1年ぶりに、しいちゃんに会いました。
 会うことが、できました。
 ステージの上にいるしいちゃんを、まったりと眺められました。

 『立樹遥トーク&ステージ「夢を追い続けること~障がいを乗り越えて~」』、大阪市立矢田人権文化センターにて、入場無料、先着順。

 えー、微妙なイベントでした(笑)。
 なにが微妙かというと、「どの客層に向けての催しか不明」なところ。

 タイトルにあるように、人権関係のイベントなわけです。 障がいを乗り越えて、つーのが、ただの元ジェンを呼んでのイベントとはチガウところ。なにしろ手話による同時通訳付き。

 タカラジェンヌという、華やかな成功を得た彼女は、幼少時に重い病気を抱えとても苦労していました。それを乗り越えて、こんなにも素晴らしい女性になったのです。みんなもつらいことに負けず、夢を持って生きましょう。
 というのが、本来の企画意図だったと思うんです。

 チラシには「立樹さんは、子どもの頃に心臓の病を患い、長い入院生活を体験しました。同室の同じ病の友達の死を体験しながらも、自ら病と闘いました。退院後に見た宝塚の舞台。それに魅せられ、入学の為の猛レッスンに励みました。再発の恐怖と闘いながらも見事合格。夢を実現させたのです。」と書いてあるし。

 しかし、メインであるはずの闘病関連の話がぐだぐだで。
 いつ、どんな病気だったのか説明がほとんどなく、どのへんで回復して、どんな体調でどんな運動をしても良くなったのか、過酷なレッスンをできるよーになったのか、再発するような病気だったのか。
 そのあたりがさっぱりわからない。
 基礎を押さえてくれないため、どこに立ち位置を持って話を聞けばいいのかさっぱりわからなかったのですね。
 大意はわかるけれど、明言されないので、聞いている側が「こういうことかな?」と想像で補いつつ聞く、というか。デリケートな部分だと思うので、曖昧にして想像させるよりは、かえってはっきり教えてくれた方が誤解がなくていいのになあと。
 ピアノ伴奏の方も難病を抱えておられる方だったんだけど、こちらは明確に説明してもらえたので無知なわたしでも誤解の入り込む余地なし。頭が下がります。
 

 で、「障がいを乗り越えて」な部分は早々に終了し、あとはいわゆる「タカラヅカOGによる、昔話」。つまり、ファンへのトーク。
 タカラヅカのことも立樹遥というスターのことも、「知っている」前提に進むエピソード。や、わたしたちはわかるからいいけど、しいちゃんだからではなく人権関連で来館した人にはいいのか、このトーク内容??

 実際会場にいた大半はしいちゃん個人のファンだし、しいちゃんにもタカラヅカにもなんの予備知識もない人は少なかったと思う。でも、あくまでも今回は、テーマが決まっていたのだから、それに沿うべきだったんじゃないかなあ。

 ファンがたくさん来てくれるから、と気を使ってファン向けトークをメインにしてくれたのかもしれないけど、大丈夫、ファンならばどんな話でも聞きますし、受け入れますよ。
 でもって、こんなところに来るファンは、しいちゃんが子どもの頃長い間入院していた経験があるって、知ってるし。わたしですら、聞いたことある、その話。ファンなら知ってるけど、公にはしてこなかった(よな?)話を退団した今だから語れる、というなら、ファンはよろこんで聞き入りますよ。

 同じ病気や同じようにつらい思いを抱えている人たちの勇気になるように、きちんと話してくれてもよかったよ。重い話になってしまうのは、しいちゃんの本意ではなく、それゆえにぼやかしたらあんなことになった、のかもしれないが。
 どんなに重くても、今のしいちゃんの笑顔があれば救われるよ。

 「このトーク、なにを目指してどこに着地するつもりなんだ?」と首を傾げまくったが、ぶっちゃけそんなぐだぐだなところも含めて(笑)、しいちゃんに会えてうれしい。

 しいちゃんは、変わってなかった。

 記憶にあるまんま。
 ええ、女子にも、カタギにもなってない(笑)。

 男役時代となんら変わらぬパンツ・スーツ姿、派手な茶髪。髪はちょっと伸びているけれど、襟足だけで全体イメージは変わらず。

 坐って喋っているときはなんとも思わないのに、いざ立ち上がると「うわっ」と思う。
 背ェ高っ、スタイル良いっ、押し出しすげっ。
 ……一般人ではあり得ないの、いろんなところが。

 トークの合間に歌ってくれたんだが、歌い出すと「ザ・男役」。
 女子ぢゃない、女子の歌声ぢゃない~~(笑)。

 闘病時代~音楽学校の話題からの流れで、1曲目は「上を向いて歩こう」。
 多分この曲は、「ヅカファン以外の人も来るイベント」に考慮した選曲ぢゃないかなあ。ぴっちぴちのローティーンが、「つらいときはこの歌を歌ってました」というには、渋すぎる……。ふつーにそのときの流行アーティストの励ましソングを歌いそうだよな、現代の女の子なら。

 しかし、しいちゃんがバリ男役声で気迫を込めて歌う「上を向いて歩こう」の、いたたまれなさってば!(笑)
 彼女が歌い出すなり、ステージに飾ってある花がひとつ、ぼたりと落ちたのが忘れられない。思わずオペラグラスで確認した、今目の端にナニか落下したけど、ナニっ?!って。
 そしたら、上手にどーんと飾られていた花のうち、白い百合が1輪、花部分のみまるっと落ちていた。
 ただの偶然だろうけど、歌い出すなりボタッって。そのタイミングの良さに人知れずウケる。

 で、次がやはり自身の励ましソングだったという、「負けないで」。
 ……チガウ、わたしが知ってる「負けないで」とぜんぜんチガウ~~!! ナニこのどすこいアルトの「負けないで」?! ヅカ的なコブシの入り方って?!
 元歌と別物っぷりがすごい。

 なんか変なところでツボに入り過ぎる(笑)。
 や、たんに久しぶりのしいちゃんに過剰反応してしまっているんだと思う。

 しいちゃんだしいちゃんだとがっつきすぎて、彼女がナニを言い、ナニをしてもウケまくるという。
 一挙手一投足、声の高低、相づちに至るまで、なんでもかんでも「しいちゃんだ!!」と喜ぶ。

 
 文字数の関係で、翌日欄に続く。
続・紅ゆずるの謎。@立樹遥トーク&ステージ
 その昔、なーんにも考えず、「紅ゆずるの謎」というタイトルでブログ記事を書いた。
 彼はまったく無名の下級生で、そうやってタイトルにしたところでなんの反響もない。星の数ほどあるヅカブログの、こんな辺境の地でナニを書いても、流れていってソレで終わり。

 そのときはソレで済んだ。

 が。
 それから3年も経ってからだ。そのタイトルが検索に引っかかりまくり、アタマを抱えることになるのは(笑)。

 『スカーレット・ピンパーネル』新公主演で、まさかのブレイク!!

 ちょお待て、待ってくれ。わたしはたしかにベニー好きで、まったり眺めていたりチャチャ入れ感想書いたりしてきているけれど、それはその「紅ゆずるの謎」というタイトルの記事以降のことであって、その記事自体にはベニーに関して有益な情報はナニも載っていないのよ?!

 なのになのに、検索に引っかかるのは「中身はナイです」なその記事ばかり。どーせ読むなら『龍星』とか『ヘイズ・コード』とかにしてよおお。ベニーのことちょろっとだけだが書いてるわよお。あとは各新公感想ね。つか、まずは『スカーレット・ピンパーネル』新公感想にたどり着いてくれよ。
 なのに、タイトルに名前を書いてしまったのが運の尽き。検索でやってきた人はもれなくその記事にだけ行く。でもってこのDiaryNoteの検索機能はあってなきがごとし、読みたい記事にたどり着くのは至難の業。

 檀ちゃんの太股記事と並んで、わたしの痛恨記憶です(笑)。
 なにも考えずタイトルにジェンヌ名を書いてしまったがために、以来その名前の検索はすべてそこにのみ行き着くという。
 書いたときは世間的に無名だから、とっても油断していたんだけど、そのあとでブレイクして不特定多数の目にさらされる。書いた瞬間ならいいけど、何年も経ってからという、その時差が痛い。
 いやその、檀ちゃんはトップだったけど、やっぱり娘役さんはそれほど検索来ないので。……辞めたあと某CMでブレイクして、検索が来まくったんだよ……「檀れい エ/ロ」「檀れい 太/股」で(笑)。

 これに懲りて、タイトルに無闇にジェンヌ名は入れなくなった(笑)。

 
 さて、過去に何度も書いているが、わたしにとっての紅ゆずる、ベニーのファースト・インプレッションは、まず名前。

 タカラヅカではないところで、「宝塚歌劇団星組 紅ゆずる」という名を、まず文字で目にした。

 しいちゃんの外部出演舞台の初日。
 他の人たちがみーんな「**期一同」で演出家の先生へお花を送り、しいちゃん個人には送っていなかった。きっとなにかしらルールがあって、あえてしいちゃんへは見えるカタチでお花を送っていなかったんだろう。
 それがわかりすぎる中で。

 たったひとり、空気読めないヤツがいた。

 「宝塚歌劇団星組 紅ゆずる」。

 ひとりで堂々と、しいちゃん宛にお花を送っていた下級生。

 見つけて、仲間内で大受けした。その空気読めないところと、細かいことは気にせず愛を叫んでいるところとに。

 それゆえに書いたんだ、「紅ゆずるの謎」という記事を。

 『タック』で、「名前」と出会ったのが2005年1月。
 『それでも船は行く』で「舞台姿」と出会ったのが、同年3月。
 『ソウル・オブ・シバ!!』の倉庫番で、仲間内で「ベニー」と勝手に命名、同年5月。(この作品はみんな芸名にちなんだ役名があるので、それに倣って)

 まさかプレイクするとは思わないじゃないか、路線に乗るとは思わないじゃないか(笑)、『スカピン』2008年6月。

 しいちゃんへの愛を叫んでいた謎の下級生は、しいちゃんの最後のムラお茶会に「しぃ様LOVE」と手書きされたタスキを身につけ、乗り込んできた、2009年。

 一貫してるね、ブレないね、紅ゆずる(笑)。
 しいちゃんを好きか、そうか。心の握手、わたしもそうだよ! しぃ様LOVE!!

 しいちゃんを好きだからこそ出会った、紅ゆずる。
 なんかズレてるよーな気がしなくもないが、たったひとりででもしいちゃんへの愛を叫ぶその姿勢に感動した。

 しいちゃんはヅカを卒業し、舞台でその姿を見ることは叶わなくなった。
 女優さんになったりという、いわゆる芸能活動はしないっぽい。そんなしいちゃんの、トーク・イベントが大阪であった。

 もちろんわたしは駆けつけた。
 キタ生まれのキタ育ち、阪急沿線育ちゆえ、右も左もわからない南大阪、駅を降りてからしっかり道に迷ったさ(笑)。←調べてから行けよ

 そーやってひとりぼっちでたどり着いた会場で。ピュアしいちゃんファンのサトリちゃんと合流、ふたりして見つけるわけだ。

 「宝塚歌劇団星組 紅ゆずる」という名前を。

 芸能活動もしていないヅカOGの、舞台ではない、チャリティ的な、手作り感あふれるトーク・イベント。
 連名・グループ名・法人名で綴られる花の中に。

 ありましたよ、ひとりだけ。
 
 ひとりだけで、堂々と花を送っている、紅ゆずる。たったひとりで、愛を叫んでいる、紅ゆずる。

 空気読めてない、浮いている、そんなこんな。

 大受けした。
 サトリちゃんとふたり、大笑いした。その昔、博品館の狭いロビーで大受けしたように。

 ベニー! またか!! そう言って笑った。

 そして。

 うれしかった。

 今も変わらずにいてくれるベニーに。
 この微妙なイベント(笑)に、堂々とひとりで「宝塚歌劇団星組 紅ゆずる」と花を送るベニーに。

 泣けるくらい、うれしかった。
 その昔、博品館のロビーで感じたように。

 2010年3月。
 紅ゆずるの謎は続く。

 
 真っ当なしいちゃんのトーク・イベントについては翌日欄へ(笑)。
 日記の周回遅れっぷりがアレなんで、今さら感満載ですが。

 『スカーレット・ピンパーネル』配役がいろいろショックなんですが(笑)。

 プリンス・オブ・ウェールズ@そのかって!!(ソコ?!)

 いやその、初演ではエマくみちょだったってだけで、アレがデフォルトではないとは思うけど、思いっきり三の線でびっくり。
 たぶんアルバイトでがんがん踊ってくれるんだろうけど。
 

 そして、月組には娘役不要なのかなあ、と不安を抱いてみたり。
 マリーって、娘2のポジションですよね。そこにトウカさんっつーのは。トウカさんはすばらしい娘役さんだけど、月組娘役2番手ではなく、別格女役スターさんだと認識しているもので。
 トップ娘役不在なんつー状況のあった組だから、ちょっとでもふつーとチガウと不安になりまつ……。

 
 スカピン団のキャラ立ては変わるんでしょうか。
 わたしは以前、スカピン乙女ゲームネタを書いたくらい、スカピン団萌えしてました(笑)。
 http://koala.diarynote.jp/200808090210260000/
  ↑
 ヒロインになって、スカピン団のイケメンたちと恋をしようシミュレーション・ゲーム。GE以降の隠しキャラはショーヴランとジュサップという(笑)。

 星組版と同じキャラ立てだとどうだろう、と思った、ハル@珠城くん。
 ハルはねええ、年下かわいこちゃん彼氏枠なんだぞおお。(ゲーム脳から離れなさい)

 珠城くんがあのガタイで「先輩、ボク、先輩のこと好きです☆」な年下キャラをやるのかと思うと……。(だからゲーム脳は……)

 いやその、素の珠城くんは若いかわいい男の子なんだろうから、少年枠はアリだろうけど、せっかく男役としてのビジュアルが整っている子だから、いっそ大人の役をやらせた方がいいんぢゃないかと、うだうだ(笑)。

 
 あとはルイ・シャルル@愛希れいかに食いつきまくり。

 愛希くん、ここに来るのか!!
 小柄なかわいこちゃんで、声変わりもまったくしてないもんな。でもって、ダンサーで歌はそれほどうまいっつーわけでもなかったよーな気がしてたんだが、ソプラノで歌う分には問題ないのかな。

 
 そして、新公の主な配役では微妙に凹み(笑)。

 いやその、パーシー@珠城くんはいいんです。ぶっちゃけ『ラスト プレイ』新公観た帰り道、友人と「珠城りょおくんでパーシー見てぇ!」とか言ってました、無邪気に。
 それくらい、ムーア役は素晴らしかった。

 ただ、『HAMLET!!』を観た限りでは、珠城くんはなんでも出来るスーパー下級生ではなく、ふつーに得手不得手がある。それならパーシーよりもショーヴランでひとつの役に集中した方がいいなと。
 パーシーは2役演じるよーなもんだし、「笑いを取る」という、ジェンヌが持たなくてもいいスキルにも血道を上げなくてはならないから。もともとイロモノばっかやってきた研7のベニーならハマっても、二枚目もイロモノも経験自体皆無の研3の坊やにわざわざやらせなくても、と思った。

 そしてナニより。
 実は。
 本心的には。

 宇月くんの、新公主演が観たかったっ。

 パーシーが、ではない。新公主演(笑)。
 月組は基本ひとりっこ政策、新公主演経験者は少ない組。珠城くんを上げてくるなら、その前にすべり込み主演してほしいのよ~~。
 宇月くん、いいじゃん。いっぺん真ん中やらせてみてよぉ。

 まだ今年度はあと1回チャンスがあるけど、下級生のヒヨッコを主演に据える場合、経験たしかな上級生を相手役や2番手に配したりするわけで、そこで2番手役が回ってこない、ことに危機感を募らせてみたり。
 あうう。

 
 マルグリット@りおんちゃんは、歌ウマさんだし『ME AND MY GIRL』新公良かったしで、よい配役だとは思うんだけど。

 本役のマリー@トウカさんと同じ意味で、娘役不在感を煽られます。娘役2番手としての抜擢とは思えないのよ……。
 組内の娘役ちゃんたちをヒロイン・キャラとして育てる気はないんだろうか、月組は。可愛い子もいっぱいいるだろうに、不思議でならない。

 
 で。
 そんでもって。

 ショーヴラン@紫門くんって、ナニゴトっ?!(笑)

 考えてなかった。
 マジ、この配役は予想だにしなかった。
 パーシー@珠城くん、ショーヴラン@宇月くん、あるいはこの逆、だった、わたし的に。

 だってシモンくんっつったらだ、デフォルトが泣き顔のかわいこちゃんだぞ?
 わたしの認識が偏っているだけだとは思うが、うん、ほんと個人的な思い込みでは、泣いてるのか笑ってるのかわからないヘタレ男キャラ。
 フランツ@『エリザベート』、ジークムント@『ラスト プレイ』で、ヘタレとして素敵にキャラ立ちしてくれた、あの素敵かわいこちゃん!

