「記念すべき、今年100回目の観劇ですね」
 と、うれしそうにチェリさんに言われ、なんのことかマジでわからなかった。

「もう100回目でしょ? 今日あたり」
 はあ? わたしの、今年の観劇回数? なに言ってんの、まだ10月だよ? 100回目なわけないじゃん。
 と、即座に否定したんだけど。

 今日で、100回目でした。

 家帰ってから、数えた。チェリさんに指摘された前楽こそが、ズバリ100回目。
 何故? 何故チェリさん、ひとの観劇回数知ってるのよ?! 本人もわかっていないよーなことを言い当てられるの?!

 
 と、うろたえつつ。

 花組公演Wヘッダーして来ました。両方とも2階A席。……実は2階で見るのは1ヶ月ぶりだ……。立ち見か、奮発して前方席という2択で生きてきた公演だったからなー。

 つーことで、『アデュー・マルセイユ』の、「本日のジェラールさん」。
 おどろいたことに、初日あたりのキャラクタに戻っていた。適度ににこやかで、社交的。でも孤独と秘密を抱えていて、翳りがある。マリアンヌにマルセイユのことを尋ねられても、素直に望郷の念を口にしていたし、「色も匂いもない」が皮肉になっていなかった。
 午前公演ではモーリスに対してあまり興味なし。反対に前楽の方ではモーリスにちゃんと過剰反応していた(や、最近のジェラールさんはモーリスとの絡みがいちばん感情的でおもしろいから・笑)。
 必要以上にセンシティヴにもエキセントリックにもならない、「脚本通り」のジェラールさんに近かったんじゃないかと思う。
 前楽の方がより「ヒーロー」っぽかった。

 楽を前にして、初日あたりのキャラに戻して来るとは思わなかった……。
 やっぱそれまでは好き勝手にトバしていたってこと? オサ様(笑)。

 ところでシモン作雪だるまは、いつからアタマ欠け状態が、デフォルトに?
 午前公演も前楽も、雪だるまのアタマが削げたように欠けたままだったので、気になってしょうがなかった(笑)。ほら、いつぞやの、ジャンヌ姐さんが「これがアタシなんて嫌よ!」と雪だるまを叩きまくって壊してしまったときの、あの姿。
 壊れてしまったあとの公演も、落ちたアタマの一部分をくっつけて、なにごともなかったかのように「雪だるま」姿を披露していたのに……なんで欠けたままの姿になってるんだ?
 くっつかなくなっちゃったとか?

 いつからそうだったのか、雪だるまに注目したことがなかったからわかんないよー。

 
 前楽はまたしても団体の女子高生たちがぞろりと。前もって配られたペンライトを持って入場していた。
 彼女たちに罪はないが、席が近かったこともあり、観劇中のお喋りがが耳についた。
 でも、サヨナラショーではちゃんとペンライト振って、最後はスタンディングのカーテンコールにも参加していたよ。……ご苦労様。
 なにも知らない彼女たちはきっと、「タカラヅカって、歌唱力がすごい人でないと入れないのね」誤解したことだろう……オサ様の神!!な歌声をあれだけ聴いたんだから。

 サヨナラショーの詳細については、レポ能力のないわたしにはナニも書けないです。感想文は書けても、報告書は書けない人間だから。(アタマ悪いんだよぅ)
 ただ、1曲目から「世界の終わりの夜に」でどーんと来られ、涙腺決壊、次にまっつ影ソロで血管が何本か切れたので、はじまり部分で息も絶え絶え、あとはもーアタマ真っ白になってました。や、まっつはソロではなくコーラスだった気もするけど、ソロ部分も歌っていたのでわたし的にはソロ認定、油断していたとこに声を聴いて撃沈しました、はい。

 そして、タカラヅカのトップスターの役目がなんなのかを、改めて思い知りました。

 ヅカのトップスターの役目。資質。何度も書いてきているが、それは、「駄作を、力業でねじ伏せてしまうこと」!!

 えー、中村Bは今後一切、サヨナラショーの演出はしないで下さい。頼みます。
 ここまで愚鈍な人に、大切なサヨナラショーの演出は、2度として欲しくないっす。
 彼に悪意があるとは思いません。いい人なんだろうな、とは思う。ただ、無神経で無能なんだと思う。

 昨今ここまでひどい演出はないな、てな演出で、それでも、実力で空間を埋める春野寿美礼の凄さを、体感した。

 寿美礼サマの凄さを改めて知らせるために、こんな演出だったんだろうか……。

 演出がどれほどアレでも、オサ様の歌声はすばらしかった。
 他のことを全部ねじ伏せて、圧倒的な声を聴かせてくれた。

 先日シングルコレクションを買ったばかりだ。当時の歌声で綴られたCDを聴いたあとに、「現在の歌声」で、想い出の曲を歌われると、彼の進化が目の当たりになる。

 すごい。
 すごいよ、この人。

 春野寿美礼は、ここまで来てしまったんだ。

 神懸かり的だろ、この歌声。

 
 なんか、途中から、泣くとかじゃなく、心臓がばくばくして、血管が脈打っていることがわかって、体温が上がっていることがわかった。

 どうしよう。自分の体内の音が聞こえるよ。
 どうしよう。このひとがいなくなってしまうなんて、別れなければならないなんて。

 
 最後は謎の曲で昭和歌謡ど真ん中、レトロと言っていいのか、まあええっと、混乱する感じの謎が謎呼ぶ曲で(つか、あとで仲間たちと答え合わせをしても、誰も知らなかった)、その曲を歌いながら、オサ様が銀橋から客席に赤い薔薇を投げていたんだが。
 上手から下手に向かって歩いていたんだけど、ぽつぽつ投げていたので銀橋が終わりに近づいても半分くらい薔薇が余ったままで。どーするんだろう、と思っていたら、最後の下手タケノコ席に向かって、残った薔薇を全部投げつけた。
 ……オサ様ステキ。

 カーテンコールは2回。
 ええ、2回だけです。
 2回目で舞台にオサ様ひとり、あのくしゃっとした笑顔で「明日もがんばります」とかなんとか言ってくれたかな。もちろん仲間たちも舞台に呼んで、みんな揃って三度幕が下りる。……と。
 拍手は、ぴたりと止まった。

 えええ。
 2回? 2回ですか?

 なおもカテコする気満々だったわたしは、客席でたたらを踏んだ。ひとつ隣の席のデイジーちゃんも気持ちは同じだったらしい。

「あやうく私たち、またふたりだけでやっちゃうとこでしたね」
 と、デイジーちゃんが言うのは、『不滅の棘』東京千秋楽で、ふたり揃って意気揚々とスタンディングしたのに、他には誰も立ってくれなかったというイタい過去(笑)のことだ。前方の一部のFC席は立つ人がいたけれど、まったく関係ない後方センター一般席で立ち上がったのがふたりだけだったんだな。
 や、『不滅』楽のときは、そのあと何回目かのカテコでみんな立ったんだけど、今回のカテコはぴたりと2回でエンド。や、前楽だから、というのは関係ないよ。だって他の組の前楽は……(語らない、比べない・笑)。
 
 ……花組だなあ(笑)。こーゆーとこって、とっても組カラーだ。

 明日はオサ様の「アイシテルヨー」と「*階のお客さん、イェ〜イ!」を聞けるかな。

 明日で最後。
 そう思うと、心臓がばくばくしてやばい。

 やばいやばいやばい。こわい。

 ……みんな、しあわせでありますように。
 送る人たちも、送られる人たちも。
 お願いします、神様。


 「ジェラールさん」は日替わり回替わり、いつも別人、同じことはない。
 だからどのジェラールを基本とするのか、さっぱりわからないけど。

 本日『アデュー・マルセイユ』でわたしが見た「ジェラールさん」は、今まででいちばん「誠実」な、ふつーの感覚を持った人でした。

 マルセイユに戻ってきたばかりのころが穏やかでローテンションなのは、最近のジェラールさんの特徴だけど、今回はことさらヒネていたりシニカル過ぎない、ふつーの人でした。
 落ち着いた、大人の男。社交辞令の微笑みを浮かべることもできるし、素直な笑顔も浮かべることができる人。

 誠実で、素直。
 シモンのことを、どうやら本当に好きらしい。
 ……シモンのことまったく好きでもなんでもない、興味のない日もあったので、「あ、今日のジョジョはシモンのこと好きだぞ」とわかると、どきどきする(笑)。

 そう、あれはいつの回のことだったか。
 ジェラールがシモンにまったく興味がない日があった。以下、そのときの帰り道、ミニパソに書き殴った日記のコピペ。

         ☆

 ジェラール、人の話聞いてる?
 てゆーか、シモンの話聞いてる?

 今回のジェラールさんはなんかぼーーっとしていて。自分の内側へ内側へ入り込んでいるようで、人の話をあまり聞いていないように思えた。
 口、半開きだし。

 なかでも、シモン相手にはいちばんぼーっとしている。表情はほとんど動かないし。
 シモンがひとりで多彩な表情で語りかけ空回り度アップ。
 最初に再会したところも、銀橋では多少テンション上げているけれど、やっぱり抑え目。シモンが微笑んでも軽くいなす感じで返してやらない。
 「オレの女」とシモンが意気揚々と紹介するスター・ジャンヌのステージにも拍手もしてやらない。おもしろくなさそーに、心ここにあらずって感じに眺めたあと、周りが拍手しているので仕方なく、手を動か……そうとしたら、そこで終わった。結局拍手ナシかい。
 恩人云々の話もすげーうざそう。
 営業停止になったとヘコむシモンの背中を介抱するように撫で、ついでにアタマも撫で撫でするけど……表情はあまりない。
 シモンの絶交宣言にも、心は動かず。「信じてくれ」と口では言うけれど、本気ではない。べつにシモンにどう思われようと関係ないみたい。あきらめているというか、突き放しているというか。
 いちばん「ひでぇ」と思ったのは、最後のマルセイユ駅前。「ここでいい」と見送りを断ったあと、即座に自分モード突入。隣にまだシモンいるのに。彼はちゃんとジェラールを見つめているのに。シモンのこと、完璧に忘れている。
 見送るシモンのせつない瞳がかなしい……ジェラール君のこと、ぜんぜん好きじゃなかったよ、今回……。

         ☆

 や、ブログにアップする予定のない文章も、最近はタグ込みで書いてるもんだから(笑)。文字の大きさ変えたりとかも、そのときに書いたままっすよ。
 このときのジェラールさんがいちばんイキイキと対峙していたのはモーリスくんで、マリアンヌにちょっかい出すのすら、モーリスへの当てつけに見えて、それはソレで愉快だった。

 まあ、過去のジェラールさんはともかく、今回のジェラールさんはちゃんとシモンを大好きでうれしかった。

 マルセイユ到着初日から、シモンにもジャンヌにもやさしく微笑みかける。笑顔がやわらかい。ジャンヌに対して微笑むのは、彼女がシモンの女だから。シモンへの愛がないときは、ジャンヌにもカケラも興味なく、笑顔もなかったからなー。
 ジオラモの部屋を出たあとの、酔っぱらいシモンをあやすときは、肩を抱き、脳天に手を置き。
 シモンを騙していることへの独白も、痛々しかった。ふつうに、心を痛めていることがわかる。
 そう、ふつうなの。友人を……しかもあんなに善良で、アホな男を騙すのは、ふつーの人なら心苦しいでしょう。感情の動きがとても自然だった。苦しむ姿を見て、あ、いい人だ。そう思った。
 石鹸アーティスト、シモンとバカルテットたちのところへ現れるときも、微笑んでいた。なんつーか、彼らを「仲間」だと思っている? シモンに「話がある」と言われ、笑顔で「ん?」と返している。
 だからこそ、シモンから疑われたときに、返す言葉に懇願の色がある。「今はナニも言えないが、俺を信じてくれ」……こんこんと、心が伝わるようにと真摯に語りかけている。……シモンには、伝わらないけれど。
 今までで、いちばんやさしいジェラールだ。
 あ、上記の文の主語は全部ジェラールさんね。

 絶交のあとの銀橋ソロは、哀しい虚ろさのあるはじまりから、一気に悲鳴のようなテンションに。うわ、傷ついている。悲しんでる。
 すべてが明かされたときのシモンの「俺を担ぎやがって」に対するジェラールの「すまない」が、傷みに満ちていて……さすがののーてんきシモンも、自分の罪に気づいたようだ。どれだけジェラールを傷つけたか。
 このやさしい男が、傷ついていたか。
 シモンとの別れは、登場からすでに微笑んでいる。最後まで、彼に優しい。微笑み、かける。笑顔を、やさしい心や愛情を、シモンに向けている。

 シモンに対してだけ書いたけれど、マリアンヌやモーリスに対しても、ジェラールさんは毎回チガウ演技をするので、そのたびにチガウ物語ができあがる。
 観劇後はメモを取るので大変だよ(笑)。

 今回は「誠実」なジェラールさんでよかった。なんか、ほっとした。
 人間として、とてもふつうな、ニュートラルな感性を持ったジェラールさんだったので安心した。
 や、ふつうにいい人だったから、彼が傷つく様は見ていて切なかったけど。

 前回だっけ、その前だっけ、ものすごく「黒い」ジェラールさんだったことがあった。
 シモンに疑われ、「信じてくれ」と言うあたりの黒さとかっこよさときたら……や、そんな嫌な言われ方したら、シモンもそりゃキレるって! 絶交されても仕方ないって! てな、黒いジェラールさん。
 この黒い人のときってば、色気ダダ漏れでねえ……あんたどこのエロールさん?!って感じで、見ていてハァハァしたわ。

 今回もその黒いジェラールさんを期待したんだけど(笑)、誠実なふつうの感性の人で、ああこれもアリだな、オイシイな、と思った。

 公演終了まで、あと3回。わたしが見たのは最後から4つめの公演。
 もうあとがないんだから、あまり個性的なジェラールさんにはせず、ふつーにしてくれる方が罪がない、気がする。や、あと3回のジェラールさんが、どんなジェラールさんかはわかんないけれど。

 ちなみにVISA貸切だったんだけど、オサ様のCM撮影風景DVD、欲しかったよ……。座席番号で列当選だから、何十人と当たっているはず。
 だけど立ち見のわたしは、最初から抽選範囲外。指くわえて抽選現場を眺めていた。
 うわぁぁああん、びんぼーがみんな悪いんや〜〜!
 ……いやその、たとえ座席券を前もって購入する財力があったとして、当選したとは思えないがな、わたしのくじ運ぢゃ。

 
 あと、3回。
 東宝に行く予定はまーったくついていないので、リアルにカウントダウン。

 あと3回だけ、オサ様に会える。あと3回しか、会えない……?


