97年、98年、99年、00年、01年、03年。

 そして、

 02年バックコーラス。03年、04年、05年。

 『TCAスペシャル2007』の予定が発表になり、花・月・雪・星組が出演することがわかった。

 ……わかった、って、そんなの、発表される前からわかっていることで。日程だって、大体見当ついていたし、公式サイトに名前が出ているトップスターが競演することだってわかりきったことだ。

 それでも、改めて確定した予定に、「よし、オサ様とゆみこちゃんが同じ舞台に立つところを見られるんだわ!」と思い、続けて「そのかとまっつが同じ舞台に立つところを……」と考え、思考停止した。

 あのー。
 素朴な疑問です。
 まっつって、TCA出るの?

 そのかはいい。
 なんつーか、彼は「出る」って気がする。
 でも、まっつは? まっつって、どうなんだろう??

 まっつオチしてから、TCAって見たことないよね、わたし?
 
 去年は花組が東宝公演中だったため、不参加。まっつ探しをしなくていいので、とてもリラックスして他のスターさんを眺めていることが出来た。

 まっつがTCAに出ていたことは知っている。ブラックジャックの影やって、わたしのハァトを釘付けにしてくれたもの。それ以外の年にも、出ていたと思う。
 でも、完全におぼえているわけじゃない。毎年出てたっけ?
 まっつに限らず、どのスターがどの年に出演していたかおぼえてないし。わたしの海馬じゃあな。

 そしてわたしは何故かまず、ケロのTCA出演年を調べたのだった。
 自分でも謎だが、まっつの出演記録を調べる前に、マジになってケロを調べた。
 それが、冒頭の数字。

 97年、98年、99年、00年、01年、03年。

 97年以降、ずーっと組が変わってもレギュラー出演していた。間が抜けている02年は、トップと2、3番手のみ出演というくくりで、ケロもゆーひも出演していなかった。(当時はゆーひくんといつもペアだったのでつい、ここでもゆーひの名前を出してしまう。今のしいすずみたいなもんだな)
 03年が星組生として出演、組対抗パロディ合戦で、フランツ・ヨーゼフ@『エリザベート』を演じていた。

 ケロはTCAに出る。
 なんの疑問もなく、そう信じていた。だってずーーっと、出ていたんだもん。

 それが、04年は出なかった。

 信じられなかった。
 しいちゃんやすずみんという、いつものメンバーは出演していたのに。ゆかりくんだって、出演していたのに。
 ケロだけが、意図的にはずされていた。

 そしてその年のうちに、ケロは進退を決めてしまった。

 ……ええ。トラウマです、汐美さん。

 おかげで、「まっつってどうよ?」と思った途端、まずケロのことを調べちゃったぢゃないか。

 そして、ケロの歴史を予習した上で、まっつの出演記録を調べる。
 それが冒頭にあるふたつめの数字。

 02年バックコーラス。03年、04年、05年。

 いちお、03年にブラックジャックの影で鮮烈デビューを飾って以降、TCAにはレギュラー出演している。
 だからといって、今年出るかどうかはわからない。だってケロのことがある。

 あああ、あああ、まっつってどうなんだろう。出るんだろうか。出てくれるんだろうか。
 なんかもー、ぜんぜんわかんない。
 なんでイベントの発表と同時に出演者を教えてくれないんだろう。どうせもう決まっているんだろうに。トップが出ることなんかわかってるよー、それよりもっと微妙なあたりの人を発表してよお。

 ひとりでぐるぐるして。

「まっつが出るかどうかわかんないから、落ち着かない」
 てなことを言って。

 nanaタンに、ぽかーんとされました。

「出るでしょ、ふつう」

 なんか冷静に、出演する組の数と、出演する組子の通常の数を説明されました。
 で、思わず指折って数えたよ。
 ……たしかに、まっつは出演しそうだ。

 出演する組子の数が、例年の半分とかに減らされない限り。

 いやその。
 まっつのこととなると、もー、なにもわかんなくて。
 盲目ってやつで。

 『舞姫』チケット、すでに4枚ダブらせているんですが。チケ取りし過ぎだ自分。観られない日までがっついてかき集めるなよー。(行けるかどうかはあとで考える、とにかく目の前のチケットは取る! ……というキモチで買い集めた結果・笑)
 エンカレのときも『MIND TRAVELLER』のときもそれでダブらせて大変だったなー……学習しろよ自分。

 まあいいや。ぐるぐる悩めるうちが華。

 てゆーか。
 まっつのことで考えすぎて行き過ぎて、思い悩むのも、また楽しいもんな。(処置ナシ)

 
 専科エンカレもすっげーたのしみっす。
 TCAと両方観るぞぉ。チケ取りがんばるぞぉ。

 
 まっつまっつまっつ。


 わたしには、ラジオを聴く、という習慣がない。 
 だもんで、ヅカのラジオ番組は全滅、聴いたことがほとんどない。
 その昔、トドが『ビバ!!タカラジェンヌ』に出演するというので、一生懸命オーディオの説明書を読んだことを、今でもおぼえてる。だってマジ、使い方わかんなかったんだもん。テレビみたいにチャンネルがなくて、周波数合わせなきゃならないなんて原始的なモノ、理解不能だったんだもん。たしか、トドが「2回目の出演です」って言ってたと思う……あれって何十年前のことだろう……ゲフンゲフン。
 次に一生懸命ラジオを聴いたのって、ケロがはじめて『ビバタカ』に出たときか……。
 トドとケロで、合計2回?

 それ以来、聴いてないかな。「ラジオ」ってもの自体。
 どうも馴染まない文化なんだな。

 ラジオ文化に対し、アンテナがまったくない。
 だから今まで、知らなかったのよ。

 まっつが、アニメ声優の萌えラジオ番組にコメント(録音)出演していたことを。

 はあ? ですわよ。
 まっつが、アニメ声優の番組に? しかもアイドル女性声優さんの萌え萌え番組に?
 あああありえねー。

 ちゃびんさん、情報ありがとー。
 でもって、遅ればせながら該当番組の、まっつ出演部分のみを聴くことが出来ました。

 番組名は、『野中/藍のラ/リ/ルれ、/にちようび。』(検索よけスラッシュを入れてみる……有効だろうか?)。ちなみに、『ビバタカ』と同じラジオ局。放送は2月。

 ……このタイトルからして、異世界感が際立っておりますな。
 Wikipediaをのぞいてみたところ、この声優さんは、ヅカファンらしい。
 放送100回記念に、「お祝い」にサプライズとして、野中さんが好きな「宝塚歌劇団の人」のコメントを流そう、という企画だったらしい、番組を聴いてみたところ。
 
 ソレはいい。ソコまではイイ。
 たしかにそーゆー話の流れはあるだろうよ。

 問題は、そこで何故まっつなのかとゆーことだ。

 ふつー考えられるのは、野中さんがまっつファンだということだ。
 しかし。

 聴いてみたら、わかる。

 野中さん、絶対、まっつのこと知らない(笑)。

「ジェンヌだー、すごーい」としか言わない。
 とまどっているのがわかる。誰だよ、コレ? て感じ(笑)。

 そして、まっつもまた。

 テンション低っ、声低っ。

 絶対、アニメも野中さんもその番組も、知らないしそもそも興味もないだろう!!(笑)
 まっつのコメントは、野中さんへのお祝い、「それぞれの業界でがんばりましょう」的なエール、そして後半が『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』の宣伝。半分宣伝ですよ……つか、宣伝の方が長かったんぢゃ……。

 まっつのアンニュイな、いかにも「原稿読んでます」ってな声に、野中さんの萌え系アニメ声がかぶるのが、すげー違和感。

 なんなんだ、このプレイ?!
 おもしろすぎ。

 なんでまっつなんだ、番組制作の中の人!!
 野中さんもこまってるぢゃないか!!(笑)

 たぶん、番組スタッフはほんとーに「宝塚歌劇団」を知らないし、興味もないのだと思う。
 それで、「野中さんをよろこばせよう! そーだ、同じラジオ局にヅカ番組あったよね? んじゃ、ソレの収録に来ているジェンヌさんにお祝いコメントもらって番組で流しちゃえ!」てな発想で、たまたままっつになったんだと思う。
 スタッフさんにとってタカラジェンヌなんてみんな同じ、誰でもいいじゃん、てなもん。

 チガウから! ジェンヌにもいろいろあって、スターにもいろいろあって、月組ファン(Wikipediaより)だと言っている人に、花組の、ええっとその、いろいろ微妙な人のコメント流しても、空気微妙になるだけだから!!

 ウケました。
 野中さん、いい人だー。一生懸命、盛り上げようとしてくれていた。このスベッた企画を。
 スタッフさんの厚意を無にしないように、まっつの顔を潰さないように、「知らないよ、誰、みすずあきって?!」てなことは口にせず、がんばってくれていた。じーん。

 そしてわたしは、まっつのまっつらしい低音・低温さがもー、たまりませんっ。

 まっつ、いい声だー。
 心こもってない感じがまたステキ〜〜、萌えるわ〜〜。

 まっつの声って、マイク通した方がさらにステキだよね?
 博多『マラケシュ』の、クリフォードの手紙の声は、ベストヴォイス@まっつ、のなかのひとつだと思っているし。

 いやあ、番組といいパーソナリティの野中さんの声質つーかキャラっつーかといい、まさに異文化コミュニケーション。

 たーのーしーいー。

 なんでまっつだったのか、それでほんとーによかったのか、疑問はいろいろいろいろ残りまくるが(笑)、それでもとにかく、大変愉快なので、聴けて良かった。

 うおおお、まっつに会いたい〜〜、舞台が観たい〜〜。(東宝楽から1週間しか経ってませんよ!!)

 まっつまっつまっつ。


 わたしにとって『エリザベート』は、すでに「なんでもあり」なんだなあと思う。

 初演と比べてどうこうとか、**役なのに**が足りない、とか、特に思わない。何組の『エリザベート』が何組の『エリザベート』と比べてどうだとか超えているとか足りないとかではなく、全部ひっくるめて「ソレもあり」だと思っている。

 好みであるとかないとかは、そりゃーあるけどねー。
 でもって、エルマー、今のところミスキャストじゃん?とか思うけどねー(役者への含みはない)。
 でも、だからといって、「ダメだ」とは思わない。それもひっくるめて「作品」なんだろう、と思うよ。たかがカフェの客に埋没している革命家たちを「そりゃねーだろ」と思いはするけれど、その埋没する彼らだからこそ創り上げられる、新しい解釈の場面なのだと思うさ。

 すべて肯定して、「たのしもう」と思う。
 せっかくの『エリザベート』だもん。

 
 こだわりがなくなったのは、わたしが初演ファンだからだ(笑)。
 雪組での初演、そして星組での再演、あれはもー、ひどかった。

 星組版がひどいと言っているのではない。
 あのタイミングで再演したことだ。

 初演『エリザベート』は、いっちゃんの退団公演だ。
 ブロードウェイでもなければロンドンでもない、ウィーンのミュージカルってなんだそりゃ、日本での知名度が低い作品、しかもタイトルロールがヒロイン? 無理に脚色して主役変更? しかも死神役? トップスター退団公演なのに? 
 ……幕が上がるまでは、マイナスイメージばかりが声高に述べられていた。

 作品が思いの外良かったことはたしかだと思うが、ソレだけでは意味がない。マイナスイメージを払いのけ、難度の高い作品を、いっちゃんはじめとする雪組キャストが実力で名作に叩き上げた。
 いっちゃんファンも組ファンも、誇らしく劇場に通っていた。

 それが。

 わずか数ヶ月後に、再演。
 しかも、主役の持ち味がまったくチガウ組で。

 考えてみてくれ。

 たかちゃん退団公演の『NEVER SAY GOODBYE』。
 ワタさん退団公演の『愛するには短すぎる』。
 コム姫退団公演の『堕天使の涙』『タランテラ!』。
 かしちゃん退団公演の『維新回天・竜馬伝!』

 これらを、たった半年後、同じ年のうちに別の組で再演されたら。ふつーの「通常公演」でやられてしまったら。(ヅカは男役社会ゆえ、娘役退団はあえてカウントしない)
 それぞれのファンは、どう思う?
 組ファンは、どう思う?

 場面ごとに別物のショーを、全国ツアーで次のトッププレお披露目に使われるのとは、ワケがチガウよ。
 ストーリーを、役を、別の人が、別の組がやるんだよ?

