今日は花組東宝発売日。
 もちろんパソコンの前に坐り、時間より前からクリックの練習をし、イメージトレーニングも万全に、片手にマウス、片手に携帯でチケ取りに臨みましたが、完敗しました……。
 ふふふ、いつものことよね……。
 今のところ、友会で当たった1公演だけです、東宝。や、後ろから2列目ですけどね。わたしのくじ運ですからね。
 ふふふ、いつものことよね……。
 昨日も昨日でみっちゃんバウ買えなかったしね……こっちは友会もはずれたしね……。
 

 それはさておき、寿美礼サマの写真集『MOMENT』を買いました。

 
 わたしは舞台の上の春野寿美礼しか知らないので、素顔のオサちゃんは出版物でしか見たことがない。お茶会も行ったことないし、スカステのナウオンも基本見ないし。
 2001年発行のパーソナルブック、2004年発行の写真集、そして今回の写真集。あるのはこれだけだ。
 3冊を見比べてみると、別人?ってくらい、ちがっている。

 人間ってのは、これだけ変わるもんなんだなあ。
 トシを取ったとかどっかいじったとか化粧を変えたとかではなくて。
 立場に伴う内面の変化が、こうやって外面に表れるもんなんだなと。

 人間の顔は、本人が作るものなんだなと。

 昔から一貫して言っているように、わたしが春野寿美礼を好きになったのはまず、顔が好きだからです。
 や、好みの顔っつーのがあってだね。オサ、水、おっちょん、まっつ、うきょーさん、あたりの顔が問答無用で好きなのよ。タイプなのよ。
 顔が好みだから、好きになった。や、わかりやすいです。歌がうまいとか演技がどうとか、下級生時代はわかんなかったし。まず顔でしょ?

 最初の、2番手時代パソブの、若い傲慢さのある顔がダイスキだった。
 わたしは彼の、黒さが好きだったの。無邪気に笑っている奥に見え隠れする、「闇」の部分。

 寿美礼ちゃんは、なんかキャラクタにえらく振り幅があった。
 心の底まで真っ白です☆ と笑うことも出来るし、魂の芯まで闇色です、と微笑することも出来た。
 演技だとは思ってない。計算だとも思ってない。
 彼はナチュラル・ボーン、彼は彼に生まれた。ただそれだけのこと。

 「天才」に生まれてしまった。それゆえに持つ「闇」。
 本人がどんなに「いい人」で「やさしくて」「ある意味天然(笑)」であったとしても、関係ない。性格とは別の場所にある、「闇」。
 翼を持つ彼には、地べたを這いずることしかできないモノの気持ちなんかわからないし、わかる必要もない。
 彼はただ、彼であることをまっとうすればいい。

 や、彼が努力していないとか、技術を磨いていないという意味ではなく。

 生まれ持った翼を広げ、羽ばたくことを楽しみだした、若い帝王。
 空は広く、未知の光に満ちていた。

 ……それが、2004年の写真集では、失速していた。
 疲れた顔、無理の見える、不自然な写真集。スケジュールが決まっていたから、仕方なく出版しました、みたいな。
 や、わたしはこの写真集はあまり好きじゃない。購入したときにかなり茶化した感想を書いて、それで封印。
 オサちゃんが痛々しくて、見ていてつらい1冊だった。

 舞台の上のオサちゃんも、なんかえらい方向へ爆走していた。
 誰も愛さない、相手役を見ない。感性の合う役者以外とは、まともに芝居しない。歌にもお化粧にもキツイ癖が付き、痛い芸風になる。

 彼のまとう孤独さと、惑う混沌ぶりに、胸を痛めた。

 相手役ひとりまともに愛せない狭量ぶりにあきれもしたし、また、そんなところも含め愛しいと思った。

 「天才」であると同時に彼は、「アーティスト」なんだと思った。
 彼の才能を活かす環境が必要なんだ。工事現場の騒音と地震のような揺れの中で、繊細なガラス細工を作れといわれても無理だろう。
 清浄なアトリエを用意してやることは、アーティストを甘やかすことではなく、彼の才能を愛する者の義務なんじゃないのか?

