シュミで書いているこんなブログにも、好不調はあり、スランプというものが存在する。

 書きかけてPCに眠っているテキストは多々あれど(『A/L』とか『NEVER SLEEP』とか!)どーにも気分がノらないので、マメの話をしようと思う。

 マメ。
 芸名の読み方を実はよくわかっていない、花組のお気に入りの若手くん。
 ひゅうがくんだと信じること数年。実は今も信じている節がある……何故か。
 ひゅうがの方が耳障りがいいんだもん。アニメヲタクだった過去を持つ身には。
 ヒュウガと言えば小次郎で、ついでに『シュラト』だったりするもん。地味で真面目な学級委員タイプが大好物なわたしは、あのころヒュウガがお気に入りだったなぁ。そして今はまっつなんだよなあ(話飛躍しすぎ。誰もついてこられないだろー)。

 芸名の読みすらよくわかっていないからこそ、『Young Bloods!! 』で「サンコン」という看板抱えているのを見て「どっからサンコン?」と本気で首をかしげた。
 芸名が「さん」だから、「サンコン」か!! 人に言われるまで想像もしなかったっつの。

 未だに、名前はよくわからない。

 だが、舞台にいる彼のことはよーーっく愛でている。

 はっきりいって彼は、美形ではない。
 本名のマメちゃんがかわいー女の子だとか、そーゆー話ではなく、あくまでも芸名の、舞台人としての話ね。

 現代のタカラヅカ男役の美形基準からはわかりやすくはずれた、丸いフェイスライン。
 丸い目、丸いほっぺ、と、なにかと丸い顔の作り。
 華奢には見えない体格。

 タカラヅカの正統派美形というのは、美少年系フリルのブラウスと、総スパンラテン襟巻き衣装、両方着こなすことだと思っている。
 どっちかじゃダメだ。両方だ。

 マメは両方、「……できることなら、やめとけ? な?」と肩を叩いて語りかけたいよーなヴィジュアルの男だ。
 君には、他に似合うものがいくらでもある。サナトリウムの美少年みたいなフリルブラウスとタイツはやめとけ? 総スパンの襟巻きやら手ビレ脚ビレ付きラテン衣装もいたたまれないから、やめとけ? な? そんなもん似合う奴の方が変なんだから。
 ふつーの日本少年には、似合うわけないから。似合わなくて当然だから。

 と、ヅカ的美形ではないにもかかわらず。

 マメは、耽美OKの男なんだ。

 彼は、耽美世界を表現できる役者だ。
 外見はぜーんぜんっ、耽美ぢゃないのに。むしろ耽美を損なうくらいなのに。

 お笑いキャラ、喜劇役者として能力を発揮し、新公でも「笑わせてくれるはず」と観客が勝手に期待してマメが登場するだけですでに笑っている、という状況まで到達してしまった(これは観客が悪い。ひどいと思う)彼だが、ほんとのとこ、「笑い」だけが彼の持ち味ではない。
 舞台へのアクティヴさがお笑い芸人方面に結びついているだけで、それは彼の役者人生の一部でしかない。
 「演技が出来る」から、コメディやギャグができるだけで、それだけがすべてではないんだ。

 や、なにしろ花組だからマメが「演技が出来る」カテゴリだけど、よその組なら「ふつー」カテゴリぢゃないかとも危惧してはいるんだけど(笑)、ま、それは今は置いておく。花組の演技力の低さは、今語ることではナイ。(それでも花組ダイスキさ!)

 マメは演技が出来る。
 基本的な技術をとりあえずクリアしたうえで、もうひとつ。ひょっとしたらこれは天賦の才ってやつなのかもしれないけれど……彼には、毒がある。

 音楽学校という女子校を経て同じ面子で囲いの中で純粋培養されるせいか、タカラヅカの俳優たちはみな「いい人」は演じられても、「悪い人」が演じられない。
 「少年」は演じられても「大人の男」は演じられない。ましてや、「かっこいいおじさん」も演じられない。(かっこわるい中年なら、外見を作ることでまだなんとかできる)
 「少年」で「いい人」は、技術がなくても演じられるからだ。素の「幼稚さ」と「未熟さ」を出すだけで「若くてかわいいハンサム」程度なら演じられてしまうんだ。タカラヅカという舞台自体のマジックで。
 「幼稚」で「未熟」だから「純粋」で、「いい人」。
 たしかにソレはソレで魅力的な場合もあるがな。

