石原さとみ@『パズル』を見るたびに、キムくんを思い出します……。あのエロい上唇が……(笑)。
『パズル』の敗因は、1話完結なことだと思います。2〜3話続けて見ると早々に飽きて辟易する……。『トリック』のよーに数話で1エピソード完結ぐらいがバランスいいんじゃ? や、世間的評価は知りませんが、イチドラマヲタクの意見として。
……てなことは置くとして。
今さらながら、オスカル@キムくんの話です。
キムにオスカルはやってほしくなかったので、「ゆみこがオスカルでありますように!!」と、ずっと祈ってました。
劇団のおじさんたちは、キムくんが小柄でかわいいからって、女の子役をやらせすぎ。女の子をやらせて成功するタイプじゃないってば、彼は。小柄でも顔がかわいくても、持ち味が骨太なんだから。
おじさんたちの目にはあさこもキムも等しく「かわいい美人な女の子」だから、平気でヒロインやらせちゃうんだろうけど、チガウから! 女装させてたのしいタイプじゃないから!!
男役として大切な時期に無理に女をやらせるといろいろ支障が出る……ことを、危惧してました。
オスカル@ゆみこで、アンドレ@キムでいいのにー。水しぇん沖田相手に土方やったキムだもん、ユミカル相手でも大丈夫だよー(笑)。
とかなんとか、勝手にいろいろ言ってましたが、実際に全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』を観て。
「オスカル」というキャラのコワレっぷりに、アゴが落ちた。
植爺って……やっぱり原作読んだことないんじゃ……?
オスカルが「男装の麗人」ではなく、ただの女の子になってました。
あまえっこできゃぴきゃぴ。17歳くらいかな。
こんな脚本と演出で、キムが、エンジン全開で闘ってました。
最初はわたしも「オスカル」だと思って観ていたからアゴが落ちて戻らずに苦労したけど、途中から別の人なんだと気づき、なんとか立ち直りました。
「ばあやぁ、ばあやぁン(はぁと)」と、べったべたの甘え声で話す、クネクネしたフリルフリルなイキモノは、オスカルではなく、別の、かわいいイキモノです。
原作とか名前とか気にしていたら、植爺作品は観られません。
どれだけ柔軟に頭を切り換えられるか、それにかかってます。
キムカルは、かわいかった。
ソレはオスカルではもちろんないけれど、「オスカル様ファンクラブ」の人々がプラカード持って踊るよーなこの植爺世界観の中では、ソレが正しいオスカルなんだということが、よくわかる。
いっそ半端なく突き抜けて「可愛い女の子」になってくれた方が、助かる。まだ、原作を守れる。
それを裏付けるように。
オープニングのキムは、クールビューティだった。
植爺作品の常として、冒頭に長い長い、物語とは無関係のオープニングショーが繰り広げられるわけなんだが、ここでキムはオスカルではない、ただの金髪巻き毛の青年として軍服で踊っている。
オスカルのイメージを作りつつも、オスカルではない、不思議な造形。
そこで彼は、ニコリともせず、ひたすらクールに踊っていた。
オスカルとして、大人として、軍人として、耽美な姿を作ることはできるんだ。オープニングでことさら低温にそれを見せつけている。(ちなみに、隣で同じ衣装を着たゆみこさんは全開の笑顔でにっこにっこたのしそーに踊ってらっさいます)
だが、本編では植爺好みの女々しいオスカル像ど真ん中。本編で別物をやるために、オープニングではあえてまったく正反対の「オスカル」をイメージさせる。
大変だな、キム。
キムくんは植爺演出の粗を一身に背負って、懸命に闘ってました。
そしてキムがすごいのは、そーやって理不尽な戦いを強いられているのに、悲壮感がないこと。
こんな暴れ馬も、なんやかんやで乗りこなしちゃうんだなー。うわー。
オスカルをゆみこで見たい、と言っていたのは、撤回します。
この「あまえっこかわいこちゃん17歳」を、ゆみこさんにやってもらうのは、あのお、えーっと、いろいろ大変すぎると思います。
ふつーのオスカルならゆみこでもアリだと思うけど、「ばあやぁ、ばあやぁン(はぁと)」と腰をフリフリするゆみこさんは、見たくありません……。
芝居のストレスを払拭するかのよーに。『ミロワール』では、爆発してました、キムくん。
オトコマエ。
すっげー。男前だ。
変わり続ける表情。自在な歌声、客席アピール。
うわー、濃い。濃いよお、キム。キム濃度が上がってる〜〜。
キムを見ていると、「わたしにまっつがいて、よかった」と思う。
わたしの愛は今はすでにまっつのモノ(笑)なので、揺らぎはしませんが、もしも今贔屓がいない状態で、キムのもっともキムらしい魅力を見せつけられたら、彼に堕ちて、戻って来れなくなっているかもしれない……と、思うから。
水くんにときめくのとはチガウんだよなあ……。彼にはもっと、ひたすらヲトメな気持ちできゃーきゃー言ってられるんだけど。
キムにきゃーきゃー言うことは、多分ない。彼にはヲトメとしてではなく、わたし個人として、言い訳のきかない本質部分で惹かれるせいだろうな。トウコちゃんと同カテゴリ。
キムくんは、力強く突き進んで欲しい。
かわいこちゃんな外見に騙される人がなにを言ってきても、オトコマエに突き進んで欲しい。
彼には、野生の獣でいてほしい。
飼い慣らされていないワイズ、したたかなエロスを武器にして欲しい。きれいに収まらないで欲しい。
不敵なほど「スタァ」であるキムくんを見ていると、心からそう思うんだ。
あのぶ厚い唇を歪める、「汚い」表情が好き。野蛮で不遜な顔。彼がいちばんセクシーな顔。
ドスをきかせる、濁音のよーな歌い方を混ぜる一瞬が好き。それまでのきれいな声から、自在に逸脱させる、音楽で遊ぶ姿。
きれいなだけにはならないで。絶対に。
と。
ときめき……ではないけれど、ぞくぞくわくわくしながら、キムくんを見つめておりました、全国ツアー初日。
オスカル様より、わたしはフィラントが好きです。彼の歌う「お気楽ソング」を聴きたいっす。
『パズル』の敗因は、1話完結なことだと思います。2〜3話続けて見ると早々に飽きて辟易する……。『トリック』のよーに数話で1エピソード完結ぐらいがバランスいいんじゃ? や、世間的評価は知りませんが、イチドラマヲタクの意見として。
……てなことは置くとして。
今さらながら、オスカル@キムくんの話です。
キムにオスカルはやってほしくなかったので、「ゆみこがオスカルでありますように!!」と、ずっと祈ってました。
劇団のおじさんたちは、キムくんが小柄でかわいいからって、女の子役をやらせすぎ。女の子をやらせて成功するタイプじゃないってば、彼は。小柄でも顔がかわいくても、持ち味が骨太なんだから。
おじさんたちの目にはあさこもキムも等しく「かわいい美人な女の子」だから、平気でヒロインやらせちゃうんだろうけど、チガウから! 女装させてたのしいタイプじゃないから!!
男役として大切な時期に無理に女をやらせるといろいろ支障が出る……ことを、危惧してました。
オスカル@ゆみこで、アンドレ@キムでいいのにー。水しぇん沖田相手に土方やったキムだもん、ユミカル相手でも大丈夫だよー(笑)。
とかなんとか、勝手にいろいろ言ってましたが、実際に全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』を観て。
「オスカル」というキャラのコワレっぷりに、アゴが落ちた。
植爺って……やっぱり原作読んだことないんじゃ……?
オスカルが「男装の麗人」ではなく、ただの女の子になってました。
あまえっこできゃぴきゃぴ。17歳くらいかな。
こんな脚本と演出で、キムが、エンジン全開で闘ってました。
最初はわたしも「オスカル」だと思って観ていたからアゴが落ちて戻らずに苦労したけど、途中から別の人なんだと気づき、なんとか立ち直りました。
「ばあやぁ、ばあやぁン(はぁと)」と、べったべたの甘え声で話す、クネクネしたフリルフリルなイキモノは、オスカルではなく、別の、かわいいイキモノです。
原作とか名前とか気にしていたら、植爺作品は観られません。
どれだけ柔軟に頭を切り換えられるか、それにかかってます。
キムカルは、かわいかった。
ソレはオスカルではもちろんないけれど、「オスカル様ファンクラブ」の人々がプラカード持って踊るよーなこの植爺世界観の中では、ソレが正しいオスカルなんだということが、よくわかる。
いっそ半端なく突き抜けて「可愛い女の子」になってくれた方が、助かる。まだ、原作を守れる。
それを裏付けるように。
オープニングのキムは、クールビューティだった。
植爺作品の常として、冒頭に長い長い、物語とは無関係のオープニングショーが繰り広げられるわけなんだが、ここでキムはオスカルではない、ただの金髪巻き毛の青年として軍服で踊っている。
オスカルのイメージを作りつつも、オスカルではない、不思議な造形。
そこで彼は、ニコリともせず、ひたすらクールに踊っていた。
オスカルとして、大人として、軍人として、耽美な姿を作ることはできるんだ。オープニングでことさら低温にそれを見せつけている。(ちなみに、隣で同じ衣装を着たゆみこさんは全開の笑顔でにっこにっこたのしそーに踊ってらっさいます)
だが、本編では植爺好みの女々しいオスカル像ど真ん中。本編で別物をやるために、オープニングではあえてまったく正反対の「オスカル」をイメージさせる。
大変だな、キム。
キムくんは植爺演出の粗を一身に背負って、懸命に闘ってました。
そしてキムがすごいのは、そーやって理不尽な戦いを強いられているのに、悲壮感がないこと。
こんな暴れ馬も、なんやかんやで乗りこなしちゃうんだなー。うわー。
オスカルをゆみこで見たい、と言っていたのは、撤回します。
この「あまえっこかわいこちゃん17歳」を、ゆみこさんにやってもらうのは、あのお、えーっと、いろいろ大変すぎると思います。
ふつーのオスカルならゆみこでもアリだと思うけど、「ばあやぁ、ばあやぁン(はぁと)」と腰をフリフリするゆみこさんは、見たくありません……。
芝居のストレスを払拭するかのよーに。『ミロワール』では、爆発してました、キムくん。
オトコマエ。
すっげー。男前だ。
変わり続ける表情。自在な歌声、客席アピール。
うわー、濃い。濃いよお、キム。キム濃度が上がってる〜〜。
キムを見ていると、「わたしにまっつがいて、よかった」と思う。
わたしの愛は今はすでにまっつのモノ(笑)なので、揺らぎはしませんが、もしも今贔屓がいない状態で、キムのもっともキムらしい魅力を見せつけられたら、彼に堕ちて、戻って来れなくなっているかもしれない……と、思うから。
水くんにときめくのとはチガウんだよなあ……。彼にはもっと、ひたすらヲトメな気持ちできゃーきゃー言ってられるんだけど。
キムにきゃーきゃー言うことは、多分ない。彼にはヲトメとしてではなく、わたし個人として、言い訳のきかない本質部分で惹かれるせいだろうな。トウコちゃんと同カテゴリ。
キムくんは、力強く突き進んで欲しい。
かわいこちゃんな外見に騙される人がなにを言ってきても、オトコマエに突き進んで欲しい。
彼には、野生の獣でいてほしい。
飼い慣らされていないワイズ、したたかなエロスを武器にして欲しい。きれいに収まらないで欲しい。
不敵なほど「スタァ」であるキムくんを見ていると、心からそう思うんだ。
あのぶ厚い唇を歪める、「汚い」表情が好き。野蛮で不遜な顔。彼がいちばんセクシーな顔。
ドスをきかせる、濁音のよーな歌い方を混ぜる一瞬が好き。それまでのきれいな声から、自在に逸脱させる、音楽で遊ぶ姿。
きれいなだけにはならないで。絶対に。
と。
ときめき……ではないけれど、ぞくぞくわくわくしながら、キムくんを見つめておりました、全国ツアー初日。
オスカル様より、わたしはフィラントが好きです。彼の歌う「お気楽ソング」を聴きたいっす。
ゆみこさんがキラキラしていて、とまどいしきりです(笑)。
基本的に地味な実力者が好きなので、わたしが言うところの「地味」つーのは、悪い意味で言っているつもりは、ありませんが。
ゆみこの地味オーラ、恐るべし!!
と、以前このブログに書いたところ、「太字で、でかい字でソレを書くか」と友人のドリーさんに注意されたりもしました。
わたしがどんだけ好意的な意味で使っている言葉でも、一般的にマイナスとされていることをでかでかと書くのはどうよ、と。
まったくもってその通りなんですが、そのことに限らず、「一般的にマイナスとされていること」を一切書けなくなってしまうと、わたしごときのスキルではナニも書けなくなってしまうので、結果アレなことも書き続けてますが。
そんなふーに、タカラジェンヌとして「地味」と言われることは「マイナス」であり、ブログにでかでかと書くことはヨクナイ!と言われるよーな類いのことなわけです。
その地味なとこをかわいいと思い、花組への組替えあたりからソコを愛でていたとしても。(雪にいた下級生時代は、派手な子だと思ってたんだよ……花組に行って、地味に見えて驚いた)
ジェンヌには欠点があるからいいんだと思う。欠けたところ、足りていないところをいじりつつ、つつきつつ、まったり眺めるのがたのしい。
彼らはナマモノであり、欠けたままではいない、同じままではいない。
彼らは、変わっていくんだもの。
それを見るのが醍醐味。
若いウチは100点満点でない方が、たのしい。
そーやって、地味でも実力と魅力のある人、として長年見守ってきた彩吹さんが。
どーしたことだ、キラキラしてます!!
全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』において。
物語的には不要であるとしか言えない、意味のない出番もないお衣装だけ豪華な、場の空気をぶち壊すためだけに登場するフェルゼン様。
なんかもー、無意味に、輝いてます。ぺかー、とのーてんきに、発光してます。
輝く? ぺかー? のーてんき?
な、なんかゆみこらしくない形容ばかり並んでますがなっ。
キラキラだよ? ゆみこが、キラキラ。ゆみこに対し、こんな形容をする日が来ようとは。
「ゆみこの地味オーラ、恐るべし!!」って書いたのはたかだか2年半前だ。
雪組に戻ってからのゆみこちゃんは、確実に成長しているのだと思う。
花組にいたときは感じなかった真ん中としての実力を、たしかに開花させているんだ。
真ん中に必要なのは、「場を統べる力」。多少の駄作も力尽くで別物にしてしまう力技。
美貌とか華とか輝きとかで惑乱するのもアリだが、別のアプローチだってある。
ゆみこちゃんは実力で真ん中へにじり寄っていく人なんだなー、と思った。
多少足らない部分があるとしても、他の部分でソレを補う。
ゆみこの場合は、技術。群を抜いた歌唱力だったり、あたたかみのある芝居だったり、抜群のスタイルとそれを使ったダンスだったり。
それまで、実力があることは知ってるけど、真ん中で世界を塗り替えるほどの圧倒的な力じゃないよなー、と思っていたんだけど。
なんかだんだん、真ん中もアリかも?な、突き抜けた豊かさを感じるのだわ。
場違いに登場するフェルゼン様は、空気読まずにまず1曲うっとり浸って歌いきるわけなんだけど。
この歌が、すげー美しくて。
もともとすばらしい歌手だと思っていたけれど、さらにびっくりするくらい、うまかった。
いやあ、キャリエールよりフランツより、フェルゼンの方が合うって、すごいじゃないの、ゆみこちゃん。
歌の力だけで、理屈をねじ伏せてくれるんだよね。物語関係なく、とりあえず場面変わりました、別次元スタートっす!
そして、フェルゼン様はすごくご機嫌でした。
いや、芝居としてではなく、演じているゆみこちゃんが、たのしそうだった。
ゆみこといえば繊細でナチュラルな芝居をする、というイメージで、歌舞伎をやっているところは想像できなかったんだが。
このフェルゼン様はとことん型にはまった大芝居、潔いまでの植田歌舞伎っぷりで、大ウケした。
ゆみこが本気で「フェルゼン」を演じている。長年の伝統を受け継ぎ、「フェルゼン」という「記号」を演じている〜〜(笑)。
場面をぶち壊してキラキラ出てくるわ、空気読まずに大芝居はじめるわで、すげーかわいいイキモノと化していた。
フェルゼン効果だろうか、『ミロワール』でも、なんかすごーくゆみこちゃんがかわいらしく、キラキラして見えた。
『ミロワール』はいいショーだよね、キレイで、たのしくて。暗転多いけど(笑)。
重ねてきた経験と、磨いてきた技術ゆえに、どんどん真ん中が似合う人になってきてるんだなあ。
人は変わっていく。だから、おもしろい。
あれほど大きな字で「地味」と書いた人に、「キラキラ」と書くようになるんだもの。
今回のゆみこちゃんを眺めていて、思ったこと。
いろいろ考えて考えて演じるより、ぺかーっと、ただ「たのしいっ」と笑っている方が、舞台での輝きにつながるのでは……?
なんてな。
フェルゼン@ゆみこちゃんが愉快すぎたため、登場としてはいつもそのあとになるソフィア@となみちゃんの印象が、わたしには薄く感じられたのは、こまったもんだ。
フェルゼン様に笑い転げた、そのあとだもんよ。
それでもとなみちゃんは納得の美しさで、出番も人格もナッシングなひでー状態で、懸命に心をつないで知的な美しい女性を演じてくれました。
ラストの修道院、水しぇんが彼女の腕の中で死んでいくのはとても美しいと思います。
ロベスピエール@ひろみちゃんの成長ぶりは、すばらしいよな。
ひろみちゃんはどんどんいい男になる。包容力が増し、存在感が増し。
てゆーか、『エリザベート』のときのダメダメっぷりから、急激に上がってますがな。革命家に見えずどーしたもんかななエルマーと、今回の頼れるリーダーっぷりは、えらい差だ。
芝居もショーもそらくん大活躍で、すげーキモチイイ。あの美貌を存分に愛でられるわー。
客席降りでは、らぎくんがすぐ横で、もーどーしたもんかと。うはうはっ。
キングの唯一の見せ場がハマコポジションの歌手って、そりゃ抜擢ではなく罰ゲームだろ……な、謎な扱いの数々に首を傾げつつ、せしるの唯一の見せ場がシンデレラって、ドレスのオカマはせしる的に新鮮味がないんだよなあ、とゼイタク言いつつ、谷みずせのラ・ファイエット侯のヘタレっぷりに心躍ったことを記し、筆を置くとしよう。
基本的に地味な実力者が好きなので、わたしが言うところの「地味」つーのは、悪い意味で言っているつもりは、ありませんが。
ゆみこの地味オーラ、恐るべし!!
と、以前このブログに書いたところ、「太字で、でかい字でソレを書くか」と友人のドリーさんに注意されたりもしました。
わたしがどんだけ好意的な意味で使っている言葉でも、一般的にマイナスとされていることをでかでかと書くのはどうよ、と。
まったくもってその通りなんですが、そのことに限らず、「一般的にマイナスとされていること」を一切書けなくなってしまうと、わたしごときのスキルではナニも書けなくなってしまうので、結果アレなことも書き続けてますが。
そんなふーに、タカラジェンヌとして「地味」と言われることは「マイナス」であり、ブログにでかでかと書くことはヨクナイ!と言われるよーな類いのことなわけです。
その地味なとこをかわいいと思い、花組への組替えあたりからソコを愛でていたとしても。(雪にいた下級生時代は、派手な子だと思ってたんだよ……花組に行って、地味に見えて驚いた)
ジェンヌには欠点があるからいいんだと思う。欠けたところ、足りていないところをいじりつつ、つつきつつ、まったり眺めるのがたのしい。
彼らはナマモノであり、欠けたままではいない、同じままではいない。
彼らは、変わっていくんだもの。
それを見るのが醍醐味。
若いウチは100点満点でない方が、たのしい。
そーやって、地味でも実力と魅力のある人、として長年見守ってきた彩吹さんが。
どーしたことだ、キラキラしてます!!
全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』において。
物語的には不要であるとしか言えない、意味のない出番もないお衣装だけ豪華な、場の空気をぶち壊すためだけに登場するフェルゼン様。
なんかもー、無意味に、輝いてます。ぺかー、とのーてんきに、発光してます。
輝く? ぺかー? のーてんき?
な、なんかゆみこらしくない形容ばかり並んでますがなっ。
キラキラだよ? ゆみこが、キラキラ。ゆみこに対し、こんな形容をする日が来ようとは。
「ゆみこの地味オーラ、恐るべし!!」って書いたのはたかだか2年半前だ。
雪組に戻ってからのゆみこちゃんは、確実に成長しているのだと思う。
花組にいたときは感じなかった真ん中としての実力を、たしかに開花させているんだ。
真ん中に必要なのは、「場を統べる力」。多少の駄作も力尽くで別物にしてしまう力技。
美貌とか華とか輝きとかで惑乱するのもアリだが、別のアプローチだってある。
ゆみこちゃんは実力で真ん中へにじり寄っていく人なんだなー、と思った。
多少足らない部分があるとしても、他の部分でソレを補う。
ゆみこの場合は、技術。群を抜いた歌唱力だったり、あたたかみのある芝居だったり、抜群のスタイルとそれを使ったダンスだったり。
それまで、実力があることは知ってるけど、真ん中で世界を塗り替えるほどの圧倒的な力じゃないよなー、と思っていたんだけど。
なんかだんだん、真ん中もアリかも?な、突き抜けた豊かさを感じるのだわ。
場違いに登場するフェルゼン様は、空気読まずにまず1曲うっとり浸って歌いきるわけなんだけど。
この歌が、すげー美しくて。
もともとすばらしい歌手だと思っていたけれど、さらにびっくりするくらい、うまかった。
いやあ、キャリエールよりフランツより、フェルゼンの方が合うって、すごいじゃないの、ゆみこちゃん。
歌の力だけで、理屈をねじ伏せてくれるんだよね。物語関係なく、とりあえず場面変わりました、別次元スタートっす!
そして、フェルゼン様はすごくご機嫌でした。
いや、芝居としてではなく、演じているゆみこちゃんが、たのしそうだった。
ゆみこといえば繊細でナチュラルな芝居をする、というイメージで、歌舞伎をやっているところは想像できなかったんだが。
このフェルゼン様はとことん型にはまった大芝居、潔いまでの植田歌舞伎っぷりで、大ウケした。
ゆみこが本気で「フェルゼン」を演じている。長年の伝統を受け継ぎ、「フェルゼン」という「記号」を演じている〜〜(笑)。
場面をぶち壊してキラキラ出てくるわ、空気読まずに大芝居はじめるわで、すげーかわいいイキモノと化していた。
フェルゼン効果だろうか、『ミロワール』でも、なんかすごーくゆみこちゃんがかわいらしく、キラキラして見えた。
『ミロワール』はいいショーだよね、キレイで、たのしくて。暗転多いけど(笑)。
重ねてきた経験と、磨いてきた技術ゆえに、どんどん真ん中が似合う人になってきてるんだなあ。
人は変わっていく。だから、おもしろい。
あれほど大きな字で「地味」と書いた人に、「キラキラ」と書くようになるんだもの。
今回のゆみこちゃんを眺めていて、思ったこと。
いろいろ考えて考えて演じるより、ぺかーっと、ただ「たのしいっ」と笑っている方が、舞台での輝きにつながるのでは……?
なんてな。
フェルゼン@ゆみこちゃんが愉快すぎたため、登場としてはいつもそのあとになるソフィア@となみちゃんの印象が、わたしには薄く感じられたのは、こまったもんだ。
フェルゼン様に笑い転げた、そのあとだもんよ。
それでもとなみちゃんは納得の美しさで、出番も人格もナッシングなひでー状態で、懸命に心をつないで知的な美しい女性を演じてくれました。
ラストの修道院、水しぇんが彼女の腕の中で死んでいくのはとても美しいと思います。
ロベスピエール@ひろみちゃんの成長ぶりは、すばらしいよな。
ひろみちゃんはどんどんいい男になる。包容力が増し、存在感が増し。
てゆーか、『エリザベート』のときのダメダメっぷりから、急激に上がってますがな。革命家に見えずどーしたもんかななエルマーと、今回の頼れるリーダーっぷりは、えらい差だ。
芝居もショーもそらくん大活躍で、すげーキモチイイ。あの美貌を存分に愛でられるわー。
客席降りでは、らぎくんがすぐ横で、もーどーしたもんかと。うはうはっ。
キングの唯一の見せ場がハマコポジションの歌手って、そりゃ抜擢ではなく罰ゲームだろ……な、謎な扱いの数々に首を傾げつつ、せしるの唯一の見せ場がシンデレラって、ドレスのオカマはせしる的に新鮮味がないんだよなあ、とゼイタク言いつつ、谷みずせのラ・ファイエット侯のヘタレっぷりに心躍ったことを記し、筆を置くとしよう。
箱庭の中で、慟哭するから。@凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅
2008年6月3日 タカラヅカ 初日に固唾をのんで見守ったので。
そのあと若者たちがどーなったのか、見届けに行ってきました、『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』千秋楽。
ボニー@みなこが、暴走してました。
わはははは。
すげーなヲイ。
クライド@かなめを完っ全に置き去りにして、ひとりで突っ走ってました、みなこちゃん。
いやはや。
作品として大変なことになってしまったようですが、それはソレでアリだと思う。
オギー作品は、一分の狂いも許さないよーな作り方は、していないと思っている。
座席指定ではなく、ブロック指定。A列の3番に坐って、そこからまったく動いてはいけないのではなく、チケットにはAブロックと書いてあるのみで、ラインで区切られたブロックの中ならどこにいてもヨシ、好きな場所で踊るなり手を鳴らすなりしてたのしんでね、なライヴ的ゆるさがあるというか。
力の足りない子も、テンパって暴走しちゃう子も、いてヨシ。それによって崩れるよーな作り方はしていない、サプライズでできあがるものさえ可能性として許容している印象。
だからボニーが暴走し、クライドがヘタレてしまっても、それはソレでまちがっていない。アリだと思う。
みなこちゃんが暴走したのは、かなめくんが手を離しているせい。
かなめくんはボニーと演技が合わなくなってもおかまいなしで自分の仕事のみをしていた。
それは役者として、主演として、どうかと思う。WSで主役を張るのは2回目で上級生なんだから、初ヒロインで舞い上がっている下級生の女の子を支えてやれよと思う。
主演としては、度量の無さを顕わにする、どーよ?な出来事なんだが。
クライドには、ソレが合っていた。
他人を支えることも救うこともしない。闇雲に求めるだけで、義務は一切果たさない。
ただ逃げるだけの、美しい男。
そのヘタレで卑怯なところさえもが、美しく説得力になってしまう。
ダメ男だなあ、クライド。
でもソレこそが、彼の魅力なんだよな。
この再演クライドは、かなめくんへのアテ書きであり、かなめくんしかできないのだと思う。
ボニーが大暴れしている分影が薄くなり、なにやってんだか、ナニを考えてんだか、さらにわかんなくなったクライドの存在感の薄さが、また味わいになっている。
みなこちゃんには誰か、包容力のある男役とがっつり組んだ芝居が見てみたいな。
暴走し、空回りしているボニーが痛々しかった。
みなこちゃん自身は演技力があると思う。だけど、アクセル踏んじゃうと自分でも減速の仕方がわからなくなるみたいだ。クライドだけじゃなく、他の人も見えなくなってしまい、ただ暴れ続けてしまう。
それはこれから経験を重ねれば自分で調節が出来るようになるんだろうけれど、今回のWSではみなこちゃん自身も、そして周りの誰もどーすることもできていなかった。
新公学年ではない、ちゃんと芝居の出来る人たちの中で、重要な役をずっしりと演じてみてほしいな。なんか、すごいものが見られそうだ。
クライドは世界から乖離してふわふわ漂っているし、ボニーは暴走して竜巻みたいに被害を拡大しているし、ハマコは別世界でたのしそーにしているし、なんつーか、変な芝居だなあ。
今回の再演で、副組長として初仕事をするハマコさんは、妙な浮き上がりっぷりをしていた。
物語を外側から見つめる「記者」役。ただメモを取りながら舞台にいる、ときどきナレーションを入れる、だけで「私はボニクラ事件を調べている記者です」と自己紹介はひとこともナシだが、再演ならではの新しい作品切り口となる役だとわかる。
初演のオーディエンスとは違い、さらにコアに物語を包囲する「壁」である印象。
初演でハマコの役を演じたみやたんは、あくまでも「オーディエンス」だったんだよね。「記者」として物語を視ていたわけじゃない。
クライドの聖域バック兄さんと、クライドを追いつめるフランク捜査官を同一の役者が演じるのはこの作品の肝だからはずせないとして、さらに作品全体を外側から押し込める「記者」をも、ハマコが兼ねる、というのが、なんとも故意的でヤな感じだなと(笑)。
オギー芝居は、ぎちぎちに理詰めで作られていない。現場の雰囲気でどうにでもなる「ゆるさ」がある。
WSで、力の足りない子たちが演じている、難しすぎる題材。
主役を含め、とにかく足りないことばかりだから、もともとゆるい部分はいくらでもゆるくなって、液体のようにはみ出してくる。
それをハマコが、押し戻すんだよね。
凝固する力がないゆえにだらしなく垂れてきたモノを、外側で見張っているハマコが、内側へ押し上げる。押し戻す。渇を入れて垂れないよう、凝固するようにしばらく支える。でもそのまま手を添え続けてはやらず、最低限垂れなくなったらまた手を離す。その繰り返し。
副組長として、上級生として、芝居を締める責任あるモノとして、ソレをやっているのかどうかは、正直よくわからない。
ハマコさん、天然に見えます(笑)。
垂れてきたモノをぴしゃっと叩いて押し戻すのも、それを仕事だと思ってやっているというより、たのしんで伸びをしたらそこに垂れていたモノがあってたまたまぴしゃっと叩いてしまった、みたいな?
計算でやっているとしたら、ハマコすげえ!てなもんだが。
ハマコを芝居の中の役として閉じこめず、世界のいちばん外側に置いたのは、こーゆー使い方をするためですか、オギー?
