これで最後だ、『第93期宝塚音楽学校文化祭』の話。

 最後はダンス・コンサート。
 前日30分だけ観たのはコレ。

 ダンスは、タップ→モダン・ダンス→ジャズ→バレエ→ジャズ(タカラヅカ的)→モダン・バレエ→フィナーレの派手派手ジャズ・ダンスという構成。

 とにかく暗転が長く、団体芸炸裂。
 少人数で見せることはほとんどなく、できるだけたくさんの人が舞台にいること、を目的としている。
 1回1回暗転して、しかもソレが長いのは、「つなぎの場」がなく、衣装替えに時間がかかっているせいだろう。

 1部からこの3部まで全体を通してみると、鼻の君の印象がぜんぜんチガウので愉快。
 芝居に出ていないせいもあるが、彼はそれまではあまり冴えないんだわ。芝居にしろ、配役を見ると主要キャラではあっても主役ではないしな。
 日舞でもヴォーカル・コンサートでも大して目立たないとゆーのに。

 ダンスになると、彼が主役になる。

 すごいな、ヲイ。
 群舞基本のプログラムで、とにかくセンターにいるよ。目立ちまくるよ。
 3部のダンスだけ観てしまったわたしが、彼に目を奪われたのも納得だ。……って、顔が好みでなかったら、ここまで観ていなかったと思うけれど。

 鼻の君は本名も目立つ(タカラヅカ内限定・笑)ので、なにかと話題にしやすい。
 文化祭1日目、2日目と、「***ちゃん」と名前で呼んで話題にすることが容易くできてしまう。や、文化祭はわたし以外観ていないんだけど、プログラム見せて話をするだけで、もうみんな「***ちゃん」呼び。……呼びやすいんだもん、名前。
 「某所で***ちゃんに出くわした!」とその日の夜に鼻の君目撃情報がメールされてくるくらいに。……だからみんな、文化祭観てないのに。プログラムの写真見ただけなのに(笑)。
 
 さて、文化祭はどーせ「身内が観るモノ」だから、「ウチの子さえわかればいい」とか、「娘の友だちはみんな知っているから問題ない」とかなのかもしれないが、わたしのよーに「タカラヅカ」が好きで紛れ込んでいるヤツもいるのだから、もう少しミーハー客にもやさしくしてほしいなあ、と思う。
 とくに、ダンス。
 団体芸でものすごい人数が一斉に踊るし、次々顔ぶれが入れ替わっていくので、なにがなんだかわからなくなる。ちょっとばかし気になる子がいても、見失う。

 プログラムに、もっと詳しく記載されていればなあ。
 出演者50人の名前がただずらーっと書いてあったりするんだよなー。
 そーじゃなくて、せめてグループ分けして欲しい……。何人口かで。
 衣装の色が書いてあったら、それがいちばん助かるんだが。

 ま、無理なのもわかるけど。

 ただ、今回のバレエだけは、マジでプログラム記載が不親切だと思ったな。
 
 バレエは、今まで観た文化祭の中でいちばん変わっていた。
 ひとつの公園を舞台に展開する、浮浪児と盲目の花売り娘の恋の物語。
 芝居仕立てなら今までもあったけれど、完全に役の衣装を付けて起承転結オチまで完璧、てのははじめて観た。
 警官は制服着てるし、男たちはふつーに芝居で着るよーな男役の服を着ている。子役は子どものよーな服着てるし、女たちは庶民ドレスだし。
 バレエらしい衣装と振付でトゥで立たれるより、ふつーの芝居衣装でトゥで立ってくるくる回られる方がびっくり目に残る。
 「バレエ」の中の「役としての衣装」ではなく、ここがタカラヅカだからとーぜん、「タカラヅカで使われる、ふつーの芝居の衣装」なのよ。なのに女の子たちはみんなトゥで立ってるの。……ちょっとシュール。
 芝居でロジャー役だった濃い男とカップルの彼女、いつまでもトゥで立ったままゆっくり回転するからびびったわー。

 「役」がちゃんとあるのだから、プログラムに「警官」「子ども」「カップル男」「カップル女」とか、ふつーに書いて欲しかった。
 物語仕立てであれほどいろんな役に分かれてそれぞれ芝居しているのに、プログラムにはなんの変哲もなく、その場面に出ている46人がアイウエオ順で載っているだけなの。主役も通行人も関係なく。
 気になった子がいても、誰だかわかんない……。
 ふつーのダンスシーンで「衣装ごとにプログラムに分けて載せてよ!」が無理なのは自分でもわかっているが、この場面でなにも区切りがないのはかなり不親切だと思うぞ。

 それにしても、芝居のミミといい、この花売り娘といい、「清く正しく美しく」儚げキャラなので、現代の女の子たちが演じるのは大変だよなあ(笑)。みんな強そうで、か弱く演じるのに懸命の努力が見える。

 浮浪児くんは妖精的イメージなんだろうけど、軽やかさがなく、その分堅実な印象。役と本人のキャラクタが合ってないような?

 芝居を観てしまったあとは、とにかくロジャーくんが気になってこまる(笑)。
 彼、カノジョがいる方がイイよね絶対。女の子をエスコートしていると、オトコマエ度が上がる。なんか、カノジョのことすごく大切にしている感じがして。
 ダンス単体より、「芝居」の中でのダンスが見たい男だ。
 鼻の君はダンス単体でもいいんだけど。

 タカラヅカ的なダンスシーンは、たった1場面。
 男役と娘役として、デコラティヴな衣装をつけて正味デュエットダンス。団体芸ではなく、厳選された2組のみ。
 ここだけだからメリハリになっていいけれど、やはり大してきれいではない。レオタードで性別関係なく踊っているときの方がいいよなー。

 
 文化祭のお約束、最後のフィナーレダンスはとことん派手な発散型。
 みんなでガシガシ若さ満載ではじけきって終わる。
 や、衣装のカラーたすきはどうかと思ったけど(笑)。
 

 いやあ、やっぱたのしいわ、文化祭。
 『ハロダン』とはまったく別物。来年も観に行こう(笑)。チケットがもっと取り易ければいいんだけどなあ。

 それにしても、終わってから心に残っているのは、ロジャー@濃い男くんだったりするから、不思議だわ。
 所詮わたしは、ダンスより芝居が好きだからでしょう。


 オギー新作ショー『TUXEDO JAZZ』はダイスキだ。
 『タランテラ!』の毒に酔っていた者なので、毒々しさが少ないことに物足りなさを感じる反面、ほっとしていたりもする。毎回『タランテラ!』をやられたら、こっちの身が持たない(笑)。
 これくらい、なにも考えずに観るオギーショーがあってもいいだろう。……や、繰り返し観ていると思いもかけないところで楔を打ち込まれる感覚があるんだけど。まあその話はいずれするとして。

 初日を見終わったあと、チェリさんと「よいショーだったけど、今の花組に、オギーのミューズはいないんだね」と話した。

 たとえば、『パッサージュ』のコム、『バビロン』のかよこだとか。『ドルチェ・ヴィータ!』の檀ちゃんだとか、トウコだとか。『タランテラ!』のコムだとかまーちゃんだとか。
 オギー作品の行き先を決める「女神」。
 性別は関係なく、「ミューズ」。

 オサ様のことは嫌いではないだろうし、その個性を愛して作品を作ってくれているのがわかるけど、「ミューズ」としては愛してないよな?

