「愛について」語る、前半のクライマックス。
舞台冒頭「第5場 王家の紋章」の3バカ(プロバンス伯爵・ブイエ将軍・ルイ16世)がおかしなことをほざいているのは置くとして。
フェルゼンさんが、わたしにはわかりません。
たぶん「婚約ネタ」はメルシー伯爵発案なんだろう。フェルゼンとアントワネットの不倫関係などなかった、そういうことにして送り出したかったんだろう、すべての人のために。
それが嘘だとわかっていても、「言葉にしている部分」と「あえてしていない部分」をわきまえ、宮廷の人々も婚約ネタを受け止めるはずだった。
ふつーなら。
植爺はふつうじゃないから、全部自分でぐちゃぐちゃにしちゃったけど。
フェルゼンはメルシー伯爵にお説教をされて、アントワネットのために帰国することにした。お説教されたときは逆ギレして、あんだけひどいことを言ってたのにねー。心変わりしたらしいよ。
フェルゼンの「帰国の挨拶」とやらを仕切っているのがメルシー伯爵だから、たぶんふたりは和解したんだろう。……フェルゼンはちゃんとメルシー伯爵に謝ったのかしら。
まあともかく、「帰国する」のは「愛する人のため」なわけだ。
実際にフェルゼンはこの場面で、「たとえ偽りを告げてそのお方を悲しませることになっても、こうすることが真実の愛だと悟ったからでございます」と言っている。
それは殊勝な心がけだ。うん、いいこと言ってる。
でもさ。
フェルゼンの言葉、矛盾してるんですけど?
「愛する人のために偽りを告げても身を引く」と言いながら、「婚約はしていない」と言う。
はあ? 偽りなんか告げてないじゃん。フェルゼンが言っていることって、「愛する人のために身を引く俺かっけー!」だけで、「偽りを告げて、悪役になる」ことはしていない。
「婚約したから帰国する」こそが「愛する人のための偽り」でしょ? 「もう君を愛してなんかいないよ、俺は別の女と結婚するのさ」と、たとえ相手を傷つけたとしても、すぱっと別れることが必要よね? それによって、不倫の噂を完全否定してこそ「愛する人のため」よね。
なのに、
フェルゼン「婚約などしておりません。決して…それは私の心を裏切ることになるからでございます」
フェルゼン「このままフランスに滞在することは、愛する人に迷惑がかかるからでございます」
よーするにこれって、「不倫してます、今も絶賛恋愛中、だけど身を引く俺」を宣伝してるだけだよね。
王宮で、すべての要人が見守る中で「不倫宣言」するフェルゼンは、自分のことしか考えていない。
言うだけ言って帰国するフェルゼンはいいけど、このままベルサイユに残されるアントワネットは、地獄だわな。夫も含め全員が不倫の事実を知っている、しかも「今も愛し合っているけれど、周囲のせいで無理矢理別れさせられた、と恨んでいる」と思われるよーな状況。
ほんとひでえ。得をするのはフェルゼンのみという、「アン・ドゥトロワ、私のための道」と歌う男のやることって突き抜けてる。
言葉に偽りあり、行動に矛盾ありまくり、こんな男に「愛について」語られても、ぽかーん。
特にルイ16世は作品冒頭からずっと、出てくるたびに「ただのバカ」として描かれていたため、ここで「困る」と言い出すのはバカに付ける薬なし!!状態だし。
つか、アホとかまぬけを通り越し、触っちゃいけない人みたいだよ……。
いくら夫がアホで「不倫していいよ」って言ってくれたからといえ、町内会のうるさがたの揃う中で「そっちのお嬢さんに愛されてました、そこの奥さんとは今もラブラブです」って宣伝しなくても……。
そして、不倫を認めてくれた夫に「それらすべてを包み込むような大きな愛」って……その持ち上げ方が打算が透けて見えすぎて、キモチワルイ……。
ここで表現されているのは、フェルゼンの身勝手さ。
まったくもって、彼の美点になっていない。
なのに「ものすごく感動的な場面を書いたぜ!」と作者の鼻息が見えるようで、心から辟易する。
重ねて書くが、演じている人とは無関係。
こんだけ「嫌い」とか「きもちわるい」とか書いてるのに、それでもリピート観劇出来るのは、ジェンヌさんの演技が素晴らしいせい。
植爺がどんだけ間違っていても、言葉の意味を脳に送らないようにして、彼らの演技だけ見て感じ入ることができるんだもの。
ほんとタカラジェンヌってすごいわー。
間違いまくった「ベルサイユ宮殿」場面が、大仰なクライマックス。
ほんとこの場面、わけわかんない。
唯一良かったことって、「グスタフ3世とスウェーデン宮廷場面を観ずに済んだ」ってことだけかな。
あれはもっともっと最低最悪な場面だからなー。
ずっとずっと、雪組だった人。
2013年7月8日 タカラヅカ2013/07/08
月組 組長の就任について
このたび、下記の通り組長が決定いたしましたので、お知らせいたします。
飛鳥 裕・・・月組組長に就任(2013年10月7日付)
※尚、飛鳥裕は、同日10月7日付で専科より月組へ組替いたします。
※現月組組長の越乃リュウは、2013年10月6日付で退団いたします。
なんか……さみしい……。
わたしがヅカファンになってから、ずーっとずーっとナガさんは雪組だったからなあ。雪組のお母さんだったからなあ。雪組以外のナガさんを知らないし、ナガさんのいない雪組だって想像がつかなかった。
やさしい雰囲気と話し方、だけど見た目とは違って厳しい人っぽいところも含め、好きだった。いろんな出版物でキムくんをどんだけ厳しく育ててきたか垣間見られて、あのやさしそうな人が?と、ある意味ギャップ萌え。御曹司キムくんが甘やかされていたわけではない、と思えることも、わたしにはうれしいポイントだった。
ずっとずっと、雪組にいて欲しかった。今の組長のみとさんがどうということではなくて。
ということはだ、雪組に出演するナガさんはもう見られないということだ。
エマさんなんか、専科とは名ばかりで星組にばかり出演しているのに。
ナガさんと月組って、接点はナニもないのに。イチからはじめるわけか……大変だな。(コマつんはいるにしてもだ)
月組しか観ないファンの人たちも「誰?」てなもんだろうしなあ。生え抜きのリュウ組長のあとに、突然知らない人、かあ。ナガさんは芸風的に主要な役を取る人ではないので、そのへんは受け入れやすいタイプの人かなあ。
雪組組長でいられないのなら、せめて専科でいて欲しかった。そして、また雪組に出て欲しかった。芝居の幅が狭くて、「いい人」役しか出来ないのだけど、ナガさんの演じる「いい人」が好きだったさ。
や、あくまでもわたしの希望、好み、愛着の問題。
そして。
ということはだ、ショーに出演するナガさんを、また見られるわけだ。
中日『Shining Rhythm!』で、みとさんが組子と同じドレスで踊っている姿を見て「組に所属するってこーゆーことか!!」と衝撃を受けた。学年がどうあれ実年齢がどうあれ、組子である以上ショーに出演し、組子と同じ衣装で同じダンスをする。
ナガさんのスマートなダンスをまた、見られるわけだ。それは、うれしい。
寂しいけれど、時は進み続けている。
後ろばかり見てちゃいけないんだよな。
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
1幕ラストの宮廷場面。
プロバンス伯爵は「実際に口に出して言ったこと」と「脳内で思っていたこと」の区別がつかなくなり、わけのわかんないことを怒鳴り出していた。
現実と脳内の境目がなくなってるんですよ。危ないですねーー。
それでもなんとか、「プロバンス伯爵は悪役。アホで嫌悪されるキャラである必要があるんだ、だからこんな辻褄の合わないことを正道面して言うんだ」と無理矢理自分を納得させる。
なのに。
ああ、なのに。
追い打ちを、かけられるんだ。
第1幕
第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間
プロバンス伯爵「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」
フェルゼン「(耐えている)」
ルイ十六世「フェルゼン…聞かせてくれ。本当の帰国の真実を…本当に婚約なのか…」
フェルゼン「…」
ルイ十六世「王妃よ、そなたとて真実だけは聞いておきたくはないか?」
をい。
国王様、あーたが質問していたのは、「王妃のために帰国を延期出来ないか」でしょう?
どっから婚約の話が??
帰国の理由についてなんか、一切触れてなかったのに。そこの真偽に触れることは、「公然の秘密」に抵触するから、アンタッチャブルでしょう?
しかもアントワネットにまで同意を求めている。
ルイ16世もまた、「フェルゼンとアントワネットの不倫」を前提として話を進めている。
バカ?
なんのために、「王妃はそなた一人を頼りにしていた」なんて言い方をしたの? 不倫のことは知っていても、「知らない振り」をしなくてはならない立場だからでしょう?
会話の論旨がズレると、わたしは生理的な気持ち悪さを感じるんだってば。
何故こうなったのかが、わかるの。
プロバンス伯爵の台詞、「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」よ。
ここで、ねじ曲がったの。
それまではちゃんと「正しい法則」で会話がされていたのに、プロバンス伯爵が軽率な声を上げた、それによって、時空が歪んだの。
プロバンス伯爵はそれまでの話の内容を忘れ、今は「不倫の追求」をしている気分になった。現実と脳内を混同した。
それはプロバンス伯爵がアホな悪役だから、だと、わたしは懸命に自分を納得させようとした。
しかし、ここで、作品的には「人格者」「聡明」とされているルイ16世までが、現実と脳内を混同して喋り出した!!
やだこいつら、さすが兄弟! 同じ穴の狢!
ルイ16世も、「言葉にしている部分」と「あえてしていない部分」がわけわかんなくなって、善人面して、言ってはいけないことを、言い出した。
ここが、めーっちゃ嫌い。
大嫌い。
悪人を愚かに書くまではいい。嫌いだけど、不快だけど、なんとか「仕方ない」と思える。
でも、「人格者」「聡明」キャラがアホ丸出し、無神経丸出しなのが許せない。
こんな阿呆なことを言うルイ16世は、えらくもないしやさしくもない。ただの無神経な愚か者だ。
そして、見ていてキモチ悪いくらい人として間違っている愚か者を「人格者」「聡明」とする世界観が嫌だ。
さもやさしい人がすばらしいことを言っている、感動しなさいありがたがりなさい、と押しつける空気が嫌だ。
きもちわるい。
もちろんそれは、植爺のせいだ。
植爺は、ルイ16世が「本当に婚約なのか」と言ってはいけないこと、言うと現実と脳内を混同していることなのだってことに、気づいていない。
どこまでバカなのか。
そっから先の会話はなあ。
最高にキモチ悪いところは過ぎたので、ただ、不愉快。
フェルゼン「婚約などしておりません。決して…それは私の心を裏切ることになるからでございます」
プロバンス伯爵「婚約はせぬ? それはどういう意味だ!」
フェルゼン「このままフランスに滞在することは、愛する人に迷惑がかかるからでございます」
プロバンス伯爵「愛する者のために身を引くと申すのか?」
フェルゼン「はい。真実の愛を知ったからでございます。国王さま、私はこのフランスで生まれて初めて様々な真実の愛を知りました…」
プロバンス伯爵「真実の愛?それはなんだ?」
フェルゼン「国王さま。私はこのフランスで、愛してはならないお方を愛しました。叶わぬ愛と脅えながらそれを抑えることは出来ませんでした…」
ブイエ将軍「それは誰だ? その人の名は…」
フエルゼン「…申せません! それは私の心に秘めたお方です!」
ねえ、誰か助けて。この説明台詞の山。
フェルゼンがなにかひとこと言うたびに、アホ2匹が説明台詞を言うの、アホ丸出しに。
しかも、説明台詞なのに、意味通じてないし。
「婚約しないってどういう意味?」「ここにいると愛する人に迷惑が掛かるからです」……通じてない、答えになってない、キャッチボールできてない!!
婚約してない理由を言えよ!!
答えてないのに、「愛する者のために身を引くのか」って、どっからそんなロマンチックなまとめが出てきたのよ?!
「婚約しない」のは、「愛している人がいる」からでしょ? 決して結ばれない人を愛している、だからその愛に殉じて一生誰とも結婚しない。そういう意味よね?
それは作者も観客も知っているけれど、「この場では、言葉にしていないので、誰も知らない」はず。
なのに「知っている」ものとして会話が成り立っている。いや、成り立ってないけど、植爺の脳内でのみ成り立っているらしい。
一生結婚しないという理由のあとで、では何故帰国するのか、婚約するわけでもナイのに? という疑問への答えだ、「ここにいると愛する人に迷惑が掛かるから」は。
ここまでの段階を踏んではじめて、「愛する者のために身を引く」というまとめが出来る。
説明台詞のくせに、まったく説明になってない。
説明台詞は嫌いなのに、それがえんえんくり返され、しかもなんの役にも立っていない。
作者は脳内と現実を混同して、金を取っていいレベルの仕事をしていない。
あーやだやだ。
そういうロジックの面だけでも鳥肌ものなのに。
話している内容も、笑止だし。
「真実の愛を知ったからです!(ドヤッ)」「真実の愛? それはなんだ!(すかさずアタック!)」だもんなー。
プロバンス伯爵とブイエ将軍はアタマ悪すぎてキモチ悪いけど、それにしても不快だわ、この場面。
とまあ、さんざん周囲の人のことを語ったけれど。
問題の、フェルゼンは。
てことで、次項へ続く。
1幕ラストの宮廷場面。
プロバンス伯爵は「実際に口に出して言ったこと」と「脳内で思っていたこと」の区別がつかなくなり、わけのわかんないことを怒鳴り出していた。
現実と脳内の境目がなくなってるんですよ。危ないですねーー。
それでもなんとか、「プロバンス伯爵は悪役。アホで嫌悪されるキャラである必要があるんだ、だからこんな辻褄の合わないことを正道面して言うんだ」と無理矢理自分を納得させる。
なのに。
ああ、なのに。
追い打ちを、かけられるんだ。
第1幕
第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間
プロバンス伯爵「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」
フェルゼン「(耐えている)」
ルイ十六世「フェルゼン…聞かせてくれ。本当の帰国の真実を…本当に婚約なのか…」
フェルゼン「…」
ルイ十六世「王妃よ、そなたとて真実だけは聞いておきたくはないか?」
をい。
国王様、あーたが質問していたのは、「王妃のために帰国を延期出来ないか」でしょう?
どっから婚約の話が??
帰国の理由についてなんか、一切触れてなかったのに。そこの真偽に触れることは、「公然の秘密」に抵触するから、アンタッチャブルでしょう?
しかもアントワネットにまで同意を求めている。
ルイ16世もまた、「フェルゼンとアントワネットの不倫」を前提として話を進めている。
バカ?
なんのために、「王妃はそなた一人を頼りにしていた」なんて言い方をしたの? 不倫のことは知っていても、「知らない振り」をしなくてはならない立場だからでしょう?
会話の論旨がズレると、わたしは生理的な気持ち悪さを感じるんだってば。
何故こうなったのかが、わかるの。
プロバンス伯爵の台詞、「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」よ。
ここで、ねじ曲がったの。
それまではちゃんと「正しい法則」で会話がされていたのに、プロバンス伯爵が軽率な声を上げた、それによって、時空が歪んだの。
プロバンス伯爵はそれまでの話の内容を忘れ、今は「不倫の追求」をしている気分になった。現実と脳内を混同した。
それはプロバンス伯爵がアホな悪役だから、だと、わたしは懸命に自分を納得させようとした。
しかし、ここで、作品的には「人格者」「聡明」とされているルイ16世までが、現実と脳内を混同して喋り出した!!
やだこいつら、さすが兄弟! 同じ穴の狢!
