卒業時期は、個別に決めるべきじゃ?@新人公演『黒豹の如く』
2015年2月24日 タカラヅカ 星組新人公演『黒豹の如く』の感想。
主人公アントニオ@ことちゃん、ヒロインカテリーナ@キサキちゃん、悪役アラルコン@まおくん。
……なんかつい最近も、この面子で観たばっかのような?
ちょっと前のタカラヅカでは、新人公演の顔ぶれは固定に近かった。
いつも同じ人たちが主要役を独占して、その中で役付を回していたような。
でも最近は、毎公演顔ぶれがチガウのが主流。
だからかえって、「前回と同じ」が新鮮。……なのに、「また? これもう前も観ましたけど?」と新鮮味に欠けるという不思議(笑)。
だから「前回の続き」みたいな気持ちで観てしまったと思う。
まっさらな目線での観劇じゃない。……けど、ヅカは継続して観て生徒さんたちの成長や変化を楽しむものだから、それほどはずれた感覚でもないのかな?
まあともかく、今回の新公で強く思ったことは。
礼真琴は、もう新人公演に出なくていい。
桁違い過ぎるわ。
他の新人さんたちが気の毒だから、もう出なくていいよ。
実力も存在感も、新公レベルじゃない。
男役としての居方や所作ビジュアル、課題はあるにしろ、それはもうこれから本公演で磨くべきで、新公で周囲の子たちの色を失わせるのは、よくないわ……。
なにかと異色の存在だな、ことちゃん。
新公の弊害ってのは、いくら主演させたり出番を与え続けても実力もつかなければ人気も出ない劇団推しの事情ありスターさん、というのがここ20年位の定番問題だったのに。
実力ありすぎで新公ぶっ壊すから出なくていいよ、てなスター、はじめて見るわ。
実力だけならハマコとかみっちゃんとかがいたけれど、ここまで極端な実力乖離っぷりを見せていたわけではないし、人気は「学年と立ち位置相応」でしかなかった。
ことちゃんは実力もすごいけど、人気もすごいからなあ。
新公が実力と人気を磨くための場なら、ほんと、ことちゃんにはもう必要ないでしょう。
新公卒業は個別に決められるのよね? その昔、トウコは研5で卒業してましたわよ? ねえ、劇団さん?
ことちゃんが完全無欠のスター!というわけではなく、先に言った通り課題はたくさんある。
でも、それだってちゃんと進歩していってるので、新公にこだわる必要はないと思うよ。
ことちゃんのいちばんの問題は、ビジュアルだと思っている。
女の子っぽい鼻ペチャ丸顔、星組では大きく見えない身長、スタイル抜群ではないからこその立ち居、着こなし……。「ナニもしなくてもイケメン」というタイプではないからこそ、作り込みが必要。
『The Lost Glory』新公の、無理をしたぎこちない「二枚目ぶり」が記憶に新しかったりする。なにしろ「前回の続き」だからねえ。かっこよくしよう、大人の男を演じよう、そうがんばるあまり、ロボットぽい外見になっていたっけ。
かっこいいことは、かっこいいけど……かたち云々より、声とか歌でねじ伏せた感じ。
そのまだまだ新しい記憶を、今のことちゃんがさらに上書きした。
あれ。かっこいい。
外見、かっこよくなってる!!
お子ちゃまでも女の子でもなく、ふつーに男役してる。
そして、なにしろ声がいいので。
舞台人は声が命、多少のビジュアルの足りなさは、声が補正してしまう。
視覚は限りがある。2500人劇場で、細かい表情のすべて、わずかな姿勢の角度、ちょっとした動きの是非まで、完璧に見届けることは出来ない。
が、声は聞こえる。どの席からでも。たとえオペラグラスで別の人を見ていても。
声が雄弁に「大人の男」を演じれば、十分な補正になる。
ビジュアルが課題……なのは確かだけれど、進歩している。
毎公演ごとに、「タカラヅカ」になっていっている。
若いってすごいなー。
短期間でも変化するんだなあ。
正直、芝居については、よくわからない。わたしには。
ことちゃんは器用に本役のれおんくんコピーをしてくれるので、それ以上のモノがわたしにはわからないんだ。
技術のある人だから、見たモノを自分のカラダを使って再現出来ちゃうんだと思う。
んでわたし、実はれおんくんの芝居も、あまりよくわかっていない人なので、二重にわからないのだわ。
だから、ただ技術面だけの言及。芝居心には触れず。
とりあえず今は、技術があればいいっす。
わたし、新公でのことちゃんについては、いつもすっげー誉めてるっていうか、持ち上げている気がするのだけど。
思ったまま、感じたままを書くと、こうなっちゃうの。
でもって。
うまいとかすごいとか格が違うとか、思ったままに書いているけれど、実のところ、彼の魅力はよくわからないという。
ときめかないの(笑)。
スターさんを見て「きゃーー!!」となる、あの感じがナイ。
すごい、うまい、そう思うけれど、「きゃーー!!」とならない。
わたしが若くないせいか。
わたしが女子高生だったら、ときめいてるのかな?
うまい人は好きなので、ことちゃんは好きです。
ヲトメ心ではなく、一観客として。
いつかことちゃんにときめかせて欲しいっす。
もう新公には出なくていい……と、思うけれど。
次、海外ミュージカルだよねえ。
ことちゃん主役で聴きたいなあ。
や、単に観客として、うまい歌を聴きたい(笑)。
新人育成という意味では、新人公演という意味では、ことちゃんはもう出なくていいくらいだと思うけど。
「公演」という意味でなら、チケット代の発生する「興行」という意味でなら、ことちゃん主役で観たいわー。
矛盾してるけど。
主人公アントニオ@ことちゃん、ヒロインカテリーナ@キサキちゃん、悪役アラルコン@まおくん。
……なんかつい最近も、この面子で観たばっかのような?
ちょっと前のタカラヅカでは、新人公演の顔ぶれは固定に近かった。
いつも同じ人たちが主要役を独占して、その中で役付を回していたような。
でも最近は、毎公演顔ぶれがチガウのが主流。
だからかえって、「前回と同じ」が新鮮。……なのに、「また? これもう前も観ましたけど?」と新鮮味に欠けるという不思議(笑)。
だから「前回の続き」みたいな気持ちで観てしまったと思う。
まっさらな目線での観劇じゃない。……けど、ヅカは継続して観て生徒さんたちの成長や変化を楽しむものだから、それほどはずれた感覚でもないのかな?
まあともかく、今回の新公で強く思ったことは。
礼真琴は、もう新人公演に出なくていい。
桁違い過ぎるわ。
他の新人さんたちが気の毒だから、もう出なくていいよ。
実力も存在感も、新公レベルじゃない。
男役としての居方や所作ビジュアル、課題はあるにしろ、それはもうこれから本公演で磨くべきで、新公で周囲の子たちの色を失わせるのは、よくないわ……。
なにかと異色の存在だな、ことちゃん。
新公の弊害ってのは、いくら主演させたり出番を与え続けても実力もつかなければ人気も出ない劇団推しの事情ありスターさん、というのがここ20年位の定番問題だったのに。
実力ありすぎで新公ぶっ壊すから出なくていいよ、てなスター、はじめて見るわ。
実力だけならハマコとかみっちゃんとかがいたけれど、ここまで極端な実力乖離っぷりを見せていたわけではないし、人気は「学年と立ち位置相応」でしかなかった。
ことちゃんは実力もすごいけど、人気もすごいからなあ。
新公が実力と人気を磨くための場なら、ほんと、ことちゃんにはもう必要ないでしょう。
新公卒業は個別に決められるのよね? その昔、トウコは研5で卒業してましたわよ? ねえ、劇団さん?
ことちゃんが完全無欠のスター!というわけではなく、先に言った通り課題はたくさんある。
でも、それだってちゃんと進歩していってるので、新公にこだわる必要はないと思うよ。
ことちゃんのいちばんの問題は、ビジュアルだと思っている。
女の子っぽい鼻ペチャ丸顔、星組では大きく見えない身長、スタイル抜群ではないからこその立ち居、着こなし……。「ナニもしなくてもイケメン」というタイプではないからこそ、作り込みが必要。
『The Lost Glory』新公の、無理をしたぎこちない「二枚目ぶり」が記憶に新しかったりする。なにしろ「前回の続き」だからねえ。かっこよくしよう、大人の男を演じよう、そうがんばるあまり、ロボットぽい外見になっていたっけ。
かっこいいことは、かっこいいけど……かたち云々より、声とか歌でねじ伏せた感じ。
そのまだまだ新しい記憶を、今のことちゃんがさらに上書きした。
あれ。かっこいい。
外見、かっこよくなってる!!
お子ちゃまでも女の子でもなく、ふつーに男役してる。
そして、なにしろ声がいいので。
舞台人は声が命、多少のビジュアルの足りなさは、声が補正してしまう。
視覚は限りがある。2500人劇場で、細かい表情のすべて、わずかな姿勢の角度、ちょっとした動きの是非まで、完璧に見届けることは出来ない。
が、声は聞こえる。どの席からでも。たとえオペラグラスで別の人を見ていても。
声が雄弁に「大人の男」を演じれば、十分な補正になる。
ビジュアルが課題……なのは確かだけれど、進歩している。
毎公演ごとに、「タカラヅカ」になっていっている。
若いってすごいなー。
短期間でも変化するんだなあ。
正直、芝居については、よくわからない。わたしには。
ことちゃんは器用に本役のれおんくんコピーをしてくれるので、それ以上のモノがわたしにはわからないんだ。
技術のある人だから、見たモノを自分のカラダを使って再現出来ちゃうんだと思う。
んでわたし、実はれおんくんの芝居も、あまりよくわかっていない人なので、二重にわからないのだわ。
だから、ただ技術面だけの言及。芝居心には触れず。
とりあえず今は、技術があればいいっす。
わたし、新公でのことちゃんについては、いつもすっげー誉めてるっていうか、持ち上げている気がするのだけど。
思ったまま、感じたままを書くと、こうなっちゃうの。
でもって。
うまいとかすごいとか格が違うとか、思ったままに書いているけれど、実のところ、彼の魅力はよくわからないという。
ときめかないの(笑)。
スターさんを見て「きゃーー!!」となる、あの感じがナイ。
すごい、うまい、そう思うけれど、「きゃーー!!」とならない。
わたしが若くないせいか。
わたしが女子高生だったら、ときめいてるのかな?
うまい人は好きなので、ことちゃんは好きです。
ヲトメ心ではなく、一観客として。
いつかことちゃんにときめかせて欲しいっす。
もう新公には出なくていい……と、思うけれど。
次、海外ミュージカルだよねえ。
ことちゃん主役で聴きたいなあ。
や、単に観客として、うまい歌を聴きたい(笑)。
新人育成という意味では、新人公演という意味では、ことちゃんはもう出なくていいくらいだと思うけど。
「公演」という意味でなら、チケット代の発生する「興行」という意味でなら、ことちゃん主役で観たいわー。
矛盾してるけど。
分解と再構築による発見・その3。@追憶のバルセロナ
2015年2月23日 タカラヅカ 物語というものについての、発見。
てゆーか、自分的アタマの体操。……の、続き。
というか、今度こそ本題(笑)、これで完結。
90分のミュージカル『追憶のバルセロナ』を、30分のストプレ『黒い風の物語』に焼き直したハリー。
『追憶のバルセロナ』はびみょー作だが、『黒い風の物語』は面白かったぞっと。
内容は同じなのに、描き方でえらい違いだ。
つまり、「物語」というのは、構成・演出によって生かされも殺されもするってことだ。
『黒い風の物語』はストプレだから、「基本プロット」感が強い。
コレに肉付けして「タカラヅカ」を創るとしたら……いろんな可能性が広がる。
てことで、いろんなパターンを考えてみる。
アタマの体操!
まず、主人公を誰にするか。
タカラヅカだから男性主人公。つまり、フランシスコとアントニオ、どちらかだ。
わかりやすく主人公っぽいフランシスコを、主人公にするのがいいだろうな。でも、アントニオ主人公も絶対面白い。ダブル主演のバウだったら、アントニオ側も書き込み出来るぞ。
んで、ヒロインを誰にするか。
フランシスコ主人公なら、セシリアとイサベル、どっちもヒロイン可能。
同じプロット、同じ脚本で、「見せ方」を変えられる。
まず、どちらの女性を最初に登場させるか。
イサベルか、セシリアか。
そして、作中、どちらに銀橋ソロを歌わせるか。
これによって、「ヒロイン」が変わる。
プロットと脚本は同じでいいのよ?
新しく銀橋ソロを付け加えるだけ。
それだけで、物語が変わる。
ダブル主演作品にだって、変更可能。
アントニオの苦悩のソロを加えるだけでいい。
プロットという骨組みは同じ、肉付けは歌とダンス場面。だってタカラヅカだから!
キャラ個人の心情を、ソロ歌や、関係性をダンスで表現する。
歌とダンスがあるのは、主人公とヒロイン優先ですよ。
ソロパートだけではダメだ、タカラヅカには華やかなダンスナンバーが必要。
セシリア・アントニオ側の比重を上げるのなら、バルセロナ社交界のダンス場面を作る。横暴なフランス軍が権力を見せつけるために開く舞踏会。嫌々フランス将校と踊らされるセシリア、妻を守れず唇を噛むアントニオ、てな。
フランシスコ・イサベル側を描くならば、ジプシーたちのにぎやかダンス。祭りとか、酒場ではしゃぐシーンとか。そこでふたりの気持ちが近づく。いい雰囲気になる。……もちろん、元からある、フランス兵の横暴 → フランシスコの記憶が戻る、もそのままに。
歌とダンスで、いくらでも物語の舵を取れる。
行き先を変えられる。
やだちょっと、面白い。
わくわくする。
面白いプロット(素材)をもらって、これを使って好きに「タカラヅカ」を作っていいよ、って言われたら。
どんなに楽しいだろう!!
フランシスコ、アントニオ、イサベル、セシリア。
この4人の物語だけで、いくらでも切り口を変えて、物語を作れる。
「視点」をどこに置くか。
それだけで、どんだけ可能性が広がるか。
……ああ、そうか。
だからわたし、二次創作好きなんだよなあ。
自分で「視点」を作れるから。
原作を否定したり、ないがしろにするのではなく、原作に別の視点で「物語の再構築」をしたいの。
物語を切り分けて分析して、自分なりのテーマで作り直す作業が楽しいの。
「二次創作って、作品に対する理解とキャラに対する共感の固まりですからね」と、この間某アニメで言ってたんだけど、まさにそれ。
好きな物語は、とことんまで、味わいたくなる。
ばらばらにして、再構築するほど。
雪組の『ロミオとジュリエット』は、本気でそれ、やり尽くしたし。
物語が好き。物語を作ることが好き。
物語を、さらに物語るのも好き。
『追憶のバルセロナ』と『黒い風の物語』は、わたしの「物語好き」のハートをくすぐってくれました。
うおおお、物語って楽しい。
アタマの体操。
どこをどう分解して、どう組み立てるか。考えるのが、すごく楽しい。
てゆーか、自分的アタマの体操。……の、続き。
というか、今度こそ本題(笑)、これで完結。
90分のミュージカル『追憶のバルセロナ』を、30分のストプレ『黒い風の物語』に焼き直したハリー。
『追憶のバルセロナ』はびみょー作だが、『黒い風の物語』は面白かったぞっと。
内容は同じなのに、描き方でえらい違いだ。
つまり、「物語」というのは、構成・演出によって生かされも殺されもするってことだ。
『黒い風の物語』はストプレだから、「基本プロット」感が強い。
コレに肉付けして「タカラヅカ」を創るとしたら……いろんな可能性が広がる。
てことで、いろんなパターンを考えてみる。
アタマの体操!
まず、主人公を誰にするか。
タカラヅカだから男性主人公。つまり、フランシスコとアントニオ、どちらかだ。
わかりやすく主人公っぽいフランシスコを、主人公にするのがいいだろうな。でも、アントニオ主人公も絶対面白い。ダブル主演のバウだったら、アントニオ側も書き込み出来るぞ。
んで、ヒロインを誰にするか。
フランシスコ主人公なら、セシリアとイサベル、どっちもヒロイン可能。
同じプロット、同じ脚本で、「見せ方」を変えられる。
まず、どちらの女性を最初に登場させるか。
イサベルか、セシリアか。
そして、作中、どちらに銀橋ソロを歌わせるか。
これによって、「ヒロイン」が変わる。
プロットと脚本は同じでいいのよ?
新しく銀橋ソロを付け加えるだけ。
それだけで、物語が変わる。
ダブル主演作品にだって、変更可能。
アントニオの苦悩のソロを加えるだけでいい。
プロットという骨組みは同じ、肉付けは歌とダンス場面。だってタカラヅカだから!
キャラ個人の心情を、ソロ歌や、関係性をダンスで表現する。
歌とダンスがあるのは、主人公とヒロイン優先ですよ。
ソロパートだけではダメだ、タカラヅカには華やかなダンスナンバーが必要。
セシリア・アントニオ側の比重を上げるのなら、バルセロナ社交界のダンス場面を作る。横暴なフランス軍が権力を見せつけるために開く舞踏会。嫌々フランス将校と踊らされるセシリア、妻を守れず唇を噛むアントニオ、てな。
フランシスコ・イサベル側を描くならば、ジプシーたちのにぎやかダンス。祭りとか、酒場ではしゃぐシーンとか。そこでふたりの気持ちが近づく。いい雰囲気になる。……もちろん、元からある、フランス兵の横暴 → フランシスコの記憶が戻る、もそのままに。
歌とダンスで、いくらでも物語の舵を取れる。
行き先を変えられる。
やだちょっと、面白い。
わくわくする。
面白いプロット(素材)をもらって、これを使って好きに「タカラヅカ」を作っていいよ、って言われたら。
どんなに楽しいだろう!!
フランシスコ、アントニオ、イサベル、セシリア。
この4人の物語だけで、いくらでも切り口を変えて、物語を作れる。
「視点」をどこに置くか。
それだけで、どんだけ可能性が広がるか。
……ああ、そうか。
だからわたし、二次創作好きなんだよなあ。
自分で「視点」を作れるから。
原作を否定したり、ないがしろにするのではなく、原作に別の視点で「物語の再構築」をしたいの。
物語を切り分けて分析して、自分なりのテーマで作り直す作業が楽しいの。
「二次創作って、作品に対する理解とキャラに対する共感の固まりですからね」と、この間某アニメで言ってたんだけど、まさにそれ。
好きな物語は、とことんまで、味わいたくなる。
ばらばらにして、再構築するほど。
雪組の『ロミオとジュリエット』は、本気でそれ、やり尽くしたし。
物語が好き。物語を作ることが好き。
物語を、さらに物語るのも好き。
『追憶のバルセロナ』と『黒い風の物語』は、わたしの「物語好き」のハートをくすぐってくれました。
うおおお、物語って楽しい。
アタマの体操。
どこをどう分解して、どう組み立てるか。考えるのが、すごく楽しい。
分解と再構築による発見・その2。@追憶のバルセロナ
2015年2月22日 タカラヅカ 物語というものについての、発見。
てゆーか、自分的アタマの体操。……の、続き。
というか、こっからが本題(笑)。
『追憶のバルセロナ』という作品について。
大劇場本公演のときは、びみょー作だった。
が、歌とダンスと無駄な出演者数を削って、20人ほどで演じる30分のストレートプレイにすると、面白かった。
なんだよ、プロットは面白いんじゃん! と、目からウロコ。
それはともかくとして、だ。
興味深かったのは、「視点」。
正塚作『追憶のバルセロナ』は、宝塚音楽学校第101期生文化祭の演劇『黒い風の物語』として焼き直された。
そう、なんでいきなり、今さら、『追憶のバルセロナ』の話をはじめたかって、文化祭を観たからなのよ!(笑)
最初は『追憶のバルセロナ』だと知らずに観た。キャラ名おぼえてないし、スペイン物でよくある名前だから気にしてなかった。
主人公の青年が男前で、その恋人が華やかな美女で、このふたりが出てきただけで「タカラヅカ」として納得。ああこれからこのふたりの物語がはじまるのねと。
文化祭の悲しさで、登場人物の年齢がわからない。主人公とその親友、その父親たちの年齢差がわからない。主人公は男前でいかにもな主役っぽさがあるからいいんだけど、親友くんはひょろりと頼りなく、お父さんとの差別化がわたしにはわかりにくい。
まあいいや、主人公とヒロインがこんだけ美形で主役度高いんだから、このふたりだけ区別ついてりゃなんとかなるだろ。
そう思って観ていたから。
その後出征した主人公が戦死、だが実は彼、記憶を失いジプシーに拾われていたのだった……ってこれ、『追憶のバルセロナ』じゃん!!←このあたりでよーやく気づいた。
てことは、ヒロインは最初に出てきた美女じゃなくて、今よーやく出てきたジプシー娘よね……えええ?