「ジョルジュはたかちゃんの役!」
 と思って大切に大切に、宝物のようにしているのに、まったく別の人が演じてしまう。
「『NEVER SAY GOODBYE』は宙組のもの!」
 と思って誇りにしているのに、まったく別の組が公演してしまう。

 たった、半年後に。

 退団公演は、特別なものだ。
 ファンの思い入れがふつーではない。
 汚してはならないサンクチュアリだ。

 それが、劇団によって踏みにじられた。

 ファンの拒絶反応は激しかった。
 当時は今ほどネット文化が根付いていなかったが、それでも公式サイトの投稿欄他、パソコン通信も含め、ネット上では戦争勃発、雪組ファンと星組ファンが互いを罵り合い、貶し合っていた。作品を、スターを貶め、ソレを支持するファンの人間性まで否定して、泥仕合を繰り返していた。

 まちがっているのは、劇団だ。
 このタイミングで再演するべきではなかった。
 結果として星組で再演したことで、『エリザベート』が「タカラヅカ版」として確立したとしてもだ。版権云々の大人の事情は抜きにして、半年後にやる必要はなかった。

 劇団員を「生徒」と呼び、その成長を見守り、退団を「卒業」と呼びセレモニーとして盛り上げるカンパニーのしていいことではない。

 通常の再演とはちがい、間が短すぎたこと、ふたつの組のトップスターの得意分野がかすりもしないくらい別物だったこと(つまり、ファンの価値観がまったくチガウ)、初演がトップスターの退団公演であったことで、拒絶反応の出方が大きかった。
 贔屓組ではない方の『エリザベート』を、「なにがなんでも全否定、カケラも認めない! 認める奴は許さない、戦い抜く!!」という気持ちにファンを追いつめる所行だった。
 大切な宝物を権力で奪われた雪組ファンもそうだし、そうやって敵意剥き出しになっている人たちから自組を護らなければならないと強迫観念を持つ星組ファンもそうだった。
「音痴トート最低」「ちびのトートは不細工で見ていられなかった」てなノリで、えんえん罵り合っていた。

 わたしは今も昔も匿名掲示板は眺めるだけで一切発言しないし、争いに参加するガッツは持ち合わせていないが、とにかく傷ついていた。

 雪組の『エリザベート』が、再演されてしまったことに。

 大切だったんだ。
 珠玉の作品であり、大切な想い出だったんだ。

 初演を最上のモノと思う人間には、再演は「『エリザベート』のパロディ」にしか見えなかった。
 「ミュージカル」だったはずなのに、ふつーの「よくあるタカラヅカ」になってしまった……。
 あんなの「死」じゃない。ただの「格好付けた人間の男」だ。

 星組トートの格好良さはよーっくわかったし、また、作品が「難解」でなくなったぶん、全年齢対象で「大衆的」になったこともよくわかった。
 タカラヅカは大衆演劇なんだから、これが正しい進化なのだと思った。
 どちらにも一長一短あり、完全否定できることなどない。

 それでも、かなしかった。
 作品ファンだったので、星組版にも機嫌良く通っていたけれど、かなしかった。マリコさんかっこいー、と思う気持ちと、星組『エリザベート』もたのしい、と思う気持ちと、再演で傷ついていることはまったく別だ。

 劇場のあちこちで、周辺のお店や駅で、ファンが他方の『エリザベート』を攻撃し続ける現実も、つらかった。
 傷ついていること、初演を最上だと思うことと、再演の悪口を言うことはイコールではないんだ。ほんとに。

 星組『エリザベート』公演中に知り合ったマリコさんファンの人が、わたしが雪組ファンだと知ると真顔になってこう言った。
「ごめんなさい、大切な作品をウチで上演してしまって。でも、ウチのさきちゃんもがんばっているから。一路さんにはかなわないけれど、ものすごく大切に演じているから」
 ……なんで、1ファンが謝らなければならない? そう言わざるを得ないと思わせるところまで、劇団がファンを追いつめたんだ。

 再演は避けられないことであったとしても、半年後でなければ、まだよかったのに。同じ年でなければ、まだよかったのに。
 まだ傷口がふさがっていないときに、劇団によってその傷口をぐちゃぐちゃにかき回されたんだもの、血があふれ出して大変さ。

 大切な作品を、別物にされてしまった。
 その記憶があるから。

 時は流れ、宙組で再々演が決まったとき、星組ファンの悲鳴を遠い気持ちで聞いていた。
「再演反対! トートはさきちゃんの当たり役なのに!」
 ……いや、その前にいっちゃんの役だから。
 星組で再演した段階で、『エリザベート』はもう「誰のモノ」でもないんだよ。

 星組ファンが宙組公演を全面否定し、マリコさんファンがずんちゃんトートを悪し様に罵っているのを眺めながら、「歴史は繰り返すんだなあ」と思った。
 もちろんそこに雪組初演ファンも加わって、やはりあちこちで小競り合いが起こっていたなあ。雪VS星のときほど大戦争にはなってなかったけれど。
 退団でもなければ半年後でもなかったし、間があいていた分「満を持して」の再演っぽかったし、主演が歌手として人気の人だったから、「歌」中心ミュージカル再演も「そりゃアリでしょう」ムードがあったな。

 それから、花組で再演され、月組で再演され。
 月組のキャスティングは宙や花とはチガウ意味でおどろかせてもらったが、おもしろがりはしても、拒否反応などない。いろいろ理屈をこねてここでなにかしら書いているが、ほんとのとこ否定はしていない。
 『エリザベート』に関しては、「なんでもアリ」だ。
 全肯定。

 すべてを、『エリザベート』だと思う。

 それくらい、初演と再演のときのショックは、大きかったんだよ。
 もうあんな想いはしたくない。
 劇団が、「退団公演」を貶め、ファンを憎み合わせるよーなことを二度としないでほしいと思うだけだ。

 現雪組の『エリザベート』も、もちろん全肯定だ。
 トートもシシィもフランツも、みんな正しい。
 だってこれが、「今の『エリザベート』」だもの。
 ちがいだとか個性だとかをたのしむの。なにが正解で、なにが間違いだなんて、ありえないもの。

 萌えるぞ、いつだって。


 雪組再演『エリザベート』について。

 初日に観たときと、トートのキャラクタが大きく変わり、作品自体の方向性が変わった、と、わたしは感じた。
 トートを非人間的な気持ち悪い存在とはせず、ふつーに見てかっこいいいつもの「タカラヅカ的なトート」に変更した。
 『エリザベート』としてのスタンダードに戻した上で、今の雪組のトートと『エリザベート』を創っている。

 ソレはいい。初日トートが大好きだったのでものすごーく残念だし、正直心残りでもあるが、ヅカ的ヒーローな水くん(それでも十分爬虫類的)を見られることもうれしい。

 だからまあ、ソレに関しては「そーゆーもん」だと割り切ることも出来る。
 ただ。

 不思議なのは、トートが別人なのに、シシィは変わっていないということだ。

 よくもない海馬をかき回し、いろいろ思い返してみたんだけど。
 フランツもゾフィーもキャラ変わってるのに、シシィは変わってないよな?

 となみちゃんのエリザベートは、初日と同じキャラクタ。
 あ、あれえ??

 
 1幕最後の「鏡の間」場面において、感じた違和感は2度目の観劇時も同じだった。

 すなわち。

 バラバラ。

 フランツはシシィを愛している。信念を曲げてまで彼女のもとにひざまずいた。
 初日トートは別次元のイキモノだったので「アイシテル」と歌うけれどものすげー別物感。ふつーのトートになったあとも、やはり彼は彼のルールで動いているので、シシィやフランツとは同じ舞台にいない(これは正しい。だからこそ彼は銀橋にいるのだし)。
 そしてシシィは。……どっか、別のところを見ている。

 シシィ、どこ見てるの?

 シシィはフランツを愛していない。てゆーか、誰のことも見ていない。
 「自分のことで精一杯」……というキャラクタなのは、いいのだけど。そして、異次元トートを相手にするには、それくらい偏狭なキャラクタでないと対峙できないのかなと、初日は思っていたのだけど。

 トートがシシィを愛している、いつものトートを踏襲している今も何故、初日と同じなの?

 相手役が変わっても、同じ演技? ってソレ、最初から相手役関係なかったってこと??

 ……びっくりですよ。
 そーだったのか……。

 相手の演技が変わっても変化しない演技ということは、その舞台で、「世界」で孤立しているということ。
 相手の演技を受けて自分の演技を返すのではなく、ただひたすら自分の演技のみを続けるということ。

 その結果が、あの愉快な「鏡の間」。

 フランツの想いは届かず、トートは別の場所にいる。
 フランツの横にいるはずのシシィは、誰とも交わらずひとりきり。

 すげえ。
 3人が3人とも、別のことを歌ってる。相手のこと関係なく、自分の話しかしてねえ。

 思い切り、バラバラ。

 こんな『エリザベート』、はじめて見た。

 コレはとなみちゃんの役作りなのか、それともただの結果なのか。

 となみのエリザベートは、あまりに「小さい」。人間としての器が。
 自分のことや、今自分の目に映っていることしか考えられない。
 夕飯前なのに、目の前にどーでもいいお菓子があると、なにも考えずに満腹するまで食べてしまう。そしておいしい夕飯が食べられない。それだけならただの自業自得だが、夕飯が食べられないことでキレてテーブルをひっくり返す。学習はせず、翌日も同じことを繰り返す。
 これは、となみが計算してそう演じているのか? それとも、結果的にそうなってしまっているだけなのか?

 「小さい」人間でもいいんだ。シシィを偉人にする必要はない。
 そんなシシィと周囲の演技が噛み合ってさえいれば。

 なにも見えない、考えている余裕なんかない。ただ目の前にある仕事をこなすので精一杯……に見えるヒロイン。
 常に不満を抱え、「世界がわたしの思い通りにならない」「つまり、世界はすべて敵」と肩をいからせている狭量な子ども。
 そんな彼女が魅力的でない、とは言えないのだから。

 実際、シシィは魅力的だ。

 彼女が「狭量」であることを示す瞬間が、もっとも彼女の魅力が輝くのだから。

「嫌よ!」
 ーー否定の言葉を叩きつける瞬間のエリザベートが、いちばん美しい。

 否定し、拒絶し、排除する、その瞬間こそ、彼女の魂が燃え上がる。

 愛すべき少女だ、と思う。
 ちっぽけな心ひとつを抱きしめて、他のすべてを拒絶する姿が、彼女が愚かで狭量であることを物語っているというのに、それでも魅力的なんだ。
 その愚かさごと、傷だらけの自尊心ごと、抱きしめてあげたい。

 シシィが愚かであるがゆえに、フランツは彼女を愛し、されど手をさしのべることも出来ずにいる。
 「傷の手当てをして上げよう」と言っているのに、その手に噛みついて逃げる動物みたいなもん。賢ければ、他人の言葉に耳を傾けるという選択肢もあるだろうに、のーみそ小さいからそんなもん、はなから存在しないのね。

 トートはシシィの、人間社会で生きていけない魂を愛し、彼独自の考え方で愛情表現をし続ける。
 羽を広げて求婚のダンスを踊る孔雀を前に、孤独な猫は恐怖を感じて逃げまどう。……孔雀同士ならたしかにソレ、求婚かもしれないけど、猫にしたら「化け物に威嚇された! こわっ」でしかないって。

 噛み合っていない3人。
 それは最後まで変わらない。
 昇天のシーンまでずーっとそう。だってシシィが周囲を見ていないままだもの。2幕のシシィは完全に自分の内側に引きこもっている。

 初日トートのときは、シシィの偏狭ぶりとトートの異次元ぶりに、「描かれていないところのドラマ」をわたしは勝手に期待して盛りがあった。
 だって、描かれている部分では、とてもじゃないがふたりは同じ世界にはいなかったんだもの。トート化け物だし、シシィ誰のことも見てないしで。
 その誰のことも見ていないシシィの側へ、異次元トートが歩み寄る、彼女の岸まで翼を失い堕ちたことが、萌えだった。
 気持ち悪い化け物から、「死は逃げ場ではない」と叫ぶくらい「人間らしい感覚」を持つ者に成り下がってしまったトートの、「変貌」ぶりに心ときめいたのよ。
 うわ、ここまで堕ちてしまって、この男はこれからどうなるんだろう……そう思うとヲトメゴコロがうずいたわ(笑)。

 だけど2回目の観劇時、トートはもう異次元生物ではなくて。ふつーにシシィと同じ世界にいるヒーローで。この男ならたしかに「死は逃げ場ではない」ってふつーに言いそう、てなぐらいにスタンダードを根っこに置いたトート。
 なのにシシィは誰のことも見ずに狭い世界で生きている。トートもフランツもいるのに、誰のことも顧みない。
 トートが異次元生物だったときと同じように「鏡の間」はバラバラ。

 なんで?
 トートが変わったんだから、シシィも変わるべきでしょう?
 現に、フランツもゾフィーも変わったよ?
 たしかに、偏狭なシシィは魅力的だけど。否定を口にし、心を閉ざす少女は愛しいのだけど……でも、主役であるトートが変わっちゃったから、ふつー相手役は主役に合わせる必要がある、よなあ? なんで役作り変わってないんだろう。

