こんなに長くなるはずじゃなかったのに……新人公演『アデュー・マルセイユ』の感想ラスト。

 毎回思うことだが、花組はやっぱ芝居は苦手な組なんだと思う。新公になると途端レベルがやばくなる……。芝居以外のところで挽回できる作品ならいいけれど、今回は「アピール上等!」な場面がなかったから、きつかったかな。

 そんななか、マドレーヌ@さあやちゃんの上手さはうれしいなあ。技術だけでなく、心が感じられる存在感。歌声も心地いいし。
 や、少年院での短い場面がすげーよくて。わずかな台詞しかないのに、ドラマが込められている。ここだけで涙腺スイッチ入るよ。

 さあやと対をなすカタチでソロがあるイヴェット@萌子。
 以前からnanaタンと「萌子は『歌手』か否か」という話題が繰り返されていたのよ。エンカレ以降のもえりちゃんしか知らない(や、萌子@『Young Bloods!! 』がファースト・インプレッションだった)わたしは、「萌子? 歌手カテゴリなんじゃないの?」だったが、ゆみこDSから知っているnanaタンは「いや、歌手ではない」と主張し続けていた。ゆみこDSのもえりは、そりゃーすごかったらしい。
 ものすごく上手いとは思ってないが、分けるとしたら歌手カテゴリかなあ、と、漠然と思っていたが……今回のイヴェット役を見て、「たしかに『歌手』ではないな」と見識を改めた。……で、nanaタンに「そうでしょう!」と力強く肯定される。
 高音が出ないのは、娘役としては「歌手」になりにくいよなあ。それでも、ゆみこDSですばらしく音痴だったというのだから、ここまで歌えるようになった彼女の努力に乾杯。
 華やかな容姿は本公演でも十分目を引く。可憐な役は苦手なのかな? 前回の新公、小林少年に比べ苦戦していたような。
 てゆーか、アルバイトの夜の女の方が、生き生きしていてステキだったんですが。

 子役たち、研2と研1コンビはあまりに子どもすぎて、どーしよーかと。
 十分上手かったけれど、彼らが演じているのは「子ども」であって、「男役」ではない。タカラヅカである以上、そして娘役が演じているのではない以上、最低限「男役」でなければ意味がないと思うんだが……。
 まだ男役芸ができていない、だけど期待に新人に子役をやらせるのは劇団的によくあることだ。少年ジェラール@真瀬、少年シモン@真輝共にそれぞれの期の成績上位者たちだよね。文化祭で活躍していたことをおぼえている。
 せっかくのチャンスだから、もう少し「男役」であることにこだわった役作りをしてほしいなあ……演出家の意図なのかなあ。本役のだいもんとるなが評価を受けているのは、ナチュラルに「少年」だからだと思うんだけど。「子ども」でなく、「少年」。まず、「男」であること。
 もったいないなあ。

 アーサー・ウォッチはすでに趣味になっているんだが(笑)、新公のアーサーは警官その2役。本役はふみかで、ナニ気に歌が多くて、しかも正面を向いて歌う場面があったりしてけっこうオイシイ役だったりする。
 ふみか警官にいろいろ表情があること、客席へ向かって演技しているのをおぼえているだけに……アーサーの能面ぶりに、ツボる。
 期待を裏切らない人です。はい。

 
 えーと、主立った人たちの感想は書いたかな。

 あと、愉快だったのは、さあやちゃんの挨拶。
 や、彼女はとても端正に礼を尽くした気持ちよい挨拶をしたのだけど。
 ただ、言っちゃったんだよね。この作品を「アクション・コメディ」と。

 彼女がそう言ったときの、客席の微妙などよめき。
 コメディだったのか……コメディなのか……ざわざわざわ。
 そうじゃないかとは危惧していたけれど……や、そうだったらやばいっつーか、チガウだろ、と思いつつ……。
 少なくとも出演者はそう思って演じているのか? そのわりにコメディ部分は少ないっつーか、バランス悪いけどなー。
 まあ、小池オリジナルっつーだけでコメディ認識でもおかしくないが。

 新公に行けば行くほど、タカラヅカへの愛着は深まっていく。
 もっと「好き」をたのしむために、なんとか時間をやりくりして新公に行くんだよなあ。
 月組新公が観られなかったのが残念。日にち変えてくれりゃー、東宝まで観に行ったのに……くすん。


 「顔が同じ」ことからはじまるラヴストーリーは、好きだ。
 好みのパターンの物語だ。
 ツボなネタだからこそ、はずしてはならないポイントがある。

 すなわち。

「顔が同じだから好きなのか」
「いつ、本人を好きになったか」
「自分は(相手は)身代わりではないのか」

 これらのことに、きちんと答えを出すこと。
 「顔が同じ」は、きっかけでしかない。「顔が同じ」だから、知り合うことになったし、好意または興味を持った。
 だがそれはあくまでも「きっかけ」だ。それからどんな関係を築くのかは別。

 このきっかけを元に築かれる「関係」こそが、わたしの萌えツボなんだ。

「わたしの顔が、死んだ恋人と同じだから愛したんでしょう? 別の顔だったら、わたしのことなんか好きになってないわよね?」
 とか、
「彼女を愛している……でも、ほんとうだろうか。僕が恋してきたのは写真の中の彼女で、現実の彼女ではないんじゃないのか?」
 とか、
「アナタが愛していたのは私の母であって、私じゃない。アナタは私の中に、母の面影を見ているだけなのよ!」
 とか。

 「身代わり」からはじまったのに、いつの間にか「真実の恋」になるのがいいの。

「誰でもいいんじゃない、君でなきゃダメだ!」
 ……という、定番展開。

 ツボがしっかりしているだけに、このポイントをはずしているものは、逆ツボになる。

「わたしは不死のハーフ・ヴァンパイア。あれから半世紀、愛したアランはもう死んでしまった。でも、彼に孫がいるらしいから、会いたいわ。あら、さすがに孫ね、彼にそっくり!」
「子どもの頃からずーっとあこがれていた、ヴァンパイア映画のヒロイン。彼女にそっくりな女の子が現れた!」

 ……て、これだけのネタで、次の瞬間相思相愛になられても、こまる。

 わたしが『シルバー・ローズ・クロニクル』に対して、萌えることができなかったいちばん大きな理由です。
 せっかくの萌え設定なのに、萌え設定であるからこそ、描き方の杜撰さがつらい。
 エリオット@ゆみこ、アナベル@さゆのふたりは、それぞれ「顔が同じ(恋人の血縁)」という理由で相手に好意を持つ。それはかまわない。問題は、そのあとどうやって、どんな葛藤を乗り越え、「顔が同じの他の誰かではなく、アナタ自身を愛している」という答えにたどり着くか。
 そこを描いてくれない物語は、不誠実だと思う。

 最初はプラスに働いた「顔が同じ」だということが、愛が盛り上がるにつれマイナスになるはずなんだ。
「最初は、似ていたからうれしかった。でも、愛すれば愛するほど、似ていることがつらくなる……」
 いっそ、まったくの別人なら、似ても似つかない人ならよかったのに。
 似ているから愛した? そんなことはない、最初はそうだとしても、今はチガウ。チガウはずなのに……あの人を愛していると錯覚しているのだろうか。
「鏡を見るたびに、嫉妬するんだ。これが、君の愛した男の顔なんだって。僕ではない……僕と同じ顔の男に、嫉妬し続けるんだ」
 ぐるぐる混乱、うだうだ葛藤。

 そういった一連の苦悩を越えて。

「身代わりでもいいんだ。彼を愛しているその心ごと、君を愛している!」
 とか、
「身代わりなんかじゃないわ。たしかに最初アナタに興味を持ったのは、アナタが彼と似ていたから。でも、今はチガウ。私が愛しているのはアナタ自身よ!」
 とか。
 よーやく本当の相思相愛にたどり着くのが、「顔が同じ」からはじまる恋愛ドラマの醍醐味だろう。

 それを描かずに「顔が同じ」=「愛」で終わっていると、「簡単だな」とゆーことになる。

 えー、混同しないでほしいのですが、役者の話ではありません。
 ゆみこちゃんとさゆちゃんが、ちゃんと愛し合っていることはわかる。身代わりではなく、顔が似ている云々とは関係なく、本人同士が愛し合っているんだってことは、彼らの演技を見ていればわかります。
 脚本に描かれていない部分を、役者が力業で埋めているわけですよ。
 だから彼らの問題ではなく、そもそも脚本に何故、主役とヒロインの恋愛が描かれていないのかということを言っているわけっす。

 行間を読む、とか、そーゆーことですらない。
 行間もナニも、最初から、描かれていないんだもん。
 わたしたち観客側に、「エリオットとアナベルは恋をする」という前提があるから、その「お約束」に助けられているだけ。脚本には「恋愛」は描かれていない。

 顔が同じ→相思相愛→永遠の愛、という展開の乱暴さに、ついていけなかった。
 いったいいつ恋愛したのアンタたち?! とびっくりしているうちに、「ヴァンパイアでもかまわない、愛してる!」で、ひたすらコメディでどたばたしているうちに、次の瞬間じじいになって「永遠の愛」になだれ込むんだもの。
 顔が同じ、から、相思相愛に至るまでの話はどこよ?
 エリオットはまだ「写真の女の子」「映画のヒロイン」にあこがれていただけだから、同じ顔の生身の女の子と出会って好意を持つ、のはわかるけれど……。(それにしたって、偶像への憧れと現実の恋の区別は描く必要があるが)
 昔の恋人の孫に対して、なんのためらいも持たず恋するアナベルは、気持ち悪いぞヲイ。誰でもいいのか、よーするに。アランのことも、大して好きではなかった? 半世紀前、つっても、眠っていた彼女にとってはつい先日のことなんじゃないの?