 うわああ、ショーヴランかよぉ。見てぇ。絶対見てぇ!!
 地団駄踏む勢いで、観たくてたまりません。

 男らしい紫門ゆりやを見られるのかな。黒い紫門くんを見られるのかな。
 想像つかなくて、わくわくする。
 

 宇月くん、紫門くん共々本公ではスカピン団だし。
 キャラ立ちしてぜひ、わたしに月組版スカピン恋愛シミュレーションゲーム・ネタを書かせるよーな、素敵っぷりを見せて欲しい。

 
 問題は、本公も新公も、見事に1枚もチケット持ってないってことですね(笑)。
 友会全滅したもーん。

 まあなんとかなるだろう。

 
 たのしみだなあ、新生月組。
 今さら『パッサージュ』の話。

 ハマコが歌ウマなことは、誰もが知っている。
 でもタカラヅカにおいての歌唱力には、ハッタリ力というかスター力というか、別のモノも大きく作用していて。
 ハマコはハッタリもスター力もとっても持ち合わせている人(笑)で、彼がどーん!と歌うと「はい、歌ウマさんですね!」とひれ伏してしまうというか、「わかったわかった」という気持ちになるというか。

 本当の意味で、「ハマコってマジ歌ウマぢゃね?」と思ったのは、『パッサージュ』ではないかと思う。

 過去に囚われた女が足を踏み入れたカフェ。
 そこのギャルソン@ハマコが歌う。
 
 ♪玻璃の裏通りの硝子の屋根薄汚れたカフェがある

 この歌がすごく好きで。
 ハマコの歌からはじまるこの曲、さまざまな人々の人生が交錯する。

 そして、ハマコの「♪また同じ」というフレーズで、終了する。

 オギー節全開の言葉遊び、韻を踏みまくった言葉の洪水。
 軽妙な曲なのに、そこに歌われているモノ自体は、重い。というか、閉塞感がある。
 絶望と否定。それすらも達観した諦観。

 ハマコの深みのある声が、あやういコーラスを支える。

 ハマコってマジ歌ウマじゃね? この歌、よく歌えるもんだよヲイ。

 そう思った。
 そして、ハマコですらこんだけ大変そうな歌を、ワタルくんに歌わせるオギーのチャレンジャーぶりに感心したり(笑)。

 いつものカフェ、いつもの人々。
 いつもの絶望、いつもの孤独。

 軽妙に描き出される、毒の鋭角さ。
 鋭すぎると、切られたことすら気づかない。

 その「いつも」の世界から、舞台は夜、裏社会へ移る。

 青年@ブンちゃんが足を踏み入れる夜の街。マフィアが支配する世界。
 でもそれはまだ、「こちら側」でしかない。

 青年はさらに裏世界へ……「あちら側」へ迷い込む。
 片翼の少女@まひるちゃんが囚われている真夜中のサーカス団。

 こちらとあちらの境目。トワイライト・ゾーンのカオス。
 そしてついには、美貌の王@トドが支配する地獄へ。

 ♪黒い硝子はひび割れて澱んだ闇がにじみ出す

 トドロキのとんでもない美貌。堕天使コム姫といづるんの毒。
 美穂圭子ねーさまの暗黒の歌声。

 でも、このいかにもな「闇」は実はあんまし破壊力大きくないんだよね。
 マフィアたちがダークなのも、地獄がダークなのも、とーぜんじゃん?
 でもって、これらの世界は、現実で生きているわたしたちに関係なくね?
 この一連の場面で、いちばんヤヴァイのは、サーカス団ですわ。こちらとあちらの境目、アレはやばい(笑)。

 マフィアに翻弄されるプンちゃんはエロいし、トド×ブンの耽美っぷりをとことん堪能させてもらえる地獄も、大好きな場面なんだけど。

 そのあとなんだよな、いちばんこわいのは。

 華やかな中詰めのあと、物語の核心。
 「硝子の空の記憶」と、このショーのサブ・タイトルが付けられた場面。

 そう、ハマコの歌声で綴られる場面。

 圭子ねーさまと、ハマコが歌う、「ホリデー」。

 歌詞はなく、スキャットのみ。
 男と、死にゆく女のダンスに続いて展開する、恋人同士のダンス場面。
 硝子の砕け散る音のあと、ノイズまじりの遠い歌声。

 ここの破壊力が、ハンパなくて。

 表情や感情の消えた操るようなダンスと、別れていく男女。
 すべてのカップルが、みな背を向けて別れていく。壊れていく。
 そのこわさ。うつくしさ。

 ハマコの歌声っていうと、いつもどーん!と元気で押しつけがましくて、無視できない、主役でなきゃならない系の歌声で。
 うまいことはわかるけど、ちょっと抑えてくれてもいいんじゃね?的な。

 そんな思い込みが、消える。
 こんな歌い方も、できるんだ?

 音楽が、耳について離れない。
 そののちの海の場面の旋律に姿を変えても。
 観終わったあとに残るのは、圭子ねーさまとハマコの歌声。

 海の追憶はひたすら美しくて。
 美しすぎて、泣けて泣けて仕方なかった。

 手のひらに残る、残骸。
 もう決して帰らないもの。
 白い光がまぶしければまぶしいほど、過去は絶望となり現在を蝕む。

 無邪気に踊る天使@コムの美しさと。

 そして、彼の慟哭。

 カメラは映してくれなかったけれど、壊れた人形のように、つかれたにんげんのように、肩を落として去っていく、後ろ姿の痛さ。

 
 スイッチが入るのは、ハマコの歌声だったんだなあと思う。

 ハマコが歌ウマなことは、誰もが知っている。
 でも、あんな風にハマコを使った人は、オギーが最初だったと思う。

 力強くて陽性で押しつけがましい……そんなハマコを持ってして、儚いモノを描く。

 
 ハマコが卒業してしまう。
 それはわたしにとって、「わたしの雪組」の区切りでもあるんだな、と、今さらながらに思う。

 組カラー尊重は大切だけど、こだわりすぎるのはナンセンスだし、トップさんが替われば組自体が変わっていいと思う。
 自分の好きだった・よく観ていた時代のカラーや雰囲気に固執するのは馬鹿げている。
 そうやって今までもトップスターの代替わりを見守り、受け入れてきた。

 でも実際のところ、トップスターより、こんなところで代替わりってのは実感するもんなんだね。

 わたしにとっての雪組って、コムちゃん卒業あたりまでなのかなあ、とぼんやり思う。贔屓の変化と共に、担当する組も変わっていくわけだから。わたしが雪担だったのは昔のこと。コムちゃん時代ですら、贔屓も贔屓組も別だった。
 でも、わたしがこの世界に入ったのは雪組で、雪組があってこそ、今のわたしがある。雪組はずっと特別だ。

 そして、そのコム時代の雪組の名残が今また、消えようとしているんだなと、思ってみたり。

 今の雪組を否定するわけではなくてね。

 ぶっちゃけ、年寄りの懐古趣味ですよ。
 今さら、『パッサージュ』の話。

 ハマコを失うという事実がわたしのなかで浸透するなり、古いメディアを引っぱり出していた。
 DVDレコーダを買って最初に録画したのが、NHK放送の『パッサージュ』。おかげで殻付きRAMに録画してるんだよー(笑)。ブルーレイ・レコーダ様は殻付き再生できないの、同じパナソニックなのに、純正品RAMなのに。それくらい、昔のメディア。

 トップスターはトド。トップ娘役はグンちゃん。2番手がブンちゃん、3番手がワタルくん、W4番手としてコム姫とナルセくん。
 美しい人々、美しい衣装、美しい世界。新専科制度という苦い時代に出来た、奇跡のような公演。

 当時、狂ったように書き散らかしていた文章は、まったく残っていない。PCの故障、買い換えなどで紛失した。
 だからもう、あの当時のキモチを顧みることもできないのだけど。

 最初わたしは、その世界の美しさに感動した。
 「天使の夢を見たわ」ではじまる、硝子細工のような世界。きらきらと輝き、角度によって光を変え、夢夢しいにも関わらず冷たく、たしかな硬さを持ちながらも砕け散るもろさを秘める。
 オープニングの娘役のドレスの美しさときたら! 色とりどりのキャンディのようで、盆が回って女の子たちが登場するなりぱーっとテンションが上がったのをおぼえている。
 きれい。かわいい。
 ただそれだけのことに感動して、胸が熱くなる。

 どの場面もひたすら美しく、悪趣味な濁りがない。
 だがその「美しさ」は陽と陰、光と闇がサンドイッチ状態になっていて、作者の苦心がしのばれた。

 ダークな部分を表現したあとは、「とてもタカラヅカ」な明るく美しい場面を必ず入れる。作者自身が描きたいものが闇部分であったしても、いちいち「タカラヅカです」という場面を入れることによって言い訳してある。それが愉快ではあった。

 美しいこと、光と闇が交互に構成されていること。
 そこまでは初日からわかっていたのだけど。

 繰り返し観ているうちに、どうもおかしいことに気が付いた。

 初日から、わけもなく涙があふれ、なんで自分が泣いているのかさっぱりわかっていなかったんだが。
 リピート観劇すればするほど、さらに涙が止まらなくなる。心臓がばくばくして、気分が悪くなる。
 なんなんだろう? なんでこんなことになるんだろう?
 こんなに美しくて楽しくて、しあわせなキモチで観ているのに。

 何度でも観たくて劇場に通い、芝居はどーでもいー、『パッサージュ』だけが目当てで客席にいるのに、いざその『パッサージュ』がはじまる間際になると、そこから逃げ出したくなる。苦しくなる。
 実際、観ていても苦しくて仕方がない。こんなに心臓ばくばくして、血を送り続けて、わたし、破裂するんじゃないの? と思うくらいに。

 泣きすぎて消耗しすぎて、終演後もなかなか座席から動けない。
 ばくばくする心臓をなだめなければ、動くこともままならない。

 ……アタマ悪いので、気づいてなかったんだ。美しい、楽しい、大好き……そんな表面的なことに夢中になって、それ以上はナニも考えていなかった。
 あきらかにおかしいだろ、わたし。なんでこんなに過剰反応しているのか、考えろよ。

 何回目かの観劇時に、不意に気づいた。

 美しい、楽しい、大好き……そう思って陶酔して観ているその夢のような舞台の上に、絶望しかないことに。

 美しさで隠されていたけれど、そこで描かれているのは「別れ」「喪失」「悔恨」……プラスのものはナニもなかった。
 「タカラヅカ・ショーのお約束」部分ではにこにこ愛だの幸福だの歌っているけれど、物語部分、作者のメッセージ部分では絶望しか描かれていなかった。

 なまじ美しいから、問題だ。
 絶望をマイナスのものとして描くならわかる。だが、そこにある絶望はひたすら美しく、甘美だった。

 誘惑があった。
 絶望……死への。

 わたしは、こわかったんだ。

 美しくて大好きなのに、心臓ばくばくして涙が止まらなくて気分が悪くなる、そんな作品。
 こわくてこわくて、たまらなかったんだ。
 アホなアタマが追いついてなくても、カラダは反応していたんだ。まずい、って。コレにハマったら、傾倒したらまずいって。

 気づいた瞬間、血の気が引いて、その日は帰宅するまで大変だった。
 美しい絶望。
 わたしが狂ったよーに観ていたものは、とんでもない毒だった。
 カラダはすでに侵されていた。

 このままじゃまずい。
 わかっていても、観るのをやめられない。
 毒に侵され、毒なしには生きられない。

 観る前に気分が悪くなり、観ている最中も気分が悪く、見終わってもへとへと。それでも、観たくて観たくてたまらない。
 それでも、好きで好きでたまらない。

「こんなこわいもの、何回も観てるんですか?」
 ある日友人のかねすきさんがそう言った。彼女はその日が初見だった。わたしが何回も観てよーやく「コレ、こわい」と気づいたものを、初見でずはりと言い切った。

 ああ、やっぱりコレ、こわいよねえ? 他の友だちに言っても通じなくて。きれいだけどこわい、きれいだからこそこわい、ってどんだけ訴えても「緑野が変なんだ」で片づけられちゃったよ。「変」と言っても、そのおかしさも含め、受容してくれるやさしく寛容な友人たちなんだが。
 まあたしかに、わたしも過剰反応してるんだろうし、自分でもちょっと行き過ぎてね?とは思っているし。

「心が健康な人には、必要ないからですよ」
 わたしたちが「こわい」と思う毒の部分が。健康な人には毒にはならない。そう、すっぱり言われて納得。だから、どんだけ訴えても届かないんだ。

