異端審問、ややこしいよね?・その1.。@ドン・カルロス
2012年5月1日 タカラヅカ 『ドン・カルロス』のクライマックスである異端審問。
これちょっとわかりにくいと思うんだが、どうだろう。
確かに、必要なことはあらかじめ情報として作品中に提示されている。
今回ほんと、伏線しっかり張ってあるんだよキムシン。
でも、異端審問においては、台詞が足りていないと思うんだ。
王妃と王子の密会はタブー。
ドイツ語訳の聖書は、持っていることすら罪の、禁断の書。
それを破ったからカルロスは裁かれる。
わかりにくいのは、ふたつの罪がごっちゃに裁かれているためだと思う。
まずひとつめの王妃と王子の密会について、罪に問われているのがカルロス@キムのみだってのが、混乱のもと。
観客はふたりが不義の密会をしていたのでないことを知っている上、会いたいと持ちかけたのがイサベル@あゆみであることも知っている。だから余計にややこしいんだ。
何故カルロスだけが?
男と女が不義を働いた場合、男だけが罪に問われるの?
王子と王妃が不義を働いた場合、王子だけが罪に問われるの?
チガウでしょ。
フアン@ヲヅキが説明しているように、「カルロスがイサベルを誘惑した」ということになっているため、でしょう?
だから悪いのはカルロスだけで、イサベルは他人事で傍聴席にいる。彼女はまきこまれただけ、あるいは被害者。
「何故無実を訴えないのです」「そんなことをしたら母上の身が危うくなるのです」レオノール@みみと話していることから、「密会を申し出たのはイサベル」という事実は伏せられている。
イサベルの身の振り方で、彼女の故国フランスとの外交問題に発展する恐れがあるため、カルロスが罪を被ろうとしている。
……という設定が、わかりにくいの。
前もって説明されているし、ちゃんと集中して観劇していれば、伏線を理解していれば、ついて行けるけど。
そこまで観客に任せないで、ただひとこと台詞を追加するだけで、ものすごーくわかりやすくなるんですけど。
「見るべきモノは見た」
と、霊廟に乱入してくるフェリペ二世@まっつ。彼の側近であるアルバ公爵@きんぐやルイ・ゴメス@がおり、そして兵士たち。
兵士が捕らえるのが、カルロスだけでなく、イサベルにも及べばいい。手荒なことをするのでなくていいから、彼女もまた罪に問われるのだとわかるように。
そこで、カルロスが叫ぶ。
「密会を持ちかけたのは私です。母上は私をたしなめるために、ここまで来られました」
……「イサベルをかばい、自ら罪を被るカルロス」という台詞があるだけで、すっげーわかりやすくなると思うんだ。
これだけはっきり言われたら、フェリペ二世も「がーーん、やっぱり息子に裏切られたんだ!!」ってことで、「異端審問にゆだねる」と息子を切り捨てても仕方ない流れになるよね。
フェリペ二世はその夜、牢獄でカルロスとレオノールの会話を盗み聞き、真実を知る。
でもすでに異端審問に掛けると宣言しちゃったし、一方(カルロス)だけの話で決められない。
公の場で、イサベルが真実を話さない限り、王としては引き下がれない。
ひとつめの問題、王子(主体)が王妃と密会に及んだ、に異議があるか。
カルロスは無言、すなわち異議なし。
イサベルひとりが、異議を申し立てた。
密会に及んだのは自分であること、そしてそれは不義ゆえではなく、フェリペ二世を愛するがゆえであることを。
異端審問に掛けると宣言したフェリペ二世は、ここで訴えを取り下げる。
カルロスがイサベルを誘惑したのではない、自分の至らなさが招いたことだと認め、場を収めた。
王様、視野狭すぎ、と思うのは、この異端審問が不義問題のみだと思い込んでるあたりね。
不倫してるんじゃなかった、ごめん、勘違いだったね。取り下げるからハッピーエンド。
と思ったら、問題はそれだけじゃなかった。いやむしろ、異端審問長官@にわにわ的には、色恋ネタより宗教ネタが重要。
フェリペ二世がふたつの問題を混同しているもんだから、観客も混同しちゃうのよ。
別の問題を裁いているんだってことが、わかりにくい。
ったく、フェリペ二世め。こんなとこでも元凶かよ。
そして、もうひとつの問題、禁断の書。
持っているだけで死刑上等の書を、カルロスが持っていた。
異端の書を所持していたことは事実。だからカルロスは異議を申し立てない。それゆえ、死刑判決が出る。
禁断の書を持っている、というのは物的証拠。
これを状況だとか人的だとかで覆すのは、大変。
「この本を持っているけど、この本の内容はキライなんだよ!」では言い逃れにしか聞こえないよなあ。
キライである、書いてある内容を認めていない、ということを、証明しなければならない。
キライである証拠、思っていることを形に表す、って、どうやって?
それも、今この時点で新たに言っても無駄。命惜しさに、いくらでも「キライなんだ」と言える。
捕縛される前に「キライだ」と言った証拠がなければ。
常識として、「好き嫌いの証拠」なんて、出せるものじゃないよね。
「持っている」=「好き」だと思われても仕方ない。
持っているだけで死刑になるのに、好きでなきゃ、わざわざ持ってないでしょ。
苦しい言い訳にはなるけれど、考えられる方法としては、「持っている」のは「自分の意志じゃない」と訴えること。
「たしかに異端の書を持ってはいた。でもこれは自分の意志ではなく、人から無理に預けられたのです」「私は悪くない、仕方なく手元に置いていただけ」
ザ・責任転嫁。
言葉だけの話になっちゃうけど、そうやって無実を訴えることは可能。
死刑になるくらいなら、それくらい言っちゃっても不思議はないよね。
でもそうすると、「誰から渡された本なのか」という話になる。
カルロスはそのため、口をつぐんでいる。自分が助かるために、友人を売ることはしない。
「自分の本だ」とすべて認めて、黙って処刑されれば、本の出所は言及されない。
じゃあ、カルロスが持っていた「157ページ」ってなに? ってことになる。
ふたつめの問題で争点になっているのは、ずはり宗教問題。
「持っている」=「好き」だから、聖書を持っているということは、信者だということ。
聖書を持っているにも関わらず、信者ではないのだと証明しなければ、無実にならない。
157ページってのは、その「聖書を持っているけど、信者にあらず」という証拠なんだけど、そんな証拠を持っていたのに最初から出さなかったから、これがまたややこしくなっている。
つづく。
これちょっとわかりにくいと思うんだが、どうだろう。
確かに、必要なことはあらかじめ情報として作品中に提示されている。
今回ほんと、伏線しっかり張ってあるんだよキムシン。
でも、異端審問においては、台詞が足りていないと思うんだ。
王妃と王子の密会はタブー。
ドイツ語訳の聖書は、持っていることすら罪の、禁断の書。
それを破ったからカルロスは裁かれる。
わかりにくいのは、ふたつの罪がごっちゃに裁かれているためだと思う。
まずひとつめの王妃と王子の密会について、罪に問われているのがカルロス@キムのみだってのが、混乱のもと。
観客はふたりが不義の密会をしていたのでないことを知っている上、会いたいと持ちかけたのがイサベル@あゆみであることも知っている。だから余計にややこしいんだ。
何故カルロスだけが?
男と女が不義を働いた場合、男だけが罪に問われるの?
王子と王妃が不義を働いた場合、王子だけが罪に問われるの?
チガウでしょ。
フアン@ヲヅキが説明しているように、「カルロスがイサベルを誘惑した」ということになっているため、でしょう?
だから悪いのはカルロスだけで、イサベルは他人事で傍聴席にいる。彼女はまきこまれただけ、あるいは被害者。
「何故無実を訴えないのです」「そんなことをしたら母上の身が危うくなるのです」レオノール@みみと話していることから、「密会を申し出たのはイサベル」という事実は伏せられている。
イサベルの身の振り方で、彼女の故国フランスとの外交問題に発展する恐れがあるため、カルロスが罪を被ろうとしている。
……という設定が、わかりにくいの。
前もって説明されているし、ちゃんと集中して観劇していれば、伏線を理解していれば、ついて行けるけど。
そこまで観客に任せないで、ただひとこと台詞を追加するだけで、ものすごーくわかりやすくなるんですけど。
「見るべきモノは見た」
と、霊廟に乱入してくるフェリペ二世@まっつ。彼の側近であるアルバ公爵@きんぐやルイ・ゴメス@がおり、そして兵士たち。
兵士が捕らえるのが、カルロスだけでなく、イサベルにも及べばいい。手荒なことをするのでなくていいから、彼女もまた罪に問われるのだとわかるように。
そこで、カルロスが叫ぶ。
「密会を持ちかけたのは私です。母上は私をたしなめるために、ここまで来られました」
……「イサベルをかばい、自ら罪を被るカルロス」という台詞があるだけで、すっげーわかりやすくなると思うんだ。
これだけはっきり言われたら、フェリペ二世も「がーーん、やっぱり息子に裏切られたんだ!!」ってことで、「異端審問にゆだねる」と息子を切り捨てても仕方ない流れになるよね。
フェリペ二世はその夜、牢獄でカルロスとレオノールの会話を盗み聞き、真実を知る。
でもすでに異端審問に掛けると宣言しちゃったし、一方(カルロス)だけの話で決められない。
公の場で、イサベルが真実を話さない限り、王としては引き下がれない。
ひとつめの問題、王子(主体)が王妃と密会に及んだ、に異議があるか。
カルロスは無言、すなわち異議なし。
イサベルひとりが、異議を申し立てた。
密会に及んだのは自分であること、そしてそれは不義ゆえではなく、フェリペ二世を愛するがゆえであることを。
異端審問に掛けると宣言したフェリペ二世は、ここで訴えを取り下げる。
カルロスがイサベルを誘惑したのではない、自分の至らなさが招いたことだと認め、場を収めた。
王様、視野狭すぎ、と思うのは、この異端審問が不義問題のみだと思い込んでるあたりね。
不倫してるんじゃなかった、ごめん、勘違いだったね。取り下げるからハッピーエンド。
と思ったら、問題はそれだけじゃなかった。いやむしろ、異端審問長官@にわにわ的には、色恋ネタより宗教ネタが重要。
フェリペ二世がふたつの問題を混同しているもんだから、観客も混同しちゃうのよ。
別の問題を裁いているんだってことが、わかりにくい。
ったく、フェリペ二世め。こんなとこでも元凶かよ。
そして、もうひとつの問題、禁断の書。
持っているだけで死刑上等の書を、カルロスが持っていた。
異端の書を所持していたことは事実。だからカルロスは異議を申し立てない。それゆえ、死刑判決が出る。
禁断の書を持っている、というのは物的証拠。
これを状況だとか人的だとかで覆すのは、大変。
「この本を持っているけど、この本の内容はキライなんだよ!」では言い逃れにしか聞こえないよなあ。
キライである、書いてある内容を認めていない、ということを、証明しなければならない。
キライである証拠、思っていることを形に表す、って、どうやって?
それも、今この時点で新たに言っても無駄。命惜しさに、いくらでも「キライなんだ」と言える。
捕縛される前に「キライだ」と言った証拠がなければ。
常識として、「好き嫌いの証拠」なんて、出せるものじゃないよね。
「持っている」=「好き」だと思われても仕方ない。
持っているだけで死刑になるのに、好きでなきゃ、わざわざ持ってないでしょ。
苦しい言い訳にはなるけれど、考えられる方法としては、「持っている」のは「自分の意志じゃない」と訴えること。
「たしかに異端の書を持ってはいた。でもこれは自分の意志ではなく、人から無理に預けられたのです」「私は悪くない、仕方なく手元に置いていただけ」
ザ・責任転嫁。
言葉だけの話になっちゃうけど、そうやって無実を訴えることは可能。
死刑になるくらいなら、それくらい言っちゃっても不思議はないよね。
でもそうすると、「誰から渡された本なのか」という話になる。
カルロスはそのため、口をつぐんでいる。自分が助かるために、友人を売ることはしない。
「自分の本だ」とすべて認めて、黙って処刑されれば、本の出所は言及されない。
じゃあ、カルロスが持っていた「157ページ」ってなに? ってことになる。
ふたつめの問題で争点になっているのは、ずはり宗教問題。
「持っている」=「好き」だから、聖書を持っているということは、信者だということ。
聖書を持っているにも関わらず、信者ではないのだと証明しなければ、無実にならない。
157ページってのは、その「聖書を持っているけど、信者にあらず」という証拠なんだけど、そんな証拠を持っていたのに最初から出さなかったから、これがまたややこしくなっている。
つづく。
異端審問、ややこしいよね?・その2。@ドン・カルロス
2012年5月2日 タカラヅカ 『ドン・カルロス』の異端審問、もっとわかりやすくできなかったのか? という話、続き。
イサベル@あゆみちゃんとの不倫疑惑と、異端の書を持っていたことによる宗教問題。
最初カルロス@キムは、黙ってすべての罪状を受け入れていた。
宗教問題の方は、新教徒ではないという証拠を持っていたけれど、カルロスはあえてそれを提示しない。
カルロスはふたつの罪で裁かれているのであり、イサベルを誘惑した件がある以上、宗教裁判の方でのみ無実を勝ち取っても意味がないのね。だから宗教問題の方の証拠……「157ページ」を持ち出さない。
それよりは、イサベルのこともポーザ侯爵たち仲間のことも、全部かばって死ぬつもりだった。
義母を誘惑したと誤解されたままでもいいけれど、宗教を捨てたとは思われたくない、ってのが、ぬるい日本人のわたしにはちょっとわかんないけど、敬虔なカトリック教徒には、そこんとこは譲れないんだろう。
自分の宗教だけは誤解されたくないと、死んだのちに父親にわかって欲しいと「新教否定の証」を胸に忍ばせていた、と。
加えて、言外のメッセージもあったんだろう。
無関心ゆえに迫害されるネーデルラントの人々、無関心ゆえに死へ追いやられるカルロス。
そして、「かけがいのないもの」と歌う想い。
そうやって、あきらめていたけれど、イサベルの勇気を受けて、カルロスは思い直す。
不倫疑惑は晴れた。あとは宗教問題だけ。そしてこちらは、証拠がある。
このまま彼が闘わずに死ねば、禍根を残す。
宗教問題の争点は、「聖書を持っている」が、「信者ではない」と証明できるか。
イサベルが「カルロスが新教を否定している」と証言した。「これだけのもののため、尊い命が失われるのか」と言った、と。
言った、言わない、の証明って、現代でも大変だよね。
録音機器もない時代に、「そのときそう言った証拠」なんて、出せるものじゃない。
だから異端審問長官は、カルロスに死刑を言い渡した。
イサベルが「カルロス王子は、新教くだらねー!と言いました」と言ったところで、証拠はナニもない。証言だけでは証拠にならない。
ここで争点が「そう言った証拠」になっている、つーのが、わかりにくいんだよなあ。
禁断の書を持っていたことが罪、ってだけでも現代日本人に感情移入しにくい話なのに、「持っていた」ことで責められていたのが、いつの間にか「言った/言わない」で責められているんだ、という流れが不親切。
それまでずーっと「異議なし」だったカルロスが、突然「証拠はあります」と言い出すので、観客はアタマを整理する暇もないと思うんだが。
いきなり「157ページ」で「これこそ動かぬ証拠♪」とコーラスする、この流れは、一見さんはどれくらい理解できるんだろう?
もちろん集中していればわかるし、実際わたし程度のアタマの人間が初日から理解できたんだから、ふつーの人はみんな完璧について行けて、ここであーだこーだ言う方が無粋ってもんなのかもしれないが。
でもわたしはかなり集中して見ていて、キャラクタに感情移入してだーだー泣きながら、かなり入り込んでいたゆえに理解できた、のかもしれない。
「半分くらい寝てたわー。でもクライマックスっぽいから起きたわー」な人に、ナニが起こっているかわかったろうか。「出演者の顔見分けつかないなー、主役だけはわかるかなー」てな人に、何が起こっているかわかったろうか。
異端審問にて裁かれていたのは、ふたつの問題。
ひとつめ、カルロスとイサベラの不倫。
ふたつめ、カルロスの宗教。
ひとつめは、イサベルが真実を告げ、フェリペ二世が告訴を取り下げたために不問に。
ふたつめは、新教徒の聖書を持っていた=新教徒という疑いを掛けられたカルロスが、「新教くだらねー!」と言ったか言わなかったか、で争っている、と。
しかも、ひとつめの問題ゆえに罪を被る気でいたカルロスが、途中で変心、ふたつめの問題を否定する証拠を出すという、ややこしさ。
……キムシン、裁判するなら、裁く罪はひとつだけにしようよ……。
よっぽどうまく書かないと、表現難しいよ……。
「言った」「言わない」の話になっているので、カルロスは「言った」証拠を出す。それが「破られ、落書きまでされた157ページ」。
聖書を破るという行為は大罪、すなわち、カルロスが新教徒ならばするはずのない行い。
だが、ただ聖書が破られ、そのページをカルロスが持っていた、というだけでは、「それを、カルロスが行った」という証拠にはならない。
だからまずカルロスは、「破かれたページを自分が受け取ることは不可能だった」ということを証明する。
誰もカルロスに、聖書を破って渡せなかったのならば、カルロス自身が破り取り、持っていたと考えるだろう。
その「聖書を破る」という大罪すら、「なにか他に理由があって、あえて行った」だけで、カルロスは新教徒である、と追求されないために、イサベルの証言の裏を取る。
それが、「これだけのもののため、尊い命が失われるのか」という、イサベルが聞いたというカルロス自身の言葉。
これだけだと、「イサベルがカルロスを助けるために嘘の証言をしている」と疑われるかもしれない。だから「イサベルとカルロスは示し合わせる時間はなかった」とまず証明。
その上で、157ページの落書きをトレド大主教@ナガさんに読み上げてもらい、イサベルの言葉に嘘はなかった、カルロスは本当にそう言った、同じ言葉をそれ以前に書き記していたのだから、と証明したわけだ。
ここのわかりにくさもまた、台詞が足りないためだと思うんだ。
カルロスの言う「証拠」とは、なんに対しての証拠なのか。
それをはっきりさせるだけで、ずいぶんチガウと思うんだ。
「法は法です。判決は下った!」
という死刑判決とコーラスのあと。
「お待ちください」
と異議を唱えるカルロス。
「これだけのもののため、尊い命が失われるのか、と確かに私は述べました。その証拠があります」
「述べたという、証拠? この場で示せますか」
と、わかりやすくくり返した上で、157ページに同じ言葉が書いてある、そりゃ確かにカルロスが言い、カルロスが聖書を破ったんだろうよ、と証明される。
今までさんざん、「父はものも言わずに立ち去りました」「ものも言わずに」、「すなわち、父上の妻なのです」「陛下の、妻」、「母上の夫です」「私の夫」、と、オウム返し会話ばっかしてきたくせに、なんで肝心のところでやらないかな。
なんの証明をしているのか、わかりやすくしてくれよ。ふたつの問題がごっちゃに語られていたり、コーラスを挟んだりで、今ナニがしたくてナニを話しているのか、わかりにくいんだよー。
せっかく、否が応でも盛り上がる「裁判」というクライマックス。
もっとうまく展開させればいいのに。
という点が、じれったかったっす。
みんな誰もがすらっと初見で完璧に理解できたのかなあ。
台詞でかなり補えると思うんだけどなあ。
イサベル@あゆみちゃんとの不倫疑惑と、異端の書を持っていたことによる宗教問題。
最初カルロス@キムは、黙ってすべての罪状を受け入れていた。
宗教問題の方は、新教徒ではないという証拠を持っていたけれど、カルロスはあえてそれを提示しない。
カルロスはふたつの罪で裁かれているのであり、イサベルを誘惑した件がある以上、宗教裁判の方でのみ無実を勝ち取っても意味がないのね。だから宗教問題の方の証拠……「157ページ」を持ち出さない。
それよりは、イサベルのこともポーザ侯爵たち仲間のことも、全部かばって死ぬつもりだった。
義母を誘惑したと誤解されたままでもいいけれど、宗教を捨てたとは思われたくない、ってのが、ぬるい日本人のわたしにはちょっとわかんないけど、敬虔なカトリック教徒には、そこんとこは譲れないんだろう。
自分の宗教だけは誤解されたくないと、死んだのちに父親にわかって欲しいと「新教否定の証」を胸に忍ばせていた、と。
加えて、言外のメッセージもあったんだろう。
無関心ゆえに迫害されるネーデルラントの人々、無関心ゆえに死へ追いやられるカルロス。
そして、「かけがいのないもの」と歌う想い。
そうやって、あきらめていたけれど、イサベルの勇気を受けて、カルロスは思い直す。
不倫疑惑は晴れた。あとは宗教問題だけ。そしてこちらは、証拠がある。
このまま彼が闘わずに死ねば、禍根を残す。
宗教問題の争点は、「聖書を持っている」が、「信者ではない」と証明できるか。
イサベルが「カルロスが新教を否定している」と証言した。「これだけのもののため、尊い命が失われるのか」と言った、と。
言った、言わない、の証明って、現代でも大変だよね。
録音機器もない時代に、「そのときそう言った証拠」なんて、出せるものじゃない。
だから異端審問長官は、カルロスに死刑を言い渡した。
イサベルが「カルロス王子は、新教くだらねー!と言いました」と言ったところで、証拠はナニもない。証言だけでは証拠にならない。
ここで争点が「そう言った証拠」になっている、つーのが、わかりにくいんだよなあ。
禁断の書を持っていたことが罪、ってだけでも現代日本人に感情移入しにくい話なのに、「持っていた」ことで責められていたのが、いつの間にか「言った/言わない」で責められているんだ、という流れが不親切。
それまでずーっと「異議なし」だったカルロスが、突然「証拠はあります」と言い出すので、観客はアタマを整理する暇もないと思うんだが。
いきなり「157ページ」で「これこそ動かぬ証拠♪」とコーラスする、この流れは、一見さんはどれくらい理解できるんだろう?
もちろん集中していればわかるし、実際わたし程度のアタマの人間が初日から理解できたんだから、ふつーの人はみんな完璧について行けて、ここであーだこーだ言う方が無粋ってもんなのかもしれないが。
でもわたしはかなり集中して見ていて、キャラクタに感情移入してだーだー泣きながら、かなり入り込んでいたゆえに理解できた、のかもしれない。
「半分くらい寝てたわー。でもクライマックスっぽいから起きたわー」な人に、ナニが起こっているかわかったろうか。「出演者の顔見分けつかないなー、主役だけはわかるかなー」てな人に、何が起こっているかわかったろうか。
異端審問にて裁かれていたのは、ふたつの問題。
ひとつめ、カルロスとイサベラの不倫。
ふたつめ、カルロスの宗教。
ひとつめは、イサベルが真実を告げ、フェリペ二世が告訴を取り下げたために不問に。
ふたつめは、新教徒の聖書を持っていた=新教徒という疑いを掛けられたカルロスが、「新教くだらねー!」と言ったか言わなかったか、で争っている、と。
しかも、ひとつめの問題ゆえに罪を被る気でいたカルロスが、途中で変心、ふたつめの問題を否定する証拠を出すという、ややこしさ。
……キムシン、裁判するなら、裁く罪はひとつだけにしようよ……。
よっぽどうまく書かないと、表現難しいよ……。
「言った」「言わない」の話になっているので、カルロスは「言った」証拠を出す。それが「破られ、落書きまでされた157ページ」。
聖書を破るという行為は大罪、すなわち、カルロスが新教徒ならばするはずのない行い。
だが、ただ聖書が破られ、そのページをカルロスが持っていた、というだけでは、「それを、カルロスが行った」という証拠にはならない。
だからまずカルロスは、「破かれたページを自分が受け取ることは不可能だった」ということを証明する。
誰もカルロスに、聖書を破って渡せなかったのならば、カルロス自身が破り取り、持っていたと考えるだろう。
その「聖書を破る」という大罪すら、「なにか他に理由があって、あえて行った」だけで、カルロスは新教徒である、と追求されないために、イサベルの証言の裏を取る。
それが、「これだけのもののため、尊い命が失われるのか」という、イサベルが聞いたというカルロス自身の言葉。
これだけだと、「イサベルがカルロスを助けるために嘘の証言をしている」と疑われるかもしれない。だから「イサベルとカルロスは示し合わせる時間はなかった」とまず証明。
その上で、157ページの落書きをトレド大主教@ナガさんに読み上げてもらい、イサベルの言葉に嘘はなかった、カルロスは本当にそう言った、同じ言葉をそれ以前に書き記していたのだから、と証明したわけだ。
ここのわかりにくさもまた、台詞が足りないためだと思うんだ。
カルロスの言う「証拠」とは、なんに対しての証拠なのか。
それをはっきりさせるだけで、ずいぶんチガウと思うんだ。
「法は法です。判決は下った!」
という死刑判決とコーラスのあと。
「お待ちください」
と異議を唱えるカルロス。
「これだけのもののため、尊い命が失われるのか、と確かに私は述べました。その証拠があります」
「述べたという、証拠? この場で示せますか」
と、わかりやすくくり返した上で、157ページに同じ言葉が書いてある、そりゃ確かにカルロスが言い、カルロスが聖書を破ったんだろうよ、と証明される。
今までさんざん、「父はものも言わずに立ち去りました」「ものも言わずに」、「すなわち、父上の妻なのです」「陛下の、妻」、「母上の夫です」「私の夫」、と、オウム返し会話ばっかしてきたくせに、なんで肝心のところでやらないかな。
なんの証明をしているのか、わかりやすくしてくれよ。ふたつの問題がごっちゃに語られていたり、コーラスを挟んだりで、今ナニがしたくてナニを話しているのか、わかりにくいんだよー。
せっかく、否が応でも盛り上がる「裁判」というクライマックス。
もっとうまく展開させればいいのに。
という点が、じれったかったっす。
みんな誰もがすらっと初見で完璧に理解できたのかなあ。
台詞でかなり補えると思うんだけどなあ。
10years ~あれから10年も、この先10年も。~
2012年5月3日 タカラヅカ
昔語り、自分語りをする。
2002年5月3日。
ふと思いついて、「日記サイト」に登録をした。
当時有名だった日記サイトは、「さるさる日記」かな。
でも、有名どころはわたし的にしっくりこなかったので、無名かつ地味な「DiaryNote」を選ぶ。
選ぶっていうか、偶然行き当たった。
別に、やりたいことがあるわけでも、全世界に発信したいことがあるわけでもなかった。
ほんとに、ただなんとなく。
「彼女は陽気な破壊的気質を持っている。」という、変なタイトル。
「緑野こあら」という、変な名前。
その場の思いつきで決めた、思考タイムなし(笑)。
出典はそれぞれあるけど、そこから決めたのは一瞬。
あのころのわたしは、なにを考えていたんだっけ。
よく思い出せない。
いろいろ鬱屈していたとは思う。そして、いろいろお気楽だったと思う。相反するが、それが事実。
「DiaryNote」は、利用者に無断で(笑)、どんどん変わっていった。
名前通りの日記サイトだったんだってば。
日記ですから、ただ書くだけ。一方通行ですとも。コメント機能すらなかったんだ。
それが勝手にコメント付けるわ、トラックバック付けるわ、あげくのはてに「今日からブログになりました」だもんよ。
ちょお待て。日記とブログはまったくチガウものだぞ??
もっとも、ブログなんて名乗っているだけで、やっぱり「DiaryNote」は日記サイトで、ブログとは根本が違っている作りのサイトなんだけどね。
あの「さるさる日記」がサービス終了するくらい、時代は移り変わった。いろんなサイトが終了していった。
そんな中で、よくもまあ、生き残ってくれたもんだ。
感謝してます、「DiaryNote」さん。
以前は問い合わせをしてもガン無視が当たり前だったけど、最近は返事もらえるようになったし。不具合の報告したら、直してくれるし。
……何年か前、カウンターが上限超えちゃうよ、桁数増やして、とお願いしたときもガン無視、999999…を超えて仕切り直しになったのも、なつかしい思い出。
次にカウンターが上限超えそうになったとき、また同じお願いをしてみる予定。今なら返事もらえるのかなあ?
なんやかんやで、10年。
誰にも告げず、検索サイトへの登録(当時はそれが定石だった)もせず、ひとりで日記を書いていた。
上の画像は、いちばん最初に書いた記事。
カウンター数が「73」だけど、初日にこんな数字だったわけじゃない。画像保存したのが2002年5月20日なので、半月かかってもそんな訪問者数だった。ってゆーか、その大半はわたしがひとりで回していたはず。わたし以外、誰もいないはずだもの。
カウンターが1日に10回ったら、うろたえてたなー。なにが起こったんだ、と。当時の「DiaryNote」には、アクセス解析もナニもなかったんですよ。
日々書き続けるうちに、なにがしたいかわかってきた。
最初は日常からマンガ・アニメ、創作系の話、映画やドラマの話も書いていた。
でも途中から、タカラヅカの話のみにしぼった。
エクササイズの場だったときも、あった。
文章を書く練習。
テーマを決めて起承転結、決められた文字数で。
読み物としての意識を持ち、リアルと表現手段を模索。てな。
いろいろ悩んでいたな。人生回り道ばっかしだ。
今はそーゆー縛りはなくし、とにかく好きなだけ好きなように書く、ようにしている。
貴重な息抜きの場、かな。
書きたいことはいろいろあるが、時間が取れなくて、昔ほど書けなくなったのが残念。
タカラヅカはどんどん変わっていく。
変わらないけど、変わっていく。
変わっていくのに、これほど変わらないものもない。
先日、ムラでサトリちゃんと会った。
ピュアしいちゃんファンの彼女は、ご贔屓を見送るために全力疾走し、ご贔屓と共にヅカを卒業した。
彼女とは、他では会っていたけれど、タカラヅカの聖地・ムラで会うのは実に3年ぶりだった。
「変わってないねええ」
と、ロビーを見回して感嘆する声に、心から同意した。
「変わってないよ、ここは」
まるで、「時間」というものの外側にあるようなところだ。
宝塚大劇場って。
改めて、思う。
わたしは10年前も、同じようにここにいた。
劇場はなにも変わっておらず、やっていることも、変わっていない。
そしてわたしも、変わっていない。
サトリちゃんはリア充満喫中で、着実に人生を歩んでいる。
それに比べ、わたしナニやってんだろう、と途方に暮れた(笑)。
うん、ときどき、なにもかも嫌になる。
宝塚駅にいるときとか、ソリオを歩いているときとか。「いったい何千回この駅に来ただろう。いくら使っただろう」って思うと、目の前が暗くなるんだ、絶望で(笑)。
アホすぎるよ、こんな人生。
自分の変わらなさ……というか、進歩のなさに、心からへこむ。
後悔はするけど、反省はしない。
何故ならば、依然、改める気がないからだ(笑)。
阿呆上等ですよ。
わたしみたいな木っ端人生に過ぎないモノであっても、それを左右する、大きな魅力があるのですよ、タカラヅカ。
文句言うし、愚痴も言うけど。
今現在、キムくんのことでへこんでいるけど。
それでも、タカラヅカをすごいと思っている。
それでも、タカラヅカを愛している。
ほんとに、おもしろいよ。
現実にある、とんでもないファンタジーだ。
時の流れの外側にある、幻の王国ですよ。
「タカラヅカ」という概念は変わらず揺るぎなく、ただそこにいる人々は移り変わっていく。
花の命は短くて、タカラジェンヌの寿命は10年ちょっと、人生のもっとも美しい時期を捧げて輝く。
タカラヅカはどんどん変わっていく。
変わらないけど、変わっていく。
変わっていくのに、これほど変わらないものもない。
わたしは10年分確実に老いたし、衰えた。
なのに10年前と、なんら変わっていない。
なんかもお、とてつもないなあ、と思う。
ここで「日記」を書きはじめて、丸10年。
先のことはわからないけれど、わかっていることはある。
変わらないモノは、ある。
タカラヅカが愛しいのは、それゆえにだろう。
2002年5月3日。
ふと思いついて、「日記サイト」に登録をした。
当時有名だった日記サイトは、「さるさる日記」かな。
でも、有名どころはわたし的にしっくりこなかったので、無名かつ地味な「DiaryNote」を選ぶ。
選ぶっていうか、偶然行き当たった。
別に、やりたいことがあるわけでも、全世界に発信したいことがあるわけでもなかった。
ほんとに、ただなんとなく。
「彼女は陽気な破壊的気質を持っている。」という、変なタイトル。
「緑野こあら」という、変な名前。
その場の思いつきで決めた、思考タイムなし(笑)。
出典はそれぞれあるけど、そこから決めたのは一瞬。
あのころのわたしは、なにを考えていたんだっけ。
よく思い出せない。
いろいろ鬱屈していたとは思う。そして、いろいろお気楽だったと思う。相反するが、それが事実。
「DiaryNote」は、利用者に無断で(笑)、どんどん変わっていった。
名前通りの日記サイトだったんだってば。
日記ですから、ただ書くだけ。一方通行ですとも。コメント機能すらなかったんだ。
それが勝手にコメント付けるわ、トラックバック付けるわ、あげくのはてに「今日からブログになりました」だもんよ。
ちょお待て。日記とブログはまったくチガウものだぞ??
