雪組ラインアップ、キターーっ!!
2010/11/22

2011年 公演ラインアップ【全国ツアー】<4~5月・雪組『黒い瞳』『ロック・オン!』>

11月22日(月)、2011年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、全国ツアーの上演作品が決定いたしましたのでお知らせいたします。

雪組
■主演・・・(雪組)音月 桂

◆全国ツアー:2011年4月23日(土)~5月22日(日)

ミュージカル・プレイ
『黒い瞳』
-プーシキン作「大尉の娘」より-

脚本/柴田侑宏 演出・振付/謝 珠栄

1998年に真琴つばさ、風花舞、紫吹淳ら月組により上演され大好評を博した、ロシアの文豪プーシキンによる「大尉の娘」をモチーフにした作品。

ショー
『ロック・オン!』
作・演出/三木章雄

2010年、水夏希を中心とした雪組により上演された『ロック・オン!』を、雪組新トップスター・音月桂のためにリメイクして上演いたします。

2010/11/22

2011年 公演ラインアップ【宝塚バウホール、東京特別】<4月~5月・雪組『ニジンスキー』>

11月22日(月)、2011年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、宝塚バウホール、東京特別公演の上演作品が決定いたしましたのでお知らせいたします。

雪組
■主演…(雪組)早霧 せいな

バウ・ミュージカル
『ニジンスキー』-奇跡の舞神-
作・演出/原田諒
  
伝説の天才バレエダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーの半生を描いたミュージカル。生涯を共にした妻ロモラとの愛、ロシアバレエ団「バレエ・リュス」を率いるディアギレフとの確執。20世紀初頭、“レザネ・フォール”と言われた時代のパリを舞台に、豊かすぎる美貌と才能が、一人の男にもたらした栄光と破滅をドラマティックに描き出します。


 毎年恒例の「まっつ手帳」を作りながら、愕然としたの。

 2010年、まっつは『虞美人』と『麗しのサブリナ』と『EXCITER!!』しか出演していない……!(『相棒』は2009年カウント)

 まっつ手帳っつーのはだ、その年のまっつ公演写真を使って表紙をオリジナルで作るスケジュール帳のことだ。1年間を振り返る内容なわけだ。

 通常は大劇場の「芝居&ショー」×2と、全ツやらバウやらDCやらで1年間に5~6作品はある。
 なのに、今年のまっつは、3作品だけ。花組が大劇場+大劇場で、秋になってはじめて全ツとバウに分かれるスケジュールだったから。そしてまっつは、全ツとバウには出ずに異動したから。

 出演した公演数が大劇の2公演のみ、しかもそのうちひとつは1本物。通し役なので、写真が「同じ」。張良先生の衣装は2着きりなので、公式発売写真も会販売写真も代わり映えしない。
 さらに、たった2公演3作品のうち、ひとつは去年の再演。同じ役同じ衣装ゆえ、写真も「同じ」。ナマ舞台なら別だけど、静止画で見る限り、去年となんら代わり映えしない。

 1年間の舞台写真を集めて2011年のスケジュール帳表紙を作ろうってのに、選択肢の少なさよ……。

 組替えのおかげで、まっつは大劇場+大劇場+大劇場なのよ。間に他のハコがナイの。
 大劇場公演3回連続やって、よーーっやく、別の公演が回ってくるの!!(笑)

 んで。
 雪組組替えが発表された日、混乱しまくりながら2011年の年間スケジュールを眺めた。
 4月の東上付きバウはちぎくんだろーから、まっつは全ツだ。まっつが全ツ? 雪組で? トップ交代後の全ツって大抵、前トップの退団ショーで回るよね?
 てことは、まっつ、『ロック・オン!』に出るの?!と、くらくらしましたことよ……その翌々日、前楽観ながら混乱しまくりだったさ……。

 や、振り分けが出るまでまっつがどちらに出るかはわかんないけれども、ちぎがバウである以上、ふつーに考えたら全ツだろうなと。

 ああやはり、『ロック・オン!』かぁ。定番だなあ。
 退団公演ショーで新トップが全ツや別ハコ公演は定番だけど、前トップファンは複雑になるもんなんだよなあ。

 まったく知らない再演ショーに出演するまっつ、って、観たことナイから、観てみたいなああ。(見飽きた再演ショーばっかだったもんよ、花組。『エンレビ』はもうほんとノーサンキュー・笑)

 『ロック・オン!』は想定内つか多分コレだろと思っていたけれど、『黒い瞳』はびっくりだ!

 謝作品キターーっ!!
 わーいわーい、謝せんせの作品で、まっつが観られるかもーー!!

 『黒い瞳』『激情』『凱旋門』は謝作品カウントです、わたし的に(笑)。

 『黒い瞳』大好きだった。マミさんが美しくて、リカちゃんがうさんくさくて(笑)。このときわたしはまだ、ゆーひくんを個別認識していない。この直後の風花ちゃんバウでオチたんだ……あああ、新公観たかったーー!!

 プガチョフ役が誰かが気になります。
 持ち味的にはヲヅキがハマる。

 が、わたしはまっつファンですから、まっつ希望です(笑)。
 言うだけはタダ、希望するのはタダ!
 先のことなんざわからんが、願っておく。

 ラインアップ発表になるなり、まっつメイトから来たメールが笑えた。
「縄で縛られて歌いながら歩くまっつ?」

 ソコか、友よ?!!(笑)

 マニアックなとこに食いつくなー。
 ニコライ@キムくんとがっつり男の友情とか、「先生」って呼びかけとか、ヒゲとかぢゃないのねっ(笑)。

 
 ちぎくんバウも、題材が魅力的で楽しみです。
 演出家が、わたし的にいまいちな人なんですが……同じ新人なら、生田せんせが良かったなー。
 生田せんせはイケコやサイトー系だけど、原田せんせは中村A的だからなー。わたし中村Aの芝居苦手なんよ……。
 いやその、原田せんせはこれからの人なんで、『ニジンスキー』で脱中村Aしてくれることを祈ってます!

