時は流れ、止まることはない。@花組エンカレッジコンサート
2006年5月7日 タカラヅカ 告白しましょう。
千秋楽、わたしの席は「まりん席」でした。
唯一の客席降りでまりん氏が真横に立つ席。
初日の段階でソレがわかっていたのだけど、「ごめん、まりん! 真横に立つアナタを無視して、下手通路の同じ位置に立つまっつをガン見するわ!」と、固く心に誓っていた。てゆーか、放っておいてもそうなるだろうと思っていた。
告白しましょう。
千秋楽、わたしの真横に立つまりん氏。ここはまぎれもない「まりん席」。
まりん氏を、見てました。
まっつを見るはずだったのに。
見るつもりだったのに。
まりん氏から目が離れないっ。
悠真倫が真横で、わたしに微笑みかけながら歌ってるのよ?! そりゃ見ちゃうでしょお?!
…………オトされるかと思ったよ、まりん。
とゆーのもなー、土曜日に前方ドセンターで見たとき、出演者からのカンチガイ目線がばしばし来たんだけど、そのなかでもまりん氏からの目線がいちばんすごかったのよ。
彼、わたしを見てる?(ドキドキ)の、連続でな。
まりん氏が穏やかに微笑みながら、『二人の時』を歌うわけですよ、わたしを見つめて!
「君を愛している」と、わたしに、歌いかけるわけですよ!!
も、どーしよーかと(笑)。
まりん氏は美形でもオトコマエでもないが(失礼)、男の価値はそんなもんでは決まらない。
あのやさしげな眼差しで、語りかけるよーに愛の歌を歌われたら、じんじんきます。
癒しの歌声。
ハンサムな若い男との恋に疲れたときに、こーゆー中年男に本気でスコンと惚れそーです。中年て、まりん氏はタニやまとぶと同期なんだけどな。
花組『エンカレッジコンサート』、まつださんへの愛はまた別に叫ぶとして、本日は他の話。
5公演全制覇して、いろいろ思うところがあった。
わたしにとって「名も知らぬ下級生」に「記憶」をプラスする区切りは「89期」なのだわ。
掲示板でチケットを譲ってもらってはじめて観た音楽学校文化祭が、89期なの。
以来毎年文化祭は観るようにしているけれど、やっぱり最初だった89期は特別なのね、記憶の残り方が。なにしろ89期だけは偶然「すみれ売り」も見ているから。素顔ですみれを売っていた姿と、はじめて観た文化祭の二重の記憶は大きい。
89期以下の「名も知らぬ下級生」は、文化祭の記憶と照らし合わせて「ああ、あの子か」と整理することが多い。……なにしろ文化祭は「本名」でしかプログラムに載ってないので、「整理」しないと芸名とイコールにならなくてな……。
初日を観て、帰宅してからあわてて確認したのは、花咲りりかちゃん。89期じゃん、この子。まず本名を調べて、「ん? この名字、記憶にあるぞ」と文化祭プログラムを引っ張り出してきて納得。
89期文化祭の歌姫じゃん。幕開きで「清く正しく美しく」を独唱していた娘さんか……そりゃすばらしい歌声の持ち主だわな。
あたりまえのことなんだけど、文化祭よりもずっとずっとうまくなっている。
成長しているんだ。
下級生たちは、あまり歌声を披露する場がないよね。りりかちゃんは影ソロやっていたりしただろうけど、そーゆーのとは別の意味で。スポットライト浴びて「さあ、歌を聴かせますよ」な場を与えられるわけじゃない。
なのに、成長している。ずっとお稽古しているんだ。見せ場のあるなしではなくて。
これまで何度か書いているけれど、大門くんはわたしにとって「はぢめてのヒト☆」的愛着のある子。はじめて観た文化祭で「芝居の主役」だったからな。わたしはなにより芝居ができる人が好きだから。
以来ずーっと気にして眺めてはきているけれど、このエンカレで「ほんとーに歌うまいんだ」と改めて感心した。
文化祭でソロを聴いているし(彼は男役ではただひとりのソロ歌手だった)、そのときもうまいと思ったけれど、今はさらにうまくなっている。
そーいやすみれ売りのころってだいもんが首席だっけ? 文化祭前にカチャに抜かされたとか聞いたが?
文化祭での印象は、カチャが華の人で、だいもんが実の人、だったなぁ。首席と次席の男ふたり。見た目からして対照的(カチャは現代風、だいもんは古典的)でたのしかったなー。
エンカレ出演のもうひとりの89期、澪乃せいらは『Young Bloods!! 』のときに本名を調べて記憶を整理、ああかわいこちゃんの**さんの芸名だったのか、と納得したな。
わたしの記憶のポイントとなる89期をきっかけにして、思うんだ。89期の彼らだけのことではなくて。
みんな、前へ進んでいるんだ。
……あたりまえのことなんだろう。人として、プロとして。
あたりまえだとわかっていても、なんだか感動する。興奮する。そして、まったく成長していない自分が恥ずかしくなる。
タカラヅカは、時を共有する文化なんだと、しみじみ思う。
わたしが過ごす時間と、同じだけの時間を過ごしている彼らを観るたのしみ。
成長する彼らを眺め、応援すること。
それは、こんなにも感動的なことなんだ。
やっぱわたし、タカラヅカが好きよ。
だからできるだけ、たくさんの公演を観たい。ご贔屓の出る公演だけでなく、観られる限り全部。
そしてひとりでも多くの生徒さんの顔と名前をおぼえて、彼らの人生を見守りたい。
文化祭を眺めた、そんなささやかな記憶があるだけで、愛着度がちがってくる。ワークショップを観た、エンカレを観た、そんなことだけでも、きっとこれからの愛着度が変わってくるんだ。
あのときのあの子が、今、こんなになってるんだ。
あのときなにもできなかった、なんで舞台に立ってるんだこの子?と首を傾げたあの子が、今、こんなにがんばっている。
……それを観て、力をもらう。勇気だとか希望だとか夢だとか。
そーゆーものを感じるために、「好き」を増やしていきたい。
もともとエンカレは全組制覇するつもりだけど、残り2組もとてもたのしみだ。
歌の実力だけではなくて、若い子たちに「出会う」ことが。
わたしは、未来の「好き」を、「感動」を増やすために、小さな劇場に通うんだ。
「タカラヅカ」が好きだから。
もっともっと、好きになるために。
千秋楽、わたしの席は「まりん席」でした。
唯一の客席降りでまりん氏が真横に立つ席。
初日の段階でソレがわかっていたのだけど、「ごめん、まりん! 真横に立つアナタを無視して、下手通路の同じ位置に立つまっつをガン見するわ!」と、固く心に誓っていた。てゆーか、放っておいてもそうなるだろうと思っていた。
告白しましょう。
千秋楽、わたしの真横に立つまりん氏。ここはまぎれもない「まりん席」。
まりん氏を、見てました。
まっつを見るはずだったのに。
見るつもりだったのに。
まりん氏から目が離れないっ。
悠真倫が真横で、わたしに微笑みかけながら歌ってるのよ?! そりゃ見ちゃうでしょお?!
…………オトされるかと思ったよ、まりん。
とゆーのもなー、土曜日に前方ドセンターで見たとき、出演者からのカンチガイ目線がばしばし来たんだけど、そのなかでもまりん氏からの目線がいちばんすごかったのよ。
彼、わたしを見てる?(ドキドキ)の、連続でな。
まりん氏が穏やかに微笑みながら、『二人の時』を歌うわけですよ、わたしを見つめて!
「君を愛している」と、わたしに、歌いかけるわけですよ!!
も、どーしよーかと(笑)。
まりん氏は美形でもオトコマエでもないが(失礼)、男の価値はそんなもんでは決まらない。
あのやさしげな眼差しで、語りかけるよーに愛の歌を歌われたら、じんじんきます。
癒しの歌声。
ハンサムな若い男との恋に疲れたときに、こーゆー中年男に本気でスコンと惚れそーです。中年て、まりん氏はタニやまとぶと同期なんだけどな。
花組『エンカレッジコンサート』、まつださんへの愛はまた別に叫ぶとして、本日は他の話。
5公演全制覇して、いろいろ思うところがあった。
わたしにとって「名も知らぬ下級生」に「記憶」をプラスする区切りは「89期」なのだわ。
掲示板でチケットを譲ってもらってはじめて観た音楽学校文化祭が、89期なの。
以来毎年文化祭は観るようにしているけれど、やっぱり最初だった89期は特別なのね、記憶の残り方が。なにしろ89期だけは偶然「すみれ売り」も見ているから。素顔ですみれを売っていた姿と、はじめて観た文化祭の二重の記憶は大きい。
89期以下の「名も知らぬ下級生」は、文化祭の記憶と照らし合わせて「ああ、あの子か」と整理することが多い。……なにしろ文化祭は「本名」でしかプログラムに載ってないので、「整理」しないと芸名とイコールにならなくてな……。
初日を観て、帰宅してからあわてて確認したのは、花咲りりかちゃん。89期じゃん、この子。まず本名を調べて、「ん? この名字、記憶にあるぞ」と文化祭プログラムを引っ張り出してきて納得。
89期文化祭の歌姫じゃん。幕開きで「清く正しく美しく」を独唱していた娘さんか……そりゃすばらしい歌声の持ち主だわな。
あたりまえのことなんだけど、文化祭よりもずっとずっとうまくなっている。
成長しているんだ。
下級生たちは、あまり歌声を披露する場がないよね。りりかちゃんは影ソロやっていたりしただろうけど、そーゆーのとは別の意味で。スポットライト浴びて「さあ、歌を聴かせますよ」な場を与えられるわけじゃない。
なのに、成長している。ずっとお稽古しているんだ。見せ場のあるなしではなくて。
これまで何度か書いているけれど、大門くんはわたしにとって「はぢめてのヒト☆」的愛着のある子。はじめて観た文化祭で「芝居の主役」だったからな。わたしはなにより芝居ができる人が好きだから。
以来ずーっと気にして眺めてはきているけれど、このエンカレで「ほんとーに歌うまいんだ」と改めて感心した。
文化祭でソロを聴いているし(彼は男役ではただひとりのソロ歌手だった)、そのときもうまいと思ったけれど、今はさらにうまくなっている。
そーいやすみれ売りのころってだいもんが首席だっけ? 文化祭前にカチャに抜かされたとか聞いたが?
文化祭での印象は、カチャが華の人で、だいもんが実の人、だったなぁ。首席と次席の男ふたり。見た目からして対照的(カチャは現代風、だいもんは古典的)でたのしかったなー。
エンカレ出演のもうひとりの89期、澪乃せいらは『Young Bloods!! 』のときに本名を調べて記憶を整理、ああかわいこちゃんの**さんの芸名だったのか、と納得したな。
わたしの記憶のポイントとなる89期をきっかけにして、思うんだ。89期の彼らだけのことではなくて。
みんな、前へ進んでいるんだ。
……あたりまえのことなんだろう。人として、プロとして。
あたりまえだとわかっていても、なんだか感動する。興奮する。そして、まったく成長していない自分が恥ずかしくなる。
タカラヅカは、時を共有する文化なんだと、しみじみ思う。
わたしが過ごす時間と、同じだけの時間を過ごしている彼らを観るたのしみ。
成長する彼らを眺め、応援すること。
それは、こんなにも感動的なことなんだ。
やっぱわたし、タカラヅカが好きよ。
だからできるだけ、たくさんの公演を観たい。ご贔屓の出る公演だけでなく、観られる限り全部。
そしてひとりでも多くの生徒さんの顔と名前をおぼえて、彼らの人生を見守りたい。
文化祭を眺めた、そんなささやかな記憶があるだけで、愛着度がちがってくる。ワークショップを観た、エンカレを観た、そんなことだけでも、きっとこれからの愛着度が変わってくるんだ。
あのときのあの子が、今、こんなになってるんだ。
あのときなにもできなかった、なんで舞台に立ってるんだこの子?と首を傾げたあの子が、今、こんなにがんばっている。
……それを観て、力をもらう。勇気だとか希望だとか夢だとか。
そーゆーものを感じるために、「好き」を増やしていきたい。
もともとエンカレは全組制覇するつもりだけど、残り2組もとてもたのしみだ。
歌の実力だけではなくて、若い子たちに「出会う」ことが。
わたしは、未来の「好き」を、「感動」を増やすために、小さな劇場に通うんだ。
「タカラヅカ」が好きだから。
もっともっと、好きになるために。
まっつ、あの歌の意味は。@花組エンカレッジコンサート
2006年5月6日 タカラヅカ「で、ドリーズのみなさんは、他に誰がいらっしゃるんですか?」
わたしの唯一のまっつフレンズ、モロさんが無邪気に言う。
「来ないよ、誰も」
「えっ? でも、ドリーさんは? 花担でしょう?」
「来ませんとも。ご贔屓が確実に客席に来る日がわかるなら行ってもいいとか言ってたな」
「じゃあkineさんは? kineさんなら」
「……来ないのよ。あの人、らんとむの『スカウト』のためならわざわざムラまでやってきたし、そのかの『Young Bloods!! 』のためにも、わざわざムラまでやってきたけど、まっつの『エンカレ』のためには、来てくれないのよ」
「……『Across』終わったのに……」
「『Across』終わってるのにねえ……まっつにはほら、興味ないそうだから。ドリーズでエンカレに必死なのは、唯一のまっつファンであるわたしと、『めぐむめぐむ』言ってコワレてる、nanakoさんだけだから」
おかげで、ドリーズのみんなが、快くチケ取り協力してくれました。「花エンカレは興味ないから、いくらでも言って」と。友会入力だろうと、一般発売だろうと。
それでわたし、今回のチケットはとても潤っています。全部センターで、うち3枚は超前方、うち2枚は通路際。まっつが降りてきてくれることを祈って。……くそーっ、上手通路なんだよ、まっつ反対側だよっ。
張り切ってチケ取りしすぎて、ダブらせて大変だったなんて、内緒です(笑)。定価でさばけてよかった。
世の中、そんなにまっつファンってのは少数派なんでしょうかねえぇ。
いい男ぢゃん、まっつ!
ちょっと地味だけど、端正で一通りなんでもできて、なによりも「声」がいい、コンパクトなおにーちゃんですよ。
黒燕尾姿なんてあたしゃ、このまま小脇に抱えて家に持って帰りたいとか思いますから!(そこまで小さくないから! てゆーかソレ犯罪)
初日一緒だったnanaタンはめぐむの話ばかりになりがちなので(笑)、今日はまっつメイトのモロさんと、まっつ語りができてしあわせです。
ああ、まっつはこれからどこまで行くのでしょう。
彼の向かう先がどこであれ、彼が幸福であればそれでいいのです。
まっつの歌うソロ曲は2曲。1幕の『And All That Jazz』はなんかまっつらしくもなく、色気全開でアピールしまくりなので、実はちょっと落ち着かないです。
かっこいいよ。かっこいいけど……おろおろ。
もっと若いうちからこの芸風で突っ走っていたら、もっとファンがついていたかもしれないし、そしてわたしはきっとファンになってない(笑)と思える素敵さです。てゆーか、アンタ、誰? そんなセクスィーダイナマイトな男役は、わたしの知っている人ぢゃありません。
誰もがふつーに、「まっつ、かっこいいじゃない」と言ってくれる、とってもわかりやすいかっこよさと、押し出しの良さ。
すっげーかっこよくて、それゆえのとまどいが先に立ち、素直にとろけることができておりません……あたしっていったい、まっつにナニを求めているの。
かといって2幕の『The Winner Takes It All』は、まっつらしくて、やばいです。
どうまっつらしいかってそりゃ……地味なんです。もー、泣けるほど地味だっ。
歌はうまいの。声もいいの。
なのになにゆえに、こうまで埋もれる……。
途中から大門、彩城、きほ、もえりがコーラスについてくれるんだけど……ダメだよ、ひとりで歌わなきゃ。「ソロを歌うスターとバックコーラス」ではなく、ただの5人口になってるからっ!!
……ううう。
モロさんと話してたんですよ。
「なんであんな歌、選んだんだろう……」
埋もれてしまうよーな地味な歌。わかりやすくテクニックが必要で実力を見せつけるわけでなし、わかりやすく盛り上がるでなし。第一、なんの歌なんだろう。プログラムにはみんな歌の出典が書かれているんだけど、まっつの2曲目に関しては表記ナシ。
そうこうしているうちに、情報が。
まっつの選んだ2曲目『The Winner Takes It All』は、オサ様ディナーショーの曲だという。
オサ様の歌かいっ。
しかも、自分も一緒に出演していたディナーショー。
謎は解けた。
「あの曲は、まっつから寿美礼サマへの愛の告白なんですね」
星エンカレで、美城れんくんが「尊敬する上級生の歌です」とかゆって、わざわざトウコの持ち歌ばかりを歌っていたのと同じか!
スカステで寿美礼サマへ告り、グラフで寿美礼サマへ告り、エンカレでも告りますか、まっつよ!!
ほんっとーに、オサ様が好きなんやな君。
折しも、本日午後の部は、客席に寿美礼サマが。
わたしとモロさんはふたりして大ウケです。
「じゃあナニ、まっつが直にオサ様に愛の歌を捧げるところを見られるわけねっ」
「すばらしいですねっ」
届けまっつのバーニングハート!!
どんなに愛を叫んでも、寿美礼サマにはするっとスルーされていそーなとこがまた、すばらしいのです。わたしは片想いスキー、まっつの爆裂片想いっぷりがツボです。スカステで告ったときも、オサ様は笑って聞き流していたわよね〜〜(笑)。
ああ、まっつ、わたしと男の好みが同じねっ。わたしも寿美礼サマが大好きよ(はぁと)。
帰宅してからDVDを確認したんだけど、ほんとに、オサ様の歌まんまだった。
演出まで同じにしてあるの。
バックコーラスが4人、メンバーに季帆ちゃんが混ざっているのが違和感あったんだけど、オサDSのバックコーラスを踏襲しているからなんだ。
まっつ…………。
4年も前の、オサ様DSのシーンを再現して見せたんやな……自分がオサ様になって。
まっつには、合ってないのに。ここでこの曲を歌うことが、ちっともプラスになっていないのに、それでも、オサ様の歌が歌いたかったんだ……オサ様と同じ演出で。
なんかもー、とほほを通り越して、まっつが、愛しくてなりません。
そうか、そんなにそんなに、春野寿美礼が好きか、未涼亜希よ。
そんなまっつが、大好きだ(笑)。
ところで、『And All That Jazz』でもなく『The Winner Takes It All』でもなく、今回わたしがいちばんとろけたまっつの歌は、1幕の全員で歌う『ジュテーム』でした。
男たちのコーラスから、まっつがソロで歌うところ。
びびびびっくりした。
ソロパートはみんなで持ち回りなんだけど、先頭を切るのが学年順無視してまっつだから。
予測してないときに、まっつの超美声で「ジュテーム・ジュテーム♪」とやられて、腰砕けました。
うおー、1曲ソロで歌ってくれえ。
2幕の『オサ様への愛の絶唱The Winner Takes It All』より、よっぽどこっちが聴きたいっす。
まっつまっつまっつ。
わたしの唯一のまっつフレンズ、モロさんが無邪気に言う。
「来ないよ、誰も」
「えっ? でも、ドリーさんは? 花担でしょう?」
「来ませんとも。ご贔屓が確実に客席に来る日がわかるなら行ってもいいとか言ってたな」
「じゃあkineさんは? kineさんなら」
「……来ないのよ。あの人、らんとむの『スカウト』のためならわざわざムラまでやってきたし、そのかの『Young Bloods!! 』のためにも、わざわざムラまでやってきたけど、まっつの『エンカレ』のためには、来てくれないのよ」
「……『Across』終わったのに……」
「『Across』終わってるのにねえ……まっつにはほら、興味ないそうだから。ドリーズでエンカレに必死なのは、唯一のまっつファンであるわたしと、『めぐむめぐむ』言ってコワレてる、nanakoさんだけだから」
おかげで、ドリーズのみんなが、快くチケ取り協力してくれました。「花エンカレは興味ないから、いくらでも言って」と。友会入力だろうと、一般発売だろうと。
それでわたし、今回のチケットはとても潤っています。全部センターで、うち3枚は超前方、うち2枚は通路際。まっつが降りてきてくれることを祈って。……くそーっ、上手通路なんだよ、まっつ反対側だよっ。
張り切ってチケ取りしすぎて、ダブらせて大変だったなんて、内緒です(笑)。定価でさばけてよかった。
世の中、そんなにまっつファンってのは少数派なんでしょうかねえぇ。
いい男ぢゃん、まっつ!
ちょっと地味だけど、端正で一通りなんでもできて、なによりも「声」がいい、コンパクトなおにーちゃんですよ。
黒燕尾姿なんてあたしゃ、このまま小脇に抱えて家に持って帰りたいとか思いますから!(そこまで小さくないから! てゆーかソレ犯罪)
初日一緒だったnanaタンはめぐむの話ばかりになりがちなので(笑)、今日はまっつメイトのモロさんと、まっつ語りができてしあわせです。
ああ、まっつはこれからどこまで行くのでしょう。
彼の向かう先がどこであれ、彼が幸福であればそれでいいのです。
まっつの歌うソロ曲は2曲。1幕の『And All That Jazz』はなんかまっつらしくもなく、色気全開でアピールしまくりなので、実はちょっと落ち着かないです。
かっこいいよ。かっこいいけど……おろおろ。
もっと若いうちからこの芸風で突っ走っていたら、もっとファンがついていたかもしれないし、そしてわたしはきっとファンになってない(笑)と思える素敵さです。てゆーか、アンタ、誰? そんなセクスィーダイナマイトな男役は、わたしの知っている人ぢゃありません。
誰もがふつーに、「まっつ、かっこいいじゃない」と言ってくれる、とってもわかりやすいかっこよさと、押し出しの良さ。
すっげーかっこよくて、それゆえのとまどいが先に立ち、素直にとろけることができておりません……あたしっていったい、まっつにナニを求めているの。
かといって2幕の『The Winner Takes It All』は、まっつらしくて、やばいです。
どうまっつらしいかってそりゃ……地味なんです。もー、泣けるほど地味だっ。
歌はうまいの。声もいいの。
なのになにゆえに、こうまで埋もれる……。
途中から大門、彩城、きほ、もえりがコーラスについてくれるんだけど……ダメだよ、ひとりで歌わなきゃ。「ソロを歌うスターとバックコーラス」ではなく、ただの5人口になってるからっ!!
……ううう。
モロさんと話してたんですよ。
「なんであんな歌、選んだんだろう……」
埋もれてしまうよーな地味な歌。わかりやすくテクニックが必要で実力を見せつけるわけでなし、わかりやすく盛り上がるでなし。第一、なんの歌なんだろう。プログラムにはみんな歌の出典が書かれているんだけど、まっつの2曲目に関しては表記ナシ。
そうこうしているうちに、情報が。
まっつの選んだ2曲目『The Winner Takes It All』は、オサ様ディナーショーの曲だという。
オサ様の歌かいっ。
しかも、自分も一緒に出演していたディナーショー。
謎は解けた。
「あの曲は、まっつから寿美礼サマへの愛の告白なんですね」
星エンカレで、美城れんくんが「尊敬する上級生の歌です」とかゆって、わざわざトウコの持ち歌ばかりを歌っていたのと同じか!
スカステで寿美礼サマへ告り、グラフで寿美礼サマへ告り、エンカレでも告りますか、まっつよ!!
ほんっとーに、オサ様が好きなんやな君。
折しも、本日午後の部は、客席に寿美礼サマが。
わたしとモロさんはふたりして大ウケです。
「じゃあナニ、まっつが直にオサ様に愛の歌を捧げるところを見られるわけねっ」
「すばらしいですねっ」
届けまっつのバーニングハート!!
どんなに愛を叫んでも、寿美礼サマにはするっとスルーされていそーなとこがまた、すばらしいのです。わたしは片想いスキー、まっつの爆裂片想いっぷりがツボです。スカステで告ったときも、オサ様は笑って聞き流していたわよね〜〜(笑)。
ああ、まっつ、わたしと男の好みが同じねっ。わたしも寿美礼サマが大好きよ(はぁと)。
帰宅してからDVDを確認したんだけど、ほんとに、オサ様の歌まんまだった。
演出まで同じにしてあるの。
バックコーラスが4人、メンバーに季帆ちゃんが混ざっているのが違和感あったんだけど、オサDSのバックコーラスを踏襲しているからなんだ。
まっつ…………。
4年も前の、オサ様DSのシーンを再現して見せたんやな……自分がオサ様になって。
まっつには、合ってないのに。ここでこの曲を歌うことが、ちっともプラスになっていないのに、それでも、オサ様の歌が歌いたかったんだ……オサ様と同じ演出で。
なんかもー、とほほを通り越して、まっつが、愛しくてなりません。
そうか、そんなにそんなに、春野寿美礼が好きか、未涼亜希よ。
そんなまっつが、大好きだ(笑)。
ところで、『And All That Jazz』でもなく『The Winner Takes It All』でもなく、今回わたしがいちばんとろけたまっつの歌は、1幕の全員で歌う『ジュテーム』でした。
男たちのコーラスから、まっつがソロで歌うところ。
びびびびっくりした。
ソロパートはみんなで持ち回りなんだけど、先頭を切るのが学年順無視してまっつだから。
予測してないときに、まっつの超美声で「ジュテーム・ジュテーム♪」とやられて、腰砕けました。
うおー、1曲ソロで歌ってくれえ。
2幕の
まっつまっつまっつ。
「ますます恥ずかしい手帳になってるね」
と、nanakoさんににこやかに言われてしまった「まっつ手帳」を片手に、花組『エンカレッジコンサート』初日。
手帳にはさんでいるまっつ写真の数がどーんと増えてましてね……だってアズ、かっこいいんだもん。
エンカレは全組+専科、行く気満々だが、わたしにとっての本命はこの花組。
まっつの歌が聴ける。
それだけを心の支えに幾年月。
「めぐむ〜〜っ!」
と吠え続けるnanakoさんと一緒に、いざバウホール。
歌えるって、すごい。
歌がうまいってのは、すごいことなんですねっ。
気持ちいい。
歌うまっつを眺めていること、同じ空間にいることが心地よくて、すごくたのしい。
いやそのわたし、「歌手」のファンになるのはじめてだし。
ケロちゃん、歌はアレだったし。
そうか、歌える人のファンになると、こんなにたのしいのかー。ほえー。
いやー、まつださんは歌っているときは超オトコマエです。
余裕だしね。やっぱ自信があるからだろうな、「主役」のカオで客席アピールしてましたよ。
ほんとにほんとに素敵なんだけど……なんか、別格歌手まっしぐらって感じで、ソレはソレで、ちと複雑でもありました。
月組、星組と、「1幕ラストは路線スター、2幕ソロラストは実力派歌手」と続いていたから。
花組はいちおーね、期待したんですよ、まっつが1幕トリかしら、と。
まっつが路線かどうか、アヤしいとこだとは思ってますが、出演者を見回して他に適任はいないから、1幕トリが回ってくるかと。
…………1幕のラストは、出演者全員のコーラスでした。
花組だけナゼ、構成がチガウのっ?!
そんなにまっつをスター扱いしたくないの? そーゆーことなの?!
あたしの惚れる人ってどーしてこう、脇へ脇へ逸れていくんだろう……まあな、真ん中しか似合わない人には、興味ないもんな。
基本的に脇の実力者ポジは好きなので、そっちで花開いてくれるぶんにはまったくかまわんのですが、出番が多いに越したことはないので、路線寄りでいてくれるとうれしーです。
てゆーかトリをつとめるまっつも見たかったよ。
それはさておき下手前方チケット、どっかに落ちてませんか?
今回のまっつ席は下手でした。
うきーっ、あたし今回上手しか持ってない〜〜っ。
上から3番目だから、上、下、上、で、上手だと思うじゃんよっ。
下手が欲しいよ〜〜っ。
1幕のまっつ曲『And All That Jazz』のときは、下手にアピールしまくってるんですよあの人!!
んじゃ2幕は上手来るかと思ったら、2幕の『The Winner Takes It All』はおとなしいし、真ん中でふつーに歌うだけであんましクドくないし!
全員での客席降りは1回しかないのに、まっつ下手だし!
ああ……なんてこと。
そしてまっつのまっつらしいとこなのか、全員で歌っているときとかは、決して出過ぎないというか、ぶっちゃけ地味……ゲフンゲフン。
そんなまっつが好きです。
さて、花組で3組目となったエンカレ。
今回、はじめて「まっとーなコンサート」でした。
びっくりだー。
今わたし、コンサートに来てるんだ、と感心してしまった。
月組はストイックに発表会テイスト、星組は技術は問うな祭りだホイ! だったのに対し、花組はふつーにコンサートだった。
そっかー、「歌の花組」なんだねええ……。
めぐむが、かっこよくて!!
nanakoさん、コワレるコワレる(笑)。
ソロで歌っているときはそれほどでもなかったんだが、花咲りりかちゃんの『花から花へ』にゲスト出演(笑)したときのめぐむがもー。
今回のコンサート全編で、いちばんオトコマエだった。なにごとだ、めぐむ?! そーゆーポジなのかめぐむ?!
あとは、大門くんのやりすぎぶりが、とても愉快です。いやいやいや、君、おもしろいなほんと! はじけっぷりがいいよ。
全員で歌うとこになると、大門くんに注目っす。
きほちゃんはうまいんだけど、なんつーか「予想範囲内の巧さ」で、相変わらず発見や感動にまで至らず。……何故彼女はいつも「そこ」で止まってしまうんだろう。
今回いちばんすごかったのは、なんといっても花咲りりか嬢。
2幕のトリは手堅くちあき女史なんだが、真の歌手はりりか嬢だ。
女史のソロのあと、全員でのコーラスで、りりか嬢がかーんと持っていくんだコレが。
すげーよ。
2幕のまっつが地味なので、なんかりりか嬢に持って行かれたまま、初日が終わりました(笑)。
でもいいんだっ、まっつの歌、まっつの声を聴けるよろこび。
それを心の支えに明日からも生きていこう(笑)。
そーいや「組カラー」は今回関係なし?
組色燕尾着ると思ってたんだけど。黒燕尾で幕が上がったから、「2幕はピンク燕尾かー。まっつ、微妙やなー」とか思ってたんですが。
娘役のドレスは華やかでよかったな。
まっつの黒燕尾好きだから、いっぱい見られてソレはソレでしあわせ。
しかし……帰りの電車で、張り切って買ったムラまでの回数カード、落としました。
買ったトコなのに……あうう。安くないのに……あうう。
と、nanakoさんににこやかに言われてしまった「まっつ手帳」を片手に、花組『エンカレッジコンサート』初日。
手帳にはさんでいるまっつ写真の数がどーんと増えてましてね……だってアズ、かっこいいんだもん。
エンカレは全組+専科、行く気満々だが、わたしにとっての本命はこの花組。
まっつの歌が聴ける。
それだけを心の支えに幾年月。
「めぐむ〜〜っ!」
と吠え続けるnanakoさんと一緒に、いざバウホール。
歌えるって、すごい。
歌がうまいってのは、すごいことなんですねっ。
気持ちいい。
歌うまっつを眺めていること、同じ空間にいることが心地よくて、すごくたのしい。
いやそのわたし、「歌手」のファンになるのはじめてだし。
ケロちゃん、歌はアレだったし。
そうか、歌える人のファンになると、こんなにたのしいのかー。ほえー。
いやー、まつださんは歌っているときは超オトコマエです。
余裕だしね。やっぱ自信があるからだろうな、「主役」のカオで客席アピールしてましたよ。
ほんとにほんとに素敵なんだけど……なんか、別格歌手まっしぐらって感じで、ソレはソレで、ちと複雑でもありました。
月組、星組と、「1幕ラストは路線スター、2幕ソロラストは実力派歌手」と続いていたから。
花組はいちおーね、期待したんですよ、まっつが1幕トリかしら、と。
まっつが路線かどうか、アヤしいとこだとは思ってますが、出演者を見回して他に適任はいないから、1幕トリが回ってくるかと。
…………1幕のラストは、出演者全員のコーラスでした。
花組だけナゼ、構成がチガウのっ?!
そんなにまっつをスター扱いしたくないの? そーゆーことなの?!
あたしの惚れる人ってどーしてこう、脇へ脇へ逸れていくんだろう……まあな、真ん中しか似合わない人には、興味ないもんな。
基本的に脇の実力者ポジは好きなので、そっちで花開いてくれるぶんにはまったくかまわんのですが、出番が多いに越したことはないので、路線寄りでいてくれるとうれしーです。
てゆーかトリをつとめるまっつも見たかったよ。
それはさておき下手前方チケット、どっかに落ちてませんか?
今回のまっつ席は下手でした。
うきーっ、あたし今回上手しか持ってない〜〜っ。
上から3番目だから、上、下、上、で、上手だと思うじゃんよっ。
下手が欲しいよ〜〜っ。
1幕のまっつ曲『And All That Jazz』のときは、下手にアピールしまくってるんですよあの人!!
んじゃ2幕は上手来るかと思ったら、2幕の『The Winner Takes It All』はおとなしいし、真ん中でふつーに歌うだけであんましクドくないし!
全員での客席降りは1回しかないのに、まっつ下手だし!
ああ……なんてこと。
そしてまっつのまっつらしいとこなのか、全員で歌っているときとかは、決して出過ぎないというか、ぶっちゃけ地味……ゲフンゲフン。
そんなまっつが好きです。
さて、花組で3組目となったエンカレ。
今回、はじめて「まっとーなコンサート」でした。
びっくりだー。
今わたし、コンサートに来てるんだ、と感心してしまった。
月組はストイックに発表会テイスト、星組は技術は問うな祭りだホイ! だったのに対し、花組はふつーにコンサートだった。
そっかー、「歌の花組」なんだねええ……。
めぐむが、かっこよくて!!
nanakoさん、コワレるコワレる(笑)。
ソロで歌っているときはそれほどでもなかったんだが、花咲りりかちゃんの『花から花へ』にゲスト出演(笑)したときのめぐむがもー。
今回のコンサート全編で、いちばんオトコマエだった。なにごとだ、めぐむ?! そーゆーポジなのかめぐむ?!