ルイ16世も、「言葉にしている部分」と「あえてしていない部分」がわけわかんなくなって、善人面して、言ってはいけないことを、言い出した。
ここが、めーっちゃ嫌い。
大嫌い。
悪人を愚かに書くまではいい。嫌いだけど、不快だけど、なんとか「仕方ない」と思える。
でも、「人格者」「聡明」キャラがアホ丸出し、無神経丸出しなのが許せない。
こんな阿呆なことを言うルイ16世は、えらくもないしやさしくもない。ただの無神経な愚か者だ。
そして、見ていてキモチ悪いくらい人として間違っている愚か者を「人格者」「聡明」とする世界観が嫌だ。
さもやさしい人がすばらしいことを言っている、感動しなさいありがたがりなさい、と押しつける空気が嫌だ。
きもちわるい。
もちろんそれは、植爺のせいだ。
植爺は、ルイ16世が「本当に婚約なのか」と言ってはいけないこと、言うと現実と脳内を混同していることなのだってことに、気づいていない。
どこまでバカなのか。
そっから先の会話はなあ。
最高にキモチ悪いところは過ぎたので、ただ、不愉快。
フェルゼン「婚約などしておりません。決して…それは私の心を裏切ることになるからでございます」
プロバンス伯爵「婚約はせぬ? それはどういう意味だ!」
フェルゼン「このままフランスに滞在することは、愛する人に迷惑がかかるからでございます」
プロバンス伯爵「愛する者のために身を引くと申すのか?」
フェルゼン「はい。真実の愛を知ったからでございます。国王さま、私はこのフランスで生まれて初めて様々な真実の愛を知りました…」
プロバンス伯爵「真実の愛?それはなんだ?」
フェルゼン「国王さま。私はこのフランスで、愛してはならないお方を愛しました。叶わぬ愛と脅えながらそれを抑えることは出来ませんでした…」
ブイエ将軍「それは誰だ? その人の名は…」
フエルゼン「…申せません! それは私の心に秘めたお方です!」
ねえ、誰か助けて。この説明台詞の山。
フェルゼンがなにかひとこと言うたびに、アホ2匹が説明台詞を言うの、アホ丸出しに。
しかも、説明台詞なのに、意味通じてないし。
「婚約しないってどういう意味?」「ここにいると愛する人に迷惑が掛かるからです」……通じてない、答えになってない、キャッチボールできてない!!
婚約してない理由を言えよ!!
答えてないのに、「愛する者のために身を引くのか」って、どっからそんなロマンチックなまとめが出てきたのよ?!
「婚約しない」のは、「愛している人がいる」からでしょ? 決して結ばれない人を愛している、だからその愛に殉じて一生誰とも結婚しない。そういう意味よね?
それは作者も観客も知っているけれど、「この場では、言葉にしていないので、誰も知らない」はず。
なのに「知っている」ものとして会話が成り立っている。いや、成り立ってないけど、植爺の脳内でのみ成り立っているらしい。
一生結婚しないという理由のあとで、では何故帰国するのか、婚約するわけでもナイのに? という疑問への答えだ、「ここにいると愛する人に迷惑が掛かるから」は。
ここまでの段階を踏んではじめて、「愛する者のために身を引く」というまとめが出来る。
説明台詞のくせに、まったく説明になってない。
説明台詞は嫌いなのに、それがえんえんくり返され、しかもなんの役にも立っていない。
作者は脳内と現実を混同して、金を取っていいレベルの仕事をしていない。
あーやだやだ。
そういうロジックの面だけでも鳥肌ものなのに。
話している内容も、笑止だし。
「真実の愛を知ったからです!(ドヤッ)」「真実の愛? それはなんだ!(すかさずアタック!)」だもんなー。
プロバンス伯爵とブイエ将軍はアタマ悪すぎてキモチ悪いけど、それにしても不快だわ、この場面。
とまあ、さんざん周囲の人のことを語ったけれど。
問題の、フェルゼンは。
てことで、次項へ続く。
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、ついに1幕の佳境です。
登場人物勢揃いで臨む、前半のクライマックス。ああなのに、わたしにはこの場面の意味がわかりません。
だもんで、そのあたりの話。
あ、演じているジェンヌは無関係、わかんねーのは植爺だけだ。
第1幕
第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間
「婚約するので帰国する」「王妃のためにその帰国を伸ばせないか」という会話の流れで、何故かプロバンス伯爵がわけのわからないことを叫び出す。
なんでそんなことになっているのかを考える。
プロバンス伯爵の台詞を中心にこのやり取りを抜き出すと。
ルイ十六世「王妃が悲しむぞ。王妃はそなた一人を頼りにしていたのだ。ただの時ならいざしらず、フランスの国情が騒がしい時だ。王妃の力になってやってはくれぬか?」
プロバンス伯爵「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」・・・1
メルシー伯爵「プロバンス伯爵! 国王さまの御前ですぞ!」
プロバンス伯爵「真実を訊ねて何処が悪い!」・・・2
ルイ十六世「どうだ? 駄目か?」
プロバンス伯爵「どうした、フェルゼン。国王さまがお訊ねなのだ!」・・・3
ブイエ将軍「フェルゼン! 何を黙っているのだ!」
プロバンス伯爵「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」・・・4
1の台詞にて、彼が「公然の秘密」を思わず口に出しかけたことがうかがえる。
アントワネットの不倫はフランス中が知っていることでも、公に口にしてはいけないこと、なんだよね? ヘタに口にすれば責任問題だよね? 軽々しくはずみで言っちゃいけないことだよね?
でもそれを、プロバンス伯爵はここで言いかける。止めに入ったメルシー伯爵へ2の言葉を投げつけるくらい。
そこまではわたしも理解出来る。軽はずみなやっちゃな、と呆れるだけで、アホキャラならさもありなん、で流せる。
問題は、3の台詞。
「真実」を訊ねるんじゃなかったの?
2の台詞にある「真実」とは、「国王が妻の不倫を知っているかどうか」でしょ? 言いかけて遮られた質問はそれでしょ?
ルイ16世に向かって質問していたはずなのに、そんなことは忘れてフェルゼンに詰め寄っている。
王妃の不倫は軽々しく口にしていいことじゃないから、追求はやめたんだな。
そう思うことは出来る。
それならメルシー伯爵に反論なんかしないで、「ぐっ」と詰まって、「失敗した、軽はずみなことをした」と表現し、失態を取り戻すように国王の側に付いてフェルゼンへ詰問する……という流れにするべきだろうに。
メルシー伯爵への反論のままフェルゼンに詰め寄るのはおかしいけど、悪人だしバカだから仕方ない、と無理に納得して続きを見る。
そしてさらに、わけわかんなくなる。
4の台詞。
「申し上げられないほどに後ろめたいこと」って、ナニ?
はい、整理しましょう。
国王様の質問というか、お願いは、なんでしたか?
「王妃のために帰国を延期出来ないか」です。
この依頼に対する返答を待っているわけです。
なのに何故、「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」になるの?
プロバンス伯爵の脳内では、自分が言いかけてやめた「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」という「真実」の話題と、今現実に会話されている内容が、ごっちゃになっているらしい。
国王様は不倫の話なんかしてないのに。「王妃はそなた一人を頼りにしていた」と言葉を濁しているし、「帰国を延ばしてくれ」としか言ってないのに。
プロバンス伯爵的には、「不倫に関することを問い詰めている」つもりらしい。
会話の論旨がズレていることに、生理的な気持ち悪さを感じる。
わたし、こーゆーのダメなのよ。
『仮面の男』のときもさんざん書いたけれど、「作者だけが知っていること」と「物語の登場人物が知っていること」を混同する作劇。
フェルゼンとアントワネットの不倫は、フランス中が知っているけれど、公の場で言及してはいけないんでしょう?
ヘタに口にすれば、王妃と王家への侮辱、不敬にあたるし、言いがかりではナイ、真実だというなら相応の証拠を立てて王妃を失脚させるだけの覚悟と準備を持ってかからなきゃならないんでしょう? それによって王室がどんだけ混乱するか、他国との関係がどうなるか、全部覚悟の上でやらなきゃいけないんでしょう? 王太子の出生まで疑うことになるんでしょう?
だから今のところ、「公然の秘密」、みんなが知っているけれど、公に言葉にしないから「ない」ものとして扱われている。
「みんなが知っている」「観客も知っている」からといって、国王の前、正式な場で口にしていいことではない。
だからメルシー伯爵は「フェルゼンは婚約のために帰国」と嘘を言うし、「国王さまの御前ですぞ!」と止める。
国王も「王妃はそなた一人を頼りにしていた」という持って回った言い方をする。
みんな知ってるけど、言えない。
そのもどかしさの中での、会話。
このあとの「私を慕ってくれたその人は白薔薇のような女性でした…」「私が生命を懸けて愛した人は…紅薔薇のようなお方でした…」というフェルゼンの台詞はまさにそれ。
言葉にしている部分と、あえてしていない部分。
言えない、言ってはいけないことを抱え、精一杯の愛を語る……ところが、この場面の醍醐味よね?
なのにプロバンス伯爵はここで、最大の失敗を犯す。
「言葉にしている部分」と「あえてしていない部分」の混同。
作者が知っていても、観客が知っていても、関係ない。このキャラクタは、ここでそれを言ってはいけないんだ。
プロバンス伯爵の失敗。
つまり、植爺の失敗。
混同しているのは、植爺。
だからプロバンス伯爵にこんな台詞を堂々と言わせる。気づいてないんだ、論旨がズレていること、破綻していることに。
わたしの大嫌いな「作劇上の失敗」がどーんと差し出され、生理的に「うきゃ~~~っ!」となる。
ああもお、嫌い嫌い嫌い~~っ。
次項へ続く。
アホなのも無神経なのも、わけわかんないのもプロバンス伯爵だけではないのだ!!
登場人物勢揃いで臨む、前半のクライマックス。ああなのに、わたしにはこの場面の意味がわかりません。
だもんで、そのあたりの話。
あ、演じているジェンヌは無関係、わかんねーのは植爺だけだ。
第1幕
第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間
「婚約するので帰国する」「王妃のためにその帰国を伸ばせないか」という会話の流れで、何故かプロバンス伯爵がわけのわからないことを叫び出す。
なんでそんなことになっているのかを考える。
プロバンス伯爵の台詞を中心にこのやり取りを抜き出すと。
ルイ十六世「王妃が悲しむぞ。王妃はそなた一人を頼りにしていたのだ。ただの時ならいざしらず、フランスの国情が騒がしい時だ。王妃の力になってやってはくれぬか?」
プロバンス伯爵「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」・・・1
メルシー伯爵「プロバンス伯爵! 国王さまの御前ですぞ!」
プロバンス伯爵「真実を訊ねて何処が悪い!」・・・2
ルイ十六世「どうだ? 駄目か?」
プロバンス伯爵「どうした、フェルゼン。国王さまがお訊ねなのだ!」・・・3
ブイエ将軍「フェルゼン! 何を黙っているのだ!」
プロバンス伯爵「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」・・・4
1の台詞にて、彼が「公然の秘密」を思わず口に出しかけたことがうかがえる。
アントワネットの不倫はフランス中が知っていることでも、公に口にしてはいけないこと、なんだよね? ヘタに口にすれば責任問題だよね? 軽々しくはずみで言っちゃいけないことだよね?
でもそれを、プロバンス伯爵はここで言いかける。止めに入ったメルシー伯爵へ2の言葉を投げつけるくらい。
そこまではわたしも理解出来る。軽はずみなやっちゃな、と呆れるだけで、アホキャラならさもありなん、で流せる。
問題は、3の台詞。
「真実」を訊ねるんじゃなかったの?
2の台詞にある「真実」とは、「国王が妻の不倫を知っているかどうか」でしょ? 言いかけて遮られた質問はそれでしょ?
ルイ16世に向かって質問していたはずなのに、そんなことは忘れてフェルゼンに詰め寄っている。
王妃の不倫は軽々しく口にしていいことじゃないから、追求はやめたんだな。
そう思うことは出来る。
それならメルシー伯爵に反論なんかしないで、「ぐっ」と詰まって、「失敗した、軽はずみなことをした」と表現し、失態を取り戻すように国王の側に付いてフェルゼンへ詰問する……という流れにするべきだろうに。
メルシー伯爵への反論のままフェルゼンに詰め寄るのはおかしいけど、悪人だしバカだから仕方ない、と無理に納得して続きを見る。
そしてさらに、わけわかんなくなる。
4の台詞。
「申し上げられないほどに後ろめたいこと」って、ナニ?
はい、整理しましょう。
国王様の質問というか、お願いは、なんでしたか?
「王妃のために帰国を延期出来ないか」です。
この依頼に対する返答を待っているわけです。
なのに何故、「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」になるの?
プロバンス伯爵の脳内では、自分が言いかけてやめた「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」という「真実」の話題と、今現実に会話されている内容が、ごっちゃになっているらしい。
国王様は不倫の話なんかしてないのに。「王妃はそなた一人を頼りにしていた」と言葉を濁しているし、「帰国を延ばしてくれ」としか言ってないのに。
プロバンス伯爵的には、「不倫に関することを問い詰めている」つもりらしい。
会話の論旨がズレていることに、生理的な気持ち悪さを感じる。
わたし、こーゆーのダメなのよ。
『仮面の男』のときもさんざん書いたけれど、「作者だけが知っていること」と「物語の登場人物が知っていること」を混同する作劇。
フェルゼンとアントワネットの不倫は、フランス中が知っているけれど、公の場で言及してはいけないんでしょう?
ヘタに口にすれば、王妃と王家への侮辱、不敬にあたるし、言いがかりではナイ、真実だというなら相応の証拠を立てて王妃を失脚させるだけの覚悟と準備を持ってかからなきゃならないんでしょう? それによって王室がどんだけ混乱するか、他国との関係がどうなるか、全部覚悟の上でやらなきゃいけないんでしょう? 王太子の出生まで疑うことになるんでしょう?
だから今のところ、「公然の秘密」、みんなが知っているけれど、公に言葉にしないから「ない」ものとして扱われている。
「みんなが知っている」「観客も知っている」からといって、国王の前、正式な場で口にしていいことではない。
だからメルシー伯爵は「フェルゼンは婚約のために帰国」と嘘を言うし、「国王さまの御前ですぞ!」と止める。
国王も「王妃はそなた一人を頼りにしていた」という持って回った言い方をする。
みんな知ってるけど、言えない。
そのもどかしさの中での、会話。
このあとの「私を慕ってくれたその人は白薔薇のような女性でした…」「私が生命を懸けて愛した人は…紅薔薇のようなお方でした…」というフェルゼンの台詞はまさにそれ。
言葉にしている部分と、あえてしていない部分。
言えない、言ってはいけないことを抱え、精一杯の愛を語る……ところが、この場面の醍醐味よね?
なのにプロバンス伯爵はここで、最大の失敗を犯す。
「言葉にしている部分」と「あえてしていない部分」の混同。
作者が知っていても、観客が知っていても、関係ない。このキャラクタは、ここでそれを言ってはいけないんだ。
プロバンス伯爵の失敗。
つまり、植爺の失敗。
混同しているのは、植爺。
だからプロバンス伯爵にこんな台詞を堂々と言わせる。気づいてないんだ、論旨がズレていること、破綻していることに。
わたしの大嫌いな「作劇上の失敗」がどーんと差し出され、生理的に「うきゃ~~~っ!」となる。
ああもお、嫌い嫌い嫌い~~っ。
次項へ続く。
アホなのも無神経なのも、わけわかんないのもプロバンス伯爵だけではないのだ!!
主な配役と、妄想配役。@Shall we ダンス?
2013年7月5日 タカラヅカ ちぎたさん、女役……!!
『Shall we ダンス?』の主な配役出ました。
ちぎくんが「草刈民代」の役……。
映画『Shall we ダンス?』といえば、まず思い描くのが「草刈民代」。映画を見たことがない人でもまず思い浮かべるレベルの「その映画の象徴」。
それくらい大きな役だから、役の格的にはちぎくんにふさわしい。
いや、ふつーはそんな大きな役であれば、トップ娘役が演じるもんだけど、なにしろその、そんなふーに誰もが知っている有名なヒロイン像だとあのその、あゆっちは柄違い過ぎて……ぶっちゃけ体型が、「世界大会レベルのダンサー」という設定に合ってなくて。
あんだけ女性的にふくよかな女の子が、イギリスの国際競技会に出場するダンサーの役を、どうやって説得力を持って演じるのだろうかと……。
その点ちぎくんなら、その美貌とスレンダーなスタイルだけでも「美しいダンサー」だと説得力ありまくり。
だから、『Shall we ダンス?』という作品を上演するにあたって、最良のキャスティングだと思います。
ただ。
なんで「今」なのかなと思う。
男役2番手が、本公演2作連続女役ってどうよ?!