 でもってわたし、ニジンスキーってゆーと、「ヒース、私を見て……」しか思い出さないんですが。
 無教養なもんでなあああ。

 まっつがバウっつー可能性もあるんだよなー。バウだとどんなあたりの役になるんだろう?

 
 なんにせよ、組替えして舞台に立つ姿をまだ見ていないので、どんな立ち位置でどうなるのか、今から予想してもはじまらない。
 だからこそ、勝手にわくわくもできるわけで。どきどきもできるわけで。

 雪組のまっつ。
 ……って、どうなんだろう??

 なんであれ、早く見たいっす。
 再演である以上、以前の記憶をめぐる時間旅行になるのは仕方がない。

 花組全国ツアー公演は、3年前に同じ2本立てで中日劇場で公演済み。同じ顔ぶれで同じことをしていて、そこに取り返せない「時間」があるから切ない。
 芝居はそれでも物語に没頭できるから忘れていられる部分もあるが、ショーになると記憶の答え合わせみたいになる。
 ああ、ここはこうだった、ここはこうなるのか。

 なまじ『ラブ・シンフォニー』は再再演、3回目だ。短い期間に3回も公演してりゃー記憶も新しい。
 てゆーかわたしは、いったい何回『ラブ・シンフォニー』を観たことになるのか。オサ様退団で通いまくり、まとぶお披露目にも通ったんだ。まさかまた、観るはめになるとは思わなかった。「いかにも中村B」な、「悪くはないけど、良くもないショー」を。

 タカラヅカはスターありきだが、中村Bはスターに合わせて作品や場面を作れない……だけでなく、アレンジもできない。
 デビュー当時から使い続けているテンプレートに曲や衣装を当てはめていっているだけ。自動生成マシンみたいなもんだな、「いかにもタカラヅカ」なモチーフを放り込んでおけば、お約束通りのいつもの「中村B作品」が出来上がるので、あとはそこに出演者を上から1、2、3とあてはめていけばいい。
 テンプレ通りだから、それは「タカラヅカ」であることに間違いはない、とても普遍的なモノが出来る。「タカラヅカ」自体をよく知らない人が1回だけ観ると、「うわあ、タカラヅカだわあ。きれいー!」と思える作りなので、需要のある作風だと思う。
 ただ、贔屓組はヘビーリピート前提で、全組全公演まんべんなく観劇、それを10年以上続ける……ごくふつーレベルのヅカファン(笑)には、いつどの組でナニを観てもまったく同じ、という作風はつらい。
 たとえ今回の『ラブ・シンフォニー』を観るのははじめて、であったとしても「この作品、既視感しかない……」ということになるので。

 そんな毒にも薬にもならない『ラブ・シンフォニー』。
 現実に何十回観劇済みだがそれ以上におなかいっぱいになりつつ、作品が平板であるから余計に思考はいろんなところに飛ぶ。

 オサ様の歌声や、まとぶんの気合い入りまくりのあれこれ。彩音ちゃんの笑顔。
 まっつがいないことは、それほど気にならない……彼の立ち位置は全部無意識レベルに刻み込まれているため、いちいちそこを見てしまい「あ、いない」となるが、それは大してなんとも思わない。
 組替えでいないというより、バウに出演中だからいないとか、『巴里祭』出演中だからいないとか、過去にもあった不在感覚でしかない。まだ、実感していないんだ、まっつが花組にいないこと。全ツとバウの出演者一覧に名前がなかったときの方が、ずっと寂しかった。

 初日初回はまさに答え合わせ。
 花盗人な壮くんが、センターパーツで現れたときに、ぶはっと吹いた。
 そうか、ここも昔のままか!
 初演でまとぶんが気合いのセンターパーツで歌い踊った場面、再演で壮くんまでもが同じ髪型にして現れ、「髪型まで決まってるのか!」とウケた。
 2度目の再演でもまた、同じ髪型なんだ。そうそう、そうなんだね、えりたん。そこはそうなんだ!
 すっかり忘れていたのに、思い出した。

 みわさんの小雨降る♪のタメと吐息っぷりに悶絶したこと、キンバラのゆまちゃんの胸、スパニッシュの壮くんのダンスのやばさ(笑)、女の子にキスするときはクチを開けてのらいらい……順不同に書いてますが、流れの順番に次々思い出してくる。

 初回は3階席でまったりと、そして2回目は1階センターブロック通路際……てことで、まとぶんのハイタッチ狙います!席(笑)。

 答え合わせをしているうちに、甦ったんだ。
 中日で、まとぶんにハイタッチしてもらったこと。(それも、1回2回ぢゃない・笑)
 この人が、ウチの組のトップさん……敬意と憧憬とトキメキを込めて、毎回手を出していた。

 最初にそうやってタッチしてもらった、その人に、最後が見えてからまたタッチしてもらう……それは、とても大切なことに思えた。
 けじめというのもおかしいが、節目を受け止める心構えとして。

 ……実際は、よりによってその回に、今回あたり現れるんじゃないかと思ってはいたけどほんとーにまっつが客席にいて、しかもわたしの席から丸見えなところに坐っていて、こちらがさらに平常心でなくなってしまったため(笑)、まとぶさんのハイタッチ狙いが微妙に遅れてしまいましたが。
 なんとかタッチしてもらえたけれど、中日のときほどばしって手のひら全体でなく、かすめた程度。