「まあ、わたしってトクベツなひとなんだわ!」というよりは、人よりまちがっている、劣っている、と指摘されたようなもので。
 よく母に「アンタがアフリカのキリンなら、とっくに死んでる」と叱られるのだけど(心身共に虚弱なんて、生物として劣っている。人間だから許されてるけど、野生動物ならとっくにライオンの腹の中だろう、という意味)、それと同じレベルのしょぼんさですな。
 肩を落とす……だって、実際そうなんだから、もう変えようがないんだから、責められても仕方ないっいうか。
 事実を事実として受け止め、しょんぼりする。
 こんなに大好きなのに、こんなに苦しい。それはもう、どうしようもないんだ。逃げられないし、変えられないんだ。

 それならそれで、開き直って楽しむしかない。
 毒満載作品なんてすごーい、オギー最高!(笑)

 コレ観て反射的に自殺する人とか出てこなければいいね。毒に侵されて、帰り道線路に飛び込んじゃう系の人が、いなければいいね。
 そんなことを、冗談まじりにかねすきさんと話して発散した。

 美しいけれどこわい、こわいけれど美しい。
 病んだ自分を肯定し、受容し、解放する。
 細胞を解き放つ感覚。

 原子まで分解され、また再構成される快感と恐怖を、味わう。

 『パッサージュ』に浸る、とゆーのはそーゆー行為だった。体験だった。

 
 てなイタイ話は置くとして(笑)、ふつーの感想に続く。

 密かな決戦の日。

 話題にもなっていないが、桜乃彩音 ミュージック・サロン『Ever green』-春風のように-のチケット発売日なんだってば!(笑)

 発売開始ジャストに電話がつながるようにと、万全の態勢で臨みましたとも。

 ……もちろん、一発でつながりはせず、「ツーツーツー」を何度も何度も聞きましたが。

 ええ、「ツーツー」という通話中音です。その前に参戦したゆみこさんDSのときのように「ただいまこの電話は大変混み合っております」というお断りテープぢゃなかったっすよ。がんばればつながる!という希望の持てる音でした。
 ちなみに、『巴里祭』のときも話中音でしかなかったっすね……ゲフンゲフン。

 で、無事に宝塚ホテルにつながったわけなんですが。

 座席位置を教えてくれなかった。

 『巴里祭』ではすらっと答えてくれたんですよ、席。
 それで、納得して購入したんですが。

 DS自体あまり行ったことないし、行くときも会頼みっつーか人を介しての場合が多く、そーゆーときに席番なんぞを聞くのは野暮、自力チケ取り以外は座席に期待しない・どこでも喜んで、が当然。
 だからあまり知らないんだけど、よその興行でも、座席位置ってのは不明で販売してるもんなんでしょうか、ディナーショーって。何万円する興行でも、席種関係なく一律料金でも。

 殿様商売だなー。
 にまんごせんえんもする商品なのになー。

 や、タカラヅカの特質として、前売り販売時点で席がわからないのも、想像はできるんですよ。
 会とか特別なお客様の配席関係もあり、明確な座席表自体存在していないんでしょう。直前になってセットするテーブル数を決めるくらいの勢いじゃないかと思う。
 ぶっちゃけ、売れるようならテーブル数増やす算段っていうか。

 だから教えられないのもわかるんだが。
 ホテル阪急インターナショナルは、教えてくれたんですよ、何列目のどこ、と位置までちゃんと明確に。すらっと、さらっと。そのテーブル位置は、自分の電話がつながったタイミングからして、納得のいくものだった。この時間なら、たしかにこのへんだろうなと。
 HHIでは、一般前売りで電話がつながった先着順に、ふつーに配席していた模様。
 別のイベントでも、「私は15分でつながったからここ。あのあたり(何列か前のテーブル)の席の人は10分でつながったそうよ」と言っている人がいたなー。

 これって大事じゃね? 今後の購買意欲につながるよ。
 良い席は一般売りしてません、配席はすべて藪の中です、という態度より。

 HHIがすごいの? 特殊なの?
 それとも宝ホがひどいの?

 昔、前のご贔屓の退団DSで宝ホのチケ取りしたときは、電話がつながっただけで心臓バクバクで座席位置を聞くことなんか念頭になかった。
 あのとき「席を教えて」と言ったら、断られたんだろうか、やっぱ。

 タカラヅカは一般客よりも特別なお客様や会を中心に動いているから、なんとも言えないんだよなー。
 それが正しいかどうかではなく、そーゆーもんなんだから、仕方ない。
 そーゆー世界の文化を、好きになってしまったんだから。

 電話がつながった時間から察する座席位置より、はるかに悪い席だったらヘコむなー。
 だってこのイベント、売り切れてないわけだし。今現在(実は発売日から10日以上経っている・笑)絶賛発売中なわけだし。発売当日の発売開始時刻からそれほど経っていない時間帯につながって、いちばん後ろの端席だったりしたら、一般売りってなんなん?ということになるな。
 ソレでも仕方ない、自分で決断して自分で観に行くのだから、と納得するしかないわけだが。

 ひとつひとつ自分で経験して、スキルを上げていくしかないので、これも経験。
 何時につながってどの席だったかは、貴重なデータとして蓄積する(笑)。
 レビュー・シネマは諸手を挙げて賛成・肯定するけれど、ジェンヌで映画を撮って欲しいとか、映像だけあれば舞台はいらないとかいう意味じゃない。
 タカラヅカはナマ舞台。これ以上の物はない。
 その上で、別の媒体に展開してもいいじゃん、てこと。

 また、映画が最高だから、スカステやTCA発売のDVDが不要だと言っているわけでもない。映画版をDVD化すればいいじゃん、という意味でもない。

 劇団がファン用に作っている「記録映像」としてのスカステや販売DVDは絶対必要。ストーリーよりもジェンヌの顔を映す、ファン・ディスクとしての姿勢は必要不可欠。

 雪組、星組と自分の贔屓組以外で制作されたレビュー・シネマを見たわけだが、こんだけ楽しかったのは贔屓組ではないから、てのもあるかもしれない。
 それぞれの組に好きな人はいるけれど、過度の愛と執着(笑)のあるご贔屓が出演しているわけじゃないから、客観的に見ていられる。

 もしコレが花組本公演だったりしたら、物語を楽しむとか新たな視点を楽しむとかゆー話ではなく、ただひたすらご贔屓がどれくらい映ったか、どんな顔だったかとかだけに一喜一憂していそうだ(笑)。
 主要人物ならいつも顔をアップにしてカメラが追い続けてくれるからいいけど、それ以外の人はなー。スカステなら脇役も満遍なく、できるだけたくさんの人の顔を映してくれるけど、映画はそうはいかないもんな。台詞や歌があっても、映ってないかもしれん。

 さて、レビュー・シネマ第1弾『ソロモンの指輪』鑑賞時に、こんな感想を書いている。

> 『タカラヅカ・レビュー・シネマ』は第一弾と書いてあるのだから、これからも続けるのかもしれないが。
> ヅカを素材にして、ここまで「別作品」を作れるほどの、「素材」として深みのある作品が、今後どれほど出るのだろうか。
> 単に歌っている人をアップにして、ストーリーを脚本通りに追って終わり、の、劇団販売映像となんら変わらないものしか、出来ないんじゃないか?

 ごめん、レビュー・シネマをナメてたね。
 「歌っている人をアップにして」ではなく、テーマと主役だけを追いかけて、だった。歌っていても踊っていても、主軸に関係なかったらさくっと無視されていたわ(笑)。
 主役たちだけを丹念に追うのでも、劇団印の記録映像とはまったくチガウ……つまり、劇団販売映像がどれだけ「映画」とはかけ離れていたかが、反対にわかった。

 
 主役クラスの人たちを映すだけでも、「視点」のあるなしで物語は大きく変わる。
 やはり、「舞台」というのは面白い。
 どんな視点で見るかは、わたしたち観客にまるっと全部委ねられているわけだもの。
 わたしたちひとりひとりが、あの映画と同じくらいの映像作品を、脳内で作り上げているのよ。それを許してくれる媒体が、ナマの舞台ってやつなのよ。

 「映画」というカタチで差し出されることにより、「舞台」の魅力を再確認した。

 舞台観劇ってさあ、お金も時間も労力もかかって大変じゃん? テレビやネットのない時代ならともかく、お茶の間であらゆる娯楽をタダで愉しめるこの現代に、なんつー不便で効率の悪い文化なのかと思うよ。
 だから実際、観劇人口は減る一方なわけでしょ? テレビがない時代にあんなにたくさんあった芝居小屋は、今じゃ生き残っているのはわずかばりだよね?

 それでも今現在、少なくなろーがどうしよーが、舞台芝居というモノがずーーっとしぶとく生き残ってきているのは、理由があるんだよなあ。

 この魅力だけは、お茶の間娯楽には取って代わられない、なくなられちゃ困るもんだよな。

 しみじみと、出会えて良かったと思う、この文化に。娯楽に。
「そーいやケロファンが最近、ちえちゃんに流れていってるらしいよ」
「えええ? ケロがいた頃は歯牙にも掛けてなかったじゃん、あんなお子ちゃま」
「でも知っているだけで何人も……」
「いや、わかるけど。ケロファンとして、今のれおんに惹かれる気持ちはわかるけどもっ(笑)」

 てな話をケロメイトとしたのは、いつでしたっけね。
 大人のエロ男スキーな、大人のおねーさま方が今注目するイケメン・ランキング、つーのがあれば、れおんくんの急上昇ぶりは目を見張るモノがあるのかもしれない。

 つーことで、れおんオチしたら、どーしてくれるんだよおおおっ。の話。

 もともと『太王四神記 Ver.II』のタムドク@れおんは好みド真ん中だった。
 あの傲慢さと、王者としての風格。天才ゆえの無神経さ。あーゆー攻男は大好物だ。
 だからこそ、タカラヅカ・レビュー・シネマ『太王四神記 Ver.II』もまた、ものすごーく楽しみにしていたんだ。あのタムドクにまた会える、と。

 ところがどっこい。

 スクリーンで見るタムドク@れおんは、舞台で観たタムドク@れおんと、微妙にチガウ人だった。

 宝塚大劇場でしか観ていないので、東宝で変化した可能性もあるが、そーゆー意味での違いではないだろうなと思う。

 「映画」としてスクリーンに切り取られた世界は、ナマの「舞台」とはチガウ特質を持っていた。

 「華」や「存在感」、役者の発する「気」の部分が、映画には映らないんだ。

 この大きな違いには、正直驚いた。
 ここまで、明らかに違うモノなのか。

 舞台役者とテレビ俳優の持つスキルは、こうまで別物なのか。
 舞台では華がないと埋もれる。どんだけいい演技をしたところで、まず注目してもらわなければ演技すら見てもらえない。全員が同じ大きさで同じ舞台の上に立っているのだから、客席から誰を見るかは個人の勝手。
 テレビや映画では、作品に必要な人しか映らない。華なんてなくても、主要キャラはアップで顔を映すから無問題。他の人は画面にも入らないから、そちらを見ることもない。

 タムドクの「大きさ」が、スクリーンからは感じられなかった。
 いや、彼が主役で強く賢い王子様だとはわかる。そうじゃない、脚本に描かれていない部分の「王者」としての大きさ。彼が泣こうが悩もうがまったく関係なく、終始感じていた「王者ゆえの傲慢さ」、それらが影を潜めている。

 ふつうに脚本にある通りの、優しい王子様ですがな。
 繊細で素直な若者……花組版のまとぶんタムタムに近い部分も見える。

 舞台はやはりナマモノであり、お金や時間や労力が大変だけど、劇場に行くしかないんだな、と思い知った。
 映像は役者の「気」を映さない。劇場でしか、本来の作品は受け取れないんだ。

 劇場で感じた最大の魅力が、スクリーンからでは感じられない。
 それはショックだったが、なにしろこちらは先に劇場でホンモノを見ている。このカラダに五感に、ホンモノの魅力は染みこんでいる。
 その記憶が、スクリーンで展開される物語によって自動再生されるので、無問題。
 二重映しの違和感と、快感。
 記憶が舞台で見たれおんの大きさを脳内で再現し、そこにさらに、今目に映っているれおんの繊細な演技が二重に焼き付けられる。

 萌え死ぬかと(笑)。

 かっこいいのっ。
 タムドクがっ、れおんがっ。

 あの傲慢な王者が、神に選ばれし者が、こんな悲しげな瞳をするなんて。
 彼の強さと大きさを知っているだけに、その強い強い英雄が見せる「弱さ」に胸キュン、ときめきまくりですよーーっ!!(笑)

 いやもお、れおんオチしたらどーしてくれるんだ、こんなにこんなにときめかせやがって! 恋しちゃったらどーしてくれんだよお。

 ケロファンが今れおん、ての、わかるわ……。
 れおんくんの持つ暴力的なエロっぷりが、かつてのケロ兄貴に通ずるモノがある。背を向ける人妻を、後ろから腕を掴んで強引に抱き留める、系のエロが似合う感じっつーか。
 でもって、その強引で男くさい瞳の奥に、やさしさとか弱さとかがちらりとのぞいたりしたら、もうノックアウトですわね(笑)。

 
 舞台では、タムドクの王者っぷりに対し、あまりに無力で涙をそそったヨン・ホゲ@かなめくん。
 「気」の映らない映画では、ふつーに顔アップだし、歌はかなり加工されて(ときどき口パクと合っていなかったり・笑)底上げされていたし、「もうひとりの主人公」としてフィーチャーされていたと思う。
 彼個人は見事に、舞台との差がなかった(笑)。違和感なく眺められた。
 や、美しさは全編通してNo.1だと思いますけど。

 かなめくんのホゲがあんなにあんなにわたしのツボだったのは、「可哀想度が半端ナイ」からだったんだなと、再確認。
 王者タムドクとの器の差が歴然で、ライオンとウサギくらいの差があるのに、ウサギさんが真っ赤な目をして必死になってキバをむいて「フーッフーッ」とライオンを威嚇している様が哀れで涙と萌えを誘ったんだわ。
 
 ところが映画では、どっちもふつーに人間の男の子だったので、ホゲがそれほど哀れじゃない……。
 もちろん、人間同士にしたってタムドクに勝てないことは一目瞭然なんだけど、「ライオンを威嚇するウサギ」の図ほど萌えない……。

 あ、なんだ、こういうことなのか。
 と、最初のあたりで気が付いたので、映画ではタムドクのみに集中。タムドク中心に楽しみました。そりゃ映画だからオペラでただひとりをガン見、てなことはできないけれど、気持ちの上でタムドク視点。
 彼だけに感情移入して見切ったので、じつに気持ちよくときめきまくりました(笑)。

 ああ、タムドクかっけー!

 彼をもっと見たい、彼の物語を見たい。
 素直に、そう思いました。
 何年か前、びんぼー人らしく水曜日に映画館へ行った。や、映画はレディースデーでしょう(笑)。予算は2000円、1日で2本見るのよ、るるる・ららら。
 上演リストを見て、コレを見ると決めていた、『髑髏城の七人』。ええ、ゲキシネですよ。

 そしてチケット売り場で知った。

 「ゲキシネは割引対象外、いつでも定価2500円」。

 ……今日がレディースデーでなかったら、ふつーの映画は1800円、ゲキシネは2500円。700円差なら仕方ないなと思うかもしんないけれど、今日はチガウ。
 ふつーの映画は1000円、なのにゲキシネは2500円。その差1500円!!

