オスカル@すずみんは、容赦なかった。

 現在のタカラヅカきっての貴公子男役すずみん。オスカル役は今回の『外伝 ベルサイユのばら-ベルナール編-』で、すでに2回目。

 余裕ですよ。
 その作り込んだビジュアルも、演技も。

 お化粧の、気合いぶりときたら。

 すごいっすよ、是非すずみんのお化粧じっくり見てやって。アイメイクのグラデーショーンの繊細さなんか感動するから!

 他の誰ともお化粧チガウから、びっくりしてガン見しちゃったよ(笑)。

 そしてなにより、気合いの超ハイヒール!

 誰よりも高いヒール履いてますよ、スターブーツ!
 もともとでかいのに、さらにでかい!(笑)

 以前星組本公演で『ベルサイユのばら』が上演されたとき、オスカル様はみんな中ヒール程度のスターブーツを履いていた。見た目の美しさと機能性のバランス的に「こんなもんだよな」という感じの。
 それはもちろん、アンドレ@トウコが小柄だったために、ハイヒールは履けないという事情があったわけだが。いくらなんでもラヴシーンするのに、女の方があきらかにでかいと支障がある。

 だけどすずみん、今回は容赦なし。ベルナール@トウコはオスカルの恋人ではないけれど、オスカルと絡みがあり、主役であり、いちおーかっこよく見せなければならない人なのに。
 ハイヒールを履いたオスカルは、容赦なくベルナールを見下ろしています。

 男同士ならね、トウコが見下ろされてもどーってことはないが、いちおー男女なのに、女の子に見下ろされているヒーローてなカタチになっちゃってますが、いいんですか?(笑)
 女よりチビのベルナール……ええっと、原作もそうだっけ? アンドレと似た体格だから、オスカルよりは大きかったんじゃないかと思うんだが……。

 ふつーは、小柄なトップスターに気を遣って、低いヒールを履くと思うのですよ。
 ハイヒールを履いた方が自分が美しくなることはわかっていても、そこはぐっとこらえて、相手に合わせる。それがタカラヅカ。

 ところが今回、んな気遣いはナシ。すずみんは、自分が美しくなることにてらいなく集中している。

 ええ。
 すずみんが、そーゆーことを「勝手にやっている、はずがない」と思うのですよ。

 トウコを含め、演出家サイドも、それを認めているわけですよ。

 主役ベルナール@トウコの魅力は、女の子キャラより小さいことぐらいで、揺るがない。

 という、自信。
 すなわち、

 トップスター安蘭けいの魅力は、小柄ことなんかで揺るがない。

 という、自負の表れですな。

 実際、その通りだし。
 オスカルより明らかに背が低く、横に並ぶと見下ろされているのが丸わかりでも、ベルナールがかっこいいことがよーーっくわかるもの。
 自分を表面的にかっこよく見せるために、すずみんに低いヒールを履くよう強要しなかった、ということなんだろうトウコちゃんのオトコマエさに、ひとり勝手にしびれております(笑)。

 
 とまあ、「美しさ」を潔いほど追求した、今回のオスカル様。

 めちゃくちゃ、かっこいい。

 「恋愛」の絡まないオスカルというのは、『ベルばら』史上はじめてではないだろうか。
 植爺のキモチ悪いところは、恋愛を絡めるとオスカルがなよなよとふつーの女以上に女々しくキモチ悪くなるんだが、誰とも恋愛していない今回のオスカルは、ただただかっこいい。
 や、アンドレは登場しているが、そしてアンドレ単体ではオスカルLOVEだが、番手至上主義植爺なので、3番手演じるオスカルにはとくにラブ関係を書いてないのね。

 植爺の呪縛を受けずに済んでますよ、オスカル様!!

 椅子にふんぞり返って、カードに興じるオスカル様の、かっこいいことっ!!

 あの長い脚。お貴族サマよ、あれこそまさにお貴族サマよお。気品と洗練された高慢さ、美貌とクールさ、ネオロマ系ゲームにまんま出演できる美形サマっぷりよお。

 植爺の原作コピーは大抵失敗しているのだが、これははじめて見るくらい、原作コピーでの成功例。
 ベルナールに「商談」を持ちかけ、「スペードのA、前途多難」とか「ダイヤのA、商談成立だ」とかゆーの、かっこいいよお。オスカル様だ、あれぞオスカル様だわっ。

 そして、ここまでかっこいー連発しつつ、もうひとつオスカル様は切り札を持っているのだ。

 みわっちオスカルの「反省、反省☆」に通じるおちゃめシーン。

 ジャルジェパパ@チャルさんのカミナリを避け、あとからちゃっかり顔を出す姿。
 そのひょこっとした顔が、めちゃくちゃかわいいっ。

 なんなのコレ、なんなのーっ、かわいすぎるよーっ!!
 植爺らしい「オスカルは女の子(はぁと)」感覚の演出なんだろうけどね。キムオスカルが「ばあや、ばあやン♪」とくねくねして叫ぶよーなもんで、オスカルというキャラクタを理解していないおっさん脳ゆえに、必ずどこかでギャル的な部分を挿入しなければならない、とカンチガイしているわけだが。
 今回はソレが一瞬で終わったことと、他の部分のオトコらしさかっこよさ、かわいらしいジャルジェパパのエピソードの流れから、原作(前半)テイストのギャグ絵っぽいオスカル様として、作品に合ったオスカル様のおちゃめシーンとなっていた。

 いやあ、オスカル@すずみん、最強。 
 アラン@しいちゃんが、かっこいいっす。

 地団駄踏みたいくらい、かっこよくて困ります。

 『外伝 ベルサイユのばら-ベルナール編-』、後半に登場するアラン・ド・ソワソン。
 革命の混乱を経て、「隻腕将軍」と謡われた英雄。
 ……それが納得できる美丈夫ぶり。
 長身と安定感あふれる厚みのある体格、そして、太陽の笑顔。

 戦災孤児たちを引き取り、官舎だかが託児所状態になっている、というのもわかる。この男なら、さもありなん。部下たちがソレをトホホと思いつつ許容している感じもまた、さもありなん。
 愛されている。たくさんの人たちに。革命の英雄だから慕われているのではなく、そんな業績以前に、彼個人がその人柄ゆえに信頼され、愛されているのだとわかる。

 かっこいいよお。アランってこんなにいい男なの? うおーっ。

 ……つい先日、すごくかなしいアランを見たんですが。
 妹の亡霊と10年間会話をし、亡霊と過去以外なにも見ず、愛さず、なにもせず、「誰かがやってくれる」と責任を全部捨てて逃げ出して、自分で死ぬことすらせず殺されることで自殺した、すげーかっこ悪い男がいたんですが。

「しいちゃんアランは、亡霊なんか見えないだろうね」

 終演後に仲間たちと口々に言いあった。

 しいちゃんアランの突きぬけた明るさ、健やかさは、彼が亡霊なんかに依存しない人物だと示している。
 そもそもこのアランには、近親相姦の上あてつけ自殺し、亡霊となって兄にとり憑くような心の病んだ妹はいないだろう。

 まっすぐな心。強くやさしい魂。
 祖国フランスを想い、今は亡き愛する人オスカルを想い、友人ベルナール@トウコとその妻ロザリー@あすかのことを想って、ひとりで戦い、死んだ男。

 そう、しいちゃんアランのかっこよさは、その死に方にも表れている。
 強い信念に従い、たったひとりでナポレオン暗殺を決行し、力尽きたんだ。

 同じように「隻腕将軍」って呼ばれてたのに、ナポレオン暗殺もせず、ジェローデルが「暗殺に失敗して殺された」と聞いた途端、臆病風に吹かれて、自分はなにもせずに「なにをやっても無駄だ」と決めつけて、現実逃避して死んだ男がいたんですが。

 ……まとぶんのせいじゃない。悪いのは植爺で、まとぶんじゃないよ。それはわかってるよ。わかってるけど……花組の『アラン編』、やっぱひどすぎるだろう!!
 まともなアランだって描けるんじゃないか。つか、せめてナポレオン暗殺決行しろよ、巨悪に立ち向かって殺されるならまだしも、やる前からあきらめて自暴自棄になったところを殺されるって……。

 『スカピン』初日を思い出すなあ。
 『スカピン』が素晴らしい作品であるがゆえに、かなしくなったんだよ……つい数日前まで同じ劇場で公演されていた組の作品を思って。
「星組がうらやましい」……そう言わずにはいられなかった、あのかなしみ再び……うわーんっ!

 『スカピン』初日に引き続き、全ツ『ベルばら』初日にも、同じ台詞を言うハメになるとは思わなかったよ……遠い目。

 ともあれ、アラン@しいちゃんはステキだった。

 ステキだからこそ……無意味な2役に疑問。

 しいちゃんはアンドレと2役。
 しかし。

 こういっちゃなんだが、しいちゃんは、しいちゃんである。
 ひとつの芝居で主要2役を演じ分けるなんて器用なこと、できる人じゃない。

 アンドレは眼帯で顔半分隠してがんばってたけど……演じ分けられていたわけじゃないから。観客が混乱するだけだから。
 無意味な配役はやめようよ、植爺。

 前にも語ったが、植爺は役者の格に合わせて出番と台詞の行数を割り振る人だから。
 役の重要さとかやりがいとかは考えない人だから。大人の事情優先だから。
 2番手男役であるしい様に相応しいだけの出演分数と台詞行数を考えたら、2役にするしかなかったんだよね。

 アンドレ役は別の人にするか、あるいは登場させなければよかったのに。その分アランを出して、革命後の将軍姿との差を表現するなりすれば良かったのに。
 2役でなければ、最後の「亡き人々のイメージ」場面だって、フェルゼン@ともみん×アントワネット@まひろ、アンドレ@誰か×オスカル@すずみんの二組のカップルの中央に、マントを広げてかっこよく立つアラン将軍@しいちゃんでキメることができたのに。
 ベルナールとロザリーってば、ほぼ無関係(ベルナールに至っては面識もない)フェルゼンやアントワネットを思い出して、親友アランのことは思い出さないのか!という変な絵ヅラにならずにすんだのに。

 実際問題、それじゃアンドレは誰よ、と言われると、オスカルがすずみんであるバランスを考えると……みきちぐ希望ですけどね(笑)。
 アンドレの比重下げて、出てくるだけ程度にすれば、みきちぐでいいと思うけどなー。オスカルの横には並んじゃダメよ、身長差がえらいことになるから(笑)。
 でもって是非、アラン@しいちゃんと絡んで欲しいわー。アンドレ@みきちぐに、「でかい図体してケツの青いガキだな」って、アラン@しいちゃんに言って欲しいわー。や、話が脱線するから無理だけど。

 アンドレとしてのしいちゃんは、マロングラッセ@みきちぐと、同期コントをするためにあったのかと。
 組ファンサービスかと思いました、あのかわいい、されど無駄なシーンは(笑)。
 アンドレは直接ベルナールに絡まないし、彼とのエピソードがあるわけじゃないし、オスカルとの恋愛もまともに描かれないまま、ほぼ単体で出てきて終わるので、今回の脚本では主要人物として登場させる意味はなかった。
 アンドレがまともに絡んでるのって、マロングラッセだけじゃん。
 こーゆー無駄が、植爺らしいところではある。
 
 比重を下げ、身長を問わないなら、あかしでも良かったのになー。

 と、いちいち身長を気にしなければならないのは……オスカル@すずみんが、容赦なかったためだ。

 続く(笑)。
 トウコの、揺れる瞳っ!!

 トウコの瞳。
 揺れる瞳。
 大きな瞳が虚空を見つめ、痛みに揺らめく。

 殊更な激しさはない。
 発散するというより、自分の内側へ向かっているような、独白のような自答のような言葉なのに。

 彼の心の傷が、見える。
 彼の悲しみが、広がる。

 トウコの、瞳。
 揺れる瞳。
 涙を湛えたような、濡れた瞳。

 ベルナール@トウコ、好きだ~~っ!!

 『外伝 ベルサイユのばら-ベルナール編-』初日初回、梅芸。
 なんの予備知識もなく、どーゆー話になるのか、他組外伝からの先入観はあっても、実際のとこナニも知らず。

 ベルナール@トウコが、かわいい。かっこいい。切ない。

 なんなのアレ、なんなのよ~~。
 母の想い出を語るベルナールってば。
 なんであんなに可哀想なの、悲しいの。

 強い人だとわかっているのに、いや、わかっているからこそ、その強さの奥の傷が、孤独が悲しい。

 熱く、激しい。
 おとなしい人でもひかえめな人でもない。声の大きなリーダータイプ。自分が動くことで、周囲も動かす人。
 そんな能動的な男が、強がり上等な男が、こぼす本音。弱音。穏やかに、独り言のように。

 受け止めてくれるだろう、やさしい少女の前で。

 「新聞記者ベルナール」「革命の志士ベルナール」となる前の過去の出来事を、悲しい想い出を語るベルナール@トウコの、痛々しいこと。

 これですよコレ、安蘭けいがもっとも魅力的に見える芝居。トウコは、傷ついてナンボですよ! 
 かなしいとき、痛々しいときこそが、いちばんハマるんです、ステキなんです。
 わかりやすく「ボク今悲しんでます」と泣くんじゃなく、悲しみを押し殺し、前を向いているときこそが、いちばんステキなんです。

 見ていて、胸がきゅ~~んとなるんです。

 原作では、マンガというジャンルが持つ手法を使い、若き日の母がそりゃーもー美しく描かれている。
 が、ここは舞台の上。
 紗幕の向こうにママンと少年ベルナールが登場したりせず、役者の芝居力真っ向勝負です。
 ベルナール@トウコと、ロザリー@あすかの、ふたりだけ。
 回想フィルムが回るわけでない、語る人たちが語るだけのシンプルな演出で、魅せてくれます。

 ベルナールの心の傷、そして、愛。

 そこにたどりつくまでの、ベルナールとロザリーが、ものすげーかわいくてね。
 オスカル@すずみんに「ベルナールから目を離すな」と命令されたロザリーが、ベルナールのあとをちょこちょこついて回って。ベルナールがうざがって凄んで、でもロザリーは気にしてなくて、にっこり笑う彼女の勝ち。

 ロザリーと寝室まで一緒で眠れないとオスカルに訴えかけるベルナールが、可愛すぎ。
 も、彼がロザリーを意識しまくってるのがわかるの。そりゃ眠れないよね~~(笑)。
 やり返すロザリーがまた、かわいくて。

 若々しく、初々しく、いちゃいちゃしてるよーにしか見えないふたりが、可愛すぎる。

 ベルナールが自分の面倒を見るロザリーに「オレは悪党だから、お前を拉致って逃げるかもしんないのに、オスカルも甘いよな」と言う原作のエピソードを、原作とはチガウ意味で使っているのが、うまい。
 原作では、悪党ぶったベルナールにロザリーは心底怯えながら、「ベルナールには私を殺せないのだから、そんなの人質にならないって、オスカル様が仰ってました」てな返答、ベルナールは「見抜かれてる、オスカル恐るべし」と、あくまでもオスカルを持ち上げるためのエピソード。
 それがこの作品では、ベルナールとロザリーのラヴ・エピソードになっている。

 ベルナールに後ろから締め上げられ、このまま首の骨折ることもでんきじゃね?という体勢で凄まれているにもかかわらず、ロザリーは慈愛の微笑を浮かべ、わざと悪ぶるベルナールに「あなたはそんな人じゃないわ」と言う。
 はっと胸を突かれるベルナール。

 後ろから締め上げていた……はずの体勢が、その瞬間、愛し合うモノ同士の抱擁のように、見える。

 ロザリーは、ベルナールの腕の中。
 そのことに、ベルナールが気づく。

 だきしめて、いることに。

 ……て、この一連のトウコの表情がっ。
 わざと悪ぶって獰猛な顔して見せて、あすかに胸を突かれたときの「心」がぐわっと動いた顔、改めて腕の中のあすかを見る顔……。

 トウコとあすかで、マジ恋愛モノが視たいと、じれじれしていた希望が、まさか植爺作品で叶うなんて。
 真正面から恋愛して、出会いから恋の自覚から告白から、全部真っ当に順番に見せてくれる作品に出会えるなんて。

 植爺なのに。
 植爺のくせに。

 くやしい~~、絶対コレ植爺演出ぢゃない~~、誰か別の人の作品よおおお(笑)。

 ベルナールがかわいすぎて。
 ロザリーが、かわいすぎて。

 ママンの悲しい想い出から、心の内側から、現実に、この世界に瞳を移して、戻ってきて、そして言うの。
 目の前にいる少女に。
 強いだけじゃない、ありのままの自分を見せることの出来る、ただひとりの相手に。
「好きになってもいいか?」

 なんなのよコレ~~!!
 萌えまくり、ときめきまくりよお~~!!

