しつこく全ツ『ロック・オン!』の話。

 新場面は『Dancing Heroes!』から紳士の館と、『Heat on Beat!』からラテンメドレー+オリジナルのラテン場面。

 単に、三木せんせが直近で作ったショー作品である、というだけのチョイス。
 それぞれ退団公演で、ファンが大切にしている作品だということは、一切考慮無し。

 
 紳士の館は、そのかバウで観たときも相当微妙だった。
 「男役」がやるべき場面で、「男装した女の子」がやると、直視できないいたたまれなさがある。
 そのかと下級生たちの断絶感がものすごく、2番手格のとしくんですらまったく足りていなくて、観ていて途方に暮れた。

 当時も本公演でやってくれと、心底切望した。
 どこの組でもイイ、本公演ならば「男役」だけでまかなえるはず。
 ゆーひ、らんとむ、みっちゃん、ともちん、まさこ、みーちー大、カチャで、とか。
 まとぶん、えりたん、みわっち、めおみつ、まぁだい、あきら、まよで、とか。
 今年1月の布陣で考えましたよ。
 実際に、こんなにすぐ使い回しされるとは思ってないから、本気にしていたわけではなく、イメージとして。

 そのかバウと同じことになるなんて、なあ。
 つまり、男役スキルが足りていない下級生たちがホモやっても、背徳感より、トホホ感が満ちる。

 また、こーゆー耽美場面は全国ツアー向きではないと思うんだ。
 善良な各地方の年配の方々に、ホモを見せてどーするんだっていう。

 いや、中には耽美場面を観て、なにかしら目覚める人もいるかもしれない。
 今コレを書いている時点で四日市公演を観劇済みなわけだが、「ショーは喋って良いもの」と思い込んでいる地元のおばあちゃまたちご一行が、わたしの後ろの席でずーっとなにかしら観たままの感想を喋り続けていたんだけど、ホモの館だけはしーんと静まりかえっていた(笑)。や、理解できなくて沈黙していたのかもだけど、わかんないわ、とすら言わなかったもの。んで、ホモが終わるなりまた、ぴーちくさえずり出した。
 茶の間感覚のおばーちゃまたち、ナニかに目覚めたかもしれない(笑)。

 でもま、ふつーはびびるんぢゃね?
 女が男を演じているだけでもアレなのに、その上ホモって、キモチをどこへ持っていけばいいのかって。

 それでもあえて耽美をやるなら、それこそ本気で「耽美」にしてくれよ。
 男役として磨き抜かれた人たちでやってよ。
 ファンしか観ない、おこちゃまたちの成長をあたたかく見守ることが前提のバウホールぢゃないんだよ。
 男役10年という言葉は伊達じゃない。下級生には難しいことがあるんだ。誰にでも簡単にできるものじゃない。だからこそ「タカラヅカ」は素晴らしいところなんだ。

 1ヶ月を通して下級生たちの成長はたしかに目に見えたけれど、それでもやはり、任でないのはどうしようもなかった。
 いやその、長の期のふたりだって、最後までまともにキスシーンできなかったくらいだしね……下級生をどうこう言える立場ぢゃないけどさあ(笑)。

 
 後半のラテン部分は、中詰め+中詰めになり、構成として破綻していることは、すでに書いた。
 安直に『Heat on Beat!』から持ってきた「クンバンチェロ」「ベサメムーチョ」もどうかと思うが、いちばん残念なのはそのあとだなあ。

 けっこう長い場面なのに、ずーっと同じ面子がずーっと同じ舞台でずーっと踊り続ける。
 全ツなので、セリや銀橋がないため、単調な画面。

 途方に暮れたような盛り下がり方が痛々しかった、ってのは、初日の感想に書いた通り。

 川崎悦子せんせの振付好きなんだけど、彼女は耽美は得意でも発散系のラテンは苦手なのかな。
 「NOW ON STAGE」で新場面の振付も「月の王」と同じ川崎せんせだとキムくんが言っていて、わくわくしてたんだけどなあ。

 前日欄で書いた通り、このあたりはまったくもって「イベントショー作品」の形式で作られてるんだよね。
 だから構成に工夫ナシ。
 それならイベントショー作品らしく、出演者でメリハリ付ければいいのに、それすらしていない。

 つまり、一旦出演者総出のにぎやかな場面になったら、次の瞬間他のみんなはさーっといなくなって、キムみみだけ残り、ふたりでデュエットダンスするとか。
 コーラス隊は後ろに残っててもいいから、とにかく舞台上の人数を整理する。
 キムみみデュエダンだけ明らかに曲調を変え、ドラマティックにずどんと印象づけて、そしてまたみんなわーっと登場、総踊りでさっきの曲に戻る。
 これくらいメリハリ付けてよ、変化出してよ。
 何分あったか知らないけど、とにかく長すぎだよ、同じ面子で同じダンス。しかも選曲と振付微妙ときたもんだ。

 みみちゃんはせっかくタコ足付きダルマ姿なのに、コーラス隊のさらに後ろにいるだけで、そこにトップ娘役がいるなんて全ツの観客はまず気付いていない。

 くわえて、このダルマ姿っつーのが、みみちゃんの魅力を発揮する衣装ではないんだな。
 なんでもっと、彼女に似合う衣装を着せてあげないんだろう。
 似合わない衣装を着せて、あまり見えないところで踊らせるとか、なんのいじめよ。

 いちばん長いシーンがいちばん変化がなくてつまらなかった、というは、痛い。
 しかも中詰めのあと、クライマックスのメイン場面がコレだもの。ヅカヲタであるほどショーのテンプレ構成はカラダに染みついているから、悪い方ではずされるとショー全体への印象が悪くなる。

 
 元祖『ロック・オン!』の良い場面を捨てて、良くなかった場面を残した、その取捨選択ぶりに疑問を持った……てことも、すでに書いた。
 良い悪いは主観でしかないので、「月の王」はつまらない場面だったからなくしてヨシ、反対にピアノは超名場面だったので残して当然、と思う人だっているかもしれない。
 水くんのためにあった「月の王」が削られたことに文句はない。
 ただ、ピアノはなあ。キムくんがやっているときも相当微妙で、次期トップの彼の見せ場がこんな場面のみなのかと、当時苦く思ったもんです。
 体力的につらそうなわりに、観ていてカタルシスも爽快感もないなあと。

 それを今回、咲ちゃんがやっていて。
 
 初日初回に観て良かったと、心から思いました。
 客席の空気が、すごかった。
 組ファンが多く締めた場であるだけに、咲ちゃんの後ろで踊るひろみ、コマ、がおり……そんな姿を見せられて、しーんとした客席。拍手も起こらないまま、淡々と進む舞台。
 ドン引きした空気ってのはこーゆーのをいうんだ、と肌で感じる体験でした。

 回を重ねれば、客席も慣れるのでそこまで引かないんだけど、最初はねー……。
 劇団もプロデュース下手だよなあ。
 まあとにかく、咲ちゃんが伸びてくれることを祈る。劇団がここまでやってるんだもん、せめてきれいになってくれ~~。きれいなら許されるよ、タカラヅカだし(笑)。

 
 ほんとに、いびつなショーですわ、『ロック・オン!』。
 構成もだし、人の使い方も(笑)。

 それでも、贔屓と贔屓組の、大切な作品。
 文句言いつつ、抱きしめるのよ。
 全ツ『ロック・オン!』の駄作っぷりは、演出家の手抜き感に充ち満ちていることにある。

 もちろんソレは、水くん版『ロック・オン!』に、既存のミキティ作品の一部を切り貼りしただけ、という安直さが直接の理由だ。
 ただの切り貼りではなく、センスや思いやりに欠ける手法だったことも、作品クオリティとそれを観た人間のテンションを下げる効果となっている。

 ……てなことはすでに語ったので、別の話をする。

 今回のテーマは、大劇場ショー作品と、『タカラヅカスペシャル』等のイベントショー作品の違いってなんだろう? ってことです。

 全ツ版『ロック・オン!』が駄作なのは、イベントショー作品の手法で作られているからだと思うんだ。

 
 大劇場のショーは、場面場面につながりがなく、ラテンやって歌謡曲やってドレスと燕尾の舞踏会やって……と、一見バラバラに見えたとしても、骨組みのところではしっかりジョイントされている。
 全体でのまとまりというか、起承転結。
 オープニングがあって、まずひとつめのネタがあって、ふたつめのネタがあって、派手な中詰めがあって、そのあとに作品の中核となるいちばん力の入った場面があり、息抜き的軽い場面が入り、ロケットからフィナーレ、大階段パレードになる。
 たまに変則的なモノもあるし、軽い場面が前後することはあるけれど、大体この流れは守られている。
 人間の生理に合うんだろう、この流れ、メリハリが。
 タカラヅカのショー作品は、長い時間を掛けてたくさんの作品を通して、このカタチに行きついたんだと思う。

 わたしがもしもショー作品を作るとしても、まずこのテンプレートに流し込むと思うよ。
 「これをやりたい!」と思う、いちばんメインの場面をまず中詰めの後ろにセットして、ソレが活きるタイトルと全体テーマを考え、それに合わせてオープニングと中詰め、フィナーレを考える。
 これで骨組みは出来た。
 あとはその間を、全体のメリハリを考えて埋める。

 オープニングと中詰めとフィナーレは純粋に「ショー」というか、歌とダンスでがんがんに盛り上げ、出演者全員で本舞台から銀橋から全部使ってずらりと並んで、華やかに手拍子されて全体で盛り上がるところだ。
 これはもう鉄板。この3箇所で芝居仕立てにするわけにもいかない。絶対に、ショー場面。
 ならば、このみんなで手拍子して盛り上がって、それがばんっと終わった中詰め、その次の場面は、がらっとカラーを変えて、中身のあるモノになるだろう、メリハリ的に。
 それが、メイン場面。
 中詰めのあとには、ストーリー性や、テーマ性のあるモノがくる。構成的に、ひとの生理として。
 メドレーとかで表層のみ感覚のみで盛り上がった中詰めのあとに、同じようにただ流れていくだけのモノが続くと、盛り上がりに欠けてしまう。 
 メイン場面は濃ゆい、凝った場面になる。
 本家『ロック・オン!』でいうと、「月の王」だな。

 大劇場用のショー作品だと、純粋なショー部分、歌い継ぎや総揃いダンスなどの場面の間に、ストーリー性のある場面が入る。
 ひとつの場面だけで起承転結があるような。カタルシスがあるような。
 ショー・芝居・ショー・芝居・ショー、というように、「ショー作品」の中にチガウ色のモノが交互に差し込んである。
 ひとりの女をふたりの男が取り合って、女が刺されてしまう、とかゆー、よくあるモチーフも、そうやってショーの中で「芝居」パートとして使われている。
 旅人がどこかの世界へ迷い込み女と出会い、男と戦い、結局はそこをあとにしてひとりまた立ち去る、とか。昔の恋人と再会し、追憶の中で戯れ、現実に追いつかれ、昔の恋人にはすでに別の生活があり、男はひとり去っていく、とか。
 ワンパターンだけど、なにかしら繰り返されてきた、物語。ああいうやつが、歌やダンスだけ場面の間に、絶対差し込まれている。
 それを、総踊り基本のオープニングと中詰めの間に、画面や絵面、登場する人数顔ぶれを変えて工夫して、メリハリを付けるわけだ。

 
 ソレとは反対に、イベントショー作品は基本、芝居部分はない。
 公演パロを入れることになっている『タカラヅカスペシャル』第1部とかじゃなく、歌謡ショー形式になっている第2部の方ね。
 作品全部がメドレーみたいなもんだ。
 使う曲と出演者とその力関係だけ考慮して、あとは全部同じテンション。
 トップスターはひとりで1曲歌うけど、その他大勢は4人口とかでワンフレーズずつ歌い継ぎ。
 メリハリは演出で付けるのではなく、スターの格でつける。
 若者たちが大勢で歌ったあとに、どーんとスター様がひとりで歌ったりする、それがメリハリ。
 やってることはただ1曲歌うという、誰もが同じ、どの場面も同じ。

 
 全ツ『ロック・オン!』の失敗は、大劇場ショー作品なのに、イベントショー作品の形式で作られたこと。

 前述の通り、大劇場ショー作品は、オープニングと中詰めとフィナーレは純粋に「ショー」部分だ。だからこの3箇所以外のところには、ストーリー性のある濃い場面を置く必要がある。
 本家『ロック・オン!』は正しくそう作られていた。オープニングのあとはピアノとオペラ座という、ストーリーのある場面があり、ギャングでジャズな中詰めはワンモアタイムで盛り上がり、息抜きイベントのラテンorブルースバージョンの短いショー場面、それからメインである「月の王」、ロケットからフィナーレへ。

 しかし全ツ『ロック・オン!』は。
 ストーリーのある場面が3分の1で終了。残り3分の2が、全部中詰めとフィナーレだった。

 ギャングでジャズな中詰めはワンモアタイムで盛り上がり、次はストーリーのある濃ゆいメインにいくはずが、メインがなかった。
 手抜きミキティがてきとーに詰め込んだのは、『Heat on Beat!』の中詰めメドレーだった。

 ジャズの中詰めメドレーのあとに、ラテン中詰めメドレー。

 だらだらと続く、中詰め。
 やたらたくさん人が出て、手拍子をさせたまま何場面、何十分。

 中詰めとフィナーレは、その間にじっくりとしたメイン場面があるからこそ、盛り上がるんだ。
 手拍子不要、黙って集中する場面があるからこそ、ぱーっと明るいお祭り場面で手拍子するんだ。
 半ばからロケット終了まで、ほとんどの場面手拍子強要演出って、ナニそれありえない。

 ショー部分だけつないで、短い歌と短いダンスでメドレーしていいのは、イベント公演だけだよ。
 出演しているのがトップクラスの人たちだから許されるんであって、組をふたつに割った全国ツアー、本公演なら単独でお金取れるレベルじゃない若手が有象無象の舞台で、やっていい演出じゃない。

 盛り上がらないのは、演出のせい。

 たとえば『タカラヅカスペシャル2010』第1部のパロディ部分以外と、第2部を、まんま組をふたつに割った全国ツアーでやってみるといいよ。どこの組でも盛り下がること必至だから。
 どの場面もただ人が出てきて、歌って去っていくだけ、出てくる人数と歌う長さがチガウだけ、その繰り返し。

 
 公演に合わせた演出、形式ってものがあるんだ。当然じゃないか。
 それをせずに、ショー・芝居・ショー・ショー・ショー・ショーという構成で『ロック・オン!』という作品を盛り下げまくったミキティは、ひどい演出家だなと。
 こっそり書いておくかな、全ツ『ロック・オン!』の駄作っぷりについて(笑)。

 初日に観てそのダメダメっぷりにびっくりして、なんじゃこりゃあ、と口を開けた。
 でもそれはきっと初日だから、見慣れたら平気になる部分や、楽しくなってくる部分があると思ったの。

 しかし、駄作は駄作だねっ(笑)。慣れるとかそんなもんぢゃないわ。
 わたしの中でミキティ株が地に落ちましたよいやはや。

 再演だからは言い訳にならない。
 手抜きした結果の失敗に思える。

 複数作品から場面を切り貼りして作った、その取捨選択を間違えている、つーことは、以前に書いた。

 ソレにくわえ、やっぱどーしても納得できないのは、トップ娘役の使い方だ。

 元作品がトップスター退団作品だから、男トップの比重ハンパねえのは仕方ない。しかし、今回はそうじゃない。みみちゃんの娘役トップのお披露目作品でもある。
 なのに、彼女の活躍の場が皆無だなんて、いくらなんでもおかしい。

 みなこちゃんがヒロインとしてがっつり活躍したオペラ座場面をカットして、ホモの館にしちゃったんだよ。
 だから、元作品より娘トップの活躍の場が減らされてるの。

 もうひとつ差し替えになった場面は、たしかにみみちゃん出ているけれど、脇の女の子のひとりとして、舞台奥の下級生が踊る位置に少しの間いるだけ。お披露目の女の子にそんな位置で目立てと言われても、まず無理。

 階段前でのデュエットダンスもないし、なんなのこの扱い。

 タカラヅカはいろんな大人の事情の絡む劇団だから、ジェンヌの出番はポジションや実力、人気と比例しない。それはわかっている。
 だけど、客は「タカラヅカ」を観に来ている。
 トップスターが大きな羽根を背負うのと同じように、トップコンビの活躍も期待しているんだ。
 王子様とお姫様がくるくる歌い踊る、そーゆーものが「タカラヅカ」だと、全国ツアーならばなおさら客は、漠然と期待しているだろうに。

 大人の事情でみみちゃんの見せ場をゼロにした、というより、演出家がナニも考えていなかったように見えるんですが。
 見せ場を作っちゃいけない、脇役と同じ扱いをしなきゃいけない女の子を、わざわざトップにするとは思えないので、三木せんせが馬鹿なんぢゃないの、と思いました。わたしは。

 それともこれは、三木せんせの確固たる意志というか、新しい試み、芸風でしょうか。
 2009年『Heat on Beat!』、2010年『Heat on Beat!』中日、『ロック・オン!』、2011年『Dancing Heroes!』、『ロック・オン!』全ツと、近年の作品全部娘役トップスター無し、男役2番手無し作品しか作っていない。
 トップスター至上主義。主役ひとりが出ずっぱりで活躍、ヒロインもいなければ、2番手もいない。
 ディナーショーやコンサート方式というか。

 タカラヅカの「タカラヅカ」たる部分を否定するのが、ミキティの目的?