 狙うぜ!とか思っていたくせに、自分的にダメダメな結果に落ち着くあたりが、まあわたしらしいかと。
 
 それでも、客席の手をいちいちぱしぱししていくまとぶさんのことは、正面から見られたわけで。
 お披露目公演でそうだったように。
 記憶が、二重写しになる。

 その姿に、切なくなる。

 時が経つ、それは切ないことだ。
 出会いと別れの繰り返し。それを、改めて思う。

 
 贔屓が舞台にいない分、いつも無意識に贔屓ばかりを見ていたいろんな箇所で、いろんなところを見られる、それは楽しい。
 大好きな花組。贔屓の組替えは寂しくてならないが、良かったと思えることは、花組のみんなをたっぷり見ることが出来る、ようになること。何十回観たってダメなんだよ、まっつが出てたらまっつしか見られないの、いつも同じ顔して踊ってるだけとわかってるのにさ、他の人たち見たいのに!!
 だからある意味新鮮な画面。まっつしか見えていなかった場面が、あららフリーダム、あっちもこっちも見放題!

 で、めおくんの腰振りに釘付けになったり、襟が片方出ていないあきらにはらはらし、仕方ないかまだ若いし経験不足だし……と思った目線の端に同じように片方襟が出てない人がいて、誰かと思ったら王子だったり(笑)、じゅりあの靴を見たり、よっちのエロ流し目を見ていたたまれないキモチになったり、らいのウインクを捕獲したりと大忙しだ。

 いつも同じ中村B作品、何十回と観た『ラブ・シンフォニー』。
 既視感と答え合わせ、切なさと発見と。
 ウチの組のトップさん、ウチの組。
 ハイタッチしてもらった、指先。

 楽しいのに、ふいに鼻の奥がつんとする。
 思わぬところで、泣きたくなる。
 轟悠が、おもしろい。

 感想周回遅れどころぢゃない、公演自体終わってしまってもまったく書けないままでいるあれやこれ、すでに開き直っているのでカレンダーの日にち無視して書いていく(笑)。
 ったく、ミニパソが使えないせいで、外でテキスト打てなくなったのが大きいんだよなー。ノートにメモするの疲れたー、ソレを写すのもめんどくさいー。

 景子タンの新作バウ『オネーギン』、せっかくだからいろんなところを見よう、全体を楽しもう。そう思っていたんだ。
 贔屓が組替えになり、これからはまた雪組がホームになる。雪組は好きな組で、花組の次によく観ていたと思っているが、下級生までよくわかっているわけじゃない。
 バウ公演は新しい出会いの宝庫、少人数を近くで観られるんだもの、いろんなところを見るわよお。
 ……と思っていたのに、早々に白旗。

 トドに釘付け。

 オペラグラス、ガン見。トドしか見ていない状態に。

 いやその、誰がどの役で、どこにいて、とかの最低限の確認はしていますが。
 台詞があろうがなかろうが、とにかくトド様の表情の変化のみに夢中になって、終わった。
 みみちゃん、ヲヅキ、リサリサ、ルーシーちゃん、みんなみんな素敵で彼らも見たくて仕方なくて、目がいくつあっても足りない!だったんだけど。それが本気で本音の感想だったんだけど。
 それでも。

 初見がそんな観劇結果になったため、2回目は全体を見よう……とは、思わなかった。
 2回目は、ストーリーわかったから安心して、最初から最後までトドロキのみアングル敢行(笑)。

 そーだわたし、トド様ファンだった。……という、最近自分でも忘れがちなことを、骨の髄まで思い出させてくれました。

 だってトドロキユウ。
 それにしても、トドロキユウ。

 はじめて見る、トド様がソコに。

 彼がいたから現在のわたしがいる、普段意識しないよーになっているとはいえ、わたしはトドファンだし、トド様が出演する公演はトド様だから観てみるよーな人。
 とゆーのはたしかだが、彼を好きなことと、彼の芝居にハマるかどうかは、別問題。

 彼がうまい人だということはわかっているが、たとえばイシダ芝居の彼には、心が動かない。
 だって、いつも同じだもの。

 タイトルと役名がチガウだけで、同じキャラ、同じ話。大味で一本調子。
 イシダせんせは商業演劇を作る力はある人で、作品的にはおおむね破綻していない。だから役者が力尽くで支えたり、立て直したり、別の話に作り変えたりする必要もない。
 そしてまた、イシダせんせがトドに求めるモノが一貫しているため、トドはいつものトドで、引き出しの中にあるモノだけで楽々演じているよーに見える。

 植爺作『長崎しぐれ坂』とかは、作品のぶっ壊れぶりがものすごく、キャストが一丸となって戦い、ムラ初日と東宝では別物に作り直していたりとか、いろいろと実験作だった谷作『Kean』はチャレンジしまくりあがきまくりだったりと、トドも自分の枠を超えて演じていたけれど。
 手抜きとかではなく、「出来る」モノに関しては、手堅くテリトリー内で演じてしまうため、トド様の芝居はおもしろくない。

 彼はプロなので、一か八かの挑戦だの実験だのはしない、的確に堅実に、与えられた役割をこなす。
 それは当たり前で、正しいこと。
 トップ専科で理事で宝塚歌劇団の代表みたいな立場なんだ、冒険より堅実を選んで当然、当たり前。

 そんな彼のスタンスや芸風を受け止め、まったり眺めてはいるけれど、わかっていても好意があっても、彼の芝居が予定調和でおもしろくないのは事実。
 だからいつも、1回観れば十分。彼が好きだからといって、彼から目が離せない、他の人が見られない、なんて事態にはまずならないから平気。

 それが。
 どーしたこったい、今回はいつもの予定調和、引き出しの中、失敗しないかわりに冒険もしません、ぢゃ、ないっ!!
 大味で、ヒーローで、どーん! でーん! ガオー!!の、トドロキぢゃないっ!!