 真っ当なヲトメ・ハートが、じんじんうずいてきゅんきゅん鳴って、止まりません。

 もー、テーブル叩いて熱弁しちゃうわ。
 ベルナール×ロザリー最高っ。大好き。

 
 このかわいいふたりが、10年後はほんとにいい夫婦になっていて。
 信頼しあっていることが、わかるの。
 ロザリー@あすかがまた、すごいのよ。少女時代もめちゃくちゃかわいい女の子だったけど、これほどキャリアを積んだ大人の女がよくぞここまで、ってくらい初々しいキュートな女の子を演じていたけど、そこからさらに、その春風のような少女が大人になった姿を違和感なく構築しているの。
 どんな10年だったか、ふたりの歴史が見えるような、そんなベルナールとロザリーなの。

 だからこそ、クライマックスのロザリーの裏切りと、ベルナールの慟哭が、カタルシスへつながるの。

 ロザリーが軽はずみに決断したのではないことも、彼女の言葉だからなんの疑問もなく信じ、裏切られたことに崩壊して取り乱すベルナールも、わかる。違和感なく、わかる。

 そして、このふたりだからこそ、すべてを乗り越え、未来へ向かって思いをつないでいくのだということが。

 トウコすげえ。
 あすかすげえ。

 このふたりを組ませた、すべてものに、人に、感謝を。

 見たい安蘭けいを見せてくれる、遠野あすかに感謝。
 遠野あすかの力に負けず、さらに花開く安蘭けいの力に、感動。

 トウコとあすかが大好きだ。
 このふたりを見ることが出来てうれしい。

 たのしいたのしい。
 植爺だけど、『ベルばら』だけど、たのしいよお~~!
 
 うわわわわ。
 どうしようどうしよう。

 『ベルサイユのばら』で泣いてしまった。

 ちょっと待て。植爺作『ベルばら』で泣くなんて、なにもわかってなくてもただ「人が死ぬ」と脊髄反射で泣いていた平成『ベルばら』(カリンチョとかネッシーとかのヤツ)ぐらいだよ? あのころわたしは若くて純粋で、どんな駄作でも腹を立てたり爆笑したりせず、ほんとありのままに感動していたの。
 あとは、2001年の宙組版、お花様アントワネットに力尽くの迫力勝ちで泣かされたことはあったよーな気がするが、そのころはもうすっかりヨゴレた大人になっていたわたしは、駄作具合にプンスカしていたし。

 植爺作品は、笑うためにある。
 怒っても精神衛生上悪いだけだから、なにがあっても笑いへ転換する。笑って笑って、笑うことで自分を慰める。
 これぞ人生。

 「これ以上酷いモノは地球上に存在すまい」と思うものすごい作品を書き続ける植爺だが、彼は新作のたびにその記録を自分で破り、「信じられない、前作よりさらに酷いなんて! これ以上酷いモノは地球上に存在すまい!!」と、いつも新鮮な衝撃で観客を奈落へ突き落とす。
 ある意味ゴッドハンドの持ち主、植爺。彼は神に選ばれた駄作製造者。

 今年の『外伝』シリーズはその神に選ばれた才能を駆使した、まさに歴史に残る破壊作ぶりで、「宝塚の破壊神」としての能力を遺憾なく発揮していた。
 だからこそ、どんだけものすごいことになろうとも、腹筋を鍛える目的で受け止める覚悟を決めて、挑んだのに。

 …………あ、あれ?

 植爺作……だよね、コレ?

 もちろん、植爺らしさはちりばめられている。
 無意味に大仰な言い回し、どこまで続くんだ中身のない格言合戦、貴婦人たちの悶絶パフォーマンス、マロングラッセのコント、無意味な二役、同じ境遇のモノ同士でないと理解し合えない教、てゆーか剣より強いのはペンだ、筆ぢゃねえ、とか、突っ込みどころは満載だが。

 それでも。

 植爺作じゃないよね、これ?
 絶対チガウって。植爺に書けるわけないって。

 観劇後、わたしと仲間たちは「演出補誰だ」と騒ぎました。
 で、鈴木圭せんせだとわかり、納得した。

 きっとコレ、鈴木圭演出作品だよ。

 過去の壊れきった植爺『ベルばら』2幕2時間半を、新公専用に本公には存在しない歌を入れたりして正しくアレンジ、新公1幕1時間半に再構築した鈴木せんせ。散漫駄作『ファントム』2幕2時間半を整理してテーマを明確に新公1幕1時間半に再構築した鈴木せんせだよ。
 「本公より新公の方が作品が壊れてない」と言われる演出をした、あの鈴木圭だよ!(笑)

「植爺はきっと、途中まで書いて投げ出したんだよ、さすがに体力持たなくて」
「いつもの調子で2時間半分書いちゃって、それを鈴木圭が1時間半用にまとめ直したんだよ」
「ほんとはナポレオン暗殺未遂前後からはじまるはずだったのに、鈴木圭が『時間ないからここはカット』ってやったんだよ」
 とか、調子よく会話が続いていたのに。
「最初は張り切って『Zガンダム』書きはじめた富野由悠季が、『ZZ』になると投げ出しちゃったみたいなもんぢゃね?」
 ……沈黙のあと、「マニアックな喩えは出さないように、誰もついて来れないから」と、ばっさりやられちゃったよ。あれ?

 なにはともあれ、植爺らしさは残しつつも、とても植爺が作ったとは思えない『ベルばら』になってます、『外伝 ベルサイユのばら-ベルナール編-』

 
 なにしろ、主役とヒロインが夫婦(恋人)役なの!!
 接点のカケラもない主役とヒロインが「同じ境遇の私たち」と無理矢理こじつけて立ち話をするだけでいつの間にか愛し合っていたことになっていたり、瀕死の男と尼僧がえんえん立ち話して、話が長すぎて瀕死の男がご臨終したりしないの!
 ヒロインが主役の妹だったりしないの! しかも妹が幽霊で、10年間主役に取り憑いていたりしないの! 主役と幽霊がえんえんえんえん立ち話して、愛の歌を歌ったりしないの!
 物語が時系列に進むの!
 お前らいくつなんだよ?という時点から、意味のない回想シーンになったりしないの!
 物語の肝心なところになると突然ぶった切られて「10年後の主役と幽霊」が出てきて、その肝心な部分を説明台詞で一から十まで全部読み上げていったりしないの!
 無意味に現在と回想が行ったり来たりして、流れを壊さないの!
 物語のもっとも盛り上がる部分に、主役が登場しているの!
 革命ダンス場面を率いるのが脇役だったり、そもそも「アンタ誰? 今までいなかったよね?」な人だったりしないの!
 それまで主役に思えるほどの比重で描かれていたオスカルが、あとになって「死にました」という台詞で片づけられることがなく、革命場面で描かれているの! 彼女の戦死シーンが華々しく描かれるのではなく、革命成功の歓喜の人々の中、オスカルの剣を抱いたロザリーが泣き崩れる、という無音のアクションで表現しているの!
 無意味に死んで殺して、とにかく主役が死ねば感動巨編、と思ってない終わり方になっているの!
 瀕死の主役をべらべら喋らせて手遅れで死なせたり、それまでの人生やこだわりをすべて投げ出して「それは誰かがやってくれる」「しんどい思いして生きるより、死んで楽になる方がかっこいいよ」と主役が自殺して終わったりしないの!
 「主役が死ぬとかっこいい」という結論ありきで、ただ死なせるためだけに無理矢理こじつけて主役を殺しておしまいじゃないの! 主役とヒロインが「生きる」ことを誓って、前を向いて終わるの!

 主役とヒロインが愛し合っていて、物語が順番に進んでいって、いちばん盛り上がるところに主役もヒロインも登場して、物語に絡んでいて、困難を乗り越えたふたりがさらに愛情を深めて、未来に希望を残して終わるの。

 ……て、あたりまえじゃん。

 「物語」として、ごくごくあたりまえな、いちばん基本的な起承転結、シンプルなラインじゃん。
 いちいちおどろくこともない、世の中のほとんどの物語はふつーに、というか物語である前提としてクリアしている事柄ばかりじゃん。

 でも、植爺だから。
 そんなあたりまえな物語なんて、植爺に書けるわけないじゃん?!

 だから、植爺が書いたのではナイんじゃないか、と思えるのですよ。

 主役とヒロインがふつーに愛し合ってるなんて、おかしい。
 ロザリーがオスカルに夜這いして愛を告白するガチレズ話とか、幽霊ディアンヌが「お兄さんを愛しているの。自殺したのもお兄さんのせいよ」と告白する近親相姦話とかを書くのが植爺ですよ。
 
 主役はなにもしない、なにもできない人。物語を動かすのは別のところで、主役はなにもせずにきれーな服を着て「主役様すごい!」「主役様ステキ!」と意味なく誉められるだけ、なのが植爺クオリティ。
 物語の重要な部分は怒濤の説明台詞だけで、とにかく主役は蚊帳の外。
 「結局あの人、なにしたの?」「さあ?」が、いつもの植爺作品の主役でしょう。
 主役を中心とした物語を書けないんだよね、植爺。

 いやあ、植爺らしくない。
 これが、『外伝 ベルサイユのばら-ベルナール編-』の最大の特徴。

 ラストシーンではダダ泣き(笑)。

 ベルナール@トウコすげえ、ロザリー@あすかすげえ。

 このふたり、うますぎるよ。
 脚本がまだまともなところへもってきて、トウコとあすかが力尽くで盛り上げるもんだから、もお。
 『ベルばら』なのに、感動しちゃったよお。

 …………いやその、紗幕の向こうのアントワネット@まひろ、フェルゼン@ともみんに一瞬涙が引いたんだが。(ナニこの謎のキャスティング?!・笑) 
 孤高のトドはもうたくさん!なキモチだったので。

 今回のディナーショー『Fallin’ Love with Yu』の出演者の顔ぶれを見て、期待したことはたしかだ。

 今までのトドのように、完全な脇扱いのその他大勢を求めているなら、もっと下級生でなんの色も持っていない子たちを侍らせばいい。完全にトドが王様でいられる、まだ形ができあがっていないひよっこたちを4~5人ほどバック・コーラス要員として使えばいい。
 だが、今回のバック要員は、まっつといちかだ。
 ふたりともすでにタカラジェンヌとしての形を作りあげており、それぞれ独自のカラーも持っている。トド様に匹敵できる力はもちろんないが、助演として盛り上げる程度の技術とキャリアがある。

 ひよっこたちたくさん、ではなく、能力を持った中堅2名限定、という形に、「新しい轟悠」を期待した。今までもこれくらいの学年の生徒が出演したこともあったかもしれないが、記憶にある限り2名というのはない。何故ふたりだけなのか。そこに、意味があるのではないかと思ったわけだ。
 わたしは現まっつファンなので、まっつ単体にもそりゃ期待していたが、あくまでも主役は「轟悠」だ。まっつが出演することで、トド様の新しい顔が見られればいいなと、勝手にわくわくした。

 しかし現実は、いつもの酒井演出トドロキ主演作品(笑)。トド様ひとりが真ん中にどーん、あとは顔のナイその他大勢。
 トドと彼らの絡みはなく、べつにまっつでなくてもいちかでなくてもいい演出だった。
 こんな演出ならべつに、中堅を出す必要はなかったと思うが……それでもまついちコンビがいい仕事をしていたことはまた、別の話。それは置いておいて、今はトド様。

 いつものトドロキ……といっても、厳密に同じというわけじゃない。
 大劇場などの「男役」の枠にとらわれることなく、もっと自由な姿を見せていた。

 ファルセットの歌声、薄い化粧、全体を通してやわらかな姿と演出。

 いつもの「漢(オトコ)轟」という感じではなく、フェミニンさがあった。
 男役としての素地ができていないひよっこたちがやると学芸会になるが、トド様くらい極めた人がやると新しい魅力になる、ナチュラルさ。
 男装の麗人、という存在。

 極めたからこそ、まとっていた枷を脱ぎ捨てた軽やかさっていうか。
 大リーガー養成ギブスをはずした星飛雄馬はすげえぞっていうか。(ナニその喩え)
 今ここで、これだけやわらかなトドロキを見られるとは思っていなかった。

 最初に書いたように、男役は学年によってまとう世界がチガウ。
 トドの作りこんだ男役姿は、今のタカラヅカの主流になっている学年の男たちとはカラーがチガウ。だから彼はどこにいっても浮いてしまう。
 トドロキはよく、「男役ではなく、男そのもの」と言われてきた。(それゆえに人気がナイとも・笑)
 その作りこんだ男っぷりを、あえて意識せずにステージに立つ。
 女性が演じる男役であることがわかる姿で。

 たしかにソレは「新しい轟悠」であり、彼の新しい魅力だった。

 トドのナチュラルさ、今までとチガウやわらかさは、とくにまっつと対比することでも感じられた。
 まっつ、未涼亜希。研11にもなる中堅男役。
 彼がまたすげー真面目に、四角四面に「男役」をやっていた。

 まっつがクラシカルな「男役らしい、男役」である分、「男役」という制約を超えたトド様のやわらかさ、自由さが目立った。

 演出として、まっつがトド様に絡むことはないので、まっつである必要はなかったかもしれない。
 だが、まっつが代表する、「タカラヅカの男役」というものが、このディナーショーには必要だったのだと、思った。

 まっつは小柄な男役だ。
 体格のハンデを補う分、男役としての所作を作りこんでいる。それはトド様にも通じる姿だ。まっつの気負い、模索の在り方は、たぶん、小柄な男役としてトド様自身も通って来た道だろう。
 クラシカルに「男役」であるまっつを背景に使うことで、まっつの学年をはるかに超えてきたトド様の存在が、あざやかに浮かび上がった。

 これで燕尾もまともに着こなせない若手のひよっこたちが背景だったとしたら、トド様のナチュラルさは際立たなかったと思う。足りてナイからナチュラルな者たちと、超越したからこそナチュラルな者を一緒にするのは良くない。ぐだぐだに見えるだけ。

 「他者」と関わりあい、「芝居」をするトドロキを見たい……。
 それを痛切に願う。
 せっかく実力のある中堅ふたりを出演させておきながら、彼らを「背景」としか使わない演出に、「どんだけトドをひとりぼっちにするんだ」と絶望もする。

 ソレとは別に。

 まついちを「背景」とするこのディナーショーのゼイタクさを、たのしいとも思う。

 ディナーショーが終ったあとの化粧室にて、列に並んでいるわたしは、見知らぬ老婦人に笑われた。「まあ、まだ夢心地って感じねえ(笑)」……ツレの老婦人に対し、わたしを見ておほほと笑っているのだった……え、わたしですか、そんなに浮かれて見えましたか、てへっと会釈して反省、反省☆

 いや、その。
 まっつのあまりに融通のきかない「男役」ぶりと、ラフにくずしたトド様のフェミニンぶりが、個人的にツボに入ってねー(笑)。
 すげえたのしかったんですが。

