タニちゃん大劇場お被露目初日、HPには当日券が「多数ご用意しております」と発表されているのに、それと同時に「立ち見券の発売もあります」とゆーことだった。
 なんで? 立ち見券は、座席券が売りきれてはじめて発売するものでしょう? 一度は完売したけれど、戻りがあったために立ち見も売ることにしたのかな?
 と、なんとなーく思っていたが、当日の潔い空席ぶりを見て「戻りがどうとかいうレベルの空席ぢゃない」、と思いなおした。

 だからずっと、謎だったんだ。

 あの日、2階A席サイドブロック以降ほとんどまるっと空席、とかゆー潔さ(ムラの平日なんてこんなもん)なのに、立ち見が発売されていたという現実。

 宙組のときは、積極的に前売りに参加したり、チケ取りに必死になっていたわけではないので、どーしてそんなことになったのかわからないままだった。

 んで、今回。
 謎は解けた。

 まとぶさんのお被露目初日も、当日券は「多数ご用意」、なのに立ち見券も有り。
 タニちゃんのときと同じ。
 実際に客席を見た上での空席の数からして、ただの一度も完売していないことは推察できる。や、『バレンシア』ほどじゃないにしろ、こちらもとても潔い空席っぷりでしたから。
 それなのに何故、立ち見券発売?

 わたしと同じ疑問を、花組初日当日友人も口にした。

「座席が売りきれてないのに、どうして立ち見も出てるの?」

 しかし今回のわたしは、すんなり答えを口にできた。

「発売日に、大劇場だけ売り切れたからだよ」

 そう。
 発売されたチケットは最終的にひとつに集められ、どこの窓口からでも同じように購入できようになるが、発売日当日だけはそうではない。
 チケットぴあにはぴあの持ち分、ローソンにはローソンの持ち分、三番街プレイガイドには三番街プレイガイドの持ち分、というものがある。
 それぞれの窓口が、持っている枚数も配席もチガウので、購入する側で選んで電話をかけたり端末を叩いたり、並びに行ったりする、わけだ。
 だからこそわたしは、最端ではあっても最前列がある三番街プレイガイドを愛用している。1列目1〜4番は三番街の持ち席、たとえチケぴに時報と同時に電話がつながったとしても、その席は購入できない。なにしろ最初からぴあは「持っていない」のだから。

 そして、それぞれの窓口はまったくの個別扱いなので、ひとつの窓口が売り切れたからといって、よその窓口のチケットが回ったりしない。
 チケぴで売り切れたからといって、その次の瞬間ローソンチケットの持ち分が引き続きぴあで買える、というわけじゃない。
 最終的にチケットはひとつに集められるが、発売日はチガウ。だから人気公演の場合に「ぴあは売り切れたけどローソンならまだあった」とか「イープラスならまだ買える」とか友人間で情報メールが飛び交ったりするのさ。
 かの『ベルばら』がぴあその他チケット業者で即日完売だっつーに、三番街プレイガイドではS席から全部売れ残っていたりしたもんよ。

 全国の誰でも購入可能なチケット業者持ち分と、当日その時間に出向いて、実際に何時間と拘束され、列に並び続けることでしか購入できないチケットでは、動きがチガウ場合がある、んだ。

 『ベルばら』はなあ。ダフ屋をはじめ、全国一般のライトな人々は狂喜してチケ取りしたんだろうけど、コアなヅカファンは辟易。チケぴ他では瞬殺なのに、三番街では席や日にちの寄り好みをして「こんな悪い席だったら見たくなーい」と手を出さず。
 「『ベルばら』なのにぜんぜん売れてないねー」と言っていたのに、帰宅してからネットを見て驚愕したさ。世の中と梅田の温度差に。

 そんなわけだから。
 発売初日だけ、ある窓口では売りきれ、ある窓口では絶賛発売中、ということが、ふつーにある。

 そして本拠地、宝塚大劇場。
 ここでの前売りは、やっぱ特別。
 わたしは並んだことがないのでよくわからないが、全国から多くの人々が並びにやって来ている。
 土曜日の早朝にあんなへんぴなところまで出向くのだから、相当本気の人たちだ。

 どのあたりの座席を持っているのか知らないが、ただ「立ち見券」を持っているのは大劇だけだということは、聞いている。
 三番街はたとえ売りきれても、引き続き立ち見券を販売したりはしない。持っていないからだ。三番街は座席が売りきれたらそこで完売。
 唯一大劇場窓口のみが、立ち見券を持つ。

 そうやって発売当日に大劇場に並んだ人たち限定の販売において、初日はいったん売り切れた。そのため、引き続き立ち見券も発売したんだ。

 花組前売り前後の日程、うっかり入院中だったわたしは病院のベッドの上でパソコン開いて、「初日売りきれたー。立ち見券で観られるぞー」とよろこんだんだもんよ。高額な2階席で坐って観るより、安価で1階にいられる立ち見がいいもん。宙組のときは立ち見が出てるの知らなくてB席で観ちゃったんだもん。

 大劇場で前売りをしている限り、これからもこーゆーことが起こるんだろうな。
 いやその、今までトップお被露目初日は窓口がどこであろうと売りきれ当然だったから、こんなややこしいことにはならなかったんだが。
 宙組のときはこんなのは最初で最後かと思ったんだが、正直ごめん、うちの組も同じかぁ。
 これからはこーゆーことがあたりまえになっていくのかなあ。

 
 なにはともあれ、「今」をおぼえておこうと思う。ここからはじまった。
 ここから大きくなっていくんだ。

 まとぶんはトップスターとして不足のない人だし、ゆーひくんも加わって組自体とても充実している。
 これからどんなふうになっていくのか、たのしみだ。


 初日に固唾をのんで見守ったので。
 そのあと若者たちがどーなったのか、見届けに行ってきました、『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』千秋楽。

 ボニー@みなこが、暴走してました。

 わはははは。
 すげーなヲイ。

 クライド@かなめを完っ全に置き去りにして、ひとりで突っ走ってました、みなこちゃん。

 いやはや。
 作品として大変なことになってしまったようですが、それはソレでアリだと思う。

 オギー作品は、一分の狂いも許さないよーな作り方は、していないと思っている。
 座席指定ではなく、ブロック指定。A列の3番に坐って、そこからまったく動いてはいけないのではなく、チケットにはAブロックと書いてあるのみで、ラインで区切られたブロックの中ならどこにいてもヨシ、好きな場所で踊るなり手を鳴らすなりしてたのしんでね、なライヴ的ゆるさがあるというか。
 力の足りない子も、テンパって暴走しちゃう子も、いてヨシ。それによって崩れるよーな作り方はしていない、サプライズでできあがるものさえ可能性として許容している印象。

 だからボニーが暴走し、クライドがヘタレてしまっても、それはソレでまちがっていない。アリだと思う。

 みなこちゃんが暴走したのは、かなめくんが手を離しているせい。
 かなめくんはボニーと演技が合わなくなってもおかまいなしで自分の仕事のみをしていた。
 それは役者として、主演として、どうかと思う。WSで主役を張るのは2回目で上級生なんだから、初ヒロインで舞い上がっている下級生の女の子を支えてやれよと思う。
 主演としては、度量の無さを顕わにする、どーよ?な出来事なんだが。

 クライドには、ソレが合っていた。

 他人を支えることも救うこともしない。闇雲に求めるだけで、義務は一切果たさない。
 ただ逃げるだけの、美しい男。

 そのヘタレで卑怯なところさえもが、美しく説得力になってしまう。

 ダメ男だなあ、クライド。
 でもソレこそが、彼の魅力なんだよな。

 この再演クライドは、かなめくんへのアテ書きであり、かなめくんしかできないのだと思う。
 ボニーが大暴れしている分影が薄くなり、なにやってんだか、ナニを考えてんだか、さらにわかんなくなったクライドの存在感の薄さが、また味わいになっている。

 みなこちゃんには誰か、包容力のある男役とがっつり組んだ芝居が見てみたいな。
 暴走し、空回りしているボニーが痛々しかった。
 みなこちゃん自身は演技力があると思う。だけど、アクセル踏んじゃうと自分でも減速の仕方がわからなくなるみたいだ。クライドだけじゃなく、他の人も見えなくなってしまい、ただ暴れ続けてしまう。
 それはこれから経験を重ねれば自分で調節が出来るようになるんだろうけれど、今回のWSではみなこちゃん自身も、そして周りの誰もどーすることもできていなかった。
 新公学年ではない、ちゃんと芝居の出来る人たちの中で、重要な役をずっしりと演じてみてほしいな。なんか、すごいものが見られそうだ。

 
 クライドは世界から乖離してふわふわ漂っているし、ボニーは暴走して竜巻みたいに被害を拡大しているし、ハマコは別世界でたのしそーにしているし、なんつーか、変な芝居だなあ。

 今回の再演で、副組長として初仕事をするハマコさんは、妙な浮き上がりっぷりをしていた。

 物語を外側から見つめる「記者」役。ただメモを取りながら舞台にいる、ときどきナレーションを入れる、だけで「私はボニクラ事件を調べている記者です」と自己紹介はひとこともナシだが、再演ならではの新しい作品切り口となる役だとわかる。
 初演のオーディエンスとは違い、さらにコアに物語を包囲する「壁」である印象。
 初演でハマコの役を演じたみやたんは、あくまでも「オーディエンス」だったんだよね。「記者」として物語を視ていたわけじゃない。
 クライドの聖域バック兄さんと、クライドを追いつめるフランク捜査官を同一の役者が演じるのはこの作品の肝だからはずせないとして、さらに作品全体を外側から押し込める「記者」をも、ハマコが兼ねる、というのが、なんとも故意的でヤな感じだなと(笑)。

 オギー芝居は、ぎちぎちに理詰めで作られていない。現場の雰囲気でどうにでもなる「ゆるさ」がある。
 WSで、力の足りない子たちが演じている、難しすぎる題材。
 主役を含め、とにかく足りないことばかりだから、もともとゆるい部分はいくらでもゆるくなって、液体のようにはみ出してくる。
 それをハマコが、押し戻すんだよね。
 凝固する力がないゆえにだらしなく垂れてきたモノを、外側で見張っているハマコが、内側へ押し上げる。押し戻す。渇を入れて垂れないよう、凝固するようにしばらく支える。でもそのまま手を添え続けてはやらず、最低限垂れなくなったらまた手を離す。その繰り返し。

 副組長として、上級生として、芝居を締める責任あるモノとして、ソレをやっているのかどうかは、正直よくわからない。
 ハマコさん、天然に見えます(笑)。
 垂れてきたモノをぴしゃっと叩いて押し戻すのも、それを仕事だと思ってやっているというより、たのしんで伸びをしたらそこに垂れていたモノがあってたまたまぴしゃっと叩いてしまった、みたいな?
 計算でやっているとしたら、ハマコすげえ!てなもんだが。
 ハマコを芝居の中の役として閉じこめず、世界のいちばん外側に置いたのは、こーゆー使い方をするためですか、オギー?

 ハマコが天然に見えてしまうのは、彼と他の出演者たちの実力の差がものすごいから。
 彼が歌い出したときの異世界感ときたら。
 格がチガウ。とゆー言葉しか、出ない。
 あまりにもレベルが違いすぎて、どーしてここまでチガウことを平気で見せつけられるのか、場に合わせようとしないのか、不思議なほどだ。

 ハマコが異世界なほどにところどころで世界に平手打ちを喰らわせるため、ゆるゆるになりそうなところで、なんとか芝居として物語として踏ん張ってくれるんだと思う。
 ハマコが凄いのはわかるが、あのたのしそーに浮いているのは、なんなんだろう。アマチュアの子どもたちの間で、プロの大人が全開で実力を発揮し、ご機嫌になっている……みたいな。

 かなめ、みなこ、ハマコと、大変愉快です。つかこの舞台、ハリケーン吹き荒れてないか?(笑)

 
 初演とは別物で、最初から別の作品として今の出演者に対してアテ書きをしたことは、素晴らしいと思う。
 だけど初演を引きずるあまりに、ひとつ大きな失敗をしたなー、と気になることがある。

 この再演では、「ブルース・レクイエム」を歌える歌手がいない。
 クライドをはじめとする中心人物たちに、歌を担えるだけの力……卓越した歌唱力と、歌を裏切らないだけの芝居力を持つ人がいなかった。
 だからわざと「ブルース・レクイエム」を登場人物たちには歌わさなかった……のは、いい。懸命な判断だと思う。
 だけど。

 中心人物たちが歌えないのなら、「ブルース・レクイエム」は、抹消するべきだった。この『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』からは。
 彼らが歌えない「ブルース・レクイエム」は、あっても意味がないよ。むしろ、作品を壊しかねないよ。

 ……てな話は、またいずれ。


 ゆみこさんがキラキラしていて、とまどいしきりです(笑)。

 基本的に地味な実力者が好きなので、わたしが言うところの「地味」つーのは、悪い意味で言っているつもりは、ありませんが。

 ゆみこの地味オーラ、恐るべし!!

 と、以前このブログに書いたところ、「太字で、でかい字でソレを書くか」と友人のドリーさんに注意されたりもしました。
 わたしがどんだけ好意的な意味で使っている言葉でも、一般的にマイナスとされていることをでかでかと書くのはどうよ、と。
 まったくもってその通りなんですが、そのことに限らず、「一般的にマイナスとされていること」を一切書けなくなってしまうと、わたしごときのスキルではナニも書けなくなってしまうので、結果アレなことも書き続けてますが。

 そんなふーに、タカラジェンヌとして「地味」と言われることは「マイナス」であり、ブログにでかでかと書くことはヨクナイ!と言われるよーな類いのことなわけです。
 その地味なとこをかわいいと思い、花組への組替えあたりからソコを愛でていたとしても。(雪にいた下級生時代は、派手な子だと思ってたんだよ……花組に行って、地味に見えて驚いた)

 ジェンヌには欠点があるからいいんだと思う。欠けたところ、足りていないところをいじりつつ、つつきつつ、まったり眺めるのがたのしい。
 彼らはナマモノであり、欠けたままではいない、同じままではいない。
 彼らは、変わっていくんだもの。
 それを見るのが醍醐味。
 若いウチは100点満点でない方が、たのしい。

 そーやって、地味でも実力と魅力のある人、として長年見守ってきた彩吹さんが。

 どーしたことだ、キラキラしてます!!

 全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』において。

 物語的には不要であるとしか言えない、意味のない出番もないお衣装だけ豪華な、場の空気をぶち壊すためだけに登場するフェルゼン様。

 なんかもー、無意味に、輝いてます。ぺかー、とのーてんきに、発光してます。

 輝く? ぺかー? のーてんき?
 な、なんかゆみこらしくない形容ばかり並んでますがなっ。

 キラキラだよ? ゆみこが、キラキラ。ゆみこに対し、こんな形容をする日が来ようとは。
 「ゆみこの地味オーラ、恐るべし!!」って書いたのはたかだか2年半前だ。

 雪組に戻ってからのゆみこちゃんは、確実に成長しているのだと思う。
 花組にいたときは感じなかった真ん中としての実力を、たしかに開花させているんだ。

 真ん中に必要なのは、「場を統べる力」。多少の駄作も力尽くで別物にしてしまう力技。
 美貌とか華とか輝きとかで惑乱するのもアリだが、別のアプローチだってある。

 ゆみこちゃんは実力で真ん中へにじり寄っていく人なんだなー、と思った。
 多少足らない部分があるとしても、他の部分でソレを補う。
 ゆみこの場合は、技術。群を抜いた歌唱力だったり、あたたかみのある芝居だったり、抜群のスタイルとそれを使ったダンスだったり。
 それまで、実力があることは知ってるけど、真ん中で世界を塗り替えるほどの圧倒的な力じゃないよなー、と思っていたんだけど。
 なんかだんだん、真ん中もアリかも?な、突き抜けた豊かさを感じるのだわ。

 場違いに登場するフェルゼン様は、空気読まずにまず1曲うっとり浸って歌いきるわけなんだけど。
 この歌が、すげー美しくて。
 もともとすばらしい歌手だと思っていたけれど、さらにびっくりするくらい、うまかった。
 いやあ、キャリエールよりフランツより、フェルゼンの方が合うって、すごいじゃないの、ゆみこちゃん。
 歌の力だけで、理屈をねじ伏せてくれるんだよね。物語関係なく、とりあえず場面変わりました、別次元スタートっす!

