しつこく『華やかなりし日々』を考える。

 えー、作品の組み立て方について。

 『華やかなりし日々』の作品解説は、

>「狂騒の時代」と称された1920年代のニューヨークを舞台に、ヨーロッパから
>渡ってきた移民の青年の愛と野望の軌跡をドラマティックに描いたミュージカ
>ル。貧しい移民街からのし上がり稀代の詐欺師となって巨万の富を築いた男は、
>ショー・ビジネスの世界を次なる標的とし、劇場を手に入れようと画策するが
>……。

 と、ある。
 2011年11月18日に発表されたときのままだ。

 愛と野望の軌跡を、ドラマティックに。
 この内容のまま、華やかで良かった演出、ゆーひくんのカッコイイ演出、ラストシーンの小粋な去り際などはそのままに、どーにかならんかったんかいを、考える。

 主人公の設定は、
1.貧しい移民
2.詐欺師としてのし上がる
3.現在、巨万の富を得ている
4.劇場を手に入れようと画策する
 と、これらのことがまずあり、最終的に、
5.小粋に去って行く
 とする。

 まず、大筋。
 詐欺師ものであることから、できることは。


その1.ゼロからスタートして、詐欺が大成功。
その2.成功している詐欺師が、破滅する。

 大きく分けると、このふたつ。
 犯罪者を主人公にする場合、成功を収めてハッピーエンドにするためには、「悪人を懲らしめる義賊的役割」か、「今現在底辺にいて、その詐欺を行うことでトップに立てる(悪いことをするのは今回だけ、これからはいいことをする)」ぐらいでないと、日本人の感性に合いにくい。
 ズルをして幸福になる、他人を陥れて成功する、は、観客の共感を得にくいためだ。

 「3.現在、巨万の富を得ている」という設定なので、この場合はその2(成功→破滅)で考えるべきだろう。
 すでに持っているものを、失う話。お金持ちの悪人が、さらに悪いことをしてもっと稼いで、さらに幸せになりました、だと物語を作るのが難しい。できないわけじゃないが、1時間半の大衆向けドラマでやるこっちゃない。

 ただ、「5.小粋に去って行く」わけだから、深刻な悲劇にしてはならない。

 これを、どう描くか。

 ここがタカラヅカである以上、ヒロインとの恋愛ははずせない。
 解説にはナイが、ショー・ビジネスの世界でヒロインと出会って、恋愛するのは鉄板。

 ヒロインの設定をどうするか。


その1.ショー・ビジネスの世界にあって希有な、ピュアガール。
その2.ショー・ビジネスの世界で戦う、タフガール。

 ののすみならどっちも行けるだろうけれど、今回原田くんはその1を選んだ。

 詐欺師とピュアガールの恋。
 ピュアなヒロインは、犯罪なんか許せない。受け入れられない。


その1.犯罪者だということは秘密にする。
その2.犯罪者だと知らせる、それでも愛していると通す。

 えーと。
 原田くんが選んだのは、その1なんだよね? ロナウドはロシア貴族ではない、貧しい移民だったことは告げたけれど、今現在詐欺師であるとは教えていない。

 このルートは、難しい。

 A・その2(成功→破滅) → B・その1(ピュアガール) → C・その1(犯罪者なのは秘密) でもって最終的に「破滅」して、「小粋に去る」を成立させるのは、かーなーりー、難しいんですが。
 何故こんな難易度の高いルートを選んだんだ。

 主人公が犯罪者なら、ピュアなヒロインは心を許していない。主人公は、ヒロインをも騙しているわけだ。
 それでクライマックスでは犯罪者だということが、バレてしまう。つまりそこでヒロインは、とても傷つく。
 ヒロインを騙したあげく傷つけて、小粋に去って行くENDって、どんなんよ?

 わたしなら、最初からこのルートは選ばない。
 最初からナニも持たない底辺の男が、一念発起して悪人たちから大金を騙し取り、それでハッピーエンドという、A・その1(無→成功)をスタートとするルートなら、B・その1(ピュアガール) → C・その1(犯罪者なのは秘密)という路線もありかな。

 もしくは、A・その2(成功→破滅) → B・その1(ピュアガール)までは同じでも、C・その2を選び、「俺は悪人だ、でも君を愛している」とやる。
 ピュアなヒロインが「汚いお金なんかいらない」と言っても、とことん悪党の顔で「そんなことを言っても君は俺に逆らえないんだ」とかドSにやって、無理矢理彼女を成功に導く。
 主人公を許さず、罵るヒロイン。そののち主人公は破滅、本当ならいい気味よと思わなくてはならないのに、何故なの、心が痛い……。
 彼は悪人だけど、警察に捕まって欲しくない、ヒロインの女心が揺れ動く。
 で、主人公は警察も煙に巻いて、小粋に去って行く。悪い男だけど魅力的、ヒロインも泣き笑い。「悪人は許せない、でもアナタを愛してる」で、完。