 て、ゆーかさ。

 奇跡を見ている思いだった。

 トドとまっつが、ふたりでステージに立っている、ということ。

 トド様は、わたしのルーツだ。
 はじまりのひとだ。
 彼がいなかったら、今のわたしはない。
 20年前、トド様の美貌に一目惚れして、わたしのヅカファン人生ははじまった。

 「これほど美しい人はいない」と信じ、下級生にポジションを抜かれたときは「どーして? トドの方が美しいのに!」と憤慨していた(笑)が、今になって当時のビデオを見れば、「顔はキレイでも、男役としての技術が足りてナイから、それほど美しくない……」とわかる。
 最初から美しかったわけじゃない。そりゃカオはいつだって彫刻のように整っていたけれど、そーゆー問題じゃない。持って生まれたってだけの、努力とは関係ナイところでの美しさではなくて。

 技術を磨き、経験を重ね、トドは美しくなったんだ。
 
 その、長い過程を思う。
 ジェンヌとして今なお成長期にあるまっつと同じ舞台に立つことで、今のトド様を「見る」。より、あざやかに。

 トド単体として、その魅力を伝えてくれるDSだったと思う。
 「男役」という型にとらわれず、自在に歌うトド様は、素晴らしかった。たのしかった。
 今までの「漢・轟」だけがこの人のすべてじゃない。まだもっともっと、可能性のある人だ。

 そう思うからこそ。
 このDSは、これはコレとしてたのしかったけれど、それでもなお、だからこそ、思うんだよ。

 「他者」と関わりあう轟悠が見たかった。
 轟悠の、「恋愛モノ」が見たい。

 「芝居」が見たい。
 舞台にトドひとりではなく、「他者」のいる公演が見たい。

 轟悠ディナーショー『Fallin’ Love with Yu』で、トド様はいつも通りにひとりぼっちで、そして、ひとりで十分魅力的な姿を見せてくれていた。

 他者を必要としないほど作り込まれ、型にはまる必要がないほど「男役」を極めた人だからこそ、彼ひとりで完結するのではなく、他者と関係することで生じる「化学変化」を見たいと思った。

 
 ……とはいえ、「芝居」で、トドと対等に渡り合える人が、どれほどいるんだろうか。
 前日欄で語った通り、ヅカには学年があり、それによって世界が違ってくる。
 今、それぞれの組に「主演」として特出したって、「トド様、浮いてるね」と言われるだけで、同じ舞台に立っている意味は薄いと思う。
 大劇場公演はどうあがいたって「組」のもので、特出したところで「主役」にはなれない。劇団や演出家ががんばって「トドロキ主演ですよ」とやったところで、彼が主役ではなくただの「外から来た人」なのは一目瞭然だ。
 世代が違いすぎる。

 そーゆー不自然なことをするのではなく、トドの持つ世界に合わせた選抜公演をやってほしいと思う。

 『Kean』は、今までの中でもっともトドロキの実力を発揮できる公演だった。
 あのトドを持ってしても苦戦するような、ヅカの枠を超えた作品だった。
 大劇場でどーでもいい「主役」という看板だけが立派な役をやらせ、きれーな衣装で真ん中で吠えていればいいという、トドに与えられがちな今までの役とはちがい、内面を掘り下げていく役。トド自身が表に出したことがないようなモノを、どろどろと表に出す必要のある役。

 トド個人でいえば、この作品を彼主演でやるのはとても意味があったわけだが……。
 劇団もいちおー商売でやっているので、トドひとりの成果とか成長とかだけを糧に興行は打てない。
 2番手スターとか、将来売り出したいとソロバンをはじいている若手とか、経営側の計算・大人の事情を盛り込んでしか、公演を成立させることは出来ない。

 つーことで、2番手スターで将来トップ確実のれおんくんが出演することになり、若いまりもちゃんがヒロインを務め(トドといくつちがうんだろー……遠い目)、台詞言うだけでいっぱいいっぱいの真風くんが役をもらい、破壊力のあるソロをれんたが披露したりする、そーゆー公演にもなるわけだ。
 Wヒロインとして、みなみちゃんが出演していたのは、せめてもの実力面補強だろうなと(笑)。

 結果として、れおんもまりもちゃんもよくやっていたし、役の少ない……つまりはその少ない役を与えられた人たちは、やたらと比重が高くて大変だったりしたわけだけど、それでもトドに食らいついてがんばっていた。素直に、すげえよ、と心から拍手するよ。
 それはたしかなんだけど。

 トド単体で見るとやはり、相手役を務めるには足りていなかったんだ、彼らは。

 キーンのひとり芝居めいていた。
 こんなにおもしろい芝居なのに、トドが孤軍奮闘するばかりで、「芝居」としての総合的な調和には欠けていたと思う。

 もちろんそれは、ひとりで芝居をしてしまうトドにも問題はある。
 でも彼が主演で彼中心に展開する芝居なんだから、彼に合わせて、彼と同じレベルで芝居をしてくれよ、と、思ってしまうんだ。……所詮トドファンの身としては。

 ひとり芝居じゃないのに、他にも出演者はいっぱいいるのに、舞台の上に人はいるのに、……なのに、トドはひとりだ。
 いつも。

 それが、彼の芸風であり、魅力だということはわかっている。
 だけど、それこそが、もどかしい。

 トドがひとり芝居ではなく、座の一員として芝居することに心を砕いている……ように見えた公演がある。
 それが、『オクラホマ!』だ。
 まさかの若者役で、20歳近くトシのチガウ女の子を恋人に、いちゃいちゃラヴラヴしなければならなかったし、上級生のいない組であるゆえ、出演者たちとの世代差が大きかった。
 さらに演出家は、ナニも考えていない中村B。主演がトド様だからって、トド様風の演出はしない。つか、できない。

 トドは懸命に若返り、いつもの「トド様」オーラを消してカンパニーに溶け込もうとしていた。

 ソレが成功していたどうかはともかく、歩み寄ろうとしているトド様はくすぐったい魅力があった。
 初心に戻って芝居に取り組んでいる風が、かわいくてわくわくした。

 が。
 その翌年のコンサート『LAVENDER MONOLOGUE』で、トドはまた完璧な「ひとり芝居」に戻ってしまった。

 ひとり芝居じゃないのに、他にも出演者はいっぱいいるのに、舞台の上に人はいるのに、……なのに、トドはひとり。

 若手中心の出演者たちの中で、トドはもちろんひとりで浮かび上がっている。ぽっかりと。
 世代も時代も芸風も、ナニもかもチガウ。
 ここまでチガウ人たちを同じ舞台に立たせることが不思議だ。

 早い話が轟悠オンステージつーか、独り舞台。

 ひとりでいる孤独より、大勢の中にいるときの孤独の方が、つらい場合がある。

 子どもたちのなかにいるたったひとりの大人が、大人だから「いちばんなんでもできるんだよ」と悦に入っているよーな構成は、見ていてたのしいものではなかった。

 演出家は、酒井。彼がトドを好きで、トドの実力を高く評価しているのはわかるし、それゆえの構成だともわかる。
 わかるがこれは、トドのためなんだろうか? 今この一瞬、他出演者より際立って優れているトドロキを眺めて終わり、になることに、意味があるのだろうか?

 トドはこれからもずっと、ヅカにいるのに?

 『Kean』はそのコンサートの後だ。
 トドはすっかり、いつもの孤高の人に戻ってしまっていた。
 作品がトド様の手に余ったこともあり、演出家の谷がトドのひとり舞台上等の演出をしたこともあるだろう。
 だが、こーゆー役者の能力ガチンコ勝負の作品ですら、ひとり芝居をする人だと見せつけることになった。

 そして今年の宙組特出公演『黎明の風』『Passion 愛の旅』はイシダと酒井。
 イシダはトドがどーゆー人だとか関係なく、ただ自分がやりたいことをやる。彼が描くところの男性的無神経さに満ちた主役に、たまたまトドロキの持ち味がハマる、というだけで、イシダはアテ書きはしていない。彼はジェンヌより自分自身を愛している。
 反対に酒井は、トドを評価しているからこそトドのために演出をし……結果、いつものようにトドを孤立させる。トドひとりが真ん中どーん、あとはカオのない脇役、という。

 誰もトドと同じ世界にいない。
 『黎明…』でトドのそばに汝鳥さんが多くいてくれたことは救いだが、イシダ脚本なので主人公は結局誰とも深くは関わらないし、掘り下げられることもない。

 役者として、男役として、トドロキがなりふり構わず「芝居」で共演者と火花を散らす……そーゆーものは、見られないままなんだ。
 トドファンやって、もう20年も経つのに。

 「他者」と関わり合うトドロキが見たい。
 できることならば、「恋愛」するトドロキが見たい。

 ぬるい一ファンとして、心から願う。

 「轟悠」への疑問がある。

 彼が専科に行ってから、それはどんどん大きくなっている。

 タカラヅカの特殊性は、女性ばかりであるとかトップスターを中心にしたピラミッド社会だとかいうことだけではない。
 団員たちは「生徒」と呼ばれ、それぞれ「学年」というものがある。

 他の世界での役者さんたちには、関係ないものだろう。
 舞台に立ってから何年であるか、いちいち看板ぶら下げているなんて。

 ヅカにあるのはふつうの芝居ではなく、男役、娘役という別世界の存在を作った上での芝居なので、演技云々以前の部分が必要だ。
 ソレを作るために年数が必要であり、概ね年数によって出来上がりが違っている。

 学年によって、芝居がチガウんだな。

 芝居のうまいヘタだけじゃなくて。
 ヅカを表現する力っていうか。

 新公やWSがどんなにへたっぴばかりでも、それでもなんとかなっているのは、全員同じような学年だから。同じカラーの世界だから。

 ふつうの芝居ではなく、まず「タカラヅカ」という架空世界を最低限構築するために、カラーは揃える必要がある。

 そんななかで。

 研20を超えた轟悠の存在は、特異なモノになっている。

 学年によって芝居がチガウものであり、今ヅカの中心になっているのは研10~17位までだ。トップスターの定年が研18、延びて19とか言われているなか、研24のトドロキは世代が違いすぎる。

 彼と同じ世界観を表現できる生徒がいないんだ。
 純粋に、学年がチガウから。

 彼の持つ世界観に、誰も太刀打ちできない。
 ……その「世界」を、現代のタカラヅカのファン層が必要としているかどうかは別問題だから、置くとして。

 
 轟悠ディナーショー『Fallin’ Love with Yu』で、痛切に思った。

 轟悠の、「恋愛モノ」が見たい。

 「芝居」が見たい。
 舞台にトドひとりではなく、「他者」のいる公演が見たい。

 いったいいつから、トドロキはこんなことになってしまったんだろう?
 たしかにもともと傾向はあった。
 基本がひとり芝居っていうか、相手役の必要のない人だった。
 だがそれでも、トップスターだったときは相手役もいたし、ちゃんと芝居もしていた。
 専科となり各組に出演するようになったあと……彼が「他者」と「芝居」するのが、目に見えて減った。

 出演者はもちろん他にたくさんいるのだけど、結局のところ彼はひとりで芝居をしている。
 そう思うことが、何度もあった。

 それは、彼と他の生徒たちの持つ「世界」がチガウためだ。
 トドが勝手な人だから、自分ひとりで芝居をしているのだとは思わない。
 他者と芝居したくても、同じ世界にいないから、かみ合いようがないんだ。互いの姿が見えないのだから。

 演出家もソレを理解しているのか、トドひとりが浮いていることをうまく利用して作品を成立させた場合もある。
 キムシンやフジイくんは最初からトドを「別世界の人」として他の組子たちとは格の違う扱いをした。
 谷は格上・年上の主役トドが2番手役を構う、でも役割的に基本ひとり芝居可なモノを書いた。
 植爺はナニも考えていない。植爺作品の主役はきれいな衣装で真ん中にいるだけで、ナニもしないし。スポットライト浴びて大仰に台詞言っていればいいだけの話。
 中村B、イシダは誰が主役でもどこを吹く風、関係なく我が道を行く。

 演出家がナニも考えていなくても、『花供養』は専科公演であり、実力者で周囲を固めたから問題なかったし、『長崎しぐれ坂』も相手役であり、物語を動かすワタさん(なにしろ主役はナニもしないから)がちゃんとトドと同じ世界で芝居をしてくれたから、成り立っていた。
 『野風の笛』は英雄モノだから孤立して構わないし、専科に行ったばかりでまだそれほど一般組子たちと乖離しておらず、相手役を務めた寿美礼ちゃんも男役としての実力があった。
 が、同じ谷作品でも『Kean』は同じ世界に相手役がおらず、トドひとり芝居状態に……。つっても、もともとひとり芝居上等で書いたのかもしれない、とも思う。
 

 トドがいたからヅカファンになり、あーだこーだ言いながらここまで来た。
 トド個人を好きでも、彼が出演する作品、彼を贔屓にする作家とはことごとく趣味が合わなかった。
 おかげで、初心者ファンとか一般人に、「こあらちゃんの好きなトドロキさんの作品で、オススメがあったら教えて」と言われても、返答に窮したもんだ。
 ごめん、トドは駄作にしか出演してないから、トドが出てないか、出てても脇役の作品をオススメするわ。
 トド主演で唯一名作なのは『凱旋門』。しかしコレも大劇場でやるには重すぎる作品だったから、当時は作品評価だけ高くて客入りは凍り付いていたさ。さらに、ヒロインのグンちゃんの芝居が迷走していて、トドと致命的にかみ合ってなかったんだよなー……博多座版ではよくなっていたけど、映像に残ってないし。

 トド贔屓な作家って、植爺を筆頭に、谷、イシダ、酒井だもんよ……。谷せんせのパッション(笑)はわりに好きなんだが、演出レベルは古すぎるし低下しているしなぁ。
 植爺はわたしの天敵だし、イシダは作家としての能力は認めているけれどヅカの座付きとしてはやはりわたしの天敵だし(笑)。
 わたしが好きになりようのない作品にばかり、主演するの、トドロキは。

 という、わたしの好みの話は置くとしても。

 タカラジェンヌであり、与えられた場で仕事をしているわけで、トド個人が自分の意志で仕事や芸風を選んでいるとは思っていない。
 立場が上がっているので、多少は考慮してもらえていると思うが、公演の企画やプロデュースをトドひとりでやらせてもらえるはずがないのだから、所詮はジェンヌとして劇団の意向に従っているわけだろう。

 劇団が、トドをひとりにしている。
 
 もう何年も、まともに「誰か」と正面切って闘うトドロキを見ていない。
 トドはいつも別格で、いつもひとりで「すごいですね」と言われて、ソレで終わりだ。

 トド様の魅力がソコにあることもわかるが、これだけの能力を持った人なのだから、新しいことにもチャレンジして欲しい。
 モバタカからメールが届いたとき、わたしはちょうど録画したドラマを見ていた。
 観月ありさ主演の『OLにっぽん』第4話。や、わたしゃドラマ・ヲタクでもあるので、大抵のドラマは見ている。

 井上芳雄演じる都留くんが、ネクタイはずし、歌い出したところだった。

 「夢はみのりがたく 敵はあまたなりとも 胸に悲しみを秘めて 我は勇みて行かん」

 わたしでも知ってる有名曲。『ラ・マンチャの男』の「見果てぬ夢」。
 その曲を聴きながら、あわてて公式に行って、本文を読んだ。

 「星組主演娘役 遠野あすか 退団のお知らせ」を。

 
 2年前、あすかちゃんがトウコちゃんの相手役になると、うれしくて泣いた。
 http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-267.html ←当時の日記

 今でも、これほどうれしいふたりはいない。
 このふたりに対する期待は、ふくらむばかりだ。

 まだ観たいモノがある。
 ぜんぜん、足りていない。

 トウコと、あすか。
 わたしの大好きな、俳優たち。

 もっと、もっと。

 ドラマシティあたりで、濃ぃ~い芝居が観たかった。彼らのためのオリジナル作品で。コケだのカビだの生えた古すぎる作品じゃなくて、現代の作家が現代の感覚で作った、ふたりのためのアテ書きを。