ハマコが天然に見えてしまうのは、彼と他の出演者たちの実力の差がものすごいから。
彼が歌い出したときの異世界感ときたら。
格がチガウ。とゆー言葉しか、出ない。
あまりにもレベルが違いすぎて、どーしてここまでチガウことを平気で見せつけられるのか、場に合わせようとしないのか、不思議なほどだ。
ハマコが異世界なほどにところどころで世界に平手打ちを喰らわせるため、ゆるゆるになりそうなところで、なんとか芝居として物語として踏ん張ってくれるんだと思う。
ハマコが凄いのはわかるが、あのたのしそーに浮いているのは、なんなんだろう。アマチュアの子どもたちの間で、プロの大人が全開で実力を発揮し、ご機嫌になっている……みたいな。
かなめ、みなこ、ハマコと、大変愉快です。つかこの舞台、ハリケーン吹き荒れてないか?(笑)
初演とは別物で、最初から別の作品として今の出演者に対してアテ書きをしたことは、素晴らしいと思う。
だけど初演を引きずるあまりに、ひとつ大きな失敗をしたなー、と気になることがある。
この再演では、「ブルース・レクイエム」を歌える歌手がいない。
クライドをはじめとする中心人物たちに、歌を担えるだけの力……卓越した歌唱力と、歌を裏切らないだけの芝居力を持つ人がいなかった。
だからわざと「ブルース・レクイエム」を登場人物たちには歌わさなかった……のは、いい。懸命な判断だと思う。
だけど。
中心人物たちが歌えないのなら、「ブルース・レクイエム」は、抹消するべきだった。この『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』からは。
彼らが歌えない「ブルース・レクイエム」は、あっても意味がないよ。むしろ、作品を壊しかねないよ。
……てな話は、またいずれ。
そのあと若者たちがどーなったのか、見届けに行ってきました、『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』千秋楽。
ボニー@みなこが、暴走してました。
わはははは。
すげーなヲイ。
クライド@かなめを完っ全に置き去りにして、ひとりで突っ走ってました、みなこちゃん。
いやはや。
作品として大変なことになってしまったようですが、それはソレでアリだと思う。
オギー作品は、一分の狂いも許さないよーな作り方は、していないと思っている。
座席指定ではなく、ブロック指定。A列の3番に坐って、そこからまったく動いてはいけないのではなく、チケットにはAブロックと書いてあるのみで、ラインで区切られたブロックの中ならどこにいてもヨシ、好きな場所で踊るなり手を鳴らすなりしてたのしんでね、なライヴ的ゆるさがあるというか。
力の足りない子も、テンパって暴走しちゃう子も、いてヨシ。それによって崩れるよーな作り方はしていない、サプライズでできあがるものさえ可能性として許容している印象。
だからボニーが暴走し、クライドがヘタレてしまっても、それはソレでまちがっていない。アリだと思う。
みなこちゃんが暴走したのは、かなめくんが手を離しているせい。
かなめくんはボニーと演技が合わなくなってもおかまいなしで自分の仕事のみをしていた。
それは役者として、主演として、どうかと思う。WSで主役を張るのは2回目で上級生なんだから、初ヒロインで舞い上がっている下級生の女の子を支えてやれよと思う。
主演としては、度量の無さを顕わにする、どーよ?な出来事なんだが。
クライドには、ソレが合っていた。
他人を支えることも救うこともしない。闇雲に求めるだけで、義務は一切果たさない。
ただ逃げるだけの、美しい男。
そのヘタレで卑怯なところさえもが、美しく説得力になってしまう。
ダメ男だなあ、クライド。
でもソレこそが、彼の魅力なんだよな。
この再演クライドは、かなめくんへのアテ書きであり、かなめくんしかできないのだと思う。
ボニーが大暴れしている分影が薄くなり、なにやってんだか、ナニを考えてんだか、さらにわかんなくなったクライドの存在感の薄さが、また味わいになっている。
みなこちゃんには誰か、包容力のある男役とがっつり組んだ芝居が見てみたいな。
暴走し、空回りしているボニーが痛々しかった。
みなこちゃん自身は演技力があると思う。だけど、アクセル踏んじゃうと自分でも減速の仕方がわからなくなるみたいだ。クライドだけじゃなく、他の人も見えなくなってしまい、ただ暴れ続けてしまう。
それはこれから経験を重ねれば自分で調節が出来るようになるんだろうけれど、今回のWSではみなこちゃん自身も、そして周りの誰もどーすることもできていなかった。
新公学年ではない、ちゃんと芝居の出来る人たちの中で、重要な役をずっしりと演じてみてほしいな。なんか、すごいものが見られそうだ。
クライドは世界から乖離してふわふわ漂っているし、ボニーは暴走して竜巻みたいに被害を拡大しているし、ハマコは別世界でたのしそーにしているし、なんつーか、変な芝居だなあ。
今回の再演で、副組長として初仕事をするハマコさんは、妙な浮き上がりっぷりをしていた。
物語を外側から見つめる「記者」役。ただメモを取りながら舞台にいる、ときどきナレーションを入れる、だけで「私はボニクラ事件を調べている記者です」と自己紹介はひとこともナシだが、再演ならではの新しい作品切り口となる役だとわかる。
初演のオーディエンスとは違い、さらにコアに物語を包囲する「壁」である印象。
初演でハマコの役を演じたみやたんは、あくまでも「オーディエンス」だったんだよね。「記者」として物語を視ていたわけじゃない。
クライドの聖域バック兄さんと、クライドを追いつめるフランク捜査官を同一の役者が演じるのはこの作品の肝だからはずせないとして、さらに作品全体を外側から押し込める「記者」をも、ハマコが兼ねる、というのが、なんとも故意的でヤな感じだなと(笑)。
オギー芝居は、ぎちぎちに理詰めで作られていない。現場の雰囲気でどうにでもなる「ゆるさ」がある。
WSで、力の足りない子たちが演じている、難しすぎる題材。
主役を含め、とにかく足りないことばかりだから、もともとゆるい部分はいくらでもゆるくなって、液体のようにはみ出してくる。
それをハマコが、押し戻すんだよね。
凝固する力がないゆえにだらしなく垂れてきたモノを、外側で見張っているハマコが、内側へ押し上げる。押し戻す。渇を入れて垂れないよう、凝固するようにしばらく支える。でもそのまま手を添え続けてはやらず、最低限垂れなくなったらまた手を離す。その繰り返し。
副組長として、上級生として、芝居を締める責任あるモノとして、ソレをやっているのかどうかは、正直よくわからない。
ハマコさん、天然に見えます(笑)。
垂れてきたモノをぴしゃっと叩いて押し戻すのも、それを仕事だと思ってやっているというより、たのしんで伸びをしたらそこに垂れていたモノがあってたまたまぴしゃっと叩いてしまった、みたいな?
計算でやっているとしたら、ハマコすげえ!てなもんだが。
ハマコを芝居の中の役として閉じこめず、世界のいちばん外側に置いたのは、こーゆー使い方をするためですか、オギー?
ハマコが天然に見えてしまうのは、彼と他の出演者たちの実力の差がものすごいから。
彼が歌い出したときの異世界感ときたら。
格がチガウ。とゆー言葉しか、出ない。
あまりにもレベルが違いすぎて、どーしてここまでチガウことを平気で見せつけられるのか、場に合わせようとしないのか、不思議なほどだ。
ハマコが異世界なほどにところどころで世界に平手打ちを喰らわせるため、ゆるゆるになりそうなところで、なんとか芝居として物語として踏ん張ってくれるんだと思う。
ハマコが凄いのはわかるが、あのたのしそーに浮いているのは、なんなんだろう。アマチュアの子どもたちの間で、プロの大人が全開で実力を発揮し、ご機嫌になっている……みたいな。
かなめ、みなこ、ハマコと、大変愉快です。つかこの舞台、ハリケーン吹き荒れてないか?(笑)
初演とは別物で、最初から別の作品として今の出演者に対してアテ書きをしたことは、素晴らしいと思う。
だけど初演を引きずるあまりに、ひとつ大きな失敗をしたなー、と気になることがある。
この再演では、「ブルース・レクイエム」を歌える歌手がいない。
クライドをはじめとする中心人物たちに、歌を担えるだけの力……卓越した歌唱力と、歌を裏切らないだけの芝居力を持つ人がいなかった。
だからわざと「ブルース・レクイエム」を登場人物たちには歌わさなかった……のは、いい。懸命な判断だと思う。
だけど。
中心人物たちが歌えないのなら、「ブルース・レクイエム」は、抹消するべきだった。この『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』からは。
彼らが歌えない「ブルース・レクイエム」は、あっても意味がないよ。むしろ、作品を壊しかねないよ。
……てな話は、またいずれ。
タニちゃん大劇場お被露目初日、HPには当日券が「多数ご用意しております」と発表されているのに、それと同時に「立ち見券の発売もあります」とゆーことだった。
なんで? 立ち見券は、座席券が売りきれてはじめて発売するものでしょう? 一度は完売したけれど、戻りがあったために立ち見も売ることにしたのかな?
と、なんとなーく思っていたが、当日の潔い空席ぶりを見て「戻りがどうとかいうレベルの空席ぢゃない」、と思いなおした。
だからずっと、謎だったんだ。
あの日、2階A席サイドブロック以降ほとんどまるっと空席、とかゆー潔さ(ムラの平日なんてこんなもん)なのに、立ち見が発売されていたという現実。
宙組のときは、積極的に前売りに参加したり、チケ取りに必死になっていたわけではないので、どーしてそんなことになったのかわからないままだった。
んで、今回。
謎は解けた。
まとぶさんのお被露目初日も、当日券は「多数ご用意」、なのに立ち見券も有り。
タニちゃんのときと同じ。
実際に客席を見た上での空席の数からして、ただの一度も完売していないことは推察できる。や、『バレンシア』ほどじゃないにしろ、こちらもとても潔い空席っぷりでしたから。
それなのに何故、立ち見券発売?
わたしと同じ疑問を、花組初日当日友人も口にした。
「座席が売りきれてないのに、どうして立ち見も出てるの?」
しかし今回のわたしは、すんなり答えを口にできた。
「発売日に、大劇場だけ売り切れたからだよ」
そう。
発売されたチケットは最終的にひとつに集められ、どこの窓口からでも同じように購入できようになるが、発売日当日だけはそうではない。
チケットぴあにはぴあの持ち分、ローソンにはローソンの持ち分、三番街プレイガイドには三番街プレイガイドの持ち分、というものがある。
それぞれの窓口が、持っている枚数も配席もチガウので、購入する側で選んで電話をかけたり端末を叩いたり、並びに行ったりする、わけだ。
だからこそわたしは、最端ではあっても最前列がある三番街プレイガイドを愛用している。1列目1〜4番は三番街の持ち席、たとえチケぴに時報と同時に電話がつながったとしても、その席は購入できない。なにしろ最初からぴあは「持っていない」のだから。
そして、それぞれの窓口はまったくの個別扱いなので、ひとつの窓口が売り切れたからといって、よその窓口のチケットが回ったりしない。
チケぴで売り切れたからといって、その次の瞬間ローソンチケットの持ち分が引き続きぴあで買える、というわけじゃない。
最終的にチケットはひとつに集められるが、発売日はチガウ。だから人気公演の場合に「ぴあは売り切れたけどローソンならまだあった」とか「イープラスならまだ買える」とか友人間で情報メールが飛び交ったりするのさ。
かの『ベルばら』がぴあその他チケット業者で即日完売だっつーに、三番街プレイガイドではS席から全部売れ残っていたりしたもんよ。
全国の誰でも購入可能なチケット業者持ち分と、当日その時間に出向いて、実際に何時間と拘束され、列に並び続けることでしか購入できないチケットでは、動きがチガウ場合がある、んだ。
『ベルばら』はなあ。ダフ屋をはじめ、全国一般のライトな人々は狂喜してチケ取りしたんだろうけど、コアなヅカファンは辟易。チケぴ他では瞬殺なのに、三番街では席や日にちの寄り好みをして「こんな悪い席だったら見たくなーい」と手を出さず。
「『ベルばら』なのにぜんぜん売れてないねー」と言っていたのに、帰宅してからネットを見て驚愕したさ。世の中と梅田の温度差に。
そんなわけだから。
発売初日だけ、ある窓口では売りきれ、ある窓口では絶賛発売中、ということが、ふつーにある。
そして本拠地、宝塚大劇場。
ここでの前売りは、やっぱ特別。
わたしは並んだことがないのでよくわからないが、全国から多くの人々が並びにやって来ている。
土曜日の早朝にあんなへんぴなところまで出向くのだから、相当本気の人たちだ。
どのあたりの座席を持っているのか知らないが、ただ「立ち見券」を持っているのは大劇だけだということは、聞いている。
三番街はたとえ売りきれても、引き続き立ち見券を販売したりはしない。持っていないからだ。三番街は座席が売りきれたらそこで完売。
唯一大劇場窓口のみが、立ち見券を持つ。
そうやって発売当日に大劇場に並んだ人たち限定の販売において、初日はいったん売り切れた。そのため、引き続き立ち見券も発売したんだ。
花組前売り前後の日程、うっかり入院中だったわたしは病院のベッドの上でパソコン開いて、「初日売りきれたー。立ち見券で観られるぞー」とよろこんだんだもんよ。高額な2階席で坐って観るより、安価で1階にいられる立ち見がいいもん。宙組のときは立ち見が出てるの知らなくてB席で観ちゃったんだもん。
大劇場で前売りをしている限り、これからもこーゆーことが起こるんだろうな。
いやその、今までトップお被露目初日は窓口がどこであろうと売りきれ当然だったから、こんなややこしいことにはならなかったんだが。
宙組のときはこんなのは最初で最後かと思ったんだが、正直ごめん、うちの組も同じかぁ。
これからはこーゆーことがあたりまえになっていくのかなあ。
なにはともあれ、「今」をおぼえておこうと思う。ここからはじまった。
ここから大きくなっていくんだ。
まとぶんはトップスターとして不足のない人だし、ゆーひくんも加わって組自体とても充実している。
これからどんなふうになっていくのか、たのしみだ。
なんで? 立ち見券は、座席券が売りきれてはじめて発売するものでしょう? 一度は完売したけれど、戻りがあったために立ち見も売ることにしたのかな?
と、なんとなーく思っていたが、当日の潔い空席ぶりを見て「戻りがどうとかいうレベルの空席ぢゃない」、と思いなおした。
だからずっと、謎だったんだ。
あの日、2階A席サイドブロック以降ほとんどまるっと空席、とかゆー潔さ(ムラの平日なんてこんなもん)なのに、立ち見が発売されていたという現実。
宙組のときは、積極的に前売りに参加したり、チケ取りに必死になっていたわけではないので、どーしてそんなことになったのかわからないままだった。
んで、今回。
謎は解けた。
まとぶさんのお被露目初日も、当日券は「多数ご用意」、なのに立ち見券も有り。
タニちゃんのときと同じ。
実際に客席を見た上での空席の数からして、ただの一度も完売していないことは推察できる。や、『バレンシア』ほどじゃないにしろ、こちらもとても潔い空席っぷりでしたから。
それなのに何故、立ち見券発売?
わたしと同じ疑問を、花組初日当日友人も口にした。
「座席が売りきれてないのに、どうして立ち見も出てるの?」
しかし今回のわたしは、すんなり答えを口にできた。
「発売日に、大劇場だけ売り切れたからだよ」
そう。
発売されたチケットは最終的にひとつに集められ、どこの窓口からでも同じように購入できようになるが、発売日当日だけはそうではない。
チケットぴあにはぴあの持ち分、ローソンにはローソンの持ち分、三番街プレイガイドには三番街プレイガイドの持ち分、というものがある。
それぞれの窓口が、持っている枚数も配席もチガウので、購入する側で選んで電話をかけたり端末を叩いたり、並びに行ったりする、わけだ。
だからこそわたしは、最端ではあっても最前列がある三番街プレイガイドを愛用している。1列目1〜4番は三番街の持ち席、たとえチケぴに時報と同時に電話がつながったとしても、その席は購入できない。なにしろ最初からぴあは「持っていない」のだから。
そして、それぞれの窓口はまったくの個別扱いなので、ひとつの窓口が売り切れたからといって、よその窓口のチケットが回ったりしない。
チケぴで売り切れたからといって、その次の瞬間ローソンチケットの持ち分が引き続きぴあで買える、というわけじゃない。
最終的にチケットはひとつに集められるが、発売日はチガウ。だから人気公演の場合に「ぴあは売り切れたけどローソンならまだあった」とか「イープラスならまだ買える」とか友人間で情報メールが飛び交ったりするのさ。
かの『ベルばら』がぴあその他チケット業者で即日完売だっつーに、三番街プレイガイドではS席から全部売れ残っていたりしたもんよ。
全国の誰でも購入可能なチケット業者持ち分と、当日その時間に出向いて、実際に何時間と拘束され、列に並び続けることでしか購入できないチケットでは、動きがチガウ場合がある、んだ。
『ベルばら』はなあ。ダフ屋をはじめ、全国一般のライトな人々は狂喜してチケ取りしたんだろうけど、コアなヅカファンは辟易。チケぴ他では瞬殺なのに、三番街では席や日にちの寄り好みをして「こんな悪い席だったら見たくなーい」と手を出さず。
「『ベルばら』なのにぜんぜん売れてないねー」と言っていたのに、帰宅してからネットを見て驚愕したさ。世の中と梅田の温度差に。
そんなわけだから。
発売初日だけ、ある窓口では売りきれ、ある窓口では絶賛発売中、ということが、ふつーにある。
そして本拠地、宝塚大劇場。
ここでの前売りは、やっぱ特別。
わたしは並んだことがないのでよくわからないが、全国から多くの人々が並びにやって来ている。
土曜日の早朝にあんなへんぴなところまで出向くのだから、相当本気の人たちだ。
どのあたりの座席を持っているのか知らないが、ただ「立ち見券」を持っているのは大劇だけだということは、聞いている。
三番街はたとえ売りきれても、引き続き立ち見券を販売したりはしない。持っていないからだ。三番街は座席が売りきれたらそこで完売。
唯一大劇場窓口のみが、立ち見券を持つ。
そうやって発売当日に大劇場に並んだ人たち限定の販売において、初日はいったん売り切れた。そのため、引き続き立ち見券も発売したんだ。
花組前売り前後の日程、うっかり入院中だったわたしは病院のベッドの上でパソコン開いて、「初日売りきれたー。立ち見券で観られるぞー」とよろこんだんだもんよ。高額な2階席で坐って観るより、安価で1階にいられる立ち見がいいもん。宙組のときは立ち見が出てるの知らなくてB席で観ちゃったんだもん。
大劇場で前売りをしている限り、これからもこーゆーことが起こるんだろうな。
いやその、今までトップお被露目初日は窓口がどこであろうと売りきれ当然だったから、こんなややこしいことにはならなかったんだが。
宙組のときはこんなのは最初で最後かと思ったんだが、正直ごめん、うちの組も同じかぁ。
これからはこーゆーことがあたりまえになっていくのかなあ。
なにはともあれ、「今」をおぼえておこうと思う。ここからはじまった。
ここから大きくなっていくんだ。
まとぶんはトップスターとして不足のない人だし、ゆーひくんも加わって組自体とても充実している。
これからどんなふうになっていくのか、たのしみだ。
あれはたしか、全国ツアーの『レ・ビジュー・ブリアン』を観たときだっけ。
ショーのセンターに立つゆーひくんを見て、「真ん中に立つには弱いな」と思った。
全ツ2番手とはいえ、今までの彼からすれば破格の扱いを受けて、ゆーひくんはセンターで舞台全体を引っ張る、という仕事に取り組んでいた。悪戦苦闘していた。
そもそもゆーひくんがショーで1場面を任されたのが、『レ・ビジュー・ブリアン』の本公演のときではなかったっけ?
ゆーひくんは「路線」としての完璧な扱いは受けて来なかった。まったくの圏外に置かれていたわけではないが、都合良く使われるだけで肝心なところでは線引きされていた。
下級生のタニちゃんやきりやんより下の扱いを、ずーっとふつーに受けていた。
だから「真ん中」に立つための訓練なんか受けてないし、場も与えられない。
芝居ではちょっといい役が来たりすることがあっても、バウ主演や全ツでいい役がもらえることはあっても、本公演のショーでは場面をもらえない……てなあたりで、立場を分けられていた。
ショーで1場面もらう、センターに立つ。つーのは、トップスターに必要なスキルで、トップかいずれトップにするつもりのスターにしかさせない。
やっぱ特別なんだよね、ショーの真ん中って。脇役には生涯必要ないスキルだし、卓越した実力か、スターオーラのどちらかがないと務まらないわけだし。
劇団がゆーひくんをどう考えているのか計りようがないが、彼の高い学年を考えれば、そろそろショーで場面を持っても仕方ないところまで来たと思った。
もちろん、うれしいよ?
ゆーひセンターだー、ほえー。とは思った。刮目して見たさ。
3番手としてちょろっとセンターのある大劇場公演では、学年の高さ、キャリアの長さで乗り切った感があった。
しかし、完全な2番手として作品自体を支えなければならない全ツ版において、ゆーひくんは空間をもてあましていた。
中詰めでトップ娘役を相手に、場を牽引するには至っていなかった。
真ん中に立つには、弱い。
ナニか足りない。
わたしはゆーひくんが好きで、ゆーひくんがスターとして真ん中にいてくれるのはうれしいけれど、大歓迎だけど、客観的に見て真ん中の仕事が出来ているとは、言えないよなあ。
そう思っていた。
あれから、2年。
たった、2年。
『愛と死のアラビア』『Red Hot Sea』で、ふつーにセンターに立って1場面を担う彼を見て、驚愕する。
かっこいい。
いやその、ゆーひくんは下級生時代から超かっこよかったけど、そーゆー外見のことじゃなくて、あの広大な大劇場のセンターに立って、空間を支配する力を持つゆえの、かっこよさなんだってば。
おどろいた。
いつの間に、こんなになっていたの? こんなに頼りがいのある、大人の男になっていたの?
わたしにとってのゆーひくんは、すみっこで視線をそらしているクールな男の子で。そう、いつまでも「男の子」で、大人の「男」ではなくて。
ケロの弟で、大きなカラダでにーちゃんのあとをくっついてくるかわいい子で。
永遠の25歳ってゆーか、大学出てちょっとだけ経ちました的年代の、モラトリアムな青年で。
大空祐飛が大人になっているなんて、知らなかった。
花公演初日、銀橋に立って歌うゆーひくんの、堂々たる男ぶりにただただ驚きました。
「スター」じゃん。彼って、なんの遜色もない、ほんとに「スター」なんじゃん!!
……遅咲きにもほどがある、てなもんだがな。
ふつーは研12くらいでこれくらいのことはしているもんだと、思うけれど。
ひとはそれぞれ。
成長のスピードも、もっとも美しく花開く時期にも、差があって当たり前。
ただタカラヅカでは研7までに基礎を身につけ、研10あたりでキャラを確立、研12くらいでトップスターになってもいいだけのオーラとキャリアを得ていなければならない、つーだけで。
現代人の成長はかなり遅くなっている。
昔の25歳は大人……というか、女性なら「結婚適齢期を過ぎてしまった」年齢とされていた。ほんの20年前のドラマが、「24歳なのに独身、このままじゃオールドミスとして後ろ指さされることになる!」と焦るものだったりするわけだから。
現代では25歳はまだ若者だ。時代がチガウんだ。
ヅカも、20年前はさらに若くして芸風が確立していた。研10でトップになって研14で退団とかだったわけだし。どんどん成長に時間がかかるようになっている。
ゆーひくんが研17で、ふつーの路線スターの倍の時間を掛けて花開くのだって、アリだろう。
彼がトップスター候補なのかどうかは、一般ファンには知るすべがない。
トップと2番手の学年が逆転しているなんてのは、大抜擢アリの月組でしか見たことがないし、第一、研7でトップになった天海祐希の2番手が研7以上なのは当然のことだったからな(研7のトップとそれ以下の2番手3番手の組なんて嫌だ、新人公演じゃん!)。
立場的なことはよくわからないが、丸10年ゆーひくんを眺めてきたモノとして、彼の成長ぶりが感慨深い。
あのふてくされた顔で踊っていたきれいな男の子が、こんなところまで来た。
ずっと「知っている」と思っていた人に、「再会」した驚きと喜び。
大人で、とびきりいい男になったゆうひくんが、うれしい。
ショーのセンターに立つゆーひくんを見て、「真ん中に立つには弱いな」と思った。
全ツ2番手とはいえ、今までの彼からすれば破格の扱いを受けて、ゆーひくんはセンターで舞台全体を引っ張る、という仕事に取り組んでいた。悪戦苦闘していた。
そもそもゆーひくんがショーで1場面を任されたのが、『レ・ビジュー・ブリアン』の本公演のときではなかったっけ?
ゆーひくんは「路線」としての完璧な扱いは受けて来なかった。まったくの圏外に置かれていたわけではないが、都合良く使われるだけで肝心なところでは線引きされていた。
下級生のタニちゃんやきりやんより下の扱いを、ずーっとふつーに受けていた。
だから「真ん中」に立つための訓練なんか受けてないし、場も与えられない。
芝居ではちょっといい役が来たりすることがあっても、バウ主演や全ツでいい役がもらえることはあっても、本公演のショーでは場面をもらえない……てなあたりで、立場を分けられていた。
ショーで1場面もらう、センターに立つ。つーのは、トップスターに必要なスキルで、トップかいずれトップにするつもりのスターにしかさせない。
やっぱ特別なんだよね、ショーの真ん中って。脇役には生涯必要ないスキルだし、卓越した実力か、スターオーラのどちらかがないと務まらないわけだし。
劇団がゆーひくんをどう考えているのか計りようがないが、彼の高い学年を考えれば、そろそろショーで場面を持っても仕方ないところまで来たと思った。
もちろん、うれしいよ?
ゆーひセンターだー、ほえー。とは思った。刮目して見たさ。
3番手としてちょろっとセンターのある大劇場公演では、学年の高さ、キャリアの長さで乗り切った感があった。
しかし、完全な2番手として作品自体を支えなければならない全ツ版において、ゆーひくんは空間をもてあましていた。
中詰めでトップ娘役を相手に、場を牽引するには至っていなかった。
真ん中に立つには、弱い。
ナニか足りない。
わたしはゆーひくんが好きで、ゆーひくんがスターとして真ん中にいてくれるのはうれしいけれど、大歓迎だけど、客観的に見て真ん中の仕事が出来ているとは、言えないよなあ。
そう思っていた。
あれから、2年。
たった、2年。
『愛と死のアラビア』『Red Hot Sea』で、ふつーにセンターに立って1場面を担う彼を見て、驚愕する。
かっこいい。
いやその、ゆーひくんは下級生時代から超かっこよかったけど、そーゆー外見のことじゃなくて、あの広大な大劇場のセンターに立って、空間を支配する力を持つゆえの、かっこよさなんだってば。
おどろいた。
いつの間に、こんなになっていたの? こんなに頼りがいのある、大人の男になっていたの?
わたしにとってのゆーひくんは、すみっこで視線をそらしているクールな男の子で。そう、いつまでも「男の子」で、大人の「男」ではなくて。
ケロの弟で、大きなカラダでにーちゃんのあとをくっついてくるかわいい子で。
永遠の25歳ってゆーか、大学出てちょっとだけ経ちました的年代の、モラトリアムな青年で。
大空祐飛が大人になっているなんて、知らなかった。
花公演初日、銀橋に立って歌うゆーひくんの、堂々たる男ぶりにただただ驚きました。
「スター」じゃん。彼って、なんの遜色もない、ほんとに「スター」なんじゃん!!