タカラジェンヌは有限の妖精、その儚い人生で1年間も男役を封じられることには、疑問がある。
オスカルは「男役の花形」役だとはいえ、植爺オスカルはなまじ男装しているからこそ見ていて辛い女々しさ全開の役だし。ちぎくんがどんだけ凜々しく演じていたって、ヅカオスカルは原作よりもアニメよりも間違いなく「女」役だし。
オスカルを演じ、勢いに乗ったはずだからこそ、その次の公演は「めちゃくちゃかっこいい男役」姿を見せなくてはならないのに。
DSはやるけど、それってもともとのディープなファンしか行かないじゃん……『ベルばら』見て「タカラヅカって楽しい」「オスカル様素敵」と思ったライトな人々が次に雪組公演を大劇場で観て「あの2番手さん素敵!」と思ってくんなきゃなんないのにー。
ショーがあるので、そこはフォローできるだろうけどさ。
ショーありの芝居1作だけ、ならば、路線男役の宿命だと思えるけどなあ。2作連続はきついなあ。
だからこそ、ちぎくんの貴重な男役人生の本公演を費やすに値する、素晴らしい作品と素晴らしい役であることを望む。
で。
ちぎくんがダンス教師、あゆっちが奥さんだとわかったので、作品の方向性がわかったというか、妄想配役がしやすくなった。
『風と共に去りぬ』をやるとわかってもテルがバトラーなのかスカーレットなのかわからないと、脳内キャスティングして楽しむことができないよ、というのと同じ。
あくまでもえりたんの相手役はあゆっち、ちぎたんへの思いは淡いモノであり、根っこは奥さんとの再生ラヴストーリーだな。
ここがタカラヅカであり、演出家がイシダせんせではないので、あくまでも「タカラヅカ」として再構築するのだと思う。
役名が原作映画ともハリウッドリメイク版ともチガウのだから、原作を元に別のモノを作ると考えていいだろう。
上記3役に次ぐ大きな役は、「主人公の会社同僚男」「主人公のパートナーになる、ダンス教室の女」の2名。
これがいわゆる「竹中直人」と「渡辺えり」。
同僚男は「会社では冴えないダメダメ中年」だけど、ダンスでは人が変わったように「(キモチ悪いくらい)派手で情熱的」な踊りを披露する。
その二面性を表す小道具が「カツラ」。
冴えないダメ男のときはハゲ頭、ラテンギラギラ男のときはカンチガイロン毛。
競技会ではカツラネタで笑わせる場面もある。
ダンス教室の女は、「論外なデブおばさん」なのに自信家で「カンチガイセクシーダンス」を押しつけがましく踊る。
男たちは一様に「ナイナイ」と思っているのに、彼女ひとり「イイオンナ」的KYさを発揮している。
どちらも笑わせるためのユニークなキャラクタ。
どちらも「美男」「美女」ならおもしろくもなんともない性格だけど、「ハゲオヤジ」「デブおばさん」だから笑えるという道具立て。
そんな外側の印象で落としておき、物語が進むにつれ彼らの魅力がわかってゆき、観客は感情移入して応援するようになる、作りなわけだ。
この道具立てをそのままヅカの舞台でやる必要はない。
イシダならそのままやるだろうけど、そんなのヅカである意味ナイし、別のカンパニーでやればいい。
わたしが『Shall we ダンス?』でテーマを自由に表現していいとなったら、主人公たちに次ぐ重要な役を「ハゲオヤジ」「デブおばさん」にはしない。
「タカラヅカ」らしい道具立てで、同じテーマと笑いを作る。
同僚男に必要なのは、「会社では冴えないダメダメ中年」だけど、ダンスでは人が変わったように「(キモチ悪いくらい)派手で情熱的」になるという、二面性だ。
つまり、ハゲにする必要はない。
メガネ+スーツの「小心男」にして、ダンス教室では「ヅカのラテンショー」状態の男、にすればいい。
普段はふつーに男役リーゼント、ダンス教室ではロン毛カツラ着用。
ダメダメめがねっこだとウィラード@『フットルース』にかぶる、というなら、もっと「タカラヅカ」的に、「職場では超真面目クールビジネスマン」で、とてもダンスなんかやるタイプには見えない、ダンスなんて言うと侮蔑の一瞥で終わらせそうな「お堅い男」……が、実は……!! ということにするとか。
ええ、まつださんのイメージです。
ムーア牧師@『フットルース』が表の顔、しかし彼には秘密があった……!
表の顔がクールであればあるほど、イッちゃったラテンラヴァーっぷりは笑えるはず。
ふつーに「現在の雪組」で上から順番に配役したら、この役がまっつになる。
なんの不思議もなく、まっつの得意分野な役だと思う。
そして、ダンス教室の女。
この役に必要なのは「カンチガイセクシーキャラ」だ。
すべての男はアタシを狙ってる!!くらいの。いくら「カンチガイ」を際立たせるためとはいえ、デブおばさんにする必要はない。
超ナイスバディの長身ド派手女。押し出し良すぎて肉食系で、暑苦しくて、男たちはたじたじ。
ふつーの男だと、組んで踊っても吹っ飛ばされる、的な。男たちみんなこわがってます、的な。
不細工ぢゃなくても、男たちにすれば「ナイナイ」な女。
…………すみません、めーーっちゃ、ともみんのイメージです。
ふつーに「現在の雪組」で上から順番に配役したら、この役がともみんになる。
なんの不思議もなく、ともみんの得意分野な役だと思う。
女役ですまん、でもショーありの芝居1作だけ、ならば、路線男役の宿命ってことで。
で、まっつは所詮「小男」じゃないですか。で、ともみんは「ナイスバディの大女」じゃないですか。
このふたりが鼻息荒くラテンを踊ったら……しかもまっつは途中でカツラがズレて、最終的に投げ捨てて、さらにさらに燃え上がって踊るとなったら……面白すぎる。
「タカラヅカ」の範疇、見た目的にはふつーに美しいのに、役者のキャラクタや芝居で笑わせる、ことができる。
主人公は妻と改めて愛を確認しあい、ダンス教師は過去を克服して夢へと歩き出す。
なにかしら傷や鬱屈を抱えていた人々が、ダンスと出会うこと、人と出会うことで次のステップへと軽やかに踏み出し行く……そんな、ハートウォーミングな物語。
原作のテーマやエッセンスを活かし、下手にストーリーだのキャラ比重だのをいじったりせず、道具立てだけ「タカラヅカ」にする。
十分「タカラヅカ」として素敵な作品にできると思うんだ、『Shall we ダンス?』。
主な配役
ヘイリー・ハーツ@壮 一帆
ジョセリン・ハーツ(ヘイリーの妻)@愛加 あゆ
エラ(女性ダンス教師@早霧 せいな
『Shall we ダンス?』の主な配役出ました。
ちぎくんが「草刈民代」の役……。
映画『Shall we ダンス?』といえば、まず思い描くのが「草刈民代」。映画を見たことがない人でもまず思い浮かべるレベルの「その映画の象徴」。
それくらい大きな役だから、役の格的にはちぎくんにふさわしい。
いや、ふつーはそんな大きな役であれば、トップ娘役が演じるもんだけど、なにしろその、そんなふーに誰もが知っている有名なヒロイン像だとあのその、あゆっちは柄違い過ぎて……ぶっちゃけ体型が、「世界大会レベルのダンサー」という設定に合ってなくて。
あんだけ女性的にふくよかな女の子が、イギリスの国際競技会に出場するダンサーの役を、どうやって説得力を持って演じるのだろうかと……。
その点ちぎくんなら、その美貌とスレンダーなスタイルだけでも「美しいダンサー」だと説得力ありまくり。
だから、『Shall we ダンス?』という作品を上演するにあたって、最良のキャスティングだと思います。
ただ。
なんで「今」なのかなと思う。
男役2番手が、本公演2作連続女役ってどうよ?!
タカラジェンヌは有限の妖精、その儚い人生で1年間も男役を封じられることには、疑問がある。
オスカルは「男役の花形」役だとはいえ、植爺オスカルはなまじ男装しているからこそ見ていて辛い女々しさ全開の役だし。ちぎくんがどんだけ凜々しく演じていたって、ヅカオスカルは原作よりもアニメよりも間違いなく「女」役だし。
オスカルを演じ、勢いに乗ったはずだからこそ、その次の公演は「めちゃくちゃかっこいい男役」姿を見せなくてはならないのに。
DSはやるけど、それってもともとのディープなファンしか行かないじゃん……『ベルばら』見て「タカラヅカって楽しい」「オスカル様素敵」と思ったライトな人々が次に雪組公演を大劇場で観て「あの2番手さん素敵!」と思ってくんなきゃなんないのにー。
ショーがあるので、そこはフォローできるだろうけどさ。
ショーありの芝居1作だけ、ならば、路線男役の宿命だと思えるけどなあ。2作連続はきついなあ。
だからこそ、ちぎくんの貴重な男役人生の本公演を費やすに値する、素晴らしい作品と素晴らしい役であることを望む。
で。
ちぎくんがダンス教師、あゆっちが奥さんだとわかったので、作品の方向性がわかったというか、妄想配役がしやすくなった。
『風と共に去りぬ』をやるとわかってもテルがバトラーなのかスカーレットなのかわからないと、脳内キャスティングして楽しむことができないよ、というのと同じ。
あくまでもえりたんの相手役はあゆっち、ちぎたんへの思いは淡いモノであり、根っこは奥さんとの再生ラヴストーリーだな。
ここがタカラヅカであり、演出家がイシダせんせではないので、あくまでも「タカラヅカ」として再構築するのだと思う。
役名が原作映画ともハリウッドリメイク版ともチガウのだから、原作を元に別のモノを作ると考えていいだろう。
上記3役に次ぐ大きな役は、「主人公の会社同僚男」「主人公のパートナーになる、ダンス教室の女」の2名。
これがいわゆる「竹中直人」と「渡辺えり」。
同僚男は「会社では冴えないダメダメ中年」だけど、ダンスでは人が変わったように「(キモチ悪いくらい)派手で情熱的」な踊りを披露する。
その二面性を表す小道具が「カツラ」。
冴えないダメ男のときはハゲ頭、ラテンギラギラ男のときはカンチガイロン毛。
競技会ではカツラネタで笑わせる場面もある。
ダンス教室の女は、「論外なデブおばさん」なのに自信家で「カンチガイセクシーダンス」を押しつけがましく踊る。
男たちは一様に「ナイナイ」と思っているのに、彼女ひとり「イイオンナ」的KYさを発揮している。
どちらも笑わせるためのユニークなキャラクタ。
どちらも「美男」「美女」ならおもしろくもなんともない性格だけど、「ハゲオヤジ」「デブおばさん」だから笑えるという道具立て。
そんな外側の印象で落としておき、物語が進むにつれ彼らの魅力がわかってゆき、観客は感情移入して応援するようになる、作りなわけだ。
この道具立てをそのままヅカの舞台でやる必要はない。
イシダならそのままやるだろうけど、そんなのヅカである意味ナイし、別のカンパニーでやればいい。
わたしが『Shall we ダンス?』でテーマを自由に表現していいとなったら、主人公たちに次ぐ重要な役を「ハゲオヤジ」「デブおばさん」にはしない。
「タカラヅカ」らしい道具立てで、同じテーマと笑いを作る。
同僚男に必要なのは、「会社では冴えないダメダメ中年」だけど、ダンスでは人が変わったように「(キモチ悪いくらい)派手で情熱的」になるという、二面性だ。
つまり、ハゲにする必要はない。
メガネ+スーツの「小心男」にして、ダンス教室では「ヅカのラテンショー」状態の男、にすればいい。
普段はふつーに男役リーゼント、ダンス教室ではロン毛カツラ着用。
ダメダメめがねっこだとウィラード@『フットルース』にかぶる、というなら、もっと「タカラヅカ」的に、「職場では超真面目クールビジネスマン」で、とてもダンスなんかやるタイプには見えない、ダンスなんて言うと侮蔑の一瞥で終わらせそうな「お堅い男」……が、実は……!! ということにするとか。
ええ、まつださんのイメージです。
ムーア牧師@『フットルース』が表の顔、しかし彼には秘密があった……!
表の顔がクールであればあるほど、イッちゃったラテンラヴァーっぷりは笑えるはず。
ふつーに「現在の雪組」で上から順番に配役したら、この役がまっつになる。
なんの不思議もなく、まっつの得意分野な役だと思う。
そして、ダンス教室の女。
この役に必要なのは「カンチガイセクシーキャラ」だ。
すべての男はアタシを狙ってる!!くらいの。いくら「カンチガイ」を際立たせるためとはいえ、デブおばさんにする必要はない。
超ナイスバディの長身ド派手女。押し出し良すぎて肉食系で、暑苦しくて、男たちはたじたじ。
ふつーの男だと、組んで踊っても吹っ飛ばされる、的な。男たちみんなこわがってます、的な。
不細工ぢゃなくても、男たちにすれば「ナイナイ」な女。
…………すみません、めーーっちゃ、ともみんのイメージです。
ふつーに「現在の雪組」で上から順番に配役したら、この役がともみんになる。
なんの不思議もなく、ともみんの得意分野な役だと思う。
女役ですまん、でもショーありの芝居1作だけ、ならば、路線男役の宿命ってことで。
で、まっつは所詮「小男」じゃないですか。で、ともみんは「ナイスバディの大女」じゃないですか。
このふたりが鼻息荒くラテンを踊ったら……しかもまっつは途中でカツラがズレて、最終的に投げ捨てて、さらにさらに燃え上がって踊るとなったら……面白すぎる。
「タカラヅカ」の範疇、見た目的にはふつーに美しいのに、役者のキャラクタや芝居で笑わせる、ことができる。
主人公は妻と改めて愛を確認しあい、ダンス教師は過去を克服して夢へと歩き出す。
なにかしら傷や鬱屈を抱えていた人々が、ダンスと出会うこと、人と出会うことで次のステップへと軽やかに踏み出し行く……そんな、ハートウォーミングな物語。
原作のテーマやエッセンスを活かし、下手にストーリーだのキャラ比重だのをいじったりせず、道具立てだけ「タカラヅカ」にする。
十分「タカラヅカ」として素敵な作品にできると思うんだ、『Shall we ダンス?』。
あの頬を思い出す。@春風弥里退団発表
2013年7月4日 タカラヅカ 久しぶりに、モバタカメール見て声出た。
退団届がいつ提出され、いつ受諾されるのかは知らない。集合日に届を持って来てはじめて劇団が生徒の決意を知る、というわけではないだろう。ある程度前に、そーゆー事務手続きは行われているはずだ。発表が集合日だというだけで。
みーちゃんに退団の意志や予定があったにしろ、『戦国BASARA』の成果を見たら、劇団は待ったを掛けるべきだ。純粋に営利団体として、このタイミングで「スター・春風弥里」を手放すのは損失である。
なんでそんなことがわからないんだろう。
もちろん、卒業はみーちゃんの意志であり、決断だろう。今ここから卒業すること、新しい世界へ飛び立っていくこと。みーちゃんの選んだ未来が、みーちゃんにとってはいちばん正しいものであるはず。
ただ、近い将来の花組の組織図で、みーちゃんの個性は真ん中の人たちとはかぶらないのだから、彼の魅力をもっともっと開花させることは、できたはずだ。みーちゃんが「ここにとどまろう」と思えるだけの未来を、劇団が示してくれたなら。みーちゃんの決意を翻すくらい、劇団が「君が必要だ!」と引き留めてくれたなら。
よーするに。
みーちゃん卒業が、さみしい。
もったいない。
くやしい。
だってだって、今こんなにかっこよくてエロくて素敵で、そしてこれからもっともっとかっこよく魅力的になっていくことがわかっているのに。
なのに、卒業してしまうのか。
タカラジェンヌはみな卒業する、わかっているけど、どうして「今」なのか。
2回目に行ったお茶会のときかなあ。ふわふわのお肌に「若い!」と思った。まだまだ、これからの人なんだ、って。や、自分のご贔屓が学年以上年齢以上大人に見える人(肌年齢……?)だから、それでことさらに感じただけかもしんないけど、「ああ、若いな」って。
モバタカメールを見たあと、反射的に、あのとき見たふわふわの肌を(斜め後ろからの頬のラインを)思い出していた。
あれから何年?
