だって日本人ですもの、こーゆー話は泣きますわ(笑)。@小さな花がひらいた
2011年12月1日 タカラヅカ 書けていなかった公演の感想を、簡単に。
花組全国ツアーの演目が、『小さな花がひらいた』だと聞いたとき、テンションはだだ下がりだった。
第一に、わたしは古い柴田作品が肌に合わない。当時は名作だったのかもしれないが、現代には合わない、ただ古いだけの作品を「名作だ、さあありがたがれ」と押しつけられるのが嫌。
次に、オトナが演じるわざとらしい子役がダメ。特に柴田作品に使われる子どもは、本来の年齢より幼く「いかにも子どもっていう演技」を求められるので気持ち悪さ倍増。苦手。
あと、これはタカラヅカ以外のフィクション全般に対してなんだが、子どもネタの人情モノが苦手。
シングルライフを満喫する主人公が、予期せぬトラブルによって子どもを育てるはめになる系のドラマとか、鬼門。肌に合わず、不快な思いをすることが多い(笑)。子役を使って泣かせるのは、人死にで泣かせるのと同じ、ズルだと思っている。
わたしの「苦手」が大挙して押し寄せてきたよ! タスケテ!
贔屓が出てなくて良かった、ここまで「苦手」要素だけで構成された芝居に通うとか、つらすぎる!
『小さな花がひらいた』という舞台は、ナマで観たことがない。しかし、話だけは知っている。
というのも、その昔はビデオではなく「実況CD」というのが発売されており、わたしはソレでいろんな作品を聞いていた。
当時の有線放送には「タカラヅカ・チャンネル」があり、毎日24時間、タカラヅカの実況CDを流し続けていたのだよ。わたしはバイト先で毎日そのタカラヅカ・チャンネルを聞いていた。オープン前の準備時間に。
ショーの実況CDはいいけど、芝居はなあ……モノによっては音だけではストーリーがまったくわからなかったなあ……。『心中・恋の大和路』なんか、何回聞いてもラストがどうなったのかわからずもやもやした。(ラストは音楽だけで、台詞なしだもんよ)
『小さな花がひらいた』もそうやって、音だけ聞いていた。大人が無理して演じる、わざとらしい子どもの声ばかりががちゃがちゃ聞こえ、辟易した。
特に主題歌らしき、「もう涙とはおさらばさ」とかゆーフレーズの曲!!
うざっ。ダサっ。
この曲が流れてきたらチャンネル変えるくらい、苦手だった。
わたしの「苦手」「見たくない・聞きたくない」が凝縮された曲だ!!
とまあ。
ここまで生理的に合わない作品なので、花組もらんじゅさんも大好きだから観劇はしたいけどあまり積極的な気持ちになれず、気がついたらチケット難民化しておりました。
梅芸チケット、完売じゃん……。
東回り全ツだってことが、わかってなかった。一番西で行われる公演が大阪で、しかも土日で、関西より西に住んでいる人たちはこの日程で観るしか選択肢がナイんじゃん……他の全ツと同じよーなキモチでいたら、取り残されてたよ……。
前日に東宝雪組観て、その足で夜行バスに乗って、昼12時には大阪梅田でサバキ待ちしてました……ナニこの強行軍。
作品ではなく、花組への愛と「花組が観たいんじゃあ!」という欲求のみでの行動。
無事、1階のすみっこで観劇できました。さばいてくれた人ありがとー!
で。
大泣きしました。
ええ話や……。
さんざん作品やだとぶちあげておきながら(笑)。
だってだって。
らんとむ、かっけーーっ!!
惚れる。このらんとむさんにはもお、問答無用で惚れる。
かっこよすぎる。
粋だね、いなせだね、漢だね。
でもって、あの大嫌いな、「もう涙とはおさらばさ」の歌で号泣。
もー、いちいち、畳ばんばん叩いて「そうっ、そうなのよ! 日本人ってこうなのよ、これが日本の美学なのよっ、いい男、いい女ってもんなのよ。人情ってもんなのよ!」とわめきたい。
ああ、日本っていいなあ。しみじみ。
噂には聞いていたが、あっちゃん@姫花、神演技……!
姫花の棒読みアニメ声が生かせる役があった……! 感動。
と、今回の公演は大変感動いたしましたが、それでもやはり、『小さな花がひらいた』という作品に関しては全面的に受け入れられないっす。
登場人物のほとんどが子どもである作品を、宝塚歌劇団で上演することの意義について、懐疑的だからだ。
タカラヅカは児童劇団ではない。
また、他の劇団とちがって年齢制限があり、子どもは団員にいない。
役者なんだから、どんな役でもする。
男性がいないから女性団員が男役をする、それと同じことで、子ども役だって老人役だって、妙齢の女性たちが演じているのだ。
しかし、男役と子役は、同列に語っていいことか?
成人女性が幼児を演じることで観客が喜び、その幼児や児童っぷりに安くないチケットを買って全国から駆けつける劇団ならば、子役も男役と同等に語るべきだろう。
しかし、実際はそうじゃない。
女性が演じる男役はタカラヅカの売りだが、幼児役は別に売りでもなんでもない。舞台に必要だから子役もいるというだけのこと。
子役を売りにしていない、女性が恋愛対象にできるかっこいい男の役を売りにした劇団で、子どもばかり登場する芝居をするのは、方向性として間違っている、とわたしは思う。
子どもがたくさん出る話を舞台でやりたいなら、どこか他の劇団でやればいい。ふつーに子どものいるカンバニーで無理なくやればいいじゃん。
わざわざ大人が子どものふりをしなくていいじゃん。
『小さな花がひらいた』が良い話、良い舞台だっただけに、否定意見を言いたくないのだが。
『小さな花がひらいた』が良かったことと、『小さな花がひらいた』のような話をタカラヅカで舞台化することの是非は、別だろうと思うんだ。
成人女性の幼児プレイを楽しむのが目的でない以上、子どもメインの話はタカラヅカには不要。
しかし、子どもたちというファクタの上で描かれる大人の男の格好良さ、ってのは、たしかにアリ。
そうなのよ、実際かっこ良かったのよ。
茂次@らんとむのかっこよさは、これぞ、タカラヅカなのよ。
ジレンマだわ……。
『小さな花がひらいた』は、「タカラヅカ」ではない。あってはならない。
だが。
茂次の格好良さを世界一表現できるところは、「タカラヅカ」でしかありえないっ。
という。
ジレンマだわー(笑)。
らんとむ氏だから演じきってくれたけど、彼の男前さに心から惚れ惚れしたけど、だからといって、贔屓組でこの作品だとキツイっす……。花組公演『小さな花がひらいた』が名作であることとは、まったく別の次元で。
そしてやはり、そう思わせる作品は「タカラヅカ」的ではないと思うの……。
花組全国ツアーの演目が、『小さな花がひらいた』だと聞いたとき、テンションはだだ下がりだった。
第一に、わたしは古い柴田作品が肌に合わない。当時は名作だったのかもしれないが、現代には合わない、ただ古いだけの作品を「名作だ、さあありがたがれ」と押しつけられるのが嫌。
次に、オトナが演じるわざとらしい子役がダメ。特に柴田作品に使われる子どもは、本来の年齢より幼く「いかにも子どもっていう演技」を求められるので気持ち悪さ倍増。苦手。
あと、これはタカラヅカ以外のフィクション全般に対してなんだが、子どもネタの人情モノが苦手。
シングルライフを満喫する主人公が、予期せぬトラブルによって子どもを育てるはめになる系のドラマとか、鬼門。肌に合わず、不快な思いをすることが多い(笑)。子役を使って泣かせるのは、人死にで泣かせるのと同じ、ズルだと思っている。
わたしの「苦手」が大挙して押し寄せてきたよ! タスケテ!
贔屓が出てなくて良かった、ここまで「苦手」要素だけで構成された芝居に通うとか、つらすぎる!
『小さな花がひらいた』という舞台は、ナマで観たことがない。しかし、話だけは知っている。
というのも、その昔はビデオではなく「実況CD」というのが発売されており、わたしはソレでいろんな作品を聞いていた。
当時の有線放送には「タカラヅカ・チャンネル」があり、毎日24時間、タカラヅカの実況CDを流し続けていたのだよ。わたしはバイト先で毎日そのタカラヅカ・チャンネルを聞いていた。オープン前の準備時間に。
ショーの実況CDはいいけど、芝居はなあ……モノによっては音だけではストーリーがまったくわからなかったなあ……。『心中・恋の大和路』なんか、何回聞いてもラストがどうなったのかわからずもやもやした。(ラストは音楽だけで、台詞なしだもんよ)
『小さな花がひらいた』もそうやって、音だけ聞いていた。大人が無理して演じる、わざとらしい子どもの声ばかりががちゃがちゃ聞こえ、辟易した。
特に主題歌らしき、「もう涙とはおさらばさ」とかゆーフレーズの曲!!
うざっ。ダサっ。
この曲が流れてきたらチャンネル変えるくらい、苦手だった。
わたしの「苦手」「見たくない・聞きたくない」が凝縮された曲だ!!
とまあ。
ここまで生理的に合わない作品なので、花組もらんじゅさんも大好きだから観劇はしたいけどあまり積極的な気持ちになれず、気がついたらチケット難民化しておりました。
梅芸チケット、完売じゃん……。
東回り全ツだってことが、わかってなかった。一番西で行われる公演が大阪で、しかも土日で、関西より西に住んでいる人たちはこの日程で観るしか選択肢がナイんじゃん……他の全ツと同じよーなキモチでいたら、取り残されてたよ……。
前日に東宝雪組観て、その足で夜行バスに乗って、昼12時には大阪梅田でサバキ待ちしてました……ナニこの強行軍。
作品ではなく、花組への愛と「花組が観たいんじゃあ!」という欲求のみでの行動。
無事、1階のすみっこで観劇できました。さばいてくれた人ありがとー!
で。
大泣きしました。
ええ話や……。
さんざん作品やだとぶちあげておきながら(笑)。
だってだって。
らんとむ、かっけーーっ!!
惚れる。このらんとむさんにはもお、問答無用で惚れる。
かっこよすぎる。
粋だね、いなせだね、漢だね。
でもって、あの大嫌いな、「もう涙とはおさらばさ」の歌で号泣。
もー、いちいち、畳ばんばん叩いて「そうっ、そうなのよ! 日本人ってこうなのよ、これが日本の美学なのよっ、いい男、いい女ってもんなのよ。人情ってもんなのよ!」とわめきたい。
ああ、日本っていいなあ。しみじみ。
噂には聞いていたが、あっちゃん@姫花、神演技……!
姫花の棒読みアニメ声が生かせる役があった……! 感動。
と、今回の公演は大変感動いたしましたが、それでもやはり、『小さな花がひらいた』という作品に関しては全面的に受け入れられないっす。
登場人物のほとんどが子どもである作品を、宝塚歌劇団で上演することの意義について、懐疑的だからだ。
タカラヅカは児童劇団ではない。
また、他の劇団とちがって年齢制限があり、子どもは団員にいない。
役者なんだから、どんな役でもする。
男性がいないから女性団員が男役をする、それと同じことで、子ども役だって老人役だって、妙齢の女性たちが演じているのだ。
しかし、男役と子役は、同列に語っていいことか?
成人女性が幼児を演じることで観客が喜び、その幼児や児童っぷりに安くないチケットを買って全国から駆けつける劇団ならば、子役も男役と同等に語るべきだろう。
しかし、実際はそうじゃない。
女性が演じる男役はタカラヅカの売りだが、幼児役は別に売りでもなんでもない。舞台に必要だから子役もいるというだけのこと。
子役を売りにしていない、女性が恋愛対象にできるかっこいい男の役を売りにした劇団で、子どもばかり登場する芝居をするのは、方向性として間違っている、とわたしは思う。
子どもがたくさん出る話を舞台でやりたいなら、どこか他の劇団でやればいい。ふつーに子どものいるカンバニーで無理なくやればいいじゃん。
わざわざ大人が子どものふりをしなくていいじゃん。
『小さな花がひらいた』が良い話、良い舞台だっただけに、否定意見を言いたくないのだが。
『小さな花がひらいた』が良かったことと、『小さな花がひらいた』のような話をタカラヅカで舞台化することの是非は、別だろうと思うんだ。
成人女性の幼児プレイを楽しむのが目的でない以上、子どもメインの話はタカラヅカには不要。
しかし、子どもたちというファクタの上で描かれる大人の男の格好良さ、ってのは、たしかにアリ。
そうなのよ、実際かっこ良かったのよ。
茂次@らんとむのかっこよさは、これぞ、タカラヅカなのよ。
ジレンマだわ……。
『小さな花がひらいた』は、「タカラヅカ」ではない。あってはならない。
だが。
茂次の格好良さを世界一表現できるところは、「タカラヅカ」でしかありえないっ。
という。
ジレンマだわー(笑)。
らんとむ氏だから演じきってくれたけど、彼の男前さに心から惚れ惚れしたけど、だからといって、贔屓組でこの作品だとキツイっす……。花組公演『小さな花がひらいた』が名作であることとは、まったく別の次元で。
そしてやはり、そう思わせる作品は「タカラヅカ」的ではないと思うの……。
芝居と言うより、「華!」の練習みたいな新公だった。@新人公演『オーシャンズ11』
2011年11月30日 タカラヅカ 新人公演『オーシャンズ11』は、1本モノを短縮しての上演、だけどそれほど破綻なく……というか、ストーリー部分はできるだけ手を付けず、ショー部分というか余裕の部分をカットすることで処理しましたって感じだった。
悪くはない再構成。
しかし……地味に、つまらなくなったなあ、という気はした。
アゲるところが減った分、同じテンション同じ画面が続くというか。
オープニングに出られないベネディクト@みっきーは損だなあ、と思ってみたり。
いやしかし、楽しかった。
とーっても満足して劇場を出ました。
主演のふたり、ダニー@マカゼとテス@はるこちゃんはものすげー安定感。
というか、もう今さら何故新公主演なんだろう、という域ですな。
マカゼはほんっとに、心から、うまくなってほしい。
もう、宿命だよ。
マカゼくん、君はタカラヅカのトップスターとなり、大劇場の真ん中に立つ運命なんだ、だからあとはその運命に相応しいだけの実力を身につけてくれ。
エクスカリバーを抜いちゃったアーサー王子みたいなもんだよ。王になることは決定項なんだから、今さら覆せないことなんだから、領民のために強くなってくれ。君がアレだと臣下すべて不幸になる、国の命運掛かってるんだ、四の五の言わずに鍛錬してくれ、てな。
ほんとに、ビジュアルだけなら、素晴らしいです。
もったいないです。ここまでのビジュアル持っていて、それでいて、ええっとその、実力があの、その、アレだってことが。
いや、実力だって、マカゼ比では良くなっている。歌も芝居も立ち居も、牛歩であっても、前へ進んでいる。
しかし神から与えられた身体的才能と、劇団から与えられた機会は、今の実力より遙かに多大なモノなので、早く追いついてくれと。
そーでないといろいろと不幸だ。
わたしは彼のビジュアルが好きなので、そのビジュアルだけで眺めていられるクチなので、それだけになんか申し訳ないキモチに、勝手になってしまう(笑)。
なんかいろいろとごめん。でも、好きだからこそ、がんばってくれええ。
しかしほんと、バウ主演は大きかったなあと思う。
本公演でもずっと重要な役を与えられてきたけれど、真ん中で1公演演じきったのは、役者として舞台人として、大きく変わったんだなあと思う。
……本公演ではあまり感じないあたり、やっぱ新公で周りがひよっこばっかだと違うんだろうなあ、キャリアの差から来るものって。
はるこちゃんはすでに出来上がった娘役で、新人公演はあまり意味がないなと思えた。
というのも、彼女が問題にすべきなのは、彼女のために与えられて役であって、誰かのための役を「お勉強で」演じることじゃない。
ねねちゃんのためにアテ書きされた役を、まったく芸風のチガウはるこちゃんが演じても「器用にがんばっているな」ということを強く感じるのみで、新しい魅力の発見にはつながらない。
むしろ、はるこちゃんの弱点が強調されてしまって、残念だった。
すなわち、「小さい」こと。
とてもシンプルに、体格が。
ねねちゃんの最大の武器、脚線美を強調するドレスを着ると、その小ささ、残念さが際立つ。「女神」に見えない。
はるこちゃんは、うまかった。
濃いメイクで大人びた顔を作り、ねねちゃんより大人びたテスを演じた。
花組のいちかを思い出した。小さなカラダでどんな役でもやってのける「役者」、柄違いだろーがなんだろうが、小柄さは覆せないにしろ別のカタチで説得力を持たせる役作り。
いちか系のアプローチだ。このままキャリアを詰めば、役者としても引き出しの多い、懐の広い人になるだろう。
とは思ったけれど、今この時点で、ねね様の役、しかもこの役ってのは……不自由だなあ、と思った。
作品が、ねねちゃんの武器を最大に使える作りになっているんだ。ねねちゃんの武器ははるこの弱点、はるこは弱点だけで戦わねばならない。
ねねとはるこ、共通の弱点である「歌」にしろ、純粋に歌う時間の差なのか舞台キャリアの差なのか、ねねの方が聴きやすいしなあ。
はるこちゃんの芝居の根っこにある、「自分の足で立っている」感じが好きだ。
次のバウヒロを楽しみにしている。
ラスティー@キキくんは、オープニングの恩恵をしっかり受け止めたなあと。
スター!な扱いに相応しい人だ。
スカフェのときの丸顔ぷくぷくなイメージも強かったんだが、どんどんシャープになっていって、いい感じだよねー。
マカゼとキキ、ふたり並んでいるとすごくリアル男性っぽい。
背が高いってだけでなく、なんつっても、顔の大きさが。
日本人男性って背が高いと顔も大きくなるじゃん? 外国人のように八頭身九頭身にはならない。
ふたりともリアル男子のように、顔も小さくないので、全体的な厚みとか、ちょっとドキドキする(笑)。
七帆くんを思い出すなー。彼もリアルな頭身だった。
どーしたもんかと反応に困るのが、ライナス@礼くん。
まずオープニングで、「ひとりだけ、男装した娘役がまざってる?」と首を傾げた。
すごくかわいい。ダンスもきれい。
でもなんで女の子が、男役の衣装を着ているんだろう、そんな新公ならではの演出があったっけ? と、思った。
配役見てないからさー。先入観ナイと、素直に女の子だと思っちゃったよー。
それきり忘れていて、地下鉄の場面で登場したのを見て、よーやく、「あ、礼くんだ……てゆーか、ライナスだったのか!」と思い至った。
ライナスはカジュアルな服装なので、ますますふつーに女の子に見える。髪型も顔も、まるい頬の線も。
しかし。
声は、男の子だ。
そうだった……彼は、声はちゃんと男役なんだ。「14 COVERS TAKARAZUKA OTOKOUTA 」でも、ちゃんと男役の声で歌っていた。この学年でこの声で歌えるんだ、と感動したもんだった。(あのCDでは若干1名のみ、オンナノコのまま歌っていたが、他の子はみんなちゃんとオトコウタだった!)
ゆえに、喋ると男の子に見える。
うわああ、礼くん頼む、外見も男の子になってくれええ。
未だオンナノコの外見だからこそ、愛@『ロミオとジュリエット』がハマったことはわかるけど、せっかく素敵な声を、歌声を持っているんだから、このままだと見た目とのギャップが……。
3ジュエルズかわいかった、っていうか、うまかった。特にあんる!! ますます磨きの掛かった歌声、かっけー!
マイク@れいくんもなんかかっけー、つか、本役とあきらかに役作りチガウよね?(笑)
ポーラ@わかばちゃんは……わたし、わかばちゃんの演技、大抵なんでも大丈夫なんだけど、今回はちょっとアレだった(笑)。
てゆーかわかばちゃん、どの時代のどんな役やっても同じなんだねえ。『ハプスブルクの宝剣』や『ランスロット』みたいな時代劇なら気にならないけど、現代物だといろいろと気になった……台詞と演技の抑揚のなさが。
ソール@まいける、うますぎ。
声までマヤさんに似ていてびっくり。
ダイアナ@キトリもさすが。挨拶も含め、余裕ですな。
モロイ兄弟かわいかったー。フランク@れいやくん相変わらず(笑)、リカルド@はるくんいい味出してた。
あと、ひろ香祐くんがなんかかっこよかった! ダーク? メガネ?……効果? 凰津くんモミアゲ?……愉快なことに。 瀬央くんヒゲ?……イケメン。
悪くはない再構成。
しかし……地味に、つまらなくなったなあ、という気はした。
アゲるところが減った分、同じテンション同じ画面が続くというか。
オープニングに出られないベネディクト@みっきーは損だなあ、と思ってみたり。
いやしかし、楽しかった。
とーっても満足して劇場を出ました。
主演のふたり、ダニー@マカゼとテス@はるこちゃんはものすげー安定感。
というか、もう今さら何故新公主演なんだろう、という域ですな。
マカゼはほんっとに、心から、うまくなってほしい。
もう、宿命だよ。
マカゼくん、君はタカラヅカのトップスターとなり、大劇場の真ん中に立つ運命なんだ、だからあとはその運命に相応しいだけの実力を身につけてくれ。
エクスカリバーを抜いちゃったアーサー王子みたいなもんだよ。王になることは決定項なんだから、今さら覆せないことなんだから、領民のために強くなってくれ。君がアレだと臣下すべて不幸になる、国の命運掛かってるんだ、四の五の言わずに鍛錬してくれ、てな。
ほんとに、ビジュアルだけなら、素晴らしいです。
もったいないです。ここまでのビジュアル持っていて、それでいて、ええっとその、実力があの、その、アレだってことが。
いや、実力だって、マカゼ比では良くなっている。歌も芝居も立ち居も、牛歩であっても、前へ進んでいる。
しかし神から与えられた身体的才能と、劇団から与えられた機会は、今の実力より遙かに多大なモノなので、早く追いついてくれと。
そーでないといろいろと不幸だ。
わたしは彼のビジュアルが好きなので、そのビジュアルだけで眺めていられるクチなので、それだけになんか申し訳ないキモチに、勝手になってしまう(笑)。
なんかいろいろとごめん。でも、好きだからこそ、がんばってくれええ。
しかしほんと、バウ主演は大きかったなあと思う。
本公演でもずっと重要な役を与えられてきたけれど、真ん中で1公演演じきったのは、役者として舞台人として、大きく変わったんだなあと思う。
……本公演ではあまり感じないあたり、やっぱ新公で周りがひよっこばっかだと違うんだろうなあ、キャリアの差から来るものって。
はるこちゃんはすでに出来上がった娘役で、新人公演はあまり意味がないなと思えた。
というのも、彼女が問題にすべきなのは、彼女のために与えられて役であって、誰かのための役を「お勉強で」演じることじゃない。
ねねちゃんのためにアテ書きされた役を、まったく芸風のチガウはるこちゃんが演じても「器用にがんばっているな」ということを強く感じるのみで、新しい魅力の発見にはつながらない。
むしろ、はるこちゃんの弱点が強調されてしまって、残念だった。
すなわち、「小さい」こと。
とてもシンプルに、体格が。
ねねちゃんの最大の武器、脚線美を強調するドレスを着ると、その小ささ、残念さが際立つ。「女神」に見えない。
はるこちゃんは、うまかった。
濃いメイクで大人びた顔を作り、ねねちゃんより大人びたテスを演じた。
花組のいちかを思い出した。小さなカラダでどんな役でもやってのける「役者」、柄違いだろーがなんだろうが、小柄さは覆せないにしろ別のカタチで説得力を持たせる役作り。
いちか系のアプローチだ。このままキャリアを詰めば、役者としても引き出しの多い、懐の広い人になるだろう。
とは思ったけれど、今この時点で、ねね様の役、しかもこの役ってのは……不自由だなあ、と思った。
作品が、ねねちゃんの武器を最大に使える作りになっているんだ。ねねちゃんの武器ははるこの弱点、はるこは弱点だけで戦わねばならない。
ねねとはるこ、共通の弱点である「歌」にしろ、純粋に歌う時間の差なのか舞台キャリアの差なのか、ねねの方が聴きやすいしなあ。
はるこちゃんの芝居の根っこにある、「自分の足で立っている」感じが好きだ。
次のバウヒロを楽しみにしている。
ラスティー@キキくんは、オープニングの恩恵をしっかり受け止めたなあと。
スター!な扱いに相応しい人だ。
スカフェのときの丸顔ぷくぷくなイメージも強かったんだが、どんどんシャープになっていって、いい感じだよねー。
マカゼとキキ、ふたり並んでいるとすごくリアル男性っぽい。
背が高いってだけでなく、なんつっても、顔の大きさが。
日本人男性って背が高いと顔も大きくなるじゃん? 外国人のように八頭身九頭身にはならない。
ふたりともリアル男子のように、顔も小さくないので、全体的な厚みとか、ちょっとドキドキする(笑)。
七帆くんを思い出すなー。彼もリアルな頭身だった。
どーしたもんかと反応に困るのが、ライナス@礼くん。
まずオープニングで、「ひとりだけ、男装した娘役がまざってる?」と首を傾げた。
すごくかわいい。ダンスもきれい。
でもなんで女の子が、男役の衣装を着ているんだろう、そんな新公ならではの演出があったっけ? と、思った。
配役見てないからさー。先入観ナイと、素直に女の子だと思っちゃったよー。
それきり忘れていて、地下鉄の場面で登場したのを見て、よーやく、「あ、礼くんだ……てゆーか、ライナスだったのか!」と思い至った。
ライナスはカジュアルな服装なので、ますますふつーに女の子に見える。髪型も顔も、まるい頬の線も。
しかし。
声は、男の子だ。
そうだった……彼は、声はちゃんと男役なんだ。「14 COVERS TAKARAZUKA OTOKOUTA 」でも、ちゃんと男役の声で歌っていた。この学年でこの声で歌えるんだ、と感動したもんだった。(あのCDでは若干1名のみ、オンナノコのまま歌っていたが、他の子はみんなちゃんとオトコウタだった!)
ゆえに、喋ると男の子に見える。
うわああ、礼くん頼む、外見も男の子になってくれええ。
未だオンナノコの外見だからこそ、愛@『ロミオとジュリエット』がハマったことはわかるけど、せっかく素敵な声を、歌声を持っているんだから、このままだと見た目とのギャップが……。
3ジュエルズかわいかった、っていうか、うまかった。特にあんる!! ますます磨きの掛かった歌声、かっけー!
マイク@れいくんもなんかかっけー、つか、本役とあきらかに役作りチガウよね?(笑)
ポーラ@わかばちゃんは……わたし、わかばちゃんの演技、大抵なんでも大丈夫なんだけど、今回はちょっとアレだった(笑)。
てゆーかわかばちゃん、どの時代のどんな役やっても同じなんだねえ。『ハプスブルクの宝剣』や『ランスロット』みたいな時代劇なら気にならないけど、現代物だといろいろと気になった……台詞と演技の抑揚のなさが。
ソール@まいける、うますぎ。
声までマヤさんに似ていてびっくり。
ダイアナ@キトリもさすが。挨拶も含め、余裕ですな。
モロイ兄弟かわいかったー。フランク@れいやくん相変わらず(笑)、リカルド@はるくんいい味出してた。
あと、ひろ香祐くんがなんかかっこよかった! ダーク? メガネ?……効果? 凰津くんモミアゲ?……愉快なことに。 瀬央くんヒゲ?……イケメン。
それは、彼の「物語」か。(わたしにとって・笑)@新人公演『オーシャンズ11』
2011年11月29日 タカラヅカ 書きたい感想が溜まっているけど、まずコレだけ叫ぶ。
ベネディクト@みっきー好きだあああっ!!
キた。
なんかすっげー久しぶりに、ど真ん中来たっ。
このときめき(笑)、しばらく忘れてたわ。
オペラグラス握りしめて表情のひとつひとつ見入る、世界から彼以外消える感覚。
ちょ、どうしよう! ナニこれ、なんでこんなに好みなの?!
まず、美しい。
みっきーが美形であることはわかっている。が、彼のポジション的に、ここまで「美形」という表情や立ち居をしていることが、あまりなかった。本公演の役付、新公の役付含め。
ベネディクトは美形役である。なにしろ、主人公がベタ惚れしている美女ヒロインを夢中にさせてしまう役だ、色男でなければならない。
金持ちで尊大で、好きなだけカッコつけていい。全開に「二枚目」「色男」をやっていい役なんだ。
美形さにはいろいろあるけど、「色悪」における「美」の解放ってのは、すごいものがある。
やさしさは緩さに通じ、やさしい二枚目役だと、美の探求の手はゆるめなければならない。もちろん、コメディ要素というか、抜きのある役ならばなおさら、純粋にとぎすまされた「美」の表現ではなくなる。
ベネディクト役は、純粋に「美」を表現できる。
いい人である必要はない、持てる力すべて出して、「美形」を演じられる。
だからみっきーは今ここで、本気の美形っぷりを見せてくれたのだろう。
だから彼は、美しい。
外見の美しさがまずあり、次に、芝居、表現がわたしの好みど真ん中だった。
美しさという説得力の上で、そこに尊大さや冷酷さが加わると、すげーかっこいい。表情のひとつひとつがまっすぐに飛んでくる。曖昧さはなく、表現したいモノを的確に差し出す感じ。
ああ、うまい人なんだ。演じる技術を持っている人だ。だからこんなに、無駄なくそつなく形作る。
表現されているモノは、的確すぎて、ある意味テンプレ通りかもしれない。「ベネディクト」なら「悪役」なら、こうであるだろう、という教科書通りの正しさ。
天才系ではなく、地道に作り上げたこの技術の確かさに震撼する。あたしこーゆー芝居する人好きだー。
でもでも、それだけなら、それ止まりなら、ここまでときめかない。
教科書通り、成績優秀生徒らしい芝居巧者ぶりに加えて。
どこか、歪みがある。
弱さというか、欠けというか。
四角四面で終わらない、危うさ。技術の安定感の陰で、見過ごされがちな、ときどきさっと走る程度の、弱さ。
そっれっがっ、もお。めちゃくちゃ魅力的ーーっ!!
