今さらだけど『ドン・カルロス』のいろんなこと。

 カルロス@キムとレオノール@みみの関係、心の矢印の証し方がうまいなあと。

 わたしは片想いスキーなので、今回カルロスの爆裂片想いっぷりがツボ。
 オープニングの狩り場からひとりはぐれた形で銀橋に登場したカルロスは、その孤独を歌い「こんな自分が愛する人は……」と話を展開させる。
 ここではまだ、「愛する人」の名前は出さない。

 だけど、「♪その人の名は……」のあとに、登場した女官を見て、「レオノール」と呼ぶんだよね。
 名前は言っていない。でも、言ったのと同じ。
 うれしそうに笑う。
 子どもの頃の話なんかをはじめる。
 カルロスが、現れた女官に友好的なことがわかる。
 なのにその女官……レオノールは、聞いちゃいねえ。

 レオノールはお役目大事。主のイサベル@あゆみをエスコートすることしか考えてない。
 「思い出の場所でなつかしい子に会えた」とうれしげなカルロスとの、温度差。

 カルロスの愛する人は誰なのか。
 わたしたちはトップスターの相手役はトップ娘役だと知っているから、最初からネタバレしているわけだけど、ふつうに作品だけ脚本演出だけ見ると、わざと伏せられている。

 タカラヅカで、「愛しているし、それを隠すわけではないけれど、この場ではあえて伏せている」という構成はめずらしいと思う。
 全年齢対象のわかりやすく短時間で起承転結するエンタメであるタカラヅカでは、トップスターが誰を愛しているかは、いつだって即表現が基本。誰を愛しているのかわからない状態を作る時間もなければ、観客にそんな機微を求めもしない。
 スターはいつも、愛に一途、一直線。愛を表現しない・できない状況……「恋に落ちたけど気づいていない」とか「禁断の恋に耐えている」とかならアリだけど、それ以外はアモーレ、ジュテーム、愛をうるさく訴える。

 カルロスが誰を愛しているのか。
 それは次の場面、王の謁見に引き継がれる。

 結ばれない相手との恋をほのめかすカルロスに、フェリペ二世@まっつはイサベルとの関係を疑う。

 ミステリ的な展開ですな。
 ちゃんと段階踏んで疑惑が大きくなるようにしてある。

 カルロスがようやく心の内を言葉にするのはさらにあと、学友たちと別れ、自室にひとりになってから。
 ……ひとりにならないと、愛する人のことも想えない。家族にも、友だちにも、真実は打ち明けられない。そんな孤独な王子。
 仲間とはぐれたひとりぼっちの銀橋で、心の内を歌っていたように。

 銀橋で「みなに愛されうらやまれる立場だが、本当は孤独だ」と歌った、その歌が真実であると、なんの誇張も嘘偽りもないと、実際に父や民、友人たちとの関係を見せることで、観客に提示したんだよね。
 マドリードの民たちはあんなにカルロスを慕っている。フアナ@リサリサやルイ・ゴメス@がおりもカルロスを愛し、かわいがっている。友人たちからは尊敬と愛情を受けている。実の父フェリペ二世とは隔たりがある。
 銀橋の歌、そのままだ。
 同じ様式で表現して見せ、そこから「愛する人」の話へつながる。なんて計算された構成。

 「♪その人の名は……」と、銀橋の歌の続きを、歌う。
 ここではじめて、ようやく。
 「レオノール」と名を呼ぶ。

 あの女官がそうだったのか。観客ははじめて知るわけだ。
 フェリペ二世がイサベルとの関係を疑ったように、観客も「ひょっとして?」と揺れるわけだから、正解を得て記憶を振り返り「そういえば、冒頭で会ったときにやたらうれしそうだったし、イサベルの勝手な行動でレオノールが責められないか、やたら気にしてたよな」と思い、「なるほど、そういうことだったのか」と納得する。

 主人公の愛の矢印をあえて伏せて、疑惑とそれゆえの行動を周囲に起こさせる。
 構成上伏せてあるだけで、主人公にブレはない。
 だから愛の矢印を明かしたところから、物語がふたつ進みはじめる。カルロスが愛しているレオノールとの物語と、カルロスが愛していると周囲が勝手に思っているイサベルとの物語が。

 また、カルロス自身の矢印はレオノールに向いていると提示されたが、レオノールがどうなのか、これまたすぐには明かされない。
 ヅカではめずらしい。

 ここまで引っ張ってようやく「愛する人はレオノール」と脚本上明かしたカルロス。
 解禁!とばかりに愛を歌う。
 そこへ、愛するレオノール自身が現れる。

 これも、冒頭場面と同じ展開。孤独の表現→愛する人の名は→レオノール登場。
 切ないことに、そのあとの展開も同じ。
 愛する人を思っていたら、その人自身が現れた。愛が通じた?とか、やっぱり運命の赤い糸で結ばれている?とか、盛り上がって当然、実際カルロス、テンション上がりまくり。
 なのにレオノールは、お役目大事、仕事でやってきただけで低温。カルロス空回り。

 レオノールが来た!とわかった瞬間のカルロスの舞い上がりっぷりと、仕事できただけだとわかったときの落ちっぷりの、差がすごい。

 立場的にろくに会えない、会っても言葉を交わせない初恋の幼なじみと、なつかしい場所で再会、でもやっぱりろくに話せなかった……その夜に、部屋まで忍んで来てくれたら、そりゃ舞い上がるって。期待するって。
 もっと話したかった、そう思ったのは自分だけじゃなかった。女の身で、男の寝室の下まで忍んでくるなんて、そこまでさせてしまった・してくれるなんて、感激!

 大喜びするカルロス。
 恋愛モード全開で庭へ降りて。
 肩すかしくらったときの、顔。

 「ノーラ(はぁと)」と甘さ全開だったのに、またですます調に戻ったり。

 切ない。
 切ないよカルロス!

 レオノールは立場をわきまえ、自分の心を見せない。ついこぼれてしまいそうになるが、凛と律する。

 カルロスとしては、ここは愛の告白、プロポーズ場面なんだよね。
 子どもの頃の誓い、「生涯懸けて愛し抜く」を口にしたわけだから。

 なのに、レオノールには拒絶。
 子どもの頃から思い続けた相手に、振られた。
 身分を理由にしているし、実際その通りなんだけど、身分を超えるほど愛してくれていないってことで。いや、超えるほど愛されたとして、カルロスになにができるわけでもなく。

 あらゆる意味で、失恋。

 だから、もう二度と会わない。会えない。
 カルロスは笑って、おどけて、「遠く離れてあなたのしあわせを祈ります」と告げる。
 相手に負担をかけない。どんなときも、相手を思いやる。それがカルロス。
 たったひとつの愛を失ってなお、道化のように笑う。
 言葉を絞り出したあと、顔を歪めて走り去る。泣き顔を見せないために。

 そんなカルロスの想いを、レオノールはすべてわかっている。
 ずーっと伏せられていたレオノールの真実が明かされるのが、そのあとの場面。

 カルロスが去ったあとの、レオノールの背中が切ない。
 愛する人を拒絶して、傷つけて。強がらせて。泣きたいのに相手のためにあえて笑う、そんなことまでさせて。
 ふたりともが、ふたり分、傷ついて。
 ひとり歩き出す、レオノールの背中が切ない。

 ここまで伏せられてきた、ここまで耐えてきた、レオノールの想いが爆発する。
 彼女の愛の矢印がどこへ向かっているのか、正解がようやく明かされる。

 うまいよなあ、この構成。
 満天の星の中、おなじ旋律で愛を歌うレオノールとカルロス。

 愛を拒絶されたカルロスもまた、変わることなくレオノールを思っている。
 この愛は、損なわれることがない。相手に否定されたからって、自分の思いは変わらない。

 カルロスとレオノールの物語は、互いの矢印の向きが確認されたところで、一旦完結、一部完、はいここでCM、みたいな。
 しかし、矢印が伏せられていたことでスタートした、もうひとつの物語が進行している。
 すなわち、カルロスがイサベルを愛していると誤解している人たちの物語。


 キムシンなのに、構成が密でびびります(笑)。
 うまいよね。
 『ドン・カルロス』の、カルロス@キムの友人関係について、考える。

 カルロスは、貴族の若者たちを「親友」と呼ぶし、若者たちもカルロスを「親友」と呼ぶ。

 でも実際、親友ぢゃないよね?

 まず、ポーザ侯爵@ちぎは、絶対ちがう(笑)。
 3年前にネーデルラントに渡り、最近帰国したそうな。国王陛下がおぼえてないくらい(笑)、宮廷から遠い人間だったらしい。

 じゃあ言葉だけなの、カルロスに友だちはいないの?

 ほんとの意味で友だちだったのって、フアン@ヲヅキだけかもなあ、と思う……。

 というのも、カルロスにタメ口を利くのは、フアンだけだからだ。

 身分ゆえ、かもしれないが、アレハンドロ@翔くんなんか、カルロス的にはかなりくだけた態度を取っているのに。
 羽交い締めにしたりして、男の子らしいじゃれ方をしている。……のに、アレハンドロの方は敬語を崩さず、しかも「崇拝してます!」てな態度。

 学友たちとの場面は、カルロスがいっそ可哀想になる。
 線を引いているのは、友人たちの方だ。カルロスは「親友」だからと歩み寄っているのに、そのアレハンドロたちからすればカルロスは親友ではなく、あくまでも「殿下」なんだ。
 なついているのも「殿下」だから? ……そう思わせてしまう距離感が、寂しい。

 そりゃカルロスも「誰も本当の私を知らない」とひとり銀橋で歌っちゃうわけだよ。
 親友なんて名前だけ。本当にカルロスと同じところに立つ者はいない。

 両者に隔たりがあるのはたしかだけど、悲しいけれど、それでも貴族の若者たちは、あきれるほど素直で純粋だ。
 線を引かれることでカルロスは孤独感や絶望感を持っているかもしれないけれど、それでもこの若者たちを愛していたんだろう。
 彼らの無垢な瞳は、孤独な王子の救いとなっていただろう。

 ネーデルラントの惨状を嘆く彼らは、本当に二心ナシ、心から義憤に憤っているんだ。

 若者たちソングで、実は毎回泣けるんだ。
 祖国の偉大さを語り、未来を信じる若者たち。
「♪太陽のもと 正々堂々と 声を上げて歩こう」

 正々堂々と。
 別に「見なかった」ことにしてもいい、他人の苦しみを見過ごせず、我がことのように憤る若者たち。
 責任を取る覚悟は出来ていない、所詮子どもの正義だけど、正義は正義。真心は真心。
 「自分さえよければ、他人なんかどうでもいい」とは思わないんだ。
 弱きものに手を差し伸べることを、「正しい」と思っている。いや、それをして当然、しないことは「間違ったこと」と、思っている。

 彼らの高潔さ、幼い自尊心が、キラキラとまぶしい。

 若いっていいなあ。
 わたしみたいな年寄りは、若者の若さゆえの誇りと驕りを見ると、泣けてくるのよ。じんとして。
 愛しくて。

 もしもこのあと、カルロスが処刑されていたら、彼らは傷つくんだろうなあ。
 自分たちが、幼い正義感で「正しいことをするオレ、かっけー!」程度の気持ちで持ち込んだネーデルラント問題で、尊敬する殿下が殺されてしまったら。

 クララ@あんりの死がトラウマになって人生曲がっちゃったポーザ侯爵並に、若者たちも人生歪みそうだ。


 若者たちの幼さは、カルロスと次元が違う。
 そのことからも、カルロスに友だちはいなかったんだろうなあ、と思う。

 フアンとは一緒に育ったそうなので、もう少しくだけた関係があったのかもしれない、あって欲しいと願う。
 そうでないと、双方気の毒だ。

 カルロスがほんとうにひとりぼっちだったと思うのも、「だから私にもお前がわかる」と断言するフアンが、独り相撲だったりするのも、悲しいもの。


 脚本的に、関係らしきものが描かれているのは、フアンとアレハンドロ止まりだと思う。

 んで、アレハンドロはちょっと不思議というか、消化できない部分がある、わたし的に。

 彼はクチを開くと「殿下大好き」「殿下のためなら命も喜んで投げ出す」と、かなりヘタレな風情で言っている。
 翔くんがへたっぴなため、彼の台詞はいちいち幼くて、アタマ良くない感じがすごくするんだわ。
 自分で考えて言っているというより、「偉大なる殿下様がこうおっしゃるので、ありがたくこう受け止めております、はい」って感じに聞こえる。他人から右を向けって言われたら右を向くんだろ的トホホさっていうか。

 なのにこのアレハンドロくん、カルロスがネーデルラントを救う件を拒絶したときに、すげー冷たい目で、カルロスを見ている。
 ヘタレな太鼓持ちにしか見えないのに、何故そこで悪役並みの表情でカルロスをねめつけているの??

 アホなのは演技? ほんとはカルロスを軽蔑していて、口先だけで追従していいるの?
 それともネーデルラント問題を拒絶されたから、そのとき限定で怒っているの? にしても、その目つきは「親友とこの一件でのみ意見が合わなかった」ときにする目じゃないよ?

 そのわずかな場面と、それ以外のときの別人ぶりがものすごくて、よくわかんない……(笑)。
 深い演技プランがあってやっているのか、それをわたしが理解できていないだけか、あるいは単にそのう、技術不足で表現できていないだけなのか。
 アレハンドロは大変なキャラだなあ(笑)。

 翔くんがどーゆーつもりでやっているのかわかんないけど、冷たい目をした彼は、ごっつーカッコイイ。美形だからなあ、翔くん。

 てゆーか、アレハンドロ・ファルネーゼ、って、綺麗な名前だわ……『銀英伝』に出られそうなくらい(笑)。


 カルロスと友人たちの関係も、もう少しちゃんと描いて欲しかったなあ。
 それが「結局、王子としての表面しか見てくれない、名前だけの親友たち」という設定であったとしても。
 スカステがあるって、すばらしいことだ。

 しみじみと、実感。

 というのもだ、昨日「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」を見て自分的に大騒ぎしていた、AB型コーナーの、手をつなぐちぎまつが、肝心の「ザ・タカラヅカV雪組特集」には、カケラも存在しなかったんだ。
 いや~~、そんな気はしてたんだけど(笑)。

 「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」では、AB型コーナーだけで、数種類の撮影をしていたの。
 何種類も、ポーズやコンセプトを変えて、えんえん撮影してるけどさあ、血液型コーナーって、そんなに何種類も写真載ったっけ? ふつー1ページだよね? その1ページに、なんショットも入れてくれたっけ?
 ヘタすると1ショットのみ、こんだけ何種類もある写真のほとんどはボツとして世に残らないんぢゃ……?