タカラヅカの番手マジック。
観客は、観る前から「誰がヒロインか」を知っている。
『追憶のバルセロナ』本公演時は、トップ娘役はまひるちゃんだと知っているから、どんだけとなみちゃんが美女然として先に登場しても、「ただの脇役、当て馬ね」と思って見ている。
が、予備知識なしの文化祭では、そうはいかない。
あの美女がヒロインじゃなかったの?! てゆーか真のヒロイン、地味~~。
いやその。まひるちゃん役の子も、単体で見るとちゃんとかわいくて華があるんだと思う。でも、演出が悪いわー。
短編書くときの鉄則。
メインキャラは、先に出す。
読者・視聴者は最初に出てきたキャラを主人公・ヒロインと認識する。刷り込まれちゃうのな。ソレを覆すのは大変だし、無駄に技術と時間が必要だから、短編でやるこっちゃない。
マンガやドラマで、ヒロインより先に当て馬の女の子が登場することももちろん物語上いくらでもあるが、その場合は絵柄や書き込み方、カメラワークなどで「ヒロインは別にいますよ」とわかるように、読者・視聴者がこの子をヒロインだと誤解しないように演出する。
でも、舞台ではそういう小細工できないから。
あとから現れたジプシーの女の子が、主人公の婚約者の美女よりも自力で輝かなければ、ヒロインに見えないのだわ……。
そして、気の毒なことにこのジプシー娘ちゃん、華と美貌という点では、婚約者美女ちゃんに完敗していた……。
『追憶のバルセロナ』だと気づいたあとも、あのジプシー娘ちゃんがまひるの役だって気づくのにタイムラグがあったよ……婚約者美女ちゃんのインパクトが強すぎて。
物語冒頭の主人公と婚約者美女ちゃんの似合いっぷりが強烈だったために、元の話を知っていてなお、「時代に引き裂かれた恋人同士の物語」と見てしまった。ヒロインは婚約者美女ちゃん。ジプシー娘ちゃんは、癒しキャラ。や、悲恋ENDだと救いがないから、主人公ラヴで後ろに勝手にくっついてくる子犬系少女がいると救いになるなと。
実際に目の当たりにした「ヒロイン変更」っぷりに、改めて考えるわけだ。
どこに「視点」を置くか。
文化祭の演劇には、「主役」は存在しないのかもしれない。
正塚せんせがそう思っているのか、彼が演劇担当した文化祭では、配役表の書き方がひどかった。主役が配役表の一番上に来るのではなく、「出演者」のあいうえお順表記……。いちばん上が、本名「あ」ではじまる人……出席簿か。
今回、ちゃんと主役のフランシスコ役が、一番上に書かれてて、かえって感心したくらいさ……。
てな正塚せんせだから、一応フランシスコ主役で書いてはいるけれど、文化祭らしい群像劇になっている。いろんな子に役と台詞が行き渡るように。
その分散漫な作りにはなっているんだけど。
それにしても、「ヒロインが誰か」わかりにくかった。
『追憶のバルセロナ』では、主人公フランシスコと、彼を助けたジプシーの娘イサベルの恋物語だった。フランシスコとその婚約者セシリアには、あまり強い恋情は感じなかった。
が、『黒い風の物語』では、フランシスコとセシリア、そしてアントニオの三角関係が強く印象づけられた。イサベルは、脇役にしか見えなかった。……出番も台詞も多いのに。
理由は先に挙げた通り、セシリア役の娘役ちゃんがあまりに華やかな美少女だったためだ。
フランシスコ役の美青年とお似合いで、ふたりがぶっちぎりに「タカラヅカ」していたため、彼らを「トップコンビ」だとわたしがインプットして観てしまったんだ。
が。
ここで考える。
もしも、最初に登場していたのが、イサベルだったらどうだろう?
イサベルがフランシスコを助けるところから、物語がスタートしていたら。
記憶喪失のフランシスコと、優しく奔放なイサベルが、徐々に気持ちを近づけていく様を観て、素直にふたりの恋物語だと思ったろう。
そのあとでフランシスコの記憶が戻って婚約者セシリアが登場しても、そのセシリアがすっげー美女でも、「ヒロインはイサベル」だと揺るがずに思っただろう。
これが「短編の鉄則」か!!
作劇のルールは知ってたけど、身をもって知ると感慨深いな!
てことで、同じプロットでも「視点」の位置でここまで変化するのだと、改めて知ったわけだ。
てゆーか、自分的アタマの体操。……の、続き。
というか、こっからが本題(笑)。
『追憶のバルセロナ』という作品について。
大劇場本公演のときは、びみょー作だった。
が、歌とダンスと無駄な出演者数を削って、20人ほどで演じる30分のストレートプレイにすると、面白かった。
なんだよ、プロットは面白いんじゃん! と、目からウロコ。
それはともかくとして、だ。
興味深かったのは、「視点」。
正塚作『追憶のバルセロナ』は、宝塚音楽学校第101期生文化祭の演劇『黒い風の物語』として焼き直された。
そう、なんでいきなり、今さら、『追憶のバルセロナ』の話をはじめたかって、文化祭を観たからなのよ!(笑)
最初は『追憶のバルセロナ』だと知らずに観た。キャラ名おぼえてないし、スペイン物でよくある名前だから気にしてなかった。
主人公の青年が男前で、その恋人が華やかな美女で、このふたりが出てきただけで「タカラヅカ」として納得。ああこれからこのふたりの物語がはじまるのねと。
文化祭の悲しさで、登場人物の年齢がわからない。主人公とその親友、その父親たちの年齢差がわからない。主人公は男前でいかにもな主役っぽさがあるからいいんだけど、親友くんはひょろりと頼りなく、お父さんとの差別化がわたしにはわかりにくい。
まあいいや、主人公とヒロインがこんだけ美形で主役度高いんだから、このふたりだけ区別ついてりゃなんとかなるだろ。
そう思って観ていたから。
その後出征した主人公が戦死、だが実は彼、記憶を失いジプシーに拾われていたのだった……ってこれ、『追憶のバルセロナ』じゃん!!←このあたりでよーやく気づいた。
てことは、ヒロインは最初に出てきた美女じゃなくて、今よーやく出てきたジプシー娘よね……えええ?
タカラヅカの番手マジック。
観客は、観る前から「誰がヒロインか」を知っている。
『追憶のバルセロナ』本公演時は、トップ娘役はまひるちゃんだと知っているから、どんだけとなみちゃんが美女然として先に登場しても、「ただの脇役、当て馬ね」と思って見ている。
が、予備知識なしの文化祭では、そうはいかない。
あの美女がヒロインじゃなかったの?! てゆーか真のヒロイン、地味~~。
いやその。まひるちゃん役の子も、単体で見るとちゃんとかわいくて華があるんだと思う。でも、演出が悪いわー。
短編書くときの鉄則。
メインキャラは、先に出す。
読者・視聴者は最初に出てきたキャラを主人公・ヒロインと認識する。刷り込まれちゃうのな。ソレを覆すのは大変だし、無駄に技術と時間が必要だから、短編でやるこっちゃない。
マンガやドラマで、ヒロインより先に当て馬の女の子が登場することももちろん物語上いくらでもあるが、その場合は絵柄や書き込み方、カメラワークなどで「ヒロインは別にいますよ」とわかるように、読者・視聴者がこの子をヒロインだと誤解しないように演出する。
でも、舞台ではそういう小細工できないから。
あとから現れたジプシーの女の子が、主人公の婚約者の美女よりも自力で輝かなければ、ヒロインに見えないのだわ……。
そして、気の毒なことにこのジプシー娘ちゃん、華と美貌という点では、婚約者美女ちゃんに完敗していた……。
『追憶のバルセロナ』だと気づいたあとも、あのジプシー娘ちゃんがまひるの役だって気づくのにタイムラグがあったよ……婚約者美女ちゃんのインパクトが強すぎて。
物語冒頭の主人公と婚約者美女ちゃんの似合いっぷりが強烈だったために、元の話を知っていてなお、「時代に引き裂かれた恋人同士の物語」と見てしまった。ヒロインは婚約者美女ちゃん。ジプシー娘ちゃんは、癒しキャラ。や、悲恋ENDだと救いがないから、主人公ラヴで後ろに勝手にくっついてくる子犬系少女がいると救いになるなと。
実際に目の当たりにした「ヒロイン変更」っぷりに、改めて考えるわけだ。
どこに「視点」を置くか。
文化祭の演劇には、「主役」は存在しないのかもしれない。
正塚せんせがそう思っているのか、彼が演劇担当した文化祭では、配役表の書き方がひどかった。主役が配役表の一番上に来るのではなく、「出演者」のあいうえお順表記……。いちばん上が、本名「あ」ではじまる人……出席簿か。
今回、ちゃんと主役のフランシスコ役が、一番上に書かれてて、かえって感心したくらいさ……。
てな正塚せんせだから、一応フランシスコ主役で書いてはいるけれど、文化祭らしい群像劇になっている。いろんな子に役と台詞が行き渡るように。
その分散漫な作りにはなっているんだけど。
それにしても、「ヒロインが誰か」わかりにくかった。
『追憶のバルセロナ』では、主人公フランシスコと、彼を助けたジプシーの娘イサベルの恋物語だった。フランシスコとその婚約者セシリアには、あまり強い恋情は感じなかった。
が、『黒い風の物語』では、フランシスコとセシリア、そしてアントニオの三角関係が強く印象づけられた。イサベルは、脇役にしか見えなかった。……出番も台詞も多いのに。
理由は先に挙げた通り、セシリア役の娘役ちゃんがあまりに華やかな美少女だったためだ。
フランシスコ役の美青年とお似合いで、ふたりがぶっちぎりに「タカラヅカ」していたため、彼らを「トップコンビ」だとわたしがインプットして観てしまったんだ。
が。
ここで考える。
もしも、最初に登場していたのが、イサベルだったらどうだろう?
イサベルがフランシスコを助けるところから、物語がスタートしていたら。
記憶喪失のフランシスコと、優しく奔放なイサベルが、徐々に気持ちを近づけていく様を観て、素直にふたりの恋物語だと思ったろう。
そのあとでフランシスコの記憶が戻って婚約者セシリアが登場しても、そのセシリアがすっげー美女でも、「ヒロインはイサベル」だと揺るがずに思っただろう。
これが「短編の鉄則」か!!
作劇のルールは知ってたけど、身をもって知ると感慨深いな!
てことで、同じプロットでも「視点」の位置でここまで変化するのだと、改めて知ったわけだ。
分解と再構築による発見・その1。追憶のバルセロナ
2015年2月21日 タカラヅカ 物語というものについての、発見。
てゆーか、自分的アタマの体操。
『追憶のバルセロナ』という作品がある。
正塚先生のオリジナル大劇場作品。ハリーの大好きな「記憶喪失」ネタに加え、当時の流行り(タカラヅカで・笑)の義賊ネタまで入ったサービス作。
当時、正塚せんせの人気は高かったけれど、その作風から「大劇場向きではない」とも言われていた。2500人の大衆相手に80名の出演者を使って芝居もミュージカルも未体験の団体客からコアなヅカヲタまで、小学生からお年寄りまで等しく楽しませる派手でわかりやすくてキャッチーな作品よりも、小中劇場で少数の出演者で少数のヅカヲタ相手にディープな物語を展開する方が向いている作家だと言われていた。
『追憶のバルセロナ』は、そんな正塚せんせの5年ぶり(!)の大劇場作品。
ぶっちゃけ、びみょーだった。
キャラと出番を無理矢理増やし、歌とダンスシーンを無理矢理増やし、エンタメにしようと努力しているのはわかるけど、整合性には欠けるわ無理した部分が浮いてるわ、なんともいびつなびみょー作に。
がんばってるのはわかるけど、そのがんばった部分がプゲラな感じになってるのはどうしたもんか。
ナルセが萌えだからいっか。……と、当時のわたしは今と変わらず、萌えキャラがいるからオールオッケー(てへぺろ)てな阿呆な思い入れで終了させてました。や、わたしもブレずにアレな人ですね(笑顔)。
この「正塚黒歴史作品」のひとつとして数えられるんじゃないかという作品を、正塚自身が焼き直し利用していた。
歌もダンスもない、ストレートプレイ作品として。
出演者20名ほどのバウホール作品として。
面白かった。
面白いことが、驚きだった。
元の作品は、びみょーだったのに。
なんで面白いのか、考えた。
バウホールだからだ!
小中劇場向きと言われたハリーが、5年ぶりの大劇場本公演ってことで、かなり無理してサービスした作品。
「本公演用」に装飾した部分が、ことごとくスベッていた……そして、焼き直しはバウホール公演、そのすべっていた部分を全部取っ払って、プロットだけ利用したところ……ちゃんと、面白かった。
ほんとに、大劇場向いてないんやな、ハリー……。
目からウロコ、実に興味深い発見でした。
『追憶のバルセロナ』は、四角関係モノなんだな。
ヒロイン → 主人公 ←→ 主人公の婚約者 ← 主人公の親友
という関係性。
この4人の恋愛が、動乱期のスペインを舞台に描かれる。
主人公フランシスコとその婚約者セシリアは愛し合っている。
が、フランシスコは戦争で記憶を失ってしまった。彼を助けたのはジプシーの娘イサベル。ここで新たな恋愛がスタートする。
一方、主人公の親友アントニオは、実はセシリアを愛していた。フランシスコがいれば、一生口にすることのない想いだったはずだが……フランシスコは戦死した、とみんな思っているので、アントニオは死んだ親友の分までセシリアを守ろうとする。
記憶の戻ったフランシスコが故郷に戻ったとき、セシリアはアントニオの妻になっていた……。
や、「記憶喪失モノ」の定番展開ですな!!
戦争と記憶喪失さえなければ、主人公とその婚約者はなんの問題もなく結ばれているのに。愛し合っていたふたりが、運命のいたずらによって引き裂かれ……てな。
その定番メロドラマに、「敗戦」という味付けがしてあるのがミソ。
主人公とその親友の、生き方というか、立ち位置の違いが面白いの。
主人公フランシスコは、「主人公」らしく、「誇り高く、勝利を求める」。
戦争に負け、敵国の支配を受けている故郷を奪還すべく、レジスタンスとして闘いつつける。暴力に訴えても、血を流しても、故郷を取り戻そうとする。
親友アントニオは、その逆。「敗北を受け入れ、最善の道を探す」。
敵国の協力者となり、命と生活の保証を得る。支配されるという形であっても、生き延びることが一番大切、暴力や血を流すことなどあってはならない。
ふたりの男の考え方は、真っ向から対立する。
……が。
この物語が秀逸なのは、この対立するふたりの男が、互いを認め合っていること。
自分とチガウ考え方をしている、というだけでヒステリックに反発するのではなく、「その考え方(生き方)も、間違ってはいない」と思っているの。
相手の考えは間違ってない。ただ、自分はその生き方を選ばない。……というだけのこと。
そして同時に、自分の考えは間違っているのかもしれない。だが、自分はこの生き方を自分で選んだのだ。……という、自覚。
絶対の正義も善もなく、ただ、自分が選び、親友が選んだ。
そして、自分は親友を愛し、信頼している。だから、そんな親友が選んだ道も大切に思う。
観ながら、あたしなんかこれ知ってる、ついこの間、よく似たシチュエーションを観たわ……と、デジャヴ。
命を捨てて戦うべきだと主張する男と、命こそがもっと大切なのだと主張する男の言い争い。ふたりは無二の親友同士。
同じことをやっているのに、ふたりが話している内容はわけがわからなかったし、感情的にも理解不能だった。
そして、わけわかんなことを言い合っている男たちは、「無二の親友」という設定なのに、互いを思いやることも認め合うこともせず、ただ感情だけでキーキー叫んで、ヒステリックにケンカ別れしていた。
で、その結果、戦うべきだと主張する男が、命命と言っていた男を射殺して終わった。
『白夜の誓い』って、ほんとひどかったな……。
直近で最悪なモノを観ているせいもあるんだけど、『追憶のバルセロナ』のフランシスコとアントニオの意見の対立は、すげー納得できるものだった。互いの主張内容もだし、感情としても、わかるわかる、どっちも正しい、だからこそ答えが出ないし、ぶつかっちゃってつらいんだよねえ、と思えた。
愛する女性をめぐる三角関係と、時代と男としての生き方。
それがきれいにリンクしていて、わかりやすくドラマティック。
こりゃ面白いわー。
歌とかダンスとか、80人もの出演者とか。
そんなもんを全部取っ払って、動きさえ最少の会話劇として再構築したら、ふつーに面白かった。
だって、プロットと会話だけだもんね。
会話以外のストーリー解説は、語り部が全部ナレーション。だから気を散らすことなく、ドラマだけを楽しめる。
んで、この焼き直し版『追憶のバルセロナ』……タイトルは『黒い風の物語』になってたんだけど、この話はさらに二重構造に仕上げてあった。
ある旅の一座が上演する「芝居」という設定。
だから「語り部」がいる。
フランシスコやアントニオたちを演じているのは、その一座の役者たち。
んで、フランシスコはレジスタンス活動として、「黒い風」という義賊になって、傲慢な支配者たちを翻弄するわけなんだが。
「黒い風」が敵の支配者と大立ち回りをしたクライマックスに、まさにその、「芝居の中の敵の支配者」たちと同じ姿の兵士たちが現れ、芝居自体を中止させる。
今現在、「黒い風」を追う兵士たちだ。反逆者「黒い風」を賛美するような芝居は上演禁止、彼らを匿うモノは逮捕するぞと脅す。
わたしたちが今観ている「旅の一座による芝居」自体が、「黒い風」だった……? てな。
ああだから、『黒い風の物語』なんだ。
てな。
まあ、正塚ワンパタのバックステージものじゃん、と言ってしまうと身もフタもナイなんだけど(笑)。
今回は、マジでうまく機能していたと思う。
いやあ、驚いたよー。
『追憶のバルセロナ』が面白いなんて!!
てゆーか、自分的アタマの体操。
『追憶のバルセロナ』という作品がある。
正塚先生のオリジナル大劇場作品。ハリーの大好きな「記憶喪失」ネタに加え、当時の流行り(タカラヅカで・笑)の義賊ネタまで入ったサービス作。
当時、正塚せんせの人気は高かったけれど、その作風から「大劇場向きではない」とも言われていた。2500人の大衆相手に80名の出演者を使って芝居もミュージカルも未体験の団体客からコアなヅカヲタまで、小学生からお年寄りまで等しく楽しませる派手でわかりやすくてキャッチーな作品よりも、小中劇場で少数の出演者で少数のヅカヲタ相手にディープな物語を展開する方が向いている作家だと言われていた。
『追憶のバルセロナ』は、そんな正塚せんせの5年ぶり(!)の大劇場作品。
ぶっちゃけ、びみょーだった。
キャラと出番を無理矢理増やし、歌とダンスシーンを無理矢理増やし、エンタメにしようと努力しているのはわかるけど、整合性には欠けるわ無理した部分が浮いてるわ、なんともいびつなびみょー作に。
がんばってるのはわかるけど、そのがんばった部分がプゲラな感じになってるのはどうしたもんか。
ナルセが萌えだからいっか。……と、当時のわたしは今と変わらず、萌えキャラがいるからオールオッケー(てへぺろ)てな阿呆な思い入れで終了させてました。や、わたしもブレずにアレな人ですね(笑顔)。
この「正塚黒歴史作品」のひとつとして数えられるんじゃないかという作品を、正塚自身が焼き直し利用していた。
歌もダンスもない、ストレートプレイ作品として。
出演者20名ほどのバウホール作品として。
面白かった。
面白いことが、驚きだった。
元の作品は、びみょーだったのに。
なんで面白いのか、考えた。
バウホールだからだ!
小中劇場向きと言われたハリーが、5年ぶりの大劇場本公演ってことで、かなり無理してサービスした作品。
「本公演用」に装飾した部分が、ことごとくスベッていた……そして、焼き直しはバウホール公演、そのすべっていた部分を全部取っ払って、プロットだけ利用したところ……ちゃんと、面白かった。
ほんとに、大劇場向いてないんやな、ハリー……。
目からウロコ、実に興味深い発見でした。
『追憶のバルセロナ』は、四角関係モノなんだな。
ヒロイン → 主人公 ←→ 主人公の婚約者 ← 主人公の親友
という関係性。
この4人の恋愛が、動乱期のスペインを舞台に描かれる。
主人公フランシスコとその婚約者セシリアは愛し合っている。
が、フランシスコは戦争で記憶を失ってしまった。彼を助けたのはジプシーの娘イサベル。ここで新たな恋愛がスタートする。
一方、主人公の親友アントニオは、実はセシリアを愛していた。フランシスコがいれば、一生口にすることのない想いだったはずだが……フランシスコは戦死した、とみんな思っているので、アントニオは死んだ親友の分までセシリアを守ろうとする。
記憶の戻ったフランシスコが故郷に戻ったとき、セシリアはアントニオの妻になっていた……。
や、「記憶喪失モノ」の定番展開ですな!!
