若い人はきっと、もっと柔軟なんだと思う。
新しい物事をすんなり受け入れ、アレンジがきく。
しかし年寄りはなあ、ナニをするにも時間とか手間とかがかかってなあ。
若者が1回でマスターすることを、年寄りは何度も何度も説明を聞いて実際にもたもたやってみて、よーやく出来るようになるのだよ。
つーことで、若くないわたしは、初見はリハビリ状態だった。月組での『スカーレット・ピンパーネル』再演。
わたしはひとつのタイトルにこだわることは、自分ではナイと思っているので、再演もメディアミックスもぜんぜんOK、全部別物としてがっつりいただく、「愉しんだ持ち勝ち」で「オレは勝つぜ!」な姿勢でフィクションと向き合っていると思う。
好みはあるので「**がいちばんよ!」と思うことはあっても、その**以外を否定する気はない。
たくさん愉しめた方が、人生得だもん。
だから『スカピン』再演も愉しむ気満々だった。
が、悲しいかな年寄りは心の柔軟性がなく、初演への思い入れゆえに郷愁に駆られ、せつなくて仕方なかった。
どっちの『スカピン』がいいとか悪いとかではなくて、「なつかしいなあ、昔は良かったなあ、わたしも若くて青春で……よぼよぼ」という感じで。
たかが2年、されど2年。
ここ1年の記憶を、「そうそう、あのときはまだ、ゆみこの退団発表前だったよなあ。無邪気に生きていられたころだよなあ」とかで区切って遠い目をしてしまうように、後ろを振り返るときりがないんだ、このまだるっこしい性格は。
そんなヤツなので。
月組の『スカピン』に、作品ともキャストとも関係ないところで心をひりひりさせておりました。
きりやんはさすがのきりやんで、初演のトウコを思い出してどうこうとは、まーったく思わなかったのだけど。
彼以外の主要キャラには、初演の印象がつきまとい、初見では混乱した。
マルグリット@まりもちゃん、彼女がどう演技しているとかいう以前に、同じ台詞同じ歌に、あすかを思い出してしまい、そこから一歩も前に進めなかった。や、ただもお、わたしが。
ショーヴラン@まさおを見ても「あたし、れおん好きだったんだ」とそっちに気がいく。こんなにこんなにれおんのショーヴランがなつかしい、彼の歌声、彼の暑苦しさ、彼のまぬけさ、彼の格好良さ、そんなことばかりが脳裏に浮かんでしまう。まさおがいいとか悪いとかじゃなく、「れおんじゃない」と思う。それが切ないという。
で、実はいちばんキツかったのが、デュハースト@もりえくん。
幕が上がるなり、最初に登場するじゃないですか、彼。最初だから余計ってのもあるかもしれないが、胸が痛かった。なんだろう、彼に、しいちゃんと共通するナニかを感じてしまう。
似ているというよりは、彷彿とさせる。記憶をくすぐる。うわー、なんか正視できない。
フォークス@マギーとか、ロベスピエール@リュウ様とかは別物だからそのまんま受け止められるんだが。
どっちもいい男だー。
あ、もうひとり別物過ぎて平気……というか、ある意味ツボったのが、アルマン@みりおくん。アルマンって、おバカキャラぢゃなかったのか?!(笑)
ごめん、初演では顔だけいいおバカキャラだと思ってた……ヘタレでクチが軽くて、空気読めなくて。こいつのせいでスカピン団が危機に陥る、冒険活劇シリーズお約束のトラブルメーカー。
それが、みりおくんだとふつーに賢そうだった。
スカピン団も気にならない。薄いな、と思ったけれど、これは初演だってキャラが立ってきたのは回数重ねてからだし、キャラクタはどうやら固定ではなさそうで、ファーレイ@ゆりやくんが星組ではベン@ペニーの役割だったりして、役者によってキャラ変更がありらしいし。
いやあもお、年寄りってどーしよーもないっすね。
切り替えが悪いっちゅーか、順応性に欠けるっちゅーか。
でも結局のところ、『スカピン』は、楽しい。
観ているうちに切なさや混乱とはべつに、ただ楽しくなる。
やっぱ「作品の力」ってすげえ。なんてわくわくする物語なんだろう?
なにかと取り沙汰されているショーヴラン@まさおの歌は、及第点だと思った。フィナーレの銀橋ソロで力尽きたよーに声がヘタっていたが、それ以外は十分よく歌っているなと。……まさかその後声をつぶしてしまうとは思ってなかったし。
いちいち「れおんぢゃない」と思い知りながらも、それでも「やっぱショーヴランってかわいいなあ」と思う。なにがどうあろうと、とにかくかわいいわー。愛しいわー。
プリンス@そのかのかわいらしさに震え、しかしまさかあの胴布団姿だけで群舞のアルバイトもナシだとはあんまりじゃないかい?とうたろえ、マリー@トウカさんの強さというかいぶし銀というか姉御というか大人というかアルマンとの年の差というかそのへんどうなってるのとか、恋人ちゃんたちの並びのすごさにびっくりしてマリーといい月組っていぶし銀というか姉御というか大人というか男子との年の差というかそのへんどうなってるのとか、ルイ・シャルル@愛希れいかくんかわいー顔ちっちゃいカツラ大きいとか、メルシエとクーポーがふつーに美形だわとか、ドゥ・トゥルネー伯爵が好みすぎるわ包帯萌え~とか、フィナーレで『エリザベート』に続き番手不透明演出を見せられ落ち着きの悪さにとまどったりとか、まあいろいろ感じつつ。
『スカピン』楽しい、初見はリハビリだとしても、次はもっとちゃんと愉しむわよお、複数回は観るつもりだし! わくわく。
小池すげえ、ワイルドホーンすげえ、と「ひとかけらの勇気」をアタマの中でぐるぐる回しながら歌いながらご機嫌で劇場を出て。
出たところ、キャトル・レーヴの前にあるスカステ放送をエンドレスで流しているテレビで、『ソルフェリーノの夜明け』関連映像が流れていて。
やばっ、と思ったときには、遅かった。
アタマの中を、「♪ソルフェリィぃぃノ~~、ソルフェリィぃぃノ~~」がエンドレスで回るっ!!
ちょ……っ。
恐るべし、植爺。
天下のワイルドホーンが、植爺に負けたっ。
てゆーか、なにこの敗北感。植爺め(笑)。
新しい物事をすんなり受け入れ、アレンジがきく。
しかし年寄りはなあ、ナニをするにも時間とか手間とかがかかってなあ。
若者が1回でマスターすることを、年寄りは何度も何度も説明を聞いて実際にもたもたやってみて、よーやく出来るようになるのだよ。
つーことで、若くないわたしは、初見はリハビリ状態だった。月組での『スカーレット・ピンパーネル』再演。
わたしはひとつのタイトルにこだわることは、自分ではナイと思っているので、再演もメディアミックスもぜんぜんOK、全部別物としてがっつりいただく、「愉しんだ持ち勝ち」で「オレは勝つぜ!」な姿勢でフィクションと向き合っていると思う。
好みはあるので「**がいちばんよ!」と思うことはあっても、その**以外を否定する気はない。
たくさん愉しめた方が、人生得だもん。
だから『スカピン』再演も愉しむ気満々だった。
が、悲しいかな年寄りは心の柔軟性がなく、初演への思い入れゆえに郷愁に駆られ、せつなくて仕方なかった。
どっちの『スカピン』がいいとか悪いとかではなくて、「なつかしいなあ、昔は良かったなあ、わたしも若くて青春で……よぼよぼ」という感じで。
たかが2年、されど2年。
ここ1年の記憶を、「そうそう、あのときはまだ、ゆみこの退団発表前だったよなあ。無邪気に生きていられたころだよなあ」とかで区切って遠い目をしてしまうように、後ろを振り返るときりがないんだ、このまだるっこしい性格は。
そんなヤツなので。
月組の『スカピン』に、作品ともキャストとも関係ないところで心をひりひりさせておりました。
きりやんはさすがのきりやんで、初演のトウコを思い出してどうこうとは、まーったく思わなかったのだけど。
彼以外の主要キャラには、初演の印象がつきまとい、初見では混乱した。
マルグリット@まりもちゃん、彼女がどう演技しているとかいう以前に、同じ台詞同じ歌に、あすかを思い出してしまい、そこから一歩も前に進めなかった。や、ただもお、わたしが。
ショーヴラン@まさおを見ても「あたし、れおん好きだったんだ」とそっちに気がいく。こんなにこんなにれおんのショーヴランがなつかしい、彼の歌声、彼の暑苦しさ、彼のまぬけさ、彼の格好良さ、そんなことばかりが脳裏に浮かんでしまう。まさおがいいとか悪いとかじゃなく、「れおんじゃない」と思う。それが切ないという。
で、実はいちばんキツかったのが、デュハースト@もりえくん。
幕が上がるなり、最初に登場するじゃないですか、彼。最初だから余計ってのもあるかもしれないが、胸が痛かった。なんだろう、彼に、しいちゃんと共通するナニかを感じてしまう。
似ているというよりは、彷彿とさせる。記憶をくすぐる。うわー、なんか正視できない。
フォークス@マギーとか、ロベスピエール@リュウ様とかは別物だからそのまんま受け止められるんだが。
どっちもいい男だー。
あ、もうひとり別物過ぎて平気……というか、ある意味ツボったのが、アルマン@みりおくん。アルマンって、おバカキャラぢゃなかったのか?!(笑)
ごめん、初演では顔だけいいおバカキャラだと思ってた……ヘタレでクチが軽くて、空気読めなくて。こいつのせいでスカピン団が危機に陥る、冒険活劇シリーズお約束のトラブルメーカー。
それが、みりおくんだとふつーに賢そうだった。
スカピン団も気にならない。薄いな、と思ったけれど、これは初演だってキャラが立ってきたのは回数重ねてからだし、キャラクタはどうやら固定ではなさそうで、ファーレイ@ゆりやくんが星組ではベン@ペニーの役割だったりして、役者によってキャラ変更がありらしいし。
いやあもお、年寄りってどーしよーもないっすね。
切り替えが悪いっちゅーか、順応性に欠けるっちゅーか。
でも結局のところ、『スカピン』は、楽しい。
観ているうちに切なさや混乱とはべつに、ただ楽しくなる。
やっぱ「作品の力」ってすげえ。なんてわくわくする物語なんだろう?
なにかと取り沙汰されているショーヴラン@まさおの歌は、及第点だと思った。フィナーレの銀橋ソロで力尽きたよーに声がヘタっていたが、それ以外は十分よく歌っているなと。……まさかその後声をつぶしてしまうとは思ってなかったし。
いちいち「れおんぢゃない」と思い知りながらも、それでも「やっぱショーヴランってかわいいなあ」と思う。なにがどうあろうと、とにかくかわいいわー。愛しいわー。
プリンス@そのかのかわいらしさに震え、しかしまさかあの胴布団姿だけで群舞のアルバイトもナシだとはあんまりじゃないかい?とうたろえ、マリー@トウカさんの強さというかいぶし銀というか姉御というか大人というかアルマンとの年の差というかそのへんどうなってるのとか、恋人ちゃんたちの並びのすごさにびっくりしてマリーといい月組っていぶし銀というか姉御というか大人というか男子との年の差というかそのへんどうなってるのとか、ルイ・シャルル@愛希れいかくんかわいー顔ちっちゃいカツラ大きいとか、メルシエとクーポーがふつーに美形だわとか、ドゥ・トゥルネー伯爵が好みすぎるわ包帯萌え~とか、フィナーレで『エリザベート』に続き番手不透明演出を見せられ落ち着きの悪さにとまどったりとか、まあいろいろ感じつつ。
『スカピン』楽しい、初見はリハビリだとしても、次はもっとちゃんと愉しむわよお、複数回は観るつもりだし! わくわく。
小池すげえ、ワイルドホーンすげえ、と「ひとかけらの勇気」をアタマの中でぐるぐる回しながら歌いながらご機嫌で劇場を出て。
出たところ、キャトル・レーヴの前にあるスカステ放送をエンドレスで流しているテレビで、『ソルフェリーノの夜明け』関連映像が流れていて。
やばっ、と思ったときには、遅かった。
アタマの中を、「♪ソルフェリィぃぃノ~~、ソルフェリィぃぃノ~~」がエンドレスで回るっ!!
ちょ……っ。
恐るべし、植爺。
天下のワイルドホーンが、植爺に負けたっ。
てゆーか、なにこの敗北感。植爺め(笑)。
5月5日、月組新人公演『スカピン』、わくわくと観に行きました。
それはまたいずれ、日を改めて書くとして、まずは本公演の話。やっぱ時系列順に書かないとダメだ(笑)。
『スカーレット・ピンパーネル』は、大好きだ。
ツッコミどころはいろいろあるし、ほんとーの意味でわたしの好みど真ん中な作品ではないんだけど、やっぱり力のある作品は好きだ。
わたしのアタマの中はまだまだ『虞美人』で、しかも彩音ちゃんMSでも占められている。
そんな状態で月組での再演初日、きりやん・まりもちゃんトップコンビお披露目おめでとー!ってことで、とにかく駆けつけた。
以前『虞美人』はわたしのバイオリズムと合っていない、と書いたが、反対に『スカーレット・ピンパーネル』は合っているんだと思う。
ここで歌が来て欲しい!ってときに歌でどーんと盛り上がり、ここで派手な群衆シーンが欲しい!ってときに群舞とコーラスキターーっ!てな具合に。なんてかゆいところに手の届く、気持ちいい作り。
イケコの『太王四神記』も『カサブランカ』もそうだから、彼はとてもバイオリズムの整った演出をする人だなと。(ちなみに、あとは小柳タンとサイトーくんも、わたしのバイオリズムと合っている。まだ1作しか知らないけど、生田クンもその可能性アリで期待)
小池せんせはほんと、演出うまいんだよなあ。こんなにわくわく盛り上げられるんだから。
そして、音楽の力。ワイルドホーンすげえ、と心から思う。なまじ『虞美人』の音楽がわたしにとってかなりアレだったので、「ドラマティックとは、エンターテインメントとは、こういうこと」と見せつける音楽の力に脱帽。
冒頭の「マダム・ギロチン」から「ひとかけらの勇気」に移る、そのメロディの流れでもお震撼したもんなあ、初演初日から。
月組初日、キャパ・オーバーでアタマから煙を出しつつも、わたしは『スカーレット・ピンパーネル』という「作品」にわくわくした。楽しかった。
さて、前にちょろりと書いたが、わたしがキャパ・オーバーになっていたのは、花組からアタマが切り替わっていなかったこともある。
だが、それだけではなくもうひとつ、初演の印象が強すぎて混乱した、ということも、事実。
どっちがいいとか悪いとかではなく、なんつってもまず郷愁で切なくなるのはもお、年寄りだから仕方ない。
あのころは良かった、じゃないけどさ、もう今はいない人々の思い出が脳裏に再生され続け、なつかしくて寂しくて切なくて。それだけもお、十分泣けるという(笑)。
あああ、大好きだトウコ、あすか、しいちゃん、あかし、コトコト、しゅんくん、ゆーほ……過去にとらわれ、息が詰まる。
初日に見たときはほんと、自分の中で折り合いを付けるに至らなくて、公演を愉しんだけれど、それ以上ではないってゆーか、なんか月組公演を「観た」うちに入らない気がした。
記憶や感情の再確認をしているってゆーか、星組『スカピン』のDVDでも見ている感じってゆーか。
『スカピン』に限らないが、なまじリピートしたりハマっていたりした公演を映像で見ると、とても違和感が強い。自分が実際にナマで観たモノと隔たりがありすぎるためだ。アングルもカットもチガウ、別編集作品のよーに感じる場合が往々にしてある。
だから演じている人がチガウことをアタマでわかっていても、感覚としては星組『スカピン』のDVDを見るとしたら、こんなふうに感じるかもな、と。
そんなどうしようもない部分に生じる、本能的、生理的な感覚。衝動。
『スカーレット・ピンパーネル』という作品を、思い出す。
そして、当時の自分の感情を、思い出す。
それをたどる。再確認する。納得する。
そーゆー段階を踏む、踏む必要がある、整理期間。
それは、新生月組にわくわくしているのとは、別問題。
そんななかで、なにがすごいって、パーシー@きりやさん。
キャラを確立していて、ブレない、初演の記憶に引きずられない。
当時を思い出して切なくなるけど、パーシーに関しては、トウコを二重写しに見ることはない。同じ役なのに、同じことをやってるのに、別物。確実にきりやさんのパーシー。それが小気味よくて、混乱しない。
なんかすごくほっとしたというか、正直助かった。トウコちゃんをいちいち思い出してたら、切なくてたまらなかったよ。ここまで別物で、安定してくれていると、トウコを思い出すこともない。
今、目の前にあるキミだけを愛せる(笑)。
パーシーは、賢しさが魅力であり、ムカつくところでもある。
きりやんのパーシーは生真面目さがイイ。女の子と愛のレッスンに明け暮れるフランス貴族ではなく、同じ遊び人でもアウトドアで健全(笑)なイギリス貴族。
社交家でありながらも、恋には少年のよう、てのがよくわかる。
また、グラパンが遊びすぎてないのもイイ。初日に見たとき、グラパンが「お笑いキャラ」ではなく「異様な男」だったことに、とてもよろこんだ。お笑いも好きだし、かわいかったけどな。
きりやんがヒーローやってる……。
それだけでなんか、感慨深くてなあ。
誰とも間違わない、オーバーラップしてとまどうことがない、きりやんはきりやん。その、存在の強さ。
それがうれしい。
きりやんが今、トップスターとして大劇場に立っている。
そのことを、シンプルにうれしいと思った。よかったと思った。
意味もなく、「お帰り」と思ったよ。
蛇行した長い道のりを経て、本来の道へ戻ってきた……おかえりなさい、きりやん。
おめでとう。
それはまたいずれ、日を改めて書くとして、まずは本公演の話。やっぱ時系列順に書かないとダメだ(笑)。
『スカーレット・ピンパーネル』は、大好きだ。
ツッコミどころはいろいろあるし、ほんとーの意味でわたしの好みど真ん中な作品ではないんだけど、やっぱり力のある作品は好きだ。
わたしのアタマの中はまだまだ『虞美人』で、しかも彩音ちゃんMSでも占められている。
そんな状態で月組での再演初日、きりやん・まりもちゃんトップコンビお披露目おめでとー!ってことで、とにかく駆けつけた。
以前『虞美人』はわたしのバイオリズムと合っていない、と書いたが、反対に『スカーレット・ピンパーネル』は合っているんだと思う。
ここで歌が来て欲しい!ってときに歌でどーんと盛り上がり、ここで派手な群衆シーンが欲しい!ってときに群舞とコーラスキターーっ!てな具合に。なんてかゆいところに手の届く、気持ちいい作り。
イケコの『太王四神記』も『カサブランカ』もそうだから、彼はとてもバイオリズムの整った演出をする人だなと。(ちなみに、あとは小柳タンとサイトーくんも、わたしのバイオリズムと合っている。まだ1作しか知らないけど、生田クンもその可能性アリで期待)
小池せんせはほんと、演出うまいんだよなあ。こんなにわくわく盛り上げられるんだから。
そして、音楽の力。ワイルドホーンすげえ、と心から思う。なまじ『虞美人』の音楽がわたしにとってかなりアレだったので、「ドラマティックとは、エンターテインメントとは、こういうこと」と見せつける音楽の力に脱帽。
冒頭の「マダム・ギロチン」から「ひとかけらの勇気」に移る、そのメロディの流れでもお震撼したもんなあ、初演初日から。
月組初日、キャパ・オーバーでアタマから煙を出しつつも、わたしは『スカーレット・ピンパーネル』という「作品」にわくわくした。楽しかった。
さて、前にちょろりと書いたが、わたしがキャパ・オーバーになっていたのは、花組からアタマが切り替わっていなかったこともある。
だが、それだけではなくもうひとつ、初演の印象が強すぎて混乱した、ということも、事実。
どっちがいいとか悪いとかではなく、なんつってもまず郷愁で切なくなるのはもお、年寄りだから仕方ない。
あのころは良かった、じゃないけどさ、もう今はいない人々の思い出が脳裏に再生され続け、なつかしくて寂しくて切なくて。それだけもお、十分泣けるという(笑)。
あああ、大好きだトウコ、あすか、しいちゃん、あかし、コトコト、しゅんくん、ゆーほ……過去にとらわれ、息が詰まる。
初日に見たときはほんと、自分の中で折り合いを付けるに至らなくて、公演を愉しんだけれど、それ以上ではないってゆーか、なんか月組公演を「観た」うちに入らない気がした。
記憶や感情の再確認をしているってゆーか、星組『スカピン』のDVDでも見ている感じってゆーか。
『スカピン』に限らないが、なまじリピートしたりハマっていたりした公演を映像で見ると、とても違和感が強い。自分が実際にナマで観たモノと隔たりがありすぎるためだ。アングルもカットもチガウ、別編集作品のよーに感じる場合が往々にしてある。
だから演じている人がチガウことをアタマでわかっていても、感覚としては星組『スカピン』のDVDを見るとしたら、こんなふうに感じるかもな、と。
そんなどうしようもない部分に生じる、本能的、生理的な感覚。衝動。
『スカーレット・ピンパーネル』という作品を、思い出す。
そして、当時の自分の感情を、思い出す。
それをたどる。再確認する。納得する。
そーゆー段階を踏む、踏む必要がある、整理期間。
それは、新生月組にわくわくしているのとは、別問題。
そんななかで、なにがすごいって、パーシー@きりやさん。
キャラを確立していて、ブレない、初演の記憶に引きずられない。
当時を思い出して切なくなるけど、パーシーに関しては、トウコを二重写しに見ることはない。同じ役なのに、同じことをやってるのに、別物。確実にきりやさんのパーシー。それが小気味よくて、混乱しない。
なんかすごくほっとしたというか、正直助かった。トウコちゃんをいちいち思い出してたら、切なくてたまらなかったよ。ここまで別物で、安定してくれていると、トウコを思い出すこともない。
今、目の前にあるキミだけを愛せる(笑)。
パーシーは、賢しさが魅力であり、ムカつくところでもある。
きりやんのパーシーは生真面目さがイイ。女の子と愛のレッスンに明け暮れるフランス貴族ではなく、同じ遊び人でもアウトドアで健全(笑)なイギリス貴族。
社交家でありながらも、恋には少年のよう、てのがよくわかる。
また、グラパンが遊びすぎてないのもイイ。初日に見たとき、グラパンが「お笑いキャラ」ではなく「異様な男」だったことに、とてもよろこんだ。お笑いも好きだし、かわいかったけどな。
きりやんがヒーローやってる……。
それだけでなんか、感慨深くてなあ。
誰とも間違わない、オーバーラップしてとまどうことがない、きりやんはきりやん。その、存在の強さ。
それがうれしい。
きりやんが今、トップスターとして大劇場に立っている。
そのことを、シンプルにうれしいと思った。よかったと思った。
意味もなく、「お帰り」と思ったよ。
蛇行した長い道のりを経て、本来の道へ戻ってきた……おかえりなさい、きりやん。
おめでとう。
あの日、あの熱と、喝采と。
2010年5月4日 タカラヅカ 花組『虞美人』に囚われているうちに日々は過ぎ。書くべきことがたまっていくよどうしよう。『虞美人』まだ語り足りてないんだけど(ヲイ)、月組新公の日付までにせめてさわりだけでも触れなくては。
『スカーレット・ピンパーネル』は、とても思い出深い作品だ。
いや、作品以前に、思い出深い「公演」だ。
鳴り物入りの海外ミュージカルだが、知名度はイマイチ。
最初は英語表記だったタイトルがいつの間にかカタカナ表記になっていたり、劇団も「売り方」を試行錯誤していた印象。
大昔、『エリザベート』初演はどうだったんだろう? 当時は今ほどネットが発達していなかったし、未知の海外ミュージカルに対してヅカファンがどう反応していたのか、よくわからない。
とりあえず初演『スカピン』は、「鳴り物入りの海外ミュージカル」だと宣伝されているわりに、一般客の反応は鈍かった。チケット発売後にアフタートークが発表されるほどに。
だけど、なにしろ「鳴り物入りの海外ミュージカル」だ。一般客はともかく、一部の人々には熱い注目を受けていた、のだろう。
初演初日の、あの劇場内の空気。
ナニあの緊迫感。
初日好きで、各組大劇場公演初日を観に行っているけれど、ちょっとナイような、異様な緊迫感があった。
いちばん近いのは、あさこシシィ@『エリザベート』初日かなあ。あの緊張感はすごかった(笑)。みんな手に汗握ってるんだもん。
でも作品のわかっている『エリザベート』を、男役のあさこちゃんがどう演じるのかで固唾をのんでいたあの空気とも、やっぱり違っていたと思う。
『スカピン』初演初日は、やっぱり異様だった。
そして、幕が上がり、「マダム・ギロチン」の歌声が響いた瞬間の、空気。
チガウ。
なんか、チガウ。いつもの、じゃない。なにをもって「いつもの」とするか、それは言葉にはできないんだが。
感覚でしかないんだが、肌があわだつ気がした。ぞわぞわと。
あたし今、すごいモノを観ている?!
という、実感と驚き。目の前の現実と、その現実を目の当たりにしている感動と、不信感(笑)。素直に感動できなくなってるらしいよ、このスレたおばさんは(笑)。
『スカピン』がどんだけ名作なのかはわからない。冷静に考えればツッコミどころは満載だし、繰り返し観ると粗も気になるし。
だけど初見ではそんなもんに足を取られることはなかった。それよりも、すごい! ということが感覚を締める。
理性とか知性とかの理屈部分ではなく、感情とか本能とかの感覚部分が歓声を上げているの。
で、1幕が終わり、幕間ですでにわたし、「ずるい」って嘆いていたし。
わたし、つい数日前までこの同じ劇場で『愛と死のアラビア』観てたんですが? 同じカンパニーで同じ劇場で同じ価格で、なんなのこの差! 『愛と死のアラビア』なんぞを10何回観たあたしってナニ?! あたしが可哀想! そう嘆いて、同行のトウコファンに生暖かい目で笑われたっけ(笑)。
舞台の熱さ。
演じている側だって、まだ手探り。観客の反応、どう受け入れられるかなんてわかっちゃいない。海外で名作だからって、タカラヅカで名作かはまた別の話。そんなの今までのいろーんな作品でわかっている。
それでも、舞台と客席で、じわじわと浸食しあっている。双方向に関与しあっている。
今、すごいことが起こっている。
それを、肌で感じる感動。
幕が下りたときの熱狂。
ひとの感じ方も価値観も人の数だけある。同じなんてことはありえない。だが、そんななかで比較的多数に共通する価値観はあるだろう。『スカーレット・ピンパーネル』はそこに響く力を持っていた。
多くの人の共通のナニか。
そこを突かれ、同じ空気を共有した人たちの、爆発的な興奮。
「おもしろかった!」
素直な声があちこちで上がり、興奮が興奮を呼ぶ。
誰もがくわくできる冒険活劇。勧善懲悪、単純明快。
初日だし、出演者のファン、組のファン、宝塚歌劇のファンが多く足を運んでいたと思う。
その人たちが、胸を張って喜べる、誇りを持って好きだと言える、そんな作品である、という感動。
わたしは小市民で、好きなモノに対し懐疑的というか悲観的というか、いじりながらオトシながら愛でる癖がある。手放しで「素晴らしい!」と言うより、「ごめんなさい、わたしは好きです」という方が性に合っているというか。
そんなわたしでも、胸を張って言える、「『スカーレット・ピンパーネル』は面白い」。
タカラヅカを観たことがない、でもちょっと興味あるな、なんて人に「今やってる『スカーレット・ピンパーネル』はオススメですよ」と堂々と言える。
そんな作品に出会えたこと、それが今生まれ、そのことの感動に劇場中で酔えるという幸福。
ほんっとに、初演『スカピン』は特別だったんだ。初日のあの空気。
劇場中の空気が動く、温度が変わる快感って、ハンパないね。
退団公演とか、キャストの去就絡みで空気が動くことはめずらしくないっちゅーか、ソレがタカラヅカの売りのひとつだと思っているけど、そーゆーのとは無関係に、「この作品すげえ!」で空気がどーんと爆発するのは、わたしのヅカヲタ人生でも稀有なことだ。
そんだけすごい作品だっつーに、客足にはあまり反応しないようで。
純粋に、不思議だった。
この作品で、このクオリティで客が入らないのは何故だ。どんだけ良い作品でも、一般の支持を得られないということか?
「タカラヅカ」って、ほんとうに斜陽なんだ、やばいんだ、と思った。
ところが『スカーレット・ピンパーネル』は東宝公演でまさかの大ブレイク。一気に人気公演・人気演目となった、らしい。えええ。
それってつまり、「知名度」なのかな。
『スカピン』はやっぱ、一般人にとって無名作品だった。面白いかどうかなんてわからない。
不景気は深刻で、もう誰も博打はしない。「面白い」とわかったモノにしか、お金は使わない。
ムラの1ヶ月半は宣伝期間、それらが浸透して東宝公演にて「良いモノは良い」と正しい評価を受けたってことなのか。
初演初日の、忘れられない経験。
今後、あんな経験を出来るのはいつなのか、見当もつかない(笑)。未知の新作で、その後ブレイクするだけの良作を、実力のあるキャストで上演する、その初日に劇場にいる可能性って、どんだけ低いんだ。
まあそんなこんなで、初演『スカーレット・ピンパーネル』という公演には、思い入れがありすぎる。
トウコと星組が好きで、地味にリピートしていた。その印象が強烈すぎて、まずはそれゆえの混乱が生じる、再演月組『スカーレット・ピンパーネル』を愉しむにあたって。
……てなことを時系列に書いていきたかったのに、書いている余力がなかった。
月組初日は思い出がオーバーラップしまくりで大変だったが、次に観たときはそれもなく愉しめて、さらに新公となるともお……(笑)。
やっぱ好きだ、『スカーレット・ピンパーネル』。
『スカーレット・ピンパーネル』は、とても思い出深い作品だ。
いや、作品以前に、思い出深い「公演」だ。
鳴り物入りの海外ミュージカルだが、知名度はイマイチ。
最初は英語表記だったタイトルがいつの間にかカタカナ表記になっていたり、劇団も「売り方」を試行錯誤していた印象。
大昔、『エリザベート』初演はどうだったんだろう? 当時は今ほどネットが発達していなかったし、未知の海外ミュージカルに対してヅカファンがどう反応していたのか、よくわからない。
とりあえず初演『スカピン』は、「鳴り物入りの海外ミュージカル」だと宣伝されているわりに、一般客の反応は鈍かった。チケット発売後にアフタートークが発表されるほどに。
だけど、なにしろ「鳴り物入りの海外ミュージカル」だ。一般客はともかく、一部の人々には熱い注目を受けていた、のだろう。
初演初日の、あの劇場内の空気。
ナニあの緊迫感。
初日好きで、各組大劇場公演初日を観に行っているけれど、ちょっとナイような、異様な緊迫感があった。
いちばん近いのは、あさこシシィ@『エリザベート』初日かなあ。あの緊張感はすごかった(笑)。みんな手に汗握ってるんだもん。
でも作品のわかっている『エリザベート』を、男役のあさこちゃんがどう演じるのかで固唾をのんでいたあの空気とも、やっぱり違っていたと思う。
『スカピン』初演初日は、やっぱり異様だった。
そして、幕が上がり、「マダム・ギロチン」の歌声が響いた瞬間の、空気。
チガウ。
なんか、チガウ。いつもの、じゃない。なにをもって「いつもの」とするか、それは言葉にはできないんだが。
感覚でしかないんだが、肌があわだつ気がした。ぞわぞわと。
あたし今、すごいモノを観ている?!