……遅咲きにもほどがある、てなもんだがな。
ふつーは研12くらいでこれくらいのことはしているもんだと、思うけれど。
ひとはそれぞれ。
成長のスピードも、もっとも美しく花開く時期にも、差があって当たり前。
ただタカラヅカでは研7までに基礎を身につけ、研10あたりでキャラを確立、研12くらいでトップスターになってもいいだけのオーラとキャリアを得ていなければならない、つーだけで。
現代人の成長はかなり遅くなっている。
昔の25歳は大人……というか、女性なら「結婚適齢期を過ぎてしまった」年齢とされていた。ほんの20年前のドラマが、「24歳なのに独身、このままじゃオールドミスとして後ろ指さされることになる!」と焦るものだったりするわけだから。
現代では25歳はまだ若者だ。時代がチガウんだ。
ヅカも、20年前はさらに若くして芸風が確立していた。研10でトップになって研14で退団とかだったわけだし。どんどん成長に時間がかかるようになっている。
ゆーひくんが研17で、ふつーの路線スターの倍の時間を掛けて花開くのだって、アリだろう。
彼がトップスター候補なのかどうかは、一般ファンには知るすべがない。
トップと2番手の学年が逆転しているなんてのは、大抜擢アリの月組でしか見たことがないし、第一、研7でトップになった天海祐希の2番手が研7以上なのは当然のことだったからな(研7のトップとそれ以下の2番手3番手の組なんて嫌だ、新人公演じゃん!)。
立場的なことはよくわからないが、丸10年ゆーひくんを眺めてきたモノとして、彼の成長ぶりが感慨深い。
あのふてくされた顔で踊っていたきれいな男の子が、こんなところまで来た。
ずっと「知っている」と思っていた人に、「再会」した驚きと喜び。
大人で、とびきりいい男になったゆうひくんが、うれしい。
同じ素材を使って料理し直してみると。@愛と死のアラビア
2008年6月6日 タカラヅカ わたしは原作を知らない。
だからトマスがこの芝居で描かれる処刑では死なず、そのあともえんえん物語が続いていることなんか知らない。
あくまでも、今、舞台の上で描かれているモノがすべて。
原作付きだからといって、一言一句そのままコピーしなければいけないとは思っていない。
小説をミュージカルにし、別のタイトルを付けた段階で、別物だと思っている。
原作の設定やエッセンスを利用しただけの別物であっても、まったく構わない。
それくらい、「作品」というものは、尊いモノだと思っているのですよ。
小説という原作があったとして、それをどうあがいたって芝居になんかできるわけないんです。マンガでもゲームでも同じ。小説のマンガ化でもその反対でも、別のメディアに移すならば同じであることなんか不可能。
できっこない、別物必至、それくらいひとつの「作品」ってのはコアで真似できないモノなんだから、「原作とチガウ!」といって憤慨するのは無意味。
また、メディアミックス作品は原作の呪縛にとらわれず、ソレだけで評価に値すると思っている。
原作付きだからオリジナル作品以下、という格付けには反対。複写機でコピーしたり、贋作を作って本物と偽ることが目的でない限り、作家のオリジナリティは存在するから。
つーことで、谷正純作『愛と死のアラビア』も、「原作とチガウ!」からとか、「原作付きであって、所詮オリジナルじゃない」からとかで、評価を下げる気はありません。
どんなカタチであれ、元がなんであれ、そこにはあるのはひとつの「作品」。
なんだっていいのよ、よーするに、おもしろければ。
うん。
『愛と死のアラビア』は、たんに、おもしろくないのよ。ほんと、ソレだけなのよ。
まとぶんは美しく、かつ男臭いという、ステキな芸風のおにーさん。
太さのある声もいいし、歌唱力も毎回向上している。
今でも十分力のある人だけれど、これからさらに伸びていくんだろうと思わせてくれるとこがまたヨイのだわ。
大人の魅力を引っ提げてゆーひくんも仲間入りしたし、壮くんは相変わらずの輝きとせわしなさが素晴らしいし、彩音ちゃんは華やかでクラシカルな魅力に満ちている。
トマス@まとぶん、イブラヒム@ゆーひ、トゥスン@壮、アノウド@彩音は、みなキャラに合っている。
彼らはちゃんと良い仕事をしているのに、何故それを活かさないんだ、演出家。
クライマックスのドナルド帰郷から兄弟対決まではいい。
てゆーか、トマスとドナルドのやりとりは、泣ける。
そのあとの愛の暴走特急トゥスンと、やせ我慢は男の美学イブラヒムも、ツッコミどころは満載でも、派手で良い。
……そのあとのアノウドとのシーンで、なんか盛り上がりが失速してしまうのは、ヒロインが不要な話だったためだろう。あーあ。
あくまでも舞台の上にあるものだけを材料に、このなんだかなー、な『愛と死のアラビア』を料理し直してみようと思う。
原作は知らない。舞台だけが判断基準だから、ラスト、トマスは処刑されて死ぬとゆーことで。
処刑までは描かない、監獄でトマスとアノウドが抱き合って幕(明朝にはトマス処刑)、というのが必須、「変えられないゴール」であるとして。
このラストシーンを盛り上げるためにナニが必要で、ナニがいらないか。
それを念頭に物語を作ってみよう。
ラストで強引に「感動的な話」に持っていくわけだが、それにはいくつかの課題がある。
1.イギリス人なのに、エジプトのために処刑を受け入れるトマス
2.一夜限りの妻となるアノウド
3.トゥスン、イブラヒムとの友情
いちばん計画的に昇華しなければならない課題は、1の「イギリス人なのに」ってやつだ。
これは、この物語の情勢・世界説明と関係がある。
小難しい歴史の勉強や、解説の理解を観客に求めてはいけない。
必要なのは、ここが「エジプト」で、「オスマン・トルコ帝国」の支配下にあるということ。
でもってイギリスとゆーかヨーロッパは植民地稼ぎに躍起になっていた頃、そんなこんなを背景に、トマスはエジプトと戦いにやってきたイギリス兵である。
なんつーか、現在はトルコに支配されていて、ムハンマド・アリがエジプトの独立を目指している、つーのをしっかりと教えてくれないとトマスの決心が「はぁ?」てな弱いモノになってしまうのよ。トマスの死がどーゆー意味を持つのか、大袈裟なまでに教えておいてくれないと。
まず、トルコ対エジプトを描いておく。
トマスが心酔するのはエジプトであり、エジプト太守ムハンマド・アリの息子たち。
だからこそ、トルコに陥れられたカタチで死を選び、そのことによってエジプトと太守一家を盛り立てようとする。
簡単だよ、悪役を出せば良いんだ。
オスマン帝国様々な大臣様とかが金糸銀糸の豪華衣装に身を包み、わっかりやすい悪徳代官ぶりで、ふんぞり返っていればいいんだ。
「イギリスとの戦闘で、エジプトが疲弊すればいい、くくく」とか「ムハンマド・アリいじめのために、ヤツのかわいがっているナイリ姫をイギリスへ嫁がせよう、けけけ」とか、花道でちょっくら喋らせるだけでいい。
腰巾着なマムルークたちもそばに付けて。
いちばんえらいのが誰か、を、シンプルに表現する。
今のままだと、ムハンマド・アリがあまりにえらすぎて、彼が中間管理職に過ぎないことがわかりにくい。
ムハンマド・アリと彼のエジプトに対して、真の敵がトマスの祖国イギリスではなく、オスマン帝国だということを表現しておく。
……歴史的にどうだとか、原作がどうだとかゆー話ではないよ。
『愛と死のアラビア』のあのクライマックスを正しく機能させるために、逆引きしていってるだけだから、すげー微視的な目でトマスをとりまく時代背景を簡略化して表現することだけを考えているんだからね。
ただ、今の配役でいくと、この帝国の悪役様がアッバス長官@みおさんになりそうで、ソレはちょっとイヤン(笑)。誰か他の人の方がいいなあ。
とまあ、めっちゃ話の途中だが、文字数の関係でいったん切る。
だからトマスがこの芝居で描かれる処刑では死なず、そのあともえんえん物語が続いていることなんか知らない。
あくまでも、今、舞台の上で描かれているモノがすべて。
原作付きだからといって、一言一句そのままコピーしなければいけないとは思っていない。
小説をミュージカルにし、別のタイトルを付けた段階で、別物だと思っている。
原作の設定やエッセンスを利用しただけの別物であっても、まったく構わない。
それくらい、「作品」というものは、尊いモノだと思っているのですよ。
小説という原作があったとして、それをどうあがいたって芝居になんかできるわけないんです。マンガでもゲームでも同じ。小説のマンガ化でもその反対でも、別のメディアに移すならば同じであることなんか不可能。
できっこない、別物必至、それくらいひとつの「作品」ってのはコアで真似できないモノなんだから、「原作とチガウ!」といって憤慨するのは無意味。
また、メディアミックス作品は原作の呪縛にとらわれず、ソレだけで評価に値すると思っている。
原作付きだからオリジナル作品以下、という格付けには反対。複写機でコピーしたり、贋作を作って本物と偽ることが目的でない限り、作家のオリジナリティは存在するから。
つーことで、谷正純作『愛と死のアラビア』も、「原作とチガウ!」からとか、「原作付きであって、所詮オリジナルじゃない」からとかで、評価を下げる気はありません。
どんなカタチであれ、元がなんであれ、そこにはあるのはひとつの「作品」。
なんだっていいのよ、よーするに、おもしろければ。
うん。
『愛と死のアラビア』は、たんに、おもしろくないのよ。ほんと、ソレだけなのよ。
まとぶんは美しく、かつ男臭いという、ステキな芸風のおにーさん。
太さのある声もいいし、歌唱力も毎回向上している。
今でも十分力のある人だけれど、これからさらに伸びていくんだろうと思わせてくれるとこがまたヨイのだわ。
大人の魅力を引っ提げてゆーひくんも仲間入りしたし、壮くんは相変わらずの輝きとせわしなさが素晴らしいし、彩音ちゃんは華やかでクラシカルな魅力に満ちている。
トマス@まとぶん、イブラヒム@ゆーひ、トゥスン@壮、アノウド@彩音は、みなキャラに合っている。
彼らはちゃんと良い仕事をしているのに、何故それを活かさないんだ、演出家。
クライマックスのドナルド帰郷から兄弟対決まではいい。
てゆーか、トマスとドナルドのやりとりは、泣ける。
そのあとの愛の暴走特急トゥスンと、やせ我慢は男の美学イブラヒムも、ツッコミどころは満載でも、派手で良い。
……そのあとのアノウドとのシーンで、なんか盛り上がりが失速してしまうのは、ヒロインが不要な話だったためだろう。あーあ。
あくまでも舞台の上にあるものだけを材料に、このなんだかなー、な『愛と死のアラビア』を料理し直してみようと思う。
原作は知らない。舞台だけが判断基準だから、ラスト、トマスは処刑されて死ぬとゆーことで。
処刑までは描かない、監獄でトマスとアノウドが抱き合って幕(明朝にはトマス処刑)、というのが必須、「変えられないゴール」であるとして。
このラストシーンを盛り上げるためにナニが必要で、ナニがいらないか。
それを念頭に物語を作ってみよう。
ラストで強引に「感動的な話」に持っていくわけだが、それにはいくつかの課題がある。
1.イギリス人なのに、エジプトのために処刑を受け入れるトマス
2.一夜限りの妻となるアノウド
3.トゥスン、イブラヒムとの友情
いちばん計画的に昇華しなければならない課題は、1の「イギリス人なのに」ってやつだ。
これは、この物語の情勢・世界説明と関係がある。
小難しい歴史の勉強や、解説の理解を観客に求めてはいけない。
必要なのは、ここが「エジプト」で、「オスマン・トルコ帝国」の支配下にあるということ。
でもってイギリスとゆーかヨーロッパは植民地稼ぎに躍起になっていた頃、そんなこんなを背景に、トマスはエジプトと戦いにやってきたイギリス兵である。
なんつーか、現在はトルコに支配されていて、ムハンマド・アリがエジプトの独立を目指している、つーのをしっかりと教えてくれないとトマスの決心が「はぁ?」てな弱いモノになってしまうのよ。トマスの死がどーゆー意味を持つのか、大袈裟なまでに教えておいてくれないと。
まず、トルコ対エジプトを描いておく。
トマスが心酔するのはエジプトであり、エジプト太守ムハンマド・アリの息子たち。
だからこそ、トルコに陥れられたカタチで死を選び、そのことによってエジプトと太守一家を盛り立てようとする。
簡単だよ、悪役を出せば良いんだ。
オスマン帝国様々な大臣様とかが金糸銀糸の豪華衣装に身を包み、わっかりやすい悪徳代官ぶりで、ふんぞり返っていればいいんだ。
「イギリスとの戦闘で、エジプトが疲弊すればいい、くくく」とか「ムハンマド・アリいじめのために、ヤツのかわいがっているナイリ姫をイギリスへ嫁がせよう、けけけ」とか、花道でちょっくら喋らせるだけでいい。
腰巾着なマムルークたちもそばに付けて。
いちばんえらいのが誰か、を、シンプルに表現する。
今のままだと、ムハンマド・アリがあまりにえらすぎて、彼が中間管理職に過ぎないことがわかりにくい。
ムハンマド・アリと彼のエジプトに対して、真の敵がトマスの祖国イギリスではなく、オスマン帝国だということを表現しておく。
……歴史的にどうだとか、原作がどうだとかゆー話ではないよ。
『愛と死のアラビア』のあのクライマックスを正しく機能させるために、逆引きしていってるだけだから、すげー微視的な目でトマスをとりまく時代背景を簡略化して表現することだけを考えているんだからね。
ただ、今の配役でいくと、この帝国の悪役様がアッバス長官@みおさんになりそうで、ソレはちょっとイヤン(笑)。誰か他の人の方がいいなあ。
とまあ、めっちゃ話の途中だが、文字数の関係でいったん切る。
原作関係なし、舞台の上で表現されたものだけを素材に、『愛と死のアラビア』を作り直してみよう!その2。
イチから作るのではなく、今すでにあるクライマックスを「変えてはならない」として、コレを盛り上げるためにナニが必要かを考える。
クライマックスで「イギリス人なのに、エジプトのために処刑を受け入れるトマス」を「はあ?」「唐突過ぎ」にしないために、前もって仕掛けをしておかないとならない。
そのためのひとつは、「現在のエジプト情勢」をわかりやすく描くことだった。
クライマックスでトマス自身が怒濤の説明台詞で解説しているように、エジプトはオスマン帝国の支配下にあり、エジプト太守ムハンマド・アリはエジプトの独立を目指している。
説明台詞で状況はわかるけれど、そこで一気に「そうだったのか」と思わせるよりも、全体を通して「オスマンに支配されてるエジプト可哀想、ムハンマド・アリって大変」と思わせておいた方が、最後のトマスの決断が映える。
トマスが味方するモノと、その「敵」との関係を、整理しておく必要があるんだ。
さて、「敵」をわかりやすく配置したことで、その敵と戦うためにトマスが犠牲になるという図式は明解になったと思う。
次に必要なのは、やっぱ「何故他国のためにそこまでするのか」だよな。
トゥスンたちへの友情、というだけでは弱い気がするんですが、わたしは。
トゥスンや騎馬隊の面子を好きだからといって、個人への愛情を彼らの国とイコールにするっつーのは、無理があると思うわたしは薄情ですかね?
「宗教」という壁もあるしな。習慣や価値観のちがいもあるしな。
敗者の持ち物を略奪したり、女をモノ扱いしたりと、トマスとエジプト人たちにはずいぶんな隔たりがある。
それらに疑問や違和感を持つところが描かれ、そのまんまの価値観を受け入れたという記述はないのに、その受け入れがたい価値観の国のために死ぬの?
これらを解決する方法。
個人ではなく、「国」への愛情を、トマスに語らせておく。
きっかけはトゥスンとの友情であってもいい。なんでもかんでも「男女の愛」に無理矢理こじつけた変な歌を歌わせるヒマがあったら、「美しいエジプト」の歌でも歌わせてくれ。
『愛と死のアラビア』の気持ち悪いところは、テーマソングが無理矢理「男女の愛」を歌ったものになってるのね。
男女の愛なんか、カケラも描いてないくせに。
アノウドと出会ったあとのトマスの銀橋ソングは「風俗の違いがふたりを隔てる」みたいなことを歌っているが、ふたりって誰だよ? アノウドは気絶していて会話もしていないから、「隔てる」とは言わない。
アラブ的な価値観と自分との断絶感を思い悩む場面なんだから、ここで「男女の愛」的な歌詞はおかしい。つか、キモチワルイ。
また、アノウドが奴隷となってトマスの前に現れたときの、トマスの絶望ソングも、「愛の迷い道」で恋人同士の男女の歌だ。アノウドとはまだ恋愛以前、どう考えても「風俗の差」にショックを受ける前回と同じメンタル位置なのに。ここで「ふたりを隔てる」歌を歌うならわかるんだが。
トマスの銀橋ソングはふたつとも、芝居の内容と関係さなすぎて無駄なんだよな。
むしろマイナスだ。物語の進行とチガウことを思い悩まれても、トマスの人格がやばくなるだけ。
「仕事で会社のやり方、考え方と意見が合わない。俺にとって今の仕事って、会社ってなんだろう?」と悩んでいるときに「愛の迷い道」と歌われてしまったら、変な人でしょ。アタマの中、女のことしかないの?
わけのわからん愛の歌はやめて、「エジプトはいい国だー、イギリスも大切だけど、この国のことも愛しはじめちゃってるよ俺」てな歌を歌わせてくれ。
それから、避けては通れない「宗教」の話。
わたしは宗教はよくわかんない現代日本人なんで、イメージだけで語ることになるが。
トマスは「オマエなんか所詮イギリス人じゃないか」と罵られ、「神はひとつなのです」という持論を展開するのだが。
観ていていつも、「うわー」と思う。
イスラム教徒の前でんなこと言ったら、殺されちゃうんじゃないの?
たしかに神はひとつかもしれないし、そーゆー考え方もアリだけど、ものは言いようだ。
トマスはふたつの宗教と神を「ひとり」だから「同等」として語っているつもりなんだろうけれど、他の神や宗教を認めない人たちの前で「同等」てのは、同等ではなく、「我が神を辱められた」となるんじゃないのか? 自分を人間だと思っているのに、「人間とサルは同じなのです」とサルに言われたら「サルと一緒にするな、バカにしてんのか?」になるだろう。
トマスがどちらの陣営にも籍を置かないオブザーバーならともかく、片方の立場から言っても、不平等感にあふれている。
だってトマスは、イスラム教に改宗しない。
「神はひとり」と言ってキリスト教のままってことは、「キリスト教の神を、イスラム教徒が勝手に別の名前で呼んでるだけだから、俺はキリスト教徒のままでいい」と言っているわけだよね。主体はキリスト教、イスラム教はその下。
……ものすげー、宗教否定してますが、いいんですか、トマス。愛するトゥスン他エジプト人たちの根幹を見事に否定してますが。
「神はひとり」と演説するなら、その場で改宗しなきゃダメだよ。
言動不一致もいいとこ。「神はひとり、自分が信じていた神は、アッラーのことだったんだ!」と改宗するなら、彼らを否定していないことになるが、今のままではトマスはただの空気読めないバカ男だ。
エジプトを認め、愛するのなら、彼らの宗教をも受け入れなきゃ。
「女の子と今すぐえっちするために」改宗するのではなく、「どれだけエジプトを愛しているか」を表すエピソードとして、堂々と改宗を宣言してくれ。
「インシャラー」とのーてんきにそれまでの人格や雰囲気ぶち壊してコメディチックに歌い踊るヒマがあったら、「美しいエジプト」の歌でも歌い、みんなと合唱でもしてくれ。
谷せんせ的には、トマスがエジプトに馴染み、その風習を受け入れたということを示す場面のつもりなんだろうけれどな、「インシャラー」。
……個人的に「インシャラー」場面は好きだけど。この平坦にだらだらしまくった物語で、あそこの3兄弟のかわいさを愛でることが、リピートしまくってる人間には救いになっているのはたしか。でも、リピーター用の癒し場面より、「物語」を破綻なく進める方が大事だから。
エジプトの「敵」を明確にし、トマスが「エジプト」を愛し、そこで生きることを決意する。
だからこそ、エジプトの未来のために死を選ぶんだ。
あのクライマックスにたどり着くために、計画的に準備をしておかなければならないってば。
イチから作るのではなく、今すでにあるクライマックスを「変えてはならない」として、コレを盛り上げるためにナニが必要かを考える。
クライマックスで「イギリス人なのに、エジプトのために処刑を受け入れるトマス」を「はあ?」「唐突過ぎ」にしないために、前もって仕掛けをしておかないとならない。
そのためのひとつは、「現在のエジプト情勢」をわかりやすく描くことだった。
クライマックスでトマス自身が怒濤の説明台詞で解説しているように、エジプトはオスマン帝国の支配下にあり、エジプト太守ムハンマド・アリはエジプトの独立を目指している。
説明台詞で状況はわかるけれど、そこで一気に「そうだったのか」と思わせるよりも、全体を通して「オスマンに支配されてるエジプト可哀想、ムハンマド・アリって大変」と思わせておいた方が、最後のトマスの決断が映える。
トマスが味方するモノと、その「敵」との関係を、整理しておく必要があるんだ。
さて、「敵」をわかりやすく配置したことで、その敵と戦うためにトマスが犠牲になるという図式は明解になったと思う。
次に必要なのは、やっぱ「何故他国のためにそこまでするのか」だよな。
トゥスンたちへの友情、というだけでは弱い気がするんですが、わたしは。
トゥスンや騎馬隊の面子を好きだからといって、個人への愛情を彼らの国とイコールにするっつーのは、無理があると思うわたしは薄情ですかね?
「宗教」という壁もあるしな。習慣や価値観のちがいもあるしな。
敗者の持ち物を略奪したり、女をモノ扱いしたりと、トマスとエジプト人たちにはずいぶんな隔たりがある。
それらに疑問や違和感を持つところが描かれ、そのまんまの価値観を受け入れたという記述はないのに、その受け入れがたい価値観の国のために死ぬの?
これらを解決する方法。
個人ではなく、「国」への愛情を、トマスに語らせておく。
きっかけはトゥスンとの友情であってもいい。なんでもかんでも「男女の愛」に無理矢理こじつけた変な歌を歌わせるヒマがあったら、「美しいエジプト」の歌でも歌わせてくれ。
『愛と死のアラビア』の気持ち悪いところは、テーマソングが無理矢理「男女の愛」を歌ったものになってるのね。
男女の愛なんか、カケラも描いてないくせに。
アノウドと出会ったあとのトマスの銀橋ソングは「風俗の違いがふたりを隔てる」みたいなことを歌っているが、ふたりって誰だよ? アノウドは気絶していて会話もしていないから、「隔てる」とは言わない。
アラブ的な価値観と自分との断絶感を思い悩む場面なんだから、ここで「男女の愛」的な歌詞はおかしい。つか、キモチワルイ。
また、アノウドが奴隷となってトマスの前に現れたときの、トマスの絶望ソングも、「愛の迷い道」で恋人同士の男女の歌だ。アノウドとはまだ恋愛以前、どう考えても「風俗の差」にショックを受ける前回と同じメンタル位置なのに。ここで「ふたりを隔てる」歌を歌うならわかるんだが。
トマスの銀橋ソングはふたつとも、芝居の内容と関係さなすぎて無駄なんだよな。
むしろマイナスだ。物語の進行とチガウことを思い悩まれても、トマスの人格がやばくなるだけ。
「仕事で会社のやり方、考え方と意見が合わない。俺にとって今の仕事って、会社ってなんだろう?」と悩んでいるときに「愛の迷い道」と歌われてしまったら、変な人でしょ。アタマの中、女のことしかないの?
わけのわからん愛の歌はやめて、「エジプトはいい国だー、イギリスも大切だけど、この国のことも愛しはじめちゃってるよ俺」てな歌を歌わせてくれ。
それから、避けては通れない「宗教」の話。
わたしは宗教はよくわかんない現代日本人なんで、イメージだけで語ることになるが。
トマスは「オマエなんか所詮イギリス人じゃないか」と罵られ、「神はひとつなのです」という持論を展開するのだが。
観ていていつも、「うわー」と思う。
イスラム教徒の前でんなこと言ったら、殺されちゃうんじゃないの?
たしかに神はひとつかもしれないし、そーゆー考え方もアリだけど、ものは言いようだ。
トマスはふたつの宗教と神を「ひとり」だから「同等」として語っているつもりなんだろうけれど、他の神や宗教を認めない人たちの前で「同等」てのは、同等ではなく、「我が神を辱められた」となるんじゃないのか? 自分を人間だと思っているのに、「人間とサルは同じなのです」とサルに言われたら「サルと一緒にするな、バカにしてんのか?」になるだろう。
トマスがどちらの陣営にも籍を置かないオブザーバーならともかく、片方の立場から言っても、不平等感にあふれている。
だってトマスは、イスラム教に改宗しない。
「神はひとり」と言ってキリスト教のままってことは、「キリスト教の神を、イスラム教徒が勝手に別の名前で呼んでるだけだから、俺はキリスト教徒のままでいい」と言っているわけだよね。主体はキリスト教、イスラム教はその下。
……ものすげー、宗教否定してますが、いいんですか、トマス。愛するトゥスン他エジプト人たちの根幹を見事に否定してますが。
「神はひとり」と演説するなら、その場で改宗しなきゃダメだよ。
言動不一致もいいとこ。「神はひとり、自分が信じていた神は、アッラーのことだったんだ!」と改宗するなら、彼らを否定していないことになるが、今のままではトマスはただの空気読めないバカ男だ。
エジプトを認め、愛するのなら、彼らの宗教をも受け入れなきゃ。
「女の子と今すぐえっちするために」改宗するのではなく、「どれだけエジプトを愛しているか」を表すエピソードとして、堂々と改宗を宣言してくれ。
「インシャラー」とのーてんきにそれまでの人格や雰囲気ぶち壊してコメディチックに歌い踊るヒマがあったら、「美しいエジプト」の歌でも歌い、みんなと合唱でもしてくれ。
谷せんせ的には、トマスがエジプトに馴染み、その風習を受け入れたということを示す場面のつもりなんだろうけれどな、「インシャラー」。
……個人的に「インシャラー」場面は好きだけど。この平坦にだらだらしまくった物語で、あそこの3兄弟のかわいさを愛でることが、リピートしまくってる人間には救いになっているのはたしか。でも、リピーター用の癒し場面より、「物語」を破綻なく進める方が大事だから。
エジプトの「敵」を明確にし、トマスが「エジプト」を愛し、そこで生きることを決意する。
だからこそ、エジプトの未来のために死を選ぶんだ。
あのクライマックスにたどり着くために、計画的に準備をしておかなければならないってば。
だから、愛を語れ。@愛と死のアラビア
2008年6月8日 タカラヅカ 原作関係なし、舞台の上で表現されたものだけを素材に、『愛と死のアラビア』を作り直してみよう!その3。
イチから作るのではなく、今すでにあるクライマックスを「変えてはならない」として、コレを盛り上げるためにナニが必要かを考える。
エジプトの「敵」を明確にし、トマスが「エジプト」を愛し、そこで生きることを決意する。
だからこそ、エジプトの未来のために死を選ぶんだ。
処刑を目前にしたトマスが、トゥスンたちへ歌う歌も、「インシャラー」ではなく「美しいエジプト」とか、「カイロの子守歌」(曲名、超てきとー・笑)とかだ。
ベタベタな「悲劇」「けなげ」にすることで、観客の涙を誘ってくれよ。
次に、「2.一夜限りの妻となるアノウド」ですが。
今のままだと、アノウド、いらないよね?
彼女には人格がないし、そんなみょーな女と恋愛するなんてのは、トマスの男ぶりを下げるだけ。
いつ彼女を愛したのかもわからないし、「近くにいる女なら誰でもいいの?」的、無節操さにもつながる。
でもさ、すげー簡単なんだよ、アノウドをヒロインとして、ちゃんと描くのって。
トマスに破綻したわけわかんない愛の歌を歌わせるヒマがあったら、アノウドに愛の歌を歌わせろ。
ぶっちゃけ、ソレだけでイイの。
四の五の説明したり、ふたりの心が近づく場面とかで時間とらなくても。
今の『愛と死のアラビア』がキモチワルイのは、アノウドに人格がないから。
彼女がナニを考えているのか、どうしたいのかを、彼女自身に語らせれば良いんだ。
奴隷となって現れたアノウドにトマスがショックを受け、わけわかんない歌を長々と歌う。
あの場面を変更するだけでいい。
「彼女と自分はこんなにチガウ、理解し合うことはできないのか? てゆーか奴隷って、俺のことそんなふーに見てたのか?! がーんがーん」→「こんなにショックを受けるなんて、実は俺、あの子のこと好きなんじゃ?」
とゆー、トマスと。
「愛しています。でも、この愛を口にすることは出来ない。奴隷でも側にいることが出来たら、それだけでしあわせなの」→「真実は封じて、耐えますわー、お仕えしますわー」
とゆー、アノウド。
歌と独白で、簡単にふたりの立ち位置を解説できる。
そーすりゃ恋愛モノとして、成立する。
ふたりそれぞれの事情をひとりずつ歌い、最後に「愛しているけれど、伝えてはいけない」という意味の歌詞をきれーにハモってみせるなりしてくれ。ベタにせつなく盛り上げてくれ。
いちばんいいのは、ふたりの心が近づく過程を描くことだけど、そんな時間ないから。限られた時間の中で、最低限コレだけやればカタチは作れるんだってば。
アノウド視点が存在しない。……それが、この芝居が気持ち悪くなっている原因。
彩音ちゃんにものすげー演技力があるならともかく、今の彼女にはトマスへの気持ちを「言葉で説明」させなきゃダメだよ。
もしもあともう数分時間を取れるなら、ベドウィンのキャンプでも、アノウドの語りを入れさせる。感謝の気持ちが恋になっていることを、侍女相手に告白させればいい。
また、トマスがカイロに行っている間、場面転換の時間稼ぎでいいからアノウドを出して、トマスを想っていることを独白させる。トマスのおかげで身は守られているけれど、トマスがいないのなら安定に意味などない、とキャンプを飛び出し、危機に陥る→イブラヒムの手の者に助けられる、とか。
時間が許す限り、彼女が彼女のできる範囲で、彼女の生きる宗教と掟の中で、最大限あがいているのだとエピソードを入れる。
ぶっちゃけ、ふたりの出会いのまだるっこしい会話(「妹の名を訊ねることは許されていますか」とか、自己紹介だけで何分使うんだ)を短縮して、場面分けるべき。
両想いなのに、すれ違っている。
という図式を、明確にする。
トマスはムハンマド・アリたちの前で改宗を宣言するわけだから、晴れてアノウドと結婚も出来るよーになる。でも、彼女に会ってプロポーズする前に、アジズとの決闘になって、投獄されるわけだからラストシーンには響かない。
牢獄でアノウドと再会し、正式にプロポーズ、一夜限りの夫婦となる……わけだ。
あ、「お兄様では結婚できない」「様はいらない」とかのお笑い会話はカットね(笑)。
次に、「3.トゥスン、イブラヒムとの友情」だけど。
トゥスンとの関係はさんざん描いているからもういいとして、イブラヒムなんだよね。
今のままではイブラヒムが一方的に、勝手に盛り上がっているように見える。
だから、トマスとイブラヒムの友情場面を「わかりやすく」する。
イブラヒムは、わざわざアノウドを連れて来ることで、トマスへの好意を示している。ここでトマスときたら潔いほど、イブラヒムに興味がない。
可哀想だから、ソレ!(笑)
ついでに、イブラヒムとトゥスンの関係も表現しておいた方が、クライマックスがより盛り上がる。
トマスの屋敷にわざわざやってきたイブラヒムと、トゥスンの話をする件で、もっと彼らの精神的関係に言及する。
「ほんとにオマエはトゥスンが好きなんだな」
と言うイブラヒムに、「アナタだって弟がかわいくてしょーがないんでしょう?」てなツッコミをするトマス。
ここをもう少し、わかりやすくする。
突っ込まれたイブラヒムがわざとらしく咳払いをひとつする、それを見てトマスが笑う、とかで事は足りる。
そして、「トゥスンは戦争に行くが、キミはココで留守番だ」てな話を、もっと突っ込んだ展開にさせる。
「トゥスンと一緒に行きたい」「無理だ」「そこをなんとか」「ダメだ」と、あくまでもイブラヒムにツンツンさせておいて、「太守に直談判すれば、どーにかなるかもよ? トゥスンも王宮に来ていることだし」とヒントを与える。
「そうか。ありがとう、イブラヒム」(満面の笑顔。がしっと彼の手を握る)
「……私はなにもしていない」(仏頂面。でも内心パニック……手、手握られちゃったよ!!)
とか、大した時間をかけずに、ふたりの関係性を明確に出来るのに。
イブラヒムは実はトゥスンのことがかわいくてならない良きおにーちゃんで、加えてトマスの魅力にメロメロになっていることを、ちゃんと描いておく。イブラヒム自身は、あくまでもクールに。
イブラヒムがトマスを助けるつもりで牢獄にやって来たのだというのを、最後のどんでん返しとして温存したいのだとしても、彼のトマスやトゥスンへの好意を事前に描いておいて損はない。
イブラヒムは冷静な政治家でもあるわけだから、たとえどんなにトマスたちに愛情があろうとも、冷酷に手を下せるのだ、と思わせておけばいいだけのことだから。
ほんとうは愛情深い人、だとアピールしておく方が、武装して突入して来ることで、「あのトマスにメロメロな人(笑)が、あんなことを!」とか「あんなに弟大好きなおにーちゃん(笑)が、あんなことを!」と観客を切なくさせるはずだ。
そして、ほんとはトマスを助けに来たんだとわかったときは、「やっぱりね(笑)」と、望んでいた行動に観客は喜ぶはず。
クライマックスの、トマスの牢獄場面をとことん盛り上げるために、逆から物語を探ってきた。
エジプトの「敵」を明確にし、トマスが「エジプト」を愛し、そこで生きることを決意する。
アノウド視点を入れることによって、「両想いなのに、すれ違っている」という図式を、確立させる。
イブラヒムがトマスにもトゥスンにも愛情を持っていることを、表現しておく。
これらのことを満たして、物語全体を作り直してみよう。
イチから作るのではなく、今すでにあるクライマックスを「変えてはならない」として、コレを盛り上げるためにナニが必要かを考える。
エジプトの「敵」を明確にし、トマスが「エジプト」を愛し、そこで生きることを決意する。
だからこそ、エジプトの未来のために死を選ぶんだ。
処刑を目前にしたトマスが、トゥスンたちへ歌う歌も、「インシャラー」ではなく「美しいエジプト」とか、「カイロの子守歌」(曲名、超てきとー・笑)とかだ。
ベタベタな「悲劇」「けなげ」にすることで、観客の涙を誘ってくれよ。
次に、「2.一夜限りの妻となるアノウド」ですが。
今のままだと、アノウド、いらないよね?
彼女には人格がないし、そんなみょーな女と恋愛するなんてのは、トマスの男ぶりを下げるだけ。
いつ彼女を愛したのかもわからないし、「近くにいる女なら誰でもいいの?」的、無節操さにもつながる。
でもさ、すげー簡単なんだよ、アノウドをヒロインとして、ちゃんと描くのって。
トマスに破綻したわけわかんない愛の歌を歌わせるヒマがあったら、アノウドに愛の歌を歌わせろ。
ぶっちゃけ、ソレだけでイイの。
四の五の説明したり、ふたりの心が近づく場面とかで時間とらなくても。
今の『愛と死のアラビア』がキモチワルイのは、アノウドに人格がないから。
彼女がナニを考えているのか、どうしたいのかを、彼女自身に語らせれば良いんだ。
奴隷となって現れたアノウドにトマスがショックを受け、わけわかんない歌を長々と歌う。
あの場面を変更するだけでいい。
「彼女と自分はこんなにチガウ、理解し合うことはできないのか? てゆーか奴隷って、俺のことそんなふーに見てたのか?! がーんがーん」→「こんなにショックを受けるなんて、実は俺、あの子のこと好きなんじゃ?」
とゆー、トマスと。
「愛しています。でも、この愛を口にすることは出来ない。奴隷でも側にいることが出来たら、それだけでしあわせなの」→「真実は封じて、耐えますわー、お仕えしますわー」
とゆー、アノウド。
歌と独白で、簡単にふたりの立ち位置を解説できる。
そーすりゃ恋愛モノとして、成立する。
ふたりそれぞれの事情をひとりずつ歌い、最後に「愛しているけれど、伝えてはいけない」という意味の歌詞をきれーにハモってみせるなりしてくれ。ベタにせつなく盛り上げてくれ。
いちばんいいのは、ふたりの心が近づく過程を描くことだけど、そんな時間ないから。限られた時間の中で、最低限コレだけやればカタチは作れるんだってば。
アノウド視点が存在しない。……それが、この芝居が気持ち悪くなっている原因。
彩音ちゃんにものすげー演技力があるならともかく、今の彼女にはトマスへの気持ちを「言葉で説明」させなきゃダメだよ。
もしもあともう数分時間を取れるなら、ベドウィンのキャンプでも、アノウドの語りを入れさせる。感謝の気持ちが恋になっていることを、侍女相手に告白させればいい。
また、トマスがカイロに行っている間、場面転換の時間稼ぎでいいからアノウドを出して、トマスを想っていることを独白させる。トマスのおかげで身は守られているけれど、トマスがいないのなら安定に意味などない、とキャンプを飛び出し、危機に陥る→イブラヒムの手の者に助けられる、とか。
時間が許す限り、彼女が彼女のできる範囲で、彼女の生きる宗教と掟の中で、最大限あがいているのだとエピソードを入れる。
ぶっちゃけ、ふたりの出会いのまだるっこしい会話(「妹の名を訊ねることは許されていますか」とか、自己紹介だけで何分使うんだ)を短縮して、場面分けるべき。
両想いなのに、すれ違っている。
という図式を、明確にする。
トマスはムハンマド・アリたちの前で改宗を宣言するわけだから、晴れてアノウドと結婚も出来るよーになる。でも、彼女に会ってプロポーズする前に、アジズとの決闘になって、投獄されるわけだからラストシーンには響かない。
牢獄でアノウドと再会し、正式にプロポーズ、一夜限りの夫婦となる……わけだ。
あ、「お兄様では結婚できない」「様はいらない」とかのお笑い会話はカットね(笑)。
次に、「3.トゥスン、イブラヒムとの友情」だけど。
トゥスンとの関係はさんざん描いているからもういいとして、イブラヒムなんだよね。
今のままではイブラヒムが一方的に、勝手に盛り上がっているように見える。
だから、トマスとイブラヒムの友情場面を「わかりやすく」する。
イブラヒムは、わざわざアノウドを連れて来ることで、トマスへの好意を示している。ここでトマスときたら潔いほど、イブラヒムに興味がない。
可哀想だから、ソレ!(笑)
ついでに、イブラヒムとトゥスンの関係も表現しておいた方が、クライマックスがより盛り上がる。
トマスの屋敷にわざわざやってきたイブラヒムと、トゥスンの話をする件で、もっと彼らの精神的関係に言及する。
「ほんとにオマエはトゥスンが好きなんだな」
と言うイブラヒムに、「アナタだって弟がかわいくてしょーがないんでしょう?」てなツッコミをするトマス。
ここをもう少し、わかりやすくする。
突っ込まれたイブラヒムがわざとらしく咳払いをひとつする、それを見てトマスが笑う、とかで事は足りる。
そして、「トゥスンは戦争に行くが、キミはココで留守番だ」てな話を、もっと突っ込んだ展開にさせる。
「トゥスンと一緒に行きたい」「無理だ」「そこをなんとか」「ダメだ」と、あくまでもイブラヒムにツンツンさせておいて、「太守に直談判すれば、どーにかなるかもよ? トゥスンも王宮に来ていることだし」とヒントを与える。
「そうか。ありがとう、イブラヒム」(満面の笑顔。がしっと彼の手を握る)
「……私はなにもしていない」(仏頂面。でも内心パニック……手、手握られちゃったよ!!)