 トウコ、あすか、そしてオギー。……夢見ていたさ、いつかひとつの舞台を作る彼らを、見られる日を。

 足りていない。
 一ファンとして、飢餓感がある。

 貪欲なわたしが満たされることなんか、きっと一生ないんだろうけどな。
 なにを与えられたって、きっと「足りない」「もっと」って言ってるとは思う。

 自覚はあっても、仕方ないことだとわかっても、覚悟していたとしても、それでも言うさ。思うさ。

 もっと、観たい。
 もっと、観たかった。

 宝塚歌劇団の、遠野あすかを。

 そして、安蘭けいを。荻田浩一を。

 
 井上くんの歌声が響き、勝手に涙が流れる。

 「たとえ傷つくとも 力ふり絞りて 我は歩み続けん あの星のもとへ」

 見果てぬ夢を。

 携帯電話が、立て続けにピーピー鳴りました。

 抽選結果のお知らせ[【抽選方式】宝塚歌劇花組公演「太王四神記」(兵庫県)]とゆータイトルのメールが立て続けに送られてきた。

 結果って、メール送信されるモノだったのか。
 てっきりサイトに確認しに行くんだと思ってた。

 
 はいはいはい、ついにはじまりましたね、「宝塚友の会ネットサービス」
 あの怨霊の声を発し続ける不快な電話申し込みから解放されるときが来た。
 ID取得モノなので、もちろん登録開始初日にいそいそ登録しました。

 なんでも好きな単語をIDにできる。

 やっぱアレか、「mattsu」にするべきか。

 それとももっと恥ずかしく、「lovely mattsu」とかに、するべきか。

 らぶりー……まっつにそぐわない形容だ……じーん……。

 ID登録とかハンドルネーム登録とか、いつもこまるんだよな。とくに使いたい単語があるわけでもないので。
 ヤフオクとか見てても、みんないろんなIDを使っているなと思う。
 贔屓がわかるID使っている人は、「本気なんだな」と思うし……。ヘタレなわたしは、そんな人目に触れるところに贔屓の名前なんか使えないっつの。

 今まで見たYahooIDでいちばん「すげー」と思ったのは「***love_fire_数字4桁_burning_heart_forever」だっけかな。***にはある芸能人の名前(フルネーム)が入り、4桁の数字は多分その芸能人の誕生日。
 ラヴ・ファイヤーでバーニング・ハートでしかもフォーエバーかよ! どんだけそのアイドルくんを愛してるんだ、このお嬢ちゃんは。てゆーかID長すぎ。

 IDってのは、ここまで自己主張してもいいもんなんだな、と思い知った。

 かといって、わたしが「mattsu_0626_love_fire_forever」とかやるのも、どうもキャラ違いだし。(文章として変だし、↑の文字の並び)

 
 結局ふつーにした。
 ヅカ絡みでもなんでもなく。

 
 んで、来年の花組公演、ご贔屓公演から入力スタート。
 どんなもんかわかんないけど、とりあえず参加してみる。

 他の組は当たらなくても、とりあえず贔屓組さえ当たっていれば、それで満足できる。
 まっつまっつまっつ、当たりますように。
 梅田での発売がなくなってしまった今、最前列で観劇できるチャンスは、唯一友会のみ。

 念を送りつつ、入力して。

 平日も含め、4公演フルエントリー。
 そして。

 
 立て続けに鳴った携帯メール、計4通。
 タイトルは全部同じ、抽選結果のお知らせ[【抽選方式】宝塚歌劇花組公演「太王四神記」(兵庫県)]とやら。

緑野こあら様

宝塚友の会ネットサービスをご利用いただき、誠にありがとうございます。
以下のお申し込みにつきましては、
残念ながらチケットをご準備することができませんでした。
※抽選結果のお知らせメールは1公演期間中の申込毎に配信させていただきます

 うあああぁぁぁんっっ。

 まっつ出演公演全滅記録、更新中。

 なによこれ、これからずっと、「ハズレメール」がピーピー送られてくるの?
 当たってりゃうれしーけど、ハズレ4連発とか並んだときの目で見るダメージときたら。

 いやその、それでもあの怨霊電話よりずっと便利でありがたいが。
 どっちにしろ、当たらないっす……。
 しくしくしく。
 さぁてここで、緑野こあらの、宝塚友の会1年間の当選確率発表と行きましょう。

 なんで11月に1年間分を発表? ふつー1月とか4月とかにやらないか? 年や年度を区切りにしないか?

 ……たんに、わたしが当落をいちいち記録しはじめたのが、2007年の11月からで、今年の10月いっぱいをもってちょーど1年になった、というだけのことです。
 今までも何度となく当落を記録しておこう、と思いつつ、途中で忘れてわけわかんなくなっていたの。
 それが今回よーやく、1年ちゃんと記録できたのだわ。

 だから発表。
 いやその、せっかく数えたり計算したりしたから(笑)。

 
 申し込んだ数 59

 受付番号を聞いた数、ですな。
 ひとつの興行を4公演フルエントリーした場合は、4と数える。
 フルエントリーすることはあまりなく、自分が行くつもりの日だけ入力していたり、入力自体忘れていたことも、しばしば。
 ムラ中心の観劇なので、通常公演は当日ふらりと行っても必ず観ることが出来る。ので、ふつーでは手に入りにくい新公・千秋楽を中心に入力。初日はなにかしらプレミアのついた公演でもない限りムラではまず売り切れないので、贔屓組以外入力はしない。
 平日の入力は、ほんとーに観たい公演のみ。誰もいないがらーんとした2階席で、掲示板やらに半額以下でもっと良席が売られているのを尻目に、7500円払って寒々しい思いで遠く客席を眺めるリスクを犯しても、最前列で観劇したいという欲求が勝つ場合のみ。

 わがままな入力ぶりなので、当選確率が低いのは仕方がない、とは思う。
 思うが。

 当選回数 7

 59分の7。
 しかもその貴重な7のうち2は、友人に頼まれて入力したもの。わたし個人のアタリは、5ですよ、5。

 友人の分であろうと、とりあえず記録は7ということで。

 当選確率 11.9%!

 10回入力して、1回。
 9回あの呪いの音声聞かされて、1回だけ9桁の当選番号を聞ける確率。

 新公・楽を中心に入力しているから、仕方ない、とは、思ってるよ。
 思ってるけどさ。
 べつに、ソレだけを入力しているわけじゃないから。

 楽が当たったのは、1回だけ。しかも、友だちに頼まれて入力した東の公演だったんで、わたし個人には無意味だったんですが。新公は当たったこと、ついに一度もなかったしな。
 10回に1回の当選で、結局のとこ、なにも冠のない日ばかりが当たってます。

 しかも。

 さらに数えてみた。

 良席当選回数 1

 7回のうち、1回だけ。

 なんでもいーから前で観たい、それが叶う希望があるなら、2階7列目の恐怖にも耐えるわっ、と入力してきて、ほんとに望む席が来たのは、1回だけ。
 残りの当選はすべて、「……こんなことなら、当たらない方が良かった……」なお席ばかりでした。

 59回入力して、1回。
 1年間に、1回だけ。

 良席当選確率 1.7%!

 1%台って、100回入力しても、1回当たるだけなのね? 運が良ければ2回目があるかな?レベルなのよね?

 ……あうう。

 
 愉快だから、これからも記録はつけておこうと思います。

 あー、くじ運が欲しい。


 当時は、本公演と新人公演は発売日が別だった。
 本公は抽選により発売順が決まるが、新公は先着順だ。

 平成元年の『ベルサイユのばら』でトドにハマったわたしは、その次の公演からはずっと彼目当てで新公も観るようになっていた。
 ネットもないし、会にも入っていない、ヅカ友も知り合いも皆無の一般人がチケットを手に入れるのは、とても大変だったあのころ。
 情報がなにもないまま、それでも梅田の総合案内所にいちいちスケジュールを確認して、並びに行っていた。ええ、並び用の折りたたみ椅子とか用意したのもこの頃ですわ。なにしろ先着順、早朝から並ばなきゃならないんだもの。
 『天守に花匂い立つ』『黄昏色のハーフムーン』『スウィート・タイフーン』と3回続けて同じ窓口に並んでいたので、「何時に行けばどこが買える」とか、すでに感覚でわかっていた。
 梅田の総合案内所で発売するチケットは10枚から20枚くらいだったかな。15列目くらいのサブセンターが、1列~2列あるかないかだけ。列番号はすでにうろおぼえだが、S席の後ろの方(でも20列目ではない)だった。

 大体15番目くらいまでに並べば手に入るし、たとえいちばんに並んでもはじめから後方席しか売ってないので、早くから並ぶ必要はない。
 つーことでわたしは、4回目の気安さでもって、いつもと同じくらいの時間に並びに行ったんだ。

 そしたら、どーしたこったい。
 いつもの時間にはすでにすごい人数が並んでいる。
 「なんで?」わけがわからないまま、発売時間まで並んださ。

 ……結果、チケットは売り切れで買えなかった。

 トドの最後の新公が観られない?!
 想定外のことにパニックになり、あちこちに泣きついたなー。

 ヅカ友がいなかったので、ツテもナニもない。
 ただ、腐っても大阪在住。ヅカファンはいなくても、探せばヅカの関係者はいるんだよなー。
 友だちのおかーさんが劇団で働いていたり、バイト先の人がジェンヌの知り合いだったり。近所の人の友だちが「ナントカいうスターさんに毎日お弁当作って届けてるわよ」だったり。
 本気で探せばなんとかなるもんだ。
 どっから湧いて出たのか忘れたが(笑)、無事にチケットは手に入ったのだった。


 さて、新公の前に、本公演だ。
 見慣れたわたしの雪組に、知らない人がいた。 

 そーいや新公発売日に並んでるとき、前にいたおばさんが組替えがどうとか言ってたっけ。
 あの知らない人が、組替えで来た人らしい。

 その知らない人を見て、美しくないことに、おどろいた。

 知らないだけなら、組替えってそういうもんなんだ、と思えた。わたしはよくわかってないんだけど、そもそもトドだって組替えで来た人なわけだし、それ以前から雪組を観ていた人にとってはトドだって「知らない人」に見えたことだろう。

 その知らない人は、大活躍していた。
 芝居でも1曲朗々と歌うし、ショーでも彼が中心の場面があって、ものすごいスターぶりだった。
 学年はトドより下だという。なのに、トドがソロ歌ナシ、センター場面ナシで終始脇役なのに、よそから来た知らない下級生がトドより明らかに上の扱いを受けていた。

 よそから組替えでスターがやってくる場合もあるんだろう。と、漠然と思いはした。
 だがどーしてもわからないことがあった。

 その知らない人が、美しくないことが、理解できない。

 上級生を下克上するほどの下級生っていうのは、まず美貌が必要なのでは?
 タカラヅカでいちばん必要なのは、「美」でしょう?
 うまいだけでは、真ん中には立てないよね?

 ミユさんはすごくうまくてかっこいいけど、美貌のタカネくんに番手を譲ったわけだし。や、譲るって言葉は変だけど。徐々にふたりのレールは離れていったじゃん?
 真ん中に立つ人はまず美しくなきゃダメなんでしょう??

 トドは新公主演だから、わざと本公演の比重を下げられてるのかな、と思った。
 ……が、その後、新公を卒業してもトドの見せ場はないまま、組替えでやって来た彼は新公主演の上に芝居でひとり歌ソロをもらったりと、スター街道まっしぐらだったさ。

 なんで逆転されたのか、マジでわかんなかった。
 タカラヅカは年功序列、上級生スターの方がイイ扱いをされるものでしょう?
 順番を守ってさえいれば、いずれはトップになれるんだと思っていたのに、まさかの下克上?
 だって、相手は組替えでやって来るなり、トドより上の扱いだったのよ? 同じ舞台で競って、その結果トドがオトされた、つーならまだわかるが、来たときすでに向こうが上。それってなんで?

 混乱したなあ。
 何故彼の方が評価されているのか、同じ舞台に並び立った新公を観てさえ、わからなかった。
 なにしろわたし、主役のトドロキしか見てなかったし(笑)。

 新公チケットがいきなり盛況で買えなくなったのは、作品への期待に加えて、このよそから来た人のファンもが、チケ取りに参入したためだと、あとでわかった。
 雪組に来る前、花組にいたときにすでに新公主演している人だったんだ。新公主演経験者が、組替え後に2番手をやるんじゃ、そりゃ内も外も興味津々だよ。

 
 とまあ、長々と年寄りの昔語りですが。

 今になってよーやく、このときの謎が解けたのよ。

 スカステで、『華麗なるギャツビー』を見た。
 ええ、これがトドの最後の新公作品。
 チケットが取れなくて右往左往した、思い出の作品(笑)。

 本公演の幕が開くなり、センターからビロクシー@トドロキが登場してきて、心臓ばくばくだった(笑)忘れられない作品。
 寡黙な執事役はトドのアンドロイドめいた美貌と相まって、そりゃーもーステキでかっこよくて、いやらしさ全開のウルフシェイム@タカネくんを中心にした闇社会の男たちとして踊る場面のかっこよさと、「ごはんですよ」のひとことのためだけに、何回でも通うことが出来た。
 ウルフシェイムからギャツビーのシマを任されたときの困惑と、直後にギャツビーに見せる侮蔑の表情が、青臭い邪悪さに満ちていて、良かったよなあ。
 ギャツビーの死について電話で話すウルフシェイムの背後に立つ姿も、これまたすげークール・ビューティぶりで。低温さがたまらん。
 美貌で、あまりにも非人間的で。

 だからこそ、千秋楽のアドリブ「ピンクのフリル・エプロン」では、きゃーきゃーにときめいたし(笑)。

 ビロクシーをオペラでピン撮りして追っかけていたわたしの視界と、スカステで放送されている『華麗なるギャツビー』はあまりにも別物でした(笑)。

 トドが映っていないのは想定内だったが、ギャツビーにしろ他の人たちにしろ、わたしの記憶とはぜんぜんちがっていて、記録と記憶はほんとに別物だなあ、と思ってみたり。

 そして。
 ええ、長年の謎。
 美しくないあの人が、何故スター扱いだったのか。

 大人になってから、映像を見て、よーーっくわかりました。

 香寿たつきの、美しさが。

 スーツの着こなしからして、チガウじゃん。美しいじゃん。
 肩や背中のライン、「男役」としての在り方。それらの型がすでに出来上がっている。
 それに比べ、トドロキはなんとももたついた姿をしていた。
 男役としての洗練度がちがった。

 続けて『ラバーズ・コンチェルト』のビデオも見ちゃったんだけどさ。
 ショーの組、ダンスの花組からやってきたタータンは、派手で押し出しが良くてとくにスーツ、黒タキ系衣装の着こなしが堂に入っていた。
 コメディと日本物の雪組で、ひとりダンディ風を吹かしていた。

 なるほど。こりゃカッコイイわ。
 美しいわ。

 当時のわたしには、わからなかった。なにしろカオしか見てなかったからな。

 今のわたしなら、この美しさも理解できるのにな。
 もったいないことをした。
 銃を向けられ、肯定すれば殺されるとわかっていながら、ギャツビーは肯定する。車を運転していたのは、自分だと。

 まるで、運命のように。
 いや、運命に、勝利したかのように。
 誇らしく、虚空に向けて宣言する。

 愛していると。

 肯定の言葉は、愛の言葉だ。愛の宣誓だ。
 このときすでにデイジーは若き日の恋より現実の生活を選び、ギャツビーのもとにはいない。戻ってこないとわかっている。
 それでもギャツビーは宣言する。誇らしげに。恍惚すら見せて。

 あいしている、と。

 杜けあきの壮絶な演技、対峙する古代みず希の研ぎ済まされた狂気、同期の芝居巧者ふたりの真正面からのぶつかりあい。

 銃を向けられてからのギャツビーの心理の移り変わりがいいのな。最初のとまどいや恐怖から、なにかに達観したような虚をついた一瞬、続くこの世のなにも見ていないような、せつない空白と、次第に広がっていく恍惚の表情。