 ……計算なのかただの結果なのか、わからないけれど。

 トートが変わり、フランツはそれに合わせて変わることができる。だが、シシィは変わらない。
 ……となるとコレは、シシィに合わせて、トートもフランツも変わり続けるしかないよな。

 バラバラにしないためには、となみちゃんのシシィに合わせて、水くんもゆみこちゃんも役作りするしかない。
 や、バラバラなのが「雪組の『エリザベート』です」ってことなら、余計なお世話なんだろうけど。

 噛み合っていない「鏡の間」は、たしかに愉快ではあるのだし、ソレはソレでいいのかもしれないけど。

 いやあ、これからどうなって行くのかなあ。
 シシィだってこれから変わるかもしれないんだし、そーなると全体も変わるんだろうし、「いつもの」おなじみの作品はこーゆーたのしみ方があるよなー。


「彼女を愛した? それは君が、心弱くなっていただけに過ぎない。君は本来、こんな生活をするべき器ではない。君には君に相応しい場所がある」
 まっつは彼らしい滑舌のよい話し方で、明快に語った。
「相応しい場所?」
「この異国が、彼女の元が、君の居場所なのか? 故国でもなく、その才能を活かせる仕事や地位でもなく?」
「それは……」
 みわっちは、言葉を濁す。どちらとも答えられない。
「彼女とは、別れるべきだ」
 まっつは断言した。言葉の力強さが、彼の指し示す道の正しさを表しているかのように。
「君は彼女を愛してなどいない。そう錯覚しているだけだ。もしここが慣れ親しんだ故国ならば、卑しい踊り子に心惹かれることなどなかったはずだ。君は孤独だった。君は君に庇護を求めるかよわき存在を得ることで、救われたかった。それだけだ」
 ちがう。私は彼女を……言いかけたはずの言葉は、声として発せられることはなかった。
 まっつの手が、知らずうつむいていたみわっちの頬に添えられた。のぞき込むように、親友の顔が近づいてくる。
「君は彼女を愛していない……ただ、流されただけだ。君の居場所はここじゃない。君は私と、帰るべきだ。君のいるべき場所へ」


            ☆
 
 ……てなやりとりを、想像して大喜びしました。

 花組バウホール公演『舞姫』配役発表。

 や、妄想するなら役名でするべきですね、豊太郎と相沢です、はい。
 でもって、べつに注意書きするほどのこともないでしょーが、上の会話は嘘っぱちですから。勝手に書いてるだけですから。

 でも『舞姫』って、こーゆー話だよね?
 優柔不断のヘタレ受姫豊太郎を、計算ずくの泣き落とし女エリスと狡猾な母親が食い物にし、エリート強引攻男相沢が救い出す話、だよね?
 豊太郎はなさけない男だけど、とりあえず美形でフェロモン発していて、天方伯爵をめろめろにしてパトロン志願させ、結局は相沢と一緒に日本に帰るんだよね?
 や、読んだの高校のときだから海馬の記録がまちがっているかもしれないけど。
 エリスと相沢、豊太郎を欲するふたりの攻が争い、相沢が勝つんだよね? で、エリスは発狂するんだよね? ん、死ぬんだっけか? 狂うのまではたしかなはず。
 で、豊太郎は相沢を愛しながらも憎んで、そっから先は読者の妄想に任せます、みたいな、すごい終わり方をしてなかったか?

 まっつ、相沢役キターーッ!!

 みわっち受のまっつ攻!!
 なんてすばらしい配役。

 欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばない冷酷な攻。クールビューティーでお願いします。まっつの容姿や持ち味を活かせるキャラクタでありますように。
 相沢役って、解釈によっては木訥で人の好い無神経キャラになるからなー。豊太郎が繊細なイメージだから、その対比だか現実にモデルがいるのか知らないが、体育会系に描かれたりするもんよ。
 まっつなんだから、ソレはないと思うが。きっとことさら知的エリートキャラになると思うが。
 頼むから、クールビューティーで!! ついでに、さりげなく鬼畜属性で!!
 わたしは攻キャラスキー、わたしに攻なまっつを見せて〜〜。

 
 なんて勝手に言ってますが、どんな比重で景子タンが描くかわかりませんからなあ。
 エリスと同棲するまでのやりとり中心なら、相沢が登場するのはほんと最後だけになっちゃうしな。1幕はプロローグのみでそのあとまったく相沢は登場しません、とか、ぜんぜんアリだろーし。

 高校時代、『舞姫』という小説はわたしと周囲の女子たちに大変不評でした。
 なんつっても、
「豊太郎さいてー! マザコンでスケベで優柔不断で、結局女捨てて出世を取るし! 女の敵!!」
「なにが『富貴』よっ」
「自分が全部悪いくせに、親友のせいにするし」
 ……ということで、女子から見て魅力的な男ではなかった。
 とくに「何、富貴」という台詞が仲間内で流行ったなー。いちばんムカつく台詞として(笑)。
 ヒロインのエリスにしても、
「ウザい女」
「二言目には『捨てないでね』『捨てたら化けて出るわよ』ってべそべそ泣いて、捨てられてとーぜんだっつーの」
「不幸を売り物にして、『可哀想なわたし』の宣伝ばっかして、かわいこぶるこわい女」
 女がいちばん嫌うタイプの女ということで、捨てられて発狂するのは可哀想だと思う反面、かなりムカつくのもたしか、という。

 そんななか、わずかな図書室仲間たち(ヲタク少女は図書室に集まっていた)だけで、
「相沢と豊太郎って萌えだよね」
 と、話していた。や、当時は「萌え」という概念はなかったが。(漱石の『こころ』で「『先生』と『私』って、萌えだよね!」とか、あのころはいろんなものに萌えてましたなあ。ははは)

 『舞姫』は短編小説だし、全体を通して「あらすじ」みたいな話だからこそ、いくらでも脚色も妄想も出来る。
 創作者として、このネタを料理するのはたのしいだろうなと思うんだ。
 豊太郎とエリスの美しくもはかない恋の物語にもできるし、魔性の女エリスがウブな留学生を手玉に取る話にも、相沢とエリスが豊太郎を取り合う話にも、フェロモン男豊太郎が出会う人すべて(老若男女問わず)をたらし込んでいく話にも、いっくらでも発展できるんだから。

 景子タンのお手並み拝見。
 まっつ云々を抜きにしても、たのしみだ。

 みわっちはさぞや美しく豊太郎を演じてくれるだろうし。また、苦悩や慟哭もとことんクドくやりすぎなまでに表現してくれるだろうし。
 ののすみちゃんは安心の実力派だし。下手をすりゃあウザいだけの泣き女を、どこまで女性の共感を得られるキャラクタに仕上げてくれるかたのしみだ。
 みつるの役がどんな役なのかいまいちわかってないんだが(オリキャラだよね?)、みつるの華やかさを活かせる役っぽいのでそれもたのしみだー。

 少女マンガの景子タンでなければ、相沢×豊太郎を本気で期待するんだが(笑)。景子タンだからまあ、そのへんは期待できないだろう。
 サイトーくんか、大野っちならガチだったんだがな。

 なんにせよ、まっつが相沢役で単純にうれしいです。
 さて、チケットどうするかな……。(観劇回数、年間100回以内、月8回の誓いはどこへ行ったんだろう……)


 えーっと、日曜に花東宝楽観て、月曜は移動日で、昨日雪『エリザベート』観て、さらに今日『姿月あさと20th Anniversary シンフォニックコンサート2007』観て……って、なんでこんなスケジュール組んでるんだ自分。
 いい加減、キャパオーバーです。ぜえはあ。(さらに、レディースデーだからって、コンサートのあとで映画見てますよ、この人)

 大阪センチュリー交響楽団の演奏で、10人の作曲家によってアレンジされた有名歌謡曲20曲を、ずんちゃんが歌う、という。

 ずんちゃんのデビュー20周年記念、つーことで、ずんちゃんの生まれた1970年から順に、その当時の流行歌をチョイス、ずんちゃんのアルバムを眺めながら拝聴する。
 ええ、赤ちゃんのころからの、姿月あさとが見られます。ステージ後方に設置された巨大スクリーンにて。

 かーわーいーいー。
 幼児時代、小学生、がきんちょのくせに髪をお団子にしてお化粧してバレエの発表会に出ていたり。

 「翼をください」「卒業写真」「秋桜」「魅せられて」……その「時代」の曲が、その「時代」のずんちゃんの写真とともに流れる。
 聴いたことのない、新しいアレンジで。

 いやぁ。
 このアレンジが、すげえの!!

 おもしろーい。
 ノリのいいハズの曲がしっとりした語りかけるよーな曲になっていたり、しみじみした曲が壮大な曲になっていたり。
 「オーケストラ」で演奏する、ということを念頭に置いたアレンジって、おもしろい。
 武器をきちんと使えている。オーケストラという武器。これだけの「音」を使って「表現する」ことを、ちゃんと考え、たのしんでいる。

 わたしは音楽的な才能が欠如しているので、音のいい悪いの判断も大してつかないんだが。

 なにもわかっていない素人なりに、音楽を愉しんできました。
 いやあ、おもしろいわー、このコンサート。

 わたしはずんちゃんのコンサートは初体験だ。
 ヅカ現役時代もそのあとも、一切知らない。だから、ずんちゃんがどんな人なのか、さーっぱりわかっていない。
 そりゃ、当時からわたしは全公演観たい人だったので大劇場公演は観ていたけれど、大劇場公演は単独コンサートではないし。バウはチケット取れなかったし。や、本気ですげー人気だったもん、ずんちゃん。

 だから改めての姿月あさと体験。

 ……変わってない、んだ。
 わたしの記憶にある、イメージにあるままの「歌」だった。
 わたしが漠然と思っている「姿月あさと」そのままだった。

 そこにいるのはタカラヅカスターでもなければ、男役でもない、女性歌手だけれど。
 それでも、「ああ、ずんちゃんだ」と痛感した。

 クリアな歌声。
 素直な声なんだ。

 わたしは姿月あさとを知らない。ヅカの舞台は観ていたけれど、それだけではまったくわからない。わたしはどうしても、芝居として、作品としてあーだこーだ言って観ちゃうし。
 そうではなくて、姿月あさと、個人。単体。
 だから、見てみたかったんだ。どんな人なのか、のぞいてみたかったんだ。個人コンサートで。

 で。
 結局のところ、「ああ、ずんちゃんだ」と思った。
 個人コンサートははじめてだし、トークを聞くのもはじめてだったけれど、それでもわたしが勝手になんとなーく感じていたままの「ずんちゃん」で、すこんと納得した。

 芸風ってのは、変わるモノではないんだなあ。
 芝居が歌になったとしても。男が女になったとしても。

 それって、すごいよなあ。

 曲は見事に耳馴染みのあるモノ。
 だってアータ、同世代ですから(笑)。ビバ30代。
 ワタさんの『Across』がたのしかったのと同じ、みーんな知っている曲! 元の曲がわかっているだけに、アレンジのすごさにもウケる。

 その、すごい自己主張の強い曲たちを、ずんちゃんは忠実に素直に声にしている。

 彼女がタカラヅカ時代に、広く一般的な人気を博したのも、その素直さゆえだろうと思う。
 クドくない。アクがない。タカラヅカというモノが持つ独特な臭味がない。
 そーして彼女が率いる宙組は、「ナチュラル」「真っ白」という組カラーを構築し、たかこに受け継がれた。

 曲をそのまま声にする、豊かな素質と素直な感性。
 派手な演奏とアレンジを、さらりと「流す」歌声。

 これがオサ様だったら、絶対オケとアレンジと、「戦う」ことになるんだろーなー(笑)。オサ様はべつに戦っている気なんかなくて、自由にしているだけなんだろーけど。結果的に彼はオーケストラやアレンジを「屈服」させそうだ。
 
 つい先日聴いたオサ様の歌声や芸風と、ずんちゃんのソレがあまりに対極で、ひそかにツボる(笑)。

 どの曲も興味深くて、たのしかったんだけど。
 ラストソングがよりによって「愛と死のロンド」で。
 馴染み深いどころか昨日さんざん聴いたよ!なイントロが流れ、これまたツボる。

 いやその。
 いつも聴いているオケとの音の差におどろいた。
 昨日聴いたのと同じ曲だと思えませんが、オーケストラ?!
 