 なんか少年マンガの「恋愛」みたいだ。
 「愛している」という前提で、それを理由に主人公ががんばったり、出来事が展開していったりはするけれど、「愛」そのものについてはなにも描かれない。
 愛ゆえにエリオットは詩を書いたり悪者と闘ったり(闘ってないか・笑)するけれど、愛ゆえにアナベルはブライアンに噛みついたり、一旦エリオットから身を引いたりするけれど、「愛」に至る過程はナシ。もうできあがった、完全体の「愛」があって、球技のように「愛」を中心にキャラクタがバタバタやっているだけ。

 「顔が同じ」という、わたしの好きなパターンからはじまるだけに、わたしは「恋愛」が観たかった。

 恋愛モノだと思わなければ、ただのお笑いモノだと割り切れば、たのしいのかもしれないが。
 ラストでとってつけたように、「恋愛モノ風」になるから、余計にこまるんだよなあ。

 や、繰り返すが、役者はちゃんと「恋愛」しているから、なんとか「恋愛モノ」のようになっているけれど。
 このひどい脚本で、それでも「恋愛」して、描かれていないことまで「描いてある」ように演じてしまう、ゆみこの実力とハートフルさには脱帽しているのだけど。
 役者の力業で誤魔化すのではなく、誠実な脚本を書いて欲しかったんだ。

 彩吹真央は、「恋」を演じられる役者なんだよ。
 彼に本気で、「恋愛モノ」を演じさせて欲しかったんだよ。


 ブログ界の僻地、このDiaryNoteにて、左の枠の中にわたしの数少ない友人のブログがリンクしてあります。
 「日記ブックマーク」ってとこね。「日記」よ、日記。このサイト、もともとブログじゃなくて日記サイトだったんだもん。
 そこに、数少ない友人の「日記」の最新タイトルが出ているワケなんだけど。

>緑野こあらさん、「み」さん、
>サトリちゃん、kineさん、
>ドリーさん。(ジュンタ) 01:55

 数少ない友人のひとり、ジュンタンの最新日記のタイトルが、「どりーず」と呼んでいる仲間たちの名前羅列になっているわけですよ。

 で、ジュンタンとこに行ってみると。

>『Nocturne note』のmaさんから、バトンをいただきました。
>「タイトルに回す人の名前を入れてビクリーツさせるバトン」だそうです。
>(一部コピペ捏造)(どこを?)(もちろん!)

>〜説明〜
> 1:回ってきた五文字を携帯の変換機能で一文字ずつ変換。
> 2:その変換候補に出ている上位五つを惜し気もなく晒す。
> 3:そして次に回す人に新たな五文字を指定。


 ええ、ビクリーツはしましたが、ソレはわたしがバトンは参加しないと知っているくせに、回してきたことにかもよ、と、にっこり笑って言ってみる(笑)。

 や、オレほんと友だち少ないから、バトンはスルーなのよ。参加しない理由は「回す人がいないから」!

 ……こんな悲しい理由を、書かせるなよハニー。(夕陽に遠く目をすがめる)

 オレはバトン墓場の番人なのさ。いくつものバトンが、オレのもとで息絶えるのさ……。まあ、そんな人生もあるだろう。

 こんだけまっつまっつ言いながら、未だにまっつファン友だち増えないってどういうことだろーねぇ。やっぱわたしがイタすぎるせいなのかねぇ。
 まっつだって「5文字」の人だから、バトンに使えるのに、友だちいないから使えないし回せないし。

 ああ、今日も寿美礼サマはステキだったよ。芝居では銀橋で歌いながら、涙が頬を伝っていたよ。泣かないで美しい人。一緒に泣いちゃうよぅ。
 なのにわたしは、その涙の行方が気になって「いつぬぐうんだ? 泣いたまま次の芝居できないだろう、ジェラール?」と、身も蓋もないことに気を取られていたよ。
 モーリスと話しながら、どさくさまぎれで涙をぬぐっていたよ、ジェラール。モーリスに泣き顔見せちゃダメだよジェラール。ドキドキだよジェラール。
 観劇回数は無事にフタ桁になり、絶好調で花組一色の毎日です。

 そんなわたしの携帯の5文字。

「す」 隅 寿美礼 すみません スカフェ する
「ず」 ずっと ずばり ずつ 済み 頭痛
「は」 入っ 花 入った 発 履いて
「る」 るそう るし るの るよ 留守
「き」 気付かない 着て 今日 きます 金髪

 ……ぜんぜんおもしろくないです、バトンを回す意志はないが、これだけはジュンタンへ向けて、惜しげもなく晒しておきますわん(笑)。
 あ、もちろん「寿美礼」は辞書登録してあります、この単語がなければ日常生活できないもん。

 昨夜、『ラブ・シンフォニー』のまっつとさおたさんがラヴいことについて、ユウさんとメールしたとこだから、「隅」とか「気付かない」とかいう言葉が出てきてるんだな。
 ええ、隅っこでまっつとさおたさんがいちゃついてますから、みなさんチェックしてくださいよ(舞台中央に寿美礼サマがいるから、まず無理です)。

 あ、今日さおたさんがカードで勝つところ、はじめて見た。まっつはいつまでもくやしがってた(笑)。
 今のところ、「ラブ・ゲーム」のカード勝負、わたしの観劇時に勝利するのは、圧倒的にしゅん様が多いです。次がみわっち。まっつが勝ったところは1回しか観たことナイ……。

 や、真ん中で寿美礼サマが歌ってますから、おそらく99.5%ぐらいの人々は、カード勝負、と言っても「なんのこと?」だと思いますが……その、隅っこで小芝居してるんですよ、さおみわまつしゅんの4人が。
 わたしですら、何回かは寿美礼サマ見てて、勝負を見逃してるくらいだもんなあ……。

 寿美礼サマの素晴らしさは言うまでもないことですが、ときどき、まっつの素晴らしさを、全世界に向けて叫びたくなる。

 まっつかっこい〜〜。
 まっつステキ〜〜。
 まっつセクスィ〜〜(笑)。
 まっつ歌ウマ〜〜。

 あ、いかん、一ヶ所つい(笑)が入ってしまった。

 そんなわたしの携帯の「ま」の変換候補は、もちろん冒頭が「まっつ」でしたとも。

 まっつまっつまっつ。


 エリオットは、ものすげー簡単に、アナベルを「愛している」と言う。
 簡単なんだ。軽いんだ。薄いんだ。

 しつこいようだが、役者の話ではない。エリオット@ゆみこは軽い愛なんか演じていない。その愛が本物だとわかる。
 そうではなく、『シルバー・ローズ・クロニクル』、脚本の話だ。

 エリオットは、わかっていない。
 アナベルがヴァンパイアだということを。
 言葉でわかっているだけ、真の意味などわかっていない。

 アナベルはブライアンに襲いかかる。ナイフや銃を使うのではなく、噛みつくのだ。
 彼女がヴァンパイアだから。
 アナベルの存在は、「凶器」だ。彼女自身が人間との共存を願っていても、善良であっても、関係ない。彼女は人間を害する存在なんだ。

 彼女を愛するならば、このことを理解した上でなくてはならない。

 人間を襲い、口元を獲物の血で汚した姿を見てなお、「愛している」と言って見せろ。

 ヴァンパイアとしての性を知り、その罪も恐ろしさも知った上で、なお、愛を語れ。

 「可愛い女の子」姿しか知らずに愛を口にしても、嘘くさい。

 ハーフ・ヴァンパイアのアナベルとクリストファーは、この物語では「人間を害する存在ではない」ということになっている。
 「血は嗜好品」であり、なくても生きていけるらしい。
 だから、人間を殺さなくてもいい。