 息をのんださ。
 彼が「そこ」にたどり着くまでの思いに。人生に。

 彼は、勝利者だ。
 誰がなんと言おうと、彼は幸福だ。
 神も運命も、彼の真実をねじまげることはできなかった。

 たとえ周囲の人々が、世間が、なんと言おうとも。
 彼の葬式に、参列者いなくても。それが、世間が彼に与えた評価だとしても。

 彼を哀れむことなど、できない。

 ギャツビーの壮絶な最期、そして、純朴な老父の口から語られる、少年ギャツビーの姿が、名曲「朝日が昇る前に」を歌うギャツビーの姿に収束されて、幕が下りる。

 リピートするほど、ギャツビーのかなしさ、その人生がせつなくて泣けて泣けて仕方なかった。
 彼を幸福だと思うことと、その命を懸けた愛の絶唱にカタルシスを感じることとは別に、そうやって生きることしかできなかった男のせつなさが、泣けて仕方なかった。

 
 ……とまあ、年寄りなので、昔語りをする。

 『華麗なるギャツビー』は、トップスター杜けあき氏の折り返し地点となった作品だ。

 わたしはカリンチョさんの昔を知らないので、彼の最初の印象はコメディばっかやる人だ。
 スマートな美形ってわけではなかったし、個性的なスタイルと顔立ちだったし、初見では魅力がわからなかった。
 よその組のトップさんはみんな美人なのに、どーして雪組はきれいじゃないんだろう、と思った……失礼なことに。(大浦みずき氏の舞台顔は知っていても、この当時素顔は知らなかった)

 トップ就任のとほほ作『ムッシュ・ド・パリ』、時代錯誤な大歌舞伎の上にマロン・グラッセにすがりついて泣いちゃうよーなアンドレの『ベルサイユのばら』、いきなりお茶の間時代劇『天守に花匂い立つ』、すちゃらかコメディ『黄昏色のハーフムーン』、日本モノと洋モノショー2本に短いコメディ1本の3本立て公演、ときたわけだから、ヅカファンなりたてのわたしは、すっかり誤解していた。

 雪組とは、コメディ専門の組である。
 雪組トップスター・杜けあきは、コメディ専門の人である。

 ヅカファンになって数年、コメディばっか見せられていたんだもの。ショーでも、おさげアタマに顔にそばかす描いて「アタシ、長靴下のピッピ!」とか言って、ドリフ張りのお笑いをやっていたんだもの。
 今で言うなら、はじめて観た公演が『君を愛してる』で、しかもそっから数年間、『君を愛してる』と同じタイプの他愛ないハッピーコメディばかりが続き、水夏希って、ひとはいいけど、なさけない男の人がハマる人なんだ。と思い込む、ようなもんですな。
 途中『ベルばら』はやってるけど、全組巻きこんでの祭りだったので、「コメディの雪組」も参加せざるを得なかったんだな、程度の感覚でしかなかったさ。

 雪組ってのは、カリンチョさんってのは、そーゆーもんだと思っていたから。

 そんなカリさんのトップ6作目が『華麗なるギャツビー』で。
 カラーの違いに、どんだけ仰天したか。

 『君愛』の水しぇんしか知らないところへ、『マリポーサの花』を見せつけられるよーな感じですな。

 シリアス芝居、できたんだ?!

 ……や、観たことなかったもんだから。

 かっこいい男の役、できたんだ?!

 ……や、観たことなかったもんだから。

 雪組ファンで雪組しかほぼ観ていない状態だったのに、トップスターの実力すら、ろくにわかっていなかった、若かりし頃。
 芝居がうまいことはわかってたよ。コメディができるのは、実力者だからだって。歌がうまいのもわかっていたよ。滑舌と声の良さだってわかっていたよ。笑わせる芝居をあそこまで余裕でやる人なんだから。
 しかし。
 いわゆる「ヅカの男役」として「美しい」かどうかというのは……考えたことがなかった。

 そんな役も作品も、ほんとになかったから。

 ギャツビーで目からウロコ、びっくりしていたら、そっから先はシリアスで重苦しい作品しか来なくなった。……カリンチョのトップ人生、前半と後半でカラー違い過ぎ。

 ギャツビー@カリンチョは、マジでかっこよかった。
 包容力あふれる大人の男。しかし少年ぽさをにじませた、愛すべき男。生きる器用さと愛への不器用さ。

 初見では、わからなかった。
 なに、この話?
 今よりはるかに若く、幼いわたしには、ギャツビーの生き方もデイジーの魅力も、ラストシーンの意味も、わからなかった。
 理不尽な話だと思った。
 自分のために恋人が死んだってのに、車から降りもせずに行ってしまう、デイジーってナニ、最低女! こんな女のために死ぬってすげー犬死。

 あまりにも納得の行かない話だったので、映画をレンタルして見てみた。ロバート・レッドフォードのやつ。
 ……映画を見て、さらにアゴが落ちた。ま、ますます理解できねえ、この話。

 タカラヅカ版『華麗なるギャツビー』は、かなりヅカ風アレンジがしてあるんだってことが、わかった。
 演出家の腕がいいことも、ここでわかった。

 2回目に公演を観たときは、ラストにデイジーが車から降りて、墓穴に花を投げ入れていたよーな気もするが、「それだけかよっ?!」という憤りに変化ナシ。這いつくばって泣いて詫びろ!と。

 繰り返し観て、観ているうちに、ものごっつーハマったのだわ。
 ギャツビーもだし、デイジーもだし、ギャツビーを取り巻く裏社会の男たちの関係にも(笑)。

 杜けあき、というスターにハマったのは、このときからだ。
 あのクソ広い劇場で、2500人もの人間を相手に、あそこまで濃い芝居をしていいんだってこと、内面を掘り下げていいんだってこと、高密度のモノが爆発するような演技をしていいんだってことを、知った気がする。

 テレビカメラでアップにならなくても、役者の演技でドアップに見え、その表情のひとつひとつが忘れられなくなるんだってこと、はじめて知ったんだ。
 ギャツビーが美形で、おどろいた(笑)。

 月組日生公演『グレート・ギャツビー』にて。

 や、あさこちゃんだから美しいことはわかっていた。わかっていたけどほら、わたしのギャツビーのイメージは、初演のカリンチョさんなので。
 カリさんはかっこよかったけど、その、ビジュアルが優れていたかとゆーと、そーゆーわけではなかったので。

 あさこちゃんがバラの花束持って、「キミは薔薇より美しい」とか言っちゃうともお、くるくる回っちゃうくらい完璧な画面ですな。
 いやその、ベタが基本のタカラヅカでも、かなりベタな台詞として印象に残っててな、「キミは薔薇より美しい」。
 あのコテコテこゆこゆのカリさんが言っても「うわあぁ」だったが、完璧な美青年あさこ氏に言われても、チガウ意味で「うわぁ、うわぁ」ですな。や、どっちも赤面しちゃいますって。

 美しい、ということは、それだけで説得力だ。
 瀬奈じゅんが美しい、つーだけで、彼がなにをしようと「そういうことなんだ」と思えてしまう。

 デイジー@あいちゃんが、回想シーンにて奥の扉からひとり遅れて登場した瞬間、彼女の美しさに、息を飲むように。

 美しい。それだけが持つ、力。

 くどくどしい説明はいらない。
 美しい。それが理由。
 もちろんその美しさは人形の美しさではなく、生きた、人格のあるがゆえ、魂の魅力をも内包したうえでの美しさだけど。

 
 あさこちゃんのギャツビーは、ひどく痛々しかった。
 もちろん、そういう役であるわけだが。

 本公演以外、組を分けての興行である、ということのゆがみ。
 つまり、あさこと同レベルの存在がいない。

 対等に戦うべき恋敵は同世代にも見えないし若造だし、最後に愛をかけて対峙する運命そのもののような相手は、恋敵の軽さとは反対の意味でチガウ世界でチガウ演技している人だし。
 意外に感覚が合っている気がした隣人は、所詮隣人でしかなく、真に心を寄せているわけでもなく。

 言葉が通じるの、デイジーだけじゃん。
 なのにデイジーとも、言葉の意味は通じるにしろ、結局心が遠く離れてしまう。

 あんまりだ。
 なんて救いがないんだ、ギャツビー。

 と、主要人物にスターがいないことが影響してました。
 あひくんやもりえくんがスターではないという意味ではなく、やっぱりトップスターというのは特別な存在であり、彼と違和感なく芝居で絡むことができるのは、それなりの技術や経験が必要なんだということ。

 トム@もりえは……できる、からキャスティングされたんだと思ったんだけどなあ。期待したんだけどなあ。
 わたしにはデイジーが姉さん女房に見えた……。ギャツビー云々以前に、デイジーより子どもに見えたら、それはトム役としてきついっす。

 もちろん、もりえくん比ではよくやっていると思うんだけど、キャリアのなさが見えてしまった感じ。外見も若々しいしなあ。
 スタイル良くてかっこいいんだけど。

 ニック@あひくんはアクのなさがいい感じでした。視点としてニュートラルで、嫌味がない。
 ジョーダン@ちわわちゃんがこれまたイイ女で、彼女とニックの身長差というか体格差が、すごく素敵。リアル男女カプっぽくてときめき。
 ジョーダンは初演よりちわわちゃんの方が好きだなー。ドライさとコケティッシュさがいかにもフラッパーガールで、あこがれる。

 ウルフシェイム@越リュウは、納得のかっこよさ。
 てゆーか、彼を中心にしたギャング野郎どものダンスがかっこよすぎ。

 越リュウセンターで、その両脇がるうくんと一色瑠加って、なんのサービス?! あたしへのご褒美ですか、釣り餌ですか?! ハァハァ。

 ギャツビーに締め上げられる仲間ギャング役が、一色氏だとは、観るまで知らなくて。
 あのスネた感じのおっさんぶりが、すげーツボっす。(おっさんに見えたけど、実は青年役だったよーな気もする。や、なにしろ一色氏ですから、デフォルトでおっさん!・笑)
 やーん、萌え~~。
 彼のドラマを考えてハァハァしたいわ(笑)。

 ビロクシー@るうくんは、わたし的に物足りなかった。もっと作り込んで欲しかったなー。
 って、まあそれは、わたしが初演ファンであるせいだろう。ご贔屓の役だから、視野が狭くなってるの。

 マートル@ゆりの嬢がうまかった。配役見たときから期待していたけれど、「演技」という意味ではいい仕事をしてくれたと思う。
 ただ、初演でも思ったけど、この役を路線スター系が演じることは、できないのかなあ。
 娘役たちのセンターで歌い踊る以上、華と美貌が欲しいと思ってしまうのは、ゼイタクか。

 タータンが歌っていたレクエルドが、わざわざ役とは別に「歌手」が歌っていたことに、ええっと、初演ファンとして……というより、トドロキファンとして、ちょっと複雑でした(笑)。
 ラウル役が歌わなきゃならないわけじゃ、なかったんだ、あの歌……。

 
 ウィルソン@ソルーナさんが、えらいことになっていて、とまどった。
 だって2幕の書き下ろしの場面、ソルーナさんが若者たちと同世代設定で馴染んでいるんだもの。

 キツいプレイだなこりゃ、と思いもしたし、親子ほど年の違う子たちとツレを演じなければならないって罰ゲームかよって感じなんだけど、その若作りぶりが意外に可愛くてうれしかったりもして、ほんとフクザツ(笑)。

 ソルーナさんがこの役をこの比重でやることには疑問を持っているし、そもそもラストのギャツビーとの対決も芝居のカラーが違って、わたしにはとまどいが大きかったし。
 それでも、作品を成り立たせるためには、必要だったのかな? 月組の組子には任せられないって思ったの、イケコ?

 
 つくづく、大劇場でやってほしいと思った。
 作品的には中劇場でじっくり上演する方がいいのかもしれないが、キャスト的には、組子全員揃っててくれないと、パワーバランスが難しい。
 女の子たちは充実しているけれど、大人の男たちの不在が痛い。
 トップスターひとりよくても、舞台は成り立たないんだよ。

 ギャツビーと対等に芝居で戦うことの出来る、彼と同世代で近いポジション(つまり路線スター)の大人の男が、ふたり必要だったってば。
 トムと、ウィルソン。
 どちらも明らかな路線スターっぽい役ではないが、スターが演じて演じ切れれば、十分オイシイ花形な役だ。

 ひとりぼっちのあさこちゃんを見て、『A-“R”ex』を思い出したよ。
 あのときは周囲の濃く重い芝居から、「スター」であるあさこひとりが浮いて見えたんだけど、今回は反対、周囲のステージ力、宝塚力が足りていないため、ちゃんと「スター」であるあさこひとりが浮いて見える。

 ギャツビー@あさこを孤立させること、が、キャスティングを含めた演出意図だったんだろうか?

 わたしは初演の『華麗なるギャツビー』が好きで、もちろんギャツビー役はカリさんの方が断然好きなんだけど、それは彼ひとりのことではなく、あのクド濃ぃいギャツビーが浮かない世界観を作り上げていた、当時のステージ全体を通して好きだったんだと、改めて思った。

 対等な力の中で発揮される、ギャツビー@あさこちゃんを見てみたかった。

 すみません、『グレート・ギャツビー』を観て、いちばんおどろいたことは、あひくんの扱いです……。

 あまりにびっくりして、それまでの感想が吹っ飛んだよ。
 冷水を浴びせられた、っていうか。

 あたしゃ年寄りなもんで、慣習とかお約束とかにしばられているんだな、無意識に。
 自分の知っているモノからはずれているから、という理由で拒絶するほど激しくはないにしろ、とりあえずびっくりする。

 予備知識がナニもないまま観て、フィナーレ……というか、最後のご挨拶パレードで仰天した。

 ヅカのご挨拶パレードは、ルールが決まっている。
 最下級生から登場して一礼し、左右の舞台端からスタンバイして上級生を待つ。
 半端に重要な役をやった子だって、下級生だと最初の方に出てきて挨拶するし、最後の立ち位置はすみっこだったり2列目以降だったりする。
 主役クラス以外は、「学年>役」なんだ。
 どんどん学年が上がって行き、ついにはこの公演の長や、専科さんが登場して一礼、それまでは数名ずつ登場だったのが、次の2番手からはひとり登場、ひとり挨拶。
 2番手のあとはヒロイン登場。
 そして全員で、主演者の登場を待つ。
 最後の登場、そして一礼するのは主演者。

 これがふつーだから、『舞姫』でまっつがひとり挨拶させてもらえなかったことで、「あー、単独2番手ぢゃないんだー、それが劇団の意志なんだー」としょんぼりしたりも、した。たかが挨拶、されど挨拶、公演内容の良さでそんなことどーでもよくなっていたんだが、『グレート・ギャツビー』を観て思い出したよ。

 形式2番手役のニックを演じもし、組内で3番手ポジションにいて、この公演では2番手であろうあひくんが、ヒロインの前に挨拶しなかった。
 ひとり挨拶でもなかった。
 カノジョ役のちわわちゃんとふたりで登場、そしてそのあとに専科さん登場……。

 この公演、2番手男役不在なんだ。

 今までも、2番手不在と言っていいくらい比重の軽い扱いをされる人たちはいたが、それでも挨拶時はヒロインの前に登場して、2番手として拍手を受けていたはず。
 今回、意識的に2番手を作らなかったことに、愕然とした。

 劇団的にか小池的にか知らないが、あひくんを2番手扱いしてはいけなかったらしい……。

 このラストの扱いで、「2番手役は、ウィルソン@ソルーナさんだったんだ」とわかった。

 1幕はほぼ初演まんま、2幕モノなのに1幕モノだった初演そのままを1幕でほとんどやっちゃって、あとどうする気だろ、と思っていたら。
 2幕にあった新場面は、ほぼウィルソンの場面だった。
 初演ではほとんど書き込まれていなかったウィルソン役に筆を割くことで、彼が2番手役になった。

