愛しかない世界は、生きにくい。@情熱のバルセロナ
2009年12月12日 タカラヅカ「ひどい話だな(笑)」
というのが、観劇後の第一声でした。
雪組全国ツアー公演『情熱のバルセロナ』。おとなしく大阪公演まで待ちに待って、某ゆみこ担の友人と並んで観劇。
すでに地方追っかけて観劇済みの友人は、わたしの忌憚ない感想を聞いて、「ええ~っ、なんで~~?!」と、異を唱えてました、はい。彼女はこの作品大好きだって。雪担の人が大好きならそれで良かった。
柴田せんせの古い古い作品の再演シリーズです、はい。
初演は27年前。わたしももちろん知りません。
恋は暴走ぶっちぎり、他のことはなにも見えず、自分だけ愛して駆け抜ける人たちの物語。あ、ごめん、自分だけ、てくだり、消しておいて(笑)。
愛です、愛。愛のため、愛さえあればなんでも許される、誰を傷つけても罪を犯しても、最高の免罪符、愛最高! 愛、愛、愛!
いやその、とても、タカラヅカらしい作品です。てゆーか、ヅカでなきゃやってらんない話だわ(笑)。
美少女ロザリア@みなこちゃんに一目惚れしたフランシスコ@水しぇんは、もう自分の恋しか見えない。どさくさまぎれに殺人犯で囚人になっていたんだが、そんな自分の立場も無関係にLOVE一直線、せっかく周囲の人たちががんばって脱獄させてくれたのに、ロザリアに会いたいだけでまた舞い戻っちゃうし。彼を助けるために、ロザリア当人も含めいろいろ尽力してるのに、毎回フランシスコがぶち壊す、愛上等、愛のため。
全員不幸にして、美しく?エンドマーク。
わたしは純粋な心の持ち主ではないので、愛のためになにやってもヨシ、愛しか見えない!男の子には感情移入できません。
一時期、こーゆー少女マンガやBLが流行り、「これが純愛ってゆーのか」と閉口した経験もあります。
「愛する君のために!」と罪のない人を突き飛ばして転ばせて、わたしに会いに来る男を、わたしは嫌いです。「転んだ人を助け起こしてたら、約束に遅れちゃった、ごめん」という人の方が好きです。や、文句は言うだろうけど、遅刻しないでよぷんぷん、と。でも、傷つけることが平気な人より、見過ごせない人の方が絶対好き。
優柔不断な草食系男子がはびこる昨今、こんだけわき目もふらず暴走できる男が、女性の目に魅力的に映るのは仕方ないかもしれませんが、わたしの好みではない。
好みの問題なので、こーゆー男や愛し方がツボな人も、きっとたくさんいるんでしょう。
わたしの好みだと、罪を罪だとわかった上で、苦悩して、それでも罪を犯す、犯さざるを得ないほど愛している、て流れになりますな。
自分の悪を知りながら、泥の中であがきながらも美しい蓮の花に手を伸ばす……つー感じ?
人を傷つけてもいい、ただ、傷つけていることを知り、返り血を浴びながら前へ進めと。
しかしこのフランシスコくんってば、自分がナニをしているのか、まったくわかってませんから。
アホの子ですから。
判断力も認識力も反省も、ナニもないっすから。自分が気持ちいいことしか理解できない、自分が不快なことは我慢できない、ただの動物ですから。
その動物っぷりを愛でるのはアリだろうけど、わたしの好みではないし、少年の暴走ならまだしも、それを水しぇんで見たいかというとかなりつらい……(笑)。
水くんの芸風は、とにかく「生真面目」だ。コメディやってもアドリブやってもすごく真面目に真剣にやっているのが伝わってくる。勢いとかハッタリで力押しする芸風ぢゃない。
その生真面目な人に、生真面目に「若さゆえの暴走」を演じられると……うわー。
この話、野獣系の持ち味の人がやればハマったんだろうなあ。今のトップ陣なら、れおんくんか。のーみそまで筋肉だから仕方ないね、若いからね、一旦アクセル踏んだらブレーキの存在忘れる人だしね、てな演技イメージの彼ならハマリそうだ……。
水しぇんは超安全運転しかしないだろ……石橋を何度も何度も叩いてからしか渡らないだろ……。
役者のイメージ、先入観だけの話ではなく、ほんとに舞台から生真面目さは伝わってくるし。
そうやって伝わる個人の色、芸風があるからこそ、役者個々に魅力があるわけで、作品ごとにまったく個性を殺し別人になる人もそりゃすごいが、スター制度のヅカではそんな人求められないし(そーゆー職人属性の人は、別格向き)、水しぇんはそーゆータイプじゃないし。
水くんのタイプは置くとして。
アホの子が他人に迷惑を掛けまくる話ではあるが、それでもこの物語は、「まちがっていない」と思う。
わたしの好みではないというだけで、まちがってはいないので植爺作品のような気持ち悪さはない。
植爺もさんざん「愛のため、愛さえあればなんでも許される、誰を傷つけても罪を犯しても、最高の免罪符、愛最高! 愛、愛、愛!」をやっている。
同じことをしても、柴田作品は「酷い話だな」と思いはしても、気持ち悪くはないんだ。
植爺の場合、「愛があればナニをしてもイイ」と本当に酷いことをして、やっていることはどっから見ても最悪にひとでなしの言動なんだが、それを、世の中の正義とする。
主人公が愛のために行うアホな行動を肯定するために、世の中の方を曲げてしまう。
主人公のやることはすべて正しい、と。
柴田先生に、ソレはないんだなと今回観て思った。
フランシスコはアホの子だが、誰も彼を正義の人で、彼の行動が正しいとは思っていない。フランシスコ個人は優秀かつ善人だと誉められもするが、今回のアホ行動についてはみんなノーコメント、「口に出したら悪口にしかなんないから、感想言うのは控えよう。それより、自分のやるべきことをやろう」って感じで黙々と動いてますがな(笑)。
友人がアホなことをしたからって、その友人への好意が消えるわけでなし、今はまず助けなきゃ、みたいな?