 ヅカのオケがどれだけ雑音入っているかわかった……あんなになめらかな音で演奏されるもんなんだね、あの曲。

 水くんの歌のあとに、ずんちゃんか……ははは。まさか続けて聴くことになるとは思ってなかったからさー。や、芝居の中の歌とコンサートの歌はチガウし、水くんとずんちゃんは表現しようとしているものがチガウから、ソレはいいんだけど。

 ずんちゃんは「アンコール曲」ってことで、とてもさらりと力みもナニもなく「持ち歌」を披露してくれたわけです。
 いやはや、すばらしい歌声です。
 わたし、宙『エリザベート』は2回しか観てないのよ……チケット取れなかったんだもん。わたしの『エリザベート』観劇歴の中で最少回数ですよ。
 だからずんこトートの歌は、ナマでほとんど聴いたことがなくて。
 こうやってまた聴くことが出来てよかった。

 
 たのしかったっす。
 「音楽」っておもしろいなー。

 
 ああ、そして。
「あたしたちって今、オサ中毒だよね」
 とうなずき合うわたしとnanaタンは、「オサ様の歌が聴きたいなあ。またコンサートやってくんないかなあ」と帰り道で語り合うのでした。


 『エリザベート』初日を観劇し、水トートが気持ち悪いと、さんざん書きまくった緑野こあらです。

 それから約10日ほど経過してから、いそいそとトート閣下に会いに行きました。
 そして。

 水トートは、気持ち悪くなくなっていました。てゆーか、ふつーにかっこいいです。

 ……うわあぁぁああん。
 なんか、作品変わってるぅ。

 初日に観劇し、なにに感動したかって言ったら、トートの異世界感にですよ。
 「気持ち悪い」と感じさせるほどの「別のイキモノ」ぶり。
 今までのトートでも『エリザベート』でもなく、まったく新しい作品を創ろうとしている意気込みに、困惑しつつも惹かれたの。

 トートの、気持ち悪い動き。フィンガーアクションだけでなく、表情や感情の動きまでもが、わたしたち人間とは別の理による存在。
 姿の美しさと、存在の気味悪さを同時に表現する。
 歌い方も、今までなら激しく歌い上げる部分を、ささやくように語るように歌う。

 たしかに、とまどった。
 過去5作品が心に刻まれきっているので。
 ここは歌い上げるところ、と思っているのに、ささやかれて肩すかしを食らったりもした。
 だけど、「これが、『新しいトート』なんだ」と思い、興味深かった。先入観に振り回されすぎないよう、柔軟に新しい作品として受け止めようと思った。
 そして、新しいトート像であるがゆえも萌えもあった。

 それが。

 ……ふつーのトート、ふつーの『エリザベート』になってます……。
 や、雪組版としての個性の上での、『エリザベート』という作品のスタンダードを踏襲している、という意味。

 トートは初日ほどぬめぬめしてない。変質的でもない。テーブルに寝そべったりもしてない。
 水くんの個性は残しながらも、過去のトートに近い作りになっている。
 ささやくよーに歌っていた歌も、やっぱり歌い上げる部分が多くなっている。

 トートから「気持ち悪い」を取ったら、ふつーに「かっこいい」です。

 でも、ソレって。
 水くんがかっこいいのは、「あたりまえ」だ。

 あたりまえが見たかったわけではないのよ。や、もちろんかっこいい水しぇん好きだけど、今回は、トートは、再演『エリザベート』は、そーゆーモノを目指しているのではない、と思ったから。
 「男役」として完成度の高い、放っておいても「かっこいい」主役を演じられる水夏希に、あえて「気持ち悪い」ところまで創りあげたトートを演じさせる。……それが今回のキモだと思った。

 水くんは感覚で演じる役者ではなく、努力して計算して、作り込んでいく人だと思う。
 その役者として、人間として、誠実さの感じられる芸風が好きだ。
 その彼が、触れれば切れそうなほどの緊張感(プレッシャー)をまといつつも演じきった初日の「ヤモリトート」に、わたしは惚れ込んだ。
 気持ち悪い。このトート、気持ち悪いよ!! ……でもソレって、演出意図なんじゃない? 「タカラヅカのヒーロー」としてのトートではなく、あくまでも「死」として創りあげたキャラクタなんじゃないの?
 ……てことで、勝手に萌えていたわけだ。

 なんか、今までのヅカ版『エリザベート』っぽくなってます。
 トートとシシィが恋愛する、ヅカ版『エリザベート』。トートはダークファッションに身を包んだクールで強引な美青年で、ひたすらかっこいい。
 水くんはもちろん水くんらしく演じているけれど、フィンガーアクションも「気持ち悪い」までいかず、「エロい」と言える範疇。

 やっぱり、「気持ち悪い」とか「ヤモリトート」ではダメだったのかなあ。
 今までと同じでないと、受け入れられないってことなのかなあ。

 いつだったか、テレビドラマの『水戸黄門』を実験的に作り直したことがあったよね。「史実に基づいた」作りで、黄門様はヒゲがなくてなかなか諸国漫遊に旅立たない。
 新しいことをやろうとしたけれど、視聴者の支持を得られず紆余曲折、結局は「いつも通り」でないと『水戸黄門』として認められないのだ、という結果を知るに至ったという。
 なんか、ソレを思い出した……。わたし、新しい『水戸黄門』、好きだったんだけどなぁ。少数派だったんだよなぁ。

 トートがかっこよくヒーローらしくなった分、フランツ@ゆみこは地味になっているし(もともとそーゆー役、バランスが正しくなった)、ゾフィー@ハマコもこわく押し出し強くなって「わかりやすい存在」になっている。
 異次元トートと人間フランツ、ゾフィー、その狭間に立つエリザベート、という構図が萌えだったんだが……。

 そうか、「ふつー」になったんだ……。

 『エリザベート』は、やっぱり『エリザベート』なんだ……。

 と、愕然としました。

 いやたぶん、これが正しいのだと思う。
 『水戸黄門』が結局いつものパターンに落ち着いたように。
 観客は、「斬新な」ものが見たいのではなく、「いつもの」ものが見たいんだ。
 「いつもの」ものを「いつもの」と比べて、あーでもないこーでもない、と言うのが楽しいんだ。まったく別だと、拒否反応出ちゃうんだ。

 気持ち悪いトートではなく、かっこいいトートが、かっこいい水くんが見たいんだ。

 正しいし、それでこそ『エリザベート』だとわたしも思うし、『エリザベート』を愉しむつもりであることに、なんら変わりはない。

 ただ。
 初日にあんなにときめいた、あのトートには、もう二度と会えないんだ、と思うと、すごくかなしい。
 初日付近から現在にかけて役作りが「変化」したことを、わたし以上に回数観ている人が同じように指摘しているので、やっぱそーゆーことなんだ、もう変わってしまったんだ、と思ったよ。

 気持ち悪い。このひと、絶対人間じゃない。別の世界のイキモノだ。

 そう思えた、ヤモリトート。変質者トート。
 別のイキモノだったのに、人間より高次の存在だったのに、人間の少女シシィに恋をして、人間と同じ次元まで堕ちてしまったトート。翼を失った天使。

 彼に、会いたかったんだ。

 あの気持ち悪いトートに、会いたかったの。

 ふつーにかっこいい、エロいトート閣下に会えるとは、思ってなかったですよ……。かっこいいのはうれしいけれど、思ってなかったから、すげーおどろいたし、気持ちが切り替わらない……。わーん。

 初日はトートのインパクトですげー記憶違いとかもしているし(笑)。や、あの「コートの前を開ける」変質者の定番ポーズ、霊廟じゃなくてドクトル・ゼーブルガーだから! ほんとに強烈だったんだな、まちがうにしても程があるぞ自分! てな、自分のまちがいっぷりにもツボった。
 トートの気持ち悪いところが、すげー好みだったんだよなあ。
 だから、好みなところは全部まとめて、こんがらがって思い込んでいたんだなあ。

 
 トートが別人になっていて、しょぼんとしていますが。
 今のエロかっこいいトートも、愛でていこうと思います。
 

 わたしは『TUXEDO JAZZ』が好きだ。
 この作品と別れなければならないことを、心から惜しんでいる。
 だから千秋楽は『TUXEDO JAZZ』を心に刻みつけるために、オペラグラスで視界を切り取ったりせず、鷹揚に作品自体を味わおうと思っていた。
 東宝『TUXEDO JAZZ』でははじめての2階席だ。全体を俯瞰し、DVDには映しきれない動きや雰囲気を堪能する予定だった。
 実際、うまくいっていたんだ。
 オサ様を中心に、全体を愉しむ。
 そうしていたんだよ。
 でもつい、どーしても、まっつを見てしまうのよ!!

 カオスの場面で。
 あれほどまっつ以外を見ようと決めていたのに。
 うっかり、まっつを見てしまって。
 しかも。

 一花ちゃんと腰を合わせて、しかも揺らして……つーか、回しながらシャウトするまっつ。

 ……なんてものを目撃してしまい、アタマが真っ白になった。

 なななななにやってんですかあっ?!
 わ、わたしの見た角度が悪いの? たまたまそんなふーに見えただけ?
 でもわたし、今までそりゃーいろんな席で、まっつガン見してきたけれど、そんなふーに見える(疑いを持つ)ような姿で踊ってなかったわよ?! 20回ほど見てきて、はじめてだよ?!
 向かい合って、腰を合わせて、って。
 それで背中のけぞらせて、腰を回してるんですが。

 そんなことしたら、赤ちゃんデキちゃうでしょおっ?!

 そりゃ、まっつと一花ちゃんの子どもなら、ちっちゃくてかわいー子が産まれるだろうけどっ!(落ち着け)

 アタマが真っ白になって、ファイナル・カオスの興奮や感動が、「腰を回してシャウトするまっつ」という、およそ彼の芸風からかけ離れた姿を目撃したせいで、なにもわからなくなってしまった。

 アタマがまっつまっつだよ、どーしてくれんだよぅ。

 それ以降は、まっつガン見。
 どどどうしよう、まっつが、かっこいい。
 なんかすごいかっこいいですぅ。オトコマエです、男らしいです。や、そっからあとっつったら、銀橋で彩音ちゃんにフラレて落ち込んで去っていくだけなんだけど。あのヘタレなところが、かっこいいんですよ、きらきらして見えるんですよ、どうしよう!!
 で、大階段でベスト姿で踊っているところなんかもー、ただのデコレーションのくせに、すごいオトコマエなの!! 表情がチガウの! きりりっと濃いの!

 どーしよー。
 今になってまたさらに、ときめいてるよぅ。

 オサ様に感動しまくっているのとは、まったく別のハートで。
 オサ様が素敵なことにはなんの疑いもないが、まっつが素敵だとまず我が目を疑ってしまうから、無駄に消耗する……。はぁはぁ。
 まっつ、かっこいー。もー、どーしよー。おろおろおろ。
 

 フィナーレのあと、最後の挨拶時、退団する袴姿のわかなちゃんを見つめるまっつは、やはりカオが見事にこわばっていた。
 ムラ楽のときはわたし、1階10列くらい?(もうおほえていない。わたしの海馬って……)の席だったため、頬が濡れているのが見えたんだけど、今回は2階A席だもん、んなもんまで見えやしねえ。
 まっつまた、カオ硬直させたまま、ベソかいてたのかなあ。
 カーテンコールでも、笑顔できてなかったしなあ。

 あああ、まっつが遠い……。
 でも東宝花楽が友会で当たったの、生まれてはじめてだもん。(生まれてからのカウントかよ! なんて長大な時間)
 舞台が遠くてもいいんだ、今ここにいられるだけでしあわせ。……きっともう二度と当たらないんだろうなあ……。くじ運欲しい……。

 
 いやはや。
 なんにせよ、堪能です、はい。
 

 わたし普段、入り待ちも出待ちもしない人で。
 まっつオチしてからも、たぶん出待ちなんか一度もしたことないんだけど。

 劇場前でどりーずのみんなと喋っていたら、生徒さんたちの楽屋出がはじまってしまったということもあるけれど。

 まっつが現れた、とわかった瞬間。彼を追いかけて、会の後ろまで行ってしまった。友人たち置き去りにして、ひとりで。
 各会ガードの前を歩くまっつと同じ早さで、ギャラリーの後ろを歩いて。どこがまっつ会なのか知らなかったけれど、まっつが立ち止まったところで、立ち止まって。
 まっつがなにやら話しているのを、ギャラリーのいちばん後ろから眺めた。

 まっつって、美人だよね?

 すごい、きれいだよね? かわいいよね?

