翼の生えた蛇。@エリザベート
2007年8月13日 タカラヅカ 『エリザベート』という作品の「魅力」について、つらつら考える。
なんだってこの作品は、こうも多くの人々を魅了する「力」を持っているのだろう。
そりゃ、いろんな要因はあるだろうさ。
その要因のひとつに、さまざまな解釈を容認する、懐の深さがあると思う。
答えが、ひとつではない。
それゆえに、多くの人が自由に物語を、作品を受け止める。
観客が観たいように観、好きもキライも含め、意志を持って論じることが出来る。
理詰めでがんじがらめになっていない、ゆるさがある。隙間がある。
たったひとつの解釈、ひとつだけの答えしかない作品なら、こうまで人の心を動かさないだろう。
だから「さまざまな要因」をひとつずつ上げていくことも無粋ってもんだ。
答えがひとつではないという魅力を持つ作品なんだから。
観客ひとりずつが数え上げるべきことであり、ひとりずつチガウところを要因として上げるだろうさ。
とゆーことで。
『エリザベート』を観てなにを感じ、なにに萌えるかは、本人次第。
正しいもまちがいもないのだ。
トート@水萌え。
今回のトートは、ヘンナヤツだ。
シシィを愛しているんだかどーだか、よくわかんない。
愛しているのだと思うよ。たしかに。
だがその愛の表現方法が、人間の感覚を超えていて、よくわかんない。
その「異生物」感が、萌えだ。
トートはシシィを愛し、彼女の愛を手に入れたいと思っている。
なのに彼のやることはめちゃくちゃ。
とても「愛して欲しい」相手にしていいことじゃない。
好きな相手が嫌がること、彼女に嫌われるよーなことばかりを嬉々として繰り返している。
ここまでなら「愛情表現のチガウ異世界の存在だから、仕方ないな。人間がナニをよろこび、ナニを嫌うかわかってないんだな」で済む。
ところが。
このトートって男の愉快なところは、シシィ以外にはやさしいってこと。
革命家たちにお愛想してみせたり、ルドルフをいい子いい子してみたり。
人間の喜ばせ方、知ってんじゃん!!
彼らにカケラも愛情持っていないくせに、彼らにやさしくし、彼らがのぞむ言動を与え、彼らから愛や信頼を得ているんじゃん。
その美しい姿でやさしくすれば、人間なんてイチコロ☆てなもんなんでしょう?
人間のたらし込み方なら、知っている。
実際に、やっている。
なのに。
彼が愛するただひとりの女には、ソレをしない。
その矛盾が、萌え。
バカだねえ、トート。
革命家たちや、ルドルフにしたみたいに、シシィにも接すればよかったんだよ。
相手が望んでいる言葉をかけてやって、やさしくするの。嘘くさい慈愛の笑みなんか浮かべてね。
エリザベートだけが知らない。
やさしいトートを。
なんて不自由な人たち。
なんてもどかしく、愚かで、愛しい人たち。
トートは人間の操り方を知っているのに、シシィにはソレをしない。
彼はナマの感情でシシィと対峙する。
野生の魂を持つ少女シシィは、本能のままにトートを否定し、敵として威嚇する。
孤独なシシィこそが、誰よりもやさしさを求めていたはずなのに。
ひたすらな肯定と寛容、それを与えたら、簡単に彼女の心を手に入れられただろうに。
トートが彼女に与えるのは、さらなる試練。
否定し、追いつめ、戦い続ける。
切っ先を向け合う剣豪同士のような、緊迫した関係。
やさしくできたのに、しない。
知っていたのに、しない。
そのわけわかんなさが、たまらない。
「愛するエリザベートに対してだけは、欺瞞のない真実の姿で接したい」から、革命家たちやルドルフにしたようにお手軽な、相手の心を得ることを目的としただけのやさしさを与えなかったのだ。
……なーんて理屈は、存在しない、と思う。
トート、モノ考えてなさそーなんだもん。
本能的な部分で行動しているように見える。
無意識にやってるんだろう。
道具とする人間たちへはやさしく計算尽くで近づき、愛している相手には本音で。
えーと。
ふつーソレ、逆だから。
どーでもいい相手にはどう思われてもいいから本音で好き勝手して、愛する相手にはよく思われたいから計算してやさしくして。
ふつーのことができない。
トートの異生物感。
あまりにも、わたしたちとは別の次元で生きる存在。
彼の感覚のちがいが、愛しい。
人間の感覚を持っていたら、もっとふつーだったら、あんなに傷つけ合うことはなかったのに。
トートとエリザベート。
鏡のように似たふたりは、似ているからこそ傷つけ合った。
エリザベートは人間だから、彼女の意志も感情の流れも、わたしたちは理解できるしついていけるけれど、トートは困る、わけわかんない(笑)。