 いちばん好みなのは、A・その2(成功→破滅) → B・その2(タフガール) → C・その2(犯罪者だと告げる)ですけどね。
 目的に向かってまっしぐらなタフガール。多少強引な方法でも、チャンスはチャンスと割り切る大人。
 主人公が犯罪者だと聞かされても、びびらない。
 ならば手を組んで、共にサクセスを目指しましょう。
 これぞまさに「俺と君は似ている」ですよ。
 マンハッタンの夜景を背景に、愛と野心のラブソングをデュエットしちゃってください。
 そんなタフな女の子なら、主人公が破滅して、されど小粋に去って行くのも笑って許してくれるでしょう。「私も負けないわ」とスターとして、スキャンダルを武器にのし上がっていくことでしょう。

 と、別ルート、別の組み立てなら、いくらでも「犯罪者の主人公が破滅して、でも小粋に去って行く」が成り立つのに。
 原田くんの選んだルートは、よりによってパラドックスルート、成り立たない式なんですよー。

 や、もちろん成り立たせることは、不可能じゃナイ。
 心理劇として本気で複雑なやりとりを書き込む気があるならば。

 でもそれ、原田くんがもっとも苦手とすることじゃん。

 まちがったルートを選んで袋小路、ゲームオーバーになっちゃったのは、いかにもデビュー作で『Je Chante』を作った人だなあという感じ。
 人の心の動きを、追うことが出来ない人なんだなと。
 それゆえにストーリー自体が破綻する、と。


 ジェンヌは大変だ、この脚本でも辻褄合わせて演技しなきゃならないんだから。
 ロナウドを美しく格好良く、脚本の粗を隠して演じてしまう、ゆーひんをすごいと思う。
 ジュディを美しく心正しく、脚本の粗を隠して演じてしまう、ののすみをすごいと思う。

 ラストディ中継の会場確保は難しいのかなと思う。
 自前で補うわけじゃないから、会場を押さえすぎて余らせたら赤字だし、足りないとクレームが来て面倒くさいし。
 クレームに電話で謝るのはタダ(スタッフの労力っつーのは無料と考えるもんだろ、上の人って)だが、チケットが売れなかったら損失になる、それなら断然、会場は少なく、足りないくらいがいいよね!
 ……という判断から、いつも「チケ難!」という事態になっているのかなと思う。
 実際、某さんとか某さんとか、チケット余り気味だったものね……それを踏まえて、少なめにしか用意しなくなったのかなあ。

 まあいろいろあるだろうけど、わたしのよーな金もツテもない人間は、いろんなところでチケット難民。
 きりやんラストディも入手できず、見そびれました。
 自分が出来る範囲で、出来るだけの努力はしたし、当日は早くからムラへ行き、サバキ待ちもしたんですけどねー。

 大きなスクリーンで、きりやんやまりもちゃんを見てみたかったな。
 『エドワード8世』は複雑な芝居を必要とするからこそ、オペラグラスで捕らえられないくらいの細やかな部分を、ぜひスクリーンで見たかった。
 残念。


 …………いろいろ奔走して疲れ切ったので、翌日以降にゆっくりきりやんに思いを馳せて、年寄りの昔話だーの、思い出に浸ろうと思っていたわけですよ。
 翌日には流れるだろう、スカステの大楽映像なんか見ながら。

 まさか翌日に、とんでもない爆弾発表があるとは思わずに。

 なんかもう、ひたすらなつかしい。
 いろんなこと。

 昔は良かった、じゃないけれど、昔は、あの頃は、こんなに心を傷つけられることもなかったなあ。ただ、好きは好きってだけで、無邪気に舞台を観ていられたなあ。
 なんて、ね。

 それでも、出会えたことがうれしいし、思い出は美しく永遠に降り積もっていくわけです。


 ところでわたし、スカステのニュースやNOW ON STAGEなど、リアルタイムものの映像データをえんえんえんえん録り溜めているんだけど。
 月組『エドワード8世』『Misty Station』のディスクが見当たらなくなっている……どこへ消えてしまったんだ。
 乱雑な部屋で生息しているせいだけどさー。他タイトルのディスクと間違って収納しちゃってる可能性も大きいしさー。部屋から出してないんだから、どこかにあるはずなんだけど。
 ナイナイの神様、わたしにタカラヅカのきりやんを昇華させてくださいまし。
2012/04/23