もっとも、ブログなんて名乗っているだけで、やっぱり「DiaryNote」は日記サイトで、ブログとは根本が違っている作りのサイトなんだけどね。
あの「さるさる日記」がサービス終了するくらい、時代は移り変わった。いろんなサイトが終了していった。
そんな中で、よくもまあ、生き残ってくれたもんだ。
感謝してます、「DiaryNote」さん。
以前は問い合わせをしてもガン無視が当たり前だったけど、最近は返事もらえるようになったし。不具合の報告したら、直してくれるし。
……何年か前、カウンターが上限超えちゃうよ、桁数増やして、とお願いしたときもガン無視、999999…を超えて仕切り直しになったのも、なつかしい思い出。
次にカウンターが上限超えそうになったとき、また同じお願いをしてみる予定。今なら返事もらえるのかなあ?
なんやかんやで、10年。
誰にも告げず、検索サイトへの登録(当時はそれが定石だった)もせず、ひとりで日記を書いていた。
上の画像は、いちばん最初に書いた記事。
カウンター数が「73」だけど、初日にこんな数字だったわけじゃない。画像保存したのが2002年5月20日なので、半月かかってもそんな訪問者数だった。ってゆーか、その大半はわたしがひとりで回していたはず。わたし以外、誰もいないはずだもの。
カウンターが1日に10回ったら、うろたえてたなー。なにが起こったんだ、と。当時の「DiaryNote」には、アクセス解析もナニもなかったんですよ。
日々書き続けるうちに、なにがしたいかわかってきた。
最初は日常からマンガ・アニメ、創作系の話、映画やドラマの話も書いていた。
でも途中から、タカラヅカの話のみにしぼった。
エクササイズの場だったときも、あった。
文章を書く練習。
テーマを決めて起承転結、決められた文字数で。
読み物としての意識を持ち、リアルと表現手段を模索。てな。
いろいろ悩んでいたな。人生回り道ばっかしだ。
今はそーゆー縛りはなくし、とにかく好きなだけ好きなように書く、ようにしている。
貴重な息抜きの場、かな。
書きたいことはいろいろあるが、時間が取れなくて、昔ほど書けなくなったのが残念。
タカラヅカはどんどん変わっていく。
変わらないけど、変わっていく。
変わっていくのに、これほど変わらないものもない。
先日、ムラでサトリちゃんと会った。
ピュアしいちゃんファンの彼女は、ご贔屓を見送るために全力疾走し、ご贔屓と共にヅカを卒業した。
彼女とは、他では会っていたけれど、タカラヅカの聖地・ムラで会うのは実に3年ぶりだった。
「変わってないねええ」
と、ロビーを見回して感嘆する声に、心から同意した。
「変わってないよ、ここは」
まるで、「時間」というものの外側にあるようなところだ。
宝塚大劇場って。
改めて、思う。
わたしは10年前も、同じようにここにいた。
劇場はなにも変わっておらず、やっていることも、変わっていない。
そしてわたしも、変わっていない。
サトリちゃんはリア充満喫中で、着実に人生を歩んでいる。
それに比べ、わたしナニやってんだろう、と途方に暮れた(笑)。
うん、ときどき、なにもかも嫌になる。
宝塚駅にいるときとか、ソリオを歩いているときとか。「いったい何千回この駅に来ただろう。いくら使っただろう」って思うと、目の前が暗くなるんだ、絶望で(笑)。
アホすぎるよ、こんな人生。
自分の変わらなさ……というか、進歩のなさに、心からへこむ。
後悔はするけど、反省はしない。
何故ならば、依然、改める気がないからだ(笑)。
阿呆上等ですよ。
わたしみたいな木っ端人生に過ぎないモノであっても、それを左右する、大きな魅力があるのですよ、タカラヅカ。
文句言うし、愚痴も言うけど。
今現在、キムくんのことでへこんでいるけど。
それでも、タカラヅカをすごいと思っている。
それでも、タカラヅカを愛している。
ほんとに、おもしろいよ。
現実にある、とんでもないファンタジーだ。
時の流れの外側にある、幻の王国ですよ。
「タカラヅカ」という概念は変わらず揺るぎなく、ただそこにいる人々は移り変わっていく。
花の命は短くて、タカラジェンヌの寿命は10年ちょっと、人生のもっとも美しい時期を捧げて輝く。
タカラヅカはどんどん変わっていく。
変わらないけど、変わっていく。
変わっていくのに、これほど変わらないものもない。
わたしは10年分確実に老いたし、衰えた。
なのに10年前と、なんら変わっていない。
なんかもお、とてつもないなあ、と思う。
ここで「日記」を書きはじめて、丸10年。
先のことはわからないけれど、わかっていることはある。
変わらないモノは、ある。
タカラヅカが愛しいのは、それゆえにだろう。
遠い雷鳴を聞きながら、今、雨に濡れる。@近松・恋の道行
2012年5月4日 タカラヅカ 心中モノって、大変だな。と、しみじみ思った、『近松・恋の道行』初日観劇。
10年前の5月3日も、景子たんのバウホール公演を観に行ってたんだねえ、わたし。
あれから10年、『エイジ・オブ・イノセンス』に比べ、景子せんせはほんっとーにうまくなったなああ。
わたしが無教養なのは今にはじまったことぢゃないんだが、ほんっとに勉強してなかったんだなあ、学生時代……と、自分のダメさに肩を落とした。
すっかり忘れてたけど、近世文学が専門だったはずだよな……いやその、ゼミは西鶴だったんですけどね……「近松と西鶴」ってとてもポピュラーなテーマで、たしか、読んだり調べたりした、はずだよなあ……なのに何故こうまでなんの身にもなっていないのか……。
お勉強として心中モノを調べたり読んだりしているときは、感じなかった。
でも、こうやって「物語」として、「ミュージカル」として味わうと……そうか、心中モノって、こんなに大変なのか。
心中モノって、「美しい」とか「ロマン」とか、そーゆーイメージがある。日本人として、ときめく素材というか。
タカラヅカでも、悲劇は大人気じゃん。オスカルとアンドレは死ぬから美しいし、マリーとルドルフだって心中するからロマンなんですよ。アイーダとラダメスだって、ふたりが手に手を取ってうふふあはは他国でしあわせになったら、名作になんてならないですよ。
しかし、日本のいわゆる「心中モノ」って……現代の感覚では、相当料理しにくい。
なんつっても、主人公が、かっこわるい。
コレに尽きる。
江戸時代の心中モノだと、どうしても男主人公はかっこよくならない。
心中するくらい追い詰められなくてはならないんだけど、それが「どうしようもない運命」というより、「本人の無能さ」が原因だから。
騙されて、罪を犯して。
運命と闘い、打破するのではなく、逃げることを選ぶ。……これって、現代の価値観だと負け犬とか卑怯者とか、そっち系だよねえ?
しかも、周囲に迷惑かけて、愛する女すら救えない。
江戸時代ならそれで良かったんだろうけど、現代の感覚では、なかなかきついなコレ。
景子せんせのバウ作品で、主演がみわっち。
ということで、わたしの期待値はうなぎのぼり、観る前から勝手にMAX値だった。
それが悪かったんだと思う。
冷静に考えて。これは「心中モノ」なのよ。限界があるのよ。
そう自分を戒めることが出来たのは、幕が下りたあとだ。
原作だとダメダメ男だった豊太郎@『舞姫』を、あそこまで筋の通ったいい男にした景子たんだから、原作がどうあれ、きっとすごいことになっているに違いない、と勝手に決めつけていた。
……ごめん、そうだね、それは勝手な思い込みだったね。これは心中モノだ、『舞姫』ほど自由には出来なかったんだね。
嘉平次@みわっちは、やっぱりどうあがいても、残念なだめんずでした……。
すごいまぬけっつーか、「なんで騙されてることわかんないかなあ」とか、「なんで自分でがんばらないのかなあ」とか、じれったいっす。
心中モノの男主人公って、自分ではなんにもしないんだよなあ。脳みそ的にも、体力的にも。で、そのせいで雪だるま式に不幸になるんですよ。
タカラヅカというエンタメでは、なんにもしなくて破滅する男って、書くの難しいわ……。
これがまた、天下国家がかかっていると説得力があるんだけど(国のために愛する女をあきらめなければならない!とか)、所詮市井の話だから、男の器の小ささがきつい……がっくりくる……。
とまあ、題材自体がなかなかに難しいもんなんだ。
それを最初から理解せずに観てしまったわたしが悪い。
勝手に「ヅカと心中は相性がいい。だって悲劇はヅカの醍醐味だから!」くらいの軽い感覚だったよ……ごめんよ無知で。
こんだけ不利なネタなのに、それでも美しく、ただの心中モノに収まらせず仕上げた景子たんは、すごいと思う。
「生玉心中」「曽根崎心中」でもなく、『近松・恋の道行』なんだ。
ネタとして心中を扱いながらも、描こうとしているのはその外側にあるモノだ。
そして、みわっちが、美しい。
みわさんはマジで、日本物が似合う。
お化粧が微妙な人々の中、みわさん(と、彼のシャドウである柚カレーくん)の美しさがぶっちぎり、いやもお、ハンパねえ。
身長や顔の大きさ的にも、日本物がいちばん似合うバランスなんだと思うよ、みわっちって。
彼はやさしさもおおらかさも、正しさも清廉さも、そして狂気と艶も、出せる人だから。
すげえなと思う。
この役は、そして作品は、みわっちでないと出来ないよ。
みわっち主演で、この作品をやりたいと思った景子せんせの気持ちはわかるよ。
それと同時に。
この作品をみわっちでやってしまうことへの、引っかかりも、感じる。
最初に語ったように、「心中モノ」って、男主人公をかっこよく見せる題材ではないんだ。
みわっちが演じることで作品は完成するし、みわっちの巧さは表現できるし、もちろんみわっちは出来上がった男役であるから、それゆえの美しさや格好良さも見せてくれるけど。
でもそれは、みわっちが実力でそう見せているだけで、「作品」はみわっちを後押ししていないんだ。
座付き作者がアテ書きをすることで、「スターの魅力」を出すのが、タカラヅカだ。
だけどこの『近松・恋の道行』って、結果としてみわっちの魅力を見せてくれているけれど、創作動機はそこにない気がする。
「心中モノ」を題材に、現代視点で新しいモノを創りたい。クリエイター植田景子の創作欲ありき。みわっちは、それに利用されただけ、のような。
そーゆー作家のエゴを感じる。
なんつーか、「作品」と「役者」のバランスを考えたとき、「作品愛」の比重が高い感じっていうか。
留学から帰ったばかりの頃の、景子作品のニオイがする……。
や、わたしの独りよがりな感じ方です。
良い作品だった。景子たんすげーと心から思う。
そーゆーあざとさも含め、景子せんせに拍手する。
ところで、わたし的にいちばんツボだったのは、鯉助@みーちゃんです。
好みの男、ど真ん中キターーッ!!
いやいやいや、いいわあ、みーちゃん!
最後の高笑いまで、全部素敵。
10年前の5月3日も、景子たんのバウホール公演を観に行ってたんだねえ、わたし。
あれから10年、『エイジ・オブ・イノセンス』に比べ、景子せんせはほんっとーにうまくなったなああ。
わたしが無教養なのは今にはじまったことぢゃないんだが、ほんっとに勉強してなかったんだなあ、学生時代……と、自分のダメさに肩を落とした。
すっかり忘れてたけど、近世文学が専門だったはずだよな……いやその、ゼミは西鶴だったんですけどね……「近松と西鶴」ってとてもポピュラーなテーマで、たしか、読んだり調べたりした、はずだよなあ……なのに何故こうまでなんの身にもなっていないのか……。
お勉強として心中モノを調べたり読んだりしているときは、感じなかった。
でも、こうやって「物語」として、「ミュージカル」として味わうと……そうか、心中モノって、こんなに大変なのか。
心中モノって、「美しい」とか「ロマン」とか、そーゆーイメージがある。日本人として、ときめく素材というか。
タカラヅカでも、悲劇は大人気じゃん。オスカルとアンドレは死ぬから美しいし、マリーとルドルフだって心中するからロマンなんですよ。アイーダとラダメスだって、ふたりが手に手を取ってうふふあはは他国でしあわせになったら、名作になんてならないですよ。
しかし、日本のいわゆる「心中モノ」って……現代の感覚では、相当料理しにくい。
なんつっても、主人公が、かっこわるい。
コレに尽きる。
江戸時代の心中モノだと、どうしても男主人公はかっこよくならない。
心中するくらい追い詰められなくてはならないんだけど、それが「どうしようもない運命」というより、「本人の無能さ」が原因だから。
騙されて、罪を犯して。
運命と闘い、打破するのではなく、逃げることを選ぶ。……これって、現代の価値観だと負け犬とか卑怯者とか、そっち系だよねえ?
しかも、周囲に迷惑かけて、愛する女すら救えない。
江戸時代ならそれで良かったんだろうけど、現代の感覚では、なかなかきついなコレ。
景子せんせのバウ作品で、主演がみわっち。
ということで、わたしの期待値はうなぎのぼり、観る前から勝手にMAX値だった。
それが悪かったんだと思う。
冷静に考えて。これは「心中モノ」なのよ。限界があるのよ。
そう自分を戒めることが出来たのは、幕が下りたあとだ。
原作だとダメダメ男だった豊太郎@『舞姫』を、あそこまで筋の通ったいい男にした景子たんだから、原作がどうあれ、きっとすごいことになっているに違いない、と勝手に決めつけていた。
……ごめん、そうだね、それは勝手な思い込みだったね。これは心中モノだ、『舞姫』ほど自由には出来なかったんだね。
嘉平次@みわっちは、やっぱりどうあがいても、残念なだめんずでした……。
すごいまぬけっつーか、「なんで騙されてることわかんないかなあ」とか、「なんで自分でがんばらないのかなあ」とか、じれったいっす。
心中モノの男主人公って、自分ではなんにもしないんだよなあ。脳みそ的にも、体力的にも。で、そのせいで雪だるま式に不幸になるんですよ。
タカラヅカというエンタメでは、なんにもしなくて破滅する男って、書くの難しいわ……。
これがまた、天下国家がかかっていると説得力があるんだけど(国のために愛する女をあきらめなければならない!とか)、所詮市井の話だから、男の器の小ささがきつい……がっくりくる……。
とまあ、題材自体がなかなかに難しいもんなんだ。
それを最初から理解せずに観てしまったわたしが悪い。
勝手に「ヅカと心中は相性がいい。だって悲劇はヅカの醍醐味だから!」くらいの軽い感覚だったよ……ごめんよ無知で。
こんだけ不利なネタなのに、それでも美しく、ただの心中モノに収まらせず仕上げた景子たんは、すごいと思う。
「生玉心中」「曽根崎心中」でもなく、『近松・恋の道行』なんだ。
ネタとして心中を扱いながらも、描こうとしているのはその外側にあるモノだ。
そして、みわっちが、美しい。
みわさんはマジで、日本物が似合う。
お化粧が微妙な人々の中、みわさん(と、彼のシャドウである柚カレーくん)の美しさがぶっちぎり、いやもお、ハンパねえ。
身長や顔の大きさ的にも、日本物がいちばん似合うバランスなんだと思うよ、みわっちって。
彼はやさしさもおおらかさも、正しさも清廉さも、そして狂気と艶も、出せる人だから。
すげえなと思う。
この役は、そして作品は、みわっちでないと出来ないよ。
みわっち主演で、この作品をやりたいと思った景子せんせの気持ちはわかるよ。
それと同時に。
この作品をみわっちでやってしまうことへの、引っかかりも、感じる。
最初に語ったように、「心中モノ」って、男主人公をかっこよく見せる題材ではないんだ。
みわっちが演じることで作品は完成するし、みわっちの巧さは表現できるし、もちろんみわっちは出来上がった男役であるから、それゆえの美しさや格好良さも見せてくれるけど。
でもそれは、みわっちが実力でそう見せているだけで、「作品」はみわっちを後押ししていないんだ。
座付き作者がアテ書きをすることで、「スターの魅力」を出すのが、タカラヅカだ。
だけどこの『近松・恋の道行』って、結果としてみわっちの魅力を見せてくれているけれど、創作動機はそこにない気がする。
「心中モノ」を題材に、現代視点で新しいモノを創りたい。クリエイター植田景子の創作欲ありき。みわっちは、それに利用されただけ、のような。
そーゆー作家のエゴを感じる。
なんつーか、「作品」と「役者」のバランスを考えたとき、「作品愛」の比重が高い感じっていうか。
留学から帰ったばかりの頃の、景子作品のニオイがする……。
や、わたしの独りよがりな感じ方です。
良い作品だった。景子たんすげーと心から思う。
そーゆーあざとさも含め、景子せんせに拍手する。
ところで、わたし的にいちばんツボだったのは、鯉助@みーちゃんです。
好みの男、ど真ん中キターーッ!!
いやいやいや、いいわあ、みーちゃん!
最後の高笑いまで、全部素敵。
未涼亜希『ドン・カルロス』『Shining Rhythm!』東宝お茶会に行ってきました。
いつもにも増して、記憶があやういです。
とにかく。
前髪まっつキターーッ!!
前髪のあるまっつ、見たの何年ぶり?
リーゼントでシケをぱらり、とかぢゃないっすよ、自然な、ストレートな前髪っすよ?
思いきりのいい金髪に、白いタキシード風のジャケットと相まって、もお。
英国風美少年。
ちょ……っ、まっつが、少年??
昔っから年齢不詳のシワを刻み、ヘタレやへなちょこ役は得意でも、ガチな若い役は微妙だった、あのまっつが?
最近はすっかりおっさん役者となり、同期のパパ役なんかをやっている、ヒゲの似合う四十男な、あのまっつが?
二次元感、半端ナイ。
「美少年……」「外国の学生さんみたい」「ギムナジウムもの、いける」「イギリスとかの全寮制の名門校舞台で……」ぼそぼそぼそ。あちこちから聞こえるドリーミング。
知らなかった……まっつって、フェアリーだったんだ……。
や、タカラジェンヌはフェアリーだし、みんな舞台でも、舞台を下りたファン向けの場でも、2.5次元に生きるフェアリーさんだと、知ってます。
だとしても、なんか、まっつに対してはそーゆー感覚がなかったというか。ジェンヌにしては常識的な人っていうか地に足ついてるっていうか、ぶっちゃけ夢の少ない人っつーイメージがあったりしてさ……いやその、ジェンヌを、まっつをなんだと思ってるんだってなもんだが。
まっつオチして8年目。
まさか今さら、彼を「少年」だとか「フェアリー」だとか思って、ハクハクする日が来ようとは。
いやもおとにかく、まっつさんが美しくて、びびりました。
自然な髪型が少年っぽくて、またアタマの小ささがさらによくわかって、目の大きさを強調してて、でもって、耳がぴょこっと立っているのが、めちゃ目立つ(笑)。
ストレートな金髪の間から、両耳がぴょこっとのぞいてるわけです。
まっつって、耳が大きいというか立っているというか付き方がチガウというか、耳に特徴あるよね?
その耳が、髪の毛に収まりきらず、怪物くんみたいに飛び出してるの。
それがまた、妖精っぽいっていうか。
あの耳、触りたい……っ!(変態発言はやめなさい)
彼のこのビジュアルを見られただけで、夜行バスに揺られて東京まで来た甲斐があるっつーもんです。ええ、夜行バス車中二拍日帰りですよ、オトナの組む日程ぢゃない、金のない学生並ですよ、だってびんぼーなんだもん。
でもってまつださん。
なんか、とっても楽しそうでした。
最初、まっつが登場するなり、歓声があがるわけですよ。「きゃーーっ!!」って黄色い声が。
それにちょっとキョドった感じで。黄色い悲鳴に慣れてないのか、この人(笑)。
ステージに上がるまでの間、「前髪」「美少年」「全寮制の」とか客席ざわざわ勝手に囁き声があがってて。
んで、ステージに上がった彼に、参加者全員で万歳三唱、サプライズを仕掛けるわけです。
全員起立、「フェリペ二世国王陛下」「ばんざーい」×3。
数百人の人々が、一斉にやるわけですよ。
わたしは相変わらず後方にいるので、客席の人々込みで壇上のまっつまで見渡せます。
相当、変な光景です。どこのアヤシイ教団集会?って感じです。
前もってわたしたち観客は、練習させられてました。起立して、万歳三唱するの。
練習の段階で、無人の舞台に向かって万歳三唱するのはかなりへんてこな姿で、やりながら笑えてしょうがなかった。
クールなまっつがこんなことされて、どんな反応を見せるか、……ええっと、今までの彼の対応から見て、かなり低温なリアクションが期待できて、とても楽しみでした。
で、まっつは。
登場からしばらく、「はい」しか言いませんでした。
「フェリペ二世陛下を讃え、万歳三唱したいと思います」
「はい」(無表情)
「ばんざーい」
「…………」(無表情)
「ばんざーい」
「…………」(無表情)
「ばんざーい」
「はい」(無表情)
「ではまっつさん、乾杯の音頭と、ご挨拶を」
「はい」(無表情)
「本日はお忙しい中、未涼亜希お茶会にお越しいただき……」(無表情)
ええ。サプライズの万歳三唱を、われらが国王陛下は、完スルーされました。
なかったこととして、進めましたよこの人!!(笑)
いやふつー、なんかリアクション返すだろ。ウケるとかつっこむとか、ナニかあるだろ。
完全に、無視。
しょっぱなから、おもしろすぎる。
狙ってスルーしているわけじゃなく、こーゆー人だよね?
もー、客席はにやにやが治まってませんよ、陛下。
最初がこんなで、「はい」しか言わないもんだから、機嫌悪いのかな、テンション低いのかな、って感じだったけど。
いやいやいや、んなこたぁーない。
なんか、ご機嫌さんでした。
なにがどう、じゃないんだけど。
返事の仕方や、ひとりごとっぽい声とかが、やたら、かわいい。
声はあの声なんで、かわいこぶったところで黄色い声にもアニメ声にもならないんだけど、やたらかわいい声だった。
なまじ、舞台のエエ声や、意識して挨拶するときのアルトの魅力全開ぶりを知っているだけに、無防備な甘さの混ざった声に、腰が砕ける思いっす……ハァハァハァ。
ちょ……っ、ナニこの人。
かわいいんですけど?
めちゃくちゃかわいいんですけどっ?!
まっつなのに?←
質問の受け答えとか、相変わらずばっさりクールだったりするんだけど、たぶん他のジェンヌさんならもっとハイテンションだったりアツかったりするんだろうけど、まっつはあくまでもまっつで。
なのに、なーんか楽しそう。機嫌よさそう。
ここにいて、みんなのまっつ、でいることを、楽しんでいるっぽい。
それがなんかすごく、うれしい。
彼の意識がわたしたち……ファンに向かっている、ということが。
まっつが楽しそうにしている。
それが、わたしたちにとっていちばんのプレゼントなんだなあ、と思う。
生き生きしているまっつが、すごくかわいい。
ムラお茶会では、「かっこいい」「素敵」という声ばかりがあちこちで上がり続けていたのに、東宝お茶会では「かわいい」ばっかだったのが、愉快。
どうしたんだまっつ(笑)。
いつもにも増して、記憶があやういです。
とにかく。
前髪まっつキターーッ!!
前髪のあるまっつ、見たの何年ぶり?
リーゼントでシケをぱらり、とかぢゃないっすよ、自然な、ストレートな前髪っすよ?
思いきりのいい金髪に、白いタキシード風のジャケットと相まって、もお。
英国風美少年。
ちょ……っ、まっつが、少年??
昔っから年齢不詳のシワを刻み、ヘタレやへなちょこ役は得意でも、ガチな若い役は微妙だった、あのまっつが?
最近はすっかりおっさん役者となり、同期のパパ役なんかをやっている、ヒゲの似合う四十男な、あのまっつが?
二次元感、半端ナイ。
「美少年……」「外国の学生さんみたい」「ギムナジウムもの、いける」「イギリスとかの全寮制の名門校舞台で……」ぼそぼそぼそ。あちこちから聞こえるドリーミング。
知らなかった……まっつって、フェアリーだったんだ……。
や、タカラジェンヌはフェアリーだし、みんな舞台でも、舞台を下りたファン向けの場でも、2.5次元に生きるフェアリーさんだと、知ってます。
だとしても、なんか、まっつに対してはそーゆー感覚がなかったというか。ジェンヌにしては常識的な人っていうか地に足ついてるっていうか、ぶっちゃけ夢の少ない人っつーイメージがあったりしてさ……いやその、ジェンヌを、まっつをなんだと思ってるんだってなもんだが。
まっつオチして8年目。
まさか今さら、彼を「少年」だとか「フェアリー」だとか思って、ハクハクする日が来ようとは。
いやもおとにかく、まっつさんが美しくて、びびりました。
自然な髪型が少年っぽくて、またアタマの小ささがさらによくわかって、目の大きさを強調してて、でもって、耳がぴょこっと立っているのが、めちゃ目立つ(笑)。
ストレートな金髪の間から、両耳がぴょこっとのぞいてるわけです。
まっつって、耳が大きいというか立っているというか付き方がチガウというか、耳に特徴あるよね?
その耳が、髪の毛に収まりきらず、怪物くんみたいに飛び出してるの。
それがまた、妖精っぽいっていうか。
あの耳、触りたい……っ!(変態発言はやめなさい)
彼のこのビジュアルを見られただけで、夜行バスに揺られて東京まで来た甲斐があるっつーもんです。ええ、夜行バス車中二拍日帰りですよ、オトナの組む日程ぢゃない、金のない学生並ですよ、だってびんぼーなんだもん。
でもってまつださん。
なんか、とっても楽しそうでした。
最初、まっつが登場するなり、歓声があがるわけですよ。「きゃーーっ!!」って黄色い声が。
それにちょっとキョドった感じで。黄色い悲鳴に慣れてないのか、この人(笑)。
ステージに上がるまでの間、「前髪」「美少年」「全寮制の」とか客席ざわざわ勝手に囁き声があがってて。
んで、ステージに上がった彼に、参加者全員で万歳三唱、サプライズを仕掛けるわけです。
全員起立、「フェリペ二世国王陛下」「ばんざーい」×3。
数百人の人々が、一斉にやるわけですよ。
わたしは相変わらず後方にいるので、客席の人々込みで壇上のまっつまで見渡せます。
相当、変な光景です。どこのアヤシイ教団集会?って感じです。
前もってわたしたち観客は、練習させられてました。起立して、万歳三唱するの。
練習の段階で、無人の舞台に向かって万歳三唱するのはかなりへんてこな姿で、やりながら笑えてしょうがなかった。
クールなまっつがこんなことされて、どんな反応を見せるか、……ええっと、今までの彼の対応から見て、かなり低温なリアクションが期待できて、とても楽しみでした。
で、まっつは。
登場からしばらく、「はい」しか言いませんでした。
「フェリペ二世陛下を讃え、万歳三唱したいと思います」
「はい」(無表情)
「ばんざーい」
「…………」(無表情)
「ばんざーい」
「…………」(無表情)
「ばんざーい」
「はい」(無表情)
「ではまっつさん、乾杯の音頭と、ご挨拶を」
「はい」(無表情)
「本日はお忙しい中、未涼亜希お茶会にお越しいただき……」(無表情)
ええ。サプライズの万歳三唱を、われらが国王陛下は、完スルーされました。
なかったこととして、進めましたよこの人!!(笑)
いやふつー、なんかリアクション返すだろ。ウケるとかつっこむとか、ナニかあるだろ。
完全に、無視。
しょっぱなから、おもしろすぎる。
狙ってスルーしているわけじゃなく、こーゆー人だよね?
もー、客席はにやにやが治まってませんよ、陛下。
最初がこんなで、「はい」しか言わないもんだから、機嫌悪いのかな、テンション低いのかな、って感じだったけど。
いやいやいや、んなこたぁーない。
なんか、ご機嫌さんでした。
なにがどう、じゃないんだけど。
返事の仕方や、ひとりごとっぽい声とかが、やたら、かわいい。
声はあの声なんで、かわいこぶったところで黄色い声にもアニメ声にもならないんだけど、やたらかわいい声だった。
なまじ、舞台のエエ声や、意識して挨拶するときのアルトの魅力全開ぶりを知っているだけに、無防備な甘さの混ざった声に、腰が砕ける思いっす……ハァハァハァ。
ちょ……っ、ナニこの人。
かわいいんですけど?