 危惧しては、いた。
 いたけど、まさに予感的中。悪い予感は当たるもの。
 なんかいちばん、画としてつまんない構図のモノが、選ばれてる……。

 巻末のおまけコーナーの写真の方が、画面としておもしろいと思うんだけどなー。
 で、わたしがハクハクしていた手つなぎショットは、たぶん画面としてはいちばんまともだったと思う。隣の人となにかしらつながって同じ方向を見つめているわけだから、グループショットとして絵になる……つまり、いちばんふつう。
 構図として優れているかどうかではなく、「AB型は、誰にも理解できません」という1文を言いたいためだけに選別されているわけだから、あのいちばんアレなものが選ばれちゃったんだろうなあ。残念。

 他の血液型の人たちだって、スカステで見た別構図の方がおもしろかったし、黒燕尾だって、全員一列にちょこんと坐っていた可愛らしいショットも掲載されてないし……誌面に限りがあるのはわかるが、残念なチョイスだなあ。

 そしてなにより、キムみみ。

 スカステと誌面では、リボン写真の印象違いすぎ……(笑)。

 スカステでは、まず冒頭にそれぞれの単品写真撮影風景として、リボンを手に巻いたショットがあり、血液型コーナーを挟んだ後半に、キムみみのコンビ写真撮影風景があった。
 起の部分でチラ見させた伏線(個々のリボン)を、転の部分でばーんと盛り上げたわけだ。リボンにぐるぐる巻きになるキムみみで。

 それが、いざ雪組本では、そんな構成にはなっておらず、ふつーにキムくんコーナー(ひとりでリボン)、見開きでキムみみ(ふたりでリボン)、みみちゃんコーナー(ひとりでリボン)という順番。
 ひとりとひとりが出会って運命で、というより、右と左と真ん中、というだけに見えた。右(キム)、真ん中(キムみみ)、左(みみ)という、ページの順番なだけ(笑)。
 しかも真ん中の、ふたりでリボンの写真、せっかくのリボンを巻いた腕が、ページのノドのところに来ていて、ぱっと見わからない……。

 スカステを見ずに、いきなりこの雪組本見たら、キムみみのリボンに感銘は受けなかったろうなあ……。

 素材はいいはずなのに、いまいち盛り上がらないのは、本のデザインをした人と、わたしの嗜好が合わないんだと思う。
 なんにもしてない、キムみみの写真まんまの力ですげー破壊力の表紙が、いちばんイイ……ナニか意図が加わっている、中の構成はいまいちだ……。


 てことで、スカステがあって良かった。
 組本に載っている写真は膨大な映像・画像の中の、ほんのわずかなものに過ぎないんだもんなー。
 ちぎまつの手つなぎを見られたこと、キムみみのリボンに泣けたこと、映像は偉大だ、スカステさんありがとう!(笑)


 でもって。

 組本撮影やインタビューって、『ドン・カルロス』のお稽古中とかムラ公演中にされていた……よねえ? 話している内容的に、この頃だよね?
 その時点で、キムくんの退団が決まってないっぽいのが……。

 キムくんはもちろんのこと、他の人たちもみんな、「新生雪組がようやく落ち着いてきた」「さあ、これからだ!」と思っている感じなのが、もお……。
 当たり前に、「未来」を語っている……。「これから」を語っている……。

 そりゃ、退団が決まっていても発表するそのときまでは「まだまだがんばります!」と言うのがタカラジェンヌのお約束だけど、インタビュー時点では発表前でも、発売日が発表後なら、インタビューで「わたしは卒業が決まっていますが、最後の日まで成長し続けたいと思います」とか、語ることは可能じゃん?
 トップスター人事はかなり前から決まっていて、ソレに合わせてすべてのスケジュールが綿密に組まれているものなんでしょう?
 退団発表後に「音月桂率いる雪組の薔薇色未来の宣伝」を1冊かけてやっても機会損失、むしろ「残り少ない音月桂の舞台を盛り上げよう」テーマの方が企業としても正しいし、ファン感情に沿っているのでは?
 キムみみをはじめ、「このメンバーでこれからもっとがんばるぞ!」とわくわく話している姿が、切ない……。

 や、わたしがそう受け取っただけで、他の人には「どっから見ても退団を前提にした話しかしてないじゃん!」かもしんないけどさー。


 キムみみの写真集出してほしいなあ。
 かわいこちゃんとか幼いやつはもういいから、組本表紙の路線で。
 ゴシックな洋館舞台に、美青年@キムと彼の人形@みみとか、そーゆーちょっと病んだ系の設定が見てみたい……。
 あ、執事@まっつと、館に偶然迷い込んでしまった旅人@ちぎもヨロシク。
 猫がなかなか帰りたがらなかったために、15分遅れでテレビの前に坐った。

 「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」ファーストラン。
 もちろん録画予約はしてあったので(しかも同時に2本・笑)、アタマから追っかけ再生する。

 ヅカヲタ歴はそこそこだが、贔屓が3番手内に食い込んでいるってのは、はじめての経験。(最初の贔屓はド路線様でトップになったが、当時はスカステがなかった)
 オープニングからがっつりUPになる贔屓にびびる。さ、さんばんめって、こういうことなのか……。
 今まではほんと、その他の人々のところに映るだけだったもんなああ。

 と、立場のありがたさに感動しつつ、雪組トップコンビから続く美しい画面に見入っておりました。キムみみちぎまっつ……ほんとに、なんてなんて美しい人たちなんだろう。
 ただほんとに、ぼーっと観賞していた。

 ああまっつ、またその髪型なのね……と思いつつ(笑)。

 そうこうするうち。

 えっ? と、思った。

 えっ? ちょっと待って、今?
 今、まっつ、手ぇつないでた、よね? 手が映ったよね? まっつの手が誰かの手を握っていて、その手の相手が誰か映る前に、画面が別ショットに切り替わったよね?
 見えなかったのは、わたしのせい? わたしがぼーっとしていたから?
 いや、実はちゃんと見ていた?

 まっつ、ちぎくんと手つないでたよね?

 自分が目にしたモノを咀嚼しきれなくて、一瞬ぐるぐるして、はっと気づく。
 そうだこれ、録画じゃん! 巻き戻して確かめればいいんだ!

 ええ、巻き戻して確認しました。
 血液型別グループ写真、AB型の面々。シックな黒衣装に身を包んだ人々が、隣の人とどこか一カ所触れるカタチでぐるりと輪になっている、という絵。
 肩に手を置いていたり、握っていたり、目線はみんな上、つながっているのに誰も目を合わさない、というシュールな姿。
 ちぎくんを起点に、カメラはぐるーっとメンバーを映していく。雪組、AB型多い……(笑)。
 ぐるりと回ったカメラは、最後にまっつを映す。彼でちょうど一周。きゃびいに肩へ手を置かれることでつながり、まっつ自身は誰かと片手をつないでいる。
 つないで、いる。
 ぎゅっとはしていない。なんか控えめに、他人行儀に(笑)、まさしく「つないでいる」って感じに、つながっている。
 そこで、カメラが切り替わる。
 やっぱり、まっつがつないでいるのが誰の手か、映してくれていなかった。

 でも、あれって。

 人間の視界というかアタマって不思議なモノで、別々の画面を見ても、脳内で再構成できるんだよね。
 ちぎくんからスタートした画、ちぎくんとまっつが隣同士に坐っていた画、それぞれ別の画面だったのに、脳内で結びつく。

 まっつが握っていた手は、ちぎくんの手だ。

 ちぎくんは映ってなかったのに、途中で画面変わったのに、ぼーっと見ていたわたしが「ちぎくんと手をつないでいるところまで映った?」と、ナイものを見たよーな気がしてしまったくらいに。

 いやあ……興奮した(笑)。

 ちぎくんと手をつなぐ、まっつ。
 だからナニってもんだが、盛り上がった。わたし的に(笑)。

 なにしろわたしは『ロミオとジュリエット』を最高峰の大好き作品としている人間で。
 マーキューシオとベンヴォーリオのコンビに、萌え狂った者で。
 ちぎまつ! ちぎまつ!
 『ロミジュリ』が最初で最後、以来まーーったく組んでくれないふたりだから、飢えてますのよ。

 あの遠慮がちな手の握り方がたまらん(笑)。

 AB型がシュールかつ美しい画だったので、他の血液型もそうくるのかと思いきや、B型はキュートでA型はお笑い、O型はカオスだった……。
 そして何故、血液型コーナーのトップがAB型だったのかを理解した……ふつーにA・B・O・ABとか、血液型表記順とかで映せないわけだ……これでAB型がラストだったりしたら、拍子抜けもいいとこだ……。

 ちぎまつで萌えまくり、他の血液型のみなさん見てウケまくっていたのに。

 そのあとに続くコーナー、トップコンビ・ポートにて。

 まさかの涙腺決壊。

 萌えたり笑ったり泣いたり、忙しいな自分。
 ツッコミ入れるけど、どうしようもない。

 番組最初のコーナーで、ひとりずつの写真撮影場面で、キムくんもみみちゃんも、それぞれ腕にリボンを巻き付けていたんだ。
 ひとりずつ、がそうだから、「へえ。雪組本の個人写真は、リボンを腕に巻くのが統一テーマなのか」と思った。
 ところが、みみちゃんの次のちぎくんは、リボンを巻いてない。続くまっつも、巻いてなかった。あれえ? 統一テーマってわけじゃないのか。
 疑問に思ったけれど、それ以上は考えず、次の血液型コーナーに夢中になった。

 そしたら。

 トップコンビの写真で、リボンの謎が解けた。

 キムみみは、互いの腕をリボンでひとつにしていた。

 向かい合ったふたりの腕が、リボンでぐるぐる巻きだった。

 ひとりずつ、腕にリボンを巻いていた。
 ひとりで生きるときに、腕にあったリボン。
 キムのリボン。
 みみのリボン。

 それが、ふたりが出会うことで、ひとつになった。

 運命の、ふたり。

 いや、もお……。
 がつんときた。
 ナニこれ。
 油断していた。
 血液型コーナーで、笑ったあとだってば。
 そこにこんな。

 次のショットでは、キムみみは背中合わせに大きなリボンでラッピングされていた。
 相似形のふたり。
 それぞれ別なんだけど、同じ魂を持つ美しいふたり。宿命の恋人同士のような。双子の兄妹のような。
 お菓子のような。オーナメントのような。

 別れが、待っているのに。

 ふたり一緒に在ることが運命である、この美しいふたりは、あとわずかな間で終わってしまう。失われてしまう。
 砕け散る一瞬前の硝子細工。溶けて消えてしまう前の雪の結晶。

 そんな馬鹿な。

 こんなにこんなにうつくしいのに、なぜおわってしまうの。

 どうして。
 組本の発売を知った頃は、ただ無邪気に楽しみにしていられた。
 トップコンビが決定し、ようやく2作目の本公演。波乱と混乱でスタートしたキムくんの時代が、今ようやく落ち着き、これから本番がはじまる……そう、気持ちを新たにしたところだった。
 前回の公演は演目がひどかったけれど、今回は芝居もショーも良作、芝居は癖があるから万人向きではないかもしれないけれど、ショーは全方向性のザ・タカラヅカ的な佳作だ。ようやく風がキムくんと雪組に向いてきた……そう思っていた、矢先のこと。

 嵐の中、守ってきた芽が育ち、明るい陽を浴びて葉をのばし、これからつぼみがつく……ってところで、引きちぎられた痛みと悲しみ。まだ花びらの色すらわからない、青いままのつぼみだ。何故咲くまで、待ってくれなかったのか。
 2年しか時間がないと決まっていたのなら、何故花壇を荒らし、前に咲いていた花を毟り取り、花はおろか生き物が育ちそうもないくらい破壊しまくったのか。
 壊れた花壇を元に作り直す時間も与えられず、嵐の中それでも芽吹いていたのに。


 しあわせな組本特集番組で、切なくて大泣きしました……。

 はー、年寄りは涙もろくていかんやね。

 雪組のみんなは、かっこよくてかわいくて、美しくてたまらんです。
 今の雪組が好き。キムみみが好き。大好き。


 しかし、黒燕尾の舞台化粧は、濃すぎるんじゃないかと老婆心(笑)。
 飼い猫に手を噛まれ、右手が使えない状態の今、なんで発表あるかな……。うおお、手ェ痛いよー、でもとりあえず書く~~。
雪組 宝塚大劇場公演・東京宝塚劇場公演『JIN-仁-』一部の配役 決定(2012/05/08)
【宝塚大劇場】
雪組
『JIN-仁-』
『GOLD SPARK!-この一瞬を永遠に-』

公演期間:2012年10月12日(金)~11月12日(月)
主な配役 出演者
南方 仁 音月 桂
橘 咲 舞羽 美海
坂本 龍馬 早霧 せいな
勝 海舟 北翔 海莉
橘 恭太郎 未涼 亜希
※北翔海莉は、7月2日付で専科へ組替えとなります。
※北翔海莉は、『GOLD SPARK!-この一瞬を永遠に-』にも出演いたします。
※その他の出演者、主な配役は決定次第、ご案内いたします。


 みっちゃん、次の雪組公演出るのか……。

 みっちゃん出演は、複雑です。
 サヨナラ公演でさえなければ、通常のキムくん主演公演ならば、「歌ウマ同期揃い踏み!」とか、のんきに楽しめたと思います。
 しかし、キムくんのサヨナラ公演なんだよ……。

 演目からして、退団用でないことが丸わかりで(ショー解説に後付けでそれっぽいことを1行付け加えてお茶濁し)、ナガさんもおらず、組子も若干変わり、再出発感の高い状態での、腑に落ちない突然の退団発表。
 このうえまだ、イレギュラーを付け加えるのか……。

 劇団はどこまで、雪組を掻き回せば気が済むんだろう。

 キムくんのサヨナラ公演が、よいものになることを、心から祈ります。


 ただ、まっつファンとしては、ささやかなことだけど、ほっとしました。

 橘恭太郎キターーッ!!

 原作はまともに読んでない(昔、雑誌でとびとびにパラ読みした程度)、ドラマではじめてちゃんと作品を知った程度の人間なんで、深い造詣をもっての感想じゃないけど。
 ドラマを見る限り、男役は仁と龍馬以外、大きな役はない印象だった。
 で、龍馬役はちぎちゃんに決まっている。んじゃ、まっつはナニをやるんだろう、と考えて。
 恭太郎さんだったらいいなあ、とは思っていた。
 でも。
 なにしろ、まっつだ。
 主人公のパパとかヒロインのパパとか、おっさん役しかさせてもらえない人だ。
 今さら、ヒロインの兄なんて、させてもらえるだろうか。
 もう老け役専門、専科のおじさま的な役しか、回ってこない可能性も、ある。フェリペ二世だってアリエルの父だって、とても重要なやり甲斐のある役だ。それが不服なわけじゃない。
 ただ、ここがタカラヅカである以上、若者役を演じる贔屓も見てみたいのよ……いつも40歳overの役ぢゃなくて。

 緒方洪庵役かもしれない、と、マジで思っていた……(笑)。

 勝海舟は考えなかった。キャラ的に医者だよね、ってことで、洪庵先生。それに、勝海舟はドラマでは出番ほとんどなかったので、洪庵先生の方が主要人物かなと。
 ちなみに、ドラマでは武田鉄矢です、洪庵先生……。まっつなら、小出恵介より武田鉄矢だろ、イメージ的に……。いやその、おっさん役ばっか割り振られる人、という意味で。

 なのにまさかの、若者役。
 小出くんの役ですよ?! わたしの中で「姫」認定の萌え俳優、小出くん!(笑) 

 演出がサイトーくんなんで、ろくに出番も比重もないとしても、ビジュアルだけでも楽しみにできる。
 堅物美青年! なんかやたらと悩みまくり、うじうじなんかもしちゃう人!