 若く、繊細な青年が、そこにいる。

 演出家がチガウと、こんだけチガウの?!

 男性的無神経さにあふれた作家の、無神経の権化(ソレこそ男性視点でのカッコイイ男の中の男!)ばっか演じていた、漢トドロキが。
 繊細な作品を与えられたら、繊細な芝居をするんだ? 繊細に演じてみせるんだ?

 トドにハマったが故にヅカにハマったわたしです。良くも悪くも、トド様を長く眺めて来ました。
 しかし、22年目にしてはじめて、トド様の演技を繊細だと思いました。
 トド様の演技を、おもしろいと思いました。

 表情や仕草のひとつひとつに内面が見え、感じられ、その多面体な輝きが、動きが、変化が、おもしろくて目が離せない!!
 こんな人だったの? こんなことも出来たの?

 ときめいちゃって、どうしてくれよう(笑)。

 や、今さら困る。わたしご贔屓いるんだってばー!

 たしかにトド様は初恋の人だが、初恋は初恋でもう美しい思い出になっていて、今はもう夫(笑)……ぢゃないが、ゆるがない決まった人がいて今さら20年前の初恋の人に再登場されて当時は知らなかったカオなんか見せられて、しかもソレがめっちゃいい男で好みで、もともとカオで一目惚れした男がそんな内面の魅力ひっさげて登場って、強いばかりで押しの良さだけで男の中の男だったのに、そんな今さらヨワイとこ見せるってなんなのよもお、困るわよ、ただでさえ今、夫(笑)ぢゃなく本命様がしばらく公演なくて会えなくて不在でまっつ切れで人生グレーでつまんなくてうじうじしているとこにソレはないわよ、なんで今なのよもおおおっ……って、ナニ言ってんだかわかんねえ(笑)。 どこの夜10時台主婦向けドラマだ、なノリだな(笑)。

 それくらい、びびりまくった。
 ニュー・トド様が素敵で。

 思いもかけないところからトキメキが飛び込んできて、うれしいやらうろたえるやら(笑)。

 で。

 『オネーギン』って、どーゆー話?

 アタマ悪くてごめん。マジでわかんなかった(笑)。

 原作は知りません、オペラもバレエも知りません。無教養ですから!

 ナニがしたくてどんな起承転結、なんの話?
 なんか淡々とメリハリなく、どーってことのないエピソードがただ流れていたような?

 ああしてこーしてこーなって、ストーリー型っちゅーか、出来事で話が進むハリウッド映画型の物語ではなく、心の動きを追った小説型の話なんだなあ。
 だもんで、出来事だけ見ると、ストーリーがつながらない(笑)。

 ナニがどーしてそーなって、つかそもそも起承転結と呼べるほど出来事としての事件はないよーな。
 クライマックスと呼べるほどの、出来事としての事件はないよーな。

 だから、出来事のつながりとしてのストーリー、起承転結はわからない。
 あらすじを起こしたいとは思わない。

 いやその、わかるよ? あらすじはわかってる、ちゃんとつながってる。わかんないってのは言い過ぎだ、誇張だ。
 正確には、「どーでもいい」かな。
 「わからなくてもいい」かな。
 理詰めであらすじを理解し、ここがこうしてああなった、と計算式を作りたくないというか。
 景子せんせ自身は、かなり真面目に計算式を作って実践していると思うけれど。それをそのまま受け止めたくはないというか、もっと曖昧なまま、感覚だけでいたいというか。

 だから「わかんない」ということにする。その方が、「わたしが」楽だからだ(笑)。
 どこがどーしてこーなって、なんて、まるでわかんない。ってことにする。

 そして、その上で。

 最初から最後まで、すげーたのしかった。

 コレといってナニがあるわけでもなく。
 オネーギン@トド様見てるだけでしあわせだった。楽しかった。
 ドキドキしたし、きゅんとしたし、えんえん泣き続けることが出来た。

 理屈の部分ではなく、感情とか本能とか、プリミティヴなところが静かにざわめいて、涙になった。
 それはとても、心地よかった。

 計算された、美しいモノを見る。
 細部までこだわられた、美しいモノを見る。
 それは、こんなにも幸福なキモチになるんだ。

 わからない、わかりたくない。
 そうありたいと思いつつ、わたしはわたしたる所以で、やっぱりここがこーしてああなって、と説明したい、読み解きたい思いに駆られる。
 ペテルブルク社交界の虚無と虚飾、そこからはじまり少年時代のきらめきを随所に垣間見せながら逆行することのない時間軸、立ち止まることを象徴する夢の住人たる友人、影あるいは鏡のように関わっては遠ざかるちぢれっ毛の友人、ひととひとの間をつなぐ手紙、心を伝えもするし突き返すことも出来る「カタチ」を持ったもの、手紙。長い深い森を抜け、オネーギンが意志と決断を持つことによって、物語の幕が下りる。

 この作品が、もっと衝動的に創られているなら、かえって細かく読み解きたいと思ったろう。
 技術や丁寧さより、「これを書きたいんだっ」という抑えきれない衝動ゆえに書き散らし書き殴り、荒削りだけどおさまりきらない息づかいが聞こえるよーなモノならば。
 それが正解かどうかではなく、わたしの言葉でひとつの角度から残しておきたいと思うのだけど。