 のんきにいろいろ感想書いてますが、ほんとのところ「それどころじゃない」というキモチでいっぱいです。
 花組公演が、あと少しで終わってしまう。
 そして、オサ様がオサ様たるゆえん、演技がどんどん変わっていってます。基本日替わりだけど、全体としても変化している。思わず、「本日のジェラールさん」というタイトルで日記をつけてしまうくらい、毎回別物で愉快です。ショーの方も、そのときのオサ様の気分次第でいろいろだし。
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」と叫びたくなるくらい、現場はナマモノであり、自宅でPCの前にいたってなにもわからないよなあ、と思い知っているところです。
 てかオサ様、変化激しすぎ。

 ご機嫌で社交的なジェラールさんや、シニカルなジェラールさん、マリアンヌにでろでろなジェラールさん、反対に女に興味のないジェラールさん、シモンに興味のないジェラールさん、反対に大好きなジェラールさん……まったく、毎回ちがいすぎてこまる。この人なんとかして(笑)。
 ショーでもハイテンションに大暴れしているときもあれば、反対にアンニュイなときもあるし。
 目が離せない。おもしろすぎ。

 わたしは正直なとこ、退団公演の芝居とショー、作品としては両方とも好きじゃないです。
 それでも、そんなことがどーでもよくなるくらい、春野寿美礼がすごいです。

 脚本とか演出とか、そんなものに縛られず、オサ様が自在に呼吸をはじめるとぞくぞくする。この人と同じ時代に生きられたことを、出会えたことを感謝する。

 春野寿美礼に教えられたことが、いろいろある。
 わたしは「言葉」が好きで、言葉にこだわって生きてきた。音楽よりも歌が好きなのは、そこに「言葉」があるからだ。わたしが理解できない言語や、歌詞のない曲には興味がなかった。音楽とは、「言葉」をより効果的に発するための道具でしかなかった。
 それが。
 オサ様に惚れ込んでから、「言葉」に対するこだわりがほどけた。もちろん今も「言葉」がなにより好きで、これからもこだわって生きていくけれど、それとは別に、「言葉のない音楽」への気持ちが変わった。

 春野寿美礼の歌に、歌詞なんかいらない。

 言葉なんか、無意味だ。
 オサ様が、「声」を発する。音を表現する。それだけだ。それだけでいいんだ。言葉とか、別の要素なんか必要ない。オサ様は、純粋に「声」だけで、「音楽」だけで、さまざまなものを表現してしまうからだ。
 わたしを、至福の世界につれていってくれるからだ。

 オサ様のスキャットを聴くことで、はじめて、スキャットってのがこんなにたのしいものだと知った。饒舌なものだと知った。「言葉」がない音楽に、わたしは今までなんの興味もなかったのに。

 言葉なんかいらない。
 決められた意味なんかいらない。

 そのときの気分で、フィーリングで、オサ様が自由に声を出す、音を楽しむ、それだけでいい。

 またわたしは、「言葉」にこだわる以上、芝居、脚本にもこだわりがある。
 作家性にもこだわるし、過程ではなく結果にこそこだわる。

 だけどオサ様は、ひとつの役、ひとつの台詞、ひとつの歌、「あらかじめ決められた」ものを、演じる回数分まったく別物にしてしまう、そのたび別の物語を作り出す。

 オサ様に歌詞なんかいらないと書いたけれど、「言葉」のある歌を歌うオサ様も、もちろん好き。

 言葉、物語、というあらかじめ決められた、すでに書かれたものを、柔軟に変えていく力。息づかせる力。
 波はひとつとして同じカタチなどなく、動いているから、止まることがなく、記録されることがなく、出来た端から消えていくものだからこそ波である……そんな感じ。

 わたしは言葉を、文章を書くことが好きで、そこにこだわりを持って生きてきた。実際にわたしが書いているモノのデキがどうという話ではなく、姿勢として。
 だが、文章とは、「書く」という完了させ続けるものであり、一度完了させてしまったらそこから動くことはない。や、推敲を重ねることはするけれど、やはり文学……文章による表現というのは、リアルタイムで変化し続けるモノではない。だからこそ研ぎ澄まされた美しい世界だと思っているけれど。
 そこにこだわり、そこで足を止めていたわたしに、春野寿美礼という人が新しい次元を教えてくれた。

 今ここで春野寿美礼と出会い、そして、別れを目の前にして、わたしは混乱している。

 どうしよう。
 このひとがいなくなってしまったら、あたしはどうしたらいいんだろう。

 おろおろおろ。

 明日ってサバキ出ますかね?
 とりあえず行く。


 某ゆみこファン(今さら伏せるか)の友人がそりゃーもー、すごい勢いで「ゆみたんカッコイイ、ゆみたんかわいい、観に来て」と繰り返していました。それを全部「ふーん」と流していたわたしですが、最後の最後についに動きました。
 わたしを動かした言葉とは。

「ヲヅキがすごくカッコイイから、観に来て」 

 わかった。行く。

「何百回ゆみこがカッコイイって言っても来てくれなかったのに、ヲヅキなら一言なのっ?!」

 一言です(笑)。

 つーことで、DC初日の次に千秋楽に行って来ました、『シルバー・ローズ・クロニクル』

 や、たんにあたしゃ今、オサ様と花組で手一杯で……正直に言うと金がなくて……『銀薔薇』まで手が回らなかったのよ。農閑期なら、ふつーにもう1回は観ていたと思うよ。つか、バウ料金ならよかったのに。DC高すぎ。

 作品に文句は山ほどあるし、好きな話ではまったくないが、それとは別に、出演者たちが生き生きしていてかわいくて、たのしいんだもの。宙組の『A/L』と同じハートだわ。

 初日のヲヅキはラストシーンで爆笑されていたのよ。アナベル@さゆに噛まれたブライアン@ヲヅキは、急激に年を取り……最後の登場は、コントのようだった。白髪に顔を覆った白ヒゲ、ヨタヨタ杖ついて登場、場内爆笑。
 ちょっと待て。笑わせてどうする。
 ヴァンパイアの血のために若さを保っていたヴァン・ヘルシングが、理屈はわかんねーがヴァンパイアに噛まれて年齢相応の姿に変化した……というのは、いい。だが、「老化すること」=「ヒゲが伸びる」ことではないだろう、演出家よ。止まっていた時間が40年分経ったのだとして(老化ならわかるが時間が経つってのは変だと思うけど)、ヒゲだけ伸びるわけないでしょう。それなら髪も爪も全部40年分伸びなきゃおかしいよ。
 ヒゲの老人、という、わかりやすい老人コスプレで登場、観客を笑わせて、なにもせずに出た途端ご臨終。なんのコントだよ?

 まったく美しくない女の子に「美しい」とか言うし、老人コントで死ぬし、で、初日のヲヅキはかなりトホホだった。
 それが公演が進むにつれ、さゆちゃんのお化粧や着こなしがマシになり、少しはかわいくなっているというし、ヲヅキもアホなヒゲはつけず、二枚目じじいとして登場しているという。
 それなら、そのよくなっている姿を見なくてはならないなと。このままじゃわたしの中のヲヅキ像があんまりなままだし、なによりさゆちゃんの印象が悪すぎる。
 記憶を上書きするために、もう一度観るべきだ。
 キングをはじめとする。下級生たちの成長ぶりも堪能したいし。

 つーことで千秋楽。
 ヲヅキはますますかっこいいし、じじいコントもなく(でも出てきて即サヨナラはどうかと……)てよかったよかった。
 さゆちゃんも進化していたし、聞くところによると青年館ではカツラが変わってさらにかわいくなっているという話だし、みんな良い方向へ進んでくれてよかったよかった。

 でも楽を観て、わたしのなかでいちばん株を上げたのが、クリストファー@かなめだった。

 カッコイイ凰稀かなめなんて、何年ぶりだヲイ。

 ヘタレの一途を突き進み、ダメダメ男としてその名を残すつもりなのかと危惧していたかなめくんが、かっこいいっす。美しいっす。や、どんなにダメダメでも美しくはあった彼だが、容姿の美しさではなく、役として美しいのは何作ぶりだよ??

 我らの壮一帆主演『お笑いの果てに』のヒロイン役以来じゃないのか、カッコイイかなめくんなんて。

 わたしは「顔が同じ」ことからはじまるラブストーリーがツボな人間なんだが、これってクリストファーとエリオットにもあてはまるよねえ?
 クリスがアランをどう思っていたか、さらに今、アランと同じ顔をした、でもアランとは似ても似つかないエリオットを見て、しかもエリオットのパワーに押されて、どう思うのか。……いくらでも妄想できる、ストーリーを作れる、感じがすばらしい。や、脚本が穴だらけだからこそ、勝手に埋めることも可能なわけで。

 初日もソレは感じたけれど、狙いすぎのタンゴとか、腐女子を萎えさせるよーなことばっか小柳タンがするし(真の腐女子は据え膳なんぞには萌えぬのだ)、テルもダメ度高いわで、とくになにも思わなかったんだが。
 楽に見たときはテルのオトコマエ度が跳ね上がっていたので、「コレならイケる!」と瞠目しました。なんだよ、二枚目できるんじゃん。外見の話ではなく、中身が二枚目ってことね。
 『お笑いの果てに』でも思ったけれど、かなめくんは男っぽいキャラクタを意識した方がいいんだろうな。ルドルフみたいな受キャラをやると、まちがえる。受=よわよわ、とか見当違いのイメージでせっかくの美貌を無駄遣い。
 心根に強いモノを持った男でないと、受ではなくただのヘタレになるんだってば。つーことで、エドウィン中尉は野郎っぽさを意識してくれたおかげでステキにヒロイン、美貌の受キャラとして輝いていたし(つっても、相手が壮くんだったから、どーしよーもなかったが)、クリストファーは美貌の攻姫として開花。いやあ、ツンデレはよいですな(笑)。

 下級生たちの楽しんでますオーラが、すごく気持ちよかった。
 上手いかどうかではなく、まず、「そこにいること」を楽しんでいる、ことが気持ちいい。全員が意義を持って、意志を持って、存在している。や、脚本がアレだから役の存在意義とかアレなことはいっぱいあるが、そーゆーことではなく、演じている彼ら自身が「生きる意味」を感じている。
 この混沌とした世の中、「生きる意味」だとか、醍醐味、充実感、そんなものを得られている人間がどれくらいいるよ? 自分が何故ここにいるのかもわからず、なんとなく生きているのが現状でしょう。
 そんななか、今この瞬間、舞台の上にいる彼らはたしかに、「ここにいる意味」を理解し、意志を持って発散している。
 前へ、前へとなにかを叫んでいる。
 持てる能力のすべてで、全力疾走して、そしてそのことを、愉しんでいる。
 彼らの輝きがうれしい。たのしい。気持ちいい。

 その筆頭はキングだよなあ。うまいわけではぜんぜんないんだが(笑)、たのしくてしょうがないのがよくわかる。なにかやりたくてしょーがないんだろうなあ。
「キングにはがんばってほしいよなあ。なんせトウコちゃんに似てるんだし」
 と言うと、おどろかれたけど。
「え、どこが?」
「顔」
 剣幸にも似ているが。これから大人になって、頬の丸みが取れればさらにトウコに似てくるだろう。
「背が高くてスタイルが良くて、歌その他いろいろへたっぴなトウコ」
「……ソレ、トウコちゃんぢゃないし」
 はい。顔以外なにもかも正反対です。

 ゆみこちゃんは任が大きくなるたびにひとつひとつ、確実に階段を上っていってる気がする。
 毎回「自己ベストより少し上?」てなバーを与えられ、地味だけど確実に跳んでみせる印象。たまたま跳べたんではなく、跳ぶための練習をきちんとした上で、本番で結果を出してくるというか。
 この人を中心に舞台がまとまる、その空気感がいい。華々しい人ではないけれど、「次もまた、この人の舞台を観たい」と思う。お金を出す価値のある舞台人だ。
 ビジュアルに多少難があったとしても、「演じる」ことでいくらでも男前になる。役者ってそういうもん。……わたし的には、ゆみこ真ん中って、ぜんぜんOKなんだけどなぁ。世間的にはどうなんだろうなぁ。

 終演後の挨拶で、圭子ねーさまがあのかわいいアニメ声で夢や勇気の大切さ、そして「ゆみここそが、私たちに夢や勇気を与えてくれる存在」てなことを言っていた。あまりの持ち上げよう(?)に、出演者一同、そして観客も、あたたかくもくすぐったい笑いがこぼれる。
 みんな笑っているのに。
 ただひとり、真顔で「うん、うん」と力強く何度も頷く凰稀かなめに、ウケました。
 テル……ほんまにゆみこのこと大好きなんやな……。見てて恥ずかしくなったわ(笑)。
 
 人が人を愛している、愛しく思う、無償の心の動きっていうのは、見ていてしあわせになる。
 わたしがない金と時間を工面して、それでもDCに再度足を運んだのは、この雪組キャストのあたたかさに触れたかったこともあるし、また、「ゆみたんカコイイ」しか言わなくなっている友人の、ぶっこわれぶりが愛しいせいもある(笑)。

 愛がある。……それは、こんなにもひとをしあわせにするんだ。


 エリオットは、ものすげー簡単に、アナベルを「愛している」と言う。
 簡単なんだ。軽いんだ。薄いんだ。

 しつこいようだが、役者の話ではない。エリオット@ゆみこは軽い愛なんか演じていない。その愛が本物だとわかる。
 そうではなく、『シルバー・ローズ・クロニクル』、脚本の話だ。

 エリオットは、わかっていない。
 アナベルがヴァンパイアだということを。
 言葉でわかっているだけ、真の意味などわかっていない。

 アナベルはブライアンに襲いかかる。ナイフや銃を使うのではなく、噛みつくのだ。
 彼女がヴァンパイアだから。
 アナベルの存在は、「凶器」だ。彼女自身が人間との共存を願っていても、善良であっても、関係ない。彼女は人間を害する存在なんだ。

 彼女を愛するならば、このことを理解した上でなくてはならない。

 人間を襲い、口元を獲物の血で汚した姿を見てなお、「愛している」と言って見せろ。

 ヴァンパイアとしての性を知り、その罪も恐ろしさも知った上で、なお、愛を語れ。

 「可愛い女の子」姿しか知らずに愛を口にしても、嘘くさい。

 ハーフ・ヴァンパイアのアナベルとクリストファーは、この物語では「人間を害する存在ではない」ということになっている。
 「血は嗜好品」であり、なくても生きていけるらしい。
 だから、人間を殺さなくてもいい。

 だが、気軽に人間を襲う。

 クリストファーは「殺さないからいいだろ」と、てきとーに女の子の血を吸って歩く。罪悪感はない。
 アナベルもまた、それを知りながらなんの感慨も持たない。

 「嗜好品」で、なくても生きていけるのに、あえて口にするのは、かえって罪が重い気がするんだが。
 「生きるために仕方なく」血を吸うのではなく、「愉しむため、遊ぶため」に血を吸うってのは……。

 吸血鬼なんだから、それくらい精神に歪みを持っていてもいい。
 自分の愉しみのために、他人を傷つけて平気、という、残酷さ。

 エリオットは簡単に「僕もヴァンパイアになる」と言う。
 簡単なんだ。軽いんだ。薄いんだ。

 ヴァンパイアになるということは、遊びで人間を傷つける存在になる、ということだ。
 クリストファーとアナベルがそうしているように。

 自分のエゴ(愛)のために、他人を傷つけて生きる、その現実を理解した上で言え。

 ブライアンに噛みつくアナベル、って、もっと重要なエピソードだと思うんだけど。
 善良なヴァンパイアである彼女は、それまで人間を襲ったことなんかなかったんじゃないか? 兄クリストファーがナニをしていても、それに対してナニも思わないにしても、とりあえずアナベル個人は人間を害することはなかった。
 それがはじめて、人間を傷つけた。ヴァンパイアの能力で。
「エリオットを悪く言わないで」
 ……愛する人間のために、手を汚した。人間を愛したために人間を襲い、自分が人間でないことを思い知った。
 大きなポイントだと思うのに。
 ぜんぜん、どーってことない描かれ方して、コメディの中に流されちゃうんだよね。

