PCを立ち上げると画面に地元の気温が表示されるんだが、朝見ると「-2度」だった。
 マイナス2度……。気温が氷点下になった記憶を思い出せない、ぬくい世界で生きてる身なので、ちょっと感動してしまった。
 そんな寒い寒い朝、さらに寒いだろう宝塚ムラへ。

 『宝塚音楽学校第98期生文化祭』、12時の部観劇。

 文化祭はWキャスト。12時と16時で演劇の出演者がチガウ。
 いつもチケットが手に入った回のみを観ているので、誰の舞台姿を観られて、誰を観られずに終わるのかは、運次第。
 去年は友会で当たりすぎたけど、今年は見渡す限り全滅。友会席が見直されたのかもしれない。
 てことで、八方手を尽くし、入手できたのがこの回だったんだ。

 演劇は谷先生の『アルト・ハイデルベルク』

 ……わたしにとって『アルト・ハイデルベルク』というと、『紀元2600年のプレイボール』だったりするんですが、通じる人いますか?(笑)

 皇太子カール・ハインリッヒは、2年間の期限付きで大学都市ハイデルベルクで学生生活を送ることになった。彼の下宿には、美しいケティという娘がおり、ふたりは身分違いの恋に落ちるが……。

 谷先生の作品だと、学生でもがっつりコスプレすることになるので、勉強になっていいのかなあ。

 わたしのなかで印象が強いせいか、マサツカ芝居のイメージがあって、「男役はまだいいけど、娘役はデコ全開ひっつめ髪のまま芝居しなきゃならないから大変」と思い込んでいた。みんな同じ髪型、美人もかわいこちゃんも、これ以上美しくなりようがナイ姿で、がんばって演じるしかないんだ、と。
 ソレって正塚先生限定か。
 谷先生だと、真面目にコスプレですよ、カツラもアクセも必要ですよ。
 女の子たちはドレス、男たちは軍服や宮廷服、みんなカツラ装着っす。
 着こなしは微妙なんだけど、それでもみんなすごく張り切って華美な衣装を着て、女の子たちはカツラとかがんばってたし、衣装替えもあるからきっと楽屋でも総力戦であたっているんだろうなと、いろいろ想像させてくれて、胸熱。

 主役のカール・ハインツくんは、首席の男の子でした。
 丸顔のかわいこちゃん。花組の鳳くんに似ているなーと思って見ていた。

 ヒロインのケティは、第1部のポピュラー・ヴォーカルで活躍していた、派手な顔立ちの美人さん。

 このふたりの比重がハンパない。
 文化祭の芝居ってもっと、全員まんべんなく出番や見せ場がある印象なんだが、今回はまともに主役中心芝居だった。
 それだけ期待されているのかな。16時の主演コンビも含め。

 このふたりは主役としてのタカラヅカ的ど真ん中芝居をさせられており、あとは皇太子の内侍役の子が「いちばん芝居できます」ポジションかな、という印象だった。内侍くんはひとりボケツッコミっつーか、ひとりで話を回していかなくてはならない役だったので。

 首席くんは甘い雰囲気がいかにも「王子様」。
 他の登場人物がわいわいやって、さんざん気を持たせたあとに登場するので、大変だったろうなあ(笑)。
 それを言うなら、ケティも「美女」と男たち総勢で褒め称えたあとの登場だ。
 ……このへん、ものすごく谷芝居(笑)。

 お勉強にはなったろうし、文化祭なんだからそれだけでいいんだろうけど、未熟さゆえに求心力のない出演者でやるには、ちょっとキツイ芝居だったかと。隣の席のおにーさん居眠りしないで、オチが最初からわかっている、ほんの少数の登場人物が向かい合って会話するばっかのキツイ演出だけど、隣でオチられると気になっちゃったわ(笑)。
 もう少し、「文化祭」「デビュー前の学生たちが出演している」ことを踏まえた演出にしてほしかったっす、谷せんせ。

 んで、ツボったのは、ラストシーン。

 文化祭のプログラムは「第1部 日本舞踊/予科生コーラス/クラシック・ヴォーカル/ポピュラー・ヴォーカル」「第2部 演劇」「第3部 ダンス・コンサート」とわざわざ分けてある。
 歌は第1部なの。第2部は芝居だけ、歌はナイの。ストレートプレイなの。

 だから余計に、ガチな対面会話による芝居ばかりだと場が持たなくて大変なわけで。

 観ながら、「この台詞のあとは、歌だよな」と勝手に考えてしまった。
 なんつーんだ、もうカラダがそう出来上がってしまっているというか、ミュージカルのお約束、ヅカのお約束に毒されてしまっているみたいだ。

 主人公がものすごーくクサく、型通りにもったいつけてシリアスな台詞を言う、次の瞬間ジャジャンと情熱のソロに入る、みたいな。

 身構えた自分に「乙!」という気分だったのに。

 主人公、歌い出すし。

 えええ。
 ストレートプレイのはずなのに?! ラストシーンの今まで、歌もダンスもナシ、台詞だけの芝居だったのに?!

 主人公のドラマティック・ソロを受けたヒロイン、こちらもまた、ヅカのお約束で行けば歌い返すはずだが、なにしろこれは文化祭の「演劇」で、ストレートプレイのはず……。

 ヒロイン、歌い出すし。

 突然のミュージカル!! 10のうち9までストプレだったのに、ラストシーンで唐突に。

 歌う主役カップルの周りに、他のキャラたちも歌いながら大集合。過ぎゆく青春、旅立ちます!的に。

 うわー……。

 ベッタベタに、「タカラヅカ」。ベッタベタに、谷正純。

 ヅカのお約束、ヅカ芝居の言い回し、ヅカ芝居のリズム……全部全部、まるっと使ってる!!(笑)

 なんせ、ようやく再会した主人公とヒロインの場面で、ヒロインが言うのよ。

「涙が邪魔をして、あなたの顔がよく見えない……」

 ちょ……っ!(笑)
 ここでまさかのお花様@『望郷…』来たよ!! 谷せんせ、どんだけベッタベタ……。

 いやはや。
 すごかったっす。いろいろと。

 去年の演劇も谷せんせで、やっぱりラストに突然歌があって「えええ」だったけど、前回だけが特別かと思ってたんだ。いかにも特別らしくプログラムにわざわざ書いてあったし。
 これからは演劇も歌アリのミュージカルにするのかな。
 それなら突然ラストだけミュージカルにせず、全編そうすればいいのに。

 首席くんはうまかったと思うけど、ヒロインちゃんと芝居が合っていない気がした。
 というのも、やたらふたりきりでの芝居が多いっつーに、ふたりの芝居の力関係を円グラフで表すと、3分の2をヒロインちゃんが押し切っているように思えたんだ。
 円グラフはせめて半々、ほんとなら主役が3分の2を取るくらいが本来のバランスじゃないかな?
 ヒロインが強くて、首席くんは受けの芝居に回っていた気がする。後手に回っているというか。
 ヒロインちゃんがうまくて主役を食っているというよりは、主役が踏ん張りきっていないような。

 公演回数を重ねたら変わってくるかもだが、なにしろ文化祭は2回こっきりだ。
 パワー円グラフは収まりの悪いままでも、仕方ないか。

 難しい役だなと思ったのは、国務長官。
 大人の男の役、しかも抑えた風情の辛抱役だ。発散系の内侍役の難しさとは正反対。
 冒頭はこんなもんかというか、そうだよね、これが精一杯だよね、と思って見ていたけれど、最後の方はけっこー良かった。

 顔と名前が一致しなくて、最後まで見分けられなかったんだけど、ザクセン団の爵位なし学生の2名がなかなか、気になる子たちだった。

 んで、わたし的に今回いちばん芝居が気に入ったのは、街の娘のひとり。最初、下宿屋の女将に話しかけたいのになかなか口を開かせてもらえずにいた子。
 後半の出番では、もったいつけてなかなか「大変」の意味を言わなかった子。
 あの子の芝居、好きだわー。
 今回の花組公演、『復活 -恋が終わり、愛が残った-』にて。
 ナニにツボったかって、だいもん。

 幕上がりましたー、はじまりましたー、本舞台から花道からとわらわら物語がはじまって、どこを観ればいいのかどこが主軸なのかぱっと見わからないままきょろきょろしている、そのときに。

 歌声が、響く。

 しっとりとした、美しい声。
 陽気さはないけれど濁りのない、場を包む声。

 あわてて視点を向けたときには、終わっている。
 だけど今の、だいもんだよね?? だいもんソロからはじまるの、この話??

 今までの彼の扱いからは想像つかなくて、びびる。

 歌い終わり、モブの兵士たちにまざるだいもんをガン見してるうちに終わってしまった、プロローグ。

 最初にびっくりしたけど、そのあとしばらく出ないので、また彼のことは忘れて物語に集中する。
 出番がないとか台詞がないとか、そんなのだいもん的に当たり前。どんだけ彼が早熟で下級生時代から出来上がっている人でも、年功序列の花組では出番も見せ場もナシで当たり前。

 ワーニコフ@まりんの腰巾着的に出てきたときも、気にしてなかった。ありがちありがち、はいはい。なんのキャラクタも役割もなく、ただ横にくっついているだけの役なんでしょ? だいもんなんだもん、そんなもんよね? そんな役しか与えてもらえないのよね?

 ところが。

 あ、あれ?
 なんか思ったより、出番、あるよ……?

 ただ横にくっついているだけ、じゃ、ない。
 台詞もあるし、役割もある。キャラクタもある。
 え? ええ?
 だいもんなのに?!

 彼に役らしい役があるのって、3年ぶり?!

 研1から抜擢されてきた、次席入団の実力者なのに、本公演ではそんな扱い、だもんな、花組……。
 あ、娘役としては大きな役、2年前にやってるけど、それは枠外ね(笑)。

 ミハイロフ警備隊長は、目立つ役ではないけれど、筋の通ったひとつの役だ。
 最初はちょっと軽めの風情で現れるけれど、どんどん地に足が付き、本来の誠実さや真摯さが現れてくる。
 軍人としての心根のまっすぐさ、人間としての骨太さが、あちこち垣間見える。

 ネフリュードフ@らんとむを見つめることによって、彼もいろんなことを考えたんだろう。
 成長したんだろう。変化したんだろう。
 それが、よくわかる。

 てゆーか、単純に、格好いい。

 理屈はいらん。
 見た目が、格好いい。

 同じよーな人たちの中に混ざっていて、「あそこにいい男がいる!」と思わせてくれる。

 男役としての出来上がり方に、説得力がある。
 一朝一夕で出来上がったモノじゃない、ぽっと出じゃ束になってもかなわないだろう層の厚さ。
 うわああ、かっけー。
 だいもんって、こんなことになってるの?!
 だいもんなのに?!

 いや、だいもんが出来る子なのもかっこいいのも美形なのも知ってるけど、それはわりとバウとかの別箱で発揮してきたことであって、大劇場サイズで芝居して、群れの中に立っていてなお目を引く格好良さを放っている……って、なにごとっ?!


 ショーでもキラキラはじけ、エロエロもしてましたが(笑)、そっちはあまり新たな感銘ではなかった。
 ショーではじけてるのは今にはじまったことじゃないから。

 あ、でもエトワールはうれしかった!
 ほんとにいい声。
 もっともっと歌わせてくれよ。マジ歌ウマなんだから。
 歌手は、場をもらわないと力を発揮できないんだよ。宝を持ったまま腐らせ、卒業させるのだけは勘弁してくれ。劇団がアホみたいにくり返してきた愚行だけどさ。


 でもやっぱ、なんつっても、芝居だよなああ。
 あの暗い芝居の中で、存在感出してくるんだもんなあ。

 これからもっともっと、だいもんを使って欲しいよ。

 イシダせんせはだいもんの実力をわかってるはずだもんなあ。『銀ちゃんの恋』でヲカマやらせて、『フィフティ・フィフティ』でも三枚目やらせてた。実力を理解しての配役だろうけど、なんでまともに男役力を発揮できる役をやらせてくれないんだとじれったかった。
 よーやく二枚目役だ……存分に「カッコイイ」を打ち出していい役だ。
 よかった~~。


 こんなにだいもんだいもんな気持ちになっているのはわたしだけかと思ったら、まっつメイトがみんな口を揃えて「だいもん、いいよね!」と言っているのにもツボった。もともといいと思ってるけど、特に今回は、って。
 みんな、好みが一定している……(笑)。
 ショー『カノン』は、ひどく、困惑するショーだった。

 わたしは古い人間だし、頭の固いおばさんなので、伝統を愛している。伝統やルールを守り、敬意を持った上で新しいことを展開するのはいいと思っているが、無法に振る舞うだけを「自由」だの「新しい」だのとは思わない。

 だから、タカラヅカのルールを無視したショーは、それだけでかなりマイナス点が付いた。

 ……なんでふつーのことを、ふつーにやらないんだろう……?
 シンプルに、疑問だわ。

 2005年から去年前半まで、花組をヘビーリピートしてきた。
 上には上がいることは承知しているが、けっこうヘビーユーザーなんじゃないかと思っている。
 そんな中で、まぁくんの扱いはずーっと疑問だった。
 2005年の『マラケシュ・紅の墓標』新人公演にて、まったく無名の下級生だったまぁくんが、彗星の如く登場した。
 確かに彼は、スターになる素質を持った子で、このまま彼を大切に育てるんだろうと思った。
 が、それからの彼の育て方は、本人のためにも組のためにも、ヅカファンのためにもならない、誰も得をしないひどいやり方だった。
 新公やバウホールという、一部の観客しか受け付けない、偏った場を独占。本来ならばそこで活躍の場を得られるだろう、他の新人たちの可能性をつぶしてまで。
 ゆえに、期待や応援よりも、あきらめやマイナス感情だけが、組ファンに植え付けられる。
 そのくせ、本公演では年功序列を頑なに守る。まぁくんは下級生のひとり、出番も役もない、見せ場もないので魅力なんか伝わらない。
 ただでさえ、極端なひとりっ子政策が裏目に出ているのに、多くの人の目に触れるところで魅力が伝わらないんじゃ、マイナス効果しかない。あんなに新公やバウを独占しているのに、この程度なの、と。

 どれだけ偏った場で主演し続けようと、まず一般大衆に認知されない。新公は所詮1回限りだし、バウなんてもともとのファンやコアな人間しか観に行かない。拙いとわかっているものに、一人前のスターと同料金を払って観に行ける人たちであふれているほど、世の中は好景気じゃない。
 やり方が、間違っていた。正解の真逆だった。
 新公主演は少なめで、脇の実力が付く役をやらせて修行させる。バウ主演は人気が出るまで与えない。その代わり、人気スターのバウやDCなどでおいしい役を与える。
 そして、なんといっても本公演で、おいしい役をさせる。
 まず観客に「スターですよ!」と観てもらわないと、はじまらないからだ。
 年功序列も大切だが、5年後10年後のタカラヅカのために必要なら、冒険もしてみるべきだ。
 失敗したと思ったら、その都度反省して軌道修正すればいいだけのこと。

 なのにまぁくんは間違った方法を押しつけられて、伸び盛りの時代を過ごしてしまった。

 間違っていようと改める気はなく、このまま花組だけは年功序列で行くんだろう。
 そう、組ファンもタカラヅカファンも思っているところへ、今回の『カノン』だ。

 まさかの、まぁくん爆上げ。

 何故、今。

 5年前にやっとけよ!!

 今さらんなことしたって、大型新星現る!になんねーよ。

 7年間年功序列だっただけに、スターの抜擢というよりは、後味の悪い「横入り」に見える。
 いくら組替えが決まっているからって、なあ。
 もう少しやりようがあるだろうに。
 劇団って、花組プロデューサーって、バカぢゃねーの?
 そして、それを示唆したのが上部であったとしても、もっとファンにとまどいや反感を抱かせない方法で演出することは出来なかったのか、ミキティ。

 劇団もバカだと思うけど、やっぱいちばんの原因は演出家じゃないかと思う。
 今までの作品制作態度から見て、劇団は「どの曲を使ってどの衣装を着てどんな演出でどんな振付でどんなタイミングで誰々を使え」とは指示していないと思う。
 もっと漠然としてるんじゃないか? 誰々が目立つようにしろとか、誰々にセンターやらせろとか、その程度の指示じゃあ?
 具体的な、演出に関わるような指示を、素人は出せないと思う。
 で、門外漢の出してくるファジィな指示をどう料理して、クライアントの意図に適ったものにするかは、クリエイターの仕事っしょ、どの世界も。
 ミキティに気遣いがないだけって気がするんだ。

 ここでこーゆーことをすると、ヅカファンがどう思うか。組ファンがどう思うか。
 それを思いやる心、想像する柔軟さが、欠けているのではないだろうか。

 ミキティって、ヅカの座付きだっちゅー意識が薄れてんじゃね?
 ヅカを愛する気持ちが薄れてんじゃね?