 だが、気軽に人間を襲う。

 クリストファーは「殺さないからいいだろ」と、てきとーに女の子の血を吸って歩く。罪悪感はない。
 アナベルもまた、それを知りながらなんの感慨も持たない。

 「嗜好品」で、なくても生きていけるのに、あえて口にするのは、かえって罪が重い気がするんだが。
 「生きるために仕方なく」血を吸うのではなく、「愉しむため、遊ぶため」に血を吸うってのは……。

 吸血鬼なんだから、それくらい精神に歪みを持っていてもいい。
 自分の愉しみのために、他人を傷つけて平気、という、残酷さ。

 エリオットは簡単に「僕もヴァンパイアになる」と言う。
 簡単なんだ。軽いんだ。薄いんだ。

 ヴァンパイアになるということは、遊びで人間を傷つける存在になる、ということだ。
 クリストファーとアナベルがそうしているように。

 自分のエゴ(愛)のために、他人を傷つけて生きる、その現実を理解した上で言え。

 ブライアンに噛みつくアナベル、って、もっと重要なエピソードだと思うんだけど。
 善良なヴァンパイアである彼女は、それまで人間を襲ったことなんかなかったんじゃないか? 兄クリストファーがナニをしていても、それに対してナニも思わないにしても、とりあえずアナベル個人は人間を害することはなかった。
 それがはじめて、人間を傷つけた。ヴァンパイアの能力で。
「エリオットを悪く言わないで」
 ……愛する人間のために、手を汚した。人間を愛したために人間を襲い、自分が人間でないことを思い知った。
 大きなポイントだと思うのに。
 ぜんぜん、どーってことない描かれ方して、コメディの中に流されちゃうんだよね。

 
 結局、「ヴァンパイア」である、というのがどーゆーことなのか、まったく描かないままなので、クライマックスが唐突。のんきに映画に出ちゃいます(はぁと)とかやっていたふつーの女の子が、いきなり「わたしたちの存在は人間を傷つける」とか言い出しても、力一杯「はあ??」だったし。

 40年後だかのじじい編を書きたいがために、無理矢理ストーリーをねじ曲げて、アナベルを一旦引かせたように見えるんだがなあ。
 唐突なシリアスぶりとこじつけ臭いラストシーンは、

 桃から生まれた桃太郎は、悪い鬼を懲らしめて、育ての親のおじいさんとおばあさんのところに戻りました。
「人間ではない私は、ここでは暮らせません。私は人間にはない能力を持っているので、このままここにいると、この能力を利用しようとする者たちが出てくるでしょう。私が人間たちと一緒に暮らせる時代になるまで、さようなら」

 ……て感じだ。
 はあ? ちょっと待て、そんな話だったか? そりゃ桃から生まれたことは知ってるけど、それゆえに力持ちなのも知ってるけど、悪者をやっつけてハッピーエンドの今になって、なにをいきなり寝耳に水なことを言い出すんだ? 元気に楽しく暮らして冒険活劇したあとで、いきなりヒューマンドラマされても、こまる。
 桃太郎は「私は人間ではない……」と思い悩んだりしないのだから、ラストものーてんきに「鬼退治でお宝山盛り、ハッピーエンド」でいいじゃないか。
 ラストで突然ヒューマンドラマにならないのは、必要ないからだろう。桃太郎の世界観では、「人間ではない桃太郎が、人間ではない能力で、悪者を退治してハッピーエンド」でいいんだ。

 『銀薔薇』も、「ヴァンパイア」の宿命も闇も描く気がないなら、コメディだからというなら、最後までお笑いで軽くハッピーな物語にすればよかったのに。

 「ヴァンパイア」の宿命も闇も描かず、突然「ヴァンパイア」の宿命と闇を理由にヒロインが姿を消し、「ヴァンパイア」の宿命と闇ゆえに美しい「永遠の愛」をうたって終わる。……って。

 「恋愛」部分でも、この「ヴァンパイア」部分でも、同じことだ。
 いちばん描くのが難しく、それゆえに描き甲斐もあり、萌えもあるところを描かないで、お手軽コメディで狙っていることが見え見えのゆみこ総受ぶりとかを描くことに終始しているのは、どーにかならないのか。

 結果として、「ゆみこのプロモーションビデオだと思えばいいのか」という結論に至る。
 ちゃんとした物語だとは思わずに、「いろんなゆみこをたのしんでね☆」がテーマだと割り切ればいいのか。
 実際、作者の目的はソレだけで、ハナから真面目に「物語」を描く気なんかなかったのかもしれない。そしてソレは、正しいのかもしれない。タカラヅカはスターの魅力を引き出してナンボだから。

 どれだけ「物語の方程式」が壊れていたって、愛をもって出演者が魅力的に見えるように描き、ファンが観たいと思っている場面を描くことができれば、それでいいのかもしれない。
 辻褄が合っていなくても、「いつお前ら恋愛したんだ?!」てなひでー展開でも、主役とヒロインがせつなく愛を語れば胸きゅん、愛し合っているのに別れなければならなかったりすると号泣、美しいハッピーエンドに感動、するものだから。
 ……小柳せんせってほんと、イケコの弟子なんだなー……上記の話、全部『アデュー・マルセイユ』にも、あてはまる。良くも悪くも。

 『アデュー・マルセイユ』も、出演者が魅力的に見えるように、ファンが観たい場面を描いてくれているから、ファンはよろこんで通っているのだと思う。
 だから『銀薔薇』もソレでいいんだと思うよ。
 わたしは『さらば港町』も『銀薔薇』も同じ理由で好きではないけれど、『港町』にはアホみたいに通っている。贔屓が出ていれば、贔屓組ならば、物語が壊れていても「ファン向け仕様」でさえあればたのしく通えるから。

「『MIND TRAVELLER』にあれだけ通いまくった人が、ナニを言っても説得力ナイ」

 と、nanaタンに断言されてしまったのが、答えですな。
 あのひでー作品でも、出演者ファンだから通いまくりました、ええ。自嘲はしてますが、後悔はしてません。
 作品への文句はさんざん言いましたがね。「ここがおかしい」「壊れている」は、さんざん書きました。
 それでも通ったもん、海馬の帝王ダイスキだもん。

 『銀薔薇』は問題山積み、壊れてると思うよ。でも、ファンなら、愉しめることは確か。

 だからこそ、「もったいない」と思うんだよな。これだけファンを愉しませてくれるなら、話の薄さや不誠実さをなんとかしてくれよ、と。
 ゆみこなら、ちゃんと応えて演じてくれたろうに。


 某ゆみこファン(今さら伏せるか)の友人がそりゃーもー、すごい勢いで「ゆみたんカッコイイ、ゆみたんかわいい、観に来て」と繰り返していました。それを全部「ふーん」と流していたわたしですが、最後の最後についに動きました。
 わたしを動かした言葉とは。

「ヲヅキがすごくカッコイイから、観に来て」 

 わかった。行く。

「何百回ゆみこがカッコイイって言っても来てくれなかったのに、ヲヅキなら一言なのっ?!」

 一言です(笑)。

 つーことで、DC初日の次に千秋楽に行って来ました、『シルバー・ローズ・クロニクル』

 や、たんにあたしゃ今、オサ様と花組で手一杯で……正直に言うと金がなくて……『銀薔薇』まで手が回らなかったのよ。農閑期なら、ふつーにもう1回は観ていたと思うよ。つか、バウ料金ならよかったのに。DC高すぎ。

 作品に文句は山ほどあるし、好きな話ではまったくないが、それとは別に、出演者たちが生き生きしていてかわいくて、たのしいんだもの。宙組の『A/L』と同じハートだわ。

 初日のヲヅキはラストシーンで爆笑されていたのよ。アナベル@さゆに噛まれたブライアン@ヲヅキは、急激に年を取り……最後の登場は、コントのようだった。白髪に顔を覆った白ヒゲ、ヨタヨタ杖ついて登場、場内爆笑。
 ちょっと待て。笑わせてどうする。
 ヴァンパイアの血のために若さを保っていたヴァン・ヘルシングが、理屈はわかんねーがヴァンパイアに噛まれて年齢相応の姿に変化した……というのは、いい。だが、「老化すること」=「ヒゲが伸びる」ことではないだろう、演出家よ。止まっていた時間が40年分経ったのだとして(老化ならわかるが時間が経つってのは変だと思うけど)、ヒゲだけ伸びるわけないでしょう。それなら髪も爪も全部40年分伸びなきゃおかしいよ。
 ヒゲの老人、という、わかりやすい老人コスプレで登場、観客を笑わせて、なにもせずに出た途端ご臨終。なんのコントだよ?