あとは、大門くんのやりすぎぶりが、とても愉快です。いやいやいや、君、おもしろいなほんと! はじけっぷりがいいよ。
全員で歌うとこになると、大門くんに注目っす。
きほちゃんはうまいんだけど、なんつーか「予想範囲内の巧さ」で、相変わらず発見や感動にまで至らず。……何故彼女はいつも「そこ」で止まってしまうんだろう。
今回いちばんすごかったのは、なんといっても花咲りりか嬢。
2幕のトリは手堅くちあき女史なんだが、真の歌手はりりか嬢だ。
女史のソロのあと、全員でのコーラスで、りりか嬢がかーんと持っていくんだコレが。
すげーよ。
2幕のまっつが地味なので、なんかりりか嬢に持って行かれたまま、初日が終わりました(笑)。
でもいいんだっ、まっつの歌、まっつの声を聴けるよろこび。
それを心の支えに明日からも生きていこう(笑)。
そーいや「組カラー」は今回関係なし?
組色燕尾着ると思ってたんだけど。黒燕尾で幕が上がったから、「2幕はピンク燕尾かー。まっつ、微妙やなー」とか思ってたんですが。
娘役のドレスは華やかでよかったな。
まっつの黒燕尾好きだから、いっぱい見られてソレはソレでしあわせ。
しかし……帰りの電車で、張り切って買ったムラまでの回数カード、落としました。
買ったトコなのに……あうう。安くないのに……あうう。
それにしてもタニちゃん、やる気満々だよねっ。
『NEVER SAY GOODBYE』を、いつもの最前列の端っこで観劇したとき、タニちゃんが目線絨毯爆撃していったんですよ。
「セクスィだろ?」って目つきで!!
わたしと、隣の席のキティちゃんはふたりしてきゃーきゃーでした。
そーいやいつも、最前列で観劇したときはタニちゃんが目線をくれます。
彼はファンに対して手を抜きません。スタァである自分を知っているからこそ、目線を客席に投げて、ファンをよろこばせるのです。
わたしは鼻息の荒い人が好きなので、タニちゃんのこーゆー戦闘意欲十分なところが好きです。いつもいつも、たのしそうに舞台にいるところが。
残念ながらわたしはタニちゃんの演技と相性が悪いので、役としてどうこうとか演技がどうこうはさーっぱりわからんのですが、「大和悠河」というキャラクタを愛でています。
だもんで、タニちゃんのタニちゃんらしさを見られると、うれしい。
歌がものすごかったり、場の空気を無視して暴走していたりすると、さらにたのしくなる。
そして、まぎれもなく「スター」である「光」の存在を、改めて思い知るのだ。
脇の人は暴走したって「場の空気」は変わらない。
タニちゃんが動くと、ちゃんと空気が動くのだ。
それは得がたいことだと思う。
ああ、タニちゃんは今日も爆走している……。
そう思うと愛しいです。
たかちゃんの「声」を好きだと思う。
今までになく、今まで以上に、思う。
動きが制限されている分、魂を込めて歌っている今の歌声に、とても心地よいものを感じる。
歌詞が聞き取れない? いえいえ、そんなことはございませんよ、Myフレンズ!
たかちゃんの癖のある歌声は、耳に馴染んでおりますから。伊達に18年も聴いてません(笑)。問題なく聴き取れます、物語に集中できます。
わたしの美しいひと、和央ようか様。
退団コンサートの『WING』と『Across』のセンスの差を思うと、もーかなしいやらなさけないやらで、たかちゃん、ほんまにセンス悪いよな……と、とほほな気持ちになりますが、そんなとこも好きだっ。断言するよ、そーゆーとこも好きっ。好きだっっ。おおー!
花ちゃんの「物語を作る力」に感服する。
これまで幾度も幾度も、感じていたことだけど。
花總まりとゆーのは、どこまですごい人なんだろう。
たとえどんな駄作でも、薄っぺらのぺらぺら脚本でも、彼女が力尽くで説得力を持たせてしまう。
彼女が「主役」として「物語を動かす」瞬間に、空気が収束していくのがわかるんだ。
画面がぎゅいーんとアップになるように。
広大な空間が、彼女の持つ力で密度を上げる。
その、快感。
これほどの女優を、ナマで観てこられたことに感謝する。
あとは宙組のコーラスのすばらしさを堪能し、団結力を堪能する。
それからなんといっても、若手のイケメンたち。
七帆くんはほんとに美しいねえ。いろいろ足りていない感じが、おぼつかなく舞台にいるたたずまいが、またよいのだ。
和くんはほんとに美しいねえ。熱さとくどさがいい味をかもしだしている。
十輝の横顔が好きだ。ええ、あの受け口が。ちょっと「男・岩城」入ってる感じが、たまりません。
それから、ともち。
ああ、ともち。
せっかくの最前列、されど隅っこ、されど下手……ともちが、遠いっ!!
ともち、ずーっとなにかと、上手にいるよ……遠いよともち(泣)。
いてもいなくてもいいよーな役であったとしても、その他大勢でいつもわらわらいる「同志」のひとりであっても、いつも必ず濃くて熱くて、すげー勢いで演技しているのが好きだ。
「ハイジャンプ」ポーズが微妙を通り越して笑えるけれど、それすら愛しい。
それから、初舞台生の中にいる、水くん。
無事劇団デビューしてくれたから、芸名で書いてもいいんだよな、真風涼帆くんが口上のとき目の前で、なにかと愉快でした。
文化祭のときわたしの目を奪った「線目男」……べつにきれいとか思わなかったし、好みのカオってほどでもなかったのに、その堂々たるアピールぶりで、わたしの視線を釘付けにした憎いヤツ。文化祭欄では名前を書かなかったが、ココでは書くぞ、月映樹茉くんだ。
その樹茉くんが、すごかった。
初舞台生なのに、目線くれました。
……客席見てるんだ、この子。
初舞台生って、舞台に立つだけでいっぱいいっぱいなんじゃないの?
客席見て、自分を見ている客にアピールしたりして、いいの?
ええ、アピールですよ。
フィナーレのとき、わたしは樹茉くんを見ていたんですよ、「あっ、**さん(本名。文化祭のときはまだ芸名がナイ)だー」と。
そしたら樹茉くん。
にこっ、と、微笑んでくれました。
えええ。
初舞台生に、微笑まれちゃったよー!
わたしもつい、全開で微笑み返しましたともさ!
負けてらんないー!(いやソレちがうから!)
よ、余裕だな月映樹茉。おばさん、びっくりしたぞ。
どんなに見つめても、水くんのそっくりさんは客席なんかまったく見てくれなかったのにぃー!(いやソレふつーだから)
今回の公演で、いちばんわかりやすく完璧に目線をくれたのは、タニちゃんと樹茉くんでした。
ありがとー。
『NEVER SAY GOODBYE』を、いつもの最前列の端っこで観劇したとき、タニちゃんが目線絨毯爆撃していったんですよ。
「セクスィだろ?」って目つきで!!
わたしと、隣の席のキティちゃんはふたりしてきゃーきゃーでした。
そーいやいつも、最前列で観劇したときはタニちゃんが目線をくれます。
彼はファンに対して手を抜きません。スタァである自分を知っているからこそ、目線を客席に投げて、ファンをよろこばせるのです。
わたしは鼻息の荒い人が好きなので、タニちゃんのこーゆー戦闘意欲十分なところが好きです。いつもいつも、たのしそうに舞台にいるところが。
残念ながらわたしはタニちゃんの演技と相性が悪いので、役としてどうこうとか演技がどうこうはさーっぱりわからんのですが、「大和悠河」というキャラクタを愛でています。
だもんで、タニちゃんのタニちゃんらしさを見られると、うれしい。
歌がものすごかったり、場の空気を無視して暴走していたりすると、さらにたのしくなる。
そして、まぎれもなく「スター」である「光」の存在を、改めて思い知るのだ。
脇の人は暴走したって「場の空気」は変わらない。
タニちゃんが動くと、ちゃんと空気が動くのだ。
それは得がたいことだと思う。
ああ、タニちゃんは今日も爆走している……。
そう思うと愛しいです。
たかちゃんの「声」を好きだと思う。
今までになく、今まで以上に、思う。
動きが制限されている分、魂を込めて歌っている今の歌声に、とても心地よいものを感じる。
歌詞が聞き取れない? いえいえ、そんなことはございませんよ、Myフレンズ!
たかちゃんの癖のある歌声は、耳に馴染んでおりますから。伊達に18年も聴いてません(笑)。問題なく聴き取れます、物語に集中できます。
わたしの美しいひと、和央ようか様。
退団コンサートの『WING』と『Across』のセンスの差を思うと、もーかなしいやらなさけないやらで、たかちゃん、ほんまにセンス悪いよな……と、とほほな気持ちになりますが、そんなとこも好きだっ。断言するよ、そーゆーとこも好きっ。好きだっっ。おおー!
花ちゃんの「物語を作る力」に感服する。
これまで幾度も幾度も、感じていたことだけど。
花總まりとゆーのは、どこまですごい人なんだろう。
たとえどんな駄作でも、薄っぺらのぺらぺら脚本でも、彼女が力尽くで説得力を持たせてしまう。
彼女が「主役」として「物語を動かす」瞬間に、空気が収束していくのがわかるんだ。
画面がぎゅいーんとアップになるように。
広大な空間が、彼女の持つ力で密度を上げる。
その、快感。
これほどの女優を、ナマで観てこられたことに感謝する。
あとは宙組のコーラスのすばらしさを堪能し、団結力を堪能する。
それからなんといっても、若手のイケメンたち。
七帆くんはほんとに美しいねえ。いろいろ足りていない感じが、おぼつかなく舞台にいるたたずまいが、またよいのだ。
和くんはほんとに美しいねえ。熱さとくどさがいい味をかもしだしている。
十輝の横顔が好きだ。ええ、あの受け口が。ちょっと「男・岩城」入ってる感じが、たまりません。
それから、ともち。
ああ、ともち。
せっかくの最前列、されど隅っこ、されど下手……ともちが、遠いっ!!
ともち、ずーっとなにかと、上手にいるよ……遠いよともち(泣)。
いてもいなくてもいいよーな役であったとしても、その他大勢でいつもわらわらいる「同志」のひとりであっても、いつも必ず濃くて熱くて、すげー勢いで演技しているのが好きだ。
「ハイジャンプ」ポーズが微妙を通り越して笑えるけれど、それすら愛しい。
それから、初舞台生の中にいる、水くん。
無事劇団デビューしてくれたから、芸名で書いてもいいんだよな、真風涼帆くんが口上のとき目の前で、なにかと愉快でした。
文化祭のときわたしの目を奪った「線目男」……べつにきれいとか思わなかったし、好みのカオってほどでもなかったのに、その堂々たるアピールぶりで、わたしの視線を釘付けにした憎いヤツ。文化祭欄では名前を書かなかったが、ココでは書くぞ、月映樹茉くんだ。
その樹茉くんが、すごかった。
初舞台生なのに、目線くれました。
……客席見てるんだ、この子。
初舞台生って、舞台に立つだけでいっぱいいっぱいなんじゃないの?
客席見て、自分を見ている客にアピールしたりして、いいの?
ええ、アピールですよ。
フィナーレのとき、わたしは樹茉くんを見ていたんですよ、「あっ、**さん(本名。文化祭のときはまだ芸名がナイ)だー」と。
そしたら樹茉くん。
にこっ、と、微笑んでくれました。
えええ。
初舞台生に、微笑まれちゃったよー!
わたしもつい、全開で微笑み返しましたともさ!
負けてらんないー!(いやソレちがうから!)
よ、余裕だな月映樹茉。おばさん、びっくりしたぞ。
どんなに見つめても、水くんのそっくりさんは客席なんかまったく見てくれなかったのにぃー!(いやソレふつーだから)
今回の公演で、いちばんわかりやすく完璧に目線をくれたのは、タニちゃんと樹茉くんでした。
ありがとー。
デフォルメしてみました。@NEVER SAY GOODBYE
2006年5月3日 タカラヅカ 彼らは、びんぼーな小劇団です。それぞれ別々の田舎から都会へ出てきて、ひとつの志を胸に劇団を旗揚げしたのです。
みんなで力を合わせ、誠実に興行をしてきました。
ところが、団員のひとりが弱気になりました。
「どんなにがんばって演技をしても、ちっとも客が来ない。世間は俺たちを理解せず、勝手なことばかり言っている。このままびんぼー劇団にいて、野垂れ死ぬのは嫌だ……故郷へ帰りたい」
それを聞いて、リーダーのヴィセントくんがキレました。
「この田舎者の負け犬め! そんなに役者をやるのが嫌なら勝手に帰れ!!」
温厚なジョルジュくんが、間に入りました。
「まあまあ、落ち着けよ。みんなそれぞれ志を持って集まった同志じゃないか。怒るにしても出身をどうこう言うのはやめようよ」
「お前はただの裏方だろう! 実際に命懸けで舞台に立っているのは俺たちだ、お前に劇団のなにがわかる!」
あんまりです。
舞台を作るのは、役者だけではありません。裏で支えるスタッフがいてこそはじめて、興行が成り立つのです。舞台の真ん中でスポットライトを浴びる人だけがエライわけないじゃないですか。
多くの人の力が集まって、はじめて成り立つのです。でもそんなこと、キレているヴィセントくんのアタマにはありません。
ヴィセントくんの言葉に、センチメンタルな団員は「ああ、故郷へ帰るよ!!」と叫んで飛び出して行ってしまいました。
それに追い打ちを掛けるよーに、ヴィセントくんは言うのです。
「所詮お前らは、田舎者だもんな。都会で失敗したって、故郷へ逃げればそれですむ。この都会で生まれ育った俺とはチガウんだ」
あんまりです。
自己を肯定し、他者を否定する理由が「生まれ」です。「レジのお金がなくなったのは、生まれの卑しいバイトの娘の仕業にちがいないわ!」とか、そーゆーレベルの根拠です。
ヴィセントくんが怒りのあまり我を忘れ、人として言ってはイケナイ類のことをまくしたててしまっていることは、誰にでもわかります。べつにヴィセントくんはそれほど悪人ではないし、ただちょっと言葉が過ぎてしまっただけでしょう。
だから大人なジョルジュくんは、ゆっくりとヴィセントくんを諭します。
「思い出そうよ、お前たちはこの澱んだ世の中だからこそ、尊い志を持って劇団を作ったんじゃないか。名誉のためでも金のためでもなく、真に素晴らしい芝居をと、がんばってきたんじゃないか。その姿に俺は感銘を受けたんだ」
ヴィセントくんは話せばわかる人なので、落ち着いて道理を説かれて、とりあえず怒りを収めました。
ま、謝りませんけどね。どれだけ非道なことを言ったか、理解していないのでしょう、「ごめんな(笑)」「うん(笑)」程度のやりとりで終わります。
きっとヴィセントくんの心の中には、差別意識とかふつーにあるし、仲間のことも信じているわけではないのでしょう。思っていなければ、激したからと言って口に出すこともないでしょうし。
なんだかなし崩しに仲間たちは馴れ合って、「俺たち、同志だもんなっ」と盛り上がります。えーと、根本の解決はしてないんですが……ま、いいか。
そしてこの「同志ってすばらしい!」に、大人だと思っていたジョルジュくんものってしまいます。
「俺も裏方はやめて、舞台に立つよ!」
裏方で舞台と劇団を支えるなんて、ナンセンス。やっぱり、スポットライトをあびてこそです。汗と埃にまみれて大道具を作ったり、力仕事をしたって、「裏方のお前は劇団のことなんてなにもわかっていない」と断言されちゃうわけですから。舞台に立つ役者以外は下層民ですから。
それなら、舞台で華やかに活躍した方が絶対いいです。
今日まで裏方としてがんばってきたジョルジュくんの功績は、役者さんたちからすればなんの意味もなかったみたいです。えらいのは役者で、裏方は裏方ですから。スター様と下働きですから。みんな等しく同じ小劇団の「同志」だと思っていたのは、まちがいでした。
つーことでジョルジュくんも無事に役者宣言をしたので、これで晴れて「同志」です。
まったく同じことをしないと、「同志」だと認めてくれないのは、どこの社会も同じです。ほら、小学校のとき、流行っているおもちゃをひとりだけ持っていないと仲間はずれにされたでしょ? アレと同じですよ。仲間みんなが万引きをしたら、同じように万引きをしないと排斥されます。アレと同じですよ。
役者は舞台の上で、裏方は舞台の裏側で、ひとつの志のためにそれぞれの方法で戦う、なんて、ありえませんよ。
みんな同じ方法でなきゃ、みんなみんなわかりやすく同じでなきゃ、「同志」ではないのです。
「同じ」でなければ、ひとはわかりあえないのですよ。
……変だなあ、別々の故郷から出てきた人たちが、ひとりずつはまったく「ちがった」人たちが、ひとつの目的に向かって団結したのが、劇団結成時だったのになあ。特技とかもみんな「ちがった」んだけどなー。
「同じ」でなきゃダメなんだ……「ちがった」考え方は許されないんだ……。
ジョルジュくんがどーしてヴィセントくんと「友だち」なのか、よくわからなかったけれど、ここで答えが出ました。
似たもの同士だったんですね。
ジョルジュくんなら、「裏方には裏方の戦い方がある。舞台と劇団を愛する気持ちは変わらない」とか、「いろんな考え方や、いろんな人たちがいるからいいんじゃないか。だから争いも起こるが、協力し合ったり愛し合ったりも出来るんだ」とか、言ってくれるかと思ったんだけど。
「所詮田舎者だ」「所詮裏方だ」と、他人を「生まれ」だとか「立場」で並列に排斥した、その同じ会話で「所詮裏方なら、裏方をやめるよ! これで問題なし!」でハッピーエンド。
おめでとう。
君たちの未来は明るい。
みんなで力を合わせ、誠実に興行をしてきました。
ところが、団員のひとりが弱気になりました。
「どんなにがんばって演技をしても、ちっとも客が来ない。世間は俺たちを理解せず、勝手なことばかり言っている。このままびんぼー劇団にいて、野垂れ死ぬのは嫌だ……故郷へ帰りたい」
それを聞いて、リーダーのヴィセントくんがキレました。
「この田舎者の負け犬め! そんなに役者をやるのが嫌なら勝手に帰れ!!」
温厚なジョルジュくんが、間に入りました。
「まあまあ、落ち着けよ。みんなそれぞれ志を持って集まった同志じゃないか。怒るにしても出身をどうこう言うのはやめようよ」
「お前はただの裏方だろう! 実際に命懸けで舞台に立っているのは俺たちだ、お前に劇団のなにがわかる!」
あんまりです。
舞台を作るのは、役者だけではありません。裏で支えるスタッフがいてこそはじめて、興行が成り立つのです。舞台の真ん中でスポットライトを浴びる人だけがエライわけないじゃないですか。
多くの人の力が集まって、はじめて成り立つのです。でもそんなこと、キレているヴィセントくんのアタマにはありません。
ヴィセントくんの言葉に、センチメンタルな団員は「ああ、故郷へ帰るよ!!」と叫んで飛び出して行ってしまいました。
それに追い打ちを掛けるよーに、ヴィセントくんは言うのです。
「所詮お前らは、田舎者だもんな。都会で失敗したって、故郷へ逃げればそれですむ。この都会で生まれ育った俺とはチガウんだ」
あんまりです。
自己を肯定し、他者を否定する理由が「生まれ」です。「レジのお金がなくなったのは、生まれの卑しいバイトの娘の仕業にちがいないわ!」とか、そーゆーレベルの根拠です。
ヴィセントくんが怒りのあまり我を忘れ、人として言ってはイケナイ類のことをまくしたててしまっていることは、誰にでもわかります。べつにヴィセントくんはそれほど悪人ではないし、ただちょっと言葉が過ぎてしまっただけでしょう。
だから大人なジョルジュくんは、ゆっくりとヴィセントくんを諭します。
「思い出そうよ、お前たちはこの澱んだ世の中だからこそ、尊い志を持って劇団を作ったんじゃないか。名誉のためでも金のためでもなく、真に素晴らしい芝居をと、がんばってきたんじゃないか。その姿に俺は感銘を受けたんだ」
ヴィセントくんは話せばわかる人なので、落ち着いて道理を説かれて、とりあえず怒りを収めました。
ま、謝りませんけどね。どれだけ非道なことを言ったか、理解していないのでしょう、「ごめんな(笑)」「うん(笑)」程度のやりとりで終わります。
きっとヴィセントくんの心の中には、差別意識とかふつーにあるし、仲間のことも信じているわけではないのでしょう。思っていなければ、激したからと言って口に出すこともないでしょうし。
なんだかなし崩しに仲間たちは馴れ合って、「俺たち、同志だもんなっ」と盛り上がります。えーと、根本の解決はしてないんですが……ま、いいか。
そしてこの「同志ってすばらしい!」に、大人だと思っていたジョルジュくんものってしまいます。
「俺も裏方はやめて、舞台に立つよ!」
裏方で舞台と劇団を支えるなんて、ナンセンス。やっぱり、スポットライトをあびてこそです。汗と埃にまみれて大道具を作ったり、力仕事をしたって、「裏方のお前は劇団のことなんてなにもわかっていない」と断言されちゃうわけですから。舞台に立つ役者以外は下層民ですから。
それなら、舞台で華やかに活躍した方が絶対いいです。
今日まで裏方としてがんばってきたジョルジュくんの功績は、役者さんたちからすればなんの意味もなかったみたいです。えらいのは役者で、裏方は裏方ですから。スター様と下働きですから。みんな等しく同じ小劇団の「同志」だと思っていたのは、まちがいでした。
つーことでジョルジュくんも無事に役者宣言をしたので、これで晴れて「同志」です。
まったく同じことをしないと、「同志」だと認めてくれないのは、どこの社会も同じです。ほら、小学校のとき、流行っているおもちゃをひとりだけ持っていないと仲間はずれにされたでしょ? アレと同じですよ。仲間みんなが万引きをしたら、同じように万引きをしないと排斥されます。アレと同じですよ。
役者は舞台の上で、裏方は舞台の裏側で、ひとつの志のためにそれぞれの方法で戦う、なんて、ありえませんよ。
みんな同じ方法でなきゃ、みんなみんなわかりやすく同じでなきゃ、「同志」ではないのです。
「同じ」でなければ、ひとはわかりあえないのですよ。
……変だなあ、別々の故郷から出てきた人たちが、ひとりずつはまったく「ちがった」人たちが、ひとつの目的に向かって団結したのが、劇団結成時だったのになあ。特技とかもみんな「ちがった」んだけどなー。
「同じ」でなきゃダメなんだ……「ちがった」考え方は許されないんだ……。
ジョルジュくんがどーしてヴィセントくんと「友だち」なのか、よくわからなかったけれど、ここで答えが出ました。
似たもの同士だったんですね。
ジョルジュくんなら、「裏方には裏方の戦い方がある。舞台と劇団を愛する気持ちは変わらない」とか、「いろんな考え方や、いろんな人たちがいるからいいんじゃないか。だから争いも起こるが、協力し合ったり愛し合ったりも出来るんだ」とか、言ってくれるかと思ったんだけど。
「所詮田舎者だ」「所詮裏方だ」と、他人を「生まれ」だとか「立場」で並列に排斥した、その同じ会話で「所詮裏方なら、裏方をやめるよ! これで問題なし!」でハッピーエンド。
おめでとう。
君たちの未来は明るい。
加点法と減点法。@NEVER SAY GOODBYE
2006年5月2日 タカラヅカ「そーいや宙組公演、観に行ったんですか? 感想書いてないけど、よかったんですか?」
と、問われて。
わたしはしばらく沈黙する。
そしてよーやく口を開くのだ。
「ともちが、かっこよかった」
「いや、ともちはいいから。たか花は? 作品はどうでした?」
しばらく逡巡して。
よーやく口を開く。
「舞台に立つたかちゃんを見られてしあわせだった。花ちゃんはやっぱりすごい人だった。作品は……ええっと……その、よかった、よ」
「たか花はそれだけですか?」
「たか花を見られて、しあわせだった。役としては……たか花がやっているんじゃなかったら、終わっていたかと」
「作品はどうよかったんですか」
「コーラスがすごかった。歌う背景宙組健在。たっちんかっこいー。音楽はいい。子犬のように頼りなげなあひくんが母性本能をくすぐる演技で、ファンを増やしているかも。タニちゃんの歌はまたクオリティを増していて、破壊力絶大、タニちゃんを『見た』という満足感を得られる。小池はドラマティックな演出がうまいよね。部分部分の演出がよくて、何年かあとにTCAとかで1場面だけ再現とかしたら、すごい名作だと誤解させることが可能だと思う」
「えーと、ソレ、よかった、んですか?」
「よかった、としか言いようがないから、よかったんじゃないかと。べつに、悪くないし。ただ、つまんないだけで」
宙組公演『NEVER SAY GOODBYE−ある愛の軌跡−』に、いつものよーに予備知識はあまりなく、初日の翌日に劇場へ駆けつけた。
初日じゃない分、どーしても感想は耳に入る。
ドリーズ関連の友人たちからは「駄作っっ!」「小池がやらかした」と聞いていたし、宙担のデイジーちゃんはにこやかに絶賛していた。
正反対の感想を耳にしてはいたけど、「物語」自体の予備知識はナシ。舞台がどの時代のどの国の話なのかも知らない。
知っていたことは、タニちゃんが「マタドール」だってことぐらいかな(笑)。
わたしは西洋史に無知もいいとこだし、なんの教養もない人間だ。
でも、「ソレがどーした」と思っている。
なんの予備知識もない人間が観て、ふつーにたのしめる作品以外は評価しない。わたしのよーな低能な俗物をも拾ってくれるよーな作りでなきゃ、2500人収容劇場で上演するべきではないと思っている。
日本語がわかり、主要登場人物が遠目でも区別がつき、歌詞が聞き分けられる(笑)のだから、ふつーレベルの骨組みを持った作品なら理解できるし、たのしめるはずだ。
実際、ふつーにたのしめた。ストーリーは単純だし、どっかで観たよーな設定満載だし、キャラは薄くて典型的なテンプレ型ばっかだし、なんの問題もなくたのしめる。
ただ、わたしの好みの話ではなかった。
たか花の最後の作品でなければ、たぶん「1回観たからもういいや」と思っただろう。
駄作だとは思わない。
充分よい作品だと思う。
世の中にはひどい作品が山ほどあるのだから、『ネバー』を駄作と言ってしまったらあとがない。
わたしの価値観で言えば『ネバー』は、ふつーレベルの作品だ。
リピート観劇が基本であるタカラヅカで、「生理的嫌悪感」で正視できないよーな作品は最悪だ。
「よくもないが、悪くもない」「プラス面はさほどないが、マイナス面もあまりない」という、さしさわりのないものは「何度観ても精神衛生上悪くない」から、讃えられるべきだと思う。
ただ、『ネバー』はすべてにおいて、薄いんだ。
物語が。
演出は派手なんだけど。
『ネバー』のなかに、わたしがどーしても「嫌だ」と思う部分があるんだけど、それすらも薄い。
声を高くして「ここがキライっ」と言いたいほどの気持ちにもならない。
あー、嫌だなコレ。どーしてここでこうするかなー。わたしがいちばん理解できない部分を、作者がいちばん嬉々としてやっている気がして、そこも萎えるなー。やだなー。『スカウト』のラストのオチと同じじゃん、今までのすべてを作者が否定するという。コレがあるから、それまでの感動も全部「なかったこと」にされちゃって、出かかった涙も引っ込むんだよなー。どーしてこんなことになるかなー……あー、でも、ま、いっか。
裏切られた脱力感はあっても、腹を立てるほどの気持ちにならない。
感動も怒りも、なにもかもが「薄い」。
ストーリー展開の突っ込みどころや、伏線回収のアレさだとか、ほころびもいろいろあるんだけど、それをどうこう言う気力もあまりわかない。わたしを突き動かすほどの「熱」がないから。
この「薄さ」は、美点なんだと思う。
なにしろ退団公演だから。
ファンは何十回と観るのだから。
濃いモノはあまり続けて食べられないけど、薄いモノなら大丈夫。
そーゆー意味でも、ほんとに「タカラヅカ的」な作品だ。
ただわたしは、ある程度の濃さがないとたのしめない。
生理的嫌悪感と戦うのと、薄すぎて感動がないものを眺めるのと、どっちがいいのかは、そのときの体調や精神状態によってもチガウし、キャストによってもチガウので一概には言えない。
ただ、今回はなーんだか「鳴り物入り」の扱いを受けている「大作」なので、どーにもおさまりが悪くてこまる。
駄作ならわかりやすく駄作、名作ならわかりやすく名作ならよかったのに。
あー、包装が立派なため「名作」っぽく見えるから、名作ってことでいいのかな。実際、悪くないもんな。
悪くないから、良い。それが、『NEVER SAY GOODBYE』の感想。
加点法で計算すると落第だけど、減点法で計算したから合格! みたいな。
でもソレ、感想語りにくいっす。
作品としてはアレなのでもうあきらめ、わたしはキャストだけを眺めてます。
最初に観たときは、ただもーたか花がたか花だというだけで、泣けて仕方なかった。
たかちゃんが舞台にいる。
花ちゃんが舞台にいる。
もういいよ。
それだけで、もういいよ。
それだけで、価値があるのが「タカラヅカ」だ。
ふたりがいなくなるなんて、わたしは未だに信じられないし、信じたくないのだけど、今、舞台にいるふたりを観ていられるのはしあわせだ。
大好きだ。
そして今朝。
夢を見た。
わたしはどこかの大きな体育館にいて、バレーボールの試合を観ている。
わたしはカメラマンなのか、大きなカメラを持って、体育館の2階部分の手すりのある回廊みたいなとこから、選手を撮影している。
選手の中に、ひときわパワフルな人がいた。
両手を高く上げ、ブロックに跳ぶ、赤いブルマーを穿いたその選手は。
ともち@ハイジャンプはまかせろでした……。
な、なぜこんな夢を……っ!!
と、問われて。
わたしはしばらく沈黙する。
そしてよーやく口を開くのだ。
「ともちが、かっこよかった」
「いや、ともちはいいから。たか花は? 作品はどうでした?」
しばらく逡巡して。
よーやく口を開く。
「舞台に立つたかちゃんを見られてしあわせだった。花ちゃんはやっぱりすごい人だった。作品は……ええっと……その、よかった、よ」
「たか花はそれだけですか?」
「たか花を見られて、しあわせだった。役としては……たか花がやっているんじゃなかったら、終わっていたかと」
「作品はどうよかったんですか」
「コーラスがすごかった。歌う背景宙組健在。たっちんかっこいー。音楽はいい。子犬のように頼りなげなあひくんが母性本能をくすぐる演技で、ファンを増やしているかも。タニちゃんの歌はまたクオリティを増していて、破壊力絶大、タニちゃんを『見た』という満足感を得られる。小池はドラマティックな演出がうまいよね。部分部分の演出がよくて、何年かあとにTCAとかで1場面だけ再現とかしたら、すごい名作だと誤解させることが可能だと思う」
「えーと、ソレ、よかった、んですか?」
「よかった、としか言いようがないから、よかったんじゃないかと。べつに、悪くないし。ただ、つまんないだけで」
宙組公演『NEVER SAY GOODBYE−ある愛の軌跡−』に、いつものよーに予備知識はあまりなく、初日の翌日に劇場へ駆けつけた。
初日じゃない分、どーしても感想は耳に入る。
ドリーズ関連の友人たちからは「駄作っっ!」「小池がやらかした」と聞いていたし、宙担のデイジーちゃんはにこやかに絶賛していた。
正反対の感想を耳にしてはいたけど、「物語」自体の予備知識はナシ。舞台がどの時代のどの国の話なのかも知らない。
知っていたことは、タニちゃんが「マタドール」だってことぐらいかな(笑)。
わたしは西洋史に無知もいいとこだし、なんの教養もない人間だ。
でも、「ソレがどーした」と思っている。
なんの予備知識もない人間が観て、ふつーにたのしめる作品以外は評価しない。わたしのよーな低能な俗物をも拾ってくれるよーな作りでなきゃ、2500人収容劇場で上演するべきではないと思っている。
日本語がわかり、主要登場人物が遠目でも区別がつき、歌詞が聞き分けられる(笑)のだから、ふつーレベルの骨組みを持った作品なら理解できるし、たのしめるはずだ。
実際、ふつーにたのしめた。ストーリーは単純だし、どっかで観たよーな設定満載だし、キャラは薄くて典型的なテンプレ型ばっかだし、なんの問題もなくたのしめる。
ただ、わたしの好みの話ではなかった。
たか花の最後の作品でなければ、たぶん「1回観たからもういいや」と思っただろう。
駄作だとは思わない。
充分よい作品だと思う。
世の中にはひどい作品が山ほどあるのだから、『ネバー』を駄作と言ってしまったらあとがない。
わたしの価値観で言えば『ネバー』は、ふつーレベルの作品だ。
リピート観劇が基本であるタカラヅカで、「生理的嫌悪感」で正視できないよーな作品は最悪だ。
「よくもないが、悪くもない」「プラス面はさほどないが、マイナス面もあまりない」という、さしさわりのないものは「何度観ても精神衛生上悪くない」から、讃えられるべきだと思う。
ただ、『ネバー』はすべてにおいて、薄いんだ。
物語が。
演出は派手なんだけど。
『ネバー』のなかに、わたしがどーしても「嫌だ」と思う部分があるんだけど、それすらも薄い。
声を高くして「ここがキライっ」と言いたいほどの気持ちにもならない。
あー、嫌だなコレ。どーしてここでこうするかなー。わたしがいちばん理解できない部分を、作者がいちばん嬉々としてやっている気がして、そこも萎えるなー。やだなー。『スカウト』のラストのオチと同じじゃん、今までのすべてを作者が否定するという。コレがあるから、それまでの感動も全部「なかったこと」にされちゃって、出かかった涙も引っ込むんだよなー。どーしてこんなことになるかなー……あー、でも、ま、いっか。
裏切られた脱力感はあっても、腹を立てるほどの気持ちにならない。
感動も怒りも、なにもかもが「薄い」。
ストーリー展開の突っ込みどころや、伏線回収のアレさだとか、ほころびもいろいろあるんだけど、それをどうこう言う気力もあまりわかない。わたしを突き動かすほどの「熱」がないから。
この「薄さ」は、美点なんだと思う。
なにしろ退団公演だから。
ファンは何十回と観るのだから。
濃いモノはあまり続けて食べられないけど、薄いモノなら大丈夫。
そーゆー意味でも、ほんとに「タカラヅカ的」な作品だ。
ただわたしは、ある程度の濃さがないとたのしめない。
生理的嫌悪感と戦うのと、薄すぎて感動がないものを眺めるのと、どっちがいいのかは、そのときの体調や精神状態によってもチガウし、キャストによってもチガウので一概には言えない。
ただ、今回はなーんだか「鳴り物入り」の扱いを受けている「大作」なので、どーにもおさまりが悪くてこまる。
駄作ならわかりやすく駄作、名作ならわかりやすく名作ならよかったのに。
あー、包装が立派なため「名作」っぽく見えるから、名作ってことでいいのかな。実際、悪くないもんな。
悪くないから、良い。それが、『NEVER SAY GOODBYE』の感想。
加点法で計算すると落第だけど、減点法で計算したから合格! みたいな。
でもソレ、感想語りにくいっす。
作品としてはアレなのでもうあきらめ、わたしはキャストだけを眺めてます。
最初に観たときは、ただもーたか花がたか花だというだけで、泣けて仕方なかった。
たかちゃんが舞台にいる。
花ちゃんが舞台にいる。
もういいよ。
それだけで、もういいよ。
それだけで、価値があるのが「タカラヅカ」だ。
ふたりがいなくなるなんて、わたしは未だに信じられないし、信じたくないのだけど、今、舞台にいるふたりを観ていられるのはしあわせだ。
大好きだ。
そして今朝。
夢を見た。
わたしはどこかの大きな体育館にいて、バレーボールの試合を観ている。
わたしはカメラマンなのか、大きなカメラを持って、体育館の2階部分の手すりのある回廊みたいなとこから、選手を撮影している。
選手の中に、ひときわパワフルな人がいた。
両手を高く上げ、ブロックに跳ぶ、赤いブルマーを穿いたその選手は。
ともち@ハイジャンプはまかせろでした……。
な、なぜこんな夢を……っ!!