めちゃくちゃかわいいんですけどっ?!
まっつなのに?←
質問の受け答えとか、相変わらずばっさりクールだったりするんだけど、たぶん他のジェンヌさんならもっとハイテンションだったりアツかったりするんだろうけど、まっつはあくまでもまっつで。
なのに、なーんか楽しそう。機嫌よさそう。
ここにいて、みんなのまっつ、でいることを、楽しんでいるっぽい。
それがなんかすごく、うれしい。
彼の意識がわたしたち……ファンに向かっている、ということが。
まっつが楽しそうにしている。
それが、わたしたちにとっていちばんのプレゼントなんだなあ、と思う。
生き生きしているまっつが、すごくかわいい。
ムラお茶会では、「かっこいい」「素敵」という声ばかりがあちこちで上がり続けていたのに、東宝お茶会では「かわいい」ばっかだったのが、愉快。
どうしたんだまっつ(笑)。
かーなーりー、時間は経ってしまったけれど、未涼亜希『ドン・カルロス』『Shining Rhythm!』東宝お茶会の話。
手元にあるのは、帰りの夜行バスを待つ間に端末に書き殴った箇条書きの質疑応答メモ。
それと、「真夜中のラブレター」ばりにドリーミングして、その場で書いた短いテキスト。
それを元に、お茶会を通した、まっつの感想を書き残す。
レポぢゃない、あくまでも、わたしがどう思ったか、という話。
ファンとスターには、感覚に隔たりがあるんだなあ、と思った。
これは今回に限ったことじゃないんだが、お茶会の司会者の発する質問の意図と、まっつの回答に、感覚のズレがある。
司会者がどこまで理解して話しているのかわかんないけど、質問自体は大抵「ああ、この質問を書いた人はこーゆーことが聞きたいんだな」「まっつのここに萌えているからこそ、ここがこうなって、結果この質問にたどり着いたんだな」と想像が付く。
なのに、実際に司会者が読み上げる質問は、質問本来の意味から遠くなっている。
そして、その遠くなった質問事項を、まっつがまたチガウ方向で受け止めて、「質問に含まれた萌え」とまったく縁もゆかりもない、無関係な答えになって終了する。
今回それが顕著だな-、と思ったのは、
「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という質問。
まっつが演じているのはフェリペ二世。
主人公ドン・カルロス@キムくんの父。
この質問に、まっつは本気でいぶかしげに、
「……ハァ?」
と返した。
まっつとしては、とても心外な質問だったらしい。
だって父親役。父親の気持ちがないと演じられない。んなもん、役を演じる上で、最初からある。
ここだけ抜き出せば、とても失礼な質問だ。
ロミオに対し、「ジュリエットを愛するキモチは芽生えましたか?」と聞くようなもん。ロミオを演じている役者は「ハァ?!」と思うだろう。芽生えるもナニも、ロミオとジュリエットだよ? ロミオがジュリエットを愛さなかったらナニもはじまってない。
ナニ、オレの演技からは、ジュリエットを愛してるって見えない・感じられないってこと??
オレの演技からは、父親の気持ちがあるよーに見えないってこと?? ……と、まっつに思われても、仕方ない質問。
そうじゃない、そうじゃないんだ。
質問の意図は、そうじゃない。
たしかに質問用紙には「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」と書いてあったかもしれないが、これだけしか書いてなかったかもしれないが、肝心要の部分が抜けている。
「役の上で父親をやっているゆえに、同期のキムくんに対し、父性が芽生えることはありましたか?」が正解だろう。
ファンならば、「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という1文だけで、書かれていない部分がわかる。キムまつの同期ゆえのかわいいエピソードを聞きたい、というファン心理が理解できる。
役者としてのまっつが、カルロスに対して父親としての気持ちもなくただ台詞だけ喋っているなんて、カケラも思ってない。
まっつの芝居には大満足している、そこにいろんな感情を読み取っている、それは大前提、いちいち言うまでもない、だからその上で、楽屋裏のことを聞いているんだ。
だけど、司会者が読み上げた質問内容は、「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」だけ。
役者であるまっつは、役の上でのことだと思い、心外な声を上げる。芽生えるもナニも、最初からある、と。
そっかー、そうだよなあ。
まっつは、「役者」なんだよなあ。
ファン心理よりは、「役者」としてのベースで反応するよなああ。
なんか、くどくどと史実を語ったりして、「役者」としての話をする。
いやそれ、わかってるから!
史実も踏まえて役作りしてて、実際舞台の上のフェリペ二世はちゃんと父であり男であり王であるから!
ごめん、失礼な質問だった、まっつの役作りが、芝居が、「父親の気持ちが見えない」ような、半端なモノだと思ってないから!!
頼むよ司会者さん、質問が「役者」に対して失礼過ぎた、そんな真面目な質問ぢゃないんだってこと、この真面目な役者さんに説明して!!
だけど司会者さんは、収拾が付かなくなって「だからその、演じていく上で……ええっと、パス」と言って、会話を打ち切ってしまった。
質問を書いた人と、それに対して答える人と、立ち位置がチガウ、見ているモノが違いすぎる。
その違いを埋める、修正するのが司会者の仕事だが、お茶会の司会者はプロじゃない。ただ書いてあることを読み上げるだけで、その文章の奥にある「意図」を汲み取り、回答者からそれを引き出すための角度を変えたアプローチが出来るわけじゃない。
素人のお嬢さんである司会者に、そこまで求めるのは酷だろう。
じゃあ、質問自体に、「何故これを聞きたいのか」という理由と、なにを期待してあえてこの質問なのかを明記すればいいのか。
質問・「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」
意図・親子役ならではの、キムまつのかわいいエピソードが聞きたい。
例題・「ふとしたときに、音月さんを『かわいい』と父親の気持ちで思ったりしたことはありますか?」「一緒に食事に行ったときに、つい世話を焼いてしまったとか、なにかトラブルがあったときに、ここはオレにまかせておけと思ったりとか」
……無理。
咄嗟にそこまで文章組み立てて、質問なんて書けない。
てゆーか、自分の視界のみがすべてになるじゃん。
聞きたいことが「親子役ならではの、キムまつのかわいい話」であったとしても、いや、そうであるからこそ、公の質問事項は「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」になるじゃん。いや、わたしならせめて、「音月さんに対して、お父さんの気持ちは芽生えましたか?」と明記するだろうけど。
そう書けば、生身のキムまつのことだと伝わると、信じ切って、それ以上の説明は書かない。
でもそれじゃあ、まっつには伝わらないんだろうなあ。
きっと彼は、
「音月さんに対して? それは役の上でってこと? カルロスに対して?」
と返し、結局「芽生えるもナニも、最初からある」と心外だと回答するんだろう。
役者だから。
役の上での話を求められていると、思っているから。
彼はストイックに、「役者」として回答する。基本舞台の上のことだけ。自分のことだけ。
ファンは萌えハートを根底に、タカラヅカ・スターのまっつに質問する。
タカラジェンヌは、舞台の上だけでなく、芸名で生きる周辺に関してもファンの興味の対象である。だから、ジェンヌ同士のかわいいエピソードなんかを聞きたいと思う。
両者の間の隔たりは大きい。
萌えを根底に置いた質問は、役者であるまっつには伝わらない。
むしろ、今回のように「役者に対しては、とても失礼」な質問になってしまったりする。
……今回の「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という質問が、「親子役ゆえの、キムまつのかわいい話を聞きたい」という意図で出されたモノだと思ったのは、わたし個人の感覚だ。
質問者やそれを選んだスタッフ、読み上げた司会者がどんな意図だったのかはわからない。
だが、ほんとうにその文章まんま、役の上でのことだったなら、まっつが舞台上で父親になりきっていないという意味なので、大変失礼なものになる。そんな意味での質問を、質問コーナーの最初の一発目に持っては来ないだろうから、やっぱり意図は言外にあったのだと判断する。
最初からずいぶんな質問になってしまったと思うけど、それでもまっつは大真面目に誠実に回答し、気分を害することもなかった。
そこに悪意がないことを理解してくれてるんだなー。
萌えは理解してくれてないみたいだけど(笑)。
いやその、萌えを理解してくんないところがまた、萌えなんだわー(笑)。
で。
もし、質問の意図を司会者がちゃんと伝え、役者として役としてではなく、素のまっつがナマのキムくんに対しての質問だと、彼が理解したなら。
「ありませんよ、そんなこと」と、すっぱり切り捨てるんだろうなと、これまた勝手に想像してにやにやしちゃいます(笑)。
手元にあるのは、帰りの夜行バスを待つ間に端末に書き殴った箇条書きの質疑応答メモ。
それと、「真夜中のラブレター」ばりにドリーミングして、その場で書いた短いテキスト。
それを元に、お茶会を通した、まっつの感想を書き残す。
レポぢゃない、あくまでも、わたしがどう思ったか、という話。
ファンとスターには、感覚に隔たりがあるんだなあ、と思った。
これは今回に限ったことじゃないんだが、お茶会の司会者の発する質問の意図と、まっつの回答に、感覚のズレがある。
司会者がどこまで理解して話しているのかわかんないけど、質問自体は大抵「ああ、この質問を書いた人はこーゆーことが聞きたいんだな」「まっつのここに萌えているからこそ、ここがこうなって、結果この質問にたどり着いたんだな」と想像が付く。
なのに、実際に司会者が読み上げる質問は、質問本来の意味から遠くなっている。
そして、その遠くなった質問事項を、まっつがまたチガウ方向で受け止めて、「質問に含まれた萌え」とまったく縁もゆかりもない、無関係な答えになって終了する。
今回それが顕著だな-、と思ったのは、
「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という質問。
まっつが演じているのはフェリペ二世。
主人公ドン・カルロス@キムくんの父。
この質問に、まっつは本気でいぶかしげに、
「……ハァ?」
と返した。
まっつとしては、とても心外な質問だったらしい。
だって父親役。父親の気持ちがないと演じられない。んなもん、役を演じる上で、最初からある。
ここだけ抜き出せば、とても失礼な質問だ。
ロミオに対し、「ジュリエットを愛するキモチは芽生えましたか?」と聞くようなもん。ロミオを演じている役者は「ハァ?!」と思うだろう。芽生えるもナニも、ロミオとジュリエットだよ? ロミオがジュリエットを愛さなかったらナニもはじまってない。
ナニ、オレの演技からは、ジュリエットを愛してるって見えない・感じられないってこと??
オレの演技からは、父親の気持ちがあるよーに見えないってこと?? ……と、まっつに思われても、仕方ない質問。
そうじゃない、そうじゃないんだ。
質問の意図は、そうじゃない。
たしかに質問用紙には「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」と書いてあったかもしれないが、これだけしか書いてなかったかもしれないが、肝心要の部分が抜けている。
「役の上で父親をやっているゆえに、同期のキムくんに対し、父性が芽生えることはありましたか?」が正解だろう。
ファンならば、「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という1文だけで、書かれていない部分がわかる。キムまつの同期ゆえのかわいいエピソードを聞きたい、というファン心理が理解できる。
役者としてのまっつが、カルロスに対して父親としての気持ちもなくただ台詞だけ喋っているなんて、カケラも思ってない。
まっつの芝居には大満足している、そこにいろんな感情を読み取っている、それは大前提、いちいち言うまでもない、だからその上で、楽屋裏のことを聞いているんだ。
だけど、司会者が読み上げた質問内容は、「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」だけ。
役者であるまっつは、役の上でのことだと思い、心外な声を上げる。芽生えるもナニも、最初からある、と。
そっかー、そうだよなあ。
まっつは、「役者」なんだよなあ。
ファン心理よりは、「役者」としてのベースで反応するよなああ。
なんか、くどくどと史実を語ったりして、「役者」としての話をする。
いやそれ、わかってるから!
史実も踏まえて役作りしてて、実際舞台の上のフェリペ二世はちゃんと父であり男であり王であるから!
ごめん、失礼な質問だった、まっつの役作りが、芝居が、「父親の気持ちが見えない」ような、半端なモノだと思ってないから!!
頼むよ司会者さん、質問が「役者」に対して失礼過ぎた、そんな真面目な質問ぢゃないんだってこと、この真面目な役者さんに説明して!!
だけど司会者さんは、収拾が付かなくなって「だからその、演じていく上で……ええっと、パス」と言って、会話を打ち切ってしまった。
質問を書いた人と、それに対して答える人と、立ち位置がチガウ、見ているモノが違いすぎる。
その違いを埋める、修正するのが司会者の仕事だが、お茶会の司会者はプロじゃない。ただ書いてあることを読み上げるだけで、その文章の奥にある「意図」を汲み取り、回答者からそれを引き出すための角度を変えたアプローチが出来るわけじゃない。
素人のお嬢さんである司会者に、そこまで求めるのは酷だろう。
じゃあ、質問自体に、「何故これを聞きたいのか」という理由と、なにを期待してあえてこの質問なのかを明記すればいいのか。
質問・「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」
意図・親子役ならではの、キムまつのかわいいエピソードが聞きたい。
例題・「ふとしたときに、音月さんを『かわいい』と父親の気持ちで思ったりしたことはありますか?」「一緒に食事に行ったときに、つい世話を焼いてしまったとか、なにかトラブルがあったときに、ここはオレにまかせておけと思ったりとか」
……無理。
咄嗟にそこまで文章組み立てて、質問なんて書けない。
てゆーか、自分の視界のみがすべてになるじゃん。
聞きたいことが「親子役ならではの、キムまつのかわいい話」であったとしても、いや、そうであるからこそ、公の質問事項は「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」になるじゃん。いや、わたしならせめて、「音月さんに対して、お父さんの気持ちは芽生えましたか?」と明記するだろうけど。
そう書けば、生身のキムまつのことだと伝わると、信じ切って、それ以上の説明は書かない。
でもそれじゃあ、まっつには伝わらないんだろうなあ。
きっと彼は、
「音月さんに対して? それは役の上でってこと? カルロスに対して?」
と返し、結局「芽生えるもナニも、最初からある」と心外だと回答するんだろう。
役者だから。
役の上での話を求められていると、思っているから。
彼はストイックに、「役者」として回答する。基本舞台の上のことだけ。自分のことだけ。
ファンは萌えハートを根底に、タカラヅカ・スターのまっつに質問する。
タカラジェンヌは、舞台の上だけでなく、芸名で生きる周辺に関してもファンの興味の対象である。だから、ジェンヌ同士のかわいいエピソードなんかを聞きたいと思う。
両者の間の隔たりは大きい。
萌えを根底に置いた質問は、役者であるまっつには伝わらない。
むしろ、今回のように「役者に対しては、とても失礼」な質問になってしまったりする。
……今回の「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」という質問が、「親子役ゆえの、キムまつのかわいい話を聞きたい」という意図で出されたモノだと思ったのは、わたし個人の感覚だ。
質問者やそれを選んだスタッフ、読み上げた司会者がどんな意図だったのかはわからない。
だが、ほんとうにその文章まんま、役の上でのことだったなら、まっつが舞台上で父親になりきっていないという意味なので、大変失礼なものになる。そんな意味での質問を、質問コーナーの最初の一発目に持っては来ないだろうから、やっぱり意図は言外にあったのだと判断する。
最初からずいぶんな質問になってしまったと思うけど、それでもまっつは大真面目に誠実に回答し、気分を害することもなかった。
そこに悪意がないことを理解してくれてるんだなー。
萌えは理解してくれてないみたいだけど(笑)。
いやその、萌えを理解してくんないところがまた、萌えなんだわー(笑)。
で。
もし、質問の意図を司会者がちゃんと伝え、役者として役としてではなく、素のまっつがナマのキムくんに対しての質問だと、彼が理解したなら。
「ありませんよ、そんなこと」と、すっぱり切り捨てるんだろうなと、これまた勝手に想像してにやにやしちゃいます(笑)。
まったりのんびり、未涼亜希『ドン・カルロス』『Shining Rhythm!』東宝お茶会の話。
レポではなく、あくまでもわたし個人の感想。
わたしのフィルターを通したまっつ話なので、真実と違っているんだろうが、無問題。わたしはわたしの目でまっつを追う。
走り書きしたメモは、お茶会の最初の方しかないため、後半に話していたことはもう忘却の彼方。
メモがなんで最初の方しかないかって、そりゃ時間とか気力とかがもたなかったんだわな(笑)。
お茶会の前半が公演の話。
撮影会のあと、後半にテーブルを回りつつプレゼントを渡したり「男役らしいポーズ」を取ったり、なにかネタ的なことをやらされていたと思う。
そのへんはすでによくおぼえていない。
だからとりあえず、おぼえている公演の話。
前日欄の「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」にしろ、その次の「イサベル王妃に愛情が芽生えたのはいつか?」にしろ、「マントの扱いには慣れましたか?」にしろ、質問の内容がなんであれ、最初の反応って、一貫している。
質問される。
↓
反射的に、飾り気のない「本音」がバサーッと返る。
「ショーのスペインの場面、殺されてせり下がるときの気持ちはどうですか?」
↓
「セリに入ってるかな」
「ショーの光と影の場面で、せり上がりの気持ちは?」
↓
「しんどいな」
身もフタもない(笑)。
正直かつ、回転の速い人だと思う。
計算したり取り繕ったりする前に、すぱんと言葉にする。
その言い方が、なんとも「切り捨てている」感があるというか、「突き放している」感があるというか、独特。
まっつを好きな人には、たまらん部分だろうなあと思う。
話の内容は、ファン目線ではない。
これを言うとファンが喜ぶとか、ファンはこれを聞きたがっているとか、そーゆー視点では一切回答しない。
あくまでも、自分がどう思ったかのみを口にする。
そういった意味では、ファンサービスに欠けるので、エンターティナー的な話術やもてなしを期待して行くと、肩すかしかもな。
でも、お茶会なんて基本ファンしか行かないわけだし、まっつのそのすぱーんとした話し方自体を愛でられる、楽しめる人には癖になる楽しさがある(笑)。
正直だからこその、毒舌。
しかし、無神経でも無礼でもない。
すぱーんと切り捨てたのち、ちゃんとバランス感覚のあるフォローを入れる。
せり下がりで気にしているのが、「セリに入ってるかな」だけなの? そんなもんなの? と、びっくりさせておきながら。
「それまでが、セリ線確認できてないんですよ」と、その場面の説明をする。そう考えるのが仕方ないこと、当然であることを。
「しんどいな」って、そんなこと言っちゃっていいの? と、びっくりさせておきながら。
ずっと動いているとそうでもないが、止まってるとかえってしんどいものだということや、せっかくの盆を回してのせり上がり、気持ちよくやらせてもらっているということを、ちゃんと伝える。
アタマが良くて、一般的な感覚も持ち合わせた人の毒舌は、気持ちいいもんだ。
笑いを取るためとか、リップサービスでSな発言をするわけじゃない。
素のまま突き放して、あとから解説やフォローを入れる、この繰り返しは面白い。
突き放されて、助け起こされるのよ? なにそのツンデレ効果。
書いてるうちに思い出してきた。
影の話のときに、髪型のことも出たんだった。
乱れ髪が素敵ですね、てな話題に、やっぱりまずはすぱっと切り捨てて、突き放して、そのあとでたらたらと解説してた(笑)。
あの素敵な乱れ髪は、てきとーだそうですよ。
とにかく時間がなくて、さくっとやっているだけなので、そのときの手癖次第、偶然の産物、同じ髪型にしろと言われても二度と出来ない系の、その場限りのヘアスタイルらしい(笑)。
たまたまそうなった、ってだけだから、緻密な計算にて、このウェーブが、とか、このラインが、とかはないらしい。
好みの乱れ具合を見られたら、それはラッキー☆ってことなんだよな。
……いや、そんな予感はしていたよ……きっと、わたしだけでなく、多くの人が……ひょっとしたら、ほとんどの人が……(笑)。
しかし、まっつへの質問は難しいよなあ。
大抵のことは「ないです」「考えてません」系の返事だもんなー。しかもそれがすぱっと突き放し系……。
なかにはすぱっと返せず「うーん」と考え込んじゃうときもあるけど。
多角的にいじれる質問内容で、突き放されてもさらにいじれる系のネタを仕込んでおくのが、対まっつには必要なんじゃないかと思ったり。
いや、外野だからそんな風に思うのであって、実際はいろいろと難しいんだろう。わたしにそんな返しが出来るとも思えないから、ほんと、できもしないことをうだうだ言っているだけですよ。
キムくんの卒業に関しての言及は一切なし。
個人的コメントを挟む気はないんだろうな。
大人というか、プロだなという感じ。や、実際大人でプロなんだけど。タカラジェンヌはそれだけでない部分、ゆるさやあまさも愛でるモノだから、まっつのそーゆー線の引き方がちょっと寂しくもあったり。
それと同時に、さもありなん、と誇らしくもあったり。
つくづく、未涼亜希という人は、「舞台の上の姿」を裏切らない人だと思う。
どんな役を演じていようと、舞台上のまっつがそのまま、素のまっつにつながっている。
生きる、姿勢が。
わたしは基本、ジェンヌさんに舞台の上だけしか興味を持たないし、ナマに近づくこともないのだけど、まっつのお茶会に違和感がないのはそーゆーことかなと思う。
しあわせだ。
レポではなく、あくまでもわたし個人の感想。
わたしのフィルターを通したまっつ話なので、真実と違っているんだろうが、無問題。わたしはわたしの目でまっつを追う。
走り書きしたメモは、お茶会の最初の方しかないため、後半に話していたことはもう忘却の彼方。
メモがなんで最初の方しかないかって、そりゃ時間とか気力とかがもたなかったんだわな(笑)。
お茶会の前半が公演の話。
撮影会のあと、後半にテーブルを回りつつプレゼントを渡したり「男役らしいポーズ」を取ったり、なにかネタ的なことをやらされていたと思う。
そのへんはすでによくおぼえていない。
だからとりあえず、おぼえている公演の話。
前日欄の「お父さんの気持ちは芽生えましたか?」にしろ、その次の「イサベル王妃に愛情が芽生えたのはいつか?」にしろ、「マントの扱いには慣れましたか?」にしろ、質問の内容がなんであれ、最初の反応って、一貫している。
質問される。
↓
反射的に、飾り気のない「本音」がバサーッと返る。
「ショーのスペインの場面、殺されてせり下がるときの気持ちはどうですか?」
↓
「セリに入ってるかな」
「ショーの光と影の場面で、せり上がりの気持ちは?」
↓
「しんどいな」
身もフタもない(笑)。
正直かつ、回転の速い人だと思う。
計算したり取り繕ったりする前に、すぱんと言葉にする。
その言い方が、なんとも「切り捨てている」感があるというか、「突き放している」感があるというか、独特。
まっつを好きな人には、たまらん部分だろうなあと思う。
話の内容は、ファン目線ではない。
これを言うとファンが喜ぶとか、ファンはこれを聞きたがっているとか、そーゆー視点では一切回答しない。
あくまでも、自分がどう思ったかのみを口にする。
そういった意味では、ファンサービスに欠けるので、エンターティナー的な話術やもてなしを期待して行くと、肩すかしかもな。
でも、お茶会なんて基本ファンしか行かないわけだし、まっつのそのすぱーんとした話し方自体を愛でられる、楽しめる人には癖になる楽しさがある(笑)。
正直だからこその、毒舌。
しかし、無神経でも無礼でもない。
すぱーんと切り捨てたのち、ちゃんとバランス感覚のあるフォローを入れる。
せり下がりで気にしているのが、「セリに入ってるかな」だけなの? そんなもんなの? と、びっくりさせておきながら。
「それまでが、セリ線確認できてないんですよ」と、その場面の説明をする。そう考えるのが仕方ないこと、当然であることを。
「しんどいな」って、そんなこと言っちゃっていいの? と、びっくりさせておきながら。
ずっと動いているとそうでもないが、止まってるとかえってしんどいものだということや、せっかくの盆を回してのせり上がり、気持ちよくやらせてもらっているということを、ちゃんと伝える。
アタマが良くて、一般的な感覚も持ち合わせた人の毒舌は、気持ちいいもんだ。
笑いを取るためとか、リップサービスでSな発言をするわけじゃない。
素のまま突き放して、あとから解説やフォローを入れる、この繰り返しは面白い。
突き放されて、助け起こされるのよ? なにそのツンデレ効果。
書いてるうちに思い出してきた。
影の話のときに、髪型のことも出たんだった。
乱れ髪が素敵ですね、てな話題に、やっぱりまずはすぱっと切り捨てて、突き放して、そのあとでたらたらと解説してた(笑)。
あの素敵な乱れ髪は、てきとーだそうですよ。
とにかく時間がなくて、さくっとやっているだけなので、そのときの手癖次第、偶然の産物、同じ髪型にしろと言われても二度と出来ない系の、その場限りのヘアスタイルらしい(笑)。
たまたまそうなった、ってだけだから、緻密な計算にて、このウェーブが、とか、このラインが、とかはないらしい。
好みの乱れ具合を見られたら、それはラッキー☆ってことなんだよな。
……いや、そんな予感はしていたよ……きっと、わたしだけでなく、多くの人が……ひょっとしたら、ほとんどの人が……(笑)。
しかし、まっつへの質問は難しいよなあ。
大抵のことは「ないです」「考えてません」系の返事だもんなー。しかもそれがすぱっと突き放し系……。
なかにはすぱっと返せず「うーん」と考え込んじゃうときもあるけど。
多角的にいじれる質問内容で、突き放されてもさらにいじれる系のネタを仕込んでおくのが、対まっつには必要なんじゃないかと思ったり。
いや、外野だからそんな風に思うのであって、実際はいろいろと難しいんだろう。わたしにそんな返しが出来るとも思えないから、ほんと、できもしないことをうだうだ言っているだけですよ。
キムくんの卒業に関しての言及は一切なし。
個人的コメントを挟む気はないんだろうな。
大人というか、プロだなという感じ。や、実際大人でプロなんだけど。タカラジェンヌはそれだけでない部分、ゆるさやあまさも愛でるモノだから、まっつのそーゆー線の引き方がちょっと寂しくもあったり。
それと同時に、さもありなん、と誇らしくもあったり。
つくづく、未涼亜希という人は、「舞台の上の姿」を裏切らない人だと思う。
どんな役を演じていようと、舞台上のまっつがそのまま、素のまっつにつながっている。
生きる、姿勢が。
わたしは基本、ジェンヌさんに舞台の上だけしか興味を持たないし、ナマに近づくこともないのだけど、まっつのお茶会に違和感がないのはそーゆーことかなと思う。
しあわせだ。
キムくんの、サヨナラ公演。@『JIN-仁-』一部の配役決定
2012年5月8日 タカラヅカ 飼い猫に手を噛まれ、右手が使えない状態の今、なんで発表あるかな……。うおお、手ェ痛いよー、でもとりあえず書く~~。
みっちゃん、次の雪組公演出るのか……。
みっちゃん出演は、複雑です。
サヨナラ公演でさえなければ、通常のキムくん主演公演ならば、「歌ウマ同期揃い踏み!」とか、のんきに楽しめたと思います。
しかし、キムくんのサヨナラ公演なんだよ……。
演目からして、退団用でないことが丸わかりで(ショー解説に後付けでそれっぽいことを1行付け加えてお茶濁し)、ナガさんもおらず、組子も若干変わり、再出発感の高い状態での、腑に落ちない突然の退団発表。
このうえまだ、イレギュラーを付け加えるのか……。
劇団はどこまで、雪組を掻き回せば気が済むんだろう。
キムくんのサヨナラ公演が、よいものになることを、心から祈ります。
ただ、まっつファンとしては、ささやかなことだけど、ほっとしました。
橘恭太郎キターーッ!!
原作はまともに読んでない(昔、雑誌でとびとびにパラ読みした程度)、ドラマではじめてちゃんと作品を知った程度の人間なんで、深い造詣をもっての感想じゃないけど。
ドラマを見る限り、男役は仁と龍馬以外、大きな役はない印象だった。
で、龍馬役はちぎちゃんに決まっている。んじゃ、まっつはナニをやるんだろう、と考えて。
恭太郎さんだったらいいなあ、とは思っていた。
でも。
なにしろ、まっつだ。
主人公のパパとかヒロインのパパとか、おっさん役しかさせてもらえない人だ。
今さら、ヒロインの兄なんて、させてもらえるだろうか。
もう老け役専門、専科のおじさま的な役しか、回ってこない可能性も、ある。フェリペ二世だってアリエルの父だって、とても重要なやり甲斐のある役だ。それが不服なわけじゃない。
ただ、ここがタカラヅカである以上、若者役を演じる贔屓も見てみたいのよ……いつも40歳overの役ぢゃなくて。
緒方洪庵役かもしれない、と、マジで思っていた……(笑)。
勝海舟は考えなかった。キャラ的に医者だよね、ってことで、洪庵先生。それに、勝海舟はドラマでは出番ほとんどなかったので、洪庵先生の方が主要人物かなと。
ちなみに、ドラマでは武田鉄矢です、洪庵先生……。まっつなら、小出恵介より武田鉄矢だろ、イメージ的に……。いやその、おっさん役ばっか割り振られる人、という意味で。
なのにまさかの、若者役。
小出くんの役ですよ?! わたしの中で「姫」認定の萌え俳優、小出くん!(笑)
演出がサイトーくんなんで、ろくに出番も比重もないとしても、ビジュアルだけでも楽しみにできる。
堅物美青年! なんかやたらと悩みまくり、うじうじなんかもしちゃう人!
それと、もうひとつ。
仁先生@キムくんのことを、「命の恩人」「尊敬」「大好き」な役!
キムくんが大人で、まっつが小僧っこ!
でもってまっつがキムくんを好き!
そんなふたりを、見られる。
そのことを、この演目の、心の支えにします。
てゆーか。
キムくん、辞めるのやめないかなあ。
キムくんのサヨナラ公演でなければ、ただただ楽しみな公演なのに。
雪組 宝塚大劇場公演・東京宝塚劇場公演『JIN-仁-』一部の配役 決定(2012/05/08)
【宝塚大劇場】
雪組
『JIN-仁-』
『GOLD SPARK!-この一瞬を永遠に-』
公演期間:2012年10月12日(金)~11月12日(月)
主な配役 出演者
南方 仁 音月 桂
橘 咲 舞羽 美海
坂本 龍馬 早霧 せいな
勝 海舟 北翔 海莉
橘 恭太郎 未涼 亜希
※北翔海莉は、7月2日付で専科へ組替えとなります。
※北翔海莉は、『GOLD SPARK!-この一瞬を永遠に-』にも出演いたします。
※その他の出演者、主な配役は決定次第、ご案内いたします。
みっちゃん、次の雪組公演出るのか……。
みっちゃん出演は、複雑です。
サヨナラ公演でさえなければ、通常のキムくん主演公演ならば、「歌ウマ同期揃い踏み!」とか、のんきに楽しめたと思います。
しかし、キムくんのサヨナラ公演なんだよ……。
演目からして、退団用でないことが丸わかりで(ショー解説に後付けでそれっぽいことを1行付け加えてお茶濁し)、ナガさんもおらず、組子も若干変わり、再出発感の高い状態での、腑に落ちない突然の退団発表。
このうえまだ、イレギュラーを付け加えるのか……。
劇団はどこまで、雪組を掻き回せば気が済むんだろう。
キムくんのサヨナラ公演が、よいものになることを、心から祈ります。
ただ、まっつファンとしては、ささやかなことだけど、ほっとしました。
橘恭太郎キターーッ!!