という、実感と驚き。目の前の現実と、その現実を目の当たりにしている感動と、不信感(笑)。素直に感動できなくなってるらしいよ、このスレたおばさんは(笑)。
『スカピン』がどんだけ名作なのかはわからない。冷静に考えればツッコミどころは満載だし、繰り返し観ると粗も気になるし。
だけど初見ではそんなもんに足を取られることはなかった。それよりも、すごい! ということが感覚を締める。
理性とか知性とかの理屈部分ではなく、感情とか本能とかの感覚部分が歓声を上げているの。
で、1幕が終わり、幕間ですでにわたし、「ずるい」って嘆いていたし。
わたし、つい数日前までこの同じ劇場で『愛と死のアラビア』観てたんですが? 同じカンパニーで同じ劇場で同じ価格で、なんなのこの差! 『愛と死のアラビア』なんぞを10何回観たあたしってナニ?! あたしが可哀想! そう嘆いて、同行のトウコファンに生暖かい目で笑われたっけ(笑)。
舞台の熱さ。
演じている側だって、まだ手探り。観客の反応、どう受け入れられるかなんてわかっちゃいない。海外で名作だからって、タカラヅカで名作かはまた別の話。そんなの今までのいろーんな作品でわかっている。
それでも、舞台と客席で、じわじわと浸食しあっている。双方向に関与しあっている。
今、すごいことが起こっている。
それを、肌で感じる感動。
幕が下りたときの熱狂。
ひとの感じ方も価値観も人の数だけある。同じなんてことはありえない。だが、そんななかで比較的多数に共通する価値観はあるだろう。『スカーレット・ピンパーネル』はそこに響く力を持っていた。
多くの人の共通のナニか。
そこを突かれ、同じ空気を共有した人たちの、爆発的な興奮。
「おもしろかった!」
素直な声があちこちで上がり、興奮が興奮を呼ぶ。
誰もがくわくできる冒険活劇。勧善懲悪、単純明快。
初日だし、出演者のファン、組のファン、宝塚歌劇のファンが多く足を運んでいたと思う。
その人たちが、胸を張って喜べる、誇りを持って好きだと言える、そんな作品である、という感動。
わたしは小市民で、好きなモノに対し懐疑的というか悲観的というか、いじりながらオトシながら愛でる癖がある。手放しで「素晴らしい!」と言うより、「ごめんなさい、わたしは好きです」という方が性に合っているというか。
そんなわたしでも、胸を張って言える、「『スカーレット・ピンパーネル』は面白い」。
タカラヅカを観たことがない、でもちょっと興味あるな、なんて人に「今やってる『スカーレット・ピンパーネル』はオススメですよ」と堂々と言える。
そんな作品に出会えたこと、それが今生まれ、そのことの感動に劇場中で酔えるという幸福。
ほんっとに、初演『スカピン』は特別だったんだ。初日のあの空気。
劇場中の空気が動く、温度が変わる快感って、ハンパないね。
退団公演とか、キャストの去就絡みで空気が動くことはめずらしくないっちゅーか、ソレがタカラヅカの売りのひとつだと思っているけど、そーゆーのとは無関係に、「この作品すげえ!」で空気がどーんと爆発するのは、わたしのヅカヲタ人生でも稀有なことだ。
そんだけすごい作品だっつーに、客足にはあまり反応しないようで。
純粋に、不思議だった。
この作品で、このクオリティで客が入らないのは何故だ。どんだけ良い作品でも、一般の支持を得られないということか?
「タカラヅカ」って、ほんとうに斜陽なんだ、やばいんだ、と思った。
ところが『スカーレット・ピンパーネル』は東宝公演でまさかの大ブレイク。一気に人気公演・人気演目となった、らしい。えええ。
それってつまり、「知名度」なのかな。
『スカピン』はやっぱ、一般人にとって無名作品だった。面白いかどうかなんてわからない。
不景気は深刻で、もう誰も博打はしない。「面白い」とわかったモノにしか、お金は使わない。
ムラの1ヶ月半は宣伝期間、それらが浸透して東宝公演にて「良いモノは良い」と正しい評価を受けたってことなのか。
初演初日の、忘れられない経験。
今後、あんな経験を出来るのはいつなのか、見当もつかない(笑)。未知の新作で、その後ブレイクするだけの良作を、実力のあるキャストで上演する、その初日に劇場にいる可能性って、どんだけ低いんだ。
まあそんなこんなで、初演『スカーレット・ピンパーネル』という公演には、思い入れがありすぎる。
トウコと星組が好きで、地味にリピートしていた。その印象が強烈すぎて、まずはそれゆえの混乱が生じる、再演月組『スカーレット・ピンパーネル』を愉しむにあたって。
……てなことを時系列に書いていきたかったのに、書いている余力がなかった。
月組初日は思い出がオーバーラップしまくりで大変だったが、次に観たときはそれもなく愉しめて、さらに新公となるともお……(笑)。
やっぱ好きだ、『スカーレット・ピンパーネル』。
役者の熱演に泣かされる、ことはある。
それが芝居として正しいのかどうかわかんないけど、本当に泣いている人を見ると、もらい泣きするというか。
『虞美人』千秋楽。
項羽@まとぶさんの、泣きっぷりがすごかった。
自害した虞美人@彩音ちゃんを抱きかかえ、慟哭する項羽。
ヅカで良くある「**(名前)ーー!!(節を付けて絶叫)」ではない。名を絶叫しないんだ。
音楽も止まり、ただ項羽の哀しみだけにすべてが集中する。
台詞があるわけじゃない。
歌ったり、叫んだりするわけじゃない。
悲しむ。
泣く。
この行為だけに、舞台が止まる。
長かった。千秋楽の、この場面。
放送事故?ってくらい、無音時間が続いた。
長いよ、これがラジオなら無音時間続き過ぎでエラー出てるよ、ここだけ見たら「台詞忘れて止まってる?」てくらい妙に長いよ。
と、行き過ぎっぷりを冷静に突っ込んでいる自分がいる。
しかし、それと同時に。
この長すぎるほどの時間、哀しみに我を忘れている項羽に……いや、まとぶんの熱演に、胸を突かれる。
声もない哀しみが広がり、ときおり嗚咽が混ざる。
マジ泣きじゃん、アレ。演技じゃない。そーゆー次元じゃない。
項羽として、ほんとうに泣いている。魂をふるわせて、慟哭している。
『虞美人』の主要キャラはアテ書きで、役者とのシンクロ率が高い。虞姫@彩音ちゃんもえらいことになっているが、項羽@まとぶんももー大変。
ただもお、そこにあるのは、「愛しさ」だ。
項羽が好き。この不器用な男が好き。そう思って見ているけれど、それ以上だ。
項羽を好きなのか、まとぶんを好きなのかわからない。もちろんまとぶんが演じているからこそ好きなんだけど、それにしたって好き過ぎる。
愛しくて愛しくて、声なく慟哭する項羽を抱きしめたくなる。
彼のかなしみが辛すぎて、痛すぎて涙になる。可哀想とか悲しいとかじゃないよ、辛いんだよ痛いんだよ。
ダメだろコレは。舞台の上で、パブリックな場で、ここまで個人の「かなしみ」を出して良いのか、それってはてしなくパーソナルな部分じゃん!!
と、わけのわかんないうろたえ方をするくらい、生の感情に圧倒されて泣いた(笑)。
人間の「真の心」って、伝わるもんだから。心からの言葉と、上っ面だけの言葉は、届き方がチガウ。
役者ならば技術で、演技で伝えるもんなのかもしれないが、ここは舞台で生でタカラヅカで、まとぶんはとにかく本人のアツいハートでがっつんがっつんトバしてくる。
彼の芝居を好きになれるか感情移入できるかは、彼のそーゆー芸風を愛せるかどうかなのかなとも思う。
項羽役は、そのまとぶんの役者としての持ち味、基本スキルを全開に出来る役だ。
だから項羽なのかまとぶなのか、わけわかんなくなるくらい、入り込んで熱演している。
ほんとのところ、まとぶんの芸風はわたしの好みではないんだろうけど、そんなこと言ってる場合じゃない、彼の真剣さ誠実さの前に、スカシた態度でなんかいられない。
力尽くで、振り向かされた、感じ。
冷静に突っ込んでいる自分がいてなお、彼の熱にさらわれる。彼を、好きだと思う。好きでたまらないと思う。
静まりかえった劇場内。
そして、すごく長い時間のあと、ようやく聞こえる、項羽の嗚咽。
あのなにかが憑依したような時間、空気。
劇場ってすげえ、演劇ってすげえ。
人間のナマの感情に、魂に触れられる。
それが、わたしが芝居を好きな理由のひとつなのかなと思う。……テレビでも、DVDでも見られるものを、時間とお金を工面して、劇場に行かざるを得ないのは。
まとぶさんの芝居っぷりが正しいのかどうかは、わからない。本人がダダ泣きして、それゆえに観客を泣かせるってのが、どうなのか。
ただ、項羽として慟哭するまとぶさんは、わたしの魂の横面ぶん殴った、くらいにわたしを自分の方へ向かせた。
彼を愛しいと思う。
地団駄踏みたい勢いで、今、まとぶんが好きだ。
それが芝居として正しいのかどうかわかんないけど、本当に泣いている人を見ると、もらい泣きするというか。
『虞美人』千秋楽。
項羽@まとぶさんの、泣きっぷりがすごかった。
自害した虞美人@彩音ちゃんを抱きかかえ、慟哭する項羽。
ヅカで良くある「**(名前)ーー!!(節を付けて絶叫)」ではない。名を絶叫しないんだ。
音楽も止まり、ただ項羽の哀しみだけにすべてが集中する。
台詞があるわけじゃない。
歌ったり、叫んだりするわけじゃない。
悲しむ。
泣く。
この行為だけに、舞台が止まる。
長かった。千秋楽の、この場面。
放送事故?ってくらい、無音時間が続いた。
長いよ、これがラジオなら無音時間続き過ぎでエラー出てるよ、ここだけ見たら「台詞忘れて止まってる?」てくらい妙に長いよ。
と、行き過ぎっぷりを冷静に突っ込んでいる自分がいる。
しかし、それと同時に。
この長すぎるほどの時間、哀しみに我を忘れている項羽に……いや、まとぶんの熱演に、胸を突かれる。
声もない哀しみが広がり、ときおり嗚咽が混ざる。
マジ泣きじゃん、アレ。演技じゃない。そーゆー次元じゃない。
項羽として、ほんとうに泣いている。魂をふるわせて、慟哭している。
『虞美人』の主要キャラはアテ書きで、役者とのシンクロ率が高い。虞姫@彩音ちゃんもえらいことになっているが、項羽@まとぶんももー大変。
ただもお、そこにあるのは、「愛しさ」だ。
項羽が好き。この不器用な男が好き。そう思って見ているけれど、それ以上だ。
項羽を好きなのか、まとぶんを好きなのかわからない。もちろんまとぶんが演じているからこそ好きなんだけど、それにしたって好き過ぎる。
愛しくて愛しくて、声なく慟哭する項羽を抱きしめたくなる。
彼のかなしみが辛すぎて、痛すぎて涙になる。可哀想とか悲しいとかじゃないよ、辛いんだよ痛いんだよ。
ダメだろコレは。舞台の上で、パブリックな場で、ここまで個人の「かなしみ」を出して良いのか、それってはてしなくパーソナルな部分じゃん!!
と、わけのわかんないうろたえ方をするくらい、生の感情に圧倒されて泣いた(笑)。
人間の「真の心」って、伝わるもんだから。心からの言葉と、上っ面だけの言葉は、届き方がチガウ。
役者ならば技術で、演技で伝えるもんなのかもしれないが、ここは舞台で生でタカラヅカで、まとぶんはとにかく本人のアツいハートでがっつんがっつんトバしてくる。
彼の芝居を好きになれるか感情移入できるかは、彼のそーゆー芸風を愛せるかどうかなのかなとも思う。
項羽役は、そのまとぶんの役者としての持ち味、基本スキルを全開に出来る役だ。
だから項羽なのかまとぶなのか、わけわかんなくなるくらい、入り込んで熱演している。
ほんとのところ、まとぶんの芸風はわたしの好みではないんだろうけど、そんなこと言ってる場合じゃない、彼の真剣さ誠実さの前に、スカシた態度でなんかいられない。
力尽くで、振り向かされた、感じ。
冷静に突っ込んでいる自分がいてなお、彼の熱にさらわれる。彼を、好きだと思う。好きでたまらないと思う。
静まりかえった劇場内。
そして、すごく長い時間のあと、ようやく聞こえる、項羽の嗚咽。
あのなにかが憑依したような時間、空気。
劇場ってすげえ、演劇ってすげえ。
人間のナマの感情に、魂に触れられる。
それが、わたしが芝居を好きな理由のひとつなのかなと思う。……テレビでも、DVDでも見られるものを、時間とお金を工面して、劇場に行かざるを得ないのは。
まとぶさんの芝居っぷりが正しいのかどうかは、わからない。本人がダダ泣きして、それゆえに観客を泣かせるってのが、どうなのか。
ただ、項羽として慟哭するまとぶさんは、わたしの魂の横面ぶん殴った、くらいにわたしを自分の方へ向かせた。
彼を愛しいと思う。
地団駄踏みたい勢いで、今、まとぶんが好きだ。
あなたを殺して生き残ったことを。@虞美人
2010年5月2日 タカラヅカ 項羽@まとぶんを破って勝利し、高祖となった劉邦@壮くんがつぶやく。
「生き残った者こそ、哀れか」
『虞美人』のこの展開に、わたしの海馬は勝手になつかしい記憶を掘り起こす。
“あなたはこの世の汚濁に染まることなく、潔いまま逝ってしまわれた。
人々はあなたの悲運に涙し、哀惜とともに後々の世まであなたの名を語り伝えるだろう。
だが勝利したはずの皇后や皇太子はどうだ。
有形無形の世の指弾を浴び、外からも内からも血を流し苦しんでいる”
『虞美人』とはまったく無関係だが、「勝者の苦悩」を書いたマンガの一節を思い出すんだ。
悲劇のヒーロー大津皇子と、彼を滅ぼしたうののさらら(名前の漢字が表示できない)皇后、草壁皇子。大津と草壁なら、大津の方が優れていたのは一目瞭然、だけど大津は死んで草壁が残った。
大津を滅ぼすしかなかった、草壁陣営の苦悩や悲哀を描いたエピソードは、それまで大津寄りでしか大津皇子の謀反を読んだことがなかった少女のわたしに、強い印象を与えた。
ピカレスク・ロマンに分類されるのかな。主人公は野心家で、目的のために手段を選ばない……同じ作者の別作品では悪役として登場する藤原不比等の、若き日の物語。ひとりの純粋な少年が、冷酷な権力者となっていく過程を描いた歴史コミック。
滅びることで美談にくくられがちな出来事を、滅ぼす側、野心を持って成り上がっていく側から描く、というのは、わたしのツボにジャストミートした。
主人公は自分が正義だとは思っていない、それが最善でないこと、まちがっていると他の価値観で責められることがあると理解した上で、それでも「必要だから」と冷酷な判断を下す。罪を罪だとわかった上で「それでも、欲しいモノがある」とあがく。
責任を負い、覚悟を決め、あえて修羅の道を行く。
……コミックの奥付を確認したら、1986年雑誌掲載とありましたよ。そんな昔から、わたしのツボは変わっていないらしい(笑)。
その大昔のマンガ『眉月の誓』と『虞美人』はまったく無関係なんだが、わたしのツボにハマるという点に置いてのみ、共通しているのだ(笑)。
好きな展開に、勝手に好きな作品がリンクして、脳内にオーバーラップする。
「生き残った者こそ、哀れか」とつぶやく劉邦に、呂皇后@じゅりあが「え?」と返す。
この「え?」がいい。
劉邦は言葉を重ねて自分の心を説明せず、天子としての勅命を下す。
劉邦はここで心を閉ざしたのか。彼の真実を聞くことができた者はいたのに、誰もそこに触れなかったのか。
劉邦の真実のつぶやきを耳にして、音としてしか拾えず疑問の声を上げたのか、意味が理解できなかったのか、あるいは、理解したからこその声だったのか。
「え?」という呂の返しが、いかようにも想像できておもしろい。
「今なんか言った? 聞こえなかったからもう一度言って」の「え?」。「なにわけわかんないこと言ってんの、この人?」の「え?」。それとも、「理解したくないことを聞いた、そんなことを言うなんて信じられない」という「え?」。
プロローグの劉邦と呂を見る限り、この「え?」は「わからなかった」からなんだろうけど。
呂には、劉邦の心がわからなかった。だから、彼の悲しい言葉を聞いても理解しないままスルーした。
わたしは劉邦の臨終場面であるオープニングはいらない派だ。
ラストの劉邦と呂の余韻を打ち消すっちゅーか、想像の余地を狭めるから。
劉邦の心を理解しつつも、それを拒否して見ないフリをするしかなかった呂とか、想像してたのしみたいじゃないですか。
ただ「悪いのは相手、私はちっとも悪くなかったのに、許せない!」と思い込んで怒っている人より、「相手も悲しかったんだ……でも、私だって傷ついた。だからやっぱり許せない!」と相手の傷も自分の傷も合わせて2倍傷ついて結果として怒っている人の方が、その心理が複雑に揺れて面白いってゆーか。
オープニングで「結果」を出してしまっているのが、物語の広がりを拒んでるんだよなー。
わかりやすくしたかったんだろうけど。そして、キムシンのいつものオープニング、幕が上がるなり地味!をやりたかったんだろうと思うけど。
わたしのよーな妄想過多人間には、いらん足枷だなと。
范増先生@はっちさんは、予言していた。
「漢王は戦いに勝ったのち、必ず変わる」と。人を惹きつけて勝ち続けていた劉邦だが、権力を得たあとは人を信用しなくなるぞと。
実際劉邦は変わったんだろう。
それが「生き残った者こそ、哀れか」であり、「赤いけしの花」の歌なんだろう。
この「変わってしまった」劉邦を見てみたい。
あのキラキラあっけらかんと野望を歌っていた劉邦ではなく。子どもだから人を信じることも騙すことも出来た劉邦ではなく。
大人になり、自分がなんであるかわかった上で、それでも手を汚す劉邦が見たい。
それこそ、四半世紀前から変わらない、わたしのツボだ(笑)。
まあ、タカラヅカで描くべきではないし、壮くんの演技力で見たいジャンルでもないが……(笑)。
壮さんはナチュラルボーン、その天分のままに存在する役がもっとも輝く舞台人。挫折は彼の得意分野だが、それゆえの屈折鬱屈、心の深淵をちまちま表現する人ではない。だから彼の演じる劉邦が、彼が天子になるところまで、なのは正しい。あとは観客の想像に委ねた方がいい。
キムシンはほんと、壮くんと相性いいなあ。
つか、作家としてうれしいだろうなあ、こんなに自分の作風と合う役者と出会えて(笑)。
壮くんはどーんっ!でばーんっ!でファンタジックなところがイイ。あの『オグリ!』がハマるような。
自分の描きたいと思うニュアンスを、計算ではなく本能で体現してくれる表現者と出会えるなんて。あとは役者のキャラクタと相乗効果でどんどん膨らみ、勝手に転がっていく。描いてて面白いだろう、快感だろう。
壮くんの見せてくれた劉邦が魅力的だからこそ、描かれることのない「その後の劉邦」をも勝手に妄想できる。
いいキャラクタだほんと。
「生き残った者こそ、哀れか」
『虞美人』のこの展開に、わたしの海馬は勝手になつかしい記憶を掘り起こす。
“あなたはこの世の汚濁に染まることなく、潔いまま逝ってしまわれた。
人々はあなたの悲運に涙し、哀惜とともに後々の世まであなたの名を語り伝えるだろう。
だが勝利したはずの皇后や皇太子はどうだ。
有形無形の世の指弾を浴び、外からも内からも血を流し苦しんでいる”
『虞美人』とはまったく無関係だが、「勝者の苦悩」を書いたマンガの一節を思い出すんだ。
悲劇のヒーロー大津皇子と、彼を滅ぼしたうののさらら(名前の漢字が表示できない)皇后、草壁皇子。大津と草壁なら、大津の方が優れていたのは一目瞭然、だけど大津は死んで草壁が残った。
大津を滅ぼすしかなかった、草壁陣営の苦悩や悲哀を描いたエピソードは、それまで大津寄りでしか大津皇子の謀反を読んだことがなかった少女のわたしに、強い印象を与えた。
ピカレスク・ロマンに分類されるのかな。主人公は野心家で、目的のために手段を選ばない……同じ作者の別作品では悪役として登場する藤原不比等の、若き日の物語。ひとりの純粋な少年が、冷酷な権力者となっていく過程を描いた歴史コミック。
滅びることで美談にくくられがちな出来事を、滅ぼす側、野心を持って成り上がっていく側から描く、というのは、わたしのツボにジャストミートした。
主人公は自分が正義だとは思っていない、それが最善でないこと、まちがっていると他の価値観で責められることがあると理解した上で、それでも「必要だから」と冷酷な判断を下す。罪を罪だとわかった上で「それでも、欲しいモノがある」とあがく。
責任を負い、覚悟を決め、あえて修羅の道を行く。
……コミックの奥付を確認したら、1986年雑誌掲載とありましたよ。そんな昔から、わたしのツボは変わっていないらしい(笑)。
その大昔のマンガ『眉月の誓』と『虞美人』はまったく無関係なんだが、わたしのツボにハマるという点に置いてのみ、共通しているのだ(笑)。
好きな展開に、勝手に好きな作品がリンクして、脳内にオーバーラップする。
「生き残った者こそ、哀れか」とつぶやく劉邦に、呂皇后@じゅりあが「え?」と返す。
この「え?」がいい。
劉邦は言葉を重ねて自分の心を説明せず、天子としての勅命を下す。
劉邦はここで心を閉ざしたのか。彼の真実を聞くことができた者はいたのに、誰もそこに触れなかったのか。
劉邦の真実のつぶやきを耳にして、音としてしか拾えず疑問の声を上げたのか、意味が理解できなかったのか、あるいは、理解したからこその声だったのか。
「え?」という呂の返しが、いかようにも想像できておもしろい。
「今なんか言った? 聞こえなかったからもう一度言って」の「え?」。「なにわけわかんないこと言ってんの、この人?」の「え?」。それとも、「理解したくないことを聞いた、そんなことを言うなんて信じられない」という「え?」。
プロローグの劉邦と呂を見る限り、この「え?」は「わからなかった」からなんだろうけど。
呂には、劉邦の心がわからなかった。だから、彼の悲しい言葉を聞いても理解しないままスルーした。
わたしは劉邦の臨終場面であるオープニングはいらない派だ。
ラストの劉邦と呂の余韻を打ち消すっちゅーか、想像の余地を狭めるから。
劉邦の心を理解しつつも、それを拒否して見ないフリをするしかなかった呂とか、想像してたのしみたいじゃないですか。
ただ「悪いのは相手、私はちっとも悪くなかったのに、許せない!」と思い込んで怒っている人より、「相手も悲しかったんだ……でも、私だって傷ついた。だからやっぱり許せない!」と相手の傷も自分の傷も合わせて2倍傷ついて結果として怒っている人の方が、その心理が複雑に揺れて面白いってゆーか。
オープニングで「結果」を出してしまっているのが、物語の広がりを拒んでるんだよなー。
わかりやすくしたかったんだろうけど。そして、キムシンのいつものオープニング、幕が上がるなり地味!をやりたかったんだろうと思うけど。
わたしのよーな妄想過多人間には、いらん足枷だなと。
范増先生@はっちさんは、予言していた。
「漢王は戦いに勝ったのち、必ず変わる」と。人を惹きつけて勝ち続けていた劉邦だが、権力を得たあとは人を信用しなくなるぞと。
実際劉邦は変わったんだろう。
それが「生き残った者こそ、哀れか」であり、「赤いけしの花」の歌なんだろう。
この「変わってしまった」劉邦を見てみたい。
あのキラキラあっけらかんと野望を歌っていた劉邦ではなく。子どもだから人を信じることも騙すことも出来た劉邦ではなく。
大人になり、自分がなんであるかわかった上で、それでも手を汚す劉邦が見たい。
それこそ、四半世紀前から変わらない、わたしのツボだ(笑)。
まあ、タカラヅカで描くべきではないし、壮くんの演技力で見たいジャンルでもないが……(笑)。
壮さんはナチュラルボーン、その天分のままに存在する役がもっとも輝く舞台人。挫折は彼の得意分野だが、それゆえの屈折鬱屈、心の深淵をちまちま表現する人ではない。だから彼の演じる劉邦が、彼が天子になるところまで、なのは正しい。あとは観客の想像に委ねた方がいい。
キムシンはほんと、壮くんと相性いいなあ。
つか、作家としてうれしいだろうなあ、こんなに自分の作風と合う役者と出会えて(笑)。
壮くんはどーんっ!でばーんっ!でファンタジックなところがイイ。あの『オグリ!』がハマるような。
自分の描きたいと思うニュアンスを、計算ではなく本能で体現してくれる表現者と出会えるなんて。あとは役者のキャラクタと相乗効果でどんどん膨らみ、勝手に転がっていく。描いてて面白いだろう、快感だろう。
壮くんの見せてくれた劉邦が魅力的だからこそ、描かれることのない「その後の劉邦」をも勝手に妄想できる。
いいキャラクタだほんと。
噂の男たち(笑)。@虞美人
2010年5月1日 タカラヅカ ヒソヒソヒソ。宮殿のそこかしこで、女官たちが噂する。
「ねえ、張良様が今日もまた紅林を呼びつけていたわよ」
「紅林ってあの子よね、宋義様の……」
「そう、あの、宋義様の……」
「才気煥発な美少年。漢詩も読むし、歌も踊りもできる」
「それでもって、宋義様の……」
「……軍師様は、賢い童をお気に召したんじゃない?」
「そ、そうよね、それだけのことよね。宋義様とはチガウわよね」
ヒソヒソヒソ。
「張良様が、金祥鳳と柱の陰で話しているのを見たわ」
「金祥鳳って、虞美人様のお側付きの童よね」
「そう、あのちょっとごついけど、才気煥発な美少年。胡弓を弾き、剣舞もたしなむ」
「ちょっとというか、かなりごついというか、張良様や衛布様や韓信様より大きい気もするけど、ええ、美少年という設定の童よね。あの子と、張良様が?」
「人目を避けるように、こう、顔を寄せて」
「金祥鳳って、衛布様とも噂なかった?」
「あるある、夜中に衛布様の部屋に入るのを見たって、何人も言ってる」
「そんな子と、張良様が?」
「……軍師様は、賢い童をお気に召したんじゃない?」
「そ、そうよね、それだけのことよね。衛布様とはチガウわよね」
ヒソヒソヒソ。
「ねえねえ、今日私、張良様が紅林にお金を渡しているの見ちゃった!!」
「なんでお金?! 賢い童に勉強を教えているとかなら、お金は渡さないわよね?」
「真夜中に密会してたわよ? で、お金……」
「……それって援交……」
「しっ」
ヒソヒソヒソ。
「紅林に金祥鳳。軍師様は賢い童がお好き」
「てゆーかそれ、単なるショタコン……」
「しっ」
ヒソヒソヒソ。
女官たちにナニを想像されていたか、天才軍師様もご存じない。
☆
東宝版のプログラムには、主な出演者インタビューってのは載ってないんでしたっけ。わたしがプログラムを買う理由はひたすらまっつなので、東宝版にインタビューが載っていない・大劇とまったく同じなら購入する必要はナイなと。
まあそれはさておき、大劇『虞美人』プログラムのまっつインタビュー。
紅林@いちかに対して見せる優しさ……てなくだりを読んで、心からおどろきました。
張良さん、紅林くんになんかしてました? 手なずけて利用してましたけど。彼の憎しみと、小銭を使って、あんな小さな子を野望の道具にしてましたね。アレ、優しい目だったのか。なんて悪そーな笑顔だと思って見てたよ……ごめん、張良の中の人……。
しかし、わたしの目に「なんかたくらんでるっ」と映っても、演技的には「優しい姿」だったそうですよ。
冷徹な軍師様が見せる優しさ、ギャップの部分。
でもって張良先生、同じ場所で桃娘@だいもんにも優しくしてるんだよね。金祥鳳という偽名で生きる桃娘を、すっかり手なずけてるんだよね。
部屋や寝具の清掃をする女官たちは、衛布@みつると金祥鳳のことは知っていると思う。金祥鳳がほんとは女の子だってことはわかんないにしろ、衛布のお稚児さんだろうことは、ばれてるだろう。知らないのは虞美人@彩音ちゃんと、項羽@まとぶんはじめ、宮殿の男たち。女は女だけで噂を回している。
宋義@まりんのお稚児さんだった紅林と、衛布と関係のある金祥鳳。
こそこそ会うのがどっちか片方だけなら言い訳も出来たろうけど、両方じゃなあ。
しかも、「優しさ」を見せているそうですから、中の人が言うことには。他の人には慇懃無礼だったりクールだったりするのに、紅林にだけは優しくしてみせたりしてるそーですから。
張良先生、絶対ホモショタ男だと思われてるよ(笑)。
女っ気なさそーだしなあ。(史実は知らん、あくまでも『虞美人』の物語上)
女官たちがさらに噂話を展開させてるかもな。
「それで張良様の本命はどっち? 紅林? 金祥鳳?」
「金祥鳳には衛布様がいるでしょ?」
「三角関係? 金祥鳳をめぐって衛布様と張良様が?!」
「じゃあ紅林はどうなるの? お金を渡してるわけだから、そーゆー割り切った関係? 本命は金祥鳳?」
「それにしても金祥鳳ってすごいわ。衛布様と張良様って、タイプ正反対のイケメンじゃない。それを二股?」
「武の衛布様か、智の張良様か。って、どこの乙女ゲーの世界……」
「や、金祥鳳オトコノコだから、ボブゲ……」
「しっ」
桃娘が張良と会っていたことを知り、嫉妬する衛布とか、見てみたいですな。
衛布は張良を信頼してはいないだろうから、立場的にも胡散臭いと思っているだろうし、そこへ自分の手駒である桃娘になにかしら近づいていることを知れば。
野心を持つ武人として、心穏やかではないだろう。張良は劉邦@壮くんのスパイだろう、そのスパイとナニを話していた……てな展開は普通にありそーだ。
だがここで、衛布は頑なに心の奥に芽ばえた感情を押し殺す。
張良と会っていた桃娘に怒りを感じるのは、野望達成の邪魔をされたくないからだと、手駒に裏切られたらムカつくからだと。
断じて、嫉妬しているわけじゃない。
俺以外の男と密会していたことに。
