ショー『ノバ・ボサ・ノバ』が名作かどうかは知らない。
1999年の再演は雪月共に観たけれど、大騒ぎするほどの名作だとは思えなかった。初見ではやはり古さに引いたし。リピートしてようやく愉しみ方がわかったかな。
だがとりあえず、「アマール・アマール」と「シナーマン」が名曲であることは、わかる。
「シナーマン」には歌唱力が必要だが、「アマール・アマール」はそれ以上にタカラヅカ力が必要とされる。
わたしがこれらの曲を「名曲だ」と思い、特別に思っているのは、そのためだ。
特に、「アマール・アマール」。
この曲は、「タカラヅカ」という文化を表現したモノのひとつであると思う。
この曲を、さらりとオシャレに歌っては、イカンのだ。
声を大にして言おう。
「アマール・アマール」は、恥ずかしくてナンボだ。
「タカラヅカ」という文化の持つ、異端さ。現実世界との乖離っぷり。それを表した、極端な例のひとつが、「アマール・アマール」だ。
「ライライライ」とか「アマールアマール」とか他愛ない音の繰り返しの合間に小学生の作文みたいな簡単な文章があるだけのどーでもいーよーな歌詞を、とにかくねっとりとラテン調に、腰振って流し目して舌回して溜めまくって歌うのよーーっ!!
ラテンっつっても、ほんとのラテンじゃないわよ。日本人が勝手にお茶の間で空想する「ラテン男」よ。アメリカ人が夢見てる「NINJA」みたいなもんよ。
たぶん本物のラテンな人が見たらプゲラなモノでいいのよ、フィクションなんだから。想像力で楽しむモノなんだから。
タカラヅカって、そーゆーもんなんだから。
架空を楽しむ。
ナンチャッテを愉しむ。
嘘を嘘とわかった上で、お約束を愛する。
夢の世界、この世に存在しない世界ってのは、そーゆーある意味オトナのルールの上で、唯一存在できるもんなんだ。
だから。
とびきり「タカラヅカ」な存在である未来優希が、「アマール・アマール」を歌ってくれる、という事実に、舞い上がった。
『イゾラベッラ サロンコンサート(第8回 未来優希)』、宝塚メドレー[II]は、「ソル・エ・マル~アマール・アマール~シナーマン」という、『ノバ・ボサ・ノバ』名曲メドレーだった。
ハマコはキラキラ付きてらてらな光沢の濃紺スーツ(もっとマシな表現はないのか)を着ていたんだが、このメドレーの前にわざわざ、上着を脱いだ。
ナッマ着替え! ナマ着替え!!
すごいわハマコさん、サービス満点! 生着替え付きですよ奥さん!
いやその、べつにハマコに脱いでもらっても、あんましときめきはしないんだが……。(ヲイ)
「これから激しい歌を歌うので」脱ぐそうですよ(笑)。
中はフリフリビロビロ白ブラウス(だからもっとマシな表現は……)に、紺ベスト。お袖のドレープとかとってもファンタジーに王子様なんだが、なにしろ着ているのがハマコだし。(ヲイ)
まあともかく、わざわざ身軽になっての歌唱ですよ、本気ですよ。
歌の合間のトークのときは、ふつーに……なんつーかこう、妙齢(微妙な表現)の女性って感じなんだけど。
いざ歌になると、声も顔も変わる。
ハマコは小柄だし、体型も顔立ちも女性的で、「男に見える」というわけじゃない。
だから男になる、のではなく、なにか「別の存在」に変わるの。
男でもなく、女そのままでもない。
その半端さが、「タカラヅカの男役」なんだと思う。
衣装でも化粧でもなく、意志の力で、変わる。
その変化が、ゾクゾクする。
「ソル・エ・マル」はまあ、腕ならしって感じ。すげー手軽に歌えてしまえるあたりがハマコ。
そして、次の「アマール・アマール」。
もお……もお、ハマコ好き。ダイスキ。もお、どうしよう!!
