わたしはもともと、ヴィットリオ・Fというキャラクタが好きなんだと思う。

 本公演を見ている分には、ゆみこちゃんが演じているから好きなんだと思っていた。
 ゆみこちゃんのハートフルでちとウエットな芸風が、わたしにはとても心地よいの。彼の温度が、わたしの好みに合っているのね。
 繊細な人が好き。実力のある人が好き。真面目な人が好き。
 地味だったり優等生だったりと、マイナス面にもなってしまうよーな堅実さも好き。

 愛している人が好き。

 他人を愛して、それを隠さない人が好き。

 まぶしい光そのものというより、少し翳った人が好き。
 真ん中よりも、ちょっと横に立つ人が好き。
 毒を持っている人が好き。弱さを持っている人が好き。

 ゆみこちゃんの演じる役が好き。
 わたしの好みを、いつも見事に突いてくるから。

 しかし。

 花組新人公演『落陽のパレルモ』を見て知った。

 わたしは、ヴィットリオ・Fというキャラクタが好きなんだ。

 ゆみこでなくても。

 ヴィットリオ・Fくんは、作者のミスでちと痛いキャラになっている。
 脚本として目に見える部分だけを演じたら、下手をするとものすげーバカで現実が見えていないガキンチョになる。
 女の子を妊娠させて、その後始末を親に頼みに来た考えなしのボンボン、ぐらいには最悪に見える可能性だってある。
 好きな女の子にかっこつけることや、「好きだから結婚!」とまくしたてることぐらい、誰だってできるんだって。それって、自分が気持ちいいから言ってるだけで、現実にはなんにもわかってないでしょ、てなふーな。

 持ち味が「無神経系」の人が演じたら、最低最悪キャラになるかも。
 持ち味が「白痴系」の人が演じたら、ものすげーぶっとんだキャラになるかも。

 そんな危険なキャラクタ。
 それをハートフルに品良く演じていたゆみこってすげえ。と、思ってたんだけど。

 なるほど、わたし、両刃の剣だからこそ、コワレ気味だからこそ、ヴィットリオ・Fくん好きみたい(笑)。

 んでもって。
 まぁくん演じる新公ヴィットリオ・F、いろいろやばくなかった?(笑)

 歌がやばかったことは、言及すまい。
 幕開きに登場していきなり芝居をする、狂言回しの意味もあるキャラクタは相当プレッシャーだったんだろう。
 キャリアのない子には、登場するだけでそこに「別空間」を作る作業は難しいだろう。
 最初のうちは緊張が伝わってきて、手に汗握った。

 なんというか、今回まぁくん、演技してた?
 リュドヴィークという「大人」「影のある人物」を演じた前回は、つたないながらも必死に「作って」いたのが見えた。演技しようとがんばっているのが見えた。
 しかし今回は。

 えーと。
 あのヴィットリオ・Fって、まぁくんまんまなんじゃあ?

 もちろんわたしは、朝夏まなと氏がどんな人なのかは知りませんが。
 今まで見た中で、いちばんまぁくんまんまに思えたのね。

 なんつーかね。
 あまりに、幼くて。

 貴族のおぼっちゃまというより、ひたすら「幼く」見えた。
 育ちがいいから世間知らずなんじゃなく、たんにまだコドモだからなにもわかっていないというか。
 どこか自信なさげにそこに立ち、ときおり余裕ぶって見せたりするのがまた、さらに足元のおぼつかなさを表しているというか。

 相手役のジュディッタ@きほちゃんが余裕のヒロイン芝居をしているだけに、「姐さん女房? つか、いくつ離れてるんだ?」って感じが強かったというか。
 この女に、この男じゃ役者不足もいいとこだ、ってゆーか。

 おいおい、このたよりないにーちゃんは、手探りで台詞言いながらこれからどうするつもりなんだ?
 と、はらはらと見守っていたんだ。

 たどたどしい緊張が解けて、物語が動き出すのは後半になってから。

 前回の新公でも感じたけど、まぁくんはほんとに技術は足りてないんだよね。
 それでも前回、ぐわっと芝居の空気が動いた瞬間があった。
 リュドヴィークとイヴェットの「恋」のシーン。向かい合って歌い出すふたりに、場の温度が変わるのがわかった。

 技術でやっているわけじゃない。
 ほんとーに「心」が動いて、それを放出することで空気を動かしているんだな。

 舞台の上で、たくさんの人に見守られながら、「心」を放出できるのは「役者」という才能だろう。
 ふつーならできん。そんな恥ずかしいこと。
 そこに技術をのせてはじめて、「演技」というのかもしれんが。
 最低限「心」がなければ意味がない、とわたしは思う。

 まぁくんは技術が足りていないから、ほんとーの意味で場を動かしてはいないし、温度を変えているわけでもないだろう。彼と波長が合うか、彼を注視していなきゃわからん程度だとは思う。
 心の放出と技術で場をかっさらっていくのはホレ、最近ではトウコがやってのけていたね、『龍星』で。あのレベルに程遠いことは前提として。

 それでもわたし、まぁくんの「心」が放出される瞬間、好きだな。

 まぁくんヴィットリオ・Fは、演技しているのかまぁくんの地まんまなのか、ひどくおさなくて、たよりなかった。
 そのたよりなーいお子様が、ひどく傷ついた目をしたときがあった。

 ヴィットリオ・Fを愛するがゆえに、黙って館を出て行こうとしたジュディッタ。
 そのことを知ったヴィットリオ・Fは、とても傷つく。

 泣き出しそうな、子どもの顔。
 何故叱られるのかわからない、小さな男の子の顔。
 あたたかい母の胸の中から、冷たい水底に叩き落とされ、恐怖より痛みより、事態を理解できなくて呆然としている幼児の顔。

 それは、Fがあまりに幼い、大人になりきれていないたよりなーい少年だったからこそ、より際立っていて。

 見ていて、痛かった。
 うわ、痛っ。
 Fくんが、どれほど傷ついたのかが伝わってきて。

 彼は子どもだ。
 子どもだからこそ、大人以上に傷ついたんだ。

 裏切られたと思った? 理不尽だと思った? 彼女が自分のためにしたことだとわかっていても、それでも彼女に捨てられかけたこと、絶望した?

 子どもだから。

 そんな幼い痛みに貫かれた顔で呆然と彼女を見つめ。
 次に彼は、笑った。

「ひどいな、黙って出て行こうとするなんて」

 本役のゆみこちゃんでも、ものすごーく好きなシーンなんだけど。
 新公のヴィットリオ・Fはあまりに子どもなので、やさしさからこう言っているのはわかるけれど、包容力に欠ける分ただただ痛々しくて。

 うわ、この子可哀想だ。
 そう思った。
 泣きたいときに泣けずに、笑っている。
 泣くよりも、先に彼女を抱きしめたいんだ。失いたくないんだ。

 技術云々より、「心」を感じて、泣けた。

 
 とまあ。
 ヴィットリオ・Fってば、演じる人のキャラクタによっていろいろ変わって、しかもその変わり方がかなりわたし好みなのかもしれないと思ったの。

 たとえば、りせで見てみたいなー、とか思う。
 きっとまた別な痛みに充ちたキャラクタになったろう。

 今なら、扇めぐむでも見てみたいや(笑)。前向きで骨太なキャラクタになったかな。

 いやその、新公学年に限らず、まっつでも、見てみたいですが。「お寝坊さん」で悶え死にそーだが……。


 1週間分ほど観劇日記を溜め込んでいる(『DAYTIME HUSTLER』とか『銀の狼』とか『落陽のパレルモ』とか)んだが、先に今日観てきたものの感想をさらっと書いておこう。

 花組新人公演『落陽のパレルモ』。とりあえず、大きな感想はふたつ。

 ひとつめは。

 見終わったあと、わたしとnanakoさんはふたりして言った。

「あんなこと言ってごめん!!」

 日本語になっていない。
 「あんな」ってのは、なんだ?
 「誰に」「なにを」言ったんだ?

 なのにわたしたちは、顔を見るなりふたりしてそう言った。

 心はひとつだ。
 わたしには、nanakoさんがなにを言ってるのかがわかった。nanakoさんにもわたしの言いたいことがわかったはずだ。

「かっこよかったよねええ?」
「すっごい、かっこよかったっ」


 だから、なんの話?

 答えは、オサコンのときの、わたしたちの会話。

「出演者でふたりだけ名前のわからない人がいるんだけど、どっちがどっちかわかる?」
 と、kineさんに聞かれたんだ。場所は梅芸ロビー、オサコン初日。

 わたしとnanakoさんは、意気揚々と答えた。

「ぶ○いくな方が、扇め○む」

 kineさんは首を傾げた。

「どっちもべつにぶ○いくじゃないけど。丸い方? 四角い方?」
「だから、ぶ○いくな方だってば」
「そんなんじゃわからないってば」
「どーしてわからないの? 一目瞭然でしょ、ぶ○いくなのがめ○むだってば!」

 …………そんな、ひどい会話をしていました。

 そのあと、合流したデイジーちゃんにも同じ会話。
 デイジーちゃんも、「ぶ○いくな方」という説明では、誰のことを言っているのかわからないって。ジェンヌさんはみんなきれいじゃん、と。
 もちろんわかってる。ジェンヌはみんなきれい。でもそのなかで、比較的に、という意味でそう評しているの。
 わたしとnanakoさんは、あうんの呼吸で通じ合ってるのに! わたしたちの話は、他の人には通じないの?
 め○むって、ぶ○いくだよね? そりゃ、ジェンヌさんだからきれいだと思うけど。その、舞台での化粧顔はかなりアレで目立ってるよね?

 そんな会話をしたことさえ、もうすっかり忘れていたのに。

 あれから2ヶ月。

 わたしとnanakoさんはまた、あうんの呼吸で同じ台詞を喋ってました。

「扇め○む、めちゃくちゃかっこよかったっっ!!」

 ぶ○いくだと言うたくせに!! 言うたことさえ、今までとくに思い出しもしなかったくせに!

 新公を見終わるなり、主語も指示語もなにもないまま、懺悔タイム。

「あんなこと言ってごめんっ」

 て、コレだけで、お互いなんのこと言ってるのか通じるってどうよ。

「こんなにかっこいいなんて!」
「最初の軍服とかさー、すごかったよねー」

 わたしとnanakoさん、男の趣味似てるから……。大抵、「イイ!」と思うモノが同じだから。
 今回、ふたりして「め○む、かっこいい!!」と目からウロコ。

 そして、男の趣味が正反対のkineさんは、「だから言ったのに……」となまあたたかい目。

 検索がこわいので今回は伏せ字で語るけど、マジよかったの、め○む!!
 ごめんよ、あたしがバカだった。思えばずっと、目について目についてしょーがない人だったのよ。雪組のまちかと同じくらい、いつも目で追ってしまう人だったのよ。
 いつも見ていた、というのは、こーなる前振りだったのよね。実は好み範囲に入ってくる可能性があったからこそ、いつも目で追っていたということなんだわ。
 帰ってすぐに「おとめ」確認しちゃったわよ。研4で中卒だと? つーとまだ21? わわわ、わかい。でもオサコンで、「いちばん老けてる」ってことで、最下手に並ばされてたよね? えええ、オサ様、こんな若者より若ぶってたの?!
 す、すいません、今ちょっと混乱してます。
 め○む、かっこいー。あの大人っぽさはなに? みつるより大人に見えたんだけど。あのガタイがいいのー。ひざまづいておじょーさまのぞきこんでるとことか、きゅんって感じのかっこよさなんですけど。
 最後の舞踏会シーン、絶対アルバイトしてるはずだって探しちゃったよ。実際いたよ。軍服かっけー。

 ぜえぜえ。

 ぶ○いくなんて言ってごめんよ。わたしの見る目がないだけだった。
 これからは色男としてカウントします。
 懺悔と賞賛。

 
 でもって、もひとつ新公の感想。

 演技は技術じゃない、心だっ!!

 新公初主演おめでとー、みつるくん。
 正直わたしは、彼の演技がいいのかどーかわからない。ヒロインの彩音ちゃんにしろ、いいんだか悪いんだかわからん。

 ただ。

 泣けた。

 主役カップルふたりの心が、ちゃんと互いを想い合っていることがわかった。
 ヴィットリオは、アンリエッタを愛していた。
 アンリエッタは、ヴィットリオを愛していた。
 だからこそ、生木を裂かれるような別れが、痛かった。残酷だった。

 歌はそりゃ、すごかったけどさ。
 技術で表現なんか、できるはずもなかったけど。
 逆に言えば、技術で誤魔化すことも、できなかったんだ。

 そこにあるのは、心だけで。

 心だけでヴィットリオは泣き、そこで生きていた。

 いやあ、め○むとその仲間たちの最後から、まぁくんときほちゃんの現代パート、そして幻想の2組カップルのダンスと、周囲からすすり泣き聞こえてたよ。実際泣ける。技術云々以前に。心で。
 素直にたのしんだ。
 「愛」の物語を。

 そして今回、みつるの顔って好みだと思った。
 あの受け口がね……歪んだ口元、好きなのよ……。

 主役ふたりがちゃんと愛し合っているだけで、こんなにチガウのか。
 舞台って、おそろしい。
 舞台って、おもしろい。


 ヴィットリオ@オサ様に愛がないために、盛り下がる物語『落陽のパレルモ』
 身分違いの恋に悩むというより、貴族への復讐心ゆえに、貴族の娘を騙しているよーに見える主人公はいかがなものか。
 面倒くさそーに夜這いに現れ、アタマの中で手順の確認をしているよーなラヴシーンを演じるオサ様、なんとかしてください!!

 ハーレクインでべったべたの少女マンガっぷりに大喜びはしたものの、やっぱりハマるまでは行かなかった、オサ様の演技に首を傾げ続けたこの公演。

 わたしのなかでよーやく、筋が通りました。

 主人公のヴィットリオの物語として見た場合、いちばん盛り上がるのが母の自殺シーンを背景に銀橋で熱唱するとこだよね?
 そのあと実の父が見つかり、貴族になることでアンリエッタ@ふーちゃんと結ばれるわけだけど、その「どんでん返し」シーンの中でいちばん重要なのは、「母の祈りが届いた」ってことよね? アンリエッタと結ばれることじゃないよね?

