で。

 『オネーギン』って、どーゆー話?

 アタマ悪くてごめん。マジでわかんなかった(笑)。

 原作は知りません、オペラもバレエも知りません。無教養ですから!

 ナニがしたくてどんな起承転結、なんの話?
 なんか淡々とメリハリなく、どーってことのないエピソードがただ流れていたような?

 ああしてこーしてこーなって、ストーリー型っちゅーか、出来事で話が進むハリウッド映画型の物語ではなく、心の動きを追った小説型の話なんだなあ。
 だもんで、出来事だけ見ると、ストーリーがつながらない(笑)。

 ナニがどーしてそーなって、つかそもそも起承転結と呼べるほど出来事としての事件はないよーな。
 クライマックスと呼べるほどの、出来事としての事件はないよーな。

 だから、出来事のつながりとしてのストーリー、起承転結はわからない。
 あらすじを起こしたいとは思わない。

 いやその、わかるよ? あらすじはわかってる、ちゃんとつながってる。わかんないってのは言い過ぎだ、誇張だ。
 正確には、「どーでもいい」かな。
 「わからなくてもいい」かな。
 理詰めであらすじを理解し、ここがこうしてああなった、と計算式を作りたくないというか。
 景子せんせ自身は、かなり真面目に計算式を作って実践していると思うけれど。それをそのまま受け止めたくはないというか、もっと曖昧なまま、感覚だけでいたいというか。

 だから「わかんない」ということにする。その方が、「わたしが」楽だからだ(笑)。
 どこがどーしてこーなって、なんて、まるでわかんない。ってことにする。

 そして、その上で。

 最初から最後まで、すげーたのしかった。

 コレといってナニがあるわけでもなく。
 オネーギン@トド様見てるだけでしあわせだった。楽しかった。
 ドキドキしたし、きゅんとしたし、えんえん泣き続けることが出来た。

 理屈の部分ではなく、感情とか本能とか、プリミティヴなところが静かにざわめいて、涙になった。
 それはとても、心地よかった。

 計算された、美しいモノを見る。
 細部までこだわられた、美しいモノを見る。
 それは、こんなにも幸福なキモチになるんだ。

 わからない、わかりたくない。
 そうありたいと思いつつ、わたしはわたしたる所以で、やっぱりここがこーしてああなって、と説明したい、読み解きたい思いに駆られる。
 ペテルブルク社交界の虚無と虚飾、そこからはじまり少年時代のきらめきを随所に垣間見せながら逆行することのない時間軸、立ち止まることを象徴する夢の住人たる友人、影あるいは鏡のように関わっては遠ざかるちぢれっ毛の友人、ひととひとの間をつなぐ手紙、心を伝えもするし突き返すことも出来る「カタチ」を持ったもの、手紙。長い深い森を抜け、オネーギンが意志と決断を持つことによって、物語の幕が下りる。

 この作品が、もっと衝動的に創られているなら、かえって細かく読み解きたいと思ったろう。
 技術や丁寧さより、「これを書きたいんだっ」という抑えきれない衝動ゆえに書き散らし書き殴り、荒削りだけどおさまりきらない息づかいが聞こえるよーなモノならば。
 それが正解かどうかではなく、わたしの言葉でひとつの角度から残しておきたいと思うのだけど。

 でもそうではなく、細かい計算でもって隙なく書かれたことがわかるだけに、細かい解説は蛇足な気がして、二の足を踏む。
 ただでさえ細かい表現がされているのに、それをさらに言葉で書き表してしまうのも、つまらないなあと。ああ、コマカイコマカイウルサイ文章だ(笑)。

 だからこう、ざっくりとアタマ悪く印象のみ書き記す。
 このアタマぬるめな感想が、わたし自身にとって居心地イイ。

 リアルタイムに観劇時に、きちんと感想を書けなかった、もう今さらだからこそ、自己完結したまま言葉を連ねてみる。
 グレアム@『はみだしっ子』のノートみたいに。

 
 過去は過去であるというだけで、人を切り裂く。
 若さは傲慢であり、老いが救いになるとは限らない。
 立ち止まることをヨシとするかしないかは、選択のひとつであって正誤ではない。
 美しくまとまりすぎ、計算という枠の中でしか作品が存在しないのは景子作品の特徴のひとつだが、そのまとまりとこだわり抜いた美しさは武器だと思う。
 てゆーか今回は、景子タン独特のアレがないし。(あとでネタにする)
 計算式を作って、ココを足すからこちらが減る、ここの仕掛けがここに関係して展開する、この伏線はココで昇華する、それがいちいちマメでウザいと思うのは、たぶんわたしがそういう物語作りをするからだ。ひとは似たものには過剰反応する(笑)。でもわたしは景子タンほど真面目ぢゃない。てゆーか怠惰だから、叱られているみたいでちょっとヤだ(笑)。
 美しさ自体が救いであり、この物語に「醜さ」は必要ない。醜さとは視覚上のことではなく、精神的な意味で。真の闇の存在しない世界はあっていい。いや、在るべきだ。
 だからわたしは肯定する。否定だけで成り立つ世界をわたしは認めない。
 枠の中で小宇宙作成、だけど枠の向こうには借景。そして呪術は完成する。いや、共通認識を形成する上でのお約束か。
 枠にとらわれているのはわたしだ。無駄なプライドが軋むのか、ったくくだらねえ。
 逃げは逃げとして、いじることで出口は見つかるかもしれない。まあそれもまたよし、いずれ、いずれ。
 忘れずにいたいのは、少年の彼も現在の彼も、等しく過去であるということだ。ここには現在が存在しない。視点は利口すぎ、それゆえに過去しか見ていない。未来は見えないので語れないんだ。
 人は未来へ向かって、前を向いて進むけれど……進むしか、ないけれど、創作自体は後ろを見つめることかもしれない。
 後ろを向いて進むから、光は影となり諦念は増す。だがそれこそが快感なのかもしれない。
 チョークを手にとって、アスファルトの地面に線を引く。ここから、ここまで。A群とB群とを正しく線で結びなさい、てゆー、アレ。彼の足下から線を引き、わかっている答えにたどり着く。たどり、着かせる。その快感。
 いいなあ。だから好きなんだよなあ。

 ……って、この調子で書いていたらいくらでも続けられるので自重。
 楽に垂れ流してないで(笑)、ちゃんと組み立てて書かねば。

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