 と、とても根本的な疑問を持ちました。
 もしも基本的なところが揺るぎないなら、あのデュエットダンスはやらないだろ、と思う。

 いやあ、さすがにぽかーん、でした。
 トップコンビのお約束、ショーの美しい定番、大階段前のデュエットダンスが、ふた組って……。
 3組以上なら、いいんだ。トップコンビがあくまでもメインで、その後ろににぎやかしとして、バックダンサー的に他のカップルが踊っているなら。
 でも、並列でふた組はナイわ……。
 それだけでも驚いたけど、きっと途中でえりたん・みりおんチームはいなくなって、蘭蘭コンビだけになるんだわ、と思って見ていたら、ふた組とも銀橋に出てきたよ……。
 ナイわー。ヲタやってそこそこ長いけど、これはナイわー。

 崩してはいけない伝統の形、形式に沿っているからこそ美しいモノって、あると思うよ。
 それをないがしろにするのは、誰得なの。

 ショーの構成自体、らんとむパートとえりたんパートに分かれた、ダブルトップものみたいだし。タニちゃんとトド様がダブルトップとして出演していた『Passion』と同じ構成って……。

 ま、ほんとのとこ、いちばんの不満はアーサーdisってんのか?つーことだったりする。
 ナニあの扱い。なんで退団者の見せ場が3人だけ? 学年順でもスター順でもなんでもない、謎の人選。フジイくんなら退団者5人とも登場させたよ。
 アーサーは新公3番手止まりの人かもしんないけど、見せ場がナイだけじゃなく、舞台に、出してももらえないよーな扱いを受ける人じゃないよ?
 出ている時間が少なすぎる。それも、不自然に。

 いろいろと不満だし、不思議なショーだったわ。
 いい場面、好きな場面もあったんだけどね。
 男たちのエロエロ場面、ダークな蘭ちゃんとか、わくわくしましたとも。
 今回わたし、だいもんにめろめろだったので、彼を追いかけて胸躍らせてました。
 どんな料理も楽しむ気満々なんで、ちゃんと堪能したけれど。
 なんでこんな、いびつな演出になっているのか、首を傾げざるを得ない。

 銀橋から登場の、じゅりあ様ロケットガールも、心から驚愕した。
 何故……?
 じゅりあ様は、研12ですよ……? 娘役トップスターでもありませんよ……? タカラヅカにおいての研12娘役は、熟女扱いがふつーですよ……?
 月組でいうなら、憧花ゆりの様が銀橋からダルマ姿で登場し、ロケットガールやっちゃう感覚……?

 ただしわたしはじゅりあちゃんが好きで、彼女の脚線美も美貌も、押し出しの強さも好きなので、おいしくいただきましたが!!
 疑問は疑問(笑)。
 わたしはもともと雑誌『歌劇』を好きじゃなかった。
 『グラフ』と『歌劇』なら、断然『グラフ』派。
 その昔、「宝塚友の会」は機関誌年間購入が義務だった。わたしは迷わず『宝塚グラフ』コースだった。

 雑誌『歌劇』を好きでないいちばんの理由は、「アタマの悪い文章を読みたくない」だった。
 自分がアタマいいかどうかはさておき、消費者の立場として、活字に存在しない汗マークやハートだのキラキラだの、書き文字を無理矢理取り込んで活字の欄に並列してある、そんな文章を読みたくなかった。

 今のように、ネットで素人が好きなだけ文章を発表できる時代じゃない。
 「文章」ってのは、プロの書くモノしか目に触れなかったんだ、ふつー。顔文字がないわけじゃなかったけど、それは手書き文化のみ、新聞や雑誌にそんなモノは存在しない。
 そんな時代に、ジェンヌの書く「永遠の女子高生」みたいな文章は、なんとも奇妙で読みにくいモノだった。
 友だち同士でノートや便せんに書いているなら違和感なくても、文芸誌と同じサイズの雑誌で、活字でやられるとついていけない。

 今はジェンヌの文章にも、インタビューをそのまま文字にした記事にも慣れたけれど、当時のわたしはガチな活字中毒で、文章にやたらうるさい小姑だった。

 つーことで、『歌劇』は好きじゃナイ。読むところがナイ。
 それしか選択肢がナイから、わたしは『グラフ』、友だちは『歌劇』と分担して購入、お互いに貸しっこして読んでましたね。若かった。
 舞台を観劇するだけのファンだから、情報を得る手段が機関誌しかなかったんだ。生徒の会に入っている人なら、まったく違ったのだろうけど。今も昔も「会はこわい・近づかない」というスタンスのわたしには、機関誌とスポーツ新聞だけが頼みの綱。

 そして、ネットがあり公式HPがある今、情報はHPをチェックしていれば済むし、スカステがある今、ジェンヌの素顔や声はテレビで得られる。
 写真目当ての『GRAPH』はともかく、カラーページも少ない『歌劇』はますます意味がない。
 ヅカヲタ歴そこそこだけど、『歌劇』はあまり買わずにいた。

 まっつの写真目当てに、ほんっとーにたった1枚のカラーポート目当てに買って、そこだけ切り取ってあとは読まずに積み上げられる、そんな状態で年に2冊くらいは買っていたかな、ここ数年。幸いなことに(笑)まっつはほんと機関誌露出の少ない人で、滅多に載らないので買わずに済んでいた。モノクロ2ページ記事とかなら、立ち読みで済んだし。
 や、びんぼーなんですよ、わたし。

 組替え以後、まっつ比で機関誌掲載頻度が上がり、そんなわたしも『歌劇』を買うようになった。
 で、改めて思うわけだ、『歌劇』って好きじゃないなと。誌面の古くささや同人誌的な読みにくさは相変わらず、昭和時代から進化してないんだと。
 この変わらなさがいいのかもしれないが。変わらないから、やっぱわたしは苦手なまま。

 と、えんえんえんえん自分語りしておいてなんだが。

 実はこの話は、『エドワード8世』の話に着地する。

「ラジオは好きだ」
 と、デイヴィッド@きりやんは言う。
 活字では伝わらないモノが、あるから。

 本当の意味の「言論の自由」なんてナイ。
 原稿は検閲され、「発表してイイ」と許可されたモノだけが活字になり、あるいは電波で流れる。

 同じ検閲済みの「原稿」でも、活字として紙面に載っているだけのものと、ラジオで放送されるモノはチガウ。
 「原稿」を読む人間の「心」が、声や息づかい、間に表れるから。

 不本意な「意見」を読み上げなければならないときの、一瞬の沈黙。声音の乱れ。
 言葉として語られているモノと、その奥にある心の違い。
 それが、聞いている人間に、わかる。
 「活字」でしかない新聞記事と違って。

 だから彼は表現手段としての「ラジオ」を愛し、死んだあとラジオを通してウォリス@まりもに話しかける。

 表面に出るモノと、本質の違い。
 クチでは「打算だ」と言い、本心では切実な愛を叫ぶ。
 検閲された「原稿」を、心の揺れを声にのせてラジオで読み上げる。
 そんな二重構造。
 建前と本音。
 ままならない立場、ままならない自尊心。
 それでも、「心」があるから、動いているから、伝えたいから、「ラジオ」なんだ。
 マイクは本心を、心の微妙な揺れを、リスナーに届けてしまう。「原稿」からは見えないことを。

 皇太子であり、この世のすべてを持ち得るかに見えて、実は制限だらけで窒息しそうだった。そんなデイヴィッドが愛した、ラジオ。

 狂言回しのガイ@まさおがラジオ業界の人間だということ、ちょっと絡むのが精一杯だったロッカート@もりえが新聞記者だったこと。
 デイヴィッドの真実に触れられるとしたら、新聞ではなくラジオ業界だったんだよね。

 クライマックス、「現在」のウォリスが椅子に坐り、テーブルに置いたラジオに聴き入っている。
 聞こえてくるのは、亡き夫・デイヴィッドの声。

「後悔している?」
「何度も答えただろう」
「何度でも聞きたいのよ」

 それは現実かどうか、わからない。
 ラジオからは、ただの音楽が流れているだけかもしれない。
 でもウォリスは、確かに夫の声を聞いている。

 何度も何度も、話したのだろう。
 何度も何度も、聞いたのだろう。

「後悔している?」
 私を選んだこと。私を愛したこと。

 何度も聞き、そしてデイヴィッドもまた、何度も答える。

「時計の針を戻せても、私はこの道を行くだろう」

 ラジオは伝える。
 心の声を。

 これからも、彼女はラジオを流し、そこにデイヴィッドを見つけるのだろう。
 在りし日の会話を、思い返し続けるのだろう。


 『歌劇』は好きじゃなかった。
 でも昔のわたしは、それでも隅から隅まで読んでいた。買うだけ買って、積んでおくなんてことはなかった。
 それしか情報を得る手段がなかったから、なんでもむさぼるように読んでいた。

 デイヴィッドの言う「ラジオ」は、こういう時代のツールだったんだな。
 人々は、活字でしか情報を得られなかったし、発信できなかった。そんな時代だからこそ、「肉声」で伝えられるラジオ放送は意味があった。

 今、スカステでいくらでも舞台の様子や、ジェンヌ自身の顔や声を知ることが出来る。
 昔のように、『歌劇』を読み込む必要もない。
 デイヴィッドがラジオにこだわり、死したのち何故「ラジオ」を通じてウォリスの前に現れたのか、一見わかりにくいね。


 そしてわたしは初心に返り、『歌劇』をしっかり読んでみようかと思っている。
 少ない情報源だからこそ、自分で読み込み、咀嚼しようとしていたあの時代に戻って。
 それゆえに、スカステなどのありがたさもわかるだろう。見えてくるものも、あるだろう。

 ……単にまっつのために買う機会が増えたので、活用しないともったいないと思ったから、なんて、びんぼー根性だけが理由ではないのですよ。ええ(笑)。
 友人の、まさみりスキーの人と「まさみりで観たいモノ」の話をしていました。
 きりやんの卒業が発表になったあと、まだ次期体制はわからないけど、ふつーに順当人事を期待して。

「まさみりで、『ロミオとジュリエット』が観たい」

 まさおロミオが見たい。まさおが歌う「僕は怖い」が聴きたい。
 わたしはまさおくんの、みょーな味のある芸風が好きです。あの気持ち悪いショーヴランも大好物だった。
 まさおのロミオはきっと、愉快なものになるだろう。
 言葉は悪いかもしれないが、きれいとかかっこいいとかより、「おもしろい」「興味深い」がプラスの意味だったりする。
 「きっと似合うわね」「きっときれいね」で、話だけで観に行かないのではなく、「おもしろいから、観に行きたい」と思う。

 で、ロミオがまさおなら、ティボルト@みりおだよな。
 みりおくんはロミオ役者だろう。かわいいきれいなロミオ……が、ティボルトをやるってことに、趣がある。
 みりおの「正しく、強い」芸風でティボルトを演じたら、どうなるのか、どんなことになるのか。
 あのきれいな顔で、ワイルド系の若者を演じるなんて、それだけでわくわくする。

 ロミオ@まさお、ティボルト@みりお、見てみたい。
 あ、でもジュリエット役者がいないなあ。まあ娘役って全組対象に誰でも連れてこられるのが実状だしなあ。

 てなことを真面目に語った。わたしは。

 友人は、同じように「まさみりで『ロミジュリ』」で盛り上がりつつ、別のことを考えていた。

「そんなの、ジュリエットがみりおに決まってるじゃない!」

 いや、その。
 もちろんそれはアリだし似合うだろうし美しいだろうし、見てみたいけど、わたしはとにかくヅカヲタで。
 劇団が超絶期待している男役スターに、ガチでヒロインはさせないと、思う。

 路線男役スターは娘役を経験するものだけど、それはあくまでも「知名度アップ」「意外性」のためで、主に若手のうちにやる。
 普段は男役なのに、そのとき限定で娘役だからレアなのであって、若手時代にさんざんやって、今さら知名度も意外性も関係ないのに、するわけない。
 タカラヅカは男役社会、せっかく男役で客を呼べるスターを、娘役としては使わない。それをやるなら、『エリザベート』ですでにやっていただろう。
 みりおくんは劇団が「男役」として期待しているスターだ。彼の貴重な旬を、本公演1作まるまるつぶすとは思えない。

 トウコは2番手になってからガチでヒロインを演じたけれど、彼はああ見えて男の中の男、小柄で華奢でも娘役はそれまで演じたことがなかった。だからこそ、意外性という点でプラスにもなった。
 反対に、下級生時代からフェアリータイプと呼ばれ娘役転向を噂されつつなにかっちゃー娘役をやっていたみわっちが、3番手になってからガチで娘役をしてもブレイクにはつながらなかった。
 ファンが求めているのは「きれいなおねいさん」ではなく、「かっこいい青年」だからだ。

 みりおのヒロインはナイわー。
 どの娘役より美しいとしても、ナイわー。
 ここがタカラヅカである以上、今さらありえない。
 そりゃ見てみたい気持ちはわかるけど、わたしも見てみたいとは思うけど、みりおくんと劇団の未来を考えれば、そーゆーのはタカスペで十分。

 と考えるのはヲタだけか。
 年に数回観劇する、好きなジェンヌの公演でも「忘れてたから、観てない」ことが多々あるくらいの温度のヅカファン的には、「ジュリエットはみりおしかあり得ない!!」になるかなあ。

 ジュリエット役で意見が分かれてしまったけれど、わたしはひとりで勝手にその他の役を考えてはにまにましていた。……友人はまさみりとリュウ様以外の月組メンバーをよく理解していない様子だったので、わたしの妄想配役に合いの手が入れられなかった節もあるが。

 マーキューシオ@みやるり。
 ベンヴォーリオ@とし。
 パリス@ゆりや。
 大公@マギー。
 ジュリパパ@ヒロさんか、リュウ様。

 娘役はヒロインが誰か未知数過ぎたので考えず、男役のみ。

 ロミオ@まさおが見た過ぎるんだが、ベンヴォーリオ@としくんもまた、見た過ぎるっ。
 友人はすでに相槌を打ってはくれなかったが(としくんを知らなかったのかもしれない)、所詮は妄想配役、誰の許しもいらない、わたしだけの希望ってやつ。

 あー、ごく当たり前に2番手役は、ティボルトだと思ってましたね。
 雪ファンで雪組『ロミジュリ』を愛してやまないけれど、あの公演がどれだけいろいろとイレギュラーだったか、苦肉の策だったかは、理解している。

 だからほんとに、「正しい」カタチで、『ロミオとジュリエット』を大劇場公演で観たかった。

 『ロミオとジュリエット』という作品が、好きだった。
 星組で上演されたときに、大泣きに泣いて、感動しまくった。
 それが大劇場で再演されるとわかったとき、あの大きな舞台で銀橋や各種セリや、生オケ、70人超の出演者を使い、最後はタカラヅカらしいフィナーレが付き、大階段にシャンシャンに大羽根まで付く!ということが、楽しみでならなかった。

 なのに、フタを開けてみれば、「大人の事情」満載のなめらかでない公演で。

 天下の「純愛モノ」なのに、ジュリエットはふたり。ポスターからして、なんの話かわからない。
 役の比重と番手制度の軋轢で、無理のある演出。
 ティボルトから歌を減らし、比重を落とすために見せ場はカーテン前限定。2番目に大きな役が「カーテン前」だから、他のキャラクタも等しくカーテン前止まり。
 銀橋? そんなものありませんよ、全国ツアーと同じ、舞台機能があっても「ナイもの」として扱う! 番手のナイ人に渡らせられません、2番手のマーキューシオにソロがないんだから! あ、ジュリエットの銀橋も1回だけね、だってトップじゃないもんね!
 大階段前のデュエットダンスもありませんよ。『ロミオとジュリエット』でも、ロミオは複数の女と絡んでエンドマークです。

 なんで?
 なんでこんなことに。

 トップコンビががっつり愛し合う、2番手がかっこいい、これ以上なくタカラヅカ向きの作品なのに。

 雪組『ロミジュリ』大好きだけど、それはそれとして、作品ファンなので、ちゃんとした、正規の、大劇場で宝塚歌劇団の、『ロミオとジュリエット』が観たかった。

 作品が好きなんだよ。
 外部『ロミジュリ』も観に行ったけど、「ファンタジー」の少なさに目眩がしたもんよ……ジュリエットの死を知ったベンヴォーリオが無言で携帯取り出して「電源が入っていないか、電波の届かないところに……」と音声が流れる『ロミジュリ』なんか『ロミジュリ』ぢゃないやいっ!!(笑)