その昔、『薔薇の封印』という作品を観た。
ポスターがステキだし、キャストも好きなので、張り切って初日に駆けつけた。
そして。
しょんぼりと、肩を落として帰った。
過去作品の劣化コピーであったことや、ストーリーの破綻ぶり、キャストの使い方にも不満はあった。
だがそこにさらに、分の悪いことがあった。
「同じテーマなら、『**』の方が好きだわ」
と、思ってしまったことだ。
『**』は別作家の別作品だ。
『薔薇の封印』との類似点を上げるのもばかばかしい。てか、「なに見当はずれのことを言ってるの? 『**』と『薔薇の封印』はまったくチガウ作品じゃない!」と言われるだろーなー、とも思う。
だが、わたしのなかでは同系統の話なのだ。
永遠の命を持ってしまった、男の物語。
愛する人を失い、それでも生き続ける孤独な魂の物語。
『**』で感じた「痛さ」を、『薔薇の封印』では感じなかった。
『**』の雰囲気だけを転化したよーな印象を受けた。
大人の読み物だった江戸川乱歩作品から、エログロと耽美を削除して、子ども向けの少年探偵小説にしたよーな。
「痛い」部分、いちばんわたしを惹きつけてやまなかった、やるせない部分を除いて、もっと一般向けにわかりやすく、やさしくやわらかくしたよーな。
もちろん、わたしの勝手な思いこみだ。
ふたつの作品を結びつけて考える必要なんて、他の人にはまったくない。
だが、他の人はどーでもいー、「わたし」は、すでに『**』を知っている。
『**』を知ってしまったあとでは、『薔薇の封印』を観てもたのしめないのだ。
心が躍らない。わくわくしない。
せつなさに胸が締め付けられることもなく、やるせなさに人生を考えることもなかった。
ただ、「好きな人がコレで退団してしまう。男役の彼を見るのはこれが最後なんだ」という寂寥のみで泣いた。
作品とはまったく別のところで。
時は流れ、わたしは『NEVER SAY GOODBYE−ある愛の軌跡−』を観た。
そして。
しょんぼりと、肩を落として帰った。
「同じテーマなら、『**』の方が好きだわ」
『**』で感じた「痛さ」を、『ネバー』では感じなかった。
『**』の雰囲気だけを転化したよーな印象を受けた。
大人の読み物だった江戸川乱歩作品から(以下略)。
「痛い」部分、いちばんわたしを惹きつけてやまなかった、やるせない部分を除いて、もっと一般向けに(以下略)。
もちろん、わたしの勝手な思いこみだ。
ふたつの作品を結びつけて考える必要なんて、他の人にはまったくない。
だが、他の人はどーでもいー、「わたし」は、すでに『**』を知っている。
『**』を知ってしまったあとでは、『ネバー』を観てもたのしめないのだ。
心が躍らない。わくわくしない。
せつなさに胸が締め付けられることもなく、やるせなさに人生を考えることもなかった。
ただ、「好きな人がコレで退団してしまう。男役の彼を見るのはこれが最後なんだ」という寂寥のみで泣いた。
作品とはまったく別のところで。
さすがになー……2作連続で、まったく同じことが起こると、頭を抱える。
そして、わたしが言う『**』が、同じ作家による別作品であったりするもんだから。
さらに、頭を抱える。
前者の『**』とは、『不滅の棘』だ。
後者の『**』とは、『炎にくちづけを』だ。
わたしが『不滅の棘』を知らずに『薔薇の封印』を観ていれば、もっとちがった感想があったかもしれない。
でもわたしは、すでに『不滅の棘』を観ていた。
だから『薔薇の封印』を観ても、心が動かなかった。
好みの問題だ。
わたしは『不滅の棘』の、救いのなさや痛さが好きだった。
そしてその奥にある壮絶な「叫び」に魅せられた。
わたしが『炎にくちづけを』を知らずに『ネバー』を観ていれば、もっとちがった感想があったかもしれない。
でもわたしは、すでに『炎にくちづけを』を観ていた。
だから『ネバー』を観ても、心が動かなかった。
好みの問題だ。
わたしは『炎にくちづけを』の、救いのなさや痛さが好きだった。
そしてその奥にある壮絶な「叫び」に魅せられた。
今回はほんとに分が悪い。
『炎にくちづけを』はついこの間、同じキャストで上演されていたもんだから。
あれほどのカタルシスを味わったあとで、同じテイストの、ものすげー薄いものを見せられても、ノれないっす。
ああ、薄い……薄いよコレ……。
やってることは同じなのに、すごい薄い……。
作者が「叫びたい」と思っているのはわかるけど、「叫びたいと思っている」っていうのはすでに「叫び」ぢゃないから。
「叫び」っつーのは、本人が意図しなくても叫んでしまうから「叫び」なんだよ……。
小池氏が「叫びたい」「叫ぶ作家になりたい」ことは、よーっくわかった。
「カンチガイしてんぢゃねーよ、てめーの説教なんか誰も聞きたくないんだよ」と叩かれるよーなアクの強いモノを作りたいのは、よーっく伝わった。
一般的でわかりやすくて、誰が観てもふつーにたのしめるよーな佳作よりは、大半の人にはよろこばれた上で、「問題作」と言って一部の人に嫌われ攻撃されるが、一部の人には熱狂的に支持されるようなものを作りたいのはわかった。
わかったけどさ……。
小池氏の持ち味は、そんなところにないのに。
一般的なものを否定されているよーで、かなしい。
みんながふつーにたのしめて、嫌悪感や拒絶反応を見せない作品って、いいじゃない。タカラヅカはそーゆーものが愛される世界なんだからさー。
全部の作家に叫ばれても、観ている方は疲れるから。
小池氏は叫んだりせず、ふつーにやってくれよー。
叫んでみて、それが成功しているならともかく、こーやってスベってるんだからさ。薄い、一般的なものにしかなってないから。
最初から『DAYTIME HUSTLER』みたいな、他愛ない作品でいいんだよ。オサダくんみたいな他愛ない作品でいいんだよ。
他愛ないほっこりする作品を創るのだって、才能なんだからさ。
てゆーか小池氏の本懐はやはり、「演出」であって、「物語を作る」ことではないからさー。
原作が他にあった方がいいよなあ。
ドラマティックな「大作」をやりたいなら、原作付きがいいよ。
「演出家」としてはほんと、非凡な人なんだからさ。
でも。
「作家」になりたい、よりによって「叫ぶ作家」になりたい、と思って失敗している小池氏は、ある意味とても、愛しかったりする。
そーゆーの、好きだ(笑)。
ポスターがステキだし、キャストも好きなので、張り切って初日に駆けつけた。
そして。
しょんぼりと、肩を落として帰った。
過去作品の劣化コピーであったことや、ストーリーの破綻ぶり、キャストの使い方にも不満はあった。
だがそこにさらに、分の悪いことがあった。
「同じテーマなら、『**』の方が好きだわ」
と、思ってしまったことだ。
『**』は別作家の別作品だ。
『薔薇の封印』との類似点を上げるのもばかばかしい。てか、「なに見当はずれのことを言ってるの? 『**』と『薔薇の封印』はまったくチガウ作品じゃない!」と言われるだろーなー、とも思う。
だが、わたしのなかでは同系統の話なのだ。
永遠の命を持ってしまった、男の物語。
愛する人を失い、それでも生き続ける孤独な魂の物語。
『**』で感じた「痛さ」を、『薔薇の封印』では感じなかった。
『**』の雰囲気だけを転化したよーな印象を受けた。
大人の読み物だった江戸川乱歩作品から、エログロと耽美を削除して、子ども向けの少年探偵小説にしたよーな。
「痛い」部分、いちばんわたしを惹きつけてやまなかった、やるせない部分を除いて、もっと一般向けにわかりやすく、やさしくやわらかくしたよーな。
もちろん、わたしの勝手な思いこみだ。
ふたつの作品を結びつけて考える必要なんて、他の人にはまったくない。
だが、他の人はどーでもいー、「わたし」は、すでに『**』を知っている。
『**』を知ってしまったあとでは、『薔薇の封印』を観てもたのしめないのだ。
心が躍らない。わくわくしない。
せつなさに胸が締め付けられることもなく、やるせなさに人生を考えることもなかった。
ただ、「好きな人がコレで退団してしまう。男役の彼を見るのはこれが最後なんだ」という寂寥のみで泣いた。
作品とはまったく別のところで。
時は流れ、わたしは『NEVER SAY GOODBYE−ある愛の軌跡−』を観た。
そして。
しょんぼりと、肩を落として帰った。
「同じテーマなら、『**』の方が好きだわ」
『**』で感じた「痛さ」を、『ネバー』では感じなかった。
『**』の雰囲気だけを転化したよーな印象を受けた。
大人の読み物だった江戸川乱歩作品から(以下略)。
「痛い」部分、いちばんわたしを惹きつけてやまなかった、やるせない部分を除いて、もっと一般向けに(以下略)。
もちろん、わたしの勝手な思いこみだ。
ふたつの作品を結びつけて考える必要なんて、他の人にはまったくない。
だが、他の人はどーでもいー、「わたし」は、すでに『**』を知っている。
『**』を知ってしまったあとでは、『ネバー』を観てもたのしめないのだ。
心が躍らない。わくわくしない。
せつなさに胸が締め付けられることもなく、やるせなさに人生を考えることもなかった。
ただ、「好きな人がコレで退団してしまう。男役の彼を見るのはこれが最後なんだ」という寂寥のみで泣いた。
作品とはまったく別のところで。
さすがになー……2作連続で、まったく同じことが起こると、頭を抱える。
そして、わたしが言う『**』が、同じ作家による別作品であったりするもんだから。
さらに、頭を抱える。
前者の『**』とは、『不滅の棘』だ。
後者の『**』とは、『炎にくちづけを』だ。
わたしが『不滅の棘』を知らずに『薔薇の封印』を観ていれば、もっとちがった感想があったかもしれない。
でもわたしは、すでに『不滅の棘』を観ていた。
だから『薔薇の封印』を観ても、心が動かなかった。
好みの問題だ。
わたしは『不滅の棘』の、救いのなさや痛さが好きだった。
そしてその奥にある壮絶な「叫び」に魅せられた。
わたしが『炎にくちづけを』を知らずに『ネバー』を観ていれば、もっとちがった感想があったかもしれない。
でもわたしは、すでに『炎にくちづけを』を観ていた。
だから『ネバー』を観ても、心が動かなかった。
好みの問題だ。
わたしは『炎にくちづけを』の、救いのなさや痛さが好きだった。
そしてその奥にある壮絶な「叫び」に魅せられた。
今回はほんとに分が悪い。
『炎にくちづけを』はついこの間、同じキャストで上演されていたもんだから。
あれほどのカタルシスを味わったあとで、同じテイストの、ものすげー薄いものを見せられても、ノれないっす。
ああ、薄い……薄いよコレ……。
やってることは同じなのに、すごい薄い……。
作者が「叫びたい」と思っているのはわかるけど、「叫びたいと思っている」っていうのはすでに「叫び」ぢゃないから。
「叫び」っつーのは、本人が意図しなくても叫んでしまうから「叫び」なんだよ……。
小池氏が「叫びたい」「叫ぶ作家になりたい」ことは、よーっくわかった。
「カンチガイしてんぢゃねーよ、てめーの説教なんか誰も聞きたくないんだよ」と叩かれるよーなアクの強いモノを作りたいのは、よーっく伝わった。
一般的でわかりやすくて、誰が観てもふつーにたのしめるよーな佳作よりは、大半の人にはよろこばれた上で、「問題作」と言って一部の人に嫌われ攻撃されるが、一部の人には熱狂的に支持されるようなものを作りたいのはわかった。
わかったけどさ……。
小池氏の持ち味は、そんなところにないのに。
一般的なものを否定されているよーで、かなしい。
みんながふつーにたのしめて、嫌悪感や拒絶反応を見せない作品って、いいじゃない。タカラヅカはそーゆーものが愛される世界なんだからさー。
全部の作家に叫ばれても、観ている方は疲れるから。
小池氏は叫んだりせず、ふつーにやってくれよー。
叫んでみて、それが成功しているならともかく、こーやってスベってるんだからさ。薄い、一般的なものにしかなってないから。
最初から『DAYTIME HUSTLER』みたいな、他愛ない作品でいいんだよ。オサダくんみたいな他愛ない作品でいいんだよ。
他愛ないほっこりする作品を創るのだって、才能なんだからさ。
てゆーか小池氏の本懐はやはり、「演出」であって、「物語を作る」ことではないからさー。
原作が他にあった方がいいよなあ。
ドラマティックな「大作」をやりたいなら、原作付きがいいよ。
「演出家」としてはほんと、非凡な人なんだからさ。
でも。
「作家」になりたい、よりによって「叫ぶ作家」になりたい、と思って失敗している小池氏は、ある意味とても、愛しかったりする。
そーゆーの、好きだ(笑)。
彼は、突っ込まれるのを待っている?@NEVER SAY GOODBYE
2006年4月30日 タカラヅカ 宙組公演の感想を書いていない。
いい作品だったら鼻息荒く早々に書いていただろうけど、なにしろアレな出来だったので、書くのが面倒で先送りしてしまった。
面倒、というのは、宙組公演に対してじゃないよ。
今回の作品がどうアレなのか、それを論理立てて説明するのがものすげー労力を必要とする類のアレさだから面倒、って意味ね。
『ベルばら』みたいに「クレーンペガちゃんの上で、コムちゃんオスカルが手を振るんだよ?! 最悪!!」と、わかりやすい駄作じゃないんだもの。
宙組公演『NEVER SAY GOODBYE−ある愛の軌跡−』。
天下のフランク・ワイルドホーン作曲、「演出」で高い評価を受ける小池修一郎の「オリジナル」新作。
なんつーかねぇ。
小池氏に対し、とてもとほほなものを感じました(笑)。
『NEVER SAY GOODBYE』を観て、思い出したモノがある。強烈なデジャヴ。
映画『CASSHERN』。
ストーリーとか設定が似てるって意味じゃないよ。
そのテイスト。
ものすごーく大袈裟で、「高尚な深淵な独創的な非凡なことを言っている」よーな作りなんだけど、じつはなーんにも「言いたいこと」がない。
なにか言いたい、伝えたいことがあって叫んでいるのではなく、「高尚な深淵な独創的な非凡なことを言っている俺って素晴らしい!」とゆーよーな作り、ってことね。
見ていて、「言いたいことがないなら、無理して言わなくていいのに……」と、なまあたたかい気持ちになった、あの映画。
『ネバー』を観ていて、なんかに似てる、なんかを思い出す、なんだっけなんだっけ……そうか、『CASSHERN』だ!!と、思い至ったときは、あまりのハマリ具合に感動したね(笑)。
kineさんに言うと、彼女も大ウケしながら同意してくれました。あの映画を見てとほほ感を味わった人には、通じるみたいだ。ありがとう共通言語。
小池修一郎は、とても才能のある演出家だ。『エリザベート』の成功もそうだし、今回の『ネバー』にしたって、その実力の高さを如実にしている。
でもなー。演出力と、物語を作る力は、まったく別の才能だからなー。
そりゃ、両方を持ち合わせている人もいくらでもいるだろうけれど、小池はそうじゃない。それだけのことなのに。
マンガで言えば、少年マンガとかによくあるじゃん、「原作」と「マンガ」が別の人っていうの。『北斗の拳』とかもそうだよね。
物語を書く人と、絵を描く人が別。だからといって、絵だけを描いている人が劣っているとか、そーゆーわけじゃない。文章を「マンガ」にするのはそのマンガ家さんの力であり、演出力なんだから。『北斗の拳』が誰か別の人の作画だったら、あんなにヒットしたかどうかわからないぞっと。(最近のアニメ映画『北斗の拳』には、言いたいこといろいろですが・笑)
小池せんせーは、「作家」になりたいんだね。
どれだけ「演出家」として高い評価を得ていても、それだけではなく、「作家」になりたいんだね。
小池くらい演出力があれば、「物語を作る力」が大してなくても、ある程度まではなんとかなる。
ノリや雰囲気だけで乗り切る系の他愛ない話なら、演出のノウハウのみでなんとかできる。
でも、チガウんだね。小池がなりたいのはそーゆー作家ではなくて。
自分でキャラクタを作り、出来事を動かし、テーマを伝える。自分の想いを表現し、それによって他人にはたらきかける作家。
そのなかでもさらに、強い主張を持った、作品によって人々を啓蒙できるよーなカリスマ系の作家に、なりたいんだね……。
よりによってね……。
「作家」とひとくくりに言っても、誰も彼もが、
「コレが言いたい! コレを言いたくて、そのための表現方法としてこの物語を作った。世界よ、オレの叫びを聴けぇええ!!」
とゆー人ばっかじゃないんだけどな。
もっとふつーに、ささやかな共感や一時たのしませることを目的に、物語を作る作家だってアリなんだけど。
もちろんわたしは、その確固たる主張で、「コレが書きたいっ、コレが言いたいっ」と鼻息荒い人の作品が好きだけどね。書きたいモノもないのに、なんとなーく書いたモノより絶対そっちの方が、たとえ失敗していたとしてもたのしめる作品になると思っているクチだけど。だから、そっちにあこがれる気持ちはわかるんだけど。
えー、人間、向き不向きがありまして。
なりたいからといって、なれるもんぢゃない。
できないことにチャレンジするのはアリだと思っているけれど、主張したいこともないのに、ファッションでそれらしいことを主張するのは、やめとこうよ。
いくら、「叫ぶ人」になりたいからってさぁ。「叫ぶ人」にあこがれてるからってさぁ。闇雲に叫んでも、意味ないよ〜〜。
という、とほほ感で、感想を書くのを後回しにしてました。今回の宙組公演。
「まあ今回の作品は、社会派で、タカラヅカらしくないですからね。いかにもタカラヅカ!なものを求めている人には、おもしろくないんじゃないですか?」
とか、言われたんですけど。
いやいやいや、そーゆー問題ぢゃないから(笑)。
まず、「社会派」ではありえませんよ。『CASSHERN』が「社会派」作品でなかったように。
そりゃね、「社会派」だとかっこいいなー、と思って作ってることはわかるけど。望んだことは「社会派」と呼ばれることであって、ほんとーの意味で社会派の脚本を書いたわけぢゃないって。
それが透けて見えるあたりがもー、かっこわるっいちゅーか、小池かわいいな、というか。
小池、誘い受?!(笑)
「タカラヅカらしくない」というのも、よくわかんないカテゴライズだ。
わたしにとってのもっとも「タカラヅカらしくないもの」は、主人公たちに「愛」がないもののことだ。ほれ、この間バウでやっていた『スカウト』とかな。(自虐的なネタふり)出てくるキャラクタに「愛」も「心」もなかったら、それはすなわち「タカラヅカではない」。どんな時代になろうとも、ヅカだけは「愛」を歌うべきだと思っている。
どれだけ他が壊れていても、間違っていても、最低限コレだけはクリアしていなければ、「タカラヅカ」で上演してはならないと思う。あ、『スカウト』は、脚本の不誠実さを、キャストが力尽くでフォローしてたからセーフだと思ってるよ。主役が愛がだだ漏れのらんとむ氏でよかった。
とりあえず、そこに「愛」があること。
そのうえで、「画面が美しいこと」だな。
現実離れした八頭身の美男美女が美しい衣装で愛を語るところが、ヅカの醍醐味、存在意義。江戸のびんぼー長屋の話であっても、パリの下町の話であっても、インドの下層民の話であっても、とにかく美しくなきゃ。
わっかのドレスのお姫様とフリルきらきらの王子様の話、てのは「ヅカらしい」もののひとつでしかない。ジャンルのなかのたったひとつをあげて、「お姫様が出てこないから、ヅカらしくない」というのはおかしい。
『ネバー』には、「愛」がある。
主人公ふたりは、愛し合っている。
むしろ、ソレしかない。
スペイン内戦を背景にしているが、ほんっとーにただ「背景」なだけで、「社会派」でも「歴史物」でもなく、とても小さな「男と女の恋愛モノ」になってしまっている。
これって典型的な「タカラヅカ」ぢゃん。
でもって画面がきれい。美しい人たちが、美しい衣装を着て美しいことをやっている。
完璧に「タカラヅカらしい」作品。
わたしがこの作品に萎えるのは、「社会派」であるからでも「タカラヅカらしくない」からでもなく、作者が「社会派」で「タカラヅカらしくない」作品だと言われたくて、叫びたいこともないのに「叫ぶことがかっこいいから」と無理矢理叫んで見せている、よーに感じられるから、なのよ。
ステイタスが欲しくて書いてるから、「社会派」っぽいふりをするために気を散らしているから、肝心の「愛」の部分が足りなくなっている。
ただでさえ書いていることは男と女の狭い恋愛なのに、それが薄く浅くなっているんだよ。
それだから、最初に公演を観た友人の感想が、「『不滅の恋人たちへ』みたい」になっちゃうんだよ。「『不滅の恋人たちへ』と『カステル・ミラージュ』を足したよーな話」って、ソレ、駄作って言われてるよーなもんぢゃん? 小池修一郎ともあろうものが、太田哲則と一緒にされたらイカンでしょう。
とほほだわ。
とまあ、小池の「物語を作る力」は相当アレだと思ってますが、彼の「演出力」のすばらしさは認めております。
『ネバー』がややこしいのは、「物語」のアレさと、「演出」のすばらしさが、ものすげー不協和音を奏でているから、なのよねえ。
「演出」だけだと、すばらしい「名作」だから、「なんかすごいもの見たかも?」と一瞬誤解させられるんだよなあ(笑)。
まったく、語るのが面倒な作品だ(笑)。
いい作品だったら鼻息荒く早々に書いていただろうけど、なにしろアレな出来だったので、書くのが面倒で先送りしてしまった。
面倒、というのは、宙組公演に対してじゃないよ。
今回の作品がどうアレなのか、それを論理立てて説明するのがものすげー労力を必要とする類のアレさだから面倒、って意味ね。
『ベルばら』みたいに「クレーンペガちゃんの上で、コムちゃんオスカルが手を振るんだよ?! 最悪!!」と、わかりやすい駄作じゃないんだもの。
宙組公演『NEVER SAY GOODBYE−ある愛の軌跡−』。
天下のフランク・ワイルドホーン作曲、「演出」で高い評価を受ける小池修一郎の「オリジナル」新作。
なんつーかねぇ。
小池氏に対し、とてもとほほなものを感じました(笑)。
『NEVER SAY GOODBYE』を観て、思い出したモノがある。強烈なデジャヴ。
映画『CASSHERN』。
ストーリーとか設定が似てるって意味じゃないよ。
そのテイスト。
ものすごーく大袈裟で、「高尚な深淵な独創的な非凡なことを言っている」よーな作りなんだけど、じつはなーんにも「言いたいこと」がない。
なにか言いたい、伝えたいことがあって叫んでいるのではなく、「高尚な深淵な独創的な非凡なことを言っている俺って素晴らしい!」とゆーよーな作り、ってことね。
見ていて、「言いたいことがないなら、無理して言わなくていいのに……」と、なまあたたかい気持ちになった、あの映画。
『ネバー』を観ていて、なんかに似てる、なんかを思い出す、なんだっけなんだっけ……そうか、『CASSHERN』だ!!と、思い至ったときは、あまりのハマリ具合に感動したね(笑)。
kineさんに言うと、彼女も大ウケしながら同意してくれました。あの映画を見てとほほ感を味わった人には、通じるみたいだ。ありがとう共通言語。
小池修一郎は、とても才能のある演出家だ。『エリザベート』の成功もそうだし、今回の『ネバー』にしたって、その実力の高さを如実にしている。
でもなー。演出力と、物語を作る力は、まったく別の才能だからなー。
そりゃ、両方を持ち合わせている人もいくらでもいるだろうけれど、小池はそうじゃない。それだけのことなのに。
マンガで言えば、少年マンガとかによくあるじゃん、「原作」と「マンガ」が別の人っていうの。『北斗の拳』とかもそうだよね。
物語を書く人と、絵を描く人が別。だからといって、絵だけを描いている人が劣っているとか、そーゆーわけじゃない。文章を「マンガ」にするのはそのマンガ家さんの力であり、演出力なんだから。『北斗の拳』が誰か別の人の作画だったら、あんなにヒットしたかどうかわからないぞっと。(最近のアニメ映画『北斗の拳』には、言いたいこといろいろですが・笑)
小池せんせーは、「作家」になりたいんだね。
どれだけ「演出家」として高い評価を得ていても、それだけではなく、「作家」になりたいんだね。
小池くらい演出力があれば、「物語を作る力」が大してなくても、ある程度まではなんとかなる。
ノリや雰囲気だけで乗り切る系の他愛ない話なら、演出のノウハウのみでなんとかできる。
でも、チガウんだね。小池がなりたいのはそーゆー作家ではなくて。
自分でキャラクタを作り、出来事を動かし、テーマを伝える。自分の想いを表現し、それによって他人にはたらきかける作家。
そのなかでもさらに、強い主張を持った、作品によって人々を啓蒙できるよーなカリスマ系の作家に、なりたいんだね……。
よりによってね……。
「作家」とひとくくりに言っても、誰も彼もが、
「コレが言いたい! コレを言いたくて、そのための表現方法としてこの物語を作った。世界よ、オレの叫びを聴けぇええ!!」
とゆー人ばっかじゃないんだけどな。
もっとふつーに、ささやかな共感や一時たのしませることを目的に、物語を作る作家だってアリなんだけど。
もちろんわたしは、その確固たる主張で、「コレが書きたいっ、コレが言いたいっ」と鼻息荒い人の作品が好きだけどね。書きたいモノもないのに、なんとなーく書いたモノより絶対そっちの方が、たとえ失敗していたとしてもたのしめる作品になると思っているクチだけど。だから、そっちにあこがれる気持ちはわかるんだけど。
えー、人間、向き不向きがありまして。
なりたいからといって、なれるもんぢゃない。
できないことにチャレンジするのはアリだと思っているけれど、主張したいこともないのに、ファッションでそれらしいことを主張するのは、やめとこうよ。
いくら、「叫ぶ人」になりたいからってさぁ。「叫ぶ人」にあこがれてるからってさぁ。闇雲に叫んでも、意味ないよ〜〜。
という、とほほ感で、感想を書くのを後回しにしてました。今回の宙組公演。
「まあ今回の作品は、社会派で、タカラヅカらしくないですからね。いかにもタカラヅカ!なものを求めている人には、おもしろくないんじゃないですか?」
とか、言われたんですけど。
いやいやいや、そーゆー問題ぢゃないから(笑)。
まず、「社会派」ではありえませんよ。『CASSHERN』が「社会派」作品でなかったように。
そりゃね、「社会派」だとかっこいいなー、と思って作ってることはわかるけど。望んだことは「社会派」と呼ばれることであって、ほんとーの意味で社会派の脚本を書いたわけぢゃないって。
それが透けて見えるあたりがもー、かっこわるっいちゅーか、小池かわいいな、というか。
小池、誘い受?!(笑)
「タカラヅカらしくない」というのも、よくわかんないカテゴライズだ。
わたしにとってのもっとも「タカラヅカらしくないもの」は、主人公たちに「愛」がないもののことだ。ほれ、この間バウでやっていた『スカウト』とかな。(自虐的なネタふり)出てくるキャラクタに「愛」も「心」もなかったら、それはすなわち「タカラヅカではない」。どんな時代になろうとも、ヅカだけは「愛」を歌うべきだと思っている。
どれだけ他が壊れていても、間違っていても、最低限コレだけはクリアしていなければ、「タカラヅカ」で上演してはならないと思う。あ、『スカウト』は、脚本の不誠実さを、キャストが力尽くでフォローしてたからセーフだと思ってるよ。主役が愛がだだ漏れのらんとむ氏でよかった。
とりあえず、そこに「愛」があること。
そのうえで、「画面が美しいこと」だな。
現実離れした八頭身の美男美女が美しい衣装で愛を語るところが、ヅカの醍醐味、存在意義。江戸のびんぼー長屋の話であっても、パリの下町の話であっても、インドの下層民の話であっても、とにかく美しくなきゃ。
わっかのドレスのお姫様とフリルきらきらの王子様の話、てのは「ヅカらしい」もののひとつでしかない。ジャンルのなかのたったひとつをあげて、「お姫様が出てこないから、ヅカらしくない」というのはおかしい。
『ネバー』には、「愛」がある。
主人公ふたりは、愛し合っている。
むしろ、ソレしかない。
スペイン内戦を背景にしているが、ほんっとーにただ「背景」なだけで、「社会派」でも「歴史物」でもなく、とても小さな「男と女の恋愛モノ」になってしまっている。
これって典型的な「タカラヅカ」ぢゃん。
でもって画面がきれい。美しい人たちが、美しい衣装を着て美しいことをやっている。
完璧に「タカラヅカらしい」作品。
わたしがこの作品に萎えるのは、「社会派」であるからでも「タカラヅカらしくない」からでもなく、作者が「社会派」で「タカラヅカらしくない」作品だと言われたくて、叫びたいこともないのに「叫ぶことがかっこいいから」と無理矢理叫んで見せている、よーに感じられるから、なのよ。
ステイタスが欲しくて書いてるから、「社会派」っぽいふりをするために気を散らしているから、肝心の「愛」の部分が足りなくなっている。
ただでさえ書いていることは男と女の狭い恋愛なのに、それが薄く浅くなっているんだよ。
それだから、最初に公演を観た友人の感想が、「『不滅の恋人たちへ』みたい」になっちゃうんだよ。「『不滅の恋人たちへ』と『カステル・ミラージュ』を足したよーな話」って、ソレ、駄作って言われてるよーなもんぢゃん? 小池修一郎ともあろうものが、太田哲則と一緒にされたらイカンでしょう。
とほほだわ。
とまあ、小池の「物語を作る力」は相当アレだと思ってますが、彼の「演出力」のすばらしさは認めております。
『ネバー』がややこしいのは、「物語」のアレさと、「演出」のすばらしさが、ものすげー不協和音を奏でているから、なのよねえ。
「演出」だけだと、すばらしい「名作」だから、「なんかすごいもの見たかも?」と一瞬誤解させられるんだよなあ(笑)。
まったく、語るのが面倒な作品だ(笑)。
両耳塞いで目をつぶって。
2006年4月29日 タカラヅカ ドリーさんに言われて気づいた。
カウンタの「888888」、自分で踏もうと思っていたのに。なんだよー、過ぎてるぢゃんー。
日付関係なく書いてるんで、今日は5月2日です。
お昼の2時頃、ドリーさんが「888889」だったそーですよ。惜しいっすねっ。
次は「999999」を狙うか……って、ヲイそれじゃ、カウンタ振り切っちゃうじゃん。
ソレが過ぎたらまた「000000」になるのかな。
他の人はどーしてるんだろう? 6桁しかないカウンタって、不便だろーに。ただでさえバカウンターでくるくる回りまくるんだからさー。
桁数増やしてもらえないのかなぁ。
☆
ところでもうすっかりゴールデン・ウィーク。
ウチのママが「ゴールデン・ウィーク」の意味を理解していなかった現実に、昨日弟とふたりで震撼したところであります。
昨日は5月1日月曜日ですよ。
でもって母はふつーに言うんですよ。
「弟は『ゴールデン・ウィーク期間は終業が30分遅くなる』って言ってたけど、今日は平日だから、いつも通りの時間に帰ってくるわね」
って。
もしもし母よ?
今日は平日? あの、ゴールデン・ウィークってなんだと思ってます?