雪組トップスター・音月 桂 退団会見のお知らせ

雪組トップスター・音月 桂が、2012年12月24日の雪組東京宝塚劇場公演『JIN-仁-』『GOLD SPARK!-この一瞬を永遠に-』の千秋楽をもって退団することとなり、2012年4月24日に記者会見を行います。

なお、会見の模様は当ホームページでもお知らせ致します。


 今の雪組が好きだ。
 今の雪組が好きだ。
 今の雪組が好きだ。
 東宝初日ですね。

 打たれ弱い人間なので、ただいま現実逃避中。
 23日以来、スカステ見てません。楽しみにしていた東宝の稽古場映像も見てない。もちろん、ニュースで流れただろう、退団のお知らせとか、退団会見も見てないっすよ。

 23日、キム退団を受け止めきれず、ぐーるぐるしているときに、やたら思い出したのが、『アルバトロス、南へ』でした。

 音月桂という舞台人の能力、才能に心から感嘆していた、あの公演。

 すごいものを見ている、そう背筋がざわざわした、あの感覚。
 歴史に残るナニか、とんでもないものを今、わたしはこの目にしている、歴史の生き証人になっている……と、理屈ではない、本能がそうメッセージを発していた。

 そして、『タランテラ!』。
 オギーに愛された舞台人である音月桂は、彼の作品で自在に呼吸し、クリエイターの世界を強く表現していた。

 毒のある美しい世界で的確に花開きつつ、キャラクタだけで乗り切るのではなく、確かな実力の裏打ちがあった。
 キャラクタだけで乗り切ることが出来るタカラヅカで、キムくんは希有なバランスを持った舞台人だ。

 オギーが、いてくれたら。
 何度、そう願ったろう。

 もう一度、オギー作品をタカラヅカで観られるとしたら、それはキム主演であるべきだと思った。
 オギーのショー処女作『パッサージュ』をスタートに、一貫してキムは毒と強さを持ったキャラクタとして描かれてきた。
 差し色だとかペルソナだとかではなく、彼を「主役」として描くなら、それはどんな物語になるのだろう。そう、わくわくした。
 オギーのタカラヅカ最終作『ソロモンの指輪』の映画版が、キム主演?てな切り口で潔くも再構築されていたように。

 キムくんの本領を発揮させられるクリエイターがいないまま、彼の男役人生が幕を閉じるかと思うと、悲しくてならない。

 タカラヅカでしか描けないものがある。
 タカラヅカ以外ではダメなんだ。だからこそ、この特殊な劇団は1世紀も在り続けてきた。
 何故わたしは、『アルバトロス、南へ』のような、『タランテラ!』のような、あのキムを再度見ることが出来ないまま、彼を失わなければならないんだろう。

 あくまでも、わたしの話。
 キムが、でも、キムファンが、でも、劇団が、でも、タカラヅカファンが、でもなんでもなく。他の誰かが、でもなく。
 んなこたぁー全部蚊帳の外で、単にわたし自身が、悲しい。

 わたしが、音月桂を失ってしまう。

 それが、悲しい。
 それが、やるせない。


 わたしの目には、音月桂はとんでもなく魅力的な人に映っていた。
 心の底から自慢したいというか、誇りに思える役者だ。
 あの歌声、あの演技力。そしてあの、熱。
 誰だって虜になる! 彼をちゃんと見てみて!

 ……わたしにはそう見えるけれど、そう見えない人もいる。当たり前だけどさ。
 背が低いとか女の子っぽいとか、彼の足りないところとして、挙げられていることは、わかるよ。回ってくるのが若者役ばっかだしさ。オフだってスイーツ大好きてへぺろキャラってな感じだしさ。

 でも。
 んな見た目だーのオフのキャラクタだーのは、わたし的にはどーでもいい。
 役者として、舞台の上でのキムが魅力的なので、彼が演じる役が好きなので、どーでもいい。
 女っぽいだの子どもっぽいだのは、先入観だ。舞台のキムは骨太な男だし、演出家が若者役ばかり与えるから若く演じているだけで、大人を演じれば大人になる。いつまでも7年前の『銀の狼』のままじゃない。


 オギーはいなくなるわ、わたしのメインも雪組ではなくなったので昔ほど没入して観劇していないわで、一時期温度が落ちていたけれど。
 贔屓が雪組になったため、嫌っちゅーほど雪組を観る。そうすると、嫌でもわかる、キムのすごさが。
 この1年で、ますますキムに傾倒した。

 わたしのご贔屓のいる組のトップが、キムくんでよかった。
 心から、そう思っていた。
 同じ公演を10回以上観るんだ。いちばん出番が多くて、いちばんたくさん歌う人を苦手だったりしたら、つらいじゃん。
 なのに、めちゃくちゃ好みの芝居と歌声を持った人がトップスターなんだよ? なにその幸運!!

