最後に宝塚観光花火大会を見たのは、いつだったろう。

 宝塚の花火大会は、わたしが生まれてはじめてナマで見た、参加した、花火大会だった。
 そのころはまだ淀川花火大会はおろか、その前身である水都祭すらなかった、はずだ。
 PLの日本一の花火大会は有名でも、北大阪在住の子どもが見に行けるよーなイベントではなかった。

 だから緑野ファミリーが参加する花火大会は、宝塚花火大会だった。

 花火大会の日は、家族4人で宝塚ホテルに宿泊した。
 ファミリーランドで遊んで、花火大会を見て、そのまま宝ホにお泊まり。……片道1時間半の阪急沿線に住んでいながら、なんでわざわざ宝ホに宿泊していたのかは、謎だ。
 1家族でツインルームふたつ取って、わたしは弟と同室だった。小学生ふたりで1室。隣の両親の部屋でルームサービスの夜食をいただいてから、寝るためだけに自分たちの部屋に戻る。や、河川敷で花火見ながら屋台の焼きそばだのお好み焼きだのでなし崩しに晩ごはんだから、結局ルームサービス取ることになるのな。

 宝ホでは花火大会の日は毎年、ホテル内に露店が出ていて、小判を使って遊ぶことが出来た。「宝塚ホテル」と刻印された黄金の小判が金券代わりで、1000円で5枚購入できるんだったかな。つまり、小判1枚が200円換算。
 両親から小判をもらって、露店でゲームをして遊ぶのが毎年の楽しみだった。余った小判は持って帰って、また来年使おう、と。
 弟は昔からかわいいもの好きで、特にブタの小物が好きだった。輪投げで小さなかわいいピンクのブタちゃん置物をGETすべく、姉弟そろってがんばったなぁ。……わたしは別にブタはどーでも良かったんだが、姉の面子に懸けて、ゲームで弟に負けるわけにはいかなかったので。

 そのときの持って帰った小判、そして戦利品のブタちゃん。たぶん、家のどこかにあるはずだ。

 大人になって、マジなヅカファンになるまで、わたしにとって「宝塚」は家族で遊びに行く行楽地であり、「宝塚ホテル」は花火大会のときにお泊まりするところで、小判で露店だ(笑)。

 宝塚歌劇は子どものころから母親に連れられて観に行っていたけれど、べつにぜんっぜん、ファンではなかったので。
 ファミリーランドの中にある娯楽のひとつでしかなかった。今日は動物園、次に来るときは歌劇、その程度。

 
 ええ。
 今のわたしにとって花火大会というと淀川花火大会であり、「えー、今日ムラで花火大会あるの? 人混みがうざいから陽が暮れる前に帰ろう」とか、「その日って宝塚花火大会の日でしょ? 電車混むだろーから観劇は別の日がイイ」とか言って、思いっきり、避けていた。
 観劇のついでに花火♪ とか思わない。

 今のわたしにとって、「宝塚」は「タカラヅカを観るところ」であって、花火を見るところぢゃないんだもの(笑)。

 ついでに「宝塚ホテル」とゆーと、「お茶会」なんだもの(笑)。

 花火は、淀川で見るからいい。規模がチガウので、盛大な花火大会を知ったあとでは、ささやかな花火大会を見るガッツがなかった。

 
 だからもお、いったいいつから見ていないんだろう、宝塚の花火大会。
 
 
 結局、今回も雪組は週1ペースで観劇。
 毎週末ごとにムラにいるよーな、いないよーな。や、週末にムラへ行けば、誰か友人がいるので。某ゆみこファンは必ずいるし(笑)。

 それでなんか、花火大会も見ることになった。

 人生最初に見た花火大会だから、ソレをスタンダードだと思い込んでいた。
 宝塚花火大会は、「1発数秒打ち上がると、そのあと何分間スポンサーの宣伝アナウンスが流れる。待ちくたびれたころにまた数秒花火が上がり、そのあと数分間宣伝アナウンスが流れる」という、ものすごいものだった。
 これを「スタンダード」だと思い込んでいたので、水都祭をはじめて見たときに感動した。「花火が途切れず次々打ち上げられる! 宣伝アナウンスが流れない!!」と。

 宝塚花火大会が特殊で、他の花火大会ではそんなことはありえないのだと、ずーーっとあとになってから知った(笑)。

 その印象が強すぎて、宝塚花火大会に興味が薄かったことも、事実。

 あののどかな時代はそれが通っても、情報化社会の現代であんな「大人の事情」丸出しの花火大会はやっていられないだろうから、たぶん宝塚花火大会もふつーの花火大会になっているだろう、とは思っていたけれど。

 宝塚花火大会って、淀川の10分の1くらいの打ち上げ本数だよねえ?
 それって、どんななんだろう?

 と、思っていたら。

 なるほど、予算の少なさは、演出でカバーしていた。

 1発花火が上がると、それに合わせて音楽が鳴るの。
 音楽に合わせて、1発ずつ、花火が上がる。

 淀川では1発ずつなんてまず、ありえない。10数発は続けてっつーか一気に上がる。花火が重なり合って夜空一面を覆う。

 宝塚では、そんなもったいないことはしない。花火は重ならないよう、順番に打ち上げ、音楽とアナウンスで「物語」を作る。

 おおお。

 なるほど、うまいわー。
 打ち上げ数が少なくても、予算がなくても、それを誤魔化す……というと言葉は悪いが、そーゆーことにとらわれないで観客を楽しませる方法はあるんだ。

 
 で、やはり「タカラヅカ」を思う。
 昔に比べれば、今は娯楽も多様化し、加えて不況で、公演に潤沢な予算はつぎ込めないんだろう。
 それでも、要は創意工夫。
 ショボく見せない演出をすることは、できるはずだ。

 花火を見ながら、浴衣姿のカップルたちの間で、わたしとnanaタンは結局のところ、タカラヅカの話をしていた。
 贔屓のこと、公演のこと、人事のこと、「宝塚歌劇」ということについて。

 たかが娯楽、たかがタカラヅカ。
 だけどわたしたちは、タカラヅカに一喜一憂している。

 贔屓が、ジェンヌたちが、幸福であれと願う。
 キレイゴトだけでは済まない世界なのかもしれないが、それでも、ひとりひとりが豊かなジェンヌ人生を送り、その姿を見守ること自体が「夢を見る」ということなんだ。舞台の上、物語の上だけが夢なのではなく。
 宝塚歌劇団に夢を見るということなんだ。

 咲いては消える花火を見ながら。
 夢の街で、夢の劇場のある場所で、考えても仕方ないことを、大真面目に語り合った。

  
 無料開放された劇団駐車場で、「こんないい場所が無料なんてすごい」「人も少ないし、なんて快適」と感動しつつ、宝塚花火大会を改めて体験いたしました。
 や、大人だからPLも淀川も、どんだけ殺人的に混みまくり、また見やすい場所が有料当然なのも、身を持って知っているので。
 宝塚花火大会は、それらに比べると人は少ないし見やすいし、規模が小さくてもストレスのなさを優先したい人にはもってこいですよ。

 
 無料観覧席入口でもらったパンフレットを、大事に持って帰ったのは、家族に見せるためです。
 宝塚花火大会に行ったのよ、すごいでしょ、なつかしいでしょ。

「やっぱえんえん宣伝聞かされるの?」
 家族の第一声は、全員同じ。みんなほんと、トラウマなのね(笑)。
 もうすっかり忘れていたが、わたしは「サンバデジャネイロ」を聴くと嘉門達夫の声で再生されるんだ……。

 昔つきあっていた友人とドライブするとき、なんか必ずってゆーくらい、BGMが嘉門達夫で。
 わたし自身は嘉門達夫には含みも興味もないんだが、その人のおかげで当時発売済みのアルバムほぼ網羅って勢いで聴いてしまった。

 キムくんのオラオラな銀橋で、脳内が嘉門達夫再生だなんて、なんてこったい……。

 という、ショー『RIO DE BRAVO!!』

 公式ポンポン発売で物議を醸した公演。

 ポンポン買うの? ポンポン振るの?
 雪組観劇っつーとみんな、まずこの壁にぶち当たった。

 「世界のほとんどはゆみこファン(注1)」なので、わたしの周囲では「ポンポンは買って当たり前、振って当たり前」な人も多いが、それ以外の雪担でない人たちは静観って感じだ。買ってないし、振ってない。
 わたしもいちおー雪担ではないので、買っていない。
 初日にはポンポンを振っていたが、借り物である。「持ってないしー、買ってないしー」と言ったら、周囲のゆみこファンたちがこぞって貸してくれたのである。(他人に貸し出しOKなくらい、複数購入済みらしい)

 まあわたしも、自分の贔屓組だったら買ってたと思う。フタ桁観劇するとわかっているなら、ないと寂しいと思うし。
 雪組は贔屓組の次に通っている組なので、今回もきっと何回かは観劇するだろうとは思っていたが、観てみないとわかんないし……と、とりあえず購入は見合わせ。

 (注1)気が付くと、わたしの周囲のゆみこファン率はえらいことになっている。どりーずと呼ぶ身内には変わらずひとりだけだが、それ以外で出会う人知り合う人がみんなみんなゆみこファン、という勢い。わたしの周囲という狭い範囲だけで判断すると、「世界のほとんどはゆみこファン」である。

 初日は客席のファン率が高いと思うが、それほどポンポン率は高くなかったと思う。FC席はわからないが、わたしの周り(1階S席半ばくらい列)では6分の1くらい?
 持っていないと寂しいくらいポンポン強調して、「さあみなさん一緒に」と盛り上がるのかと思っていたら、そんなことはなくて、拍子抜けした。

 舞台からの声掛けはなく、ファンが察して自発的に振る、という感じ。
 声掛けを待っていたらいつ振るのかわかんなくて、振っている人を見てから「ああ、振っていいんだな」と判断したかな。
 しかし、ひとりで振るのは勇気がいる……(笑)。わたしの両隣もそのまた隣も、みんなみんな持ってないんだもの。4つ5つ離れた席のふたり連れが持っていて、斜め前の人が持っていたかな。そんな分布図では、盛り上がるのは大変。なにしろ初日、みんな勝手がわかっていない。

 初日の「ポンポン感想」は、なんだ、なくてもいいんじゃん、だった。

 たしかに、考えればわかることだけど。
 「ポンポンを持っていないと、疎外感を味わう」ような作りだと、団体客や一見さんに来てもらえなくなる。そのアーティストのファンしかいかないコンサートとはちがい、タカラヅカには観光客という一見さんが何割かを占めているんだ。
 そんな一見さんたちを明らかに疎外する、一部のコアファンの盛り上がりを見せつけるのは、どうかと思う。

 だから、舞台から「さあ、みんなでポンポン振るよー」と仕切らないことは、当然っちゃー当然なんだろう。
 ……それでもポンポン、売ってるんだよね? 振って盛り上がってね、という趣旨なんだよね?

 そのことに、なんつーか半端なものを感じつつ。

 
 次に観劇したときは、すでにポンポンは売り切れ。

 これによってなおも客席の二分化は進む。

 ポンポンを持っている人→初日近くに観劇済み(もしくは事前購入済み)の組ファン、リピーター。
 持っていない人→出遅れたファンを含む、その他一般客。
 ひとめでわかる客席ファン分布。

 売っていないのだから、ポンポンを振っている人は初日よりさらに少なかった。
 東京からわざわざやって来たドリーさんは参加型の人なので(笑)、花担であるにも関わらず「ポンポン振るわよ~~」と意気込んでいたのに、売っていなくて残念。
 
 このまま在庫切れが続けば、ますます「ひとめでコア雪組ファン度がわかる」客席が続くのかな。
 それって劇団的にファン的に、いいことなのかな?

 公式グッズとしてポンポンを販売するのは、なにしろ最初だから試みとしてやってみるのはアリだと思うけど、公演開始数日で売り切れて、大方の観客の手に入らないんじゃ、やった意味があるんだかどうだか。

 「絶対振りたくない、振らなければならない状況になるのは嫌」と思っていた人には、のぞましい状況かな?

 わたしはほんと、どっちでもいいんだけどな。
 複数観劇するなら、購入して参加するし、1回だけの一見さんポジなら静観。自分は参加しないけど、している人をどうこうも思わない。

 あー、2回目の観劇で、アタマの上でポンポン振ってアピールしているグループがいて、さすがに「あの人たちの後ろの席は嫌だな」と思ったが……舞台見えないよ、あれは。
 ふつーに自分の身体の前で振るのは、アリぢゃね?

  
 結局、芝居が好きなので複数観劇することになり、それならポンポンも振ろうかな、と思ったけれど、売り切れてるから参加できないや。
 追加発売されても、もうわたし的には間に合わないかな。

 あー、ショー自体はわたしには特にどうということもない、ふつーのショー、という感想。
 贔屓組なら楽しくリピートできるんじゃないかな。
 耳馴染みのある曲も多いし、わかりやすくて明るいし。

 パピヨン風呂敷 衣装は、どうかと思いますがね。ジェンヌって大変だわ……。しみじみ。

 
 あ、注1だけで、2以下がないや。まぁいいか。

 で、今さらだが、みなこちゃん、娘役トップスターおめでとう。

 みなこちゃんがトップだとわかったときにはいろいろいろいろおどろいたが(笑)、雪組娘役トップスターとして、水くんの相手役として輝いていってほしいと思う。

 トップお披露目公演、といっても、やっぱなんつっても最初に目にするのが芝居の方だから、大野せんせの『ロシアン・ブルー』でスタートを切れてよかったんだと思う。

 イリーナ役は、今のみなこの魅力を最大限引き出す役だと思う。

 みなこの魅力であるスタイルの良さをがつんがつん打ち出してくる、衣装。
 あのマキシスカートの制服はいいよね。すげーかっこいい。ドレス姿も腰の位置の高さに惚れ惚れする。
 タイトな髪型と、タイトな衣装、タイトな性格の役ってのがイイ。
 お披露目で余裕のないところを、「そーゆーキャラ」として受け止められる。

 てゆーか、ツンデレはいいよね。

 お堅いところからはじまって、徐々に等身大の女の子の面が見えてくる設定は、なめらかだ。

 アルバート@水しぇんに対してだけでなく、ネコタンズに対しても、最初は上司orリーダーっぽいのに、実はいじられキャラだと判明するあたり、うまいよな。
 女性が見て反感を持ちにくいキャラにしてある。

 お歌は、その、正直びっくりしたが。ここまで歌えなかったのか、と(笑)。
 でもわたし的に芝居>歌なんで無問題。

 
 最初に芝居でちゃんときれいだったりかわいかったりするところを見ているので、次のショー『RIO DE BRAVO!!』は「2番目に観るもの」であり、多少難があっても大丈夫。

 てゆーか、2番手娘役としてショーに出た経験のないみなこちゃんだから、1場面のセンターに立って場を吸引する経験なんか、皆無だよなあ。

 娘役って大変だ。
 男役がひとつひとつ段階踏んで経験して身につけていくものを、全部すっ飛ばして真ん中に立たなきゃなんないんだ。

 経験不足が、まんまショーでは出てしまっている。

 だから『RIO DE BRAVO!!』は、さゆちゃんとひろみちゃんが、ヒロイン寄りのポジションにいる。
 トップスターに寄り添うヒロイン、というのではなくて、「作品」を支える女性の位置にいるってこと。

 娘役のさゆちゃんは別格キャラを盛大に打ち出して、みなこちゃんとは立ち位置が違うことを示し、水しぇんの相手役を務めるひろみちゃんは男役だから、なにをやってもみなこちゃんとは立ち位置が違うことを示している。

 いろいろ工夫して、新トップコンビを盛り上げようとしているんだなー。サイトーくん、がんばってるなー。

 
 ちぎくんも加わっているし、新しい雪組がますます楽しみに……って、あああ、次は植爺かよ!!(アタマ抱え。すでに次のラインアップ出てからこの日記書いてまっつ)
 今回キムは、どーしちゃったんだろう。

 『ロシアン・ブルー』において、雪組3番手男役キムの役付きは、決して良くない。ぶっちゃけ悪い。
 今までの彼が担ってきた役割からは、考えられないどーでも良さだ。

 グリゴリー・アレクサンドロフ@キムはその他大勢のひとりで、大野くんのヲタクうんちくを表現するためだけに登場するうちの、ひとり。
 ひろみくんやあゆちゃんの役と、役割的にはなんら代わりはない。気を遣ってセンターで踊らせてもらっているだけで。

 しどころのない役なのは確かだが、それにしたって、どーしちゃったんだろう?