このベネディクト、好き。
てゆーか、いじめたい。
攻はいないの、攻は?! あんなかわいこちゃん、ひとりで置いておくなんて、あの世界の男たちはぼんくら揃いなのっ?! ……と、理不尽な憤りを感じるくらい、魅力的でとまどいました。
色悪で強くてイヤナヤツなのに、それを正しく演じているのに、どこか可哀想っていうか泣きそうな壊れそうなナニかを抱えていて、母性本能刺激される感じ?(笑)
テス@はるこちゃんに対する王子様ぶりの甘さ。自分への自信と、思うように行かなくなっていくに従って精神のささくれ立っていく様の、それぞれの魅力。
そして、最悪のタイミングで逆らうテスへ、態度を豹変する様。
ベネディクト視点で見てしまっているもんで、もお、彼が可哀想でなあ。
少年時代に辛酸をなめ尽くしている彼は、「運命」の顔色に敏感なのだと思う。世の中には人間の努力や願いとは無関係な「運命」があり、うまくそれに乗ることができれば成功するが、乗り損ねたら破滅する。
ベネディクトは運命を操る術を学び、自在に乗りこなしてきた。それを自負してきた。運命に嘲笑われるように破滅した父を見て育ったから。父の背中を見て、泣きながら歩いたから。
運命は自分の手の中だ……そう自惚れていたのに、今ここで、手に負えなくなっている。どこで間違えた、何故手からすべり落ちる、いや、このままだと俺は奈落へ真っ逆さまだ……って、そんなときに、「運命を征服し、成功する俺」の具現、トロフィーである美女・テスが彼に逆らう。
運命が、ベネディクトを拒んだ……貶めた……そう思える、一瞬。
あ、痛い。きゃんきゃんヒステリックに文句を付けるテスと、そんな彼女に本性を見せるベネディクトに、胸が痛んだ。
ベネディクトは今、傷ついた。ものすごく、彼は悲しんだ。本人が自覚していなくても、テスに歯向かわれて、「運命」に斬りつけられたような痛みを感じたはず。
それがわかるから、ずきんと痛い。哀しい。
うわあああん。テリー!! 愛しいよテリー!!
作品的には、そんなこと感じさせちゃいかんのだと思う。ベネディクトは「懲らしめられて当然の悪」であり、最後彼がきりきり舞いして「うきゃーーっ」となる様を痛快に思わせなきゃならないんだから。
でもみっきーテリーは「いい気味だ、ざまーみろ!」とは思えない。狂気すら感じさせる乱れ方は、ただただ、哀れだ。
みっきーテリーはさあ、大金を盗まれたから痛い目にあった、とか、婚約者の美女を盗まれたから残念、とかゆーレベルぢゃないんだよ。
多分彼、「運命」に……彼が今まで築き上げてきた「人生」自体を否定されたんだよ……。
だからあんなに、あそこまで、乱れたんだよ……。
あああ、胸が痛い。きゅんきゅんするー!(笑)
アーサー@『ランスロット』もそりゃ、魅力的でしたよ。
でもあの役はいろいろと不自由でねえ……。みっきーは「いい人」よりも、こーゆーちょっと歪んだ人の方が魅力爆発するんだわ、わたし的に。
それこそ、みっきーで『龍星』見てみたいとか、そーゆー嗜虐ハートを刺激されます。
あー、楽しかった、『オーシャンズ11』新人公演。
他の、まともな感想はまたいずれ(笑)。
ベネディクト@みっきー好きだあああっ!!
キた。
なんかすっげー久しぶりに、ど真ん中来たっ。
このときめき(笑)、しばらく忘れてたわ。
オペラグラス握りしめて表情のひとつひとつ見入る、世界から彼以外消える感覚。
ちょ、どうしよう! ナニこれ、なんでこんなに好みなの?!
まず、美しい。
みっきーが美形であることはわかっている。が、彼のポジション的に、ここまで「美形」という表情や立ち居をしていることが、あまりなかった。本公演の役付、新公の役付含め。
ベネディクトは美形役である。なにしろ、主人公がベタ惚れしている美女ヒロインを夢中にさせてしまう役だ、色男でなければならない。
金持ちで尊大で、好きなだけカッコつけていい。全開に「二枚目」「色男」をやっていい役なんだ。
美形さにはいろいろあるけど、「色悪」における「美」の解放ってのは、すごいものがある。
やさしさは緩さに通じ、やさしい二枚目役だと、美の探求の手はゆるめなければならない。もちろん、コメディ要素というか、抜きのある役ならばなおさら、純粋にとぎすまされた「美」の表現ではなくなる。
ベネディクト役は、純粋に「美」を表現できる。
いい人である必要はない、持てる力すべて出して、「美形」を演じられる。
だからみっきーは今ここで、本気の美形っぷりを見せてくれたのだろう。
だから彼は、美しい。
外見の美しさがまずあり、次に、芝居、表現がわたしの好みど真ん中だった。
美しさという説得力の上で、そこに尊大さや冷酷さが加わると、すげーかっこいい。表情のひとつひとつがまっすぐに飛んでくる。曖昧さはなく、表現したいモノを的確に差し出す感じ。
ああ、うまい人なんだ。演じる技術を持っている人だ。だからこんなに、無駄なくそつなく形作る。
表現されているモノは、的確すぎて、ある意味テンプレ通りかもしれない。「ベネディクト」なら「悪役」なら、こうであるだろう、という教科書通りの正しさ。
天才系ではなく、地道に作り上げたこの技術の確かさに震撼する。あたしこーゆー芝居する人好きだー。
でもでも、それだけなら、それ止まりなら、ここまでときめかない。
教科書通り、成績優秀生徒らしい芝居巧者ぶりに加えて。
どこか、歪みがある。
弱さというか、欠けというか。
四角四面で終わらない、危うさ。技術の安定感の陰で、見過ごされがちな、ときどきさっと走る程度の、弱さ。
そっれっがっ、もお。めちゃくちゃ魅力的ーーっ!!
このベネディクト、好き。
てゆーか、いじめたい。
攻はいないの、攻は?! あんなかわいこちゃん、ひとりで置いておくなんて、あの世界の男たちはぼんくら揃いなのっ?! ……と、理不尽な憤りを感じるくらい、魅力的でとまどいました。
色悪で強くてイヤナヤツなのに、それを正しく演じているのに、どこか可哀想っていうか泣きそうな壊れそうなナニかを抱えていて、母性本能刺激される感じ?(笑)
テス@はるこちゃんに対する王子様ぶりの甘さ。自分への自信と、思うように行かなくなっていくに従って精神のささくれ立っていく様の、それぞれの魅力。
そして、最悪のタイミングで逆らうテスへ、態度を豹変する様。
ベネディクト視点で見てしまっているもんで、もお、彼が可哀想でなあ。
少年時代に辛酸をなめ尽くしている彼は、「運命」の顔色に敏感なのだと思う。世の中には人間の努力や願いとは無関係な「運命」があり、うまくそれに乗ることができれば成功するが、乗り損ねたら破滅する。
ベネディクトは運命を操る術を学び、自在に乗りこなしてきた。それを自負してきた。運命に嘲笑われるように破滅した父を見て育ったから。父の背中を見て、泣きながら歩いたから。
運命は自分の手の中だ……そう自惚れていたのに、今ここで、手に負えなくなっている。どこで間違えた、何故手からすべり落ちる、いや、このままだと俺は奈落へ真っ逆さまだ……って、そんなときに、「運命を征服し、成功する俺」の具現、トロフィーである美女・テスが彼に逆らう。
運命が、ベネディクトを拒んだ……貶めた……そう思える、一瞬。
あ、痛い。きゃんきゃんヒステリックに文句を付けるテスと、そんな彼女に本性を見せるベネディクトに、胸が痛んだ。
ベネディクトは今、傷ついた。ものすごく、彼は悲しんだ。本人が自覚していなくても、テスに歯向かわれて、「運命」に斬りつけられたような痛みを感じたはず。
それがわかるから、ずきんと痛い。哀しい。
うわあああん。テリー!! 愛しいよテリー!!
作品的には、そんなこと感じさせちゃいかんのだと思う。ベネディクトは「懲らしめられて当然の悪」であり、最後彼がきりきり舞いして「うきゃーーっ」となる様を痛快に思わせなきゃならないんだから。
でもみっきーテリーは「いい気味だ、ざまーみろ!」とは思えない。狂気すら感じさせる乱れ方は、ただただ、哀れだ。
みっきーテリーはさあ、大金を盗まれたから痛い目にあった、とか、婚約者の美女を盗まれたから残念、とかゆーレベルぢゃないんだよ。
多分彼、「運命」に……彼が今まで築き上げてきた「人生」自体を否定されたんだよ……。
だからあんなに、あそこまで、乱れたんだよ……。
あああ、胸が痛い。きゅんきゅんするー!(笑)
アーサー@『ランスロット』もそりゃ、魅力的でしたよ。
でもあの役はいろいろと不自由でねえ……。みっきーは「いい人」よりも、こーゆーちょっと歪んだ人の方が魅力爆発するんだわ、わたし的に。
それこそ、みっきーで『龍星』見てみたいとか、そーゆー嗜虐ハートを刺激されます。
あー、楽しかった、『オーシャンズ11』新人公演。
他の、まともな感想はまたいずれ(笑)。
二次元とタカラヅカ。@アリスの恋人
2011年11月28日 タカラヅカ 『アリスの恋人』のキャスト感想行きます、みりおくん以外。
アリス@ちゃぴ、でかっ。
ペタ靴のアリス……。
いやその、アリスは少女設定だからハイヒールである必要はないけど、ふつーにかわいいレベルのはヒールは必要よ、ビジュアル的に。
最低限のヒールしかないアリスに違和感。
そして、アリスの膝折に感動。
ルイス・キャロル@みりおくんに近付くとき、アリスはなんとなーく小さくなる。姿勢を変えて、ルイスより大きくならないようにと。
そうか、娘役の必須スキル「膝折」をちゃぴちゃんは急激に学んだんだな。
成人したOLがアリスっていうのは、世の中的にはおかしいんだと思う。
大のオトナがエプロンドレスのコスプレなんてイタいだけだろう、と。
しかし、乙女ゲーの世界なら、それは当然のこと!
働いている等身大のワタシが、ゲームの中では少女になって、高校生の美少年と恋をしちゃうの♪
ということで、はずせない設定なんだと思う。
ゲームは二次元だから、「あたし、アリス。23歳、編集者」でも顔はロリロリ14歳、に作れる。
しかし現実に、23歳の女を幼女コスプレさせたらイメクラ的いたたまれなさになる。
研3のちゃぴちゃんならギリ、どちらもできると踏んでのキャスティングかなあ。
現実はアニメ絵ぢゃないからねええ。
等身大、体当たり、新公サビーヌ@『アルジェの男』ほど無理はない。
若さと新鮮さで勝負!なだけで、現時点では破綻もないけれど、「天才現る!」という衝撃もない。
キャリアのわりによくやっていた、という感じ。
ただわたしは彼女に最初から好意を持っているので、ただもお可愛い可愛いと愛でておりました(笑)。
ナイトメア@マギーの存在感半端ネェ。
白の女王@あーちゃんとふたりして、「格の違い」を見せつける。新人公演に本役さん出てます的な。
マギーがもっと歌える人ならなあ……。ナイトメア的にすごーく盛り上がる、ここぞっ!てなソロで、客席を圧倒できないのはつらいなあ。
帽子屋@ゆりやくんは……どうしちゃったんだ(笑)。
あさこそっくり、っていうか、コピーがそこに。
アッサーラ@『天使の季節』のビデオでも見たんかい……。
既存スターそのままの演技に見えて、ちょっと引いた……(笑)。
いや、ゆりやくんがこんなに器用だとは思わなかった。モノマネのど自慢とかであるじゃん、「森進一のモノマネで、嵐メドレーを歌います」とか。アッサーラのモノマネで帽子屋をやります的な、小器用さに、びっくりした。
それとも、あさこちゃんそっくりなのが彼自身の持ち味なの……? それも、あさこのシリアス芝居ではない、コメディのときのが? それっていいの?
楽しく笑って眺めたけれど、彼がこのままだと残念だなあ、とわたしは思った。あさこちゃんは、あさこちゃんだけでいい。
わたしは、紫門ゆりやが見たい。
マーチ・ラビット@たまきちは……見たときに、乙!と思った。ついったーなら、そのひとことで済ませている(笑)。
いやあ、ウサギコスプレ、似合わないねっ!!(笑)
ご苦労様です、番手だけで役割だけで、そんな格好させられて。
学年的にはアリなはずなんだけどな、なにしろたまきちだからさー。羞恥プレイ系になっちゃって……。
それとも、世の中的にアレは似合っていたのか??
でも、たまきちくんに必要なのは、「若者の役」だとは思う。若者を演じて魅力的に見せることが、今の彼には必要。
……というのも、今まで彼が演じた役の中で、おっさん役ばかりが素晴らしいからだ。
年相応の若者役だと、年相応に足りない部分が見えるんだよなあ……不思議だ、たまきち。
チャシャ猫@まんちゃん、ヤマネ@ちなつくんは、かわいかった!
意外や意外、このふたりがもっともファンタジー度は高かったと思う。ちなつくんなんて、持ち味おっさん系だと思ってたのに……(笑)。
ルーク@るうくんはうまいんだけど……『二人の貴公子』の方が良かったなあ、と回顧主義になったひとり。持ち味的に、軽妙さがすべる……。
ファンタジー度が低くていちばん大変だったのは、赤の女王@ゆめちゃんだと思うが、もうひとり彼女とはチガウ意味で大変っちゅーか、肩を落としたのが、レイブン@萌花さん。
藤咲えりは、偉大だ。
と、しみじみ思った。
えりちゃんのアニメっぷりはほんと、すごかったんだなあ。
えりちゃん自身は暗めの堅実芝居キャラなのに、アニメ的な記号を振ると別の存在になる。
ダークファンタジーの「美少女」という記号。
この世ではない、「萌え~~」な世界の住人を、見事に形成する。
台詞ナシで立っているだけ、動いているだけで「異世界」を創る美少女、この記号がちゃんと作動していない、できる役者がいないあたり、月組ってほんとアニメ・ゲーム世界とは別次元の持ち味なんだなと思った。
萌花さんや月組に含みはないよ、それが悪いことだと言ってるんじゃないよ。
ここはアキバぢゃないんだから、アニメ・ゲーム的でないから劣っているなんて話じゃない。
ただ、シンプルに持ち味が「チガウ」という話。
タカラヅカはアニメじゃない。タカラヅカの持つ本来の力で勝負すべき人たちであり、組なんだろう。
ぜんぜん関係ないことだが、わたし的にツボったのは。
スペードのジャックが、ヲカマ!!(笑)
ほら、わたしはついこの間まで、この隣の劇場で「スペードのジャック様(はぁと)」とやっていて、客席降りのJ様の目線欲しさにパンダのぬいぐるみにスペードJのキラキラ縫いつけてこっそり膝の上に乗せてみたりしていた、イタいヲタクですよ。(スペードのJ様にはガン無視されましたがナニか?・笑)
スペードのジャックには、なみなみならぬ思い入れがあるわけです。
そんな状態でバウホールへ足を運び、「あら、モブの子たちはみんなキャピュレット・チームなのね」と思い、なつかしーわねー、切ないわねー(『ロミジュリ』に未練ありすぎです)で、よく見ると「あら、みんなそれぞれトランプを身も蓋もなく衣装に縫いつけてるのねー」で。
そしてスペードのジャックは。「……ヲカマ?!(白目)」。
ゆうまくん、ナニやってんのー(笑)。
いや、まずゆうまくんだわー、と思って、彼の衣装見て「あ、ゆうまくんがまっつのスペードのジャックなんだー」と思い、その次に、彼がヲカマだと気付いた……。
いやはや、楽しそうでナニより。
まっつ応援グッズのキラキラスペードのジャック、ゆうまくんの応援グッズにそのままスライドできるわねー。(やめなさい)
アリス@ちゃぴ、でかっ。
ペタ靴のアリス……。
いやその、アリスは少女設定だからハイヒールである必要はないけど、ふつーにかわいいレベルのはヒールは必要よ、ビジュアル的に。
最低限のヒールしかないアリスに違和感。
そして、アリスの膝折に感動。
ルイス・キャロル@みりおくんに近付くとき、アリスはなんとなーく小さくなる。姿勢を変えて、ルイスより大きくならないようにと。
そうか、娘役の必須スキル「膝折」をちゃぴちゃんは急激に学んだんだな。
成人したOLがアリスっていうのは、世の中的にはおかしいんだと思う。
大のオトナがエプロンドレスのコスプレなんてイタいだけだろう、と。
しかし、乙女ゲーの世界なら、それは当然のこと!
働いている等身大のワタシが、ゲームの中では少女になって、高校生の美少年と恋をしちゃうの♪
ということで、はずせない設定なんだと思う。
ゲームは二次元だから、「あたし、アリス。23歳、編集者」でも顔はロリロリ14歳、に作れる。
しかし現実に、23歳の女を幼女コスプレさせたらイメクラ的いたたまれなさになる。
研3のちゃぴちゃんならギリ、どちらもできると踏んでのキャスティングかなあ。
現実はアニメ絵ぢゃないからねええ。
等身大、体当たり、新公サビーヌ@『アルジェの男』ほど無理はない。
若さと新鮮さで勝負!なだけで、現時点では破綻もないけれど、「天才現る!」という衝撃もない。
キャリアのわりによくやっていた、という感じ。
ただわたしは彼女に最初から好意を持っているので、ただもお可愛い可愛いと愛でておりました(笑)。
ナイトメア@マギーの存在感半端ネェ。
白の女王@あーちゃんとふたりして、「格の違い」を見せつける。新人公演に本役さん出てます的な。
マギーがもっと歌える人ならなあ……。ナイトメア的にすごーく盛り上がる、ここぞっ!てなソロで、客席を圧倒できないのはつらいなあ。
帽子屋@ゆりやくんは……どうしちゃったんだ(笑)。
あさこそっくり、っていうか、コピーがそこに。
アッサーラ@『天使の季節』のビデオでも見たんかい……。
既存スターそのままの演技に見えて、ちょっと引いた……(笑)。
いや、ゆりやくんがこんなに器用だとは思わなかった。モノマネのど自慢とかであるじゃん、「森進一のモノマネで、嵐メドレーを歌います」とか。アッサーラのモノマネで帽子屋をやります的な、小器用さに、びっくりした。
それとも、あさこちゃんそっくりなのが彼自身の持ち味なの……? それも、あさこのシリアス芝居ではない、コメディのときのが? それっていいの?
楽しく笑って眺めたけれど、彼がこのままだと残念だなあ、とわたしは思った。あさこちゃんは、あさこちゃんだけでいい。
わたしは、紫門ゆりやが見たい。
マーチ・ラビット@たまきちは……見たときに、乙!と思った。ついったーなら、そのひとことで済ませている(笑)。
いやあ、ウサギコスプレ、似合わないねっ!!(笑)
ご苦労様です、番手だけで役割だけで、そんな格好させられて。
学年的にはアリなはずなんだけどな、なにしろたまきちだからさー。羞恥プレイ系になっちゃって……。
それとも、世の中的にアレは似合っていたのか??
でも、たまきちくんに必要なのは、「若者の役」だとは思う。若者を演じて魅力的に見せることが、今の彼には必要。
……というのも、今まで彼が演じた役の中で、おっさん役ばかりが素晴らしいからだ。
年相応の若者役だと、年相応に足りない部分が見えるんだよなあ……不思議だ、たまきち。
チャシャ猫@まんちゃん、ヤマネ@ちなつくんは、かわいかった!
意外や意外、このふたりがもっともファンタジー度は高かったと思う。ちなつくんなんて、持ち味おっさん系だと思ってたのに……(笑)。
ルーク@るうくんはうまいんだけど……『二人の貴公子』の方が良かったなあ、と回顧主義になったひとり。持ち味的に、軽妙さがすべる……。
ファンタジー度が低くていちばん大変だったのは、赤の女王@ゆめちゃんだと思うが、もうひとり彼女とはチガウ意味で大変っちゅーか、肩を落としたのが、レイブン@萌花さん。
藤咲えりは、偉大だ。
と、しみじみ思った。
えりちゃんのアニメっぷりはほんと、すごかったんだなあ。
えりちゃん自身は暗めの堅実芝居キャラなのに、アニメ的な記号を振ると別の存在になる。
ダークファンタジーの「美少女」という記号。
この世ではない、「萌え~~」な世界の住人を、見事に形成する。
台詞ナシで立っているだけ、動いているだけで「異世界」を創る美少女、この記号がちゃんと作動していない、できる役者がいないあたり、月組ってほんとアニメ・ゲーム世界とは別次元の持ち味なんだなと思った。
萌花さんや月組に含みはないよ、それが悪いことだと言ってるんじゃないよ。
ここはアキバぢゃないんだから、アニメ・ゲーム的でないから劣っているなんて話じゃない。
ただ、シンプルに持ち味が「チガウ」という話。
タカラヅカはアニメじゃない。タカラヅカの持つ本来の力で勝負すべき人たちであり、組なんだろう。
ぜんぜん関係ないことだが、わたし的にツボったのは。
スペードのジャックが、ヲカマ!!(笑)
ほら、わたしはついこの間まで、この隣の劇場で「スペードのジャック様(はぁと)」とやっていて、客席降りのJ様の目線欲しさにパンダのぬいぐるみにスペードJのキラキラ縫いつけてこっそり膝の上に乗せてみたりしていた、イタいヲタクですよ。(スペードのJ様にはガン無視されましたがナニか?・笑)
スペードのジャックには、なみなみならぬ思い入れがあるわけです。
そんな状態でバウホールへ足を運び、「あら、モブの子たちはみんなキャピュレット・チームなのね」と思い、なつかしーわねー、切ないわねー(『ロミジュリ』に未練ありすぎです)で、よく見ると「あら、みんなそれぞれトランプを身も蓋もなく衣装に縫いつけてるのねー」で。
そしてスペードのジャックは。「……ヲカマ?!(白目)」。
ゆうまくん、ナニやってんのー(笑)。
いや、まずゆうまくんだわー、と思って、彼の衣装見て「あ、ゆうまくんがまっつのスペードのジャックなんだー」と思い、その次に、彼がヲカマだと気付いた……。
いやはや、楽しそうでナニより。
まっつ応援グッズのキラキラスペードのジャック、ゆうまくんの応援グッズにそのままスライドできるわねー。(やめなさい)
ファンタジーとリアル。@アリスの恋人
2011年11月27日 タカラヅカ かく言うわたしも、外見に騙されていたクチ。
みりおくんがこれまで演じてきた役から、彼が骨太で地に足着いた、リアルな男性を魅力的に見せてくれていたこと、正統派の光を放つ真ん中タイプの子だということを、つい、失念。
だって彼はあまりに美少年。
美しいみりおくんが、ファンタジックなコスプレして、『不思議の国のアリス』をやるって言うと、それだけでわくわくした。
そのわくわく感だけで、『アリスの恋人』を観劇して。
ごめん、なキモチになる。
ごめん、みりおくん。美少年美少年言って。美少年だから『不思議の国のアリス』似合うよねとか言って。
いや、もちろん似合うよ? 外見だけで言うなら、これでもかってな似合いっぷり。
しかし。
今さら高校生の少年やって似合うって喜ばれて、それでいいんだろうか?
わたしはキムくんが『ME AND MY GIRL』のビルが似合う、キムみみで『ME AND MY GIRL』再演希望、と罪なく言われるのがすごーく嫌だ。
たしかに、キムくんの「外見」「外側の持ち味」には似合う。しかし、彼個人の持ち味、キャラクタの「魅力を引き出す」役でも作品でも、カケラもない。
キムみみで『ME AND MY GIRL』を上演しても、観に行く人は少ないだろう。キムくんは抜擢が早く、少年時代からスターであったため、「少年」であるがゆえに振られるタイプの役は一通りやり尽くしている。
そのため、今さらビルをやっても「似合う」ことはわかっているが、わかっているからこそ「お金を出してまで観たい」と思われない。
扮装写真やタカスペの余興で十分だ。
トップスターであり、興行である以上、集客できる演目が必要。「タカスペの余興で十分」なものをわざわざ1公演かけてする必要はどこにもない。
現に『H2$』の集客がそれを物語っている。あれもまた『ミーマイ』系、外見や外側の持ち味のみで罪なく「似合う」「観てみたい」と言われる役であり、作品だった。「似合う」程度では商売にならない。「観る前にわかる」「だから観に行かない」に通じる。
もちろん、主演者に爆発的な人気があれば「似合う」程度でも大丈夫だろう。今のれおんくんならナニやってもいいんじゃね?とか、みりおくんにアリスなら、現にチケ難だし?とか。
いや、キムくんだって研9で単独初主演でバウホールで『不思議の国のアリス』なら、ふつーに「似合う」だけで売れたんぢゃね?とか。
だけど結局のところ、わたしがガチファンだったら、外側の「似合う」だけでメルヘンなものを押しつけられたら、楽しむことは楽しむけど、もにょるかなあ、と思った。
外野が可愛いだの美少年だのと騒いでるからこんな演目と役で、贔屓の真の持ち味はチガウのに、浅い人たちは黙っててよ的なじれったさを感じるかなあ。
や、とても傲慢発言ですが。
みりおくんは真にメルヘンでファミリーミュージカルや10代の少年少女向けジュヴナイルが持ち味ど真ん中なのかもしれません。わたしが間違ったイメージを勝手に彼に持っているだけかも。
世の中とどんだけズレているのか知らないけど、わたしはわたしだけの感想を語ると、最初「みりおくんでアリス! わーい、うれしい!」と思っていたことを、ごめんねなキモチになりました。
これは……チガウなあ、と。
『アリスの恋人』という作品全体に感じる、違和感。
それはなんといっても、出演者全員、「組」に合っていないということが大きかった。
いちばんうるさいキャラクタである、赤の女王@ゆめちゃん。
彼女がまず、致命的に似合っていない。
年端もいかない少女である赤の女王は、この物語のキモというか、カラーを決定づけるキャラクタだ。この子がどれだけファンタスティックな存在であるかに、世界観が掛かっている。
とことんアニメ、ゲームキャラ的でなくてはならない。
なのに、そこにいるのは現実のわがまま幼女でしかない。
地上から数㎝浮かび上がったフェアリーじゃない。
彼女の言動を元にストーリーが展開する『アリスの恋人』なのに、この子が現実のヒステリックな少女のままでは、メルヘン世界は構築できない。
ゆめちゃんだけが問題なら、彼女ひとり悪目立ちで済む。
が、彼女だけ、とは思えないくらいに、それなりにゆめちゃんも舞台に馴染んでいる。
彼女が浮かないほどに、他のキャラクタも現実的なんだ。
それは、夢夢しいコスプレが似合っている・いないでもなく、可愛いかどうかでもなく。
だから湧き上がる、「コスプレ芝居」感。
高校生以上の子たちが、お芝居をしている感じ。ヘタだとかいう意味じゃないよ? 肌に合わない感じが、っていうかな。
『不思議の国』ではなく、あくまでも「ただの芝居」である興醒め感。
ファンタジックな道具立てをしているのに、ちっともファンタジーじゃない、メルヘンじゃない。
現実の人間が、ファンタジーやメルヘンを演じている。
世界に没入できない。
なんとも、堅実。
すごく真面目に、「演劇」。
『STUDIO 54』 でも感じたけど、月組って、ヲタクと相性悪い……。
とまあ、「世界」自体が大変な感じの中。
ルイス・キャロル@みりおくんは、良かった。
何故ならば、この物語自体が、高校生の少年が見ている夢、という設定だからだ。
みりおくんだけは、「リアル」でもいいんだ。
だから彼の持ち味、地に足着いたリアルな存在は、間違っていなかった。
ルイス・キャロルはリアルで、生身の男の子っぽくていい。
演出家が本当にそれを理解していたのか、それを狙っていたのかはわからない。
みりおくんのファンタスティックな外見と、骨太な持ち味のギャップを狙って『アリスの恋人』というファンタジー世界で迷子になる現実の少年の物語を書いたのか。
だが、それを活かすためには、『不思議の国』をちゃんとファンタジーにする必要があった。耳やしっぽを付けて語尾をアニメにしたところで、役者と組の持ち味の堅実さは覆せない。
なんとも、いたたまれないものがあった。
そして思ったわけだ、みりおくん、ごめん、と。
彼が本当に魅力を発揮できるのは、高校生とかかわいこちゃんとかじゃないだろと。
かわいい、じゃなくて、かっこいい、と思わせる役が、少年から大人になろうとしている彼には必要なんだろうに、と。
いや、それでもブレザー姿のみりおくんのかわいさは鼻血もので、背伸びして年上のおねーさん@ちゃぴ(って設定どうなの)に強がる姿はたまりません!でしたが。
みりおくんがこれまで演じてきた役から、彼が骨太で地に足着いた、リアルな男性を魅力的に見せてくれていたこと、正統派の光を放つ真ん中タイプの子だということを、つい、失念。
だって彼はあまりに美少年。
美しいみりおくんが、ファンタジックなコスプレして、『不思議の国のアリス』をやるって言うと、それだけでわくわくした。
そのわくわく感だけで、『アリスの恋人』を観劇して。
ごめん、なキモチになる。
ごめん、みりおくん。美少年美少年言って。美少年だから『不思議の国のアリス』似合うよねとか言って。
いや、もちろん似合うよ? 外見だけで言うなら、これでもかってな似合いっぷり。
しかし。
今さら高校生の少年やって似合うって喜ばれて、それでいいんだろうか?