 そして実際、最後の挨拶でも「ヒロインの前に登場するのは2番手」という慣習通り、専科のソルーナさんはヒロインの前に挨拶していたからな、もうひとりの専科さん、汝鳥さんと一緒に。

 
 あたしゃ年寄りなもんで、慣習とかお約束とかにしばられているんだな、無意識に。
 自分の知っているモノからはずれているから、という理由で拒絶するほど激しくはないにしろ、とりあえずびっくりする。
 
 びっくりして、考えて、慣習通りでなくてもコレはコレでいいか、と思うときもあるし、「やっぱりルールには従おうよ」と思うときがある。

 『グレート・ギャツビー』では、後者だ。

 タカラヅカには、タカラヅカの慣習、お約束がある。
 トップスターを中心としたピラミッドだ。
 どんなに馬鹿げていても、トップ、2番手、3番手と順番に芝居で重要な役が振られ、いくら演技巧者でもスターでない人に主役は出来ない。
 おかしいけれど、これがタカラヅカ。
 実力だけで役付きを決めて欲しいなら、それはどこか別のカンパニーを観るべきだ。

 2番手役を専科さんにするなんて、あんまりだ。

 ソルーナさんのウィルソン役はうまかった。それは確か。
 作品クオリティ的に、彼の演技が必要だったことはわかる。しかし。

 そんなこと言ってたら、すべての公演、主要な役は専科さんに演じてもらわなきゃ、ってことになるよ?
 主役以外、物語を支える2~3番手は実力が安定している専科さんが演じる。悪役とか複雑な内面を持つ役は専科さんが演じる。
 スターは真ん中できれーな衣装を着て、きれーな役をやるだけ。

 作品は安定、若手がへたっぴでも所詮軽い役ばかりだから無問題。主役がきれいだからファンもよろこぶ。大団円。
 ……って、チガウからそれ。

 
 形式上2番手役は、物語の視点となるニック役。
 わたしはこの役より、主人公の恋敵であるトム役の方が、2番手役に相応しいと思った。
 語り部であるニック役を軽んじているわけではなく、「タカラヅカ」という特殊なカンパニーに置いて、ナレーターは辛抱役であり、技術が必要な割にタカラヅカスターとして報われない。
 それよりも、主役と色恋で絡むトム役こそが、「タカラヅカ」では活きる役なので、この役をクローズアップして2番手役とした方が、男役スターの魅力が出ると思っている。
 ヅカは男役スターを魅力的に見せてナンボだ。それは、この作品1本限りの話ではなく、1回限りで解散する企画公演でない以上、今後も「このカンパニーのこのスターを見たいわ」と思わせるものでなきゃならない。

 タカラヅカとしてスターを大切にするならば、役割を果たすならば、初演通りニックを2番手として大切にするか、ヅカ的にオイシイ色悪のトムを2番手として華々しく盛り上げるか、するべきだったと思う。

 物語に必要だからといってウィルソン役の比重を上げることはかまわないが、それならば、ウィルソン役も路線スターにさせるべきだった。
 たしかにかっこいい役ではないが、きちんと演じきることができれば役者の評価につながる。ヅカらしくない汚れ役だからこそ、「この役をやった人が、他ではどんな演技をするのか見てみたい」と思わせることで、未来につながる。
 ……演じきることができれば。できなかったら作品を壊してしまうし、スターらしくない役だからファンもたのしくないしで、あらゆる方向からキツイ評価が返るだろうけど。
 たとえば真矢みき主演だった『失われた楽園』はイケコお得意の自作焼き直しで、『華麗なるギャツビー』の焼き直しシリーズのひとつだけど、この作品におけるウィルソン・ポジションの役はちゃんと香寿たつきが、路線スターが演じている。
 演じられるだけの実力ある路線スターがいないというなら、ウィルソンの比重は初演まんまにしておくべきだった。初演ではべつに、2番手役ではなかったのだから。
 
 スター不在で重要な役を専科さんに任せてお茶を濁して、今回の公演は乗り切りました。……て、ソレで終わりぢゃないだろう。
 作品を守るために、2番手は専科さんにお願いしました。いい作品になって良かったです。……て、ソレはチガウだろう。

 専科さんの実力におんぶに抱っこするより、「足りていない」「任せられない」と判断したのかもしれないが、今回出演している路線スターを、あひくんでももりえくんでもいいさ、未来のヅカを背負っていくことになるポジションの子たちを、「2番手スター」らしく見せる役と演出をしてやるのが、座付き作家の仕事ぢゃないのか?

 書き下ろし場面は良い場面だったし、やっぱ小池演出うまい、と思うだけに、残念でならない。
 
 『グレート・ギャツビー』を観に行こうという、直接の動機は、キャスティングだった。
 関西で公演してくれたら絶対に行くけれど、それ以外の地域までは遠征しない。長年のわたしのスタンスである。や、単純にびんぼーでな。遠征費用が出ないのだ(笑)。
 しかも月組は東京と博多で公演がある。びんぼー人のわたしに両方なんて、とても無理。作品が好きなのは絶対『ギャツビー』だけど、きりやんとそのかとまさおが見たいので、軍配は博多に上がった。
 残念だけど、あきらめよう……と、思っていたら。
 キャスティングが発表になった。

 トム・ブキャナン@もりえ。

 ……ええ、ここです、わたしが食いついたのは(笑)。

 勝手に「ヒゲのもりえが見られる!」と思い込みました。ミーマイのヒゲ紳士もりえがあまりにかっこよかったので。
 夢よ再び、ダンディもりえにわくわく!

 いやその。実際ヒゲじゃなくて、かなりがっかりしましたが、まあソレは置いておいて。
 ヒゲもりえに期待して、てのも嘘じゃないんだが、初演ファンとしては「役の意義」にいろいろ思うところがあってね。

 初演の『華麗なるギャツビー』では、主演が杜けあき。2番手は一路真輝、3番手高嶺ふぶき、と順番が決まっていたが、ここにもうひとり、当時の雪組には海峡ひろきという別格スターがいた。
 全国ツアーの『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』で、主人公オスカル@杜けあきに対してのアンドレ@海峡ひろきだったりしたことからわかるように、ある意味2番手かそれ以上にオイシイところにいた人だった。
 華やかな美形ではなかったが、色気のある大人の男だった。
 この海峡ひろき……ミユさんが、トム・ブキャナンを演じていた。

 主人公ギャツビーの恋敵、ヒロイン・デイジーの夫。
 三角関係ものすべてに言えることだけど、恋敵に説得力がないと三角関係自体が成り立たなくなる。主人公と同等の魅力や存在感を持つ男が相手でないと、その間で迷うヒロインはバカみたいだし、つまらない男と秤にかけられてしまう主人公の格も落ちる。
 トム役のミユさんは、トップスターであるカリンチョさんと対峙して違和感のない人だった。

 本来ならトム役は、2番手スターの演じる役だと思う。
 トップスターと2番手の実力が伯仲している円熟期にこそ、公演してほしい作品だ。

 当時の2番手のいっちゃんは、もちろん実力のある人ではあったけれど、若かったし、持ち味的なこともあり、トップが演じる主役の弟的位置の役ばかり演じていた。
 友だち(ロベール、ピート)とか恋人(オスカル)とか弟(小次郎)とか。2番手になってから一度もトップスターの「敵」を演じていなかった。(そののち張栄勲を演じるが、コレも結局は「いい人」でほんとの敵役ぢゃないし……いっちゃんってそーゆー持ち味の人だったんだよなー)

 色悪とか恋敵とかは、いっちゃんの任ではなかった。弟キャラだったんだな。友だち役でも、主人公になついている弟分的キャラだったし。

 若いかわいこちゃん2番手には務まらない、大人の悪役。ミユさんは、そのポジションを背負っている人だった。

 だから、『グレート・ギャツビー』のキャスティングに注目していた。
 先に発表になっていた出演者の顔ぶれから、役に相応しいのが誰か、考えていた。

 ギャツビー@あさこ、デイジー@あいあい、ここまでは予定調和。前提事項。
 問題は、それ以外。
 ぶっちゃけ、トム役。
 番手上は、2番手の役がニックであり、トムは番手外の役になっているが、実質は2番手格の役だ。
 弟キャラ、友だち役でも弟分的な友だちしかやらせてもらえないいっちゃんが、さわやかにかわいらしくヘタレに演じていたニックは、べつにわざわざ2番手がやるほどの役でもない。ただの視点にすぎないのだから。
 物語に必要なのは、恋敵のトム役。

 あさこと女を取り合い、勝利するのに相応しい貫禄のある人は、越リュウしかおりませんがな。

 当時のミユさんはまさに、今の越リュウみたいな感じの人で。セクシーな大人の男、芝居で悪役をやり、ショーでも悪役やってヒロインを刺しちゃったりしてる人(ふたりの男が女を取り合い、男をかばって女が刺されるアレ)。

 形式上2番手のニック役があひくんで、実質2番手のトムは越リュウかな。そうして「作品」を支えるのがいちばん確実だろう。せっかくの名作の再演、ポシャりたくないだろうし。
 
 また、あひくんは引き出しが相当少ない人だが、「いい人」と「悪役」のふたつだけは演じられるようなので、ひょっとしたらあひくんがトムになるかもしれない、と思った。
 形式上2番手なんて面倒な真似をせず、素直にトムを2番手として描き直した方が、据わりがいいことは明白だ。
 ヅカの番手制度ゆえに、なにがなんでもあひくんを2番手にしなければならないなら、あひくんにトムをやらせればいい。なにもやってもアギラール、な、あひくんだから、彼の演じるトムは見る前から想像ができてしまってわくわくに乏しいけど、彼のためには「彼が出来る唯一の格好いい役(=アギラール)」をやらせてあげるべきだ。『ME AND MY GIRL』での汚名を返上させてあげるべきだろう。
 それに、演出家がイケコなので、彼がアギラール役を気に入っていた場合、あひくんにトムをやらせるかもしれない。同じ役者に同じタイプの役を与える癖のある人だから。

 作品クオリティ重視なら手堅く越リュウ、番手重視ならあひ。
 そんなとこかと思っていた。

 そして、それなら無理をしてまで観に行く気になれなかった。

 越リュウのトムはかっこいいと思うし、がっつり演技するところは見たいとは思うけど……うまいことも、演じられるだろうことも、わかってるし。
 あひくんのトムは、悪いけどはるばる遠征してまで見る意欲には結びつかない。なにしろアギラールになるのが目に見えてるし。アギラールもリチャードも、演技的には「?」なものだったし。(かわいかったし、萌えだったけど、芝居としては……)

 それが、まさかのもりえ。

 ……長々語ったように、実質2番手な役が、もりえ??
 トップスターと対峙する、トップスターと同等の存在感が必要な役が、もりえ?
 大人の色男役、身勝手さや屈折を秘めたややこしい役が、もりえ?

 あひくん差し置いて、もりえくんなの?!

 ……これには、興味が湧くじゃないか。
 『ME AND MY GIRL』のもりえくん、かっこよかったし。
 いったいどんなことになるんだろう?

 影の主役ウィルソン役がソルーナさんだってのは、まあ、そんなもんかなと。ほんとにうまい人にやってもらわなきゃ物語が壊れてしまう役だから、専科さんに登場してもらうのは、仕方ないのかなー、と、あきらめた。
 や、古代みず希ファンであるわたしは、この役を専科さんがやるのはうれしくないんだが。
 トム役がトップスターと対峙する役なのと同じ意味で、ウィルソンもまたトップスターと対等に芝居で渡り合わなければならない。存在感や技術を披露しなければならない。
 初演にて、芝居巧者の古代みず希がトップスター杜けあきと息の詰まるような同期対決を舞台で繰り広げてくれていた……あの「並び立つ感じ」が良かったので、年代や立場の違いすぎる人が演じるのは、残念だ。
 作品クオリティのために、安直に専科さんを使わないで欲しかった。……かといって今の月組に、ウィルソンができる人がいない。嘉月さんカムバック!!

 
 トム役がもりえだった。
 これが、直接の観劇の動機。

 初演を知るものとして、この役をこの学年、ポジションの子が演じるというのは、ちょっと考えられない。
 もりえがトム役であることで、わたしの知る『ギャツビー』とはパワーバランスがちがってくる。
 いったいどんなことになっているのか、どれほど変更されているのか、俄然興味が湧いた。

 もりえくん云々ではなく、初演ファンとしては「役の意義」にいろいろ思うところがあってね。
 セリア@となみは矛盾している。

 『マリポーサの花』のヒロイン、男しか出てこない、10人いればコトが足りる芝居において、貴重な10分の1を占める役。……比重的には10人中7番目くらいかもしれないし、出てこなくても問題ない程度の役(名前だけ、イメージだけの存在でも可)とはいえ、それでもヒロイン。
 80人もの出演者を使って10人いればコトが足りる芝居とか、唯一の女性キャラすら登場しなくても問題ないと思わせちゃうとか、そんな芝居を書いた演出家がいちばん悪いんだが、それは置いておいて、あくまでも描かれた中での、セリアの話。
 

 彼女はなにかっちゃー、ネロ@水に頼る。
 弟が帰ってこないとか連絡がないとか。
 なんでそんな家庭の事情でネロに頼るんだ。ネロは別に家族でもなんでもないだろ。

 セリアの依存を許容しているのは、ネロが寛大だからだ。彼が力になってやる必要はナイのに、いちいちなんとかしてやっているんだから。

 セリアのキモチもわかる。
 なにしろ、コトが「大統領暗殺未遂」だ。女の子がひとりで抱えるにはへヴィ過ぎる。コトがコトだけに滅多なことでは他人には話せないし、逆上しやすい父に相談することもできない。
 話す・話さない以前に事件の存在を知っている相手を、相談相手に選ぶのは、セリア的には自然な流れだ。
 ネロだから相談した、というより、客観的に見て、ネロしかいなかったんだよね、頼れる相手。
 ネロが父の仕事仲間で自分の職場のボスで、信頼の置ける人物であるとか、そもそも好意を持っていた相手だとかいうのは、付属的なことで、そーゆーのをとっぱらって、消去法でも、ネロしかいなかったんだよ。
 だからつい、なにかっちゃーネロを頼る。

 セリアの事情はわかるけど、ハタかりゃ見りゃ、理不尽な依存。なんでネロがまったく関係ない人間のために、危険な橋を渡らなければならない? エスコバル@ゆみこが言う通りだってば。

 セリアはネロに依存している。彼女が弱い女の子だから、という理由で。ひとりではどーすることもできない、こまっちゃう、という理由で。
 それなら何故。

 「女」であることを、利用しない?

