銃を向けられ、肯定すれば殺されるとわかっていながら、ギャツビーは肯定する。車を運転していたのは、自分だと。

 まるで、運命のように。
 いや、運命に、勝利したかのように。
 誇らしく、虚空に向けて宣言する。

 愛していると。

 肯定の言葉は、愛の言葉だ。愛の宣誓だ。
 このときすでにデイジーは若き日の恋より現実の生活を選び、ギャツビーのもとにはいない。戻ってこないとわかっている。
 それでもギャツビーは宣言する。誇らしげに。恍惚すら見せて。

 あいしている、と。

 杜けあきの壮絶な演技、対峙する古代みず希の研ぎ済まされた狂気、同期の芝居巧者ふたりの真正面からのぶつかりあい。

 銃を向けられてからのギャツビーの心理の移り変わりがいいのな。最初のとまどいや恐怖から、なにかに達観したような虚をついた一瞬、続くこの世のなにも見ていないような、せつない空白と、次第に広がっていく恍惚の表情。

 息をのんださ。
 彼が「そこ」にたどり着くまでの思いに。人生に。

 彼は、勝利者だ。
 誰がなんと言おうと、彼は幸福だ。
 神も運命も、彼の真実をねじまげることはできなかった。

 たとえ周囲の人々が、世間が、なんと言おうとも。
 彼の葬式に、参列者いなくても。それが、世間が彼に与えた評価だとしても。

 彼を哀れむことなど、できない。

 ギャツビーの壮絶な最期、そして、純朴な老父の口から語られる、少年ギャツビーの姿が、名曲「朝日が昇る前に」を歌うギャツビーの姿に収束されて、幕が下りる。

 リピートするほど、ギャツビーのかなしさ、その人生がせつなくて泣けて泣けて仕方なかった。
 彼を幸福だと思うことと、その命を懸けた愛の絶唱にカタルシスを感じることとは別に、そうやって生きることしかできなかった男のせつなさが、泣けて仕方なかった。

 
 ……とまあ、年寄りなので、昔語りをする。

 『華麗なるギャツビー』は、トップスター杜けあき氏の折り返し地点となった作品だ。

 わたしはカリンチョさんの昔を知らないので、彼の最初の印象はコメディばっかやる人だ。
 スマートな美形ってわけではなかったし、個性的なスタイルと顔立ちだったし、初見では魅力がわからなかった。
 よその組のトップさんはみんな美人なのに、どーして雪組はきれいじゃないんだろう、と思った……失礼なことに。(大浦みずき氏の舞台顔は知っていても、この当時素顔は知らなかった)

 トップ就任のとほほ作『ムッシュ・ド・パリ』、時代錯誤な大歌舞伎の上にマロン・グラッセにすがりついて泣いちゃうよーなアンドレの『ベルサイユのばら』、いきなりお茶の間時代劇『天守に花匂い立つ』、すちゃらかコメディ『黄昏色のハーフムーン』、日本モノと洋モノショー2本に短いコメディ1本の3本立て公演、ときたわけだから、ヅカファンなりたてのわたしは、すっかり誤解していた。

 雪組とは、コメディ専門の組である。
 雪組トップスター・杜けあきは、コメディ専門の人である。

 ヅカファンになって数年、コメディばっか見せられていたんだもの。ショーでも、おさげアタマに顔にそばかす描いて「アタシ、長靴下のピッピ!」とか言って、ドリフ張りのお笑いをやっていたんだもの。
 今で言うなら、はじめて観た公演が『君を愛してる』で、しかもそっから数年間、『君を愛してる』と同じタイプの他愛ないハッピーコメディばかりが続き、水夏希って、ひとはいいけど、なさけない男の人がハマる人なんだ。と思い込む、ようなもんですな。
 途中『ベルばら』はやってるけど、全組巻きこんでの祭りだったので、「コメディの雪組」も参加せざるを得なかったんだな、程度の感覚でしかなかったさ。

 雪組ってのは、カリンチョさんってのは、そーゆーもんだと思っていたから。

 そんなカリさんのトップ6作目が『華麗なるギャツビー』で。
 カラーの違いに、どんだけ仰天したか。

 『君愛』の水しぇんしか知らないところへ、『マリポーサの花』を見せつけられるよーな感じですな。

 シリアス芝居、できたんだ?!

 ……や、観たことなかったもんだから。

 かっこいい男の役、できたんだ?!

 ……や、観たことなかったもんだから。

 雪組ファンで雪組しかほぼ観ていない状態だったのに、トップスターの実力すら、ろくにわかっていなかった、若かりし頃。
 芝居がうまいことはわかってたよ。コメディができるのは、実力者だからだって。歌がうまいのもわかっていたよ。滑舌と声の良さだってわかっていたよ。笑わせる芝居をあそこまで余裕でやる人なんだから。
 しかし。
 いわゆる「ヅカの男役」として「美しい」かどうかというのは……考えたことがなかった。

 そんな役も作品も、ほんとになかったから。

 ギャツビーで目からウロコ、びっくりしていたら、そっから先はシリアスで重苦しい作品しか来なくなった。……カリンチョのトップ人生、前半と後半でカラー違い過ぎ。

 ギャツビー@カリンチョは、マジでかっこよかった。
 包容力あふれる大人の男。しかし少年ぽさをにじませた、愛すべき男。生きる器用さと愛への不器用さ。

 初見では、わからなかった。
 なに、この話?
 今よりはるかに若く、幼いわたしには、ギャツビーの生き方もデイジーの魅力も、ラストシーンの意味も、わからなかった。
 理不尽な話だと思った。
 自分のために恋人が死んだってのに、車から降りもせずに行ってしまう、デイジーってナニ、最低女! こんな女のために死ぬってすげー犬死。

 あまりにも納得の行かない話だったので、映画をレンタルして見てみた。ロバート・レッドフォードのやつ。
 ……映画を見て、さらにアゴが落ちた。ま、ますます理解できねえ、この話。

 タカラヅカ版『華麗なるギャツビー』は、かなりヅカ風アレンジがしてあるんだってことが、わかった。
 演出家の腕がいいことも、ここでわかった。

 2回目に公演を観たときは、ラストにデイジーが車から降りて、墓穴に花を投げ入れていたよーな気もするが、「それだけかよっ?!」という憤りに変化ナシ。這いつくばって泣いて詫びろ!と。

 繰り返し観て、観ているうちに、ものごっつーハマったのだわ。
 ギャツビーもだし、デイジーもだし、ギャツビーを取り巻く裏社会の男たちの関係にも(笑)。

 杜けあき、というスターにハマったのは、このときからだ。
 あのクソ広い劇場で、2500人もの人間を相手に、あそこまで濃い芝居をしていいんだってこと、内面を掘り下げていいんだってこと、高密度のモノが爆発するような演技をしていいんだってことを、知った気がする。

 テレビカメラでアップにならなくても、役者の演技でドアップに見え、その表情のひとつひとつが忘れられなくなるんだってこと、はじめて知ったんだ。
 ギャツビーが美形で、おどろいた(笑)。

 月組日生公演『グレート・ギャツビー』にて。

 や、あさこちゃんだから美しいことはわかっていた。わかっていたけどほら、わたしのギャツビーのイメージは、初演のカリンチョさんなので。
 カリさんはかっこよかったけど、その、ビジュアルが優れていたかとゆーと、そーゆーわけではなかったので。

 あさこちゃんがバラの花束持って、「キミは薔薇より美しい」とか言っちゃうともお、くるくる回っちゃうくらい完璧な画面ですな。
 いやその、ベタが基本のタカラヅカでも、かなりベタな台詞として印象に残っててな、「キミは薔薇より美しい」。
 あのコテコテこゆこゆのカリさんが言っても「うわあぁ」だったが、完璧な美青年あさこ氏に言われても、チガウ意味で「うわぁ、うわぁ」ですな。や、どっちも赤面しちゃいますって。

 美しい、ということは、それだけで説得力だ。
 瀬奈じゅんが美しい、つーだけで、彼がなにをしようと「そういうことなんだ」と思えてしまう。

 デイジー@あいちゃんが、回想シーンにて奥の扉からひとり遅れて登場した瞬間、彼女の美しさに、息を飲むように。

 美しい。それだけが持つ、力。

 くどくどしい説明はいらない。
 美しい。それが理由。
 もちろんその美しさは人形の美しさではなく、生きた、人格のあるがゆえ、魂の魅力をも内包したうえでの美しさだけど。

 
 あさこちゃんのギャツビーは、ひどく痛々しかった。
 もちろん、そういう役であるわけだが。

 本公演以外、組を分けての興行である、ということのゆがみ。
 つまり、あさこと同レベルの存在がいない。

 対等に戦うべき恋敵は同世代にも見えないし若造だし、最後に愛をかけて対峙する運命そのもののような相手は、恋敵の軽さとは反対の意味でチガウ世界でチガウ演技している人だし。
 意外に感覚が合っている気がした隣人は、所詮隣人でしかなく、真に心を寄せているわけでもなく。

 言葉が通じるの、デイジーだけじゃん。
 なのにデイジーとも、言葉の意味は通じるにしろ、結局心が遠く離れてしまう。

 あんまりだ。
 なんて救いがないんだ、ギャツビー。

 と、主要人物にスターがいないことが影響してました。
 あひくんやもりえくんがスターではないという意味ではなく、やっぱりトップスターというのは特別な存在であり、彼と違和感なく芝居で絡むことができるのは、それなりの技術や経験が必要なんだということ。

 トム@もりえは……できる、からキャスティングされたんだと思ったんだけどなあ。期待したんだけどなあ。
 わたしにはデイジーが姉さん女房に見えた……。ギャツビー云々以前に、デイジーより子どもに見えたら、それはトム役としてきついっす。

 もちろん、もりえくん比ではよくやっていると思うんだけど、キャリアのなさが見えてしまった感じ。外見も若々しいしなあ。
 スタイル良くてかっこいいんだけど。

 ニック@あひくんはアクのなさがいい感じでした。視点としてニュートラルで、嫌味がない。
 ジョーダン@ちわわちゃんがこれまたイイ女で、彼女とニックの身長差というか体格差が、すごく素敵。リアル男女カプっぽくてときめき。
 ジョーダンは初演よりちわわちゃんの方が好きだなー。ドライさとコケティッシュさがいかにもフラッパーガールで、あこがれる。

 ウルフシェイム@越リュウは、納得のかっこよさ。
 てゆーか、彼を中心にしたギャング野郎どものダンスがかっこよすぎ。

 越リュウセンターで、その両脇がるうくんと一色瑠加って、なんのサービス?! あたしへのご褒美ですか、釣り餌ですか?! ハァハァ。

 ギャツビーに締め上げられる仲間ギャング役が、一色氏だとは、観るまで知らなくて。
 あのスネた感じのおっさんぶりが、すげーツボっす。(おっさんに見えたけど、実は青年役だったよーな気もする。や、なにしろ一色氏ですから、デフォルトでおっさん!・笑)
 やーん、萌え~~。
 彼のドラマを考えてハァハァしたいわ(笑)。

 ビロクシー@るうくんは、わたし的に物足りなかった。もっと作り込んで欲しかったなー。
 って、まあそれは、わたしが初演ファンであるせいだろう。ご贔屓の役だから、視野が狭くなってるの。

 マートル@ゆりの嬢がうまかった。配役見たときから期待していたけれど、「演技」という意味ではいい仕事をしてくれたと思う。
 ただ、初演でも思ったけど、この役を路線スター系が演じることは、できないのかなあ。
 娘役たちのセンターで歌い踊る以上、華と美貌が欲しいと思ってしまうのは、ゼイタクか。

 タータンが歌っていたレクエルドが、わざわざ役とは別に「歌手」が歌っていたことに、ええっと、初演ファンとして……というより、トドロキファンとして、ちょっと複雑でした(笑)。
 ラウル役が歌わなきゃならないわけじゃ、なかったんだ、あの歌……。

 
 ウィルソン@ソルーナさんが、えらいことになっていて、とまどった。
 だって2幕の書き下ろしの場面、ソルーナさんが若者たちと同世代設定で馴染んでいるんだもの。

 キツいプレイだなこりゃ、と思いもしたし、親子ほど年の違う子たちとツレを演じなければならないって罰ゲームかよって感じなんだけど、その若作りぶりが意外に可愛くてうれしかったりもして、ほんとフクザツ(笑)。

 ソルーナさんがこの役をこの比重でやることには疑問を持っているし、そもそもラストのギャツビーとの対決も芝居のカラーが違って、わたしにはとまどいが大きかったし。
 それでも、作品を成り立たせるためには、必要だったのかな? 月組の組子には任せられないって思ったの、イケコ?

 
 つくづく、大劇場でやってほしいと思った。
 作品的には中劇場でじっくり上演する方がいいのかもしれないが、キャスト的には、組子全員揃っててくれないと、パワーバランスが難しい。
 女の子たちは充実しているけれど、大人の男たちの不在が痛い。
 トップスターひとりよくても、舞台は成り立たないんだよ。

 ギャツビーと対等に芝居で戦うことの出来る、彼と同世代で近いポジション(つまり路線スター)の大人の男が、ふたり必要だったってば。
 トムと、ウィルソン。
 どちらも明らかな路線スターっぽい役ではないが、スターが演じて演じ切れれば、十分オイシイ花形な役だ。

 ひとりぼっちのあさこちゃんを見て、『A-“R”ex』を思い出したよ。
 あのときは周囲の濃く重い芝居から、「スター」であるあさこひとりが浮いて見えたんだけど、今回は反対、周囲のステージ力、宝塚力が足りていないため、ちゃんと「スター」であるあさこひとりが浮いて見える。

 ギャツビー@あさこを孤立させること、が、キャスティングを含めた演出意図だったんだろうか?

 わたしは初演の『華麗なるギャツビー』が好きで、もちろんギャツビー役はカリさんの方が断然好きなんだけど、それは彼ひとりのことではなく、あのクド濃ぃいギャツビーが浮かない世界観を作り上げていた、当時のステージ全体を通して好きだったんだと、改めて思った。

 対等な力の中で発揮される、ギャツビー@あさこちゃんを見てみたかった。

 すみません、『グレート・ギャツビー』を観て、いちばんおどろいたことは、あひくんの扱いです……。

 あまりにびっくりして、それまでの感想が吹っ飛んだよ。
 冷水を浴びせられた、っていうか。

 あたしゃ年寄りなもんで、慣習とかお約束とかにしばられているんだな、無意識に。
 自分の知っているモノからはずれているから、という理由で拒絶するほど激しくはないにしろ、とりあえずびっくりする。

 予備知識がナニもないまま観て、フィナーレ……というか、最後のご挨拶パレードで仰天した。

 ヅカのご挨拶パレードは、ルールが決まっている。
 最下級生から登場して一礼し、左右の舞台端からスタンバイして上級生を待つ。
 半端に重要な役をやった子だって、下級生だと最初の方に出てきて挨拶するし、最後の立ち位置はすみっこだったり2列目以降だったりする。
 主役クラス以外は、「学年>役」なんだ。
 どんどん学年が上がって行き、ついにはこの公演の長や、専科さんが登場して一礼、それまでは数名ずつ登場だったのが、次の2番手からはひとり登場、ひとり挨拶。
 2番手のあとはヒロイン登場。
 そして全員で、主演者の登場を待つ。
 最後の登場、そして一礼するのは主演者。

 これがふつーだから、『舞姫』でまっつがひとり挨拶させてもらえなかったことで、「あー、単独2番手ぢゃないんだー、それが劇団の意志なんだー」としょんぼりしたりも、した。たかが挨拶、されど挨拶、公演内容の良さでそんなことどーでもよくなっていたんだが、『グレート・ギャツビー』を観て思い出したよ。

 形式2番手役のニックを演じもし、組内で3番手ポジションにいて、この公演では2番手であろうあひくんが、ヒロインの前に挨拶しなかった。
 ひとり挨拶でもなかった。
 カノジョ役のちわわちゃんとふたりで登場、そしてそのあとに専科さん登場……。

 この公演、2番手男役不在なんだ。

 今までも、2番手不在と言っていいくらい比重の軽い扱いをされる人たちはいたが、それでも挨拶時はヒロインの前に登場して、2番手として拍手を受けていたはず。
 今回、意識的に2番手を作らなかったことに、愕然とした。

 劇団的にか小池的にか知らないが、あひくんを2番手扱いしてはいけなかったらしい……。

 このラストの扱いで、「2番手役は、ウィルソン@ソルーナさんだったんだ」とわかった。

 1幕はほぼ初演まんま、2幕モノなのに1幕モノだった初演そのままを1幕でほとんどやっちゃって、あとどうする気だろ、と思っていたら。
 2幕にあった新場面は、ほぼウィルソンの場面だった。
 初演ではほとんど書き込まれていなかったウィルソン役に筆を割くことで、彼が2番手役になった。