 いちかやとしこさんも気に入っているけれど、彼女たちに作品の行方を決めさせるほどの力配分はナイよな?

 壮くんのことは愛でている感じがするけれど、そもそも彼はオギー世界と相反するキャラクタだし(笑)。

 いちばんキャラクタを認められているのはみわっちだと思うけれど、彼もまたミューズと呼ぶには足りない。

 まっつはオギー役者ではないっす。だからどんな扱いをされるか不安だった(笑)。
 オギーの嫌いなタイプでないことはわかるので、まっつの組内立ち位置から考えてそこそこの扱いはしてもらえるだろーとは、思っていた。で、実際思っていた以上の扱いをしてもらっているので、感謝感謝だ。

 『TUXEDO JAZZ』がオギーにしては平凡な、汎用性のある作品になっているのは「ミューズ」不在のためかなと。
 オサ様がミューズだとよかったんだけど。オサ様もトシと共にどんどん丸くなってるしなー。

 ミューズもいないことだし、やりすぎだった『タランテラ!』のあとだし、演目発表されたときから(オギーにしては)オーソドックスなものになることはわかっていたし、軽く明るいエンタメに徹することで新しい試みをするのも、流れ的にアリだろう。

 オギーショーのおもしろさは、作品が多面的で多重構造であることなので、繰り返し観ることによって観客個人個人に好きなたのしみ方ができるということ。
 自分のご贔屓を追いかけて「アレはどの場面も全部同じ人物。じゃあソコにどんな物語が?」とやるのもたのしい。
 贔屓じゃなくても、「通しキャラクタ」「ひとつの物語」としてたのしむ気で観れば、誰を主役にしても考えられちゃうぞっと。「あるときは酔っぱらい、あるときは渋い男である、まりんの物語」「警官大伴氏の人生」とか、「シティガールちあきの毎日」とかでもOK。ひとりずつたのしめるのがすごい。

 いっそここに、贔屓がいない方が良かったよ。オギーファンとしては。
 まっつばかり見てしまって、他をたのしめないのが残念でならない。全体を見たいのにー。なにやってんだわたしー。うおー。

 『タランテラ!』がよかったのは、本当の意味での贔屓が出ていなかったことにあるんだろうなぁ。
 おかげであんときゃ、水くんをぜんぜん見なかった。わたしはとりあえず水ファンなんだけど、オギー世界では水くん、いてもいなくてもいい扱いだったんで、見ることが出来なかった……「世界」を堪能することに集中しちゃったから。
 あそこにまっつがいたら、それでもわたしはまっつを見てしまっていたんだろーか……あああ、それじゃ作品がもったいない……。

 そーして、思うわけだ。

 オギー役者というのは、ほんとのトコわたしの好みど真ん中の人ではないんだなー、と。

 もちろん、オギー役者は好きだ。
 オギー世界の本質を表現する力を持った、神から授けられた宿命と才能を持つアーティストたち。
 コム姫もトウコも檀ちゃんもかよちゃんもダイスキだ。
 彼らが創り出す世界を、心から愛している。

 それでも。

 わたしが本気で好きだった人は彼らではなかった。
 ミューズでも天才でもない。
 オギー作品を彩るその他のひとりでしかない。

 ミューズにも主役にもなれないけれど、世界と調和し、存在することのできる人。

 ケロ。そして、まっつ。

 オギー役者ではまったくないけれど、オギーに好意的に扱われ、役割を得ている舞台人。
 ケロとまっつはチガウけどね。まっつはケロにはぜんぜん届いてないけど。個々の持ち味や実力ではなく、オギー世界における、結果的な色というか。
 よーするにわたし、その距離感が好きなんだと思う。

 本物の毒や絶望、耽美や退廃よりも、そのそばにある健康だけど適度に影も傷もある人が好き。

 コム姫が好きで、あれほど『タランテラ!』が好きで、『アルバトロス、南へ』を観たときは貧血起こすほど入り込んでいたのに、それでもわたしは真の意味でのコム姫ファンではなかった。
 むしろ、コム姫ファンでないことを感謝した。
 もしもわたしがコムファンだったら、死んでるよ。わたしは生きていたいから、ファンでなくて良かった。
 『アルバトロス、南へ』を観て、反射的にリストカットするよーな、そーゆータイプでなくて良かった。『パッサージュ』を観たときに「コレ観て自殺する人がいたらどうするんだろう」と震撼したのと同じように。
 コム姫の創り出す「オギー作品」を、外側から愛していられる、畏れていられる人間で、よかった。

 だからわたしは、ケロファンで、まっつファンなんだと思う。

 ケロやまっつを主役にしたら、「見終わった途端リストカット必至」な作品にはならないと思うから。

 健康で平凡で、だけど影や傷もありなにもかも順風満帆ではなく、それでもそれら全部ひっくるめて、決してネガティヴではない。
 わたしの人生観まんまな人。

 生きることがかなしみだらけであることは知っている。つらいことだらけなのはわかっている。自分を含めたすべての人間が、醜いことも弱いことも知っている。
 それでも、人間と人生を愛している。
 自分を含めたすべてのひとに、美しいもの、すばらしいものがあることを、知っている。
 特別じゃない。
 平凡で地味で、特別でない、普遍的な痛みと悲しみと喜びと愛しさを抱きしめて生きる。

 そーゆー意識が「心地よい」と選び出す人。
 ソレは、「痛み」や「絶望」を強く打ち出すオギー役者ではないんだよな。
 オギー役者に、ただならぬ憧憬と愛情は抱くのだけど。
 真のご贔屓には、きっとならない。

 ……そんなことをつらつら考えながら、「ミューズ」不在の『TUXEDO JAZZ』をたのしむのさ。

 「特別な」絶望のない、もうひとつの人生のような仮想世界を。


 オギーのミューズつながりで、ついでにまっつつながりで、ちょっくら、『凍てついた明日』妄想配役でもしておこうかな、と。

 オギーのミューズといえば、トウコちゃん。
 でもって、『マラケシュ』を観たときに「現花組でのオギーのミューズはあすかかー」と思ったこともあり、新生星組はオギー役者ふたりでトップコンビ? とゆー、うれしい現実。

 でもって今月のスカステ『VIVA!BOW!−宝塚バウホールへの誘い−#26「実在の人物編」』のナビゲータはまっつ! まっつ目当てで見たら、『凍てついた明日』のダイジェストをやっていた、と。