植爺が演出してたら、せっかく脱獄して命拾いしたのに、色ボケして飛び出していくのを「それこそ正義!」と周囲が大絶賛、「若さゆえの暴走」「後先考えない、そのアホさが純粋で感動的」ではなく、「偉人の偉業、この世の唯一の美徳」「それを理解しない者たちは悪!」だと描かれたんだろうなあ。
柴田せんせはフランシスコの行動を逐一描くけれど、それについての感想は作品内に織り込んでない。どう感じるかは観た人へ委ねてある。
その突き放し感は、いいと思う。
ただわたしは、見たくないけどな、こんな話。
「『星影の人』と比べてどっちがマシ? 『バレンシアの熱い花』と比べてどっちがマシ?」
と、友人から究極の選択を突きつけられたけど、『星影』は水しぇんの幼児プレイと演出の古さがきつかっただけで、主人公自体は別に変じゃなかったからマシかなあ。『バレンシア』は主人公は狂ってるし作品中の正義観も植爺系の狂い方してたしで、あっちの方が見るに耐えなかったかな。
ちなみに『哀しみのコルドバ』は、主人公が自分の罪を理解した上でそれでもあえて罪を犯すので好みです。
柴田作品の古すぎる再演は、わたしには鬼門が多すぎる。
というのが、観劇後の第一声でした。
雪組全国ツアー公演『情熱のバルセロナ』。おとなしく大阪公演まで待ちに待って、某ゆみこ担の友人と並んで観劇。
すでに地方追っかけて観劇済みの友人は、わたしの忌憚ない感想を聞いて、「ええ~っ、なんで~~?!」と、異を唱えてました、はい。彼女はこの作品大好きだって。雪担の人が大好きならそれで良かった。
柴田せんせの古い古い作品の再演シリーズです、はい。
初演は27年前。わたしももちろん知りません。
恋は暴走ぶっちぎり、他のことはなにも見えず、自分だけ愛して駆け抜ける人たちの物語。あ、ごめん、自分だけ、てくだり、消しておいて(笑)。
愛です、愛。愛のため、愛さえあればなんでも許される、誰を傷つけても罪を犯しても、最高の免罪符、愛最高! 愛、愛、愛!
いやその、とても、タカラヅカらしい作品です。てゆーか、ヅカでなきゃやってらんない話だわ(笑)。
美少女ロザリア@みなこちゃんに一目惚れしたフランシスコ@水しぇんは、もう自分の恋しか見えない。どさくさまぎれに殺人犯で囚人になっていたんだが、そんな自分の立場も無関係にLOVE一直線、せっかく周囲の人たちががんばって脱獄させてくれたのに、ロザリアに会いたいだけでまた舞い戻っちゃうし。彼を助けるために、ロザリア当人も含めいろいろ尽力してるのに、毎回フランシスコがぶち壊す、愛上等、愛のため。
全員不幸にして、美しく?エンドマーク。
わたしは純粋な心の持ち主ではないので、愛のためになにやってもヨシ、愛しか見えない!男の子には感情移入できません。
一時期、こーゆー少女マンガやBLが流行り、「これが純愛ってゆーのか」と閉口した経験もあります。
「愛する君のために!」と罪のない人を突き飛ばして転ばせて、わたしに会いに来る男を、わたしは嫌いです。「転んだ人を助け起こしてたら、約束に遅れちゃった、ごめん」という人の方が好きです。や、文句は言うだろうけど、遅刻しないでよぷんぷん、と。でも、傷つけることが平気な人より、見過ごせない人の方が絶対好き。
優柔不断な草食系男子がはびこる昨今、こんだけわき目もふらず暴走できる男が、女性の目に魅力的に映るのは仕方ないかもしれませんが、わたしの好みではない。
好みの問題なので、こーゆー男や愛し方がツボな人も、きっとたくさんいるんでしょう。
わたしの好みだと、罪を罪だとわかった上で、苦悩して、それでも罪を犯す、犯さざるを得ないほど愛している、て流れになりますな。
自分の悪を知りながら、泥の中であがきながらも美しい蓮の花に手を伸ばす……つー感じ?