 弱いイキモノとして、強いネロに依存しているのだから、しかもネロのことを好きなんだから、いちばん手っ取り早いのは「女」として彼の内側に入ってしまえばいいんだ。
 愛を打ち明け、彼の恋人になってしまえばいい。
 恋人ならば、家族の不始末で頼ってもおかしくないし、向こうも責任を持って助けてくれるだろう。

 女だから依存しているくせに、「女」の部分は使わない。
 この矛盾。

 でもこの矛盾こそが、セリアだと思う。

 他に手段がないから、ネロに頼るしかない、弱さ。世間知らずさ。
 そのくせ、その弱さゆえにカラダを投げ出すことはできない、たぶん思いつきもしない、育ちの良さ。
 ネロの女になってしまえば得をする、そんな思考回路は、ハナからない。
 むしろ、頼っている状況だからこそ、愛を打ち明けてはならないと思っているらしい、方向違いの気遣い。

 セリアってねえ、泣き顔見せないんだよねえ……。

 彼女の小さなキャパでは受けきれない事態になり、取り乱して叫んで、そして。

 あ、泣いちゃった。……そう思わせる瞬間に、背中を向けるの。
 ふつうならそこで、泣いてみせるでしょうに。男の胸にすがってみせるでしょうに。
 いちばん手っ取り早い「女の武器」を、彼女は封印するの。

 セリアがこんな女の子じゃなかったら、ふたりはもっと早くラヴい雰囲気にも、わかりやすい関係にもなっていたと思う。

 そこで泣き出せば、ネロはきっと抱きしめただろう。……そう思わせるタイミングで、セリアは必ず彼に背中を向ける。
 そして、次に男を振り返るときには、気持ちを落ち着け、涙を隠してしまっている。
 これじゃ、抱きしめることもできない。

 泣いていることがわかる背中を、黙って見つめることしかできない。

 すでに依存しちゃってるんだから、全部あずけちゃえばいいのに。
 どーしてそう、ぎりぎりのところで必死に立ち止まっているのか。耐えているのか。
 その、矛盾。
 その、愚かしさ。

 その、いじらしさ。

 セリアというキャラクタは、明らかに作者の書き込み不足で記号的な扱いしかされておらず、彼女を描くことに作者の興味が薄いことは、わかる。正塚が悪いわ、ありゃ、と思う。
 ネロがどーして彼女を愛したのか、「顔か? 所詮は顔なのか?」とか、安い結論に落ち着きそうなくらいエピソードが足りていないと思っているけれど。

 ネロがセリアを愛した理由はわからなくても、セリアという女性には共感できるんだ。

 前から憧れていた男性が、偶然父の仕事仲間として現れた。これはチャンスだ!と強引に彼の店で働くことにする。父親の手前、無碍に出来ない男の事情につけ込むカタチになってもキニシナイ。
 弟をかばってくれたこともあり、それ以後弟の問題はみんなその男へ相談する。だって他に相談できる人いないし。
 自分が不安なこともあり、男への依存心、恋情は加速していくけれど、彼が自分の恋人でないことはわかっているから、泣いてすがることは出来ない。抱きしめてなぐさめてもらうことはできない。
 なにか訳あり風情な男だと思っていたが、自分とはあまりにかけ離れた世界に生きる、重い傷・暗い過去を背負っている人だとわかり、受け止めきれずに一旦逃げ出す。
 それでも、やはり弟のことで頼れるのは、その男しかいなくて。

 依存と保身の間で揺れ動き、かなり卑怯な立場にいるんだけど、そんなこと気づきもしない。
 いつだって自分のことだけで頭はいっぱい。
 自分が傷つかずに済むように、しか、考えてないよね、ほんとのとこ。
 ……そんな女だからこそ、共感できる、つーのもなんだが。苛っとくる反面、たしかに、納得できるんだ。彼女の弱さとずるさが。リアルに。他人事ではなく。

 それだけだったら、いずれはムカついて終わるだけだったと思う。
 自分の嫌なところばかり見せつけられて、それだけの女だったら、共感を通り越して同類嫌悪に行き着く。

 でも。

 その、弱くてずるいセリアが。
 かっこつけてて、本心を出さないセリアが。

 なにもかもかなぐり捨てて、ネロにすがりつく。
 彼が戦いに行くと……もう二度と会えないと予感した瞬間に。

 泣き出す瞬間背中を向けていた女が、自分から男の背中にすがりつき、ミもフタもなく泣いてすがる。
 「死んでしまう」と、会話文としてはおかしな言い回して、自己完結して叫び続ける。
 ふつうなら「行かないで」とか「死なないで」となるところ。
 「死なないで」と自分に結びつけて言う前に、ただもう、ネロという存在が消えることだけを、ただそれだけを純粋に恐怖して、叫んでいる。

 恋人でもなんでもない、なんでもないからこそ、依存していても一線を引いたままだったのに……まとっていた建前や保身や理屈を全部捨てて、唐突に叫ぶから。

 だから、彼女は「わたし」でありえる。
 同類嫌悪ではなく、物語の中で共感し、彼女を通してネロに恋が出来る。

 唐突なのは、それまで格好悪いとか傷つくとか拒絶されるかもとか、無意識に自分を守っていたから。それを、「ネロが死ぬ」という現実を前にしてしか、捨てることが出来なかったから。

 ずるかったの。
 矛盾していたの。

 愛の言葉を欲して傷つくことより、依存してそばにいるだけでよかったの。

 それらを全部、捨てた。
 感情が爆発した。
 自分が楽にいられることより、恥をかいても傷ついても無様でも、なんでもいいからネロに生きていて欲しかった。

 「あなたが死んでしまう」……そこまで追いつめられられなければ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を超えることが出来なかった。
 

 セリアの矛盾。

 それは彼女の愚かさであり、彼女の愛しさでもある。 
 「残る」台詞っていうのがある。
 その物語の中で、ストーリーの山場とは関係なく、とにかくそこだけ独立して心に残る台詞。

 『マリポーサの花』で、いちばんわたしのなかに残ってしまっている台詞は、ネロ@水がサルディバル@ハマコに対して言う、

「裏切ったのはお前だ」

 という台詞。

 なんかねえ、すごく痛いのよ。
 「裏切り」という言葉には、前段階があるでしょ。もともと「つながり」がなければ、「裏切り」をしよーと思っても出来ないわけだから。
 裏切られた、ということは、その前に信頼があったってこと。

 『マリポーサの花』スタート時点で、すでにネロはサルディバルを侮蔑しているけれど、まったく最初からそうではなかったと思う。今の時点ほど軽んじている相手のために人を殺し、国を託すはずがない。
 サルディバルを英雄だとか天才だとか夢を見るほど世間知らずではないにしろ、そこそこやってくれるだろうと思っていたはず。

 「裏切られた」と思うほどには、心がサルディバルに向かっていたはず。

 ネロという人物の誠実さ……いや、「まとも」さというべきかな、を知るほどに、彼が口にする「裏切り」という言葉が重い。
 青臭い若者でもないから、自分の期待とチガウとか思うようにいかないとか程度で、こんな言い方はしないだろう。
 世の中はそんなもんだと諦観し、俯瞰する大人の部分を持ち合わせ、それでもなお、それらを超えて「感情」を爆発させるに至る。
 どれほどの痛みが積もって、この言葉にまで行き着いたのか。

 サルディバルを脅す場面はべつにクライマックスではないし、サルディバルもただの脇役だ。そこで吐かれる台詞がテーマであるわけでもない。物語の中のひとつのやりとりでしかない。

 それがわかっていても、この台詞に注目するのは、ネロという男の人生が見えるからなんだろうな。

 ネロが好きで、ネロを中心に物語に入り込んでいると、彼の人生が見える瞬間に反応してしまう。
 直接的にセリア@となみとかエスコバル@ゆみこに「オレ今語り入ってます」と語っているときでなく、なんの意識もなく飛び出してきてしまった台詞だからこそ。

 
 タカラヅカは、ポスターがひとつしかなくて、つまらない。
 ゲーム雑誌を愛読している身としては、ひとつのタイトルにつき、いくつも宣伝が打たれるのをあたりまえに目にしてきている。
 戦争大作っぽい軍隊中心のイラストに、人間の悲しい業を表現するようなキャッチコピーがつけられているかと思ったら、次は主人公とヒロインのロマンティックなイラストに、愛を語るコピーがついていたり。
 ひとつの作品をいろんな角度で宣伝する。メイン・ポスターはひとつだけど、発売日が近づくといろんなパターンのポスターが作られる。

 映画でも食べ物や車などの商品でも、CMも車内吊りポスターも何パターンもあるよね?
 ヅカが1作品1種類だけ、つーのが、つまらない。

 今回の『マリポーサの花』のポスターは、美しい。
 ネロとセリアの大人の恋愛を期待できるし、「それは、生きている証」というコピーもいい。

 でもさ、ソレだけじゃないだろ? この作品って。

 作品を表現する、別の切り口のポスターだって、あっていいんじゃないの?

 ネロとエスコバルのポスターだって、あっていいと思うし、主要人物勢揃いポスターもアリだと思う。
 映画館へ行くと、そんなのがずらりと並んでいるじゃないか。メイン・ポスターがどーんとあり、あとはバージョン違いが数種、キャラクタひとりずつのクローズアップ・バージョンとか。

 まだ脚本も上がっていない段階でとりあえず撮影するメイン・ポスターでしばらくは通すとしても、舞台稽古まで来たら、別バージョンのポスター撮りしてもイイと思うけどなあ。東宝まで数ヶ月は使い回せるんだから。なんならそのあとのDVD販売にも使い回せるし。

 「ドラマ」を感じさせること。
 世の中趣味嗜好が多種多様になって、ひとつのもので多くの人を動かすことはできなくなった。
 ならばできるだけ多面的に働きかけ、多くのモノからナニか少しだけでも興味を引くことを、目指すべきなんじゃあ?

 美男美女が寄り添い合うロマンティックなポスターではなにも思わない人も、戦闘服姿の美形ふたりが銃を構えている姿に興味を持つかもしれない。
 政治とか革命とかのキーワードに反応する人がいるかもしれない。
 スタジオ撮りしたポーズ写真には興味ない人でも、舞台で熱演している群衆場面を使った画に足を止めるかもしれない。

 いろいろやってみればいいのに。
 阪急、阪神電車とその周辺のグループ企業内だけでも、掲示してみればいいのに。

 ……と、うだうだ述べたところで、最初の話題に戻る。

 いくつもポスターを作るなら、わたしが作っていいなら、そのポスターの中の1枚に、「裏切ったのはお前だ」を入れるな。

 ネロ&セリアのメイン・ポスター、コピーは「それは、生きている証」。
 ネロ&エスコバルの友情ポスター、できるだけハードな画面でふたりの絆を感じられる、ひとめで親友だとわかるよーにして、コピーはずばり、「生きろ、俺のために」。
 ネロ、セリア、エスコバル、リナレス、ロジャーの主要人物集合ポスター、アニメのOPラスト静止画のノリで、それぞれキャラクタを表す衣装とポーズで寄り添うこと、コピーは主題歌の一部。「悲しみは 耐えられる/痛みにも 慣れていく/命さえあるのなら」とか、文字の配列を印象的に。

 余力アリなら、映画みたいにキャラひとりずつポスター作りたいよなー。
 それぞれのキメ顔に、キャラ解説とキャッチコピー。
 さらにそれらが1枚に配置されたポスターも。
 地下街の柱1本ずつに、ひとりずつのポスターが貼られるの。歩くたびに次のキャラが見えるの。うっとり。

 で、そのキャラ単品ポスターとはまったく別に、主役であるネロはひとり写りポスター有り。
 戦闘服と自動小銃、汚れメイクに影の強い画面で臨戦態勢。コピーが、「裏切ったのはお前だ」
 見た人が「お前って誰?」「ナニと闘ってるの?」と疑問を持てるよーに、答えの出ない作りにする。

 「裏切った」ってことは、過去形? すでに罪は犯されたってこと? 取り返しがつかないことなのか?

 「お前」というのが誰か他の人のことなのか、それとも自分自身のことなのか。現在に対しての言葉なのか、あるいは過去に向かってなのか。

 わたしにとっての「残る」言葉であるだけ、だけど。
 「裏切り」という強い言葉は、商業的に利用することもできると思うんだ。

  
 『マリポーサの花』だけでも、いくらでもイメージわくもんなあ。
 これに『ソロモンの指輪』を加えたら、どんだけたのしくデザインできるやら。
 オレが歌劇団のエライヒトならなぁ。見てみたいなあ、「商業広告」としての作品表現。
 
 新人公演『Paradise Prince』感想の続き。

 宙組に詳しくないので、たぶんかなりとんちんかんなことを書いていると思うが、それもまた視点のひとつということで、寛大に見てやってくださいまし。

(ときどき、ふと我に返るらしい。んで、言い訳してみたくなるらしい)

 将来読み返したときに「うひょー、アタシこんなコト書いてたのか! ハズカシー!」と思うのもまたリアルタイム記録の醍醐味。人生とは恥をかくことですだ。
 
 つーことで、とにかくわたし視点の感想。
 

 ラルフ@ちーくんが、正しく、オイシイ役でした。

 アニメおたくのハイテンション小僧。ラストでは二枚目に変身。ええ、ラストはちゃんと二枚目でした、イモにーちゃんではなく。
 そう、そうなのよ。この役は本来、こーゆー役なのよ。

 無名の若者を押し上げるための役。おおむねシリアスに進む物語の中で大暴れして引っ掻きまわす、役名も顔もわかってないライトな観客でも「あのおたく役の子、おもしろかったわね」と帰り道で話題にする、そーゆー役。まず「おぼえてもらうこと」に主眼を置いた「オイシイ役」。

 だから、無名の若者のための役であって、すでに3番手スターとして名を馳せている人のやるべき役じゃないってば。

 わたしはちーくんが大人に見えてしまい、彼がスネを出して若ぶっているといたたまれない思いがするのだが……変だなあ、ついこの間少年チート役をなんの違和感なくやっていたと思ったのに、数年でなんでこんなに成長しちゃったんだ? 子猫が1年で成獣になっちゃう感じ?
 『殉情』か? 『殉情』が悪かったのか。アレは気持ち悪かった。ちーがロリコンの犯罪者に見えた。幼女にハァハァいってるヘンタイさんに見えた。やたら生々しい大人の男に見えて仕方なかった。
 だもんで、ちーが今さら若者ぶってはっちゃけているのを見るのは、本役さん以上に恥ずかしくてたまらなかったんだが、……やっぱわたし変? こんなこと、誰も思わないの??

 オイシイ役だ、よかったね、と思う反面、恥ずかしくて恥ずかしくて、いたたまれなかった……。
 潔いチリチリリーゼントも、アホアホなノリも、無邪気ぶった満面の笑みも、実力に裏打ちされた計算ゆえの演技だと、わかっているけど……いやその、わかっているだけに余計、うわー……な感じだった。

 今の時点でわかっていることは、わたしが、蓮水ゆうやを好きだということだけだ。

 『殉情』か? 『殉情』が悪かったのか。石田作品キライだし、なかでも『殉情』は史上最凶に大嫌いなんだが、そこでキモチワルイほど主人公を純に熱っぽく演じて見せたちーくんが、それでもなお好感度UPしたなんて、あたしはいったいどーゆー精神構造をしてるんだ。
 『パラプリ』本公演もアニメ・チームの場面はつい彼を見ていて、あとはタニウメ見てたら他の子たちを見ているヒマがないなんて、なんなんだこの負け犬感。
 下ろした前髪が似合わないとか、ショートパンツ男子姿が似合わないとか、なんでそんなことがたのしいんだ?
 『殉情』で幼女の脚に頬ずりしている姿がキモチワルイくらい、ナマに「男」に見えたことが、そんなにツボにクリティカルしたというのか?