成人まで10年掛かるという男役の旬は、個人差がひどく大きい。少年時代に輝く人と、学年を重ね大人以上になってから輝く人がいる。
みーちゃんは、まだ「若い」。
たしかに今、とてつもなくエロカッコイイ。でもでも、みーちゃんはまだこれから、さらなる魅力を開花させられるはず。
もったいない。
くやしい。
こんな素敵なスターを活かし切れず、みすみす手放してしまう、劇団に対して。
2013/07/04
花組 退団者のお知らせ
下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。
(花組)
春風 弥里
こと華 千乃
蘭舞 ゆう
2013年11月17日(花組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団
退団届がいつ提出され、いつ受諾されるのかは知らない。集合日に届を持って来てはじめて劇団が生徒の決意を知る、というわけではないだろう。ある程度前に、そーゆー事務手続きは行われているはずだ。発表が集合日だというだけで。
みーちゃんに退団の意志や予定があったにしろ、『戦国BASARA』の成果を見たら、劇団は待ったを掛けるべきだ。純粋に営利団体として、このタイミングで「スター・春風弥里」を手放すのは損失である。
なんでそんなことがわからないんだろう。
もちろん、卒業はみーちゃんの意志であり、決断だろう。今ここから卒業すること、新しい世界へ飛び立っていくこと。みーちゃんの選んだ未来が、みーちゃんにとってはいちばん正しいものであるはず。
ただ、近い将来の花組の組織図で、みーちゃんの個性は真ん中の人たちとはかぶらないのだから、彼の魅力をもっともっと開花させることは、できたはずだ。みーちゃんが「ここにとどまろう」と思えるだけの未来を、劇団が示してくれたなら。みーちゃんの決意を翻すくらい、劇団が「君が必要だ!」と引き留めてくれたなら。
よーするに。
みーちゃん卒業が、さみしい。
もったいない。
くやしい。
だってだって、今こんなにかっこよくてエロくて素敵で、そしてこれからもっともっとかっこよく魅力的になっていくことがわかっているのに。
なのに、卒業してしまうのか。
タカラジェンヌはみな卒業する、わかっているけど、どうして「今」なのか。
2回目に行ったお茶会のときかなあ。ふわふわのお肌に「若い!」と思った。まだまだ、これからの人なんだ、って。や、自分のご贔屓が学年以上年齢以上大人に見える人(肌年齢……?)だから、それでことさらに感じただけかもしんないけど、「ああ、若いな」って。
モバタカメールを見たあと、反射的に、あのとき見たふわふわの肌を(斜め後ろからの頬のラインを)思い出していた。
あれから何年?
成人まで10年掛かるという男役の旬は、個人差がひどく大きい。少年時代に輝く人と、学年を重ね大人以上になってから輝く人がいる。
みーちゃんは、まだ「若い」。
たしかに今、とてつもなくエロカッコイイ。でもでも、みーちゃんはまだこれから、さらなる魅力を開花させられるはず。
もったいない。
くやしい。
こんな素敵なスターを活かし切れず、みすみす手放してしまう、劇団に対して。
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
変だなあ。
2006年『フェルゼンとアントワネット編』で、1幕ラストのフランス宮廷場面、フェルゼンが「真実の愛を知ったからです」とドヤ顔する場面、感動したんだけどな。
そりゃツッコミどころはあったけれど、『ベルばら』というネタ公演の中では十分感動できる、良い場面だと思ったんだ。
なんで今回、とほほ感しかないんだろ……。
2006年版はなんつっても、前年に史上最悪の全国ツアー版をやっていたからかな。
90分の短縮版なのに何故かメルシー伯爵のお説教はまるっとあるし、アントワネットの出番はほぼなし、ヒロインはオスカルみたいな比重なのに、「オスカルは死にました」で、今宵一夜もバスティーユもなし。
なにより最悪なスウェーデン宮廷場面あり。
その直後だったから、スウェーデン宮廷がベルサイユ宮廷になり、グスタフ3世がルイ16世になって、気持ち的にものすごーく底上げされたのかもしれない?
こうして改めて「真実の愛を知ったからです」「真実の愛? それはなんだ?」てなやり取りを見ると……やっぱダメだわー。
やってることの、意味がわかんない。
てことで、台詞を表記してのどこがダメか記録。
第1幕
第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間
メルシー伯爵が「フェルゼンは婚約が決まったので帰国する」と報告。それに対し、
プロバンス伯爵「婚約…ハッハッハ…。これは面白い話を聞くものだ。お前はまだ独り身だったのか? 私はすでに決まった女がいるとばかり思っていた。それもこのフランスで…なあ、ブイエ将軍…」
ブイエ将軍「そうでございます。それもこともあろうに身分違いの女性が…」
プロバンス伯爵「王妃さま… フェルゼンが帰国致すそうにございます。何卒、お言葉を…王妃さま!」
フェルゼンとアントワネットの不倫を前提に、プロバンス伯爵とブイエ将軍の低レベルの嫌がらせ。
やっていることがくだらなさすぎて辟易するけれど、プロバンス伯爵とブイエ将軍は悪役だ。悪役を悪役として描いているので、これはまだアリだと思う。うざいけど。
すると国王ルイ16世が口を挟む。
ルイ十六世「フェルゼン…その帰国は延ばせぬかな?」
アントワネット「国王さま…」
ルイ十六世「王妃が悲しむぞ。王妃はそなた一人を頼りにしていたのだ。ただの時ならいざしらず、フランスの国情が騒がしい時だ。王妃の力になってやってはくれぬか?」
「アントワネットのために、帰国を延期してくれ」というのがルイ16世の願い。
前の場面で、オスカルが解説していた。国王はアントワネットの不倫を知っている、と。
実際この台詞のあとにプロバンス伯爵が「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」と言いかけたのに、無視して話を進めているので、「妻の不義を知っている」と思って間違いないだろう。
妻の浮気相手に、すべてをわかった上で「妻のそばにいてやってくれ」と言っているわけだ。そのものズバリなことは言わないけれど、真意のわかる様子で。
ここまではいい。
言葉にしている部分と、あえてしていない部分。
言えない、言ってはいけないことを抱え、耐えるフェルゼン。……というのは、間違っていない流れ。
これだけなら、意地悪な悪役を憎み、可哀想なフェルゼンとアントワネット、心の広いルイ16世に感情移入できる。
でも、このあとなんだ。
プロバンス伯爵「どうした、フェルゼン。国王さまがお訊ねなのだ!」
ブイエ将軍「フェルゼン! 何を黙っているのだ!」
プロバンス伯爵「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」
は?
国王が尋ねているのはあくまでも、「王妃のために帰国を延期出来ないか」だよね?
裏事情はどうあれ、ここで言語化されている質問は、それだけ。
「結婚するので帰国します」「用があるから帰国を延期してくれ」という会話がかわされ、言われた側が返答できずにいるのよね?
言葉の上だけでは、「結婚式を延期しろってこと? こまったな」と返答に詰まっている、ってことになるよね?
なのに「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」って、ナニ?
「結婚式を延期しろ」って、ふつーに考えれば無体なことよね? そんなとんでもないことを言っている側なのに、「何を黙っているのだ!」「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」って、どんだけ酷いの?
ここでわたしはかなりつまずく。
プロバンス伯爵は、いったいナニを詰問しているの?
ってことで、次項へ続く。
プロバンス伯爵の会話と思考の流れを検証する。
変だなあ。
2006年『フェルゼンとアントワネット編』で、1幕ラストのフランス宮廷場面、フェルゼンが「真実の愛を知ったからです」とドヤ顔する場面、感動したんだけどな。
そりゃツッコミどころはあったけれど、『ベルばら』というネタ公演の中では十分感動できる、良い場面だと思ったんだ。
なんで今回、とほほ感しかないんだろ……。
2006年版はなんつっても、前年に史上最悪の全国ツアー版をやっていたからかな。
90分の短縮版なのに何故かメルシー伯爵のお説教はまるっとあるし、アントワネットの出番はほぼなし、ヒロインはオスカルみたいな比重なのに、「オスカルは死にました」で、今宵一夜もバスティーユもなし。
なにより最悪なスウェーデン宮廷場面あり。
その直後だったから、スウェーデン宮廷がベルサイユ宮廷になり、グスタフ3世がルイ16世になって、気持ち的にものすごーく底上げされたのかもしれない?
こうして改めて「真実の愛を知ったからです」「真実の愛? それはなんだ?」てなやり取りを見ると……やっぱダメだわー。
やってることの、意味がわかんない。
てことで、台詞を表記してのどこがダメか記録。
第1幕
第15場 ベルサイユ宮殿・王座の間
メルシー伯爵が「フェルゼンは婚約が決まったので帰国する」と報告。それに対し、
プロバンス伯爵「婚約…ハッハッハ…。これは面白い話を聞くものだ。お前はまだ独り身だったのか? 私はすでに決まった女がいるとばかり思っていた。それもこのフランスで…なあ、ブイエ将軍…」
ブイエ将軍「そうでございます。それもこともあろうに身分違いの女性が…」
プロバンス伯爵「王妃さま… フェルゼンが帰国致すそうにございます。何卒、お言葉を…王妃さま!」
フェルゼンとアントワネットの不倫を前提に、プロバンス伯爵とブイエ将軍の低レベルの嫌がらせ。
やっていることがくだらなさすぎて辟易するけれど、プロバンス伯爵とブイエ将軍は悪役だ。悪役を悪役として描いているので、これはまだアリだと思う。うざいけど。
すると国王ルイ16世が口を挟む。
ルイ十六世「フェルゼン…その帰国は延ばせぬかな?」
アントワネット「国王さま…」
ルイ十六世「王妃が悲しむぞ。王妃はそなた一人を頼りにしていたのだ。ただの時ならいざしらず、フランスの国情が騒がしい時だ。王妃の力になってやってはくれぬか?」
「アントワネットのために、帰国を延期してくれ」というのがルイ16世の願い。
前の場面で、オスカルが解説していた。国王はアントワネットの不倫を知っている、と。
実際この台詞のあとにプロバンス伯爵が「兄上! 兄上はこの男と姉上が…」と言いかけたのに、無視して話を進めているので、「妻の不義を知っている」と思って間違いないだろう。
妻の浮気相手に、すべてをわかった上で「妻のそばにいてやってくれ」と言っているわけだ。そのものズバリなことは言わないけれど、真意のわかる様子で。
ここまではいい。
言葉にしている部分と、あえてしていない部分。
言えない、言ってはいけないことを抱え、耐えるフェルゼン。……というのは、間違っていない流れ。
これだけなら、意地悪な悪役を憎み、可哀想なフェルゼンとアントワネット、心の広いルイ16世に感情移入できる。
でも、このあとなんだ。
プロバンス伯爵「どうした、フェルゼン。国王さまがお訊ねなのだ!」
ブイエ将軍「フェルゼン! 何を黙っているのだ!」
プロバンス伯爵「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」
は?
国王が尋ねているのはあくまでも、「王妃のために帰国を延期出来ないか」だよね?
裏事情はどうあれ、ここで言語化されている質問は、それだけ。
「結婚するので帰国します」「用があるから帰国を延期してくれ」という会話がかわされ、言われた側が返答できずにいるのよね?
言葉の上だけでは、「結婚式を延期しろってこと? こまったな」と返答に詰まっている、ってことになるよね?
なのに「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」って、ナニ?
「結婚式を延期しろ」って、ふつーに考えれば無体なことよね? そんなとんでもないことを言っている側なのに、「何を黙っているのだ!」「申し上げられないほどに後ろめたいことでもあるのか?」って、どんだけ酷いの?
ここでわたしはかなりつまずく。
プロバンス伯爵は、いったいナニを詰問しているの?
ってことで、次項へ続く。
プロバンス伯爵の会話と思考の流れを検証する。
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
しつこいよーだが、演じている人に含みはないぞ。
アンドレとジェローデルの友情とか、植爺はどっから思いつくんだろうなあ。
たぶん、原作を読んだことがないからだな。
と、結論づけてしまいたくなる、原作からはあり得ない関係の、ヅカ版のアンドレとジェローデル。
特に今回のジェローデルの再現度の低さはすごい。『戦国BASARA』じゃないけどさー、原作モノって、再現度を云々されるものなんだけどさー、今回のジェローデルは見た目も中身も言動も、潔いまでに原作無視、面影がカケラもないのがすごいよね(笑)。
原作関係ナシなら、嫌いじゃないけど。むしろツボってたりもするけど。でもソレ、ともみんの手柄で、植爺じゃない。
そして今は、植爺『ベルばら』についての話。
わたしは植爺ジェローデルの喋り方が、全部嫌い。
原作を読んだことのない植爺は知らないんだろうけどさ。
ジェローデルは、「ですます調」キャラだーーっ!!
平民のアンドレ相手にすら、「きみ…ジャン・ジャック・ルソーの“ヌーベル・エロイーズ”を読みましたか」とですます調で話す男なんだよ!! 基本ですますで、そうでなくても「優男喋り」なんだ、「ひさしぶりだね」「うらやましいほどにね」とか、「~~ね」喋りなのよー!
アンドレ相手でもそんななんだ、オスカルには最大の敬意を持って、女神様に対するよーに敬意を持って話してるっつーの。
だから、キャラクタの本質どころか表面すら理解していない、植爺ジェローデルが嫌い。出てくるたび違和感でキモチ悪くなる。
第1幕
第13場 カーテン
ジェローデル「アンドレ! オスカル隊長が近衛隊から衛兵隊に転属してパリに行くのは本当なのか! 私はたった今、突然近衛隊の隊長を命じられた。驚いてその理由を尋ねたら、オスカル隊長の後任だというじゃないか! このあいだから何か悩んでいるとは思っていたが、まさか衛兵隊に転属してパリに進駐とは!」
これを原作風に直すと、
ジェローデル「アンドレ。オスカル隊長が近衛隊から衛兵隊に転属してパリに行くのは本当なのかね? 私はたった今、突然近衛隊の隊長を命じられた。驚いてその理由を尋ねると、オスカル隊長の後任だという。このあいだから何か思い悩んでいる様子だったけれど、まさか衛兵隊に転属してパリに進駐とは……」
って感じっすかね。
そして、衛兵隊転属について「オスカルは女だ! そんな危ない所に…」とわめくあたりが、ほんとキャラ破壊、ありえない。
ジェローデルはオスカルの理解者。いや、理解したいと思い、オスカルの行動をすべて受け入れる男。求婚を断られても黙って身を引き、兵を退けと言われれば自分が謀反人になろうとも従う、そういう男だ。
転属を知ってびっくりするまではいいけれど、それに反対するとか、しかも反対理由が「女だから」って、ありえない。
だって、オスカルが優秀な軍人であることを、副官であった彼はいちばんよく知っている。
オスカルが軍人として誠実に誇り高く生きていることを、知っている。
「女だから危ない」と転属を反対する、ってことは、オスカルという人物を、全否定すること。
それならはじめから、軍人やってる女なんか愛するなよ。軍人なんだから、戦場にだって行くさ。
オスカルは今までだって、兵を率いて賊の討伐に出たりしていたっつーの。なのに、「誰がオスカルを護ってやるのだ!」とか、オスカルを、バカにしているとしか思えない。
オスカルを「王宮の飾り人形」だと思っているんだね。軍人ではなく、きれいな衣装を着て宮廷に立っているだけが仕事だと、ジェローデル自身が思っているんだね。
ほんとひでーや。
で、
ジェローデル「アンドレ! お前のその左目は見えない!」
だし。
めちゃくちゃすぎて、もう。
いつも一緒にいるオスカルが気づかないことを、どうしてジェローデルが気づくんだよ。
オスカルがアホだってことですか。
ジェローデル「それを指摘することはどんなに君を傷付けるだろうと、ずっと封印してきたのだ! しかし、こんなことになった今、これまでのように知らぬふりを通すことは出来ない!」
あー、やはりアレですか、ジェローデルが愛しているのは、アンドレなんですね。
だからアンドレの秘密にただひとり気づくことが出来た。アンドレを死なせたくなくて、パリ行きをあきらめさせたくて、こんなことを言い出したわけですね。
それ以外に理由がないっすね。この展開。
ほんと、アンドレとジェローデルの恋愛とか、植爺はどっから思いつくんだろうなあ。
それと植爺って、「この通りです」とひざまずかせるの好きだよね。
たった1時間の1幕の中で、メルシー伯爵とアンドレ、2回も同じことをさせている。
日本でいうところの土下座。植爺の土下座萌え。
わたしは萌えないわ。だってカタチだけの土下座で、軽いんだもの、扱いが。とりあえず土下座させときゃいいだろ、みたいな作者のナメた姿勢が透けて見える。「土下座」という簡単な表現に丸投げして、それ以上の表現方法を最初から考えてない感じがねー。
で、そうやって土下座して場面終了なのに。
暗転だから、そそくさと起ち上がってはけていくふたりが見えるのが、興ざめ。
静止して終わるなら、動かないまま次の場面に移るように演出しろよー。
はい暗転、アンドレすくっと立って、ジェローデルとふたりしてすたすたっ。……ああ、やっぱ本気で土下座してたわけじゃないんだー、軽いわー。
暗転は暗転、暗転の中はけていく姿をあげつらうのは反則だけど、暗転する意味がないのにそうやっているもんだから、そこまでを言及しちゃうのよ。
土下座で静止して終わるなら、彼らの前にカーテンが閉まるようにすればいいだけじゃないの。
その前の場面なんて、舞台全部使う必要のない「モブの人々が1列に並んでひとことずつ順番に台詞を言う」だけの場面。真ん中当たりをカーテンで区切るなりして、アンドレとジェローデルの会話はそこでさせればいい。
いや、どーせ「モブの人々が1列に並んでひとことずつ順番に台詞を言う」だけなんだから、彼らが「オホホホ」と言いながら歩き去り、そのあとの同じ背景の前で、ジェローデルとアンドレの会話をさせれば済むことじゃないの。
で、土下座するアンドレ、困惑するジェローデル、の前を、いつものユリカーテンで仕切ればいい。
そんな、超絶簡単ぷーなこともせず、暗転してはけていく姿を見せるなんて、思考停止、怠けているだけでしょ?
