エリオットは、ものすげー簡単に、アナベルを「愛している」と言う。
 簡単なんだ。軽いんだ。薄いんだ。

 しつこいようだが、役者の話ではない。エリオット@ゆみこは軽い愛なんか演じていない。その愛が本物だとわかる。
 そうではなく、『シルバー・ローズ・クロニクル』、脚本の話だ。

 エリオットは、わかっていない。
 アナベルがヴァンパイアだということを。
 言葉でわかっているだけ、真の意味などわかっていない。

 アナベルはブライアンに襲いかかる。ナイフや銃を使うのではなく、噛みつくのだ。
 彼女がヴァンパイアだから。
 アナベルの存在は、「凶器」だ。彼女自身が人間との共存を願っていても、善良であっても、関係ない。彼女は人間を害する存在なんだ。

 彼女を愛するならば、このことを理解した上でなくてはならない。

 人間を襲い、口元を獲物の血で汚した姿を見てなお、「愛している」と言って見せろ。

 ヴァンパイアとしての性を知り、その罪も恐ろしさも知った上で、なお、愛を語れ。

 「可愛い女の子」姿しか知らずに愛を口にしても、嘘くさい。

 ハーフ・ヴァンパイアのアナベルとクリストファーは、この物語では「人間を害する存在ではない」ということになっている。
 「血は嗜好品」であり、なくても生きていけるらしい。
 だから、人間を殺さなくてもいい。

 だが、気軽に人間を襲う。

 クリストファーは「殺さないからいいだろ」と、てきとーに女の子の血を吸って歩く。罪悪感はない。
 アナベルもまた、それを知りながらなんの感慨も持たない。

 「嗜好品」で、なくても生きていけるのに、あえて口にするのは、かえって罪が重い気がするんだが。
 「生きるために仕方なく」血を吸うのではなく、「愉しむため、遊ぶため」に血を吸うってのは……。

 吸血鬼なんだから、それくらい精神に歪みを持っていてもいい。
 自分の愉しみのために、他人を傷つけて平気、という、残酷さ。

 エリオットは簡単に「僕もヴァンパイアになる」と言う。
 簡単なんだ。軽いんだ。薄いんだ。

 ヴァンパイアになるということは、遊びで人間を傷つける存在になる、ということだ。
 クリストファーとアナベルがそうしているように。

 自分のエゴ(愛)のために、他人を傷つけて生きる、その現実を理解した上で言え。

 ブライアンに噛みつくアナベル、って、もっと重要なエピソードだと思うんだけど。
 善良なヴァンパイアである彼女は、それまで人間を襲ったことなんかなかったんじゃないか? 兄クリストファーがナニをしていても、それに対してナニも思わないにしても、とりあえずアナベル個人は人間を害することはなかった。
 それがはじめて、人間を傷つけた。ヴァンパイアの能力で。
「エリオットを悪く言わないで」
 ……愛する人間のために、手を汚した。人間を愛したために人間を襲い、自分が人間でないことを思い知った。
 大きなポイントだと思うのに。
 ぜんぜん、どーってことない描かれ方して、コメディの中に流されちゃうんだよね。

 
 結局、「ヴァンパイア」である、というのがどーゆーことなのか、まったく描かないままなので、クライマックスが唐突。のんきに映画に出ちゃいます(はぁと)とかやっていたふつーの女の子が、いきなり「わたしたちの存在は人間を傷つける」とか言い出しても、力一杯「はあ??」だったし。

 40年後だかのじじい編を書きたいがために、無理矢理ストーリーをねじ曲げて、アナベルを一旦引かせたように見えるんだがなあ。
 唐突なシリアスぶりとこじつけ臭いラストシーンは、

 桃から生まれた桃太郎は、悪い鬼を懲らしめて、育ての親のおじいさんとおばあさんのところに戻りました。
「人間ではない私は、ここでは暮らせません。私は人間にはない能力を持っているので、このままここにいると、この能力を利用しようとする者たちが出てくるでしょう。私が人間たちと一緒に暮らせる時代になるまで、さようなら」