 主役ひとり出ずっぱりであとはバックダンサーってのは、外部ならふつーのこと。主役のステージのために、他のキャストは集められるわけだから。
 トップコンビがいて2番手がいて、ってのは同じメンバーで公演を行うタカラヅカならではの形態。
 三木せんせはもう、「タカラヅカ」を作る気がないのだろうか。

 『Heat on Beat!』のいびつさは、トップ娘役が公式に不在である、というイレギュラー事態だから、仕方ないのかと思っていた。
 しかし、ちゃんとトップ娘役のいる『ロック・オン!』も、『Heat on Beat!』と同じ作りでデュエダンもなかったし、さらにトップコンビお披露目だった中日『Heat on Beat!』でもトップ娘役がトップスターの前に階段を降りないなど、「トップ娘役否定」があった。
 バウ作品の『Dancing Heroes!』は主演のそのか以外はスター無しという構成だったので、大劇作品と同等には語れないが、特徴は同じだ、ヒロイン無し、強い2番手も無し。

 「タカラヅカ」を否定するなら、タカラヅカにいてくれなくていいんだけどなあ。

 あさこちゃんの『Heat on Beat!』単体のときは、良いショーだとわくわくしたのに。トップ娘役いないから、主役ひとりしか見せ場のないワンマンショー(あとは退団者やきりやん以下スターで見せ場を分担、平坦化)でもアリだと思ったし。
 しかし、それ以降、すべての作品が同じことになるとわ。

 わたしは「タカラヅカ」が観たいのだと、しみじみ思った。
 「タカラヅカ」という方法論で作られたショーが観たいのだと。

 トップコンビがいて2番手がいる、美しいピラミッドになった「タカラヅカ」。

 
 三木せんせに「タカラヅカ」否定という強い意志がなく、ただなんとなくこんなモノを作っているのだとしたら、そりゃもう仕事態度の問題で、やる気ナイなら帰ってくれてイイよな気分だ。

 今回の全ツ『ロック・オン!』は、大劇場のショー作品としての形式で作られていない。
 ディナーショー、あるいは、『タカラヅカスペシャル』などのイベントショーの形式だ。

 まちがった形式で作られているのは、単に手を抜いたからでしょう。
 簡単な方を選んだ。
 努力することを放棄した。
 本公演では許されないけど、全国ツアーだからいいや。劇団のおえらいさんや業界のうるさ方も観に来ないし、田舎のおっちゃんおばちゃんに見せるモンなんぞ、真面目に作ってられるか、手抜きして当然。
 そーゆーキモチで作ったのかしら。

 ……なーんてことを邪推されるレベルの作品を作っちゃう人なんだわ、と心と記録に残します(笑)。
「キムくんの、はじめてのショーだから」

 と、友人に言われて、一瞬なんのことかわかりませんでした。

「だから、キムくんがトップに就任して、はじめてのショー作品。お披露目の『ロミオとジュリエット』は一本モノだったから」

 全ツ『ロック・オン!』は、音月桂はじめての、ショー主演作品。

 知らなかった。

 キムくん、ショー主演はじめてだったのかっ!!

 いやその、考えてみたら当たり前のことなんですよ。
 ふつーショーっていうのは大劇場か、それに準じるクラスの箱でしかしません。博多座とか中日劇場とか、あるいは全国ツアーとか。
 でもって、本拠地宝塚大劇場や、宝塚歌劇団の名前を背負って各地方で公演する場合は、トップスターが座長を務めるもんです。
 バウホールやドラマシティという、関連劇場とはチガウんだから。

 ふつーのタカラジェンヌは、トップスターになるまで、ショーでの主演を経験しません。
 せいぜいディナーショーで疑似体験するくらい。

 ショーの新人公演は21世紀になってからこの間の『ノバ・ボサ・ノバ』までやってなかったわけだし、2番手としてある程度の期間を過ごせ、かつ劇団推しのスターならコンサートを任されるが、キムくんは2番手時代はほぼなかったよーなもんだし(2番手だったの、5ヶ月のみって……)。
 キムがショーの経験がなくても、不思議はない。

 当たり前のことなのに、何故かわたしはわかってなかった。
 忘れてた、ではなく、知らなかった。

 考えたこともなかったので、知らなかった。

 キムってはじめて、ショーで主演してるんだー。へえー。

 何故だろう。
 わたしはすっかり思い込んでいたよ。

 音月桂が、ショーで主演するのは当たり前だって。

 トップだから主演するのではなく、音月桂だから主演する。
 わたしにとってキムくんは、トップになるのが宿命付けられた人。真ん中で輝くために生まれた人。
 だから彼が真ん中に立っている今は、『ロック・オン!』は、太陽が東から昇るくらいふつーのことなので、考えなかったんだ。

 ……うわーん、なんでわかってなかったんだろう。
 キムくんがショーはじめてなんだって、わかっていたならわたし、初日にもっと感動したのに! 感慨深かったろうし、「ちゃんと真ん中できるのかしら」とかハラハラしただろうに!
 ……最後のは嘘です、別にハラハラしません(笑)。だってキムくんは真ん中に立つために生まれた人だから(笑)。

 2003年の『レ・コラージュ』ですでに、トップ娘役の相手役として、ショーで1場面務めていたんだもんなー。違和感ないよそりゃ。
 以来8年間、あったりまえにセンターとかカーテン前とか銀橋とか、とにかく「将来トップスターになる」ためのスキルを磨いてきたんだもんな。
 芝居では2001年の『猛き黄金の国』新公主演からはじまり、2002年の『ホップスコッチ』バウ主演と、以来10年間、あったりまえに「主役」やり続けてきたんだもんな。
 どんだけど真ん中だけのサラブレッド人生。

 はじめてだとまったく気付かなかったくらい、キムくんはふつーに「真ん中」でした、「主演」でした、『ロック・オン!』。

 いきなりライト点いて、舞台にただひとり立っていて、すぐに客席降りして観客煽って。
 ……はじめてだったのか。初心者だったのか。
 オープニングが終わったら、次はいきなり客席登場で、お客さん一本釣りして手にちゅーだの髪撫でだのして通路練り歩いて。
 ……はじめてだったのか。初心者だったのか。
 舞台に戻ればホモの役で、エロのエの字もない下級生たちを喰う演技しなくちゃならなくて、そりゃひろみちゃんはいい仕事してるしコマとがおりはなんとか様になってるけど、あとの子たちはモゴモゴ……しかもエロホモ対決のラスボスはまっつだし、アレ相手にガチホモやれってそんな無体な……!って感じだし。
 ……はじめてだったのか。初心者だったのか。

 どんだけハードル高いん?! 考えてみれば!!

 キムくん、すごいな。
 よくやったな。
 
 ものすごくプレッシャーだったろうなあ。
 ぜんっぜん、気付かなかったけど。

 
 真ん中に立つキム。
 ショーで主演するキム。

 当たり前だと思う……思われてしまうことが、彼のネックなんだろう。
 なにしろ抜てきされてから10年超えだからねええ。年季の入ったヅカヲタほど、彼には見飽きた感を持つだろう。抜てきからトップ就任までが長すぎた。
 わたし個人の見解では、2005年あたりでトップになってくれてても、違和感なかったもん、キムくんは。どこの組でどのスターの間に入れたのよ、という話ではなく、彼の成熟度からして。
 そりゃジャンルイ@『銀の狼』はきびしかったかもしれないが(笑)、おっさん役できなくてもトップはできるし。『さすらいの果てに』で壮くんとの実力差とスター力の差を見せつけてくれたことで、舌を巻いたもんよ。(えりたんは成熟するのに時間がかかるタイプらしい。花組に戻ってから花開いた印象)

 主演作や主演場面は増えていくけれど、トップにはなかなかなれずに、抜てきから10年。
 回り道した分、いろんなキムくんを見られた。
 良かったんだと思おう。

 キムの中に、トド様やコム姫や水くん、歴代雪組トップスターの姿が垣間見える。
 こうしてDNAは受け継がれていく。

 あまりに自然で、気付かなかった。
 キムが雪組を継ぐということ。わたしが愛し、見守っていた時代を、彼の中に見、彼の背中を見て育つ下級生たちの中にも見つけることなんだ。

 そんなことを、改めて思った。
 気付いた。

 
 初日から、わかっていれば良かったのに。
 『ロック・オン!』が、キムくんのはじめてのショー主演作品なんだって。

 惜しいことをした。
 査問委員会の恥ずかしさはなんだろう。

査問官「ベロゴールスクで反乱軍に襲われたとき、ひとりだけ何故助かったかはわかった、そーゆーことにしておいてやる」

 え、なにがわかったの? ニコライ@キム、なにをどう申し開きしたの?
 プガチョフ@まっつが君にでれでれだったから助けてもらえたんだって言ったの?
 と、ここでまず恥ずかしさにうきゃーっとなる。って、最初やがな!

 昔ウサギの外套をあげたことをプガチョフが恩に着ていて、それで命を助けてくれたんだと証言したんだとは思う。
 でも、そんなことを査問官が本気にするんだろうか?
 金銭的な問題ではなく、そこにナニか裏の事情、ニコライが語っていないナニかを勘ぐって、とりあえず「それはそーゆーことにしておく」ってやつで、さらに同じことを示す別の質問につなげただけだよね。

査問官「不可解なのはオレンブルグの連隊に所属していた者が、何故ひとりで反乱軍の本陣へ行ったかということだ。詳しく述べてみろ」

ニコライ「…………(マーシャの名前を出すとやばい。彼女がコサックであることがわかれば、今度は彼女がスパイだと思われる。言えない)」

査問官「お前が反乱軍の陣営からプガチョフと仲良くソリに乗り、ベロゴールスクの要塞まで行ったことはわかっている。証人だっているぞ」

 ちょ……っ。
 仲良くって、今、仲良くって言ったっ。査問会で、査問官が言う言葉なの、仲良くって。

査問官「それでもプガチョフから放たれたスパイでないと言い張るのか」
ニコライ「絶対に違います。プガチョフとの個人的な関わりのことは先ほど申しました。それ以上の密接なつながりは……」

 個人的な関わり? 密接なつながり?
 えーっとコレって、なんの裁判だっけ?

 ニコライのスパイ容疑……というより、愛人容疑?

証人シヴァーブリン「ニコライはプガチョフの命令でスパイとしてオレンブルグに派遣され、政府軍の情報を知らせる任務に就いていました。そしてさらに! 公然とプガチョフのそばについて、あちこちの要塞を乗り回してましたっ」

 そしてさらに!で声を張り上げるシヴァ@コマ。
 公然とプガチョフのそばについて。
 公然と。みんなの前で。隠しもせず。堂々と。

 えーと。

査問官「ニコライくん、こんな行動を取っていてスパイじゃないと言うのか。スパイじゃないなら、なんなんだ」

 誘導尋問。
 スパイだとわかったら極刑だ。
 死にたくなかったら、本当のことを言え。

 もういいじゃん、言っちゃえよ。君さ、プガチョフの恋人だったんだろ?
 スパイだったら、プガチョフとふたりでソリに乗ってあちこちの要塞へ行くとか変じゃん。なんで皇帝と一スパイが他の兵たちの目の前で、公然とふたりで過ごしてるんだよ。
 デートしてただけだろ?
 言いたくない気持ちはわかるけどさー、こんだけ証拠挙がってるんだから、もう認めちゃいなよ。
 このままじゃスパイだってことになっちゃうよ?
 ほんとのこと言いなよー。

 ……という流れに見えて、恥ずかしくてなりません、査問委員会。

 ニコライくんだけが「マーシャがスパイだと疑われる」と、ひとりで勝手に苦悩してますが、いや、査問官の目的はソコぢゃないから!と、言いたくなる(笑)。
 プガチョフとの個人的な感情、関わりを聞きたがってんじゃん、査問官。
 プガチョフとの個人的な感情、関わりを力説してんじゃん、証人。

 ナニこれ恥ずかしい!(笑)
 痴情のもつれ裁判。

「ボクは浮気なんてしてない」
「嘘をつくな。愛人と仲良くデートしていただろう。証人もいるぞ」
「ニコライくんはプガチョフくんとデートしてました。みんな知ってます、公然の秘密でしたから」
「これでもシラを切るのか」
「ボクは無実だ!」

 ……楽しいなあ、『黒い瞳』

 軍事裁判の中、「仲良く」なんて感情論・個人の主観が証拠として罷り通っているあたりがもお、ダメダメっぽくて、いらん妄想をかきたてます(笑)。
 突然ですが、まっつの話。

 わたしは未だに、まっつのキスシーンを見たことがありません。
 わたしがまっつオチしたのが2005年。彼が新公主演したのが2004年。
 その1年の差ゆえに、見てないんです。

 や、新公は観ています。『天使の季節』も『La Esperanza』もナマで観た。当時もわたしは無邪気にまっつまっつ言って、「まっつファン」だと臆面もなく言ってました。
 「ご贔屓」は別にいたので、あとは好きな人たちみーんな「ファン」表記。まっつファンで水ファンでトウコファンでたかちゃんファンで……と、いくらでも言ってました。
 そのあたりの感覚で観ただけなの、まっつ新公主演。
 当時はまっつご贔屓じゃなかったから、ただ好きだってだけでふつーに見ちゃったんだもの。

 そして愛の劇団タカラヅカは、路線スター様でないとラヴシーンがない。
 まっつはバウで2番手やろーと、ドラマシティで2番手やろーと、何故か恋愛しない人でした。
 つまり、ラヴシーンがないっ。

 くそー、まっつのチューしてるところが見てぇよー。
 と、このブログに書いたのが3年前だっけ。中日『メランコリック・ジゴロ』で、いちかちゃんと夫婦役だと知り、「相手役がいるなら、ラヴシーンあるかしら?!」と期待し、結果がっくりと肩を落としたんだった。

 
 この「キスシーン」というのは、あくまでも「芝居」においての、です。
 ちゃんと前後があって人間関係があって台詞があって、結果としてキスに至るやつ。
 ショーでならキスシーンあるもん。まっつじゃなくても、ある程度の学年の人なら。

 ショーじゃなく芝居で見たい……と言いつつも、ショーでももちろん、キスシーンはがっつり眺めますが(笑)。

 
 そう嘆いていたら、組替え後のベンヴォーリオ@『ロミオとジュリエット』では、まさかのキス大安売り。
 常時3人以上の女の子にキスしてまわるという。ほっぺも入れたら、乳母@コマも入るし、ふざけての寸止めも入れたらマーキューシオ@ちぎくんも入るし……と、この5年間の砂漠生活を取り戻す勢いのキス魔ぶり。

 でもこの『ロミジュリ』のキスも、ミュージカル場面だからショーと同じ扱いなんだよねー。
 芝居というよりは、やっぱりショーでのキスだよなあ。全部ダンスの最中にやってるんだもん。

 つーことで、「まっつのキスを見たことナイ」歴は更新中です。

 あ、手にキスなら『MIND TRAVELLER』や『黒い瞳』で見ているわけですが、口はナイよなってことで。

 
 んで、ショーでダンスの振付の一環としてのキスもきれいでいいけれど、物足りないのはソコに至るまでの過程やドラマ、会話がないこともそうですが、もうひとつ、一瞬だから、堪能する暇がないというのもあります。

 お芝居のでのキスは、見つめ合ってゆっくり顔が近付いてゆき……て感じでしょ。
 アレが見たいのよー。

 
 で。
 こっからが、本題。

 「まっつのチューが見たい」と前にブログに書いたとき、ツッコミ担当の友人から「あんな恥ずかしいこと、よく表に書いたね」と言われ、「えっ、恥ずかしいことだったのか?!」と反対に驚いたくらい、恥知らずなわたしです。
 今回もまた書く!(笑)

 まっつのチューが見たいハートが、思ってもみないところで、満たされ……てはいないが、なだめられました。

 雪組全国ツアー『ロック・オン!』、「紳士の館」と表記されたプログラムにおいて。
 アレな趣味の紳士が集まる倶楽部。いわゆるホモの館。

 ここで巴里の紳士A@まっつは、巴里の紳士S@キムくんと、まさかのキスシーンがあります。

 しかしこの同期コンビってば萌えないってゆーか相性いまいちってゆーか、キス、ヘタすぎ。
 踊りながらのキスがそれほど難しいのか、何回観てもキスがキスに見えないというか、うまく顔が重なっていない。
 ここまでうまくできないなら、振付変えてくんないかなー。キムくんがまっつの頬に手を添えてチューにいく、ぐらいしないとうまくいかないんじゃないの??
 と、思ってました。

 ええ、そしてあれは、梅田での最終公演。

 このときもまた、ふたりの気は合わないらしく、キスは大きくズレてました。
 ただのズレ方じゃない。
 顔1個分、ズレてた。
 顔ひとつ、って、ソレすでにキスぢゃない(笑)。

 しかも顔は、上下にズレてた。

 わたしの席からは、キムくんの後ろ頭の真下に、まっつの顔がまるっと全部見えていた。キムくんの唇は、まっつの頭くらいの高さでチューの振りになっていた。

 ズレ過ぎやろ!と、突っ込む暇もなかった。
 何故ならば。

 まっつは、本気でキスの顔をしているからだ。

 本当なら、まっつの顔の真ん前にキムくんの顔が来るので、まっつの顔は見えない。
 が、キムくんかまっつか、どっちがズレたのかわかんないけど、ふたりの顔は重ならなかった。そして、まっつは客席に顔を向けていた。
 そこにあるはずのキムくんの顔がないと、まっつの顔はまんま客席から見えることになる。

 まさかそこにキムくんの唇がないとは思わず、まつださんは、チューの顔してポーズ付けてます!!