 グリゴリー氏の、薄っぺらさは。

 実在の人物である以上、その背景はいくらでも存在する。どーゆー人でなにをしてなにを考えてその時代を生きていたか。
 そーゆー外側のことではなく、この『ロシアン・ブルー』という舞台の上での、キャラクタとしてのグリゴリーという人物の、キャラクタが、見えてこない。

 もちろん、与えられた出番と台詞で表現してはいる。
 陽気でお調子者で考えナシ、パワフルで善良。
 持ち前の華と押し出しの良さ、明るさで、その他大勢のひとりながら、堅実に仕事はこなしている。

 でもそれってなんか、すごく表面的っていうか。
 書いてあることをそのまんま、自分の持っているものだけで表現しました、っていうか。
 その持っているものっつーのも、引き出しのかなり上の方にいつも置いてあるヤツで、「はいはい」と即席に出してきたってゆーか。

 余裕っぽく見えながらも、なにかしら苦しんで苦しんでその結果出してくる、いつものキムくんの芝居ではないっていうか。

 手を抜いてるとか努力していないとか思っているわけではまったくなく、ええ、そんなこと絶対ありえないとわかっているけれど、それとは別に、目に映るものに疑問を持つ。

 どーしちゃったんだろう?

 
 『ロシアン・ブルー』は良くできた作品だ。
 だが、その「良くできた」所以は、登場人物を記号化することで成り立っている。

 たった1時間半の芝居で、80人の役者になにかしら役を付けて、歌って踊って起承転結つけろっててのは、至難の業。
 どこかはあきらめて、どこかは手を離して、できるところだけでまとめなきゃならない。

 やたらめったら出てくるたくさんのキャラクタは、実在の人物だったりなかったりしつつも、ちゃんと名前と所属があってそれぞれ舞台で歌い踊り小芝居し、「キャラクタがある」と思わせている。
 レビュー団のメンバーだったり、ネコタンズだったり、悪者チームだったり、役割いろいろ、役がたくさんあって出番があってミュージカルナンバーがあってステキ。

 されど彼らはほんとーのとこ、「キャラクタがない」んだ。
 レビュー団のメンバーだったり、ネコタンズだったり、悪者チームだったりと、それらしい「記号」があるだけ。
 わかりやすく役割ひとつだけにしぼり、イメージしやすくしてある。

 主人公のアルバート@水くん、ヒロインのイリーナ@みなこちゃん以外は、ぶっちゃけ「記号」なんだよね。

 わかりやすいところでいうと、2番手が演じる執事ヘンリー@ゆみこちゃん。
 彼の役目は「萌えキャラ」「アルバート様の執事」である。アルバートとの「親友以上・妻未満」な関係も含めて、わかりやすく記号化されている。
 彼のキャラクタ、存在はアルバートに関係する部分のみで、ヘンリー個人の物語・人生は必要とされていない。
 アルバートを彩るパーツであり、アルバート抜きには存在しない。

 水ゆみは『マリポーサの花』でも似たような人間関係を演じているけれど、エスコバル@ゆみこには、彼自身の物語と人生が垣間見えた。ネロ@水のために生きているとしてもだ。

 だけど記号であるところのヘンリーには、そーゆーディープな面は見えない。
 今、舞台にあるヘンリー(と、アルバート)を楽しむのみだ。

 それがいけないと言っているわけではなく、この作品には、それが必要なのであって、作品に合わせた演技をしているからすげえよなってことなんだな。

 『ロシアン・ブルー』は、そーゆー距離感で演じ、構築してある。

 
 だからグリゴリー@キムもまた、記号である。
 いわゆる「音月桂」にイメージされる記号。
 キムの引き出しの、いちばん浅いところでまかなえてしまう記号。

 本来2、3番手が演じるべきラスボスを、組長代理のハマコが演じてしまい、キムには回ってこなかった。
 アテ書きすると、キムではない、キムには演じられない、と判断されてしまったんだろう。
 そしてキムは、その他大勢のひとりとなった。

 グリゴリーという、あるいは「音月桂」という「記号」を演じるキムは、とても簡単に見える。
 今までいろんな役を演じてきて、今さらこんな簡単な役を与えられるとは思わなかった、と見えるほどの簡単さ。
 だってそこにあるのは「音月桂」で、キムが求められた記号はソレだったから。

 そして、記号化したときに求められるモノが「ソレ」でしかないっていうは、役者として、どうよ?

 なんか、ちょっと途方に暮れる。
 
 たしかにキムには、できないというか、苦手な役がある。
 だけどそれを意に介さないほどの実力と、別の魅力がある。
 彼のポジションが上がるにつれて、そーゆー意味での「仕事」をこなしてきていたから、安心していたんだ。
 「たしかに、おっさんとか狭い意味での大人の役は出来ないけど、そんなの関係ないくらい、別の役ができるんだから無問題」……そう思っていただけに、今さら「音月桂といえばコレだろ」な記号しか与えられなかったのかと思うと、悲しくなる。
 え、そんな評価なの? と。

 与えられた記号がずばりそのまんまなので、グリゴリーさんってば、なんかすげー薄っぺらいっす。
 ありものだけでまかなっている感じが、もお。

 キムは、額面通りの仕事を真面目にしているんだと思う。
 求められているまんまの、うんちく表現のその他大勢華担当として、きっちり仕事をしている。

 でも今さら、キムにこんな仕事を求めることに、疑問を感じるよ。
 大野くんの、キムへの評価ってこんなもんなのか。
 なんか、しょぼんだわ。

 
 ……いやその、全部わたしが勝手に感じ、勝手にほざいているだけなので、真実とも現実とも程遠いのでしょうが。

 グリゴリーはキムへのアテ書きではなく、キムを使って記号を作るとグリゴリーになったんだと思う。

 よく似たキャラで、フィラント@『君を愛してる』があるが、こっちはキムへのアテ書き。

 似ているけれど、そもそもカテゴリがまったく別次元。
 『ロシアン・ブルー』に引っかかるのは、大野くんのうんちく満載な部分と、方向性の見えなさ具合だ。

 うんちく垂れるのに必死で本筋がわかりにくくなっているところまではご愛敬だが、そのうんちくゆえにラストがハッピーエンドではなくなっているのは、どうかと思う。

 罪のない軽いコメディならば、ラストはわかりやすいハッピーエンドであるべきだ。
 そこに至るまでがうんちく垂れ過ぎていて、「罪のない軽いコメディ」と乖離しているが、それでも終わりよければすべてヨシ、最後が大団円なら全部誤魔化せる。
 なのに、最後もうんちくうんちくして、大団円にならない。

 てゆーかコレ、悲劇エンド?

 と、観客に首を傾げさせるのは、まずいんぢゃないの?

 魔法によってラスボスを倒したアルバート@水とイリーナ@みなこは、生きる立場の違いから、結局は別れることになる。
 この別れ、ラストに、思わずぽかーんとした。

 えーっとコレ、悲劇エンド? 今まで「罪のない軽いコメディ」だと思って観ていたけど、実は悲劇モノだったの?

 ラストでふたりが別れたからアンハッピーと言っているわけじゃない。
 別れたって、その近い未来に幸福が見えていれば、ハッピーエンドだ。

 しかし、『ロシアン・ブルー』の場合、幸福は見えているか?

 否。

 このあとアメリカとソビエトは冷戦に入る。
 ふたりがあっけらかーんとラヴラヴできる時代ではない。
 政治家と官僚が、「わたしたち、遠距離恋愛なんです」という理由だけで米ソを自由に行き来できる時代ぢゃないぞ、東西冷戦。

 実際、わたしたちはその後の歴史を知っている。アルバートが……アルバートのような人が……大統領になってアメリカを、世界を変えることが2009年の現在に至ってもあり得てないことを、知っている。

 これはフィクションなのだから、現実と照らし合わせてどうこういうのは間違っている。
 史実がどうあれ、この物語世界では、軽く明るくふたりはしあわせになったのよ、とすることはできる。

 だがそれは、描き方の問題だ。

 同じ題材でも、描き方によって受け取り方は変わる。
 最後に主人公カップルが別れるのに、それでもハッピーエンドにするためには、それなりの描き方をしなければならない。
 彼らが生きている世界が、「明るく軽く」ゆるい展開で終始しなくてはならない。
 きちんと「嘘」を作らないといけないんだ。

 魔法使いたちの物語で、いざとなったら魔法でちょちょいと困難を乗り越える、そーゆーゆるいかわいい世界を、きちんと構築しないといけない。

 実際、いちばんの危機を魔法で乗り切っているのだから、そーゆー「ファンタジー」要素、「ズル」が罷り通る世界観であるはずなんだ、この物語は。
 バカバカしいけどたのしい、「惚れ薬で解決ってアリかよ?!」と突っ込まれる、だけどそれが変じゃない、その解決法が観客にとって「裏切り」にならないだけの「異世界」を構築し、成り立っているはずなんだ。

 それなら、たとえ別れ別れになっても、悲劇エンドにはならないはずだ。
 国際情勢がどうなろうと、魔法使いの彼らには関係ない、だって魔法でホウキを飛ばすことだってできるんだし、と。
 別れていても、あれはハッピーエンドだろう、と。
 ふつーならそう思うはずだ。

 だが、しかし。

 ハッピーエンドとするには、「魔法で解決」と未来に夢を見るには、大野くんのヲタクうんちくが、邪魔をしているんだ。

 いちいちリアルに社会情勢、史実を踏襲し、解説し、歴史上の人物をこれみよがしに登場させ、その背景を語り、彼らを使って実は辛辣なテーマを語り、「だってコレ、ファンタジーだもん」という世界観に水を差している。
 ここまでいちいちうんちくうんちくしていなければ、主人公たちが「魔法使いだから大丈夫」とラストに無責任な希望を感じられるけど、挿入されまくっている世界情勢が無駄にリアルで小難しくて解説過多だから、リアルと切り離して考えられない。

 大野くんがヲタクなのはぜんぜんいいんだが、知識をひけらかすのに夢中で、それが作品のファンタジー観に水を差していることに、気づいているんだろうか。
 「罪のない軽いコメディ」で深く考えず楽しめる作品である、というならば、うんちくを控えるべきところでは、控えるべきだった。

 このままだと、なまじそれまでが「罪のない軽いコメディ」だと思って観てきた分、ラストの未来のなさに、これって実は、ブラック・コメディだったのか!(白目)となってしまう(笑)。

 
 ついでにいうと、この結果には組のカラーも関係している。
 多少大野くんがヲタク全開に作劇しても、「魔法で解決」というアホアホな展開にバカッパワーがあれば、細かいことをぶっ飛ばしてどっかーんと力業でゴールにたどり着くことができる。
 スクリューボール・コメディの前作『ヘイズ・コード』でのイメージで、「これくらいなら大丈夫」とか思っちゃったのかな?
 でもアレは、星組だから。
 あのどっかーんな勢いは、星組のカラーだから。

 雪組はなんつーかーもー、真面目ですから。

 他組が不真面目という意味ではなく、雪組が生真面目で堅実なの。
 今回もコメディなのに、すっげー真面目に演じている。
 それは、トップスターの水くんのカラーなのかもしれないが、それにしたってまあ、背筋を伸ばして両膝を合わせてかしこまって坐っている、感じのコメディっぷりだ。

 はちゃめちゃどっかーん(アニメなきのこ雲)な舞台ではないのよ、雪組だから。
 大野くんが思っている以上に、ヲタクなうんちくが物語に影を落としてしまうのよ。

 雪組で上演する以上、もっとうんちく度を下げるか、あるいは出来事を派手に「ありえねー!」の連続で盛り上げて、その勢いのままにエンドに持っていった方が「スクリューボール・コメディ」らしかったと思う。
 それこそ、最後主人公カップルがホウキに乗って飛んでいくくらいの、アホアホっぷりで。

 アホアホ展開にはせず、変におしゃれにまとめてしまったから、しあわせ感が小さい、爽快感のないラストシーンになってるんだよなー。
 や、おしゃれですよ。ええ、きれいですよ。
 でもその「小さくまとまった」きれいさってのは、今回のラストシーンに必要だったのかな?
 別の作品なら、それで良かったんだけど。

 
 『ロシアン・ブルー』はえらく散漫な作品になっている。
 大本営発表の解説と、大野くんのやりたいことが、ズレているせいかな? それは確信犯を狙ってスベったのか、無意識でとっちらかってしまった結果なのか、知りたいものだ(笑)。
 
 って、好き勝手言ってるけど、よーするにこの作品好きなの(笑)。
 ヲヅキがカッコイイ話をしよう。

 こんな日が来るとは思わなかった。
 いや、すでにテッド・ヒントン@『凍てついた明日』はものごっつーかっこ良かったが、本公演ではなにしろ阿呆なマフィア@『マリポーサの花』だの蟻の脳みそ@『ZORRO 仮面のメサイア』だったりしたからさー。

 『ロシアン・ブルー』のユーリ・メドベージェフ@ヲヅキは、目を疑う二枚目ぶりです。

 いついかなるときも、ひとりだけシリアス。二枚目。
 悪役たちすら愉快に歌い踊るこの物語で、ただの一度も相好を崩すことがないユーリ先輩は貴重種です。レアです。

 なにしろ愉快な物語なので、いくらひとりシリアスったって、彼が登場している場面は愉快な場面も多くて。

 最初にラスボス@ハマコとその一味がラインダンスをはじめるときも、ユーリ先輩はひとりクールに脚を上げているし。

 あの嫌そー……というより、俯瞰し、あきれている風情がたまりませんな。
 すごい低体温に仕方なく混ざっている感じがステキ。

 と、思っていたら、そのあと。

 レビュー団の稽古場に、イリーナ@みなこにくっついて行ったときのユーリ先輩が、実はいちばん好きです(笑)。

 舞台中央でなんやかんやともつれている大人数からひとり離れて、壁際に突っ立っているスーツの男。

 あの場違い感。やることねー、という感じ。

 表情変わらないし、動き少ないし。
 ただ「いるだけ」なんだけど、最後までシリアスなキーパーソンだとわかった上で見ると、楽しくて仕方ない。
 初日はほら、「いつかお笑いキャラに砕ける?」と思いつつ見ていたから、なんとも思ってなくても、2回目からは「ユーリってああいう人」ってわかって見るわけじゃん?
 最後までひとりドシリアスな男だとわかっていると、そんな彼が愉快痛快なドタバタ芸人たちの喧噪に巻き込まれる姿は、すげープリチーですよ?!