 それと、もうひとつ。

 仁先生@キムくんのことを、「命の恩人」「尊敬」「大好き」な役!

 キムくんが大人で、まっつが小僧っこ!
 でもってまっつがキムくんを好き!
 そんなふたりを、見られる。

 そのことを、この演目の、心の支えにします。


 てゆーか。
 キムくん、辞めるのやめないかなあ。
 キムくんのサヨナラ公演でなければ、ただただ楽しみな公演なのに。
 まったりのんびり、未涼亜希『ドン・カルロス』『Shining Rhythm!』東宝お茶会の話。
 レポではなく、あくまでもわたし個人の感想。
 わたしのフィルターを通したまっつ話なので、真実と違っているんだろうが、無問題。わたしはわたしの目でまっつを追う。

 走り書きしたメモは、お茶会の最初の方しかないため、後半に話していたことはもう忘却の彼方。
 メモがなんで最初の方しかないかって、そりゃ時間とか気力とかがもたなかったんだわな(笑)。

 お茶会の前半が公演の話。
 撮影会のあと、後半にテーブルを回りつつプレゼントを渡したり「男役らしいポーズ」を取ったり、なにかネタ的なことをやらされていたと思う。
 そのへんはすでによくおぼえていない。

 だからとりあえず、おぼえている公演の話。

 前日欄の「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」にしろ、その次の「イサベル王妃に愛情が芽生えたのはいつか?」にしろ、「マントの扱いには慣れましたか?」にしろ、質問の内容がなんであれ、最初の反応って、一貫している。

 質問される。
   ↓
 反射的に、飾り気のない「本音」がバサーッと返る。

「ショーのスペインの場面、殺されてせり下がるときの気持ちはどうですか?」
   ↓
「セリに入ってるかな」

「ショーの光と影の場面で、せり上がりの気持ちは?」
   ↓
「しんどいな」

 身もフタもない(笑)。

 正直かつ、回転の速い人だと思う。
 計算したり取り繕ったりする前に、すぱんと言葉にする。
 その言い方が、なんとも「切り捨てている」感があるというか、「突き放している」感があるというか、独特。
 まっつを好きな人には、たまらん部分だろうなあと思う。

 話の内容は、ファン目線ではない。
 これを言うとファンが喜ぶとか、ファンはこれを聞きたがっているとか、そーゆー視点では一切回答しない。
 あくまでも、自分がどう思ったかのみを口にする。

 そういった意味では、ファンサービスに欠けるので、エンターティナー的な話術やもてなしを期待して行くと、肩すかしかもな。
 でも、お茶会なんて基本ファンしか行かないわけだし、まっつのそのすぱーんとした話し方自体を愛でられる、楽しめる人には癖になる楽しさがある(笑)。

 正直だからこその、毒舌。

 しかし、無神経でも無礼でもない。

 すぱーんと切り捨てたのち、ちゃんとバランス感覚のあるフォローを入れる。
 せり下がりで気にしているのが、「セリに入ってるかな」だけなの? そんなもんなの? と、びっくりさせておきながら。

「それまでが、セリ線確認できてないんですよ」と、その場面の説明をする。そう考えるのが仕方ないこと、当然であることを。

 「しんどいな」って、そんなこと言っちゃっていいの? と、びっくりさせておきながら。

 ずっと動いているとそうでもないが、止まってるとかえってしんどいものだということや、せっかくの盆を回してのせり上がり、気持ちよくやらせてもらっているということを、ちゃんと伝える。

 アタマが良くて、一般的な感覚も持ち合わせた人の毒舌は、気持ちいいもんだ。
 笑いを取るためとか、リップサービスでSな発言をするわけじゃない。
 素のまま突き放して、あとから解説やフォローを入れる、この繰り返しは面白い。
 突き放されて、助け起こされるのよ? なにそのツンデレ効果。


 書いてるうちに思い出してきた。
 影の話のときに、髪型のことも出たんだった。
 乱れ髪が素敵ですね、てな話題に、やっぱりまずはすぱっと切り捨てて、突き放して、そのあとでたらたらと解説してた(笑)。

 あの素敵な乱れ髪は、てきとーだそうですよ。

 とにかく時間がなくて、さくっとやっているだけなので、そのときの手癖次第、偶然の産物、同じ髪型にしろと言われても二度と出来ない系の、その場限りのヘアスタイルらしい(笑)。
 たまたまそうなった、ってだけだから、緻密な計算にて、このウェーブが、とか、このラインが、とかはないらしい。
 好みの乱れ具合を見られたら、それはラッキー☆ってことなんだよな。

 ……いや、そんな予感はしていたよ……きっと、わたしだけでなく、多くの人が……ひょっとしたら、ほとんどの人が……(笑)。


 しかし、まっつへの質問は難しいよなあ。
 大抵のことは「ないです」「考えてません」系の返事だもんなー。しかもそれがすぱっと突き放し系……。
 なかにはすぱっと返せず「うーん」と考え込んじゃうときもあるけど。

 多角的にいじれる質問内容で、突き放されてもさらにいじれる系のネタを仕込んでおくのが、対まっつには必要なんじゃないかと思ったり。

 いや、外野だからそんな風に思うのであって、実際はいろいろと難しいんだろう。わたしにそんな返しが出来るとも思えないから、ほんと、できもしないことをうだうだ言っているだけですよ。


 キムくんの卒業に関しての言及は一切なし。
 個人的コメントを挟む気はないんだろうな。
 大人というか、プロだなという感じ。や、実際大人でプロなんだけど。タカラジェンヌはそれだけでない部分、ゆるさやあまさも愛でるモノだから、まっつのそーゆー線の引き方がちょっと寂しくもあったり。
 それと同時に、さもありなん、と誇らしくもあったり。

 つくづく、未涼亜希という人は、「舞台の上の姿」を裏切らない人だと思う。
 どんな役を演じていようと、舞台上のまっつがそのまま、素のまっつにつながっている。

 生きる、姿勢が。

 わたしは基本、ジェンヌさんに舞台の上だけしか興味を持たないし、ナマに近づくこともないのだけど、まっつのお茶会に違和感がないのはそーゆーことかなと思う。
 しあわせだ。
 かーなーりー、時間は経ってしまったけれど、未涼亜希『ドン・カルロス』『Shining Rhythm!』東宝お茶会の話。

 手元にあるのは、帰りの夜行バスを待つ間に端末に書き殴った箇条書きの質疑応答メモ。
 それと、「真夜中のラブレター」ばりにドリーミングして、その場で書いた短いテキスト。

 それを元に、お茶会を通した、まっつの感想を書き残す。
 レポぢゃない、あくまでも、わたしがどう思ったか、という話。


 ファンとスターには、感覚に隔たりがあるんだなあ、と思った。

 これは今回に限ったことじゃないんだが、お茶会の司会者の発する質問の意図と、まっつの回答に、感覚のズレがある。

 司会者がどこまで理解して話しているのかわかんないけど、質問自体は大抵「ああ、この質問を書いた人はこーゆーことが聞きたいんだな」「まっつのここに萌えているからこそ、ここがこうなって、結果この質問にたどり着いたんだな」と想像が付く。
 なのに、実際に司会者が読み上げる質問は、質問本来の意味から遠くなっている。
 そして、その遠くなった質問事項を、まっつがまたチガウ方向で受け止めて、「質問に含まれた萌え」とまったく縁もゆかりもない、無関係な答えになって終了する。

 今回それが顕著だな-、と思ったのは、

「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という質問。

 まっつが演じているのはフェリペ二世。
 主人公ドン・カルロス@キムくんの父。

 この質問に、まっつは本気でいぶかしげに、

「……ハァ?」

 と返した。

 まっつとしては、とても心外な質問だったらしい。

 だって父親役。父親の気持ちがないと演じられない。んなもん、役を演じる上で、最初からある。

 ここだけ抜き出せば、とても失礼な質問だ。
 ロミオに対し、「ジュリエットを愛するキモチは芽生えましたか?」と聞くようなもん。ロミオを演じている役者は「ハァ?!」と思うだろう。芽生えるもナニも、ロミオとジュリエットだよ? ロミオがジュリエットを愛さなかったらナニもはじまってない。
 ナニ、オレの演技からは、ジュリエットを愛してるって見えない・感じられないってこと??

 オレの演技からは、父親の気持ちがあるよーに見えないってこと?? ……と、まっつに思われても、仕方ない質問。

 そうじゃない、そうじゃないんだ。

 質問の意図は、そうじゃない。

 たしかに質問用紙には「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」と書いてあったかもしれないが、これだけしか書いてなかったかもしれないが、肝心要の部分が抜けている。

 「役の上で父親をやっているゆえに、同期のキムくんに対し、父性が芽生えることはありましたか?」が正解だろう。

 ファンならば、「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という1文だけで、書かれていない部分がわかる。キムまつの同期ゆえのかわいいエピソードを聞きたい、というファン心理が理解できる。
 役者としてのまっつが、カルロスに対して父親としての気持ちもなくただ台詞だけ喋っているなんて、カケラも思ってない。
 まっつの芝居には大満足している、そこにいろんな感情を読み取っている、それは大前提、いちいち言うまでもない、だからその上で、楽屋裏のことを聞いているんだ。

 だけど、司会者が読み上げた質問内容は、「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」だけ。

 役者であるまっつは、役の上でのことだと思い、心外な声を上げる。芽生えるもナニも、最初からある、と。

 そっかー、そうだよなあ。
 まっつは、「役者」なんだよなあ。
 ファン心理よりは、「役者」としてのベースで反応するよなああ。

 なんか、くどくどと史実を語ったりして、「役者」としての話をする。

 いやそれ、わかってるから!
 史実も踏まえて役作りしてて、実際舞台の上のフェリペ二世はちゃんと父であり男であり王であるから!
 ごめん、失礼な質問だった、まっつの役作りが、芝居が、「父親の気持ちが見えない」ような、半端なモノだと思ってないから!!

 頼むよ司会者さん、質問が「役者」に対して失礼過ぎた、そんな真面目な質問ぢゃないんだってこと、この真面目な役者さんに説明して!!

 だけど司会者さんは、収拾が付かなくなって「だからその、演じていく上で……ええっと、パス」と言って、会話を打ち切ってしまった。

 質問を書いた人と、それに対して答える人と、立ち位置がチガウ、見ているモノが違いすぎる。
 その違いを埋める、修正するのが司会者の仕事だが、お茶会の司会者はプロじゃない。ただ書いてあることを読み上げるだけで、その文章の奥にある「意図」を汲み取り、回答者からそれを引き出すための角度を変えたアプローチが出来るわけじゃない。
 素人のお嬢さんである司会者に、そこまで求めるのは酷だろう。

 じゃあ、質問自体に、「何故これを聞きたいのか」という理由と、なにを期待してあえてこの質問なのかを明記すればいいのか。

 質問・「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」
 意図・親子役ならではの、キムまつのかわいいエピソードが聞きたい。
 例題・「ふとしたときに、音月さんを『かわいい』と父親の気持ちで思ったりしたことはありますか?」「一緒に食事に行ったときに、つい世話を焼いてしまったとか、なにかトラブルがあったときに、ここはオレにまかせておけと思ったりとか」

 ……無理。
 咄嗟にそこまで文章組み立てて、質問なんて書けない。

 てゆーか、自分の視界のみがすべてになるじゃん。
 聞きたいことが「親子役ならではの、キムまつのかわいい話」であったとしても、いや、そうであるからこそ、公の質問事項は「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」になるじゃん。いや、わたしならせめて、「音月さんに対して、お父さんの気持ちは芽生えましたか?」と明記するだろうけど。
 そう書けば、生身のキムまつのことだと伝わると、信じ切って、それ以上の説明は書かない。

 でもそれじゃあ、まっつには伝わらないんだろうなあ。
 きっと彼は、
「音月さんに対して? それは役の上でってこと? カルロスに対して?」
 と返し、結局「芽生えるもナニも、最初からある」と心外だと回答するんだろう。
 役者だから。
 役の上での話を求められていると、思っているから。

 彼はストイックに、「役者」として回答する。基本舞台の上のことだけ。自分のことだけ。
 ファンは萌えハートを根底に、タカラヅカ・スターのまっつに質問する。
 タカラジェンヌは、舞台の上だけでなく、芸名で生きる周辺に関してもファンの興味の対象である。だから、ジェンヌ同士のかわいいエピソードなんかを聞きたいと思う。

 両者の間の隔たりは大きい。

 萌えを根底に置いた質問は、役者であるまっつには伝わらない。
 むしろ、今回のように「役者に対しては、とても失礼」な質問になってしまったりする。

 ……今回の「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という質問が、「親子役ゆえの、キムまつのかわいい話を聞きたい」という意図で出されたモノだと思ったのは、わたし個人の感覚だ。
 質問者やそれを選んだスタッフ、読み上げた司会者がどんな意図だったのかはわからない。
 だが、ほんとうにその文章まんま、役の上でのことだったなら、まっつが舞台上で父親になりきっていないという意味なので、大変失礼なものになる。そんな意味での質問を、質問コーナーの最初の一発目に持っては来ないだろうから、やっぱり意図は言外にあったのだと判断する。

 最初からずいぶんな質問になってしまったと思うけど、それでもまっつは大真面目に誠実に回答し、気分を害することもなかった。
 そこに悪意がないことを理解してくれてるんだなー。
 萌えは理解してくれてないみたいだけど(笑)。

 いやその、萌えを理解してくんないところがまた、萌えなんだわー(笑)。

 で。

 もし、質問の意図を司会者がちゃんと伝え、役者として役としてではなく、素のまっつがナマのキムくんに対しての質問だと、彼が理解したなら。

「ありませんよ、そんなこと」と、すっぱり切り捨てるんだろうなと、これまた勝手に想像してにやにやしちゃいます(笑)。
 未涼亜希『ドン・カルロス』『Shining Rhythm!』東宝お茶会に行ってきました。

 いつもにも増して、記憶があやういです。

 とにかく。

 前髪まっつキターーッ!!

 前髪のあるまっつ、見たの何年ぶり?
 リーゼントでシケをぱらり、とかぢゃないっすよ、自然な、ストレートな前髪っすよ?