 まったく美しくない女の子に「美しい」とか言うし、老人コントで死ぬし、で、初日のヲヅキはかなりトホホだった。
 それが公演が進むにつれ、さゆちゃんのお化粧や着こなしがマシになり、少しはかわいくなっているというし、ヲヅキもアホなヒゲはつけず、二枚目じじいとして登場しているという。
 それなら、そのよくなっている姿を見なくてはならないなと。このままじゃわたしの中のヲヅキ像があんまりなままだし、なによりさゆちゃんの印象が悪すぎる。
 記憶を上書きするために、もう一度観るべきだ。
 キングをはじめとする。下級生たちの成長ぶりも堪能したいし。

 つーことで千秋楽。
 ヲヅキはますますかっこいいし、じじいコントもなく(でも出てきて即サヨナラはどうかと……)てよかったよかった。
 さゆちゃんも進化していたし、聞くところによると青年館ではカツラが変わってさらにかわいくなっているという話だし、みんな良い方向へ進んでくれてよかったよかった。

 でも楽を観て、わたしのなかでいちばん株を上げたのが、クリストファー@かなめだった。

 カッコイイ凰稀かなめなんて、何年ぶりだヲイ。

 ヘタレの一途を突き進み、ダメダメ男としてその名を残すつもりなのかと危惧していたかなめくんが、かっこいいっす。美しいっす。や、どんなにダメダメでも美しくはあった彼だが、容姿の美しさではなく、役として美しいのは何作ぶりだよ??

 我らの壮一帆主演『お笑いの果てに』のヒロイン役以来じゃないのか、カッコイイかなめくんなんて。

 わたしは「顔が同じ」ことからはじまるラブストーリーがツボな人間なんだが、これってクリストファーとエリオットにもあてはまるよねえ?
 クリスがアランをどう思っていたか、さらに今、アランと同じ顔をした、でもアランとは似ても似つかないエリオットを見て、しかもエリオットのパワーに押されて、どう思うのか。……いくらでも妄想できる、ストーリーを作れる、感じがすばらしい。や、脚本が穴だらけだからこそ、勝手に埋めることも可能なわけで。

 初日もソレは感じたけれど、狙いすぎのタンゴとか、腐女子を萎えさせるよーなことばっか小柳タンがするし(真の腐女子は据え膳なんぞには萌えぬのだ)、テルもダメ度高いわで、とくになにも思わなかったんだが。
 楽に見たときはテルのオトコマエ度が跳ね上がっていたので、「コレならイケる!」と瞠目しました。なんだよ、二枚目できるんじゃん。外見の話ではなく、中身が二枚目ってことね。
 『お笑いの果てに』でも思ったけれど、かなめくんは男っぽいキャラクタを意識した方がいいんだろうな。ルドルフみたいな受キャラをやると、まちがえる。受=よわよわ、とか見当違いのイメージでせっかくの美貌を無駄遣い。
 心根に強いモノを持った男でないと、受ではなくただのヘタレになるんだってば。つーことで、エドウィン中尉は野郎っぽさを意識してくれたおかげでステキにヒロイン、美貌の受キャラとして輝いていたし(つっても、相手が壮くんだったから、どーしよーもなかったが)、クリストファーは美貌の攻姫として開花。いやあ、ツンデレはよいですな(笑)。

 下級生たちの楽しんでますオーラが、すごく気持ちよかった。
 上手いかどうかではなく、まず、「そこにいること」を楽しんでいる、ことが気持ちいい。全員が意義を持って、意志を持って、存在している。や、脚本がアレだから役の存在意義とかアレなことはいっぱいあるが、そーゆーことではなく、演じている彼ら自身が「生きる意味」を感じている。
 この混沌とした世の中、「生きる意味」だとか、醍醐味、充実感、そんなものを得られている人間がどれくらいいるよ? 自分が何故ここにいるのかもわからず、なんとなく生きているのが現状でしょう。
 そんななか、今この瞬間、舞台の上にいる彼らはたしかに、「ここにいる意味」を理解し、意志を持って発散している。
 前へ、前へとなにかを叫んでいる。
 持てる能力のすべてで、全力疾走して、そしてそのことを、愉しんでいる。
 彼らの輝きがうれしい。たのしい。気持ちいい。

 その筆頭はキングだよなあ。うまいわけではぜんぜんないんだが(笑)、たのしくてしょうがないのがよくわかる。なにかやりたくてしょーがないんだろうなあ。
「キングにはがんばってほしいよなあ。なんせトウコちゃんに似てるんだし」
 と言うと、おどろかれたけど。
「え、どこが?」
「顔」
 剣幸にも似ているが。これから大人になって、頬の丸みが取れればさらにトウコに似てくるだろう。
「背が高くてスタイルが良くて、歌その他いろいろへたっぴなトウコ」
「……ソレ、トウコちゃんぢゃないし」
 はい。顔以外なにもかも正反対です。

 ゆみこちゃんは任が大きくなるたびにひとつひとつ、確実に階段を上っていってる気がする。
 毎回「自己ベストより少し上?」てなバーを与えられ、地味だけど確実に跳んでみせる印象。たまたま跳べたんではなく、跳ぶための練習をきちんとした上で、本番で結果を出してくるというか。
 この人を中心に舞台がまとまる、その空気感がいい。華々しい人ではないけれど、「次もまた、この人の舞台を観たい」と思う。お金を出す価値のある舞台人だ。
 ビジュアルに多少難があったとしても、「演じる」ことでいくらでも男前になる。役者ってそういうもん。……わたし的には、ゆみこ真ん中って、ぜんぜんOKなんだけどなぁ。世間的にはどうなんだろうなぁ。

 終演後の挨拶で、圭子ねーさまがあのかわいいアニメ声で夢や勇気の大切さ、そして「ゆみここそが、私たちに夢や勇気を与えてくれる存在」てなことを言っていた。あまりの持ち上げよう(?)に、出演者一同、そして観客も、あたたかくもくすぐったい笑いがこぼれる。
 みんな笑っているのに。
 ただひとり、真顔で「うん、うん」と力強く何度も頷く凰稀かなめに、ウケました。
 テル……ほんまにゆみこのこと大好きなんやな……。見てて恥ずかしくなったわ(笑)。
 
 人が人を愛している、愛しく思う、無償の心の動きっていうのは、見ていてしあわせになる。
 わたしがない金と時間を工面して、それでもDCに再度足を運んだのは、この雪組キャストのあたたかさに触れたかったこともあるし、また、「ゆみたんカコイイ」しか言わなくなっている友人の、ぶっこわれぶりが愛しいせいもある(笑)。

 愛がある。……それは、こんなにもひとをしあわせにするんだ。


 のんきにいろいろ感想書いてますが、ほんとのところ「それどころじゃない」というキモチでいっぱいです。
 花組公演が、あと少しで終わってしまう。
 そして、オサ様がオサ様たるゆえん、演技がどんどん変わっていってます。基本日替わりだけど、全体としても変化している。思わず、「本日のジェラールさん」というタイトルで日記をつけてしまうくらい、毎回別物で愉快です。ショーの方も、そのときのオサ様の気分次第でいろいろだし。
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」と叫びたくなるくらい、現場はナマモノであり、自宅でPCの前にいたってなにもわからないよなあ、と思い知っているところです。
 てかオサ様、変化激しすぎ。

 ご機嫌で社交的なジェラールさんや、シニカルなジェラールさん、マリアンヌにでろでろなジェラールさん、反対に女に興味のないジェラールさん、シモンに興味のないジェラールさん、反対に大好きなジェラールさん……まったく、毎回ちがいすぎてこまる。この人なんとかして(笑)。
 ショーでもハイテンションに大暴れしているときもあれば、反対にアンニュイなときもあるし。
 目が離せない。おもしろすぎ。

 わたしは正直なとこ、退団公演の芝居とショー、作品としては両方とも好きじゃないです。
 それでも、そんなことがどーでもよくなるくらい、春野寿美礼がすごいです。

 脚本とか演出とか、そんなものに縛られず、オサ様が自在に呼吸をはじめるとぞくぞくする。この人と同じ時代に生きられたことを、出会えたことを感謝する。

 春野寿美礼に教えられたことが、いろいろある。
 わたしは「言葉」が好きで、言葉にこだわって生きてきた。音楽よりも歌が好きなのは、そこに「言葉」があるからだ。わたしが理解できない言語や、歌詞のない曲には興味がなかった。音楽とは、「言葉」をより効果的に発するための道具でしかなかった。
 それが。
 オサ様に惚れ込んでから、「言葉」に対するこだわりがほどけた。もちろん今も「言葉」がなにより好きで、これからもこだわって生きていくけれど、それとは別に、「言葉のない音楽」への気持ちが変わった。