戦争と記憶喪失さえなければ、主人公とその婚約者はなんの問題もなく結ばれているのに。愛し合っていたふたりが、運命のいたずらによって引き裂かれ……てな。
その定番メロドラマに、「敗戦」という味付けがしてあるのがミソ。
主人公とその親友の、生き方というか、立ち位置の違いが面白いの。
主人公フランシスコは、「主人公」らしく、「誇り高く、勝利を求める」。
戦争に負け、敵国の支配を受けている故郷を奪還すべく、レジスタンスとして闘いつつける。暴力に訴えても、血を流しても、故郷を取り戻そうとする。
親友アントニオは、その逆。「敗北を受け入れ、最善の道を探す」。
敵国の協力者となり、命と生活の保証を得る。支配されるという形であっても、生き延びることが一番大切、暴力や血を流すことなどあってはならない。
ふたりの男の考え方は、真っ向から対立する。
……が。
この物語が秀逸なのは、この対立するふたりの男が、互いを認め合っていること。
自分とチガウ考え方をしている、というだけでヒステリックに反発するのではなく、「その考え方(生き方)も、間違ってはいない」と思っているの。
相手の考えは間違ってない。ただ、自分はその生き方を選ばない。……というだけのこと。
そして同時に、自分の考えは間違っているのかもしれない。だが、自分はこの生き方を自分で選んだのだ。……という、自覚。
絶対の正義も善もなく、ただ、自分が選び、親友が選んだ。
そして、自分は親友を愛し、信頼している。だから、そんな親友が選んだ道も大切に思う。
観ながら、あたしなんかこれ知ってる、ついこの間、よく似たシチュエーションを観たわ……と、デジャヴ。
命を捨てて戦うべきだと主張する男と、命こそがもっと大切なのだと主張する男の言い争い。ふたりは無二の親友同士。
同じことをやっているのに、ふたりが話している内容はわけがわからなかったし、感情的にも理解不能だった。
そして、わけわかんなことを言い合っている男たちは、「無二の親友」という設定なのに、互いを思いやることも認め合うこともせず、ただ感情だけでキーキー叫んで、ヒステリックにケンカ別れしていた。
で、その結果、戦うべきだと主張する男が、命命と言っていた男を射殺して終わった。
『白夜の誓い』って、ほんとひどかったな……。
直近で最悪なモノを観ているせいもあるんだけど、『追憶のバルセロナ』のフランシスコとアントニオの意見の対立は、すげー納得できるものだった。互いの主張内容もだし、感情としても、わかるわかる、どっちも正しい、だからこそ答えが出ないし、ぶつかっちゃってつらいんだよねえ、と思えた。
愛する女性をめぐる三角関係と、時代と男としての生き方。
それがきれいにリンクしていて、わかりやすくドラマティック。
こりゃ面白いわー。
歌とかダンスとか、80人もの出演者とか。
そんなもんを全部取っ払って、動きさえ最少の会話劇として再構築したら、ふつーに面白かった。
だって、プロットと会話だけだもんね。
会話以外のストーリー解説は、語り部が全部ナレーション。だから気を散らすことなく、ドラマだけを楽しめる。
んで、この焼き直し版『追憶のバルセロナ』……タイトルは『黒い風の物語』になってたんだけど、この話はさらに二重構造に仕上げてあった。
ある旅の一座が上演する「芝居」という設定。
だから「語り部」がいる。
フランシスコやアントニオたちを演じているのは、その一座の役者たち。
んで、フランシスコはレジスタンス活動として、「黒い風」という義賊になって、傲慢な支配者たちを翻弄するわけなんだが。
「黒い風」が敵の支配者と大立ち回りをしたクライマックスに、まさにその、「芝居の中の敵の支配者」たちと同じ姿の兵士たちが現れ、芝居自体を中止させる。
今現在、「黒い風」を追う兵士たちだ。反逆者「黒い風」を賛美するような芝居は上演禁止、彼らを匿うモノは逮捕するぞと脅す。
わたしたちが今観ている「旅の一座による芝居」自体が、「黒い風」だった……? てな。
ああだから、『黒い風の物語』なんだ。
てな。
まあ、正塚ワンパタのバックステージものじゃん、と言ってしまうと身もフタもナイなんだけど(笑)。
今回は、マジでうまく機能していたと思う。
いやあ、驚いたよー。
『追憶のバルセロナ』が面白いなんて!!
永遠の輪が輝くとき。@Dear DIAMOND!!
2015年2月20日 タカラヅカ 『Dear DIAMOND!!』2回目の観劇時は、客席降り、ねね様席でしたーー!!
きれい、かわいい、ナマ声聞こえる、キャッホウ!!
間近ゆえ、目が合うと緊張して固まってしまいました(笑)。おばちゃん、小心者なのよ~~、慣れてないのよ~~。
はー、最後の最後にええもん見たーー。
友会様に感謝です。
『Dear DIAMOND!!』は、楽しいです。
初見時、引いた部分はあったんだけど、ソレはそれ、わかった上で観る分にはもう、平気。
所詮はヅカヲタですから!
ナマ舞台はみんな楽しい、ジェンヌさんたちがきらきらしてるのを見れば、それだけでわくわく。
わたしがナマで今の星組さんを観られるのは、これで最後。
ナマでちえねねを観られるのは、これで最後。
そう思うから余計に、五感全部で吸収するぞ!と気負って眺めて……終わる頃には、へとへとに(笑)。
初日はあんなに食いついてた、ベニー吸血鬼の印象が薄くなってしまったのは、ちえねね見ることに必死になってたせいだろうなあ。
れおんくんから感じるのは、「力」の塊。
それ自体が熱を持っていて、そこに「在る」だけで、客席にいるわたしにも熱が伝わってくる。
そして……これは、わたし個人の記憶の棘なんだけど、後半にあるれおんくんのダンスソロ……舞台セットの大きな「輪」があるじゃないですか。
あれがね、最初に見たときから、『インフィニティ』を思い出させてね……。
切ないの。
輪の中で踊るれおんくんにね、別の人の姿を思い出してね。
まったく似てないのにね。
外見的なことだけじゃなく、ダンス自体も。まったく別カテゴリなのに、心がひりひりする。
踊る彼を、美しいと思う。
それゆえに、わたしの記憶は、わたしがもっとも美しいと思う人のことを、映し出すのだと思う。
切ないな。
時は流れ、二度と帰らない。
れおんくんを見て、二重写しに切なくなっているこの「時」すら、二度と帰らず、いつかまた、二重の切なさと共に甦るんだ。
それと。
『My Dream TAKARAZUKA』の「歌謡曲界の巨匠」作の「ありがとうソング」に辟易したわたしとしては、あの歌の酷さは筆舌に尽くしがたいと思っているけれど、あの歌詞を、えりたん自身が書いたというなら、すべて許せると、再確認した。
どんな歌詞だろうと、ジェンヌ本人の言葉なら。
まったく無関係の、ヅカもジェンヌも退団者自体にすら、なんの関係もナイ部外者が、お金をもらって「仕事で」無理矢理書いた「酷い詞」は、わたしには受け付けられない。
てゆーかあの歌謡曲界の巨匠様、ちえちゃん以下だわ、作詞能力。
「タカラヅカトップスターの、退団公演クライマックスに歌う曲」としては。歌謡曲界ではちゃんと素晴らしい作品を書いているのだろうから、あくまでも、対「タカラヅカ」での仕事としては。
れおんくんの歌う「ありがとうソング」は、素直に胸に響くんだ。
いい公演だよね。
わたしは理屈こねーの文句言いーのの、うるさいヲタだから、いろいろ言っちゃうけどさ。
とどのつまりは、いい公演なの。
想いがぐるっと渦を描くように、ここに在る。
その想いは、れおんくんの、舞台の上のジェンヌさんたちの想いであり、彼らを愛するファンの想いでもある。
熱を持った想いがたしかにそこにあり、人が人を想う、誰かのために発する想いは、それだけで力を持ち、わたしを切なく……愛しく、させる。
ああ、ちくしょう、愛しいなあ。
愛しいよ。
だからもう、なにがなんでもこれは、今回の公演は、いい公演なんだ。
きれい、かわいい、ナマ声聞こえる、キャッホウ!!
間近ゆえ、目が合うと緊張して固まってしまいました(笑)。おばちゃん、小心者なのよ~~、慣れてないのよ~~。
はー、最後の最後にええもん見たーー。
友会様に感謝です。
『Dear DIAMOND!!』は、楽しいです。
初見時、引いた部分はあったんだけど、ソレはそれ、わかった上で観る分にはもう、平気。
所詮はヅカヲタですから!
ナマ舞台はみんな楽しい、ジェンヌさんたちがきらきらしてるのを見れば、それだけでわくわく。
わたしがナマで今の星組さんを観られるのは、これで最後。
ナマでちえねねを観られるのは、これで最後。
そう思うから余計に、五感全部で吸収するぞ!と気負って眺めて……終わる頃には、へとへとに(笑)。
初日はあんなに食いついてた、ベニー吸血鬼の印象が薄くなってしまったのは、ちえねね見ることに必死になってたせいだろうなあ。
れおんくんから感じるのは、「力」の塊。
それ自体が熱を持っていて、そこに「在る」だけで、客席にいるわたしにも熱が伝わってくる。
そして……これは、わたし個人の記憶の棘なんだけど、後半にあるれおんくんのダンスソロ……舞台セットの大きな「輪」があるじゃないですか。
あれがね、最初に見たときから、『インフィニティ』を思い出させてね……。
切ないの。
輪の中で踊るれおんくんにね、別の人の姿を思い出してね。
まったく似てないのにね。
外見的なことだけじゃなく、ダンス自体も。まったく別カテゴリなのに、心がひりひりする。
踊る彼を、美しいと思う。
それゆえに、わたしの記憶は、わたしがもっとも美しいと思う人のことを、映し出すのだと思う。
切ないな。
時は流れ、二度と帰らない。
れおんくんを見て、二重写しに切なくなっているこの「時」すら、二度と帰らず、いつかまた、二重の切なさと共に甦るんだ。
それと。
『My Dream TAKARAZUKA』の「歌謡曲界の巨匠」作の「ありがとうソング」に辟易したわたしとしては、あの歌の酷さは筆舌に尽くしがたいと思っているけれど、あの歌詞を、えりたん自身が書いたというなら、すべて許せると、再確認した。
どんな歌詞だろうと、ジェンヌ本人の言葉なら。
まったく無関係の、ヅカもジェンヌも退団者自体にすら、なんの関係もナイ部外者が、お金をもらって「仕事で」無理矢理書いた「酷い詞」は、わたしには受け付けられない。
てゆーかあの歌謡曲界の巨匠様、ちえちゃん以下だわ、作詞能力。
「タカラヅカトップスターの、退団公演クライマックスに歌う曲」としては。歌謡曲界ではちゃんと素晴らしい作品を書いているのだろうから、あくまでも、対「タカラヅカ」での仕事としては。
れおんくんの歌う「ありがとうソング」は、素直に胸に響くんだ。
いい公演だよね。
わたしは理屈こねーの文句言いーのの、うるさいヲタだから、いろいろ言っちゃうけどさ。
とどのつまりは、いい公演なの。
想いがぐるっと渦を描くように、ここに在る。
その想いは、れおんくんの、舞台の上のジェンヌさんたちの想いであり、彼らを愛するファンの想いでもある。
熱を持った想いがたしかにそこにあり、人が人を想う、誰かのために発する想いは、それだけで力を持ち、わたしを切なく……愛しく、させる。
ああ、ちくしょう、愛しいなあ。
愛しいよ。
だからもう、なにがなんでもこれは、今回の公演は、いい公演なんだ。
退団公演は、何故に駄作が多いのか?
2015年2月19日 タカラヅカ 退団公演には、駄作が多い。
と、ヅカでは至極当然のように語られる。
退団公演はただそれだけでチケットが売れるので、手を抜いてイイからだ、と言われる。
限られた経費は有効に使わねばならない。
「売れる」とわかっている商品には金は使わず、「売れない」と危惧する商品のフォローに回す。
……経営としてはもちろんアリな話だけど、ちょっと待って。
お金の掛かる原作やスタッフとか衣装代その他や宣伝費を削る、というのはあるかもしれない。最低予算で作るのが退団公演なのかもしれない。
だが。
「制作費を削る」と、「意志を持って駄作を作る」ことは、イコールじゃない。
放っておいても売れるれおんくんの退団公演だから、手を抜こう。どんなつまらない作品でも、チケットは即日完売間違いなしだ、経費を下げれば下げるほど利益が上がる。
そう思って、ぎりぎりの制作費やスタッフ数で臨んだ公演だとする。
だとしても、「よーし、渾身の駄作を作るぞ!!」とは、思っていないはずだ。
あと、今回の『黒豹の如く』があまりに良作だったりしたら、ただでさえ多いれおんファンが「何度でも観たい!」と駆けつけるし、「素晴らしい作品だから何度でも観たい!」とれおんファン以外の人も駆けつけて、大変なことになる。
人気トップの退団公演は、駄作の方が熱狂が過ぎず、事故が起こらなくていいのだ。
……という考え方もある、らしい。
たしかにそうなのかもしれない。スター個人のファンとしては、チケット争奪戦に作品目当ての客まで加わられたらたまったもんじゃない、と思うかもしれない。
だがそれは、結果論だろう。
裏事情は知らないが、柴田先生も謝先生も、舞台スタッフもみんなみんな、「駄作を作るぞ!」と狙って作ったわけじゃないよね?
みんなひとりひとり、「いい作品を作る」つもりで、がんばってるんだよね。
だから、「退団公演は手抜きでイイ」というのは経営側の観点。
現場は、どんなときでも、たとえどんな横やりや大人の事情があろうとも、「いい作品を作ろう」としているはず。
だからさー、そうやって「いい作品を作ろう」として、ちょー駄作になっている現実が、悲しいんだわ。
退団公演に駄作が多い、にはもうひとつ、「演出家が気負い過ぎて失敗する」というのも、よく聞く。
大切な公演だからと考えすぎて、あれもこれもと欲張りすぎて、あっちこっちに気を遣いすぎて……から回るパターン。
「退団公演は手を抜いてイイ」の観点から、経営側が新人演出家に任せたりするのも、そうだよね。コケても大丈夫、退団公演は放っておいても客が入る、からと。新人さんが気負い過ぎて自滅する、てな。
新人でなくても、長らく共に作品を創り上げてきたスターのためにと、ベテラン先生が腕をふるったところで、スターへの思い入れと出来映えは比例しない。むしろ、強い強い思い入れゆえに転覆することも。
新人だろうとベテランや巨匠だろうと、愛情や意気込みゆえに失敗すること自体は、同じよーなもんさね。
みんなみんな、「いい作品を作ろう」としているんだ。
そのことは、カケラも疑ってない。
「てきとーでいいや」と「わざと駄作を作る」ことなんかない。
誠心誠意がんばった結果が、駄作である、というだけで。
こればっかしは、どうしようもないけどねえ。
でもさでもさ、最低限のチェック体制は欲しいと思うのよ。
「先生、この脚本、おかしいですよ」と言える……そんな、当たり前のシステム。
そうすれば、ここまでひどいことにはならなかったと思うの。
プロット段階で、誰かダメ出ししようよ。頼むよ。
植爺が現役の劇団で、ナニ言っても無駄なのはわかってるけどさあ。
こだまっちの『仮面の男』がノーチェックで1ヶ月も公演されてしまった劇団に、ナニ言っても無駄なのはわかってるけどさあ。
退団公演は、何故に駄作が多いのか?
退団公演だから、じゃないっす。
ただもうふつーに、「タカラヅカ」だからです。
と、しか。
しくしく。
と、ヅカでは至極当然のように語られる。
退団公演はただそれだけでチケットが売れるので、手を抜いてイイからだ、と言われる。
限られた経費は有効に使わねばならない。
「売れる」とわかっている商品には金は使わず、「売れない」と危惧する商品のフォローに回す。
……経営としてはもちろんアリな話だけど、ちょっと待って。
お金の掛かる原作やスタッフとか衣装代その他や宣伝費を削る、というのはあるかもしれない。最低予算で作るのが退団公演なのかもしれない。
だが。
「制作費を削る」と、「意志を持って駄作を作る」ことは、イコールじゃない。
放っておいても売れるれおんくんの退団公演だから、手を抜こう。どんなつまらない作品でも、チケットは即日完売間違いなしだ、経費を下げれば下げるほど利益が上がる。
そう思って、ぎりぎりの制作費やスタッフ数で臨んだ公演だとする。
だとしても、「よーし、渾身の駄作を作るぞ!!」とは、思っていないはずだ。
あと、今回の『黒豹の如く』があまりに良作だったりしたら、ただでさえ多いれおんファンが「何度でも観たい!」と駆けつけるし、「素晴らしい作品だから何度でも観たい!」とれおんファン以外の人も駆けつけて、大変なことになる。
人気トップの退団公演は、駄作の方が熱狂が過ぎず、事故が起こらなくていいのだ。
……という考え方もある、らしい。
たしかにそうなのかもしれない。スター個人のファンとしては、チケット争奪戦に作品目当ての客まで加わられたらたまったもんじゃない、と思うかもしれない。
だがそれは、結果論だろう。
裏事情は知らないが、柴田先生も謝先生も、舞台スタッフもみんなみんな、「駄作を作るぞ!」と狙って作ったわけじゃないよね?
みんなひとりひとり、「いい作品を作る」つもりで、がんばってるんだよね。
だから、「退団公演は手抜きでイイ」というのは経営側の観点。
現場は、どんなときでも、たとえどんな横やりや大人の事情があろうとも、「いい作品を作ろう」としているはず。
だからさー、そうやって「いい作品を作ろう」として、ちょー駄作になっている現実が、悲しいんだわ。
退団公演に駄作が多い、にはもうひとつ、「演出家が気負い過ぎて失敗する」というのも、よく聞く。
大切な公演だからと考えすぎて、あれもこれもと欲張りすぎて、あっちこっちに気を遣いすぎて……から回るパターン。
「退団公演は手を抜いてイイ」の観点から、経営側が新人演出家に任せたりするのも、そうだよね。コケても大丈夫、退団公演は放っておいても客が入る、からと。新人さんが気負い過ぎて自滅する、てな。
新人でなくても、長らく共に作品を創り上げてきたスターのためにと、ベテラン先生が腕をふるったところで、スターへの思い入れと出来映えは比例しない。むしろ、強い強い思い入れゆえに転覆することも。
新人だろうとベテランや巨匠だろうと、愛情や意気込みゆえに失敗すること自体は、同じよーなもんさね。
みんなみんな、「いい作品を作ろう」としているんだ。
そのことは、カケラも疑ってない。
「てきとーでいいや」と「わざと駄作を作る」ことなんかない。
誠心誠意がんばった結果が、駄作である、というだけで。
こればっかしは、どうしようもないけどねえ。
でもさでもさ、最低限のチェック体制は欲しいと思うのよ。
「先生、この脚本、おかしいですよ」と言える……そんな、当たり前のシステム。
そうすれば、ここまでひどいことにはならなかったと思うの。
プロット段階で、誰かダメ出ししようよ。頼むよ。
植爺が現役の劇団で、ナニ言っても無駄なのはわかってるけどさあ。
こだまっちの『仮面の男』がノーチェックで1ヶ月も公演されてしまった劇団に、ナニ言っても無駄なのはわかってるけどさあ。
退団公演は、何故に駄作が多いのか?
退団公演だから、じゃないっす。
ただもうふつーに、「タカラヅカ」だからです。
と、しか。
しくしく。
過剰反応の自覚。@黒豹の如く
2015年2月18日 タカラヅカ 『黒豹の如く』を、苦手だと思う。
ことさらそう思うのは、わたしの過剰反応かもしれない。
最初に観たときは、とにかく好意的に観ようとしていた。良い方へ受け取ろうとしていた。無意識に、努力していたんだ。
だって、嫌な作品、と思うより、いい作品、好きな作品、と思った方が楽しいもの。
でもそれは、上演時間の経過と共に、努力ではどうあがいても覆い隠せない事態になった。
どんだけ好意的に受け取ろうとしても「おかしい」「駄作」という事実は、隠せない。わたしのなかの常識が悲鳴をあげる。これおかしいって! わたしがおかしいと思うことを、おかしいと思わずにいる黒豹さんたち、おかしいって! 感情移入出来ないって!
とはいえ、タカラヅカに駄作はつきものだ。
この程度の駄作は、悲しいかなヅカではめずらしくない。
わたしはストーリーがないくせに「物語」のフリをした無駄な話が大嫌いだが、それにしたって、ヅカでは別にめずらしいモノではないんだ。
なのにわたしは、過剰に「やだ!」と反応した。
何故か。
ようするに、ショックだったのだ。
いやもうほんと、感情的な問題。
ちえねねの最後の作品が、コレだということが。
駄作なんか、慣れてる。
どんな駄作だって植爺よりマシ、下を見たらキリがない。『黒豹の如く』程度の駄作、ヅカヲタ人生で慣れっこだわ。
そんなわたしだが、作品のアレさとは別のところでショックを受けた。
れおんくんとねねちゃんの、退団公演が、コレ。
…………ひどい。
という(笑)。あらまあなんて、脊髄反射的な。
柚希礼音といえば、タカラヅカ100年の歴史の中で、確実に後世に語り継がれるビッグスターじゃないですか?
交代サイクルの短くなった現代で6年にわたる治世を誇り、武道館コンサートを成功させ、サヨナラDSを梅芸他で中継、ラストディに至っては未曾有の会場数、その上さいたまスーパーアリーナ、さらにグローバルに台湾でまでやっちゃうんですよ?
わたしはれおんくんのガチファンではないけれど、スターとしてのれおんくんが好きだし、彼の快進撃には爽快な気持ちを持っている。
今、柚希礼音というスターがいることが、誇らしい。
そんな気持ち。
ねねちゃんもまた、れおんくんに似合いのゴージャスな美女。
ふたりの演じるカップルに、どれだけいろんな夢を見せてもらったか。
れおんくんの退団にあたって、劇団がこれでもかこれでもかと、「スペシャル」なコトをくり出してくる。
それが、痛快。
れおんくんのすごさ、タカラヅカという世界の可能性、それを見せつけられて、わくわくする。
その、特別な超ビッグスターの最後の公演が……コレ?
DS中継だってーー、すげーー!
ラストディ中継、たまアリだって、すげーー!
さらに台湾だって、すげーー!
とまあ、すげーすげー盛り上がってるのに。
肝心の「最後の作品」が、コレ。
ヅカで駄作は当たり前。
それはわかってる。わかってるけどさ。
ビッグスターには、ビッグスターに相応しい最後がある。
れおんくんはトクベツなんだから、最後もトクベツにしてくれよ。「ヅカでふつーの駄作」なんかじゃなくて!
というのが、わたしの過剰反応です。
勝手に「ものすげー名作で華々しく退団する柚希礼音」を期待して、盛り上がっていたの。
それが裏切られたから、傷ついてるの。
ええ、ほんと、勝手に。
わたしはガチなファンではないので、あくまでも外野として言ってます。
ファンの人からすれば、「『黒豹の如く』は超名作!!」なのかもしれないし、「こんなちえねねが見たかった! 最後にこんな素敵な作品を観られて、もう思い残すことはない!」という作品なのかもしれない。
だとしたら、申し訳ない。
が、わたしはわたしの立ち位置で、わたしの感じたことを記す。
ちえねねの最後の作品がコレって……つらいわ。
もっと別の作品を観たかった。
ことさらそう思うのは、わたしの過剰反応かもしれない。
最初に観たときは、とにかく好意的に観ようとしていた。良い方へ受け取ろうとしていた。無意識に、努力していたんだ。
だって、嫌な作品、と思うより、いい作品、好きな作品、と思った方が楽しいもの。
でもそれは、上演時間の経過と共に、努力ではどうあがいても覆い隠せない事態になった。
どんだけ好意的に受け取ろうとしても「おかしい」「駄作」という事実は、隠せない。わたしのなかの常識が悲鳴をあげる。これおかしいって! わたしがおかしいと思うことを、おかしいと思わずにいる黒豹さんたち、おかしいって! 感情移入出来ないって!