 そして、フェルゼン様はすごくご機嫌でした。
 いや、芝居としてではなく、演じているゆみこちゃんが、たのしそうだった。

 ゆみこといえば繊細でナチュラルな芝居をする、というイメージで、歌舞伎をやっているところは想像できなかったんだが。
 このフェルゼン様はとことん型にはまった大芝居、潔いまでの植田歌舞伎っぷりで、大ウケした。
 ゆみこが本気で「フェルゼン」を演じている。長年の伝統を受け継ぎ、「フェルゼン」という「記号」を演じている〜〜(笑)。
 場面をぶち壊してキラキラ出てくるわ、空気読まずに大芝居はじめるわで、すげーかわいいイキモノと化していた。

 フェルゼン効果だろうか、『ミロワール』でも、なんかすごーくゆみこちゃんがかわいらしく、キラキラして見えた。
 『ミロワール』はいいショーだよね、キレイで、たのしくて。暗転多いけど(笑)。

 重ねてきた経験と、磨いてきた技術ゆえに、どんどん真ん中が似合う人になってきてるんだなあ。
 人は変わっていく。だから、おもしろい。
 あれほど大きな字で「地味」と書いた人に、「キラキラ」と書くようになるんだもの。

 今回のゆみこちゃんを眺めていて、思ったこと。
 いろいろ考えて考えて演じるより、ぺかーっと、ただ「たのしいっ」と笑っている方が、舞台での輝きにつながるのでは……?
 なんてな。

 
 フェルゼン@ゆみこちゃんが愉快すぎたため、登場としてはいつもそのあとになるソフィア@となみちゃんの印象が、わたしには薄く感じられたのは、こまったもんだ。
 フェルゼン様に笑い転げた、そのあとだもんよ。

 それでもとなみちゃんは納得の美しさで、出番も人格もナッシングなひでー状態で、懸命に心をつないで知的な美しい女性を演じてくれました。
 ラストの修道院、水しぇんが彼女の腕の中で死んでいくのはとても美しいと思います。

 
 ロベスピエール@ひろみちゃんの成長ぶりは、すばらしいよな。
 ひろみちゃんはどんどんいい男になる。包容力が増し、存在感が増し。
 てゆーか、『エリザベート』のときのダメダメっぷりから、急激に上がってますがな。革命家に見えずどーしたもんかななエルマーと、今回の頼れるリーダーっぷりは、えらい差だ。

 
 芝居もショーもそらくん大活躍で、すげーキモチイイ。あの美貌を存分に愛でられるわー。
 客席降りでは、らぎくんがすぐ横で、もーどーしたもんかと。うはうはっ。

 キングの唯一の見せ場がハマコポジションの歌手って、そりゃ抜擢ではなく罰ゲームだろ……な、謎な扱いの数々に首を傾げつつ、せしるの唯一の見せ場がシンデレラって、ドレスのオカマはせしる的に新鮮味がないんだよなあ、とゼイタク言いつつ、谷みずせのラ・ファイエット侯のヘタレっぷりに心躍ったことを記し、筆を置くとしよう。


 石原さとみ@『パズル』を見るたびに、キムくんを思い出します……。あのエロい上唇が……(笑)。

 『パズル』の敗因は、1話完結なことだと思います。2〜3話続けて見ると早々に飽きて辟易する……。『トリック』のよーに数話で1エピソード完結ぐらいがバランスいいんじゃ? や、世間的評価は知りませんが、イチドラマヲタクの意見として。
 ……てなことは置くとして。

 今さらながら、オスカル@キムくんの話です。

 キムにオスカルはやってほしくなかったので、「ゆみこがオスカルでありますように!!」と、ずっと祈ってました。
 劇団のおじさんたちは、キムくんが小柄でかわいいからって、女の子役をやらせすぎ。女の子をやらせて成功するタイプじゃないってば、彼は。小柄でも顔がかわいくても、持ち味が骨太なんだから。
 おじさんたちの目にはあさこもキムも等しく「かわいい美人な女の子」だから、平気でヒロインやらせちゃうんだろうけど、チガウから! 女装させてたのしいタイプじゃないから!!

 男役として大切な時期に無理に女をやらせるといろいろ支障が出る……ことを、危惧してました。
 オスカル@ゆみこで、アンドレ@キムでいいのにー。水しぇん沖田相手に土方やったキムだもん、ユミカル相手でも大丈夫だよー(笑)。

 とかなんとか、勝手にいろいろ言ってましたが、実際に全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』を観て。

 「オスカル」というキャラのコワレっぷりに、アゴが落ちた。

 植爺って……やっぱり原作読んだことないんじゃ……?

 オスカルが「男装の麗人」ではなく、ただの女の子になってました。
 あまえっこできゃぴきゃぴ。17歳くらいかな。

 こんな脚本と演出で、キムが、エンジン全開で闘ってました。

 最初はわたしも「オスカル」だと思って観ていたからアゴが落ちて戻らずに苦労したけど、途中から別の人なんだと気づき、なんとか立ち直りました。
 「ばあやぁ、ばあやぁン(はぁと)」と、べったべたの甘え声で話す、クネクネしたフリルフリルなイキモノは、オスカルではなく、別の、かわいいイキモノです。

 原作とか名前とか気にしていたら、植爺作品は観られません。
 どれだけ柔軟に頭を切り換えられるか、それにかかってます。

 キムカルは、かわいかった。
 ソレはオスカルではもちろんないけれど、「オスカル様ファンクラブ」の人々がプラカード持って踊るよーなこの植爺世界観の中では、ソレが正しいオスカルなんだということが、よくわかる。
 いっそ半端なく突き抜けて「可愛い女の子」になってくれた方が、助かる。まだ、原作を守れる。

 それを裏付けるように。

 オープニングのキムは、クールビューティだった。

 植爺作品の常として、冒頭に長い長い、物語とは無関係のオープニングショーが繰り広げられるわけなんだが、ここでキムはオスカルではない、ただの金髪巻き毛の青年として軍服で踊っている。
 オスカルのイメージを作りつつも、オスカルではない、不思議な造形。
 そこで彼は、ニコリともせず、ひたすらクールに踊っていた。

 オスカルとして、大人として、軍人として、耽美な姿を作ることはできるんだ。オープニングでことさら低温にそれを見せつけている。(ちなみに、隣で同じ衣装を着たゆみこさんは全開の笑顔でにっこにっこたのしそーに踊ってらっさいます)

 だが、本編では植爺好みの女々しいオスカル像ど真ん中。本編で別物をやるために、オープニングではあえてまったく正反対の「オスカル」をイメージさせる。

 大変だな、キム。

 キムくんは植爺演出の粗を一身に背負って、懸命に闘ってました。
 そしてキムがすごいのは、そーやって理不尽な戦いを強いられているのに、悲壮感がないこと。
 こんな暴れ馬も、なんやかんやで乗りこなしちゃうんだなー。うわー。

 オスカルをゆみこで見たい、と言っていたのは、撤回します。
 この「あまえっこかわいこちゃん17歳」を、ゆみこさんにやってもらうのは、あのお、えーっと、いろいろ大変すぎると思います。
 ふつーのオスカルならゆみこでもアリだと思うけど、「ばあやぁ、ばあやぁン(はぁと)」と腰をフリフリするゆみこさんは、見たくありません……。

 
 芝居のストレスを払拭するかのよーに。『ミロワール』では、爆発してました、キムくん。

 オトコマエ。

 すっげー。男前だ。
 変わり続ける表情。自在な歌声、客席アピール。
 うわー、濃い。濃いよお、キム。キム濃度が上がってる〜〜。

 
 キムを見ていると、「わたしにまっつがいて、よかった」と思う。
 わたしの愛は今はすでにまっつのモノ(笑)なので、揺らぎはしませんが、もしも今贔屓がいない状態で、キムのもっともキムらしい魅力を見せつけられたら、彼に堕ちて、戻って来れなくなっているかもしれない……と、思うから。

 水くんにときめくのとはチガウんだよなあ……。彼にはもっと、ひたすらヲトメな気持ちできゃーきゃー言ってられるんだけど。
 キムにきゃーきゃー言うことは、多分ない。彼にはヲトメとしてではなく、わたし個人として、言い訳のきかない本質部分で惹かれるせいだろうな。トウコちゃんと同カテゴリ。

 キムくんは、力強く突き進んで欲しい。
 かわいこちゃんな外見に騙される人がなにを言ってきても、オトコマエに突き進んで欲しい。

 彼には、野生の獣でいてほしい。

 飼い慣らされていないワイズ、したたかなエロスを武器にして欲しい。きれいに収まらないで欲しい。

 不敵なほど「スタァ」であるキムくんを見ていると、心からそう思うんだ。

 あのぶ厚い唇を歪める、「汚い」表情が好き。野蛮で不遜な顔。彼がいちばんセクシーな顔。
 ドスをきかせる、濁音のよーな歌い方を混ぜる一瞬が好き。それまでのきれいな声から、自在に逸脱させる、音楽で遊ぶ姿。

 きれいなだけにはならないで。絶対に。

 
 と。
 ときめき……ではないけれど、ぞくぞくわくわくしながら、キムくんを見つめておりました、全国ツアー初日。

 オスカル様より、わたしはフィラントが好きです。彼の歌う「お気楽ソング」を聴きたいっす。


 純粋に、ときめくときがある。
 理屈ではなく、胸が高鳴り、ヲトメなキモチになる。

 メデューサ@水くんが、客席から現れたとき。

 予期してなかったから、わたしは舞台を必死に見ていた。ヲヅキが出ていないので、黒服トリオがどうなっているのか興味津々、ガードはがら空き油断しまくりだった。
 そこに。
 突然、彼が現れた。

 サングラスにロングコート。
 鋭角的な横顔、クールな美貌。

 上がる歓声。客席から素で声が上がった。
 わたしも思わず、声を出していた。

 かっこいい。

 うわー、かっこいいよう。一気にトキメキ・スイッチ入った(笑)。

 下手扉から現れたメデューサ様はそのまま中央通路を通って、センターブロックの上手寄り通路から舞台へ。
 わたしはその中央通路のちょい後ろあたりのセンターブロックにいたもんで。

 目の前を水しぇんが通っていく様を、石になったまま見送りました。

 メデューサ様、サングラスかけてるのに! 目が合ったわけじゃないのに! うわー。

 理屈ぢゃないよなー。この、ときめきってば。
 客席から舞台を眺めている状態では、舞台の上のあの人は「わたしとは無関係な人」であり、一方的に眺めていられる。安心していられる。
 しかし、突然客席に現れられた日にゃあ。
 ……いやその、客席を歩いていった、つっても、やっぱりあの人は雲の上の人なわけで、わたしとはまーーったく無関係な人なんだけど、なんでだろ、すげーびっくりして、どきまぎしたぞ(笑)。
 メデューサ様、つーのがまたいいよなあ。クール・ビューティだもんよ。

 水くんが舞台に上がってしまったあとも、しつこくドキドキしたままだった。

 長く生きている以上、心もカラダもあちこちガタがきて、劣化・鈍化していると思う。
 だからこそ、ときどきはこうやって無条件にときめいて、心とカラダの循環をよくしなきゃなー。
 やー、水夏希って美容と健康にいいよなっ。

 
 とゆーことで、今さら雪組全国ツアーの話。ああまた、書きたいことがどんどん溜まっていく……。

 『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』でのジェローデル@水くんは、もちろん美しかった。
 
 ……カツラが微妙?
 え? どこが? なんで?
 ふつーにキレイじゃん。
 え? 世の中的に変なの? あの髪?
 ちなみに、ポスターもふつーにキレイだと思ってますが。さすが水しぇんビジュアル系!と。そう言うと周囲からいっぱい突っ込まれ、マジで首をかしげた。

 原作のジェローデルは腰のなさそーなワカメヘアなんで、アレがどーしてあんなラーメンヘアになるのかは謎ですが。
 マンガそのままの造形は無理があるにしろ、水くんジェロ様はその姿からいかにも「宝塚歌劇」というゴージャスな非日常感にあふれていて、ヅカと『ベルばら』の看板背負って地方巡回興行するに相応しいと思いました。
 水くんの作りこまれた美しさ、その美意識の高さにはいつも感心してます。

 ビジュアルはともかくとして。
 なにしろ脚本がアレなので。
 作中のジェローデルはいろいろいろいろアレなことになってますが。
 それでもジェロ様を愛でることは可能だと思う。喋らされている台詞がどんだけおかしくても、んなことはおかまいなく舞台の上の彼らには「心」があり、それをつないでいこうとしているから。
 水くんの芝居の温度っちゅーか、心の在り方がわたしの好みに合ってるんだろうな。芝居の中の彼を見ていると心地いいんだ。

 オスカル@キムとの、婿選び舞踏会場面の愉快なこと。
 かっこつけてダンスを申し込むジェロ、無視するオスカル、その繰り返し。
 ここは植爺渾身のギャグ場面となっているため、反応にこまってただぼーぜんと眺めてしまった。わ、笑えばいいのか……? 天下のジェローデル様を?
 植爺には恨み節だが、ここはもう『ベルばら』とは思わないで、まったくのオリジナル作品オリジナル・キャラの水くんがキムにラヴラヴして、キムがツンツンする話だと思うことにした。
 そーすりゃかわいい場面だってば。
 未だにジョルジュとフィラントに萌えている身としては、このふたりでLOVEなんて、愉快な展開です。

 この間nanaたんの車でドライブ(劇場→某ホテル→自宅。……ただの移動とも言う)したときに、エンドレスで流れる『ミロワール』実況CDを聴きながら、しみじみ思った。

 水くんの声って、イイよねっ?

 わたしはあまり音楽のみを聴く習慣がなく、CDや音楽データ聴くくらいならDVDを見るもんで、水くんの「歌」だけをあえて聴くということを、したことがなくて。
 ……いいじゃないですか、水くんの声、水くんの歌。
 彼の場合、声とか歌とかより、ビジュアルが好みなのでそれ以上突っ込んで考えたことがなかったのね。まあその、歌がアレな人、という先入観もあるわけだし。

 歌が上手いとはやはり思わないけれど、それでも声がいいから、それだけでいいやと思えるよ。
 ハスキーでセクシーな声だ。

 にしても『ミロワール』って。
「水くんの歌うとこ、なんかすごく少なくない?」

 nanaたんの車で『ミロワール』を聴くのははじめてのことじゃないし、CD発売以降いつ乗せてもらってもBGMは同じなんだけど、今回はじめてまともに水くんの歌声を聴いた気がする。
 とゆーのはだ、ムラのいつもの店からわたしんちまで、オトコマエなnanaたんは車で送ってくれるわけだけど、その場合実況CD1枚分も時間がかからないのですよ。エンジンかけた途端ゆみこの歌声で、フィナーレにたどり着く前に、車を降りる。
 CD1枚端から端まで聴けば、オープニングやフィナーレで水くんが歌っているけれど、途中から聴きはじめて途中で終わってしまうと、水くんの歌をほとんど聴かないとゆーことになる。

「そーだよー、今回水さんほとんど歌ってない。最初と最後以外では、メデューサぐらい」
 それでわたし、nanaたん車で水くんの歌、ろくに聴いたことがなかったんだ。水くんの歌になる前に目的地に着いちゃって。
 でもって、いつものコースとは違い、パクちゃん送迎付きでついでにちと帰り道に迷ったりした長時間ドライブになってはじめて、水くんの歌をじっくり聴くことができたんだ!

