それでも、生きていく。@マリポーサの花
2008年9月7日 タカラヅカ
正塚作品を好きなのは、そこに人間讃歌と人生肯定があるからだ。
彼の作品を語るときに、意識するまでもなく、必ず書いてしまう言葉がある。
それでも、生きていく。
人として生まれ、愛だのやさしさだの思いやりだのという美しいものだけでなく、挫折や絶望や嫉妬や憎悪などの醜いものを抱え、あたりまえ抱え、至らなさに喘ぎながらも、それらすべてをあるがまま肯定し、生きる。
美しく素晴らしくなければ生きる意味がないのではなく、どんなに弱く愚かでも、醜くても、それでも生きることに、価値を見出す。
傷つかないようにするのではなく、傷ついたまま、その欠けたところをも認めて。
それでも、生きていく。
生きることに意味なんか問うな。生きている、そのことに意味があるんだ。……そう、見つめ直すように。
いつだって、「死」は美しいものとされる。
純文学では必ず主要人物が自殺するし、英雄譚では自決や殉死が尊ばれる。
男子が大好きなヒーローもの……少年マンガでもヤクザ映画でも……友情のため仲間のため仁義のため、楯になって死ぬことこそがもてはやされる。
たしかに簡単にドラマティックで、盛り上がる出来事だけど。
現実のなかでも、死はどんどん簡単になっている。
叱られて自殺、挫折して自殺、死刑になりたいから他人を殺してみる。
それより先がないから、到達すれば、それで済むわけだけど。
そうじゃなくて。
美しくなくても、面倒なだけでも、つらいだけでも、それでも生きる。
生き続けることに、意味がある。
今はなにもできなくて、なんの役にも誰のためにもならなくても、それでもいつかなにか、できるかもしれない。
なにかを、誰かを、救うことができるかもしれない。力になれるかもしれない。
今はなにもなくて、つらいだけだとしても、それでもいつかなにか、あるかもしれない。
なにかと、誰かと出会い、うれしくなるかもしれない。たのしくなるかもしれない。
生きるという、それだけの、力で。生命が持つ、人間というものが持つ、可能性で。
結局のところ、正塚せんせはいつも同じ主人公で、同じ物語を描き続けているのだと思う。
迷ったり傷ついたり、投げ出したりあきらめたり、やさぐれたり悪ぶったりしながら、それでも、生きていく男の物語を。
サイトーくんがいつも同じ萌えの物語を描き続けているように。キムシンがいつも同じ主張の物語を描き続けているように。
作家なんだから、それでいいと思う。
作家としての根幹を、描きたいという衝動を貫けばいい。商業作家としての枠組を認識した上で。
『マリポーサの花』は、ちと商売の方を忘れている気はするが、作家として描きたいものを描いたのだということがわかる。
主人公のネロは、正塚作品主人公の集大成のようだからだ。
挫折して、やさぐれていなければならない(笑)。だけど、命の意味を知り、等身大の闇や汚れや過去を抱え、それでも生きる男でなければならない。
命を懸けてしかるべき親友がいて、愛する女がいる。命は賭けるけれど、死に美学は求めない。這いつくばっても生きることにこそ、光を見出す。
それは、「自分探し」と言えるのかもしれない。「それでも生きていく」姿は、自分自身の居場所を探す行為でもあるから。
ネロは言う。信じたもののために人も殺した、死にかけたこともある。償いではなく、ただ自分の命は「そういう命」だと。
良いとか悪いとかを超えて、自分のしてきたことすべてを自覚し、そのうえで、生きている。
人間は、自分のしたことの意味を知っている。それが、動物とちがうところだ。自分の行動を知り、過去を背負い、それでも生きる。どう生きる。
それが、人生。苦味に満ちた、されど愛すべき人生。
正塚晴彦の紡ぐ、肯定に満ちた物語が好きだ。
物語を、テーマを集約した生き方をする、ネロが好きだ。