 芸人さんたちは、彼にあまり構わないの、最初。
 もう少し興味を示すなりなんなりしてくれてもいいのに、つーくらい、空気。
 それがよーやく、女の子に声を掛けられたり、それを「いらん」と意思表示したりして。
 場がさらに盛り上がり、断り切れなくなったユーリは、やはりここでもラインダンスに混ざることに……!(笑)

 なんでこいつらすぐにラインダンスなんだ……!
 とゆー嘆息の見えるつまんなさそーな顔で、それでもちゃんとキラキラ付き山高帽持って、一緒に踊るんだよね。

 このときのうざそーな、でもやるべきこと(ダンス)はちゃんとやってる「任務一途」な感じがステキ。

 そーだよねー、諜報員だってことは知られてはならないから、場の成り行きでダンスもしなきゃねー(笑)。エーベルバッハ少佐だってチロリアンダンスを踊るんだもん、ユーリ先輩もラインダンスくらい踊らなきゃねー。

 で、踊り終わったあとの、さらにうざそーな感じもまた、溜まりませんな。うはうは。

 
 そして、「いい男」をいい男たらしめる要因のひとつに、「彼を愛している人間」の存在が必要です。

 キャラの説明をするとき、本人に「オレはカッコイイ男だ」と言わせるより、他人の口から「あの人はほんとにカッコイイわぁ」「あこがれちゃう」と言わせる方がよりわかりやすく、説得力がある。
 だから、ユーリの格好良さを表すためにも、彼に傾倒している別キャラを出す必要がある。どれほどたくさんの人に愛されているか、あるいは数ではなくどれほど強く深く愛されているか、を作中で表すことによって、「いい男」度が上がる。

 つーことで、ユーリのことを愛している美青年将校@そらくん登場ですよ。

 ナニがあったんだこのふたり、過去に?!

 と、ワクテカさせる配置です。
 ユーリは上官の不正を告発して軍を追われたらしいので、そのくだりでなんかあったんでしょうが。

 美青年将校くんは結果的にユーリを見捨てることになっちゃったのかなー、と勝手に思ってます。
 正しいことをしていたとしても、和を乱す者は結果として居場所をなくすんですよ。ひとりだけ悪事やいじめに荷担しないと、そのグループにはいられなくなるの。
 自分を守るために正しい者を排除するのは、社会生活をする大人には必要な場合、仕方ない場合が、残念ながらある。

 将校くんは、ずっとそのことを気に病んでいたんだろうなあ、と。

 正しいことをした友人を助けられなかった、見捨ててしまった。そして自分は、安寧とした生活を守り続けている。

 まあそんなことはともかくとして(描かれていないし)、問題はそらくんの、片想いっぷりですよ!

 あの超美形くんが、ヲヅキに片恋してんですよ今回。(役名で言いましょう、誤解を受けます)

 再会した将校くんの、ユーリへの想いの残しっぷりが愉快です。

 そうか、こんな美形に惚れられているのか、求められているのか、それほどの男ってことだな、ユーリ!と。

 まあ、ぶっちゃけそらくんが演技アレ過ぎるんで(笑)、想像で補う部分も大きいんですが(そらくんはビジュアル担当なんで演技力は問われません)、脚本に描かれているその役割はしかと受け止めました!

 大野せんせの、こだわりホモがこんなところに(笑)。

 『ヘイズ・コード』でも本編とも主役とも無関係なところにガチホモがいてウケまくりましたが、『ロシアン・ブルー』でもやってくれるのかー。お約束なのかー。
 ポイントは、BLというよりさ○っぽい、ガタイのいい男が絡むあたりですかね(笑)。

 攻スキーなわたしは、ヲヅキがほんとにいい攻男になってくれて、うれしくてなりません。


 とまあ、いろんな意味で、ヲヅキがカッコイイという話です。はい。
 『ロシアン・ブルー』観劇後、友人のドリーさんの第一声は、「ヲヅキ、かっこいい」だった。

 さもありなん。
 その通りですとも。

 んで、一通りヲヅキの話をした次に、言ったことは。

「ハマコ、2番手」

 …………さも、あり……なん……。
 そのとお……り、……だよなあ?

 
 物語のラスボスのニコライさん@ハマコは、素晴らしいです。
 歌う悪役、ラスボスはこーでなくっちゃ!という、気持ちの良さ。
 派手で押し出しが良く、確実な華があり、ややこしい説明台詞も歯切れ良く耳障り良く、なにより歌声が素晴らしい。

 舞台の中央でどーんと歌い踊ることに、なんの違和感もないスターっぷり。

 ハマコの正しい使い方。
 彼の体内楽器が楽々と鳴り響き、2500人劇場を易々と満たしてしまう。

 楽々で易々だもんよ。
 無理している風、いっぱいいっぱいな風はカケラもない。70~80%の出力で勝ってしまってる感じ。

 ハマコはすごい。
 この役はハマコならでこその存在感、魅力を得ている。

 このハマコが大好きだ。
 彼がどーんと歌い出したとき、胸が高鳴り涙が浮かんだ。あああ、こんな状態があんまり続くと恋に落ちるからやめてー(笑)。もともとわたしハマコ大好きなのに、これ以上好きにさせないでー、本気にさせないでー、と戸惑うほどステキ(笑)。

 このハマコが大好きで、ハマコで良かった、ハマコでなきゃこのすごさは出ない、と思いつつ。

 
 この役は、2番手がやるべきだろう。

 ……と、思う。

 物語をバラして骨組みだけにした場合、必要な役は主役とヒロインと、この悪役のみだ。
 ぶっちゃけ、あとの役はなくてもいい。

 悪役が名前だけのそこに立っているだけの役だというなら、ストーリー的に重要でも2番手の役ではないが、このラスボスさんときたら、センターで歌って踊って、ヒロインとキスまでしちゃうのだ(コメディ場面とはいえ)。
 この役に銀橋ソロ一本付けるだけで、遜色ない2番手役だよ。

 本来2番手がやるべき役じゃん、コレ。
 主人公の敵役なんだから。

 ラスボス@ゆみこで、執事@キムが正しい番手配分?
 でもこれじゃ『ZORRO 仮面のメサイア』と同じになってしまうので(あんな紙芝居と比べるのも口惜しいが)、それなら執事@ゆみこのままで、ラスボス@キムにするべきだったよな、せめて。

 たしかに水の執事がゆみこというのはオイシイ。
 アルバートの執事がヘンリー、ではなく、水の執事が、ゆみこ。
 このふたりはそーゆー関係で描くことによってより魅力が高まる。
 キャラ萌え、スター個人の資質・魅力に頼ったキャスティングは、座付き作家の仕事。
 だから、コレは正しいと思う。

 ゆみこが執事なのは当然、正しいとも思っている。

 だけどやっぱり。
 2番手格の役を副組長にやらせ、2番手に「萌え担当」なだけの役をやらせ、あまつさえ3番手は「いなくてもいい役」をやらせるのは、どーかと思う。

 大野せんせも「専科さん偏愛」が目立つ人だよね。実力主義ってことかもしれないけれど、確実な仕事の出来る人を多用してしまう。
 脇の下級生とかで隠れた実力派を使うのはアリだけど、なんでもかんでも専科さんや組長さんクラスに振ってしまうのでは、組子の活躍の場が減るってこと。……それでも文句が出ないくらい役が多くてごちゃごちゃと下級生にも出番があるからスルーされてるのかもしれんが。
 でも、いつもいつも、専科さんの比重が大きいよな。(今回の偽書記長@汝鳥伶様は他に代えがきかないとしても)

 そして、まあ。

 ゆみこちゃんならこのラスボス役も、配役されたらちゃんとそれなりにやり遂げただろう(ハマコとはまったくチガウ、二枚目系になっただろうし)けど、配役されても出来ないだろうと思わせるキムこそが、実は地味に問題かもしれないと思ったナリ……。

 キムは華のあるスターさんで、その押し出しの強さと実力から「ヘタするとハマコ系」な危惧だってあったんだけど、でもいざこーゆー「やーらしいおっさん悪役」ができるかというと、「……やめておいた方がいいんぢゃね?」と思わせるところが、ネックかなと。

 ハマコに2番手やらせてる場合ぢゃないよ。
 ここで「いなくてもいい役」だとか「その他大勢のなかのひとり」だとかを、3番手がやらされている現実が、実はいちばんイタいことだったりする。
 できないキムも悪いけどさ……でも大野くん、ちょっと容赦なさ過ぎ。

 ハマコが2番手、であることに対し、問題は2番手のゆみこより、3番手のキムにあるよなーと思う。
 (キム語りはまた欄を改めて・笑)。

 
 初日に、この物語のラスボス攻略法を見たとき、千秋楽に期待したんですが。

 千秋楽は、薬を飲ませる相手、変更するよね? ね?

 頼むよ水しぇん!
 頼むよハマコ!
 同期愛だ、行け行けGO!GO!

 オレに水×ハマコを見させろ~~!!(笑)
 この作品を迷わず混乱せず楽しめる鍵は、わたしの視界の中心にいるのが水夏希だっちゅーことでしょう。

 『ロシアン・ブルー』は大野くんらしいヲタク全開な作品であるため、散漫過ぎて「たのしいけれど、結局よくわからない」に陥りがち。
 ヲタクはヲタクでもサイトーくんと違って、大野くんのヲタクっぷりはうんちくヲタクなんだよね。本編に関係ない、むしろ関係があると難解になって有害なうんちくを山ほど詰め込んであるため、主軸がわかりにくくなっている。

 この作品を観てすっげー思ったのは、『ポリスノーツ』みたいだ……ってこと。
 や、仲間たちに「言われてもわかんないから」と即却下されたんだが、昔、そーゆーゲームソフトがあったのよ。SFうんちくてんこ盛りっちゅーか、SFうんちくの合間にストーリーがある、みたいな本末転倒作品が。うんちくは別項目で選択して読むよーになっているにも関わらず、それらを全部上から下までいちいち選択してスクロールして「読んだ」フラグを立てないと次に進まないという……知らなくてもどーでもいいことをえんえんえんえん読まされ、制作者の自己満足をまんま押しつけられて閉口したという。

 『ポリスノーツ』に似ている……イタい……イタいよ大野くん……(笑)。

 うんちくに足を取られて思考停止すると、そこでもう本筋から落ちこぼれてしまう。や、ストーリー自体は単純なものだからついて行けても、キャラクタの心情がわからなくなるんだが、ポイントはアルバート@水くんに注目すること。
 そーすりゃ迷わずにすむよ、このRPG。

 ごちゃごちゃした他のことは全部スルー。魔法使い一族とか、執事とかメイドとかレビュー団とか、政治とか時代背景とかも、全部スルー。

 ただ、アルバートだけを見る。

 何故彼が今、ここにいるのか。
 アメリカの下院議員の彼が、はるばるモスクワまでやってきて、単純でアタマ悪そーなレビューを上演しようとしているか。
 そして、その現在の彼の行動を、イリーナ@みなこちゃんに「まがいものね」と一刀両断され、ヘコんでしまうか。

 自分自身が内心疑問に思っている、でも見てみないふりをしている部分を、会ったばかりの女にずばりと突かれたら……そりゃ痛いわ。
 そりゃ、その女が「特別」になるわ。
 なまじ、その女の外見というか第一印象が、けっこー好み(本人は「悪くない」と表現していたが)だったとしたら。そのあとにぴしゃりとやられたら、キモチのアップダウンで吊り橋効果抜群だよな。

 まがいもの、と言い捨てられ、軽蔑されたあとに、彼女に対して自己確認も含めて言い訳をしているのは、彼女に「悪く思われたままでは嫌だ」というキモチの現れであって。彼女に関心があるからであって。
 ガチガチ官僚としての顔ではなく、年相応の若い娘の顔で笑う姿を「かわいい」と思ったりして。

 アルバートが、イリーナに惹かれていく課程は、きちんと描いてある。

 まだ無意識レベルの好意だったのが、「惚れ薬を飲んだ」という前提による思い込みでタガが外れた。
 本来時間を掛けて育んだり自覚したりすることが、惚れ薬ならぬ偽薬効果、ステキにプラシーボ、一気に炸裂。
 共に単純……もとい、純粋な性格ゆえに効果絶大。

 そーやって「薬のせいで恋愛しちゃったよ、どーすんだ俺」ってときに、彼女の危機を聞き、素直に走り出してしまう。薬のせいだからと自分に言い訳して、でもたしかに薬の力で自分に素直になって。

 アルバートだけを視界の中心に、彼の恋を出会いから成就までずーーっと眺める分には、なんの問題もない。
 いちいち段階踏んで、確実に丁寧に、ぶっちゃけ「お約束」過ぎるほどありがちなレンアイをしているんだ、彼は。

 なのになー。
 それ以外がごちゃごちゃし過ぎていて、わかりにくい。
 こんなにシンプルな他愛ない恋愛モノなのに。アルバートがナニ考えてるのかすら、伝わりにくいってどーよ。