 まさみりで『ロミジュリ』。
 妄想配役してましたとも。
 観たかったですとも。

 しかし。

 トップスターが役替わりする、トップスターが主役でなくなるなんて、想像していない。

 それならまだ、まさみりでロミオとジュリエット役替わりの方がマシだ。
 だって、どちらも「主役」だもの。

 ロミオとティボルトって、どっちもすごく大変な役だ。ひとつだけでも、極めるのは大変だろう。
 ふつうなら、役替わりをするにしても片方の役は比重や出番が少なくするはずだ。ショーヴランとアルマンのように。
 でも、そうすることはできなかった。何故ならば、一応、まさおはトップスターだからだ。
 みりおくんがロミオをやっている間、トップスターであり月組の「顔」であるまさおくんが、「比重や出番の少ない役」は演じられない。
 それだけの理由で、2番手役をすることになる。
 ……どれだけの負担。

 そして、Wキャストであるがゆえに、通常の本公演のように「ひとつの組が、ひとつの作品を、役を深化させ極めていく姿」は見られないんだ。役替わり公演はどうしても、通常公演より深化が遅くなるから。物理的に、仕方ないことだから。
 複数キャスト当たり前の外部じゃない、ここはタカラヅカなのにね。

 ごく当たり前にトップコンビを頂点としたピラミッドによる、ごく当たり前のタカラヅカで、本公演の『ロミジュリ』が観たいってのは、そんなにも蜃気楼のような夢だったのか。

 や、観に行くし、応援するけれども。
 新制月組の、どちらのロミオも、ティボルトも。


 でもって実は、本公演キャスティングより、「新公どうすんだよ??」と思いました……たまきちはロミオぢゃないやろ……キャラ的に……。
 雨のバレンタインデー。

 めぐむ休演にへこみ、きりやさんになぐさめてもらおうと大劇場へ行き、『エドワード8世』観て大泣きし、隣の人のケータイうるせーな、1時間半の芝居中4回以上鳴るってナニゴト、いやバイブだけど、鳴ったらバイブの音が響き渡るんだよ、まさおが事前アナウンスで言ってるじゃん、電源自体切ろうよ、切るの忘れていても、1回うっかり鳴らしちゃったらそこで切れよ、何故そのまま何度も何度も鳴らせる? まさかそんなに何度も鳴ると思ってないからまあいっかって? そんだけ鳴るってことはナニか起こってるんだよ、一旦客席出て用件片付ければ? ……と、思いつつ、休憩時間になってから自分の携帯の電源を入れた。上演中は電源切ってますからもちろん。
2012/02/14

月組の新体制について

この度、次期月組の体制が決定しましたのでお知らせ致します。
新生月組は、トップスター・龍 真咲、トップ娘役・愛希れいか、そして準トップスター・明日海りおを中心とした体制となります。尚、本体制での公演は、2012年6月22日に初日を迎える月組宝塚大劇場公演『ロミオとジュリエット』(潤色・演出/小池修一郎)からとなります。

 ぽかーん……。

 ちなみに、隣の席の人は、まさおファンでした……休憩になって、連れと話し出した内容でわかった。
 そりゃケータイ鳴りまくるわ……。ファン仲間で話したいこと、言いたいこと、いっぱいあるだろう……。

 通常、トップスター決定のお知らせは、タイトルに「トップスター」と入ります。
 直近だと「雪組トップ娘役について」「花組次期トップスターについて」。
 雪組はトップ娘役不在だったから次期という言葉がなく、花組は今まだトップがいて、その卒業後の話だから次期と付く。

 きりやんとまりもちゃんの退団公演中だ、次にモバタカからお知らせが来るとしたら「月組次期トップスターについて」というタイトルでなければおかしい。
 トップコンビ発表ならば、こんなメールであるはずがない。

 嫌な予感のまま、お知らせを確認した。

 月組では、ナニが起こっているんだろう。

 って、書くの何回目だ。

 トップ娘役不在、他組男役のエリザベート、組替えなしの下克上、続く役替わり……。
 きりやん体制になってなんとか落ち着き、これ以上おかしなことは起こらない、順当で、当たり前で、伝統通りでいいのだと、願い続けてきた。
 なのにまた、さらにとんでもないことが起こるなんて……。

 トップスター・龍真咲
 トップ娘役・愛希れいか
 準トップスター・明日海りお

 準トップスターって、ナニ……。

 2番手、は公式に使われる言葉だったと思う。新専科発足のおり「各組の2番手・3番手を」と表現していた。90周年の2番手シャッフルも「各組2番手が特別出演」と謳われていたはず。
 「各組の準トップスターと3番手を新専科に」とは言われていなかったし、「各組準トップスターが特別出演」とも言われていなかった。

 今まであったのは「2番手」。今回のみりおくんは「準トップスター」。まったく別の概念。

 劇団は、「トップスター」は特別なモノだと思っている、のだろう。組にトップスターはひとり、現に娘役は「トップ娘役」であり、「娘役トップスター」とは表記しない。
 「トップスター」と公式表記するのは、たった5人。
 トドロキが各組で主演していた時期のみ、その名を使わず「主演男役」としていたくらい、「トップスター」というのは意味が限定された言葉なんだろう。

 その上で、「準トップスター」か。

 つまり、もうひとりのトップスター、か。

 大劇場で主演できるのは、トップスターのみ。
 トップが主演できないときや、ナニか特別の理由がある場合のみ、わずかな回数だけ役替わり公演があったりはしたはずだが、あくまでも主演はトップスター。彼以外は主演できない。
 娘役は所詮トップスターではない。娘役のいちばん上、というだけ。トップ娘役であって、スターとは付かない。だから、誰が主演してもいい。
 大劇場は、トップスターは、それくらい、特別。

 では、トップスター以外に主演させたかったら、どうすればいい?
 2番手では主演できない。数日の役替わりなら理由を付けてねじこめるかもしれないけれど、それじゃただの新人公演、その日のみプレミアになって終了、なんの生産性もない。
 では、もうひとり「トップスター」を作るしかない。
 大劇場で主演できるのは、トップスターのみだから。

 てことで、新しいポジションですか、準トップスター。

 トップスターがふたり! なんて豪華!!
 ……というより、「トップスター」の価値が落ちた気がするんですが。
 唯一無二のモノだから「トップスター」なんでしょうに。
 トップスター、準トップスター、準々トップスター、準々々トップスター、ではなく、トップスター、2番手、3番手……だから特別なんでしょうに。

 劇団の迷走はどこまで続くんだ……。

 新しいポジション、新しい概念を作ってまで、やりたいことなのか、大劇場での主演役替わり。
 たしかに、2番手のままじゃできないけどさ……。
 主演が役替わりするんじゃ、組もトップもナイじゃん。お披露目おめでとう!な公演じゃないやん……。

 タカラヅカの特色、トップスター制度の否定、かあ。
 トップスターをなくしたら、どんなタカラヅカになるんだろう。

 一旦「準トップスター」にしてしまった以上、みりおくんは「2番手」にもなれない。あとはトップになるだけ。月組でか、あるいはどこか別の組でかわかんないけど。
 ヅカとは別の晴れがましい場(他媒体での紹介等)では「トップスター」と紹介されるのはまさおくんだろう。5組5人のトップスターというとき、みりおは入らないんだろう。表向きはWトップと設定されていない以上。
 しかしヅカ関係の場では、2番手以上の位置、「トップスター」としての扱いや責任があるってことか。名はないが重責は背負えと。

 それとも、いちいち「準トップスターとは」という但し書き付きで、すべての公の場にみりおくんもトップと並列させるのかな。「5組6人のトップスターです!」とか、「5組のトップコンビ、11人のみなさんです!」とか?

 そして、トップスターの名前だけ与えられ、ひとりでは重責を担えないと判断された、まさお。
 トップスターが、お披露目公演から役替わり、って……。トップスターが、主役でない公演をやるなんて。
 ひどいわ。ただもおシンプルに、ひどいと思うわ。


 ヅカファンでなければ、どうってことないことなんだろう。
 役替わりで選択肢が増える、どれを観ようかしら、テレビの番組表広げる感覚、この多チャンネル時代、客が選ぶのは当然、おもしろくないものは見ないわ、ってか。
 外部だってWキャストが当たり前だもん、てか。

 でもここ、タカラヅカだし。タカラヅカだから、観てるんだし。

 ヅカがヅカらしさ否定して、どこへ向かうんだろう。

 それでも。

 まさお、ちゃぴ、トップスター決定おめでとう。

 新制月組もまた、良い時代になりますように。祈ってやまない。
「みんな、あなたに期待していたのに」
 と、ガイ@まさおは言う。

 王冠を捨てて恋を選び、陰謀渦巻く華麗な場から退場してしまったエドワード8世……デイヴィッド@きりやんに対し。

 ガイは狂言回し。
 実在の人物だけど、時を超え空間を超え、物語をナレーションし、ついでにあちこちチャチャ入れをする。

 彼自身が物語の中に着地するのは、よりによってスパイとして、デイヴィッド暗殺未遂事件になんだけど、それを踏まえてなお、彼はいつも楽しそうだ。
 ルキーニ@『エリザベート』がにやにやしているのとは、チガウ。もっと「天使」的。
 無邪気で、それゆえにちょっと邪悪。
 可愛くて、それゆえに無責任。

 ガイの目線が、つまりこの「物語」の目線なのかなと思う。
 ストレートにウツクシイモノをヨイショして語るのではなく、斜に構えて不親切に、真意がわかりにくく、ある意味ヲタクに、深くも浅くも好きに受け止められる余白を残し、余韻を絡める。
 小悪魔的? いや、まさに「天使」的。
 まさおの甘い美貌と相まって、コンチクショオな効果絶大。

 愛しいね。
 とても、愛しいよ。

「期待していたのに」
 つまり、告白です。

 好きだったのに。

 彼はプリンス・チャーミング。
 魅惑するのがお仕事。

 デイヴィッドさんは、みんなから、愛されている。


 『エドワード8世』はねえ、とてもとても、しあわせな物語。
 主人公の愛され度が、ハンパない。

 みんなみんな、彼が好き。
 打算も計算も皮算用も、全部全部肯定して、ただもう、みんな彼が好き。

 プリンスであるデイヴィッドを利用したくて寄ってくる女たち、テルマ@すーちゃんや、マルグリット@みくちゃん。
 友だちの延長で侍従やってる、「デイヴィッド甘やかし隊」のるう・ゆりや・ちなつ。
 新参者だけど、彼なりに皇太子が大好きなトーマス@みりお。
 後援者として感謝しているアステア姉弟@ちゃぴ・とし。

 「王」としての器にわくわくしている、新聞記者ロッカート@もりえ、政治家チャーチル@ヒロさん。

 才能を認めている父ジョージ5世@ソルーナさん、弟アルバート@一色氏、反発したり心酔したりの他の弟・妹たち。

 クラブのボーイから踊り子さんから、放送協会のえらいさんから、キオスクの売り子から、とにかくもお、出てくる人出てくる人、みんなみんなデイヴィッドが好き。

 キモチいいやね。
 愛されている、主人公。

 ただしそれらはみんな、それぞれのカタチで。
 デイヴィッドにとっていいことだけでもないのだけど。

 愛されるというのは、彼がソレだけ多くの人に「与える」ことができる人だということ。
 や、「役に立つか立たないか、この世のすべての基準」ですから。
 それが富であれ名声であれ虚栄心であれ、叡智や優しさであれ、彼に群がることで、なにかしら得るものがある。だから彼は愛される。

 それをデイヴィッド自身が痛感しているからこそ、マルグリット事件のあと、デイヴィッドは高くない温度で自嘲する。「信じてみたかっただけだ」とつぶやく。
 トーマスは残念ながら、デイヴィッドの本心には気づかない。キーワードを拾えない。それが彼の限界、デイヴィッドとの距離。
 いつもそばにいてデイヴィッドのことを想っている、誠実なトーマスも、デイヴィッドを救うことは出来なかった。
 デイヴィッドには、ウォリス@まりもが必要だった。そーして彼は、ウォリスと他のすべてを秤に掛けて、ウォリスを取る道を選ぶわけだが。

 彼に選ばれなかったすべての者たち、「期待していたのに」と文句を言う、「絡んでいたこっちがバカみたいだ」と恨みごとを言う、ガイはすべての人たちの代弁者だ。
 だけどガイは、怒ってない。つか、笑ってる。
 すねて絡んでみせるだけで、まるっとデイヴィッドを許している。

 だって、好きなんだもん。

 好きってさ、それだけでもお、「得る」ものがあるんだよね。
 見返りをどう受け取るか、足りないと感じるかは、人それぞれだけど。

 デイヴィッドへの片思いに、作中で決着がついているのは、チャーチルとアルバートのみかなあ。

 チャーチルは、デイヴィッドの王としての器に期待し、デイヴィッドを彼が思うところの「正しき王」にしようと画策する。味方の振りして、邪魔者のウォリス排斥の種を撒いたり水をやったり。
 だけど結局、自分の思い描く「正しさ」と、デイヴィッドの望む「正しさ」の差異に気づき、認め、手を放す。デイヴィッドを縛ろうとしていた、鎖の手を。

 奔放な兄にいつも振り回されていたアルバート。自分の至らなさと、兄の才能の狭間で、きっとずっと、苦しんできた。
 その彼が、最後に兄に認められる。
 都合のいい出まかせではなく、真実の言葉を。

 うれしかったろうなあ、バーティ。
 「いい国王になれる」って、大好きなお兄ちゃんに、認めてもらえて。
 大好きだからこそ、他の誰でもない、デイヴィッドに、認めて欲しかったんだよね。

 王になる、その重責を担えるくらい、うれしかったろう。
 誇りに、自信になったろう。

 兄の肯定が。
 ひざまずき、その手にキスをする。「国王陛下、万歳」……ずっと見上げ、あとを追いかけてきたその人が、頭を垂れる、その意味。

 いやもお、ここは泣きポイントですから! バーティがたまらん。一色氏好きだー!


 他の人たちは、なんか歌で一挙にまとめられちゃってた(笑)。エピローグ。

 みりおくんの役はほんと、銀橋ソロがとってつけた感高すぎ、比重低すぎです、大野せんせ。
 トーマスは銀橋ソロのあるよーなキャラぢゃないっす、役の比重で行けば、チャーチルが心情をソロで一発歌い上げるのが相応しい。
 もしも3番手がおっさんもOKな人だったら、チャーチルだったかなと思ってみたり。……ええ、もしもみっちゃんなら、ふつーにチャーチル演じてただろうなあ、とか。
 それでもみりおくんには銀橋ソロを付けなければならなかったんだろう、タカラヅカ的に。つか、役としてはロッカートの方がおもしろいんだが、それでもみりおはトーマスでなきゃならんかったのか、大野くん的に。

 それはともかく。

 主人公はひたすらみんなに愛される。
 で、愛と打算は同一だったりする。
 そんな、「天使」的な物語。

 語り部であり、チャチャ入れ係であり、物語への「目線」でもあるガイが最後に、
「結局自分の話は、自分自身で紡げってことなんでしょ」
 と、まとめを口にするのは、サービスかなと。
 それとも言い訳?