わたしはキムくんが『ME AND MY GIRL』のビルが似合う、キムみみで『ME AND MY GIRL』再演希望、と罪なく言われるのがすごーく嫌だ。
たしかに、キムくんの「外見」「外側の持ち味」には似合う。しかし、彼個人の持ち味、キャラクタの「魅力を引き出す」役でも作品でも、カケラもない。
キムみみで『ME AND MY GIRL』を上演しても、観に行く人は少ないだろう。キムくんは抜擢が早く、少年時代からスターであったため、「少年」であるがゆえに振られるタイプの役は一通りやり尽くしている。
そのため、今さらビルをやっても「似合う」ことはわかっているが、わかっているからこそ「お金を出してまで観たい」と思われない。
扮装写真やタカスペの余興で十分だ。
トップスターであり、興行である以上、集客できる演目が必要。「タカスペの余興で十分」なものをわざわざ1公演かけてする必要はどこにもない。
現に『H2$』の集客がそれを物語っている。あれもまた『ミーマイ』系、外見や外側の持ち味のみで罪なく「似合う」「観てみたい」と言われる役であり、作品だった。「似合う」程度では商売にならない。「観る前にわかる」「だから観に行かない」に通じる。
もちろん、主演者に爆発的な人気があれば「似合う」程度でも大丈夫だろう。今のれおんくんならナニやってもいいんじゃね?とか、みりおくんにアリスなら、現にチケ難だし?とか。
いや、キムくんだって研9で単独初主演でバウホールで『不思議の国のアリス』なら、ふつーに「似合う」だけで売れたんぢゃね?とか。
だけど結局のところ、わたしがガチファンだったら、外側の「似合う」だけでメルヘンなものを押しつけられたら、楽しむことは楽しむけど、もにょるかなあ、と思った。
外野が可愛いだの美少年だのと騒いでるからこんな演目と役で、贔屓の真の持ち味はチガウのに、浅い人たちは黙っててよ的なじれったさを感じるかなあ。
や、とても傲慢発言ですが。
みりおくんは真にメルヘンでファミリーミュージカルや10代の少年少女向けジュヴナイルが持ち味ど真ん中なのかもしれません。わたしが間違ったイメージを勝手に彼に持っているだけかも。
世の中とどんだけズレているのか知らないけど、わたしはわたしだけの感想を語ると、最初「みりおくんでアリス! わーい、うれしい!」と思っていたことを、ごめんねなキモチになりました。
これは……チガウなあ、と。
『アリスの恋人』という作品全体に感じる、違和感。
それはなんといっても、出演者全員、「組」に合っていないということが大きかった。
いちばんうるさいキャラクタである、赤の女王@ゆめちゃん。
彼女がまず、致命的に似合っていない。
年端もいかない少女である赤の女王は、この物語のキモというか、カラーを決定づけるキャラクタだ。この子がどれだけファンタスティックな存在であるかに、世界観が掛かっている。
とことんアニメ、ゲームキャラ的でなくてはならない。
なのに、そこにいるのは現実のわがまま幼女でしかない。
地上から数㎝浮かび上がったフェアリーじゃない。
彼女の言動を元にストーリーが展開する『アリスの恋人』なのに、この子が現実のヒステリックな少女のままでは、メルヘン世界は構築できない。
ゆめちゃんだけが問題なら、彼女ひとり悪目立ちで済む。
が、彼女だけ、とは思えないくらいに、それなりにゆめちゃんも舞台に馴染んでいる。
彼女が浮かないほどに、他のキャラクタも現実的なんだ。
それは、夢夢しいコスプレが似合っている・いないでもなく、可愛いかどうかでもなく。
だから湧き上がる、「コスプレ芝居」感。
高校生以上の子たちが、お芝居をしている感じ。ヘタだとかいう意味じゃないよ? 肌に合わない感じが、っていうかな。
『不思議の国』ではなく、あくまでも「ただの芝居」である興醒め感。
ファンタジックな道具立てをしているのに、ちっともファンタジーじゃない、メルヘンじゃない。
現実の人間が、ファンタジーやメルヘンを演じている。
世界に没入できない。
なんとも、堅実。
すごく真面目に、「演劇」。
『STUDIO 54』 でも感じたけど、月組って、ヲタクと相性悪い……。
とまあ、「世界」自体が大変な感じの中。
ルイス・キャロル@みりおくんは、良かった。
何故ならば、この物語自体が、高校生の少年が見ている夢、という設定だからだ。
みりおくんだけは、「リアル」でもいいんだ。
だから彼の持ち味、地に足着いたリアルな存在は、間違っていなかった。
ルイス・キャロルはリアルで、生身の男の子っぽくていい。
演出家が本当にそれを理解していたのか、それを狙っていたのかはわからない。
みりおくんのファンタスティックな外見と、骨太な持ち味のギャップを狙って『アリスの恋人』というファンタジー世界で迷子になる現実の少年の物語を書いたのか。
だが、それを活かすためには、『不思議の国』をちゃんとファンタジーにする必要があった。耳やしっぽを付けて語尾をアニメにしたところで、役者と組の持ち味の堅実さは覆せない。
なんとも、いたたまれないものがあった。
そして思ったわけだ、みりおくん、ごめん、と。
彼が本当に魅力を発揮できるのは、高校生とかかわいこちゃんとかじゃないだろと。
かわいい、じゃなくて、かっこいい、と思わせる役が、少年から大人になろうとしている彼には必要なんだろうに、と。
いや、それでもブレザー姿のみりおくんのかわいさは鼻血もので、背伸びして年上のおねーさん@ちゃぴ(って設定どうなの)に強がる姿はたまりません!でしたが。
ヲタクの相性と適性。@アリスの恋人
2011年11月26日 タカラヅカ チケットなくて、もう観られないかと思いましたよ、『アリスの恋人』……。
大劇場は座席券売り切れ、立ち見券のみ発売中、門の前にはサバキ待ちがずらり……。
なんかすごくなつかしい光景。最近のタカラヅカではめずらしい、人混みと活気。いいなあ。
ヲタク系文学少女(笑)だったわたしは、もれなく『不思議の国のアリス』のファンでした。アリスのパロディ小説なら幾通りも書けるわ!的な。
だから、そこにあるのはとてもよく見知った、「『不思議の国のアリス』のパロディ」でした……あー、既視感ばりばり(笑)。
今、『ペルソナ4』っつーアニメが夜中に放映されてて、ついこの間、アクセ作りするBGM代わりに1話から6話くらいまで一気見して、「あー、はいはい」と思ったアレをまんま思い出した。
なんというか……「なつかしい」。
ジュヴナイルのかほりというか。
わたしが若い頃に流行った「10代の少年少女向け・ヤングアダルト小説」を思い出した。まだ「ライトノベル」という言葉もジャンルもなかった頃の。
そして、それに影響受けて、それ系の物語を書きまくっていた若い頃の自分自身を。
うわー、なつかしー。そうそう、若い頃書いたわ、こんなの。
と思い、切なくなった。
もうわたし、若くないんだ。
若い頃のわたしなら書いた……でも、今のわたしなら、こーゆー話は「あえて」書かない。今のわたしのツボはもうそこにはないから。別の切り口になる。
というのはもう、わたしが「若くない」ということだ。
いや、おばさんなのは自覚してるけど、年齢とは別のところすら、こうやって間違いなく老化しているんだという現実を、思い知らされました(笑)。
小柳たんのヲタクシリーズ、第……何弾?
マンガ原作だとしても『アメリカン・パイ』はヲタクシリーズじゃないですよ。あれはただ自分の好きなマンガを「好きなの!」と言っていただけで、ヲタク云々以前に作品としても微妙。
『銀薔薇』『シャングリラ』『めぐり会いは再び』に続く、4作目かな?
マンガ・アニメ・ラノベ・ゲームという、日本が世界に誇るサブカルチャー、ヲタク作品。
小柳たんは正しいヲタク文化の担い手だね。
わたし、『めぐり会いは再び』の感想をきちんとUPできてないんだけど、書きかけのテキストからコピペすると、
ヲタクは、タカラヅカを救う!!
てな1文がありますのよ。
タカラヅカはヲタク文化と相性がいい。二次元を実体化する能力のあるカンパニーだからだ。
見たモノを見たままにしか受け入れられない一般人とちがい、ヲタクは紙の上やモニターの中の「現実にはいない」キャラクタに平気で恋ができる。視覚から脳へ届く前に自動変換機能が働くんだ。
「えー、所詮女でしょ? なんでわざわざ女が男の役やるの? 意味わかんない」と切り捨てられるのが常の一般人よりも、男役というファンタジーを受け入れられる因子を持っている。
娯楽はタダで手に入るもの、テレビやネットで自宅で好きなときに見るもの、と思いこんでいる一般人よりも、ヲタクは好きなモノに一途で金と時間の浪費を惜しまない。
「タカラヅカ」という名前だけで一般人が観に来た時代ではない、この消費の冷え込む現代、ヅカはもっとヲタクへ宣伝するべきだ。
そして、ヲタが喜ぶものの一部は、確実にヅカファンだって好きなんだ。
世紀の恋愛やかっこいいヒーロー、個性豊かな仲間たち、愛と友情と裏切りと戦い。時代も国も次元さえいつでもいい。色とりどりの髪の色、コスプレし放題。
現代日本のテレビ界じゃドラマ化できない二次元ジャンルを、どんどん三次元化するといい。
タカラヅカを救うのは、ヲタクだ。……てなことを考える。
もちろん、タカラヅカすべてがそうなるのではなく、伝統は残しつつ、一部にヲタ文化を導入していけばいい。その昔、タカラヅカではじめて『ベルサイユのばら』が上演されたように、相性のいい異文化を取り込んでいくことは必要だ。
小柳たんみたいな、わかりやすいヲタク属性を舞台に展開できる人は貴重だ。
ヲタ作家といえばサイトー、大野、生田と有名な人たちがいるけれど、彼らはヲタクの性というか、マニアックな臭いがする。
小柳たんはその点とても浅く、汎用性の高いヲタだ。タカラヅカが大衆向けエンタメである以上、マニアックよりライトであるべき。
小柳たんの『銀薔薇』『シャングリラ』『めぐり会いは再び』は、ゲームやラノベ好きなら「百万回見た・読んだ」よーな設定とキャラとストーリーのはず。
同じ話でも、その時代にキャッチーな絵柄で何百回と生産され、売られ続ける、みたいな。
それは正しいことだよね。
と、ここまでヲタク文化とヅカの相性を語っておいて。
上演する組は、選ぼうよ。
たしかに宙組『シャングリラ』は素晴らしいアニメっぷりだった。星組『めぐり会いは再び』も素晴らしいゲームっぷりだった。正しい絵柄のチョイスだ。
しかし、月組は……。
いや、キモチはわかる。
現ヅカ1かも、ってな美少年みりおくん主演、ヒロインは実年齢からして幼いフレッシュな新進娘役ちゃぴちゃんだ。
ジュヴナイルOKかと思うよね。
みりおくんはその実力ゆえになんとかこなしていたけど、他のみなさん……ってゆーかその、組カラーってゆーかは、もお……ええっと。
大変だな(笑)。
幼女がメインキャラになる系のメルヘンジャンルは、大人が演じて「世界」を構築するのがなかなか難しい。
いくら二次元に強いとはいえ、タカラヅカならなんでも来いってわけじゃない。
向き不向きはある。
みりおくんは美少年だが、持ち味はファンタスティックではない。
どっちかっつーとリアル系でしょう。
『STUDIO 54』でも柄違いの魔性の美少年役をあてられ、大変なことになっていたが……美形って大変だなあ、美貌ゆえに十把一絡げにされて。
美少年は全員がホモホモしいわけじゃないし、全員が地面から数センチ浮かび上がってカスミ食って生きてるわけじゃないのよ。
みりおくんの血の通った男らしさは、メルヘンよりはシリアスドラマの方がハマる。
また、堅実で地に足着いた月組の芸風もまた、メルヘンよりもシリアスドラマだ。
ルイス・キャロルよりシェイクスピア、『アリスの恋人』より『二人の貴公子』がハマる芸風なんだよなああ。みりおくんも、月組も。
主役の持ち味無視で自分のやりたいヲタク設定を繰り広げた、『銀薔薇』の失敗再び、な感じがする。
いや、失敗というと言葉が悪いな、別にソコまで致命的な事態じゃない。しかし、小柳たんは設定のみに酔って生きた役者をスルーするきらいがあるので、そこを今回は大きく感じてしまった。
『めぐり会いは再び』くらい、ぴたりとハマると楽しいんだけどなあ。
みりおくんやキムくんという、「見た目甘い美少年、でも持ち味は骨太」っていう子は、外見だけで甘いモノや軽いモノを押しつけられて大変だなと思ったナリ。
大劇場は座席券売り切れ、立ち見券のみ発売中、門の前にはサバキ待ちがずらり……。
なんかすごくなつかしい光景。最近のタカラヅカではめずらしい、人混みと活気。いいなあ。
ヲタク系文学少女(笑)だったわたしは、もれなく『不思議の国のアリス』のファンでした。アリスのパロディ小説なら幾通りも書けるわ!的な。
だから、そこにあるのはとてもよく見知った、「『不思議の国のアリス』のパロディ」でした……あー、既視感ばりばり(笑)。
今、『ペルソナ4』っつーアニメが夜中に放映されてて、ついこの間、アクセ作りするBGM代わりに1話から6話くらいまで一気見して、「あー、はいはい」と思ったアレをまんま思い出した。
なんというか……「なつかしい」。
ジュヴナイルのかほりというか。
わたしが若い頃に流行った「10代の少年少女向け・ヤングアダルト小説」を思い出した。まだ「ライトノベル」という言葉もジャンルもなかった頃の。
そして、それに影響受けて、それ系の物語を書きまくっていた若い頃の自分自身を。
うわー、なつかしー。そうそう、若い頃書いたわ、こんなの。
と思い、切なくなった。
もうわたし、若くないんだ。
若い頃のわたしなら書いた……でも、今のわたしなら、こーゆー話は「あえて」書かない。今のわたしのツボはもうそこにはないから。別の切り口になる。
というのはもう、わたしが「若くない」ということだ。
いや、おばさんなのは自覚してるけど、年齢とは別のところすら、こうやって間違いなく老化しているんだという現実を、思い知らされました(笑)。
小柳たんのヲタクシリーズ、第……何弾?
マンガ原作だとしても『アメリカン・パイ』はヲタクシリーズじゃないですよ。あれはただ自分の好きなマンガを「好きなの!」と言っていただけで、ヲタク云々以前に作品としても微妙。
『銀薔薇』『シャングリラ』『めぐり会いは再び』に続く、4作目かな?
マンガ・アニメ・ラノベ・ゲームという、日本が世界に誇るサブカルチャー、ヲタク作品。
小柳たんは正しいヲタク文化の担い手だね。
わたし、『めぐり会いは再び』の感想をきちんとUPできてないんだけど、書きかけのテキストからコピペすると、
ヲタクは、タカラヅカを救う!!
てな1文がありますのよ。
タカラヅカはヲタク文化と相性がいい。二次元を実体化する能力のあるカンパニーだからだ。
見たモノを見たままにしか受け入れられない一般人とちがい、ヲタクは紙の上やモニターの中の「現実にはいない」キャラクタに平気で恋ができる。視覚から脳へ届く前に自動変換機能が働くんだ。
「えー、所詮女でしょ? なんでわざわざ女が男の役やるの? 意味わかんない」と切り捨てられるのが常の一般人よりも、男役というファンタジーを受け入れられる因子を持っている。
娯楽はタダで手に入るもの、テレビやネットで自宅で好きなときに見るもの、と思いこんでいる一般人よりも、ヲタクは好きなモノに一途で金と時間の浪費を惜しまない。
「タカラヅカ」という名前だけで一般人が観に来た時代ではない、この消費の冷え込む現代、ヅカはもっとヲタクへ宣伝するべきだ。
そして、ヲタが喜ぶものの一部は、確実にヅカファンだって好きなんだ。
世紀の恋愛やかっこいいヒーロー、個性豊かな仲間たち、愛と友情と裏切りと戦い。時代も国も次元さえいつでもいい。色とりどりの髪の色、コスプレし放題。
現代日本のテレビ界じゃドラマ化できない二次元ジャンルを、どんどん三次元化するといい。
タカラヅカを救うのは、ヲタクだ。……てなことを考える。
もちろん、タカラヅカすべてがそうなるのではなく、伝統は残しつつ、一部にヲタ文化を導入していけばいい。その昔、タカラヅカではじめて『ベルサイユのばら』が上演されたように、相性のいい異文化を取り込んでいくことは必要だ。
小柳たんみたいな、わかりやすいヲタク属性を舞台に展開できる人は貴重だ。
ヲタ作家といえばサイトー、大野、生田と有名な人たちがいるけれど、彼らはヲタクの性というか、マニアックな臭いがする。
小柳たんはその点とても浅く、汎用性の高いヲタだ。タカラヅカが大衆向けエンタメである以上、マニアックよりライトであるべき。
小柳たんの『銀薔薇』『シャングリラ』『めぐり会いは再び』は、ゲームやラノベ好きなら「百万回見た・読んだ」よーな設定とキャラとストーリーのはず。
同じ話でも、その時代にキャッチーな絵柄で何百回と生産され、売られ続ける、みたいな。
それは正しいことだよね。
と、ここまでヲタク文化とヅカの相性を語っておいて。
上演する組は、選ぼうよ。
たしかに宙組『シャングリラ』は素晴らしいアニメっぷりだった。星組『めぐり会いは再び』も素晴らしいゲームっぷりだった。正しい絵柄のチョイスだ。
しかし、月組は……。
いや、キモチはわかる。
現ヅカ1かも、ってな美少年みりおくん主演、ヒロインは実年齢からして幼いフレッシュな新進娘役ちゃぴちゃんだ。
ジュヴナイルOKかと思うよね。
みりおくんはその実力ゆえになんとかこなしていたけど、他のみなさん……ってゆーかその、組カラーってゆーかは、もお……ええっと。
大変だな(笑)。
幼女がメインキャラになる系のメルヘンジャンルは、大人が演じて「世界」を構築するのがなかなか難しい。
いくら二次元に強いとはいえ、タカラヅカならなんでも来いってわけじゃない。
向き不向きはある。
みりおくんは美少年だが、持ち味はファンタスティックではない。
どっちかっつーとリアル系でしょう。
『STUDIO 54』でも柄違いの魔性の美少年役をあてられ、大変なことになっていたが……美形って大変だなあ、美貌ゆえに十把一絡げにされて。
美少年は全員がホモホモしいわけじゃないし、全員が地面から数センチ浮かび上がってカスミ食って生きてるわけじゃないのよ。
みりおくんの血の通った男らしさは、メルヘンよりはシリアスドラマの方がハマる。
また、堅実で地に足着いた月組の芸風もまた、メルヘンよりもシリアスドラマだ。
ルイス・キャロルよりシェイクスピア、『アリスの恋人』より『二人の貴公子』がハマる芸風なんだよなああ。みりおくんも、月組も。
主役の持ち味無視で自分のやりたいヲタク設定を繰り広げた、『銀薔薇』の失敗再び、な感じがする。
いや、失敗というと言葉が悪いな、別にソコまで致命的な事態じゃない。しかし、小柳たんは設定のみに酔って生きた役者をスルーするきらいがあるので、そこを今回は大きく感じてしまった。
『めぐり会いは再び』くらい、ぴたりとハマると楽しいんだけどなあ。
みりおくんやキムくんという、「見た目甘い美少年、でも持ち味は骨太」っていう子は、外見だけで甘いモノや軽いモノを押しつけられて大変だなと思ったナリ。
わたしを台湾まで連れてって!
2011年11月25日 タカラヅカ 少し前に、友人たちが楽しそうに「五年前の自分に教えても嘘乙wwwwwwって言われそうなこと」を語っていた。
わたしは指をくわえて、「いいなあ」と眺めていた。
だってわたしには、「五年前の自分に教えても嘘乙wwwwwwって言われそうなこと」が、ナニもない。
5年前のわたしも、今のわたしも、ぜんっぜん変化がない。そりゃ確実におばさんになり、あちこち衰えたけど、そんだけ。
5年前もまっつまっつ言ってヅカヲタで、西に東に奔走し、今のわたしもまっつまっつ言ってヅカヲタで、西に東に奔走している。
びんぼーなのも時間がないのもチケット手に入らなくてきーきー言っているのも、ナニも変わっていない。
そしてタカラヅカでは、台湾公演実施が発表された。
注目は、日付。
2013年。
来年じゃないです、再来年です。
わたしはごく自然に「わあ、れおんくんの星組で台湾公演! 楽しそう! 行きたい!!」と思った。
自分がそうだから、他人もそうだろうと思って、友人たちの感想を聞いたり読んだりしたところ、みんな公演自体は喜んでいるし楽しみにしているけれど、ある一点に置いて、わたしと違っていた。
「再来年の私は、どうしているだろう?」
みんな、ソコに引っかかっている。
アツいれおんくんファンに「台湾公演、再来年行くよね? ね?」と聞いても「再来年かあ。再来年なんだよねー」と言って、行くという明言がない。
えええ。
ふつーの人って、再来年のことがわからないものなのか。
5年前となにひとつ変わっていないわたしは、もちろん再来年もなにひとつ変わっていない気でいた。5年後だって、きっとなにも変わっていない。
もちろん、親もトシだしわたしもトシだしで、観劇できる経済的身体的状況じゃなくなる可能性はあるが、それは別に、わたしが10代のお嬢さんであっても、明日事故に遭うかもしれないじゃん、と似たよーな感覚だ。年寄りなので、10代が事故に遭う確率よりはもちろん高いけど、不確定要素という点では。
「五年前の自分に教えても嘘乙wwwwwwって言われそうなこと」がナニもなく、「再来年の私は、どうしているだろう?」とも思わない。
わたしってひょっとして、とても可哀想な人なのでは?
ナニこのつまらない人生! 変化も進歩も、ナニもない。夢も希望もない。ただ毎日を消費しているだけ。
なんかしょぼんなことであります。
みんな、いいなあ。わたしにはナニもない……と、「五年前の自分に…」の件でつぶやくと、友人が突っ込んでくれました。
「トウコ」「ケロ」という名前のねこがいること。……と。
はっ。た、たしかにっ。
5年前のわたしに言っても信じないわ……そんなアホな名前の猫を飼っていることなんて(笑)。
ケロトウ万歳。
こんなわたしにも、ささやかでもナニかあるんだなあ。しみじみ。
でもきっとわたしは変わらない。
まっつの去就だけが気がかりだけど、彼がいる限り再来年も変わらずまっつまっつ言っているだろうし、彼の去就にかかわらず、ヅカヲタであることでしょう。
で、台湾行きたいなー。
しかしれおんくん、すごいな。
トップに限らず、全タカラジェンヌで、再来年まで在団確定していると公式で発表されたのは、100年近い歴史でも稀有なことなのでは?
わたしは指をくわえて、「いいなあ」と眺めていた。
だってわたしには、「五年前の自分に教えても嘘乙wwwwwwって言われそうなこと」が、ナニもない。
5年前のわたしも、今のわたしも、ぜんっぜん変化がない。そりゃ確実におばさんになり、あちこち衰えたけど、そんだけ。
5年前もまっつまっつ言ってヅカヲタで、西に東に奔走し、今のわたしもまっつまっつ言ってヅカヲタで、西に東に奔走している。
びんぼーなのも時間がないのもチケット手に入らなくてきーきー言っているのも、ナニも変わっていない。
そしてタカラヅカでは、台湾公演実施が発表された。
2011/11/24
宝塚歌劇団 台湾公演の実施について
この度、台北駐日経済文化代表処(台湾の日本における窓口機関)他、台湾関係者の要請を受け、『宝塚歌劇団 台湾公演』を実施させて頂くことになりました。
日本と台湾は地理的に隣接しているというだけでなく、歴史的なつながり、あるいは経済・貿易の往来、科学技術、文化や観光の交流の状況から見てもきわめて密接な関係が構築されています。この度、東日本大震災の義捐金として200億円を越す多額の支援が台湾の皆さんから寄せられたことは、日本と台湾が強い友好関係で結ばれている証とも言えます。これまで、宝塚歌劇団では通算24回、16カ国、のべ128カ所で海外公演を実施して参りましたが、台湾での公演は初の公演となります。『宝塚歌劇団 台湾公演』をご観劇いただくお客様をはじめ、公演に関係する多くの方々との交流を通じて、相互の文化交流が更に深いものになることを願い、宝塚歌劇100周年の前年となる99周年の記念すべき年に台湾公演を実施いたします。
公演の詳細につきましては、日本と台湾の関係各位の皆様と企画・検討中でございます。詳細が決定致しましたら改めてご案内申し上げます。
【期間】 2013年4月6日(土)~4月14日(日)(予定)
【会場】 国立中正文化中心 国家戯劇院 (1526席)
(住所)台湾 台北市 100中山南路21-1号
【出演者】 (星組)柚希礼音 他 星組メンバー 合計40名(予定)
注目は、日付。
2013年。
来年じゃないです、再来年です。
わたしはごく自然に「わあ、れおんくんの星組で台湾公演! 楽しそう! 行きたい!!」と思った。
自分がそうだから、他人もそうだろうと思って、友人たちの感想を聞いたり読んだりしたところ、みんな公演自体は喜んでいるし楽しみにしているけれど、ある一点に置いて、わたしと違っていた。
「再来年の私は、どうしているだろう?」
みんな、ソコに引っかかっている。
アツいれおんくんファンに「台湾公演、再来年行くよね? ね?」と聞いても「再来年かあ。再来年なんだよねー」と言って、行くという明言がない。
えええ。
ふつーの人って、再来年のことがわからないものなのか。
5年前となにひとつ変わっていないわたしは、もちろん再来年もなにひとつ変わっていない気でいた。5年後だって、きっとなにも変わっていない。
もちろん、親もトシだしわたしもトシだしで、観劇できる経済的身体的状況じゃなくなる可能性はあるが、それは別に、わたしが10代のお嬢さんであっても、明日事故に遭うかもしれないじゃん、と似たよーな感覚だ。年寄りなので、10代が事故に遭う確率よりはもちろん高いけど、不確定要素という点では。
「五年前の自分に教えても嘘乙wwwwwwって言われそうなこと」がナニもなく、「再来年の私は、どうしているだろう?」とも思わない。
わたしってひょっとして、とても可哀想な人なのでは?
ナニこのつまらない人生! 変化も進歩も、ナニもない。夢も希望もない。ただ毎日を消費しているだけ。
なんかしょぼんなことであります。
みんな、いいなあ。わたしにはナニもない……と、「五年前の自分に…」の件でつぶやくと、友人が突っ込んでくれました。
「トウコ」「ケロ」という名前のねこがいること。……と。
はっ。た、たしかにっ。
5年前のわたしに言っても信じないわ……そんなアホな名前の猫を飼っていることなんて(笑)。
ケロトウ万歳。
こんなわたしにも、ささやかでもナニかあるんだなあ。しみじみ。
でもきっとわたしは変わらない。
まっつの去就だけが気がかりだけど、彼がいる限り再来年も変わらずまっつまっつ言っているだろうし、彼の去就にかかわらず、ヅカヲタであることでしょう。
で、台湾行きたいなー。
しかしれおんくん、すごいな。
トップに限らず、全タカラジェンヌで、再来年まで在団確定していると公式で発表されたのは、100年近い歴史でも稀有なことなのでは?
だから、「ウサギとカメ」。@仮面の男
2011年11月24日 タカラヅカ いい加減飽きてきたので、さくっといく、『仮面の男』東宝版のあれこれ感想。
フィリップ@キムとルイーズ@みみの逃避行銀橋はいろいろと台詞が追加されていた。
ここの台詞追加で良かったことは、ルイーズがフィリップを逃がす手引きをしたのだとわかったこと。
ムラ版では「正体がバレる→フィリップ・ルイーズ逃避行」で、なんでそんなことになっているのかわからなかった。
あの王は偽物だ、と捕り物がはじまったとき、ルイーズが機転を利かせてフィリップを逃がしたという変更はいい。王宮について無知(なにしろ入れ替わってまだ数時間)のフィリップが、兵士たちの目を盗んで簡単に逃げ出せるはずもない。ルイーズが手引きしたなら説得力。
が、良かったのは、コレだけだ。
残りの追加台詞は全部、蛇足だと思った。
こだまっちは「ムラ版はストーリー部分がわかりにくいとの声を聞いたので、東宝版で手直しをした」てなことを語っている。
人道的・倫理的に酷いから変更させられたのだ、とは言っていない。事情があって言えないのか、本当に理解していないのかはわからない。
しかし、「ストーリーをわかりやすく変更」というなら、素直にストーリー部分だけ加筆してくれ。
フィリップとルイーズの銀橋で、だらだらと台詞を連ねて心の動きを解説って、なんだそりゃあ。
必要なのはストーリー加筆であって、心情の台詞解説じゃないっ。
そのキャラがナニを思っているかなんて、台詞で説明することじゃない。キムみみなめんな、そんなもんはあのぐたぐた最悪なムラ版でもちゃんとやってのけていた。
作品の酷さにアゴを落としながられでも、観客はキムみみ銀橋に涙していた。
ルイーズの「心変わり、早っ」をそう思わせないための加筆は、「こんなふうに思ったんですよ」と台詞で言わせることじゃない。それまでのストーリーで表現することだ。
どう思った、それを聞いてどう思った、と、だらだら台詞で「思ったこと」を説明され解説され、より、感動が限定された。
言葉によってしばられ、それ以上の広がりがなくなった。
言葉にされなければ、その言葉も含めた、もっと大きなモノを感じられたのに。
ひとつの台詞から100も200も感じられたことが、10で止まってしまった。だって台詞で「10」と言ってしまったから。
台詞の足りない分、辻褄の合っていない分は、役者のフリースペースだった。キムみみの演技でいくらでもふくらませ、色を変えることが出来た。
しかし、付け加えられた言葉で限定されてしまったので、役者のフリースペースは削られた。脚本にある通りのことしか表現できない。
情緒のナイ奴は脚本書くな、と思いました(笑)。
そして、さらにわたしが嫌だったのは、この「付け加えられた、無駄な説明台詞」がなんのためにあるのか、邪推できること。
謙虚に、邪推といっておきます。
「ウサギとカメ」を正当化するための説明台詞を、精魂込めてダラダラと付け加えたように見えるんですが。
ムラ版での影絵「ウサギとカメ」の浮きっぷりは半端なかった。
みみちゃんの歌声はきれいだし、影絵をするキムみみはかわいいけれど、観終わったあと誰もが口を揃えていった。
「で、『ウサギとカメ』って、ナニ?」
なんのたとえ話にもなっていない。
フィリップにもルイーズにもなんの関係もない。いきなりまったく別の話。現在の物語にかすりもしていない。
だから余計に非難囂々、「ウサギとカメ」いらない! 「ウサギとカメ」排斥運動! NO MORE「ウサギとカメ」!!