いいよいいよ、アンドレとジェローデルの禁じられた恋でもやっててくださいよ。土下座も彼らのプレイの一貫ってことで。(皮肉です、念のため)
しつこいよーだが、演じている人に含みはないぞ。
アンドレとジェローデルの友情とか、植爺はどっから思いつくんだろうなあ。
たぶん、原作を読んだことがないからだな。
と、結論づけてしまいたくなる、原作からはあり得ない関係の、ヅカ版のアンドレとジェローデル。
特に今回のジェローデルの再現度の低さはすごい。『戦国BASARA』じゃないけどさー、原作モノって、再現度を云々されるものなんだけどさー、今回のジェローデルは見た目も中身も言動も、潔いまでに原作無視、面影がカケラもないのがすごいよね(笑)。
原作関係ナシなら、嫌いじゃないけど。むしろツボってたりもするけど。でもソレ、ともみんの手柄で、植爺じゃない。
そして今は、植爺『ベルばら』についての話。
わたしは植爺ジェローデルの喋り方が、全部嫌い。
原作を読んだことのない植爺は知らないんだろうけどさ。
ジェローデルは、「ですます調」キャラだーーっ!!
平民のアンドレ相手にすら、「きみ…ジャン・ジャック・ルソーの“ヌーベル・エロイーズ”を読みましたか」とですます調で話す男なんだよ!! 基本ですますで、そうでなくても「優男喋り」なんだ、「ひさしぶりだね」「うらやましいほどにね」とか、「~~ね」喋りなのよー!
アンドレ相手でもそんななんだ、オスカルには最大の敬意を持って、女神様に対するよーに敬意を持って話してるっつーの。
だから、キャラクタの本質どころか表面すら理解していない、植爺ジェローデルが嫌い。出てくるたび違和感でキモチ悪くなる。
第1幕
第13場 カーテン
ジェローデル「アンドレ! オスカル隊長が近衛隊から衛兵隊に転属してパリに行くのは本当なのか! 私はたった今、突然近衛隊の隊長を命じられた。驚いてその理由を尋ねたら、オスカル隊長の後任だというじゃないか! このあいだから何か悩んでいるとは思っていたが、まさか衛兵隊に転属してパリに進駐とは!」
これを原作風に直すと、
ジェローデル「アンドレ。オスカル隊長が近衛隊から衛兵隊に転属してパリに行くのは本当なのかね? 私はたった今、突然近衛隊の隊長を命じられた。驚いてその理由を尋ねると、オスカル隊長の後任だという。このあいだから何か思い悩んでいる様子だったけれど、まさか衛兵隊に転属してパリに進駐とは……」
って感じっすかね。
そして、衛兵隊転属について「オスカルは女だ! そんな危ない所に…」とわめくあたりが、ほんとキャラ破壊、ありえない。
ジェローデルはオスカルの理解者。いや、理解したいと思い、オスカルの行動をすべて受け入れる男。求婚を断られても黙って身を引き、兵を退けと言われれば自分が謀反人になろうとも従う、そういう男だ。
転属を知ってびっくりするまではいいけれど、それに反対するとか、しかも反対理由が「女だから」って、ありえない。
だって、オスカルが優秀な軍人であることを、副官であった彼はいちばんよく知っている。
オスカルが軍人として誠実に誇り高く生きていることを、知っている。
「女だから危ない」と転属を反対する、ってことは、オスカルという人物を、全否定すること。
それならはじめから、軍人やってる女なんか愛するなよ。軍人なんだから、戦場にだって行くさ。
オスカルは今までだって、兵を率いて賊の討伐に出たりしていたっつーの。なのに、「誰がオスカルを護ってやるのだ!」とか、オスカルを、バカにしているとしか思えない。
オスカルを「王宮の飾り人形」だと思っているんだね。軍人ではなく、きれいな衣装を着て宮廷に立っているだけが仕事だと、ジェローデル自身が思っているんだね。
ほんとひでーや。
で、
ジェローデル「アンドレ! お前のその左目は見えない!」
だし。
めちゃくちゃすぎて、もう。
いつも一緒にいるオスカルが気づかないことを、どうしてジェローデルが気づくんだよ。
オスカルがアホだってことですか。
ジェローデル「それを指摘することはどんなに君を傷付けるだろうと、ずっと封印してきたのだ! しかし、こんなことになった今、これまでのように知らぬふりを通すことは出来ない!」
あー、やはりアレですか、ジェローデルが愛しているのは、アンドレなんですね。
だからアンドレの秘密にただひとり気づくことが出来た。アンドレを死なせたくなくて、パリ行きをあきらめさせたくて、こんなことを言い出したわけですね。
それ以外に理由がないっすね。この展開。
ほんと、アンドレとジェローデルの恋愛とか、植爺はどっから思いつくんだろうなあ。
それと植爺って、「この通りです」とひざまずかせるの好きだよね。
たった1時間の1幕の中で、メルシー伯爵とアンドレ、2回も同じことをさせている。
日本でいうところの土下座。植爺の土下座萌え。
わたしは萌えないわ。だってカタチだけの土下座で、軽いんだもの、扱いが。とりあえず土下座させときゃいいだろ、みたいな作者のナメた姿勢が透けて見える。「土下座」という簡単な表現に丸投げして、それ以上の表現方法を最初から考えてない感じがねー。
で、そうやって土下座して場面終了なのに。
暗転だから、そそくさと起ち上がってはけていくふたりが見えるのが、興ざめ。
静止して終わるなら、動かないまま次の場面に移るように演出しろよー。
はい暗転、アンドレすくっと立って、ジェローデルとふたりしてすたすたっ。……ああ、やっぱ本気で土下座してたわけじゃないんだー、軽いわー。
暗転は暗転、暗転の中はけていく姿をあげつらうのは反則だけど、暗転する意味がないのにそうやっているもんだから、そこまでを言及しちゃうのよ。
土下座で静止して終わるなら、彼らの前にカーテンが閉まるようにすればいいだけじゃないの。
その前の場面なんて、舞台全部使う必要のない「モブの人々が1列に並んでひとことずつ順番に台詞を言う」だけの場面。真ん中当たりをカーテンで区切るなりして、アンドレとジェローデルの会話はそこでさせればいい。
いや、どーせ「モブの人々が1列に並んでひとことずつ順番に台詞を言う」だけなんだから、彼らが「オホホホ」と言いながら歩き去り、そのあとの同じ背景の前で、ジェローデルとアンドレの会話をさせれば済むことじゃないの。
で、土下座するアンドレ、困惑するジェローデル、の前を、いつものユリカーテンで仕切ればいい。
そんな、超絶簡単ぷーなこともせず、暗転してはけていく姿を見せるなんて、思考停止、怠けているだけでしょ?
いいよいいよ、アンドレとジェローデルの禁じられた恋でもやっててくださいよ。土下座も彼らのプレイの一貫ってことで。(皮肉です、念のため)
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
いちいち冒頭でくり返しているのは、なんかのはずみでこの項にだけたどり着いてしまう人がいるかもしれないため。
植爺のことです、脚本のことです。役者とは無関係。
「第1幕 第11場 宮殿の庭園C」において、フェルゼンはオスカルが自分を愛していたことに気づく。そして「失いたくないただ一人の素晴らしき親友」と結論づける。
2006年『フェルゼンとアントワネット編』では、
オスカル「云わないで下さい…私は近衛隊の軍人です。この軍服を着ているときは、自分の心に封印をしています」(何故か突然ですます調でなよなよ)
で終了しているので、言葉遣いを変えることなく「親友」と終わらせている今回は、ずっとよくなっていると思う。
でもさ。
なにより先に、思うわけよ。
まずお前、謝れよ。
フェルゼンさ、前の場面でオスカルにナニを言った?
「不倫は終わりにしてくれ、それがふたりのためだ」と必死に言ってくれた「親友」に対し、「見損なったぞ! 初めて会ったときからもう少し心の苦しみが分かる人だと思い込んでいたのに! 女でありながら女を捨てた君にはこの苦しみはいくら説明してもとうてい理解してもらえないのだな!」って言ったよな?
心配してくれる相手に逆ギレして、もっとも弱いところを攻撃したよな? 相手の人格、全否定したよな?
で、結局オスカルの言った通りになって。オスカルは正しくて、なのに正しいオスカルに「心の苦しみがわからない人」「女でありながら女を捨てた、人間以下の存在」と罵ったよな?
謝れ。手を付き、泣いて謝れっ。
なんで平気な顔して「オスカル? もしかして…君はぼくを?」なんて言ってられるんだ?
ったくこの最低男、どの面下げて……っ。
「なんだこいつ、俺に惚れてたんだ。んじゃ、謝らなくていっか」と思ったみたいじゃん。人生舐めてるっ。
続いて。
「第12場 宮廷の広間」の無意味さを、どうにかしてください。
プロバンス伯爵、ランベスク公爵が貴婦人たちに取り囲まれて世間話をする場面。
ここで話している内容が、ひどい。
無意味な説明台詞をただ垂れ流し続ける。しかも、話の内容に整合性がない。
ここで話題になるのは、
「フェルゼンが帰国する」→それ、前の場面で聞いた
「反国王派を名乗る貴族がいる」→それ、前の場面で聞いた
と、見事なまでに新しい情報が、ナニもない。
また、ここの説明台詞で登場する固有名詞は、この舞台に登場しない、不要な知識だ。無用な固有名詞乱発は、観客の理解を妨げるだけ。混乱させるだけ。説明になっていない。
プロバンス伯爵「そうですとも! それが証拠にご覧なさい! この王官はいつもの通りこんなに華やかに、何も変わったことはないではありませんか!」
と言うけれど、致命的です、びんぼーくさい書き割りセットしかありません!
歌もダンスもなく、地味で寂しい『ベルばら』……。
プロバンス伯爵の台詞に説得力がない……。
それでもこの場面は、貴重な、組子の出番としてだけ、意味がある……。
本当なら、いらない場面だ。
なにひとつ新しい情報はなく、無駄に時間を費やしているだけ。
でも、組子の多くはプロローグ以来、出番がない。15場中11場ではじめて登場する人々がほとんど。
せっかくの雪組中堅の美女たちが、この「無意味な説明台詞」を横1列に並んで順番に喋るだけ……が、唯一の台詞、てな勢いだ。
組子の出番、組子の台詞。
ただそれだけに、意味がある。それ以外に、なんの意味もない。
なんで歌い踊らないのかなあ。
もう知っている、聞かされる必要のない台詞を喋らせるくらいなら、歌い踊ればいいのに。
ほんっと最悪。
いちいち冒頭でくり返しているのは、なんかのはずみでこの項にだけたどり着いてしまう人がいるかもしれないため。
植爺のことです、脚本のことです。役者とは無関係。
「第1幕 第11場 宮殿の庭園C」において、フェルゼンはオスカルが自分を愛していたことに気づく。そして「失いたくないただ一人の素晴らしき親友」と結論づける。
2006年『フェルゼンとアントワネット編』では、
オスカル「云わないで下さい…私は近衛隊の軍人です。この軍服を着ているときは、自分の心に封印をしています」(何故か突然ですます調でなよなよ)
で終了しているので、言葉遣いを変えることなく「親友」と終わらせている今回は、ずっとよくなっていると思う。
でもさ。
なにより先に、思うわけよ。
まずお前、謝れよ。
フェルゼンさ、前の場面でオスカルにナニを言った?
「不倫は終わりにしてくれ、それがふたりのためだ」と必死に言ってくれた「親友」に対し、「見損なったぞ! 初めて会ったときからもう少し心の苦しみが分かる人だと思い込んでいたのに! 女でありながら女を捨てた君にはこの苦しみはいくら説明してもとうてい理解してもらえないのだな!」って言ったよな?
心配してくれる相手に逆ギレして、もっとも弱いところを攻撃したよな? 相手の人格、全否定したよな?
で、結局オスカルの言った通りになって。オスカルは正しくて、なのに正しいオスカルに「心の苦しみがわからない人」「女でありながら女を捨てた、人間以下の存在」と罵ったよな?
謝れ。手を付き、泣いて謝れっ。
なんで平気な顔して「オスカル? もしかして…君はぼくを?」なんて言ってられるんだ?
ったくこの最低男、どの面下げて……っ。
「なんだこいつ、俺に惚れてたんだ。んじゃ、謝らなくていっか」と思ったみたいじゃん。人生舐めてるっ。
続いて。
「第12場 宮廷の広間」の無意味さを、どうにかしてください。
プロバンス伯爵、ランベスク公爵が貴婦人たちに取り囲まれて世間話をする場面。
ここで話している内容が、ひどい。
無意味な説明台詞をただ垂れ流し続ける。しかも、話の内容に整合性がない。
ここで話題になるのは、
「フェルゼンが帰国する」→それ、前の場面で聞いた
「反国王派を名乗る貴族がいる」→それ、前の場面で聞いた
と、見事なまでに新しい情報が、ナニもない。
また、ここの説明台詞で登場する固有名詞は、この舞台に登場しない、不要な知識だ。無用な固有名詞乱発は、観客の理解を妨げるだけ。混乱させるだけ。説明になっていない。
プロバンス伯爵「そうですとも! それが証拠にご覧なさい! この王官はいつもの通りこんなに華やかに、何も変わったことはないではありませんか!」
と言うけれど、致命的です、びんぼーくさい書き割りセットしかありません!
歌もダンスもなく、地味で寂しい『ベルばら』……。
プロバンス伯爵の台詞に説得力がない……。
それでもこの場面は、貴重な、組子の出番としてだけ、意味がある……。
本当なら、いらない場面だ。
なにひとつ新しい情報はなく、無駄に時間を費やしているだけ。
でも、組子の多くはプロローグ以来、出番がない。15場中11場ではじめて登場する人々がほとんど。
せっかくの雪組中堅の美女たちが、この「無意味な説明台詞」を横1列に並んで順番に喋るだけ……が、唯一の台詞、てな勢いだ。
組子の出番、組子の台詞。
ただそれだけに、意味がある。それ以外に、なんの意味もない。
なんで歌い踊らないのかなあ。
もう知っている、聞かされる必要のない台詞を喋らせるくらいなら、歌い踊ればいいのに。
ほんっと最悪。
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
フェルゼンに別れを告げられたアントワネットは、そこに現れたオスカルを一方的に罵る。
オスカルはただ、「ここにいると人目につく。建物の中に入ってくれ」と、アントワネットのために言っている。なのにアントワネットは、その道理もわからずその場でわめき立てる。「なぐさてくれないなんて冷血漢! お前の血は何色だ?!」てなことを。
ぽかーんとなるような、最悪の言動。何故そんな「人間としておかしい」ことを、わざわざヒロインにさせるのか、本気でわからない……。
また、アントワネットの長台詞は、無理な説明台詞であるにもかかわらず、情報が、間違っている。
オスカルがアントワネットの守護をするようになったのは、アントワネットが王太子妃として嫁いできた14歳のとき。そして、オスカルとアントワネットは同い年。ゆえに、「十一才の時から近衛兵としていつも私を守ってくれた」は間違い。
オスカルは11歳で近衛隊に入隊した、14歳の時から王太子妃付きになった、このふたつの事象を混同して喋っている。
オスカルがいくつで近衛隊に入ったという情報は、「オスカルに冷たくされた! うわあああん!!」となっているアントワネットが今ここで、解説しなくてはならないようなことなのか?