原作はまともに読んでない(昔、雑誌でとびとびにパラ読みした程度)、ドラマではじめてちゃんと作品を知った程度の人間なんで、深い造詣をもっての感想じゃないけど。
ドラマを見る限り、男役は仁と龍馬以外、大きな役はない印象だった。
で、龍馬役はちぎちゃんに決まっている。んじゃ、まっつはナニをやるんだろう、と考えて。
恭太郎さんだったらいいなあ、とは思っていた。
でも。
なにしろ、まっつだ。
主人公のパパとかヒロインのパパとか、おっさん役しかさせてもらえない人だ。
今さら、ヒロインの兄なんて、させてもらえるだろうか。
もう老け役専門、専科のおじさま的な役しか、回ってこない可能性も、ある。フェリペ二世だってアリエルの父だって、とても重要なやり甲斐のある役だ。それが不服なわけじゃない。
ただ、ここがタカラヅカである以上、若者役を演じる贔屓も見てみたいのよ……いつも40歳overの役ぢゃなくて。
緒方洪庵役かもしれない、と、マジで思っていた……(笑)。
勝海舟は考えなかった。キャラ的に医者だよね、ってことで、洪庵先生。それに、勝海舟はドラマでは出番ほとんどなかったので、洪庵先生の方が主要人物かなと。
ちなみに、ドラマでは武田鉄矢です、洪庵先生……。まっつなら、小出恵介より武田鉄矢だろ、イメージ的に……。いやその、おっさん役ばっか割り振られる人、という意味で。
なのにまさかの、若者役。
小出くんの役ですよ?! わたしの中で「姫」認定の萌え俳優、小出くん!(笑)
演出がサイトーくんなんで、ろくに出番も比重もないとしても、ビジュアルだけでも楽しみにできる。
堅物美青年! なんかやたらと悩みまくり、うじうじなんかもしちゃう人!
それと、もうひとつ。
仁先生@キムくんのことを、「命の恩人」「尊敬」「大好き」な役!
キムくんが大人で、まっつが小僧っこ!
でもってまっつがキムくんを好き!
そんなふたりを、見られる。
そのことを、この演目の、心の支えにします。
てゆーか。
キムくん、辞めるのやめないかなあ。
キムくんのサヨナラ公演でなければ、ただただ楽しみな公演なのに。
運命のリボン。~つながる~@ザ・タカラヅカV雪組特集check!
2012年5月9日 タカラヅカ 猫がなかなか帰りたがらなかったために、15分遅れでテレビの前に坐った。
「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」ファーストラン。
もちろん録画予約はしてあったので(しかも同時に2本・笑)、アタマから追っかけ再生する。
ヅカヲタ歴はそこそこだが、贔屓が3番手内に食い込んでいるってのは、はじめての経験。(最初の贔屓はド路線様でトップになったが、当時はスカステがなかった)
オープニングからがっつりUPになる贔屓にびびる。さ、さんばんめって、こういうことなのか……。
今まではほんと、その他の人々のところに映るだけだったもんなああ。
と、立場のありがたさに感動しつつ、雪組トップコンビから続く美しい画面に見入っておりました。キムみみちぎまっつ……ほんとに、なんてなんて美しい人たちなんだろう。
ただほんとに、ぼーっと観賞していた。
ああまっつ、またその髪型なのね……と思いつつ(笑)。
そうこうするうち。
えっ? と、思った。
えっ? ちょっと待って、今?
今、まっつ、手ぇつないでた、よね? 手が映ったよね? まっつの手が誰かの手を握っていて、その手の相手が誰か映る前に、画面が別ショットに切り替わったよね?
見えなかったのは、わたしのせい? わたしがぼーっとしていたから?
いや、実はちゃんと見ていた?
まっつ、ちぎくんと手つないでたよね?
自分が目にしたモノを咀嚼しきれなくて、一瞬ぐるぐるして、はっと気づく。
そうだこれ、録画じゃん! 巻き戻して確かめればいいんだ!
ええ、巻き戻して確認しました。
血液型別グループ写真、AB型の面々。シックな黒衣装に身を包んだ人々が、隣の人とどこか一カ所触れるカタチでぐるりと輪になっている、という絵。
肩に手を置いていたり、握っていたり、目線はみんな上、つながっているのに誰も目を合わさない、というシュールな姿。
ちぎくんを起点に、カメラはぐるーっとメンバーを映していく。雪組、AB型多い……(笑)。
ぐるりと回ったカメラは、最後にまっつを映す。彼でちょうど一周。きゃびいに肩へ手を置かれることでつながり、まっつ自身は誰かと片手をつないでいる。
つないで、いる。
ぎゅっとはしていない。なんか控えめに、他人行儀に(笑)、まさしく「つないでいる」って感じに、つながっている。
そこで、カメラが切り替わる。
やっぱり、まっつがつないでいるのが誰の手か、映してくれていなかった。
でも、あれって。
人間の視界というかアタマって不思議なモノで、別々の画面を見ても、脳内で再構成できるんだよね。
ちぎくんからスタートした画、ちぎくんとまっつが隣同士に坐っていた画、それぞれ別の画面だったのに、脳内で結びつく。
まっつが握っていた手は、ちぎくんの手だ。
ちぎくんは映ってなかったのに、途中で画面変わったのに、ぼーっと見ていたわたしが「ちぎくんと手をつないでいるところまで映った?」と、ナイものを見たよーな気がしてしまったくらいに。
いやあ……興奮した(笑)。
ちぎくんと手をつなぐ、まっつ。
だからナニってもんだが、盛り上がった。わたし的に(笑)。
なにしろわたしは『ロミオとジュリエット』を最高峰の大好き作品としている人間で。
マーキューシオとベンヴォーリオのコンビに、萌え狂った者で。
ちぎまつ! ちぎまつ!
『ロミジュリ』が最初で最後、以来まーーったく組んでくれないふたりだから、飢えてますのよ。
あの遠慮がちな手の握り方がたまらん(笑)。
AB型がシュールかつ美しい画だったので、他の血液型もそうくるのかと思いきや、B型はキュートでA型はお笑い、O型はカオスだった……。
そして何故、血液型コーナーのトップがAB型だったのかを理解した……ふつーにA・B・O・ABとか、血液型表記順とかで映せないわけだ……これでAB型がラストだったりしたら、拍子抜けもいいとこだ……。
ちぎまつで萌えまくり、他の血液型のみなさん見てウケまくっていたのに。
そのあとに続くコーナー、トップコンビ・ポートにて。
まさかの涙腺決壊。
萌えたり笑ったり泣いたり、忙しいな自分。
ツッコミ入れるけど、どうしようもない。
番組最初のコーナーで、ひとりずつの写真撮影場面で、キムくんもみみちゃんも、それぞれ腕にリボンを巻き付けていたんだ。
ひとりずつ、がそうだから、「へえ。雪組本の個人写真は、リボンを腕に巻くのが統一テーマなのか」と思った。
ところが、みみちゃんの次のちぎくんは、リボンを巻いてない。続くまっつも、巻いてなかった。あれえ? 統一テーマってわけじゃないのか。
疑問に思ったけれど、それ以上は考えず、次の血液型コーナーに夢中になった。
そしたら。
トップコンビの写真で、リボンの謎が解けた。
キムみみは、互いの腕をリボンでひとつにしていた。
向かい合ったふたりの腕が、リボンでぐるぐる巻きだった。
ひとりずつ、腕にリボンを巻いていた。
ひとりで生きるときに、腕にあったリボン。
キムのリボン。
みみのリボン。
それが、ふたりが出会うことで、ひとつになった。
運命の、ふたり。
いや、もお……。
がつんときた。
ナニこれ。
油断していた。
血液型コーナーで、笑ったあとだってば。
そこにこんな。
次のショットでは、キムみみは背中合わせに大きなリボンでラッピングされていた。
相似形のふたり。
それぞれ別なんだけど、同じ魂を持つ美しいふたり。宿命の恋人同士のような。双子の兄妹のような。
お菓子のような。オーナメントのような。
別れが、待っているのに。
ふたり一緒に在ることが運命である、この美しいふたりは、あとわずかな間で終わってしまう。失われてしまう。
砕け散る一瞬前の硝子細工。溶けて消えてしまう前の雪の結晶。
そんな馬鹿な。
こんなにこんなにうつくしいのに、なぜおわってしまうの。
どうして。
組本の発売を知った頃は、ただ無邪気に楽しみにしていられた。
トップコンビが決定し、ようやく2作目の本公演。波乱と混乱でスタートしたキムくんの時代が、今ようやく落ち着き、これから本番がはじまる……そう、気持ちを新たにしたところだった。
前回の公演は演目がひどかったけれど、今回は芝居もショーも良作、芝居は癖があるから万人向きではないかもしれないけれど、ショーは全方向性のザ・タカラヅカ的な佳作だ。ようやく風がキムくんと雪組に向いてきた……そう思っていた、矢先のこと。
嵐の中、守ってきた芽が育ち、明るい陽を浴びて葉をのばし、これからつぼみがつく……ってところで、引きちぎられた痛みと悲しみ。まだ花びらの色すらわからない、青いままのつぼみだ。何故咲くまで、待ってくれなかったのか。
2年しか時間がないと決まっていたのなら、何故花壇を荒らし、前に咲いていた花を毟り取り、花はおろか生き物が育ちそうもないくらい破壊しまくったのか。
壊れた花壇を元に作り直す時間も与えられず、嵐の中それでも芽吹いていたのに。
しあわせな組本特集番組で、切なくて大泣きしました……。
はー、年寄りは涙もろくていかんやね。
雪組のみんなは、かっこよくてかわいくて、美しくてたまらんです。
今の雪組が好き。キムみみが好き。大好き。
しかし、黒燕尾の舞台化粧は、濃すぎるんじゃないかと老婆心(笑)。
「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」ファーストラン。
もちろん録画予約はしてあったので(しかも同時に2本・笑)、アタマから追っかけ再生する。
ヅカヲタ歴はそこそこだが、贔屓が3番手内に食い込んでいるってのは、はじめての経験。(最初の贔屓はド路線様でトップになったが、当時はスカステがなかった)
オープニングからがっつりUPになる贔屓にびびる。さ、さんばんめって、こういうことなのか……。
今まではほんと、その他の人々のところに映るだけだったもんなああ。
と、立場のありがたさに感動しつつ、雪組トップコンビから続く美しい画面に見入っておりました。キムみみちぎまっつ……ほんとに、なんてなんて美しい人たちなんだろう。
ただほんとに、ぼーっと観賞していた。
ああまっつ、またその髪型なのね……と思いつつ(笑)。
そうこうするうち。
えっ? と、思った。
えっ? ちょっと待って、今?
今、まっつ、手ぇつないでた、よね? 手が映ったよね? まっつの手が誰かの手を握っていて、その手の相手が誰か映る前に、画面が別ショットに切り替わったよね?
見えなかったのは、わたしのせい? わたしがぼーっとしていたから?
いや、実はちゃんと見ていた?
まっつ、ちぎくんと手つないでたよね?
自分が目にしたモノを咀嚼しきれなくて、一瞬ぐるぐるして、はっと気づく。
そうだこれ、録画じゃん! 巻き戻して確かめればいいんだ!
ええ、巻き戻して確認しました。
血液型別グループ写真、AB型の面々。シックな黒衣装に身を包んだ人々が、隣の人とどこか一カ所触れるカタチでぐるりと輪になっている、という絵。
肩に手を置いていたり、握っていたり、目線はみんな上、つながっているのに誰も目を合わさない、というシュールな姿。
ちぎくんを起点に、カメラはぐるーっとメンバーを映していく。雪組、AB型多い……(笑)。
ぐるりと回ったカメラは、最後にまっつを映す。彼でちょうど一周。きゃびいに肩へ手を置かれることでつながり、まっつ自身は誰かと片手をつないでいる。
つないで、いる。
ぎゅっとはしていない。なんか控えめに、他人行儀に(笑)、まさしく「つないでいる」って感じに、つながっている。
そこで、カメラが切り替わる。
やっぱり、まっつがつないでいるのが誰の手か、映してくれていなかった。
でも、あれって。
人間の視界というかアタマって不思議なモノで、別々の画面を見ても、脳内で再構成できるんだよね。
ちぎくんからスタートした画、ちぎくんとまっつが隣同士に坐っていた画、それぞれ別の画面だったのに、脳内で結びつく。
まっつが握っていた手は、ちぎくんの手だ。
ちぎくんは映ってなかったのに、途中で画面変わったのに、ぼーっと見ていたわたしが「ちぎくんと手をつないでいるところまで映った?」と、ナイものを見たよーな気がしてしまったくらいに。
いやあ……興奮した(笑)。
ちぎくんと手をつなぐ、まっつ。
だからナニってもんだが、盛り上がった。わたし的に(笑)。
なにしろわたしは『ロミオとジュリエット』を最高峰の大好き作品としている人間で。
マーキューシオとベンヴォーリオのコンビに、萌え狂った者で。
ちぎまつ! ちぎまつ!
『ロミジュリ』が最初で最後、以来まーーったく組んでくれないふたりだから、飢えてますのよ。
あの遠慮がちな手の握り方がたまらん(笑)。
AB型がシュールかつ美しい画だったので、他の血液型もそうくるのかと思いきや、B型はキュートでA型はお笑い、O型はカオスだった……。
そして何故、血液型コーナーのトップがAB型だったのかを理解した……ふつーにA・B・O・ABとか、血液型表記順とかで映せないわけだ……これでAB型がラストだったりしたら、拍子抜けもいいとこだ……。
ちぎまつで萌えまくり、他の血液型のみなさん見てウケまくっていたのに。
そのあとに続くコーナー、トップコンビ・ポートにて。
まさかの涙腺決壊。
萌えたり笑ったり泣いたり、忙しいな自分。
ツッコミ入れるけど、どうしようもない。
番組最初のコーナーで、ひとりずつの写真撮影場面で、キムくんもみみちゃんも、それぞれ腕にリボンを巻き付けていたんだ。
ひとりずつ、がそうだから、「へえ。雪組本の個人写真は、リボンを腕に巻くのが統一テーマなのか」と思った。
ところが、みみちゃんの次のちぎくんは、リボンを巻いてない。続くまっつも、巻いてなかった。あれえ? 統一テーマってわけじゃないのか。
疑問に思ったけれど、それ以上は考えず、次の血液型コーナーに夢中になった。
そしたら。
トップコンビの写真で、リボンの謎が解けた。
キムみみは、互いの腕をリボンでひとつにしていた。
向かい合ったふたりの腕が、リボンでぐるぐる巻きだった。
ひとりずつ、腕にリボンを巻いていた。
ひとりで生きるときに、腕にあったリボン。
キムのリボン。
みみのリボン。
それが、ふたりが出会うことで、ひとつになった。
運命の、ふたり。
いや、もお……。
がつんときた。
ナニこれ。
油断していた。
血液型コーナーで、笑ったあとだってば。
そこにこんな。
次のショットでは、キムみみは背中合わせに大きなリボンでラッピングされていた。
相似形のふたり。
それぞれ別なんだけど、同じ魂を持つ美しいふたり。宿命の恋人同士のような。双子の兄妹のような。
お菓子のような。オーナメントのような。
別れが、待っているのに。
ふたり一緒に在ることが運命である、この美しいふたりは、あとわずかな間で終わってしまう。失われてしまう。
砕け散る一瞬前の硝子細工。溶けて消えてしまう前の雪の結晶。
そんな馬鹿な。
こんなにこんなにうつくしいのに、なぜおわってしまうの。
どうして。
組本の発売を知った頃は、ただ無邪気に楽しみにしていられた。
トップコンビが決定し、ようやく2作目の本公演。波乱と混乱でスタートしたキムくんの時代が、今ようやく落ち着き、これから本番がはじまる……そう、気持ちを新たにしたところだった。
前回の公演は演目がひどかったけれど、今回は芝居もショーも良作、芝居は癖があるから万人向きではないかもしれないけれど、ショーは全方向性のザ・タカラヅカ的な佳作だ。ようやく風がキムくんと雪組に向いてきた……そう思っていた、矢先のこと。
嵐の中、守ってきた芽が育ち、明るい陽を浴びて葉をのばし、これからつぼみがつく……ってところで、引きちぎられた痛みと悲しみ。まだ花びらの色すらわからない、青いままのつぼみだ。何故咲くまで、待ってくれなかったのか。
2年しか時間がないと決まっていたのなら、何故花壇を荒らし、前に咲いていた花を毟り取り、花はおろか生き物が育ちそうもないくらい破壊しまくったのか。
壊れた花壇を元に作り直す時間も与えられず、嵐の中それでも芽吹いていたのに。
しあわせな組本特集番組で、切なくて大泣きしました……。
はー、年寄りは涙もろくていかんやね。
雪組のみんなは、かっこよくてかわいくて、美しくてたまらんです。
今の雪組が好き。キムみみが好き。大好き。
しかし、黒燕尾の舞台化粧は、濃すぎるんじゃないかと老婆心(笑)。
あれは幻、誌面には残らない。@ザ・タカラヅカV雪組特集
2012年5月10日 タカラヅカ スカステがあるって、すばらしいことだ。
しみじみと、実感。
というのもだ、昨日「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」を見て自分的に大騒ぎしていた、AB型コーナーの、手をつなぐちぎまつが、肝心の「ザ・タカラヅカV雪組特集」には、カケラも存在しなかったんだ。
いや~~、そんな気はしてたんだけど(笑)。
「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」では、AB型コーナーだけで、数種類の撮影をしていたの。
何種類も、ポーズやコンセプトを変えて、えんえん撮影してるけどさあ、血液型コーナーって、そんなに何種類も写真載ったっけ? ふつー1ページだよね? その1ページに、なんショットも入れてくれたっけ?
ヘタすると1ショットのみ、こんだけ何種類もある写真のほとんどはボツとして世に残らないんぢゃ……?
危惧しては、いた。
いたけど、まさに予感的中。悪い予感は当たるもの。
なんかいちばん、画としてつまんない構図のモノが、選ばれてる……。
巻末のおまけコーナーの写真の方が、画面としておもしろいと思うんだけどなー。
で、わたしがハクハクしていた手つなぎショットは、たぶん画面としてはいちばんまともだったと思う。隣の人となにかしらつながって同じ方向を見つめているわけだから、グループショットとして絵になる……つまり、いちばんふつう。
構図として優れているかどうかではなく、「AB型は、誰にも理解できません」という1文を言いたいためだけに選別されているわけだから、あのいちばんアレなものが選ばれちゃったんだろうなあ。残念。
他の血液型の人たちだって、スカステで見た別構図の方がおもしろかったし、黒燕尾だって、全員一列にちょこんと坐っていた可愛らしいショットも掲載されてないし……誌面に限りがあるのはわかるが、残念なチョイスだなあ。
そしてなにより、キムみみ。
スカステと誌面では、リボン写真の印象違いすぎ……(笑)。
スカステでは、まず冒頭にそれぞれの単品写真撮影風景として、リボンを手に巻いたショットがあり、血液型コーナーを挟んだ後半に、キムみみのコンビ写真撮影風景があった。
起の部分でチラ見させた伏線(個々のリボン)を、転の部分でばーんと盛り上げたわけだ。リボンにぐるぐる巻きになるキムみみで。
それが、いざ雪組本では、そんな構成にはなっておらず、ふつーにキムくんコーナー(ひとりでリボン)、見開きでキムみみ(ふたりでリボン)、みみちゃんコーナー(ひとりでリボン)という順番。
ひとりとひとりが出会って運命で、というより、右と左と真ん中、というだけに見えた。右(キム)、真ん中(キムみみ)、左(みみ)という、ページの順番なだけ(笑)。
しかも真ん中の、ふたりでリボンの写真、せっかくのリボンを巻いた腕が、ページのノドのところに来ていて、ぱっと見わからない……。
スカステを見ずに、いきなりこの雪組本見たら、キムみみのリボンに感銘は受けなかったろうなあ……。
素材はいいはずなのに、いまいち盛り上がらないのは、本のデザインをした人と、わたしの嗜好が合わないんだと思う。
なんにもしてない、キムみみの写真まんまの力ですげー破壊力の表紙が、いちばんイイ……ナニか意図が加わっている、中の構成はいまいちだ……。
てことで、スカステがあって良かった。
組本に載っている写真は膨大な映像・画像の中の、ほんのわずかなものに過ぎないんだもんなー。
ちぎまつの手つなぎを見られたこと、キムみみのリボンに泣けたこと、映像は偉大だ、スカステさんありがとう!(笑)
でもって。
組本撮影やインタビューって、『ドン・カルロス』のお稽古中とかムラ公演中にされていた……よねえ? 話している内容的に、この頃だよね?
その時点で、キムくんの退団が決まってないっぽいのが……。
キムくんはもちろんのこと、他の人たちもみんな、「新生雪組がようやく落ち着いてきた」「さあ、これからだ!」と思っている感じなのが、もお……。
当たり前に、「未来」を語っている……。「これから」を語っている……。
そりゃ、退団が決まっていても発表するそのときまでは「まだまだがんばります!」と言うのがタカラジェンヌのお約束だけど、インタビュー時点では発表前でも、発売日が発表後なら、インタビューで「わたしは卒業が決まっていますが、最後の日まで成長し続けたいと思います」とか、語ることは可能じゃん?
トップスター人事はかなり前から決まっていて、ソレに合わせてすべてのスケジュールが綿密に組まれているものなんでしょう?
退団発表後に「音月桂率いる雪組の薔薇色未来の宣伝」を1冊かけてやっても機会損失、むしろ「残り少ない音月桂の舞台を盛り上げよう」テーマの方が企業としても正しいし、ファン感情に沿っているのでは?
キムみみをはじめ、「このメンバーでこれからもっとがんばるぞ!」とわくわく話している姿が、切ない……。
や、わたしがそう受け取っただけで、他の人には「どっから見ても退団を前提にした話しかしてないじゃん!」かもしんないけどさー。
キムみみの写真集出してほしいなあ。
かわいこちゃんとか幼いやつはもういいから、組本表紙の路線で。
ゴシックな洋館舞台に、美青年@キムと彼の人形@みみとか、そーゆーちょっと病んだ系の設定が見てみたい……。
あ、執事@まっつと、館に偶然迷い込んでしまった旅人@ちぎもヨロシク。
しみじみと、実感。
というのもだ、昨日「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」を見て自分的に大騒ぎしていた、AB型コーナーの、手をつなぐちぎまつが、肝心の「ザ・タカラヅカV雪組特集」には、カケラも存在しなかったんだ。
いや~~、そんな気はしてたんだけど(笑)。
「ザ・タカラヅカV雪組特集check!」では、AB型コーナーだけで、数種類の撮影をしていたの。
何種類も、ポーズやコンセプトを変えて、えんえん撮影してるけどさあ、血液型コーナーって、そんなに何種類も写真載ったっけ? ふつー1ページだよね? その1ページに、なんショットも入れてくれたっけ?
ヘタすると1ショットのみ、こんだけ何種類もある写真のほとんどはボツとして世に残らないんぢゃ……?
危惧しては、いた。
いたけど、まさに予感的中。悪い予感は当たるもの。
なんかいちばん、画としてつまんない構図のモノが、選ばれてる……。
巻末のおまけコーナーの写真の方が、画面としておもしろいと思うんだけどなー。
で、わたしがハクハクしていた手つなぎショットは、たぶん画面としてはいちばんまともだったと思う。隣の人となにかしらつながって同じ方向を見つめているわけだから、グループショットとして絵になる……つまり、いちばんふつう。
構図として優れているかどうかではなく、「AB型は、誰にも理解できません」という1文を言いたいためだけに選別されているわけだから、あのいちばんアレなものが選ばれちゃったんだろうなあ。残念。
他の血液型の人たちだって、スカステで見た別構図の方がおもしろかったし、黒燕尾だって、全員一列にちょこんと坐っていた可愛らしいショットも掲載されてないし……誌面に限りがあるのはわかるが、残念なチョイスだなあ。
そしてなにより、キムみみ。
スカステと誌面では、リボン写真の印象違いすぎ……(笑)。
スカステでは、まず冒頭にそれぞれの単品写真撮影風景として、リボンを手に巻いたショットがあり、血液型コーナーを挟んだ後半に、キムみみのコンビ写真撮影風景があった。
起の部分でチラ見させた伏線(個々のリボン)を、転の部分でばーんと盛り上げたわけだ。リボンにぐるぐる巻きになるキムみみで。
それが、いざ雪組本では、そんな構成にはなっておらず、ふつーにキムくんコーナー(ひとりでリボン)、見開きでキムみみ(ふたりでリボン)、みみちゃんコーナー(ひとりでリボン)という順番。
ひとりとひとりが出会って運命で、というより、右と左と真ん中、というだけに見えた。右(キム)、真ん中(キムみみ)、左(みみ)という、ページの順番なだけ(笑)。
しかも真ん中の、ふたりでリボンの写真、せっかくのリボンを巻いた腕が、ページのノドのところに来ていて、ぱっと見わからない……。
スカステを見ずに、いきなりこの雪組本見たら、キムみみのリボンに感銘は受けなかったろうなあ……。
素材はいいはずなのに、いまいち盛り上がらないのは、本のデザインをした人と、わたしの嗜好が合わないんだと思う。
なんにもしてない、キムみみの写真まんまの力ですげー破壊力の表紙が、いちばんイイ……ナニか意図が加わっている、中の構成はいまいちだ……。
てことで、スカステがあって良かった。
組本に載っている写真は膨大な映像・画像の中の、ほんのわずかなものに過ぎないんだもんなー。
ちぎまつの手つなぎを見られたこと、キムみみのリボンに泣けたこと、映像は偉大だ、スカステさんありがとう!(笑)
でもって。
組本撮影やインタビューって、『ドン・カルロス』のお稽古中とかムラ公演中にされていた……よねえ? 話している内容的に、この頃だよね?
その時点で、キムくんの退団が決まってないっぽいのが……。
キムくんはもちろんのこと、他の人たちもみんな、「新生雪組がようやく落ち着いてきた」「さあ、これからだ!」と思っている感じなのが、もお……。
当たり前に、「未来」を語っている……。「これから」を語っている……。
そりゃ、退団が決まっていても発表するそのときまでは「まだまだがんばります!」と言うのがタカラジェンヌのお約束だけど、インタビュー時点では発表前でも、発売日が発表後なら、インタビューで「わたしは卒業が決まっていますが、最後の日まで成長し続けたいと思います」とか、語ることは可能じゃん?
トップスター人事はかなり前から決まっていて、ソレに合わせてすべてのスケジュールが綿密に組まれているものなんでしょう?
退団発表後に「音月桂率いる雪組の薔薇色未来の宣伝」を1冊かけてやっても機会損失、むしろ「残り少ない音月桂の舞台を盛り上げよう」テーマの方が企業としても正しいし、ファン感情に沿っているのでは?
キムみみをはじめ、「このメンバーでこれからもっとがんばるぞ!」とわくわく話している姿が、切ない……。
や、わたしがそう受け取っただけで、他の人には「どっから見ても退団を前提にした話しかしてないじゃん!」かもしんないけどさー。
キムみみの写真集出してほしいなあ。
かわいこちゃんとか幼いやつはもういいから、組本表紙の路線で。
ゴシックな洋館舞台に、美青年@キムと彼の人形@みみとか、そーゆーちょっと病んだ系の設定が見てみたい……。
あ、執事@まっつと、館に偶然迷い込んでしまった旅人@ちぎもヨロシク。
正々堂々と生きる、誇りと驕り。@ドン・カルロス
2012年5月11日 タカラヅカ 『ドン・カルロス』の、カルロス@キムの友人関係について、考える。
カルロスは、貴族の若者たちを「親友」と呼ぶし、若者たちもカルロスを「親友」と呼ぶ。
でも実際、親友ぢゃないよね?
まず、ポーザ侯爵@ちぎは、絶対ちがう(笑)。
3年前にネーデルラントに渡り、最近帰国したそうな。国王陛下がおぼえてないくらい(笑)、宮廷から遠い人間だったらしい。
じゃあ言葉だけなの、カルロスに友だちはいないの?