 なんかすごい発見でした、わたし的に。
 いつも『ミロワール』が流れている車に乗っていたのに、水くんの歌を聴いていない。→水くんの歌って少なかったんだ?!→よーやくじっくり聴いた水くんの歌声は、ステキ。
 ゆみこはえんえん歌ってるから、なんかいつもゆみこの歌だけ聴いていたよーな印象だ、nanaたん車(ある意味ソレは正しい)。
 水に歌わせず、ゆみこに歌わせまくるのは、演出家として正しい判断だろうな。
 そーして少ない歌でちゃんと水くんは、彼らしいイイ声を披露してくれてるし。歌ってなくても、水くんはそのビジュアルでたのしませてくれているし。

 水くんがCD出したら、やっぱわたしは買うんだろうなあ……。声目当てに。
 こっそりヘッドフォンで聴くの。あー、曲の中にささやき声系のあまーい語りなんか入れてくれたら最高かも(笑)。ときめくことによって、ココロと身体を循環良くするのよー。
 歌の内容は……実況ではなく、ちゃんと歌い込んだうえでの新録音にしてほしいっす(笑)。いやその……ははは。

 
 すみません。
 まず、叫んでいいですか。

 『ベルばら』じゃなくて良かったっ!!

 95周年で、お正月公演じゃん。
 つーとナニが起こっても不思議じゃない。
 『ベルばら』再演とか、『夜明けの序曲』再演とか、『天使の季節』再演とか、植爺確実だと思っていたからさ。

 組子出番無しの記念祝舞+植爺作品1本モノ、とか、あっても不思議ぢゃないからな。

 チガウなら、良かった。
 チガウことだけはわかったから、良かった。

 でもって、本日出た情報は。

1.宝塚大劇場・東京宝塚劇場の年間10興行化について
2.宝塚大劇場・東京宝塚劇場等の席種区分・座席料金の一部見直しについて
3.『太王四神記(たいおうしじんき)』の舞台化について

                                      公式より


 いちばんショックなことから反応しときます。

 チケ代、値上げっすか?!

 S席が500円値上げっつーことは、年間120回観ている人間にとって、6万円の値上げつーことで、ヅカのチケ代に合わせて所得が増えるのでない限り、ふつーに考えると観劇回数が減るってことっすね。

 今のチケ代×120回=値上げ後のチケ代×a回……aの値を求めよ、てなもんですな。

 べつに全部ムラのS席でのみ観劇するわけじゃないにしろ、これは切実な問題です。
 かんばって回数減らさなきゃ。

 三番街のチケ発売がどうなるのかが不安だ……。今まで通りでありますように。
  

 年間10公演、に関しては、演目がわからないのでなんとも言えない。
 長さより本数より、作品が重要。

 頼むから、植爺とか柴田せんせとかの、化石になったよーな古い古い再演はやめてくださいよ……。当時は名作だったのかもしれないが、現代とは世界観も価値観もセンスもテンポもなにもかもチガウんだから。
 再演するならタイトルだけ同じで、脚本・演出・演出家を全部「現代人」に任せること。一から書き直すなら良いけど、ただの手抜き懐古主義は勘弁。

 演目のことだけでなく、他のハコとか全ツとかの総合スケジュール出してくれないと、わけわかんないしなぁ。
 ジェンヌのお稽古とかお休みとか、どうなるんだろう?

 
 つーことで、唯一演目が発表された、次回花組公演の方が、今のわたしには重要です。

 韓流ドラマ? ヨン様?
 わたしの知らない、知らなくてもいっかー、なジャンルなので、反応に困るっす。
 NHKの予告が今までもちょくちょく目に入っていたが、なんか画面派手だったよね?
 内容なんぞカケラも知らんが、派手だからいっか。地味よりはいいよ、ヅカだから。

 ポイントは。
 演出・小池修一郎ってことですな。

 オリジナルじゃなく、原作アリなら小池せんせはよい仕事をしてくれるのではないかと期待したいです。
 
 ところでこの『太王四神記』とやらには、「世界征服を企む悪役」は、いるんですか?

 いやその、演出小池だし。まっつの扱いが、気になって。

 小池修一郎にとって未涼亜希は、「世界征服を歌う悪役」だったりする……のかも、しれないからさー。

 いくらなんでも3作連続同じカテゴリの役はつけないよな。な?


 花組は芝居が苦手かも? と、書いたけれど。
 ……どうなんだろ。他組と比べてそれほど差はないのかもな、とあとから考えた。

 たんに露出による印象の問題かな。

 例えば今回の新人公演『愛と死のアラビア』の主役以外の中心人物たち、トゥスン、ドナルド、ナイリを、めぐむ、らい、しゅん様、きらり、すみ花、くまくま、あたりで演じていたら、芝居全体を苦しいとは思わずに済んだかも。
 露出の大きい役の力が足りないと、全体の印象に響くんだよなあ。

 なまじ、『愛と死のアラビア』は役が少ない。その少ない役のほとんどを、キャリアのない下級生にやらせたもんで、えーらいこっちゃな話になっただけのこと。もっと役があれば、この事態は緩和できたろう。

 できるとわかっている子にやらせるのではなく、冒険した配役をしているのだから、長い目で見ればこれでいいのかもしれない。

 
 と、未来への期待を込めて、現在の彼らの印象。

 トゥスン@嶺乃くんは、見事な子役ぶりだった。
 トゥスンはもともと17歳位だそうだから、幼くてもいいのかもしれないが、終始違和感があった。
 外の舞台で、女性が子どもを演じている感じ? 男役ではなく、子役。
 トマス@まぁくんとの年齢差が大きく、対等の友人に見えない。つーことで、物語の流れが悪くなる。
 一生懸命なのは伝わってきたし、今まで役らしい役をもらったことのない子のはずだから、この経験を糧に伸びるのかも。

 ドナルド@ネコちゃんは、相変わらず野心的。
 やりたいとあがいていることはわかるが、技術が足りていない印象。
 イメージしている演技や佇まいと、実際に出来ていることにギャップありすぎないか? うーん、目標が高いのはいいことのはずだから、あとはそれに技術が届きさえすればいいのかなあ。
 ただ今は、こう見せるつもりでその演技なんだろうけど、スベってるよ、の連続で、居心地が悪い……。
 声が女の子のままなのも痛いな。
 戦闘意欲の高さは好きだ。今回それが空回っていて手に汗握ったが、がんばってくれ。

 ナイリ@ハルちゃんは、初登場時から衣装という大きなハンデがあって大変。
 ナイリ姫の肌見せ黒装束は、やっぱセクシーで華やかだったんだよね。サイズの問題なのか、ハルちゃんはその黒装束は着ず、もう1着の色気に欠ける衣装で登場。
 パーティドレスで登場するシーンに、普段着で登場した感じ。
 衣装にがっかりするよりなにより、ナイリ姫、でかっ。と、思ったけどな(笑)。侍女たちよりはるかにでかい。
 性転換したばかりだから、基礎値が低いのは仕方ないんだろう。娘役としての華やかさを出すにはまだまだこれから。
 なんだかすごくふつーの女の子だった、あのナイリが。本役さんがあまりにぶっとびすぎてるのか? 新公はただのわがまま娘……にもなっていなかったような。
 これからどんな娘役さんになるのかな。素顔は美人さんだし、舞台スキルを上げればもっともっときれいになるはず。せっかく転向したのだから、豊かな娘役人生になりますように。

 何作かあと、ずーっとうまく、ステキになった彼らを見て、「そーいや『愛と死のアラビア』新公は大変なことになってたなー。見ておいてよかった、今のスターぶりからは想像もつかない姿だったもの(笑)」と言えるよーになっているかもしんないからなっ。

 
 新公はあちこち演出が変わってました。
 ささやかな変更なんだけど、全体的に、派手になっていた。

 演じている子たちに力がない分、調節は必要。
 緩急を付けて、わかりやすく派手にする。
 ムハンマド・アリ@めぐむの前に現れるトマスの登場の仕方が変わっていたことに、いちばんウケた。いやあ、植爺作品のパロディのようでヨシ。

 新公演出は鈴木圭。相変わらずアレンジはうまいよな。(オリジナル・バウはえらいことになってたけど・笑)

 
 ヤシム@大河凜くんはかわいかったし、メドヘッド@みちるタンもよくやっていた。……が、子役はある意味できて当たり前なとこがあるので、うまいのかどうかまでは、よくわからない。
 みちるタンの濃さはアレ、いいんですかねえ……。台詞ないところの顔芸がものすごいことになってましたが。

 若手の有望株のほとんどがベドウィン騎馬隊入りで、誰が誰やらさっぱりわからなかったことが、残念です。
 ベドウィン音頭で踊るエクササイズが、本公演よりさらにエクササイズ度が上がっていて、全員きれーにそろってパキパキ踊っていたのが印象的。
 若いからかな、あのスポーツクラブ風味は。

 
 来年から1公演が短縮され、公演数が増えたので、若手にもチャンスが多くなる。新公の機会も増えたはず。
 もっともっとステキになってほしい。スターが出てきて欲しい。

 でもって。
 めぐむたち88期も、まだもう1作チャンスがあるってことだよね?

 劇団様、まぁくんはもう十分真ん中修行してますんで、次は別の子にチャンスを与えてやってくださいまし。つか、まぁくんは悪役希望。この子、黒い役の方が映えると思う。(ex.『MIND TRAVELLER』)
 だいもんは早いこと主演させるべきだと思うし、いやそのめぐむ氏を1回くらい真ん中にしてくれてもぜんぜんいいし、らいとしゅん様に一度路線役を与えてみてもおもしろい化学変化が見られるのでは、とか、いっそアーサー抜擢してみちゃってよ、とか、瀬戸くんに役ついてんの見てみたいとか、日高くんどうですかとか、いろいろいろいろ思うし。
 きらりヒロイン見てみたいし、ゆまちゃんもアリだと思うし。くまちゃん主演だったりしたらあの鼻息の荒さはどこまでいくんだろうとか、想像するだけでワクテカだし。

 今回の役の少なさと作品のアレさを、次回で払拭してくれるといいなあ。
 新公はおもしろいもの、やっぱり。


 新人公演『愛と死のアラビア』で、いちばんテンションが上がったのは、最後の、めぐむの挨拶だ。

 ここ数作、めぐむ氏の空回りぶりが目に付いていて、見ている方もちょっと途方に暮れていたんだ。
 それが、今回の舞台で専科さん役を演じるめぐむは堂々たるモノで。
 WSの若者役でさんざんスベっておきながら(笑)、おっさん役だと輝くのか。その持ち味と実力を好ましく思う。
 なんだよめぐむ、いい男じゃん、と思っているところへ。

 新公の長として、彼が挨拶をするべくマイクの前へ出てきた。
 そっか、年度が替わったから、めぐむたちの期が長なんだ。で、めぐむが席次トップなんだ。

 めぐむさんは、重厚な衣装、もじゃもじゃ黒ヒゲにぐるりと顔を覆われた、いかにもいかついおっさん姿で。

 超かわいい声で、しゃべり出した。

 ちょっと待て、ナニその声?!
 純路線様でもない限り、舞台で素の声を聞く事なんてない。めぐむの素の声を、はじめて聞いた。
 かわいらしい、湿り気のある女の子声。
 めぐむの素の声、もともとの声はこんななの? じゃあ、舞台で聞いているあの男らしい声は、作り声なの?

 ……すみません、ときめきました。

 わたしは、技術のある人が好きです。才能よりも、努力でソレを得た人が好きです。
 持って生まれたってだけのモノでのほほんとしている人より、欠けている分死にものぐるいになって補う人が好きです。「タカラヅカ」というファンタジーには、その「努力」という美点を味わせて欲しいと思っています。

 めぐむの素晴らしいおっさんぶりと、かわいい女の子声。
 このギャップにやられました。
 ときめいちゃいました。やーん、どうしよう。

 
 さて、新公はめぐむファンできらりファンの某友人(笑)と一緒だったので。
 本公演初日を見た夜、「星原先輩はどうだった?」と質問され、いつからそんな星原先輩ファンに?! と混乱させてくれたり、「きらりは冒頭のソロを歌うのか?!」とひとりで騒ぎ続けたり、そーゆー人と一緒だったので、杞憂する点がふつーの人とずいぶんちがっていたかもしれません。

 花組きっての歌手、えりさんの役をきらりが演じる……つーんで、芝居の金ぴかオープニング直後の黒衣の女歌手役も、そのままきらりが演じるのか?
 劇場に入る前の、最大の懸念はソレでした(笑)。
 や、WSできらりちゃん、ずいぶん歌がうまくなっていたけれど、でもほら彼女、群を抜いて歌はアレな人ぢゃないですか。あの超ムズなソロを歌うわけですか?
 ロビーでプログラムを開き、そこだけ配役チェック。

 黒衣の女歌手役が、萌子だとわかったときの衝撃。

 nanaタンとふたりして、大ウケしちゃったよ。そーだよな、きらりにやらせるわけないよな。
 
 
 前もって若者たちの出番をチェックだー、と思ったのに。
 ……なんつーか、チェックしがいのない芝居だということがわかっただけだった。あー、キムシンの『スサノオ』新公を思い出すなー。役がねえ……。(『暁のローマ』も『黒蜥蜴』も、まだ役はあった。「大和の民」に比べればね)

 現に、ベドウィンたちはまったく誰が誰かわかんなかった。
 もともと知っている子ならなんとかなるかもしんないが、「新しい出会い」には至らず。……出番も見せ場もないわ、順番待ちしてよーやく台詞ひとつ言うだけでは、うまいもヘタもわからないわ(つーかヘタさの方が目立つ)、かぶり物とヒゲで顔はろくに見えないわで、新公のたのしみがないよーっ。
 谷のバカーっ。

 女の子たちも、なにしろ出番がない。役がない。
 ストーリー上必要な役は皆無だもんよ。
 ストーリーとは無関係なショーシーンだけが、彼女たちの見せ場。

 そんななかで、ダンサーとして場を与えられたくまちゃん、ゆまちゃんはおいしかったなと。

 萌子が苦悶の表情で独唱する、冒頭の場面。
 奴隷の踊り子さんを、くまちゃんが演じているんだが。

 濃いっ。

 最初からなんてハイテンション。
 いきなり慟哭芝居スタート。
 アナタ、どこのお姫様ですか? 国は滅ぼされ、他国へ売られるわけですか?
 そこだけで大河ドラマ1本演じる気満々、つーか。

 あんまり「芝居」がものすごいんで、ダンスとしてどうなのかはわかんなかった。
 あんまり「芝居」がものすごいんで、この場面とこのキャラクタが、ストーリーとまったく無関係だと、初見の人にはわからなかったんじゃないかと老婆心(笑)。

 でもって、「前もってチェックだー」とプログラムを開いたわりに目がすべって、結局誰がなにをやっているのか、どんな役があるかもわかっていない状態だったので。

 途中の場面転換無理矢理ショーシーンにて、くまちゃんダンスソロがあって、びびった。

 なんだなんだ、ナニが起こった?
 本公演にこんな役ないよな?
 なんでいきなりひとりで出てきて踊ってるの?!