 ほんとうに、しあわせだった。

 キムが好きだから、いろいろと夢を見られた。
 今現在の公演もたのしいし、これからの公演もたのしみでいられた。どんな役が、どんな作品が回ってくるのか、キムくんと雪組でこんな作品が観たいと、夢を見られた。
 ああそして、いつかオギーが戻って来てくれたらなあ。謝先生みたく、外部クリエイターのゲスト演出公演ってポジでいいから。トウコ主演は叶わなかった、タカラヅカのオギー作品、せめてキムで観たい、と。


 その未来が、夢が、失われた。

 これほど力のある舞台人を、どうしてうまく生かすことができなかったんだ、宝塚歌劇団。
 『アルバトロス、南へ』まで時を戻し、彼をプロデュースしたいよ。
 音月桂が、もったいない。

 思うところはいろいろあるが、そのうちのひとつ。

 わたしが、音月桂を失ってしまう。
 彼の演じる役を、見られなくなる。
 それがつらい。悲しい。
 もしも長年2番手を務めた安蘭けいを2番手退団に追い込み、湖月わたるのあとに柚希礼音をトップスターにしていたとしたら、柚希礼音は人気スターとなり得ただろうか。

 ……考えただけでも、おそろしいですよ。
 トウコを2番手切りしたら、そのあとどんだけ星組と劇団が混乱に陥ったか。

 それと同じことを、劇団はしたわけです。
 長年2番手を務めた彩吹真央を2番手退団に追い込み、水夏希のあとに音月桂をトップスターにした。

 んじゃそこまで音月桂が大事だったかというと、そうでもない。
 キムにはトップ娘役なし、お披露目作は研1ヒロイン役替わり。宝塚歌劇団のトップ制度、スターシステムの否定。

 それがどんだけ雪組と劇団へ打撃となったかは、雪組新体制発表になった翌日の、水くんのサヨナラ公演の人数で、よーーっくわかった。

 サヨナラショー付き公演を、ムラならば当日券で観られる可能性がある。
 朝から並びに行けば、抽選で購入権利を得られる。
 この、サヨナラショー目当てに当日券に並ぶ人たちは、タカラヅカの浮遊層だと思う。
 退団するスターのガチなファンなら会席だったり、高額チケットに手を出したりで、確実に押さえているだろう。
 「観られたらラッキー」「観られなくてもあきらめがつく」程度の意識で、「観るために高額は出せないけど、早朝からムラに並びに行く労力は出してもいい」と思っている、ヅカファン。

 このライトな層が、激減した。

 トウコ、あさこと並び、人気を博したスター・水夏希の当日券に、トウコたちの半数しか、並びに来なかった。

 コアなファンの数に大差はないと思う。前述の通り、当日抽選に並ぶ人たちは、「観られなくてもかまわない」程度の人たちだ。
 ライトなファン、タカラヅカのファン自体が、減ったんだ。

 劇団のやり方に、失望して。傷ついて。憤って。


 『ロミオとジュリエット』の研1ヒロインは、未だになにがしたかったのか、わからない。
 夢華さん抜擢は、あらゆる意味でマイナスでしかなかった。
 ファン心理という点においても、つたないヒロインを見せられた観客にとっても、抜擢された本人にとっても、それを支える他キャストにとっても、そして、それらのマイナスを受けて興行成績も影響しただろうから、利益面でも。
 すべてにおいて、悪い結果になるとわかりきっていた、謎の人事。

 悪いことしかないのに、それでも敢行しなければならなかった理由がわからない。


 失望というのは根が深く、「『ロミジュリ』Wキャストは失敗だった。評判の良かった舞羽美海をトップ娘役にして、軌道修正しよう」とかで、回復できるモノじゃない。
 もともとのファンはどれだけ失望をくり返しても、贔屓がいる限りついていくけれど、それ以外の人心は、離れると生半可なことでは、戻ってこない。
 水くんラストの日に、半数のヅカファンしか集まらなかったように。
 浮動層が雪組を、タカラヅカを見限ってしまったあとでは、なにをしても遅いんだ。


 どこで間違った、というような単純なモノじゃない。
 それは理解しているけれど、今この時点から過去を振り返り、思うことは、「音月桂に、2番手を経験させるべきだった」に尽きるかなと。