 
 結局、「ヴァンパイア」である、というのがどーゆーことなのか、まったく描かないままなので、クライマックスが唐突。のんきに映画に出ちゃいます(はぁと)とかやっていたふつーの女の子が、いきなり「わたしたちの存在は人間を傷つける」とか言い出しても、力一杯「はあ??」だったし。

 40年後だかのじじい編を書きたいがために、無理矢理ストーリーをねじ曲げて、アナベルを一旦引かせたように見えるんだがなあ。
 唐突なシリアスぶりとこじつけ臭いラストシーンは、

 桃から生まれた桃太郎は、悪い鬼を懲らしめて、育ての親のおじいさんとおばあさんのところに戻りました。
「人間ではない私は、ここでは暮らせません。私は人間にはない能力を持っているので、このままここにいると、この能力を利用しようとする者たちが出てくるでしょう。私が人間たちと一緒に暮らせる時代になるまで、さようなら」

 ……て感じだ。
 はあ? ちょっと待て、そんな話だったか? そりゃ桃から生まれたことは知ってるけど、それゆえに力持ちなのも知ってるけど、悪者をやっつけてハッピーエンドの今になって、なにをいきなり寝耳に水なことを言い出すんだ? 元気に楽しく暮らして冒険活劇したあとで、いきなりヒューマンドラマされても、こまる。
 桃太郎は「私は人間ではない……」と思い悩んだりしないのだから、ラストものーてんきに「鬼退治でお宝山盛り、ハッピーエンド」でいいじゃないか。
 ラストで突然ヒューマンドラマにならないのは、必要ないからだろう。桃太郎の世界観では、「人間ではない桃太郎が、人間ではない能力で、悪者を退治してハッピーエンド」でいいんだ。

 『銀薔薇』も、「ヴァンパイア」の宿命も闇も描く気がないなら、コメディだからというなら、最後までお笑いで軽くハッピーな物語にすればよかったのに。

 「ヴァンパイア」の宿命も闇も描かず、突然「ヴァンパイア」の宿命と闇を理由にヒロインが姿を消し、「ヴァンパイア」の宿命と闇ゆえに美しい「永遠の愛」をうたって終わる。……って。

 「恋愛」部分でも、この「ヴァンパイア」部分でも、同じことだ。
 いちばん描くのが難しく、それゆえに描き甲斐もあり、萌えもあるところを描かないで、お手軽コメディで狙っていることが見え見えのゆみこ総受ぶりとかを描くことに終始しているのは、どーにかならないのか。

 結果として、「ゆみこのプロモーションビデオだと思えばいいのか」という結論に至る。
 ちゃんとした物語だとは思わずに、「いろんなゆみこをたのしんでね☆」がテーマだと割り切ればいいのか。
 実際、作者の目的はソレだけで、ハナから真面目に「物語」を描く気なんかなかったのかもしれない。そしてソレは、正しいのかもしれない。タカラヅカはスターの魅力を引き出してナンボだから。

 どれだけ「物語の方程式」が壊れていたって、愛をもって出演者が魅力的に見えるように描き、ファンが観たいと思っている場面を描くことができれば、それでいいのかもしれない。
 辻褄が合っていなくても、「いつお前ら恋愛したんだ?!」てなひでー展開でも、主役とヒロインがせつなく愛を語れば胸きゅん、愛し合っているのに別れなければならなかったりすると号泣、美しいハッピーエンドに感動、するものだから。
 ……小柳せんせってほんと、イケコの弟子なんだなー……上記の話、全部『アデュー・マルセイユ』にも、あてはまる。良くも悪くも。

 『アデュー・マルセイユ』も、出演者が魅力的に見えるように、ファンが観たい場面を描いてくれているから、ファンはよろこんで通っているのだと思う。
 だから『銀薔薇』もソレでいいんだと思うよ。
 わたしは『さらば港町』も『銀薔薇』も同じ理由で好きではないけれど、『港町』にはアホみたいに通っている。贔屓が出ていれば、贔屓組ならば、物語が壊れていても「ファン向け仕様」でさえあればたのしく通えるから。

「『MIND TRAVELLER』にあれだけ通いまくった人が、ナニを言っても説得力ナイ」

 と、nanaタンに断言されてしまったのが、答えですな。
 あのひでー作品でも、出演者ファンだから通いまくりました、ええ。自嘲はしてますが、後悔はしてません。
 作品への文句はさんざん言いましたがね。「ここがおかしい」「壊れている」は、さんざん書きました。
 それでも通ったもん、海馬の帝王ダイスキだもん。

 『銀薔薇』は問題山積み、壊れてると思うよ。でも、ファンなら、愉しめることは確か。

 だからこそ、「もったいない」と思うんだよな。これだけファンを愉しませてくれるなら、話の薄さや不誠実さをなんとかしてくれよ、と。
 ゆみこなら、ちゃんと応えて演じてくれたろうに。


 ブログ界の僻地、このDiaryNoteにて、左の枠の中にわたしの数少ない友人のブログがリンクしてあります。
 「日記ブックマーク」ってとこね。「日記」よ、日記。このサイト、もともとブログじゃなくて日記サイトだったんだもん。
 そこに、数少ない友人の「日記」の最新タイトルが出ているワケなんだけど。

>緑野こあらさん、「み」さん、
>サトリちゃん、kineさん、
>ドリーさん。(ジュンタ) 01:55

 数少ない友人のひとり、ジュンタンの最新日記のタイトルが、「どりーず」と呼んでいる仲間たちの名前羅列になっているわけですよ。

 で、ジュンタンとこに行ってみると。

>『Nocturne note』のmaさんから、バトンをいただきました。
>「タイトルに回す人の名前を入れてビクリーツさせるバトン」だそうです。
>(一部コピペ捏造)(どこを?)(もちろん!)

>〜説明〜
> 1:回ってきた五文字を携帯の変換機能で一文字ずつ変換。
> 2:その変換候補に出ている上位五つを惜し気もなく晒す。
> 3:そして次に回す人に新たな五文字を指定。


 ええ、ビクリーツはしましたが、ソレはわたしがバトンは参加しないと知っているくせに、回してきたことにかもよ、と、にっこり笑って言ってみる(笑)。

 や、オレほんと友だち少ないから、バトンはスルーなのよ。参加しない理由は「回す人がいないから」!

 ……こんな悲しい理由を、書かせるなよハニー。(夕陽に遠く目をすがめる)

 オレはバトン墓場の番人なのさ。いくつものバトンが、オレのもとで息絶えるのさ……。まあ、そんな人生もあるだろう。

 こんだけまっつまっつ言いながら、未だにまっつファン友だち増えないってどういうことだろーねぇ。やっぱわたしがイタすぎるせいなのかねぇ。
 まっつだって「5文字」の人だから、バトンに使えるのに、友だちいないから使えないし回せないし。

 ああ、今日も寿美礼サマはステキだったよ。芝居では銀橋で歌いながら、涙が頬を伝っていたよ。泣かないで美しい人。一緒に泣いちゃうよぅ。
 なのにわたしは、その涙の行方が気になって「いつぬぐうんだ? 泣いたまま次の芝居できないだろう、ジェラール?」と、身も蓋もないことに気を取られていたよ。
 モーリスと話しながら、どさくさまぎれで涙をぬぐっていたよ、ジェラール。モーリスに泣き顔見せちゃダメだよジェラール。ドキドキだよジェラール。
 観劇回数は無事にフタ桁になり、絶好調で花組一色の毎日です。

 そんなわたしの携帯の5文字。

「す」 隅 寿美礼 すみません スカフェ する
「ず」 ずっと ずばり ずつ 済み 頭痛
「は」 入っ 花 入った 発 履いて
「る」 るそう るし るの るよ 留守
「き」 気付かない 着て 今日 きます 金髪

 ……ぜんぜんおもしろくないです、バトンを回す意志はないが、これだけはジュンタンへ向けて、惜しげもなく晒しておきますわん(笑)。
 あ、もちろん「寿美礼」は辞書登録してあります、この単語がなければ日常生活できないもん。

 昨夜、『ラブ・シンフォニー』のまっつとさおたさんがラヴいことについて、ユウさんとメールしたとこだから、「隅」とか「気付かない」とかいう言葉が出てきてるんだな。
 ええ、隅っこでまっつとさおたさんがいちゃついてますから、みなさんチェックしてくださいよ(舞台中央に寿美礼サマがいるから、まず無理です)。

 あ、今日さおたさんがカードで勝つところ、はじめて見た。まっつはいつまでもくやしがってた(笑)。
 今のところ、「ラブ・ゲーム」のカード勝負、わたしの観劇時に勝利するのは、圧倒的にしゅん様が多いです。次がみわっち。まっつが勝ったところは1回しか観たことナイ……。

 や、真ん中で寿美礼サマが歌ってますから、おそらく99.5%ぐらいの人々は、カード勝負、と言っても「なんのこと?」だと思いますが……その、隅っこで小芝居してるんですよ、さおみわまつしゅんの4人が。
 わたしですら、何回かは寿美礼サマ見てて、勝負を見逃してるくらいだもんなあ……。

 寿美礼サマの素晴らしさは言うまでもないことですが、ときどき、まっつの素晴らしさを、全世界に向けて叫びたくなる。

 まっつかっこい〜〜。
 まっつステキ〜〜。
 まっつセクスィ〜〜(笑)。
 まっつ歌ウマ〜〜。

 あ、いかん、一ヶ所つい(笑)が入ってしまった。

 そんなわたしの携帯の「ま」の変換候補は、もちろん冒頭が「まっつ」でしたとも。

 まっつまっつまっつ。


 「顔が同じ」ことからはじまるラヴストーリーは、好きだ。
 好みのパターンの物語だ。
 ツボなネタだからこそ、はずしてはならないポイントがある。

 すなわち。

「顔が同じだから好きなのか」
「いつ、本人を好きになったか」
「自分は(相手は)身代わりではないのか」

 これらのことに、きちんと答えを出すこと。
 「顔が同じ」は、きっかけでしかない。「顔が同じ」だから、知り合うことになったし、好意または興味を持った。
 だがそれはあくまでも「きっかけ」だ。それからどんな関係を築くのかは別。

 このきっかけを元に築かれる「関係」こそが、わたしの萌えツボなんだ。

「わたしの顔が、死んだ恋人と同じだから愛したんでしょう? 別の顔だったら、わたしのことなんか好きになってないわよね?」
 とか、
「彼女を愛している……でも、ほんとうだろうか。僕が恋してきたのは写真の中の彼女で、現実の彼女ではないんじゃないのか?」
 とか、
「アナタが愛していたのは私の母であって、私じゃない。アナタは私の中に、母の面影を見ているだけなのよ!」
 とか。

 「身代わり」からはじまったのに、いつの間にか「真実の恋」になるのがいいの。

「誰でもいいんじゃない、君でなきゃダメだ!」
 ……という、定番展開。

 ツボがしっかりしているだけに、このポイントをはずしているものは、逆ツボになる。

「わたしは不死のハーフ・ヴァンパイア。あれから半世紀、愛したアランはもう死んでしまった。でも、彼に孫がいるらしいから、会いたいわ。あら、さすがに孫ね、彼にそっくり!」
「子どもの頃からずーっとあこがれていた、ヴァンパイア映画のヒロイン。彼女にそっくりな女の子が現れた!」

 ……て、これだけのネタで、次の瞬間相思相愛になられても、こまる。

 わたしが『シルバー・ローズ・クロニクル』に対して、萌えることができなかったいちばん大きな理由です。
 せっかくの萌え設定なのに、萌え設定であるからこそ、描き方の杜撰さがつらい。
 エリオット@ゆみこ、アナベル@さゆのふたりは、それぞれ「顔が同じ(恋人の血縁)」という理由で相手に好意を持つ。それはかまわない。問題は、そのあとどうやって、どんな葛藤を乗り越え、「顔が同じの他の誰かではなく、アナタ自身を愛している」という答えにたどり着くか。
 そこを描いてくれない物語は、不誠実だと思う。

 最初はプラスに働いた「顔が同じ」だということが、愛が盛り上がるにつれマイナスになるはずなんだ。
「最初は、似ていたからうれしかった。でも、愛すれば愛するほど、似ていることがつらくなる……」
 いっそ、まったくの別人なら、似ても似つかない人ならよかったのに。
 似ているから愛した? そんなことはない、最初はそうだとしても、今はチガウ。チガウはずなのに……あの人を愛していると錯覚しているのだろうか。
「鏡を見るたびに、嫉妬するんだ。これが、君の愛した男の顔なんだって。僕ではない……僕と同じ顔の男に、嫉妬し続けるんだ」
 ぐるぐる混乱、うだうだ葛藤。

 そういった一連の苦悩を越えて。

「身代わりでもいいんだ。彼を愛しているその心ごと、君を愛している!」
 とか、
「身代わりなんかじゃないわ。たしかに最初アナタに興味を持ったのは、アナタが彼と似ていたから。でも、今はチガウ。私が愛しているのはアナタ自身よ!」
 とか。
 よーやく本当の相思相愛にたどり着くのが、「顔が同じ」からはじまる恋愛ドラマの醍醐味だろう。

 それを描かずに「顔が同じ」=「愛」で終わっていると、「簡単だな」とゆーことになる。

 えー、混同しないでほしいのですが、役者の話ではありません。
 ゆみこちゃんとさゆちゃんが、ちゃんと愛し合っていることはわかる。身代わりではなく、顔が似ている云々とは関係なく、本人同士が愛し合っているんだってことは、彼らの演技を見ていればわかります。
 脚本に描かれていない部分を、役者が力業で埋めているわけですよ。
 だから彼らの問題ではなく、そもそも脚本に何故、主役とヒロインの恋愛が描かれていないのかということを言っているわけっす。

 行間を読む、とか、そーゆーことですらない。
 行間もナニも、最初から、描かれていないんだもん。
 わたしたち観客側に、「エリオットとアナベルは恋をする」という前提があるから、その「お約束」に助けられているだけ。脚本には「恋愛」は描かれていない。

 顔が同じ→相思相愛→永遠の愛、という展開の乱暴さに、ついていけなかった。
 いったいいつ恋愛したのアンタたち?! とびっくりしているうちに、「ヴァンパイアでもかまわない、愛してる!」で、ひたすらコメディでどたばたしているうちに、次の瞬間じじいになって「永遠の愛」になだれ込むんだもの。
 顔が同じ、から、相思相愛に至るまでの話はどこよ?
 エリオットはまだ「写真の女の子」「映画のヒロイン」にあこがれていただけだから、同じ顔の生身の女の子と出会って好意を持つ、のはわかるけれど……。(それにしたって、偶像への憧れと現実の恋の区別は描く必要があるが)
 昔の恋人の孫に対して、なんのためらいも持たず恋するアナベルは、気持ち悪いぞヲイ。誰でもいいのか、よーするに。アランのことも、大して好きではなかった? 半世紀前、つっても、眠っていた彼女にとってはつい先日のことなんじゃないの?

