フェルゼンのしどころ。@天使のはしご
2012年4月4日 タカラヅカ ぽつぽつと、『天使のはしご』の感想。
中流階級の娘リジー@はるこは、姉が上流階級の男と破局したこともあり、超セレブなダーシーさん@すずみんに先入観と偏見バリバリ。ロリコン男ウィカム@ともみんの悪意もあり、誤解とすれ違いが重なる。ダーシーさんの方は、最初からリジーにラヴラヴ(ツンからスタート)なんだけどね。
だけどまあ、徐々にリジーの誤解が解けて、あらダーシーさんって実はいい人じゃん、とハッピーエンド。
観ながら思ったことは、これって、『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』みたい、だった。
マンガの『ベルサイユのばら』において、フェルゼンは主役ではない。主要人物ではあるが、あくまでも脇役だ。その証拠に、彼が戦争に行っている4年間は一切画面に登場しない。ベルサイユではなくアメリカにいるにしろ、主役ならば、彼がなにを思いなにをしていたか、描写されたはずだ。
主人公はオスカルとアントワネットだ。アンドレはまだオスカルとずっと一緒にいるので書きようもあるが、フェルゼンは出番もろくにない、なにもしない人だから、書きようがない。
……なのに、植爺版の『フェルゼン編』は、無理矢理その「なにもしなかった人」を主役にしている。なにもしないのにしたことにしようと、道理をねじ曲げ倫理を破壊して、無理にエピソードを作って「主役ですよ」とやる。
植爺の価値観では「豪華な服を着ているのが主役」「何行も台詞をしゃべるのが主役」なので、無意味に豪華ないでたちで、無駄でしかないことをえんえん話す。
所詮本筋の外側、というか、物語的にはなにもしていない人なので、長々しゃべって時間を取るわりには、ストーリーと無関係、なにも話は進まない、という酷い扱い。でも、たくさん出てくるから、主役。
この人メインで出てくる場面、なくても本筋に支障ないじゃん……という主役。
それを、やたらと思い出しました。
というのも。
主役は、リジーだよね?
ダーシーさんの物語自体は、彼が登場する最初の場面から同じ。リジーと出会ったときから、フォーリンラブ。
登場場面でもう、彼の物語は終わっている。
偏見がどーの意識変革がどーのと言ってはいるが、彼レベルでは大きな要因ではない。
変わっていくのは、リジーだ。
リジーがダーシーさんを愛するまでが、物語。
ぶっちゃけ、ダーシーさん、出なくてもいいよ?
リジーとその家族だけで芝居してよし。
ダーシーさんは名前が出てくるだけでも話は通じる。
最初から最後まで、リジーが主役で、彼女の目線で物語が進むから、ときどき無理矢理ダーシーさんサイドの話が出てきてバランス悪い。
1幕の最後なんて、その最たるもの。
脇役だと思っていた人が、いきなりひとりで舞台に立って、心情を歌いあげるんだもの。えええ?
今までヒロインの目線で物語を追体験してきたのに、突然知らない人の感情が入るから、混乱する。
頭の中を、テレパシストに乗っ取られたような気持ち悪さ。わたしの心、わたしの感情に、突然違う人の感情が降ってきた……!