とはいえ、タカラヅカに駄作はつきものだ。
この程度の駄作は、悲しいかなヅカではめずらしくない。
わたしはストーリーがないくせに「物語」のフリをした無駄な話が大嫌いだが、それにしたって、ヅカでは別にめずらしいモノではないんだ。
なのにわたしは、過剰に「やだ!」と反応した。
何故か。
ようするに、ショックだったのだ。
いやもうほんと、感情的な問題。
ちえねねの最後の作品が、コレだということが。
駄作なんか、慣れてる。
どんな駄作だって植爺よりマシ、下を見たらキリがない。『黒豹の如く』程度の駄作、ヅカヲタ人生で慣れっこだわ。
そんなわたしだが、作品のアレさとは別のところでショックを受けた。
れおんくんとねねちゃんの、退団公演が、コレ。
…………ひどい。
という(笑)。あらまあなんて、脊髄反射的な。
柚希礼音といえば、タカラヅカ100年の歴史の中で、確実に後世に語り継がれるビッグスターじゃないですか?
交代サイクルの短くなった現代で6年にわたる治世を誇り、武道館コンサートを成功させ、サヨナラDSを梅芸他で中継、ラストディに至っては未曾有の会場数、その上さいたまスーパーアリーナ、さらにグローバルに台湾でまでやっちゃうんですよ?
わたしはれおんくんのガチファンではないけれど、スターとしてのれおんくんが好きだし、彼の快進撃には爽快な気持ちを持っている。
今、柚希礼音というスターがいることが、誇らしい。
そんな気持ち。
ねねちゃんもまた、れおんくんに似合いのゴージャスな美女。
ふたりの演じるカップルに、どれだけいろんな夢を見せてもらったか。
れおんくんの退団にあたって、劇団がこれでもかこれでもかと、「スペシャル」なコトをくり出してくる。
それが、痛快。
れおんくんのすごさ、タカラヅカという世界の可能性、それを見せつけられて、わくわくする。
その、特別な超ビッグスターの最後の公演が……コレ?
DS中継だってーー、すげーー!
ラストディ中継、たまアリだって、すげーー!
さらに台湾だって、すげーー!
とまあ、すげーすげー盛り上がってるのに。
肝心の「最後の作品」が、コレ。
ヅカで駄作は当たり前。
それはわかってる。わかってるけどさ。
ビッグスターには、ビッグスターに相応しい最後がある。
れおんくんはトクベツなんだから、最後もトクベツにしてくれよ。「ヅカでふつーの駄作」なんかじゃなくて!
というのが、わたしの過剰反応です。
勝手に「ものすげー名作で華々しく退団する柚希礼音」を期待して、盛り上がっていたの。
それが裏切られたから、傷ついてるの。
ええ、ほんと、勝手に。
わたしはガチなファンではないので、あくまでも外野として言ってます。
ファンの人からすれば、「『黒豹の如く』は超名作!!」なのかもしれないし、「こんなちえねねが見たかった! 最後にこんな素敵な作品を観られて、もう思い残すことはない!」という作品なのかもしれない。
だとしたら、申し訳ない。
が、わたしはわたしの立ち位置で、わたしの感じたことを記す。
ちえねねの最後の作品がコレって……つらいわ。
もっと別の作品を観たかった。
水槽や大自然ビデオのような。@黒豹の如く
2015年2月17日 タカラヅカ 星組『黒豹の如く』、2回目。
2回目なら面白くなるかしら。見方や感じ方が変わったりするかしら。
と、淡い期待を……まあぶっちゃけ大して抱いてもいなかったんだけど。
2回目も、つまらなかった。
いや……つまらないだけでなく、苦手度が上がった。
というのも、オチを知っているのと知らないのでは、不快さがチガウのね。
初見時は「なにコレわけわかんない。でも、実はナニか深い意味があるのかも?」「なにコレくだらない。でも、最後にナニか意味のあることにつながるのかも?」と、引っかかる部分を全部好意的に受け止め、期待して観ていたから。
その引っかかる部分が全部、ひとつひとつ「なんの意味もない」「ただ、壊れているだけ」とわかって観る2回目は……ムカつく(笑)。
『黒豹の如く』が不快な点は、いろいろある。枚挙に暇がない、ってやつ。
でも、わたしにとっていちばん大きな苦手ポイントは、ストーリーがないということだ。
わたし、ダメなの。
ストーリーない話、ちょーー苦手なの! 腹が立つの!
わたしは「物語」が好きなの。フィクションが好きなの。起承転結する話が好きなの。
キャラクタがいて、出来事があって、それを乗り越えたり解決したりする話が好きなの。細かいところにほころびがあっても、軸となる大筋がちゃんと歯車回って起承転結するなら、それでOK。
重要なのは出来事の起承転結に、感情の起承転結が、きれいにリンクしていること。出来事があったゆえに感情が動き、新たな答えを得る。感情があったゆえに出来事が動き、新たな出来事につながる。
それがない、ただだらだらナニも起こらない「きれいなだけ」の話は、キライなの。
『花舞う長安』が大嫌いだったのと同じ。「キレイ」しか作れず「場面」しか作れないなら、ショー作ってればよし。
『花舞う長安』のときも思ったわ、「キレイなだけ」なら、熱帯魚の水槽や、大自然環境ビデオ見てるのと同じじゃん。
『黒豹の如く』にあるのは、設定だけ。物語はない。
「黒豹と呼ばれる英雄」「その恋人の美女」「悪役」とか、それぞれ設定だけあって、それ以上はない。
主人公は結局ナニもしていない。もともと英雄で、ナニもしてないまま物語の最後には、やはり英雄として仕事をしに行く。恋人とはもともと両思いで、物語スタート時点でふたりにはなんの障害もなく、物語の最後にもなにひとつ変わらず両思いであるし、気持ちも変わっていなければ結婚などカタチの上でもなにも動きはなし。
なにもしない主人公とヒロインの脇で、「悪役」というラベルを貼られた2番手が、整合性のない行動を取り、誰にもなんの影響も与えず、勝手に自滅する。悪役自滅のために、彼を取り巻くキャラは全員展開の都合優先で構成。
退団するトップスターと縁が深い、というだけで、叔父だとか親友だとかいう役を与えられた人に、とってつけた場面や台詞を与え、「イイ場面」を作る。→ サービスシーン
ヒロインは人格不要。「ヒロイン」という記号があり、主人公とラブシーンをすればよし。→ サービスシーン
ストーリーはないから、無意味にコスプレダンスシーン挿入。無関係でいいので、なんでもあり。→ サービスシーン
英雄、美女、悪役。
これだけの設定と、あとはサービスシーンのみで出来上がった作品。
それはそれで、アリだと思う。
タカラヅカはスターの魅力で見せるカンパニーだ。スターを魅力的に見せる、という命題の前には、他のことは些細なことだ。
だがそれは、「スターを魅力的に見せる」ことが、出来ていれば、だ。
『黒豹の如く』は、ちえねねを魅力的に見せているか??
かっこつけるだけでナニもしない黒豹先輩は、魅力的なのか?
彼が巻き込まれ、「大事件だ」と振り回されている事件が、どう考えてもくだらない、ありえないレベルの、アホアホな事件なんですが。
彼が所属する組織も、彼が生きる時代も、彼の思考回路も言動も、アタマ悪すぎて不安になるレベルなんですが。
それでも彼はかっこいいの? 素敵なの?
ただきれいな服を着て、主役とラヴシーンして、悪役にセクハラされるだけの、「お色気担当」としてしか描かれていないヒロインは、魅力的なんですか?
悪い意味での、「タカラヅカ」満載。
「ヅカヲタなんて、贔屓のスターがきれいな衣装で歯の浮くようなキザ台詞言って、濃厚なラブシーンしてれば、それで満足なんだろ」「ヅカヲタなんて、退団者の同期や関係のある生徒と絡ませたり、旅立ち場面を最後にして、現実のサヨナラとリンクさせる台詞を言わせれば、感動して泣くんだろ」……お手軽にお約束だけ盛り込んで、あとはめちゃくちゃ、「でもこれがタカラヅカでしょ、なんか文句あんの?」という。
他愛なくていいから、まともに「ストーリー」があって、その上で前述の「お約束」を入れてくれたなら、それだけでいいのに。
他愛ないストーリーに、ファンがよろこぶ「お約束」だけで構成された『風の次郎吉』が、ファンから絶賛されたように。
最低限、ストーリー。
物語がない話は、わたしには「存在意義」がわからないの。
主人公もヒロインも最初からラストシーンまで、なんの変化も発見もないなら、90分無駄じゃん? 両思いの独身同士として再会して、あとは90分「こいつめぇ」とかだけ、やってりゃいいじゃん。
植爺はとっくにそうなっていたけれど、柴田先生まで、物語を作れなくなったのだと、見せつけられたのが悲しいわ。
2回目なら面白くなるかしら。見方や感じ方が変わったりするかしら。
と、淡い期待を……まあぶっちゃけ大して抱いてもいなかったんだけど。
2回目も、つまらなかった。
いや……つまらないだけでなく、苦手度が上がった。
というのも、オチを知っているのと知らないのでは、不快さがチガウのね。
初見時は「なにコレわけわかんない。でも、実はナニか深い意味があるのかも?」「なにコレくだらない。でも、最後にナニか意味のあることにつながるのかも?」と、引っかかる部分を全部好意的に受け止め、期待して観ていたから。
その引っかかる部分が全部、ひとつひとつ「なんの意味もない」「ただ、壊れているだけ」とわかって観る2回目は……ムカつく(笑)。
『黒豹の如く』が不快な点は、いろいろある。枚挙に暇がない、ってやつ。
でも、わたしにとっていちばん大きな苦手ポイントは、ストーリーがないということだ。
わたし、ダメなの。
ストーリーない話、ちょーー苦手なの! 腹が立つの!
わたしは「物語」が好きなの。フィクションが好きなの。起承転結する話が好きなの。
キャラクタがいて、出来事があって、それを乗り越えたり解決したりする話が好きなの。細かいところにほころびがあっても、軸となる大筋がちゃんと歯車回って起承転結するなら、それでOK。
重要なのは出来事の起承転結に、感情の起承転結が、きれいにリンクしていること。出来事があったゆえに感情が動き、新たな答えを得る。感情があったゆえに出来事が動き、新たな出来事につながる。
それがない、ただだらだらナニも起こらない「きれいなだけ」の話は、キライなの。
『花舞う長安』が大嫌いだったのと同じ。「キレイ」しか作れず「場面」しか作れないなら、ショー作ってればよし。
『花舞う長安』のときも思ったわ、「キレイなだけ」なら、熱帯魚の水槽や、大自然環境ビデオ見てるのと同じじゃん。
『黒豹の如く』にあるのは、設定だけ。物語はない。
「黒豹と呼ばれる英雄」「その恋人の美女」「悪役」とか、それぞれ設定だけあって、それ以上はない。
主人公は結局ナニもしていない。もともと英雄で、ナニもしてないまま物語の最後には、やはり英雄として仕事をしに行く。恋人とはもともと両思いで、物語スタート時点でふたりにはなんの障害もなく、物語の最後にもなにひとつ変わらず両思いであるし、気持ちも変わっていなければ結婚などカタチの上でもなにも動きはなし。
なにもしない主人公とヒロインの脇で、「悪役」というラベルを貼られた2番手が、整合性のない行動を取り、誰にもなんの影響も与えず、勝手に自滅する。悪役自滅のために、彼を取り巻くキャラは全員展開の都合優先で構成。
退団するトップスターと縁が深い、というだけで、叔父だとか親友だとかいう役を与えられた人に、とってつけた場面や台詞を与え、「イイ場面」を作る。→ サービスシーン
ヒロインは人格不要。「ヒロイン」という記号があり、主人公とラブシーンをすればよし。→ サービスシーン
ストーリーはないから、無意味にコスプレダンスシーン挿入。無関係でいいので、なんでもあり。→ サービスシーン
英雄、美女、悪役。
これだけの設定と、あとはサービスシーンのみで出来上がった作品。
それはそれで、アリだと思う。
タカラヅカはスターの魅力で見せるカンパニーだ。スターを魅力的に見せる、という命題の前には、他のことは些細なことだ。
だがそれは、「スターを魅力的に見せる」ことが、出来ていれば、だ。
『黒豹の如く』は、ちえねねを魅力的に見せているか??
かっこつけるだけでナニもしない黒豹先輩は、魅力的なのか?
彼が巻き込まれ、「大事件だ」と振り回されている事件が、どう考えてもくだらない、ありえないレベルの、アホアホな事件なんですが。
彼が所属する組織も、彼が生きる時代も、彼の思考回路も言動も、アタマ悪すぎて不安になるレベルなんですが。
それでも彼はかっこいいの? 素敵なの?
ただきれいな服を着て、主役とラヴシーンして、悪役にセクハラされるだけの、「お色気担当」としてしか描かれていないヒロインは、魅力的なんですか?
悪い意味での、「タカラヅカ」満載。
「ヅカヲタなんて、贔屓のスターがきれいな衣装で歯の浮くようなキザ台詞言って、濃厚なラブシーンしてれば、それで満足なんだろ」「ヅカヲタなんて、退団者の同期や関係のある生徒と絡ませたり、旅立ち場面を最後にして、現実のサヨナラとリンクさせる台詞を言わせれば、感動して泣くんだろ」……お手軽にお約束だけ盛り込んで、あとはめちゃくちゃ、「でもこれがタカラヅカでしょ、なんか文句あんの?」という。
他愛なくていいから、まともに「ストーリー」があって、その上で前述の「お約束」を入れてくれたなら、それだけでいいのに。
他愛ないストーリーに、ファンがよろこぶ「お約束」だけで構成された『風の次郎吉』が、ファンから絶賛されたように。
最低限、ストーリー。
物語がない話は、わたしには「存在意義」がわからないの。
主人公もヒロインも最初からラストシーンまで、なんの変化も発見もないなら、90分無駄じゃん? 両思いの独身同士として再会して、あとは90分「こいつめぇ」とかだけ、やってりゃいいじゃん。
植爺はとっくにそうなっていたけれど、柴田先生まで、物語を作れなくなったのだと、見せつけられたのが悲しいわ。
100周年祭りとチケット考察。@凰稀かなめラストディ
2015年2月16日 タカラヅカ ところで『凰稀かなめラストディ』のチケット、手に入らなくて苦労したんですが。
わたしはご贔屓退団後、すっかりヲタ力が落ちていて、いろいろいろいろチケット入手に出遅れがちだった。
とはいえ、ヲタやって長いので、チケット事情に対する大体の勘というか、手応えみたいなもんが働くわけだ。百発百中ではまったくないけれども、「タカラヅカ観たことナイけど、一度観てみたいなあ」てな人よりは経験上、チケットの動きに予想が出来る。
で、トップ退団公演なのに、定価以下チケット売買サイトで大量に出回っている公演の場合、ラストディチケットも等しく出回るものなのですよ……ふつーなら。あのトップさんのときも、あのトップさんのときも、あのトップさんのときも……てな、実際に見て聞いて体験したゆえの記憶、判断。
が。
かなめくんのラストディチケットは、まーーったく、余る様子がなかった。
たまにサイトに出ても、瞬殺。
需要と供給が釣り合っていない。
何故。
そして実際にラストディ上映会場の映画館へ行くと、これまた違和感。
いつもファンが血相変えて買い求める限定パンフレットが、売れ残っている。ふつーに売店に並んでいる。
また、館内の空気も平静だ。退団公演東宝千秋楽特有の、濃い空気がない。拍手も手拍子も起こらない。みんなふつーに、映像を観ている。
そうか……100周年需要か。
メディアで宣伝しまくった宝塚歌劇団100周年祭りは、あとになればなるほどその効果を見せた。
幕開きの『眠らない男・ナポレオン』はいいスタートダッシュ、そこからトップ退団公演、100周年記念公演、伝家の宝刀『ベルばら』、トップ退団公演と続き、タカラヅカの話題がファンのみならず、一般人の口にも上がる。
人気の星組公演がさらに盛り上がり、続く待望の『エリザベート』再演が過去例を観ないチケ難公演となる。始発で行っても当日券を取れない、徹夜組が後を絶たない、テーマパークのイベントみたいな騒ぎになる。
100周年祭りでタカラヅカというエンタメに初参加した人たちは、コアなハマり方はしてないけれど、盛り上がり方は知っている。
チケットの取り方はネットでわかるし、誰でもある程度入手出来る。
どんなイベントがあり、どう楽しむか。昔は自分で体験するか、人を介してしか得られなかった知識が、自宅や移動中など、どこでも手軽に手のひらの中で確認出来る。
100周年祭り参加メンバーが、「はじめて経験するトップスター退団祭り」が、宙組だったんだ。
『エリザベート』で一大ムーブメントになったあと。
誰でも体験出来る、参加出来る、祭り。
生の公演を観るために、何度も時間とお金を出して劇場に通うことはないけれど、最後の「サヨナラショー」や、「袴での挨拶」は観たい。「タカラヅカのトップスター退団」に参加したい。
そう思う人たちは、こぞって「ラストディ」チケットを買う。
公演チケットが定価やそれ以下で市場に出回っているのに、ラストディチケットだけはチケ難。
そして、チケ難公演に相応しい数だけ用意されただろう、スター個人のメモリアルパンフレットは売り切れず。
映画館の中も、しんとしている。
……それは、こういうことなんじゃないかな。
と、わたしは勝手に分析する。
勝手に、ですよ。
事実かどうかは知りようがない。
ただわたしは、そういうことかなと想像し、納得する。
祭りには、人が集まる。
本気のファン以外の人も。ただ、体験したいだけの人も、盛り上がりたいだけの人も。
それが、悪いと言っているわけじゃない。
どこまでが本当のファンで、どこからがニセモノとか、そんな線引きは無意味。
命懸けて心も時間もお金も捧げて応援してきたけれど千秋楽だけはどうしても劇場へ行けない事情があって、泣く泣く大阪の映画館で見送ることになった、という人も。
ふつうに好きなスターさんだから、最後を観たいなと思って来た人も。
ヅカファンだからラストディは毎回観ているの、という人も。
ナマで観たことないけど、最後くらい映像でもイイから観てみたかった、という人も。
それこそ、トップスター退団はタカラヅカの華、最大の祭り、それを体験してみたかった、というだけの人でも。
どんなスタンスでもいい。
それぞれの思いで、そこにいれば。
それを許すのが、ライブビューイング、舞台中継だろう。
いろんなスタンスの人に、広く門戸を開くための。
ただ、100周年需要を読み切れなかったわたしがうかつだった。チケットねえええ!
100周年祭りは、おそらくれおんくん退団までは続くと思う。
タカラヅカが生んだビッグスター、そのラストステージだもの、体験しなければ! てな。
問題はそのあと、だなあ。
ラストディだけ売れて、生の舞台チケットが求められない現状は、ちょっとこわい。
手軽に手に入る情報や映像だけで満足してしまう人たちが、100周年祭り参加組には多いってこと……だよね?
タカラヅカは舞台あってこそ。
映像は映像でしかない。
自分で足を運ばなければ、なんの情報も得られなかった時代の古い人間は、今のなんでもかんでも即時にネットに情報が拡散される現代に、困惑している。
ばばあですから。
わたしはご贔屓退団後、すっかりヲタ力が落ちていて、いろいろいろいろチケット入手に出遅れがちだった。
とはいえ、ヲタやって長いので、チケット事情に対する大体の勘というか、手応えみたいなもんが働くわけだ。百発百中ではまったくないけれども、「タカラヅカ観たことナイけど、一度観てみたいなあ」てな人よりは経験上、チケットの動きに予想が出来る。
で、トップ退団公演なのに、定価以下チケット売買サイトで大量に出回っている公演の場合、ラストディチケットも等しく出回るものなのですよ……ふつーなら。あのトップさんのときも、あのトップさんのときも、あのトップさんのときも……てな、実際に見て聞いて体験したゆえの記憶、判断。
が。
かなめくんのラストディチケットは、まーーったく、余る様子がなかった。
たまにサイトに出ても、瞬殺。
需要と供給が釣り合っていない。
何故。
そして実際にラストディ上映会場の映画館へ行くと、これまた違和感。
いつもファンが血相変えて買い求める限定パンフレットが、売れ残っている。ふつーに売店に並んでいる。
また、館内の空気も平静だ。退団公演東宝千秋楽特有の、濃い空気がない。拍手も手拍子も起こらない。みんなふつーに、映像を観ている。
そうか……100周年需要か。
メディアで宣伝しまくった宝塚歌劇団100周年祭りは、あとになればなるほどその効果を見せた。
幕開きの『眠らない男・ナポレオン』はいいスタートダッシュ、そこからトップ退団公演、100周年記念公演、伝家の宝刀『ベルばら』、トップ退団公演と続き、タカラヅカの話題がファンのみならず、一般人の口にも上がる。
人気の星組公演がさらに盛り上がり、続く待望の『エリザベート』再演が過去例を観ないチケ難公演となる。始発で行っても当日券を取れない、徹夜組が後を絶たない、テーマパークのイベントみたいな騒ぎになる。
100周年祭りでタカラヅカというエンタメに初参加した人たちは、コアなハマり方はしてないけれど、盛り上がり方は知っている。
チケットの取り方はネットでわかるし、誰でもある程度入手出来る。
どんなイベントがあり、どう楽しむか。昔は自分で体験するか、人を介してしか得られなかった知識が、自宅や移動中など、どこでも手軽に手のひらの中で確認出来る。
100周年祭り参加メンバーが、「はじめて経験するトップスター退団祭り」が、宙組だったんだ。
『エリザベート』で一大ムーブメントになったあと。
誰でも体験出来る、参加出来る、祭り。
生の公演を観るために、何度も時間とお金を出して劇場に通うことはないけれど、最後の「サヨナラショー」や、「袴での挨拶」は観たい。「タカラヅカのトップスター退団」に参加したい。
そう思う人たちは、こぞって「ラストディ」チケットを買う。
公演チケットが定価やそれ以下で市場に出回っているのに、ラストディチケットだけはチケ難。
そして、チケ難公演に相応しい数だけ用意されただろう、スター個人のメモリアルパンフレットは売り切れず。
映画館の中も、しんとしている。
……それは、こういうことなんじゃないかな。
と、わたしは勝手に分析する。
勝手に、ですよ。
事実かどうかは知りようがない。
ただわたしは、そういうことかなと想像し、納得する。
祭りには、人が集まる。
本気のファン以外の人も。ただ、体験したいだけの人も、盛り上がりたいだけの人も。
それが、悪いと言っているわけじゃない。
どこまでが本当のファンで、どこからがニセモノとか、そんな線引きは無意味。
命懸けて心も時間もお金も捧げて応援してきたけれど千秋楽だけはどうしても劇場へ行けない事情があって、泣く泣く大阪の映画館で見送ることになった、という人も。
ふつうに好きなスターさんだから、最後を観たいなと思って来た人も。
ヅカファンだからラストディは毎回観ているの、という人も。
ナマで観たことないけど、最後くらい映像でもイイから観てみたかった、という人も。
それこそ、トップスター退団はタカラヅカの華、最大の祭り、それを体験してみたかった、というだけの人でも。
どんなスタンスでもいい。
それぞれの思いで、そこにいれば。
それを許すのが、ライブビューイング、舞台中継だろう。
いろんなスタンスの人に、広く門戸を開くための。
ただ、100周年需要を読み切れなかったわたしがうかつだった。チケットねえええ!