とか、大した時間をかけずに、ふたりの関係性を明確に出来るのに。
イブラヒムは実はトゥスンのことがかわいくてならない良きおにーちゃんで、加えてトマスの魅力にメロメロになっていることを、ちゃんと描いておく。イブラヒム自身は、あくまでもクールに。
イブラヒムがトマスを助けるつもりで牢獄にやって来たのだというのを、最後のどんでん返しとして温存したいのだとしても、彼のトマスやトゥスンへの好意を事前に描いておいて損はない。
イブラヒムは冷静な政治家でもあるわけだから、たとえどんなにトマスたちに愛情があろうとも、冷酷に手を下せるのだ、と思わせておけばいいだけのことだから。
ほんとうは愛情深い人、だとアピールしておく方が、武装して突入して来ることで、「あのトマスにメロメロな人(笑)が、あんなことを!」とか「あんなに弟大好きなおにーちゃん(笑)が、あんなことを!」と観客を切なくさせるはずだ。
そして、ほんとはトマスを助けに来たんだとわかったときは、「やっぱりね(笑)」と、望んでいた行動に観客は喜ぶはず。
クライマックスの、トマスの牢獄場面をとことん盛り上げるために、逆から物語を探ってきた。
エジプトの「敵」を明確にし、トマスが「エジプト」を愛し、そこで生きることを決意する。
アノウド視点を入れることによって、「両想いなのに、すれ違っている」という図式を、確立させる。
イブラヒムがトマスにもトゥスンにも愛情を持っていることを、表現しておく。
これらのことを満たして、物語全体を作り直してみよう。
歌姫たちの夜。
2008年6月9日2008/06/09公式より
イゾラベッラ サロンコンサート(第4回)開催について
<日 時>2008年8月5日(火)、6日(水)
<出演者>和音美桜(宝塚歌劇団 宙組)
イゾラベッラ サロンコンサート(第5回)開催について
<日 時>2008年9月2日(火)、3日(水)
<出演者>研ルイス(宝塚歌劇団 月組)
OG、専科の歌ウマさんのコンサートだった、レストラン・コンサート。
そこに現役組子の歌ウマさんが入って来ました!
あれは第2回の圭子ねーさまコンサートのチケット発売日後のこと。
いつものよーにムラの某店で何時間もダラダラダラダラしていたわたしと王妃様@期間限定、こう呼ばないとダメ出しが返るnanaタンは、「組子でもやってくれればいいのに!」とアツく語っておりました。
1回目の立さんのときはノーマークだったためよく知らないんだけど、圭子ねーさまのときは、わたしたち、行きたかったのにチケット取れなかったわけなんですよ。あっちゅー間に売り切れてしまって。
発売して数時間後に完売、ってどんな人気アーティストですか! って、名前とキャパを考えれば当然、なのかもしれないけれど。
この売れ行きと、1回2回3回と立て続けに開催することからいって、劇団的にオイシイ興行なんだろうな、と推察。や、そーでなかったら劇団はこんなにフットワーク軽く動かないでしょう。
阪急の持ち物内にあるレストランで、70席だけのコンサート。食事付きで1万円という低価格。出演者はひとりだけで、純粋に歌だけ。労力で言えば、その出演者ひとりが担えば済むことで、劇団の懐は痛まない……てとこですか。
高価なDSとちがい、この価格とキャパなら動員力・資金力は関係ない。ぶっちゃけ70席なんて、下級生でもお茶会クラスの人数じゃないですか。誰だってそれくらい埋められるでしょー。
劇団的にオイシイ興行なら、是非このまま組子たちでもやってくれー。
わたしと王妃様は、そう言ってそれぞれの組の歌ウマさんの名前を挙げていってました。「この人なら行きたい」あるいは「興行として成り立つ」と。
そこでもちろん、たっちんの名前は挙がってました。
娘役はトップスターになり、かつ退団が決まらないとDSすらない。そこまで条件が揃わないと興行的に成り立たない、んだろう……とは、思う。
ならDSではなく、レストラン・コンサートやってくれー。たっちんなら70席×2くらい、余裕で埋まる、つーかチケ難になるんじゃ?
現役組子でやってくれる、という保証はないままのただの妄想話だったんで、わたしたちのイメージによる人選に過ぎなかったけれど。
ただ「歌がうまい」だけではなく、「歌手として、歌声に華がある」人を、挙げてました。
コーラスとしてうまいとか、影ソロ絶品、とかゆーんじゃなく、ソロ歌手として成り立つ人。
だから本人の色気とか芝居力とかも加味して。
いやあ、越リュウのコンサートを開催して欲しい、と、心の底から切望しましたね(笑)。
まるまる越リュウ。あの歌声のみ。あのエロ気、美しさのみのステージ。
想像するだけで体温上がるわー(笑)。
つか、絶対チケ難だろ。大変なことになるだろ。他にご贔屓のいる人たちだって、「1時間だけ浮気をしに」コンサートに行くだろ?(笑)
その調子で各組にわたり、人数不問で好きなだけ「この人で見たいー」とほざきまくる。
立さん、圭子女史、シビさんときていたから、上級生とか内外に知れた歌ウマさんでなければならない、という先入観はあったけどな。組ファンには愛されているけれど、それ以外には知名度低い、な人ではなく。
だから自然と路線寄り(純路線様は省く)だったり、管理職系だったりはした、けれど。
いちばん渇望した、「この人のコンサートを開催して欲しい、歌ウマさん」は。
言うまでもなく、ハマコ大先生だ。
1時間(厳密には45分)ハマコ。
ハマコONLY。ハマコだけの時間。空間。
吠えるハマコ。
手加減無しなハマコ。
主役なハマコ。
見たい。見た過ぎる〜〜っ!!
劇団様。
どうかどうか、ハマコさんのコンサートをやってくださいまし。
わたしゃ万難を排して駆けつけます!!
現役組子もアリだとわかった、「イゾラベッラ サロンコンサート」シリーズ。
これからもたのしみですわ。
まさにヒーロー。彼がヒーロー。@愛と死のアラビア
2008年6月10日 タカラヅカ ふと気が付けば、花組公演も、あと1週間。
文句垂れつつ回数減らすとか言いつつ、まあいろいろあって、結局今回もフタ桁にはなりそうです。オギーにハマりまくった『TUXEDO JAZZ』や、オサ様フィーバーの『アデュー・マルセイユ』の比ではないにしろ、やっぱ花組ダイスキなので、彼らを眺めているのは幸福です。
つーことで、ちょっくらここで『愛と死のアラビア』『Red Hot Sea』観劇日記。……いやその、もともと観劇感想その他タカラヅカ雑談しかしてないブログだけど、作品への文句ばっか書いてると疲れるので、ジェンヌへの、愛を語ろう。
えーとアレは、いつだったかな。
たしか新人公演の日の、本公演。
わたしは『愛と死のアラビア』をいつものよーにぼーっと眺めていた。
ベドウィン音頭も終わり、トマス@まとぶんとトゥスン@壮くんの「キミは素晴らしい」「キミこそステキだ」みたいな、どこぞの沖田総司と玉勇さんが初デートで交わしていたよーな会話を、照れることもなくえんえんえんえん繰り返す男ふたりのバカップルをまったりと愛でつつ、そこそこ前方の下手席だったんで、まっつが遠いなー、かぶり物とヒゲで顔ほんと見えないなー、とか考えるでもなく考えつつ、かなり油断して見ておりました。
「女が逃げたぞー」でアノウド@彩音ちゃん登場だー、あー、やっぱまっつの顔は見えねーなー、みつるヒゲ似合うなーかっこいー。
……げっ。
ぼーっとしていたわたしは、信じられない光景を見て、いきなり我に返りました。
ヒゲのかっこいーみつるさんは荒々しくアノウドのベールを剥ぐのですが……なんかうまく取れなかったらしく、しばし手こずっておりました。
時間がないためだろう、ついに力尽くで「えいっ」て感じに無理矢理剥ぎ取った。
そしたら、アノウドの、ヅラごと取れた。
あれって全部カツラだったんだ! や、いちいちどこまで地毛かなんて、考えて舞台観たことないから。
アノウドちゃんの髪はほとんどカツラだったようです。みつるくんにむしり取られ、短髪オールバック状態になってました。
たぶん、地毛はまとめてお団子かなんかにしてあったのかな、と思う。ただ、わたしからは見えなかった。あまりにぴったりしたオールバックだったんでアノウド、髪がない? と思えるくらいでした。や、あのうねうね複雑そうな長い髪がまるっと取れてつるんとしたアタマが出てきたら、インパクトでつい……。
で、このアクシデントゆえにアノウドとみつるさんの斬り合いは過程が1個飛んでたと思う。アノウドはカツラが取れるなりうずくまったので、みつるを斬ることが出来ない。で、みつるはあわててアノウドを斬るふりをし、話を続けていた。……うずくまった相手に剣をふるって腕を斬ったことにするのは無理があるが……まあ、咄嗟のことなので。
ヒロインがヅラ女では、ロマンにつながらない。アクシデントを一般客に気づかせてはならない。
つるりとハゲ……もとい、短髪になってしまったアノウドを隠すべく、侍女@れみちゃんは間髪入れず、彼女に覆い被さった。すげえ。早かった。早かったよ、れみちゃん!!
そして、もうひとり。
絶体絶命のヒロインを助けるべく動いた人物がいた。
ヒーロー・トマスが、両腕を広げ、彼女の前に立ちはだかった。
あのずるりとしたアラビア衣装で。
両腕を広げれば見事にカーテン状態だ。後ろは見えない。ヅラのとれたアノウドを観客から隠すため、彼もまた間髪入れずに動いていた。
物語としても、変じゃない。殺されかけた女の子を助けるために、ベドウィンたちを止める場面だ。
トマスはゆうゆうと両腕を広げて、その全身でアノウドを隠した。守った。
そしてそのままの態勢で、芝居を続ける。話を進める。
みつるからアノウドたちを譲り受けるよう、交渉をする。
その間、れみちゃんが必死になってカツラを直していた。急げれみちゃん、がんばれれみちゃん!
……なんとかカツラの応急処置は間に合い、斬られたことになっている腕を押さえたアノウドとトマスたちはテントの中へ……。
いやあ、手に汗握った。
どーなるのかと。
ショーではよく群舞の女の子がヅラを落としちゃって、ひとりだけオールバックのまま踊っていたりするけどさー。
トップ娘役がカツラ落としたの見たの、これで2回目だー。でも、前見たのはショーだったから、芝居で見たのははじめて。ショーは場面場面のことだから、「ここはこういう髪型なんです」で無理矢理通すことも可能だけど、芝居ではそうもいかないじゃん?
無事にフォローできてよかった。
一瞬のことだったから、初見の人にはわかんなかったかもしれない?
あ、ちなみに、前に見た、つーのはぐんちゃんです。名作『パッサージュ』の、もっとも切なく美しい、そして作品の核となる「硝子の空の記憶」で登場時にカツラが落ち、オールバックのまま踊りきりました(笑)。ええ、超シリアスに。
それにしても。
まとぶさんに、ときめきました。
女の子の危機を、あたりまえの顔して救ってくれるのよ? 両腕を広げて立ちはだかって。自分の身体で、守って。
まさに、ヒーロー。
うわああぁぁぁあん、まとぶん、かっこいー。
かっこいーかっこいーかっこいー。
あの、広げ続けた両腕がツボです。
真四角でモモンガみたいになった姿がツボです。
わーん、あたしも守られたいー。
ええもん見ました。
まとぶん、ステキ。
文句垂れつつ回数減らすとか言いつつ、まあいろいろあって、結局今回もフタ桁にはなりそうです。オギーにハマりまくった『TUXEDO JAZZ』や、オサ様フィーバーの『アデュー・マルセイユ』の比ではないにしろ、やっぱ花組ダイスキなので、彼らを眺めているのは幸福です。
つーことで、ちょっくらここで『愛と死のアラビア』『Red Hot Sea』観劇日記。……いやその、もともと観劇感想その他タカラヅカ雑談しかしてないブログだけど、作品への文句ばっか書いてると疲れるので、ジェンヌへの、愛を語ろう。
えーとアレは、いつだったかな。
たしか新人公演の日の、本公演。
わたしは『愛と死のアラビア』をいつものよーにぼーっと眺めていた。
ベドウィン音頭も終わり、トマス@まとぶんとトゥスン@壮くんの「キミは素晴らしい」「キミこそステキだ」みたいな、どこぞの沖田総司と玉勇さんが初デートで交わしていたよーな会話を、照れることもなくえんえんえんえん繰り返す男ふたりのバカップルをまったりと愛でつつ、そこそこ前方の下手席だったんで、まっつが遠いなー、かぶり物とヒゲで顔ほんと見えないなー、とか考えるでもなく考えつつ、かなり油断して見ておりました。
「女が逃げたぞー」でアノウド@彩音ちゃん登場だー、あー、やっぱまっつの顔は見えねーなー、みつるヒゲ似合うなーかっこいー。
……げっ。
ぼーっとしていたわたしは、信じられない光景を見て、いきなり我に返りました。
ヒゲのかっこいーみつるさんは荒々しくアノウドのベールを剥ぐのですが……なんかうまく取れなかったらしく、しばし手こずっておりました。
時間がないためだろう、ついに力尽くで「えいっ」て感じに無理矢理剥ぎ取った。
そしたら、アノウドの、ヅラごと取れた。
あれって全部カツラだったんだ! や、いちいちどこまで地毛かなんて、考えて舞台観たことないから。
アノウドちゃんの髪はほとんどカツラだったようです。みつるくんにむしり取られ、短髪オールバック状態になってました。
たぶん、地毛はまとめてお団子かなんかにしてあったのかな、と思う。ただ、わたしからは見えなかった。あまりにぴったりしたオールバックだったんでアノウド、髪がない? と思えるくらいでした。や、あのうねうね複雑そうな長い髪がまるっと取れてつるんとしたアタマが出てきたら、インパクトでつい……。
で、このアクシデントゆえにアノウドとみつるさんの斬り合いは過程が1個飛んでたと思う。アノウドはカツラが取れるなりうずくまったので、みつるを斬ることが出来ない。で、みつるはあわててアノウドを斬るふりをし、話を続けていた。……うずくまった相手に剣をふるって腕を斬ったことにするのは無理があるが……まあ、咄嗟のことなので。
ヒロインがヅラ女では、ロマンにつながらない。アクシデントを一般客に気づかせてはならない。
つるりとハゲ……もとい、短髪になってしまったアノウドを隠すべく、侍女@れみちゃんは間髪入れず、彼女に覆い被さった。すげえ。早かった。早かったよ、れみちゃん!!
そして、もうひとり。
絶体絶命のヒロインを助けるべく動いた人物がいた。
ヒーロー・トマスが、両腕を広げ、彼女の前に立ちはだかった。
あのずるりとしたアラビア衣装で。
両腕を広げれば見事にカーテン状態だ。後ろは見えない。ヅラのとれたアノウドを観客から隠すため、彼もまた間髪入れずに動いていた。
物語としても、変じゃない。殺されかけた女の子を助けるために、ベドウィンたちを止める場面だ。
トマスはゆうゆうと両腕を広げて、その全身でアノウドを隠した。守った。
そしてそのままの態勢で、芝居を続ける。話を進める。
みつるからアノウドたちを譲り受けるよう、交渉をする。
その間、れみちゃんが必死になってカツラを直していた。急げれみちゃん、がんばれれみちゃん!
……なんとかカツラの応急処置は間に合い、斬られたことになっている腕を押さえたアノウドとトマスたちはテントの中へ……。
いやあ、手に汗握った。
どーなるのかと。
ショーではよく群舞の女の子がヅラを落としちゃって、ひとりだけオールバックのまま踊っていたりするけどさー。
トップ娘役がカツラ落としたの見たの、これで2回目だー。でも、前見たのはショーだったから、芝居で見たのははじめて。ショーは場面場面のことだから、「ここはこういう髪型なんです」で無理矢理通すことも可能だけど、芝居ではそうもいかないじゃん?
無事にフォローできてよかった。
一瞬のことだったから、初見の人にはわかんなかったかもしれない?
あ、ちなみに、前に見た、つーのはぐんちゃんです。名作『パッサージュ』の、もっとも切なく美しい、そして作品の核となる「硝子の空の記憶」で登場時にカツラが落ち、オールバックのまま踊りきりました(笑)。ええ、超シリアスに。
それにしても。
まとぶさんに、ときめきました。
女の子の危機を、あたりまえの顔して救ってくれるのよ? 両腕を広げて立ちはだかって。自分の身体で、守って。
まさに、ヒーロー。
うわああぁぁぁあん、まとぶん、かっこいー。
かっこいーかっこいーかっこいー。
あの、広げ続けた両腕がツボです。
真四角でモモンガみたいになった姿がツボです。
わーん、あたしも守られたいー。
ええもん見ました。
まとぶん、ステキ。
彼が生きる世界と、生きていくことになる世界と。@愛と死のアラビア
2008年6月11日 タカラヅカ まとぶんのお被露目、新生花組スタート。
『愛と死のアラビア』というタイトルなのに、幕が上がれば金ぴかの古代エジプト・ショー。
オープニングを派手にしたかったキモチはわかる。派手な方がうれしいのも事実。
しかし。
古代エジプトで、ホルス神はイカンやろ。
舞台が古代エジプトや、あるいは現代のエジプトならべつに、まとぶがホルス神をやってもかまわない。
古代なら、オープニングがそのまま、これからはじまる物語の時代と世界観の説明になるし、現代ならべつに取り立てて説明しなくてもいいから「エジプトって言えばピラミッドでスフィンクスだよねー」という「記号」としてのイメージを利用するのもアリだ。
されど。
19世紀初頭のエジプトという、現代日本人に馴染みのない時代が舞台なんだ、観客を混乱させてどうするよ?
オープニングで別時代を長々とやって、肝心の時代説明を本編内でまた1からやり直し……って、コレいったい何十時間ある芝居? そんな無駄はマイナスでしかない。
江戸時代舞台の下町人情モノなのに、「派手な方がイイよね!」てな理由だけでオープニングが突然豪華絢爛「平安王朝絵巻」、本編と関係まったくナシ! 無理矢理関係をこじつけると「主人公ってまるで光源氏みたいだよね」という台詞がひとつ本編内にある、つーだけ!! 本編はじまってから怒涛の説明台詞、立て板に水、時間足りなくてストーリー尻切れトンボ。
……華やかな十二単と狩衣の平安絵巻をやりたいなら、最初からソレをやってろよ、青天の江戸モノなんかやらないで。
無理矢理別物のオープニングでっちあげられても、作品を壊すだけだっつの。
金ぴか衣装で、スフィンクスの目ぴかー、ピラミッドぱかー、がやりたいなら、最初から古代エジプトモノをやってろっつの。
て、話ですな。
この古代エジプトのオープニングはNG。
「派手なのはいい」けど、本編を損なうよーなもんはやめとけ。
本編の世界観と同じで、時代背景の説明……にならなくても、最低限客を混乱させないモノにするべきだ。
19世紀初頭の風俗で派手にすることはできるだろうに。
本編の色合いが濃く暗くなりがちだから、オープニングでギャップを狙ったのかもしれない、とは思う。わざと「本編とは関係ない風俗」でインパクトを作りたかった、とか?
それにしても、「本編と関係ない」モノにする必然性がない。んじゃこれからのヅカ舞台は日本物でも中国モノでもすべて「ごらんなさい、ごらんなさい♪」で小公子と小公女の踊る『ベルばら』オープニングにしてもイイってことになる。
「派手にしたかった」「インパクトが欲しかった」のだとしても、「本編と関連性の深い」オープニングは作れる。
タイトルが『愛と死のアラビア』で、あちこちに貼ってあるポスターが生首風船みたいなアラブ衣装の登場人物たち。
アラブだと思うじゃん? ポスター衣装の人たちが出てくると思うじゃん?
なのに、幕が上がるなり、そこは。
軍服+ドレスで豪華絢爛オープニング!!
はい、舞台は19世紀初頭。ロンドンではガス灯が点っている時代です、ふつーに近世ヨーロッパ世界ですから。
イギリス19世紀舞台の『Ernest in Love』とかの衣装感覚で行きましょう。タカラヅカ・ファンがいちばん大好きな西洋コスチュームモノ、男は燕尾かフロックコート、はたまたキラキラの軍服、女性は後ろのふくらんだロングドレス。
「派手」「本編とはまったくチガウ見た目」「インパクト」という意味でなら、これ以上のモノはないでしょー。
そして、キラキラの白軍服で登場するのがトマス@まとぶんだ。
物語ではトマスはただの一兵卒だけど、オープニングではお約束の王子様的衣装ヨロシク。ドナルド@みわっちもイギリス軍の中に、ひとりだけチガウ衣装(お約束)でまざっていること。
トマスは、軍服姿も華やかなイギリス軍を率いて踊る。銀橋で歌う。
これだけどーんっと「西洋世界」をやった上で。
重々しくも煌びやかなアラブ衣装を身につけたエジプト軍が登場する。音楽も西洋モノからアラビアへ。
エジプト軍を率いるのはイブラヒム@ゆーひ。
さらにベドウィン音頭のアレンジバージョン引っ提げて、トゥスン@壮と砂漠の狼ベドウィンたち登場。
視覚、音楽でこれでもかと派手に……そして、ふたつの、異なる文化を印象づける。
トマスはあのわたしたちに馴染み深い西洋モノの世界から、アラブ世界へ飛び込むことになるんだ。
長台詞でうだうだ解説する前に、オープニングの派手派手キラキラのなかで、思い知らせてくれ。トマスがどれほどの波乱の運命に身を投じることになるのかを。
イギリス兵のダンスとエジプト兵、ベドウィンたちのダンスが交互に入るうちに、いつの間にかイギリスな人々は出なくなる。
たったひとり、軍服姿のトマスが自然と浮き上がるさ。
金ぴかお姫様衣装で登場したアノウド@彩音と1曲踊ったあとに、アラブな人々総踊り、トマスを中心にイブラヒム、トゥスン、ドナルドを両側に従わせ、これからのトマスの人生を表すように。
トマスとドナルドだけがイギリス人、異邦人。それを際立たせて。
イギリスの歴史もややこしいし、エジプトだのアラビアだのの歴史もややこしい。それらを神経質に考えるのはよそに任せておいて、ここではフィクションとしての、「見せるための嘘」を存分に使い、「いかにも19世紀ヨーロッパ」と「いかにも近世アラブ」な風俗を表現する。
とにかく派手に景気よく。
そして。
総踊りの中、ひとり早めに退場したアノウドは、白い衣装に着替えて再登場する。
ラストシーンで着ている、あの衣装だ。
トマスもまた、イギリス白軍服の上から、ラストシーンの白い上着を羽織る。イブラヒム、トゥスンが着替えを手伝うこと! 大仰に、意味深げに。
舞台には、トマスとアノウドの、ふたりだけ。
イギリスからはじまり、アラブの中のイギリス人だったトマスは、最後にはアラブ衣装を身にまとい、アラブの女性と踊る。
あんなに派手派手で目に痛いくらいだったオープニングは、白いふたりのデュエット・ダンスで美しく幕を閉じる。
寄り添い合うふたりで、終わる。
……2回目に観たときに「このオープニングって、ラストシーンとリンクしてたのか!」と、わかるよーに。
お化粧の都合で白人を出しにくいのはわかるが、女の子たちを完全な白人にして派手なドレスで着飾らせ、男たちの一部を黒塗りでも薄目の色合いにして西洋衣装でまぜておく分には、誤魔化せると思う。
女の子たちは大変だろうけれど、なにしろ出番がないので白から黒へのお化粧替えは可能だろう。
物語とまったく関係ない古代エジプトをえんえんやるより、物語の「プロローグ」として世界説明やキャラクタ紹介を兼ねている方がずっと効率的だろう。
人ひとりの半生を1時間半の舞台にまとめるんだ、ポイントは「余分な場面を作らない」こと。
場面転換やショーシーンを挿入するにしても、「物語に関係あるモノ」だけでまかなう。無関係なモノを入れて観客を混乱させない、時間を浪費しない。
とまあ、『愛と死のアラビア』を自分なりに再構築してみようと思う。
前に語った通り、クライマックスの、トマスの牢獄場面をとことん盛り上げるために、逆から物語に「なにが必要で、なにが不要か」を考える。
そーするとまず絶対、今のオープニングは、「不要」なんだよな。
『愛と死のアラビア』というタイトルなのに、幕が上がれば金ぴかの古代エジプト・ショー。
オープニングを派手にしたかったキモチはわかる。派手な方がうれしいのも事実。
しかし。
古代エジプトで、ホルス神はイカンやろ。
舞台が古代エジプトや、あるいは現代のエジプトならべつに、まとぶがホルス神をやってもかまわない。
古代なら、オープニングがそのまま、これからはじまる物語の時代と世界観の説明になるし、現代ならべつに取り立てて説明しなくてもいいから「エジプトって言えばピラミッドでスフィンクスだよねー」という「記号」としてのイメージを利用するのもアリだ。
されど。
19世紀初頭のエジプトという、現代日本人に馴染みのない時代が舞台なんだ、観客を混乱させてどうするよ?
オープニングで別時代を長々とやって、肝心の時代説明を本編内でまた1からやり直し……って、コレいったい何十時間ある芝居? そんな無駄はマイナスでしかない。
江戸時代舞台の下町人情モノなのに、「派手な方がイイよね!」てな理由だけでオープニングが突然豪華絢爛「平安王朝絵巻」、本編と関係まったくナシ! 無理矢理関係をこじつけると「主人公ってまるで光源氏みたいだよね」という台詞がひとつ本編内にある、つーだけ!! 本編はじまってから怒涛の説明台詞、立て板に水、時間足りなくてストーリー尻切れトンボ。
……華やかな十二単と狩衣の平安絵巻をやりたいなら、最初からソレをやってろよ、青天の江戸モノなんかやらないで。
無理矢理別物のオープニングでっちあげられても、作品を壊すだけだっつの。
金ぴか衣装で、スフィンクスの目ぴかー、ピラミッドぱかー、がやりたいなら、最初から古代エジプトモノをやってろっつの。
て、話ですな。
この古代エジプトのオープニングはNG。
「派手なのはいい」けど、本編を損なうよーなもんはやめとけ。
本編の世界観と同じで、時代背景の説明……にならなくても、最低限客を混乱させないモノにするべきだ。
19世紀初頭の風俗で派手にすることはできるだろうに。
本編の色合いが濃く暗くなりがちだから、オープニングでギャップを狙ったのかもしれない、とは思う。わざと「本編とは関係ない風俗」でインパクトを作りたかった、とか?
それにしても、「本編と関係ない」モノにする必然性がない。んじゃこれからのヅカ舞台は日本物でも中国モノでもすべて「ごらんなさい、ごらんなさい♪」で小公子と小公女の踊る『ベルばら』オープニングにしてもイイってことになる。
「派手にしたかった」「インパクトが欲しかった」のだとしても、「本編と関連性の深い」オープニングは作れる。
タイトルが『愛と死のアラビア』で、あちこちに貼ってあるポスターが生首風船みたいなアラブ衣装の登場人物たち。
アラブだと思うじゃん? ポスター衣装の人たちが出てくると思うじゃん?
なのに、幕が上がるなり、そこは。
軍服+ドレスで豪華絢爛オープニング!!