 劇団は、御曹司の育て方を間違っている、と常々思う。
 抜擢したいスターがいると、新公主演を独占、バウ主演を独占させる。それではファンが増えないし、本人の技術も早くから頭打ちになる。
 主演は同じカラーの役ばかりになるし、基本、主演のファンしか観ない。本人の引き出しは増えないし、新規ファンも獲得できない。

 そうではなく、主役以外の個性的な役を経験させるべきだ。
 そうして、主演スターのファンに認識してもらい、愛情を注いでもらう。情が移る、という状態でいい。熱烈なファンでなく、贔屓の次に好き、あたりのヅカファンを増やしていく。
 ……つまりそれが、「2番手」ということだ。
 組内での正2番手とは限らない。トップスターの2番手役を多く務めていれば、トップスターのファン、組ファンから愛情を受けることが出来る。

 キムは、2番手をほとんど経験していない。
 水くんトップ時代、2番手役をしたのが全ツ『星影の人』のみだ。これは同じ作品・同じ役を正2番手のゆみこがやっているので、キムの役とカウントしにくい。
 水くんの退団公演でのみ2番手をやっているが、退団公演だけでやったところで、前述の「主演ファンに情を移してもらう」効果は得られない。ファンは贔屓の退団に全力を挙げているからだ。

 劇団の間違った考え方により、キムはいつもひとりで主演していた。
 長い歴史を、上から下へ受け継ぐ形でリレーしてきたタカラヅカなのに、上の人と絡むことがなかった。
 2番手をやらせてもらえなかったために、トップスターとそのときの組ファン、タカラヅカファンから、情を移してもらえなかった。
 そこへ、ゆみこの2番手切り、研1ヒロイン抜擢の疑惑人事という、劇団の失策をすべてかぶる結果となった。

 「2番手でなくても、ファンに情を移してもらえるスターはいる。それができなかったことは本人の魅力の問題で、人事のせいじゃない」とかいう話は、横へ置いておく。
 それを言い出すと、「真のスターならば初舞台生ロケットの中でも輝くはずだ」とかいう、極論につながる。すべての話が「天才なら問題なし」になって終了しちゃうよ。
 本人の資質云々ではなく、どうプロデュースすれば人心が動くかの話。

 キムに、2番手をさせるべきだった。
 コム時代から、壮くんよりもキムを引き上げたい意図が見えていた。そこへ、壮くんの花への組替え。
 ならばいっそ、水くんの2番手を、キムにするべきだった。
 『エリザベート』のルキーニ役をキムにやらせたい強い意志があったのだろうが、それならゆみこは専科から出演という形でも良かった。
 水くんとしっかり組ませ、2番手の仕事をさせるべきだった。

 トップファンは往々にして、2番手に複雑な感情を持つ。2番手とは通常、「次にトップになるスター」であり、現トップは2番手に追われる形になるためだ。その図があまりあからさまだと、トップファンから2番手に情が移りにくい。
 反対に、2番手の学年に余裕があれば、トップファンは心穏やかにいられる。
 トウコファンが、若いれおんを2番手として寛大に眺めていたように、水くんの下ならばキムの若さは純粋に戦力になったろう。


 水ゆみコンビが好きだったし、水くん時代の雪組を悪く言うつもりはない。ブログをさかのぼって見てもらえればわかると思うけど、わたしは水くん時代の作品もみんなおいしく楽しんで観てきた。水ゆみと彼らの時代を観られたことは、良かったと思う。
 それを否定するのではなく、ただ、今この時点から振り返ると、2番手切りという最悪の人事に行き着く遙か以前に、問題があったなと。

 そして、歴史はくり返す。
 キムくんの突然の退団発表は、わたしにとってゆみこの2番手退団と同じ色の失望だった。
 劇団に対する。

 プロデュースの失敗を、全部生徒に負わせるのか。

 キムの才能を、実力を、愛してきただけに、それが悲しい。
 書けてないことが、いろいろある。
 今回の雪組公演は、芝居もショーも楽しすぎて、ムラ初日から何度も「これって奇跡?」とつぶやいてきた。
 こんなにしあわせな公演があっていいの、と。

 しあわせ過ぎたあとに、奈落へ落ちた。

 いやあ、アップダウン大きすぎ。
 通常の高さから落ちたんじゃないもん。いつもより遙か高みから、地面ではなく亀裂の底まで落ちたんだもん。どんだけ。

 なまじしあわせだっただけに、納得できない。
 どうして「今」なの。このしあわせなキモチを、もう少し味わせてくれないの。と。

 東宝公演分、つまりあと1ヶ月は奇跡のようなしあわせを味わえるはずだった。
 人生そうそうない、もう二度とないかもしれない、そんなしあわせを、あとひと月。
 ……それすら、許されないのか。