曜日がなんであろーと、個人の予定がどうであろーと、一般的に4月末から5月はじめの1年中でいちばん休日の多いコロを「ゴールデン・ウィーク」と呼ぶんですってば。
9連休の人も飛び石連休の人も、もともと無職で家に引きこもっているわたしのよーなヤツでも、みんな等しく「GWの休日はいつ?」「GWはどう過ごすの?」と聞かれるの。「GWが存在する」ことが前提なの。
そして弟は、脱力しながら今日もまた、いつもよりハードな職場へ出勤していくのだった。(客商売は辛いわな)
ゴールデン・ウィークが終われば、たか花が、本拠地宝塚大劇場を卒業してしまいます。
あのたかちゃんと、花ちゃんが。
和央ようかと花總まりが。
ここでまったく感想を書かないままに来てしまいましたが、忘れているわけではもちろんございません。
宙組公演も、『スカウト』祭りで大忙しだったくせに、しっかり観ております。初日は無理だったけど、その翌日には駆けつけていたし。たかちゃんの無事な姿を、この目で見たかったし。
それから、いつもの最前列の隅っこでも観劇したし。新公も観たし。
そのうえで、思うんだ。
そうかわたし、信じてないんだ。
たか花がいなくなるなんてことを、未だに実感していないんだ。
わたしの現実認識力の、範囲を超える出来事なんですよ、たか花退団、というのは。
たかちゃんが、花ちゃんが、いなくなるなんてありえない。
退団なんてありえない。
しかも、これほどいろいろあってイレギュラーななかで。
しかも、あんな作品で。
信じられない。
袴姿で大階段を降りてくる彼らを見れば、思い知ることができるのだろうか。
楽のチケットなんてもちろんないけど、当日券争奪戦に参戦する予定です。せめてバウチケをGETするのだ。なにがなんでも、お見送りだけはするんだ。……いや、まだ、信じてないけど。たかちゃんがいなくなるなんて。花ちゃんがいなくなるなんて。
たか花退団に関しては、両耳塞いで目をつぶって部屋の隅で丸まるっているよーな気分です。
カウンタの「888888」、自分で踏もうと思っていたのに。なんだよー、過ぎてるぢゃんー。
日付関係なく書いてるんで、今日は5月2日です。
お昼の2時頃、ドリーさんが「888889」だったそーですよ。惜しいっすねっ。
次は「999999」を狙うか……って、ヲイそれじゃ、カウンタ振り切っちゃうじゃん。
ソレが過ぎたらまた「000000」になるのかな。
他の人はどーしてるんだろう? 6桁しかないカウンタって、不便だろーに。ただでさえバカウンターでくるくる回りまくるんだからさー。
桁数増やしてもらえないのかなぁ。
☆
ところでもうすっかりゴールデン・ウィーク。
ウチのママが「ゴールデン・ウィーク」の意味を理解していなかった現実に、昨日弟とふたりで震撼したところであります。
昨日は5月1日月曜日ですよ。
でもって母はふつーに言うんですよ。
「弟は『ゴールデン・ウィーク期間は終業が30分遅くなる』って言ってたけど、今日は平日だから、いつも通りの時間に帰ってくるわね」
って。
もしもし母よ?
今日は平日? あの、ゴールデン・ウィークってなんだと思ってます?
曜日がなんであろーと、個人の予定がどうであろーと、一般的に4月末から5月はじめの1年中でいちばん休日の多いコロを「ゴールデン・ウィーク」と呼ぶんですってば。
9連休の人も飛び石連休の人も、もともと無職で家に引きこもっているわたしのよーなヤツでも、みんな等しく「GWの休日はいつ?」「GWはどう過ごすの?」と聞かれるの。「GWが存在する」ことが前提なの。
そして弟は、脱力しながら今日もまた、いつもよりハードな職場へ出勤していくのだった。(客商売は辛いわな)
ゴールデン・ウィークが終われば、たか花が、本拠地宝塚大劇場を卒業してしまいます。
あのたかちゃんと、花ちゃんが。
和央ようかと花總まりが。
ここでまったく感想を書かないままに来てしまいましたが、忘れているわけではもちろんございません。
宙組公演も、『スカウト』祭りで大忙しだったくせに、しっかり観ております。初日は無理だったけど、その翌日には駆けつけていたし。たかちゃんの無事な姿を、この目で見たかったし。
それから、いつもの最前列の隅っこでも観劇したし。新公も観たし。
そのうえで、思うんだ。
そうかわたし、信じてないんだ。
たか花がいなくなるなんてことを、未だに実感していないんだ。
わたしの現実認識力の、範囲を超える出来事なんですよ、たか花退団、というのは。
たかちゃんが、花ちゃんが、いなくなるなんてありえない。
退団なんてありえない。
しかも、これほどいろいろあってイレギュラーななかで。
しかも、あんな作品で。
信じられない。
袴姿で大階段を降りてくる彼らを見れば、思い知ることができるのだろうか。
楽のチケットなんてもちろんないけど、当日券争奪戦に参戦する予定です。せめてバウチケをGETするのだ。なにがなんでも、お見送りだけはするんだ。……いや、まだ、信じてないけど。たかちゃんがいなくなるなんて。花ちゃんがいなくなるなんて。
たか花退団に関しては、両耳塞いで目をつぶって部屋の隅で丸まるっているよーな気分です。
「テンション高いな、ヲイ」
って、言われちゃったよーっ。
終演後、ロビーで会った北嶋誠氏に。
謎のイベント『エンキ&涼紫央コラボレーションライブ〜Especially!!〜』観劇はわたしひとりで知り合いは誰もいないだろーと思い込んでいたんで、まこちゃんに会えてつい、うきゃーうきゃーと興奮のままひとりでだーっと喋っちゃったんだわ。
全裸の人に「テンション高い」って言われるのって、けっこーすごい?(自慢? 自慢していい?・笑)
「仕方ないよな、涼紫央に目の前で黒燕尾で『すみれの花咲く頃』踊られちまったらな。そりゃコワレるわな」
誠さんはオトコマエにそう続けてくれました。
そうよ、そうなのよっ、とーぜんなのよ。
すずみん素敵〜〜きゃ〜〜っ、もお、どーしましょー!!
いやはや。
ものすげーたのしかったっす。
最前列センター。ドセンター。わたしの目の前に、すずみん。
ドラマシティはステージが低く、坐っている観客の胸の下くらいの高さです。も、舞台の近さがただごとぢゃない。バウホールよりも近く感じられるのね、前方席だと。
すずみんの、ときどき波線になる、かまぼこ型の目がずーっと目の前。あああ、かわいいなあ。かっこいいなあ。
ショースターとして踊っているときはさわやかにかっこいいし、かわいいのだけど。
エロ系やると、キますよ。
濃さがハンパぢゃない。なんなのあの流し目っ!!(鼻息)
「いかにもタカラヅカっ」な、クソ派手なクソ恥ずかしい原色衣装で現れ、シンプルかつ地味な衣装の外部のプロダンサーたちを従え、センターでぴたりとポーズを決めた日にゃあ。
心臓止まるかと思った(笑)。
濃い。
濃すぎるよ、涼紫央。
そしてその濃さが、たのしくてたのしくて仕方ない。
とまあ、たのしんだのは事実なんだが。
しかしコレ、公演としてはどうなの?
いったい、ナニがやりたかったんだ?
印象としては、まずはじめにエンキ氏のコンサートありきで、そこに無理矢理すずみんを出演させたみたいだ。
エンキ氏のコンサートとしてはふつーだが、『エンキ&涼紫央コラボレーションライブ』としては「演出」してないよね? って感じ。演出家不在。楽器演奏者のコンサートに舞台人がゲスト出演して、演奏にのせて踊る、とか、素人でも考えつくことであって、ソレ「演出」ぢゃないし。
なんでこの公演をやっているのか、なにをしたかったのかがさっぱりわからない。
最初にこの公演のニュースを聞いたとき、「なんだソレ? ナニをやるんだ?」と思った。
まさか、見終わってなおわからないとは、思わなかった。
ただ、大変だったろうなあ、すずみん、と思う。
こんな急場しのぎっぽい、ろくに練れてもいないみょーなステージに出されて。
もしも本気でエキゾチック楽器奏者と宝塚歌劇団のコラボをやるなら、出演者はすべてタカラジェンヌになるはずだ。
「タカラヅカ」を表現するのにタカラジェンヌが必要なのは、あったりまえの道理だから。
外部の女性ダンサー相手に「男役」をしても、「タカラヅカ」ほど美しくないのだわ。
だってさ……外部の女性ダンサーさん……その、容姿が……。
どんなにダンスの技術がすぐれていたとしても、きっと宝塚歌劇団には入れなかったろうな、という感じのたくましい方たちばかりでした。
横幅がものすごいし、そのぶんちゃんとチチもでかくて、女性としては魅力的かもしれないが、肉厚で女性があこがれる体型ぢゃない。頭身も低くて、5頭身とかでガシガシ踊ってるんだもんな……。7頭身はないと、ヅカでは絵にならないよなあ、とか、あの横幅だと、ヅカだったら「やせろデヴ」とか叩かれるんだろうなあ、とか、そんなことをぼーっと考えた。
タカラヅカがタカラヅカたるためには、娘役が折れそうに華奢で、華美なドレスを品よく着こなし、軽やかに踊る必要があることを、思い知らされた。
すずみん、ダンサーさんたちの誰よりも華奢だよ……細いよ絶対……。
あー、でも、唯一好みっぽいダンサーさんがいるなと思ったら、そのひとだけが単独ですずみんの相手役として絡んでいたので、彼女がいちばん「タカラヅカ的にもきれい」な人だったんだろうな。でもそのおねーさんだって、もしヅカにいたら絶対男役だ、って感じの強さだったし(笑)。
外部の女性ダンサーと踊らせる意味もわからなかった。あんなにたくましいウエストや肩幅のひとたちと踊って、タカラヅカの男役の華奢さを表現したかったのか?
すずみんひとりが異世界感を醸しだしていて、「ああ、やっぱりあとから付け加えたんだな」って感じに思えた。
そもそもエンキ氏のコンサートで。彼女の曲にあわせて女性ダンサーが踊る、という趣向だった。
そこに、なんらかの大人の事情があって、無理矢理すずみんを出演させた。
はじめから、本気で「タカラヅカ」と「異文化」のコラボをやる気はなかった。
だからすずみん以外のタカラジェンヌは出演していない。
中国琵琶奏者の舞台にタカラジェンヌが出て踊る、というソレだけのこと。
てゆーか、ソレ以下。
1幕ではすずみん、ただの司会者だし。
えーと。何故。
エンキ氏にインタビュー(会話は寒い。盛り上がらない。台本まんま。仕方ないよ、相手外国人だもん)するだけの人なら、涼紫央である意味はどこにもない。タカラジェンヌである意味もない。
…………ひでえ。
タカラヅカ的でないことも、タカラヅカとエンキ氏のコラボになっていないことも、それぞれがまったく別物で融合することもなく勝手に存在していたみょーちくりんな舞台であったことも、そもそもそこになんの意義も見えないことも。
とってつけたんだよね? すずみんだけ、あとから無理矢理付け加えたんだよね?
終演後、あたりまえのよーにロビーでエンキ氏の「サイン会付きCD販売会」が催されているのを見ながら、さらに思う。
エンキ氏とすずみんが同等の「主演者」なら、すずみんもサイン会やれよ〜〜。出演作ビデオ販売会でいいからさ。この場でビデオ買った人には、目の前でサインしちゃいます、てな。
これが『エンキライヴ〜Especially!!〜』特別ゲスト・涼紫央なら、別になんとも思わないんだが。
『エンキ&涼紫央コラボレーションライブ〜Especially!!〜』だから、企画の不誠実さと、演出の無能さにあきれる。
「とってつけた」だけだってことをわからせる企画と演出ってナニよソレ。
なんかひどいものを見せられた、という記憶が深く残る。
と。
企画も演出も最悪だったが。
それでも、舞台に立つ人々は、本物だった。
「大人の事情」かなにか知らないけど、制作サイドはあんなに非道なのに、それでも舞台の上のアーティストたちは誠実にその持てる力を発揮しているのよ。
エンキ氏の演奏はすばらしかった。
わたしは無知で無教養な人間なんで、音楽的素養なんぞカケラもないんだが、それでもとてもたのしかった。
中国琵琶を見るのも聴くのもはじめてだが、技術的にすげーんだろーな、ってことと、表現力の豊かさに感動した。
そして、エンキ氏自身のエンターティナーぶりにも。
目線、来る来る(笑)。なんかコンサート中、エンキ氏に見つめられていた気がする(笑)。ずーっと微笑まれていた気がする。わたしもつい、目が合うたびに「にっこり」してたしな(笑)。
ひとつの曲が途中からアレンジ変わって別物になったり、ひとつの楽器で演奏しているとは思えないほどまったく別ジャンルの曲を奏でたり。
中国琵琶ってすげーなー。エンキってすげーなー。と、シンプルに感動した。
最前列センターは半分「お客様席」だったのか、ボコッと空席続きで、誰もいない座席にぽつんとひとり、スーツのおじさんが坐っていたのだけど、このおじさんが後半ノリノリでねー。
ずーっと歌うのよ(笑)。「シクラメンのかほり」とか「枯葉」とか。ヲイヲイ、と思いつつもべつに、不快ではない。まあ、すずみんが歌っているときに一緒に歌われるとちとかなしかったが(笑)。
コンサートを聴きに来たお客が、「たのしんでいる」姿はいいよね。
すずみ氏がすばらしいのは、言うまでもなく。
ああ、こんなにひどい演出なのに、こんなにひどい企画なのに、それでもたったひとりで派手なヅカ衣装着て、たったひとりで異世界してる、すずみんがステキ。
すずみんだから、踏ん張れたんだよね。
「タカラヅカ・スタァ」スキルの低い子なら、ぺしゃんこになっていたと思う。コテコテの古き良きすずみんだからこそ、ひどい演出をも力尽くで支えることが出来たんだ。
涼紫央に拍手。
まぎれもなく、タカラヅカのスタァである彼に。
って、言われちゃったよーっ。
終演後、ロビーで会った北嶋誠氏に。
謎のイベント『エンキ&涼紫央コラボレーションライブ〜Especially!!〜』観劇はわたしひとりで知り合いは誰もいないだろーと思い込んでいたんで、まこちゃんに会えてつい、うきゃーうきゃーと興奮のままひとりでだーっと喋っちゃったんだわ。
全裸の人に「テンション高い」って言われるのって、けっこーすごい?(自慢? 自慢していい?・笑)
「仕方ないよな、涼紫央に目の前で黒燕尾で『すみれの花咲く頃』踊られちまったらな。そりゃコワレるわな」
誠さんはオトコマエにそう続けてくれました。
そうよ、そうなのよっ、とーぜんなのよ。
すずみん素敵〜〜きゃ〜〜っ、もお、どーしましょー!!
いやはや。
ものすげーたのしかったっす。
最前列センター。ドセンター。わたしの目の前に、すずみん。
ドラマシティはステージが低く、坐っている観客の胸の下くらいの高さです。も、舞台の近さがただごとぢゃない。バウホールよりも近く感じられるのね、前方席だと。
すずみんの、ときどき波線になる、かまぼこ型の目がずーっと目の前。あああ、かわいいなあ。かっこいいなあ。
ショースターとして踊っているときはさわやかにかっこいいし、かわいいのだけど。
エロ系やると、キますよ。
濃さがハンパぢゃない。なんなのあの流し目っ!!(鼻息)
「いかにもタカラヅカっ」な、クソ派手なクソ恥ずかしい原色衣装で現れ、シンプルかつ地味な衣装の外部のプロダンサーたちを従え、センターでぴたりとポーズを決めた日にゃあ。
心臓止まるかと思った(笑)。
濃い。
濃すぎるよ、涼紫央。
そしてその濃さが、たのしくてたのしくて仕方ない。
とまあ、たのしんだのは事実なんだが。
しかしコレ、公演としてはどうなの?
いったい、ナニがやりたかったんだ?
印象としては、まずはじめにエンキ氏のコンサートありきで、そこに無理矢理すずみんを出演させたみたいだ。
エンキ氏のコンサートとしてはふつーだが、『エンキ&涼紫央コラボレーションライブ』としては「演出」してないよね? って感じ。演出家不在。楽器演奏者のコンサートに舞台人がゲスト出演して、演奏にのせて踊る、とか、素人でも考えつくことであって、ソレ「演出」ぢゃないし。
なんでこの公演をやっているのか、なにをしたかったのかがさっぱりわからない。
最初にこの公演のニュースを聞いたとき、「なんだソレ? ナニをやるんだ?」と思った。
まさか、見終わってなおわからないとは、思わなかった。
ただ、大変だったろうなあ、すずみん、と思う。
こんな急場しのぎっぽい、ろくに練れてもいないみょーなステージに出されて。
もしも本気でエキゾチック楽器奏者と宝塚歌劇団のコラボをやるなら、出演者はすべてタカラジェンヌになるはずだ。
「タカラヅカ」を表現するのにタカラジェンヌが必要なのは、あったりまえの道理だから。
外部の女性ダンサー相手に「男役」をしても、「タカラヅカ」ほど美しくないのだわ。
だってさ……外部の女性ダンサーさん……その、容姿が……。
どんなにダンスの技術がすぐれていたとしても、きっと宝塚歌劇団には入れなかったろうな、という感じのたくましい方たちばかりでした。
横幅がものすごいし、そのぶんちゃんとチチもでかくて、女性としては魅力的かもしれないが、肉厚で女性があこがれる体型ぢゃない。頭身も低くて、5頭身とかでガシガシ踊ってるんだもんな……。7頭身はないと、ヅカでは絵にならないよなあ、とか、あの横幅だと、ヅカだったら「やせろデヴ」とか叩かれるんだろうなあ、とか、そんなことをぼーっと考えた。
タカラヅカがタカラヅカたるためには、娘役が折れそうに華奢で、華美なドレスを品よく着こなし、軽やかに踊る必要があることを、思い知らされた。
すずみん、ダンサーさんたちの誰よりも華奢だよ……細いよ絶対……。
あー、でも、唯一好みっぽいダンサーさんがいるなと思ったら、そのひとだけが単独ですずみんの相手役として絡んでいたので、彼女がいちばん「タカラヅカ的にもきれい」な人だったんだろうな。でもそのおねーさんだって、もしヅカにいたら絶対男役だ、って感じの強さだったし(笑)。
外部の女性ダンサーと踊らせる意味もわからなかった。あんなにたくましいウエストや肩幅のひとたちと踊って、タカラヅカの男役の華奢さを表現したかったのか?
すずみんひとりが異世界感を醸しだしていて、「ああ、やっぱりあとから付け加えたんだな」って感じに思えた。
そもそもエンキ氏のコンサートで。彼女の曲にあわせて女性ダンサーが踊る、という趣向だった。
そこに、なんらかの大人の事情があって、無理矢理すずみんを出演させた。
はじめから、本気で「タカラヅカ」と「異文化」のコラボをやる気はなかった。
だからすずみん以外のタカラジェンヌは出演していない。
中国琵琶奏者の舞台にタカラジェンヌが出て踊る、というソレだけのこと。
てゆーか、ソレ以下。
1幕ではすずみん、ただの司会者だし。
えーと。何故。
エンキ氏にインタビュー(会話は寒い。盛り上がらない。台本まんま。仕方ないよ、相手外国人だもん)するだけの人なら、涼紫央である意味はどこにもない。タカラジェンヌである意味もない。
…………ひでえ。
タカラヅカ的でないことも、タカラヅカとエンキ氏のコラボになっていないことも、それぞれがまったく別物で融合することもなく勝手に存在していたみょーちくりんな舞台であったことも、そもそもそこになんの意義も見えないことも。
とってつけたんだよね? すずみんだけ、あとから無理矢理付け加えたんだよね?
終演後、あたりまえのよーにロビーでエンキ氏の「サイン会付きCD販売会」が催されているのを見ながら、さらに思う。
エンキ氏とすずみんが同等の「主演者」なら、すずみんもサイン会やれよ〜〜。出演作ビデオ販売会でいいからさ。この場でビデオ買った人には、目の前でサインしちゃいます、てな。
これが『エンキライヴ〜Especially!!〜』特別ゲスト・涼紫央なら、別になんとも思わないんだが。
『エンキ&涼紫央コラボレーションライブ〜Especially!!〜』だから、企画の不誠実さと、演出の無能さにあきれる。
「とってつけた」だけだってことをわからせる企画と演出ってナニよソレ。
なんかひどいものを見せられた、という記憶が深く残る。
と。
企画も演出も最悪だったが。
それでも、舞台に立つ人々は、本物だった。
「大人の事情」かなにか知らないけど、制作サイドはあんなに非道なのに、それでも舞台の上のアーティストたちは誠実にその持てる力を発揮しているのよ。
エンキ氏の演奏はすばらしかった。
わたしは無知で無教養な人間なんで、音楽的素養なんぞカケラもないんだが、それでもとてもたのしかった。
中国琵琶を見るのも聴くのもはじめてだが、技術的にすげーんだろーな、ってことと、表現力の豊かさに感動した。
そして、エンキ氏自身のエンターティナーぶりにも。
目線、来る来る(笑)。なんかコンサート中、エンキ氏に見つめられていた気がする(笑)。ずーっと微笑まれていた気がする。わたしもつい、目が合うたびに「にっこり」してたしな(笑)。
ひとつの曲が途中からアレンジ変わって別物になったり、ひとつの楽器で演奏しているとは思えないほどまったく別ジャンルの曲を奏でたり。
中国琵琶ってすげーなー。エンキってすげーなー。と、シンプルに感動した。
最前列センターは半分「お客様席」だったのか、ボコッと空席続きで、誰もいない座席にぽつんとひとり、スーツのおじさんが坐っていたのだけど、このおじさんが後半ノリノリでねー。
ずーっと歌うのよ(笑)。「シクラメンのかほり」とか「枯葉」とか。ヲイヲイ、と思いつつもべつに、不快ではない。まあ、すずみんが歌っているときに一緒に歌われるとちとかなしかったが(笑)。
コンサートを聴きに来たお客が、「たのしんでいる」姿はいいよね。
すずみ氏がすばらしいのは、言うまでもなく。
ああ、こんなにひどい演出なのに、こんなにひどい企画なのに、それでもたったひとりで派手なヅカ衣装着て、たったひとりで異世界してる、すずみんがステキ。
すずみんだから、踏ん張れたんだよね。
「タカラヅカ・スタァ」スキルの低い子なら、ぺしゃんこになっていたと思う。コテコテの古き良きすずみんだからこそ、ひどい演出をも力尽くで支えることが出来たんだ。
涼紫央に拍手。
まぎれもなく、タカラヅカのスタァである彼に。
のろけ話。わたしの春野寿美礼サマ。@Appartement Cinema
2006年4月27日 タカラヅカ 春野寿美礼がかわいい。
若くかわいい嫁を迎え、ものごっつーご機嫌な姿が、もお。
なさけない。
なによ、目尻下げちゃって。
役者のくせに人を選ぶってどういうことよ。気乗りしない相手だと、じつにテンションの低い粗い芝居をすることがわかっているだけに。
今のご機嫌ぶりが、さらにとほほ感をあおる。
ほんとに、ダメな人だ。
とほほな人だと、毎回思い知らされているっていうのに。
どーしてこうも、魅力的なんだろう。
わたしは寿美礼ちゃんの素顔を美形だとは思わないし、むしろ年々かなりやばくなってきているだろとか、VISAの巨大看板、素顔はVISA的にも宝塚歌劇団的にも春野寿美礼的にもよくないんぢゃないかとか、いろいろいろいろ、思うとこのある人間だ。
美形だとかきれいだとか、ごめん、やっぱり思えないし、歪んでるとかやばいとか思っているけども。
ああそれでもやっぱ、寿美礼ちゃんを見るたびに「素敵(はぁと)」だとマジで思うし、自分でも理不尽だなと思うくらい「大好き!」と思う。
ひとりよがりでナルシー一直線の芸風も、独特すぎる台詞回しも、癖とか味があるとかを超えて「歌詞が日本語に聞こえない」と言われている歌も、なにもかもが愛しい。
ちなみにわたし、「なに言ってんのか聞き取れない」と評判の2大巨匠、春野寿美礼と和央ようかの歌は、ふつーに聞き取れます。ええ。『ASIAN WINDS!』だろーと『NEVER SAY GOODBYE』だろーとまかせてよ。初見で問題なく聞き取れるわよ。
わたしが聞き取れなくて困るのは、湖月わたる氏ですよ……『Across』には大変感動しておりますが、歌詞があまり聞き取れなくてな……せっかくのオギーの詞が聞き取れず、kineさんの語りではじめて気づいたりとかな……。
かくいうkineさんは、逆にオサちゃんたかちゃんの歌詞が聞き取れないらしーので、これはやはり愛の差なんだと思っています。
愛ゆえに、寿美礼ちゃんの歌声は最高級の響きで、わたしを魅了するのであります。
はるのすみれがすきだ……。
『Appartement Cinema』初日、ご機嫌さんにニマニマしているオサ様を、3列目でうっとり眺めながら、しみじみ思った。
『アパシネ』は初見よりも2回目以降の観劇がたのしい芝居で、2回目に観たときは、オサ様の細かい演技に感動したのだけど、初見でソレはナシ。
ただただオサ様の変わる表情に見とれていた。
ウルフは軽やかな男だ。二枚目半というか、陽気にコメディをしている部分と、大人でやさしい部分と、シリアスモードで荒々しい部分がある。その変化が、たのしい。
春野寿美礼がどの程度考えて演技しているのなんか関係なく、ただそこにある「春野寿美礼」を見て、それだけでわたしはしあわせだった。
ゆみこちゃんに対する信頼感や、まとぶをかわいがっていることが透けて見えるのも気持ちいい。
ウルフへの愛情を持てあましているようなオーランドと、彼の気持ちを知った上であたたかく受け流すウルフの姿が、「春野寿美礼」としての魅力、わたしがこの人を好きでしょうがない理由のひとつだと思えた。
他人から、愛される。
それも、命懸けの愛だ。
ふつーなら重くて深くて、窒息しそうなくらいの、本物の愛。
長い人生で一度出会えるかどうかの、とてつもない本気の愛情。
それをぶつけられてなお、ゆるがない。
混乱するでなし、否定するでなし、逃げ出すでなし。
同じだけの愛を返せないことに罪悪感も持たず、「お前の望むカタチでは、愛していない」だけど、「お前のことも愛している」と返す。
慈愛の微笑みさえ浮かべて。
愛されることに、潰されない。
無償の愛を捧げられても、平気でいる。
愛されることに無神経なわけでも高慢なわけでもない。よくいるカンチガイキャラみたく、「愛されて当然よ、ほほほ」と思っているわけでもない。
あるものをあるがままに受け止め、流す力。
「オリジナル」である彼は、なににも染まらず、揺るぎもせず。
「愛」という、プラスの力にも翻弄されず。
ある意味これほど強固で、傲慢な存在はないだろう。
それがあまりに「春野寿美礼」的で、わたしの見たいと思っている、わたしの愛している「春野寿美礼」で、心ときめいた。
この人を愛しても、きっと真の意味での愛なんて返してもらえないし、しあわせにもしてもらえないんだろうなと思う。
「ひとをしあわせにする」という意味では、きっとはてしなくダメな男だよ。
それでも、好きだと思う。この男を愛して滅びるなら、それもヨシと思う。
……それが「春野寿美礼」の魅力だと思うんだ。
で。
そんな、「同じ愛を返せない」壊れた男が、若い嫁にフニャフニャになってとろけているところを見ると、さらにさらに、こ、このダメ男がっ!! と思う(笑)。
壊れた男だと知っているから、彼が束の間でも誤解でも思いこみでも、しあわせを感じてくれていたらうれしい。
魂の根本で誰も愛せない人だとしても、今、彼女を愛してしあわせそうに笑ってくれていたら、それがうれしい。
いつかまた、彼は孤独になるのかな。
笑っている今も、ほんとうは孤独なのかな。
彼の地球には、彼以外誰もいないのかもしれない。すべては、鏡の向こうの出来事なのかもしれない。
それでも、今、彼のそばには彼女がいて、彼が彼女を愛して幸福でいてくれるなら、それはまちがいなくわたしの幸福でもある。
決して長くはないタカラヅカの「トップスター」人生において、何作も何作も、「相手役を愛していない、愛せない」姿を見せつけられてきたから。
今、「相手役を愛する」という、ふつーのトップスターの姿を見せてくれる寿美礼ちゃんが、うれしくて愛しくてならない。
このまま彼が、愛を抱きしめたまま生きていけますように。
彼の本質を「誰も愛せない人」だと思い込んでいる、その強さとかなしさに恋しているわたしは、今の彼の笑顔がずっと続くことを願っている。
いやその、とほほな男だと思ってもいるし、ダメ男だとも思っているけど。てゆーかおめー、やに下がりすぎだっつの、とか思っているけどもっ。
春野寿美礼がかわいい。もー、かわいくてかわいくて、しょーがないぞ。
春野寿美礼と桜乃彩音がこれから見せてくれるであろう、さまざまな恋人同士の姿に、期待をしている。
若くかわいい嫁を迎え、ものごっつーご機嫌な姿が、もお。
なさけない。
なによ、目尻下げちゃって。
役者のくせに人を選ぶってどういうことよ。気乗りしない相手だと、じつにテンションの低い粗い芝居をすることがわかっているだけに。
今のご機嫌ぶりが、さらにとほほ感をあおる。
ほんとに、ダメな人だ。
とほほな人だと、毎回思い知らされているっていうのに。
どーしてこうも、魅力的なんだろう。
わたしは寿美礼ちゃんの素顔を美形だとは思わないし、むしろ年々かなりやばくなってきているだろとか、VISAの巨大看板、素顔はVISA的にも宝塚歌劇団的にも春野寿美礼的にもよくないんぢゃないかとか、いろいろいろいろ、思うとこのある人間だ。
美形だとかきれいだとか、ごめん、やっぱり思えないし、歪んでるとかやばいとか思っているけども。
ああそれでもやっぱ、寿美礼ちゃんを見るたびに「素敵(はぁと)」だとマジで思うし、自分でも理不尽だなと思うくらい「大好き!」と思う。
ひとりよがりでナルシー一直線の芸風も、独特すぎる台詞回しも、癖とか味があるとかを超えて「歌詞が日本語に聞こえない」と言われている歌も、なにもかもが愛しい。
ちなみにわたし、「なに言ってんのか聞き取れない」と評判の2大巨匠、春野寿美礼と和央ようかの歌は、ふつーに聞き取れます。ええ。『ASIAN WINDS!』だろーと『NEVER SAY GOODBYE』だろーとまかせてよ。初見で問題なく聞き取れるわよ。
わたしが聞き取れなくて困るのは、湖月わたる氏ですよ……『Across』には大変感動しておりますが、歌詞があまり聞き取れなくてな……せっかくのオギーの詞が聞き取れず、kineさんの語りではじめて気づいたりとかな……。
かくいうkineさんは、逆にオサちゃんたかちゃんの歌詞が聞き取れないらしーので、これはやはり愛の差なんだと思っています。
愛ゆえに、寿美礼ちゃんの歌声は最高級の響きで、わたしを魅了するのであります。
はるのすみれがすきだ……。
『Appartement Cinema』初日、ご機嫌さんにニマニマしているオサ様を、3列目でうっとり眺めながら、しみじみ思った。
『アパシネ』は初見よりも2回目以降の観劇がたのしい芝居で、2回目に観たときは、オサ様の細かい演技に感動したのだけど、初見でソレはナシ。
ただただオサ様の変わる表情に見とれていた。
ウルフは軽やかな男だ。二枚目半というか、陽気にコメディをしている部分と、大人でやさしい部分と、シリアスモードで荒々しい部分がある。その変化が、たのしい。
春野寿美礼がどの程度考えて演技しているのなんか関係なく、ただそこにある「春野寿美礼」を見て、それだけでわたしはしあわせだった。
ゆみこちゃんに対する信頼感や、まとぶをかわいがっていることが透けて見えるのも気持ちいい。
ウルフへの愛情を持てあましているようなオーランドと、彼の気持ちを知った上であたたかく受け流すウルフの姿が、「春野寿美礼」としての魅力、わたしがこの人を好きでしょうがない理由のひとつだと思えた。
他人から、愛される。
それも、命懸けの愛だ。
ふつーなら重くて深くて、窒息しそうなくらいの、本物の愛。
長い人生で一度出会えるかどうかの、とてつもない本気の愛情。
それをぶつけられてなお、ゆるがない。
混乱するでなし、否定するでなし、逃げ出すでなし。
同じだけの愛を返せないことに罪悪感も持たず、「お前の望むカタチでは、愛していない」だけど、「お前のことも愛している」と返す。
慈愛の微笑みさえ浮かべて。
愛されることに、潰されない。
無償の愛を捧げられても、平気でいる。
愛されることに無神経なわけでも高慢なわけでもない。よくいるカンチガイキャラみたく、「愛されて当然よ、ほほほ」と思っているわけでもない。
あるものをあるがままに受け止め、流す力。
「オリジナル」である彼は、なににも染まらず、揺るぎもせず。
「愛」という、プラスの力にも翻弄されず。
ある意味これほど強固で、傲慢な存在はないだろう。
それがあまりに「春野寿美礼」的で、わたしの見たいと思っている、わたしの愛している「春野寿美礼」で、心ときめいた。
この人を愛しても、きっと真の意味での愛なんて返してもらえないし、しあわせにもしてもらえないんだろうなと思う。
「ひとをしあわせにする」という意味では、きっとはてしなくダメな男だよ。
それでも、好きだと思う。この男を愛して滅びるなら、それもヨシと思う。
……それが「春野寿美礼」の魅力だと思うんだ。
で。
そんな、「同じ愛を返せない」壊れた男が、若い嫁にフニャフニャになってとろけているところを見ると、さらにさらに、こ、このダメ男がっ!! と思う(笑)。
壊れた男だと知っているから、彼が束の間でも誤解でも思いこみでも、しあわせを感じてくれていたらうれしい。
魂の根本で誰も愛せない人だとしても、今、彼女を愛してしあわせそうに笑ってくれていたら、それがうれしい。
いつかまた、彼は孤独になるのかな。
笑っている今も、ほんとうは孤独なのかな。
彼の地球には、彼以外誰もいないのかもしれない。すべては、鏡の向こうの出来事なのかもしれない。
それでも、今、彼のそばには彼女がいて、彼が彼女を愛して幸福でいてくれるなら、それはまちがいなくわたしの幸福でもある。
決して長くはないタカラヅカの「トップスター」人生において、何作も何作も、「相手役を愛していない、愛せない」姿を見せつけられてきたから。
今、「相手役を愛する」という、ふつーのトップスターの姿を見せてくれる寿美礼ちゃんが、うれしくて愛しくてならない。
このまま彼が、愛を抱きしめたまま生きていけますように。
彼の本質を「誰も愛せない人」だと思い込んでいる、その強さとかなしさに恋しているわたしは、今の彼の笑顔がずっと続くことを願っている。
いやその、とほほな男だと思ってもいるし、ダメ男だとも思っているけど。てゆーかおめー、やに下がりすぎだっつの、とか思っているけどもっ。
春野寿美礼がかわいい。もー、かわいくてかわいくて、しょーがないぞ。
春野寿美礼と桜乃彩音がこれから見せてくれるであろう、さまざまな恋人同士の姿に、期待をしている。
猫を殺す日。@Appartement Cinema
2006年4月26日 タカラヅカ その日俺は、猫を殺した。
その猫は、俺になついていた。
野良猫だったが、細身のとても美しい猫で、とあるホテルに住み着いていた。ホテルの人々からも可愛がられているようだった。
俺はホテルの人間ではなかったが、猫に会いたくてそこへ通っていた。
猫は俺を見つけると機嫌良く近づいて来、俺の傍らで丸くなる。撫でると気持ちよさそうに目を細めて、喉を鳴らす。
忙しい合間に時間を作り、俺は猫に餌を運んだ。猫のよろこぶ顔が見たくて。そのやわらかな毛並みを撫でたくて。
猫が野良であることも、俺だけのモノでないこともわかっていたが、それでもかまわなかった。俺は、猫が「猫」であることさえ愛しいと思っていた。気まぐれで、誰にも支配されない生き物であることを、愛していた。
そんな猫が、たとえ一時であろうと俺の傍らで無防備に眠ることを、誇りに思っていた。
猫は俺よりも、ホテルに長期宿泊している若い娘を気に入っているようだった。俺が現れても知らんぷりで、その娘に甘えてみたりする。
だがこの娘、猫が苦手らしくあまりいい反応はない。娘が嫌がろうとどうしようと、気にすることなくすり寄っていくあたりがいかにも「猫」だ。
今日もまた娘に振られ、猫は仕方なさそうに俺の元に来る。「まあ、オマエで我慢してやるか」……そんな風だ。
元来猫というモノは、人間の男よりも女性を好む性質がある……と、猫の習性本に書いてあった。本能の部分なら仕方ないと思う。
娘と猫を取り合う気のない俺は、「娘の次」という猫の「好きな人間順位」に甘んじていた。
この猫が「いちばん好きな人間」はあの娘かもしれないが、この猫のことを「いちばん好きな人間」は俺であるという自負が、俺を寛大にしていた。
それに俺は、俺だけはこの猫の秘密を知っていた。
猫は病気だった。たぶんもう、あまり長くは生きられない。
猫自身も余命を知っているのか、病院に連れて行こうとしてもそのたび逃げられた。「放っておいてくれ」そう言われている気がした。
それなら俺が、猫を看取ろうと思う。愛して愛して、とことんやさしくして甘やかして、見送ってやろうと思う。
猫が娘を好きだというなら、娘が猫を好きになるように協力してやりたいとも思う。
猫のしあわせだけを、俺は考えていた。
だが。
ある男が現れてから、猫の考えていることがさっぱりわからなくなった。
ホテルに記憶喪失の男が逗留するようになった。猫はその男を知っているようで、特別の反応を見せる。
恐れているような、慕っているような。
神経質にしっぽを動かしながら、いつも男の姿が見えるところにいる。
「ひょっとして、あの男がアンタの飼い主だったのか?」
話しかけてみても、猫は答えない。俺への興味を失ってしまったようだ。
猫が娘に執心しているのはべつに、かまわなかった。猫が女性を好むことはわかっている。人間の男である俺より、彼女を好きな理由がわかるから、気にならない。しかし、あの男は。
何故俺よりも、あの男を気に懸ける? あの男のことばかり考える? あの男がアンタになにをしてくれた? 餌をくれたか? 撫でてくれたか?