 だがしかし。
 その、ごちゃごちゃし過ぎていてわかりにくい、主役の恋愛事情以外のあれこれ、こそに、この作品の魅力があるとも、思っているがな(笑)。

 周囲のごちゃごちゃも楽しみ、かつ、アルバート中心の視界も楽しむわけだから、一粒で何度もオイシイんだよなー。
 

 心ない笑顔@虹色ライト付き、が得意技だという政治家アルバートさん。
 政治家やってる彼の原動力が、「みんなのしあわせ」であるという、シンプルな事実。
 迫害された一族の末裔だから、今もなお本性を隠して生きなければならないから、そんなマイナスの立場の人間だからこそ、自分たちも含めどんな人も人種も民族も差別されることのない社会を作りたいと、政治家を目指すど真ん中さ。
 世界征服のために幼稚園バスを襲ったり、ちまちま詐欺やったり密輸したりするんじゃなく、知事選に出馬する某特撮の悪役が異色だったよーに、物語の中では「政治家になる」なんて方法を取るのは正攻法過ぎてめずらしい。
 
 みんなのしあわせ、という、口に出すと気恥ずかしい陳腐な夢のために、大統領を目指して奮迅しているアルバートさんを、好きだと思う。

 目的のために下世話になりすぎて、そのことを気にしつつも見て見ぬふりして、でもやっぱり気に病んでいるどっちつかずさを、好きだと思う。

 聖人君子ではなく、いつも微妙に公私混同しているところ、好きな女の子のために、また改めて大統領という目標を確認し直すところも、好きだと思う。

 愛すべき人だよ。

 彼を愛し眺めることで、この作品のイタいところは全部まるっと許せてしまう(笑)。
 や、このどーしよーもないヲタクっぷりは、大野くんの個性だもんな。独自のカラーを持っているのは、良いことなのでは。

 とってもステキにアルバートさんを愛でているのだが、気が付くと「ジョルジュモテモテ♪」と歌ってしまうのは、何故だろう……(笑)。
 いろいろあってヘコんでおりますが、とりあえず『ロシアン・ブルー』初日の感想。

 えー、とりあえず。

 ヲヅキが二枚目だった。

 コメディなので、すべてのキャラクタがなにかしら愉快なことになっている。
 シリアスな人たちも、演出で愉快に歌い踊ったりしている。

 そんななかで、ヲヅキひとりが、ドシリアス。

 すすすすみません、最後まで疑っていました。いつヲヅキは三枚目になるんだろう、と。

 今は二枚目でドシリアスだけど、きっとそのうちお笑いになるんだわ。そーに違いないわ。
 そう決めつけて見ていたら。

 最後まで二枚目でシリアスだった。

 唯一。
 他の人たちすべてがコメディなのに、ヲヅキひとりが別世界。
 マジで二枚目。マジでシリアス。

「革命が俺を裏切っても、俺は革命を裏切らない」
 ……だっけ、決め台詞付き。

 ぽかーん……。

 どどどどうしよう、ヲヅキがかっこいいよおおっ。

 あーびっくりしたびっくりした。

 そもそも幕開け、踊るロン毛ヲヅキをオペラグラスでロックオンしてぼーっと眺めていたら、気が付いたら、センターに水しぇんがいた。

 いいいいつの間に水しぇん現れていたの?! ヲヅキ眺めてたら、見逃してた?

 あーびっくりしたびっくりした。

 や、ヲヅキさんの出番はすげー少ないです。「あたしヲヅキ見逃した?」と不安になるくらい、出てきません。
 でもその不安なくらい少ない出番のヲヅキが、不安になるくらいかっこいいです(笑)。

 それにしても、重要な仕事だなあ。
 少ない出番で存在感を刻まなくてはならない。軍服とスーツを着こなし、「あれってさっきの人だよね」と観客にわからせるだけの、一定レベル以上の男役芸を必要とする。
 モブに混ざってしまってはいけない。主要人物だと、この人をおぼえておかなければならないと、観客に無言で教えなければならない。

 こんな役を任せられる男に成長したんだねえ、ヲヅキ……。あのアフロ犬が……。(『スサノオ』新公参照)

 
 さて、大野先生の新作、「スクリューボール・コメディ」第2弾。
 わたしは「ゆみたんの役はねー、執事なのおおぉぉ♪」「ゆみたんが水先輩の執事~~ハァハァ」と耳元で騒ぐゆみこファンの一方的な予備知識のみで、ストーリーも舞台設定もナニもわかっていないまま観劇しました。

 ええ。時代背景も舞台もなにも知らず。

 幕間、ポンポンを持って戻ってきたわたしに隣の席の年輩のご婦人が「それって、持ってないとダメなんでしょうか」と声を掛けて来られたところから、少々お喋りしたんだが。

「さっきのお芝居、ぜんぜんわかんなかったんですけど……」

 と、困惑されていたのを見て、「そうですね」と力強く肯いちゃいました(笑)。

 その昔魔力を持った人々が、時の権力者に迫害されて逃げていった。アルバート@水とイリーナ@みなこはそれら魔族の血を引く者たち。それぞれアメリカとロシアで、魔力を隠して生きながらえてきた彼らは、1930年代のモスクワでそうとは知らずに再会し、惹かれていく。
 が、とりあえずふたりは現社会では敵同士。イリーナはアルパートをアメリカのスパイと疑い、アルバートはアメリカでのステップアップにモスクワでの成功が必要、互いの仕事に互いが障害。それゆえ惹かれている事実も自他共に否定。
 ところがふたりに共通の敵が現れたことから共同戦線、アルバートとイリーナも、彼らの仲間たちも一緒になって悪者を倒し、総ハッピーエンドへ。

 ……ストーリー自体はね、難しいものでもなんでもないの。
 なにしろ魔法が出てきてクライマックス解決!な、他愛ない話だから。

 すごーく他愛ない、子ども騙しっつーか、「いいのかソレ(目が点)」系のトンデモ話なのよ、ほんとうのところ。

 それが。

 大野くんのヲタク根性全開で、えらいことになっている。

 大野くんソコこだわるところぢゃないから!! 大劇場で、夏休みで、一見さん相手にやることぢゃないから!!

 いやあ、ウケました。

 まずね、1930年代のロシアが政治的に文化的にどーゆー状態だったか、その基礎知識がないと、このシンプルな勧善懲悪モノすら、観客は理解できません。
 「どーしてあの人たちが悪役なの?」「なにが障害なの?」「どうして敵対しているの?」ということすら、知識がないとわかんないの(笑)。

 舞台にはいつもものすごい数の人間が出たり入ったり歌ったり踊ったりしていて、どこを見てなにを聞けばいいのかもわからないまま、話だけが進んでいく。

 またこの「いつもものすごい数の人間」たちが、ただのモブではなく、それぞれ名前もキャラもあって、独自にわいわいやってるのよー。だから「本筋がどれで、背景がどれなのか」わかりにくい。

 2500人劇場の座付き作家がすることは、日本人の馴染みのない国の馴染みのない時代の馴染みのない社会の仕組みを背景にした、それゆえに起こる「障害」と「ソレを乗り越える話」ではなく、誰でもわかるシンプルな「障害」と「ソレを乗り越える話」でしょう。
 ストーリー自体は他愛ないものなんだから、それが起こる背景も他愛ないものにすればいいんだ。時代や社会を絡めずに、誰もが知っている世界をナンチャッテでいいから借りて(ナンチャッテ中世、ナンチャッテファンタジーとか、いろいろある)、直感的にその背景や役割までもわかる作品にすればいいのに。
 その単純な物語を、どれだけオシャレにセンスよく歌とダンスで彩るか、に作家性を懸けて。

 なのに大野せんせは、彼特有のこだわりとヲタク全開で、観客置いてけぼり。
 「この時代背景とキャラの背景について、知性のない人は理解できなくてヨシ」な作り。……知識ではなく、「知性」なところがイタい。
 「理解できない」と言いにくい雰囲気があるの(笑)。

 そしてさらにこまったことに、台詞と歌が判別不明の人、多すぎ。

 膨大な設定を、もちろん台詞で解説しているんだが、なに言ってんだか聴き取れないんだわー。これは致命的だわー。

 芝居が終わったあと「なに言ってんのか、ぜんぜん聴き取れなかった」「音響のせい?」「座席位置のせい?」と、首を傾げながら通路を歩く人たち多数。

 やー、もー、えらいことになってるなあ。
 大野くん、やっちゃったなあ。

 
 とゆーことで。

 『ロシアン・ブルー』大好きですよ、という話。(えっ?!)

 「わからなかった」と言う人がいることも、「そうですね」と肯いちゃうくらい、納得できる。そしてなんでそう思う人がいるのか、欠陥もよくわかる。

 が。

 初見さんにやさしくない、上演する場所を間違えているってだけで、コレ贔屓組だったら絶対たのしーぞー(笑)。
 いや、もお、しみじみと、真風の顔って好みだわ、と思った。

 星組『太王四神記 Ver.II』にて。

 とくにフィナーレ。ダンスがへろへろでも関係ないのよ、だって顔の話だもん。
 水くんの顔が好みど真ん中なわたしには、真風くんの顔もまた好み過ぎるのです。

 だから頼むよ、うまくなってくれ。いろいろ、いろいろと(笑)。

 まっつ巴里祭と同じ日時だったので新公はさくっとあきらめたけど、どんなもんだったんでしょう?
 主演やらせ続けるより、脇の渋い大人の役をやらせた方が勉強になると思うんだけどなあ。
 新公主演者は次の公演で必ず、ハマコの役を演じる、雪組の法則のように(笑)。

 
 ところで今回、みきちぐが美形過ぎて、とまどいますな(笑)。

 真の悪役チョ・ジュド@みきちぐってば、ヒゲのダンディ。
 一見みきちぐだとわかんないくらいの、二枚目ぶり。

 わたしにとってやっぱ「声」は重要なファクタ、チョ・ジュドの豊かな美声が二枚目度をぐーんと上げている気がする。
 喋ってヨシ、歌ってヨシだもんな。いやはや、みきちぐがこんなにかっこいいとは。

 
 声で初日に注目したのが、カンミ城の伝令?の男。
 顔は見えなかったけど、明瞭な台詞に「ねえアレって水輝?」と星担kineさんに尋ねたところ、正解だと返事をもらえました。
 
 水輝の役付きの悪さはいつも不思議でならないが、少ない台詞でちゃんといい仕事してるよなあ。
 横顔しか見えないから、座席によっては顔見えないんだよなー。丸いフェイスライン(笑)と声しかわかんなかったよ。
 あとはヒゲ部だしさー。水輝のヒゲはあまりときめかない……(笑)。
 
 
 初日には感じなかったけれど、楽近くに見たときに、スジニ@みやるりの目立たなさに、おどろいた。

 演出的には花組版と変わっていない。スジニに関しては。あのとってつけたような「花嫁衣装」もあるし、「生き別れの姉妹」ネタもある。
 なのに、花組版よりさらに唐突感が増し、「えっ、個人エピソードがあるようなキャラだったの?」と面食らうくらい、それまで仲間たちに埋没している。

 これがキャリアの差ってことか。

 スジニは4番手男役がやるよーな役ではないと思っているけれど、だからといって番手外の無名の下級生にやらせちゃうと目立たなくなってしまうんだ。
 男勝りの女、なら、パソン@コトコトもいるし、いかにもなかわいこちゃんマスコットならタルビ@せあらがいる。
 そんななか、地味できれいでもない衣装に、きれいでもない髪型(ボサボサ風?)で準ヒロインとして存在感を出せ、つーのは難しいことなんだよな、と。みやるりは目を引く美形だし、学年のわりに芝居も出来る子だと思うけれど、彼を持ってしてもこれだけ埋没してしまうんだ。
 ……って、悪いのは演出ぢゃね?

 スジニだけのことじゃないが、よーするにいつもそこに行き着くよな(笑)。

 
 贔屓のいない『太王四神記 Ver.II』は、とても冷静に、一歩下がって全体を眺めることが出来たと思う。
 それゆえに、花組版より純粋に「エンターテインメント」として楽しめた気がする。
 もちろん、脚本演出がかーなーり手直しされ、改訂されていたので心にやさしい作りなっていたせいもある。花組版のタムドクは最悪だよアレ。演じている人ではなくて、脚本が。

 脚本的に破綻しまくっていた花組のタムタム@まとぶんの、「脚本のアレさ」を覆す勢いの熱っぽい演技も愛しいし、より大味にずどーんと突き抜けた改訂版タムどん@れおんの鬼畜英雄っぷりもときめく(笑)。

 どっちがいい悪いではなく、両方楽しめて、味わい深かったなと。

 これだけ間を置かずの再演だから、感想が基本前作と比べる方になってしまったけれど、他意はない。
 てゆーか、『太王四神記』を楽しみ尽くすつもりでいたさ。両方観る以上。単品でも、比較してでも。
 2倍3倍に楽しまなきゃね。

 
 しかし。
 一度花組にも、この「改訂版」脚本でやらせてみて下さいよ、なんつーか「習作」扱いで分が悪いっつーかさー、ぶつぶつ。
 いや、もうやらなくていいけど、おなかいっぱい観たから(笑)。
 『太王四神記 Ver.II』初日でいちばんがっかりしたのは、プルキル@すずみんだ。
 舞台人としての彼の能力に期待と安心していた分、そのダメダメっぷりに落胆した。
 そうか、すずみさんにも出来ないことってあったんだ……と。なんでもそつなく及第点は出してくれる人だと思い込んでいたので。

 日をおいて観に行く楽しみのひとつは、舞台の深化を確認できること。
 天下の涼紫央が、あのダメダメなまま終わるとは思えない。すずみんはどーなっているかしら、とわくわくしていたら。

 プルキルの目に、触覚が生えていた(笑)。

 ナニやってんですか、涼さん!(笑)

 プルキル@壮くんは眉が二股に分かれていたけれど、すずみんは目尻が二股に分かれていた。
 デビルマンもびっくりだ。
 悪役化粧が行き過ぎて、化物化粧になっている(笑)。

 でもって演技もそのお化粧に相応しい、化物めいたものになっていた。
 立ち方からしてチガウ。姿勢、声色、すべて「ふつーの男役」とは変えてきている。基本ジョブが「王子様」のキラキラすずみさんが、「美しく見える技術」すべて捨てて怪演している。

 すごいなー。
 さすが、すずみん。

 それでも大劇場とこのトンデモ作品に相応しいハッタリは足りていないんだけど、役割を果たすために「美しさ」を捨ててくるところに舞台への誠実さと、役者の誇りを感じた。

 自分が美しくあることよりも、役割を果たすことを選んだんだね。
 や、それは別に舞台人としてふつーのことで、役と真摯に向き合った結果、化物プルキルに行き着いちゃっただけで、それ以上でも以下でもないんだろうけれど。イシダ作品でおてもやんをやる子が楽しそうに鼻水まで描き込むよーなもんで、役者としては当然のことなのかもしれない。
 それでも、初日では美形悪役風だったプルキルが、どっから見ても怪しい人になっているのはGJだ。