 目ぇつぶってんだ、まっつ!!
 や、お化粧でよくわかんないけど、わたしにはそう見えた。

 目をつぶって首をかしげて、キスを待つまっつ。

 お芝居で「見つめ合ってゆっくり顔が近付いてゆき……」てな場合でも、キスの瞬間は角度や手で隠すので、チューしている顔は見えません。席によってナナメから見えるかな、ぐらいで。

 真正面から、チュー顔見える、って、そんなバカな(笑)。

 オペラグラスを落とすかと思いました。
 自分が目にしたモノが信じられなくて。

 ええ、一瞬は一瞬です。
 何故ならキムくんが「しまった!」って感じで、あわててキスを待ってるまっつの顔に、自分で合わせたからです。

 まっつは目をつぶって待ってた。
 キムくんが合わせた。
 ふたりのどっちが間違えたのかはわかんないけど、マイペースだったのはまっつ、合わせたのがキム(笑)。
 ……この同期……(笑)。

 いやあ。
 いいもん見ました。

 何故わたしの目に録画機能がついてないのか、悔しいです。
 マジにキス顔まっつって、しかも真正面から障害物(相手役の頭)ナシって……そんなこと、もう二度とないよなあ。

 それともこのタイミングの合わない同期コンビは、あちこちの地方で、会場で、キスに失敗してたりするのかしら。
 面白いから失敗してくれてもいいのよーそして受顔まっつを見せてくれていいのよー(笑)。

 あえて言おう。キムくん、GJ!!
 ちょ、星組公演のこの大人気ぶりはナニ?! 座席券完売は当たり前、当日140枚発売される当日券すら売りきれるってナニゴト?!

 なんか、なつかしいタカラヅカがそこに。
 以前はこーゆーこともあったよねえ。ここ数年はとんとご無沙汰だったけど。

 と、大盛況がうれしいGW。

 『ノバ・ボサ・ノバ』、役替わり観てきました。

 オーロ@ベニー、面白すぎ。

 なんかもー、膝叩いてツボって、喜んだ。
 彼のダンスがうまいとか、歌が素晴らしいとか、そーゆーことではなくて。いや、うまいかヘタか正直わかんないくらい、とにかくもー、面白かった。

 ベニーはナニやってもベニー。
 なんであんなにいつもイッちゃってる人になるんだろう。
 わかんないけど、とりあえず『ノバ・ボサ・ノバ』という世界観においては、どんだけイッちゃっててもOKだ。

 それが「オーロ」という役として正しいかどうか知らないが、とにかく目につく。
 んで、目についちゃったら最後、離せなくなる(笑)。
 なんか面白い。興味深い。

 面白い、ってのは、武器だよなあ。
 どんだけうまくても退屈な人っているもんなあ。
 ベニーはとにかく面白い。よくわかんないけど、見てしまう。

 そして。

 オーロが、エロい(笑)。

 ごめん、(笑)付き。
 エロいの、オーロ。
 だけどなんかソレすら、面白いの。

 このやたら面白くてエロくてトンデモないオーロが、野生の美女ブリーザ@れみちゃんと絡んだ日にゃあ。

 やだコレ、18禁(笑)。

 ごめん、(笑)付き。
 なんでだろう。エロくてきゃーきゃーで、舞台でそんなことしちゃいけません、清く正しいタカラジェンヌが!的なドキドキ感があって、やばいわーやばいわーって感じにオペラでガン見しちゃうふたりなんだけど。
 それでもなんか、面白い。

 ベニーとれみちゃんって似合うなああ。
 ベニーの面白さと異端ジェンヌっぽさと、れみちゃんの正統派の娘役力ががっつり組み合うと、すてきな相乗効果。

 改めてわたし、ベニー好きだと思った。
 
 
 んで、マール@真風は、えーっと、真面目なマール青年だった。
 あー、いるいる、こーゆー田舎の男の子。純朴でスレてなくて。
 ブリーザがこの男の子で満足するとは思えないので、エロいオーロに走ったのは仕方ないなと。
 そして、真面目であるがゆえにブリーザの心変わりが許せなくて、キレてナイフを出しちゃったんだね。

 ベニーのイッちゃったマールと別人過ぎる……(笑)。

 
 メール夫人@ともみんのはじけっぷり。
 ちょっとおかーさん、ノリノリ過ぎ。娘以上にバカンスあーんどアバンチュール満喫する気満々ですがな。
 おつむとお尻が軽そうなセレブ夫人。
 だけど下品ではなく、かわいらしい。

 でもってともみんはさすがのプロポーション。
 女役だと感じ入るのは、なんといっても腕の長さ。
 男役だと補正入れて肩幅作るから、その分腕が短くなっちゃうんだよね。女役だとその必要がないから、持って生まれた腕をまんま出せる。
 腕長ぇ。きれー。

 今回のエストレーラ@ねねちゃんのドレスにスリットが入り、その脚線美を披露してくれてますが、メール夫人のドレスにもスリットが欲しいと思いました。
 99年版を観ていますが、ちなみにかつての贔屓もメール夫人を演じていますが、メール夫人にスリットを!なんて、そんなことはじめて思った(笑)。
 それくらい、ともみんの女性としてのスタイルは素晴らしいっす。

 
 ソール@れおんくんはますます余裕で舞台の中心、世界の中心を示してくれているし、ねねちゃんはかわいいし。

 『ノバ・ボサ・ノバ』はいいなあ。
 「シナーマン」で背景に鳥がせり上がってくるあたりでもお、胸がわくわくアツくなり過ぎて泣けてくるんだけど!
 好きだーーっ、て気持ちが走り出して。

 いい作品だ。でもって、いいキャストだ。

 
 そして、最後にひとつ。

 れみちゃんの太股が好きだーーっ!!
 『ニジンスキー』の2番手格の役・ディアギレフを演じるヲヅキさんの話。

 ヲヅキはあの身体の大きさと厚みが武器であり、魅力である。
 それは周知のことだと思う。

 そこに長年培ってきた男役としての技術が加わり、テラカッコイイ。
 スーツや燕尾の着こなし、男としての動き。

 小僧っこには出せない、大人の魅力。
 主人公のヴァーツラフくん@ちぎに対し、完全に「大人」であること。それができる男役であるということ。
 それはまったくもって素晴らしい。

 しかし今回、なかなかどーして諸刃の剣だなと思った。

 ディアギレフ@ヲヅキは魅力的である。
 それは彼の外見だけの話ではなく、中身っちゅーか、キャラクタゆえでもあると思う。

 ディアギレフは悪役ではない。
 結果的に敵役となるが、いわゆる「悪」ではない。
 誰よりもヴァーツラフくんを愛している、「もうひとりのヒロイン」だ。

 いや、ヴァーツラフくんがわかりやすく「悲劇のヒロイン」なので、ディアギレフは「もうひとりのダーリン」だ。
 90年代によくあった恋愛ドラマ、富も権力も美貌もなにもかも持ち合わせている強引な男を振って、問題だの障害だのありまくりの優しいだけの男とハッピーエンドになるヒロイン、アレですな。
 ディアギレフは振られる方の男。

 もうひとりのダーリンだから、「どっちのダーリンにしようかしら」と二択になり得るだけの魅力が必要。
 しかし、結果的にヒロインに選ばれないだけの欠点も必要。
 このバランスが難しい。

 で、ヲヅキディアギレフは、このバランスで失敗している気がしたんだ。

 脚本では、ディアギレフはヴァーツラフくんの才能を閉じこめているらしい。ヴァーツラフくんは自由になりたがっている。このままじゃ籠の鳥だと。
 しかしそれはあくまでも、脚本上だけ……つーか、原田せんせの脳内だけ。

 実際には、ディアギレフはヴァーツラフを閉じこめていない。むしろ放し飼いにして、そのくせ危険な目に遭わないように苦労して守っている。
 ヴァーツラフくんは、「うまく飛べないのは鳥籠のせい」と言っているだけに見える。自分の才能のなさとか、努力めんどくせーな気持ちを鳥籠のせいにしている、ような。
 そうやって現実逃避している中2の少年の前に現れたロモラ@あゆっちがまた、ひどい。
 「冴えないふつーの男の子の前に、突然異世界から美少女が現れ、『一緒に来てください、アナタは私たちの世界を救ってくれる伝説の勇者様なんです!』と異世界へGO! 異世界ではなにしろ異世界なので、魔法でも剣でもパーフェクトに使えちゃうスーパーヒーローに!」……てな、中2男子の夢見る世界観まんまの、「ボクが言って欲しいと思っていることを、そのまま言ってくれる女の子」。
 ロモラの言葉はヴァーツラフくんにとっては都合が良いので、気持ちいいこと、楽なことに流れるのは人の生理、努力とか義務とかしんどいことは投げ出して、楽なことに逃げ出した。鳥籠を飛び出したというよりは、自分で作った「誰もボクを傷つけない檻」に自分から逃げ込んだ印象。
 あゆっちの芸風がまた、かわいい外見に反してリアル系だから。より展開がえらいこっちゃに見える。

 原田せんせの意図はチガウんだろうけど、ヴァーツラフくんが天才には見えず、ロモラはご都合主義過ぎて気持ち悪く、ディアギレフが至極まともな人に見えた。

 なので、ヴァーツラフがディアギレフを裏切ったときに、彼の行動を是と思えなかった。

 もっとちゃんとヴァーツラフを「天才」として描き、ディアギレフを「檻」として描いてくれないと。二択の魅力と、選ばれなかっただけの欠点を描いてくれないと。
 脚本演出が悪い。
 それは確か。

 なんだけど、ヲヅキもチガウんじゃないかと思った。

 こーゆー脚本でこーゆー演出で、ヴァーツラフが中2の現実逃避引きこもりくんみたいな描かれ方をしているわけよ、原田くんの限界で。
 それならキャストで正しい方向へ持っていく必要があるんじゃないかと。

 ディアギレフ、いい人過ぎ。

 ヴァーツラフに裏切られたとき、マジ泣きしてるんだもんなー。
 それまでも誠実な愛情がにじみ出てるんだもんなー。
 
 誠実でホットなのはヲヅキさんの芸風であり、魅力であるけれど、それゆえに、そんな素晴らしい人を自分勝手に裏切るヴァーツラフがトンデモな人になってる……。
 仕方ないよね、と思えない……。

 ヴァーツラフくんがアレな描かれ方をしているのはもう仕方ない、変えられないだろうし、ロモラによる誘導尋問や洗脳の気持ち悪さももう変えられないだろう。
 それならあとは、ディアギレフしかない。
 普段からもっと変質的に病的にヴァーツラフくんに執着しているとか、「うわ、この人無理!」と思わせてくれる部分がないと、そこから逃げ出すヴァーツラフくんの分が悪すぎる。
 裏切られたと怒りを爆発させるところも、すげー誠実な人が嘆き悲しんでいるんじゃ困る、ヴァーツラフくんが悪者になってしまう。

 ……しかし、ちぎくん演じるヴァーツラフは歪みなく真面目だし、ヲヅキ演じるディアギレフはホットな善人だし、なんでこの人たちでこんな柄違いの作品やろうなんて思ったんだろう……って、いやその、彼らの美しさゆえでしょう、わかりますそれは! わたしも彼らの美しい姿を見ることが出来て良かった、うれしかった。

 
 脚本と作者の意図した役割と、実際の舞台の上が不協和音。
 それゆえとってもトホホな感じの作品ではあります、『ニジンスキー』。

 と、そんなことを書き連ねておりますが。
 はい、ここで意見をひっくり返します。

 
 それでも、そんなヲヅキが好き。

 苦悩すればするほどその魂の健康さや生真面目さを露呈し、より中2病っぽくなるちぎたさんが愛しいのと同じです。

 物語の流れ的にこれはチガウやろ、と思える、ヲヅキディアギレフのホットさ、誠実さが好き過ぎます(笑)。
 ヴァーツラフくんに裏切られて、目を剥いてぼろぼろ泣いている姿に震撼しました。うわーんこの人、愛しい!