はい、舞台は19世紀初頭。ロンドンではガス灯が点っている時代です、ふつーに近世ヨーロッパ世界ですから。
イギリス19世紀舞台の『Ernest in Love』とかの衣装感覚で行きましょう。タカラヅカ・ファンがいちばん大好きな西洋コスチュームモノ、男は燕尾かフロックコート、はたまたキラキラの軍服、女性は後ろのふくらんだロングドレス。
「派手」「本編とはまったくチガウ見た目」「インパクト」という意味でなら、これ以上のモノはないでしょー。
そして、キラキラの白軍服で登場するのがトマス@まとぶんだ。
物語ではトマスはただの一兵卒だけど、オープニングではお約束の王子様的衣装ヨロシク。ドナルド@みわっちもイギリス軍の中に、ひとりだけチガウ衣装(お約束)でまざっていること。
トマスは、軍服姿も華やかなイギリス軍を率いて踊る。銀橋で歌う。
これだけどーんっと「西洋世界」をやった上で。
重々しくも煌びやかなアラブ衣装を身につけたエジプト軍が登場する。音楽も西洋モノからアラビアへ。
エジプト軍を率いるのはイブラヒム@ゆーひ。
さらにベドウィン音頭のアレンジバージョン引っ提げて、トゥスン@壮と砂漠の狼ベドウィンたち登場。
視覚、音楽でこれでもかと派手に……そして、ふたつの、異なる文化を印象づける。
トマスはあのわたしたちに馴染み深い西洋モノの世界から、アラブ世界へ飛び込むことになるんだ。
長台詞でうだうだ解説する前に、オープニングの派手派手キラキラのなかで、思い知らせてくれ。トマスがどれほどの波乱の運命に身を投じることになるのかを。
イギリス兵のダンスとエジプト兵、ベドウィンたちのダンスが交互に入るうちに、いつの間にかイギリスな人々は出なくなる。
たったひとり、軍服姿のトマスが自然と浮き上がるさ。
金ぴかお姫様衣装で登場したアノウド@彩音と1曲踊ったあとに、アラブな人々総踊り、トマスを中心にイブラヒム、トゥスン、ドナルドを両側に従わせ、これからのトマスの人生を表すように。
トマスとドナルドだけがイギリス人、異邦人。それを際立たせて。
イギリスの歴史もややこしいし、エジプトだのアラビアだのの歴史もややこしい。それらを神経質に考えるのはよそに任せておいて、ここではフィクションとしての、「見せるための嘘」を存分に使い、「いかにも19世紀ヨーロッパ」と「いかにも近世アラブ」な風俗を表現する。
とにかく派手に景気よく。
そして。
総踊りの中、ひとり早めに退場したアノウドは、白い衣装に着替えて再登場する。
ラストシーンで着ている、あの衣装だ。
トマスもまた、イギリス白軍服の上から、ラストシーンの白い上着を羽織る。イブラヒム、トゥスンが着替えを手伝うこと! 大仰に、意味深げに。
舞台には、トマスとアノウドの、ふたりだけ。
イギリスからはじまり、アラブの中のイギリス人だったトマスは、最後にはアラブ衣装を身にまとい、アラブの女性と踊る。
あんなに派手派手で目に痛いくらいだったオープニングは、白いふたりのデュエット・ダンスで美しく幕を閉じる。
寄り添い合うふたりで、終わる。
……2回目に観たときに「このオープニングって、ラストシーンとリンクしてたのか!」と、わかるよーに。
お化粧の都合で白人を出しにくいのはわかるが、女の子たちを完全な白人にして派手なドレスで着飾らせ、男たちの一部を黒塗りでも薄目の色合いにして西洋衣装でまぜておく分には、誤魔化せると思う。
女の子たちは大変だろうけれど、なにしろ出番がないので白から黒へのお化粧替えは可能だろう。
物語とまったく関係ない古代エジプトをえんえんやるより、物語の「プロローグ」として世界説明やキャラクタ紹介を兼ねている方がずっと効率的だろう。
人ひとりの半生を1時間半の舞台にまとめるんだ、ポイントは「余分な場面を作らない」こと。
場面転換やショーシーンを挿入するにしても、「物語に関係あるモノ」だけでまかなう。無関係なモノを入れて観客を混乱させない、時間を浪費しない。
とまあ、『愛と死のアラビア』を自分なりに再構築してみようと思う。
前に語った通り、クライマックスの、トマスの牢獄場面をとことん盛り上げるために、逆から物語に「なにが必要で、なにが不要か」を考える。
そーするとまず絶対、今のオープニングは、「不要」なんだよな。
この物語に、必要なモノは。@愛と死のアラビア
2008年6月12日 タカラヅカ 『愛と死のアラビア』を自分なりに再構築してみようと思う。
原作は関係ナシ現在の舞台にあるストーリーだけをすべてとして、前に語った通り、クライマックスの「トマスの牢獄場面」をとことん盛り上げるために、逆から物語に「なにが必要で、なにが不要か」を考える。
とりあえず前日欄からの続き。
オープニングとエンディングはすでに決まった。
トマス@まとぶ投獄以降はラストまでドナルド@みわっち帰還挨拶、イブラヒム@ゆーひ、トゥスン@えりたん兄弟対決、アノウドへのプロポーズと目白押し、たたみかけるように展開する。
そこは盛り上がって良いんだけど、問題はソレまで。
クライマックスまでに山ナシじゃ、ダレるっての。
ふつうは時系列順にストーリーを考えていくもんだけど、今回は「1時間半でやらなければならないこと」をまず考え、ストーリーの流れを逆算して行こうと思う。
だからオープニングで「世界説明、キャラクタ紹介」をし、クライマックスを牢獄場面と決めたあとは、残りの時間の真ん中より後ろに中詰めを作る。
クライマックスではないが、それに近いくらいばーんと盛り上げるところを、作る。
『愛と死のアラビア』が平板なのは、基本が「ストーリー解説の立ち話」でえんえん話が進み、「ショーシーンはストーリーと無関係のお茶濁し」、「立ち話で無意味に舞台全面を使い、歌とダンスのショーシーンはカーテン前でちんまりと」やっているせい。セリや盆などの大がかりな装置もほとんど使わず、セットも簡素。
これで盛り上がれっつー方が難しい。演出ひどすぎ。
物語のあらすじをひとつずつ追うより先に、「山場」をあちこちに配置する必要がある。そのための「逆算」ね。
イギリス兵士トマスがエジプト捕虜となり、エジプト人たちと触れ合い、ついにはエジプトのために死ぬ物語で、その「死ぬ」と決意するところがクライマックスなのだから、必然的に中詰めは「エジプトに心を寄せる」様を描くことになる。
先に述べた通り、「神はひとり」とエジプト太守ムハンマド・アリ@星原先輩たちの前で宣言する以上、トマスは改宗しなければならない。
つまり、トマスの改宗こそが、中詰めとして相応しいとゆーことだ。
それまでエジプトに惹かれながらもぐるぐる悩んでいたトマスが、ついにエジプトを第2の祖国として受け入れる。
それは、国や民族を越えて、人間同士が愛し合い、信頼し合うことができるということだ。
人間の可能性。
ひとは、わかりあうことができる……壮大なテーマ。
トマスは所詮トマスひとりでしかなく、彼ひとりが「ひとはわかりあえる」と開眼したからといって、それは砂漠の一粒の砂レベルの小さな出来事かもしれない。
それでも彼は、「ひとはわかりあえる」ことに望みを託す。自分のように、いつか多くの人々が他者を受け入れ、自分とチガウ世界や文化を許容し、戦いをやめる日が来る……。
「平和のために戦う」大いなる矛盾。本編中でトマスが自嘲するように。
その矛盾を抱えながら、それでもトマスはエジプトと共に生きる決意をする。
ソレを、これでもかっと、大仰に盛り上げるんだ。
登場人物勢揃いの場で、トマスが祖国への愛を民謡に載せて歌い、その歌は展開して、エジプトへの愛の歌になる。
セリだの銀橋だの全部使って、人数山ほど使って、全員の、壮大な愛の合唱へ。
派手なら派手な方がいいから(笑)、この際もお、人間愛まで話を広げちゃってヨシ。
異邦人トマスが、エジプトを受け入れる。エジプトが、異邦人トマスを受け入れる。国や民族を越えて、理解し合うことは、夢幻じゃない、たしかにある……。
それを、空々しいまでの、タカラヅカ的美しさで盛り上げる。
そこまでドーンっ!!とやっておき、客席から拍手をもらえるようたーーっぷり余韻も取ってから(笑)、次の台詞へ。
「騙されるな、そいつは所詮イギリス人だ」
それまで「イギリスの脱走兵なんか信じられるか、けっ」と言って優位に立っていたはずのアジズ@王子が、立場をひっくり返され「トマス素晴らしい、トマス英雄!」な流れに逆ギレしてトマスを罵倒する。
だから今、「どこの国の人とか関係ない、人間愛万歳」って感動的に盛り上がってたんじゃん、空気読めよ。
つーことで、トマスの決闘宣言へつなぐ。
えー、コレが「中詰め」ね。
オープニング、中詰め、クライマックスが決まったから、あくまでも「逆算」で考えるので、あと「エンタメとして必要な場面」をこの3つの間に挿入する。さっき書いた「山場」たちね。
画面のメリハリっていうか、流れのお約束っていうか。
オープニングが歌とダンスの「世界とキャラ紹介」ショーで、中詰めが歌中心のありがちテーマでわかりやすく感動的場面、クライマックスが芝居中心のドシリアスで悲劇。
この合間にアクセントとして必要なのは、派手な戦闘シーンと、色恋絡みシーンでしょう。
物語を進めるために立ち話ばかりになるのはわかるけれど、それだけじゃ単調だし、飽きてしまう。
立ち話が続いたら、どーんと戦闘シーンを入れる。色っぽいシーンを入れる。そうやって、メリハリを付ける。そして、これらはカーテン前でちまちまやってはいけない。舞台全面使って派手にやる。でないと、意味がない。
ストーリー展開を「解説」するのは、これら「必要な場面」の合間。解説のためだけに「場面」を浪費しない。
さらに、クライマックスを盛り上げるための仕掛けとして「現在のエジプト情勢・世界設定」「アノウドとの愛」「イブラヒム、トゥスンとの友情」を織り込みながら埋めていく。
と、ここまで逆算して、それぞれのパーツを配置したので、今度は最初から時系列順に物語を追って行こう。
文字数が半端なので、一旦切る。
原作は関係ナシ現在の舞台にあるストーリーだけをすべてとして、前に語った通り、クライマックスの「トマスの牢獄場面」をとことん盛り上げるために、逆から物語に「なにが必要で、なにが不要か」を考える。
とりあえず前日欄からの続き。
オープニングとエンディングはすでに決まった。
トマス@まとぶ投獄以降はラストまでドナルド@みわっち帰還挨拶、イブラヒム@ゆーひ、トゥスン@えりたん兄弟対決、アノウドへのプロポーズと目白押し、たたみかけるように展開する。
そこは盛り上がって良いんだけど、問題はソレまで。
クライマックスまでに山ナシじゃ、ダレるっての。
ふつうは時系列順にストーリーを考えていくもんだけど、今回は「1時間半でやらなければならないこと」をまず考え、ストーリーの流れを逆算して行こうと思う。
だからオープニングで「世界説明、キャラクタ紹介」をし、クライマックスを牢獄場面と決めたあとは、残りの時間の真ん中より後ろに中詰めを作る。
クライマックスではないが、それに近いくらいばーんと盛り上げるところを、作る。
『愛と死のアラビア』が平板なのは、基本が「ストーリー解説の立ち話」でえんえん話が進み、「ショーシーンはストーリーと無関係のお茶濁し」、「立ち話で無意味に舞台全面を使い、歌とダンスのショーシーンはカーテン前でちんまりと」やっているせい。セリや盆などの大がかりな装置もほとんど使わず、セットも簡素。
これで盛り上がれっつー方が難しい。演出ひどすぎ。
物語のあらすじをひとつずつ追うより先に、「山場」をあちこちに配置する必要がある。そのための「逆算」ね。
イギリス兵士トマスがエジプト捕虜となり、エジプト人たちと触れ合い、ついにはエジプトのために死ぬ物語で、その「死ぬ」と決意するところがクライマックスなのだから、必然的に中詰めは「エジプトに心を寄せる」様を描くことになる。
先に述べた通り、「神はひとり」とエジプト太守ムハンマド・アリ@星原先輩たちの前で宣言する以上、トマスは改宗しなければならない。
つまり、トマスの改宗こそが、中詰めとして相応しいとゆーことだ。
それまでエジプトに惹かれながらもぐるぐる悩んでいたトマスが、ついにエジプトを第2の祖国として受け入れる。
それは、国や民族を越えて、人間同士が愛し合い、信頼し合うことができるということだ。
人間の可能性。
ひとは、わかりあうことができる……壮大なテーマ。
トマスは所詮トマスひとりでしかなく、彼ひとりが「ひとはわかりあえる」と開眼したからといって、それは砂漠の一粒の砂レベルの小さな出来事かもしれない。
それでも彼は、「ひとはわかりあえる」ことに望みを託す。自分のように、いつか多くの人々が他者を受け入れ、自分とチガウ世界や文化を許容し、戦いをやめる日が来る……。
「平和のために戦う」大いなる矛盾。本編中でトマスが自嘲するように。
その矛盾を抱えながら、それでもトマスはエジプトと共に生きる決意をする。
ソレを、これでもかっと、大仰に盛り上げるんだ。
登場人物勢揃いの場で、トマスが祖国への愛を民謡に載せて歌い、その歌は展開して、エジプトへの愛の歌になる。
セリだの銀橋だの全部使って、人数山ほど使って、全員の、壮大な愛の合唱へ。
派手なら派手な方がいいから(笑)、この際もお、人間愛まで話を広げちゃってヨシ。
異邦人トマスが、エジプトを受け入れる。エジプトが、異邦人トマスを受け入れる。国や民族を越えて、理解し合うことは、夢幻じゃない、たしかにある……。
それを、空々しいまでの、タカラヅカ的美しさで盛り上げる。
そこまでドーンっ!!とやっておき、客席から拍手をもらえるようたーーっぷり余韻も取ってから(笑)、次の台詞へ。
「騙されるな、そいつは所詮イギリス人だ」
それまで「イギリスの脱走兵なんか信じられるか、けっ」と言って優位に立っていたはずのアジズ@王子が、立場をひっくり返され「トマス素晴らしい、トマス英雄!」な流れに逆ギレしてトマスを罵倒する。
だから今、「どこの国の人とか関係ない、人間愛万歳」って感動的に盛り上がってたんじゃん、空気読めよ。
つーことで、トマスの決闘宣言へつなぐ。
えー、コレが「中詰め」ね。
オープニング、中詰め、クライマックスが決まったから、あくまでも「逆算」で考えるので、あと「エンタメとして必要な場面」をこの3つの間に挿入する。さっき書いた「山場」たちね。
画面のメリハリっていうか、流れのお約束っていうか。
オープニングが歌とダンスの「世界とキャラ紹介」ショーで、中詰めが歌中心のありがちテーマでわかりやすく感動的場面、クライマックスが芝居中心のドシリアスで悲劇。
この合間にアクセントとして必要なのは、派手な戦闘シーンと、色恋絡みシーンでしょう。
物語を進めるために立ち話ばかりになるのはわかるけれど、それだけじゃ単調だし、飽きてしまう。
立ち話が続いたら、どーんと戦闘シーンを入れる。色っぽいシーンを入れる。そうやって、メリハリを付ける。そして、これらはカーテン前でちまちまやってはいけない。舞台全面使って派手にやる。でないと、意味がない。
ストーリー展開を「解説」するのは、これら「必要な場面」の合間。解説のためだけに「場面」を浪費しない。
さらに、クライマックスを盛り上げるための仕掛けとして「現在のエジプト情勢・世界設定」「アノウドとの愛」「イブラヒム、トゥスンとの友情」を織り込みながら埋めていく。
と、ここまで逆算して、それぞれのパーツを配置したので、今度は最初から時系列順に物語を追って行こう。
文字数が半端なので、一旦切る。
望郷は砂漠を越えて。@愛と死のアラビア
2008年6月13日 タカラヅカ Let’sアタマの体操。『愛と死のアラビア』を自分なりに再構築してみようと思う。
原作は関係ナシ現在の舞台にあるストーリーだけをすべてとして、できるだけ現在の舞台の場面を使いつつ、切り貼りしてみる。原作知らないからこそできる(笑)。きっと原作を知っていたら、いろいろ足を取られて思考停止すると思うんで、ほんと、舞台だけを材料に考えるぞっと。
んで、考えれば考えるほど、主要キャラクタを、好きだと思う。
トマス@まとぶ、イブラヒム@ゆーひ、トゥスン@壮、ドナルド@みわっち、ムハンマド・アリ@星原先輩、ナイリ@一花、みんなすげーいいキャラだ。それぞれハマってる。(アノウドだけは今のままでは主要キャラに入らないっす)
わたし、なんだかんだいったところで谷正純作品は概ね好きなんだ(植爺作の演出作品除く)。谷せんせが描くところのキャラクタにはツボがある場合が多いし、少年ジャンプ的英雄主義も好きだ。その手段としての皆殺しは到底好きになれないが、幼いほどの単純さで男子的正義に美学を感じるのは、アリだと思っている。
『愛と死のアラビア』のキャラクタたち、彼らを好きだと思い、彼らにわくわくする。
だからこそ、彼らの「物語」を追っていきたいと思う。わたし自身がキモチいいように(笑)。
『愛と死のアラビア』で気になるのは、ぶった切り感。やりっぱなしの投げっぱなし。いかにも「時間足りませんでした」「てきとーにカットしました」という制作側の事情が見える。
ストーリーを進めるための「立ち話」の連続、地味でダラダラとした話運び。
せっかく主要キャラには萌えがあるんだから、どーんと盛り上げたい。どーんと。
人ひとりの半生を1時間半の舞台にまとめるんだ、ポイントは「余分な場面を作らない」こと。
場面転換やショーシーンを挿入するにしても、「物語に関係あるモノ」だけでまかなう。無関係なモノを入れて観客を混乱させない、時間を浪費しない。
従って、オープニング直後の、黒装束の女が歌い、奴隷女が嘆きのダンスを踊るカーテン前場面はいらない。
物語に無関係な「雰囲気を出すためだけ」の人たちは使わない。雰囲気を出したければ、「物語の中で、登場人物を使って」やれ。
いかにもアラブなあの場面は、オープニングで本編の内容と無関係な「古代エジプト」をやってしまったせいでしょ? 「さっきのはナンチャッテでしかなく、ほんとはこーゆー世界だよ」と言うためでしょ?
先日欄で語った、歌とダンスの「世界とキャラ紹介」ショーであり、ラストシーンとリンクする、白い衣装で寄り添い合うトマスとアノウド、で幕を閉じたオープニングなので。
その直後、カーテン前に現れるのは悪役オスマン帝国権力者と、その取り巻きマムルークたちだ。
いかにもアラビア〜〜ンな人々が、周囲で踊るなりして「権力とカネまみれ」を印象付け、ちあきねーさんはここで美しいソロを披露し、奴隷の踊り子@みほちゃんは見事なダンスを披露する。
カーテン前なんで立ち話になってしまうが、悪役たちは「イギリスとの戦争が長引いて、エジプトが独立を考えないよーになればいいんだ、くくく」とか、現在のエジプトの状態を丁寧に教えてくれる、と。
「そういえば、噂を耳にしました。『ハヤブサの目を持つ男』がいるとか……」
「ハヤブサの目を持つ男?」
前振り完璧、ジャジャーンと音楽付きで幕が開き、主役登場(植爺・谷お約束の主要人物登場シーン)!!
はい、トマスさん出番です、スコットランド民謡「ロッホ・ローモンド」を歌いながら出て来て下さい。ただし、軍服のままで。
このエジプトで、彼が異邦人であること、祖国に愛があることを、服装でも表して下さい。戦闘の末捕虜になったわけだからあちこち汚れているけれど、あくまでもイギリス人だと一目でわかる姿でいること。
で、遅れて登場する軍医ドナルド氏も、多少アラブ的変化はあるにしろ、基本軍服のままでヨロシク。そして、「なつかしいな、祖国の歌か」と、トマスが歌っている歌の解説して下さい。
そっから、エジプトで捕虜生活しているんだと会話を続けて下さい。
オープニングにイギリス兵としての、彼らの戦闘シーンがあったわけだから、「説明台詞の羅列」にはならない。ああ、そういやイギリスとアラブな人たちが戦ってたわね、と観客に思い出してもらう。
そして、ここが大きなポイント(笑)なんだが、トマスの腕の治療場面は、観客から隠す。
や、どう考えても変だから。服の上から治療するのは。
ドナルド先生が藪医者にしか見えません。
彼を医者として優秀だとするなら、服の上からてきとーなことをさせちゃいけない。
長椅子の側に衝立を置いておくとかして、治療をしているところは見せない。
衝立からはトマスの顔があざとくチラチラ見えて、苦しむとこは適度に見せてやってください(笑)。Mな表情のまとぶさんを見せることは、サービスなんでしょう?(あれ、チガウのか?)
で、治療が終わったら出てくる。それまで血が滲んでいた包帯が、新しいものに変わっていれば、「治療した」とわかるだろう。
ドナルド先生の「兵士をひとり死なせた」話は衝立を出てからだから、ちょっと間をおいて。
敵国の兵士も差別なく助けようとし、救えなかったことに心から傷つく……ドナルドの高潔さ、優しさを表すエピソードではあるが、それだけではまだ足りない。
ガス灯もない後進国だから昼間にトマスを治療しに帰ってきた……のではなく、心の疲労を友人に癒して欲しくて戻って来たことを、トマスとドナルドの友情関係を明確にする。その方がクライマックスのふたりの別れが盛り上がるからな。
愚痴をこぼしたドナルドに、一言「キミの顔を見たら元気になった」とかなんとか言わせるだけでいい。
あとは照れ隠しでドナルドが「兵士たちの噂話」をトマスに教える。「ハヤブサの目を持つ男」と呼ばれていることを。
で、イブラヒム登場。
ここでのポイントは、もったいつけるだけつけて、射撃の腕を披露する。
イブラヒムの肩を借りて的を撃ち落とすトマス。
ここで、もったいつける。
狙ってからすぐに撃つのは腕の良さを表すために必要かもしれないが、あっけなさすぎると、凄いことが伝わりにくい。
狙いに入るまでに視線をぐるりとさせて周囲を威嚇したり、イブラヒムの様子を伺ったりし、その間緊迫した音楽を流す。
そして、撃ち落とすなり、派手に効果音をつけ、兵士たちにマイクに入る声で、ちゃんと台詞として「撃ち落としたぞ」「信じられない」と騒がせる。今はモブとしてマイク関係無しで騒いでるだけだよね。
イブラヒムが「ハヤブサの目を持つ男……!」と感嘆するところも音楽で盛り上げ、どれだけすごいことか、ありえないことをやってのけたのかを、印象づける。
それだけ感服ムードになっているのに、トマス自身が軽く笑って「銃の性能だよ」といなしてしまうから、かっこいいんだ。
腕を披露するところが大仰であった分、イブラヒムもトマスの言葉を謙遜だとわかっている……と、観客にも伝わる。
だからこそトマスは精鋭部隊の教育係として派遣されることになる。
はい、続く。
原作は関係ナシ現在の舞台にあるストーリーだけをすべてとして、できるだけ現在の舞台の場面を使いつつ、切り貼りしてみる。原作知らないからこそできる(笑)。きっと原作を知っていたら、いろいろ足を取られて思考停止すると思うんで、ほんと、舞台だけを材料に考えるぞっと。
んで、考えれば考えるほど、主要キャラクタを、好きだと思う。
トマス@まとぶ、イブラヒム@ゆーひ、トゥスン@壮、ドナルド@みわっち、ムハンマド・アリ@星原先輩、ナイリ@一花、みんなすげーいいキャラだ。それぞれハマってる。(アノウドだけは今のままでは主要キャラに入らないっす)
わたし、なんだかんだいったところで谷正純作品は概ね好きなんだ(植爺作の演出作品除く)。谷せんせが描くところのキャラクタにはツボがある場合が多いし、少年ジャンプ的英雄主義も好きだ。その手段としての皆殺しは到底好きになれないが、幼いほどの単純さで男子的正義に美学を感じるのは、アリだと思っている。
『愛と死のアラビア』のキャラクタたち、彼らを好きだと思い、彼らにわくわくする。
だからこそ、彼らの「物語」を追っていきたいと思う。わたし自身がキモチいいように(笑)。
『愛と死のアラビア』で気になるのは、ぶった切り感。やりっぱなしの投げっぱなし。いかにも「時間足りませんでした」「てきとーにカットしました」という制作側の事情が見える。
ストーリーを進めるための「立ち話」の連続、地味でダラダラとした話運び。
せっかく主要キャラには萌えがあるんだから、どーんと盛り上げたい。どーんと。
人ひとりの半生を1時間半の舞台にまとめるんだ、ポイントは「余分な場面を作らない」こと。
場面転換やショーシーンを挿入するにしても、「物語に関係あるモノ」だけでまかなう。無関係なモノを入れて観客を混乱させない、時間を浪費しない。
従って、オープニング直後の、黒装束の女が歌い、奴隷女が嘆きのダンスを踊るカーテン前場面はいらない。
物語に無関係な「雰囲気を出すためだけ」の人たちは使わない。雰囲気を出したければ、「物語の中で、登場人物を使って」やれ。
いかにもアラブなあの場面は、オープニングで本編の内容と無関係な「古代エジプト」をやってしまったせいでしょ? 「さっきのはナンチャッテでしかなく、ほんとはこーゆー世界だよ」と言うためでしょ?
先日欄で語った、歌とダンスの「世界とキャラ紹介」ショーであり、ラストシーンとリンクする、白い衣装で寄り添い合うトマスとアノウド、で幕を閉じたオープニングなので。
その直後、カーテン前に現れるのは悪役オスマン帝国権力者と、その取り巻きマムルークたちだ。
いかにもアラビア〜〜ンな人々が、周囲で踊るなりして「権力とカネまみれ」を印象付け、ちあきねーさんはここで美しいソロを披露し、奴隷の踊り子@みほちゃんは見事なダンスを披露する。
カーテン前なんで立ち話になってしまうが、悪役たちは「イギリスとの戦争が長引いて、エジプトが独立を考えないよーになればいいんだ、くくく」とか、現在のエジプトの状態を丁寧に教えてくれる、と。
「そういえば、噂を耳にしました。『ハヤブサの目を持つ男』がいるとか……」
「ハヤブサの目を持つ男?」
前振り完璧、ジャジャーンと音楽付きで幕が開き、主役登場(植爺・谷お約束の主要人物登場シーン)!!
はい、トマスさん出番です、スコットランド民謡「ロッホ・ローモンド」を歌いながら出て来て下さい。ただし、軍服のままで。
このエジプトで、彼が異邦人であること、祖国に愛があることを、服装でも表して下さい。戦闘の末捕虜になったわけだからあちこち汚れているけれど、あくまでもイギリス人だと一目でわかる姿でいること。
で、遅れて登場する軍医ドナルド氏も、多少アラブ的変化はあるにしろ、基本軍服のままでヨロシク。そして、「なつかしいな、祖国の歌か」と、トマスが歌っている歌の解説して下さい。
そっから、エジプトで捕虜生活しているんだと会話を続けて下さい。
オープニングにイギリス兵としての、彼らの戦闘シーンがあったわけだから、「説明台詞の羅列」にはならない。ああ、そういやイギリスとアラブな人たちが戦ってたわね、と観客に思い出してもらう。
そして、ここが大きなポイント(笑)なんだが、トマスの腕の治療場面は、観客から隠す。
や、どう考えても変だから。服の上から治療するのは。
ドナルド先生が藪医者にしか見えません。
彼を医者として優秀だとするなら、服の上からてきとーなことをさせちゃいけない。
長椅子の側に衝立を置いておくとかして、治療をしているところは見せない。
衝立からはトマスの顔があざとくチラチラ見えて、苦しむとこは適度に見せてやってください(笑)。Mな表情のまとぶさんを見せることは、サービスなんでしょう?(あれ、チガウのか?)
で、治療が終わったら出てくる。それまで血が滲んでいた包帯が、新しいものに変わっていれば、「治療した」とわかるだろう。
ドナルド先生の「兵士をひとり死なせた」話は衝立を出てからだから、ちょっと間をおいて。
敵国の兵士も差別なく助けようとし、救えなかったことに心から傷つく……ドナルドの高潔さ、優しさを表すエピソードではあるが、それだけではまだ足りない。
ガス灯もない後進国だから昼間にトマスを治療しに帰ってきた……のではなく、心の疲労を友人に癒して欲しくて戻って来たことを、トマスとドナルドの友情関係を明確にする。その方がクライマックスのふたりの別れが盛り上がるからな。
愚痴をこぼしたドナルドに、一言「キミの顔を見たら元気になった」とかなんとか言わせるだけでいい。
あとは照れ隠しでドナルドが「兵士たちの噂話」をトマスに教える。「ハヤブサの目を持つ男」と呼ばれていることを。
で、イブラヒム登場。
ここでのポイントは、もったいつけるだけつけて、射撃の腕を披露する。
イブラヒムの肩を借りて的を撃ち落とすトマス。
ここで、もったいつける。
狙ってからすぐに撃つのは腕の良さを表すために必要かもしれないが、あっけなさすぎると、凄いことが伝わりにくい。
狙いに入るまでに視線をぐるりとさせて周囲を威嚇したり、イブラヒムの様子を伺ったりし、その間緊迫した音楽を流す。
そして、撃ち落とすなり、派手に効果音をつけ、兵士たちにマイクに入る声で、ちゃんと台詞として「撃ち落としたぞ」「信じられない」と騒がせる。今はモブとしてマイク関係無しで騒いでるだけだよね。
イブラヒムが「ハヤブサの目を持つ男……!」と感嘆するところも音楽で盛り上げ、どれだけすごいことか、ありえないことをやってのけたのかを、印象づける。
それだけ感服ムードになっているのに、トマス自身が軽く笑って「銃の性能だよ」といなしてしまうから、かっこいいんだ。
腕を披露するところが大仰であった分、イブラヒムもトマスの言葉を謙遜だとわかっている……と、観客にも伝わる。
だからこそトマスは精鋭部隊の教育係として派遣されることになる。
はい、続く。
JAZZYな砂漠の狼たち。@愛と死のアラビア
2008年6月14日 タカラヅカ アタマの体操、ココロの運動、『愛と死のアラビア』を自分好みに再構築してみようと思う。萌えは明日の活力だ!
原作は関係ナシ、現在の舞台にあるストーリーだけがすべて。
プログラムも脚本が載ってないらしい「ル・サンク」も買ってないんで、場面名とかさっぱりわからん。あ、新公プログラム見ればいいのか!!(今気づいた)
昨日欄からの続き、イブラヒムが「ベドウィン騎馬隊の訓練をしろ」っつって退場したあと。
人ひとりの半生を1時間半の舞台にまとめるんだ、ポイントは「余分な場面を作らない」こと。
場面転換やショーシーンを挿入するにしても、「物語に関係あるモノ」だけでまかなう。無関係なモノを入れて観客を混乱させない、時間を浪費しない。
「第6場 悠久のナイル」という場面はまるっと削除。
役がない、見せ場がない、ための救済処置としての場面ならば、「物語に関係あるモノ」にしてくれ。場所の移動、時間の流れを表していることはわかるが、んな悠長なことをやっている時間はないんだ。
彼らの出番の埋め合わせはあとからするから、今は全カット。女豹ちゃんたち好きだけどさ〜〜。
前景からトマスとデジュリエ大佐@はっちさんが残り、異を唱えるトマスを大佐が説得する場面、会話はそのまま花道に移動する。
「俺はイギリス人だ、敵兵の訓練なんかできるか、処刑するならしろ、ちくしょー」
「まあまあ(笑)」
てな会話を、下手花道でする。
その間にカーテン前に次々にベドウィンたちがスタンバる。ええ、ちゃんと客席に顔を見せてひとりずつ登場、キメポーズで静止。観客にゆっくり顔を眺めさせる。
この登場シーンが、それぞれキャラクタの性格を表すモノなら、なおヨシ。や、彼らにどんな性格があるかさっぱりわからんが。ザイド@まりんは豪快に、ヤシム@だいもんはかわいらしく、とか。あとの人たちもなんとかがんばって客席アピールしてくれ。もっと自由に、個性的に。
でもって、トゥスンに、せり上がりさせてやってくれ。
ベドウィンたちと一緒くたな登場はあんまりだ、彼も特別扱いしてやってくれ。全員がポーズを決めて静止している真ん中に、トゥスンがせり上がって来るの。
命乞いのために敵に手を貸すのではなく、エジプトの独立を助けるために教育係をやってみれば、と言われて何故か「ハヤブサの目を持つ男……?!」とトマスが言う代わりに(つか、この台詞謎過ぎだから絶対カット)、
「キミがこれから行くベドウィン騎馬隊は、生半可じゃないぞ」
てなふーに大佐に脅され、
「ベドウィン騎馬隊……砂漠の狼……!」
とトマスがつぶやくところでトマスたちへのスポットライトが消え、反対に本舞台カーテン前のトゥスンたちにばんっとライトが当たる。この台詞のタイミングに合わせてちょーどトマスのせり上がり完了、ベドウィン音頭がはじまる。
で、大忙しだトマス、ベドウィン音頭が終わる前にアラビア衣装に着替えて、再登場だ。
そう、このために、それまではトマスにアラブ衣装を着せないの。
時の流れとトゥスンへの友情を、衣装を替えることで表現。
「トマスの旦那、アラブ衣装が似合いますね」「生まれたときから着ていたみたいだ」とか、ベドウィンたちに気軽に声をかけさせ、トマスも笑顔で軽口を返す。
「みんな同じ顔に見える、衣装で主役が誰か覚える」ヅカ初見の人にもやさしい展開(笑)。そうか、あのイギリス人の人が、あのアラブ衣装の人なのね!! アラブ服を着ることにしたのね!
で、トマスとトゥスンに「キミは素晴らしい」「キミこそステキだ」といちゃいちゃさせておいて、ザイド登場、マムルークたちの顔見せ、ときて、盗賊団襲撃。
えー、ここで疑問が。
トマスは射撃を教えるために騎馬隊にいるんだよね?
でも騎馬隊のみんな、銃使って戦ってないやん。
唯一銃を使うトゥスンはまったく役に立ってないやん。
これじゃトマスはなにしに行ったのやら、「無能」というレッテルを貼られてしまいますよ?
トゥスンを「司令官としての才能がある」と誉めるわりに、部隊の指揮をトゥスンには取らせず、全部自分が仕切る。トゥスンを「無能」だと言ってるのと同じでは……?