衛布が真に警戒・嫉妬すべきなのは韓信なんだけど、こちらは桃娘が気づかれまいと必死に守っていただろうしな。桃娘が韓信に好意を持っていることまでは察しがついても、あくまでもプラトニック、遠くで想っているだけ。桃娘が韓信と実際に会ってどうこう、なんてことはないだろうし。
それに比べ、張良は項羽側でスパイ活動をするために、桃娘とも信頼関係を築いている。実際に桃娘とも話すだろうし、桃娘は素直な子だから張良への信頼は表に出るだろう。
つーことで、三角関係希望(笑)。や、実際にはそんなもんどこにもナイんだが、衛布の中だけで勃発。
桃娘には迷惑なだけの話だし、張良に至ってはコレ幸いと利用されそうだ。
そして、女官たちは「男ばかりで愛憎のもつれ?!」とワクテカする、と(笑)。
「ねえ、張良様が今日もまた紅林を呼びつけていたわよ」
「紅林ってあの子よね、宋義様の……」
「そう、あの、宋義様の……」
「才気煥発な美少年。漢詩も読むし、歌も踊りもできる」
「それでもって、宋義様の……」
「……軍師様は、賢い童をお気に召したんじゃない?」
「そ、そうよね、それだけのことよね。宋義様とはチガウわよね」
ヒソヒソヒソ。
「張良様が、金祥鳳と柱の陰で話しているのを見たわ」
「金祥鳳って、虞美人様のお側付きの童よね」
「そう、あのちょっとごついけど、才気煥発な美少年。胡弓を弾き、剣舞もたしなむ」
「ちょっとというか、かなりごついというか、張良様や衛布様や韓信様より大きい気もするけど、ええ、美少年という設定の童よね。あの子と、張良様が?」
「人目を避けるように、こう、顔を寄せて」
「金祥鳳って、衛布様とも噂なかった?」
「あるある、夜中に衛布様の部屋に入るのを見たって、何人も言ってる」
「そんな子と、張良様が?」
「……軍師様は、賢い童をお気に召したんじゃない?」
「そ、そうよね、それだけのことよね。衛布様とはチガウわよね」
ヒソヒソヒソ。
「ねえねえ、今日私、張良様が紅林にお金を渡しているの見ちゃった!!」
「なんでお金?! 賢い童に勉強を教えているとかなら、お金は渡さないわよね?」
「真夜中に密会してたわよ? で、お金……」
「……それって援交……」
「しっ」
ヒソヒソヒソ。
「紅林に金祥鳳。軍師様は賢い童がお好き」
「てゆーかそれ、単なるショタコン……」
「しっ」
ヒソヒソヒソ。
女官たちにナニを想像されていたか、天才軍師様もご存じない。
☆
東宝版のプログラムには、主な出演者インタビューってのは載ってないんでしたっけ。わたしがプログラムを買う理由はひたすらまっつなので、東宝版にインタビューが載っていない・大劇とまったく同じなら購入する必要はナイなと。
まあそれはさておき、大劇『虞美人』プログラムのまっつインタビュー。
紅林@いちかに対して見せる優しさ……てなくだりを読んで、心からおどろきました。
張良さん、紅林くんになんかしてました? 手なずけて利用してましたけど。彼の憎しみと、小銭を使って、あんな小さな子を野望の道具にしてましたね。アレ、優しい目だったのか。なんて悪そーな笑顔だと思って見てたよ……ごめん、張良の中の人……。
しかし、わたしの目に「なんかたくらんでるっ」と映っても、演技的には「優しい姿」だったそうですよ。
冷徹な軍師様が見せる優しさ、ギャップの部分。
でもって張良先生、同じ場所で桃娘@だいもんにも優しくしてるんだよね。金祥鳳という偽名で生きる桃娘を、すっかり手なずけてるんだよね。
部屋や寝具の清掃をする女官たちは、衛布@みつると金祥鳳のことは知っていると思う。金祥鳳がほんとは女の子だってことはわかんないにしろ、衛布のお稚児さんだろうことは、ばれてるだろう。知らないのは虞美人@彩音ちゃんと、項羽@まとぶんはじめ、宮殿の男たち。女は女だけで噂を回している。
宋義@まりんのお稚児さんだった紅林と、衛布と関係のある金祥鳳。
こそこそ会うのがどっちか片方だけなら言い訳も出来たろうけど、両方じゃなあ。
しかも、「優しさ」を見せているそうですから、中の人が言うことには。他の人には慇懃無礼だったりクールだったりするのに、紅林にだけは優しくしてみせたりしてるそーですから。
張良先生、絶対ホモショタ男だと思われてるよ(笑)。
女っ気なさそーだしなあ。(史実は知らん、あくまでも『虞美人』の物語上)
女官たちがさらに噂話を展開させてるかもな。
「それで張良様の本命はどっち? 紅林? 金祥鳳?」
「金祥鳳には衛布様がいるでしょ?」
「三角関係? 金祥鳳をめぐって衛布様と張良様が?!」
「じゃあ紅林はどうなるの? お金を渡してるわけだから、そーゆー割り切った関係? 本命は金祥鳳?」
「それにしても金祥鳳ってすごいわ。衛布様と張良様って、タイプ正反対のイケメンじゃない。それを二股?」
「武の衛布様か、智の張良様か。って、どこの乙女ゲーの世界……」
「や、金祥鳳オトコノコだから、ボブゲ……」
「しっ」
桃娘が張良と会っていたことを知り、嫉妬する衛布とか、見てみたいですな。
衛布は張良を信頼してはいないだろうから、立場的にも胡散臭いと思っているだろうし、そこへ自分の手駒である桃娘になにかしら近づいていることを知れば。
野心を持つ武人として、心穏やかではないだろう。張良は劉邦@壮くんのスパイだろう、そのスパイとナニを話していた……てな展開は普通にありそーだ。
だがここで、衛布は頑なに心の奥に芽ばえた感情を押し殺す。
張良と会っていた桃娘に怒りを感じるのは、野望達成の邪魔をされたくないからだと、手駒に裏切られたらムカつくからだと。
断じて、嫉妬しているわけじゃない。
俺以外の男と密会していたことに。
衛布が真に警戒・嫉妬すべきなのは韓信なんだけど、こちらは桃娘が気づかれまいと必死に守っていただろうしな。桃娘が韓信に好意を持っていることまでは察しがついても、あくまでもプラトニック、遠くで想っているだけ。桃娘が韓信と実際に会ってどうこう、なんてことはないだろうし。
それに比べ、張良は項羽側でスパイ活動をするために、桃娘とも信頼関係を築いている。実際に桃娘とも話すだろうし、桃娘は素直な子だから張良への信頼は表に出るだろう。
つーことで、三角関係希望(笑)。や、実際にはそんなもんどこにもナイんだが、衛布の中だけで勃発。
桃娘には迷惑なだけの話だし、張良に至ってはコレ幸いと利用されそうだ。
そして、女官たちは「男ばかりで愛憎のもつれ?!」とワクテカする、と(笑)。
生きろ、と彼は言った。@虞美人
2010年4月30日 タカラヅカ 東宝公演スタートですね、『虞美人』。観に行きたいなー。
桃娘@だいもんはとてもいいキャラクタなのに、きちんと書き込みがされていないため、とてももったいない。衛布@みつるとの関係、衛布の野心についてもだし、なにより韓信@みわっちがえらい割を食っている。
もう少しなんとかならんかったんかなあ、と思うけれど、まあそれゆえに、観ている側が脳内補完にいそしむことはできる。
エピソードとエピソードの間を埋められるくらい、それぞれのキャラが立ってるからさ。
つーことで、桃娘関連の我らが張良さん@まっつの話。
張良先生は、衛布と桃娘の関係を知っていた、と思う。
桃娘と衛布の関係。……つったらもちろん、アレ。毎夜毎夜、衛布元気だな、の、アレ。
……毎晩だと台詞で名言はされていないようだが(友人と「毎晩って言ってたよね?!」と盛り上がったのは妄想? 笑)、虞美人様@彩音ちゃんの「夜中に出歩いている」という言い方は、1回限りではなく継続的かつ日常的な出来事を連想させるので、間違ってはないんでしょう。
そのことを、張良せんせは知っていたと思う。……桃娘が、隠しているつもりでも。
桃娘を楚陣営へ送り込んだのが呂@じゅりあである以上、早い段階から張良の耳には入っているだろう、虞美人お気に入りの童が、桃娘だと。張良は桃娘の働いていた居酒屋にも出入りしていたわけだから、顔は知っているだろーし。
で、ちゃっかり項羽@まとぶんの配下に収まった張良は、桃娘にコンタクトを取っているはず。
鴻門の会で、桃娘が劉邦を守るために剣舞へまざっていたことも、わかっているのだし。
項羽のお膝元で自由に暗躍(笑)するために、味方には働きかけているだろうから。
2幕冒頭にて、張良は当たり前に桃娘に話しかけている。すべてを知り尽くした顔で。
桃娘も張良の言動にはなんの疑問も持っていない。「この人嘘をついている?」とか「言葉に裏があるのでは?」なんて、みじんも考えない。まるっと鵜呑み。
張良は、見事に桃娘を手なずけている。
桃娘と張良が直接言葉を交わすようになるのは、鴻門の会以後だと思う。
1幕ラストと2幕冒頭がどれくらい時間経過しているのかわからないが、その間ですっかり懐柔(笑)。桃娘は張良の手のひらの上。
やっぱ隙を見て張良から、「今は項羽に従っているふりをしているが、心は劉邦様のモノ(笑)だ」と話して、安心させたんだろうなと。オマエのことは呂妃から聞いていると。項羽は共通の敵であると。
単身敵地に乗り込んでいる桃娘にとって、事情を知っている味方の存在は心強いだろうし、また、張良ならば「心強い味方」であると世間知らずのおじょーさまに思い込ませることなんかたやすいだろう。
てことで桃ちゃんは衛布のことを、張良に告げていると思う。
「父の部下であった衛布には顔が知れているため、私の正体も知られてしまっている。でも、自分が項羽に成り代わろうと狙う衛布は、あえて黙っているようだ」……てな、「表面的な事実」を。
項羽を討つために必要な情報を、劉邦の軍師に伝える。呂に恩を感じている桃娘はそれくらいするだろう。
衛布に「なぐさみものにされている」ことは、死んでも言わないだろうけど。
でも張良は、気づくと思う。
衛布の野心にも、そして彼に対する桃娘の恐怖にも。
ナニが行われているか、正しく察して。
その上で、ナニも言わないだろう。
助けません。ええ。
藪をつついて蛇を出すわけにはいかないので。罪のない娘をひとり救うことで、事を荒立てるわけにはいかない。娘には引き続き犠牲になってもらって、まずは自分の任務優先。
そーゆー人だよね、張良先生。
時間経過はよくわからないが、范増先生@はっちさんが懐王@王子のところへ行っている間、桃娘が「先日の剣舞をお褒めいただきました」と言っているから、ほんとーに大した期間ではないのかもしれないが。
衛布と桃娘の歪んだ関係。そして、黙って見ている張良。
……というのは、萌えなんですが(笑)。
短い期間だとしたら、そんな間に桃娘の信頼を得、項羽陣営でも幅を利かすよーになっている張良先生ってどんだけ優秀なん(笑)、という。
ハンゾー先生からの報告書を、わざわざ張良が持ってくるってどういうこと? ボスへの機密文書を取り扱っていいんだ、ついこの間の鴻門の会までよそ者だった張良が。
項羽が待ち望んでいたハンゾー先生からの手紙。使者ではなく、張良が運んだ。……これってつまり、そーゆーことなのかねえ。
解答は提示されなかったけれど、張良が手紙をすり替えて懐王暗殺へと誘導したってことかねえ。懐王が武将たちに国を分けることに反対したまでは事実だと思うんだけど(そのあとの場面で、ハンゾー先生がそのことについてスルーしているから)、事実が歪められている可能性があるよな。使者ではなく張良さんがメッセンジャーボーイをやっているなんて、怪しすぎる。
この物語では項羽が曲がったことはしないことになっているので、悪!な所行は別キャラの策略になる傾向がある。だからこそ、あの善良な王様を暗殺するのは項羽のせいではない、と。悪いのは張良ですよと。
ついでに言うと、「韓信を殺せ」もほんとーにハンゾー先生の言葉だったのかどうか。
韓信を劉邦側に寝返らせるための策略じゃなかろうか。
それをわざわざ、桃娘に聞かせているあたり、アヤシイ。
ええ、とーぜん張良さんは知っていたのでしょうとも、桃娘が韓信を慕っていることを。ある意味桃娘と同時期に韓信を見初めたんだもの、例の股くぐりで。
張良なりのやさしさかもしれない。
桃娘の今の身の上……父の仇を討つために、好きでもない男の愛人やりながら耐えている日々。無事に仇を討てたとしても、殺されることがわかっている。
その現実に、別の道を指し示す。父への思いを忘れろ、捨てろというのではなく、恩人を助けるのだ、と。桃娘のまっすぐな心の軌道を、変えさせる。歪めるのでも曲げるのでもなく、向きを変えさせたんだ。
だって、漢への抜け道を教えるなら、韓信に直接言ってもいいんだもの。このままここにいたら殺される、この地図の通りに漢へ逃げろと。なにも桃娘に託す必要はない。
桃娘を救うために、わざとやったんだよね、張良。
だからこそ余計に、「張良は、衛布と桃娘の関係を知っていた」と思う。
黙って見て見ぬフリして、そして、さっと助ける。……すごいな。
で、なにがすごいって、優しい行いのはずなのに、やっぱり悪だくみしているよーにしか見えないことでしょう、良ちゃんってば(笑)。
桃娘が衛布を殺してしまったのは、突発事項。さすがの張良先生も、これは計算していないと思う。
桃娘が韓信と駆け落ち(笑)したとなると、残された衛布はどう思っただろう。
そして張良は、そんな衛布をどうさばくつもりだったんだろう。なにかしら算段はあったんだろうし。
衛布VS張良。
見てみたかったな。
桃娘@だいもんはとてもいいキャラクタなのに、きちんと書き込みがされていないため、とてももったいない。衛布@みつるとの関係、衛布の野心についてもだし、なにより韓信@みわっちがえらい割を食っている。
もう少しなんとかならんかったんかなあ、と思うけれど、まあそれゆえに、観ている側が脳内補完にいそしむことはできる。
エピソードとエピソードの間を埋められるくらい、それぞれのキャラが立ってるからさ。
つーことで、桃娘関連の我らが張良さん@まっつの話。
張良先生は、衛布と桃娘の関係を知っていた、と思う。
桃娘と衛布の関係。……つったらもちろん、アレ。毎夜毎夜、衛布元気だな、の、アレ。
……毎晩だと台詞で名言はされていないようだが(友人と「毎晩って言ってたよね?!」と盛り上がったのは妄想? 笑)、虞美人様@彩音ちゃんの「夜中に出歩いている」という言い方は、1回限りではなく継続的かつ日常的な出来事を連想させるので、間違ってはないんでしょう。
そのことを、張良せんせは知っていたと思う。……桃娘が、隠しているつもりでも。
桃娘を楚陣営へ送り込んだのが呂@じゅりあである以上、早い段階から張良の耳には入っているだろう、虞美人お気に入りの童が、桃娘だと。張良は桃娘の働いていた居酒屋にも出入りしていたわけだから、顔は知っているだろーし。
で、ちゃっかり項羽@まとぶんの配下に収まった張良は、桃娘にコンタクトを取っているはず。
鴻門の会で、桃娘が劉邦を守るために剣舞へまざっていたことも、わかっているのだし。
項羽のお膝元で自由に暗躍(笑)するために、味方には働きかけているだろうから。
2幕冒頭にて、張良は当たり前に桃娘に話しかけている。すべてを知り尽くした顔で。
桃娘も張良の言動にはなんの疑問も持っていない。「この人嘘をついている?」とか「言葉に裏があるのでは?」なんて、みじんも考えない。まるっと鵜呑み。
張良は、見事に桃娘を手なずけている。
桃娘と張良が直接言葉を交わすようになるのは、鴻門の会以後だと思う。
1幕ラストと2幕冒頭がどれくらい時間経過しているのかわからないが、その間ですっかり懐柔(笑)。桃娘は張良の手のひらの上。
やっぱ隙を見て張良から、「今は項羽に従っているふりをしているが、心は劉邦様のモノ(笑)だ」と話して、安心させたんだろうなと。オマエのことは呂妃から聞いていると。項羽は共通の敵であると。
単身敵地に乗り込んでいる桃娘にとって、事情を知っている味方の存在は心強いだろうし、また、張良ならば「心強い味方」であると世間知らずのおじょーさまに思い込ませることなんかたやすいだろう。
てことで桃ちゃんは衛布のことを、張良に告げていると思う。
「父の部下であった衛布には顔が知れているため、私の正体も知られてしまっている。でも、自分が項羽に成り代わろうと狙う衛布は、あえて黙っているようだ」……てな、「表面的な事実」を。
項羽を討つために必要な情報を、劉邦の軍師に伝える。呂に恩を感じている桃娘はそれくらいするだろう。
衛布に「なぐさみものにされている」ことは、死んでも言わないだろうけど。
でも張良は、気づくと思う。
衛布の野心にも、そして彼に対する桃娘の恐怖にも。
ナニが行われているか、正しく察して。
その上で、ナニも言わないだろう。
助けません。ええ。
藪をつついて蛇を出すわけにはいかないので。罪のない娘をひとり救うことで、事を荒立てるわけにはいかない。娘には引き続き犠牲になってもらって、まずは自分の任務優先。
そーゆー人だよね、張良先生。
時間経過はよくわからないが、范増先生@はっちさんが懐王@王子のところへ行っている間、桃娘が「先日の剣舞をお褒めいただきました」と言っているから、ほんとーに大した期間ではないのかもしれないが。
衛布と桃娘の歪んだ関係。そして、黙って見ている張良。
……というのは、萌えなんですが(笑)。
短い期間だとしたら、そんな間に桃娘の信頼を得、項羽陣営でも幅を利かすよーになっている張良先生ってどんだけ優秀なん(笑)、という。
ハンゾー先生からの報告書を、わざわざ張良が持ってくるってどういうこと? ボスへの機密文書を取り扱っていいんだ、ついこの間の鴻門の会までよそ者だった張良が。
項羽が待ち望んでいたハンゾー先生からの手紙。使者ではなく、張良が運んだ。……これってつまり、そーゆーことなのかねえ。
解答は提示されなかったけれど、張良が手紙をすり替えて懐王暗殺へと誘導したってことかねえ。懐王が武将たちに国を分けることに反対したまでは事実だと思うんだけど(そのあとの場面で、ハンゾー先生がそのことについてスルーしているから)、事実が歪められている可能性があるよな。使者ではなく張良さんがメッセンジャーボーイをやっているなんて、怪しすぎる。
この物語では項羽が曲がったことはしないことになっているので、悪!な所行は別キャラの策略になる傾向がある。だからこそ、あの善良な王様を暗殺するのは項羽のせいではない、と。悪いのは張良ですよと。
ついでに言うと、「韓信を殺せ」もほんとーにハンゾー先生の言葉だったのかどうか。
韓信を劉邦側に寝返らせるための策略じゃなかろうか。
それをわざわざ、桃娘に聞かせているあたり、アヤシイ。
ええ、とーぜん張良さんは知っていたのでしょうとも、桃娘が韓信を慕っていることを。ある意味桃娘と同時期に韓信を見初めたんだもの、例の股くぐりで。
張良なりのやさしさかもしれない。
桃娘の今の身の上……父の仇を討つために、好きでもない男の愛人やりながら耐えている日々。無事に仇を討てたとしても、殺されることがわかっている。
その現実に、別の道を指し示す。父への思いを忘れろ、捨てろというのではなく、恩人を助けるのだ、と。桃娘のまっすぐな心の軌道を、変えさせる。歪めるのでも曲げるのでもなく、向きを変えさせたんだ。
だって、漢への抜け道を教えるなら、韓信に直接言ってもいいんだもの。このままここにいたら殺される、この地図の通りに漢へ逃げろと。なにも桃娘に託す必要はない。
桃娘を救うために、わざとやったんだよね、張良。
だからこそ余計に、「張良は、衛布と桃娘の関係を知っていた」と思う。
黙って見て見ぬフリして、そして、さっと助ける。……すごいな。
で、なにがすごいって、優しい行いのはずなのに、やっぱり悪だくみしているよーにしか見えないことでしょう、良ちゃんってば(笑)。
桃娘が衛布を殺してしまったのは、突発事項。さすがの張良先生も、これは計算していないと思う。
桃娘が韓信と駆け落ち(笑)したとなると、残された衛布はどう思っただろう。
そして張良は、そんな衛布をどうさばくつもりだったんだろう。なにかしら算段はあったんだろうし。
衛布VS張良。
見てみたかったな。
軍師は語る、「言うだけならたやすい」。@虞美人
2010年4月29日 タカラヅカ 我らが張良様@まっつの偉業は数しれない。
しかし、彼の最大の功績は。
項羽の最期の言葉を意訳したことぢゃね?(笑)
「それで、覇王の最期の言葉は?」(無表情)
「いや、それがその……『漢王に伝えて欲しい。♪誰もナニも信じられないこの世界だからこそ…』」(朗々と歌い出すふみか武将)
「…………」(無表情)
「そこで遠い目をして、『虞よ、待たせたな。アナタと共に』で、また歌って『シアワセに生ーきーたーとぉお♪』」(朗々と歌う)
「…………」(無表情)
「えーと。どうしましょうか。虞って、虞美人のことですよね? 漢王に伝えるんですか? 『私は虞と共にシアワセに生きました』って」
「…………」(無表情、あ、でもなんか、こめかみに筋が)
「てゆーかなんで最期にわざわざのろけを? 死の淵で伝えなければならないよーなことだったんですか? ……はっ。まさかコレは、痴話喧嘩?! 女が自分を捨てた男に対し、『アタシはアンタ以外の恋人とシアワセに生きたんだからねっ。別にアンタのせいで自殺するんじゃないんだからねっ。あーアタシはシアワセだったわ!!』」(声色を使うふみか)
「…………」(無表情、でも、こめかみに筋が……)
「痴話喧嘩じゃないとしたら、意識錯乱? 漢王に伝えよって言いながら、もう自分がナニ言ってるのかわかってない? たしかにお花畑な感じにイッちゃってて……うわ、こりゃダメだ、みたいな」
「…………」(無表情。でも、たしかにこめかみに筋がっ)
「どうします、他ならぬ覇王じきじきの、最期の言葉ですから、そのまま伝えないといけないんでしょうか……」
「…………今後、覇王の最期に関しては、一切他言せぬように」(無表情。力強く、無表情っ)
「覇王の最期の言葉が届いております。いわく、
『武人として、シアワセに生きた』
と!!(意訳!!)」
劉邦、感激! ザッツ美談!! 超訳っつか、ほとんど捏造の域っ!! さすが空気を読める男、張良グッジョブ!!(笑)
最後に張良の美声が響くのがたまりません。そうだよな、ここは是非にまっつの声だよな。「あなたこそ、チュシンの王!」だよな(笑)。
いやあ、項羽の最期の言葉をそのまま伝えたら、みなさんぽかーんになるよなあ。それをいいよーに意訳して場を盛り上げた張良先生はほんとに優秀な軍師だと思いまっつ。
張良はそうやって脚本を書いてるんだよね。「覇王は暗殺されるべきではない」とか言って、自分のイメージする通りに歴史を動かしていく。
実は、ロマンチストなんじゃね?
歴史に……人間の生き方に、ロマンを求めている。美しさや、清冽さを求めている。
それを叶えるために、人の情を捨てたり、自分の感情すら踏みにじったりする。……本末転倒している気がしないでもないが、そーゆーままならないところを持つのが、この天才軍師の魅力なんだろう。
誰よりも夢見がちだからこそ、リアリストである、みたいな。
誰よりも情深いからこそ、冷酷である、みたいな。
キムシン作品は基本アテ書き、キャラ物だから。ストーリーがどうとかよりも、キャラを愉しむモノだから。(例・「『王家に捧ぐ歌』ってそんなに名作だっけか?」「だって主要3人のキャラがハマり過ぎてたしさー」「ああ、それでなんか名作っぽくなってる?」)
張良さんのキャラ立ちっぷりは、たのしくてなりません。
こんな性格です、と説明されるのではなく、その言動でわかる「張良先生ってどんな人?」。
その張良先生がもっともアクティヴで、なにかとたのしい鴻門の会。
劉邦様@壮くんを逃がすために、助けるために、守るために、張良さん大活躍!
ここでのひそかな楽しみは、まっつVSしゅん様!!
ハンゾー先生@はっちさんから、劉邦暗殺を命じられる項荘@しゅん様。剣舞にかこつけて、劉邦様に襲いかかる!
これをさせまいとする張良。
良ちゃんは剣を握ることもないし、「剣舞なら私だって♪」と腕まくりしてまざることもない。彼の戦いは頭脳戦。プラス、舌戦。後宮の美女たちを舞い踊らせたりして場を混乱させ、劉邦にバリアー(笑)を張る。
このどさくさまぎれの大混乱の中、睨み合う張良と項荘。この場での直接の敵はお互いであることを理解し、威嚇し合っている。
ああ、なんてうひゃっほうな画面(笑)。
項荘は武官だ。張良を斬り捨てることなんか造作ない。許可が下りないから威嚇だけになっているわけで、ほんっと彼のキモチひとつで今、張良を殺せるんだよね。
丸腰でありながら太刀を手にした男と睨み合う張良の、きつい視線。
一刀のもとに絶命させられそうな間合いで、一歩も引くことなく睨み合うんですよ?
かっこいい。
ここの張良さん、すげーかっこいい。
漢ですよ彼は。
誰よりも(剣舞披露中の「子猫ちゃん」よりも)ちっこくて華奢なくせにね(笑)。
劉邦を無事逃がしたあとの嘘臭い「項羽様@まとぶん万歳姿勢」もステキ。あのわざとらしい喋り、畏まりぶり。
ちゃっかり上座をせしめ、ちゃっかりハンゾー先生の留守をせしめてしまうのも、素晴らしい。ハンゾー先生絶句。
鴻門の会は隅から隅までおもしろいなあほんと。
2幕最初は、そのハンゾー先生の留守を預かり、項羽のもとにいる。
張良さんの項羽様への態度はイイよね、慇懃無礼を絵に描いたようで。
こいつ絶対、心から思ってねえ。ということがわかる、冷風が吹くよーな敬いっぷり。
「お前は私を覇王と呼ぶのか」
「世に並ぶもののない方ゆえ」
このやりとりの嘘臭さが、たまらない(笑)。
張良は項羽の才能を認めている。だから、張良が「覇王」と呼ぶことに偽りはない。でも彼はきっと付け加えている、心の中で。「今だけの、覇王」と。
対項羽の、張良の立ち位置、感情はとても興味深い。
一貫して慇懃無礼、上っ面だけの服従、敬服。衛布@みつるよりも、赤裸々。……ここまで露骨で、なんで項羽は気づかないんだ、みたいな。や、これは物語をわかりやすくするために、大袈裟にやっている結果だろうけれど。
項羽の項羽らしいところを見るにつれ、いちいち劉邦を思い出していたのかな。比べていたのかな。
心の中で「今だけの、覇王」と付け加え、さらに「いずれ私の劉邦が、真の王になる」と続けているのか。
張良にとって、劉邦は最初から所有格だったと思う。
なんせ自分で選んだのだから。
ハンゾー先生に「項羽側につかないか」と誘われたのに、きっぱり断って劉邦を選んでいる。
だから最初から、「私の選んだ王」「私の劉邦」。
項羽への冷たい態度は全部、項羽の才能を認めるがゆえ、加えて劉邦へのキモチの裏返し。
けっこー一途じゃないですか。健気ぢゃないですか(笑)。たとえアクセントが「私の、選んだ王」「私、の劉邦」と「私」にあったとしても。
「英雄は英雄にしか見出せない」、劉邦を高めることがすなわち自分を高めることであったにしろ。
まったく、いいキャラだ。
しかし、彼の最大の功績は。
項羽の最期の言葉を意訳したことぢゃね?(笑)
「それで、覇王の最期の言葉は?」(無表情)
「いや、それがその……『漢王に伝えて欲しい。♪誰もナニも信じられないこの世界だからこそ…』」(朗々と歌い出すふみか武将)
「…………」(無表情)
「そこで遠い目をして、『虞よ、待たせたな。アナタと共に』で、また歌って『シアワセに生ーきーたーとぉお♪』」(朗々と歌う)
「…………」(無表情)
「えーと。どうしましょうか。虞って、虞美人のことですよね? 漢王に伝えるんですか? 『私は虞と共にシアワセに生きました』って」
「…………」(無表情、あ、でもなんか、こめかみに筋が)
「てゆーかなんで最期にわざわざのろけを? 死の淵で伝えなければならないよーなことだったんですか? ……はっ。まさかコレは、痴話喧嘩?! 女が自分を捨てた男に対し、『アタシはアンタ以外の恋人とシアワセに生きたんだからねっ。別にアンタのせいで自殺するんじゃないんだからねっ。あーアタシはシアワセだったわ!!』」(声色を使うふみか)
「…………」(無表情、でも、こめかみに筋が……)
「痴話喧嘩じゃないとしたら、意識錯乱? 漢王に伝えよって言いながら、もう自分がナニ言ってるのかわかってない? たしかにお花畑な感じにイッちゃってて……うわ、こりゃダメだ、みたいな」
「…………」(無表情。でも、たしかにこめかみに筋がっ)
「どうします、他ならぬ覇王じきじきの、最期の言葉ですから、そのまま伝えないといけないんでしょうか……」
「…………今後、覇王の最期に関しては、一切他言せぬように」(無表情。力強く、無表情っ)
「覇王の最期の言葉が届いております。いわく、
『武人として、シアワセに生きた』
と!!(意訳!!)」
劉邦、感激! ザッツ美談!! 超訳っつか、ほとんど捏造の域っ!! さすが空気を読める男、張良グッジョブ!!(笑)
最後に張良の美声が響くのがたまりません。そうだよな、ここは是非にまっつの声だよな。「あなたこそ、チュシンの王!」だよな(笑)。
いやあ、項羽の最期の言葉をそのまま伝えたら、みなさんぽかーんになるよなあ。それをいいよーに意訳して場を盛り上げた張良先生はほんとに優秀な軍師だと思いまっつ。
張良はそうやって脚本を書いてるんだよね。「覇王は暗殺されるべきではない」とか言って、自分のイメージする通りに歴史を動かしていく。
実は、ロマンチストなんじゃね?