 あああ、なつかしいよ、『凍てついた明日』。タータン苦手だったのに、ケロ目当てで観に行き、前代未聞の大ハマリして帰ったんだわ……。
 チケット1枚しか買ってなかったんで、あわててチケットカウンターへ行ったなー。いやあ、よりどりみどりでしたよ。

 あれほど美しく、救いのないしあわせな物語と出会うことの出来たしあわせ。

 わたしが販売ビデオ2本買った、唯一の作品。や、繰り返し見過ぎでテープ傷んじゃったから、買い直したの。もちろん、発売日の前日にキャトレまで買いに行っていたしな。すり切れるほどリピートしたさ。

 この幸福な哀しい物語を、今の星組でなら再演できる。

 クライド@トウコ、ボニー@あすかで。

 あああ、見たいー。
 トウコとあすかで見たいー。

 どれほど深く、痛い物語になるか、考えるだけでも震撼するわ。
 ほんとはバウがいいけど、それぢゃチケット取れないから、ドラマシティあたりでやって欲しい。

 ドラマシティなら組をふたつに分けての公演だろうから、フルメンバーなはずはないけれど、とりあえずフルメンバーでキャスティング妄想。

 ジェレミー(クライド命!の弟分。懸命に背伸びしている少年)@れおん
 レイモンド(クライドの刑務所仲間。イカレたギャング)@しいちゃんorすずみん
 テッド(クライドの幼なじみ。真面目刑事)@しいちゃんorすずみん

 ビリー(ジェレミーの恋人)@えーと。星組の2番手娘役って誰?
 アニス(クライドの真の恋人)@コトコト希望
 メアリー(レイモンドの恋人。うふんあはんでのーみそ軽めの美女)@みなみ姫希望!!
 ネル(クライドの姉。強気。勝ち気。バツイチ。テッドといい雰囲気)@モモサリ姐さん
 ジョーンズ(ハンドル握っていればご機嫌、車ヲタク少年)@こまった、順番で行くと和くん?! 美しすぎるだろ、ハマコがやった役だぞ?!(なに気に失礼)
 
 で、いちばん問題なのがバック(クライドの兄)他2役、なんだけど。
 みきちぐ、かなぁ。組長はちょっと行き過ぎな気がするので。
 バック兄さんをうまい人がやってくれないと、作品の仕掛けが壊れるからなぁ。

 フルメンバーでなく、組を半分に割っての興行なら。

 テッド@しいちゃん
 レイモンド@あかし

 とか、

 ジェレミー@和

 とかもアリだろーなー。
 そしたら、

 ジョーンズ@水輝涼

 とかも、夢ではないよな。(漢・水輝に子役をやらせたいのか!!)

 kineさんはボブ(刑事。瞳キラキラ仕事一直線!)@一輝慎とか、マニアックなことゆーてましたが。

 
 あああ。見たいー、『凍てついた明日』が見たいー。

 『VIVA!BOW!』でひさしぶりにジェレミー@トウコを見て、その美少年ぶりに、びびった。

 トウコがいちばん「美少年」だったのは『グッバイ・メリーゴーランド』だったと思うし、『凍てついた明日』当時も「少年役はそろそろキツイやろ」と思っていたんだけど……いやいや、すげえよ、今見るとすげー美少年だ。

 タータンのイメージは、いつ見ても変わらない。新公学年からすでにおっさんだったもんなー(笑)。
 クライドが「若気の至り」で暴走しているなんて、タータンを見る限りは想像が付かないぞっと。

 再演でなくても、現星組でオギー作品が観たいっす。
 大衆におもねらなくてイイ、オギー全開、一般人置き去りなモノが観たい(笑)。
 それでも、トウコとあすかなら、わたしみたいな鈍感なモノにさえ「ナニか」伝えてくれると思うから。

 
 にしても、微妙だよね、『VIVA!BOW!』とかゆー番組も。ナビゲータのファン以外はどれくらい見るんだろ、この番組。
 わたしは、クソ真面目にアナウンサー喋りをしているまっつを堪能したのでヨシ。
 「日本物がやりたい」と繰り返すまっつにも萌えたので、ソレでヨシ。

             ☆

 つーことで、まっつ話もちょっくら。

 先週、宝塚にあるいつもの店(笑)でドリーさんとごはんしてるとき。

 手帳がないっ。

 という事態になりまして。

 2日連続ムラにいて、2日連続同じ鞄で同じ中身だったはずなんですよ。
 なのに、昨日持っていた手帳が、今日はない。

 ……落とした?

 青ざめる瞬間。

 えー、手帳っつーのはだね、キャトレで売っている「タカラヅカ・スケジュール・カレンダー」ってヤツなのだわ。
 舞台スチールと同じ大きさで、表紙に好きなスチールを入れることができるの。
 だからわたしは、もちろん、まっつの写真を入れていたの。

 去年もそうやっていたから、今年もそうした。……ソレだけのことだったのに、「ますますイタイ手帳になってるな」って、みんなが言うの!!

 なんで? 去年と同じじゃない。今年の手帳に、新しく買った写真を入れた、というだけで、去年とまったく同じなのに、なんでみんな口をそろえて「恥ずかしさが、グレードアップしている」って言うのおっ?!

 わかんない。

 一般的に言って恥ずかしい手帳だってのは、わかる。自覚している。
 一般人が見たら引くって。

 恥ずかしいのは、去年も今年も同じでしょ? 去年もわたし、恥ずかしい手帳だと自覚しつつ使っていたわよ。
 去年より云々、というのがわかんないのよ。

 去年より云々、はわかんないけど、たしかに「恥ずかしい」手帳が、入れたはずの鞄に入っていない。

 「恥ずかしい」手帳を、落とした。

 がーーん……っ。

 で、でも。
 救いはある。

「手帳には、個人情報はナニも記載してないわ。名前も電話番号も一切書いてないから、アレがわたしのものだって誰にもわからない」

 落としたら最後、もうわたしの手には戻らない。
 それはかなしいけれど、ある意味救い。

 あの恥ずかしい手帳の持ち主が誰か、わかる方が恥ずかしい。

 タカラヅカスターの写真だらけ、観劇予定だらけの手帳。ふつーに考えるとイタイ。イタ過ぎる。
 でもひょっとしたら、夢見がちな中学生の手帳かもしれないじゃん! アイドルの缶バッチを鞄にじゃらじゃらつけちゃう感覚の世代!(わしらの時代だけかと思ったら、平成生まれの子どもたちも同じ感覚でじゃらじゃらやってる……びびった)
 中学生ならスター写真持ち歩いていても、「子どもだから仕方ない」で済むわよね?
 おばさんの持ち物だと思うからキモくてイタイだけで!
 持ち主がわからなければ、わたしだとバレなければ、わたしは平気!

 そう自分をなぐさめるわたしに、ドリーさんは。

「そりゃ、緑野さんはいいかもしれないけど。可哀想なまっつさん」

 まっつが可哀想なのかよ!!