 白い衣装にセンターでのダンスソロ、えーと、くまちゃんってトップ娘役だっけ??
 これまた美しいんだ、彼女。押し出し強いしさー。

 ダンスがうまいかどうかより、その配役というか、演出の謎さにびっくりしているうちに、女豹ちゃんたちキターーっ。

 てゆーか、ゆまちゃんキターーっ!!

 女豹ちゃんたちのダンス、センターは我らが美少女ゆまちゃん。
 かわいー! きれー! 挑発的! ……でもって、デンジャラス。

 あの、胸が……ゆまちゃんの胸が、すごいことになってました。
 ヅカを代表する巨乳美少女ゆまちゃんですから、谷間が見えることぐらいでは、もう驚いたりしません。
 谷間どころぢゃないんだってば。

 ふ、ふくらみが……大きなお椀がふたつ、見えてる……ぐはぁっ。

 ここまで露出してるのって、すごくないか? や、すごいを通り越して、やばくないか? と、心配してしまいました……ガン見しながら。だって、目が離れないよ、あんな神々しいモノ見せられたら!(笑)

 はー。
 くまちゃん、ゆまちゃんファンは必見だわ、この新公。
 いやその、出番自体は超短いんだが、インパクトがすごい。他の人たちは男も女も総モブ状態だから、このふたりの登場はギャップが大きいのよ。

 一方きらり嬢は、出番が少なすぎて消化不良……や、わたしが。
 もったいない……なんできらりには役がつかないんだ……こんなにきれいで、芝居ができるのに。
 いや、女官長役だから、他のモブしかやってない人たちに比べれば、ゼイタク過ぎるほどなんでしょうけど。しかし、役のない芝居だ。谷め……。

 と、とりとめなく話ながら、続きはまた別欄で。


 花組は、芝居が弱い……と、思っていた。
 一部の人たちはもちろんちゃんとできるけれど、そしてそういう人たちで舞台は回していってるから他組と比べて格段に落ちるとかそーゆーことはないけれど、大多数の人たちは芝居が苦手、という印象。

 芝居が苦手でも、他のところで巻き返す組だから、それはソレでヨシ、ナンバーワンよりオンリーワン精神でヨシ、てなもんで、事実は事実として、ソレをとくにどうこう思っていたわけではないが。

 なんだか、いろいろあわあわしてしまいました、新人公演『愛と死のアラビア』

 こーゆーのを「新人公演らしい新人公演」っていうのかなあ。
 つまり、その、かなりアレな出来。

 主要人物にうまい人がほとんどいない芝居を観るのは、なかなか大変だったっす。
 作品が良ければそれで底上げもできるんだけど、なにしろ『愛と死のアラビア』ですから。作品はアレだし、役者はアレだし、では、逃げ場がない。

 主役のトマス@まぁくんは、うまかった。
 ただ役としてうまいというより、他のなにもできていない子たちの真ん中で、彼らの居場所を示してやるかのよーな空気感に、感心した。

 すげー、あのまぁくんが、台詞言うだけでいっぱいいっぱいのトゥスンだのドナルドだのを支えてやってるよー。
 これまでべつに、まぁくんに包容力とか、他の役者とのバランス配慮とか、感じたことなかったからさ。まぁくん自身が自分の演技をしている、ぐらいにしか届くモノはなかった。
 なのに、自分でも演技をしながら、他の子を支えている。……こんなことができるよーになったのか、まぁくん。伊達にWSで、あの姫花を相手にしたわけじゃないんだなっ。成長してるよ、ヲイ。

 そのことには、とても感心しました。
 ただ、WSに引き続き、芝居がアレな人を相手に孤軍奮闘している姿を見せられると「劇団は、朝夏まなとをどうしたいんだ?」とは思うけどさ……。
 スパルタ中なのかなぁ。芝居がんばれってことかなぁ。
 でも、ちゃんと芝居の出来る人たちとふつーに芝居しているまぁくんが見てみたいっす。WSがあんなことになってたんだから、まぁくんが周囲のフォローに足を取られず全力を自分と作品のために発揮できる場を、用意してやってほしかったっす。

 
 とまあ、まるで出演者全部へたっぴだったような書き方になってしまったが。
 もちろん、うまい人たちもいる。
 問題は、芝居が出来る人とか役の声を出せる人とかが、みーんな出番が少なかったんだよなー。

 イブラヒム@だいもん。
 うまくて貫禄があって、本役さんより専科風味っつーのはどういうことだ(笑)。
 本公演で子役をやっているとは思えない、別人ぶり。ほんとに芸達者だなー。

 しかしイブラヒムって出番少なかったんだね。歌も1曲だけだったんだね。
 だいもんだから、もっともっと歌が聴きたかったよー。

 アノウド@れみちゃん。
 なんとも儚げなお姫様。匂い立つ不幸オーラがステキ。
 昔のドラマのヒロインみたいに運命に翻弄され、なすすべもなく目の前の出来事を受け入れているような。

 しかしアノウドってほんとに出番少ないわ、人格見えないわ、の、やりにくい役だよなあ。

 ムハンマド・アリ@めぐむ。
 うわー、いい声。大人の男の威厳と、存在感。息子たちに対するときの温度。なんだよ、いい男じゃん!
 ここ数作、新公WS含め、わたしの中でめぐむ株が落ちていたのだが(笑)、ここで一気に盛り返した。
 やっぱうまいよな、めぐむ。いい男だ。

 アジズ@しゅん様。
 ……かっこいい。あれ? この役って、こんな役だっけ?
 たしか将校と台詞で解説されていたと思うけれど、本役さんは貴族か役人か、普段から剣を握る生活はしていそうにない人に見えていたが、新公ではまちがいなく武人だった。
 姿の美しさ、動作の美しさ。立派な肩幅(笑)。
 たしかにこの男と決闘して、勝利すれば、トマスの人望も上がるだろう……と、思わせる。
 声の通りがいいのも、存在感を大きくしているなー。

 デジュリエ大佐@らいらい。
 色男。
 なんなの、あのかっこよさ。不敵なまでの二枚目。
 余裕のある大人の色男としてトマスを口説くのがヨシ。この男の舌になら、そりゃ丸め込まれるだろう、トマスみたいな真正直な若者は。

 ザイド@アーサー。
 ねえちょっと、最近アーサーすごくない? すごいよね? 能面だった顔にも、表情が出来てきてさ。
 豪快な大人の男でありながら、二の線を忘れていない感じがイイ。
 声が通るってのは強いよな。歌手カテゴリの彼だからこその、的確な声音。
 ヒゲのおっさん役なのに、華やかだわ。

 アミナ@くまちゃん。
 ふつーにうまい。違和感なくうまい。
 ……が、この役よりもくまちゃんはダンスシーンで大活躍、そっちの印象の方が強い。
 くまちゃんというと歌手というイメージだが、ダンスもできたのかー。

 ……ヒロインのはずのアノウドより、ダンス場面ふたつを含めたくまちゃんの方が、出番が多かったよーな気がするんですが、この演出と配役はいったい……?

 サミーラ@すみ花ちゃん。
 やっぱ華があるんだなと思った。侍女なのに、一緒にいる姫君より目がいってしまう。ヒロインはこっちの子かしら? と思わせてしまう。
 少ない出番でキャラクタを創る力は抜群だ。

 歌手@もえりと、女官長@きらり。
 うまい子たちなのに、とにかく役不足。出番少なっ。
 
 
 やっぱ舞台というのは、キャリアが必要なんだよね。
 だから若者たちはなにがなんでも、少しでも多く経験を積ませる必要があるんだよね。
 うまい、と思う人たちって、結局のところ今までもなにかしら役を得て、キャリアを積んできた人たちだもの。
 はじめての大役を与えられた若者がなにもできなくても、それは仕方のないことなんだろう。

 と、わかってはいるけれど、やっぱ、つらいわ。うまい人たちが主要人物にあまりいない……というか、出番が多かったり、キメになる場面がある役に力のない人が複数配置されるってのは。
 うまい人たちはみんな脇で、主要な役は若者のお勉強に当てられてしまっているのは。

 『La Esperanza』新公を観て、「花組って芝居やばい?!」と驚愕した、あのころの記憶が蘇りました。主役カップル以外がえーらいこっちゃ、なことになってたもんなあ。
 あー、そう思えばめぐむはうまくなったよなあ……。しみじみ。

 しかし、88期はこれで新公卒業しちゃうの?
 つーと来年度は脇のうまい人たちさえいなくなってしまうっていうこと? 男役ではだいもんが孤軍奮闘必至? ……すごいなそれは。

 WSも新公も、お勉強の場。
 経験を積んで、若者たちがより高く羽ばたいていってくれますように。
 今回の新公の出来が、めぐむの『La Esperanza』じゃないけど、いつか笑い話になる日が来ることを信じてる。


 『凍てついた明日』は、タータンの代表作だとは思っていない。
 ボニーを演じたぐんちゃんの代表作であり、「ブルース・レクイエム」を歌ったトウコの代表作だと思っている。
 タータンの代表作は、他にあると思うよ。『花の業平』とか。

 それくらい、月影瞳のボニーは、すごかった。
 ボニーという役は、タカラヅカの枠を超え、「女優」としての力量を計られる役だと思う。てゆーかぶっちゃけ、ボニーを高品質で演じられたとしても、「タカラヅカの娘役」としては、得るものは少ないと思うし。純ヒロイン路線のお嬢様が得なくていいスキルばっか身に付くぞ。
 ボニーが演じられなくても、「タカラヅカ」である以上はべつにかまわない。
 ……そんな役だ、ボニーって。

 ただ、決まったからにはとことん演じて欲しい。
 内側にあるものを、骨惜しみせずさらけ出して欲しい。
 人間の弱さ、汚さ、愚かさ、そーゆー、ヅカ的ではないものを全部見せてほしい。

 そう思っているから。

 『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』、Aチームのボニーは、みなこちゃん。
 初演とは違い、テッド@ヲヅキが2番手として派手に場を牽引する中でよーやく登場した彼女は、なんか、地味だった。

 比重が下がった? ジェレミー@きらくんが「ブルース・レクイエム」を歌わせてもらえず、2番手から「仲間たちの筆頭」にまで比重を下げられていたように、ボニーもヘタしたら「主役」の位置からクライドの相手役その1、にまで下がった? 相手役その2がテッドだから、テッドよりもちろん大きな役だけど、カテゴリは一緒にされちゃった?

 そう思えるくらい登場時のテッドはばーんと派手だったし、ボニーは精彩に欠けていた。

 が。

 物語が進むにつれ、どんどん彼女が大きくなる。

 ボニーの孤独が、大きくなる。

 彼女が抱える閉塞感、絶望感が、胸に痛い。

「触れ合った指先が、冷たく凍りつく」……触れ合えばふつー、あたたまるはずなのに。
 もう誰も、彼女の孤独を癒すことはできない、溶かすことはできない。

 別の人間、別の孤独。
 だけどクライド@かなめくんとボニーは同じ心の深淵を見つめながら、出会ってしまう。

 かなめくんとみなこちゃんの、演技力にはかなり差がある。や、残念ながら。
 みなこちゃんが実力で「ボニー」という役を引き寄せているのに、かなめくんは演技しているというよりは、役のイメージに合っているから演じられている、という方が近い。
 ふたりは明らかに「チガウ」ものなのに、惹かれ合う。

 ふたりの異質さがまた、孤独感をかきたてる。
 絶望すら、誰かと分かち合うことはできないんだ。心に開いた穴は同じなのに、別々の傷、別々の飢え。
 抱き合ったところで、満たされることはない。

 1幕でボニーの孤独が浮き彫りにされ、その孤独感ゆえに彼女が道を踏み外す過程が描かれる。
 「ここではないどこか」へ連れて行ってくれるなら、誰でもよかった。彼女が欲しいのはロイ@ガオリくんただひとりだから。ロイでなければ、男は誰でも同じ。ロイを忘れることが出来るなら、誰でもいい、なんでもいい。
 もともとチンピラのクライドとはちがい、ボニーはふつーに働き、ふつーにママを愛している女の子だったのにね。
 心を蝕む飢えに背中を押されて、彼女は戻れない旅に出る。

 命を懸けた、犯罪の旅が、ボニーとクライドには必要だった。

 「共犯者」にならなければ、ならない。
 互いを縛るモノが必要。
 退路を断つ。……そのために、罪を犯す。
 もう戻れない。もう出来ない。ふつうの生活をすることも、ふつうの相手と恋をすることも。
 そうすることで、彼らは互い以外を選べなくした。

 だからボニーとクライドは依存し続ける。
 ほんとうに欲しいモノは別にあるのに、見ないふりをして走り続ける。逃げ続ける。

 クライドと過ごしはじめたボニーは、孤独感が薄まったかわりに、ひどく不安定になっていた。
 迷いと安定と諦観がちらちら回る。

「言葉だけならいくらでもあげる。愛してる、愛してる、愛してる……」

 ヒステリックに吐き出す言葉は、彼女の悲鳴だ。 

 この物語は、「愛してる」という言葉が、さまざまな意味を持って使われる。
「愛は大事なモノじゃない」
 と、否定されていたりもするが、それ以上にボニーもクライドも、「愛したい」と切望している人たちだ。

「愛してる?」
 という問いの答えが、「愛したい」であること。
 愛したい……つまり、「愛していない」んだ。
 キライとか興味ないとかじゃなく、共に地獄に堕ちる運命の相手で、道連れで、世界にただふたりきりの相手で、気持ちは相手に向かっているのに。
 それでも、「愛していない」んだ。
 愛することが出来れば救われる、楽になれるとわかっているのに。
 それでも、愛せない。

 愛したい。
 救われたい。
 救いたい。

 それでも、心は止められなくて。

 クライドに抱かれながら、ボニーが呼ぶのはロイの名前。

 ふたりは抱き合っても、あたためあうことができない。触れあっても、凍り付くだけ。

 ボニーの不安定さが、折れてしまいそうな危なさが、愛しい。

 そして、運命の夜、銃弾に倒れたあとのボニーは、すべてを突き抜けて、答えを得る。

 や、このあたりからのボニーが、凄くてね。
 心のどこかが砕けてしまった感じ。
 まっすぐに立っているはずなのに、どこか傾いているような、平行でない場所に立っているような、気持ち悪さ。

 狂ってる。

 この女、向こう側へいってしまった。

 たしかにここにいるけれど。まだ、いるけれど。
 でも心の何割かは、もう戻ってきていない。

 こわい。
 狂ってしまったボニーが、ただ、こわくて。本能的に禁忌を感じて、ぞくぞくして。

 で、こんなこわい女を前にしてクライドはどうするんだろう、と思ったら……。

 クライドも、壊れていた。

 ボニーとはチガウ。みなこちゃんの凄味のある演技とはちがって。
 かなめくんは……なんつーんだろ、浮いて、いた。
 みなこちゃんのボニーは、沈み込んでいるの。彼女の狂気は、重い。息苦しい。
 対するかなめくんの壊れ方は、軽く、薄い。外側からぱりぱりと壊れている感じ。
 ……悪い意味ではなくて。