ほんとの意味で友だちだったのって、フアン@ヲヅキだけかもなあ、と思う……。
というのも、カルロスにタメ口を利くのは、フアンだけだからだ。
身分ゆえ、かもしれないが、アレハンドロ@翔くんなんか、カルロス的にはかなりくだけた態度を取っているのに。
羽交い締めにしたりして、男の子らしいじゃれ方をしている。……のに、アレハンドロの方は敬語を崩さず、しかも「崇拝してます!」てな態度。
学友たちとの場面は、カルロスがいっそ可哀想になる。
線を引いているのは、友人たちの方だ。カルロスは「親友」だからと歩み寄っているのに、そのアレハンドロたちからすればカルロスは親友ではなく、あくまでも「殿下」なんだ。
なついているのも「殿下」だから? ……そう思わせてしまう距離感が、寂しい。
そりゃカルロスも「誰も本当の私を知らない」とひとり銀橋で歌っちゃうわけだよ。
親友なんて名前だけ。本当にカルロスと同じところに立つ者はいない。
両者に隔たりがあるのはたしかだけど、悲しいけれど、それでも貴族の若者たちは、あきれるほど素直で純粋だ。
線を引かれることでカルロスは孤独感や絶望感を持っているかもしれないけれど、それでもこの若者たちを愛していたんだろう。
彼らの無垢な瞳は、孤独な王子の救いとなっていただろう。
ネーデルラントの惨状を嘆く彼らは、本当に二心ナシ、心から義憤に憤っているんだ。
若者たちソングで、実は毎回泣けるんだ。
祖国の偉大さを語り、未来を信じる若者たち。
「♪太陽のもと 正々堂々と 声を上げて歩こう」
正々堂々と。
別に「見なかった」ことにしてもいい、他人の苦しみを見過ごせず、我がことのように憤る若者たち。
責任を取る覚悟は出来ていない、所詮子どもの正義だけど、正義は正義。真心は真心。
「自分さえよければ、他人なんかどうでもいい」とは思わないんだ。
弱きものに手を差し伸べることを、「正しい」と思っている。いや、それをして当然、しないことは「間違ったこと」と、思っている。
彼らの高潔さ、幼い自尊心が、キラキラとまぶしい。
若いっていいなあ。
わたしみたいな年寄りは、若者の若さゆえの誇りと驕りを見ると、泣けてくるのよ。じんとして。
愛しくて。
もしもこのあと、カルロスが処刑されていたら、彼らは傷つくんだろうなあ。
自分たちが、幼い正義感で「正しいことをするオレ、かっけー!」程度の気持ちで持ち込んだネーデルラント問題で、尊敬する殿下が殺されてしまったら。
クララ@あんりの死がトラウマになって人生曲がっちゃったポーザ侯爵並に、若者たちも人生歪みそうだ。
若者たちの幼さは、カルロスと次元が違う。
そのことからも、カルロスに友だちはいなかったんだろうなあ、と思う。
フアンとは一緒に育ったそうなので、もう少しくだけた関係があったのかもしれない、あって欲しいと願う。
そうでないと、双方気の毒だ。
カルロスがほんとうにひとりぼっちだったと思うのも、「だから私にもお前がわかる」と断言するフアンが、独り相撲だったりするのも、悲しいもの。
脚本的に、関係らしきものが描かれているのは、フアンとアレハンドロ止まりだと思う。
んで、アレハンドロはちょっと不思議というか、消化できない部分がある、わたし的に。
彼はクチを開くと「殿下大好き」「殿下のためなら命も喜んで投げ出す」と、かなりヘタレな風情で言っている。
翔くんがへたっぴなため、彼の台詞はいちいち幼くて、アタマ良くない感じがすごくするんだわ。
自分で考えて言っているというより、「偉大なる殿下様がこうおっしゃるので、ありがたくこう受け止めております、はい」って感じに聞こえる。他人から右を向けって言われたら右を向くんだろ的トホホさっていうか。
なのにこのアレハンドロくん、カルロスがネーデルラントを救う件を拒絶したときに、すげー冷たい目で、カルロスを見ている。
ヘタレな太鼓持ちにしか見えないのに、何故そこで悪役並みの表情でカルロスをねめつけているの??
アホなのは演技? ほんとはカルロスを軽蔑していて、口先だけで追従していいるの?
それともネーデルラント問題を拒絶されたから、そのとき限定で怒っているの? にしても、その目つきは「親友とこの一件でのみ意見が合わなかった」ときにする目じゃないよ?
そのわずかな場面と、それ以外のときの別人ぶりがものすごくて、よくわかんない……(笑)。
深い演技プランがあってやっているのか、それをわたしが理解できていないだけか、あるいは単にそのう、技術不足で表現できていないだけなのか。
アレハンドロは大変なキャラだなあ(笑)。
翔くんがどーゆーつもりでやっているのかわかんないけど、冷たい目をした彼は、ごっつーカッコイイ。美形だからなあ、翔くん。
てゆーか、アレハンドロ・ファルネーゼ、って、綺麗な名前だわ……『銀英伝』に出られそうなくらい(笑)。
カルロスと友人たちの関係も、もう少しちゃんと描いて欲しかったなあ。
それが「結局、王子としての表面しか見てくれない、名前だけの親友たち」という設定であったとしても。
カルロスは、貴族の若者たちを「親友」と呼ぶし、若者たちもカルロスを「親友」と呼ぶ。
でも実際、親友ぢゃないよね?
まず、ポーザ侯爵@ちぎは、絶対ちがう(笑)。
3年前にネーデルラントに渡り、最近帰国したそうな。国王陛下がおぼえてないくらい(笑)、宮廷から遠い人間だったらしい。
じゃあ言葉だけなの、カルロスに友だちはいないの?
ほんとの意味で友だちだったのって、フアン@ヲヅキだけかもなあ、と思う……。
というのも、カルロスにタメ口を利くのは、フアンだけだからだ。
身分ゆえ、かもしれないが、アレハンドロ@翔くんなんか、カルロス的にはかなりくだけた態度を取っているのに。
羽交い締めにしたりして、男の子らしいじゃれ方をしている。……のに、アレハンドロの方は敬語を崩さず、しかも「崇拝してます!」てな態度。
学友たちとの場面は、カルロスがいっそ可哀想になる。
線を引いているのは、友人たちの方だ。カルロスは「親友」だからと歩み寄っているのに、そのアレハンドロたちからすればカルロスは親友ではなく、あくまでも「殿下」なんだ。
なついているのも「殿下」だから? ……そう思わせてしまう距離感が、寂しい。
そりゃカルロスも「誰も本当の私を知らない」とひとり銀橋で歌っちゃうわけだよ。
親友なんて名前だけ。本当にカルロスと同じところに立つ者はいない。
両者に隔たりがあるのはたしかだけど、悲しいけれど、それでも貴族の若者たちは、あきれるほど素直で純粋だ。
線を引かれることでカルロスは孤独感や絶望感を持っているかもしれないけれど、それでもこの若者たちを愛していたんだろう。
彼らの無垢な瞳は、孤独な王子の救いとなっていただろう。
ネーデルラントの惨状を嘆く彼らは、本当に二心ナシ、心から義憤に憤っているんだ。
若者たちソングで、実は毎回泣けるんだ。
祖国の偉大さを語り、未来を信じる若者たち。
「♪太陽のもと 正々堂々と 声を上げて歩こう」
正々堂々と。
別に「見なかった」ことにしてもいい、他人の苦しみを見過ごせず、我がことのように憤る若者たち。
責任を取る覚悟は出来ていない、所詮子どもの正義だけど、正義は正義。真心は真心。
「自分さえよければ、他人なんかどうでもいい」とは思わないんだ。
弱きものに手を差し伸べることを、「正しい」と思っている。いや、それをして当然、しないことは「間違ったこと」と、思っている。
彼らの高潔さ、幼い自尊心が、キラキラとまぶしい。
若いっていいなあ。
わたしみたいな年寄りは、若者の若さゆえの誇りと驕りを見ると、泣けてくるのよ。じんとして。
愛しくて。
もしもこのあと、カルロスが処刑されていたら、彼らは傷つくんだろうなあ。
自分たちが、幼い正義感で「正しいことをするオレ、かっけー!」程度の気持ちで持ち込んだネーデルラント問題で、尊敬する殿下が殺されてしまったら。
クララ@あんりの死がトラウマになって人生曲がっちゃったポーザ侯爵並に、若者たちも人生歪みそうだ。
若者たちの幼さは、カルロスと次元が違う。
そのことからも、カルロスに友だちはいなかったんだろうなあ、と思う。
フアンとは一緒に育ったそうなので、もう少しくだけた関係があったのかもしれない、あって欲しいと願う。
そうでないと、双方気の毒だ。
カルロスがほんとうにひとりぼっちだったと思うのも、「だから私にもお前がわかる」と断言するフアンが、独り相撲だったりするのも、悲しいもの。
脚本的に、関係らしきものが描かれているのは、フアンとアレハンドロ止まりだと思う。
んで、アレハンドロはちょっと不思議というか、消化できない部分がある、わたし的に。
彼はクチを開くと「殿下大好き」「殿下のためなら命も喜んで投げ出す」と、かなりヘタレな風情で言っている。
翔くんがへたっぴなため、彼の台詞はいちいち幼くて、アタマ良くない感じがすごくするんだわ。
自分で考えて言っているというより、「偉大なる殿下様がこうおっしゃるので、ありがたくこう受け止めております、はい」って感じに聞こえる。他人から右を向けって言われたら右を向くんだろ的トホホさっていうか。
なのにこのアレハンドロくん、カルロスがネーデルラントを救う件を拒絶したときに、すげー冷たい目で、カルロスを見ている。
ヘタレな太鼓持ちにしか見えないのに、何故そこで悪役並みの表情でカルロスをねめつけているの??
アホなのは演技? ほんとはカルロスを軽蔑していて、口先だけで追従していいるの?
それともネーデルラント問題を拒絶されたから、そのとき限定で怒っているの? にしても、その目つきは「親友とこの一件でのみ意見が合わなかった」ときにする目じゃないよ?
そのわずかな場面と、それ以外のときの別人ぶりがものすごくて、よくわかんない……(笑)。
深い演技プランがあってやっているのか、それをわたしが理解できていないだけか、あるいは単にそのう、技術不足で表現できていないだけなのか。
アレハンドロは大変なキャラだなあ(笑)。
翔くんがどーゆーつもりでやっているのかわかんないけど、冷たい目をした彼は、ごっつーカッコイイ。美形だからなあ、翔くん。
てゆーか、アレハンドロ・ファルネーゼ、って、綺麗な名前だわ……『銀英伝』に出られそうなくらい(笑)。
カルロスと友人たちの関係も、もう少しちゃんと描いて欲しかったなあ。
それが「結局、王子としての表面しか見てくれない、名前だけの親友たち」という設定であったとしても。
愛の矢印の方向と。@ドン・カルロス
2012年5月12日 タカラヅカ 今さらだけど『ドン・カルロス』のいろんなこと。
カルロス@キムとレオノール@みみの関係、心の矢印の証し方がうまいなあと。
わたしは片想いスキーなので、今回カルロスの爆裂片想いっぷりがツボ。
オープニングの狩り場からひとりはぐれた形で銀橋に登場したカルロスは、その孤独を歌い「こんな自分が愛する人は……」と話を展開させる。
ここではまだ、「愛する人」の名前は出さない。
だけど、「♪その人の名は……」のあとに、登場した女官を見て、「レオノール」と呼ぶんだよね。
名前は言っていない。でも、言ったのと同じ。
うれしそうに笑う。
子どもの頃の話なんかをはじめる。
カルロスが、現れた女官に友好的なことがわかる。
なのにその女官……レオノールは、聞いちゃいねえ。
レオノールはお役目大事。主のイサベル@あゆみをエスコートすることしか考えてない。
「思い出の場所でなつかしい子に会えた」とうれしげなカルロスとの、温度差。
カルロスの愛する人は誰なのか。
わたしたちはトップスターの相手役はトップ娘役だと知っているから、最初からネタバレしているわけだけど、ふつうに作品だけ脚本演出だけ見ると、わざと伏せられている。
タカラヅカで、「愛しているし、それを隠すわけではないけれど、この場ではあえて伏せている」という構成はめずらしいと思う。
全年齢対象のわかりやすく短時間で起承転結するエンタメであるタカラヅカでは、トップスターが誰を愛しているかは、いつだって即表現が基本。誰を愛しているのかわからない状態を作る時間もなければ、観客にそんな機微を求めもしない。
スターはいつも、愛に一途、一直線。愛を表現しない・できない状況……「恋に落ちたけど気づいていない」とか「禁断の恋に耐えている」とかならアリだけど、それ以外はアモーレ、ジュテーム、愛をうるさく訴える。
カルロスが誰を愛しているのか。
それは次の場面、王の謁見に引き継がれる。
結ばれない相手との恋をほのめかすカルロスに、フェリペ二世@まっつはイサベルとの関係を疑う。
ミステリ的な展開ですな。
ちゃんと段階踏んで疑惑が大きくなるようにしてある。
カルロスがようやく心の内を言葉にするのはさらにあと、学友たちと別れ、自室にひとりになってから。
……ひとりにならないと、愛する人のことも想えない。家族にも、友だちにも、真実は打ち明けられない。そんな孤独な王子。
仲間とはぐれたひとりぼっちの銀橋で、心の内を歌っていたように。
銀橋で「みなに愛されうらやまれる立場だが、本当は孤独だ」と歌った、その歌が真実であると、なんの誇張も嘘偽りもないと、実際に父や民、友人たちとの関係を見せることで、観客に提示したんだよね。
マドリードの民たちはあんなにカルロスを慕っている。フアナ@リサリサやルイ・ゴメス@がおりもカルロスを愛し、かわいがっている。友人たちからは尊敬と愛情を受けている。実の父フェリペ二世とは隔たりがある。
銀橋の歌、そのままだ。
同じ様式で表現して見せ、そこから「愛する人」の話へつながる。なんて計算された構成。
「♪その人の名は……」と、銀橋の歌の続きを、歌う。
ここではじめて、ようやく。
「レオノール」と名を呼ぶ。
あの女官がそうだったのか。観客ははじめて知るわけだ。
フェリペ二世がイサベルとの関係を疑ったように、観客も「ひょっとして?」と揺れるわけだから、正解を得て記憶を振り返り「そういえば、冒頭で会ったときにやたらうれしそうだったし、イサベルの勝手な行動でレオノールが責められないか、やたら気にしてたよな」と思い、「なるほど、そういうことだったのか」と納得する。
主人公の愛の矢印をあえて伏せて、疑惑とそれゆえの行動を周囲に起こさせる。
構成上伏せてあるだけで、主人公にブレはない。
だから愛の矢印を明かしたところから、物語がふたつ進みはじめる。カルロスが愛しているレオノールとの物語と、カルロスが愛していると周囲が勝手に思っているイサベルとの物語が。
また、カルロス自身の矢印はレオノールに向いていると提示されたが、レオノールがどうなのか、これまたすぐには明かされない。
ヅカではめずらしい。
ここまで引っ張ってようやく「愛する人はレオノール」と脚本上明かしたカルロス。
解禁!とばかりに愛を歌う。
そこへ、愛するレオノール自身が現れる。
これも、冒頭場面と同じ展開。孤独の表現→愛する人の名は→レオノール登場。
切ないことに、そのあとの展開も同じ。
愛する人を思っていたら、その人自身が現れた。愛が通じた?とか、やっぱり運命の赤い糸で結ばれている?とか、盛り上がって当然、実際カルロス、テンション上がりまくり。
なのにレオノールは、お役目大事、仕事でやってきただけで低温。カルロス空回り。
レオノールが来た!とわかった瞬間のカルロスの舞い上がりっぷりと、仕事できただけだとわかったときの落ちっぷりの、差がすごい。
立場的にろくに会えない、会っても言葉を交わせない初恋の幼なじみと、なつかしい場所で再会、でもやっぱりろくに話せなかった……その夜に、部屋まで忍んで来てくれたら、そりゃ舞い上がるって。期待するって。
もっと話したかった、そう思ったのは自分だけじゃなかった。女の身で、男の寝室の下まで忍んでくるなんて、そこまでさせてしまった・してくれるなんて、感激!
大喜びするカルロス。
恋愛モード全開で庭へ降りて。
肩すかしくらったときの、顔。
「ノーラ(はぁと)」と甘さ全開だったのに、またですます調に戻ったり。
切ない。
切ないよカルロス!
レオノールは立場をわきまえ、自分の心を見せない。ついこぼれてしまいそうになるが、凛と律する。
カルロスとしては、ここは愛の告白、プロポーズ場面なんだよね。
子どもの頃の誓い、「生涯懸けて愛し抜く」を口にしたわけだから。
なのに、レオノールには拒絶。
子どもの頃から思い続けた相手に、振られた。
身分を理由にしているし、実際その通りなんだけど、身分を超えるほど愛してくれていないってことで。いや、超えるほど愛されたとして、カルロスになにができるわけでもなく。
あらゆる意味で、失恋。
だから、もう二度と会わない。会えない。
カルロスは笑って、おどけて、「遠く離れてあなたのしあわせを祈ります」と告げる。
相手に負担をかけない。どんなときも、相手を思いやる。それがカルロス。
たったひとつの愛を失ってなお、道化のように笑う。
言葉を絞り出したあと、顔を歪めて走り去る。泣き顔を見せないために。
そんなカルロスの想いを、レオノールはすべてわかっている。
ずーっと伏せられていたレオノールの真実が明かされるのが、そのあとの場面。
カルロスが去ったあとの、レオノールの背中が切ない。
愛する人を拒絶して、傷つけて。強がらせて。泣きたいのに相手のためにあえて笑う、そんなことまでさせて。
ふたりともが、ふたり分、傷ついて。
ひとり歩き出す、レオノールの背中が切ない。
ここまで伏せられてきた、ここまで耐えてきた、レオノールの想いが爆発する。
彼女の愛の矢印がどこへ向かっているのか、正解がようやく明かされる。
うまいよなあ、この構成。
満天の星の中、おなじ旋律で愛を歌うレオノールとカルロス。
愛を拒絶されたカルロスもまた、変わることなくレオノールを思っている。
この愛は、損なわれることがない。相手に否定されたからって、自分の思いは変わらない。
カルロスとレオノールの物語は、互いの矢印の向きが確認されたところで、一旦完結、一部完、はいここでCM、みたいな。
しかし、矢印が伏せられていたことでスタートした、もうひとつの物語が進行している。
すなわち、カルロスがイサベルを愛していると誤解している人たちの物語。
キムシンなのに、構成が密でびびります(笑)。
うまいよね。
カルロス@キムとレオノール@みみの関係、心の矢印の証し方がうまいなあと。
わたしは片想いスキーなので、今回カルロスの爆裂片想いっぷりがツボ。
オープニングの狩り場からひとりはぐれた形で銀橋に登場したカルロスは、その孤独を歌い「こんな自分が愛する人は……」と話を展開させる。
ここではまだ、「愛する人」の名前は出さない。
だけど、「♪その人の名は……」のあとに、登場した女官を見て、「レオノール」と呼ぶんだよね。
名前は言っていない。でも、言ったのと同じ。
うれしそうに笑う。
子どもの頃の話なんかをはじめる。
カルロスが、現れた女官に友好的なことがわかる。
なのにその女官……レオノールは、聞いちゃいねえ。
レオノールはお役目大事。主のイサベル@あゆみをエスコートすることしか考えてない。
「思い出の場所でなつかしい子に会えた」とうれしげなカルロスとの、温度差。
カルロスの愛する人は誰なのか。
わたしたちはトップスターの相手役はトップ娘役だと知っているから、最初からネタバレしているわけだけど、ふつうに作品だけ脚本演出だけ見ると、わざと伏せられている。
タカラヅカで、「愛しているし、それを隠すわけではないけれど、この場ではあえて伏せている」という構成はめずらしいと思う。
全年齢対象のわかりやすく短時間で起承転結するエンタメであるタカラヅカでは、トップスターが誰を愛しているかは、いつだって即表現が基本。誰を愛しているのかわからない状態を作る時間もなければ、観客にそんな機微を求めもしない。
スターはいつも、愛に一途、一直線。愛を表現しない・できない状況……「恋に落ちたけど気づいていない」とか「禁断の恋に耐えている」とかならアリだけど、それ以外はアモーレ、ジュテーム、愛をうるさく訴える。
カルロスが誰を愛しているのか。
それは次の場面、王の謁見に引き継がれる。
結ばれない相手との恋をほのめかすカルロスに、フェリペ二世@まっつはイサベルとの関係を疑う。
ミステリ的な展開ですな。
ちゃんと段階踏んで疑惑が大きくなるようにしてある。
カルロスがようやく心の内を言葉にするのはさらにあと、学友たちと別れ、自室にひとりになってから。
……ひとりにならないと、愛する人のことも想えない。家族にも、友だちにも、真実は打ち明けられない。そんな孤独な王子。
仲間とはぐれたひとりぼっちの銀橋で、心の内を歌っていたように。
銀橋で「みなに愛されうらやまれる立場だが、本当は孤独だ」と歌った、その歌が真実であると、なんの誇張も嘘偽りもないと、実際に父や民、友人たちとの関係を見せることで、観客に提示したんだよね。
マドリードの民たちはあんなにカルロスを慕っている。フアナ@リサリサやルイ・ゴメス@がおりもカルロスを愛し、かわいがっている。友人たちからは尊敬と愛情を受けている。実の父フェリペ二世とは隔たりがある。
銀橋の歌、そのままだ。
同じ様式で表現して見せ、そこから「愛する人」の話へつながる。なんて計算された構成。
「♪その人の名は……」と、銀橋の歌の続きを、歌う。
ここではじめて、ようやく。
「レオノール」と名を呼ぶ。
あの女官がそうだったのか。観客ははじめて知るわけだ。
フェリペ二世がイサベルとの関係を疑ったように、観客も「ひょっとして?」と揺れるわけだから、正解を得て記憶を振り返り「そういえば、冒頭で会ったときにやたらうれしそうだったし、イサベルの勝手な行動でレオノールが責められないか、やたら気にしてたよな」と思い、「なるほど、そういうことだったのか」と納得する。
主人公の愛の矢印をあえて伏せて、疑惑とそれゆえの行動を周囲に起こさせる。
構成上伏せてあるだけで、主人公にブレはない。
だから愛の矢印を明かしたところから、物語がふたつ進みはじめる。カルロスが愛しているレオノールとの物語と、カルロスが愛していると周囲が勝手に思っているイサベルとの物語が。
また、カルロス自身の矢印はレオノールに向いていると提示されたが、レオノールがどうなのか、これまたすぐには明かされない。
ヅカではめずらしい。
ここまで引っ張ってようやく「愛する人はレオノール」と脚本上明かしたカルロス。
解禁!とばかりに愛を歌う。
そこへ、愛するレオノール自身が現れる。
これも、冒頭場面と同じ展開。孤独の表現→愛する人の名は→レオノール登場。
切ないことに、そのあとの展開も同じ。
愛する人を思っていたら、その人自身が現れた。愛が通じた?とか、やっぱり運命の赤い糸で結ばれている?とか、盛り上がって当然、実際カルロス、テンション上がりまくり。
なのにレオノールは、お役目大事、仕事でやってきただけで低温。カルロス空回り。
レオノールが来た!とわかった瞬間のカルロスの舞い上がりっぷりと、仕事できただけだとわかったときの落ちっぷりの、差がすごい。
立場的にろくに会えない、会っても言葉を交わせない初恋の幼なじみと、なつかしい場所で再会、でもやっぱりろくに話せなかった……その夜に、部屋まで忍んで来てくれたら、そりゃ舞い上がるって。期待するって。
もっと話したかった、そう思ったのは自分だけじゃなかった。女の身で、男の寝室の下まで忍んでくるなんて、そこまでさせてしまった・してくれるなんて、感激!
大喜びするカルロス。
恋愛モード全開で庭へ降りて。
肩すかしくらったときの、顔。
「ノーラ(はぁと)」と甘さ全開だったのに、またですます調に戻ったり。
切ない。
切ないよカルロス!
レオノールは立場をわきまえ、自分の心を見せない。ついこぼれてしまいそうになるが、凛と律する。
カルロスとしては、ここは愛の告白、プロポーズ場面なんだよね。
子どもの頃の誓い、「生涯懸けて愛し抜く」を口にしたわけだから。
なのに、レオノールには拒絶。
子どもの頃から思い続けた相手に、振られた。
身分を理由にしているし、実際その通りなんだけど、身分を超えるほど愛してくれていないってことで。いや、超えるほど愛されたとして、カルロスになにができるわけでもなく。
あらゆる意味で、失恋。
だから、もう二度と会わない。会えない。
カルロスは笑って、おどけて、「遠く離れてあなたのしあわせを祈ります」と告げる。
相手に負担をかけない。どんなときも、相手を思いやる。それがカルロス。
たったひとつの愛を失ってなお、道化のように笑う。
言葉を絞り出したあと、顔を歪めて走り去る。泣き顔を見せないために。
そんなカルロスの想いを、レオノールはすべてわかっている。
ずーっと伏せられていたレオノールの真実が明かされるのが、そのあとの場面。
カルロスが去ったあとの、レオノールの背中が切ない。
愛する人を拒絶して、傷つけて。強がらせて。泣きたいのに相手のためにあえて笑う、そんなことまでさせて。
ふたりともが、ふたり分、傷ついて。
ひとり歩き出す、レオノールの背中が切ない。
ここまで伏せられてきた、ここまで耐えてきた、レオノールの想いが爆発する。
彼女の愛の矢印がどこへ向かっているのか、正解がようやく明かされる。
うまいよなあ、この構成。
満天の星の中、おなじ旋律で愛を歌うレオノールとカルロス。
愛を拒絶されたカルロスもまた、変わることなくレオノールを思っている。
この愛は、損なわれることがない。相手に否定されたからって、自分の思いは変わらない。
カルロスとレオノールの物語は、互いの矢印の向きが確認されたところで、一旦完結、一部完、はいここでCM、みたいな。
しかし、矢印が伏せられていたことでスタートした、もうひとつの物語が進行している。
すなわち、カルロスがイサベルを愛していると誤解している人たちの物語。
キムシンなのに、構成が密でびびります(笑)。
うまいよね。
しあわせは歩いてこない、だから。@ドン・カルロス
2012年5月13日 タカラヅカ 『ドン・カルロス』の感想あれこれ。
教会に集まったマドリードの人たち、回を追うごとに小芝居が多く大きくなっていって、楽しかった。
全員が位置移動はせず、客席に顔を向けているのだから、眺めるには最適。いろんなところの、いろんな子たちをチェックした。
下級生たちもみんなそれぞれ芝居していて良いのだけど、やっぱ目立つのは上級生。
わたしがすげえなと思うのは、ヒメと朝風くんのカップル。
ナニがすごいって、ヒメの、可憐キャラ。
可憐ですよ、可憐。今さら、可憐。
……なんか、久しぶりに見た、可憐なヒメ。年配とか疲れているとかで弱々しいんじゃない、ほんっとーに、王道ど真ん中に、「若く美しい可憐な娘」を演じている。
しかも、ダーリンあり。ラブラブ。
すごいなあ。ヒメ、可憐な演技も出来るんだ……。
実際、きれいです。いじらしいです。
やれば出来る、ってことは、今まではあえてやっていなかったのか……。
ヒメというと、いつでもどこでももれなく濃かったもんでなあ。昔懐かし、コム姫トップ時代の新進娘役だった頃のヒメを思い出す演技だったよ……。
そんな可憐な美女ヒメをどっしり受け止めて、遜色ない包容力ある朝風くん。
いいなあ(笑)。
ここの上手にいる従者は央雅くん。なにがどうじゃないが、ぼーっと彼を眺めていることも多い。
好きだなー、央雅くん(笑)。
ハンドダンスのカルロスの明るさとやんちゃさが好き。あのアホ父のことがなければ、カルロスはどんな男の子だったんだろう。
歌声も見事。
「♪音を立てたらしあわせに」という歌詞もいいなあ。
しあわせになる意志。どんなところでも、どんなときでも、楽しむこと、しあわせを感じることは、自分次第。
ハンドダンスでいちばんかわいいのは、フアナ様@リサリサだと思う。
カルロスに促され、おそるおそるテーブルを叩いてみる。
次に、周囲を伺いながら、同じ振りをしてみる。
……これがもお、すっげーかわいいっ。
ノリノリに前に出るのではなく、おそるおそるなのがいい。それでも、楽しんでいる風なのがまた。
彼女の性格を表しているよな。
出過ぎない、わきまえている、律している、だけど柔軟である。
フアナとカルロスは、似ていると思う。
フアナがカルロスの育ての親であるということ、この女性の背中を見て育った青年がカルロスなのだということ、それがすんなり理解できる。
ダンス終了後の「♪お優しい殿下に 心から感謝を」という市民の声が、染み渡る。
まっすぐな愛情って、伝わる。
愚直なまでの、ストレートな愛情。
演じている雪組っこたちも、ほんとに素直でいい子たちなんだろうなあ。心の底からそう思って歌っているんだってことが、伝わる。
舞台を愛し、トップスターのキムくんを愛しているんだな。
そのあとのルイ・ゴメス@がおりのアドリブは、毎回「ナニを言うんだろう」と楽しみにしてはいるが、じつはあまり好きでもない。
日替わりでがんばっているのはわかるけれど、ルイ・ゴメスのキャラクタや作品に合っていない、「その場限りの愉快なこと」を言ったりもするので。
この作品ではアドリブの笑いを求めていないので、流れに合わない台詞を言うくらいなら、やらなくていいのになあと思う。
……ごめんよがおり。がおりかわいいよ、がおり。
「ナニを言うんだろう」と楽しみにしているのは、がおり自身に対してであって、ルイ・ゴメスに対してじゃない。がおりを好きだってだけ。
話したあと、立ち去ろうとするカルロスを呼び止めるフアナ様。「いつか王と話し合いなさい」と。
あの礼儀正しい、如才なく対応できるカルロスが、返事できない。
大好きな叔母に、嘘はつけない。口先だけで「わかりました」とは言えない。
「わかり合えない親子ではないはず」と言われ、うなずけず、ただ曖昧に笑うカルロスが、切なすぎる。
いやあ、カルロスの萌え表情のひとつっす。
「いい子」のカルロスが、いい子でいられない一瞬。
てゆーか、どんだけ苦手やねん、パパ。
あのカルロスをここまで追い詰めるって、ほんとひどいわパパ!
仮面舞踏会はわたし、毎回どこを見ているんだろうなと思う。
誰を見るとはあまりなく、全体の雰囲気を楽しんでいるっぽい。
ティツィアーノ@コマくんの美貌と美声を堪能していることは、言うまでもなく。
コマくんなあ、まさかここしか出番っつーか見せ場がないとは、思ってなかったからなあ。ライトが点いて、彼がセンターで歌い出したときは「キターーッ!!」って気持ちなのに、……これだけで終わるとは。もったいない……。ひたすら、もったいない……。
イサベル@あゆみちゃんに注目してしまうと、それだけで終わってしまう場面なんだ。
イサベルはウザキャラで、デコピンしたくなる(笑)。でも、舞踏会の中、ひとりぼっち泣きそうになっている彼女を見ていると、一緒に泣けてくる。
孤独感がこみ上げてくるのな。
そんな彼女に、ティツィアーノだけが気づいているっぽいのがもう。
……だから、ティツィアーノはもっと使えるキャラだと思うのよ、使おうよキムシン!
そいでもって、仮面で顔が見えないと、姿の格好良さ勝負になるよなあ。
ヲヅキさんは押し出しいいし、きんぐがこれまたかっこいいんだわー。
そして、咲ちゃんのスタイルが際立つ。
で反対に、美貌を封印された翔くんは、スタイルの残念さが目立つという……。
エボリ公女@あゆっちから、「父親は、貴方よ」と言われたときの、ポーザ侯爵@ちぎくんの「がーんっ!!」顔が好物。
初日からしばらくは、ここでポーザ侯爵は「えっ!!」と返していたのね。
ええ、客席から、笑いが起こっていました。
お笑い場面に見えるわなあ。
いきなり赤ん坊見せて「父親は貴方」だもん。またちぎくんがわかりやすく「がーんっ!!」とやっているし。コントっぽく見えちゃうのなー。
ここで「えっ!!」と返しちゃうのがいかんのだろう、とちぎくんは考えたんだと思う。「えっ!!」の言い方が回を追うごとに変わり、できるだけ音を出さない声になり、ついに台詞なしになった。
東宝では最初から息をのむだけになってるよね?