 ナンですか、つまり、こんな手帳を持ち歩く、イタイファンがいると、拾った人に思われるまっつが可哀想、てか。

 落としたところが大劇場内なら、拾った人も、届けられた人も、その写真がまっつだとわかるわけで。(や、まっつを知らない人もそりゃいるだろーけど)
 「マニアックなまでに作り込まれ、使い込まれた手帳に、まっつの写真がちりばめられている」というのは、まっつの名前を汚すことになる……?

 駅や電車で落としたのなら、「誰この写真の人?」「ヅカ? キモいメイク」とか、一般人の好奇の目にさらされることに?

 あああ。大地に両手をついて慟哭。

 まっつ、ごめん。わたしなんかがアナタを愛したせいで!!(まちがっている表現)

 で。

 心配する振りをしながら「大劇場忘れ物センターに引き取りに行くプレイになってるといいな」と鬼畜発言をするドリーさんを尻目に。

 手帳は無事に見つかりました。
 家に、置き忘れていた。

 ほほほ、残念ね、大劇で係のおねーさんに「まっつの写真だらけの手帳、届いてませんか?」と聞くよーなプレイをせずに済んだわっ!!

 まっつまっつまっつ。


 音月桂を、好きですか?

 ……この問いに、どう答えるか。
 それによって、印象も価値観も変わる。

 バウ・ライブ・パフォーマンス『ノン ノン シュガー!!』初日観劇。

 「一緒に初日から行こうね!」と指切りしていたチェリさんに見捨てられた(笑)わたしは、ひとりぼっちでバウ観劇。
 「観ようよ観ようよ!」と誘いまくって、ドリーさんと一緒。(東京在住のドリーさんが何故毎週ムラにいるのかは、ご想像にお任せします)

 1幕が終わり、わたしとドリーさんは、「バウ・ライブ・パフォーマンス」というあおりの意味を噛みしめていた。

「この公演、芝居ぢゃなかったんだね」

 ふつーにミュージカルだと思っていたから、びっくりした。
 音月桂主演雪組若手コンサートだったんだー。

「『熱帯夜話』と同じかー」
「知らなかったから、首ひねっちゃったよ」

 ストーリーは、「ナイ」と考えてください。……「ミュージカル」としては、あるうちに入らん、その程度。

 ショーとして考えて、その上で「ストーリー仕立て」とするのが正しい。

 や、「物語」と考えるにはあまりにも、ストーリーなさすぎだから。
 1幕のあらすじは、「歌手を夢見るジョニー@キムと、家出娘シェイラ@さゆが出会った。」……コレだけですから。

 ただもーえんえんえんえん歌ばっか歌い続けて、話はまったく進まないから。

 2幕のあらすじは、「ジョニーが夢をあきらめ、シェイラと別れた。」……コレだけですから。

 ただもーえんえんえんえん歌ばっか歌い続けて、話はほとんどナイから。

 キムのオンリーステージではなく、出演者全員、なにかしら見せ場をもらって歌い、踊り、演技し、「スター勉強中」。
 男の子たちはぷくぷくに丸いし、声も出来ちゃいない。それでも必死にキザったりはじけたり。
 女の子たちはかわいこぶりっこ、タカラヅカでしかありえないオンナノコ像と格闘中。

 大丈夫か、このキャストで興行打って……と不安になりかけるところへ、要所要所で萬ケイ様や圭子おねーさまが登場、バァーーンッ!と締める。

「芝居じゃないし、ずーっと同じことを同じテンションでやっているわけだから、なんか、飽きそうな予感」

 と、幕間で言っていたドリーさんは、案の定終演後、

「飽きた……」

 と言っていた。

 気持ちはわかる。
 「これで金取っちゃイカンやろ」レベルの子が大半を占める公演で、ストーリーは言い訳程度、えんえんえんえん同じ時代の同じテイストの歌ばっかじゃ、そりゃ飽きるわ。

 キモチはわかる。
 わかるともさ。

 でもわたしは、たのしかったっ!!

「この公演に贔屓が出演していたら、うれしいだろうね」

 ドリーさんはそうも言う。
 馴染みも思い入れもないキャストだから飽きてしまったけれど、贔屓や馴染みのある子たちがこの公演に出ていたら。

 きっと、すごくたのしい。

 本公演でも他劇場公演でも、ろくに出番も台詞もないよーな子たちが、ソロをもらって役になりきって歌っている。
 わたしは雪組下級生に馴染みがないからわかんないんだけど、きっとコレが花組や星組だったら「あの子があんな役!」「あの子って歌えるんだ!」とか、すげーわくわく眺めたと思う。

 つまり、そーゆー作品。

 キャストに思い入れや興味があるかどうか。好意があるかどうか。
 それによって、作品への感想がまったく変わってくる。

 とくに、「音月桂コンサート」状態なだけに。

 音月桂を、好きかどうか?

 によって、作品の印象も価値観も変わる。

 で、わたしの答え。

 音月桂、ダイスキっす!!

 やーもー、たのしいー。
 キムくんが出ずっぱり〜、歌いっぱなし〜。

 とにかく彼、一秒たりとも表情が止まらないの。ずっとずっと、動いているの。
 なんなのアレ。
 歌っている間、アピりまくりですよ。

 今回わたし、すみっこの席で観ていたんだけど、「段上がりセンター席が欲しい」と心から思った。

 ああ、そーだ、そうだった。
 忘れていたよ、『さすらいの果てに』で段上がりセンターに坐っていたとき、芝居だっつーにキムは目線絨毯爆撃、客席を釣りまくっていたもの。目線飛んでくるわ、ウインクはとんでくるわ……すごかった。

 今回も、キムはひとり盛り上げまくっている。
 客席へのアピールすごい。

 やーん、真ん中坐りたいー。
 キムくんにウインクされたい〜〜、目線もらいたい〜〜。

 キムを好きで、どれほど好きで、これほど彼だけを見つめているしあわせときたら。日本語変。

 下級生たちは「勉強中」の札をでかでかと貼っている状態だし、キムの孤軍奮闘っぽい印象はぬぐえず、脚本も「ストーリーないよ状態」だし、初日だし、拍手のポイントも五里霧中、客席の空気も微妙、盛り上がりたいと一部のキモチだけ空回り。

 だからこそ、めげないで笑い続けるキムに感動する。
 客席に、引かせる隙を与えないの。
 あー、盛り下がる……とか、あー、ダレてるなー……とかゆー空気を感じると、キムが引っ張るの。
 彼が明確な意志でもって、場を操ろうとしていることがわかる。……わかる、だけで、完璧に操れているわけじゃないけど、少なくとも手を放していないから、引き留められている感じ。

 ソレが、気持ちいい。

 この子、自分の「仕事」を知っている。

 自分がナニをするために、ナニを求められて「ここ」にいるかを、ちゃんと知り、真正面から「仕事」をしている。

 「客席の熱気」とか「一体感」とか、キムくんは挨拶で言っていたと思うけれど、ごめん、そーゆーのは特に感じなかった。隅で観ていたせいかもしれないけど、けっこー周り引いている・冷めている感じもあった。手拍子もしないし。スタンディングもしないし。(一部の人しか、そーゆーことをしない客席だったのだわ)