 同じように「こちら側」をあとにしてしまったふたりが、ボニーは闇へ沈み込み、クライドは白く透き通って浮かんでいく……その違いこそに、心が震えた。

 こんな、絶望って。
 ここまでチガウふたりが、同じ絶望を見ている。同じ闇を見ている。
 そしてふたりで、あちら側へいってしまうんだ。

「俺を置いていく気か?!」……すがるジェレミーを一顧だにせず。

 そして、己れの片翼を見出したあとのボニーの聖母のような微笑みが、かなしくてせつなくて、やさしくて、泣けた。

 壮絶、だなあ。

 みなこちゃんのボニーは、壮絶、だった。
 冒頭の影の薄さから、ここへたどり着くとは思わなかった。
 最初が弱かったのは、初日だからかな。次に観に行くときは、ちがっているかな。
 彼女が役者としてどこまで見せてくれるのか、成長するのかが、たのしみだ。


 あまりに初演を愛しているので。

 新しい『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』すべてを、肯定できるわけじゃない。

 WSだから当然なんだが、出演者の技術が低い。
 この作品は、もっとあたりまえに「舞台人」である人々に演じて欲しかったと思う。
 ひとりずつ、どの子がどう弱かった、どこが足りなかった、と挙げるのではなくて。

 オーディエンスが不要だと思えることが、つらかった。

 『凍てついた明日』の特徴であった、「オーディエンス」という役。
 中央で進む「物語」を、ただ見つめる人々。
 同じ舞台の上にいながら「物語」の中にはおらず、しかしときおり関与して、また距離を置く。その絶妙さ。

 しかし、今回の再演WSを観て、初演であんなに感動したオーディエンスを、ウザく感じた。

 「中央」と「周囲」の差が、あまりないためだ。

 初演はどこが舞台の真ん中か、「物語」がどこで「オーディエンス」がどこか、迷うこともなかった。
 「物語」の中にいる人々は明らかな存在感でもって、外にいる人々とチガウことを示していた。
 作り込まれたビジュアルにしても、発声や所作、演技という技術にしても。
 何人舞台にいようと関係なかった。オーディエンスは邪魔にはならなかった。

 だが残念ながらWSでは、役のある人たちとオーディエンスに、見た目も技術も存在感も、大した差がなかった。
 そのため、なんだかいつもぞろりと同じような人たちが舞台にいる、うっとーしさがあった。

 オーディエンスいらないよ、もっと真ん中の芝居に集中させてくれ。
 ……そう、何度も何度も何度も思った(笑)。

 仕方ないことなんだけどね。
 初演と技術を比べて嘆息したって。
 そして、オーディエンスとして舞台にいることで、若者たちが成長するのだということもわかっているから、この作品がWSである以上、作品のクオリティが下がったとしてもオーディエンスを削るべきではないことも、わかっているんだよ。

 だからこれはただの、初演ファンのしがない愚痴だ(笑)。
 がんばれ、若者たち。

 
 あずりんがどれほど好みだったか、美しかったか、ガオリくんがどれほどかっこよかったか、美しかったか、れのくんがどれほどその美しさで画面に花を添えていたか……を語る前に、やっぱ主役の話をしようと思う(笑)。

 クライド@凰稀かなめ。

 なにをさておき、美しかった。

 美しいことは才能だけど、それだけでは、わたしには魅力的と思えない。だからかなめくんはここのところ、わたしの視界にあまり入ってこなかった。
 もって生まれたというだけの美しさより、努力と鍛錬で作り上げた技術にこそ惹かれる。
 かなめくんが努力していないという意味ではなく、結果として目に映る部分が、わたしの好みではなかったというだけのこと。

 そーやってスルーして来た、彼の美しさに、射抜かれる。
 

 クライド・バロウは、ダメな男だ。
 ふつーの人がふつーにやっていることができず、楽な方へ楽な方へ堕ちていく。
 彼の望みは「逃げ続けること」……現実を受け入れるのでもなく、闘うのでもなく、あきらめるのでもなく……逃げること。考えることを先送りにし、現実から目を背け、あてもなく夢想する。
 ドラえもんと会えなかったのび太みたいなもん。言い訳と責任転嫁だけのどん底人生。

 そのどーしよーもない男が、ただもー、美しい。
 どんな泣き言も甘えも、「美しい」というだけで説得力になる。

 たぶん彼には、別の人生があった。
 テッド@ヲヅキが言うように。クライドとテッドに、それほどの差はない。だけど彼らは法のあちら側とこちら側に分かれてしまった。

 かけちがってしまったボタン。ずれたままの積み木。
 それは昨日今日のことではなく、もっとずっと以前から、小さな歪みが積み重なって、現在の破滅へつながった。
 その小さな歪みは、わたしたちの日常にあるかもしれない歪みで。
 たまたまクライドがその歪みに飲み込まれただけで、彼が特別どうだからということではなく、誰でも彼になりえたのではないか、と、思わせる。

 クライドは若い。現実にわたしたちの周囲にふつーにいそうな若い未熟な青年だ。
 彼の美しさは、彼の「若さ」だ。
 それはかなめくん自身が美しいということなんだが、彼自身が美しいことで、その若さと未熟さ……大人になりきれずにいる幼さが舞台上で無理なく表現されていると思うんだ。
 少年であること、大人でないこと、未熟であること……「未完成である」という美は、たしかにある。
 完成したものにはない、大人にはない、過渡期にだけ存在する刹那の美しさ。

 それが、凰稀かなめのクライドの、魅力だと思う。

 「ここではないどこか」を夢見る少年。今日の続きではない、ありはしない「明日」を夢見る少年。
 それは決して、クライドだけのことではない。

 クライドの心許ない姿が、「いつか少年(少女)だったことのある人々」の胸に、波紋を起こすのだろう。
 彼が抱える痛みを、絶望を、たしかに味わったことのある、かつて子どもだった人々に。

 再演ではとてもわかりやすく、「ふつーの人はそんなふうに考えない」と、クライドは愛する人たちから引導を渡される。で、いちいち「がーん」と傷つく(なんて演出だよ、オギー・笑)。
 「ここではないどこか」を夢見る少年の背中を、わかりやすく押してくれる。
 ほら、アレだな。
 「ボクのほんとのママはどこか別にいるんじゃないかな。だってママはすぐ怒るし。ボクのこと、好きじゃないのかも」なんてことを、漠然と思っているがきんちょが、ママの関心を惹きたくていたずらして叱られて、「こんな悪いことをする子は、ウチの子じゃありません!」と言われて「がーん。やっぱりボクは、ママの子じゃなかったんだ。ボクのママはどこか別のところにいるんだ」と思い込む感じ?(笑)
 初演とは違い、この再演WSのクライドには、そーゆーいとけなさ、愛らしさが必要なんだ。

 未完成であるがゆえの孤独や絶望が胸にいたい。
 モラトリアムを過ぎれば、望むと望まざると越えていけるものだと、すでに大人になってしまったわたしは知っているけれど、今まさにその直中にいる彼には、ただ現実は過酷なばかりで。

 大人になる前に道を違えてしまった彼が、ゆっくりと壊れていく様が、哀しい。

「どこに行きたいの、ボニー」
「なにが欲しいんだ、クライド」

 行きたいところも、欲しいものもなく。
 ただ、「ここではないどこか」を求め続けて。

 「愛している?」と問われ、「愛したい」と応える絶望。

 それら全部をすべて突き抜ける、運命の夜。
 目の前で撃たれたボニーを抱きしめるクライドの、肩のラインに泣けた。

 今まで、自分だけしか視ることが出来ずに喘いでいた少年が、全存在を懸けて、ひとりの少女を守っていた。
 自分の身体を楯にして、銃弾の雨の中、ボニーを抱きしめ続けた。

 ボニーを失ったら、彼はひとりぼっちになる。
 この暗い世界で、ひとりぼっち。
 その、恐怖。その、現実。
 もう見ないふりをして逃げ続けることすらできない。

 はじめて視た、自分以外の誰か。
 自分と同じカタチに魂の欠けた、もうひとりの自分。

 ボニーを視ることで、クライドは扉を開ける。彼の中の、次の扉。
 ……開けてはならない扉だったのかも、しれないけれど。

 生還したボニー@みなこちゃんの狂気は鳥肌モノだったが、それに対峙するクライドの突き抜けた透明感は、ちがった意味でこわかった。

 美しいひと、クライド。
 ああ君は、そんなところまで、行ってしまったんだね。

 かなしかった。
 ただもお、かなしかったよ。

 クライドが、美しすぎて。

 二度と戻れない場所へ、足を踏み入れてしまったゆえの、美しさが。


 すごく、緊張していたんだ。

 前日の夜、ベッドに入って、「かなめくんも今ごろ、緊張してるのかなあ。眠れてるのかなあ」と、思った。……べつに、かなめくんのファンだっつーわけでもないくせに。

 わたしが、緊張していた。

 『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』初日。

 がっつり昼食を取ってから出かけたら、ムラに着いたのはけっこういい時間で。ただ座席へ行くだけなら余裕だけど、今日はどりーずメンバーがいろいろ集まってきていて、ついでに知り合いもあちこちにいて、ちょっと歩くと知り合いに声掛けられ……を繰り返し、着席したのは開演5分前。

 坐ってすぐに、緞帳が上がった。無人の舞台が晒される。『凍てついた明日』の世界が、開演を待っている。
 セットは似ている……けれど、「チガウ」という印象。なんかえらく平面的になっていた。
 流れるBGMがまぎれもなく『凍てついた明日』で……どきどきした。

 すごく、緊張していたんだ。
 再び、『凍てついた明日』に出会うことに。

 どれほど、この作品を愛していたか。

 たぶん、人生変わるくらい、入れ込んだ。
 ジェンヌの好みだとか萌えだとか、いろんなことで「好きな作品」は変わるし「好き」にもいろいろあるけれど、それでもやはり、純粋に「物語」としてもっとも好きな作品なんだ。

 それがWSというカタチで再演される……。
 不安と、期待で、落ち着かなかった。
 うん。
 期待、していたんだ。

 なによりも、クリエイター、荻田浩一に。

 今までオギーは、どんな作品でも「ただの再演」はしなかった。オギー自身の言葉でいうなら、「再現」か。
 ハコや出演者が変われば、それに合わせたアレンジをした。大劇場、東宝、博多座、同じタイトルの作品が、公演が変わるごとに別物になっていた。

 新人のお勉強のためのワークショップであったとしても、荻田浩一ならば10年前の初演そのままを、今の若者たちに演じさせたりはしないだろう。なにかしら、アレンジをしてくるだろう。現に、タイトルが別物になっている。
 オギーが、自分の作品をどうするのか。
 興味があった。

 緊張していた。
 わくわくしていた。
 一抹の不安はあった。

 そして。
 幕が、上がった。

 
 別物、だった。

 
 潔いくらい、初演とは別のモノになっていた。

 ストーリーは変わらない。
 多少の加筆修正はあるものの、基本的に場面や台詞も同じ。
 だけど、別物。

 ……オギーのサヨナラショー(芝居・DS含む)の作り方に近い。
 主役さんのこれまでの出演作を全部抜き出し、一旦解体する。ブロックでできた人形を、一度ただのブロックのパーツにまで分解するの。でもって、要所要所のパーツを使い、もう一度よく似た……でも別の人形を作り上げる。
 『アルバトロス、南へ』とか『Over The Moon』とかと同じ……オギーにとってはお馴染みの作り方なんだろう。

 それを今度は、『凍てついた明日』という作品ひとつの中だけでやってのけた、って感じ。

 
 『凍てついた明日』といえばプロローグが秀逸なんだが、まず、プロローグから、別物だった。

 新聞を手に集まってくる人々。
 口火を切るのは、テッド@ヲヅキ。
 際立つ「男役」としての美しさ。他のオーディエンスたちと一線を引いた、役者としての、佇まいの違い。
 そして。

 ヲヅキ新曲キターーっ!!

 いきなり、新曲。
 いきなり、ヲヅキ。

 てか、名曲「ブルース・レクイエム」がないっ。

 『凍てついた明日』といえば、「ブルース・レクイエム」。シビさんが、トウコが歌った歌。
 プロローグとクライマックスでこれでもかと歌われる歌が、ない。

 ぼーぜん。

 ここでもう、かなり後ろアタマを張り飛ばされた気分。
 覚悟して観ろ、ってことか。

 群衆の中のふたり。
 ボニー@みなこちゃんと、クライド@かなめくん。
 ボニーは去り、クライドとテッドの物語がはじまる。

 なんなの、このテルキタっぷり?!

 テッドが最初からクライドLOVE全開です。最初からナニあんたソレ?!

 初演から、テッドはオイシイ役だと思っていた。芝居が出来る人が演じれば、ずっとクローズアップ可能な役だと。
 ヲヅキがテッド役だというので、多少は変更があるだろうとは思っていた。
 思っていたが。
 予想以上だ。

 テッドが、2番手です。

 初演2番手役だったジェレミーは、ひどく比重が下がっていた。
 同じストーリーなのに。台詞も演出も、登場場面ではほとんど変更してないのに。
 一旦バラして再構成された『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』では、テッドが準主役になっていた。

 物語は、ある記者@ハマコの取材、というカタチで進んでいく。
 その記者がずっと、ボニー&クライドの関係者に話を聞く……そんな演出になっていた。
 彼が最初にインタビューした相手が、テッドだったのだろう。最初にクライドを語り出したテッドが……たぶん、物語のひとつの、視点。

 哀切に満ちた世界……そこには、テッドの想いがある。

 「ブルース・レクイエム」は作中で歌われた。
 だが、歌うのはジェレミー@きらくんではない。
 オーディエンスだ。
 この「物語」を外側から見守る……包む者たちが歌う。「物語」の中の人ではない。
 複数の役を演じるハマコも歌いはするが、彼もまた「物語」の外側で「総括」として歌っているにすぎない。

 「物語」の中で「ブルース・レクイエム」を歌うのは、他の誰よりも、テッドだ。

 もっともクライドを愛し、共に生きられないことを慟哭する者……初演では、ジェレミー@トウコだった。
 それが、再演WSでは、テッド@ヲヅキだ。

 この視点変更が、この「物語」を如実に表していると思う。

 下の立場、年少者から見上げてクライドを慕うのではなく……同等の位置、もうひとりのクライドの目線から、「ボニー&クライド」を見つめる。

 際立つ、クライドの若さ。
 その、美しさ。
 危うさ。

 これほどまでに魅力的な凰稀かなめを、見たことがない。

 追いつめられていく青年クライドが、愛しい。

 彼の人間としての未熟さ、いびつさが、悲劇へつながっていく。
 彼はまちがっている。
 だけど、彼はたまらなく魅力的だ。
 その傷ついた瞳を、孤独にとがった背中を、抱きしめたい。

 テッドの存在感があまりに大きく、最初印象が小さくて危惧したボニーは、物語が進むにつれどんどん花を開いてゆく。

 ボニーの持つ、狂気が痛い。
 ひび割れた心が見える。壊れる。彼女は、壊れる。彼女のきらめきは、砕け散る間際の硝子。
 その繊細さ、弱さ。
 クライドと同じ魂が、たしかに見える。

 いやあ、ほんとにえらいこっちゃな別物ぶりで。

 新曲もがんがんあるわ、ミュージカル場面が増えているわで。時間どーすんだ? と思っていたら、フィナーレがなくなっていた。
 なるほど、そこで辻褄合わせしているのか。

 全体的に説明台詞が増えていた。
 初演で「わけがわからない」と言われ続けたからかなあ。すげー説明台詞が耳に付いた。……この程度の話が「わからない」人のことなんて放っておけばいいのに、とつい思ってしまう(笑)。
 あ、説明台詞ってのは、状況についてじゃないよ、植爺じゃないんだから。増えているのは、心理状態についての解説……うわあ。
 仕方ないのかなあ。あたしゃ「そんなもん、いらんのに」って思っちゃったよ。
 なんかすげー「わかりやすい」話になっているのでは?