 「ヴィットリオとアンリエッタの身分違いの恋」の物語だと思うから、後味がよくないのよ。

「なんだよ、自分が貴族になったらそれでOKかい。身分差別のない世界を切望して戦ったニコラたちは犬死にかよ」
 という疑問が残り、せっかくの美しい物語が台無し。

 ドンブイユ公爵@萬ケイ様の力でハッピーエンド。主人公なにもしてないじゃん! とか、ロドリーゴ@まとぶ、簡単に身を引きすぎ、なによそのご都合主義! とかゆーマイナス点も、全部全部、わかっちゃったのわたし。

 『落陽のパレルモ』のヒロインは、アンリエッタじゃないの。

 主人公は、ヴィットリオ。
 でもヒロインはアンリエッタじゃない。
 ヒロインをまちがえて見ているから、全部歪んで見えてしまったのね。
 正しいキャラクタをヒロインだと認識して見れば、『落陽のパレルモ』は、歪んでなんかいないきれーな物語よ(にっこり)。

 ヒロインは、フェリーチタよ。

 主人公ヴィットリオの母、フェリーチタ@きほ。
 愛に生き、愛に狂い、愛に死んだ美しい女性。
 ヒロインは彼女。
 ヴィットリオは、母の望みを叶えるために生きるの。

 平民のフェリーチタは、貴族の男と愛し合った。
 だが、男のために身を引く。その男の子をひっそりと産み、たったひとりで育てる。
 男の名は明かさない。迷惑を掛けたくないから。
 心を壊すほど男を恋し、欲していながらも、決して男の名を呼ばない。男の迷惑になることをしない。
 恨みもしない。ただ、愛に殉じる。

 そんな母を見つめて育ったヴィットリオは、母を不幸にした「身分制度」と戦う。平等……「誰もが等しく愛し合う自由」のために尽力する。
 彼は貴族を憎まない。母を捨てた父を憎まない。
 だってそれは、母の本意ではない。母は貴族も父も憎んでいなかった。そんな小さなひとではなかった。
 ヴィットリオの生涯のテーマは、「母の願いを叶える」ことだ。

 だからこそ。
 ヴィットリオは、「貴族の娘」を愛した。
 母と同じように、身分の違う相手に心を動かしたんだ。
 べつに、アンリエッタである必要はなかった。大貴族の跡取り娘、という、彼が戦うべき「身分制度」の鎖の中にいる娘なら誰でもよかった。
 いろんな符号が合い、結果として彼はアンリエッタと愛し合うよーになった。

 嵐の夜の抱擁で、ヴィットリオがちっともアンリエッタを見ていないのも、そのためだ。
 彼が見ているのは、死んだ母だ。
 自分もまた、母と同じ運命に身をゆだねている……その事実、運命への厳かな気持ちと向き合っているんだ。

 「自由」「平等」への戦いがテーマだからこそ、それを求めて散るニコラのエピソードが大きく扱われている。
 虫けらのように射殺されるニコラたちと、それに対する怒りを爆発させるヴィットリオ。
 その場にアンリエッタがいても、関係ないのはそのため。

 結果的に、ヴィットリオとアンリエッタは別れることになる。
 どんなに愛し合っていても、ふたりは結ばれないのだ。母フェリーチタと同じように。

 母の祈りは、願いは、またしても叶わなかった。
 母の形見のロザリオを握りしめ、ヴィットリオは絶唱する。

 ところがどっこい。

 ドンブイユ公爵が実の父だと名乗り出た。
 身分ゆえに引き裂かれるヴィットリオとアンリエッタに、自分とフェリーチタの姿を見たのだ。
 フェリーチタの願いは、息子の生命をもって叶えられた。彼女の意志を継ぐヴィットリオを通して。

 貴族と平民。
 身分ゆえに引き離されたふたり。
 だが、時代は流れ、貴族の時代は終わりを迎えようとしている。
 平民の娘だから、とその愛を否定されたフェリーチタ。
 平民の息子でありながら、その愛を受け入れられたヴィットリオ。
 時代は動いているんだ。
 フェリーチタを愛したからこそ、ドンブイユ公爵は落陽を見つめ、その事実と向かい合う。

 愛が、歴史を動かしていく。

「母の祈りが届いた」
 とヴィットリオは言う。
 彼の望みは「母の望みを叶える」こと。
 彼は貴族を憎んでもいないし、父を憎んでもいない。母がそうであったように。
 だから、ドンブイユ公爵の提案をすんなり受け入れる。貴族社会で生きることを受け入れる。

 母の愛が、奇跡を起こしたのだから。
 「身分」という障害を越えたのだから。

 親子の名乗りのシーンと、やがて滅び行く種族であるというドンブイユ公爵の演説が、ヴィットリオとアンリエッタのハッピーエンド・シーンより重要に描かれているのは、そのため。
 ロドリーゴが「貴族」というだけで身を引くのも、テーマがアンリエッタとの恋愛にはないから。

 アンリエッタは、ただの「記号」。
 フェリーチタの願いを叶えるための。
 愛が叶ったヴィットリオはアンリエッタと踊りながらも、その瞳は腕の中の女を見つめず、自分の胸の奥に向けられている。
 自分のなかに息づいているフェリーチタを感じ続ける。見つめ続ける。

 そして。

 語り部でもあるヴィットリオの曾孫、ヴィットリオ・F@ゆみことその恋人ジュディッタ@あすかへと、「愛の奇跡」は続いていく。

 生命懸けて愛に生きたフェリーチタがいたからこそ、命はつながり、受け継がれたのだ。

 ジュディッタのおなかにも、新しい生命が宿っている。
 彼女はフェリーチタのように、愛する男のために身を引き、ひとりでその子を育てようとした。
 だが、時代は流れ、新しい力が育っている。ドンブイユ公爵とはちがい、ヴィットリオ・Fはジュディッタを見捨てない。共に時代と戦う。

 ドンブイユ公爵とフェリーチタの悲恋は、ヴィットリオ・Fとジュディッタの恋の成就へとつながるんだ。

 
 主人公はヴィットリオ。ヒロインはフェリーチタ。

 そうだとわかれば、なんの疑問も歪みもない。
 ヴィットリオはフェリーチタの心を受け継いでいるから、フェリーチタ自身でもある。ヒーローでありながらヒロイン兼務という、まことにオサ様らしい役かと。


 脚本上では愛し合っていなければならないのに、まったく愛の見えない主人公カップル。
 それがあまりに興醒めで、わたしは観劇回数を減らした。
 花組公演『落陽のパレルモ』
 オサ様もあんまりだが、ふーちゃんも大概だ。……なんとまあ、似たもの同士なんだこいつら。組むことで、互いの魅力を相殺している。
 別の役者でこの物語を見せてくれ、と切望したよ。

 これはもう相性の問題であって、主役カップル以外の物語はちゃんとたのしめる。
 アンリエッタ@ふーちゃんと対峙し、彼女を「愛しているふり」をしていないときのヴィットリオ@オサは魅力的だ。ハートのある男に見える。
 盟友ニコラ@らんとむとのシーンや、母を想って苦悩カマしているところとかは、すごくいい。
 

 ニコラのかっこよさと、マチルダ@彩音の可憐さ純粋さはまた格別。
 マチルダ誘拐事件のときの、ニコラとマチルダの空気感には、ときめいた。
 ニコラの素朴な男らしさと矜持の高さ、マチルダの美しいまでの無垢さ。
 もしニコラが殺されなければ、この男と女にはどんな未来があったろう。彼らが愛し合う未来だってあっただろうに。そしてそれは、どれほど美しくときめく物語だろう、と期待させる。
 それが理不尽に踏みにじられるからこそ、観客の心は揺れ動く。
 ニコラとマチルダに感情移入するから、彼らの「心」がわたしたちの近くにあるから。
 ニコラの死と、ネックレスを差し出すマチルダのシーンは物語のなかでもっとも盛り上がるシーンになってしまう。

 それに続く、近代パート。
 ヴィットリオたちの曾孫であるヴィットリオ・F@ゆみこと、その恋人ジュディッタ@あすか。
 ユダヤ人であるジュディッタは、ヴィットリオ・Fへの愛ゆえに、あえて身を引こうとする。
 Fとジュディッタは、最初顎が落ちるほどのラヴラヴっぷりを見せつけている。この世のすべてに祝福された、世界一しあわせなカップル。
 男は金持ちのボンボンで、芸術的才能にも恵まれ、仕事も成功している。
 女は美貌と才能を持ち、愛する男の子どもを身ごもっている。
 男の育ての親である祖母にも祝福され、これ以上ない状況。実際、Fのやにさがりっぷりはものすごい。見ているこっちが恥ずかしくなるよーないちゃつきぶり。
 でも。
 世界一幸福に見えたカップルは、じつは愛し合うことを禁じられたふたりだった。
 女が、ユダヤ人だからだ。
 ふたりが美しく、結ばれることが当然だと思えるだけに、この事実が残酷だ。
 愛し合い、信頼し合い、思いやり合うふたりが、それらすべてを許されない現実ってナニ。
 現実への理不尽さ、怒りややるせなさ、そしてせつなさが加速する。

 ヴィットリオとアンリエッタ、ヴィットリオ・Fとジュディッタ、ふたつのカップルが対比して描かれる愛の物語。

 この構造が、痛い。

 Fとジュディッタがせつないまでに愛し合っていることがわかるだけに、まったく愛のないヴィットリオとアンリエッタが悪目立ちしてしまう。

 わかった、キミがジュディを好きなのはわかった、愛してるのはわかったから少しはひかえろ、見てて恥ずかしいから!!
 と、肩を押さえたくなってしまうF青年。
 わかるよ、わかりすぎるよ、キミがFくんを愛していることは。彼の心と人生を愛おしみ、大切にしていることは。我が身を犠牲にしても、彼を守りたいと想っていることは!
 と、抱きしめてあげたくなるジュディッタ。

 たとえFくんが「金さえあればなんとでもなる」てな考えの持ち主で、おばーさまにお金を借りに来て、おばーさまのお金でピンチを乗り越えるだけの他力本願野郎だとしてもだ、そんなことはどーでもいー、と思わせるほどには、彼は愛の虜だ。
 そして、ひとりの男がそこまでめろめろになるのが頷ける、納得できるすばらしい女性が相手だ。

 ニコラとマチルダにしろ、ヴィットリオ・Fとジュディッタにしろ、出番も書き込みも決して多くない。
 なのに、このふた組のカップルの存在はきらきらと観客の胸を打つ。

 主役カップル以外の物語は、ちゃーんと面白いし、感情移入できる。
 盛り上がる。

 また、非業の最期を遂げた母への想いを引きずる主役の方のヴィットリオも、ちゃんといい仕事をしている。
 母フェリーチタ@きほちゃんと小ヴィットリオ@あうら真輝/野々すみ花(両方見た)も愛が悲しくせつなくていい。

 
 問題はほんとーに、ヴィットリオとアンリエッタなんだよなあ。
 このふたりに愛がないために、物語を盛り下げまくり、作品を落としているんだよなあ。

 真ん中の物語に吸引力がないと、部分がよくても空中分解するんだ。

 ニコラたちの決起と破滅がいちばん派手なシーンになっちゃ、ダメなんだよ。
 それは作品のバランスを崩してるんだよ。

 対比される2組のカップルのうち、解説側の曾孫カップルの方が盛り上がっちゃダメなんだよ。
 それは作品のバランスを崩してるんだよ。

 
 とまあ、こんなわけで。

 ニコラとマチルダ、ヴィットリオ・Fとジュディッタのカップルは大好きだし、彼らのシーンは大泣きしているし、ヴィットリオ単品シーン(母と少年含む)もまた泣けるのに。
 衣装も舞台も美しくて溜息ものなのに。
 これぞタカラヅカ〜〜! な、女性が大好きなハーレクインなものがてんこ盛りになっているのに。
 植田景子作品自体、大好きなのに。
 オサ様のファンで、まっつの大ファンで、あすかちゃんもかっぱたん……ぢゃねえ、ゆみこちゃんも大好きなのに。

 萎えるの。

 気持ちがしょぼんとなるの。
 純粋にたのしめないの。

 まあ、ロドリーゴ@まとぶがどんどんいい男になっているよーなので、このまま回数観ていればそのうちヴィットリオ×ロドリーゴで萌えられるよーになるかもしれないけどな。

 初日に観たときはねえ、ロドリーゴってば気の毒でしかなくてねえ。
 誰からも愛されていないあんな女に一方的に言い寄って、カケラも相手にされていないってのがもう、痛くて痛くて。
 惚れる女のクオリティで、男の度量も量れるじゃん? 大貴族の長女だっつー他にはなんの取り柄もない自己中浅はか女に「金に物を言わせたプレゼント攻撃」で言い寄っているおぼっちゃま、なんて最悪じゃん。
 星組からわざわざ組替えしてきて、なんつー阿呆男役をやってるのよまとぶ! と、かなしくなったもん。
 宙組からわざわざ組替えしてきて、女といちゃついて踊って騒いでいるだけの意味ナシ男をやっている水くんを見たときと、同じ哀しさですわ。

 でも、次に見たときはロドリーゴ、ただのバカ男じゃなくなってた。
 彼が何故その女に執着したのか、理由がわかるよーになっていたの。
 貴族である彼は、貴族であるというルールに従って生きることが矜持であるからこそ、あの女を欲したのね。

 それなら、彼がヴィットリオに惚れる未来がないとは、誰にも言い切れないよな、と(笑)。

 そこまで吹っ切れれば、この作品もたのしくなるだろう。

 でも今はまだ、じれったい萎え作品なのよ。
 それが残念でならない。


 いろいろと思うところがあって沈黙していたが、いい加減『落陽のパレルモ』について語ろうと思う。

 『落陽のパレルモ』は、こだわりとテクニックを駆使した質の高い作品だと思っている。
 だが、景子先生の前回の大劇作『シニョール ドン・ファン』と同じ詰めの甘い作品だと思う。

 『ドン・ファン』は、設定の段階で大きなミスをしている。それゆえに、すべての説得力が崩れてしまった。
 『落陽のパレルモ』もそうだ。要の部分でミスがあるので、他の部分の良さがかすんでしまう。

 もったいない。
 誰か、アドバイスしてくれる人はいなかったのか。
 板に載せる前に、「ここ変だよ」と言ってくれる人がいれば、避けられた失敗だろうに。
 そして、その失敗さえなければ、すばらしい作品になったろうに。
 惜しくてならない。
 バウではそーゆーミスをしないのに、よりによって大劇でばかりつづけてミスるってのは、どーしてなんだろー。

 ま、そのミスの話は追々するとして。

 
 植田景子作品の特徴は、

・モロに少女マンガ
・役者へのあて書きはしない


 だと思っている。

 なにしろ、デビュー作が『ICARUS』だもんなあ。当時、「トウコちゃんになんて役をやらせるのよ?!」と唖然としたもんさ……(今の受受しいトウコちゃんじゃないわよ。雪組御曹司、バリバリの生意気元気攻男だったころのトウコよ?)。

 なにしろ作風が「少女マンガ」なので、生々しいものや、真の意味で「痛い」ものは描かない。奥底にあるドロドロしたものは描かず、てゆーかそんなものは存在せず、ただひたすら美しいモノを描く。

 もちろんソレは、正しい。
 ここはタカラヅカだ。
 ことさら人間の醜さや生きる痛みを描かなくてもいい。
 「少女マンガ」を正しく描ける作家の存在は、すばらしい。

 問題は、「あて書きをしないこと」だ。
 タカラヅカは役者へ「あて書き」してこそ、消費者のニーズに叶った商品を作り出しやすい構造になっている。
 同じ駄作でも、あて書きされたものとそうでないものなら、前者の方がファンに喜ばれる。
 こだまっちがあれほど「問題ありまくり、商業作品としてやべーだろそれは作品」を作っていても、ある意味存在価値を認められているのは彼女が「あて書き」をするからだ。
 景子せんせは、「あて書き」をしないゆえに損をしてると思う。

 ただし、景子作品は「少女マンガ」だ。
 それも、べったべたの。
 べったべたの少女マンガは、「とりあえず男主人公はかっこいいし、女性読者の共感を得られる恋愛モノになっている」という特徴がある。
 つまり、強いて「あて書き」しなくても、「女性が楽しめる作品」になっているわけだ。誰が演じてもいいキャラクタであり、ストーリーなんだもの。

 そのため、「少女マンガ」「あて書きはしない」というふたつの特徴は、なんとかバランスを保って作品になっていた。

 『THE LAST PARTY』や『Le Petit Jardin』はそのいい例。
 誰が演じてもかっこいい主人公、気持ちのいい物語。

 この『落陽のパレルモ』も、そうだ。
 そうである、はずだった。

 しかし。

 今回ばかりは、「あて書きしていない」ことが致命的となった。

 『落陽のパレルモ』にある、要の部分のミスというのは、物語の収束の仕方だ。作者の意図とはちがった意味に取られてしまうであろう、誤解を受けるクライマックス。
 身分違いの恋に苦しんだ主人公が、自分の力ではなく棚ボタで幸福になってめでたしめでたし、というオチ。
 テーマの解説をするのが好きな景子せんせらしくもなく、「愛の力」によるハッピーエンドだということを「解説」せずに、「落陽を迎える人々」の解説に力を入れすぎてしまった。
 貴族と平民の恋物語がハッピーエンドを迎え、貴族の時代は終焉に向かう。これは、同じことを表現しているんだ。景子たんの言いたいことはわかる。しかし。
 「落陽」ばかり解説してちゃダメだ。大劇場という大仰さが必要な場所で上演する以上、「愛の力」もきちんと解説しなきゃ。
 すべてが終わったあとで、近代パートの主人公の曾孫カップルに「偉大な愛!」と解説させても遅い。「愛の力」で悲劇が大団円にひっくり返るクライマックスで、ちゃんと解説させなきゃ。
 ここをミスってしまったばかりに、全体の印象が落ちてしまった。

 だが。
 このミスは、致命的とまではいかなかったと思う。
 たしかに大きなミスだし、「テーマの解説好きが災いして、『落陽』ばっか解説して自爆してるよ景子たん」とじれったくなったけれど、それはまだ、フォロー可能なミスだったと思うの。
 「あて書き」さえしていれば。

 脚本で足りていない「愛の力」の解説を、演じている者が埋めれば、問題はなかったんだ。

 愛がダダ漏れになるタイプの役者が、あるいは湯気をたてるほどの熱を発するタイプの役者が、あるいは真の演技巧者が主役のヴィットリオを演じていたならば、このミスは誤魔化すことが出来た。
 脚本で「棚ボタ」に見える程度の解説しかしていないクライマックスでも、愛のバカッパワーで駆け抜ければ、誤魔化せたんだ。
 「ふたりの愛が、公爵の心を動かしたんだわ!」とか、「愛の力で奇跡が起こったんだわ!」とか、思わせることはできた。