100周年祭りは、おそらくれおんくん退団までは続くと思う。
タカラヅカが生んだビッグスター、そのラストステージだもの、体験しなければ! てな。
問題はそのあと、だなあ。
ラストディだけ売れて、生の舞台チケットが求められない現状は、ちょっとこわい。
手軽に手に入る情報や映像だけで満足してしまう人たちが、100周年祭り参加組には多いってこと……だよね?
タカラヅカは舞台あってこそ。
映像は映像でしかない。
自分で足を運ばなければ、なんの情報も得られなかった時代の古い人間は、今のなんでもかんでも即時にネットに情報が拡散される現代に、困惑している。
ばばあですから。
黄金の翼をおぼえてる。@凰稀かなめラストディ
2015年2月15日 タカラヅカ ふつうに食事をしていた母が、突然泣き出した。
「なんであたし、ごはん食べてるんだろう。おとんが食べられないのに。なんでおなかすくんだろう。おとんが食べられないのに」
そんな意味のことをくり返しながら、ぼろぼろ泣き出した。クチからもお茶碗からも、ごはんがぼろぼろこぼれて落ちた。
子どもみたいに、ぼろぼろぼろぼろ、あぐあぐえぐえぐ、泣き出した。
わたしは思わず、母の肩を抱いて、耳元で言った。
「明日、タカラヅカを観に行こう」
えぐえぐ泣き続ける母に、言い続けた。
「タカラヅカを観に行こう。明日はなにもかも忘れて、きれいなものを観に行こう。おいしいもの食べて、一日遊ぼう。ね? おとんも許してくれるよ」
その頃の緑野家は、ぐちゃぐちゃで。
父は余命宣告されてるし、クチからモノを食べられなくなって半年以上経ってるし、仕事と家事と看病とで、母は限界に来ていた。
わたしは人生でいちばん過酷な仕事状況で、父の病院への行き帰りだろうと、自分の入院中だろうと、愛猫の火葬の間すら、PC持ち込みでずっと仕事してた(そのあと、父の葬式の夜も、仕事してたなー……)。肉体的にも精神的にも、かなり限界だった……と、今は思う。当時は自覚してなかった。でも、たまに劇場で会う友人が、わたしの顔を見るなりぎょっとして、「体調大丈夫?」と聞いてきたりしていたから、相当悲惨な顔して生きてたんだろうと思う。
弟は黙々と、自分のなすことをし、経済的に家を支え、職場と父の病院を行き来していた。
なんかもう、いろいろと、無理。
ごはんクチからこぼしながら泣き出す母が、その象徴だろう。
無理。
現実に、押しつぶされる。
崩壊する。
そんなときに。
タカラヅカを観に行った。
わたしはどんだけ忙しくても劇場には通っていたので、タカラヅカは「日常」の範疇だ。
わたしにとっての日常、欠けてはならないモノ。
それでいて、母にとっての「非日常」。なんかトクベツで、キラキラしたもの。
自分のテリトリーで、母をエスコートすることが出来る……だから、今、タカラヅカ。
今の重すぎる日常を離れて。
よそ行きの服を着た母と阪急電車に乗って、宝塚へ。
あちこちに貼ってあるポスター、ほら、今から、これを観に行くのよ。
きれいね。ゴージャスね。
道すがら、テンション上げて。
公演は、『銀河英雄伝説』。
一本モノだしSFだし、母に理解出来るとも思えなかったけれど。
チラシを渡して、説明する。
この人が、トップスター。「おうき・かなめ」さん。この公演から、宙組のトップスターになったのよ。
きれいね。ゴージャスね。
未来を舞台にしたSFだけど、難しく考えなくていいから。こっちが銀河帝国、皇帝とか貴族とかがいる、身分制度のある国。こっちは同盟軍、民主国家で、イメージ的にはアメリカって感じ? このふたつの国が戦争しているの。主人公は帝国側ね、悪い政治をしている皇帝を倒し、自分の力で新しい世界を築こうとしているの……てな、そんなざっくりした説明だけして。
母はふんふん聞いていたけれど、理解していたかどうか。
そんなことより、ひさびさのお出かけ、ひさびさのタカラヅカにワクテカ。
当日券で観劇して。
『銀河英雄伝説』。
かなめくんの、トップお披露目公演。
美貌のトップスターと、選りすぐりの長身イケメンたち。
新しい組、新しい時代。
満を持したビッグタイトル、未来へ飛翔する若き英雄の物語。
それはもう、きらきらきらきら、輝いていて。
「きれいね。きれいね……」
よくわかんなかったけれど、きれいだったわ。
語彙もなく、そんな感想を繰り返す母と食事して、買い物して。
ゆっくりしていくはずが、やっぱり父が心配だからと早めに帰路について。
タカラヅカを観に行こう。
あのとき観に行ったのが、『銀英伝』。そして、凰稀かなめ。
はじまる。
その予感に、まぶしい黄金の翼に、目がくらむ思いだった。
そんなことを、思い出していた。
映画館で『凰稀かなめラストディ』を観ながら。
あれは、ついこの間のことのよう。
あの頃は、まだ父がいた。まっつだっていた。
わたしは奇跡を信じ、毎日無我夢中で生きていた。来年も再来年も、家族と迎える日々を、当たり前にタカラヅカを観てわくわくしていられる日々を信じて、目の前の現実と闘い続けていた。
母の肩を抱いて、「タカラヅカを観に行こう」と言った。言えた。タカラヅカがあって良かった。
かなめくん。
美しいあなたがいて、母が「きれいね」とよろこんだ。
それはどれほど、救いだったろう。
宙組がゴージャスで「タカラヅカ!」って感じで、SFがわかんなくてもショーがなくても羽根がたくさんなくても、それでも「タカラヅカだわ、きれいね、豪華ね、来て良かった」そう思わせてくれることが。
救いだった。
癒しだった。
これからも、ずっとずっと、忘れない。
泣いた母を連れて、すりきれそうな心を抱えて、劇場に行ったこと。
そこで、黄金の髪を輝かせた、かなめくんがいたこと。
あのとき、劇場で感じた光を。
卒業してしまうんだね。いなくなるんだね。終わるんだね。
さみしいな。
お披露目公演の光を、笑顔を、思い出しては切なくなる。
さみしいよ。
ありがとう。
ありがとう。
さみしいよ。
ありがとう。
「なんであたし、ごはん食べてるんだろう。おとんが食べられないのに。なんでおなかすくんだろう。おとんが食べられないのに」
そんな意味のことをくり返しながら、ぼろぼろ泣き出した。クチからもお茶碗からも、ごはんがぼろぼろこぼれて落ちた。
子どもみたいに、ぼろぼろぼろぼろ、あぐあぐえぐえぐ、泣き出した。
わたしは思わず、母の肩を抱いて、耳元で言った。
「明日、タカラヅカを観に行こう」
えぐえぐ泣き続ける母に、言い続けた。
「タカラヅカを観に行こう。明日はなにもかも忘れて、きれいなものを観に行こう。おいしいもの食べて、一日遊ぼう。ね? おとんも許してくれるよ」
その頃の緑野家は、ぐちゃぐちゃで。
父は余命宣告されてるし、クチからモノを食べられなくなって半年以上経ってるし、仕事と家事と看病とで、母は限界に来ていた。
わたしは人生でいちばん過酷な仕事状況で、父の病院への行き帰りだろうと、自分の入院中だろうと、愛猫の火葬の間すら、PC持ち込みでずっと仕事してた(そのあと、父の葬式の夜も、仕事してたなー……)。肉体的にも精神的にも、かなり限界だった……と、今は思う。当時は自覚してなかった。でも、たまに劇場で会う友人が、わたしの顔を見るなりぎょっとして、「体調大丈夫?」と聞いてきたりしていたから、相当悲惨な顔して生きてたんだろうと思う。
弟は黙々と、自分のなすことをし、経済的に家を支え、職場と父の病院を行き来していた。
なんかもう、いろいろと、無理。
ごはんクチからこぼしながら泣き出す母が、その象徴だろう。
無理。
現実に、押しつぶされる。
崩壊する。
そんなときに。
タカラヅカを観に行った。
わたしはどんだけ忙しくても劇場には通っていたので、タカラヅカは「日常」の範疇だ。
わたしにとっての日常、欠けてはならないモノ。
それでいて、母にとっての「非日常」。なんかトクベツで、キラキラしたもの。
自分のテリトリーで、母をエスコートすることが出来る……だから、今、タカラヅカ。
今の重すぎる日常を離れて。
よそ行きの服を着た母と阪急電車に乗って、宝塚へ。
あちこちに貼ってあるポスター、ほら、今から、これを観に行くのよ。
きれいね。ゴージャスね。
道すがら、テンション上げて。
公演は、『銀河英雄伝説』。
一本モノだしSFだし、母に理解出来るとも思えなかったけれど。
チラシを渡して、説明する。
この人が、トップスター。「おうき・かなめ」さん。この公演から、宙組のトップスターになったのよ。
きれいね。ゴージャスね。
未来を舞台にしたSFだけど、難しく考えなくていいから。こっちが銀河帝国、皇帝とか貴族とかがいる、身分制度のある国。こっちは同盟軍、民主国家で、イメージ的にはアメリカって感じ? このふたつの国が戦争しているの。主人公は帝国側ね、悪い政治をしている皇帝を倒し、自分の力で新しい世界を築こうとしているの……てな、そんなざっくりした説明だけして。
母はふんふん聞いていたけれど、理解していたかどうか。
そんなことより、ひさびさのお出かけ、ひさびさのタカラヅカにワクテカ。
当日券で観劇して。
『銀河英雄伝説』。
かなめくんの、トップお披露目公演。
美貌のトップスターと、選りすぐりの長身イケメンたち。
新しい組、新しい時代。
満を持したビッグタイトル、未来へ飛翔する若き英雄の物語。
それはもう、きらきらきらきら、輝いていて。
「きれいね。きれいね……」
よくわかんなかったけれど、きれいだったわ。
語彙もなく、そんな感想を繰り返す母と食事して、買い物して。
ゆっくりしていくはずが、やっぱり父が心配だからと早めに帰路について。
タカラヅカを観に行こう。
あのとき観に行ったのが、『銀英伝』。そして、凰稀かなめ。
はじまる。
その予感に、まぶしい黄金の翼に、目がくらむ思いだった。
そんなことを、思い出していた。
映画館で『凰稀かなめラストディ』を観ながら。
あれは、ついこの間のことのよう。
あの頃は、まだ父がいた。まっつだっていた。
わたしは奇跡を信じ、毎日無我夢中で生きていた。来年も再来年も、家族と迎える日々を、当たり前にタカラヅカを観てわくわくしていられる日々を信じて、目の前の現実と闘い続けていた。
母の肩を抱いて、「タカラヅカを観に行こう」と言った。言えた。タカラヅカがあって良かった。
かなめくん。
美しいあなたがいて、母が「きれいね」とよろこんだ。
それはどれほど、救いだったろう。
宙組がゴージャスで「タカラヅカ!」って感じで、SFがわかんなくてもショーがなくても羽根がたくさんなくても、それでも「タカラヅカだわ、きれいね、豪華ね、来て良かった」そう思わせてくれることが。
救いだった。
癒しだった。
これからも、ずっとずっと、忘れない。
泣いた母を連れて、すりきれそうな心を抱えて、劇場に行ったこと。
そこで、黄金の髪を輝かせた、かなめくんがいたこと。
あのとき、劇場で感じた光を。
卒業してしまうんだね。いなくなるんだね。終わるんだね。
さみしいな。
お披露目公演の光を、笑顔を、思い出しては切なくなる。
さみしいよ。
ありがとう。
ありがとう。
さみしいよ。
ありがとう。
電話という、文明の利器の存在。
2015年2月14日 タカラヅカ ポスターの話。
を、しようとして、まず、前回の「ポスター欲しい、どうやって手に入れればいいの?!」とわたわたした、2013年11月の日記を参照しようとした。
……ら、なかった。
今自分のブログ遡ったら、書くだけ書いてUPしてなかったらしい(笑)。まっつ休演中だから自重してたんだな……ナニそのいらん気遣い。
UPしてなかったその日記を要約すると。
・大劇場キャトルレーヴでは、公演ポスターの予約は不可。
・梅田のキャトルレーヴでは、予約可。
ただし、2013年11月、梅田店では「予約分は締め切ったので、受けられません」と断られている……ので、わたしはひとり大騒ぎしていたわけだ。
この経験から、本気でポスターが欲しかったら、「梅田キャトルに、早々に予約に行く」ことを学んだ。
ムラのキャトルには、定期的に行く。へたすりゃー毎週行く。
キャトルに行かなくても、大劇場やバウホールには行くからなー。
だから、「予約→引き取り」はムラがいちばん便利。わたしにとって。
でも、予約出来るのは梅田のみ。
梅田って、へたすりゃ数ヶ月は足を向けないところなのよ! ドラマシティとか梅芸とか、毎月公演がかかってりゃ行くけど、そうじゃないんだもん!(どんだけヅカ中心)
いやその、大阪人なので、ムラより梅田の方がはるかに近いんですけどね……行く用事がないんだもん……。
梅田まで、ポスターの予約だけに行くのか……。
それがいちばん、それしかない、か。
答えは出たんだけど、わざわざ休日潰してポスターの「予約」のために出かけるとか、梅田まで行くってことは、ついでに買い物したりなんだりもするからほんと半日仕事になるし、なんかすげえな、どんだけポスター欲しいん、つー……。
や、欲しいんだけど、そこまでする、つーのが、自分の中で「ヲイヲイ」というかね……。
まっつのためなら、平気だけど!
まっつじゃないのに、そこまでしていいの?って。
まっつのバカーー!!(お約束)
そんな葛藤をしつつ、念のために梅田キャトルに電話しました。
今から行くけど、予約受付してるよね?と。そうまでして行って、「今は予約はやめました。発売日に並んでください」って言われたら泣く(笑)。
そしたら。
梅田キャトル、電話予約OKでした!!
ええええっ。
だ、だって「予約」って、予約票に必要事項記入して、半券もらうものでしょう? モノによっては一部入金とか、先払いとかするモノで……。
で、でんわでいいの?
「お名前は?」
「らんじゅとむです」
とか、勝手にいくらでも言えちゃうじゃん?! 名乗り放題だし、連絡先だって本当である必要ないし。
電話でいい、てのは、盲点でした……わたしにとって。
わたしが昔働いていたショップは、電話予約は受けてなかったしな……来店して、予約票記入しないと予約にならなかったさ……それが当たり前かと……。
「『アル・カポネ』のポスターを、2本予約お願いします……」
今から梅田行くつもりだったのに……あらら。予定、空いちゃった~~。
あ。
「今日もまたムラまではるばる行ってきました。本日の戦利品は、」という書き出しの記事が、2013年11月あたりの欄にこっそりUPされていたら、書くだけ書いて忘れたままになってたヤツだと思ってやってください……(笑)。タイトルまだ決めてないや。
を、しようとして、まず、前回の「ポスター欲しい、どうやって手に入れればいいの?!」とわたわたした、2013年11月の日記を参照しようとした。
……ら、なかった。
今自分のブログ遡ったら、書くだけ書いてUPしてなかったらしい(笑)。まっつ休演中だから自重してたんだな……ナニそのいらん気遣い。
UPしてなかったその日記を要約すると。
・大劇場キャトルレーヴでは、公演ポスターの予約は不可。
・梅田のキャトルレーヴでは、予約可。
ただし、2013年11月、梅田店では「予約分は締め切ったので、受けられません」と断られている……ので、わたしはひとり大騒ぎしていたわけだ。
この経験から、本気でポスターが欲しかったら、「梅田キャトルに、早々に予約に行く」ことを学んだ。
ムラのキャトルには、定期的に行く。へたすりゃー毎週行く。
キャトルに行かなくても、大劇場やバウホールには行くからなー。
だから、「予約→引き取り」はムラがいちばん便利。わたしにとって。
でも、予約出来るのは梅田のみ。
梅田って、へたすりゃ数ヶ月は足を向けないところなのよ! ドラマシティとか梅芸とか、毎月公演がかかってりゃ行くけど、そうじゃないんだもん!(どんだけヅカ中心)
いやその、大阪人なので、ムラより梅田の方がはるかに近いんですけどね……行く用事がないんだもん……。
梅田まで、ポスターの予約だけに行くのか……。
それがいちばん、それしかない、か。
答えは出たんだけど、わざわざ休日潰してポスターの「予約」のために出かけるとか、梅田まで行くってことは、ついでに買い物したりなんだりもするからほんと半日仕事になるし、なんかすげえな、どんだけポスター欲しいん、つー……。
や、欲しいんだけど、そこまでする、つーのが、自分の中で「ヲイヲイ」というかね……。
まっつのためなら、平気だけど!
まっつじゃないのに、そこまでしていいの?って。
まっつのバカーー!!(お約束)
そんな葛藤をしつつ、念のために梅田キャトルに電話しました。
今から行くけど、予約受付してるよね?と。そうまでして行って、「今は予約はやめました。発売日に並んでください」って言われたら泣く(笑)。
そしたら。
梅田キャトル、電話予約OKでした!!
ええええっ。
だ、だって「予約」って、予約票に必要事項記入して、半券もらうものでしょう? モノによっては一部入金とか、先払いとかするモノで……。
で、でんわでいいの?