 その微妙な空気の中で、それでも彼は、「ナニが求められているか」を自覚し、戦っていた。

 ソコが、好き。
 音月桂の、そーゆートコが好き。

 言い訳無しで「笑顔」で戦う男。悲壮感漂わせちゃダメ、舞台人だから、必死さとかぎりぎり感だとかは見せちゃダメ。笑っていなきゃ。余裕ぶらなきゃ。「こんなに努力してます」を言い訳にするのは、プロじゃない。

 かっこいいなあ、音月桂。

 や、タカラヅカだから、必死さとかぎりぎり感とかを愛でるのもアリだと思っているけれど。そーゆーアマチュアハートも好きなんだけど。
 でも、「プロ意識」を持つ人も好き。

 
 『ノン ノン シュガー!!』。べつに、佳作だとは思いません。作品的にはふつーだけど、出演者がワークショップ・テイストなんで、誰が観てもたのしめるとは思えない。

 でも。

 雪組に、下級生に、愛や興味がある人は観てみて。
 たのしいから。

 そしてなにより。

 音月桂が好きな人は、観るべきだ。

 ジーンズ姿が微妙でも、「ナオン」で「シュガノン」なギョーカイ喋りがドン引きでも(笑)、キャラクタ造形がスベりがちでも、音月桂を好きなら、たのしいってば。


 もう何度目になるかわからないけれど、叫んでおこう。

 春野寿美礼が、好きだ〜〜!!

 オサ様を眺めているだけで、ものごっそ幸福なわたしがいます。
 『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』は、正直オサ様ファンでもなきゃ「やってられるかよヲイ」な作品だと思ってますが、とりあえずオサ様を眺めているのがたのしいので、起きていられます(そんなレベル?!)。

 オサ様が、好きだ。

 なんでこんなに好きなんだろうと思う。

 わたしは好きな人がいっぱいいるので、順番はつけられないんだけど、寿美礼ちゃんは見るたび「特別」だと思える。

 素顔はかなりアレだと思っているし、舞台顔も最近アレになってきていると思うのに……それでも、「どうしよう!」とおろおろ回ってしまうくらい、ときめく(笑)。

 ええ、先日「サバキGETの達人」nanaタンのおかげで、SSセンターを2枚並びでGETできたわけなんですよ。
 nanaタンのサバキの腕前は知っていたけれど、今までも奇跡の技を披露してくれていたけれど、それにしても、SSセンターを、並びでGETって!!(白目)
 ありがとうありがとうnanaタン。

 あ、みんなわたしに「それで緑野さん、何回観たんですか?」って聞くの、やめよーよ。
 「月8回、年間100回以内観劇」を目標に掲げて2ヶ月弱。今月の観劇回数が2桁行ってるなんて、考えたくもないですからっ。
 今月だけで2ヶ月分近く消費しちゃってるなんて、忘れたい現実ですからっ。
 い、いいのよ、観劇しない月を作れば、今月倍観たっていいんだってばっ。1年で辻褄を合わせれば、ひと月ごとの内訳は気にしなくていいのよ。

 まあそれはともかく。
 機嫌良く大劇場に通っているわけなんだけど。

 さすがに、SSセンターははじめてで。(いつも掲示板で安い席GETか、当日B券でつつましく観てます)

 まっつが目の前だー!!

 ってことに、とーぜん浮かれはしたんだけど。

 現実問題、まっつよりも寿美礼サマの目の前率が高いわけよ。

 明智小五郎@オサ様が、アンニュイに目の前(銀橋)を通られたりするわけですよ!
 恍惚と歌い、手をクネクネさせたりしているわけですよ!!

 至福。

 いや、も、どーしよーかと。

 なにがどうじゃなく、どきどきするの。うれしいの。
 まっつを好きなのは自分でも納得できるところがあるんだけど、オサ様に関しては「手放し」って感じ。

 理屈じゃない。
 春野寿美礼のことは、手放しで「素晴らしい!!」と思う。

 こまった……どうしよう……。
 
 『明智小五郎の事件簿』は、ドラマシティあたりのハコでやるべきだったかなぁと思う。
 その方がよりディープに盛り上げられたんだろうなと。

 作品としては好みでないのだけど、オサ様単体と彼の歌はたのしく味わえる。
 まとぶも好きだし(M男を演じると魅力が増大する、素敵なキャラクタ)、壮くんの馴染みっぷりも愛しいし(車の追跡シーンがいちばん好き! オサ様とお似合い! 美しい!!)で、メイン3人を楽しむ分には問題ないんだな。彩音ちゃんもののすみちゃんも好きだし、オールOKって感じ?

 わたしがどきどきうるうる幸福にとろけながら銀橋のオサ様を眺めていると、その隣のnanaタンも、すっげうれしそーな顔でオサ様を見つめているし。(nanaタンの方がセンター寄りだったため、なんとなく表情がわかる)

 春野寿美礼って、いったいなんなんだろう。
 どーしてこう、魅力的なんだろう。

 美点を多く持つことがわかっている反面、もちろん欠点だっていろいろあるのに。
 そーゆーものを全部まるっと飛び越えてしまう。や、わたし的に。

 
 うーん。
 ある意味彼は、わたしの好みの1タイプの具現なのかもしれない。

 わたしは、「天才ゆえに欠けた人」っつーツボがあるのですわ。
 「平凡で、なおかつふつーの意味で欠けた人」とか「ゆがんだ人」も好みなんですが。

 春野寿美礼は、「天才」ゆえに、凡人には理解できないところで欠落がある人。
 そーゆー「キャラクタ」としての萌えがある。

 実際の寿美礼ちゃんがどんな人かは知りませんよ。舞台から感じる、わたし個人の勝手なイメージで。

 天才である、神に、運命に愛されたがゆえの、欠落。
 ふつーに生まれていれば知らずに済むだろう、苦しみや痛みに苛まれる人。
 もちろん、天才である、神に、運命に愛されたがゆえの悦楽と共に生きる人。

 至上の存在ですな。閣下だとか陛下だとかお呼びしたいくらいですよ。
 ひざまずいてマントの端に口づけたいとゆーか。(いいかげん妄想STOPしろっつの)

 だから、「オサ様」なんだろうなあ。
 わたし、水くんのことは「水くん」もしくは「水先輩」(先輩キャラだよね、彼)だし、トウコちゃんは「トウコちゃん」だしな。特に名称決まってないんで、そのときどきでてきとーに呼んでいるし、ここでもいろんな表記をしているけれど。
 トド様とオサ様だけだよ、日常で「様」呼び。

 今回芝居が好みでないために、「それでも好きって、どーゆーことだろう」と、しみじみ考えちゃったよ。

 はぁ。オサ様好きだー……。

 
 そして、貸切公演のたびに「オサ様の色紙が当たらない〜〜、サイン色紙欲しいよ〜〜!!」と騒いでいたわたしに、ドリーさんが馬をなだめるかのよーに、WOWOWかなんかで当てた色紙をプレゼントしてくれました!! きゃっほう!!