 冷酷な大人として振る舞っているところで醸し出すまともさや誠実さ、「この人絶対イイ人だよね」オーラがたまりません。
 ソコよ、ソコがいいのよ、大好きなのよ。

 身体の厚みと心の厚み。
 そして、暑苦しさ(笑)。
 どんだけクールぶっても醸し出す熱。

 そこが、素敵過ぎる。

 
 『ニジンスキー』はいろいろとアレな作品だと思うけれど、主人公と2番手が、それぞれ自分の持てる「美しい」という力を最大限に発揮できるところがいい。
 それが作品に合っているかどうかではなく(笑)、たとえ合っていなくても、「タカラヅカ」としては正しく力を発揮できる作品だから。発揮していい作品だから。
 実際、彼らの力技ゆえに、この「お約束」だけで出来上がった話が、重厚な話っぽく見えますから!
 薄い話でもいいの、ジェンヌがパワーを発揮できる足場としてさえ成り立っていれば。『ニジンスキー』って、そうだよね。
 
 
 あー、ヲヅキ好きだなー。
 仲間内で『ニジンスキー』の感想を話しているときに、「高校生のあたしが書きそうな話」と解説したら、友人のひとりに「失礼だけど、ほんとに書いてそう(笑)」と言われてしまったのが印象的。……ねえ?(笑)

 『ニジンスキー』の薄っぺらさっつーか軽さっつーか、既視感あふれるお手軽さに「あちゃー」という気がするのは、自分の「通ってきた道」を振り返る気恥ずかしさもあるのかもしれない。
 まあ、「美しいは正義」で、主演のちぎくんの美しさを愛でるファンアイテムとしては、これくらい軽い、わかりやすい作りの方がいいんだとは思う。
 エンタメだもん、楽しければそれでヨシ。

 画面が美しいから、それだけで楽しい。

 ただ。
 演出家の原田くんは処女作『Je Chante』と同じように、メイン数人以外はモブとしてしか、使えないらしいよ。
 スズキケイのモブしかいない舞台、もすごいけど、原田くんもそのあとに続くのか……。バウでこれだもんなー。
 名前だけ付いたモブのひとたちがもったいない。キングとかメガネかけてちょうカッコイイのにただのモブだし、ソルーナさんもなんでソルさんがこんなとこでこんなモブをやってるんだろうって役だし、その中でもイケメンの翔くんがあのでかい図体で何故女役のモブキャラをやっていたのかわかりません……どうせただのモブなら、男の役が見たかったよ……。
 役名だけあっても、なにひとつ描けてないと、モブキャラでしかないっすよ。一言ずつ喋ってワンフレーズずつ歌う記者のみなさんと、なんの差があるんだ、という演出でした。
 原田せんせのこの作風は、早く変わってくれるといいなと思う。

 
 モブ以外の役がすごーく少ないんだけど、とりあえず「2番手男役を格好良く描く」のはイイよね。

 『Je Chante』のみーちゃんもかっこよかった。ストーリーとキャラクタは破綻していたけれど(笑)、みーちゃんが力技で「2番手役としての、タカラヅカの色悪」として成立させていた。
 あの役を血肉の通った役にしたのはみーちゃんの功績だけど、そもそもの設定が「いかにもタカラヅカファン好み」てんこ盛りにしてあったため、てことはある。
 「ヒロインに横恋慕する、権力を笠に着た悪役」という役割でキャラを作る際に、「ただの成金男」とかではなく、「ナチス将校」にしたのは「タカラヅカ」らしさ。なにしろストーリーは破綻しまくりキャラも多重人格揃いだから、設定なんかなんでもOKだったはず。
 なんでもいいなら、「タカラヅカとして見た目のカッコイイ方」を選び、悪役はナチス将校になった。
 ナチスの描き方云々とか史実云々ではなく、あくまでもタカラヅカの舞台の上で「カッコイイ」ことが重要。
 (敵役の設定が「なんでもいい」なんて破綻した作品をそもそも書くなよ、というツッコミはまた別問題だから、置いておく・笑)

 タカラヅカにおいて2番手は重要。
 俗に主役よりも2番手の方がオイシイ、と言われるが、それが当然、2番手の演じる役を「オイシイ」役として描くことは、座付き作家の義務だと思っている。
 主役とヒロインだけじゃダメ、2番手男役までもがオイシイ作りでないと、見ていてつまんないし、「未来」へつながらない。

 タカラヅカは、そのタイトル1本上演するために集められたキャストで演じているわけじゃない。同じ顔ぶれで何年も違う作品を上演していく。
 ならば主役だけかっこよくても広がらない。主演=トップスターはいずれ退団し、2番手が次のトップとなり組を支える。
 2番手が魅力的に見えない、トップとヒロインだけの芝居を続けたら、彼らが退団したあとに観客がついてこなくなる。
 トップコンビで客を呼びながら、2番手を育てて売り出さないと。
 バウホールでも同じ。
 大劇場ではここまで比重を与えられない、だけど「未来」に期待しているスターにオイシイ役を与え、主演者目当てでやって来た人たちの気持ちを動かす。
 そーやって「あのスターが卒業しても、次のスターが」という連鎖が、100年近く続いてきたはず。

 最近のタカラヅカがどうだとか、そもそも2番手が順当に昇格しないじゃん、てことは置いておいて。

 主役とヒロインだけじゃなくて、2番手もオイシイ作品が必要、とわたしは強く思っている。

 大劇場は組の番手そのままだから、2番手はいつも決まった人だけど、バウはそうじゃない。
 主演に対する2番手の関係性はいくつかパターンがある。
 確固たる人気のスター主演のバウに、売り出したい、人気を出したい劇団推しの若手を2番手に。劇団推しで人気や実力に不安がある主演者には、路線外の実力者を保護者として2番手に。ふつーに人気のあるスターたちを主演と2番手にして相乗効果を。
 『Je Chante』は2つめのパターン、『ニジンスキー』はそれに加えて3つめかな。

 原田せんせの2作はどちらも保護者2番手系だから、「将来のトップスターにオイシイ役を」という意味での2番手役ではないけれど、それにしたってヅカの基本、「2番手はオイシイ」を正しく守ってくれるのはイイです。
 ……主役とヒロインと2番手までしか描けない、その他は全員モブだけどな(笑)。
 でも、今後保護者2番手ではなく、劇団推しのスターが2番手でバウを上演する際に、原田せんせの「2番手がカッコイイ」という作風は有効なんじゃないかな。タカラヅカとしては正しいよ。

 
 つーことで、ディアギレフ@ヲヅキさん、カッコイイです(笑)。

 2番手がカッコイイのはいいよねー!
 こーゆー、いくらでも美しくしていい、格好良くしていい役を、正しく2番手に与えてくれるのはいいよねー。

 役や役割によっては、そのジェンヌがどれだけかっこいい人でも、かっこよくしてはいけない場合があるから。
 主にイシダ作品に登場する系のキャラとか。
 そうではなく、設定として「好きなだけ美しくしてヨシ!」な役を与えてくれることは、大切だと思う。

 と、2番手がカッコイイことは素晴らしい、必要である、ということをうだうだ語り、次に本題のヲヅキさん語りへ(笑)。

 ちぎが、真面目な人だということがよーっくわかる作品だった。

 ちぎくん単独バウ主演『ニジンスキー』観劇。
 「いかにもタカラヅカ」な作品。てゆーか、「タカラヅカ」でないと上演できない作品。
 や、コレを実際外部で日本人男性たちで上演したら誰得って感じだもの(笑)。ヅカならではでしょう。

 内容は、すごくステレオタイプの「天才」物語。
 わたしたち凡人が思い描く「天才ってこんな感じだよね」をまんまカタチにして描いた、とてもわかりやすい「ニジンスキー」。

 タイトル通り、天才バレエダンサー・ニジンスキーの物語。
 バレエだけに一途で、日常生活は欠陥だらけ、うまく生きられないヴァーツラフくん@ちぎは、彼の才能と美を愛するディアギレフ@ヲヅキの籠の鳥。イカロスのように自分の翼で飛びたいと望む彼は、魔法の鏡のように彼の望む言葉だけを与えてくれる踊り子ロモラ@あゆっちと恋に落ち、ディアギレフと決別。
 庇護者を失ったヴァーツラフくんはもちろん没落の一途、だって彼、好きに踊ることしかできないんだもん。籠から出た小鳥は自分でエサを取れずに衰弱、頭を下げて再び籠に戻るけど、もう籠の中では生きたくない、生きられない……てことで、狂ってしまいました、てな話。

 なんだけど、演じているのがちぎくんなので……なんとも生真面目な、地に足のついたニジンスキーになっていた。

 ちぎくんの美しさはこの作品が必要とする「ニジンスキー」に相応しい。
 が、彼の芸風的には柄違いかなあと。

 天才ゆえの軋轢や断絶感、苦悩と破滅というより、ちぎくんの場合は努力する優等生が壁にぶつかってる感じがする。
 や、わたしは彼のそーゆーとこが好きで萌えなんだけど。
 苦悩すればするほど、狂えば狂うほど、ちぎくんのまともさ、魂の健康さと生真面目さが伝わる。
 良い子なんだなあ、健康な子なんだなあ、と。

 いや、そういうニジンスキー像もアリだろうけど、なにしろこの『ニジンスキー』で描かれているヴァーツラフくんはそうじゃなく、とてもありがちなステレオタイプの「天才」だから、ちぎくんのまともさはちょっとチガウよーな。
 いやその、彼は熱演だし、芝居の出来る人なのでもちろんなんの遜色なくニジンスキーを見せてくれているのだけど。

 わたしは史実としてのニジンスキーをよく知るわけではまったくないけれど、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』という作品を観て、既視感てんこ盛り過ぎて、ちょっとびびった。
 いわゆる「天才」主人公系の物語王道ど真ん中、そのわかりやすさとヒネリのなさ、てゆーか、作風の素直さ?に、同人誌的なモノを感じて、ちょっと照れた。ああ、わたしも昔こんな話描いたことある、的な(笑)。

 いや、そーゆーお約束満載のところもまた、タカラヅカっぽくてイイです。
 お約束は大事です。作っている側も、観ている側も、「ああ、コレってアレだよね」「こう来たから次はこうだよね」と、お約束をわかった上で楽しむ。
 『Je Chante』もそうだったけど、原田せんせはそーゆー共通認識で舞台を作る人らしい。
 でも『Je Chante』よりわかりやすくなってる!(『Je Chante』ではあちこち展開の荒さに置いて行かれた人・笑)

 テンプレ設定にちょっとテレつつ、テンプレ設定ゆえにちぎくんの持ち味が合っていないことに、ちょっと首をかしげつつ。

 美しいから、無問題。

 美しいは正義。
 憑依系、天才系の役者云々よりも、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』に必要なのは、なんつってもまず美貌だ。
 ダンス力云々よりも、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』に必要なのは、なんつってもまず美貌だ。
 その美しさを愛でるところに、タカラヅカのタカラヅカたる意味がある!

 こんだけ美しい「お約束物語」を観られるのはタカラヅカだけだもの。
 星組の『めぐり会いは再び』が予定調和とお約束で、楽しく美しいタカラヅカであると同じように。
 観ていてわくわくする、タカラヅカっていいよな。

 
 とゆーことで、ヴァーツラフくんとディアギレフの古き良きJUNEな関係が良いですな。
 ガチホモを美しく描けるのもヅカの素晴らしいところ(笑)。

 タカラヅカとはいえガチホモを見たいかというと微妙なところですが、でも実際美しく真正面から描いてくれると、目の保養です。動く少女マンガというか。

 BL、ボーイズラブといわれるものではなく、少女マンガ。
 JUNEというのは今となっては、BLよりも少女マンガに分類されるジャンルだなあと思う。
 だから寸止めで美しく表現されるヅカのホモは、少女マンガの3D版認識。

 ヲヅキを好きで、ちぎくんが好きなので、それだけでたのしいっす。うれしいっす。

 
 ガチホモなのも少女マンガなのもいいんだけど。
 キャラの描き方に疑問はある。

 ディアギレフをいい人に描きすぎていることと、ヴァーツラフの小物感とまともさ具合、そしてロモラのご都合主義さ、この3つが相乗効果でマイナスになっている気がする。

 ヴァーツラフが翼を持った人物ならすべて解決したことかもしれないが、生真面目な優等生止まりであるため、いろんなところで説得力を欠いたような。
 ディアギレフが執着を持って籠に閉じこめているように見えない。ディアギレフがいい人過ぎて、そんな彼を裏切るヴァーツラフの行動が正当……というか、「仕方ないよね」と思えなくて困る。
 また、ロモラの言動がただの魔法の鏡、ヴァーツラフが「言って欲しい」と思っていることをそのたび口にするだけ、物語の誘導ナレーションになっている。
 あまりに作為的にロモラがヴァーツラフを煽動し、それゆえに物語が展開するので、脚本にあるものと目に映っているモノの差にとまどう。
 でも、裏があるような話じゃないしなー。
 裏ってのはたとえば「ニジンスキーは天才ではなかった。すべて外側からのプロデュースで祭り上げられた、実態のない存在」とか「舞台の上のロモラはニジンスキーの幻想。ロモラという女性と結婚したのは事実だが、ニジンスキーが見ていたのは彼自身の作りだした幻」とか、そーゆーの。
 でもそんな裏はないよなー。王道の「天才」物語だよなあ。
 単に間違えたとか足りなかったとか過剰だったとか、そういうことなのかなー。

 観ていてもどかしい部分がいろいろあったけど、それでも画面の美しさだけで全部許せる。
 だから力一杯繰り返す、美しいは正義。
 
 星組新人公演『ノバ・ボサ・ノバ』観てきました。

 星組の新公は久しぶりです。全組観るのが基本姿勢なんだけど、何故か星組だけは観られないことが多くてなあ。
 てことで、主演の麻央くんには馴染みがないっす。というのも、彼が活躍したらしい新公は大抵観られていないので。
 あまり出番のない役のときは観たし、バウとかに出ているのは観た。
 ぷくぷくちゃんで技術的にはいろいろ大変、されど初詣ポスターからしても劇団が特別扱いしている子、という印象。トップ候補は劇団が決めるもの、そして麻央くんはトップ候補なんだろうから、ビジュアルと技術が上がってくれることを切に祈っていた。
 直近の印象が中日で、しかも歌がえーらいこっちゃ!だったので、どうなることかと思ってました、正直なところ(笑)。

 しかし、ソール役は良かった!

 歌はうまいわけじゃないけど、作品の勢いに乗って歌いきってました。
 長身でスタイルいいから、裸足もOK。黒塗りでフェイスラインも引き締め効果ばっちり(笑)、中日の頃より絶対キレイ。

 舞台度胸あるよね。歌詞を忘れたりアクセサリーをちゃんとつけられなかったり、ハプニングはあるものの、のびのびと演じていた。
 よくやったと思う、ほんと。

 終演後の挨拶も、素直で好感。なにかしら自分の言葉で話そうとしてる。それでちょっと天然というか「今ここでソレ言うんだ」的な感じがまた、素直でいいなと。お仕着せの言葉しか言わない子よりいいよ(笑)。

 このままもっときれいになって、もっといろいろうまくなってくれたらいいなあ。つか、なってくれ、未来のタカラヅカのために!

 
 オーロ@れいやくんが、濃くなっていた。

 派手な顔立ちの美形だと思っていたけど、なんかこう、押し出しが弱いというか決まったラインの内側にお行儀良く収まっている、絶対はみ出ないように小さくなっている印象のある子だったから。……いやその、わたしの勝手な思い込みですが。
 なんか、ラインの外に出ることを恐れなくなったような。
 いい感じで星男っぽいオーロだった。

 そして……なんかしいちゃんを思い出して、切なくなった。
 彼の大きなパーツの顔は、かの人を思い出させる効果があるようだ……。最後の公演の、新公やったしなあ。この間の中日では船長さんだしなあ(笑)。

 
 ルーア神父@礼くんは歌ウマ。

 彼の歌声は素直で耳馴染みがイイ。すーっと入ってくる。実は「男歌」CDでもすごくーく気に入っていたんだな。
 その素直な歌声で狂言回しをされると、とても耳福だ。

 ただ、あまりにかわいらしいルーア神父なので、もっと男らしい役の礼くんを見てみたかったなあと思う。『ロミジュリ』の愛のイメージがわたしには強くて、彼がきちんと「男」としてがっつりなにか演じているところをまだ見ていないので。

 しかし、ブリーザが死んだあとに神父が歌う「ライライライ…」はすげー良かったよ……物語の盛り上がりをさらに後押しする歌声だった。
 

 シスター・マーマ@みっきーは……怪演(笑)。

 登場した瞬間、ふつーに美女なので驚いた……というか、あかんやん、シスター・マーマがそんなに美人だったら! と、突っ込んだ。
 もともと派手顔美形で小柄なみっきー、女役したらそのまま美女になってしまうのも仕方がない、自然の摂理。しかしシスター・マーマはルーア神父に迫って相手にされず笑いを取る役、美女じゃダメなんだってば。

 外見が美女なのはどうしようもない、だからあとは性格で男にドン引きされる女になるしかない。
 つーことで、シスター・マーマはすげー変な人でした(笑)。

 歌ウマみっきーと礼くんのデュエットは、これまた素敵に耳福でした。

 
 マール@芹香くんとブリーザ@はるこちゃんはこの間の新公主演コンビだね、一日の長というか、経験が生きてる。
 安定しているというか、こちらも安心して見ていられるというか。
 芹香くんも黒塗り引き締め効果大、かっこよくなってた。

 レイラの休演が残念だ……すごく残念だ……『メイちゃんの執事』で注目されて、今がチャンスだったのに。今までほんと役つかなくて、よーやく大きな役がついたのに……。
 東宝の新公には、彼が出演できますように。

 つーことで、緊急処置のメール夫人@真風。メガネで酒乱……!(笑)
 泣き上戸からはじまって笑い出したりすごんだりと、酒癖の悪さがすごいことに。
 さすがに余裕だ。

 ボールソ@夏樹くん、みやるり→夏樹くんだとほんと違和感がなさ過ぎて……その大きな目が(笑)。かわいかった。

 ヒロインのエストレーラ@わかばちゃんは、今回あまり印象がない……。
 てゆーかエストレーラってこんなにしどころのない、目立たない役なんだ、と。
 トップ娘役が自力で輝いてるんだなあ。
 わかばちゃんの鼻を少し、麻央くんに分けてあげられたらなあ、とよくわかんないことをぼーっと考えてしまったナリ……。