「お名前は?」
「らんじゅとむです」
とか、勝手にいくらでも言えちゃうじゃん?! 名乗り放題だし、連絡先だって本当である必要ないし。
電話でいい、てのは、盲点でした……わたしにとって。
わたしが昔働いていたショップは、電話予約は受けてなかったしな……来店して、予約票記入しないと予約にならなかったさ……それが当たり前かと……。
「『アル・カポネ』のポスターを、2本予約お願いします……」
今から梅田行くつもりだったのに……あらら。予定、空いちゃった~~。
あ。
「今日もまたムラまではるばる行ってきました。本日の戦利品は、」という書き出しの記事が、2013年11月あたりの欄にこっそりUPされていたら、書くだけ書いて忘れたままになってたヤツだと思ってやってください……(笑)。タイトルまだ決めてないや。
青春のかほりを漂わせつつ。-妄想配役-@Bandito
2015年2月13日 タカラヅカ 若手バウは、キャストの足りなさも含めて味わうモノだ。
だから、別キャストで、と考えるのは間違っている。たとえはまっていなくても、その役はその若手くんのものなんだ。
出来映え云々ではなく、キャストファンにとっては珠玉の出来、ベスト配役の大切な1作であるはず。
それはわかってる。
わたしが今こうして公演をネタにあれこれ考えているのも、そのキャストあってのこと。想像力を刺激する舞台を創ってくれたからこそだ。
だから、これはただの、ひとりごと。
オリジナル・キャストに含みはない。
『Bandito-義賊 サルヴァトーレ・ジュリアーノ-』は、わたしにはキャスティングがいろいろと不思議に見えて、他の組で他の布陣でやるとしたら、この作品はどんな物語に見えるのだろうか、と考えた。
主人公のジュリアーノさんは、タカラヅカ的キラキラしたイケメンで。
親友の方のサルヴァトーレくんは、ビジュアルも持ち味も主役と対照的な三枚目で。
クールガイのヴィトーさんは、骨太かつ硬質な男で。
ルッソさんは、渋さと熱さを持った強面で。
スターンさんは、海千山千の大人の男で。
……いかん、まとぶさん時代の花組で、全キャストはまってしまったわ……。
まとぶん、やたらめったらアツくるしくなったろうなあ。えりたんは親友で、みわさんがクールガイの方。このへんの比重はソロ1曲で変化するし。まっつは中間管理職(笑)、ジャーナリストはみつる。真の悪役はもちろんはっちさん、作家ヒロさんはそのまんま、ナガさんはまりんで。
ヒロイン彩音ちゃん、美しき継母じゅりあ様。さち花ポジションはいちかで。
まとぶんは放っておいても恋愛モードびしばしなので、書き込み少ないヒロインとの関係も力技で持って行ったかなと。また、まとぶんには大人になりきれない青さがあるから、「青春のかほり」も出たろうなあ。
まとぶんと大野せんせというと、バウ・ジュブナイル(そんな煽りではなかったが・笑)『花のいそぎ』があるしね。相性は悪くないだろう。
そんなことを考える。
……にしても、フィナーレ良かったよなー。
たまきちかっけー!! と、心から思った。リフトすげえ。
そしてあの体格、あの背中。あれはもう、神から与えられた才能ですわ。
わかばちゃんもきれいでねえ……。
タカラヅカっていいな。
だから、別キャストで、と考えるのは間違っている。たとえはまっていなくても、その役はその若手くんのものなんだ。
出来映え云々ではなく、キャストファンにとっては珠玉の出来、ベスト配役の大切な1作であるはず。
それはわかってる。
わたしが今こうして公演をネタにあれこれ考えているのも、そのキャストあってのこと。想像力を刺激する舞台を創ってくれたからこそだ。
だから、これはただの、ひとりごと。
オリジナル・キャストに含みはない。
『Bandito-義賊 サルヴァトーレ・ジュリアーノ-』は、わたしにはキャスティングがいろいろと不思議に見えて、他の組で他の布陣でやるとしたら、この作品はどんな物語に見えるのだろうか、と考えた。
主人公のジュリアーノさんは、タカラヅカ的キラキラしたイケメンで。
親友の方のサルヴァトーレくんは、ビジュアルも持ち味も主役と対照的な三枚目で。
クールガイのヴィトーさんは、骨太かつ硬質な男で。
ルッソさんは、渋さと熱さを持った強面で。
スターンさんは、海千山千の大人の男で。
……いかん、まとぶさん時代の花組で、全キャストはまってしまったわ……。
まとぶん、やたらめったらアツくるしくなったろうなあ。えりたんは親友で、みわさんがクールガイの方。このへんの比重はソロ1曲で変化するし。まっつは中間管理職(笑)、ジャーナリストはみつる。真の悪役はもちろんはっちさん、作家ヒロさんはそのまんま、ナガさんはまりんで。
ヒロイン彩音ちゃん、美しき継母じゅりあ様。さち花ポジションはいちかで。
まとぶんは放っておいても恋愛モードびしばしなので、書き込み少ないヒロインとの関係も力技で持って行ったかなと。また、まとぶんには大人になりきれない青さがあるから、「青春のかほり」も出たろうなあ。
まとぶんと大野せんせというと、バウ・ジュブナイル(そんな煽りではなかったが・笑)『花のいそぎ』があるしね。相性は悪くないだろう。
そんなことを考える。
……にしても、フィナーレ良かったよなー。
たまきちかっけー!! と、心から思った。リフトすげえ。
そしてあの体格、あの背中。あれはもう、神から与えられた才能ですわ。
わかばちゃんもきれいでねえ……。
タカラヅカっていいな。
ヒロインにもいろんな描き方があるわけだし。@Bandito
2015年2月12日 タカラヅカ ここでまた、月バウの話に戻る。
『Bandito-義賊 サルヴァトーレ・ジュリアーノ-』。
ヒロインのアマ—リア@わかばちゃんの、もどかしさ。
わかばちゃんは、きれいだ。
登場すると、「あっ、美少女だ」「あっ、ヒロインだ」とわかる華がある。
しかし。
役柄は、けっこう選ぶ……気がする。
なんでああも「動かない」んだろう。
動作のことではなくて、芝居が。
アマーリアという女性の情報が、彼女の胎内に全部詰め込まれ、溜め込まれ、外に出て来ない。
だから、見たまま、そこにいる、決められた台詞を喋っている、という、物理的な情報しか得られない。
たしかに脚本が彼女に有利にはなってないんだけど、それにしてもここまで台詞以外の情報が少ないと、もったいない。
相手役との相性の問題もある。
サルヴァトーレ・ジュリアーノ@たまきちは、わかばちゃんがまとった分厚い殻を破らせるような男じゃない。
閉じこもった彼女ごと、まるっと肯定して、自分の内側のみ見ている男だ。
主人公とヒロインが、ふたりして内側見ててもな……。
ようするに、わたしにはふたりが恋愛しているように見えなかったのですよ。
てゆーか、ヒロインいなくていいし。忘れた頃に、「あ、忘れてた」って感じで出て来られても、アタマの軌道修正がめんどくさい。
恋愛、するかもしれない。
そんな予感は見えた。
でもふたりともまだ、14歳の中学2年生なんで、自分の変化や過剰な自意識に手一杯、とても「他人」を見る余裕なんかない。
そんな風に見えた。
外見の話ではなく、精神年齢ね。
ふたりとも大人とされる年齢だけど、精神の発達は遅くてまだようやく思春期かな、と。
それはそれでアリだと思うし、そのあたりを不器用に切なく盛り上げてくれるのはぜんぜんイイ。肉食系だけが恋愛じゃない。
中学生のようなこの子たちがやたらめったらスローなまったりしたペースで恋に落ちる様を描くのかと思ったら、ヒロインの出番も比重も少なくて、なにもはじまらないまま終わっちゃって、拍子抜け。
や、脚本上は「すでにはじまり、とっくに盛り上がっている」的な感じなんだけど。それ、わたしにはわかんないままだった。
芝居は好みの問題だから、わたしにはそう見えた・感じたというだけのことっす。
ふたりの物語がちょー盛り上がってアツアツだと思った人もいるだろうし、そうでなくても、「これくらいの薄い描き方がいい」と思う人もいるだろう。
ただわたしは、「え、あんたらいつ相手のこと好きになったん??」「そんなに大事な相手? なんで??」と、ふたりの場面になるたびに?マークが飛んだので。
だから、惜しいのなー。
恋愛なしで、「義賊」のレッテルと生きていくことになった男の物語として描いてくれればよかったのに。
んな、不自然な、無理矢理感あるヒロイン作らずに。
そしたら仲間たちとかヴィトーさんとか作家さんに、もっと尺を割けたし、彼らに対する主人公の物語を深めることが出来たのに。
ヒロインが必要なら、ジャーナリストを一癖ある大人の女として登場させるとか。ヒロインの片想いに終わるとしても、最後はふたりで旅立つしな。
完全に恋愛ナシで、ねーちゃんをヒロインポジにするとか。今でも、ヒロインより強烈なキャラなんだから、ちゃんと書き込めば面白い役になるはず。
設定倒れというか、ヒロインの設定アイディアにこだわったのはいいけれど、執筆しているうちに、描きたいことがブレていって、でも最初のヒロイン設定にだけは思い入れがあって、そこに固執したためにとっちらかった。……という印象。
書いてるうちに話が変わることなんかいくらでもあるんだから、「今、いちばん書きたいこと」を中心に、最初の設定に大胆にメス入れるとか、すればいいのにー。
と、勝手に思いました。
勝手な想像です。根拠なし。や、根拠あるか、舞台観た感想(笑)。
あとはほんと、相性の問題。
小説じゃなくて、芝居だから。
演じる人によって、文章以上になるものね。反対に、演じる人によっては、行間のない、文章以下になる場合もある。
たまきちにはもっと、情感あふれる芝居をする女の子が、相手役に必要。
彼が無骨で心の内の繊細さを出すことにとまどっていても、それ込みで抱きしめてあやしてしまうような、おおきな力を持った女の子が。
わかばちゃんには、タカラヅカ力と余裕のあるイケメンが、相手役に必要。
彼女が固く棒立ちしていても、それがかわいらしさゆえだと見えてしまうような、包容力のあるキラキラスターが。
たまきちとみゆちゃんのカップルは魅力的だったなあ、と遠く思い出す。
たまきちの足りていない部分、出し切っていない部分を、みゆちゃんが自分の情感に乗せて、さらに発展させてたんだ。
わかばちゃんは、ありえないことだけど、あさこやらんとむとのカップリングを見たかったなと思う。
余裕とユーモアを自然にまとうことのできる、大人のイケメン。キラキラのタカラヅカオーラ。美男美女のとびっきりのロマンス。
あー、わかばちゃんには、濃ゆい花男を組ませてみたいわ……(笑)。
包容力ある大人の男で、とびきりクドい濃ゆい男、ってことで、エマさんとのカップルはよかったんだよなあ(笑)。でもそれは行きすぎだから、もっとふつーに若い美形と、ぜひ。
いやほんと、わたし個人が勝手に思ってるだけで、キャストはみんな役とも相手役とも相性ばっちりで、最高の神演技をしていたのかもしんない。
わたしにだけ、いぶかしく思えただけで。
否定するつもりで書いてはいないの。
たまきちもわかばちゃんも魅力的、だからこそ、じれったい。もったいない。さらにこうだったら……!!という、気持ち。
いろいろ考えたい、口を出したい作品なんだ、『Bandito』。
キライなら、興味ないなら、そんなこと思わないよ。
『Bandito-義賊 サルヴァトーレ・ジュリアーノ-』。
ヒロインのアマ—リア@わかばちゃんの、もどかしさ。
わかばちゃんは、きれいだ。
登場すると、「あっ、美少女だ」「あっ、ヒロインだ」とわかる華がある。
しかし。
役柄は、けっこう選ぶ……気がする。
なんでああも「動かない」んだろう。
動作のことではなくて、芝居が。
アマーリアという女性の情報が、彼女の胎内に全部詰め込まれ、溜め込まれ、外に出て来ない。
だから、見たまま、そこにいる、決められた台詞を喋っている、という、物理的な情報しか得られない。
たしかに脚本が彼女に有利にはなってないんだけど、それにしてもここまで台詞以外の情報が少ないと、もったいない。
相手役との相性の問題もある。
サルヴァトーレ・ジュリアーノ@たまきちは、わかばちゃんがまとった分厚い殻を破らせるような男じゃない。
閉じこもった彼女ごと、まるっと肯定して、自分の内側のみ見ている男だ。
主人公とヒロインが、ふたりして内側見ててもな……。
ようするに、わたしにはふたりが恋愛しているように見えなかったのですよ。
てゆーか、ヒロインいなくていいし。忘れた頃に、「あ、忘れてた」って感じで出て来られても、アタマの軌道修正がめんどくさい。
恋愛、するかもしれない。
そんな予感は見えた。
でもふたりともまだ、14歳の中学2年生なんで、自分の変化や過剰な自意識に手一杯、とても「他人」を見る余裕なんかない。
そんな風に見えた。
外見の話ではなく、精神年齢ね。
ふたりとも大人とされる年齢だけど、精神の発達は遅くてまだようやく思春期かな、と。
それはそれでアリだと思うし、そのあたりを不器用に切なく盛り上げてくれるのはぜんぜんイイ。肉食系だけが恋愛じゃない。
中学生のようなこの子たちがやたらめったらスローなまったりしたペースで恋に落ちる様を描くのかと思ったら、ヒロインの出番も比重も少なくて、なにもはじまらないまま終わっちゃって、拍子抜け。
や、脚本上は「すでにはじまり、とっくに盛り上がっている」的な感じなんだけど。それ、わたしにはわかんないままだった。
芝居は好みの問題だから、わたしにはそう見えた・感じたというだけのことっす。
ふたりの物語がちょー盛り上がってアツアツだと思った人もいるだろうし、そうでなくても、「これくらいの薄い描き方がいい」と思う人もいるだろう。
ただわたしは、「え、あんたらいつ相手のこと好きになったん??」「そんなに大事な相手? なんで??」と、ふたりの場面になるたびに?マークが飛んだので。
だから、惜しいのなー。
恋愛なしで、「義賊」のレッテルと生きていくことになった男の物語として描いてくれればよかったのに。
んな、不自然な、無理矢理感あるヒロイン作らずに。
そしたら仲間たちとかヴィトーさんとか作家さんに、もっと尺を割けたし、彼らに対する主人公の物語を深めることが出来たのに。
ヒロインが必要なら、ジャーナリストを一癖ある大人の女として登場させるとか。ヒロインの片想いに終わるとしても、最後はふたりで旅立つしな。
完全に恋愛ナシで、ねーちゃんをヒロインポジにするとか。今でも、ヒロインより強烈なキャラなんだから、ちゃんと書き込めば面白い役になるはず。
設定倒れというか、ヒロインの設定アイディアにこだわったのはいいけれど、執筆しているうちに、描きたいことがブレていって、でも最初のヒロイン設定にだけは思い入れがあって、そこに固執したためにとっちらかった。……という印象。
書いてるうちに話が変わることなんかいくらでもあるんだから、「今、いちばん書きたいこと」を中心に、最初の設定に大胆にメス入れるとか、すればいいのにー。
と、勝手に思いました。
勝手な想像です。根拠なし。や、根拠あるか、舞台観た感想(笑)。
あとはほんと、相性の問題。
小説じゃなくて、芝居だから。
演じる人によって、文章以上になるものね。反対に、演じる人によっては、行間のない、文章以下になる場合もある。
たまきちにはもっと、情感あふれる芝居をする女の子が、相手役に必要。
彼が無骨で心の内の繊細さを出すことにとまどっていても、それ込みで抱きしめてあやしてしまうような、おおきな力を持った女の子が。
わかばちゃんには、タカラヅカ力と余裕のあるイケメンが、相手役に必要。
彼女が固く棒立ちしていても、それがかわいらしさゆえだと見えてしまうような、包容力のあるキラキラスターが。
たまきちとみゆちゃんのカップルは魅力的だったなあ、と遠く思い出す。
たまきちの足りていない部分、出し切っていない部分を、みゆちゃんが自分の情感に乗せて、さらに発展させてたんだ。
わかばちゃんは、ありえないことだけど、あさこやらんとむとのカップリングを見たかったなと思う。
余裕とユーモアを自然にまとうことのできる、大人のイケメン。キラキラのタカラヅカオーラ。美男美女のとびっきりのロマンス。
あー、わかばちゃんには、濃ゆい花男を組ませてみたいわ……(笑)。
包容力ある大人の男で、とびきりクドい濃ゆい男、ってことで、エマさんとのカップルはよかったんだよなあ(笑)。でもそれは行きすぎだから、もっとふつーに若い美形と、ぜひ。
いやほんと、わたし個人が勝手に思ってるだけで、キャストはみんな役とも相手役とも相性ばっちりで、最高の神演技をしていたのかもしんない。
わたしにだけ、いぶかしく思えただけで。
否定するつもりで書いてはいないの。
たまきちもわかばちゃんも魅力的、だからこそ、じれったい。もったいない。さらにこうだったら……!!という、気持ち。
いろいろ考えたい、口を出したい作品なんだ、『Bandito』。
キライなら、興味ないなら、そんなこと思わないよ。
吸血鬼VS……?@Dear DIAMOND!!
2015年2月11日 タカラヅカ ところでわたし、知らなかったんですが。
『Dear DIAMOND!!』のベニー中心、ヒロインがキサキちゃんの場面。
ベニーの役って、吸血鬼だったんですか?!
観劇前にどこかで、「ベニーが吸血鬼をやる」てのを聞くか読むかしてて。
ちゃんと知っていたわけではなく、それを聞いたことすらわたしのアタマにはなくて。
実際に観て、「ああそういえば、吸血鬼がどうのって言ってたな。これか」と思い至ったぐらいのもので。
ベニーにはお笑いではない、タカラヅカらしいものをして欲しい、させるべきだ、とつねづね思っているものですから。
「これか」と思い至ったときに、期待したのですよ! ベニーで吸血鬼! ベニーで耽美! キャッホウ、そーゆーのが観たかったのよーー!と。
で。
たしかに吸血鬼で耽美な場面なんだけど……。
あ、あれ?
なんか、わたしが期待したモノとチガウ……。
「ベニーで吸血鬼」というと、「吸血鬼役」がベニーになんだと思うじゃん?
「吸血鬼の出る場面」のことだとは、思わないよ!
ベニーさんは、吸血鬼ではありませんでした。
なんかカンチガイ入った、貴族のおぼっちゃま?
理想の女性を求めるのはいいけど、自分の魅力で相手を虜にするのではなく、高そうなダイヤモンドをちらつかせて「これをあげるから」と口説くの??
え~~……それなんか、残念男っすよ……?
んで、そのぼんぼんは、美しい少女@キサキちゃんに出会い、すぐさまフォーリンラブ! ……が。
な、なんと、その美少女は吸血鬼だった!!
ベニーは、獲物の方かよ?!
ふつーは吸血鬼の美形様が、けがれない美少女を獲物にしてしまうんだが……逆か、逆なのか!!
ベニー……(笑)。
草を生やしつつも、たのしく観ました。
キサキちゃんの毒牙に掛かるベニー青年を。
いやもう、キサキちゃんの美しいこと!!
邪悪よ、邪悪なのよ~~、でもそれゆえに、めちゃくちゃ美しいの~~!
この場面、むしろ主役がキサキちゃんで、ベニーはヒロイン? キサキちゃんの魔性の笑みに釘付け。
やだもう、ステキ過ぎる。
キサキちゃんに血を吸われ、ベニーは吸血鬼の仲間入り。ラストはそれらしい黒い笑みを浮かべる……わけだが、やっぱどうも小物感がある、ちゅーか、後ろのキサキちゃんがすごすぎる(笑)。
すみません、所詮わたしヘタレ男スキーで。
ベニーさんの「ダイアモンドあげるから彼女になって」という残念なキャラ設定も、落とすつもりで近づいた女の子が実は格上の存在で、さんざん翻弄され、最後は陵辱(笑)され、その手の中に堕ちて、堕ちただけのことなのに、さも自分が「黒いんです」って感じにかっこつけて笑うオチまでが、すっげー好みです。
やだこのベニー好き~~。ダメダメなとこが萌える~~。ベンヴォーリオにときめいた、あの感覚ですわ……。
ここで重要なのは、キサキちゃんが納得のラスボス感を出しているからですよ?
あの美貌とあの邪悪さ。あの闇の聖少女になら、征服されて悔いなし! と思えるキャラクタだからです。
彼女がステキだからこそ、ベニーがヘタレでも萌えるの。
これが、きれいでも邪悪でもない、ただのコムスメに翻弄されるんだったら、ちっとも萌えない。
だもんで、すっげー楽しい、すっげー素敵な場面。
という認識で。
観劇後、「み」さんに意気揚々とそれを語ったら、さくっと否定された。「ベニーが吸血鬼です」と。
えええ。
宝石で女の子をナンパする、ヘタレぼんぼんぢゃなかったの??
ちゃんとベニーが吸血鬼で、キサキちゃんはデビル……?
なんだそれ??
モンスターなベニーが、格上モンスターに喰われる話……? なんでそんな、ややこしいことを?
必殺技がインフレしてる少年格闘マンガじゃあるまいし、その無駄な特別設定はなんなんだ。
ふつーに吸血鬼と美少女でいいだろうに……アテ書きしたらそうなっちゃったの?
よくわかんないけど、いいや、わたしはわたしの好きなモノを視るから(笑)。
キサキちゃんの毒牙に掛かるベニー、素敵。
耽美だわ。オイシイわ。
『Dear DIAMOND!!』のベニー中心、ヒロインがキサキちゃんの場面。
ベニーの役って、吸血鬼だったんですか?!
観劇前にどこかで、「ベニーが吸血鬼をやる」てのを聞くか読むかしてて。
ちゃんと知っていたわけではなく、それを聞いたことすらわたしのアタマにはなくて。
実際に観て、「ああそういえば、吸血鬼がどうのって言ってたな。これか」と思い至ったぐらいのもので。
ベニーにはお笑いではない、タカラヅカらしいものをして欲しい、させるべきだ、とつねづね思っているものですから。
「これか」と思い至ったときに、期待したのですよ! ベニーで吸血鬼! ベニーで耽美! キャッホウ、そーゆーのが観たかったのよーー!と。
で。
たしかに吸血鬼で耽美な場面なんだけど……。
あ、あれ?
なんか、わたしが期待したモノとチガウ……。
「ベニーで吸血鬼」というと、「吸血鬼役」がベニーになんだと思うじゃん?
「吸血鬼の出る場面」のことだとは、思わないよ!
ベニーさんは、吸血鬼ではありませんでした。
なんかカンチガイ入った、貴族のおぼっちゃま?
理想の女性を求めるのはいいけど、自分の魅力で相手を虜にするのではなく、高そうなダイヤモンドをちらつかせて「これをあげるから」と口説くの??
え~~……それなんか、残念男っすよ……?
んで、そのぼんぼんは、美しい少女@キサキちゃんに出会い、すぐさまフォーリンラブ! ……が。
な、なんと、その美少女は吸血鬼だった!!
ベニーは、獲物の方かよ?!
ふつーは吸血鬼の美形様が、けがれない美少女を獲物にしてしまうんだが……逆か、逆なのか!!
ベニー……(笑)。
草を生やしつつも、たのしく観ました。
キサキちゃんの毒牙に掛かるベニー青年を。
いやもう、キサキちゃんの美しいこと!!
邪悪よ、邪悪なのよ~~、でもそれゆえに、めちゃくちゃ美しいの~~!
この場面、むしろ主役がキサキちゃんで、ベニーはヒロイン? キサキちゃんの魔性の笑みに釘付け。
やだもう、ステキ過ぎる。
キサキちゃんに血を吸われ、ベニーは吸血鬼の仲間入り。ラストはそれらしい黒い笑みを浮かべる……わけだが、やっぱどうも小物感がある、ちゅーか、後ろのキサキちゃんがすごすぎる(笑)。
すみません、所詮わたしヘタレ男スキーで。
ベニーさんの「ダイアモンドあげるから彼女になって」という残念なキャラ設定も、落とすつもりで近づいた女の子が実は格上の存在で、さんざん翻弄され、最後は陵辱(笑)され、その手の中に堕ちて、堕ちただけのことなのに、さも自分が「黒いんです」って感じにかっこつけて笑うオチまでが、すっげー好みです。
やだこのベニー好き~~。ダメダメなとこが萌える~~。ベンヴォーリオにときめいた、あの感覚ですわ……。
ここで重要なのは、キサキちゃんが納得のラスボス感を出しているからですよ?