……こだまっちは、ソレが許せなかったのではないか。
「アタシのいちばん大切なhand shadowを理解しないなんて! 影絵じゃないわよ、hand shadowよ、高尚なのよ! これだから愚民相手は嫌なのよ、説明してあげないと!」てなもんで、なんでそこで突然「ウサギとカメ」なのかを、台詞で解説。
心情をえんえん台詞で説明するという、いらんお世話なことをうだうだ続け、なにがなんでも「ウサギとカメ」を正当化する。
そもそも、「ウサギとカメ」いらないから! ということが、どうしてもわからないらしい。
説明台詞がなくても、フィリップとルイーズの心情は、役者ふたりの演技でわかっていた。
なのに彼らの演技を削ってまで台詞を増やし、いらない影絵の正当化に必死になる。
こだまっちにとっていちばん大切なのが影絵(に代表される、パフォーマンス)であり、ストーリーもキャラクタも場面も役者も、なにもかも、どーでもいいことなんだ。
ということが、とてもよくわかる変更部分だった。
いろいろ変更されており、いいも悪いも両方あるけど、とりあえず、よくこれだけ変更したな、と思って観ていたこと、全部、吹っ飛んだ(笑)。
ああ、やっぱこだまっち、なんも変わってない。なんもわかってない。
こだまっちは、こだまっち。
ははは。(笑う)
そのあとの変更は、わずか。
三銃士の船から海中のシーンがなくなり、ダルタニアン@ちぎやサンマール@コマなど、微妙に台詞が違っている。
でも、ムラ版での疑問、問題点はそのまま。
唯一の改善は、高笑いから登場するルイ@キムの、衣装がチガウ。
ムラ版では、何故かここでルイとフィリップは同じ衣装だったのなー。不自然ですよ、逃亡者と王様の衣装がそっくり同じなんて。「ひとり二役なので入れ替わる都合で仕方ないんですよ」という裏の事情まんま見せつけられている感じだった。
それが東宝では別衣装だったので、問題解消。入れ替わりの衣装替えは大変だろうけど、この変更はいい。
ムラ版はもちろんひどかったけれど、東宝版が手放しで良くなったわけでもない。
ムラ版は酷い、東宝版はつまらない。……ハードにリピートする人ほど、東宝版の方が寝てしまう率高い、ムラ版は眠くはなかった、と言うのもわかる。わたしは東宝を大した回数観ていないので、眠るヒマはなかったが。
こだまっちはこれからどうなるのかな。
できればもう二度と、キムみみと雪組とは無関係のところにいてほしいです(笑)。
フィリップ@キムとルイーズ@みみの逃避行銀橋はいろいろと台詞が追加されていた。
ここの台詞追加で良かったことは、ルイーズがフィリップを逃がす手引きをしたのだとわかったこと。
ムラ版では「正体がバレる→フィリップ・ルイーズ逃避行」で、なんでそんなことになっているのかわからなかった。
あの王は偽物だ、と捕り物がはじまったとき、ルイーズが機転を利かせてフィリップを逃がしたという変更はいい。王宮について無知(なにしろ入れ替わってまだ数時間)のフィリップが、兵士たちの目を盗んで簡単に逃げ出せるはずもない。ルイーズが手引きしたなら説得力。
が、良かったのは、コレだけだ。
残りの追加台詞は全部、蛇足だと思った。
こだまっちは「ムラ版はストーリー部分がわかりにくいとの声を聞いたので、東宝版で手直しをした」てなことを語っている。
人道的・倫理的に酷いから変更させられたのだ、とは言っていない。事情があって言えないのか、本当に理解していないのかはわからない。
しかし、「ストーリーをわかりやすく変更」というなら、素直にストーリー部分だけ加筆してくれ。
フィリップとルイーズの銀橋で、だらだらと台詞を連ねて心の動きを解説って、なんだそりゃあ。
必要なのはストーリー加筆であって、心情の台詞解説じゃないっ。
そのキャラがナニを思っているかなんて、台詞で説明することじゃない。キムみみなめんな、そんなもんはあのぐたぐた最悪なムラ版でもちゃんとやってのけていた。
作品の酷さにアゴを落としながられでも、観客はキムみみ銀橋に涙していた。
ルイーズの「心変わり、早っ」をそう思わせないための加筆は、「こんなふうに思ったんですよ」と台詞で言わせることじゃない。それまでのストーリーで表現することだ。
どう思った、それを聞いてどう思った、と、だらだら台詞で「思ったこと」を説明され解説され、より、感動が限定された。
言葉によってしばられ、それ以上の広がりがなくなった。
言葉にされなければ、その言葉も含めた、もっと大きなモノを感じられたのに。
ひとつの台詞から100も200も感じられたことが、10で止まってしまった。だって台詞で「10」と言ってしまったから。
台詞の足りない分、辻褄の合っていない分は、役者のフリースペースだった。キムみみの演技でいくらでもふくらませ、色を変えることが出来た。
しかし、付け加えられた言葉で限定されてしまったので、役者のフリースペースは削られた。脚本にある通りのことしか表現できない。
情緒のナイ奴は脚本書くな、と思いました(笑)。
そして、さらにわたしが嫌だったのは、この「付け加えられた、無駄な説明台詞」がなんのためにあるのか、邪推できること。
謙虚に、邪推といっておきます。
「ウサギとカメ」を正当化するための説明台詞を、精魂込めてダラダラと付け加えたように見えるんですが。
ムラ版での影絵「ウサギとカメ」の浮きっぷりは半端なかった。
みみちゃんの歌声はきれいだし、影絵をするキムみみはかわいいけれど、観終わったあと誰もが口を揃えていった。
「で、『ウサギとカメ』って、ナニ?」
なんのたとえ話にもなっていない。
フィリップにもルイーズにもなんの関係もない。いきなりまったく別の話。現在の物語にかすりもしていない。
だから余計に非難囂々、「ウサギとカメ」いらない! 「ウサギとカメ」排斥運動! NO MORE「ウサギとカメ」!!
……こだまっちは、ソレが許せなかったのではないか。
「アタシのいちばん大切なhand shadowを理解しないなんて! 影絵じゃないわよ、hand shadowよ、高尚なのよ! これだから愚民相手は嫌なのよ、説明してあげないと!」てなもんで、なんでそこで突然「ウサギとカメ」なのかを、台詞で解説。
心情をえんえん台詞で説明するという、いらんお世話なことをうだうだ続け、なにがなんでも「ウサギとカメ」を正当化する。
そもそも、「ウサギとカメ」いらないから! ということが、どうしてもわからないらしい。
説明台詞がなくても、フィリップとルイーズの心情は、役者ふたりの演技でわかっていた。
なのに彼らの演技を削ってまで台詞を増やし、いらない影絵の正当化に必死になる。
こだまっちにとっていちばん大切なのが影絵(に代表される、パフォーマンス)であり、ストーリーもキャラクタも場面も役者も、なにもかも、どーでもいいことなんだ。
ということが、とてもよくわかる変更部分だった。
いろいろ変更されており、いいも悪いも両方あるけど、とりあえず、よくこれだけ変更したな、と思って観ていたこと、全部、吹っ飛んだ(笑)。
ああ、やっぱこだまっち、なんも変わってない。なんもわかってない。
こだまっちは、こだまっち。
ははは。(笑う)
そのあとの変更は、わずか。
三銃士の船から海中のシーンがなくなり、ダルタニアン@ちぎやサンマール@コマなど、微妙に台詞が違っている。
でも、ムラ版での疑問、問題点はそのまま。
唯一の改善は、高笑いから登場するルイ@キムの、衣装がチガウ。
ムラ版では、何故かここでルイとフィリップは同じ衣装だったのなー。不自然ですよ、逃亡者と王様の衣装がそっくり同じなんて。「ひとり二役なので入れ替わる都合で仕方ないんですよ」という裏の事情まんま見せつけられている感じだった。
それが東宝では別衣装だったので、問題解消。入れ替わりの衣装替えは大変だろうけど、この変更はいい。
ムラ版はもちろんひどかったけれど、東宝版が手放しで良くなったわけでもない。
ムラ版は酷い、東宝版はつまらない。……ハードにリピートする人ほど、東宝版の方が寝てしまう率高い、ムラ版は眠くはなかった、と言うのもわかる。わたしは東宝を大した回数観ていないので、眠るヒマはなかったが。
こだまっちはこれからどうなるのかな。
できればもう二度と、キムみみと雪組とは無関係のところにいてほしいです(笑)。
それは、「1ヶ月後」。@仮面の男
2011年11月23日 タカラヅカ 『仮面の男』東宝版の大きな変更のひとつに、「1ヶ月後」というのがある。
この作品には時の流れが異次元になっていて、「時間の流れについては不問、聞かないで」という暗黙のルールがあった。
ルイ/フィリップ@キムがいくつなのかとか、ダルタニアン@ちぎや三銃士たちがいくつなのかとか、それは「聞いてはならないこと」だ。
そこを突くといろいろと不具合が生じる。
ルイ14世は実在人物だけど、これは伝記ではなくフィクションだから、年表通りに出来事が進んでいなくてもかまわない。「史実とチガウ!」と文句言うのは野暮。
でもそれは、あくまでも、作中で違和感なく時間処理がされている場合。史実に足を取られて思考停止するのは見る側が狭量だと思うが、史実とは無関係な、あくまでもこの「作品」内部のことで、「え、それっていつのこと??」と混乱させるのは作っている側が悪い。
ムラ版では時の流れについて作中で台詞によって確定されていたのは、「今夜の成功を祝して」と「今から数年前」のみだ。
「今夜」という限定の台詞があるために、ルイ/フィリップを入れ替えたその夜に、三銃士のたくらみはすべて水泡に化し、ダルタニアンに襲撃を受けたと判明した。
また、ダルタニアンがルーヴォア@ひろみに「今から数年前、コンスタンス@あゆっちは殺された」と言うので、フィリップが鉄仮面を付けられて牢獄へ入れられたのが数年前……辞書によると「数年」は「2、3か5、6ぐらいの年数」らしいよ。2年と6年では大きな違いだが、それくらい曖昧な方が都合がいい。
時間を表す台詞がこれだけであるため、いろいろと誤魔化しが効いていた。
それこそ、コンスタンスはある程度大きくなったフィリップの世話係として抜擢され、「数年前」に殺されたので、ダルタニアンはまだぴっちぴちの青年である、とか。
牢獄から助け出されたフィリップは、その翌日とかにルイと入れ替えられたのだとか。
「明言されていない」から、観客が想像で補うことができた。
なのに東宝版では、コンスタンスが赤ん坊のフィリップを抱いているところからはじまり、ムラ版であえてあやふやにされていた「時の流れ」のおかしさが、容赦なく突きつけられた。
そう、台詞によって逃げ場なく明言されたんだ。
「ルイとフィリップを、1ヶ月後に入れ替える」と。
これによって起こる、作品の齟齬。
ルイとフィリップを入れ替えるため、1ヶ月かけて用意をしていた三銃士は、ルイーズ@みみになにも教えていなかった。
ラウル@翔はその遺言で「ルイーズにこの愛を伝えて」と言っているにも関わらず、アトス@まっつは彼女をガン無視したらしい。
おかげで、なにも知らないルイーズはこの1ヶ月、地獄の日々を過ごしただろう。ひとりの少女が、自分の命と引き替えに国王を殺そうというんだ、どんだけの絶望だったか。復讐の機会を作るのだって、自分の貞操を懸けてふたりきりになるよう仕組んだんだ。
ひとりの少女にこれだけのことをさせる三銃士って、いったい……。
また、フィリップとも1ヶ月共に暮らしていたのに、彼には自由も心の安らぎもなかったらしい。
いざ正体がばれて、命を狙われた逃避行の最中、フィリップは「生まれてはじめてなんだ」と幸福そうに笑う。
三銃士と過ごした一ヶ月は、牢獄と同じかそれ以上の苦痛をフィリップに与えていたらしい。
さらに、「国家機密」である「仮面の男」を誘拐されたサンマール@コマは、どうしていたのか?
ムラ版だとフィリップ誘拐の直後、日をおかずにルイと入れ替えたように見える。そのため、サンマールは保身のため上には報告せずにいたんだなと思うことが出来た。身の処し方を迷っていたとも考えられる。
しかし、1ヶ月だ。
丸1ヶ月間サンマールはナニをしていたんだ? フィリップを失ったことを誰にも告げずにいたのか? 仮面の男の監視をサンマールに命じたであろうルイもルーヴォアも、一大ページェントの様子からフィリップが行方不明であることはカケラも知らなかった模様。
仮面の男の正体をサンマール以外のモノは知らないのだから、フィリップを逃がしたあとも部下を口止めし、代役を立てるなりして「日々変わりなし」と上には報告を続け、ナニゴトもなかったかのように過ごすことはできるだろう。1ヶ月でも、2ヶ月でも、それは可能なのかもしれない。
だがそのまま一生、隠し通すのか? 逃げ出したフィリップが、どこかで名乗りを上げたらどうなる? サンマールは一生「フィリップが現れたらどうしよう」と怯えながら、牢獄で偽の仮面の男を監視して生きるつもりだったのか?
国家を揺るがすほどの大失態を丸1ヶ月隠していた男が、ルイ/フィリップ入れ替え事件発覚後もなんのお咎めもなく、銃士隊として三銃士討伐軍に加わり、まだ看守長の地位のまま「会いたかったよ、仮面の男」とか言って登場するのか?
おかしすぎるだろう?
すべて「1ヶ月後」という言葉を使ったせい。
具体的な「時の流れ」を明言してしまったために、問題が雪だるま式に発生。
責任を取る覚悟もなく、その場しのぎのテキトーを言うと痛い目に遭う、という見本。
東宝版で「1ヶ月後」という言葉が使われたのは、三銃士によるフィリップの国王教育場面が挿入されたため。
たしかにムラ版のままでは、牢獄暮らしのフィリップが突然王様の代わりになれるはずがない、銃士隊長のダルタニアンと互角以上の剣の使い手であることなど、おかしなことばかり。
付け焼き刃であっても、1ヶ月みっちり稽古を詰んで臨んだとわかれば、その一点に置いてのみは説明がつく。
でも、説明がついたのは一点のみ、しかも入れ替えた数時間後にすべてバレているのは変わらないので、ムラ版から続けて観ていると、苦労した分無駄だったね感が強いっちゅーか、そんなことをしている間があるなら他のことをしろよと言いたくなるというか。
ルイーズに真実を話しておけば、彼女がフィリップに襲いかかることもなく、フィリップがいきなり真実を打ち明けることもなく、ダルタニアンが立ち聞きすることもなく、ルイ/フィリップの入れ替えがたった数時間でバレることもなかったんだ。
1ヶ月間、ナニしてたの?
なんて無駄な時間を過ごしたんだ。
フィリップとの心の絆は築かれず、彼が精神を病むほど痛めつけいじめ抜き、ルイーズが死ぬほど苦しみ思い詰めているのも放置していた三銃士。
国家機密のフィリップが行方不明だっつーのに、なにもせずにいたサンマール、そんな状態に気づきもせずに生きていたらしいルイやルーヴォアたち。
誰も彼もが、余計ひどいことになっている。「フィリップが剣を使えたのは、1ヶ月お稽古したからだよ」と言いたいがためだけに、それ以外のすべてを地に落とした。
なんてアタマの悪い、改悪。
この作品には時の流れが異次元になっていて、「時間の流れについては不問、聞かないで」という暗黙のルールがあった。
ルイ/フィリップ@キムがいくつなのかとか、ダルタニアン@ちぎや三銃士たちがいくつなのかとか、それは「聞いてはならないこと」だ。
そこを突くといろいろと不具合が生じる。
ルイ14世は実在人物だけど、これは伝記ではなくフィクションだから、年表通りに出来事が進んでいなくてもかまわない。「史実とチガウ!」と文句言うのは野暮。
でもそれは、あくまでも、作中で違和感なく時間処理がされている場合。史実に足を取られて思考停止するのは見る側が狭量だと思うが、史実とは無関係な、あくまでもこの「作品」内部のことで、「え、それっていつのこと??」と混乱させるのは作っている側が悪い。
ムラ版では時の流れについて作中で台詞によって確定されていたのは、「今夜の成功を祝して」と「今から数年前」のみだ。
「今夜」という限定の台詞があるために、ルイ/フィリップを入れ替えたその夜に、三銃士のたくらみはすべて水泡に化し、ダルタニアンに襲撃を受けたと判明した。
また、ダルタニアンがルーヴォア@ひろみに「今から数年前、コンスタンス@あゆっちは殺された」と言うので、フィリップが鉄仮面を付けられて牢獄へ入れられたのが数年前……辞書によると「数年」は「2、3か5、6ぐらいの年数」らしいよ。2年と6年では大きな違いだが、それくらい曖昧な方が都合がいい。
時間を表す台詞がこれだけであるため、いろいろと誤魔化しが効いていた。
それこそ、コンスタンスはある程度大きくなったフィリップの世話係として抜擢され、「数年前」に殺されたので、ダルタニアンはまだぴっちぴちの青年である、とか。
牢獄から助け出されたフィリップは、その翌日とかにルイと入れ替えられたのだとか。
「明言されていない」から、観客が想像で補うことができた。
なのに東宝版では、コンスタンスが赤ん坊のフィリップを抱いているところからはじまり、ムラ版であえてあやふやにされていた「時の流れ」のおかしさが、容赦なく突きつけられた。
そう、台詞によって逃げ場なく明言されたんだ。
「ルイとフィリップを、1ヶ月後に入れ替える」と。
これによって起こる、作品の齟齬。
ルイとフィリップを入れ替えるため、1ヶ月かけて用意をしていた三銃士は、ルイーズ@みみになにも教えていなかった。
ラウル@翔はその遺言で「ルイーズにこの愛を伝えて」と言っているにも関わらず、アトス@まっつは彼女をガン無視したらしい。
おかげで、なにも知らないルイーズはこの1ヶ月、地獄の日々を過ごしただろう。ひとりの少女が、自分の命と引き替えに国王を殺そうというんだ、どんだけの絶望だったか。復讐の機会を作るのだって、自分の貞操を懸けてふたりきりになるよう仕組んだんだ。
ひとりの少女にこれだけのことをさせる三銃士って、いったい……。
また、フィリップとも1ヶ月共に暮らしていたのに、彼には自由も心の安らぎもなかったらしい。
いざ正体がばれて、命を狙われた逃避行の最中、フィリップは「生まれてはじめてなんだ」と幸福そうに笑う。
三銃士と過ごした一ヶ月は、牢獄と同じかそれ以上の苦痛をフィリップに与えていたらしい。
さらに、「国家機密」である「仮面の男」を誘拐されたサンマール@コマは、どうしていたのか?
ムラ版だとフィリップ誘拐の直後、日をおかずにルイと入れ替えたように見える。そのため、サンマールは保身のため上には報告せずにいたんだなと思うことが出来た。身の処し方を迷っていたとも考えられる。
しかし、1ヶ月だ。
丸1ヶ月間サンマールはナニをしていたんだ? フィリップを失ったことを誰にも告げずにいたのか? 仮面の男の監視をサンマールに命じたであろうルイもルーヴォアも、一大ページェントの様子からフィリップが行方不明であることはカケラも知らなかった模様。
仮面の男の正体をサンマール以外のモノは知らないのだから、フィリップを逃がしたあとも部下を口止めし、代役を立てるなりして「日々変わりなし」と上には報告を続け、ナニゴトもなかったかのように過ごすことはできるだろう。1ヶ月でも、2ヶ月でも、それは可能なのかもしれない。
だがそのまま一生、隠し通すのか? 逃げ出したフィリップが、どこかで名乗りを上げたらどうなる? サンマールは一生「フィリップが現れたらどうしよう」と怯えながら、牢獄で偽の仮面の男を監視して生きるつもりだったのか?
国家を揺るがすほどの大失態を丸1ヶ月隠していた男が、ルイ/フィリップ入れ替え事件発覚後もなんのお咎めもなく、銃士隊として三銃士討伐軍に加わり、まだ看守長の地位のまま「会いたかったよ、仮面の男」とか言って登場するのか?
おかしすぎるだろう?
すべて「1ヶ月後」という言葉を使ったせい。
具体的な「時の流れ」を明言してしまったために、問題が雪だるま式に発生。
責任を取る覚悟もなく、その場しのぎのテキトーを言うと痛い目に遭う、という見本。
東宝版で「1ヶ月後」という言葉が使われたのは、三銃士によるフィリップの国王教育場面が挿入されたため。
たしかにムラ版のままでは、牢獄暮らしのフィリップが突然王様の代わりになれるはずがない、銃士隊長のダルタニアンと互角以上の剣の使い手であることなど、おかしなことばかり。
付け焼き刃であっても、1ヶ月みっちり稽古を詰んで臨んだとわかれば、その一点に置いてのみは説明がつく。
でも、説明がついたのは一点のみ、しかも入れ替えた数時間後にすべてバレているのは変わらないので、ムラ版から続けて観ていると、苦労した分無駄だったね感が強いっちゅーか、そんなことをしている間があるなら他のことをしろよと言いたくなるというか。
ルイーズに真実を話しておけば、彼女がフィリップに襲いかかることもなく、フィリップがいきなり真実を打ち明けることもなく、ダルタニアンが立ち聞きすることもなく、ルイ/フィリップの入れ替えがたった数時間でバレることもなかったんだ。
1ヶ月間、ナニしてたの?
なんて無駄な時間を過ごしたんだ。
フィリップとの心の絆は築かれず、彼が精神を病むほど痛めつけいじめ抜き、ルイーズが死ぬほど苦しみ思い詰めているのも放置していた三銃士。
国家機密のフィリップが行方不明だっつーのに、なにもせずにいたサンマール、そんな状態に気づきもせずに生きていたらしいルイやルーヴォアたち。
誰も彼もが、余計ひどいことになっている。「フィリップが剣を使えたのは、1ヶ月お稽古したからだよ」と言いたいがためだけに、それ以外のすべてを地に落とした。
なんてアタマの悪い、改悪。
看守長と三銃士と哀れな囚人。@仮面の男
2011年11月22日 タカラヅカ 『仮面の男』東宝版を観てあれこれ、続き。
ムラ→東宝でもっとも変わったのはサンマール@コマ。
ムラ版ではギャグマンガ系変態だったのが、東宝ではシリアス系変態になってた!
どっちも変質的というか、エロいのは、コマつん仕様です。
服装からしてチガウ。
ムラ版のキラキラピンク衣装はお蔵入りかあ。
看守なのに、銃士隊の赤い服。……まあ、わかりやすくていいやね。
拷問や死刑に狂喜乱舞するアホアホギャグマンガの変態キャラだったのが、出自にコンプレックスがあるゆえの暗い情熱を持つ男になってた。変わりすぎだろヲイ。
いや、変わってよかった。
わたしはムラ版のサンマールさん自体、別に嫌いじゃなかった。もちろん、倫理的にひどい役と場面なので、それに対する憤りはあるが、そーゆーのとは別チャンネルで、サンマールというキャラクタだけ抜き出して考えると、なかなかおもしろい人だったので、けっこー好きだった。
絶好調で歌い踊るコマくんガン見してたもんなあ。
胡散臭さといやらしさ。そして、華。
コマくんの高温多湿粘度高めな持ち味ゆえ、ムラ版もあんな演出なのになんとか成り立っていたし、東宝版はとても魅力的な男になっていた。
「仮面の男」の取り扱いを誉められ、看守長に出世した、ってことで、機嫌をよくしたサンマールが、フィリップ@キムを自室へ呼び出し、仮面をはずして打ち明け話という趣向。
ここではじめて主人公であるフィリップが観客の前に現れ、設定の説明をされるわけだ。
……主人公の初登場がサンタクロースひげ姿……。かわいい美少年キムくんに、なにさらすんじゃい演出家、という気がしないでもない(笑)。でもま、仕方ないのか、フィリップのひげは。
ここで判明する事実は、早わかり世界史に登場していた赤ん坊が、何故か牢獄でひげもじゃで登場、ということ。コンスタンスは殺され、フィリップは王子なのに鉄仮面。……もうここで、黒幕はルイ@キムだと言っているよーなもんだよなあ……。別にいいのか、ルイは最初から悪者としてしか書かれていないし。
一見ストーリーの肉付けにはなっているのだが。
結局のところ、ある疑問は解けていない。
すなわち、サンマールは誰の部下か。
ムラ版でのサンマールは、最後の最後でダルタニアン大好きアピールをする。もともと銃士隊員で、ダルタニアンの部下だから、彼に従うと。
変わり身に早さは変だけど、どんだけ変でもおかしくないくらい、変な人だったから、気にならなかった。
しかし東宝版では、サンマールはふつうの人になっている。ねっとりと変質的だけど、あくまでもふつうの人。そして、フィリップの面倒を見ているから、という理由で看守長に昇進。
サンマールの立ち位置がわからない。ダルタニアンは「仮面の男」の陰謀を、なにも知らなかったんだ。コンスタンスの任務も、何故殺されたのかも。しかしサンマールは仮面の男の正体を知っていた。ルイやルーヴォアから命令を受けて看守長をやっていたのだろう。
もともとは銃士隊でダルタニアンの部下でも、フィリップを受け入れたときからルイ側だよね? ダルタニアンの部下じゃないよねえ。
なのにラストでころっと変心するのは、サンマールがふつうの感覚の人になっているだけに、余計しっくりこないことに。
ほんとに、荒い変更だと思う。
まあともかく、ラウル@翔くんがフィリップの顔を見てしまうくだりは良くなった。
ムラ版は何故ラウルが獄中を外出着のままいつまでもうろうろしているのか説得力なさすぎたし、せっかくフィリップの顔を見ても、それがどういうことなのか説明になっていなかった。
東宝では、フィリップの顔を見て「陛下?!」と驚愕しているので、ラウルが何故殺されなければならないか、よーっくわかる。
サンマールはちゃんと部下たちにはフィリップの顔を見せないようにしてるんだよねえ。仮面の男の正体を知っているのは、この牢獄ではサンマールひとり、だからこそ彼が看守長になったわけだもんねえ。
ちゃんとこうして「秘密は、秘密」としているのに。
なんでクライマックスは平隊士に至るまで、全員の前で顔をさらすんだろう……。
しかし、ムラ版と東宝版で、出番が削除なしで増えたのって、コンスタンスとアンヌ王妃と、ラウルのみなんだよねえ。あとの人は、トップスターですら出番が削られてたりするのに(笑)。
コンスタンスとアンヌさんはともかく、ラウル、強いな(笑)。
ラウルが処刑され、復讐に燃えるアトス@まっつと三銃士がフィリップを助け出すのは同じ。
ただ、その直後に、三銃士によるフィリップいじめのシーンが追加されている。
フィリップは別に助けてくれなんて頼んでないのに、勝手に誘拐し、「1ヶ月後のイベントでルイと入れ替える」と宣言。
泣いて嫌がるフィリップを、大の男が3人がかりで恫喝、言うことを聞かせるという。
アトスなんて剣まで持ち出してる。
三銃士、酷い。
書かなければならないのは、フィリップと三銃士の心の絆なのに、一方的に暴力で支配する様しか書かないって……作者が人の心を理解していないことが、こんなところにも現れている(笑)。
この三銃士とフィリップの場面、この作品でもっともかっこいいラストバトルと呼応する演出にしてあるのに、演出の良さも「心のなさ」で台無し。
こだまっちに必要なのは技術ではなく、人間の心だとか常識なんだよなあ、とまた痛感する。
ムラ版の爆笑ポイントのひとつだった、フィリップを笑顔で恫喝するアラミス@きんぐの場面。
フィリップと三銃士の心が通じている状態ならばともかく、フィリップを「ただの道具」としか扱っていない状態でそれを言えばただの鬼畜、ってな会話を、さもハートウォーミングな様子で交わす、とても電波な場面。
ここがなんの変更もされないまま、東宝でもあった。
ムラ版でも「アラミス酷い!」という、人としての間違いっぷりに笑うしかない場面だったのに、東宝版はその前にもっと冷酷な鬼畜場面がわざわざ付け加えられているもんだから。
さらに、アラミスこわい! アラミス酷い!!(笑)
剣を突きつけて脅しておいて、「運命だ。使い捨てて死んでもヨシ」と笑顔で言うアラミスがこわすぎる。
いろいろと変更された東宝版だけど、ムラ版より酷くなったのは、三銃士だと思う。
まさか、さらに悪くなるなんてねえ。こだまっち、すげえや。
続く。
ムラ→東宝でもっとも変わったのはサンマール@コマ。
ムラ版ではギャグマンガ系変態だったのが、東宝ではシリアス系変態になってた!