やらしいの。
恥ずかしいの。
濃ゆいの。
クドいの。
たまらないの。
わたしが、「アマール・アマール」に求めるモノすべてを、ハマコが簡単にあったりまえに、表現してくれちゃってるよおおお。
またわたしたちの席が、すげー良席で。
今まで参加したイゾラベッラ・コンサートではジェンヌとか理事長とかが坐っていた席で。そーいやここ、シビさんのときトウコちゃん坐ってなかったか? てな席で。(まさにトウコちゃんの席が、あたしの席だよね? nanaタン! と、今書いてて気づいたよ、私信私信)
ハマコから目線来まくり、客席降りでは目の前で立ち止まりまくり。
そんな席で、nanaタン……あ、チガウ、今はくりすてぃーぬだった、イカンイカン、ご贔屓の公演ごとに呼び名の変わる友人持つと大変だわ……くりすてぃーぬちゃんとふたり、大喜び。
つか、ふたりとも喜びすぎてはしゃぎすぎて、大変ですよ……ちょっと落ち着け。
余裕なのよ、ハマコは。
キザるのも、客席のファンをきゃーきゃー言わせる(わたしらのことだ)のも、ぜんぜん朝飯前なの。
「オレのセクスィさにメロメロだな、フッ」て、すごくふつーに思って歌ってるの。むしろ、そんな「大スターと、彼にメロメロなファン」プレイを楽しんでいるよーにすら、見える。
「歌うこと」自体が、彼にとっては「容易いこと」なんだと思う。
もちろん緊張して、集中して臨んでいるのだろうけれど、それとは別に、「得意分野での戦い」だから、相手をナメてかかる余裕があるの。相手ってのは客ではなく、試合自体に飲まれないって意味。
いっぱいいっぱい、ぎりぎりになって「このまま倒れちゃうんじゃあ?」なんて歌い方はしない。
余力ありまくり、腹八分目ですっていうか。
ソレが、ニクい。
「予定のウチですがナニか?」てなキザり具合で、それでも若造ごときが逆立ちしても真似できない濃さで「アマール・アマール」を歌いきって。……ああもー、素敵すぎるー!!
そして、真打ち「シナーマン」。
驚異の歌い上げがあるこの難曲を。
ハマコは、これまた余裕で、歌いきった。
コレもまた、腹八分目っていうか。このあと50mダッシュ5本ぐらい簡単に出来そうな体力気力っていうか。
いっぱいいっぱいではない、メーターがレッドゾーンになることないところで、悠々歌ってしまう、その不敵さ!!
うん、全力疾走だけが美徳じゃないのよ。
プロなんだから。
自分が「イイ声」を聴かせられるゲージ内で、余力を持って仕事をするって、あたりまえなんだよ。
日本人はいつだって全力疾走、このまま倒れて死んじゃいますまでやらないといけないみたいな風潮だけど。
や、出来ない人がやらなきゃなんないときは、ほんとにそこまでやっても当然みたいなものはあるかもしんないけど。
ハマコ、できるんだもん。
倒れて死んじゃいます、までやんなくても、本人が機嫌良く歌える範囲で、ものすげー歌を聴かせてくれちゃうんだもの。
余力ありまくりなのが、それですげーたのしそうに自分の声に、歌に酔っている風なのが、音を愉しんでいる姿が、震えるほどカッコイイ。
うわあああ。
ハマコ好きだ~~~っ。
かっこいーーー!!
1999年の再演は雪月共に観たけれど、大騒ぎするほどの名作だとは思えなかった。初見ではやはり古さに引いたし。リピートしてようやく愉しみ方がわかったかな。
だがとりあえず、「アマール・アマール」と「シナーマン」が名曲であることは、わかる。
「シナーマン」には歌唱力が必要だが、「アマール・アマール」はそれ以上にタカラヅカ力が必要とされる。
わたしがこれらの曲を「名曲だ」と思い、特別に思っているのは、そのためだ。
特に、「アマール・アマール」。
この曲は、「タカラヅカ」という文化を表現したモノのひとつであると思う。
この曲を、さらりとオシャレに歌っては、イカンのだ。
声を大にして言おう。
「アマール・アマール」は、恥ずかしくてナンボだ。
「タカラヅカ」という文化の持つ、異端さ。現実世界との乖離っぷり。それを表した、極端な例のひとつが、「アマール・アマール」だ。
「ライライライ」とか「アマールアマール」とか他愛ない音の繰り返しの合間に小学生の作文みたいな簡単な文章があるだけのどーでもいーよーな歌詞を、とにかくねっとりとラテン調に、腰振って流し目して舌回して溜めまくって歌うのよーーっ!!
ラテンっつっても、ほんとのラテンじゃないわよ。日本人が勝手にお茶の間で空想する「ラテン男」よ。アメリカ人が夢見てる「NINJA」みたいなもんよ。
たぶん本物のラテンな人が見たらプゲラなモノでいいのよ、フィクションなんだから。想像力で楽しむモノなんだから。
タカラヅカって、そーゆーもんなんだから。
架空を楽しむ。
ナンチャッテを愉しむ。
嘘を嘘とわかった上で、お約束を愛する。
夢の世界、この世に存在しない世界ってのは、そーゆーある意味オトナのルールの上で、唯一存在できるもんなんだ。
だから。
とびきり「タカラヅカ」な存在である未来優希が、「アマール・アマール」を歌ってくれる、という事実に、舞い上がった。
『イゾラベッラ サロンコンサート(第8回 未来優希)』、宝塚メドレー[II]は、「ソル・エ・マル~アマール・アマール~シナーマン」という、『ノバ・ボサ・ノバ』名曲メドレーだった。
ハマコはキラキラ付きてらてらな光沢の濃紺スーツ(もっとマシな表現はないのか)を着ていたんだが、このメドレーの前にわざわざ、上着を脱いだ。
ナッマ着替え! ナマ着替え!!