 よろこびいさんで帰宅したわたし。
 ……色紙はしっかり持って帰ったけれど、ストールと手袋片方を紛失していました……。
 ドリーさんから色紙をもらったときに入っていたレストランに、置き忘れてきた模様。……なにをやっているんだ自分。


 『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』が、わたし的に響いてこない理由を考える。

 それは、「テーマのブレ」のせいではないだろうか。

 キムシン作品はいつも、一貫したテーマがあった。
 彼は「叫ぶ」作家であり、題材を変えても同じテーマを問いかけ続けていた。

“ 人々の醜さ、無責任利己心浅慮偽善、そーゆーものをこれでもかと描きながらも、その奥にある美しさを求める。
 過ちや悪意といったマイナス部分が世界に満ちていることを肯定しながらも、それと同時に、愛や善意も存在するのだということを否定しない。
 容赦のない「人の醜さ」に対する描写、「卑怯さ」に対する描写、そしてあまりに無力で無意味な「愛」や「善意」。それでも、物語と主人公は「愛」や「善意」といった人の持つ美しいモノを肯定して終わるんだ。”
 ……と、2006/05/14(日)に『暁のローマ』感想
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-160.html)で書いているように。

 作劇的に失敗している場合もあるけれど、テーマはいつも一貫し、またテーマ的にはカタルシスを構築している。

 ソレが今回、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』ではブレている。つか、テーマ展開に、失敗している。

 ストーリー展開で失敗していよーと、テーマ展開ではまちがいのない人だったのに。何故。

 『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』はバランスの悪い作品で、前半と後半が別物になっている。
 前半は原作のイメージもあるし、また、いつものキムシン的ドラマティックな群衆芝居でもある。
 それが後半は「スター数人が立ち話をする」だけで話が進むふつーの演劇みたいになっている。

 主要人物以外が全部「歌う背景」状態、というのは、キムシンの短所として上げられがちだけれど、少なくとも「出番がある」ことの重要性をわたしは評価している。背景でもなんでも、ずーっと「舞台」にいる、これは大きいだろう。
 同じように下級生に役がないとしても、「そもそも舞台に出てこない」植爺作品より、ずーーっといい。

 なのに、どーしたこったい。
 今回は「スター数人が立ち話をする」ばかりで、歌う背景がいないじゃないの!
 つまんない。そんなの、つまんないよー。

 そしてキムシンお決まりの「大衆という名もなきモノたちの罪」をあげつらうには、歌う背景たちが必須なの。
 主人公たちの物語とは別に、「歌う背景=大衆たちの罪」を同時展開させられるのに。
 今回のホテル従業員たちがそう。彼らはただにぎやかしに登場しているわけじゃない。ストーリー展開とは別のところでテーマを演じているのよ。
 明智が黒蜥蜴との賭に負け、「探偵を辞める?」とゆー展開になる、前半部分。
 ホテルの従業員たちは無責任に歌う。「名探偵がしくじった 有名人はただのひとに/我々と同じ 我々に劣る なんのとりえもない ただのひとに!」……それまで「退屈だ」と言っていた人々が、ここぞとばかりに「他人の不幸」に食いつく。
 これこそキムシン芝居!!

 なのに、前半だけで終了。
 あとは主役たちの台詞で言及されるのみ。

 「大衆」がいないため、本来「大衆」が歌うはずの「ゆがみ」や「罪」をヒロインの黒蜥蜴がひとりで担うことになる。

 「歌う背景」にストーリーとは別部分で歌わせるのとちがい、ヒロインはストーリーの中でいちいちテーマを台詞にして言わざるを得なくなり、結果テーマとストーリーが直結され、広がりがなくなる。
 ……と、まあ、それは置くとして。
 すべてを託されたヒロイン黒蜥蜴を見てみる。

「いけないのは、みんな戦争よ」
 哀れな黒蜥蜴はそう繰り返す。彼女ひとりなんだ、いつまでもなにもかも戦争のせいにしているのは。

 それに対し、明智は言う。
「いけねぇのは、ひとでしょうねえ」

 悪いのは戦争ではなく、人間ひとりひとりだ。戦争を起こしたのも人間だし、起こってしまったことにいつまでも恨み辛みを繰り返して前へ進もうとしないのもまた、人間自身だ。

「謝れ! 誤り続けろ!」……そう言って未来を見ようとしなかったアオセトナ@『スサノオ』のように。

 アオセトナは極端な描かれ方をした、「偏狭な人間」だ。自分の不幸はすべて他人のせい、他人を恨む自分は正義、そう信じて、自身が行う悪のすべてを正当化。
 ただ彼は「大衆」という「安全地帯」にいる者ではなく、ひとりで戦うだけの強さを持つ。……方向性が間違っているけれど、「強さ」はあるのね。
 だから黒蜥蜴と近い。彼女もまた、ものごっつまちがった人間だけど、「強さ」はあるから。名もなき大衆として「退屈だ」「たった一度の失敗で すべてが台無しになる」と歌ったりしない。

 同じ「悪役」でも、暗殺者たち@『暁のローマ』とのちがいはソコ。
 暗殺者たちは結局「名もなき大衆」なのね。ピンで立ち、名声も誹謗も受けることはなく、「みんながやっているから」と責任の所在をあやふやにすることができる。
 彼らは、ホテル従業員たちと同じ立ち位置。

 大衆を嘲笑いながら、その上に君臨する強さを持つ、悪役。それがアオセトナであり、カシウス@『暁のローマ』であり、黒蜥蜴であるのよ。

 と、ここまではいい。役の立て方にブレはない。
 しかし。

 アオセトナも黒蜥蜴も同じように滅びるのだけど、意味がチガウ。

 アオセトナは「過去の妄執」に取り憑かれ、そこから踏み出せなかったために滅びたことがわかるけれど、黒蜥蜴はチガウんだ。
 彼女は結局「戦争なんかなかったらよかったのに」と言って死ぬ。

 ヲイヲイヲイ、ちょっと待て。

 『明智小五郎の事件簿』では、結局物語が進んでいないんだ。

 「みんな戦争が悪い」……自分ではなく、他人が悪い、そう責任転嫁することで生きてきた者が、結局なんの進歩もないまま死んで終わる。

 アオセトナも「責任転嫁してきた自分」に納得したわけではないが、彼は主人公であるスサノオに殺される。
 卑怯な思いこみを斬り捨てる強さを、主人公が得ることで、物語は大きく動く。

 しかし『明智小五郎の事件簿』はどうだ。
 黒蜥蜴は「戦争が悪い」と責任転嫁したまま、悲劇のヒロインとして自殺。
 悪いのは戦争じゃなくて、戦争を理由に他人を傷つけていた自分だろー!! 同じようにみんな戦争で傷を負っているのに、それでもなんとか生きているのに、自分ひとり特別に傷ついた顔して「やられたからやり返す、とーぜん」とやりたい放題やって美談ぽく死ぬのかよ?!