物語を、ネロを誠実に表現する、水夏希が好きだ。
彼の作品を語るときに、意識するまでもなく、必ず書いてしまう言葉がある。
それでも、生きていく。
人として生まれ、愛だのやさしさだの思いやりだのという美しいものだけでなく、挫折や絶望や嫉妬や憎悪などの醜いものを抱え、あたりまえ抱え、至らなさに喘ぎながらも、それらすべてをあるがまま肯定し、生きる。
美しく素晴らしくなければ生きる意味がないのではなく、どんなに弱く愚かでも、醜くても、それでも生きることに、価値を見出す。
傷つかないようにするのではなく、傷ついたまま、その欠けたところをも認めて。
それでも、生きていく。
生きることに意味なんか問うな。生きている、そのことに意味があるんだ。……そう、見つめ直すように。
いつだって、「死」は美しいものとされる。
純文学では必ず主要人物が自殺するし、英雄譚では自決や殉死が尊ばれる。
男子が大好きなヒーローもの……少年マンガでもヤクザ映画でも……友情のため仲間のため仁義のため、楯になって死ぬことこそがもてはやされる。
たしかに簡単にドラマティックで、盛り上がる出来事だけど。
現実のなかでも、死はどんどん簡単になっている。
叱られて自殺、挫折して自殺、死刑になりたいから他人を殺してみる。
それより先がないから、到達すれば、それで済むわけだけど。
そうじゃなくて。
美しくなくても、面倒なだけでも、つらいだけでも、それでも生きる。
生き続けることに、意味がある。
今はなにもできなくて、なんの役にも誰のためにもならなくても、それでもいつかなにか、できるかもしれない。
なにかを、誰かを、救うことができるかもしれない。力になれるかもしれない。
今はなにもなくて、つらいだけだとしても、それでもいつかなにか、あるかもしれない。
なにかと、誰かと出会い、うれしくなるかもしれない。たのしくなるかもしれない。
生きるという、それだけの、力で。生命が持つ、人間というものが持つ、可能性で。
結局のところ、正塚せんせはいつも同じ主人公で、同じ物語を描き続けているのだと思う。
迷ったり傷ついたり、投げ出したりあきらめたり、やさぐれたり悪ぶったりしながら、それでも、生きていく男の物語を。
サイトーくんがいつも同じ萌えの物語を描き続けているように。キムシンがいつも同じ主張の物語を描き続けているように。
作家なんだから、それでいいと思う。
作家としての根幹を、描きたいという衝動を貫けばいい。商業作家としての枠組を認識した上で。
『マリポーサの花』は、ちと商売の方を忘れている気はするが、作家として描きたいものを描いたのだということがわかる。
主人公のネロは、正塚作品主人公の集大成のようだからだ。
挫折して、やさぐれていなければならない(笑)。だけど、命の意味を知り、等身大の闇や汚れや過去を抱え、それでも生きる男でなければならない。
命を懸けてしかるべき親友がいて、愛する女がいる。命は賭けるけれど、死に美学は求めない。這いつくばっても生きることにこそ、光を見出す。
それは、「自分探し」と言えるのかもしれない。「それでも生きていく」姿は、自分自身の居場所を探す行為でもあるから。
ネロは言う。信じたもののために人も殺した、死にかけたこともある。償いではなく、ただ自分の命は「そういう命」だと。
良いとか悪いとかを超えて、自分のしてきたことすべてを自覚し、そのうえで、生きている。
人間は、自分のしたことの意味を知っている。それが、動物とちがうところだ。自分の行動を知り、過去を背負い、それでも生きる。どう生きる。
それが、人生。苦味に満ちた、されど愛すべき人生。
正塚晴彦の紡ぐ、肯定に満ちた物語が好きだ。
物語を、テーマを集約した生き方をする、ネロが好きだ。
物語を、ネロを誠実に表現する、水夏希が好きだ。