アントワネットが14歳で嫁入りしたってのは、それまでにえんえん聞かされていたので、この台詞だけ聞くと「オスカルってアントワネットより3歳以上年下なんだ」と思うよね? 11歳のオスカルが14歳でフランスに来たアントワネットを守りはじめるわけだから。
「近衛兵のあなたは、14歳の時からいつも私を守ってくれた」でいいんじゃないの?
無駄な説明台詞。
今ここで、その解説は必要なのか。いや、どう考えたっていらんだろ。
観客を混乱させるだけだろ。
説明になっていない、理解を損なう害となっている。
いつもの植爺クオリティ。彼の説明台詞はいつもそう。
それを表現するために適切な事柄を選べない。
あるのは独善的な感情のみ、数学的な組み立てが出来ない。
ちなみに、2006年の『フェルゼンとアントワネット編』に、この「逆ギレするアントワネット」の場面はない。
アントワネット「フェルゼン…、ああ、私の生命の悦び、生きる希望。私の魂はフェルゼンと共に遠く飛び去ってしまった…」
という台詞のあと、退場している。
だから素直に、彼女の恋の終局に感情移入することも、涙することも出来た。
わざわざアントワネットのもっとも最低な場面を復活させる(全ツ版にはあったよな?)のは、何故だ。
植爺の、あゆっちへの配慮かな、とは思う。
植爺はナニしろ、「役者の格は、豪華衣装と台詞の行数」だと信じている人だ。
出番の少ないあゆっちに、思いやりで「アントワネットの長台詞場面」を付け加えたのではないかと思う。
台詞の意味も内容も関係ない、どんだけぐたぐたに無意味な説明台詞をくり返しているだけでもいい、人として間違っていてもいい、とにかく長ければいい。行数が稼げればいい。
「ル・サンク」で9行にも渡る長台詞は、役者の格としては最高峰のひとつ。それゆえに、わざわざ2006年版にはなかった台詞を、今回は引っ張り出してきたのかも。
……だしたら、ほんと救いようのないバカだけど。
そもそも、アントワネットは何故オスカルを罵るのか。
原作にあるからだ、と植爺は考えていそうだ。
たしかに、それに似た場面はある。「フェルゼンと別れてください」と進言するオスカルに、アントワネットが14歳で恋も知らずに嫁いできたことから半生を語り、「あなたに女の心を求めるのは、無理なことだったのでしょうか」と言う。植爺は、この場面を踏襲しているつもりなんだと思う。
しかし、植爺が思っているようなこととは、まったく違う。ぜんぜん違う。カケラも合ってない、むしろ正反対。
「フェルゼンと別れてくれ」と言うオスカルに対し、アントワネットは相手を責めたり、罵ったりはしない。絶対しない。
処分を恐れず、真に自分のために言ってくれているのだと理解した上で、まず、礼を言う。
オスカルの真心に礼を言い、そのあとで抱えてきた孤独を口にし、「フェルゼンを求めることは、神でさえ止めることは出来ない」と告げる。
「あなたに女の心を求めるのは、無理なことだったのでしょうか」と言う場面は、アントワネットがオスカルを責めて罵る場面ではなく、感謝して、礼を言う場面なんだよ!!
正反対ですがな!
そしてオスカルは、アントワネットに罵られたから傷つくのではなく、アントワネットの抱えてきた孤独に気づいてやれなかった、そんな至らぬ自分を責めるんだ。
植爺は言葉だけ拾ってキャラクタの心情も場面の意味も理解せず、真逆の意味で使っているんだ。
植爺は、他人を恨んだり攻撃したりすることしか、人間の感情を理解出来ないのかな。それしかないと思っているのかな。
だから孤独に悲しく微笑むアントワネットは「逆ギレして罵倒三昧」、自分を責めるオスカルは「罵られたから辛い」、そんな超絶「安い」キャラクタに成り下がっている。
こんな乏しい感性の人がクリエイターとして、モノ作りをしているのかと思うと、薄ら寒くなる。
ほんとに、最悪。
大嫌い。
原作を読むことも理解することも出来ないなら、作劇に関わらないでくれ。
植爺の描くアントワネットは、フェルゼンと同じくらい、邪悪で最低な人間だ。
フェルゼンに別れを告げられたアントワネットは、そこに現れたオスカルを一方的に罵る。
オスカルはただ、「ここにいると人目につく。建物の中に入ってくれ」と、アントワネットのために言っている。なのにアントワネットは、その道理もわからずその場でわめき立てる。「なぐさてくれないなんて冷血漢! お前の血は何色だ?!」てなことを。
ぽかーんとなるような、最悪の言動。何故そんな「人間としておかしい」ことを、わざわざヒロインにさせるのか、本気でわからない……。
また、アントワネットの長台詞は、無理な説明台詞であるにもかかわらず、情報が、間違っている。
オスカルがアントワネットの守護をするようになったのは、アントワネットが王太子妃として嫁いできた14歳のとき。そして、オスカルとアントワネットは同い年。ゆえに、「十一才の時から近衛兵としていつも私を守ってくれた」は間違い。
オスカルは11歳で近衛隊に入隊した、14歳の時から王太子妃付きになった、このふたつの事象を混同して喋っている。
オスカルがいくつで近衛隊に入ったという情報は、「オスカルに冷たくされた! うわあああん!!」となっているアントワネットが今ここで、解説しなくてはならないようなことなのか?
アントワネットが14歳で嫁入りしたってのは、それまでにえんえん聞かされていたので、この台詞だけ聞くと「オスカルってアントワネットより3歳以上年下なんだ」と思うよね? 11歳のオスカルが14歳でフランスに来たアントワネットを守りはじめるわけだから。
「近衛兵のあなたは、14歳の時からいつも私を守ってくれた」でいいんじゃないの?
無駄な説明台詞。
今ここで、その解説は必要なのか。いや、どう考えたっていらんだろ。
観客を混乱させるだけだろ。
説明になっていない、理解を損なう害となっている。
いつもの植爺クオリティ。彼の説明台詞はいつもそう。
それを表現するために適切な事柄を選べない。
あるのは独善的な感情のみ、数学的な組み立てが出来ない。
ちなみに、2006年の『フェルゼンとアントワネット編』に、この「逆ギレするアントワネット」の場面はない。
アントワネット「フェルゼン…、ああ、私の生命の悦び、生きる希望。私の魂はフェルゼンと共に遠く飛び去ってしまった…」
という台詞のあと、退場している。
だから素直に、彼女の恋の終局に感情移入することも、涙することも出来た。
わざわざアントワネットのもっとも最低な場面を復活させる(全ツ版にはあったよな?)のは、何故だ。
植爺の、あゆっちへの配慮かな、とは思う。
植爺はナニしろ、「役者の格は、豪華衣装と台詞の行数」だと信じている人だ。
出番の少ないあゆっちに、思いやりで「アントワネットの長台詞場面」を付け加えたのではないかと思う。
台詞の意味も内容も関係ない、どんだけぐたぐたに無意味な説明台詞をくり返しているだけでもいい、人として間違っていてもいい、とにかく長ければいい。行数が稼げればいい。
「ル・サンク」で9行にも渡る長台詞は、役者の格としては最高峰のひとつ。それゆえに、わざわざ2006年版にはなかった台詞を、今回は引っ張り出してきたのかも。
……だしたら、ほんと救いようのないバカだけど。
そもそも、アントワネットは何故オスカルを罵るのか。
原作にあるからだ、と植爺は考えていそうだ。
たしかに、それに似た場面はある。「フェルゼンと別れてください」と進言するオスカルに、アントワネットが14歳で恋も知らずに嫁いできたことから半生を語り、「あなたに女の心を求めるのは、無理なことだったのでしょうか」と言う。植爺は、この場面を踏襲しているつもりなんだと思う。
しかし、植爺が思っているようなこととは、まったく違う。ぜんぜん違う。カケラも合ってない、むしろ正反対。
「フェルゼンと別れてくれ」と言うオスカルに対し、アントワネットは相手を責めたり、罵ったりはしない。絶対しない。
処分を恐れず、真に自分のために言ってくれているのだと理解した上で、まず、礼を言う。
オスカルの真心に礼を言い、そのあとで抱えてきた孤独を口にし、「フェルゼンを求めることは、神でさえ止めることは出来ない」と告げる。
「あなたに女の心を求めるのは、無理なことだったのでしょうか」と言う場面は、アントワネットがオスカルを責めて罵る場面ではなく、感謝して、礼を言う場面なんだよ!!
正反対ですがな!
そしてオスカルは、アントワネットに罵られたから傷つくのではなく、アントワネットの抱えてきた孤独に気づいてやれなかった、そんな至らぬ自分を責めるんだ。
植爺は言葉だけ拾ってキャラクタの心情も場面の意味も理解せず、真逆の意味で使っているんだ。
植爺は、他人を恨んだり攻撃したりすることしか、人間の感情を理解出来ないのかな。それしかないと思っているのかな。
だから孤独に悲しく微笑むアントワネットは「逆ギレして罵倒三昧」、自分を責めるオスカルは「罵られたから辛い」、そんな超絶「安い」キャラクタに成り下がっている。
こんな乏しい感性の人がクリエイターとして、モノ作りをしているのかと思うと、薄ら寒くなる。
ほんとに、最悪。
大嫌い。
原作を読むことも理解することも出来ないなら、作劇に関わらないでくれ。
植爺の描くアントワネットは、フェルゼンと同じくらい、邪悪で最低な人間だ。
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
アントワネットの初登場場面が、「第10場」ってどうなの。
ちなみに1幕は15場までしかないんですが。
突然出てきて別れ話。
まったくもって感情移入出来ない構成。
いらない3つの場面を削って、フェルゼンとアントワネットのラブラブデート場面を描けば良いのに。
いわゆる「小舟」のシーン、わたしは嫌いだけど。仮面舞踏会でフェルゼンがみっともなく立ち往生していたとか、そこでやさしく声を掛けたからアントワネットに恋したとか、原作レイプのひどい台詞オンパレードだもん。
原作のフェルゼンはモテモテの貴公子で、舞踏会で誰にも相手にされず恥を掻いているよーな情けない男じゃないもん。アントワネットもそんな「劣った姿」に「同病相憐れむ」で声を掛けるわけじゃないもん。
目が合った瞬間の、運命の恋なんだもん。
だからそんなひどい場面をやって欲しいわけじゃないけど、そんなひどい場面すらないのは、もっとひどい。
まあ、それはともかく。
許せないのは、フェルゼン絡みではなく、オスカルに対して。
第1幕
第10場 宮殿の庭園B
アントワネット「オスカル! あなたを女だと思い込んでいた私が間違っていたようね…あなたは十一才の時から近衛兵としていつも私を守ってくれた。そして、誰よりも女の私の気持ちを理解してくれると信じていた…それはあなたも私と同じ女だからと心を許していたのに‥あなたはいつの間にか女の気持ちを失ってしまったのね。私は馬鹿だった。その軍服の下には私と同じ女の血が流れていると思い込んでいたなんて…」
ひとつの台詞の中で、「女」って5回も言ってますよ?!
えーと。
素朴な疑問なんだが、アントワネットがこの台詞をオスカルに言う意味、メリットは、どこにあるんだ?
どう考えても、間違っているのはアントワネットだ。
フェルゼンに振られたことが悲しくて、手近にいたオスカルに逆ギレして罵っているだけ。オスカルは(言葉は足りないと思うが)悪くない。
絶対に逆らえない立場の罪なき人間を、一方的に罵り嬲り、被害者ヅラして去って行く、って、こんな言動取るキャラクタに、いったい誰が好意や同情を抱くんだ?
主人公の相手役、この作品のヒロインを徹底的に貶めて、誰が得をする? なんの意味がある?
メルシー伯爵に暴言を吐くフェルゼン、を、植爺はひょっとしたら「カッコイイ」と思って書いているのかもしれない。逆ギレして罪なき者を罵り嬲る、それが植爺的には「うっとりするほどカッコイイ、ファンサービス場面!」と思っているのかもしれない。
だから同じことをするアントワネットも「ヒロインの魅力爆発! 誰もがアントワネットに同情して涙を流す最高場面!」と思って書いているのかもしれない。
わたしには理解出来ないけれど、そうでも思わないと、ほんっとーに、わけわかんない。
フェルゼンやアントワネットが「キチ〇イ」にしか見えない台詞や場面を、わざわざ入れるのは。
上記のアントワネットの長台詞の気持ち悪さ。
「女」「女」と5回も連呼。
単純に、文章として、おかしい。無駄な説明台詞。もっと短く簡潔に、この台詞で言いたかったことをまとめることは出来る。同じ内容を言うのでも、「女」を5回も言う必要はまったくない。
そして、言っている内容もおかしい。
「私と同じ女だから、信頼していた」……バカ? あ、自分でバカだって言ってるか。
アントワネットがオスカルを信頼して好意を持っていたのは、オスカルだからではなく、「女」だからだそうだ。「女」であれば、誰でもよかったらしい。
そんな人間関係しか築けない、と、ものすげー情けないことを「わたしって可哀想!」と被害者意識ゆんゆんでがなり立てていく、阿呆で下品な女。
このアントワネットの台詞について、まだ続きますよ。
アントワネットの初登場場面が、「第10場」ってどうなの。
ちなみに1幕は15場までしかないんですが。
突然出てきて別れ話。
まったくもって感情移入出来ない構成。
いらない3つの場面を削って、フェルゼンとアントワネットのラブラブデート場面を描けば良いのに。
いわゆる「小舟」のシーン、わたしは嫌いだけど。仮面舞踏会でフェルゼンがみっともなく立ち往生していたとか、そこでやさしく声を掛けたからアントワネットに恋したとか、原作レイプのひどい台詞オンパレードだもん。
原作のフェルゼンはモテモテの貴公子で、舞踏会で誰にも相手にされず恥を掻いているよーな情けない男じゃないもん。アントワネットもそんな「劣った姿」に「同病相憐れむ」で声を掛けるわけじゃないもん。
目が合った瞬間の、運命の恋なんだもん。
だからそんなひどい場面をやって欲しいわけじゃないけど、そんなひどい場面すらないのは、もっとひどい。
まあ、それはともかく。
許せないのは、フェルゼン絡みではなく、オスカルに対して。
第1幕
第10場 宮殿の庭園B
アントワネット「オスカル! あなたを女だと思い込んでいた私が間違っていたようね…あなたは十一才の時から近衛兵としていつも私を守ってくれた。そして、誰よりも女の私の気持ちを理解してくれると信じていた…それはあなたも私と同じ女だからと心を許していたのに‥あなたはいつの間にか女の気持ちを失ってしまったのね。私は馬鹿だった。その軍服の下には私と同じ女の血が流れていると思い込んでいたなんて…」
ひとつの台詞の中で、「女」って5回も言ってますよ?!
えーと。
素朴な疑問なんだが、アントワネットがこの台詞をオスカルに言う意味、メリットは、どこにあるんだ?
どう考えても、間違っているのはアントワネットだ。
フェルゼンに振られたことが悲しくて、手近にいたオスカルに逆ギレして罵っているだけ。オスカルは(言葉は足りないと思うが)悪くない。
絶対に逆らえない立場の罪なき人間を、一方的に罵り嬲り、被害者ヅラして去って行く、って、こんな言動取るキャラクタに、いったい誰が好意や同情を抱くんだ?