 まあ、それでもわたしや、ムラ組は良かったのかもしれない。ムラ公演中は、ほんとにしあわせで、楽しかったもの。
 東宝初見で、ネットや人づてで「良い作品だよ!」と話だけ聞き、自分の観劇日を楽しみにしていた人たちは、手放しの幸福感に酔うこともできなかったのだから。
 良い作品である、雪組のまとまりやパワーを感じられる公演であるだけに、何故……!という憤りや悲しみを抱いての観劇になってしまう。

 んで、このしあわせ絶頂から悲しみ痛みを抱いての観劇へ、って既視感あるなと思ったら、『ロミジュリ』がそうでした。
 トップ娘役不在、謎の夢華さんを除けば、本当にすばらしい公演でこんなに大好きな作品には二度とで会えないかもしれないと、狂ったよーにムラへ通った。ムラ公演も途中から、トップ娘役はみみちゃんだと思って観ていたし、みみちゃんジュリエットのときしか観なくなっていたので、ほんとにしあわせな公演だった。
 それがあと1ヶ月、東宝ででも続くと思っていたら、観劇どころではない大きな悲しみが襲った。

 雪組って、キムくんって、ずっとずっとそうなのか。お披露目からそうで、その次は劇団史に残る問題作で、3作目の今回は不審な退団発表で。

 わたしは打たれ弱い人間なので、断ち切られた幸福感に、傷口の生々しさに、現実と向き合うのに時間を要しておりますが。


 そして、いつものことだけど後悔する。
 なんでもっと早くに、書きたいことを書いておかなかったんだろう。仕事が忙しすぎるとか、家族や自分の入院がとか、理由はいくらでもあるけれど。
 感想を書くことは、なにより自分のためなのに。

 しあわせだったあの頃のまま、そのキモチのまま、思いを残すべきだった。
 痛みがじくじくと在り続ける今とでは、同じネタで書く感想も、視点のありようが違ってくる。

 もっともっと、きちんと残したいのに。
 いつかナニもかも遠くなったとき、読み返すために。
 わたしはしぶとく長生きする予定で、そのよぼよぼ老後の楽しみとして、若かった頃、壮年だった頃の感想や萌えを記したい。


 ってことで、今さらだけど『ドン・カルロス』のいろんなこと。
 書き切れてないことが多すぎて、記憶はどんどん抜け落ちて、切ないったらない。

 オープニングは、ポーザ侯爵@ちぎ、フアン@ヲヅキ、アレハンドロ@翔が銀橋へ登場。
 3人ともカッコイイ。そして、帽子の被り方がそれぞれ違っててイイ。みんな似合ってる。つか、ちぎくんなんか、美形でなきゃ!って被り方だよなあ。素晴らしい。

 狩りの場面なので、殿方たちはそれぞれ弓だの鞭だのを持っている。
 ここのツボは、ヲヅキひとり、ボウガンかよ!!(笑)ってことですわ。ただの弓じゃないのよ、ひとりだけ。殺傷力半端ナイですよ。初日からツボりまくった。強そうだなヲイ!と。

 初日に鼻白んだ舞台上のネギ……不透明水彩絵の具(小学生が使うアレ)で書き殴ったようなネギの色に、もう少しなんとかならんかったんか、と思ったのもいい思い出(笑)。
 2階席から照明込みで観ると、あのネギはアリだった。殿方たちの衣装も合わせて、舞台全部が絵画のように見える。

 殿方たちのイケメンぶり、小芝居やコーラスする様を愛でる場面であることに、加えて、ナニ気に気になる兵士ふたり。
 真地くんは相変わらず美形で、どこにいてもわかる。それと、今回やたら目に付く凰くん。このふたりの並びはいいな、なんかゴージャス(笑)。

 殿方たちに続いて登場する淑女たち。

 オープニングのこれだけの場面ですら、キムシンらしさ全開で、キムシンファン的には楽しい。
 「男なら」「乙女なら」と歌う、その断言口調。
 男なら狩りが好き、戦うことが好きだと決めつけてますよ、言い切ってますよ。
 「男はみんな王になりたい」だよな。うんうん、そーゆー少年ジャンプ的な感性が好きだ(笑)。

 で、男性の闘争本能を肯定しているくせに、キムシン自身は戦いが嫌い。彼の作品では、戦闘場面の描き方がおざなりだったり少なかったり、本人に興味がないことが透けて見える。
 戦争に行くぞー、わー! 場面変換、戦争終わったぞー! →戦い場面なし。
 狩りに行くぞー、わー! 場面変換、狩り終わったぞー! →狩り場面なし。
 そんなんばっかしや(笑)。