歴史に……人間の生き方に、ロマンを求めている。美しさや、清冽さを求めている。
それを叶えるために、人の情を捨てたり、自分の感情すら踏みにじったりする。……本末転倒している気がしないでもないが、そーゆーままならないところを持つのが、この天才軍師の魅力なんだろう。
誰よりも夢見がちだからこそ、リアリストである、みたいな。
誰よりも情深いからこそ、冷酷である、みたいな。
キムシン作品は基本アテ書き、キャラ物だから。ストーリーがどうとかよりも、キャラを愉しむモノだから。(例・「『王家に捧ぐ歌』ってそんなに名作だっけか?」「だって主要3人のキャラがハマり過ぎてたしさー」「ああ、それでなんか名作っぽくなってる?」)
張良さんのキャラ立ちっぷりは、たのしくてなりません。
こんな性格です、と説明されるのではなく、その言動でわかる「張良先生ってどんな人?」。
その張良先生がもっともアクティヴで、なにかとたのしい鴻門の会。
劉邦様@壮くんを逃がすために、助けるために、守るために、張良さん大活躍!
ここでのひそかな楽しみは、まっつVSしゅん様!!
ハンゾー先生@はっちさんから、劉邦暗殺を命じられる項荘@しゅん様。剣舞にかこつけて、劉邦様に襲いかかる!
これをさせまいとする張良。
良ちゃんは剣を握ることもないし、「剣舞なら私だって♪」と腕まくりしてまざることもない。彼の戦いは頭脳戦。プラス、舌戦。後宮の美女たちを舞い踊らせたりして場を混乱させ、劉邦にバリアー(笑)を張る。
このどさくさまぎれの大混乱の中、睨み合う張良と項荘。この場での直接の敵はお互いであることを理解し、威嚇し合っている。
ああ、なんてうひゃっほうな画面(笑)。
項荘は武官だ。張良を斬り捨てることなんか造作ない。許可が下りないから威嚇だけになっているわけで、ほんっと彼のキモチひとつで今、張良を殺せるんだよね。
丸腰でありながら太刀を手にした男と睨み合う張良の、きつい視線。
一刀のもとに絶命させられそうな間合いで、一歩も引くことなく睨み合うんですよ?
かっこいい。
ここの張良さん、すげーかっこいい。
漢ですよ彼は。
誰よりも(剣舞披露中の「子猫ちゃん」よりも)ちっこくて華奢なくせにね(笑)。
劉邦を無事逃がしたあとの嘘臭い「項羽様@まとぶん万歳姿勢」もステキ。あのわざとらしい喋り、畏まりぶり。
ちゃっかり上座をせしめ、ちゃっかりハンゾー先生の留守をせしめてしまうのも、素晴らしい。ハンゾー先生絶句。
鴻門の会は隅から隅までおもしろいなあほんと。
2幕最初は、そのハンゾー先生の留守を預かり、項羽のもとにいる。
張良さんの項羽様への態度はイイよね、慇懃無礼を絵に描いたようで。
こいつ絶対、心から思ってねえ。ということがわかる、冷風が吹くよーな敬いっぷり。
「お前は私を覇王と呼ぶのか」
「世に並ぶもののない方ゆえ」
このやりとりの嘘臭さが、たまらない(笑)。
張良は項羽の才能を認めている。だから、張良が「覇王」と呼ぶことに偽りはない。でも彼はきっと付け加えている、心の中で。「今だけの、覇王」と。
対項羽の、張良の立ち位置、感情はとても興味深い。
一貫して慇懃無礼、上っ面だけの服従、敬服。衛布@みつるよりも、赤裸々。……ここまで露骨で、なんで項羽は気づかないんだ、みたいな。や、これは物語をわかりやすくするために、大袈裟にやっている結果だろうけれど。
項羽の項羽らしいところを見るにつれ、いちいち劉邦を思い出していたのかな。比べていたのかな。
心の中で「今だけの、覇王」と付け加え、さらに「いずれ私の劉邦が、真の王になる」と続けているのか。
張良にとって、劉邦は最初から所有格だったと思う。
なんせ自分で選んだのだから。
ハンゾー先生に「項羽側につかないか」と誘われたのに、きっぱり断って劉邦を選んでいる。
だから最初から、「私の選んだ王」「私の劉邦」。
項羽への冷たい態度は全部、項羽の才能を認めるがゆえ、加えて劉邦へのキモチの裏返し。
けっこー一途じゃないですか。健気ぢゃないですか(笑)。たとえアクセントが「私の、選んだ王」「私、の劉邦」と「私」にあったとしても。
「英雄は英雄にしか見出せない」、劉邦を高めることがすなわち自分を高めることであったにしろ。
まったく、いいキャラだ。
失った翼は、あなたの血であがなう。@虞美人
2010年4月28日 タカラヅカ 劉邦@壮くんにとっての戚@れみちゃんってナニか。
……まだ続いています、『虞美人』、劉邦の病みっぷり語り(笑)。
「誰からも愛されていない」……そう気づいて泣く劉邦は、絶望の中で項羽@まとぶんを思う。わざわざ項羽の名前を出しているから、ほんとに「愛」ときて項羽なんだなこれが。
項羽には、虞美人@彩音ちゃんがいる。
項羽は虞を愛し、虞もまた項羽を愛している。
命も意味も知らず、小鳥の羽をもいで遊んでいた劉邦は、項羽によって命を知った。
ちやほやするばかりで劉邦の心なんて顧みもしない人々の中、本気で劉邦に対して怒り、叱りとばしてくれた項羽。
劉邦にとって、項羽だけがこの現実でリアルなものとして、存在した。
その項羽が愛している、虞美人。
項羽にあって、自分にないモノ、それが虞美人。
生まれたばかりで空っぽの劉邦が項羽になるためには、項羽が持っているモノが、劉邦にも必要だ。
それが、虞美人。
心から愛する、女性。
その事実に気づいた劉邦の前に、戚が現れた。
心優しい、美しい娘。
Boy Meets Girl.これぞ運命。
空っぽの劉邦は、全霊で戚を求めた。愛した。
彼が、人間になるために。「項羽」になるために。
さて、ここにもうひとり、愉快な人がいる。
軍師・張良@まっつ。
劉邦を利用する人々のひとり。
劉邦が変わると同時に、張良も変わっているんだ。
劉邦が子どもの無邪気さで楽しそうに裏切りと戦争にあけくれているときはそれなりにやわらかい態度で接していたが、いざ生身の人間として生まれ直した途端、態度が豹変している。
「覇王に勝ちたいか」
と豪華で渋い金色のお衣装に着替え、髪に金冠まで付けて再登場する張良先生は、とても傲慢かつ威圧的。
手段を選ばずに勝つ、カラダの傷よりも痛い、心の傷も増える……そうわざわざ忠告する。
あのー、今までもさんざん酷いことばっかやって来てますよね、あなたたち。
「戦わず、脅して勝つ!」とか、端で聞いていて「ヲイ、それってどうよ?!」なことを、とっても陽気に気軽にやってきましたよね、張良先生と劉邦さん。
今までも十分酷いのに、今さら「これから酷いことするよ、心が痛むよ」と言われても……。
張良先生はやっぱ、わかってるんだろうなあ。
劉邦という人間を。
無知な子どもだったために、どんな残酷なことも笑って行うことができた。それが、ついに大人になってしまった、自分の行いの意味も責任も理解している、理解できるようになってしまった……という、劉邦の変化を。
だからこそ、「大人」の劉邦に対しての言葉なんだ。「手を、心を汚す覚悟はあるのか」という。
劉邦が子どものままの方が、張良には都合が良かったんだろうな。利用する分にも、かわいがる分にも。
張良先生も、彼なりに劉邦のことは好きだったと思うので。
ちょっと目を離した隙に調子こいて大敗して、しかもいらん知恵ついて大人になってるんだもん、先生もショックだったろう(笑)。
劉邦の最大の才能は、他人の痛みを理解しない、子どもゆえの無知と無邪気さ。天使であるがゆえの、恐いモノ知らずの大らかさ。
なのに、知恵がついて常識とか限界とか知っちゃったら、困る。大人は、やる前にそれが自分に出来るかどうか考えちゃうからね。子どもみたいに考える前に飛び出したりしない。
それで作戦変更、今までみたいにライバルの范増先生@はっちさんと頭脳戦やってる場合じゃない、ってことで、范増先生を排除する作戦に出る。(そのことで張良自身が傷つき、その後心を閉ざすことになるわけだな)
心が病んでいる、コワレている劉邦は、項羽のおかげで「人間」になった。まともな心を取り戻した。
だからこそ、項羽と戦い、滅ぼすしかなかった。
優れているのは項羽だけど、どんな手を使っても、劉邦が勝たなければならなかった。そうでなければ、劉邦は生きていけない。
生まれてしまった以上、殻を破って世界へ出なければならない。
劉邦の誰も愛していない病みっぷりが愉快だった。それが、誰からも愛されていない、自分は無知な子どもだったと気づいたあとの、コンプレックスまみれの「人間」っぷりがすごい。
「私も龍」と「東へ」と、きらきら野望ソングを歌っていた人とは思えない、引っかかり。
挫折専科の壮くんらしく(笑)、翼を持たない、天使ではない、ただの「人間」としての苦悩。
天下を治め、天子となったあとも。
死の間際まで。
劉邦は己れの現実と戦うことになる。
あんなに無邪気に、きらきらしていたのにね。
劉邦が生まれ直す……羽を失い、ただの人間となった直接の原因が、項羽。
劉邦がただひとり愛した相手。
劉邦は誰も愛していなかったと思う。ついでに、誰も憎んでなかったと思う。愛と憎の人・項羽とは対照的に。
項羽は虞姫を愛し、また劉邦に一目惚れし(笑)、愛情深い分憎しみも深く激しい人だった。
項羽の劉邦への爆裂片想いはとても愉快で、切ないものだった。劉邦が人間の気持ちなんかまったく理解しない、そーゆー次元に生きていない分、さらに。
そんな劉邦が、項羽に現実を突きつけられてから、ふつーに人間として生まれ直して。わたしたちと同じ次元に羽を失って堕ちてきて。
そのあとはいろいろ愛も憎もあったと思うよ。彼はただの人間になったのだから。
その上での、物語冒頭の臨終場面なんだと思う。
だからこそ、死の間際まで思い続けた、死の瞬間思い起こす相手だったんだ。
劉邦にとっての、項羽。
項羽がどれほど虞美人を愛していたか、彼女を必要としていたか知っていたから、項羽と虞姫が再会する場面を夢に見る。
それこそが、劉邦の……罪にまみれた劉邦の、贖罪……魂が救われる場面なんだ。
項羽と劉邦。加えて、張良。
この3人の愛憎関係、ハンパねぇと思います(笑)。じっくりねっとり、長編愛憎小説書きたいくらいっす(笑)。
……まだ続いています、『虞美人』、劉邦の病みっぷり語り(笑)。
「誰からも愛されていない」……そう気づいて泣く劉邦は、絶望の中で項羽@まとぶんを思う。わざわざ項羽の名前を出しているから、ほんとに「愛」ときて項羽なんだなこれが。
項羽には、虞美人@彩音ちゃんがいる。
項羽は虞を愛し、虞もまた項羽を愛している。
命も意味も知らず、小鳥の羽をもいで遊んでいた劉邦は、項羽によって命を知った。
ちやほやするばかりで劉邦の心なんて顧みもしない人々の中、本気で劉邦に対して怒り、叱りとばしてくれた項羽。
劉邦にとって、項羽だけがこの現実でリアルなものとして、存在した。
その項羽が愛している、虞美人。
項羽にあって、自分にないモノ、それが虞美人。
生まれたばかりで空っぽの劉邦が項羽になるためには、項羽が持っているモノが、劉邦にも必要だ。
それが、虞美人。
心から愛する、女性。
その事実に気づいた劉邦の前に、戚が現れた。
心優しい、美しい娘。
Boy Meets Girl.これぞ運命。
空っぽの劉邦は、全霊で戚を求めた。愛した。
彼が、人間になるために。「項羽」になるために。
さて、ここにもうひとり、愉快な人がいる。
軍師・張良@まっつ。
劉邦を利用する人々のひとり。
劉邦が変わると同時に、張良も変わっているんだ。
劉邦が子どもの無邪気さで楽しそうに裏切りと戦争にあけくれているときはそれなりにやわらかい態度で接していたが、いざ生身の人間として生まれ直した途端、態度が豹変している。
「覇王に勝ちたいか」
と豪華で渋い金色のお衣装に着替え、髪に金冠まで付けて再登場する張良先生は、とても傲慢かつ威圧的。
手段を選ばずに勝つ、カラダの傷よりも痛い、心の傷も増える……そうわざわざ忠告する。
あのー、今までもさんざん酷いことばっかやって来てますよね、あなたたち。
「戦わず、脅して勝つ!」とか、端で聞いていて「ヲイ、それってどうよ?!」なことを、とっても陽気に気軽にやってきましたよね、張良先生と劉邦さん。
今までも十分酷いのに、今さら「これから酷いことするよ、心が痛むよ」と言われても……。
張良先生はやっぱ、わかってるんだろうなあ。
劉邦という人間を。
無知な子どもだったために、どんな残酷なことも笑って行うことができた。それが、ついに大人になってしまった、自分の行いの意味も責任も理解している、理解できるようになってしまった……という、劉邦の変化を。
だからこそ、「大人」の劉邦に対しての言葉なんだ。「手を、心を汚す覚悟はあるのか」という。
劉邦が子どものままの方が、張良には都合が良かったんだろうな。利用する分にも、かわいがる分にも。
張良先生も、彼なりに劉邦のことは好きだったと思うので。
ちょっと目を離した隙に調子こいて大敗して、しかもいらん知恵ついて大人になってるんだもん、先生もショックだったろう(笑)。
劉邦の最大の才能は、他人の痛みを理解しない、子どもゆえの無知と無邪気さ。天使であるがゆえの、恐いモノ知らずの大らかさ。
なのに、知恵がついて常識とか限界とか知っちゃったら、困る。大人は、やる前にそれが自分に出来るかどうか考えちゃうからね。子どもみたいに考える前に飛び出したりしない。
それで作戦変更、今までみたいにライバルの范増先生@はっちさんと頭脳戦やってる場合じゃない、ってことで、范増先生を排除する作戦に出る。(そのことで張良自身が傷つき、その後心を閉ざすことになるわけだな)
心が病んでいる、コワレている劉邦は、項羽のおかげで「人間」になった。まともな心を取り戻した。
だからこそ、項羽と戦い、滅ぼすしかなかった。
優れているのは項羽だけど、どんな手を使っても、劉邦が勝たなければならなかった。そうでなければ、劉邦は生きていけない。
生まれてしまった以上、殻を破って世界へ出なければならない。
劉邦の誰も愛していない病みっぷりが愉快だった。それが、誰からも愛されていない、自分は無知な子どもだったと気づいたあとの、コンプレックスまみれの「人間」っぷりがすごい。
「私も龍」と「東へ」と、きらきら野望ソングを歌っていた人とは思えない、引っかかり。
挫折専科の壮くんらしく(笑)、翼を持たない、天使ではない、ただの「人間」としての苦悩。
天下を治め、天子となったあとも。
死の間際まで。
劉邦は己れの現実と戦うことになる。
あんなに無邪気に、きらきらしていたのにね。
劉邦が生まれ直す……羽を失い、ただの人間となった直接の原因が、項羽。
劉邦がただひとり愛した相手。
劉邦は誰も愛していなかったと思う。ついでに、誰も憎んでなかったと思う。愛と憎の人・項羽とは対照的に。
項羽は虞姫を愛し、また劉邦に一目惚れし(笑)、愛情深い分憎しみも深く激しい人だった。
項羽の劉邦への爆裂片想いはとても愉快で、切ないものだった。劉邦が人間の気持ちなんかまったく理解しない、そーゆー次元に生きていない分、さらに。
そんな劉邦が、項羽に現実を突きつけられてから、ふつーに人間として生まれ直して。わたしたちと同じ次元に羽を失って堕ちてきて。
そのあとはいろいろ愛も憎もあったと思うよ。彼はただの人間になったのだから。
その上での、物語冒頭の臨終場面なんだと思う。
だからこそ、死の間際まで思い続けた、死の瞬間思い起こす相手だったんだ。
劉邦にとっての、項羽。
項羽がどれほど虞美人を愛していたか、彼女を必要としていたか知っていたから、項羽と虞姫が再会する場面を夢に見る。
それこそが、劉邦の……罪にまみれた劉邦の、贖罪……魂が救われる場面なんだ。
項羽と劉邦。加えて、張良。
この3人の愛憎関係、ハンパねぇと思います(笑)。じっくりねっとり、長編愛憎小説書きたいくらいっす(笑)。
小鳥を失った鳥かご。@虞美人
2010年4月27日 タカラヅカ 『虞美人』の劉邦@壮くんが歪んでいてコワイと書いた。
無邪気に笑いながら、慕いながらも、項羽@まとぶを殺すことしか考えていない。
彼が陽気でかわいい男であればあるほど、不気味さが増す。心の病みっぷりに戦慄する。
項羽を「義兄弟」と愛することと、項羽を殺して自分が天下を取ること。相反する行為なのに、劉邦はそれをあったりまえにひとつの心の中で同時に存在させている。
よくある、「愛するからこそ、この手で殺したい」とか、「偉大なライバルだからこそ倒したい(勝つこと、殺すことが敬意)」とかですらない。
そういう意味でのこだわりや意欲を語る場面はない。
あるのは、義兄弟と慕う場面と、楚を討つためにきらきら野心を語る場面。
とても少年マンガ的なんだと思う。
これがスポーツマンガなら、なんの違和感もない。弱小チームのキャプテン・劉邦が「前回の優勝校・楚に勝つぞぉ、項羽に勝つぞぉ。オレたちが優勝するんだー!」とキラキラしているならば。
試合で勝つことは、ただ勝つことでしかない。項羽を好きなことと、試合に勝つことは同時に存在していても不思議はない。
しかしコレ、戦争だから。
敗北者は一族郎党まで皆殺し必須の国の戦争ですから。
少年マンガと同じノリのライバル観ってどうなのキムシン?!
劉邦がコワレてるのは、作者のせいだと思います(笑)。
しかし、そのおかげで劉邦がひどく愉快なキャラクタになっていることは事実。病んだ人、大好物ですから!(笑)
劉邦は子どもなのかなと思う。
お気に入りの小鳥の羽をもいで遊んで「動かなくなっちゃった」と泣く幼児。や、アンタそれ自分で殺したんだから! それをすることで相手を傷つけるとか殺してしまうとか、理解していない。
だから項羽に勝つ、楚を攻めるということが、項羽を殺すことだと理解していない。ただ、項羽と遊ぶことがたのしくて仕方ない。
命、を、理解していない。
劉邦は、お気に入りの小鳥の羽をもいで遊んでいるところ。それによって小鳥が死んでしまうなんて、死というものがナニかなんて、根本から理解していない。そんなものがあるということすら理解していない。
ただ、自分が楽しいからやっている。欲しいからやっている。呂ママも「欲しいなら奪いなさい、アナタはそうしていいのよ。だってアナタは天からソレを許された龍なんだから」と言っている。そんな育てられ方をした、不幸な子ども。
劉邦に、項羽と同じように、天分の才、羽があったとしたら、それはこの心の歪みっぷりだろう。命を理解せず、無邪気に天使のように命を弄ぶことが出来る。
悪い、という意識がないので、迷いなくこだわりなく、天真爛漫に戦える。どんな残酷なことでも平気で出来る。
子どもだから、素直に人の言うことを良く聞く。呂@じゅりあとか、張良@まっつとか。
天使であるがゆえ、命だとか痛みだとかを理解しないがゆえにのびのびと恐れ知らずに生きてきた劉邦。
彼が翼を失ったのは、命、を知ったとき。
義兄弟の項羽を裏切り、調子こいて攻めまくった挙げ句、怒りの項羽にばっさりやられ、命からがら逃げ出したとき。
自分の命が危なくなってはじめて、劉邦は命がなんたるかを知った。
羽をもいで遊んだら、鳥は死んじゃうんだよ。死んじゃった鳥は、もう二度と動かないんだよ。生き返らないんだよ。
今まで誰も劉邦を叱らなかった。羽をもいだら鳥が痛いなんて死んじゃうなんて、誰も教えてくれなかった。「アナタはなにをしてもいいのよ」と言われ、「劉邦サマ(はぁと)」「兄貴(はぁと)」とちやほやされるばかりで、誰も彼の言動を修正しなかった。
それを項羽がやってのけた。
「この馬鹿野郎、卑怯なことしてんじゃねえ」と横面張り倒されて、劉邦ははじめて自分が間違っていたことを知る。(ちなみに、ヲトメ坐り)
「私は誰も愛していない」と泣く劉邦ってさ、よーするに、「私は誰からも、愛されていない」ってことだよね。
劉邦は愛していないのに、平気で愛してくる人々は、劉邦の心なんかどーでもいいと思っている人たちだ。
本当の心がどこにあるかに興味のない人々しかいないんだ。劉邦の周りには。
劉邦が意味もわからず小鳥の羽をもいで笑っていても、叱ってもくれない、劉邦の才能を利用することしかしない人たちだ。
項羽に叱られて、はじめて知る。
自分が、はだかの王様だと。
自分を利用する人々に担ぎ上げられ、無知なまま笑っていた。無知なまま、その手を血で染めていた。
命の意味も知らず。
劉邦は、生まれ直した。
傷つけられたら痛いとか、死んだらもう生き返らないとか、そんな当たり前のことを知った。
その上で。
彼は、項羽の死を願う。
今まではゲーム感覚で項羽に勝つことを考えていた。スポーツマンガのように、勝ったり負けたりしながら友情するアレ。
でも、現実はそうじゃない。彼らがやっているのは戦争だ。かかっているのは命だ。
劉邦に真実を教えたのは項羽。現実を見せたのは項羽。
だから劉邦は、項羽を殺さなければならない。
雛が殻を割って生まれるように、劉邦は項羽を殺さなければ、生まれられない。
命の意味を知らなかった劉邦は、ある意味天使で、羽のある存在だった。
だが、その羽はもぎ取られた。項羽によって。
劉邦はただの人間だった。
項羽が都を留守にした間に兵を挙げた劉邦は、韓信@みわっちに「項羽には騙し討ちと思われているだろう」と言われ、「えっ、そんな?!」と驚いているくらい、自分のやっていることを理解していなかった。
彼がやっているのは戦争で、楚に対して兵を挙げるというのがどういうことか、ほんっとーに、わかっていなかったんだ。項羽が怒ることすら、わかってなかったんじゃね?
挙兵予定を語るとき、とっても無邪気にキラキラしていたもの。
そんな劉邦だもの、講和のあと張良に「背後から追撃しろ」と言われ、あそこまで苦悩し、慟哭するのはおかしい。
もともと項羽を裏切って、背後から騙し討ちで挙兵した男が、今さらなんで悩む必要がある? 恭順の証に橋を焼いて見せて、それでもこうやって挙兵したくせに。今まで散々裏切りまくり、ひでーことばっかやりまくりだったくせに、何故今回だけ苦しむ?
劉邦が、変わったから。
翼のあった、天使の劉邦じゃない。痛みも死も知らない子どもの劉邦じゃない。
ただの人間になった劉邦だから。
人間として、項羽を愛している劉邦だから。誰も愛してくれない中で、ただひとり、劉邦を叱りとばし、何度劉邦が裏切ろうと、許し、信じようとしてくれる項羽だからこそ、愛し……殺したいと、願った。
今回だけは明確な殺意を持って挙兵し、その上で、講和に応じた。
それを裏切れと言われたから、苦悩したんだ。
それまでの劉邦だったら、悩むことなく「ソレ名案♪」と後ろから項羽に襲いかかったろう。小鳥の羽をもいで遊んでいた劉邦なら。
劉邦は項羽によって、翼を失った。項羽に、ただの人間にされた。……もともと、その程度の器であったにしろ、思い知らされた。
だから劉邦は、項羽を殺さなければならなかった。
劉邦として、ひとりの人間として、生きるために。
愛する者を手に掛けることで、知らなければならない。彼がずっと知らずにいた、「命」というものを。
無邪気に笑いながら、慕いながらも、項羽@まとぶを殺すことしか考えていない。
彼が陽気でかわいい男であればあるほど、不気味さが増す。心の病みっぷりに戦慄する。
項羽を「義兄弟」と愛することと、項羽を殺して自分が天下を取ること。相反する行為なのに、劉邦はそれをあったりまえにひとつの心の中で同時に存在させている。
よくある、「愛するからこそ、この手で殺したい」とか、「偉大なライバルだからこそ倒したい(勝つこと、殺すことが敬意)」とかですらない。
そういう意味でのこだわりや意欲を語る場面はない。
あるのは、義兄弟と慕う場面と、楚を討つためにきらきら野心を語る場面。
とても少年マンガ的なんだと思う。
これがスポーツマンガなら、なんの違和感もない。弱小チームのキャプテン・劉邦が「前回の優勝校・楚に勝つぞぉ、項羽に勝つぞぉ。オレたちが優勝するんだー!」とキラキラしているならば。
試合で勝つことは、ただ勝つことでしかない。項羽を好きなことと、試合に勝つことは同時に存在していても不思議はない。
しかしコレ、戦争だから。
敗北者は一族郎党まで皆殺し必須の国の戦争ですから。
少年マンガと同じノリのライバル観ってどうなのキムシン?!
劉邦がコワレてるのは、作者のせいだと思います(笑)。
しかし、そのおかげで劉邦がひどく愉快なキャラクタになっていることは事実。病んだ人、大好物ですから!(笑)
劉邦は子どもなのかなと思う。
お気に入りの小鳥の羽をもいで遊んで「動かなくなっちゃった」と泣く幼児。や、アンタそれ自分で殺したんだから! それをすることで相手を傷つけるとか殺してしまうとか、理解していない。
だから項羽に勝つ、楚を攻めるということが、項羽を殺すことだと理解していない。ただ、項羽と遊ぶことがたのしくて仕方ない。
命、を、理解していない。
劉邦は、お気に入りの小鳥の羽をもいで遊んでいるところ。それによって小鳥が死んでしまうなんて、死というものがナニかなんて、根本から理解していない。そんなものがあるということすら理解していない。
ただ、自分が楽しいからやっている。欲しいからやっている。呂ママも「欲しいなら奪いなさい、アナタはそうしていいのよ。だってアナタは天からソレを許された龍なんだから」と言っている。そんな育てられ方をした、不幸な子ども。
劉邦に、項羽と同じように、天分の才、羽があったとしたら、それはこの心の歪みっぷりだろう。命を理解せず、無邪気に天使のように命を弄ぶことが出来る。
悪い、という意識がないので、迷いなくこだわりなく、天真爛漫に戦える。どんな残酷なことでも平気で出来る。
子どもだから、素直に人の言うことを良く聞く。呂@じゅりあとか、張良@まっつとか。
天使であるがゆえ、命だとか痛みだとかを理解しないがゆえにのびのびと恐れ知らずに生きてきた劉邦。
彼が翼を失ったのは、命、を知ったとき。
義兄弟の項羽を裏切り、調子こいて攻めまくった挙げ句、怒りの項羽にばっさりやられ、命からがら逃げ出したとき。
自分の命が危なくなってはじめて、劉邦は命がなんたるかを知った。
羽をもいで遊んだら、鳥は死んじゃうんだよ。死んじゃった鳥は、もう二度と動かないんだよ。生き返らないんだよ。
今まで誰も劉邦を叱らなかった。羽をもいだら鳥が痛いなんて死んじゃうなんて、誰も教えてくれなかった。「アナタはなにをしてもいいのよ」と言われ、「劉邦サマ(はぁと)」「兄貴(はぁと)」とちやほやされるばかりで、誰も彼の言動を修正しなかった。
それを項羽がやってのけた。
「この馬鹿野郎、卑怯なことしてんじゃねえ」と横面張り倒されて、劉邦ははじめて自分が間違っていたことを知る。(ちなみに、ヲトメ坐り)
「私は誰も愛していない」と泣く劉邦ってさ、よーするに、「私は誰からも、愛されていない」ってことだよね。
劉邦は愛していないのに、平気で愛してくる人々は、劉邦の心なんかどーでもいいと思っている人たちだ。
本当の心がどこにあるかに興味のない人々しかいないんだ。劉邦の周りには。
劉邦が意味もわからず小鳥の羽をもいで笑っていても、叱ってもくれない、劉邦の才能を利用することしかしない人たちだ。
項羽に叱られて、はじめて知る。
自分が、はだかの王様だと。
自分を利用する人々に担ぎ上げられ、無知なまま笑っていた。無知なまま、その手を血で染めていた。
命の意味も知らず。
劉邦は、生まれ直した。
傷つけられたら痛いとか、死んだらもう生き返らないとか、そんな当たり前のことを知った。
その上で。
彼は、項羽の死を願う。
今まではゲーム感覚で項羽に勝つことを考えていた。スポーツマンガのように、勝ったり負けたりしながら友情するアレ。
でも、現実はそうじゃない。彼らがやっているのは戦争だ。かかっているのは命だ。
劉邦に真実を教えたのは項羽。現実を見せたのは項羽。
だから劉邦は、項羽を殺さなければならない。
雛が殻を割って生まれるように、劉邦は項羽を殺さなければ、生まれられない。
命の意味を知らなかった劉邦は、ある意味天使で、羽のある存在だった。
だが、その羽はもぎ取られた。項羽によって。
劉邦はただの人間だった。
項羽が都を留守にした間に兵を挙げた劉邦は、韓信@みわっちに「項羽には騙し討ちと思われているだろう」と言われ、「えっ、そんな?!」と驚いているくらい、自分のやっていることを理解していなかった。
彼がやっているのは戦争で、楚に対して兵を挙げるというのがどういうことか、ほんっとーに、わかっていなかったんだ。項羽が怒ることすら、わかってなかったんじゃね?
挙兵予定を語るとき、とっても無邪気にキラキラしていたもの。
そんな劉邦だもの、講和のあと張良に「背後から追撃しろ」と言われ、あそこまで苦悩し、慟哭するのはおかしい。
もともと項羽を裏切って、背後から騙し討ちで挙兵した男が、今さらなんで悩む必要がある? 恭順の証に橋を焼いて見せて、それでもこうやって挙兵したくせに。今まで散々裏切りまくり、ひでーことばっかやりまくりだったくせに、何故今回だけ苦しむ?
劉邦が、変わったから。
翼のあった、天使の劉邦じゃない。痛みも死も知らない子どもの劉邦じゃない。
ただの人間になった劉邦だから。
人間として、項羽を愛している劉邦だから。誰も愛してくれない中で、ただひとり、劉邦を叱りとばし、何度劉邦が裏切ろうと、許し、信じようとしてくれる項羽だからこそ、愛し……殺したいと、願った。
今回だけは明確な殺意を持って挙兵し、その上で、講和に応じた。
それを裏切れと言われたから、苦悩したんだ。
それまでの劉邦だったら、悩むことなく「ソレ名案♪」と後ろから項羽に襲いかかったろう。小鳥の羽をもいで遊んでいた劉邦なら。
劉邦は項羽によって、翼を失った。項羽に、ただの人間にされた。……もともと、その程度の器であったにしろ、思い知らされた。
だから劉邦は、項羽を殺さなければならなかった。
劉邦として、ひとりの人間として、生きるために。
愛する者を手に掛けることで、知らなければならない。彼がずっと知らずにいた、「命」というものを。
病みが広がる。@虞美人
2010年4月26日 タカラヅカ 未だに、心は『虞美人』です。
項羽@まとぶんが好き。彼の不器用で苛烈な生き方が好き。
でもって。
思うんだ。
劉邦って、どうよ?