あの美貌とあの邪悪さ。あの闇の聖少女になら、征服されて悔いなし! と思えるキャラクタだからです。
彼女がステキだからこそ、ベニーがヘタレでも萌えるの。
これが、きれいでも邪悪でもない、ただのコムスメに翻弄されるんだったら、ちっとも萌えない。
だもんで、すっげー楽しい、すっげー素敵な場面。
という認識で。
観劇後、「み」さんに意気揚々とそれを語ったら、さくっと否定された。「ベニーが吸血鬼です」と。
えええ。
宝石で女の子をナンパする、ヘタレぼんぼんぢゃなかったの??
ちゃんとベニーが吸血鬼で、キサキちゃんはデビル……?
なんだそれ??
モンスターなベニーが、格上モンスターに喰われる話……? なんでそんな、ややこしいことを?
必殺技がインフレしてる少年格闘マンガじゃあるまいし、その無駄な特別設定はなんなんだ。
ふつーに吸血鬼と美少女でいいだろうに……アテ書きしたらそうなっちゃったの?
よくわかんないけど、いいや、わたしはわたしの好きなモノを視るから(笑)。
キサキちゃんの毒牙に掛かるベニー、素敵。
耽美だわ。オイシイわ。
わたしにとっての、フェアリー。@Dear DIAMOND!!
2015年2月10日 タカラヅカ とまあ、うだうだ言ってはおりますが。
とどのつまり、『Dear DIAMOND!!』は楽しい。
いろんな意味で、これはグランドフィナーレなんだなと思う。
次期トップも決まっており、良くも悪くもこのカラー、このお祭り状態はここで終わり、今限定の盛り上がり。
理屈は置いておいて、盛大に楽しめばいいんだ!
そしてれおんくんは、その期待に応え、もっとさらに上を見せてくれるビッグスター!!
なんかね、もうね、「これでもか!」とくり出される「柚希礼音」に唸らされる。
もっともっと、貪欲に求める観客に、ただ与えるだけでなく、悠々軽々と、「もっと求めていいんだよ」と言ってくれてる感じ。
いいんですか?
まだいいの? もっといいの? どこまでいいの?
れおんくんの超人ぶりというかサービス精神というか、こちらの遠慮を吹き飛ばしてくれる器の大きさに、フェアリーを感じる。
タカラジェンヌは、フェアリーである。
そう言われるけれど、この「フェアリー」の定義って?
フェアリータイプ、と呼ばれる男役さんは、女装もOKな中性タイプのことだ。
れおんくんのような「漢!!」というタイプは、中性的な意味での「フェアリー」 という言葉にはそぐわない……ように思えるかもしれない。
でも、わたしが思う「フェアリー」は、フェアリータイプとは関係ない。
2.5次元の存在。
マンガやアニメという2次元世界のヒーローたち。
わたしたちの生きる現実、3次元世界。
その中間に存在する、生身の人間だけど、意志を持って「夢の存在」であり続ける人。
夢と現実を混同する気はない。
現実は現実だと、痛いほど知っている。
だからこそ、「夢」を見る。愉しむ。
現実を理解していなければ、夢なんか見ない。
夢を愉しめるのは、意志と知性あってこそだ。
舞台の上で、縦横無尽に活躍するれおんくんに、わたしは「夢」を見る。
現実の足枷など吹き飛ばす、彼の存在に心躍る。
そんなに動いて踊って歌って走り回って、しんどいだろうな、大変だろうな、そこまでがんばらなくていいよ、サービスしてくれなくていいよ、十分だよ……そんな心配を「なんでもないこと」だとさらりと飛びこえてくれる……だって彼は、ふつうじゃないもの、「トップスター」だもの「柚希礼音」だもの……そう思わせてくれる、快感。
わたしの立つ地平から、さらりと彼が、持ち上げるの。
わたしがこだわり、しがみついているいろんなものから、彼がふわりと抱き上げてしまうの。
それだけが、すべてじゃないよと。
ほら、こんなに自由になれるんだよと。
わたしの身体は客席にいるけれど、心が、魂が、れおんくんによって、解き放たれる。
持ち上げて、放たれる。
宙に。
その、快感。
やっぱすげえ、柚希礼音!
彼をフェアリーだと思う。
そうやって、重い身体を地面に這わせているわたしを、飛ばせてしまうのだから。
飛んで見せてくれることによって。
わたしも気がついたら、飛んでるの。
一緒に。
ちくしょう、フェアリーめ。
すごいじゃないか。
たまらないじゃないか。
どこまで行くんだ。どこまでいくんだよ、ちえちゃん。
初日、2階席にいたわたしは、突然のれおんくん登場に、心から感動した。
よろこんだ。
上がった。
本公演なのに、ここまで来てくれた!
2階最前列にいたもんで、中央通路を通るれおんくんはとても遠かったけれど(笑)、振り返って彼の笑顔を眺め、めちゃくちゃしあわせだった。
ステージの上で神輿にまで乗っちゃうれおんくんに、「そこまでやるか!」と膝を打った。拍手した。
神輿を支え、うちわを振る、舞台の上の星組っこたちと気持ちをひとつに、心の中で歓声を上げた。
いや、もお、楽しかったよ。
鼻白む気持ちもある、だけど、一緒に盛り上がる気持ちも間違いなくある。
相反する感覚が、同時に存在する。それはほんとう。
楽しい。終わってしまう。今だけ。楽しい。寂しいけど、楽しい。
それを胸に刻みながら、「今」に酔う。
れおんくんに、星組に酔う。
ああ、おもしろいなあ。
タカラヅカ100年、1世紀かあ。
楽しいよ。
いろんな思いを抱きながら、今もまた、歴史の一部になる。
とどのつまり、『Dear DIAMOND!!』は楽しい。
いろんな意味で、これはグランドフィナーレなんだなと思う。
次期トップも決まっており、良くも悪くもこのカラー、このお祭り状態はここで終わり、今限定の盛り上がり。
理屈は置いておいて、盛大に楽しめばいいんだ!
そしてれおんくんは、その期待に応え、もっとさらに上を見せてくれるビッグスター!!
なんかね、もうね、「これでもか!」とくり出される「柚希礼音」に唸らされる。
もっともっと、貪欲に求める観客に、ただ与えるだけでなく、悠々軽々と、「もっと求めていいんだよ」と言ってくれてる感じ。
いいんですか?
まだいいの? もっといいの? どこまでいいの?
れおんくんの超人ぶりというかサービス精神というか、こちらの遠慮を吹き飛ばしてくれる器の大きさに、フェアリーを感じる。
タカラジェンヌは、フェアリーである。
そう言われるけれど、この「フェアリー」の定義って?
フェアリータイプ、と呼ばれる男役さんは、女装もOKな中性タイプのことだ。
れおんくんのような「漢!!」というタイプは、中性的な意味での「フェアリー」 という言葉にはそぐわない……ように思えるかもしれない。
でも、わたしが思う「フェアリー」は、フェアリータイプとは関係ない。
2.5次元の存在。
マンガやアニメという2次元世界のヒーローたち。
わたしたちの生きる現実、3次元世界。
その中間に存在する、生身の人間だけど、意志を持って「夢の存在」であり続ける人。
夢と現実を混同する気はない。
現実は現実だと、痛いほど知っている。
だからこそ、「夢」を見る。愉しむ。
現実を理解していなければ、夢なんか見ない。
夢を愉しめるのは、意志と知性あってこそだ。
舞台の上で、縦横無尽に活躍するれおんくんに、わたしは「夢」を見る。
現実の足枷など吹き飛ばす、彼の存在に心躍る。
そんなに動いて踊って歌って走り回って、しんどいだろうな、大変だろうな、そこまでがんばらなくていいよ、サービスしてくれなくていいよ、十分だよ……そんな心配を「なんでもないこと」だとさらりと飛びこえてくれる……だって彼は、ふつうじゃないもの、「トップスター」だもの「柚希礼音」だもの……そう思わせてくれる、快感。
わたしの立つ地平から、さらりと彼が、持ち上げるの。
わたしがこだわり、しがみついているいろんなものから、彼がふわりと抱き上げてしまうの。
それだけが、すべてじゃないよと。
ほら、こんなに自由になれるんだよと。
わたしの身体は客席にいるけれど、心が、魂が、れおんくんによって、解き放たれる。
持ち上げて、放たれる。
宙に。
その、快感。
やっぱすげえ、柚希礼音!
彼をフェアリーだと思う。
そうやって、重い身体を地面に這わせているわたしを、飛ばせてしまうのだから。
飛んで見せてくれることによって。
わたしも気がついたら、飛んでるの。
一緒に。
ちくしょう、フェアリーめ。
すごいじゃないか。
たまらないじゃないか。
どこまで行くんだ。どこまでいくんだよ、ちえちゃん。
初日、2階席にいたわたしは、突然のれおんくん登場に、心から感動した。
よろこんだ。
上がった。
本公演なのに、ここまで来てくれた!
2階最前列にいたもんで、中央通路を通るれおんくんはとても遠かったけれど(笑)、振り返って彼の笑顔を眺め、めちゃくちゃしあわせだった。
ステージの上で神輿にまで乗っちゃうれおんくんに、「そこまでやるか!」と膝を打った。拍手した。
神輿を支え、うちわを振る、舞台の上の星組っこたちと気持ちをひとつに、心の中で歓声を上げた。
いや、もお、楽しかったよ。
鼻白む気持ちもある、だけど、一緒に盛り上がる気持ちも間違いなくある。
相反する感覚が、同時に存在する。それはほんとう。
楽しい。終わってしまう。今だけ。楽しい。寂しいけど、楽しい。
それを胸に刻みながら、「今」に酔う。
れおんくんに、星組に酔う。
ああ、おもしろいなあ。
タカラヅカ100年、1世紀かあ。
楽しいよ。
いろんな思いを抱きながら、今もまた、歴史の一部になる。
わたしのなかの矛盾。@Dear DIAMOND!!
2015年2月9日 タカラヅカ 矛盾している。
わたしは、星組次期トップスターとして、みっちゃんが落下傘就任することに、首をかしげた。
星組に、みっちゃんは合わない。
カラーがちがいすぎる。
加えて、星組は今、もっとも人気と勢いのある組だ。
せっかく創り上げたカタチ、勢いよく回っている歯車を、ここで強引に停めるのは得策ではない。
アツく盛り上がった群衆に、水をぶっかけるようなもんだと。
水をかけて、それでどうなる?
いらん軋轢と、固執を生むだけなんじゃないのか?
そう思っていた。
そして、『Dear DIAMOND!!』を観て。
思った。
みっちゃんがこの組に落下傘してくるのは、まさにそのためなのかと。
つまり、水をぶっかけること。
軋轢を生もうが固執を生もうが、関係ない。
今ある状態をリセットする。
それこそが、目的。
楽しいし盛り上がるけれど、「タカラヅカ」という枠から飛びだしている現状。
これをリセットして、「タカラヅカ」に戻すには、みっちゃんという古いタイプの「タカラヅカ」なスターが必要なのか。
わたしはそもそも落下傘人事には否定的だし、トップから2番手への引き継ぎを観たいと思っているクチだ。
また、みっちゃんはトップでもかまわない実力を持つスターだと思っているけれど、かといって、なにがなんでもトップスターにならなければならない、という人だとは、ごめん、思ってない。
そして、星組にみっちゃんは合わないし、今あるものを否定するかのような落下傘人事を目の当たりにするのは、つらいと思う。
それでも。
仕方ないのかも、と思った。
みっちゃんが星組次期トップスターとして、この組にやって来るのは。
矛盾しているね。
星組公演を楽しいと思う。
実際に客席にいれば、わくわくどきどき、とてもとても、盛り上がる。
れおんくんという、圧倒的なスターが見せてくれるモノに酔う。
それと同時に、タカラヅカらしくないベクトルに盛り上がっていることに、危惧を感じる。
その感覚が、そのまま今回の星組人事に結びついた。
楽しいし、すてきだと思う。
今の星組、今の盛り上がり。
だが、一度リセットする必要は、あると思う。
「タカラヅカ」の本筋に、戻すために。
わたしは、星組次期トップスターとして、みっちゃんが落下傘就任することに、首をかしげた。
星組に、みっちゃんは合わない。
カラーがちがいすぎる。
加えて、星組は今、もっとも人気と勢いのある組だ。
せっかく創り上げたカタチ、勢いよく回っている歯車を、ここで強引に停めるのは得策ではない。
アツく盛り上がった群衆に、水をぶっかけるようなもんだと。
水をかけて、それでどうなる?
いらん軋轢と、固執を生むだけなんじゃないのか?
そう思っていた。
そして、『Dear DIAMOND!!』を観て。
思った。
みっちゃんがこの組に落下傘してくるのは、まさにそのためなのかと。
つまり、水をぶっかけること。
軋轢を生もうが固執を生もうが、関係ない。
今ある状態をリセットする。
それこそが、目的。
楽しいし盛り上がるけれど、「タカラヅカ」という枠から飛びだしている現状。
これをリセットして、「タカラヅカ」に戻すには、みっちゃんという古いタイプの「タカラヅカ」なスターが必要なのか。
わたしはそもそも落下傘人事には否定的だし、トップから2番手への引き継ぎを観たいと思っているクチだ。
また、みっちゃんはトップでもかまわない実力を持つスターだと思っているけれど、かといって、なにがなんでもトップスターにならなければならない、という人だとは、ごめん、思ってない。
そして、星組にみっちゃんは合わないし、今あるものを否定するかのような落下傘人事を目の当たりにするのは、つらいと思う。
それでも。
仕方ないのかも、と思った。
みっちゃんが星組次期トップスターとして、この組にやって来るのは。
矛盾しているね。
星組公演を楽しいと思う。
実際に客席にいれば、わくわくどきどき、とてもとても、盛り上がる。
れおんくんという、圧倒的なスターが見せてくれるモノに酔う。
それと同時に、タカラヅカらしくないベクトルに盛り上がっていることに、危惧を感じる。
その感覚が、そのまま今回の星組人事に結びついた。
楽しいし、すてきだと思う。
今の星組、今の盛り上がり。
だが、一度リセットする必要は、あると思う。
「タカラヅカ」の本筋に、戻すために。
わたしの、求めるモノ。@Dear DIAMOND!!
2015年2月8日 タカラヅカ 今現在、もっとも人気があり、勢いがあるのが、星組だ。
人気がある、ということは、それが多くの人に求められている、ということだ。
客商売であり、エンタメであるのだから、その時代時代に「求められている」ものを提供すべきだ。
星組が今もっともアツく、求められている……というならば、劇団は「今の星組」を維持継続させることに、心血を注ぐべきだ……とは、思う。
……思うけど、それはどうか、星組さんだけでやってください、他組は「古いタカラヅカ」のままでいて。と、思う。
わたしが好きなのは、「古いタカラヅカ」なんだ。
それを、しみじみと思い知らされた。
『Dear DIAMOND!!』を観て。
『Dear DIAMOND!!』は、ふつーに楽しいショーだった。
しかし。
わたしは、『Dear DIAMOND!!』って作品を観に来たつもりだった。
星組の、本公演。組子全員出演する宝塚歌劇団の基本公演。芝居とショーの二本立て、いちばん基本となる形式の興行。
『REON!!III』を観に来たつもりは、まったくなかった。
ので、けっこう鼻白んだ。
舞台に「REON」って電飾が輝き、主題歌もスター個人の名前を繰り返す。
えっとこれ、「本公演」だよね? スター個人のコンサートじゃないよね……?
初日だから、客席はコアでディープなファンで埋め尽くされていたのだと思う。
だから、そのためだと思う。
ファンばかりだから、反応がよりディープなのだと。
団体客や一見さん、観劇文化自体未体験な一般の方々……そんな人たちが客席に極端に少なかったためだと、思う。
が。
当たり前に歓声の上がる「タカラヅカ」の大劇場本公演、というのは、なかなかめずらしいと思う。
いちばん人気の組の、いちばん熱気ある客席。
えーとこれが、今の主流? 「今」求められているモノ……?
だ、だとしたらわたし、チガウかも……。
わたしの求めるモノじゃないかも……。
感動したら歓声を上げるのではなく、拍手をする。そういう「参加」の仕方が精一杯の、地味でおとなしい、ひと昔もふた昔も前の、舞台観劇、でいい。
黙って坐って、静かに観劇したい。感動したい。
しかし、それじゃもう、いかんのかなあ。
今の時代、きゃーきゃー叫んじゃうようなエンタメでないと、受けないのかなあ。
時代によって、変わっていいとは、思っているの。
100年前となにひとつ同じでなくてはならないとか、型のひとつひとつを寸分違わずコピーすることだけに固執する必要はないと思っているの。
コトバも音楽もお化粧も、時代によって変化していい。
『黒豹の如く』は古くて見てられないと思う。現代でコレはないと思う。
が、『Dear DIAMOND!!』は「現代らしい」のかもしれないが、「タカラヅカ」的ではないと思う。
難しいな。
『Dear DIAMOND!!』の『REON!!』的な部分が、サヨナラショーなら「ふつう」だと思うの。だってサヨナラショーは「組」の本公演ではなく、「スター個人」のショーだから。
『PHOENIX宝塚!!』でも感じた、「なんでコレを本公演でやる? サヨナラショーでしろよ」が、さらにさらに顕著になった感じ。
フジイくんは「サヨナラショー請負人」だと思うし、そういう演出のうまい人ではあると思ってる。でも。
最近の彼の作品は、スターにおもねる部分が強すぎる。
「組」の本公演、宝塚歌劇団の「看板公演」「ひとつの独立した作品」だという意識が、希薄になっている気がする。
そしてわたしは、「組」の本公演という、ひとつの作品を観るつもりで行くから、ギャップにとまどう。置いてゆかれる。
れおんくんをはじめとする、スターの魅力で十分楽しめてしまう、実際楽しい……のだけど、心にきしみが残る。「これ、チガウ」と。
フジイくんは、「ファンが観たがるモノ」「ファンが求めるモノ」を作ったんだと思うよ?
だから、「組」の公演ではなく、れおんくん個人のコンサートになったんだろう。今のタカラヅカと今の星組は、れおんくんあってのもので、組子もファンも「組」公演よりも、れおんくん個人コンサートを求めている、のだろう。
求められているモノを差し出したから、星組は人気組でこの公演はチケット完売の超人気公演なんだもの。
商売として正しい姿なんだけど、わたしが求める「タカラヅカ」とは、チガウなあ。
楽しいんだけど。
人気がある、ということは、それが多くの人に求められている、ということだ。
客商売であり、エンタメであるのだから、その時代時代に「求められている」ものを提供すべきだ。
星組が今もっともアツく、求められている……というならば、劇団は「今の星組」を維持継続させることに、心血を注ぐべきだ……とは、思う。
……思うけど、それはどうか、星組さんだけでやってください、他組は「古いタカラヅカ」のままでいて。と、思う。
わたしが好きなのは、「古いタカラヅカ」なんだ。
それを、しみじみと思い知らされた。
『Dear DIAMOND!!』を観て。
『Dear DIAMOND!!』は、ふつーに楽しいショーだった。
しかし。
わたしは、『Dear DIAMOND!!』って作品を観に来たつもりだった。
星組の、本公演。組子全員出演する宝塚歌劇団の基本公演。芝居とショーの二本立て、いちばん基本となる形式の興行。
『REON!!III』を観に来たつもりは、まったくなかった。
ので、けっこう鼻白んだ。
舞台に「REON」って電飾が輝き、主題歌もスター個人の名前を繰り返す。
えっとこれ、「本公演」だよね? スター個人のコンサートじゃないよね……?
初日だから、客席はコアでディープなファンで埋め尽くされていたのだと思う。
だから、そのためだと思う。
ファンばかりだから、反応がよりディープなのだと。
団体客や一見さん、観劇文化自体未体験な一般の方々……そんな人たちが客席に極端に少なかったためだと、思う。
が。
当たり前に歓声の上がる「タカラヅカ」の大劇場本公演、というのは、なかなかめずらしいと思う。
いちばん人気の組の、いちばん熱気ある客席。
えーとこれが、今の主流? 「今」求められているモノ……?
だ、だとしたらわたし、チガウかも……。
わたしの求めるモノじゃないかも……。
感動したら歓声を上げるのではなく、拍手をする。そういう「参加」の仕方が精一杯の、地味でおとなしい、ひと昔もふた昔も前の、舞台観劇、でいい。
黙って坐って、静かに観劇したい。感動したい。
しかし、それじゃもう、いかんのかなあ。
今の時代、きゃーきゃー叫んじゃうようなエンタメでないと、受けないのかなあ。
時代によって、変わっていいとは、思っているの。
100年前となにひとつ同じでなくてはならないとか、型のひとつひとつを寸分違わずコピーすることだけに固執する必要はないと思っているの。
コトバも音楽もお化粧も、時代によって変化していい。
『黒豹の如く』は古くて見てられないと思う。現代でコレはないと思う。
が、『Dear DIAMOND!!』は「現代らしい」のかもしれないが、「タカラヅカ」的ではないと思う。
難しいな。
『Dear DIAMOND!!』の『REON!!』的な部分が、サヨナラショーなら「ふつう」だと思うの。だってサヨナラショーは「組」の本公演ではなく、「スター個人」のショーだから。
『PHOENIX宝塚!!』でも感じた、「なんでコレを本公演でやる? サヨナラショーでしろよ」が、さらにさらに顕著になった感じ。
フジイくんは「サヨナラショー請負人」だと思うし、そういう演出のうまい人ではあると思ってる。でも。
最近の彼の作品は、スターにおもねる部分が強すぎる。
「組」の本公演、宝塚歌劇団の「看板公演」「ひとつの独立した作品」だという意識が、希薄になっている気がする。
そしてわたしは、「組」の本公演という、ひとつの作品を観るつもりで行くから、ギャップにとまどう。置いてゆかれる。
れおんくんをはじめとする、スターの魅力で十分楽しめてしまう、実際楽しい……のだけど、心にきしみが残る。「これ、チガウ」と。
フジイくんは、「ファンが観たがるモノ」「ファンが求めるモノ」を作ったんだと思うよ?