 思いきりのいい金髪に、白いタキシード風のジャケットと相まって、もお。

 英国風美少年。

 ちょ……っ、まっつが、少年??
 昔っから年齢不詳のシワを刻み、ヘタレやへなちょこ役は得意でも、ガチな若い役は微妙だった、あのまっつが?
 最近はすっかりおっさん役者となり、同期のパパ役なんかをやっている、ヒゲの似合う四十男な、あのまっつが?

 二次元感、半端ナイ。

 「美少年……」「外国の学生さんみたい」「ギムナジウムもの、いける」「イギリスとかの全寮制の名門校舞台で……」ぼそぼそぼそ。あちこちから聞こえるドリーミング。

 知らなかった……まっつって、フェアリーだったんだ……。

 や、タカラジェンヌはフェアリーだし、みんな舞台でも、舞台を下りたファン向けの場でも、2.5次元に生きるフェアリーさんだと、知ってます。
 だとしても、なんか、まっつに対してはそーゆー感覚がなかったというか。ジェンヌにしては常識的な人っていうか地に足ついてるっていうか、ぶっちゃけ夢の少ない人っつーイメージがあったりしてさ……いやその、ジェンヌを、まっつをなんだと思ってるんだってなもんだが。

 まっつオチして8年目。
 まさか今さら、彼を「少年」だとか「フェアリー」だとか思って、ハクハクする日が来ようとは。

 いやもおとにかく、まっつさんが美しくて、びびりました。
 自然な髪型が少年っぽくて、またアタマの小ささがさらによくわかって、目の大きさを強調してて、でもって、耳がぴょこっと立っているのが、めちゃ目立つ(笑)。

 ストレートな金髪の間から、両耳がぴょこっとのぞいてるわけです。
 まっつって、耳が大きいというか立っているというか付き方がチガウというか、耳に特徴あるよね?
 その耳が、髪の毛に収まりきらず、怪物くんみたいに飛び出してるの。
 それがまた、妖精っぽいっていうか。

 あの耳、触りたい……っ!(変態発言はやめなさい)

 彼のこのビジュアルを見られただけで、夜行バスに揺られて東京まで来た甲斐があるっつーもんです。ええ、夜行バス車中二拍日帰りですよ、オトナの組む日程ぢゃない、金のない学生並ですよ、だってびんぼーなんだもん。

 でもってまつださん。

 なんか、とっても楽しそうでした。

 最初、まっつが登場するなり、歓声があがるわけですよ。「きゃーーっ!!」って黄色い声が。
 それにちょっとキョドった感じで。黄色い悲鳴に慣れてないのか、この人(笑)。
 ステージに上がるまでの間、「前髪」「美少年」「全寮制の」とか客席ざわざわ勝手に囁き声があがってて。

 んで、ステージに上がった彼に、参加者全員で万歳三唱、サプライズを仕掛けるわけです。

 全員起立、「フェリペ二世国王陛下」「ばんざーい」×3。
 数百人の人々が、一斉にやるわけですよ。
 わたしは相変わらず後方にいるので、客席の人々込みで壇上のまっつまで見渡せます。

 相当、変な光景です。どこのアヤシイ教団集会?って感じです。

 前もってわたしたち観客は、練習させられてました。起立して、万歳三唱するの。
 練習の段階で、無人の舞台に向かって万歳三唱するのはかなりへんてこな姿で、やりながら笑えてしょうがなかった。
 クールなまっつがこんなことされて、どんな反応を見せるか、……ええっと、今までの彼の対応から見て、かなり低温なリアクションが期待できて、とても楽しみでした。

 で、まっつは。

 登場からしばらく、「はい」しか言いませんでした。

「フェリペ二世陛下を讃え、万歳三唱したいと思います」
「はい」(無表情)
「ばんざーい」
「…………」(無表情)
「ばんざーい」
「…………」(無表情)
「ばんざーい」
「はい」(無表情)
「ではまっつさん、乾杯の音頭と、ご挨拶を」
「はい」(無表情)

「本日はお忙しい中、未涼亜希お茶会にお越しいただき……」(無表情)

 ええ。サプライズの万歳三唱を、われらが国王陛下は、完スルーされました。

 なかったこととして、進めましたよこの人!!(笑)

 いやふつー、なんかリアクション返すだろ。ウケるとかつっこむとか、ナニかあるだろ。

 完全に、無視。

 しょっぱなから、おもしろすぎる。

 狙ってスルーしているわけじゃなく、こーゆー人だよね?
 もー、客席はにやにやが治まってませんよ、陛下。

 最初がこんなで、「はい」しか言わないもんだから、機嫌悪いのかな、テンション低いのかな、って感じだったけど。
 いやいやいや、んなこたぁーない。

 なんか、ご機嫌さんでした。

 なにがどう、じゃないんだけど。
 返事の仕方や、ひとりごとっぽい声とかが、やたら、かわいい。
 声はあの声なんで、かわいこぶったところで黄色い声にもアニメ声にもならないんだけど、やたらかわいい声だった。

 なまじ、舞台のエエ声や、意識して挨拶するときのアルトの魅力全開ぶりを知っているだけに、無防備な甘さの混ざった声に、腰が砕ける思いっす……ハァハァハァ。

 ちょ……っ、ナニこの人。
 かわいいんですけど?
 めちゃくちゃかわいいんですけどっ?!
 まっつなのに?←

 質問の受け答えとか、相変わらずばっさりクールだったりするんだけど、たぶん他のジェンヌさんならもっとハイテンションだったりアツかったりするんだろうけど、まっつはあくまでもまっつで。
 なのに、なーんか楽しそう。機嫌よさそう。

 ここにいて、みんなのまっつ、でいることを、楽しんでいるっぽい。

 それがなんかすごく、うれしい。
 彼の意識がわたしたち……ファンに向かっている、ということが。

 まっつが楽しそうにしている。
 それが、わたしたちにとっていちばんのプレゼントなんだなあ、と思う。

 生き生きしているまっつが、すごくかわいい。


 ムラお茶会では、「かっこいい」「素敵」という声ばかりがあちこちで上がり続けていたのに、東宝お茶会では「かわいい」ばっかだったのが、愉快。
 どうしたんだまっつ(笑)。
 心中モノって、大変だな。と、しみじみ思った、『近松・恋の道行』初日観劇。

 10年前の5月3日も、景子たんのバウホール公演を観に行ってたんだねえ、わたし。
 あれから10年、『エイジ・オブ・イノセンス』に比べ、景子せんせはほんっとーにうまくなったなああ。

 わたしが無教養なのは今にはじまったことぢゃないんだが、ほんっとに勉強してなかったんだなあ、学生時代……と、自分のダメさに肩を落とした。
 すっかり忘れてたけど、近世文学が専門だったはずだよな……いやその、ゼミは西鶴だったんですけどね……「近松と西鶴」ってとてもポピュラーなテーマで、たしか、読んだり調べたりした、はずだよなあ……なのに何故こうまでなんの身にもなっていないのか……。

 お勉強として心中モノを調べたり読んだりしているときは、感じなかった。
 でも、こうやって「物語」として、「ミュージカル」として味わうと……そうか、心中モノって、こんなに大変なのか。

 心中モノって、「美しい」とか「ロマン」とか、そーゆーイメージがある。日本人として、ときめく素材というか。
 タカラヅカでも、悲劇は大人気じゃん。オスカルとアンドレは死ぬから美しいし、マリーとルドルフだって心中するからロマンなんですよ。アイーダとラダメスだって、ふたりが手に手を取ってうふふあはは他国でしあわせになったら、名作になんてならないですよ。

 しかし、日本のいわゆる「心中モノ」って……現代の感覚では、相当料理しにくい。

 なんつっても、主人公が、かっこわるい。
 コレに尽きる。

 江戸時代の心中モノだと、どうしても男主人公はかっこよくならない。
 心中するくらい追い詰められなくてはならないんだけど、それが「どうしようもない運命」というより、「本人の無能さ」が原因だから。
 騙されて、罪を犯して。
 運命と闘い、打破するのではなく、逃げることを選ぶ。……これって、現代の価値観だと負け犬とか卑怯者とか、そっち系だよねえ?
 しかも、周囲に迷惑かけて、愛する女すら救えない。
 江戸時代ならそれで良かったんだろうけど、現代の感覚では、なかなかきついなコレ。

 景子せんせのバウ作品で、主演がみわっち。
 ということで、わたしの期待値はうなぎのぼり、観る前から勝手にMAX値だった。
 それが悪かったんだと思う。

 冷静に考えて。これは「心中モノ」なのよ。限界があるのよ。
 そう自分を戒めることが出来たのは、幕が下りたあとだ。

 原作だとダメダメ男だった豊太郎@『舞姫』を、あそこまで筋の通ったいい男にした景子たんだから、原作がどうあれ、きっとすごいことになっているに違いない、と勝手に決めつけていた。
 ……ごめん、そうだね、それは勝手な思い込みだったね。これは心中モノだ、『舞姫』ほど自由には出来なかったんだね。

 嘉平次@みわっちは、やっぱりどうあがいても、残念なだめんずでした……。

 すごいまぬけっつーか、「なんで騙されてることわかんないかなあ」とか、「なんで自分でがんばらないのかなあ」とか、じれったいっす。
 心中モノの男主人公って、自分ではなんにもしないんだよなあ。脳みそ的にも、体力的にも。で、そのせいで雪だるま式に不幸になるんですよ。
 タカラヅカというエンタメでは、なんにもしなくて破滅する男って、書くの難しいわ……。
 これがまた、天下国家がかかっていると説得力があるんだけど(国のために愛する女をあきらめなければならない!とか)、所詮市井の話だから、男の器の小ささがきつい……がっくりくる……。

 とまあ、題材自体がなかなかに難しいもんなんだ。
 それを最初から理解せずに観てしまったわたしが悪い。
 勝手に「ヅカと心中は相性がいい。だって悲劇はヅカの醍醐味だから!」くらいの軽い感覚だったよ……ごめんよ無知で。


 こんだけ不利なネタなのに、それでも美しく、ただの心中モノに収まらせず仕上げた景子たんは、すごいと思う。

 「生玉心中」「曽根崎心中」でもなく、『近松・恋の道行』なんだ。
 ネタとして心中を扱いながらも、描こうとしているのはその外側にあるモノだ。

 そして、みわっちが、美しい。

 みわさんはマジで、日本物が似合う。
 お化粧が微妙な人々の中、みわさん(と、彼のシャドウである柚カレーくん)の美しさがぶっちぎり、いやもお、ハンパねえ。
 身長や顔の大きさ的にも、日本物がいちばん似合うバランスなんだと思うよ、みわっちって。
 彼はやさしさもおおらかさも、正しさも清廉さも、そして狂気と艶も、出せる人だから。

 すげえなと思う。
 この役は、そして作品は、みわっちでないと出来ないよ。
 みわっち主演で、この作品をやりたいと思った景子せんせの気持ちはわかるよ。

 それと同時に。
 この作品をみわっちでやってしまうことへの、引っかかりも、感じる。

 最初に語ったように、「心中モノ」って、男主人公をかっこよく見せる題材ではないんだ。
 みわっちが演じることで作品は完成するし、みわっちの巧さは表現できるし、もちろんみわっちは出来上がった男役であるから、それゆえの美しさや格好良さも見せてくれるけど。
 でもそれは、みわっちが実力でそう見せているだけで、「作品」はみわっちを後押ししていないんだ。

 座付き作者がアテ書きをすることで、「スターの魅力」を出すのが、タカラヅカだ。
 だけどこの『近松・恋の道行』って、結果としてみわっちの魅力を見せてくれているけれど、創作動機はそこにない気がする。
 「心中モノ」を題材に、現代視点で新しいモノを創りたい。クリエイター植田景子の創作欲ありき。みわっちは、それに利用されただけ、のような。

 そーゆー作家のエゴを感じる。

 なんつーか、「作品」と「役者」のバランスを考えたとき、「作品愛」の比重が高い感じっていうか。
 留学から帰ったばかりの頃の、景子作品のニオイがする……。


 や、わたしの独りよがりな感じ方です。
 良い作品だった。景子たんすげーと心から思う。
 そーゆーあざとさも含め、景子せんせに拍手する。


 ところで、わたし的にいちばんツボだったのは、鯉助@みーちゃんです。

 好みの男、ど真ん中キターーッ!!

 いやいやいや、いいわあ、みーちゃん!
 最後の高笑いまで、全部素敵。
10years ~あれから10年も、この先10年も。~
 昔語り、自分語りをする。

 2002年5月3日。
 ふと思いついて、「日記サイト」に登録をした。

 当時有名だった日記サイトは、「さるさる日記」かな。
 でも、有名どころはわたし的にしっくりこなかったので、無名かつ地味な「DiaryNote」を選ぶ。
 選ぶっていうか、偶然行き当たった。

 別に、やりたいことがあるわけでも、全世界に発信したいことがあるわけでもなかった。
 ほんとに、ただなんとなく。

 「彼女は陽気な破壊的気質を持っている。」という、変なタイトル。
 「緑野こあら」という、変な名前。

 その場の思いつきで決めた、思考タイムなし(笑)。
 出典はそれぞれあるけど、そこから決めたのは一瞬。

 あのころのわたしは、なにを考えていたんだっけ。
 よく思い出せない。
 いろいろ鬱屈していたとは思う。そして、いろいろお気楽だったと思う。相反するが、それが事実。

 「DiaryNote」は、利用者に無断で(笑)、どんどん変わっていった。
 名前通りの日記サイトだったんだってば。
 日記ですから、ただ書くだけ。一方通行ですとも。コメント機能すらなかったんだ。
 それが勝手にコメント付けるわ、トラックバック付けるわ、あげくのはてに「今日からブログになりました」だもんよ。
 ちょお待て。日記とブログはまったくチガウものだぞ??

 もっとも、ブログなんて名乗っているだけで、やっぱり「DiaryNote」は日記サイトで、ブログとは根本が違っている作りのサイトなんだけどね。

 あの「さるさる日記」がサービス終了するくらい、時代は移り変わった。いろんなサイトが終了していった。
 そんな中で、よくもまあ、生き残ってくれたもんだ。
 感謝してます、「DiaryNote」さん。
 以前は問い合わせをしてもガン無視が当たり前だったけど、最近は返事もらえるようになったし。不具合の報告したら、直してくれるし。
 ……何年か前、カウンターが上限超えちゃうよ、桁数増やして、とお願いしたときもガン無視、999999…を超えて仕切り直しになったのも、なつかしい思い出。
 次にカウンターが上限超えそうになったとき、また同じお願いをしてみる予定。今なら返事もらえるのかなあ?