 でもそうではなく、細かい計算でもって隙なく書かれたことがわかるだけに、細かい解説は蛇足な気がして、二の足を踏む。
 ただでさえ細かい表現がされているのに、それをさらに言葉で書き表してしまうのも、つまらないなあと。ああ、コマカイコマカイウルサイ文章だ(笑)。

 だからこう、ざっくりとアタマ悪く印象のみ書き記す。
 このアタマぬるめな感想が、わたし自身にとって居心地イイ。

 リアルタイムに観劇時に、きちんと感想を書けなかった、もう今さらだからこそ、自己完結したまま言葉を連ねてみる。
 グレアム@『はみだしっ子』のノートみたいに。

 
 過去は過去であるというだけで、人を切り裂く。
 若さは傲慢であり、老いが救いになるとは限らない。
 立ち止まることをヨシとするかしないかは、選択のひとつであって正誤ではない。
 美しくまとまりすぎ、計算という枠の中でしか作品が存在しないのは景子作品の特徴のひとつだが、そのまとまりとこだわり抜いた美しさは武器だと思う。
 てゆーか今回は、景子タン独特のアレがないし。(あとでネタにする)
 計算式を作って、ココを足すからこちらが減る、ここの仕掛けがここに関係して展開する、この伏線はココで昇華する、それがいちいちマメでウザいと思うのは、たぶんわたしがそういう物語作りをするからだ。ひとは似たものには過剰反応する(笑)。でもわたしは景子タンほど真面目ぢゃない。てゆーか怠惰だから、叱られているみたいでちょっとヤだ(笑)。
 美しさ自体が救いであり、この物語に「醜さ」は必要ない。醜さとは視覚上のことではなく、精神的な意味で。真の闇の存在しない世界はあっていい。いや、在るべきだ。
 だからわたしは肯定する。否定だけで成り立つ世界をわたしは認めない。
 枠の中で小宇宙作成、だけど枠の向こうには借景。そして呪術は完成する。いや、共通認識を形成する上でのお約束か。
 枠にとらわれているのはわたしだ。無駄なプライドが軋むのか、ったくくだらねえ。
 逃げは逃げとして、いじることで出口は見つかるかもしれない。まあそれもまたよし、いずれ、いずれ。
 忘れずにいたいのは、少年の彼も現在の彼も、等しく過去であるということだ。ここには現在が存在しない。視点は利口すぎ、それゆえに過去しか見ていない。未来は見えないので語れないんだ。
 人は未来へ向かって、前を向いて進むけれど……進むしか、ないけれど、創作自体は後ろを見つめることかもしれない。
 後ろを向いて進むから、光は影となり諦念は増す。だがそれこそが快感なのかもしれない。
 チョークを手にとって、アスファルトの地面に線を引く。ここから、ここまで。A群とB群とを正しく線で結びなさい、てゆー、アレ。彼の足下から線を引き、わかっている答えにたどり着く。たどり、着かせる。その快感。
 いいなあ。だから好きなんだよなあ。

 ……って、この調子で書いていたらいくらでも続けられるので自重。
 楽に垂れ流してないで(笑)、ちゃんと組み立てて書かねば。
『オネーギン』には、なんとフィナーレがあったんだよ! 群舞もデュエダンもアリ、音楽に乗って出演者が出てきてお辞儀、とかゆーんじゃなく、ミニ・ショーみたいな、真っ当なフィナーレだよ!」
「すごい、はじめてじゃない? ちゃんとしたフィナーレって」

 『オネーギン』観劇後に、未見の友人nanaタンとそんなことを話した。
 正確にははじめてでもないのか。89期生のお披露目だった『シニョール ドンファン』はショー先行型で、芝居のあとにフィナーレがあった。初舞台生ロケットに大階段パレードまで。

 でもそれは、「フィナーレを付けなければならない」というルールがまず先にあって。
 付けても付けなくてもイイ、演出家の自由意志に任されているところで、ここまできちんとフィナーレを付けているのは相当珍しいんじゃないか、景子作品として。

「じゃあ景子タン、最後に蛇足付けるのやめたんだ(笑)」

 未見のはずの友人が、見事に言い当てる。

 そう。
 その通り。
 景子せんせのお約束、最後の蛇足。

「うん、トドロキが突然『ディア、オネーギン!』とか言い出すんぢゃないかってハラハラしてたんだけど、なかったの!! 代わりにフィナーレがあったの!!」
「すごーい、景子せんせー、やっと蛇足が蛇足だって気付いたんだ!!」

「後日談もなかったの。ヲヅキが作家でこの話を書いたことになってるんだけど、最後にヲヅキが出てきて『オネーギン、キミはうんぬんかんぬん』って、景子タンの言いたいことをまとめて語り出したりしないのー」
「すごーい!」
「後世にどう伝えられたかとか、その後どうなったかとか、物語が終わったあとでいちいち解説者が出てきて一席ぶたないの!」
「すごーい!」

 ……これがネタになる、景子タンの作風って……(笑)。

 でもほんとーに、『オネーギン』は景子せんせらしくないのよ、主人公のオネーギン@トドが決意して旅立つ、ほんとソレだけで幕なの。
 なんの説明もないの、解説もないの。
 通常の景子タンなら、まず作家@ヲヅキが出てきてオネーギンの人生について語り、そのあと彼に関わったいろんな人が出てきてさらに解説したり、当時の歴史や考え方、それによってどうなったかとか、1から10まで全部言葉で解説、答え合わせ、それ以外の感想なんか持っちゃいけないとばかりに絶叫してくるのに。
「オネーギン、キミを忘れない!」とか、ヲヅキさんが宣言してくれちゃったりするだろーに。
 それがなかったんですよー(笑)。

 こんだけ細かく作中でテーマを叫んでおきながら、出来事より心情の変化で物事を進めながら、まだ最後に言葉によってテーマをまとめあげる、小論文テスト、「作者の言いたかったことを50字でまとめましょう」的作風が特徴の景子せんせ。
 わかったわかった、キミの言いたいことはわかった、十分伝わってるから少し黙ってくれ。観客はバカじゃない、10のことを20も30も繰り返さないでくれ、ふつーに10聞いたらわかるから!(笑)
 てゆーか、7か8あたりで止めてくれた方が、残りの2や3は想像で補うのに。
 なんで何回も何倍も説明し直すんだろう。
 と、常々残念だったんだ。

 ちゃんと10の話は10で止めてくれました。7か8あたりで止めてはくれなかったけど(笑)、蛇足はやめてくれた。
 そして、いつもなら「作品全解説」をやる時間を、まんまフィナーレに回してくれました! ハラショー!!