 あまりにあからさまに怪しいので、これがお茶の間なら子どもたちが「そいつ悪モンじゃん、なんでわかんないかな」と画面に向かって身も蓋もなく突っ込んでいることでしょう。

 技術のある人が本気で新しいものに取り組むと、こんだけいつもと違ったものを作ってくるのか。
 すげぇや、すずみん。

 
 でも結果として、プルキルがヅカの悪役ではなく、ふつーに醜いラスボスになっているので、より一層「少年マンガ」になっている。
 花組版は女性向きだったなぁ、つくづく。繊細でやさしいタムタム@まとぶんと、ひたすらかっこいいホゲ@ゆーひに、どこか愉快さもある派手な悪役プルキル@壮くん、キャラの立った元気少女スジニ@みわっち、と、女性向けヲタクコミック系のノリだった。
 星組版はとにかく主役タムどん@れおんが追従を許さない強さで、ホゲ@かなめはタムどんにまったく適わないし、悪役プルキルはただの敵役の悪者だし、スジニ@みやるりはキャリアからして仕方ないんだけど、あの程度の描かれ方じゃそれほど目立たないし。「絶対いかなるときも主役が勝ち続ける」少年マンガみたいだ。

 
 でもって、少年マンガっぽさに拍車を掛けているのが、恋愛要素の少なさ。

 花組版でタムタムがキハ@あやねちゃんにベタ惚れデレデレだったのに対し、星組版のタムどんときたら。

 キハ@ねねちゃんに、それほど惚れ込んでないよね?
 好きは好きなんだろーけど、けっこー上から目線っていうか。

 足場の悪いところをふたりで歩くとき、タムタムがキハを大切にやさしく抱き下ろしてやるイメージなら、タムどんは強引に引っ張り上げるイメージ。

 男のタイプもチガウわけだから、とーぜんヒロインのキハもタイプがチガウ。

 初日にキャラが見えなくて首を傾げたねねちゃんのキハは、なんかすごく堅い人になってました。
 巫女じゃなくて、武人だよね、この人?

 カクダン@まりもちゃんよりさらに硬質な、「仕事できる女」風というか。現代物ならびしりとスーツにまとめ髪、眼鏡が必須アイテムな女史風っていうか。

 タムどんって女近衛兵たちとつきあっていそうなキャラだから、説得力はあったけどな。

 そうかタムどん、こーゆータイプ好きなんだ。

 女兵士みたいな、キビキビした堅い女。キャリアウーマン、男社会で対等に闘ってます風の女。

 タムどんみたいに基本傲慢で強い男は、こーゆー強い女を組み敷くのが楽しいのかもな。
 あ、ちなみにミョンヒョン山でのキスのあと、「ここはね」とゆーときのタムどんの声が好きだ。
 かすれてみょーに色っぽいんだコレが。口説きモード入ってんですよ。「この女オトすぜ」とか「今夜キメる」とか、この男今思ってロックオンしてるなー、という「狙い定めた」感じが素晴らしいです。
 仕事や使命に一途に生きてきた、強いお堅い女史を、年下の傲慢主人公がぱくっといただいちゃいますな、男目線のラブシーンがたまりません。

 タムタムの「女性目線でうっとりするラブシーン」とは真逆。
 花組版の作者は女性で、星組版の作者は男性だわ、きっと(笑)。

 タムどんにとっての恋愛は、彼の人生の一部でしかなく、ソレ一途ってわけじゃない。なにしろ少年マンガだから、戦いや国の方が比重が大きいんだよな。
 ……だからこそ、ラストで戦いより国より女が大事、と言い出すのは不思議なんだけど。それでも、いかにも強そうに正しそうに宣言されちゃうと「そーゆーもんか」とも思えるし。

 キハに神秘性はあまりなく、リアルなお堅い女史風だったので、サリャン@ともみんの存在が、気になります(笑)。

 キャリアスーツに知的眼鏡女史の、寡黙な秘書。ガタイの良いことが、地味なスーツ越しにもよくわかり、終始控えめに付き従いながらも、彼が女史を愛していることはなんとなくわかる……という。
 いつこの男が身分違いの愛を爆発させて、女史を押し倒すか毒殺を企むか(それってどこのアンドレ)気が気じゃない感じがいいです(笑)。

 聖なるお方に心酔している、とゆーより、生身の女に恋している感じがイイですな。このサリャンにとって、あのキハは手の届かない人ではないですよ、多分、手を伸ばせば触れられるし抱くことも出来るふつーの女ですよ。
 サリャンはクールに作っているし、どっかの堪え性のないアンドレと違って、キハに手を出すことはないとわかっているけれど、ふつーに生身と女と生身の男、という見てくれが、いい感じです。
 タムドク@れおんが、好み過ぎる。

 『太王四神記 Ver.II』にて。

 もともと、高貴かつ鬼畜キャラを演じるれおんくんは、好みだった。
 鬼畜といっても、いわゆる「悪役」じゃないぞ。れおんくんはたぶん、悪役を演じても鬼畜にはならないと思う。せいぜいS止まりで。(ex.ショーヴラン@『スカピン』)

 キーワードは、「正義」。
 悪役だと鬼畜にならない、正義の人を演じると、鬼畜になる(笑)。

 コレ、すごくね? すごいキャラクタだよね?(笑)

 わたしが好きなれおんくんキャラクタは、高貴・正義・最強と三拍子揃ったときに発動するみたいだ。
 自分が正しいことを確信しており、かつ立場的にも人より上で、堂々と正しいことを行うことが出来る。
 そーなると、すっげーキツいキャラになる。

 もっとも怖いのは「悪い人」ではなく、「自分を正しいと信じ、疑いもしない人」だ。
 悪だとわかって悪を行う人より、自分を正しいと思っている人の行う悪の方が、始末に悪い。だって「正しい」という錦の御旗があるんだもの。なにやってもOK。どんだけ非道でも残酷でも無問題。だって正義ゆえなんだもの。

 タムドク@れおんはまさにその、好みど真ん中の「正義の鬼畜」っぷり。
 正しいよ? 彼は正しい。彼は王者。それは間違いない。
 だけど、彼から漂うあの間違った感じがたまらん。

 正しいことをして、その正しさゆえに他人を追いつめるタイプの人。
 大型トレーラー驀進、足元の小石なんか蹴散らしちゃうもんね、てか。その小さな小石につまずいちゃうよーな人の気持ちは理解できないっつーかそもそもそんな人がいるなんて想像もしないとか。

 そーゆー強さ・正しさゆえの「間違っている感」が、たまらなく好きだ。

 ……とゆーふーに見えるのはわたしだけで、本当はまったく違っているのかもしれんが、他人のことなんか知らないので、わたしはわたしの目に映った萌えを語る!(笑)
 

 悪意はなくて、もしも自分の言動に傷つく人がいるとわかったら、本気で後悔して身分立場問わず頭を下げるだろう、素直さや優しさ寛大さもあって。それがわかっているだけに、なおさらその強すぎる部分が痛くて。

 悪い人に傷つけられるより、正しい人に傷つけられる方が、始末に悪い。だって「正しい」人の言動に傷つけられるってことは、傷つく方が「悪い」ってことになるもの。なにされても文句言えない。どんだけ痛くても傷つけられても無問題。だって悪いのは傷つく方なんだもの。

 この正しいタムドクのせいで、強くないホゲ@かなめくんがどんどん道を誤っていくさまが、たのしすぎる。
 タムドクは正しい。正しいタムドクの言動に傷つくのは、ホゲが間違っていて、弱いから。ホゲが傷ついているのは事実なのに、原因がタムドクであることも明白なのに、誰もどうすることもできない。
 傷つけるタムドクは正しくて、傷つくホゲが悪いの。

 もともとわたしは攻スキー。
 タムドクが問答無用の自立した攻であることが、うれしい。きょうび女々しい受子ちゃんが多すぎてさー。こーゆー攻キャラが堂々と我が道を行ってくれるとわくわくするわ(笑)。

 タムどんはきっと、まっすぐ迷わず進み続けるの。
 もちろん、つまずいたり迷ったりもする、傷ついて膝を折ることもある、それでも彼は、まっすぐにつまずきまっすぐに迷い、まっすぐに膝を折って……まっすぐに、立ち上がるんだ。
 揺るがない強さ。
 それは、この揺らぎっぱなしの世界で、ヘタレばっか跋扈している世の中で、どれほどの輝きだろう。
 彼の持つ強さ、曇ることのない光は、爪を隠さない大鷹の羽ばたく姿は、地を這うよーにしか生きられないふつーの人々の、救いとなるだろう。

 銀橋で苦悩のソロを1曲朗々と歌うタムドクを見て、この人を、好きだと思った。

 声と歌声の良さ、てゆーかマジ歌うまくね?とびびる(笑)。
 「真ん中」の似合いっぷり。
 夢の王子様とは程遠い、骨太な持ち味。
 純白とフリルは似合わなさそうだが、鉄の甲冑と武器は似合いまくるだろう。
 キラキラよりは、ギラギラ。どこか垢抜けない、無骨な漢っぽさ。
 こーゆー持ち味のトップスターもアリだろう。

 いやその、れおんくん自身はわたしの好みとはいろいろいろいろ隔たっているんだが、それなのにこんなにこんなにステキで好みに見えるっつーのはもお、どーしちゃったんだ、とうろたえるわ(笑)。

 なんにせよ、タムドク陛下はめっさ好みです。
 彼の王宮で女官やりたいっす。
 柱の陰から、タムどんが無自覚にホゲちゃま追いつめて行くところとか盗み見て、ハァハァしたいっす。
 そしてこっそり同人誌作るのよ、「国王陛下×将軍閣下」で。女官たちの間で販売する。その読者の中にはキハ@ねねとタルビ@せあらが混ざっていたりしてな(笑)。
 で、なにも知らないチュムチ@ベニーがうっかり同人誌(嫁所有)を見ちゃって「なんじゃこりゃ!!」と騒ぎ出す。真に受けちゃって大変、単細胞。
 タムどん陛下は苦笑して受け流してくれるけど、チェ・ジュド@みきちぐは本気で「不敬罪だ、首謀者を捕らえよ!」と大事にしてしまうからホゲ閣下はそれを収めるのに必死。や、ホゲちゃま的にはそんなもんの存在自体屈辱なので、騒がれたら憤死したくなるんだってば。タムどんの顔見るなり真っ赤になったりな。
 ……と、いかん、妄想が止まらない(笑)。

 
 『太王四神記』は、キャラ立ちしているので、とどのつまりは愉快な作品なんだろう。
 花組版も星組版も、わたしいくらでも二次創作できるわ。腐った話もそーでない話も(笑)。
 1幕ラストで、マジ泣きしそーになった。

 ホゲちゃま、可哀想過ぎる!!

 『太王四神記 Ver.II』が、おもしろいです。
 花組版とはまったく違った意味で、ときめきまくりっす。

 初日を観たあと花組強化月間突入で、星組まで手が回らなかったのだけど、花組祭りが先に終了したので老体に鞭打って星組を観にムラへ。
 千秋楽間もない『太王四神記 Ver.II』は、いろいろ変化しておりました。

 花組版のホゲ@ゆーひくんは、「本来は王の器なのに、生まれのせいでその道を閉ざされた人」という悲しさがありました。アンドレがもっともオスカルに相応しいのに、平民だっつーだけで結婚できないよーなもんです。オスカルをレイプしよーとしたり毒殺しよーとしたりした、あの黒アンドレのまま突っ走ってしまったのが、花組版。
 ところが星組版のホゲちゃま@かなめくんは、まあ素質はないわけでもナイんだけど、真の王タムドク@れおんの前ではただの小物でしかない、見てはならない夢を見た、可哀想な人。なまじふつーの人より優秀だった分、現実との折り合いが付かず破滅に走るしかないという。

 アンドレも可哀想だけど、まだ救いはあるのね。だってオスカルに相応しいのはアンドレだって、観客にはわかってるんだもん。
 でもホゲちゃまは、観客も本人も「君、器ぢゃないよ」とわかっているだけに、救いがないんですよ!!
 1幕ラスト、真の王の目覚めの前で「私は生まれた、同じ星の下に」と歌う姿がもお、もお。

 萌え~~っ!!

 いまだかつて、おうきかなめでこれほど萌えたことがあっただろうか、いやナイ(反語表現)、ってくらい、萌えです。

 『さすらいの果てに』のエドウィン中尉を超えました。あんときゃマジかっこいいだけだったけど、今回はそんな次元を超えている……!

 ナニあの愛らしいイキモノ!
 軽薄でイマドキなイケメンにーちゃんである、1幕前半。そっからどんどんへタレていく2幕。

 ルドルフ@『エリザベート』のときはそのへタレっぷりに絶望したけれど、今回はチガウ。弱い人だと思ってヘタレているわけではなく、強くあろうとして武人であろうとして、その苦悩っぷりが結果としてヘタレまくっている、というホゲちゃまは好みど真ん中です。
 マッカツで大暴れしているときのどーしよーもないキレっぶりとか、ステキ。

 婚約発表のとき、キハ@ねねちゃんに袖にされるところも、ツボ過ぎる。ゆーひホゲ様みたくキスしよーとして、手を伸ばしたのにスッとスルーされるのな。あの「あ……」という、やり場のない手が素晴らしい。

 こんだけ「いぢめ倒したい」、「もっと不幸になれ、もっと泣け」と思える男は貴重です。
 ホゲちゃまが可哀想であればあるほど、見ていてハァハァしますな。

 そして、彼に対しての、タムドク@れおんが、傲慢でステキなんです。

 この対する、というのは、ホゲ相手に直接どうこう、というわけではなく、対比という意味ね。

 ホゲちゃまが実際よりさらにさらに卑小な存在に見えてしまうのは、タムドクが偉大すぎるせいです。
 王の器、神に選ばれた存在であるということを、ナチュラルに体現しているの。
 別になにか特別にひどい言動をしているわけじゃないけど、タムドクは尊大なの。傲慢なの。王者であるがゆえの無神経さを持っているの。

 こんな男が幼なじみで、終始比較されてたんじゃ、そりゃグレるわ。……と、すごく納得できる。

 タムドク×ホゲで、じつはいちばん萌えるのは、テジャ城です。
 セドルたちが殺されているのがわかり、しかもその犯人をタムドクだと言い張るホゲとその一味。
 「誰も手を出すな、こいつはオレが」と言うホゲに対し、
「正気の沙汰とは思えない」
 と言うタムドクの、見下しきった態度がたまりません!!