 だがしかし。

 ヴィットリオを演じているのは、天下のナルシスト、春野寿美礼だ。
 自分がほんとーに好きな相手や、認めている相手になら、ちゃんと「愛」を演じることが出来るが、そーでないとカケラも演じられない男。
 脚本に書いてある「相手への愛」よりも、「自分への愛」が勝ってしまう男。

 愛の力で脚本のミスをフォローしなければならないのに、「愛せない男」が主役じゃダメだよ。

 景子たん……。
 「あて書きしない」のが、裏目に出たね。

 たしかにヴィットリオは、景子たんの描く主人公らしく、「誰が演じてもカッコイイ男」だけど、オサには合ってないすよ……カケラも。
 オサ様はねえ、役と相手役を選ぶ人なのよ。それがいい悪いじゃなく、そーゆー人だから、これはもう前提だから、仕方ないのよ。

 今のとこ、ヴィットリオが向かないなと思うのは、主だったジェンヌの中では、オサの他はコム姫ぐらいのもんだ。あとの人なら、誰でもハマると思うよ。
 わたるでもあさこでもたかこでも。トウコ、水、かっしー、タニ、きりやん、ゆーひ、ゆみこ、まとぶ、とむ……ええ、まっつでも、誰でも似合うよ。
 正しく「熱愛」を演じられる人なら。

 なまじ物語が「べったべたの少女マンガ」であるだけに。
 主人公たちが愛し合っていないのが、痛い。つらい。

 そして、脚本上のミスがより大きく見える。
 致命的になる。
 作品の質を下げてしまうほどの、悪印象となる。

 ……せっかく、美しい作品なのに。
 あらゆる意味で、ハイクオリティなのに。
 ひとつの欠陥が、それらの印象を覆してしまうの。

 もったいない。

 
 肝心のところでミスをしてしまう景子せんせも歯がゆいし、そもそも自分の作品を愛しすぎてこだわりすぎて「あて書き」をしないところも歯がゆい。
 相手役を愛せないオサも歯がゆい。

 
 植田景子と春野寿美礼。
 『落陽のパレルモ』は、ふたりの才能あるクリエイターの、「欠点」が如実に表れた作品だ。



 なんかだらだら書いちゃって、盛り上がらないまま時間だけ過ぎてしまった。
 日記を書かない日が続いたりするのって、リアルで忙しい場合もあるが、ネタにのりきれないで筆が進まない場合もあるんだよな……。

 まだ書いてないことも、書きかけていたこともいろいろあるが、下書きはさくっと捨てて(下書きしてるのか?!)、最後に腐女子ネタ書いて終わりにしますわ。

 ジョニー@らぎ攻希望。

 らぎくん今回、めちゃ素敵です。今まででいちばんイイ!
 あんまりきらきらしているので、一瞬誰かわからなかったほどだ(失礼な)。

 ジョニーの本命は、言わずとしれたローリーせんせ@かっしー。
 鈍くさくてイケてないローリーの、真の魅力を知るのも彼。
 ヲタク詩人のローリーを、かっこよく変身させちゃうんだぜ? いちばん似合う服がわかってるんだぜ?
 てゆーか、ジョニーよ。

 ローリーを裸に剥いて、着替えさせたのか?

 ……ハァハァすることをお許しください。
 生徒に裸にされ、カラダのサイズなんか測られちゃってる高校教師!
 や、もちろんジョニー(18歳)はローリー先生(30歳)のサイズぐらい知ってるけど、わざと測るわけですよ!(年齢はてきとーです)
 でもって、言われるがままに着せ替え人形させられちゃう教師! 欲望のままにコスプレさせる生徒!

 どさくさにまぎれ、エプロンドレス着せたり、バニーさせたりしたはずだ。したよな、ジョニー?

 で、その結果がタキシードだ。ローリーのノーブルな美しさがいちばん際立つ衣装だ。

 なんてツボを心得てるんだジョニー。

 そして、ローリーは天然だから、裸に剥かれてあちこち触られようと、ネコ耳つけられよーとしっぽつけられよーと、生耳噛まれたり指しゃぶられたりしても、絶対変だって気づかないから!
 言われるがままになってるから! 「せんせ、おとなしくしてて」って言うだけで、素直に従うから。
「必要だから」って言えば、写真撮ってもOKだから。ビデオ回されて、恥ずかしい衣装で恥ずかしいポーズ取らされても、大丈夫、ローリーなら変だと気づかないよ!!
 そんなもんか、と真面目に受け止めて、言われるがままにポーズ取ってるよきっと。

 いいなあ……天然ボケ男としたたか少年……。

 ジョニーはローリーを狙っているし、いずれモノにするつもりでいる。
 でも、「今」じゃないんだよね。
 「コドモ」である彼は、今はまだそのときではないとのんびり構えている。「コドモ」であることを、最大限利用して、「今」しかできない楽しみ方を満喫しているから。

 だから、「今」ローリーが誰と恋をして、誰と暮らしはじめても平気。
 シルヴィア? あんな女より、絶対オレの方がいいって。勝てる自信があるから、今はローリーの恋の応援をする。

 なんせジョニー、ホストクラブに出入りしている高校生、だもんなあ。
 出張ホストクラブ「DAYTIME HUSTLER」の経営者、ロレンツォ@オヅキとは個人的に親しいようだし。高校卒業後はまちがいなくそっちの道へ就職するだろーな。
 実際、売れっ子になりそう(笑)。

 ローリーが本命なんだけど、今現在のジョニーの恋人はディック@谷みずせで。
 ディック、意味もなく色っぺえ(笑)。
 不健康というか、退廃的というか。

 ローリーに改心させられる前、ジョニーはドラッグと暴力(SEX含む)に明け暮れていそうだが、ディックはドラッグと売春って感じだー。
 あのとろんとした目が……(笑)。

 愛情よりも馴れ合いでつながったふたり、って感じ。ジョニー×ディック。

 
 数年経って、ローリーがゴールドビーチに帰ってくるところから物語ははじまる。
 シルヴィアとは、とーぜん別れてるわな。うまく行くわけないじゃん、あんなふたり。
 ついでに、ローリーは詩人としてもまーったくモノになってない。とーぜんだわな。NYに行く意味なんかもともとなかったもんな。

 そのころロレンツォは無事「DAYTIME HUSTLER」を再開しており、順調に儲けている。
 No.1はジョニー。
 源氏名は「ローレンス」。そう、ローリーの名を、わざわざ名乗っていたりする(笑)。
 ロレンツォとまず再会したローリーは、自分と同じ名の男が店のNo.1だと知り、興味を持つ。……それがジョニーの狙いですから。
 飛んで火に入る夏のローリーの前に颯爽と現れ、「ローリーを尊敬しているから、名前を借りたんだ」とかなんとか、ジョニーはてきとーなことを言って単純男を喜ばせる。
 そっから先は、No.1の腕の見せどころ。20代になったジョニーは深めたキャリアと磨き抜かれたテクニックでローリーをモノにしちゃうわけだ。
 えーと、そんときローリーいくつだ? 30代半ばくらい? うむ、食べ頃ですな(笑)。

 さて、教え子とそーゆーことになっちゃったローリーは、真面目に悩む。
 教師失格だとかなんとか。
 ジョニーが昔から自分を狙っていたことなんか、もちろん知らないから。今さら深刻ぶって苦悩する。もちろん、サムいポエムなんかも書いちゃうのさ。

 悩むローリーの向かう先は、もちろん男前ロレンツォのもとだ。
 相談に乗るうちに、ロレンツォはついうっかりローリーに手を出してしまう。
 ええ、ここは「うっかり」です。ロレンツォには下心とか計算とかないから。本当にローリーを心配して……慰めるのが行き過ぎちゃったというか。
 出会い頭の事故のよーに、ついうっかり朝を迎えてしまったふたり!
 そこへ、合い鍵で入ってきたジョニー!
 三人模様の絶体絶命!!

 ずるがしこく、でも無邪気でもある若いジョニーと、クドくてちと三枚目だがやさしい大人の男ロレンツォの間で、揺れ動くローリー@ヘタレ美青年!!

 波打ち際で、3人で踊っちゃってください、ローリーのサムいポエム朗読つきで!!

 
 ああ、わくわくするわ……。
 萌えな関係です、ローリーをめぐる三角関係。

 てーか、ジョニーが黒くて若くていい男だ……。らぎくん素敵ー。いつも健康印だった彼で、こんなに萌える日が来ようとは。
 ロレンツォもオトコマエだし。オヅキかっこいー。

 かしちゃんは、いつものかしちゃんだから。
 のーみそ緩そうなところが魅力☆

 
 とまあ、罪のない萌え語りです、深く考えないでくださいませ。

 
 あー……キャロル@リサちゃん、かわいかったなー。カテコでは、リサちゃんの脚見てるうちに、幕が下りちゃったよ。かしちゃん、見そびれた……かしちゃんファンなのにー。

 と、つぶやいて終わる。


 雪バウ『DAYTIME HUSTLER』でナニがすごいかって言えば。

 観客が、オヅキのことしか言わないこと。

 サバキで飛び込んだ初見のとき、わたしは作品にノリ損ね、某氏の演技に引いてしまったままのしぼんだハートで客席をあとにした。
 だから、とびきり聞き耳を立てていた。
 ねえみんな、どう思ったの、この作品?
 歩きながら、周囲の人たちのお喋りに注意していたんだ。

「まだ新公学年よね」
「そう、新公よ」
「すごかったね」
「あんな子いたの知らなかった」

 耳に入るのは、「無名だった」「新公学年の子」の話ばかり。

「とびきり濃くて」
「出てくるだけで笑っちゃう」
「あれでまだ下級生?」
「大きいわね」

 耳に入るのは、「濃くて大きな」「下級生」の話ばかり。

「えーっと、なんて言うの、あの子」
「オヅキトオマっていうらしいわよ」
「へー、オヅキトオマ」

 耳に入るのは。オヅキの話ばかり。

 早足でいろんな人の間を抜けていったんだけど。
 みんなもれなくオヅキの話をしながら歩いているのが、愉快だった。

 『さすらいの果てに』が終わったあと、観客がそろってかなめくんの話しかしてなかったときと同じだ。

 下級生ってのは、こーやってブレイクしていくんだな。

 誰だって、主演や2番手のことは知っている。彼らの名前で客を呼ぶわけだから。
 そういう意味で、主演クラスの人間が主演作品でブレイクするのはむずかしいだろう。もともと著名なわけだから。

 だが、無名の下級生は。

 主演クラスの人たちを観に来た、脇のことまで知識や興味のない人たちに強烈な印象を与えるのは、真ん中でブレイクするよりある意味たやすい。
 「無名」という強みがあるからなー。

 とはいえ、なにしろ「無名」で顔の区別もつかない興味もない状態の人たちに、「あの子誰?」と思わせるのは本人の才能であり実力だろう。
 オイシイ役をもらっても、すべる人はすべるんだから。記憶に残らない人は残らないんだから。

 『DAYTIME HUSTLER』で、波が来たと思ったのは、緒月遠麻だ。
 いいも悪いもない。強烈なんだもの。

 出張ホストクラブ「DAYTIME HUSTLER」の経営者ロレンツォ@オヅキ。
 登場からして、強烈。
 紙幣付きの派手派手羽根ショールを肩に、腰を振りながら踊り出るラテン男。
 「出張ホストクラブ」なんてうさんくさいモノを、胡散臭さ爆発に歌い踊って解説。
 この登場だけで、全部持っていった。
 おお、勝利の凱旋が見えるぞ。この場面を決めただけで、勝ったよなオヅキ。

 以来、出てくるだけで観客の視線を奪っている。ついでに、笑いも奪っている。

 2度目の観劇は、チェリさんと一緒だったのだけど。

 チェリさん、オヅキが出るたびずーっと笑ってるの。
 肩ふるわせて、声殺して。
 お芝居がよそで進んでいても、大筋に絡んでいない端にいるオヅキ見てるの。目が離せない状態らしい。
 ラストのカーテンコール挨拶時も、オヅキしか見てないし。それが横でわかるくらい、ほんとにオヅキだけだし。

 こーゆー現象を引き起こすんだわ、オヅキ……おそるべし。

 ただの「イロモノ」キャラじゃないしね、ロレンツォ。
 最初の登場は、たしかにとんでもなかった。うわー、またオヅキこっち系かよ。二枚目修行中なんじゃなかったの? またお笑いイロモノ系まっしぐら? と、危惧したが。
 ロレンツォは、イロモノでもお笑いキャラでもなかった。

 純然たる、二枚目キャラだった。

 いい男なんだ。
 高校生たちのいいアニキで、ローリーの理解者で。
 ちょいと三枚目風に笑いも取る、濃くてキザな二枚目キャラ。アニメに出てきそうな男。

 なんだよオヅキ、二枚目できるんじゃん!!
 二枚目修行中、いいよいいよ、成長してるよ!

 かっしー、壮くん、かなめくんと、ヘタレ薄味白い王子様ばかりが生息する雪組の救世主になってくれ!!(かなめくんが壮くんに似てきたよ、勘弁してくれよ、の件はまたいずれ)

 なんかもー、ひたすらオヅキがかっこよくてね。
 微妙だと思っていた素顔まで、かっこよく見えてこまるわ。
 kineさんに貸してもらった『美の旅人たち』を見て、「モデルみたーい。オヅキきれーい!」とか思っているわたしはいったい……。本放送時にちらりと見たときは「ふつーの番組に出るのは微妙すぎる顔だよな」とか失礼なこと思ってたんですけどっ?!
 ともちのときと、同じパターンだ……。過去映像までもがかっこよく見える……ど、どうしよう。

 
 波が来ている。
 劇場をあとにする人たちが、みんなみんなオヅキのことを口にしている。
 かく言うわたしも、ひとに『DAYTIME HUSTLER』の感想を聞かれたら、「オヅキがすごいの!」とまず言う。いやその、壮くんのこととかかしちゃんの脚のこととか、言いにくいことが多くて迂闊に感想言えないってのもあるけどさ……。

「きたろうがすごくよかった」
「つい目がいっちゃった」

 ざわめく声。
 最初に口にするのにちょうどいい派手さがあった、という意味なのはわかる。
 下級生でそれほど有名でない、存在くらいは知っていた、あたりのポジションだったということもわかる。
 注目しやすい要素がそろっていたことは。

 だとしても。
 ざわめきが心地いい。
 新しいスターの誕生は心浮き立つよね。
 

 オヅキしか見ていなかったチェリさんは、別れたあとにすぐ、わざわざメールを送ってきた。
 なにか忘れものでもしたのかな? なにかあったのかな? と思いつつ、メールを開けば。

件名「言い忘れました」
本文「オヅキは巨乳ですね…。」


 ……わざわざ、これだけ送ってきますか。
 爆笑しましたがな。

 ええ、彼は巨乳ですよ。
 『ドリキン』の極楽鳥とか、ものすげーボンバーでしたよ(笑)。


 250GBのHDDが、たった1ヶ月でいっぱいになってしまった件について、襟を正して考えたいところなのですが、アタマを使うのは苦手なので放置。
 kineさんにもらった「わたしに向かって手を差しのべているまっつ@いつぞやの歌劇ポート」でも見て和んでおこうと思ってます。

 しかしこのポート、最初に見たときも爆笑したんだけど(したのか)、微妙だよなあ。なに考えてこんなことになってるのか、まっつさんに質問したいです。
 わたし的には、帽子がいちばんの敗因に思えるんですが。えっ、あのポーズは敗因じゃないんですか? ポーズはいいんです、まっつさんの投げキス風ポーズはぜんぜんいいです、いろんなとこで投げキスしてこそのまっつさんですから。
 いや、なにはともあれ、帽子を取ってくれ。
 「眉毛がない」のがつらいの。わたし的に。いちばん。
 笑ってるんだかすましてるんだかわからない微妙な表情も、「キメるつもりの1秒前」にうっかりシャッター切られちゃいましたなヘタレ風味で、大変好みですとも。

 みょーな帽子のせいで眉毛がなくて、せっかくのきれーな顔がみょーなことになってますが、わたしの持ってる唯一無二の素顔まっつ写真なのでありがたくパソ前に飾ってます。
 nanakoさんにもらった、ドラム抱いてる素顔そのかポートと並べて。
 2枚とも色数の少ない写真で、自然と「対」って感じで素敵ですわ。肌色の他は白黒しか使ってないみたい(笑)。

 ただ。

 ど、どーしても、そのかの方を前にしてしまう……その、スペースの関係で、2枚を少し重ねて貼ってるんだけど、そのかが前でまっつが後ろ。
 そのか、かっこいいなあ。しみじみ。
 まっつ、微妙だなあ。しみじみ。

 
 ところでわたし、かしちゃんバウのプログラム買いました。

 バウのプログラムは値上げされてから買わないことにしてるんですが。大劇だって、値上げされてから買わなくなったもん(何年前の話だ)。
 それでも、今回のかしちゃんプログラムは買いましたよ。

 nanakoさんに、

「オサ様の、たった1枚の小さな写真のために大劇プログラムは買ったのに、かしちゃんの美しい写真のためにバウプログラムは買わないのね?」

 と、言われてしまったので。

 プログラムはどーせ読まないので、買わない人なのに、わたし。
 今回の『落陽のパレルモ』プログラムは買ってしまったのですよ。

 景子たんのこだわり、「カヴァーレ公爵家の人々」写真のために!!
 それも、ガラガラをもつ、ヒゲのオサ様(たった2cm)のためだけにっ!!