 なんか少年マンガの「恋愛」みたいだ。
 「愛している」という前提で、それを理由に主人公ががんばったり、出来事が展開していったりはするけれど、「愛」そのものについてはなにも描かれない。
 愛ゆえにエリオットは詩を書いたり悪者と闘ったり(闘ってないか・笑)するけれど、愛ゆえにアナベルはブライアンに噛みついたり、一旦エリオットから身を引いたりするけれど、「愛」に至る過程はナシ。もうできあがった、完全体の「愛」があって、球技のように「愛」を中心にキャラクタがバタバタやっているだけ。

 「顔が同じ」という、わたしの好きなパターンからはじまるだけに、わたしは「恋愛」が観たかった。

 恋愛モノだと思わなければ、ただのお笑いモノだと割り切れば、たのしいのかもしれないが。
 ラストでとってつけたように、「恋愛モノ風」になるから、余計にこまるんだよなあ。

 や、繰り返すが、役者はちゃんと「恋愛」しているから、なんとか「恋愛モノ」のようになっているけれど。
 このひどい脚本で、それでも「恋愛」して、描かれていないことまで「描いてある」ように演じてしまう、ゆみこの実力とハートフルさには脱帽しているのだけど。
 役者の力業で誤魔化すのではなく、誠実な脚本を書いて欲しかったんだ。

 彩吹真央は、「恋」を演じられる役者なんだよ。
 彼に本気で、「恋愛モノ」を演じさせて欲しかったんだよ。


 こんなに長くなるはずじゃなかったのに……新人公演『アデュー・マルセイユ』の感想ラスト。

 毎回思うことだが、花組はやっぱ芝居は苦手な組なんだと思う。新公になると途端レベルがやばくなる……。芝居以外のところで挽回できる作品ならいいけれど、今回は「アピール上等!」な場面がなかったから、きつかったかな。

 そんななか、マドレーヌ@さあやちゃんの上手さはうれしいなあ。技術だけでなく、心が感じられる存在感。歌声も心地いいし。
 や、少年院での短い場面がすげーよくて。わずかな台詞しかないのに、ドラマが込められている。ここだけで涙腺スイッチ入るよ。

 さあやと対をなすカタチでソロがあるイヴェット@萌子。
 以前からnanaタンと「萌子は『歌手』か否か」という話題が繰り返されていたのよ。エンカレ以降のもえりちゃんしか知らない(や、萌子@『Young Bloods!! 』がファースト・インプレッションだった)わたしは、「萌子? 歌手カテゴリなんじゃないの?」だったが、ゆみこDSから知っているnanaタンは「いや、歌手ではない」と主張し続けていた。ゆみこDSのもえりは、そりゃーすごかったらしい。
 ものすごく上手いとは思ってないが、分けるとしたら歌手カテゴリかなあ、と、漠然と思っていたが……今回のイヴェット役を見て、「たしかに『歌手』ではないな」と見識を改めた。……で、nanaタンに「そうでしょう!」と力強く肯定される。
 高音が出ないのは、娘役としては「歌手」になりにくいよなあ。それでも、ゆみこDSですばらしく音痴だったというのだから、ここまで歌えるようになった彼女の努力に乾杯。
 華やかな容姿は本公演でも十分目を引く。可憐な役は苦手なのかな? 前回の新公、小林少年に比べ苦戦していたような。
 てゆーか、アルバイトの夜の女の方が、生き生きしていてステキだったんですが。

 子役たち、研2と研1コンビはあまりに子どもすぎて、どーしよーかと。
 十分上手かったけれど、彼らが演じているのは「子ども」であって、「男役」ではない。タカラヅカである以上、そして娘役が演じているのではない以上、最低限「男役」でなければ意味がないと思うんだが……。
 まだ男役芸ができていない、だけど期待に新人に子役をやらせるのは劇団的によくあることだ。少年ジェラール@真瀬、少年シモン@真輝共にそれぞれの期の成績上位者たちだよね。文化祭で活躍していたことをおぼえている。
 せっかくのチャンスだから、もう少し「男役」であることにこだわった役作りをしてほしいなあ……演出家の意図なのかなあ。本役のだいもんとるなが評価を受けているのは、ナチュラルに「少年」だからだと思うんだけど。「子ども」でなく、「少年」。まず、「男」であること。
 もったいないなあ。

 アーサー・ウォッチはすでに趣味になっているんだが(笑)、新公のアーサーは警官その2役。本役はふみかで、ナニ気に歌が多くて、しかも正面を向いて歌う場面があったりしてけっこうオイシイ役だったりする。
 ふみか警官にいろいろ表情があること、客席へ向かって演技しているのをおぼえているだけに……アーサーの能面ぶりに、ツボる。
 期待を裏切らない人です。はい。

 
 えーと、主立った人たちの感想は書いたかな。

 あと、愉快だったのは、さあやちゃんの挨拶。
 や、彼女はとても端正に礼を尽くした気持ちよい挨拶をしたのだけど。
 ただ、言っちゃったんだよね。この作品を「アクション・コメディ」と。

 彼女がそう言ったときの、客席の微妙などよめき。
 コメディだったのか……コメディなのか……ざわざわざわ。
 そうじゃないかとは危惧していたけれど……や、そうだったらやばいっつーか、チガウだろ、と思いつつ……。
 少なくとも出演者はそう思って演じているのか? そのわりにコメディ部分は少ないっつーか、バランス悪いけどなー。
 まあ、小池オリジナルっつーだけでコメディ認識でもおかしくないが。

 新公に行けば行くほど、タカラヅカへの愛着は深まっていく。
 もっと「好き」をたのしむために、なんとか時間をやりくりして新公に行くんだよなあ。
 月組新公が観られなかったのが残念。日にち変えてくれりゃー、東宝まで観に行ったのに……くすん。


 今日はケロの誕生日。
 博多『マラケシュ』からオサコンあたりのデータを、整理をするかたわらうっかり読み返しちゃって、わたしがまっつにハマッていく過程を、まざまざと見せつけられる。
 そ、そうか……こーやってあたし、まっつオチしていったんだな……。書いている時点では、自分がまっつを好きだとかハマるとか、まったく予想だにしていないんだよな……。
 すごーく無邪気に、まっつをネタにして遊んでいたり、好きだとか萌えだとか書いてる。まさかそのあと、ここまで堕ちるとは夢にも思わず……ふふふ(涙)。

 ダーリンの誕生日に、今のダーリン(えっ、まっつってダーリンなの?)へハマる過程を追体験するなんて、なんかしみじみしちゃうわー……。
 や、わざと今日なんではなく、ここんとこわりと真面目に倉庫整理してるからさー。fc2の「1日30件しか書き込みできない」という制限が改善されたので、機嫌良くデータをカテゴリ分けしつつ移していってるのよ。
 で、たまたま今日が博多やオサコンだった、という。
 いやあ、改めて読み返すと、この「緑野こあら」って人、ほんとにまっつのこと好きだねっ。バカみたいに好きだねっ。なのに自覚してないんだよ、アホで笑えるよねっ。
 あああ。(アタマを抱えてうずくまる)

 改めて自分が昔書いたモノを読み返すと、感慨も恥ずかしさもひとしおですな。
 それでも、博多『マラケシュ』感想なんか、思い入れの度合いがすごくて、読み返しながらうっかり泣いちゃったりな。あああ、リュドヴィーク好きだ〜〜。当時の想いがよみがえって、切なくて切なくてたまらなくなる。
 春野寿美礼の最高峰は、わたし的には博多版のリュドヴィークだわ……。次点がエロール様。どちらも、哀しさと狂気が、穏やかでありながら激しく揺れ、たまらなく美しい人だった。

 まあ他にも、まっつの投げチューの話とか、バカ満載で素晴らしいしなー。
 鏡の前で投げチューの練習するまっつ、見てみたいよ……。
 まっつオチして2年?経つわけだけど、未だにわかってないよ、まっつのこと。あの恥ずかしいよーな芸風は、わかった上でやってるんでしょうか。それとも大真面目にやって、たんにスベってるんでしょうか……。
 

 19日の深夜、12時になり、20日に日付が変わるなりはりきってケロのmixi日記をチェックに行った。またなにかしら、誘い受日記書いてるかな、と。
 や、はりきりすぎです、早すぎです。まだ日記は書かれてなくて、20日の昼に改めて見に行ったときにはすでに誕生日日記におめでとーコメントが複数付けられていた。
 ち。出遅れた。……や、べつにわたしはコメント付けたりしませんが。好きな人には近づかず、遠くでまったり眺めてます。でも、いちばん乗りになりたかったのよ(笑)。

 あの台風直撃の誕生日から3年。
 ケロちゃんは相変わらずたくさんの人に愛されていて、そしてわたしもまた、のんきにしあわせにヅカファンをしている。

 その、ささやかだけれどとても深い、しあわせを噛みしめる。

 HAPPY BIRTHDAY ケロちゃん。
 しあわせでいてください。


 しゅん様が、萌えキャラ化してますが、いいんですか?!

 新人公演『アデュー・マルセイユ』の話です、はい。

 しゅん様がフィリップ役だというのは、いいんですよ。知ってますよ。
 映画に出てきそうな、「有能」とおでこに書かれたような、トレンチコートが「制服ですが、ナニか?」な、かっこいー捜査官でしたよ。
 本役が立さんだからといって無理に老けることなく、若々しい、でもキャリアは十分、って感じの仕事盛りの男。あー、ケロで見たいな、この役……と、ふと思ってみたり(唐突な)。

 そっちはいいの。「しゅん様、相変わらずオトコマエ〜〜」とぼーっと眺めているだけでよかった。

 問題は。

 アルバイトの、シュバリエ商工会議所所長の方。

 ヘタレめがねっ子キタ〜〜っっ!!

 や、無駄にキャラ立ってますから。無意味に目立ってますから。
 や、芝居において無駄とか無意味とかないですから。それはわかってますから。
 でも、やっぱその目立ち方はなんなの?

 あたしを萌えさせるのが目的?!

 カーテン前コーラス時には、力一杯へこへこオドオド、キョドりながら右往左往。
 あの美貌にダサ眼鏡かけて。あの美貌をくしゃりと崩してなさけな〜い表情浮かべて。

 フィリップのときの、すきっとした二枚目ぶりとのギャップがすごい。
 しゅん様のこのバイト姿見たときは、目が点でしたわよ。
 だってこのあとすぐにまた、フィリップになってしゃきっと現れるんだもん……。

 あああ、かっこいー、しゅん様〜〜。かわいー、しゅん様〜〜。
 まさかしゅん様がめがねっ子してくれるとは思ってなかったわ。

 
 さて、花組を観るときのおたのしみ、我らが巨乳娘ゆまちゃん。
 今回のショーではロケットを卒業してしまい、寂しい限りですよ……や、そのあとのドレス姿はステキなんですけどね……胸の谷間もたのしめるしね……。

 そのゆまちゃんが、レビュースター・ジャンヌ役だというのだから、期待も高まる。
 際立つ美貌と豊かな胸、がトレードマークの彼女だが、演技に関しては不安要素がいつまでもつきまとう。それくらい博多座の『マラケシュ』は強烈だった……。

 ジャンヌのレビュー衣装は、初日に観たときから不満だった。
 露出が極端に低いのだ。
 女の振りをしているが、じつはお○まだから、露出できないのかと、本気で疑ったわ。
 ええい、肩ぐらい見せろ、脚ぐらい見せろ、つか、太股見せろ〜〜!!

 でもいちばん痛烈に思ったのは、その衣装じゃ、胸の谷間が見えないじゃないの、新公のとき!! という憤りだ(笑)。

 みわっちの胸を見るのはあきらめられても、ゆまちゃんの胸が見られないのは残念過ぎるっ。
 露出度を上げろ〜〜。

 新公では衣装変わらないかなぁ……みわっちの衣装は入らない、とかで、ふつーにダルマ姿になってくれないかしら……。
 期待したのになあ。
 胸をぱつんぱつんにふくらませて、同じ衣装なんだもん、ゆまちゃん……。

 ジャンヌ役、ゆまちゃんはがんばっていました。本役みわっちのジャンヌをなぞり、それらしい話し方をしたりしていました。

 ……最初のうちは。

 物語が進むにつれて、どんどん「無理をしている」部分が剥がれていきます。無理……というのは変か。「演技している」と言った方が適切かな。

 気がつくと、ジャンヌは、マリィになってました。

 つまり、演技しているのかしていないのか、ただ地のまま喋っているだけなんじゃないのか、という、あのいつものゆまちゃんです。

 姐さん、ではなく、ふつーに若い女の子、になってました。レビュースターの女の子。若くてぴちぴち、アイドルですとも。男を尻に敷くのも当たり前。なんてったってアイドル。アイドルはやめられない。

 もちろん、それはソレでありなんだけど。
 ジャンヌは姐さんでなければならい、ということはない。かわいい若い女の子、でもまちがいではない。
 ただ……。
 ゆまちゃんが、なにをやっても同じキャラになってしまう、というのはどーしたもんかと思いました。

 アテ書きしてもらえれば、問題ない持ち味だと思うけどね。

 
 期待の美少女、月野姫花ちゃんは抜擢だよね?の、ミレーユ役。本役はすみ花ちゃん。
 配役チェックしてなかったから、幕が開いていきなり姫花ちゃんがいておどろいた。ののすみの役かよ?! すげえなそりゃ。

 かわいー。顔ちっちゃー。
 その可憐な美貌がうれしい。すごーい、歌ってるー、踊ってるー。

 しかし。

 ……演技は、相当やばいっすね……。

 や、学年からすれば仕方ない。これから場数を踏んで成長していくのだ。
 今は表情、発声、滑舌、課題だらけ。つーか、演技以前だろヲイ、状態。

 また、一緒にいるのがののすみとくまくまでしょ? 分が悪すぎるわ。

 ののすみちゃんは納得のヒロインっぷりで、演技力でセンターがどこかを表現しているし、くまくまちゃんは、爆走中だし。

 ののすみよりなにより、くまちゃんの容赦のなさにウケたよ……。トリオなのに、ヒロインは別扱いだから姫花とコンビのはずなのに、並ぶ気なんかぜんぜんなくて、できない姫花を置き去りに自分ひとりちゃーんと「女優」してるんだもん。
 強いなあ、くまちゃん(笑)。大変だな、姫花ちゃん。

 眼鏡をかけても萌えキャラにならないくまちゃんは、そこがかえって味なのだ。彼女の魅力なのだ。
 強い上昇志向と野心がギラギラしていて、ダイスキだ。そのまま突き進んでくれ。

 そして姫花ちゃんも、負けずに羽ばたいてくれ。なんにもできなくておどおどしている姿は、可憐な美少女であるだけにかわいらしいのだし。

 
 ……とまあ、萌えキャラな女の子がいっぱいで、素晴らしいですな、花組。
 あ、しゅん様は男の子だっけ。でも姫ポジ一直線な気もするぞ、彼(笑)。


 じつは初日を観たとき、ジオラモ@まっつを見て爆笑したあと、猛烈に思ったのよ。新公の、ジオラモ@めぐむが楽しみだ、と。

 だってさ。
 まっつはなんつーかこー、見ていて落ち着かないと言うかむずがゆいというか、いろいろつらいものがあるんだけど、めぐむなら、この役似合うんぢゃね? ぶっちゃけ、まっつよりオヤジ似合うだろうし。
 その昔、オサコンで「若く見える順番に並べ」をやったとき、いちばん老けているとされた扇めぐむくんですから。まっつよりも「老けている」認定を受けてましたから。(ちなみにオサ様は、「アタシはまっつより若い」と断言してました。さらに、そのオサ様よりもその場にいた誰よりも、いちばん「若い」ことになっていたのはみわさんで、まぁくんと一緒にいました。みわっちおそるべし)。