  
 作品の力ってのは、ほんとに大きいと思った。
 『ノバ・ボサ・ノバ』はたしかに、ちゃんと演じきる・作るには歌唱力やダンス力が必要なんだと思う。
 だけどその作品自体が持つパワーで、技術が足りなくてもなんか押し切っちゃうことが出来るんだ。
 12年前の雪組の新公を観たけれど、別に真ん中は歌ウマでなくてもカタチになっていた。作品のパワーで出演者も観客も一緒になってエキサイトして、なんか良かったー!ってキモチになった。

 ショーは芝居以上にタカラヅカ力を必要とする。
 サムいショー作品を与え、スキルのない若者に「ひとりで大劇場の真ん中に立って空間埋めろ」というのは無謀すぎる。
 が、スキルのない若者でもその気にさせて木に登らせるような、盛り立ててくるパワーのある作品ならば、ショーの新公も今後もっとやってみるべきじゃないだろうか。
 見せ方というか、舞台に「スター」として立つことの勉強になると思うんだけどなあ。

 挨拶時の「12年ぶりのショーの新公」という言葉を聞いて、そんなにやってないもんなのか、と驚いたもの。
 昔はもっとふつーにショーの新公もあったんだけどなあ。『ノバ・ボサ・ノバ』みたいに通し役じゃないから、場面ごとにいろんな人がセンターの役をやっていた。たくさんの人に「真ん中」に立つチャンスを与えられるのが、ショーの新公だったのになあ。

 でも、ショーの新公だと公演時間が短く、チケット代の時間単価は上がっているというか。
 たった1時間のために4000円かあ、と考え。
 あったわね、そんなことが、12年より新しい時代に。
 ショーの新公は12年ぶり、しかし1時間公演で4000円という値段設定の新公は12年ぶりじゃない。
 まっつ主演『天使の季節』は、1時間4000円だった。
 ……納得いかんわ……『ノバ・ボサ・ノバ』と同じ時間単価だなんて、あの超駄作がっ。プログラムもさらに安っぽかったのに、通常公演と同じ値段だったなんて……。
 と、今さらなことを残念に思う。『天使の季節』で新公やるくらいなら、ショーの新公をして欲しかったよ。(そしたらきっと主演はまっつぢゃなかったろう・笑)
 雪組全国ツアー『黒い瞳』、プガチョフ@まっつと、ニコライ@キム。

 ニコライの愛情がぐいーんと大きくプガチョフを取り巻くことで、プガチョフも変わる気がした。
 これだけ純粋な愛情を向けられて、てらいなく突きつけられて、心の動かない人間はいない。

 ニコライはプガチョフを愛している。
 少年らしい純粋さで、まっすぐに。
 少年の瞳には嘘や欺瞞がない。剥き出しの激しさがある。

 いろんなものに汚れ、絶望しているプガチョフには、ニコライの汚れなさが痛い。彼を直視できないくらい。
 歌うニコライから目をそらし、どこでもない空間を見つめるプガチョフの哀しさ。

 キムくんってやっぱすごいと思う。
 彼がぴたりと照準を合わせたことで、どんだけ視界がクリアになったか。
 まっつのブレすら正してしまうんだ、彼は。

 ニコライの少年らしさと愛情が際立つことにより、それを拒否して破滅へ進むプガチョフの悲劇性も増した。

 そりゃ、この子のことを好きだろうよ、プガチョフ。
 こんなにまっすぐ愛してくれる人がいたか、今まで?
 プガチョフの周りには蛾のように、彼の光や甘い汁に群がる者たちがいただろう。
 でも純粋に、彼を愛してくれた人は……?

 ソリの場面のニコライの痛々しさ、そしてマーシャを取り戻したあと、別れるプガチョフを見つめる姿に、こっちまで胸が痛くなった。
 ほんとにプガチョフのこと好きなんだ……そんなに好きなんだ……。

 そして当たり前だけど、ニコライの中では、プガチョフへの愛情と、マーシャへの愛情が同居している。
 プガチョフを切ない目で見送ったあと、マーシャを振り返って微笑むんだ。

 わたしがマーシャなら絶対つらい(笑)。
 自分の恋人が、自分以外にあんな目をしていたら。

 聡明なマーシャはナニも言わない。
 でも薄々感じている、ニコライの、プガチョフへの傾倒ぶりが半端ナイこと。
 だからいざ別れを切り出されたとき、泣いて嫌がるわけだ。
 戦い云々を理由にしているけど、もちろんそれも本心だろうけど、ほんとのとこ嫌だったと思うよ、恋人に一時的でも別れを切り出される理由がプガチョフに会うためだなんて。
 ニコライはマーシャへの愛と区別して考えているようだけど、女の立場からしたら一緒じゃん。愛は全部欲しいもの。

 ニコライはプガチョフという男を知っている。
 彼が、破滅するために進んでいることを。
 どれほど止めたところで、彼の人生を変えられないのだということを。
 だからニコライは言う「プガチョフの敗北を見届けたい」と。

 この辺が男子だなーと思う。
 女子ではありえない思考回路(笑)。

 ニコライは男の子だから、愛した男の最期を見守りたいんだ。
 プガチョフを助けたいとか生きていて欲しいとかじゃないんだ。
 彼が、志を全うすることを望み、それを助けたいと思っているんだ。
 プガチョフの望みが死なら、破滅なら、正しく死を、破滅を得るべきだと思っている。
 彼を愛する自分こそが、それを見守るべきなのだと。

 だから、戦場へ向かうニコライの決意が痛い。
 彼は本当に、悲しいまでの覚悟をして、決戦に臨んでいる。

 破滅を望んでいたプガチョフの、最後の戦いもまた、壮絶を極める。
 剣を手に戦場を駆ける彼の、壮絶な美しさ。
 仲間だった、腹心だった元帥たち@ひろみ、朝風くんの裏切り。
 プガチョフと最後まで一緒だった、彼を守ろうとしたのがシヴァーブリン@コマだという事実。
 マタギ衣装のシヴァくんは最後まで戦ってるよなあ。ニコライを狙ったのに間違えて仲間撃ったりしてるけど(笑)。

 そして、最後の場面。
 処刑場へ向かうプガチョフと、最後の再会をするニコライ。

 民衆になじられながら歩き、テーマソング?を歌うプガチョフ。このときの彼がどう感じているのか。それはいろいろと妄想できることなので、置くとして。

 問題は、ニコライを見つけたとき。

 「やあ、先生」と声を掛けるプガチョフ。
 このとき彼は、救われたのだと思う。

 わたしはどうしたってプガチョフ寄り……というか、まっつ中心の視点しか持たない。
 だからこの悲しい瞳の英雄に惹かれ、彼の人生を見守り、追体験している。
 その最期の瞬間に出会うのが、ニコライで。

 英雄だと持ち上げられていたはずなのに、今では罵られ、(梅田ではなくなっていたが)モノをぶつけられるよーな蔑まれ方をしていて。
 そんな死刑囚の前に現れて、泣きじゃくる少年。

 ニコライ、泣いてるし。
 キムくんの瞳に涙が盛り上がって、ぽろぽろこぼれる。

 それを見て、微笑むプガチョフ。
 肯定されたね。
 プガチョフの人生が、人格が、肯定された。
 こうして彼を愛し、彼のために手放しで泣く少年の存在で。

 救われた。
 ニコライの涙に、その、愛に。
 プガチョフに感情移入していたわたしは。そしておそらく、プガチョフ自身も。

 最後の微笑みは、演技でも計算でもない。
 ほんとうに、こぼれたんだ。
 自分のために泣くニコライを見て。

 だから、胸を張る。
 ニコライの涙に。愛に。
 相応しいだけの美しい姿を見せる。

 プガチョフが何故、ニコライを愛したのか。
 その答えを得た気がする。

 プガチョフには、ニコライが必要だったんだ。彼の荒ぶる人生に、寂寥の瞳に。少年のまっすぐな愛情が、尊敬が。
 出会ったそのとき、なんの屈託もなく酒やら高価なウサギの外套やらを差し出してくれた、純粋な好意。
 その真っ白な魂に惹かれた。癒された。

 ニコライが、プガチョフの強さに惹かれたように。

 まさしく運命の出会い、運命のふたりだったんだ。
 まっすぐに生きる者と、まっすぐに破滅する者と。

 ボロボロに泣きながらプガチョフを見送り、「まだ終わってない。僕の大切なモノが消えてしまった」とかなんとか言い募るニコライ。
 それはプガチョフのことを言っているようでもある。
 ニコライの中では、プガチョフへの想いとマーシャへの想いは当たり前に同居しているから。
 マーシャの名を呼びながら走っていくニコライは、ほんとにマジ泣きしていて。泣き声の幼さに、泣けて仕方がない。

 男であるプガチョフのことは、死を見取る。女であるマーシャのことは、守り共に生きていく。
 それでいい。ニコライは、男だから。

 ラストシーンにて、コサックだから貴族だからと人間に、愛情に壁を作ることの愚かさを言及するニコライがいい。
 確かにニコライは革命を起こしたりしない。
 だけど彼は、コサックの少女を愛する。
 貴族の彼がコサックの少女を愛するように、他のみんな、ひとりひとりが身分とか国とか民族とか、そんな壁を越えて誰かを愛すれば、いつかそんな壁はなくなるんだ。エライ人が命令するとか、武力によって傷つけ合うとかしなくても。

 ただ、目の前の人を愛する。偏見とか差別とかを捨てて。大切な人を、大切だと言う。
 それがいつか、世界を革命する。

 白いコサック衣装のプガチョフが雪の精となって、愛し合う恋人たちを見守るラストシーンに、涙が止まらない。
 プガチョフが、何故ニコライを愛したのか。
 その答えを得た気がする。雪組全国ツアー公演『黒い瞳』、梅芸楽。

 無知無教養なコサックたちを煽動し、皇帝を名乗り、敵には容赦なく、されど従うモノには情け深く、剛胆な英雄でありながら子どものような無邪気さを持つ。
 プガチョフのカリスマ性だけで何万という人々が動き、彼の力が衰えたときに反乱は終息する。
 ……という、この宝塚歌劇『黒い瞳』の登場人物「プガチョフ」という男。
 もちろんそれは、初演でプガチョフを演じたリカちゃんのイメージまんまなんだと思う。
 「この男ならほんとうに世の中を変えるかもしれない」と錯覚させる大きさ、わくわく感。
 無謀でバカな行為なんだけど、リカプガには不可能を可能にする光があった気がする。
 そこに在るだけでただ者ではないオーラがあったというか、胡散臭さハンパねえとか、暴力的なまでの色気とか。
 これぞ英雄! という力が。

 だが、今回のまっつプガチョフはそういった「いわゆる、英雄」という印象からははずれている気がする。
 いや、英雄は英雄なんだけれど、少なくとも初演のプガチョフとはチガウんだなと。

 プガチョフ@まっつには、哀愁と気品がある。
 「薄汚いコサック」と評されているけれど、実は貴族の血が入ってんぢゃね?的な。
 「大尉の娘」マーシャ@みみが実はコサックの娘であるのと対をなすように、コサックのプガチョフも実はロシア貴族の落とし胤だとか、多重構造を想像できる。
 史実とか原作とか初演とかの縛りを離れ、あくまでも舞台の上、そこで描かれているものからのみ、考えて。

 世直しの英雄といっても、どこまで本気なのかわからない。
 皇帝だの元帥だの司令官だのと、呼び名だけは大仰で、まるでごっこ遊びをしている子どものよう。
 その滑稽さや蛮族の王を気取るには、まっつプガチョフは知性と分別がありすぎる。
 自分のしていることの些少さと、女帝の治世の揺るがなさ、すべてわかった上でそれでも一瞬の勝利と享楽を得ているように思える。
 まっつプガチョフは、そもそもこんなバカな反乱を起こしそうにない。やる前から無駄だ無理だとわきまえそうだ。

 だけど彼は兵を挙げ、皇帝と呼ばれている。

 世直しとか世界を変えるとか、プラスの意味ではまったくなく、最初から破滅するために戦いはじめたように見える。

 なんつーんだ、これはプガチョフ個人の自殺、あるいは世界との心中なんじゃないか。
 彼の絶望は、ただ自分ひとりが死を選んで終わりなんじゃない、というか。
 なにかしら世界に問う、その結果の心中であるというか。

 もちろん、どこまでやれるか、自分の力と運を試していた節はある。人生を、命を賭けて、世に問うていたのだろう。
 だけどほんとのところ、最初から彼のゴールは破滅だったんだろうなと。死ぬことが前提、ただそれまでにナニが出来るかどこまで行けるかが焦点だったというか。
 途中でダメかもと思ったのではなく、最初からハッピーエンドは考えてなかったというか。

 たしかに彼は、ペテン師かもしれない。
 人々に夢を見せた。彼自身信じていない夢物語を、信じさせた。
 それが出来てしまうことが、彼が「英雄」であった証。
 そして。
 彼に騙される人がいること自体が、彼の「絶望」であったのかもしれない。
 と、思う。

 
 ソリの場面は、プガチョフの内面が見えるのだと思う。
 ニコライ@キムにこの反乱の無謀さを言及され、「俺の胸を抉るつもりか」と返す。
 口では威勢の良いことを言うけれど、歌うけれど、ニコライに理を説かれている間のプガチョフは、なんとも切ない、悲しい顔をしている。

 今までずっとここのプガチョフに夢中で、彼の表情のひとつひとつ、それこそ目の下のシワにたまる汗の一粒すら見逃すまい!という気合いでいたのだけど。

 その回は「あんたほどの男が無惨に果てるのを見たくないんだ」と訴えるニコライの熱に、はっと胸を突かれて。
 はじめて、ってくらい、ニコライを見た。

 初演から通してわたしは、プガチョフとニコライの男の友情は、プガチョフの一方通行だと思っていた。
 いや、片思いではなく、それぞれベクトルのチガウ想いであるというか。
 プガチョフがニコライを愛するのは理屈ではない部分にある。プガチョフは本能的な男だから。
 ニコライはプガチョフのことを想っているけれど、所詮彼は女帝陛下の貴族で自分の立場を捨てることはないし、マーシャという恋人もいるしで、彼の中の一部分をプガチョフに割いているだけという印象だった。
 だから結果的に、プガチョフの一方通行に見えた。理屈ではない愛を持つプガチョフと、大切なモノは他にたくさん抱えたままプガチョフにもこだわるニコライとでは。
 ふたりのキモチが同量である必要はない。ニコライのこれからずーっと続く長い人生の中にプガチョフとの出会いと友情があった、ソレだけでいいじゃん。

 キムまつ版『黒い瞳』初日を観たときも、やはりプガチョフがニコライに惚れているようで、ああ一方通行なんだなと思った。
 それが、マーシャとハッピーエンドを前にしてわざわざ「プガチョフの敗北を見届けたい」と言い出したニコライに驚いた。なんだ、丸っきしの一方通行でもないんだ、ちゃんとそれなりに愛されてるんじゃん、と思った。
 や、初演を観ているからこの展開は知ってるんだけど、キムまつだと新鮮な展開に思えた。
 ニコライがあまりに若々しく、素直な青年だからだと思う。彼の言動はより直感的に「心」の動きと連動していると思うんだ。

 そういった部分を踏まえた上での梅芸、これでもうしばらくは『黒い瞳』見納めの回。

 ソリの上で語るニコライは……あまりにも、痛々しかった。

 うわ、この子ほんとにプガチョフが好きなんだ。
 だから本気でプガチョフに言い募っている、すがっている、説得しようとしている。
 「君を死なせたくない」と。

 「なんだか気に入ってるんだな、あんたのこと」と告白するニコライのはにかみ。
 そして、「大将と呼ぶことにするけどいいか」と前振りして、合意を得た上で改めて「大将」と呼んだときのうれしそうな顔。

 ナニこのヲトメっぷり!!

 「まつださんのこと、まっつって呼んでいい?」「ああ」「じゃあ……まっつ。きゃっ呼んじゃった!!」……みたいな会話!!

 見ていて目眩がした。
 ニコライってこんなだった? プガチョフのこと好きすぎて、見ていて恥ずかしいんですがっ?!
 でもってその大好きオーラを臆面もなく当てられて、あのクールなまっつプガチョフが照れているよーな、とまどっているよーな。
 はじめてのデートでどう振る舞っていいか困惑している男子のように、手をあげて顔の横に置いてみたり。(初日からずっとしてます)

 ふたりがラヴくてびびった。
 キムまつには萌える要因がなかったのに、今まで(笑)。


 続く。
 1週間ぶりに観た、雪組全国ツアー『黒い瞳』『ロック・オン!』

 まっつが、受ぢゃなくなってた。(ソコ?!)