 わかりやすくしてあげましたよ、って?(笑)
 必要とされることなんか、簡単だ。
 相手に利益を与えればいい。

 単純に「得になる」のなら、必要とされるだろう。
 それが物質や金銭でもいい。優越感でもいい。

 あるいは。

 愛情だとか、恋だとか、やすらぎだとか、ウツクシク聞こえるものでもいい。

 なにか有益なモノを与えることができるなら、必要とされるだろう。


 わたしなんかは劣等感のカタマリで、わりと頻繁に、安易に、思考の闇にはまりこむ。

 あたしなんかダメだ。
 あたしなんか、誰からも必要とされていない。
 あたしなんか、存在する意味がない。

 わたしがないがしろにされるのは、その程度の人間だからだ。わたしが傷つけられるのは、そうしてもいい存在だと思われているからだ。
 本当に大切なら、失いたくないと思うなら、気を遣われるはず。そうされないとしたら、それはわたしに原因があるんだ。

 わたしに、価値がナイためだ。

 されど、絶望するには自己愛が強くて。

 なんとか自分に価値を見いだせないか、姑息に周囲を見回してみる。
 誤解でも虚飾でも、なんでもいい。いや、誤解や虚飾以外はナイ、とにかくわたしに価値があるように、相手に思ってもらわなきゃ。
 自分を良くするとか、向上するのではなく、世間を誤魔化す方法を考えるわけだ。実際よりも良いモノだと、思ってもらうんだ。

 そんな人生。ああ、情けない。


 でもまあ、見たくないモノにはフタをして、なあなあイイながら生きてます。

 だからかなあ。
 『エドワード8世』は、痛いです。
 胸が。

「アレが役に立つ限り、君たちが見捨てることはナイと信じている」

 ジョージ5世@ソルーナさんは言う。皇太子デイヴィッド@きりやんに利用価値があるうちは、守り、盛り立ててやってくれと。
 国王陛下からそう言われた首相ボールドウィン@越リュウは、かしこまって応える。
「いいえ、どのようなことがあったとしても……」
 ジョージ5世は遮る。
「役に立つ限りでいい。……それが国王というものだ」

 「王様」という記号を使って語られているけれど、王様でなくても同じこと。

 役に立つか、立たないか。この世のすべての基準。
 人間の価値は、ぶっちゃけそこで決まる。
 ガイ@まさおがしたり顔で歌うように。

 儲けのある取引先は、大切にする。損をするとわかっていたり、約束をちっとも守らないとわかっている人には、近づきたくない。
 当たり前のこと。
 それを「打算」だと、この物語は言う。

 すべては打算。
 ウォリス@まりもは、打算でデイヴィッドに近づいた。
 デイヴィッドもまた、彼女に取引を持ちかける。頼み事をするときは、見返りを提示する。

 お金とか名声とか。
 そーゆーもののためだというと、ヨゴレた話になる。
 でも、愛だってやすらぎだって、同じこと。与えてくれる相手だから、必要とする。自分を気持ちよくしてくれる相手を、必要とする。
 イイも悪いもナイ。キレイもキタナイもナイ。
 役に立つか立たないか、それだけのこと。

 役に立たなくても許されるのは、影響範囲の狭さによる。
 夫婦間とか、家族とか、小さな範囲だけなら、役に立たなくても被害は直接の関係者のみで済む。
 だけど、たとえば従業員を抱えた経営者が「無能」だと、被害は大きくなるよね。
 役に立たなくても、情とかしがらみとかで、見捨てることが出来ないことも多々ある。まあそれって、「役に立たない」ことで起こる被害と、「見捨てる」ことで生じる損失や労力(精神的なことも含めて)を天秤に掛けて、「役に立たない」ままでいる方が「得である」と判断しているってことなんだけど。

 その人の立場によって、許されるかどうかは変わる。
 「王様」になると、彼が役に立たないことで起こる被害は、国だけでなく諸外国にまで広がるよね。
 だからジョージ5世は言うわけだ。「それが国王というものだ」と。
 一個人なら、情やしがらみで「ナニがあっても見捨てたりしないよ」と言っていいけど、王様はそうじゃない。
 役に立たなければ、見捨てていい。

 価値があるのは、役に立つうちだけ。

 それを突きつけられて、デイヴィッドは、生きてきた。

 「プリンス・チャーミング」の名の下に。

 わたしみたいな、いてもいなくても世界に影響ないイキモノですら、日々傷ついている。
 わたしに生きる価値はあるのか?
 ……あんまし役には立ってないけど、なんとか誤魔化し誤魔化し、生きている。
 わたしなんかは、無能でも広い範囲に迷惑を掛けない。だから、なあなあで、生きていける。

 だけどデイヴィッドは。

 国を背負うだけの「価値」を、「役に立つ」様を、常に示し続けなければならない。

 役に立つうちだけだよ。
 必要とされるのは。

 心が、ひりひりする。

 「王様」という記号を使って語られているけれど、王様でなくても同じこと。

 見ないふり、気づかないふりで、なあなあで生きている、そーゆー部分がひりひりする。

 役に立つか、立たないか。この世のすべての基準。ガイがしれっと歌う。

 打算ではじまった物語。
 オープニングの葬式場面で、ウォリスは盛大に泣き崩れる。泣き真似をして、まさしくすべては「打算」であると見せつける。

 そして、はじまるふたりの出会いは、打算からで。
 取引で。見返りで。

 王様と愛人の物語?
 特別な人たちの、特別な物語?
 ううん、それは、わたしたちの物語。
 誰もが内包する、物語。

 打算であったはずなのに。
 いや。

 打算計算皮算用、それがまったく働かないモノが、この世にあるのか。どこの天使だ、お釈迦様だ。
 人間ならなにかしら、動いている、働いている。
 役に立つか、立たないか。得になるか、ならないか。

 必要とされることなんか、簡単だ。
 相手に利益を与えればいい。

 有益なモノは、大切にされるんだ。

 デイヴィッドが王冠を捨ててウォリスを選んだとしても、もちろんそれだって打算だろう。計算だろう。
 それが彼に必要だった、それだけのこと。

 打算の関係。
 運命の恋。

 同義語です。

 必要だった。それだけのこと。

「後悔している?」
「後悔しているに決まっている」

 打算だから、後悔する。他の選択肢を考える。計算違いはなかったか、他に得するすべはなかったか。天使じゃナイ、お釈迦様でもナイ。人間だから、後悔する。

 だけど。

「時計の針を戻せても、私はこの道を行くだろう」

 損得全部秤の上に載せたとしても、どんだけマイナスがあったとしても、その痛みごと涙ごと、全部全部、肯定する。

 必要だよ。
 キミが、必要だ。

 心がひりひりして、切なくて、愛しくて、涙が止まらない。

 語り部であり、チャチャ入れ係でもあるガイは言う。
「期待していたのに」

 文句を言いつつ、チャチャを入れつつ、彼はいつも、たのしそうだ。
 斜に構え、「役に立つか立たないか、この世のすべての基準」と歌いながらも、楽しそうだ。愛しそうだ。デイヴィッドが。ウォリスが。

 世界が。
 『ロバート・キャパ 魂の記録』出演者の感想、覚え書き。

 アンドレ@かなめくん。
 原田作品お約束の、きれいなだけの主人公。他人の言いなり人生。ヒロイン依存。でも慟哭とか苦悩とかする。
 たぶん原田くんの主人公には、暴走系の芸風の人が向いているんだろうなと思う。なんでそーなるのかわかんないけど、本人のアツさと激しさに煙に巻かれちゃう系。
 かなめくんのスマートさは、この作品の「きれいさ」には合っているのだけど、「わけわかんないうちに持って行かれる」には至らない。だから作品の薄味さに相まって「作品の流れ」とか「物語の構成」とかが透けて見える感じ。
 や、泣かせ演出好きだし、お約束でしかないパターン展開も好きです。ルールが正当に機能しているのはイイっすよ。スマートに収まりすぎてるのが気になるだけで。

 ってゆーのはわたしがうがっているだけで、とにかく「美しい」んだから、もうそれでいいんじゃないかという気もする。
 こんだけ美しい人を間近で見られて、その美しい人が笑ったり泣いたりするんだもん。それを眺められるだけで意味がある。
 『Je Chante』も『ニジンスキー』もそうだったけど、主演のファンが観るための、ファンアイテムとしてはすごくいい出来だと思う、原田作品って。

 かなめくんの美しさと、ほにゃんとしたやわらかさが伝わり、「いい人」感ハンパない。この青年を応援したい、と思える。
 主人公として正しい、真ん中として正しい力。


 ヒロインのゲルダ@うららちゃん。
 なんかすごく、彩音ちゃんを思い出した。能面のようなきれいな顔、棒読み系の芝居……いや、『二都物語』の彩音ちゃんの大根っぷりを思えば、ぜんぜんイイんですが……テイストは彩音ちゃん(笑)。
 『二都物語』の彩音ちゃんは当時研2か……。んで、うららちゃんは今研3。
 美人って表情作るの難しいのかな。喋りが棒読み系なせいで、余計に能面に見えちゃったのかな。
 新公ニーナ役のような、マンガちっくな役ならいろいろ派手に抑揚を付けられるけれど、大人の女役だとそうもいかない。芝居をしようとして、かえって芝居が閉じてしまっている印象。
 圧倒的にキャリア不足だから仕方ない。
 彩音ちゃんがあそこまで伸びたんだから、うららちゃんにも期待。
 ……あと、お化粧改善切実。あのチークはいったい……逆三角のおてもやんのやう……大劇場ならアレでいいのか? でも、横でかなめくんがナチュラルなのに、浮き上がるような色のお化粧って。


 アンドレの戦場で出来たお友だち、フェデリコ@いちくん。
 や、この役以外でも、とにかく格好良すぎるっ。

 いちくんがいて良かったと、群舞やモブ芝居でしみじみ思った。
 バウ公演の宿命とはいえ、男役のみなさんがまるまるぷくぷく過ぎて。下級生だから仕方ないんだけど、丸い顔と丸いお尻の男の子たちのセンターに、いちくんがいて、がしっと引き締めてくれていることに、心から感謝した。
 こういう、いぶし銀な人はイイ。
 同じように群舞に混ざっていても、りくくんは「スター」なんだと思う。立ち位置が脇でも、あああそこに若手スターがいる、と思える。
 でも群舞やモブは、「スター」の見せ場ではない。次代のスターを発掘する楽しみはあるとして、舞台の流れを切るよーな「スター様の見せ場」になってはいけない。
 主役は別にいる、物語の主軸は別にある、だけど今、このモブ芝居が、群舞が必要。……そういうときに、まだいろいろと出来上がっていない子たちばかりで弱く、流れがちな場面を、いちくんが牽引する。
 あああ、かっけー!!
 その確かな仕事っぷりに感動。

 そう、「カッコイイ」ことが重要。モブでも主役不在の群舞でも、センターは格好良くなくちゃなの!
 主役のキラキラを損なわない、キラキラスキーの人はスルーちゃうような、だけど渋い光を放つことが大切。

 いちくんが、大変好みでした。
 役を演じているときだけでなく、名もなきアルバイトのときも含めて。

 しかし、フェデリコの死亡フラグの慎みのなさにツボった(笑)。

 原田くんってほんとに俗物……(笑)。
 ギャグで使われるレベルの、死亡フラグの洪水。
 もうじき子どもが生まれる、まででも苦笑なのに、名前ネタまで来ましたよ。わざとやってんのかと。
 や、笑う場面でないことは承知してます。真っ当に物語を味わっているわたしの中で、別のチャンネルがあり、そこで盛大にツッコミ入りましたです、原田くんに。
 そこまでわざとらしくやらなくていいのに……いや、ソレが彼の作風か。

 わざとらしいっつか、やりすぎというと、ママ@光さんのキャラもエピソードもそうでしたなー。
 ちょっと置いてけぼりにされた(笑)。
 たぶん、光さんの「登場したときからトップテンション」の芝居と、「スロースタート、安全運転」のかなめくんの芝居が噛み合っていなかったためじゃないか、と思う。
 家族ネタ自体はお約束でいいんだけど……。
 あ、あと桜木くんがまたふっくらしていて残念だった。『クラシコ…』ではすっきりきれいだったのになあ。


 カメラマン仲間シム@モンチ。
 めがねっこ、めがねっこ!(笑)
 癒やしキャラ。かわいいし、彼の学年やポジション的にはオイシイ、いい役だったのではないかと。
 相変わらずうまいし、手堅い。かわいい息抜きキャラを演じてなお、「手堅い」(笑)。いいっすね!

 で、そのモンチの学年やポジション的にオイシイ……そんな役割だった、カメラマン仲間役のちーちゃん、新聞社の人りくくん。
 ふつーにうまくて、モブに混ざらない華と存在感と美しさがあって、役不足ぶりがもったいない限り。

 さらにもったいない、最後のナレーション以外、いてもいなくても大差ない「にぎやかしの友人」チーキ@みーちゃん。
 主人公にえんえん独り言言わせるわけにはいかないので、合いの手を入れる友人役は必要。だけど、この程度の役ならみーちゃんである必然性はナイ。もちろんみーちゃんはきっちりやってのけちゃうけど、彼ならもっと大きな役だって、きっちりやってのけたはずなんだ。

 みーちゃんは、派手な人なんだなと思った。
 華がある、とは少しチガウかもしれない。
 たとえば、トップスター様のキラキラを華と呼ぶなら、みーちゃんのソレは趣がチガウ。
 だけど、舞台にいると「彼がそこにいる」ことがわかる。モブには混ざらない。見落とされない。
 舞台人としての存在が、地味ではナイんだ。タカラヅカ的な意味では地味なカラーの人かもしれないけど。

 だからモブにも混ざれないんだよなああ。
 2役も出来ないんだよなああ。
 目立ち過ぎちゃうからさー。

 ヲヅキさんに似ている。彼もキラキラじゃないけど、舞台人として派手だ。モブでも目立ってしまう。2役やると見ていて混乱する。「さっきの人がどうして、ここにいるの?」と。
 舞台人としての強みだけど、時によって諸刃。

 ともあれ。
 みーちゃんの最後のナレーションで泣いた。
 んで、『ロバート・キャパ 魂の記録』を観て、演出が、とか、構成が、とか、理屈は置いておいて。

 みーちゃんの扱いが、不満だ。

 わたしはデビュー作から一貫して原田作品を好きではないけれど、物申したいことは山ほどあったけど、それでもタカラヅカ的であること、トップを中心としたピラミッド形成においてだけは、評価していた。

> タカラヅカは、そのタイトル1本上演するために集められたキャストで演じて
>いるわけじゃない。同じ顔ぶれで何年も違う作品を上演していく。
> ならば主役だけかっこよくても広がらない。主演=トップスターはいずれ退団
>し、2番手が次のトップとなり組を支える。
> 2番手が魅力的に見えない、トップとヒロインだけの芝居を続けたら、彼らが
>退団したあとに観客がついてこなくなる。
> トップコンビで客を呼びながら、2番手を育てて売り出さないと。
> バウホールでも同じ。
> 大劇場ではここまで比重を与えられない、だけど「未来」に期待しているスタ
>ーにオイシイ役を与え、主演者目当てでやって来た人たちの気持ちを動かす。
> そーやって「あのスターが卒業しても、次のスターが」という連鎖が、100
>年近く続いてきたはず。

 と、『ニジンスキー』の感想に書いている通り。
 タカラヅカたるもの、2番手はおいしくなくてはいかん。

 メイン数人以外は動く背景、としか扱わない、どこの外部芝居だ、みたいなことを平気でする原田せんせの、良いところ探し、「2番手がオイシイ」。
 数少ない美点のひとつだったのに、『ロバート・キャパ』では、それすら、手放した。

 わたしは個人的に、「2番手がはっきりしない・おいしくない作品は名作にはなり得ない」と思ってます。
 作品としておもしろいとか感動できる、だけなら外部でもええやん。スターシステムがある、男役がカッコイイことが、タカラヅカなんだもん。その基本をないがしろにした作品は、それだけでかなりマイナス。
 2番手男役がおいしくないなら、代わりに娘役2番手ががっつりトップコンビに絡む、は次点としてぎりぎりアリかなと思いますが。女がふたり絡むってことは、恋愛・三角関係モノってことで、それはヅカのお家芸だと思うから。
 でもやっぱ、男役を描くのが大事だよなー。娘役を軽んじるのではなく、タカラヅカのシステムとして。

 で。
 組としての2番手ではなく、バウホール公演での2番手は、明言されていない。
 だからみーちゃんが2番手であるとは、決まっていない。
 でも、出演者的にみーちゃんを2番手だと思っても、おかしくない……よね?
 みーちゃん単体ではなく、ちーちゃんとダブルだったり、あるいはりくくんまで含めたりするかもしれないけど、みーちゃんが2番目ポジに来ると判断するのは、おかしなことじゃないよね?
 学年や、今までの立ち位置から。
 実際、最後の挨拶時の順番は、彼が2番目ポジなのだから。

 また、みーちゃんは原田くんのデビュー作『Je Chante』にも出演、あのぶっ壊れた話を力尽くで支える、よい2番手ぶりを発揮していた。
 自分の処女作を共に作り上げた仲間、そのときの2番手なら、そりゃあ信頼も愛着もひとしおだろう。
 その上みーちゃんは、組替えが決まっている。卒業や組替えなどの「そこから、いないくなる」人には、敬意を持って、特別な扱いや演出をするという暗黙のお約束のよーなものがある。誰も彼もが、ではなく、ポジションや学年に従って、だけど。

 これらの要因から、幕が上がる前まで、みーちゃんの扱いに関しては不安を持ってなかった。
 「2番手がオイシイ原田作品」だもん。みーちゃんはあらゆる意味で、よい役になるだろう。
 わたしはみーちゃん好きだけど、ちーちゃんスキーでもあるので、みーちゃんばっかおいしくて、ちーちゃんが残念な扱いだったらやだな、と、そっちの心配をしていたくらいだ。

 それが。

 原田作品は、2番手がオイシイんじゃなかったの?!!