 わたしの目の錯覚じゃないよね? 誰から見ても魅力的だよねえ?? ……うわーん、誰か同意してよおぉお!! 誰か肯定してぇぇえ!!
 ぜえぜえ。

 息も絶え絶えだわ。
 なんて罪作りなまっつ。

 まっつまっつまっつ。


 しあわせな時間だった。

 『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』『TUXEDO JAZZ』を、楽の昼公演と楽を続けて観劇。

 ヒト月ぶりの花組。
 ドリーさんが「本日のオサ様報告」をしてくれるたびに「観たい〜〜っ、行きたい〜〜っ!!(顔文字省略)」とメールを返し、ひとりじたばたしていた。
 「そんなに観たいなら、来ればいいのに」とkineさん他にあっさり言われ、そりゃーたしかにその通りなんだけど、現実がソレを許さない、とまたひとりじれじれ。
 まっつ恋しさに彼の写真をPCに取り込んでいろいろ加工して、ひとりでたのしんでみたり。……えへ、オサ様とツーショットまっつ♪(まっつ単体じゃないのか)

 我慢に我慢を重ね、恋心も発酵しきったころの、よーやくの観劇だ。

 
 ただもう、幸福で。

 
 春野寿美礼と出会えて良かった。

 過去でも未来でもなく、「今」出会えて良かった。

 円熟期を満喫する自在な歌声を味わうことの出来る「今」が愛しい。

 なんてすごい人なんだろう。
 「音」を「遊ぶ」力。
 ドラマを織ることのできる声。

 今、ここで、ナマで、ライヴで、春野寿美礼の絶唱に魂ごと浸ることができる、しあわせ。
 理屈を手放して、ただ、耽ることのしあわせ。

 しあわせでしあわせで、涙が出た。

 遅くなくて良かった。早過ぎなくて良かった。この人と同じ時代に生き、タカラヅカなんつー独特の文化に出会い、タカラヅカで男役をやるこの人の絶世期に立ち会うことが出来て、良かった。

 出会えたことが、うれしくてならない。

 
 千秋楽のときはそんなことはなかったと思うが、昼公演で寿美礼サマは、ときどき立ちつくしていた、

 どこでだったかな。わたしの海馬は、細かいことを見失っている。

 だがあちこちで、「あ」と思った。

 オサ様はときどきなにをするでもなく立ちつくし、あるときは舞台を、あるときは劇場を、眺めていた。

 彼もまた、この「空間」に酔っているのか。
 この感動を味わうひとりなのか。

 音楽は、自身の歌は、そして仲間たちの姿は、どんなふうに彼の心に届いているのだろう。
 そして、わたしたちの拍手の音も。

 立ちつくし、視線をめぐらす彼の姿が愛しくて、切なくて。
 このひとのために、なにかできればいいのにと思う。や、なにもできないけどな。彼ののぞむものも、わかりっこないけれど。

 ただもう、感謝でいっぱいで。
 気持ちがあふれてどーしよーもなくて、夢中で拍手をした。

 良席だったし、「まだあと1回ある」と心に余裕があった昼公演の方が、入り込んで堪能したと思う。
 楽は「もう最後なんだ」という想いでぐちゃぐちゃで、「全体を観るの、『TUXEDO JAZZ』を魂に刻みつけるの!」と心に誓っていたというのに、まっつガン見して、他のことが吹っ飛んでしまったのよ……あうあう。敗北感。

 まっつの話はまた欄を改めるとして、今は寿美礼サマ。

 昼公演はねえ、『TUXEDO JAZZ』の「仕立屋」場面にて超ご機嫌なの、オサ様。いつもなら、次々差し出される衣装を拒絶しまくって最後にタキシードに行き着くのに、この回は全部OK!
 出てくる服+着ている人を、「ステキ!」「大好き!」とオサ様が満面の笑顔(てゆーか笑顔通り越してだらしないカオ)で肯定していくの!!
 宮廷服もモーニングもオレンジスーツも、トサカリーゼントのジーンズも、みんな大好き!
 ひとりひとり、出てくる人みんな、関わる人みんなに、オサ様が「大好き!」を繰り返す。
 フロックコートの王子には、キス寸前だったぞ(笑)。

 くちゃくちゃに壊れた笑顔で、すべてを肯定していく。

 みんなステキ。
 みんなダイスキ。

 あんまり全員にOK出すもんだから、店員@まっつはちがう意味で困惑しているし(笑)。

 ボロ服でくちゃくちゃに笑うオサ様が、キラキラ輝いていて。
 あーもー、なんて愛しい人なんだろう。

 楽はちゃんと?いつものよーに、差し出される服に「NO!」とバッテン作ってたよ。
 まっつもふつーに困っていた。

 
 おたのしみだった『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』のドライブシーン、明智くんと波越くんは、昼公演はふつー。仲良し程度。
 楽もやはりふつーに仲良し、遊びすぎることもなく、真面目になにやら話している様子だったが……。

 最後の最後、歌も終わってあとは暗転だけ、というタイミングで、オサ様がそーっと、壮くんの肩に腕を回す。

 あっ、いかん、役者名で書いちゃった。明智と波越だってば。
 前を向いた神妙な顔のまま、明智くんは波越くんの肩に腕を回し、抱き寄せる。

 それだけで、場内騒然。

 そのまま終わるのかと思いきや。

 壮くんがソレに応えて、アタマをオサ様の方へ寄せる。

 あっ、いかん、役者名で書いちゃった。明智と波越だってば。

 スーツの野郎ふたりが、車の中でラヴシーン。
 ストーリー上あってはならない、行き過ぎた仲良しぶり。
 その姿を一瞬観客の目に焼き付けて、暗転。

 場内、さらに騒然。
 しばらく治まらない。
 なおも演技を続けなきゃいけない少年探偵団と刑事コンビが気の毒なほど。……ごめんね、ちびっこたちと刑事さんたち。

 あーもー、なにやってんだあのふたり。
 かわいすぎ!!

 暗転の間際、壮くんが大笑いしたように見えたんだが……オサ様もきっと笑ってたんだろうなあ。わたしの席からは背景ボードが運転席を隠してしまって、壮くんが笑っているところしか見えなかったんだが。

 オサ様の笑顔が好き。
 美しい笑顔ではない。目を線にして、好々爺みたいに笑う顔が好き。
 とろけそうな幸福な表情が好き。

 他人を寄せ付けない厳しい冷たい顔と、やわらかいやさしい顔をあたり前に同居させる人。
 

 『TUXEDO JAZZ』の、プロローグ、中詰めのショー、そしてフィナーレ。いくつかあるデュエットダンスの前後で、彩音ちゃんに腕を差し出す表情が好き。

 東宝版『TUXEDO JAZZ』での、思い切りよく解除された制御装置。
 世界は、彼の思うがまま。
 「あちら側」でこそ自由に息をつく、別のイキモノ、ハルノスミレ。
 「ナイト・ジャズ」では近づいてくるカオスの予感、その緊迫感に過呼吸気味になるし、カオスの直中では溺れてしまってなにもわからなくなるし。
 なんなのコレ。なんでこんなに異世界へ連れて行かれてしまうの。

 苦しいのに、甘美。
 辛いのに、悦楽。

 たしかにある境を、とびこえてしまう恐怖と快感。恍惚。

 
 終わってしまった。
 もう、『TUXEDO JAZZ』は存在しない。どこにも。

 帰宅して、DVDを眺めて喪失感に呆然とする。
 もう存在しないんだ。
 このおぞましくも美しい世界は。

 しあわせな時間だった。

 風が冷たい2月、粉雪を舞わせていた壮くんが故郷へ帰り着き、仲間に赤い薔薇で迎えられていた。初日だけ、1回だけの演出。

 そして時は過ぎ、5月になり。
 千秋楽の最後の1回に、故郷へ帰ってきた壮くんは、使い古したトランクの他に、紙袋を下げていた。

 袋の中身は、派手な柄の扇。
 それを迎えに来たみわっちに渡す。

 『舞姫』の扇だ。

 受け取ったみわっちは、「タキシード」の上に着たコート姿のまま、扇を広げてポーズを取る。……みわっちほんと、オギーに愛されてるよね(笑)。

 『タランテラ!』から続いた物語は、さらにまた、未来へ続いていく。

 続いていく。

「満足だよ。次に進むよ」

 愛してやまないコンサート『I got music』のラストで、寿美礼サマはそう言っていた。

 続いていくんだ。
 なにもかも。

 喪失感に苛まれても。
 時よ止まれと切望しても。

 完結はない。
 ずっとずっと、続いていく。
 千秋楽だとか、公演の終わりだとか、あるいは退団だとか。そんな区切りとは関係なく、人の心は続いていく。

 そしてそれこそが、ほんとうに愛しいことなんだ。

 
 しあわせな時間だった。
 今、会えてうれしい。


 今日は花組バウ『舞姫』の発売日だー!

 とゆーことで、寡黙に前売りに並んできました。
 なんで寡黙かって、ひとりぼっちだからです。
 友だちいないっす……。ひとりっす……。

 並んでいた人数は600人ほど、当たりが300人ほどだっけか。
 午前7時25分頃梅田に着き、8時25分には梅田をあとにしていました。

 ……そろそろ、当たりを引いてもよさそーなもんなんだが。
 次の花組大劇場並びでは、当たりを引けるかしら……。

 
 なにはともあれ、明日は花組東宝楽です。
 よーやくまっつに会える、寿美礼サマの歌が聴ける。
 終わってしまうことは寂しくて仕方ないんだが……。
 くそー、ムラでやっててくれたら、今まで通り週2ペースで行けたのにー。びんぼーがみんな悪いんやー。

 明日お会いできる方々、よろしくです。


 今さらだが、キムくんパソブの話。
 もちろん購入済み。

 今のキムくんには、この写真集が正しい……のだろうか?
 表紙からわかる通り、かわいい少年がメイン・コンセプトのようだ。

 たしかに女性はかわいい男の子が好きだし、女装しても魅力的な美形男役が好きだろう。
 でもさあ、中性的とガキ臭さは、イコールではないよねえ。

 かわいい男の子もそりゃ好きだろーが、基本人気があるのは「大人の男」だ。高校生の甘酸っぱい恋愛よりも、不倫だの立場を超えた宿命の恋だのといった大人の恋愛が求められてているじゃん。
 大劇場で上演されている演目を観ても、高校生が主役の芝居はないぞ?

 大人の男が時折見せる少年性や、中性的な魅力にときめくのであって、はじめから第二次性徴期前のガキを求めているワケじゃない。
 いつまでも子ども臭い男役は、人気が出にくい。
 若手の頃は瑞々しい美少年でいいけれど、学年が上がれば色気のある大人に成長しないと、ブレイクにつながらない。

 ……と、わたしは思っているので、キムくんのパソブの「かわいい少年」写真集に、首を傾げたのだわ。

 キムくんはたしかにかわいらしい少年だけど、彼の芸風は骨太で男っぽいと思っている。
 外見と芸風が合っていない。
 芸風自体はヅカのど真ん中を行けるものなのに、容姿が真ん中から微妙にズレている。
 研10になるのだから、そろそろ「かわいい少年」は卒業して、「大人の男」を目指さなければならない……と、思っているところへ、イベントでは「ヒロイン」、バウ主演は「少年役」。でもって、初の写真集は「かわいい少年」。

 ……「男」を目指すつもりはないのかな。

 「女の子みたいな男の子」として、キムをスターに押し上げていくつもりなのだろうか?
 でもソレ、需要あるのか? ヅカはジャニーズと似ているけれど、やっぱチガウものなんだよ?
 いったいどーするつもりなんだろ? 純粋に、不思議。

 
 とまあ、コンセプトに疑問はあるものの、いちばん危惧していたのが「ふつーの女の子アイドルの写真集」だったので、じつは胸をなで下ろしています。

 どーも劇団はキムを「アイドル」にしたくてしょーがないみたいだからなー。
 ふつーにスカート穿いた美少女がにっこりしている写真集だったら、どうしようかと(笑)。
 キムだったらありそうな気がして。……舞台の彼はちゃんと男っぽいけれど、素顔写真はなんか、「女の子」なものばかりというイメージがあって。……あー、昔のまとぶもそうだったなあ。

 「女の子の写真集」ではなく、ちゃんと「男役」です。ただソレが、「かわいい少年」なだけであって、たしかに「男役」。

 編集後記によれば、「英国風」だそうですよ。森の中で、パブリック・スクールの学生風のキムくんが微笑んでます。
 デートショットの相手役はきらりちゃん、対談相手はコム姫。

 意外なのは、コム姫との対談中に幾度となく飛鳥組長の話が出ること。ナガさんが、かなり厳しくキムを鍛えているらしーことがわかり、おどろいた。
 ナガさんは慈愛の人、菩薩のよーな微笑みで組子たちを見守っているイメージがあって、手厳しい指導をする人だとはまったく思ってなかったのよ。厳しさではなく寛容さで組をまとめる人、という勝手なイメージ。
 なんだ、ちゃんと下級生を叱ったりする人なんだー、と、そんなことに感心。