猫にはもう、時間があまりない。わずかな時間を、どれだけ幸福に過ごせるかだけを考えるはずだった。なのに猫は餌を食べることよりも、あの男のことを気にしている。
ある日、男の坐る同じソファに、猫が丸くなっているのを見つけた。微妙に距離は空けていたが、猫が自分で男の横に行ったのだということはよくわかった。
男は猫など気にも懸けず、新聞を読んでいる。猫の耳はぴくぴく動いている。眠っているふりで男の一挙手一投足に注目しているのだ。男はそのことに、気づきもしない。
俺はなんだか腹が立って、眠る猫を抱き上げた。びっくりした猫が抗議の声を上げるが、かまわず連れ出す。
「このまま、俺と一緒に行こう。俺がアンタを守ってやる。愛してやる。なんでも言うことを聞いてやる。だから……」
語りかけた言葉は、最後まで紡げなかった。
猫はするりと俺の腕から抜け出した。
爪は立てない。そう、猫は決して、俺を傷つけるようなことはしない。他の野良猫と戦い余裕で勝利する強い爪と牙を持つ猫なのに、決して俺に爪をたてることはしない。
俺を、傷つけない。
だけど……俺を愛しても、くれない。
地面に降り立った猫は、しっぽをぴんと立てて、俺を見上げる。
「オマエのモノにはならないよ」
やわらかい視線が、そう言っているようだった。
「それなら、爪を立てろよ。引っ掻いて、血を流させて、嫌気が差すようにしろよ」
無理に抱いたら、逃げ出すくせに。俺だけのモノには、ならないくせに。
なのに……猫は、俺の足に頭をすりつけた。甘える仕草。親愛を表す仕草。俺の思い通りにはならないくせに、俺を思い通りにしようとする。
なんて卑怯な。なんて残酷な。
そして俺は、知っている。俺がそんな猫に勝てないことを。俺は地面に膝をつき、猫を撫でた。
決して俺のモノにはならない、愛しい生き物を愛撫した。
猫は欲しいモノを手に入れる。
その美しさで、気まぐれで高慢な、されど愛らしい性格で。
猫を嫌っていた娘も、いつの間にか猫に骨抜きになっていた。記憶喪失の男も、猫がそばに行けば撫でるようになっている。
「昔飼っていた猫に似ているんだ。高校生のころ、ふといなくなってしまって、それきりだった猫に」
男は言う。あれ以来、動物は飼わなくなった。生活が変わってしまい、ペットを飼うところではなくなったから。……猫の姿は、無邪気だったころの自分を思い出させるのか。男はせつない目で猫を見つめる。
記憶喪失、というのは嘘であったらしい。嘘をつかなくてもよくなった男は、ためらわずに猫に手を差しのべる。
猫はなにひとつ失わず、欲しいモノを手に入れていっていた。
娘を手に入れ、男を手に入れ。
そして、俺には。
誰よりも猫を欲している俺には。
そのことを知りながら、一定量の親愛しか与えようとしない。
残酷な、愛しい生き物。
猫にはもう、時間がない。
彼は娘や男の前で屍を晒す気はないようだ。弱った、されど高貴な軽やかさを残す足取りで、俺についてこいと合図をする。
この猫が「いちばん好きな人間」は俺ではないが、この猫のことを「いちばん好きな人間」は俺であるという自負が、俺の支えだった。
気まぐれで、誰にも支配されない生き物であることを、愛していた。
だから俺が選ばれた。
もっとも猫を愛している俺こそが、選ばれたのだ。
……猫のしあわせだけを、俺は考えていた。猫の余命がわずかなら、俺が猫を看取ろうと思う。愛して愛して、とことんやさしくして甘やかして、見送ってやろうと思う。
やさしくしたかった。甘やかしたかった。
でもこの残酷な支配者が、俺に望んだことは。
その日俺は、猫を殺す。
猫の望みを、叶える。
それがたぶん、猫が俺に対して与えた、いちばんの愛情だった。
☆
……って。
『Appartement Cinema』ってよーするに、そーゆー話だよね、と。
オーランド@まとぶ、ラヴ。
片想いスキーのわたしのハートを直撃する、救いのない片恋ぶり。
『アパシネ』の細かい感想はおぼえてないのに、腐女子ネタだけは目を爛々させておぼえてますよ。
オーランドとウルフ@オサって、ものごっつーエロい関係だよねっ?
やっぱあのラストシーン、わたし的には銃口越しに救いのない愛を昇華して欲しいわけですよ。
ぶっちゃけ、銃を突きつけたままオーリーがウルフをヤっちゃうわけなんですが。ウルフは抵抗する気ないんだけど、オーリー的にはそんなこと構ってる余裕ナイってゆーか。泣きべそかいてテンパッてる彼には、受け入れられることさえ屈辱であるとゆーか。
愛する人をその手に掛けるところまで、その愛する人自身に追いつめられる、とゆーのは、究極の痛さだと思うんですよ。
オサ様の鬼畜女王様受っぷりも、ここに極まれりって感じで、大層魅力的です。
いやあ、すばらしいあて書きですね。GJ、いなばっち!!
その猫は、俺になついていた。
野良猫だったが、細身のとても美しい猫で、とあるホテルに住み着いていた。ホテルの人々からも可愛がられているようだった。
俺はホテルの人間ではなかったが、猫に会いたくてそこへ通っていた。
猫は俺を見つけると機嫌良く近づいて来、俺の傍らで丸くなる。撫でると気持ちよさそうに目を細めて、喉を鳴らす。
忙しい合間に時間を作り、俺は猫に餌を運んだ。猫のよろこぶ顔が見たくて。そのやわらかな毛並みを撫でたくて。
猫が野良であることも、俺だけのモノでないこともわかっていたが、それでもかまわなかった。俺は、猫が「猫」であることさえ愛しいと思っていた。気まぐれで、誰にも支配されない生き物であることを、愛していた。
そんな猫が、たとえ一時であろうと俺の傍らで無防備に眠ることを、誇りに思っていた。
猫は俺よりも、ホテルに長期宿泊している若い娘を気に入っているようだった。俺が現れても知らんぷりで、その娘に甘えてみたりする。
だがこの娘、猫が苦手らしくあまりいい反応はない。娘が嫌がろうとどうしようと、気にすることなくすり寄っていくあたりがいかにも「猫」だ。
今日もまた娘に振られ、猫は仕方なさそうに俺の元に来る。「まあ、オマエで我慢してやるか」……そんな風だ。
元来猫というモノは、人間の男よりも女性を好む性質がある……と、猫の習性本に書いてあった。本能の部分なら仕方ないと思う。
娘と猫を取り合う気のない俺は、「娘の次」という猫の「好きな人間順位」に甘んじていた。
この猫が「いちばん好きな人間」はあの娘かもしれないが、この猫のことを「いちばん好きな人間」は俺であるという自負が、俺を寛大にしていた。
それに俺は、俺だけはこの猫の秘密を知っていた。
猫は病気だった。たぶんもう、あまり長くは生きられない。
猫自身も余命を知っているのか、病院に連れて行こうとしてもそのたび逃げられた。「放っておいてくれ」そう言われている気がした。
それなら俺が、猫を看取ろうと思う。愛して愛して、とことんやさしくして甘やかして、見送ってやろうと思う。
猫が娘を好きだというなら、娘が猫を好きになるように協力してやりたいとも思う。
猫のしあわせだけを、俺は考えていた。
だが。
ある男が現れてから、猫の考えていることがさっぱりわからなくなった。
ホテルに記憶喪失の男が逗留するようになった。猫はその男を知っているようで、特別の反応を見せる。
恐れているような、慕っているような。
神経質にしっぽを動かしながら、いつも男の姿が見えるところにいる。
「ひょっとして、あの男がアンタの飼い主だったのか?」
話しかけてみても、猫は答えない。俺への興味を失ってしまったようだ。
猫が娘に執心しているのはべつに、かまわなかった。猫が女性を好むことはわかっている。人間の男である俺より、彼女を好きな理由がわかるから、気にならない。しかし、あの男は。
何故俺よりも、あの男を気に懸ける? あの男のことばかり考える? あの男がアンタになにをしてくれた? 餌をくれたか? 撫でてくれたか?
猫にはもう、時間があまりない。わずかな時間を、どれだけ幸福に過ごせるかだけを考えるはずだった。なのに猫は餌を食べることよりも、あの男のことを気にしている。
ある日、男の坐る同じソファに、猫が丸くなっているのを見つけた。微妙に距離は空けていたが、猫が自分で男の横に行ったのだということはよくわかった。
男は猫など気にも懸けず、新聞を読んでいる。猫の耳はぴくぴく動いている。眠っているふりで男の一挙手一投足に注目しているのだ。男はそのことに、気づきもしない。
俺はなんだか腹が立って、眠る猫を抱き上げた。びっくりした猫が抗議の声を上げるが、かまわず連れ出す。
「このまま、俺と一緒に行こう。俺がアンタを守ってやる。愛してやる。なんでも言うことを聞いてやる。だから……」
語りかけた言葉は、最後まで紡げなかった。
猫はするりと俺の腕から抜け出した。
爪は立てない。そう、猫は決して、俺を傷つけるようなことはしない。他の野良猫と戦い余裕で勝利する強い爪と牙を持つ猫なのに、決して俺に爪をたてることはしない。
俺を、傷つけない。
だけど……俺を愛しても、くれない。
地面に降り立った猫は、しっぽをぴんと立てて、俺を見上げる。
「オマエのモノにはならないよ」
やわらかい視線が、そう言っているようだった。
「それなら、爪を立てろよ。引っ掻いて、血を流させて、嫌気が差すようにしろよ」
無理に抱いたら、逃げ出すくせに。俺だけのモノには、ならないくせに。
なのに……猫は、俺の足に頭をすりつけた。甘える仕草。親愛を表す仕草。俺の思い通りにはならないくせに、俺を思い通りにしようとする。
なんて卑怯な。なんて残酷な。
そして俺は、知っている。俺がそんな猫に勝てないことを。俺は地面に膝をつき、猫を撫でた。
決して俺のモノにはならない、愛しい生き物を愛撫した。
猫は欲しいモノを手に入れる。
その美しさで、気まぐれで高慢な、されど愛らしい性格で。
猫を嫌っていた娘も、いつの間にか猫に骨抜きになっていた。記憶喪失の男も、猫がそばに行けば撫でるようになっている。
「昔飼っていた猫に似ているんだ。高校生のころ、ふといなくなってしまって、それきりだった猫に」
男は言う。あれ以来、動物は飼わなくなった。生活が変わってしまい、ペットを飼うところではなくなったから。……猫の姿は、無邪気だったころの自分を思い出させるのか。男はせつない目で猫を見つめる。
記憶喪失、というのは嘘であったらしい。嘘をつかなくてもよくなった男は、ためらわずに猫に手を差しのべる。
猫はなにひとつ失わず、欲しいモノを手に入れていっていた。
娘を手に入れ、男を手に入れ。
そして、俺には。
誰よりも猫を欲している俺には。
そのことを知りながら、一定量の親愛しか与えようとしない。
残酷な、愛しい生き物。
猫にはもう、時間がない。
彼は娘や男の前で屍を晒す気はないようだ。弱った、されど高貴な軽やかさを残す足取りで、俺についてこいと合図をする。
この猫が「いちばん好きな人間」は俺ではないが、この猫のことを「いちばん好きな人間」は俺であるという自負が、俺の支えだった。
気まぐれで、誰にも支配されない生き物であることを、愛していた。
だから俺が選ばれた。
もっとも猫を愛している俺こそが、選ばれたのだ。
……猫のしあわせだけを、俺は考えていた。猫の余命がわずかなら、俺が猫を看取ろうと思う。愛して愛して、とことんやさしくして甘やかして、見送ってやろうと思う。
やさしくしたかった。甘やかしたかった。
でもこの残酷な支配者が、俺に望んだことは。
その日俺は、猫を殺す。
猫の望みを、叶える。
それがたぶん、猫が俺に対して与えた、いちばんの愛情だった。
☆
……って。
『Appartement Cinema』ってよーするに、そーゆー話だよね、と。
オーランド@まとぶ、ラヴ。
片想いスキーのわたしのハートを直撃する、救いのない片恋ぶり。
『アパシネ』の細かい感想はおぼえてないのに、腐女子ネタだけは目を爛々させておぼえてますよ。
オーランドとウルフ@オサって、ものごっつーエロい関係だよねっ?
やっぱあのラストシーン、わたし的には銃口越しに救いのない愛を昇華して欲しいわけですよ。
ぶっちゃけ、銃を突きつけたままオーリーがウルフをヤっちゃうわけなんですが。ウルフは抵抗する気ないんだけど、オーリー的にはそんなこと構ってる余裕ナイってゆーか。泣きべそかいてテンパッてる彼には、受け入れられることさえ屈辱であるとゆーか。
愛する人をその手に掛けるところまで、その愛する人自身に追いつめられる、とゆーのは、究極の痛さだと思うんですよ。
オサ様の鬼畜女王様受っぷりも、ここに極まれりって感じで、大層魅力的です。
いやあ、すばらしいあて書きですね。GJ、いなばっち!!
まず、真ん中ありき。@Appartement Cinema
2006年4月25日 タカラヅカ そういえばわたし、『Appartement Cinema』の感想、途中ぢゃなかった?
DC楽を観る気満々だったんで、そのときにまとめて書こうと思っていたのに、観られなかったから……わーん、思い出してもくやしいよ〜〜、オサ様〜〜。
あとできちんと書くつもりだったから、初日の流し書き感想しか、書いてない。
そしてそのあと『スカウト』祭りなんかやってたから、もうなにを書くつもりだったか、ろくにおぼえていない……わーん。
『スカウト』と『アパシネ』なら、『アパシネ』の方が好きです。
『アパシネ』は毎回大泣きしたけど、『スカウト』は一度も泣けなかった。出そうになった涙も、ラストのオチで引っ込んだし。
……それでも、まっつに『アパシネ』に出て欲しかったとは、カケラも思わないけどな……どんな壊れていても誠意がなくても、『スカウト』がいい……アズ@まっつが好き……(処置ナシ)。
『アパシネ』は、初見よりも2回目以降の観劇の方が、たのしめます。
てゆーか絶対、複数回観るべき作品。
2回目の観劇のとき、わたしはnanakoさんと一緒だったんだけど。
幕間、ふたりしてもー、大騒ぎ。
「たのしいたのしいたのしいっ」
「オサ様素敵っ!!」
「ここまでオサ→ゆみってアリ?!」
このときが初見の友人キティちゃんがぽかんとしている横で、ふたりだけで盛り上がりまくり。
オチをわかったうえで観ると、1幕でオサ様とゆみこちゃんがすげー細かい芝居をしているのがわかるのよ。
ウルフ@オサが、レオナード@ゆみこを見る目がね。目がっ。郷愁と愛情に満ちた、せつないやさしい目をしているのですよっ。
レオナードもまた嘘をついているわけだから、相手の出方と自分の距離を測る、複雑な演技をじつに細かくしているわけで。
ふたりのかけひきっぷりが、もう。たまりませんよ。
オサ様とゆみこちゃんって、ほんっとに演技の相性がいいと思う。
相乗効果ってあると思うのね。このふたりを組ませると、単体でいるときよりさらに魅力的になる。
作品的には、粗がありまくりで、手直ししたくて仕方がない(笑)。
せっかくのヒロイン・アンナ@彩音とウルフはいい感じに描けているのに、書き込み不足。2幕のアンナの出番の少なさはナニ? 結婚式やってる場合ぢゃないって(笑)。
そしてなによりも、レオナード。作品の壊れた部分の代表格。この男の書き込みの少なさと出番の多さと役割の重要さ、なんとかならんのか。これほど重要キャラにするならもっときちんと書き込むべきだし、あの程度にしか書き込めないなら役を軽くするべきだ。
ゆみこちゃんがその堅実な演技力で、なんとか踏みとどまってみせてくれているけど、キャラ自体の破綻っぷりはひどい。
作者の稲葉氏は、女性との恋愛よりも男同士の友情を描く方が得意な人(好きな人)なのかもしれないな。
恋愛パートのいい加減さ(笑)と、作品バランスを壊すほどの男の友情パートの長さを見ていてそう思う。
描けるのは「男の友情」だが、タカラヅカだから恋愛しなきゃいけない。だもんで無理矢理「恋愛」を描いて、いろんな意味で失敗する。
素直にウルフとレオナードの話にしておいて、そこにアンナを絡める、程度にしておけばよかったんだと思う。アンナ役がトップ娘役お披露目になるとは、プロット段階ではわかっていなかったんじゃないのかな?
変にアンナの比重を上げなくても、象徴的に出すだけでもヒロインとしての責は果たせた思う。そーゆーキャラだろ、アンナって。
現在のなにもかもに疲れたウルフが偶然目にした、映画のヒロイン。スクリーンの中の彼女に恋をし、彼女を想う心だけを救いとする……聖母ポジションの女性。
たとえ現実の彼女が聖母でもなんでもない、落ちぶれた高慢女だったとしても、ウルフにとっての彼女の神聖さは薄れない。彼女を心配し、見守り、ちょっかいをかけ……やがて現実の彼女と恋に落ちるとしても。アンナはウルフの救いであり、聖母なんだ。
出番自体は少なくても、象徴的に使うだけでアンナはカタチになる。高慢ヒス女が、恋を知り愛を知り、成長する。男の嘘をも愛し、赦す、真の意味での聖母となる。
「女」と「恋愛」をうまく描く自信がないのならますます、アンナの比重を下げて、神秘的に使うべきだったなと。出番が少なければ粗も出ないし、観客の想像に任せられるじゃん。
そのうえで、レオナードとゴーチェ@はっちさん関連を書き込む。
アンナに費やしていた時間を、男たちの物語をきちんと描く方に回すんだ。
レオナードの復讐は? レオナード殺しの依頼人とは? 物語のきっかけ、核となる部分なのに書き込んでないって、ありえない失敗だよ。
殺し屋ウルフを取り巻く設定部分を、まずきちんと描いてくれ。
ホテル・コンチネンタルのあれこれを描くのは、その合間。群衆芝居は大好きだけど、脇キャラを動かすのが楽しくて真ん中をおざなりにするのは同人誌的だから。プロならきちんと真ん中を描いて、その余力で脇を魅力的に遊ばせてくれ。
まず、レオナードの復讐ありきだよね?
レオナードことスタンが親の復讐のためにいろいろ嗅ぎ回っていた。それをよく思わない者(=復讐相手?)が、ゴーチェにスタン殺害を依頼した。
ゴーチェの命令でスタンを殺そうとしたウルフは、スタンが幼なじみの友人であったことに気づき、殺すことが出来ずに組織を離脱。
スタンはそのまま行方をくらまし、記憶喪失のレオナードと名乗って、ホテル・コンチネンタルに現れる。
コンチネンタルで偶然再会したウルフとレオナード。病気で余命幾ばくもないウルフはレオナードの「記憶喪失」を信じ、残り少ない時間を彼と過ごせることをよろこぶ。
レオナードは、ウルフが自分を殺そうとした男だと知った上で、情報を得るためにわざと近づいた。
ウルフの居場所を知ったゴーチェは、再度レオナードを殺せと命令する。
ウルフとレオナードは話し合い、互いの真実を打ち明け合う。
ウルフはひとりホテル・コンチネンタルを去り、レオナードも本名のスタンに戻って自宅へ帰った。
……で?
このあと、どーなったんですかい?
ウルフがスタンを殺さなくても、スタンサイドの話はなんの決着もついていない。
nanaタンは反対するけど、やはりレオナードと家出主婦サラ@きらりとの意味のない恋愛もどきをまるっと削って、スタンの復讐話をきちんと書き込むのがいちばん正しい方法だろうな。
サラとの話がなければ、奥さんとの関係も問題がなくなるし。レオナードがサラに手を出すから、ただでさえ書き込み不足のレオナードというキャラクタが、ただの書き込み不足から破綻にまでレベルアップしちゃうんだよなー。
サラといいアンナといい、無理に女を絡め、無理に恋愛色を出そうとして失敗している。
もともとこの物語に、女も恋愛も大して必要ではなかったせいだろう。
それがもったいない。
「恋愛」の描き方のスノッブさも含めて、作者自身の若さが出ているのかな。
改編を望む。
コレを下敷きにして、軌道修正し、破れたところを繕ってくれ。
男たちの物語と、彼らの殺伐とした人生の光となる女たちの物語として。そして、彼らの人生が交差するホテルの物語として。
DC楽を観る気満々だったんで、そのときにまとめて書こうと思っていたのに、観られなかったから……わーん、思い出してもくやしいよ〜〜、オサ様〜〜。
あとできちんと書くつもりだったから、初日の流し書き感想しか、書いてない。
そしてそのあと『スカウト』祭りなんかやってたから、もうなにを書くつもりだったか、ろくにおぼえていない……わーん。
『スカウト』と『アパシネ』なら、『アパシネ』の方が好きです。
『アパシネ』は毎回大泣きしたけど、『スカウト』は一度も泣けなかった。出そうになった涙も、ラストのオチで引っ込んだし。
……それでも、まっつに『アパシネ』に出て欲しかったとは、カケラも思わないけどな……どんな壊れていても誠意がなくても、『スカウト』がいい……アズ@まっつが好き……(処置ナシ)。
『アパシネ』は、初見よりも2回目以降の観劇の方が、たのしめます。
てゆーか絶対、複数回観るべき作品。
2回目の観劇のとき、わたしはnanakoさんと一緒だったんだけど。
幕間、ふたりしてもー、大騒ぎ。
「たのしいたのしいたのしいっ」
「オサ様素敵っ!!」
「ここまでオサ→ゆみってアリ?!」
このときが初見の友人キティちゃんがぽかんとしている横で、ふたりだけで盛り上がりまくり。
オチをわかったうえで観ると、1幕でオサ様とゆみこちゃんがすげー細かい芝居をしているのがわかるのよ。
ウルフ@オサが、レオナード@ゆみこを見る目がね。目がっ。郷愁と愛情に満ちた、せつないやさしい目をしているのですよっ。
レオナードもまた嘘をついているわけだから、相手の出方と自分の距離を測る、複雑な演技をじつに細かくしているわけで。
ふたりのかけひきっぷりが、もう。たまりませんよ。
オサ様とゆみこちゃんって、ほんっとに演技の相性がいいと思う。
相乗効果ってあると思うのね。このふたりを組ませると、単体でいるときよりさらに魅力的になる。
作品的には、粗がありまくりで、手直ししたくて仕方がない(笑)。
せっかくのヒロイン・アンナ@彩音とウルフはいい感じに描けているのに、書き込み不足。2幕のアンナの出番の少なさはナニ? 結婚式やってる場合ぢゃないって(笑)。
そしてなによりも、レオナード。作品の壊れた部分の代表格。この男の書き込みの少なさと出番の多さと役割の重要さ、なんとかならんのか。これほど重要キャラにするならもっときちんと書き込むべきだし、あの程度にしか書き込めないなら役を軽くするべきだ。
ゆみこちゃんがその堅実な演技力で、なんとか踏みとどまってみせてくれているけど、キャラ自体の破綻っぷりはひどい。
作者の稲葉氏は、女性との恋愛よりも男同士の友情を描く方が得意な人(好きな人)なのかもしれないな。
恋愛パートのいい加減さ(笑)と、作品バランスを壊すほどの男の友情パートの長さを見ていてそう思う。
描けるのは「男の友情」だが、タカラヅカだから恋愛しなきゃいけない。だもんで無理矢理「恋愛」を描いて、いろんな意味で失敗する。
素直にウルフとレオナードの話にしておいて、そこにアンナを絡める、程度にしておけばよかったんだと思う。アンナ役がトップ娘役お披露目になるとは、プロット段階ではわかっていなかったんじゃないのかな?
変にアンナの比重を上げなくても、象徴的に出すだけでもヒロインとしての責は果たせた思う。そーゆーキャラだろ、アンナって。
現在のなにもかもに疲れたウルフが偶然目にした、映画のヒロイン。スクリーンの中の彼女に恋をし、彼女を想う心だけを救いとする……聖母ポジションの女性。
たとえ現実の彼女が聖母でもなんでもない、落ちぶれた高慢女だったとしても、ウルフにとっての彼女の神聖さは薄れない。彼女を心配し、見守り、ちょっかいをかけ……やがて現実の彼女と恋に落ちるとしても。アンナはウルフの救いであり、聖母なんだ。
出番自体は少なくても、象徴的に使うだけでアンナはカタチになる。高慢ヒス女が、恋を知り愛を知り、成長する。男の嘘をも愛し、赦す、真の意味での聖母となる。
「女」と「恋愛」をうまく描く自信がないのならますます、アンナの比重を下げて、神秘的に使うべきだったなと。出番が少なければ粗も出ないし、観客の想像に任せられるじゃん。
そのうえで、レオナードとゴーチェ@はっちさん関連を書き込む。
アンナに費やしていた時間を、男たちの物語をきちんと描く方に回すんだ。
レオナードの復讐は? レオナード殺しの依頼人とは? 物語のきっかけ、核となる部分なのに書き込んでないって、ありえない失敗だよ。
殺し屋ウルフを取り巻く設定部分を、まずきちんと描いてくれ。
ホテル・コンチネンタルのあれこれを描くのは、その合間。群衆芝居は大好きだけど、脇キャラを動かすのが楽しくて真ん中をおざなりにするのは同人誌的だから。プロならきちんと真ん中を描いて、その余力で脇を魅力的に遊ばせてくれ。
まず、レオナードの復讐ありきだよね?
レオナードことスタンが親の復讐のためにいろいろ嗅ぎ回っていた。それをよく思わない者(=復讐相手?)が、ゴーチェにスタン殺害を依頼した。
ゴーチェの命令でスタンを殺そうとしたウルフは、スタンが幼なじみの友人であったことに気づき、殺すことが出来ずに組織を離脱。
スタンはそのまま行方をくらまし、記憶喪失のレオナードと名乗って、ホテル・コンチネンタルに現れる。
コンチネンタルで偶然再会したウルフとレオナード。病気で余命幾ばくもないウルフはレオナードの「記憶喪失」を信じ、残り少ない時間を彼と過ごせることをよろこぶ。
レオナードは、ウルフが自分を殺そうとした男だと知った上で、情報を得るためにわざと近づいた。
ウルフの居場所を知ったゴーチェは、再度レオナードを殺せと命令する。
ウルフとレオナードは話し合い、互いの真実を打ち明け合う。
ウルフはひとりホテル・コンチネンタルを去り、レオナードも本名のスタンに戻って自宅へ帰った。
……で?
このあと、どーなったんですかい?
ウルフがスタンを殺さなくても、スタンサイドの話はなんの決着もついていない。
nanaタンは反対するけど、やはりレオナードと家出主婦サラ@きらりとの意味のない恋愛もどきをまるっと削って、スタンの復讐話をきちんと書き込むのがいちばん正しい方法だろうな。
サラとの話がなければ、奥さんとの関係も問題がなくなるし。レオナードがサラに手を出すから、ただでさえ書き込み不足のレオナードというキャラクタが、ただの書き込み不足から破綻にまでレベルアップしちゃうんだよなー。
サラといいアンナといい、無理に女を絡め、無理に恋愛色を出そうとして失敗している。
もともとこの物語に、女も恋愛も大して必要ではなかったせいだろう。
それがもったいない。
「恋愛」の描き方のスノッブさも含めて、作者自身の若さが出ているのかな。
改編を望む。
コレを下敷きにして、軌道修正し、破れたところを繕ってくれ。
男たちの物語と、彼らの殺伐とした人生の光となる女たちの物語として。そして、彼らの人生が交差するホテルの物語として。
タニちゃんの歌がOKな理由と同じ(笑)。@星組エンカレッジコンサート
2006年4月24日 タカラヅカ 星組『エンカレッジコンサート』のことなんだが。
個々の歌唱力云々は問わない。
正直首を傾げることもあったが、そーゆーのは別にどーでもいいんだ、わたし的に。
わたしは、「歌が下手だから、素人の発表会みたいだわ」とは、思わない。
「技術がなんだ、ワタシはスタァよ、だからここでスポットライトあびてるのよ、文句ある?! さあ、たのしんでいってよね!」とゆー、心意気があれば、それは「発表会」ではなく「コンサート」だと認識する。
たのしかった。
月組のエンカレを観て、技術ではない部分に疑問を大きく感じていたので、そこを満足させてくれた今回の星エンカレには、意外なほどたのしめた。
出演者の名前見て、気持ちはあまり盛り上がってなかったんだけどねえ。いやその、わたし的に。この面子でなにを表現するんだろう、と懐疑的だったよ。
「歌えるスター」が不在だと、公演自体に「ストーリー」が描けないのだということを、月エンカレの欄で書いた。起承転結、クライマックス、箇条書きじゃダメだ、プロのステージである以上盛り上げてくれなければ。
星のメンバーを眺めてみれば、「歌が得意」なスター、しゅんくんがいる。んじゃあきっと、月でいうところのもりえちゃんポジはしゅんくんでくるだろう、もりえちゃんは歌声に説得力がなかったが、しゅんくんなら大丈夫だな。きっとうまい歌を聴かせ、盛り上げてくれるだろう。
と、思いはしたけど。
わたしはあまり、しゅんくんに思い入れがなく、かわいこちゃんなだけの「男装した女の子」がどれほど歌がうまくても、あまりときめかないというか響かないというか、「たのしみだわ!」というわくわく感にはまったくつながらなかったのだわ。
かわいい女の子を眺めて、みきちぐとももさりのキャラをたのしみに行こう。……それくらいのハートだった。
ごめん。
しゅんくんに、謝ります。
めっさオトコマエだった。「男装した女の子」なんかではありえない、しっかりした「タカラヅカの男役」だった。
星組の他のみんなもごめんねー。なんかわたし、ナメてかかってたよー。
幕が上がるなり、なんか戦闘意欲全開!の男がふたりいて、びびりました(笑)。
わたし、前方ドセンターにいたんですが。
ななななんか、目線がすごいですよ、中央の男ふたり!