……へただなあ、スズキケイ。
すずみん主演バウなんだから、ちゃんとダーシーさん主役で書こうよ。わたしなら、そうする。
その昔、『THE SECOND LIFE』という、ひどい作品があって、作者は「主人公」というものを理解していないんじゃないのか?と危惧した。
あれから5年。
スズキケイ、変わってないんだね……。
(『THE SECOND LIFE』って、主演がみっちゃんで、見せ場もほとんどない、名前ばかりの2番手がちぎだったんだよね……時代は変わるなああ)
作者が主人公っつーのがどーゆーものか理解していないから、ダーシーさんってば、主役のはずなのにすっかり脇役。
すずみんが自力で真ん中ににじり寄り演じきっているので救われているけれど、これが「タカラヅカ・スタァ」スキルの低い若手くんとかだったりしたら、どうなったことか。ぶるぶる。
ダーシーさんを主役に同じ物語を書くの、絶対楽しいと思うけどなー。なんでしなかったんだろう。
中流階級の娘リジー@はるこは、姉が上流階級の男と破局したこともあり、超セレブなダーシーさん@すずみんに先入観と偏見バリバリ。ロリコン男ウィカム@ともみんの悪意もあり、誤解とすれ違いが重なる。ダーシーさんの方は、最初からリジーにラヴラヴ(ツンからスタート)なんだけどね。
だけどまあ、徐々にリジーの誤解が解けて、あらダーシーさんって実はいい人じゃん、とハッピーエンド。
観ながら思ったことは、これって、『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』みたい、だった。
マンガの『ベルサイユのばら』において、フェルゼンは主役ではない。主要人物ではあるが、あくまでも脇役だ。その証拠に、彼が戦争に行っている4年間は一切画面に登場しない。ベルサイユではなくアメリカにいるにしろ、主役ならば、彼がなにを思いなにをしていたか、描写されたはずだ。
主人公はオスカルとアントワネットだ。アンドレはまだオスカルとずっと一緒にいるので書きようもあるが、フェルゼンは出番もろくにない、なにもしない人だから、書きようがない。
……なのに、植爺版の『フェルゼン編』は、無理矢理その「なにもしなかった人」を主役にしている。なにもしないのにしたことにしようと、道理をねじ曲げ倫理を破壊して、無理にエピソードを作って「主役ですよ」とやる。
植爺の価値観では「豪華な服を着ているのが主役」「何行も台詞をしゃべるのが主役」なので、無意味に豪華ないでたちで、無駄でしかないことをえんえん話す。
所詮本筋の外側、というか、物語的にはなにもしていない人なので、長々しゃべって時間を取るわりには、ストーリーと無関係、なにも話は進まない、という酷い扱い。でも、たくさん出てくるから、主役。
この人メインで出てくる場面、なくても本筋に支障ないじゃん……という主役。
それを、やたらと思い出しました。
というのも。
主役は、リジーだよね?
ダーシーさんの物語自体は、彼が登場する最初の場面から同じ。リジーと出会ったときから、フォーリンラブ。
登場場面でもう、彼の物語は終わっている。
偏見がどーの意識変革がどーのと言ってはいるが、彼レベルでは大きな要因ではない。
変わっていくのは、リジーだ。
リジーがダーシーさんを愛するまでが、物語。
ぶっちゃけ、ダーシーさん、出なくてもいいよ?
リジーとその家族だけで芝居してよし。
ダーシーさんは名前が出てくるだけでも話は通じる。
最初から最後まで、リジーが主役で、彼女の目線で物語が進むから、ときどき無理矢理ダーシーさんサイドの話が出てきてバランス悪い。
1幕の最後なんて、その最たるもの。
脇役だと思っていた人が、いきなりひとりで舞台に立って、心情を歌いあげるんだもの。えええ?
今までヒロインの目線で物語を追体験してきたのに、突然知らない人の感情が入るから、混乱する。
頭の中を、テレパシストに乗っ取られたような気持ち悪さ。わたしの心、わたしの感情に、突然違う人の感情が降ってきた……!
……へただなあ、スズキケイ。
すずみん主演バウなんだから、ちゃんとダーシーさん主役で書こうよ。わたしなら、そうする。
その昔、『THE SECOND LIFE』という、ひどい作品があって、作者は「主人公」というものを理解していないんじゃないのか?と危惧した。
あれから5年。
スズキケイ、変わってないんだね……。
(『THE SECOND LIFE』って、主演がみっちゃんで、見せ場もほとんどない、名前ばかりの2番手がちぎだったんだよね……時代は変わるなああ)
作者が主人公っつーのがどーゆーものか理解していないから、ダーシーさんってば、主役のはずなのにすっかり脇役。
すずみんが自力で真ん中ににじり寄り演じきっているので救われているけれど、これが「タカラヅカ・スタァ」スキルの低い若手くんとかだったりしたら、どうなったことか。ぶるぶる。
ダーシーさんを主役に同じ物語を書くの、絶対楽しいと思うけどなー。なんでしなかったんだろう。