 おかみさん黒蜥蜴とおじさん明智の銀橋の会話でわかるように、明智は「不幸な生い立ちを理由に、他人を傷つけていいはずがない。そんなことは許せない」と言い、なのに黒蜥蜴は聞く耳を持たず「悪いのは戦争。だから、戦争で不幸になった人間はどんな悪いことをしてもいい」と言う。このふたりの会話の噛み合わなさが、光と影、正義と悪の対比になっている。

 ここではちゃんと、黒蜥蜴の「ゆがみ」が描かれているのに。
 被害者ぶって、自分の罪を正当化する卑怯さが、ちゃんと描かれているのに。

 何故、最後の最後、彼女を正当化して終わるんだ?

 元来のキムシン作品ならば、とことんまで彼女の醜さと卑劣さ愚かさを描くだろうに。
 そーして、その悲惨さにこそ、哀れさやはかなさ、美しさを見せてくれただろうに。

 アオセトナが改心しないまま死んでいったように、黒蜥蜴も改心しなくていい。
 バカなまま「わたしは悪くない。みんな戦争が悪い」と卑劣なままうっとり死んでくれてもかまわない。

 だがその場合、明智が黒蜥蜴を否定しなければならない。

 黒蜥蜴を殺したのは、戦争でも愛でもない。
 彼女が、卑劣で浅慮だったためだ。
 自業自得だ。

 明智は、自身の嘆き悲しみとは別に、そのことにも言及しなければならなかった。

「悪いのは戦争……そう信じて死んでいけたのは、ある意味幸福だったのかもしれない」

 そーゆーことを、言い表してくれなければ。
 「悪いのはわたし以外のなにか」だと信じて、罪を償うこともせず死に逃げたのだから、幸福だろう。罪を悔いて自殺したわけじゃないんだから。最期まで、責任転嫁したままだったのだから。

 最後の最後で、テーマがブレるの。
 いつもなら「歌う背景」が表現していたことまで全部黒蜥蜴ひとりが担い、そして黒蜥蜴がまちがった死に方をするの。
 だから作品全部がまちがうの。

 黒蜥蜴のゆがみを丁寧に描いてきておきながら、最後の最後で彼女を否定せずに終わるの。否定するために積み重ねてきたものが、全部無駄になる。
 彼女を徹底的に否定し、それでもなお、哀れさや愛しさを出してこそでしょうに。

 ストーリーがどんなにまちがっていても、「叫び」の本質であるテーマだけはブレない人だったのに、キムシン。
 どーしちゃったの?

 「タカラヅカ」だから、メロドラマにしなきゃ、とか思ったの?
 「悪」を全部ヒロインに押しつけるからだよ。ほんとーの意味でヒロインを悪の権化にすると、ソレ、「タカラヅカ」では描けないから。
 最後でお茶を濁すくらいなら、はじめからやめておけばよかったのに。


 ののすみ、ひとり勝ち。

 花組新人公演『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』観劇。

 本公演の主役は明智だけど、新公では黒蜥蜴だった。
 ののすみ、巧すぎ。

「野々すみ花ってさ、顔はチガウけど実は花總まりなんじゃない?」
「ののすみちゃんをふたつに割ると、中からお花様が出てくるとか」
 そんな会話をドリーさんとしたところだ。
 研2であの実力はありえない。

 なもんで、おかみさんコスプレの割烹着姿が着こなし失敗しているあたり、実はかなり緊張していたんだなーとわかり、かえってほっとしたわ。
 割烹着が片方肩から落ちてるんだよ? ふつーなら着心地悪くて気づくだろ。それに気が回らないくらい、いっぱいいっぱいだったんだねえ……演技はふつーに堂々とやっているのに。
 そのギャップがすごいわ。

 
 さて、主役の明智@まぁくんは、『マラケシュ』以来2度目の新公主演。
 今回つくづく、おもしろい子だと思った。

 「火事場の馬鹿力?」でやり遂げた『マラケシュ』とちがい、それ以降の新公ではダメっぷりばかりが目に付いていた。
 それがこの間の『MIND TRAVELLER』で、目を見張るほどの輝きっぷりを披露。わたしの中で、若き日の和央ようかを彷彿とさせる期待のルーキー位置へ昇格。
 実力がどうとかゆー以前のところで「ナニか」を感じさせる子。

 いやあ、今回の新公も、技術的にはかなりキツイだろヲイ。
 ののすみちゃんに全部持っていかれ、どーすんだコレ、状態なのに。

 なのに、ダメぢゃないの。

 基本ダメっ子なんだけど、時折ものすげー輝き出す。

 小さく薄くまとまってんなあ、安定した実力の前には半端な華なんか太刀打ちできないか。と、思っていたら。

 突然、キラキラしはじめる。

 ののすみやめぐむの実力を凌駕し、「主役」としての仕事をはじめる。

 なにコレ。ナニこれ。
 バイオリズムの曲線みたいに、上がったり下がったり。
 くすんでいたり、光ったり。
 輝き出すときのギャップがすごいの。
 まるでテレビや映画みたいに、彼がぐーんとUPになるのがわかるのよ。
 ズーム機能付き?! ありえねー(笑)。

 最初にキタのが、おじさん変装銀橋の直後。
 なにか吹っ切れたのか、変装を解いて明智に戻ったときに一気に輝きだした。
 そのあとの車での追跡。どどどどーしたんだ明智。背景にお花とばして、キラキラしまくってますがな。どこの少女マンガだヲイ!! 花がとんでるよ、意味なくキラキラしてるよ!!

 おもしろい。おもしろいよ、この子!!

 輝度が変わるなんて、その時々で吸引力がチガウなんて、わけわかんねー。
 クライマックスで場が盛り上がるから輝く、ぢゃなくて、そーゆーのとは無関係に発光するのよ?!
 変。
 すごく変で、おもしろい。目が離せない。

 
 雨宮@めぐむは、とりあえず「プロポーズ」の歌で、すべての粗を覆い隠している。

 出番最後が彼の役のクライマックスで、しかもソレが歌だけにかかっているとなると、歌えるめぐむには幸いしたよな。
 いやあ、いい声だ。

 雨宮はタカラヅカではめずらしい、ドM男だ。

「いぢめられれば、いぢめられるほど萌える……!!」

 てな台詞を真顔で言うよーな役だ。(ん? 台詞まちがってる?)