 だ、ダメだっ。
 びんぼーかつびんぼー症のわたしには、レディースデーにゲキシネを見る勇気がないっ。
 他の日なら700円だけど、今日は1500円なのおおっ。そんなもったいないことできなーーいっ!!

 とゆーことで、ゲキシネあきらめて他の映画を2本見て帰りました。
 結局わざわざ他日に出直すことはなく、『髑髏城の七人』は見られませんでした……。どっとはらい。

 
 てな記憶があったので。つか、トラウマ(笑)があったので。

 タカラヅカ・レビュー・シネマ『太王四神記 Ver.II』の価格を見たときも合点がいきました。

 ああ、ゲキシネと同じ値段だ、と。

 そして、とても安心感があった。
 長くない上映期間のレディースデーをわざわざ目指して行く必要もなく、いつでも自分の都合の良い日に行けばいいんだ。
 また、ポストカード目当てに前売りを買っていいんだ。他に割引はされないんだもの。

 なにしろオレはびんぼーかつびんぼー症だ。仮に上映期間が1週間あるとして、そのうち1日だけが1000円で見られるというのなら、無理をしてでもその日に行くだろうし、1000円で見られるとわかっていたら、前売り券を買うはずもないからだ。

 や、実は現在はゲキシネもレディースデーの割引対象になっていたり、タカラヅカ・レビュー・シネマもレディースデーなら1000円だったのかもしれないが、知らぬが仏、情報はシャットアウトして自分ひとりで納得。
 いつでもいいから、余裕を持って見に行こう、だっていつ行っても同じ2500円だもん(笑)。

 ちなみに、レビュー・シネマ第一弾の『ソロモンの指輪』はいつ行っても1000円でした。前売り割引も特典もナシ。
 なにしろ30分こっきりのショート・フィルムだからなー。これ以上の値段は取れんやろ。

 
 『太王四神記 Ver.II』は上映時間152分。
 長っ。
 いや、でも、仕方ないのか。映画だから途中で休憩入れるわけにもいかないし。
 しかし、ノンストップで2時間半はキツイなあ。

 実際、映画館って、めっちゃ寒いし。
 わたしはいつも重装備で行くし、客席でもコートは脱がないしマフラーもしたままがデフォルトなんだが、それにしても映画館は寒い。
 膝掛けを持っていかなかったことを後悔したね……あの寒さで2時間半はこたえた(笑)。

 いつも自転車で行く某シネコンにて鑑賞。
 公開から1週間、ガラガラかと思ったら、けっこうな混みっぷり。センターブロックはほぼ埋まっていて、サイドブロックにも縦1列のみ客がいる状態。人気洋画ならいざ知らず、マイナーな映画だったらこんなに混むことはないレベルの入りにびっくり。

 わたしは映画を見るときいつも、迷わずサイドブロックの通路際を指定して取る。センターが空いていても、サイドを指定。や、他に客が皆無に近いとわかっているならセンターでもいいが、ふつーレベルの客入りならセンターはウザいと思う人間。
 今のシネコンで、センター以外が見にくい作りなんかありえないもの。
 それよりは前後左右に人がいない、真ん中に向かって脚を伸ばせる後方サイドブロック通路際がいちばん。
 映画はいつもひとり鑑賞だし、予告編見ない(本数見ていると、同じ広告・予告ばかりで飽きる)から本編開始間際の暗い場内に遅れて入ることもあり、人の少ないブロックの通路際席がいいんだほんと。

 だから今回も、ひとりでのびのび見るつもりで、いつものあたりを指定して取ったのに。
 前後にもひとり客が坐っていて、びっくりだ。ふつーサイドブロックにはほとんど人がいないもんなのにー。

 客層はもちろんヅカファンがほとんどだが、カップルらしい若い男女や、ひとりで見に来ている男子とかもいて、不思議な感じ。
 

 本編上映前のCMは、アニメ映画のときは他のアニメやファンタジー映画の予告編を流したり、邦画のときは他の邦画の予告編を多く流したりと、関連づけられている。
 タカラヅカ・レビュー・シネマだとどんな映画の予告編が流れるのかと思っていたら、企業CMも予告編もなしだった(笑)。
 いきなりはじまりましたよ、本編。
 初回でも最終でもない、ふつーの時間帯上映で予告なしって、落ち着かないわー(笑)。

 
 なにしろノンストップで2時間半。
 1幕と2幕のつなぎがどうなっているのか、映画ならではの演出を期待したんだが、なーんにもなかった。
 ふつーに暗転。しかもわりと長い。

 1幕ラストの盛り上がりは、そこで幕が下りてこそだなと思った。
 ふつーにブラックアウトでつなげても、拍子抜けだ。

 映画らしく、エンドロールの作りは凝っている……というか、恥ずかしかったが(笑)。
 うおお、タムドク@れおん素敵~~!!

 パンフレット欲しいなー、つか、必要だろ。
 ヅカファン以外でちょっと興味持ってこの映画を見ちゃった人だって、皆無ではないと思うんだ。
 そんな人に「映画版『太王四神記 Ver.II』」のパンフを用意する必要がある。
 舞台用のプログラムではなく、あくまでも映画用の切り口で編集された、ビジュアル重視のヤツ。パンフのない映画なんて、ほとんどないもの。映画というなら、用意しなきゃ。

 
 映画館のシアターブースを出てから、ロビーフロアの売店のパンフレット・コーナーに「『太王四神記 Ver.II』パンフレット完売。入荷予定はありません」と書かれていることに気づいた。
 映画版のパンフレットって発売されてたの?

 他映画のパンフレットと並んで、見本が置かれていたわけ?
 それは見てみたかったなー。
 売店で『アバター』グッズと並んで『太王四神記 Ver.II』クリアファイルとか販売されているのを見て、とまどったもの……なんてカオスな並び……(笑)。

 初日に鑑賞済みのkineさんに聞いてみたところ、映画用パンフはなかったとのことなので、ふつーの公演プログラムを「映画版『太王四神記 Ver.II』プログラム」として販売していたのかな。
 ……他の映画パンフと並べて、アレを……? 想像すると軽く眩暈がしたっす(笑)。

 
 いやはや、たのしいわ、レビュー・シネマ。
 れおんオチしたら、どーしてくれるんだよおおおっ。

 タカラヅカ・レビュー・シネマ『太王四神記 Ver.II』見ました、見に行きましたとも。や、見るでしょそりゃ、第一弾の『ソロモンの指輪』がどんだけ楽しかったか知ってる人なら。

 でもってもお、タムドク@れおんくんがステキ過ぎるんですがっ。
 好み過ぎるんですがっ。
 終始ときめいて大変でした(笑)。

 はー……罪が深いわ、レビュー・シネマ。

【タカラヅカ レビュー シネマとは】

それは、宝塚歌劇〔TAKARAZUKA REVUE〕の華やかな舞台と、
映画的な演出〔CINEMA〕があざやかに融合した、幻想的な“映像美”にあふれるオリジナルな映像世界。
劇場でしか味わえなかった感動が、最新のデジタルシネマ技術を駆使して撮影・収録された高画質映像と臨場感溢れるサウンド、
そして情緒感あふれる人物描写とストーリー性が際立つ映像演出によって、新たな物語としてスクリーンの中によみがえります。

■脚本・演出:小池修一郎 ■映像演出:橋本直樹 ■映像制作プロダクション:ウィルコ ■配給:東宝映像事業部 ■映像製作・著作:宝塚クリエイティブアーツ
■チケット:当日¥2,500均一 ■上映時間:152分
■お問い合わせ/宝塚クリエイティブアーツ カスタマーセンター Tel.0797-83-6000(10:00~17:00水休)
                   以上公式より引用

  
 すべてがまるっと観客に差し出されている舞台とちがい、映画は他者の作為が入る。今回の場合は「映像演出:橋本直樹」氏の手腕になるのかな?

 どの人のどの表情をアップにし、ナニを切り捨てるか。ひとつの素材で別物語だって作成可能だ。

 だからこそ、おもしろい。
 いつも自分で好きなように見ている世界が、「視点」を持つこと。

 ヅカの公式DVDやスカステ放送には「視点」がない。アレは映画ではない。ただの記録映像だ。舞台をできるだけ忠実に撮影してあるだけ。
 所詮ヅカファンであるわたしは公式映像もジェンヌの顔が映っているというだけの理由で大好きだが、物語好きフィクション好きとしては、映画という「視点」のある映像は別腹で大好物だ。

 実験作っぽかった『ソロモンの指輪』とちがい、今回の『太王四神記 Ver.II』は本気で映画だ。
 ひとつの物語を、宝塚歌劇まんまをまるっとひとつの映像作品に再構築してある。
 「物語」をより明確に演出する。
 監督が「見せたい」と思うモノを見せることができる。

 それゆえに、プルキル@すずみんの場面はよりおどろおどろしく、ダークに悪役的に。
 ナナメになったフレーム、3D酔いしそうな揺れる画面。
 主人公であるタムドク@れおん、ヒロイン・キハ@ねねちゃん、ライバル役ヨン・ホゲ@かなめくんの表情を追い、彼らの心情を明確に打ち出す。
 ヒーロー物だからこそ、戦闘シーンはよりかっこよく効果を付けて。聖剣発動、蛍光灯光ります!のチュモ神剣の裏側を映さないよう苦労してみたり(笑)。

 たのしいなあ。しみじみ。

 反面、ミュージカルの魅力のひとつである「ダンス」は捨てにかかってる。
 群舞の格好良さを映すのは、映画的ではないんだね。
 戦闘シーンもだが、映すのは主役のみで全体に興味はない。全体がどれだけかっこいい動きをしているか、周囲で踊っている人たちが魅力的かは関係なく、真ん中のみに言及。音楽番組で歌い踊るミュージシャンと、そのバックダンサー的扱い。
 潔いわな。
 ホゲ軍の盾ダンスは戦闘シーン扱いだからまだかっこよく映していたけれど、アレもホゲ様しか興味のない画面構成だったしな。

 トップ周辺のポジションではない出演者たちを見たいとか、舞台ならではの群舞を見たいというならスカステや劇団発売DVDを見ていればいいと思うが、『太王四神記 Ver.II』という「物語」を楽しみたいのならこのレビュー・シネマを見る価値がある。
 
 「舞台中継」ではなく「映画」であること。
 そこにこだわった作りが気持ちいい。

 物語中、一度も拍手が入らないことに感心した。
 現代の音響技術って、こんなことができるんだ?
 ……まあその、すばらしい技術ゆえなのか、歌と画像が合ってない場面もちらほら。ナマのままぢゃあかんかったんかい、加工しすぎですよ、ねえ(笑)。

 そーやって物語に集中させ、舞台中継ではなく「映画」だと打ち立てたあとで。

 フィナーレになるなり、拍手が入る!
 この演出に膝を打った。うまい。

 タカラヅカの持つ、ファンタジー性。別世界へつれていってくれる特殊性。
 それを見事に表現しているなと。
 
 ヅカの特徴のひとつだよね、どんな物語が展開されていようと、いったん幕が下りれば何事もなかったかのよーに華やかなフィナーレがはじまる、てのは。
 どんな悲劇で涙涙に終わろうとも。主人公死んでいようとも。ソレはそれ、コレはこれ。悲劇も涙もこっちへ置いておいて、今は華やかに歌い踊る。敵も味方も悪人も善人も、びんぼー人も貴族も王様も、みんな同じようにキラキラ衣装で歌い踊る。
 はじめてヅカを見た人が腰を抜かす、アレ(笑)。
 余韻もナニもあったもんぢゃねええ! でもきれー! でもたのしー!

 物語パートと、フィナーレの断絶感。
 物語に集中していればいるほど、その直後からスタートするお気楽なショー・パートにアタマを殴られた気分になるはず。

 その両極端なモノを、平気で内包するのがタカラヅカ。
 初心者はまずびびる、他ではありえない「それは置いておいて」精神(笑)。
 これぞ異世界。これぞファンタジー。

 あの「タカラヅカ」特有のトンデモなさが、なんの解説もなく表現されている(笑)。

 そして、そのトンデモなさにずっぽり浸りきったわたしは、こうやって外側から客観的に差し出された「トンデモなさ」に膝を打つ。
 ああ、タカラヅカって素敵。タカラヅカって最高。

 
 改めて、「タカラヅカ」を見せてくれた。
 気づかせてくれた。
 タカラヅカって、面白いよ。すごいよ。
 かわいいと得だな。
 と、思った新人公演『ソルフェリーノの夜明け』

 アンリエット@あゆちゃんは、ツンツンしていてもかわいい。言っていることはキツいのかもしんないけど、その丸いかわいい顔で言われても「アリだな」と思えるから不思議だ(笑)。

 男子向けマンガのヒロインみたいだ。すごく自己中でキツイんだけど、顔がかわいいから許されてる、みたいな。同じことをブスが言ったらフルボッコだけど、美少女だから「世界」から許されている、みたいな。

 そーゆー男子向けマンガは苦手なので読まないんだけど、あゆちゃんはかわいいから許す(笑)。←言っていることがめちゃくちゃです。

 本役のみなこちゃんは外見も含めてキツい女の子に見えるし、そこから変わっていくのがドラマなわけだが、新公のあゆちゃんは最初から「ほんとはやさしい子なんだろうな」と思わせる「背伸び感」がある。
 どっちもアリでしょー。

 ほんとうは優しくしたいのに、それが出来ない、許せないことが苦しい……みたいに見えたから、デュナン@咲奈くんとの出会いで解き放たれて、戒めがとれてほっとしているように思える。またデュナンくんが癒やし系だから、余計に。
 よかったねー。憎しみという呪いが解けて、本当の姿に戻れたんだね。ほろり。

   
 他の女の子の役が、実はいまいちわかっていない……。
 本役さゆちゃんの役とさらさちゃんの役ぐらいしか、区別ついてないんだもんよ。
 どっちもやさしい女の子キャラらしい、ということしかわかっていないわたしは、他を見るので忙しかったんだろう。
 
 ところでわたしは、「あなたなら歌えるわ」という台詞が苦手なんだが。これは新公だからではなく、本公も含め、脚本自体が。
 他人に振ってんぢゃねーよ、自分でまず歌えよ、と突っ込んでしまいましたから(笑)。
 誰だって集団の中で最初に反抗的な意思表示をするのは難しい。反対意見をたったひとりで述べるのは勇気がいる。……なのに、後輩に向かって「反対だって言いなさい」と命令する先輩ってどんなパワハラ……?! と、白目剥きましたから、初日に。
 歌ウマ娘役ちゃんに見せ場があるのは良いことだが、何故こんな持って行き方をするんだと小一時間……。
 自分で口火を切らずに後輩に難役を押し付けた看護婦、とゆーことで、さゆちゃん演ずる看護婦さんに対し、混乱が生じたという(笑)。や、植爺が植爺なだけで、やさしい女の子キャラなんだろうけどな。