 そして実際、最後の挨拶でも「ヒロインの前に登場するのは2番手」という慣習通り、専科のソルーナさんはヒロインの前に挨拶していたからな、もうひとりの専科さん、汝鳥さんと一緒に。

 
 あたしゃ年寄りなもんで、慣習とかお約束とかにしばられているんだな、無意識に。
 自分の知っているモノからはずれているから、という理由で拒絶するほど激しくはないにしろ、とりあえずびっくりする。
 
 びっくりして、考えて、慣習通りでなくてもコレはコレでいいか、と思うときもあるし、「やっぱりルールには従おうよ」と思うときがある。

 『グレート・ギャツビー』では、後者だ。

 タカラヅカには、タカラヅカの慣習、お約束がある。
 トップスターを中心としたピラミッドだ。
 どんなに馬鹿げていても、トップ、2番手、3番手と順番に芝居で重要な役が振られ、いくら演技巧者でもスターでない人に主役は出来ない。
 おかしいけれど、これがタカラヅカ。
 実力だけで役付きを決めて欲しいなら、それはどこか別のカンパニーを観るべきだ。

 2番手役を専科さんにするなんて、あんまりだ。

 ソルーナさんのウィルソン役はうまかった。それは確か。
 作品クオリティ的に、彼の演技が必要だったことはわかる。しかし。

 そんなこと言ってたら、すべての公演、主要な役は専科さんに演じてもらわなきゃ、ってことになるよ?
 主役以外、物語を支える2~3番手は実力が安定している専科さんが演じる。悪役とか複雑な内面を持つ役は専科さんが演じる。
 スターは真ん中できれーな衣装を着て、きれーな役をやるだけ。

 作品は安定、若手がへたっぴでも所詮軽い役ばかりだから無問題。主役がきれいだからファンもよろこぶ。大団円。
 ……って、チガウからそれ。

 
 形式上2番手役は、物語の視点となるニック役。
 わたしはこの役より、主人公の恋敵であるトム役の方が、2番手役に相応しいと思った。
 語り部であるニック役を軽んじているわけではなく、「タカラヅカ」という特殊なカンパニーに置いて、ナレーターは辛抱役であり、技術が必要な割にタカラヅカスターとして報われない。
 それよりも、主役と色恋で絡むトム役こそが、「タカラヅカ」では活きる役なので、この役をクローズアップして2番手役とした方が、男役スターの魅力が出ると思っている。
 ヅカは男役スターを魅力的に見せてナンボだ。それは、この作品1本限りの話ではなく、1回限りで解散する企画公演でない以上、今後も「このカンパニーのこのスターを見たいわ」と思わせるものでなきゃならない。

 タカラヅカとしてスターを大切にするならば、役割を果たすならば、初演通りニックを2番手として大切にするか、ヅカ的にオイシイ色悪のトムを2番手として華々しく盛り上げるか、するべきだったと思う。

 物語に必要だからといってウィルソン役の比重を上げることはかまわないが、それならば、ウィルソン役も路線スターにさせるべきだった。
 たしかにかっこいい役ではないが、きちんと演じきることができれば役者の評価につながる。ヅカらしくない汚れ役だからこそ、「この役をやった人が、他ではどんな演技をするのか見てみたい」と思わせることで、未来につながる。
 ……演じきることができれば。できなかったら作品を壊してしまうし、スターらしくない役だからファンもたのしくないしで、あらゆる方向からキツイ評価が返るだろうけど。
 たとえば真矢みき主演だった『失われた楽園』はイケコお得意の自作焼き直しで、『華麗なるギャツビー』の焼き直しシリーズのひとつだけど、この作品におけるウィルソン・ポジションの役はちゃんと香寿たつきが、路線スターが演じている。
 演じられるだけの実力ある路線スターがいないというなら、ウィルソンの比重は初演まんまにしておくべきだった。初演ではべつに、2番手役ではなかったのだから。
 
 スター不在で重要な役を専科さんに任せてお茶を濁して、今回の公演は乗り切りました。……て、ソレで終わりぢゃないだろう。
 作品を守るために、2番手は専科さんにお願いしました。いい作品になって良かったです。……て、ソレはチガウだろう。

 専科さんの実力におんぶに抱っこするより、「足りていない」「任せられない」と判断したのかもしれないが、今回出演している路線スターを、あひくんでももりえくんでもいいさ、未来のヅカを背負っていくことになるポジションの子たちを、「2番手スター」らしく見せる役と演出をしてやるのが、座付き作家の仕事ぢゃないのか?

 書き下ろし場面は良い場面だったし、やっぱ小池演出うまい、と思うだけに、残念でならない。
 
 『グレート・ギャツビー』を観に行こうという、直接の動機は、キャスティングだった。
 関西で公演してくれたら絶対に行くけれど、それ以外の地域までは遠征しない。長年のわたしのスタンスである。や、単純にびんぼーでな。遠征費用が出ないのだ(笑)。
 しかも月組は東京と博多で公演がある。びんぼー人のわたしに両方なんて、とても無理。作品が好きなのは絶対『ギャツビー』だけど、きりやんとそのかとまさおが見たいので、軍配は博多に上がった。
 残念だけど、あきらめよう……と、思っていたら。
 キャスティングが発表になった。

 トム・ブキャナン@もりえ。

 ……ええ、ここです、わたしが食いついたのは(笑)。

 勝手に「ヒゲのもりえが見られる!」と思い込みました。ミーマイのヒゲ紳士もりえがあまりにかっこよかったので。
 夢よ再び、ダンディもりえにわくわく!

 いやその。実際ヒゲじゃなくて、かなりがっかりしましたが、まあソレは置いておいて。
 ヒゲもりえに期待して、てのも嘘じゃないんだが、初演ファンとしては「役の意義」にいろいろ思うところがあってね。

 初演の『華麗なるギャツビー』では、主演が杜けあき。2番手は一路真輝、3番手高嶺ふぶき、と順番が決まっていたが、ここにもうひとり、当時の雪組には海峡ひろきという別格スターがいた。
 全国ツアーの『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』で、主人公オスカル@杜けあきに対してのアンドレ@海峡ひろきだったりしたことからわかるように、ある意味2番手かそれ以上にオイシイところにいた人だった。
 華やかな美形ではなかったが、色気のある大人の男だった。
 この海峡ひろき……ミユさんが、トム・ブキャナンを演じていた。

 主人公ギャツビーの恋敵、ヒロイン・デイジーの夫。
 三角関係ものすべてに言えることだけど、恋敵に説得力がないと三角関係自体が成り立たなくなる。主人公と同等の魅力や存在感を持つ男が相手でないと、その間で迷うヒロインはバカみたいだし、つまらない男と秤にかけられてしまう主人公の格も落ちる。
 トム役のミユさんは、トップスターであるカリンチョさんと対峙して違和感のない人だった。

 本来ならトム役は、2番手スターの演じる役だと思う。
 トップスターと2番手の実力が伯仲している円熟期にこそ、公演してほしい作品だ。

 当時の2番手のいっちゃんは、もちろん実力のある人ではあったけれど、若かったし、持ち味的なこともあり、トップが演じる主役の弟的位置の役ばかり演じていた。
 友だち(ロベール、ピート)とか恋人(オスカル)とか弟(小次郎)とか。2番手になってから一度もトップスターの「敵」を演じていなかった。(そののち張栄勲を演じるが、コレも結局は「いい人」でほんとの敵役ぢゃないし……いっちゃんってそーゆー持ち味の人だったんだよなー)

 色悪とか恋敵とかは、いっちゃんの任ではなかった。弟キャラだったんだな。友だち役でも、主人公になついている弟分的キャラだったし。

 若いかわいこちゃん2番手には務まらない、大人の悪役。ミユさんは、そのポジションを背負っている人だった。

 だから、『グレート・ギャツビー』のキャスティングに注目していた。
 先に発表になっていた出演者の顔ぶれから、役に相応しいのが誰か、考えていた。

 ギャツビー@あさこ、デイジー@あいあい、ここまでは予定調和。前提事項。
 問題は、それ以外。
 ぶっちゃけ、トム役。
 番手上は、2番手の役がニックであり、トムは番手外の役になっているが、実質は2番手格の役だ。
 弟キャラ、友だち役でも弟分的な友だちしかやらせてもらえないいっちゃんが、さわやかにかわいらしくヘタレに演じていたニックは、べつにわざわざ2番手がやるほどの役でもない。ただの視点にすぎないのだから。
 物語に必要なのは、恋敵のトム役。

 あさこと女を取り合い、勝利するのに相応しい貫禄のある人は、越リュウしかおりませんがな。

 当時のミユさんはまさに、今の越リュウみたいな感じの人で。セクシーな大人の男、芝居で悪役をやり、ショーでも悪役やってヒロインを刺しちゃったりしてる人(ふたりの男が女を取り合い、男をかばって女が刺されるアレ)。

 形式上2番手のニック役があひくんで、実質2番手のトムは越リュウかな。そうして「作品」を支えるのがいちばん確実だろう。せっかくの名作の再演、ポシャりたくないだろうし。
 
 また、あひくんは引き出しが相当少ない人だが、「いい人」と「悪役」のふたつだけは演じられるようなので、ひょっとしたらあひくんがトムになるかもしれない、と思った。
 形式上2番手なんて面倒な真似をせず、素直にトムを2番手として描き直した方が、据わりがいいことは明白だ。
 ヅカの番手制度ゆえに、なにがなんでもあひくんを2番手にしなければならないなら、あひくんにトムをやらせればいい。なにもやってもアギラール、な、あひくんだから、彼の演じるトムは見る前から想像ができてしまってわくわくに乏しいけど、彼のためには「彼が出来る唯一の格好いい役(=アギラール)」をやらせてあげるべきだ。『ME AND MY GIRL』での汚名を返上させてあげるべきだろう。
 それに、演出家がイケコなので、彼がアギラール役を気に入っていた場合、あひくんにトムをやらせるかもしれない。同じ役者に同じタイプの役を与える癖のある人だから。

 作品クオリティ重視なら手堅く越リュウ、番手重視ならあひ。
 そんなとこかと思っていた。

 そして、それなら無理をしてまで観に行く気になれなかった。

 越リュウのトムはかっこいいと思うし、がっつり演技するところは見たいとは思うけど……うまいことも、演じられるだろうことも、わかってるし。
 あひくんのトムは、悪いけどはるばる遠征してまで見る意欲には結びつかない。なにしろアギラールになるのが目に見えてるし。アギラールもリチャードも、演技的には「?」なものだったし。(かわいかったし、萌えだったけど、芝居としては……)

 それが、まさかのもりえ。

 ……長々語ったように、実質2番手な役が、もりえ??
 トップスターと対峙する、トップスターと同等の存在感が必要な役が、もりえ?
 大人の色男役、身勝手さや屈折を秘めたややこしい役が、もりえ?

 あひくん差し置いて、もりえくんなの?!

 ……これには、興味が湧くじゃないか。
 『ME AND MY GIRL』のもりえくん、かっこよかったし。
 いったいどんなことになるんだろう?

 影の主役ウィルソン役がソルーナさんだってのは、まあ、そんなもんかなと。ほんとにうまい人にやってもらわなきゃ物語が壊れてしまう役だから、専科さんに登場してもらうのは、仕方ないのかなー、と、あきらめた。
 や、古代みず希ファンであるわたしは、この役を専科さんがやるのはうれしくないんだが。
 トム役がトップスターと対峙する役なのと同じ意味で、ウィルソンもまたトップスターと対等に芝居で渡り合わなければならない。存在感や技術を披露しなければならない。
 初演にて、芝居巧者の古代みず希がトップスター杜けあきと息の詰まるような同期対決を舞台で繰り広げてくれていた……あの「並び立つ感じ」が良かったので、年代や立場の違いすぎる人が演じるのは、残念だ。
 作品クオリティのために、安直に専科さんを使わないで欲しかった。……かといって今の月組に、ウィルソンができる人がいない。嘉月さんカムバック!!

 
 トム役がもりえだった。
 これが、直接の観劇の動機。

 初演を知るものとして、この役をこの学年、ポジションの子が演じるというのは、ちょっと考えられない。
 もりえがトム役であることで、わたしの知る『ギャツビー』とはパワーバランスがちがってくる。
 いったいどんなことになっているのか、どれほど変更されているのか、俄然興味が湧いた。

 もりえくん云々ではなく、初演ファンとしては「役の意義」にいろいろ思うところがあってね。
 セリア@となみは矛盾している。

 『マリポーサの花』のヒロイン、男しか出てこない、10人いればコトが足りる芝居において、貴重な10分の1を占める役。……比重的には10人中7番目くらいかもしれないし、出てこなくても問題ない程度の役(名前だけ、イメージだけの存在でも可)とはいえ、それでもヒロイン。
 80人もの出演者を使って10人いればコトが足りる芝居とか、唯一の女性キャラすら登場しなくても問題ないと思わせちゃうとか、そんな芝居を書いた演出家がいちばん悪いんだが、それは置いておいて、あくまでも描かれた中での、セリアの話。
 

 彼女はなにかっちゃー、ネロ@水に頼る。
 弟が帰ってこないとか連絡がないとか。
 なんでそんな家庭の事情でネロに頼るんだ。ネロは別に家族でもなんでもないだろ。

 セリアの依存を許容しているのは、ネロが寛大だからだ。彼が力になってやる必要はナイのに、いちいちなんとかしてやっているんだから。

 セリアのキモチもわかる。
 なにしろ、コトが「大統領暗殺未遂」だ。女の子がひとりで抱えるにはへヴィ過ぎる。コトがコトだけに滅多なことでは他人には話せないし、逆上しやすい父に相談することもできない。
 話す・話さない以前に事件の存在を知っている相手を、相談相手に選ぶのは、セリア的には自然な流れだ。
 ネロだから相談した、というより、客観的に見て、ネロしかいなかったんだよね、頼れる相手。
 ネロが父の仕事仲間で自分の職場のボスで、信頼の置ける人物であるとか、そもそも好意を持っていた相手だとかいうのは、付属的なことで、そーゆーのをとっぱらって、消去法でも、ネロしかいなかったんだよ。
 だからつい、なにかっちゃーネロを頼る。

 セリアの事情はわかるけど、ハタかりゃ見りゃ、理不尽な依存。なんでネロがまったく関係ない人間のために、危険な橋を渡らなければならない? エスコバル@ゆみこが言う通りだってば。

 セリアはネロに依存している。彼女が弱い女の子だから、という理由で。ひとりではどーすることもできない、こまっちゃう、という理由で。
 それなら何故。

 「女」であることを、利用しない?