 ロシアだから首まできっちり詰まった重苦しいドレス姿ばかりだった雪娘たちが、フィナーレで首筋や肩をばーんと出して踊ってくれることに、見ているこちらも一気に解放、爽快感!
 やっぱ美しい画面を作れる人ってすごいわー!

 トド様とみみちゃんのデュエットダンスもまるまる1場面、逃げ口上無しに作ってくれて、すごいお得感。
 いいもん見たわー、と素直に思う。

 オネーギンのモラトリアムを軸に進む物語だけど、実際のところは幾重かの時間的・空間的構造になっている。
 そのいちばん外枠が、ちぢれっ毛の友人@ヲヅキ。ラストにオネーギンが彼の名を呼ぶことで、「物語」が完成する。
 ぱたんと、開いていた扉が閉まる……あるいは、表紙が閉じられる。

 そこで終わってくれて、ほんっとーに良かったっ。
 多重構造であるがゆえに、いつもの蛇足を付けることが出来たのに……見ているこちらも「うわ、こりゃいつものが来そうだ」と身構えるくらい、用意は調っていたのに、あえて付けずにいてくれたことがうれしい。
 おかげで、素直に余韻を楽しむことが出来た。
 「物語」についての思考という、ゼイタクな森で遊び、「フィナーレ」という視覚と聴覚で潤いながら、澱みがちな思念を前向きに解放できた。

 「タカラヅカ」のタカラヅカたる所以。
 どんな悲劇のあとにも、フィナーレがつき、キャストみんながきらきら笑顔で歌い踊り、大階段に羽根にシャンシャン、きらきら別世界に昇華すること。
 結ばれなかった恋人たちも、それが答えであるかのようにデュエットで踊る。

 ある意味大きなお世話、これ以上ない蛇足なんだうけど、わたしはこの「タカラヅカ」な蛇足は大好きだ。
 「ダンディズムとは」と台詞で解説する陳腐さに比べれば、美しい音楽に乗って踊ることで表現してくれることが、どれだけ洗練されているか。
 「テーマを50字以内」で解説されるより、主人公とヒロインが黙って踊ってくれた方が、主人公がかっこよく美しく男たちを率いて踊ってくれた方が、どんだけ説得力を持って彼の人生を、物語を肯定できるか。
 いやはや、改めて思いましたね。

 良い作品でした(笑)。
 『オネーギン』がどんな話かは、あまりわかっていません。

 オネーギン@トドは親友@ヲヅキとの蜜月(笑)に区切りをつけ、少年時代を過ごした伯父@ヒロさんの屋敷に戻った。つか、若いよトド様若い。そこで昔なじみの友人レンスキー@ひろみと再会、彼の婚約者オリガ@さらさとその一家と出会う。
 オリガの姉・タチヤーナ@みみはヲタクのメガネっ子(@イメージ)。純粋培養奥手でフェアリー。彼女はオネーギンに一目惚れ、ヲタクなめんなアクション早いよアツいよ、熱烈なラブレターを書く。
 でもオネーギンはお断りしちゃう。ヲタだから嫌だっつーわけではなく、その反対、ピュアすぎる彼女は手に余る。揺れる思いを断ち切るためにも、オネーギンはオリガと踊っちゃったりする。
 そしたらレンスキーがキレた、決闘だ! 彼こそ本物の夢見る夢子ちゃん、夢の中で生き続けるためには死ぬしかない、迷惑な情熱に巻き込まれ、オネーギンは友人殺しの十字架を背負う。
 それから数年。ヒゲのダンディとなり、若過ぎてないありがたい外見に落ち着いてくれたトド様……ぢゃねえ、オネーギンは心とカラダの放浪を続けていたが、あるとき人妻となったタチヤーナと再会。メガネっ子のお約束、メガネを取ると美少女! 引きこもりヲタを卒業し、メガネをコンタクトに替えて華麗な美女にスキルアップした(@イメージ)タチヤーナに、オネーギンの恋がめらめら盛り上がる。てことで、彼もラブレター書いて渡しちゃうんだけど。
 ラブレターは実ったためしがないなこの話、やっぱりお断りで突き返される。
 そしてオネーギンは革命への道を選ぶのでした。

 物理的に主な出来事だけ拾うと、ラストにつながらない(笑)。
 出来事の合間合間に出てくる少年時代のオネーギン@彩凪くんや、要所要所に登場するちぢれっ毛の友人@ヲヅキと彼の思想、全体を囲む閉塞感など総合的なモノではじめて、ラストのカタルシスへたどり着く。

 トド様の作り込まれ磨き抜かれた「男役」としての美しさと存在感ゆえに、この一見地味な物語がどーんと牽引されていることはたしかだが、それ以外の人たちもまあ、よくぞトド様についていったなと。