 春野寿美礼の歌に、歌詞なんかいらない。

 言葉なんか、無意味だ。
 オサ様が、「声」を発する。音を表現する。それだけだ。それだけでいいんだ。言葉とか、別の要素なんか必要ない。オサ様は、純粋に「声」だけで、「音楽」だけで、さまざまなものを表現してしまうからだ。
 わたしを、至福の世界につれていってくれるからだ。

 オサ様のスキャットを聴くことで、はじめて、スキャットってのがこんなにたのしいものだと知った。饒舌なものだと知った。「言葉」がない音楽に、わたしは今までなんの興味もなかったのに。

 言葉なんかいらない。
 決められた意味なんかいらない。

 そのときの気分で、フィーリングで、オサ様が自由に声を出す、音を楽しむ、それだけでいい。

 またわたしは、「言葉」にこだわる以上、芝居、脚本にもこだわりがある。
 作家性にもこだわるし、過程ではなく結果にこそこだわる。

 だけどオサ様は、ひとつの役、ひとつの台詞、ひとつの歌、「あらかじめ決められた」ものを、演じる回数分まったく別物にしてしまう、そのたび別の物語を作り出す。

 オサ様に歌詞なんかいらないと書いたけれど、「言葉」のある歌を歌うオサ様も、もちろん好き。

 言葉、物語、というあらかじめ決められた、すでに書かれたものを、柔軟に変えていく力。息づかせる力。
 波はひとつとして同じカタチなどなく、動いているから、止まることがなく、記録されることがなく、出来た端から消えていくものだからこそ波である……そんな感じ。

 わたしは言葉を、文章を書くことが好きで、そこにこだわりを持って生きてきた。実際にわたしが書いているモノのデキがどうという話ではなく、姿勢として。
 だが、文章とは、「書く」という完了させ続けるものであり、一度完了させてしまったらそこから動くことはない。や、推敲を重ねることはするけれど、やはり文学……文章による表現というのは、リアルタイムで変化し続けるモノではない。だからこそ研ぎ澄まされた美しい世界だと思っているけれど。
 そこにこだわり、そこで足を止めていたわたしに、春野寿美礼という人が新しい次元を教えてくれた。

 今ここで春野寿美礼と出会い、そして、別れを目の前にして、わたしは混乱している。

 どうしよう。
 このひとがいなくなってしまったら、あたしはどうしたらいいんだろう。

 おろおろおろ。

 明日ってサバキ出ますかね?
 とりあえず行く。


 「ジェラールさん」は日替わり回替わり、いつも別人、同じことはない。
 だからどのジェラールを基本とするのか、さっぱりわからないけど。

 本日『アデュー・マルセイユ』でわたしが見た「ジェラールさん」は、今まででいちばん「誠実」な、ふつーの感覚を持った人でした。

 マルセイユに戻ってきたばかりのころが穏やかでローテンションなのは、最近のジェラールさんの特徴だけど、今回はことさらヒネていたりシニカル過ぎない、ふつーの人でした。
 落ち着いた、大人の男。社交辞令の微笑みを浮かべることもできるし、素直な笑顔も浮かべることができる人。

 誠実で、素直。
 シモンのことを、どうやら本当に好きらしい。
 ……シモンのことまったく好きでもなんでもない、興味のない日もあったので、「あ、今日のジョジョはシモンのこと好きだぞ」とわかると、どきどきする(笑)。

 そう、あれはいつの回のことだったか。
 ジェラールがシモンにまったく興味がない日があった。以下、そのときの帰り道、ミニパソに書き殴った日記のコピペ。

         ☆

 ジェラール、人の話聞いてる?
 てゆーか、シモンの話聞いてる?

 今回のジェラールさんはなんかぼーーっとしていて。自分の内側へ内側へ入り込んでいるようで、人の話をあまり聞いていないように思えた。
 口、半開きだし。

 なかでも、シモン相手にはいちばんぼーっとしている。表情はほとんど動かないし。
 シモンがひとりで多彩な表情で語りかけ空回り度アップ。
 最初に再会したところも、銀橋では多少テンション上げているけれど、やっぱり抑え目。シモンが微笑んでも軽くいなす感じで返してやらない。
 「オレの女」とシモンが意気揚々と紹介するスター・ジャンヌのステージにも拍手もしてやらない。おもしろくなさそーに、心ここにあらずって感じに眺めたあと、周りが拍手しているので仕方なく、手を動か……そうとしたら、そこで終わった。結局拍手ナシかい。
 恩人云々の話もすげーうざそう。
 営業停止になったとヘコむシモンの背中を介抱するように撫で、ついでにアタマも撫で撫でするけど……表情はあまりない。
 シモンの絶交宣言にも、心は動かず。「信じてくれ」と口では言うけれど、本気ではない。べつにシモンにどう思われようと関係ないみたい。あきらめているというか、突き放しているというか。
 いちばん「ひでぇ」と思ったのは、最後のマルセイユ駅前。「ここでいい」と見送りを断ったあと、即座に自分モード突入。隣にまだシモンいるのに。彼はちゃんとジェラールを見つめているのに。シモンのこと、完璧に忘れている。
 見送るシモンのせつない瞳がかなしい……ジェラール君のこと、ぜんぜん好きじゃなかったよ、今回……。

         ☆

 や、ブログにアップする予定のない文章も、最近はタグ込みで書いてるもんだから(笑)。文字の大きさ変えたりとかも、そのときに書いたままっすよ。
 このときのジェラールさんがいちばんイキイキと対峙していたのはモーリスくんで、マリアンヌにちょっかい出すのすら、モーリスへの当てつけに見えて、それはソレで愉快だった。

 まあ、過去のジェラールさんはともかく、今回のジェラールさんはちゃんとシモンを大好きでうれしかった。

 マルセイユ到着初日から、シモンにもジャンヌにもやさしく微笑みかける。笑顔がやわらかい。ジャンヌに対して微笑むのは、彼女がシモンの女だから。シモンへの愛がないときは、ジャンヌにもカケラも興味なく、笑顔もなかったからなー。
 ジオラモの部屋を出たあとの、酔っぱらいシモンをあやすときは、肩を抱き、脳天に手を置き。
 シモンを騙していることへの独白も、痛々しかった。ふつうに、心を痛めていることがわかる。
 そう、ふつうなの。友人を……しかもあんなに善良で、アホな男を騙すのは、ふつーの人なら心苦しいでしょう。感情の動きがとても自然だった。苦しむ姿を見て、あ、いい人だ。そう思った。
 石鹸アーティスト、シモンとバカルテットたちのところへ現れるときも、微笑んでいた。なんつーか、彼らを「仲間」だと思っている? シモンに「話がある」と言われ、笑顔で「ん?」と返している。
 だからこそ、シモンから疑われたときに、返す言葉に懇願の色がある。「今はナニも言えないが、俺を信じてくれ」……こんこんと、心が伝わるようにと真摯に語りかけている。……シモンには、伝わらないけれど。
 今までで、いちばんやさしいジェラールだ。
 あ、上記の文の主語は全部ジェラールさんね。

 絶交のあとの銀橋ソロは、哀しい虚ろさのあるはじまりから、一気に悲鳴のようなテンションに。うわ、傷ついている。悲しんでる。
 すべてが明かされたときのシモンの「俺を担ぎやがって」に対するジェラールの「すまない」が、傷みに満ちていて……さすがののーてんきシモンも、自分の罪に気づいたようだ。どれだけジェラールを傷つけたか。
 このやさしい男が、傷ついていたか。
 シモンとの別れは、登場からすでに微笑んでいる。最後まで、彼に優しい。微笑み、かける。笑顔を、やさしい心や愛情を、シモンに向けている。

 シモンに対してだけ書いたけれど、マリアンヌやモーリスに対しても、ジェラールさんは毎回チガウ演技をするので、そのたびにチガウ物語ができあがる。
 観劇後はメモを取るので大変だよ(笑)。

 今回は「誠実」なジェラールさんでよかった。なんか、ほっとした。
 人間として、とてもふつうな、ニュートラルな感性を持ったジェラールさんだったので安心した。
 や、ふつうにいい人だったから、彼が傷つく様は見ていて切なかったけど。