 いや、これで他にちゃんと2番手がいるなら、いい。
 劇団がみーちゃんを、
> 大劇場ではここまで比重を与えられない、だけど「未来」に期待しているスタ
>ーにオイシイ役を与え、主演者目当てでやって来た人たちの気持ちを動かす。
 という意味での2番手に相応しいと判断せず、別の人に2番手をさせた、というなら。わたしはみーちゃんスキーだから残念だと思うけれど、タカラヅカはそうやって100年続いてきた、これからも続いていくために、仕方ないと思う。

 しかし、だ。

 この作品、誰が2番手だよ?

 2番手、いないじゃん。
 ピラミッドを形成し、未来へつなげる作業、してないじゃん。

 いちくんはおいしい役だけど、彼は「2番手」としての扱いを受けていない。ただ「オイシイ」というだけ。

 いちくんの演じたフェデリコを、みーちゃんが演じていたら、どうだろう。
 いちくんは2役+あちこちアルバイトしていたが、みーちゃんならフェデリコだけしか出番はなくなるかもしれない。でも。
 ……みーちゃんが演じたら、「2番手役」になったろうなあ。
 だって、公演の最後に「2番手」として登場して、幕が下りるもの。
 出番は少ないけど、んなもん『Je Chante』だってそうだったし、今のチーキ役だって別に出ずっぱりじゃないよ、少ないよ。だってアルバイトなしだもん。

 みーちゃんをフェデリコ役にしたら、彼が2番手になってしまう。美味しい役が真に「オイシイ2番手役」になってしまう。

 それを避けた、ように見える。
 それが解せない。
 避ける理由がわからない、なのにそう見えることが。見える配役や演出にしていることが。

 いちくんに含みがあるわけじゃない。彼が巧いことも、いい役者さんであることも、わかってる。実際フェデリコかっこよかったし、良い仕事をしていた。彼のかっこいーフェデリコを見られてうれしかったし、楽しかった。

 それとは別に、タカラヅカのスターシステム的に、不思議なんだ。
 今まで原田せんせはトップコンビと2番手までしか役割のナイ作品を作ってきた。2番手のオイシイ作品を作ってきた。
 今回も、脚本だけ読んだら、いつも通りだったと思う。
 が、配役をいじることで、あえて外した……ように見える。

 トップコンビ……というか、トップひとりだけが格好良くて、目立つ芝居を作る。
 それが彼のミッションだったのだろうか。
 「オイシイ2番手」不要。観客の感想を「主役カッコイイ」の一本に絞るため。

 それって、タカラヅカなの? 外部のアイドル主演舞台っすか? ひとりのスターのために他のキャストが集められた、その公演限りの興行?

 んなことしなくても、かなめくんはカッコイイし、ファンは「タカラヅカ的なピラミッド」を愛し、「お約束通り」な力関係に安心して酔うものなのに。
 いびつにパワーバランスをいじると、作品の力が損なわれるよ。ただでさえ、きれいなだけで薄い話なのに。

 ほんとに、原田くんってつまんない演出家だなあ、と思った。
 いや、なんでこんな配役、パワーバランスの芝居なのかわかんないけど、物語に重要な役を判断できないってことは、問題なんじゃないかと。
 みーちゃんの演じたチーキが、2番手としてラストに挨拶するに相応しい比重に描けているか、ということっすよ。

 なんか結局理屈っぽくなっちゃってるけど、ほんとにまあ、感情論ですわ、とどのつまり。
 みーちゃんの扱い、不満だわ、と。
 さて、あんまりにもわたしの好みとかけ離れていたため、いろいろ好き放題書いてしまったので、今度は良いところの話をします、『ロバート・キャパ 魂の記録』

 良いも悪いも、ただの好みの話です。
 あくまでも、わたし一個人の。……つかわたし、少数派なんだろうなああ。いやその、世間の評判はどうなんですか、わたしの周りは所詮わたしの友人たちなので、どーしても感想が偏ってるし。
 世間がどうあれ、わたしはわたしの感想をば。

 つーことで、『ロバート・キャパ』の良い点。

 きれい。

 原田作品は一貫して、画面がキレイ。
 ミュージカルとしての演出は、うまいよね。
 タカラヅカであることをうまく使い、「みんなが好きな演出」をうまく取り入れている。
 キャパ自身の写真をつかっているのも、ドラマティック。

 んで、これがナニ気に重要、わかりやすい。

 なにしろ、主要人物が数名だから、すげー安心設計。
 はじめてタカラヅカを観る人にお勧め。
 役者の顔も声もわからない、区別付かない人でも、主人公とヒロインだけおぼえていられたらそれで事足りる。
 しかもストーリーは直球一本、寄り道も膨らみもナイ。迷いようがないし、置き去りにもされない。
 テーマは普遍的というか、誰でも想像つく範囲のことなので、これまた迷うことも置き去りにされることもナイ。
 教科書通り、テンプレ通りの物語とキャラクタなので、面倒な想像の余地がナイ。行間を読む必要はない、全部きれいに差し出されている。
 テレビドラマに通じる感じ? 難解イコール高尚じゃない、この通俗性って、大事なことだよね。

 壊れた話しか作れない演出家が少なくないなか、壊れていないってのはとてもありがたいことです。すばらしいことです。や、マジで。

 主人公が、きれい。

 人間としての闇も澱みも持たない、挫折も苦悩も、とにかく「きれい」。
 ビジュアル的にも美しくあれるよう、衣装や演出に気を配られている。
 また、愛嬌や抜きの部分も盛り込み、わかりやすい魅力をお膳立てされる。
 主人公以外のキャラクタは、総じて彼を盛り立て、彼の美しさを表現するために使われる。だから安心して、主人公がきれい。


 演出家はクリエイターだから、本人の萌えっちゅーか、「オレはコレを書きたいんだ」を表現してくれていい、とわたしは思っている。
 ただそれは、あくまでも「タカラヅカ」の枠の中でだ。タカラヅカのルールをないがしろにするなら、タカラヅカの座付きである必要はない、どこか他へ行ってくれ、と思う。
 そうではなく、ここがタカラヅカであることを踏まえた上で、タカラヅカを愛し、誇りを持って、タカラヅカでしか表現できない己れの作品を展開して欲しい。
 そのバランスは難しく、最近もこだまっちという地雷が盛大に被害を広げていた。
 サイトーくんも、ショーだと自分の萌えを優先しすぎるきらいがある。

 その点、原田くんは安心安全。
 劇団の指示通り、個性のナイきれいなわかりやすい作品を差し出してくる。

 こういう人も、必要なんだと思う。
 だからこそ原田せんせーは劇団から評価され、とんとん拍子に公演を任されているんだろう。

 万人に認められる作品など存在しない。
 「こんなん、好きじゃない」と言う人は絶対にいる。
 だから、ターゲットをどこに置くかだ。
 原田作品のターゲットは、とても潔い。
 主演以外は動く背景、テーマは浅くなじみやすい、ストーリーはシンプル、画面はきれいで一見「タカラヅカを観た」という感じになる。
 ……つまり、そーゆーところをターゲットにしてあるんだろう。
 あとまあ、劇団上層部にウケのよさそうな作劇だなと思う(笑)。

 わたしはヲタなので、ターゲットに含まれていないのだろう。

 ヲタでも、主演さんのファンなら楽しいのだと思う。
 リピートするのに重い話はしんどいです、これくらい薄い方が楽。また、主役はほんとにきれいに盛り立てて描いてあるから、眺めるだけで楽しいだろう。

 主演のかなめくんは、ほんっとにきれいだった。
 美しさを眺めるだけでも価値があった。

 ……彼の魅力の真髄はそこにはナイんじゃ?とは思うけれど、それはわたしが勝手に思っているだけのこと。
 かなめくんの持つ、負の部分に萌えるのは、わたしがヲタだからに過ぎないんだろう。負の部分が存在しない、きれいな主人公は、将来大劇場の真ん中に立つ人には必要なスキルだもの、こうやって磨いていくべき。

 美しくて、良い舞台だと思う。
 フィナーレもあるし。
 タカラヅカというエンタメの、ひとつのカタチではある。

 かなめくん好きなら観て損はなし。あと、いちくん好きな人は絶対観るべき。……って、かなめくんの次に出るのがいちくん、つーあたりが不思議な配役の芝居なんですがね(笑)。

 原田くんに「創作」への愛情や執着がないなーと思うのは、省エネというか、極力労力を省き、有りモノを並べるだけで作ってます感が強いことにある。
 その根幹はどこにあるんだろうと考えると、主人公に、自我がないってことが大きいかな。

 『Je Chante』は物語自体が壊れまくっていたので、主人公に自我がないのは仕方ないっちゅーか、お手上げなので置く。
 構成はシンプルにまとまっていた『ニジンスキー』で、ソレが顕著だった。
 そして今回の『ロバート・キャパ 魂の記録』で、『ニジンスキー』とまったく同じことをやっていた。

 まず、レシピがある。
 どの部品を使って、どの順番に組み立てていくかが、全部書いてある。
 原田くんの使命は、このレシピ通りにパーツを組み立てることだ。
 パーツAとパーツBがある。レシピには、Aの後ろにBを取り付けろとある。書いてあるから、その通りにする。何故そうなるのかは考えない。だって、そう書いてあるんだもん。

 『ニジンスキー』も『ロバート・キャパ』も、それと同じ方法論で作られていた。
 Aという出来事のあとにBという出来事。何故そうなったのかは、考えない。だって、史実だもん。書いてあるんだもん。

 とゆーことで、主人公がAのあとにBにたどり着くように、道筋を作らなければならない。
 どうするか。
 ヒロインに、誘導させる。
 主人公とヒロインしかいない世界だ。主人公を右に曲がらせたいときは、ヒロインに「右よ」と言わせる。主人公は従う。左に行かせたかったら、ヒロインが「左よ」と言う。主人公は従う。

 なにか話を進めたいときは、他者が行き先を決める。主人公はただそれに従う。
 先にレシピがあるので、年表があるので、その通りになぞるために。

 主人公に人格や意志があり、それゆえに物語が進むのではなく、先に年表があり、それに合うように主人公はじめ登場人物の人格や意志を変えていく。
 ……お手軽だなああ。

 『ニジンスキー』のヒロインは、主人公が「言って欲しい」と思っている、都合のいいことを鏡のようにくり返すだけの存在だった。
 『ロバート・キャパ』のヒロインは、主人公を操縦する、都合のいい舵手だった。
 どちらも、都合がいい。……誰に? そりゃもちろん、作者に(笑)。

 主人公とヒロインしかいない物語で、主人公に自我はなく、ヒロインが「設計図通り」に主人公を動かすご都合主義だけの存在。
 そりゃ物語は起承転結きれいに進み、収まるわ。
 無駄な労力不要、省エネな制作姿勢。

 使っているビーズの色やカタチがチガウだけで、同じレシピで作られたネックレスを見せられても、「きれいね。すごいね」しか言えないっす。
 多少いびつでも、色合わせに失敗していても、「自分で」作ってくれよ。それが創作だろうに。

 ヴァーツラフくんの天才としての苦悩っぷりにしろ、アンドレの使命感と平和への祈りにしろ、作者自身はほんとのとこあんまし興味ないんじゃないかなあ。
 描き方がテンプレ的。タカラヅカのお約束を並べるのと同じ温度で、差し出される。

 『ニジンスキー』を観たとき、そのあまりの「ありがちな天才苦悩物語」に気恥ずかしくなった、と以前書いた。あまりにテンプレ、中高生のイメージする「天才」かよ、みたいな感じで、いたたまれなかった。
 原田くんが自分で考えたんだろうか? 資料にあったものをそのままなぞった結果だろうか? 自分で考えたにしては、あまりにも薄っぺらい。狂気を突き詰める気も、興味もないように見受けられた。
 タカラヅカだから、本当の狂気を描く必要はない。だが、必要ないからといって最初から上っ面だけ受け取って、上っ面だけ書くのはどうなの。一旦底まで沈んで咀嚼して、必要な物だけ舞台で表現するもんだろうに。
 また、主演のちぎくんに、ヴァーツラフという役は柄が違いすぎた。合っているのは彼が美しいということだけ、表面的な部分だけ。ちぎくんの真面目で健康的な芸風は、破滅する天才とは根本に相違があった。

 『ロバート・キャパ』もまた、キャパという有名人を語るとき、もれなくこのテーマでこうやりますよねという、観る前からわかっている程度のイメージそのまま、それ以上はなにもなかった。
 作者の視点は感じられない。既存の書籍や映像をただ、舞台に置き換えただけ。作者自身の深い愛着と心の叫びを、作品のテーマに感じない。
 見栄えがいいからこのテーマです、みたいな。
 近代の人の物語だから、いろんなしがらみで「教科書通り」にしか表現できなかったのだ、ということか。しかしあまりに教科書通り過ぎて、それをすることでなにをしたいのかが、見えてこない。
 つか、いちばん説得力のある演出が、キャパ自身の写真って……。演出家としてどうなの。

 原田先生は、ほんとうはタカラヅカを愛しきっていて、どの作品も誠心誠意「オレはこれを世に送り出せたら、その場で死んでもいい!」「このキャラクタ、この台詞に生を与えるためだけに、オレは演出家になったんだ!!」と吐血する勢いでこだわって作っている……んだけど、不器用だから作品にそれがまったく反映されていない、の、かも、しれない。
 だったら早く、思っていることを表現できるようになるといいね、てゆーか、なってからデビューしてくれ、と思う。

 レシピ通りにパーツを並べたて、耳触りのいいテーマを叫ばせて、タカラヅカのお約束で繋いで、「はい、きれいな感動作品です」っての、もう飽きた……。
 3作連続はナイわー。

 次はもっと、愛のある作品にしてください。
 タカラヅカにも、作品自体にも。
 自分が傷つかないこと、減点されないこと、を最優先にしない作品が観たいっす。
 『ロバート・キャパ 魂の記録』、バウ楽観劇。や、みーちゃんの宙組ムラ楽を観たくて。

 『ロバート・キャパ 魂の記録』は千秋楽だけの観劇です。最初にチケット取れたのが楽だけだったので。
 他の演出家なら、ハマったときのためにリピート可能な時期に観劇するんだけど、なにしろ原田くんだから、そんな心配は無用、と安心してラスト1回だけの観劇っす。

 ……思った通りの、原田くんクオリティな舞台でした。

 知らないものには、とりあえずわくわくする。観る前から悪い方には考えない、できるだけポジティブに受け取る。その方が人生楽しい。
 だから『Je Chante』のときは、がんばった。できるだけ前向きに、悪いところは考えすぎないようにして、観劇した。
 『Je Chante』ゆえに悪い予感はあったけれど、次の『ニジンスキー』もまた、できるだけ自分的に盛り上がって観劇した。
 『Je Chante』は壊れまくってたけど、『ニジンスキー』はとりあえず手堅くまとめていたので、いちおー進歩しているんだっちゅー部分を評価して、山ほどある疑問点はスルーする方向にと、心がけた。

 しかし、2作連続アレだったので、クリエイターとしての原田くんの評価は、わたし的にとても低い。
 期待はしていない、むしろ危惧ばかりだったけど……。

 はい、悪い予感は当たるものです。
 『ロバート・キャパ』は、『Je Chante』『ニジンスキー』と同じ、とっても困った作品でした。


 『Je Chante』はぶっ壊れた作品だった。
 なにがどーしてどうなったのか、めちゃくちゃ。
 作者の脳内にはなにかしら筋道があったようですが、実際に舞台上で書かれているモノは整合性のない断片ばかり。
 ただその断片が「タカラヅカで5万回観た」ありきたりのパーツだったので、観客は断片と断片の間を勝手に脳内で補い、ストーリーを補完して観ていたわけっす。
 「主人公とヒロインが出会って、道ばたで立ち話をした」これだけしか書かれていないのに、次の場面では「権力者の手によって、引き裂かれるふたり」……書かれているのはコレだけなのに、観客はその立ち話だけで「運命の恋」「両思い」とか、書かれてもいないことを勝手に補完していくのな。
 立ち話しただけなのになー。告白もしてないし、つきあってもいないのになー。それだけしか書かれていないのに、さらに次の場面では「数年後、運命の恋人であるヒロインは、悪のナチス将校の情婦となっていた!」だし。や、だから君たち、立ち話しかしてないわけで……。
 純粋に計算式が理解できていないのかと危ぶんだ。1+1は2。1を2にしたかったら、どこかで1を足さなきゃならないんだよ? 1+0+0+0と、ちっとも数字を加えていないのに、答えだけ2のつもりで話を進めていく。原田くん、算数出来ない人?