どっちも変質的というか、エロいのは、コマつん仕様です。
服装からしてチガウ。
ムラ版のキラキラピンク衣装はお蔵入りかあ。
看守なのに、銃士隊の赤い服。……まあ、わかりやすくていいやね。
拷問や死刑に狂喜乱舞するアホアホギャグマンガの変態キャラだったのが、出自にコンプレックスがあるゆえの暗い情熱を持つ男になってた。変わりすぎだろヲイ。
いや、変わってよかった。
わたしはムラ版のサンマールさん自体、別に嫌いじゃなかった。もちろん、倫理的にひどい役と場面なので、それに対する憤りはあるが、そーゆーのとは別チャンネルで、サンマールというキャラクタだけ抜き出して考えると、なかなかおもしろい人だったので、けっこー好きだった。
絶好調で歌い踊るコマくんガン見してたもんなあ。
胡散臭さといやらしさ。そして、華。
コマくんの高温多湿粘度高めな持ち味ゆえ、ムラ版もあんな演出なのになんとか成り立っていたし、東宝版はとても魅力的な男になっていた。
「仮面の男」の取り扱いを誉められ、看守長に出世した、ってことで、機嫌をよくしたサンマールが、フィリップ@キムを自室へ呼び出し、仮面をはずして打ち明け話という趣向。
ここではじめて主人公であるフィリップが観客の前に現れ、設定の説明をされるわけだ。
……主人公の初登場がサンタクロースひげ姿……。かわいい美少年キムくんに、なにさらすんじゃい演出家、という気がしないでもない(笑)。でもま、仕方ないのか、フィリップのひげは。
ここで判明する事実は、早わかり世界史に登場していた赤ん坊が、何故か牢獄でひげもじゃで登場、ということ。コンスタンスは殺され、フィリップは王子なのに鉄仮面。……もうここで、黒幕はルイ@キムだと言っているよーなもんだよなあ……。別にいいのか、ルイは最初から悪者としてしか書かれていないし。
一見ストーリーの肉付けにはなっているのだが。
結局のところ、ある疑問は解けていない。
すなわち、サンマールは誰の部下か。
ムラ版でのサンマールは、最後の最後でダルタニアン大好きアピールをする。もともと銃士隊員で、ダルタニアンの部下だから、彼に従うと。
変わり身に早さは変だけど、どんだけ変でもおかしくないくらい、変な人だったから、気にならなかった。
しかし東宝版では、サンマールはふつうの人になっている。ねっとりと変質的だけど、あくまでもふつうの人。そして、フィリップの面倒を見ているから、という理由で看守長に昇進。
サンマールの立ち位置がわからない。ダルタニアンは「仮面の男」の陰謀を、なにも知らなかったんだ。コンスタンスの任務も、何故殺されたのかも。しかしサンマールは仮面の男の正体を知っていた。ルイやルーヴォアから命令を受けて看守長をやっていたのだろう。
もともとは銃士隊でダルタニアンの部下でも、フィリップを受け入れたときからルイ側だよね? ダルタニアンの部下じゃないよねえ。
なのにラストでころっと変心するのは、サンマールがふつうの感覚の人になっているだけに、余計しっくりこないことに。
ほんとに、荒い変更だと思う。
まあともかく、ラウル@翔くんがフィリップの顔を見てしまうくだりは良くなった。
ムラ版は何故ラウルが獄中を外出着のままいつまでもうろうろしているのか説得力なさすぎたし、せっかくフィリップの顔を見ても、それがどういうことなのか説明になっていなかった。
東宝では、フィリップの顔を見て「陛下?!」と驚愕しているので、ラウルが何故殺されなければならないか、よーっくわかる。
サンマールはちゃんと部下たちにはフィリップの顔を見せないようにしてるんだよねえ。仮面の男の正体を知っているのは、この牢獄ではサンマールひとり、だからこそ彼が看守長になったわけだもんねえ。
ちゃんとこうして「秘密は、秘密」としているのに。
なんでクライマックスは平隊士に至るまで、全員の前で顔をさらすんだろう……。
しかし、ムラ版と東宝版で、出番が削除なしで増えたのって、コンスタンスとアンヌ王妃と、ラウルのみなんだよねえ。あとの人は、トップスターですら出番が削られてたりするのに(笑)。
コンスタンスとアンヌさんはともかく、ラウル、強いな(笑)。
ラウルが処刑され、復讐に燃えるアトス@まっつと三銃士がフィリップを助け出すのは同じ。
ただ、その直後に、三銃士によるフィリップいじめのシーンが追加されている。
フィリップは別に助けてくれなんて頼んでないのに、勝手に誘拐し、「1ヶ月後のイベントでルイと入れ替える」と宣言。
泣いて嫌がるフィリップを、大の男が3人がかりで恫喝、言うことを聞かせるという。
アトスなんて剣まで持ち出してる。
三銃士、酷い。
書かなければならないのは、フィリップと三銃士の心の絆なのに、一方的に暴力で支配する様しか書かないって……作者が人の心を理解していないことが、こんなところにも現れている(笑)。
この三銃士とフィリップの場面、この作品でもっともかっこいいラストバトルと呼応する演出にしてあるのに、演出の良さも「心のなさ」で台無し。
こだまっちに必要なのは技術ではなく、人間の心だとか常識なんだよなあ、とまた痛感する。
ムラ版の爆笑ポイントのひとつだった、フィリップを笑顔で恫喝するアラミス@きんぐの場面。
フィリップと三銃士の心が通じている状態ならばともかく、フィリップを「ただの道具」としか扱っていない状態でそれを言えばただの鬼畜、ってな会話を、さもハートウォーミングな様子で交わす、とても電波な場面。
ここがなんの変更もされないまま、東宝でもあった。
ムラ版でも「アラミス酷い!」という、人としての間違いっぷりに笑うしかない場面だったのに、東宝版はその前にもっと冷酷な鬼畜場面がわざわざ付け加えられているもんだから。
さらに、アラミスこわい! アラミス酷い!!(笑)
剣を突きつけて脅しておいて、「運命だ。使い捨てて死んでもヨシ」と笑顔で言うアラミスがこわすぎる。
いろいろと変更された東宝版だけど、ムラ版より酷くなったのは、三銃士だと思う。
まさか、さらに悪くなるなんてねえ。こだまっち、すげえや。
続く。
声と技術と、心……そして、矢は放たれる。@仮面の男
2011年11月21日 タカラヅカ 東宝公演まで終わって告白。
結局、アトス@まっつの芝居で泣くことはなかった。
変だなあ、まっつファンはみんな「ラウルの手紙」で泣くらしいんだけどなあ(笑)。
『仮面の男』でわたしを泣かせてくれたのはひたすらフィリップ@キムくんですから。
わたしそもそも、まっつの芝居で泣くことほとんどないもんな。ベンヴォーリオ@『ロミジュリ』でツボ入りまくり、泣けてしょーがなかったときこそ、驚いた……『舞姫』青年館以来だと。
まっつの芝居は「泣く」という感情発散方法とは別のところで、わたしの琴線に触れるのだと思う。
しかしアトス様はなー、「フィリップ王子をなんとしても助け出すのだ」の、いかにも芝居がかった言い回しとか、気になったなー。
ベンヴォーリオの「嘘じゃない。毒を飲んで、自ら命を絶ったんだ」に通じる「今俺、芝居してます」系のわざとらしさ……。
まっつって、声優向きの人だなとか思う。
声優って、芝居心よりも反射神経・身体能力が必要だと、勝手に思っている。
ひとつの台詞を指示された通りのニュアンスで再現する力。そこに必要なのは役のキモチ以前に、技術。声帯を完全に支配して、同じ台詞を瞬時に何種類ものニュアンスで発声する。そのキャラがどう思うからこう言うのではなく、演出サイドの指示で求められている音を的確に出す。
この鍵盤叩いたらこの音が出ます的な。このテンポ、この音色でこのフレーズ出します的な。
まず自分の声を完全に支配し、技術としてどんな表現も瞬時に出来るところまでいった上でようやく、芝居心が関係してくる、というイメージなんだな、声優さん。芸術家というよりは、職人。
映画とかで、テレビタレントとかの素人が声をあてていると、まず芝居心だけで演じようとするから自爆している気がする。うまくキャラが合って、その芝居心だけで乗り切れる場合もあるけど、他の役はできない、今回限り。
まっつは声を操る。まず技術なイメージ。
まず芝居心があり、それゆえにその音になった、というより、まず技術でその台詞に相応しい音を出し、そのあとから心を載せる。
芸術家というより、職人。匠の技があり、その高い技術ゆえにハートを表現する。
そーゆータイプの役者さん好きなんだけど、まつださんってばときどき技術が先に出過ぎていて、わざとらしいっすよ……。
アトス様の、こぶしの回った「助け出すのだ~~あッ!」なんかほんと、メロディとしての効果優先ぢゃねえのって感じで。
わたしは声ヲタだし、まっつの声が大好きでその声のためだけに劇場へ通える人間だけど、芝居に関しては、彼は声を出していないときの方が好みだと思う。
声を正確に操ることが前面に出て、心が後付けになるんだもん、まつださん。
芝居が出来ない人ではないのに、もともと真面目で融通が利かないんだろう、技術を完璧に制御することに神経を使い、後先考えず感情だけで突っ走っちゃいましたテヘ、てな乱れ方をしない。
台詞や歌のないときの方が、心を優先した芝居をしている。
で、心を解放したときに、ときどきすごいモノを見せてくれる。ガード固いからなかなか内側は見せてくれないけど、ときおりすこっと殻が取れて無防備になる。
そんなときのまつださんは、すごい。
ベン様はいろいろ大変だったんだと思う。組替えして最初の公演、ポジションアップ、そして喉の不調。不安定でぎりぎりで、いつものように技術の鎧で自分を守れなかった。
それでなんかすごい面白いものがそこにあった。
プガチョフ@『黒い瞳』あたりまで、プレッシャーゆえか不安定さがあったなー。しかしブラット部長@『H2$』までくるともう彼のテリトリー、いつものまっつ。
アトス様も結局いつものまっつで、殻が取れない、門が開かれない。
ただ、最初の一時期だけ、愉快だった。初日はもちろん脚本通り、指示通りのふつーのまっつ。その翌日だ、いちばん面白かったの。
今回の『仮面の男』、お稽古段階から演出には相当疑問があったんだと思う。ジェンヌは与えられた作品や役に意見を言うことができないから、みんなそろって褒め称えやり甲斐を語っているけど、まっつももちろんそうしているけど、彼の場合あちこちで困惑していることが見えた。各種インタビューとかで……この正直モノめ(笑)。
で、疑問を飲み込んで懸命に演技し、いざ初日の幕が開いて。
観客からは、非難囂々。やっぱりおかしいんじゃん、この芝居、この演出! お稽古しながら疑問だったけど、その通りだったんじゃん! と、客席の空気から答えを得て。
こだまっちが変、と答えは出たけど、生徒は芝居を変えられない、変なこだまっちが要求する通りの変な芝居をしなくてはならない。
てことで、相当混乱したんだと思う。
さあ来た来た、不安定まっつ。
初日のコメディっぷりに観客がドン引きした(『仮面の男』という作品自体にね)ことがわかるから、その反動だろうか、アトス様、ドシリアス。
ちょ……っ、作品違ってますよ、どうするんですかその演技!!
「ラウルの手紙」の喪失っぷりの深さ、復讐ソングの熱、全編通しての酷薄さ……アトスさん別人入ってます。
いやあ、初日で作品にびっくり、絶望したあとだったので、まっつがころりと役作り変えてきたのを見たときは、感動しました。幕開きすぐの感想やメールで、「シリアス寄りになった」とか書いているのはそのせい。
このあたりのアトス様、マジ好みだった。安定してなくて、そのときどきに色が変わる。
が。
これって、ほんとにわずかな間だけだった。
どうも中の人が開き直ったみたいで。いつもの技術優先安心高品質まっつに落ち着いた。
それこそ、「助け出すのだ~~あッ!」と歌い上げちゃうような。
おちゃらけ演出はおちゃらけ演出、かっこつけるところはかっこつける、と割り切ったみたい。
ムラ2日目路線で行ってくれたら、好みだったのになあ。ベン様系の不安定さで。
で、安定すればするほどコメディはかわいくなっているし、もともとの持ち味、クールさは上がるし、東宝は演出変更で鬼畜ドSっぷりに磨きが掛かっているし、それはそれで楽しかったが。
ただ、感動して泣く芝居ではなかったなあ、アトス様。
『インフィニティ』初日をなにがなんでも観たいのは、いっぱいいっぱいのまつださんを見たいからだ。
そして、その翌日のまっつは、さらに見たい。
ぎりぎりまで引いた弓の弦みたいなんだ、初日は。で、翌日は矢が放たれる。ので、ここがいちばん破壊力。
で、その次からは安定しやがる。技術のある人って安定早すぎ。や、それがプロってもんですが。
『宝塚巴里祭2009』がまさにソレだった。2日目が鳥肌モノ。実際わたし、終わったあと貧血起こしたし(笑)。
初日のぎりぎりっぷりを知っているだけに、2日目の爆発のすごさがわかった。落差すげえよ。そして3日目はすでに安定……2日目の爆発的感動は夢幻……(笑)。
安定する前のまっつが見たい。安定高品質なのはいいけど、そこに落ち着く前こそが、いちばん面白いから。
……アトス様があの不安定なままだったら、きっと泣かせてくれたんだろうなあ。
見ていてすげーどきどきしたもんなあ。
いや、それでもアトス様も三銃士も好きだったけれど。彼らの掛け合いだけでパロ小説書けるくらいには(笑)。
結局、アトス@まっつの芝居で泣くことはなかった。
変だなあ、まっつファンはみんな「ラウルの手紙」で泣くらしいんだけどなあ(笑)。
『仮面の男』でわたしを泣かせてくれたのはひたすらフィリップ@キムくんですから。
わたしそもそも、まっつの芝居で泣くことほとんどないもんな。ベンヴォーリオ@『ロミジュリ』でツボ入りまくり、泣けてしょーがなかったときこそ、驚いた……『舞姫』青年館以来だと。
まっつの芝居は「泣く」という感情発散方法とは別のところで、わたしの琴線に触れるのだと思う。
しかしアトス様はなー、「フィリップ王子をなんとしても助け出すのだ」の、いかにも芝居がかった言い回しとか、気になったなー。
ベンヴォーリオの「嘘じゃない。毒を飲んで、自ら命を絶ったんだ」に通じる「今俺、芝居してます」系のわざとらしさ……。
まっつって、声優向きの人だなとか思う。
声優って、芝居心よりも反射神経・身体能力が必要だと、勝手に思っている。
ひとつの台詞を指示された通りのニュアンスで再現する力。そこに必要なのは役のキモチ以前に、技術。声帯を完全に支配して、同じ台詞を瞬時に何種類ものニュアンスで発声する。そのキャラがどう思うからこう言うのではなく、演出サイドの指示で求められている音を的確に出す。
この鍵盤叩いたらこの音が出ます的な。このテンポ、この音色でこのフレーズ出します的な。
まず自分の声を完全に支配し、技術としてどんな表現も瞬時に出来るところまでいった上でようやく、芝居心が関係してくる、というイメージなんだな、声優さん。芸術家というよりは、職人。
映画とかで、テレビタレントとかの素人が声をあてていると、まず芝居心だけで演じようとするから自爆している気がする。うまくキャラが合って、その芝居心だけで乗り切れる場合もあるけど、他の役はできない、今回限り。
まっつは声を操る。まず技術なイメージ。
まず芝居心があり、それゆえにその音になった、というより、まず技術でその台詞に相応しい音を出し、そのあとから心を載せる。
芸術家というより、職人。匠の技があり、その高い技術ゆえにハートを表現する。
そーゆータイプの役者さん好きなんだけど、まつださんってばときどき技術が先に出過ぎていて、わざとらしいっすよ……。
アトス様の、こぶしの回った「助け出すのだ~~あッ!」なんかほんと、メロディとしての効果優先ぢゃねえのって感じで。
わたしは声ヲタだし、まっつの声が大好きでその声のためだけに劇場へ通える人間だけど、芝居に関しては、彼は声を出していないときの方が好みだと思う。
声を正確に操ることが前面に出て、心が後付けになるんだもん、まつださん。
芝居が出来ない人ではないのに、もともと真面目で融通が利かないんだろう、技術を完璧に制御することに神経を使い、後先考えず感情だけで突っ走っちゃいましたテヘ、てな乱れ方をしない。
台詞や歌のないときの方が、心を優先した芝居をしている。
で、心を解放したときに、ときどきすごいモノを見せてくれる。ガード固いからなかなか内側は見せてくれないけど、ときおりすこっと殻が取れて無防備になる。
そんなときのまつださんは、すごい。
ベン様はいろいろ大変だったんだと思う。組替えして最初の公演、ポジションアップ、そして喉の不調。不安定でぎりぎりで、いつものように技術の鎧で自分を守れなかった。
それでなんかすごい面白いものがそこにあった。
プガチョフ@『黒い瞳』あたりまで、プレッシャーゆえか不安定さがあったなー。しかしブラット部長@『H2$』までくるともう彼のテリトリー、いつものまっつ。
アトス様も結局いつものまっつで、殻が取れない、門が開かれない。
ただ、最初の一時期だけ、愉快だった。初日はもちろん脚本通り、指示通りのふつーのまっつ。その翌日だ、いちばん面白かったの。
今回の『仮面の男』、お稽古段階から演出には相当疑問があったんだと思う。ジェンヌは与えられた作品や役に意見を言うことができないから、みんなそろって褒め称えやり甲斐を語っているけど、まっつももちろんそうしているけど、彼の場合あちこちで困惑していることが見えた。各種インタビューとかで……この正直モノめ(笑)。
で、疑問を飲み込んで懸命に演技し、いざ初日の幕が開いて。
観客からは、非難囂々。やっぱりおかしいんじゃん、この芝居、この演出! お稽古しながら疑問だったけど、その通りだったんじゃん! と、客席の空気から答えを得て。
こだまっちが変、と答えは出たけど、生徒は芝居を変えられない、変なこだまっちが要求する通りの変な芝居をしなくてはならない。
てことで、相当混乱したんだと思う。
さあ来た来た、不安定まっつ。
初日のコメディっぷりに観客がドン引きした(『仮面の男』という作品自体にね)ことがわかるから、その反動だろうか、アトス様、ドシリアス。
ちょ……っ、作品違ってますよ、どうするんですかその演技!!
「ラウルの手紙」の喪失っぷりの深さ、復讐ソングの熱、全編通しての酷薄さ……アトスさん別人入ってます。
いやあ、初日で作品にびっくり、絶望したあとだったので、まっつがころりと役作り変えてきたのを見たときは、感動しました。幕開きすぐの感想やメールで、「シリアス寄りになった」とか書いているのはそのせい。
このあたりのアトス様、マジ好みだった。安定してなくて、そのときどきに色が変わる。
が。
これって、ほんとにわずかな間だけだった。
どうも中の人が開き直ったみたいで。いつもの技術優先安心高品質まっつに落ち着いた。
それこそ、「助け出すのだ~~あッ!」と歌い上げちゃうような。
おちゃらけ演出はおちゃらけ演出、かっこつけるところはかっこつける、と割り切ったみたい。
ムラ2日目路線で行ってくれたら、好みだったのになあ。ベン様系の不安定さで。
で、安定すればするほどコメディはかわいくなっているし、もともとの持ち味、クールさは上がるし、東宝は演出変更で鬼畜ドSっぷりに磨きが掛かっているし、それはそれで楽しかったが。
ただ、感動して泣く芝居ではなかったなあ、アトス様。
『インフィニティ』初日をなにがなんでも観たいのは、いっぱいいっぱいのまつださんを見たいからだ。
そして、その翌日のまっつは、さらに見たい。
ぎりぎりまで引いた弓の弦みたいなんだ、初日は。で、翌日は矢が放たれる。ので、ここがいちばん破壊力。
で、その次からは安定しやがる。技術のある人って安定早すぎ。や、それがプロってもんですが。
『宝塚巴里祭2009』がまさにソレだった。2日目が鳥肌モノ。実際わたし、終わったあと貧血起こしたし(笑)。
初日のぎりぎりっぷりを知っているだけに、2日目の爆発のすごさがわかった。落差すげえよ。そして3日目はすでに安定……2日目の爆発的感動は夢幻……(笑)。
安定する前のまっつが見たい。安定高品質なのはいいけど、そこに落ち着く前こそが、いちばん面白いから。
……アトス様があの不安定なままだったら、きっと泣かせてくれたんだろうなあ。
見ていてすげーどきどきしたもんなあ。
いや、それでもアトス様も三銃士も好きだったけれど。彼らの掛け合いだけでパロ小説書けるくらいには(笑)。
肯定は明日へ続く。@雪組東宝千秋楽
2011年11月20日 タカラヅカ 息の合い方が、すごい。
『仮面の男』『ROYAL STRAIGHT FLUSH!!』東宝千秋楽。
舞台もだが、客席。
拍手と手拍子すげえ。なにこの呼吸。
ただ席に坐って与えられているのではなく、客席もまた意志を持って舞台に関与している。
『仮面の男』のあの悲しい「早わかり世界史」への、エール。
これでタカラヅカを卒業する水戸黄門@しゅうくん登場時の拍手の大きさ、手拍子。
黄門様が投げキッスはじめたときゃー、歓声もの。
トンデモなことをやらされてきた生徒たちへのねぎらいと感謝。
なんつーかさ。
味方だからね! と言っているような気がした。
劇団や演出家がどうであろうと、観客は、ファンは、生徒の味方だから。愛するから、見守るから。
や、誰だって物事を悪くしたい破壊したい傷つけたいと思ってやっているわけじゃない。劇団も演出家も。それはわかっているし、目に見えないところでいろんな人たちが尽力しているのだと思う。
でも、わたしたちの目に見えるのは、タカラジェンヌの姿だけで。
彼女たちのけなげながんばりに感動するし、彼女たちを愛するがゆえに、いろんなものを飲み込んでいく。
かおりちゃんミラーボール登場はショーストップする勢いの拍手で迎えるし、ひろみちゃんはムラであったルーヴォアさんへの拍手がなかった分、ショー『RSF』米軍兵士でのセリ下がりで万感の拍手だし。まさかのヒメが声詰まらせて歌が揺れるし。
なんか、すごい。
「『RSF』の手拍子って、初心者置いてきぼりじゃないですか」
てなことを友人と話したっけね。
ただの同じリズムの手拍子じゃない。オープニングからチャッチャッチャチャチャ!チャチャチャチャ・チャチャチャ!だからなー、リピーター以外は絶対入れないんだ。
貸切とか初見の人が多い公演と、ファンの多い公演では手拍子の有無がきっぱり分かれる。
だから千秋楽、一糸乱れぬ手拍子に感動した。
すげえ!! ファンで埋め尽くされてる!!
千秋楽ってのはそういうものだけど、それがさらによくわかる作品だったから。
全編通してヒートアップ。空気がチガウ。
芝居の、あの水戸黄門からすでに泣けましたがナニか? わたしだけじゃないもん、友だちも泣けたって言ってたし! みんな泣くんだよ!!
ちくしょー、いいとこだよタカラヅカは。すごいとこだよ、タカラヅカは。
フィリップ@キムくんがまた、慟哭がえらいことになっていて。
被虐キャラとしてかわいらしくぽろぽろ泣くんじゃなくて、泣きすぎて顔こわいです、怒っているような、吠えているようなフィリップになっていた。
嘆きの獅子。
このフィリップは月じゃない。虐げられた太陽だ。
太陽を翳らせることは出来ない。そんなの、間違った状態。無理に曲げられた直線がきりきりしなりながら、弾け返す瞬間を、爆発する瞬間を待っているような、咆吼。
これはこれで、面白いフィリップ像だ。てゆーかやっぱキムくんって面白い。彼が真ん中で力を放出する、その様を眺めるのが好き。
どんな間違ったもの、歪んだものも、彼が真ん中で支えきる。彼の色に染めて、「ありかも?」と思わせるところまで持っていく。
ショーの歌声がまた、空気変える勢いで響き渡るし。歌ウマトップはいいわ、ほんとに耳福だわ。
キムくんはどこまで進化するんだろう。
アドリブを任されていたちぎくん、シナトラ@ひろみに絡むところでナニかしらやってくれるだろうと、多分劇場中の人が見守っているのにスルー、「え?」と思わせておいて、次のエリザベス・テーラー@リサリサとの絡みでオチにシナトラさん。おおっ、うまいね!
個人的に、「去っていく場所への愛と感謝」を述べられる人が好きだ。
卒業していく人には、それぞれの事情があるだろう。歩んできた道もチガウだろうし、立場もチガウ。
楽しいことだけじゃない、つらいことも多くあるだろう。闇を抱えて去っていく人だっているかもしれない。
それでも。
タカラヅカに入ろうと思ったのは自分自身で、そこで生きていたのは自分自身。
卒業するから、もうそこにはいなくなるから、過去だから、と振り返らず「これからは新しい人生を私らしく歩んでいきます」という決まり文句だけ、自分の未来だけを語るんじゃなくて。
その、現在と未来の自分を形作った、これから「過去」になる宝塚歌劇団への愛を語れる人が好きだ。
残る仲間たちへの礼儀とか謙虚さとかゆー意味ではなく、ただひとえに自己肯定だと思うんだ。
自分が卒業していく場を、愛していると言い切ること。愛してくださいと訴えること。それは、その愛しい世界の一員であった自分に誇りを持つことだ。
退団するトップスターが「これからも**率いる*組をよろしくお願いします」と言うのも、控えめな花を持った下級生が「タカラヅカ大好き!」と叫ぶのも。
自分の人生に翳りを持たない、いや、陰があったとしてそれすらすべてを肯定した、美しい姿だと思う。
そしてわたしは、必死になって拍手する。客席分の一でしかない、しがない存在だけど。感謝を音にする。
タカラヅカが好き。
それは、タカラヅカで生きたあなたたちを好きだということ。唯一無二の楽園で、唯一無二の存在だった、それぞれのタカラジェンヌへ、エールを送る。
過去の肯定は現在を肯定すること、そしてここから続く未来を肯定すること。
正しいよ。だから、前へ進め。
きらきらきれいなかおりちゃん、清々しく笑うしゅうくん、ほんわかひろみちゃん。ああほんとうに、いろんな姿を見てきたよ、ずっとずっと見てきたよ。
卒業する3人の紹介を、キムくんがはじめたときにウケた。水しぇんか!と。いやあ、キムくん、水先輩の遺伝子受け継いでるよね(笑)。
下級生順に、まずかおりちゃんの歌を褒め、しゅうくんのダンスを褒め、ひろみちゃんはどうするんだろう、流れからいって芝居かな、と思ったら、ビジュアルの話だった……(笑)。キム……なんて正直な……(笑)。
未だに『ロミジュリ』を引きずっているわたしは、マジで寂しい。
大公様、キャピュレット夫人、そしてパリス伯爵……。もう一度もう一度、あの日の『ロミオとジュリエット』が観たいんだ。
そう思えるほどのしあわせな時間をくれた人たち。
ありがとう。
『仮面の男』『ROYAL STRAIGHT FLUSH!!』東宝千秋楽。
舞台もだが、客席。
拍手と手拍子すげえ。なにこの呼吸。
ただ席に坐って与えられているのではなく、客席もまた意志を持って舞台に関与している。
『仮面の男』のあの悲しい「早わかり世界史」への、エール。
これでタカラヅカを卒業する水戸黄門@しゅうくん登場時の拍手の大きさ、手拍子。
黄門様が投げキッスはじめたときゃー、歓声もの。
トンデモなことをやらされてきた生徒たちへのねぎらいと感謝。
なんつーかさ。
味方だからね! と言っているような気がした。
劇団や演出家がどうであろうと、観客は、ファンは、生徒の味方だから。愛するから、見守るから。
や、誰だって物事を悪くしたい破壊したい傷つけたいと思ってやっているわけじゃない。劇団も演出家も。それはわかっているし、目に見えないところでいろんな人たちが尽力しているのだと思う。
でも、わたしたちの目に見えるのは、タカラジェンヌの姿だけで。
彼女たちのけなげながんばりに感動するし、彼女たちを愛するがゆえに、いろんなものを飲み込んでいく。
かおりちゃんミラーボール登場はショーストップする勢いの拍手で迎えるし、ひろみちゃんはムラであったルーヴォアさんへの拍手がなかった分、ショー『RSF』米軍兵士でのセリ下がりで万感の拍手だし。まさかのヒメが声詰まらせて歌が揺れるし。
なんか、すごい。
「『RSF』の手拍子って、初心者置いてきぼりじゃないですか」
てなことを友人と話したっけね。
ただの同じリズムの手拍子じゃない。オープニングからチャッチャッチャチャチャ!チャチャチャチャ・チャチャチャ!だからなー、リピーター以外は絶対入れないんだ。
貸切とか初見の人が多い公演と、ファンの多い公演では手拍子の有無がきっぱり分かれる。
だから千秋楽、一糸乱れぬ手拍子に感動した。
すげえ!! ファンで埋め尽くされてる!!
千秋楽ってのはそういうものだけど、それがさらによくわかる作品だったから。
全編通してヒートアップ。空気がチガウ。
芝居の、あの水戸黄門からすでに泣けましたがナニか? わたしだけじゃないもん、友だちも泣けたって言ってたし! みんな泣くんだよ!!
ちくしょー、いいとこだよタカラヅカは。すごいとこだよ、タカラヅカは。
フィリップ@キムくんがまた、慟哭がえらいことになっていて。
被虐キャラとしてかわいらしくぽろぽろ泣くんじゃなくて、泣きすぎて顔こわいです、怒っているような、吠えているようなフィリップになっていた。
嘆きの獅子。
このフィリップは月じゃない。虐げられた太陽だ。
太陽を翳らせることは出来ない。そんなの、間違った状態。無理に曲げられた直線がきりきりしなりながら、弾け返す瞬間を、爆発する瞬間を待っているような、咆吼。
これはこれで、面白いフィリップ像だ。てゆーかやっぱキムくんって面白い。彼が真ん中で力を放出する、その様を眺めるのが好き。
どんな間違ったもの、歪んだものも、彼が真ん中で支えきる。彼の色に染めて、「ありかも?」と思わせるところまで持っていく。
ショーの歌声がまた、空気変える勢いで響き渡るし。歌ウマトップはいいわ、ほんとに耳福だわ。
キムくんはどこまで進化するんだろう。
アドリブを任されていたちぎくん、シナトラ@ひろみに絡むところでナニかしらやってくれるだろうと、多分劇場中の人が見守っているのにスルー、「え?」と思わせておいて、次のエリザベス・テーラー@リサリサとの絡みでオチにシナトラさん。おおっ、うまいね!
個人的に、「去っていく場所への愛と感謝」を述べられる人が好きだ。
卒業していく人には、それぞれの事情があるだろう。歩んできた道もチガウだろうし、立場もチガウ。
楽しいことだけじゃない、つらいことも多くあるだろう。闇を抱えて去っていく人だっているかもしれない。
それでも。
タカラヅカに入ろうと思ったのは自分自身で、そこで生きていたのは自分自身。
卒業するから、もうそこにはいなくなるから、過去だから、と振り返らず「これからは新しい人生を私らしく歩んでいきます」という決まり文句だけ、自分の未来だけを語るんじゃなくて。
その、現在と未来の自分を形作った、これから「過去」になる宝塚歌劇団への愛を語れる人が好きだ。
残る仲間たちへの礼儀とか謙虚さとかゆー意味ではなく、ただひとえに自己肯定だと思うんだ。
自分が卒業していく場を、愛していると言い切ること。愛してくださいと訴えること。それは、その愛しい世界の一員であった自分に誇りを持つことだ。
退団するトップスターが「これからも**率いる*組をよろしくお願いします」と言うのも、控えめな花を持った下級生が「タカラヅカ大好き!」と叫ぶのも。
自分の人生に翳りを持たない、いや、陰があったとしてそれすらすべてを肯定した、美しい姿だと思う。
そしてわたしは、必死になって拍手する。客席分の一でしかない、しがない存在だけど。感謝を音にする。
タカラヅカが好き。
それは、タカラヅカで生きたあなたたちを好きだということ。唯一無二の楽園で、唯一無二の存在だった、それぞれのタカラジェンヌへ、エールを送る。
過去の肯定は現在を肯定すること、そしてここから続く未来を肯定すること。
正しいよ。だから、前へ進め。
きらきらきれいなかおりちゃん、清々しく笑うしゅうくん、ほんわかひろみちゃん。ああほんとうに、いろんな姿を見てきたよ、ずっとずっと見てきたよ。
卒業する3人の紹介を、キムくんがはじめたときにウケた。水しぇんか!と。いやあ、キムくん、水先輩の遺伝子受け継いでるよね(笑)。
下級生順に、まずかおりちゃんの歌を褒め、しゅうくんのダンスを褒め、ひろみちゃんはどうするんだろう、流れからいって芝居かな、と思ったら、ビジュアルの話だった……(笑)。キム……なんて正直な……(笑)。
未だに『ロミジュリ』を引きずっているわたしは、マジで寂しい。
大公様、キャピュレット夫人、そしてパリス伯爵……。もう一度もう一度、あの日の『ロミオとジュリエット』が観たいんだ。
そう思えるほどのしあわせな時間をくれた人たち。
ありがとう。
メールのタイムスタンプは18:06。@花組退団者
2011年11月19日 タカラヅカ2011/11/19
花組 退団者のお知らせ
下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。
(花組)
扇 めぐむ
煌雅 あさひ
彩咲 めい
真瀬 はるか
月野 姫花
2012年3月18日(花組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団
4時までは気を張っていたんだ。
でも、なにごともなく過ぎたから、今回は退団者なしだと胸をなで下ろしたんだ。
月全ツで大泣きしたあと、ひとり梅田をふらふらしているときにメールに気付いて、茫然としていたら、ほんとまさにその瞬間に、何故かnanaタンに捕獲された……何故メガシティの真ん中で偶然会うんだ、ムラでも日比谷でもないのに(笑)。わたしは観劇だが、向こうはそうじゃないのに。
なんつーかもお……言葉が出ない……。
今、考えたくない。
大好きだった「時間」が過去でしかなくなり、懸命に抱きしめているその隙間から消えていくような、そんな感覚。
旅立たなきゃ、明日は雪東宝楽だ。
タカラヅカってなんてところだろう、出会いも別れも追い立てられる。
ひとつのところに留まっていられない、消えていく美しいもの、有限の楽園だとわかっている。
だけどまた、失うんだ。また、別れるんだ。
消化できないから、またいずれ。
明日はひろみちゃんたち送り出すんだもん! 客席分の1の拍手をするんだもん!