 なんやかんやで、10年。

 誰にも告げず、検索サイトへの登録(当時はそれが定石だった)もせず、ひとりで日記を書いていた。
 上の画像は、いちばん最初に書いた記事。
 カウンター数が「73」だけど、初日にこんな数字だったわけじゃない。画像保存したのが2002年5月20日なので、半月かかってもそんな訪問者数だった。ってゆーか、その大半はわたしがひとりで回していたはず。わたし以外、誰もいないはずだもの。
 カウンターが1日に10回ったら、うろたえてたなー。なにが起こったんだ、と。当時の「DiaryNote」には、アクセス解析もナニもなかったんですよ。

 日々書き続けるうちに、なにがしたいかわかってきた。

 最初は日常からマンガ・アニメ、創作系の話、映画やドラマの話も書いていた。
 でも途中から、タカラヅカの話のみにしぼった。

 エクササイズの場だったときも、あった。
 文章を書く練習。
 テーマを決めて起承転結、決められた文字数で。
 読み物としての意識を持ち、リアルと表現手段を模索。てな。
 いろいろ悩んでいたな。人生回り道ばっかしだ。

 今はそーゆー縛りはなくし、とにかく好きなだけ好きなように書く、ようにしている。
 貴重な息抜きの場、かな。

 書きたいことはいろいろあるが、時間が取れなくて、昔ほど書けなくなったのが残念。


 タカラヅカはどんどん変わっていく。
 変わらないけど、変わっていく。

 変わっていくのに、これほど変わらないものもない。

 先日、ムラでサトリちゃんと会った。
 ピュアしいちゃんファンの彼女は、ご贔屓を見送るために全力疾走し、ご贔屓と共にヅカを卒業した。
 彼女とは、他では会っていたけれど、タカラヅカの聖地・ムラで会うのは実に3年ぶりだった。
「変わってないねええ」
 と、ロビーを見回して感嘆する声に、心から同意した。
「変わってないよ、ここは」

 まるで、「時間」というものの外側にあるようなところだ。
 宝塚大劇場って。

 改めて、思う。

 わたしは10年前も、同じようにここにいた。
 劇場はなにも変わっておらず、やっていることも、変わっていない。

 そしてわたしも、変わっていない。

 サトリちゃんはリア充満喫中で、着実に人生を歩んでいる。
 それに比べ、わたしナニやってんだろう、と途方に暮れた(笑)。

 うん、ときどき、なにもかも嫌になる。
 宝塚駅にいるときとか、ソリオを歩いているときとか。「いったい何千回この駅に来ただろう。いくら使っただろう」って思うと、目の前が暗くなるんだ、絶望で(笑)。
 アホすぎるよ、こんな人生。

 自分の変わらなさ……というか、進歩のなさに、心からへこむ。

 後悔はするけど、反省はしない。
 何故ならば、依然、改める気がないからだ(笑)。

 阿呆上等ですよ。
 わたしみたいな木っ端人生に過ぎないモノであっても、それを左右する、大きな魅力があるのですよ、タカラヅカ。

 文句言うし、愚痴も言うけど。
 今現在、キムくんのことでへこんでいるけど。

 それでも、タカラヅカをすごいと思っている。
 それでも、タカラヅカを愛している。

 ほんとに、おもしろいよ。

 現実にある、とんでもないファンタジーだ。
 時の流れの外側にある、幻の王国ですよ。

 「タカラヅカ」という概念は変わらず揺るぎなく、ただそこにいる人々は移り変わっていく。
 花の命は短くて、タカラジェンヌの寿命は10年ちょっと、人生のもっとも美しい時期を捧げて輝く。

 タカラヅカはどんどん変わっていく。
 変わらないけど、変わっていく。

 変わっていくのに、これほど変わらないものもない。


 わたしは10年分確実に老いたし、衰えた。
 なのに10年前と、なんら変わっていない。

 なんかもお、とてつもないなあ、と思う。


 ここで「日記」を書きはじめて、丸10年。
 先のことはわからないけれど、わかっていることはある。

 変わらないモノは、ある。

 タカラヅカが愛しいのは、それゆえにだろう。
 『ドン・カルロス』の異端審問、もっとわかりやすくできなかったのか? という話、続き。

 イサベル@あゆみちゃんとの不倫疑惑と、異端の書を持っていたことによる宗教問題。

 最初カルロス@キムは、黙ってすべての罪状を受け入れていた。
 宗教問題の方は、新教徒ではないという証拠を持っていたけれど、カルロスはあえてそれを提示しない。

 カルロスはふたつの罪で裁かれているのであり、イサベルを誘惑した件がある以上、宗教裁判の方でのみ無実を勝ち取っても意味がないのね。だから宗教問題の方の証拠……「157ページ」を持ち出さない。
 それよりは、イサベルのこともポーザ侯爵たち仲間のことも、全部かばって死ぬつもりだった。

 義母を誘惑したと誤解されたままでもいいけれど、宗教を捨てたとは思われたくない、ってのが、ぬるい日本人のわたしにはちょっとわかんないけど、敬虔なカトリック教徒には、そこんとこは譲れないんだろう。
 自分の宗教だけは誤解されたくないと、死んだのちに父親にわかって欲しいと「新教否定の証」を胸に忍ばせていた、と。

 加えて、言外のメッセージもあったんだろう。
 無関心ゆえに迫害されるネーデルラントの人々、無関心ゆえに死へ追いやられるカルロス。
 そして、「かけがいのないもの」と歌う想い。

 そうやって、あきらめていたけれど、イサベルの勇気を受けて、カルロスは思い直す。
 不倫疑惑は晴れた。あとは宗教問題だけ。そしてこちらは、証拠がある。
 このまま彼が闘わずに死ねば、禍根を残す。

 宗教問題の争点は、「聖書を持っている」が、「信者ではない」と証明できるか。

 イサベルが「カルロスが新教を否定している」と証言した。「これだけのもののため、尊い命が失われるのか」と言った、と。

 言った、言わない、の証明って、現代でも大変だよね。
 録音機器もない時代に、「そのときそう言った証拠」なんて、出せるものじゃない。
 だから異端審問長官は、カルロスに死刑を言い渡した。
 イサベルが「カルロス王子は、新教くだらねー!と言いました」と言ったところで、証拠はナニもない。証言だけでは証拠にならない。

 ここで争点が「そう言った証拠」になっている、つーのが、わかりにくいんだよなあ。
 禁断の書を持っていたことが罪、ってだけでも現代日本人に感情移入しにくい話なのに、「持っていた」ことで責められていたのが、いつの間にか「言った/言わない」で責められているんだ、という流れが不親切。

 それまでずーっと「異議なし」だったカルロスが、突然「証拠はあります」と言い出すので、観客はアタマを整理する暇もないと思うんだが。

 いきなり「157ページ」で「これこそ動かぬ証拠♪」とコーラスする、この流れは、一見さんはどれくらい理解できるんだろう?
 もちろん集中していればわかるし、実際わたし程度のアタマの人間が初日から理解できたんだから、ふつーの人はみんな完璧について行けて、ここであーだこーだ言う方が無粋ってもんなのかもしれないが。
 でもわたしはかなり集中して見ていて、キャラクタに感情移入してだーだー泣きながら、かなり入り込んでいたゆえに理解できた、のかもしれない。
 「半分くらい寝てたわー。でもクライマックスっぽいから起きたわー」な人に、ナニが起こっているかわかったろうか。「出演者の顔見分けつかないなー、主役だけはわかるかなー」てな人に、何が起こっているかわかったろうか。

 異端審問にて裁かれていたのは、ふたつの問題。
 ひとつめ、カルロスとイサベラの不倫。
 ふたつめ、カルロスの宗教。

 ひとつめは、イサベルが真実を告げ、フェリペ二世が告訴を取り下げたために不問に。
 ふたつめは、新教徒の聖書を持っていた=新教徒という疑いを掛けられたカルロスが、「新教くだらねー!」と言ったか言わなかったか、で争っている、と。
 しかも、ひとつめの問題ゆえに罪を被る気でいたカルロスが、途中で変心、ふたつめの問題を否定する証拠を出すという、ややこしさ。

 ……キムシン、裁判するなら、裁く罪はひとつだけにしようよ……。
 よっぽどうまく書かないと、表現難しいよ……。

 「言った」「言わない」の話になっているので、カルロスは「言った」証拠を出す。それが「破られ、落書きまでされた157ページ」。

 聖書を破るという行為は大罪、すなわち、カルロスが新教徒ならばするはずのない行い。
 だが、ただ聖書が破られ、そのページをカルロスが持っていた、というだけでは、「それを、カルロスが行った」という証拠にはならない。

 だからまずカルロスは、「破かれたページを自分が受け取ることは不可能だった」ということを証明する。
 誰もカルロスに、聖書を破って渡せなかったのならば、カルロス自身が破り取り、持っていたと考えるだろう。

 その「聖書を破る」という大罪すら、「なにか他に理由があって、あえて行った」だけで、カルロスは新教徒である、と追求されないために、イサベルの証言の裏を取る。
 それが、「これだけのもののため、尊い命が失われるのか」という、イサベルが聞いたというカルロス自身の言葉。
 これだけだと、「イサベルがカルロスを助けるために嘘の証言をしている」と疑われるかもしれない。だから「イサベルとカルロスは示し合わせる時間はなかった」とまず証明。
 その上で、157ページの落書きをトレド大主教@ナガさんに読み上げてもらい、イサベルの言葉に嘘はなかった、カルロスは本当にそう言った、同じ言葉をそれ以前に書き記していたのだから、と証明したわけだ。

 ここのわかりにくさもまた、台詞が足りないためだと思うんだ。

 カルロスの言う「証拠」とは、なんに対しての証拠なのか。
 それをはっきりさせるだけで、ずいぶんチガウと思うんだ。

「法は法です。判決は下った!」
 という死刑判決とコーラスのあと。
「お待ちください」
 と異議を唱えるカルロス。

「これだけのもののため、尊い命が失われるのか、と確かに私は述べました。その証拠があります」
「述べたという、証拠? この場で示せますか」


 と、わかりやすくくり返した上で、157ページに同じ言葉が書いてある、そりゃ確かにカルロスが言い、カルロスが聖書を破ったんだろうよ、と証明される。

 今までさんざん、「父はものも言わずに立ち去りました」「ものも言わずに」、「すなわち、父上の妻なのです」「陛下の、妻」、「母上の夫です」「私の夫」、と、オウム返し会話ばっかしてきたくせに、なんで肝心のところでやらないかな。
 なんの証明をしているのか、わかりやすくしてくれよ。ふたつの問題がごっちゃに語られていたり、コーラスを挟んだりで、今ナニがしたくてナニを話しているのか、わかりにくいんだよー。

 せっかく、否が応でも盛り上がる「裁判」というクライマックス。
 もっとうまく展開させればいいのに。

 という点が、じれったかったっす。


 みんな誰もがすらっと初見で完璧に理解できたのかなあ。
 台詞でかなり補えると思うんだけどなあ。
 『ドン・カルロス』のクライマックスである異端審問。
 これちょっとわかりにくいと思うんだが、どうだろう。
 確かに、必要なことはあらかじめ情報として作品中に提示されている。
 今回ほんと、伏線しっかり張ってあるんだよキムシン。

 でも、異端審問においては、台詞が足りていないと思うんだ。

 王妃と王子の密会はタブー。
 ドイツ語訳の聖書は、持っていることすら罪の、禁断の書。

 それを破ったからカルロスは裁かれる。

 わかりにくいのは、ふたつの罪がごっちゃに裁かれているためだと思う。


 まずひとつめの王妃と王子の密会について、罪に問われているのがカルロス@キムのみだってのが、混乱のもと。
 観客はふたりが不義の密会をしていたのでないことを知っている上、会いたいと持ちかけたのがイサベル@あゆみであることも知っている。だから余計にややこしいんだ。
 何故カルロスだけが?

 男と女が不義を働いた場合、男だけが罪に問われるの?
 王子と王妃が不義を働いた場合、王子だけが罪に問われるの?

 チガウでしょ。
 フアン@ヲヅキが説明しているように、「カルロスがイサベルを誘惑した」ということになっているため、でしょう?

 だから悪いのはカルロスだけで、イサベルは他人事で傍聴席にいる。彼女はまきこまれただけ、あるいは被害者。

「何故無実を訴えないのです」「そんなことをしたら母上の身が危うくなるのです」レオノール@みみと話していることから、「密会を申し出たのはイサベル」という事実は伏せられている。
 イサベルの身の振り方で、彼女の故国フランスとの外交問題に発展する恐れがあるため、カルロスが罪を被ろうとしている。

 ……という設定が、わかりにくいの。

 前もって説明されているし、ちゃんと集中して観劇していれば、伏線を理解していれば、ついて行けるけど。
 そこまで観客に任せないで、ただひとこと台詞を追加するだけで、ものすごーくわかりやすくなるんですけど。

「見るべきモノは見た」
 と、霊廟に乱入してくるフェリペ二世@まっつ。彼の側近であるアルバ公爵@きんぐやルイ・ゴメス@がおり、そして兵士たち。
 兵士が捕らえるのが、カルロスだけでなく、イサベルにも及べばいい。手荒なことをするのでなくていいから、彼女もまた罪に問われるのだとわかるように。
 そこで、カルロスが叫ぶ。

「密会を持ちかけたのは私です。母上は私をたしなめるために、ここまで来られました」


 ……「イサベルをかばい、自ら罪を被るカルロス」という台詞があるだけで、すっげーわかりやすくなると思うんだ。
 これだけはっきり言われたら、フェリペ二世も「がーーん、やっぱり息子に裏切られたんだ!!」ってことで、「異端審問にゆだねる」と息子を切り捨てても仕方ない流れになるよね。


 フェリペ二世はその夜、牢獄でカルロスとレオノールの会話を盗み聞き、真実を知る。
 でもすでに異端審問に掛けると宣言しちゃったし、一方(カルロス)だけの話で決められない。
 公の場で、イサベルが真実を話さない限り、王としては引き下がれない。

 ひとつめの問題、王子(主体)が王妃と密会に及んだ、に異議があるか。
 カルロスは無言、すなわち異議なし。
 イサベルひとりが、異議を申し立てた。

 密会に及んだのは自分であること、そしてそれは不義ゆえではなく、フェリペ二世を愛するがゆえであることを。

 異端審問に掛けると宣言したフェリペ二世は、ここで訴えを取り下げる。
 カルロスがイサベルを誘惑したのではない、自分の至らなさが招いたことだと認め、場を収めた。

 王様、視野狭すぎ、と思うのは、この異端審問が不義問題のみだと思い込んでるあたりね。
 不倫してるんじゃなかった、ごめん、勘違いだったね。取り下げるからハッピーエンド。
 と思ったら、問題はそれだけじゃなかった。いやむしろ、異端審問長官@にわにわ的には、色恋ネタより宗教ネタが重要。

 フェリペ二世がふたつの問題を混同しているもんだから、観客も混同しちゃうのよ。
 別の問題を裁いているんだってことが、わかりにくい。
 ったく、フェリペ二世め。こんなとこでも元凶かよ。