 言われてみれば、その通り。
 わたしはオサ様のあの小指の先ほどの写真のためだけに、1000円出したのだわ。
 小指の先のオサ様に1000円出せて、美しいA4サイズ写真が3枚も載っているかしちゃんプログラム600円を出せないはずがあろうか。
 「金儲け目的で値上げしました、言い訳に版型上げてカラーにしました」が記憶に新しい中身スカッスカのぺらっぺらプログラムに600円だと思うから買えないんであって、かしちゃんの写真3枚セットが600円だと思えばいいんだ!

 意識の転換。
 おかげで、バウプロ買いました。
 nanakoさんに言われなかったら、絶対買ってなかったわ……好きな作品以外はまず買わないからなー。

 
 そーいや1年経ってよーやく、ケロのカレンダーの全貌が明らかになりました。
 去年、チェリさんに頼んで買ってもらった、Myダーリンのカレンダー。受け取ってすぐに部屋に飾ったんだけど、半分くらいしか見えなかったの。
 なにしろ筒に入った状態で届いたので。丸まってたのね。
 変に力を加えて伸ばすと傷が付くかもしれないから、なにもせずにただ壁につり下げた。
 そのうちに、重力でまっすぐになるだろう、と。スタカレとか買っても、いつもそうしてる。

 ところがねえ。
 ケロカレンダーってば、1ヶ月経っても2ヶ月経っても、半年経っても、まっすぐにならないの(笑)。
 ついに1年経っちゃった。
 まだ、下の方は少し曲がってる。

 表紙のケロちゃんがいちばん好きだったから、ポスター代わりに飾っていただけで、カレンダーとして使用する気はない。だから、丸まっていても平気で、時と重力にすべてをまかせていたら、1年。

 時が経るに従って、カエルのぬいぐるみを抱いたケロちゃんが、少しずつ少しずつ、見えてくる仕組み。

 それはそれで、気に入っていた。

 最後のカレンダーは、このままで。
 ずっと。

 このまま、飾っておこうと思う。
 いつか、下の方までまっすぐになるんだろう。時と重力に完敗して。

 
 …………。

 
 まっつ。
 そのか。
 どうか、辞めないでね。
 少しでも長く、わたしに夢を見させていてね。

 
 毎年買っていた、たかちゃんのパーソナル・カレンダー、来年はもう買えないんだ、ということにヘコみつつ。


 わたしは昔、詩のカルチャースクールに通ったことがある。
 友人が「ひとりじゃ嫌。一緒にやらない?」と言うので、何事も経験だ、と軽い気持ちで入学した。
 友人はもともと趣味で詩を書いている子だったからいいよ。でもわたしは詩なんてもん、書いたことも書きたいと思ったこともない。
 当然、教室に通ってもなにも書けないままでいた。
 いい加減なにか発表しないとまずいなってころになって、苦肉の策で「短編小説」を書いた。設定作ってキャラ作って、テーマと起承転結作って、1文をできるだけ短くして、言葉遊びと韻を踏むことにこだわりまくって。400字詰め原稿用紙で10枚だか。それくらいの「短い小説」をでっちあげ、そいつを「わたしの詩です」と言って発表した。
 いちおー、そんなもんでも先生は、「それも詩です」と認めてくれたけど。まあ向こうも商売だしな。
 そうか、こーゆー作り方でもいいのか、と思ったわたしは、それ以来小説を書くときと同じように「詩」を作った。
 設定と、物語を作る。これで原稿用紙100枚とか200枚の小説書けるよな、というプロット作ったうえで、それを小説ではなく「詩」にする。
 起承転結全部書く必要がないと気づいたので、その200枚の小説の、いちばん盛り上がる部分とかを抜き出して「詩」にすることをおぼえた。
 幼なじみの男女が大人になってつきあいだしたが、結局別れてそれぞれの道を歩くようになる、という物語だとしたら、その「別れ」のシーンのみを言葉やリズムにこだわりまくって「詩」にする。
 少ない言葉でふたりのバックグラウンドを匂わせ、書いていない部分の物語を想像させつつ、現在進行しているドラマを盛り上げる。
 という手法にハマり、とてもたのしく何本かの「詩」を書いた。
 でもすぐに、あきた。
 わたしは、「いちばんオイシイ場面」だけをこだわり抜いて書くことより、起承転結全部自分で表現したいんだってことを再確認したから。書くのがめんどーな設定部分や説明部分、仕掛けや伏線なども、全部全部書き込みたいんだ。
 つーことで、詩のスクールはひとりで先に辞めてしまった。

 結局、「詩」ってなんなんだろう?
 スクールに通ったけど、わたしには詩の書き方がついにわからなかったし、詩というものがなんなのかもわからなかった。

 ただ、わたしにとっては文学も芸術も「フィクション」である。「詩」を作るにしたって「物語の設定」を作ることからはじめるよーな奴だから。

 自分の青春時代の恋物語を実名(イニシャル)で詩に書いて、出版しちゃうローリーせんせとは、相容れません(笑)。

 前置きの自分語りが長くてウザいだろーけど、実は『DAYTIME HUSTLER』の話なんだ、これが。

 正直、ローレンス氏が「はつこひのおもひで♪」を借金してまで自費出版で詩集にしていることには、萎えたのだわ。
 前振りで長々語ったように、わたしには「詩」がよくわかってないし、とくに「自分を主人公にした自分大好き詩」は苦手、ということを提示した上でね。

 なにしろ舞台が「現代」でしょ。自費出版って誰にだってできるし、やり方ぐらい調べれば簡単にわかる。大正時代とかの文学青年が食うモノも食わずに芸術を追究して生きているのとはちがい、余暇の部分でいくらでも自費出版くらいできる時代なのよ。
 『DAYTIME HUSTLER』を未見のデイジーちゃんに「主人公、借金して同人誌出してるのよ」と言ったら、やっぱり爆笑されたし。kineさんもすかさず「もちろん売れなくて、見かねた生徒たちが路上で売ってるし」と解説してくれて、さらに笑いをかっていた。
 この現代、誰だって同人誌(自費出版なんだから同人誌だわな)ぐらい作れるのよ。中学生だってね。
 なのに、そんな子どもでもできることを、借金してやるってのがもう、恥ずかしさ満載。仮にも教職に就いてる大人のやることじゃない。自分の払える範囲で作ればいいのに。「装丁に凝ったから高くつく」なら、払えるよーになるまで、作るのを待てばいいのに。
 まあ、ローリーが作った本は、コミケで売っているよーな「同人誌」(数万円あれば作れる)ではなく、世のオヤジたちがよく作っている「共同出版本」だと思うので、100万円くらいはかかってるだろうけど。
 にしても、身の丈を顧みずにやることとしては、恥ずかしい部類。

 そして、書いてある内容が「はつこひのおもひで♪」。しかもその初恋の相手、死んでるらしーし。
 ものすげー自己陶酔のかほりがしないか?

 誰だって、「思い出」は美しいもんだ。
 過去の自分は美化されるもんなんだ。
 思い出ってのは、えてして自分に都合よく脳内で捏造されたり誇張されたりするもんなんだ。

 スウィート・セブンティーンの思い出。
 波打ち際をきゃっきゃっと駆けたりする、若いころの自分と恋人。
 しかも恋人は死んでしまう。
 いつまでも美しいままだ。デブでふてぶてしいおばさんになったりしないんだ。
 現実がどうあれ、思い出の中、自分のイメージの中だけで、いくらでも美しいモノを描ける。自分に都合よく。

 借金してまでそんなマスタベ本を作った、ということに、あたしゃ引いたよ。

 「借金」と「はつこひのおもひで♪」のダブルパンチが効いたのよ。
 どちらか片方ならまだよかったんだけど。
 両方だと、あまりに自己中心的で。抑制心とか理性とかに欠ける、快楽に弱い自己愛主義者って感じで。
 大切な「はつこひのおもひで♪」なら、どーしてお金が貯まるまで本を出すのを待てなかったのか。後先考えずに出してしまうくらい、軽いものなのか。そりゃそーか、ただのマスタベ本だもんな、自分が気持ちよければそれでいいんだもんな、なにも考えてないよな。
 高校移転反対のプロパガンダのためにあわてて出した、という風でもないしなー。
 ただただ、かっこわるい。

 まあ、そんなふうにかなりなまあたたかい目で、「詩人」ローレンス先生を眺めていたんだけど。

 物語が進み、ローリーが語る「暗い過去」を聞いて、萎えた心が少し復活した。

 たしかに詩集に書いてあるのは「はつこひのおもひで♪」だけど。
 脳内で都合よく変換された「美しい思い出」なんだろうけど。

 ローリーの恋人、メアリー・アンが死んだのは、詩集に書かれた高校時代ではなく、大人になってかららしい。
 美しいだけの初恋の時期を過ぎ、大人になって「生活」し、傷つけ合い、疲れ果てた末に死んだのだという。

 ただきれいなだけの過去をうっとりと書いたのではなく、汚れた末になお、過去の美しさにすがって書いたのか。

 それなら、脳内変換していてもゆるせる。
 ひたすらキレイキレイなだけの「はつこひのおもひで♪ポエム」であったとしても。

 自分も彼女も汚れた大人になってしまった、そのうえでの「過去回帰」「郷愁」ならば。

 ……絶対、ローリーのポエムほど現実は美しくなかったと思うのよ。ローリーにしろメアリー・アンにしろ。
 それでも、詩集ではひたすら美しく描かれているんだろう。
 最初はそのことに引いたけど、今ではゆるせるよ。
 美しいほど、かなしいと思えるよ。

 ただやっぱり、借金はどうかと思うけどな(笑)。


 「かっこいい」役が、かっこよく見えない。
 それはかしげのせいだろう。
 セクシーな持ち味のある人が演じれば、ローリーの持つ「暗い過去」「愛の傷」等の「設定」も活きていたと思う。

 ローレンスというキャラをぶち壊しているのは、かしげなのか……。

 雪バウ『DAYTIME HUSTLER』の話。

 そこにいるのは、いつもかしちゃんで。
 いつもとちがうのはビジュアル系を意識したよーな髪型と、目をすがめる変な表情。
 あとは、ふつーにいつものいい人。ほっこりあたたかい、まぬけな善人。みんなのお友だちキャラ。
 イケメンホストに変身して、思い切りかっこつけて登場して、「ぷっ」と観客に笑われていたりする男。いやその、実際わたしの隣の席の人、かしげがバリバリキザにキメて出てきた瞬間吹き出してたし。

 「設定」と「現実」が乖離しているかなしい姿。
 かっしー、それでいいの? イケコ、それでいいの?

 わたしがこの作品にのりそこねた理由のひとつは、ソレだろう。

 
 初見のときに壮トニーに引っかかり、初見・再見と通じてかしローリーに引っかかり、再見の折りによーやくいづシルヴィアに首を傾げた。

 えーと。

 いづるん演じるヒロインのシルヴィア、微妙に演技、やばくない?

 かっしーは「いつものかっしー」なので、見慣れたものなのよ、わたしにとって。
 なのに、かしちゃんの演技があちこち浮いて見えた。空回って見えた。
 何故か。
 それを考えたの。

 かしちゃんの演技が空回って見えるときって、相手がいつも決まっていた。

 壮トニーといづシルヴィア。
 ……2番手とヒロインかよ……とほ。

 このふたり以外の人と演技しているときは、別に浮いてない。
 逆に言えば、このふたりが浮いているということだ。

 壮くんはいつも素敵に浮いている人なので、かしちゃんに限らず誰を相手にしても噛み合わせが悪いのはいつものことだから置くとして、意外だったのはいづるん。
 男役時代、いづるんの演技に対してそんな風に思ったことは一度もない。
 むしろ地味で堅実、繊細な演技をする人だと思っていた。

 なのに、どうして?

 2度目の観劇のときに、答えに辿り着いた。

 こんなに「女」に特化した女、いねえって。

 シルヴィアは、あまりに「女」だった。
 言動や立ち居振る舞いが、「男性の演じる女性」的だった。
 オカマさんが、本物の女性以上に女っぽい仕草をするような。
 ちょっとしたことが、いちいち大袈裟に「女」を意識し、「女」であることをアピールしていた。

 大劇場でドレスを着て時代物を演じる分には、べつに気にならないかもしれない。
 でもここは小さなバウホールで。
 インターネットだのメールだの、イケコが大好きなイマドキ(笑)な単語の飛び交う「現代」で。
 いづるんの演じるシルヴィアは、あまりにも大仰だった。

 かしちゃんはふつーな、わりと自然体な演技をしている。
 でもいづるんは大仰な女おんなした演技。

 ……そりゃ、噛み合わないわ……。

 そこに、やはり熱意をこめて空回りしている壮くんが加わるわけだ。

 ……すごい……すごいことになってるよ、ママン。

 
 えーと。
 繰り返すけど、演技ってのは「好み」の問題だ。共感を呼ぶ部分が人間ひとりずつチガウわけだから、ある人にとっての「演技巧者」がある人にとっては「大根役者」かもしれない。
 わたしにとって共感できない演技をする人が、大根役者だとは限らない。

 だから、わたしが今ここで書いていることなんて、わたし個人の「好み」の問題でしかなく、正解であるはずも世の評価であるはずもない。

 ただわたしには、主要人物3人の演技が、ものすげー不協和音を奏でているよーに感じられた。

 のれないわけだわ……。
 作品はふつーに、よい作品なのに。高尚ではないけど罪のない、よくある娯楽作品(誉め言葉。お約束遵守の作品は心地よい)なのに。

 
 とまあ、ここまで書いておいて。

「かしちゃんローリーに、一瞬ときめいちゃったわ」

 と言ったら、kineさんに真顔で「どこに?」と返されちゃいましたが。

「ローリーがシルヴィアのことを、はじめて『お前』って呼び捨てるところ。かしちゃんに『お前』って呼ばれたい」

 と言ったら、これまた真顔で「ほんとにファンなんだ」と返されましたが(笑)。

 だからファンだって言ってるじゃん!!
 言いたいことは山ほどあるけど、結局は好きだから仕方ないのよ(笑)。

 イケコの素敵なワンパターン「障害物越しのラヴシーン」で、鉄格子越しに愛を歌うローリーとシルヴィア。

「お前に会いたい」

 ……って、言われてえ!!
 かっしーに言われたいよーーっ!!(笑)

 
 どーにもこの公演にはのれないとわかったので、観劇は2回で打ち止め、ヘビロテする必要はナシと思ったけれど。
 『アメパイ』くらいチケットが束になって階段下で売られていたら、もう少し通っていたかもしれない。

 ローリーはたぶん、「設定」上では、「脚本」上では、「いい男」だと思う。「いい人」ではなく。
 「いい人」にしてしまったのは、かしげ。かっしーの持ち味。そんなかしちゃんに情けない思いはあるんだけど、そーゆー情けなさも好きだったりするから仕方ない。
 彼の欠点は認めた上で、それでも通うことはできる作品だよ。

 ふつーにおもしろい脚本だから。ツボを押さえた演出がしてあるから。
 そりゃまあ、まちがってるとこはあるけどさ(笑)。「懸命に若ぶってスベってるおじさん」的センスに充ちていること(それがイケコ・クオリティ)や「少女マンガ的というよりは女々しい男のドリーム」的な突っ込みどころがあって、いろいろ見ていて恥ずかしいこととか。
 そんなのは些細なことさ。
 いい作品だと思う。
 あて書きはしていないと思うので(飛鳥くみちょが悪人を演じている段階で、「イケコ、絶対あて書きしてねえ(笑)」と証明されているよな)、どこの組の誰が演じてもいい作品だ。むしろわたしは、他の人たちで観たかっ……ゲフンゲフン。