 弱いイキモノとして、強いネロに依存しているのだから、しかもネロのことを好きなんだから、いちばん手っ取り早いのは「女」として彼の内側に入ってしまえばいいんだ。
 愛を打ち明け、彼の恋人になってしまえばいい。
 恋人ならば、家族の不始末で頼ってもおかしくないし、向こうも責任を持って助けてくれるだろう。

 女だから依存しているくせに、「女」の部分は使わない。
 この矛盾。

 でもこの矛盾こそが、セリアだと思う。

 他に手段がないから、ネロに頼るしかない、弱さ。世間知らずさ。
 そのくせ、その弱さゆえにカラダを投げ出すことはできない、たぶん思いつきもしない、育ちの良さ。
 ネロの女になってしまえば得をする、そんな思考回路は、ハナからない。
 むしろ、頼っている状況だからこそ、愛を打ち明けてはならないと思っているらしい、方向違いの気遣い。

 セリアってねえ、泣き顔見せないんだよねえ……。

 彼女の小さなキャパでは受けきれない事態になり、取り乱して叫んで、そして。

 あ、泣いちゃった。……そう思わせる瞬間に、背中を向けるの。
 ふつうならそこで、泣いてみせるでしょうに。男の胸にすがってみせるでしょうに。
 いちばん手っ取り早い「女の武器」を、彼女は封印するの。

 セリアがこんな女の子じゃなかったら、ふたりはもっと早くラヴい雰囲気にも、わかりやすい関係にもなっていたと思う。

 そこで泣き出せば、ネロはきっと抱きしめただろう。……そう思わせるタイミングで、セリアは必ず彼に背中を向ける。
 そして、次に男を振り返るときには、気持ちを落ち着け、涙を隠してしまっている。
 これじゃ、抱きしめることもできない。

 泣いていることがわかる背中を、黙って見つめることしかできない。

 すでに依存しちゃってるんだから、全部あずけちゃえばいいのに。
 どーしてそう、ぎりぎりのところで必死に立ち止まっているのか。耐えているのか。
 その、矛盾。
 その、愚かしさ。

 その、いじらしさ。

 セリアというキャラクタは、明らかに作者の書き込み不足で記号的な扱いしかされておらず、彼女を描くことに作者の興味が薄いことは、わかる。正塚が悪いわ、ありゃ、と思う。
 ネロがどーして彼女を愛したのか、「顔か? 所詮は顔なのか?」とか、安い結論に落ち着きそうなくらいエピソードが足りていないと思っているけれど。

 ネロがセリアを愛した理由はわからなくても、セリアという女性には共感できるんだ。

 前から憧れていた男性が、偶然父の仕事仲間として現れた。これはチャンスだ!と強引に彼の店で働くことにする。父親の手前、無碍に出来ない男の事情につけ込むカタチになってもキニシナイ。
 弟をかばってくれたこともあり、それ以後弟の問題はみんなその男へ相談する。だって他に相談できる人いないし。
 自分が不安なこともあり、男への依存心、恋情は加速していくけれど、彼が自分の恋人でないことはわかっているから、泣いてすがることは出来ない。抱きしめてなぐさめてもらうことはできない。
 なにか訳あり風情な男だと思っていたが、自分とはあまりにかけ離れた世界に生きる、重い傷・暗い過去を背負っている人だとわかり、受け止めきれずに一旦逃げ出す。
 それでも、やはり弟のことで頼れるのは、その男しかいなくて。

 依存と保身の間で揺れ動き、かなり卑怯な立場にいるんだけど、そんなこと気づきもしない。
 いつだって自分のことだけで頭はいっぱい。
 自分が傷つかずに済むように、しか、考えてないよね、ほんとのとこ。
 ……そんな女だからこそ、共感できる、つーのもなんだが。苛っとくる反面、たしかに、納得できるんだ。彼女の弱さとずるさが。リアルに。他人事ではなく。

 それだけだったら、いずれはムカついて終わるだけだったと思う。
 自分の嫌なところばかり見せつけられて、それだけの女だったら、共感を通り越して同類嫌悪に行き着く。

 でも。

 その、弱くてずるいセリアが。
 かっこつけてて、本心を出さないセリアが。

 なにもかもかなぐり捨てて、ネロにすがりつく。
 彼が戦いに行くと……もう二度と会えないと予感した瞬間に。

 泣き出す瞬間背中を向けていた女が、自分から男の背中にすがりつき、ミもフタもなく泣いてすがる。
 「死んでしまう」と、会話文としてはおかしな言い回して、自己完結して叫び続ける。
 ふつうなら「行かないで」とか「死なないで」となるところ。
 「死なないで」と自分に結びつけて言う前に、ただもう、ネロという存在が消えることだけを、ただそれだけを純粋に恐怖して、叫んでいる。

 恋人でもなんでもない、なんでもないからこそ、依存していても一線を引いたままだったのに……まとっていた建前や保身や理屈を全部捨てて、唐突に叫ぶから。

 だから、彼女は「わたし」でありえる。
 同類嫌悪ではなく、物語の中で共感し、彼女を通してネロに恋が出来る。

 唐突なのは、それまで格好悪いとか傷つくとか拒絶されるかもとか、無意識に自分を守っていたから。それを、「ネロが死ぬ」という現実を前にしてしか、捨てることが出来なかったから。

 ずるかったの。
 矛盾していたの。

 愛の言葉を欲して傷つくことより、依存してそばにいるだけでよかったの。

 それらを全部、捨てた。
 感情が爆発した。
 自分が楽にいられることより、恥をかいても傷ついても無様でも、なんでもいいからネロに生きていて欲しかった。

 「あなたが死んでしまう」……そこまで追いつめられられなければ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を超えることが出来なかった。
 

 セリアの矛盾。

 それは彼女の愚かさであり、彼女の愛しさでもある。 
 「残る」台詞っていうのがある。
 その物語の中で、ストーリーの山場とは関係なく、とにかくそこだけ独立して心に残る台詞。

 『マリポーサの花』で、いちばんわたしのなかに残ってしまっている台詞は、ネロ@水がサルディバル@ハマコに対して言う、

「裏切ったのはお前だ」

 という台詞。

 なんかねえ、すごく痛いのよ。
 「裏切り」という言葉には、前段階があるでしょ。もともと「つながり」がなければ、「裏切り」をしよーと思っても出来ないわけだから。
 裏切られた、ということは、その前に信頼があったってこと。

 『マリポーサの花』スタート時点で、すでにネロはサルディバルを侮蔑しているけれど、まったく最初からそうではなかったと思う。今の時点ほど軽んじている相手のために人を殺し、国を託すはずがない。
 サルディバルを英雄だとか天才だとか夢を見るほど世間知らずではないにしろ、そこそこやってくれるだろうと思っていたはず。

 「裏切られた」と思うほどには、心がサルディバルに向かっていたはず。

 ネロという人物の誠実さ……いや、「まとも」さというべきかな、を知るほどに、彼が口にする「裏切り」という言葉が重い。
 青臭い若者でもないから、自分の期待とチガウとか思うようにいかないとか程度で、こんな言い方はしないだろう。
 世の中はそんなもんだと諦観し、俯瞰する大人の部分を持ち合わせ、それでもなお、それらを超えて「感情」を爆発させるに至る。
 どれほどの痛みが積もって、この言葉にまで行き着いたのか。

 サルディバルを脅す場面はべつにクライマックスではないし、サルディバルもただの脇役だ。そこで吐かれる台詞がテーマであるわけでもない。物語の中のひとつのやりとりでしかない。

 それがわかっていても、この台詞に注目するのは、ネロという男の人生が見えるからなんだろうな。

 ネロが好きで、ネロを中心に物語に入り込んでいると、彼の人生が見える瞬間に反応してしまう。
 直接的にセリア@となみとかエスコバル@ゆみこに「オレ今語り入ってます」と語っているときでなく、なんの意識もなく飛び出してきてしまった台詞だからこそ。

 
 タカラヅカは、ポスターがひとつしかなくて、つまらない。
 ゲーム雑誌を愛読している身としては、ひとつのタイトルにつき、いくつも宣伝が打たれるのをあたりまえに目にしてきている。
 戦争大作っぽい軍隊中心のイラストに、人間の悲しい業を表現するようなキャッチコピーがつけられているかと思ったら、次は主人公とヒロインのロマンティックなイラストに、愛を語るコピーがついていたり。
 ひとつの作品をいろんな角度で宣伝する。メイン・ポスターはひとつだけど、発売日が近づくといろんなパターンのポスターが作られる。

 映画でも食べ物や車などの商品でも、CMも車内吊りポスターも何パターンもあるよね?
 ヅカが1作品1種類だけ、つーのが、つまらない。

 今回の『マリポーサの花』のポスターは、美しい。
 ネロとセリアの大人の恋愛を期待できるし、「それは、生きている証」というコピーもいい。

 でもさ、ソレだけじゃないだろ? この作品って。

 作品を表現する、別の切り口のポスターだって、あっていいんじゃないの?

 ネロとエスコバルのポスターだって、あっていいと思うし、主要人物勢揃いポスターもアリだと思う。
 映画館へ行くと、そんなのがずらりと並んでいるじゃないか。メイン・ポスターがどーんとあり、あとはバージョン違いが数種、キャラクタひとりずつのクローズアップ・バージョンとか。

 まだ脚本も上がっていない段階でとりあえず撮影するメイン・ポスターでしばらくは通すとしても、舞台稽古まで来たら、別バージョンのポスター撮りしてもイイと思うけどなあ。東宝まで数ヶ月は使い回せるんだから。なんならそのあとのDVD販売にも使い回せるし。

 「ドラマ」を感じさせること。
 世の中趣味嗜好が多種多様になって、ひとつのもので多くの人を動かすことはできなくなった。
 ならばできるだけ多面的に働きかけ、多くのモノからナニか少しだけでも興味を引くことを、目指すべきなんじゃあ?

 美男美女が寄り添い合うロマンティックなポスターではなにも思わない人も、戦闘服姿の美形ふたりが銃を構えている姿に興味を持つかもしれない。
 政治とか革命とかのキーワードに反応する人がいるかもしれない。
 スタジオ撮りしたポーズ写真には興味ない人でも、舞台で熱演している群衆場面を使った画に足を止めるかもしれない。

 いろいろやってみればいいのに。
 阪急、阪神電車とその周辺のグループ企業内だけでも、掲示してみればいいのに。

 ……と、うだうだ述べたところで、最初の話題に戻る。

 いくつもポスターを作るなら、わたしが作っていいなら、そのポスターの中の1枚に、「裏切ったのはお前だ」を入れるな。

 ネロ&セリアのメイン・ポスター、コピーは「それは、生きている証」。
 ネロ&エスコバルの友情ポスター、できるだけハードな画面でふたりの絆を感じられる、ひとめで親友だとわかるよーにして、コピーはずばり、「生きろ、俺のために」。
 ネロ、セリア、エスコバル、リナレス、ロジャーの主要人物集合ポスター、アニメのOPラスト静止画のノリで、それぞれキャラクタを表す衣装とポーズで寄り添うこと、コピーは主題歌の一部。「悲しみは 耐えられる/痛みにも 慣れていく/命さえあるのなら」とか、文字の配列を印象的に。

 余力アリなら、映画みたいにキャラひとりずつポスター作りたいよなー。
 それぞれのキメ顔に、キャラ解説とキャッチコピー。
 さらにそれらが1枚に配置されたポスターも。
 地下街の柱1本ずつに、ひとりずつのポスターが貼られるの。歩くたびに次のキャラが見えるの。うっとり。

 で、そのキャラ単品ポスターとはまったく別に、主役であるネロはひとり写りポスター有り。
 戦闘服と自動小銃、汚れメイクに影の強い画面で臨戦態勢。コピーが、「裏切ったのはお前だ」
 見た人が「お前って誰?」「ナニと闘ってるの?」と疑問を持てるよーに、答えの出ない作りにする。

 「裏切った」ってことは、過去形? すでに罪は犯されたってこと? 取り返しがつかないことなのか?

 「お前」というのが誰か他の人のことなのか、それとも自分自身のことなのか。現在に対しての言葉なのか、あるいは過去に向かってなのか。

 わたしにとっての「残る」言葉であるだけ、だけど。
 「裏切り」という強い言葉は、商業的に利用することもできると思うんだ。

  
 『マリポーサの花』だけでも、いくらでもイメージわくもんなあ。
 これに『ソロモンの指輪』を加えたら、どんだけたのしくデザインできるやら。
 オレが歌劇団のエライヒトならなぁ。見てみたいなあ、「商業広告」としての作品表現。
 
 新人公演『Paradise Prince』感想の続き。

 宙組に詳しくないので、たぶんかなりとんちんかんなことを書いていると思うが、それもまた視点のひとつということで、寛大に見てやってくださいまし。

(ときどき、ふと我に返るらしい。んで、言い訳してみたくなるらしい)

 将来読み返したときに「うひょー、アタシこんなコト書いてたのか! ハズカシー!」と思うのもまたリアルタイム記録の醍醐味。人生とは恥をかくことですだ。
 
 つーことで、とにかくわたし視点の感想。
 

 ラルフ@ちーくんが、正しく、オイシイ役でした。

 アニメおたくのハイテンション小僧。ラストでは二枚目に変身。ええ、ラストはちゃんと二枚目でした、イモにーちゃんではなく。
 そう、そうなのよ。この役は本来、こーゆー役なのよ。

 無名の若者を押し上げるための役。おおむねシリアスに進む物語の中で大暴れして引っ掻きまわす、役名も顔もわかってないライトな観客でも「あのおたく役の子、おもしろかったわね」と帰り道で話題にする、そーゆー役。まず「おぼえてもらうこと」に主眼を置いた「オイシイ役」。

 だから、無名の若者のための役であって、すでに3番手スターとして名を馳せている人のやるべき役じゃないってば。

 わたしはちーくんが大人に見えてしまい、彼がスネを出して若ぶっているといたたまれない思いがするのだが……変だなあ、ついこの間少年チート役をなんの違和感なくやっていたと思ったのに、数年でなんでこんなに成長しちゃったんだ? 子猫が1年で成獣になっちゃう感じ?
 『殉情』か? 『殉情』が悪かったのか。アレは気持ち悪かった。ちーがロリコンの犯罪者に見えた。幼女にハァハァいってるヘンタイさんに見えた。やたら生々しい大人の男に見えて仕方なかった。
 だもんで、ちーが今さら若者ぶってはっちゃけているのを見るのは、本役さん以上に恥ずかしくてたまらなかったんだが、……やっぱわたし変? こんなこと、誰も思わないの??

 オイシイ役だ、よかったね、と思う反面、恥ずかしくて恥ずかしくて、いたたまれなかった……。
 潔いチリチリリーゼントも、アホアホなノリも、無邪気ぶった満面の笑みも、実力に裏打ちされた計算ゆえの演技だと、わかっているけど……いやその、わかっているだけに余計、うわー……な感じだった。

 今の時点でわかっていることは、わたしが、蓮水ゆうやを好きだということだけだ。

 『殉情』か? 『殉情』が悪かったのか。石田作品キライだし、なかでも『殉情』は史上最凶に大嫌いなんだが、そこでキモチワルイほど主人公を純に熱っぽく演じて見せたちーくんが、それでもなお好感度UPしたなんて、あたしはいったいどーゆー精神構造をしてるんだ。
 『パラプリ』本公演もアニメ・チームの場面はつい彼を見ていて、あとはタニウメ見てたら他の子たちを見ているヒマがないなんて、なんなんだこの負け犬感。
 下ろした前髪が似合わないとか、ショートパンツ男子姿が似合わないとか、なんでそんなことがたのしいんだ?
 『殉情』で幼女の脚に頬ずりしている姿がキモチワルイくらい、ナマに「男」に見えたことが、そんなにツボにクリティカルしたというのか?

 彼自身がどんなキャラクタで、これからどんな舞台人になっていくのかわからんが、とりあえず、アホアホぶりっこが正視できないくらいには、ちーくんを好きらしい。
 なんでこの役の彼がこんなに恥ずかしくてたまらないのか、考察し出すと藪から蛇を出しそうなのでやめておく。
 だがしかし、今後ますます彼を好きになりそうだ、という結論は述べておく。

 あああ。(なんか、アタマを抱えているらしい)

  
 えー、プルート@樹茉くんが、かわいかったです。
 てゆーか、うまい。
 こんなに喋ってる彼、はぢめて見た。
 変わり続ける表情、ちっともじっとしていない。饒舌なのが納得のせわしない、されど腰の引けた子役人キャラクタ。
 かーわーいーいー。

 アンジェラ@あまちゃきは、ちょっとびっくり。
 きつい。こわい。
 キャサリンのルームメイト、という設定だが、ほんとにただのルームメイトだった。友だちじゃないよね? ほんとはキャサリンのことキライだよね?
 アンジェラの立ち位置を「キャサリンの近くにいる、キャサリンを嫌っているキツイ性格の子」とするのも、ぜんぜんアリだと思う。アンジェラが悪役っぽくなると、キャサリンのヒロイン度がわかりやすく上がるから。いぢわるクラスメイトにいぢめられるがんばり屋のヒロイン、つーのは定番ですから!
 メイクもキツめで、目がつり上がったすごーくわかりやすい悪役風の姿になっていた。うわー、思い切りいいなぁ。

 エヴァ・グレイ@花露すみかちゃんの声、立ち姿がきれいだった。あ、なんかかっこいい人がいるぞ、と注目。
 ユーモラスな役ではなく、きりっとした大人の役を、きちんと演じられる人ってキモチいいな。

 ケヴィン@りくくんが、ハンサムでした。
 ナチュラルな若い男の子。リアルに、そのへんに生息していそうだ(笑)。違和感なく存在し、違和感なく喋っている。
 演技がうまいのかどうかまでわかんないけど、浮いていない、こわしていない、男の子に見える、というのは、学年からすればすごいなと。

 サマンサ@アリスちゃんは、たのしそうだった(笑)。
 真ん中経験者のあえて演じる脇役は、力があっていいよね。演じること、舞台に立つことを余裕を持ってたのしんでいる感じが。

 
 登場人物が若者ばかりで、あとはアニメみたいな記号的な役ばかりで、若者たちには演じやすい新公だったと思う。
 男役、娘役としてのスキルが低くても、若さだけで押し切れる系の。
 でもたまにはそーゆー新公もいい。
 着こなしだの立ち姿だの台詞回しだの、基本部分に引っかかってはらはらする新公ばかりでも、つかれる(笑)。
 若者たちが、若者だから出せるパワーで、きらきら押し切っちゃうのも、また「タカラヅカ」の姿だと思う。

 
 そんななかで、「大人」役のふたりが、なんか別次元を形作っていたのはまあ、仕方ないってコトで(笑)。

 ハワード@みーちゃんがひたすら素敵で、ロマンスグレイというより大人の美形で、落ち着いた美青年で、彼の出番が待ち遠しかった。台詞がなかろうが、とにかく舞台に出てくれ、顔を、姿を見せてくれ、と待ちわびてしまった(笑)。

 ローズ・マリー@せーこちゃんは、正直もう少しやりようがあるかなと思う。彼女には要求が高いのかな、新公のたび「もう少し」と思ってしまうような。本役さんまんまではなくてもいいんじゃ?
 最後の銀橋での、大人だけどあどけなさのあるかわいらしさは、きゅんとしました。
 あー、みーちゃんにプロポーズされたい~~。(みーではなくてハワードですから!)
 新人公演『Paradise Prince』は、ラスト直前で大いにとまどった。

 銀橋で愛を歌う1組のカップル。

 ハワード@みーくんと、ローズマリー@せーこちゃん。

 ハワードがものごっつーオトコマエで。
 少女マンガに相応しい美青年で。
 対するローズマリーは、単体で見るとちょいゴツいんだが(笑)、長身の男の横に立つとかわいらしくて。
 少女マンガに相応しいあどけなさを持つ金髪美女で。

 このふたりが、愛を語り、愛に生きることを決める。

 確かな歌唱力、感情豊かな演技。
 わきあがる拍手。その音と温度。

 そして、暗転。

 あー、いいお芝居観たね。主演ハワード@みー、ヒロインはローズマリー@せーこだっけ。

 ……あれ? なんか、ちがったよーな?