 
 英国風だろうと、日本の学生風であろうと、キムは少女マンガそのままの美しい少年だー。

 健康的なところも、クラシカルな少女マンガっぽい(笑)。

 たぶんこの写真集には、「今までの音月桂」のイメージが全部詰まっていると思う。
 かわいくて、さわやかで、すこやかな少年。洗剤のコマーシャルに出られそうな、真っ白な笑顔。
 エロスがあるとすれば、それも「少年」としてのもの。男以前、大人未満だからこそ持つカラー。

 これから先「音月桂」がどう変わっていくのかはわからない。
 数年後にこのパソブを手にした新しいファンが、「キムって昔、こんな感じだったの? 今とぜんぜんチガウ!」と思うか、「すごーい、今もぜんぜん変わってない! 永遠の少年!」と思うかは、わからない。

 需要があるのは「大人の男」だからと背伸びはせず、「今、現在の姿」をそのまま収めたこのパソブは、「記録」という意味があるのかもしれない。
 キムがこれからも、スター街道を行く人であるならば。階段を上っていく人ならば。

 彼がどう変わっていくのか。
 過渡期を眺める醍醐味として、このパーソナルブックを愛でるのは、ぜんぜんアリだ。

 
 とゆーのも。

 今彼は、『エリザベート』で、ルキーニを演じている。

 舞台では、彼の「強い」持ち味が解放されている。それはあきらかに、このパソブの「かわいい少年」とはかけ離れたものだ。

 これからも音月桂は変わり続けるだろう。成長し続けるだろう。
 それがたのしみでならない。

 
 てゆーか「今」、この「かわいい少年」風写真集をキャトレに並べることが劇団の「計算」なのかなと思ってみたり。
 なにしろ『エリザベート』だ、ヅカファン以外も劇場にやってくる。
 そして、あのルキーニを演じている男が、素顔はこーんなかわいこちゃんだと知ったら、目の玉飛び出るよねっ?
 ええっ、よりによってこの子? 他の、いかにも男臭い風の人とちがって、この子どもみたいな子?!
 ……と、驚かすことが目的かと(笑)。


 今回の『エリザベート』を観て、ものすごーく気になったのは、「その後のエリザベート」だ。

 『エリザベート』の中の時間って、ずいぶん簡単に飛びまくっているよね?
 すべてが終わったあと、みなが死に絶えたあとからルキーニが語っているので、時間は自由自在に伸縮している。
 初見の際、その時間の飛びっぷりにびっくりしたけれど、重ねて観るうちに「そーゆーもんなんだ」と納得して、特に疑問も持たなくなった。

 しかし。
 今回は、すごーくすごーく気になる。
 時間の飛びっぷりが。

 時間が飛んでいていい、てゆーか人ひとりの一生全部同じ密度で語られても困る、ってもんで、飛んでいるのは当然なんだけど、それにしてもラストの飛び方って不自然だよね。
 ルドルフが死んでシシィが死にたがり、トートが彼女を突き放したあと。
 時は流れて、次にシシィが登場するのは晩年の「夜のボート」。
 時間的にどれくらい空いているのか、また、「夜のボート」からシシィ暗殺までどれくらい時間が空いているのかは、わからない。史実がどうか知らないし、そもそもフィクションだからソレはどーでもいいし。
 ただ観劇するうえで、ルドルフの死から「夜のボート」まではシシィとフランツの外見的変化が著しいし、「すげー年月経っていそうだな」と思える。

 初見時は、とまどった。
 えっ、こんなに時間経ってるの? シシィはおばーさんだし、フランツはおじーさんだ。また花ちゃんも老人メイクちゃんとしてたしなー(おかげで、その後の昇天のときが老けたままであまりきれいではなかった)。
 「死は逃げ場ではない」ってトートに突き放されたあと、シシィは老人になり、トートが待っていることを受け入れているの?
 なんか、間(あいだ)が抜けてないか? 肝心のことが描かれていない気がするんですけど?

 それでも、「まあソレもあり」と納得するようになっていた。観客の想像に委ねられているんだろうと。

 観客の想像……は、いいんだ。ソレもアリだろう、そーゆーもんなんだろう。
 でもわたし、この間のシシィが観たいのよー。
 トートに突き放されたあと、「夜のボート」までのシシィ。

 今回の萌えは、ソコですから!!

 異次元生物として描かれているトート。ダークメイクなだけの王子様@こんな素敵な人なら誘惑されちゃうわ♪、てなヒーローではなく、気持ち悪い異世界の存在として描かれたトート。
 木から落ちたシシィと最初に出会ったところから、ルドルフの死までは、トートは異界の存在だった。高見から「人間」を見下ろしていた。ぬめりとした触感。ヒトの姿をとりながらもヒトではない動き。ヒトではない感情の発露。

 その異界の存在が、「生」を放棄したエリザベートを拒絶することで、異界の理からはみ出すことになった。
 黄泉の帝王は「人間」を愛し、「人間」と同じ地層にまで堕ちてきた……。

 翼を失った天使は、どうやって生きたのだろう?

 異界の存在でありながら、人間界に堕ちてしまったトートは、どうやって生きたのだろう?

 舞台の中で語られている部分のみが「トートがシシィの前に現れたところ」であるならば、ルドルフの葬儀のあと、トートはもうシシィの前には現れなかったということになる。最期の暗殺のところまで。
 長い年月が経つだろうに、現れない。その間、シシィは一度も傷つかなかった? 死にたいと思わなかった? ……人間である限り、ソレはないだろう。

 絶望の淵まで堕ちたのち、シシィはそれでも生きるしかなかった。
 死へ逃げることができなかった彼女は、ただ生きるしかない。傷つきながら、苦しみながら。

 そしてそれを、ただ黙って見つめている男。

 手をさしのべることは簡単なのに、手に入れることはたやすいのに、それはせずに、見守る男。
 彼女と同じ場所まで堕ちて。

 「自分の港」を求め、静かにあがきつづけるシシィと、それを見守るトートが観たい。
 触れ合わない、シシィにはトートが見えない。だけど彼は、そばにいる。彼女の傷も涙も、全部見守っている。

 それまでの変質者的な姿から、守護者への変化。
 人間と死。相容れないはずの存在。

 あれほど特異なトート像を打ち出してきたからこそ、「その後のエリザベート」を観たいと思う。
 今までの人間に近い部分を多分に持つトートならば、舞台上で描かれている部分で十分「恋愛」を表現することができたけれど、今回のトートは描かれている部分が人間離れしまくっているから。
 彼が「変わった」あとを知りたい、見たい、と思う。

 たぶん、その「変わった」あとのトートこそが、水くんの本領発揮部分だろうな、と思えるだけに、なおさら。
 冷たい容姿を持ちながら、クールな役を得意としながら、我らが水先輩、ホットな人だから。
 彼は「愛」を表現できる役者なので、ほんとは最初からシシィに対して愛情タダ漏れ(甘々系ではなく、ハード系)演技だとか、クールな裏で情熱メラメラ演技とかも、得意だと思うのよ。
 でも今回はそうでなく、異界のキャラクタを丁寧に作り上げている。美しい姿をしながらなお、客に「気持ち悪い、あのヒト人間じゃない」と思わせる異次元生物を演じているわけだから、いろんな意味で「挑戦」しているのだなと思う。

 わたしは片想いスキーなので、シシィを愛しながらも姿を見せず、アプローチもせず ただ見守るだけ、のトート閣下を見たいのですよ!(笑)
 低温基本なのに、ときおりこみ上げるモノを嚥下しきれず、ひとりうろたえる図とか、すっげー見たいのですよ!!

 いやあ、こんなところにトキメキを感じたのは歴代『エリザベート』の中で、今回がはじめてだ。
 水トートの異界っぷりが、実に好みです。人間離れした存在感が、ツボっす。
 あ、べつに、過去のトート像を否定するわけではなく、あくまでも「今」のトートの解釈がたのしい。

 
 トートとエリザベートのベストな関係って、「私だけに」独唱時の、回る盆の上を歩く姿かな、と思う。
 シシィにトートは見えず、自分の意志で歩き、トートは独自の想いで彼女を見つめる。同じように歩いているのに、ふたりが出会うことはない。
 「その後のエリザベート」は、「私だけに」独唱時の若さゆえの無邪気な強さはないけれど、哀しみを魂に刻んだ者が持つ強さを持っていると思う。
 白い闇の中を旅する彼女と同じ速度で、同じ闇の中を彼もまた歩く。
 逃げるでなく、怯えるでなく、彼の存在を受け止めながら、彼女は生きる。
 いつか、彼のもとにたどりつく日が来る。その、たしかな予感を胸に。

 「ここを観たい!」と思わせる、「いちばん観たいところが出し惜しみされている」と思わせるのだから、今回の『エリザベート』はニクいと思うよ。や、わたし的に。
 おかげで、飢餓感が残る。
 トート閣下に、会いたくなる。
 彼の真意が知りたくて、深みまで沈んでみたくて、耽ってみたくてうずうずする。……そう、最終答弁はポイントです。ハマコゾンビ見ている場合じゃないから!!←一瞬でも目を奪われたことがくやしいらしい(笑)。


 改めて見れば、月組キャストは、星組に次いで顔の見分けがつく子たちばかりだったのねー。月担だった(ご贔屓がいた)名残がこんなところにもあるんだな。

 さて、「正しいワークショップ」として機能していた月組『ハロー!ダンシング』
 場面ごとにセンターに立つ人が変わる。

 1場のニューヨーク公演再現ダンス場面では、麻月れんか。
 2場、最初の狂言回し男女コンビはどの組も共通して「お花」ポジションの男役と華より実力?的な娘役が登場、ここでは流輝一斗と涼城まりな。
 3場の黒尽くめで踊るパッショネイト・ダンスでは、貴千碧。
 4場のタップワゴンでは再び麻月れんか。
 6場の派手なモールつけて男3人がキザる、どの組も大変サムくて素敵な場面(つまり、相当難しい)では、綾月せり。
 引き続き6場のキャスト紹介ダンス場面での、司会者は涼城まりな。
 7場の、この公演の「見せ場」である男ふたりの黒燕尾タンゴは、流輝一斗。相方は宇月颯。そのあとの「我が愛しのブエノスアイレス」のソロも流輝一斗。
 9場の、この公演の「見せ場」PART.2、組替わりのデュエットダンスは、何故か月組だけ主役が娘役、麗百愛。
 10場のタップワゴンは彩星りおんと貴千碧。
 11場の組ごとにオリジナルのダンスシーンでは、瑞羽奏都。
 13場のソロの歌姫は羽咲まな。

 「主役はいない」ということで、『エンカレ』と同じく座長が挨拶をする公演。
 いちおー、「路線修行」しているのは流輝くんなんだろーけど、彼以外の男役にもなにかしら「オイシイ」ところがあるのが素晴らしい。

 わたしは星組バージョンをたのしんだし、あかしセンターでものすごーくうれしかったけれど、そのときは反対に、「どうしてここまであかしが主役なのに、あかし主演じゃないの?」と思った。『Young Bloods!! 』みたいに、きちんと主演にして欲しかった。
 それを思えば、いちばん正しいのがこの月組バージョンなんだろうなあ。

 全組同じ演出で、それは公平なのかもしれないけれど、全組観るのが基本の者からすれば「飽きる。またアレ、観るのか」になってしまってあとから公演する組が不利だと思うんだが(2回3回ならともかく、5回同じはなー)、センターが誰か場面ごとに観てみなければわからない、というのは新鮮だわ。

 実際、開演前にちらっと眺めたプログラムで、少人数口に名前のなかった瑞羽奏都くん、『Young Bloods!! 』で顔が好みだったので注目していたんだけど、なーんだ『ハロー!ダンシング』でもこれぞといった出番はなしかぁ、と思っていたら。
 なんだよー、後半にどーんとオイシイとこがあるんじゃん!!

 組ごとにチガウ、オリジナルダンス場面はストーリー仕立てになっている。
 月組は「Over The Rainbow」、高層ビルの夜景を背景に不良青年たちがハードに踊り、グループの対立は悲劇に発展し……というストーリー。若者たちのダークな情熱と激しい音楽、一瞬流れる「Over The Rainbow」のワンフレーズの切なさ……。
 ふつーにたのしかったっす。

 瑞羽くん、なんか太った? 去年より横に伸びているよーな気がするんだが……それでも顔は好きだし、不良青年かっこいー。なんか、派手なダンスソロがあったよね? 見ていて「うわ、大変そう」と思った……アレ、男子の筋力でないと難しいのでは?