ただの好色から牢獄へ。@仮面の男
2011年11月18日 タカラヅカ「で、あゆみちゃんの別の顔って、ナニ?」
「……さあ?」
という会話がかわされました、『仮面の男』東宝版の演出変更。
「ルイの悪趣味」という場面のはずが、ただの好色、ふつーにいくらでもあり得る範囲の話になった、元人間ボウリング場面。
差し替えられた場面は地味で台詞による説明ばかり、ひとこと台詞のために順番に前に出ます演出で、どこの植爺かスズキ・ケイか状態。
若手男役たちの出番は総じて抑えられ、キャストを眺める魅力も半減。
つまらなくなったこの場面、唯一良かったことは、短くなったことだ。
いやあ、何度も語ったが、「人間ボウリング」でナニがいちばん嫌かって、長いことだったもんよー。
面白くないのに、くどくどくどくど長かった。すべったギャグを何分も続けられる芸人ライブみたいなもん? ねーこれまだやるの、早く次行ってよー状態。
どんなにつまらない場面でも、短ければ許せるってこと、あるじゃん?
しかしそれがえんえん続くとなると、すげーストレス。
この場面は長い、辟易するほど長い、と覚悟していたため、さっさと終わったことにびっくりした。
えっ、もう終わり?! みじかっ。
……助かる。それってすごく、助かるわ。ライトユーザーがどう思うかはともかく、ヘビィリピーターには、すごくやさしい変更だ。
出演者に含みはない。長くて退屈でも、雪組っこたちの姿を、がんばりを眺めていることは出来た。てゆーか、ムラではそれだけで耐えきった。しかし、趣味に合わないただ長い場面は辛かった。
で、そのなんの工夫もない人数任せの場面、こだまっちの大好きな「醜い争い」とやらを繰り広げる女たちの中、マントノン夫人@あゆみちゃんが楚々と進み出てくる。女遍歴を説明していたルイ@キムが、「彼女には別の顔が……!」と、いかにも「引き」という感じで張り上げるのでナニがあるのかと期待したんだが。
ナニもない。
ムラ版の勝者@あゆみちゃんとルイのダンスにつながるだけ。
一応、おとなしそうな彼女が、「別の顔が」で髪を跳ね上げるよーに手で肩から払って、堂々とルイの前に出てくる……ので、「昼は淑女、夜は娼婦」的な意味だと思う。
しかし、弱い。
髪をぱさっと跳ね上げただけだもんよ。
『ファントム』の白鳥→黒鳥の変身くらいやってくんないと、わかんねーよ。台詞による引きのあと、ただデュエットダンスになるだけじゃあ拍子抜け。
マントノン夫人がルイと同等以上の強さ、淫らさで踊るならともかく、あくまでも「好色なのはルイ」という設定(トップスター2役ゆえの、黒い演技を見せる場面)である都合上、マントノン夫人はルイに振り回される立場になる。
こんなの、「別の顔」でもなんでもない。ふつーに淑女なだけ。
よーするに、ムラ版の切り貼りだから、東宝版とのつなぎ目が粗いってこと。
東宝版で「別の顔が」と言いながら、つながる先はムラ版のふつーの淑女とのデュエダン。ふつーじゃいかんやろ、ふつーじゃ。「淑女には別の顔が」と解説したんだから、別の顔を見せろっつの。
キムくんとあゆみちゃんのダンスはムラと同じだけど、この周囲で踊る人々は変更。
人道的・倫理的に相当やばかったキャスター椅子による小びと淑女ダンスは全カット。
マントノン夫人とルイを冷めた目で見つめる淑女たちがずらりと並んだあと、ふつーの男女のデュエットダンスになるあたりが、こだまっちの抵抗かな。新公では単にキャスター椅子だけ使わない演出だった。意地でも新公と同じことはしないんだ(笑)。よっぽど新公の演出変更は屈辱だったんだろう。
クチビルソファーやキャスタードレス淑女のくだりは変更無し。だからマントノン夫人は特にナニもしないままいなくなる。
ルイーズ@みみ登場の矢印も健在。クチビルパペットもそのまま。
そして、『H2$』はまるっと変更無し。著作権はOKだったらしい。←問題があったら変更されてるだろう。
次に変更があるのは、「王はすべてお見通し」のラウル@翔くん捕縛から。
ムラ版ではミレディ@ヒメの催眠術で膝を折ったラウルは、兵士(看守)に引き立てられ、早々に舞台から消える。
が、東宝ではいつまでも舞台にいる。
銀橋でルイーズがルイにラウルの無実を訴え、「侍女になれ」と迫られる場面になるが、その背後、本舞台にまだラウルと兵士がいる。抗うラウルを殴り倒して、無理矢理連行する兵士たち。
そのまま場面は牢獄になる。疲れ切った顔の囚人たちの間を、「僕は無実だ」と叫びながら、ラウルが連行されていく。
ここの変更はいいと思う。
ムラ版ではラウル捕縛から収監、脱走の流れが不明だった。いや、実際の時の流れが不明なのは変わらないが、舞台上の流れは正しくなる。
ちなみにムラ版では、催眠術をくらって連行されたはずのラウルは、長い長い大囚人ナンバーのあと、観客が存在や本筋を忘れた頃に再登場。
看守「逃げられました」、サンマール@コマ「バカ、まぬけ」のやりとりの中、ラウルくんはおしゃれな羽根飾りの付いた帽子姿のまま牢獄をフラフラして、「仮面の男」の素顔を目撃してしまう、という演出だった。
ルイーズが「彼は無実です」と国王に陳情できるくらい、何日か経っているだろうに、捕まったときと同じ姿で牢獄をフラフラしているなんて、なんだそりゃ、でした。「ラウル捕縛」「ルイーズ陳情」「ラウル収監」がそれぞれ別の場面のぶつ切りであるために、時間経過が一層変だったの。東宝版は「ラウル捕縛~収監」がひとつの場面として続いているし、その間に平行して「ルイーズ陳情」があるため、なめらか。
そしてなんといっても、大囚人ナンバーが、ナイ。
これは全カットされるだろうと期待していたが、本当にカットされた。
ひどい場面だったけど、そこで活躍していた生徒たちに罪はない、出番や見せ場を削られてしまった人たちは残念だったとは思う。
悲鳴オーケストラメンバーがうなだれて坐っているだけ、彼らもすぐに退場。ただの「牢獄ですよ」というデコレーションとして扱われた。
そのデコレーションのためだけに、気合いの入った変ヘアを作ってくれたにわにわ乙!
大囚人ナンバーはなくても本筋にまったく問題なし。囚人たちの見せ場はカットしてもいいが、コマの見せ場をカットするわけにはいかない。
ということなんでしょう、看守長サンマールはムラ版とは別人になって登場(笑)。
続く。
「……さあ?」
という会話がかわされました、『仮面の男』東宝版の演出変更。
「ルイの悪趣味」という場面のはずが、ただの好色、ふつーにいくらでもあり得る範囲の話になった、元人間ボウリング場面。
差し替えられた場面は地味で台詞による説明ばかり、ひとこと台詞のために順番に前に出ます演出で、どこの植爺かスズキ・ケイか状態。
若手男役たちの出番は総じて抑えられ、キャストを眺める魅力も半減。
つまらなくなったこの場面、唯一良かったことは、短くなったことだ。
いやあ、何度も語ったが、「人間ボウリング」でナニがいちばん嫌かって、長いことだったもんよー。
面白くないのに、くどくどくどくど長かった。すべったギャグを何分も続けられる芸人ライブみたいなもん? ねーこれまだやるの、早く次行ってよー状態。
どんなにつまらない場面でも、短ければ許せるってこと、あるじゃん?
しかしそれがえんえん続くとなると、すげーストレス。
この場面は長い、辟易するほど長い、と覚悟していたため、さっさと終わったことにびっくりした。
えっ、もう終わり?! みじかっ。
……助かる。それってすごく、助かるわ。ライトユーザーがどう思うかはともかく、ヘビィリピーターには、すごくやさしい変更だ。
出演者に含みはない。長くて退屈でも、雪組っこたちの姿を、がんばりを眺めていることは出来た。てゆーか、ムラではそれだけで耐えきった。しかし、趣味に合わないただ長い場面は辛かった。
で、そのなんの工夫もない人数任せの場面、こだまっちの大好きな「醜い争い」とやらを繰り広げる女たちの中、マントノン夫人@あゆみちゃんが楚々と進み出てくる。女遍歴を説明していたルイ@キムが、「彼女には別の顔が……!」と、いかにも「引き」という感じで張り上げるのでナニがあるのかと期待したんだが。
ナニもない。
ムラ版の勝者@あゆみちゃんとルイのダンスにつながるだけ。
一応、おとなしそうな彼女が、「別の顔が」で髪を跳ね上げるよーに手で肩から払って、堂々とルイの前に出てくる……ので、「昼は淑女、夜は娼婦」的な意味だと思う。
しかし、弱い。
髪をぱさっと跳ね上げただけだもんよ。
『ファントム』の白鳥→黒鳥の変身くらいやってくんないと、わかんねーよ。台詞による引きのあと、ただデュエットダンスになるだけじゃあ拍子抜け。
マントノン夫人がルイと同等以上の強さ、淫らさで踊るならともかく、あくまでも「好色なのはルイ」という設定(トップスター2役ゆえの、黒い演技を見せる場面)である都合上、マントノン夫人はルイに振り回される立場になる。
こんなの、「別の顔」でもなんでもない。ふつーに淑女なだけ。
よーするに、ムラ版の切り貼りだから、東宝版とのつなぎ目が粗いってこと。
東宝版で「別の顔が」と言いながら、つながる先はムラ版のふつーの淑女とのデュエダン。ふつーじゃいかんやろ、ふつーじゃ。「淑女には別の顔が」と解説したんだから、別の顔を見せろっつの。
キムくんとあゆみちゃんのダンスはムラと同じだけど、この周囲で踊る人々は変更。
人道的・倫理的に相当やばかったキャスター椅子による小びと淑女ダンスは全カット。
マントノン夫人とルイを冷めた目で見つめる淑女たちがずらりと並んだあと、ふつーの男女のデュエットダンスになるあたりが、こだまっちの抵抗かな。新公では単にキャスター椅子だけ使わない演出だった。意地でも新公と同じことはしないんだ(笑)。よっぽど新公の演出変更は屈辱だったんだろう。
クチビルソファーやキャスタードレス淑女のくだりは変更無し。だからマントノン夫人は特にナニもしないままいなくなる。
ルイーズ@みみ登場の矢印も健在。クチビルパペットもそのまま。
そして、『H2$』はまるっと変更無し。著作権はOKだったらしい。←問題があったら変更されてるだろう。
次に変更があるのは、「王はすべてお見通し」のラウル@翔くん捕縛から。
ムラ版ではミレディ@ヒメの催眠術で膝を折ったラウルは、兵士(看守)に引き立てられ、早々に舞台から消える。
が、東宝ではいつまでも舞台にいる。
銀橋でルイーズがルイにラウルの無実を訴え、「侍女になれ」と迫られる場面になるが、その背後、本舞台にまだラウルと兵士がいる。抗うラウルを殴り倒して、無理矢理連行する兵士たち。
そのまま場面は牢獄になる。疲れ切った顔の囚人たちの間を、「僕は無実だ」と叫びながら、ラウルが連行されていく。
ここの変更はいいと思う。
ムラ版ではラウル捕縛から収監、脱走の流れが不明だった。いや、実際の時の流れが不明なのは変わらないが、舞台上の流れは正しくなる。
ちなみにムラ版では、催眠術をくらって連行されたはずのラウルは、長い長い大囚人ナンバーのあと、観客が存在や本筋を忘れた頃に再登場。
看守「逃げられました」、サンマール@コマ「バカ、まぬけ」のやりとりの中、ラウルくんはおしゃれな羽根飾りの付いた帽子姿のまま牢獄をフラフラして、「仮面の男」の素顔を目撃してしまう、という演出だった。
ルイーズが「彼は無実です」と国王に陳情できるくらい、何日か経っているだろうに、捕まったときと同じ姿で牢獄をフラフラしているなんて、なんだそりゃ、でした。「ラウル捕縛」「ルイーズ陳情」「ラウル収監」がそれぞれ別の場面のぶつ切りであるために、時間経過が一層変だったの。東宝版は「ラウル捕縛~収監」がひとつの場面として続いているし、その間に平行して「ルイーズ陳情」があるため、なめらか。
そしてなんといっても、大囚人ナンバーが、ナイ。
これは全カットされるだろうと期待していたが、本当にカットされた。
ひどい場面だったけど、そこで活躍していた生徒たちに罪はない、出番や見せ場を削られてしまった人たちは残念だったとは思う。
悲鳴オーケストラメンバーがうなだれて坐っているだけ、彼らもすぐに退場。ただの「牢獄ですよ」というデコレーションとして扱われた。
そのデコレーションのためだけに、気合いの入った変ヘアを作ってくれたにわにわ乙!
大囚人ナンバーはなくても本筋にまったく問題なし。囚人たちの見せ場はカットしてもいいが、コマの見せ場をカットするわけにはいかない。
ということなんでしょう、看守長サンマールはムラ版とは別人になって登場(笑)。
続く。
地味に女たちが戦って。@仮面の男
2011年11月17日 タカラヅカ 雪組『仮面の男』ばっか書いている、と友人からクレーム来てます。なんで他も書かないんだと。……すまんのう、書きたいキモチは山ほどあるんだよ、ゆーひさんがどんだけかっこよかったかとか、らんとむのいなせっぷりと姫花の神演技(笑)とか、ベニーが、ベニーが、とかみやるりがとかマカゼにきゅーん、とか、そりゃもおいろいろと。
しかし、雪組公演……劇団史から抹殺されるような珍作を、何回観たと思います? や、周囲の人間に回数を聞くと「わたしなんてまだまだだな」と思うけど、とりあえずムラで13回、東宝3回(3回遠征)は自分的にはよくやったと思う……あんな作品のために! あれっぽっちの出番のために! ろくにソロもないショーのために! ちくしょー、まっつがいなかったらこんなに時間もお金も使ってないよおおお、まっつめえええ。(論点がずれてる)
ああ、『ロミジュリ』が恋しい。
『ロミジュリ』のためなら、ベン様のためなら、どれだけ時間とお金使っても本望なのに、『仮面の男』『RSF』のためにこんなにがんばってしまったことが、くやしいです(笑)。
無駄に回数観ちゃった分、書きたいことも多くてなああ。
ムラ版について、くどくど書いた。
東宝でいろいろ変更されていたけれど、結局のところ破綻した話だということは変わっていない。
ムラ版は上演意義を問うほどのトンデモ作だったが、改変された東宝版は単に、つまらない作品になっていた。
とんがった部分を削ったら、そこにはただ平坦な大地がありました。……退屈……。
それでも、人道的倫理的に問題があるまま上演するよりは、よかったんだと思う。
改変してなお酷い人たちになった三銃士とか、放置されまくりのダルタニアンとか、初日は大ウケしたけど、2回目以降はネタバレしていため笑えないし。単に酷いなとしか(笑)。
いいんだ、フィリップ@キムとルイーズ@みみちゃん見てじーんとしているから。このふたりだけだもん、役柄としての救いは。
や、生徒はみんな熱演だけど、作品・キャラクタは感情移入どころの話ぢゃないからねー……。
東宝変更点について。
オープニングから早わかり世界史はそのまま。
ムラ版でルイ@キムが出てくるべきところで、ルイの肖像画の横の扉から、おぎゃあおぎゃあ、赤ちゃん抱いたコンスタンス@あゆっち登場。それに対をなす扉から同じく赤ん坊を抱いた大司教@ホタテ登場。
そして、ルイの肖像画からアンヌ王妃@ミトさん登場。
双子の王子が生まれた、片割れはコンスタンスがこっそり育てることになりました、という解説に。
これによって早わかり世界史に意味が出来たかというとそうではなく、モリエール@咲ちゃんの立ち位置がより不可思議になったという。
モリエールは別に、国家の大機密を知っているわけじゃないのになあ。双子隠蔽を見てきたかのように語る、謎の人に。
モリエールがすべて知り得ているなら、狂言回しとして物語の外側にずっといることになるが、あくまでもここだけ。いびつだわ。
赤ん坊ルイが「偉大な王になるだろう」と大司教に宣言されたのち、よーやくルイの肖像画からルイ本人登場。前に立つアンヌと入れ替わるカタチ。
ムラ版と同じ「俺様ルイ様ソング」を歌う。
が、こっからがチガウ。
わらわらと舞台上に人が出てくるのは同じだが、人間ボウリングではない。
淑女たちはボウリングピンの被り物を付けないし、巨大メガホンもボール係もいない。
ルイが淑女を取っ替え引っ替え、愛人たくさん、というのを台詞で説明する場面になった。
…………地味。
人間ボウリングも、ただっぴろい舞台(盆が全部見えるくらい、セット皆無)にただ人がわらわらいるだけの平面的な地味な画面だった。しかしとりあえず、ミュージカル場面ではあった。
それが立ち話に変更されると、その地味っぷりってばもお。
歌は替え歌になっていた。ボール係や侍従たちの歌が、曲はそのまま別の歌詞。
人間ボウリングの是非はともかく、出演者を眺めて楽しむのにはいい場面だったので、その魅力が落ちたことは残念。
特に、あすレオの見せ場がなくなったことは、残念すぎる。
ボール係は、目立つ役だったのよ。雪組に詳しくない人が決まって「ボール係やってた子たちって、誰?」と聞いてくるような、下級生売り出しには最適な役だったの。
あすレオは、りんきらとセットにされ、下手端でコーラス。
ボール係として突然歌い出した、あの美味しさとは雲泥の差。ただのコーラス、しかもセンターりんきらの脇としてじゃあ、コンビ売りにさえなっていない。
同期で体格も似た、きらきらした美形ふたりだからこその効果だったのに、ボール係の目立ち方は。
りんきら的にも、侍従たちのまとめ役的に美声を発揮していたムラ版の方がいいよなあ。役割がぼけてしまった感じ。
巨大メガホンだった朝風くんは、指揮者になっていた。……声を張り上げない分、やっぱ見せ場がなくなったのかなあ。わたしはメガホン役好きじゃなかったから、ノリノリで指揮をしている姿はいいと思うけど、やっぱり楽団にまざる役だから、役としての輝度が下がったかな。
てゆーか花道使わなくなったのね。ムラではオーケストラ役が4人、上手花道で熱演していたんだけど、3人に減って(ホタテが出世したから・笑)本舞台でちんまりとやっていた。
花道まで全部使う方が、華やかだわね。
出番が減ったというと、侍従役の下級生たち。ムラではボードを持って銀橋渡ったりして、顔見せ・顔売りという点ではとてもおいしかったのにねえ。
「ルイの悪趣味」と銘打った場面なのに、大して悪趣味じゃない。ただの好色。王様ならそれくらいふつーにありそうな範囲で、わざわざ説明してもらうほどでもないっていうか。
ムラでは「ルイ/フィリップってまだ若いよね、少年?」って感じだったから、ダルタニアンや三銃士の年齢など、いろんなところをスルー出来ていた。
しかしここで妻や愛人の話を説明されてしまうと、ルイが少年ではなくある程度の年齢だとわかってしまう。赤ん坊のルイをコンスタンスが抱いていたこともあり、ますます「この作品での、キャラの年齢設定」がやばいことに。
しかしこだまっちは、何故「女の醜い戦い」にこだわるんだろう。
ムラ版から疑問だった。人間ボウリングで「ルイの悪趣味」という場面であり、ここで描くべきは、淑女たちをピンに見立ててボールで倒して喜ぶルイのことだ。……ボールが投げられる前に勝敗は決まっており、わざわざボウリングにする意味もボールで倒す意味もなかったけど。
今夜のお相手はすでに決まっているのに、ルイに選ばれた淑女と、選ばれなかった淑女が暴力的に争う。ボールに倒されまいとこれまた暴力で抗う。王が決めたことに、その王の前で暴力で抗う淑女ってナニ? 不敬罪とか反逆罪にならないの? なんのために「女の醜い争い」をさせるの?
と、わけがわからなかったムラ版。
テンポ良くボウリングすればいいのに、女たちがぎゃーぎゃーやるから、さらに時間が掛かって冗長、つまらない場面になっていた。
それが東宝版で人間ボウリングはなくなった。……のに、やっぱり「女の醜い戦い」は描かれている。プログラムに文字でそう書かれていたはず。
描くべきは「ルイの悪趣味」で、女たちがつかみ合いや押し退け合いをすることはテーマではないのに、まだこだわっている。
こだまっちにとっての「女」って、こーゆーものなの?
続く。
しかし、雪組公演……劇団史から抹殺されるような珍作を、何回観たと思います? や、周囲の人間に回数を聞くと「わたしなんてまだまだだな」と思うけど、とりあえずムラで13回、東宝3回(3回遠征)は自分的にはよくやったと思う……あんな作品のために! あれっぽっちの出番のために! ろくにソロもないショーのために! ちくしょー、まっつがいなかったらこんなに時間もお金も使ってないよおおお、まっつめえええ。(論点がずれてる)
ああ、『ロミジュリ』が恋しい。
『ロミジュリ』のためなら、ベン様のためなら、どれだけ時間とお金使っても本望なのに、『仮面の男』『RSF』のためにこんなにがんばってしまったことが、くやしいです(笑)。
無駄に回数観ちゃった分、書きたいことも多くてなああ。
ムラ版について、くどくど書いた。
東宝でいろいろ変更されていたけれど、結局のところ破綻した話だということは変わっていない。
ムラ版は上演意義を問うほどのトンデモ作だったが、改変された東宝版は単に、つまらない作品になっていた。
とんがった部分を削ったら、そこにはただ平坦な大地がありました。……退屈……。
それでも、人道的倫理的に問題があるまま上演するよりは、よかったんだと思う。
改変してなお酷い人たちになった三銃士とか、放置されまくりのダルタニアンとか、初日は大ウケしたけど、2回目以降はネタバレしていため笑えないし。単に酷いなとしか(笑)。
いいんだ、フィリップ@キムとルイーズ@みみちゃん見てじーんとしているから。このふたりだけだもん、役柄としての救いは。
や、生徒はみんな熱演だけど、作品・キャラクタは感情移入どころの話ぢゃないからねー……。
東宝変更点について。
オープニングから早わかり世界史はそのまま。
ムラ版でルイ@キムが出てくるべきところで、ルイの肖像画の横の扉から、おぎゃあおぎゃあ、赤ちゃん抱いたコンスタンス@あゆっち登場。それに対をなす扉から同じく赤ん坊を抱いた大司教@ホタテ登場。
そして、ルイの肖像画からアンヌ王妃@ミトさん登場。
双子の王子が生まれた、片割れはコンスタンスがこっそり育てることになりました、という解説に。
これによって早わかり世界史に意味が出来たかというとそうではなく、モリエール@咲ちゃんの立ち位置がより不可思議になったという。
モリエールは別に、国家の大機密を知っているわけじゃないのになあ。双子隠蔽を見てきたかのように語る、謎の人に。
モリエールがすべて知り得ているなら、狂言回しとして物語の外側にずっといることになるが、あくまでもここだけ。いびつだわ。
赤ん坊ルイが「偉大な王になるだろう」と大司教に宣言されたのち、よーやくルイの肖像画からルイ本人登場。前に立つアンヌと入れ替わるカタチ。
ムラ版と同じ「俺様ルイ様ソング」を歌う。
が、こっからがチガウ。
わらわらと舞台上に人が出てくるのは同じだが、人間ボウリングではない。
淑女たちはボウリングピンの被り物を付けないし、巨大メガホンもボール係もいない。
ルイが淑女を取っ替え引っ替え、愛人たくさん、というのを台詞で説明する場面になった。
…………地味。
人間ボウリングも、ただっぴろい舞台(盆が全部見えるくらい、セット皆無)にただ人がわらわらいるだけの平面的な地味な画面だった。しかしとりあえず、ミュージカル場面ではあった。
それが立ち話に変更されると、その地味っぷりってばもお。
歌は替え歌になっていた。ボール係や侍従たちの歌が、曲はそのまま別の歌詞。
人間ボウリングの是非はともかく、出演者を眺めて楽しむのにはいい場面だったので、その魅力が落ちたことは残念。
特に、あすレオの見せ場がなくなったことは、残念すぎる。
ボール係は、目立つ役だったのよ。雪組に詳しくない人が決まって「ボール係やってた子たちって、誰?」と聞いてくるような、下級生売り出しには最適な役だったの。
あすレオは、りんきらとセットにされ、下手端でコーラス。
ボール係として突然歌い出した、あの美味しさとは雲泥の差。ただのコーラス、しかもセンターりんきらの脇としてじゃあ、コンビ売りにさえなっていない。
同期で体格も似た、きらきらした美形ふたりだからこその効果だったのに、ボール係の目立ち方は。
りんきら的にも、侍従たちのまとめ役的に美声を発揮していたムラ版の方がいいよなあ。役割がぼけてしまった感じ。
巨大メガホンだった朝風くんは、指揮者になっていた。……声を張り上げない分、やっぱ見せ場がなくなったのかなあ。わたしはメガホン役好きじゃなかったから、ノリノリで指揮をしている姿はいいと思うけど、やっぱり楽団にまざる役だから、役としての輝度が下がったかな。
てゆーか花道使わなくなったのね。ムラではオーケストラ役が4人、上手花道で熱演していたんだけど、3人に減って(ホタテが出世したから・笑)本舞台でちんまりとやっていた。
花道まで全部使う方が、華やかだわね。
出番が減ったというと、侍従役の下級生たち。ムラではボードを持って銀橋渡ったりして、顔見せ・顔売りという点ではとてもおいしかったのにねえ。
「ルイの悪趣味」と銘打った場面なのに、大して悪趣味じゃない。ただの好色。王様ならそれくらいふつーにありそうな範囲で、わざわざ説明してもらうほどでもないっていうか。
ムラでは「ルイ/フィリップってまだ若いよね、少年?」って感じだったから、ダルタニアンや三銃士の年齢など、いろんなところをスルー出来ていた。
しかしここで妻や愛人の話を説明されてしまうと、ルイが少年ではなくある程度の年齢だとわかってしまう。赤ん坊のルイをコンスタンスが抱いていたこともあり、ますます「この作品での、キャラの年齢設定」がやばいことに。
しかしこだまっちは、何故「女の醜い戦い」にこだわるんだろう。
ムラ版から疑問だった。人間ボウリングで「ルイの悪趣味」という場面であり、ここで描くべきは、淑女たちをピンに見立ててボールで倒して喜ぶルイのことだ。……ボールが投げられる前に勝敗は決まっており、わざわざボウリングにする意味もボールで倒す意味もなかったけど。
今夜のお相手はすでに決まっているのに、ルイに選ばれた淑女と、選ばれなかった淑女が暴力的に争う。ボールに倒されまいとこれまた暴力で抗う。王が決めたことに、その王の前で暴力で抗う淑女ってナニ? 不敬罪とか反逆罪にならないの? なんのために「女の醜い争い」をさせるの?
と、わけがわからなかったムラ版。
テンポ良くボウリングすればいいのに、女たちがぎゃーぎゃーやるから、さらに時間が掛かって冗長、つまらない場面になっていた。
それが東宝版で人間ボウリングはなくなった。……のに、やっぱり「女の醜い戦い」は描かれている。プログラムに文字でそう書かれていたはず。
描くべきは「ルイの悪趣味」で、女たちがつかみ合いや押し退け合いをすることはテーマではないのに、まだこだわっている。
こだまっちにとっての「女」って、こーゆーものなの?
続く。
そして、終幕。@仮面の男
2011年11月16日 タカラヅカ これで最後だ、『仮面の男』ムラ版演出の感想。東宝版は東宝版でつっこみたいこと山ほどある(笑)。
ダルタニアンがめちゃくちゃなのは置いておいて。
主役とヒロインがまた、えらいことに。
三銃士とルイーズ@みみの命と引き替えにと、幽閉を受け入れるフィリップ@キム。
「わたしも一緒に」と言い出すルイーズ。
心変わり、早っ。
だから、ルイーズが「ラウルの仇」とフィリップに斬りかかったのはほんの数時間前なのよ?
たった数時間でこの変わり様はひどい……どんだけフィリップがいい子で、ふたりの間にイイ空気が流れていたって、出会って数時間でこれはナイ……。
ほんとに、なんで一大ページェントと同じ日に、こんなことになってるんだろう。
数時間後にしなきゃならない理由がどこにあったんだ。
フィリップとルイーズが出会って何日か経っていたならまだマシだったのに。何日かでもやっぱり「心変わり、早っ」と思われるだろうけど、それは「早い」レベルであって、数時間後だと「ありえない・おかしい」レベルだよ……。
わざわざこんなおかしい演出をする理由が、舞台からは読みとれない。まともにする方法が星の数ほどあるのに、わざわざおかしいことをあえてしている。
作者がおかしいとしか思えない。
心変わり早っ、はともかく、フィリップとルイーズの最後の銀橋はいい。
ラヴシーン未満の、絆の芽生えみたいなあたりで止めてあるのもいい。
最後にオープニングと同じ仮面のセットが登場してくるのも。
……ただ、「ル・サンク」にあった「鉄の仮面は完全に修復され、まるでこれからの二人とフランスの未来を表すかのように、黄金に光り輝く」はよくわからない。そんな演出されてました、あの仮面?