主人公の相手役、この作品のヒロインを徹底的に貶めて、誰が得をする? なんの意味がある?
メルシー伯爵に暴言を吐くフェルゼン、を、植爺はひょっとしたら「カッコイイ」と思って書いているのかもしれない。逆ギレして罪なき者を罵り嬲る、それが植爺的には「うっとりするほどカッコイイ、ファンサービス場面!」と思っているのかもしれない。
だから同じことをするアントワネットも「ヒロインの魅力爆発! 誰もがアントワネットに同情して涙を流す最高場面!」と思って書いているのかもしれない。
わたしには理解出来ないけれど、そうでも思わないと、ほんっとーに、わけわかんない。
フェルゼンやアントワネットが「キチ〇イ」にしか見えない台詞や場面を、わざわざ入れるのは。
上記のアントワネットの長台詞の気持ち悪さ。
「女」「女」と5回も連呼。
単純に、文章として、おかしい。無駄な説明台詞。もっと短く簡潔に、この台詞で言いたかったことをまとめることは出来る。同じ内容を言うのでも、「女」を5回も言う必要はまったくない。
そして、言っている内容もおかしい。
「私と同じ女だから、信頼していた」……バカ? あ、自分でバカだって言ってるか。
アントワネットがオスカルを信頼して好意を持っていたのは、オスカルだからではなく、「女」だからだそうだ。「女」であれば、誰でもよかったらしい。
そんな人間関係しか築けない、と、ものすげー情けないことを「わたしって可哀想!」と被害者意識ゆんゆんでがなり立てていく、阿呆で下品な女。
このアントワネットの台詞について、まだ続きますよ。
公式テルキタ。@『風と共に去りぬ』主な配役
2013年6月28日 タカラヅカ 友人に、腐女子にあこがれている子がいた。
なんでかわからんが「腐女子ってうらやましい、わたしも腐女子になりたい!」と思うらしい。
で、一生懸命「腐女子」な話をしようとする。
「死が攻で、ロミオが受なのね。死が後ろからロミオを抱きしめたりしてるもん! そうでしょ?」
とか、
「トートとルドルフはキスするからホモよね!」
とか、作品から腐った部分を読み解こうとするんだけど。
わたしとは話がまったく合わなくて。
別にロミオ受ぢゃないし。つか、ベン様総受? 相手、ティボかマーさんかで悩むわ。やっぱ大公様かしら。
とか、
ルドルフ狙ってるのはエルマーよねええ。なにしろひざまずいてプロポーズよ、プロポーズの言葉は「王冠をアナタに」で決まりよねええ。
とか。
わたしの萌える部分とかすりもしない。
や、上記の会話・固有名詞はただの例題、フィクションですよ念のため。上から雪組版、月組初演版とか、言いませんよ、ええ(笑)。
萌えは人間の数だけあるから、他人と萌えツボがズレてたって当然だしそれを否定したりしないけど、その友人は別に萌えるから言っているのではなく、「腐女子になりたい」から、それっぽいことを一生懸命考えて言っているだけ。
わたしの萌えが腐女子のスタンダードだとは思ってないし、ヲタ趣味も多岐多様な今、わたしと萌えツボが違っていたって当たり前だと思うけど。
でもやっぱ「努力して」それっぽいことを言われると、かゆいところに手が届かなくて、むずむずする。
えー、ナニが言いたいかというと。
腐女子ではない人が「腐女子ってこうよね」と知識だけでカップリングをすると、大はずしする、ってことです。
上記の例で言うと、「男同士で抱擁するからホモ」「男同士でキスするからホモ」とか、んな目に見えるだけのどーでもいい部分に食いつかれてもなー。
や、美しい演出として受け取りはしますが、男同士でナニかしさえすればカップリングして萌えるかというと、んなこたぁーない。
つまりだ。
劇団のおじさんたちは、テルキタを誤解している。
テルキタは萌えなカップリングだ。
中の人たちがどうこうってことではなく、舞台人、2.5次元のタカラジェンヌという存在に置いて。
しかーしっ。
ヲヅキを女にしてどうするっ。
美青年かなめ様に、美丈夫ヲヅキを絡めてこそのテルキタ萌えだっつーの。
かなめくんとヲヅキを絡めさえすればなんでもいい、わけぢゃないっ。
美丈夫ヲヅキに美女かなめが絡むならまだしも……ヲヅキを女にしてどうする……『Amour de 99!!』で学習しなかったのか。
なんか、ツボのない人がてきとーに考えた配役に思えるの……。
ヲヅキがかなめくんの愛人役……。せっかく「公式」のテルキタなのに、わくわくしない……ヲヅキがケバいおばさん役……。
同じ愛人でも『ニジンスキー』なら楽しいのに。何故にこうなった。
腐女子脳でテルキタ『風共』配役なら、バトラー@かなめ、アシュレ@ヲヅキですな。
なにしろわたし、バトラー@トド様、アシュレ@ワタさんで萌えましたからな。バト×アシュ歓迎ですよ、ええ!! どんとこい!!
なのに、ヲヅキがベル……。
ベルと言えば、むしろメラニーだろ……。メラニー×ベルだよね……檀れい様のメラニーはそりゃあもお美しくて、攻キャラでしたわ……。
ヲヅキの役が残念、てのを置いておいても。
この『風共』の主な配役、微妙……。
役替わりは『風共』のお約束なので当然だと思っていますが、わたし個人的にはあまりわくわくしません。
トップ娘役がメラニーってどうなの。や、スカIIよりいい役だと思うけど。ぶっちゃけスカIIっていなくてもいいキャラだもん。出番も少ないし。
トップ娘役はなんつっても、スカーレットをやるべきだと思う。役替わりになるのは仕方ないとしても。
だって、「トップ娘役」なんだもん。「タカラヅカ」なんだもん。過去の例がどうだとかじゃなく、現在のタカラヅカはトップスターを頂点としたピラミッドになってるんだもん。スカーレットは、オスカルみたいに「男役のスキル」が必要な役じゃないもん。ふつーに役替わりのひとつはトップ娘役がやればいい。
もちろん、男役スターがスカーレットを演じる、のはお約束。それを否定する気は毛頭ない。『風共』が特別な演目とされてきたのは、男役スターがスカーレットを演じる、というイベント感があったことも大きいだろう。
でもさー。だとしても、もっと効果的にできないのかなあ。
まぁくんもカイくんも女役経験者。「また?」であって、目新しくない。
男役スターの女役ってのはヅカ的「切り札」で、何度も安売りしてたらその都度価値が下がるのに。
せっかくお祭り演目なのになあ。
わたしはキャラクタとしてアシュレが好きなので(ヘタレ男スキー)、ともちんとまぁくんのアシュレを楽しみに観に行きますが。
雪組も役替わりだーのヒロインが男役だーの、ありなんだろうか……と、そっちを不安に思ったりもする(笑)。←笑いごとぢゃない
なんでかわからんが「腐女子ってうらやましい、わたしも腐女子になりたい!」と思うらしい。
で、一生懸命「腐女子」な話をしようとする。
「死が攻で、ロミオが受なのね。死が後ろからロミオを抱きしめたりしてるもん! そうでしょ?」
とか、
「トートとルドルフはキスするからホモよね!」
とか、作品から腐った部分を読み解こうとするんだけど。
わたしとは話がまったく合わなくて。
別にロミオ受ぢゃないし。つか、ベン様総受? 相手、ティボかマーさんかで悩むわ。やっぱ大公様かしら。
とか、
ルドルフ狙ってるのはエルマーよねええ。なにしろひざまずいてプロポーズよ、プロポーズの言葉は「王冠をアナタに」で決まりよねええ。
とか。
わたしの萌える部分とかすりもしない。
や、上記の会話・固有名詞はただの例題、フィクションですよ念のため。上から雪組版、月組初演版とか、言いませんよ、ええ(笑)。
萌えは人間の数だけあるから、他人と萌えツボがズレてたって当然だしそれを否定したりしないけど、その友人は別に萌えるから言っているのではなく、「腐女子になりたい」から、それっぽいことを一生懸命考えて言っているだけ。
わたしの萌えが腐女子のスタンダードだとは思ってないし、ヲタ趣味も多岐多様な今、わたしと萌えツボが違っていたって当たり前だと思うけど。
でもやっぱ「努力して」それっぽいことを言われると、かゆいところに手が届かなくて、むずむずする。
えー、ナニが言いたいかというと。
腐女子ではない人が「腐女子ってこうよね」と知識だけでカップリングをすると、大はずしする、ってことです。
上記の例で言うと、「男同士で抱擁するからホモ」「男同士でキスするからホモ」とか、んな目に見えるだけのどーでもいい部分に食いつかれてもなー。
や、美しい演出として受け取りはしますが、男同士でナニかしさえすればカップリングして萌えるかというと、んなこたぁーない。
つまりだ。
劇団のおじさんたちは、テルキタを誤解している。
テルキタは萌えなカップリングだ。
中の人たちがどうこうってことではなく、舞台人、2.5次元のタカラジェンヌという存在に置いて。
しかーしっ。
ヲヅキを女にしてどうするっ。
美青年かなめ様に、美丈夫ヲヅキを絡めてこそのテルキタ萌えだっつーの。
かなめくんとヲヅキを絡めさえすればなんでもいい、わけぢゃないっ。
美丈夫ヲヅキに美女かなめが絡むならまだしも……ヲヅキを女にしてどうする……『Amour de 99!!』で学習しなかったのか。
なんか、ツボのない人がてきとーに考えた配役に思えるの……。
2013/06/28
宙組公演『風と共に去りぬ』 主な配役と役替わりについて
宙組公演『風と共に去りぬ』(宝塚大劇場:9月27日~11月4日、東京宝塚劇場:11月22日~12月23日)の主な配役と役替わり日程が決定いたしましたので、お知らせいたします。
◆主な配役
Aパターン
バトラー 凰稀かなめ
スカーレット 朝夏まなと
アシュレ 悠未ひろ
メラニー 実咲凜音
ベル 緒月遠麻
ルネ 七海ひろき
スカーレットII 純矢ちとせ
メイベル 伶美うらら
Bパターン
スカーレット 七海ひろき
アシュレ 朝夏まなと
メラニー 実咲凜音
ベル 緒月遠麻
ルネ 悠未ひろ
スカーレットII 伶美うらら
メイベル 純矢ちとせ
ヲヅキがかなめくんの愛人役……。せっかく「公式」のテルキタなのに、わくわくしない……ヲヅキがケバいおばさん役……。
同じ愛人でも『ニジンスキー』なら楽しいのに。何故にこうなった。
腐女子脳でテルキタ『風共』配役なら、バトラー@かなめ、アシュレ@ヲヅキですな。
なにしろわたし、バトラー@トド様、アシュレ@ワタさんで萌えましたからな。バト×アシュ歓迎ですよ、ええ!! どんとこい!!
なのに、ヲヅキがベル……。
ベルと言えば、むしろメラニーだろ……。メラニー×ベルだよね……檀れい様のメラニーはそりゃあもお美しくて、攻キャラでしたわ……。
ヲヅキの役が残念、てのを置いておいても。
この『風共』の主な配役、微妙……。
役替わりは『風共』のお約束なので当然だと思っていますが、わたし個人的にはあまりわくわくしません。
トップ娘役がメラニーってどうなの。や、スカIIよりいい役だと思うけど。ぶっちゃけスカIIっていなくてもいいキャラだもん。出番も少ないし。
トップ娘役はなんつっても、スカーレットをやるべきだと思う。役替わりになるのは仕方ないとしても。
だって、「トップ娘役」なんだもん。「タカラヅカ」なんだもん。過去の例がどうだとかじゃなく、現在のタカラヅカはトップスターを頂点としたピラミッドになってるんだもん。スカーレットは、オスカルみたいに「男役のスキル」が必要な役じゃないもん。ふつーに役替わりのひとつはトップ娘役がやればいい。
もちろん、男役スターがスカーレットを演じる、のはお約束。それを否定する気は毛頭ない。『風共』が特別な演目とされてきたのは、男役スターがスカーレットを演じる、というイベント感があったことも大きいだろう。
でもさー。だとしても、もっと効果的にできないのかなあ。
まぁくんもカイくんも女役経験者。「また?」であって、目新しくない。
男役スターの女役ってのはヅカ的「切り札」で、何度も安売りしてたらその都度価値が下がるのに。
せっかくお祭り演目なのになあ。
わたしはキャラクタとしてアシュレが好きなので(ヘタレ男スキー)、ともちんとまぁくんのアシュレを楽しみに観に行きますが。
雪組も役替わりだーのヒロインが男役だーの、ありなんだろうか……と、そっちを不安に思ったりもする(笑)。←笑いごとぢゃない
「嫌い」物語・10。~無能+怠惰な王様~@ベルサイユのばら-フェルゼン編-
2013年6月27日 タカラヅカ 『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
重ねて言うが、ジェンヌさん個人のことじゃない。植爺の描くキャラクタのこと。
今回のルイ16世はひどい。
今まで観たどの『ベルばら』より酷い。
わたしが不要だと思う3大場面とは、「第5場 王家の紋章」=おっさん3人が無意味な長話、「第7場 フェルゼンの屋敷」=メルシー伯爵のお説教、そして「第9場 宮殿の庭園A」=王様のお散歩。
ぜーんぶ専科さんの場面。
専科さんが悪いのではなく、専科さんの芸をそんな風にしか使えない植爺が悪い。
この3つの場面は、等しく「不要だ」と思っている。
そして今回は、王様のお散歩場面の話。ええ、ほんと不要。
無意味な説明台詞をただ垂れ流し続ける。しかも、話の内容に整合性がない。
無意味なのは、ここで展開される情報に、なんの生産性もないためだ。
大河ロマンを2時間にまとめなくてはならないのに、本筋にまったく関係ない話をえんえんやっている。まさか無意味な情報をこれだけ時間を掛けて展開するとはふつー思わないから、初見の観客は一生懸命咀嚼しようとして、混乱する。
さらに、キャラクタの人格を破壊している。ルイ16世がどれだけ無能な人物であるかを、またしてもえんえん表現しているんだ。
画面にいるのはルイ16世とマッシュルームヘアの子どもだけ。タカラヅカ的に美しい場面でもない。
話の内容に「意味がある」か「簡潔でわかりやすい」か、あるいは、まーーったく意味もなくナニ言ってんのかすらわからない外国語を流しているのであったとしても、最低限「美しい」なら許されるが、この3つの要員をなにひとつ満たしていない。
ストーリーに無関係のエピソードをわざわざ入れる場合、「ファンサービス」ならあり得る。『戦国BASARA』で伊達政宗@みーちゃんが登場したり、上杉謙信@みりおくんとかすが@べーちゃんで薔薇のシーンをやったり。
本筋と関係なくても「観客を喜ばせるため」ならアリなんだ。
でも、ルイ16世と子役は……誰得?
ファンサービスですらない。植爺の自己満足。
しつこいよーだが、演じている生徒さんの問題ではない。ルイ16世の中の人の味のある芝居や、子役たちのかわいらしさを否定するわけじゃない。
この場面があること自体、間違っている。それだけだ。
しかもこの「無意味」な場面……2006年の『フェルゼンとアントワネット編』より長くなっているんだ。
ええ、ここでも百害あって一利なしの加筆をされているの。
第1幕
第9場 宮殿の庭園A
ル ネ「陛下、あなたさまは国王でございましょう。それならば何故そのしきたりを変えようとはなさらないのです」
ルイ16世「私も以前はそう思った。お爺さまが亡くなって私が国王になった時、私は色々願った。しかし夜のお茶を飲むしきたりを変えるだけでも、この宮殿の中で二十何回も会議が開かれるのだ。ああ、それを思っただけでぞっとするではないか」
これが、加筆された部分。
ただでさえ、困惑する侍童を引きずり回す迷惑なおっさん。権力を笠に、逆らえない子どもを自由にしている。
で、やっていることは夜のお散歩というショボさ。
「王宮のしきたりや規則に縛られてガンジガラメ」であるという哀れさより、そんなことしか出来ない、こんな現状に甘んじている「無能さ」が表されている。
しかも、子どもを相手に「私はどうも王妃が苦手なのだ」……上司にそんな打ち明け話をされて、どう返せと?? わたしが侍童の立場なら心底悲鳴をあげてるわ、「もう嫌だ、転職したいっ!」。
それだけでも十分最悪なのに、加筆部分と来たら。
無能さに加え、怠惰さまで説明するの?!