ひとりはすっきりした二枚目さん。もうひとりは、ゴツくてクドくて、二枚目ではないけどなんかものすげー存在感のある男。
二枚目の方は、マジで誰かわからなかった。
こんな子、星組にいたっけ?
……麻尋しゅんだと気づいたときは、おどろいた。
クドい方の男は、仲間内で人気(笑)の水輝涼か。ちゃんと見るのはじめてだー。
やたらエンジン全開のふたりに攻撃されて、最初からあたしゃ目が泳いじゃったわ。
とくに、水輝涼。
あーた、わたしをオトそうとしている?
わ、わわわ、わたしに気があるの?!
と、うろたえてしまうほどの目線が来るんですけど。
こわいよーこわいよー。いやその、トキメキより恐怖が……いやそのえっと。動揺。
カンチガイだということはわかっておりますが、それでもすごかったのよ、目線の絨毯爆撃。
水輝涼は目に見えてすごかったし、しゅんくんも負けてなかった。まるで藤堂さん@エースをねらえ!のよーな、一見さわやかだがありえない美形様オーラで目線光線出してるんだもの。
なんかやたら濃い男ふたりのために、必要以上に濃かったオープニングのあとは、わりとテンションが落ち着く。
そう、ひとりずつが出てきて淡々と歌う、という、「箇条書き」な構成がスタートしたんだ。
あら、うまいわこの子、とよろこんだり、えーっとコレは……とアタマを抱えたくなったりしつつも。
わたし的ポイントは、彼らの「自己表現法」なの。
そりゃ、他のすべてをなぎ倒すほど圧倒的な歌唱力があれば、それ以外なにも持たなくてもかまわないけど。そこまで行かない、「うまいよね」レベルならポイントは「どう見せてくれるか」だよ。
たとえ巧くなくても、あきらかに経験不足であっても、「伝えたい、表現したい」というアグレッシヴなものがあればたのしめる。
素人の「発表会」とプロの「コンサート」の差は、そこにあるんじゃないかな。
自分が勉強してきたことを、ひとりで反芻するのではなく、第三者に向けて発信する。自分がどうこうではなく、まず他人がどう思うかを考える。
ほら、同人誌と商業誌のちがい? 同人誌は自分だけが気持ちよければそれでいいけど、商業誌だとまず読者よね。自分だけが傑作だと思っても、読者がたのしめなかったら駄作だよね。
技術だけなら同人誌や、素人の発表会で競っていてもいい。そーじゃなくて、ここはプロのステージだから、「他人の目」を意識した「芸」が観たい。
そーゆー意味では星組、たのしい。たのしめる。
箇条書きに過ぎない部分もそれなりにたのしいんだが、途中からそこに「ストーリー」が加わるんだよね。
1幕の後半、コロちゃんの「アイーダの信念」から加速スタート。
水輝涼のドラマティック歌唱「アイーダ強き光よ」で発熱、盛り上がったところにみきちぐ登場、ムード歌謡全開の「アマール・アマール」で雰囲気を作り、さらに「歌えるスター」麻尋しゅんで「Sinner man」だ!
箇条書きだったはずの文章が、つながりをもって「物語」として作用しているのよ。
場がどんどん盛り上がっていき、発散型の曲、「Sinner man」でこれでもか!と爆発して、幕。
「歌える人」と「スターとして場を盛り上げる人」を、正しく配置した結果だろう。
トリを飾ったしゅんくんが、「歌えるスター」であったことも大きい。
ただ「スター」だというだけで、歌唱力のない人がこの構成でこの曲を歌ったら、よほどのスター性がないとスベって悲惨なことになっただろうから。
新公学年でこの構成のトリをつとめて勝利した、麻尋しゅんに心からの賞賛を送る。
おかげで、実に気持ちのいい「ストーリー」を見せてもらえた。
さらに2幕。
全員で歌うアカペラがね、みょーにたのしいの。
あー、「音で遊んでるな」と思えた。
この人たち、音をたのしんでいる。その「たのしさ」を、客席に向けているんだな、と。
だから「箇条書き」を超えて、「ストーリー」を感じさせてくれるんだなと思った。
さて、今回のコンサートを牽引する麻尋しゅんと水輝涼。
2幕では順番が入れ替わり、しゅんのあとに水輝涼、コンサートすべての大トリを飾るのが水輝涼でした。
ここの構成が月星ともに同じだったので、そーゆーコンセプトなのかしら、と思ってみたり。
「路線スター」が1幕のトリを飾り、「実力派歌手」がコンサート全体のトリである2幕最後のソロを締める。
星組は「路線スター」ポジがしゅんくんで、歌手としての仕事も十分に出来る子であり、「実力派歌手」ポジの水輝涼が、そのへんの若手路線スターよりも度胸と芝居心があって我先にと自己表現する子だったのが幸い。
いやー、盛り上がるのなんのって。
「盛り上がる」演出をしているところで、出演者が正しく任を果たし、ほんとーに盛り上げてくれるんだもの。クライマックスが、正しくクライマックスなの。気持ちいい!
あー、所詮わたしはショーよりコンサートより、「芝居」が、「物語」が好きなのね。
ダンスや歌といった技術系のことより、構成や演出が気になるし、「ストーリー」を味わいたいと思っている。
星組エンカレは、意外にも「ストーリー」があり、それがわたしをたのしませてくれた。
純粋に、「たのしかったっ」と思えたの。
しゅんくんの二枚目ぶりも感動だったし、水輝涼の濃さとやたら直撃する目線には瞠目したし(笑)。
なんだよエンカレ、ふつーにストーリーを構築することもできんじゃん〜。
幾人かの歌の技術と選曲には、疑問いろいろだったけどさ(笑)。
個々の歌唱力云々は問わない。
正直首を傾げることもあったが、そーゆーのは別にどーでもいいんだ、わたし的に。
わたしは、「歌が下手だから、素人の発表会みたいだわ」とは、思わない。
「技術がなんだ、ワタシはスタァよ、だからここでスポットライトあびてるのよ、文句ある?! さあ、たのしんでいってよね!」とゆー、心意気があれば、それは「発表会」ではなく「コンサート」だと認識する。
たのしかった。
月組のエンカレを観て、技術ではない部分に疑問を大きく感じていたので、そこを満足させてくれた今回の星エンカレには、意外なほどたのしめた。
出演者の名前見て、気持ちはあまり盛り上がってなかったんだけどねえ。いやその、わたし的に。この面子でなにを表現するんだろう、と懐疑的だったよ。
「歌えるスター」が不在だと、公演自体に「ストーリー」が描けないのだということを、月エンカレの欄で書いた。起承転結、クライマックス、箇条書きじゃダメだ、プロのステージである以上盛り上げてくれなければ。
星のメンバーを眺めてみれば、「歌が得意」なスター、しゅんくんがいる。んじゃあきっと、月でいうところのもりえちゃんポジはしゅんくんでくるだろう、もりえちゃんは歌声に説得力がなかったが、しゅんくんなら大丈夫だな。きっとうまい歌を聴かせ、盛り上げてくれるだろう。
と、思いはしたけど。
わたしはあまり、しゅんくんに思い入れがなく、かわいこちゃんなだけの「男装した女の子」がどれほど歌がうまくても、あまりときめかないというか響かないというか、「たのしみだわ!」というわくわく感にはまったくつながらなかったのだわ。
かわいい女の子を眺めて、みきちぐとももさりのキャラをたのしみに行こう。……それくらいのハートだった。
ごめん。
しゅんくんに、謝ります。
めっさオトコマエだった。「男装した女の子」なんかではありえない、しっかりした「タカラヅカの男役」だった。
星組の他のみんなもごめんねー。なんかわたし、ナメてかかってたよー。
幕が上がるなり、なんか戦闘意欲全開!の男がふたりいて、びびりました(笑)。
わたし、前方ドセンターにいたんですが。
ななななんか、目線がすごいですよ、中央の男ふたり!
ひとりはすっきりした二枚目さん。もうひとりは、ゴツくてクドくて、二枚目ではないけどなんかものすげー存在感のある男。
二枚目の方は、マジで誰かわからなかった。
こんな子、星組にいたっけ?
……麻尋しゅんだと気づいたときは、おどろいた。
クドい方の男は、仲間内で人気(笑)の水輝涼か。ちゃんと見るのはじめてだー。
やたらエンジン全開のふたりに攻撃されて、最初からあたしゃ目が泳いじゃったわ。
とくに、水輝涼。
あーた、わたしをオトそうとしている?
わ、わわわ、わたしに気があるの?!
と、うろたえてしまうほどの目線が来るんですけど。
こわいよーこわいよー。いやその、トキメキより恐怖が……いやそのえっと。動揺。
カンチガイだということはわかっておりますが、それでもすごかったのよ、目線の絨毯爆撃。
水輝涼は目に見えてすごかったし、しゅんくんも負けてなかった。まるで藤堂さん@エースをねらえ!のよーな、一見さわやかだがありえない美形様オーラで目線光線出してるんだもの。
なんかやたら濃い男ふたりのために、必要以上に濃かったオープニングのあとは、わりとテンションが落ち着く。
そう、ひとりずつが出てきて淡々と歌う、という、「箇条書き」な構成がスタートしたんだ。
あら、うまいわこの子、とよろこんだり、えーっとコレは……とアタマを抱えたくなったりしつつも。
わたし的ポイントは、彼らの「自己表現法」なの。
そりゃ、他のすべてをなぎ倒すほど圧倒的な歌唱力があれば、それ以外なにも持たなくてもかまわないけど。そこまで行かない、「うまいよね」レベルならポイントは「どう見せてくれるか」だよ。
たとえ巧くなくても、あきらかに経験不足であっても、「伝えたい、表現したい」というアグレッシヴなものがあればたのしめる。
素人の「発表会」とプロの「コンサート」の差は、そこにあるんじゃないかな。
自分が勉強してきたことを、ひとりで反芻するのではなく、第三者に向けて発信する。自分がどうこうではなく、まず他人がどう思うかを考える。
ほら、同人誌と商業誌のちがい? 同人誌は自分だけが気持ちよければそれでいいけど、商業誌だとまず読者よね。自分だけが傑作だと思っても、読者がたのしめなかったら駄作だよね。
技術だけなら同人誌や、素人の発表会で競っていてもいい。そーじゃなくて、ここはプロのステージだから、「他人の目」を意識した「芸」が観たい。
そーゆー意味では星組、たのしい。たのしめる。
箇条書きに過ぎない部分もそれなりにたのしいんだが、途中からそこに「ストーリー」が加わるんだよね。
1幕の後半、コロちゃんの「アイーダの信念」から加速スタート。
水輝涼のドラマティック歌唱「アイーダ強き光よ」で発熱、盛り上がったところにみきちぐ登場、ムード歌謡全開の「アマール・アマール」で雰囲気を作り、さらに「歌えるスター」麻尋しゅんで「Sinner man」だ!
箇条書きだったはずの文章が、つながりをもって「物語」として作用しているのよ。
場がどんどん盛り上がっていき、発散型の曲、「Sinner man」でこれでもか!と爆発して、幕。
「歌える人」と「スターとして場を盛り上げる人」を、正しく配置した結果だろう。
トリを飾ったしゅんくんが、「歌えるスター」であったことも大きい。
ただ「スター」だというだけで、歌唱力のない人がこの構成でこの曲を歌ったら、よほどのスター性がないとスベって悲惨なことになっただろうから。
新公学年でこの構成のトリをつとめて勝利した、麻尋しゅんに心からの賞賛を送る。
おかげで、実に気持ちのいい「ストーリー」を見せてもらえた。
さらに2幕。
全員で歌うアカペラがね、みょーにたのしいの。
あー、「音で遊んでるな」と思えた。
この人たち、音をたのしんでいる。その「たのしさ」を、客席に向けているんだな、と。
だから「箇条書き」を超えて、「ストーリー」を感じさせてくれるんだなと思った。
さて、今回のコンサートを牽引する麻尋しゅんと水輝涼。
2幕では順番が入れ替わり、しゅんのあとに水輝涼、コンサートすべての大トリを飾るのが水輝涼でした。
ここの構成が月星ともに同じだったので、そーゆーコンセプトなのかしら、と思ってみたり。
「路線スター」が1幕のトリを飾り、「実力派歌手」がコンサート全体のトリである2幕最後のソロを締める。
星組は「路線スター」ポジがしゅんくんで、歌手としての仕事も十分に出来る子であり、「実力派歌手」ポジの水輝涼が、そのへんの若手路線スターよりも度胸と芝居心があって我先にと自己表現する子だったのが幸い。
いやー、盛り上がるのなんのって。
「盛り上がる」演出をしているところで、出演者が正しく任を果たし、ほんとーに盛り上げてくれるんだもの。クライマックスが、正しくクライマックスなの。気持ちいい!
あー、所詮わたしはショーよりコンサートより、「芝居」が、「物語」が好きなのね。
ダンスや歌といった技術系のことより、構成や演出が気になるし、「ストーリー」を味わいたいと思っている。
星組エンカレは、意外にも「ストーリー」があり、それがわたしをたのしませてくれた。
純粋に、「たのしかったっ」と思えたの。
しゅんくんの二枚目ぶりも感動だったし、水輝涼の濃さとやたら直撃する目線には瞠目したし(笑)。
なんだよエンカレ、ふつーにストーリーを構築することもできんじゃん〜。
幾人かの歌の技術と選曲には、疑問いろいろだったけどさ(笑)。
鳥は飛ぶ。灼け付く太陽に向かって。@星組エンカレッジコンサート
2006年4月23日 タカラヅカ 完成までに10年かかる工芸品がある。
専用の部屋でじっくり10年寝かせないと独特の色が定着しないという、やっかいな工芸品だ。
10年経っても色の出方に個体差が出来、ものすごい高値がつくものもあれば、二束三文にしかすぎないものもあり、コレで儲けるのはなかなかに難しい。
さて、この不景気な世の中、工芸品ひとつに10年も掛けるのはバカバカしいんじゃないか、という者が現れてきた。
色を付けたら、すぐさま売ればいい。
色を塗ったその瞬間は、きれいなのだ。
ただ専用の部屋で10年寝かせないと、すぐにその色がはげてしまったり褪せてしまったりするだけで。
欲しいのは、今この瞬間の現金だ。
工芸品が作りたいわけでもないし、客に長く愛される商品を作りたいわけでもない。
そこそこきれいで安価なら、客はよろこぶ。10年寝かせた美しさとはまったくチガウ、手軽なだけの商品だが、要は売れればいいんだ。
すぐに色褪せて使い物にならなくなるが、そんなことは知ったこっちゃない。代わりなんかいくらでもある。きれいでなくなったら捨てればいいだけのことだ。
10年掛けて、真に美しいモノを作るなんて、バカバカしい。
……とゆーものを感じるのが、劇団の、麻尋しゅんの使い方だった。
男役は、一朝一夕に出来上がるモノではない。
元の素質に加え、訓練によって形成されていくモノだ。
だが、なかにはそーゆー通常のプロセスを無視して、手っ取り早く「スター」を作ってしまおうという思惑が見える場合がある。
この「スター」というのは一般的な男役スターのことではない。「アイドル」と言い換えた方がいいかな、訓練された男役ではなく、男装した女の子アイドルのことだ。
女性は中性的なモノが好きだ。
ジャニーズは普遍的な人気を博しているし、少女マンガの男の子は女の子と区別のつかない華奢な体格で女顔、美少年の女装はマンガでもドラマでも、そしてタカラヅカでも定番のファンサービス。
ボーダーレスな美しさは、たしかに価値がある。
でもな。
最初からソレだけを狙って作られるアイドルってのは、どうなのよ。
男役を作るには、時間が必要だ。
でも、手っ取り早く儲けたい。
それなら、男役になる前の、まだ性別ができあがっていない子どもに女装をさせればいい。
いわば、まだ声変わりもしていないし、ヒゲも生えていないようなものだから、女装させても自然だ。
タカラヅカは男役の世界、男役でないと儲からない。だから男役をさせるが、男役としての技術もアイデンティティもどーでもいい、元の女の子としてのかわいさだけあればいい。
客は男役の女装をよろこぶから、とにかく女装させて、かわいいんだきれいなんだということだけで、売ればいい。
男っぽい役をやらせる必要はない、技術がなくても出来る中性的な役か子役だけをやらせよう。男役の技術なんかかえってマイナスだ、狙いは「男装した女の子アイドル」なのだから。容姿さえよければ誰でもできる、量産可能だというのがポイントのひとつなのだから。
学年が上がれば、かわいいだけでは行き詰まるだろうが、そんなことは関係ない。かわいくなれない年齢になったら、退団させればいい。代わりはいくらでもいる。
育てる気も、長く在団させる気もナシ。
かわいいうちだけかわいこちゃんで売って、容姿が衰えたら捨てる。
そのつもりか? そのつもりなのか歌劇団?
研1で小天狗ちゃん(子役)、研2でアイーダ(女役)、研3で李亀年(優男歌手)、研4でサウフェ(泣き虫かわいこちゃん)研5で小公子(子役)とオスカル(女役)、そしてショーでは女装が定番。
「男役」として育てる気は、まったくないよな? 「かわいこちゃん」として、女装させることが前提の男の子なんだよな?
男役スキルがないままトシだけ取ったらキモくなるもんだから、そーなったら退団させようってハラだな?
正当派の男役はれおんひとりでいいやってこと? わざわざ和くんが組替えで来るってのは、しゅんくんの「使い道」はソレだけだってこと?
麻尋しゅんを「男装した女の子」としてしか使わない劇団に、疑問でいっぱいだった。不審でいっぱいだった。
彼の抜擢がすべて、「将来この子をトップにするぞ」という意図ではなく、「今、かわいい容姿で金(人気)を稼いでくれればそれでヨシ」という、刹那的な意図に思えて。
だってね。
宝塚歌劇の男役トップスターというのは、「かわいい少年」ではないから。
不倫も略奪愛も戦争も出来る、大人の男でないと、成り立たないのだから。
「かわいい少年」としてしか使われない、勉強をさせてもらえない抜擢ってのは、将来をまったく視野に入れていない、ただの便利遣いだと思うから。
タニちゃんを見てごらんよ。
どんなに似合わなかろうとできなかろうと、大人の男だとかニヒルだとかワイルドだとかセクシーだとか、「成長させるため」の役を与えられ続けてるじゃん。
「将来を考えた上での抜擢」と、「使い潰すための抜擢」の差に見えるんだよ。
劇団の思惑と容姿のかわいらしさ、そして、麻尋しゅん自身の持ち味の不協和音。
しゅんくん自身の持ち味って、何故かけっこー骨太で、男っぽいんだよね。
あの容姿なのに。あの扱いなのに。
少年っぽいぷくぷくしたほっぺをしながら、女っぽいむっちりしたお尻をしながら、芸風自体は男っぽい。男役声もできてる。
それが不協和音。
しゅんくん自身は、「男装した女の子」で終わるつもりはまったくなく、「男役」になるためにあがいているように見える。
でも、彼自身の力不足と劇団が彼に求めるモノがあり、思うように動けない。
見ていて、なんか、つらい。
いびつなものは、見ていてつらいんだ。
女が男の役をする、といういびつさを、「いびつである」ということに気づかせないルールを敷くことによってファンタジー化している劇団なのに、それを揺るがす存在は、違和感ゆえに正視できない。
麻尋しゅんのような存在は、苦手だ。
歌劇団の「ゆがみ」を体現しているようだから。
……だったんだけど。
前置きが長くてすまんね。
星組『エンカレッジコンサート』千秋楽に行った。
麻尋しゅんという「男役」のあがきを、覚悟を見せられた。
劇団は彼を、「かわいこちゃん」として使い潰す気かもしれない。
でも彼は、それをヨシとしてはいない。
戦う気だ。
自分自身が成長することで、「かわいこちゃん」で終わらない覚悟だ。
容姿が衰えれば捨てられる、子犬でなくなったら価値がなくなる、そうわかったうえで、牙を磨く。かわいさではなく、精悍さを、成犬の強さで別の価値を得る。
おかしな抜擢や、「両性具有」あるいは「無性」であることを強要されていなければ、彼は地道に「骨太な男役」を目指して精進していたんだろうと思う。声や芸風といった、「後天的に得た技術」は男っぽいのだから。
劇団から押し付けられた「かわいこちゃん」の役ではなく、自分で曲を選び、芸風を選び、自分で表現できるエンカレの場で、麻尋しゅんは「本来の自分自身」を解放して見せた。
真にやりたかったことがなんなのか。なにを求め、目指していたのかを。
もちろん、ソコに至るまでの「かわいこちゃん」としての抜擢の数々が力になっていることだろう。「真ん中」に立つことをはじめとし、「若手スター」としての露出の多さは確実に彼のスキルを上げている。
今まで力不足で表現しきれなかったことも含め、得意とする「歌」というジャンルで、一気に解放する。
「麻尋しゅん」という存在を。
「かわいこちゃん」ではなく、「タカラヅカの男役」であることを。
今まで劇団から与えられていた「かわいこちゃん」な姿はどこにもない。
すっきりとした美しい容姿の青年がいる。
コーラスではさわやかに微笑んでいながら、独唱場面では男っぽさを前面に出し、好戦的でさえある。
より前へ、より高みへ進もうとする、若い牡がいる。
貪欲に、赤裸々に。
プログラムに、わざわざ書いてあるのよ。「自分の殻を破る覚悟」云々って。
殻を破るもなにも、もともとそっちをやりたい子だってコトは、伝わっていただろうに。
ああ、「かわいこちゃんな麻尋しゅん」を好きな人たちへの言い訳、牽制だなー、と思った。
そう書いておけば、「まあ、しゅんくんたら、柄にもないのにあんなにがんばって男っぽくして。微笑ましいわ」と思って、「かわいこちゃん」以外を認めないファンにもごまかしが利くよな(笑)。このお利口さん。
彼の覚悟と、宣戦布告に感動した。
これからこの少年は、どんなふうに成長するのだろう?
専用の部屋でじっくり10年寝かせないと独特の色が定着しないという、やっかいな工芸品だ。
10年経っても色の出方に個体差が出来、ものすごい高値がつくものもあれば、二束三文にしかすぎないものもあり、コレで儲けるのはなかなかに難しい。
さて、この不景気な世の中、工芸品ひとつに10年も掛けるのはバカバカしいんじゃないか、という者が現れてきた。
色を付けたら、すぐさま売ればいい。
色を塗ったその瞬間は、きれいなのだ。
ただ専用の部屋で10年寝かせないと、すぐにその色がはげてしまったり褪せてしまったりするだけで。
欲しいのは、今この瞬間の現金だ。
工芸品が作りたいわけでもないし、客に長く愛される商品を作りたいわけでもない。
そこそこきれいで安価なら、客はよろこぶ。10年寝かせた美しさとはまったくチガウ、手軽なだけの商品だが、要は売れればいいんだ。
すぐに色褪せて使い物にならなくなるが、そんなことは知ったこっちゃない。代わりなんかいくらでもある。きれいでなくなったら捨てればいいだけのことだ。
10年掛けて、真に美しいモノを作るなんて、バカバカしい。
……とゆーものを感じるのが、劇団の、麻尋しゅんの使い方だった。
男役は、一朝一夕に出来上がるモノではない。
元の素質に加え、訓練によって形成されていくモノだ。
だが、なかにはそーゆー通常のプロセスを無視して、手っ取り早く「スター」を作ってしまおうという思惑が見える場合がある。
この「スター」というのは一般的な男役スターのことではない。「アイドル」と言い換えた方がいいかな、訓練された男役ではなく、男装した女の子アイドルのことだ。
女性は中性的なモノが好きだ。
ジャニーズは普遍的な人気を博しているし、少女マンガの男の子は女の子と区別のつかない華奢な体格で女顔、美少年の女装はマンガでもドラマでも、そしてタカラヅカでも定番のファンサービス。
ボーダーレスな美しさは、たしかに価値がある。
でもな。
最初からソレだけを狙って作られるアイドルってのは、どうなのよ。
男役を作るには、時間が必要だ。
でも、手っ取り早く儲けたい。
それなら、男役になる前の、まだ性別ができあがっていない子どもに女装をさせればいい。
いわば、まだ声変わりもしていないし、ヒゲも生えていないようなものだから、女装させても自然だ。
タカラヅカは男役の世界、男役でないと儲からない。だから男役をさせるが、男役としての技術もアイデンティティもどーでもいい、元の女の子としてのかわいさだけあればいい。
客は男役の女装をよろこぶから、とにかく女装させて、かわいいんだきれいなんだということだけで、売ればいい。
男っぽい役をやらせる必要はない、技術がなくても出来る中性的な役か子役だけをやらせよう。男役の技術なんかかえってマイナスだ、狙いは「男装した女の子アイドル」なのだから。容姿さえよければ誰でもできる、量産可能だというのがポイントのひとつなのだから。
学年が上がれば、かわいいだけでは行き詰まるだろうが、そんなことは関係ない。かわいくなれない年齢になったら、退団させればいい。代わりはいくらでもいる。
育てる気も、長く在団させる気もナシ。
かわいいうちだけかわいこちゃんで売って、容姿が衰えたら捨てる。
そのつもりか? そのつもりなのか歌劇団?
研1で小天狗ちゃん(子役)、研2でアイーダ(女役)、研3で李亀年(優男歌手)、研4でサウフェ(泣き虫かわいこちゃん)研5で小公子(子役)とオスカル(女役)、そしてショーでは女装が定番。
「男役」として育てる気は、まったくないよな? 「かわいこちゃん」として、女装させることが前提の男の子なんだよな?
男役スキルがないままトシだけ取ったらキモくなるもんだから、そーなったら退団させようってハラだな?
正当派の男役はれおんひとりでいいやってこと? わざわざ和くんが組替えで来るってのは、しゅんくんの「使い道」はソレだけだってこと?
麻尋しゅんを「男装した女の子」としてしか使わない劇団に、疑問でいっぱいだった。不審でいっぱいだった。
彼の抜擢がすべて、「将来この子をトップにするぞ」という意図ではなく、「今、かわいい容姿で金(人気)を稼いでくれればそれでヨシ」という、刹那的な意図に思えて。
だってね。
宝塚歌劇の男役トップスターというのは、「かわいい少年」ではないから。
不倫も略奪愛も戦争も出来る、大人の男でないと、成り立たないのだから。
「かわいい少年」としてしか使われない、勉強をさせてもらえない抜擢ってのは、将来をまったく視野に入れていない、ただの便利遣いだと思うから。
タニちゃんを見てごらんよ。
どんなに似合わなかろうとできなかろうと、大人の男だとかニヒルだとかワイルドだとかセクシーだとか、「成長させるため」の役を与えられ続けてるじゃん。
「将来を考えた上での抜擢」と、「使い潰すための抜擢」の差に見えるんだよ。
劇団の思惑と容姿のかわいらしさ、そして、麻尋しゅん自身の持ち味の不協和音。
しゅんくん自身の持ち味って、何故かけっこー骨太で、男っぽいんだよね。
あの容姿なのに。あの扱いなのに。
少年っぽいぷくぷくしたほっぺをしながら、女っぽいむっちりしたお尻をしながら、芸風自体は男っぽい。男役声もできてる。
それが不協和音。
しゅんくん自身は、「男装した女の子」で終わるつもりはまったくなく、「男役」になるためにあがいているように見える。
でも、彼自身の力不足と劇団が彼に求めるモノがあり、思うように動けない。
見ていて、なんか、つらい。
いびつなものは、見ていてつらいんだ。
女が男の役をする、といういびつさを、「いびつである」ということに気づかせないルールを敷くことによってファンタジー化している劇団なのに、それを揺るがす存在は、違和感ゆえに正視できない。
麻尋しゅんのような存在は、苦手だ。
歌劇団の「ゆがみ」を体現しているようだから。
……だったんだけど。
前置きが長くてすまんね。
星組『エンカレッジコンサート』千秋楽に行った。
麻尋しゅんという「男役」のあがきを、覚悟を見せられた。
劇団は彼を、「かわいこちゃん」として使い潰す気かもしれない。
でも彼は、それをヨシとしてはいない。
戦う気だ。
自分自身が成長することで、「かわいこちゃん」で終わらない覚悟だ。
容姿が衰えれば捨てられる、子犬でなくなったら価値がなくなる、そうわかったうえで、牙を磨く。かわいさではなく、精悍さを、成犬の強さで別の価値を得る。
おかしな抜擢や、「両性具有」あるいは「無性」であることを強要されていなければ、彼は地道に「骨太な男役」を目指して精進していたんだろうと思う。声や芸風といった、「後天的に得た技術」は男っぽいのだから。
劇団から押し付けられた「かわいこちゃん」の役ではなく、自分で曲を選び、芸風を選び、自分で表現できるエンカレの場で、麻尋しゅんは「本来の自分自身」を解放して見せた。
真にやりたかったことがなんなのか。なにを求め、目指していたのかを。
もちろん、ソコに至るまでの「かわいこちゃん」としての抜擢の数々が力になっていることだろう。「真ん中」に立つことをはじめとし、「若手スター」としての露出の多さは確実に彼のスキルを上げている。
今まで力不足で表現しきれなかったことも含め、得意とする「歌」というジャンルで、一気に解放する。
「麻尋しゅん」という存在を。
「かわいこちゃん」ではなく、「タカラヅカの男役」であることを。
今まで劇団から与えられていた「かわいこちゃん」な姿はどこにもない。
すっきりとした美しい容姿の青年がいる。
コーラスではさわやかに微笑んでいながら、独唱場面では男っぽさを前面に出し、好戦的でさえある。
より前へ、より高みへ進もうとする、若い牡がいる。
貪欲に、赤裸々に。
プログラムに、わざわざ書いてあるのよ。「自分の殻を破る覚悟」云々って。
殻を破るもなにも、もともとそっちをやりたい子だってコトは、伝わっていただろうに。
ああ、「かわいこちゃんな麻尋しゅん」を好きな人たちへの言い訳、牽制だなー、と思った。
そう書いておけば、「まあ、しゅんくんたら、柄にもないのにあんなにがんばって男っぽくして。微笑ましいわ」と思って、「かわいこちゃん」以外を認めないファンにもごまかしが利くよな(笑)。このお利口さん。
彼の覚悟と、宣戦布告に感動した。
これからこの少年は、どんなふうに成長するのだろう?
若者たち。@Across
2006年4月22日 タカラヅカ 『Across』初日、ドラマシティへ急ぐ途中、思わず足を止めた。
紀ノ国屋前にある、巨大スクリーンBIGMAN。
そこに、ワタルくんがいた。
耳になじんだ歌声が流れ、玄宗と楊貴妃がよりそっていた。
スカステの『花舞う長安』のCMだ。
1年半前ここで、流れていたね。あれは公演CMで、今流れているものとはまったくチガウのだけど。
時間が余っているわけでもないのに、そのまま立ちつくした。
『長安』だけ見て行けるわけないじゃない、『ドルチェ・ヴィータ!』を見なければ。
BIGMANで再び、『ドルチェ・ヴィータ!』を見た。見られるとは、思ってなかった。
巨大スクリーンに映る、青い世界。今はいない美しい人。
番組のCMでしかないわけだから、ワタさんと檀ちゃん以外はろくに映らず終わる。
それでも、『ドルチェ・ヴィータ!』。
わたしの足を止めさせるもの。
きっと、何年経っても。
☆
ところで、『Across』。
ワタさんがものごっつーかっこいいことは、もう前提だから置くとして。
どうしよう。
あかしから、目が離れない。
どどどどーしよー。
あかしなのに。あかしなんだよっ?!
カオでかいし、体型バランス微妙だし、美形でもないのに。わたし的にはそーゆー認識なのに。
あかしが、かっこいいよーっ、きゃー!!
わたしは初日と本日、両方ともkineさんと並んで観劇したんだけど、あかしが出てくるたびに気前良く反応していたようで。観劇後に突っ込まれましたわ、ふふふ。
1幕のやんちゃ坊主っぽい姿もかわいいし、イキがっている青年っぷりもかっこいい。
オールバックはやめとけ(笑)と思うけど、スーツも黒タキもマタドールも素敵だってば。
てゆーか、極楽鳥ロケットすら、キュートに思えるんですけど。
……終わってますか? 終わってますかわたし?!
フィナーレで、カッコつけて胸ポケットからハンカチを取り出すあかしを見ていたら、客席降り中のワタさんを見失って、振り返るとすぐそこの通路歩いててびびったんですけどっ。
あかし見てて、ワタさんの最大接近ポイントを見逃すなんて……っ!!
あかしのために……あかしなのに……。
なんか、すっげー敗北感です。
この公演、ワタさんだけでなく出演者はみーんなオイシイ。
ゆうほさとるが、かっこいいです。
まちかを失った今、わたしを癒せるのはこの人しかいません。
ゆうほさとる。
星組を観るとき、いつどこにいてもわたしの目を奪う人。
去年の『ゴールデン・ステップス』のときは、まちかとゆうほが並んで踊っていて、「緑野こあら的、夢の競演?!」と戦慄したもんです。
そのゆーほさんが、かっこいいんです。
この公演で、ゆーほさんは、エンディと並んで「別格職人系スター」として、その責を十二分に果たしています。
もちろん、彼らのジョブは「歌手」です。
歌手・ゆーほさとる、癒やしの歌声。
声がいいの。安定していて、深みがあって。
この人確実に、うまくなってるよね。『ドルチェ・ヴィータ!』のときより、ずっとずっとうまくなってる。
エンディは相当癖の強い、自己主張の強い歌い方をするんだけど、ゆーほはニュートラルなの。そこがいいの〜。
でもって。
「ゆーほさとる、かっこいいよね?」
と、わたしがおそるおそる言うと、kineさんも、
「かっこいいよ!」
と、認めてくれました。
「そう、スタイルはいいんだし」
「カオが個性的なだけで」
「足は長いし」
「ハンサムじゃないだけで、いい男なんだよね」
……微妙な誉め方になっているかもしれんが。
エンディ・ゆーほが「職人」「歌手」ならば、この公演の2番手は誰か。
大真みらんファンは、劇場へ急げ!!