 前回だっけ、その前だっけ、ものすごく「黒い」ジェラールさんだったことがあった。
 シモンに疑われ、「信じてくれ」と言うあたりの黒さとかっこよさときたら……や、そんな嫌な言われ方したら、シモンもそりゃキレるって! 絶交されても仕方ないって! てな、黒いジェラールさん。
 この黒い人のときってば、色気ダダ漏れでねえ……あんたどこのエロールさん?!って感じで、見ていてハァハァしたわ。

 今回もその黒いジェラールさんを期待したんだけど(笑)、誠実なふつうの感性の人で、ああこれもアリだな、オイシイな、と思った。

 公演終了まで、あと3回。わたしが見たのは最後から4つめの公演。
 もうあとがないんだから、あまり個性的なジェラールさんにはせず、ふつーにしてくれる方が罪がない、気がする。や、あと3回のジェラールさんが、どんなジェラールさんかはわかんないけれど。

 ちなみにVISA貸切だったんだけど、オサ様のCM撮影風景DVD、欲しかったよ……。座席番号で列当選だから、何十人と当たっているはず。
 だけど立ち見のわたしは、最初から抽選範囲外。指くわえて抽選現場を眺めていた。
 うわぁぁああん、びんぼーがみんな悪いんや〜〜!
 ……いやその、たとえ座席券を前もって購入する財力があったとして、当選したとは思えないがな、わたしのくじ運ぢゃ。

 
 あと、3回。
 東宝に行く予定はまーったくついていないので、リアルにカウントダウン。

 あと3回だけ、オサ様に会える。あと3回しか、会えない……?


「記念すべき、今年100回目の観劇ですね」
 と、うれしそうにチェリさんに言われ、なんのことかマジでわからなかった。

「もう100回目でしょ? 今日あたり」
 はあ? わたしの、今年の観劇回数? なに言ってんの、まだ10月だよ? 100回目なわけないじゃん。
 と、即座に否定したんだけど。

 今日で、100回目でした。

 家帰ってから、数えた。チェリさんに指摘された前楽こそが、ズバリ100回目。
 何故? 何故チェリさん、ひとの観劇回数知ってるのよ?! 本人もわかっていないよーなことを言い当てられるの?!

 
 と、うろたえつつ。

 花組公演Wヘッダーして来ました。両方とも2階A席。……実は2階で見るのは1ヶ月ぶりだ……。立ち見か、奮発して前方席という2択で生きてきた公演だったからなー。

 つーことで、『アデュー・マルセイユ』の、「本日のジェラールさん」。
 おどろいたことに、初日あたりのキャラクタに戻っていた。適度ににこやかで、社交的。でも孤独と秘密を抱えていて、翳りがある。マリアンヌにマルセイユのことを尋ねられても、素直に望郷の念を口にしていたし、「色も匂いもない」が皮肉になっていなかった。
 午前公演ではモーリスに対してあまり興味なし。反対に前楽の方ではモーリスにちゃんと過剰反応していた(や、最近のジェラールさんはモーリスとの絡みがいちばん感情的でおもしろいから・笑)。
 必要以上にセンシティヴにもエキセントリックにもならない、「脚本通り」のジェラールさんに近かったんじゃないかと思う。
 前楽の方がより「ヒーロー」っぽかった。

 楽を前にして、初日あたりのキャラに戻して来るとは思わなかった……。
 やっぱそれまでは好き勝手にトバしていたってこと? オサ様(笑)。

 ところでシモン作雪だるまは、いつからアタマ欠け状態が、デフォルトに?
 午前公演も前楽も、雪だるまのアタマが削げたように欠けたままだったので、気になってしょうがなかった(笑)。ほら、いつぞやの、ジャンヌ姐さんが「これがアタシなんて嫌よ!」と雪だるまを叩きまくって壊してしまったときの、あの姿。
 壊れてしまったあとの公演も、落ちたアタマの一部分をくっつけて、なにごともなかったかのように「雪だるま」姿を披露していたのに……なんで欠けたままの姿になってるんだ?
 くっつかなくなっちゃったとか?

 いつからそうだったのか、雪だるまに注目したことがなかったからわかんないよー。

 
 前楽はまたしても団体の女子高生たちがぞろりと。前もって配られたペンライトを持って入場していた。
 彼女たちに罪はないが、席が近かったこともあり、観劇中のお喋りがが耳についた。
 でも、サヨナラショーではちゃんとペンライト振って、最後はスタンディングのカーテンコールにも参加していたよ。……ご苦労様。
 なにも知らない彼女たちはきっと、「タカラヅカって、歌唱力がすごい人でないと入れないのね」誤解したことだろう……オサ様の神!!な歌声をあれだけ聴いたんだから。

 サヨナラショーの詳細については、レポ能力のないわたしにはナニも書けないです。感想文は書けても、報告書は書けない人間だから。(アタマ悪いんだよぅ)
 ただ、1曲目から「世界の終わりの夜に」でどーんと来られ、涙腺決壊、次にまっつ影ソロで血管が何本か切れたので、はじまり部分で息も絶え絶え、あとはもーアタマ真っ白になってました。や、まっつはソロではなくコーラスだった気もするけど、ソロ部分も歌っていたのでわたし的にはソロ認定、油断していたとこに声を聴いて撃沈しました、はい。

 そして、タカラヅカのトップスターの役目がなんなのかを、改めて思い知りました。

 ヅカのトップスターの役目。資質。何度も書いてきているが、それは、「駄作を、力業でねじ伏せてしまうこと」!!

 えー、中村Bは今後一切、サヨナラショーの演出はしないで下さい。頼みます。
 ここまで愚鈍な人に、大切なサヨナラショーの演出は、2度として欲しくないっす。
 彼に悪意があるとは思いません。いい人なんだろうな、とは思う。ただ、無神経で無能なんだと思う。

 昨今ここまでひどい演出はないな、てな演出で、それでも、実力で空間を埋める春野寿美礼の凄さを、体感した。

 寿美礼サマの凄さを改めて知らせるために、こんな演出だったんだろうか……。

 演出がどれほどアレでも、オサ様の歌声はすばらしかった。
 他のことを全部ねじ伏せて、圧倒的な声を聴かせてくれた。

 先日シングルコレクションを買ったばかりだ。当時の歌声で綴られたCDを聴いたあとに、「現在の歌声」で、想い出の曲を歌われると、彼の進化が目の当たりになる。

 すごい。
 すごいよ、この人。

 春野寿美礼は、ここまで来てしまったんだ。

 神懸かり的だろ、この歌声。

 
 なんか、途中から、泣くとかじゃなく、心臓がばくばくして、血管が脈打っていることがわかって、体温が上がっていることがわかった。

 どうしよう。自分の体内の音が聞こえるよ。
 どうしよう。このひとがいなくなってしまうなんて、別れなければならないなんて。

 
 最後は謎の曲で昭和歌謡ど真ん中、レトロと言っていいのか、まあええっと、混乱する感じの謎が謎呼ぶ曲で(つか、あとで仲間たちと答え合わせをしても、誰も知らなかった)、その曲を歌いながら、オサ様が銀橋から客席に赤い薔薇を投げていたんだが。
 上手から下手に向かって歩いていたんだけど、ぽつぽつ投げていたので銀橋が終わりに近づいても半分くらい薔薇が余ったままで。どーするんだろう、と思っていたら、最後の下手タケノコ席に向かって、残った薔薇を全部投げつけた。
 ……オサ様ステキ。

 カーテンコールは2回。
 ええ、2回だけです。
 2回目で舞台にオサ様ひとり、あのくしゃっとした笑顔で「明日もがんばります」とかなんとか言ってくれたかな。もちろん仲間たちも舞台に呼んで、みんな揃って三度幕が下りる。……と。
 拍手は、ぴたりと止まった。

 えええ。
 2回? 2回ですか?