 アタマが混乱しているうちに再びライトがさんさんと輝き、舞台にスチュアート@大ちゃんたちが登場してわいわいやっている。

 あ、そっか。そーゆー話だったっけ。

 
 …………。
 それまでのスチュアートの物語と、ラストのハワードの銀橋と、あらゆる意味で、乖離し過ぎ。

 芝居好きのわたしは、ハワードに全部持って行かれて、ナニを観たのかわかんなくなった。
 それまでの1時間半の記憶が、ハワードとローズマリーの5分に塗り替えられてしまった。

 純粋に、技術ってのはすごいもんなんだな。

 それまでは、ごくふつーにきれーな若者たちの物語を眺めていたのに。物語の主軸が、技術の有無、実力の有無でどーんと大きく動いてしまった。ぶれてしまった。

 
 そもそも景子たんの物語は、いつも蛇足が多い。
 本筋が終わった後の後日談が絶対にある。
 『Paradise Prince』に至っては、後日談がアダルト・カップルと主役カップルの10年後と、2つもある。
 ハワードとローズマリーの後日談はたしかに良いエピソードだが、スチュアートとキャサリンの物語的には不要なんだよね。
 本公演は主演のタニちゃんとウメちゃんの輝きとスター力が、専科さんふたりの確かな演技力・歌唱力に負けることがないので、並列されていても蛇足感はあるにしろ問題なかったけど。
 新公は……。

 もともと蛇足で、本筋からすれば「ソレ、別の話だから。いらないから」なものであるだけに、主演カップルより実力のある人たちが演じてしまうと、さらに異次元、別世界。つか、作品を壊してしまう。
 こまったもんだな。脚本の粗が目立っちゃったよ、景子せんせ。

 みーちゃんとせーこちゃんは、共に主演経験者(せーこはバウヒロ)。一度でも「真ん中」を経験した人は強いね。見せ方や在り方を知り、ちゃんと「芝居」をしている。
 ふたりがうまい人たちだということはわかっていたが、それにしてもあそこまで場をさらっていかなくても……(笑)。

 
 さて、大ちゃんは2度目の主演。
 前回台詞をきちんと言うこともままならなかった彼なので、いろいろ心配もしたが(笑)、どーしてどーして、よくやっていた。
 てゆーかやっぱきれいだ、この子。
 タニちゃんの衣装を着て「残念」にならない稀有なスタイルと美貌の持ち主。
 スチュアート役は等身大の青年なので、男役スキルはあまり必要ない、持ち味だけで勝負可能。
 表情はあまり多くないし、どういうキモチでそーゆー表情しているのかわからないことも多いんだが、場数を踏めばその辺は変わっていくのだろうと思う。

 わたしはキャラクタとしての鳳翔大くんを知らないのだが、なんつーか、「いっぱいいっぱいに見えない」ところが、愉快な子だな、と。
 新公主演者はふつーかなりテンパってるもんだが、大ちゃんってぎりぎりでキリキリ舞いしているように見えない(笑)。たぶん緊張していっぱいいっぱいになっているのだろうと推測するが、見た目にはわからない。他の人は知らないが、わたしには。
 ……とゆーところが、おもしろい。
 なんかすごーく個性的なキャラとか、演じてみてほしいな。あ、歌はたしかにものすごかったので、がんばってほしいですが(笑)。

 とにかく、見るたびにきれいになっていってるよね。目に入るたびにそう思える貴重な人。
 
 
 キャサリン@愛花ちさきちゃんは、ふつーにうまかった。
 だけどこーゆー現代物だと、華の有無が大きく関わってくるんだなと、再確認。植爺芝居みたいに、ヒロインは身分に関係なくいちばん豪華なドレスを着せてもらったりしないので、自分で輝かないといけない。
 後半、モブの中に混ざるとキャサリンがどこにいるのかわからなくて困った。

 で、このちさきちゃん、なんか「誰かに似てる、誰だっけ」と思って見ていたんだが、途中で「水しぇんに似てる!」と思い至った。
 面長の輪郭と、なによりドナルドダック系の口が似てるの。斜めから見たアゴのラインとか。水くんが女だったら、で、お目々ぱっちり系メイクをしたら、こんな感じ?

 さらにわたし、せーこちゃんがゆみこっぽく見えていたので、「女装した雪1と2が揃っている?!」と、ひとりツボに入っていた。

 ……nanaタンに言っても共感は得られなかったので、わたし限定の感想だと思います、はい。
 勝手にわたしひとりで一方的に、親近感持つことにします、はい。

 ちさきちゃんの舞台姿をしみじみ眺め、目元と顎のラインあたりに、若き日の叶刑事を彷彿とする、往年の『特捜最前線』ファンなわたし。(吉野×叶とゆーカップリングの同人誌、持ってたなあ……・笑)

 
 アンソニー@かちゃは、ひとことで言うと、赤面度が足りない。

 なんか、ふつーの人でした。
 恥ずかしいくらいの人でないと、あの役はつまんないんだなー。
 内面を掘り下げる役ではなく、記号としてアニメ的な悪役だから、インパクト勝負。見た目で「説明不要」とすべてをねじ伏せなければならない。
 『殉情』でふつーの若者としてあんなにかっこよかったのに、スーツ姿になるとやはり衣装に「着られている」感が強く、技術がないわけではないのに「女の子の男装」になってしまう。体格のハンデが大きいのかな。
 きれいだしうまいのに、それが舞台で活きないことがはがゆい。

 アンソニーの愛人コンビ、ヴィクトリア@藤咲えりちゃんとシャルル@七海ひろきくん。
 ふたりともうまいし、きれい。
 藤咲えりちゃんは「こわい女」が板に付いていて、この役がこんなに似合ってていいのか?と心配した(笑)。
 七海くんはふつうにきれいで……あれ、そーいやいつぞやの新公でも彼のことを「きれい」と書いたよーな。きれいな人だということはわかっているし、芝居もバウで見ているので、あとはなにかプラスアルファが欲しかったんだが、ソレには至らず。本役はカラダのデカさだけでインパクトになるが、ふつーサイズでふつーにきれーな七海くんはソレだけだと弱いっす。
 アンソニー様が地味なふつーの人になっていた分、愛人たちもふつー度が増してしまった気がする。

 続く。
 秋の昼下がり。

 わたしは、馴染みの店ののれんをくぐった。
 店の名は「タカラヅカ」。もうずいぶん古い店だ。流行りの料理は出さない。流行りの味にはしない。流行りの音楽は流さない。1世紀近く前から、ずっと同じ商売を守り通している。
 価格は、決して安くない。
 他の店より良心的ではあるが、ファミリーレストランやファストフードがメニューを充実させている昨今、この店の価格は「ちょっと思いついて」入れるような設定ではない。
 この店を愛し、ファミレスやファストフードにはない雰囲気ごとたのしめる者でないと、常連にはなれない。

 板前は月ごとに変わる。ローテーションがあるのだ。店頭には必ず、今月の料理の名と共に、板前の名前も書いてある。通な客は、料理名だけでなく板前によって来店を決めたりもするのだ。
 わたしは店自体を愛しているので、板前の名前によって来店を見合わせることはない。毎月通っている。

 今月のメニューの説明をしようとする店員を、わたしは笑顔で制した。穏やかに首を振ってみせる。

「説明は不要だ。今月のメニュー、『ダンシング・フォー・ユー』をひとつ頼む」

 そう。
 板前の名前を見たときから、わかっている。
 使う素材が変わろうと、名前が変わろうと、関係ない。中村B。この板前は、同じ料理を作り続けるのだ。同じ味を作り続けるのだ。
 
 どんな素材を使っても、どんな季節であっても、必ず同じ料理にしてしまう。
 素材の良さも特徴も関係ない。
 魚だろうと肉だろうと野菜だろうと、同じ調理法、同じ調味料しか使わない。
 ある意味コレは、才能だろう。

 理解した上で、注文するのだ。
 わたしは店員を通り越し、カウンターの奥へ声を掛けた。

「オヤジ、いつものヤツを頼むよ」

 それが、この店……くだらなくも素晴らしい、「タカラヅカ」という店と長くつきあう方法なのだ。

 
 ……てな、気分になります、素敵作品。

 『ラブ・シンフォニー』、『ラブ・シンフォニーII』に通いまくった者としては、『ダンシング・フォー・ユー』は途中から爆笑を押さえるのに、必死でした。

 同じだ。
 あまりに、なにもかも、同じすぎて、笑える。

 中村Bのなかには、ひとつしか作品がないのかもしれない。
 そのひとつを、永遠に使い回すつもりなのかもしれない。

 ジェンヌの持ち味も組もお披露目もサヨナラも、関係なし。ただひたすら、同じモノ。
 群舞群舞群舞。
 ごちゃまぜバラエティ、世界旅行。
 平面的で単調な画面。
 言い訳のような人海戦術。
 上から1、2、3……数えられる登場、扱い、並び。

 おもしろいなあ、中村B。
 こんな単調な作品で爆笑できるくらい、中村Bを堪能ししちゃったんだなぁ。

 わたし的には中村Bはおなかいっぱい、あと5年は観なくていいくらい『ラブシン』を観ちゃったからな。
 しかし、オーソドックス、という点では中村Bは評価される作家なんだろう。

 いつでも誰でもなんでも同じ、てのは、ヅカのように伝統を守るカンパニーには、必要だ思うよ。
 どんな公演でも「はじめて宝塚歌劇を観る」人はいるわけで。
 そんな人に、いちばんわかりやすく、アクも毒もなく「はい、タカラヅカですよ」と差し出せるモノをいついかなるときも作り続けるのは、必要だろう。
 どんなに愚鈍であっても。10年前も10年後も、なんの進歩も進化もなく。同じモノをセルフコピーし続ける。
 そんな作家がいてこそ、タカラヅカは守られていくのだろう。……全員が中村Bだったら滅んでしまうと思うけど、中村B自体はアリだと思う。

 
 えーと、とりあえず、ニューヨークの場面が好きです。
 ニューヨークにたどり着くまでが、すげー長くてちょっと途方に暮れる(笑)けど、ここをたのしみにしていられる。
 その前のともち銀橋から、わくわくする。

 群舞しか存在しないよーなこの作品で、ニューヨークは少人数場面があってメリハリになってるよなー。
 つか、七帆といりすの並びが好きだ。ふたりともいい男だなあ。

 あとは、たっちんの歌声を聴けるのがうれしい。
 みっちゃんとのデュエットは耳福、エトワールのクリアさも素敵。

  
 『Paradise Prince』がいちいち『君を愛してる』と酷似しているため類似点を数えるのに忙しくて、『ダンシング・フォー・ユー』が過去の中村B作品まんまで類似を通り越して合致点を数えるのに忙しい、という、この落ち着きの無さがわたしの中でツボってしまった(笑)。
 こんなにデジャヴばかりってすげえ。

 誤解なきよう断言しておくが、『Paradise Prince』を『君を愛してる』のパクリだとはまーーったく思っていない。
 ゴールデン・ルールに則ってラヴコメを作ったら、同じになってしまったってだけだと思っている。
 その定番ぶりがいちいちウケるんだわー。わたしお約束って大好きだから。

 そして、結局のとこキムシンは男性的ロマンチストだが、景子たんは女性的リアリストなんだな、ということがよくわかって、そーゆーとこも愉快だ(笑)。
 で、わたしはやはり景子たんよりキムシンが好きだなと思ってしまうのだった(笑)。←笑うのか。

 『パラプリ』のいりすのかわいさは、大好きな『Le Petit Jardin』を思い出す。
 あの巨大で繊細なシェフ・ジャン@いりすに、どんだけ萌えたか……。なつかしいなあ。アラン×ジャンだったんだよなあ、Bチーム『Le Petit Jardin』。(と、さりげなく腐ったことを言ってみる・笑)
 景子たんの描くところのいりすは、すごく好きだ。

 役不足でもったいない、七帆くんはとにかくビジュアルを愛でている。
 やっぱかっこいいよなあ。美形だよなあ。しかし景子たんは彼に興味ないのかなあ。てゆーか七帆くんにジーンズ穿かせていいのか?

 若者たちはみんなどーんとグループで登場するので、ふつーにタニウメのかわいらしさにうっとりしていると、周りの彼らを観ているヒマがないのが悔やまれる。
 アニメ・チームの方がキャラがわかりやすい分、お得かなぁ。

 あー、えーと。
 すみません、ちーくんの若者ぶりっこがわたし的にキツイです(笑)。いつから彼はあんなに少年が似合わなくなってしまったのだろう……いやその、わたしだけかもしんないけどさ……『殉情』の後遺症かなぁ……。

 ブラック・チームはともちしか見てないので、他の人がわかりません……。うわあ、負け犬感満載。
 えー、さらにシャルル@ともちのことですが。

 『Paradise Prince』の美しい彼を絶賛し、きゃあきゃあめろめろなのは事実ですが、実は大きな不満点がある。

 ともちに、というか、景子せんせに対してかもしれないが。
 景子せんせの作品はほんとに少女マンガで、しかも現在の少女マンガではなく、昭和時代の感覚なんだよね。そして、景子せんせはいわゆる「腐女子」ではない。少女マンガ好きだからある意味オタクなんだが、腐ってないのよ。ただのオトメなのよ。
 そこがね、腐女子からするとはがゆいのよ。
 昭和時代の少女マンガに「少年愛」という分野が存在し、竹宮恵子とか萩尾望都とかが耽美世界をリリカルに描いていた、あの感覚で、この21世紀に少女マンガ世界を作ってるの。

 あの時代に少女だった身としては気持ちはわかるし、ヅカでお金を使っている大人の女性たちにとっても原風景となる世界観かもしれないが、それでもいちおー今は21世紀なわけで。

 腐女子が好きなマンガでもアニメでも、登場するのは美青年・美少年であって、オカマではないのよ。
 女性視点のホモがBLとして市民権を得ているが、BLの主要キャラにはオカマはいないの。みんなふつーに男言葉を使い男性の服を着て男性として生きる男キャラたちなのよ。
 ふつーに少女マンガ・テイストの男性キャラクタが、男性同士で愛し合うのがBLだとか同人であって、オカマはチガウのよ~~っ!!

 現実のオカマさんとかゲイの方々に対してどうこうということではなく、あくまでも腐女子だとかBLだとか、今の流行りモンに対しての話。
 現実のゲイの人は、男性として生活していてもどこかしら女性的だったりするのかもしれないが、そーゆー人もいるのかもしれないが、BLの中で描かれる美青年たちは内股で歩いたりしないのよ。ふつーに少女マンガ的に男の子なのよ。

 だからシャルル@ともちがアンソニー様@らんとむの愛人だったとして、カマっぽく内股になったりオネエらしい仕草をしたりするのは、チガウのよ。

 とことん漢らしく、女性っぽさのカケラもなく、ただひたすら「美」にだけこだわった美青年であってほしい。
 てゆーかさ。

 ぶっちゃけ、シャルルには、攻であってほしい。

 アンソニー様はふつーに女性の愛人もたくさん抱えているが、男性の愛人もいる……っていっても、「カラダは男だけど、心は女」という人を相手にしているんじゃあ、結局は「女が好き」なだけで、それほど「アンソニー様って趣味が広いのね」って感じじゃないよ。
 やっぱ、男も恋愛対象にするなら、中身も外見も全部まるっと男でないと。男として男も抱くし、さらに抱かれもする、くらいでないと。
 それくらいの懐の広さが欲しいぢゃん?
 それこそ真の「通」って感じぢゃん?(笑)

 シャルルが絶世の美青年のまま、カマっぽさなどどこにもなく、びしりとスーツを着こなしたオトコマエさで、アンソニー様にかしずいて欲しいですな。
 それこそが腐女子的萌えな世界ですよ。

 ともち×らんとむって、すげー濃くて(笑)、BLの中でも青年誌系画風でニーズはあると思うんだけどなー。逞しい長身美青年と小柄で華奢な少女めいた美少年でなきゃダメな時代は、20世紀と共に終了し、今は攻×攻とかでも平気でカップリングOKだしさ。

 ともちは現実のゲイの人たちを見るなりして研究したっぽいことをトークショーで言っていたが、ヲトメが見たいのは現実ではなく、ファンタジーだから。
 BLは現代のファンタジー、自分と同じ性がいないからこそ、自在に夢を見ることの出来るジャンル。
 突き抜けてファンタジーにしてくれたら、狂喜乱舞してたのなー。

 ともちも、そして景子せんせも、腐女子ではないのだろう。腐女子の心はわからないのだろう。

 それが、残念だ。
 宙組を観るのにちょっとヘタレていたのは、ともちんのことがあったりする。

 ずっとゴジラ認定で、「どこがいいの、カラダが大きいだけじゃん」と長い間思っていた悠未ひろ氏の魅力に目覚めたのが、『Le Petit Jardin』。
 それ以降、過去映像ですら「ともち、かっこいい」と思えるから不思議。ナマで観ていたときなんとも思わなかったのに!