みらんくん、すげーっす。
この人、どこのスターさんですか?
最近、「真ん中」スキルを持たない素人さんたちの「若いから仕方ないでしょ」的言い訳のいっぱいぶらさがった公演を観てきたからさー。
一度も「真ん中」を与えてもらえなかった男の子が、ドラマシティとゆー中劇場で、「真ん中」であったりまえに仕事をしていることに瞠目です。
ふつーに場面もらって、ふつーにたったひとりで場を埋めているの。
歌うことで。表現することで。
うわわ、気持ちいい。
「若さ」とか「だって、場を与えてもらってなかった」とかを言い訳にしない。
ただあたりまえに舞台人として、「できる」ことを見せる。
その実力と舞台度胸、「スター」としての適性に感動。
……基本的にわたし、みらんくんは「役者」としての方が好きなので、ショーではあまりときめかないんですが。わたしのなかの優勢順位が「芝居>歌>ダンス」なので、芝居がうまい人がいちばん好きだし。
みらんくんは「役者」として好き。演技、うまいから。うますぎて地味になる(笑)くらい、きちんと仕事をする人だから。
そのためショー作品ではあまり響くことがなかったのだけど。
今回、キましたっ。
ちくしょー、なんでそんなにうまいんだっ。
脇でいい仕事をするだけでなく、真ん中もOKかよ。
いや、真ん中もできる人だと思っていたし、みらん主演で新公なりバウなり観たいとつねづね思ってきたけど。
こうやって、見せつけられるとまた、感動もひとしお。
その歌声に、表現力に、スターオーラに、ヤラレました。
声の深さと甘さがいいの。わーん、ステキ〜〜じたばた。
ダンサーでもあるから、男役としてもびしばし踊ってるし、女装してワタさんと踊ったりと、見せ場だらけだ。
みらんファンはマジ通うべきだ〜〜。
みらんが2番手ポジなら、3番手はゆかり。
ゆかりくんはもー、両性具有スターとして君臨。
女装多すぎ(笑)。
ゆかりくんも、ひとりで1場面任されたりしてるんだけど、彼はやはり、ふつーの若者らしくキョドってるねー。みらんが特別だとゆーことがよくわかる(笑)。
ゆかりくん、女役やってるときの方が落ち着いてるの。女役だと、あくまでも「相手役」で、「主役」じゃないから安心できるのかな。
ゆかりくんはその「美貌」がいちばんの才能であり実力なので、他になにができるのかさっぱりわからないんだけど。
歌がダメなのは、よくわかった(笑)。
美貌の人ってなんで歌苦手なんだろうねえ。そーゆー法則でもあるのかねえ。
ゆかりくんの、わたし的いちばんのツボは、1幕。
つっぱった若者姿のやばいくらいの美しさもよいのだけど。
そんな彼らがやがて大人になり、スーツ姿で現れるシーンがあるのね。
エンディ、ゆーほ、みらん……みんなふつーに、「ああ、大人になったんだね」スーツ姿なのに。
彼らについでスーツ姿で現れたゆかりの、どっから見てもカタギぢゃないっぷりに、大ウケ!!
アンタ絶対カタギぢゃない! スーツ着てても、絶対チガウから!!
なになに、ホスト? ホストなの? それともヤクザ?
あのやんちゃな若者たちが、こんなふーに大人に……というシーンで、ああ、ひとりだけマトモになれず、そっち系に就職しちゃった子がいるのね。人生いろいろね。的郷愁を煽ってどうするんだ、綺華れい!!
あーもー、すばらしいよ。
その芸風を貫いてくれ、星組名物綺華れいよ。
ワタさんを中心に、みらゆかが横に控え、エンディゆーほが土台を支える。
とゆー美も実力も安定した公演。
出演している他の子たちも、選りすぐりのメンバーだし。
ウメちゃんの現代的なキュートさ、コトコトの技術と「見せる」力、みなみちゃんの可憐さと強さ、ケロDSにも出ていた初瀬有香ちゃんの正確さと端正さ。
女の子たちはたった4人なのに、存在感はある意味男たちを超えている(笑)。まあ、初瀬有香ちゃん以外は全員「真ん中」経験者だもんなー。キャリアがチガウか。
4番手ポジがオイシイあかし、その輪郭からはみ出たよーな目と口が大好きだ一輝慎(笑)、かわいこちゃんのトワラー舞夕くん、スタイル抜群の夢乃聖夏くん。
あかしはともかく、他の少年たちは「修行中」の札が貼ってあるのが見える(笑)。この経験を吸収して、ビッグになってほしい。
ワタさんもステキだし、ワタさんファンは死んでも通うべき公演だし、その他出演者のファンもなにを投げ出しても駆けつけるべき公演だ。
わたしはもう観に行けないだろうけど、どうかみんな、しあわせな観劇を。
しあわせな時間を過ごして欲しい。
紀ノ国屋前にある、巨大スクリーンBIGMAN。
そこに、ワタルくんがいた。
耳になじんだ歌声が流れ、玄宗と楊貴妃がよりそっていた。
スカステの『花舞う長安』のCMだ。
1年半前ここで、流れていたね。あれは公演CMで、今流れているものとはまったくチガウのだけど。
時間が余っているわけでもないのに、そのまま立ちつくした。
『長安』だけ見て行けるわけないじゃない、『ドルチェ・ヴィータ!』を見なければ。
BIGMANで再び、『ドルチェ・ヴィータ!』を見た。見られるとは、思ってなかった。
巨大スクリーンに映る、青い世界。今はいない美しい人。
番組のCMでしかないわけだから、ワタさんと檀ちゃん以外はろくに映らず終わる。
それでも、『ドルチェ・ヴィータ!』。
わたしの足を止めさせるもの。
きっと、何年経っても。
☆
ところで、『Across』。
ワタさんがものごっつーかっこいいことは、もう前提だから置くとして。
どうしよう。
あかしから、目が離れない。
どどどどーしよー。
あかしなのに。あかしなんだよっ?!
カオでかいし、体型バランス微妙だし、美形でもないのに。わたし的にはそーゆー認識なのに。
あかしが、かっこいいよーっ、きゃー!!
わたしは初日と本日、両方ともkineさんと並んで観劇したんだけど、あかしが出てくるたびに気前良く反応していたようで。観劇後に突っ込まれましたわ、ふふふ。
1幕のやんちゃ坊主っぽい姿もかわいいし、イキがっている青年っぷりもかっこいい。
オールバックはやめとけ(笑)と思うけど、スーツも黒タキもマタドールも素敵だってば。
てゆーか、極楽鳥ロケットすら、キュートに思えるんですけど。
……終わってますか? 終わってますかわたし?!
フィナーレで、カッコつけて胸ポケットからハンカチを取り出すあかしを見ていたら、客席降り中のワタさんを見失って、振り返るとすぐそこの通路歩いててびびったんですけどっ。
あかし見てて、ワタさんの最大接近ポイントを見逃すなんて……っ!!
あかしのために……あかしなのに……。
なんか、すっげー敗北感です。
この公演、ワタさんだけでなく出演者はみーんなオイシイ。
ゆうほさとるが、かっこいいです。
まちかを失った今、わたしを癒せるのはこの人しかいません。
ゆうほさとる。
星組を観るとき、いつどこにいてもわたしの目を奪う人。
去年の『ゴールデン・ステップス』のときは、まちかとゆうほが並んで踊っていて、「緑野こあら的、夢の競演?!」と戦慄したもんです。
そのゆーほさんが、かっこいいんです。
この公演で、ゆーほさんは、エンディと並んで「別格職人系スター」として、その責を十二分に果たしています。
もちろん、彼らのジョブは「歌手」です。
歌手・ゆーほさとる、癒やしの歌声。
声がいいの。安定していて、深みがあって。
この人確実に、うまくなってるよね。『ドルチェ・ヴィータ!』のときより、ずっとずっとうまくなってる。
エンディは相当癖の強い、自己主張の強い歌い方をするんだけど、ゆーほはニュートラルなの。そこがいいの〜。
でもって。
「ゆーほさとる、かっこいいよね?」
と、わたしがおそるおそる言うと、kineさんも、
「かっこいいよ!」
と、認めてくれました。
「そう、スタイルはいいんだし」
「カオが個性的なだけで」
「足は長いし」
「ハンサムじゃないだけで、いい男なんだよね」
……微妙な誉め方になっているかもしれんが。
エンディ・ゆーほが「職人」「歌手」ならば、この公演の2番手は誰か。
大真みらんファンは、劇場へ急げ!!
みらんくん、すげーっす。
この人、どこのスターさんですか?
最近、「真ん中」スキルを持たない素人さんたちの「若いから仕方ないでしょ」的言い訳のいっぱいぶらさがった公演を観てきたからさー。
一度も「真ん中」を与えてもらえなかった男の子が、ドラマシティとゆー中劇場で、「真ん中」であったりまえに仕事をしていることに瞠目です。
ふつーに場面もらって、ふつーにたったひとりで場を埋めているの。
歌うことで。表現することで。
うわわ、気持ちいい。
「若さ」とか「だって、場を与えてもらってなかった」とかを言い訳にしない。
ただあたりまえに舞台人として、「できる」ことを見せる。
その実力と舞台度胸、「スター」としての適性に感動。
……基本的にわたし、みらんくんは「役者」としての方が好きなので、ショーではあまりときめかないんですが。わたしのなかの優勢順位が「芝居>歌>ダンス」なので、芝居がうまい人がいちばん好きだし。
みらんくんは「役者」として好き。演技、うまいから。うますぎて地味になる(笑)くらい、きちんと仕事をする人だから。
そのためショー作品ではあまり響くことがなかったのだけど。
今回、キましたっ。
ちくしょー、なんでそんなにうまいんだっ。
脇でいい仕事をするだけでなく、真ん中もOKかよ。
いや、真ん中もできる人だと思っていたし、みらん主演で新公なりバウなり観たいとつねづね思ってきたけど。
こうやって、見せつけられるとまた、感動もひとしお。
その歌声に、表現力に、スターオーラに、ヤラレました。
声の深さと甘さがいいの。わーん、ステキ〜〜じたばた。
ダンサーでもあるから、男役としてもびしばし踊ってるし、女装してワタさんと踊ったりと、見せ場だらけだ。
みらんファンはマジ通うべきだ〜〜。
みらんが2番手ポジなら、3番手はゆかり。
ゆかりくんはもー、両性具有スターとして君臨。
女装多すぎ(笑)。
ゆかりくんも、ひとりで1場面任されたりしてるんだけど、彼はやはり、ふつーの若者らしくキョドってるねー。みらんが特別だとゆーことがよくわかる(笑)。
ゆかりくん、女役やってるときの方が落ち着いてるの。女役だと、あくまでも「相手役」で、「主役」じゃないから安心できるのかな。
ゆかりくんはその「美貌」がいちばんの才能であり実力なので、他になにができるのかさっぱりわからないんだけど。
歌がダメなのは、よくわかった(笑)。
美貌の人ってなんで歌苦手なんだろうねえ。そーゆー法則でもあるのかねえ。
ゆかりくんの、わたし的いちばんのツボは、1幕。
つっぱった若者姿のやばいくらいの美しさもよいのだけど。
そんな彼らがやがて大人になり、スーツ姿で現れるシーンがあるのね。
エンディ、ゆーほ、みらん……みんなふつーに、「ああ、大人になったんだね」スーツ姿なのに。
彼らについでスーツ姿で現れたゆかりの、どっから見てもカタギぢゃないっぷりに、大ウケ!!
アンタ絶対カタギぢゃない! スーツ着てても、絶対チガウから!!
なになに、ホスト? ホストなの? それともヤクザ?
あのやんちゃな若者たちが、こんなふーに大人に……というシーンで、ああ、ひとりだけマトモになれず、そっち系に就職しちゃった子がいるのね。人生いろいろね。的郷愁を煽ってどうするんだ、綺華れい!!
あーもー、すばらしいよ。
その芸風を貫いてくれ、星組名物綺華れいよ。
ワタさんを中心に、みらゆかが横に控え、エンディゆーほが土台を支える。
とゆー美も実力も安定した公演。
出演している他の子たちも、選りすぐりのメンバーだし。
ウメちゃんの現代的なキュートさ、コトコトの技術と「見せる」力、みなみちゃんの可憐さと強さ、ケロDSにも出ていた初瀬有香ちゃんの正確さと端正さ。
女の子たちはたった4人なのに、存在感はある意味男たちを超えている(笑)。まあ、初瀬有香ちゃん以外は全員「真ん中」経験者だもんなー。キャリアがチガウか。
4番手ポジがオイシイあかし、その輪郭からはみ出たよーな目と口が大好きだ一輝慎(笑)、かわいこちゃんのトワラー舞夕くん、スタイル抜群の夢乃聖夏くん。
あかしはともかく、他の少年たちは「修行中」の札が貼ってあるのが見える(笑)。この経験を吸収して、ビッグになってほしい。
ワタさんもステキだし、ワタさんファンは死んでも通うべき公演だし、その他出演者のファンもなにを投げ出しても駆けつけるべき公演だ。
わたしはもう観に行けないだろうけど、どうかみんな、しあわせな観劇を。
しあわせな時間を過ごして欲しい。
「歌えるスター」の必要性。@月組エンカレッジコンサート
2006年4月21日 タカラヅカ 歌えるスターの必要性について、考えた。
月組『エンカレッジコンサート』にて。
星組の『エンカレ』に行く前に、あわてて月組の感想書いてます。『スカウト』祭りと『ベルばら』祭りやってたせいで、感想が溜まってるのよ……えーと、あと書いてないのは、宙組『ネバー…』の本公と新公、涼さんの外部出演かな。あ、東宝雪『ベルばら』も観るには観たな……。
わたしが以前観たことがある『エンカレ』は、たしか花組のみだ。花組ファンの友人に誘われ、よくわかんないままリプライズを観に行った。
それは純粋に、「歌」を中心とした「ふつーの公演」だった。
下級生たちもがまんべんなくソロをもらって歌う構成は新鮮だったし、要所要所を「歌えるスター」であるゆみこが締めるのもバランスがよかった。
舞台の真ん中に立つ、ということは、訓練と経験で大きく左右される。
歌がうまくても、このスキルを持たない人はどうにもおさまりが悪い。技術はあっても、舞台で映えないんだ。観客に訴えかける歌い方ができなかったり、独りよがりだったり、おどおどしていたり。ほんとうはもっとうまいのかもしれないが、「歌」だけでなく「舞台」の総合点を見てしまうと、なんとも微妙な人たちが多い。
この人、歌うまいのかなあ、でもよくわかんないなー、どこ見て歌ってるんだろ、なにを表現したいんだろ、音ははずれてないみたいだけど、つまんない歌だなあ。
そんな感じ。
下級生たちがおどおどと歌うのはべつにいいんだが、全部が全部ソレじゃ疲れる。これはいちおー、「学校の発表会」ではなく、プロがお金を取って興行しているステージなんだ。
技術はあっても見せ方を知らない下級生たちを、「プロとしてのスキルを持ったスター」がまとめ、舞台を締める。
ある程度の歌唱力と、真ん中に立つ訓練と経験を積んだスターが、大劇場で歌うのとなんら遜色ない歌声と存在感で「中心」に立つ。
プログラム的にも、その「スター」を「いちばん盛り上がるところ」に配置することによって、公演自体のテンションを上げることが出来る。
テンションが上がれば、経験不足の下級生たちも一緒になって波に乗ることが出来る。舞台に、「ひとりで」立つ力。観客の心を、「ひとりで」動かす力。それは経験が必要だから、波に乗ってスキルを上げろ。
月組の『エンカレ』を観て、「歌えるスター」の必要性を痛感した。
プログラムが散漫になっていた。
「歌えるスター」がいないために。
「スター」として、「ここで公演をもりあげてね」というところにもりえちゃんが配置されていたけれど、知っての通り彼は「歌手」ではない。もりえちゃん比でとてもうまくなっていたし、がんばっていたけれど、必要とされるランクの歌声は残念だけど出せていなかった。
出演者の中で「歌手」としての重責を負わされていたのが研ルイスだが、彼はなにしろ「真ん中に立つ」訓練を受けていない。MCぼろぼろ、挙動不審、上がりまくって硬直して、見ていて胸が痛むほどのパニックぶり。
歌い出すと落ち着くようだが、緊張のためか出だしが悪く、声がよく出始めた頃に出番が終わる。
わたしが観たのは千秋楽だったのだけど、楽でこれなら、初日はどーなっていたんだルイス、と不安になったよ(笑)。
それでも、ラストの大トリを歌い上げるころになると、小物ぶりを脱皮して、すばらしい歌声を聴かせてくれたのだけど。
「ここで盛り上げてね」なところが説得力のある歌唱力がないためにいまいち盛り上がりに欠け、それじゃあ「技術と実力で聴かせましょう」なところはスター力がないために自爆気味。
うわー、プログラムが散漫だ……。
「歌えるスター」ゆみこがいた公演を観た記憶しかないから、違和感にとまどう。それにあのときは、あすかちゃんもいたんだよね。CDで聴いた花エンカレなんか、かなみちゃんがいたからまた、歌声の「華」がちがったし。
締める人がいないと、こーゆーことになるのか……。
個人個人の歌はいいんだけど、全体のプログラムを見ての感想ね。ただの箇条書きではなく、起承転結のある物語としてあるべきだと思うから、すべての公演が。
「エンカレ」だから路線スターを出す必要はない。普段歌わせてもらっていない、でも歌のうまい子を出すべきだ。
という意見はわかる。その意義も、大切さも。
でも、歌うことの表現法もわかっていない子たちだけを箇条書きで並べても、そこに「物語」は生まれない。彼らのためにもならんだろ。「発表会」を経験しても意味ない、「プロのステージ」を経験することでスキルを上げるのだから。
つまり問題は、「路線スター」を出すことではなく、「歌えるスター」を出すことだよ。
「歌う」ことで、舞台の中心を示すことができる人。
「歌」で空気を動かすことのできる人。
路線でなくてもいいから、「スター」が必要。アンサンブル歌手とソロ歌手のちがいを、見せつけてくれよ。
それによって、「発表会」ではなく「プロのステージ」であることを、見せつけてくれよ。
ところでエンカレって、曲は出演者自身で選ぶものなの? その選曲に、とても個性が出ていると思うんだけど。
とりあえず沢希理寿くんが「ブルースレクイエム」を選んだ理由はなんですか?
マイ・フェイバリットな曲を選んだ少年に、わたしの興味がむくむくわきあがりましたっ。
『凍てついた明日』が好きなの? どきどき。主役の「クライドのテーマ」ではなく、わざわざトウコの持ち歌「ブルースレクイエム」を選んだってことは、トウコちゃんが好きなの? わくわく。
うまい子だし、これからがたのしみだわ。
ルイスについで「歌手」ぶりを発揮してくれた五十鈴ひかりくん。彼にも選曲の理由を聞いてみたい。『心中・恋の大和路』から「この世にただひとつ」って……ハマコ? 目指せハマコなの?(笑) その堂々たる歌い上げっぷりに、じつにたのもしいものを感じました。
そして、たまこちゃん。
このときはまだ退団発表を知らなかった。とてもいい表情で歌い、のぞみちゃんとふたりで余裕のある司会っぷりを披露してくれた。
そうかわたしたちのカルメンちゃん、こんなに大人になっていたんだね。母性を感じさせる寛さを持つ女の子。たしかに、ヒロインキャラではないかもしれない。たしかに地味かもしれない。でもこの芯の強さを感じさせるおおらかさは、舞台に必要だと思う。
あと「見せ方」を知っていたのはおときっちゃんと、マギー。
いやあ、マギーは濃いねっ。ぎらぎらだねっ。あまりにノリノリでテンション高いもんで、ウケてしまった。脇の下級生ポジでしかないから、出番少ないんだけど。いっそこの子を「スター」ポジションに配置してもよかったんじゃないかと思う。きっとものすげー盛り上げてくれたろうなあ。
少人数で小さなハコのミニ公演だからこそ、これくらいのハコを、そのオーラで動かすことのできる「歌えるスター」の登場を待ちわびる。
残りの4つの組のエンカレで、うれしいおどろきがあることを期待する。
いやその、若干ひとつの組だけは、ファンモード全開になるんで、客観的な見方はできないだろーけどさ(最初に言っておくよ……照れ)。
月組『エンカレッジコンサート』にて。
星組の『エンカレ』に行く前に、あわてて月組の感想書いてます。『スカウト』祭りと『ベルばら』祭りやってたせいで、感想が溜まってるのよ……えーと、あと書いてないのは、宙組『ネバー…』の本公と新公、涼さんの外部出演かな。あ、東宝雪『ベルばら』も観るには観たな……。
わたしが以前観たことがある『エンカレ』は、たしか花組のみだ。花組ファンの友人に誘われ、よくわかんないままリプライズを観に行った。
それは純粋に、「歌」を中心とした「ふつーの公演」だった。
下級生たちもがまんべんなくソロをもらって歌う構成は新鮮だったし、要所要所を「歌えるスター」であるゆみこが締めるのもバランスがよかった。
舞台の真ん中に立つ、ということは、訓練と経験で大きく左右される。
歌がうまくても、このスキルを持たない人はどうにもおさまりが悪い。技術はあっても、舞台で映えないんだ。観客に訴えかける歌い方ができなかったり、独りよがりだったり、おどおどしていたり。ほんとうはもっとうまいのかもしれないが、「歌」だけでなく「舞台」の総合点を見てしまうと、なんとも微妙な人たちが多い。
この人、歌うまいのかなあ、でもよくわかんないなー、どこ見て歌ってるんだろ、なにを表現したいんだろ、音ははずれてないみたいだけど、つまんない歌だなあ。
そんな感じ。
下級生たちがおどおどと歌うのはべつにいいんだが、全部が全部ソレじゃ疲れる。これはいちおー、「学校の発表会」ではなく、プロがお金を取って興行しているステージなんだ。
技術はあっても見せ方を知らない下級生たちを、「プロとしてのスキルを持ったスター」がまとめ、舞台を締める。
ある程度の歌唱力と、真ん中に立つ訓練と経験を積んだスターが、大劇場で歌うのとなんら遜色ない歌声と存在感で「中心」に立つ。
プログラム的にも、その「スター」を「いちばん盛り上がるところ」に配置することによって、公演自体のテンションを上げることが出来る。
テンションが上がれば、経験不足の下級生たちも一緒になって波に乗ることが出来る。舞台に、「ひとりで」立つ力。観客の心を、「ひとりで」動かす力。それは経験が必要だから、波に乗ってスキルを上げろ。
月組の『エンカレ』を観て、「歌えるスター」の必要性を痛感した。
プログラムが散漫になっていた。
「歌えるスター」がいないために。
「スター」として、「ここで公演をもりあげてね」というところにもりえちゃんが配置されていたけれど、知っての通り彼は「歌手」ではない。もりえちゃん比でとてもうまくなっていたし、がんばっていたけれど、必要とされるランクの歌声は残念だけど出せていなかった。
出演者の中で「歌手」としての重責を負わされていたのが研ルイスだが、彼はなにしろ「真ん中に立つ」訓練を受けていない。MCぼろぼろ、挙動不審、上がりまくって硬直して、見ていて胸が痛むほどのパニックぶり。
歌い出すと落ち着くようだが、緊張のためか出だしが悪く、声がよく出始めた頃に出番が終わる。
わたしが観たのは千秋楽だったのだけど、楽でこれなら、初日はどーなっていたんだルイス、と不安になったよ(笑)。
それでも、ラストの大トリを歌い上げるころになると、小物ぶりを脱皮して、すばらしい歌声を聴かせてくれたのだけど。
「ここで盛り上げてね」なところが説得力のある歌唱力がないためにいまいち盛り上がりに欠け、それじゃあ「技術と実力で聴かせましょう」なところはスター力がないために自爆気味。
うわー、プログラムが散漫だ……。
「歌えるスター」ゆみこがいた公演を観た記憶しかないから、違和感にとまどう。それにあのときは、あすかちゃんもいたんだよね。CDで聴いた花エンカレなんか、かなみちゃんがいたからまた、歌声の「華」がちがったし。
締める人がいないと、こーゆーことになるのか……。
個人個人の歌はいいんだけど、全体のプログラムを見ての感想ね。ただの箇条書きではなく、起承転結のある物語としてあるべきだと思うから、すべての公演が。
「エンカレ」だから路線スターを出す必要はない。普段歌わせてもらっていない、でも歌のうまい子を出すべきだ。
という意見はわかる。その意義も、大切さも。
でも、歌うことの表現法もわかっていない子たちだけを箇条書きで並べても、そこに「物語」は生まれない。彼らのためにもならんだろ。「発表会」を経験しても意味ない、「プロのステージ」を経験することでスキルを上げるのだから。
つまり問題は、「路線スター」を出すことではなく、「歌えるスター」を出すことだよ。
「歌う」ことで、舞台の中心を示すことができる人。
「歌」で空気を動かすことのできる人。
路線でなくてもいいから、「スター」が必要。アンサンブル歌手とソロ歌手のちがいを、見せつけてくれよ。
それによって、「発表会」ではなく「プロのステージ」であることを、見せつけてくれよ。
ところでエンカレって、曲は出演者自身で選ぶものなの? その選曲に、とても個性が出ていると思うんだけど。
とりあえず沢希理寿くんが「ブルースレクイエム」を選んだ理由はなんですか?
マイ・フェイバリットな曲を選んだ少年に、わたしの興味がむくむくわきあがりましたっ。
『凍てついた明日』が好きなの? どきどき。主役の「クライドのテーマ」ではなく、わざわざトウコの持ち歌「ブルースレクイエム」を選んだってことは、トウコちゃんが好きなの? わくわく。
うまい子だし、これからがたのしみだわ。
ルイスについで「歌手」ぶりを発揮してくれた五十鈴ひかりくん。彼にも選曲の理由を聞いてみたい。『心中・恋の大和路』から「この世にただひとつ」って……ハマコ? 目指せハマコなの?(笑) その堂々たる歌い上げっぷりに、じつにたのもしいものを感じました。
そして、たまこちゃん。
このときはまだ退団発表を知らなかった。とてもいい表情で歌い、のぞみちゃんとふたりで余裕のある司会っぷりを披露してくれた。
そうかわたしたちのカルメンちゃん、こんなに大人になっていたんだね。母性を感じさせる寛さを持つ女の子。たしかに、ヒロインキャラではないかもしれない。たしかに地味かもしれない。でもこの芯の強さを感じさせるおおらかさは、舞台に必要だと思う。
あと「見せ方」を知っていたのはおときっちゃんと、マギー。
いやあ、マギーは濃いねっ。ぎらぎらだねっ。あまりにノリノリでテンション高いもんで、ウケてしまった。脇の下級生ポジでしかないから、出番少ないんだけど。いっそこの子を「スター」ポジションに配置してもよかったんじゃないかと思う。きっとものすげー盛り上げてくれたろうなあ。
少人数で小さなハコのミニ公演だからこそ、これくらいのハコを、そのオーラで動かすことのできる「歌えるスター」の登場を待ちわびる。
残りの4つの組のエンカレで、うれしいおどろきがあることを期待する。
いやその、若干ひとつの組だけは、ファンモード全開になるんで、客観的な見方はできないだろーけどさ(最初に言っておくよ……照れ)。
Old Fashioned Love Song@Across
2006年4月20日 タカラヅカ 今この時代に30代である、とゆーのはものすげーことだなあ、と思う。
てなことをよく、弟と話す。
世の中の中心となっている世代なのだ、ということを肌で感じるときに。
や、わたし自身は世の落ちこぼれにすぎないんですが。
世の中があきらかに、「わたしたち世代」をターゲットに、いろんなアクションを起こしていることを感じるとき、「すげえ」と思うのですよ。
「コレってさあ、子ども向けの振りしてるけど、絶対大人対象だよな」
「わかるのは大人だよね。しかも、ウチら世代?」
「30代を動かそうとして、こんなことやってんだなー」
「オトナは、動くときは本気だからねえ」
わたしたちの世代が、わたしたちの世代のために、わたしたちの世代に向けて発信する。
いちおー、他の世代もフォローしているけど、ソレをいちばんたのしめる、理解できるのは、わたしたちの世代。
それを感じることが多々ある。
いつか時代が動いて、感じられなくなるのかもしれない。
「若い人向けに作られてるから、わたしにはわかんないや」
で、済ませるしかないものだらけになってしまうときが、くるのかも。や、たぶん来る。
だからこそ今は、「わたしたちの世代」をたのしむべきなんだろう。
今、オトナで良かった。
若い子たちに「おばさん」とひとくくりに呼ばれてしまっていても。
今、30代であるたのしさは、他には変えられない。
力のある時代。
その中心にいる、快感。
湖月わたるダンシング・リサイタル『Across』初日。
kineさんとnanaタンと一緒にドラマシティに乗り込みました。
そいでもって。
大泣きしました。
や、すでに、1幕から。
なんの予備知識もなく、ウメちゃん以外の共演者も知らずに行ったんですけどね。
2幕がオギーだから、そっちはきっとすごいことになるだろうけど、1幕はわりと気を抜いていられるかなとか思ってたんだけど。
1幕から、全開だ。
なんだよコレ。
どこまでストレートなんだ。
『壊れかけのRadio』からはじまるJ-POPの数々にのってつづられるのは、過ぎ去った日々。
失われた時間、戻らない記憶。
最初に現れるのは、生意気盛りの男の子たち。
夢とか自信とか、カタチのないものにきらきらしている子どもたち。
サッカーボールだとか、ギターだとか、銃だとか。
男の子たちが、やんちゃに「夢」を描いている。
そこに、女の子たちの姿はない。
だって彼らはまだ、女なんてバカにしているもの。邪魔で、ウザい生き物だと思っている。
女の子たちも、同い年の男の子たちなんて眼中にない。ガキっぽくてとてもつきあっていられない! てなもん。
実際、男の子たちの「夢」は、女の子にはガラクタに思えるよ。
弾の出ない銃を持って「ババババーン!」とかやってる男子、弾けもしないギターを振り回して、格好だけ某ギタリストの振りをしてる男子、みんなみんなバッカみたい。
わたしたちだって、そう思っていた。……思っていたことを、思い出すから。
なんて愛おしい。
舞台にいる、男の子たち、女の子たち。
子どもたちは次に、「少年」と「少女」になる。
思春期ゆえの反抗心、虚栄と繊細さ。
興味ないからではなく、意識するから男子と女子は反発し、またわざと別行動を取る。そのくせちょっと、いい雰囲気にもなってみたり。
男たちはどんどんかっこよく、女の子たちはチャーミングになっていく。
激しい青春の痛みや、よろこび、すれちがい。
時は流れ、決して逆行することなく現在へと近づいてくる。
最初混ざり合わなかった男と女は、共に踊るようになる。
そう。
ひとは、大人になる。
少年の日のきらめきは、青春のかがやきは、いずれ過去になり手の届かないモノになる。
とゆー話を、わっかりやすいJ-POPを使い、ストレートに表現しているのですよ、1幕。
あたしゃこーゆー、失われることが前提の、うつくしいものってのに、弱くてね。
有限の楽園を見せつけられて、だーだー泣きました。
しかも曲が見事に「青春時代」。
予備知識ナシで観ていたけど、わかりましたよ、その意図が。
選曲が見事に、「わたしたちの、青春時代」の曲なの。
わたしたちが悩み、傷つき、いちばんバカでいちばん純粋で、いちばんきらきらしていたころの。
まさに、そのころの想い出の曲ばかりなのよ。
うっわ、同世代万歳!!
ワタさん、この世代なんだ。
オトナで良かった。
今、この曲でこのダンスでこの作品で、胸が締め付けられてせつなくてせつなくて、でもしあわせでさみしくて、泣けるわたしでよかった。
もちろんプログラムも買わずに観ていたから。
次にどんな曲が来るのか、イントロクイズのノリでもたのしかったよ。
「あとは、渡辺美里と尾崎豊があれば完璧だな」とか思ったその次の瞬間に美里が来てものすっげーツボったし(笑)。
オザキはなかったけど、たしかにオザキの屈折と澱み方はワタさんのカラーではないなと思ってみたり。
なんだか猛烈に、カラオケに行きたくなった。
『Across』1幕の曲を、最初から順に熱唱したいや。
失われた、いとしい時間に敬意を示して。
このJ-POP尽くしの1幕の、ワタさんのかっこいいこと。
若い。
ナチュラルに、少年。そして青年。
しなやかでワイルド。だけど、そのナイーヴさが痛いほど伝わる。
それはまさに、「青春」の姿そのものだ。
2幕のね、オギー演出編は、ほんとにわたし、構えて観ていたのよ。
痛いこともせつないことも、そして構成と演出がものすっげー非凡なことも巧みなことも、わかっているから。
そのオギーらしい巧さに感動しつつも、わりと、耐性があった。
なにしろオギー、泣かせの演出一本槍ではなく、「観客をたのしませる」ことも念頭に置いて作っているから。
ふつーにバラエティ豊かに、ワタさんのファンでなくても、ワタさんの退団を知らない人でも、ちゃんとたのしめるように作られているから。
巧すぎる分、せつなさばかりに持って行かれるばかりじゃなかったのね。
1幕は、フェイント。
油断していたから、せつないせつない。
オギーほどの仕掛けがない分、ストレートに泣ける。
ああ、消耗するってばよ。
2幕のオギーも緩急バランス良く、号泣させてくれるし。
あんなにたのしかったのに、ショーとして、男役湖月わたるとしてステキだったのに、後半からは怒濤の展開。
『ANNIVERSARY』で号泣。
普段ハンカチを使わずに泣き通すわたしが、鼻水を抑えきれずハンカチを探すハメに。や、「Across」印のハンカチはずっと握っていたんだけど、まさかコレで鼻水拭けないし!!