 悪いのは植爺、と納得して見ている新公は、同じ台詞に対しても耐性があり、「パワハラをするコワイ先輩」ではなく、善意の人だと思って観ることが出来た。

 
 てゆーかさゆちゃん、新公出てないんだね。
 89期が卒業し、90期が長になっている。年度変わりに差し掛かる公演なので、全組通して代替わりが行われた最初の新公なんだ。
 なにしろがおりくんが長の挨拶するんだもんなあ。時の流れを感じるなあ。

 と言いつつ、新公の舞台にいちばん違和感を持ったのは、みうとがいないことでした。
 なにがどう、じゃないんだけどわたしは舞台上に探していた、みうとくんの姿を。なんとなく「みうとがいそうなポジション」を見回して、あれ、いない?! と思い、代わりに大澄れいくんを見つけていたりした。
 何故だ……今までも特にこのブログでみうとに対して触れていたことはナイと思うんだが(顔が好みだとは書いたよーな?)、実はけっこー好きだったのか?! 自分でもおどろいた、何故こうまで彼を探すことがふつーになっているのか。目の端に「ああ、みうとだわ」と入れることがふつーで、いなくなってはじめて「あれ、いない?」とおどろく、そのこと自体におどろいたわ(笑)。

 本公演で医者役もらってますますわたしの視界に入っているのは、新公卒業したからだったのか……学年が上がって本公演での扱いもナニ気に上がっていたのか……。

 
 本公演も含めて目に入る人、つかけっこー好みなんですけど、という若手くん、グラン先生@朝風くん。
 いつものよーに主役以外の配役を知らないまま見ていたので、朝風くんがそらくんの役でどーんと出てきたのにびびりました(笑)。そうか、役付いてたのか、わーい。
 ああ、いそうだね、こんなお医者さん……というか、あの微妙な枯れっぷりが良くないですか彼。無力そうなとこがいいじゃないですか。
 ゼンマイ巻いたら強く動き回りそうなんだけど、今は切れかけてますっていうか。
 美形過ぎない、でもオトコマエなあたりがいいなー。

 
 ベネディック将軍@央雅光希くんがいい感じでした。出てきた瞬間、若い子なんだろうなと頬のラインでわかったけれど、汝鳥さんの大きさを出そうと健闘。
 えーと、まだ研5なのか。押さえの演技は大変だろうけど、この役の経験は将来に生かされるだろうな。
 
 年配役といえば、おじさん@月城くんがうまかったっす。
 ヒゲで顔とかぜんぜん判別ついていなんだけど、いい感じだなーと思ってあとでプログラム見て。ん? 95期って……研1? 次の『スカピン』で初舞台生入ってくるまで、95期が研1だよな? 研1でおじさん役? しかもうまいって……。
 そして、どっかで見た名前だな、月城かなとって、と見直してみる。
 あ、文化祭のマスター役の子だ、あのかっこいい子!
 えええ、あのマスターがあのおじさん?!
 びっくりだ。

 研1抜擢といえば、ポポリーノ@桜路くん。こちらも配役知らないで見ていたので、あとから研1だと知った。だがこちらの彼は、文化祭での記憶はない。芝居を見ていないからだな(文化祭は芝居がWキャスト)。星組の凰津くんの役をやっていた子なんだね。

 なによりハモニカ大変!(笑)と思った。本役のまなはるはうまかったんだなあ。や、ハモニカへたっぴでもジェンヌの価値とは関係ないからいいんだけど、それにしてもうまくなさ過ぎて、関係ないところで手に汗握った(笑)。加えて、見せ場であるアヴェマリアのソロも……た、大変(笑)。がんばれ。
 や、声がぶるぶる震えてひっくり返って、てのが芝居的にリアルかもしれない。ポポリーノがオペラ歌手みたいに朗々と美声を披露したら変だろうし。
 表情がずーーっと同じなのは、気になった。こわい、きつい顔で固まったまま。エリザベート役のときのさゆちゃんを思い出した。大役で大変だったんだろうな。

 若い子に役がついているのは今後が楽しみっす。
 研7抜きの下級生だけ、植爺だから役も見せ場も一部の人にしかありません状態だけど、熱意の伝わる舞台でした。
 んで、改めて咲奈くん、新公初主演おめでとー!

 雪組ではキム以来の下級生主演なんだね。
 されどキムが抜擢されたときほどの話題性っつーか、注目感がないのはどうしてだろう?
 昔とちがって今はなにかと情報が氾濫しているせいかなあ。

 雪組新人公演『ソルフェリーノの夜明け』にて、とてもさわやかなアンリー・デュナンでした。

 咲奈くんの素直な持ち味が、涼やかな光になって暗い色調の舞台に灯っている。
 灯って、広がって、やがて舞台全体を満たす。……そんな感じの主役っぷり。
 カリスマ的に空気を掌握してガンガン行く、というわけではなくて。

 長身小顔手足長っのスタイル良しさん、現代的な若者ゆえか、あちこちがんばって大芝居してた。あれくらいやらないと、この古典的な作品はやってらんないよなあ(笑)。
 歌がうまいことは周知のことなんだが、今回はなにしろ「あの主題歌、1曲」だからなあ。歌唱力よりハッタリ力、気合いとパッションで押し切る力任せな曲しかないので、咲奈くん的にはあまりうまく聞こえなかったのが惜しい。

 にしても、もりえくんに似ている……。
 アップで見るとそうでもないし、スカステの旅番組で見る限りぜんぜん似ていないのはわかっているが、オペラ無しで見ているとそっくりだ。

 無精髭が見事に似合わなかったのはご愛敬。
 あれは相当男役スキル高くないと無理だな。つか水先輩がすごすぎるんだ(笑)。
 
  
 雪組まるまるトリオ、と個人的に呼んでいるのが、りんきら、咲奈、ホタテ。
 この3人に日本物なんぞされた日にゃあ、区別がつかなくてこまりました(笑)。

 でも改めて見ると、ちゃんと個性あるよね、当然だよね、ごめんね。

 エクトール@ホタテくんはトリオ比較で古典的に見えました。
 やさしげな風情と恰幅の良さは、本役さんとは別の意味で役に合っていたかなと。木訥な感じがいいやね。
 勝負服がとんでもねーカエル色ではなく、落ち着いたブルーだったので突拍子なさがなくなっていた。
 しかし、銀橋の歌が大変……。
 物語ともエクトール先生ともホタテくんともまったく無関係の歌を、あの流れで歌わなければならないってのは、難易度高すぎるよ。
 植爺ってば……。

 ファンティ@りんきらは、いい男だなー。あの肉厚な感じは、壮年の男としての説得力になるかと。ヒゲも似合ってますわ。
 前回の新公、汝鳥サマの役もふつーにうまかったし、このまま味のあるおじさま役者になってくれるといいなあ。
 芝居できるし、歌もまずまず歌える人だったよね。……だからその、悲劇の美青年@『雪景色』とかやらなければ、なんの問題もないんだと改めて思った。いやその、痩せてくれれば美青年役でもいいんだが……あああもったいないー、なんであんなにまるまるなんだー。

 
 りんきらと共にいい仕事をしていたのが、ポルリノ@がおりくん。
 いやあ、うまいなー。
 あの安定感。すごく安心して見ていた。軍服も似合ってきれいだよね。
 新公主演経験者が、下級生主演者をあたたかく見守り、後ろでがっつり支えてくれるのは、見ていてもうれしくなる。

 
 前回の新公で美貌っぷりが素敵だった彩凪くんと久城くん。
 やっぱきれいだなー、この子たち。

 ハンデル@彩凪くんが、きれーだわかっこいいわで。
 ヲヅキファンの友人が、がっつり食いついていた(笑)。や、本役のヲヅキさんも、この役をやっているときはマジ二枚目だと思いますが、新公ではさらにわかりやすい少女マンガキャラ風で、こんな美形さんに嘆かれたりした日ににゃ、ときめきますな(笑)。

 カルドナ@久城くん、歌、うまい。
 や、ぜんぜんノーマークだった、あんなにうまいの? 前回も歌っていたよーな気はするが、アメリカチームとしてみんなで一緒になってわーっとやっていたイメージしかなくて、ぜんっぜん知らなかった。
 好みの顔立ちだし、今Myブーム中のコマくんの役なので最初から注目していたんだが、歌声でさらにときめき度アップ(笑)。

 本役と比べすぎても意味はない。新公は新公で、独自の役作りをしてヨシ。
 ……とは思うんだが、なにしろコマのカルドナくんが独特の厚みクドみがあるもので。
 久城くんのカルドナはなんつーかこう、きれいでした。すっときれいで、引っかかりがない。
 そのため、彼が「下手な歌」と揶揄されるところで、何故か赤面してしまいました、わたし。
 あの少女マンガっぽい久城くんカルドナがにこやかに美声を披露していた、そのことを攻撃されると、なんか恥ずかしかった。身につまされるというか。や、日常でもあるじゃん、ふつーに楽しんでいたことをあとから「バッカじゃね」と言われると傷つくってゆーか。
 これがコマくんだと平気なんだよなー。コマドナくんは、わたしが身につまされるような次元のキャラぢゃないから(笑)。あんだけねっとり歌ってたら、そりゃ揚げ足取りたくなる人も出てくるわ、みたいな。
 アヴェマリアによる改心場面も、久城くんだとわりと平坦だったような……いや、コマが濃すぎるのか。(そしてわたしが今、コマを好き過ぎるのだろう・笑)

 久城くんの顔は好みなんですが、そして顔は十分小振りだと思うのですが、それに比べてアタマが大きくないですか、彼。横顔になるとアタマのカタチが特徴的でツボりました。そんなところもトド様に似ている(笑)。
 これから楽しみだ~~。
 

 で、美貌と言えばなんつってもモラルド@れのくん。
 きれいだなー。
 ひろみちゃんの役で、なにがどうではなく「美貌」ポジション。画面に花を添える役割を担う。
 いやその、植爺芝居なので役はあってもキャラクタはナイ、いつも多人数で登場、同じことを順番に喋るだけ……なので、あとは美貌と華勝負。
 れのくんがその美貌でイタリア負傷兵チームのリーダーっす!みたいな感じで登場してくれると、ぱっと華やいでイイ。
 
 
 あー、他の男子みなさんもわいのわいのと同じ顔ぶれで登場されるので、ひとりずつキャラはあるんだろうけれどそこまではよくわからず。
 ちぎくん役のレオくん、あの役はちぎくんだからまだどこにいるかわかったんだな、と思った。レオくんはお芝居好きな子だと以前思ったんだが、今回は油断するとモブにまぎれてしまってちゃんと芝居を見られなかったっす。
 透真くんはますますみっさまに似ていた(笑)。まなはるは本役の方がいい役だよなあ。新公ではしどころがないというか、顔芸は激しかったけれども。
 大澄れいくんがいつもなんか舞台にいる気がしたんが、気のせいか?(笑)
 本公演というか、その「作品」への興味が新人公演の客足を決める、面はあると思う。
 『エリザベート』『スカーレット・ピンパーネル』など、大作の新公はチケ難になるもの。
 「この作品を好きだから、別キャストだとどうなるのか知りたい」と思うのかな。

 雪組新人公演『ソルフェリーノの夜明け』は、その点でとても分が悪かった、と思う。

 初日に芝居を観たとき、「新公観る気がしない話だな」と溜息をついた。
 それはわたしだけではないらしく、終演後合流した友人も同じことを言っていたし。

 同じようにひどい作品でも、とりあえず『ベルばら』まで行くと、すでにアレは商標だから、作品の出来云々ではなく「オスカルはどうだろう」「アンドレはどうだろう」と客足も動くんだろうけど。
 まったく無名の新作で、中身がコレだと、役者を好きでないとわざわざ観ないよなあ。
 つまり本公演は、ほんとに水くんはじめキャストの力で支えてるんだよなあ。

 これでキャストが無名の新人抜擢! とかならまた、話題にもなるかもしんないけど、初主演の咲奈くんは学年は若くても、すでに3番手、2番手と順調にこなしているもんで、シンデレラストーリー好きのライト層にもアピール弱いんだよなあ。

 忙しかったり体調がイマイチだったりで、けっこー心くじかれていたんだが、それでも重い腰を上げてムラまではるばる行ってきた。
 ……当日券売り切れてなかった……ずらりと並んだサバキは叩き売り状態だった……近年めずらしい状況だ、新公でコレって。

 植爺だとこんなところまで影響するんだなあ。溜息。

 
 それでも、とにもかくにも。

 あずりん眺めてました。

 配役が発表になったとき、いちおー期待したんだ。
 あずりんが、マヤさんの役!って。

 マヤさんはどの作品に出ても、主役以外でいちばんオイシイ役だったりするじゃないですか。
 さらに、専科さん偏愛気質の植爺だと、半端な路線役より専科さんの方がイイ役だったりするじゃないですか。

 まあ実際、ハーベルマン先生@マヤさんは、やたら出番と台詞があり、いつものマヤさんらしい比重の役でした。
 が、なにしろ植爺なので、出番と台詞が多い人ほどウザいという難点もあった(笑)。
 台詞の行数が多いことでしか役の比重を上げられない植爺なので、ハーベルマン先生の台詞の無駄なこと。1行で済むことを10行くらいかけて、えんえん同じことを言うからなー。

 それでもっ、あずりんだから!(笑)

 ハーベルマン@あずりん、やたらオトコマエでした。

 ビジュアルの話っす。
 ヒゲっ、あずりんの、ヒゲっ。
 ぶっといモミアゲ、ぐるりとアゴ一周ヒゲっ。

 ワイルドなんですけど? セクスィなんですけど?(笑)←笑うのか。

 ビジュアルからして、本役さんとまったくチガウのでウケました。
 年齢設定いくつ? マヤさんだと「殺された娘」は成人した、アンリエットと同じくらいの年齢の女性のイメージだけど、あずりんだと娘はツインテールの幼女だなー。就学年齢前の幼子を目の前で殺されたんだったら、そりゃおとーさんコワレちゃうわな、てな。

 あずりんは懸命にマヤさんをコピってました。
 喋り方から、動き、立ち方まで。
 てゆーかハーベルマンせんせーって、かなり不審者。
 マヤさんだから気にならなかったけれど、あんなにゆらゆら変な動きと体勢で、芝居している人たちの画面に入り込んでいると、ウザいわー(笑)。←ウザいのか。

 植爺芝居のアレな部分を、改めて見せつけられた気がしました。

 マヤさんもやり過ぎていると思うし、そのマヤさんの芝居をまんまコピって生真面目に演じているあずりんも、それでいいのかどうかわかんないけれど、とりあえず、わたしが愉快だったので無問題。