 ライトがつき、場面がはじまるまで誰が主役かわからない……だからこそ、それぞれの場面でいちいち「この子なんだ!」とうれしいサプライズ。
 たーのーしーいー。

 最初にいたたまれなかった麻月くんも、なんか眺めているうちにどんどんオトコマエに見えてくるから不思議だ。
 総じて立ち位置がよくて、ずーっと目につく。

 ちわわちゃんは納得のかわいらしさ、うまさ。
 いいなー、もー、かわいー。長としての仕事をしつつ、華やかさもあるってステキ。

 綾月くんのアピールっぷりがツボ。なんかやたら目が合う(気がする)。なんかこの子派手だよなあ。

 流輝くんは『Young Bloods!! 』以来、「男前なホスト」認識(笑)。や、ホスト役ではなかったよーな気がするが、『Young Bloods!! 』でかっこよかったから。
 ガタイがよくて目立つ。彼も横に大きくなっているよーな気がしないでもないんだが、タッパがあるからあれくらいの厚みは男の色気につながるかも?
 とくになにがうまいとか思わないんだけど、ルックスを活かしてのびてくれるといいなあ。

 『Young Bloods!! 』で娘役でありながら1場面主役を務めた麗百愛ちゃん、『ハロー!ダンシング』でもデュエダン主役。すげー破格の扱い。ここまで特別扱いされる娘役ってあんましいないのでは? 他に同じ扱いの人を思いつかないや。
 すげーうまい。スタイルよくて華やか、ドラマティック。
 あとはお化粧の腕が上がれば、さらにヒロイン度が上がるんだろうな。

 若い子たちは顔もどんどん変わるし、プログラムの写真より絶対ナマの舞台化粧の方がキレイ。
 美翔くんとか、ナマではえらくすっきりした二枚目っぷりだし、宇月くんはなんか反対にクド味があったし、写真の印象とは逆だー。

 
 たのしゅーございました、月組『ハロー!ダンシング』。
 正直わたしにはダンスの技術の善し悪しはわかんないし、わたしが「あちゃー」と思っても実はうまい人なのかもしれないし、まあソレはともかくとして、「タカラヅカ」を観たという気分になったのがいちばんうれしい。
 「スター」を真ん中にした、ピラミッドが気持ちいい。場面ごとにチガウ人が「スター」だったけれど、主演者名ナシの公演だからそれでヨシ。
 これから先、この経験を元に彼らが豊かに花開くことを期待している。


 どうしようか相当悩んだんだけど、半ば意地になって行ってきました、月組『ハロー!ダンシング』

 星組でたのしみ、雪組で興行自体に疑問を持ち、宙組はそれでもたのしめたけれど、疑問は拡大し。
 花組はキャストのファンだから行くと決めているけれど、月組はどうしよう。キャスト云々ではなく、劇団に対する疑問がひどくなるだけではないか、と危惧した。

 ……行って良かったよ、月組『ハロダン』。
 またしても、劇団の「やりたいこと」がわからなくなった(笑)。

 ここまで振り回してくれると、なんかもー突き抜けちゃったよ。たのしくなってきた。

 月組『ハロダン』は、今までのどの組ともまた、ちがったの(笑)。

 星組はあかしという「スター」を真ん中に据えた、「ふつーのタカラヅカ」だった。
 雪組はせしるを真ん中にしたかったけれど無理だと判断、座長で職人のゆめみちゃんが消去法でとりあえず、せしるができないことを代わりにやる。
 宙組は座長のすずはるきオンステージ。

 月組はどうする気だろう、キャスト的に判断すると、雪組バージョン?
 流輝一斗を主役にしたいけれど、技術的に無理だから、消去法で座長の涼城まりなちゃんが補完する感じ? でもソレ「タカラヅカ」的にまちがってるんだけどなあ。

 ちがいました。

 予備知識ないまま、幕が開いて。

 麻月れんかがセンターで、腰を抜かした。

 あああ麻月くん?! んなアホな。よりによって何故彼が?!!

 えー、わたしのブログをずーっと読んで、記述のすみずみまでチェックしている人はまずいないと思うけれど、麻月くんは初舞台から愛でてきた「顔が好み」の男の子です。月組公演感想のあちこちに、彼のことを書いてきてます。
 新公ですら役が付かないまま、舞台で声を出す・台詞を言うことがろくにないまま研7になっている小柄な男役。

 なにしろ真ん中に立つ経験皆無、てゆーか、ライトあびることさえないだろ的な人。
 『ハロダン』メンバーでちわわちゃんに次ぐ学年・席次であったとしても、舞台で中心的に使われることがあるなんて、夢にも思ってなかった。学年考慮で立ち位置がいい、程度だと思っていたんだよ。

 真ん中て!!
 それも、振付難関リンダ・ヘーバーマンのニューヨーク公演再現シーンかよ!!

 あまりのことに、麻月くんロックオン、彼だけガン見して、他を見ていません、オープニング。

 
 い、いたたまれない……。

 技術も存在感も、もちろん華や美貌も、なにひとつ足りてませんとも、麻月れんか。
 押し出しも弱いし、アピールもぜんぜんだ。

 だけど、彼がセンター。
 そして。

 ……やっぱり好きだ〜〜!

 好みなんだよ、この子。
 このダメっぷりも含めて!!(笑)

 くそぉ、なんでこーまっつに似てるんだ。顔も、華のなさも!

 キザる麻月くんに、息も絶え絶えです。板に付いてない〜〜、きゃ〜〜、助けてぇ。

 まるまる1場面、一貫して彼がセンターだったので困惑絶好調。
 星組ではあかしが踊っていたパートだよ? 宙組ではすずはるきだよ?
 月組、ぜんぜん足りてないよ、このセンター!!

 いやその、うれしいんだけど。
 なまじうれしいだけに、「こ、この子でいいんですか?」「ごめんなさい、ごめんなさい」という気持ちになってしまって。や、わたしが恐縮する謂われはないんだが。

 なにが起こっているんだ、この公演?

 現実を受け止め切れていないうちに、次の場面。
 ドラマティックなパッショネイト・ダンス。ここにも麻月くん登場。
 しかし、センターではない。

 センター、貴千碧だよ!!

 文化祭から異彩を放っていた、91期研3男。去年の『Young Bloods!! 』でも女装のオチに使われたり、アドリブでモノマネしたりしていた、ヘンナヤツ!!

 麻月くんは「なんでセンター?! ごめんなさいごめんなさい」だったのに、貴千くんに関しては、適材適所キターー!! つー感想。

 濃い。
 濃いぞ貴千碧。

 研3なんて嘘だよな? 研13だよなっ?!

 納得のセンターぶり。
 技術と存在感、そして顔芸。

 自分が真ん中である、群舞を自分がまとめる、ことを理解して踊っている、その吸引力。

 やーん、かっこいー!!

 てゆーかこの学年でワークショップとはいえセンター張る? すげーなヲイ。

 
 そう。
 月組『ハロー!ダンシング』は、場面ごとに、センターの人がチガウという構成になってました。

 おいおいおい!!
 なんなんだよソレ。
 今までの組と、コンセプトからチガウやん!!

 雪と宙を観て劇団に対して疑問を持った。なにがやりたいんだ、と。
 バックダンサー養成がしたいのか、ダンススクールの発表会がやりたいのかと。ここは「タカラヅカ」ではないのかと。

 それをまるっと撤回して。

 「場面ごとにセンター修行」「男役修行」……って、正しい「タカラヅカ」のワークショップやん!!

 舞台人は、舞台に立つことで成長する。
 稽古場でどれだけ練習しても、ソレだけでは足りない。実際ナマの舞台に立ち、客の前で演技してこそ成長する。
 ただの脇役、群舞の隅にいるだけなのと、センター張って舞台を吸引するのでは、得られる経験値がまったくチガウ。
 大劇場では人数の関係もあってろくに機会を与えられない人に、ワークショップで勉強をさせる。
 ……それって、正しい。
 それこそが、この『ハロー!ダンシング』という謎の興行の意義だ。

 『エンカレッジコンサート』で、どんな下級生でもとりあえず「ひとり」で舞台に立たせ1曲フルに歌わせる、のと同じよね。
 「真ん中」に立つ練習。「スター」であることの練習。
 ここは「タカラヅカ」だから。バックダンサー養成所ではナイ。ひとりずつが「スター」として輝くことを求められる夢の舞台なのだから。

 なんだよ〜〜、興行として正しくなってんじゃん〜〜。
 てゆーか、今までのはなんだったんだ。失敗を元にし、軌道修正したってのか??

 劇団のやることってわからない。
 各組バラバラじゃん、コレ。
 いいのか? ちっとも公平じゃないぞ?

 疑問は尽きないが、なんにせよ、月組版は、たのしかった。

 長くなったので、翌日欄につづく〜〜。

 

 『エリザベート』の初日感想の続き。

 ルドルフ@かなめ。
 とにかくそのスタイルのよさが、最初から目に付く。幕開きの亡霊さんたち、網をかぶってライトもろくに当たってなくても、まず目がいく。「あ、あそこにきれいな人がいる!」って。

 えー、ここ数年のかなめくん比において、とてもよかったっす。
 去年の『Young Bloods!! 』とか、主演の新公とか、かなりわたし的に評価が低かったので、それからすればびっくり!な感じ。

 とにかく、「やる気」がなく見えるのがかなめくんのつらいところ、なにをしたいんだ、どうしたいんだ、扱いと実力と美貌がバラバラ、方向性が見えない子だったのに。

「中日のかなめは、谷みずせよりはやる気があるよーに見えた」
「比較対照が谷みずせってとこで終わってるから!」
「や、谷みずせも、谷みずせ比でいうとかなりやる気だったんだってば」
「通常の谷みずせより上の谷みずせより上のやる気を持つ、凰稀かなめ? 難しいなその基準」
 ……そんな会話をしていたのが。

「かなめにしては、やる気があるよーに見えた?」
「かなめにしては、よくなってた?」

 終演後、友人たちとそんな会話になりました。
 なにがどう、どこがどう、ではないけれど、低迷期を抜けて光が見えた?
 谷みずせを基準にすることもなかったしな。あ、重臣ズを演じるたにやんはたにやんでステキなんですが。

 ほんとのところ、ルドルフ役はかなめくんがいちばん魅力を発揮できる役ではないと思う。受キャラを美しく演じると、ふにゃふにゃしちゃうタイプだもんなー。
 それでもなにかしら腹を決めて演じているあたりが、魅力につながっているのかなと。

 受キャラだから、破滅する王子様だからときれいなだけ弱っちいだけにせず、強さを前面に押し出した方がかなめくん的には栄えると思うんだけどなー。
 シシィが持つ野生を表現できたら、檻の中で朽ち果てる寂寥も見えてくると思う。

 かなめ比ではとてもいいんだけど、まだこれからいくらでも魅力を出せそうだ。

 
 でもって、順番的に行くと次は革命家トリオだな。

 今回の『エリザベート』でもっともミスキャスト、ダメだと思ったのが、この革命家トリオだ。
 シュテファン@コマはまだいいし、ジュラ@キングは相当やばいんだが、まあ役がジュラ程度なので「ぼーっと立っているだけ」でもまだ救いはある。

 エルマー@ひろみが、マジでやばかった。

 わたしは今まで、革命家トリオが何故若手路線男役たちが演じるのか、深く考えたことがなかった。
 「役が他にないもんなー、あとからとってつけた役で、出番もろくにないけど、群衆や顔の見えない黒天使よりはいいのか」程度の認識で、「だから、路線の役」だと思っていた。
 そーじゃなかったんだ。
 今回の『エリザ』を観て、思い知った。

 エルマーは、ぶっちゃけ「いなくてもいい役」だ。
 賑やかしでいた方がイイが、いなくても話は進む。家柄のことだの父親のことだの、不自然な説明台詞で解説してはあるが、彼自身の書き込み自体はとても少なく、薄い。
 そして、ハンガリーのシーンにしろ、カフェのシーンにしろ、いつも群衆の中にいる。

 路線系キラキラ存在感がないと、埋もれる。

 必要なのは、歌唱力でも美貌でもなく、押し出しの良さだ。
 脇役ではない、スターである、と全身で叫ぶ力。
 大劇場の真ん中に立って、「中心」がどこであるかを示す力。

 それがないと、「ただの脇役」になってしまうんだ。
 ここまで、薄く、弱くなってしまうんだ。
 今まで考えたこともなかった。

 ひろみちゃんに含むところはナニもない。その美貌と繊細な演技に「なんて美しいエルマーだ」と感心してはいる。
 だが、たんにコレ、ミスキャストなんじゃあ?
 歴代のエルマーはみな「新公主演経験者」しかやっていない。「大劇場の真ん中にひとりで立つ」ことができた(できる)男役しかやっていないんだ。
 それくらい、他のなにがなくても、とにかく「華」が必要な役なんだ。

 劇団は何故、こんな妙なキャスティングをしたのだろう。
 エルマーは本来、コマがやるべきだったと思う。コマはシュテファン役でがんばっているが、エルマーが「小さい」ために空回っている。