 『ロック・オン!』の紳士倶楽部にて、「受だから、それらしいことしなきゃ」と思ってがんばっていたらしいまつださんが、早々にできないことは、しなくていいや、と思ったのかなんなのか、いつものまっつになってた(笑)。

 いつものまっつがそこに。
 無理に受っぽい顔してない。ヨロメキ顔とかアハン顔とかしてない。
 ……今思えば、市川はキモかったよな……。(キモいゆーな)

 いつものしれっとクールなまっつが、硬質に、されどエロだだ漏れでホモ男を演じています。
 いや、べつにホモ男ぢゃないな。花男の標準装備を披露しているだけです、アレ(笑)。
 花組では毎公演観ているよーな気がする、毎回あーゆーのやってる気がする。みわさんとかみつるとかめおくんとか、花男なら「デフォルトですが、ナニか?」だよなまったく。

 まっつが受をやめたからといって、キムくんが受になったわけでもなく。

 攻×攻です、こいつら。

 どっちも譲らない(笑)。
 おかげで背徳感はあまりありませんが、いいんじゃないですか、キムまつらしくて。

 
 まっつが、ウインク開眼してました。

 すごい。
 まつださんが、あのまつださんが、ウインクしてる……っ。
 振付で決められていた『EXCITER!!』ですら、あちこちしてなかった人なのに!

 男役も14年やると、ウインクできるよーになるんだね。進化するんだね。
 なんでその半分の研7あたりで出来るよーになってないのかと、物言いたいキモチは大いにありますが(笑)、出来ないより出来る方がイイ、今からでも出来るようになって良かった!

 ……けど、見慣れなさすぎて、びびる。
 まっつがウインクしてる……。まっつがウインクしてる……。まっつがウインクしてる……。(口ぽかーん)

 まさに彼のウインクが飛んでくるところに坐っていて、椅子から落ちそうになりました。
 や、わたしアテではもちろんなく、彼の顔の向きの延長線上にたまたま坐っていただけなんだけど。
 びびった。
 口から心臓が飛び出るかと思った。

 
 まつださんは終始テンション高くて、別人のままです。
 市川でも十分別人だっだけど、大阪でも別人。
 キムくんから「ワンモアタイム」の掛け声を振られたりして、さらにまっつらしくなくノリノリで応えてます。

 客席降りは最後尾まで行ってハイタッチしてまつ。

 しかし、ダンスのキレの良さは依然ハンパないです。すごいです。
 てゆーかまっつに「ゴールドフィンガー」踊らせるって、神演出。
 いやその、そこ1曲だけじゃなく、あの場面ほぼ全部手の動きが重要なダンスじゃないですか。
 まっつの手はすごいですから。美しさに見とれますから。見とれすぎて息するの忘れてぜーはーする類いですから。
 いやもお……ここがカットされず残ってくれてて良かったよ三木せんせ。
 まっつのダンスが美しすぎる……っ。
 

 そして、別人になったまっつは、表情豊か。

 花組でいつも無表情に踊っていたのが嘘みたい。
 や、笑顔で踊るべきダンスとかでは笑顔だったよ、もちろん。TPOは考えていたし、微妙な変化だってあったけど、でもそーゆーんじゃなくて。
 ほんとに、表情が豊かなの。多いというか、やわらかくてバリエーションがあるの。

 彼が、すごく楽しんでるのが、伝わってくる……。

 ……ほんとに、この学年で、この年齢で(ジェンヌはフェアリーです、年齢などありません)、変わるなんて。

 人間って、変われるものなんだ。
 てゆーか、成長するもんなんだ。
 限界なんて、決めちゃいけないんだ。

 研14って、タカラジェンヌの寿命からすればもうかなり大人で、守りに入るような学年なのに。
 まだこの人、過渡期なんだ。

 空恐ろしいな、未涼亜希。

 変わり続けるまつださんに、ただただ驚くばかりで。

 
 プガチョフ様もますます格好良くて。
 てゆーかさー。
 美しいよね、皇帝陛下。

 プガチョフ軍の宴会ダンス場面にて、プガ様がオラオラ言わなくなっていて、ちょっとしょぼん(笑)。

 棒か鞭か?なんかしなるモノを手にして踊る場面、市川ではプガ様があの美声で「オラオラオラ~~!」ってゆってて、うわ、花組!(笑)と思ったんだけど、梅田では言わなくなってた。
 プガ様ご機嫌で踊ってたけど、声は出さないんだー。ちぇー。

 んで、パルミラ@ひーことのいちゃいちゃが……っ。
 「あとでな」って、おでこ、こつん。とかやられちゃうと、萌えまくる。
 ナニこのいちゃつきぶり。やに下がりぶり。

 
 でもって、ニコライ@キムくんとの、ラヴ度アップ。

 わたしは市川ではわりと単体萌えしてたんだ。ニコライが好き、プガチョフが好き。それぞれを好きだけど、このふたりが「ふたり」として好きかどうかは別というか。
 キムくんとまっつはほんとに別の地球に住む人たちで、あまり接点がないというか……。ニコライはプガチョフよりも、マーシャ@みみちゃんとのカップリングに萌えまくってたし。

 それが、今。

 プガチョフとニコライ、両想いじゃん!!

 と、納得。
 腐った意味ではなく(腐っていてもイイが・笑)、友情として、ふたりの想いが釣り合っている。
 一方通行でもなく、どちらかが軽かったり重かったりするのではなく。

 項羽に虞美人が必要だったように、プガチョフにはニコライが必要だったんだなと思った。

 
 いやあ、楽しいわ、全ツ。
 全国ツアーのスポットライトって、3個しかナイんすかね?
 移動公演、地方巡業ゆえに3個しか持って歩けないのかな?

 雪組全国ツアー『ロック・オン!』、地元大阪梅田芸術劇場にて、そんなことを思いました(笑)。

 梅芸にライトが3個ってことはないだろうから、全ツ組が持って移動しているのが3個なのかなあ。

 「朝風くんの死に顔を上からじっくり見るのー♪」「引きずられるプガ様を真上から見るのー♪」なんて偏った楽しみを抱きながらの3階席からの観劇時。

 なにしろ梅芸の3階ですから舞台めちゃ遠いです、でもオペラでがっつり観る気満々。
 だったのに。
 『ロック・オン!』ではほとんど、オペラを使わなかった。
 いや、使えなかった。

 スポットライトの行方に、魅せられて。

 それまでずっと1階席だったからわかってなかった。
 どこでどう、ライトが当たっているか。

 オープニング。
 センターで踊るキムくん、登場した娘役トップのみみちゃん、そして横から出てきたまっつ、この3人に、ライトが当たる。
 舞台の上はもちろんそれなりに明るいんだけれど、その中でもこの3人にだけ、まばゆいライトが当たっている。

 2番手って、こういうことなのか!!

 芝居で2番手でも、ショーではセンター場面もらえてなかったり、劇団様が「カンチガイすんなよ」ととてもわかりやすく立場を教えてくれている、まつださんです。
 最後に羽根はもらってるけど、立ち位置全部ふつーに今までのまっつ、つまりは脇だよね(笑)、てな扱いだったんですが。

 脇は脇でも、やっぱ今回はちがってるんだ。

 スポットライトが、もらえる。

 そんなこと、夢にも思わなかった。
 というか、そんな立場のまっつを観たことがなかったので、考えたことがなかったんだ。
 スポットライトというものは、スターさんが浴びるモノで、まっつは関係ない。いや、関係がどう以前、そんなものがあることすら、見ていて思い出さない。
 暗い舞台、闇に沈むまっつを最後までしつこくオペラで眺める、それがわたしの観劇スタイル。ライトなんかナイから、シルエットでまっつを見分けたり。

 それが当たり前だったのに。

 わたしが「当たり前」と思う明るさの舞台で、他のみんなはふつーにその明るさで歌い踊っているのに、キムみみまっつだけ、もっと明るい輪の中にいるの!!
 まぶしい光が3つ輝き、3人の動きをぴたりと追っているの!

 びっくりした。
 そうか、2番手なんだ。
 2番手、って、こういうことなんだ。

 トップのキムくんが踊っていて、娘トップのみみちゃんが踊っていて。そしてまっつが、踊っている。
 3人だけが、スポットライトを浴びている。
 切り取られた3つの光を見て。

 泣いた。

 2番手羽根を見たときより、泣けた(笑)。

 そんでもって、終始ライトがあったの。

 次の紳士倶楽部、例のホモたちの集い場面で、舞台には7人の男がいるっていうのに、ひと筋のライトが、まっつだけを照らしているの。
 1階で見たときはわかってなかった。だって全員ふつーに舞台上に見えていたから。よく見たらまっつだけさらによく見える状態だったんだろうけど、そもそもまっつばっか見てるから気付いてなかった。

 まっつが動くとライトも動き、まっつだけが舞台上に浮かび上がっている。
 たったひとりでライトを浴びて、まっつが舞台センターで踊る。端正に、静謐に。

 ……泣くって。
 こんなん見たら泣くって!

 ホモ達人のキムくんが登場すると、なにしろ彼に当てられるのはトップライトですから、まっつのライトなんかささやかなものだったとわかるんだけど、それまではたしかにまっつだけのライト。
 で、まばゆいトップライトを当てられたキムくんが場面の主人公なんだけど、まっつにもライトはずっと当たっている。
 キムくんと、まっつ。輝度は違うけど、ライトは2本だけ。
 舞台にはあと6人いるけど、6人みんな次々とキムくんに絡むけど、なにしろライトはまっつにだけだ。
 コレ、ライトだけ見てたら、キムとまっつの物語だ。
 わたしがつい他の男の子たちも見ちゃうからわかんなくなっているだけで、舞台構成的にはキムとまっつが直に出会い、対峙する作りなんだ。
 と、わかった。気付いた。

 ……泣くって。
 こんなん見たら泣くって!

 その次のギャングたちの饗宴。
 ソロ歌にライトが当たるのは当然のこと。
 問題は、群舞になったとき。
 曲が終わり、舞台奥にキムくん登場、キムくんへガンっとまばゆいトップライト! 他の男たちがポーズを決める舞台は暗く沈む……ときに、まっつひとりだけに、ライトが残る。
 その瞬間、舞台上でスポットライトに照らされているのは、キムとまっつだけ。

 ……泣くって。
 こんなん見たら泣くって!

 青スーツは場面全体が明るいし、ライトもわりと全体を照らしていたかな。
 
 ラテンバージョンも、とてもまっつらしい、脇として少人数口で踊る場面。
 キムくんがセンターでライトを浴びて歌い踊る。その周りで踊る4人の中のひとりに過ぎないまっつ。
 だけど、ここでまっつがちょっと真ん中へ寄って踊る部分がある。そこで、まっつにライトが当たる。その一瞬、キムとまっつだけにライトが当たっている状態になる。
 同じように他の子たちも踊るけど、同じことをしても、ライトが当たるのはまっつだけ。

 ……泣くって。
 こんなん見たら泣くって!

 「La Vida」は歌手として特別っぽく登場するのでライトもらってるのは想定内……とはいえ、やっぱここでもライトは3人だけなんだよ、キムとみみちゃんとまっつ。

 黒燕尾はあとから登場するからライトはもらってる……けど、一旦袖へはけたあと、再登場するときに、やっぱちゃんとライトもらってるの、ひとり。
 黒燕尾の男はあんなにたくさんいて、少人数口のみんなは同じようにキムくんの周りで踊っているのに、まっつだけが。

 ……泣くって。
 こんなん見たら泣くって!

 
 今までまっつは、同じ状態でもライトはもらえない人だった。
 主役の後ろで踊る4人のうちのひとりだとしても、ライトはない。センターがまとぶんだとして、もうひとつのライトはえりたんとかみわさんとか、とにかくその場にいる誰か他の人のものだった。
 まっつはあくまでも、その他の人として、特別なライトはもらえなかった。
 それが当たり前で、それ以外の状態を経験したことがなかったから、それ以外の状態があるなんてこと自体、知らなかった。

 知らないから、ライトが欲しいと思うこともなかった。

 そうか……スターさんってこうやって、ライト当ててもらってたんだ。知らなかった……!

 
 で、ライトばっか見ていたから、気になった。
 全ツのスポットライトって3個しかナイのかなと。

 4個以上のライトが同時に使われる場面は一切無かった。最大で3個しか光がない状態(笑)。
 キムくんがみみちゃんと踊っていて、ヒメが奥で歌っていると、まっつにライトが当たらない……(笑)。4つ目があったら多分、暗めのライトを当ててくれてたと思うの、他の場面でのライト具合からして。かおりちゃんもそうだったけど、トップの他はソロ歌手にライト当てるルールらしい。

 闇の中を走る、光の筋の美しさに震撼した。
 感動した。

 今まで知らなかった。
 2番手だと、こんな風に光をもらえるんだね。

 ありがとう。
 目に、心に焼き付けるよ。
 雪組全国ツアー『ロック・オン!』、慣れない番手、慣れないテンションのご贔屓にどきどきして。

 ああ、そうか衣装がチガウのか! と、今さら感心するギャングな場面から中詰め。
 臙脂色スーツで歌うまっつを見て、今までまっつがよく着ていた衣装とは質感が違っていることに気付く。
 通常まっつの衣装っていうのは汎用型というか、その他のみんなが着るもので、特別感のあるものじゃない。まっつ用に新調されたとしても、それはあくまでもその他用。

 それがなんか、その他じゃない衣装着てる!

 それは、『宝塚巴里祭2009』でも思ったことなんだ。同じスーツやフロックコートでも、今までまっつが着ていたタイプの衣装じゃない、って。
 真ん中の人にはそれ用の生地で仕立てた衣装が使われるものなんだ、って。

 トップさんの衣装が脇とはまったくチガウ豪華さだってこと、真ん中に近くなるほど生地も仕立ても良くて、モブなみなさんはそれなりのものしか着せてもらえないことなんて、はじめてヅカを見る人でもわかること。
 だから今さらナニ言ってんだ、てなもんだが、いざご贔屓が真ん中寄りの衣装を着せてもらって、改めて違いを実感する(笑)。

 でもってまっつの歌う「Comin’ Home Baby」!
 ちょっと濁ったジオラモさん系の声の出し方がツボ。
 スーツもギャングもジャズも花組ならでは、まっつならではの得意分野!
 センターで歌う彼に慣れないが(笑)、それでもそれ以外は見慣れたまっつ!……のはず。

 なつかしさとちょっぴり寂しさと。

 てゆーかイイ声だよなー。しみじみ。
 ギャングなまっつはイイの、衣装の質感以外は見慣れたまっつ。

 その次のカラースーツなまっつの慣れなさ具合に比べれば……っ。

 水色スーツの男たちがキムくんを囲んで歌い踊るわけだが、何故かまっつひとり青スーツ。
 って、もともとキムくんの衣装で、キムくんがそうだったわけだから、何故かってわけじゃないのはわかってるけど、まっつだと、なんで?!って気がする(笑)。

 ルパン三世的な浮き具合だな、とよくわからないことを思う。

 
 元祖『ロック・オン!』は水くん出ずっぱり、キムくんはピアノの場面以外はサブな扱いしかなく、いちばん重要な場面にはカゲソロしか登場していない、という偏った構成のショーだ。
 唯一のセンターであるピアノ場面に出ないで、あとのキムくん位置に入ると、笑えるくらい「見慣れた、いつものまっつ」。
 つまり、主役の人の脇にいる、その他の人。
 まあそのあたりは安心して眺められる画面である(笑)。

 そうやって基本的には元祖キムくん位置にいるため、出番自体は少ない。

 月の王は水くんならではの場面だからキムくんで再演する必要はないと思っていたけれど、中日『Heat on Beat!』ぐらいには使ってくれてもいいのになー、という希望はあった。
 水くんが登場するまでの、娘役たちの場面が大好きだったんだ。
 だから最初のとこだけ使って、水くんの場面は別物にアレンジして、と。きりやんがそうだったように。
 てゆーか、わたしは圭子ねーさまの歌を歌うまっつが見たかった(笑)。
 男役バージョンにアレンジして、まっつの声で、斉藤せんせの「ラビリンス」が聴いてみたかった!
 たたみかけるソプラノの迫力は、アルトの直接的な響きに直して。
 『男歌』で斉藤せんせのアレンジがえーらいこっちゃ!だったからさー。ナニこの「I LOVE YOU」、ショーで使うことを想定したアレンジ?? と首をかしげた、そんな斉藤せんせの曲をほんとにショーで歌ってリベンジだ! ……てな(笑)。
 まあまずそんなややこしいことをしてもらえるとは、思ってませんでしたが、勝手な妄想として。