 ええ、わたしが(笑)。

 あんなに喋ってるあずりん、はじめて見た。

 彼、こんな声だった?
 はじめて声聞くみたいな、新鮮さ。

 がんばってマヤさん風の胡散臭さを出そうとしているんだけど、なにしろ見た目から違いすぎるので違和感バリバリ。
 だってあずりん、ワイルドな若めのおじさん、トウの立ったにーちゃんなんだもん。
 まだまだ人生現役で、そのへんの兵隊さんより強そうで、なのにナニを甘えたこと言ってんだ、て感じ。
 じーさん寄りのおっさんが逃避して飲んだくれてるのとは、ワケがチガウわー。キリキリ働けっつの(笑)。

 そして、マヤさんの老練さを感じさせる、死んだ娘の話をしたあとの退場シーン。
 またおちゃらけた様子で歌いながら去るんだけど、そこに彼のかなしみが集約されていて、観客を背中で泣かせるところね。
 ……なんかふつーに退場しちゃいましたよ、あずりん!! あんまりふつーにすっと建物に入ってしまって、びびった。ええっ、ソレでいいの?!と。
 マヤさんをコピるのなら、そここそをコピってほしかったっす……。

 とまあ、気になるところ、拍子抜けしたところはあるにしろ。

 ビジュアルが、好みすぎる。

 顔を眺めているだけで、シアワセでした。
 おかげでもお、彼の顔ばっか見てた(笑)。

 ヒゲのおかけで、唇が強調されている気がした。
 わたしの大好きな、あの厚めの唇~~。

 横顔が美しいなあ。
 やっぱヒゲが似合う男はいいっすよ。

 最後の病人積んだ荷車の前で、片膝突いているのが大層かっこよかったっす。
 でもってこの最後の場面はハーベルマンせんせ改心後、かつ命懸けだったりするから、すげーきりっとした強い表情しているのー。ちょっとびびっていたりもするんだけど、それでも「信念!」って引き締め直したりしてるのー。

 美しいあずりんを、ごちそうさまでした。
 新公観に行ってよかったっす。
 『第96期宝塚音楽学校文化祭』で、いちばん気になったのは、お芝居の主役のひとりだ。

 わたしが観た回は、文化祭初日初回。
 芝居は、O・ヘンリの『警官と賛美歌』『賢者の贈り物』『最後の一葉』をひとつの時間軸にぶち込んだ作品なので、主役は3人。

 そのうちの『賢者の贈り物』の主役、夫へのプレゼントを買うために大切な髪を売ってしまう妻役の子だ。

 夫役の子が素敵にヘタレっつーかぜんぜんうまくなかったんだが(笑)、それでも妻ひとりでいじらしい演技をしていた。
 感情移入して胸が痛かったよ。思い詰めた表情が真摯で。
 声もきれいだし、雄弁だし……ってこの子、幕開きで「清く正しく美しく」独唱した歌ウマさんなんだね。

 芝居はどうしても、女の子たちが有利。
 男の子たちはねえ……声も姿も大変なことに。衣装着るだけでも、あんなに難しいことなんだねええ。
 わかっているけど、ほんと女子校の文化祭まんまになっちゃうんだよなあ。

 うまいのかどうかはよくわかんなかったけれど、『警官と賛美歌』の脇役、主役の相棒みたいな浮浪者役の男の子は、かわいかった。
 かわいいキャラで通せる役なので、男役スキルが足りていなくても気にならなかった。
 プログラムの素顔写真でいちばん好みだったので(笑)、舞台でどんな顔になるのか注目していたんだが、思っていたよりずっとかわいこちゃんだった。爬虫類系になるかと思っていたのに。(そーゆー好みですか)

 谷せんせGJ!と思うのは、芝居の配役表に役名の他、役柄名が添えてあること。ソーピー(浮浪者)とかね。そして、記載順序も役の比重が高い順番だった。
 つまり、主役がいちばん上に来て、台詞も出番もろくにない端役は末尾に記載される。……え、当たり前って? いいえ、当たり前じゃないの、だってハリーは!!

 正塚せんせだったら、役柄名はナシよ? ただの役名だけ羅列だよ? 作中で名前もほとんど出てこないから、どの役名がどんな役柄なのかプログラム見てもわかんないし、舞台見てもわかんないのよ?
 そして、役の比重とは関係なく、生徒の名前のあいうえお順で記載されるのよ? 誰が主役なのかすら、プログラム見てもわかんないし、舞台見てもわかんないのよ?

 それに比べて、谷せんせ優しいなあ(笑)。
 おかげで、記憶力なくて人の顔がわかんないわたしですら、「あのいじらしい妻役の子は**さんね」「**くんって、舞台ではあんな顔になんのかー、ほー」とか思って見られたんだわ。

 もっとも、芝居で注目した子たちも、次のダンス・コンサートになると見失っておりましたが。
 ダメじゃん、わたしの海馬。

 他に気になった子たちは。

 日舞ソロの男の子が、ものすげー「昭和」っぷりだった。
 どこのハマコさんが現れたのかと。はっきりした顔立ちにクドい芸風、そして体型。
 歌はハマコぢゃなかったのが残念。芝居は見られなかった。

 クラシック・ヴォーカルも務め、芝居では『最後の一葉』で主役を務めた女の子は、実に堂々たるスターっぷりでした。ポピュラー・ヴォーカルではフィナーレのオブリガートも務めるし。
 芝居も安定した巧さだった。……でも、あまり好みの芝居ではなかったんだよなあ、うまいけど感情移入する系ではなかった、わたしには。

 華やかな美形男子がいて、ポピュラー・ヴォーカルでトリオ登場したときから、なんか客席から注目されてるっぽかった。
 歌も声も微妙っつーかヘタレていたんだが、なにしろほら、アイドル系だから(笑)。このタイプは歌がアレだとお約束でもあるんだろうか。ちなみに芝居もうまくなかったっす。
 どうやらダンサーだったらしく、最後のタンス・コンサートでは特別ポジションで踊りまくっていた。……1回ぺたんとしりもちついてたけど。が、がんばれ(笑)。

 ポピュラー・ヴォーカルのトリを務める歌ウマ男子くんは、個性的な顔立ちで、ポンコツ海馬のわたしでもおぼえられた。
 芝居は悪くないけど、なにしろまだ性別分化してないっす。かろうじて少年かなあ、大人の医者には見えなかった。

 歌声がわりと好みだったのは「かわらぬ思い」デュエットの片方の子。また、「ONE HEART」を歌った少年も素直な良い声だと思ったけれど……ふたりとも、芝居になるとふつーにオンナノコが喋ってる、って感じになっちゃうのは何故。
 特に傘泥棒紳士くん、立ち姿からもー大変!な感じっすよ(笑)。画商くんは顔芸激しいな、アグレッシヴだなー(笑)。

 「あの最後の一葉が落ちたとき、私も死ぬの……」のウザい妄想娘(笑)、そんな役なのに、ちゃんと儚げでかわいかった。きれいな子だわー。

 最後の一葉を描いてやる画家くん、プログラム写真と顔がぜんぜんちがっていてびびった。わたしの目が悪いのか? 化粧するとあーゆー顔になるのか。芝居がなければマジわかんねー。
 男子の中ではいちばん芝居が好みだった気がする。うまいというほど他の子と差別化されているわけじゃないと思うが……なんか、気になった。で、顔もおぼえられたらしく、ダンスでもどこにいるのかわかった。(が、ダンスの善し悪しはマジわからん・笑)

 
 毎度のことだが、文化祭では注目できても、あの大きな大劇場に立つと見失ってしまう。
 次に出会えるのは、新公やバウで役が付いたりするよーになってからだ。文化祭の記憶を引っ張り出して、あああのときの子か、と思う。
 わたしの海馬では、個別認識は難しい。
 いつかまた、魅力的な舞台人になって再会する、そのときを楽しみに文化祭を観ているようなものだ。

 また、舞台に立ち続ければその人個人のキャラクタも出てくる。
 舞台技術だけでなく内面も磨いて、良い舞台人になって欲しい。
 で、『第96期宝塚音楽学校文化祭』の感想つれづれ。

 プログラム売り場が変わっていた。
 いつもバウホール下にテーブル出して売っているのに、ソレがない。
 階段上のモギリのあるフロアでのみ販売。や、こちらの売り場は例年あったが、階段下と2箇所だったんだよ。今年から1箇所に?

 プログラムは表紙デザインが変わっていた。何年ごとに変えるとかあるのかな? 前のデザインは2年で終了か。

 中の生徒写真が大きくなっていてびびった(笑)。
 そして思った。……人数、少なっ。
 この期からまた募集人数減ったんだっけ?
 93期までは50名だったのになあ。それが45人に減り、96期ではたった40人。なのにその上、2名の退学者を出しているもんだから、プログラムですでに雰囲気チガウ。
 なんとも先細り感があって、寂しいわ、タカラヅカ。

 で、たった38人なのに、相変わらずわたしには顔がおぼえられない(笑)。記憶力は衰える一方だ。
 とりあえず、例年ほど強烈に印象に残る子はいなかった。

 日舞はいつも目が慣れないうちにはじまり終わるので、個別認識がはじまるのはクラシック、ポピュラー・ヴォーカルになってからだ。

 クラシック・ヴォーカルは男女1名ずつしか出演しない。つまりここに登場する子たちはこの期きっての歌ウマさんなんだろう。
 また、女子は日舞の「清く正しく美しく」独唱という見せ場があるので、こちらも歌ウマさんのハレの場。
 では男子の歌ウマさんはクラシック・ヴォーカルの1名しか見せ場がないのか。

 近年わかってきた。
 ソロで華々しく歌声を披露するのは上記の女子2名、男子1名しか、舞台が用意されていないよーに、プログラムを読むだけだと思える。
 が、そーじゃない。男子の歌ウマ枠がもうひとつある。
 ポピュラー・ヴォーカルの構成、だ。

 出演者全員でヅカソングをメドレーするミニ・コンサート。
 曲数15曲しかないのに、全員が出る。つまり、ソロを歌える人、そうでない人がいる。
 歌がうまい人はソロなんだと思う。ふるわない人たちは、大勢で出てきてワンフレーズのみひとりで声を出し、あとはコーラス。
 一見ただ出演者が羅列されているよーに見えるけど、いちおー「コンサート」形式なので、起承転結がある。
 オープニングがあって中詰めがあってクライマックスがあって、フィナーレがあるの。

 ポピュラー・ヴォーカルで、「クライマックス」に配された人。彼が、もうひとりの歌ウマ男子ポジション。

 歌ウマさんポジは、男女共に2名ずつ枠を作ってあるのね。以前は気づいてなかったわ。
 歌だけに突出しているわけではなく、バランス型ゆえに歌も良いポジションにいる、という場合もあるのだろうけど。

 起承転結がわかってくると、曲目は毎年微妙に違うけれど、結局のところ同じ方程式で構成されているんだなと思える。
 衣装が同じであるように、構成も同じ。……文化祭であって、劇団の公演ではないんだから、んなもんいちいち変えてられないってことか。
 ワンパターンにはワンパターンの良さがある。年に一度の催しなら、毎年同じでも問題ない。ひな形が同じだから、どの位置の子がどうと判断しやすい。

 ポピュラー・ヴォーカルで顔と名前をチェックし、それをさらに次の演劇で認識する。

 演劇は、谷せんせの短編ストレートプレイ『CHRISTMAS EVE』。
 O・ヘンリの『警官と賛美歌』『賢者の贈り物』『最後の一葉』を「12月24日」をキーにミックスしたもの。
 谷せんせってこーゆーの好きなんだね。93期の演劇がやはり谷せんせで『ラ・ボエーム』と『レント』をミックスしたものだったよね。(そして著作権絡みでスカステ放送されなかった)

 1から物語を作るのではなく、既製品をパッチワークするのは、作り手としてはたのしいかな。や、わたしは好きだけどな、そーゆーの。二次創作のノリで。

 O・ヘンリの3つの作品を盛り込んでいるから、主人公も3人。ストーリーも3つあるから、登場人物も多くて文化祭向きだなー。
 しかし、ほんとにただ3つを交代交代に展開させるだけで、クロスオーバーにはなっていない気が……ゲフンゲフン。
 でも良いお話でした。もともとわたし、O・ヘンリは好きなの。短編集をわざわざハードカバーで買ったなあ、昔。
 もう少し作り込んで仕掛けもして、実力のある人たちに演じてもらえたら、良い作品になったかも……って、それじゃ本末転倒か。
 あくまでも文化祭用の、「みんなが主役」「全員に見せ場アリ」な作りの小品でした。はい。

 文化祭の演劇は半分しか出演しない。出演者全員の芝居を見たかったら、文化祭を2回観なければならない。
 わたしは未だに1回しか観たことナイので、いつも出会う確率は2分の1。
 芝居で役が付いているところを見なくちゃ、個別認識に至らないのね。
 演劇のどちらの組に出ているかが運命の分かれ道。や、わたしにとっての。

 最後のダンス・コンサートは無理。わたしにダンスの善し悪しはさーっぱりわからないし、ずっと動いているわけだから顔の区別はつきにくいし。
 
 また、わたしは「タカラヅカ」が好きなのであって、別カンパニーのダンス・ショーには興味がない。
 男役がいて、娘役がいる。それが基本。
 ヴォーカル・コンサートと演劇は、性別未分化なりに一生懸命、男役は男役であろうとし、娘役は娘役という別の性を演じようとしている。
 それが、ダンスになると、その区別や意識が薄れるのね。
 性別に関係なく、とにかく「踊る」ことに集中している。男子も女子も同じ衣装で同じバレエを踊ったりな。
 ヅカじゃなくても、男性ダンサーのいないスクールで、仕方なく男子パートも女子がやっています、みたいな感じに見える。

 なかにはとても「タカラヅカ」な場面もあるんで、そこはいいんだけどなー。
 あ、そーいや途中、引き潮@『Red Hot Sea』に似すぎている場面があってびびった。つか、衣装同じ?! 曲調はまったくチガウのに、何故ああまで同じコンセプト?