 彼自身がどんなキャラクタで、これからどんな舞台人になっていくのかわからんが、とりあえず、アホアホぶりっこが正視できないくらいには、ちーくんを好きらしい。
 なんでこの役の彼がこんなに恥ずかしくてたまらないのか、考察し出すと藪から蛇を出しそうなのでやめておく。
 だがしかし、今後ますます彼を好きになりそうだ、という結論は述べておく。

 あああ。(なんか、アタマを抱えているらしい)

  
 えー、プルート@樹茉くんが、かわいかったです。
 てゆーか、うまい。
 こんなに喋ってる彼、はぢめて見た。
 変わり続ける表情、ちっともじっとしていない。饒舌なのが納得のせわしない、されど腰の引けた子役人キャラクタ。
 かーわーいーいー。

 アンジェラ@あまちゃきは、ちょっとびっくり。
 きつい。こわい。
 キャサリンのルームメイト、という設定だが、ほんとにただのルームメイトだった。友だちじゃないよね? ほんとはキャサリンのことキライだよね?
 アンジェラの立ち位置を「キャサリンの近くにいる、キャサリンを嫌っているキツイ性格の子」とするのも、ぜんぜんアリだと思う。アンジェラが悪役っぽくなると、キャサリンのヒロイン度がわかりやすく上がるから。いぢわるクラスメイトにいぢめられるがんばり屋のヒロイン、つーのは定番ですから!
 メイクもキツめで、目がつり上がったすごーくわかりやすい悪役風の姿になっていた。うわー、思い切りいいなぁ。

 エヴァ・グレイ@花露すみかちゃんの声、立ち姿がきれいだった。あ、なんかかっこいい人がいるぞ、と注目。
 ユーモラスな役ではなく、きりっとした大人の役を、きちんと演じられる人ってキモチいいな。

 ケヴィン@りくくんが、ハンサムでした。
 ナチュラルな若い男の子。リアルに、そのへんに生息していそうだ(笑)。違和感なく存在し、違和感なく喋っている。
 演技がうまいのかどうかまでわかんないけど、浮いていない、こわしていない、男の子に見える、というのは、学年からすればすごいなと。

 サマンサ@アリスちゃんは、たのしそうだった(笑)。
 真ん中経験者のあえて演じる脇役は、力があっていいよね。演じること、舞台に立つことを余裕を持ってたのしんでいる感じが。

 
 登場人物が若者ばかりで、あとはアニメみたいな記号的な役ばかりで、若者たちには演じやすい新公だったと思う。
 男役、娘役としてのスキルが低くても、若さだけで押し切れる系の。
 でもたまにはそーゆー新公もいい。
 着こなしだの立ち姿だの台詞回しだの、基本部分に引っかかってはらはらする新公ばかりでも、つかれる(笑)。
 若者たちが、若者だから出せるパワーで、きらきら押し切っちゃうのも、また「タカラヅカ」の姿だと思う。

 
 そんななかで、「大人」役のふたりが、なんか別次元を形作っていたのはまあ、仕方ないってコトで(笑)。

 ハワード@みーちゃんがひたすら素敵で、ロマンスグレイというより大人の美形で、落ち着いた美青年で、彼の出番が待ち遠しかった。台詞がなかろうが、とにかく舞台に出てくれ、顔を、姿を見せてくれ、と待ちわびてしまった(笑)。

 ローズ・マリー@せーこちゃんは、正直もう少しやりようがあるかなと思う。彼女には要求が高いのかな、新公のたび「もう少し」と思ってしまうような。本役さんまんまではなくてもいいんじゃ?
 最後の銀橋での、大人だけどあどけなさのあるかわいらしさは、きゅんとしました。
 あー、みーちゃんにプロポーズされたい~~。(みーではなくてハワードですから!)
 新人公演『Paradise Prince』は、ラスト直前で大いにとまどった。

 銀橋で愛を歌う1組のカップル。

 ハワード@みーくんと、ローズマリー@せーこちゃん。

 ハワードがものごっつーオトコマエで。
 少女マンガに相応しい美青年で。
 対するローズマリーは、単体で見るとちょいゴツいんだが(笑)、長身の男の横に立つとかわいらしくて。
 少女マンガに相応しいあどけなさを持つ金髪美女で。

 このふたりが、愛を語り、愛に生きることを決める。

 確かな歌唱力、感情豊かな演技。
 わきあがる拍手。その音と温度。

 そして、暗転。

 あー、いいお芝居観たね。主演ハワード@みー、ヒロインはローズマリー@せーこだっけ。

 ……あれ? なんか、ちがったよーな?

 アタマが混乱しているうちに再びライトがさんさんと輝き、舞台にスチュアート@大ちゃんたちが登場してわいわいやっている。

 あ、そっか。そーゆー話だったっけ。

 
 …………。
 それまでのスチュアートの物語と、ラストのハワードの銀橋と、あらゆる意味で、乖離し過ぎ。

 芝居好きのわたしは、ハワードに全部持って行かれて、ナニを観たのかわかんなくなった。
 それまでの1時間半の記憶が、ハワードとローズマリーの5分に塗り替えられてしまった。

 純粋に、技術ってのはすごいもんなんだな。

 それまでは、ごくふつーにきれーな若者たちの物語を眺めていたのに。物語の主軸が、技術の有無、実力の有無でどーんと大きく動いてしまった。ぶれてしまった。

 
 そもそも景子たんの物語は、いつも蛇足が多い。
 本筋が終わった後の後日談が絶対にある。
 『Paradise Prince』に至っては、後日談がアダルト・カップルと主役カップルの10年後と、2つもある。
 ハワードとローズマリーの後日談はたしかに良いエピソードだが、スチュアートとキャサリンの物語的には不要なんだよね。
 本公演は主演のタニちゃんとウメちゃんの輝きとスター力が、専科さんふたりの確かな演技力・歌唱力に負けることがないので、並列されていても蛇足感はあるにしろ問題なかったけど。
 新公は……。

 もともと蛇足で、本筋からすれば「ソレ、別の話だから。いらないから」なものであるだけに、主演カップルより実力のある人たちが演じてしまうと、さらに異次元、別世界。つか、作品を壊してしまう。
 こまったもんだな。脚本の粗が目立っちゃったよ、景子せんせ。

 みーちゃんとせーこちゃんは、共に主演経験者(せーこはバウヒロ)。一度でも「真ん中」を経験した人は強いね。見せ方や在り方を知り、ちゃんと「芝居」をしている。
 ふたりがうまい人たちだということはわかっていたが、それにしてもあそこまで場をさらっていかなくても……(笑)。

 
 さて、大ちゃんは2度目の主演。
 前回台詞をきちんと言うこともままならなかった彼なので、いろいろ心配もしたが(笑)、どーしてどーして、よくやっていた。
 てゆーかやっぱきれいだ、この子。
 タニちゃんの衣装を着て「残念」にならない稀有なスタイルと美貌の持ち主。
 スチュアート役は等身大の青年なので、男役スキルはあまり必要ない、持ち味だけで勝負可能。
 表情はあまり多くないし、どういうキモチでそーゆー表情しているのかわからないことも多いんだが、場数を踏めばその辺は変わっていくのだろうと思う。

 わたしはキャラクタとしての鳳翔大くんを知らないのだが、なんつーか、「いっぱいいっぱいに見えない」ところが、愉快な子だな、と。
 新公主演者はふつーかなりテンパってるもんだが、大ちゃんってぎりぎりでキリキリ舞いしているように見えない(笑)。たぶん緊張していっぱいいっぱいになっているのだろうと推測するが、見た目にはわからない。他の人は知らないが、わたしには。
 ……とゆーところが、おもしろい。
 なんかすごーく個性的なキャラとか、演じてみてほしいな。あ、歌はたしかにものすごかったので、がんばってほしいですが(笑)。

 とにかく、見るたびにきれいになっていってるよね。目に入るたびにそう思える貴重な人。
 
 
 キャサリン@愛花ちさきちゃんは、ふつーにうまかった。
 だけどこーゆー現代物だと、華の有無が大きく関わってくるんだなと、再確認。植爺芝居みたいに、ヒロインは身分に関係なくいちばん豪華なドレスを着せてもらったりしないので、自分で輝かないといけない。
 後半、モブの中に混ざるとキャサリンがどこにいるのかわからなくて困った。

 で、このちさきちゃん、なんか「誰かに似てる、誰だっけ」と思って見ていたんだが、途中で「水しぇんに似てる!」と思い至った。
 面長の輪郭と、なによりドナルドダック系の口が似てるの。斜めから見たアゴのラインとか。水くんが女だったら、で、お目々ぱっちり系メイクをしたら、こんな感じ?

 さらにわたし、せーこちゃんがゆみこっぽく見えていたので、「女装した雪1と2が揃っている?!」と、ひとりツボに入っていた。

 ……nanaタンに言っても共感は得られなかったので、わたし限定の感想だと思います、はい。
 勝手にわたしひとりで一方的に、親近感持つことにします、はい。

 ちさきちゃんの舞台姿をしみじみ眺め、目元と顎のラインあたりに、若き日の叶刑事を彷彿とする、往年の『特捜最前線』ファンなわたし。(吉野×叶とゆーカップリングの同人誌、持ってたなあ……・笑)

 
 アンソニー@かちゃは、ひとことで言うと、赤面度が足りない。

 なんか、ふつーの人でした。
 恥ずかしいくらいの人でないと、あの役はつまんないんだなー。
 内面を掘り下げる役ではなく、記号としてアニメ的な悪役だから、インパクト勝負。見た目で「説明不要」とすべてをねじ伏せなければならない。
 『殉情』でふつーの若者としてあんなにかっこよかったのに、スーツ姿になるとやはり衣装に「着られている」感が強く、技術がないわけではないのに「女の子の男装」になってしまう。体格のハンデが大きいのかな。
 きれいだしうまいのに、それが舞台で活きないことがはがゆい。

 アンソニーの愛人コンビ、ヴィクトリア@藤咲えりちゃんとシャルル@七海ひろきくん。
 ふたりともうまいし、きれい。
 藤咲えりちゃんは「こわい女」が板に付いていて、この役がこんなに似合ってていいのか?と心配した(笑)。
 七海くんはふつうにきれいで……あれ、そーいやいつぞやの新公でも彼のことを「きれい」と書いたよーな。きれいな人だということはわかっているし、芝居もバウで見ているので、あとはなにかプラスアルファが欲しかったんだが、ソレには至らず。本役はカラダのデカさだけでインパクトになるが、ふつーサイズでふつーにきれーな七海くんはソレだけだと弱いっす。
 アンソニー様が地味なふつーの人になっていた分、愛人たちもふつー度が増してしまった気がする。

 続く。
 秋の昼下がり。

 わたしは、馴染みの店ののれんをくぐった。
 店の名は「タカラヅカ」。もうずいぶん古い店だ。流行りの料理は出さない。流行りの味にはしない。流行りの音楽は流さない。1世紀近く前から、ずっと同じ商売を守り通している。
 価格は、決して安くない。
 他の店より良心的ではあるが、ファミリーレストランやファストフードがメニューを充実させている昨今、この店の価格は「ちょっと思いついて」入れるような設定ではない。
 この店を愛し、ファミレスやファストフードにはない雰囲気ごとたのしめる者でないと、常連にはなれない。

 板前は月ごとに変わる。ローテーションがあるのだ。店頭には必ず、今月の料理の名と共に、板前の名前も書いてある。通な客は、料理名だけでなく板前によって来店を決めたりもするのだ。
 わたしは店自体を愛しているので、板前の名前によって来店を見合わせることはない。毎月通っている。

 今月のメニューの説明をしようとする店員を、わたしは笑顔で制した。穏やかに首を振ってみせる。

「説明は不要だ。今月のメニュー、『ダンシング・フォー・ユー』をひとつ頼む」

 そう。
 板前の名前を見たときから、わかっている。
 使う素材が変わろうと、名前が変わろうと、関係ない。中村B。この板前は、同じ料理を作り続けるのだ。同じ味を作り続けるのだ。
 
 どんな素材を使っても、どんな季節であっても、必ず同じ料理にしてしまう。
 素材の良さも特徴も関係ない。
 魚だろうと肉だろうと野菜だろうと、同じ調理法、同じ調味料しか使わない。
 ある意味コレは、才能だろう。

 理解した上で、注文するのだ。
 わたしは店員を通り越し、カウンターの奥へ声を掛けた。

「オヤジ、いつものヤツを頼むよ」

 それが、この店……くだらなくも素晴らしい、「タカラヅカ」という店と長くつきあう方法なのだ。

 
 ……てな、気分になります、素敵作品。

 『ラブ・シンフォニー』、『ラブ・シンフォニーII』に通いまくった者としては、『ダンシング・フォー・ユー』は途中から爆笑を押さえるのに、必死でした。

 同じだ。
 あまりに、なにもかも、同じすぎて、笑える。

 中村Bのなかには、ひとつしか作品がないのかもしれない。
 そのひとつを、永遠に使い回すつもりなのかもしれない。

 ジェンヌの持ち味も組もお披露目もサヨナラも、関係なし。ただひたすら、同じモノ。
 群舞群舞群舞。
 ごちゃまぜバラエティ、世界旅行。
 平面的で単調な画面。
 言い訳のような人海戦術。
 上から1、2、3……数えられる登場、扱い、並び。

 おもしろいなあ、中村B。
 こんな単調な作品で爆笑できるくらい、中村Bを堪能ししちゃったんだなぁ。

 わたし的には中村Bはおなかいっぱい、あと5年は観なくていいくらい『ラブシン』を観ちゃったからな。
 しかし、オーソドックス、という点では中村Bは評価される作家なんだろう。

 いつでも誰でもなんでも同じ、てのは、ヅカのように伝統を守るカンパニーには、必要だ思うよ。
 どんな公演でも「はじめて宝塚歌劇を観る」人はいるわけで。
 そんな人に、いちばんわかりやすく、アクも毒もなく「はい、タカラヅカですよ」と差し出せるモノをいついかなるときも作り続けるのは、必要だろう。
 どんなに愚鈍であっても。10年前も10年後も、なんの進歩も進化もなく。同じモノをセルフコピーし続ける。
 そんな作家がいてこそ、タカラヅカは守られていくのだろう。……全員が中村Bだったら滅んでしまうと思うけど、中村B自体はアリだと思う。

 
 えーと、とりあえず、ニューヨークの場面が好きです。
 ニューヨークにたどり着くまでが、すげー長くてちょっと途方に暮れる(笑)けど、ここをたのしみにしていられる。
 その前のともち銀橋から、わくわくする。

 群舞しか存在しないよーなこの作品で、ニューヨークは少人数場面があってメリハリになってるよなー。
 つか、七帆といりすの並びが好きだ。ふたりともいい男だなあ。

 あとは、たっちんの歌声を聴けるのがうれしい。
 みっちゃんとのデュエットは耳福、エトワールのクリアさも素敵。

  
 『Paradise Prince』がいちいち『君を愛してる』と酷似しているため類似点を数えるのに忙しくて、『ダンシング・フォー・ユー』が過去の中村B作品まんまで類似を通り越して合致点を数えるのに忙しい、という、この落ち着きの無さがわたしの中でツボってしまった(笑)。
 こんなにデジャヴばかりってすげえ。

 誤解なきよう断言しておくが、『Paradise Prince』を『君を愛してる』のパクリだとはまーーったく思っていない。
 ゴールデン・ルールに則ってラヴコメを作ったら、同じになってしまったってだけだと思っている。
 その定番ぶりがいちいちウケるんだわー。わたしお約束って大好きだから。

 そして、結局のとこキムシンは男性的ロマンチストだが、景子たんは女性的リアリストなんだな、ということがよくわかって、そーゆーとこも愉快だ(笑)。
 で、わたしはやはり景子たんよりキムシンが好きだなと思ってしまうのだった(笑)。←笑うのか。

 『パラプリ』のいりすのかわいさは、大好きな『Le Petit Jardin』を思い出す。
 あの巨大で繊細なシェフ・ジャン@いりすに、どんだけ萌えたか……。なつかしいなあ。アラン×ジャンだったんだよなあ、Bチーム『Le Petit Jardin』。(と、さりげなく腐ったことを言ってみる・笑)
 景子たんの描くところのいりすは、すごく好きだ。

 役不足でもったいない、七帆くんはとにかくビジュアルを愛でている。
 やっぱかっこいいよなあ。美形だよなあ。しかし景子たんは彼に興味ないのかなあ。てゆーか七帆くんにジーンズ穿かせていいのか?

 若者たちはみんなどーんとグループで登場するので、ふつーにタニウメのかわいらしさにうっとりしていると、周りの彼らを観ているヒマがないのが悔やまれる。
 アニメ・チームの方がキャラがわかりやすい分、お得かなぁ。

 あー、えーと。
 すみません、ちーくんの若者ぶりっこがわたし的にキツイです(笑)。いつから彼はあんなに少年が似合わなくなってしまったのだろう……いやその、わたしだけかもしんないけどさ……『殉情』の後遺症かなぁ……。

 ブラック・チームはともちしか見てないので、他の人がわかりません……。うわあ、負け犬感満載。

< 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 >

 

日記内を検索