 ……て感じだ。
 はあ? ちょっと待て、そんな話だったか? そりゃ桃から生まれたことは知ってるけど、それゆえに力持ちなのも知ってるけど、悪者をやっつけてハッピーエンドの今になって、なにをいきなり寝耳に水なことを言い出すんだ? 元気に楽しく暮らして冒険活劇したあとで、いきなりヒューマンドラマされても、こまる。
 桃太郎は「私は人間ではない……」と思い悩んだりしないのだから、ラストものーてんきに「鬼退治でお宝山盛り、ハッピーエンド」でいいじゃないか。
 ラストで突然ヒューマンドラマにならないのは、必要ないからだろう。桃太郎の世界観では、「人間ではない桃太郎が、人間ではない能力で、悪者を退治してハッピーエンド」でいいんだ。

 『銀薔薇』も、「ヴァンパイア」の宿命も闇も描く気がないなら、コメディだからというなら、最後までお笑いで軽くハッピーな物語にすればよかったのに。

 「ヴァンパイア」の宿命も闇も描かず、突然「ヴァンパイア」の宿命と闇を理由にヒロインが姿を消し、「ヴァンパイア」の宿命と闇ゆえに美しい「永遠の愛」をうたって終わる。……って。

 「恋愛」部分でも、この「ヴァンパイア」部分でも、同じことだ。
 いちばん描くのが難しく、それゆえに描き甲斐もあり、萌えもあるところを描かないで、お手軽コメディで狙っていることが見え見えのゆみこ総受ぶりとかを描くことに終始しているのは、どーにかならないのか。

 結果として、「ゆみこのプロモーションビデオだと思えばいいのか」という結論に至る。
 ちゃんとした物語だとは思わずに、「いろんなゆみこをたのしんでね☆」がテーマだと割り切ればいいのか。
 実際、作者の目的はソレだけで、ハナから真面目に「物語」を描く気なんかなかったのかもしれない。そしてソレは、正しいのかもしれない。タカラヅカはスターの魅力を引き出してナンボだから。

 どれだけ「物語の方程式」が壊れていたって、愛をもって出演者が魅力的に見えるように描き、ファンが観たいと思っている場面を描くことができれば、それでいいのかもしれない。
 辻褄が合っていなくても、「いつお前ら恋愛したんだ?!」てなひでー展開でも、主役とヒロインがせつなく愛を語れば胸きゅん、愛し合っているのに別れなければならなかったりすると号泣、美しいハッピーエンドに感動、するものだから。
 ……小柳せんせってほんと、イケコの弟子なんだなー……上記の話、全部『アデュー・マルセイユ』にも、あてはまる。良くも悪くも。

 『アデュー・マルセイユ』も、出演者が魅力的に見えるように、ファンが観たい場面を描いてくれているから、ファンはよろこんで通っているのだと思う。
 だから『銀薔薇』もソレでいいんだと思うよ。
 わたしは『さらば港町』も『銀薔薇』も同じ理由で好きではないけれど、『港町』にはアホみたいに通っている。贔屓が出ていれば、贔屓組ならば、物語が壊れていても「ファン向け仕様」でさえあればたのしく通えるから。

「『MIND TRAVELLER』にあれだけ通いまくった人が、ナニを言っても説得力ナイ」

 と、nanaタンに断言されてしまったのが、答えですな。
 あのひでー作品でも、出演者ファンだから通いまくりました、ええ。自嘲はしてますが、後悔はしてません。
 作品への文句はさんざん言いましたがね。「ここがおかしい」「壊れている」は、さんざん書きました。
 それでも通ったもん、海馬の帝王ダイスキだもん。

 『銀薔薇』は問題山積み、壊れてると思うよ。でも、ファンなら、愉しめることは確か。

 だからこそ、「もったいない」と思うんだよな。これだけファンを愉しませてくれるなら、話の薄さや不誠実さをなんとかしてくれよ、と。
 ゆみこなら、ちゃんと応えて演じてくれたろうに。


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