 でも、『ニジンスキー』ではふつーに、「1+1=2」とやってくれたので、最低限の算数は出来る人なんだと胸をなで下ろした。

 最低限の算数……つまり、物語の組み立てはできる。
 じゃあその組み立てた物語で、ナニを描き、表現するのか?


 原田作品って、お店で売ってるアクセサリー作成キットみたいだ。

 きれいな出来上がり写真が付いていて、パッケージを開けると必要なパーツが全部入っていて、レシピも付いている。
 買った人は、レシピを見ながらビーズだーのテグスだーのを使って、自分でアクセを作成する。
 確かに作ったのはその人だけど、出来上がり写真とレシピ通りに作るだけなので、誰が作っても同じ。

 もしもわたしがアクセサリー作成キットを買ってきて、美しいネックレスを作ったとして、さて、わたしはアーティストでしょうか? ネックレスを創作した人、になるのでしょうか?

 偉人の伝記とか年表があって、美しい出演者たちが用意されていて、宝塚歌劇団が100年掛けて培ってきた「お約束」があって。
 年表通りに出来事やキャラクタを配置し、ヅカヲタの好きな「お約束」「モチーフ」「泣かせ」等でつないで、はい出来上がり。
 
 原田くんって、クリエイターっつーより、サラリーマンだよなああ。
 依頼書通りにパーツを並べて、「出来ました、判子ください」って言ってる感じ。

 『Je Chante』はひどい作品だったけれど、「タカラヅカ的な美しさ」に満ちていた。タカラヅカの基本に忠実というか、ソレしかないというか。
 だからとりあえず、「タカラヅカ」っぽい画面を評価した。
 『ニジンスキー』は薄っぺらい作品だったけれど、「タカラヅカ的な美しさ」に満ちていた。タカラヅカの基本に忠実というか、ソレしかないというか。
 2作連続、とりあえず「タカラヅカ」っぽさを大切にしているのだから、タカラヅカである意味はあるかな、と思った。
 また、主役カップルと2番手にしか役割も意味もなく、残りの出演者がただのモブ、動く背景でしかないことに大いに疑問はあったが、トップコンビが美しく、2番手が美味しくかっこいい、のはタカラヅカ的に正しいと思っていた。

 物語に評価できるところがないため(笑)、それ以外のところを必死に「いいところ探し」をしていたんだなー。

 「タカラヅカ」っぽいものを作る、原田先生の美点はそれだけだった。わたしにとって。
 わたしはタカラヅカが好き。だから、タカラヅカを愛し、尊重した作品を作る人は好き。
 これだけ過去のタカラヅカを研究して、「とりあえずタカラヅカっぽい」モノを作る新人なんだから、きっとタカラヅカが好きなんだよね? なにをやりたくて演出家になったのか、作品からまったく伝わってこないけど、仕事だからやってます的だけど、たぶんきっと、タカラヅカが好きなんだよね?

 しかし、3作目の『キャパ』まで来て、疑問が強まった。

 原田くんってさ、ほんとにタカラヅカ好きなの?

 「タカラヅカっぽい」ってだけで、タカラヅカへの愛も執着も見えない作風ではあったが、わざわざヅカで演出家やってるんだし、なにかしら好きでやってるんだろうなと、好意的に受け止めてきたけどさー。

 タカラヅカの魅力のひとつに、「出演者全員が生徒」ってことがある。
 その演目を上演するために集められたキャストではない。一部のスターとアンサンブルではない。
 トップスターを頂点としたピラミッドが売りだが、名もなき下級生たちもが「将来のトップスター」の可能性を秘めて舞台に立っている。……や、ソレは建前で、トップになる子はある程度最初から決まっているんだが、それでも表向きはみな平等なスタートライン、初舞台では同じ衣装でロケットをやるところからはじまる。
 主役だけが目立てばいいわけじゃない。たとえ物語が壊れたとしても、できるだけたくさんの出演者に役や見せ場を作る、それがタカラヅカだ。外部との違いだ。

 3作連続、主役にしか物語のない作品を作る、ってソレ、「タカラヅカ」を否定してるよねえ。愛してないよねえ。

 主役だけ描いてそれで終わりで良いなら、誰でも作品を作れるよ。2時間もあるんだもん。数十人の出演者を使いこなさなければならないから、ヅカの演出は難しいんだ。
 いちばん難しい部分をスルーして、「一見まとまった作品」を作る。
 ストーリーは「年表」。自分で考えなくても、材料もレシピも出来上がり写真も揃っている。誰だって、作れる。

 自由に作っていいはずなのに、自分では創作せず、お手軽にアクセサリー作成キットで「ほら、きれいなアクセでしょ」と出来上がりを見せられても、疑問しか残らない。
 なにがしたいんだ。レシピ通りに有りモノを組み合わせるのが、原田くんの「創作」なのか。しかも、素材への愛も見えないときた。

 「創作」を愛し、「タカラヅカ」を愛するモノには、なかなかつらい演出家です、原田くん。
 これからもずっと、こんな作風や姿勢で行くのかな?
 思い返すに、いつも安定して好き、だったような。
 きりやんの芸やキャラクタを、信頼していた。
 いちばんのご贔屓さんではない。だけどずっと、好きなスターさんだった。

 ケロゆひ萌えだっただけに、シューマッハには特別な思い入れがある。
 竜堂4兄弟がそのままハマる、キャラの立ちっぷりが好きだった。いろいろと大人な長男、クールビューティ次男、やんちゃな三男、かわいこちゃんで潜在能力兄弟一の末っ子……シューマッハで『創竜伝』を観たいと言っていたなーなつかしいなー。

 そう、きりやんも、わたしの「しあわせの記憶」に結びつく人なんだ。

 昔は良かった、ぢゃないけれど、わたしは年寄りなのですぐ懐古する。今ではない時代を持ち上げてはうだうだする。
 マミさん時代の月組、リカちゃん時代の月組。当時の顔ぶれが好きで、舞台が好きで、わくわく通っていた。そしてもちろん、若かったわたし自身(笑)の記憶と相まって、なんかとてもキラキラした思い出になっている。
 はー、楽しかったなあ、あの頃。しあわせだったなあ、あの頃。

 や、今が悪いわけでも、不幸なわけでもないんですがね。
 過去はいつだって愛しいのです。
 やーねえ、年寄りって。

 ご贔屓のすぐそばにいて、芸風も好きだったきりやんには愛着も半端なく、ご贔屓が星組に組替えになったあとも、ずっと愛でてきた。
 月組での、わたしの中のいちばん、は、ゆーひくんだったけど、ゆーひくんは路線外な人、きりやさんは路線スターど真ん中の人、と、別腹として受け止めていた。立場もキャラもかぶらない人たちなので、平行して愛でることが出来た。
 ……まさかゆーひくんがきりやさんと並ぶ人になるとは、夢にも思ってなかったからなあ。

 『シニョール ドン・ファン』できりやんに盛り上がっていただけに、彼の体調についての噂には不安をかき立てられたし、休演はショックだった。
 病気のことがなければ、彼のジェンヌ人生は大きく変わっていたんだろう。彼だけでなく、劇団的にもいろいろ変更を余儀なくされたんだろうな。

 病気休演以降、「元気な少年」キャラではなくなり、一気に大人びた。
 あのキラキラした少年に会えなくなってしまったのは残念だけど、魅力的な大人の男がそこにいた。
 ファビエルさんにときめいたし、アルジャノンには拳を振り上げて大喜びした。そして、きりやんの役のなかでもっとも萌え狂った薫@『夢の浮橋』!!
 年月と共に、苦みの部分、陰の部分が、彼を魅力的にしていった。

 トップスターになるのは、正直遅すぎたと思う。
 彼のタカラジェンヌとしての、ビジュアルの旬は過ぎてしまったと思う。
 その代わりに、少年時代には表に出ていなかった、濁りのある艶が出てきた。
 芝居や言い回しに独特の癖も強く出るよーになったんで、作品や役によって一長一短になってはいるけど、それも含めて「霧矢大夢」と言える、大きな個性になった。

 いろんなきりやんを見てきたなあと思う。

 そして、今。

 『エドワード8世』のきりやんが、好きだ。

 初主演バウで、耽美な被虐美少年をよりによってきりやんにやらせた、「彼はナニか、みんなとはチガウものを見ているに違いない」と思える大野タクジー先生。
 きりやんのことを「絶世の美少年」、女はもちろん男たちまでもが、彼を征服したいと渇望する「魔性の美少年」だと思い込んでいる、大野せんせー。
 最後のきりやんの役がどんなことになるか、期待9割、ニラニラ笑い1割だったんですが(笑)、最後の最後にきりやんに合ったものをきちんと持ってきてくれて、よかったっす。

 わたしが大人になったあとのきりやさんを好きなのは、彼が善人ではないからなの。

 悪人だという意味ではない。
 善人ではない。
 絵に描いた餅みたいな、記号みたいな「ヒーロー」ではなく、そこになにかしら苦み、エゴ、間違ったモノ、を持っているところ。
 脚本上が薄っぺらいただの「二枚目」だとしても、きりやんの芸風にはどこか棘がある。
 人間が当たり前に持つ濁り。人間が目を背けたいと思う、見ないでキラキラしたものだけ見てみたいと思う、そーゆーモノを、どこかしら滲ませている。
 ただのキラキラタカラヅカの主役様、に収まらない、引っかかり。撫でたときにどこかざらっとする、飲み込んだときにちくっとする、そんな感覚。

 それが、わたしにとっての、きりやんの魅力。

 『エドワード8世』は、デイヴィッド役は、そんなきりやんの「善人ではない」ところ、ざらっとする、ちくっとするところが、たーっぷり味わえる。
 ただきれいとかかっこいいだけなら、手放しで喜んで褒め称えて、それだけで満足できる。でも、ざらつくからひっかかるから、立ち止まる、振り向く。無視できない、気になる。
 もっと、彼を見たい。彼を味わいたい。そう思う。

 観劇が終わって家に帰って、1日、2日と経つうちに、「もう一度観たい」という気持ちになる。
 大野くんらしいよそ見だらけのうるさい芝居だから気が散る(実は誉め言葉・笑)けれど、他は全部シャットアウトして、最初から最後まできりやんだけ見る日を作りたいな。
 それくらい興味深く、おもしろい作品であり、役である。


 長く見てきた。
 いちばんのご贔屓ではなくても、大切なジェンヌさん。素晴らしいスターさん。
 彼の男役最後の芝居が『エドワード8世』で、デイヴィッド役で、良かったと思う。
 全組全公演観劇が基本、ご贔屓はただひとりだけど、それ以外にも大好きジェンヌはたくさんいて、その順位はその都度変わる、ゆるいスタンスの広く浅くなヅカヲタ人生。
 作品と役がイイと、ジェンヌへの愛情度が上がる。
 そんなわたしだから、きりやんのラストステージが、心から楽しめる大野せんせ作品で、『エドワード8世』で良かったと思う。

 うおお、書いてたらまた観たくてたまらなくなっている、『エドワード8世』。
 いつきりやさんを好きになったんだろう、と記憶をたどる話、その2。

 ずっと雪組だけしか観てこなかったわたしが、それに次ぐ勢いで、月組をリピートするようになった、世紀末。
 や、それまでも全組観ていたけれど、本公演とチケットの取れたバウを1回観る程度のゆるいヅカファン、贔屓組しか複数回観劇しないので、他組のことはとんとうとい。
 そんなわたしが、月組も通うようになった。

 周囲の影響がある。
 当時仲の良かった友人が、ポスターの檀れい様の美貌に心を動かし、一緒に『LUNA』を観に行った。檀れい様だけでなくいろいろ気に入ったらしく、以来一緒にヅカ通いすることになる。
 また、やはり当時ともに腐った話題で盛り上がっていたヲタ友が月組担当だった。
 仲のいい人たちが月組ファンだと、さらに月組が近しいものになる。
 ……『LUNA』はよく通ったよ……嘉月さんとケロの「レア」なヘアスタイル見たさになー(笑)。『LUNA』ですよ……あのイケコのイケコらしい、珍作にさ……(笑)。

 リピートすればするほど、組子の顔も名前も覚える。愛着も湧く。

 そしてさらに、ケロゆひ萌えという、わたしの中で最大のカップリング萌えの嵐がやってくる。
 えー、『ゼンダ城の虜』からです。ド・ゴーテ×ミカエルとゆー、人様に説明しづらいところに萌えてました。
 あとはショーで絡んでくれたり、振付とは無関係な目線の絡みに萌えまくってましたな。←あ、これはもっとあとの公演か。

 んで、ケロゆひ目当てに通えば通うほど、きりやんもよく目にすることになる。
 彼の舞台上のキャラクタも、馴染みのあるものになる。

 彼の初主演作品、『更に狂はじ』も張り切って観に行きました。
 チケット手に入らなかったので(バウのチケットは完売が当然の時代)、サバキ待ちしましたな。
 ……まさか、あんな話、あんな役だとは夢にも思わずに(笑)。
 大変美しいポスターで、期待値は近かったっす。
 しかし。
 きりやんが、「JUNE」的被虐美少年……。
 演出家の「大野拓史」という人を知らないので、まったくの予備知識なしでした。
 どんだけ美形でもタニちゃんには耽美が似合わない……のとまた別の意味で、きりやんも耽美の似合わない人だと思ってました。今も思ってます。だからこそ、きりやん相手に本気で耽美世界を展開した濃ゆい物語にアゴが落ちた。
 栗本薫が書きそうな話……なんでよりによってタニきりでやるかな……。
 理解できなかったけど、主演の持ち味と無関係な演目を当てるのは、ヅカの座付き演出家にありがちなことなので、そーゆーもんかと気にしなかったな。
 きりやさんは実力派だから、任に合わない役を振られたりするんだ、大変だな、と。

 えー、『更に狂はじ』がそーゆー温度だったのだから、ここまでは特別好きなわけじゃないな。ふつーに好き、ぐらい。

 ところがその次の作品、『Practical Joke』で意識は大きく変わる。

 マウロ@きりやんが、好きだっ。

 マウロ役がすげー好みだった。
 無骨でまっすぐで潔く、バカ。そして、攻(笑)。わたしのツボ、ど真ん中。
 マウロ×ドイルです。
 マウロは慎みなくドイル本人に告っちゃうよーな男で、わたし的にはあの告白は「余計」、ない方が好みだったけど、それでもマウロが好きだった。
 観たときもそうだったけど、あとからどんどん、じわじわずんずん、好きになった。
 最初微妙に見えたマウロのビジュアルも、観れば観るほど「美しい」「かっこいい」になった。

 この役から、一気にきりやんファンに……なったわけでも、ない。

 次の『愛のソナタ』では、とりたててきりやんファンでもなく、気持ちは落ち着いていた。
 きりやん、子役だったからなああ。
 前述の檀ちゃんファンの友人が、気がついたらきりやんファンになっていて、「きりやんになら、『奥様』と呼ばせてあげてよくってよ」なんてわけわかんないこと言ってたな。(友人は独身です)や、きりやんの役がビビアンリーの召使いで、「奥様、奥様」言ってたからだけど。

 次の『エンカレッジコンサート』はチケット取れなかったし。
 サバキ待ちしたけど、玉砕。……まあ、階段下にいたら、けっこー音は聞こえたけどな、リハーサル?も含め。音を聞くためにわざわざいたんじゃなくて、サバキをいつまでもあきらめ悪く待った延長でそのまま、観劇している友人を待っていたんだな。

 当時はムラ公演しか観なかったわたしが、それでも東宝まで遠征した『大海賊』。ここでもきりやんはわりと好き、ぐらいの温度になっていたか。
 『大海賊』はゆーひくんの美貌に夢中だったからなああ。

 ムラでしか観劇しないわたしは、その後『血と砂』にヅカヲタ歴史上最高の萌え狂いっぷりで、きりやんの出ていた全ツは観てないし。キッドはいい役だから、観てみたかったけど。当時の全ツは大阪でやってないし。

 で、次にきりやんを観たのが、『ガイズ&ドールズ』。
 …………女役だし。
 アデレードはかわいかったけど、萌えにはつながらず。
 ってゆーかわたしは、これまたケロゆひに萌え狂ってたからなあ……。毎日アドリブでいちゃつくふたりを眺めるために通ったよ……(笑)。

 きりやんに再びときめいたのは、『SLAPSTICK』か。
 セネット@きりやんを、シンプルに好きだった。装飾なし、四の五の言わない。ただもお、きゅんとした。
 この男の子、好きだ、と思った。

 あー……そこからか。
 それからしばらく、わたしの中のヲトメが、きりやんにときめいていた。
 腐ったハートはケロとゆーひくんのものだったんだが(笑)、ピュアなハートはきりやんにきゅんきゅんだった。