融通の利かない項羽に対し、人を活かすことを知っていた劉邦@壮くんは結果として天下を手に入れる、わけだが。
前にも書いたように、現実に項羽と劉邦がいたら、わたしは項羽にはこわくて近寄れない。無能だから絶対切り捨てられる。でも劉邦なら、こんなわたしにも居場所をくれそうな気がする。
劉邦に人気があって、項羽が滅んだのもわかる。
が。
そーゆー話ではなくて。
わたしは、劉邦の無邪気さが、こわい。
「私は誰も愛していない」と泣き崩れる劉邦だが、わたしとしてはそれ以前のところで「オマエ、こわいよ」と思う。
衛布@みつるという男がいる。彼は野心家で、自分こそが天下を取る器だと思っている。
会稽の太守・殷通@めぐむの部下だが、上役に対してなんの思い入れもない。いずれオレが取って代わる、程度にしか思っていない。……ので、殷通が殺されても平気。太守の仇を討つどころか、早々に敵に寝返る。
この衛布と、劉邦にどれほどのちがいがあるのか。
野心と敵愾心を顕わにしている分、衛布の方が健康だ。
劉邦はただの一度も項羽を愛していない。
なのに、なーんも考えずに、義兄弟の契りを結ぶ。
男にとっては一夜限りの遊びだった。だが、女は運命だと思った。……てなぐらいの、温度差。
義兄弟だからと項羽は劉邦を許し続けるけれど、劉邦はそんなことは頓着なく、項羽を殺すことしか考えていない。
「私も龍」と歌って楚の軍に加わるときも「項羽は当分は味方」と、言下に「いずれ殺すけどね」と匂わす。
先に咸陽に入れば、項羽のことなんか関係なく門を閉ざす。
僻地とはいえ領地を与えられて漢王となったあとも、とってもナチュラルに「楚を攻める日は近い」と兵隊の訓練にいそしみ、懐王を弔うという大義名分を得て兵を挙げる。
項羽が都を不在にすると、ここぞとばかりに進軍。
終始一貫彼は、項羽を敵とし、殺してその地位を奪うことしか考えていない。
なのに彼は、とても善良そうに見える。項羽との間に友情があるようにさえ見える。
陰でいじめグループを指揮しながら、当人の前では「オレたち親友だろ!」とにっこり微笑んでいるくらい、やっていることに裏表がありすぎる。
でもって、この親友ぶって陰でいじめ、てのは衛布がやっていること止まりで、劉邦はさらにものすごいことに、悪意がないんだわ。
自分でこっそり友だちの上靴を焼却炉に放り込んでおきながら、「上靴がない? ひどいな、オレも一緒に探すよ」と、心から親切で言って、一緒に探してやるのよ。自分がそのひどいことをしているんだという、自覚がないの。
こーわーいー。
義兄弟だ、と無邪気に言いながら、その同じクチで楚を攻める話をする。戦争を吹っ掛けるってことは、項羽を殺すことなんだけど、そのへんは気にしてない。
項羽は義兄弟である劉邦を、自分から攻めたりしない。いつもいつも、劉邦が攻め、項羽が怒る。で、項羽の方が強いから、劉邦が「ごめんなさい」して許してもらう。
項羽は「私には羽がある」と英雄ソングを歌う。劉邦は「東へ」と英雄ソングを歌う。
だが、項羽は野心を歌うことで誰も裏切らないが、劉邦は「項羽を殺すぜ! ヤツを殺してオレが上に立つぜ!」と歌っている。西の地へ追いやられた劉邦は、東へ攻め入る予定だからだ。
「義兄弟」でなければ、べつにそれでいいんだけど。衛布がどんだけ野心を持っても健康であったように。
項羽個人を慕っているようなのに、それと同じハートで項羽を殺すことをにこやかに歌う劉邦の、病みっぷりがこわい。
項羽への好意と、項羽を殺して天下を取ることは、劉邦の中で別物になっている模様。
……ふつうは、葛藤とかわだかまりとか、ありそーなもんだがね。劉邦にはそういう「闇」の部分がない。いつもからっと明るい。
という、闇。
鴻門の会で范増先生@はっちさんに命を狙われてなお、「まだ義兄弟に別れを告げていない」と言い募るあたり、ほんとに項羽のこと、素で好意を持ってるんだよね。
そんな相手を殺すことしか考えていない、それを変だと思わないって、どんだけコワレてるんだ、劉邦。
そんな人だからこそ、「私は誰も愛していない」になるわけだな。
愛せるわけないじゃん。アンタ、人としておかしいよ。
……されど、人としておかしい人こそが、天下を取ることが出来るんだろう。
ふつーの神経持ってたら、裏切り続け利用し続け、血で血を洗って屍の山の上に国を作ろうなんて思わないって。
とはいえ、このこわさは、ひとえに演じているのが壮くんだからだと思う。
壮くんの得難い才能なんだ。
彼の光には、影がない。
どんな光にも、影はできる。物理的にいって。
しかし、壮一帆の輝きには、そんなもんが存在しないのだ。
そんな壮くんがあっけらかんと突き抜けた明るさで演じるから、劉邦はあんなに可愛らしく、魅力的な人物になっている。
それと同時に、いびつで、キモチワルイ人間になっている。
や、1回観る分には、劉邦の闇は見えないというか、気にならないんだけど。だって劉邦、可愛いんだもん。
繰り返し観ていると、誠実そうにきらきら笑いながら、めちゃくちゃダークな言動しかしていないことに、背筋が寒くなっていって。
もっと深刻な持ち味の人が演じたら、屈折や裏が感じられるキャラになるんだろうけど、なにしろ壮くんだから。
ぴかーっ、とか、てかーっ、という明るさゆえに、やってることのひどさが伝わりにくい。ふたつが乖離しまくり、とても病み&闇が広がっている。
大好きだ、劉邦。
こんな無邪気さがコワイ人、愛さずにはいられません。
歪んだ人は大好物だ。
いずれ楚軍と戦う、と英雄みたいに語っている漢王サマのキラキラぶりに心奮える。「義兄弟を殺すよ~♪(笑顔)」って言ってるんだよねー。項羽は劉邦を傷つけることなんか、一度も考えてないのに。劉邦ってば項羽を殺すことしか考えてない、なのに項羽のことはふつーに好きで義兄弟だと思ってるんだよー。すげーすげー。
悪意なんかないから、項羽に「義兄弟を裏切るなんて、酷い奴だ」と責められたら、「ごめん、オレが悪かった」って心から謝るんだぜえ。
劉邦はナチュラル・ボーン、いつだって誠実なの。二心なんてないの。
劉邦がきらきらと無邪気に美しければ美しいほど、心奮えます、彼への愛しさがつのります(笑)。
……項羽ってばほんとに不幸。なんでこんな病んだ男を愛したんだか(笑)。
項羽@まとぶんが好き。彼の不器用で苛烈な生き方が好き。
でもって。
思うんだ。
劉邦って、どうよ?
融通の利かない項羽に対し、人を活かすことを知っていた劉邦@壮くんは結果として天下を手に入れる、わけだが。
前にも書いたように、現実に項羽と劉邦がいたら、わたしは項羽にはこわくて近寄れない。無能だから絶対切り捨てられる。でも劉邦なら、こんなわたしにも居場所をくれそうな気がする。
劉邦に人気があって、項羽が滅んだのもわかる。
が。
そーゆー話ではなくて。
わたしは、劉邦の無邪気さが、こわい。
「私は誰も愛していない」と泣き崩れる劉邦だが、わたしとしてはそれ以前のところで「オマエ、こわいよ」と思う。
衛布@みつるという男がいる。彼は野心家で、自分こそが天下を取る器だと思っている。
会稽の太守・殷通@めぐむの部下だが、上役に対してなんの思い入れもない。いずれオレが取って代わる、程度にしか思っていない。……ので、殷通が殺されても平気。太守の仇を討つどころか、早々に敵に寝返る。
この衛布と、劉邦にどれほどのちがいがあるのか。
野心と敵愾心を顕わにしている分、衛布の方が健康だ。
劉邦はただの一度も項羽を愛していない。
なのに、なーんも考えずに、義兄弟の契りを結ぶ。
男にとっては一夜限りの遊びだった。だが、女は運命だと思った。……てなぐらいの、温度差。
義兄弟だからと項羽は劉邦を許し続けるけれど、劉邦はそんなことは頓着なく、項羽を殺すことしか考えていない。
「私も龍」と歌って楚の軍に加わるときも「項羽は当分は味方」と、言下に「いずれ殺すけどね」と匂わす。
先に咸陽に入れば、項羽のことなんか関係なく門を閉ざす。
僻地とはいえ領地を与えられて漢王となったあとも、とってもナチュラルに「楚を攻める日は近い」と兵隊の訓練にいそしみ、懐王を弔うという大義名分を得て兵を挙げる。
項羽が都を不在にすると、ここぞとばかりに進軍。
終始一貫彼は、項羽を敵とし、殺してその地位を奪うことしか考えていない。
なのに彼は、とても善良そうに見える。項羽との間に友情があるようにさえ見える。
陰でいじめグループを指揮しながら、当人の前では「オレたち親友だろ!」とにっこり微笑んでいるくらい、やっていることに裏表がありすぎる。
でもって、この親友ぶって陰でいじめ、てのは衛布がやっていること止まりで、劉邦はさらにものすごいことに、悪意がないんだわ。
自分でこっそり友だちの上靴を焼却炉に放り込んでおきながら、「上靴がない? ひどいな、オレも一緒に探すよ」と、心から親切で言って、一緒に探してやるのよ。自分がそのひどいことをしているんだという、自覚がないの。
こーわーいー。
義兄弟だ、と無邪気に言いながら、その同じクチで楚を攻める話をする。戦争を吹っ掛けるってことは、項羽を殺すことなんだけど、そのへんは気にしてない。
項羽は義兄弟である劉邦を、自分から攻めたりしない。いつもいつも、劉邦が攻め、項羽が怒る。で、項羽の方が強いから、劉邦が「ごめんなさい」して許してもらう。
項羽は「私には羽がある」と英雄ソングを歌う。劉邦は「東へ」と英雄ソングを歌う。
だが、項羽は野心を歌うことで誰も裏切らないが、劉邦は「項羽を殺すぜ! ヤツを殺してオレが上に立つぜ!」と歌っている。西の地へ追いやられた劉邦は、東へ攻め入る予定だからだ。
「義兄弟」でなければ、べつにそれでいいんだけど。衛布がどんだけ野心を持っても健康であったように。
項羽個人を慕っているようなのに、それと同じハートで項羽を殺すことをにこやかに歌う劉邦の、病みっぷりがこわい。
項羽への好意と、項羽を殺して天下を取ることは、劉邦の中で別物になっている模様。
……ふつうは、葛藤とかわだかまりとか、ありそーなもんだがね。劉邦にはそういう「闇」の部分がない。いつもからっと明るい。
という、闇。
鴻門の会で范増先生@はっちさんに命を狙われてなお、「まだ義兄弟に別れを告げていない」と言い募るあたり、ほんとに項羽のこと、素で好意を持ってるんだよね。
そんな相手を殺すことしか考えていない、それを変だと思わないって、どんだけコワレてるんだ、劉邦。
そんな人だからこそ、「私は誰も愛していない」になるわけだな。
愛せるわけないじゃん。アンタ、人としておかしいよ。
……されど、人としておかしい人こそが、天下を取ることが出来るんだろう。
ふつーの神経持ってたら、裏切り続け利用し続け、血で血を洗って屍の山の上に国を作ろうなんて思わないって。
とはいえ、このこわさは、ひとえに演じているのが壮くんだからだと思う。
壮くんの得難い才能なんだ。
彼の光には、影がない。
どんな光にも、影はできる。物理的にいって。
しかし、壮一帆の輝きには、そんなもんが存在しないのだ。
そんな壮くんがあっけらかんと突き抜けた明るさで演じるから、劉邦はあんなに可愛らしく、魅力的な人物になっている。
それと同時に、いびつで、キモチワルイ人間になっている。
や、1回観る分には、劉邦の闇は見えないというか、気にならないんだけど。だって劉邦、可愛いんだもん。
繰り返し観ていると、誠実そうにきらきら笑いながら、めちゃくちゃダークな言動しかしていないことに、背筋が寒くなっていって。
もっと深刻な持ち味の人が演じたら、屈折や裏が感じられるキャラになるんだろうけど、なにしろ壮くんだから。
ぴかーっ、とか、てかーっ、という明るさゆえに、やってることのひどさが伝わりにくい。ふたつが乖離しまくり、とても病み&闇が広がっている。
大好きだ、劉邦。
こんな無邪気さがコワイ人、愛さずにはいられません。
歪んだ人は大好物だ。
いずれ楚軍と戦う、と英雄みたいに語っている漢王サマのキラキラぶりに心奮える。「義兄弟を殺すよ~♪(笑顔)」って言ってるんだよねー。項羽は劉邦を傷つけることなんか、一度も考えてないのに。劉邦ってば項羽を殺すことしか考えてない、なのに項羽のことはふつーに好きで義兄弟だと思ってるんだよー。すげーすげー。
悪意なんかないから、項羽に「義兄弟を裏切るなんて、酷い奴だ」と責められたら、「ごめん、オレが悪かった」って心から謝るんだぜえ。
劉邦はナチュラル・ボーン、いつだって誠実なの。二心なんてないの。
劉邦がきらきらと無邪気に美しければ美しいほど、心奮えます、彼への愛しさがつのります(笑)。
……項羽ってばほんとに不幸。なんでこんな病んだ男を愛したんだか(笑)。
ちまちまと古いビデオテープの整理をしている。
まだスカイステージがなかったころ。地上波のふつーのテレビでヅカ関連番組があると、なんでもかんでも片っ端から録画していた。なにがなんやら、めちゃくちゃに録り溜めてある。
中身も確かめずに、とりあえずレコーダーにまるっとダビングしたデータを、番組ごとに分割、番組名がわかるものはタイトル入力。
てなことをやっていたら、画面に音楽学校時代のきりやんとゆみこが映って、びびった。
本科生のときだな。首席と次席だからインタビュー受けてる。ひとりずつ画面から切れるくらいのドアップ。モロ本名のテロップ付き。
えーと、93年の『水曜特バン!「これを見ると10倍面白くなる!芸能界の裏側」』。いろんなネタの中、ヅカ話は15分ほど。華やかな舞台で輝くためには、ものすごーく努力してなきゃなんないんですよ、みたいな流れ。それが「タカラヅカの裏側」らしい。
ふたりとも、きれいになったなあ……。
いやその、まだハタチ?であろういとーちゃんとゆみこちゃん、お肌はぴちぴちなんだけど、いやそのえっと。なにしろ音校生だし、お化粧も髪型も縛りがあるし。
タカラジェンヌは劇団に入団し、舞台その他で磨かれて、美しく、あか抜けていく。
ただ若い、というだけの時期よりも、年輪を重ねた方が美しいんだ。
ふたりとも、きれいになった。
その人生が、美しさを作っているんだ。
編集画面から通常のテレビ画面に切り替えると、現在のゆみこちゃんが話しているところだった。雪組の「NOW ON STAGE」の最後の放送がオンエアされている。きれいだなあ、ゆみこ……。
雪組東宝楽。
遠く大阪の地で、想いを馳せておりました。
快晴で良かった。あたたかいのに、でもなんか肌寒くて、「春」だなと思う。4月ももう終わりで、春というより初夏に近いのかもしれないけれど、それでも「春」を思う。出会いと、別れの季節。
mixiやTwitter他で報告してくれたみんな、ありがとう。ハマコの袴写真に、なんかガツンと衝撃を受けた。……ゆみこちゃんの袴姿に対してすごーく構えていた分、その前のハマコで思いがけず動揺する。いやそのわたしハマコ大好きだからそれはわかっていたけどああやっぱりこんな。
千秋楽おめでとう、卒業おめでとう。
友人たちがそう書いているのを見て、ああそうだおめでたいんだと、改めて思う。
自分の寂しさとか悲しさとかが先に立っちゃって。いかんね。旅立ちだものね。祝福しなくちゃね。
自分も現地でなにかしら参加していると、否応なしに現実にもまれて納得していく部分があるんだけど。
なんかしみじみと、寂しいな。
出会いと別れがあって、タカラヅカは続いていく。人生と同じように。
古い映像整理しながら、現在が過去になるのを実感する。「宝塚音楽学校本科生」とテロップ付けられて喋っていたゆみこちゃんは、今日を限りに「宝塚歌劇団卒業生」になる。
古ぼけたテープの映像の中で、やはりジェンヌたちがあの舞台の上にいて。電飾が輝きスパンコールが輝き。
出会えたことは奇跡だよなあ、なにもかも。なんかぼーっと、そんなことを思う。
……それにしても、昔も今も変わらずヅカヲタやって、テレビ番組を録画している自分の行動にも、ちょっとアタマを抱えつつ。
わたしも書こう。
千秋楽おめでとうございます。卒業おめでとうございます。
退団者のみなさんに、素晴らしい未来が広がっていますように。(と書いて、「未来」といえば「優希」じゃん、と思うわたしの脳みそときたら……あああ、ハマコ~~)
まだスカイステージがなかったころ。地上波のふつーのテレビでヅカ関連番組があると、なんでもかんでも片っ端から録画していた。なにがなんやら、めちゃくちゃに録り溜めてある。
中身も確かめずに、とりあえずレコーダーにまるっとダビングしたデータを、番組ごとに分割、番組名がわかるものはタイトル入力。
てなことをやっていたら、画面に音楽学校時代のきりやんとゆみこが映って、びびった。
本科生のときだな。首席と次席だからインタビュー受けてる。ひとりずつ画面から切れるくらいのドアップ。モロ本名のテロップ付き。
えーと、93年の『水曜特バン!「これを見ると10倍面白くなる!芸能界の裏側」』。いろんなネタの中、ヅカ話は15分ほど。華やかな舞台で輝くためには、ものすごーく努力してなきゃなんないんですよ、みたいな流れ。それが「タカラヅカの裏側」らしい。
ふたりとも、きれいになったなあ……。
いやその、まだハタチ?であろういとーちゃんとゆみこちゃん、お肌はぴちぴちなんだけど、いやそのえっと。なにしろ音校生だし、お化粧も髪型も縛りがあるし。
タカラジェンヌは劇団に入団し、舞台その他で磨かれて、美しく、あか抜けていく。
ただ若い、というだけの時期よりも、年輪を重ねた方が美しいんだ。
ふたりとも、きれいになった。
その人生が、美しさを作っているんだ。
編集画面から通常のテレビ画面に切り替えると、現在のゆみこちゃんが話しているところだった。雪組の「NOW ON STAGE」の最後の放送がオンエアされている。きれいだなあ、ゆみこ……。
雪組東宝楽。
遠く大阪の地で、想いを馳せておりました。
快晴で良かった。あたたかいのに、でもなんか肌寒くて、「春」だなと思う。4月ももう終わりで、春というより初夏に近いのかもしれないけれど、それでも「春」を思う。出会いと、別れの季節。
mixiやTwitter他で報告してくれたみんな、ありがとう。ハマコの袴写真に、なんかガツンと衝撃を受けた。……ゆみこちゃんの袴姿に対してすごーく構えていた分、その前のハマコで思いがけず動揺する。いやそのわたしハマコ大好きだからそれはわかっていたけどああやっぱりこんな。
千秋楽おめでとう、卒業おめでとう。
友人たちがそう書いているのを見て、ああそうだおめでたいんだと、改めて思う。
自分の寂しさとか悲しさとかが先に立っちゃって。いかんね。旅立ちだものね。祝福しなくちゃね。
自分も現地でなにかしら参加していると、否応なしに現実にもまれて納得していく部分があるんだけど。
なんかしみじみと、寂しいな。
出会いと別れがあって、タカラヅカは続いていく。人生と同じように。
古い映像整理しながら、現在が過去になるのを実感する。「宝塚音楽学校本科生」とテロップ付けられて喋っていたゆみこちゃんは、今日を限りに「宝塚歌劇団卒業生」になる。
古ぼけたテープの映像の中で、やはりジェンヌたちがあの舞台の上にいて。電飾が輝きスパンコールが輝き。
出会えたことは奇跡だよなあ、なにもかも。なんかぼーっと、そんなことを思う。
……それにしても、昔も今も変わらずヅカヲタやって、テレビ番組を録画している自分の行動にも、ちょっとアタマを抱えつつ。
わたしも書こう。
千秋楽おめでとうございます。卒業おめでとうございます。
退団者のみなさんに、素晴らしい未来が広がっていますように。(と書いて、「未来」といえば「優希」じゃん、と思うわたしの脳みそときたら……あああ、ハマコ~~)
許さない、愛してる。@虞美人
2010年4月24日 タカラヅカ 演出その他、作品に言いたいことはいろいろあるんだが、でもやっぱりわたしは『虞美人』を好きだと思う。
キムシンと波長合うんだってば(笑)。
キャラを好きになれる、感情移入できる、これが大事。
つーことで、呂妃@じゅりあの話。
わたしはプロローグの劉邦@壮くん臨終場面はいらない派なんだが、それでも呂妃を好きなために、すでにここから泣けるという(笑)。
えー、わたしのツボに「許さない」ツボというのがありまして。
我ながらいろいろ変なツボがあるもんだなと思うんだけど、キャラクタが「許さない」と言うのがツボだったりするの。
以前、『マリポーサの花』でいちばんわたし的ポイントになっている台詞が、ネロ@水くんがサルディバル@ハマコに言った「裏切ったのはお前だ」という台詞だと書いた。
これもある意味「許さない」ツボなの。
最初からナニもなければ、許すも許さないもないよね。
愛情とか信頼があり、ソレが損なわれたことで「許さない」という感情が発生する。
取るに足りない相手なら、裏切りも失望も、痛みは少ない。
そうじゃないから、そこに深い重い想いがあるから、「許さない」に発展する。
プロローグで呂妃は、死せる劉邦へ「許さない」と言う。劉邦の愛した側室、そしてその息子も殺してやると。そしてその行動を「あなたのせい」と言う。
自分が歪み、手を汚す、それも全部全部劉邦のせいだと。
そこまでさせるほどの、痛み。
ひとりの女をここまで追いつめた、なにか。
それを思うと、すでに泣きスイッチが入る。
で、そこまで憎しみを顕わにしておきながら、いざ劉邦が息絶えたとき、呂妃は彼にすがりつくように、身を寄せるの。セリ下がりのどさくさに。ろくに見えないところで。
許さない。
彼女にそう言わせるモノが、痛い。
許さない。
そう言いながらも、すがりついて泣くんだ。自分を裏切った夫の亡骸に。
『虞美人』は呂妃の一代記でもある。
本編で呂妃は、とてもかわいい若妻(笑)として登場する。演じているのがじゅりあなので、なんかコワイ印象がぬぐえないが、最初は寛大でかわいい奥さんなんだってば。
夫の可能性を無邪気に信じ、夢を見る若い女。
それがまあ、いろいろいろいろあるうちに、どんどんコワイ女になっていくんだが。
じゅりあが気の毒なのは、セーム@『太王四神記』と役柄がかぶることだよなあ。
セームは野心を息子に負わせ、呂妃は夫に負わせる。「私が男なら、王になっていた」という台詞にある通り、真の野心家だった、という設定。
役柄はかぶっているけれど、もちろんセームと呂妃は別人で、呂妃の方がすげー深い役なんだが。一見一緒くたにされちゃって気の毒だなあ。
呂妃としての演技は、どんどん変わっていったと思う。
冒頭、そして虞姫@彩音ちゃんとの対決場面。
「許さない」ツボが再度発動するんだ、虞姫VS呂妃場面にて。
初日付近はわたしが気づいてなかっただけかもしれないが、呂妃は台詞通りの表情をしていたと思う。
「私は決して囚われない、捧げ尽くして消えます」……そう歌う虞を笑い飛ばし、「まるでお庭を舞う蝶々と話すよう」と言う呂。
それがもお、あとになればなるほど呂が哀れで。
泣く代わりに、哄笑するしかなかったんだね。
「決して囚われない」と、囚われている呂の前で言い放つ虞姫の、「正しさ」「清らかさ」ゆえの、残酷さときたら。
ずたずたに傷つけられて、それでも誇り高い彼女は敵の前で弱みは見せられない。泣いて同情を買うくらいなら、笑ってひんしゅくを買う方を選ぶ。そういう女。
虞姫の菩薩のような清らかな光をあび、卑しい人間が己れの醜さに顔を歪める。痛みのあまり、哀しさのあまり、泣き出しそうになり……泣く代わり、悲鳴を上げる代わりに、哄笑した。嘲笑った。侮蔑の言葉を投げた。
精一杯の虚勢。
その、気の強さ。誇り高さ。
最後まで背筋を伸ばし、凛と立ち尽くし、だけど暗転の間際、泣き崩れるかのように。
虞美人の歌を聴いているときの呂妃が、あまりにつらそうでねえ。虞の歌があと1小節長かったら、そのまま泣き出してんじゃないの、みたいな。
泣かないで、誇り高いひと。
囚われて、敵に情けを掛けられて、しかも、女としての愛し方、人間としての生き方まで否定されて、貶められて。それでも泣くことよりも、闘うことをえらんだひと。
虞姫の愛し方に、呂妃が感銘を受けたとか敗北感を持ったとか、そーゆー次元の話ではなくて。
どう愛するか、どう生きるかに正解なんぞないように、どちらの女が正しいということはない。
夫の苦境に足手まといになるまいと自殺する女がいじらしいとか、夫を信じて逆境に耐える女がけなげだとか、それは観ている人が感じればいいことで。
呂妃は自分が間違っているとか、思っちゃいないだろう。自分で自分の半生を否定するようなことはしないだろう。
だけどここまで真逆の価値観を示され、しかも人間を超えたかのよーな「正しい」光のもとに宣言されちゃったら、泣くしかないよなあ。
その瞬間、自分を卑小に感じて。
それでも虞姫の足元にひれ伏したりせず、ぐっと顎を上げていた彼女の強さが、愛しい。
たとえば桃娘@だいもんなんか、すっかりアタマ下げちゃってるもんね。虞姫のあの光に照らされたら、そうなっちゃうんだよ。
強い自我を持つ、誇り高い呂だからこそ、正反対の生き方をする虞にここまで反発した。
いや、自我を守るためにも、攻撃に転ずるしかない。
項羽@まとぶんを滅ぼし、虞姫を殺さなければ。負けるとは死ぬこと、勝ち続け、闘い続け、証明しなければ。
わたしの愛し方が、間違っていないと。
……呂妃も、劉邦を愛していたと思うよ。野望の道具みたいに扱っていたけれど。
男たちの時代、女の運命はどの男に添うかで決まる。呂妃がその才能を認めた劉邦は、すなわち呂妃自身の才能。夫を否定されることは、自分を否定されること。基本から歪んでいたかもしれないけれど、それでもそこに愛はあっただろう。
冒頭、死せる劉邦を「許さない」「あなたのせい」となじりながらも、寄り添うように。
てゆーか、「あなたのせいなのです」って、愛の言葉だよなあ。
愛の正しさを、人生の正しさを、呂妃自身の正しさを、彼女のすべてを否定したあの女に見せつけなければならない。
……呂妃が人生懸けて証明しようとした、「絶対に許さない」と思ったその相手、虞姫はそんなことぜーんぜん歯牙にも掛けてない、つか呂妃のことなんか忘れてんぢゃね? という現実が、残酷すぎて、ツボです。
菩薩の域まで達した虞美人の美しさと、俗世の泥と闇をまとった呂妃の悪妻っぷりが素晴らしいです。
彩音ちゃんもすごいし、じゅりあもすごい。
この「もうひとつの、項羽と劉邦」である、女ふたりも大好きだ。
キムシンと波長合うんだってば(笑)。
キャラを好きになれる、感情移入できる、これが大事。
つーことで、呂妃@じゅりあの話。
わたしはプロローグの劉邦@壮くん臨終場面はいらない派なんだが、それでも呂妃を好きなために、すでにここから泣けるという(笑)。
えー、わたしのツボに「許さない」ツボというのがありまして。
我ながらいろいろ変なツボがあるもんだなと思うんだけど、キャラクタが「許さない」と言うのがツボだったりするの。
以前、『マリポーサの花』でいちばんわたし的ポイントになっている台詞が、ネロ@水くんがサルディバル@ハマコに言った「裏切ったのはお前だ」という台詞だと書いた。
これもある意味「許さない」ツボなの。
最初からナニもなければ、許すも許さないもないよね。
愛情とか信頼があり、ソレが損なわれたことで「許さない」という感情が発生する。
取るに足りない相手なら、裏切りも失望も、痛みは少ない。
そうじゃないから、そこに深い重い想いがあるから、「許さない」に発展する。
プロローグで呂妃は、死せる劉邦へ「許さない」と言う。劉邦の愛した側室、そしてその息子も殺してやると。そしてその行動を「あなたのせい」と言う。
自分が歪み、手を汚す、それも全部全部劉邦のせいだと。
そこまでさせるほどの、痛み。
ひとりの女をここまで追いつめた、なにか。
それを思うと、すでに泣きスイッチが入る。
で、そこまで憎しみを顕わにしておきながら、いざ劉邦が息絶えたとき、呂妃は彼にすがりつくように、身を寄せるの。セリ下がりのどさくさに。ろくに見えないところで。
許さない。
彼女にそう言わせるモノが、痛い。
許さない。
そう言いながらも、すがりついて泣くんだ。自分を裏切った夫の亡骸に。
『虞美人』は呂妃の一代記でもある。
本編で呂妃は、とてもかわいい若妻(笑)として登場する。演じているのがじゅりあなので、なんかコワイ印象がぬぐえないが、最初は寛大でかわいい奥さんなんだってば。
夫の可能性を無邪気に信じ、夢を見る若い女。
それがまあ、いろいろいろいろあるうちに、どんどんコワイ女になっていくんだが。
じゅりあが気の毒なのは、セーム@『太王四神記』と役柄がかぶることだよなあ。
セームは野心を息子に負わせ、呂妃は夫に負わせる。「私が男なら、王になっていた」という台詞にある通り、真の野心家だった、という設定。
役柄はかぶっているけれど、もちろんセームと呂妃は別人で、呂妃の方がすげー深い役なんだが。一見一緒くたにされちゃって気の毒だなあ。
呂妃としての演技は、どんどん変わっていったと思う。
冒頭、そして虞姫@彩音ちゃんとの対決場面。
「許さない」ツボが再度発動するんだ、虞姫VS呂妃場面にて。
初日付近はわたしが気づいてなかっただけかもしれないが、呂妃は台詞通りの表情をしていたと思う。
「私は決して囚われない、捧げ尽くして消えます」……そう歌う虞を笑い飛ばし、「まるでお庭を舞う蝶々と話すよう」と言う呂。
それがもお、あとになればなるほど呂が哀れで。
泣く代わりに、哄笑するしかなかったんだね。
「決して囚われない」と、囚われている呂の前で言い放つ虞姫の、「正しさ」「清らかさ」ゆえの、残酷さときたら。
ずたずたに傷つけられて、それでも誇り高い彼女は敵の前で弱みは見せられない。泣いて同情を買うくらいなら、笑ってひんしゅくを買う方を選ぶ。そういう女。
虞姫の菩薩のような清らかな光をあび、卑しい人間が己れの醜さに顔を歪める。痛みのあまり、哀しさのあまり、泣き出しそうになり……泣く代わり、悲鳴を上げる代わりに、哄笑した。嘲笑った。侮蔑の言葉を投げた。
精一杯の虚勢。
その、気の強さ。誇り高さ。
最後まで背筋を伸ばし、凛と立ち尽くし、だけど暗転の間際、泣き崩れるかのように。
虞美人の歌を聴いているときの呂妃が、あまりにつらそうでねえ。虞の歌があと1小節長かったら、そのまま泣き出してんじゃないの、みたいな。
泣かないで、誇り高いひと。
囚われて、敵に情けを掛けられて、しかも、女としての愛し方、人間としての生き方まで否定されて、貶められて。それでも泣くことよりも、闘うことをえらんだひと。
虞姫の愛し方に、呂妃が感銘を受けたとか敗北感を持ったとか、そーゆー次元の話ではなくて。
どう愛するか、どう生きるかに正解なんぞないように、どちらの女が正しいということはない。
夫の苦境に足手まといになるまいと自殺する女がいじらしいとか、夫を信じて逆境に耐える女がけなげだとか、それは観ている人が感じればいいことで。
呂妃は自分が間違っているとか、思っちゃいないだろう。自分で自分の半生を否定するようなことはしないだろう。