 主要3人の演技が噛み合っていなくて、主人公とヒロインの恋愛が唐突に見えて「いつどこでそんなことに?」とびっくりしちゃうのに、それでも、主演クラス俳優のファンなら複数回観るのもたのしいだろうと思える。
 という、ちゃんとした物語だ。

 チケット事情がちがえばもう少し通ったろうし、そうすれば別なたのしみ方もできただろう。
 いろんなサブキャラがごちゃごちゃ魅力的なのもイケコらしいので、そのあたりで萌えを探すこともできただろう。

 なんか壮くんの空回りっぷりが愛しいしな……。後ろから膝かっくんしてやりてえ(笑)。
 主要3人が、互いの話をぜんぜん聞かずにそれぞれ勝手に暴走しているところに、かえって萌えがある気がするの。つつきたくなる連中だ。

 たのしかったよ。


 わたしがとまどっているのは、主人公ローレンスというキャラクタ。

 雪バウ『DAYTIME HUSTLER』の話。

 相変わらず予備知識ナシで観劇した。
 知っているのはポスターのみ。

 『DAYTIME HUSTLER』のポスターは、そりゃーもー美しかった。美貌の無駄遣いばっかしているかっしーを、これでもかっと美しく撮ってくれていた。

 ものごっつー美しいかっしーと、花と銃。そして『DAYTIME HUSTLER〜愛を売る男〜』という、思わせぶりなタイトル。作者が小池修一郎だから、多大な期待はしないとしても、わくわくするよーなポスターだ。

 あー、小池氏のオリジナル作品には懐疑的です、わたし。
 近年アタマを抱えるよーな駄作ばかり見せられているので、「イケコ、終わったな」とか「オリジナルはやらなくていいから」とか思っておりましたとも。オサコンはただの奇跡かと(笑)。
 それでも植爺だの太田だの石田だのより100万倍すばらしいクリエイターであることもたしかなので、「オリジナルは恥ずかしいモノの確率が高いけど、演出力はあるからそっちに期待」していた。

 そして、チケ難(なんで? かっしーなのに?!)のなか、がんばってサバキGETし、客席に潜り込んだ1回目の観劇。
 前もって手に入れていたチケットは1枚。それも、知人の厚意で譲ってもらったもののみ。自力では全滅してたのよねえ。そのたった1回の観劇日を待ってなんかいられなかった。少しでも早く観たかったのよ。これでもかしちゃんファンですから。ものすごーくツボったらヘビロテするかもしんないじゃん。少しでも早く、この目で確かめて、今後の予定を立てなきゃ! 後ろでも隅でも、とにかくまず観るの!!

 そーしてわたしは、どーにものれないままに、客席をあとにした。

 席が悪すぎたのかな。いちばん後ろのいちばん端っこで観たりしたから、感情移入しにくかったのかな。
 次に超良席で観るから、そのときに期待だ!

 …………そしてわたしは、いろいろ考えた。
 壮くんトニーについても考えたし、いづるんシルヴィアについても考えた。
 かっしーローリーについても、考えた。

 
 ローリーが、わからない……。

 わたしは脚本から受ける「設定」と、実際に舞台を観た上で感じる「現実」とのギャップに、とまどった。

 脚本と舞台、別物過ぎ……?

 「元不良」「悲しい生い立ち」「淫らな女関係」「詩人」「自堕落」「慟哭」「絶望」……脚本から見える「設定」のパーツ。
 だけど、舞台を観れば。
 「善人」「のんき」「陽気」「人気者」「大人はわかってくれない」「無力」「生活力ナシ」「鈍くさい」「イケてない」「ヲタク?」「とにかくいい人」……こんなパーツばかりが目に付く。

 かしちゃんの醸し出す「いい人」オーラが、すべてを裏切る。

 ポスターにあった「耽美」「花と銃」のかしちゃんは、そこに存在しなかった。
 同じなのは、髪型だけ。

 その髪型も……変。

 最初にローリーが登場したとき、脚の短さに仰天したのは置いておいて、その美形さにもちゃんと感動したのよ。
 ポスターと同じ髪型だーっ、かしちゃんきれーっ、素敵ー。
 素直によろこんだ。

 しかし。
 物語が進むにつれ、首を傾げる。

 あのすだれのよーな前髪のある髪型って……かっこいい二枚目の髪型、という意味でやってるんじゃ、ない?

 だってローリーは、なにかというと目をすがめる。近眼の人が眼鏡なしでいるときのように、目を細くするんだ。
 メイクもいつもとチガウ? 切れ長の目を強調した、日本物っぽい感じ?

 なんで目をすがめるの? わたし、かっしーのくっきりした目、好きなんだけどなー。
 前髪がうっといのかしら? それであんな目つきを?
 それなら髪型変えればいいのに。
 前が見えない不便な髪型をしているなんて、変な人。って、ひょっとして役作り?

 実際ローリー青年は、人の善さだけが取り柄のイケてない男。歌い踊る高校生たちには人気だけど、大人たちには相手にされていない。

 はっ。そうか。
 あの髪型、ヲタクって設定だったんだ!!

 アキバ系とかの男ヲタクが、髪の毛ぼさぼさで目が隠れちゃってる、アレだ。
 身なりに構ってない、美容院なんか行かないのばしっぱなしの髪の毛。そーゆー意味なんだわ。
 でもここはタカラヅカだから、ソレを美しく表現したらあーゆーすだれアタマになるんだ!

 そう気づけば納得。
 なにしろ「詩集を自費出版」だ。同人誌を作ってコミケで売るヲタクと同じことをしているわけだ。
 ほんとは美形なのに、なにしろ身なりに構わないヲタクだから、大人たちからはキモがられているんだ。

 と、考えてもべつに変に思わなかったのよ……あたしは……。

 「ほんとは美形」「いい人」「善人」「ヲタク」なローリーが、イケメンホストに変身。
 あら、わかりやすいドリーミング・ストーリー。
 ぼさぼさ髪と似合わないジーンズのせいで、ダサ男と思われていたけど、なーんとこんなに美形だったのよ!! 服装変えたらあら不思議、ぼさぼさ髪もオシャレに見えるわ! という設定なのかと。

 目で見えるもの、舞台から感じられるモノだけを信じるわたしは、そうやって主人公を受け止めていたわけだ。

 だから、目で見、心で感じているものとまったく接点のない「情報」を告げられるたびに混乱した。
 すなわち、「元不良」「悲しい生い立ち」「淫らな女関係」とか、詩を書けない苛立ちから恋人にあたり、死へ追いやったことなど。

 え、えーと?
 いくら台詞で「情報」として「設定」を並べられても、ソレ、「現実」に舞台の上にはありませんがな?

 だってソレを語るローリーは、やっぱり「平和」に「いい人」で。「ひだまり」のよーな人で。
 美形だけど、どっか鈍くさくて、親しみがあって。

 「はつこひのおもひで☆」という恥ずかしいコンセプトの詩集を自費出版しちゃうよーな、ヲタクのかほりのする男で。
 どっか夢見がちで、地に足がついてなくて。
 ぬけてるけど、そこがかわいくてたまらない男で。

 「設定」として書かれている、暗い過去を持つ大人の男。才能も美貌もあるが、恋人を死に追いやったトラウマで今はくすんだ生活をしている。彼の才気あふれる真の姿は、純粋な若者たちにのみ理解されている。傷ついた鷹は爪を隠したまま、あえて冴えない三枚目的な生活をしている。……というよーな部分はどこにあるのか。

 わ、わからない。
 「設定」と「現実」の差に、ついて行けない。

 かしちゃん、いい人過ぎ。

 いつものかっしーだ……美貌を無駄遣いしてる、いつものかしげさんがいるよ……。
 影と剛が欲しいの。耽美が欲しいの。
 ポスターの大嘘つき。
 たしかに、ローリー@かしげはきれいだよ。素敵だよ。たとえ似合わないジーパン穿いてたってな。
 でも、かしちゃんが美形なのは、あたりまえだから。
 そーじゃなくて、かっしーの新しい魅力とか、ふだんやらせてもらえないよーな役を、見たかったのよ。

 あー、でも。
 「設定」には影と剛があるよな……でもそれを舞台で表現できていないとしたら……それはかしげのせいか……とほ。


 わたしは洋服屋さんで、ドレスをオーダーメイドすることにしました。
 自分で絵を描いて、「こんなふうにして欲しいの」と言いました。
 いっぱい要望を聞いてもらって、素材にも凝ってしまいました。予算オーバーです。
 先にドレスを受け取って、料金は分割で払うことにしました。
 わたしは今とってもびんぼーなので、支払いはちょっと遅れがちです。ごめんなさい、もう少し待って。でも、絶対払いますから。
 支払いが遅れがちなんだから、「早く払え!」と叱られるのは仕方ありません。わたしが「ごめんなさい」と謝りまくるのも仕方ありません。
 でも変なんです。
 お店の人は、
「あんたのデザインしたドレスは一般ウケしないよ。こんな田舎町じゃなく、もっと大きな町で作ればよかったんじゃないか? 洋服屋は慈善事業じゃないんだからな」
 と言うんです。
 えーと? わたしが着るために、わたしが注文したドレスです。なんで一般ウケが必要なの? 支払いが遅れがちなのは悪いけど、それとはチガウ話だよね?
 洋服屋さんは、お客であるわたしのために、わたしの望んだドレスを売ってくれたら、そこでお仕事は終わりよね? 洋服屋さんがドレスを作り、わたしが支払いを済ませればいいだけの話よね?
 わたしのデザインしたドレスを、他の人が「素敵ね。同じものを私も欲しいわ」と言わないからって、洋服屋さんがわたしを責めるのはお門違いよね?
 わたしは洋服屋さん専属のデザイナーじゃありません。ただのお客です。どうして、デザインのことで文句を言われるの? 繰り返すけど、遅れている支払いのことで責められるのはわかるのよ。でも、「売れないデザインのドレスだ」と言われるのは理解できない。そんなの、わたしの自由でしょう。わたしがいいと思って、わたしのお金で作ったんだから!

 と、こんな話ではじまりますが、『DAYTIME HUSTLER』の話。

 ローリーが自費出版した本の売れ行きが悪いことで、出版社の人に責められていることに首を傾げつつ。

 えーと、ローリーは彼自身のお金で本を作ったんだよね? つまり、出版社にとって彼は「お客」よね? ローリーが自分の金で作った本なんだから、売れようが売れまいが出版社は関係ないよね?
 なんで出版社の人が、ローリーの本を持って書店に営業して回ってるんだろう。本はローリーのもので、出版社のものじゃないのに。

 本が売れないと、印刷費を払えないとローリーが言ったから? それで仕方なく出版社の人が営業して回ってるの?
 えーと、そんな契約自体おかしいって。自費出版本なんか、売れるわけないんだから。
 売れる本なら、出版社が出してるよ。作者に原稿料や印税を払って。
 ローリーに自費出版をさせた、ということは、この本を、金を出して買う人間はいないという出版社の判断よね? 作者以外には価値のない本だから、作者が金を出すのよね?
 自費出版である以上、出版社の人間はその本の流通には関わらない。作者から出版料をもらっているのだから、そこで商売成立だ。本が売れようと売れまいとなにも損はしない。

 もちろん、自費出版会社の中には、流通にも表面上責任を持つものもある。
 「当社で出版すれば、書店にアナタの本が並びますよ!」と謳っている場合だ。
 何故そんなことをするか。「お客」に「当社」で「出版」してほしいからだ。他の出版社でなく、自分のところで「自費」出版してほしいから。
 「お客」というのは「本の作者」だ。お金を出すのは作者。「書店に本が並ぶ」というのは、作者へのセールスポイントだ。「当店でDVDレコーダを買うと、お好きな映画ソフトを1枚サービスしますよ」と同じ。
 つまり、「書店に置いてもらう」のを前提にしている自費出版社なら、それをするのは当然のことだ。その本が、書店で売れる売れないは関係ない。「置いてもらう」のが、自費出版時の契約だからだ。
 もしも書店に拒絶されたとしたら、それは出版社のミスだ。本の出来も作者の力量も関係ない。ローリーが責める側だよ、出版社の無能ぶりを。

 だからわからないの。
 出版社の人が、ローリーの本を営業して回っていることが。
 いや、そこまではわからんでもないが、書店に置いてもらえないことでローリーを責めるのかが。謝るならわかるけど。

 支払いが遅れているようだから、そのことでローリーが責められるのはぜんぜんかまわないんだけどね。
 「書店に置いてもらえない」のは、関係ないじゃん。書店に置いてもらえるよーな本(つまり、ふつーに売れる本)なら、作者が金を出して自費出版しないって。売れない、書店にさえ拒否される本だから、わざわざ自分が金出して作ったんだっつーの。

 なんかね、基本がまちがってるの。
 「自費出版」の。

 「田舎町の書店では、置いてもらえない」→「都会なら認められるかもしれないのに」→「ほんとうはすばらしい作品。こんなところには、理解できる人がいないだけ」
 という意味で使ったんだろうけど。
 それで、ラストの「都会へ出て詩人としてやり直す」につながるんだろうけど。

 それなら、「自費出版」と「出版社」の認識がまちがってる。

 「自費出版」には「出版社の人」なんて関係ない。出版社の人が出てくるなら、「印刷費早く払え」と督促するだけでなければおかしい。
 「こんな田舎で詩集なんか売れない」と文句を言う出版社の人が出てくるなら、自費出版ではおかしい。出版社がローリーに印税を払って出版したことにしないと。
 それにしたって、「会社」が決めた事業(詩集の出版)なんだから、作者に文句言うのはおかしいけどな。その事業を進めた会社内部の人に言うべきことだ。だからこの場合はローリーが出版社の人を騙して出版させたことにするしかないな。

 
 わたしが気になったのは、ローレンスというキャラクタと、実際にかしげが演じている姿とに、どーも乖離感があったことなんだよね。

 設定と現実が噛み合っていないというか。

 以前に語った、「不良」という設定。
 わたしにはローリーが不良には見えなかったし、女遊びし尽くしてきた男にも見えなかった。

 次に「詩人」という設定。
 専業プロ詩人、というものがイメージできずにいるわたしには、生活を顧みずに言葉の上でだけ美しいことを並べられても「現実を見られない人」と思えてしまう。

 そしてさらに、今回長々と語った、「自費出版」。
 現実にはありえない設定の出版社と客の関係。
 冒頭の「自分のデザインで自分のお金でドレスを作った」だけなのに、「こんなデザインじゃ他の人は認めないよ!」と言われて、「すみません」と謝るのは変だ。
 ローリー、騙されてる?
 その出版社、変だよ。そして、そんな変なことをされて変だと思っていないローリーはやはり、ぬけてる? と思える。

 そう。
 かっこよくないんだ、ローリー。
 いちいち、まぬけなんだ、あちこち。

 でもなんか、設定上では「いい男」になっているらしいのが、気になる。
 目に映っている姿はかっこわるいのに。

 とまどうわたし。


 オサ様、変な人だなあ。

 と、しみじみ堪能しました、「NTTフレッツトークショー」

 細かい内容は忘れちゃったんですけどね。
 まあわたしに、記録的な内容を期待している人はいないだろうから(笑)、わたしが思ったことだけいつものよーに書き散らかしておきますわん。

 
 考えてみるとわたし、生オサ様、はじめてなんですよね。
 スターと呼ばれる立場でここまでナマを見たことない人、他にいないかも。……てくらい、見たことなかったわ。
 かれこれ10年ファンしてるわりに、縁のない人だったんだな……。

 その生オサ様は、暴走してました。

 じつに機嫌良く。
 たのしそーに。

 司会者置き去りで、自分たちだけで盛り上がりまくる。

 え、えーと?
 とまどうわたし。

 オサ様って、わからない……。

 わたしは今回の花組公演、わくわくと初日に駆けつけたのですよ。
 なんか最近めっきり花担というか、もう星担と名乗れないくらいまっつと花組にハマっているわたしですが、あそこまでわくわくしていたのは、やっぱり寿美礼ちゃんの存在も大きかったのね。

 博多楽、オサコンと、人格変貌したオサ様を見ていたから。

 ナルシーで誰も愛さない・愛せない寿美礼サマはどっかへ行ってしまい、やたらハートフルでかわいらしい「アイシテルよー!!」なオサダくんがいた。
 どーしちまったんたこの人。なんでそのトシとキャリアで、今さら別人になるかな?