 全組観劇するわたしは、それぞれの組に「お気に入り」の人がいる。好意の濃度はそれぞれチガウし、そのときどきでさらに変わったりもするが、とにかくどの組にも「ファン」と表現するジェンヌさんがいる。(わたしの好意度合いは「贔屓>ファン>好き」、贔屓はただひとり、ファン呼ばわりは10数人くらい? 好きはそのときの気分)

 たかちゃんファンで水くんファンであったわたしが、水くん組替え後、たかちゃん退団後、宙組で誰を中心に視界を組み立てるかといえば、ともちんですよ。
 たかちゃん時代に新公主演をし、水くんバウで2番手悪役なんぞをやり、それほど好きでなかったときでも、わたし的にとても馴染みのある人だった。
 組子全員が「動く背景」と呼ばれていたあの時代に、それでもじわじわと扱いが上がっていき、『ステラマリス』とか『不滅の恋人たち』とかで某上級生より意味のある役だったりで、彼の歩む道に光明を感じていた。
 やっぱ公演ごとに扱いが上がっていくとか、実力が上がっていく人を中心に視界を組み立てるのはたのしいじゃん? わくわくするじゃん? わたしはあまり路線スターにハマらないのだけど、路線スターを応援するのもたのしいなあ、って気分だったさ。

 そう思っていただけに……彼の扱いが目に見えて落ちていくことが、とてもイタかったのだわ。いやその、だからそもそも路線スターにはハマらないわけで、微妙路線にハマるのがわたしの性癖っちゅーかカルマなんだろうし、ご贔屓も今まさにそんな感じで、一足先にわかりやすく下級生に抜かされ脇のヒゲ中年役を演じているともちの姿はどうにも心がひりひりする状況で、なんか穏やかに眺められなかったのですよ。
 脇役スキーだから、彼が悪役専科の渋いおじさまになっていってくれることに、文句があるわけじゃない。真っ白な役しかできない真ん中スター様よりある意味オイシイのだから、嫌なわけじゃない。でも……このまま地味に小さくまとまっていく彼を見るのはなんかつらい。
 嫌じゃないけど、つらい。

 それが、宙組を観るのが億劫になる、正直なとこだった。や、んなマイナス気分のこと、ここでは書けなかったけどさ。「ともちかっこいい」しか書いていなかったよな? かっこいいのは事実だし! え、今までもけっこう愚痴ってた? 反省、反省☆

 でも今回、今までひそかにじれじれしていたコトを払拭する輝きを見たのだわ。

 『ダンシング・フォー・ユー』でともちは、「路線スター」としての扱いを受けていた。
 銀橋ソロがあったり、大階段群舞で要の位置にいたり。

 すげー、スター扱いじゃん?!
 
 と、よろこんだのは事実。好きな人がいい扱いを受けているのは、そりゃ単純にうれしい。

 でも別に、残念ながら、これでともちんがトップ路線へ返り咲いたとは、とくに思わない。
 だって演出家、中村Bだし。
 ジェンヌ個人の特質なんかまったく理解せず、理解する気もなく、上から順番に1、2、3……と立ち位置を決める演出家。どの組でもどの作品でもどの場面でもみんな同じ。
 たんにともちんのことを「上から4番目」って数えただけでしょう? 演じているのが悠未ひろだってこと、知らずにやってんぢゃねーの?
 ともちんをどうこう、ではなく、中村Bという演出家に懐疑心しか持っていないのですよ、わたしは。

 ともちの銀橋ソロ場面で、「ああ、ともちが歌える人で良かった」と、心から思いましたもの。
 歌えるともちだから歌うわけではなく、単に「上から4番目の人がここでソロを歌う」と中村Bのノートに書いてあるだけだろうから。もしともちが超ダンサーで超ド音痴だとしても、銀橋でソロもらうより無言で踊った方がイイって人だったとしても、中村Bは「上から4番目の人がここでソロを歌う」って歌わせただろうから。

 いやその、これで彼が真ん中へ復帰してくれてももちろんぜんぜんいいんだけど、その布石と取ってもそりゃいいけど、中村Bだから信じられない(笑)。
 人事的なことは、わたしが考えることでもないし、ここでどうこう言っても仕方ないし。いやそのグチは言うけど、それでどーなるもんでもないのはわかっているし。
 次回公演でもともちの扱いがいいといいな、と、心から思っているが。

 ともあれ、やりがいのある役割をもらい、意欲的に踊り、歌っているともちを見るのがたのしい。
 やっぱ舞台人だもの、センターでスポットあびるとすげーイキイキするよなー。
 精彩に欠けるよーに見えてヘコんだ全ツ『宙 FANTASISTA!』とか、さらに脇役感が上がっていて言及することができなかった『Passion』とかを経て、今ココで充実していることがわかる姿を見せてくれるのが、とにかくうれしい。

 ……という話では、なくて。

 『ダンシング…』でいい扱いだからたのしいのもうれしいのも本当だが、今回うれしかったのは、目の覚める思いだったのは、そのことではないの。

 『Paradise Prince』の、シャルル役なの。

 ええ、あのオカマ役。

 予備知識ナシで観るのが常なので、どんだけ驚いたか。
 オカマであることに、じゃない。

 悠未ひろが、美しいことに。

 彼がかっこいいことや、男として美しいことはわかっていたけれど、それはなんつーんだ、鋼の美しさや大地の大らかさ樹木の力強さだったりしたわけだ。
 男らしいから、美しい。男として、美しい。

 それはわたしの求めるものであったので、それだけでともちを「かっこいい」ときゃあきゃあ言っていた。
 わたしは中性的な、少女マンガ的な麗人ってモノに、本質的にはときめかないんだ。彼らの魅力を認め、きれいとか素敵とか思うのも事実だが、ダーリンとしては響かない。体格の問題ではなく、フリルのブラウスより装飾無しのスーツ姿が美しい人が好き。
 薔薇の花より、銃が似合う人が好き。

 ケロやまっつに「フリルのブラウスと薔薇の花」を求めていなかったよーに、ともちにもそんなもんを求めてなかった。
 それでいいと思っていた。

 でも今、ともちはまたチガウ美しさを放っている。

 や、別に彼に「フリルと薔薇」が似合うとも、中性的なフェアリーが似合うとも思っていない。
 だがオカマ役を演じることで、「女性」としての美しさを意識する役を演じることで、なんか今までとはチガウ「美」を、彼が表現していることが、わかるんだ。

 漢らしさを追求するために大きくなっていた動きが、女性的な繊細さを意識することで、変わる。
 大きさや漢らしさはそのままに、いや、いったん漢を極めたからこそ、そこに「女性」を意識することで「美」と「華やぎ」が生まれる。

 どうすれば「美しい」か。
 今までとチガウ方向の「美しさ」を表現する悠未ひろは、今までよりさらに「美しく」なっている。

 なんだよ、こんなにきれいな人だったんじゃん!!
 正統派の美形だったんじゃん!!
 今までは美より漢の方が勝っていたから、わかんなかったよ。

 このまま脇の渋いおじさんになっていくのかとしょんぼりしていたわたしは、まさかの逆転パンチにKNOCK OUT気分っす。
 なんだよ、まだここで、「美しく」なるなんて。まだ「変わる」ことができるなんて。
 ジェンヌってすごい、舞台人ってすごい。ともちってすごい。

 わくわくした。
 どきどきした。

 ……初見ではともちしか見ていなくて、薔薇をくわえて踊るアンソニー様@らんとむを見逃した。
 観劇後に「らんとむが赤い薔薇をくわえて踊ってるんだよね?」と言われ、「へ? そんなシーンあったっけ?」と首を傾げたよ……アンソニー様が薔薇を持ってるのはわかってたけどさ……2回目でよーやく捕獲したよ、薔薇らんとむ。いや、やっぱりついともち見てて、どこでやっているかをチラ見して確認した程度だが……(笑)。
 いい加減、宙組の感想書くべ。
 もう出遅れまくって今さらすぎるけど、それでもまず、叫ぶ。

 お帰りなさい、ウメちゃん。
 
 戻ってきてくれてうれしい。
 あのかわいらしさ、あの輝き。
 キュートな女の子も宿命の美女も、ウメちゃんならではの光で演じてくれる、その光を浴びに劇場に行くんだよ。

 お化粧変わっちゃったのか、ちょっと違和感あったり(現代モノだから、キツめな感じになってる?)、お歌が以前にも増して破壊力があったりで(笑)、なかなかすごいことになってるが、それらも含めて、お帰りなさい、ウメちゃん。
 会えてうれしい。

 お芝居の『Paradise Prince』は、他愛なくもかわいらしいハッピーなラヴコメディ。
 モダンアート界のプリンス・スチュアート@タニちゃんは、せっかくの地位も名声も捨て、ただの一般人としてアニメーション制作会社に入社する。アニメーション作家になるのは彼の子どもの頃からの夢だった。スチュアートが配属されたのはお荷物扱いの2Dチーム。CG全盛期に手書きアニメなんて時代遅れもいいところ。スタッフたちもやる気ナシ。
 やる気ナシの落ちこぼれ集団に夢追い人主人公投入でムード一新、「夢は見つづればいつか叶うんだ、みんながんばろう、おー!」とひとつの目的に向かって快進する、お約束の展開。ヒロインのキャサリン@ウメちゃんも夢と現実の狭間で迷っていたけれど、スチュアート効果で夢追い人スキルアップ! あっちゅー間にふたりはラヴラヴ。
 だが蜜月はいつまでも続かない。悪役登場だ、金ヅルのスチュアートを取り戻すために、アートプロデューサーのアンソニー@らんとむがキャサリンを脅迫した! スチュアートとキャサリン、ふたりの愛は、そして夢はどうなる?!

 わたしは基本景子せんせは役者へのアテ書きはしない人だと思っているが、この作品はアテ書きだと思う。
 タニちゃん、ウメちゃん、らんとむ、みっちゃんへはちゃんとアテ書きしているよね。
 そこから出来上がった物語だと思う。
 「夢はきっと叶う」という他愛ないおとぎ話を、いかにもなキャラクタでいかにも予定調和に収めました、てな。 

 内容的にはかなり無理があるというか、「あー、景子たん、『ドン・ファン』と同じ失敗してるなぁ」てな基本的な欠陥があるんだけど、深く考えなかったりリピートしなければ問題ないんじゃないかと……あれ、タカラヅカはリピート観劇前提だったっけ。
 景子先生は室内の装飾やコーディネイトはできても、建築はできない人。なのに建築もするから、「この家、たしかにすごく素敵なデザインだけど、この図面通りに建てたら屋根傾きますよ?」「この廊下、人間通れないですよ?」てなことになったりする。
 バウではちゃんと設計できるようだから、大きさと時間と人数の問題かな。

 まあそーゆー部分は置いておいて、画面の美しさとキャラの愛らしさを堪能するのも、タカラヅカの正しい在り方だと思う。

 主要4キャラクタのアテ書きぶりは、「ファンが期待するキャラクタ」そのまんまだ。
 キラキラ王子様でピーターパンなタニちゃん。
 現代的なキュートな女の子で、芯の強さといじらしさを持ち合わせたウメちゃん。
 イロモノぶっちぎりの赤面様らんとむ。
 オサレでイモっぽい、されど明るく愛らしいみっちゃん。

 現実の彼らが持つイメージを、まんま舞台に持ってきましたって感じ。
 そのイメージを快く思っているなら、この舞台はたのしめるだろう。ジェンヌと役とを混同して、あるいは相乗効果にたのしむのが、ヅカの愉しみ方のひとつではある、のだから。

 わたしは「丈に合わない、意気込みだけの名作とやらより、出演者アテ書きの凡作の方がイイ」と思っている。
 だからソレだけで『パラプリ』はたのしい。
 しかし。
 ひとつだけ、今回「そのアテ書きはどうよ?」と思ったことを書いておく。

 『パラプリ』はなにもかもが雪組の『君を愛してる』に酷似していて、いちいち脳内で「ああ、コレは『君愛』でいうアレのことね」と変換しまくりで、そのあたりは大変だったけど、まあソレはわたし個人の都合ってヤツで(笑)。
 水しぇんはかわいこちゃん役をやって「似合わない役をやらせるな」とブーイングにさらされたが、同じよーな役をタニちゃんは「さすがアテ書き!」と言われてしまう、その持ち味の差がイイ。5組あるんだから、トップの持ち味はちがってこそ、だ。

 主役がかわいい善良なセレブ青年で、身分違いの平民(笑)のヒロイン、どっぷり黒い役の2番手。『君愛』は3番手も主役とほぼ同位置のキャラ付けだったからトバして、4番手がコメディ担当、『パラプリ』ではコレが3番手。
 『君愛』ではこのコメディ担当のテルがとてもオイシイ役で、彼は大いに株を上げていたと思う。
 『パラプリ』でもコメディ担当は本来オイシイはずだ。……が、なにしろ演じているのがみっちゃんなので、この配役は疑問。

 テルのコメディっぷりがよろこばれたのは、彼がクールビューティのおすましさんだったからだ。体温の低そうな絶世の美青年が、その美貌をかなぐり捨ててヘタレ青年を演じることがギャップとなり、新たな魅力となった。
 しかし、みっちゃんは……。
 みっちゃん演じるおたく青年ラルフがテルの役だったら、なんの問題もない。クールビューティのかなめくんがあそこまでバカキャラを演じれば話題にもなるだろう。
 だが、なんといってもみっちゃんだ。そのぉ、外見的な美しさとかセンスとかにいろいろいろいろ味のある人だ。
 美貌のオシャレさんがコメディアンをするのはギャップが魅力になっても、イモなオサレさん(失礼)がコメディアンをやってもなんのギャップも生まれない。いつものみっちゃん、なだけだ。
 イモにーちゃんにイモにーちゃんの役をやらせてどーする!(さらに失礼) アテ書きなのはわかるし、みっちゃんの外的イメージまんまなのはわかるけど。
 ただでさえみっちゃんは前回『雨に唄えば』でコメディ担当してるんだよ? 2作連続コレはあんまりだ。
 みっちゃんの良さを活かしつつ、「かっこいい」役をやらせるべきだろう? 3番手なんだよ? 未来へつなげて行かねばならない時期なんだよ?
 みっちゃんはもっと作り込んだ、「舞台上の男役」としてならば、美しさを発揮できる人だ。彼の「役者・男役」としての魅力が「本人のキャラクタへのアテ書き」ゆえに殺されてしまっていることが、残念でならない。

 真のアテ書きとは、安直に役者の持ち味に当てるのではなく、持ち味を活かしつつ、さらに舞台上で魅力的に、かっこよく見せることだと思ったよ、今回。
 アテ書きだからって、すべてOKなわけじゃないんだなあ、と。勉強になりました。
 

 みっちゃんのキャラへの疑問はあるにせよ、あとの人たちはみんな「お約束」に終始した、安定したキャラクタたちだと思う。
 安定はいいね、安心して観ていられる。
 宙組のみんながまた、きれいだしね。かわいいしね。

 タニちゃんの美しさ、キラキラ具合はものすごいし。つか、どこまで脚なん?!という、驚異のプロポーションが現代物ゆえにわかりやすく見せつけられるし。 
 ウメちゃんがとにかくかわいくてきれいで、そのまま「持って帰りたい」と思うし。うおー、家に飾りてぇ。