 そして、もうひとつの問題、禁断の書。
 持っているだけで死刑上等の書を、カルロスが持っていた。

 異端の書を所持していたことは事実。だからカルロスは異議を申し立てない。それゆえ、死刑判決が出る。

 禁断の書を持っている、というのは物的証拠。
 これを状況だとか人的だとかで覆すのは、大変。
 「この本を持っているけど、この本の内容はキライなんだよ!」では言い逃れにしか聞こえないよなあ。
 キライである、書いてある内容を認めていない、ということを、証明しなければならない。

 キライである証拠、思っていることを形に表す、って、どうやって?
 それも、今この時点で新たに言っても無駄。命惜しさに、いくらでも「キライなんだ」と言える。
 捕縛される前に「キライだ」と言った証拠がなければ。

 常識として、「好き嫌いの証拠」なんて、出せるものじゃないよね。
 「持っている」=「好き」だと思われても仕方ない。
 持っているだけで死刑になるのに、好きでなきゃ、わざわざ持ってないでしょ。

 苦しい言い訳にはなるけれど、考えられる方法としては、「持っている」のは「自分の意志じゃない」と訴えること。
「たしかに異端の書を持ってはいた。でもこれは自分の意志ではなく、人から無理に預けられたのです」「私は悪くない、仕方なく手元に置いていただけ」
 ザ・責任転嫁。
 言葉だけの話になっちゃうけど、そうやって無実を訴えることは可能。
 死刑になるくらいなら、それくらい言っちゃっても不思議はないよね。

 でもそうすると、「誰から渡された本なのか」という話になる。
 カルロスはそのため、口をつぐんでいる。自分が助かるために、友人を売ることはしない。
 「自分の本だ」とすべて認めて、黙って処刑されれば、本の出所は言及されない。

 じゃあ、カルロスが持っていた「157ページ」ってなに? ってことになる。

 ふたつめの問題で争点になっているのは、ずはり宗教問題。
 「持っている」=「好き」だから、聖書を持っているということは、信者だということ。
 聖書を持っているにも関わらず、信者ではないのだと証明しなければ、無実にならない。

 157ページってのは、その「聖書を持っているけど、信者にあらず」という証拠なんだけど、そんな証拠を持っていたのに最初から出さなかったから、これがまたややこしくなっている。

 つづく。
 『ドン・カルロス』の構成に無駄がない、と思うのは、ストーリー云々より、キャラクタをきちんと作ってあるためかなと思う。

 キムシンは緻密なストーリー構成をする人というより、多彩なキャラクタをキャストにアテ書きする人だ。
 ストーリーの多少の粗は、キャラの立ち方で吹っ飛ばす系というか。

 だからこの作品がうまくパーツが組み上がっているのは、キャラクタゆえかなと。

 主人公カルロス@キム中心に、すべてのキャラクタがぴちっとはめ込まれている。

 このキャラクタならここでこうする、こんなことがあればこう言う、それが徹底されているので、必然的にストーリーも破綻しない。

 承前部分で、高貴な身分ゆえに不自由であることを説明されたカルロス。
 さらに初登場となる銀橋部分で、彼の核となる部分を表現しちゃうんだから、キャラ物としてこれでもかと押し出している感じ。

 銀橋ソングでは、「王子である」という正の部分、陽の部分と、負の部分、陰の部分が1枚の紙の裏表みたいに、ちらちらと揺れる。
 歌声の美しさ、姿の美しさに誤魔化されがちだけど、実際初っぱなからすげー高度なことが展開されている。……キムくん、信頼されてるよなあ。

 カルロスは別に、「王子の義務」を己れの不幸だと思っていない。
 「好きな女の子と結婚できないよう!」と嘆いているわけじゃない。

 カルロスの不幸は、父に愛されなかったことがすべて、と言っていいと思う。
 冒頭のソロで、愛に飢えていることを歌う彼は、「母を知らず、父と隔てられ」と、森の中の鳥にすら憧憬を抱く。

 母は亡く、たったひとりの父に愛されない。
 それが、カルロスという人間を作る原点。

 親に愛されない、親に否定される、ことは、子どもを大きく傷つける。
 その人の魂のコア部分を歪めてしまう。

 父に愛されない、そこからカルロスのすべてがはじまる。

 レオノール@みみちゃんと出会い、騎士と姫君ごっこをして愛を育んだのも、成人した今、それでも身分違いの彼女を愛し続けているのも。

 父に愛されていないがゆえ、でしょう。親の愛に飢えているから、でしょう。

 もしもカルロスが、真っ当に親の愛を得ていたら、レオノールを愛しただろうか。
 身分違いの孤児と心を重ね合わせることができただろうか。

 生まれつきどこまでも優しく他人の心の傷や悲しみが理解できる、神様みたいな人だったのです!……てな、人間離れした存在でもない限り、レオノールの孤独や悲しみは王子様には理解できないよね? まだ6つや7つのときに。
 カルロス自身が悲しい少年だったからこそ、悲しいレオノールと理解し合えた。

 一度も傷ついたことのナイ人間に、他人の痛みなどわからない。
 子どもが虫や小動物を平気で殺したり乱暴に扱ったりするように、無知な者は他者に優しくなれない。
 神様でも天使でもナイ、カルロスもレオノールも、悲しみを知っているから優しい子どもだった。

「自分ではどうにも出来ないことがたくさんある、だからわずかでも人の役に立ちたいと願うのです」……そう語るカルロスは、悲しみを知るゆえに、心の傷を多く知るゆえに、やさしい人になった。

 今のカルロスを作っているのは、フェリペ二世@まっつの冷淡さゆえ。

 もしも。
 母が生きて、カルロスに当たり前の愛情を注いでいたら。
 父が逃避せず、カルロスに当たり前の愛情を注いでいたら。

 カルロスのまっすぐな性格からして、今よりずっと義務に忠実だったと思う。
 父に生意気な口をきいたりもせず、素直に尊敬し、共に国のために尽くしていただろう。
 とっとと政略結婚してたんじゃね?
 レオノールとも出会ってないし。
 レオノールは叔母のフアナ@リサリサのもとにいたわけだから、出会う可能性はあるけれど、しあわせいっぱいの王子様は、身分違いの孤児にそれほど感情移入しないだろうし、もししたとしても、「子どもの頃の淡い思い出」として完結していそうだ。

 父の愛に飢える子どもだったからこそ、カルロスはレオノールと出会い、彼女を愛した。
 カルロスにとって、レオノールは救いだったんだろう。
 現在もまだ父と心が通じていない。子どもの頃と同じ悲しみ・孤独を持ち続けている……それゆえに、レオノールを愛し続けている。

 心の欠けた部分、満たされていない部分があるゆえに、彼は明確にレオノールの愛を求める。

 キャラ設定として、なんの齟齬もナイ。

 父との関係と、レオノールへの愛と。
 カルロスを形作る中枢が、このふたつ。
 これが、スペイン王子であること、ハプスブルグ家のカルロスであること、を外殻として物語が展開する。
 カルロスは自分の立場を決して忘れない。

 それゆえ、クライマックスの異端審問において、カルロスは原点を尊重する。
 原点……父・フェリペ二世との関係。

 レオノールを泣かせても、傷つけても、彼はまず王子であることを優先する。
 「処刑されたのち、父上の目に触れてくれたらそれでいいと思っていた」と、命を救うことになるかもしれない証拠を挙げずにいた。
 そこで父親なんだ。
 命を懸けて、振り向かせたい相手が。

 これが「家族の物語」であり、フェリペ二世との確執がすべてのはじまりであった、ということを表しているんだなあ。

 父の愛を得られない。
 生まれてすぐの否定。
 カルロスは母の命と引き替えに生まれたのかもしれないが、フェリペ二世は妻を愛するあまりに息子を殺したんだ。
 はじめて会った息子に背を向けた、その行動にて、息子を殺したんだ。

 父に否定されたそのときに、カルロスは家庭的に抹殺された。
 父に肯定されない限り、彼は一歩も進めない。自分の人生を歩めない。

 異端審問において、フェリペ二世に赦されたとき、認められたとき、はじめてカルロスは生まれた。
 生まれ直した。
 だから、生きるための闘いを始める。

 無罪判決が出たあと、王子としての身分返上を申し出るのも、そのためだろう。

 彼は今、生まれたんだ。

 王子として、父の愛を求めて生きた時間は、一旦幕を下ろした。
 父に愛されない、母殺しの十字架を背負ったままでは、願いなどなにひとつ口に出来なかった。
 父の愛を得た今だからこそ、言える。

 旅に出たいと願い出るカルロスに、レオノールのことは頭にない。身分違いの女官と結婚したいから身分返上を言い出したわけじゃない。
 生まれ直す、生き直すことしか、考えていない。
 フアナがレオノールと妻合わせたのは結果であって、この時点でカルロスはひとりで旅立つつもりだ。

 ほんとうに、元凶は、フェリペ二世だったんだなあ。

 カルロスがフェリペ二世の心を得るまで、がこの物語。
 あるいは、フェリペ二世が心を開くまで。
 キムシンが、フェリペ二世と会った(笑)ことから作劇がはじまったとプログラムに書いてあるだけのことはある。

 キャラクタを正しく作り、動かしてあるから、物語も見事に起承転結した。
 正しいキャラ物だわ。
 書けてないことが、いろいろある。
 今回の雪組公演は、芝居もショーも楽しすぎて、ムラ初日から何度も「これって奇跡?」とつぶやいてきた。
 こんなにしあわせな公演があっていいの、と。

 しあわせ過ぎたあとに、奈落へ落ちた。

 いやあ、アップダウン大きすぎ。
 通常の高さから落ちたんじゃないもん。いつもより遙か高みから、地面ではなく亀裂の底まで落ちたんだもん。どんだけ。

 なまじしあわせだっただけに、納得できない。
 どうして「今」なの。このしあわせなキモチを、もう少し味わせてくれないの。と。

 東宝公演分、つまりあと1ヶ月は奇跡のようなしあわせを味わえるはずだった。
 人生そうそうない、もう二度とないかもしれない、そんなしあわせを、あとひと月。
 ……それすら、許されないのか。

 まあ、それでもわたしや、ムラ組は良かったのかもしれない。ムラ公演中は、ほんとにしあわせで、楽しかったもの。
 東宝初見で、ネットや人づてで「良い作品だよ!」と話だけ聞き、自分の観劇日を楽しみにしていた人たちは、手放しの幸福感に酔うこともできなかったのだから。
 良い作品である、雪組のまとまりやパワーを感じられる公演であるだけに、何故……!という憤りや悲しみを抱いての観劇になってしまう。

 んで、このしあわせ絶頂から悲しみ痛みを抱いての観劇へ、って既視感あるなと思ったら、『ロミジュリ』がそうでした。
 トップ娘役不在、謎の夢華さんを除けば、本当にすばらしい公演でこんなに大好きな作品には二度とで会えないかもしれないと、狂ったよーにムラへ通った。ムラ公演も途中から、トップ娘役はみみちゃんだと思って観ていたし、みみちゃんジュリエットのときしか観なくなっていたので、ほんとにしあわせな公演だった。
 それがあと1ヶ月、東宝ででも続くと思っていたら、観劇どころではない大きな悲しみが襲った。

 雪組って、キムくんって、ずっとずっとそうなのか。お披露目からそうで、その次は劇団史に残る問題作で、3作目の今回は不審な退団発表で。

 わたしは打たれ弱い人間なので、断ち切られた幸福感に、傷口の生々しさに、現実と向き合うのに時間を要しておりますが。


 そして、いつものことだけど後悔する。
 なんでもっと早くに、書きたいことを書いておかなかったんだろう。仕事が忙しすぎるとか、家族や自分の入院がとか、理由はいくらでもあるけれど。
 感想を書くことは、なにより自分のためなのに。

 しあわせだったあの頃のまま、そのキモチのまま、思いを残すべきだった。
 痛みがじくじくと在り続ける今とでは、同じネタで書く感想も、視点のありようが違ってくる。

 もっともっと、きちんと残したいのに。
 いつかナニもかも遠くなったとき、読み返すために。
 わたしはしぶとく長生きする予定で、そのよぼよぼ老後の楽しみとして、若かった頃、壮年だった頃の感想や萌えを記したい。


 ってことで、今さらだけど『ドン・カルロス』のいろんなこと。
 書き切れてないことが多すぎて、記憶はどんどん抜け落ちて、切ないったらない。

 オープニングは、ポーザ侯爵@ちぎ、フアン@ヲヅキ、アレハンドロ@翔が銀橋へ登場。
 3人ともカッコイイ。そして、帽子の被り方がそれぞれ違っててイイ。みんな似合ってる。つか、ちぎくんなんか、美形でなきゃ!って被り方だよなあ。素晴らしい。

 狩りの場面なので、殿方たちはそれぞれ弓だの鞭だのを持っている。
 ここのツボは、ヲヅキひとり、ボウガンかよ!!(笑)ってことですわ。ただの弓じゃないのよ、ひとりだけ。殺傷力半端ナイですよ。初日からツボりまくった。強そうだなヲイ!と。

 初日に鼻白んだ舞台上のネギ……不透明水彩絵の具(小学生が使うアレ)で書き殴ったようなネギの色に、もう少しなんとかならんかったんか、と思ったのもいい思い出(笑)。
 2階席から照明込みで観ると、あのネギはアリだった。殿方たちの衣装も合わせて、舞台全部が絵画のように見える。

 殿方たちのイケメンぶり、小芝居やコーラスする様を愛でる場面であることに、加えて、ナニ気に気になる兵士ふたり。
 真地くんは相変わらず美形で、どこにいてもわかる。それと、今回やたら目に付く凰くん。このふたりの並びはいいな、なんかゴージャス(笑)。

 殿方たちに続いて登場する淑女たち。

 オープニングのこれだけの場面ですら、キムシンらしさ全開で、キムシンファン的には楽しい。
 「男なら」「乙女なら」と歌う、その断言口調。
 男なら狩りが好き、戦うことが好きだと決めつけてますよ、言い切ってますよ。
 「男はみんな王になりたい」だよな。うんうん、そーゆー少年ジャンプ的な感性が好きだ(笑)。

 で、男性の闘争本能を肯定しているくせに、キムシン自身は戦いが嫌い。彼の作品では、戦闘場面の描き方がおざなりだったり少なかったり、本人に興味がないことが透けて見える。
 戦争に行くぞー、わー! 場面変換、戦争終わったぞー! →戦い場面なし。
 狩りに行くぞー、わー! 場面変換、狩り終わったぞー! →狩り場面なし。
 そんなんばっかしや(笑)。

 淑女たちの内緒話、雪娘はかわいいなあ!としみじみ。
 いつもオペラグラス使ってわくわく眺めている。
 るりるり、あだちゅうは『インフィニティ』以来、なんか親近感持って眺めてしまう。