だけどここまで真逆の価値観を示され、しかも人間を超えたかのよーな「正しい」光のもとに宣言されちゃったら、泣くしかないよなあ。
その瞬間、自分を卑小に感じて。
それでも虞姫の足元にひれ伏したりせず、ぐっと顎を上げていた彼女の強さが、愛しい。
たとえば桃娘@だいもんなんか、すっかりアタマ下げちゃってるもんね。虞姫のあの光に照らされたら、そうなっちゃうんだよ。
強い自我を持つ、誇り高い呂だからこそ、正反対の生き方をする虞にここまで反発した。
いや、自我を守るためにも、攻撃に転ずるしかない。
項羽@まとぶんを滅ぼし、虞姫を殺さなければ。負けるとは死ぬこと、勝ち続け、闘い続け、証明しなければ。
わたしの愛し方が、間違っていないと。
……呂妃も、劉邦を愛していたと思うよ。野望の道具みたいに扱っていたけれど。
男たちの時代、女の運命はどの男に添うかで決まる。呂妃がその才能を認めた劉邦は、すなわち呂妃自身の才能。夫を否定されることは、自分を否定されること。基本から歪んでいたかもしれないけれど、それでもそこに愛はあっただろう。
冒頭、死せる劉邦を「許さない」「あなたのせい」となじりながらも、寄り添うように。
てゆーか、「あなたのせいなのです」って、愛の言葉だよなあ。
愛の正しさを、人生の正しさを、呂妃自身の正しさを、彼女のすべてを否定したあの女に見せつけなければならない。
……呂妃が人生懸けて証明しようとした、「絶対に許さない」と思ったその相手、虞姫はそんなことぜーんぜん歯牙にも掛けてない、つか呂妃のことなんか忘れてんぢゃね? という現実が、残酷すぎて、ツボです。
菩薩の域まで達した虞美人の美しさと、俗世の泥と闇をまとった呂妃の悪妻っぷりが素晴らしいです。
彩音ちゃんもすごいし、じゅりあもすごい。
この「もうひとつの、項羽と劉邦」である、女ふたりも大好きだ。
強者どもが夢のあと。@虞美人
2010年4月23日 タカラヅカ 『虞美人』の、戦う者たちについての私感。
この『虞美人』での善悪は、わたしたちの時代とは異なっている。陰謀だの嘘だの殺人だのが「悪」ではないんだよね。
野望のために生命を懸ける。それが正義。
冒頭で主人公の項羽@まとぶん自身が語っている。桃娘パパ@めぐむを一刀のもとに斬り捨てた、現在の感覚ならそれは罪だけど、この世界ではフィフティ・フィフティの結果。
最初の項羽の行動で、まず世界観を確立。
「誰もが天子になれる、そういう時代が来た」と。
暗殺を命じる范増先生@はっちさんが人格者であるという描かれ方をしているように、「戦国時代」である以上、現代とは違うんだ。
ここでの「悪」は、己れの欲望を遂げるために命を懸けない者。自分は安全なところにいて、命懸けで戦う者を嗤う者。だから宋義@まりんは悪として成敗された。
なにかを欲しいと望むならば、なにかを成し得たいと願うならば、等しく命を懸けなければならない。それがこの世界のルール。
命が惜しいなら最初から望まなければいい。舞台に上がらなければいい。苛烈な項羽も、自分と同じ舞台に上がる気のない者をわざわざ追いかけていって殺しはしない。
スポーツと同じだ。野球でもサッカーでも、みんなルールを遵守するという前提でグラウンドに出ている。ルールに則って戦い、勝敗が決まる。ユニフォームを着てグラウンドに出てきたんだから、ルールを守って戦うという意思表示だろう。そんな者を試合で打ち負かしたからといって、勝者が悪のはずがない。
「欲しい」と舞台に上がりながらも命を懸けない、ずるい者が悪。ルールを守って戦わない者が悪。
……という、このへんほんと男子脳というか、少年マンガ的な感覚だよなあ(笑)。
ただ勝ち残った者が正義とするなら、こんなルールは不要のはず。現実社会はいつの時代も等しく「最後に笑った者が勝ち」だろうけど、『虞美人』は宝塚歌劇は物語だからエンタメだから、それはナイ。
表に一切出ず、利権だけ貪る勝者、なんてモノを描く気はないんだ。
おかげで、物語に登場する「欲しい」と望む者たちはすべて、なんらかのカタチで命を懸けている。
平等に。
ルールを守らずにズルをしようなんて者はいないんだ。リスクを負わず、望む結果だけ得ようなんて者はいないんだ。
項羽たち武人は、実際に命を懸けて戦場に出ている。
調子よく勝ち進んでいるような描き方をされている劉邦@壮くんだって、ちゃんと戦場に出ている。
また、項羽との初対面のときは、荒ぶる項羽の前で声を上げて笑ってみせるなど、命懸けの行動を取っている。項羽はわざと、感情的で危険な男ぶって暴れてみせていた。彼は「漢」を探していたんだ、「流れに逆らっても自分を貫く漢」を。
劉邦以上の野心家であったその妻・呂@じゅりあもまた、人質になってなお毅然とし、命を懸けて舞台にいる強者(ツワモノ)だと、ちゃんと見せている。
蝶よ花よとふわふわちやほやされているだけに見える虞@彩音ちゃんが、最初から覚悟を持って項羽のもとにいることは、言うまでもなく。
宮廷で策を弄しているだけに見える軍師たちも、例外ではない。
范増先生は項羽に自分の首を懸けて意見しているし、張良@まっつもまた鴻門の会でその身をさらして太刀を持った項荘@しゅん様と対峙している。
覚悟の上で、舞台に上がっている。
そこが、そういう場であると。
誰もが公平に、たったひとつの命を、人生を懸けて、「夢」に向かっている。
だからこそ、野心のために命を落とすことは、無駄死にではない。
あっけなく落命し、物語から消えていく桃娘パパや衛布@みつるも、なにも間違っていない。
夢に向かって生きた。自分に出来る限りのことをした。その事実は消えない、歪まない。無駄なことなんかなにひとつない。大望ついえるのも、死も、その結果のひとつでしかない。
等価交換の法則っちゅーかね(笑)。
責任を負う覚悟のある者たちの戦いだから、美しくもあり、また切なくもある。
だって、民衆たちは無責任だからね。
自分たちはなんのリスクも負う気はなく、オイシイ思いをしたくて群れている。
勝ち馬には乗りたいが、沈む船からは我先にと逃げ出していく。個ではなく、匿名で、「みんな」という安全圏で、「名」のある者を叩く。言動に責任を負う気はないから、簡単に身を翻す。
いちばんおそろしいのは、自分の責任で兵を挙げて戦う将たちではなく、名も無き民衆たち。「民の心ほど移ろうものはありません」……賢い韓信@みわっちが言うように。
今回キムシン節が薄すぎて残念だ(笑)。
キャラクタたちはちゃんと、いつもキムシン・キャラなのにね。「民衆」たちとは一線を画した主人公たちなのにね。
物語中、いちばんの危機というか、「大変、もうダメだ」になる劉邦は、まさにその民衆に裏切られるんだよね。
それまでさんざんちやほやされていたのに。
そしてさらに、劉邦の嘆きが深いのは、「責任」をすべて投げ出すから。
一軍の将として名乗りを上げたからには、責任を負わなければならない。なのに彼は自分の命惜しさに責任を放棄した。
あの無責任な民衆たちと同じことをした。だからこそ、キムシン作品の中では最大の裏切りを犯したことになり、カーテン前でたったひとり這いつくばって泣いてもおかしくないんだ。
彼をそこまで追いつめる理由が「私は誰も愛していない」なわけで、そのあたりをちゃんと描いてないから、いきなりな展開に「はぁ??!」になるけど(笑)。戚@れみちゃん登場でさらに「はぁ??!」になるけど(笑)。
キムシンの中では筋は通ってるんだろうなあ。
わたし的には好みの展開なので、劉邦の絶望過程の描き方がゆるいことが、心から残念です。
まあそれはともかく、野望のために生命を懸ける、この世界観と、そこに生きる人々が好き。
現代とはチガウ、フィクションならではのファンタジー。
元歴史物ヲタ(学生時代、歴研所属・笑)のハートをうずかせる、萌えのつまったキャラクタたちと、物語ですよ、『虞美人』。
この『虞美人』での善悪は、わたしたちの時代とは異なっている。陰謀だの嘘だの殺人だのが「悪」ではないんだよね。
野望のために生命を懸ける。それが正義。
冒頭で主人公の項羽@まとぶん自身が語っている。桃娘パパ@めぐむを一刀のもとに斬り捨てた、現在の感覚ならそれは罪だけど、この世界ではフィフティ・フィフティの結果。
最初の項羽の行動で、まず世界観を確立。
「誰もが天子になれる、そういう時代が来た」と。
暗殺を命じる范増先生@はっちさんが人格者であるという描かれ方をしているように、「戦国時代」である以上、現代とは違うんだ。
ここでの「悪」は、己れの欲望を遂げるために命を懸けない者。自分は安全なところにいて、命懸けで戦う者を嗤う者。だから宋義@まりんは悪として成敗された。
なにかを欲しいと望むならば、なにかを成し得たいと願うならば、等しく命を懸けなければならない。それがこの世界のルール。
命が惜しいなら最初から望まなければいい。舞台に上がらなければいい。苛烈な項羽も、自分と同じ舞台に上がる気のない者をわざわざ追いかけていって殺しはしない。
スポーツと同じだ。野球でもサッカーでも、みんなルールを遵守するという前提でグラウンドに出ている。ルールに則って戦い、勝敗が決まる。ユニフォームを着てグラウンドに出てきたんだから、ルールを守って戦うという意思表示だろう。そんな者を試合で打ち負かしたからといって、勝者が悪のはずがない。
「欲しい」と舞台に上がりながらも命を懸けない、ずるい者が悪。ルールを守って戦わない者が悪。
……という、このへんほんと男子脳というか、少年マンガ的な感覚だよなあ(笑)。
ただ勝ち残った者が正義とするなら、こんなルールは不要のはず。現実社会はいつの時代も等しく「最後に笑った者が勝ち」だろうけど、『虞美人』は宝塚歌劇は物語だからエンタメだから、それはナイ。
表に一切出ず、利権だけ貪る勝者、なんてモノを描く気はないんだ。
おかげで、物語に登場する「欲しい」と望む者たちはすべて、なんらかのカタチで命を懸けている。
平等に。
ルールを守らずにズルをしようなんて者はいないんだ。リスクを負わず、望む結果だけ得ようなんて者はいないんだ。
項羽たち武人は、実際に命を懸けて戦場に出ている。
調子よく勝ち進んでいるような描き方をされている劉邦@壮くんだって、ちゃんと戦場に出ている。
また、項羽との初対面のときは、荒ぶる項羽の前で声を上げて笑ってみせるなど、命懸けの行動を取っている。項羽はわざと、感情的で危険な男ぶって暴れてみせていた。彼は「漢」を探していたんだ、「流れに逆らっても自分を貫く漢」を。
劉邦以上の野心家であったその妻・呂@じゅりあもまた、人質になってなお毅然とし、命を懸けて舞台にいる強者(ツワモノ)だと、ちゃんと見せている。
蝶よ花よとふわふわちやほやされているだけに見える虞@彩音ちゃんが、最初から覚悟を持って項羽のもとにいることは、言うまでもなく。
宮廷で策を弄しているだけに見える軍師たちも、例外ではない。
范増先生は項羽に自分の首を懸けて意見しているし、張良@まっつもまた鴻門の会でその身をさらして太刀を持った項荘@しゅん様と対峙している。
覚悟の上で、舞台に上がっている。
そこが、そういう場であると。
誰もが公平に、たったひとつの命を、人生を懸けて、「夢」に向かっている。
だからこそ、野心のために命を落とすことは、無駄死にではない。
あっけなく落命し、物語から消えていく桃娘パパや衛布@みつるも、なにも間違っていない。
夢に向かって生きた。自分に出来る限りのことをした。その事実は消えない、歪まない。無駄なことなんかなにひとつない。大望ついえるのも、死も、その結果のひとつでしかない。
等価交換の法則っちゅーかね(笑)。
責任を負う覚悟のある者たちの戦いだから、美しくもあり、また切なくもある。
だって、民衆たちは無責任だからね。
自分たちはなんのリスクも負う気はなく、オイシイ思いをしたくて群れている。
勝ち馬には乗りたいが、沈む船からは我先にと逃げ出していく。個ではなく、匿名で、「みんな」という安全圏で、「名」のある者を叩く。言動に責任を負う気はないから、簡単に身を翻す。
いちばんおそろしいのは、自分の責任で兵を挙げて戦う将たちではなく、名も無き民衆たち。「民の心ほど移ろうものはありません」……賢い韓信@みわっちが言うように。
今回キムシン節が薄すぎて残念だ(笑)。
キャラクタたちはちゃんと、いつもキムシン・キャラなのにね。「民衆」たちとは一線を画した主人公たちなのにね。
物語中、いちばんの危機というか、「大変、もうダメだ」になる劉邦は、まさにその民衆に裏切られるんだよね。
それまでさんざんちやほやされていたのに。
そしてさらに、劉邦の嘆きが深いのは、「責任」をすべて投げ出すから。
一軍の将として名乗りを上げたからには、責任を負わなければならない。なのに彼は自分の命惜しさに責任を放棄した。
あの無責任な民衆たちと同じことをした。だからこそ、キムシン作品の中では最大の裏切りを犯したことになり、カーテン前でたったひとり這いつくばって泣いてもおかしくないんだ。
彼をそこまで追いつめる理由が「私は誰も愛していない」なわけで、そのあたりをちゃんと描いてないから、いきなりな展開に「はぁ??!」になるけど(笑)。戚@れみちゃん登場でさらに「はぁ??!」になるけど(笑)。
キムシンの中では筋は通ってるんだろうなあ。
わたし的には好みの展開なので、劉邦の絶望過程の描き方がゆるいことが、心から残念です。
まあそれはともかく、野望のために生命を懸ける、この世界観と、そこに生きる人々が好き。
現代とはチガウ、フィクションならではのファンタジー。
元歴史物ヲタ(学生時代、歴研所属・笑)のハートをうずかせる、萌えのつまったキャラクタたちと、物語ですよ、『虞美人』。
席とか肉とか(笑)、覚え書き。
2010年4月22日 タカラヅカ びんぼー人は、ディナーショーに行かない。つか、行けない。
だからわたしは、DSをよく知りません。……みんなびんぼーが悪いんや。
まっつのおかげで毎年DSに行くはめになってますが、本来のわたしはそんなところに相応しくない貧乏人です。まっつ絡みでない限り、もう行くことはないでしょう、つか、行く金はないでしょう。
そんな、「DSって、よくわかんない」「DSはほとんど行ったことない」人間だからこそ、少ない経験を記録しておきます。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』は、西は宝塚ホテル琥珀の間。
MSとDSの公式定義は知らない。規模の差かなと勝手に思っている。MSは琥珀の間でコンパクトに開催、DSは宝寿の間以上(HHIとか)で盛大に、ってことかなと。
『虞美人』千秋楽挨拶ではっち組長は「桜乃彩音のディナーショー」と何度も繰り返していたことだし、劇団が勝手に名称を付けているだけで、中の人にとっちゃどーでもいいことなんだろう。(劇団が「主演男役」という謎の呼称以外認めない時代すら、はっちさんは挨拶で「トップスター」と連呼していたしな・笑)
宝塚ホテルでは、当日会場に行くまで、座席不明。
代金を支払うと整理券を渡されるだけで、それに座席は書いてない。受付番号が載っているのみ。
わたしはホテルの一般発売でチケットを購入。だからホテル受付というテーブルに、座席券を引き換えに行った。
ホテルで発売したチケットは、後方のみだった。受付に容赦なくテーブルナンバーが書いておいてあるので、自分以外のホテル発売チケットの座席位置が一目瞭然。
大劇場のSS席のほとんどが一般発売されていないように、タカラヅカのチケット流通は不透明であり、一般人にはやさしくない仕組み。
それはわかっているというかあきらめているが、DSでも同じことが起こっていた。
わたしはその一般発売の開始時刻から数分でつながった。
自分に掛かった通話時間と、漏れ聞こえるホテル側の電話オペレータの人数からして、発売1~2分で何百席×2日分が売れたとは到底思えない。現にMS開催数日前まで「好評発売中」だったわけだし。
しかし、発売開始数分で電話がつながって購入した人も、開催日直前に滑り込みでチケットを買った人も、配席はほとんど差はなかった模様。
どっちにしろ、後ろしかないのよ。
チケット購入時に座席位置を聞いたんだが、宝塚ホテルの人は教えてくれなかった。……教えられないわなあ、発売開始早々「前方席の一般発売ありません、売っている席はいちばん後ろだけです。でも、価格は全席同じ25000円です」って言ったら、よほどのチケ難前提イベント以外、誰も買わない(笑)。
ちなみに、ホテル阪急インターナショナルは席を教えてくれた、一般発売の電話掛け時に。つながった時間からして納得の座席位置だった。最前列から発売しているようだ。
また、宝ホも数年前の某DSのときは、座席位置はこちらも聞かなかったけれど、一般発売で最前列センターから順に発売していた。今回のMSと同じ時刻につながったら、最前列センターだったもの。
数年前は最前列から発売していたが、今は後列しか発売していないのか、DSごとに発売座席位置は違うのか、それはわからない。
なにしろ不透明なのがタカラヅカ。
ナマモノなので芸能界なので、お客様やらFCやらで座席配分があるのは仕方ない。
仕方ないが、一般人にはやさしくない世界だ……。
DSによく行く人やふつーのヅカファンなら、一般発売なんかでチケット取らないもんなあ。しみじみ。
ただ、琥珀の間はせまいので、後方席でもステージは遠くなかったです。
これが宝寿だったらキツかったなー。最前列と最後列では印象にかなりの差があるわ……。
今回は東の第一ホテルにも参加したんだけど、こっちは譲ってもらったチケットだったので、一般発売の配席はわからず。
「ラ・ローズ」という宴会場は琥珀の間より広いので、後方席からステージは遠かったっす。(もちろんわたしは後ろの隅っこにいた。いやもお、どこでもいいから参加したかったので感謝)
で、ディナーショーの料理が「フルコース」でないことは数年前から変わらず。
宝ホはコースの中にスープ無し。ショー中のドリンクも無し。
HHIもパレスホテルも、第一ホテルも、食事のサービスがすべて終わったあとに、ショーを観ている間に飲むドリンクのリクエストを聞いて回ってくれる。が、宝ホは無し。でも、こちらからオーダーすれば持ってきてはくれるので、コーヒーが出たあたりで積極的にオーダーするべし。
ただ今回は、何故かデザートが2種類あった。
フルーツ系の重いスイーツのあと、何故かチョコレートケーキ。2日間とも、スイーツ+チョコケーキ。……彩音ちゃんがチョコ好きだから、とか、そーゆーことなのかな?
わたしは普段チョコを食べないのでよくわかっていないが、アレは「チョコレート」であって「ケーキ」ではないのかな。わたしはケーキだと思ったんだけど、メニューには「小さなショコラ」とある。……小さくなかったよ、デカかったよ(笑)。
また、デザートにはひとつずつ「AYANE」とネームがチョコで手書きされていて、彩音ちゃんMSのために特別にがんばってくれていることがわかって、微笑ましかった。(が、このネームプレートはマジパン製? まずかった・笑)
よく聞かれることは「DSって毎日同じメニューなの?」だけど、メニュー自体は毎回チガウ。DSフルコンプ経験が何度かある(……)けど、いちおーホテル側が変えてくれてる。1日2回参加もした(……)が、ちゃんと変えてくれている。
今回おどろいたのは、第一ホテル。
「フルコース」じゃないことは覚悟の上だったけれど、肉料理がなかった……。
そういうものなの? 今のディナーショーの常識? 普段参加しないから、わかんない。去年の巴里祭はふつーに魚も肉もあったけど。
オードブルのあとスープが出て「あれ、スープあるんだ、めずらしい」と思っていたら、次が魚料理で、デザートとコーヒーで終了。……終わっちゃったよヲイ。
イゾラベッラのサロンコンサートと同じ扱いですか、そうですか。
大抵食事終了とショーの開始時間には間があまりなく、みんな化粧室に行ったりなんだりでばたばたするんだけど、第一ホテルでは時間余りまくり。
食事が終わって時計を見ると、ショーまで30分以上あった……。つか、食事開始時刻から40分くらいしか経ってねえ……ホテル側のサーブは一定だから、わたしが早食いとかじゃなく、参加者全員がこんな時間で食べ終わっていた。
メイン料理が1品ないだけで、20分以上違ってくるんだね、食事時間って。
食事の味は、わたしには違いがよくわかってない。なにしろ育ちが悪いもんでなあ。
ホテルには格とゆーものがあるわけだから、同じ値段でもメニューが違ってくるのは仕方ない、第一ホテルの肉無しディナーが宝ホの肉有りディナーと等価であることは想像つくけど。
同じ値段で肉料理とデザート2皿付いてるなら、宝ホの方がお得と思っちゃったよ。宝ホはおなかいっぱいになって困ったので、第一ホテルには一生懸命おなか空かせて行ったんだけど、食べ物が少なかったという……(笑)。
ただ、サービスの面では宝ホがいちばん良くない(笑)。サービスっつーか、スタッフのレベルっつーか。
今まで参加したすべてのDS合わせて、「宝塚歌劇オフィシャル」を名乗る宝ホがいちばん悪い。が、これももう慣れというか、宝ホにサービスは求めていないというか、そもそもタカラヅカってそういうところじゃん、という、ヅカファンならではの感覚が……(笑)。
とまあ、こんな感じです。
普段まず参加することのないディナーショーというイベントなので、今後のために覚え書き。
だからわたしは、DSをよく知りません。……みんなびんぼーが悪いんや。
まっつのおかげで毎年DSに行くはめになってますが、本来のわたしはそんなところに相応しくない貧乏人です。まっつ絡みでない限り、もう行くことはないでしょう、つか、行く金はないでしょう。
そんな、「DSって、よくわかんない」「DSはほとんど行ったことない」人間だからこそ、少ない経験を記録しておきます。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』は、西は宝塚ホテル琥珀の間。
MSとDSの公式定義は知らない。規模の差かなと勝手に思っている。MSは琥珀の間でコンパクトに開催、DSは宝寿の間以上(HHIとか)で盛大に、ってことかなと。
『虞美人』千秋楽挨拶ではっち組長は「桜乃彩音のディナーショー」と何度も繰り返していたことだし、劇団が勝手に名称を付けているだけで、中の人にとっちゃどーでもいいことなんだろう。(劇団が「主演男役」という謎の呼称以外認めない時代すら、はっちさんは挨拶で「トップスター」と連呼していたしな・笑)
宝塚ホテルでは、当日会場に行くまで、座席不明。
代金を支払うと整理券を渡されるだけで、それに座席は書いてない。受付番号が載っているのみ。
わたしはホテルの一般発売でチケットを購入。だからホテル受付というテーブルに、座席券を引き換えに行った。
ホテルで発売したチケットは、後方のみだった。受付に容赦なくテーブルナンバーが書いておいてあるので、自分以外のホテル発売チケットの座席位置が一目瞭然。
大劇場のSS席のほとんどが一般発売されていないように、タカラヅカのチケット流通は不透明であり、一般人にはやさしくない仕組み。
それはわかっているというかあきらめているが、DSでも同じことが起こっていた。
わたしはその一般発売の開始時刻から数分でつながった。
自分に掛かった通話時間と、漏れ聞こえるホテル側の電話オペレータの人数からして、発売1~2分で何百席×2日分が売れたとは到底思えない。現にMS開催数日前まで「好評発売中」だったわけだし。
しかし、発売開始数分で電話がつながって購入した人も、開催日直前に滑り込みでチケットを買った人も、配席はほとんど差はなかった模様。
どっちにしろ、後ろしかないのよ。
チケット購入時に座席位置を聞いたんだが、宝塚ホテルの人は教えてくれなかった。……教えられないわなあ、発売開始早々「前方席の一般発売ありません、売っている席はいちばん後ろだけです。でも、価格は全席同じ25000円です」って言ったら、よほどのチケ難前提イベント以外、誰も買わない(笑)。
ちなみに、ホテル阪急インターナショナルは席を教えてくれた、一般発売の電話掛け時に。つながった時間からして納得の座席位置だった。最前列から発売しているようだ。
また、宝ホも数年前の某DSのときは、座席位置はこちらも聞かなかったけれど、一般発売で最前列センターから順に発売していた。今回のMSと同じ時刻につながったら、最前列センターだったもの。
数年前は最前列から発売していたが、今は後列しか発売していないのか、DSごとに発売座席位置は違うのか、それはわからない。
なにしろ不透明なのがタカラヅカ。
ナマモノなので芸能界なので、お客様やらFCやらで座席配分があるのは仕方ない。
仕方ないが、一般人にはやさしくない世界だ……。
DSによく行く人やふつーのヅカファンなら、一般発売なんかでチケット取らないもんなあ。しみじみ。
ただ、琥珀の間はせまいので、後方席でもステージは遠くなかったです。
これが宝寿だったらキツかったなー。最前列と最後列では印象にかなりの差があるわ……。
今回は東の第一ホテルにも参加したんだけど、こっちは譲ってもらったチケットだったので、一般発売の配席はわからず。
「ラ・ローズ」という宴会場は琥珀の間より広いので、後方席からステージは遠かったっす。(もちろんわたしは後ろの隅っこにいた。いやもお、どこでもいいから参加したかったので感謝)
で、ディナーショーの料理が「フルコース」でないことは数年前から変わらず。
宝ホはコースの中にスープ無し。ショー中のドリンクも無し。
HHIもパレスホテルも、第一ホテルも、食事のサービスがすべて終わったあとに、ショーを観ている間に飲むドリンクのリクエストを聞いて回ってくれる。が、宝ホは無し。でも、こちらからオーダーすれば持ってきてはくれるので、コーヒーが出たあたりで積極的にオーダーするべし。
ただ今回は、何故かデザートが2種類あった。
フルーツ系の重いスイーツのあと、何故かチョコレートケーキ。2日間とも、スイーツ+チョコケーキ。……彩音ちゃんがチョコ好きだから、とか、そーゆーことなのかな?
わたしは普段チョコを食べないのでよくわかっていないが、アレは「チョコレート」であって「ケーキ」ではないのかな。わたしはケーキだと思ったんだけど、メニューには「小さなショコラ」とある。……小さくなかったよ、デカかったよ(笑)。
また、デザートにはひとつずつ「AYANE」とネームがチョコで手書きされていて、彩音ちゃんMSのために特別にがんばってくれていることがわかって、微笑ましかった。(が、このネームプレートはマジパン製? まずかった・笑)
よく聞かれることは「DSって毎日同じメニューなの?」だけど、メニュー自体は毎回チガウ。DSフルコンプ経験が何度かある(……)けど、いちおーホテル側が変えてくれてる。1日2回参加もした(……)が、ちゃんと変えてくれている。
今回おどろいたのは、第一ホテル。
「フルコース」じゃないことは覚悟の上だったけれど、肉料理がなかった……。
そういうものなの? 今のディナーショーの常識? 普段参加しないから、わかんない。去年の巴里祭はふつーに魚も肉もあったけど。
オードブルのあとスープが出て「あれ、スープあるんだ、めずらしい」と思っていたら、次が魚料理で、デザートとコーヒーで終了。……終わっちゃったよヲイ。
イゾラベッラのサロンコンサートと同じ扱いですか、そうですか。
大抵食事終了とショーの開始時間には間があまりなく、みんな化粧室に行ったりなんだりでばたばたするんだけど、第一ホテルでは時間余りまくり。
食事が終わって時計を見ると、ショーまで30分以上あった……。つか、食事開始時刻から40分くらいしか経ってねえ……ホテル側のサーブは一定だから、わたしが早食いとかじゃなく、参加者全員がこんな時間で食べ終わっていた。
メイン料理が1品ないだけで、20分以上違ってくるんだね、食事時間って。
食事の味は、わたしには違いがよくわかってない。なにしろ育ちが悪いもんでなあ。
ホテルには格とゆーものがあるわけだから、同じ値段でもメニューが違ってくるのは仕方ない、第一ホテルの肉無しディナーが宝ホの肉有りディナーと等価であることは想像つくけど。
同じ値段で肉料理とデザート2皿付いてるなら、宝ホの方がお得と思っちゃったよ。宝ホはおなかいっぱいになって困ったので、第一ホテルには一生懸命おなか空かせて行ったんだけど、食べ物が少なかったという……(笑)。
ただ、サービスの面では宝ホがいちばん良くない(笑)。サービスっつーか、スタッフのレベルっつーか。
今まで参加したすべてのDS合わせて、「宝塚歌劇オフィシャル」を名乗る宝ホがいちばん悪い。が、これももう慣れというか、宝ホにサービスは求めていないというか、そもそもタカラヅカってそういうところじゃん、という、ヅカファンならではの感覚が……(笑)。
とまあ、こんな感じです。
普段まず参加することのないディナーショーというイベントなので、今後のために覚え書き。
愛の力信じて。@Ever green
2010年4月21日 タカラヅカ 桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、久しぶりの男役のだいもんは、とってもだいもんだった。
表情豊かに歌い踊り、客席を釣りまくる(笑)。
だいもんってずっと下級生のころから、客席をかまいまくる子だった。下手タケノコに坐っているときとか、うっかりだいもんに捕まると他を見られなくなるくらい、ずーーっとかまってくれるという。
あの大きな大劇場でソレなんだから、小さなMS会場では是非、さらに地引き網投げてくれよと期待していた(笑)。
でもほんとのとこ、たのしいのはそーゆー面ではなく、彼の活躍を見られることなんだな。
どんなに隅っこでも、本公演のショーに出ている以上、客席アピールは出来る。
されど、「女の子とドラマティックな恋をする」ことは、スターでないと出来ない。
タカラヅカはスターシステムのカンパニー、恋愛できるのはトップスターとその周辺だけ。脇はあくまでも脇で、恋愛まで描いてもらえない。
トウは立っているものの(笑)ヲトメである以上、わたしは恋愛モノが好きだ。
恋愛モノを見せてくれる、表現してくれる役者が好きだ。
そしてだいもんは、いろんなモノを豊かに、過剰なまでに表現してくれる役者さんだ。
彼の演じる「恋愛モノ」は、実にキモチイイ。
彩音ちゃんの出演作品メドレーで、だいもんが相手役を務める、そのたのしさってば。
「ルイーズ」@『エンター・ザ・レビュー』は相手役ではなく、コーラス部分を演じているだけだからかわいらしい止まりなんだけど、その次ですよ、「愛の力」@『落陽のパレルモ』!!