 『長い春の果てに』の無骨な医者アルノー@きりやんに、ときめいた。白衣よりつなぎが似合っちゃうとこがいいのっ。
 きりやんの腕が短いことに、たしかこのとき気がついた(笑)。背が低いことも、それゆえ男役としてのスタイルが残念なこともわかっていたが、腕の長さは気にしたことなかったんだ、それまで。でもキニシナイ!! ときめいてるからいーの!(笑)
 ……ちなみにこの作品では、ワタケロ萌えしてましたな……まったく腐女子は業が深いわ。

 で、ここまでヲトメとして盛り上がっているところへ、『シニョール ドン・ファン』ですよ、少女マンガの景子タンですよ。

 ジョゼッペ@きりやん、好きだーっ。

 だからわたしは、アホ攻が好きなんですよ。ジョゼッペのKY風味なところと、無駄に体温高くて直線ダッシュなところがツボでした。
 ジョゼッペ×レオね。

 追い風がきりやんに吹いている、そんな感じのする時期であり、そんな公演だった。
 芸も充実し、男役としてのビジュアルも充実し。
 劇団的にも組的にも、長らくのタニちゃん主義からきりやんへシフトチェンジした時期だった。


 どこかの公演、どこかの役で、いついつから、というわけでもないのか。
 わたしがきりやんを好きだったのって。
 ゆるやかな坂を登るように好きになっていた、ような。
 今頃になって、きりやんのことを考えている。

 きりやんのことはずっと、愛着を持って眺めてきた。
 ご贔屓はひとりだけど、それ以外はその時期ごとに好きなジェンヌ順位は変動する。全組観劇が基本なので、今そのときやっている公演にきゃーきゃー言っていることが多い。
 そんなわたしは、いつからきりやん好きだっけ?
 オペラグラスできりやんばっか追いかけて、隣の席の見知らぬ方から「きりやさんのファン?」と声をかけられたのは、どの公演だっけか。

 最初に彼を認識したのが、『君に恋してラビリンス!』だったか。学年なんか知らない、ふつーにうまかったし、役付も良かったし、目についた。
 花組にはまったく詳しくなかったが、新進スターらしいという噂は耳に入ってた。
 このときは、顔を見た程度。ふーん、あれがそうか、みたいな。役のせいもあるかもしれんが、まあいいんじゃない、みたいな。
 「すごい新人」らしいから、そーゆー人がうまくてまあいいんじゃない?なのは、いいことだ。劇団が勝手に抜擢して「スターです! ありがたがりなさい!」と押しつける人が、きれいでもなくへたっぴだったら観客は不幸極まりない。その点、この霧矢という人はきれいだしうまいし、いいんじゃないかな?と。
 全組観劇するとはいえ、わたしのホームは雪組。他組は本公演を1回観る程度だから、他組の「すごい新人」には、正直あまり興味がなかった。
 だって、新人公演を観ない者にとって、「すごい新人」なんつーのは、「噂」でしかなく、実感が伴わない。
 舞台がすべてですから。わたしが観劇する舞台で、実際に活躍してくれないと、わかんない。
 花組時代のきりやんのことは、ぜんぜんおぼえてない。本公演で大役をやってくれない限り、ライトなヅカファンにはわかんない。

 月組に組替えになったのはおぼえているが、「いつから」というのが、記憶にない。
 東宝公演からだよね? ムラでしか観劇しない身なので、知らないところで異動完了、現実に感覚が追いつかない現象。
 なにしろ当時は今ほどリアルタイムにニュースが目に耳に入るわけじゃない。インターネットもパソコン通信も高額なツール。1分いくらの課金制だ、ちょっと使いすぎると月何万円と請求される、おそろしー時代(経験談・笑)。ニュースソースとしては高すぎるし、今ほどネット人口も高くないので、ツールとしても大して使えない。
 自分が実際に劇場に行かない限り、ヅカの話題なんてナニも知らないままだった。

 気がついたら、きりやんは月組だった。
 そして月組の「すごい新人」「新進スター」「特別な若手スター」は、タニちゃんだった。
 なにがあってもタニちゃん。どこでもここでもタニちゃん。まずタニちゃんありき。
 そんな印象だったので、そこにもうひとり下級生スターが加わっても、扱いはいつだって「タニちゃんの次」でしかない。
 ひとつだけ若手にオイシイ役や場面があれば、それはすべてタニちゃんのものだから、きりやん以下の若手スターはそれ以下の役や出番になるのが常識。
 他組のことは不勉強、よくわかっていないまま見ているので、わたしの海馬はタニちゃんまでしか、ろくに認識できていない。タニちゃんがひとつの区切り、トップスターのマミさんから順番にスターさんを数えるとき、タニちゃんまで数えたら、はいそこで終了、てな。
 1回しか観ないんだもん。それだけでもういっぱいいっぱい。
 『黒い瞳』は作品が好きで複数回観たけれど、マミリカゆうこに釘付けで、それ以外はよくわかってないしなー。トリオのひとりで目立っていたはずだが、タニちゃんと嘉月さんと、もうひとり、くらいの感覚だったもんなー。

 わたしが月組を複数回観るよーになったのは、ケロの組替えとともに。
 ってことで、『螺旋のオルフェ』からだ。
 オギーの美しく退廃的な舞台の上では、誰もが何割方美形に見えたもんだったが(特に『螺旋のオルフェ』はライト使いが秀逸!)、ここいらで、きりやんのことをかっこいいかも。それに、けっこー好みの顔。として再認識。
 若者役でも、大人っぽい陰影のできる顔立ちで、何つってもあの高い鼻が好みだったんだと思う。
 ただし、同時上演のショー『ノバ・ボサ・ノバ』がいかんかったと思う。せっかく芝居で目についたとしても、あとから上演されるショーで認識できないと、観劇後に記憶に残らない。
 だってピエロ役だもんよ。組ファンでもない身には、ピエロメイクの下の顔なんかわかんねーよ。

 で、きりやんというと「伝説の新公」として、『ノバ・ボサ・ノバ』新公ソール役が語られるよね。
 わたしには、これがかーなーり、マイナスだった。
 観てません。観てませんとも。
 当時の新人公演は、今ほど誰でも簡単に手に入るものじゃない。会に入るなりしていれば入手できるのかもしれないが、そーゆー世界と無縁の、永遠のライトファンには入手困難。
 自組のためには手に入れるためあらゆる努力をするけれど、他組のためにはそこまでできない。だから、なんのツテもない組の新公は観ない、最初から観るという選択肢もない。
 わたしにとって新人公演っつーのは雪組しか存在していない。雪組だって、トドロキ卒業後は何年も観ていなかった。純粋に、チケットが素人には手に入らないから。(トドのときは、あらゆる努力をして観ていた)
 きりやん『ノバボサ』は観てないまま、噂だけを耳にする。素晴らしかったと。
 しいちゃんスキーのわたしにとって、「『ノバボサ』新公といえばきりやん!」てな感じになっているのがおもしろくなかった。先に雪組で『ノバボサ』新公主演した、しいちゃんdisってんのか?と。
 きりやんが素晴らしかった、というだけで、しいちゃんが悪かった、という意味ではないとわかっていても、「『ノバボサ』新公といえばきりやん!」で、もうひとり新公ソールを演じた人がいたことが「なかったこと」になってるっぽいのが、嫌だった。しいちゃんのソールだって良かったのに! 歌唱力はともかく(笑)、すごくアツくてかっこよかったもん!てな。
 それでまあなんとなく、きりやんに対して構えてしまう。どんだけきりやんがうまくて世間がきりやんだけ評価してても、あたしはしいちゃんの味方だもん!的な(笑)。
 別に、きりやんのことは好きでも嫌いでもない。ただ、しいちゃんのことが好きだった。

 で、こーやって霧矢大夢はわたしのなかに、大きく刷り込まれる。
 以降、目に入らないとか、記憶に残らないとか、そーゆーことはなくなった。役付に関係なく、「ああ、きりやんだ」と思うようになる。
 小さな身体と、ガイジンさん的な凹凸のある、きれいな顔。美貌と華だけであとはいろいろいろいろ足りていないタニちゃんの横で、あるいは一歩後ろで、堅実な仕事をする若手スター。
 タニちゃんの美貌と華は認めているけれど、その足りなさっぷりにそろそろ疑問を持つようになっていたわたしは、「裏切らない」芸風のきりやんに注目するようになる。や、だって彼、「うまい」んだもん。「うまい」って、すごいことだよ? 歌っても踊っても芝居しても、椅子からずり落ちないで済むんだよ? タニちゃんと比べてどうこうではなく、ヅカにおいて、そーゆースターの存在は貴重なんだってば。

 しかし。
 いつ「好き」になったんだろう?
 きりやん、まりもちゃんのサヨナラ公演『エドワード8世』『Misty Station』初日に行ってきました。
 月曜日が花楽で、水曜日が中日初日で、金曜日が月初日。……今週きびしすぎるよ、1日おきで観劇って、社会生活ぎりぎりすぎる……っ! って、日曜日も月組行くけど!!←

 えー、とりあえず、取り急ぎの感想としては。

 ヲタク演出家ふたりによる二本立てはよせ(笑)。

 『エドワード8世』大野タクジー作。
 『Misty Station』サイトーくん作。

 タカラヅカが誇るヲタク演出家、夢の競演……!!

 「作っているモノが古城の精密なジオラマか、萌えアニメのフィギュアかの違いで、あのふたりのやっていることは同じ」と言ったのは某友人ですが、いやはやまったく、並べて観ると壮観です。

 芝居もショーも、潔くヲタク全開です。

 なんつーか、食い合わせ悪いわ……。

 バランスのいい二本立てっつーのは、次元のまったくチガウものを組み合わせたものなんだなってことが、よくわかりました。
 大野芝居が地味で、サイトーくんがギトギト、だから一見別モノに見えるかもしんない。
 でも、どちらの作品も、いわゆる「タカラヅカらしさ」とはかけ離れたところにある。
 これは……客を選ぶわー。

 タカラヅカが飽きることなくくり返してきた、時代錯誤で大味で昭和でばばーんでどどーん!な感じ、植爺だーの柴田御大だーの。
 テンプレ通りなんの工夫も新しさもない、四半世紀前も今も大差ないテイストのショーやレビュー、岡田だーの中村Bだーの。
 長年のヅカファンや年配の方に支持されるだろう、伝統という名のワンパターン。
 こーゆー古い古いガチなタカラヅカ作品と組み合わせるべきでしょう、ヲタク作家の趣味に走りました作品は。
 作家の感性の年代がまったく別のものを2本組み合わせてこそ、幅広い年代や客層に受け入れらるんじゃないかな。

 偏った2本のセットだと、いろいろきびしいんじゃないかと、観劇中からすでに気に病んでしまった、老婆心(笑)。


 『エドワード8世』は、もっと「タカラヅカファンのニーズに合った」作り方が出来たと思う。
 タクジーの趣味全開の蘊蓄はいらん、必要な主軸だけ書こうよ。
 タクジーの趣味優先されているため、恋愛色が薄れ無駄にストーリーが難解かつ地味になってる。客席を睡魔が襲っている・集中力がなくなっていっているのが空気でわかるんだ……おーい、退団公演なんだよ、作者本人が真ん中にだけ集中して書いてくれよお。
 すげーあちこちよそ見した作品(笑)。作者が、よそ見してる。このへん『ロシアン・ブルー』もそうだったね。
 んで、結局中途半端なの、彼が趣味ゆえに挿入した部分が。余分なモノとして、明らかに不要にあちこち盛られているけど、それゆえにどうなったか、なんの意味がありどう影響して、結果どうなったかなど、回収はされない。置き去り、忘れられてる。このへん『ヘイズ・コード』や『NEVER SLEEP』もそうだったね。
 タクジーが自分を抑えて、開き直って「タカラヅカ」のニーズに合わせて書いてくれたなら、彼のセンスの良さと相まって、良い作品になったろう。
 惜しいわ。

 わたしは、好きだけどな(笑)。

 そのよそ見しまくりの芸風が、ヲタのわたしには楽しい。
 やー、よく泣きました。

 幕開きから、エドワード8世ことデイヴィッド@きりやんのお葬式。わざとらしく泣き崩れるウォリス@まりも。
 そこへ、死んだはずのデイヴィッドの声がし、彼の幽霊が現れる。
 「王冠を賭けた恋」として有名な、大恋愛カップルのはずなのに、デイヴィッド(幽霊)とウォリスとで繰り広げられる丁々発止の罵り合い、揚げ足の取り合い。
 ストーリーテラーでラジオ・プロデューサーのガイ@まさおの軽快なナレーションと共に、物語はふたりの出会いからの回想へ。

 最後に、何故幽霊になってまでデイヴィッドがウォリスの前に現れたのか、答えがわかる。
 ……泣けますよーー。

 きりやんとまりもがイイ。
 このふたりが、イイ。
 ほんとに、いいコンビだ。

 まさおもイイまさおだと思います。書き込みがアレな分、フリースペースがある感じ。まさおスキーとして眺める分にはいろいろ楽しい。
 で、まさおさんガチホモの役なんでしたっけ? 相手役がまんちゃん、とゆーのにツボりました……(笑)。まんちゃん受なんですか?

 みりおくんは途中で忘れられてないか……? 大野くん、ちゃんと書き込もうよ……。
 や、前半はイイ感じです、かわいい。

 もりえくんの一筋縄ではいかない玄人っぽい描き方がいいなー。問答無用で殴りつけるとことか、かっこいー。
 一色氏もいい役でした。うれしいっす。

 プログラムの人物紹介が細かい字で3ページぎっしり、なのに場面ごとの出演者表記ページには解説一切なし。……笑った。


 大野作品は「わかりにくい」「地味」「盛り上がらない」「眠い」などという感想はあったとしても、それほど拒絶反応は出ないんじゃないかな。
 とりあえずは「タカラヅカとして美しい画面」にまとめてあるから。

 それに比べて、サイトー(笑)。

 同じヲタクでも、彼が作っているのは、萌えアニメのフィギュアだからな。古城のジオラマの大野くんと違って。
 古城のジオラマなら、ヅカファンは「きれい」と言うけど、萌えアニメのフィギュアじゃあ、ヅカファンの多くは認めないだろうさ。

 わたしは『STUDIO 54』も成功した作品とは思ってないんだが、アレが月組と月組ファン的に受け入れられたと思って、さらに図に乗った印象。
 しょっぱなからアニメ、で、オープニングはAKB衣装。や、AKBってゆーか、アニヲタの萌えコスプレ衣装だよなー、アレ。
 萌えアニマルコス娘4人組、今回はオウム。すごい色彩センス……なにしろオウムだし?
 組長センターのトリオの銀橋だとか、ヒロさんと輝城くんのニンフだとか、びっくり配置ありーの、きりやん×ちゃぴの銀橋ラブシーンありーの。
 突然のアニソン、黒燕尾大階段群舞もスタンダードからはほど遠い。

 まりもちゃんの役名がすごい。
 孤独な戦士だの狩人だの……男役ですか?(笑)
 や、かっこよかったです!!

 まさお、みりおが中性的な役が多い分、まりもが男前で……って、いいのかソレ? たしかに月組ってそうだけど、わざとそーゆー演出にしなくても……?