たかだか20数回の会議で改善出来ることをせずに、20年毎日愚痴り続ける。
改善する方法を知っていながら、結局ソレをしなかった。つまり、する必要がない、その程度のことだった。そして、自分ではナニも努力せず、その程度のショボいことを被害者ぶって愚痴る……。
ほんとに加筆するたび、酷いことになっている。加筆した箇所はすべて、キャラクタの人格を貶め、破壊している。
植爺はナニがしたいの。
あと、2006年版にはあった「狩猟と錠前作りの細工」という趣味のくだりがカットされていた。
無趣味で「夜の散歩」以外ナニもない男、ってこと? 哀れさよりも、情けなさが倍率ドン。
今回のルイ16世は人格最悪だよー。勘弁してよー。
なのに植爺は「ルイ16世は人格者」というつもりで描いている。その世界観のよじれっぷりが心底キモチ悪い。
ルイ16世の印象が悪くなるだけの、本筋と無関係の場面。美しくも楽しくもなく、有益な情報もナニもないのだから、この場面は無用だ。全否定。
重ねて言うが、ジェンヌさん個人のことじゃない。植爺の描くキャラクタのこと。
今回のルイ16世はひどい。
今まで観たどの『ベルばら』より酷い。
わたしが不要だと思う3大場面とは、「第5場 王家の紋章」=おっさん3人が無意味な長話、「第7場 フェルゼンの屋敷」=メルシー伯爵のお説教、そして「第9場 宮殿の庭園A」=王様のお散歩。
ぜーんぶ専科さんの場面。
専科さんが悪いのではなく、専科さんの芸をそんな風にしか使えない植爺が悪い。
この3つの場面は、等しく「不要だ」と思っている。
そして今回は、王様のお散歩場面の話。ええ、ほんと不要。
無意味な説明台詞をただ垂れ流し続ける。しかも、話の内容に整合性がない。
無意味なのは、ここで展開される情報に、なんの生産性もないためだ。
大河ロマンを2時間にまとめなくてはならないのに、本筋にまったく関係ない話をえんえんやっている。まさか無意味な情報をこれだけ時間を掛けて展開するとはふつー思わないから、初見の観客は一生懸命咀嚼しようとして、混乱する。
さらに、キャラクタの人格を破壊している。ルイ16世がどれだけ無能な人物であるかを、またしてもえんえん表現しているんだ。
画面にいるのはルイ16世とマッシュルームヘアの子どもだけ。タカラヅカ的に美しい場面でもない。
話の内容に「意味がある」か「簡潔でわかりやすい」か、あるいは、まーーったく意味もなくナニ言ってんのかすらわからない外国語を流しているのであったとしても、最低限「美しい」なら許されるが、この3つの要員をなにひとつ満たしていない。
ストーリーに無関係のエピソードをわざわざ入れる場合、「ファンサービス」ならあり得る。『戦国BASARA』で伊達政宗@みーちゃんが登場したり、上杉謙信@みりおくんとかすが@べーちゃんで薔薇のシーンをやったり。
本筋と関係なくても「観客を喜ばせるため」ならアリなんだ。
でも、ルイ16世と子役は……誰得?
ファンサービスですらない。植爺の自己満足。
しつこいよーだが、演じている生徒さんの問題ではない。ルイ16世の中の人の味のある芝居や、子役たちのかわいらしさを否定するわけじゃない。
この場面があること自体、間違っている。それだけだ。
しかもこの「無意味」な場面……2006年の『フェルゼンとアントワネット編』より長くなっているんだ。
ええ、ここでも百害あって一利なしの加筆をされているの。
第1幕
第9場 宮殿の庭園A
ル ネ「陛下、あなたさまは国王でございましょう。それならば何故そのしきたりを変えようとはなさらないのです」
ルイ16世「私も以前はそう思った。お爺さまが亡くなって私が国王になった時、私は色々願った。しかし夜のお茶を飲むしきたりを変えるだけでも、この宮殿の中で二十何回も会議が開かれるのだ。ああ、それを思っただけでぞっとするではないか」
これが、加筆された部分。
ただでさえ、困惑する侍童を引きずり回す迷惑なおっさん。権力を笠に、逆らえない子どもを自由にしている。
で、やっていることは夜のお散歩というショボさ。
「王宮のしきたりや規則に縛られてガンジガラメ」であるという哀れさより、そんなことしか出来ない、こんな現状に甘んじている「無能さ」が表されている。
しかも、子どもを相手に「私はどうも王妃が苦手なのだ」……上司にそんな打ち明け話をされて、どう返せと?? わたしが侍童の立場なら心底悲鳴をあげてるわ、「もう嫌だ、転職したいっ!」。
それだけでも十分最悪なのに、加筆部分と来たら。
無能さに加え、怠惰さまで説明するの?!
たかだか20数回の会議で改善出来ることをせずに、20年毎日愚痴り続ける。
改善する方法を知っていながら、結局ソレをしなかった。つまり、する必要がない、その程度のことだった。そして、自分ではナニも努力せず、その程度のショボいことを被害者ぶって愚痴る……。
ほんとに加筆するたび、酷いことになっている。加筆した箇所はすべて、キャラクタの人格を貶め、破壊している。
植爺はナニがしたいの。
あと、2006年版にはあった「狩猟と錠前作りの細工」という趣味のくだりがカットされていた。
無趣味で「夜の散歩」以外ナニもない男、ってこと? 哀れさよりも、情けなさが倍率ドン。
今回のルイ16世は人格最悪だよー。勘弁してよー。
なのに植爺は「ルイ16世は人格者」というつもりで描いている。その世界観のよじれっぷりが心底キモチ悪い。
ルイ16世の印象が悪くなるだけの、本筋と無関係の場面。美しくも楽しくもなく、有益な情報もナニもないのだから、この場面は無用だ。全否定。
『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』という作品・脚本の嫌いなところだけを記すシリーズです、はい。演じているジェンヌには無関係、植爺だけの話。
むしろジェンヌさんはすごいのですよ。こんだけ嫌い嫌い言ってるのに、それでも観劇出来るのはジェンヌさんが力業で、説得力を持たせて演じてくれているから。
見れば見るほどジェンヌさんを好きになる。
……けど、植爺『ベルばら』もそこのキャラクタも嫌い(笑)。
植爺『ベルばら』でキャラクタ破壊について言及しても仕方ないくらい、すべてのキャラクタが破壊されているけれど。
ナニ気に酷いのはジャルジェ夫人だと思う。
今回のジャルジェ夫人、ひどいね! ありえないね!
原作のジャルジェ夫人は、穏やかで控えめ、たおやかな小さな花のような女性、というイメージ。
決して出しゃばらず、自分の意見を言わず、夫や子どもに従っている。
いわゆる「貴族の強い奥方」ではない。
社交界でぶいぶい言わせるようなタイプじゃない。
きっと芯は強いんだろうけれど、一見地味で目立たない、母性的でやさしく聡明な女性なんだろう。真の「お姫様育ち」って、こういうことをいうんだろうな、ってな。
なのに植爺『ベルばら』のジャルジェ夫人と来たら。
いつも言いたいことをずけずけ言う「大阪のおばちゃん」みたいな人。
こんだけいつでもどこでも前面に出てきて言いたいことを言う人なら、そもそもオスカルを男として育てることを承知しなかったはず。
原作のひかえめでやさしい「理想の女性」「理想の母」像を、見事にぶち壊してくれて、毎回不快だったんだが、今回はいつもにも増して、ひどい。
ジャルジェ将軍が登場しないため、その役割も兼ねている。
おかげで「女将軍」のような押し出しと、貫禄。
どこの女帝陛下だよ……。
みとさんがまた、威厳たっぷりに演じてるからなあ……。原作は丸無視なんだろうなあ。
パリの情勢に興味を持ったり、政治だの革命だのに興味を持つ女性じゃないだろうに、ベルナール相手に政治談義を持ちかけるときたもんだ。
オスカルが女なのに男として育ったことで、広い視野を持てた……のは、この時代の女性たちが政治や国家に興味を持たない、口を出さない、ことも関係していたんじゃないの? 宮廷の権力争いとか、そーゆーレベルのことじゃなく。
なのにジャルジェ家では夫人も長女(結婚して子どももいる)もふつーに、政治や国家を語るんだったら、オスカルが男として生きる意味が薄いじゃん。
オスカルも好きなだけドレスを着てお化粧して、好きな男と恋愛して結婚して、子どもを産んで、さらに政治でも国家でも、身分制度のことでも、考えたり論じたりすればいいんだよ。
わたしはどの『ベルばら』も、ジャルジェ家の人々の場面が嫌い。
だから、出てこなくてかまわないのに、といつも思う。
今回はまだ、大嫌いなマロングラッセが出ていないだけマシ。
植爺『ベルばら』でいちばん嫌いなキャラクタは、まちがいなくマロングラッセ(笑)。
第1幕
第8場 カーテン
ジャルジェ家に、ロザリーとベルナールがやってくる。
ここでもおかしいのは無意味な説明台詞の応酬。
オルタンスのはしたない台詞「ロザリー、赤ちゃんは?」も、「ベルナールは今、最も忙しい新聞記者なんですから!」という説明台詞を言いたいがためでしょ?
しかし、「忙しくて子どもを作る時間がない」って……ナニその下品なやりとり……。
で、またしてもこの舞台には登場しない固有名詞の羅列。
説明台詞が長いだけで、観客にはちっとも状況が伝わらない。
パリの状況を固有名詞羅列して説明するよりも、お前ら、誰だよ?!ってことの方が重要でしょ?
ロザリーとベルナール。
『フェルゼン編』では、ラスト場面に関わってくる大切な役だ。
彼らがどういう人たちなのかをきちんと説明しなきゃ、ラストがぽかーんになるでしょうに。
まず、彼らが「平民」であること。
植爺に言わせるとふたりとも「貴族」なんだけどね。「貴族」に対してナニかしらこだわりか劣等感があるらしい植爺は、ロザリーとベルナールが「半分貴族の血を引いている」ことが最重要であると、油断すると語り出す。
設定上はそうなっているけれど、この短い上演時間では不要な情報だから、ここではきっぱりと「平民」とした方がいい。
平民で、最初貴族を憎んでいたが、オスカルと出会うことによって考え直し、友人となった相手だと。オスカルのことは好きだけど、貴族は嫌い、貴族におもねる気はない。
革命時にはもちろん平民側、ベルナールは革命の闘士として活躍。ロザリーはその妻として内助の功。オスカルはロザリーの初恋のひと。
たぶん今のままの描き方だと、原作知らない人はぽかーんだよなあ。
ベルナールたちは登場するたびに立ち位置が違っていて。
ただ、今回の
ベルナール「彼らは自由、平等、友愛。この三つを旗頭に立ち上がった―」
オスカル「自由、平等、友愛…三色旗か、悪くないな」
という流れは、オスカルの変心を表すのにいい感じだと思う。
ここできちんと語らせ、「第6場 ベルサイユ宮殿」でジェローデルの前で突然愚痴らせるの、やめればいいのに。
むしろジェンヌさんはすごいのですよ。こんだけ嫌い嫌い言ってるのに、それでも観劇出来るのはジェンヌさんが力業で、説得力を持たせて演じてくれているから。
見れば見るほどジェンヌさんを好きになる。
……けど、植爺『ベルばら』もそこのキャラクタも嫌い(笑)。
植爺『ベルばら』でキャラクタ破壊について言及しても仕方ないくらい、すべてのキャラクタが破壊されているけれど。
ナニ気に酷いのはジャルジェ夫人だと思う。
今回のジャルジェ夫人、ひどいね! ありえないね!
原作のジャルジェ夫人は、穏やかで控えめ、たおやかな小さな花のような女性、というイメージ。
決して出しゃばらず、自分の意見を言わず、夫や子どもに従っている。
いわゆる「貴族の強い奥方」ではない。
社交界でぶいぶい言わせるようなタイプじゃない。
きっと芯は強いんだろうけれど、一見地味で目立たない、母性的でやさしく聡明な女性なんだろう。真の「お姫様育ち」って、こういうことをいうんだろうな、ってな。
なのに植爺『ベルばら』のジャルジェ夫人と来たら。
いつも言いたいことをずけずけ言う「大阪のおばちゃん」みたいな人。
こんだけいつでもどこでも前面に出てきて言いたいことを言う人なら、そもそもオスカルを男として育てることを承知しなかったはず。
原作のひかえめでやさしい「理想の女性」「理想の母」像を、見事にぶち壊してくれて、毎回不快だったんだが、今回はいつもにも増して、ひどい。
ジャルジェ将軍が登場しないため、その役割も兼ねている。
おかげで「女将軍」のような押し出しと、貫禄。
どこの女帝陛下だよ……。
みとさんがまた、威厳たっぷりに演じてるからなあ……。原作は丸無視なんだろうなあ。
パリの情勢に興味を持ったり、政治だの革命だのに興味を持つ女性じゃないだろうに、ベルナール相手に政治談義を持ちかけるときたもんだ。
オスカルが女なのに男として育ったことで、広い視野を持てた……のは、この時代の女性たちが政治や国家に興味を持たない、口を出さない、ことも関係していたんじゃないの? 宮廷の権力争いとか、そーゆーレベルのことじゃなく。
なのにジャルジェ家では夫人も長女(結婚して子どももいる)もふつーに、政治や国家を語るんだったら、オスカルが男として生きる意味が薄いじゃん。
オスカルも好きなだけドレスを着てお化粧して、好きな男と恋愛して結婚して、子どもを産んで、さらに政治でも国家でも、身分制度のことでも、考えたり論じたりすればいいんだよ。
わたしはどの『ベルばら』も、ジャルジェ家の人々の場面が嫌い。
だから、出てこなくてかまわないのに、といつも思う。
今回はまだ、大嫌いなマロングラッセが出ていないだけマシ。
植爺『ベルばら』でいちばん嫌いなキャラクタは、まちがいなくマロングラッセ(笑)。
第1幕
第8場 カーテン
ジャルジェ家に、ロザリーとベルナールがやってくる。
ここでもおかしいのは無意味な説明台詞の応酬。
オルタンスのはしたない台詞「ロザリー、赤ちゃんは?」も、「ベルナールは今、最も忙しい新聞記者なんですから!」という説明台詞を言いたいがためでしょ?
しかし、「忙しくて子どもを作る時間がない」って……ナニその下品なやりとり……。
で、またしてもこの舞台には登場しない固有名詞の羅列。
説明台詞が長いだけで、観客にはちっとも状況が伝わらない。
パリの状況を固有名詞羅列して説明するよりも、お前ら、誰だよ?!ってことの方が重要でしょ?
ロザリーとベルナール。
『フェルゼン編』では、ラスト場面に関わってくる大切な役だ。
彼らがどういう人たちなのかをきちんと説明しなきゃ、ラストがぽかーんになるでしょうに。
まず、彼らが「平民」であること。
植爺に言わせるとふたりとも「貴族」なんだけどね。「貴族」に対してナニかしらこだわりか劣等感があるらしい植爺は、ロザリーとベルナールが「半分貴族の血を引いている」ことが最重要であると、油断すると語り出す。
設定上はそうなっているけれど、この短い上演時間では不要な情報だから、ここではきっぱりと「平民」とした方がいい。
平民で、最初貴族を憎んでいたが、オスカルと出会うことによって考え直し、友人となった相手だと。オスカルのことは好きだけど、貴族は嫌い、貴族におもねる気はない。
革命時にはもちろん平民側、ベルナールは革命の闘士として活躍。ロザリーはその妻として内助の功。オスカルはロザリーの初恋のひと。
たぶん今のままの描き方だと、原作知らない人はぽかーんだよなあ。
ベルナールたちは登場するたびに立ち位置が違っていて。
ただ、今回の
ベルナール「彼らは自由、平等、友愛。この三つを旗頭に立ち上がった―」
オスカル「自由、平等、友愛…三色旗か、悪くないな」
という流れは、オスカルの変心を表すのにいい感じだと思う。
ここできちんと語らせ、「第6場 ベルサイユ宮殿」でジェローデルの前で突然愚痴らせるの、やめればいいのに。