弟を殺された男@まっつの件もいらないから(ごめん、まっつ……)、ここは、ベドウィン騎馬隊の勇姿を見せよう。
トマスは指揮を執らない。「教えた通りにやって見せろ」とトゥスンに発破を掛けるだけでイイ。
トゥスンがえらそーにイキイキと指揮を執り、そのあとでトマスを振り返る。お目々キラキラさせて、飼い主を見るワンコの顔で。そしてトマスが「ああ、いいぞ」と頷く。トゥスンを肯定してやる。
それで、「司令官として成長しているトゥスン」「トゥスンを導くトマス」として、それぞれ「かっこいい」ことになるだろうに。
植爺と谷のよくやる失敗に「否定することで、主役を上に見せる」とゆーのがある。誰かを持ち上げたいとき、誰かを貶めるの。そーすることでしか持ち上げられないの。
意気揚々と戦闘指揮を執るトゥスンをわざわざトマスが完全否定して自分が全部仕切り直す。それでトマスが「かっこいい」ことにしてるの。
チガウから。否定するのではなく、肯定するの。かっこいいトマスを描くためには、まず、かっこいいトゥスンを描き、それを肯定してやるトマスを描くことで、彼がさらに上の存在だと表すのよ。
それからふたりは、花道に移動。
本舞台は、ベドウィン騎馬隊と盗賊団の戦闘シーンになる。
もちろんダンスだ。
銃を持ってベドウィンたちが踊るんだ。ちゃんと銃の訓練をトマスから受け、無敵になったことを表す。
まりんとまっつと主要な男役たちは、ここでダンスの傍ら「戦闘の歌」でも歌っててくれ。
トマスとトゥスンはライフルを手に花道からソレを見守る。彼らもパートを分けて戦闘の歌を歌う。
反対側の花道には、悪者のマムルークたちが、いかにもわるそーに佇み、様子を伺っている。
セリを上下させ、盆を回し、とにかく派手にやってくれ。
地味なんだよ今のままでは。突っ立って会話ばっかしてるイメージなんだよ。
『愛と死のアラビア−高潔なアラブの戦士となったイギリス人−』というタイトルなのに、今のままだとトマスはまったく戦ってないし、アラブの戦士にもなってない。
戦争物なんだから、戦闘シーンは必須。や、血なまぐさいものが見たいわけではないから、表現はあくまでもタカラヅカらしく、ダンスとして。
女の子たちの出番が少ないので、「戦いの女神」と称して抽象的に登場。戦う男たちの後ろで、同じ振りで明らかにチガウ存在として踊らせる。コロスであるとわかるよーに、衣装は女豹ちゃんたちくらいアラブとは無関係にな。
「悠久のナイル」で出番カットされたみなさんは、男女共にここで取り返してくれ。
そして、戦いの女神に翻弄されながら、アノウド登場。彼女も踊らせるんだ。ときおり舞台を暗くしアノウドひとりを浮かび上がらせたりして、印象づける。あのひとりだけアラビア衣装を着た女の子も、イメージだけの存在なのかしら、と思わせておいて、物語を進める。
盗賊たちが敗北し、ベドウィンたちはお宝にむさぼりつく。それを見ているトマスはとまどいを顕わにする。花道から本舞台へ移動しながら、宝を差し出されても受け取らない。
「女がいるぞぉ」と、さきほどコロスたちに翻弄され、舞台隅に倒れ伏していたアノウドをベドウィンのみつるが引きずり出す。侍女のれみちゃんが「お嬢様になにをするの!」と登場し、ふたりで逃げまどい……あとは一緒。
トマスとベドウィンたちのやりとりの間、セリを利用して、ベドウィンのテントを出しておく。
つーことで、続く。
原作は関係ナシ、現在の舞台にあるストーリーだけがすべて。
プログラムも脚本が載ってないらしい「ル・サンク」も買ってないんで、場面名とかさっぱりわからん。あ、新公プログラム見ればいいのか!!(今気づいた)
昨日欄からの続き、イブラヒムが「ベドウィン騎馬隊の訓練をしろ」っつって退場したあと。
人ひとりの半生を1時間半の舞台にまとめるんだ、ポイントは「余分な場面を作らない」こと。
場面転換やショーシーンを挿入するにしても、「物語に関係あるモノ」だけでまかなう。無関係なモノを入れて観客を混乱させない、時間を浪費しない。
「第6場 悠久のナイル」という場面はまるっと削除。
役がない、見せ場がない、ための救済処置としての場面ならば、「物語に関係あるモノ」にしてくれ。場所の移動、時間の流れを表していることはわかるが、んな悠長なことをやっている時間はないんだ。
彼らの出番の埋め合わせはあとからするから、今は全カット。女豹ちゃんたち好きだけどさ〜〜。
前景からトマスとデジュリエ大佐@はっちさんが残り、異を唱えるトマスを大佐が説得する場面、会話はそのまま花道に移動する。
「俺はイギリス人だ、敵兵の訓練なんかできるか、処刑するならしろ、ちくしょー」
「まあまあ(笑)」
てな会話を、下手花道でする。
その間にカーテン前に次々にベドウィンたちがスタンバる。ええ、ちゃんと客席に顔を見せてひとりずつ登場、キメポーズで静止。観客にゆっくり顔を眺めさせる。
この登場シーンが、それぞれキャラクタの性格を表すモノなら、なおヨシ。や、彼らにどんな性格があるかさっぱりわからんが。ザイド@まりんは豪快に、ヤシム@だいもんはかわいらしく、とか。あとの人たちもなんとかがんばって客席アピールしてくれ。もっと自由に、個性的に。
でもって、トゥスンに、せり上がりさせてやってくれ。
ベドウィンたちと一緒くたな登場はあんまりだ、彼も特別扱いしてやってくれ。全員がポーズを決めて静止している真ん中に、トゥスンがせり上がって来るの。
命乞いのために敵に手を貸すのではなく、エジプトの独立を助けるために教育係をやってみれば、と言われて何故か「ハヤブサの目を持つ男……?!」とトマスが言う代わりに(つか、この台詞謎過ぎだから絶対カット)、
「キミがこれから行くベドウィン騎馬隊は、生半可じゃないぞ」
てなふーに大佐に脅され、
「ベドウィン騎馬隊……砂漠の狼……!」
とトマスがつぶやくところでトマスたちへのスポットライトが消え、反対に本舞台カーテン前のトゥスンたちにばんっとライトが当たる。この台詞のタイミングに合わせてちょーどトマスのせり上がり完了、ベドウィン音頭がはじまる。
で、大忙しだトマス、ベドウィン音頭が終わる前にアラビア衣装に着替えて、再登場だ。
そう、このために、それまではトマスにアラブ衣装を着せないの。
時の流れとトゥスンへの友情を、衣装を替えることで表現。
「トマスの旦那、アラブ衣装が似合いますね」「生まれたときから着ていたみたいだ」とか、ベドウィンたちに気軽に声をかけさせ、トマスも笑顔で軽口を返す。
「みんな同じ顔に見える、衣装で主役が誰か覚える」ヅカ初見の人にもやさしい展開(笑)。そうか、あのイギリス人の人が、あのアラブ衣装の人なのね!! アラブ服を着ることにしたのね!
で、トマスとトゥスンに「キミは素晴らしい」「キミこそステキだ」といちゃいちゃさせておいて、ザイド登場、マムルークたちの顔見せ、ときて、盗賊団襲撃。
えー、ここで疑問が。
トマスは射撃を教えるために騎馬隊にいるんだよね?
でも騎馬隊のみんな、銃使って戦ってないやん。
唯一銃を使うトゥスンはまったく役に立ってないやん。
これじゃトマスはなにしに行ったのやら、「無能」というレッテルを貼られてしまいますよ?
トゥスンを「司令官としての才能がある」と誉めるわりに、部隊の指揮をトゥスンには取らせず、全部自分が仕切る。トゥスンを「無能」だと言ってるのと同じでは……?
弟を殺された男@まっつの件もいらないから(ごめん、まっつ……)、ここは、ベドウィン騎馬隊の勇姿を見せよう。
トマスは指揮を執らない。「教えた通りにやって見せろ」とトゥスンに発破を掛けるだけでイイ。
トゥスンがえらそーにイキイキと指揮を執り、そのあとでトマスを振り返る。お目々キラキラさせて、飼い主を見るワンコの顔で。そしてトマスが「ああ、いいぞ」と頷く。トゥスンを肯定してやる。
それで、「司令官として成長しているトゥスン」「トゥスンを導くトマス」として、それぞれ「かっこいい」ことになるだろうに。
植爺と谷のよくやる失敗に「否定することで、主役を上に見せる」とゆーのがある。誰かを持ち上げたいとき、誰かを貶めるの。そーすることでしか持ち上げられないの。
意気揚々と戦闘指揮を執るトゥスンをわざわざトマスが完全否定して自分が全部仕切り直す。それでトマスが「かっこいい」ことにしてるの。
チガウから。否定するのではなく、肯定するの。かっこいいトマスを描くためには、まず、かっこいいトゥスンを描き、それを肯定してやるトマスを描くことで、彼がさらに上の存在だと表すのよ。
それからふたりは、花道に移動。
本舞台は、ベドウィン騎馬隊と盗賊団の戦闘シーンになる。
もちろんダンスだ。
銃を持ってベドウィンたちが踊るんだ。ちゃんと銃の訓練をトマスから受け、無敵になったことを表す。
まりんとまっつと主要な男役たちは、ここでダンスの傍ら「戦闘の歌」でも歌っててくれ。
トマスとトゥスンはライフルを手に花道からソレを見守る。彼らもパートを分けて戦闘の歌を歌う。
反対側の花道には、悪者のマムルークたちが、いかにもわるそーに佇み、様子を伺っている。
セリを上下させ、盆を回し、とにかく派手にやってくれ。
地味なんだよ今のままでは。突っ立って会話ばっかしてるイメージなんだよ。
『愛と死のアラビア−高潔なアラブの戦士となったイギリス人−』というタイトルなのに、今のままだとトマスはまったく戦ってないし、アラブの戦士にもなってない。
戦争物なんだから、戦闘シーンは必須。や、血なまぐさいものが見たいわけではないから、表現はあくまでもタカラヅカらしく、ダンスとして。
女の子たちの出番が少ないので、「戦いの女神」と称して抽象的に登場。戦う男たちの後ろで、同じ振りで明らかにチガウ存在として踊らせる。コロスであるとわかるよーに、衣装は女豹ちゃんたちくらいアラブとは無関係にな。
「悠久のナイル」で出番カットされたみなさんは、男女共にここで取り返してくれ。
そして、戦いの女神に翻弄されながら、アノウド登場。彼女も踊らせるんだ。ときおり舞台を暗くしアノウドひとりを浮かび上がらせたりして、印象づける。あのひとりだけアラビア衣装を着た女の子も、イメージだけの存在なのかしら、と思わせておいて、物語を進める。
盗賊たちが敗北し、ベドウィンたちはお宝にむさぼりつく。それを見ているトマスはとまどいを顕わにする。花道から本舞台へ移動しながら、宝を差し出されても受け取らない。
「女がいるぞぉ」と、さきほどコロスたちに翻弄され、舞台隅に倒れ伏していたアノウドをベドウィンのみつるが引きずり出す。侍女のれみちゃんが「お嬢様になにをするの!」と登場し、ふたりで逃げまどい……あとは一緒。
トマスとベドウィンたちのやりとりの間、セリを利用して、ベドウィンのテントを出しておく。
つーことで、続く。
アラビアの露と消ゆとも。@愛と死のアラビア
2008年6月15日 タカラヅカ なんてこったい、明日はもう千秋楽。
変だなあ、楽までに『愛と死のアラビア』勝手に改造計画、書き切る予定だったのに。
てゆーかまだトマス@まとぶんがどんだけ芝居くどくなってぶっとばして行っているかとか、トゥスン@壮くんがかわいくてかわいくてもーたまらん!とか、イブラヒム@ゆーひさん萌えとか、日々の感想をちっとも書けておりませんが。
退団カウントダウンに入ったみほちゃんの踊る姿が、神がかり的に美しいこととか。
明日は楽の感想書いてるだろーしなあ。改造計画話もめっさ途中で話がとびそうだなあ。まあ、話がとぶのはいつものことだが。
しかしここんとこ、いろんな人に「なんか痩せた? どうしたの?」って言われるんだけど、ヅカファン以外の人には理由が説明できないっすよ。
「花組公演中だから」って言っても、一般社会生活では通じません。
体力気力(と、財力・笑)をとことん消費して、ムラ通いしてるせいです。毎度のコトながら、贔屓組公演中は痩せます。つか、やつれます。よぼよぼ。
……で、それも明日で終わり、またふつーの、人並みな生活に戻るため(戻る……よな? 『スカピン』にハマりまくって通いまくったりしないよな? もう体力気力より先に財力が保たないから、あり得ないぞ?)、そのうち会う人会う人に「なんか太った? どうしたの?」って言われるんだわ〜〜、あー……。
それはともかく、改造計画話の続き。
ベドウィンたちからアノウドを助けたトマス、えーと「第8場 ヴェールを剥ぎ取られた女」からスタート。
アノウドとの出会い場面が、2回に分けられているのは、何故?
アノウドを手当てして、銀橋一回りしてからまたテントに戻ってアノウドと話す。
1回でいいやん。まだるっこしい。
最初の、手当は時間を取らない。ここで必要なのは「トマスがアノウドを助けた」とわかればいいんだから。なにを持ってこいとかなにをしろとかいらん。「友人の医者から手当を教わった」ってだけでいい。
女の子が苦しむ場面はさくっと終わらせて。
アノウドのベールも、れみちゃんがもともとの彼女のベールを拾って持っていて、トマスの指示でさっさとアノウドにつけてやる。
トマスの心遣いを表す台詞は「顔を隠してやれ」ではなく「ベールをつけてやれ」とかに変更。「隠してやれ」→隠れてません、とツッコミが入ることは言わせない。
アノウドは気を失わず、その台詞をちゃんと聞いていて、トマスがいい人だってことがわかるのよ。
で、そのあと侍女とヤシムが退室し、ふたりきりになって自己紹介。
ただし、短縮する。
自己紹介だけで何分も費やさない(笑)。
「お兄様」「妹よ」のプレイは必要なので(プレイ言うな)、そのままとするけれど、トマスに下心がない以上、ここはさらりと終わらせる。
現状の『愛と死のアラビア』で、トマスも一緒にカイロへ行くのだと言いに来たトゥスンが、「(アノウドは)連れて行けない」「すべては神の思し召しだ」と言ったあと、トマスの愕然とした顔で暗転する意味がわからない。
トマスに愕然とさせて、「引きを作っている」のだとは思う。マンガでいうところの左ページの最後のコマね。「ええっ、どうなるの?」と思わせて、次のページをめくらせる、という。
でもソレ、無意味だから!! そこで引きを作っても、引きになってないっていうか、そこで暗転して、それっきりアノウドのことを忘れてしまったら、トマスはただのひどい男だ。それは「引き」ではなく、観客をドン引きさせるだけだから!!
……なんで谷はわけのわかんない演出をするんだろう。
ふつーに、「部隊の者たちに、彼女のことは任せて行けばいい。キミの妹だというなら、それに相応しい扱いをするだろう」とトゥスンに言わせればいいじゃん。トマスも愕然としなくていいし、アホな「引き」はなくてもいい。
トゥスンがすぐにテントを出て行き、トマスが眠るアノウドに向けて「すまない……でも、君のことは必ず私が守る。兄と名乗った義務は果たす」とかつぶやかせて、彼もまたテントをあとにする。
御簾の向こうで、実はタヌキ寝入りだったアノウド、起きあがって「お兄様……義務……」とつぶやく。
わたしは暗転がキライなので(笑)、極力暗転場面は作らない。
つぶやくアノウドをテントの中に残しつつ盆が回り、テントを出たトマス中心の視点に戻る。
テントの外では、略奪品を見せびらかして大喜びしているベドウィンたちがいる。陽気に「ベドウィン音頭」を歌ってくれていていい。
そんな彼らを眺めながら、トマスひとり銀橋へ。
現状の「アノウドとの愛の歌(曲名知らん)」はカット。アノウドを「妹」としたトマスに男女の感情があってはならんのだ。下心アリで「お兄ちゃん(はぁと)」と呼ばせることにしたアヴない人にしないためにな。
曲は「ロッホ・ローモンド」でいいよ、遠い祖国を想って歌ってくれ。
で、銀橋途中までで歌を途切れさせ、わかりやすく今までの会話の「声」を流す。
敗者の身ぐるみを剥いで当然なことや、身内の男を失った女はモノ扱いだとか、その辺の台詞抜粋。
「彼らと私は、やはりチガウのだろうか。同じ衣装を着て、同じ砂漠で生きていても、信じる神がチガウように、わかりあえないのだろうか」てなことを悩んでくれ。
テントから離れたことを表すように、背景からベドウィンたちは消え、満天の星空と砂丘だけになる。壮大な光景。
改めて砂漠を……アラブ世界を見回し(銀橋にいるので、実際には客席を見ている)、嘆息する。
ちっぽけな存在を飲み込む自然、神の存在を、声を、信じたくなる砂漠の過酷さと、美しさ。……それらを改めて感じ、「美しいエジプト」を表現した歌を歌う。内にこもって歌うのではなく、客席に向けて、「解放」した歌を。まとぶんの声でなら、劇場を包むことが出来るはずだ。
トマスの困惑は、「拒絶」に根があるわけではない。嫌悪とか排除ゆえではなく、「許容」を前提とした軋轢なんだ。
最初から「所詮別人種、肌の色も文化も宗教もチガウ連中とわかりあえるはずがない」というキモチで「チガウ」ことを見せつけられてびびっているのではない。
トマスはもう彼らを好きで、彼らの側にいる。だからこんなにとまどうんだ。
「隔たり」について悩むのではなく、「隔たり」があることに悩む自分の真のキモチに、ここで気づいて欲しい。
ここはアラビア。
今、トマスが生きる世界。
そして、ヤシム少年登場、「お前は神を信じているか?」「神はおひとりです」につながる、と。
花道にたどり着いたら、わかりやすくするために振り返って言ってくれ。
「明日はカイロへ出発だ」
つーことで、次はカイロ編に続く〜〜。
変だなあ、楽までに『愛と死のアラビア』勝手に改造計画、書き切る予定だったのに。
てゆーかまだトマス@まとぶんがどんだけ芝居くどくなってぶっとばして行っているかとか、トゥスン@壮くんがかわいくてかわいくてもーたまらん!とか、イブラヒム@ゆーひさん萌えとか、日々の感想をちっとも書けておりませんが。
退団カウントダウンに入ったみほちゃんの踊る姿が、神がかり的に美しいこととか。
明日は楽の感想書いてるだろーしなあ。改造計画話もめっさ途中で話がとびそうだなあ。まあ、話がとぶのはいつものことだが。
しかしここんとこ、いろんな人に「なんか痩せた? どうしたの?」って言われるんだけど、ヅカファン以外の人には理由が説明できないっすよ。
「花組公演中だから」って言っても、一般社会生活では通じません。
体力気力(と、財力・笑)をとことん消費して、ムラ通いしてるせいです。毎度のコトながら、贔屓組公演中は痩せます。つか、やつれます。よぼよぼ。
……で、それも明日で終わり、またふつーの、人並みな生活に戻るため(戻る……よな? 『スカピン』にハマりまくって通いまくったりしないよな? もう体力気力より先に財力が保たないから、あり得ないぞ?)、そのうち会う人会う人に「なんか太った? どうしたの?」って言われるんだわ〜〜、あー……。
それはともかく、改造計画話の続き。
ベドウィンたちからアノウドを助けたトマス、えーと「第8場 ヴェールを剥ぎ取られた女」からスタート。
アノウドとの出会い場面が、2回に分けられているのは、何故?
アノウドを手当てして、銀橋一回りしてからまたテントに戻ってアノウドと話す。
1回でいいやん。まだるっこしい。
最初の、手当は時間を取らない。ここで必要なのは「トマスがアノウドを助けた」とわかればいいんだから。なにを持ってこいとかなにをしろとかいらん。「友人の医者から手当を教わった」ってだけでいい。
女の子が苦しむ場面はさくっと終わらせて。
アノウドのベールも、れみちゃんがもともとの彼女のベールを拾って持っていて、トマスの指示でさっさとアノウドにつけてやる。
トマスの心遣いを表す台詞は「顔を隠してやれ」ではなく「ベールをつけてやれ」とかに変更。「隠してやれ」→隠れてません、とツッコミが入ることは言わせない。
アノウドは気を失わず、その台詞をちゃんと聞いていて、トマスがいい人だってことがわかるのよ。
で、そのあと侍女とヤシムが退室し、ふたりきりになって自己紹介。
ただし、短縮する。
自己紹介だけで何分も費やさない(笑)。
「お兄様」「妹よ」のプレイは必要なので(プレイ言うな)、そのままとするけれど、トマスに下心がない以上、ここはさらりと終わらせる。
現状の『愛と死のアラビア』で、トマスも一緒にカイロへ行くのだと言いに来たトゥスンが、「(アノウドは)連れて行けない」「すべては神の思し召しだ」と言ったあと、トマスの愕然とした顔で暗転する意味がわからない。
トマスに愕然とさせて、「引きを作っている」のだとは思う。マンガでいうところの左ページの最後のコマね。「ええっ、どうなるの?」と思わせて、次のページをめくらせる、という。
でもソレ、無意味だから!! そこで引きを作っても、引きになってないっていうか、そこで暗転して、それっきりアノウドのことを忘れてしまったら、トマスはただのひどい男だ。それは「引き」ではなく、観客をドン引きさせるだけだから!!
……なんで谷はわけのわかんない演出をするんだろう。
ふつーに、「部隊の者たちに、彼女のことは任せて行けばいい。キミの妹だというなら、それに相応しい扱いをするだろう」とトゥスンに言わせればいいじゃん。トマスも愕然としなくていいし、アホな「引き」はなくてもいい。
トゥスンがすぐにテントを出て行き、トマスが眠るアノウドに向けて「すまない……でも、君のことは必ず私が守る。兄と名乗った義務は果たす」とかつぶやかせて、彼もまたテントをあとにする。
御簾の向こうで、実はタヌキ寝入りだったアノウド、起きあがって「お兄様……義務……」とつぶやく。
わたしは暗転がキライなので(笑)、極力暗転場面は作らない。
つぶやくアノウドをテントの中に残しつつ盆が回り、テントを出たトマス中心の視点に戻る。
テントの外では、略奪品を見せびらかして大喜びしているベドウィンたちがいる。陽気に「ベドウィン音頭」を歌ってくれていていい。
そんな彼らを眺めながら、トマスひとり銀橋へ。
現状の「アノウドとの愛の歌(曲名知らん)」はカット。アノウドを「妹」としたトマスに男女の感情があってはならんのだ。下心アリで「お兄ちゃん(はぁと)」と呼ばせることにしたアヴない人にしないためにな。
曲は「ロッホ・ローモンド」でいいよ、遠い祖国を想って歌ってくれ。
で、銀橋途中までで歌を途切れさせ、わかりやすく今までの会話の「声」を流す。
敗者の身ぐるみを剥いで当然なことや、身内の男を失った女はモノ扱いだとか、その辺の台詞抜粋。
「彼らと私は、やはりチガウのだろうか。同じ衣装を着て、同じ砂漠で生きていても、信じる神がチガウように、わかりあえないのだろうか」てなことを悩んでくれ。
テントから離れたことを表すように、背景からベドウィンたちは消え、満天の星空と砂丘だけになる。壮大な光景。
改めて砂漠を……アラブ世界を見回し(銀橋にいるので、実際には客席を見ている)、嘆息する。
ちっぽけな存在を飲み込む自然、神の存在を、声を、信じたくなる砂漠の過酷さと、美しさ。……それらを改めて感じ、「美しいエジプト」を表現した歌を歌う。内にこもって歌うのではなく、客席に向けて、「解放」した歌を。まとぶんの声でなら、劇場を包むことが出来るはずだ。
トマスの困惑は、「拒絶」に根があるわけではない。嫌悪とか排除ゆえではなく、「許容」を前提とした軋轢なんだ。
最初から「所詮別人種、肌の色も文化も宗教もチガウ連中とわかりあえるはずがない」というキモチで「チガウ」ことを見せつけられてびびっているのではない。
トマスはもう彼らを好きで、彼らの側にいる。だからこんなにとまどうんだ。
「隔たり」について悩むのではなく、「隔たり」があることに悩む自分の真のキモチに、ここで気づいて欲しい。
ここはアラビア。
今、トマスが生きる世界。
そして、ヤシム少年登場、「お前は神を信じているか?」「神はおひとりです」につながる、と。
花道にたどり着いたら、わかりやすくするために振り返って言ってくれ。
「明日はカイロへ出発だ」
つーことで、次はカイロ編に続く〜〜。
走り続ける。走り出したから。@愛と死のアラビア/Red Hot Sea
2008年6月16日 タカラヅカ 花組公演『愛と死のアラビア』『Red Hot Sea』千秋楽。
ずっと気になっていた。
公演が進むにつれ、まとぶさんの声が涸れていっていること。
フィナーレのリフトの回転数と速度が落ちていること。
それでも彼は、一度もアクセルをゆるめなかった。わたしが知る限り、一度も。
いつでも全開だった。
トマスという役は、「抜く」ところがない。いつも全力で力強く存在している。唯一のやわらかい場面である「インシャラー」でさえ、トマスは「抜く」ことがない。「主役」であること、「トップスター」であることを強く表現している。
思えばまとぶんという人は、いつもそーゆー全力過ぎる姿勢で舞台に臨む人だった。前回の『アデュー・マルセイユ』のおちゃらけ酔っ払いシーンでさえ彼は、全力でギャグをやっていた。
真面目な人だ。誠実な人だ。
それが舞台から伝わってくる。
涸れた声をものともせず、セーブすることなく楽をすることなく、今あるものすべてを客席めがけて放出する、姿。
きっとすごく疲れているんだろうに、つらいんだろうに、手加減ナシに向き合ってくる、姿。
衰えない目の力。なにかを「伝えよう」という、強い意志。
彼がわたしたちの方を向いてくれているから、懸命になにかを投げかけてくれているから、わたしたちは彼を見つめるんだ。
……わたしは以前一応星担で、『落陽のパレルモ』から、花担になった。まとぶんの組替えと共に、やってきた。いやその、まとぶんのファンだっつーわけではなく、たまたま。
ただの偶然だけど、星時代からまとぶんのことは見ていた。まとぶんがどんな人なのか知りようもないけれど、こうして彼の舞台を数年眺めてきて、どんどん、彼を好きになる。
今の彼を、いい男だと思う。心から。
ウチのトップさんはこんなに素敵なんだと、大声で言って回りたい(笑)。
わたしはオサ様シンパなのでどーしても彼への想いを残しているのだれど、それとは別。今の花組トップスターはまとぶんだ。
まとぶんは、いい男に成長した。たしかに大人で、それゆえの分別や義務感を持ち、されど青さと「大人未満」の男が持つ熱さを併せ持つ。
破綻ない実力と若さは、今現在の能力だけに留まらない、未来の可能性をも内包し、わくわくさせる。
ただ、真ん中の彼を改めて見つめたことで、問題点も見えた。
「抜く」ことを知らない彼の舞台は、ある意味、疲れる。
熱演なのはわかるが、ずっと熱演なので、おちゃらけてさえ熱演なので、めりはりに欠ける。彼の舞台を退屈だと思う人も、いるかもしれない。
誠実さ熱意ゆえに殻が厚く、せっかくのパワーを内側でくすぶらせている面もある。
生来の顔立ちの美しさに加え、男っぽさ、濃さを売りにしているのはわかるが、力任せになりすぎている気はする。ずっと声を張り上げて強く演技しつづけることだけが、男っぽさ・濃さじゃないと思う。
長所と短所は紙一重で、「そこが惜しい」と思う部分を「そこが素敵」と思う人もいる。だから一概にどうこう言えるもんでもないんだが。
今の体力配分も気力温存もあったもんぢゃねえ、いつでも全力疾走! 吠え続ける芸風! を愛しいと思いつつ、手抜きではなく舞台での空気を「抜く」ことをおぼえ、自在に「世界」を操れるようになる未来に、期待する。
彼の実力と向上心、誠実さは、さらに高みを見せてくれるだろうと、素直に思えるんだ。
作品に恵まれたとは言い難い本拠地お披露目公演ではあったけれど、駄作を塗り替えるのがトップの仕事、真正面からぶつかっていくまとぶんと花組を愛しく見つめた。
これが、新しい花組。今の花組。そのことに、純粋にときめいていたい。
つーことで。
芝居『愛と死のアラビア』では、とくにアドリブはなかったと思う。
ただただ熱演だった。
トマス@まとぶさん、公演も後半になるとエンジン掛かりすぎちゃって、ラストシーンが歌舞伎になるんだよなー(笑)。
兄弟対決まではいいんだけど、そのあとのアノウド@彩音ちゃんとのシーンが、『ベルばら』調、植爺歌舞伎。台詞の語尾の回し方(回すんですよ、これがなんと)、溜めの作り方、なにもかもノンストップに大芝居。
星組育ちって、こーゆーことなのかー、と思ったり(笑)。
彩音ちゃんは相変わらず風の吹き抜けるようなお芝居してるんで、噛み合ってなくてサワヤカです。いやその、ふたりでいきなり拍子木が聞こえてきそうな大歌舞伎やられてもこまるんで、彩音ちゃんの流しっぷりがちょうど良いというか(笑)。
千秋楽もトマスが絶好調に歌舞伎をはじめたので、「キタキタ、コレがなきゃトマスぢゃないわ☆」とよろこびました。
ショー『Red Hot Sea』ではまとぶさん、「幽霊船」でいつも「幽霊?」と言っているあたりで「幽霊……がいるかは、すべては神の思し召し」と「どっかで聞いた」台詞を言って笑いを取ってた。
いつもは単語を口にするだけなので、千秋楽はふつーより長く喋っていたことになる。最後抱き合ってオチをつけなければならないみわさんが、「ゆうさん、どう出るの??」と言いたげに横目でまとぶ氏をガン見していたのが興味深かったです(笑)。や、全身でタイミングを計ってるの、みわっち。いつなにがあっても対応するぞ、と。
まとぶとみわっちのコンビ、好きだわー。
退団者ふたりがいつもにも増して、きらきらと美しかったのは、言うまでもなく。
わたしは芝居でのかりやんの役名を知らないのだけど、ベドウィン音頭の最初、トゥスン@壮くんが叫んだのってかりやんの名前だよねえ? 彼の顔見ながらだったし。かりやんもすっげーいい顔で「にっ」と笑っていたし。
みほちゃんの芝居でのダンスシーンにはそれぞれ登場と終了に拍手が入るし、ショーのみほちゃんかりやんが並んでまとぶんの後ろで踊る場面では、拍手が沸き上がり、そのまま手拍子になったのは、胸が熱くなった。
ふたりがまた、いい顔で踊るんだ。
まっすぐに前を向いた、明るい、なにか突き抜けたような表情でね。
「引き潮」場面では、みほちゃんが白いリボンで髪を飾っていた。
シンプルな白のドレスを飾らない代わりに、清楚な細いリボン。
そのダンスも笑顔も、透明に輝いていて、この世のモノではないようなのに、その女の子らしいリボンが、彼女を現実の存在だと教えてくれているようで、光の中に消えていきそうな美しさとの対比になっていて、なんだか見ていて苦しかった。
いっそ夢夢しいだけの存在なら、よかったのに。この美しさは現実のモノで、そして現実に彼女はこの夢の世界から去っていってしまうんだ……。
美しくて、ただもう美しくて、切なかった。
組長が読み上げるかりやんからの「メッセージ」がすげーおもしろかった。
伝説の新人公演『ミケランジェロ』、かりやんも伝説を作っていたのか……。花組新公初心者のわたしは、そのかとりおんちゃんの印象ばかりだったよ……。
ダビデ像を見上げての初台詞にて、かりやんは思い切りカマシてしまったらしい。彼のあまりのアレさに、劇場中のオペラグラスが上がった、と。あれほど劇的に注目されたのは最初で最後だと。