 ふつー健全な女子はM男には引くもんなので、んなアヴノな設定でも負けずに「潤ちゃん、素敵(はぁと)」と思わせるには、役者が力業でなんとかしなきゃならない。

 本役のまとぶ氏は、最近ワイルド受キャラまっしぐらのせいか、今回のM男も違和感がない。
 M男が許されるのは、彼が美形でセクシーな場合のみだ。とゆーことを、身をもって実践してくれている。

 美女の足元にひざまずき、いたぶられる様がセクシーであること……それが絶対条件。

 ところが、めぐむさんてば。

 美形……では、ないよな?
 体格は逞しくて素敵なんだけど。

 ヒゲに期待していたんだけど、最初の登場シーンは、丸顔をぐるりと囲むヒゲが、ポンデライオンみたいだし。
 酔っぱらいヒゲ姿は、違和感がなくてかえってなんの感慨にもつながらなかったし。

 苦悩していても、セクシーぢゃないし。
 無骨で鈍くさいだけに見えるし。

 そうか……M男が「セクシー」に見えないと、ただのヘタレ男になっちゃうんだわ……。

 女の尻に引かれているだけの、ヘタレ男。……そんなの、べつにめずらしくもない。せっかく、タカラヅカではめずらしい役のはずなのに、雨宮……。Mとゆーよりヘタレぢゃダメだよー。

 ふつーにうまいんだけどな、めぐむ。
 なんで色気がないんだろう。
 色気を必要としないバーバリアンを演じた方が、色気の出る人なんだろうな。ニコラ@『落陽のパレルモ』がそうだったように。

 こちらもののすみちゃんに食われまくって終了かと思ったら、最後の最後、「プロポーズ」の歌でかっとばしてくれたので、なんか気持ちよく終わってくれた。
 いいなー、あの歌。うっとり。

 
 早苗@きらりちゃんは、めちゃくちゃかわええ。
 あのやぼったいワンピースを着てなお、かわいらしいってどーゆーこっちゃそりゃ。

 「昭和中期のお金持ちのお嬢様」ではなく、「現代のふつーの女の子」だった気がする。実は庶民の葉子が演じているから、というわけではなく。早苗としてふるまっているときも、表情その他がいちいち現代的。
 それが正しいかどうかは、別として。その分、活き活きとしていて、かわいく見えた。

 早苗(葉子)ってのは「前髪ぱっつん」でなくてはならないのかと思っていたんだが、そうでもなかったんだね。きらりちゃんはラスト、ふつーの髪型していたよ。
 ののすみちゃんも髪型、自分に似合うものに変えられたらいいのにね。

 
 本公演でいちいち「あ、まっつに似てる」とわたしの目を奪う、白鳥かすがくんは、波越警部。

 ふつーにうまくて、ふつーに……地味。

 本役の壮くんが、どれだけ無駄にキラキラしているか、よーっくわかった。
 波越って、こんなに地味な役なんだ……。

 地味だろーがトレンチコート姿がおっさん臭かろうが、かすがくん、誠実な人柄の見える波越でした。

 
 いやあ、今回の新公はやたらたのしかったよ。いろいろと。
 つーことで、翌日欄に続く。


 楽園の乙女たち、おもしれー!!

 新人公演『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』の、いちばんの目玉。すごすぎる!!

 黒トカゲの島で、ビニールめいたカツラをつけて歌い踊る少女たち。同じ衣装、同じ髪型。だけどあきらかに、男も混じってることがわかる、アヤシイ人たち。

 本公演でも微妙なんだが(ビジュアルも、存在自体も)、新公ではさらに愉快なことになっていた。

 前もって出演者をチェックしたりしないわたしが、なにも考えずにオペラグラスをのぞくと、そこに。

 波越警部が、ドレスをひるがえして踊っていた。

 け、警部?! なにやってんですかっ?

 あわててオペラグラスを移動させる。するとどーだ、楽園の乙女たちはついさっき学ランを着ていた男たちと同じ顔をして踊っている。書生たち、なにやってんだ? 刑事も支配人もいる、てゆーか、岩瀬パパも踊ってる!!
 パパ@マメ!! ああ、見たかったマメがこんなところに!!(初日にマメの幻を見たそうですよ)

 顔ぶれのものすごさに悶絶していると、トドメを刺すよーに、謎のオカマ@アーサーが低い声で「つらかった〜〜♪」と呪い歌を歌い出す!!

 つらい。そりゃー、つらいだろう!! その姿、その声で女として生きるのは、無理ありすぎで昭和中期には浮きまくったことだろうよ。
 アーサーくんは期待の歌手なので、たしかに歌はうまい。だが、エンカレのときも書いたよーな気がするが、表現力に乏しいんだ。真面目に歌っていることはわかるが、顔はいつも硬直したまま。『TUXEDO JAZZ』で若手トリオでそれぞれソロを歌っていたりするが、ソコでもとっても硬直テイスト。
 そんなアーサーが、能面のまま、呪い歌@姿はオカマ。

 なんなのコレ! なんなのよーー!!

 なんのギャグ?

 もしもコレ、自分ちのテレビで見ていたら、転げ回って爆笑してる。

 本公演で、芽吹幸奈ちゃんのソプラノで刷り込まれているだけに、アーサーのアルトはこわい。
 それも、曲全体のアレンジをきちんとしたわけではなく、ただたんにアーサーのソロパートだけ音程を下げてあるんだよなコレ?
 なんなんだそりゃ。

 なにやってんだ新人公演演出、そんな意味のない、捨て身のギャグをカマさなくても。

 いやあ、声を立てないよーに笑うことに消耗しました。

 や、新公ですから人数の関係で、誰もが自分の役以外をアルバイトでやることは、わかっていますよ。
 わかっていることと、目にすることは別だから。
 人数が必要なのはわかるが、せめて岩瀬パパと警部と刑事はハズしてもよかったんじゃないか? 4人減ったからってどーなるもんでもないだろうし。
 もちろん、マメやかすがやしゅん様の女装が見られたことは、うれしかったんですが(笑)。 

 アーサーさえ、ふつーにソプラノで歌ってくれれば、ここまで破壊力もなかったろーになあ。
 いやあ、侮れないわ、新人公演。

 実際ここでは、キュートなサソリ@由舞ちゃんとかわいー彩音ちゃん、そして何故かやる気満々のだいもんを見ているだけで、終わっちゃったのよ。あああ、マメがっ、もっとマメが見たかったのにっ。だいもんがわたしの視界を奪うー。

 
 楽園で死にそーなほど笑っただけに、黒蜥蜴@ののすみを失って慟哭する明智@まぁくんの脇に所在なげに出てくる波越警部@かすがが、みょーにツボにハマってこまる。

 なにやってんですか警部。
 さっきまで女装して、スカート持って踊ってたくせに、またそんなくたびれたトレンチコート着ちゃってぇ。

 アルバイトと本来の役は別だとわかっていてなお、なんかツボる。
 いいなあ、警部……。
 本役の壮くんとちがって地味なところが、またわたしの脇スキーハートをくすぐるのよ……。
 こんなに地味な人が、『暁のローマ』新公ではカシウス様をやっていたのねええ……しみじみ。

 こんな趣味の悪い「楽園」を愛でる黒蜥蜴の度量の広さに感動。
 いやその、そもそも趣味悪すぎってことだけど。

 楽園の乙女たちだけでも、もう一度見たいなぁ。前方席でひとりずつガン見してぇ。


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