 黒塗りちょびヒゲのめぐむ。……うわ、かっこよさそう。歌もめぐむなら聴き応えあるだろうし。

 と、いちばんの期待を胸に新人公演『アデュー・マルセイユ』を観て。

 ……あれ?(首傾げ)

 実際、すごく、かっこよかった。ジオラモ@めぐむ。
 豊かな体格に黒塗り+ヒゲがオトコマエ。派手なタキシードに葉巻が似合う。てか、ナチュラルに、オヤヂ。若者が無理しているビジュアルではない。

 見た目は、期待したとおりの色男なんだが……。
 どうしちゃったんだ? なんとも精彩に欠けていた、気がする。
 
 ジオラモという役は、「おかしさ」がないとつまんないんだなー、と改めて思った。
 なんとも胡散臭くて、嘘臭い悪役。なにしろ場違いにひとりだけミュージカル仕様。他の悪役たちとちがい、「悪の目的」がない人なので、別のところで個性が必要。
 
 その「胡散臭いちょい悪オヤジ」「どっかユーモラスなちょびヒゲ艶男」というポジションを、ペラン@マメが取ってしまったので、あとから出てきたジオラモはどうにも分が悪い。
 カラダは誰よりでかいのに、なんか地味で、個性が見えなくて、つまんなかった……。

 でもってジオラモの「ひとりミュージカル」の歌って、難しかったんだね。歌手カテゴリのめぐむがまったく歌えていなくてびっくり。まっつも初日は手こずってたもんな。
 

 さて、ジオラモが沈没している分、「悪の親玉」役を務めたのは、おいしかったペラン警部ではなく。

 悪の華クラウディア@きらりだった。
 
 すべては彼女の手のひらの上、だよね? 少なくともジオラモは、彼女の操り人形だよね?
 台詞も歌もほとんどないクラウディアが、その美貌と蠱惑的な微笑みをもって悪党ズの中で君臨してました。

 ジオラモに精彩と個性が消えた分、その横で妖しく笑うクラウディアの美貌と湛えた毒が効いてます。
 いやあ、美しいね、クラウディア。邪悪だね、クラウディア。やらしいね、クラウディア。

 影の支配者が彼女だってのは、いい感じですよ。

 
 さて、もうひとりの悪役、リシャール@らいらいときたら、クールな色男でした。

 本役のはっち組長ほど、「暴力の人」というイメージがない。
 ジゴロ上がりで自分の美貌と美学にこだわりがある、ナルシストゆえに冷酷な人に見えた。
 美術品収集とかが趣味でさ、ワイングラス片手に「美しい……」とか言ってそうってゆーか、塩沢とか子安とかが声をアテるアニメの美形悪役みたいだ。

 嘘くさい二枚目が似合うね、らい(笑)。それでこそらい(笑)。

 
 モーリス@ちゃーは……小物でした。

 本役の壮くんより、さらに小物ってのはすごい(笑)。壮くんも大概なんだが、それを上回るなんて。
 壮くんモーリスはバカのイメージが強いけれど、ちゃーモーリスは小物イメージが強い。
 ふつーの人、に見えるからかもしれない。ふつーのサラリーマン。ふつーの公務員。ふつーだからこそ、魔がさして悪いことしちゃいました、っていうか。
 壮くんってよくも悪くも美貌の人で、華だけはすごーくあるんだよなあ……そして、それゆえにバカ度も跳ね上がるんだよなあ。

 壮くんのキャラを懸命になぞりながら、バカというよりひたすら小物になっているちゃーモーリスの、ひとの好さが愛しい。
 あー、好きだなー、こいつ……(笑)。

 
 で、この面子に胡散臭い色男ペラン@マメでしょ。
 ユニットとして素晴らしいですよ。

 アニメだわ。

 悪の女王・きらり。
 スリットから白い太股をチラ見せしながら、世界征服を企む美女。

 女王の腹心・めぐむ。
 女王の命令を伝える、忠実な部下。対外的には彼がボスであるような振りをし、女王を敵の刃から守る。老け顔だが実はまだ青年。

 悪の宰相・マメ。
 老獪な政治家。人生の愉しみ方を知っているダンディな中年男。

 悪の将軍・らいらい。
 己れの美学に則り冷酷に命令を下す美青年。手には赤い薔薇1輪。醜いモノはキライ。

 悪の王国のペット・ちゃー。
 小型犬。きゃんきゃん吠えて、愛らしい。

 
 や、最高っすね! 鼻息荒くなりますよね! ヤッターマンなんかメぢゃないっすよね! 蹴散らせますよねっ!!

 
 そして個人的に、まっつの衣装は、やっぱりめぐむには入らなかったんだろうな、てのが萌えです。
 『ファントム』の赤い闘牛士衣装に引き続き、タキシードが別物っぽかったのがツボです。
 役の中でいちばん豪華な衣装(オーベロン様除く)ばかりが入らなくて、一段地味な衣装に変更になっているっぽいのがもお……不憫というか、ごめんね小柄で!という気持ちになるというか。(誰の側に立ってものを言ってる?!)
 がんばれまっつ、がんばれめぐむ。

 悪党ズは、本役も新公たのしいなー。


 そもそもこの「作品」が「良かった」部分ってのは、「春野寿美礼退団作品」であることにこだわって作られていることのみだ。

 「オサに似合うのは孤独。オサにせつなげに孤独を歌わせよう」→なんで「孤独」なのかはあとから考えよう。辻褄? オサが孤独ならそれでいいじゃん。
 「オサにヅカならではのラブシーンをさせよう。『忘れ物』だよ、どーだ、うれしいだろ」→恋愛部分ろくに描いてなくても、トップとヒロインは恋愛するっていう前提で観劇してるんだから、無問題。辻褄? オサがラブシーンやってりゃそれでいいじゃん。
 「同時退団じゃないから、ヒロインとは別れる、彼女の未来を見守るようにする。ついでに、残されるファンへのメッセージを込める」→現実の状況を入れることが先決。客はストーリーより「贔屓退団」という自分の都合に酔いに来てるんだから。辻褄? 自分=ヒロインと思える一場面がありゃそれでいいじゃん。
 「最後は『アデュー』って言わせよう」→退団の最後の台詞なんだから、ストーリー考える前から決定済み。辻褄? オサが「アデュー」って言うならそれでいいじゃん。

 こーゆー理由で作られているから、この作品から「オサ退団」というパーツをのぞくと、ただの壊れた駄作になる。
 や、「退団作品」というフィルターがあるから、「ファンのために」作られた部分は「良い」と評価されることになるんだけどね。

 新人公演『アデュー・マルセイユ』は、「オサ退団」というパーツがないので、ただの壊れた駄作、ソレを技術と経験の足りない若者たちでどう料理するか、という、いつものタカラヅカらしい課題を与えられていた。

 新公を観ると、作品のアラがより鮮明になり、「このひでー話を、なんとか盛り上げていたのは本役さんたちの力だったんだな」と思わせることになるのは、いつものこと。
 にしても今回は、「退団」となんの関係もなかったら、そして主役が別人だったら、どーしよーもない話になっていた。

 「見せ場」としてのアテ書きをされているわけだから、そもそもジェラールという役は、オサ以外が演じても意味がないんだよなあ……。キャラ設定もストーリーも破綻してるんだもん……。「孤独と秘密」で「アデュー」と言わせたいためだけに作られたキャラだもん……。

 その、どーしよーもない脚本と役を与えられ、まぁくんが奮闘していた。

 が、別人でした。

 あの人、ジェラールぢゃないです(笑)。

 歌はがんばっていた。
 まぁくん比ですごくうまくなっていたし、努力したこと、丁寧に向き合っていることがわかって好感。
 でも、キャラ的にぜんぜんチガウ(笑)。演じているモノと、演じている人が噛み合っていない。

 また、演出の問題もあったと思う。
 まぁくんが演じているのは「初日」のジェラールだった。

 公演初日と中日を過ぎた現在では、ジェラール@オサは別の人だから。
 他キャラへの対し方、考え方、ぜんぜんちがってるから。
 オサ様は基本「日替わり」だけど、毎回演技がちがうけど、それでも全体を通したカラーはある。そのカラーが、初日と現在では別物になっている。
 そして、わたしはもう「現在」のジェラールに慣れているもんだから、今さら初日のジェラールを見せられても違和感がある。

 あ、ここで笑うんだ。この台詞ってこういう意味だっけ? 今は逆の意味で使ってね?
 ……いちいち違って、とまどう。

 初日と現在では別物ったって、新人たちに「本公演が変わってしまったので、私たちも演出を変えることにしましょう」なんてことは出来ないよな。そこまで求められないよな。
 最初にはじめたモノのままで、最後まで作るしかないよな。

 まあそういうことで、本役よりかなりやさしげなジェラールにはなっていたんだけど。

 それにしても、魂の色が違いすぎる。

 ストーリーもキャラも破綻しているので、要は役者の持ち味勝負だ。

 まぁくんジェラールは、素直で、幼かった。

 見た目の若さだとか技術の足りなさの問題ではなく、彼のジェラールの解釈が、幼かったのだと思う。
 彼が「孤独」と歌っても、それは言葉までの孤独でしかなく、「それは君が今思春期だからだよ、大人になったらわかるよ」という、「少年期の揺らぎ」に見えた。
 ジェラールはもう「大人」で、少年ではないはずなんだが……。年齢的なことではなく、精神的な面で「大人」になっていなかった。
 そこにいるのは傷ついた「少年」で、今はちょっと心を閉ざし気味だけれど、もともと素直でやさしい子なのですぐに打ち解け、初々しく恋をしたりしていた。

 素直で初々しいジェラール……って、それ、ジェラールちゃうやん。

 いやその、それはソレで愛すべきキャラだったんだけどね。

 今まで観た新公のまぁくんの中で、いちばん手こずっているように見えた。
 イケコがただ「オサ退団」のためだけに作ったキャラクタであり、作品であるから、「退団するオサ」以外が演じることはナンセンスなんだ。
 壊れてる分、穴だらけの分を、オサというキャラで満たして嵩上げしている作品なんだもの。
 技術的なことではない、ただ「まぁくんはオサではない」という一点ゆえに、手こずっていた。……気の毒に。

 持ち味勝負するしかないから、まぁくんは今のまぁくんまんまで演じるしかなかった。
 そのために、ジェラールは「少年」になってしまった。
 仕方ない、そーゆー脚本なんだもの。オサがオサである、というだけに頼った作りなんだもの。

 『マラケシュ』にしろ『黒蜥蜴』にしろ、ちゃんと「作品」であり、ちゃんと「キャラクタ」があったそれらの新公の方が、ひとりの人間として演じやすかったのだと思う。
 まぁくんに突出した技術があれば、多少のことはねじ伏せられたかもしれないけれど、そーじゃないからなあ。

 たぶん、だいもんとまぁくん、役が逆だった方が本人たちにはよかったんだろうな。
 だいもんは歌唱力と高温な持ち味で嵩上げしてジェラールを演じたろうし、まぁくんはシモンを演じた方がキャラに合っていて魅力も出ただろう……惜しいなぁ。
 まあ、誰が演じてもジェラールは別人だったろうけどな(笑)。

 それにしても、大変そうだったなあ……。
 そして、今まで見た中で、いちばんダメなまぁくんだったなぁ……。
 もう開き直って、別キャラ認定して演じちゃいなよ。なまじ真似をしようとしてフラフラしているから自爆するんであって。オサ様には絶対なれないし、なる必要もないんだからさ。
 ……演出家が「コピーが基本」のこだまっちでなければなあ……。


 新人公演担当演出家・児玉明子。
 この名前を見ると、途端萎える。
 わたしはこだまっち作品自体はキライではないが、新公演出は勘弁して欲しい。

 こだまっちの新公演出コンセプトは、「本公演の忠実なコピー」だからだ。

 キャラクタから台詞のイントネーションまで、「どれだけ完璧に模倣できるか」を目標にしているとしか思えない。
 その生徒の魅力を伸ばすことは考えない。
 たしかに模倣することで技術を伸ばすことはできるだろう。だが、ただ技術だけが必要な劇団か、ここは? 第一、模倣して得られる技術と、自分の魅力を発揮するための技術がまったく別だった場合、短期間に結果を求められる現代、ちんたら模倣させている場合か?

「仕方ないよ、こだまっちの演出家としての基本姿勢が、『なにかをコピーする』ことなんだから」

 なーんてことをnanaタンと話しながら帰る。
 ははは、そーだよなー、ぱくりっちと呼ばれた作家だもんなー。

 ……って、こだまっちの場合は、笑えない……。

 まあそんなこんなで行ってきました、新人公演『アデュー・マルセイユ』

 こだまっち演出だからもちろん、めざせコピー!! です。

 巧い人や器用な人はほんとーに本役をまんまコピーしてしまうし、下手な人はコピーしようとしても技術が足りずに自爆、巧くてさらに余裕のある人はコピーをしつつも自分なりの味を出す。
 
 わたしの目から見て、今回ぶっちぎりで巧かったのは、シモン@だいもんですわ。

 いやあ最初の方、ジェラール@まぁくんと芸風が合わなさすぎて、どーしようかと。

 まぁくんはスロースターター。大抵最初の方は「大丈夫か、ヲイ」という出来映え。
 反してだいもんは、最初からブースト全開。しかも彼はクラシカルな「タカラヅカ・スタァ」。現代風のまぁくんとの不協和音ときたら。

 おもしろいけど、手に汗握った(笑)。てかだいもん、君の方がすべてにおいて巧いんだから、主役に合わせてやれ。

 だいもんはその実力で、悠々と本役をコピーしていた。

 キャラクタ、表情、仕草、台詞のイントネーション、完璧にコピー。
 またこれが巧い。
 どこの研15だ? 初新公2番手だなんて嘘だよな? 堂に入った演じ方、存在、発声、なによりも、歌唱力。
 まとぶも歌は十分うまくなっているけれど、だいもんはもともと歌手属性キャラだという強みもあるし、周囲の歌がえらいことになっている相乗効果もあり、歌で、ひとり勝ち状態。
 聴かせる聴かせる。うおー、もっと歌ってくれえ。シモンってこんなに歌少なかった? 本公演ではけっこう多いような気がしてたんだけど、なんか聴き足りないよー。もっと聴きたい〜〜。

 男役としての「型」ができあがっているのが強い。
 ふつうに本公演で活躍していそうな、安定した実力。

 あまりに悠々自適で、また、ひとりで巧すぎて周囲と、噛み合っていない。
 浮いてるよ、君……。とくに、ジェラールとの合わなさぶりと来たら……。

 そう考えれば、だいもんも余裕がなかったのかな。終始自分のペースで芝居をしていた気がする。

 演出家がこだまっちでなければなあ。
 だいもんは、巧い。コピーしろと言われたら、本当にそっくりそのままコピーしてみせる。
 そうやって「コピーする」実力があることがわかれば、さらにその上を目指させてやってくれよ。ただでさえだいもんは、今までの新公でも忠実に本役コピーを心がける子だったじゃないか。コピーはもういいよ、次の段階へ進ませてやってくれよ。
 まとぶのシモンは、まとぶだからこそ魅力的なシモンであり、だいもんにはだいもんだからこそ魅力的な、そしてまぁくんジェラールに合ったシモン像があったはずなんだ。
 まとぶシモンのままでは、まぁくんジェラールに合わなかった。丁寧にコピーされたまとぶシモンは、新公の舞台では浮き上がっていた。

 ぶっちぎりで巧かったんだけどな、だいもん……。
 周囲がついてきてないっすよ……。そして、ひとりだけ浮くっつーのは、どんなに巧くても君の方に問題があるっつーことになっちゃうよ。

 
 次に巧かったのは、言うまでもなくマリアンヌ@すみ花ちゃん。

 知性と意志があるように見えたことは、大きい。
 思慮深い女の子に見えた。
 最後のジェラールに「一緒に行きたい」と言うところが、婦人参政運動と恋との間で迷っているのがわかった。
 本役の彩音マリアンヌは、大学受験に失敗してすぐに嫁に行って子供を産んでいるイメージなんだけど、すみ花マリアンヌはほんとーに大学生になってそうだ。

 にしてもしどころのない役だよなあ、マリアンヌって。
 まあ、おバカな描かれ方をした女の子を、バカに見せない、というのは難題だから、それに取り組むのはいいことなのかも? ヅカでは何度でもそーゆー目に遭うだろうから。

 
 本役では、胡散臭い愉快なちょびヒゲ艶男はジオラモだったが、新公ではペラン@マメだった。

 いやあ、胡散臭いです。愉快です。そして、セクシーです。
 たのしそうに表情がくるくる変わり、もったいつけてねーっとりと、二枚目の範疇でユーモラスな悪役を演じています。
 本役の星原先輩はマジでハードな悪役なのに、マメは柔らかさのある色男を好演。

 や、それはいいんだけど……それって本来、ジオラモがやるべきことぢゃないの?