 淑女たちの内緒話、雪娘はかわいいなあ!としみじみ。
 いつもオペラグラス使ってわくわく眺めている。
 るりるり、あだちゅうは『インフィニティ』以来、なんか親近感持って眺めてしまう。

 前にも書いたが、この噂話のときに、名前と同時に殿方を登場させて欲しい。
 「ポーザ侯爵はいかが?」で、花道に立つちぎにライト、「気むずかし屋さん♪」、「フアン・デ・アウストリア様は?」で、反対の花道に立つヲヅキにライト、とやってくれればなあ。
 初見だと名前を羅列されてもわかんねーよ。
 話題の最初に出るカルロス王子@キムを登場させられないから、無理だったんだろうけど。

 しかしこの若手娘役ちゃんたちの場面は好きだ。毎回オペラを覗くのに忙しい。
 かわいい女の子たちが、本気でかわいい芝居、仕草をしているのを見るのが好き。みんなかわいいー。


 今回、不思議なほど構成がすっきりまとまっている。キムシンなのに(笑)。
 無駄がないというか。

 承前、という感じの殿方と淑女の場面。ここで、この作品を観る上での必要な情報が解説されている。
 殿方たちの場面では、カルロスが同世代の貴族青年たちに敬われながらも「親友」と呼ばれていること。変わり者だと思われていること、それでもみんな笑ってそんなところをも愛し、受け入れていること。
 淑女たちの場面では、カルロスだけでなくポーザ侯爵やフアンの紹介。
 カルロスは「いちばん素敵」でも、「次元が違う」と貴族たちに切り捨てられる存在であること、彼こそ自由になにも選べないこと。
 人物紹介が、立て板に水で観客の理解に及ばないにしろ、この時代の「恋愛」「結婚」についての説明は、誰にだって理解できるだろう。
 不自由さはカルロスがもっとも顕著だが、それ以外の貴族たちもまた、自分で選んだ相手と結婚できない。それをすることはすべてを捨てることなのだと。
 ラストのカルロスとレオノール@みみとリンクしてるんだよね。

 前もって必要な情報を提示した上で、ようやく本編の幕が上がる……すなわち、カルロスが登場する。
 『ドン・カルロス』の構成に無駄がない、と思うのは、ストーリー云々より、キャラクタをきちんと作ってあるためかなと思う。

 キムシンは緻密なストーリー構成をする人というより、多彩なキャラクタをキャストにアテ書きする人だ。
 ストーリーの多少の粗は、キャラの立ち方で吹っ飛ばす系というか。

 だからこの作品がうまくパーツが組み上がっているのは、キャラクタゆえかなと。

 主人公カルロス@キム中心に、すべてのキャラクタがぴちっとはめ込まれている。

 このキャラクタならここでこうする、こんなことがあればこう言う、それが徹底されているので、必然的にストーリーも破綻しない。

 承前部分で、高貴な身分ゆえに不自由であることを説明されたカルロス。
 さらに初登場となる銀橋部分で、彼の核となる部分を表現しちゃうんだから、キャラ物としてこれでもかと押し出している感じ。

 銀橋ソングでは、「王子である」という正の部分、陽の部分と、負の部分、陰の部分が1枚の紙の裏表みたいに、ちらちらと揺れる。
 歌声の美しさ、姿の美しさに誤魔化されがちだけど、実際初っぱなからすげー高度なことが展開されている。……キムくん、信頼されてるよなあ。

 カルロスは別に、「王子の義務」を己れの不幸だと思っていない。
 「好きな女の子と結婚できないよう!」と嘆いているわけじゃない。

 カルロスの不幸は、父に愛されなかったことがすべて、と言っていいと思う。
 冒頭のソロで、愛に飢えていることを歌う彼は、「母を知らず、父と隔てられ」と、森の中の鳥にすら憧憬を抱く。

 母は亡く、たったひとりの父に愛されない。
 それが、カルロスという人間を作る原点。

 親に愛されない、親に否定される、ことは、子どもを大きく傷つける。
 その人の魂のコア部分を歪めてしまう。

 父に愛されない、そこからカルロスのすべてがはじまる。

 レオノール@みみちゃんと出会い、騎士と姫君ごっこをして愛を育んだのも、成人した今、それでも身分違いの彼女を愛し続けているのも。

 父に愛されていないがゆえ、でしょう。親の愛に飢えているから、でしょう。

 もしもカルロスが、真っ当に親の愛を得ていたら、レオノールを愛しただろうか。
 身分違いの孤児と心を重ね合わせることができただろうか。

 生まれつきどこまでも優しく他人の心の傷や悲しみが理解できる、神様みたいな人だったのです!……てな、人間離れした存在でもない限り、レオノールの孤独や悲しみは王子様には理解できないよね? まだ6つや7つのときに。
 カルロス自身が悲しい少年だったからこそ、悲しいレオノールと理解し合えた。