 なおもカテコする気満々だったわたしは、客席でたたらを踏んだ。ひとつ隣の席のデイジーちゃんも気持ちは同じだったらしい。

「あやうく私たち、またふたりだけでやっちゃうとこでしたね」
 と、デイジーちゃんが言うのは、『不滅の棘』東京千秋楽で、ふたり揃って意気揚々とスタンディングしたのに、他には誰も立ってくれなかったというイタい過去(笑)のことだ。前方の一部のFC席は立つ人がいたけれど、まったく関係ない後方センター一般席で立ち上がったのがふたりだけだったんだな。
 や、『不滅』楽のときは、そのあと何回目かのカテコでみんな立ったんだけど、今回のカテコはぴたりと2回でエンド。や、前楽だから、というのは関係ないよ。だって他の組の前楽は……(語らない、比べない・笑)。
 
 ……花組だなあ(笑)。こーゆーとこって、とっても組カラーだ。

 明日はオサ様の「アイシテルヨー」と「*階のお客さん、イェ〜イ!」を聞けるかな。

 明日で最後。
 そう思うと、心臓がばくばくしてやばい。

 やばいやばいやばい。こわい。

 ……みんな、しあわせでありますように。
 送る人たちも、送られる人たちも。
 お願いします、神様。


2007年10月29日。
 じつのところ、信じられていない。

 永遠に続く気がするんだ。

 今日、『ラブ・シンフォニー』がはじまって、電飾の中オサ様が立っていて、歌い出して。

 まだこれからも、なにもかもが続いていくような気がした。
 退団公演とか千秋楽とか、全部嘘で、夢で、わたしのカンチガイで、これからもふつーに、「今」が続く気がした。

 袴姿も見たけれど。
 なんかもー、ほわほわでぐだぐだのカテコとかも見たけれど。

 赤いオープンカーの前で泣いている姿も、そのオープンカーにちょこんと乗っている姿も見たけれど。

 でも、なんかまだ、夢を見ているようで。

 あの人、ほんとうにいなくなるんですか?


 白。……ではなく、でした。

 10月29日の出来事。
 10時ちょっと前かな。組子たちが楽屋口にぞろぞろ現れた。
 まずは手作り感あふれる装飾の、白い御輿を持って。黒いシャツに黒いサングラス。先頭はマメだった。
 次にぞろぞろと他の組子たち、黒シャツに黒サングラス。
 白い服を着て楽屋入りしたはずのきよみ、ひーさん、としこさんまで黒服姿。

 最後に出てきたのは、ショッキングピンクのてかてか衣装……学園祭の手作り衣装っぽいつーか安っぽい(笑)コスプレ衣装に、気合いの庇リーゼントにグラサン姿のまとぶ……と、黒シャツ黒サングラス、リーゼント姿……の、彩音ちゃん?!
 リーゼント彩音ってなにごとっ。ちっちゃっ。かわいいっ。(や、整髪料つけてのリーゼントではなく、ゴムやピンで無理矢理それっぽくしていた模様)
 組子たちは2列になって楽屋口を背に並び、まとぶと彩音ちゃんは花の道に背を向けるカタチで並んだ。まとぶの背中には、「花乱舞」の派手な文字が。しゃっきり立って、そのくせときおりへこへこと、取材陣のカメラに頭を下げてみたり……かわいーなー、もー。彩音ちゃんは、途中で組子の誰か(忘れた)に、黒ジャケットを着せられてました。忘れてきたのかな? 黒づくめのパンツスーツ姿はりりしいっす。
 
 オサ様登場は、ほぼ10時ジャスト。
 彼は、白づくめだった。

 リーゼント・コンビに案内され、御輿に乗る。
 高い。なにしろ、男役の肩の上の、そのまた上の椅子の上、だ。つか、本気で担いでるよマメ以下若者たち。人混みの後ろの後ろから見ているファンにも、オサ様の姿が見えたことだろう。

 オサ様は、足を高らかに組み、悠然と坐っていた。

 そう。
 90周年大運動会入場パレードのように。

 運動会の再現だった。黒服黒サングラスの組子たち、御輿の上でふんぞりかえるオサ様。
 あのときオサ様の両脇にいたふたりは、もういない。あれが最後のオサアサだった。あさこの手を借りて御輿から降りるオサ様が超萌えだっけ。

 今、オサ様の手を取るのはまとぶ。オサ様はまとぶの気合いのリーゼントを、たのしそーにぽんぽん撫でる。
 用意されたのは、花で飾られたお立ち台。……お立ち台かよ! せいぜい20センチの高さの台に乗り降りするだけなのに、いちいちまとぶが恭しく手を添える。姫にかしずく騎士のように。……や、リーゼントにショキピンてろてろ衣装、4649に花乱舞だけど。

 オサ様をお立ち台立たせてなにをするのかと思いきや、「架空表彰式」。
 整列した組子たちが、大真面目に人間オーケストラ。「ターンターカターンターン、タカタカタンタンタンターン♪」っていう、表彰式のアレ。指揮をするのはちあきさん。
 ちゃんとスピーカを使ってくれるので、花の道にいるわたしたちにもまとぶんの声がはっきりと聞こえた。3年前の大運動会で「表彰状を受け取る練習」をしていたにも関わらず優勝できなかったオサ様に、卒業を記念して表彰状を授与しようというんだ。
 ただしこの表彰状、振りだけなの。パントマイムなの。
 なにもないのに、大仰に表彰状を渡すまとぶ、大仰に受け取るオサ様。
 さらに、メダル授与まで。
 なにもないのに、マイムでまとぶが観客にメダルを見せる。や、なにか見せているのはわかったが、メダルであることまではわからなかった(笑)。それを恭しくオサ様の首に掛け、さらにオサ様がメダルを噛むマイムをやってくれたので、わかった。
 そしてこの間ずーっと、組子たちが大真面目にハミングしている。表彰式ソングを。真剣に。

 花組らしいお出迎え。大運動会入場パレードでダンディを追求した、男役の組。
 いやあ、なつかしくもたのしかった。つか、笑った。

 そんな1日のはじまり。……ちなみに、ひとりぼっち。前楽は友だち山ほど来てたんだけどねぇ。楽は誰もいないよママン。寂しいよママン。ひとりぼっちの入り待ちはひょっとしてはじめてか?

 
 花組公演ラストスパート、酷使した体力と気力が限界を迎え、翌日からへろへろだったんだけど、まあなんつーか、渡世の義理もあって宙初日に行ってみたり第九を歌いに行ってみたり、星初日に行ってみたりして数日。今日(11月3日)は1ヶ月ぶりの完全オフ日。や、朝から月DC発売にチャレンジして、完敗したとこだけどな。

 いい加減花楽の日記を書く。……上記の入りの感想まではひとりぼっちの「いつもの店」でミニパソに入力してたんだけどさー。
 いざ公演がはじまったら、あとは感想書いてる場合じゃないから。幕間はトイレの大行列に並んで終わりだし、終演後はパレードの場所取り並びだし。
 パソコン開いてる時間がなかったんだよ……。

 だから、「本日のジェラールさん」が、わからない。

 「本日のジェラールさん」は、観てすぐに書かないといけないのよう。わかんなくなっちゃうのよう。他の日の感想とまざっちゃうのよう。15回分のジェラールさんと。
 
 かすんだ記憶で書くと、ムラでの最後のジェラールさんは、やっぱりかなり「基本通り」だった。
 初日に近く、脚本に忠実。
 でも前楽の日ほどおとなしくもなく、テンションは全体的に高かった。
 いろんなバージョンの「ジェラールさん」のつぎはぎっぽくて、完成度は低かったと思う。
 シモンをいじってみたりモーリスとケンカしてみたり、マリアンヌにでれでれしてみたり、一貫性がない。千秋楽サービスで笑いに走ったりするから、本筋から逸れているの。

 オサ様に限っては、「千秋楽だから、最高の演技をする」わけではない、ということを、再確認した。
 この人は、最後だと思って演じるより、日常にかっとばしている方がいい演技するよね(笑)。軽く流していて、「あ、今日はハズレだ」てな演技もするけど。(舞台人としてソレはどうかと思う……が、そーゆートコすら愛しい・笑)

 演技の完成度は低いが、すげー気分にムラがある感じで、ときおりずーんっと盛り上がる。うわ、ここでここまで来るのか!と、いちいち驚かされる。……相変わらずずいぶんな人だー。合わせる方は大変だよなー(笑)。

 最後なんだから、男役の集大成としてすごーくいいものを見せてもらえるかも、とか、勝手に思っていたところを盛大にハズされた。
 そーだよな、オサ様だもん。
 本能で演技している「天才」なんだから、「千秋楽」なんて余計な枷があったら暴走できないよなー。

 お笑いに走ったりファンサービスしたり、絡む相手への好意の濃度で演技が変化したり、散漫な舞台。
 でも、それが心地いいのは、そんな彼に向かって、すべてのベクトルが収束されていること。

 出演者全員が、そんなオサ様の演技についていこうと、呼吸を合わせようとすごい集中力で臨んでいる。
 客席もまた、オサ様の一挙手一投足、表情の変化や目線の動き、わずかなニュアンスまで逃すまいと凝視し、食いついている。