 タムどんひでー! 他に言いようはないのか。そこまで言っちゃいますか。
 や、同じ台詞をタムタム@まとぶんも言っていたんだけど、彼は別に侮蔑の意味で言ってないもの。苦悩の台詞だったもの。
 タムどんが言うと、どうしてこうも容赦なく冷たいんだろう。わたしがホゲでも、この台詞聞いたらキレるわ。なまじ自分の方に劣等感や負い目があるだけに、上から「侮蔑」と、さらに「憐れみ」までにじませてこんなこと言われたら、もうブチ切れるしかない。

 タムどんの容赦ない鬼畜っぷりと、ホゲちゃまの空回りぶりが楽しすぎる……。

 よりわかりやすく「少年マンガ」的になったな。
 まっすぐな主役より影のあるライバルが優秀だったりするのは、女性向けジャンルならでは。花組版はタムタムがアホの子でホゲがいい男だったので、女性向けヲタクコミック系だった。「月刊Gファンタジー」とかそのへん。
 それが星組版では主役がとにかく男性的に強くて、ライバルの優男はどーあがいても主役には勝てない、少年マンガらしいキャラ立て。小学生男子が読んでも楽しい「少年ジャンプ」。
 そして、それゆえに萌え度もアップした気がする。

 ヲタク向けマンガではそうそう萌えないんだよね、作者が「萌え」を狙って描いているから、かえって萎えてしまう。
 作者がなにも考えず、ただナチュラルに「男の友情っていいよな、戦いってのはこうあるべきだよなっ」とハァハァ描いているふつーの少年マンガにこそ、萌えは生じる。

 よりシンプルに、男性的世界観であるからこそ、『太王四神記 Ver.II』はより萌える(笑)。

 ホゲちゃまは死ぬ場面より、このテジャ城~1幕終了までがいちばん泣かせるわ……。
 可哀想すぎる。
 タムどんとの対比が、光と影っぷりが際立って、容赦ない。

 2幕ですっかり出来上がってすさんでいるところも良いけれど、ホゲちゃま単品より冷酷タムどんと対峙している方が楽しい。

 タムどんにもっともっとホゲちゃまをいぢめて欲しいです。
 タムどんは強く正しい人なので、そんなつもりはまったくない善意とか誠意とかで、さらにさらにホゲちゃまを追いつめ、苦しめ、泣かせて欲しいです。

 あー、なんか久しぶりにど真ん中キター。
 んで、今さらですが『ME AND MY GIRL』役替わりの感想。

 「家つき弁護士」ダンスが、おかしくない。

 いやその、ジョン卿が。
 パーチェスターの愉快ダンスに触発されて踊る人々のなか、壮くんジョニーは、オモシロ過ぎた。
 それがいいか悪いか、スタンダードなのかどうか以前に、あまりに愉快でかわい過ぎて、客席で悶絶した……んだけど、なるほどあれは、壮くんクオリティのなせるわざで、誰が踊っても笑えるわけではないらしい。

 ジョン卿@みわっちは、ふつーに二枚目だった。

 違和感なく二枚目。ハンサム。ヒゲのダンディ。愉快振り付けでも二枚目だし、途中から足だか腰だか痛めて踊れなくなってさえ、二枚目。
 へえええ。そーゆージョン卿なんだ。

 みわっちは濃い人なんで、なにかしら濃いおっさんになるかと思いきや、正統派紳士だった。きりやんほどおっさん度も高くないし、壮くんのよーな妖精さんでもない。

 ビル@まとぶがやりすぎて崩しすぎていて、フレディ@マメが赤ら顔のおっさんで、ジャッキー@壮くんとジェラルド@まぁくんはとりあえず存在が派手な人たちで……と、そんな中でふつーに二枚目だと、なんか、ジョン卿が地味だ……。
 きれいだから、彼に注目すればたのしいんだけどな、ぱっと見の、掴みで負けがちっていうか……。
 なんかふつー。というのは、みわさんにしては意外な感じ。

 
 ジャッキー@壮くんは。
 えーと。

 おんなのひとに、みえた。

 それがいちばんの驚きだ。

 どーしたんだ壮くん、本物の女の人みたいだ! すげえ化けっぷり!!(壮一帆さんをなんだと思っているのでせう)

 ふつーに女性で、ふつーに美女で、ふつーに女王様で、ステキだった。
 すげえ肉食系っぷり。がつがつしている感じがたまらん。

 そしてやはり、動きというかダンスというか、愉快だなあ。ジョン卿のよーに身悶えする系のかわいらしさではないんだが、「ジャッキー」というシンボル的な金髪美女がする動きとして、見ていてたのしい。
 根拠があるんだかどーだかの、すばらしい自信にあふれ、自己愛がきらきらと輝き、その勢いでビルをガツンガツン誘惑する様がパワフルでたのしい。
 
 一点だけを見て爆走する感じが、ラストの転身、ジェラルドに腕を絡めてにっこにこしている姿に説得力。この女ならそうだろ、ご愁傷様(ジェラルドに)、という素直に思う(笑)。

 
 ジェラルド@まぁくんは、キャラに合っているので違和感なく。
 背の高さが唯一ジャッキーに合っているので、ふたりが並ぶのは自然に見える。
 へタレ過ぎたら嫌だなあ、と思うのは、あひくんの後遺症かもしれないな。かわいい範疇のへタレはいいが、知能発達を危ぶむよーなキャラクタは勘弁、だったもので、ふつーにかわいい青年だったのでほっとした。

 てゆーか、お似合いだよね、このジャッキーとジェラルド。身長の問題だけでなく。
 パワーバランスというか、力の押し引きというか。
 壮くんの傍若無人なパワーに、まぁくんの自然体な存在感が不思議とマッチしていて、正直驚いた。
 ビルとマリア@京さんがセンターで芝居しているときに、上手でいちゃこらしているジャッキーとジェラルドが可愛すぎて困る(笑)。

 
 でもって、初日にいろいろ思うところのあった、主役のバカップル(笑)。
 ビル@まとぶはやっぱり変顔と変声でぶっとばしていて、サリー@あやねちゃんもそれに違和感なくついていって、大変かわいらしい。

 そしてつくづく、思った。

 まとぶんって、花組男役じゃないなあ、と。

 つくづくと。しみじみと。
 わたしは今花組ファンだけど、ここ……花組にたどりついてからの歴史は浅い。だから「真の花組とは」を語る資格はないと思う。
 それでも全組まったり20年眺めてきて、組のカラーやイメージはなんとなくわかる。
 その「なんとなく」だけど、まとぶは「花組ぢゃない」と思う。

 だけど今は、まとぶんが「花組」だ。

 いい悪いとかゆー次元の話ではなく、ただあるがまま、そう思う。

 そして。
 「まとぶんってほんとに『花組』ぢゃないんだなあ」と思いつつも。

 まとぶんを、魅力的だと思う。

 まとぶんのやりすぎているコメディ芝居は好きじゃない。酔っぱらいシモンも、リナちゃん喋りのビルも、苦手な部類に入る。

 それでもなお、彼を「かわいい」と思う。「好きだ」と思う。
 ラストの「この野郎」で泣く。サリーを抱きしめるビルに、泣く。

 彼の、温度。
 彼の、心。
 それが問答無用で、伝わってくる。

 熱ってさ、伝わるんだよ。
 石でも鉄でも、熱いモノに触れていると、温度が上がっていくの。

 まとぶんはそーやって、本来冷たいモノも、熱くしちゃうんだね。熱伝導。彼の熱に、巻き込まれる。あー、昔ワタさんでコレ感じたなぁ。ときめくなぁ、こーゆーの。

 名詞ではなく動詞で「愛」を表現する男。

 あーもー、どーしよーもないなー。
 かわいいんだもんよ。好きなんだもんよ。お手上げだ。

 まとぶんは、いいトップスターだと思う。
 まだまだこれから、いろんな顔を見せてくれると思う。それがたのしみ……なんだが、あうう、次は『ベルばら』か……。
 『宝塚巴里祭2009』が終わった直後、お誘いを受けていそいそと、OSKの『レビュー in KYOTO Ⅲ』へ行ってきました。

 京都ですよ、南座ですよ。
 南座なんてあたしゃ、『必殺仕事人』以来ですよ。(それって何十年前……)

 OSK自体も久しぶりっすね。興味がないわけではなく、たんにもお、時間とお金が無くて追い切れないだけ。
 つーことで、久しぶりに観てみると。

 桜花昇ぼるって、誰。

 名前が、変わってる……。
 なんでまた……。

 ちょっと、唖然としました。
 初嶺まよ→初嶺麿代、以来の衝撃だわ。なんでそんな……と。

 より昭和的というか大衆演劇的にしたかったのかな。桜花昇、ってきれいな名前だと思ってたんだけどなー。

 日本物と洋モノのレビュー2本立て。
 日本物は置いておいて(笑)、2幕目の洋モノレビューできゃーきゃーなキモチに。

 なんかもー、次々差し出されるモノが「盛り沢山」で濃くて、すっげーたのしかったっす。

 桜花さん、高世さん、桐生さん、この3人の並びをいいと思う。
 つーのもだ、彼らひとりずつがピンで登場すると「ああ、いいなー」と思うんだ。
 桜花さんがどーんと歌っていると、やっぱこの人いいよな、と思い、次に高世氏が出てくると、やっぱ高世さんの方が好きかも、と思い、桐生さんが出てくるとやっぱ鶴橋様LOVE、と思う。
 どっちやねん! と、自分でつっこんでしまうくらい、出てくるたびに「この人の方が」と思うあたり、みんなステキなんだろうなあ。

 ふつーに美人なのは桜花さんだよね?
 高世氏は「ザ・男役」って顔立ち。てゆーか横顔すげえ。好きだわ、あのライン(笑)。
 ショップに売っていた、高世氏のミニ写真集のかっこいいこと!
 鶴橋様……もとい、桐生さんは不思議な顔立ちだなあ。素顔写真はモロ外人さんだが、舞台メイクをすると他にはない独特の顔になる。

 トップスターのみ、どーん! という作りでないためか、彼らがとっかえひっかえ登場して踊りまくってくれるのはすげえお得感。

 でもって、娘役の朝香さんと牧名さん。このふたりがまた、美しいし、かっこいいし。
 つか、基本的に娘役も「かっこいい」気がする。

 あれよあれよという間に終わってしまったのでよくわかってないんだが、2部のアラビアな場面で、美女をめぐって男たちが争う、のはよくあるパターンだけど、その男たちの後ろで、壮絶なキャットファイトが繰り広げられているのに、ツボった(笑)。

 なんだありゃ。
 アラビア~ンな王宮で、太守@桐生氏と愛人(妻?)@牧名さんがいて、旅人っぽい青年@桜花さんが美女@朝香さんと恋に落ち、この美女をめぐって太守と青年が戦うんだが……えーとふつー、争われる美女はナニもしないよね?
 なのにこの美女、太守の愛人とがんがん戦ってるの。

 ちょっと待て男たち、後ろを見ろ。女たちすげー顔して戦ってますがな、あんな女でいいの? こわいよアレ、強いよアレ、君たちがどうこうしなくても、あの女たちが自力で決着つけるんでは??

 でもって、男をかばって女が刺される、のもお約束だが、なんかぜんぜん関係なく愛人が殺されて終わったよーな?
 なんなんだこりゃ、すげー展開だなヲイ。

 とまあ、びっくり物語だったんだが、さらにものすげーことに、これらの話は全部青年の、夢でしたというオチが。

 夢オチって……?!!(白目)

 あまりのことに笑いツボ入りました。いやその、予断を許さない展開です。

 ジャズありーのスパニッシュありーのタンゴありーの、「かっこいい」ものなんでもかんでも、な感じがたのしい。

 やっぱスーツと黒燕尾が好き。わくわくする。

 人数が少ないこともあって、名前はわからなくても顔は「あ、さっきの子」とわかるようになる。過去に観た公演の記憶と照らし合わせて「あのときの子かぁ」と思ったり。
 でもって、以前観たとき娘役だった人がなんか男役になっていたよーな気がするんですが。しかもすげーきれいなんですが。ヅカでは女→男はまずあり得ないんで、名前をしげしげ見てしまった……この名前、前はたしか女の子だったはず……。それとも、前見たときは性別分化前だったのかな。

 1部の日本物は、ちょっと「どうしよう」と思うところがあり、たのしいんだけど、置いてゆかれた感あり。

 やたらと「京都」連発して土地柄を出してみたり、夏だと訴えてみたり……は、『春のおどり』で「大阪」連発していたこともあり、お約束なのかも。
 セミの鳴き声からはじまり、「真夏の桜」でくるくる回るのもアリだと思うけど。
 子役たちの場面が長すぎて、大人の演じる子どもが苦手なわたしは「いつまで続くんだろう……」と遠い目になっちゃったり、鶴橋様がありえない角刈り姿で現れたり(似合うからすごいが)、幽霊の場面が変化のないままえんえん続いたり、ものすごい水着姿が登場したり……。
 チェリーガールズという女の子5人組が何度も出てくるんだけど、銀ピカのミニスカ着物がなんか痛々しい……のはまあわたし的に許容範囲なんだが、振付が好みに合わなくて。
 せっかく振袖なのに、袖を手に巻き付けたまま踊るので、振袖の意味ナシ。ミニスカなことからもわかるよーに、「着物」である意味はないのね。ふつーに洋服着ているのと同じ。だったらなんでこんな微妙な衣装で登場させるんだろう、と首をひねる。
 せっかくの和モノレビューなのに、目に「美しい」場面が少ないような。美しさより、楽しさ優先なのかな? 解説の多さも粋ぢゃない気が……大衆的な世界観に必要なのかな。

 いちばん好きだったのは民謡対決。ちゃんと生足でした。……いやその、前に観たとき、男たちはみんな着物の下にズボン履いてて「OSKって生足見せちゃいけないの?!(がーん)」となっていたので(笑)。
 阿波踊りの人々、けっこー自由気ままに踊っていたよーな。個性の出る踊りなんだね。
 ここの盆踊りな女性たちの着物の色合いが好き。

 
 1部が終わったあとはわりと平静だったんだが、2部を観てどんどん昂揚していき、幕が下りたときはきゃーきゃーな気分に。
 たーのーしーいー。

 やっぱレビューはいいねえ。人生の潤いだねえ。

 ナマ舞台は「人」の区別がつくようになればなお楽しい、のだと知っているだけに、よくわかっていないまま観ていることが口惜しい。
 どこかに「視点」を作りたいんだが、今のところそこまでは至らず。あっち見てこっち見て、多情に過ごしているうちに終わっちゃった。

 タカラヅカを観ているときは、いろいろ考え過ぎちゃうのかなあ。なまじ「人」の区別がつくので、あーでもないこーでもない、と思うのかもしれない。
 なにもわからないままに観ると、波状攻撃受けているみたいに、ただもー翻弄されて終わる。
 あー、たのしかった、と無邪気に。
 役替わりがない?