コントに見えないよう、どんどん変えていったんだな、現場の空気を読みながら。ちぎくん、えらいなあ。
男にとってのいちばんの恐怖、かもしれないなあ。昔の女から「貴方の子よ」と赤ん坊を見せられるってのは(笑)。
エボリ公女はかっこいいと思う。自分の意志と力で乱世を生き抜く女、って感じ。
愛と打算は別、ポーザ侯爵のことは、ほんとうに好きなんだろうな。
しかし……1年前、絶対アレしてアレなことになり、結果「父親は貴方」なんだろうな(笑)。ポーザ大変。こわいわー(笑)。
教会に集まったマドリードの人たち、回を追うごとに小芝居が多く大きくなっていって、楽しかった。
全員が位置移動はせず、客席に顔を向けているのだから、眺めるには最適。いろんなところの、いろんな子たちをチェックした。
下級生たちもみんなそれぞれ芝居していて良いのだけど、やっぱ目立つのは上級生。
わたしがすげえなと思うのは、ヒメと朝風くんのカップル。
ナニがすごいって、ヒメの、可憐キャラ。
可憐ですよ、可憐。今さら、可憐。
……なんか、久しぶりに見た、可憐なヒメ。年配とか疲れているとかで弱々しいんじゃない、ほんっとーに、王道ど真ん中に、「若く美しい可憐な娘」を演じている。
しかも、ダーリンあり。ラブラブ。
すごいなあ。ヒメ、可憐な演技も出来るんだ……。
実際、きれいです。いじらしいです。
やれば出来る、ってことは、今まではあえてやっていなかったのか……。
ヒメというと、いつでもどこでももれなく濃かったもんでなあ。昔懐かし、コム姫トップ時代の新進娘役だった頃のヒメを思い出す演技だったよ……。
そんな可憐な美女ヒメをどっしり受け止めて、遜色ない包容力ある朝風くん。
いいなあ(笑)。
ここの上手にいる従者は央雅くん。なにがどうじゃないが、ぼーっと彼を眺めていることも多い。
好きだなー、央雅くん(笑)。
ハンドダンスのカルロスの明るさとやんちゃさが好き。あのアホ父のことがなければ、カルロスはどんな男の子だったんだろう。
歌声も見事。
「♪音を立てたらしあわせに」という歌詞もいいなあ。
しあわせになる意志。どんなところでも、どんなときでも、楽しむこと、しあわせを感じることは、自分次第。
ハンドダンスでいちばんかわいいのは、フアナ様@リサリサだと思う。
カルロスに促され、おそるおそるテーブルを叩いてみる。
次に、周囲を伺いながら、同じ振りをしてみる。
……これがもお、すっげーかわいいっ。
ノリノリに前に出るのではなく、おそるおそるなのがいい。それでも、楽しんでいる風なのがまた。
彼女の性格を表しているよな。
出過ぎない、わきまえている、律している、だけど柔軟である。
フアナとカルロスは、似ていると思う。
フアナがカルロスの育ての親であるということ、この女性の背中を見て育った青年がカルロスなのだということ、それがすんなり理解できる。
ダンス終了後の「♪お優しい殿下に 心から感謝を」という市民の声が、染み渡る。
まっすぐな愛情って、伝わる。
愚直なまでの、ストレートな愛情。
演じている雪組っこたちも、ほんとに素直でいい子たちなんだろうなあ。心の底からそう思って歌っているんだってことが、伝わる。
舞台を愛し、トップスターのキムくんを愛しているんだな。
そのあとのルイ・ゴメス@がおりのアドリブは、毎回「ナニを言うんだろう」と楽しみにしてはいるが、じつはあまり好きでもない。
日替わりでがんばっているのはわかるけれど、ルイ・ゴメスのキャラクタや作品に合っていない、「その場限りの愉快なこと」を言ったりもするので。
この作品ではアドリブの笑いを求めていないので、流れに合わない台詞を言うくらいなら、やらなくていいのになあと思う。
……ごめんよがおり。がおりかわいいよ、がおり。
「ナニを言うんだろう」と楽しみにしているのは、がおり自身に対してであって、ルイ・ゴメスに対してじゃない。がおりを好きだってだけ。
話したあと、立ち去ろうとするカルロスを呼び止めるフアナ様。「いつか王と話し合いなさい」と。
あの礼儀正しい、如才なく対応できるカルロスが、返事できない。
大好きな叔母に、嘘はつけない。口先だけで「わかりました」とは言えない。
「わかり合えない親子ではないはず」と言われ、うなずけず、ただ曖昧に笑うカルロスが、切なすぎる。
いやあ、カルロスの萌え表情のひとつっす。
「いい子」のカルロスが、いい子でいられない一瞬。
てゆーか、どんだけ苦手やねん、パパ。
あのカルロスをここまで追い詰めるって、ほんとひどいわパパ!
仮面舞踏会はわたし、毎回どこを見ているんだろうなと思う。
誰を見るとはあまりなく、全体の雰囲気を楽しんでいるっぽい。
ティツィアーノ@コマくんの美貌と美声を堪能していることは、言うまでもなく。
コマくんなあ、まさかここしか出番っつーか見せ場がないとは、思ってなかったからなあ。ライトが点いて、彼がセンターで歌い出したときは「キターーッ!!」って気持ちなのに、……これだけで終わるとは。もったいない……。ひたすら、もったいない……。
イサベル@あゆみちゃんに注目してしまうと、それだけで終わってしまう場面なんだ。
イサベルはウザキャラで、デコピンしたくなる(笑)。でも、舞踏会の中、ひとりぼっち泣きそうになっている彼女を見ていると、一緒に泣けてくる。
孤独感がこみ上げてくるのな。
そんな彼女に、ティツィアーノだけが気づいているっぽいのがもう。
……だから、ティツィアーノはもっと使えるキャラだと思うのよ、使おうよキムシン!
そいでもって、仮面で顔が見えないと、姿の格好良さ勝負になるよなあ。
ヲヅキさんは押し出しいいし、きんぐがこれまたかっこいいんだわー。
そして、咲ちゃんのスタイルが際立つ。
で反対に、美貌を封印された翔くんは、スタイルの残念さが目立つという……。
エボリ公女@あゆっちから、「父親は、貴方よ」と言われたときの、ポーザ侯爵@ちぎくんの「がーんっ!!」顔が好物。
初日からしばらくは、ここでポーザ侯爵は「えっ!!」と返していたのね。
ええ、客席から、笑いが起こっていました。
お笑い場面に見えるわなあ。
いきなり赤ん坊見せて「父親は貴方」だもん。またちぎくんがわかりやすく「がーんっ!!」とやっているし。コントっぽく見えちゃうのなー。
ここで「えっ!!」と返しちゃうのがいかんのだろう、とちぎくんは考えたんだと思う。「えっ!!」の言い方が回を追うごとに変わり、できるだけ音を出さない声になり、ついに台詞なしになった。
東宝では最初から息をのむだけになってるよね?
コントに見えないよう、どんどん変えていったんだな、現場の空気を読みながら。ちぎくん、えらいなあ。
男にとってのいちばんの恐怖、かもしれないなあ。昔の女から「貴方の子よ」と赤ん坊を見せられるってのは(笑)。
エボリ公女はかっこいいと思う。自分の意志と力で乱世を生き抜く女、って感じ。
愛と打算は別、ポーザ侯爵のことは、ほんとうに好きなんだろうな。
しかし……1年前、絶対アレしてアレなことになり、結果「父親は貴方」なんだろうな(笑)。ポーザ大変。こわいわー(笑)。
トップ退団千秋楽の当日券データ。@2012-05
2012年5月14日 タカラヅカ わたしはひそかに、「劇団ダフ屋経営説」を支持する。
ネット文化発展により、チケットはオープン価格になった。メーカー希望小売価格は存在するが、価格自体は売り手が決めて良くなった。
トップスターの退団公演千秋楽などのチケットはプレミアが付き、高額でやり取りされる。
昔はツテのない一般人には、たとえお金があっても買えないモノだったので、お金さえ出せば購入できる今の時代は、ある意味平等になったのかもしれない。
さて、こんな世の中だから、レアなチケットを手にした人が高く販売し、利益を得ている。
金券ショップやダフ屋などだけでなく、一般人も転売で儲けられる。誰がどう、なんてわからない。
千秋楽チケットを高く転配しているモノの中には、劇団の息が掛かったモノがあるんじゃないか?
劇団自身が、赤字補填だかなんだか知らないが、ダフ屋やってんぢゃねーの?
10万20万で売れるとわかっているモノを、わざわざ8000円で売るのはバカらしい、と思ったんぢゃねーの?
そう疑ってしまうのは、トップ退団千秋楽のチケット販売枚数の偏りのせい。
トップ退団千秋楽の当日券は、抽選だ。
お金もコネもない一般ヅカファンにも、サヨナラを見送れる可能性がある。
だがこの抽選の当たりくじの枚数は、一定ではないのだわ。
ファンが多く、チケットを求めて多数が詰めかけるとわかっているときにこそ、当たり枚数を減らす。
ファンの数が少なく、売り切れないだろうな、余るだろうな、ってときにこそ、当たり枚数を増やす。
……わざとやってるよね?
この当たり枚数ってのは、劇場に入れるチケットの数じゃない。
そちらは決まっている。当日B席や立見のことだから。
そうではなく、中継チケット。
劇場に入って見送るのがいちばんいいに決まっている。舞台なんだもん、ナマでなくてなんの意味がある。
でも、それが叶わないならせめて、映像だけでも見たい。……そう思う人だって、一定数いると思うよ?
ってことで、千秋楽当日、中継チケットが販売される。
そのチケット数が、人によって差がありすぎるんだ。
バウホール中継が、あるかないか。
ふつーにヅカヲタやってたらわかるじゃん? どのスターに人気があり、どの人はそれほどでもないか。
その、ふつーのヅカヲタでもわかることが、劇団に理解できていないとは、思えない。
なのに、「人気ある、チケ難必至」な人のときに、バウホール中継なし。
「人気いまいち」な人のときに、バウホール中継あり。
結果、人気スターはチケ難白熱、そーでない人は中継チケットが売りきれず、がらがらの客席で映像を眺めることに。
だから、劇団は、わざとやってるんだよね?
人気スターの千秋楽にバウ中継なしだと、「当日券抽選に懸けるわ。バウででも見られればいいんだもん」という温度の人が「抽選で見られる確率、すごく低いから懸けられない。高額チケットを購入してでも、前もって入手しなきゃ!」ってことになる。
つまり、ダフ屋が儲かる。
劇団がこっそりダフ屋もやっていて、儲けられそうなスターのときは、わざとバウ中継なしにして、値段を吊り上げているのでは?
……と、考えました(笑)。
近年のスター退団千秋楽で、バウ中継なしは、トウコちゃんとゆーひくんのみです。
で、このふたりは、それぞれの時期の人気スターです。
当日抽選に並びに来た人数から、「一般ヅカファン人気」を計れる。
コアなファンは会や高額チケットで先に入手しており、当日抽選にやってくるのはそこまで行かないライトなファン層。
ヅカは斜陽一途なので、退団時期によって動員数はかなりチガウ。だから一概には比べられないけれど、時期ごとに比べることは出来る。
2009年3月 トウコ
前楽 座席券55枚、立見券140枚、並んだ人数1100人。
大楽 座席券42枚 立見券100枚、エスプリ220枚、並んだ人数1500人。
この前後で退団したスターたちの中で、並び人数がいちばん多かったのが、トウコだ。
なのにトウコだけ、バウ中継がなかった。
バウがあれば、500人が中継を見られる。なのにエスプリだったために、220人しか見られなかった。
トウコたちの時代が最後の山だったのか。
そっから先は数ががくっと減る。
2011年3月 まとぶん
前楽 座席券50枚 立見券140枚 並んだ人数 たぶん300人くらい
大楽 座席券60枚 立見券100枚 バウホール券500枚 並んだ人数 たぶん500人くらい……?
正確な数字は紛失したが、記憶と手応えでこんな感じかと。
2012年3月 きりやん
前楽 座席券50枚 立見券140枚 並んだ人数500人ほど
大楽 座席券60枚 立見券100枚 バウホール券500枚 並んだ人数700人弱
どちらも、バウホールは売り切れず、絶賛発売中になっていた。
まとぶんのときは、バウは空席が目立った。てゆーかその、ガラガ……ゲフンゲフン。
きりやんのときがどの程度バウが埋まったのかは、自分で見ていないため不明。
とまあ、チケット販売枚数より少ない人数しか集まらなかったわけだ。
そして、ゆーひさん。
2012年5月 ゆーひ
前楽 座席券42枚 立見券140枚 並んだ人数800人ほど
大楽 座席券50枚 立見券100枚 エスプリ券200枚 並んだ人数1000人
ちょ……っ。
前楽で800人動員しちゃうスターのときに、バウなしって……!!
まとぶん・きりやんは並んだ人全員見られたのに、ゆーひくんは3人にひとりしか見られないって、ひどくない? 劇団の恣意によってだよ?
わざとだと思われても、仕方ないじゃん?
わざとだよね? わかっててやってるよね? ダフ屋を儲けさせたくて、わざとチケ難にしてるんだよね?
くじ運のないわたしは、あえなく玉砕しました……。
自分が中継すら見られなかったから、恨みがましく言っているのだ(笑)。
トウコのときも、そうだったんだよなー。バウがあったら見られたかもしんないのに。
ついでに言うと、エスプリはキライなんだよー。お金取っていいレベルの中継ぢゃないよ? 画面は見えず、音を聴くだけなんだもん。
エスプリホールって、ちゃんとした座席のあるホールじゃなく、団体客がごはん食べるとこなんだよ? そこに椅子を並べてテレビ画面を見るの。3列目以降の人は、画面なんか見えないからねー。大半の人は、音だけ聴くために2000円払うの。ひでーよなー。
それとも今は改善されたのかしら。
家族のこともあり、いろいろ忙しく、精神的肉体的にテンパリつつ。
映像・画像でゆーひくんを眺め、しみじみと寂しい。
なんだろうなあ、青春の終わりを感じるんだなあ。
青春もナニも、わたしはすでに婆ですが、心はいつもがきんちょなもので。
ゆーひくんはわたしの青春だったなあ、なんてな。
大人になってからは遠ざかっていたけど、だからといって10代の頃の煌めきが褪せるはずもなく、大切な大切なキモチだよ、っていうか。
東宝の中継チケットは、手に入るといいなあ。
ネット文化発展により、チケットはオープン価格になった。メーカー希望小売価格は存在するが、価格自体は売り手が決めて良くなった。
トップスターの退団公演千秋楽などのチケットはプレミアが付き、高額でやり取りされる。
昔はツテのない一般人には、たとえお金があっても買えないモノだったので、お金さえ出せば購入できる今の時代は、ある意味平等になったのかもしれない。
さて、こんな世の中だから、レアなチケットを手にした人が高く販売し、利益を得ている。
金券ショップやダフ屋などだけでなく、一般人も転売で儲けられる。誰がどう、なんてわからない。
千秋楽チケットを高く転配しているモノの中には、劇団の息が掛かったモノがあるんじゃないか?
劇団自身が、赤字補填だかなんだか知らないが、ダフ屋やってんぢゃねーの?
10万20万で売れるとわかっているモノを、わざわざ8000円で売るのはバカらしい、と思ったんぢゃねーの?
そう疑ってしまうのは、トップ退団千秋楽のチケット販売枚数の偏りのせい。
トップ退団千秋楽の当日券は、抽選だ。
お金もコネもない一般ヅカファンにも、サヨナラを見送れる可能性がある。
だがこの抽選の当たりくじの枚数は、一定ではないのだわ。
ファンが多く、チケットを求めて多数が詰めかけるとわかっているときにこそ、当たり枚数を減らす。
ファンの数が少なく、売り切れないだろうな、余るだろうな、ってときにこそ、当たり枚数を増やす。
……わざとやってるよね?
この当たり枚数ってのは、劇場に入れるチケットの数じゃない。
そちらは決まっている。当日B席や立見のことだから。
そうではなく、中継チケット。
劇場に入って見送るのがいちばんいいに決まっている。舞台なんだもん、ナマでなくてなんの意味がある。
でも、それが叶わないならせめて、映像だけでも見たい。……そう思う人だって、一定数いると思うよ?
ってことで、千秋楽当日、中継チケットが販売される。
そのチケット数が、人によって差がありすぎるんだ。
バウホール中継が、あるかないか。
ふつーにヅカヲタやってたらわかるじゃん? どのスターに人気があり、どの人はそれほどでもないか。
その、ふつーのヅカヲタでもわかることが、劇団に理解できていないとは、思えない。
なのに、「人気ある、チケ難必至」な人のときに、バウホール中継なし。
「人気いまいち」な人のときに、バウホール中継あり。
結果、人気スターはチケ難白熱、そーでない人は中継チケットが売りきれず、がらがらの客席で映像を眺めることに。
だから、劇団は、わざとやってるんだよね?
人気スターの千秋楽にバウ中継なしだと、「当日券抽選に懸けるわ。バウででも見られればいいんだもん」という温度の人が「抽選で見られる確率、すごく低いから懸けられない。高額チケットを購入してでも、前もって入手しなきゃ!」ってことになる。
つまり、ダフ屋が儲かる。
劇団がこっそりダフ屋もやっていて、儲けられそうなスターのときは、わざとバウ中継なしにして、値段を吊り上げているのでは?
……と、考えました(笑)。
近年のスター退団千秋楽で、バウ中継なしは、トウコちゃんとゆーひくんのみです。
で、このふたりは、それぞれの時期の人気スターです。
当日抽選に並びに来た人数から、「一般ヅカファン人気」を計れる。
コアなファンは会や高額チケットで先に入手しており、当日抽選にやってくるのはそこまで行かないライトなファン層。
ヅカは斜陽一途なので、退団時期によって動員数はかなりチガウ。だから一概には比べられないけれど、時期ごとに比べることは出来る。
2009年3月 トウコ
前楽 座席券55枚、立見券140枚、並んだ人数1100人。
大楽 座席券42枚 立見券100枚、エスプリ220枚、並んだ人数1500人。
この前後で退団したスターたちの中で、並び人数がいちばん多かったのが、トウコだ。
なのにトウコだけ、バウ中継がなかった。
バウがあれば、500人が中継を見られる。なのにエスプリだったために、220人しか見られなかった。
トウコたちの時代が最後の山だったのか。
そっから先は数ががくっと減る。
2011年3月 まとぶん
前楽 座席券50枚 立見券140枚 並んだ人数 たぶん300人くらい
大楽 座席券60枚 立見券100枚 バウホール券500枚 並んだ人数 たぶん500人くらい……?
正確な数字は紛失したが、記憶と手応えでこんな感じかと。
2012年3月 きりやん
前楽 座席券50枚 立見券140枚 並んだ人数500人ほど
大楽 座席券60枚 立見券100枚 バウホール券500枚 並んだ人数700人弱
どちらも、バウホールは売り切れず、絶賛発売中になっていた。
まとぶんのときは、バウは空席が目立った。てゆーかその、ガラガ……ゲフンゲフン。
きりやんのときがどの程度バウが埋まったのかは、自分で見ていないため不明。
とまあ、チケット販売枚数より少ない人数しか集まらなかったわけだ。
そして、ゆーひさん。
2012年5月 ゆーひ
前楽 座席券42枚 立見券140枚 並んだ人数800人ほど
大楽 座席券50枚 立見券100枚 エスプリ券200枚 並んだ人数1000人
ちょ……っ。
前楽で800人動員しちゃうスターのときに、バウなしって……!!
まとぶん・きりやんは並んだ人全員見られたのに、ゆーひくんは3人にひとりしか見られないって、ひどくない? 劇団の恣意によってだよ?
わざとだと思われても、仕方ないじゃん?
わざとだよね? わかっててやってるよね? ダフ屋を儲けさせたくて、わざとチケ難にしてるんだよね?
くじ運のないわたしは、あえなく玉砕しました……。
自分が中継すら見られなかったから、恨みがましく言っているのだ(笑)。
トウコのときも、そうだったんだよなー。バウがあったら見られたかもしんないのに。
ついでに言うと、エスプリはキライなんだよー。お金取っていいレベルの中継ぢゃないよ? 画面は見えず、音を聴くだけなんだもん。
エスプリホールって、ちゃんとした座席のあるホールじゃなく、団体客がごはん食べるとこなんだよ? そこに椅子を並べてテレビ画面を見るの。3列目以降の人は、画面なんか見えないからねー。大半の人は、音だけ聴くために2000円払うの。ひでーよなー。
それとも今は改善されたのかしら。
家族のこともあり、いろいろ忙しく、精神的肉体的にテンパリつつ。
映像・画像でゆーひくんを眺め、しみじみと寂しい。
なんだろうなあ、青春の終わりを感じるんだなあ。
青春もナニも、わたしはすでに婆ですが、心はいつもがきんちょなもので。
ゆーひくんはわたしの青春だったなあ、なんてな。
大人になってからは遠ざかっていたけど、だからといって10代の頃の煌めきが褪せるはずもなく、大切な大切なキモチだよ、っていうか。
東宝の中継チケットは、手に入るといいなあ。
異端審問あれこれ。@ドン・カルロス
2012年5月15日 タカラヅカ 『ドン・カルロス』の感想をぽつぽつと。
ある意味いちばん衝撃的だったのは、階段に挟まれているにわにわかもしれない。
異彩を放つ異端審問長官@にわにわ。
クライマックスの異端審問場面において、不安な音楽ののち舞台が明るくなると、セットの階段が真ん中にふたつどーんと配置されている。
そのふたつの階段の間に、にわにわが、いる。
顔色の悪い、あの異端審問長官の姿で。
無表情に。
階段に、挟まれている。
や、正確には、階段と階段の間、の、さらに後ろに坐っているわけなんだが、ぱっと見、階段の間にいるように見える。
階段の間は人ひとりぎりぎり入れるかな、ぐらいなので、センター席からしかちゃんと見えない。
しかしセンター席からは、見えてしまう。
階段に挟まれた、顔色の悪いにわにわが。
はじめて見たときは、衝撃だった。
ナニ……っ?! あたしはナニを見ているの? 見てはならないモノを、見てしまったのか……ッ?!
その、挟まれた状態でも十分アレな画面なのに。
さらにこのにわにわは、動く。……上に。
せり上がっていくんだな。
だもんで、階段に挟まったまま、ずんずん上にあがっていくの。
笑えるよ?
すごい画面なんだもん。
びっくりして、混乱して、ただもお、笑うしかない。
センターに坐ったときのお楽しみです。
階段に挟まれたにわにわ。さらに、挟まったまませり上がるにわにわ。
……キムシンェ。
フェリペ二世@まっつの「ちょ、とーちゃん落ち着け(笑)」というネタではじまった、この騒動。
やっぱりこの人騒がせとーちゃんゆえに、話は終わる。
真面目に考えるといろいろアレな話なんだが。
ちゃんと会話しろよ、夫婦の会話、親子の会話をしておけば、こんな騒ぎになってないんじゃん。
とゆー、それだけのことに思えるけど、それができない王家という特殊な家族の物語だから、仕方ない。
仕方ないことが積み重なって、誰もが真剣に生きて、傷ついてきて。
そうして、ここにたどり着いた。
キムシン的キーワード「見殺し」を口にするフェリペ二世。
彼は、過ちを認めることのできる人間だった。
自分の過ちゆえに、大ごとにしてしまった。
だから彼は、公の場で過ちを認める。
なあなあにしない。誤魔化さない。
公明正大な君主。
だからこそ、臣下は王を讃えるんだ。
フェリペ二世が「この恥は取り返しのつくものだ」と言った瞬間に、その場の貴族たち全員が起立し、「♪太陽の沈むことなき帝国 その未来に栄光あれ」と歌うのが好き。
王が偉業を為したときに歌うのではなく、「過ちを認めた」ときに歌うのよ?
「過ちを認める」ことこそを偉業だと、尊敬していると、訴えるの。
こういう人だから、好きなんだ。こういう人だから、ついていくんだ。その意思表示。
……そんな中、ひとりぷるぷる震えているポーザ侯爵@ちぎが好き過ぎる(笑)。
トレド大主教@ナガさんの厳格さと温かさがいい。
ナガさんが雪組を離れる、最後の作品、最後の役がこうであることに、キムシンの愛情を感じる。
内輪受けでしかないとしても、こういう配役をするところが、タカラヅカの良さだと思う。
多くは語らない、さらりとした台詞の中にこめられたドラマが好き。
なにもかも終わったあと、フアナ@リサリサの計らいで、カルロス@キムのマントを持って現れたレオノール@みみ。
「この人は昨夜、私からも逃げようとしたのですよ」と、フアナは言う。
「もう王宮には帰れません」とカルロスに告げたレオノールは、フアナに呼び止められても、逃げるしかなかったんだろうなあ。
会わせる顔がない。大恩あるフアナに背を向けなければならないレオノールの悲しみや、申し訳なさを思うと、それだけで切ない。
フアナもまた、そんなレオノールの気持ちや立場を理解した上で、脅しつける勢いで、足を止めさせたんだろう。
牢獄で会ったカルロスが、ボロボロのレオノールに声を詰まらせていた。
この時代の女性が、自分で服を破り、脚を見せるなんて、わたしたちの感覚ではわからないほどの恥辱なんじゃないの?
それこそ、もう真っ当な生活は望めないほどの恥。それでもレオノールは自らドレスを破き、石垣を登った。
カルロスが死ねば、彼女も命を絶ったろう。その未来が、結果が、当たり前に見える。浮かぶ。
フアナもまた、それだけの想いを背負って、受け止めて、レオノールを引き留めたんだ。つかまえたんだ。
カルロスが死ねば、レオノールも死ぬ。レオノールが死ねば、カルロスも死ぬ。
愛する若者たちふたりの命を背負い、足を止めさせた。思いとどまらせた。
破滅へ向かうことを、許さず。
そんな女同士のドラマが浮かぶ、台詞ひとつで。
いいよなあ。
……ほんとに。
最初にフアナ様へ相談しておけば、万事解決だったのに、フェリペ二世め。
賢いフアナ様は、カルロスとレオノールの身分違いの恋に引導を渡すため、レオノールに縁談を用意する。
カルロスの友人のフェルディナンド@咲ちゃん。
フアナ様が勝手に準備しただけで、フェルディナンドがレオノールに恋して、とかではないと思う。
レオノールは両親(後ろ盾)を失った下級貴族の出なんだろうな。最初はフアナの侍女として、次に王妃の女官として、知性教養共にばっちり教育済みだろう。今売り出し中の青年貴族の奥方にするのに、ちょうどいい。……王子の妻、王妃には相応しくないとしても。
カルリートとノーラになって、旅立っていくふたり。
銀橋でいちゃいちゃするふたりを残し、フェリペ二世がみなを下がらせるのがイイ。……うん、見てられないよね(笑)。
しあわせな、しあわせな、物語。
音楽が残念、中堅どころの使い方が残念など、言いたいことはあるけれど、大好きな作品。
しあわせなまま、観ていたかったよ。
ある意味いちばん衝撃的だったのは、階段に挟まれているにわにわかもしれない。
異彩を放つ異端審問長官@にわにわ。
クライマックスの異端審問場面において、不安な音楽ののち舞台が明るくなると、セットの階段が真ん中にふたつどーんと配置されている。
そのふたつの階段の間に、にわにわが、いる。
顔色の悪い、あの異端審問長官の姿で。
無表情に。
階段に、挟まれている。
や、正確には、階段と階段の間、の、さらに後ろに坐っているわけなんだが、ぱっと見、階段の間にいるように見える。
階段の間は人ひとりぎりぎり入れるかな、ぐらいなので、センター席からしかちゃんと見えない。
しかしセンター席からは、見えてしまう。
階段に挟まれた、顔色の悪いにわにわが。
はじめて見たときは、衝撃だった。
ナニ……っ?! あたしはナニを見ているの? 見てはならないモノを、見てしまったのか……ッ?!
その、挟まれた状態でも十分アレな画面なのに。
さらにこのにわにわは、動く。……上に。
せり上がっていくんだな。
だもんで、階段に挟まったまま、ずんずん上にあがっていくの。
笑えるよ?
すごい画面なんだもん。
びっくりして、混乱して、ただもお、笑うしかない。
センターに坐ったときのお楽しみです。
階段に挟まれたにわにわ。さらに、挟まったまませり上がるにわにわ。
……キムシンェ。
フェリペ二世@まっつの「ちょ、とーちゃん落ち着け(笑)」というネタではじまった、この騒動。
やっぱりこの人騒がせとーちゃんゆえに、話は終わる。
真面目に考えるといろいろアレな話なんだが。
ちゃんと会話しろよ、夫婦の会話、親子の会話をしておけば、こんな騒ぎになってないんじゃん。
とゆー、それだけのことに思えるけど、それができない王家という特殊な家族の物語だから、仕方ない。
仕方ないことが積み重なって、誰もが真剣に生きて、傷ついてきて。
そうして、ここにたどり着いた。
キムシン的キーワード「見殺し」を口にするフェリペ二世。
彼は、過ちを認めることのできる人間だった。
自分の過ちゆえに、大ごとにしてしまった。
だから彼は、公の場で過ちを認める。
なあなあにしない。誤魔化さない。
公明正大な君主。
だからこそ、臣下は王を讃えるんだ。
フェリペ二世が「この恥は取り返しのつくものだ」と言った瞬間に、その場の貴族たち全員が起立し、「♪太陽の沈むことなき帝国 その未来に栄光あれ」と歌うのが好き。
王が偉業を為したときに歌うのではなく、「過ちを認めた」ときに歌うのよ?
「過ちを認める」ことこそを偉業だと、尊敬していると、訴えるの。
こういう人だから、好きなんだ。こういう人だから、ついていくんだ。その意思表示。
……そんな中、ひとりぷるぷる震えているポーザ侯爵@ちぎが好き過ぎる(笑)。
トレド大主教@ナガさんの厳格さと温かさがいい。
ナガさんが雪組を離れる、最後の作品、最後の役がこうであることに、キムシンの愛情を感じる。
内輪受けでしかないとしても、こういう配役をするところが、タカラヅカの良さだと思う。
多くは語らない、さらりとした台詞の中にこめられたドラマが好き。
なにもかも終わったあと、フアナ@リサリサの計らいで、カルロス@キムのマントを持って現れたレオノール@みみ。
「この人は昨夜、私からも逃げようとしたのですよ」と、フアナは言う。
「もう王宮には帰れません」とカルロスに告げたレオノールは、フアナに呼び止められても、逃げるしかなかったんだろうなあ。
会わせる顔がない。大恩あるフアナに背を向けなければならないレオノールの悲しみや、申し訳なさを思うと、それだけで切ない。
フアナもまた、そんなレオノールの気持ちや立場を理解した上で、脅しつける勢いで、足を止めさせたんだろう。
牢獄で会ったカルロスが、ボロボロのレオノールに声を詰まらせていた。
この時代の女性が、自分で服を破り、脚を見せるなんて、わたしたちの感覚ではわからないほどの恥辱なんじゃないの?