すごいわハマコさん、サービス満点! 生着替え付きですよ奥さん!
いやその、べつにハマコに脱いでもらっても、あんましときめきはしないんだが……。(ヲイ)
「これから激しい歌を歌うので」脱ぐそうですよ(笑)。
中はフリフリビロビロ白ブラウス(だからもっとマシな表現は……)に、紺ベスト。お袖のドレープとかとってもファンタジーに王子様なんだが、なにしろ着ているのがハマコだし。(ヲイ)
まあともかく、わざわざ身軽になっての歌唱ですよ、本気ですよ。
歌の合間のトークのときは、ふつーに……なんつーかこう、妙齢(微妙な表現)の女性って感じなんだけど。
いざ歌になると、声も顔も変わる。
ハマコは小柄だし、体型も顔立ちも女性的で、「男に見える」というわけじゃない。
だから男になる、のではなく、なにか「別の存在」に変わるの。
男でもなく、女そのままでもない。
その半端さが、「タカラヅカの男役」なんだと思う。
衣装でも化粧でもなく、意志の力で、変わる。
その変化が、ゾクゾクする。
「ソル・エ・マル」はまあ、腕ならしって感じ。すげー手軽に歌えてしまえるあたりがハマコ。
そして、次の「アマール・アマール」。
もお……もお、ハマコ好き。ダイスキ。もお、どうしよう!!
やらしいの。
恥ずかしいの。
濃ゆいの。
クドいの。
たまらないの。
わたしが、「アマール・アマール」に求めるモノすべてを、ハマコが簡単にあったりまえに、表現してくれちゃってるよおおお。
またわたしたちの席が、すげー良席で。
今まで参加したイゾラベッラ・コンサートではジェンヌとか理事長とかが坐っていた席で。そーいやここ、シビさんのときトウコちゃん坐ってなかったか? てな席で。(まさにトウコちゃんの席が、あたしの席だよね? nanaタン! と、今書いてて気づいたよ、私信私信)
ハマコから目線来まくり、客席降りでは目の前で立ち止まりまくり。
そんな席で、nanaタン……あ、チガウ、今はくりすてぃーぬだった、イカンイカン、ご贔屓の公演ごとに呼び名の変わる友人持つと大変だわ……くりすてぃーぬちゃんとふたり、大喜び。
つか、ふたりとも喜びすぎてはしゃぎすぎて、大変ですよ……ちょっと落ち着け。
余裕なのよ、ハマコは。
キザるのも、客席のファンをきゃーきゃー言わせる(わたしらのことだ)のも、ぜんぜん朝飯前なの。
「オレのセクスィさにメロメロだな、フッ」て、すごくふつーに思って歌ってるの。むしろ、そんな「大スターと、彼にメロメロなファン」プレイを楽しんでいるよーにすら、見える。
「歌うこと」自体が、彼にとっては「容易いこと」なんだと思う。
もちろん緊張して、集中して臨んでいるのだろうけれど、それとは別に、「得意分野での戦い」だから、相手をナメてかかる余裕があるの。相手ってのは客ではなく、試合自体に飲まれないって意味。
いっぱいいっぱい、ぎりぎりになって「このまま倒れちゃうんじゃあ?」なんて歌い方はしない。
余力ありまくり、腹八分目ですっていうか。
ソレが、ニクい。
「予定のウチですがナニか?」てなキザり具合で、それでも若造ごときが逆立ちしても真似できない濃さで「アマール・アマール」を歌いきって。……ああもー、素敵すぎるー!!
そして、真打ち「シナーマン」。
驚異の歌い上げがあるこの難曲を。
ハマコは、これまた余裕で、歌いきった。
コレもまた、腹八分目っていうか。このあと50mダッシュ5本ぐらい簡単に出来そうな体力気力っていうか。
いっぱいいっぱいではない、メーターがレッドゾーンになることないところで、悠々歌ってしまう、その不敵さ!!
うん、全力疾走だけが美徳じゃないのよ。
プロなんだから。
自分が「イイ声」を聴かせられるゲージ内で、余力を持って仕事をするって、あたりまえなんだよ。
日本人はいつだって全力疾走、このまま倒れて死んじゃいますまでやらないといけないみたいな風潮だけど。
や、出来ない人がやらなきゃなんないときは、ほんとにそこまでやっても当然みたいなものはあるかもしんないけど。
ハマコ、できるんだもん。
倒れて死んじゃいます、までやんなくても、本人が機嫌良く歌える範囲で、ものすげー歌を聴かせてくれちゃうんだもの。
余力ありまくりなのが、それですげーたのしそうに自分の声に、歌に酔っている風なのが、音を愉しんでいる姿が、震えるほどカッコイイ。
うわあああ。
ハマコ好きだ~~~っ。
かっこいーーー!!