 花組は弱肉強食だから、いいのかな。
 マメが色男ポジション取っちゃったから、ジオラモ@めぐむはちょっと可哀想なことになっていたし。足りなかっためぐむ自身の責任とはいえ。……しかしマメ、容赦ないなー(笑)。

 マメがかっこよくて、ほんとにどうしようかと。胡散臭い色男を演じさせたら、そりゃマメのひとり勝ちだよなあ。

 
 弱肉強食といえば、「アルテミス婦人同盟」でも役割の争奪戦が起こっていた。
 ナタリー@くまくまちゃんが、めがねっこに。

 本役でめがねっこといえば、ソフィー@じゅりあだ。挙動不審な変な女の子。イノシシのように突進して、男を怯えさせるブスキャラ。
 それを、本来しっかりものの美人キャラであるナタリー役が、めがねというアイテムを取ってしまったから、ソフィー役の子はめがねを使えなくなっていた。

 「しっかりものの美人キャラ」の上にめがねまで加え、さらにキツい性格のキャラクタであることを強調していた。

 
 本役のコピー推奨でも、自分なりの味を出すことができたのは、主役クラスの役ではない、ことが大きいのかもしれないが、マメは自在に、そしてくまちゃんは好戦的に(笑)、いろいろやってくれる子たちだなあ。

 つーことで、主演のまぁくんの感想は翌日欄で。


 えー、ところで『ラブ・シンフォニー』のなかの第2章「ラブ・ゲーム」ですが。
 いわゆるカジノのシーン。や、ぶっちゃけダーツのトコと言えば通じるでしょうか。
 アレです、アレ。

 舞台中央にでーんと謎の巨大ダーツボードが立てて置いてあって、それにもたれかかるカタチでオサと彩音がゴロゴロえっちをするという……。

  回 転 円形ベッドを真上から眺めている感じ?

 あの場面の舞台写真が、気前よく売り切れてました。

 舞台写真が数十種類発売され、キャトレにずらっと並んでいるわけです。
 芝居もショーも、いっぱいあるわけですよ、とくにオサ様の写真は。

 一通り眺めたあと、四つ切り写真コーナーに目をやると、そっちにも舞台写真が新たに陳列されてるのね。
 苦悩のジェラールだとか、オサまとだとか、いろいろあるなかに。

 ダーツボードの上で、腰を重ねたまま、身体をくの字に折るオサ×彩音の写真が。

 …………。

 なんか、信じられないモノを見た気がして。
 思わず手にとって、しげしげ眺めちゃいました。

 ダーツの場面の、よりによってコレをグッズ化しますか……。

 その昔フレッド@ワタルとアンソニー@トウコのエロ抱擁写真をグッズ化しただけのこと、あるわ……。

 や、途中で正気に返って、あわててラックに戻しましたがね。
 四つ切りエロ写真をしげしげと手にとって眺める女、になってしまった……ああう。

 なんつーかその写真は、イタズラ書きしたくなるようなデキでした。

 マジックででかでかと、彩音ちゃんの横に「いやぁ〜〜ん♪」(ハートマーク飛ばしまくり)、オサ様の横に喘ぎ声とか「よいではないか、よいではないか☆」とか、そのへんの台詞を、吹き出し付きで。

 アホ系の台詞でも書き込まなきゃってらんないっつーの。
 んなエロ写真どーしろってのよ。

 ん?
 四つ切りがあるってことは、ふつーの2Lサイズのもあるってことだよな?

 そう思い立って、再度写真コーナーを眺めてみたが、他のモノは四つ切りと2Lと両方あるのに、オサあやハァハァ写真だけナシ。

 売り切れてんのかよっ?!!
 みんな正直だなヲイ!!

 四つ切りは値段も高いし敷居も高いから買えないけど、2Lなら買っちゃいますってか。
 ハァハァしちゃいますってか。

 や、オレも2Lあったら買おうと思って探したけどな。
 なかったからな。
 ちぇっ。


 今日は花組東宝発売日。
 もちろんパソコンの前に坐り、時間より前からクリックの練習をし、イメージトレーニングも万全に、片手にマウス、片手に携帯でチケ取りに臨みましたが、完敗しました……。
 ふふふ、いつものことよね……。
 今のところ、友会で当たった1公演だけです、東宝。や、後ろから2列目ですけどね。わたしのくじ運ですからね。
 ふふふ、いつものことよね……。
 昨日も昨日でみっちゃんバウ買えなかったしね……こっちは友会もはずれたしね……。
 

 それはさておき、寿美礼サマの写真集『MOMENT』を買いました。

 
 わたしは舞台の上の春野寿美礼しか知らないので、素顔のオサちゃんは出版物でしか見たことがない。お茶会も行ったことないし、スカステのナウオンも基本見ないし。
 2001年発行のパーソナルブック、2004年発行の写真集、そして今回の写真集。あるのはこれだけだ。
 3冊を見比べてみると、別人?ってくらい、ちがっている。

 人間ってのは、これだけ変わるもんなんだなあ。
 トシを取ったとかどっかいじったとか化粧を変えたとかではなくて。
 立場に伴う内面の変化が、こうやって外面に表れるもんなんだなと。

 人間の顔は、本人が作るものなんだなと。

 昔から一貫して言っているように、わたしが春野寿美礼を好きになったのはまず、顔が好きだからです。
 や、好みの顔っつーのがあってだね。オサ、水、おっちょん、まっつ、うきょーさん、あたりの顔が問答無用で好きなのよ。タイプなのよ。
 顔が好みだから、好きになった。や、わかりやすいです。歌がうまいとか演技がどうとか、下級生時代はわかんなかったし。まず顔でしょ?

 最初の、2番手時代パソブの、若い傲慢さのある顔がダイスキだった。
 わたしは彼の、黒さが好きだったの。無邪気に笑っている奥に見え隠れする、「闇」の部分。

 寿美礼ちゃんは、なんかキャラクタにえらく振り幅があった。
 心の底まで真っ白です☆ と笑うことも出来るし、魂の芯まで闇色です、と微笑することも出来た。
 演技だとは思ってない。計算だとも思ってない。
 彼はナチュラル・ボーン、彼は彼に生まれた。ただそれだけのこと。

 「天才」に生まれてしまった。それゆえに持つ「闇」。
 本人がどんなに「いい人」で「やさしくて」「ある意味天然(笑)」であったとしても、関係ない。性格とは別の場所にある、「闇」。
 翼を持つ彼には、地べたを這いずることしかできないモノの気持ちなんかわからないし、わかる必要もない。
 彼はただ、彼であることをまっとうすればいい。

 や、彼が努力していないとか、技術を磨いていないという意味ではなく。

 生まれ持った翼を広げ、羽ばたくことを楽しみだした、若い帝王。
 空は広く、未知の光に満ちていた。

 ……それが、2004年の写真集では、失速していた。
 疲れた顔、無理の見える、不自然な写真集。スケジュールが決まっていたから、仕方なく出版しました、みたいな。
 や、わたしはこの写真集はあまり好きじゃない。購入したときにかなり茶化した感想を書いて、それで封印。
 オサちゃんが痛々しくて、見ていてつらい1冊だった。

 舞台の上のオサちゃんも、なんかえらい方向へ爆走していた。
 誰も愛さない、相手役を見ない。感性の合う役者以外とは、まともに芝居しない。歌にもお化粧にもキツイ癖が付き、痛い芸風になる。

 彼のまとう孤独さと、惑う混沌ぶりに、胸を痛めた。

 相手役ひとりまともに愛せない狭量ぶりにあきれもしたし、また、そんなところも含め愛しいと思った。

 「天才」であると同時に彼は、「アーティスト」なんだと思った。
 彼の才能を活かす環境が必要なんだ。工事現場の騒音と地震のような揺れの中で、繊細なガラス細工を作れといわれても無理だろう。
 清浄なアトリエを用意してやることは、アーティストを甘やかすことではなく、彼の才能を愛する者の義務なんじゃないのか?

 いちばん力がみなぎるはずの人生の夏を、帝王は苦悩のまま過ごした。
 無限に思えた空には限りがあり、現実は彼を失望させる凡庸さだった。

 そして、今回のサヨナラ写真集『MOMENT』。

 あの若い傲慢さを持ち、可能性にキラキラしていた若者が、壁にぶつかり理不尽な苦渋の時を経て、ここにたどりついたんだ。

 美貌という点ではね、若くない分劣っているのかもしれないよ。年齢はたしかに出ているよ。いろんなところに。
 でもね。
 彼のこの「表情」は、若者ではない、小僧っ子ではない、今の大人のハルノスミレだから出るものなんだよ。

 「男役」としての美しいポーズや表情も、くだけた笑顔もリラックスした仕草も、すべて「今」だからあるの。

 彼がいる場所は、幾多の物語をつむぎ、障害を越え、たどりついた楽園なの。

 春野寿美礼の人生が、今、彼にこの「顔」を与えたの。

 立ち読みとかパラ見とか一切無し、集中して読める状態になるまで封印していた。
 そして、儀式のように、通過儀礼のように、心して開いた。

 最初から、ページめくりつつ「やばいな」と思った。
 あ、かわいい。あ、かっこいい。そんなことを思いつつページをめくって。

 水平線を背景に、踊るオサと彩音の姿に、号泣した。
 
 最初の、見開きの写真。
 まっすぐに引かれた境界線、上の空色、下の水色。
 中心線からずれて、背中合わせのオサと彩音。
 広い世界の、ふたり。

 なんだろう、この「物語」性。
 ここに「物語」がある。
 素顔のオサは、舞台でいうところの「男役」ではなく、しかしいわゆる「女性」でもなく。

 だが彼は、舞台装置も衣装も、あの特殊な男役メイクもなく、太陽の光のもと地球の上に直に立ち、相手役の手を取ることで、ここに「物語」を綴って見せた。

 これは「タカラヅカ」だと思った。
 オサは「タカラヅカ」だと思った。

 彼がその翼で征服しようとし、そのくせあるとき閉塞感で立ち止まった、あの空は、ここにつながっていたんだ。

 次のページから、映画のように踊るオサと彩音のショットが続く。
 まぎれもなく「タカラヅカ」である、美しさで。

 そしてそれは、解き放たれたような、生き生きとしたオサ単体の笑顔へと続く。

 なにか得たような、どこかへ旅立つような、なにかにたどりついたような。
 清浄で、そしてどこかしらエロスを含んだ横顔で、この一連の場面は終わる。

 次のページからは、「作り込んだ」男役としての春野寿美礼のポートに終始する。
 その、コントラスト。
 闇の中から白昼に躍り出て、眩暈を起こすような。あるいはまばゆい光の中から深海へ迷い込んだような。

 そうかぁ。
 ここまで、来ちゃったんだねえ。
 こんなところまで到達してしまったのなら、あとは卒業するしかないんだろうなぁ。

 あの、八重歯の男の子がさぁ。
 こんな表情をする大人になってさぁ。

 わたしを魅了してやまない「天才」春野寿美礼。
 彼のこれまでの人生が、生き方が、歩いてきた道が、今ここで、彼の「顔」を作っている。

 好きになったのは、顔が好みだったからだ。
 歌がうまいとか演技がどうとか、最初はわかんなかった。たまたま顔が好きで見ていたら、声も好みだったし、歌はどんどんうまくなっていって、大好きになった。
 顔はもともと好きなんだってば。世の中的に美人だとはまったく思ってないが、わたしは好きでしょーがない顔なんだってば。

 だけど。
 今、この「顔」は。
 好みだとかタイプだとかそーゆーことではなく。

 「春野寿美礼」をつくりあげたすべてものを、すきだとおもう。

 彼がこれまで歩いてきた、出会ってきた、得てきた、捨ててきた、流してきた、抱きしめてきた、すべてのものに、感謝したい。

 なにひとつ、無意味なものはなかった。若い頃の傲慢さも、低迷を感じた時期も、なにひとつ。
 すべてが、ここへたどりつくまでの布石だった。

 彼がここへたどりつくための物語だった。

 
 たかが写真集でねえ……こんなに泣くなんてありえねえ……てか、いちばん好きなページ濡らしちゃったよ……買い直せっつーのか……わーん。


 『アデュー・マルセイユ』本編の穴を、わけわかんないところを、自分の想像で自分の都合よく補完していく話、の続き、エピローグです。

「14年間の謎が解けたってワケか」
「ああ。俺の心の鎖も解かれたようだ」
 って会話を、シモンとジェラールはしているけれど、ちょっと待て、14年前殺された男がモーリスの父親だった、つーだけで、他はなんにもわかってないじゃん、なんにも明らかになってないじゃん。
 それで解き放たれるジェラールの「心の鎖」ってナニ?!
 と、観客が総ツッコミと化すこの展開。
 このことの辻褄を合わせたくて、それともうひとつ、ラストのジェラールの台詞の辻褄を合わせたくて、長々と書いて来たよーなもんだ。

 ジェラールが任務を離れ、自分の過去の清算のためにスタンドプレイをしたことに、フィリップは気づいているのか。
 静止した闇の中にいたジェラールを、自由に動くことの出来る場所へ、新しい名前と共に放してくれたのが、このフィリップだ。
「来てくれたんですね」
 達観したものを持つ大人の男へ向けて、ジェラールは深いものを含ませた笑顔を向ける。
「舞踏会の晩には、なにか起こると思っていた」
 愛嬌を込めて、フィリップは答える。なにもかもわかっていたかのように。