 なにしろトドロキ様はこの道25年超えの大ベテランっす。トド様が天才でなかったとしても、ひとつの道をこれだけの年月極めてきた人に、たかだか数年かじっただけの人は太刀打ちできません。
 トドが齢**を超えてなお、ヅカに留まり続けてくれるのは1ファンとしてうれしいけれど、彼と他ジェンヌとの芸風の差が年々広がっていくのは、やるせないことだった。(ジェンヌはフェアリーです、年齢などありません)
 巧い下手ではなく、今どきの少女マンガに昭和時代のキャラがひとりだけ登場しているような、画風の差。『メイちゃんの執事』のマンガのコマの中に、『ベルサイユのばら』のキャラがひとりだけ描かれてるよーな違和感。
 それはもう、どうしようもないことで。
 仕方ないことだから、それはあきらめるというか、スルーするしかない。

 が、覚悟していたほど、トドひとり浮き上がっていなかった。
 そりゃどうしても、いろいろと違いはあるし、下級生たちと次元が違って当たり前の人だから浮いていていいんだけど、危惧していたようなやるせないモノではなかった。

 クラシックな世界観はトドに似合うし、トドも空気に合わせた芝居をしているし、そして主要メンバーが予想以上にがっちり芝居していて、出来ていて、トドを孤立させていなかった。

 いちばん感心したのが、親友@ヲヅキだ。

 トドと、ちゃんと親友に見える。

 ここがあまりに乖離していると、物語の根幹を失う。
 いい男になったなああ、ヲヅキ……。

 大人の男で、体格にリアリティのある「厚み」を持つ。
 ビジュアルの良さから、男女問わず好かれるだろうモテるだろうと思えるけれど。
 彼の魅力はその魂にある「やんちゃさ」だと思う。
 大人の男を作り、演じてなお老成しきらない。小柄な子より体格的に「大人」を作りやすいと思うがそこに収まりきらない「魂の若さ」を持つ。

 ヲヅキはこれからも大人の役を演じるだろう。それでも彼は魂に「少年」をひそませているだろう。
 そう思える、魅力。そう思わせる、期待感。

 「友だち」と言いながら、なんでこの人たち友だちやってんだろう?という、中身や感情の伴わない「作者の都合だけで友人関係」になっている設定だけの友だちも、フィクションには数多く存在する。
 そーゆーモノではなく、本当に「友だちなんだな」と思う心の距離感が心地いい。
 いつも一緒にいるから友だちじゃない。その「いつも一緒だから友だち」の少年時代を経て、それぞれの意識でそれぞれの場所で生きながら、「いつも一緒」時代に培った信頼や絆を血肉にしている。
 考え方や生き方が違ったとしても、会えば変わらず一杯やって語り明かせるような。

 「オネーギン」の物語である以上、そんな「友だち」の存在はありがたい。オネーギンを中心とした視界で世界を見ている中、彼がどれほど救いであるか。
 オネーギンと観客たるわたしはある意味シンクロして、その人生をロールプレイングしている。だからオネーギンからちぢれっ毛の友人への好意が伝わるんだ、感じられるんだ。わたし自身の感情として。そこに観客であるひとりの女性として、素敵な男性への好意も加わるから、最強だ、ちぢれっ毛の君(笑)。

 物語の最後に、このちぢれっ毛の友人こそが『オネーギン』の作者プーシキンだとわかる。
 ナニこの二重構造。
 つまりこれってヲヅキのトド様へのラブレターってこと? ヲヅキが愛情持って描いた物語だからトド様もあんなにかわいらしくて魅力的だってこと?(役名で言いなさい)

 
 ストーリーなんかある意味投げてますのよ。これがこうだからこうなった、ではなく楽しみました。いや、ストーリー自体はとても神経質に(笑)計算されて描かれているのですが。彼がここでこう思ったのは、あの場面でこれがあったからだ、とかいちいち伏線の応酬されているので、かえってそんなもん無視してやらあなキモチというか(笑)。
 みみちゃんの株が、上がりまくりました、わたしの中で。

 『オネーギン』のヒロイン、タチヤーナ@みみ。

 みみちゃんは早くから抜擢されているため目にする機会は多かったけれど、可もなく不可もなくというか、わたし的にはあまり印象に残っていなかった。
 歌がアレなことはわかっているが、それを含めてなお、可もなく不可もなく。わたしは芝居>歌>ダンスの人なんで、歌がうまいかどうかよりも芝居ができるかどうか。芝居声がきれいかどうか。みみちゃんは声に問題ないので気にならない。

 スカフェとしてテレビに出ているときは、そのあまりのかわいらしさに眼福を感じていた。
 でも舞台では素顔のテレビタレント的かわいらしさが生かし切れていないっちゅーか、地味で不景気な感じになるのが残念な子、という認識。
 芝居に出ている分はいいとして、ショーになるとこの暗さはどうなん……つーか、隣に立つのがキムだとなあ、彼の輝きに負けて陰にすっぽり隠れちゃってるよと嘆息した『RIO DE BRAVO!!』。

 それが。
 『オネーギン』ではハマりまくり!! タチヤーナかわいいっ、タチヤーナ素敵!
 彼女の持っている暗さがいい方向に開花。
 美貌と知性、そして慎み深さ。

 『忘れ雪』のときみみちゃん演じるヒロインがとてもホラーだったのは、深雪というヒロインに、あってはならないはずの「知性」があったせいかなと今頃思い返してみたり。
 深雪がのーみそ10歳で止まったままの女の子なら、彼女の行動もあそこまでホラーにはならなかったろう。知性のある年相応の女性に見えたからその言動の裏に悪意や計算があるとしか思えず、恐怖の対象にしか見えなかったわけで。