 わたしは『RSF』がダメだったクチですが、『Misty Station』にはそれほど地雷を感じません。
 とゆーのは、立ち位置が違うせい。コレで贔屓が卒業だったら、最後の黒燕尾があの演出・選曲・振付だったら、やっぱ感じ方がまったく違ってきているだろう。
 きりやさんファンが納得するショーであるなら、それに越したことはない……んだが、どうなんだろう。わたしがきりやんのガチファンなら、サイトーくんを校舎裏に呼び出してると思う。←
 年寄りの繰り言をば。

 初演の『仮面のロマネスク』で、役柄が合ってないなと思ったのは、ダンスニー@トドロキと、ジェルクール@たかちゃんだ。

 当時のたかこはまだふにゃふにゃ系の若者で、舞台でも気のいいにーちゃんだとか二枚目半のチャラ男だとかを任とする、若手スターにありがちな「かわいい弟くんキャラ」だった。ヒースクリフもやってたけどさー……あれも結局はにーちゃんキャラだしなー。
 ジェルクールという、海千山千の大人の男……ぶっちゃけおっさん役は、テリトリー外だった。
 姿の良さで演じてはいたけれど……なんとももどかしく、「たかこの魅力はそこじゃないのに。なんでこんな役?」と疑問だった。
 結局たかちゃんは、トップスター6年もやって研19で卒業したわけだけど、こーゆー「骨太な大人の男」は苦手なまま、永遠の「青年」だったねええ。

 で、2番手のトドロキさん演じるダンスニー。
 これがもお……いたたまれなかった。
 仮面をかぶった人々の暗躍するややこしい社交界で、唯一純朴さ際だつ青年。それゆえに滑稽に見えてしまう役。
 ひとりカラーの違う役だから仕方ないとはいえ、あまりに空気クラッシャー。
 その芝居はソレでいいのか? ただのウケ狙いぢゃないのか? 空気感の違いは場を壊すのとイコールではないはずだぞ?と。
 ヴァルモン@タカネくんに女の口説き方を教わる場面とか、アドリブでお笑いに走ってたしなあ。千秋楽だっけ、イヤミの「シェ~~!!」をポーズ付きでやったのは。
 いやそのわたし、トドファンで……トド様の苦手分野の役キター!と、当時はアタマを抱えておりました。しくしく。
 流し目スタンが良かったのは、コメディだからだよ……重厚な芝居でやったらただのKY……。


 まあ、そんな記憶がありまして。
 トドファンでたかこ大好き……つーか、当時の雪組みんな大好きで雪組のみリピートして観ていた人間っす。

 今回の再演の配役で、いちばん残念なのはダンスニー役がみっちゃん、ってことでした。
 みっちゃんの空気読めない阿呆役は、もおいいよ……。三枚目役はもおいいよ……。色男のみっちゃんを見せてくれ……。
 振り分けが発表になるまでは、みっちゃんはバウだといいなと思ってました。原田バウは大抵2番手まではオイシイもんだし、人気者のみっちゃんは集客に必要だろうしと。また、中日のショーはまたしても『Apasionado!!II』。トップと2番手が同じ顔ぶれで再演はやめて、色を変えて見せてよ、と。
 『仮面ロマ』が、男役はトップひとりしかおいしくない芝居なので、4番手のともちんが中日2番手でもいいじゃん、と。何番手なのか不明のみつるが2番手で全ツを回ったり、番手のついてなかったそのかが2番手で博多座公演務めたりしている時代なんだから、ともちんでもいいじゃん。

 しかし結果は、2番手みっちゃん、3番手ともちん。
 従って、ダンスニー@みっちゃん、ジェルクール@ともちん。

 ジェルクールがともちんなのはぜんぜんいいんだ。ただ、似合うことが最初からわかっているので、そこがちょっと残念だった。贅沢な話だが(笑)。

 ダンスニー役は、やっぱみっちゃんだよなああ。
 もちろん、うまいことも、難なく演じられることもわかっている。わかっているだけに、残念だった。彼にはそれこそヴァルモンみたいな色悪をやって欲しいんだよ。そーゆー役を見たいんだよ。

 てことで、やっぱりダンスニー役のみっちゃんにはうなだれた気持ちでいました。
 思った通りのダンスニー、予想した通りのみっちゃんがそこにいた。
 手堅く仕事をしているわけなんだが……やっぱこーゆー役でしかないのか、ダンスニー。
 今の柴田先生は、脚本を良い方へ変更する能力はないだろうし。演出家は大先生様の玉稿を好きにいじるわけにはいかないだろうし。細部の調整はできたとしても、2番手の役を大きく変えるなんてことは無理っしょ。(表向き「変更してイイ」と言われていたって、できんだろう、実際)

 でも当時のトドロキよりは、芝居うまいよね。初演でアタマを抱えていた感覚は、みっちゃんには持たなかった。
 だがそれは、外見の問題もあるのだろうか。
 トド様ダンスニーは、純朴なのが嘘だろーってなきらびやかな美形様でした。だから純情芝居が嘘くさい嘘くさい。もう少し無骨な外見にしても良かったんじゃ、ってな印象。
 みっちゃんはなにしろみっちゃんなので、田舎者役が似合っている……外見に説得力。彼は色男役だと色男になるけど、そーでなかったら昭和な姿のままだからなー。

 外見的にダンスニーに合っているのはみっちゃんだが、最終的にメルトゥイユに手を出されるときの違和感も半端なかった。いや、彼には手を出さんだろう、メルトゥイユなら!!
 トドロキだと、それまでがどんだけ空気読まないトホホな奴でも、とりあえず超美形だったので、メルトゥイユ様のツバメになるのもアリかなと思えたんだが。

 わたし的にダンスニーのベスト役者は、新公の江上さん……もとい、ケロちゃんだ。彼はいろいろ説得力高かった……。

 ダンスニー役がハマっても、路線スター的にはなんの意味もない。むしろ、ハマらない方が真ん中力が強いということ。
 ……そんな役が2番手役なんだよなあ、この芝居。

 いつかみっちゃんヴァルモンを見てみたいと、しみじみ思う。
 宙組中日劇場公演『仮面のロマネスク』初日観劇。

 ゆーひさんハマり役。美しい、いやらしい(笑)。
 すみかちゃんもさすがだ。この難しい役をよく息づかせてくれた。

 それはともかく、改めて思った。

 『仮面のロマネスク』って、プロットおもしろい。

 こんだけ入り組んだ話を、テレビドラマとかで見てみたいなああ。連続ドラマでさー。
 心理描写メインだから、表情がアップで見られる映像向きのプロットだよな。
 ……なんてことを考えたよ。今の恋愛ドラマって単純明快だもんなあ。
 このジャンルは小説の得意分野だから、小説では別に読みたくない。原作が小説である、ということは置いておいて。あえて、映像とか演劇とか、アウェイなところで表現して欲しいな。

 ドラマスキーでもあるので、ついそんなことを考えちゃったが、ヅカヲタとして思ったことは、本公演で観たかった、だ。

 セットの豪華さや、ムラ東宝と2ヶ月かけて作品を深めていけること……加えて、宙組フルキャストで観てみたかった。
 別箱公演のいいところではあるんだけど、どうしても人数が少ない分、未熟な人たちが目立ってしまう。
 勢いで押す作品ならそれでもいいけど、この物語はもうちょい芸達者な人たちで観たいなあと。や、この公演の経験を得て、下級生たちはどんと成長するんだろうけど。下級生の成長を見守るのがヅカだから、別箱でこそ彼らが活躍しているのは正しいことだとわかっているんだけれど。
 作品を好きだからってだけのタワゴトです、はい。

 『仮面のロマネスク』は、柴田先生の最後のオリジナル作品、という認識。
 良い作品をたくさん作ってきたクリエイターの、最後の佳作。
 『黒い瞳』など佳作はその後にあるけれど、あれらは謝作品認識っすから。
 柴田先生自身が演出した、最後の作品。
 謝先生と袂を分かってからはさらに、劣化の一途をたどり、『霧のミラノ』他のひどい作品も書いちゃう。(で、悪いのは全部組んだ演出家、柴田先生は悪くない!ということになる。辟易)
 『仮面ロマ』までだ……わたしの中の柴田先生……。
 あ、原作があっても、そのまんま完璧コピーでない限りはオリジナル作品とカウントしてます、わたしは。原作表記はネタ元を明示しているだけのこと、独自の色で「宝塚歌劇」用にミュージカル化してキャストにアテ書きしている以上、オリジナルだ。
(太田作品の『アリスの招待状』『それでも船は行く』が原作表記なしでオリジナル作品とされて、小柳タンの『めぐり会いは再び』が原作アリ作品とされるくらい、境界線がいい加減だよヅカは)


 ずいぶん時間が経っていたので、わたし自身意識することもなくなっていたんだが、開演してゆーひくんとののすみが主題歌とそれに至るやりとりを繰り広げるのを観て。
 泣きスイッチ入りました。
 ……退団公演だったんじゃん!! 泣きながら通ったってばよ!!
 当時のわたしは今ほど回数観るファンじゃなかったけど、ふつーに1公演7回くらいは観てたんだよね? カリさん時代からの雪組ファンで、いっちゃん時代を堪能し、ゆきちゃん時代に夢を馳せていた。なのにそのゆきちゃんが、たった2作で退団。
 泣きながら通ってましたがな、『仮面のロマネスク』。
 ヅカ初心者もエスコートして、張り切ってリピートしてた。
 そんな思い出がだーっと押し寄せてきた。

 が、いろいろと別物なので、初演と比べてどう!とかは、特に思わない。
 これはコレ、あれはアレ。初演はいつだって思い出とともに美しくなっているもの。気にしていてもはじまらない。
 まあその、「チガウ」ことに対し、ヴァルモンよりダンスニーより、ロベールに反応しまくった自分にびっくりだ(笑)。あたしロベール好きだったんだ……。

 思い出の切なさはともかく。

 「次はセシルだ」がないっ。

 えええ。
 『仮面のロマネスク』のいちばんの萌え台詞カットってどーゆーことおお?!
 再演が発表になったとき「ゆーひさんの『次はセシルだ』が聞ける!!」ってワクテカしたのに?!

 わかりにくいよ……。
 あの台詞がないと、いろんなところがわかりにくくなる。
 萌え云々の話だけぢゃないのにー。柴田せんせ、わかってないなー。


 主人公が別物だと、初演に思い入れがあっても「別物」として割り切れる。

 ヴァルモン@ゆーひさんは、わかりやすく別物だ。初演のタカネくんと。
 タカネくんは抑えよーがどーしよーが、発散型の熱を持った人だった。エロも得意な人だったけど、ゆーひくんとは血の色からして違っている。
 タカネくんの粘度と湿度の高いエロっぷりに狂喜乱舞して通ったクチだけど、ゆーひさんの低温かつ闇色の濃いエロっぷりもまた、たのしい。

 いやあ、ヴァルモンってこんなに、内にこもるっちゅーか、暗い男だっけ……(笑)。
 必要に応じて社交的な態度を取っているけど、ほんとは孤独を愛する暗い人だよね、ゆーひヴァルモン。ナニかことあるたびに、自分の内側へ内側へ発酵するタイプだよね?
 だからこそ、あの人間味のあるメルトゥイユ夫人@ののすみに惚れたんだよね?
 また、どこか自分に似たニオイのするトゥールベル夫人@えりちゃんに惹かれたんだよね?

 ヴァルモンとしての「アクション」部分と、台詞や動きにはない、「表情」部分の乖離っぷりがイイ。
 その行動、その台詞で、何故その表情。何故その目つき。
 ……それが、ヴァルモンをさらにミステリアスに、魅力的にしている。
 ヴァルモンってややこしい男だし。ゆーひさんのカラーによって、さらに謎めいていて萌える。

 メルトゥイユ夫人のすみ花ちゃんはもお、「うまい」なと。
 そんなの今にはじまったことじゃないけど。
 メルトゥイユ夫人にこんだけ泣かされるとは思ってなかった。
 『仮面のロマネスク』という話も、メルトゥイユ夫人の性格もわかって観ているわけですよ。だから最初からネタバレ上等っていうか、彼女の孤独な闘いがわかっているわけですよ。
 その上で、あの冷たい悪女っぷりを、そこかしこに現れる心の揺らぎや焦りを見せられると、すげー切ない。
 ラストの独白なんかもお、彼女と一緒に大泣きですよ。や、メルトゥイユ夫人は泣いてないけど、彼女の心の声に同調して。
 ののすみが泣くと世界が泣くんだもん。

 トゥールベル夫人は、実に好みだ。
 えりちゃんの役の中で過去最高に、演じているえりちゃんが好みだ(笑)。あの泣きそうな顔がたまらん。
 観ながら、トゥールベル夫人がうらやましくてならなかった。もしもこの作品中の誰かに代われるなら、トゥールベル夫人がいい。で、ゆーひさんに口説かれて「だめよだめよ」って言いたい。逃げて、追われたい(笑)。
 すっしーに姫抱っこもしてもらいたい。←
 トゥールベル夫人の持つ「暗さ」が、ヴァルモンと同色なのがいい。このふたりは両思いにならない方がいい、絶対ろくなことにならない、と思わせるとこが。

 ほんとに楽しかった、新しい『仮面のロマネスク』。
 『復活 -恋が終わり、愛が残った-』『カノン』千秋楽、卒業する子たちを眺めながらの過去語り、続き。
 年寄りはいつだって未来より過去にこだわるものさ。


 姫花をはじめて認識したのが、『TUXEDO JAZZ』の黄色いドレスの女の子、だったよ。
 まっつと踊っているあの美少女は誰?!って。

 美貌だけにワクテカし、次の『アデュー・マルセイユ』の新公で役が付いているのでどんな芝居をする子なんだろう?!とさらに期待し、実際に見てみて椅子から落ちた、のも、いい思い出(笑)。

 『蒼いくちづけ』の衝撃の大根ぶり……演技以前の問題だろうそれは?!と、歴史に残る破壊っぷりに、人々の関心をさらったのは、つい昨日のこと。
「『蒼いくちづけ』どうたった? って聞くと、みんな『姫花がすごかった』としか答えない……」と、作品も他のキャストも、全部全部ぶっ飛ばしたもんなあ……あれほどの破壊力は、20年そこそこの観劇歴で姫花だけだ。

 もうこれは才能の域だから、『BUND/NEON 上海』や『小さな花がひらいた』みたいに適性を活かした使い方をしてほしいと願った、天は二物を与えなかった、絶世の美少女、姫花。
 ……ラストはいい役だったね。


 いまっちは入団前のイベントから、見てる。文化祭も見てる。彼の名が組ファンにとどろき渡った『蒼いくちづけ』も見てる。

 そしてなにより、彼の実力を示したのはスカイフェアリーズだと思う。

 下級生が「若いから」を言い訳に、初々しさだけでつたない姿を見せるのが当時のスカフェだったのに、エンターティナーとはなんたるべきかを、いまっちが示した。
 スカフェがなくなり、ナビゲーターズに代わったのは、いまっちの功罪じゃないかと、マジに思う。入団間もない下級生では、まず、真瀬はるかになれないもの。中堅どころを投入しないと。
 友人たちから伝え聞く、お茶会での様子などから、「男役」というファンタジーをしっかり理解し、プロ意識を持って「タカラジェンヌ」を作っていた印象。

 だから、こんなに早く辞めてしまうのは、心から残念だ。
 そして、こんな逸材を早々に手放してしまう、劇団をバカだと心から思う。
 将来トップになるかどうかは置いておいて、新公主演させるべきだったのに。
 ベニーのように、セルフプロデュースできるジェンヌが支持される時代、いまっちは花組に流れる停滞感を打破できるキャラクタだったのに。


 卒業していく彼らにも、郷愁がわき上がるが。
 さらにもうひとつ、今回の公演、ショーにて画面にとまどったんだ。

 まとぶんがいない、画面に。

 不在、はショーの方が大きいんだな。
 改めて思った。

 蘭寿さんに含みはなく、ただ、愛着のある姿が「ここにいない」ことに切なくなった。
 なまじ、周囲の顔ぶれは同じだ。よくあるトップの代替わりなら、周りの番手も上がっているので景色も変わる、ああこれが新しい時代なんだな、と思える。
 だが、今回はまとぶん時代と顔ぶれが同じ。2番手も3番手も、娘役も。ただ、真ん中の人だけが違っている。
 そこに喪失を感じて、切なくなった。

 きれいに作られたジグソーパズルの、真ん中の1ピースだけが別の物に変わっている感じ。落下傘って、こういうことなんだ。
 や、わたしはらんとむが花組だったときから花組を見ていたので、落下傘ではないことを知っているけれど、この1ピースだけ別モノに変わっている、という状況は、落下傘人事を如実に表しているなと。

 前回の本公演は一本モノの芝居だったので、あまり感じなかった。
 芝居はなんつっても梅芸や全ツなど、主演が違っていたり別の顔ぶれで上演したりするので、あまり気にならないのな。
 それと同じ理屈で、全ツでショー作品を観ても、花組フルメンバーじゃないため、特にナニも思わなかった。えりたん・みわっちがいないショーは、別箱感高まるわ。

 本公演、大劇場でのショーは、あくまでもトップスターを頂点としたピラミッドでのみ行われるので、変化がばーんとわかりやすい。

 まとぶん時代をあまりにたくさん眺め過ぎていたから。

 わたし、まとぶん好きだったのかあ、と改めて気づかされたり。
 や、好きだったけどね。でも、自分で思っている以上に、愛着があったようだ。

 そして、わたしのよく知る画面でナイことへのとまどいもまた、アルバムを眺めているからなんだな。
 過ぎ去った過去が、よみがえる。
 悲しいことやつらいことがあったとしても、あとからこうして振り返れば、どれもこれも、ただ美しく、愛しい思い出だ。

 変わってゆく、流れてゆく。
 わたしの人生が止まらないように、タカラヅカも止まらない。

 それがいい悪いではなく、感傷的になる。


 卒業する彼らも、花園に留まり続ける人々も、みんなみんな、しあわせであることを願う。

< 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 >

 

日記内を検索