すごいよねこの公演。
観客全員にハンカチが配られてるんだよ。
「TheaterDramaCity 2006.4.19 Wed.14:00」って……初日の刻印入りぢゃん。うわー。
この公演を、最初に観た幸運なひとりである記念。……千秋楽は、行けるはずもないから(本気のワタルくんファンがひとりでも多く観るべきだ)、この日にちこそがわたしの最大の記念公演。
大切にしよう。
1幕が終わったとき、隣のkineさんが言った。
「エンカレ、観てる場合じゃないかも」
星エンカレ楽を、一緒に観る約束だったんだ、わたしたち。
「エンカレ」に含みはないよ。kineさんはエンカレもたのしみにしているし、わたしよりも多くエンカレのチケットを取っている人なんだから。
ただ、kineさんはワタさんファンだから。
未来のある若者たちのエンカレよりも、今、ワタさんのための、ワタさんファンのためのこのリサイタルに、1回でも多く通うべきなんだ。
暇人のわたしとちがって、kineさんは休日しか劇場に来られないのだから。
カノジョの言わんとすることは、痛いほどわかったから。
わたしも、即答していた。
うん。
通うべきだ。
湖月わたるファンは、この作品を観なければダメだ。
オトナだから、時間とお金を作って、劇場へ行くことが出来る。
自分の意志で、自分の責任で。
オトナだから、失うことの痛みを知っている。
それに耐える術も、越えていく術も。
オトナで良かった。
ワタさんと同じ、オギーと同じ30代でよかった。
尊敬できる人たちと、同じ世代で同じ痛みを共有できて、よかった。
てなことをよく、弟と話す。
世の中の中心となっている世代なのだ、ということを肌で感じるときに。
や、わたし自身は世の落ちこぼれにすぎないんですが。
世の中があきらかに、「わたしたち世代」をターゲットに、いろんなアクションを起こしていることを感じるとき、「すげえ」と思うのですよ。
「コレってさあ、子ども向けの振りしてるけど、絶対大人対象だよな」
「わかるのは大人だよね。しかも、ウチら世代?」
「30代を動かそうとして、こんなことやってんだなー」
「オトナは、動くときは本気だからねえ」
わたしたちの世代が、わたしたちの世代のために、わたしたちの世代に向けて発信する。
いちおー、他の世代もフォローしているけど、ソレをいちばんたのしめる、理解できるのは、わたしたちの世代。
それを感じることが多々ある。
いつか時代が動いて、感じられなくなるのかもしれない。
「若い人向けに作られてるから、わたしにはわかんないや」
で、済ませるしかないものだらけになってしまうときが、くるのかも。や、たぶん来る。
だからこそ今は、「わたしたちの世代」をたのしむべきなんだろう。
今、オトナで良かった。
若い子たちに「おばさん」とひとくくりに呼ばれてしまっていても。
今、30代であるたのしさは、他には変えられない。
力のある時代。
その中心にいる、快感。
湖月わたるダンシング・リサイタル『Across』初日。
kineさんとnanaタンと一緒にドラマシティに乗り込みました。
そいでもって。
大泣きしました。
や、すでに、1幕から。
なんの予備知識もなく、ウメちゃん以外の共演者も知らずに行ったんですけどね。
2幕がオギーだから、そっちはきっとすごいことになるだろうけど、1幕はわりと気を抜いていられるかなとか思ってたんだけど。
1幕から、全開だ。
なんだよコレ。
どこまでストレートなんだ。
『壊れかけのRadio』からはじまるJ-POPの数々にのってつづられるのは、過ぎ去った日々。
失われた時間、戻らない記憶。
最初に現れるのは、生意気盛りの男の子たち。
夢とか自信とか、カタチのないものにきらきらしている子どもたち。
サッカーボールだとか、ギターだとか、銃だとか。
男の子たちが、やんちゃに「夢」を描いている。
そこに、女の子たちの姿はない。
だって彼らはまだ、女なんてバカにしているもの。邪魔で、ウザい生き物だと思っている。
女の子たちも、同い年の男の子たちなんて眼中にない。ガキっぽくてとてもつきあっていられない! てなもん。
実際、男の子たちの「夢」は、女の子にはガラクタに思えるよ。
弾の出ない銃を持って「ババババーン!」とかやってる男子、弾けもしないギターを振り回して、格好だけ某ギタリストの振りをしてる男子、みんなみんなバッカみたい。
わたしたちだって、そう思っていた。……思っていたことを、思い出すから。
なんて愛おしい。
舞台にいる、男の子たち、女の子たち。
子どもたちは次に、「少年」と「少女」になる。
思春期ゆえの反抗心、虚栄と繊細さ。
興味ないからではなく、意識するから男子と女子は反発し、またわざと別行動を取る。そのくせちょっと、いい雰囲気にもなってみたり。
男たちはどんどんかっこよく、女の子たちはチャーミングになっていく。
激しい青春の痛みや、よろこび、すれちがい。
時は流れ、決して逆行することなく現在へと近づいてくる。
最初混ざり合わなかった男と女は、共に踊るようになる。
そう。
ひとは、大人になる。
少年の日のきらめきは、青春のかがやきは、いずれ過去になり手の届かないモノになる。
とゆー話を、わっかりやすいJ-POPを使い、ストレートに表現しているのですよ、1幕。
あたしゃこーゆー、失われることが前提の、うつくしいものってのに、弱くてね。
有限の楽園を見せつけられて、だーだー泣きました。
しかも曲が見事に「青春時代」。
予備知識ナシで観ていたけど、わかりましたよ、その意図が。
選曲が見事に、「わたしたちの、青春時代」の曲なの。
わたしたちが悩み、傷つき、いちばんバカでいちばん純粋で、いちばんきらきらしていたころの。
まさに、そのころの想い出の曲ばかりなのよ。
うっわ、同世代万歳!!
ワタさん、この世代なんだ。
オトナで良かった。
今、この曲でこのダンスでこの作品で、胸が締め付けられてせつなくてせつなくて、でもしあわせでさみしくて、泣けるわたしでよかった。
もちろんプログラムも買わずに観ていたから。
次にどんな曲が来るのか、イントロクイズのノリでもたのしかったよ。
「あとは、渡辺美里と尾崎豊があれば完璧だな」とか思ったその次の瞬間に美里が来てものすっげーツボったし(笑)。
オザキはなかったけど、たしかにオザキの屈折と澱み方はワタさんのカラーではないなと思ってみたり。
なんだか猛烈に、カラオケに行きたくなった。
『Across』1幕の曲を、最初から順に熱唱したいや。
失われた、いとしい時間に敬意を示して。
このJ-POP尽くしの1幕の、ワタさんのかっこいいこと。
若い。
ナチュラルに、少年。そして青年。
しなやかでワイルド。だけど、そのナイーヴさが痛いほど伝わる。
それはまさに、「青春」の姿そのものだ。
2幕のね、オギー演出編は、ほんとにわたし、構えて観ていたのよ。
痛いこともせつないことも、そして構成と演出がものすっげー非凡なことも巧みなことも、わかっているから。
そのオギーらしい巧さに感動しつつも、わりと、耐性があった。
なにしろオギー、泣かせの演出一本槍ではなく、「観客をたのしませる」ことも念頭に置いて作っているから。
ふつーにバラエティ豊かに、ワタさんのファンでなくても、ワタさんの退団を知らない人でも、ちゃんとたのしめるように作られているから。
巧すぎる分、せつなさばかりに持って行かれるばかりじゃなかったのね。
1幕は、フェイント。
油断していたから、せつないせつない。
オギーほどの仕掛けがない分、ストレートに泣ける。
ああ、消耗するってばよ。
2幕のオギーも緩急バランス良く、号泣させてくれるし。
あんなにたのしかったのに、ショーとして、男役湖月わたるとしてステキだったのに、後半からは怒濤の展開。
『ANNIVERSARY』で号泣。
普段ハンカチを使わずに泣き通すわたしが、鼻水を抑えきれずハンカチを探すハメに。や、「Across」印のハンカチはずっと握っていたんだけど、まさかコレで鼻水拭けないし!!
すごいよねこの公演。
観客全員にハンカチが配られてるんだよ。
「TheaterDramaCity 2006.4.19 Wed.14:00」って……初日の刻印入りぢゃん。うわー。
この公演を、最初に観た幸運なひとりである記念。……千秋楽は、行けるはずもないから(本気のワタルくんファンがひとりでも多く観るべきだ)、この日にちこそがわたしの最大の記念公演。
大切にしよう。
1幕が終わったとき、隣のkineさんが言った。
「エンカレ、観てる場合じゃないかも」
星エンカレ楽を、一緒に観る約束だったんだ、わたしたち。
「エンカレ」に含みはないよ。kineさんはエンカレもたのしみにしているし、わたしよりも多くエンカレのチケットを取っている人なんだから。
ただ、kineさんはワタさんファンだから。
未来のある若者たちのエンカレよりも、今、ワタさんのための、ワタさんファンのためのこのリサイタルに、1回でも多く通うべきなんだ。
暇人のわたしとちがって、kineさんは休日しか劇場に来られないのだから。
カノジョの言わんとすることは、痛いほどわかったから。
わたしも、即答していた。
うん。
通うべきだ。
湖月わたるファンは、この作品を観なければダメだ。
オトナだから、時間とお金を作って、劇場へ行くことが出来る。
自分の意志で、自分の責任で。
オトナだから、失うことの痛みを知っている。
それに耐える術も、越えていく術も。
オトナで良かった。
ワタさんと同じ、オギーと同じ30代でよかった。
尊敬できる人たちと、同じ世代で同じ痛みを共有できて、よかった。
小判を前にした猫。@春のおどり
2006年4月19日 タカラヅカ 「歌のタカラヅカ、ダンスのOSK」というらしい。
らしい、というのは、わたしがソレを知らないからだ。
北大阪で育ったわたしの周囲には、タカラヅカしかなかった。親兄弟もヅカは一緒に行っても、OSKのことは話題にすらしなかった。うちのとーちゃんなんか、独身時代のデートでヅカを観に行ったのなんのという話を今でも得意そうにするぞ。「あのときつきあっていたカノジョは、美人だった。そう、今のかーちゃんよりもな……(遠い目)」
宝塚ファミリーランドは家族総出で毎年出掛けたけれど、あやめ池遊園地にはほとんど行ったことがなかった。
や、たんに、距離の問題だな。近鉄沿線は馴染みがない。
そして、さらに。
わたし、ダンスの善し悪し、さーっぱりわからんのですよ。
明らかに下手ならまだ、わかるんだけど。
巧い、と、少し巧い、の差はきっと、わかっていない。
ものすごーく神がかって巧い、とかなら、わかるかなあ? わかるかもなあ。
という、その程度。
ヅカを観ていて重要なのは、わたし的には、演技>歌>ダンス。ぶっちゃけ、踊れなくても問題なし。
芝居ができること、音痴でないことの方が重要。
だもんで、「ダンスが素晴らしい」というのは、わたしにとって猫に小判。
ヅカの公演感想をいっぱい書いてますが、芝居の感想ばかりでショーの感想が少ないのは、わたしの関心がダンスにあまりないからだ。
よくわからんのですよ……すんません。
そんなヤツが初のNewOSK日本歌劇団公演、『春のおどり』第二部「ハッピー・ゲーム−人生は素晴らしいゲーム!−」鑑賞。
えーと、ふつーにショーです。洋物です。ダンスです。
日本物ぢゃなかったんだ!
とゆー、基本的すぎることにおどろきつつ。
幕間で青木さんが言っていた「二部は、OSKらしいショーですから」というのが、こーゆーことだったのかと納得してみたり。(ひとの話はちゃんと聞きましょう)
タイトル通り「ゲーム」がテーマ。恋であったりスポーツであったり。
なにしろ目の前で踊ってくれるので、それだけをきゃーきゃー眺めて時が過ぎる。なにしろわたし、猫ですから! 小判の価値なんて、「きらきらしてるー、きれーい」以上にはなにもわかりません。
わたしはOSKのシステム自体もよくわかっていないんだが。
トップスター至上主義ではないのかな?
第一部の芝居では、切っても切っても義経状態、主役以外ろくに出番がなかったイメージなんだが。
ショーにはそーゆー印象がない。
いろんな人たちが活躍している。
娘役トップ、でいいのかな、若木志帆さんがステキ。ドラマのある人だなー。
桜花昇氏はひたすら派手で。とにかく目につく、きらきらしてる。
キュートな人だ。
トップスター様は芝居のときも思ったけど、端正であるがゆえに、きらきら度は低い。
彼の横に桜花氏がいるのは、コントラストとしてとてもバランスがいい。
あー、わたしのもっともわたしらしい感想を言うと、大貴氏は素敵な受キャラで、桜花氏は有望な攻キャラかと。
とりあえずすべてのものを、受と攻に分類するのは、腐女子の習性ですから。はい。
ショーになっても、芝居のときに目についてしょーがなかったホクロの君は健在、濃いですわ。
でもねでもね、他の誰より、他のナニより。
わたしがショーでいちばん気になったこと、注目だわ!と思っていたことは。
「清盛役の人は、どーゆーコトになっているのか」だったりするんですが。
とゆーのもだ。
芝居を観る限り、平清盛役の人は、専科さんぽかったのだわ。
ヅカでいうなら、汝鳥伶サマってゆーか。
すてきにオジサマ。
さて、このオジサマ、日本物芝居だからどっしりオジサマやってるけど、洋物ショーだとどーゆーことになるのかしら? たとえば、汝鳥伶サマは芝居には出てもショーには出ないよね、通常。
でも、パンフの写真位置は、専科とかそんな感じじゃないし、写真を見ても元の顔も年齢もよくわかんないし。
まったく想像がつかない。どーゆー位置づけの人なんだろう?
だから注目いちばん。
素敵なあのオジサマは、どんなふーなのかしら。わくわくっ。
…………。
…………超かわいいシーンの、ウサギとカメの、カメをやっていて、ぶっとびました。
えええっ?!
かわいこちゃんなウサギ@娘役さんと、かわいくデートしちゃう感じの、かわいこちゃんな男役が、清盛様なんですけどっ?!
待ってくれ待ってくれ、清盛様っていったいナニ。
実は若手なのか?
若者だったのか?
ででででも、1列目で見上げていても、年齢がさっぱりわからないぞっ?!
トップスター様よりも誰よりも大人に見えるんですが……。
とゆーわけで、ショーの間中わたし、清盛様に釘付けでした。
頭巾かぶっていたときはわかんなかったけど、刺さりそうに素敵なアゴをお持ちだし。
清盛様が舞台にいるときは清盛様を見、いないときはその登場を待ちわび、とても有意義な時間を過ごしました。
そーやってガン見していてなお、彼が若いのか、そーではないのかが、さーっぱりわかりませんでした。
ふつーに「二枚目」も「かわいこちゃん」もやっていたりするんですが……でも、カオがいろいろ微妙で……ええっとええっと。
予備知識のなさゆえ、ロケットがあることや、ラストはトップスターが大きな羽根を背負って登場することにもおどろきつつ。
たいへんたのしく、愉快な気持ちで初体験を終えることが出来ました。
青木さん、ご招待ほんとうにありがとうございます。
猫に小判もいいとこですが、存在だけ知っていた劇団の本格的な公演を観ることが出来て、わたしの人生の経験値があがりました。しかもしかも、あんなに良席で。ええわたし、前方席大好きですよ! 全体を観るよりスターさんを観たい、目線もらえたりしたら舞い上がる、ミーハー丸出し人間ですから!!
でも、松竹座、舞台が高すぎてスターさんからの目線はちっとももらえなかったっす。1列目、真下だもんよー。清盛様も、あんなにガン見してたのに、ちっとも振り向いてくれなかったわ(笑)。
耳に残った曲を、うそっぱちの歌詞でてきとーに脳内で口ずさみながら、終演後にプロマイドコーナーをのぞいてみました。
ええ。
他のナニよりも。他の誰よりも。
清盛様の、「かわいこちゃんなカメくんシーン@ウサギちゃんとらぶらぶデュエット中」の写真が売っていて、ギャフンな気持ちでした。
こーゆー位置づけなのか、清盛様。
カオは年齢不詳だが、たしかにかわいいかもしれないぞ、清盛様。
…………かなりスキかもしんないぞ、清盛様(笑)。
らしい、というのは、わたしがソレを知らないからだ。
北大阪で育ったわたしの周囲には、タカラヅカしかなかった。親兄弟もヅカは一緒に行っても、OSKのことは話題にすらしなかった。うちのとーちゃんなんか、独身時代のデートでヅカを観に行ったのなんのという話を今でも得意そうにするぞ。「あのときつきあっていたカノジョは、美人だった。そう、今のかーちゃんよりもな……(遠い目)」
宝塚ファミリーランドは家族総出で毎年出掛けたけれど、あやめ池遊園地にはほとんど行ったことがなかった。
や、たんに、距離の問題だな。近鉄沿線は馴染みがない。
そして、さらに。
わたし、ダンスの善し悪し、さーっぱりわからんのですよ。
明らかに下手ならまだ、わかるんだけど。
巧い、と、少し巧い、の差はきっと、わかっていない。
ものすごーく神がかって巧い、とかなら、わかるかなあ? わかるかもなあ。
という、その程度。
ヅカを観ていて重要なのは、わたし的には、演技>歌>ダンス。ぶっちゃけ、踊れなくても問題なし。
芝居ができること、音痴でないことの方が重要。
だもんで、「ダンスが素晴らしい」というのは、わたしにとって猫に小判。
ヅカの公演感想をいっぱい書いてますが、芝居の感想ばかりでショーの感想が少ないのは、わたしの関心がダンスにあまりないからだ。
よくわからんのですよ……すんません。
そんなヤツが初のNewOSK日本歌劇団公演、『春のおどり』第二部「ハッピー・ゲーム−人生は素晴らしいゲーム!−」鑑賞。
えーと、ふつーにショーです。洋物です。ダンスです。
日本物ぢゃなかったんだ!
とゆー、基本的すぎることにおどろきつつ。
幕間で青木さんが言っていた「二部は、OSKらしいショーですから」というのが、こーゆーことだったのかと納得してみたり。(ひとの話はちゃんと聞きましょう)
タイトル通り「ゲーム」がテーマ。恋であったりスポーツであったり。
なにしろ目の前で踊ってくれるので、それだけをきゃーきゃー眺めて時が過ぎる。なにしろわたし、猫ですから! 小判の価値なんて、「きらきらしてるー、きれーい」以上にはなにもわかりません。
わたしはOSKのシステム自体もよくわかっていないんだが。
トップスター至上主義ではないのかな?
第一部の芝居では、切っても切っても義経状態、主役以外ろくに出番がなかったイメージなんだが。
ショーにはそーゆー印象がない。
いろんな人たちが活躍している。
娘役トップ、でいいのかな、若木志帆さんがステキ。ドラマのある人だなー。
桜花昇氏はひたすら派手で。とにかく目につく、きらきらしてる。
キュートな人だ。
トップスター様は芝居のときも思ったけど、端正であるがゆえに、きらきら度は低い。
彼の横に桜花氏がいるのは、コントラストとしてとてもバランスがいい。
あー、わたしのもっともわたしらしい感想を言うと、大貴氏は素敵な受キャラで、桜花氏は有望な攻キャラかと。
とりあえずすべてのものを、受と攻に分類するのは、腐女子の習性ですから。はい。
ショーになっても、芝居のときに目についてしょーがなかったホクロの君は健在、濃いですわ。
でもねでもね、他の誰より、他のナニより。
わたしがショーでいちばん気になったこと、注目だわ!と思っていたことは。
「清盛役の人は、どーゆーコトになっているのか」だったりするんですが。
とゆーのもだ。
芝居を観る限り、平清盛役の人は、専科さんぽかったのだわ。
ヅカでいうなら、汝鳥伶サマってゆーか。
すてきにオジサマ。
さて、このオジサマ、日本物芝居だからどっしりオジサマやってるけど、洋物ショーだとどーゆーことになるのかしら? たとえば、汝鳥伶サマは芝居には出てもショーには出ないよね、通常。
でも、パンフの写真位置は、専科とかそんな感じじゃないし、写真を見ても元の顔も年齢もよくわかんないし。
まったく想像がつかない。どーゆー位置づけの人なんだろう?
だから注目いちばん。
素敵なあのオジサマは、どんなふーなのかしら。わくわくっ。
…………。
…………超かわいいシーンの、ウサギとカメの、カメをやっていて、ぶっとびました。
えええっ?!
かわいこちゃんなウサギ@娘役さんと、かわいくデートしちゃう感じの、かわいこちゃんな男役が、清盛様なんですけどっ?!
待ってくれ待ってくれ、清盛様っていったいナニ。
実は若手なのか?
若者だったのか?
ででででも、1列目で見上げていても、年齢がさっぱりわからないぞっ?!
トップスター様よりも誰よりも大人に見えるんですが……。
とゆーわけで、ショーの間中わたし、清盛様に釘付けでした。
頭巾かぶっていたときはわかんなかったけど、刺さりそうに素敵なアゴをお持ちだし。
清盛様が舞台にいるときは清盛様を見、いないときはその登場を待ちわび、とても有意義な時間を過ごしました。
そーやってガン見していてなお、彼が若いのか、そーではないのかが、さーっぱりわかりませんでした。
ふつーに「二枚目」も「かわいこちゃん」もやっていたりするんですが……でも、カオがいろいろ微妙で……ええっとええっと。
予備知識のなさゆえ、ロケットがあることや、ラストはトップスターが大きな羽根を背負って登場することにもおどろきつつ。
たいへんたのしく、愉快な気持ちで初体験を終えることが出来ました。
青木さん、ご招待ほんとうにありがとうございます。
猫に小判もいいとこですが、存在だけ知っていた劇団の本格的な公演を観ることが出来て、わたしの人生の経験値があがりました。しかもしかも、あんなに良席で。ええわたし、前方席大好きですよ! 全体を観るよりスターさんを観たい、目線もらえたりしたら舞い上がる、ミーハー丸出し人間ですから!!
でも、松竹座、舞台が高すぎてスターさんからの目線はちっとももらえなかったっす。1列目、真下だもんよー。清盛様も、あんなにガン見してたのに、ちっとも振り向いてくれなかったわ(笑)。
耳に残った曲を、うそっぱちの歌詞でてきとーに脳内で口ずさみながら、終演後にプロマイドコーナーをのぞいてみました。
ええ。
他のナニよりも。他の誰よりも。
清盛様の、「かわいこちゃんなカメくんシーン@ウサギちゃんとらぶらぶデュエット中」の写真が売っていて、ギャフンな気持ちでした。
こーゆー位置づけなのか、清盛様。
カオは年齢不詳だが、たしかにかわいいかもしれないぞ、清盛様。
…………かなりスキかもしんないぞ、清盛様(笑)。
義経桜絵巻で。@春のおどり
2006年4月18日 タカラヅカ わたしがどれくらい無知かというと。
幕間、わたしを招待してくれた青木るえかさん相手に、
「基本的な質問していいですか? 娘役は娘役でいいんですか?」
とか、
「学年があるんですか? 上級生下級生っていうんですか?」
とか、
「1幕って芝居だったんですか?」
とか、アッタマ悪すぎることを、いちいち聞いてしまったくらいですよ。
緑野こあら、NewOSK日本歌劇団公演、初体験。
イベントで観たOSKは、娘役さんが最後に階段を下りてくるカンパニーだったけど、そーゆーもんなのかしら、とか。
そーいや昔テレビで、OSKの音楽学校入学を目指す娘さんの密着取材番組とか見たことあったなあ、そっか、学校があるから学年とか上級生とかがあるんだ、とか。
記憶をたどりながら、目の前のモノを咀嚼する。
『春のおどり』第一部「義経桜絵巻」。
なにしろ最前列。
はじまるなり、踊るみなさま方が、あまりに目の前で。
おおー、目が合うぞー。わたしの真ん前が立ち位置の細い輪郭の娘役さんに微笑みかけられた気がして、ホクホクと得した気分に。
中世ものはいいですな。時代物はいいですな。
華やかですよ。
予備知識ナシなので、誰が誰だか、まーったくわかりません(笑)。
トップスターはわかるけど、その他の番手はさーっぱり。
てゆーか、娘トップはふたりなの? そりゃ豪華だ。
しかし、おどろいたのは、トップスター様が、7歳児まで演じてしまうこと。
子役ぢゃないんだ……。
牛若時代も、鞍馬山以前さえ、ご本人なんだ……すげえ……。
わたしは、大人の演じるわざとらしい幼児が苦手なので、トップスター様ですが、なにか? ってなもんで、年齢は就学以前だが、幼児として演じる気はまったくナシ! とゆー、潔い演出を大変よろこびました(笑)。
そーよ、無理矢理な子役とか、キモいほどのべちゃべちゃに幼い演技よりも、ふつーに観ていてきれいな精神年齢の、主演俳優の演技の方がいいよー。その方が観ていてたのしいってばよー。
あいようこおねーさまの幼児喋り、はトラウマだもんよー。
「義経」になるまでの「牛若丸」時代がけっこー長くて。
それでも変に若々しく、というか、子どもっぽくしていないのはいいなと思う。
いやその、やっぱ過去に観た同じ題材のミュージカルが脳裏にあるもんで。タカネくんの童子姿はきつかったなーとか。トドは弁慶だったしそもそも登場時に「弁慶はおっさんでも不細工でないんだ、そんな史実は全部忘れろ、この作品の弁慶はこの通りの美形のにーちゃんだ!」と断言するところからはじまったもんなー、とか。歴史物を演じる上での「年齢設定」てのは、難しいもんなんだよな。
トップスター様演じる牛若丸は、設定年齢がいくつであれふつーに若者で、ふつーに無理のない外見で、でも若いことがわかる演技で、物語をすすめていく。
にしても、弁慶役の人、派手だよね。
主役より派手に思えた。ぱんっと目立つ。
弁慶が目立つのは立場上とーぜんなのかもしれんが、彼のテーマソング(笑)が、2番まであったことには、ウケた。
京の五条大橋で出会ったあと存在も忘れられていたっぽい弁慶が、よーやく出てきたと思ったら、義経への忠誠心をえんえん歌って説明する。
これが、2番まであったんだよ〜。なになに、彼はそこまで、流れをぶった切ってまで歌わせなきゃならない人なわけね? てゆーか、ほんとに彼単体の見せ場がこの長い歌しかなかったよーな?
不自然で、でも番手制度がある劇団なら、ソレもアリか、と思ってみたり。
第一部が終わったあとに、青木氏に「トップスターが義経役の大貴誠、2番手が弁慶役の桜花昇」であるということはお聞きしましたが。
それ以外の番手はわかりません。
わたし的に「目立った」のは、ヒロインの常磐ママと弁慶、左頬にホクロのある男役(笑)と、平清盛役の人です。
ホクロのある人はねえ、濃いですね〜〜。脇役しかしてなかったと思うんだけど。
芝居の最中に目線もらえた気がして、びびったんですけど(笑)。おかげで、やたらと目で追ってしまった。
清盛は、ふつーに演技と声が好きだった。頭巾かぶってるために、その他のことはなにもわからず。ええ、このときは。
といっても、弁慶だって清盛だって、あと静にしろ頼朝にしろ忠信にしろ、出番はやはり少なくて。
義経との絡みが、みーんな少ない。
「名場面集」でしかない作りとはいえ、テーマが散漫なのがつらい。
いちばん時間を掛けて描いてあるのが、母・常磐との関係なんだもん。
母子ものがやりたかったのか……?
だとしても、弱いよな。
物語の盛り上がりと、精神的な盛り上がりがシンクロしてないために、カタルシスが不発に終わっている。常磐をヒロインにするには、仕掛けが足りていない。
もったいないなー。
有名キャラたちが「顔見せ」程度にしか主役に絡まないので、「名場面」を眺めることは出来ても、そこにある「心」まではわかりにくい。
これが「芝居」なのか「ショー」なのか、混乱した根っこ部分。
やっていることは「芝居」なんだけど、場面場面が時間以上に「心」がつながっていなくて、「物語」としてはつらかった。
そんなこんなで第一部。「芝居」か「ショー」か、わかっていないまま幕を閉じ。
続く第二部が、本格的に洋物のショーだということも、幕間まではイマイチ理解もしておらず。
さて。
いつもはまず買わないパンフレットを今回ばかりは購入、一部の出演者のカオと名前をぼーっと眺める。なにしろ「予備知識」がキライなので、パンフ買っても公演を観終わるまではろくに読まないからさー。
先に読んでおけば、少なくとも二部が日本物ではないことぐらい、わかったろうにねえ(笑)。
幕間、わたしを招待してくれた青木るえかさん相手に、
「基本的な質問していいですか? 娘役は娘役でいいんですか?」
とか、
「学年があるんですか? 上級生下級生っていうんですか?」
とか、
「1幕って芝居だったんですか?」
とか、アッタマ悪すぎることを、いちいち聞いてしまったくらいですよ。
緑野こあら、NewOSK日本歌劇団公演、初体験。
イベントで観たOSKは、娘役さんが最後に階段を下りてくるカンパニーだったけど、そーゆーもんなのかしら、とか。
そーいや昔テレビで、OSKの音楽学校入学を目指す娘さんの密着取材番組とか見たことあったなあ、そっか、学校があるから学年とか上級生とかがあるんだ、とか。
記憶をたどりながら、目の前のモノを咀嚼する。
『春のおどり』第一部「義経桜絵巻」。
なにしろ最前列。
はじまるなり、踊るみなさま方が、あまりに目の前で。
おおー、目が合うぞー。わたしの真ん前が立ち位置の細い輪郭の娘役さんに微笑みかけられた気がして、ホクホクと得した気分に。
中世ものはいいですな。時代物はいいですな。
華やかですよ。
予備知識ナシなので、誰が誰だか、まーったくわかりません(笑)。
トップスターはわかるけど、その他の番手はさーっぱり。
てゆーか、娘トップはふたりなの? そりゃ豪華だ。
しかし、おどろいたのは、トップスター様が、7歳児まで演じてしまうこと。
子役ぢゃないんだ……。
牛若時代も、鞍馬山以前さえ、ご本人なんだ……すげえ……。
わたしは、大人の演じるわざとらしい幼児が苦手なので、トップスター様ですが、なにか? ってなもんで、年齢は就学以前だが、幼児として演じる気はまったくナシ! とゆー、潔い演出を大変よろこびました(笑)。
そーよ、無理矢理な子役とか、キモいほどのべちゃべちゃに幼い演技よりも、ふつーに観ていてきれいな精神年齢の、主演俳優の演技の方がいいよー。その方が観ていてたのしいってばよー。
あいようこおねーさまの幼児喋り、はトラウマだもんよー。
「義経」になるまでの「牛若丸」時代がけっこー長くて。
それでも変に若々しく、というか、子どもっぽくしていないのはいいなと思う。
いやその、やっぱ過去に観た同じ題材のミュージカルが脳裏にあるもんで。タカネくんの童子姿はきつかったなーとか。トドは弁慶だったしそもそも登場時に「弁慶はおっさんでも不細工でないんだ、そんな史実は全部忘れろ、この作品の弁慶はこの通りの美形のにーちゃんだ!」と断言するところからはじまったもんなー、とか。歴史物を演じる上での「年齢設定」てのは、難しいもんなんだよな。
トップスター様演じる牛若丸は、設定年齢がいくつであれふつーに若者で、ふつーに無理のない外見で、でも若いことがわかる演技で、物語をすすめていく。
にしても、弁慶役の人、派手だよね。
主役より派手に思えた。ぱんっと目立つ。
弁慶が目立つのは立場上とーぜんなのかもしれんが、彼のテーマソング(笑)が、2番まであったことには、ウケた。
京の五条大橋で出会ったあと存在も忘れられていたっぽい弁慶が、よーやく出てきたと思ったら、義経への忠誠心をえんえん歌って説明する。
これが、2番まであったんだよ〜。なになに、彼はそこまで、流れをぶった切ってまで歌わせなきゃならない人なわけね? てゆーか、ほんとに彼単体の見せ場がこの長い歌しかなかったよーな?
不自然で、でも番手制度がある劇団なら、ソレもアリか、と思ってみたり。
第一部が終わったあとに、青木氏に「トップスターが義経役の大貴誠、2番手が弁慶役の桜花昇」であるということはお聞きしましたが。
それ以外の番手はわかりません。
わたし的に「目立った」のは、ヒロインの常磐ママと弁慶、左頬にホクロのある男役(笑)と、平清盛役の人です。
ホクロのある人はねえ、濃いですね〜〜。脇役しかしてなかったと思うんだけど。
芝居の最中に目線もらえた気がして、びびったんですけど(笑)。おかげで、やたらと目で追ってしまった。
清盛は、ふつーに演技と声が好きだった。頭巾かぶってるために、その他のことはなにもわからず。ええ、このときは。
といっても、弁慶だって清盛だって、あと静にしろ頼朝にしろ忠信にしろ、出番はやはり少なくて。
義経との絡みが、みーんな少ない。
「名場面集」でしかない作りとはいえ、テーマが散漫なのがつらい。
いちばん時間を掛けて描いてあるのが、母・常磐との関係なんだもん。
母子ものがやりたかったのか……?
だとしても、弱いよな。
物語の盛り上がりと、精神的な盛り上がりがシンクロしてないために、カタルシスが不発に終わっている。常磐をヒロインにするには、仕掛けが足りていない。
もったいないなー。
有名キャラたちが「顔見せ」程度にしか主役に絡まないので、「名場面」を眺めることは出来ても、そこにある「心」まではわかりにくい。
これが「芝居」なのか「ショー」なのか、混乱した根っこ部分。
やっていることは「芝居」なんだけど、場面場面が時間以上に「心」がつながっていなくて、「物語」としてはつらかった。
そんなこんなで第一部。「芝居」か「ショー」か、わかっていないまま幕を閉じ。
続く第二部が、本格的に洋物のショーだということも、幕間まではイマイチ理解もしておらず。
さて。
いつもはまず買わないパンフレットを今回ばかりは購入、一部の出演者のカオと名前をぼーっと眺める。なにしろ「予備知識」がキライなので、パンフ買っても公演を観終わるまではろくに読まないからさー。
先に読んでおけば、少なくとも二部が日本物ではないことぐらい、わかったろうにねえ(笑)。