 個別認識しよう、と出会いを求めるのは演劇まで。最後のダンスは気を抜いてぼーっと眺めている(笑)。
 そうやってぼーっと楽しんでいても、目に飛び込んでくる子は飛び込んでくる。ハートを掴んで離さなかったりする(笑)。過去の経験から。

 とゆーことで、今年はあまり強烈に印象に残る子はいなかったのだわ。
 芝居で気になった子たちが軒並み、ダンスになるとどこにいるのかわかんなかった……いやその、わたしの記憶力が低すぎるせいもあるんだろうけど。
 顔、おぼえろよわたし。
 『第96期宝塚音楽学校文化祭』にて、いちばん強く思ったことは。

 ワイルドホーンすげえ。

 ……でした(笑)。

 わざわざ大枚はたいて招致するわけだよなあ。曲がぜんぜんチガウわー。
 と、そんなことに感心した。

 文化祭は毎度、日舞、予科生コーラス、クラシック・ヴォーカル、ポピュラー・ヴォーカル、演劇、ダンス・コンサートという内容になっている。
 そのなかのポピュラー・ヴォーカルっつーのが、タカラヅカ主題歌集なのな。
 セット無しの素の舞台で、大した演出や振付もなく、全員同じ衣装で同じように経験と技術の足りないヒヨコたちがお馴染みの曲を歌い継いでいく。
 そうなると、スター力だの物語だの構成だの演出だのという外側のモノとはなんの関係もなく、ただ「曲」としての善し悪しが俎上にのる。

 曲は「ONE HEART」。
 いい歌だと思ってはいたけど、なにしろわたし『NEVER SAY GOODBYE』自体、話がどうにも好きじゃなくてさー。音楽がどんだけ良くても物語がダメだと入り込めないままだった。
 が、あのどーにも引っかかる小池オリジナル物語関係ナシに、曲だけ不意に聴くと、その良さに開眼しますわ……。

 いやあ、盛り上がった、「ONE HEART」。
 曲の力は大きい。ワイルドホーンすげえ。
 歌っていた子も素直ないい声だったし。周囲で一斉にオペラグラスが上がったのが愉快だった。みんな顔をチェックするんだもん。
 歌い出す前は観客的にはノーチェックの子だったらしい? コンサートはじまって半ばだから、客ももういちいちオペラ上げなくなっている頃だったからなー。

 文化祭の選曲っていうのは、演出家指示なのかな。『エンカレッジコンサート』とは違い、出演者が自分で選べるわけじゃないよね? 当たる歌によって魅力を出せるかどうか、キャリア皆無の音校生には重要事項だな。

 というのも、クラシック・ヴォーカルでソロを歌った男の子(たぶんいちばんの歌ウマ男子)は、よりによって「サザンクロス・レビュー」で歌唱力以外の部分で大変そうだった。や、素人にいきなりラテン曲でノリノリになれ、客をノリまくらせろ、なんて無理だから。
 音階通りに歌う、ことと、「表現する」「客を愉しませる」はまた別問題。難しい曲を与えられているのは、歌ウマさんだからだとは思うけど、がんばれ、と思うくらいには大変そうだった、歌自体はうまいのに。

 わたしはヅカファンでヅカ曲も愛しているけれど、やっぱ独特だよなあ。単純に「歌」として「曲」として聴くと、ワイルドホーン氏ひとり勝ち過ぎて、もお……。
 ヅカ曲はあくまでも公演の中で魅力があれば、それでいいわけなんで、曲だけで善し悪しもないもんだと、わかっちゃいるんだが。

 
 さて、その他にもひとつ気づいたことが。

 そのポピュラー・ヴォーカルにおいて、娘役の衣装がダサいことは長年の疑問だった。
 男女ともに衣装は毎年同じなんだが、それにしてもなんでこのドレスなんだろう?と思っていたんだ。ヅカ衣装だからそれなりにキラキラしているし、それなりにかわいいんだけど、首にある飾りがなんともダサい。

 理由がわかった。
 それは、その前にあるクラシック・ヴォーカルにおいて、だ。

 クラシック・ヴォーカルでも娘役の衣装はほぼ決まっている。近年では92、94、95期と同じ赤いドレスだった。
 例外もあるから絶対コレでなきゃ駄目ってわけでもないんだろう。……93期のりりこちゃんはあのドレスが入らなかったのかな、とか思われ……ゲフンゲフン。

 この毎年ほぼ同じ、の赤いドレスもまた、もともと首周りに飾りがついている。

 首に飾りの付いたドレスだと、派手なアクセサリーを用意しなくていいんだ!
 ネックレスは不要だし、それゆえか他のアクセサリーも地味目でいいらしい。いつものドレス着用の娘役は、どの期もシンプルな装飾で歌っていた。

 それが今年は、別のドレスだった。ドレスってのは大抵肩や首は露出している。従ってアクセサリー必須。
 今年のクラシック・ヴォーカルの娘さんは、ネックレスにイヤリング、髪飾りとフル装備、キラキラキラキラとても華やかだった。

 首周りにデフォルトの布飾りがあるかどうかで、こんだけ装飾品の比重が上がるのか。ネックレスはもちろんキラキラしてなきゃいけないし、首筋から肩がまるっと出ているとイヤリングも大振りになるし、そーなると髪飾りも派手目にしないとバランス悪いし。

 そのことに思い至った……ことから、必然的にポピュラー・コンサートの衣装の意味もわかったんだ。

 あのダサい首の布飾り、アレは学生たちにアクセサリーを用意させないですむようにという配慮だったんだ。

 タカラジェンヌたちはみんなひとりひとり意匠を凝らしたステキなアクセサリーを身につけて舞台に立っているし、それを用意するために睡眠時間を削って自作したりすると聞く。
 入団後は必要かもしれないが、まだ学生である彼女たちにそーいった部分での努力は求めていないんだろう。アクセサリー作りや購入よりも、まず純粋に芸を披露することに集中しなさいという意味なんだ。

 なるほどー、それで毎年あのドレスなんだ。首の飾りに髪のリボンまでお揃いで用意されてるんだ。
 と、感心する(笑)。

 文化祭を観るようになって今年で何回目かな。それでも毎年なにかしら発見はあるものだ(笑)。
 

 さて、なにかと話題の96期。今年ほどチケット・レートの低い年もなかった。
 大体文化祭チケットってのは必要としている人にほぼ行き渡るか、若干足りなくてもオークション等定価よりちょっと上乗せあたりで手に入る。サバキは出ないし、一般発売はないし、コアなヅカファンや関係者の元にしかチケットは存在しないものだと思っている。
 が、今年はなー。
 サバキが出ているのを何回も見たし、チケット掲示板やオークションでも定価割れしていた。
 はじめて見るよ、これほどの人気のなさ。

 裁判云々はたしかに響いているのだと思うよ、ヅカファンの気持ちに。
 表立って騒ぐことのない部分で、じわじわと広がるモノはある。
 その目に見える結果のひとつが、叩き売られる文化祭チケット、なんだろう。

 それでも、舞台人は舞台の上がすべて。
 彼女らが舞台に立つ限り、評価は舞台の上の姿にわたし自身がどう感じるか。
 表現者を彼らの表現する作品以外の要因で歪めて評価するのは、すべての表現者に失礼だ。
 だからどうか、魅力的な舞台を作って欲しい。
 や、頼むよほんと。
 『ベルばら』に比べればマシだけど、よっぽどいい作品だと思っているけれど、結局のところ『ソルフェリーノの夜明け』は好きじゃない。好きか嫌いかと聞かれればもちろんなんの迷いもなく「キライ」と答える。
 ただ、駄作とまではいかないかなと思う。
 植爺の駄作はほんっとーに、物語としての基盤もナニもあったもんじゃないもの。

 でも『ソルフェリーノの夜明け』はいちおー、起承転結はあるよね? 「アンリー・デュナンの生涯」ではないだけで。

 『ソルフェリーノの夜明け』-赤十字思想誕生150周年記念作品-と、肩書きを副題にしてしまえばよかったのよ。
 そしたら、思想が今まさに生まれ、赤十字という旗に象徴された瞬間の物語、ということでこの芝居内容で問題ない。

 おかしなところはてんこ盛りだが、ベッタベタなお涙頂戴満載で、「戦争は悪い」「命は尊い」と主張している概念自体は間違っていないし、とりあえず盛り上がるし、いいんじゃないのかなー。
 こーゆー作品も、タカラヅカにあっていいんだと思う。

 わたしは極度の植爺アレルギーだが、アレルギーがあってなお、植爺作品で泣くことはある。
 人が死ねば悲しいし、人情に心を揺すぶらされる。これは人間としての生理現象だと思っている。植爺作品はとてもわかりやすくこれらを突いてくるので、うまくいけば泣ける。スベった場合は怒りや爆笑になる(笑)。
 また、役者の熱演で底上げされることも大いにある。生身の人間が魂からなにかを訴えかけている、その姿に心が動き、涙が出ることは観劇しているとふつーによくある。

 とまあ、泣くことはあるし、実際『ソルフェリーノの夜明け』でも泣いたけれど、泣けたからといってこの作品を好きにはなれないし、感動にも分類しない。
 生理現象と感情は別だからだ。腕をつねられて「痛い!」とこみあげた涙と、カラダはどこも痛くないけれど魂が震えることで流れる涙は別。
 植爺の涙は腕をつねられる系の、生理現象涙なの、わたし的に。人として当然の生理現象は「感動して泣いた」にはカウントしない(笑)。

 でも実際、千差万別の人間の「心」を動かして涙を流させるのは難しい。
 それよりも、腕をつねって泣かせることの方が容易い。生理現象は程度の差こそあれみんな同じだもの。
 だから植爺の作風は、間違っていないと思うの。大衆演劇として盛り上げる、その力はたしかにある。
 昔の彼にはたしかにあり、近年は枯渇して久しかったけれど、今回はちゃんと大御所らしい仕事ぶりを見せてくれたと思う。

 舞台はイタリア、ソルフェリーノ。イタリアVSオーストリアの最中、戦場近くの教会が野戦病院となっていた。ここはイタリアだからとーぜん、イタリア人を助けたい。薬も人手も不足しているのだから、命の優先順位、まず同国人や同盟国人から大事にしよう!
 そこへやってきた無関係な国の無関係な旅人アンリー・デュナン@水くん。「敵のオーストラリア人なんか助けてるヒマないわ!」と言う看護婦アンリエット@みなこちゃんにくってかかる、「人間の命はみんな尊いんだ!」。
 デュナンさんの主張が野戦病院の人々の心に届き、医師も看護婦も、負傷して病院にいるイタリア兵も捕虜となって捕まっているオーストラリア兵もみな等しく、命を大切だと思うことで、ひとつになっていく。
 かけがえのない命を助けるために、敵味方双方から攻撃されない目印が必要、そうだ赤い十字の旗を掲げよう! おおー!! 命を懸けて人助けしちゃうぞー! なんて健気なの、自己犠牲万歳!!
 
 てなわかりやすい物語。ザ・大衆演劇。ここまではイイ。初見でもここまでは「植爺なのに、今回まだいいわー」と思って観ていた。
 
 で、現実問題として、わたしが『ソルフェリーノの夜明け』でどーしてもダメ、ここがあるからもう観たくない! と思うのは、この直後のデュナンとシスター@ナガさんたちとの場面だ。

 この、赤十字の旗誕生秘話が語られ、敵味方関係なくどーんと盛り上がったその直後、ぞろぞろと登場して、盛り上がりに水を差す展開。

 「負傷者の命を助けるために、危険な戦場を突っ切って大きな街まで運ぶ」という話は、今さっきまでしていたことだ。
 危険だっつーことも、命懸けだっつーことも、さんざん議論し、それでもやる、と心が決まり、感動場面になった。

 なのにまた、リセット。
 さっきやった会話を最初からはじめる。
 しかも、同じ話をその場にいる全員がひとことずつ順番に、カーテン前に一列に並んで同じことを言う。1回言えばいいことを、何度も何度も何人も。
 本舞台を使って旗を作るというアクション付きで歌まで歌ってやったのと同じことを、今度はカーテン前で横並びして台詞で言うだけでやる。同じことを繰り返すだけでもおかしいのに、それをさらに盛り下がった平板な演出で繰り返す。

 わたしは植爺とは気は合わないし一生合わなくていいとも思っているけれど、彼の「盛り上げる力」は評価している。タカラヅカ95年の歴史の中に、必要な人だったのだと思っている。
 その、せっかく盛り上げた、彼の唯一の美点を、作品の唯一の救いを、自分で台無しにすることが、許せない。
 いいところはあるんだ、なのにそれすらわかってないんだ、この人は。

 もったいない。
 このベッタベタな盛り上げ演出力を、ちゃんと活かせばいいのに。
 もっともっと、いい作品にすることはできるのに。

 『ベルばら』でもワースト順位に入る嫌いな場面なんだ。革命前夜のパリに出撃するオスカルを、ジャルジェ家の人々が止めるべきだとカーテン前で横並びしてひとりずつ同じことを言うヤツ。

 命懸けで信念を貫く。
 そう結論はすでに出ているし、ヒューマニズム大好きなおじいちゃんは「命懸け」が大好き。大好きなことで盛り上がり、物語はクライマックスへ向けて最高潮!
 ……てなときに、いつも必ず水を差す。

 何故かはわかる。
 植爺が「命懸け」が大好きすぎるからだ。

 大好きだからこそ、誉め称える。
 「大切な命を危険にさらしてまで大義を為す」ことがどんだけ素晴らしいかを、演説せずにはいられないんだ。
 「自己犠牲万歳!」を言いたいがためだけに、「尊い自分の命を危険にさらすなんて」と止める人々を登場させる。
 さっきもさんざんやったし、結論が出ていても、何度でもやる。
 そうやることで自己犠牲の美しさが増すと思っているんだ。

 この感性の差が、わたしには耐え難い(笑)。
 わたしにとっては「感動に水を差す」行為なのに、おじいちゃん的には「さらに感動させるすばらしい技巧!(かつ、場面転換の時間稼ぎもできて効率的!)」だと思っている。
 

 その繰り返される「キレイゴト」に偽善臭が強すぎることと、構成の無駄や間違いを含め、全体に満ちて余りあるセンスの悪さが苦手。
 と、植爺への逆ツボは限りなくあるが、シスターたちの場面は、わたしが「だからダメなんだ」と思う要素をぎゅっと濃縮してあるの。
 わたしが「最悪!」と思うことを「最高!」と思って嬉々としてやっていることがわかると、「やっぱり気が合わないから、近づかないでおこう」と思うよ。仕方ないよ。こんだけ、ツボがチガウんだもの。

 ともかく、それに限る。
 あくまでも個人的なツボの違い。 
 わたしは植爺アレルギーゆえに、たとえ誰であっても植爺作品では退団してほしくないと思っている。
 だからハマコが植爺作品で退団してしまうことが、つらい。

 されど。

 ハマコこそ、植爺作品で退団してもおかしくない人なんだよなあ。
 今ごろになって、気づく。
 そうだ、他の誰でもない、ハマコこそがいちばん高くて危険だったんだ、植爺作品で退団する可能性。

 
 新公主演してはいるが、いわゆる路線スターとは扱いに一線を引かれていたハマコさん。
 その彼が何故か、たった一度だけ大劇場公演で堂々単独2番手を務めたことがある。

 コムちゃんのお披露目公演だった『春麗の淡き光に』。
 そこでハマコは敵役を演じ、銀橋ソロまであった。
 自身のテーマソングを高らかに歌い、挫折→改心とカタルシスも演じ、相手役もちゃんといた。義賊とそれを追う官吏なので、いわば『スカーレット・ピンパーネル』のパーシーとショーヴランだ。ハマコ、和製『スカピン』でショーヴランやってんだよ!(笑)
 組内での2番手はかしげだったけど、『春麗』を観た人たちは銀橋で「憎む~~憎む~~♪」と歌っていたハマコのことはおぼえていても、かしちゃんがなんの役をやっていたかおぼえていないという。