人を傷つけてもいい、ただ、傷つけていることを知り、返り血を浴びながら前へ進めと。
しかしこのフランシスコくんってば、自分がナニをしているのか、まったくわかってませんから。
アホの子ですから。
判断力も認識力も反省も、ナニもないっすから。自分が気持ちいいことしか理解できない、自分が不快なことは我慢できない、ただの動物ですから。
その動物っぷりを愛でるのはアリだろうけど、わたしの好みではないし、少年の暴走ならまだしも、それを水しぇんで見たいかというとかなりつらい……(笑)。
水くんの芸風は、とにかく「生真面目」だ。コメディやってもアドリブやってもすごく真面目に真剣にやっているのが伝わってくる。勢いとかハッタリで力押しする芸風ぢゃない。
その生真面目な人に、生真面目に「若さゆえの暴走」を演じられると……うわー。
この話、野獣系の持ち味の人がやればハマったんだろうなあ。今のトップ陣なら、れおんくんか。のーみそまで筋肉だから仕方ないね、若いからね、一旦アクセル踏んだらブレーキの存在忘れる人だしね、てな演技イメージの彼ならハマリそうだ……。
水しぇんは超安全運転しかしないだろ……石橋を何度も何度も叩いてからしか渡らないだろ……。
役者のイメージ、先入観だけの話ではなく、ほんとに舞台から生真面目さは伝わってくるし。
そうやって伝わる個人の色、芸風があるからこそ、役者個々に魅力があるわけで、作品ごとにまったく個性を殺し別人になる人もそりゃすごいが、スター制度のヅカではそんな人求められないし(そーゆー職人属性の人は、別格向き)、水しぇんはそーゆータイプじゃないし。
水くんのタイプは置くとして。
アホの子が他人に迷惑を掛けまくる話ではあるが、それでもこの物語は、「まちがっていない」と思う。
わたしの好みではないというだけで、まちがってはいないので植爺作品のような気持ち悪さはない。
植爺もさんざん「愛のため、愛さえあればなんでも許される、誰を傷つけても罪を犯しても、最高の免罪符、愛最高! 愛、愛、愛!」をやっている。
同じことをしても、柴田作品は「酷い話だな」と思いはしても、気持ち悪くはないんだ。
植爺の場合、「愛があればナニをしてもイイ」と本当に酷いことをして、やっていることはどっから見ても最悪にひとでなしの言動なんだが、それを、世の中の正義とする。
主人公が愛のために行うアホな行動を肯定するために、世の中の方を曲げてしまう。
主人公のやることはすべて正しい、と。
柴田先生に、ソレはないんだなと今回観て思った。
フランシスコはアホの子だが、誰も彼を正義の人で、彼の行動が正しいとは思っていない。フランシスコ個人は優秀かつ善人だと誉められもするが、今回のアホ行動についてはみんなノーコメント、「口に出したら悪口にしかなんないから、感想言うのは控えよう。それより、自分のやるべきことをやろう」って感じで黙々と動いてますがな(笑)。
友人がアホなことをしたからって、その友人への好意が消えるわけでなし、今はまず助けなきゃ、みたいな?
植爺が演出してたら、せっかく脱獄して命拾いしたのに、色ボケして飛び出していくのを「それこそ正義!」と周囲が大絶賛、「若さゆえの暴走」「後先考えない、そのアホさが純粋で感動的」ではなく、「偉人の偉業、この世の唯一の美徳」「それを理解しない者たちは悪!」だと描かれたんだろうなあ。
柴田せんせはフランシスコの行動を逐一描くけれど、それについての感想は作品内に織り込んでない。どう感じるかは観た人へ委ねてある。
その突き放し感は、いいと思う。
ただわたしは、見たくないけどな、こんな話。
「『星影の人』と比べてどっちがマシ? 『バレンシアの熱い花』と比べてどっちがマシ?」
と、友人から究極の選択を突きつけられたけど、『星影』は水しぇんの幼児プレイと演出の古さがきつかっただけで、主人公自体は別に変じゃなかったからマシかなあ。『バレンシア』は主人公は狂ってるし作品中の正義観も植爺系の狂い方してたしで、あっちの方が見るに耐えなかったかな。
ちなみに『哀しみのコルドバ』は、主人公が自分の罪を理解した上でそれでもあえて罪を犯すので好みです。
柴田作品の古すぎる再演は、わたしには鬼門が多すぎる。