 一度も傷ついたことのナイ人間に、他人の痛みなどわからない。
 子どもが虫や小動物を平気で殺したり乱暴に扱ったりするように、無知な者は他者に優しくなれない。
 神様でも天使でもナイ、カルロスもレオノールも、悲しみを知っているから優しい子どもだった。

「自分ではどうにも出来ないことがたくさんある、だからわずかでも人の役に立ちたいと願うのです」……そう語るカルロスは、悲しみを知るゆえに、心の傷を多く知るゆえに、やさしい人になった。

 今のカルロスを作っているのは、フェリペ二世@まっつの冷淡さゆえ。

 もしも。
 母が生きて、カルロスに当たり前の愛情を注いでいたら。
 父が逃避せず、カルロスに当たり前の愛情を注いでいたら。

 カルロスのまっすぐな性格からして、今よりずっと義務に忠実だったと思う。
 父に生意気な口をきいたりもせず、素直に尊敬し、共に国のために尽くしていただろう。
 とっとと政略結婚してたんじゃね?
 レオノールとも出会ってないし。
 レオノールは叔母のフアナ@リサリサのもとにいたわけだから、出会う可能性はあるけれど、しあわせいっぱいの王子様は、身分違いの孤児にそれほど感情移入しないだろうし、もししたとしても、「子どもの頃の淡い思い出」として完結していそうだ。

 父の愛に飢える子どもだったからこそ、カルロスはレオノールと出会い、彼女を愛した。
 カルロスにとって、レオノールは救いだったんだろう。
 現在もまだ父と心が通じていない。子どもの頃と同じ悲しみ・孤独を持ち続けている……それゆえに、レオノールを愛し続けている。

 心の欠けた部分、満たされていない部分があるゆえに、彼は明確にレオノールの愛を求める。

 キャラ設定として、なんの齟齬もナイ。

 父との関係と、レオノールへの愛と。
 カルロスを形作る中枢が、このふたつ。
 これが、スペイン王子であること、ハプスブルグ家のカルロスであること、を外殻として物語が展開する。
 カルロスは自分の立場を決して忘れない。

 それゆえ、クライマックスの異端審問において、カルロスは原点を尊重する。
 原点……父・フェリペ二世との関係。

 レオノールを泣かせても、傷つけても、彼はまず王子であることを優先する。
 「処刑されたのち、父上の目に触れてくれたらそれでいいと思っていた」と、命を救うことになるかもしれない証拠を挙げずにいた。
 そこで父親なんだ。
 命を懸けて、振り向かせたい相手が。

 これが「家族の物語」であり、フェリペ二世との確執がすべてのはじまりであった、ということを表しているんだなあ。

 父の愛を得られない。
 生まれてすぐの否定。
 カルロスは母の命と引き替えに生まれたのかもしれないが、フェリペ二世は妻を愛するあまりに息子を殺したんだ。
 はじめて会った息子に背を向けた、その行動にて、息子を殺したんだ。

 父に否定されたそのときに、カルロスは家庭的に抹殺された。
 父に肯定されない限り、彼は一歩も進めない。自分の人生を歩めない。

 異端審問において、フェリペ二世に赦されたとき、認められたとき、はじめてカルロスは生まれた。
 生まれ直した。
 だから、生きるための闘いを始める。

 無罪判決が出たあと、王子としての身分返上を申し出るのも、そのためだろう。

 彼は今、生まれたんだ。

 王子として、父の愛を求めて生きた時間は、一旦幕を下ろした。
 父に愛されない、母殺しの十字架を背負ったままでは、願いなどなにひとつ口に出来なかった。
 父の愛を得た今だからこそ、言える。

 旅に出たいと願い出るカルロスに、レオノールのことは頭にない。身分違いの女官と結婚したいから身分返上を言い出したわけじゃない。
 生まれ直す、生き直すことしか、考えていない。
 フアナがレオノールと妻合わせたのは結果であって、この時点でカルロスはひとりで旅立つつもりだ。

 ほんとうに、元凶は、フェリペ二世だったんだなあ。

 カルロスがフェリペ二世の心を得るまで、がこの物語。
 あるいは、フェリペ二世が心を開くまで。
 キムシンが、フェリペ二世と会った(笑)ことから作劇がはじまったとプログラムに書いてあるだけのことはある。

 キャラクタを正しく作り、動かしてあるから、物語も見事に起承転結した。
 正しいキャラ物だわ。

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