 ラストシーンの変更も、興味深い。
 このクライドとボニーには、あのラストが相応しいのだろう。

 てゆーかコレ、再演WSじゃない。出演者アテ書きの新作バウじゃん。

 やっぱすげえわ。


 ちょっとここで、花組公演の、まっつの話。

 まっつのことをさんざん美しいと、書いてはいるが。
 一般的に見てあの人がどうなのかは、じつのところよくわかっていない。

 変な顔だなあ、とも、思う。
 歯がとくに特徴あるっていうか、笑うと怪獣っぽいよなあ、とか。
 シワが気になるなあ、とか。

 音声多重放送みたいに、「変な顔」と、「でも好き」と、ふたつの思いが同時にわきあがる(笑)。で、このふたつが重なり合って「美しい」になる。……これって、はたしてほんとーに「美しい」にカウントしていいんだろうか。「好き」というフィルタ無しで見ている人には……ええっと。
 いいんだ、他の人のことなんか。わたしにはフィルタが常備されているんだもの、他の選択肢はないわっ。

 
 『愛と死のアラビア』では公的な台詞は4つですか。それ以外でも、あちこちマイク無しでなにかしら声を出してはいますが。
 4つの台詞のうち台詞が文章になっているのはふたつだけなので(あとはただの単語)、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』以下の扱いです(笑)。
 そんなまっつさんではありますが。

 初日に本能的に感動したこと。

 声が、チガウ。

 最後に聞いたのが相沢くん@『舞姫』だったせいもあるかもしれないけれど、まっつのまっつど真ん中な「青年声」ではなかったんだ。ヒゲのベドウィン、アブ・サラン氏の声は。
 またこの人、役によって声を変えてきてんだー、と、元アニヲタのわたしはぞくぞくしたのですよ。声、は重要なファクタですから、わたし的に!

 太い、荒い声を出そうとしてますね。
 ジオラモのときともまたチガウ。
 細かい変化だけど、職人的こだわりが感じられて好きだー。

 しかし、まっつのベドウィンは砂漠の狼には見えません。
 荒くれ男な演技をしているようだが……かぶりものとヒゲに埋もれて、なんか頼りなさそうっす(笑)。ヘタレワンコな顔……。

 ベドウィン音頭を歌い踊る野郎どものなかで、もっとも「ベドウィン」だと思えるのは、じつはヤシム@だいもんです。
 彼の表情って、すごく大陸的だ……。島国日本の湿度とはチガウ。

 それに比べ、アブ・サラン氏は、やっぱ日本的だなあ。
 なんでああも、泣きそうな八の字眉してるんだろう……。えーと。強そうですか、あの人?
 『明智小五郎の事件簿』の書生さん以上にキャラクタがわからん……。

 
 繰り返し観ているウチに、『Red Hot Sea』は、慣れました。
 十分、たのしい。

 きみどりいろのおさかなさんも、へいきだ。

 頭の上で、赤いトサカが揺れていても、平気だ。
 黄色とピンクのぼさぼさカツラも、平気だ。

 なんでも来い。

 『赤熱海』、最初のポイントは、出てきて、すぐ引っ込むまっつです。

 オープニングのおさかなダンス、スターの歌い継ぎがあるのね。ひとりずつスターが出てきて、少し歌って次の人にバトンタッチ。
 上から順なので、ゆーひくん、壮くん、妖精さんのみわっちトバしてまっつ、となる。
 ふつーこういう「歌い継ぎ」では、ばーんと登場して拍手もらったあとは自分の歌のパートがそれなりの長さがあるか、あるいは自パートが終わってもそのまま舞台に残り、次の総踊りに混ざるかするもんだと思う。
 ところがまつださん、自分の順番が来て、上手から登場、主題歌をちょっぴり歌うと、また上手に引っ込んでしまう。
 ナニしに出てきたんだオマエ?! って感じ(笑)。
 たったあれっぽっちの声を出すためだけに、もったいつけて出てくるあたり……。
 や、うれしいですよ。本来なら、次の場の支度があるからオープニングの歌い継ぎには出さなくてもいいだろうに、わざわざ無理してまで歌わせてくれてるんだから。

 でも、この「ちょろっとまっつ」が、すげーツボに入る……(笑)。

 次の白スーツ・トリオ@ゆーひ、まっつ、みつるの場面が大好きなのは言うまでもなく。
 好きなものを「ケロ」という単位で計るわたしは、白スーツまっつは、ケロに似ている……と、ひたすらドキドキしてます。

 さらにその次、幽霊船。
 はい、ここのポイントは、かっこつけてせり上がってくるまっつです。

 後方にある回廊のセットのさらに後ろに、幽霊たちを乗せたセリがどーんと上がってきます。まっつの立ち位置はココ。
 微動だにせず、せり上がってきます。
 クールビューティです。
 セリが上がりきると動いちゃうので、上がってくるまでが勝負。美しいまっつを見逃すな!

 ここは全編見せ場、大好きなんだが。
 それを前提の上でさらにポイントとして語るのは。

 女役パートのまっつ。

 熟女えりさんとタンゴを踊るまっつ。ふつーにくるくる踊っているのだが、最後のキメポーズは何故か、まっつが下。えりさんが力強く立ち、まっつは彼女の腕の中でナナメにポーズ。
 男女のパートが逆転してる。や、えりさんとまっつだから、違和感ナシ。

 何故かここでわたしは、ゆーひくんの腕の中でくるくる回されていたケロを思い出す……。ケロもこんなポーズ取ってたっけなあ、かの美青年の腕の中で。

 中詰め、ラテンメドレーは彩音ちゃんのあとに登場したまっつ、すげーあっさりと銀橋にやってきます。
 下手端最前に坐ったときは、まっつがわたし目がけてやって来て心臓止まるかと思った……。(銀橋に向かって歩いてきただけです)

 ここの衣装はわたしはキライなんだけど、この衣装のまっつを人形にして飾りたいです。
 オサコンで「ぎぶみーらぶ」を歌うまっつに身悶えしたのと同じいたたまれなさがあって、たまりません。ハァハァ。

 若ぶりMAX!の引き潮の青年@まっつ、のポイントは、ボク無邪気でつ!といった無理のあるサワヤカな笑顔も見どころっちゃー見どころなんですが、やっぱなんつっても、生足でしょう。

 まっつの、生足。
 裸足ですよ。
 ふくらはぎから下、むき出しです。

 えーと。
 まっつのよーな「小柄」だと誰もがわかっている男役を、わさわざ裸足にするなんて、たぶんそうそうあることじゃありません(笑)。
 裸足でなお驚愕の脚の長さ、スタイルの美しさを見せつけているゆーひさんと並ばせるなんて、草野せんせの深い愛情となーんも考えてないだろうデリカシー欠如っぷりがよーっくわかってナイスです。

 わたしはまっつが「ちっちゃい」ことになんの危惧も不満もないので、ことさら彼の「小ささ」が強調されるこの扱いにも、なんの問題も感じていません。
 まっつは小さいからまっつなんだっ。あのかわいさは、小さいこそだからなっ。
 つーことで、素直に、まっつのナマふくらはぎと、足首と、くるぶしを堪能。

 平和な漁村を舞台にした街のチンピラVS漁村の青年団の争い場面では、まとぶさんを締め上げて哄笑する、ドSまっつがポイントです。
 苦悶する役が似合いすぎるステキM男まとぶさんと、彼に襲いかかるSまっつ!
 すげー邪悪に大口開けて笑うまっつの口元が鮫っぽくてステキです。まっつの歯ってあんまし人間ぽくないんだよなあ。
 Sで攻なまっつが好き。わくわくわくっ。

 まとぶさんが刺されたとわかったあとのまつださんは、驚きすぎ(笑)。

 
 とまあ、見どころ満載、ポイントたくさん。
 『赤熱海』はおもしろい。

 地道にリピートしてますよ。


春野寿美礼 退団後本格活動開始へ
2008/5/22  サンケイスポーツ
昨年12月に宝塚歌劇団を退団した元花組トップスター、春野寿美礼(35)が9月に東京、大阪でコンサート「マイ・ハート」を開催することが21日、分かった。本格的な芸能活動第1弾となり、約9カ月の沈黙を破って新たなスタートを切ることになった。


 うれしい、というより、ほっとした。

 寿美礼サマはわたしにとってなくてはならないものなので、またその歌声が聴けるのだということに、ただただ安堵した。

 こんなに早く再会できることは、うれしいかな。
 なんかすごく、わたしの中に確信めいたものがあって。
 たとえ5年後でも10年後でも、オサ様が復活したら、わたしは駆けつけるんだろうなって。
 時間は関係ない。なくてはならないものだから、それが在れば、復活してさえくれれば、わたしは行くんだ。……そう、確信していた。

 ケロちゃんについては、いろいろいろいろ(笑)悩んだりとまどったりしているんだが、オサ様にソレはない。
 あのひとがひつようなの。わたしには。

 退団発表のあったとき、世界が終わるかと思った。↓
 (http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1367.html

 そして実際に退団を見守り、見送り、わたしのなかに確信ができた。
 宝塚歌劇団からオサ様はいなくなる。でも、あの人はきっと帰ってくる。歌の神様が、あの人を手放すはずがない。いずれなんらかのカタチで歌声を聴くことが出来る。
 そのときが来たら、わたしは行くんだ。あの人に会いに。
 5年後だろーと10年後だろーと。

 いちいち言葉にして宣言するまでもない確信だったので。

 ああ、そのときが来るんだ、と思うと、ほっとした。
 春野寿美礼に再び出会う、ことは、わたしの中では決定事項だった。
 決まっていたことだから、その通りになることがわかって、ただ安心した。

 
 ……問題は、チケット取れるのか、つーことだな……。


 全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』、「ジェローデルを主役」に物語を回すためのあれこれ話、その3。

 これが『ベルばら』である以上、オスカルとの恋ははずせない要因である。だからオスカルがどんな人で、ジェローデルがどのように彼女を愛し、そして身を引いたかをきちんと描く。
 そのうえで、ソフィアという女性との関係を描く。
 ソフィアはジェロがオスカルを愛し、それゆえに破滅することをすべてわかったうえで、それでもなおジェロを愛するんだ。すべてを受け入れるんだ。

 そーゆー寛く深い女性と、心でだけつながり、死を前にして最期に愛を告げるジェローデル……とゆーなら、十分「ジェローデル主役」で物語が成り立つだろう?

 フェルゼン様でコントやってる時間を削り、あの意味のないオープニング・ショーを削れば十分1時間半で出来るはずだ。

 ジェローデル主役としての物語修正はこれでいいとして。
 あとは、「商品」としての『ベルサイユのばら』を考える。

 『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』は、あくまでも「外伝」である。
 今までの『ベルばら』と同じである必要はない。
 が。
 『ベルばら』である以上、しなくてはならないことがある。
 『ベルばら』の名前を使う以上、その名前で客を呼ぶ以上、裏切ってはならないことがあるんだ。

 商品名が「ビタミンCキャンディ」なのに、ビタミンCが入ってなかったら詐欺でしょう。「ビタミンC入りのキャンディ」とは書いてない、タイトルはただタイトルなだけ。袋の裏に「ビタミンCは入ってません」と書いてある。……と言っても通らない。
 当社商品はタイトルが凝っていて、タイトルに付けられている成分はわざと入ってないんですよ、当社商品のファンなら知ってます。……は、通用しない。

 『ベルばら』だから、お客が期待する主要キャラはちゃんと出さなくてはならない。
 今回の物語の場合は、オスカルとアンドレだ。

 まず、オープニング。
 理解できなかったのは、フェルゼンもオスカルも登場しなかったことだ。

 1時間半しかない短い『ベルばら』で、本編とは無関係のショーをえんえん続けるなんて、ありえないって。植爺め。
 「宝塚友の会会員限定オリジナル作品」ならともかく、「はじめてタカラヅカと『ベルばら』に触れる」一般人が存在する以上、彼らの目線を意識して作劇しなければならない。
 ヅカファンや『ベルばら』フリークならジェローデルが誰で、ソフィアが誰か知っているが、ふつーの人はそんなもん知らない。
 『ベルばら』といえばオスカルだろう。ドレスで軍服で華やかなキラキラ世界だろう。

 ゆみことキムを誰でもない「ただのスター役」で踊らせるのではなく、きちんとフェルゼンとオスカルとして登場させる。お客がのぞんでいる姿、いちばん彼らが彼ららしい、記号としてわかりやすい姿で使う。
 そのうえで、ジェローデルを登場させる。ソフィアを登場させる。

 『ベルばら』といえばオスカルとかゆー人じゃなかったっけ? その人よりもあとからばーんと出てきたこの人たちってナニ? そっか、「外伝」だからこの人たちが主役なんだっけ。
 ……と、観客の意識を誘導するんだ。

 華やかなオープニングのあと、一転して暗い修道院なのはいい。ただしこの場面はもっと短く。
 ここのソフィアと隊長さんのやりとり、ぶっちゃけ論理的に変だから。ソフィアの人格がやばくなるから、あんなに喋らせないで。

 次に、フランス革命。

 今回の『ベルばら』ははじめてロベスピエールを中心とした市民の「革命」場面が描かれている。
 今までの『ベルばら』でバスティーユ場面を何百回と観てきたファンには目新しくてよいのだけど。
 「商品」として見た場合、このままじゃまずいだろ。
 ビタミンCキャンディの喩えじゃないけど、観客は過去『ベルばら』を何百回と観てきたファンだけじゃないんだって。

 「外伝」だからってのは、言い訳にならない。
 『ベルばら』である以上、一般客のニーズに応えなければ。

 市民たちの革命場面は、今のままでいい。ただし、そこにオスカルを登場させる。
 わたしの修正案でいくとフェルゼンでなくアンドレが2番手男役の役なので、アンドレも登場。
 ただしいわゆる「橋の上」や「バスティーユ」をやるのではなく、今の革命場面にオスカルたちも登場させるんだ。彼ら中心になるのは一瞬だけ。
 今回彼らは主役ではないので、時間は割かない。一旦浮き足立った市民たちをオスカルと衛兵隊が掌握し、オスカル戦死、いつもならそこで場面が変わるけれど、今回はさらにロベスピエール中心に戦いが続き、ついには革命成功までたどり着く。

 オスカルの最期を描くことで、ジェローデルとソフィアが主役カップルだと浮かび上がらせることもできるし。

 客は『ベルばら』というタイトルを観に来るんだ。それだけは、裏切ってはならない。
 『ジェローデル−「ベルサイユのばら」より−』ではない。

 
 今の作品のままで最低限の修正を加え、「ジェローデル主役」の『ベルサイユのばら』を作る。

・フェルゼンはいらない。アンドレを出す。
・オープニングから各キャラを記号としてわかりやすく登場させる。
・修道院場面のソフィアと隊長のやりとりは短縮。
・ジャルジェパパと令嬢たちの場面はカット。
・替わりにオスカル&アンドレとジェローデルの軍人としての場面に。そこでジェロとソフィアの出会いを描く。
・ジャルジェ家での婚約話。アンドレがジェロにとっては恋敵であると表現。
・先にカットした令嬢たちの場面を、「オスカル様が婿探し舞踏会するんですって?!」と騒ぐ場面に変更、ここに挿入。
・婿探し舞踏会をぶちこわしたオスカルに「あなたが痛々しい」と迫るジェロ、一気に「身を引きましょう」まで。
・それらを一部始終を目撃していたソフィアは、ジェロにとって特別な女性になる。
・平民議員立てこもりと楯になるオスカル、兵を撤退させるジェロはそのままだが、ここで人生を語ってもイイが恋には触れない(笑)。マジあの台詞は勘弁。
・平民たちによる革命場面に、オスカルとアンドレ登場。オスカルをかばってアンドレが撃たれ、アンドレ退場後の戦闘でオスカルも華々しく戦死する。
・ジェロがスウェーデンには行かない。つか、彼はあのあと罪に問われているはずだから、王妃様救出どころじゃないだろ。
・スウェーデン場面の替わりに、罪人ジェロとそれでも彼を愛するソフィアの場面を入れる。
・そして、最後の修道院場面へ。