 ペカーッと発散される魅力。
 全世界に向けて愛を叫ぶ姿。
 やたら高いテンション。

 コワレテいるオサ様が愉快で愛しくて、こりゃなにがなんでも初日に行かなければならないと思った。

 ほんとーにオサ様は変わってしまったのか。
 それともあれは、博多とコンサートが見せた幻だったのか。

 ……結果。

 幻だったようです。

 がっくり。
 大地に両手両膝をついてうなだれましたよ、あたしゃ。

 オサ様また、相手役を愛してない。

 ひとを愛せるよーになったんじゃなかったの? また自分だけ愛してるの? 「軍服着たオレ様ってかっくいー」てうっとりしてんぢゃないわよ、コテコテのラヴストーリーなんだから、相手役愛してよ、見ていて萎えるでしょー?!

 いやその、ナルシーな寿美礼ちゃん好きだけどさ……伊達に下級生時代から好きなわけじゃないけどさ……。
 でもちと、びびったのよ。
 オサコンのときとちがいすぎて。

 それでヘコんで、花組あんま観に行ってないんだけどな(いや、その、まっつの出番がアレだっつーのも、観劇意欲を削ぐ結果となってるんだけどな……モニョモニョ)。

 はじめて見る生オサ様、はじめて参加のオサ様のトークショーで。

 オサ様、やっぱりハイテンション。

 ありゃー?
 オサコンのときのオサ様だわー。

 ええ、たのしかったっす、トークショー。
 純粋に、いっぱい笑ってたのしんで来ました。

 オサ様は隣の席のゆみこちゃんとやたら仲良しでした。
 つつきあうわ、肩に手を置くわ、アイコンタクトしまくるわ。とにかくボディタッチし過ぎ。
 えーと、トークショー参加してるのキミらふたりだけじゃないから、もうひとりいるから、そっちもたまには見てやれよ。

 わかっていたことだけど……。

 春野寿美礼ってやっぱ、感覚で芝居する人なんだよなあ。

 綿密な理論で演技している人じゃないんだよね。技術じゃなく本能の人なんだよね。
 芝居が日替わりなのも、キャラがいちいち別人格なのも、「本能」でやっているからだよね。

 トークショーで、オサちゃんは言うわけよ。
 自分の役ヴィットリオの、アンリエッタへの愛が見どころだと。

 わたしとハイディさんは、思わず顔見合わせて、盛大に突っ込んじゃいましたね。
「愛してないじゃん!」と。

 オサ様アレ、愛しているつもりだったんですか?
 アレが?

 ……復讐のために貴族娘を弄んで捨てようと思っている色事師のよーに見えるアレが、愛?

 えーと。
 やっぱオサ様、自分で気づいてないんだ。ちっとも愛している演技ができていないこと。
 技術ではなく、本能で芝居をする人だから。
 愛がダダ漏れになってコワレテいたオサコンと、仮面恋愛にしか見えない『落陽のパレルモ』の差に、気づいてないんだ。
 自分的には、どちらもちゃんと愛を叫んでいるつもりなんだ。

 博多座とオサコンまで、オサ様は「誰も愛せない」人だと思っていた。
 でも、そうじゃなかったんだね。
 特定の人を愛せないだけだったんだね。

 でもなんで、そのよりによって「どうやっても愛することのできない相手」が、相手役なんだ……謎だよタカラヅカ。
 誰にもいいことないじゃん、そんなの。
 オサ様にも、その相手役の彼女にも。

 トークショー出演は3人だったんですがね。オサ様はわかりやすく、ゆみこちゃんの方ばっか向いてるわけですよ。
 相手役の彼女が、司会者さんから話を振られて喋っているときだけ、そちらを見ている。

 つってもべつに、彼女を嫌ってるとか意地悪しているとかいう風ではなくて。
 ふつーに仲は良さそうなのよ。
 ただ、あまり彼女に注意を払わないだけで。

 ……無意識か。
 無意識なんだな……ふつーにたのしそうにしてるもんな……ソレでアレなのか。

 なんつーか……オサ様は「天才肌の人」なんだと、これまた再確認しました。

 ナチュラルボーン。
 彼が彼であるという才能。

 ああもー、大好きだよオサ様。
 その欠けたところごと好き。

 相手役を愛していない、自分にばかりうっとりしている姿を見ると、あきれてしまったり腹立たしくなったりもするんだけど、それでも好き。
 そーゆーとこも含めて大好き。

 かわいこちゃんな下級生時代の、貴公子ぶった姿のその奥にある「黒いモノ」に惹かれてファンになったわたしだもの。
 欠けているからといって、残酷だからといって、マイナスになんかなるはずない。
 欠けているからこそ、無邪気に残酷だからこそ、なお素敵だ。

 ご機嫌で暴走しているオサ様が、愛しくてなりません。

 オサ姫の今日の気分そのままの、キャラが不安定な舞台も、それこそが魅力だと思っている。

 目が離せない人だ。

 
 
 わたしには、ローリーの「詩人」って部分がよくわかんないんだ。

 『DAYTIME HUSTLER』の話。

 元不良で詩人で教師、それがハスラーに変身。
 というてんこ盛り設定の一部としてはいい。
 詩集の自費出版のために借金が、という設定もつっこみたいことはあるがまあいい。ヒロイン・シルヴィアの朗読で「在りし日の恋」を再現するアイディアもいい。
 キャラの味付け手段としての「詩人」は、意味があると思っている。

 でも。
 わかんないのは、ラスト。

 せっかく舞台であるゴールドビーチのためにがんばってきて、GBC財団も設立され、これから!ってときに、なんでNYに旅立たなければならないんだろう。詩人としてやり直すために。

 詩人ちゅーのは、大都会でないとできないものなのか?

 たしかに、自費出版した本について「大都会でもないと売れない」という意味のことを作中で言わせている。
 本気で詩をやるなら、NYへ行くしかない、という伏線のつもりか。

 たしかに地方都市の書店は数が限られているから、ローリーの詩集を置いてくれるところは少ないだろう。
 分母の大きな大都会へ行けば、拾ってくれるところもあるかもしれない。

 でもそれは、「詩集を売る」という意味のことだ。

 「よい詩を書く」「詩の勉強をする」という意味にはならない。

 高校時代にローリーは詩で賞を取り、奨学金を得てNYの大学へ行った。卒業後もそのままNYで詩を書き続けていたらしい。
 この場合のNYはわかるんだ。勉強するには都会の大学の方が選択肢が多いだろう。

 しかし、最後のNY行きはわからない。
 NYに師事したい詩人でもいるのか? 入り直したい大学でもあるのか?

 ローリーのやっているのが「作詞」とかなら、「夢を追うために大都会へ行く」というラストもアリなのよ。
 歌詞を書いて音楽事務所などを回り、「使ってください」と言うためなんだなと。
 彼の歌詞を活かす曲をつけられる人は、田舎より都会にいるだろう、と。

 ローリーが「小説家」なら、「夢を追うために大都会へ行く」というラストもアリなのよ。
 小説を持って出版社を回り、「出版してください」と言うためなんだと。

 ローリーが「ミュージシャン」なら、「夢を追うために大都会へ行く」というラストもアリなのよ。「イラストレーター」でも「カメラマン」でも「漫画家」でも「俳優」でも。

 ただ、「詩人」でソレはないだろ。

 だって「詩人」って、ソレだけで「食べていけない」よね?

 「職業」として成り立つのがかなり難しいよね。
 専業の詩人で生計を立てられる人、家族を養える人って、どれくらいいるの?
 浅学なわたしの知る有名詩人たちはみんな、他に職業持ってるしなあ。翻訳家だとか作家だとか教師だとか。や、日本の話ですが。

 「プロになるために」大都会へ行くよーな職種じゃないと思うのですよ、「詩人」ってのは。

 大都会なら、ローリーの詩集を出版してくれる会社があるかもしれない。
 でもモノが「詩」だから、小説や漫画とちがって、出版してもらったからといって、それで食べていけるとは思えないんだよなあ。小説家や漫画家が「職業」として成立しつづけるために、都会に住む方が有利なのはわかるんだけど、詩人はまず「職業」として成り立ちにくいから、どこに住んでいても大差ない気がする。
 作品を売り込むためだけなら、その都度上京すればいいわけだし。受注だけ都会で取って、地方で生産すればいい。
 商業的意味のある職種で大成することを「夢」として、上京するのはわかる。
 でも、どうあがいたって「職業」として成り立たないだろう分野なのに、「とにかく、夢を追うなら大都会!」という思考回路はどうなの?

 わたしには、最後の唐突なローリーの旅立ちが、「夢を追うために大都会へ行く」という、アーティストもののお約束に思えてしまう。

 でもソレ、変だから!
 わたしはお約束とかワンパターンとか大好きだけど、「詩人」という職種に至っては、変だから!

 本当に真摯に「詩を作る」ことを考えているなら、今いる場所でがんばることだと思うのよ。
 しかも、ゴールドビーチはこれで完全にハッピーエンドじゃない。高校移転計画がなくなっただけで、街が完全に昔のような輝きを取り戻したわけじゃない。「これから」がんばるためにGBC財団が設立されたわけでしょ。
 それらのことを全部投げ出すのは無責任すぎない?
 闇雲に都会に行ったって、どーなる職種じゃないのに。ミュージシャンとかじゃないんだから。

 なんつーか最後の最後で。

 ローリーってやっぱ、どっか抜けてる?

 と思えてしまうから、こまるのよう。現実の見えていないおバカさんに見えるのがつらいのよ。

 なんで「詩人」なんだろう。
 ミュージシャンじゃダメだったのか? 作詞作曲彼がやってます、てことなら、シルヴィアの歌で「在りし日の恋」の再現もOKだし、自主制作CDのために借金を抱えて、ストリートでCD売ってる、ということにしたって、なんの問題もなかったのに。
 ミュージシャンなら、最後にNYに旅立ってくれて、なんの問題もないのに。

 「詩人」だから、すべてがまぬけになる……。

 それとも、わたしが知らないだけで、ミュージシャンも詩人も同じなのかな。
 都会へ行けばビッグになれるのかな。
 詩集が全米ベストセラーになって、一生生活に困らないとか、そーゆーことがアメリカではふつーにあるのかな。

 あ、わかった。
 NYには「詩人の会」とかがあるんだわ。詩人のコミュニティがあって、そこで詩人同士切磋琢磨して影響しあっていくのね。
 商業的成功とは関係なく、ただいい詩を書くためだけに。昔の文筆家や画家のサロンみたいなとこ。

 地方都市にいるから、いい詩を書けない。同志がいないから向上できない。……なんて言っている人は、たとえ都会に出たっていい詩は書けないと思っちゃうのは、わたしが世間知らずだからかな。

 ゴールドビーチでローリーの居場所がないくらい、完全になにもかも終わっていれば、旅立つのはアリだと思うけど。「これから」ってことになってるからなあ。しかも、もともと彼が首謀者みたいなもんだし。それを投げ出すのは無責任に映るんだよなあ。
 しかも理由が「詩」だとなあ。とほほ。

 ゴールドビーチでがんばって生きながら、いい詩を書いていく、とゆーのでは、何故いけなかったのだろう。
 そして、イケコが大好きな(笑)インターネットで、ローリーのポエムサイトが口コミで人気になり、超大手企業から詩集を出版するよーになる、とかでもいいだろうに。

 そこまで考えず、「アーティストもののお約束」をやりたかっただけに見えるのがかなしい。
 そして、タイトルにある「愛を売るのは」云々のこっ恥ずかしい台詞を言わせたかっただけなんだろうなあ、と思えることが。

 「詩人」というのが謎だ。
 使い方を、微妙にまちがっている気がして。


 まっつの顔を見に行こう。

 と、向かった先は、ムラ@休演日ではなくていつもの映画館。

 やーっぱ小雪って、まっつに似てるよねえ?
 『ALWAYS 三丁目の夕日』を見て、気持ちよく泣いてきました。かなりあざとい演出してるし(笑)、それゆえのお約束満載、加えてスローテンポというてんこ盛りな「感動作品」なんだけど、たのしめる映画ですよ。「感動作品」という「お約束」に反感持たない人にはおすすめ。
 「赤の他人なんだからな」のあのダメ男と少年の将来について、「5年もすれば下克上するんぢゃないかな(にやり)」なんて、腐ったことはちらりとすら考えませんでしたよ。考えてませんってば。
 いやあ、いい話だったよ、『ALWAYS 三丁目の夕日』。

 なんてったって。

 巨大スクリーンいっぱいにひろがる、まっつの顔。(注・小雪さんです)

 いいですねえ。
 幸福ですねえ。

 そして、思うんです。
 小雪の方が、まっつより肩幅あるよな。とかね(笑)。

 
 でもって来年の花組『エンカレッジコンサート』ですが。

 これって、まっつ出るよね?

 ワーク・ショップがそのかなので、まっつはエンカレの方だよね?
 まっつだまっつだコンサートだ。

 まっつの歌が聴ける!

 と、出演者の発表もされていないのにときめいています。

 しかし、なんなのよあの日程。全部土日祝だなんて!
 チケット取れるのか、あたし?! おろおろおろ。今のチケ運で、観られるのぉ〜〜?
 そのころはもう、友会の期限も切れてるし。いやその、継続手続きはするつもりですがね、わしゃ無職のひきこもりヲタクじゃけん、審査が通るとも思えないのよ……以前入会したころは働いてたんだがな……ゲフンゲフン。

 そのかのワーク・ショップもうれしいしさー。チケット取れるかな〜〜。
 ダンス・パフォーマンスで主演がそのかだなんて、うれしすぎ。
 頼むよ、思いっきりかっこいーそのかが見たいよー。萌えたいよー。

 
 でもってさ。

 このワーク・ショップが、まっつだったら、どうだろう? と、想像してみるわけよ。

「第一部は芝居仕立て、第二部はショー形式とし、歌あり芝居ありのダンス・パフォーマンスを繰り広げます。」とある公演の主演が、まっつ。

 「ダンス・パフォーマンス」で真ん中に立つまっつ?

 ……ちょっと、想像がつかな……ゲフンゲフン。

 つい昨日欄の日記が、トップダンサーに見えない新公主演作の話なんかしてたりしてね。ダンスが下手だとかいうんじゃなくて、その、華とか色気とかの問題で……その……しどろもどろ。
 いや、『La Esperanza』だってラストのコンテストのダンスはちゃんと素敵だったけど、冒頭の地味さにくらくらしてたからさ……えーと。

 いつか、素敵な歌満載のミュージカルでバウ主演してくれることを夢見て、今はエンカレをたのしみにしていますわ。
 あ、もちろんわたしは、まっつのダンスも大好きだけど。

 てゆーかエンカレ、ほんとに出るんだろーな?
 待ってるよ、吉報を。


 知りたいことがあったんだ。

 舞台を見ていてね、「時が止まる瞬間」てのがあるんだよ。
 ふつーに時間は流れているし、べつにストップモーションの演技をしているわけではなくて。
 見ているわたしの側で、時が止まるの。テレビや映画の演出みたいに。
 そう、感じてしまうの。

 去年観た、花組新人公演『La Esperanza』で、主人公ふたりが恋に落ちる瞬間、時が止まって見えた。

 それは、わたしの問題だと思っていたのね。
 わたしが、そう見た、感じただけのことだと。

 でも、それからずいぶん経ってから。
 わたしはふらふらと、1冊の雑誌を買った。
 報知グラフ『宝塚ファンタジー 新人公演の主役たち&舞台』とかゆー雑誌。
 あたしゃ、キリがないから雑誌とか買わない人だし、「新公主役特集」で2100円つーのは発行部数少なそうだなとか、最初はスルーしてたのよ。
 いそいそ買ってるkineさんのことを、感心して眺めていたわ。kineさん、若い子好きよねえ。ほほほ。……みたいな。

 でもあるとき。

 表紙に、まっつが載っていることに気づいてしまったの。

 雑誌の表紙に、まっつ!
 中にインタビューが載っていることぐらい、それほどレアでもないが、表紙はレアだろう。てゆーか、最初で最後かもしれないじゃん!(不吉なことを言うのはやめましょう)

 ふらふらと、買ってましたよ。表紙のために。
 中なんか、きっとほとんど読まないことがわかっているのに。1度眺めたらそれで終わりだろうに。

 えー、それがいつだったかな。
 雑誌が発売されて、何ヶ月も経ったあとでした。だって、プレゼントの応募期限、過ぎてたし。まっつ……同期ショットに応募したかったよ……どーせはずれるにしても。

 同期3人、まっつ、そのか、あすかの3人で写っている写真が、すごくよくてね。
 まっつがめちゃ美人のおねいさんなのよ!
 なんつーかこー、「可憐?」て感じでさ。(何故語尾が上がる?)
 あすかちゃんもかわいいしさー。そのかは微妙な写りなんだけど。

 ああ、まっつ。こんなにきれーな女の子なのに、舞台ではアレなのかとか思うとさらに愛しくてねえ(笑)。上げてるのか落としてるのか、よくわからないファンモード語りですねえ。

 脱線しまくってるけど、その雑誌で。
 新公『La Esperanza』のことを語っているわけですよ、まつそのあすかが。

 そこであすかちゃんが言っているの。

「新人公演の遊園地の場面で、まっつがいて、夕陽のライトが当たってて“一人じゃダメだわ”と言って振り返った時に、もうとてもこの世のものとは思えないくらい綺麗な光景が見えたんです」

 舞台をやっていると、たまに起こるんだって。「奇跡みたいにものすごいキラキラした綺麗な風景が見える時がある」んだって。

 この記事を読んだとき、それがなんのことかわかった。

 時が止まって見えた、あの瞬間のことだ。

 カルロスとミルバ。
 それまで息の合う友だち同士だったふたりが、恋に落ちる瞬間。いや、恋に気づく瞬間。

 劇的な愛の言葉なんかなくて。
 ただ、気づくだけ。
 ふたりが、共に生きる運命に。

 そうか、あたりまえのことだったんだ。
 すべてが、ここへたどりつくための伏線だったんだ。

 そして、答えに気づいたふたりは、そっと身を寄せて去っていく。

 時が止まって見えた。
 それは、わたしの問題だと思っていた。わたしがたまたまそう感じただけのことだって。
 (当時の日記。http://diarynote.jp/d/22804/20040901.html

 でも、そうじゃなかったんだ。
 演じているあすかちゃんもまた、同じ(と言っては語弊があるが)モノを見ていたんだ。
 「この世のものとは思えないくらい綺麗な光景」を。

 役者自身がトリップしてしまうほどの、一瞬。
 そりゃあ、一観客でしかないわたしも、あちらの世界へ連れて行かれるはずさ。

 
 だからこそ、知りたかったんだ。
 役者が別世界を見、一観客であったわたしが別世界を見た、あの瞬間。

 あの瞬間は、「映像」に残るのか?