映像に頼りすぎた結果だと思う。映像がうまく作れなかったら演出も崩壊、って、ここ映画館じゃないんですけどってな。
ルイーズの変心はおかしいけど、フィリップだけは筋が通っているのが、救い。
フィリップからしたら、牢獄から出てはじめて出会った女性に恋しても、至極普通のことだ。
秘密を共有する唯一の異性で、同じDNAを持つルイ@キムが一目惚れするほど好みのタイプの美女で、フィリップの唯一の身近な女性だったコンスタンス@あゆっちに似ているときたもんだ。
しかも命がけの逃避行、吊り橋効果抜群。
これで少年が恋に落ちないはずがない。
年上のおねーさんに憧れるように、少しおどおどと相手の顔色を確かめながら胸の内をつづるフィリップは、実にリアルだ。
もっとも、フィリップにリアリティを出してくれたのは、キムくんの演技力のなせる技とも言えるが。
ルイーズだって、時間経過のおかしさを除けば、彼女がフィリップに惹かれるのはわかるんだ。
あのきらきらした涙を、まっすぐな心を見せつけられて、「国王の双子の兄弟」という国家機密にに関わったために傷を負ったという点では同じ、そりゃ心も近付くわという。
みみちゃんがとてもリアルに、心の動きを表現している。
ちぎだってまっつだって、他の人たちだって、めちゃくちゃな役を、脚本を、なんとかしようと誠心誠意闘っていた。
ほんとに……なんて脚本、なんて演出だろう。
そして、ムラ版は闇に葬られた。
スカステ放送もなく、販売映像にも残らない。
東宝で削られた場面が「人道的に許されなかった」と判断された部分らしい。
もちろん、それらは差し替えられて当然の酷い演出だったが、それを抜きにしてもめちゃくちゃですよ、酷いですよ(笑)。
こんだけ長々だらだら書いた感想のほとんどは、差し替えとは関係ない部分だし。
だが、宝塚歌劇団100年弱の歴史の中で、前代未聞の出来事。
公式に謝罪の上、演出が変更になるなんて。
そんな「なかったこと」と抹殺しなければならない作品を、外部からの指摘がなければ今でも平気で上演していただろう、歌劇団のシステムに疑問を持つ。
現に生徒は稽古の段階で「この演出はおかしい」とこだまっちに進言したと聞く。しかしこだまっちは演出家は自分だと聞く耳持たず強行したと。
まさに暴君。
しかしこだまっちは植爺のような権力者だとか、名声のある人間でもないだろう。こだまっちを止めることは可能だったはずだ。生徒にその権限がななくても、劇団になら。
こだまっちがおかしいのは仕方ないとして、それを止められなかった劇団に、いちばんの問題があると思う。
こだまっちはおかしいと思うけれど、まったく無能だと思うわけじゃない。
クリエイターなんて、どこか常人と違っていても仕方ない部分はある。
彼女の才能や技術をうまくコントロールして、ひとに見せていいもの、客から金を取っていいものを作るのが、劇団の仕事だろうに。
こだまっちはショーを作ればいい、という意見も耳にするけど、あのー、今回差し替えになっている場面は、ほとんど「ショー」場面ですよ?
人間ボウリングだとか小人ダンスだとか大囚人ナンバーとか、全部歌とダンスの場面じゃん。芝居部分じゃない。
ショーでも同じことするって。歌とダンスだけで、人道に外れる表現を嬉々として「誰もやってない、私だけの素晴らしいセンス!」とやってくるって。やっちゃいけないことだから、今まであえて誰もやってないんだ、つーことが、理解できないだろうから。
たしかに、物語を正しく構築できない人だから、芝居よりショーの方が被害は少なくて済むだろうけどさ。今回の「差し替えになるほどのアレさ」は芝居もショーも関係ないよ。
必要なのは、「心」とか「常識」。
さらに、タカラヅカファンに向けて、タカラヅカで上演するんだから、「タカラヅカとしてのお約束」「萌え」。
それは監修によって、フォローできるはずだ。
つっても、今回に限らず、今の劇団のおえらいさんに、そんなことのできる能力のある人がいないことは、周知のこと。
こだまっちの名作である『龍星』がトウコちゃんの指図あってのように、生徒に任せたほうが、いっそまともなものができるんじゃないの?
ぶっとんだアレなクリエイター様とか、時代錯誤なおじいちゃんや、自己陶酔したおじさんたちより、生徒の方が、タカラヅカファンの萌えを知っている気がする。、もちろん、人によるだろうけど。
ダルタニアンがめちゃくちゃなのは置いておいて。
主役とヒロインがまた、えらいことに。
三銃士とルイーズ@みみの命と引き替えにと、幽閉を受け入れるフィリップ@キム。
「わたしも一緒に」と言い出すルイーズ。
心変わり、早っ。
だから、ルイーズが「ラウルの仇」とフィリップに斬りかかったのはほんの数時間前なのよ?
たった数時間でこの変わり様はひどい……どんだけフィリップがいい子で、ふたりの間にイイ空気が流れていたって、出会って数時間でこれはナイ……。
ほんとに、なんで一大ページェントと同じ日に、こんなことになってるんだろう。
数時間後にしなきゃならない理由がどこにあったんだ。
フィリップとルイーズが出会って何日か経っていたならまだマシだったのに。何日かでもやっぱり「心変わり、早っ」と思われるだろうけど、それは「早い」レベルであって、数時間後だと「ありえない・おかしい」レベルだよ……。
わざわざこんなおかしい演出をする理由が、舞台からは読みとれない。まともにする方法が星の数ほどあるのに、わざわざおかしいことをあえてしている。
作者がおかしいとしか思えない。
心変わり早っ、はともかく、フィリップとルイーズの最後の銀橋はいい。
ラヴシーン未満の、絆の芽生えみたいなあたりで止めてあるのもいい。
最後にオープニングと同じ仮面のセットが登場してくるのも。
……ただ、「ル・サンク」にあった「鉄の仮面は完全に修復され、まるでこれからの二人とフランスの未来を表すかのように、黄金に光り輝く」はよくわからない。そんな演出されてました、あの仮面?
映像に頼りすぎた結果だと思う。映像がうまく作れなかったら演出も崩壊、って、ここ映画館じゃないんですけどってな。
ルイーズの変心はおかしいけど、フィリップだけは筋が通っているのが、救い。
フィリップからしたら、牢獄から出てはじめて出会った女性に恋しても、至極普通のことだ。
秘密を共有する唯一の異性で、同じDNAを持つルイ@キムが一目惚れするほど好みのタイプの美女で、フィリップの唯一の身近な女性だったコンスタンス@あゆっちに似ているときたもんだ。
しかも命がけの逃避行、吊り橋効果抜群。
これで少年が恋に落ちないはずがない。
年上のおねーさんに憧れるように、少しおどおどと相手の顔色を確かめながら胸の内をつづるフィリップは、実にリアルだ。
もっとも、フィリップにリアリティを出してくれたのは、キムくんの演技力のなせる技とも言えるが。
ルイーズだって、時間経過のおかしさを除けば、彼女がフィリップに惹かれるのはわかるんだ。
あのきらきらした涙を、まっすぐな心を見せつけられて、「国王の双子の兄弟」という国家機密にに関わったために傷を負ったという点では同じ、そりゃ心も近付くわという。
みみちゃんがとてもリアルに、心の動きを表現している。
ちぎだってまっつだって、他の人たちだって、めちゃくちゃな役を、脚本を、なんとかしようと誠心誠意闘っていた。
ほんとに……なんて脚本、なんて演出だろう。
そして、ムラ版は闇に葬られた。
スカステ放送もなく、販売映像にも残らない。
東宝で削られた場面が「人道的に許されなかった」と判断された部分らしい。
もちろん、それらは差し替えられて当然の酷い演出だったが、それを抜きにしてもめちゃくちゃですよ、酷いですよ(笑)。
こんだけ長々だらだら書いた感想のほとんどは、差し替えとは関係ない部分だし。
だが、宝塚歌劇団100年弱の歴史の中で、前代未聞の出来事。
公式に謝罪の上、演出が変更になるなんて。
そんな「なかったこと」と抹殺しなければならない作品を、外部からの指摘がなければ今でも平気で上演していただろう、歌劇団のシステムに疑問を持つ。
現に生徒は稽古の段階で「この演出はおかしい」とこだまっちに進言したと聞く。しかしこだまっちは演出家は自分だと聞く耳持たず強行したと。
まさに暴君。
しかしこだまっちは植爺のような権力者だとか、名声のある人間でもないだろう。こだまっちを止めることは可能だったはずだ。生徒にその権限がななくても、劇団になら。
こだまっちがおかしいのは仕方ないとして、それを止められなかった劇団に、いちばんの問題があると思う。
こだまっちはおかしいと思うけれど、まったく無能だと思うわけじゃない。
クリエイターなんて、どこか常人と違っていても仕方ない部分はある。
彼女の才能や技術をうまくコントロールして、ひとに見せていいもの、客から金を取っていいものを作るのが、劇団の仕事だろうに。
こだまっちはショーを作ればいい、という意見も耳にするけど、あのー、今回差し替えになっている場面は、ほとんど「ショー」場面ですよ?
人間ボウリングだとか小人ダンスだとか大囚人ナンバーとか、全部歌とダンスの場面じゃん。芝居部分じゃない。
ショーでも同じことするって。歌とダンスだけで、人道に外れる表現を嬉々として「誰もやってない、私だけの素晴らしいセンス!」とやってくるって。やっちゃいけないことだから、今まであえて誰もやってないんだ、つーことが、理解できないだろうから。
たしかに、物語を正しく構築できない人だから、芝居よりショーの方が被害は少なくて済むだろうけどさ。今回の「差し替えになるほどのアレさ」は芝居もショーも関係ないよ。
必要なのは、「心」とか「常識」。
さらに、タカラヅカファンに向けて、タカラヅカで上演するんだから、「タカラヅカとしてのお約束」「萌え」。
それは監修によって、フォローできるはずだ。
つっても、今回に限らず、今の劇団のおえらいさんに、そんなことのできる能力のある人がいないことは、周知のこと。
こだまっちの名作である『龍星』がトウコちゃんの指図あってのように、生徒に任せたほうが、いっそまともなものができるんじゃないの?
ぶっとんだアレなクリエイター様とか、時代錯誤なおじいちゃんや、自己陶酔したおじさんたちより、生徒の方が、タカラヅカファンの萌えを知っている気がする。、もちろん、人によるだろうけど。
コンスタンスもラウルもなんのために。@仮面の男
2011年11月15日 タカラヅカ はーやれやれ、『仮面の男』ムラ版の感想、続き。
一方、フィリップ@キムたち。
主役のはずなのに、フィリップが三銃士と合流する場面はなく、なんか気がついたら済し崩しに一緒にいるという。作者が構成の基本理解してないから、主役サイドの話が脇になってます、ええ。
サンマール@コマの変態さはイイ。フィリップのおどおど感と相俟って(笑)。
突然三銃士の命乞いをするフィリップ……ええ子やなあ、自分を利用しただけの連中のことまで考えて。
フィリップと三銃士になんの絆もないため、せっかくの感動的な提案が「フィリップ、アタマ弱い子」みたいに見えるのはどうかと思うが。
で、遅れて登場したルイ@キムは、自ら投降したフィリップを幽閉し、三銃士たちを殺せと言う。
国王陛下自ら、捕り物に参加したんだ……ってのはまあ、いいとして。
国王が双子だというのはトップシークレット、知り得た者を皆殺しにしなければならないほどの重大な秘密。実際コンスタンス@あゆっちもラウル@翔もそれで殺された。
だから、この期に及んでなお、ルイとフィリップが双子であるということは、クチにしてはならないのよ。
サンマールが「フィリップ王子」と言ってしまっているのがまず、おかしい。彼は確かに看守長としてフィリップの正体を知っていたわけだろうけど、それは彼だけが知る秘密でしょう。部下たちみんなが知っていたはずもない。
銃士隊だって、知らないはず。
銃士隊はどんな説明を受けて、この任務についているんだ?
たまたま同じ顔の男を使って国王誘拐を企てた、三銃士を捕らえろ? 偽物の同じ顔をした男を捕らえろ?
「国王は双子」がトップシークレットだから、そこまでしか命令できないよね?
たった数時間とはいえ、一大ページェントのあと、ルイとフィリップは入れ替わっていた。
こんなことが可能だと知られてはならないから、フィリップは長年仮面の男として幽閉されてきたんだろうに。
たとえば他国に知られてごらんなさいよ、フランス終了ですよ。顔が同じってだけで、王様別人じゃあ、示しが付かない。
それで、総力を挙げて追ってきた。
ただの「同じ顔の男、三銃士の陰謀」なら、それで済む。
悪者をやっつければいいだけのこと。
しかし、その「同じ顔の男」が正式なフランス王家の王子様だったら、話は別だ。
お家騒動になる。
まさに国家転覆の危機だ。
同じ顔、まではセーフでも、双子だってのは、誰にも知られてはならない。ルイ/フィリップが生まれたときに行われた計画と心中する覚悟のある、国政の中枢の者しか、知ってはならない最高機密だ。
平の近衛兵ごときが知っていいことじゃない。
……なのに、銃士隊全員の前で、サンマールはあっけなく国家機密をクチにする。
それでもぎりぎり、サンマールはサンマールだから、ヘンタイの愉快なおじさんだから、ってことで、うやむやにすることはできるかもしれない。
勝手に変なことを言っているだけだよ、国王陛下に双子の兄弟なんているわけないじゃん、と。
フィリップや三銃士がナニを言っても「罪人の戯れ言」で通せる。
しかし。
ルイ14世陛下自身が言うんだ。フィリップに、「兄上」と。
ちょ……っ!!
その秘密のために、コンスタンスもラウルも殺されたんでしょ? それゆえにこの物語ははじまったんでしょ?
どこでも誰の前でも、べらべら喋っていいことだったんかい?!
このことからも、やっぱりルイはコンスタンスを殺していない。
フィリップを知るものは皆殺しと年端もいかぬ頃に命令できた人物なら、大人の今、銃士隊の目の前でフィリップの正体を自分で明かさないし、それでも明かしたのなら銃士隊は皆殺しにする前提だってことだからだ。
それとも、三銃士を殺した後、銃士隊は別の機会に殺すつもりか? この場から移動したら、なにしろ人数が多すぎるため、その分秘密が漏れる恐れがある、ここで殺さなきゃおかしいだろう。
ルイはたしかに暴君かもしれないが、コンスタンス殺しに関しては無実だろう。
ああ、なのに。
主君であるはずのルイを、平気で裏切るダルタニアン。どう考えてもルイは犯人じゃないのに、なんの証拠もないのにルイだと思い込み。
まったくの私怨で剣を向けるくせに、「暴君だから」とキレイゴトを言う。
その暴君に仕え、一緒になって手を汚してきたくせに。「見ていただけです、僕はいじめはしていません」てか?
ひどすぎるダルタニアン……。
こんなものすごい状況なのに、このわけわかんない変心をすんなり受け入れる三銃士も、変。
なんとなく「いい話」っぽくまとめているけど、お前らみんな人としておかしいよ……。
で。
さらにおかしいことは。
国王が双子、っていうだけでも関係者皆殺しなのに。
銃士隊の目の前での国王入れ替え、って。
銃士隊って、全員がこれから何十年、この秘密を抱えて生きていけるほどの人々なの? 国の根幹に関わる秘密よ?
それともこのあと銃士隊は皆殺しになったの? それとも全員どこかへ幽閉するの?
大変だなあ。あの場にいたあの人数を、これからフィリップとダルタニアンは、見張り続けなきゃいけないんだよね。殺さないなら、幽閉しないなら、代わりに、どこかで情報が漏れないか、完璧に見張り続けなきゃね。
退役もできないね、辞めたあとどこでなにを喋られるかわからないし。
いつどこで、誰が国家転覆を考えるかわからないね? こんなすごい情報、敵国へ持ち込めばどれだけ大金を得られるだろうねえ。
……すべては、作品のテーマであり、いちばん重要な展開を銃士隊の見守る中でやったことが敗因でしょう。
銃士隊が国家への忠誠心に厚い素晴らしい人々だと描いてあるならともかく、強い者に命令されるたびに風向きを変える、アタマが弱い・あるいは卑怯者の集まり、として描かれている以上は。
わざわざロシュフォール@せしるの命令で、隊長のダルタニアンを無視して行動するところを描いてあったもの。
で、ルイだのサンマールだのの命令でフィリップに剣を向け、ダルタニアンがルイを追いつめたら今度はルイに剣を向ける。
誰でもいいんですよ、あの人たち、強い者にしっぽ振るの。
そんな連中に、国家の最大の弱みを握られちゃったんだ……フランス、終わりだな。
なんだってこんなアホなことになっているんだろう。
コンスタンスやラウルが殺されたことから、ダルタニアンが動きアトス@まっつが動き、物語がはじまったのに。
それを全部否定してしまう演出をするなんて。
秘密の根幹部分だけは、外野無しの関係者だけの場面にすれば済むことなのに。
ほんとにアホや……。
続く。
一方、フィリップ@キムたち。
主役のはずなのに、フィリップが三銃士と合流する場面はなく、なんか気がついたら済し崩しに一緒にいるという。作者が構成の基本理解してないから、主役サイドの話が脇になってます、ええ。
サンマール@コマの変態さはイイ。フィリップのおどおど感と相俟って(笑)。
突然三銃士の命乞いをするフィリップ……ええ子やなあ、自分を利用しただけの連中のことまで考えて。
フィリップと三銃士になんの絆もないため、せっかくの感動的な提案が「フィリップ、アタマ弱い子」みたいに見えるのはどうかと思うが。
で、遅れて登場したルイ@キムは、自ら投降したフィリップを幽閉し、三銃士たちを殺せと言う。
国王陛下自ら、捕り物に参加したんだ……ってのはまあ、いいとして。
国王が双子だというのはトップシークレット、知り得た者を皆殺しにしなければならないほどの重大な秘密。実際コンスタンス@あゆっちもラウル@翔もそれで殺された。
だから、この期に及んでなお、ルイとフィリップが双子であるということは、クチにしてはならないのよ。
サンマールが「フィリップ王子」と言ってしまっているのがまず、おかしい。彼は確かに看守長としてフィリップの正体を知っていたわけだろうけど、それは彼だけが知る秘密でしょう。部下たちみんなが知っていたはずもない。
銃士隊だって、知らないはず。
銃士隊はどんな説明を受けて、この任務についているんだ?
たまたま同じ顔の男を使って国王誘拐を企てた、三銃士を捕らえろ? 偽物の同じ顔をした男を捕らえろ?
「国王は双子」がトップシークレットだから、そこまでしか命令できないよね?
たった数時間とはいえ、一大ページェントのあと、ルイとフィリップは入れ替わっていた。
こんなことが可能だと知られてはならないから、フィリップは長年仮面の男として幽閉されてきたんだろうに。
たとえば他国に知られてごらんなさいよ、フランス終了ですよ。顔が同じってだけで、王様別人じゃあ、示しが付かない。
それで、総力を挙げて追ってきた。
ただの「同じ顔の男、三銃士の陰謀」なら、それで済む。
悪者をやっつければいいだけのこと。
しかし、その「同じ顔の男」が正式なフランス王家の王子様だったら、話は別だ。
お家騒動になる。
まさに国家転覆の危機だ。
同じ顔、まではセーフでも、双子だってのは、誰にも知られてはならない。ルイ/フィリップが生まれたときに行われた計画と心中する覚悟のある、国政の中枢の者しか、知ってはならない最高機密だ。
平の近衛兵ごときが知っていいことじゃない。
……なのに、銃士隊全員の前で、サンマールはあっけなく国家機密をクチにする。
それでもぎりぎり、サンマールはサンマールだから、ヘンタイの愉快なおじさんだから、ってことで、うやむやにすることはできるかもしれない。
勝手に変なことを言っているだけだよ、国王陛下に双子の兄弟なんているわけないじゃん、と。
フィリップや三銃士がナニを言っても「罪人の戯れ言」で通せる。
しかし。
ルイ14世陛下自身が言うんだ。フィリップに、「兄上」と。
ちょ……っ!!
その秘密のために、コンスタンスもラウルも殺されたんでしょ? それゆえにこの物語ははじまったんでしょ?
どこでも誰の前でも、べらべら喋っていいことだったんかい?!
このことからも、やっぱりルイはコンスタンスを殺していない。
フィリップを知るものは皆殺しと年端もいかぬ頃に命令できた人物なら、大人の今、銃士隊の目の前でフィリップの正体を自分で明かさないし、それでも明かしたのなら銃士隊は皆殺しにする前提だってことだからだ。
それとも、三銃士を殺した後、銃士隊は別の機会に殺すつもりか? この場から移動したら、なにしろ人数が多すぎるため、その分秘密が漏れる恐れがある、ここで殺さなきゃおかしいだろう。
ルイはたしかに暴君かもしれないが、コンスタンス殺しに関しては無実だろう。
ああ、なのに。
主君であるはずのルイを、平気で裏切るダルタニアン。どう考えてもルイは犯人じゃないのに、なんの証拠もないのにルイだと思い込み。
まったくの私怨で剣を向けるくせに、「暴君だから」とキレイゴトを言う。
その暴君に仕え、一緒になって手を汚してきたくせに。「見ていただけです、僕はいじめはしていません」てか?
ひどすぎるダルタニアン……。
こんなものすごい状況なのに、このわけわかんない変心をすんなり受け入れる三銃士も、変。
なんとなく「いい話」っぽくまとめているけど、お前らみんな人としておかしいよ……。
で。
さらにおかしいことは。
国王が双子、っていうだけでも関係者皆殺しなのに。
銃士隊の目の前での国王入れ替え、って。
銃士隊って、全員がこれから何十年、この秘密を抱えて生きていけるほどの人々なの? 国の根幹に関わる秘密よ?
それともこのあと銃士隊は皆殺しになったの? それとも全員どこかへ幽閉するの?
大変だなあ。あの場にいたあの人数を、これからフィリップとダルタニアンは、見張り続けなきゃいけないんだよね。殺さないなら、幽閉しないなら、代わりに、どこかで情報が漏れないか、完璧に見張り続けなきゃね。
退役もできないね、辞めたあとどこでなにを喋られるかわからないし。
いつどこで、誰が国家転覆を考えるかわからないね? こんなすごい情報、敵国へ持ち込めばどれだけ大金を得られるだろうねえ。
……すべては、作品のテーマであり、いちばん重要な展開を銃士隊の見守る中でやったことが敗因でしょう。
銃士隊が国家への忠誠心に厚い素晴らしい人々だと描いてあるならともかく、強い者に命令されるたびに風向きを変える、アタマが弱い・あるいは卑怯者の集まり、として描かれている以上は。
わざわざロシュフォール@せしるの命令で、隊長のダルタニアンを無視して行動するところを描いてあったもの。
で、ルイだのサンマールだのの命令でフィリップに剣を向け、ダルタニアンがルイを追いつめたら今度はルイに剣を向ける。
誰でもいいんですよ、あの人たち、強い者にしっぽ振るの。
そんな連中に、国家の最大の弱みを握られちゃったんだ……フランス、終わりだな。
なんだってこんなアホなことになっているんだろう。
コンスタンスやラウルが殺されたことから、ダルタニアンが動きアトス@まっつが動き、物語がはじまったのに。
それを全部否定してしまう演出をするなんて。
秘密の根幹部分だけは、外野無しの関係者だけの場面にすれば済むことなのに。
ほんとにアホや……。
続く。
で、真犯人は?@仮面の男
2011年11月14日 タカラヅカ 『仮面の男』ムラ版演出についての感想。
ダルタニアン@ちぎは、作者のアホさのしわ寄せを一身に引き受け、とても気の毒なことになっている……という話の続き。
作者がアタマ悪いなと思うのは、キャラクタの視点と作者の視点がごちゃまぜになっていること。
ダルタニアンだけじゃない、全員がそうなんだ。
ルイーズ@みみはいつ知ったの? アトス@まっつはいつ知ったの? というように、そのキャラクタならば知り得ないことを当たり前に知っている前提で話が進む。
作者はストーリー全部を知っているから、自分が知っているから、という認識で進めているんだ。
ひとつのものごとを、誰がどこまで知り、その立ち位置や考え方からはこうとしかわからない、ここまでしか知りようがない、とかを、作者が理解していない。
だからめちゃくちゃになる。
何故ダルタニアンがいきなり、観客と同じだけの設定を理解しているのか?
いつどうやって知り得たのかの説明はない。
アンヌ王太后@ミトさんに詰め寄って真実を得た、ということは、あったかもしれない。三銃士討伐の前に。
しかし。アンヌさんが知っているのは「フィリップ@キムをコンスタンス@あゆっちにあずけた」ところまでだ。コンスタンスが殺され、フィリップが仮面付きで牢獄へ幽閉されているまでは知らないはず。……知っていて何年も放置していたら、母として終わっているし、フィリップと再会したときに「仕方なかったのです」と泣きを入れる姿がこわすぎる。実の息子にそんな扱いを平気でしておきながら、被害者ぶる母……いくらなんでも、それは……。
アンヌ王太后から、「ルイは双子」「フィリップを密かに育てていたのがコンスタンス」ということまでは、ダルタニアンは知り得た。
フィリップとルイーズの話を立ち聞きして、「フィリップは密かに育てられていたが、何者かに襲われ仮面を付けて牢獄へ入れられた」まではわかる。
これらの事実から、コンスタンスが殺されたのは、フィリップが襲われたときだと推察したのか。
フィリップが捕らえられていた牢がどこかは誰もクチにしていない。が、三銃士討伐にサンマール@コマが加わっているので、彼から事情は知り得たか。
てゆーか、そもそもルイ@キムを無事に助け出しているんだ。ルイからどこまでの話を聞いたのか?
ダルタニアンはルイが双子だということは知らないことになっている。なのに助けに来るなんておかしいとルイは思わないのか? 知られたら皆殺しの秘密を、ダルタニアンも知ってしまったんだ、腹をくくって彼も陰謀の仲間に加えることになったのか。
だとしたら、ここでルーヴォア@ひろみがルイの仲間であることは知らされるだろう。双子の秘密を誰がどこまで知っているか、教えずにダルタニアンにフィリップを追わせるわけにはいかない、常識として。
実際、ルーヴォアも三銃士討伐隊に加わっているのだから、ダルタニアンはルーさん本人と話す機会があったはずだ。数年前、隠れ住むフィリップを捕らえたのは誰か。
ダルタニアンがドヤ顔でルーヴォアに語る「今から数年前…」というコンスタンス殺害周辺の事情は、ダルタニアンが知っているのはおかしい。
反対に、描かれていないだけでいろんな人から話を聞き、彼が知り得たのだとしたら、今ここでペンダントの有無ではじめてルーヴォアが実行犯だとわかるのは、おかしいんだ。
まったくなにも知らないか、あるいはすべて知っているか、どっちかだ。
なのに、知らないはずのことを半端に知って語り、犯人のことはなにも知らずに、ペンダントを見て「これは……ッ!!」とか言ってる。
わけわかんねー。
わからないが、舞台上はあくまでもペンダントの有無ではじめて、ルーヴォアが悪者だと気付くことになっている。まあそういうことだとして。
こりゃやばいわと思ったルーヴォアは、泣きの演技に入る。
「国王の命令だったんだ。私は殺したくなかったのに」
……嘘だよね? どっから見ても真っ赤な嘘、ただの言い逃れだよね? 実際、それゆえに隙のできたダルタニアンに襲いかかり、悦に入っている。
この展開だと、完璧に「その場しのぎの言い逃れ」だよね?
なのに、ダルタニアン信じるし。
ちょっと待ってダルタニアン。
こだまっちが大好きな影絵で説明してたじゃん。無意味な大階段布敷きスクリーンを使って。
観客にも見せつけていた。
幼いフィリップと、彼をかばって殺されるコンスタンスの姿が。
フィリップとルイは「双子」なんだってば。フィリップがいたいけな子どもなら、ルイも子どもなんだってば。
影絵に映っていた、あの小さな子どもと同い年の子が、真犯人……?
小柄な女性にかばわれる、彼女よりも小さな姿だったよね? 子どもだということがひと目でわかるシルエットだったよね? あゆっちやキム、本人たちが演じて影絵として処理されているのかどうかは知らんが、ちゃんとフィリップは子どもだった。
無理だろ、それ。
どんだけ利発なんだルイ。
年齢についてはアンタッチャブル、触れてはいけないことだから言及しないが、影絵の雰囲気、フィリップの語りからしても、10歳そこそこで悲劇に見舞われたっぽい。
そんな年代のルイが真犯人って。秘密を知るものは皆殺しにしろって命令したとしたら、すげえよ。
そこまで自分の頭で考え、命令できるなら、ルイはまさに王の器の人でしょう。大人じゃなく、年端も行かない子どもでそこまでやれるなら。
最終的にルイが命令を下したにしろ、誰か大人の入れ知恵があってのことだと、ふつーは思うわな。
ルーヴォアとか側近の大人たちが、ルイにそう言わせたんじゃないの?
ルーヴォアの「どっから見てもただの言い逃れ」を信じるダルタニアンも相当変だが、言い逃れかどうか以前に、年齢的にあり得ないって理解しないダルタニアン……。
どこまでダメな子なの、ダルタニアン!
傷つきながらも最後の力を振り絞り、コンスタンスに語りかける……カッコつけてる場合じゃないよ、相当変だよ、悲しいよ君。
ところでロシュフォール@せしるはまともでいい人ですね。
上官に襲いかかるダルタニアンと戦い、傷ついてなお逃げ出さずその場に留まり、ルーヴォアを助けて共に去っていく……ひょっとして、作中でいちばんまとも?
悪役チームの脇役がいちばんまとも、っていう、この作品の狂い具合って……。
続く。
ダルタニアン@ちぎは、作者のアホさのしわ寄せを一身に引き受け、とても気の毒なことになっている……という話の続き。
作者がアタマ悪いなと思うのは、キャラクタの視点と作者の視点がごちゃまぜになっていること。
ダルタニアンだけじゃない、全員がそうなんだ。
ルイーズ@みみはいつ知ったの? アトス@まっつはいつ知ったの? というように、そのキャラクタならば知り得ないことを当たり前に知っている前提で話が進む。
作者はストーリー全部を知っているから、自分が知っているから、という認識で進めているんだ。
ひとつのものごとを、誰がどこまで知り、その立ち位置や考え方からはこうとしかわからない、ここまでしか知りようがない、とかを、作者が理解していない。
だからめちゃくちゃになる。
何故ダルタニアンがいきなり、観客と同じだけの設定を理解しているのか?