それこそ、もう真っ当な生活は望めないほどの恥。それでもレオノールは自らドレスを破き、石垣を登った。
カルロスが死ねば、彼女も命を絶ったろう。その未来が、結果が、当たり前に見える。浮かぶ。
フアナもまた、それだけの想いを背負って、受け止めて、レオノールを引き留めたんだ。つかまえたんだ。
カルロスが死ねば、レオノールも死ぬ。レオノールが死ねば、カルロスも死ぬ。
愛する若者たちふたりの命を背負い、足を止めさせた。思いとどまらせた。
破滅へ向かうことを、許さず。
そんな女同士のドラマが浮かぶ、台詞ひとつで。
いいよなあ。
……ほんとに。
最初にフアナ様へ相談しておけば、万事解決だったのに、フェリペ二世め。
賢いフアナ様は、カルロスとレオノールの身分違いの恋に引導を渡すため、レオノールに縁談を用意する。
カルロスの友人のフェルディナンド@咲ちゃん。
フアナ様が勝手に準備しただけで、フェルディナンドがレオノールに恋して、とかではないと思う。
レオノールは両親(後ろ盾)を失った下級貴族の出なんだろうな。最初はフアナの侍女として、次に王妃の女官として、知性教養共にばっちり教育済みだろう。今売り出し中の青年貴族の奥方にするのに、ちょうどいい。……王子の妻、王妃には相応しくないとしても。
カルリートとノーラになって、旅立っていくふたり。
銀橋でいちゃいちゃするふたりを残し、フェリペ二世がみなを下がらせるのがイイ。……うん、見てられないよね(笑)。
しあわせな、しあわせな、物語。
音楽が残念、中堅どころの使い方が残念など、言いたいことはあるけれど、大好きな作品。
しあわせなまま、観ていたかったよ。
役者としての彼女・その1。@トークスペシャル in 東京
2012年5月16日 タカラヅカ トークイベントなどで素顔に触れることで、そのジェンヌに興味を持つようになることは、多々ある。
『トークスペシャル in 東京』でいちばん興味深かったのは、沙月愛奈、あゆみちゃんだ。
もともと舞台上でのあゆみちゃんに興味と好意はあるし、これまでもなにかと眺めてきた娘さんではある。
あゆみちゃんは雪組が誇るダンサー。
持ち味が女役風とはいえ、下級生時代はかわいこちゃんの色が強かったが、最近はめっきり「いい女」として確立している。
ダンサーとしてのあゆみちゃんは、いい。
素晴らしいと思っているし、かっこいい、美しい、ずっと観ていたいと思う。
そうではなく、今回改めて考えたのは、「役者」としてのあゆみちゃんだ。
『トクスペ』で本人も語っていたが、彼女はダンサーであり、新公ですらダンス中心の役付、台詞が多い役はろくにやっていない。
それが今回の『ドン・カルロス』では、いきなりの大役でびっくり、本人がいちばんあわてた、と。
今までであゆみちゃんのやった大きな役って、最大のモノでパラーシカ@『黒い瞳』だと思う。あの役はなんつーか、代役だったのかなあ、突然過ぎる上にキャラにも合っていない、謎の抜擢だったなあ、という思い出。
パラーシカって、新進娘役のための役なんだよね。若くてかわいければそれでよし、それ以外できなくてもなんとかなる、みたいな。
だからあゆみちゃんが演じると、なんだかよくわからないことになっていた。
あゆみちゃんは芝居も歌も及第点、破綻はない。ただ……どうにもこうにも、年齢不詳だった。少女なのか年配なのかわからん。お嬢様と同年代から年下の侍女なのか、お嬢様の乳母なのか。
それでももちろん、あゆみちゃんで良かったと思う。大好きな『黒い瞳』、あの作品はまるっと全部好き。
ただ、あゆみちゃんの芝居にはあまり期待しない、ようにはなったな。
及第点、破綻はない。……でも、ナニか、かなり重要なモノが欠けている印象。
今回の配役が発表になったとき、イサベル王妃があゆみちゃんだとわかり、てっきりかなり比重が低いんだと思った。
これまでの彼女の芝居での役付から考えても、芝居の実力から考えても、大きな役じゃない。
ぶっちゃけ王宮場面に坐っているだけで、台詞すら大してないんじゃあ、と思った。『ZORRO 仮面のメサイア』の総督の妻@杏奈ちゃんみたいに、画面に華を添える役目。
タカラヅカには番手がある。娘役は男役ほど明確じゃないけど、雪組の娘役2番手はあゆっちだ。だから大きな役は、あゆっちがやる。
通常、配役を見た段階で、作品の軸と役の比重がわかるもんだ。
あゆっちとあゆみちゃん、それぞれに役名があれば、あゆっちの役が主要キャラで、あゆみちゃんの役は脇キャラ。……それは常識。
たとえ、原作だのオペラだのでイサベルが重要な役、ヒロインクラスの役であっても、あゆみちゃんだっつー段階できっと脇役。
そう思ったのに、フタを開けてみたらマジで大きな役だった。娘役2番手が演じておかしくない役。
娘役としては上級生、されどこれまで芝居で主要な役を演じたことのない人が、いきなり演じていいよーな役じゃなかった。
んで、まあ実際……それほどいいデキぢゃない。あゆみちゃんのイサベル。
よくはやっているし、ムラ初日から東宝までで、いちばん変わったというか成長したのはあゆみちゃんで、役者って、舞台の上でこれだけ変わるんだ!とびっくりさせてくれたくらい、最終的には良くなった。
それは結果論であって、最初はほんと、大変だなあ、という感じだった。
よくはやっている、破綻とまでもいかない、だけどなんか大きなモノが欠けている、足りていない……パラーシカのときと同じ。
そんなあゆみちゃんに対しての印象が、『トクスペ』を観ることで、なんかすとんと腑に落ちた。
あゆみちゃんって……基本的に「芝居」が出来ないのかなあ。
芝居って、技術というか、ツールなんだと思う。
表現する道具。
お絵かきだとすると、紙とクレパスとかに相当するモノ。
「花の絵を描きましょう」って言われて、紙にクレパスで描く。別に色えんぴつでも絵の具でもいい、道具を使って描く。
芝居もその道具。「裏切られた妻を表現しましょう」と言われ、道具を使ってテーマを作る。
でもあゆみちゃんは、道具を使うのではなく、「自分」がそのテーマになろうとする。
道具を使って、技術で「裏切られた妻」を表現するのではなく、「裏切られた妻」そのものになろうとする。
「花の絵を描きましょう」と紙とクレパスを渡されてるのに、苗を植えて花を咲かせようとする。
役者には大雑把に割って2種類あって、技術で役を演じる人と、その役そのものになる人があるんだろうさ。
だからあゆみちゃんは後者、イサベルを演じるためにイサベルそのものになるんだろう。
それはいい。それはあり。
ただ。
役として昇華されていない、あゆみちゃん個人のナマの感情を舞台で見せられてもな、と思う。
憑依系、と称されるようななりきり型ならばそれはアリなんだろうけど、残念ながらあゆみちゃんは、「役のキモチになっているあゆみちゃん」でしかない。
だから見せられるのは、あゆみちゃんのキモチなんだな。
イサベルに感じる足りてなさというか欠落は、そういうことだったのかと。
話は途中だ、翌日欄へ続く!!
『トークスペシャル in 東京』でいちばん興味深かったのは、沙月愛奈、あゆみちゃんだ。
もともと舞台上でのあゆみちゃんに興味と好意はあるし、これまでもなにかと眺めてきた娘さんではある。
あゆみちゃんは雪組が誇るダンサー。
持ち味が女役風とはいえ、下級生時代はかわいこちゃんの色が強かったが、最近はめっきり「いい女」として確立している。
ダンサーとしてのあゆみちゃんは、いい。
素晴らしいと思っているし、かっこいい、美しい、ずっと観ていたいと思う。
そうではなく、今回改めて考えたのは、「役者」としてのあゆみちゃんだ。
『トクスペ』で本人も語っていたが、彼女はダンサーであり、新公ですらダンス中心の役付、台詞が多い役はろくにやっていない。
それが今回の『ドン・カルロス』では、いきなりの大役でびっくり、本人がいちばんあわてた、と。
今までであゆみちゃんのやった大きな役って、最大のモノでパラーシカ@『黒い瞳』だと思う。あの役はなんつーか、代役だったのかなあ、突然過ぎる上にキャラにも合っていない、謎の抜擢だったなあ、という思い出。
パラーシカって、新進娘役のための役なんだよね。若くてかわいければそれでよし、それ以外できなくてもなんとかなる、みたいな。
だからあゆみちゃんが演じると、なんだかよくわからないことになっていた。
あゆみちゃんは芝居も歌も及第点、破綻はない。ただ……どうにもこうにも、年齢不詳だった。少女なのか年配なのかわからん。お嬢様と同年代から年下の侍女なのか、お嬢様の乳母なのか。
それでももちろん、あゆみちゃんで良かったと思う。大好きな『黒い瞳』、あの作品はまるっと全部好き。
ただ、あゆみちゃんの芝居にはあまり期待しない、ようにはなったな。
及第点、破綻はない。……でも、ナニか、かなり重要なモノが欠けている印象。
今回の配役が発表になったとき、イサベル王妃があゆみちゃんだとわかり、てっきりかなり比重が低いんだと思った。
これまでの彼女の芝居での役付から考えても、芝居の実力から考えても、大きな役じゃない。
ぶっちゃけ王宮場面に坐っているだけで、台詞すら大してないんじゃあ、と思った。『ZORRO 仮面のメサイア』の総督の妻@杏奈ちゃんみたいに、画面に華を添える役目。
タカラヅカには番手がある。娘役は男役ほど明確じゃないけど、雪組の娘役2番手はあゆっちだ。だから大きな役は、あゆっちがやる。
通常、配役を見た段階で、作品の軸と役の比重がわかるもんだ。
あゆっちとあゆみちゃん、それぞれに役名があれば、あゆっちの役が主要キャラで、あゆみちゃんの役は脇キャラ。……それは常識。
たとえ、原作だのオペラだのでイサベルが重要な役、ヒロインクラスの役であっても、あゆみちゃんだっつー段階できっと脇役。
そう思ったのに、フタを開けてみたらマジで大きな役だった。娘役2番手が演じておかしくない役。
娘役としては上級生、されどこれまで芝居で主要な役を演じたことのない人が、いきなり演じていいよーな役じゃなかった。
んで、まあ実際……それほどいいデキぢゃない。あゆみちゃんのイサベル。
よくはやっているし、ムラ初日から東宝までで、いちばん変わったというか成長したのはあゆみちゃんで、役者って、舞台の上でこれだけ変わるんだ!とびっくりさせてくれたくらい、最終的には良くなった。
それは結果論であって、最初はほんと、大変だなあ、という感じだった。
よくはやっている、破綻とまでもいかない、だけどなんか大きなモノが欠けている、足りていない……パラーシカのときと同じ。
そんなあゆみちゃんに対しての印象が、『トクスペ』を観ることで、なんかすとんと腑に落ちた。
あゆみちゃんって……基本的に「芝居」が出来ないのかなあ。
芝居って、技術というか、ツールなんだと思う。
表現する道具。
お絵かきだとすると、紙とクレパスとかに相当するモノ。
「花の絵を描きましょう」って言われて、紙にクレパスで描く。別に色えんぴつでも絵の具でもいい、道具を使って描く。
芝居もその道具。「裏切られた妻を表現しましょう」と言われ、道具を使ってテーマを作る。
でもあゆみちゃんは、道具を使うのではなく、「自分」がそのテーマになろうとする。
道具を使って、技術で「裏切られた妻」を表現するのではなく、「裏切られた妻」そのものになろうとする。
「花の絵を描きましょう」と紙とクレパスを渡されてるのに、苗を植えて花を咲かせようとする。
役者には大雑把に割って2種類あって、技術で役を演じる人と、その役そのものになる人があるんだろうさ。
だからあゆみちゃんは後者、イサベルを演じるためにイサベルそのものになるんだろう。
それはいい。それはあり。
ただ。
役として昇華されていない、あゆみちゃん個人のナマの感情を舞台で見せられてもな、と思う。
憑依系、と称されるようななりきり型ならばそれはアリなんだろうけど、残念ながらあゆみちゃんは、「役のキモチになっているあゆみちゃん」でしかない。
だから見せられるのは、あゆみちゃんのキモチなんだな。
イサベルに感じる足りてなさというか欠落は、そういうことだったのかと。
話は途中だ、翌日欄へ続く!!
役者としての彼女・その2。@トークスペシャル in 東京
2012年5月17日 タカラヅカ 東京まではるばる『トークスペシャル in 東京』を観に行って、なんか『トクスペ』の内容とは関係ない、あゆみちゃんの芝居について、つらつら語る。考える(笑)。
『ドン・カルロス』にて、あゆみちゃんは「悲しいイサベル」を演じるために、ほんとうにあゆみちゃん自身が「悲しい」キモチになる。
仮面舞踏会で泣きそうになっているイサベルは、芝居でそう演じているのではなく、沙月愛奈ちゃん自身が悲しくて泣きそうになっているんだ。
もちろん芝居に心は必要で、役のキモチになるのは前提。
でもあゆみちゃんは主客逆転している気がする。
それって、ショーでのタカラジェンヌだよね。
タカラヅカは芝居とショーの2本立てが基本。芝居では役を演じるが、ショーではタカラヅカ・スターを演じる。役名があったとしても、芝居とは違い、芸名を演じるというか、そのスターとしての魅力で勝負する。
あゆみちゃんはダンサーでショースター、芝居の人ではない。
そんなところにも、根っこがあるのかもしれない。
すっかりイサベルになり、フェリペ二世との心のすれ違いに、出番でないところも袖から舞台を見て泣いていたりする。新公でも泣いてしまう。
イサベルという役を演じるために、表現する技術を磨くのではなく、あゆみちゃんは「イサベルと同化」しようとしたんだ。
「悲しみ」を表現する技術ではなく、「ほんとうに自分が悲しい」ことによって、悲しい姿や表情を作ることができるから。
タカラヅカは技術よりも心優先っていうか、心があればそれでいい的なところはたしかにあって、音程ぐたぐたのものすごい歌でも、泣きながら歌えばそれだけで観客号泣、てなことも多分にある。正しい音程で歌うより、そっちの方が感動的と捉えられたりなー。
わたしもそれは否定しないし、ぶっちゃけキライぢゃない。
だから本気で泣いてるあゆみちゃんのイサベラに感情移入するし、一緒に切なくなったり悲しくなったりしている。
だけどあゆみちゃんはなんつーか、終始、ソレだけで、プロの役者的じゃなかった。
もう少し技術の部分、役者としての部分も見せてくれないと、ナマの表情・感情だけ見せられても、そんなの困るっていうか。
そこでキミが磨くべきなのは技術であって、役になりきって泣くことぢゃないんだよというか。
役者として、圧倒的に経験が足りないんだなあ。
なまじ、舞台に立ってきた年数はそれなりにあって、経験も実力もあるもんだから、いろんなモノが混在して混乱するというか。
きっとそれは、もっと下級生時代に経験することだったんじゃないかな。
なんかあゆみちゃんは、演技なんかしたことないダンサーが女優として抜擢されて、舞台上で五里霧中、七転八倒しているような感じがする。
芝居をする、演技をする、ということがいまいちわかっていないよーな気はしたけれど、それでも公演が進むにつれイサベルは変わっていった。
理屈ではなく、舞台上で学ぶことがあるんだろう。
あゆみちゃんの演じるイサベルが好き。
足りていない、もどかしいところはある。
最後まであった。
でも、それを含めても、やっぱり好き。
出逢えて良かった。
あゆみちゃんで良かった。
『トクスペ』から感じる沙月愛奈ちゃんは、すごく、気が強そうだった。
タカラヅカらしさの否定、我が道を行く姿勢。
「タカラヅカが好きで入ったんだよね?」と改めて聞かれてしまうくらい、周りをぎょっとさせることをさらりと言っちゃうし。
いやあ、しみじみ、あゆみちゃん、好きだわ。
なんかいろいろいびつで、でもすごくコアで固いモノを持った女の子。
でもスカイナビゲーターズなどの対外的なところでは、端正で慎み深い姿を見せる、バランス感覚と頭の良さ。
ダンスの実力と美貌、脚線美。←重要(笑)。
わたしがタカラヅカで重要視するのは、芝居>歌>ダンス。芝居が出来ない人がいちばん苦手。
あゆみちゃんはとりあえず、芝居も破綻はない。娘役としての立ち居も出来ている。ただ、重要な役になると足りていない部分が目立つ。……だって、芝居の人として育っていないから。
芝居はまだ、経験不足。
だからこそ、まだこれから、変わるのかもしれない。
イサベルがどんどん変わっていったように。
なんだかますます楽しみだ。
これからももっともっと、長くタカラヅカにいて欲しい。
「最初から女役になりたかった。ようやく年齢と学年が追いついてきた」と言うからには、活躍はこれから、だよね。
いい女として、ダンスだけではなく、芝居でも花開いて欲しい。
『ドン・カルロス』にて、あゆみちゃんは「悲しいイサベル」を演じるために、ほんとうにあゆみちゃん自身が「悲しい」キモチになる。
仮面舞踏会で泣きそうになっているイサベルは、芝居でそう演じているのではなく、沙月愛奈ちゃん自身が悲しくて泣きそうになっているんだ。
もちろん芝居に心は必要で、役のキモチになるのは前提。
でもあゆみちゃんは主客逆転している気がする。
それって、ショーでのタカラジェンヌだよね。
タカラヅカは芝居とショーの2本立てが基本。芝居では役を演じるが、ショーではタカラヅカ・スターを演じる。役名があったとしても、芝居とは違い、芸名を演じるというか、そのスターとしての魅力で勝負する。
あゆみちゃんはダンサーでショースター、芝居の人ではない。
そんなところにも、根っこがあるのかもしれない。
すっかりイサベルになり、フェリペ二世との心のすれ違いに、出番でないところも袖から舞台を見て泣いていたりする。新公でも泣いてしまう。
イサベルという役を演じるために、表現する技術を磨くのではなく、あゆみちゃんは「イサベルと同化」しようとしたんだ。
「悲しみ」を表現する技術ではなく、「ほんとうに自分が悲しい」ことによって、悲しい姿や表情を作ることができるから。
タカラヅカは技術よりも心優先っていうか、心があればそれでいい的なところはたしかにあって、音程ぐたぐたのものすごい歌でも、泣きながら歌えばそれだけで観客号泣、てなことも多分にある。正しい音程で歌うより、そっちの方が感動的と捉えられたりなー。
わたしもそれは否定しないし、ぶっちゃけキライぢゃない。
だから本気で泣いてるあゆみちゃんのイサベラに感情移入するし、一緒に切なくなったり悲しくなったりしている。
だけどあゆみちゃんはなんつーか、終始、ソレだけで、プロの役者的じゃなかった。
もう少し技術の部分、役者としての部分も見せてくれないと、ナマの表情・感情だけ見せられても、そんなの困るっていうか。
そこでキミが磨くべきなのは技術であって、役になりきって泣くことぢゃないんだよというか。
役者として、圧倒的に経験が足りないんだなあ。
なまじ、舞台に立ってきた年数はそれなりにあって、経験も実力もあるもんだから、いろんなモノが混在して混乱するというか。
きっとそれは、もっと下級生時代に経験することだったんじゃないかな。
なんかあゆみちゃんは、演技なんかしたことないダンサーが女優として抜擢されて、舞台上で五里霧中、七転八倒しているような感じがする。
芝居をする、演技をする、ということがいまいちわかっていないよーな気はしたけれど、それでも公演が進むにつれイサベルは変わっていった。
理屈ではなく、舞台上で学ぶことがあるんだろう。
あゆみちゃんの演じるイサベルが好き。
足りていない、もどかしいところはある。
最後まであった。
でも、それを含めても、やっぱり好き。
出逢えて良かった。
あゆみちゃんで良かった。
『トクスペ』から感じる沙月愛奈ちゃんは、すごく、気が強そうだった。
タカラヅカらしさの否定、我が道を行く姿勢。
「タカラヅカが好きで入ったんだよね?」と改めて聞かれてしまうくらい、周りをぎょっとさせることをさらりと言っちゃうし。
いやあ、しみじみ、あゆみちゃん、好きだわ。
なんかいろいろいびつで、でもすごくコアで固いモノを持った女の子。
でもスカイナビゲーターズなどの対外的なところでは、端正で慎み深い姿を見せる、バランス感覚と頭の良さ。
ダンスの実力と美貌、脚線美。←重要(笑)。
わたしがタカラヅカで重要視するのは、芝居>歌>ダンス。芝居が出来ない人がいちばん苦手。
あゆみちゃんはとりあえず、芝居も破綻はない。娘役としての立ち居も出来ている。ただ、重要な役になると足りていない部分が目立つ。……だって、芝居の人として育っていないから。
芝居はまだ、経験不足。
だからこそ、まだこれから、変わるのかもしれない。
イサベルがどんどん変わっていったように。
なんだかますます楽しみだ。
これからももっともっと、長くタカラヅカにいて欲しい。
「最初から女役になりたかった。ようやく年齢と学年が追いついてきた」と言うからには、活躍はこれから、だよね。
いい女として、ダンスだけではなく、芝居でも花開いて欲しい。
新旧交代、その狭間。@ダンサ セレナータ/Celebrity
2012年5月18日 タカラヅカ 『ダンサ セレナータ』『Celebrity』初日観劇。
芝居、ショー共に痛切に感じたのは、世代交代でした。
れおんくんを中心とした、新しい星組、れおん時代Ver.2に移行している。
これまでの星組の中心にいたメンバーが去り、これからの星組を盛り立てる人々が前へ出てきた。
その、いちばん大きな要因が、すずみん。
勝手に、今回彼が2番手として舞台に立ち、サヨナラショー付きで卒業していくんだと思っていた。
で、次の公演からベニーが2番手なんだろうなと。
が、開演前に開いたプログラムにて、きゃー、ちえちゃん後ろ姿かっこいー!と思った1ページまるまる写真欄。一拍おいて気がついた。そこが、2番手の写真位置だと。
れおんくんの後ろ姿を載せて、2番手写真を載せずにいる。
……ちょっと、びびった。劇団は、確固たる意志を持って、「この公演に2番手はいない」とプログラムに表記している。
わざわざ後ろ姿だもんよ……そうまでして、すずみんを載せないのか。
すずみんは、ベニーと同格にショー写真のみ掲載。W3番手ってことですか。
それでも、芝居ではすずみんが2番手なんだろうと、勝手に思っていた。
……えーと、すずみさんの役って、あれって……あったかいしかっこいいし、いい役だけど、……2番手役は、ベニーだよね……。
すずみんの役がいなくてもストーリーは進むけど、ベニーの役がいないと困るんだな。そういうことだ。
で、ショーではあちこち花を持たせてもらっていたけれど、オープニングでの銀橋渡りからして、ベニー2番手。
こんなにはっきりと打ち出してくるのか、と鼻白んだ。
なにより、フィナーレのすずみんの「卒業餞」場面。大階段にひとり板付きっつー、すばらしい退団仕様の演出で、すずみんがひとりきらきら歌い、れみちゃんたち娘役がクラシカルに踊る。
うわああ、卒業なんだ……と、こみあげるものを噛みしめていると。
その次の場面、すずみんが旅立ったあと、大階段にライトが当たる。
トップスター・れおん、2番手・ベニー、3番手・マカゼ、と、わかりやすくばばーんっと登場。
この面子が、新しい星組なんだ。それが、否が応でも思い知らされる。
そして、スーツの男役たちの大階段ダンスに。
クラシカルなすずみんのあとに、れおんたちの現代的なカッコイイ系ダンス、ってのもまた、古いモノのあとに新しいモノ、新旧交代の意図を強く感じさせた。
タカラヅカは代替わりして続いていくところだけど、それは大抵トップスターがひとつの時代の幕を引く。
トップが同じうちに2~3番手が先に辞めていくのは、例があまりないだけに、衝撃があるな。
すずみんだけでなく、ともみんやみやるりも、この「次代」の並びを確立させるために、組替えになったんだろうしなあ。
ほんとに、劇団の意図がわかりすぎて、ちょっとびびった。
星組に関しては、それがいい悪いは、わたしにはわからないのでなにも言う気はない。
ただ、びびった。
ここまでわかりやすくベニーが2番手扱いなので、最後の階段降りはどうするのかと思った。
つーのも、本編で立ち位置をいじりすぎた場合、階段降りでのみ年功序列にしてお茶を濁す場合が多分にあるためだ。
そこでだけすずみんさんを2番手として扱うのかと思ったけど、そうでもなかった。そっかあ、羽根なしなのか……なんか、しょぼん。大きな羽根を背負うすずみんが見たかったよ。プログラムの扱い見たら、んなことがないのは予想が付いたけど、それでも。
ところで星組のセンター降りの人々がすげー少なくなっていたんだが。
エトワールれみちゃんの次がいきなりマカゼで、ベニー、すずみん、ねね、れおん……今まであった、ふたり降り、3人降りはナシですかい。
まさこはいちおー3人降りの範疇かな。真ん中を歩いていたけれど、サイド降りの女の子たち(顔チェックする暇なかった)と同じように歩いていたので、変形タイプだが3人降りかな。センター降りの人は、サイドの人たちと一緒の速度では降りないもの。
しかし稲葉くん、ゆみこ退団の『Carnevale睡夢』に続いて、またこんな人配置の難しいショーを担当しているのか。
れおんすずみんは、水ゆみほど依存し合ったコンビでもないためか、「片翼を失うトップスター」的な演出はされていないし。あくまでも、すずみんが卒業する、ということのみポイントにしている感じ。
ショーが稲葉くんで水ゆみラストを思い出させてくれる上に、芝居の正塚が、もお。
『マリポーサの花』の、アナザーバージョンですか、この話(笑)。
あちこち似すぎていて、いろいろクラクラした。
『ダンサ セレナータ』と『マリポーサの花』のいちばん違っている部分が、主人公に、親友がいるかいないか、なんだもん。
親友のいたネロ@『マリポーサの花』、いないイサアク@『ダンサ セレナータ』。
ネロ@水くんには、エスコバル@ゆみこがいた。
イサアク@れおんには、親友はいない。ジョゼ@すずみんは友人かもしれないが、職場の同僚の延長線にいるだけで、特別な親友ではない。
そして『Carnevale睡夢』のような水ゆみ惜別っぽい演出とは一線を引き、ショー『Celebrity』では、すずみん単独で卒業する。
なんかいろんなところで、胸が痛い。
芝居もショーも、良かったと思う。
『マリポーサの花』が好きな人は『ダンサ セレナータ』もOKだろう。親友がいない代わりに、ヒロインへの気持ちが強くなっている。
ショーはいろいろ工夫を凝らしてある。
開幕前のお遊びなんか、お隣の人(知らない人・笑)と「5から4に変わった!!」って騒いだもの。「数字が少なくなるごとに、れおんくんが大きくなる、振り返る!」ときゃーきゃー。つか、3分前から日本語になるのは何故(笑)。
ラストのおまけも、うれしかった。れおんくん好きなら、絶対楽しい。
個人的に、ベニーがいろいろツボり過ぎている。芝居もショーも(笑)。
最後に、詮無きつぶやき。
前回プログラムでれおんくんの次のページにひとり写りしていたすずみんが、今回卒業だってのに、それでも同じ位置に載せてもらえなくなっている現実に、「プログラムの扱いが下げられることって、あり得るんだ……」と、ガクブルしています。
いやその、人ごとじゃないしね。次の自分とこの公演がこわいっす。
ラストぐらい、前回と同じ掲載方法でもよかったじゃん、劇団のいけず、と思いますわ。
芝居、ショー共に痛切に感じたのは、世代交代でした。
れおんくんを中心とした、新しい星組、れおん時代Ver.2に移行している。
これまでの星組の中心にいたメンバーが去り、これからの星組を盛り立てる人々が前へ出てきた。
その、いちばん大きな要因が、すずみん。
勝手に、今回彼が2番手として舞台に立ち、サヨナラショー付きで卒業していくんだと思っていた。
で、次の公演からベニーが2番手なんだろうなと。
が、開演前に開いたプログラムにて、きゃー、ちえちゃん後ろ姿かっこいー!と思った1ページまるまる写真欄。一拍おいて気がついた。そこが、2番手の写真位置だと。
れおんくんの後ろ姿を載せて、2番手写真を載せずにいる。
……ちょっと、びびった。劇団は、確固たる意志を持って、「この公演に2番手はいない」とプログラムに表記している。
わざわざ後ろ姿だもんよ……そうまでして、すずみんを載せないのか。
すずみんは、ベニーと同格にショー写真のみ掲載。W3番手ってことですか。
それでも、芝居ではすずみんが2番手なんだろうと、勝手に思っていた。
……えーと、すずみさんの役って、あれって……あったかいしかっこいいし、いい役だけど、……2番手役は、ベニーだよね……。
すずみんの役がいなくてもストーリーは進むけど、ベニーの役がいないと困るんだな。そういうことだ。
で、ショーではあちこち花を持たせてもらっていたけれど、オープニングでの銀橋渡りからして、ベニー2番手。
こんなにはっきりと打ち出してくるのか、と鼻白んだ。
なにより、フィナーレのすずみんの「卒業餞」場面。大階段にひとり板付きっつー、すばらしい退団仕様の演出で、すずみんがひとりきらきら歌い、れみちゃんたち娘役がクラシカルに踊る。
うわああ、卒業なんだ……と、こみあげるものを噛みしめていると。
その次の場面、すずみんが旅立ったあと、大階段にライトが当たる。
トップスター・れおん、2番手・ベニー、3番手・マカゼ、と、わかりやすくばばーんっと登場。
この面子が、新しい星組なんだ。それが、否が応でも思い知らされる。
そして、スーツの男役たちの大階段ダンスに。
クラシカルなすずみんのあとに、れおんたちの現代的なカッコイイ系ダンス、ってのもまた、古いモノのあとに新しいモノ、新旧交代の意図を強く感じさせた。
タカラヅカは代替わりして続いていくところだけど、それは大抵トップスターがひとつの時代の幕を引く。
トップが同じうちに2~3番手が先に辞めていくのは、例があまりないだけに、衝撃があるな。
すずみんだけでなく、ともみんやみやるりも、この「次代」の並びを確立させるために、組替えになったんだろうしなあ。
ほんとに、劇団の意図がわかりすぎて、ちょっとびびった。
星組に関しては、それがいい悪いは、わたしにはわからないのでなにも言う気はない。
ただ、びびった。
ここまでわかりやすくベニーが2番手扱いなので、最後の階段降りはどうするのかと思った。
つーのも、本編で立ち位置をいじりすぎた場合、階段降りでのみ年功序列にしてお茶を濁す場合が多分にあるためだ。
そこでだけすずみんさんを2番手として扱うのかと思ったけど、そうでもなかった。そっかあ、羽根なしなのか……なんか、しょぼん。大きな羽根を背負うすずみんが見たかったよ。プログラムの扱い見たら、んなことがないのは予想が付いたけど、それでも。
ところで星組のセンター降りの人々がすげー少なくなっていたんだが。
エトワールれみちゃんの次がいきなりマカゼで、ベニー、すずみん、ねね、れおん……今まであった、ふたり降り、3人降りはナシですかい。
まさこはいちおー3人降りの範疇かな。真ん中を歩いていたけれど、サイド降りの女の子たち(顔チェックする暇なかった)と同じように歩いていたので、変形タイプだが3人降りかな。センター降りの人は、サイドの人たちと一緒の速度では降りないもの。
しかし稲葉くん、ゆみこ退団の『Carnevale睡夢』に続いて、またこんな人配置の難しいショーを担当しているのか。
れおんすずみんは、水ゆみほど依存し合ったコンビでもないためか、「片翼を失うトップスター」的な演出はされていないし。あくまでも、すずみんが卒業する、ということのみポイントにしている感じ。
ショーが稲葉くんで水ゆみラストを思い出させてくれる上に、芝居の正塚が、もお。
『マリポーサの花』の、アナザーバージョンですか、この話(笑)。
あちこち似すぎていて、いろいろクラクラした。
『ダンサ セレナータ』と『マリポーサの花』のいちばん違っている部分が、主人公に、親友がいるかいないか、なんだもん。
親友のいたネロ@『マリポーサの花』、いないイサアク@『ダンサ セレナータ』。
ネロ@水くんには、エスコバル@ゆみこがいた。
イサアク@れおんには、親友はいない。ジョゼ@すずみんは友人かもしれないが、職場の同僚の延長線にいるだけで、特別な親友ではない。
そして『Carnevale睡夢』のような水ゆみ惜別っぽい演出とは一線を引き、ショー『Celebrity』では、すずみん単独で卒業する。
なんかいろんなところで、胸が痛い。
芝居もショーも、良かったと思う。
『マリポーサの花』が好きな人は『ダンサ セレナータ』もOKだろう。親友がいない代わりに、ヒロインへの気持ちが強くなっている。
ショーはいろいろ工夫を凝らしてある。
開幕前のお遊びなんか、お隣の人(知らない人・笑)と「5から4に変わった!!」って騒いだもの。「数字が少なくなるごとに、れおんくんが大きくなる、振り返る!」ときゃーきゃー。つか、3分前から日本語になるのは何故(笑)。
ラストのおまけも、うれしかった。れおんくん好きなら、絶対楽しい。
個人的に、ベニーがいろいろツボり過ぎている。芝居もショーも(笑)。
最後に、詮無きつぶやき。
前回プログラムでれおんくんの次のページにひとり写りしていたすずみんが、今回卒業だってのに、それでも同じ位置に載せてもらえなくなっている現実に、「プログラムの扱いが下げられることって、あり得るんだ……」と、ガクブルしています。
いやその、人ごとじゃないしね。次の自分とこの公演がこわいっす。
ラストぐらい、前回と同じ掲載方法でもよかったじゃん、劇団のいけず、と思いますわ。
マリポーサの花は送らないけれど。@ダンサ セレナータ
2012年5月19日 タカラヅカ 『ダンサ セレナータ』を観ながら、やたら思い出したのは、『ブエノスアイレスの風』だ。
あれってえーと、4年前?