 でも、舞台にいる若い男たち全員が「善良な少年」ばかりでは、物語にならない。
 役割があり、役を示す衣装があり、台詞がある「芝居」ですら、「善良な少年」たちは素のままいるだけで、仕事を果たせていないことが多い。
 同じ衣装を着、明確な役や台詞のないショーになると、もうどーしよーもない。みんな「善良な少年」。ひとりずつがんばっていることはわかるけれど、いや、ヅカの舞台でがんばっていない子なんかひとりもいないことはわかっているけれど、それにしたってみんな「自分」の枠の中だけであがいている。

 そんな十把一絡げのモブの若者たちの間で。

 マメがすこーんと前に出る。

 彼には、毒がある。
 「善良な少年」だけで終わらないアクがある。

 もちろん、マメもふつーに「善良な少年」を演じられるだろう。彼がもっと力を抜き、ただきれいに笑っていれば、勝手に「善良な少年」になるだろう。ヅカの男役ってそーゆーもん。
 素を出すだけでいい「善良な少年」に、「なにか」加えることで彼は「仕事」をはじめる。

 「毒」は持って生まれた才能かもしれない。
 なにをやっても「いい人」にしか見えない、悪役をやると「まぬけな人」になるジェンヌは、存在している。しかも、かなりの数。そーゆー持ち味の人が「毒」を出すには相当の技術が必要になる。
 マメが今の技術や経験で毒を持っていられるのは、やはり天賦の才なんだろうなとも思う。
 だが、それを外へ向かって出しているのは、マメ自身の意志であり力であるだろう。

 「毒」は、きれいなものとは限らないからだ。

 世の中の人の多くは、「毒」を嫌う。
 とくに、タカラヅカのような「現実を忘れてひととき夢を見ていたいの」てな目的で観劇する人の多いジャンルでは嫌われる。
 「きれいであること」「たのしいこと」「簡単であること」を求められる世界では、「毒」はない方がイイとゆーことになっている。
 「きれい、たのしい、簡単」を能動的に嫌う人はいないが、「毒」を本能的に能動的に攻撃的に嫌い、排除する人は一定数確実にいるからだ。
 その確実にいる人たちのために、「毒」は最初から排除しておく。
 タカラヅカにあっていい「毒」は、「悪役」だけだ。主人公サイドには絶対にあってはならない。

 「きれいなこと」を求められるタカラヅカで、それでも「毒」を表現する。
 天賦の才であったとしても、それはたしかに、マメの意志であり力であるだろう。

 『TUXEDO JAZZ』の後半、「ナイト・ジャズ」の赤ベストの男@マメを見て欲しい。

 あの、邪悪さ。

 白スーツの男@オサ様に迫り、嘲笑う男。
 醜いほどの禍々しさを解放している。

 彼がここまで思い切って「毒」を解放できるのは、「路線ではない」からだと思う。
 マメが路線男役ならば、やってはいけないことだと思うからだ。「毒」を嫌う人は多い。脇でならいくらいてもいいが、少しでも真ん中寄りになると拒絶反応を起こす人がいる。で、拒絶反応を起こす人の声は大きく強く、なんとも思わないから黙っている人を駆逐する勢いで叫ばれてしまう。危険危険。

 邪悪全開のマメの横で、必死に邪悪を「演じよう」として自爆している「路線スター」まとぶの、痛々しいこと。
 マメを操っているべき存在なのに、いたいけに見えてしまう善人まとぶは、「路線スター」としては正しいのだと思う。彼はトップスターになるべき人なのだから、「毒」は不要なんだ。

 オギーがマメをひそかに愛でている(博多『マラケシュ』しかり、『TUXEDO JAZZ』しかり)のも道理、これだけ邪悪な毒を持った若手男役はめずらしい。
 みんなまだ、「善良な少年」でしかない世代なのに。

 そしてわたしもまた、マメの「毒」に、その「耽美」さに震撼する。

 美形ではないのに。フリルもレェスも似合わないのに。ほっぺぷくぷくちゃんなのに。
 それでも彼は、耽美世界で生きることが出来る男なんだ。

 耽美に必要な、「毒」を表現しうる「役者」であること。

 彼をただのギャグメーカーとして使うのではなく、その「黒の魅力」をも正しく認めて欲しいと思う。
 将来、色気のある大人の男役に成長する可能性を持った少年なのだから。

 や、その前に芸名おぼえろよ、こあら。……て話ですが。


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