 前にも書いたが、この噂話のときに、名前と同時に殿方を登場させて欲しい。
 「ポーザ侯爵はいかが?」で、花道に立つちぎにライト、「気むずかし屋さん♪」、「フアン・デ・アウストリア様は?」で、反対の花道に立つヲヅキにライト、とやってくれればなあ。
 初見だと名前を羅列されてもわかんねーよ。
 話題の最初に出るカルロス王子@キムを登場させられないから、無理だったんだろうけど。

 しかしこの若手娘役ちゃんたちの場面は好きだ。毎回オペラを覗くのに忙しい。
 かわいい女の子たちが、本気でかわいい芝居、仕草をしているのを見るのが好き。みんなかわいいー。


 今回、不思議なほど構成がすっきりまとまっている。キムシンなのに(笑)。
 無駄がないというか。

 承前、という感じの殿方と淑女の場面。ここで、この作品を観る上での必要な情報が解説されている。
 殿方たちの場面では、カルロスが同世代の貴族青年たちに敬われながらも「親友」と呼ばれていること。変わり者だと思われていること、それでもみんな笑ってそんなところをも愛し、受け入れていること。
 淑女たちの場面では、カルロスだけでなくポーザ侯爵やフアンの紹介。
 カルロスは「いちばん素敵」でも、「次元が違う」と貴族たちに切り捨てられる存在であること、彼こそ自由になにも選べないこと。
 人物紹介が、立て板に水で観客の理解に及ばないにしろ、この時代の「恋愛」「結婚」についての説明は、誰にだって理解できるだろう。
 不自由さはカルロスがもっとも顕著だが、それ以外の貴族たちもまた、自分で選んだ相手と結婚できない。それをすることはすべてを捨てることなのだと。
 ラストのカルロスとレオノール@みみとリンクしてるんだよね。

 前もって必要な情報を提示した上で、ようやく本編の幕が上がる……すなわち、カルロスが登場する。
 もしも長年2番手を務めた安蘭けいを2番手退団に追い込み、湖月わたるのあとに柚希礼音をトップスターにしていたとしたら、柚希礼音は人気スターとなり得ただろうか。

 ……考えただけでも、おそろしいですよ。
 トウコを2番手切りしたら、そのあとどんだけ星組と劇団が混乱に陥ったか。

 それと同じことを、劇団はしたわけです。
 長年2番手を務めた彩吹真央を2番手退団に追い込み、水夏希のあとに音月桂をトップスターにした。

 んじゃそこまで音月桂が大事だったかというと、そうでもない。
 キムにはトップ娘役なし、お披露目作は研1ヒロイン役替わり。宝塚歌劇団のトップ制度、スターシステムの否定。

 それがどんだけ雪組と劇団へ打撃となったかは、雪組新体制発表になった翌日の、水くんのサヨナラ公演の人数で、よーーっくわかった。

 サヨナラショー付き公演を、ムラならば当日券で観られる可能性がある。
 朝から並びに行けば、抽選で購入権利を得られる。
 この、サヨナラショー目当てに当日券に並ぶ人たちは、タカラヅカの浮遊層だと思う。
 退団するスターのガチなファンなら会席だったり、高額チケットに手を出したりで、確実に押さえているだろう。
 「観られたらラッキー」「観られなくてもあきらめがつく」程度の意識で、「観るために高額は出せないけど、早朝からムラに並びに行く労力は出してもいい」と思っている、ヅカファン。

 このライトな層が、激減した。

 トウコ、あさこと並び、人気を博したスター・水夏希の当日券に、トウコたちの半数しか、並びに来なかった。

 コアなファンの数に大差はないと思う。前述の通り、当日抽選に並ぶ人たちは、「観られなくてもかまわない」程度の人たちだ。
 ライトなファン、タカラヅカのファン自体が、減ったんだ。

 劇団のやり方に、失望して。傷ついて。憤って。


 『ロミオとジュリエット』の研1ヒロインは、未だになにがしたかったのか、わからない。
 夢華さん抜擢は、あらゆる意味でマイナスでしかなかった。
 ファン心理という点においても、つたないヒロインを見せられた観客にとっても、抜擢された本人にとっても、それを支える他キャストにとっても、そして、それらのマイナスを受けて興行成績も影響しただろうから、利益面でも。
 すべてにおいて、悪い結果になるとわかりきっていた、謎の人事。

 悪いことしかないのに、それでも敢行しなければならなかった理由がわからない。


 失望というのは根が深く、「『ロミジュリ』Wキャストは失敗だった。評判の良かった舞羽美海をトップ娘役にして、軌道修正しよう」とかで、回復できるモノじゃない。
 もともとのファンはどれだけ失望をくり返しても、贔屓がいる限りついていくけれど、それ以外の人心は、離れると生半可なことでは、戻ってこない。
 水くんラストの日に、半数のヅカファンしか集まらなかったように。
 浮動層が雪組を、タカラヅカを見限ってしまったあとでは、なにをしても遅いんだ。


 どこで間違った、というような単純なモノじゃない。
 それは理解しているけれど、今この時点から過去を振り返り、思うことは、「音月桂に、2番手を経験させるべきだった」に尽きるかなと。

 劇団は、御曹司の育て方を間違っている、と常々思う。
 抜擢したいスターがいると、新公主演を独占、バウ主演を独占させる。それではファンが増えないし、本人の技術も早くから頭打ちになる。
 主演は同じカラーの役ばかりになるし、基本、主演のファンしか観ない。本人の引き出しは増えないし、新規ファンも獲得できない。

 そうではなく、主役以外の個性的な役を経験させるべきだ。
 そうして、主演スターのファンに認識してもらい、愛情を注いでもらう。情が移る、という状態でいい。熱烈なファンでなく、贔屓の次に好き、あたりのヅカファンを増やしていく。
 ……つまりそれが、「2番手」ということだ。
 組内での正2番手とは限らない。トップスターの2番手役を多く務めていれば、トップスターのファン、組ファンから愛情を受けることが出来る。

 キムは、2番手をほとんど経験していない。
 水くんトップ時代、2番手役をしたのが全ツ『星影の人』のみだ。これは同じ作品・同じ役を正2番手のゆみこがやっているので、キムの役とカウントしにくい。
 水くんの退団公演でのみ2番手をやっているが、退団公演だけでやったところで、前述の「主演ファンに情を移してもらう」効果は得られない。ファンは贔屓の退団に全力を挙げているからだ。

 劇団の間違った考え方により、キムはいつもひとりで主演していた。
 長い歴史を、上から下へ受け継ぐ形でリレーしてきたタカラヅカなのに、上の人と絡むことがなかった。
 2番手をやらせてもらえなかったために、トップスターとそのときの組ファン、タカラヅカファンから、情を移してもらえなかった。
 そこへ、ゆみこの2番手切り、研1ヒロイン抜擢の疑惑人事という、劇団の失策をすべてかぶる結果となった。

 「2番手でなくても、ファンに情を移してもらえるスターはいる。それができなかったことは本人の魅力の問題で、人事のせいじゃない」とかいう話は、横へ置いておく。
 それを言い出すと、「真のスターならば初舞台生ロケットの中でも輝くはずだ」とかいう、極論につながる。すべての話が「天才なら問題なし」になって終了しちゃうよ。
 本人の資質云々ではなく、どうプロデュースすれば人心が動くかの話。

 キムに、2番手をさせるべきだった。
 コム時代から、壮くんよりもキムを引き上げたい意図が見えていた。そこへ、壮くんの花への組替え。
 ならばいっそ、水くんの2番手を、キムにするべきだった。
 『エリザベート』のルキーニ役をキムにやらせたい強い意志があったのだろうが、それならゆみこは専科から出演という形でも良かった。
 水くんとしっかり組ませ、2番手の仕事をさせるべきだった。

 トップファンは往々にして、2番手に複雑な感情を持つ。2番手とは通常、「次にトップになるスター」であり、現トップは2番手に追われる形になるためだ。その図があまりあからさまだと、トップファンから2番手に情が移りにくい。
 反対に、2番手の学年に余裕があれば、トップファンは心穏やかにいられる。
 トウコファンが、若いれおんを2番手として寛大に眺めていたように、水くんの下ならばキムの若さは純粋に戦力になったろう。


 水ゆみコンビが好きだったし、水くん時代の雪組を悪く言うつもりはない。ブログをさかのぼって見てもらえればわかると思うけど、わたしは水くん時代の作品もみんなおいしく楽しんで観てきた。水ゆみと彼らの時代を観られたことは、良かったと思う。
 それを否定するのではなく、ただ、今この時点から振り返ると、2番手切りという最悪の人事に行き着く遙か以前に、問題があったなと。

 そして、歴史はくり返す。
 キムくんの突然の退団発表は、わたしにとってゆみこの2番手退団と同じ色の失望だった。
 劇団に対する。

 プロデュースの失敗を、全部生徒に負わせるのか。

 キムの才能を、実力を、愛してきただけに、それが悲しい。
 東宝初日ですね。

 打たれ弱い人間なので、ただいま現実逃避中。
 23日以来、スカステ見てません。楽しみにしていた東宝の稽古場映像も見てない。もちろん、ニュースで流れただろう、退団のお知らせとか、退団会見も見てないっすよ。

 23日、キム退団を受け止めきれず、ぐーるぐるしているときに、やたら思い出したのが、『アルバトロス、南へ』でした。

 音月桂という舞台人の能力、才能に心から感嘆していた、あの公演。

 すごいものを見ている、そう背筋がざわざわした、あの感覚。
 歴史に残るナニか、とんでもないものを今、わたしはこの目にしている、歴史の生き証人になっている……と、理屈ではない、本能がそうメッセージを発していた。

 そして、『タランテラ!』。
 オギーに愛された舞台人である音月桂は、彼の作品で自在に呼吸し、クリエイターの世界を強く表現していた。

 毒のある美しい世界で的確に花開きつつ、キャラクタだけで乗り切るのではなく、確かな実力の裏打ちがあった。
 キャラクタだけで乗り切ることが出来るタカラヅカで、キムくんは希有なバランスを持った舞台人だ。

 オギーが、いてくれたら。
 何度、そう願ったろう。

 もう一度、オギー作品をタカラヅカで観られるとしたら、それはキム主演であるべきだと思った。
 オギーのショー処女作『パッサージュ』をスタートに、一貫してキムは毒と強さを持ったキャラクタとして描かれてきた。
 差し色だとかペルソナだとかではなく、彼を「主役」として描くなら、それはどんな物語になるのだろう。そう、わくわくした。
 オギーのタカラヅカ最終作『ソロモンの指輪』の映画版が、キム主演?てな切り口で潔くも再構築されていたように。

 キムくんの本領を発揮させられるクリエイターがいないまま、彼の男役人生が幕を閉じるかと思うと、悲しくてならない。

 タカラヅカでしか描けないものがある。
 タカラヅカ以外ではダメなんだ。だからこそ、この特殊な劇団は1世紀も在り続けてきた。
 何故わたしは、『アルバトロス、南へ』のような、『タランテラ!』のような、あのキムを再度見ることが出来ないまま、彼を失わなければならないんだろう。

 あくまでも、わたしの話。
 キムが、でも、キムファンが、でも、劇団が、でも、タカラヅカファンが、でもなんでもなく。他の誰かが、でもなく。
 んなこたぁー全部蚊帳の外で、単にわたし自身が、悲しい。

 わたしが、音月桂を失ってしまう。

 それが、悲しい。
 それが、やるせない。


 わたしの目には、音月桂はとんでもなく魅力的な人に映っていた。
 心の底から自慢したいというか、誇りに思える役者だ。
 あの歌声、あの演技力。そしてあの、熱。
 誰だって虜になる! 彼をちゃんと見てみて!

 ……わたしにはそう見えるけれど、そう見えない人もいる。当たり前だけどさ。
 背が低いとか女の子っぽいとか、彼の足りないところとして、挙げられていることは、わかるよ。回ってくるのが若者役ばっかだしさ。オフだってスイーツ大好きてへぺろキャラってな感じだしさ。

 でも。
 んな見た目だーのオフのキャラクタだーのは、わたし的にはどーでもいい。
 役者として、舞台の上でのキムが魅力的なので、彼が演じる役が好きなので、どーでもいい。
 女っぽいだの子どもっぽいだのは、先入観だ。舞台のキムは骨太な男だし、演出家が若者役ばかり与えるから若く演じているだけで、大人を演じれば大人になる。いつまでも7年前の『銀の狼』のままじゃない。


 オギーはいなくなるわ、わたしのメインも雪組ではなくなったので昔ほど没入して観劇していないわで、一時期温度が落ちていたけれど。
 贔屓が雪組になったため、嫌っちゅーほど雪組を観る。そうすると、嫌でもわかる、キムのすごさが。
 この1年で、ますますキムに傾倒した。

 わたしのご贔屓のいる組のトップが、キムくんでよかった。
 心から、そう思っていた。
 同じ公演を10回以上観るんだ。いちばん出番が多くて、いちばんたくさん歌う人を苦手だったりしたら、つらいじゃん。
 なのに、めちゃくちゃ好みの芝居と歌声を持った人がトップスターなんだよ? なにその幸運!!