 圭子ねーさまの歌を歌うまっつ、は斉藤せんせの曲ではなく、「La Vida」でしたな。
 振付まで圭子ねーさまのままで笑った。つまり、キムくんに後ろから抱きつき、衣装を脱がす(笑)。

 これくらいのキムまつはいい温度感ですな。
 ホモ倶楽部ではびびりまくったけど(笑)。

 んで、そのあとの黒燕尾はもう出ないのかと思った。
 場面の最後の方にセンター奥から現れるのに感動。特にナニがあるわけじゃないけど、端から出ていつの間にか混ざる、という選択肢もあったのに、わざわざセンターから登場させてくれてありがとう。

 ダンスの揃いっぷりがコム~水時代の雪組の特色のひとつなのに、この黒燕尾群舞はなぜかえらいことになっている。
 まっつが出てくると視界が狭くなるので全体がどうかはわかんないんだけど、そこまでがすごい状態だったから、最後までそうだったのかなあ。
 まっつはとってもまっつ、相変わらずの黒燕尾っぷり(笑)。いつまでもそのままのまっつでいて欲しいなあ。

 
 んで、感動のパレード。
 全ツだから羽根はナニかしら背負わせてもらえるだろうとは思っていた。普段タカラヅカを知らない・見ない地方のお客さん用だから、「タカラヅカ=大きな羽根」という対外的イメージを番手がどうとかいう内部事情で捨てるわけにはいかない。
 でもなにしろまっつなので(笑)、それでも大きな羽根は必要ないと判断されて、3番手羽根でお茶を濁されるかもしれない。や、それすらまっつは背負ったことナイですから!
 もしくは、ひろみちゃんやコマくんたちとトリオで3番手羽根とか。十分あり得る。地方のお客さん用に、大きさではなく数で羽根だらけにしてみました!みたいな。

 だもんで、ほんとに2番手羽根だったことに、感動しました。
 すげー。羽根ナシから一気にこんなことに(笑)。

 最後から3番目、娘役トップさんの前に降りてくるんだもん。
 すげー。

 そしてまさかの、下手先頭。
 銀橋ナイけど(笑)、ステージ端に勢揃いするときにまっつが下手先頭だ。
 すげー。

 と、感涙モノでございますが。

 ひとつ、落とし穴が。

 上手に坐ると、フィナーレまっつが一切見えない!(笑)

 トップさんの横って、こーゆーことなんだ!
 キムくんの大きな羽根に、まっつの小さな身体はすっぽり隠れ、影も形もございません(笑)。
 や、4番手以下の位置なら、ここまで見えないことはない。隣が大きな羽根の人でも、並ぶ位置は同じ線の上だから。でもトップさんは一歩前にいるので、真横の人は見えない。
 
 いや、やっぱ今までも見えないことはしょっちゅうあったか。立ち位置に関係なく。
 なにしろまっつ、小さ……ゲフンゲフン。
 よくあることですよね、なにしろいつでもいちばん小さ……ゲフンゲフン。


 市川のあとは大阪ともうひとつ地方へ行く予定で、楽チケは友会ではずれたので持ってないんだが、どうしたもんか。
 行けばサバキはあるのかな。←全ツ楽にチケ無しで遠征した、行き当たりばったりな過去アリ(笑)。
 雪組全国ツアー『ロック・オン!』は、なんつーか……まっつのテンションについていけない(笑)。

 オープニングのギラギラぶりがねー、登場からして赤面モノというか、まっつなのにアクティヴでパッショネイトでハイテンションで……アンタ誰?!状態。

 あのまっつががなるよーに主題歌を歌い、短時間でもセンターにいる、という事態に混乱。
 そ、そうか、これは『ロック・オン!』で、まっつの立場的にこのパートをあの場所で歌うんだ。
 たとえ部分的にであっても、センターで歌うまつださんを見るのははじめてで。ええ、そんな立場になったことのない人ですから。(某ロケットボーイ以外で・笑)

 開演前にプログラムで出番だけざーっとチェック、彼を中心とした場面ナシの、劇団意志のはっきりとした扱いには「ちくしょーっ!!」と思いましたが(笑)、それでも今の立場に心臓ばくばく、半年前には夢にも思わない破格の扱い。

 なんかまっつのテンション変だー、と思っていたけれど、特に驚異……つか、はっきり「こわい(笑)」と思ったのは、客席降りにて。
 まっつは下手先頭なんだけど、だーっと下りて通路を走る、そのときに通路際のお客さんとハイタッチしていきます。
 おお、まっつがハイタッチ! と、ここでひとつ驚く。
 客席のかなり後ろの方まで行って、そこでしばらく歌い踊るわけだが、そこのまっつが……どうしちゃったの??
 の、のりのりでいらっしゃいます……。
 全身使って飛び跳ねるよーに踊り、指さしだーの、一本釣りだーのをがんがんなさってます。

 だ………誰? この人、誰? 知らない人だ……。

 さらに駄目押しの驚きは、客席降りタイムが終わってみんなが波が引くみたいにざーっとステージの上に戻る折、まっつひとりノリノリでいつまでも通路奥にいて、客席に向かってアピりまくっているという……。
 いつまでもやってるからステージ戻るの遅くなっちゃって、上手通路先頭のみみちゃんがもうステージへの階段上ってるあたりで、まっつがすげー勢いで走って追いつこうとして、でも明らかに遅れてますよっていう。
 キムくんよりは先にステージ戻ったからセーフなんだけど。

 あのまっつが、客席アピール?! ファンサービス?! 繰り返すけど、あの、まっつが?!!

 いや、彼はこの公演で2番目の位置にいる人なんだから、お仕事としてそれくらいはやらなきゃいけないと思う、当然のことをしているだけだと思う。
 それでも、びびる。アレ誰?!と、終演後にまっつメイトとガクブルするくらいには、特異な姿!!

 あのまっつの背中にはチャックがついていて、中に誰か別の人が入っているのかもしれません……。

 とまあ、オープニングですでに息も絶え絶えでした(笑)。

 
 でもってオペラ座の代わりの新場面って、そのかバウの使い回しなんだね。
 予備知識なく見ていたので、フロックコートの男たちが古いレコードの音に合わせて絡み出して「え、コレあたしこの間観たわよ??」ととまどった。

 紳士倶楽部……というか、ぶっちゃければホモが集まっていちゃこらする目的の部屋で、同好の士だからそこにいる人誰口説いてもOK!っていうか、実際そういうもんかもしれないけど、みんなほんとてきとーにあちこちでいちゃこらしていて、と。
 そこでのまつださんの貫禄が、なんかすごいです(笑)。

 若い男の子たちがそれぞれカップルになって踊ってたりするんだけど、まっつひとり相手ナシ……というか、相手にしていない感じ。
 まあひとりだけ年長なのはあるだろうけど、それにしてもこのお高い感は……(笑)。

 こーゆー場面ではなんつってもひろみちゃんの魅力が炸裂しますな。あの美貌、あの背徳的な色気。彼は実にいい仕事をしている!
 そしてまっつは、ひろみちゃんとはまったくチガウ色気をまとっている。
 組が変わり、立場が変わってもまっつはまっつ、このエロさはまっつ特有のモノだ。
 ただ、まっつのそのエロさは……キムくんと合ってるのかなあ?

 えー、ここでキム×まつがあります。

 ホモ部屋へやってきたホモ達人のキムくんが、そこにいる男の子たちを次々口説いていくという振付。男の子たちはみんなメロメロ腰砕け、と。
 されど最後に残ったお高い男、まっつは一筋縄ではいきませんよ……と対峙して。

 ふたりのダンス、リフト付き、そしてさらにキスシーン有り。

 えーと。
 けっこうぽかーんな感じで見ました。ナニが起こっているのかと(笑)。

 まっつが、受です。

 えーと、そのー。
 まっつが、なんつーんですか、「受け身です」という役割のエロ顔をしております。

 いやそのしみじみ、まっつって、攻しかやってこなかったんだなあ、と思った(笑)。えーっと、若い頃はともかく、大人になってから。
 『EXCITER!!』でまとぶさんを口説くところとか、彩音ちゃん口説くところとか、とにかく彼のエロ場面ってのはS基本の攻基本……同じ場面でも自分から上着脱いで悶え顔しちゃうみわさんとは属性がチガウとゆーか。
 あんなにちっこくて華奢なのに、何故か攻ばっかやって来た人だから(女役もやったことないしね)、いざ受をやるとなると……大変だなー(笑)。

 まっつは真面目に役割分担する人だと思う。その昔、『ファントム』お茶会で「あそこは受として応えないといけないと思って」とか発言したんだよね? 受け身、ではなく「受」と言い切ったことでまっつってBL用語知ってるんだ?!とファンがびびったという(笑)。
 フィナーレの男役群舞にて、なんか王子にスイッチ入っちゃったらしく、まっつ相手にBL的な絡みを仕掛けてくる、それでなんかまっつもそれらしい感じで絡んでいる、それについての発言が、上記の「受として」。
 当時はいろんなところで「まっつが、自分は受だと言った!!」と話題になりましたね……(笑)。

 まあそういう人だもんな、きっと今回も大真面目に「受として応えないと!」と思ってるんだろうなあ。

 なんだろう……見てはいけないモノを見た気がする(笑)。

 キムくんはいいんだ、彼のああいう能動的な役は好きだ。毒のある役は大好物だ。
 しかし、その相手がまっつだと……合ってるんだろうか、このふたり?

 キスシーンまであると思わなかった……というか、アレ、ほんとにキスシーンなの?
 初日は2回ともふたりの顔の位置がびみょーっつーか、「口、当たってないよね、その角度と位置ぢゃあ」な感じで、顔をぶつけているだけで、キスしてるよーに見えなかったんだが……がんばれ同期……もっと息を合わせてだな……。

 なのにその直後、キムくんが口元をぬぐいながら「にやり」とするので……いやもお、どうしようかと。その、いろいろと(笑)。

 とりあえず、楽しいです。萌えかどうかは置いておいて(笑)。

 ……相手がそのかだったら萌え狂ってると思いますが……キムくんがどうとかぢゃなくて、オレもともと園松だから。つか、キムくんにもこんなに合わない相手役でごめんなキモチっつーか(笑)。

 リピートすればきっと目も慣れて(笑)、萌えられるようになるんだと期待しておきまっつ。
 雪組全国ツアー『ロック・オン!』

 まっつが、フィナーレで羽根を背負っています。

 すげえ。青天の霹靂。2番手扱いでも2番手羽根はナイかと思ってた(笑)。
 とゆー、とても貴重な公演、貴重な作品でございます。
 なにしろ合言葉は「最初で最後」。まっつがこんな扱い受けることは2度とナイでしょうし、堪能せねば。

 と、とてもありがたいショーです。
 それは確かで、その点は感謝感激です。

 が。
 それはそうとしてこのショー、つまらな……ゲフンゲフン。盛り上がらな……ゲフンゲフン。

 いやその、ショーの構成、内容がね……すごくびみょー(笑)。

 『ロック・オン!』はそもそも、水くんの退団公演ショーだった。前トップの退団ショー作品を再演する新トップなんて当たり前、めずらしくもなんともない。
 だからそのことはビミョーでもなんでもナイ。
 水くん主演の『ロック・オン!』は良い作品だったと思う。ソレが全ツ再演キムくんバージョンだとなんでこんなことに……って、使い回しの落とし穴について、考える(笑)。

 
 ショーはオリジナル作品なんだから基本アテ書きだが、退団作品となるとその色がさらに濃いのは当たり前。
 『ロック・オン!』は水くんのために書かれた作品だ。
 そして今回、全ツで使い回すにあたり、ナニに気を遣ったのか、水くんのために作られた部分、水くんならではの部分を、取り除いた。

 過去の「トップ退団ショー作品」を次のトップの全ツや別箱公演に転用する場合でも、あまり気は遣われないというか、そのまんま使われることが多い。たとえば、12月24日に退団したオサ様サヨナラ作品『ラブ・シンフォニー』は、わずか1ヶ月と1週間後の2月2日には中日劇場でまとぶんのプレお披露目公演として使われた。
 前トップファンのキモチとか、新トップファンのキモチとか、組ファンのキモチとか、一切配慮ナシですよ? たった5週間後に場面差し替えナシでそのまんま新トップさんで再演ですよ? 歌詞が一部変わったり、振付が一部変わった程度、イメージ的にはまるきしそのまま。歌詞の変更だって、別れの言葉を単に愛の言葉に書き換えた程度っすよ。お手軽すぎて笑える。
 それくらい、使い回しは当たり前。
 劇団都合優先、誰にも気は遣わない。

 なのに何故か『ロック・オン!』は場面が差し替えられていた。
 水くんならではの場面を使わなかった。
 今までそんなことを基本しない劇団が、何故ここで行ったのかはわからないが、とにかく、した。

 そして、サヨナラ作品の水くんならではの場面、というのは、その作品全体を通しての要にあたる場面、なのだ。
 水くんのための作品なんだもん、当たり前だよな。
 車でいうなら、エンジン部分ですか?
 フレームはそのままだから、エンジンがなくても同じ姿だけど、エンジンないと走りませんよ?

 なんかすごく安直に、エンジン外さなかった? 三木せんせ?

 差し替え自体はいいんだ。
 『ラブ・シンフォニー』くらい、そのまんま再演する方がおかしい。新トップコンビのためにはデュエダンしか新しくしなかったのは、実に中村Bらしい投げやりさだ。
 通常は1場面くらいは、それとは別に変更したりするもんだ。同じスケジュールだった月組の『Heat on Beat!』もそんなもんだったし。

 問題は、どう差し替えるか、だ。

 過去作品の差し替えは、エンジンを全部ではなく、一部分だった。ここのパーツだけチガウものに、とか、差し替えても差し障りのない程度だった。
 だから多少馬力の落ちる「本公演じゃないから、これで勘弁してよね」な演出でも、なんとかなった。

 しかし今回は、エンジン全部取り外してしまった。
 そして代わりに、別のものを詰めて、とりあえずフタをした。
 えーっと……別のもの詰めても、エンジンでないと車は動きませんよ?
 せめて別のエンジン積んでくださいよ。

 作品の要部分をカットして、スカスカになった骨組みに、明らかにレベルの落ちるモノを詰め込んで、とりあえずフタをしましたね?
 全ツだから本公演より見劣りして当然、ということに逃げましたね?