 美しさゆえに、「タカラヅカを観た」と実感させてくれる。
 まっつタッチ、まっつタッチ、とほくほく浮かれていたけれど。

 帰りの特急の中で、おさかなまっつストラップがなくなっていることに気づいた。
 オリジナルで作って愛用していたグリーンのおさかなさん@『Red Hot Sea』姿のまっつが、ジョイントのわっかを残してまるっとなくなってました……。
 千秋楽休憩時間にはまだたしかにあったから、劇場内で落としたのか、駅までの道で落としたのか。
 立ち姿そのままくりぬいたプラスチック製。……落ちてたら、「なにコレ??」度高い羞恥アイテム。なにしろおさかなさんだからな……ヅカだとわからない人(が、世の中の大部分だろう)には、アニメのキャラ・コスとか思われるんだろうか……遠い目。

 そんなオチがあったにしろ。

 全ツ『外伝 ベルサイユのばら-アラン編-』千秋楽。

 アンドレ@壮くんの「アラン、お前もか」は、「アラン……」でためまくったあと、「お前も(吐息)報われない愛に……」と続けることで不自然さを払拭しておりました。えらいっ。

 ねえねえ、壮くんのこの吐息プレイ、無駄に色っぽいよね?
 無駄に……てのが、壮くんらしくて素敵っちゅーか植爺のせいでこんなプレイをするハメにっちゅーか、お前もかの「か」を言うとお笑いになるから「か」を発音しないための苦肉の策だけど結果としてアンドレ男前ってちゅーかイイ演出になってるっぽいっちゅーかやっぱり植爺許すまじ(笑)。
 
 なんで壮くんとみわっちのラヴシーンないの? まとぶと絡んでる場合ぢゃないっしょ? みわさんと絡めよ~~。
 オスカルが誰を愛しているかわからない、ってひどい演出だ……。

 『ベルばら』なんてどーせ場面のつぎはぎでストーリーないんだし(植爺がストーリーを作れない、が正しい)、「ラヴシーン特集」にしちゃえばいいのに。
 誰かを好きとかキライとか言っているとこだけでストーリーをつなぐ。

・オスカルに反発するアランと衛兵隊。
   ↓
・みんなの憧れディアンヌ、めんどーだから『エンター・ザ・レビュー』の「愛しのルイーズ」の替え歌とダンスでいいよ。
   ↓
・オスカルに憧れるディアンヌ。あー、でも植爺脚本だとディアンヌが愛していたのは実の兄のアランだっけ。んじゃここで、ディアンヌの脳内イメージの恋人アランとのラヴラヴデュエットダンス。オスカルは、ディアンヌとアランを引き裂くように登場。めんどーだから『エンター・ザ・レビュー』の「ボクのいちばん好きな人」をルイーズ……ぢゃねえ、ディアンヌが歌っちゃえ。振付も同じ……だと、みわっちがまとぷを姫抱っこして去っていくことになるから逆にして(笑)。
   ↓
・反発していたのに衛兵隊が先にオスカルへ心酔。女たちも一緒に登場して一緒に心酔しちゃえ。ひとり反発を続けるアランはおもしろくない。
   ↓
・婚約破棄され(アランがこれ以上オスカルに惹かれていくのを見ていられない、というのが実は真相)ディアンヌ自殺、自棄になるアランを一喝するオスカル。
   ↓
・(オスカルの縁談の話を聞き)オスカルに愛を打ち明けるアンドレ。主役じゃないから毒殺シーン無し。
   ↓
・ジェローデルへプロポーズのお断りをするオスカル。(ここで彼女の心がアンドレへ向かっていることがわかる)
   ↓
・アランとアンドレの口ゲンカ。
   ↓
・アランがオスカルに無理矢理チュー。アランを殴りつけようとして、殴れないアンドレ必須。
   ↓
・アランと衛兵隊、目の見えないアンドレのフォローをする発言。
   ↓
・パリ市民蜂起、アランと衛兵隊はオスカルについていくと宣誓。

 そーして、プロローグとエピローグの10年後のベルサイユはそのまま、ナポレオンはいらないんだけど、出さなきゃいけないの? 植爺的に?
 仕方ないからディアンヌの亡霊はそのまま。ただし最初と最後だけ。革命もオスカルたちを出してはいけないのなら、名もなき市民たちだけでやる。

 植爺がこだわり続ける「出演者の出番と台詞の行数」は、ちゃんと「トップ>ヒロイン>2番手>3番手>専科>組長>>>その他大勢」で割り振る。
 途中で死んでしまうディアンヌは、出番の少なさを補うために、出ている場面ではやたら豪華に歌い踊る。「ここでこんだけ時間と比重をかけてこんなどーでもいい場面をえんえんやるの変ぢゃね?」と思われても、やる。「オスカル編」で脳内オスカル様山盛りでえんえん歌い踊ったまーちゃんロザリーみたいにな。
 そして、エピローグではもちろん「愛しています、お兄さん」と禁断の告白ですよ。オスカル様に夜這いをかけたまーちゃんロザリーみたいにな。
 2番手の役が3番手の役より出番や台詞の行数が少なくてはいけないので、オスカル中心の場面は台詞や時間を減らし、アンドレをクローズアップ。おかげでやたらとアンドレは長台詞を喋るし、苦悩してひとりで歌う。そして主役のアランと絡む。ジェロは相変わらず1場面だけ。
 やたら思わせぶりに星原先輩の出番と台詞はえんえん続き、はっち組長も豪華な衣装で現れる。無意味でも、彼らに出番と台詞と衣装は、ハズしてはならない。

 とゆー、植爺クオリティを守りつつも、「とりあえずラヴシーン」をいろんなパターンで入れることによってサービス度を上げる。好きでもキライでも、「心が動く場面」さえきちんと描いていれば。その他の出来事は「台詞で解説」しても話はつながる。
 だからこそ、主役であるアランがオスカルへの想いをどう昇華させたか、革命直前に平民側につくと決めたオスカル、彼女へついていくとアランたちが宣言する場面は必要。
 これがあるからこそアランは、オスカル死後も彼女の遺志を継いで戦い続けるのだから。この場面から一気に時代を10年後につなぐことが可能。ここでのアランならば、10年後の隻腕将軍アランへオーバーラップできる。

 ……本当なら、そこからパスティーユになだれ込み、最高潮に盛り上がる……はずなんだけど、植爺のアホなこだわりのせいで、「物語」としていちばんいいところを「描いてはならない」ことになってるからな。オスカルの死と、彼女をかばって片腕を失うアラン、は「アラン物語」ならばもっとも重要なエピソードだろうに。
 描いてはならないんだから、仕方がない。

 
 「アラン物語」として必要な場面を全部奪われ、10年後にディアンヌの亡霊と立ち話をするだけのどーしよーもない脚本で、まとぶんは高いテンションでキモチと空気をつなぎ、よく演じきったと思う。
 歌舞伎が似合う……というか、熱が入りすぎるとどんどん歌舞伎になる特質(笑)があるので、その大仰さがいっそ清々しかった。
 ただまとぶんの歌舞伎って、ひとり歌舞伎で誰かと一緒だと精度が落ちるんだよね。ひとり芝居になって封印が解き放たれるっていうか絶好調になるっていうか。
 壮くんも植田歌舞伎の申し子ってくらい似合う芸風の人だけど、彼は誰が相手でも関係なく大歌舞伎演技絶好調だから、まとぶさんとは持ち味がチガウ。

 まとぶん、壮くん、みわっちと、三者三様の濃い~~ぃい芝居を繰り広げていて、そこはとても愉快。

 てゆーか、無理矢理チューのとこはみわさんオスカルが妙に生々しいんですが(笑)。
 アンドレに引き離されたあととか、なんかすごく「おんな」でびびる。濃くくどく演じていると、修羅場も濃くて、見ていてちょっとうろたえるというかテレるとゆーか。やーん、みわさんったらぁ(笑)。

 こんな、ピンポイントでエロいオスカル様なので、あのぶっちぎり芸風アンドレ様と、もっと絡んで欲しかったのよ、ラヴを入れて。

 まっつにタッチしてもらったっ。

 はいはいはい、全ツです、千秋楽です、『エンター・ザ・レビュー』です。

 中詰めの客席降り、まっつは下手の前から3人目。どのへんに立つかは劇場によって変わるので、中日のときのように確実にココ!という席はない。梅芸では16列目くらいだったけど、他劇場で13列目だったという話も聞いたし。
 だから半分運まかせ。このあたりなら、たぶんまっつが来るんじゃないかな……てな通路際席を押さえて行った。

 いやあ、どきどきしたねっ。
 来るかな来るかな来てくれ頼む……キターーーーァッ!!

 目の前を走り抜けていくまぁくんと一花ちゃんにもうれしがって手を出し、タッチしてもらってたんだが、それでも本命はまっつ(笑)。
 わたしの席の目の前でストップしたまっつ、前から横から「触って触って」と差し出された何本もの手を前に一瞬鼻白んで(間があった・笑)、「えいやっ」って感じにぱしんぱしん叩いていった。
 ……タッチ、というか、「叩かれた」って気がしたんですが、ぱちんっていい音したし、なんか本気っぽくて、じーーん……。(ヲイヲイ)

 『エンレビ』の中詰めは、なんだかひどく散漫で、落ち着かない気がする。
 博多座に通っていたときは、そんな風に思ってなかったんだけど。オサゆみスキャット合戦がものすごくて、聴き惚れていたから、いくら客席降りでみんながざわざわしていても、気が散ることがなかったのかな?
 まとえりだから歌の力がオサゆみほどではない、理由がソコにあるというなら、同じ面子で客席降りしてみんなざわざわしていた『ラブ・シンフォニーII』は? アレはただたのしいだけで、この『エンレビ』中詰めのように散漫な印象はないぞ?

 通路際でまっつ眺めて、その理由がわかった。
 『エンレビ』の客席降りって、短いんだ。
 たくさんのメンバーがわーーっと降りてきて、所定の位置について、ちょっと歌ったらすぐにまたわーーっと舞台へ戻っていく。
 ジェンヌが移動することと、その付属動作で観客の意識がバラバラになり、ざわざわが収まらないまま、「その状態をたのしむ」前に終わるんだ。
 『ラブシンII』の「キンバラ」客席降りはけっこー長くて、ジェンヌはえんえん通路で歌い踊っていた。観客もそのことに慣れ、ざわつきが収まり、また舞台に集中する。んで、観客が飽きる前、もっといてくれていいのに、ぐらいのタイミングで舞台へ戻っていく。
 「キンバラ」を歌い踊るゆまちゃんを間近でえんえん見ていたあの感覚、何度も目が合うわ、胸の谷間の深さに照れるわでどこ見ていいかわかんない、あの感じ……を、じっくり味わう間もない。
 まあ、まっつは真下はあんまり見てくれなかったし(通路際ではないところに知り合いがいたのか、にこっと笑って手を振っていた。かわいい)、まっつキターーッ、タッチしたーーっ、すぐそばに立ってるーーっ、と思ったらもう行っちゃった~~!! てな感じで、ぜんぜん落ち着くヒマがない。
 『ラブシンII』のときみたいに、えんえん歌い踊ってない。あんときは正味振付アリで踊ってたよね? 舞台を客席に替えた「パフォーマンス」だったよね?
 なのに今回はただあちこち見ながら揺れているだけ、「客席サービス」でしかなかった。だから観客もサービスされてざわめくだけで、芸を鑑賞する余裕はない。
 や、わたしの体感時間が短すぎただけかもしんないけどっ。なにしろまっつだしっ。

 中詰め、落ち着かない……ざわざわしているうちに終わっちゃう。
 うおおお、まっつまっつまっつ、どきどきしてるうちに終わっちゃったよおおお。
 

 サーカス場面はいじめっ子ではなく、やんちゃだけど「弟思いのおにーさん」になっていたような。
 のっぽさんを両側に侍らして自分は台に乗り「高い高い」と悦に入っていたり、人をつきとばしたりしているんだけど、りせに甘い(笑)。泣くりせをあやし、「強く生きろ」とガッツポーズ。「うん、ボク、強くなるよ」とりせもガッツポーズ。……なんだこの兄弟?(笑)

 旅の男はみわさんとの密着度はたしかに高いんだが……みわさんから肩を抱かれても、萌えないことがわかった。まっつから抱きつくことに、萌えるらしい。能動者が好きなの、あたし! されるよりする人が好き。受より攻が好き。愛されるより愛する人が好き。
 つーことで、昼公演、千秋楽共に「予定調和」っぽくトリオで密着する旅の男たちは、まだどこに触れるか決まっていなかったっぽい初日近辺の方が、好みだった(笑)。

 『エンレビ』はたのしく、「まっつタッチまっつタッチ☆」の興奮と共に終わったわけだが、実はわたし、『外伝 ベルサイユのばら-アラン編-』の方が破壊力デカかったのよ……。

 作品的にはあの通りぶっ壊れていて、真面目に脳みそを働かせるとストレスで胃に穴が開きそうになるので、わざと気を遠くして目で見て耳で聞いているのに日本語は脳に入れないようにして、役者の魂とか感情だけを脳へ送る、という高等技術に神経と体力をすり減らしていたんだけど。
 ジェローデル様ですら、彼の言っていることを真面目に脳みそへ送ると正気ではいられなくなるんだってば。贔屓でもダメなんだってば。あああ植爺め。

 その反動もあるんだと思う。
 植爺の狂った日本語を話す狂った人たち……に心を乱されずに済む、革命の場面。台詞がなく、ただ音楽とダンスだけの場面。
 神経をすり減らすことなく、舞台の人々の演技に注目できる場面……のセンターに、Myご贔屓がいる。

 かっこいい。

 え。……ええ?
 あのひとあんなに、かっこよかった?!

 なんだろ、よく知っているはずなのに、もう何度も見ているのに、なんかぜんぜんチガウんですけど。
 まっつのダンスが端正であることはわかっているけれど、いつもはそこになんつーか融通のきかなさを感じていたんだが、そこから一歩踏み出した、前へ切り込んだような、強さを感じた。
 強い、って、薄幸キャラまっつにはあまり感じたことのない印象だ。

 強い、キャラクタ。
 あの市民の男は、強い。
 信念を持ち、未来へ進む男だ。
 登場する瞬間から、スイッチ入ってるよね。歩き方からすでに、彼の背負うモノの重さが見える。

 軍隊の前に立つには、非力な一市民でしかない。訓練された戦士じゃない。だけど。
 砲弾に翻弄されながらも、あきらめず戦い続ける。
 ひるんだ仲間たちを背後に残し、ひとり玉砕覚悟で前へ出る。
 撃たれた彼を中心に、仲間たちの士気が昂揚していく。意識の方向性が定まる。

 思わず前へ出てしまってひとりで踊って撃たれる、のではなく、わかったうえで前へ出るんだ。
 その、硬質な決意。スタンドプレイとしてのソロダンスではなく、殉教者の信念を表す、強いダンス。

 そこから先は、ある種祭りの激しさ、トランス状態へ。

 名もない、台詞もない役で、なんでこんなにしっかりがっちり、かっこいいのか。
 素敵なのか。

 見ていて心臓ばくばくして、大変でした。
 うおおお、かっこいー、かっこいいよお。ごめんまっつ、あたしアナタをナメてた。どんだけ素敵なのよ~~、と、アホファン丸出しにとろけきってました……。
 ああ、心臓に悪い……。

 
 そして、話はとんでまたしてもショーの、そのあと。
 最後のご挨拶時に、『銀ちゃんの恋』DC楽で王子がすっかりスルーしていたトドDSのことを、ハッチ組長が話を出してくれました。「本人の口から」ってことで、まっつ自身が喋り出した。
 場所、日程、出演者を説明するわけだが……「パレスホテル」はすらりと言えたのに、「ホテル阪急インターナショナル」が出てこない。
 一瞬、真っ白になるまっつ。
 観客にどっと笑われ、そのあとでよーやく正解を絞り出した。
 宣伝するまっつはとても真面目風、声もしっかり男役……なのにHHIが出てこないあたりがかわいい……(笑)。

 まっつの「声」が大好きなので、思いがけず最後に声を聴けて、すごーく得した気分。

 ああ、まっつまっつまっつ。

 思うんだけどさー、やっぱジェローデルがアンドレにやさしいのは、変だと思うの。

 植爺脳では「主人公はなにがなんでも正しい」ということになっているから、『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』で「いい人」として描かれたジェロ様は、なにがあっても「いい人」で正義の人、原作でアンドレを攻撃するために口にされた台詞をも、『外伝 ベルサイユのばら-アラン編-』では、「いい人」ゆえの「思いやりある台詞」にねじ曲げてしまった。

 恋敵を牽制し、貴族としての優越感・無神経さでアンドレに言う、「妻を慕う召使いを、妻のそばに置いてやる心の広さはあるつもりだ」という台詞。
 アンドレにショコラをぶっかけられるくらい、酷い物言い。