かわいらしいキャラクタから、一気に恋愛モードの男に変わるんですよ!! この変貌ぶりが、もおっ、もおっ! じたばた。
だいもんには完全なソロ場面はなく、いつも誰かと一緒に登場し、歌っている。
純粋に実力者であるから、彼の助力を得ることで相方はより美しく声を出すことが出来る。
がっちりとサポートしつつも、彼の歌声は非常に雄弁だ。このまま成長したら、コーラス要員では収まらない派手な個性になりそうだなと期待。……そう、期待。
だいもんを見ていると「舞台人だな」と思う。舞台に立つために生まれてきた子だなと。
持って生まれたきれいな顔立ち、押し出しと華。堅実な実力もそうだが、それ以上に、「表現したい」とあえいでいるよーな、本能。
この子は、舞台の上で生きるべきだ。
まっつとのハーモニーをはじめて聴いたけれど、その性質の合いっぷり、相性の良さにおどろいた。
なるほど、こんなところでも好みってのは一致するんだ。好きになるには理由がある、つか、個々に好みだと思っているモノを、並べてみたら似ていました、って至極とーぜんのことじゃないですか。わたし、このテの声、響きが好みなんだな、無意識に選別し、求めていたんだな。
その昔、まっつ×だいもんトークショーに行ったとき、わたしはまーーったく意識してなかったのに、一緒に行った友人たちがだいもんの横顔を見て「緑野がだいもんも好きな理由がわかった。まっつと鼻のカタチが同じ」と言っていたように。
わたしというひとりの人間が好ましく思っているのだから、ふたりには似た部分があるんだろう。
しかし。
まっつとだいもん、ふたりが並んで歌うのを見て、痛感する。
正反対の舞台人だと。
まっつはひたすらクールで硬質だ。もっとはじけてもいいのに、とじれったくなるくらい、訴えかけるものが小さい。自分の中での納得が最優先な、職人タイプというか。変化もわかりにくく、テンションも一定。
だいもんはとことんホットで柔軟だ。ぱっと発光して、他者へ訴えかける。双方向性というか、相手(観客)あってこその演技であり歌であるというか、いつも客席に向かって気を発散している。にぎやかな芸風で、じっとしていない。
……しみじみと、だいもんを好きだと思う。
そもそもわたし、だいもんみたいなタイプが好きなんだ。見ていて絶対面白いもん。
表現が派手なだけでなく、濃くてクドくて情念型の芝居をする子だし。感情移入して、引き込まれて、一緒に泣いたり笑ったりできるトランス系の役者。
まっつがお約束というか技術で演じている横で、なんてあでやかにキラキラとたのしそうに表現していることか。
目を離せないたのしさ。わくわく感。めまぐるしく変わる表情を見ているだけで、気が付いたら時間が過ぎていくというか。
技術というだけなら、実力というだけなら、現時点でまっつが上なのかもしれないけれど、この輝きの差というか目を引く表現欲の差は、切ないほどはっきりしているなと。
だいもんに活躍の場あるとうれしい。それに比例して彼は魅力を開花し、それに比例してわたしは彼に惹かれる。
与えられた場に応じて、どんどん大きくなるんだなあ。もっともっと彼に大きな場を与えてみてほしい。どこまで伸びるのか、輝くのか、たのしみでならない。
そして、歌い、演じているときはあんなにオトコマエなのに、トークになると一転してダメダメな子猫ちゃん、つーのがまた……なんなのよ、ギャップ萌えを狙ってるの?!
『虞美人』の子猫ちゃんもさすがのうまさと可愛さ(童姿はいろいろとアレだが・笑)で、実力派は伊達でないことを見せつけてくれているけれど。
やっぱりだいもんは男役だ。
男子としてキザっているときが、ものごっつー魅力的だ。あの糸引きそーなとこがいいのよーっ。じたばた。
彼の恋愛モードの曲は『パレルモ』1曲きりだったんだけど、なにしろ無駄にドラマティックな曲なので(笑)、スイッチ入った姿が素敵ですよ、お客さん!
ああ、オサ様の役をやってほしかった、新公で。
羽を持って生まれたからには、飛んで欲しい、力の限り。だいもんを見ていると、心からそう思うよ。
ところで、「ルイーズ」がアタマの中をぐるぐる回って仕方なかったんだが。
この歌、一人称と三人称を間違って脳内再生するとものすげーブラックな曲になるねー。
「♪愛しのルイーズ、みんなアナタを愛している」
「♪うれしいわ、みんなもワタシが好き。みんなの笑顔はワタシのモノ」
繰り返し脳内再生するうちに、「ワタシ」と「みんな」が入れ替わっちゃって……。
ブラック・メルヘンな感じが曲調に合っていて、それはソレでありかと思うんだが(笑)。
ピエロ@だいもんで、ぜひぜひアレキン@まっつ!を見たかったんだがなあ……(笑)。
あのまっつが色男モード全開に、泣きべそだいもんから、彩音ちゃんをかっさらっていくとこを見たかった……!
表情豊かに歌い踊り、客席を釣りまくる(笑)。
だいもんってずっと下級生のころから、客席をかまいまくる子だった。下手タケノコに坐っているときとか、うっかりだいもんに捕まると他を見られなくなるくらい、ずーーっとかまってくれるという。
あの大きな大劇場でソレなんだから、小さなMS会場では是非、さらに地引き網投げてくれよと期待していた(笑)。
でもほんとのとこ、たのしいのはそーゆー面ではなく、彼の活躍を見られることなんだな。
どんなに隅っこでも、本公演のショーに出ている以上、客席アピールは出来る。
されど、「女の子とドラマティックな恋をする」ことは、スターでないと出来ない。
タカラヅカはスターシステムのカンパニー、恋愛できるのはトップスターとその周辺だけ。脇はあくまでも脇で、恋愛まで描いてもらえない。
トウは立っているものの(笑)ヲトメである以上、わたしは恋愛モノが好きだ。
恋愛モノを見せてくれる、表現してくれる役者が好きだ。
そしてだいもんは、いろんなモノを豊かに、過剰なまでに表現してくれる役者さんだ。
彼の演じる「恋愛モノ」は、実にキモチイイ。
彩音ちゃんの出演作品メドレーで、だいもんが相手役を務める、そのたのしさってば。
「ルイーズ」@『エンター・ザ・レビュー』は相手役ではなく、コーラス部分を演じているだけだからかわいらしい止まりなんだけど、その次ですよ、「愛の力」@『落陽のパレルモ』!!
かわいらしいキャラクタから、一気に恋愛モードの男に変わるんですよ!! この変貌ぶりが、もおっ、もおっ! じたばた。
だいもんには完全なソロ場面はなく、いつも誰かと一緒に登場し、歌っている。
純粋に実力者であるから、彼の助力を得ることで相方はより美しく声を出すことが出来る。
がっちりとサポートしつつも、彼の歌声は非常に雄弁だ。このまま成長したら、コーラス要員では収まらない派手な個性になりそうだなと期待。……そう、期待。
だいもんを見ていると「舞台人だな」と思う。舞台に立つために生まれてきた子だなと。
持って生まれたきれいな顔立ち、押し出しと華。堅実な実力もそうだが、それ以上に、「表現したい」とあえいでいるよーな、本能。
この子は、舞台の上で生きるべきだ。
まっつとのハーモニーをはじめて聴いたけれど、その性質の合いっぷり、相性の良さにおどろいた。
なるほど、こんなところでも好みってのは一致するんだ。好きになるには理由がある、つか、個々に好みだと思っているモノを、並べてみたら似ていました、って至極とーぜんのことじゃないですか。わたし、このテの声、響きが好みなんだな、無意識に選別し、求めていたんだな。
その昔、まっつ×だいもんトークショーに行ったとき、わたしはまーーったく意識してなかったのに、一緒に行った友人たちがだいもんの横顔を見て「緑野がだいもんも好きな理由がわかった。まっつと鼻のカタチが同じ」と言っていたように。
わたしというひとりの人間が好ましく思っているのだから、ふたりには似た部分があるんだろう。
しかし。
まっつとだいもん、ふたりが並んで歌うのを見て、痛感する。
正反対の舞台人だと。
まっつはひたすらクールで硬質だ。もっとはじけてもいいのに、とじれったくなるくらい、訴えかけるものが小さい。自分の中での納得が最優先な、職人タイプというか。変化もわかりにくく、テンションも一定。
だいもんはとことんホットで柔軟だ。ぱっと発光して、他者へ訴えかける。双方向性というか、相手(観客)あってこその演技であり歌であるというか、いつも客席に向かって気を発散している。にぎやかな芸風で、じっとしていない。
……しみじみと、だいもんを好きだと思う。
そもそもわたし、だいもんみたいなタイプが好きなんだ。見ていて絶対面白いもん。
表現が派手なだけでなく、濃くてクドくて情念型の芝居をする子だし。感情移入して、引き込まれて、一緒に泣いたり笑ったりできるトランス系の役者。
まっつがお約束というか技術で演じている横で、なんてあでやかにキラキラとたのしそうに表現していることか。
目を離せないたのしさ。わくわく感。めまぐるしく変わる表情を見ているだけで、気が付いたら時間が過ぎていくというか。
技術というだけなら、実力というだけなら、現時点でまっつが上なのかもしれないけれど、この輝きの差というか目を引く表現欲の差は、切ないほどはっきりしているなと。
だいもんに活躍の場あるとうれしい。それに比例して彼は魅力を開花し、それに比例してわたしは彼に惹かれる。
与えられた場に応じて、どんどん大きくなるんだなあ。もっともっと彼に大きな場を与えてみてほしい。どこまで伸びるのか、輝くのか、たのしみでならない。
そして、歌い、演じているときはあんなにオトコマエなのに、トークになると一転してダメダメな子猫ちゃん、つーのがまた……なんなのよ、ギャップ萌えを狙ってるの?!
『虞美人』の子猫ちゃんもさすがのうまさと可愛さ(童姿はいろいろとアレだが・笑)で、実力派は伊達でないことを見せつけてくれているけれど。
やっぱりだいもんは男役だ。
男子としてキザっているときが、ものごっつー魅力的だ。あの糸引きそーなとこがいいのよーっ。じたばた。
彼の恋愛モードの曲は『パレルモ』1曲きりだったんだけど、なにしろ無駄にドラマティックな曲なので(笑)、スイッチ入った姿が素敵ですよ、お客さん!
ああ、オサ様の役をやってほしかった、新公で。
羽を持って生まれたからには、飛んで欲しい、力の限り。だいもんを見ていると、心からそう思うよ。
ところで、「ルイーズ」がアタマの中をぐるぐる回って仕方なかったんだが。
この歌、一人称と三人称を間違って脳内再生するとものすげーブラックな曲になるねー。
「♪愛しのルイーズ、みんなアナタを愛している」
「♪うれしいわ、みんなもワタシが好き。みんなの笑顔はワタシのモノ」
繰り返し脳内再生するうちに、「ワタシ」と「みんな」が入れ替わっちゃって……。
ブラック・メルヘンな感じが曲調に合っていて、それはソレでありかと思うんだが(笑)。
ピエロ@だいもんで、ぜひぜひアレキン@まっつ!を見たかったんだがなあ……(笑)。
あのまっつが色男モード全開に、泣きべそだいもんから、彩音ちゃんをかっさらっていくとこを見たかった……!
そして彼は、JAZZを歌う。@Ever green
2010年4月20日 タカラヅカ 自由に表現していい「1曲」を得たまっつ。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、まっつがひとりでまるまる1曲歌うことが出来たのは、合計3曲。
オサ様のラヴソング「How long has this been going on?」は、まっつにとってかなり挑戦な難曲。アカペラではじまり、彩音ちゃんの弾くピアノ伴奏のみの逃げ場なし状態、クライマックスの歌い上げはどえらい高音。
……という技術的な問題もそうだが、ハート部分でもなかなか敷居が高いかなと。まっつは端正に歌うことは得意でも、感情爆発揺れ動きまくりってのは苦手だよね。なにしろクール・キャラだから。
そんなこんなで、なんとも興味深い1曲。
残り2曲もまた、いいコントラストなんだよなあ。
「Let’s face the music and dance」は、『エンカレッジ・コンサート』で歌った「And All That Jazz」と同系統。や、曲はもちろんチガウんだけど、まっつが自分の引き出しで、もともと持っている武器ですんなり戦える曲。
ノリノリに、セクスィに。
客席に語りかけ、発散する。
得意分野だとわかってはいるけど、初日よりも、あとになるほどハネが大きくなり、気持ちよさそう。
そりゃ気持ちいいよね、だって「歌える」んだもん。表現できるんだもん。技術が、実力があるんだもん。
イメージ通りの音を操り、無から有を創り出せるのなら、表現者として創造者として、これほどキモチイイことはないでしょうよ。
「How long…」での苦戦っぷりが嘘のように、どこを吹く風で余裕綽々。
ああもお、嫌な男だ。こいつ絶対、自分を色男だと思ってる!!(笑)
でも、どんだけ気持ちよさそうに余裕で歌っていても、それは本能で快走しているわけじゃないのね。
解放している部分とは別に、理性ががっちり大地に根を下ろしている。
技術と、計算と、演技と。
持って生まれた本能部分だけではなくて、お稽古で、努力で、作り上げたモノをきっちり出しているんだと思う。
アクセルとハンドルは別の人が握っているかのように。どんだけ熱くスピード上げたって、ハンドルワークはめっちゃ冷静なの。
ここで本能のみで突っ走らないあたりが、まっつの面白味に欠けるところかもしれない。
タカラジェンヌは感覚的な人が多いから(そんな人の方が目立つから)、テンパって脳内麻薬出まくりで、本人も予期していないとんでもないところへ暴走したりして、それが愉快だったり魅力だったりする。
されどまっつには、それがない。彼はいつも理性を手放さない。
用心深く臆病で、とことん真面目なんだろうと思う。
それでもこうやって「得意分野を、まるまる1曲」与えられ、舞台の上で深化させる機会を得て。
まっつだからどんだけキザって過剰にポーズをつけてもやはりそれは理性の範囲内で、計算された演技っぷりで。
理性は決して手放さず、本能で暴走するのではなく、技術がさらに磨かれているの。
「表現」の振り幅の大きさ。
彼が「伝えたい」「表現したい」と思っていることが、上がっているの。
生半可な技術は感情に勝てないのかもしれない。緻密な演技で表現するより、感情のままに大泣きして見せた方が、観客はもらい泣きしちゃうものなのかもしれない。特に、タカラヅカではそういう面が多分にある。そこが愛しい場所でもある。
だけどまっつは感情のまま大泣きして見せるキャラクタじゃない。暴走して「微笑ましいわね」と言ってもらうキャラクタじゃない。
頑なに、自分のスタイルを守って。
その上で、より高みへのぼろうと、力を振り絞っている。
そして、MS最終日にもなれば、それが気持ちよさそうだった。
表現者であることを、愉しんでいるようだった。
スカシているいつものまっつとチガウ温度で、でもたしかに、クールビューティだからこそのハズカシサで、客席釣りまくってる!
大劇場で一度、コレをやらせてやってくださいよ。1曲与えちゃうとこの人、ここまでやっちゃうんですから。
や、スター様のように扱えと言っているわけではなくて、どんなカタチでもいいから、まっつにフリー演技をさせてくれたら、ムラと東宝、2ヶ月かけてどこまで深化させていくんだろうと。
1ファンとして、見てみたいっすよ。しみじみ。
「TUXEDO JAZZ」は、知っているようで知らないまっつだった。
まっつも出演していたショーの主題歌だけど、まっつ自身はこの歌、歌ってないもの。
オサ様が歌った、冒頭の主題歌。
2月にはじまり、5月に終わる公演。壮くんがコートに付いた雪を払い、みわっちやまりんに花を贈られ、おかえりと迎えられる。そして、最後はみわっちが扇を贈られる……そーゆー公演だった。
オサ様の歌だけど、「How long…」のような難曲でも、まっつの苦手分野の曲でもない。
所詮はヅカのオリジナル曲。技術だけで十分歌える。
ただそれを、どう歌うか。
『タキジャズ』で、まっつはオサ様の影だった。不思議の国に迷い込んだオサ様につかず離れず現れる、もうひとりオサ様。オサ様が登場した窓から遅れて現れ、オサ様が変身する手伝いをし、別れの歌を歌う。
オサ様よりひとまわり小さな存在。……カラダのことだけじゃなく(笑)。
それが今、まっつはとても「大人」になって、「タキジャズ」を歌った。
あれから3年。
まっつは、こんなに変わったんだ。こんなに、成長したんだ。
それが痛感できる歌だった。
おかげで初日は泣きスイッチ入って大変だった(笑)。オサ様の至福の公演『TUXEDO JAZZ』を、その主題歌を、まっつが歌っている。しかも大人になって。
まぎれもない、時の流れを見せつけて。
これは彩音ちゃんの卒業記念MSで。別れを前にしたコンサートで。
彩音ちゃんにはあまり、時の流れを感じない。たしかに歌唱力は成長したが(笑)、彼女はいろんな意味でフェアリーだ。クリスティーヌの初々しさを、マリーの清純さを変わらずに持ち続けている。
変わらない彩音ちゃん、タカラヅカという夢の花園、その記号の中で。
まっつがまぎれもない「成長」を、「時の流れ」を見せつけたことで、せつなさが一気にふくれあがった。
12時の鐘が、鳴った気がした。
夢の時間は終わり、魔法は解ける。永遠なんてない。奇跡なんて起こらない。
別れは避けられない。
それでもなお。
舞台の上では、フェアリーたちがキラキラ歌っている。
夢と現実の、あざやかなシルエット。
いつか解ける魔法だからこそ、愛しくてならない。有限の楽園だからこそ、あこがれてやまない。
まっつが真正面から取り組んで、歌ってみせた3曲。
どれもまったくちがった意味で、興味深くて、目が離せなかった。
短い一部分とか、歌い継ぎのひとつとかじゃなくて、まるまる1曲。まっつが受け止め咀嚼し、表現してみせた曲たち。
それは通常公演では聴くことの出来ない曲だったんだ。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、まっつがひとりでまるまる1曲歌うことが出来たのは、合計3曲。
オサ様のラヴソング「How long has this been going on?」は、まっつにとってかなり挑戦な難曲。アカペラではじまり、彩音ちゃんの弾くピアノ伴奏のみの逃げ場なし状態、クライマックスの歌い上げはどえらい高音。
……という技術的な問題もそうだが、ハート部分でもなかなか敷居が高いかなと。まっつは端正に歌うことは得意でも、感情爆発揺れ動きまくりってのは苦手だよね。なにしろクール・キャラだから。
そんなこんなで、なんとも興味深い1曲。
残り2曲もまた、いいコントラストなんだよなあ。
「Let’s face the music and dance」は、『エンカレッジ・コンサート』で歌った「And All That Jazz」と同系統。や、曲はもちろんチガウんだけど、まっつが自分の引き出しで、もともと持っている武器ですんなり戦える曲。
ノリノリに、セクスィに。
客席に語りかけ、発散する。
得意分野だとわかってはいるけど、初日よりも、あとになるほどハネが大きくなり、気持ちよさそう。
そりゃ気持ちいいよね、だって「歌える」んだもん。表現できるんだもん。技術が、実力があるんだもん。
イメージ通りの音を操り、無から有を創り出せるのなら、表現者として創造者として、これほどキモチイイことはないでしょうよ。
「How long…」での苦戦っぷりが嘘のように、どこを吹く風で余裕綽々。
ああもお、嫌な男だ。こいつ絶対、自分を色男だと思ってる!!(笑)
でも、どんだけ気持ちよさそうに余裕で歌っていても、それは本能で快走しているわけじゃないのね。
解放している部分とは別に、理性ががっちり大地に根を下ろしている。
技術と、計算と、演技と。
持って生まれた本能部分だけではなくて、お稽古で、努力で、作り上げたモノをきっちり出しているんだと思う。
アクセルとハンドルは別の人が握っているかのように。どんだけ熱くスピード上げたって、ハンドルワークはめっちゃ冷静なの。
ここで本能のみで突っ走らないあたりが、まっつの面白味に欠けるところかもしれない。
タカラジェンヌは感覚的な人が多いから(そんな人の方が目立つから)、テンパって脳内麻薬出まくりで、本人も予期していないとんでもないところへ暴走したりして、それが愉快だったり魅力だったりする。
されどまっつには、それがない。彼はいつも理性を手放さない。
用心深く臆病で、とことん真面目なんだろうと思う。
それでもこうやって「得意分野を、まるまる1曲」与えられ、舞台の上で深化させる機会を得て。
まっつだからどんだけキザって過剰にポーズをつけてもやはりそれは理性の範囲内で、計算された演技っぷりで。
理性は決して手放さず、本能で暴走するのではなく、技術がさらに磨かれているの。
「表現」の振り幅の大きさ。
彼が「伝えたい」「表現したい」と思っていることが、上がっているの。
生半可な技術は感情に勝てないのかもしれない。緻密な演技で表現するより、感情のままに大泣きして見せた方が、観客はもらい泣きしちゃうものなのかもしれない。特に、タカラヅカではそういう面が多分にある。そこが愛しい場所でもある。
だけどまっつは感情のまま大泣きして見せるキャラクタじゃない。暴走して「微笑ましいわね」と言ってもらうキャラクタじゃない。
頑なに、自分のスタイルを守って。
その上で、より高みへのぼろうと、力を振り絞っている。
そして、MS最終日にもなれば、それが気持ちよさそうだった。
表現者であることを、愉しんでいるようだった。
スカシているいつものまっつとチガウ温度で、でもたしかに、クールビューティだからこそのハズカシサで、客席釣りまくってる!