いつどうやって知り得たのかの説明はない。
アンヌ王太后@ミトさんに詰め寄って真実を得た、ということは、あったかもしれない。三銃士討伐の前に。
しかし。アンヌさんが知っているのは「フィリップ@キムをコンスタンス@あゆっちにあずけた」ところまでだ。コンスタンスが殺され、フィリップが仮面付きで牢獄へ幽閉されているまでは知らないはず。……知っていて何年も放置していたら、母として終わっているし、フィリップと再会したときに「仕方なかったのです」と泣きを入れる姿がこわすぎる。実の息子にそんな扱いを平気でしておきながら、被害者ぶる母……いくらなんでも、それは……。
アンヌ王太后から、「ルイは双子」「フィリップを密かに育てていたのがコンスタンス」ということまでは、ダルタニアンは知り得た。
フィリップとルイーズの話を立ち聞きして、「フィリップは密かに育てられていたが、何者かに襲われ仮面を付けて牢獄へ入れられた」まではわかる。
これらの事実から、コンスタンスが殺されたのは、フィリップが襲われたときだと推察したのか。
フィリップが捕らえられていた牢がどこかは誰もクチにしていない。が、三銃士討伐にサンマール@コマが加わっているので、彼から事情は知り得たか。
てゆーか、そもそもルイ@キムを無事に助け出しているんだ。ルイからどこまでの話を聞いたのか?
ダルタニアンはルイが双子だということは知らないことになっている。なのに助けに来るなんておかしいとルイは思わないのか? 知られたら皆殺しの秘密を、ダルタニアンも知ってしまったんだ、腹をくくって彼も陰謀の仲間に加えることになったのか。
だとしたら、ここでルーヴォア@ひろみがルイの仲間であることは知らされるだろう。双子の秘密を誰がどこまで知っているか、教えずにダルタニアンにフィリップを追わせるわけにはいかない、常識として。
実際、ルーヴォアも三銃士討伐隊に加わっているのだから、ダルタニアンはルーさん本人と話す機会があったはずだ。数年前、隠れ住むフィリップを捕らえたのは誰か。
ダルタニアンがドヤ顔でルーヴォアに語る「今から数年前…」というコンスタンス殺害周辺の事情は、ダルタニアンが知っているのはおかしい。
反対に、描かれていないだけでいろんな人から話を聞き、彼が知り得たのだとしたら、今ここでペンダントの有無ではじめてルーヴォアが実行犯だとわかるのは、おかしいんだ。
まったくなにも知らないか、あるいはすべて知っているか、どっちかだ。
なのに、知らないはずのことを半端に知って語り、犯人のことはなにも知らずに、ペンダントを見て「これは……ッ!!」とか言ってる。
わけわかんねー。
わからないが、舞台上はあくまでもペンダントの有無ではじめて、ルーヴォアが悪者だと気付くことになっている。まあそういうことだとして。
こりゃやばいわと思ったルーヴォアは、泣きの演技に入る。
「国王の命令だったんだ。私は殺したくなかったのに」
……嘘だよね? どっから見ても真っ赤な嘘、ただの言い逃れだよね? 実際、それゆえに隙のできたダルタニアンに襲いかかり、悦に入っている。
この展開だと、完璧に「その場しのぎの言い逃れ」だよね?
なのに、ダルタニアン信じるし。
ちょっと待ってダルタニアン。
こだまっちが大好きな影絵で説明してたじゃん。無意味な大階段布敷きスクリーンを使って。
観客にも見せつけていた。
幼いフィリップと、彼をかばって殺されるコンスタンスの姿が。
フィリップとルイは「双子」なんだってば。フィリップがいたいけな子どもなら、ルイも子どもなんだってば。
影絵に映っていた、あの小さな子どもと同い年の子が、真犯人……?
小柄な女性にかばわれる、彼女よりも小さな姿だったよね? 子どもだということがひと目でわかるシルエットだったよね? あゆっちやキム、本人たちが演じて影絵として処理されているのかどうかは知らんが、ちゃんとフィリップは子どもだった。
無理だろ、それ。
どんだけ利発なんだルイ。
年齢についてはアンタッチャブル、触れてはいけないことだから言及しないが、影絵の雰囲気、フィリップの語りからしても、10歳そこそこで悲劇に見舞われたっぽい。
そんな年代のルイが真犯人って。秘密を知るものは皆殺しにしろって命令したとしたら、すげえよ。
そこまで自分の頭で考え、命令できるなら、ルイはまさに王の器の人でしょう。大人じゃなく、年端も行かない子どもでそこまでやれるなら。
最終的にルイが命令を下したにしろ、誰か大人の入れ知恵があってのことだと、ふつーは思うわな。
ルーヴォアとか側近の大人たちが、ルイにそう言わせたんじゃないの?
ルーヴォアの「どっから見てもただの言い逃れ」を信じるダルタニアンも相当変だが、言い逃れかどうか以前に、年齢的にあり得ないって理解しないダルタニアン……。
どこまでダメな子なの、ダルタニアン!
傷つきながらも最後の力を振り絞り、コンスタンスに語りかける……カッコつけてる場合じゃないよ、相当変だよ、悲しいよ君。
ところでロシュフォール@せしるはまともでいい人ですね。
上官に襲いかかるダルタニアンと戦い、傷ついてなお逃げ出さずその場に留まり、ルーヴォアを助けて共に去っていく……ひょっとして、作中でいちばんまとも?
悪役チームの脇役がいちばんまとも、っていう、この作品の狂い具合って……。
続く。
復讐のダルタニアン。@仮面の男
2011年11月13日 タカラヅカ 『仮面の男』ムラ版演出についての感想。
もうひとりの主人公、ダルタニアン@ちぎ。
こだまっちの悪い癖というか、すぐに視点がブレるのな。
『仮面の男』は最初から誰が主人公なんだかわからないから(主人公のはずのフィリップは開始から50分登場しない)、今さら言っても仕方ないことなんだが。
いちおーダルタニアンも、準主役としてドラマを描かれている。
ダルタニアンがもうひとりの主役でも一向にかまわない。ただ、クライマックスとは、主人公を中心に描くものだということが、こだまっちには未だ理解できていないらしい。
『天の鼓』のクライマックスが帝視点で、主役のはずの虹人が行方不明になっちゃった、あれから進歩していないんだわー。
ダルタニアンの復讐劇の顛末を、ちゃんと描こうとしたのはいい。
それはそれとして、それ以上にフィリップ@キムの物語を「クライマックスとして」描かねばならない。物語のもっとも盛り上がる、観客が手に汗握って見守ったり、感動の涙を流す、動きのある場面は主人公のためにあるべきだ。
『仮面の男』がボケた作劇になっているのは、クライマックスの置き方が間違っていることも、原因のひとつだ。
ダルタニアンの歌舞伎的な見得を切る場面がばーんとあり、そこが作品的なクライマックス、山場になっている。で、そのあとはクライマックスの「まとめ」の場面になる。まとめ、って……主人公をそんな扱いしたらいかんやろ。
いちばんの山場をフィリップ中心に据え、彼の活躍・魅力を前面に押し出す作りなら、全体のブレ具合も、半分以上不要なお遊びばかりであることも、勢いで誤魔化せたかもしれないのに。終わりよければすべてヨシ、クライマックスが派手だと、「なんかすごいもん見た?」と人は誤解するのに。
と、構成間違ってるんだけど、そうまでして描いた、ダルタニアンの復讐劇。
これがまた、ひどい(笑)。
視点混乱させてまで作品の中心に据えている話であり、キャラクタであるのに。作者の構成力のなさ、人間としての心のなさが全部、ダルタニアンの破綻っぷりに表れている。しわ寄せが来ている。……大変だニャ。
ダルタニアンは、殺されたコンスタンス@あゆっちの復讐のために、友である三銃士と袂を分かち、ルイ@キムに仕えている。ルイが暴君であることも見て見ぬふり、誰が殺されても知らんぷり。ラウル処刑は知らなかったにしろ、彼が無実の罪で投獄されたことまでは立場上知っているよね? アトス@まっつの弟がそんなことになっていても絶賛スルー中だったわけだよね?
そしてさらに、ルイ誘拐の罪で三銃士を追っている。……三銃士のことを、殺すつもりだったんだよね?
ポルトスはダルタニアンを殺せないと剣を引くけれど、ダルタニアンはポルトスを殺すつもりだった、と。
国王誘拐だけでも大罪だが、それ以前に口封じ前提の秘密・国王が双子という事実を知ってしまった三銃士とルイーズは、即抹殺だよね、捕らえることすらしないよね。
それだけの覚悟を持って三銃士を追っていたんだよね?
で、そんだけの覚悟がありながら、ポルトスに「お前とは戦えない」と言われたら、全部投げ出してポルトス助けちゃうの? その程度の覚悟で三銃士討伐隊を指揮しているの? 人格ナイの?
ポルトスをかばってルーヴォア@ひろみに剣を向けてしまうダルタニアン。
ペンダントを見つけなかったら、どうしていたんだろう。
やっぱりコウモリらしく豹変して、ポルトスを殺していたの?
それともポルトスを逃がすためにルーヴォアを口封じに殺すの?
その場その場で思いつきだけで行動していて、なにがしたいのか、まったくわからない。
ええ、この作品でいちばん可哀想なのはダルタニアンだと思う……おかしすぎる。
阿呆すぎて言葉も出ないダルタニアンだが、まあともかく、幸運にもルーヴォアのペンダントに気づき、彼がコンスタンス殺害の実行犯だと知る。
ここの流れもよくわからない。
ポルトスはなにをどこまでわかっていたんだろう。
ポルトス視点で見れば、討伐隊と戦っていた→ダルタニアンと一騎打ち→仲間は殺せない→ダルタニアンが自分をかばってくれた→ルーヴォアのペンダントを見つけてふるふるしている→自分で決着をつけたいから行ってくれ……なんの決着?
ペンダント=コンスタンスの仇、だと、ふつーは思わない。『さすらいの果てに』の主人公みたいに「父の書斎から出てくるのを見た、あいつが真犯人だ!」レベルですよそれじゃ。(ヲヅキさんで思い出した。そんな難癖つけられ、ストーカーされて精神を病む気の毒な男の役をしていたよね)
自分が殺した女から奪ったペンダントを、堂々と身につけているとは、ふつー思わない。ルーヴォアのペンダントがコンスタンスのものであろうと、彼も誰かからもらったとか買ったとか、ナニも知らずに身につけていると思うのがふつーだろう。
でも、「自分で決着を」と言っているダルタニアンは、ルーヴォアが仇だと決めつけている。そうでなかったら「聞きたいことがある」とか「確かめたいことがある」とかいう言葉を使うはずだ。ルーヴォアにこのペンダントの由来を聞きたい、その話をするのにポルトスは邪魔だから席を外してくれ、という意味なら。
ルーヴォアが超悪人で、彼は日頃から、殺して奪ったものを身につけていると豪語する人物だったのか?
この服も指輪も、殺した相手から奪ったものなんだ、戦利品しか身につけない主義なんだ、と言っているんじゃなければ、短絡的すぎるよな。
ひとからもらったペンダントを持っていただけで「仇」と決めつけられるんじゃ、怖すぎるよ。
また、死人から剥ぎ取ったものしか身につけないと名言しているとしたら、そんな男をダルタニアンは今まで放置、同僚としてスルーしていたんだ。糾弾もしていないから、認めていたわけだ。……それって、ダルタニアンも同類ってことになるよね……「僕はルーくんがいじめをするのを知っていただけ・見ていただけで、いじめてません」てなもんですか。
もー、わけわかんないこと続きで疲れてくるんですが、さらに次。
ルーヴォアはコンスタンス殺害を自供する。
それを聞いたダルタニアンは、コンスタンスが自分の恋人であったことを告げる。
ここでもわからないこと。
ダルタニアンは、いつ、どこまで知ったのか。
コンスタンスはフィリップの世話をする任務だとは、ダルタニアンに言っていなかった。フィリップもまた、自分の侍女がコンスタンスだとはダルタニアンが立ち聞きしていたときには言っていない。
ルイ/フィリップの存在、入れ替えについては立ち聞きでわかったとして、フィリップとコンスタンスのことはイコールではないよね。年数的に合致するとか、想像でしかない。
しかしルーヴォア相手に言い切っている。
フィリップの存在も知らず、すっかり騙されていたダルタニアンが、いったいいつコンスタンスがフィリップの侍女で彼を守って殺されたと知ったのか。
あー、わたしの文章もわかりにくくなってるなー。でもいいんだもう、整理しない(笑)。
続く。
もうひとりの主人公、ダルタニアン@ちぎ。
こだまっちの悪い癖というか、すぐに視点がブレるのな。
『仮面の男』は最初から誰が主人公なんだかわからないから(主人公のはずのフィリップは開始から50分登場しない)、今さら言っても仕方ないことなんだが。
いちおーダルタニアンも、準主役としてドラマを描かれている。
ダルタニアンがもうひとりの主役でも一向にかまわない。ただ、クライマックスとは、主人公を中心に描くものだということが、こだまっちには未だ理解できていないらしい。
『天の鼓』のクライマックスが帝視点で、主役のはずの虹人が行方不明になっちゃった、あれから進歩していないんだわー。
ダルタニアンの復讐劇の顛末を、ちゃんと描こうとしたのはいい。
それはそれとして、それ以上にフィリップ@キムの物語を「クライマックスとして」描かねばならない。物語のもっとも盛り上がる、観客が手に汗握って見守ったり、感動の涙を流す、動きのある場面は主人公のためにあるべきだ。
『仮面の男』がボケた作劇になっているのは、クライマックスの置き方が間違っていることも、原因のひとつだ。
ダルタニアンの歌舞伎的な見得を切る場面がばーんとあり、そこが作品的なクライマックス、山場になっている。で、そのあとはクライマックスの「まとめ」の場面になる。まとめ、って……主人公をそんな扱いしたらいかんやろ。
いちばんの山場をフィリップ中心に据え、彼の活躍・魅力を前面に押し出す作りなら、全体のブレ具合も、半分以上不要なお遊びばかりであることも、勢いで誤魔化せたかもしれないのに。終わりよければすべてヨシ、クライマックスが派手だと、「なんかすごいもん見た?」と人は誤解するのに。
と、構成間違ってるんだけど、そうまでして描いた、ダルタニアンの復讐劇。
これがまた、ひどい(笑)。
視点混乱させてまで作品の中心に据えている話であり、キャラクタであるのに。作者の構成力のなさ、人間としての心のなさが全部、ダルタニアンの破綻っぷりに表れている。しわ寄せが来ている。……大変だニャ。
ダルタニアンは、殺されたコンスタンス@あゆっちの復讐のために、友である三銃士と袂を分かち、ルイ@キムに仕えている。ルイが暴君であることも見て見ぬふり、誰が殺されても知らんぷり。ラウル処刑は知らなかったにしろ、彼が無実の罪で投獄されたことまでは立場上知っているよね? アトス@まっつの弟がそんなことになっていても絶賛スルー中だったわけだよね?
そしてさらに、ルイ誘拐の罪で三銃士を追っている。……三銃士のことを、殺すつもりだったんだよね?
ポルトスはダルタニアンを殺せないと剣を引くけれど、ダルタニアンはポルトスを殺すつもりだった、と。
国王誘拐だけでも大罪だが、それ以前に口封じ前提の秘密・国王が双子という事実を知ってしまった三銃士とルイーズは、即抹殺だよね、捕らえることすらしないよね。
それだけの覚悟を持って三銃士を追っていたんだよね?
で、そんだけの覚悟がありながら、ポルトスに「お前とは戦えない」と言われたら、全部投げ出してポルトス助けちゃうの? その程度の覚悟で三銃士討伐隊を指揮しているの? 人格ナイの?
ポルトスをかばってルーヴォア@ひろみに剣を向けてしまうダルタニアン。
ペンダントを見つけなかったら、どうしていたんだろう。
やっぱりコウモリらしく豹変して、ポルトスを殺していたの?
それともポルトスを逃がすためにルーヴォアを口封じに殺すの?
その場その場で思いつきだけで行動していて、なにがしたいのか、まったくわからない。
ええ、この作品でいちばん可哀想なのはダルタニアンだと思う……おかしすぎる。
阿呆すぎて言葉も出ないダルタニアンだが、まあともかく、幸運にもルーヴォアのペンダントに気づき、彼がコンスタンス殺害の実行犯だと知る。
ここの流れもよくわからない。
ポルトスはなにをどこまでわかっていたんだろう。
ポルトス視点で見れば、討伐隊と戦っていた→ダルタニアンと一騎打ち→仲間は殺せない→ダルタニアンが自分をかばってくれた→ルーヴォアのペンダントを見つけてふるふるしている→自分で決着をつけたいから行ってくれ……なんの決着?
ペンダント=コンスタンスの仇、だと、ふつーは思わない。『さすらいの果てに』の主人公みたいに「父の書斎から出てくるのを見た、あいつが真犯人だ!」レベルですよそれじゃ。(ヲヅキさんで思い出した。そんな難癖つけられ、ストーカーされて精神を病む気の毒な男の役をしていたよね)
自分が殺した女から奪ったペンダントを、堂々と身につけているとは、ふつー思わない。ルーヴォアのペンダントがコンスタンスのものであろうと、彼も誰かからもらったとか買ったとか、ナニも知らずに身につけていると思うのがふつーだろう。
でも、「自分で決着を」と言っているダルタニアンは、ルーヴォアが仇だと決めつけている。そうでなかったら「聞きたいことがある」とか「確かめたいことがある」とかいう言葉を使うはずだ。ルーヴォアにこのペンダントの由来を聞きたい、その話をするのにポルトスは邪魔だから席を外してくれ、という意味なら。
ルーヴォアが超悪人で、彼は日頃から、殺して奪ったものを身につけていると豪語する人物だったのか?
この服も指輪も、殺した相手から奪ったものなんだ、戦利品しか身につけない主義なんだ、と言っているんじゃなければ、短絡的すぎるよな。
ひとからもらったペンダントを持っていただけで「仇」と決めつけられるんじゃ、怖すぎるよ。
また、死人から剥ぎ取ったものしか身につけないと名言しているとしたら、そんな男をダルタニアンは今まで放置、同僚としてスルーしていたんだ。糾弾もしていないから、認めていたわけだ。……それって、ダルタニアンも同類ってことになるよね……「僕はルーくんがいじめをするのを知っていただけ・見ていただけで、いじめてません」てなもんですか。
もー、わけわかんないこと続きで疲れてくるんですが、さらに次。
ルーヴォアはコンスタンス殺害を自供する。
それを聞いたダルタニアンは、コンスタンスが自分の恋人であったことを告げる。
ここでもわからないこと。
ダルタニアンは、いつ、どこまで知ったのか。
コンスタンスはフィリップの世話をする任務だとは、ダルタニアンに言っていなかった。フィリップもまた、自分の侍女がコンスタンスだとはダルタニアンが立ち聞きしていたときには言っていない。
ルイ/フィリップの存在、入れ替えについては立ち聞きでわかったとして、フィリップとコンスタンスのことはイコールではないよね。年数的に合致するとか、想像でしかない。
しかしルーヴォア相手に言い切っている。
フィリップの存在も知らず、すっかり騙されていたダルタニアンが、いったいいつコンスタンスがフィリップの侍女で彼を守って殺されたと知ったのか。
あー、わたしの文章もわかりにくくなってるなー。でもいいんだもう、整理しない(笑)。
続く。
サーベルダンスから大階段立ち回り。@仮面の男
2011年11月12日 タカラヅカ 『仮面の男』ムラ版演出についての感想、続き。
クラゲ場面はなんつっても、お稽古場が気の毒だろうなと。
舞台も相当笑われ場面だけど、そっちは映像も音楽も衣装も照明もあるんだし。
お稽古場は……。
スカステの稽古場映像でおなじみの、あのなんもない空間に、台とか、並べたパイプ椅子とかを使って、あの場面を練習したんだよね。
組子全員と各先生方が周囲をずらりと囲んで注視、窓の外に野次馬、とかいう状態で、腹這いになって、いいトシした大人がクロールで泳ぐ振りをしながら、あの場面をやったんだろうなあ。なまじ生真面目なだけに大変だな、タカラジェンヌ。
特にアトスの中の人は、そーゆー冗談通じないイメージなので、内心相当ピキピキきながらやってたんじゃあ……とかなー(笑)。
おちゃらけ場面のあと、シリアスな美しい場面になる。効果を狙っているのはわかるけど、ギャグ場面自体を誰も求めていないため、成功していない。
てなことはともかく。
電気クラゲに刺されたポルトス@ヲヅキが、よくわからない音(だから無知無教養なわたしには、フランス語は台詞ではなく、ただの「音」としか認識できない)を出して暗転。
その直後に、舞台中央に置かれたフェンシングの剣が1本、ライトに浮かび上がる。
純白衣装に身を包んだフィリップ@キムが現れ、その剣を回す。1回転させたあとに剣を取り、静かに踊りはじめる……。
しんと張りつめた、美しい場面。
踊るフィリップの左右、上手袖と下手袖では、回転扉を使ってアトス@まっつとポルトスが登場、三銃士の衣装に着替え、剣を握る。
着替え済みのアラミス@きんぐも加わり、「三銃士」が完成する。
フィリップと三銃士が合流、剣を合わせキメ台詞「「Un Pour Tous,Tous Pour Un」を唱和する……背景にて、カーテンが開くとそこは大階段、ダルタニアン@ちぎをはじめとする悪役チーム、銃士隊が勢ぞろいしている。
クライマックスにふさわしい、盛り上がる演出。
……なんだけど、ここの振り付けが残念すぎる。
カーテンが開いた瞬間はいいんだけどなあ。
せっかく大人数の銃士たちによる戦闘シーンなのに、なんともどんくさい、つーか、かっこよくない。
なんでってそりゃあ動きが少ないから。
銃士の大半は、大階段の上でマントをぱたぱたさせているだけ。
実際に戦闘している人たちも、それほど動き回ってはいない。不自然な少ない動作だけで、戦っている様子をしている。スローモーションは言い訳に見える、あまり動かずに済むための。
今までにも、大階段を使った激しく動き回る振り付けはあったと思うんだ。ショーのダンスでは、びっくりするほど階段を駆け上がったり降りたりもしているし。
もちろん、実際に演じている人たちは大変なんだろうけど、観ている側としては、立体的な大階段を縦横無尽に使ってパフォーマンスしてくれると感嘆する。
が、今回は何故こうまでチープなダンス(殺陣)なのか。
こだまっち……大階段に布は必要だったのか?
あの布さえなければ、もっと自由に動けたんじゃないの?
素人が観ても、動きが制限されていることがわかるんだが……。
ではあの巨大な黒布はなんのために敷いてあるかというと、これまた影絵のため。
こだまっちは影絵にトラウマでもあるんかい……。いつも不自然に影絵にこだわり、本末転倒するという。
布を敷かなくても、ある程度の映像は白い大階段に投影可だと思う。今までもそんな演出はあった。
でもそれじゃあきたらず、影絵用の布を強いたんだね……。
やっている人たちは大変そうなのに、あまり効果的ではない、残念な大階段戦闘シーン。
その前ではどたばたと、これまた謎のチャンバラが繰り広げられている。
えーと、フィリップ@キムは仮面を付けて幽閉されていて、剣なんか握ったこともないわけだよね? 素人だよね?
素人に勝てない銃士隊隊長って。
「これほど瓜二つだとは」とかかっこつけてつぶやいているダルタニアン@ちぎ……女連れの素人に剣で勝てないって、どんだけまぬけ……。
そして、なにしに来たかわからないミレディ@ヒメ。
はい、ミレディ使い方はどうかと思うパート2です。
ルイーズ@みみに斬りかかり、これまた素人のルイーズに避けられまくり、なんの役にも立たないまま高笑いして去っていく。
ルイーズって剣の達人……? 素手で戦えるんじゃないの、あれだけ真剣を避けられる動態視力と反射神経と運動神経持ってたら。
そしてさらにわからない、ミレディの後を追って逃げていくフィリップとルイーズ。
ミレディが高笑いして去っていった後を追うように、彼女がはけていったのと同じ上手袖にはけるフィリップとルイーズ。
同じところへ行ったら、まずいじゃん。逃げたことにならないじゃん。
ミレディがナニしに来たかわからないだけに、一層わけわかんない演出。
ミレディを上手袖にはけさせたなら、フィリップとルイーズは上手花道を走らせるとか、すればいいのに。
もしくは、ミレディが消えてからもっと時間が経ったあとにするとか。
演出家、ナニも考えてないだろ……。
乱戦の中、ダルタニアンとポルトス@ヲヅキの一騎打ちに。
コレはかっこよくていいし、「お前とは戦えない」というポルトスもいい。
しかし、ルーヴォア@ひろみ登場で、ぐだぐだになる。
何年も同じ職場で働いていたルーヴォアが日常的に首からぶら下げていたペンダントに気づかなかったダルタニアン!! という、言い訳不能のまぬけっぷりを披露することは言うに及ばず。(なんで戦いの最中服がはだけて、とか、いつもは見えないペンダントがうっかり外に出た、という演出にしたなかったのか)
問題は、このときこのペンダントを見つけていなかったら、どうなっていたか、だ。
ダルタニアンのキャラクタのアレさについて、次の欄に続く。
クラゲ場面はなんつっても、お稽古場が気の毒だろうなと。
舞台も相当笑われ場面だけど、そっちは映像も音楽も衣装も照明もあるんだし。
お稽古場は……。
スカステの稽古場映像でおなじみの、あのなんもない空間に、台とか、並べたパイプ椅子とかを使って、あの場面を練習したんだよね。
組子全員と各先生方が周囲をずらりと囲んで注視、窓の外に野次馬、とかいう状態で、腹這いになって、いいトシした大人がクロールで泳ぐ振りをしながら、あの場面をやったんだろうなあ。なまじ生真面目なだけに大変だな、タカラジェンヌ。
特にアトスの中の人は、そーゆー冗談通じないイメージなので、内心相当ピキピキきながらやってたんじゃあ……とかなー(笑)。
おちゃらけ場面のあと、シリアスな美しい場面になる。効果を狙っているのはわかるけど、ギャグ場面自体を誰も求めていないため、成功していない。
てなことはともかく。
電気クラゲに刺されたポルトス@ヲヅキが、よくわからない音(だから無知無教養なわたしには、フランス語は台詞ではなく、ただの「音」としか認識できない)を出して暗転。
その直後に、舞台中央に置かれたフェンシングの剣が1本、ライトに浮かび上がる。
純白衣装に身を包んだフィリップ@キムが現れ、その剣を回す。1回転させたあとに剣を取り、静かに踊りはじめる……。
しんと張りつめた、美しい場面。
踊るフィリップの左右、上手袖と下手袖では、回転扉を使ってアトス@まっつとポルトスが登場、三銃士の衣装に着替え、剣を握る。
着替え済みのアラミス@きんぐも加わり、「三銃士」が完成する。
フィリップと三銃士が合流、剣を合わせキメ台詞「「Un Pour Tous,Tous Pour Un」を唱和する……背景にて、カーテンが開くとそこは大階段、ダルタニアン@ちぎをはじめとする悪役チーム、銃士隊が勢ぞろいしている。
クライマックスにふさわしい、盛り上がる演出。
……なんだけど、ここの振り付けが残念すぎる。
カーテンが開いた瞬間はいいんだけどなあ。
せっかく大人数の銃士たちによる戦闘シーンなのに、なんともどんくさい、つーか、かっこよくない。
なんでってそりゃあ動きが少ないから。
銃士の大半は、大階段の上でマントをぱたぱたさせているだけ。
実際に戦闘している人たちも、それほど動き回ってはいない。不自然な少ない動作だけで、戦っている様子をしている。スローモーションは言い訳に見える、あまり動かずに済むための。
今までにも、大階段を使った激しく動き回る振り付けはあったと思うんだ。ショーのダンスでは、びっくりするほど階段を駆け上がったり降りたりもしているし。
もちろん、実際に演じている人たちは大変なんだろうけど、観ている側としては、立体的な大階段を縦横無尽に使ってパフォーマンスしてくれると感嘆する。
が、今回は何故こうまでチープなダンス(殺陣)なのか。
こだまっち……大階段に布は必要だったのか?
あの布さえなければ、もっと自由に動けたんじゃないの?
素人が観ても、動きが制限されていることがわかるんだが……。
ではあの巨大な黒布はなんのために敷いてあるかというと、これまた影絵のため。
こだまっちは影絵にトラウマでもあるんかい……。いつも不自然に影絵にこだわり、本末転倒するという。
布を敷かなくても、ある程度の映像は白い大階段に投影可だと思う。今までもそんな演出はあった。
でもそれじゃあきたらず、影絵用の布を強いたんだね……。
やっている人たちは大変そうなのに、あまり効果的ではない、残念な大階段戦闘シーン。
その前ではどたばたと、これまた謎のチャンバラが繰り広げられている。
えーと、フィリップ@キムは仮面を付けて幽閉されていて、剣なんか握ったこともないわけだよね? 素人だよね?
素人に勝てない銃士隊隊長って。
「これほど瓜二つだとは」とかかっこつけてつぶやいているダルタニアン@ちぎ……女連れの素人に剣で勝てないって、どんだけまぬけ……。
そして、なにしに来たかわからないミレディ@ヒメ。
はい、ミレディ使い方はどうかと思うパート2です。
ルイーズ@みみに斬りかかり、これまた素人のルイーズに避けられまくり、なんの役にも立たないまま高笑いして去っていく。
ルイーズって剣の達人……? 素手で戦えるんじゃないの、あれだけ真剣を避けられる動態視力と反射神経と運動神経持ってたら。
そしてさらにわからない、ミレディの後を追って逃げていくフィリップとルイーズ。
ミレディが高笑いして去っていった後を追うように、彼女がはけていったのと同じ上手袖にはけるフィリップとルイーズ。
同じところへ行ったら、まずいじゃん。逃げたことにならないじゃん。
ミレディがナニしに来たかわからないだけに、一層わけわかんない演出。
ミレディを上手袖にはけさせたなら、フィリップとルイーズは上手花道を走らせるとか、すればいいのに。
もしくは、ミレディが消えてからもっと時間が経ったあとにするとか。
演出家、ナニも考えてないだろ……。
乱戦の中、ダルタニアンとポルトス@ヲヅキの一騎打ちに。
コレはかっこよくていいし、「お前とは戦えない」というポルトスもいい。
しかし、ルーヴォア@ひろみ登場で、ぐだぐだになる。
何年も同じ職場で働いていたルーヴォアが日常的に首からぶら下げていたペンダントに気づかなかったダルタニアン!! という、言い訳不能のまぬけっぷりを披露することは言うに及ばず。(なんで戦いの最中服がはだけて、とか、いつもは見えないペンダントがうっかり外に出た、という演出にしたなかったのか)
問題は、このときこのペンダントを見つけていなかったら、どうなっていたか、だ。
ダルタニアンのキャラクタのアレさについて、次の欄に続く。