 花組『外伝 ベルサイユのばら-アンドレ編-』配役発表。

 平成元年の『ベルばら』以降、役替わりのない本公演の『ベルばら』ってはじめて? わたしがヅカファンになってからははじめての出来事だ。まあ、『外伝』とやらを本公演でやること自体、前代未聞だから過去の例は関係ないんだろーけど。

 ええ、がっかりしてます。

 みわさんが、また女役……!!

 男役のみわっちを見せろ~~! 本公演では2作連続女役じゃないか。るいるいが性転換するまで執拗に女役をやらせ続けたよーに、みわさんにも転向を迫っているのか? と、疑いたくなるくらいの、「まともに男役をさせない」仕打ちに疑問です。
 ショーがあるから、てのは言い訳に過ぎないよ、こんだけ続くと。

 まぁくんはこの間ジャッキーやったので、めおみつの役替わりとかでよかったのに、オスカル様。めおくんはでかすぎるけど、美しいオスカル様になったろうに(笑)。←何故か笑う。みつるはここで一発女役やって、さらに芸幅を広げ、内外に名前を売るチャンスだと思うのに。
 めおくんはフェルゼン役だから、オスカルと同じくらいおいしいのかもしれないけど、みつるは衛兵隊のひとりじゃなあ……もったいない……。
 比重はどうあれ、アンドレ、オスカル、アントワネット、フェルゼン、この4つの役を「やった」という実績はステータス、生涯残るからなー。続いて、ジェローデル、ベルナール、ロザリーか。どんな扱いでも、とりあえず「やった」というだけで今後再演されるたびに「過去の配役」としてプログラムその他に名前が出る役。
 オスカル役替わりで、できるだけ多くの若手路線スターに、この「ステータス」のある役をやらせるのかと思っていたよ。
 

 復活さおたさん、まりんという上級生男役と、そのテのキャリア十分な女役ふたり(笑)、が『ベルばら』名物ナントカ夫人なのか……。つか、組長は?
 そして、いわゆる「娘役」に、役がない……。

 
 まっつベルナールは順当すぎて、特にナニも思わず。オスカルは、あるわけないし(笑)。
 ベルナールは想定内だが、宙中日版まんまだとあんまりらしいので、少し役割が増えていればいいなと思う。

 それにしても。

 まっつ、また黒髪(笑)。

 カツラだろーから地髪は何色でもアリだろーけど、はたして黒髪以外のまっつは見られるのだろうか?
 巴里祭ですら黒だった人だからなー。もう何年も黒髪以外見てないからなー。どこまで黒髪で通せるのか、いっそ楽しみでもあるが(笑)、ジェンヌとしてはどうなんだろう。

 しかしナニ気に、『外伝ベルばら』の主役キャラが続いてますな、まつださん。ジェローデル@水しぇんに続き、ベルナール@トウコかぁ。
 植爺『ベルばら』しかも外伝なのでもおナニも期待してなどいないが、それでもさらに、ロザリーがいないのが残念だ。

 奥さんのいるまっつを、見てみたかった。

 相手役いないからなあ、いつも。『メランコリック・ジゴロ』のバカップルぶりがなつかしい……。

 
 だいもんの2回目の新公主演がうれしくて、そして個人的に、アーサーの役付きがうれしい。

 えーと、過去のアーサーの新公役付き具合って、見事に路線外だったものね。
 わたしがアーサーに注目した『エンカレッジコンサート』以来、新公でアーサーウォッチングはしてきたけど、「その他大勢」(役割や名前はあってもモブ)以外の役が付いたのって『愛と死のアラビア』でよーやく、なんだよね。『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』で楽園のオカマ歌手として、ソロでばーんと場面もらってたけど(笑)。
 その『愛と死のアラビア』も、本役まりんの三枚目ヒゲオヤジ役で。次の『太王四神記』でも、二枚目系だがやはりヒゲオヤジのコ将軍役で。
 本役がまっつというのが路線系に含まれるのかどうかは置くとして、『ベルばら』の「ベルナール」役っつーのはふつー、二枚目役ですよ。ヒゲでもないし胴布団も巻かなくていいし。

 二枚目役のアーサー。
 じーん……。

 なんか、『ファントム』や『アデュー・マルセイユ』配役発表で、「まっつの役がめぐむだー!」とワクテカしたのを思い出します。本役歌ウマに新公歌ウマとゆーのは、歌があると期待していいのかな、とか、衣装どうすんだろ(笑)とか、いろいろとたのしみですな。
 あ、ちなみにめぐむさんはまっつの衣装では入らないらしく、別衣装になってました、いろんなところで(笑)。
 
 
                 ☆

 
 んで、こんなとこでゆーても仕方ないとはわかってるんですが。

 誰か『モンスターハンターポータブル2nd G』やってないっすか。
 集会所の緊急クエスト「異常震域」がひとりではクリアできません……。
 真ん中の緑のおねーさんのハンターランク4以上参加可能なクエストっす。

 ティガ2匹なんて無理。
 誰か手伝って~~。
 オレ、超絶アクションへたっぴなんよー。

 今まで集会所の過酷なクエストは、弟と協力して(てゆーか、弟がほとんどひとりで)クリアしてきたんだけど、なんと弟が、『モンハン2G』のデータ破損により1からプレイし直しになってるの。300時間超えのデータがぶっ壊れてアクセス不能になったんだって。わたしよりはるかにランク進んでたのに。
 話聞くだけで胸が痛い……データ消失なんて、それがPCであろうとビデオレコーダであろうと、ゲームのセーブデータであろうと。今まで費やしてきた時間、思い出、愛着、すべてが無になるなんて。

 んで弟は今、村長さんとこで地道にシカとかサルとかと戦っているところなので、集会所で上位のティガと戦えるよーになるまでは、いったいどれほど待たされるやら。しかも彼は今、『ドラクエ』祭りの最中だし。

 koalaちゃんはタラコ唇がキュートな黒人の女の子です。ガンランスしか使えません。声はしい様に似ている気がします(気のせいかもしれんが、自分ではそう思っている・笑)。
 「なんでよりによって黒人キャラ?」と弟に突っ込まれてるけど、「なんとなく」としか……。かわいいと思うんだけどな。
 ただ黒人だと似合う髪型(色)と服がかなり限られているのだと、実際プレイしてから知った……。
 着せ替えを楽しみたかったら、ふつーに日本~アジア人か白人を選んだ方が無難ですな。

 『おいでよ どうぶつの森』にハマっていたのと同じハートで『モンハン2G』にハマっています。こつこつ集めていくのがたのしい……。

 誰かムラで一緒にモンスターと戦いませんか?
 マメを失う日が来るなんて、考えていなかった。

2009/07/23

花組 退団者のお知らせ


下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。

(花組)
日向 燦
紫陽レネ
聖花まい
嶺乃一真

   2009年11月22日(花組東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団


 新聞の切り抜きを整理していて、マメの「私がタカラヅカに入った理由」(スポニチ07/07/12)をなつかしく読み返していたのが、一昨日のことだ。

 若手によるこの連載エッセイは、まあその、通常おもしろいと呼べるものではなく、ファン以外にはどーでもいい内容と文章であるものなのに、マメの回はマジにおもしろくて感心したものだった。
 お笑い芸人を目指していた女の子が、タカラヅカへと方向転換したことを、ユーモアたっぷりに綴ってあった。
 載っている写真も岩井くん@『舞姫』のものすげー表情のものだし、「ヨシモトの若手芸人」と書かれていても違和感がなさそうな、素晴らしい記事だった。

 最初からお笑い路線を目指していて、そして今この芸風である。その事実は、わたしをとても安心させてくれた。

 トップスターや、路線スターとしてのジェンヌ人生を夢見て入団したのに、結果として脇のおかしな役ばかりやらされているのだったら、いつかその扱いに絶望して退団してしまうかもしれない。
 舞台での扱いが良くない人たちは、みんな遅かれ早かれ劇団を見限ってしまう。
 その価値観や決断の是非は置くとして、役付きやポジションによって卒業時期は左右されるのだと思う。

 だからマメの入団動機を読んで、ほっとした。
 今のマメのポジションは、マメ的に本意であるのだろう。納得できているのならば、きっとこのまま長く劇団にいてくれるはず。

 そしてそれを裏付けるように、舞台で「きれいでない役」をマメはたのしそーに演じ続けてくれた。

 安心していた。
 だから。

 マメを失う日が来るなんて、考えていなかった。

 
 コメディ的な役を演じるマメは、実のところそれほど好きでもなかった、と思う。
 
 マメがいなくなってしまう、と思ってわたしがまず考えたのは、ダーリンとしてのマメに、もう会えなくなるのだ、ということだ。

 わたしがマメを好きなのは、三枚目役なんかじゃない。
 耽美で野蛮な、美形のマメだ。

 ショーで見せる、黒い顔。
 闇と毒を持った、危険な男。
 嗤いながら獲物の肉を咬み裂き、鮮血と共に咀嚼しそうな野蛮な美しさだ。

 そんなマメを見るのが、どれほど好きか。
 それは間違いなくときめきで、かっこいいジェンヌさん、を眺めるよりは、「ダーリン」を見つめる側に近かった。

 好きジェンヌはヤマほどいるが、LIKEとLOVEがある。どんだけ好きでも、恋愛メーターはゼロ値のまま、たんに好きだという人もいっぱいいるんだ。

 マメは、恋愛メーターが反応する男だった。

 まかりまちがったら、マジで恋するかもしれない、危険位置にいる男だった。

 や、ぶっちゃけ、まっつがいなかったら、どーなっていたかわかんない、とゆー位置にいる、数人の男たちのひとりだ。(数人いる。誰か当ててくれ・笑)

 恋愛値が高い人より、別の意味で好きな人のことを力入れて語りがちだけどさ、わたし。
 だって安心できるもん。LIKEな男を語るのは、無邪気でいられるっていうか、自分の深いところに向き合わなくてもいいっていうか、自分のきれいな罪のない部分だけで浮かれていられるから。
 でも、恋ってそうはいかないでしょ?
 本命まっつのことは本腰入れて語るけど、それ以外の恋愛ハート入った男のことは、そうそう語れないというか(笑)。

 それでもマメは好きだ。マメが好きだ。特別に好きだ。
 普段彼のことをそうそう語らなくても、ショーでの彼を見て内心「はうっ」と胸を押さえている。突き刺さるんだ、ときめくんだ。いちいち書かないけどさっ。
 だって日常だし、いつものことだし、とーぜんだし、この「当たり前」は、いつまでもいつまでも、続くんだから。

 マメはここにいるんだから。
 ずっといるんだから。

 わたしを、「はうっ」とさせ続けてくれるんだから。

 いちいち、言うまでもない。

 
 そう、信じていた。
 信じていた、のに。

 
 ↓ 自分的メモ。
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-230.html
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-666.html
 今は普段の彼もふつーにハンサムな男に見えているので、外見についていろいろ言い訳している(言い訳だよな、このくどくどしさったら・笑)のが違和感。
 マメってハンサムじゃん?(真顔)
 『フィフティ・フィフティ』は、泣ける作品だと思う。『黎明の風』が泣けるのと同じように。

 イシダせんせは日本人の「泣かせツボ」を心得た人だと思う。

 泣ける作品だけれど、わたしは苦手だと思ってしまう。観たいと思うものではない、と。『50/50』も『黎明の風』も。

 それは、ファンタジーが足りないためだと思う。

 ほんとに、個人的な、ただの趣味、好みの問題だが。

 現実に近すぎ、また、わたしの生きる場所と陸続きだと、そこを「異世界」だと割り切れなくて。

 現代が舞台でも、ふつーのラヴ・ストーリーならぜんぜんかまわないんだが。
 「社会問題」とか「思想」とか、生々しいモノがあり過ぎて、ちとキツいっす。

 まったく同じストーリー、同じテーマでも、「どこかの架空世界」が舞台なら平気なんだけど。
 ドレスに宮廷服の世界で、ありそでなさそなヨコ文字国名の話なら、わたしはもっと素直に楽しめたろうな。
 都会の人たちは瀟洒に着飾る、フロックコートや燕尾にフリルの襟、田舎でも女たちはロングドレスで、東北弁なんか喋らない。ロン毛にリボン、くるくる巻き髪。とにかく目に派手な「これぞタカラヅカ」な画面なの。
 だけどやってることはみんな同じ、テーマも同じ。架空の世界だからこそ、思想も自由に綺麗事も自在に展開できる。

 ……と、さりげなく以前書いたテキストのコピペですが(笑)。

 現代を舞台にするなら、そこで扱う出来事はなにか別物にしてほしい。名前も直接的な事件も違うけど、これってよく考えれば現実の**にもあてはまるよね? と、観客に想像させて欲しい。
 たとえば「ひきこもり」とそのまんまな現代用語を出してしまうと、ほんとうにただそれだけのものになってしまう。別の事象から「これって現代で言うひきこもりやニートのこと言ってんじゃね? あてはまるんじゃね?」と、どう受け取るかは観客に任せて欲しい。
 また、その事件を受けてどう感じるかは、答えを出すのは観客に任せて欲しい。
 「愛とは~~」「人生とは~~」と、いちいち結論を語られてしまうと、ただそれだけのものになってしまう。

 ほんとに、ナンチャッテ中世モノだったら、現実問題そのまんま出しまくってもファンタジーなのになー。
 少年マンガでよくある、剣と魔法の世界や時代劇なのにふつーに現代にしかない単語やアイテムが飛び交う作品。
 『ベルばら』あたりの時代のパリとどっかの田舎町、とかで、ふつーにニートがどうのネグレクトがどうのと現代まんまなことやればいいのに。「や、この時代にソレはありえないから!」の、「ありえない」と思える空気感が、ファンタジー。
 ありえねー、でもおもしれー、が、タカラヅカ。

 直接的すぎて、直接描くにはテーマの掘り下げ方が浅はかで、しかも見方・考え方は統一、答えまで押し付け。
 もっとぼかして描いてくれれば、浅くても客が勝手にいろいろ考えるのに、結論まで台詞で何度も何度も語られたら、観る意味がなくなっちゃうよお。

 や、1回はいいんだけどね。最初だから。でも2回目からは……。

 答えはひとつではないし、考え方もひとつではない。
 テーマを叫んでも主義や思想を叫んでもイイから、「答え」まで解説しないでくれ。
 叫ばれた主義や思想を受け取り、どう答えるかは観客の権利だから。

 明確なテーマや「言いたいこと」のある作家も作品も好きなんだけどね。
 イシダ作品は叫びを通り越して感じ方まで解説しまくる下品さが、苦手なんだわ……。男尊女卑でセクハラで、という下品さとは別に、「作家として」の下品さが苦手っす。

 イシダ作品でも「ファンタジー」色の強かった『大坂侍』とかは好きなんだけどな。

 
 まあそれはさておき、みつるの目の下のシワ(ツボ)と、着ぐるみでもキラキラ素敵なアーサーにうっとりしておくことにします(笑)。
 良かったねヤス、大部屋卒業できたんだね。てゆーか、橘とW主演なんてすごいじゃん!