シシィを傷つけ追いつめ、そのたび拒否されて、そのたび、傷ついて。
シシィに拒否されると水トートは威嚇したり激怒したりと、過去のトートとはチガウ言動を取るんだけどね。過去のトートのように、人間らしく傷ついたりはしないんだけどね。
それでも、傷ついている。
感情の発露が人間とはチガウだけで、彼は傷ついている。
傷ついているのに、彼女の拒絶が彼の胸を引き裂いているのに、血が流れているのに、彼は「痛い」とか「苦しい」を表現できない。
人間なら「痛い」と泣くところを、攻撃したり激怒したり。
なんつーか、生理と行動が一致していないみたいだ。「おなかがすいた」と風呂へ入り、「ねむい」と言って買い物をしたり。
へんだなあ、おなかがすいたからお風呂に入ったのに、ぜんぜんおなかがいっぱいにならないや。ねむいから買い物に出ていろいろ目につくモノを好きなだけ買ってみたのに、ねむいのがなおらないや。
腹が減ったならメシを食え、眠いなら寝ろ! 他のことをしたって、満たされないっつーの。
それがわかっていなくて、まちがった行動を繰り返す。重ねていく。
その、せつなさ。
トートがトートである限り、こーゆー異生物である限り、誰も彼を救えない。
彼は飢え、彼は欠けたままだ。
おなかがすいた……でも、空腹を満たすすべを知らない。
そんな、不自由さ。もどかしさ。
一瞬見せるかなしい瞳。
何故叱られるかわからない子どものような。
次の瞬間、緑色の蛇は鎌首をもたげ、長い舌を出して威嚇する。
たしかに、傷ついていたのに。
傷つけられたときの反応が、人間とは明らかにチガウ。
バカだね、トート。
かなしいね、トート。
そのままじゃ、永久に人間には愛されないよ。
それでもそのまま、あがき続けるんだね。
トートは結局、変わるけれど。
「死なせて」と言ってきたシシィを突き放し、「死は逃げ場ではない」と言ったときから。
わたしたちのいる側まで、翼を失って堕ちてくるけれど。
それまでのアホさ加減、異生物感が、萌えなの。
あそこまでバカで、別の次元で傷つき続けていることが、萌えなの。
そして、それほど確立した異生物が、わたしたち側に堕ちてくることが、萌えなの。
水トートが好き。
愚かでもどかしくて、愛しくてならない。
かわいいよ、あのイキモノ。
ヘンナヤツ。
かわいくて、かわいくて。
泣けてくるくらいせつない、愚かさが愛しい。
なんだってこの作品は、こうも多くの人々を魅了する「力」を持っているのだろう。
そりゃ、いろんな要因はあるだろうさ。
その要因のひとつに、さまざまな解釈を容認する、懐の深さがあると思う。
答えが、ひとつではない。
それゆえに、多くの人が自由に物語を、作品を受け止める。
観客が観たいように観、好きもキライも含め、意志を持って論じることが出来る。
理詰めでがんじがらめになっていない、ゆるさがある。隙間がある。
たったひとつの解釈、ひとつだけの答えしかない作品なら、こうまで人の心を動かさないだろう。
だから「さまざまな要因」をひとつずつ上げていくことも無粋ってもんだ。
答えがひとつではないという魅力を持つ作品なんだから。
観客ひとりずつが数え上げるべきことであり、ひとりずつチガウところを要因として上げるだろうさ。
とゆーことで。
『エリザベート』を観てなにを感じ、なにに萌えるかは、本人次第。
正しいもまちがいもないのだ。
トート@水萌え。
今回のトートは、ヘンナヤツだ。
シシィを愛しているんだかどーだか、よくわかんない。
愛しているのだと思うよ。たしかに。
だがその愛の表現方法が、人間の感覚を超えていて、よくわかんない。
その「異生物」感が、萌えだ。
トートはシシィを愛し、彼女の愛を手に入れたいと思っている。
なのに彼のやることはめちゃくちゃ。
とても「愛して欲しい」相手にしていいことじゃない。
好きな相手が嫌がること、彼女に嫌われるよーなことばかりを嬉々として繰り返している。
ここまでなら「愛情表現のチガウ異世界の存在だから、仕方ないな。人間がナニをよろこび、ナニを嫌うかわかってないんだな」で済む。
ところが。
このトートって男の愉快なところは、シシィ以外にはやさしいってこと。
革命家たちにお愛想してみせたり、ルドルフをいい子いい子してみたり。
人間の喜ばせ方、知ってんじゃん!!
彼らにカケラも愛情持っていないくせに、彼らにやさしくし、彼らがのぞむ言動を与え、彼らから愛や信頼を得ているんじゃん。
その美しい姿でやさしくすれば、人間なんてイチコロ☆てなもんなんでしょう?