 なのに植爺は、この台詞を「心の底からやさしい人が、親切心で言っている」と思い込んでいるよーだ。アホですか。

 植爺がアホなのは今さら検証しても仕方のない事実だから置くとして、ただ単に、ジェローデルがアンドレに「心からやさしく、アンドレのためを思って」この台詞を言うのはおかしい、おかしいことにはなにか他に理由がある、その理由とはナニか、ということを、考えてみる。
 
 ウザイ恋敵でしかも侮蔑の対象である平民、に対し、心からやさしく、しかも「ずっと妻のそばにいてもいい」って……ふつーレベルの「いい人」でもこれはおかしい。
 本当に「いい人」なら、主人である貴族女性に恋し、苦悩する男を描いた恋愛小説を例題にして、「あの小説と同じ立場にしてあげるよ」と持ちかけたりはしない。
 ありえないことだらけなのに、それでもジェローデル@まっつは、心の底から誠実に、思いやりあふれ、アンドレ@壮くんに語りかける。

 これらの矛盾を解決する方法、矛盾に対する解答はひとつ。

 ジェローデルが本当に欲しがっている相手は、アンドレだった。

 コレしかないなっ(笑)。

 ジェローデルは、アンドレを見初めた。
 上官オスカル@みわっちのそばに、いつも付き従っている平民の男。
 オスカル無しのアンドレはあり得ないし、アンドレ無しのオスカルもまたあり得ない。2個イチに考えるしかないふたりだと、ジェローデルは見抜く。

 アンドレに「ジャルジェ家を出て、ジェローデル家に仕えないか、給料いっぱいあげるよ」と言っても無駄なのはわかっている。
 アンドレが欲しかったら、オスカルを口説くしかない。

 アンドレを自分のそばに置くためには、まずオスカルを自分のそばに持ってくるしかないんだ。
 デュ・バリー夫人がオスカルを取り巻きに加えたくて、彼女を動かすためにまずその母親を自分の侍女にしたように。
 ベルサイユに生きる貴族たちの常識ですな、将を射んと欲すればまず馬を射よ。

 つーことで、ジャルジェパパに根回し。オスカル本人はなにも言わず、パパに話通して、次にアンドレ……って、どんだけオスカル蚊帳の外なんだ、どーでもいい存在なんだ。

 ジェローデルが好きなのは、アンドレだから。
 そばにいて欲しくて、必死に口説く。
 心から誠実に、やさしく。
 キミのためを思っているんだ。私のもとにいることが、キミのシアワセなんだ。

 いい人オーラびしばし出して、慈愛の目で語るジェローデル@まっつがステキです。
 アンドレは人の話なんか聞いてないけどな(笑)。そんなとこも含めて、ステキなわけだしな(笑)。

 ジェロ×アンドレ。
 アンドレが総受キャラなのは、わたしが読んだ『ベルばら』同人誌ではデフォだったし(アラン×アンドレが主流? フェルゼン×アンドレもわりと見た)、植爺演出のアホさにこーゆー理由をひねり出すのはアリでしょう。

 
 ……なんてことを、改めて考えた、全国ツアー千秋楽。
 はるばる行ってきました、三重県。

 楽公演は午後6時開演、終演は9時過ぎるわけだから交通機関が大変ですよ。
 せっかく「鉄道の日」切符(青春18きっぷのよーなもん)の使える期間なのにさー。終演時間が遅すぎて、鈍行では当日中に大阪に帰れないよ。
 遠征をお財布に効率よくするためには、いろいろ調べるし工夫もする。つか、それこそが醍醐味、ビバびんぼー旅行。
 帰りは近鉄特急を利用するしか選択肢がないとしても、通常運賃を払う気はなく、金券屋で株主優待券(近鉄全線特急以外1回限り自由に乗車可)を購入。特急券と併用できるからな。なんばに到着するときには御堂筋の終電が終わっているので、鶴橋乗り換えでJR利用、大阪に出る、と。
 行きは特急運賃を節約、株主優待券握りしめて鈍行を乗り継いで行く。なんせ通い慣れた名古屋経路。……2月に3週間強で鈍行利用4往復とかしてましたからね……路線図も頭に入るわ……。
 ただいま再プレイ中の『逆転裁判』(DS版はシナリオ追加されているので、ソレ目当てに1からやっている)をお供に長い列車の旅路。

 目的地の近鉄津駅に着いたら、目の前で銀ちゃんチーム一同がわいわいやってて、びびった。
 
 田舎駅らしい改札口前に、見るからに場違いな華やかな一団が、すげーミスマッチ……(笑)。あー、ゆーひくんいないや。

 街の中央方面へと消えていく彼らとは逆に、わたしはなにもないひたすらなにもない道を、劇場へ向かって歩く。彼らはきっと食事でもしに行ったんだろう。チケットを持っていないわたしは、サバキ待ちするために早く劇場に着かねばならんがな(笑)。

 三重県総合文化センターは、そりゃー広く、とことんどこまでも広く、途方に暮れるくらい広かったです。
 劇場だけでなく、図書館その他県民のための施設が集まった建物なので。
 なのにレストランは1箇所のみで、昼公演と夜公演の間、実質45分あるかないかの短い時間、レストラン利用希望者の長い行列が伸びてました……うわー。
 文化会館の周囲には飲食店がいくつかあるんだけど、なにしろ「車利用者用」なので、広く、とことんどこまでも広く、途方に暮れるくらい広い駐車場のその向こうに建物があり、そこまで行って満席だったときのダメージを思うと、とてもはるばる行く気にはなれない。地図上では「隣のレストラン」なんだがな(笑)。
 また、地図上では「すぐ横」にコンビニがあるのでそちらへ向かってみると……道を歩いている人たちがみな一様に「スナック菓子」の入ったコンビニ袋を持っている。雰囲気からして、『ベルばら』を観に来た人たちだ。何故観劇にスナック菓子?
 嫌な予感は的中した。
 コンビニの食料棚は空っぽ。お弁当もおにぎりもサンドイッチも、菓子パンもナニもない。どこの被災地?!状態。
 今すぐ手軽に小腹を満たせるモノとして、仕方なくスナック菓子を手にした女性たちが長蛇の列をなし、店内で渦を巻いている。
 数台あるレジで稼働しているのは1台だけ、ひとりの店員が必死になって会計をしている。
 ……演目のチェックをしておかなきゃダメだよ、コンビニ経営者さん。ふつーの出し物の場合客は昼か夜どちらかの公演を観て帰るだけだろうけど、ヅカはWヘッダー基本だもん、わずかな時間に腹ごしらえするためにおにぎりとかを買いに来るんだってば。
 こりゃダメだと、別のコンビニを目指したよ。どこでも徒歩基本のわたしは、歩くための地図は準備してあるから(博多駅から博多座、名古屋駅から中日劇場、は徒歩が基本ですわ)、近くのコンビニはチェック済み。ちょっと離れた店なら、食料も十分にあった。

 とにかく、とことんどこまでも広く、途方に暮れるくらい広かった……なにもかもが。
 徒歩で生きる人はいないのか、帰り道は駅前に来るまで20分間通行人ナシだしな。広い道路に車はびゅんびゅん行き交っていたが。
 大阪では人がじゃかじゃかいて、車は走りにくいわ停めるとこないわ、建物はぎゅっとひしめきあっているわ、ってなもんだが、田舎は逆。すべて逆。

 劇場も、広かった。1900人収容って……広い……。梅芸メインホール規模ですなー。東宝より100少ない程度ですよ……。
 1階30列以上あるし、3階席まであるし、3階席でもA席だし、3階最後方B席ですら梅田より高い3500円……物価高いな、津。

 劇場入口では「すみませーん、あの宝塚ファンの人たちを背景に記念写真撮ってくださ~~い♪」とか、無邪気に声掛けられたりな(笑)。……オレたちヅカファンは見せ物か?? うん、まぁ、ある種異様かもしれんが……。

 そんな遠征。

 脇のキャラまでみんな濃くてたのしい『銀ちゃんの恋』

 わたし的に出てくると目が離せなくなってしまって困るのが、秘書@さあや。

 わたし、彼女を主人公にした物語が見たいです、マジで。
 独身だよね? それなりのトシだよね?

 なんつーか、彼女で『ブリジット・ジョーンズの日記』系の女の子物語が見たい。

 一生懸命生きている、等身大の女のコ@……というには年齢ちょっといってます、空回り盛大に、障害への激突ぶり盛大に、恋や仕事、人生に向き合う姿をハートフルに、ユーモアたっぷりに描くのー。

 あのねあのね、橘@めおくんとの恋物語が見たいっっ。

 冷徹な秘書ぶり、職務に忠実ゆえにKYな言動も取るし、終始強気な憎まれ役。
 だけどバーのカラオケで酔っぱらって熱唱、若い男の子に絡んで、逃げようとするところをひっつかまえてさらに絡んで嫌がられて……あああ、ストレス溜まってんだなあ、ついでにオトコいないんだなあ的なとこがイイのよっ。
 生意気スター橘もまた、この冷徹女秘書にはガツンとやられているわけだから。

 ぜひ、ふたりには恋に落ちてほしいですな(笑)。
 じれったさがたのしい爆笑ラヴ・ロマンスになるぞー。

 恋を自覚するまでも絶対たのしいどつき漫才になるだろうし、恋を自覚してから告白・両想いまではじれじれのすれ違いツンデレ合戦で、両想いになったあとは看板スターと秘書という立場ゆえに苦悩して、自分の立場を守ろうとする橘がケツまくったり、仕事忠実な秘書が身を引こうとしたり、何度も別れそうになるけど、結局離れられないのっ。
 いやあ、オンナノコが大好きなパターン全部つぎこんで、ひたすらハートウォーミングなラヴが見たいですな。ハリウッド映画系のアレを、昭和満載な舞台設定で(笑)。
 
 もちろん、『銀ちゃんの恋』キャラクタ総出演。
 なかでも重要になってくるのが、ロマンスグレー専務@王子。
 良き上司、相談役として登場しているのだが、いつの間にやら恋のお相手候補に名乗りを上げてくるのだ?! お約束ですね!! 美形でオトナで会社での肩書き有りな人ですよ!
 この人を愛せば、しあわせになれる。安定とやすらぎが手に入る……でも。と、ヒロインは心揺れてナンボですから!

 男の方にも、彼を愛するキャラを出すのが定番だが、橘に絡めてたのしい女の子キャラがとくにいないので、ここはジミー@だいもんで。
 橘がついうっかり手を付けてしまった美少年(笑)。純情可憐な彼は、一夜の戯れを真実の恋だと思い込んだ……! 恋のライバルが美少年って、どーしたもんだ、さあや?! つか橘最低!!(笑)

 引っかき回しに出てくる銀ちゃん@ゆーひとその他子分たち。
 女のしあわせ、を見せつける子持ちの小夏@すみ花。
 結婚生活の難しさ、子育て大変を語る監督@まりんと、トメ@まめ。
 意味もなく登場して高笑いして去っていくスポンサー@ふみか。

 橘主演映画撮影をベースにて、そこに全部の物語を絡めて。
 映画は『エリザベート』とか『ベルサイユのばら』とか、とにかく派手なコスチュームもので。や、よりによって日本で日本人で実写映画でなんかやらんやろソレ、という嘘くさい作品で(笑)。
 めおくんがトートとかアンドレ(フェルゼンも可)とかやってんの(笑)。劇中劇アリでもちろん名場面の再現やって、その扮装のままでキャリアスーツ姿のさあやとどつき漫才やったり、真剣にレンアイしたりするの。
 うわあ、想像するだけでときめく(笑)。

 橘子分の輝良まさとやアーサーも、黒天使姿とか衛兵隊姿で腰巾着してるの。
 新進看板美人女優@姫花が、エリザベートの鏡の間ドレスとかアントワネット頭に船載ってます状態とかで、台詞もないままうろうろしていたり。や、彼女は声を出すとえらいことになる、リナ@『雨に唄えば』状態の美人女優という設定があって、スポンサー@ふみかのごり押しで彼女を使うしかないんだけど、ミュージカル映画にそりゃないべってことで、なんと秘書@さあやが吹き替えをすることに……とか、思いつきだけで書いてるので話がどんどんアレになっていってますが、まあこんな感じで、盛りだくさんにたのしけきゃそれでいーや。

 ふぅ。
 とにかく、さあやとめおくんでラヴ・ロマンスが見たいなー。『銀ちゃんの恋』のスピン・オフで!
 演出家が石田なら、べったべたにふたりがカラオケで「銀恋」を歌うシーンとかありそうだなー。

 
 さあやに限らず、脇のひとりひとりがみんな精魂込めて小芝居していて、芝居の空気の中で生きていて、いい感じっす。

 二枚目のらいが見られなくてちょっと残念……しかし意味もなく盆踊りでキザっているような?
 さらに、二枚目のちゃーが見られなくて残念すぎる。助監督かわいいけど、ヘタレ姿ばかり……あああ、あたしの黒沢中尉が。
 二枚目といえば殺陣師がいい男でオトナでびびります。真瀬くんか、アレ? 池田屋親父は芝居らしい声が出ていていいですな。レネくんであってる?
 ……初日にプログラム買いそびれると、ずーーっと買いそびれるこの鈍くささ。公式HPの「主な配役」には細かい出番は載ってないし(笑)。や、わたしは基本プログラムは買わないけど、ゆーひくん主演作は買うって決めている。そのうち買いに行こう。で、まちがってたら、あとでこっそりツッコミ入りで訂正しておこう(笑)。まちがったこと書いているのも、それを「チガウやん」と追記するのも、リアルタイムに感想を書き残す醍醐味だと思っているので。

 あ。
 この公演で「すみれコードなんぢゃ……?」と思ったのは、他のナニでもなく、スターブーツの扱いだ。
 スターしか履くことの許されない、スターブーツ。ヅカならではの文化。コレを履けばみんな足長さん、美貌を底上げできるマジック・アイテム。
 ……その秘密兵器の効力を、「使用前」「使用後」を見せることでわかりやすく説明してしまったのは、いいのか?
 裸足のヤス@みつるがスターブーツを履くなり、すげー足長&長身になりましたよ?! ヅカのスターってこうやって補正・底上げされてんの? さすが『ベルサイユのばら2001』でフェルゼン@たかこが宮廷靴を全否定してスターブーツにこだわったって噂が立つくらい、見た目の美しさが段違い、ってそんな舞台裏見せちゃっていいのかよ?!
 いやその、『銀ちゃんの恋』自体が「タカラヅカ文化」を自虐的なまでにあげつらうことで、笑いを取っている作品ですがね……。

「この公演で、地味にいちばん株を上げたのは、王子かもしれないねえぇ」

 と、『銀ちゃんの恋』DC千秋楽、わたしとnanaタンとユウさんはしみじみ言ってました。

 カンペを手にしてはいるのだけど、それを開くことはなく、公演の長としての挨拶、花組の今後の予定、退団者の紹介まで全部やってのけた。
 紙に書かれた原稿を読むだけなのにカミカミで、場をドン引きさせる長ばかり見てきた者にとって、すべてを「そつなくこなす」初公演長の王子の株は上がりまくり(笑)。

 ジェンヌの本拠地は大劇場である以上、すべてのジェンヌに大劇場で緑の袴姿で卒業して欲しいと思っているけれど、王子の言葉を聞きながら「本公演以外の退団も、ソレはそれでアリなのかもな」と思った。

 『銀ちゃんの恋』で退団する3人、ちなちゃん、よしやくん、ちゃー。
 出演者勢揃いのラストに、胸に花を付けて現れた3人を、長の王子がひとりずつ紹介していく。
 この紹介がさ、ただ名前を呼ぶだけではなく、「こんな子だった」と王子の言葉で語られるの。がんばりやさんだとか、いつも元気でとか。わたしの海馬ではとても記憶できなかったんだが、お仕着せの原稿ではなく、「組の上級生の目線」による、ひとりずつの紹介だったの。

 本公演での退団時も、退団者からの手紙をカーテン前で組長が読み上げるよね。雪組ではそれだけでなく、ナガさん目線による解説もある(これがすごくスキ。ナガさんあったかい)。
 でもこのとき、語られている当人、退団者はその場にいない。袴に着替えているわけだから。

 それが、他劇場公演ではカーテンコール挨拶まんまで最後だから、退団者たちもずっと舞台にいる。
 ひとりずつ順番に「この子は、こんな子だった。こんなにステキだった」と、王子がその子の目を見ながら語る姿が、すごく良かった。
 よしやくん、ちなちゃん、そしてちゃーが、すごくくすぐったい、だけどきらきらした目で王子を見ているの。なにを言われるのか、言ってもらえるのか、期待のこもった目で見ているの。気恥ずかしそうであり、たまらなくうれしそうであり。