……そ、そうか……舞台上の役者って、自分に向かってオペラが上げられるのがわかるもんなんだ……失敗したと青ざめているときに、一斉に自分に向かってオペラが上げられたら……そりゃー、すげえ体験だなあ……。
この調子で、『ハロー!ダンシング』の「ブエノスアイレス」での歌のアレさや失敗ぶり、『Appartement Cinema』のアレっぷりを、自虐ギャグとして披露していた。
おもしろい子だったんだなあ、かりやん……。
ふたりとも袴姿でまっすぐに挨拶をして、清々しく別れの言葉を述べていました。
カーテンコールでまとぶんに「なにか一言」と振られ、それぞれ「花組最高!」「大好き!花組」と叫ぶんだけど……みほちゃんが叫んだあとまとぶんが「かわいい♪」とつぶやいていたのが、さらにツボ(笑)。まとぶん、マジでおにーさんモードだなあ(笑)。
その「かわいい♪」という、素で愛しそうな、たのしそうなひとりごとすら、かすれていて。まとぶん、ほんとにがんばったね。
しばらく休んで英気を養って、元気に東宝に行って欲しいと思う。
ずっと気になっていた。
公演が進むにつれ、まとぶさんの声が涸れていっていること。
フィナーレのリフトの回転数と速度が落ちていること。
それでも彼は、一度もアクセルをゆるめなかった。わたしが知る限り、一度も。
いつでも全開だった。
トマスという役は、「抜く」ところがない。いつも全力で力強く存在している。唯一のやわらかい場面である「インシャラー」でさえ、トマスは「抜く」ことがない。「主役」であること、「トップスター」であることを強く表現している。
思えばまとぶんという人は、いつもそーゆー全力過ぎる姿勢で舞台に臨む人だった。前回の『アデュー・マルセイユ』のおちゃらけ酔っ払いシーンでさえ彼は、全力でギャグをやっていた。
真面目な人だ。誠実な人だ。
それが舞台から伝わってくる。
涸れた声をものともせず、セーブすることなく楽をすることなく、今あるものすべてを客席めがけて放出する、姿。
きっとすごく疲れているんだろうに、つらいんだろうに、手加減ナシに向き合ってくる、姿。
衰えない目の力。なにかを「伝えよう」という、強い意志。
彼がわたしたちの方を向いてくれているから、懸命になにかを投げかけてくれているから、わたしたちは彼を見つめるんだ。
……わたしは以前一応星担で、『落陽のパレルモ』から、花担になった。まとぶんの組替えと共に、やってきた。いやその、まとぶんのファンだっつーわけではなく、たまたま。
ただの偶然だけど、星時代からまとぶんのことは見ていた。まとぶんがどんな人なのか知りようもないけれど、こうして彼の舞台を数年眺めてきて、どんどん、彼を好きになる。
今の彼を、いい男だと思う。心から。
ウチのトップさんはこんなに素敵なんだと、大声で言って回りたい(笑)。
わたしはオサ様シンパなのでどーしても彼への想いを残しているのだれど、それとは別。今の花組トップスターはまとぶんだ。
まとぶんは、いい男に成長した。たしかに大人で、それゆえの分別や義務感を持ち、されど青さと「大人未満」の男が持つ熱さを併せ持つ。
破綻ない実力と若さは、今現在の能力だけに留まらない、未来の可能性をも内包し、わくわくさせる。
ただ、真ん中の彼を改めて見つめたことで、問題点も見えた。
「抜く」ことを知らない彼の舞台は、ある意味、疲れる。
熱演なのはわかるが、ずっと熱演なので、おちゃらけてさえ熱演なので、めりはりに欠ける。彼の舞台を退屈だと思う人も、いるかもしれない。
誠実さ熱意ゆえに殻が厚く、せっかくのパワーを内側でくすぶらせている面もある。
生来の顔立ちの美しさに加え、男っぽさ、濃さを売りにしているのはわかるが、力任せになりすぎている気はする。ずっと声を張り上げて強く演技しつづけることだけが、男っぽさ・濃さじゃないと思う。
長所と短所は紙一重で、「そこが惜しい」と思う部分を「そこが素敵」と思う人もいる。だから一概にどうこう言えるもんでもないんだが。
今の体力配分も気力温存もあったもんぢゃねえ、いつでも全力疾走! 吠え続ける芸風! を愛しいと思いつつ、手抜きではなく舞台での空気を「抜く」ことをおぼえ、自在に「世界」を操れるようになる未来に、期待する。
彼の実力と向上心、誠実さは、さらに高みを見せてくれるだろうと、素直に思えるんだ。
作品に恵まれたとは言い難い本拠地お披露目公演ではあったけれど、駄作を塗り替えるのがトップの仕事、真正面からぶつかっていくまとぶんと花組を愛しく見つめた。
これが、新しい花組。今の花組。そのことに、純粋にときめいていたい。
つーことで。
芝居『愛と死のアラビア』では、とくにアドリブはなかったと思う。
ただただ熱演だった。
トマス@まとぶさん、公演も後半になるとエンジン掛かりすぎちゃって、ラストシーンが歌舞伎になるんだよなー(笑)。
兄弟対決まではいいんだけど、そのあとのアノウド@彩音ちゃんとのシーンが、『ベルばら』調、植爺歌舞伎。台詞の語尾の回し方(回すんですよ、これがなんと)、溜めの作り方、なにもかもノンストップに大芝居。
星組育ちって、こーゆーことなのかー、と思ったり(笑)。
彩音ちゃんは相変わらず風の吹き抜けるようなお芝居してるんで、噛み合ってなくてサワヤカです。いやその、ふたりでいきなり拍子木が聞こえてきそうな大歌舞伎やられてもこまるんで、彩音ちゃんの流しっぷりがちょうど良いというか(笑)。
千秋楽もトマスが絶好調に歌舞伎をはじめたので、「キタキタ、コレがなきゃトマスぢゃないわ☆」とよろこびました。
ショー『Red Hot Sea』ではまとぶさん、「幽霊船」でいつも「幽霊?」と言っているあたりで「幽霊……がいるかは、すべては神の思し召し」と「どっかで聞いた」台詞を言って笑いを取ってた。
いつもは単語を口にするだけなので、千秋楽はふつーより長く喋っていたことになる。最後抱き合ってオチをつけなければならないみわさんが、「ゆうさん、どう出るの??」と言いたげに横目でまとぶ氏をガン見していたのが興味深かったです(笑)。や、全身でタイミングを計ってるの、みわっち。いつなにがあっても対応するぞ、と。
まとぶとみわっちのコンビ、好きだわー。
退団者ふたりがいつもにも増して、きらきらと美しかったのは、言うまでもなく。
わたしは芝居でのかりやんの役名を知らないのだけど、ベドウィン音頭の最初、トゥスン@壮くんが叫んだのってかりやんの名前だよねえ? 彼の顔見ながらだったし。かりやんもすっげーいい顔で「にっ」と笑っていたし。
みほちゃんの芝居でのダンスシーンにはそれぞれ登場と終了に拍手が入るし、ショーのみほちゃんかりやんが並んでまとぶんの後ろで踊る場面では、拍手が沸き上がり、そのまま手拍子になったのは、胸が熱くなった。
ふたりがまた、いい顔で踊るんだ。
まっすぐに前を向いた、明るい、なにか突き抜けたような表情でね。
「引き潮」場面では、みほちゃんが白いリボンで髪を飾っていた。
シンプルな白のドレスを飾らない代わりに、清楚な細いリボン。
そのダンスも笑顔も、透明に輝いていて、この世のモノではないようなのに、その女の子らしいリボンが、彼女を現実の存在だと教えてくれているようで、光の中に消えていきそうな美しさとの対比になっていて、なんだか見ていて苦しかった。
いっそ夢夢しいだけの存在なら、よかったのに。この美しさは現実のモノで、そして現実に彼女はこの夢の世界から去っていってしまうんだ……。
美しくて、ただもう美しくて、切なかった。
組長が読み上げるかりやんからの「メッセージ」がすげーおもしろかった。
伝説の新人公演『ミケランジェロ』、かりやんも伝説を作っていたのか……。花組新公初心者のわたしは、そのかとりおんちゃんの印象ばかりだったよ……。
ダビデ像を見上げての初台詞にて、かりやんは思い切りカマシてしまったらしい。彼のあまりのアレさに、劇場中のオペラグラスが上がった、と。あれほど劇的に注目されたのは最初で最後だと。
……そ、そうか……舞台上の役者って、自分に向かってオペラが上げられるのがわかるもんなんだ……失敗したと青ざめているときに、一斉に自分に向かってオペラが上げられたら……そりゃー、すげえ体験だなあ……。
この調子で、『ハロー!ダンシング』の「ブエノスアイレス」での歌のアレさや失敗ぶり、『Appartement Cinema』のアレっぷりを、自虐ギャグとして披露していた。
おもしろい子だったんだなあ、かりやん……。
ふたりとも袴姿でまっすぐに挨拶をして、清々しく別れの言葉を述べていました。
カーテンコールでまとぶんに「なにか一言」と振られ、それぞれ「花組最高!」「大好き!花組」と叫ぶんだけど……みほちゃんが叫んだあとまとぶんが「かわいい♪」とつぶやいていたのが、さらにツボ(笑)。まとぶん、マジでおにーさんモードだなあ(笑)。
その「かわいい♪」という、素で愛しそうな、たのしそうなひとりごとすら、かすれていて。まとぶん、ほんとにがんばったね。
しばらく休んで英気を養って、元気に東宝に行って欲しいと思う。
小さな地球を抱きしめて。−壮一帆万歳・4−@愛と死のアラビア
2008年6月17日 タカラヅカ トゥスンは、バカだ。
トゥスン@壮くんはバカでうるさくて、よろこんでいても悲しんでいても、キャンキャン騒いでいて。
そして、キラキラ輝いている。
彼のその愚かさが、その輝きが、愛しい。
泣けるほど、愛しい。
トマス@まとぶのことが大好きで、大好きなことを隠さない、まっすぐな少年。
育ちの良さが見える、おおらかさ。
あざやかなブルーの衣装が映える長身と、華やかな美貌。
なにもかも持ち合わせて、なんの疑いもなく輝かしい明日を信じている。
……同じ敷地内のバウホールで、明日を信じられずに破滅していく同世代の若者の物語が上演されてます。
クライド@『凍てついた明日』の絶望感をちらりと思い出しながらも、トゥスンの前を向いた瞳に切なくなる。
その無邪気さ、まっすぐさに、彼のこれまでの人生が伺える。
「やさしく育てた」と公言するママ@邦さんは、「トマスが帰国したら、トゥスンは泣いて悲しむでしょうけど(笑)」と図星を指して、トゥスンをぶーたれさせる。
てゆーかママ、女官たちの前でソレ言っちゃって、みんなくすくす笑ってますよ。トゥスン、王子様なのに笑われてますがな。
そしてパパ@星原先輩は、「トゥスンがイブラヒムの4分の1でも政治を理解していればいいのに」と溜息ついちゃいますよ。
4分の1って、パパ……。容赦無さ過ぎでしょう、そのシビアな数字。
どんだけバカキャラ認定なんだ、トゥスン。
だがそこには嘲りはなく、あたたかい愛情が満ちている。
愛されキャラだな、トゥスン。
可愛すぎるよな、トゥスン。
ベドウィン音頭のぱかーっと楽しそうな笑顔だとか、ライフルの射撃準備をしている一生懸命な顔だとか、狙撃に失敗してくやしがって、すねている顔だとか、トマスに誉められて盛大にしっぽ振ってる顔だとか、ママに図星を指されたときのぷんすか顔だとか。
なにもかもかわいくて、もーどーしよーかと。
いつでもどこでもハイテンション。
しあわせいっぱいにしっぽをぶんぶん振っているときも、のーてんきでかわいかったが。
大好きなトマスが処刑されるとわかったあとの姿がまた……あまりにバカで。
バカでみっともなくて、キーキーうるさくて。
……愛しい。
パパの足元に這いつくばって、懇願して。
なにもわかってないの。何故そうなったのか、どうすれば事態を改善できるのか、建設的なことはナニも考えず、ただ感情だけで泣き叫ぶ。
トゥスンのバカさ加減は、もうずっと愛しかったけれど。
『愛と死のアラビア』千秋楽。
後半になると懇願時の台詞が少しずつ増えていて、台本にない台詞はマイクが入らないのか、あまりちゃんとは聞こえないのだけど、トゥスンはいろいろ叫んでいるのね。
その、ザイド@まりんに連行されるときの、「父上」という呼びかけを除いた最後の台詞が「私の友を殺さないで下さい」なのね。
この場面で一気に叫びすぎているせいなのか、声は金切り声的に、かすれていて。
マイクもないまま、それでも叫んでいるの。「私の友を殺さないで下さい」……必死に。
ここまで言っちゃうとね、パパがつらすぎるでしょう? それは言っちゃダメだよ、トゥスン。
自分の悲しみに手一杯で、どれだけ父を傷つけ、追いつめているかも理解していない。
また、いつもの彼なら、尊敬する父に向かって、そこまで酷い言葉は投げないだろう。ブレーキがきかなくなるくらい、コワレて叫んでるんだ。
ただもう、「いやだいやだ」と。
駄々っ子だよ。
一軍の将がしていいことじゃない。
未来の総司令官がしていいことじゃない。
目の前の障害に対し、解決策を考える前に脊髄反射で「いやだいやだ」と駄々をこねる子ども。
その無力さ、愚かさ……「泣いてお願い」すれば、駄々をこねれば、現実が動くと無意識に信じていられる純粋さが、愛しい。
わたしは大人で、あきらめることとか取り繕うこととかばっかに気を取られる、つまんないヤツだから、這いつくばって哀願できる、泣いて駄々をこねられるトゥスンが、愛しくてならない。
冷徹な政治家であるムハンマド・アリとイブラヒム@ゆーひが、この甘ちゃんな次男坊を愛しているのは、そんな意味もあるのかと思う。
彼らはもう、トゥスンにはなれないんだ。
嫌なことを嫌だと、人目も立場もお構いなく叫ぶことは、一生出来ないんだ。
子どものように泣いて、駄々をこねて。
それでも叶わないと知ったトゥスンは、極論へ走る。
牢獄へ侵入し、トマスを助け出して砂漠へ逃げる。トゥスンのベドウィン騎馬隊は、砂漠では無敵だから無問題。
父の軍隊だろうとオスマン帝国の軍隊だろうと、関係ない。勝つのは自分たちだ、と、力尽くで願いを叶えようとする。
家族も国も捨てるってさ。
ただ、愛のために。
同じ花組の、ひとつの前の公演では、家族や国のために愛を捨てた男の苦悩を、劇的に描いていたっけねぇ……。
豊太郎@『舞姫』の絶望感をちらりと思い出しながらも、トゥスンの前を向いた瞳に切なくなる。
トゥスンの、意気揚々とした顔ときたら!
自分の行動こそが正しいと信じ、トマスが喜んでくれると信じ、胸を張り宣言する。
愛を。正義を。人生を。
その、迷いのない輝き。
世界の中心が自分であると、なんの疑問もなく信じ切っている、純粋さ。若さ。
人生に対し、真っ向から駄々をこねられる、強さ。
トゥスンの輝きは、彼の愚かさを通り越して、ただただ愛しい。……そして、切ない。
バカだ、こいつ……。こんなことして、残されたパパが、エジプトが、どれだけ困るか、まったくわかってない。自分のわがままでたくさんの人の血が流れるとか、何年も掛けて父と兄が築いてきたものがパァになるとか、なにもわかってない。
自分を正義の味方だと信じて。白馬に乗った王子様だと信じて。
子どもの正義、子どもの知恵。
彼が抱きしめているのは、彼だけの小さな地球。彼が「世界」だと思い込んでいる、彼だけのおもちゃ。
あまりにバカで、ダイスキで、泣けてくる。
拒絶されるなんて夢にも思わない、世界は美しいモノだけで出来ていると、信じ切った少年。
そんな子どもが、はじめて世界に、裏切られる。
翌日欄に続く。
トゥスン@壮くんはバカでうるさくて、よろこんでいても悲しんでいても、キャンキャン騒いでいて。
そして、キラキラ輝いている。
彼のその愚かさが、その輝きが、愛しい。
泣けるほど、愛しい。
トマス@まとぶのことが大好きで、大好きなことを隠さない、まっすぐな少年。
育ちの良さが見える、おおらかさ。
あざやかなブルーの衣装が映える長身と、華やかな美貌。
なにもかも持ち合わせて、なんの疑いもなく輝かしい明日を信じている。
……同じ敷地内のバウホールで、明日を信じられずに破滅していく同世代の若者の物語が上演されてます。
クライド@『凍てついた明日』の絶望感をちらりと思い出しながらも、トゥスンの前を向いた瞳に切なくなる。
その無邪気さ、まっすぐさに、彼のこれまでの人生が伺える。
「やさしく育てた」と公言するママ@邦さんは、「トマスが帰国したら、トゥスンは泣いて悲しむでしょうけど(笑)」と図星を指して、トゥスンをぶーたれさせる。
てゆーかママ、女官たちの前でソレ言っちゃって、みんなくすくす笑ってますよ。トゥスン、王子様なのに笑われてますがな。
そしてパパ@星原先輩は、「トゥスンがイブラヒムの4分の1でも政治を理解していればいいのに」と溜息ついちゃいますよ。
4分の1って、パパ……。容赦無さ過ぎでしょう、そのシビアな数字。
どんだけバカキャラ認定なんだ、トゥスン。
だがそこには嘲りはなく、あたたかい愛情が満ちている。
愛されキャラだな、トゥスン。
可愛すぎるよな、トゥスン。
ベドウィン音頭のぱかーっと楽しそうな笑顔だとか、ライフルの射撃準備をしている一生懸命な顔だとか、狙撃に失敗してくやしがって、すねている顔だとか、トマスに誉められて盛大にしっぽ振ってる顔だとか、ママに図星を指されたときのぷんすか顔だとか。
なにもかもかわいくて、もーどーしよーかと。
いつでもどこでもハイテンション。
しあわせいっぱいにしっぽをぶんぶん振っているときも、のーてんきでかわいかったが。
大好きなトマスが処刑されるとわかったあとの姿がまた……あまりにバカで。
バカでみっともなくて、キーキーうるさくて。
……愛しい。
パパの足元に這いつくばって、懇願して。
なにもわかってないの。何故そうなったのか、どうすれば事態を改善できるのか、建設的なことはナニも考えず、ただ感情だけで泣き叫ぶ。
トゥスンのバカさ加減は、もうずっと愛しかったけれど。
『愛と死のアラビア』千秋楽。
後半になると懇願時の台詞が少しずつ増えていて、台本にない台詞はマイクが入らないのか、あまりちゃんとは聞こえないのだけど、トゥスンはいろいろ叫んでいるのね。
その、ザイド@まりんに連行されるときの、「父上」という呼びかけを除いた最後の台詞が「私の友を殺さないで下さい」なのね。
この場面で一気に叫びすぎているせいなのか、声は金切り声的に、かすれていて。
マイクもないまま、それでも叫んでいるの。「私の友を殺さないで下さい」……必死に。
ここまで言っちゃうとね、パパがつらすぎるでしょう? それは言っちゃダメだよ、トゥスン。
自分の悲しみに手一杯で、どれだけ父を傷つけ、追いつめているかも理解していない。
また、いつもの彼なら、尊敬する父に向かって、そこまで酷い言葉は投げないだろう。ブレーキがきかなくなるくらい、コワレて叫んでるんだ。
ただもう、「いやだいやだ」と。
駄々っ子だよ。
一軍の将がしていいことじゃない。
未来の総司令官がしていいことじゃない。
目の前の障害に対し、解決策を考える前に脊髄反射で「いやだいやだ」と駄々をこねる子ども。
その無力さ、愚かさ……「泣いてお願い」すれば、駄々をこねれば、現実が動くと無意識に信じていられる純粋さが、愛しい。
わたしは大人で、あきらめることとか取り繕うこととかばっかに気を取られる、つまんないヤツだから、這いつくばって哀願できる、泣いて駄々をこねられるトゥスンが、愛しくてならない。
冷徹な政治家であるムハンマド・アリとイブラヒム@ゆーひが、この甘ちゃんな次男坊を愛しているのは、そんな意味もあるのかと思う。
彼らはもう、トゥスンにはなれないんだ。
嫌なことを嫌だと、人目も立場もお構いなく叫ぶことは、一生出来ないんだ。
子どものように泣いて、駄々をこねて。
それでも叶わないと知ったトゥスンは、極論へ走る。
牢獄へ侵入し、トマスを助け出して砂漠へ逃げる。トゥスンのベドウィン騎馬隊は、砂漠では無敵だから無問題。
父の軍隊だろうとオスマン帝国の軍隊だろうと、関係ない。勝つのは自分たちだ、と、力尽くで願いを叶えようとする。
家族も国も捨てるってさ。
ただ、愛のために。
同じ花組の、ひとつの前の公演では、家族や国のために愛を捨てた男の苦悩を、劇的に描いていたっけねぇ……。
豊太郎@『舞姫』の絶望感をちらりと思い出しながらも、トゥスンの前を向いた瞳に切なくなる。
トゥスンの、意気揚々とした顔ときたら!
自分の行動こそが正しいと信じ、トマスが喜んでくれると信じ、胸を張り宣言する。
愛を。正義を。人生を。
その、迷いのない輝き。
世界の中心が自分であると、なんの疑問もなく信じ切っている、純粋さ。若さ。
人生に対し、真っ向から駄々をこねられる、強さ。
トゥスンの輝きは、彼の愚かさを通り越して、ただただ愛しい。……そして、切ない。
バカだ、こいつ……。こんなことして、残されたパパが、エジプトが、どれだけ困るか、まったくわかってない。自分のわがままでたくさんの人の血が流れるとか、何年も掛けて父と兄が築いてきたものがパァになるとか、なにもわかってない。
自分を正義の味方だと信じて。白馬に乗った王子様だと信じて。
子どもの正義、子どもの知恵。
彼が抱きしめているのは、彼だけの小さな地球。彼が「世界」だと思い込んでいる、彼だけのおもちゃ。
あまりにバカで、ダイスキで、泣けてくる。
拒絶されるなんて夢にも思わない、世界は美しいモノだけで出来ていると、信じ切った少年。
そんな子どもが、はじめて世界に、裏切られる。
翌日欄に続く。
小さな地球を抱きしめて・その2。−壮一帆万歳・4−@愛と死のアラビア
2008年6月18日 タカラヅカ トマス@まとぶを助けるために、意気揚々と牢獄へ侵入してきたトゥスン@壮くん。
そのキラッキラッしまくった瞳。
誉められること、感謝されることを前提にした物言い。
自分の正しさを疑いもしないトゥスンに突きつけられたのは、トマスの拒絶だった。
正しいことをしているはずなのに、ヒーローとして助けに来たのに、何故最愛のトマスは、トゥスンを拒絶する? そんなこと、ありえない。
トゥスンの手を取ることを拒み、彼は処刑を受け入れるという。
青天の霹靂。
そんな事態はトゥスンの小さなアタマにはない。存在しない。
だからトゥスンはいつもここで、叫ぶだけ叫んでいた。
トマスの決意を覆すために。懇願した。
宮殿で、父ムハンマド・アリ@星原先輩に対して、したように。
駄々をこねた。
イヤイヤをした。
「君を殺したくないんだ!!」……心の底から、叫んでいた。
それが。
『愛と死のアラビア』千秋楽。
トゥスンは、叫ばなかった。
絞り出すように、言った。
ずっとずっと、もっとも強く叫ぶ台詞を。強すぎて、叫びすぎて、「君を〜〜たくない」と、なにを言ってんだか、正直良く聞き取れないくらい(笑)、イッちゃってる絶叫台詞を。
わたしはずーっと壮一帆くんを愛でておりますが、彼の芝居をいいと思うことは、ほとんどありません。
なにをやっても壮一帆、いつもハイテンションで吠えまくるのが、壮くんの芸風。
モーリスだろうとスタンだろうと大差なし。受でも攻でもSでもMでも、とにかくヒステリック。とにかくうるさい。
芝居の善し悪しは個人の好みに寄るところが大きく、ある人にとっての「名演! なんて演技巧者なのかしら!」が、別のある人にとっては「この大根役者、芝居壊すな!」だったりすることも、めずらしくありません。好みに合うかどうかです、よーするに。
わたしは壮くんを大根役者側だと思っているし、また、「タカラヅカ・スタァ」である以上、ソレはアリだと思っています。
空気なんか読めなくても、場面をぶち壊していても、「スタァ」はソレで良いんです。世界や役に染まりきり、作品ごとに完璧に別人になられたら、そりゃそのスター個人の顔が見えず「地味」な存在になってしまう。
華がなく、美しくもなく、ただ芝居がヘタで場を壊すだけの人は苦手ですが、無駄なほどにキラキラ輝いちゃってる人は、ソレだけでいいんです。非現実を見たくてヅカを観に行ってるんだ、ありえないくらい美しく輝いてくれるなら、文句なんかあるはずがない。
なにをやっても壮一帆、ソレでイイと思ってる。
『さすらいの果てに』で大爆笑させてくれたように、『DAYTIME HUSTLER』で途方に暮れさせてくれたように、壮くんの演技はかなりアレだと思っている。
その、壮くんの演技で。
マジ泣きしたんですが、どうしましょう!!
楽の前から、絶叫台詞を絶叫しないようにはなってきていた。だけど前後のつながり的に、それほど胸に来るモノはなかったんだが。
千秋楽は、キた。
どうしようもなく、キた。
それまでのトゥスンの無邪気っぷりがまた、突き抜けていた。
なんの疑問もなく明日を信じる、さわやかなハイテンションぶりが、いつもにも増してあざやかで。
パパへのダダのコネ方が、痛々しいほどの激しさで。
自分の思い通りにいかないことに、ただ駄々をこねるしかできなかった子ども。
その幼い魂が、「世界」に裏切られてなお、駄々をこねられずにいる。
はじめての、裏切り。はじめての、挫折。
「世界」はいつでもトゥスンの味方で、彼の心を折るようなことは、存在しなかった。わがままナイリお嬢様じゃないけれど、トゥスンだって大切に守られて生きてきた、小さな世界の王子様だ。
それを「世界」だと信じて、小さな地球のおもちゃを抱きしめてきた。
それがニセモノだと、おもちゃだと気づかされて。
衝撃の大きさに、駄々をこねることさえ、できずに。
トマスに言い募っているところへ、兄イブラヒム@ゆーひが現れた。
彼はたった今、「世界」に裏切られたところだ。
真の意味での挫折も絶望も知らなかった、地球を自分中心に回してきた子どもが、はじめてどうすることもできない現実を知り、絶望しているところだ。
最愛の人に拒絶されているところなのに、愛する兄までもが、自分を否定する。
「邪魔をするモノは、たとえ兄上でも撃つ」と、銃を構えるトゥスンが、あまりに痛々しくて。
彼の悲しみが、理不尽な怒りが、破裂したように広がるんだ。
追いつめられた小動物が、巨大な肉食獣相手に、逃げるという選択肢をなくして牙を剥くような、破滅的な絶望感。
八方塞がりで、なにもかもに否定されて拒絶されて、もうほんとうに、今度こそ、駄々をこねるしかなくて。
ここでイブラヒムを撃ったところで、兵士に囲まれている現状がどーにかなるわけじゃないのに。
トゥスンは生まれてはじめての絶望のなかで、本当の駄々をこねて。
彼の愚かさが、愛しくて。
イブラヒムにトゥスンを撃てるはずがないとトマスに諭され、トゥスンは生還する。
絶望の底から、これまた彼ならではの単純さで、猛スピードでぽーんと浮上してくる。
一旦浮上しても、結局のところトマスが決心を変えないので、トゥスンはまた絶望することになるんだけど。
忙しくもまた彼は嘆くのだけど。
ただ。
これまでずっと、エジプトのために死ぬと言い切るトマスに対し、嘆きを表現していたトゥスンが、千秋楽は違ったんだ。
それまでずっと、ダダをこねて泣くだけだった男の子が。
泣かずに、現実を、受け入れた。
「インシャラー」と歌うトマスに、泣きながら同じ歌を返し、泣きながら名を呼ぶ。トマスは背を向けて、トゥスンの未練を拒絶する。
……のが、通常だった。
いつも、「可哀想だから、ちょっとぐらい振り向いてやってよ〜〜」とトマスの意志の強さを責めたくなるんだが。
千秋楽、トゥスンは悲しみだけではなく、力強く「インシャラー」と返した。
そして。
トマスを振り返り、その名を呼んだ。
嘆きではなく、肯定として。
悲鳴ではなく、意志のこもった声だった。強い瞳だった。
対するトマスも。
……ここってトマス、いつも背を向けてたよね? なのにちゃんと、トゥスンを見ていた。
頷いた。
トゥスンが「トマス」と呼びかけ、トマスが、頷いた。
トゥスンはトマスの意志を酌み、トマスはトゥスンの覚悟を受け止めた。
ふたりは頷き合い、トマスは背を向ける。トゥスンもまた、去っていく。
……なんなの、これ。
最後の最後に、なにやってんの、あんたら?!
トゥスンが、成長している。
泣くだけの、駄々をこねるだけの子どもが、「男」として、去っていくよ。
親友の志を受け継ぎ、新しい明日を生きるために去っていくよ。
なんだそれは。
びっくりして、とまどって、盛大に泣いた。
トマスがいい男で。トゥスンがいい男で。
てゆーか、壮くんなのに? 壮一帆に泣かされてるのかあたしは?!
トゥスンのバカさが好きだ。
まっすぐな愚かさ、汚れを知らないでいられたからこその純粋さが好きだ。
そしてさらに彼が、抱きしめていた小さな地球を、自分の手で叩き割り、大きな世界へ向けて歩き出してくれるのなら……これほどの、カタルシスはない。
千秋楽でいちばん泣かされたのは、トゥスン@壮くんだ。
この子、愛しすぎる。
そのキラッキラッしまくった瞳。
誉められること、感謝されることを前提にした物言い。
自分の正しさを疑いもしないトゥスンに突きつけられたのは、トマスの拒絶だった。
正しいことをしているはずなのに、ヒーローとして助けに来たのに、何故最愛のトマスは、トゥスンを拒絶する? そんなこと、ありえない。
トゥスンの手を取ることを拒み、彼は処刑を受け入れるという。
青天の霹靂。
そんな事態はトゥスンの小さなアタマにはない。存在しない。
だからトゥスンはいつもここで、叫ぶだけ叫んでいた。
トマスの決意を覆すために。懇願した。
宮殿で、父ムハンマド・アリ@星原先輩に対して、したように。
駄々をこねた。
イヤイヤをした。
「君を殺したくないんだ!!」……心の底から、叫んでいた。
それが。
『愛と死のアラビア』千秋楽。
トゥスンは、叫ばなかった。
絞り出すように、言った。
ずっとずっと、もっとも強く叫ぶ台詞を。強すぎて、叫びすぎて、「君を〜〜たくない」と、なにを言ってんだか、正直良く聞き取れないくらい(笑)、イッちゃってる絶叫台詞を。
わたしはずーっと壮一帆くんを愛でておりますが、彼の芝居をいいと思うことは、ほとんどありません。
なにをやっても壮一帆、いつもハイテンションで吠えまくるのが、壮くんの芸風。
モーリスだろうとスタンだろうと大差なし。受でも攻でもSでもMでも、とにかくヒステリック。とにかくうるさい。
芝居の善し悪しは個人の好みに寄るところが大きく、ある人にとっての「名演! なんて演技巧者なのかしら!」が、別のある人にとっては「この大根役者、芝居壊すな!」だったりすることも、めずらしくありません。好みに合うかどうかです、よーするに。
わたしは壮くんを大根役者側だと思っているし、また、「タカラヅカ・スタァ」である以上、ソレはアリだと思っています。
空気なんか読めなくても、場面をぶち壊していても、「スタァ」はソレで良いんです。世界や役に染まりきり、作品ごとに完璧に別人になられたら、そりゃそのスター個人の顔が見えず「地味」な存在になってしまう。
華がなく、美しくもなく、ただ芝居がヘタで場を壊すだけの人は苦手ですが、無駄なほどにキラキラ輝いちゃってる人は、ソレだけでいいんです。非現実を見たくてヅカを観に行ってるんだ、ありえないくらい美しく輝いてくれるなら、文句なんかあるはずがない。
なにをやっても壮一帆、ソレでイイと思ってる。
『さすらいの果てに』で大爆笑させてくれたように、『DAYTIME HUSTLER』で途方に暮れさせてくれたように、壮くんの演技はかなりアレだと思っている。
その、壮くんの演技で。
マジ泣きしたんですが、どうしましょう!!