人間のたらし込み方なら、知っている。
実際に、やっている。
なのに。
彼が愛するただひとりの女には、ソレをしない。
その矛盾が、萌え。
バカだねえ、トート。
革命家たちや、ルドルフにしたみたいに、シシィにも接すればよかったんだよ。
相手が望んでいる言葉をかけてやって、やさしくするの。嘘くさい慈愛の笑みなんか浮かべてね。
エリザベートだけが知らない。
やさしいトートを。
なんて不自由な人たち。
なんてもどかしく、愚かで、愛しい人たち。
トートは人間の操り方を知っているのに、シシィにはソレをしない。
彼はナマの感情でシシィと対峙する。
野生の魂を持つ少女シシィは、本能のままにトートを否定し、敵として威嚇する。
孤独なシシィこそが、誰よりもやさしさを求めていたはずなのに。
ひたすらな肯定と寛容、それを与えたら、簡単に彼女の心を手に入れられただろうに。
トートが彼女に与えるのは、さらなる試練。
否定し、追いつめ、戦い続ける。
切っ先を向け合う剣豪同士のような、緊迫した関係。
やさしくできたのに、しない。
知っていたのに、しない。
そのわけわかんなさが、たまらない。
「愛するエリザベートに対してだけは、欺瞞のない真実の姿で接したい」から、革命家たちやルドルフにしたようにお手軽な、相手の心を得ることを目的としただけのやさしさを与えなかったのだ。
……なーんて理屈は、存在しない、と思う。
トート、モノ考えてなさそーなんだもん。
本能的な部分で行動しているように見える。
無意識にやってるんだろう。
道具とする人間たちへはやさしく計算尽くで近づき、愛している相手には本音で。
えーと。
ふつーソレ、逆だから。
どーでもいい相手にはどう思われてもいいから本音で好き勝手して、愛する相手にはよく思われたいから計算してやさしくして。
ふつーのことができない。
トートの異生物感。
あまりにも、わたしたちとは別の次元で生きる存在。
彼の感覚のちがいが、愛しい。
人間の感覚を持っていたら、もっとふつーだったら、あんなに傷つけ合うことはなかったのに。
トートとエリザベート。
鏡のように似たふたりは、似ているからこそ傷つけ合った。
エリザベートは人間だから、彼女の意志も感情の流れも、わたしたちは理解できるしついていけるけれど、トートは困る、わけわかんない(笑)。
シシィを傷つけ追いつめ、そのたび拒否されて、そのたび、傷ついて。
シシィに拒否されると水トートは威嚇したり激怒したりと、過去のトートとはチガウ言動を取るんだけどね。過去のトートのように、人間らしく傷ついたりはしないんだけどね。
それでも、傷ついている。
感情の発露が人間とはチガウだけで、彼は傷ついている。
傷ついているのに、彼女の拒絶が彼の胸を引き裂いているのに、血が流れているのに、彼は「痛い」とか「苦しい」を表現できない。
人間なら「痛い」と泣くところを、攻撃したり激怒したり。
なんつーか、生理と行動が一致していないみたいだ。「おなかがすいた」と風呂へ入り、「ねむい」と言って買い物をしたり。
へんだなあ、おなかがすいたからお風呂に入ったのに、ぜんぜんおなかがいっぱいにならないや。ねむいから買い物に出ていろいろ目につくモノを好きなだけ買ってみたのに、ねむいのがなおらないや。
腹が減ったならメシを食え、眠いなら寝ろ! 他のことをしたって、満たされないっつーの。
それがわかっていなくて、まちがった行動を繰り返す。重ねていく。
その、せつなさ。
トートがトートである限り、こーゆー異生物である限り、誰も彼を救えない。
彼は飢え、彼は欠けたままだ。
おなかがすいた……でも、空腹を満たすすべを知らない。
そんな、不自由さ。もどかしさ。
一瞬見せるかなしい瞳。
何故叱られるかわからない子どものような。
次の瞬間、緑色の蛇は鎌首をもたげ、長い舌を出して威嚇する。
たしかに、傷ついていたのに。
傷つけられたときの反応が、人間とは明らかにチガウ。
バカだね、トート。
かなしいね、トート。
そのままじゃ、永久に人間には愛されないよ。
それでもそのまま、あがき続けるんだね。
トートは結局、変わるけれど。
「死なせて」と言ってきたシシィを突き放し、「死は逃げ場ではない」と言ったときから。
わたしたちのいる側まで、翼を失って堕ちてくるけれど。
それまでのアホさ加減、異生物感が、萌えなの。
あそこまでバカで、別の次元で傷つき続けていることが、萌えなの。
そして、それほど確立した異生物が、わたしたち側に堕ちてくることが、萌えなの。
水トートが好き。
愚かでもどかしくて、愛しくてならない。
かわいいよ、あのイキモノ。
ヘンナヤツ。
かわいくて、かわいくて。
泣けてくるくらいせつない、愚かさが愛しい。