 『La Esperanza』新人公演の放送を見た。
 知りたかったんだよ。
 映像には、どこまで記録することが出来るのか。

 
 答えは、「NO」だった。

 映像には、なかった。
 あすかちゃんが見たという「この世のものとは思えないくらい綺麗な光景」も、わたしが見た「時の止まったふたり」もなかった。
 ふつうのテレビドラマのように、主人公とヒロインが台詞を言うたびにカットが変わり、それぞれのバストアップが映っているのみだった。

 そっか……ただの会話シーンになっちゃうんだ。

 それでも、「いい雰囲気だな」とは思ってもらえるんだろうけど。
 この瞬間にふたりが、世界が変わるほどの恋に落ちているなんて、伝わりようがないなと思った。

 
 かなしかった。

 
 「舞台」は「消える芸術」なんだ。
 知ってはいたけど。

 あのとき見た美しいモノは、どこにもないんだ。あの一瞬で、消えてしまうんだ。
 「人類の叡智」なんてこんなもんだ。なんの力もないんだ。

 そう思うことはかなしいよ。

 そして、よりいっそう、消えてしまう美しいモノを、愛しいと思うよ。

 
 新公『La Esperanza』、すばらしいラヴストーリーだった。周囲はかなり学芸会テイストだったんだけど(笑)、主役のふたりだけがぶっちぎりのうまさで作品を力技で創り上げていた。
 なんといっても、ミルバ@遠野あすかがすばらしい。このさりげない物語を、ミルバという孤独な少女が次の一歩を踏み出すまでの物語として、完成させている。
 ナマで観たときはミルバに圧倒されていたけれど、てゆーか、ぶっちゃけ主役はミルバにしか見えなかったんだけど。
 ビデオは偉大だねえ。カルロスもいちいちアップにしてくれるから、ちゃんと主役だってわかるよ(笑)。わたしがミルバばっか見てしまっていたところも、ストーリー上必要なところはカルロスを映してくれてるわ。

 カメラアングルに不満はいろいろあれど、「うなずくカルロス」がアップで映っているので、もういいや。
 「一人じゃダメだわ」と言って振り返ったミルバに対し、「そうだな」とうなずくカルロス。すべてを知った、理解した、深い表情。そして、ふたりで歌い出すまでのわずかな間。

 かみさまがおりてきたしゅんかんのふたり。

 カルロスが、ものごっつーオトコマエな一瞬(笑)。
 この一瞬だけで、「カルロス」という男を愛せる。ミルバと共に、恋に落ちることが出来る。

 フィクションによるカタルシス。わたしではない誰かの人生を追体験できる瞬間。
 わたしはミルバだったの。
 「一人じゃダメだわ」と振り返って、この世のものとは思えないくらい綺麗な光景を見たの。
 そして、彼を愛していることに気づいたの。彼もまた、わたしを愛していることに気づいたの。

 感動だった……いや、快感だった。
 この快感があるから、恍惚があるから、わたしは舞台を観に行くんだと思う。

 あのときわたしが恋したカルロスは、まっつだったんだよなあ。
 と、今になってなーんかしみじみ、思う(笑)。


 初見のときは、いちばん後ろのいちばん端っこ。
 2回目のときは、最前列センター。

 この両極端な座席で、いちばん感想に変化があったことは。

 かしちゃんの、脚の長さ。

 雪バウ公演『DAYTIME HUSTLER』の話。

 いやあ、最初に観たときね。
 オープニング、コーラスする若者たちの中にいつの間にかかしちゃんが混ざっていて、パッとライトが当たって登場するその瞬間。

 ジーパンはやめてええぇぇえっ!!

 と、叫んだもの、心の中で。

 もうね、はらはらしてね。
 ローライズのジーパンなんて、なんでそんな、脚の短さが強調される服を着るのかと。
 イケてない教師の役だからか? かっこわるい設定なのか? でもでも、タカラヅカなんだから夢が見たいのよ、短足設定なんか嫌よ嫌、早く衣装替えて〜〜っ。

 人は善いけど外見には構っていない鈍くさい教師、ローリー@かしげが、イケメンホストに変身するところを、心からたのしみました。

 コスプレ当然のホストクラブ!
 よかった、私服のナチュラル系じゃなくて!!

「いちばん似合う服」と称して、黒タキで現れたときは、心から拍手喝采しました。

 そうよっ、かしちゃんはこーゆーのが似合うのよーっ。
 王子様なんだからぁあ!!

 今まで、かしちゃんの脚の長さなんて気にしたことなかっただけに、びっくりしました。
 そうか、そんなところに弱点のある人だったのね、かっしー……。

 ことさらにコスプレしてなくても、スーツだと気にならないの。ただ、ジーパンはダメ。勘弁。
 しかもジーパンなのに、ありえないハイヒール履いてるし。オシャレでジーパン穿いてる設定じゃないよね……だったらあんな靴履かないよね……しくしく。

 そんなふーに、ローリーせんせが似合わないジーパン姿でうろうろするたび、はらはらし通しだった、1回目の観劇。バウホールのてっぺんからの視界。

 ところが2回目。
 最前列センターで観たときは、脚の長さもジーパンも、まったく気にならなかった。

 真下から見上げているわけだし、そもそも足首見えないし。

 そうか……見下ろす視界だと、脚が短く見えちゃうわけだ。
 かしちゃんのせいじゃない。せいじゃ……ない……よ、ね?

 でもやっぱり、ジーンズ姿はちょっとつらかったよ、かしちゃん(苦笑)。

 
 それはともかく、よかったねかしちゃん。
 バウ主演3作目にして、はじめてまともな作品!

 『ささら笹舟』も『アメパイ』も観に行ったけど、どっちもひどかったからなー、作品(笑)。

 冴えない教師が、イケメンホストに変身! そのホスト業で殺人事件に巻き込まれる! てのは、2時間ドラマでありそーな、ありがち満載でじつにいいですよ。

 うっかり壮くんトニーのことを先に語ってしまったので(真っ先に語りたいことが壮トニーって?!)、負けじとローリー@かっしーを語りましょう。

 正直、つっこみたいことだらけです、ローリーせんせ(笑)。

 元不良で詩人で熱血教師で、実はイケメンで、という設定のものすごさ。
 とりあえず、いちばんわたし的につっみこたいのは「元不良」ですわね。
 なんつーか、不良に見えないんですよ。

 あの人畜無害の顔を見ていると、「おとーさんだってな、若いころはなかなかワルだったんだぞ」と息子の前で虚勢を張っているヘタレさんのように聞こえてしまいます。
 ホストクラブに紹介してくれた、生徒のジョニー@らぎくんが言う通り、「女性にとって、男はワルの方が人気」だから、経歴に無理から付け加えてみました☆な感じがするのね。

 元不良設定だけは、苦笑しちゃうからない方がいいなあ、わたし的に。

「彼女が初恋だったの?」
「俺は14のころから、バーの女たちと遊んでたんだ」
 と続く会話も、すごくすごーく、くすぐったいというか、「武勇伝のつもりかお前。んな嘘つく方が恥ずかしいってばよ!」な感じがしてね……なんか赤面ものでした、ローリー青年。

 えーと。
 かしちゃんの「新しい魅力」発掘のためなのかしら、小池せんせ。こんなどーでもいい設定をわざわざ作っているのは。
 「ほんとはワルな貴城けい」?
 今までの「王子様」「貴公子」以外のセクスィな男の魅力を示そうとした?

 そーゆー意図があったのかもしれないけど、わたしにはただただもー、くすぐったくて恥ずかしくて、いちいち身悶えてしまった。

 あー、恥ずかしい。
 たぶん、「いちいち台詞で宣伝する」から、恥ずかしいんだと思う。
 本人が言うとかっこわるいので、台詞ではなく流れでわからせるとか、あるいは他の人物に言わせるべきだったんだ。
 ワルに見えない「いい人」キャラが「昔は俺もワルでさー、女泣かせたんだよなァ」とか言い出しても、なまぬるい笑いが返るだけでしょ? なにソレ、かっこいいつもり? みたいな。

 「移転推進派」のおばさま方(ただいるだけだった、あの人たちね)に、
「あのローレンスって教師、今はあんなふーにやぼったい格好でおとなしいふりしてるけど、昔は不良だったのよ」
「知ってる。女関係も派手で……泣かされた子も多かったのよね」
「だって、かっこよかったし……」
「ちょっと投げやりな感じが素敵だったわよね」
 とか勢いよく語らせたあとで、はっとして、
「そんな素性の教師は問題よね」
「そうよ、今はあんなにもっさりしちゃってるし。じゃなくて、理事会に逆らう不穏分子だもの、排除すべきだわ」
 とかゆーふーに、あわてて非難する会話に持っていく、とか。
 彼の昔を知る女性たちが、ついつい彼を誉めそうになって、それを撤回して非難する、てのがポイント。
 これなら、今がどんなに「安全パイ」でも、昔は「危険な男」だったと印象づけられるかなっと。

 
 そーいや基本設定でひとつ疑問があるんだけど、ホストに変身する前のローリーは「冴えない教師」でいいのよね?
 生徒に人気はあるようだけど、べつに彼に恋している女生徒もいないようだし、ほんとにただの「いい先生」「みんなのアニキ」として慕われているのよね?
 「道を歩くだけで誰もが見とれる美青年」とか、「視線を合わせると腰砕けになっちゃう女性続出のセクスィガイ」とかゆー、「ジゴロの素質アリまくりな男」という設定じゃないよね?
 だからこそ、ハスラーに「変身」するギャップをたのしむのよね?

 かっしーは「基本設定」の判断が難しい人なんだよなあ。
 なにしろ素が美形でしょ? 「設定」が読みにくいのよ。『アメパイ』のとき、イケてない男の役だっての、マジで知らずに見ていたからなあ。
 そして、素がいい人キャラでしょ? 安全パイというか、「私たち、いいお友だちでいましょうね」キャラだったりするから。
 ますます混乱するのね。「基本設定」が読めなくて。
 美形なのに、ソレを生かし切れていない人だから。

 今回も、ジーパン姿で度肝を抜いてくれたからなぁ。
 せっかく美形なのに、自分に合う服をわかっていないダサい男→さえない教師、という設定だと受け取っていいんだよね?
 

 壮一帆に足りないモノはなんだろう。

 なんか今回本気で、考え込んでしまった。

 雪組バウ公演『DAYTIME HUSTLER』にて。

 今回の壮くんの役どころは、実にわたし好みだ。
 高校時代、親友に女を取られた過去のある優等生。勝ち続けることで自尊心を満たす、若き政治家。だが次第に、勝ち続けなければアイデンティティを保てなくなってしまった。人生がきしみはじめていたところに、かつて自分から女を取っていった親友が現れ、今度もまた彼から婚約者を奪っていく。己れの悪行のために社会的地位を、依存していたドラッグのために精神を、破壊されなにもかも失う男。
 これだけ好みのキャラクタを演じている、わたし好みの顔をした美青年。ええわたし、壮くんの顔好きですよ。カエル系好きなんですってば。たかことかまぁくんとか、その系統の顔は好きです。
 なのに何故、こうまで響いてこないんだろう……。
 壮くん、すっごくがんばってるのになー。よくやった、と肩を叩いてあげたくなるのになー。

 せっかくのクライマックスなのに、とても客観的に、とても引いたところから、「壮一帆に足りないモノはなんだろう」と真面目に考え込んでいる自分に気づいたよ。

 演技は「好み」による部分が大きい。ある人にとって「演技巧者」であっても、ある人にとっては「大根役者」であったりもする。点数の出るモノではないし、正解があるわけでもない。だからこそ芝居はおもしろい。
 わたしにとって、壮くんの演技は「好みではない」ということなんだろうか。ここまで彼の演技が響いてこないっちゅーのは。
 好みの役だから、オペラピン取りでずっと見てたのになー、クライマックス。
 座席が悪かったんだろうか。サバキで飛び込んだ、いちばん後ろの端っこ席。後ろ過ぎたから、彼の良さがわからなかったのか。
 つーことで、2回目の観劇、譲ってくださる「神」の出現で、まさかの最前列センターでじっくり壮くんを見た。
 苦悩するトニーくんが目の前。

 ……やっぱりなにも、響いてこない。

 うーん。
 わたしと壮一帆は、相当相性が悪いらしい。

 『DAYTIME HUSTLER』は、ふつうにおもしろい作品だ。
 壊れてもいないし、派手な見せ場を交えつつ、起承転結すっきり俗っぽくありがちに進んで終わる。下劣でもないし、高尚でもない。最高点はなにもなくても、すべてが平均点以上という気持ちいい作品。
 ファミ通風クロレビなら、ゴールドかシルバーかってとこ? オール8とか、7788とかそのへん? いや、浜村通信だけは高得点つけそうだなあ。(ファミ通読者にしかわかんないよーなことを)

 元不良で詩人で高校教師という、「そこまで詰め込まなくても」な設定のローレンス@かしげが、権力者+マフィアの利権絡みの高校移転に反対したため職を失い、借金返済のためにハスラー(エスコート・ホスト。昔ならジゴロ?)になる。
 縦軸が高校移転→跡地にカジノ建設、権力者+マフィア暗躍。
 横軸がローレンスの恋と青春物語。「青春」とか「初恋」とかいう単語連呼しまくりで、けっこー恥ずかしいっすよ(笑)。

 この「ふつーにたのしい作品」を、「ふつー以上」にたのしむためには、主要俳優3人との相性が大きく関係してくるんだなあと思った。

 いちばんのクライマックスである洞窟のシーンで、トニーの演技に引いていては、「ふつー以上」にたのしむことはできないんだよなあ。とほほ。

 トニーはいい役だから、誰が演じても様になると思う。各組の新公主演経験者でこの役がはまらないと思うのは、ごめん、タニちゃんと壮くんぐらいだ。
 ふたりの共通項はなんだろう。「陰」のなさかな。現実離れした美貌かな。

 今回、今まででいちばん壮くんを見ていた気がする。

 サバキで入った初見のときに、これほど好みの役を演じているのに、誰が演じても様になるだろう感情移入できるだろう役であるにもかかわらず、なんの感動も得られなかったことにショックを受けた。
 だから次の前補助センター席で、リベンジする気満々でのぞんだ。今度こそ、トニーを堪能するぞと。