  
 そうそう、忘れないでマリアンヌのカンチガイを解いておく。
 舞踏会でキスしてしまったため、また彼女は「私はジェラールの恋人」と思い込んでいる。
 あれほど「女性参政」と意気をあげていたことも忘れ、「そんなのどーでもいい、恋がいちばん大切よ」とすがりついてくる。あまりに愚かな「女」部分を剥き出しにした少女。

 「失った自分自身」であるマリアンヌ。彼女の幼さも愚かさも、昔の自分を見ているようで、苛立たしくもあり、またたしかに惹かれてもいた。
 だが人は、子どものままではいられない。
 少年時代に郷愁はあっても、もうそこに還ることはできない、帰ってはいけないのだ。
 罪も傷も、見て見ぬふりは出来ない。割れた花瓶を継ぎ合わせて割れていないことにするのではなく、割れてもう今はなくなってしまったけれど、美しかったこと、愛していたことを心に刻んでいればいい。

 罪を告白し、魂を解放したあとのジェラールには、マリアンヌのことは男女の感情には結びつかず、むしろ兄が妹を思うような穏やかな感情に昇華されている。
 幼い君にはまだわからないだろうけれど、いつか君も、心の傷を傷と認めて、自分自身を受け止める日がやってくる。

 彼女の愚かさは、ジェラールにもたしかにあった愚かさ。
 否定するでなく蔑むでなく、とても愛しく思う。

「大きな未来に向かって進んでいくんだ。君は君の未来に向かって、僕は僕の未来に向かって。……落ち着いたら手紙をくれ」
 新しい世界で生活することで、少女はきっと彼への気持ちを忘れるだろう。恋に恋していただけだと気づくだろう。
 今、気休めが必要ならばいくらでも、彼女が望む言葉とやさしいキスを与えてあげられる。

 マリアンヌから届く何通目かの手紙は、結婚式の招待状かもしれない。たぶん彼女は、政治家になどならずふつうに、ごく若いうちに結婚するだろうから。

 
 シモンがバカで幸いした。
 彼は「刑事のジェラールがスコルピオ組の潜入捜査のためにマルセイユへ来た」と思い込んでいる。
「この野郎、俺を担ぎやがって!」
 と笑うシモンは、そもそも自分が疑われていたことを、カケラも疑っていない。
 「親友」である自分は、「清廉潔白」である自分は、他人から疑われることなどないと、素直に信じ切っている。

 ジェラールに絶交を言い渡した理由も、「これ以上お前を疑いたくない」だった。
 ひとを疑うことに慣れていないシモン。想像もつかないシモン。

 ジェラールの「もうひとつの未来」であるシモンは、今のジェラールが持ち得ない素直さでキラキラ笑う。

 シモンには、なれなかった。
 だけどもういい。ジェラールはジェラールだ。シモンになる必要はない。
 たしかに罪を犯した。卑怯だった。臆病だった。
 だが、己れの弱さを受け止め、傷として糧としてその魂に刻み、前へ進むことができるのも、他でもないジェラールだからだ。
 幼くまっすぐな誰かでも、純粋で疑心を知らない誰かでもなく、間違いやら歪みや澱みやらを全部持ち合わせたジェラールだからこそ、進む道もある。

 なにも知らず、理解しようともせず、シモンは笑う。

「俺たち、ずっと友だちだもんな」

「ああ、友だちだ」


 バカみたいな会話。
 だけど、それでいい。
 シモンの変わらないバカさに、ジェラールは救われ、惹かれてきたのだから。

 唯一、ジャンヌはすべてを察していたかもしれない。ジェラールの手相を見て「秘密が消えてる」と言う賢い彼女は、なにもかもわかったうえで、バカなシモンを愛するのだろう。

 
 ジェラールの「心の闇」そのものだった美しい故郷マルセイユ。
 それまでここは、「帰りたくても帰れない」場所だった。
 仕事を名目に、純粋だった少年時代を、粉々に打ち壊すためにやってきた。
 帰れない場所ならば、もう二度と意味など持たないくらい、完全に葬り去りたかった。

 だが、己れの罪を認めた今、ジェラールはジェラール自身を取り戻した。

 少年時代の彼も、彼がなるはずだった未来の彼も、彼の罪の結果も、すべてを受け入れた。

 美しい故郷マルセイユ。
 これでいつでも、帰ってくることができる。
 いつふらりと訪れても、親友はあたたかく迎えてくれることだろう。

「アデュー」
 と、彼がつぶやくのは、彼の中の故郷。
 彼の心の闇。彼の幼さ。

 彼を縛っていたのは、事件でも犯人でもなく、彼自身の弱さだから。

 振り返る彼の目に映るマルセイユの人々は、やさしい仲間たちだけでなく、観光客も街の人間も夜の女も、スコルピオの男たちまでいる。
 清も濁も、すべてがみな、美しい光の中にいる。

 光に目をすがめ、愛しそうに見回して。受け止めて。

 だから彼は、永い別れの言葉を口にするのだ。


 えー、ラブ・ロマンスも佳境となってきました。
 『アデュー・マルセイユ』本編の穴を、わけわかんないところを、自分の想像で自分の都合よく補完していく話、の続き、ついにクライマックスです。

 
 モーリスは追いつめられている。偽札製造を秘書の責任に押しつけたとしても、政治家としての道は閉ざされるだろう。その秘書は市民たちの前で逮捕されたのだから、事件自体を闇に葬ることは不可能だ。
 愛する少女からも拒絶され、仲間だと思っていた男たちは父殺しの犯人で、自分は騙されていた。
 夢を失い、愛を失い、居場所すらなくした。

 それがすべて、今目の前にいる男が発端となっている。
 刑事として告発した、というだけでなく。
 14年間、真実を隠匿した男なのだ。

 モーリスの不幸は、すべてジェラールが原因だ。
 14年前の事件、そして現在の事件。
 いつもいつも。
 この男が、俺からすべてを奪い取る。
 父親の名誉も、自身の夢も、愛する女も。

 モーリスの手には、銃。凶器。人の命を奪うことの出来る武器。そう、14年前父がこの武器によって命を終わらされたように。

 復讐することが出来る。
 彼が過ごした14年間の、ゆがんでしまった人生の、復讐。

 せっかく用意した衆人環視の舞台を捨て、関係者(と、囮として使用したマリアンヌ)だけで地下水道へ移動してきたジェラールの目的は、真実を告げ、モーリスに一旦判断を委ねること、だった。

 モーリスが復讐を考えるのなら、それを受け入れるために。
 彼にその機会を与えてやるために。
 職務も倫理も手放した。マリアンヌの命も危険にさらした。

 ただ、モーリスのために。
 彼に真実と選択権を与えることで、償おうとする自分の心のために。

 これは、賭けでもあった。
 真実を知ったモーリスがどうするか。
 ジェラールが殺されるかもしれないし、モーリスが自殺するかもしれない。
 それでも判断をモーリスに任せ……そして。

 タイムリミットが来た。

 ICPOのフィリップ刑事がパリ警察の協力を得て、地下水道へ現れた。
「来てくれたんですね」
「舞踏会の晩には、なにか起こると思っていた」
 ……て、お前ら打ち合わせてなかったんかい!
 と、観客が総ツッコミと化すこの展開。フィリップが独自の判断でやって来なかったら、悪党VSジェラール+オリオン組VS混乱した警官たちの大混戦の銃撃戦、屍累々になっていたところだ。巻き添えを食ってマリアンヌもジャンヌも死んでたんじゃないか?
 作者がなにも考えていないだけなのは一目瞭然だが、本編は結果オーライでなし崩しにハッピーエンドになっている。

 何故ジェラールは、計画をフィリップに知らせず単独で事を起こしたのか。それまであれほどマメに連絡を取り、指示を仰いでいたにもかかわらず。
 彼は刑事としての任務より、自身の償いを優先させたんだ。
 犯人が死のうが逃げようが、関係なし。モーリスの手にしていた偽りをすべて奪い取り、丸裸になった彼に真実を突きつけるためだけに、上司に無断でこの大イベントを行ったのだ。

 これは賭けだった。
 フィリップがジェラールの動きを知り、駆けつけてくるまでの間だけの。

 リシャールやペランを殺すことも、ジェラールを殺すことも、自殺することもできた。
 しかしモーリスはどれを選ぶことも出来ず、フィリップ登場によって逮捕された。

 真実は明かされた。
 ジェラールはもうなにも偽っていない。
 14年間握りしめてきた罪は、告げなければならなかった相手に届いた。
 それでどうするかは、モーリスの問題だ。

 逮捕されたモーリスと、ジェラールはしばし見つめ合う。
 殺された男の息子と、見殺しにした男が見つめ合う。

 抱きしめることが出来たら、よかったのに。

 彼が罪、彼が過去。
 今、未来へ進むために。

 抱きしめることが出来たら。

 これは賭けだった。
 モーリスがジェラールを殺すか、自殺するか。
 だが、どちらにも針は傾かず、双方生きたまま賭けは終わった。
 賭けは、3つめの結果となった。

 これからも生き続けるモーリスを、支える。

 ジェラールが歪めてしまった彼の14年間を、償うために。なにもかも失った彼のこれからの人生を、彼が立ち直るまで陰に日向に支え続けるのだ。
 そのためには、ジェラール自身がまず、立たなければ。自分の足で。ジェラール自身として。

 14年間、孤独な人生を歩んできたのは、ジェラールだけじゃない。モーリスもまた、同じように暗い道を歩いていた。
 ふたりの男はそうとは知らず、同じ道を平行して歩いていたんだ。
 このマルセイユでふたりの道は交わり、今、ひとつになった。

 死んだ方が楽だったかもしれない。
 ジェラールも、モーリスも。
 それでもふたりは死ぬことなく、地下水道をあとにした。罪がはじまり、罪が終わった場所から、光射す地上へ出た。
 だから生きるんだ。

 彼の「美しい故郷」。
 彼の「罪の結果」。
 彼の「罪と罰」。
 彼の「償い」。

 いつかジェラールの心はモーリスに届くだろうか。
 過ごした孤独な日々を、慰め合う日が来るだろうか。
「あのとき撃っておけばよかったのに」
 と、この日のことを笑い話に、酒を酌み交わす日が来るだろうか。

 ふたりの魂の罪人は、「こいつムカつく」とケンカしながら、それでも歩いていく。
 前へ。

 暗い地下水道を出て。過去と決別して。
 

 今、「孤独と秘密」は完全に消えた。
 己れの罪を隠匿し、それゆえに誰にも心を開くことが出来なかったジェラールは、自分の心を縛る鎖から解放された。


 書きはじめてもう何日も経つし、恋愛アドベンチャーゲームで誰それシナリオとか脱線しつつ進んでいるので忘れがちだが、そもそもジェラール×モーリスの物語のつもりで書いてるんだからね!の、『アデュー・マルセイユ』本編の穴を、わけわかんないところを、自分の想像で自分の都合よく補完していく話、の続き、誰も読んでなくても続ける(笑)、連載6回目です。

 公演も半ばを迎え、ジェラールとモーリスの意地の張り合いっつーか仲の悪さはどんどんひどくなってきてます。
 バザー会場の場面、たのしーよー。ふたりが台詞もないままゼスチャーや目線だけでケンカしてしてて(笑)。
 ジェラール、モーリスを騙すのは「仕事」でしょう? ケンカしてどーするよヲイ。
 優秀な捜査官であるはずが、モーリスの前では本音が出てしまうジェラール。
 ただでさえモーリスのことは「特別(にキライ)」だったのに、彼のアホさ加減が自分の犯した罪の結果かもしれない、とわかってしまったジェラール。

 ピエールを殺したのはリシャールとペランだ。
 リシャールたちは、自分たちが殺した男の息子に近づき、仲間面していいように利用しているのだ。

 悪党たちの間で、なにも知らずインテリぶっているモーリス。
 彼のアホさを痛々しいと感じてしまったら、もうOUTだ。

 偽札組織の犯罪を暴くためには、衆人環視のもとでなくてはならない。
 そのためにジェラールは、アルテミスのダンス・コンテスト優勝賞品を偽札とすり替え、市長をはじめとする大勢の前で暴いて見せた。
 ペランがジェラールに罪をなすりつけ、逮捕しようとするのは計算のうち。なにが正しくてなにがまちがっているのかを、警察署の中の隔離された取調室で訴えるのではなく、一般市民の前で。
 モーリスが偽札に関わっていること、なのに駆けつけたペラン警部は不自然にモーリスをかばおうとしていること。
 それらのやりとりを、観客の前で。

 だがそののち何故かジェラールは、せっかく用意した衆人環視の舞台を捨てて、地下水道に移動する。
 本来ならば、観客たちの前ですべてを明らかにしなければならない。ICPOの刑事であることを証し、悪党たちがなにか画策したとしても「一般市民」たちが一部始終を目撃している状況で、真実を突き詰める。
 そのためにお膳立てをしたのに、何故なにもかも捨てて地下水道へ行く? しかも、民間人の少女マリアンヌを連れて。刑事がしていいことではない。

 や、本編はこのへんぐちゃぐちゃだから。
 地下水道に行く理由も、マリアンヌを連れて行く理由もない。
 ダンス・コンテストで鑑定人まで連れてきて偽札を暴いた意味が何処にもない。
 話途中でいなくなるから、市民たちは「どっちが正しいの?」とコーラスするはめに。
 彼らの前で、きちんと決着をつけなければならないのに。
 作者の都合だけで、舞台は一般人の目の届かない地下水道へ。
 百歩譲って14年前の「はじまりの場所」である地下水道に行くことに意義を認めても、マリアンヌを連れて行くことだけはありえない。事件と無関係だとわかっている民間人の少女を、刑事がわざわざ銃撃戦必死の戦場に拉致していくなんて。
 作者がなにも考えていないだけなんだろうけど。

 マリアンヌを愛しているなら、命の危険のある場所へ連れ出したりしない。
 ジェラールはここですでに彼女を利用するつもりだった。

 すべては、モーリスのために。

 市長をはじめとする一般市民の前でモーリスへ疑惑を投げつけ、彼が愛する少女を連れ去り、地下水道へ逃げる。彼が追って来られるように、行き先まで告げて。

 14年前、すべてがはじまった場所。
 ジェラールが罪を犯した場所。
 ピエールを見殺しにしたことから、ジェラールの「孤独と秘密」ははじまっている。
 今、すべてを解き放つときだ。

 マリアンヌを囮にすることで、モーリスを釣ることができた。
 この期に及んでまだ彼女に対し「善人」のカオを貫こうとするモーリスには隙が出来、ジェラールがつけ込むことが出来る。

 モーリスと対峙したあとはマリアンヌのことはどーでもいいので放置、ジェラールはついに真実を口にする。

 14年前この場所で、リシャールとペランがピエールを殺したことを。
 自分がその場にいたことを。

「リシャール本当か?!」
 モーリスはジェラールに銃口を向けることも忘れて、仲間だった年長の男に詰め寄る。

 モーリスの小さなアタマの中は、この瞬間父殺しの実行犯リシャールたちのことでいっぱいだ。
 ここは地下水道。一般人はいない。いるのは、事件関係者とギャングと警官。市民に迷惑はかからない。

 モーリスが、なにをしても。

 何故今この場所で、真実を明らかにするのか。
 せっかく用意した衆人環視の舞台を捨てて、関係者しかいない状況を作ったのか。
 ジェラールの目的は、真実を告げ、モーリスに一旦判断を委ねること、だ。
 