 タチヤーナはめっちゃアタマ良い才女、秀才天才、というのではなく、常識の範囲で利口な女性に見える。そこに育ちの良さと奥ゆかしさが加わって、地味だけれど魅力的な女の子になっている。

 地味で魅力的。
 これって少女マンガには必須のヒロインキャラ(笑)。
 読者はそんなヒロインに感情移入して読むの。最初から美女でモテモテでなんでも手に入れてる女の子の物語ではなくて。
 今は地味でイケてないけど、この先絶対華やかに変身する!という予感を持ちつつも、地味な現在も女性が共感するタイプの魅力を持つ女の子。

 おしゃれと男の子にしか興味を持たない派手な女の子グループとは離れたところで、そんな人たちにちょっと劣等感を抱きつつも迎合はせずに自分の世界を大切に守って生きている、そんな女の子。

 そんな彼女の前に現れた、夢の王子様オネーギン@トド。
 都会からやってきた洗練された美形で、そのくせ彼女が大切に守っているヲタクな世界を笑い飛ばしたりせずに肯定してくれた。
 そりゃ惚れるわ。

 でもって、タチヤーナの恋がすごく気持ちいい。
 彼女の心が動いていることが、手に取るようにわかる。
 彼女にシンクロして、初恋のときめきを追体験できる。

 ああそうだ、そうだったよ、初恋ってやつぁよぉ。……そんな感じ。

 そこまでが丁寧に「少女の恋」を描いているから、彼女の「恋文」の爆発力につながる。
 そりゃあそこまで書くわ、盛り上がるわ、と。

 わたしは基本トド様ロックオン状態で、ほぼトド様しか見ていない偏った視界しかなかったんだけど、タチヤーナの恋文でだーだー泣きましたことよ。

 かわいいけど地味だよなー、と思っていたみみちゃんが、タチヤーナとして一気に輝きを放つ。
 愛を語る、愛を放つ、愛していると愛する人に告げる、あるべきものをあるべきところへ、あるものをあると世界の真理を告げる、その光。

 ここに在るから、在ると告げる。正しく真理を告げる。
 それはこれほどまでに、力を持つことなのか。快感を伴うことなのか。

 そうだよな、こんなへっぽこブログでもそうだけど、好きなモノを好きだと叫ぶのは快感だよな。
 誰にともなく叫ぶのでも自分のためになっているのに、それを好きな相手に叫ぶのだから、そりゃあ快感だろう。高揚感があるだろう。
 タチヤーナが手紙を書きつつどんどんクレッシェンドしていくってゆーか、自分でエンジン掛かっちゃって止まらなくなっていくのがわかる(笑)。気持ちいいんだもの、そりゃ止まらんわ。

 タチヤーナがぴかーっと発光し、まさに愛することの喜びにきらきらしていることに、泣けて仕方がない。

 その光を背後っちゅーか横の方に置いておいて、手紙を黙ったまま読んでいるオネーギンがまたすごいし。

 タチヤーナが輝けば輝くほど、オネーギンはびびっちゃうんだよね。
 少女の初恋が清らかな幸福感にあふれているだけに……まだ腰の据わっていない若造は、逃げ腰になる。
 あんだけの光、受け止められないって、ハタチそこそこの男の子に。

 いや、そこで正しく逃げ出すのが、オネーギンがある程度の恋愛スキルもあり、人生経験もある大人だったってことだろう。
 ただの若造なら、ただ舞い上がって一緒に爆走したろうし。
 でも本当に成熟した大人の男でもなかったので、ケツを割って逃げた。

 どちらの気持ちもわかる。
 タチヤーナも、オネーギンも。
 だから切ない。

 ふたりの今この段階での別れは仕方のないことだった。
 もう少し時間をおけば、関係は変わっていったろう。しかし。

 レンスキー@ひろみとの決闘事件があり、ふたりの「時間」は断ち切られたままとなった。

 この「仕方がない」まま、対外的な圧力で引き裂かれる、てのはもー、少女マンガのお約束ってゆーか、恋愛ドラマの基本ですよねっ。
 キミら両思いじゃん?! なのに、現段階では泣く泣く別れることが「仕方ない」、どちらの気持ちもわかる……そこへ事件発生、引き裂かれてキモチを再確認し合うこともできないまま、時が流れる。あのとき再確認できていたら、ハッピーエンドだったかもしれないのに!!
 という、もどかしさ(笑)。
 これぞ恋愛モノの醍醐味!

 こんな感情移入できる、ヲトメツボ突きまくりのラヴストーリーを、みみちゃんがあのトド様相手に負けることなく繰り広げている……そのことに拍手喝采。
 観る前は、トド様とみみちゃんの実年齢差ゆえ、「恋人同士というより親子ぢゃ……?」なんて危惧しておりましたのことよ。

 トド様の演技も役と世界に合わせて変わったにしろ、トドみみがこんなにお似合いの美しいカップルになるとはうれしい驚き。
 フィナーレのデュエットダンスも素敵でした。美男美女、美しいモノはこんなにわたしをシアワセにする……。

 いやその、歌はやっぱりすごかったですけどね(笑)。「みみちゃんの歌がうまくなってた」と前評判を聞いていたが、みみちゃん比ではそうなのかもしれないが、やっぱりわたしは彼女のソロで「うわー(笑)」と思っちゃったよ。
 今まで歌があんまし気にならなかった、トータルして可もなし不可もなしだったのに、今ここで「歌が……」と思ったのは、彼女への好意というか興味が上がったためだと思う。今まではマイナス面を気にするほど彼女自身を気にしていなかったというかね。

 歌はかなりアレだと思ったが、そんなことを差し引いても、素敵だった、タチヤーナ。
 彼女の恋に、泣いた。

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