 植爺は内容・ストーリーに合った演出はできない人だ。前回の『ベルばら』でもそうであるように、ストーリーとは無関係に「はい、ここでトップスターが銀橋で主題歌を歌う」と決めている。なんで今ここで銀橋でこの歌を歌うのか、理由はただひとつ、「トップスターだから」。
 物語の内容と合ってなくても、流れぶった切りでも歌詞すら無関係で観客ぽかーんでも、問題ナシ。「トップスターだから、ここで銀橋ソロ」と決まっている。2番手もしかり。何故この歌(役と無関係)を何故このタイミングで銀橋ソロ?!と観客が白目を剥いているのに、「だって2番手だから」というだけの理由で歌わせる。

 そんな人が、ハマコに銀橋ソロをさせた。わざわざ。

 そして、植爺渾身作『花供養』でも専科さんたちにまざって出演。
 『ベルばら』では、トップ娘役の相手役、ベルナールだって演じちゃったぞ。

 ハマコは植爺に愛されたジェンヌのひとりだったんだよなあ。

 さもありなん。
 ハマコは昭和の香りを強く持ったスターだ。
 植爺のお気に入りだろう昭和時代のスターたちに通じる、クドさとおおらかさを持っている。
 あの人やあの人を好きな人なら、そりゃハマコも好きだろうなあ。

 形式で役の比重を判断する植爺は、ハマコの最後の役に気を遣っているもの。

 植爺的な「役者への配慮」
1.台詞の行数
2.華美な衣装

 『ソルフェリーノの夜明け』にて、ファンティ@ハマコは登場するなりえんえん説明台詞を無駄に長々と喋らされているし、ラストシーンでも同じことを何度も無駄に長々と喋らされている。また、ほとんどの出演者がボロボロor血まみれ衣装なのに、ハマコ氏はキラキラ豪華衣装だ。
 植爺なりに気を遣ったんだろう。
「台本を開いたとき、台詞の行数が少ないと可哀想だ」とか、「衣装がみすぼらしいと可哀想だ」とか、そーゆー慈愛の心(…)で演出家やってそうな人だもの。以前なんかで「(歌でも芝居でも)うまくできない子がいたら、その部分をカットする。できないままだとその子が可哀想だから」てなことを言っているのを聞いた記憶があるせいかもしれんが。
 
 おかげで、植爺が気を遣っている人たちはいつでも「無駄な長台詞・説明台詞の洪水」「TPO無視した華美な衣装」で登場する。『ベルばら』における専科さんたちがいい例。(スターブーツを履く星原先輩とかな・笑)

 ハマコは植爺芝居に合う人だ。
 前時代的な空気を、確実な実力で濃くクドく構築することのできる人。

 ハマコも縁の深い先生の作品で卒業できて、納得しているのかなあ。

 そう思いはする。
 
 そう思うことと、植爺アレルギーはまったく別だがなっ(笑)。

 
(ハマコが植爺芝居に似合う人なのはたしかだが、他演出家の芝居だって似合うもんっ)
 発表があってしばらくしたころ。
 別にどーってことのない日常の中、ふと、思った。

 わたしはもう、ハマコに救ってもらえることはないんだ。

 足元に、ぽんと闇が開いたような。
 いや、闇自体はあたりまえにいつもそこにあるんだけど、お気楽に生きているわたしには普段見えないし、感じることもない。
 でもたしかにある闇が口を開け、そこに落ちたら最後、もう誰も助けてくれないんだ、てなことに気がついてしまった。

 わたしのご贔屓はまっつだけど、まっつはわたしを助けてはくれないな。
 まっつを好きだというわたし自身の萌えハートがめらめらして(笑)、それゆえに自分で闇に落ちないように踏ん張ることができるだけで、まっつがわたしを救ってくれることはないだろう。や、生きる希望というか煩悩、欲望(笑)をかきたててくれるのはすげーことだと思いますが。

 その舞台でわたしを救ってくれる人、って、ハマコしかいないじゃん。
 なのにハマコがいなくなっちゃったら、もう誰もわたしを救ってくれないじゃん。
 
 舞台で救う、ってのも、おかしな話だけど。
 なにを勝手にジェンヌに妄想してるんだってことになるけど。

 ハマコの舞台は、舞台でのハマコは、その強い力で、健やかなまっすぐさで、わたしを救ってくれる。

 もしもわたしがなにかしら絶望していて、もう駄目だってときにハマコ(の舞台)と出会えたら、わたしはきっと救われる。
 泣きやむことができると思う。

 わたしにとって、タカラジェンヌ未来優希はそーゆー人だ。

 ご贔屓かどうかではなく、彼の舞台上のキャラクタを、わたしが勝手にそう受け取っている。

 ハマコがヅカを去るからといって、彼ほどの舞台人・表現者がこのまま市井に埋もれるとは思えず、きっとどこかのステージには立つのだろうけれど、わたしが求めているのはヅカの舞台での彼だ。
 ヅカを観ることはわたしの日常であり、わたしが救われたい・安心を得たいと思うのはその日常でだ。日常とはかけ離れたところに出かけていくのは、主旨からはずれている。
 さらに、「彼」ではなくなってしまうわけだし。今のハマコは男だから、女性のわたしから見て包容力あふれる人だけど、同性になってしまうと趣が変わる。

 ハマコを失う。
 その事実が、あとからじわじわと効いている。

 ショー『Carnevale睡夢』は、ストーリーがあるのかないのかわかんないが、ハマコは通し役だ。
 ハマコだけでなく、チギコマヲヅキ他通し役に近い、「同じ人たち」がたくさんいる。
 ショーでこんだけの大人数を狂言回しめいた扱いにすると、「いつも同じ衣装の人たち・お着替えナシな人たちがたくさん」になる。
 ふつーまとまった人数にどの場面も同じ衣装・同じ顔ぶれでうろうろさせるなら、それは組長クラスとかいっそ若手とかで主要メンバーははずすもんなんだが、今回は路線とそれ寄りの配置だから諸刃の剣。
 「ヲヅキはずーーっとあのカツラのまんまなんですか?(泣)」by某ヲヅキファン友人談、とかなー。

 ハマコもおかげでずーーっと同じ衣装、もしくは同じテイスト。場面ごとにまったくチガウ色で登場したりしない。場面ごとを楽しむという通常のショーではない。
 最後のショーでソレってどうなの、とも思うが。

 芝居も兼ねていると思えば、OK。

 ……ごめん、やっぱりわたし、植爺アレルギーが浸透しているようで。さらに、前回の贔屓組『ベルばら』の後遺症が深くって。タカラヅカをキライにならないためにも、植爺には近づかない方がいいっす。
 ジェンヌの熱演はわかるし愛しいんだけど、やっぱりダメだ植爺……。
 
 てことで、ショーに集中します。
 てことで、やりました、『Carnevale睡夢』中ハマコのみピン取り一部始終。ハマコが舞台にいる間は、ハマコだけオペラグラスで追いかける。浮気ナシ、誰が出ていてナニが起こっていても、ハマコだけ。

 ショーだけど芝居みたい。ストーリーはほんっとさっぱりわかんないし、今のところ妄想する気にもならないが、通し役としてのハマコを追いかける分には問題ない。
 ショーってのは芝居とちがって「役」を演じるよりも、「当人のキャラ」で勝負って部分があるじゃないですか。それが『Carnevale睡夢』はハマコ個人のキャラクタ、元気でパワー炸裂でってな感じではなく、ずっと「仮面屋の男」という役を演じている。芝居をしている。
 だから、男役、としての佇まいを堪能できる。

 純粋に、二枚目だよね、仮面売りのハマコ。ユーモラスな表情もするけれど、やさしい楽しそうな目で人々を見つめていたりもするけれど、概ね男らしい美しい面持ちをしている。

 ああ、この顔が好きなんだ、と思う。
 顔立ちではなく、顔。表情を含めた顔全部。
 黙って立っていると、明るさよりも暗さの勝る、こわさのある強い顔。

 ハマコは底抜けに明るい光を持つ人だけど、彼の芸風自体には毒がある。その強さゆえ実力ゆえに持ち味とは正反対の不安な暗さ、闇をまとうことができる。
 わたしが彼に惹かれてやまないのは、その闇と毒ゆえだ。一面的な明るさだけでない、深さゆえだ。
 こわいと思わせることのできる人が、黄金の光を放ち救いあげてくれる、ギャップゆえだ。

 美しいハマコを、焼き付けるために。
 もうわたしを救ってくれない、わたしの手の届かないところに行ってしまうつれない人を、愛し続けるために。

 ほんとにいなくなっちゃうの、ハマコ。
 未練たらたらですよ、まだわたし。

 ハマコがいなくなったらもう誰も……と考えて、あ、えりたんがいるか、そのとびきりの光でわたしを救ってくれる人、と思い至る。
 壮くんもたしかにわたしの癒しの君なんだが、ハマコとはまったくチガウ意味でだから。

 やっぱりハマコはいてくれなきゃいやだ。
 ほんとにもお、未練たらたら。

 ハマコを失うという現実に、足元に開いた闇はどうすればいいのか。や、お気楽に生きているわたしは、やっぱり気にせずお気楽に生きるしかないけれど。
 
 ハマコがハマコとして、いつでもタカラヅカの舞台にいてくれる。
 それがわたしには、「日常」という名の救いだった。

 『タランテラ!』のDVDを引っ張り出す。どんだけ愛したか、この作品。「メメント・モリ」寄せては返す波のような歌声。
 ハマコの翼はゆるがず間違いなどなく、飛び立っていくんだろう。

 ……『Carnevale睡夢』よりも、『タランテラ!』を語りたくなるあたり、どーしたもんか(笑)。
 マギーがどんどんいい男になっている。

 いや、マギーは昔からいい男で、今さらどうこう言うものでもないだろう。でもさ、今回の『紫子』では、さらにイイ感じになっているなあと。

 マギーの役は、悪役・外記。いい人のふりをしている悪い人、時代劇に必須の悪家老。
 出てきた瞬間から、「あ、こいつ悪だ!」とわかる、お約束の存在。

 マギーの悪役というと『大坂侍』があるけれど、あのときから比べてなんてありがたい成長をしているんだろうと、手を合わせたくなったよ(笑)。
 『大坂侍』のときは、なんつーか、自分の役割を納得していないように見えたから。
 なまじ華も実力もあるわけで、やればいくらでも「主役」な演技ができる。てゆーか、そもそもの持ち味が主役系というか、「スタンドプレイ上等」「チームプレイってナニ?」な人だったので、新公ではひとりやり過ぎて浮いていた。……新公だから、そのやり過ぎっぷりを楽しく愛でていたが。平均点や減点法しか考えられない人たちの中、すげー鼻息でやり過ぎちゃってる若手は愛しいさ。
 が、バウホールという少人数舞台でソレをやられると、なんともおさまりが悪かった。キミがすごーくできる人だってことはわかってる、でも力押しだけが芝居じゃないよ? 引くことも、空気を読むこともおぼえようよ。

 貪欲な舞台魂は、真ん中に立つことを求めている。舞台人たるもの、その心意気やヨシ!
 しかし、劇団はマギーを真ん中に立たせる気はない。
 劇団が真ん中に立たせたがっている人たちに、マギーが華や実力で負けているとは思えない。むしろ彼の方が押し出しがあるだろう。
 
 でも、劇団がマギーをガチ路線として真ん中に置かないキモチは、わかるんだ。

 マギーは……チガウよなあ。
 美しくて派手で巧くて押し出しがイイのはわかるけど。でもタカラヅカの路線スターって、なんかチガウんだよなあ。
 まさおが路線向きで、マギーが路線向きでないことは、彼らが共に新公でろくに役が付かないころから、なんとなく感じていた。
 まさおが路線扱いされはじめたときは「遅いよ!」と思ったくらいだが、マギーが新公主演したときはふつーにおどろいた。主演するとは思ってなかったので。や、ひとりっ子政策反対だし「新公主演=将来のトップスター」とは思っていないので、単純に「マギーの真ん中が観られる、うれしー!」と喜びましたが。
 でもチガウと思うの。マギーは素晴らしいスターさんだけど、どこかチガウの。

 どこか……どこが?
 うまく説明できないんだけど。
 わたし個人は、チガウ、と思っていた。

 そして、タカラヅカは真ん中だけじゃない。
 もちろんトップスターに優る存在はないが、それだけじゃない。わたしは脇スキー(真ん中寄りの脇が、わたしのど真ん中)なので余計にそう思っている。

 マギーは、真ん中にはもったいない逸材だと思う。

 トップ路線の枠に収まらないキャラクタとして、活躍できる人だと思う。

 それが今回の外記@『紫子』だ。

 外記はラスボスである。
 出番や衣装以前に、その他のキャラクタとの差別化が直感的に客席に伝わらなければならない。
 存在感が必要なわけだが、存在感ならなんでもいいわけじゃない。
 たとえば思いっきり上級生とか専科さんとか、世代とかビジュアルからして「他の若い子たちとはチガウわね」という存在感じゃないんだ。
 華と美しさが、必要。
 されどその華と美しさは、路線スターの「美形悪役やっちゃいました」的なモノでもダメ。
 美形悪役なんてハンパなものではなく、悪家老は絶対脇役、斬られて終了。オイシイ役ではないし、主役側を食ってしまうなんてことはあってはならない。
 でもでも、ただの脇役なおじさんがやっていい役じゃないの。エロさやクドさがなくちゃダメなの。

 文章力がないために、別の組で例を挙げる。
 外記は、ハマコが演じてもいいけど、ナガさんは演じないで欲しいの。や、ナガさんは三太夫でお願い。老け役かどうかではなく、キャラクタの持つ華とエロ気ゆえに。

 『大坂侍』のときはやり過ぎちゃって周囲見てなかった人が、『紫子』でちゃんとエロ気のある重要な脇役を演じている。
 なんてかっこいいんだ、マギー!!

 悪役専科という言葉はあるけれど、マギーには是非ラスボス専科を目指して欲しい。

 悪役あたりならできる人がいろいろいるけれど、ラスボスというとそうそういない。
 だって、ラスボスたるものふつーではいけないんだもの。
 新公主演経験者がクラスチェンジする、ひとつの究極のカタチだよなと思う。
 そのキャリアがあるからこそ出せる芳香ってあるよ。

 とまあ。

 外記@マギーがかっこよすぎて。
 役割をきちっとこなしている姿に、ときめいて。

 ストイックな姿を見たあとで、ショーで「スターですとも!!」と華全開にしているところが、またドキドキで。
 いいなあ。好きだなあ。

 越リュウがいて、マギーがいる月組って、すげえよ。ラスボス役者がふたりもいるって、どんだけ!!

 外記が素敵な悪役だったために、いろいろ萌えですよ。丹波@そのかが好みど真ん中だったこともあり、この鬼畜なエロ男どもでトキメキ(妄想ともいう・笑)が止まりませんわ。

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