 ……と、思ってしまうくらいには、イシダせんせはいったんアテ書きしたら、そのイメージ固定なんでしょーか。
 まりんも王子もらいもアーサーも、方向性はチガウがだいもんも、結局のところ似たよーなキャラクタ。二枚目は皆無。ここはタカラヅカなのにね。

 そしてなにより、あまちゃき、組が違っても同じ役?!

 『殉情』で同じ役やってましたよ、あまちゃき。おっさんとふたりでカーテン前で、テーマを1から10まで台詞で解説する若者役。イシダ作品のお約束キャラ。いかにもな現代っ子役。
 2作連続同じ役って、どんだけ……。

 とまあ、イシダせんせのイシダらしさに眩暈。ほんとに勘弁してくれ、なことはてんこ盛りだが、イシダな部分には目をつぶり、キャスト感想。
 

 みつめおが、かっこいい。

 なんでこんな作品でこんなにかっこいいのか、理不尽さにふと悲しくなったりするくらい、とにかくステキにかっこいい。

 作品のひっかかるところを、彼らが力尽くで、そしてその美貌で誤魔化してしまうのが心地いい。あー、タカラヅカっていいわねぇ。

 めおくんは、チャラ男を演じさせたらヅカ1だね。(真顔で誉め言葉)

 いい人を演じてもどこか胡散臭いという、ステキ持ち味を開花した彼は、プレイボーイの結婚詐欺師役、つーのを実に楽しく演じてくれた。
 おもしろいからこの個性で突っ走って欲しい(笑)。

 ヴィクター@めおくんは彼の魅力を活かす役で、最後のオチも含めてラブリーだ。
 でも、作品の肝部分はジョナサン@みつるが担っているあたり、役の比重は『銀ちゃんの恋』に引き続き、ヤス、橘の順なのかなと思ってみたり。
 
 W主演ものといっても、大抵どちらかがより主役っぽくて、どちらかは2番手っぽくなる。
 芸風がシリアスである分、みつるの方が物語を回す役が似合うんだろう。

 だがめおくんの、シリアスにならない持ち味は、タカラヅカ的だと思う。重くリアルになりがちなみつるの横で、地に足の着いていない夢世界の夢キャラであれるのって、武器だよ(笑)。
 イケ行けめおくん、このまま行っちゃえ! できないことはやらなくてイイ、武器を磨いて突き進め!

 そして。

 みつるのベッド芝居はピカイチだね。(真顔で誉め言葉)

 『舞姫』でもベッドで泣かせてくれたけど。
 今回もまた、ベッドですよ。
 ……ベッドって、ただの眠るための場所、であって、色っぽい意味ではまったくないんだが(笑)、ベッドの中のみつるがやたらいい男で困ります。

 彼はいい役者だ。リアルに胸に迫る芝居をする。
 ジョナサンの抱えている鬱屈で、見ている方も息苦しくなる、胸が痛くなる。

 みつるはもともと美形だけど、彼がもっとも美しく見えるのは、じっくりと内面芝居しているときだと思う。

 いやあ、いいよなこのふたり。
 持ち味がまったくかぶらなくて。
 共に美形で、キラキラしていて。

 逃避行中のホモカップルぶりも、たのしく眺めました。
 つか、当たり前にヴィクターが女役なのがいいよな。でかいくせに。ジョナサンは咄嗟にオネエ言葉を話せるよーなタイプぢゃないから、ここでヴィクターなのは、正しい。正しいけど、でかい方がオネエというのは、見た目は正しくない……というか、ヴィクターって攻だよね?(真顔で誉め言葉)
 攻だからこそ、咄嗟にネコの振りできるんだろうなあ。しみじみ。

 
 それぞれの相手役、パメラ@きらりとクララ@れみも「アテ書きだよな」と納得させるハマりっぷり。

 きらりは『銀ちゃんの恋』の引き続き、イシダに信頼されてるんだなあと思う。いい仕事してるよほんと。
 華やかで、存在感あって。最後のオチまで含め、納得させてくれる肉厚ぶり。

 れみちゃんもなあ、なんつーんだあの「不幸」「薄幸」の似合いっぷりというか(笑)……男に騙されて捨てられて、だけど傷心を抱いたまま明るく笑って健気に生きようとしている……ところがまた、すげーれみちゃん!!な感じ。
 等身大の一生懸命な女の子ぶりが、いじらしい。ジョナサンとお似合いですよ。

 
 イシダ作品のお約束、テーマを台詞でえんえんナレーションする年配者@まりんと、それを素直に聞いて一緒に台詞でえんえんナレーションする若者@あまちゃきも、さすがのうまさ。
 なにしろ解説者だから、下手な人がやると自爆するのよね。
 だからまりえったとかみやたんとかきみつんとか、うまい人にしかやらせないのよね。だから今回もまりんなのよね。

 この役をやるのが2回目のあまちゃきは、すでにコツは飲み込めています、な感じ。役割を理解して、さらに自分の魅力を振りまきながら演じている。
 てゆーか、『殉情』のときもそうだったけど、ほんとかわいーなあ。このイマドキな女の子っぷりがたまらん。

 
 でもってイシダせんせ。
 だいもんに、まともな役をやらせて下さい。

 なまじうまいから、なんでもやっちゃうし、出来ちゃう子だけど。
 新公主演した若手スターを売り出すのも、座付き作家の仕事でしょう。大劇場では人数の関係でろくに出番をもらえない、次世代スターをオイシク売り込むことも、考えて下さいよ。
 1回だけならなんとも思わんが、短期間で2回連続イロモノお笑いキャラっつーのはなあ。
 イロモノはたまにやるからオイシイんであって、毎回になると首を傾げてしまう。この演出家は、この生徒を活かす役がこんなキャラだと思い込んでいるの?と。
 お笑いキャラは、だいもんの魅力をもっとも引き出す役だと思っているの? 魅力を引き出してはじめて「アテ書き」ってゆーのよ?

 といっても、主役以外、まともな役がないんだから、だいもんがどうとかいう問題じゃないんだがな。
 おてもやんで10円ハゲで青洟垂らしてないだけマシと思えってか。

 なんにせよ、だいもんはやっぱりうまくて、かわいく熱演していた。あのものすげーリーゼントは、『スカウト』を思い出したわ……(笑)。


 でもってイシダせんせ。
 らいらいに、まともな役をやらせて下さい。

 らいの普段の役付きからすれば、ちゃんとストーリーに絡む役があるっつーだけでありがたいことなのかもしれないが。
 しかし、彼もまた前回と同じタイプ、1回だけならなんとも思わんが、短期間で2回連続イロモノお笑いキャラっつーのはなあ。

 イシダせんせは気弱なオタク、ヘタレなボクちゃんキャラが、らいの魅力をもっとも引き出す役だと思っているの?

 なんにせよ、さらさらストレートヘアでめがねっこのらいは、とてもプリチーでした。
 前半の銀行員コス(コス言うな)がいちばんステキです(笑)。

 ビリー@らいの部屋は、日本のアニメ尽くしにするべきだと思ったわ。アメコミはなんか違和感。舞台がどこであれ、ヲタク分野でジャパニメーションは世界を席巻しているのでは?
 石田昌也は、何故宝塚歌劇団にいるのだろう?

 と、もう何度目かわからない疑問に首を傾げる。イシダ作品最新作『フィフティ・フィフティ』を観劇して。

 『50/50』は、悪くない作品だと思う。
 同じ孤児院出身の幼なじみ詐欺師コンビが、田舎の村で人々のあたたかさに触れて改心する物語。ストーリーラインは簡単。そこに主人公ふたりのそれぞれの恋バナと、出会う人々の人生模様を絡め、自分探しして全員ハッピーエンドになだれ込む。

 悪くはない。
 ちゃんと起承転結しているし、盛り上げて泣かせて、うまく機能していると思う。そもそもなんで詐欺師コンビがこの村で暮らすはめになったのか、村長の息子@だいもんの行動が謎とはいえ。

 ただ。

 なんでコレ、タカラヅカでやってるんだろう?

 と、盛大に首を傾げた。

 出演者たちの魅力、彼らがステキだったことや、熱演だったこととはまったく別。
 キャストの話は別欄でやるので、今回はあくまでも、イシダせんせと、彼の作品『フィフティ・フィフティ』について。
 

 わたしのいちばんの疑問は、舞台がアメリカであることなんだよな。

 だってコレってどう考えても日本の話で、出ている人たちも日本人だよね?
 テーマもキャラもストーリーも、細かいエピソードもおふざけも、なにもかも日本でしかない。

 タカラヅカが「日本人が演じるナンチャッテ西洋」であることとは、まったく別。
 「なに言ってんの、日本人が金色に髪の毛染めて『オスカル~~』とかやってんのがタカラヅカじゃん!」って、そーゆー話じゃないので混同しないで。
 演じているのが日本人であっても、物語はふつーに外国であること、がタカラヅカなんだってば。

 舞台が外国であっても、そこに流れる精神は日本である。……これも、タカラヅカのお約束のひとつ。
 生まれ育った慣習ゆえの「ツボ」というものがあり、海外ミュージカルをそのまんま輸入したって日本人が理解できない、できても真の意味で共感したり出来ない、ことがままあるので、「外国そのもの」である必要はない。
 外国の設定を使いながらも、根っこの感覚は日本独自のモノ。それが、タカラヅカの柔軟さ、素晴らしさ。

 じゃあ『50/50』だってそうじゃん、舞台が外国なだけで感性は日本って、ヅカのお約束守ってるだけじゃん!
 ……ということでも、ナイんだ。

 『50/50』は、「舞台が外国なだけで感性は日本」なんじゃない。「舞台が外国である意味がない」んだ。

 あまりにも、「日本」でありすぎる。ストーリーも道具立てもキャラもテーマも。
 むしろ、アメリカにすると無理がありすぎて、本質が損なわれる。

 ふつーに日本が舞台の物語だったら、もっとリアリティがあり、おもしろい芝居になっただろう。
 そう思える。
 ちりばめてあるネタが全部現代日本だからだ。

 だが、現代日本を舞台にして、この公演は成り立たない。
 主人公がタカシとカズオで、ヒロインがキョウコとヨウコで、彼らが出会うのが山形県のなんとか村とかだとかだったりしたら、ヅカとしてありえない。夢が見られない。(名前はてきとー)

 タカラヅカだから、あえてアメリカで、あえてカタカナ名前なんだ。ジョナサンとヴィクターなんだ。

 それはわかる。
 タカラヅカで上演する以上、舞台をアメリカにしたのはいい。GJだ。日本でやられてたらドン引きしていた。

 が。

 タカラヅカで上演するために、作品のクオリティを落とすのは、どうなのよ?

 舞台は日本であるべきで、登場人物もふつーの日本人であるべき物語なのに。
 「タカラヅカだから」と、作品を曲げてまでアメリカにしなければならなかった。

 作品を曲げなければならないのなら、そもそも何故これをタカラヅカで上演する?
 意味ないじゃん。
 作品をもっとも良いカタチで提供できる媒体でやるべきだろう。

 テーマを訴えるための手段として、ファンタジーを利用するのはアリだと思っている。むしろ、そのためにファンタジーはあって良いとさえ思っているクチだ、わたしは。
 だから、『50/50』のテーマを訴えるもっとも良い方法が、舞台をあえてアメリカにし、「タカラヅカ」としての手法を使うことだったのだ、というならばそれでいいと思う。
 が、『50/50』は反対だ。この作品の良さを、「タカラヅカ」が邪魔している。マイナスになっている。

 「タカラヅカ」であることがマイナスになる作品を、何故タカラヅカで上演するんだ。
 それが理解できない。

 「作品」本位に考えて、すごくもったいないし、くやしいと思う。
 我が子を望むカタチで世に送り出してやることができないなんて、作家としてどう思うんだろう?

 もちろん、仕事なんだから割り切りは必要だ。
 天才でない以上、好きなモノだけ書くことが仕事ではないだろう。
 「少年が人々との触れ合いの中で成長していく王道スポ根モノが描きたい」と思っていても、「エロネタ満載のラブコメ描いてね」と言われたら、描くしかないんだろうさ。
 でもさー、依頼された「エロエロ・ラブコメ」の中に、少年の成長譚を盛り込むのと、スポ根モノをエロエロに改稿するのとでは、まったく意味も出来も違ってくると思うんだが。
 まず作品を発表できなければ読者に届かないわけで、それを最重要視するなら、意に染まないジャンルでも描くしかない。でも、そのジャンルの中で、自分の色を出す。与えられた枠の中で戦う。エロラブやりながら、主人公やヒロインの心の流れを丁寧に描き、成長していく様をドラマティックに繊細に描く……とかさ。 
 が、イシダは反対やってないか?
 エロラブやらなきゃそもそも本誌掲載なし、と言われたからって、もともと描きたかったスポ根モノをエロラブに変換。主人公ががんばる対象をスポーツではなくえっちなことにする。そしたらキャラもストーリーもテーマもみんな同じで、立派にエロラブになったぞー、イェーイ♪ てか?

 安易に「舞台がアメリカで、出てくる人たちみんなカタカナ名前です」ってだけで、「タカラヅカです、文句ないっしょ?」とやられてもな。

 日本人しか描けないなら、タカラヅカにいる必要ないのに。
 ちゃんと日本人の舞台を作れるんだから、もっと自分の才能を活かせるところに行けばいいのに。

 ヅカを辞めろとはべつにまったく思っていないので、自分の中の「作品」をうまく割り振りして、外部とヅカと両立すればいいのに。

 『50/50』は、「タカラヅカではない」ことをのぞけば、いい作品だったんだと思う。
 『殉情』と同じように、想像の余地がないほどなにもかも台詞で語り尽くされてしまうので、その観客に対する下品さがわたしの趣味ではまったくないが、外部で上演されていたら、「イシダ、やるじゃん」と思えたと思う。

 なんでコレ、タカラヅカで上演したんだろう?
 イシダせんせは自分の作品へ、愛やこだわりはないのかなあ? 上演できればなんでもヨシ? 作品の質が損なわれても?
 わっかんねーなー。

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