『My dear New Orleans』は、ジョイ@トウコの物語であるので。
 彼が故郷、ニューオリンズに帰って来るところからはじまり、また旅立つところで終わるのは正しいと思っている。

 設定だのジョイに対する台詞だのが、いちいち「安蘭けい」とリンクしているから、泣けてしょうがない。
 音楽の神の申し子であることとか、今いる場所を出て、大きな世界にその音楽を響かせよう云々とか。
 世界が、彼を必要としている。
 安蘭けいは、「宝塚歌劇」という小さな世界だけでなく、もっと大きな舞台でその才能を発揮するべきときが来たのだ、と。
 安蘭けいが宝塚歌劇を愛していることは言うまでもないが、決断のときが来たのだ、と。

 あまりにわかりやすくリンクし過ぎていて、「な、泣いてなんかないんだからねっ、別にアンタの脚本がすごいわけぢゃなくて、トウコちゃんの歌がすごいだけなんだからっ!!」と、ツンデレ・プレイしたくなるくらい、「こんだけ『さあ泣け』とやられて泣くのはくやしいな(笑)」ってくらい、泣ける。
 ええ、泣いてますよ、初日なんかもー泣きすぎて消耗しましたよ!!(笑)

 回数を重ねると、わかりやすすぎる部分にはあまり泣かなくなったけれど、かわりにドラマ部分、ジョイとルル@あすかの恋愛部分でがーがー泣くよーになったし。
 こんだけみっちり「恋愛」してくれるトウあす、見たかったんだよほんと!

 もっとも、芝居が物理的に遠すぎて、大劇場の舞台最奥で会話劇をやるなと、心から思ってますがねー。基本が『HOLLYWOOD LOVER』の焼き直しなんで、バウと同じ手法で作られているため、芝居をしている場所が遠いのなんのって。
 景子せんせー、大劇場は2500席あるっす。500席のバウホールと同じセットを使って芝居させるのやめて下さい。
 キモになる場面が全部、普段なら使わないだろう奥のセットの上、だもんよ。『エリザベート』のミルクの場面だって、カフェの中は芝居には使わず、外に出てきて歌い踊ってるじゃん? いちばん大きなセリの中は芝居……特に会話劇をするには遠すぎるんだよ。
 繊細な表情の変化や、台詞の行間を読む演出ならば、いっそ銀橋の上でやってもいいくらいだ。それが無理でも、ふつーに本舞台前面を使えばいいのに。景子たんは大劇場の広さを知らないのかもしれない。まあ、景子たんに限らず、ヅカの演出家ってそーゆーもんかもしれんが。
 今回わたしはチケットまったく持ってないんで。えんえんB席と立見の交互、いちばん前でも27列目R番というものすごさ(笑)。や、平日でも立見が出ていてありがたいっすが。
 いやあ、「芝居」が遠いですね。
 公演内容によっては、立見でも当日Bでもそれほど「遠い」とは思わないんだ。「大劇場」用に演出された作品なら、全体を見回せてたのしいことだってある。しかし今回は……景子せんせ、絶対「大劇場」だってこと、忘れてる(笑)。
 トウコとあすかがふたりして、すげー密度で「大劇場」という空間と戦っている。演出家がしなかった分、出演者が箱の大きさを理解して、濃密な空気で空間を埋めているよ。すげえ。

 とまあ、「安蘭けい物語」で「メロドラマ」なのはいい。トウコ退団とリンクさせて泣かされるのも退団公演の醍醐味だと割り切って楽しむし、トウあすの「役者」同士の真剣勝負に酔いしれるのも楽しい。

 そーやって楽しんでいるのに、ジョイとルルの別れからラストまでの間、テンションが上がり下がりするのが残念でならない。

 おさまりが悪く感じられるのは、「付け足し」めいた後日談が何度も続くからだと思う。
 まあそこが景子せんせクオリティ、「最後の余計な解説がなければ名作なのに!」と、作品ごとに言われ続けているよーに、自分の作品を自分で「解説」しちゃうんだよね、観客に委ねずに。
 「**(主人公)の生き方はすばらしかった」とか「ふたりの愛はすばらしい」とか、わざわざ解説役の登場人物が出てきて語らないと納得できないのは、純粋に創作者として「なんで?」と思うよ。

 仲間の死→ゴスペルの流れは中詰めだからそのあとに解説じみた話(なんでNY行きを決めたのか、語る語る)が続くのはまあいいとして。
 ジョイとルルの濃密な芝居空間のあと、回想のラストとなる「Sweet Black Bird」完全版ソロで、まさに舞台は「最高潮!」な盛り上がりを見せる。ここで幕、でもおかしくないほどの。
 が、その直後に、その盛り上がりを全部打ち消すよーに、水を差すよーに、アルバート@すずみんと空気読めないカップル@ペニーとせあらが解説しまくる。
 景子せんせ作品お定まりの、付け足し解説。「ジョイは素晴らしい」「ふたりの愛は素晴らしい」と言葉によって完結させてしまうのは、いらんやろと、心から思う。

 「Sweet Black Bird」独唱から、歌い終わるジョイの周囲にひとり、またひとりとなつかしい顔ぶれが集まりはじめ、ひとりずつと目線をかわしながら「My dear New Orleans」を歌い出し、最後は登場人物全員で合唱、よく見ると隅っこにラジオのマイクもあるし、スタッフらしい男たちもまざっている、と。
 「My dear New Orleans」終了時に、コレが回想ではなく現在の物語で、ニューオリンズに来た目的であったチャリティーコンサートだったと、司会者@どいちゃんの喋りでわかる、でいいじゃん。
 再会の挨拶は歌のあとで。ジョー@真風に「大きくなったな」とかはここでいいじゃん。ペニーたちの「主人公賞賛」もここのみに留めて。

 無粋な「作者自身の解説」で、テンションを折らないで欲しいわん。

 「Sweet Black Bird」から一気に盛り上げて、その興奮冷めやらぬうちに、レニー@れおん登場まで持っていってほしい。
 まあ、中詰めのゴスペルと、テーマ曲であるはずの「My dear New Orleans」の曲調が似ていて、盛り上がりが相殺されていることは残念でならないが。なんでまったくチガウ曲にできなかったんだ?

 初見時にルルが再登場しないことに(死んだにしろ、幻想で登場するのがヅカの定番なのに)おどろきもしたが、なまじ生身の演技を見せないことで彼女の最期を、その最高の笑顔を観客の想像に委ねたこと、それを想像できるほどにルルという女性をあすかが演じきっていることと、ジョイ@トウコのラストシーンの演技に懸けていることがわかるので、それもアリかと思った。

 ルルの愛がジョイに伝わり、すべてが肯定されたときに、扉が開き、仲間たちがジョイを呼びに来る、このタイミング。

 これこそが、この作品のテーマなんだなと。
 「My dear New Orleans」という歌にある通り、愛も夢も友情もなにもかもここにあるんだなと。
 ルルとのメロドラマだけがジョイの人生ではなく、それすら内包して、もっと大きなものがジョイにはある。それはルルを軽んじているのではなく、ルルがいたからこそ、手に入れられた「大きさ」で。豊かさで。

 なにもかも受け止め、肯定し、大人の男の顔で……少年でも青二才でもなく……微笑むジョイの顔が、素敵で。幸福で。そして何故か、切なくて。

 幸福な痛みを胸に残したまま、幕が下りる。

 
 どーのこうの言ったところで、わたしは、この物語が好きだ。

 ジョイが好きで、ルルが好き。

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