大劇場で一度、コレをやらせてやってくださいよ。1曲与えちゃうとこの人、ここまでやっちゃうんですから。
や、スター様のように扱えと言っているわけではなくて、どんなカタチでもいいから、まっつにフリー演技をさせてくれたら、ムラと東宝、2ヶ月かけてどこまで深化させていくんだろうと。
1ファンとして、見てみたいっすよ。しみじみ。
「TUXEDO JAZZ」は、知っているようで知らないまっつだった。
まっつも出演していたショーの主題歌だけど、まっつ自身はこの歌、歌ってないもの。
オサ様が歌った、冒頭の主題歌。
2月にはじまり、5月に終わる公演。壮くんがコートに付いた雪を払い、みわっちやまりんに花を贈られ、おかえりと迎えられる。そして、最後はみわっちが扇を贈られる……そーゆー公演だった。
オサ様の歌だけど、「How long…」のような難曲でも、まっつの苦手分野の曲でもない。
所詮はヅカのオリジナル曲。技術だけで十分歌える。
ただそれを、どう歌うか。
『タキジャズ』で、まっつはオサ様の影だった。不思議の国に迷い込んだオサ様につかず離れず現れる、もうひとりオサ様。オサ様が登場した窓から遅れて現れ、オサ様が変身する手伝いをし、別れの歌を歌う。
オサ様よりひとまわり小さな存在。……カラダのことだけじゃなく(笑)。
それが今、まっつはとても「大人」になって、「タキジャズ」を歌った。
あれから3年。
まっつは、こんなに変わったんだ。こんなに、成長したんだ。
それが痛感できる歌だった。
おかげで初日は泣きスイッチ入って大変だった(笑)。オサ様の至福の公演『TUXEDO JAZZ』を、その主題歌を、まっつが歌っている。しかも大人になって。
まぎれもない、時の流れを見せつけて。
これは彩音ちゃんの卒業記念MSで。別れを前にしたコンサートで。
彩音ちゃんにはあまり、時の流れを感じない。たしかに歌唱力は成長したが(笑)、彼女はいろんな意味でフェアリーだ。クリスティーヌの初々しさを、マリーの清純さを変わらずに持ち続けている。
変わらない彩音ちゃん、タカラヅカという夢の花園、その記号の中で。
まっつがまぎれもない「成長」を、「時の流れ」を見せつけたことで、せつなさが一気にふくれあがった。
12時の鐘が、鳴った気がした。
夢の時間は終わり、魔法は解ける。永遠なんてない。奇跡なんて起こらない。
別れは避けられない。
それでもなお。
舞台の上では、フェアリーたちがキラキラ歌っている。
夢と現実の、あざやかなシルエット。
いつか解ける魔法だからこそ、愛しくてならない。有限の楽園だからこそ、あこがれてやまない。
まっつが真正面から取り組んで、歌ってみせた3曲。
どれもまったくちがった意味で、興味深くて、目が離せなかった。
短い一部分とか、歌い継ぎのひとつとかじゃなくて、まるまる1曲。まっつが受け止め咀嚼し、表現してみせた曲たち。
それは通常公演では聴くことの出来ない曲だったんだ。
花束を握る、彼は。@Ever green
2010年4月19日 タカラヅカ 卒業記念MSなのだから、特別なイベントであることは、当然だ。
それはわかっている。
その雰囲気や空気感とは別に、わたしがご贔屓に対して注目したことは。
1曲、歌う。と、いうこと。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、まっつには3曲ソロがあった。
『TUXEDO JAZZ』主題歌と、彩音ちゃんピアノ演奏の「How long has this been going on?」と、ジャズ「Let’s face the music and dance」。
ヅカ曲の「タキジャズ」はともかく、「How long…」の方は音域がえらいことになっていて、さすがのまっつさんも歌いこなせていたとは思えないんだが(高音部は出るところまでで、あとは潔くぶった切っていたよーな・笑)、「Let’s face…」は得意分野、水を得た魚状態。
なんにしろ、まるまる1曲、彼のモノだったんだわ。
……まっつは歌ウマで通っているので、通常公演でもぼちぼち歌の場面がある。彼ひとりの歌声を聴く機会は、ある。
でも、ちゃんと1曲まるまる歌わせてもらえることなんて、ない。
それが許されるのは、番手の付いたスター、宝塚歌劇団の生徒数百人中の、ほんの十数名だけだ。
その場を自分だけで埋めていい、表現していい、そんな特別な立場は。
あとはせいぜい歌の一部を歌うとか、ダンスの合間に一部だけ歌詞があるとか、何人かでシェアして歌うとか、コーラスの中ワンフレーズだけソロでとか。
あくまでも、一部分。歌は脇役であり、他のナニかを引き立てるためにある。だから歌声も、歌自体の表現よりも、その場面にあった歌い方、引き立てる目的のモノに相応しい歌い方になる。
芝居でだって、まるまる1曲心情を歌えるのはスターのみだ。『虞美人』を例にしたって、銀橋渡りながらテーマソングを歌えるのはトップと2番手だけ。今回はヒロインすら単独で1曲は歌ってねぇ。
あとは芝居の途中経過で部分的に音に載せてみせるだけ。
数フレーズの自分のソロパートをどれだけ的確に、また魅力的に歌えるかが、ミュージカル俳優としての役割なわけだ。ショーでも芝居でも、与えられた役割を果たすことが最優先、「作品」の一部なんだから。
それを当たり前に観てきて、受け止めてきて。
今ここで「1曲」与えられたご贔屓の姿に、心揺れ、リピートしないではいられなかったのですよ。
ショーの一部分でもなく、芝居の役でなく。
「未涼亜希」が、表現の場を与えられ、自由に表現している。
その姿が興味深くて。
いや、ぷっちゃけ、おもしろいです。
まっつには『宝塚巴里祭2009』があった。ここでも彼は自分ひとりの曲を持ち、表現していた。
だから別に、はじめて観るわけじゃない。「真ん中」のまっつ。
だけどチガウの。
今回とは、明らかにチガウ。
『巴里祭』のまっつには、使命感があった。自分がすべての責任を負っているという、重苦しいまでの気負い。
自分がコケれば終了するんだという、背水の陣の武将みたいなギリギリ感。
でも今回は、ソレがない。
彩音ちゃんのMSで手を抜いているとか気を抜いているとかいうわけじゃなくて、それはどうしようもない「主演」というものの重みの違いだ。彩音ちゃんのステージを心から支え、力を出している、それでも、主演で戦った巴里祭とはチガウんだ。
良い悪いではなくて。
だからこそ「主演」ってのは、価値があるんだ。それくらい、特別なことなんだ。
背水の陣のぎりぎりまっつも、そりゃあ壮絶な魅力がありました。
そして、今回はそれとはチガウ、「自由に呼吸している」まっつが見られたんだ。
その呼吸感は、直近の巴里祭の記憶ではなく、何年も前の『エンカレッジ・コンサート』の記憶に結びついた。
出演者のひとりとして、純粋に自分の歌に、音楽に向き合い、表現しようとしている姿。
あのときのまっつを、思い出した。
オサ様の歌った「How long…」は、まっつのキャラには合わない曲だ。
伸縮自在の三次元曲。高低だけでなく、深浅、表裏、いろーんなものがあり、オサ様はそりゃあ自由に歌ってのけた。
そう、オサ様はあまりに「自由」だ。音の翼を持った人。あんな人はそうそういない。
まっつはオサ様とはまったくタイプが違う。まっつは的確に譜面通りに歌う。自由からはもっとも遠い、面白味のない人。
生真面目に「音」をなぞり……その音と自分の兼ね合いで、えらく苦戦しているように見えた、初日。あの音の流れは、まっつの中にはナイよなあ、みたいな。
この難曲をどう歌いこなすのか、それがとても楽しみだったのだけど、結局まっつはこの歌を調伏しようとはしなかったようだ(笑)。先述の通り、出ない音は出ない、とぴしゃりと切っていた。
でもおめおめと不戦敗を宣言するのではなく……別の切り口から、この曲との講和条件を模索したようだ。
オサ様が突然窓から現れてしまうよーな破天荒な歌い方ならば、まっつは玄関をとんとんノックしていた。
蝶ネクタイを神経質に何度も直して、襟を正して小さな花束を持ってドアの前に立つまっつ、を想像した。そうやって生真面目に正攻法に、ドアをノックしているの。
表現しよう、という、心構え。
自分のやり方で、自分の持ち味で。
ああ、これがまっつなんだ。
こうやって歌うのが、「未涼亜希」なんだ。
そう思った。
1場面、1曲、まるまる彼が表現していい、戦っていいと、与えられたからこそ。
他のどの舞台でも視ることの出来ない未涼亜希が、そこにいた。
だからもお、駆けつけずには、いられなかったんだ。
それはわかっている。
その雰囲気や空気感とは別に、わたしがご贔屓に対して注目したことは。
1曲、歌う。と、いうこと。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、まっつには3曲ソロがあった。
『TUXEDO JAZZ』主題歌と、彩音ちゃんピアノ演奏の「How long has this been going on?」と、ジャズ「Let’s face the music and dance」。
ヅカ曲の「タキジャズ」はともかく、「How long…」の方は音域がえらいことになっていて、さすがのまっつさんも歌いこなせていたとは思えないんだが(高音部は出るところまでで、あとは潔くぶった切っていたよーな・笑)、「Let’s face…」は得意分野、水を得た魚状態。
なんにしろ、まるまる1曲、彼のモノだったんだわ。
……まっつは歌ウマで通っているので、通常公演でもぼちぼち歌の場面がある。彼ひとりの歌声を聴く機会は、ある。
でも、ちゃんと1曲まるまる歌わせてもらえることなんて、ない。
それが許されるのは、番手の付いたスター、宝塚歌劇団の生徒数百人中の、ほんの十数名だけだ。
その場を自分だけで埋めていい、表現していい、そんな特別な立場は。
あとはせいぜい歌の一部を歌うとか、ダンスの合間に一部だけ歌詞があるとか、何人かでシェアして歌うとか、コーラスの中ワンフレーズだけソロでとか。
あくまでも、一部分。歌は脇役であり、他のナニかを引き立てるためにある。だから歌声も、歌自体の表現よりも、その場面にあった歌い方、引き立てる目的のモノに相応しい歌い方になる。
芝居でだって、まるまる1曲心情を歌えるのはスターのみだ。『虞美人』を例にしたって、銀橋渡りながらテーマソングを歌えるのはトップと2番手だけ。今回はヒロインすら単独で1曲は歌ってねぇ。
あとは芝居の途中経過で部分的に音に載せてみせるだけ。
数フレーズの自分のソロパートをどれだけ的確に、また魅力的に歌えるかが、ミュージカル俳優としての役割なわけだ。ショーでも芝居でも、与えられた役割を果たすことが最優先、「作品」の一部なんだから。
それを当たり前に観てきて、受け止めてきて。
今ここで「1曲」与えられたご贔屓の姿に、心揺れ、リピートしないではいられなかったのですよ。
ショーの一部分でもなく、芝居の役でなく。
「未涼亜希」が、表現の場を与えられ、自由に表現している。
その姿が興味深くて。
いや、ぷっちゃけ、おもしろいです。
まっつには『宝塚巴里祭2009』があった。ここでも彼は自分ひとりの曲を持ち、表現していた。
だから別に、はじめて観るわけじゃない。「真ん中」のまっつ。
だけどチガウの。
今回とは、明らかにチガウ。
『巴里祭』のまっつには、使命感があった。自分がすべての責任を負っているという、重苦しいまでの気負い。
自分がコケれば終了するんだという、背水の陣の武将みたいなギリギリ感。
でも今回は、ソレがない。
彩音ちゃんのMSで手を抜いているとか気を抜いているとかいうわけじゃなくて、それはどうしようもない「主演」というものの重みの違いだ。彩音ちゃんのステージを心から支え、力を出している、それでも、主演で戦った巴里祭とはチガウんだ。
良い悪いではなくて。
だからこそ「主演」ってのは、価値があるんだ。それくらい、特別なことなんだ。
背水の陣のぎりぎりまっつも、そりゃあ壮絶な魅力がありました。
そして、今回はそれとはチガウ、「自由に呼吸している」まっつが見られたんだ。
その呼吸感は、直近の巴里祭の記憶ではなく、何年も前の『エンカレッジ・コンサート』の記憶に結びついた。
出演者のひとりとして、純粋に自分の歌に、音楽に向き合い、表現しようとしている姿。
あのときのまっつを、思い出した。
オサ様の歌った「How long…」は、まっつのキャラには合わない曲だ。
伸縮自在の三次元曲。高低だけでなく、深浅、表裏、いろーんなものがあり、オサ様はそりゃあ自由に歌ってのけた。
そう、オサ様はあまりに「自由」だ。音の翼を持った人。あんな人はそうそういない。
まっつはオサ様とはまったくタイプが違う。まっつは的確に譜面通りに歌う。自由からはもっとも遠い、面白味のない人。
生真面目に「音」をなぞり……その音と自分の兼ね合いで、えらく苦戦しているように見えた、初日。あの音の流れは、まっつの中にはナイよなあ、みたいな。
この難曲をどう歌いこなすのか、それがとても楽しみだったのだけど、結局まっつはこの歌を調伏しようとはしなかったようだ(笑)。先述の通り、出ない音は出ない、とぴしゃりと切っていた。
でもおめおめと不戦敗を宣言するのではなく……別の切り口から、この曲との講和条件を模索したようだ。
オサ様が突然窓から現れてしまうよーな破天荒な歌い方ならば、まっつは玄関をとんとんノックしていた。
蝶ネクタイを神経質に何度も直して、襟を正して小さな花束を持ってドアの前に立つまっつ、を想像した。そうやって生真面目に正攻法に、ドアをノックしているの。
表現しよう、という、心構え。
自分のやり方で、自分の持ち味で。
ああ、これがまっつなんだ。
こうやって歌うのが、「未涼亜希」なんだ。
そう思った。
1場面、1曲、まるまる彼が表現していい、戦っていいと、与えられたからこそ。
他のどの舞台でも視ることの出来ない未涼亜希が、そこにいた。
だからもお、駆けつけずには、いられなかったんだ。
微笑み返し。@Ever green
2010年4月18日 タカラヅカ まっつってば、彩音ちゃん泣かせちゃってましたよ。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』最終日。
……結局遠征しちゃいました、辛抱たまらなくて(笑)。
「過去の相手役と子猫ちゃんトーク」(そんなコーナー名はナイ)にて、まっつは『マラケシュ』で「遠野あすかに吹っ飛ばされたところに『大丈夫ですか』と声を掛けられ一目惚れ、結婚する役」を演じたと、そのあとの『パレルモ』でも「彩音に片思いの役」だったと語る。
大好きだったよ、ウラジミール@『マラケシュ』。女の子に簡単に吹っ飛ばされる軟弱な弁護士(笑)。そして、女の子に助け起こされ、かばわれてしまう軟弱な弁護士(笑)。
『パレルモ』のセンターパーツの八の字眉ヘタレまっつ@10代の少年(笑)も大好物だった……。
それもこれも、彩音ちゃんがとても可憐で美しいお嬢様だったからこそ。このお嬢様なら、この優男が惚れてもさもありなんというか。
そんな「過去の相手役」まっつが、ピアノ伴奏場面で「彩音のピアノでこんな風に歌うことはもうないんだと思うと……」胸にこみ上げるモノがあった系のことを言っていると、まっつを見つめて言葉を聞いていた彩音ちゃんが、泣き出した、らしい。
や、わたしには見えませんでした。彩音ちゃん、まっつを向き直って……つまり真横をカラダごと向いていたので、わたしの席から表情まで見えず。
しれっと語っていたまっつが、これまたしれっと、「大丈夫ですか?」と言い出したのよ、彩音ちゃんに向かって。
まっつがわざわざ指摘するから、彩音ちゃんさらに泣き笑いみたいになっちゃって……。
大丈夫ですかぢゃねえよ、このS男(笑)。
自分で泣かせといて「大丈夫ですか?」(ですます調)って!!
まっつ、いいキャラだ……。
そして彩音ちゃん、かわいー!
でもってまっつの「姫」呼び。まっつがあの声で、彩音ちゃんを「姫」って呼ぶんですよ。前観たときは「彩音姫」って呼んでたけど、今回は「姫」だった。
うっわーうっわーうっわー。
クールまっつのですます調+姫呼びですよ、これって、なんのプレイ? ハァハァ。
まっつ的には相当ニヤニヤしていて、たのしそーでした。や、基本はいつものクールまっつなんだけど、まっつ比でニヤニヤ。
一方だいもんくんは、いっぱいいっぱいみたいで、トークはさらに短く、ぐたぐたに(笑)。ナニ言ってるのかよくわかんなくなってました……(笑)。彩音ちゃんは受け身で聞いているだけだし、ニヤニヤまっつは助け船出してやらないしで。
いやあ、好きだなこのトリオのトーク(笑)。だいもんがんばれ。
客席も豪華で、ジェンヌ、元ジェンヌだらけ。タカホでもそうでしたが、美しい人たちがてんこ盛りで眼福。いちいち名前を挙げられないくらい、花組だけでなく他の組の人たちも、卒業生もいっぱい来てました。
あんだけ一同に生ジェンヌを見られる空間ってすげえや。
みんなきれいで美しくて可愛くてカッコイイんだけど、そのなかでも印象的だったのが。
宝ホでお見かけした、みとさんの凛とした美しさ。あーゆー大人の女性に憧れる。
で、この第一ホテルの客席にいた、みつるの格好良さ。……アレ、絶対女子ぢゃねええ。芸能人のオトコノコだよ! リアルにカッコ良すぎてびびった。
客席のあたたかい空気。「見守る」という言葉が相応しい。大きな手のひらが、舞台をそっと包み込むような感じなの。
もちろん手拍子・拍手でノリノリで、笑い声や歓声なんかも上がるんだけど。
愛情が、双方向性。
矢印が両方から伸びて、さらに暖色の光になっているみたい。
ココにいること自体が、気持ちいい。
ここ……客席。この、同じ空間。
絶対的な愛情と、「タカラヅカ」という共通言語を持った共同体、ゆえの閉鎖空間。
女神が抱きしめる歌惑星の上。
そして、歌声が響き合う。
音と音が関係しあい、揺らし、響く。
音楽とは、ひとと関わることなんだ。
空気が揺れて音となり耳に届くように、なにかしら関わり合って、歌は存在する。生まれる。
そんなことを、思った。
個人の歌もいいんだけど、やっぱ圧巻は、ハーモニー。
まっつ×だいもんの、「アランフェス」の波状効果。
トリオで歌う「アイガッチャ」のノリ、「Bye Bye Blackbird」のキュートさ。
そしてなんといっても、「ジュピター」。
宝ホでは聞こえていた歌詞が、すでにわからなくなった、わたしのなかで。
意味のある言語として変換できず、ただ「美しい音」として脳内に響く。
「声」の至福。その贅沢さに酔う。
この調和を聴くために、はるばる9時間もバスに乗って(笑)、東京まで来たんだ。で、さらに9時間バスに乗って帰るんだ。(びんぼー人は新幹線に乗れません)
彩音ちゃんがひとりで「春風のように」を歌っているときの、緑色のライトをまぶしく見つめた。
や、アクセント的に少しだけだけど、緑色のライトがまざっているの。
『Ever green』というタイトルに相応しく、清々しい、若々しい光。
ぎんいろと、みどりいろのひかり。
それが美しくて、清らかで、……そしてなんだか、かなしかった。せつなかった。
お別れなんだ。これが最後なんだ。……そんな思いがこみ上げてくる。美しければ美しいほど。
彩音ちゃんの笑顔が清らかで澄み切っているほど。
花園を卒業していく人たちは、みんなみんな透き通るほど輝くもんなあ。
彩音ちゃんは最後まで、キラキラに笑っていました。
涙をこぼしていたとしても、笑っている。
笑顔と、あのかわいい声とで、感謝と幸福の言葉を、あたたかい言葉を、何度も何度も繰り返していました。
この聖少女を、わざわざ泣かせるんだから、まっつめ……(笑)。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』最終日。
……結局遠征しちゃいました、辛抱たまらなくて(笑)。
「過去の相手役と子猫ちゃんトーク」(そんなコーナー名はナイ)にて、まっつは『マラケシュ』で「遠野あすかに吹っ飛ばされたところに『大丈夫ですか』と声を掛けられ一目惚れ、結婚する役」を演じたと、そのあとの『パレルモ』でも「彩音に片思いの役」だったと語る。
大好きだったよ、ウラジミール@『マラケシュ』。女の子に簡単に吹っ飛ばされる軟弱な弁護士(笑)。そして、女の子に助け起こされ、かばわれてしまう軟弱な弁護士(笑)。
『パレルモ』のセンターパーツの八の字眉ヘタレまっつ@10代の少年(笑)も大好物だった……。
それもこれも、彩音ちゃんがとても可憐で美しいお嬢様だったからこそ。このお嬢様なら、この優男が惚れてもさもありなんというか。
そんな「過去の相手役」まっつが、ピアノ伴奏場面で「彩音のピアノでこんな風に歌うことはもうないんだと思うと……」胸にこみ上げるモノがあった系のことを言っていると、まっつを見つめて言葉を聞いていた彩音ちゃんが、泣き出した、らしい。
や、わたしには見えませんでした。彩音ちゃん、まっつを向き直って……つまり真横をカラダごと向いていたので、わたしの席から表情まで見えず。
しれっと語っていたまっつが、これまたしれっと、「大丈夫ですか?」と言い出したのよ、彩音ちゃんに向かって。
まっつがわざわざ指摘するから、彩音ちゃんさらに泣き笑いみたいになっちゃって……。
大丈夫ですかぢゃねえよ、このS男(笑)。
自分で泣かせといて「大丈夫ですか?」(ですます調)って!!
まっつ、いいキャラだ……。
そして彩音ちゃん、かわいー!
でもってまっつの「姫」呼び。まっつがあの声で、彩音ちゃんを「姫」って呼ぶんですよ。前観たときは「彩音姫」って呼んでたけど、今回は「姫」だった。
うっわーうっわーうっわー。
クールまっつのですます調+姫呼びですよ、これって、なんのプレイ? ハァハァ。
まっつ的には相当ニヤニヤしていて、たのしそーでした。や、基本はいつものクールまっつなんだけど、まっつ比でニヤニヤ。
一方だいもんくんは、いっぱいいっぱいみたいで、トークはさらに短く、ぐたぐたに(笑)。ナニ言ってるのかよくわかんなくなってました……(笑)。彩音ちゃんは受け身で聞いているだけだし、ニヤニヤまっつは助け船出してやらないしで。
いやあ、好きだなこのトリオのトーク(笑)。だいもんがんばれ。
客席も豪華で、ジェンヌ、元ジェンヌだらけ。タカホでもそうでしたが、美しい人たちがてんこ盛りで眼福。いちいち名前を挙げられないくらい、花組だけでなく他の組の人たちも、卒業生もいっぱい来てました。
あんだけ一同に生ジェンヌを見られる空間ってすげえや。
みんなきれいで美しくて可愛くてカッコイイんだけど、そのなかでも印象的だったのが。
宝ホでお見かけした、みとさんの凛とした美しさ。あーゆー大人の女性に憧れる。
で、この第一ホテルの客席にいた、みつるの格好良さ。……アレ、絶対女子ぢゃねええ。芸能人のオトコノコだよ! リアルにカッコ良すぎてびびった。
客席のあたたかい空気。「見守る」という言葉が相応しい。大きな手のひらが、舞台をそっと包み込むような感じなの。
もちろん手拍子・拍手でノリノリで、笑い声や歓声なんかも上がるんだけど。
愛情が、双方向性。
矢印が両方から伸びて、さらに暖色の光になっているみたい。
ココにいること自体が、気持ちいい。
ここ……客席。この、同じ空間。
絶対的な愛情と、「タカラヅカ」という共通言語を持った共同体、ゆえの閉鎖空間。
女神が抱きしめる歌惑星の上。
そして、歌声が響き合う。
音と音が関係しあい、揺らし、響く。
音楽とは、ひとと関わることなんだ。
空気が揺れて音となり耳に届くように、なにかしら関わり合って、歌は存在する。生まれる。
そんなことを、思った。
個人の歌もいいんだけど、やっぱ圧巻は、ハーモニー。
まっつ×だいもんの、「アランフェス」の波状効果。
トリオで歌う「アイガッチャ」のノリ、「Bye Bye Blackbird」のキュートさ。
そしてなんといっても、「ジュピター」。
宝ホでは聞こえていた歌詞が、すでにわからなくなった、わたしのなかで。
意味のある言語として変換できず、ただ「美しい音」として脳内に響く。
「声」の至福。その贅沢さに酔う。
この調和を聴くために、はるばる9時間もバスに乗って(笑)、東京まで来たんだ。で、さらに9時間バスに乗って帰るんだ。(びんぼー人は新幹線に乗れません)
彩音ちゃんがひとりで「春風のように」を歌っているときの、緑色のライトをまぶしく見つめた。
や、アクセント的に少しだけだけど、緑色のライトがまざっているの。
『Ever green』というタイトルに相応しく、清々しい、若々しい光。
ぎんいろと、みどりいろのひかり。
それが美しくて、清らかで、……そしてなんだか、かなしかった。せつなかった。
お別れなんだ。これが最後なんだ。……そんな思いがこみ上げてくる。美しければ美しいほど。
彩音ちゃんの笑顔が清らかで澄み切っているほど。
花園を卒業していく人たちは、みんなみんな透き通るほど輝くもんなあ。
彩音ちゃんは最後まで、キラキラに笑っていました。
涙をこぼしていたとしても、笑っている。
笑顔と、あのかわいい声とで、感謝と幸福の言葉を、あたたかい言葉を、何度も何度も繰り返していました。
この聖少女を、わざわざ泣かせるんだから、まっつめ……(笑)。
女神と女豹と、光と波と。@Ever green
2010年4月17日 タカラヅカ 桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』、初日は現実についていくのに必死だった。
オサ様の歌を歌うまっつ、わたしの花組ファン時代まんまを象徴する彩音ちゃんと別れるのだということ。
まっつとだいもんのとんでもないハーモニー。
心臓ばくばくして、勝手に涙が出て、大変だった。
2回観て、よかったのだと思う。1回だけでは情報を処理しきれなかった。
2日目は、落ち着いていた。純粋に公演としてのコンサートをたのしむことができた。
きらきら旅立ちの歌を歌う彩音ちゃんに涙が出るけど、それはあたりまえのことだから(笑)、別として。
ヅカメドレーでは、彩音ちゃんが演じてきたそれぞれのヒロインを、コンパクトに再現してくれる。
衣装はチガウのに、それでも曲ごとにその役になる。
タカラヅカは男役中心に出来上がっており、思い出の舞台曲を取り出してみると、デュエット曲はやっぱり娘役の方が副であり、従になっている。演出でヒロインをセンターにしているけれど、限度がある。
これがタカラヅカだから、それを無理にヒロイン用に曲を書き換える必要はない。そのままのタカラヅカを、なつかしい曲をたのしんで。
ほんとうに女の子を「主役」にしたいのなら、なつかしい曲や場面を使うのではなく、オリジナルになるんだなあ。
ヅカ曲とそれ以外が半々なのは正しい。最初はタンゴ、後半はジャズ。でもまったく耳馴染みのない曲ではなく、ヅカでもお馴染みの曲を、新たなショーの1曲として使用。
おかげで、このMSでは「かっこいい彩音ちゃん」が満載だ。
寄り添うことが義務付けられた「大劇場の、娘役トップスター」ではできない、「主役」の姿を見せてくれる。
彩音ちゃんは『虞美人』のよーな、まさに寄り添い系の古典的な娘役なんだろうけど、本人の性質とは別に、確実に、「かっこいいオンナ」という才能も持っていた。
黒トカゲ@『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』や黒キハ@『太王四神記』がハマる、硬質かつ妖艶な美貌。
それを「真ん中」として「前へ」解放した姿が、とんでもなく気持ちいいMSだった。
いやもお、「アイガッチャ」がかっこよすぎて。
黒タキの男たちがそれぞれキザりまくり客席を釣りまくる、花組伝説の男祭り「アイガッチャ」。それを、娘役の彩音ちゃんを中心に、再現する。
彩音ちゃんが女豹サマ全開に、セクシーにワイルドに吠える。美男ふたりを従えて。
男たちもこれみよがしに流し目、セクシーボイス解禁。3人とも本気で色気を武器に歌い出す。客席を回り、釣りまくる。
たたみかける歌声の快感。
まっつとだいもんの声は、合う。ふたりの声が同質の響きを持って、重なり、追いかけ、波のように広がる。
そこにただひとりの女声、彩音ちゃんがかぶさる。
彩音ちゃんは歌がうまいわけではまったくないが(ごめん)、男たちの声に載せるのがうまい。男たちの声を押しのけて自己主張する声ではないんだ。
だから響き合う。3人の歌声。
それが「アイガッチャ」、セクシーワイルド、好戦的な欲望全開、さあ酔えと煽られる。
気持ちよすぎるから、そんなの!
その他、ジャズパートではもお、3人のハーモニーが気持ちよくて。
主役+ヒロインでハモるヅカソングとは、響きの作り方がチガウよね。
そして、圧巻の、「ジュピター」。
ゆるいトーク・コーナーが終わり、まっつとだいもんが退場したとき、ああこれで彼らの出番は終わりなんだなと思った。
残り1曲は彩音ちゃんのための書き下ろし曲、MSタイトルにもなっている「春風のように」。これを歌い終わって、あとはアンコール曲1曲でエンドだな。
彩音ちゃんMSなんだから、アンコール曲も彩音ちゃんひとりだろう、当然。『巴里祭』だって、アンコールはまっつひとりだった。
それまでがカラードレスばっかだから、お約束の白ドレスで締めて終了だな。まっつたちは最後のお辞儀くらいは出てくるかな。
と、思っていたのに。
最後の曲がさわやかにキラキラと終わり、礼を繰り返して退場した彩音ちゃん……鳴りやまない拍手のもと登場したのは、白い変わり燕尾の男たち。え、君たちも出るんですか、と驚いていたら、純白ドレスの彩音ちゃん登場。
アンコール曲は、プログラムにない。アンコールがあるのはお約束とはいえ、プログラムにはあらかじめ記載されていない。
それが、「ジュピター」だった。
この、曲が。
それまでも酔わせてくれた、3人のハーモニー。
重なり合う声のエクスタシー。
それがとんでもない集中力のもと、解き放たれる。
「音」という快感。
確実に音を刻むまっつ、豊かに通らせるだいもん、そして、男たちの声に載せ、つかず離れず声を出す、彩音ちゃん。
まるで、女神のように。
祈りのように。
音が響き合う。声が重なり、波となる。
ざわざわと、鳥肌立つ感覚。
ひとりの声ではない、重なる声の力。
まっつと、だいもん。「歌ウマ」と呼ばれる男たちが、本気で声を重ねると、ここまで来るのか。これほどまでに、響き合うのか。
調和する。
広がる。
振動は波動となって空間を満たす。
女神のもと、祈りが満ちる。
静かな光が、満ちる。
震撼。
予想だにしなかった、クライマックス。
ひとりでなく、出演者全員で作り上げる、最高の音楽。
誰が主役ではなく、それぞれが持てる力を解放して。
それが「桜乃彩音」のステージ。
彼女の選んだ、彼女のためのミュージック・サロンの、クライマックス。
歌声の力に圧倒された客席から拍手をあびつつ、あのかわいいはにかんだ笑顔になった彩音ちゃんは、タイトルになっている曲「春風のように」を「みんなで」歌って終わると言う。
さっきひとりでヒロインらしく歌った歌を、まっつとだいもんも加えた3人で歌って、このステージは終幕する。
……マジで、考えてなかったんだ。このMSがこれほどのクオリティを持つなんて。
そりゃまっつとだいもんは歌唱力に定評がある。でも彼らは所詮脇役だし、主役は歌が不得意な彩音ちゃんだし。退団MSなんだから、ファン・アイテムでしかないんだから、クオリティなんか二の次、興行することにのみ意味がある、てなもんで。
考えてなかった。
なんかすごいもん、観た……つか、聴いた……。
ところで、「春風のように」の作詞は稲葉くん? ツッコミたいこと満載だぞヲイ(笑)。
オサ様の歌を歌うまっつ、わたしの花組ファン時代まんまを象徴する彩音ちゃんと別れるのだということ。
まっつとだいもんのとんでもないハーモニー。
心臓ばくばくして、勝手に涙が出て、大変だった。
2回観て、よかったのだと思う。1回だけでは情報を処理しきれなかった。
2日目は、落ち着いていた。純粋に公演としてのコンサートをたのしむことができた。
きらきら旅立ちの歌を歌う彩音ちゃんに涙が出るけど、それはあたりまえのことだから(笑)、別として。
ヅカメドレーでは、彩音ちゃんが演じてきたそれぞれのヒロインを、コンパクトに再現してくれる。
衣装はチガウのに、それでも曲ごとにその役になる。
タカラヅカは男役中心に出来上がっており、思い出の舞台曲を取り出してみると、デュエット曲はやっぱり娘役の方が副であり、従になっている。演出でヒロインをセンターにしているけれど、限度がある。
これがタカラヅカだから、それを無理にヒロイン用に曲を書き換える必要はない。そのままのタカラヅカを、なつかしい曲をたのしんで。
ほんとうに女の子を「主役」にしたいのなら、なつかしい曲や場面を使うのではなく、オリジナルになるんだなあ。
ヅカ曲とそれ以外が半々なのは正しい。最初はタンゴ、後半はジャズ。でもまったく耳馴染みのない曲ではなく、ヅカでもお馴染みの曲を、新たなショーの1曲として使用。
おかげで、このMSでは「かっこいい彩音ちゃん」が満載だ。
寄り添うことが義務付けられた「大劇場の、娘役トップスター」ではできない、「主役」の姿を見せてくれる。
彩音ちゃんは『虞美人』のよーな、まさに寄り添い系の古典的な娘役なんだろうけど、本人の性質とは別に、確実に、「かっこいいオンナ」という才能も持っていた。
黒トカゲ@『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』や黒キハ@『太王四神記』がハマる、硬質かつ妖艶な美貌。
それを「真ん中」として「前へ」解放した姿が、とんでもなく気持ちいいMSだった。
いやもお、「アイガッチャ」がかっこよすぎて。
黒タキの男たちがそれぞれキザりまくり客席を釣りまくる、花組伝説の男祭り「アイガッチャ」。それを、娘役の彩音ちゃんを中心に、再現する。
彩音ちゃんが女豹サマ全開に、セクシーにワイルドに吠える。美男ふたりを従えて。
男たちもこれみよがしに流し目、セクシーボイス解禁。3人とも本気で色気を武器に歌い出す。客席を回り、釣りまくる。
たたみかける歌声の快感。
まっつとだいもんの声は、合う。ふたりの声が同質の響きを持って、重なり、追いかけ、波のように広がる。
そこにただひとりの女声、彩音ちゃんがかぶさる。
彩音ちゃんは歌がうまいわけではまったくないが(ごめん)、男たちの声に載せるのがうまい。男たちの声を押しのけて自己主張する声ではないんだ。
だから響き合う。3人の歌声。
それが「アイガッチャ」、セクシーワイルド、好戦的な欲望全開、さあ酔えと煽られる。
気持ちよすぎるから、そんなの!
その他、ジャズパートではもお、3人のハーモニーが気持ちよくて。
主役+ヒロインでハモるヅカソングとは、響きの作り方がチガウよね。
そして、圧巻の、「ジュピター」。
ゆるいトーク・コーナーが終わり、まっつとだいもんが退場したとき、ああこれで彼らの出番は終わりなんだなと思った。
残り1曲は彩音ちゃんのための書き下ろし曲、MSタイトルにもなっている「春風のように」。これを歌い終わって、あとはアンコール曲1曲でエンドだな。
彩音ちゃんMSなんだから、アンコール曲も彩音ちゃんひとりだろう、当然。『巴里祭』だって、アンコールはまっつひとりだった。
それまでがカラードレスばっかだから、お約束の白ドレスで締めて終了だな。まっつたちは最後のお辞儀くらいは出てくるかな。
と、思っていたのに。
最後の曲がさわやかにキラキラと終わり、礼を繰り返して退場した彩音ちゃん……鳴りやまない拍手のもと登場したのは、白い変わり燕尾の男たち。え、君たちも出るんですか、と驚いていたら、純白ドレスの彩音ちゃん登場。
アンコール曲は、プログラムにない。アンコールがあるのはお約束とはいえ、プログラムにはあらかじめ記載されていない。
それが、「ジュピター」だった。
この、曲が。
それまでも酔わせてくれた、3人のハーモニー。
重なり合う声のエクスタシー。
それがとんでもない集中力のもと、解き放たれる。
「音」という快感。
確実に音を刻むまっつ、豊かに通らせるだいもん、そして、男たちの声に載せ、つかず離れず声を出す、彩音ちゃん。
まるで、女神のように。
祈りのように。
音が響き合う。声が重なり、波となる。
ざわざわと、鳥肌立つ感覚。
ひとりの声ではない、重なる声の力。
まっつと、だいもん。「歌ウマ」と呼ばれる男たちが、本気で声を重ねると、ここまで来るのか。これほどまでに、響き合うのか。
調和する。
広がる。
振動は波動となって空間を満たす。
女神のもと、祈りが満ちる。
静かな光が、満ちる。
震撼。
予想だにしなかった、クライマックス。
ひとりでなく、出演者全員で作り上げる、最高の音楽。
誰が主役ではなく、それぞれが持てる力を解放して。
それが「桜乃彩音」のステージ。
彼女の選んだ、彼女のためのミュージック・サロンの、クライマックス。
歌声の力に圧倒された客席から拍手をあびつつ、あのかわいいはにかんだ笑顔になった彩音ちゃんは、タイトルになっている曲「春風のように」を「みんなで」歌って終わると言う。
さっきひとりでヒロインらしく歌った歌を、まっつとだいもんも加えた3人で歌って、このステージは終幕する。
……マジで、考えてなかったんだ。このMSがこれほどのクオリティを持つなんて。
そりゃまっつとだいもんは歌唱力に定評がある。でも彼らは所詮脇役だし、主役は歌が不得意な彩音ちゃんだし。退団MSなんだから、ファン・アイテムでしかないんだから、クオリティなんか二の次、興行することにのみ意味がある、てなもんで。
考えてなかった。
なんかすごいもん、観た……つか、聴いた……。
ところで、「春風のように」の作詞は稲葉くん? ツッコミたいこと満載だぞヲイ(笑)。