 おかげで、トニー主人公だよ、2回目の観劇時は(笑)。トニーが出てきたら、彼しか見てないもん。(わたしはかしちゃんファンですってば)

 それでも、ダメだったんだよね。
 トニーには、なんの感動も得られなかった。

 ただ、壮くんがすごーくきちんと演じていることはわかった。
 表情の移り変わりとか、ちょっとした動作とか。細かく作ってあるんだなと。

 真面目に作ってあるから、それでいいのかもしれない。
 壮一帆に足りないモノは……と本気で考えて、たどりついた答えは「温度と演技力」(思わず小声)だったんだけど、それらを懸命に補っていることはわかった。
 温度は低くても、熱演している。
 演技力はなくても、真面目に作り込んでいる。
 才能のある人なら本能だけでやってしまえることを、ソレに欠けているからこそ、懸命に補っている姿は、ちょっとツボだった。

 あれほど恵まれた容姿で、これほどオイシイ役をもらって、温度と演技力のある人なら「発散する」だけで場をかっさらえるのに。
 壮くんてば、必死に熱演して、計算式が見えるにしろ作り込んだ動きをすることで、懸命に補っているのよ。

 ……かわいいかも。

 壮くんには「陰」がない、とわたしは思っている。
 「影」じゃなくて、「陰」。日陰とか木陰とかいう、陰。
 この世のすべてのモノに、「陰」はある。なにもない白い床に白いボールを置いても、「陰」はできる。
 デッサンの授業でまず、習うよね。光源と陰について。
 素人の描く絵で、わりとうまく描けているのに、どっかなんか変だなあ、という場合、「光源と陰」が変だったりする場合が往々にしてある。
 光がどこにあるのか。それによって陰がどこにできるのか。それには法則があるから、無視して描いた絵はどーしてもおさまりの悪い歪なモノになる。
 壮くんには「陰」がない。
 すべてにまんべんなく光が満ち、とても明るく美しい。でも、どこか歪。
 たとえ太陽の真下にいたって、陰はできるはずなのに。それがないなんて、変。
 落ち着かない。

 わたしゃ腐女子だから、ふつーならトニーやらローリーに対し、「欲しかったのは間にいた女じゃなくて、男の方だろ。お前が欲しかったのは“あの男が愛している”女だよ」と持っていったはずなんだが、ソレもナシ。
 『あの日みた夢に』だっけ、「設定と脚本だけ見たらホモ」なのに、実際の舞台を観たらそんなものはどこにもなかった。
 今回も『あの日みた夢に』も、原因はひとつ。壮一帆。
 壮くんが、その陰のないみょーな光で腐女子妄想をぶち壊していく(笑)。

 それも、得がたい個性だ、壮くん。
 正直なとこ、トニーは壮くん以外の俳優で観たかったけれど、彼とタニちゃん以外なら誰でもよかったと思うけど、それでも、彼でよかったのかなと思う。

 熱演とすべっている演技が、ここまでやってもなお陰のできなさ具合が、ちょっとツボだ。
 つついてやりたくなる。
 かわいいなあ、壮くん。

 あのみょーな庇のあるオールバックと、おとーさんが持っていそうなセカンドバッグごと、愛しい(笑)。

 壮一帆に足りないモノ。
 それすら、彼の個性であり、魅力なのだろう。


 えー、あちこちでイタイまっつファンの烙印を押されている緑野です。
 いつの間にそんなことになってしまったのだろー。
 ちょっと会う人会う人に、もれなくまっつの話をしているだけなのに。

 先日ここで「まっつの画像は持ってない」と書いたら、まっつ画像を送ってくれた方がいらっしゃいました〜。きゃあああ、ありがとーありがとー。

 つーことで今回は、機嫌良くまっつ語り行きます! まだ『パレルモ』本編も語ってないのにね……今日は2回目のかしちゃんバウだったのにね……先にまっつ行きますか行きますよ(笑)。

 『落陽のパレルモ』の、まっつさん、アレ、何歳の役ですか?

 なんか、スーパー若作りしてますけどっ?!

 センターパーツですよ。
 オサコンで本人が言ってたけど、若作りしたいときは、センターパーツなんですって? かわいこちゃんぶるときの必殺技センターパーツ。
 その奥の手を出してきて、必死にかわいい声出して、かわいい演技して。
 ねえアレ、いくつなんですか?

「演じているのがまっつであることとか、そう見えるかどうかは別問題として、脚本と設定だけを見て判断すると……17歳?」

 と、ドリーさん。

 17歳! スウィート・セブンティーンですか!!

 「演じているのがまっつであること」とか「そう見えるかどうかは別問題」とか、幾重にも歯に衣を着せつつ、17歳。

 いやあ、いいです、いいですよドリーさん。

 わたしも思ってましたから!!
 10代だよね、ジョルジォ@まっつ。きっと。

 じゅうななさいの、まっつ……ぽわわわん。
 かわいい。
 かわいいぢゃないかっっ。鼻息。

 七星きらちゃんと兄弟役だと聞いていたから、兄妹だと思い込んでいたら、なんと、七星きらちゃんのが姉。まっつが弟。何故? 学年も年齢もまっつの方が上でしょう? それでもわざわざ、まっつが弟?
 景子先生、まっつのセンターパーツが見たかったですか?(同志? 同志?!)←落ち着きなさい。

 マチルダお嬢様@彩音ちゃんに片想いのヘタレっ子。
 所詮身分違い……以前に、カケラも相手にされていなさそうなところが、さらに素敵です。

 マチルダお嬢様が誘拐されたとき、どーしてジョルジォくんは舞台上にいてくれなかったのでしょう……。
 きっとものごっつー派手に怒って憤って、悔やんで泣き崩れてくれることでしょうに。
 ジョルジォくん、マチルダお嬢様のためになにかがんばったのかしら、舞台の外で。政治絡みの事件だから、軍人さんやら政府筋の人に「どーなってるんですか」と食い下がって怒鳴られたり、してたのかしら。
 なんにもできず、部屋で膝を抱えて泣いていたのかしら。

 よい家庭で素直に育った、気だての優しい男の子。
 頭もいいだろうし、なにより歌が得意(笑)。
 そーゆー、なにげないふつーぶりが、ほっこりさせてくれます。

 なにが素直かっつーと、ヴィットリオ@オサ様がカヴァーレ公爵家に最初に現れたとき。

 真ん中で演説ぶってるヴィットリオに、ジョルジォくんてばわっかりやすく傾倒してるのね。
 目をきらきらさせて、話を聞いて、いちいち微笑んでうなずいてみたり。誰も見てない、君に聞いてないよ状態なのに。

 そっかぁ、ヴィットリオのこと、好きなんだぁ。うんうん、いい男だもんね。言ってることかっこいいもんね。少年があこがれるに相応しいおにーさんだよねえ。

 ただまあ、そのめちゃくちゃ出番が少ないので、さみしいですけどね……。

 ジョルジォくん、いくつの設定なんですかね。
 どなたかご存じの方、是非教えてください。

 少年まっつ……ふふふ、ふふ(謎の笑い)。

 
 『ASIAN WINDS!』は、危惧したよーな「金返せ!」ショーではありませんでした。
 「アジア」でなんでよりによって昭和歌謡曲なのかはさっぱりわかりませんが。
 「タカラヅカ」と「昭和」はいちばん合うジャンルなんで、そのへんは納得してます。
 「昭和」を「古い、ダサい」とするか、「レトロでなつかしい」とするかが、演出家の腕でしょう。

 まあなにはともあれ、わたしがいちばんたのしみにしていたのは、「山寺の和尚さん」@まっつです。
 てゆーか、ハゲヅラ+袈裟!

 「山寺の和尚さん」というからには、ハゲヅラだよね? 袈裟着て踊るんだよね?

 わくわくっ。

 他に誰が出るか知らないが(相変わらず予備知識ナシ。「和尚さん」をやるっつーのは、某まっつファン仲間から聞いた)、おしょーさんをやるなら、まっつに敵ナシ!! と、信じ切ってたからなっ。

 和尚コスプレが似合うのって誰? 今のタカラヅカの、路線(……路線、だよね、いちおー?)でいちばん似合うのって誰よ?
 まっつでしょ? まっつ以外にいないよねっ?!

 鼻息。
 まっつの勝利を確信して!

 ガッツポーズで乗り込んだ花組初日。
 席はいつもの下手最前列!

 
 ……ハゲヅラ+袈裟ちゃうやん!!

 ふつーにスーツ姿やん!! や、信じられないセンスのベスト着込んでるけど!

 まっつはキメキメでした。微妙過ぎて疑問符とばしちゃう、あの投げちっすも健在でした。
 歌が「山寺の和尚さん」であっても、花男たちはキザりまくるのです。

 ハゲヅラ+袈裟でなかったのは残念だけど、スーツでキザるまっつもとても素敵でした。無表情なのがたまりません(セクスィなお顔、なのかしら)。

 えーと、6人いたのかな?
 わたしは、まっつとみわっち以外目に入らなかったので、他に誰がおしょーさんしていたのかわかりません。

 そのかもいたんですってね……そのかに気づかなかった、つったら仲間内で責められましたよ……だってだって、わたしの席からだと上手は見にくいんですってば。下手〜センターまででわたしの視界は終わるのよ。
 そして、まっつが下手にいた場合、そこで視界が止まるし。

 あー、1回をのぞいて、あとは全部、下手はまっつポジでした。

 まっつがいつも目の前。至福のとき。

 で必然的に、そのかが上手。そのかは遠かった……ひたすら、遠かったよ……。

 たのんますよ、まっつとそのかは並んでいてくださいよ。一緒に見られないじゃないですか。

 ……あれ? もう文字数がない?
 まだチャイナまっつの話も、みわっち姐さんとの絡みの話も書いてないのに?! 謎のアジア・コスプレの数々の話も、海軍士官の話もしてないのに?
 だらだら書きすぎた?

 ま、いいや。唐突に終わる。

 
 P.S. わたしの今の携帯電話の待ち受け画像は、「そのまつ」ですわん♪


「わたしにこの芝居を見せろ!」
 とじたばたしている、全ツ『銀の狼』の感想、その4。

 コム姫の美しさを語りましょう。

 シルバ@コムの、美しいことといったら!
 コムちゃんはやっぱり、ふつーの人じゃない方がハマるねっ。

 記憶喪失の殺し屋だよ? 嘆きの銀髪だよ?
 なにその設定、ありえない(笑)。

 妻子アリのふつーの外科医だったなんて、そっちの方が嘘っぽいほど、トンデモ設定がハマるってのは、どーゆーことですか(笑)。

 見たかった朝海ひかるですよ。
 この地球とちがう重力の星にいるかのような、美しい生物。
 硬質で、無機質で。でもたしかに感情があって。

 「記憶がない」ことを悩んでいるらしいけど、たぶんソレ、チガウから。ふつーの人ほど気に病んでないから。
 てゆーか、「記憶がない」ことを悩んでいるのはきっと、

「俺はふつーの人間だろうか。チガウような気がする。人間じゃないなら、なんだろう。ちょっとこまるな」

 と思ってしまうので、ソレを打ち消すために記憶を求めているのよ。
 人間としての「記憶」があれば、安心できるから。

 とまあ、それくらい「別の生き物」ですよ、シルバ@コム姫。

 シルバはとても自己完結しているので、レイ@水の愛に気づかない。カケラも。

 そして、ミレイユ@まーちゃんとの関係も、とても硬質だ。

 正直なところ、わたしにはシルバが最後ミレイユと手を取り合うのがわからない。
 初演を観たときは不思議に思わなかったんだが、今回のシルバは謎だ。

 だってコム姫、誰も愛してないし。(役名で言いましょう、誤解を受けます)

 コムちゃんは恋愛濃度の低い人だけど、今回はそれがさらに際立った感じ。
 クールさがより純粋に抽出されたみたい。

 あまりにも「銀の狼」としてのシルバが美しすぎて、医師ミシェルとしての姿が見えない。
 あんな大きな子どものいるおとーさんに見えませんて(笑)。

 だから、彼の語る人生も苦悩も、どこか空々しい。

 それは、『銀の狼』という芝居的には失敗なのかもしれない。
 愛する家族のために復讐するのも、同じ闇を抱いた女ミレイユとの愛(もしくはソレに似たモノ)も、なんだかチガウんだ。
 脚本に書いてあるモノ、初演でたしかにあったモノが、現在の舞台にはない。
 失敗なのかもしれない。脚本に忠実、初演に忠実、という意味では。

 朝海ひかるが、物語を変えてしまった。

 人間ミシェルは影を潜め、銀の狼シルバの方が強く網膜に焼き付く。
 人間の記憶を持たず、たしかなものを持たず、居場所を持たないままに彷徨う、孤独な狼。

 感情を持たない美しいアンドロイドが、人間の真似をして苦悩し、真実を求めているような。

 人間の真似だから、人間の苦悩より浅いとか楽だとかいう意味じゃないの。
 アンドロイドの苦悩が、人間以下だなんて決めつける気はない。
 「殺された妻子を思って嘆く人間の真似」をしているアンドロイドが、そうまでして人間の真似をしている事実にこそ、深い絶望を視るわ。

 コム姫のシルバには、そんなせつなさがあって。

 目が、離せない。

 
 ミレイユ@まーちゃんは、さすがの美しさ。背筋の伸びた、聡明な女性。
 大人の女っていいなあ。
 強い人だからこそ、手を差しのべたくなるよね。甘えてもいいんだよ、頼ってもいいんだよ、って。
 ジャンルイ@キムが、「利用するだけ」でなく、ほんとうは愛していた、というのも納得の女性ですよ、ミレイユ。

 まーちゃんはどんどんいい女になる。
 可憐な少女も、毅然とした大人の女性も、妖艶な悪女も、なんでもできちゃうんだもの。
 キャラ紹介をするなら「舞風りら(妖精属)」って書かなきゃね。彼女の属性は「妖精」よ、まちがいなく。
 コムちゃんのお嫁さんは、まーちゃんでなきゃダメだ。心からお似合いのふたりだと思う。

 が。
 今回は、まーちゃんをもってしても、「恋愛」とか「相手役」に見えなかったなー。
 「同志」には見えたけれど。

 なにしろコム姫、今回ぶっちぎりでヒロインだからなー(笑)。

 男も女も、全員シルバに対して「攻」になってたもん(笑)。
 ミレイユ×シルバ、レイ×シルバ、とかゆーふーになー。

 だから作品的には、チガウのかも。失敗なのかも。シルバはアンドロイドではなく、人間でなきゃならないのだろうし。
 ミレイユと手を取り合って終わらなければならないのだし。

 でも、それはどーでもいいんだ。
 初演の『銀の狼』は名作で、それとはまったく別物だけど、今回の『銀の狼』も名作。

 なによりも、タイトルロールだと思う。
 「銀の狼」という名の殺し屋。ふつーの人間とはチガウ存在。
 それがはてしなく際立っている。

 まちがってこの地球に降りてしまった、別の世界から来た天使。
 人間の感情は持っていないけれど、人間の感情を理解したい、得たいと思って苦悩している美しいひと。
 人間たちの欲望に、慟哭に、絶望に、添うようにして立つ黒衣の男。白銀の髪。
 彼はただ、そのようにして「在る」。

 美しい闇、美しい絶望。

 シルバ@コム姫の、温度を持たない美しさが、すべてを支配する。

 
 ところで。

 シルバは、他人から寄せられる愛には気づかないと思うけど、欲望には敏感だと思うのよ。

 ミレイユはシルバを愛していても、欲望を剥き出しにはしていない。だからあんなに、ふたりの間が硬質に見えてしまったのかなと思う。
 いつかミレイユが必死に身につけている鎧がはずれ、彼女の生身の欲望が剥き出しになったとき、シルバはソレに応えるかもしれない。

 ……見てみたい、シルバに身を投げ出すミレイユ。それを受け入れ、むさぼるシルバ。

 レイとシルバの関係がやたら色っぽいのは、レイが欲望をちらつかせているからだと思う。
 そしてシルバは、それに気づいている。
 愛には、カケラも気づいてないのにね。

 愛には気づかず、欲望だけに気づく。
 なんて残酷な狼。
 ひとの美しいモノには気づかず、醜いモノにだけ気づくなんて。
 誰だって、美しいところだけを見て欲しいと思っているのに。

 
 …………レイとシルバで、色っぽいモノを書きたくて仕方ないですな…………(笑)。


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