 浅はかな彼が激昂し、リシャールを殺すならば、殺させる。ペランを殺すならば、殺させる。
 どちらかに向かって発砲すれば、まちがいなく彼は「仲間」だと思っていた者たちに射殺されるだろう。悪党たちは自分の身を守るためにはなんでもする。
 そのときは、モーリスを守って闘う。楯にもなる。彼に好きなだけ復讐をさせてやる。

 モーリスは真実を知らされずにいたために、道化となった。ジェラールが真実を隠匿したために。
 モーリスは知る権利がある。真実を得て、自分自身で行動する権利がある。
 彼の決断が、行動が、どれだけまちがっていようと関係ない。真実の上に、自身で選んだのなら、ジェラールはそれを支持する。守る。
 モーリスは14年間、真実を与えられずにいたのだから。

 マリアンヌを連れてこの地下水道に入ったときから、ジェラールは法も職業も、倫理も良心も捨てている。刑事ならばはじめからこんなところに舞台を移していない。

 すべては、モーリスのために。

 この一瞬リシャールたちだけが憎しみの対象となったとしても、事実を整理できるようになればわかるはずだ。
 14年前、ピエールがリシャールたちに殺されるところを目撃していたジェラールは、今までナニをしていたのかと。
 ジェラールが真実を話していれば、こんなことにはなっていないのだと。

 口封じがこわくてジェラール少年が沈黙を通したために、ピエールの命を懸けた告発は闇に葬られた。ピエールを犬死にさせた。
 そのためにモーリスは道をゆがめ、父殺しの犯人だとも知らずにリシャールたちに尻尾を振った。

 モーリスの憎悪を発端とする14年間は、ジェラールが原因だった。

 真実を告げることで、モーリスの銃口はリシャールたちだけでなく、ジェラールにも向けられるかもしれない。
 それでもよかった。
 「真実」を得て、モーリスが自分で選んだことならば。

 撃たれてやる。殺されてやる。
 彼の父親のように。

 この場所で。すべての「罪」が、「孤独と秘密」がはじまった場所で。


 モーリスがバカなのはモーリス本人の責任だ、俺の知ったこっちゃない……そう割り切るには、ジェラールはまともすぎて。
 己れの罪を知るのは、誰より己れ自身だから。
 裁かれなければ無罪なのではない。誰が知らなくても、罪は罪。
 ジェラールは、自分がしたことを知っている。
 自分自身からは、決して逃げられない。

 ただでさえバカに弱いジェラールだ。
 はい、『アデュー・マルセイユ』が恋愛アドベンチャーゲームで、モーリス・シナリオをプレイするならば。
 ここまでのフラグ立てで十分、恋愛スイッチONですよ。
 なまじ反感持ってた分、その大きな感情がマイナスからプラスへ変換された日にゃあ。

 はい、いつまで続くんだコレ、の『アデュー・マルセイユ』本編の穴を、わけわかんないところを、自分の想像で自分の都合よく補完していく話、の続き、連載5回目にしてよーやく本命、オレがもっとも萌えているモーリスカプの話です。
 
 モーリスの人生を狂わせてしまったのが自分だと気づいたジェラール。
 気づかされたのは、シモンから渡された14年前のあの封筒。

 はい、その封筒の秘密……というにはあまりにアレな「内側にぴったり貼り付いていたメモ」についてですが。
 封筒自体が二重構造で中に隠されていたとか、メモが書かれた紙自体を使って封筒を作ってあった(分解しないと読めない)とか、言い訳にも「14年間気づかれずにいた理由」があればいいのに……あまりにアホな理由過ぎてこまるよ……。
 まあ、シモンだから気づかなかった、ということで、ジェラールはもちろん封筒を手にしてすぐに気づいたわけです。封筒の名前にも、中のメモにもね。

 そして、殺されたピエールが正義の人であったことを知る。……自分が、その正義の人の命がけの行動を無駄にしてしまったことも。

 すぐに気づくだろうから(メモに気づくのが若干送れたとしても、封筒の名前は一目瞭然だろう)、封筒を受け取った次の場面、石鹸工場でモーリスと再会したときには、わかっていたはずだ。

 バザーの時、敵意を剥き出しにしていたモーリスは、ナニを思ったか、この石鹸工場での再会時は超ご機嫌。
 緑色のリボンの木箱を手に、ジェラールにも営業用スマイルで話しかける。

 うさんくささ、無限大。
 
 ジオラモに説き伏せられたモーリスは、「利用されてるだけなのも知らないで。お前なんかただの生贄の羊だもんね〜〜、フフフ」とゆー、実に浅いハートで優越感に浸っているだけなんだが。

 そのうさんくさいハートフルぶり、素直に感謝しているマリアンヌに対し罪悪感のカケラもなく善人ぶる姿、彼女たちに悪事を手伝わせ(偽札の梱包をさせてるよね? 緑色のリボンを巻かせて)、そしてそんな自分の賢さに悦に入っているモーリスを見て。
 ジェラールはさらにテンションが下がる。

 このバカが、俺の罪の結果だというか……。

 なんてヘヴィな現実。

 あんまりだよなあ。
 ジェラールが卑怯だったせいで、ピエールの家族が不幸になった、として。
 まだ、貧困と差別の中で泣き暮らしていてくれた方が、マシだったんじゃないか?
 それなら、真正面から後悔することも、また償いをしようと思うことも出来た。
 でもなあ。金持ちで地位も名誉もあって、卑劣でバカってのは、なんつーかこー、後悔しにくいっていうのか、償おうというガッツに欠けるというか。
 どうしてくれよう、このバカ男。

 ジェラールはもともと、モーリスに対してはけっこー本音部分が出てしまっている。
 「悪人同士として協力」することになっているのに、バザー会場で敵対台詞を吐いたり、石鹸輸出の会話からモーリスを閉め出したり(や、彼は強引に会話に割って入りますが)と、いちいちいぢわるだ。
 モーリスに対しては「捜査官」としてのカオより「ジェラール本人」のカオが出てしまいがちだった。

 ただでさえそーやって「意識」していた相手なのに。

 ご機嫌モーリスを見て反感が募り、その反感と「罪悪感」がせめぎ合い、ジェラールは混乱する。

 そのうえ、さらに追い打ちがあるのだわ。

 バザー会場でうっかり盛り上がってキスしてしまったマリアンヌは、すっかりジェラールの恋人気分だ。
 もともとモーリスのことを重荷だと容赦なく言っていた彼女は、ジェラールとデキあがったからモーリスを切り捨てるつもり満々。

 えーと、バザー会場での「忘れ物」ってのは、キスだけだったんすかね? それともそのあといろいろいろいろセットだったんですかね?
 キスだけで恋人気分、てのはふつーナイ気がしますが、世間知らずのマリアンヌの場合ソレもありそーでこわい。
 ふつーなら、キスのあといろいろいろいろ一夜あって、それで「この間のこと」と言えると思うんですが。
 まあ、この問題はいずれ考えるとして。(考えるのか)

 「忘れ物」があって、マリアンヌは絶好調。びびるのはジェラール。

 ちょっと待て。
 またしても、モーリスを不幸にするのが俺なのか?

 マリアンヌがモーリスを振るのはぜんぜんかまわない。あんな悪い男は、利用するだけして捨ててしまえ。や、どう取り繕っても、今の状況でマリアンヌから「恋人ができたから、アナタからの個人的な援助は辞退するわ」てのは、貢がせるだけ貢がせて、いらなくなったからポイ捨て、てことでしょう。それはヨシと思う。
 だが、俺が理由ってのは、どうよ?

 マリアンヌはなにもまちがっていない。彼女は節度ある態度を取り、男の好意を逆手に取り、尽くさせてきたわけではない。結果として同じようなことになっていたとしても、尽くしていたのはモーリスの勝手でしかない。

 そうし向けたわけじゃない。
 でもまた、ジェラールはモーリスの人生を曲げようとしている。彼を、不幸にしようとしている。

 ここで、ジェラールには腹をくくって欲しいですわ。

 彼のせいで不幸になったモーリス。本来得るはずだった、まっすぐな道を、ゆがめてしまったモーリス。

 ならば俺が、責任を取る。
 ゆがめてしまった、奪ってしまった、あの男の人生。

 反感、腹立ち、侮蔑。抱いていたマイナスの感情すべてを、大きな憐憫と悔恨へと転換する。

 今、なにもかも奪おう。あの男から。

 モーリスが愛した女、現在の仕事と地位、そして未来の夢。
 すべて、俺が奪おう。

 偽札組織を摘発する。それに加え、ジェラールがモーリスの父を見殺しにしたことをも告白する。
 すべての真実を、明るみに。

 そのうえで、モーリスの未来を引き受けよう。
 モーリスが実際に手を染めた罪の度合いはわからないが、服役することにはなるだろう。
 その彼がなにを思い、今後どんな道を進むのかはわからない。
 それでも、出来る限り支えよう。責任を取ろう。

 それが、14年間罪を封印してきたジェラールの、真の再生だ。

 あの日、地下水道で。
 ジェラールのことを「天使」と呼んだ男の、息子。
 ジェラールの「罪」そのもの。

 モーリスを受け取めることが、ジェラールに科せられた罰だ。


 ちょっとここで、「14年前の事件」を考えてみる。ジェラール側からは十分考え、自分なりの(笑)ストーリーを展開してきたので、「殺人事件」としての。

 『アデュー・マルセイユ』最大の謎、マルセイユ市助役ピエール・ド・ブロカは何故殺されたのか。

 や、いちお、理由だけは本編内で語られています。

 リシャールとペランが探していた「鞄の中身」である、「封筒」には、「市長の汚職を告発するメモ」が隠されていた、と。

 そのためにピエールは、口を封じられた。
 まあ、ここまではわからんでもない。
 ピエールはほんとーに独りで動いていて、彼ひとり殺してしまえば市長は安泰だった、というのもアリでしょう。

 さて、ここで気になるのはその、「汚職をしていた当時の市長」です。
 当時の市長はスコルピオと、そしてペランと通じていた。まあ、それもアリでしょう。スコルピオは悪いギャング、ペランは悪徳刑事。市長と組んで、悪いことをいろいろしていたのでしょう。
 市長の後押しがあるからこそ、理由をこじつけてジェラールを少年院送りにし、スコルピオの息のかかった取調官を付けることができたのでしょう。
 「本当のことを言え、言わないと成人するまでここから出られないぞ」ってのは、悪党一味でないと言わない台詞だよね? ジェラールは「ケンカに巻き込まれた」から院にいるのよね? 「本当のこと」をジェラールが本物の取調官に話してしまったら、悪党も市長もやばくなるから、ずーっと見張っていたのよね? すくなくとも、最初の何年かは。
 権力者の後ろ盾がないと、そこまではできないよね?

 ソレはそれでアリなんだが。
 問題は、その「14年前、市長と通じていた」ことが、現在とどう関係しているかだ。
 作品中で語られていないので、さっぱりわからない。

 ふつーに考えると、おかしいんだもの。

 14年前には市長と仲良しで、悪党としてマルセイユでブイブイ言わせていたであろうリシャールとペランが、現在が一議員と仲良しなだけてのは、彼らがバカという証拠にしかなりませんが、どうなんですか。
 どんだけヘタ打って、こんなに地味にくすぶってんだ?

 14年前は、正直者で通っている評判のいい少年を、問答無用で少年院へ放り込むだけの権力を持っていた悪党たちだよ?
 市長と共犯者だよ?
 市のトップに立つ男の、裏仕事を受け持つ実行部隊の隊長とかをやっていたわけだよ? いざとなったら市長を脅して自分たちが街を支配するくらいできるだろう、裏のからくりを操っていた男たちだよ?

 それが今は、へっぽこモーリスだけがお友だち。

 モーリスがお仲間でも、大した権力はないだろ……。市長選出馬も金の力しか頼るモノがないよーな、人脈も人望もない若造だよ?
 手を組む政治家の格も質も落ちまくってますがな……。

 ペランは警察でも出世してないっぽいしな。
 市長が味方なら、警部といわず、もう少し地位や給料の高いところへ行って、さらに悪事の手助けができただろうに。学歴とか家柄?とかがなくて、警部止まりと就職したときから決まっていたのかな。
 14年前からけっこーいいトシに見えたし、それなりに権限のある立場に見えたから、14年間昇進してないのかな……。それもすごいな。

 14年前はそれなりに権力のある悪党だった、リシャールとペラン。
 しかし、時は流れすっかり落ちぶれてしまった。
 当時の悪の市長はすでにその座になく、現在の市長はまぬけそーな風情だが、悪の誘いには乗ってこない人物である(ちなみに恐妻家)。
 政治家の協力が必要、つーんで、てきとーな人間を物色したら、モーリスだった。……いちばん与しやすそうだったから。つまりバカだったから。てことですか。

 リシャールはマルセイユのギャングとしての覇権を、あのシモンなんかと二分しているわけだし。シモンの年齢からいって、あとから台頭してきたわけでしょ?
 あの、シモンだよ? バカさお墨付きの。
 アレをライバルとして、アレに勝つために、きゅーきゅー言っているんだから、リシャールがどんだけ安い男であるかは、わかるよな。
 「給料が安いから、悪いことをして金を儲ける」という理由で、昔も今も同じことをしているペラン。……14年前はもっと稼げていただろうに、その金はどーしたんだ。未来へなんの投資もしなかったのか。

 なんにせよ、14年前が市長で、今がモーリスごときだなんて、落ちぶれすぎだろ、リシャール&ペラン。

 悪がきちんと悪であることで、主役の格好良さが引き立つわけだが、14年前の事件のせいで、悪役がまぬけ認定されるので、主役がかっこよくなんないよー。

 回想シーンのふたりはとても悪くて、事件も深そうで、かっこいいのにね。
 こんなアホなオチとはね。

 そして、なんにも解決していないのに「謎が解けた」と言うジェラールたちがアホに見えるから、やめてくれ。

 ピエール殺人事件の動機がわかっただけで(実行犯は最初からわかっていたのに、ジェラールが黙っていた)、事件自体はまったく解決していないから。当時の市長はどうした、実行していないだけで、共犯かあるいは主犯だろう?
 殺人を目撃していながら黙秘していたジェラールの行動も、言及されるだろう? 脅されていた、未成年だった、ので罪には問われないだろうが、事件関係者として召喚されるだろう?
 なんの謎も解けていない。
 ピエール殺人事件が解決しなければ、ジェラールはジェラールに戻れない。
 殺人事件の目撃者でありながら、ギャングに脅されて真実を告発できずにいたのだから。

 事件が解決していないのに、「俺は今ジェラール・クレマンそのものだ」とか最後に晴れ晴れ言うのはどうなのよ。
 ただ実行犯が捕まった、というだけじゃない。観客はなんの謎解きも、報告も受けてないよ。

 当時の市長の汚職、それに絡む殺人事件、なんて、やめときゃよかったのになあ、イケコ。
 この事件があったために、みんながアホアホになった。
 現在の悪党との駆け引きだけにしておけば、ボロも出なかったのに。
 プロットめちゃくちゃにして、前のプロットの「削除し忘れ」みたいな事件つぎはぎにして、なんにもいいことないじゃん……。

 
 や、つじつまとか気にせず、オサ様が強引に紡ぐ物語を楽しんでますが。
 脚本にはアラがありすぎるのが気になってな。


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