だから、「組」の公演ではなく、れおんくん個人のコンサートになったんだろう。今のタカラヅカと今の星組は、れおんくんあってのもので、組子もファンも「組」公演よりも、れおんくん個人コンサートを求めている、のだろう。
求められているモノを差し出したから、星組は人気組でこの公演はチケット完売の超人気公演なんだもの。
商売として正しい姿なんだけど、わたしが求める「タカラヅカ」とは、チガウなあ。
楽しいんだけど。
終焉の、さらにその先。@黒豹の如く
2015年2月7日 タカラヅカ 『黒豹の如く』を観終わって……というか、観ている最中からずっと感じていた、いちばんの感想は演出が中村Aでなくてよかった!!だった。
これで演出が中村Aだったら、どうなっていたか。
物語として成り立ってない基本からおかしい、おかしいけど破天荒ではなくひたすら地味で盛り上がらない脚本を、書いてあるままに忠実に、さらに平板で暗転てんこ盛りで退屈極まりない作品に仕上げたんだろうなあ。
謝先生は柴田先生の意識の向かう先とはチガウ方向を見てる人だとは思うけど、同じとこ見て一緒に自滅する可能性大なんだから、別方向に盛り上げる意欲があるのは救いじゃないかな。
とりあえず謝せんせのダンスはきれいで、ドラマチックだった。脚本にドラマがないので、ダンスや演出で盛り上げようと渾身の努力をしてくれたんだろうなあ。
植爺もそうだけど、名前ばかりの巨匠様の作品に異を唱えられる人はいないのか。「ここ、おかしいですよ」と進言できる人はいないのか。
先生様の玉稿には一切手出し無用畏れ多い!!……てなもんなのかな。
や、柴田せんせの昔の作品は良いモノが多いし、わたしも大好きなモノがたくさんあるんだけど……今現在、駄作メーカーなのはたしか。謝せんせとのコンビ復活だからマシになるかと期待したんだけど無理だったか。
中村Aと組んだ『霧のミラノ』よりはマシかなあ? 演出がひどいのは言うまでもないが、まず脚本自体ありえない出来だったもんな。駄作をそのまんま演出しました、そしたら目も当てられない駄作になりました、てな。
でも『霧ミラ』は退団公演じゃなかったしな。ご贔屓が『霧ミラ』退団だったら成仏できんかったやろなあ。
わたしはちえねねのガチファンではないので、ファンの気持ちはわからないけれど、『黒豹の如く』のちえねねって、ファンが見たいちえねねなのかな?
作品が駄作でも話がぶっ壊れていても、退団するトップコンビのファンが「こんな〇〇さんが見たかった! 〇〇さんを眺めているだけでしあわせなので、話が壊れてるとかどうでもいい」と満足しているなら、いいのか。
れおんくんはもちろんナニやってもカッコイイんだけど、「ナニをやってもカッコイイから、この役もカッコイイ」だけで、「この役だから、さらにカッコイイ」わけじゃない。
どうせなら、「れおんくんだからこそカッコイイ」役とか、「今までよりさらにカッコイイ」役を、見たかったな。
ストーリーがおかしいから、単体でカッコ良くても、結局カッコ良く見えないんだけど……わたしには。アホしか出て来ない物語じゃ、どうしようもないもんよ……。
以前わたしは、「ある「クリエイター」の終焉。」という観劇感想を書いた。
そのときは、パートナーさえ変わればあるいはまだ……、と思っていたけれど。
もう、そんなレベルじゃないな。寂しいけどね。
それでも未だに、「柴田先生は神、『黒豹の如く』がつまらないとしたら、それは神作品を表現しきれない出演者が悪い」「神作品をぶち壊す演出をした演出家が悪い」「高尚な作品を理解出来ない、低脳な観客が悪い」「真の名作を受け入れない、時代が悪い」ってことになるのかなー。
柴田せんせ以外のすべてが悪い、ってことになるかしら。うふふあはは。
……ありそうでこわい(笑)。
これで演出が中村Aだったら、どうなっていたか。
物語として成り立ってない基本からおかしい、おかしいけど破天荒ではなくひたすら地味で盛り上がらない脚本を、書いてあるままに忠実に、さらに平板で暗転てんこ盛りで退屈極まりない作品に仕上げたんだろうなあ。
謝先生は柴田先生の意識の向かう先とはチガウ方向を見てる人だとは思うけど、同じとこ見て一緒に自滅する可能性大なんだから、別方向に盛り上げる意欲があるのは救いじゃないかな。
とりあえず謝せんせのダンスはきれいで、ドラマチックだった。脚本にドラマがないので、ダンスや演出で盛り上げようと渾身の努力をしてくれたんだろうなあ。
植爺もそうだけど、名前ばかりの巨匠様の作品に異を唱えられる人はいないのか。「ここ、おかしいですよ」と進言できる人はいないのか。
先生様の玉稿には一切手出し無用畏れ多い!!……てなもんなのかな。
や、柴田せんせの昔の作品は良いモノが多いし、わたしも大好きなモノがたくさんあるんだけど……今現在、駄作メーカーなのはたしか。謝せんせとのコンビ復活だからマシになるかと期待したんだけど無理だったか。
中村Aと組んだ『霧のミラノ』よりはマシかなあ? 演出がひどいのは言うまでもないが、まず脚本自体ありえない出来だったもんな。駄作をそのまんま演出しました、そしたら目も当てられない駄作になりました、てな。
でも『霧ミラ』は退団公演じゃなかったしな。ご贔屓が『霧ミラ』退団だったら成仏できんかったやろなあ。
わたしはちえねねのガチファンではないので、ファンの気持ちはわからないけれど、『黒豹の如く』のちえねねって、ファンが見たいちえねねなのかな?
作品が駄作でも話がぶっ壊れていても、退団するトップコンビのファンが「こんな〇〇さんが見たかった! 〇〇さんを眺めているだけでしあわせなので、話が壊れてるとかどうでもいい」と満足しているなら、いいのか。
れおんくんはもちろんナニやってもカッコイイんだけど、「ナニをやってもカッコイイから、この役もカッコイイ」だけで、「この役だから、さらにカッコイイ」わけじゃない。
どうせなら、「れおんくんだからこそカッコイイ」役とか、「今までよりさらにカッコイイ」役を、見たかったな。
ストーリーがおかしいから、単体でカッコ良くても、結局カッコ良く見えないんだけど……わたしには。アホしか出て来ない物語じゃ、どうしようもないもんよ……。
以前わたしは、「ある「クリエイター」の終焉。」という観劇感想を書いた。
そのときは、パートナーさえ変わればあるいはまだ……、と思っていたけれど。
もう、そんなレベルじゃないな。寂しいけどね。
それでも未だに、「柴田先生は神、『黒豹の如く』がつまらないとしたら、それは神作品を表現しきれない出演者が悪い」「神作品をぶち壊す演出をした演出家が悪い」「高尚な作品を理解出来ない、低脳な観客が悪い」「真の名作を受け入れない、時代が悪い」ってことになるのかなー。
柴田せんせ以外のすべてが悪い、ってことになるかしら。うふふあはは。
……ありそうでこわい(笑)。
目指せ、甲子園!!@黒豹の如く
2015年2月6日 タカラヅカ アントニオ@れおんは野球部のエース。去年の甲子園でも大活躍、「黒豹」のあだ名で親しまれる、地元の英雄。
今年の甲子園予選は目の前! 今年もやるぜ!! 野球のユニフォームも学ランも似合っちゃうぜ!なステキ野郎。
そんな彼を、突然生徒会長(白学ラン着用)のアラルコン@ベニーが、生徒会室へ呼び出した。
「キミは大変優秀な選手だ。実はキミを、サッカー部が引き抜きたいと言っている。これからの時代はサッカーだ、野球なんて古い古い」
野球選手をサッカー部に引き抜いてどうするのか意味不明だけど、生徒会長は自信満々。やだこの人気持ち悪い、と、アントニオはさくっと断った。
「ワタシの誘いを断るなんて!! 生徒会長の誇りにかけてワタシに従わせてやる!」
……アラルコンはなんか意地になっている模様。
アントニオは最近元カノ・カテリーナ@ねねちゃんとイイ感じ。
もともとラヴラヴカップルだったのに、家庭の事情でカテリーナは退学、ふたりは泣く泣く別れることになった。が、カテリーナの事情が変わったために、なんの障害もなし、いつでもLOVE準備オーケーで再会したんだ。
アラルコンは脈絡ないけど、カテリーナを脅すことにした。
「悪い噂を流してやる。それが嫌ならワタシの言うことを聞け」
「わたしは潔白、なにも悪いことなんてしてないわ」
「でも、噂を流すのは簡単だからなー、なにもなくても悪口書いてネットに流せばいいだけだしなー」
アラルコンはアントニオにもちゃんと宣言する。
「サッカー部に移籍しないと、カテリーナがどうなると思う? ふふふ」
アントニオとカテリーナは困惑。
「生徒会長がなんかわけわかんないこと言ってるんだけど?」
「わたしをどうこうしたって、アナタが部活のことで考えを変えるわけないのに」
冷静に考えてくれ。野球部のエースをサッカー部に移したからと言って、そこで活躍出来るかどうかは、わからない。
運動神経抜群だから、ジャンルが違っても一流だとしても。
脅されて、嫌々移籍して、それで、どうなるんだ?
「会長はこれからもずーーーーっとキミのことで、オレを脅し続けるのかな? サッカーの全国大会が終わるまで? それともオレが卒業するまで? オレが言う通りにしないと、カテリーナがどうなるかわからないぞと」
「継続して脅し続けないと意味ナイから、そうするつもりなのかしら。ずいぶん気の長い話ね」
「最初に断った時点でもう無理だと、なんでわからないんだ? 脅されて移籍しても、なんの役にも立たないのに」
「わたしへの脅しにしたって、わたし自身になんの落ち度もないけど、悪い噂を流すぞって……脅迫するにしろアタマが悪すぎて、反応に困ったわ」
でもアラルコンは、
「すべては学園祭の日に決着をつけよう。ふはははは」
と、盛り上がっている。
えーと、なんで学園祭?
「黒豹先輩が、よくわかんないけど大変なことになってる!」
野球部のメンバーたちも、なんか騒いでる。
「カテリーナがなんか大変みたい。ああっ、おそろしいことになっているんだわ! あたしこわい!!」
カテリーナの友人も勝手に盛り上がってる。
で。
「すべては学園祭だ!!」
……よくわかんないけど、野球部のみんなもそのガールフレンドたちも、わざわざ仮装して学園祭で踊りまくる。
なんで学園祭なのか、野球部のみんながどうして仮装してダンシング!なのか、答えはないまま悪の生徒会長は仲間の裏切りにより自滅した。
「え、ナニこれ意味わかんない」
「もともと意味なかったし」
……黒豹くんは最初から英雄で、元カノとはラブラブで、なんの障害もなかった。
誰ひとり成長も発見も新展開もなく、スタート時点と変わらずに終了。
「ひとりだけいるよ! 生徒会長自滅したし」
「もともと変な人が、ひとりで変なことして、ひとりで終了しただけで、誰にも関係ないし」
「野球モノだと思った人は、びっくりしただろうね。ポスターはユニフォーム着て甲子園云々のあらすじが書いてあるから」
「間違いじゃないよ、野球部員の話で、ユニフォーム着てるもん」
「野球してないけどー♪」
あはははは。
登場人物たちは明るく未来に向かっていきました。
「学園祭、楽しかったねー。コスプレも楽しかったねー」
☆
『黒豹の如く』ってこんな話です。
えっと、初日観劇。その帰り道、勢いだけで記す(笑)。
今年の甲子園予選は目の前! 今年もやるぜ!! 野球のユニフォームも学ランも似合っちゃうぜ!なステキ野郎。
そんな彼を、突然生徒会長(白学ラン着用)のアラルコン@ベニーが、生徒会室へ呼び出した。
「キミは大変優秀な選手だ。実はキミを、サッカー部が引き抜きたいと言っている。これからの時代はサッカーだ、野球なんて古い古い」
野球選手をサッカー部に引き抜いてどうするのか意味不明だけど、生徒会長は自信満々。やだこの人気持ち悪い、と、アントニオはさくっと断った。
「ワタシの誘いを断るなんて!! 生徒会長の誇りにかけてワタシに従わせてやる!」
……アラルコンはなんか意地になっている模様。
アントニオは最近元カノ・カテリーナ@ねねちゃんとイイ感じ。
もともとラヴラヴカップルだったのに、家庭の事情でカテリーナは退学、ふたりは泣く泣く別れることになった。が、カテリーナの事情が変わったために、なんの障害もなし、いつでもLOVE準備オーケーで再会したんだ。
アラルコンは脈絡ないけど、カテリーナを脅すことにした。
「悪い噂を流してやる。それが嫌ならワタシの言うことを聞け」
「わたしは潔白、なにも悪いことなんてしてないわ」
「でも、噂を流すのは簡単だからなー、なにもなくても悪口書いてネットに流せばいいだけだしなー」
アラルコンはアントニオにもちゃんと宣言する。
「サッカー部に移籍しないと、カテリーナがどうなると思う? ふふふ」
アントニオとカテリーナは困惑。
「生徒会長がなんかわけわかんないこと言ってるんだけど?」
「わたしをどうこうしたって、アナタが部活のことで考えを変えるわけないのに」
冷静に考えてくれ。野球部のエースをサッカー部に移したからと言って、そこで活躍出来るかどうかは、わからない。
運動神経抜群だから、ジャンルが違っても一流だとしても。
脅されて、嫌々移籍して、それで、どうなるんだ?
「会長はこれからもずーーーーっとキミのことで、オレを脅し続けるのかな? サッカーの全国大会が終わるまで? それともオレが卒業するまで? オレが言う通りにしないと、カテリーナがどうなるかわからないぞと」
「継続して脅し続けないと意味ナイから、そうするつもりなのかしら。ずいぶん気の長い話ね」
「最初に断った時点でもう無理だと、なんでわからないんだ? 脅されて移籍しても、なんの役にも立たないのに」
「わたしへの脅しにしたって、わたし自身になんの落ち度もないけど、悪い噂を流すぞって……脅迫するにしろアタマが悪すぎて、反応に困ったわ」
でもアラルコンは、
「すべては学園祭の日に決着をつけよう。ふはははは」
と、盛り上がっている。
えーと、なんで学園祭?
「黒豹先輩が、よくわかんないけど大変なことになってる!」
野球部のメンバーたちも、なんか騒いでる。
「カテリーナがなんか大変みたい。ああっ、おそろしいことになっているんだわ! あたしこわい!!」
カテリーナの友人も勝手に盛り上がってる。
で。
「すべては学園祭だ!!」
……よくわかんないけど、野球部のみんなもそのガールフレンドたちも、わざわざ仮装して学園祭で踊りまくる。
なんで学園祭なのか、野球部のみんながどうして仮装してダンシング!なのか、答えはないまま悪の生徒会長は仲間の裏切りにより自滅した。
「え、ナニこれ意味わかんない」
「もともと意味なかったし」
……黒豹くんは最初から英雄で、元カノとはラブラブで、なんの障害もなかった。
誰ひとり成長も発見も新展開もなく、スタート時点と変わらずに終了。
「ひとりだけいるよ! 生徒会長自滅したし」
「もともと変な人が、ひとりで変なことして、ひとりで終了しただけで、誰にも関係ないし」
「野球モノだと思った人は、びっくりしただろうね。ポスターはユニフォーム着て甲子園云々のあらすじが書いてあるから」
「間違いじゃないよ、野球部員の話で、ユニフォーム着てるもん」
「野球してないけどー♪」
あはははは。
登場人物たちは明るく未来に向かっていきました。
「学園祭、楽しかったねー。コスプレも楽しかったねー」
☆
『黒豹の如く』ってこんな話です。
えっと、初日観劇。その帰り道、勢いだけで記す(笑)。
花組公演ラインアップと新公主演発表。
2015年2月5日 タカラヅカ 本日発表の情報に反応。
(メモ書きからのコピペなので、なんか箇条書きテイスト……)
・マイティ新公主演
万歳!!
ひとりっこ政策反対、いろんな人に主演させるべき。
「新公主演=トップ確約」ではない。
その後「人気爆発したのに、新公主演してないから扱いに困る」という最悪事態を作らないために、「商売として」新公主演者を複数作るのは正しい。
もっとも大きな間違いは、「実力も付かず、人気も出ない人に新公主演させて、本人やファンをカンチガイさせること」ではない。やらせてみることは、間違いじゃない。
「実力も付かず、人気も出ない人に、えんえんえんえん新公主演やバウ主演をさせ続けて、さらに人気を落とし、他の人の機会を奪い続けること」だ。
つまり、ひとりっこ政策反対、いろんな人に新公主演させるべき。
つまり、マイティ主演万歳。
・花組公演ラインアップ発表
『新源氏物語』『Melodia -熱く美しき旋律-』
『新源氏物語』か!!
正統派源氏物語キターーッ!
花組には昔、『あさきゆめみし』という黒歴史があってな……!!
芝居を作るセンスも、そもそも少女マンガを理解する能力もないおじさんが、無理矢理「仕事で、仕方なく」作った大駄作。できないならやめとけよ……!としか言えない、誰にとってもいいことのなかった作品。
その酷い作品が「源氏物語でござい」と人の記憶に新しいもんだから、ほんとにもお、心から、「正しい源氏物語」の上演がうれしい。
みりおくんの光源氏は、さぞや美しかろう。
わたしは『新源氏物語』自体、映像でしか見たことがナイ。
映像で見る舞台中継は苦手、だって映像は所詮映像、ナマで観た舞台の「思い出」認識。てなわたしが、ナマ舞台観てないのに映像で見ただけだから、正当な評価じゃない、平板っつーか退屈な思いで「はー、古い映像ねー、出てる人ほとんど知らねー、演技のテイストも古いわー、ふーん、ほー、へー」と低いテンションで、それでもなんか謎の義務感で最後まで見て。
え? なんかコレ、面白くね?! と、思った。
映像だし苦手だし流し見だし。
それでも、なんか、心に残る作品だった。
ナマで、見てみたい。そう思える作品だ。
だから、うれしい。
映像は所詮映像。本当の舞台を、観たい。
大野くんだし、美しく仕上げてくれるだろう。
併演のショーの方は……中村Bっすか……。
や、中村B自体は手堅くていいんだけど。
中村Bのショーって、ダンシング・ショーだよね……人海戦術でものすげー人数がつねに舞台にいて、踊りまくるのよね……。
みりおくんとかのちゃんで、ダンシング・ショーかぁ。
海外の振付家とか呼んで、ハードなダンスやるの……? みりおくんもかのちゃんもキキくんも、どっちかっつーとダンス苦手なひとなのに?
これまたハードル高いのを持ってくるなぁ。
みりおくんだと、お耽美でまったりしているミキティとか、ダンス軽視(アイドルお手振り振付)でコスプレ命のサイトーくんとか、特性を活かせそうなのにな。なんつってもその美しいビジュアルを活かして。
(メモ書きからのコピペなので、なんか箇条書きテイスト……)
・マイティ新公主演
万歳!!
ひとりっこ政策反対、いろんな人に主演させるべき。
「新公主演=トップ確約」ではない。
その後「人気爆発したのに、新公主演してないから扱いに困る」という最悪事態を作らないために、「商売として」新公主演者を複数作るのは正しい。
もっとも大きな間違いは、「実力も付かず、人気も出ない人に新公主演させて、本人やファンをカンチガイさせること」ではない。やらせてみることは、間違いじゃない。
「実力も付かず、人気も出ない人に、えんえんえんえん新公主演やバウ主演をさせ続けて、さらに人気を落とし、他の人の機会を奪い続けること」だ。
つまり、ひとりっこ政策反対、いろんな人に新公主演させるべき。
つまり、マイティ主演万歳。
・花組公演ラインアップ発表
『新源氏物語』『Melodia -熱く美しき旋律-』
『新源氏物語』か!!
正統派源氏物語キターーッ!
花組には昔、『あさきゆめみし』という黒歴史があってな……!!
芝居を作るセンスも、そもそも少女マンガを理解する能力もないおじさんが、無理矢理「仕事で、仕方なく」作った大駄作。できないならやめとけよ……!としか言えない、誰にとってもいいことのなかった作品。
その酷い作品が「源氏物語でござい」と人の記憶に新しいもんだから、ほんとにもお、心から、「正しい源氏物語」の上演がうれしい。
みりおくんの光源氏は、さぞや美しかろう。
わたしは『新源氏物語』自体、映像でしか見たことがナイ。
映像で見る舞台中継は苦手、だって映像は所詮映像、ナマで観た舞台の「思い出」認識。てなわたしが、ナマ舞台観てないのに映像で見ただけだから、正当な評価じゃない、平板っつーか退屈な思いで「はー、古い映像ねー、出てる人ほとんど知らねー、演技のテイストも古いわー、ふーん、ほー、へー」と低いテンションで、それでもなんか謎の義務感で最後まで見て。
え? なんかコレ、面白くね?! と、思った。
映像だし苦手だし流し見だし。
それでも、なんか、心に残る作品だった。
ナマで、見てみたい。そう思える作品だ。
だから、うれしい。
映像は所詮映像。本当の舞台を、観たい。
大野くんだし、美しく仕上げてくれるだろう。
併演のショーの方は……中村Bっすか……。
や、中村B自体は手堅くていいんだけど。
中村Bのショーって、ダンシング・ショーだよね……人海戦術でものすげー人数がつねに舞台にいて、踊りまくるのよね……。
みりおくんとかのちゃんで、ダンシング・ショーかぁ。
海外の振付家とか呼んで、ハードなダンスやるの……? みりおくんもかのちゃんもキキくんも、どっちかっつーとダンス苦手なひとなのに?
これまたハードル高いのを持ってくるなぁ。
みりおくんだと、お耽美でまったりしているミキティとか、ダンス軽視(アイドルお手振り振付)でコスプレ命のサイトーくんとか、特性を活かせそうなのにな。なんつってもその美しいビジュアルを活かして。