 そんな彼らの姿が、ものすごく、気持ちいい。
 ステキ。
 愛しい。

 キレイゴトかもしれないけれど、わたしが「夢の世界」タカラヅカに求めるもののひとつが、まちがいなくそこにあった。

 そして繰り返されるカーテンコールで、出演者みんなではじけきって踊って、退団者ももみくちゃになって笑って。
 遊んで。

 整然と迎える本拠地でのサヨナラももちろんいいけど、こーゆーのもアリだよなあ。
 と、思った。

 しあわせであれ。
 今も、そしてこれからも。ずっとずっと。


 しかし王子、みわっちDSやまりんサロンコンサートの案内はしてくれたのに、まっつと一花の出演するトド様DSのことはきれーにスルーしてたね……。花組公演ぢゃないけど、組子が出演するのに~~。

 
 タカラヅカ・スターであるがゆえの強烈な光で君臨する銀ちゃん@ゆーひくんを見て、それでも彼の「影」が薄くなったわけではないんだな、と思う。

 ゆうひくんの持つ、独特の陰と淫の魅力は別に変化していない。
 銀ちゃんは反省の色もなく大暴れしているのに、時折見せる暗さ、鋭さはゆーひくんならではの色だからだ。

 影の濃さはそのままに、光が濃くなったんだなー。
 今までは光もあんましあたってないのに、影ばっか濃くて大きかったからなあ。バランス悪くて脇にいるしかなかったんだよなあ。
 物理法則として、濃い影は強い光のもとにできなくては、おかしい。影だけ濃かったときは、法則からはずれていたためにいびつさが際立っていた。
 今、影の濃さに等しいだけの、正しい光が存在している。コントラストの美しさ、ルールに則った安定感。
 スターとして、真ん中に相応しい人になったよなあ。

 いや、真の真ん中向きな人は、もう少し影を小さくカラダの下に隠してしまうべきなんだろうけど。
 トウコちゃんみたいに光と同じ量の影をまとう人がアリなんだから、ゆーひくんの濃い影もアリかなー、と。

 声が涸れているのが気になった。出番と台詞量でいけば『THE LAST PARTY』の方がすごかったと思うが、なにしろ怒鳴り芝居だからなー、銀ちゃん。みつるも大変そうだったし、みんな体当たりだぁ。

 
 カテコでうっかりと、ヒゲのダンディ@ふみかのウィンクくらって、息が止まりました……。
 あああ、いいカンパニーだなあ。

 何度も書きかけて、やめた。
 言葉を綴ることが、ひどく嘘くさく感じる。

 安蘭けいの退団が発表された、ことについて。

 ほぼリアルタイムで公式を見ていたと思う。
 今後のチケ取り予定を手帳に書き込んでいるところだった。
 トップページ(html版)に何度目かに戻ったとき、最新情報が更新されていた。

 とりあえずなにか書こう、と思ってブログの入力画面へ行き……やめた。
 そしてまた、思い直して入力画面へ行き。

 それを、繰り返す。
 

 「安蘭けい」という、可能性。
 それはタカラヅカを離れたところで途絶えるわけではないだろう。

 だけどわたしが「見たい」と切望するのは「タカラヅカの安蘭けい」だった。

 他の誰でもない、トウコちゃんで見たいものが山ほどあった。
 具体的に役名などない。作品名などない。

 トウコが演じる。

 それだけで、「見たい」と思えるものだった。

 「物語」好きな人間として、安蘭けいが息づかせる「物語」を欲していた。ずっと、ずっと。
 これからも、いくらでも、欲し続けていた。

 
 時は無限ではなく、終焉があることは、わかっていた。
 予測もしていたし、覚悟もしていた。

 それでも、「タカラヅカの安蘭けい」という可能性が、終わりを告げるのが悲しい。
 切ない。


 『銀ちゃんの恋』は、おもしろかった。

 だけどやはりわたしは、石田作品は好きになれないと思った。

 映画は見ているが、初演は未見。だから初演『銀ちゃんの恋』を語ることは出来ないし、今回の再演が初演とどう変化しているのかはわからない。

 はじめて出会う作品として『銀ちゃんの恋』を観、思ったことは。

 大空祐飛ゆえに、この作品がぎりぎりのところで成り立っているということへの、驚き。

 ゆーひぢゃなかったら、どうなってたんだヲイ、という疑問。

 ゆーひくんゆえに成功してるけど、それは結果論であって、なんでそもそもこんな作品を上演してるんだろう? と、首をひねった。

 有名な『蒲田行進曲』を原作とするこの『銀ちゃんの恋』は、タカラヅカという表現形態が持つ「良さ」を活かしにくい。
 むしろ、タカラヅカでは描いてはならないネタばかりを、ことさらにあげつらっている。
 わざわざヅカでやらなくていいのに。と、思う。

 同じテーマを、ハリウッドを舞台に華やかに表現したりするのが、ヅカの醍醐味だと思う。あくまでもおしゃれに、美しく。
 それは『蒲田行進曲』でもつかでもないと言うだろうが、そうとも、ヅカなんだから、別ジャンルなんだから、それでいいんだ。そのためにヅカはあるんだ。
 つか芝居や『蒲田行進曲』が観たいなら、相応しい場所で観ればいい。なにもヅカでなくても。

 という疑問が終始消えなかった。

 ……が。
 それでもなお、『銀ちゃんの恋』は「タカラヅカ」だった。
 何故ならば主人公の銀ちゃんを演じるゆーひくんが、とてつもなく、タカラヅカ・スターだったからだ。

 「タカラヅカ」という、荒唐無稽な世界で生きる、特殊なイキモノだった。
 いくら下世話で汚れた世界を描こうと、ゆーひくんがぶっちぎりで「異世界タカラヅカ」だった。
 彼が「世界」を支えていた。
 世の中が灰色で、そーだよな所詮世の中こんなもんだよなと思われそうなもんなのに、ゆーひくんが総天然色で現れて、自分の周りに原色を復活させていった。彼が通るところにいちいち色がつき、彼が消えると色も消える。なんかのトリック映像でも見ている気分だった。

 演技力がどうとかいう、以前の問題で。
 彼がいなかったら、この芝居はどこかよその劇団の芝居みたいになっていた気がする。

 出演者は総じて芝居の出来る子たちが集められていた。
 だから脇まで不安なく観ていられる。台詞も出番もろくにない子たちだって、みんなふつーに演技うまいもの、台詞言えるもの。
 だからこそ余計に、手堅く別カンパニー公演系になる。脚本も演出もヅカではなく、石田お得意の下品さや笑い取りに満ちているわけだし。

 うまいだけじゃダメだ。
 だってここはタカラヅカ。
 「他で観るからいいよ」なモノでは、意味がないんだ。ここでしか観られないモノでなきゃ、ダメなんだ。
 芝居なんか、星の数ほどある劇団がいろんなとこでやってんだってば。ヅカでなきゃ存在しないモノを、表現してくれなきゃ。

 ここがタカラヅカであり、宝塚歌劇団がこの作品を上演している、公演の存在意義を、ゆーひくんがひとりで担っていた。

 ということが、すごく、おもしろい。

 外部の芝居でも、タカラヅカ・スターがひとりいれば、真ん中でその力を存分に発揮すれば、それは「タカラヅカ」として成立しうるのか。
 その事実に感動した。

 
 『銀ちゃんの恋』は、タイトルに反して銀ちゃん自身は「主人公」ではない。
 主人公はヤス@みつるであり、小夏@すみ花だ。銀ちゃん@ゆーひは、彼らの目を通して描かれるのみで、銀ちゃん自身の物語はない。
 極端な話、銀ちゃんは登場せず、ヤスや小夏の会話の中だけで描くことも可能だ。
 登場しなくても物語進行に支障のないキャラクタは、主人公ぢゃないわな(笑)。

 だけど、銀ちゃんは「主役」なんだ。
 彼の人生も悩みも考えも、直接には描かれないけれど、彼個人の場面はストーリーと離れひとりで歌っているだけだったりするけれど、ヤスと小夏の視点による物語でしかないけれど、主人公では絶対にないけれど、それでも銀ちゃんこそが「主役」なんだ。
 扇の要。絵の部分しか人は見ようとしないけれど、扇が扇として成り立つのは要があるから。

 物語的には存在しなくても構わない、概念だけでもイイくらいの「影」役でありながら、実際の舞台の上では誰よりも強烈な「光」を放つ、アンバランスさ。
 それがこの作品の魅力となり、他の作品とは一線を画した味わいになっている。

 おーぞらゆーひが、えらいことになってんなぁ。
 そのことがひたすら、おもしろい。

 
 また、この作品を「タカラヅカ」たらしめている要因のひとつに、ヤス役が、みつるであることが、あると思う。

 ヤスという役は、芝居巧者がやってはいけないのだ。
 や、ヘタな人がいいと言っているわけではなく、ある程度巧くなきゃぶちこわしになるが、ほんとの意味で演技の巧い、職人系の人がやってはいけない。
 まりんとかマメとかじゃダメだってこと。タイプとして、未沙さんとかもダメ。

 ヤスを演じていいのは、キラキラ・アイドルだけだ。

 だってここは、タカラヅカだから。
 乞食役でも美しい衣装を着るところだから。

 みっともないなさけないブ男の役を、そのままありのまんま演じてしまえる人は、ダメなんだ。

 銀ちゃんが鼻にティッシュ突っ込んでてなお美しくあるように、ヒゲのダメ男すらキラキラ・キュートでなければ意味がないんだ。「タカラヅカ」である意味が。

 外部の役者さんみたい、と思わせる演技をしちゃいけないんだ、ヤス役は。
 汚い役だからこそ、とびきりきれいな男の子が演じ、「かわいい」と思わせなくてはならないんだ。

 美しい大空祐飛と美しい華形ひかるでこその『銀ちゃんの恋』。『蒲田行進曲』ではなく、宝塚歌劇団の『銀ちゃんの恋』だ。


 
「この役を、まっつがやってたんですか??」

 終演後、ロケットボーイ役に関して、友人のチェリさんが言った。首を傾げながら。

 あの役を、まっつが? まっつってアレよね、あの***で**だったりする、**なまっつよね……?
 頭の上にとびかう「?」マーク。**に入る言葉はてきとーに想像してくれ、チェリさんも別に口に出して言ったわけぢゃない。

 目に映ったロケットボーイ@まぁくんの姿と、博多座ではまっつだった、という知識のギャップ……符号しそうにない両者の隔たりに、混乱するばかり、と。

 わはは。
 わかる、言いたいことはわかるよっ!!

 わたしだって初日初回にまぁくんを見て、痛感したもの。

 そもそも、まっつがこの役をやったことが、間違いだよな。と。

 『エンター・ザ・レビュー』名物の兄鳥。
 雛鳥をイメージしたロケットのセンターで、若々しくかわいらしくコミカルに踊る役だ。
 もうすっかり定番になってしまっているこの役は、最初は、存在しなかった。

 初演のムラ公演は91期生の初舞台お被露目公演でもあった。
 雛鳥たちのロケットは、初舞台生用の初々しくも希望あふれるロケットだったんだな。
 それが東宝版になると、初舞台生たちはそれぞれの組にバラけたあとなので、もう「お被露目ロケット」である必要はない。人数も減るし、振り付けも変わる。
 その帳尻合わせに急遽作られたのが、兄鳥役だ。
 初代兄鳥は、らんとむ。
 いつぞやのヘラクレス兄貴を彷彿とさせる、見事な体操のおにーさんぶりだった。
 その後、博多座にてまっつ、前回の全ツではみつる、と毎回役者が変わっていった。誰かの固定役ではなく、再演ごとに新たなキャストにするのが兄鳥のコンセプトなのかもしれない。

 ……てなことは、置くとして。
 とにかく最初はなかったんだよ、この役。
 『エンレビ』をムラでしか観ていない関西在住べつに花組贔屓でもないからオサ様全ツ『うたかたの恋』は超チケ難で手に入らなかった、今回の全ツはチケット手に入ったから観てみたわ、程度の人だと、兄鳥ロケットボーイ自体、見るのがはじめてなわけで。

 そーゆー役がある、ことは聞きかじっていても、目にするのははじめて。
 友人のチェリさんはまさにそーゆー人で。
 
 まずまぁくんの姿を見せられて、「これをまっつがやったんですよ」と言われても、混乱するよなあ。

 やったんですよ、あのまんまを(笑)。

 ロケットボーイってのは、ふつー若手がやる役だ。
 必要なのは男役スキルでも歌唱力でもダンス力でもない。そりゃあった方がいいに決まっているが、優先順位は低い。
 もっとも必要なのは。

 華とアイドル性だ。

 キラキラしていること。
 美しいこと。
 若々しく、かわいらしいこと。

 どんなに美形でも暗くてはダメだし、スター性があって押し出しが良くても、大人びていたり重苦しくてはダメ。
 「ヤッ♪」の掛け声が似合う元気いっぱいのかわいい女の子たち、の真ん中に立つのだから、それと同じカラーの輝きが必要。

 かわいこちゃん的さわやかアイドルが、望ましい。

 それが基本定義だから、最初に東宝で新たにロケットボーイが追加になったとき、「永遠の研45・漢らんとむ」が盛大に若ぶっておにーさんしている姿が話題になった(笑)。
 博多座まっつが幸いしたのは、あのらんとむの役、という先入観があったことだ。
 らんとむの兄鳥が、無理して若ぶってかわいこちゃんぶってええっと、なステキさだってこともあり、その次のまっつがまたしてもこう、無理している感アリアリなステキさで、『エンレビ』の兄鳥って、微妙さを競うのが目的?!(白目)とゆー、なんともマニアック一直線な配役だった。

 それが、前回の全ツでみつるになり、ふつーにキラキラアイドルの役になり、今回のまぁくんに至ってはさらに初々しく、本来の「ロケットボーイ」の定義まんまになった。

 らんとむ→まっつ→みつる→まぁくん、と段階踏んで見てきたわたしですら、なかなかショッキングな絵ヅラなのに、全部すっとばしてまぁくんを見て、「あの役、まっつもやったんだよ」と言われても、そりゃ混乱するよなあ?(笑)

 いやぁ、まぁくんの兄鳥は、すげーかわいかった。
 すらりとした長身、長い手足、若さとかわいさ、かっこよさがキラキラして、いかにもな「期待の新進スター!」な感じが。
 あの「あイテ☆」な振付も、素直にかわいいと思える。くそー、いいなあ(笑)。

 まっつセンターの場面がなくなったことは心から残念だと思っているが、それと「やっぱ兄鳥はチガウよな」と思う気持ちは本当だ。
 で、イヤよイヤよもナントカで、実は「まっつの兄鳥、大好きだ」と思っているのも本当。で、さらに、「だけどまっつの兄鳥は恥ずかしくていたたまれなくて、正視できない(笑)」と思っているのも本当。
 いやあ、人間って複雑ですなあ(笑)。

 とりあえず今は、ひたすらキラキラしているまぁくんの輝きを、素直に楽しんでいます。
 
 そして、かわいい明るいロケットから、ドラマティックなフィナーレ「愛しかない時」に移るのがイイ。この曲好き。
 階段から男役たちが登場して総踊りになるの、かっこいいよねえ……。
 
 デュエットダンス組がここにいないことが残念です。や、彼らはあとから出て来て、ちゃんとカップルで踊ってくれるわけだけど……この群舞にもいてほしーよー。見たいよー。

 デュエットダンスが4組ってのは、オサふーだからこそ成り立った感があったんだが、まとぶ時代でも変わらないんだね。や、そのまんま好きだから同じでいいんだけど。

 そして怒濤のパレードへ。
 全ツだもんなあ、階段少ないし人数少ないしで、なんかあれよあれよとゆってる間に終わった気がする……。

 良くも悪くも、4回目。
 4年間に同じ組で4回再演はないだろ、と思いつつも、なにしろ同時上演作がアレでしょ?
 『エンター・ザ・レビュー』で良かったっ、と、心から思います。はい。
 
 
 タイトル「4回目」シリーズで統一するつもりだったのが、こんなに長く何日欄にも渡って書いちゃうと「4回目」「4回目」って見た目がウザいから早々に脱落(笑)。それならはじめからふつーにタイトル付ければよかった。
 そして今日は、ミニパソに書きためていたテキストをパソコンに移そうとして、何故か接続できずに焦り、いろいろいじっているうちに、データを全部消してしまった。いやあ、血の気が引いたねえぇ。ゴミ箱にも残ってないし、ファイルごと消失だし。
 結局ミニパソを再セットアップして、パソコンの方はソフトを再インストールして、新しくパートナー関係築いて……と、どたばた。
 なんとか失ったデータの補完完了。あー、びびった。
 てゆーか、再インストールするために、この乱雑な部屋の中からCDを探し出すのに骨が折れた……。

 全ツ市川、楽しかったみたいだなあ。
 ころ様、まっつレポthanksです。
 サーカス場面のまっつ、梅田ではいじめっ子だったのに、やさしいお兄さん風になってるそうです。わああぁぁん、見たいよう見たいよう。

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