 ソロ歌はあちこち挿入ヨロシク。
 アンドレはジャルジェ家で1曲歌うだけになると思うが、物語に絡んでいるし戦死まであるから2曲歌わなくても2番手役としてOKっしょ。
 ソフィアは片想い、秘めた恋の歌を中盤に歌って、あとは罪人ジェロと結ばれないままのデュエットで切なく盛り上げて。

 オスカルのために兵を引く、ところから一気に最高潮、革命勃発、オスカル戦死、革命で揺れ動く情勢、だからこそオスカルを守り罪人となったジェロの身の上は風前の灯火、そんななかで絶望的なジェロとソフィアのデュエット……と、「合言葉はドラマティック」に盛り上げること。
 革命場面がいちばん盛り上がる場面、ドラマティックな場面、になっちゃダメなの。主役であるジェロ絡みにしなきゃ。それらを前座にたたみかけるよーに盛り上げ、ジェロとソフィアを際立たせる。
 たしかに「動き」として派手なのは戦死するオスカル&アンドレだけど、もっとも切なく盛り上がる場面をジェロとソフィアにすることは、演出と音楽でなんとでもなる。

 『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』というタイトルを裏切らない、タイトルに相応しい物語を作ることは、可能であるし、またやりがいのあることだってば。


 全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』のお話です。

 「ジェローデルを主役」に物語を回すためのあれこれ話、その2。

 最初の1場でそうやって、「オスカルってどんな人?」「オスカルとジェローデルはそもそもどんな関係?」「ジェローデルとソフィアの出会い」をクリアしたら、次に「ジェロを主人公として」物語を回すために描かなくてはならないことは、「オスカルとの恋の決着」だ。

 ジェローデルが『ベルサイユのばら』の主人公になれるとしたら、それはまちがいなくオスカルを愛し、身を引いた男である、という一点があるからこそ、だ。ここをきちん描かないと『ベルばら』である意味がない。

 代替案を出すとき、今ある作品をベースに考えるのがMyルールなんで、あくまでも今の植爺作『ジェローデル編』をそのまま使うようにすると、「ジャルジェ家での婚約話」「婿選び舞踏会」「平民議員の楯になるオスカル」はそのまま。
 ただ、恋の決着をきちんとつけるために、修正する。
 まずなんつっても、2番手にアンドレを演じさせる。
 これは必要最低限、必須の修正だ。
 そしてオスカルを取り巻く三角関係を成立させる。
 「ジャルジェ家での婚約話」できちんとアンドレを出し、いずれこの男のためにジェロがオスカルに振られるのだということを描く。

 植爺にとって『ベルばら』はコメディなのか、貴婦人方のお笑いシーンは絶対必要らしい。入れなければならないのなら、入れるべきは「オスカル様婿選び舞踏会開催」前にだ。
 「オスカル様が結婚?!」「絶対反対!」ときーきー歌い踊らせればいい。
 それだけやっておけば、少なくとも舞踏会でプラカードを出さなくても、彼女たちの立ち位置は誰にでもわかると思う。

 舞踏会をめちゃくちゃにしたあと、ジェローデルがオスカルに「あなたが痛々しい」てな台詞を言わせてくれ。
 ビルのお披露目パーティにランベス流で乗り込んできたサリーじゃないけど、捨て身でパーティをぶちこわす女の子が、どれほどぎりぎりのところで闘っているか。その強がりを、力の入った肩を抱きしめてあげられる男は、すげーポイント高いんだから。

 だが植爺脚本は原作のつぎはぎで、しかも順番その他めちゃくちゃだから、辻褄が合わない。
 今回も原作にあるジェロとオスカルのやりとりは何故か全部、舞踏会前に団子にして突っ込まれてるんだよね。順番もなにも関係なく。ただ原作にあったから、というだけで、バラもないのに「あなたはバラを食べるのですか」だし。
 原作に何故その台詞があるのかを、まったく理解していないことを自分で暴露してんだよなー。アホだなー。恥ずかしいなー。
 婿選び舞踏会をめちゃくちゃにしたあとだからこそ、そこで「あなたを理解している」とジェロが示してくることにオスカルは動揺するんだ。
 ジェロがめっさかっこいい場面なのに、舞踏会前に団子に突っ込まれているだけだから、活きてこない。植爺のバカ。

 で、舞踏会後にオスカルに迫り、時間の関係で、ここであっさり振られるべきだと思う。
 1時間半の舞台だから。
 「オスカルがどんな人物か」「オスカルとの恋の決着」は描かなくてはならない重要事項だけど、忘れちゃいけない、ヒロインはソフィアだってば。
 時間短縮、ここで一気に「身を引きましょう」までやる。

 次の見せ場である「平民議員の楯になるオスカル」に行く前に、ジェローデルは、オスカルをあきらめていなければならない。
 何故か植爺脚本には、ジェローデルが身を引く場面がない。平民議員が会議場に立てこもるときにもまだ、この作品上ではジェロはオスカルに振られていない、「プロポーズは有効」という状態になっている。
 オスカルの前で卑怯者にはなれない、たとえそのために自分が反逆者として処分されても、と武器を収めるジェローデル。このとき彼のプロポーズがまだ「有効」だとまずいの。「ここで点数を稼いだら、彼女の歓心を買えるかも?」という打算がほんの少しでも存在する余地があってはならないんだ。
 彼女は決して自分を愛さない、すでに他の男のものである……それでもなお、彼女のために人生を捨てるからこそ、ジェローデルという男がかっこいいんだ。

 「ジェローデルのような脇役を主役にして『ベルばら』描くことなんかできない」のではなく、「植爺には出来ない」ですよ。
 ジェロは十分「主役」たりえるキャラクタを持っている。

 ジェローデルという男がなにゆえにかっこいいのかを、植爺は理解していない。
 彼がかっこいいところをいちいちはずして描いているのだから、そりゃ主役にはならんわ……。

 オスカルがヒロインなら、「平民議員の楯になるオスカル」場面で盛り上げて、その後彼女が革命に身を投じて戦死、それをどこぞで知ったジェロの嘆きとかで幕にしてもいいんだけど。
 なにしろヒロインはソフィアだから。

 次にこの物語で描かなくてはならないことは、「ソフィアとの恋」です。
 まず「オスカルとの恋」を描くのは、これがあくまでも『ベルばら』だから。ここに関連がなきゃ『ベルばら』である意味がない、なにか他の名前の作品でいい。先にオスカル。
 次が、ヒロインのソフィア。順番で行くとこうなるけれど、カギカッコとかで表すと違ってくるのよ。

 『「ジェローデルの人生+オスカルとの恋+革命+貴族etc.」+ソフィア』

 ソフィアは「最期にたどり着く場所」であり、「聖母」。
 すべてのものを受け止める位置にいる女性。だからこそ、最後にジェロは命の残り時間を使って彼女に会いに来て、彼女の腕の中で息絶える。

 物語の要所要所に、ソフィアを登場させる。
 フェルゼン様がお笑い的に登場して空気をぶった切って前座を務めたあとソフィア登場、なんてコントを繰り返すのではなく、物語の中にソフィアを置く。
 婿選び舞踏会に彼女も出席し、ジェロの「身を引きましょう」を目撃させちまえ。跪いて宣言するジェロは、女が一目惚れするに相応しい、オトコマエさだ。
 ここでソフィアを「知的な女性」として冷静に奥ゆかしく描けばいい。社交界的にものすげーゴシップになる場面を目撃したのにソフィアは口をつぐみ、ジェロとは文学やらなんやらの話だけする。
 ジェロからしたら「見られた?」のに、それを黙って「なかったこと」として振る舞うソフィアに一目置くだろう。

 オスカルのために命令無視をし、非難を浴びるジェローデル……つー場面を作り、そこでもソフィアの大きな愛とジェロの心の交流を表現する。
 ジェロがあのあとどうなったのか原作にも記述がないのでわからないが、それゆえにいくらでもでっち上げられるってもん。
 即逮捕投獄、ではなく、大貴族ゆえ正式に処分が下るまで謹慎になっていたとして、誰もがジェローデルのもとから去っていくのに、ソフィアひとりが以前となんの変わりもなく文化的な語らいのためにジェロの元を訪れる、とか。
 投獄されたとしても、ソフィアが会いに来るとか。

 ソフィアは決して愛を押しつけない。ことさらに騒いだりしない。「友人」「理解者」の立場で、ただひたすらジェロを癒そうとする。
 ジェロも彼女に惹かれているが、決してベタついた言動は取らない。
 観客にはふたりが愛し合っていることがわかるのに、ふたりは「友人」の立場を崩そうとしない。
 寄り添い合うことがないままデュエットしたり、別れ別れに終わるダンスをしたりで、盛り上げてくれ。
 そして「再び会う約束」をする。

 ……で、植爺作の「ナポレオン暗殺未遂後」の修道院のラストシーンへ帰着。

 翌日欄へ続く。

 
「だからそもそも、ジェローデル主役の『ベルばら』なんて無理なんだよ」

 ……とは、思わない。主要4キャラに一切絡まないパリの一市民主役に『ベルばら』を作るのはさすがに無理だと思うが、あれだけオスカルに絡む場面のあるキャラクタなら、彼を視点に物語を作ることは出来る。

 無理なのはジェローデルではなく、植爺です。

 はい、全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』のお話です。
 初日1回観ただけ、プログラムも買ってねぇ、記憶だけで語ってます。

 植爺は、「物語」に必要なモノと不要なモノの区別がつかないのだと思う。

 主人公がジェローデルで、オスカルを愛しながらも最終的にはフェルゼンの妹ソフィアと愛し合うようになる。
 このプロットがまず決まっている場合、「物語」の主要キャラとして必要な誰だ?
 ジェローデルとオスカルとソフィア、そしてもうひとりは、アンドレだ。フェルゼンじゃない。

 植爺は「ソフィアはフェルゼンの妹だから」とそれだけの理由でフェルゼンを出したのだと思う。
 ソレ意味ないから!! ソフィアがフェルゼンの介添えなしには誰とも会えない話せない女性というなら仕方ないが、ひとりの大人の女性なら誰の親族でも関係ないから。
 原作でも、ソフィアとジェローデルの出会いに仲立ちするのはオスカルであって、フェルゼンはなんの関係もない。や、仲立ちにもなってないが、いちおー出会っている場面にいるのはオスカル。フェルゼン関係ない。

 「物語」を作るのに、プロットを回すのになにが必要で、なにが不要か。まずこんな基本的なことから植爺はなにもわかっていない。いや、いつものことだが。「主役」の設定を間違えたりあったりまえにしてきた人だから、今さら嘆いてもはじまらないのだが。
 「いなくていい」キャラクタを語り部ですらない「準主役」にするから、作品はもちろん壊れるし、フェルゼン様は登場するたび爆笑されるよーなアホな人に成り下がった。
 そして、「いなくてはならない」キャラクタがいないことで、他のキャラも壊れるし、物語も壊れる。
 こまったもんだ。

 さて、次にジェローデル主役の『ベルサイユのばら』を描くにあたって、必要な場面はなんでしょう。
 アニメではジェロくんがオスカルと決闘していたりしたけど、あくまでも原作のみをベースに考えて。

 ジェローデルがどんな人かを描くために、中心になるのはやはり「オスカル」という女性のことだ。
 『ベルばら』の主役であり、激動の人生を送る彼女をきちんと描く、ことによって、そんな女性を愛し、身を引いた男ジェローデルの人間性と人生を描く。
 どんな女を愛するか、どんなふうに愛するか、で、男の価値は上がりも下がりもする。どんなに「すばらしいヒーロー」でも、つまんない女に惚れていたら「その程度の男」だ。

 正直、なんでジェローデルがナポレオン暗殺なのかさーっぱりわかんないんだけど(アランやベルナールならわかるが、なんでジェロ?)、ソレは絶対にはずせないエピソードで最初と最後の場面は決まっているのだとして。
 革命前夜のベルサイユ物語でまず描かなくてはならないのは、「オスカルってどんな人?」「オスカルとジェローデルはそもそもどんな関係?」「ジェローデルとソフィアの出会い」だ。

 オスカルが男装の麗人であり、そのへんの男どもよりよっぽど凛々しい人である、ということ。真摯な軍人であること。
 ジェローデルは彼女の部下であり、彼女が転属したのちも変わらず敬い続けていること。

 だからオスカルの登場は軍服姿でなければならない。
 フリルのブラウスで内股で歩く「女の子」として登場してはいけない。
 『ベルサイユのばら』ほど有名な原作ならば、観客全員が「オスカルは男装の麗人で、フランス革命で戦死する」と知っているとしても、物語のルールとして崩してはならない。

 令嬢たちにコメディやらせて、ジャルジェパパに婚約発表とかやらせてるヒマがあるなら、かっこいい軍人のオスカルと、かっこいい軍人のジェローデルと、知的美女ソフィアの出会いのシーンを作ればいいのに。

 衛兵隊を率いるオスカルと、近衛隊を率いるジェローデルのかっこいいダンスシーンからはじまって、ふたりがたまたま一緒にいるときにソフィアの馬車が立ち往生して困っている……でいいじゃん。
 部隊がちがってもオスカルはジェローデルを元部下として上から目線で接するし、ジェローデルは紳士としてソフィアに接し、オスカルのそばにはアンドレがいる。相互の会話で世界情勢、フランス情勢も解説できる。
 主役のジェロのキャラクタ解説もここで、衛兵隊士や近衛兵たちに語らせてしまえ、クールで女嫌いとかそーゆーことを。
 人物関係も立ち位置も、一気に表現できると思うが。

 油断すると物語の中心がオスカルになってしまうので、要所要所で「視点はジェローデルですよ、ヒロインはソフィアですよ」と印象づけること。
 オスカル、アンドレ、ジェローデル、ソフィアと登場したこの場面で、ジェロにだけピンスポが残り、オスカルへの気持ちを一発歌うくらいに。そんな彼をひとり舞台隅に残ったソフィアが見つめるくらいに。

 で、ジャルジェ家の場面に。婚約話に反発するオスカル、でいい。最初にかっこいい軍人姿を披露したのだから、観客も「さっきのかっこいい軍服の隊長さんに、部下だった男と突然『結婚して子供を産め』なんて、すごいことになってるんだな」と理解できる。
 ジェロがオスカルを好きで本気でプロポーズしていることも、せっかく出会った美女ソフィアに見向きもせずにオスカルLOVEな歌を歌っていたから、理解できる。

 
 つーことで、「ジェローデルを主役」に、物語を再構築していってみよー。

 翌日欄に続く。


 植爺は、「物語」に必要なモノと不要なモノの区別がつかないのだと思う。

 待ちに待った植田紳爾巨匠の最新作、『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』初日観劇。
 2006年の『ベルサイユのばら-オスカル編-』で腹がよじれるほど笑った身としては、どれだけ笑わせてくれるのか、ある意味たのしみにしておりました。