楽の前から、絶叫台詞を絶叫しないようにはなってきていた。だけど前後のつながり的に、それほど胸に来るモノはなかったんだが。
千秋楽は、キた。
どうしようもなく、キた。
それまでのトゥスンの無邪気っぷりがまた、突き抜けていた。
なんの疑問もなく明日を信じる、さわやかなハイテンションぶりが、いつもにも増してあざやかで。
パパへのダダのコネ方が、痛々しいほどの激しさで。
自分の思い通りにいかないことに、ただ駄々をこねるしかできなかった子ども。
その幼い魂が、「世界」に裏切られてなお、駄々をこねられずにいる。
はじめての、裏切り。はじめての、挫折。
「世界」はいつでもトゥスンの味方で、彼の心を折るようなことは、存在しなかった。わがままナイリお嬢様じゃないけれど、トゥスンだって大切に守られて生きてきた、小さな世界の王子様だ。
それを「世界」だと信じて、小さな地球のおもちゃを抱きしめてきた。
それがニセモノだと、おもちゃだと気づかされて。
衝撃の大きさに、駄々をこねることさえ、できずに。
トマスに言い募っているところへ、兄イブラヒム@ゆーひが現れた。
彼はたった今、「世界」に裏切られたところだ。
真の意味での挫折も絶望も知らなかった、地球を自分中心に回してきた子どもが、はじめてどうすることもできない現実を知り、絶望しているところだ。
最愛の人に拒絶されているところなのに、愛する兄までもが、自分を否定する。
「邪魔をするモノは、たとえ兄上でも撃つ」と、銃を構えるトゥスンが、あまりに痛々しくて。
彼の悲しみが、理不尽な怒りが、破裂したように広がるんだ。
追いつめられた小動物が、巨大な肉食獣相手に、逃げるという選択肢をなくして牙を剥くような、破滅的な絶望感。
八方塞がりで、なにもかもに否定されて拒絶されて、もうほんとうに、今度こそ、駄々をこねるしかなくて。
ここでイブラヒムを撃ったところで、兵士に囲まれている現状がどーにかなるわけじゃないのに。
トゥスンは生まれてはじめての絶望のなかで、本当の駄々をこねて。
彼の愚かさが、愛しくて。
イブラヒムにトゥスンを撃てるはずがないとトマスに諭され、トゥスンは生還する。
絶望の底から、これまた彼ならではの単純さで、猛スピードでぽーんと浮上してくる。
一旦浮上しても、結局のところトマスが決心を変えないので、トゥスンはまた絶望することになるんだけど。
忙しくもまた彼は嘆くのだけど。
ただ。
これまでずっと、エジプトのために死ぬと言い切るトマスに対し、嘆きを表現していたトゥスンが、千秋楽は違ったんだ。
それまでずっと、ダダをこねて泣くだけだった男の子が。
泣かずに、現実を、受け入れた。
「インシャラー」と歌うトマスに、泣きながら同じ歌を返し、泣きながら名を呼ぶ。トマスは背を向けて、トゥスンの未練を拒絶する。
……のが、通常だった。
いつも、「可哀想だから、ちょっとぐらい振り向いてやってよ〜〜」とトマスの意志の強さを責めたくなるんだが。
千秋楽、トゥスンは悲しみだけではなく、力強く「インシャラー」と返した。
そして。
トマスを振り返り、その名を呼んだ。
嘆きではなく、肯定として。
悲鳴ではなく、意志のこもった声だった。強い瞳だった。
対するトマスも。
……ここってトマス、いつも背を向けてたよね? なのにちゃんと、トゥスンを見ていた。
頷いた。
トゥスンが「トマス」と呼びかけ、トマスが、頷いた。
トゥスンはトマスの意志を酌み、トマスはトゥスンの覚悟を受け止めた。
ふたりは頷き合い、トマスは背を向ける。トゥスンもまた、去っていく。
……なんなの、これ。
最後の最後に、なにやってんの、あんたら?!
トゥスンが、成長している。
泣くだけの、駄々をこねるだけの子どもが、「男」として、去っていくよ。
親友の志を受け継ぎ、新しい明日を生きるために去っていくよ。
なんだそれは。
びっくりして、とまどって、盛大に泣いた。
トマスがいい男で。トゥスンがいい男で。
てゆーか、壮くんなのに? 壮一帆に泣かされてるのかあたしは?!
トゥスンのバカさが好きだ。
まっすぐな愚かさ、汚れを知らないでいられたからこその純粋さが好きだ。
そしてさらに彼が、抱きしめていた小さな地球を、自分の手で叩き割り、大きな世界へ向けて歩き出してくれるのなら……これほどの、カタルシスはない。
千秋楽でいちばん泣かされたのは、トゥスン@壮くんだ。
この子、愛しすぎる。
自身の重さに耐えきれず、落ちる水滴は。@Red Hot Sea
2008年6月19日 タカラヅカ まっつは、涙をぬぐわない人なんだな。
頬が濡れたまま、涙の粒が光ったまま、微動だにしない姿と……表情。
泣き顔で泣く人、笑顔でも涙だけぽろぽろこぼす人、ジェンヌにもいろいろあるけれど。
まっつは、顔が硬直する人。
泣き顔でも笑顔でも、表情は動くモノだけど、まっつは動かない。
こわい、きつい顔で固まったまま。
わたしの席から、卒業生を見送るまっつの顔はよく見えた……ていうか、まっつ見たさに無理して取った席だ。
ほぼ真正面に見える未涼さんは、強い強い顔で、目を見開いていた。
いつものまっつより、目が大きかった。その、きれいだった。目力ぎんぎんで、少女マンガ張りに大きくて。
まばたきは少なく、ありえないくらい力が入っていた。
が。
みほちゃんの挨拶のときになると、目の大きさと力の入りっぷりはそのままなのに、今度は打って変わってまばたきしまくっていた。
堪えていたのは、涙だろう。
まばたきするようになってからは、涙が落ちていた。
あんなに目を見開いて、かりやんの挨拶までは必死に涙を堪えていたらしい。
かりやん、みほちゃんと挨拶が終わり、まとぶんの挨拶になるころには、大きかった目から力が抜けていた。
どれくらい抜けているかって、組長に声を掛けられるまで、立ち位置を変えるのを忘れていたくらいだ。
まっつの横は組長の立ち位置で、司会を終えたはっち組長は自分の立ち位置に戻る。めおくんはちゃんと立ち位置をずらしたのに、まっつは動かない。ぼーっとしている。
はっちさんになにか言われて、はっと正気に返るまっつ。あわてて立ち位置を変え、はっちさんを並びに入れた。
だ、大丈夫か?
ふたりいた同期がふたり同時に退団する。まっつは、ひとりぼっちになる。
お花渡しも、ひとりで2回。まずはかりやんへの花を持っていた。みほちゃんへの花は隣のめおくんが持ってくれていた。まっつの手が空いてから、受け渡し。
こわばった顔のまま舞台中央へ進み、下手側に回り込んで、花を渡す。渡す瞬間だけ、くしゃっと笑う。そしてまた、こわい顔に戻る。
自分の立ち位置に戻り、彫像のように目を見開いて、立ち尽くす。
ショー『Red Hot Sea』千秋楽。
まっつは、ハイテンションだった。
とにかく、よく笑う。
まつださんはショーであまり笑う人ではない。他の人たちが笑顔で踊っているときも、クールにシリアスにしゅぱしゅぱ踊る人だ。
今回のショーは黒塗りラテンショーなので、通常より笑顔率が高かったのだが、それにしても楽は笑いまくっていた。
発散系場面以外で、歯が見えるくらい笑う未涼亜希は、めずらしい。
びっくりしたのは、「幽霊船」。
ここでのまっつ、なんかすげーオトコマエで。
公演を重ねるごとに歌声が響くようになり、押し出しが良くなっているんだけど。
千秋楽は歌っているときの表情が、すごい、挑発的で。
な、なんなの? 誰ですか、あのセクシーワイルドな人はっ?!
可憐で儚げな未涼さんとは思えないっすよ。
表情の強さにびびりまくってはいたんだけど。
途中、船が傾いてスキャット4人組とまとぶさんが「こっつんこ」する場面がある。
正確には、まっつとまとぶさんが顔をくっつけるようにして、ぶつかって止まるのね。
そこでまとぶさんがなにかしらつぶやくのは、アドリブだけど、いつものこと。
「幽霊船」はユーモラスなシーンなので、まとぶさんはひとりでいろいろアドリブでなにか言っている。(あまり成功しているとは思えない……あたり、痛々しくて萌え・笑)
んで、千秋楽もいつものよーに声を出しているわけよ。
まとぶ「傾いてる?」
まっつ「うん」
……「うん」って。
まっつ、返事した!
しかも、超かわいい口調で。子どもみたいな、「うん」。
いつもやってるのかもしれないが、わたしはまっつが返事してるのを見たのははじめて。……マイク入ってないから、聞こえていないだけ、つー可能性はあるかもしれんが。
でもとにかく、「うん」って言った、まっつが「うん」って!! きゃー、かわいーーっ!! と、わたしはテンション上がりまくり(笑)。
そのうえ。
定位置でスキャットをめーーっちゃイイ声で歌うまっつ、歌のないところで、吠えた。
間奏部分で、声を出すべきではないところで、「わうっ」かなにか、そんな声を出した。
ええええ。
ままままつださん、どーしたの、なんなのそのハイテンション。
吠えたのは、まとぶんへのアドリブらしい。まとぶんの方を向いて吠えて、まとぶんも吠え返していた。まとぶんはマイク入っていないのか、あまり聞こえなかったけど。
まっつが、変だ……。
なんか変だよ、別人入ってるよ〜〜?!!
中詰めの、みほちゃんと踊るところはぱぁああって花びらでもとばしているかのような明るさだったし。
フィナーレでも、みほちゃん相手にハートのゼスチャーとかしてるし。
テンション高すぎて、全開で笑いすぎていて、大丈夫か、この人?! と、思っていたら。
退団者挨拶では目を見開いて硬直していて。
そのあとは放心していて。
カーテンコールでも、手を振るタイミング遅いし。みんなが手を振り出したあと、あ、そうか、って感じに遅れて手を振る。や、もう幕閉まるってばよ。
最後のカテコのほんとに幕が閉まる直前に、よーやく笑って見せた。
頬に涙の粒がついたままなのが、気になった。
褐色の肌に、光の粒がひとつ。
ずっと光っているの。
落ちもせず、ぬぐいもせず。
まるで、泣いたことにさえ、気づいていないように。認めていないかのように。
一旦幕が下りたあとになくなっていたから、観客の目がなくなってはじめて、ぬぐうことをしたんだと思う。
そのことに、意志を感じる。
泣いてない。……舞台では、泣かないんだね。
涙は、ぬぐわない。
そんな泣き方。
頬が濡れたまま、涙の粒が光ったまま、微動だにしない姿と……表情。
泣き顔で泣く人、笑顔でも涙だけぽろぽろこぼす人、ジェンヌにもいろいろあるけれど。
まっつは、顔が硬直する人。
泣き顔でも笑顔でも、表情は動くモノだけど、まっつは動かない。
こわい、きつい顔で固まったまま。
わたしの席から、卒業生を見送るまっつの顔はよく見えた……ていうか、まっつ見たさに無理して取った席だ。
ほぼ真正面に見える未涼さんは、強い強い顔で、目を見開いていた。
いつものまっつより、目が大きかった。その、きれいだった。目力ぎんぎんで、少女マンガ張りに大きくて。
まばたきは少なく、ありえないくらい力が入っていた。
が。
みほちゃんの挨拶のときになると、目の大きさと力の入りっぷりはそのままなのに、今度は打って変わってまばたきしまくっていた。
堪えていたのは、涙だろう。
まばたきするようになってからは、涙が落ちていた。
あんなに目を見開いて、かりやんの挨拶までは必死に涙を堪えていたらしい。
かりやん、みほちゃんと挨拶が終わり、まとぶんの挨拶になるころには、大きかった目から力が抜けていた。
どれくらい抜けているかって、組長に声を掛けられるまで、立ち位置を変えるのを忘れていたくらいだ。
まっつの横は組長の立ち位置で、司会を終えたはっち組長は自分の立ち位置に戻る。めおくんはちゃんと立ち位置をずらしたのに、まっつは動かない。ぼーっとしている。
はっちさんになにか言われて、はっと正気に返るまっつ。あわてて立ち位置を変え、はっちさんを並びに入れた。
だ、大丈夫か?
ふたりいた同期がふたり同時に退団する。まっつは、ひとりぼっちになる。
お花渡しも、ひとりで2回。まずはかりやんへの花を持っていた。みほちゃんへの花は隣のめおくんが持ってくれていた。まっつの手が空いてから、受け渡し。
こわばった顔のまま舞台中央へ進み、下手側に回り込んで、花を渡す。渡す瞬間だけ、くしゃっと笑う。そしてまた、こわい顔に戻る。
自分の立ち位置に戻り、彫像のように目を見開いて、立ち尽くす。
ショー『Red Hot Sea』千秋楽。
まっつは、ハイテンションだった。
とにかく、よく笑う。
まつださんはショーであまり笑う人ではない。他の人たちが笑顔で踊っているときも、クールにシリアスにしゅぱしゅぱ踊る人だ。
今回のショーは黒塗りラテンショーなので、通常より笑顔率が高かったのだが、それにしても楽は笑いまくっていた。
発散系場面以外で、歯が見えるくらい笑う未涼亜希は、めずらしい。
びっくりしたのは、「幽霊船」。
ここでのまっつ、なんかすげーオトコマエで。
公演を重ねるごとに歌声が響くようになり、押し出しが良くなっているんだけど。
千秋楽は歌っているときの表情が、すごい、挑発的で。
な、なんなの? 誰ですか、あのセクシーワイルドな人はっ?!
可憐で儚げな未涼さんとは思えないっすよ。
表情の強さにびびりまくってはいたんだけど。
途中、船が傾いてスキャット4人組とまとぶさんが「こっつんこ」する場面がある。
正確には、まっつとまとぶさんが顔をくっつけるようにして、ぶつかって止まるのね。
そこでまとぶさんがなにかしらつぶやくのは、アドリブだけど、いつものこと。
「幽霊船」はユーモラスなシーンなので、まとぶさんはひとりでいろいろアドリブでなにか言っている。(あまり成功しているとは思えない……あたり、痛々しくて萌え・笑)
んで、千秋楽もいつものよーに声を出しているわけよ。
まとぶ「傾いてる?」
まっつ「うん」
……「うん」って。
まっつ、返事した!
しかも、超かわいい口調で。子どもみたいな、「うん」。
いつもやってるのかもしれないが、わたしはまっつが返事してるのを見たのははじめて。……マイク入ってないから、聞こえていないだけ、つー可能性はあるかもしれんが。
でもとにかく、「うん」って言った、まっつが「うん」って!! きゃー、かわいーーっ!! と、わたしはテンション上がりまくり(笑)。
そのうえ。
定位置でスキャットをめーーっちゃイイ声で歌うまっつ、歌のないところで、吠えた。
間奏部分で、声を出すべきではないところで、「わうっ」かなにか、そんな声を出した。
ええええ。
ままままつださん、どーしたの、なんなのそのハイテンション。
吠えたのは、まとぶんへのアドリブらしい。まとぶんの方を向いて吠えて、まとぶんも吠え返していた。まとぶんはマイク入っていないのか、あまり聞こえなかったけど。
まっつが、変だ……。
なんか変だよ、別人入ってるよ〜〜?!!
中詰めの、みほちゃんと踊るところはぱぁああって花びらでもとばしているかのような明るさだったし。
フィナーレでも、みほちゃん相手にハートのゼスチャーとかしてるし。
テンション高すぎて、全開で笑いすぎていて、大丈夫か、この人?! と、思っていたら。
退団者挨拶では目を見開いて硬直していて。
そのあとは放心していて。
カーテンコールでも、手を振るタイミング遅いし。みんなが手を振り出したあと、あ、そうか、って感じに遅れて手を振る。や、もう幕閉まるってばよ。
最後のカテコのほんとに幕が閉まる直前に、よーやく笑って見せた。
頬に涙の粒がついたままなのが、気になった。
褐色の肌に、光の粒がひとつ。
ずっと光っているの。
落ちもせず、ぬぐいもせず。
まるで、泣いたことにさえ、気づいていないように。認めていないかのように。
一旦幕が下りたあとになくなっていたから、観客の目がなくなってはじめて、ぬぐうことをしたんだと思う。
そのことに、意志を感じる。
泣いてない。……舞台では、泣かないんだね。
涙は、ぬぐわない。
そんな泣き方。
紅い花をかざして、胸を張る。@スカーレット・ピンパーネル
2008年6月20日 タカラヅカ「限定版プログラム、買うわよおっ」
と、行きの電車の中で友人のBe-Puちゃん宛にメールを打った。
普段のわたしは、プログラムは買わない。
でも、初回特典とか非売品とかゆーモノがダイスキなミーハー者なので、数量限定「Special Photo Book」付きプログラムには、食いつきますよ!!
トウコちゃんの美しい写真集がついて500円アップなら、そりゃー買いでしょう!!
(阪急ブックスで通販やってるんで、興味ある人はHPチェックしてみて♪)
ミーハー・グッズスキーのわたしが盛り上がっていても、Be-Puちゃんは「ふーん、買ったら見せてね」と社交辞令的返事をくれたのみだった。
でも。
いざ、Be-Puちゃんと大劇内キャトレに行くと。
「これこれ、コレですよっ」
と、わたしが「Special Photo Book」付きプログラムを手に取っていると、Be-Puちゃんも、
「え、プログラムってコレ? え? きれい……」
とかなんとかつぶやいてる。
で。
レジの行列に並んでいると、隣の列に、「Special Photo Book」付きプログラムを持って並ぶBe-Puちゃんの姿が。
ねえ。あんだけ美しい写真見せられちゃったら、ファンなら買うしかないよねええ?
中身はトウコちゃんだけでなく、あすかちゃん、れおんくんもそりゃーもー美しい写真が載ってますよ。
トウコちゃんは舞台で見ても美しいが、こーゆー「切り取られた静止画」で見ても、美しいなあ。動いてなくても、あざやかに、ドラマがある。
ちなみにわたし、裏表紙のシルエットも好きです。
うおお、ドラマチックやあぁぁ。
つーことで、行ってきました。星組公演『スカーレット・ピンパーネル』初日。
よく知らないけど大作ミュージカルらしい、日本初らしい、つーんでドキドキです。わくわくです。
予備知識皆無、ほんとにナニも知りません。だってわたしゃ、『愛と死の赤熱海』に通うのに必死で、他のことまで手も気も回ってないんだってば。
幕が上がった瞬間に、テンション上がりました。
最初の場面、ほんとにただのプロローグ、まだなにもわかってねえ、段階で。
舞台の美しさ。
立体的で、奥行きがあり、衣装や照明が洗練され、物語を紡ぐ力を持った世界が、広がっていた。
ギロチンというパーツの恐ろしさとインパクト。必要なモノを際立たせ、かつ美しくある、ぎりぎりの造形。
音楽の力、出演者たちのたたみかけるよーなアンサンブル。
稲光のよーに端的に差し出されるキャラクタ。
う・わー……。
なんか、すごいものがはじまったー。
舞台は、フランス革命真っ直中。そう、ヅカファンにはお馴染みのあの時代。『ベルサイユのばら』の少しあと、マリー・アントワネットが処刑された直後だ。
フランスは混乱の極地。毎日貴族がギロチンへ送られ、血なまぐささ無限大。革命が成功したっていっても、結局のところ民衆の生活はなにも変わらず、支配者が貴族たちから革命政府に代わっただけ。暴力による恐怖政治がまかり通る日々。
そんななか、貴族を救い出して亡命させる謎の組織「スカーレット・ピンパーネル」があった。
革命政府のショーヴラン@れおんは、ロベスピエール@にしきさんの命を受け、「スカーレット・ピンパーネル」を捕らえるために女優マルグリット@あすかを脅迫して情報を得る。
マルグリットは昔、革命の女闘士として活躍し、ショーヴランの恋人でもあった過去を持つが、今は革命政府の堕落っぷりに絶望して袂を分かっていた。
彼女はイギリス貴族の伊達男パーシー@トウコと結婚し、イギリスへ渡ったが、ショーヴランに脅迫されてある貴族の情報を漏らしたことは、パーシーには言えずにいた。その貴族はショーヴランの手で処刑されてしまったのだから。
夫に対して持ってしまったたったひとつの秘密が、しあわせなはずの新婚夫婦に深い亀裂を生む。
何故ならばパーシーこそがその「スカーレット・ピンパーネル」のリーダー、革命政府の宿敵なのだから。
マルグリットが革命政府と通じている? ショーヴランと深い関係が、今もある? ……新婚初夜から疑いを持ってしまったパーシーは、それでも彼女への想いを断ち切れず、真実の顔を隠したまま「スカーレット・ピンパーネル」としての活動を続ける。
「スカーレット・ピンパーネル」の戦いは、そしてパーシーとマルグリットの愛は……?
愛し合いながらも、すれ違うトウアスがさいこーですっ。
とりあえず、パーシー、マルグリット、ショーヴランの3人がそれぞれ、ややこしい心理状態でもつれあっているのがイイです。
彼らの心理劇だけならば、ダークでディープでアダルトです。
でもソレを、壮大かつ、ハッタリの効いたでかい舞台に放り込んであります。
小さく地味になりそうな濃いぃネタを、あえてエンターテイメントに味付けしてある感じ。
おもしろいわ、コレ。
素直に、そう思う。
順不同に、感じたことを箇条書きしてみる。
・安蘭けいは、やっぱりすごい。
・芸達者。笑わせる、創る、魅せる。
・トウコあってこその舞台だ。
・遠野あすかは、やっぱりすごい。
・巧い。美しい。なんて存在感。
・黒いれおんが、かっこいい。
・ちょっとお、柚希礼音がかっこいいですよ、ほんと。
・なんかすごい歌がありますけど、れおんくん。うまくはないけど、気迫で歌いきったことに拍手。
・「スカピン団」楽しすぎる(笑)。
・7人が7色の燕尾着て並んだ日にゃあ(笑)。
・すずみんが王子様だー。きれー。紳士〜〜。ふにゃ〜〜。
・しいちゃん、でかい。つかほんとに「でかい女」って言われてる……。
・スカピン団全員、「ボクの女の子」がいる。ナニそのサービスっぷり。あかしにまでいるのか(笑)。
・しいちゃんのブランコの、安全ベルトがかかってない。しいちゃん笑ってるけど、笑顔素敵だけど、大丈夫なのか?? と、ドキドキ。
・女装こわい(笑)。
・すずみんの衣装はやっぱりひとりだけ豪華。ああ、すずみんだなあ、と思う(笑)。
・シマウマ、豹、えーと?
・同色の上着じゃなく、チェンジするんだ……かなり驚愕した(笑)。
・ゆーほがいっぱい、ゆーほがいっぱい。ほくほくっ。
・暗転がない、それでもみるみるうちに転換する舞台。小池すげえ。
・子役かわいい、誰だアレ? 『ANNA KARENINA』のキティお嬢様だって?
・マルグリットとシャルルの「勇気の歌」でまず一発目の波が来た、わたし的に。
・それからマルグリットの「勇気の歌」。
・そのあとのパーシー。
・てゆーかパーシー、変装してるの、長くねえ?(笑) マルグリットの告白聞いてるときの顔が見たいよ〜〜っ。
・1日だけリピーター用に「変装してる、という前提でマスク無しのトウコを愛でる日」を作ってくれ!!
・トウコの汗を拭くあすかってナニ、なんのプレイ? 素直にオイシク萌えておきませう。
・フィナーレは、『エリザベート』かと思った。
・下手セリから登場したれおんが「愛と死のロンド」を歌い出すかと思った(笑)。
・大階段男役群舞かっこいー。
・デュエットダンスのあすかのドレス素敵。ゴージャスでモダン。あのラインを着こなすなんて。
・階段降り、真ん中人数めちゃ多いがな(笑)。
・パレードの、みきちぐが、美形。ダークなメイクがステキです。
はあ。
この間まで『愛と死の赤熱海』やってたのと同じ劇場、同じカンパニーだとは思えないっす……。
うらやますぃ……。いやその、花担として『愛と死の赤熱海』も愛していきますが。
と、行きの電車の中で友人のBe-Puちゃん宛にメールを打った。
普段のわたしは、プログラムは買わない。
でも、初回特典とか非売品とかゆーモノがダイスキなミーハー者なので、数量限定「Special Photo Book」付きプログラムには、食いつきますよ!!
トウコちゃんの美しい写真集がついて500円アップなら、そりゃー買いでしょう!!
(阪急ブックスで通販やってるんで、興味ある人はHPチェックしてみて♪)
ミーハー・グッズスキーのわたしが盛り上がっていても、Be-Puちゃんは「ふーん、買ったら見せてね」と社交辞令的返事をくれたのみだった。
でも。
いざ、Be-Puちゃんと大劇内キャトレに行くと。
「これこれ、コレですよっ」
と、わたしが「Special Photo Book」付きプログラムを手に取っていると、Be-Puちゃんも、
「え、プログラムってコレ? え? きれい……」
とかなんとかつぶやいてる。
で。
レジの行列に並んでいると、隣の列に、「Special Photo Book」付きプログラムを持って並ぶBe-Puちゃんの姿が。
ねえ。あんだけ美しい写真見せられちゃったら、ファンなら買うしかないよねええ?
中身はトウコちゃんだけでなく、あすかちゃん、れおんくんもそりゃーもー美しい写真が載ってますよ。
トウコちゃんは舞台で見ても美しいが、こーゆー「切り取られた静止画」で見ても、美しいなあ。動いてなくても、あざやかに、ドラマがある。
ちなみにわたし、裏表紙のシルエットも好きです。
うおお、ドラマチックやあぁぁ。
つーことで、行ってきました。星組公演『スカーレット・ピンパーネル』初日。
よく知らないけど大作ミュージカルらしい、日本初らしい、つーんでドキドキです。わくわくです。
予備知識皆無、ほんとにナニも知りません。だってわたしゃ、『愛と死の赤熱海』に通うのに必死で、他のことまで手も気も回ってないんだってば。
幕が上がった瞬間に、テンション上がりました。
最初の場面、ほんとにただのプロローグ、まだなにもわかってねえ、段階で。
舞台の美しさ。
立体的で、奥行きがあり、衣装や照明が洗練され、物語を紡ぐ力を持った世界が、広がっていた。
ギロチンというパーツの恐ろしさとインパクト。必要なモノを際立たせ、かつ美しくある、ぎりぎりの造形。
音楽の力、出演者たちのたたみかけるよーなアンサンブル。
稲光のよーに端的に差し出されるキャラクタ。
う・わー……。
なんか、すごいものがはじまったー。
舞台は、フランス革命真っ直中。そう、ヅカファンにはお馴染みのあの時代。『ベルサイユのばら』の少しあと、マリー・アントワネットが処刑された直後だ。
フランスは混乱の極地。毎日貴族がギロチンへ送られ、血なまぐささ無限大。革命が成功したっていっても、結局のところ民衆の生活はなにも変わらず、支配者が貴族たちから革命政府に代わっただけ。暴力による恐怖政治がまかり通る日々。
そんななか、貴族を救い出して亡命させる謎の組織「スカーレット・ピンパーネル」があった。
革命政府のショーヴラン@れおんは、ロベスピエール@にしきさんの命を受け、「スカーレット・ピンパーネル」を捕らえるために女優マルグリット@あすかを脅迫して情報を得る。
マルグリットは昔、革命の女闘士として活躍し、ショーヴランの恋人でもあった過去を持つが、今は革命政府の堕落っぷりに絶望して袂を分かっていた。
彼女はイギリス貴族の伊達男パーシー@トウコと結婚し、イギリスへ渡ったが、ショーヴランに脅迫されてある貴族の情報を漏らしたことは、パーシーには言えずにいた。その貴族はショーヴランの手で処刑されてしまったのだから。
夫に対して持ってしまったたったひとつの秘密が、しあわせなはずの新婚夫婦に深い亀裂を生む。
何故ならばパーシーこそがその「スカーレット・ピンパーネル」のリーダー、革命政府の宿敵なのだから。
マルグリットが革命政府と通じている? ショーヴランと深い関係が、今もある? ……新婚初夜から疑いを持ってしまったパーシーは、それでも彼女への想いを断ち切れず、真実の顔を隠したまま「スカーレット・ピンパーネル」としての活動を続ける。
「スカーレット・ピンパーネル」の戦いは、そしてパーシーとマルグリットの愛は……?
愛し合いながらも、すれ違うトウアスがさいこーですっ。
とりあえず、パーシー、マルグリット、ショーヴランの3人がそれぞれ、ややこしい心理状態でもつれあっているのがイイです。
彼らの心理劇だけならば、ダークでディープでアダルトです。
でもソレを、壮大かつ、ハッタリの効いたでかい舞台に放り込んであります。
小さく地味になりそうな濃いぃネタを、あえてエンターテイメントに味付けしてある感じ。
おもしろいわ、コレ。
素直に、そう思う。
順不同に、感じたことを箇条書きしてみる。
・安蘭けいは、やっぱりすごい。
・芸達者。笑わせる、創る、魅せる。
・トウコあってこその舞台だ。
・遠野あすかは、やっぱりすごい。
・巧い。美しい。なんて存在感。
・黒いれおんが、かっこいい。
・ちょっとお、柚希礼音がかっこいいですよ、ほんと。
・なんかすごい歌がありますけど、れおんくん。うまくはないけど、気迫で歌いきったことに拍手。
・「スカピン団」楽しすぎる(笑)。
・7人が7色の燕尾着て並んだ日にゃあ(笑)。
・すずみんが王子様だー。きれー。紳士〜〜。ふにゃ〜〜。
・しいちゃん、でかい。つかほんとに「でかい女」って言われてる……。
・スカピン団全員、「ボクの女の子」がいる。ナニそのサービスっぷり。あかしにまでいるのか(笑)。
・しいちゃんのブランコの、安全ベルトがかかってない。しいちゃん笑ってるけど、笑顔素敵だけど、大丈夫なのか?? と、ドキドキ。
・女装こわい(笑)。
・すずみんの衣装はやっぱりひとりだけ豪華。ああ、すずみんだなあ、と思う(笑)。
・シマウマ、豹、えーと?
・同色の上着じゃなく、チェンジするんだ……かなり驚愕した(笑)。
・ゆーほがいっぱい、ゆーほがいっぱい。ほくほくっ。
・暗転がない、それでもみるみるうちに転換する舞台。小池すげえ。
・子役かわいい、誰だアレ? 『ANNA KARENINA』のキティお嬢様だって?
・マルグリットとシャルルの「勇気の歌」でまず一発目の波が来た、わたし的に。
・それからマルグリットの「勇気の歌」。
・そのあとのパーシー。
・てゆーかパーシー、変装してるの、長くねえ?(笑) マルグリットの告白聞いてるときの顔が見たいよ〜〜っ。
・1日だけリピーター用に「変装してる、という前提でマスク無しのトウコを愛でる日」を作ってくれ!!
・トウコの汗を拭くあすかってナニ、なんのプレイ? 素直にオイシク萌えておきませう。
・フィナーレは、『エリザベート』かと思った。
・下手セリから登場したれおんが「愛と死のロンド」を歌い出すかと思った(笑)。
・大階段男役群舞かっこいー。
・デュエットダンスのあすかのドレス素敵。ゴージャスでモダン。あのラインを着こなすなんて。
・階段降り、真ん中人数めちゃ多いがな(笑)。
・パレードの、みきちぐが、美形。ダークなメイクがステキです。
はあ。
この間まで『愛と死の赤熱海』やってたのと同じ劇場、同じカンパニーだとは思えないっす……。
うらやますぃ……。いやその、花担として『愛と死の赤熱海』も愛していきますが。
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