 いちばん力がみなぎるはずの人生の夏を、帝王は苦悩のまま過ごした。
 無限に思えた空には限りがあり、現実は彼を失望させる凡庸さだった。

 そして、今回のサヨナラ写真集『MOMENT』。

 あの若い傲慢さを持ち、可能性にキラキラしていた若者が、壁にぶつかり理不尽な苦渋の時を経て、ここにたどりついたんだ。

 美貌という点ではね、若くない分劣っているのかもしれないよ。年齢はたしかに出ているよ。いろんなところに。
 でもね。
 彼のこの「表情」は、若者ではない、小僧っ子ではない、今の大人のハルノスミレだから出るものなんだよ。

 「男役」としての美しいポーズや表情も、くだけた笑顔もリラックスした仕草も、すべて「今」だからあるの。

 彼がいる場所は、幾多の物語をつむぎ、障害を越え、たどりついた楽園なの。

 春野寿美礼の人生が、今、彼にこの「顔」を与えたの。

 立ち読みとかパラ見とか一切無し、集中して読める状態になるまで封印していた。
 そして、儀式のように、通過儀礼のように、心して開いた。

 最初から、ページめくりつつ「やばいな」と思った。
 あ、かわいい。あ、かっこいい。そんなことを思いつつページをめくって。

 水平線を背景に、踊るオサと彩音の姿に、号泣した。
 
 最初の、見開きの写真。
 まっすぐに引かれた境界線、上の空色、下の水色。
 中心線からずれて、背中合わせのオサと彩音。
 広い世界の、ふたり。

 なんだろう、この「物語」性。
 ここに「物語」がある。
 素顔のオサは、舞台でいうところの「男役」ではなく、しかしいわゆる「女性」でもなく。

 だが彼は、舞台装置も衣装も、あの特殊な男役メイクもなく、太陽の光のもと地球の上に直に立ち、相手役の手を取ることで、ここに「物語」を綴って見せた。

 これは「タカラヅカ」だと思った。
 オサは「タカラヅカ」だと思った。

 彼がその翼で征服しようとし、そのくせあるとき閉塞感で立ち止まった、あの空は、ここにつながっていたんだ。

 次のページから、映画のように踊るオサと彩音のショットが続く。
 まぎれもなく「タカラヅカ」である、美しさで。

 そしてそれは、解き放たれたような、生き生きとしたオサ単体の笑顔へと続く。

 なにか得たような、どこかへ旅立つような、なにかにたどりついたような。
 清浄で、そしてどこかしらエロスを含んだ横顔で、この一連の場面は終わる。

 次のページからは、「作り込んだ」男役としての春野寿美礼のポートに終始する。
 その、コントラスト。
 闇の中から白昼に躍り出て、眩暈を起こすような。あるいはまばゆい光の中から深海へ迷い込んだような。

 そうかぁ。
 ここまで、来ちゃったんだねえ。
 こんなところまで到達してしまったのなら、あとは卒業するしかないんだろうなぁ。

 あの、八重歯の男の子がさぁ。
 こんな表情をする大人になってさぁ。

 わたしを魅了してやまない「天才」春野寿美礼。
 彼のこれまでの人生が、生き方が、歩いてきた道が、今ここで、彼の「顔」を作っている。

 好きになったのは、顔が好みだったからだ。
 歌がうまいとか演技がどうとか、最初はわかんなかった。たまたま顔が好きで見ていたら、声も好みだったし、歌はどんどんうまくなっていって、大好きになった。
 顔はもともと好きなんだってば。世の中的に美人だとはまったく思ってないが、わたしは好きでしょーがない顔なんだってば。

 だけど。
 今、この「顔」は。
 好みだとかタイプだとかそーゆーことではなく。

 「春野寿美礼」をつくりあげたすべてものを、すきだとおもう。

 彼がこれまで歩いてきた、出会ってきた、得てきた、捨ててきた、流してきた、抱きしめてきた、すべてのものに、感謝したい。

 なにひとつ、無意味なものはなかった。若い頃の傲慢さも、低迷を感じた時期も、なにひとつ。
 すべてが、ここへたどりつくまでの布石だった。

 彼がここへたどりつくための物語だった。

 
 たかが写真集でねえ……こんなに泣くなんてありえねえ……てか、いちばん好きなページ濡らしちゃったよ……買い直せっつーのか……わーん。


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