 『ベルサイユのばら』史上、初の主要4キャラ以外を主役に据えたスピンオフ。
 原作ではほとんど出番のないジェローデルを主役に、ほとんどどころか「いたっけ、そんな人」レベルのソフィアをヒロインにしての物語。
 原作者・池田理代子氏の名前が前面に出ているとはいえ、脚本・演出が植爺である以上、へっぽこなのは自明の理、たのしみなのはどれだけ笑えるかでありますよ、わたし的に。

 えーと。
 『ベルサイユのばら-オスカル編-』ほどは、笑えませんでした。

 まあ、あそこまですごい作品は、さすがの植爺もそうそう作れないんだな、と安堵しました。

 『ジェローデル編』は、ふつーに笑えました。
 大爆笑ではなく、苦笑、失笑を含め、ぷはっが少々、あとはくすくすレベルかなー。

 いちばん笑えたのが、フェルゼン様の2回目の登場です。
 いや、フェルゼン様は悪くないのよ。でも、笑いツボ直撃で、声殺すのに気を遣った(笑)。

 
 さて。
 物語はいきなりナポレオン暗殺未遂事件からはじまる。
 えええ。フランス革命から15年以上経ってんですか? プログラム買ってないから詳しい年号はわかんないけども。
 ナポレオン暗殺を企て、果たせなかったジェローデル@水と、修道女ソフィア@となみは再会する。
 ふたりは再び会う約束をしていたらしい。
 ……えーっと、このときこの人たち、いくつかなあ。ジェロ様は50歳くらい?(遠い目)

 時代は遡って、フランス革命前夜。
 衛兵隊に転属したオスカル@キムの婚約が決まった、とジャルジェ将軍@萬ケイ様が貴婦人方にご報告、貴婦人・令嬢たちは阿鼻叫喚。しかも相手はあのジェローデル! 美しいけど冷たくて変わり者の、あのジェローデル?! ……怒濤の説明台詞。ジェローデルがどんな人で、ついでにソフィアという女性と仲が良いということを、何故か令嬢たちがえんえん語る。
 決まった、と報告しているくせに、実はまだなんにも決まっていない。肝心のオスカルは承服していないのだ。
 って、ちょっと待て、オスカルってどんな人? 令嬢たちの怒濤の説明台詞の中にどの程度説明があったかな。
 とにかくよーやく登場したオスカルは、フリルのブラウスを着た女の子だった。その姿からは、「男として育てられた」ことは窺い知れない。そもそも彼女を「男として育てた」のはジャルジェパパだ。そのパパが「結婚して早く子どもを産め」と言っているのでややこしい。このへんの説明はないので、オスカルがどーゆー人なのかは謎。
 なんで「男として生きる」ことになっているのかわからないのに、そのことにしがみつこうとするフリルな女の子オスカルと、「女のシアワセに背を向けないで」と口説くジェローデル。
 そして、「ジェローデルはオスカルの婚約者」と先に貴婦人方に発表していたにも関わらず、そのあとでオスカルの婿選び舞踏会が開催される。ジャルジェパパにもコケにされ、実際その舞踏会でオスカル自身にもコケにされ続けるジェローデル@いちおー主役。

 さてここで、場面をぶった切ってフェルゼン様@ゆみこが登場する。軍服にスターブーツが美しい、キラキラの王子様ぶりだ。
 それまでの物語も空気も関係なく1曲朗々と歌い上げ、現れたジェローデル相手に怒濤の説明台詞。オスカルがフェルゼンに片想いしていること、でも自分はアントワネットと不倫真っ直中、相手のために不倫を精算して故郷に帰ることなど、えんえんえんえん語り続ける。
 貴婦人方の話題に出てきたソフィアはフェルゼンの妹。ジェローデルとは仲良しさんで、互いを「ジェローデルさん」「ソフィアさん」と呼び合うほどの関係。……ちなみに「ジェローデル」は名字です。

 忘れそうだけど、今は革命前夜。
 三部会のために集まった平民議員は、会議場に立てこもって抗議行動に出た。
 武力を持って彼らを掃討しろという命令を、衛兵隊隊長オスカルは拒否。ここでよーやくオスカルがどーゆー人なのかわかる。代わって命令を遂行するのが近衛隊隊長のジェローデル。
 ロベスピエール@ひろみ、他の平民議員たちを武器で脅すジェローデル&近衛兵たちの前に、オスカルが割って入った。その身を楯にして平民議員を守るオスカルに、ジェローデルは部下たちが止めるのも聞かず、退却を決める。
 上官命令に背くということは、エリートまっしぐらだったジェローデルの人生が終わるということ。いやその前に、「婚約した」→「婿選び舞踏会開催」の時点で、まちがいなく社交界では笑われモノだったと思うけどな。
「私の人生は終わった」……てなことを言うのは、軍人として、エリート貴族としては正しい。
 が。
「ついでに恋も終わった」……てなことを続けて言われてしまうと、ただの変な人になるんですが、ジェローデルさん。

 そして、ひたすら革命物語。闘うロベスピエールとその仲間たち。
 まさかの真波そらダンスソロとかあって、いろんな意味で唖然。いや、そらくんがひとりセンターでくるくる踊り出した瞬間に、「あ、こいつ撃たれる」とわかるけれど。そしてもちろん、その通りなんだけど。(コントにあらず。シリアスですってば)
 ひたすら革命物語。暗く、重く、深刻に。

 で。
 場面をぶった切ってフェルゼン様@ゆみこが登場する。金糸銀糸なロング丈宮廷服が美しい、キラキラの王子様ぶりだ。
 それまでの物語も空気も関係なく1曲朗々と歌い上げ、現れたソフィア、ジェローデル相手に怒濤の説明台詞。

 2回目ですから。
 最初の登場の場違いぶりに笑いツボを押されたあとだったので。
 ギャグは繰り返されると破壊力が増します。

 それまでの空気を一気に壊す空気読め!な場違いキャラクタとゆーギャグを、2度連続キメてくれたもんで、笑い声を噛み殺すのに必死だったぞ。
 無意味な歌と不自然な説明台詞の洪水も笑いに拍車を掛ける。
 なにより、歌が、マジでうまい。
 『エリザベート』のときよりなにより、ゆみこ、すげーうまい……と、シンプルに感動しました。……こんなときに、こんな役で。
 歌がとんでもなくうまいことがまたさらに、異次元感を盛り上げる。浮くんだわ……ステキに、プカプカと。

 フェルゼンがなんで突然空気をぶった切って現れるか。
 理由はひとつ、ソフィアを登場させるため。フェルゼン様の存在価値は、ソレだけなんです。
 前座のフェルゼン様が消えたあと、ジェローデルとソフィアが語り合うの。
 ジェロとソフィアは気が合うし、偏見と差別で孤立している中、やさしかったのはアナタだけ、という植爺お得意のシチュエーションで惹かれ合っていたそうですよ。
 ジェロとソフィアが「ヌーベル・エロイーズ」を語るあたりなんか、原作への冒涜っぷりに眩暈がしますが、まあそれはさておいて、とにかく心を通じ合わせ、「また会いましょう」と約束をするのですよ。

 ……それだけ、です。
 それだけで、話は10年単位で飛びます。

 冒頭のナポレオン時代に、テロリスト・ジェローデルと修道女ソフィアとして再会、になるわけです。
 えええ。
 で、もともと手負いだったジェロがソフィアの腕の中で死んで、幕。

 うあああ。(アタマを抱える)

 誰か植爺に、「物語」はどーやって作るモノか、教えてやって下さい。

 変な人しか出てこないのは植爺作品のデフォルトだけど、やっぱなんとかしてほしーと思うのは人の常、歪んだモノは正したいと思うのが人間の性(笑)。
 
 
 つーことで、翌日欄に続く。


 『ベルばら』だ植爺だ等身大ジェローデル様パネルだ……とわいわいやっているところへ、いろんなニュースが飛び込んできた。

 さおたさん、東宝まで全休なんですか……。

 正直、想像してませんでした。

 最悪でもムラ全休だと勝手に思い込み、「最悪には備えた。大丈夫」とひとりで心構えてたんですね。
 いちばん悪い状況を想像して、それに備える。そーやって自分を守る。ショックを受けないようにする。小心者なので、いかなる場合にも自然にそーやってしまうんだけど。

 今回は見誤っていました。
 さおたさんは大丈夫、絶対にこの公演に帰ってくる……と、思い込んでいた。

 初日のさおたさんは、ふつーにさおたさんで、そりゃわたしはそれほど彼を見ていたわけではないが、目に入る限り、安定した芸を見せてくれる、いつものさおたさんだったんだよ。
 なのにそのわずか2日後から休演って……自分が目で見たものと現実とが折り合いつかなくて、なんか漠然と「すぐに戻ってくる」と思ってた。

 2回目の観劇で、さおたさんの役を演じるマメやみつるを見て、「ああ、こういうことなんだ」と現実を確認したりはしたけれど。

 初日観てすぐに感想書いたからさぁ。すげーのんきにさおたさんのこと「かわいこちゃん」呼びとかしてんですよあたしゃ……。
 あのかわいこちゃん役がみつるになってました。みつるはふつーに溌剌と強そうなので、まっつと闘っていると「ケンカの腕は伯仲」って感じでハラハラします(なにソレ)。

 ゆっくり休んで養生してほしいです。
 なくてはならない人だから。
 ウメちゃんもそうだけど、休演しなければならないほどの体調も心配だが、心も心配だ。
 在るべき場所、にいられない痛み。
 トップスターとか、副組長とか、肩書きがある分その痛みは大きくなると思う。……想像すら、追いつかないけれど。漠然と心配することしかできないけれど。

 元気になって、戻ってきて欲しい。
 待っているから。

 
 んで、月組娘役トップスターと日生&博多座ヒロインが発表になりましたが。

彩乃かなみの退団後、固定的な主演娘役は当面の間設けず、公演ごとに柔軟な配役を行って参ります。

○博多座公演 『ME AND MY GIRL』(8月1日〜24日)     サリー役:羽桜しずく
○日生劇場公演『グレート・ギャツビー』(9月1日〜23日)    デイジー役:城咲あい
                                             −公式より−


 これを言うのは何度目かわかんないけど。

 月組では、ナニが起こっているんだろう。


・しかし、何故デニム?!

・「みなさーん、パレード衣装は私物を持ち寄ることになりました。ブルーのデニムならなんでもOK、デコレーションは個人で考えて下さい」
・「ええー、私物ですか?」「しかもデニムってナニ?!」「しい様コスしろってこと?」
・「ウロコ・チュニック作ったら、全員のパレード衣装作る予算がなくなりましたー。我慢してくださ〜〜い」
・「ありえない!」「それにしてもデニムって何故?」「デニムならみんな1着は持ってるだろうし、色や素材に多少ばらつきがあっても統一感出るから、私物寄せ集めでもOKってことでしょ」「え〜〜、やだぁ。パレードがデニムなんてぇ」
・「……そんなに嫌なら、オープニングのウロコ・チュニックに、羽根付けて階段降りる?」
・「すみません、デニムでイイです」「私ジーパンにスパンコール縫いつけます!」「わたしペイントします!」「わがまま言いません、すみませんでしたっ!!」
・……てなやりとりが脳裏を走る。

・「これはこれは、デニム会社社長のカネアリさん(仮名)」「草野くん(仮名)、我が社の製品を使ってくれないかね」「そりゃあ社長のところの製品ならば是非使わせていただきたいですし、今までも使ってるじゃないですか」「あんな数着分じゃどうしようもない。組子全員に我が社製品を着せてくれないと」「しかし、全員が出る場面は最後のパレードのみですし、パレードにデニムというのは……」「まあ、そう言わずに……(菓子箱を渡す)」「こまりますよ、こんなことをされては……(菓子箱を受け取る)……そうですね、パレードにデニム。デニムで羽根。イイかもしれない!!」
・……てな、大人の事情が脳裏を駆け抜けていく。

 初日の感想、おぼえているうちに書くぜ!その8で、『Red Hot Sea』語り、その5。これでフィニッシュ!

・デニム燕尾の5人組に夢中になっているウチに、ゆーひくんが大きな羽根背負って歌ってた。
・あ、あれ? そーいや壮くんの羽根ってどんなだっけ? ちゃんとした羽根に着替えるのかな。
・と思ってるウチに彩音ちゃんが降りて、まとぶん登場。

・まとぶん、トップ就任おめでとー!!

・ここは拍手だ、心からの拍手だ。
・ふつーは舞台にハの字型に並んでトップスターを見守る組子たちが、本舞台にぎっしり整列した。
・みんなの羽根がぎっしり詰まってぎっしり揺れて、波のようだ。

・そうか、『Red Hot Sea』か!

・ここにあるよろこび、熱い心。それが波になって、新しいトップスターを迎え、新生花組そのものになる。
・波は分かれ、我らがまとぶんを迎える。
・ここは熱い海。
・まとぶん、おかえり。キミが帰ってくる場所。や、彼がどこかへ行っていたワケじゃないが、そんなふうに思う。おかえり。ここが、キミの場所。

・銀橋へ向かう先頭は、まとぶんとゆーひくん。……ゆーひくんなんだ。
・ここで改めて壮くんの羽根の大きさ、衣装の意味を知る。もう少し気を遣ってくれると思ってたんだけどな、劇団め。
・舞台に戻ったあとは、まとぶんセンターに、彩音ちゃん、ゆーひくんがそれぞれ上手下手に燈台のように立ち、組子たちが彼らを取り囲んで歌う、という変則的なもの。
・お披露目とサヨナラは奇をてらわずに、ふつーにオーソドックスなのがいちばんいいんだ、と改めて思う。これぞ「タカラヅカ」なものでいいんだと思う。遠い目。
・それでも、きらきらしているまとぶんや、彼を囲んで歌うデニム燕尾5人組を見ていると、胸が熱くなる。

・文句しこたま言ってるけど。
・やっばり草野は嫌いだし、衣装センスもカラーセンスも最悪と思うけど。
・この作品は、たのしいかもしれない。

 
・初日のご挨拶、花組名物はっち組長は見事にカミカミ。イイことを言おうとしているんだが、なにしろ噛みまくるので台無し。これが名物だから仕方ない。
・まとぶさんは相変わらず長々喋って、どんどんぐだぐだになる(笑)。
・でもこの人は、自分の言葉で喋るんだよね。社交辞令だけでまとめないの。

・「花組を全力で守っていきます」

・この言葉が、胸に残った。
・守る、ときたか。
・どれだけの重責なんだろう。そして、どれほどの覚悟なんだろう。
・真飛聖という人が、心から愛しい。
・一花組担当として、「この人が、ウチのトップさん」であると、今ここで強く再確認する。
・この人が、ウチの組のトップスターでよかったと思う。
・この人が、ウチの組のトップスターであることを、誇りに思う。
・ただの木っ端ファン、末端ファンだけどさ。
・まとぶん、好きだー。
・彼が守ろうとする花組を、その覚悟ごと愛してゆきたいと思う。

・ので、そのアツい気持ちのまま力一杯拍手していたんだが。

・カーテンコールが、1回で終わった。

・あ、あれ?
・えーと?
・トップお披露目初日……だよね?
・なんでもない公演の初日でもカテコを繰り返し、最後は主演をカーテン前に引きずり出すまで拍手をやめない、主演の口から「気を付けてお帰り下さい」と言わせるまで拍手をやめない、もちろんスタンディングがデフォの組を知っているだけに、ちょっとびっくり。
・スタンディングもなしか……。花組客席ってやっぱクールだよなあ。星組のふつーの楽の方が、花組のトップ退団前楽より激しかったのは衝撃だったもんなあ。いやその、かの組が激しすぎる、つーのはあるが(笑)。

 新しい花組に、心からのエールを送る。
 ここがウチの組。
 今までも、これからも、愛していくの。


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