 ここまで「ひとつ」になった空間が、気持ちよくないはずがない。

 高密度。高濃度。ナニかがぎりぎりまで厳選され圧縮され、地球上には存在できないほどの重さで、ここに満ちている。

 ジェラールさんは、あまりいいデキのジェラールさんではなかった。
 だから強烈に記憶に残るものではない。わたしが忘れられないジェラールさんは、いずれ書く予定だが、某日の「リュドヴィーク」のようなジェラールさんだ。
 本日のジェラールさんは、すでに鮮明な記憶ではなくなっている。

 だけどそんなこととは関係なく、場を満たしていた空気ごと、「本日のジェラールさん」が忘れられない。

 あの密度、あの濃度が、忘れられない。


 前楽はピュアなオサファンのキティちゃんと一緒だった。

 サヨナラショーで号泣し、しきりに感動していた。

 だからわたしたちは、口をつぐんでいた。
 「言ってはならないこと」が、この世にはいくらでもある。

 真実を口にすることが出来たのは、キティちゃんと別れ、みんなでごはんを食べ、くつろいだあとだった。
 遅れて最後にテーブルについたドリーさんが、とてもサバサバと口火を切った。

「いやあ、つまんないサヨナラショーだったね!」

 あ。
 言ったな、こいつ(笑)。
 ツッコミ担当ドリーさんならではの鋭さと容赦なさ。

 だが、彼女の一言で、その場にいたわたしたちはようやく本音を言えるようになったんだ。

 世の中には、「言ってはならないこと」がある。
 それは真実とか正義とか正解とかではなく、「場をわきまえる」ことだと思う。

 たとえ真実でも正義でも正解でも、「言ってはいけない場」がある。

 オサ様のサヨナラショーを観て、感動して泣いている人の前で言っていいことではない。
 ピュアファンの前で言っていいことではない。

 わたしはオサ様大好きだけど、真のファンには程遠い。「オサ様が出演していれば、すべて名作、傑作」だとは思えない(ちなみに、キティちゃんは「贔屓が主演していればすべて名作」な真のピュアファンだ)。
 駄作は駄作だと思う。
 オサ様がその才能で「駄作」を「別物」にしてしまうことを痛快だと思い、そこに拍手を送ってはいるけれど、それゆえに「好きな作品」になったりする場合もあるけれど、作品自体を名作だとは思えない。

 前楽直後、そしてまだこれから楽を控えた時点でブログに書けることではなかった。
 楽の直後すら、まだ無理。

 わたしはオサ様と花組が好きだ。
 公演もサヨナラショーも、盛り上がって欲しいと心から思っているし、オサ様の最後の花道に水を差すようなことをしたいわけじゃない。

 泣いているキティちゃんの前で、仲間たちみんなが口をつぐんでいたように。
 いくら「正直な感想」でも、言ってはいけない。彼女の感動を傷つけてはいけない。

 オサ様の歌声に、感動したのは事実だから。

 どんな駄作でも力尽くで感動させてしまう、あのとてつもない才能に心酔し、ひれ伏しているのはたしかなのだから。

 オサ様が好き。
 オサ様のサヨナラショーだから、感動したし、泣いた。
 でも。

 春野寿美礼のすごさと、中村Bの無能さは、まったく別物なんだ。

 ドリーさんが言う「つまんないショー」というのは、中村B演出のことであって、寿美礼サマのことではない。もちろん彼女もオサ様の「あの演出であそこまで盛り上げる力」に、強く言及していた。
 オサ様を好きだから、そのために集まっているわけだから、「言っていいこと」なのか、自分以外の誰も思っていないのかととまどい、口に出来なかったんだよ。おかげで、せっかくのサヨナラショー直後のお食事なのに、みんな別の話題に逃げていた(笑)。

 オサ様を好きなら、悪口なんか書くな、感動に水を差すな、と思う人もたくさんいるだろう。それがあたりまえの感覚かもしれない。
 所詮アンタはほんとうのファンじゃないからよ、ということなのかもしれないが、わたしはどうしても、中村Bの演出に物申したい。

 オサ様を悪く言うんじゃない。オサ様も花組組子たちも、素晴らしかった。
 彼らのことではなく、「演出」の問題点を書きたいの。

 あれから5日経ち、次の星組公演の幕も上がった。
 「サヨナラショー」という単語での検索も減った。
 正直な思いを書きたいと思う。

 前楽の日、中村B演出『春野寿美礼サヨナラショー』を観て、あまりの駄作っぷりに、貧血を起こした。

 ちまたでは選曲のひどさについて物議が起こっているようだが、選曲以上にひどいのは「演出」だ。
 縁あってここ2年ほど大劇場で行われたサヨナラショーのほとんどをナマで観てきているが、ここまでひどい演出は見たことがない。

 中村Bの無能さは『ラブ・シンフォニー』を見てもわかることだが、ひとつには大劇場の空間を使いこなせないことが大きい。

 宝塚大劇場は、大きな劇場だ。舞台もそりゃー、だだっ広い。広いだけでなく、奥行きもあり、高さもある。
 他の劇場とは違い、この巨大な立方体を華やかに埋める演出をしなければならない。

 が。

 中村Bは致命的に「空間」としての認識力がない。
 彼は「平面」の認識は出来ても、高さと奥行きを認識できないんだ。

 『ラブ・シンフォニー』を1階と2階で見てみると、よくわかる。
 最初に2階で見て、次に1階で見ると歴然。

 2階から見ると、この作品はじつにチープな、びんぼくさい作りになっている。
 セットがナシなんだ? ライトだけ? 予算なかったのかなあ。大人数が平らな舞台の上で何十人踊っているだけで、なんの仕掛けもなしか。てゆーか吊りモノが邪魔で顔見えないや。帽子ばっかで顔見えないや。

 で、1階から見るとセットが存在していることに、驚く。
 えええ、場面ごとにセットあったんだ。知らなかった。

 場面ごとのセット……わたしは舞台用語はわかんないんだけど、大道具や背景、セリなど、場面を盛り上げるための舞台上の用意、仕掛け。
 それが、『ラブ・シンフォニー』はホリゾント前にしかない。
 舞台のいちばん奥、スクリーンになったところ。そこになにかしら「絵」が飾られることが、彼のセットのすべて。

 ホリゾント前って、2階席からだと半分しか見えないんだよね……。

 セットが半分しか見えない、その前で何十人が踊っちゃうとそれすら見えなくなっていたから、「この公演、セット作るお金なかったんだ」という印象だった。
 あんまりきれいじゃないなあ……と、初日はしょんぼりしていたんだが、翌日1階で見ると「えっ、キレイじゃん!」ということになった。
 派手な電飾や金銀色彩の「舞台を盛り上げるための道具」が、2階からは見えなかったんだもの。

 公演を愉しむために、1階席でしか観劇できなかった。無理をしてでも1階にこだわった。今回ばかりは。あんなさみしい画面にお金と時間を出すのは嫌だ。

 これは、演出家が「平面」でしか舞台を捉えていないためだ。
 舞台上は「立方体」なのに、「地面」でしか認識していない。大劇場には多彩な演出が可能なセリが何種類もあるのに、まったく使用しない。いつも平面、なにもない広い舞台を何十人が走り回る。
 「高さ」を使った演出、「奥行き」を使った演出が皆無。唯一マシだったのが、ダーツボードの出てくる「ラブ・ゲーム」の場面ね。それ以外は盆が丸出し、なにもセットなし。

 「空間」が認識できない中村Bには、大劇場の舞台の「平面」は広すぎるのだと思う。だから、消去法でたくさんキャストを一度に出す。
 「立方体」として演出するなら少人数でもめりはりをつけることが可能だが、「平面」しかないとしたら、そこを物理的に「埋める」ためには、人海戦術しかないだろ。
 彼は群舞が好きなわけでもこだわりがあるわけでもなく、他に方法を知らないから、とりあえず群舞を利用しているのではないか。群舞尽くしの彼の作品は、あまりに芸がないため、こだわった結果とは思えないんだ。

 狭い舞台なら、平面として作るのもアリだと思うけど。
 だが、ここは大劇場だ。
 サッカー選手がフィールドの広さをカラダに叩き込みプレイするように、大劇場の広さを理解できない演出家は、第一戦に出てくるもんじゃない。
 バウホールですら、高さの感覚は必要だっつーに。

 中村Bは、セット替えがない、カーテン前と同じ感覚の細長いステージの、ディナーショー専用でオーソドックスなものを作っていればいい。
 それだけのステージなら、ファンをたのしませることができるんじゃないか? ディナーショーを軽んじているわけではなく、適材適所、才能に合った場として。
 新聞の4コママンガを描いている漫画家に、「制作費50億、スタッフ1000人を指揮し、声優100人使って大作アニメ映画を作ってください」と依頼しても、本領は発揮できないだろう、ってことで。


1 2

 

日記内を検索