 ほんとうに、しあわせだった。

 キムが好きだから、いろいろと夢を見られた。
 今現在の公演もたのしいし、これからの公演もたのしみでいられた。どんな役が、どんな作品が回ってくるのか、キムくんと雪組でこんな作品が観たいと、夢を見られた。
 ああそして、いつかオギーが戻って来てくれたらなあ。謝先生みたく、外部クリエイターのゲスト演出公演ってポジでいいから。トウコ主演は叶わなかった、タカラヅカのオギー作品、せめてキムで観たい、と。


 その未来が、夢が、失われた。

 これほど力のある舞台人を、どうしてうまく生かすことができなかったんだ、宝塚歌劇団。
 『アルバトロス、南へ』まで時を戻し、彼をプロデュースしたいよ。
 音月桂が、もったいない。

 思うところはいろいろあるが、そのうちのひとつ。

 わたしが、音月桂を失ってしまう。
 彼の演じる役を、見られなくなる。
 それがつらい。悲しい。
2012/04/23

雪組トップスター・音月 桂 退団会見のお知らせ

雪組トップスター・音月 桂が、2012年12月24日の雪組東京宝塚劇場公演『JIN-仁-』『GOLD SPARK!-この一瞬を永遠に-』の千秋楽をもって退団することとなり、2012年4月24日に記者会見を行います。

なお、会見の模様は当ホームページでもお知らせ致します。


 今の雪組が好きだ。
 今の雪組が好きだ。
 今の雪組が好きだ。
 ラストディ中継の会場確保は難しいのかなと思う。
 自前で補うわけじゃないから、会場を押さえすぎて余らせたら赤字だし、足りないとクレームが来て面倒くさいし。
 クレームに電話で謝るのはタダ(スタッフの労力っつーのは無料と考えるもんだろ、上の人って)だが、チケットが売れなかったら損失になる、それなら断然、会場は少なく、足りないくらいがいいよね!
 ……という判断から、いつも「チケ難!」という事態になっているのかなと思う。
 実際、某さんとか某さんとか、チケット余り気味だったものね……それを踏まえて、少なめにしか用意しなくなったのかなあ。

 まあいろいろあるだろうけど、わたしのよーな金もツテもない人間は、いろんなところでチケット難民。
 きりやんラストディも入手できず、見そびれました。
 自分が出来る範囲で、出来るだけの努力はしたし、当日は早くからムラへ行き、サバキ待ちもしたんですけどねー。

 大きなスクリーンで、きりやんやまりもちゃんを見てみたかったな。
 『エドワード8世』は複雑な芝居を必要とするからこそ、オペラグラスで捕らえられないくらいの細やかな部分を、ぜひスクリーンで見たかった。
 残念。


 …………いろいろ奔走して疲れ切ったので、翌日以降にゆっくりきりやんに思いを馳せて、年寄りの昔話だーの、思い出に浸ろうと思っていたわけですよ。
 翌日には流れるだろう、スカステの大楽映像なんか見ながら。

 まさか翌日に、とんでもない爆弾発表があるとは思わずに。

 なんかもう、ひたすらなつかしい。
 いろんなこと。

 昔は良かった、じゃないけれど、昔は、あの頃は、こんなに心を傷つけられることもなかったなあ。ただ、好きは好きってだけで、無邪気に舞台を観ていられたなあ。
 なんて、ね。

 それでも、出会えたことがうれしいし、思い出は美しく永遠に降り積もっていくわけです。


 ところでわたし、スカステのニュースやNOW ON STAGEなど、リアルタイムものの映像データをえんえんえんえん録り溜めているんだけど。
 月組『エドワード8世』『Misty Station』のディスクが見当たらなくなっている……どこへ消えてしまったんだ。
 乱雑な部屋で生息しているせいだけどさー。他タイトルのディスクと間違って収納しちゃってる可能性も大きいしさー。部屋から出してないんだから、どこかにあるはずなんだけど。
 ナイナイの神様、わたしにタカラヅカのきりやんを昇華させてくださいまし。
 しつこく『華やかなりし日々』を考える。

 えー、作品の組み立て方について。

 『華やかなりし日々』の作品解説は、

>「狂騒の時代」と称された1920年代のニューヨークを舞台に、ヨーロッパから
>渡ってきた移民の青年の愛と野望の軌跡をドラマティックに描いたミュージカ
>ル。貧しい移民街からのし上がり稀代の詐欺師となって巨万の富を築いた男は、
>ショー・ビジネスの世界を次なる標的とし、劇場を手に入れようと画策するが
>……。

 と、ある。
 2011年11月18日に発表されたときのままだ。

 愛と野望の軌跡を、ドラマティックに。
 この内容のまま、華やかで良かった演出、ゆーひくんのカッコイイ演出、ラストシーンの小粋な去り際などはそのままに、どーにかならんかったんかいを、考える。

 主人公の設定は、
1.貧しい移民
2.詐欺師としてのし上がる
3.現在、巨万の富を得ている
4.劇場を手に入れようと画策する
 と、これらのことがまずあり、最終的に、
5.小粋に去って行く
 とする。

 まず、大筋。
 詐欺師ものであることから、できることは。


その1.ゼロからスタートして、詐欺が大成功。
その2.成功している詐欺師が、破滅する。

 大きく分けると、このふたつ。
 犯罪者を主人公にする場合、成功を収めてハッピーエンドにするためには、「悪人を懲らしめる義賊的役割」か、「今現在底辺にいて、その詐欺を行うことでトップに立てる(悪いことをするのは今回だけ、これからはいいことをする)」ぐらいでないと、日本人の感性に合いにくい。
 ズルをして幸福になる、他人を陥れて成功する、は、観客の共感を得にくいためだ。

 「3.現在、巨万の富を得ている」という設定なので、この場合はその2(成功→破滅)で考えるべきだろう。
 すでに持っているものを、失う話。お金持ちの悪人が、さらに悪いことをしてもっと稼いで、さらに幸せになりました、だと物語を作るのが難しい。できないわけじゃないが、1時間半の大衆向けドラマでやるこっちゃない。

 ただ、「5.小粋に去って行く」わけだから、深刻な悲劇にしてはならない。

 これを、どう描くか。

 ここがタカラヅカである以上、ヒロインとの恋愛ははずせない。
 解説にはナイが、ショー・ビジネスの世界でヒロインと出会って、恋愛するのは鉄板。

 ヒロインの設定をどうするか。


その1.ショー・ビジネスの世界にあって希有な、ピュアガール。
その2.ショー・ビジネスの世界で戦う、タフガール。

 ののすみならどっちも行けるだろうけれど、今回原田くんはその1を選んだ。

 詐欺師とピュアガールの恋。
 ピュアなヒロインは、犯罪なんか許せない。受け入れられない。


その1.犯罪者だということは秘密にする。
その2.犯罪者だと知らせる、それでも愛していると通す。

 えーと。
 原田くんが選んだのは、その1なんだよね? ロナウドはロシア貴族ではない、貧しい移民だったことは告げたけれど、今現在詐欺師であるとは教えていない。

 このルートは、難しい。

 A・その2(成功→破滅) → B・その1(ピュアガール) → C・その1(犯罪者なのは秘密) でもって最終的に「破滅」して、「小粋に去る」を成立させるのは、かーなーりー、難しいんですが。
 何故こんな難易度の高いルートを選んだんだ。

 主人公が犯罪者なら、ピュアなヒロインは心を許していない。主人公は、ヒロインをも騙しているわけだ。
 それでクライマックスでは犯罪者だということが、バレてしまう。つまりそこでヒロインは、とても傷つく。
 ヒロインを騙したあげく傷つけて、小粋に去って行くENDって、どんなんよ?

 わたしなら、最初からこのルートは選ばない。
 最初からナニも持たない底辺の男が、一念発起して悪人たちから大金を騙し取り、それでハッピーエンドという、A・その1(無→成功)をスタートとするルートなら、B・その1(ピュアガール) → C・その1(犯罪者なのは秘密)という路線もありかな。

 もしくは、A・その2(成功→破滅) → B・その1(ピュアガール)までは同じでも、C・その2を選び、「俺は悪人だ、でも君を愛している」とやる。
 ピュアなヒロインが「汚いお金なんかいらない」と言っても、とことん悪党の顔で「そんなことを言っても君は俺に逆らえないんだ」とかドSにやって、無理矢理彼女を成功に導く。
 主人公を許さず、罵るヒロイン。そののち主人公は破滅、本当ならいい気味よと思わなくてはならないのに、何故なの、心が痛い……。
 彼は悪人だけど、警察に捕まって欲しくない、ヒロインの女心が揺れ動く。
 で、主人公は警察も煙に巻いて、小粋に去って行く。悪い男だけど魅力的、ヒロインも泣き笑い。「悪人は許せない、でもアナタを愛してる」で、完。

 いちばん好みなのは、A・その2(成功→破滅) → B・その2(タフガール) → C・その2(犯罪者だと告げる)ですけどね。
 目的に向かってまっしぐらなタフガール。多少強引な方法でも、チャンスはチャンスと割り切る大人。
 主人公が犯罪者だと聞かされても、びびらない。
 ならば手を組んで、共にサクセスを目指しましょう。
 これぞまさに「俺と君は似ている」ですよ。
 マンハッタンの夜景を背景に、愛と野心のラブソングをデュエットしちゃってください。
 そんなタフな女の子なら、主人公が破滅して、されど小粋に去って行くのも笑って許してくれるでしょう。「私も負けないわ」とスターとして、スキャンダルを武器にのし上がっていくことでしょう。

 と、別ルート、別の組み立てなら、いくらでも「犯罪者の主人公が破滅して、でも小粋に去って行く」が成り立つのに。
 原田くんの選んだルートは、よりによってパラドックスルート、成り立たない式なんですよー。

 や、もちろん成り立たせることは、不可能じゃナイ。
 心理劇として本気で複雑なやりとりを書き込む気があるならば。

 でもそれ、原田くんがもっとも苦手とすることじゃん。

 まちがったルートを選んで袋小路、ゲームオーバーになっちゃったのは、いかにもデビュー作で『Je Chante』を作った人だなあという感じ。
 人の心の動きを、追うことが出来ない人なんだなと。
 それゆえにストーリー自体が破綻する、と。


 ジェンヌは大変だ、この脚本でも辻褄合わせて演技しなきゃならないんだから。
 ロナウドを美しく格好良く、脚本の粗を隠して演じてしまう、ゆーひんをすごいと思う。
 ジュディを美しく心正しく、脚本の粗を隠して演じてしまう、ののすみをすごいと思う。

 友人との会話から発展し、「プログラムの扱いによる全組ポジション比較」をやってみた。

 組ごとに事情は違うので、比較したところで「だからナニ?」ってもんだろうが、劇団はけっこーシビアにプログラムの扱いは線引きをしている。花組でずーーっと「スチール5分の1サイズ、4人載り」をやってきた人のファンが言うんだから、間違いない(笑)。ほんっと、そっから上には上げてもらえなかったもんなあ、何年も何年も。

 本家劇場(と、オフィシャルショップ)でのみ販売する、本公演プログラムっていうのは、ある意味ストイックに「劇団」と直結するものだ。舞台でちょい役であろうと、組長・副組長が「主な配役」に載っているように、劇団が大切にしている「形式」がそこにある。
 ある意味「劇団の顔」なんだろうな。

 タカラヅカを楽しむ要因のひとつである、ポジションについての云々。
 プログラムは、それを考察する一面。それがすべてではないが、ひとつの切り口ってことで、眺めて楽しみましょう(笑)。

 参考にしたのは最新大劇プログラム。

星 『オーシャンズ11』
花 『復活』
月 『エドワード8世』
雪 『ドン・カルロス』
宙 『華やかなりし日々』 (まさことみーちゃんのみ、『クラシコ・イタリアーノ』)

 トップコンビを除いた、スチールメンバーをエクセルで表にした。
 今後もデータを付け加える前提なので、組順ではなく公演順で作成。
 そっからコピーしてきた以下のデータも、生徒名が上記の直近公演順になってる。……落ち着かないわねー、組順でないと(笑)。

1/正2番手(芝居・ショー全身1P、スチール1P小、インタビュー1P)
 壮一帆・早霧せいな・凰稀かなめ

2/2番手に準ずる?(芝居・ショー全身半P、スチール1P小、インタビュー1P)
 龍真咲・明日海りお

3/3番手よりちょっと上?(芝居全身1P、スチール半P、インタビュー1P)
 涼紫央

4/正3番手(芝居全身1P小、スチール1P小、インタビュー1P)
 愛音羽麗・未涼亜希・北翔海莉

5/4番手よりちょっと上?(芝居全身半P、スチール半P、インタビュー半P)
 夢乃聖夏・紅ゆずる・真風涼帆

6/4番手格?(スチール4分の1大、インタビュー半P)
 華形ひかる・朝夏まなと・望海風斗・青樹泉・星条海斗・緒月遠麻・悠未ひろ

7/(スチール4分の1大)
 美弥るりか・沙央くらま・凪七瑠海・(十輝いりす)

8/組長・副組長(スチール4分の1)
 全組共通

9/(スチール5分の1サイズ、4人載り)
 美稀千種・毬乃ゆい・美城れん・音花ゆり
 鶴美舞夕・白華れみ・花愛瑞穂・壱城あずさ
 悠真倫・桜一花・紫峰七海・花野じゅりあ
 美風舞良・大海亜呼・風莉じん・蓮水ゆうや・(春風弥里)

10/(スチール5分の1サイズ、5人載り)
 碧海りま・如月蓮・音波みのり・天寿光希・白妙なつ
 初姫さあや・華耀きらり・扇めぐむ・夕霧らい・月央和沙
 彩城レア・芽吹幸奈・煌雅あさひ・瀬戸かずや・鳳真由
 一色瑠加・憧花ゆりの・光月るう・妃鳳こころ・萌花ゆりあ
 綾月せり・夏月都・響れおな・宇月颯・彩星りおん
 舞咲りん・奏乃はると・涼花リサ・大湖せしる・早花まこ
 沙月愛奈・蓮城まこと・花帆杏奈・香綾しずる・愛加あゆ
 千風カレン・彩風咲奈・彩凪翔・此花いの莉・透水さらさ
 鳳翔大・純矢ちとせ・愛花ちさき・花露すみか・七海ひろき
 鳳樹いち・すみれ乃麗・藤咲えり・澄輝さやと・百千糸

以下略


 こうして見ると、ほんとに月組と星組だけイレギュラー。
 他3組はぴったりピラミッドになっている。

 で、まさみりは同格扱いだったんだなあ。まさおを2番手扱いしてなかったんだ……ふたりで2.5番手だったんだ……と、改めて思う。

 星組は2番手不在で、すずみんを2番手にはしないよう、とても丁寧にレイアウトしてある。
 なんつーんだ、「2番手」と書いたステップから1段下げたところにすずみんを置いたため、「3番手」位置も一緒に1段下がったというか。
 2.5番手すずみんと、3.5番手が3人、という不思議な図。なにその小数点以下のついた番手乱立。

 ふつーがいちばんいいのになあ……。

 異動・代替わりのある今、記録しておくのも意味があるかなと。
 組替え者は、今の位置からどの位置に変わるんだろう?
 代替わりする月と宙は、どうなるのか。


 友人と話していて「誰かプログラムの扱いによる全組ポジション比較表作ってよー」と、最初他人事だったのは、「あたしじゃ無理。だって雪組のプログラムしか持ってないもん」だったせい。
 びんぼーだから、プログラム買えないのよわたし。なにより、置くところナイ、ってのが相当切実。
 自分ひとりじゃ無理だけど、仲間内に声かけて、それぞれ持っているプログラムの情報を共有すれば出来るかな、とか、ぼんやり思った。
 でも。
 待てよ、ひょっとしてあたし、自分でできるんじゃ? 花組のプログラムは買ったよね、めぐむとアーサー最後だから。月組は大野くんだから買ってるし、宙組もゆーひくん最後だから買った。これで4組分クリアー。あとは星組。
 ……本棚見たら、ありました。買うだけ買ってページ開いてない(他の組のプログラムも同様、あ、大野くんのページだけは読んでる・笑)から忘れてたけど、わたし、星組もここんとこ毎回買ってるわ……ねね様のために。

 びっくり。
 5組分、プログラム手元にあるわ……。こんなの、何年ぶり……?
 プログラムが改悪(脚本不掲載)+1000円に値上げされて以来、はじめてぢゃないか?

 十数年ぶりの奇跡(笑)なので、これはがんばってデータ調べるしかないなと思った次第。


 あれ?
 でもこれじゃ、次からもプログラム買わなきゃいけない……?
 こうして、びんぼーに拍車がかかるのか?

< 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 >

 

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