 と、まあ。
 使い回し再演の失敗例みたいなことになってます……しょぼん。

 クリエイターとして、どうしてこんなことになっちゃうんだろう。

 もしもわたしが『ロック・オン!』を作った人だとして、これを元に一部改稿して再演する、となると、どこを切って代わりにナニを入れるか。
 自分の作品を愛し、誇りを持つならば、「カットしてはならない部分」ってのが自ずとわかると思うんだけどなあ。
 文章書いていても、その文章のキモとなる部分、ここをカットしてしまったらその文章の意味がなくなる、魅力半減だってところは、自分でわかると思う。

 なのに、そのいちばん大切な部分を自分でカットして、かわりに作品の前後の流れもナニも関係ない、よくわからないモノを詰め込んでしまうなんて。
 その詰め込んだモノがものすごいハイクオリティで、カットしたモノと同等の力があるなら、前後のつながりも作品カラーも無視して上等かもしれないけれど、どう見てもアレなもので代用するって……。
 クオリティ落ちるのは仕方ないというならせめて、全体の流れを汲んで「ひとつひとつは大した場面じゃないけど、全体通して見ると味があるよね」とかにすればいいのに。
 
 自分の作品を、どうしてこんなふうにしてしまえるのか、クリエイターとしての姿勢が謎だ、三木せんせ。

 
 いやその、よーするに、水くん主演版『ロック・オン!』で、面白かった場面はなくなり、あまり面白くないなあ、と思っていたところのみまるっと残っていて、付け加えられた場面も長い方が相当微妙だということなんです、わたし的に。
 プラス部分がなくなり、マイナス部分にマイナスを加えられ、なんともトホホな作品になってます、全ツ版『ロック・オン!』。

 いちばん盛り上がるべき、新ラテン場面の盛り上がらなさはなんなんだろう……。
 初日は客席も困惑していた(笑)。
 昼公演は気合い入れて最初から手拍子したら、だらだらと長くて手拍子が力尽きてゆき微妙な空気になった。舞台の上ではキムくん他出演者たちが必死に「オラオラオラ~~!」とか「ヒュ~~!」とか言ってるのに……。
 夜公演は手拍子も起こらずしーんとしていて、舞台の上ではキムくん他出演者たちが必死に「オラオラオラ~~!」とか「ヒュ~~!」とか言ってるのに、みんなしーん、さすがに長々とそんな感じなんで手拍子しないとまずいかなって雰囲気でぼちぼち手拍子が起こった……ら、ときすでに遅し、場面終了、空気は冷えたまま。
 舞台上で必死に盛り上げているみなさんと、客席の空気の断絶感に、どうすればいいのかとまどった(笑)。

 これが「月の王」の代わりっすか、三木せんせ……。
 てゆーか、新場面はどっちも月組からですか? 安直だなあ。

 前半のピアノの場面の下がり方も、なかなかすごいものがあったけど。(あれは初日初回に観てよかった。客席の反応・空気がすげー正直で……いい経験でした・笑)

 てゆーか、トップコンビお披露目なんだ、デュエダン入れろ。最低限、これだけはなんとかしてほしかったよ、マジで。
 
 
 初日なので、観客もとまどいまくっていたけれど、リピートすればきっと慣れると思う。
 そして、最初で最後(笑)のまっつを堪能するためにも、盛り上がる所存でございます。

 と、問題点は先に書いたので、次からは萌え語りだー!!
 『愛のプレリュード』オープニング、白い衣装でせり上がってくるフレディー@まとぶんの激痩せした姿に胸を突かれ、動揺しまくった。
 が、それ以上に……今まで見たこともない表情に、うろたえた。

 見たこともないったって、わたしが知るまとぶんなんて彼のほんの一部でしかなく、わたしが知らないだけのことかもしれない。
 それでも、わたしがはじめて見る表情だった。

 まとぶんは良くも悪くもとても正直な人で。
 芝居だからそれは確かに演技なのだけれど、技術で演じるというよりも、そのキャラクタになりきることで、自分の感情で演じる人だ。
 だから悲しいときは本当にまとぶん自身が嘆き悲しんでいるのだろうし、喜んでいるときはまとぶん自身がうれしいと思っているんだろう。
 それが役者として正しいかどうかは知らないが、彼のナマの感情は、慟哭や叫びは、客席にいるわたしに届く。突き刺さる。
 今までもそうやって彼に泣かされてきた。

 しかし。
 今日の彼は、なんなんだろう。
 ときどき見せる、今まで見たことのない顔は、なんなんだろう。

 項羽@『虞美人』で見せていた、心を失ってしまった顔ともチガウ。
 耐えているとか激情に揺れているとか、そういう顔でもない。

 「フレディー」としての感情、表情の合間合間に、ぽん、ぽん、とその「知らない顔」が混ざる。

 喜怒哀楽で分類すれば、間違いなく「悲しい」顔だ。
 つらいとか苦しいとか痛いとか。
 そういう、見ているモノの胸が突かれる顔。

 でもそれは不幸だとかマイナスの色を持ってはおらず。
 ただ彼から目が離せず、愛しさばかりがこみ上げる。

 で、フレディーさんってばもお、あちこち顔面崩壊気味で、そこまで顔芸しちゃうと美しくないよ?ってくらい、嘆いたり怒ったり叫んだりしてました。
 なにしろ脚本がアレ過ぎるので、フレディーさんの言っていることは支離滅裂、意味がまったくわからない。言葉の意味はスルーして、演じている人の心を感じ取るのが正しい観劇方法(笑)なので、わたしはひたすらまとぶんの芝居のみに集中していました。
 まとぶんは自分の中のすべてを出し切る勢いで、タカラヅカ的に美しい域を超えた表情で、「フレディー」を演じていました。

 そして、真ん中のアツさに負けない花組っこたちの演技。
 キャシー@蘭ちゃんのきーきー具合もグレードアップ……大変な役だよなあコレ。悪いのはスズキケイですよほんと。
 ヒロインのジョセフ@壮くんは、銀橋ソロのアップテンポぶりにびびり、ラストの渾身の笑顔にえりたん健在ぶりを見ました。

 
 まとぶんの「表情」は、やっぱりフレディーさん固有のモノではなかったんだと思った。
 そのあとのショー『Le Paradis!!』でも、やっぱりあちこちで、あ、と思った。
 うまく表現できないし、第一それがなんなのか、わたしが勝手に引っかかっているだけで、他の人たちには見慣れたナニかなのかもしれないし。

 まとぶんは全開に笑い、ときどきやっぱ行きすぎていて、美しいを通り越した笑い方をしていた(笑)。
 そんなところも、すごくまとぶんなんだと思う。

 
 まとぶんや他の退団者たちを視界の中心においての観劇だったんだけど、中詰めあたりでふと、舞台を俯瞰して眺めた。
 なんか唐突に正気に返るというか、目が覚めるというか。

 舞台には、電飾が輝いていて。
 これでもかと一面に光があって。ホリゾントの鏡も含め、光は光を反射し、なんともまばゆい、美しい空間で。

 タカラヅカって、すごい。

 心から、思った。
 ほんとに、なんてすごい舞台で、公演で、わたしは今ここにいて、すごいモノを見ているんだろうかと。

 今さらなんだけど。

 そして、この美しい舞台が今こうして上演されていること、中止になったり、劇団自体がなくなったりしてなくて、良かったと思った。
 所詮娯楽なんてモノ、生きる上では不必要なモノだ。なくなったところで、人間は生きていける。
 だけど。
 美しい、と思う、この今一瞬の感動のために、エンタメは必要なんだと思う。

 美しい。
 そのことだけに心が揺れて、満たされて。

 この美しい舞台を作る人たちに、こころから拍手をした。
 感謝と、祈りを込めて。

 
 まとぶんのサヨナラショーでは、ムラで観たときほどはまっつの不在を感じなかった。
 さすがに、サヨナラショー観るの3回目だもんな。ムラ前楽で観たときの喪失感は半端なかったが、東宝楽では平静に観られたと思う。
 まとぶんの思い出は、わたしのなかのまっつの思い出と直結しているから、曲のひとつひとつに思い入れはありすぎるけれど。

 生き生きと踊るまとぶんと組子たちを見守って。

 
 退団挨拶がそれぞれ短めなのは、上演時間短縮のためだろうと思った。
 余震警戒だの節電だの理由はいろいろあるんだろうけれど、この建物にこれだけの人数を密集させておくリスクは、劇団としては少ない方がいいと判断したのか、短縮できるところはするつもりなんだなと思った。
 それくらい、退団者の挨拶は簡潔だった。

 予定より、かなり早く進行できたと思う。
 というのも、ロビーに貼ってあった「終演時刻」は午後6時20分だった。
 なのに、6時10分には1回目のカーテンコールも終わってたんだもん(笑)。
 客電が点いて明るくなったから、時計がよく見えた。

 あと10分は劇場を使ってイイってことだから、カテコしていいんだな、とわたしも安心して拍手を続け、幕が上がるのを待った。

 ところが、そっからが、もお(笑)。
 10分も余裕あるからと、出演者もスタッフも余裕でカーテンコールに応えたんだろうけど。
 退団者だけの「トークショー」が、ぐだぐだ(笑)。
 話進まない、終わらない。
 下級生たちはしっかり端的に話すんだけど、期待通りしゅん様がぐだぐだぶりを発揮、それにいちいちまとぶんがツッコミを入れ、しゅん様がソレに生真面目に反応、もとの話はどこかへ行って……とめちゃくちゃに。
 もちろんめおくんも右に同じく。
 袴姿で花楯を持って、緞帳前でまさかのどつき漫才。

 泣き笑いの客席と、出演者。
 余っていたはずの時間は押しまくり、オーバーしまくり、終演したの6時40分くらい。……ヲイ(笑)。

 笑いで収めるまとぶんのまとぶんらしさ。
「愛してるか?」のかけ声は、花組伝統としてらんとむさんにも是非継承して欲しい。
 オサ様のかけ声に合わせて叫んだのは、つい昨日のことのようなのに。

 
 「入り」はなかったけれど、「出」のパレードはちゃんとあった。
 それが救い。
 いつもならマスコミ用の櫓が組まれているのにソレもなしで、退団者はマスコミの前でポーズを取ったりしない、ただ花道を歩くだけのシンプルなパレードだったけれど。
 ちゃんとあって、良かった。

 ここでも、下級生たちはすごく早く出てきて、日比谷のこの場所に何千人だかの人間を集めるリスクを考えての処置なんだろうな、早く解散させたいんだろうなと思っていたら。
 しゅん様の出が、いきなり遅くて(笑)。彼よりあとは結局いつもの千秋楽パレードの時間って感じだった、まとぶんも含め。

 拍手で見送った。
 感謝と、多幸の祈りをこめて。

 ひとつの時代が、終わったんだ。
 まとぶさんが、幸せでありますように。

 舞台を観ながら、ここまで切実に祈ったのは、はじめてかもしれない。
 卒業していくタカラジェンヌに感謝と多幸を祈るのはいつものこと。ありがとう、出会えて良かった、これからもどうか幸せに。
 わたしは所詮ただのヅカファンで、ヅカファン人口の何万分の一にしか過ぎず、彼女たちの人生に対してナニか思うのはおこがましいってゆーか、どうこう言える立場じゃない。別れは悲しいし寂しいから、うだうだ言ったりはするけれど、ほんとのとこは仕方ないと受け止める。
 それがどんな決断、どんな結果であっても、最終的に選んだのはジェンヌ自身なので、わたしはただ外側から幸あれと見守るのみ。
 だからいつだって、幸せになれ、と願って退団公演を観劇するけれど。

 なんかもお、すごい勢いで、まとぶんの幸せを祈った。

 
 トップスターの退団公演、東宝千秋楽。
 それは、ヅカファンにとってはとても大切な日で、神聖な儀式で。
 卒業するスターの特別なファンでなくても、ヅカファンであれば誰もが特別に考え、その日の予定が恙無く終えられることを望む、そういう日だ。

 トップでなくても、スターと呼ばれる立場にない下級生であろうと、あらゆるジェンヌにとって、卒業の日は特別。
 だけどそこにさらに、トップスターは「タカラヅカのトップスターである」というお約束、儀式のようなイベントがある。
 望もうと望むまいと、それがトップスター。特別であることは、すでに義務だ。

 その伝統を受けて、花組東宝公演千秋楽、早朝から劇場前にはたくさんの人々が詰めかけていた。
 「入り」はないと発表されていたらしい。ファンクラブというものに疎いわたしには、それがどうやって決まったことなのか、どうやって伝達されたことなのかわからない。
 たしかに、劇場前には会服を着た人々がいなかったように思う。
 在団生たちは自分の会の前で立ち止まって手紙を受けることなく、人混みの前を等しくスルーして楽屋口に消えていく。帽子にサングラス、加えてマスクなどで、顔がわからない人たちがほとんど。
 千秋楽くらいしか東宝に来ないわたしには、そこまで顔を見せてくれない姿で劇場へ出勤する生徒さんたちを見るのははじめてだった。

 でも、卒業する生徒さんたちはちゃんと顔を見せてくれた。
 白い服を着て、清々しい笑顔を見せてくれた。
 ファンの人たちが集まっているところで挨拶をしたり、最後の声掛けをしたりとかいうことはなかったけれど、ちゃんと詰めかけたファンの前を歩いて楽屋へ入っていった。
 沿道の人々からは、拍手が起こった。
 会の人たちが取り仕切っているわけではないから、自発的にだ。
 ヅカファンならば、拍手をする。今日を限りに花園を巣立っていく美しい人たちへ、感謝と激励を込めて、手を叩く。

 イベントとしての「入り」はないということだけど、会に入っていない、ギャラリーしかしたことのないわたしには、卒業生の最後の楽屋入り姿を見送るという点では、通常とあまり変わりはなかった。

 でも。
 トップスター、まとぶんはどうなるんだろう。

 通常のトップスターの最後の入りは、劇場入口に大きな花のアーチが作られ、組子たちもロビーまで出迎え、とても盛大なモノだ。
 しかしこの日はアーチもなにもない。「入り」はしないということだから、それは当然かもしれないが、なんだか不安な劇場前姿だった。
 あるべきものがない、というのは、こんなに落ち着かなく、不安な気持ちになるもんなんだと、はじめて知った。

 わたしは退団者だけでなく組子全部眺めたいからと楽屋口の向かいにいた。
 しかし、まとぶんをひと目見たくてやって来た人たちの多くは、楽屋口前ではなく、劇場入口正面にいたのだと思う。トップスターは通常楽屋口ではなく、劇団正面入口から入るから。
 ガラス越しに出迎える組子の姿も見たいだろうから。
 詰めかけたギャラリーの中心点は劇場入口正面で、そこから左右に広がっている。人々はクリエ前にもたくさん並んでいる。トップスターが帝国方面へパレードしてくれることを期待して。

 だけど。
 現れたまとぶんの車はまっすぐ楽屋口前に停まり、降車したまとぶんはそのまま楽屋口に入った。
 立ち止まることすらなく、沿道を埋めたファンたちに一瞥もくれず、足早にドアの向こうへ消えた。

 悲鳴が上がった。
 落胆の声だ。
 まとぶんの車が来た、と待ち望んだ声と拍手が起こった、そのわずか数十秒後に。
 拍手は消え、歓声は嘆きの声に変わった。

 「入り」はない、というのは、こういうことなんだ。

 悲しかった。
 ただもう、かなしかった。

 楽屋口前にいたわたしはまとぶんの白服姿も見られたけれど、劇場前で彼を待っていた多くの人たちはろくに見られなかったのではないかと思う。
 最後にひと目会いたくて、姿を見たくて、早朝から沿道に並んでいただろう人たちの、嘆きの悲鳴が、胸に痛かった。
 ファンクラブに入っている人たちは別にお別れの場があるのだろうけれど、そうではない人で、この入りだけが最後のチャンスだった人も、いただろう。
 会に入って応援するのがタカラヅカの正しい姿だとは思うけれど、そうでない人たちにも門戸を開いている以上、どんなスタンスで応援したっていいはずだ。そんな人たちが「入り」はない、ということを知らず、劇場正面で何時間も待っていたとしたら、ないと聞いてなお、一縷の望みを掛けてそこにいたとしたら、切ないことだ。
 また、会に入っている人たちだって、ふつうに「入り」のイベントをしたかったろうし。
 どの立場の人にとっても、切ない。

 そして。
 あのまとぶんが、自分のファンに、タカラヅカのファンに、こんな思いをさせることを望んだはずがない。
 待っていてくれた人々に手を振って、笑顔を見せて、「ありがとう」と言いたかったに違いない。
 なのに彼は、詰めかけた人たちをそこにないものとして、背を向けた。

 嘆きの悲鳴は、彼に聞こえたのだろうか。

 どれほど、かなしかったろう。つらかったろう。

 
 震災後の東京での公演。
 募金活動や入り出の自粛をどうこう言うわけではまったくない。
 「入り」がないなんてひどーい、とか、そーゆーことを言いたいわけじゃないんだ。
 それが劇団の判断であり、生徒たちの思いならば、受け止める。
 これが今目の前にある「現実」だからだ。
 大好きな人たちが懸命に行っていることならば、受け入れ、「大丈夫だよ」と言いたい。
 思いは届いているよ、大好きだよって。

 思わず落胆の声を上げた人たちだって、それはまとぶんを責める意味で上げたわけじゃないだろう。
 悲しいから、もれてしまっただけで。

 なにが悪いのではなく、ただ、悲しい。
 震災で苦しんでいる人々から比べればたかが娯楽でナニが、てなものだが、そういう次元の話ではなくて。

 それぞれが、それぞれの立場で、立ち位置で、苦しみながら懸命に生きている。

 それを見守り、見守ることしかできないわたしは。
 ただなんかもお、かなしくて、祈ることしかできない。

 花組のみんなが幸せでありますように。卒業していくみんなが幸せでありますように。
 そして、まとぶんが、花組トップスター真飛聖が、幸せでありますように。 

< 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 >

 

日記内を検索