れおんくん、ねねちゃん、ベニー、マカゼと、中心メンバーがそのまんまだったよなあと。
いやあ……うまくなったね!!
れおんくんは大人の男をちゃんと演じられるようになったし、ねねちゃんも落ち着いた感じだ。
なにより、ベニー……。
『ブエノスアイレスの風』のときは、あまりのへたっぴさにアタマを抱えた。
スーツの着こなしから所作、お化粧、なにもかもアレ過ぎて、途方に暮れた。
そのベニーが……。
うまくなったなああ、ベニー!
ひたすら感動。
ベニーはうまくない人だけど、それでも一歩一歩前進しているし、彼には彼ならではの味があるので、最低限の技術さえあれば楽しい舞台人だ。
もうひとり、マカゼも……ええっと、さすがに『ブエノスアイレスの風』のときよりは、うまくなっている。あんときは「男役」をやることでいっぱいいっぱいという、最低ラインと闘ってたもんなー。
マカゼさんは、もっともっとうまくなってほしいです(笑)。
メンバー的には『ブエノスアイレスの風』を思い出し、ストーリー的には『マリポーサの花』を思い出し、しかもこの2作はほとんど同じモチーフで出来上がった作者自身のセルフカバー作っぽいし。
したがって、『ダンサ セレナータ』が既視感ばりばりなのは、当たり前ってことで。
正塚的いつもの「ある国」が舞台。そこへアンジェロ@まさこがやって来たことから、物語スタート。そーだった、正塚せんせ、まさこ好きだったよね-。
アンジェロは植民地出身。独立運動グループのリーダー。……ってことで、秘密警察のホアキン@ベニーに目を付けられている。
酔っ払い軍人に絡まれたアンジェロとその妹モニカ@ねねちゃんを、偶然助けたイサアク@れおんは、必然的に秘密警察の監視下に置かれることになる。しかもモニカは、またまた偶然、イサアクがトップダンサーとして働く店にやってくるし。彼女もダンサーとして働くことになるし。
主人公はイサアクなんだが、見事に巻き込まれただけの人。アンジェロが秘密警察に捕まり、モニカも連行される。……ので、革命も独立運動もどーでもいい、モニカだけ大切、モニカと彼女の家族を助けられたらそれでいい、と秘密警察を敵に回して裏工作。あー、すごい既視感。
モニカを外国へ逃がし、ホアキンと対決……するも、革命が起こり、政局が一変した。イサアクの店も閉店、さあラストダンス、ただしヒロイン抜きで。
それから数年後。マリポーサの花を送り続けてはいなかったけれど、イサアクとモニカが再会してハッピーエンド。
……すずみさんの役も、れみちゃんの役も、あらすじには出てこないっすねー……。本筋と無関係のにぎやかしさんだもんなあ。
えーと。
自分のためにもキャラクタ整理。『ダンサ セレナータ』と『マリポーサの花』の共通項を地の文に、( )の中は、『マリポーサの花』のみの設定。
イサアク@れおん=ネロ@水しぇん
クラブのトップダンサー(ネロは経営者でもあり、ステージセンターでも踊る)。過去あり、それゆえに腕っ節強いです。
アンジェロ@まさこ=リナレス@キム
革命運動家。プランテーション経営者を父に持つ、おぼっちゃま。秘密警察に捕まり、拷問される。そしてイサアク(ネロ)の裏工作によって救出される。
モニカ@ねね=セリア@となみ
アンジェロの妹(リナレスの姉)で、反政府運動には無関係。お嬢様育ちだからか、ダンスが出来る。クラブでダンサーとして活躍。兄(弟)のことでイサアク(ネロ)を頼る、助けられる。革命が起こり、イサアク(ネロ)とは離ればなれになる。
ホアキン@ベニー=ロジャー@かなめ
政府の犬(ロジャーはCIAだが、舞台の国の政府側)。国益のために革命運動撲滅、最初は友好的にイサアク(ネロ)に近づき、ラストは対決する。
革命どっかーん、で離ればなれになったあと、ネロはセリアにマリポーサの花を送り続け、いつかふたりが再会する未来を暗示する。
イサアクとモニカは、んなまだるっこしいことはせず、実際に再会して完。
いちばん大きな違いは、主人公に「親友」がいるかどうか、なんだなあ。
そして物語的に、「親友」はいてもいなくても、ストーリーは同じなんだ。
印象として、『マリポーサの花』よりは、まともな話になっている、と思う。
『マリポーサの花』の魅力はなんつってもエスコバル@ゆみこの存在だったんだが、このキャラクタがいたために、いろいろ歪んでしまっていたと思う。
ネロとエスコバルの依存関係が強く、ふたりだけで世界が完結、他者を閉め出していた。
だからヒロインとの恋愛も弱いし、他に仲間も友人もおらず、社会生活感が希薄だった。
エスコバルという枷を持たないイサアクは、親友こそいないが、友人や仲間はふつーにいる。本当の意味で心を開くには至っていないが、彼なりに社会生活しているらしい。
イサアク自身が心に扉がある状態でも、周囲が彼のそんな部分を含めて認め、愛している様子がある。
アンジェリータ@れみちゃんが「思いやりも優しさもあるつもりなんでしょうけど、それは自分の決めた範囲の中だけ。本当は自分にしか興味のない男」てな意味のことをすぱっと言っちゃう。元カノの彼女は「別れて良かった」と笑う。
イサアクが困ったちゃんだとわかっていて、それでも受け入れている。アンジェリータがこういう立ち位置である以上、彼女と結ばれるジョゼ@すずみんも、たぶん同じようにイサアクを思っているのだろう。
ダンサー仲間たちに檄を飛ばしたり、リーダーっぽいことしているし。けっこー辛辣なことを言っているのに、それでも仲間たちが離れていかないのは、そーゆー部分も含め、認められてるんだろう。
で、仲間に囲まれつつも孤独感のあるイサアクは、何故かよくわかんないけど、モニカに惹かれ、モニカを強く愛する。
強引なキス、「お前」呼び、「守る」宣言。
おー、恋愛モノだー。
エスコバルがいないだけで、こんだけふつーになるのか(笑)。
友情パートを、敵役であるホアキンがちょっくら兼ねる。ホアキンは最初からイサアク大好きだしな(笑)。ラヴコールぶりがちょっとキモ……いやその、薄ら寒い。
正塚お約束の「主人公とその親友の銀橋渡り」が、イサアクとホアキンだったことに、最初からびびったわ。
イサアクの抱えている過去が、とても個人的なものだったために、作品スケールは小さくなっている。
『マリポーサの花』では、ネロは元軍人で現政府樹立の陰の功労者、大統領の弱みを握っている裏社会のボス的存在で、青年実業家だったからなー。クライマックスは彼自身が銃を取り、戦場で華々しく闘うわけですから。
ネロの腹のうちひとつで、「この国」が大きく揺らぐ、そんな大物設定だったもの。(でも、本人は小さくまとまって、ちまちませせこましいことをして満足していた……ってのが、正塚せんせのスケール感の限界・笑)
『ダンサ セレナータ』では、イサアクはあくまでも「一般人」。戦場にも駆けつけないし、銃を取って闘わない。革命も起こさない。政変で職場が閉店するのを黙って受け入れるしかない人。
主人公が他人と関わっている、という点で、『ダンサ セレナータ』の方が良い作りになっていると思う。
……いろいろ言いたいことあるけどなー。なんでこんな構成なのか、ツッコミだらけだけどなー。
でもやっぱ、エスコバルは魅力的なキャラクタだったよ……。
エスコバルを踏襲しつつ、もっとヒロインと恋愛して、社会不適応者で終始しない、ふつーの主人公は書けないものなのか、ハリー。
そして、何度同じ話を書けば気が済むんだ、ハリー(笑)。
あれってえーと、4年前?
れおんくん、ねねちゃん、ベニー、マカゼと、中心メンバーがそのまんまだったよなあと。
いやあ……うまくなったね!!
れおんくんは大人の男をちゃんと演じられるようになったし、ねねちゃんも落ち着いた感じだ。
なにより、ベニー……。
『ブエノスアイレスの風』のときは、あまりのへたっぴさにアタマを抱えた。
スーツの着こなしから所作、お化粧、なにもかもアレ過ぎて、途方に暮れた。
そのベニーが……。
うまくなったなああ、ベニー!
ひたすら感動。
ベニーはうまくない人だけど、それでも一歩一歩前進しているし、彼には彼ならではの味があるので、最低限の技術さえあれば楽しい舞台人だ。
もうひとり、マカゼも……ええっと、さすがに『ブエノスアイレスの風』のときよりは、うまくなっている。あんときは「男役」をやることでいっぱいいっぱいという、最低ラインと闘ってたもんなー。
マカゼさんは、もっともっとうまくなってほしいです(笑)。
メンバー的には『ブエノスアイレスの風』を思い出し、ストーリー的には『マリポーサの花』を思い出し、しかもこの2作はほとんど同じモチーフで出来上がった作者自身のセルフカバー作っぽいし。
したがって、『ダンサ セレナータ』が既視感ばりばりなのは、当たり前ってことで。
正塚的いつもの「ある国」が舞台。そこへアンジェロ@まさこがやって来たことから、物語スタート。そーだった、正塚せんせ、まさこ好きだったよね-。
アンジェロは植民地出身。独立運動グループのリーダー。……ってことで、秘密警察のホアキン@ベニーに目を付けられている。
酔っ払い軍人に絡まれたアンジェロとその妹モニカ@ねねちゃんを、偶然助けたイサアク@れおんは、必然的に秘密警察の監視下に置かれることになる。しかもモニカは、またまた偶然、イサアクがトップダンサーとして働く店にやってくるし。彼女もダンサーとして働くことになるし。
主人公はイサアクなんだが、見事に巻き込まれただけの人。アンジェロが秘密警察に捕まり、モニカも連行される。……ので、革命も独立運動もどーでもいい、モニカだけ大切、モニカと彼女の家族を助けられたらそれでいい、と秘密警察を敵に回して裏工作。あー、すごい既視感。
モニカを外国へ逃がし、ホアキンと対決……するも、革命が起こり、政局が一変した。イサアクの店も閉店、さあラストダンス、ただしヒロイン抜きで。
それから数年後。マリポーサの花を送り続けてはいなかったけれど、イサアクとモニカが再会してハッピーエンド。
……すずみさんの役も、れみちゃんの役も、あらすじには出てこないっすねー……。本筋と無関係のにぎやかしさんだもんなあ。
えーと。
自分のためにもキャラクタ整理。『ダンサ セレナータ』と『マリポーサの花』の共通項を地の文に、( )の中は、『マリポーサの花』のみの設定。
イサアク@れおん=ネロ@水しぇん
クラブのトップダンサー(ネロは経営者でもあり、ステージセンターでも踊る)。過去あり、それゆえに腕っ節強いです。
アンジェロ@まさこ=リナレス@キム
革命運動家。プランテーション経営者を父に持つ、おぼっちゃま。秘密警察に捕まり、拷問される。そしてイサアク(ネロ)の裏工作によって救出される。
モニカ@ねね=セリア@となみ
アンジェロの妹(リナレスの姉)で、反政府運動には無関係。お嬢様育ちだからか、ダンスが出来る。クラブでダンサーとして活躍。兄(弟)のことでイサアク(ネロ)を頼る、助けられる。革命が起こり、イサアク(ネロ)とは離ればなれになる。
ホアキン@ベニー=ロジャー@かなめ
政府の犬(ロジャーはCIAだが、舞台の国の政府側)。国益のために革命運動撲滅、最初は友好的にイサアク(ネロ)に近づき、ラストは対決する。
革命どっかーん、で離ればなれになったあと、ネロはセリアにマリポーサの花を送り続け、いつかふたりが再会する未来を暗示する。
イサアクとモニカは、んなまだるっこしいことはせず、実際に再会して完。
いちばん大きな違いは、主人公に「親友」がいるかどうか、なんだなあ。
そして物語的に、「親友」はいてもいなくても、ストーリーは同じなんだ。
印象として、『マリポーサの花』よりは、まともな話になっている、と思う。
『マリポーサの花』の魅力はなんつってもエスコバル@ゆみこの存在だったんだが、このキャラクタがいたために、いろいろ歪んでしまっていたと思う。
ネロとエスコバルの依存関係が強く、ふたりだけで世界が完結、他者を閉め出していた。
だからヒロインとの恋愛も弱いし、他に仲間も友人もおらず、社会生活感が希薄だった。
エスコバルという枷を持たないイサアクは、親友こそいないが、友人や仲間はふつーにいる。本当の意味で心を開くには至っていないが、彼なりに社会生活しているらしい。
イサアク自身が心に扉がある状態でも、周囲が彼のそんな部分を含めて認め、愛している様子がある。
アンジェリータ@れみちゃんが「思いやりも優しさもあるつもりなんでしょうけど、それは自分の決めた範囲の中だけ。本当は自分にしか興味のない男」てな意味のことをすぱっと言っちゃう。元カノの彼女は「別れて良かった」と笑う。
イサアクが困ったちゃんだとわかっていて、それでも受け入れている。アンジェリータがこういう立ち位置である以上、彼女と結ばれるジョゼ@すずみんも、たぶん同じようにイサアクを思っているのだろう。
ダンサー仲間たちに檄を飛ばしたり、リーダーっぽいことしているし。けっこー辛辣なことを言っているのに、それでも仲間たちが離れていかないのは、そーゆー部分も含め、認められてるんだろう。
で、仲間に囲まれつつも孤独感のあるイサアクは、何故かよくわかんないけど、モニカに惹かれ、モニカを強く愛する。
強引なキス、「お前」呼び、「守る」宣言。
おー、恋愛モノだー。
エスコバルがいないだけで、こんだけふつーになるのか(笑)。
友情パートを、敵役であるホアキンがちょっくら兼ねる。ホアキンは最初からイサアク大好きだしな(笑)。ラヴコールぶりがちょっとキモ……いやその、薄ら寒い。
正塚お約束の「主人公とその親友の銀橋渡り」が、イサアクとホアキンだったことに、最初からびびったわ。
イサアクの抱えている過去が、とても個人的なものだったために、作品スケールは小さくなっている。
『マリポーサの花』では、ネロは元軍人で現政府樹立の陰の功労者、大統領の弱みを握っている裏社会のボス的存在で、青年実業家だったからなー。クライマックスは彼自身が銃を取り、戦場で華々しく闘うわけですから。
ネロの腹のうちひとつで、「この国」が大きく揺らぐ、そんな大物設定だったもの。(でも、本人は小さくまとまって、ちまちませせこましいことをして満足していた……ってのが、正塚せんせのスケール感の限界・笑)
『ダンサ セレナータ』では、イサアクはあくまでも「一般人」。戦場にも駆けつけないし、銃を取って闘わない。革命も起こさない。政変で職場が閉店するのを黙って受け入れるしかない人。
主人公が他人と関わっている、という点で、『ダンサ セレナータ』の方が良い作りになっていると思う。
……いろいろ言いたいことあるけどなー。なんでこんな構成なのか、ツッコミだらけだけどなー。
でもやっぱ、エスコバルは魅力的なキャラクタだったよ……。
エスコバルを踏襲しつつ、もっとヒロインと恋愛して、社会不適応者で終始しない、ふつーの主人公は書けないものなのか、ハリー。
そして、何度同じ話を書けば気が済むんだ、ハリー(笑)。
アイ・ガッチャ!!@Shining Rhythm!
2012年5月20日 タカラヅカ つねづね、思っていることがある。
すべての組で、「I Gotcha」をやるべきだ。
「I Gotcha」……フジイくんショー『TAKARAZUKA舞夢!』の中詰め、男たちの乱舞。トップスターたちはもちろんのこと、上は組長から、下は研2のペーペーまでずらり勢揃い。
花男たちの戦闘服、黒タキに身を包み、舞台全部を黒一色に染め上げ、キザりまくる。
まだなんにもできないぴよぴよのひよっこたちもが、全霊を挙げてキザっている。舞台の隅、「誰もおめーなんか見てねーよ!」な位置の男の子たちまでが「オレこそがセクスィスタァ!」と鼻息荒く陶酔しまくる。
これぞ花組!!という場面。
舞台上も客席も、テンション上がりまくり、みんな大好物。
この「I Gotcha」を、全組でやるべきだ。
男役が格好良くて、ヅカファンが喜ぶ場面だってのは、確か。
でも、それだけじゃないんだ。
「I Gotcha」は、男役を成長させる。
ただカッコイイダンスシーンってだけじゃなくて。
そこには、フリーゾーンがある。
決められた振りの中に、自己表現の余白があるの。
もちろん他の場面やダンスにも余白は多かれ少なかれあるだろうけど、「I Gotcha」が秀逸なのは、その余白を埋める方法が、色気勝負なのよ。
さらに、下は研2から参加していたように、総力戦。
一部のスター様たちだけに与えられた場ではないの。
歌と違ってダンス、ましてや男役の色気なんてもんは、どんな隅っこだろうと舞台に立ってさえいれば発揮できる。それこそ「誰もおめーなんか見てねーよ!」なひよっこだって「オレを見ている!」と思ってキザりまくれる。
色気勝負、「オレを見ている」と思って真剣勝負、しかも手本になる素晴らしい先輩たちが同じ舞台にいる、この状況で3ヶ月公演してみなさいよ、成長するって。
花男たちはこうやって磨かれていくんだ! と、当時花担でもなんでもないわたしは、大興奮して観劇していました。
男役としての立ち居振る舞い、見せ方、なによりも、意識。
それらが急速に付いていく、成長していくのを見るのは楽しいっすよ。
全組全公演で、「I Gotcha」をやるべきだ。
そうやって若手男役を鍛えるべきだ。
最近の男役は成長が遅く、男装したオンナノコのままの時間が長すぎる。
カッコイイ場面を出来上がったスターだけで独占してちゃダメ、未来のために、なんにもできないひよっこたちも舞台に上げるのよ。
そうつねづね、思ってきた。じれったく、思ってきた。
そして。
『Shining Rhythm!』にて、開眼する。
これは、「I Gotcha」だ!!
プロローグのあと、スーツ姿のちぎくんが登場する場面。
最初にちぎくん、続いてヲヅキたちスタークラス、そのあとにどどーんとみんないっぱい。
Bryant Baldwin氏振付の場面ね。場面名は「Shining Cool Rhythm!」。
黒スーツ男たちのダンス、そのあとセクシーなミニドレス姿のショーガールたちが登場する、アレ。
ムラの初日あたりは、あまり感動はなかった。
たしかにちぎくんはかっこいいけど、それはわかっている範疇というか。衣装も振付も格好いいけど、だからどうってこともないというか。
ちぎくんやヲヅキたちがかっこいいのは、場面でも振付でもなく、もともと彼らがカッコイイってだけ。
場面としても振付としても、抜きん出たものはなかった。や、振付自体はいいんだろうけど、それがキャストを活かしていないというか。
むしろ、無駄に長くてどうしようかと思った。
振付に振り回されている感が、落ち着き悪かったの。
一生懸命キザっているけど、身についていない感じ、その「一生懸命さ」が振りのクールさによって悪目立ちしているというか。
タカラヅカ的でない分、空回っているというか。
うわ、きっつー……。てな感じが、あった。
それが。
回数を重ねるごとに、変わっていった。
男の子たちが、もお、劇的に。
キザることを、楽しみだした。
それこそ、端っこの研2のひよっこたちまで。
これは……知ってる……知ってるよこれ、この興奮。
「I Gotcha」だ!
今の時代の、雪組の、「I Gotcha」だ!
初日から「出来上がっている」のが雪組の特徴だ。だから初日であれれな出来のこの場面に、疑問符がとびまくった。
そうか、初日はまだ出来てなかったんだ。
だってこれは、観客がいてはじめてスタートするものなんだもの!
男の子たちが変わった、そのあとはもお、楽しくてならない。
隅の隅まで、みんな楽しそうにキザっている。色気を振りまいている。
わたしは凰くんがやたら目に付くんだが、研3の彼までもが絶好調でキザっているのを見ると、胸が熱くなるっす。
こんな下級生まで、こんだけやっちゃいますか……。
雪組は真面目でおとなしい、小さく堅実にまとまりがちな組だ。
それゆえに、初日あたりは見ていてキツかった。
しかし、そんな組だからこそ、必要なんだ。
この場面を体験したことで、男の子たちはどーんと成長するはずだ。
舞台での在り方が、わかったんじゃないかな。男役として、そこに立つということ。
理屈はともかく、この場面が楽しくてならない。
下級生チェックしているだけで終わっちゃうよー。
また、ここが花組でない、雪組だからこそ、男たちだけの場面でなく、女の子たちも活躍するのがらしいなと思う。
女の子たちも、成長に加速度が付いている。
キュートでセクシーな場面であり、彼女たちにも自己表現の余白が与えられている。
美しく、セクシーに、自己表現していく彼女たちを見るのが、楽しくてならない。
そして、相乗効果。
男たちは女の子を意識してより格好良く男らしくなろうとし、女の子たちは男たちの視線を受けてさらに磨かれる。
男だけで磨かれる花組との違い(笑)。いいぞー、もっとやれー。
この場面、ほんと好き。
ナガさんとゆめみちゃんの活躍もうれしいし。
上から下まで、見どころだらけ。
目がいくつあっても足りない。
すべての組で、「I Gotcha」をやるべきだ。
「I Gotcha」……フジイくんショー『TAKARAZUKA舞夢!』の中詰め、男たちの乱舞。トップスターたちはもちろんのこと、上は組長から、下は研2のペーペーまでずらり勢揃い。
花男たちの戦闘服、黒タキに身を包み、舞台全部を黒一色に染め上げ、キザりまくる。
まだなんにもできないぴよぴよのひよっこたちもが、全霊を挙げてキザっている。舞台の隅、「誰もおめーなんか見てねーよ!」な位置の男の子たちまでが「オレこそがセクスィスタァ!」と鼻息荒く陶酔しまくる。
これぞ花組!!という場面。
舞台上も客席も、テンション上がりまくり、みんな大好物。
この「I Gotcha」を、全組でやるべきだ。
男役が格好良くて、ヅカファンが喜ぶ場面だってのは、確か。
でも、それだけじゃないんだ。
「I Gotcha」は、男役を成長させる。
ただカッコイイダンスシーンってだけじゃなくて。
そこには、フリーゾーンがある。
決められた振りの中に、自己表現の余白があるの。
もちろん他の場面やダンスにも余白は多かれ少なかれあるだろうけど、「I Gotcha」が秀逸なのは、その余白を埋める方法が、色気勝負なのよ。
さらに、下は研2から参加していたように、総力戦。
一部のスター様たちだけに与えられた場ではないの。
歌と違ってダンス、ましてや男役の色気なんてもんは、どんな隅っこだろうと舞台に立ってさえいれば発揮できる。それこそ「誰もおめーなんか見てねーよ!」なひよっこだって「オレを見ている!」と思ってキザりまくれる。
色気勝負、「オレを見ている」と思って真剣勝負、しかも手本になる素晴らしい先輩たちが同じ舞台にいる、この状況で3ヶ月公演してみなさいよ、成長するって。
花男たちはこうやって磨かれていくんだ! と、当時花担でもなんでもないわたしは、大興奮して観劇していました。
男役としての立ち居振る舞い、見せ方、なによりも、意識。
それらが急速に付いていく、成長していくのを見るのは楽しいっすよ。
全組全公演で、「I Gotcha」をやるべきだ。
そうやって若手男役を鍛えるべきだ。
最近の男役は成長が遅く、男装したオンナノコのままの時間が長すぎる。
カッコイイ場面を出来上がったスターだけで独占してちゃダメ、未来のために、なんにもできないひよっこたちも舞台に上げるのよ。
そうつねづね、思ってきた。じれったく、思ってきた。
そして。
『Shining Rhythm!』にて、開眼する。
これは、「I Gotcha」だ!!
プロローグのあと、スーツ姿のちぎくんが登場する場面。
最初にちぎくん、続いてヲヅキたちスタークラス、そのあとにどどーんとみんないっぱい。
Bryant Baldwin氏振付の場面ね。場面名は「Shining Cool Rhythm!」。
黒スーツ男たちのダンス、そのあとセクシーなミニドレス姿のショーガールたちが登場する、アレ。
ムラの初日あたりは、あまり感動はなかった。
たしかにちぎくんはかっこいいけど、それはわかっている範疇というか。衣装も振付も格好いいけど、だからどうってこともないというか。
ちぎくんやヲヅキたちがかっこいいのは、場面でも振付でもなく、もともと彼らがカッコイイってだけ。
場面としても振付としても、抜きん出たものはなかった。や、振付自体はいいんだろうけど、それがキャストを活かしていないというか。
むしろ、無駄に長くてどうしようかと思った。
振付に振り回されている感が、落ち着き悪かったの。
一生懸命キザっているけど、身についていない感じ、その「一生懸命さ」が振りのクールさによって悪目立ちしているというか。
タカラヅカ的でない分、空回っているというか。
うわ、きっつー……。てな感じが、あった。
それが。
回数を重ねるごとに、変わっていった。
男の子たちが、もお、劇的に。
キザることを、楽しみだした。
それこそ、端っこの研2のひよっこたちまで。
これは……知ってる……知ってるよこれ、この興奮。
「I Gotcha」だ!
今の時代の、雪組の、「I Gotcha」だ!
初日から「出来上がっている」のが雪組の特徴だ。だから初日であれれな出来のこの場面に、疑問符がとびまくった。
そうか、初日はまだ出来てなかったんだ。
だってこれは、観客がいてはじめてスタートするものなんだもの!
男の子たちが変わった、そのあとはもお、楽しくてならない。
隅の隅まで、みんな楽しそうにキザっている。色気を振りまいている。
わたしは凰くんがやたら目に付くんだが、研3の彼までもが絶好調でキザっているのを見ると、胸が熱くなるっす。
こんな下級生まで、こんだけやっちゃいますか……。
雪組は真面目でおとなしい、小さく堅実にまとまりがちな組だ。
それゆえに、初日あたりは見ていてキツかった。
しかし、そんな組だからこそ、必要なんだ。
この場面を体験したことで、男の子たちはどーんと成長するはずだ。
舞台での在り方が、わかったんじゃないかな。男役として、そこに立つということ。
理屈はともかく、この場面が楽しくてならない。
下級生チェックしているだけで終わっちゃうよー。
また、ここが花組でない、雪組だからこそ、男たちだけの場面でなく、女の子たちも活躍するのがらしいなと思う。
女の子たちも、成長に加速度が付いている。
キュートでセクシーな場面であり、彼女たちにも自己表現の余白が与えられている。
美しく、セクシーに、自己表現していく彼女たちを見るのが、楽しくてならない。
そして、相乗効果。
男たちは女の子を意識してより格好良く男らしくなろうとし、女の子たちは男たちの視線を受けてさらに磨かれる。
男だけで磨かれる花組との違い(笑)。いいぞー、もっとやれー。
この場面、ほんと好き。
ナガさんとゆめみちゃんの活躍もうれしいし。
上から下まで、見どころだらけ。
目がいくつあっても足りない。
1 2