 「ミルク」は大好きな場面なんだけどなぁ。
 革命家が弱いために、群衆との区別がつかなくて困る。

 キングは相当やばいぞ。どーしたんだ? 体調悪い? このままじゃ透明人間になってしまう。

 
 ヴィンディッシュ嬢@いづるんは、ファンタジーな存在。

 ふわふわ衣装を着て現れたコスプレ娘。
 アニメと現実の区別がつかなくなったよーな感じ。

 今回の『エリザベート』は、アニメ的な存在とリアルな存在が混在していて、おさまりが悪い。
 フランツやゾフィーは今までになくリアルなのに、トートはアニメ的だ。その間で揺れ動くシシィは不安定。
 観劇しているわたしもまだ、消化し切れていない。
 ヴィンディッシュ嬢もまた、今までのリアルな精神病患者ではなく登場したので、混乱。

 シシィを誘惑するモノ(トート、ヴィンディッシュ嬢)は、異次元的にする、と決めてあるのか。
 それはそれで、おもしろいアプローチだと思う。

 しかし、シシィ@となみがまだ、リアルとアニメの間で困惑している印象。
 難しいわなそりゃ。ふつーはどっちかひとつに合わせて役作りするものなのに、世界観ふたつが同時に存在するなんて。

 トート@水がそうであるように、ヴィンディッシュ嬢@いづるんもまた歴代ヴィンディッシュ嬢と意味合いがまったく違っているので、いいも悪いもナイ。
 こーゆーものなんだ、と受け止めるだけで今は精一杯だ。や、わたしが。

 
 マダム・ヴォルフ@かおりちゃん。
 かわいい。コケティッシュ。

 ルキーニ@キムとの並びなんて、どこの青春カップルかと。

 ……チガウだろ。
 これはもう、素直に「チガウやろ!」と突っ込める(笑)。

 歌声も姿も所作も、なにもかもが「ヒロイン系娘役」。娼館のマダムぢゃない〜〜。

 かおりちゃんは最後のエトワールがステキで、それこそが彼女の正しい持ち味だとわかる。
 わかる……けれど。
 「柄違いだったのね」で終わっちゃいかんだろ、マダム・ヴォルフ。
 ひろみちゃんのエルマーとはちがい、かおりちゃんはミスキャストだとは思わない。路線系が脇を演じることはままあるし、また、真ん中を務められる華と実力を持ってあえて、脇の役をぴしっと締めるというのは、ぜんぜんアリなはずだ。

 もっとできるはずだと思う。これからに期待。


 雪組『エリザベート』において。

 瞠目したのは、フランツ@ゆみこの群を抜いた実力と安定感。

 うまい人だというのは知っていたさ。
 そのハートフルで繊細な演技力も、貴公子系のキャラクタだということも知っていたさ。
 それにしたって、なんなのこの実力のちがい。

 トート@水とエリザベート@となみが、まず「ミュージカルであること」に苦戦しているってゆーのに、ひとり軽々「ミュージカル」してるんですけど?

 基礎力のちがいがまんまカタチになったような。

 「歌」に足を取られない分、別のことまで視野が広がっているというか。主役ふたりが足下見て歩いているなか、ゆみこひとり前を見ているというか。なんだよ、カオが見えるのゆみこだけかよ、とゆーか。

 銀橋でシシィとラヴラヴソング歌っている姿を見て、この人がいてくれてよかったと思った。
 ゆみこがいなかったら、どーなっちゃってたんだ、雪『エリザ』。主演クラスに「歌手」がいないとどれだけ大変なことになるかを実感したわ。
 「開けておくれ」の場面で、歌い出しの「♪エリザベート」を完璧に歌える人、はじめて見た。どのフランツも低すぎて声出てないのに。ゆみこってここまで低音出る人だっけ??

 彼の基本スキル「あたたかさ」が、うれしい。
 人間性への安心感。このフランツならもう、放っておいても大丈夫だ、みたいな(笑)。

 そして、中日のときは感じなかった寂しさを感じた。

 ゆみこはやはり、ゆみこなんだなと。
 ゆみこは雪の遺伝子を持っており、雪組にこそ似合うし、花にいたときはぶっちゃけいろいろ微妙だったのが、雪でならトップもOKじゃん? という人に思える。(人名を壮くん、組名を雪と花を入れ替えてもヨシ)
 それでいてなお、たしかに花組時代のキャリアを、歴史を刻んでいる。
 安定して歌う、難役フランツを堂々と演じきってしまう姿に、彼の「花組時代」「オサの相手役時代」の姿を見て、切なくなったのさ。

 彼はたしかに、キャリエールだったのに。
 花組のゆみこだったのにー。
 さみしいよお、ゆみこぉ。

 ……それと同時に、誇らしくもある。花組のゆみこが、こーんなにも実力のある人なんだぞってことが。

 ちょっと花組っぽさ、オサ様の相手役っぽさが出ていて、「雪組らしくない?」と思えるところも多々あった。
 それもいずれなくなり、どんどん「雪組」になるんだろうな。
 あー、それを思うとまた寂しいなぁ。
 いやその、雪組で花開いて欲しいと心から思ってるんですが。

 ちと心乱れつつ。
 ゆみこは躍進の時だなと思った。

 
 ゾフィー@ハマコ。
 フランツの次がゾフィーなのか(笑)。
 や、その、フランツとセットの役だし。

 初演のイメージが強いので、わたしは勝手に「初演の朱未知留」を踏襲したゾフィーになると思い込んでいた。

 だからちょっと、びっくり。
 朱未知留とは正反対の役作り。
 リアルな皇太后、生身の女性だった。

 わたしは初演のゾフィーがいちばん好き。勧善懲悪がはっきりしていて、シシィのヒロイン度が上がるから。
 朱未知留のゾフィーは「ディズニーの悪役」風だった。
 ゴキブリの触覚みたいな大袈裟な眉を描き、コミカルに大仰に演じる。
 わかりやすく悪役で、そのくせ憎めない。
 シシィに対する意地悪ぶりも、現実離れしていて心安らかに眺められる。

 タキさんのゾフィーは生々しくて苦手だった。
 現実の嫁姑関係を見せつけられるようで。日本の中流家庭と同じ人間関係の臭い。……それってやだなあ、と。

 「牝」の部分を感じさせたはっちさんだとか、タキさん系だけど弱く薄かったちずさんだとか、人によってそれぞれだけど。

 まさかハマコが、リアル路線で来るとは思わなかった。
 ひとりの、皇太后。
 シシィに対する態度も、意地悪とか嫁姑とかじゃなく、皇太后としてのものだった。

 凛として美しい、立場と使命をわきまえた女性。

 なんなんだそりゃー。ハマコなのにー。(いろいろ失礼)

 フランツとともに、リアル系の役作り。
 このふたりが「親子」であり、同じ世界で生きていることがわかる。
 てゆーか、他のキャストと比べ、フランツとゾフィーだけキャラクタがチガウ気がするんだが……いいのかな。

 『タランテラ!』での裏声は大変そうだったのに、ちゃんと美しいソプラノになってますよ! 『タランテラ!』は男役のままの裏声だったから、あんなにえらいことになってたのかな。

 ハマコって、女だったんだ。
 ハマコって、美人だったんだ。

 や、わかっていたはずのことに、今さらおどろく(笑)。
 ハマコすげー。

 あの大阪ドーム(今は別の名前)みたいな髪型で、それでも美しいんだから大したもんだ。

 でも最終答弁のときのゾンビは怖すぎ。
 ハマコだわっ、ソレでこそハマコだわ〜〜っ!!(ハマコを見ていると、うっかりトート閣下やフランツ陛下を見損ねますよ!)
 

 ルキーニ@キムは、やっぱ難しい役なんだなと、再認識させられた。
 初演トドを超えるルキーニには出会えないのか。

 なんか、声がちがって聞こえたんだが……キムってあんな声だっけ?
 2幕になると突然声の通りが良くなったから、マイクの関係もあったんだと思う。音声さんがんばれー。

 いわゆる「ルキーニ」としては弱いと思うのだけど、今回の『エリザベート』という作品の中のルキーニとしては、なんつーかこー、すごく興味深い。

 トートの設定が今までのどの『エリザ』ともチガウわけだから、ルキーニもちがってるんだよね。
 そして、キムがまた細かい演技をしている。
 舞台の隅や花道で、台詞もなく「物語」を見つめているとき、彼はときどき思いもかけない表情をしている。
 他の全部をあきらめて、最初から最後までルキーニだけを見る日、てのを作ったらおもしろそーだ。
 別の物語が見えてきそうだ。

 わたしは初演雪組ファンで、トドロキファンだったので、初演時はやりましたよ、「他の全部をあきらめて、最初から最後までルキーニだけを見る」っての。
 だからこそ、キムのルキーニがトドとまったくチガウ感性でそこにいることが感じられるのね。あれ、なんかチガウぞ、って。
 すごーく引っかかるので、ルキーニのことはちゃんと本腰入れて見てみたいな。

 キムのビジュアルは、ものごっつ好みだ。
 かーーっこいいっ。
 なんなのあのジャニーズ系(笑)。
 黒塗り+ヒゲの方がいつもにも増してジャニ系っぽいってナニごと?
 イマ風になるからかね、ラフな髪型とヒゲって。

 フィナーレはヒゲ無し、あまりの美形っぷりに釘付けです。

「男役群舞で、オヅキが一度少人数口から外れる。群舞からいなくなる」
 と、オヅキファンのチェリさんがすごい勢いで愚痴っていたのに、わたしとパクちゃんはオヅキの立ち位置をまったく理解していなかった。
「キムしか見てなかったんで、わかんない」ーー声が揃ったもんよ、わたしたち(笑)。

 キムかっこいー。
 いろいろこまるわ(笑)、あんなに美形だと。

 
「初日には絶対いるよね(笑)」
 と、言われてしまいましたが。
 実際、初日好きでかなりの確率でムラ初日にはいるけれど。

 みんな、忘れてるでしょ。わたし、水ファンだってば。

 水くん中日お披露目初日には、鈍行に乗って吹雪の中片道4時間半だか(時間すでに忘れた)かけて名古屋まで行ったのよ?

 本拠地公演お披露目初日に、駆けつけないはずがないじゃない。 

 ……いやその。
 好きな人が多すぎて、あまりにいろいろ好き好き言ってるから、説得力無いだろーけど。まっつへの愛とは別物だけど。

 いちおーほらわたし、
 2006-01-30の日記(http://diarynote.jp/d/22804/20060130.html)でこんなこと言っているくらいには、マジに水ファンなんだってば。

 水くん、となみちゃん、トップお披露目公演初日おめでとう。

 新生雪組本格スタートおめでとう。

 その思いゆえに、初日にこだわって駆けつけたのよ。

 そして、「あたしって水ファンなんだ」と自覚したときから、水くん出演作品のチケット運皆無記録は更新中。

 えーと、いつからだ、水くん出演作品のチケット取れないの。
 たか花のDCあたりで水オチ自覚して、それ以来ずーーっと宙組はチケットが取れなくなった。唯一取れたのは、『白昼の稲妻』東宝楽1階Sセンター……って、水くん出てないやん! ランブルーズ@トウコやん!!
 自力で取れないもんだから、掲示板やらオークションやら手を尽くさなければならない……。
 いちばんチケ運があるのが雪組で、いつも大して苦労せずに楽だの前方席だのが友会その他で手に入っていたのに、水くんがやってくるなり雪組運皆無。入れ替わるよーに宙組が当たるよーになった。

 水夏希のチケットは、手に入らない。
 それがわたしの常識。

 ええ、トップお披露目初日、しかもよりによって『エリザベート』で祝日。ぜんぜん手に入りませんけど、どーしましょー? びんぼーゆえ定価にこだわるもんだから、ほんとに手に入らないっつの。

 結局開演3時間前か、チケットの手配が付いたの。
 席が1階花道近くだったので、いろいろたのしかったー。

 
 『エリザベート』は、特別な作品。
 劇団にとっても、出演者にとっても、ファンにとっても。

 たとえば『ベルサイユのばら』なら、たしかに大作ゆえ注目度がちがって大変ではあるだろうけれど、作品が愛されていない分まだマシなのよね。
 『ベルばら』がぶっ壊れたキ*ガイ作品だって、みんな知っていて、あきらめて観劇してるじゃん。タカラヅカの「必要悪」だと諦観して、イロモノと割り切った目線でなまあたたかく眺める。

 『エリザベート』はチガウ。
 「作品」自体が素晴らしく、多くの人に愛されている。
 それゆえの先入観、こだわりが大きい。

 この作品で「お披露目」をするのはほんっとーに大変なことだと思う。

 緊迫した空気。
 お披露目初日のお祝いムードより、固唾をのむサスペンス色が強い。

 作品の難しさももちろんあるが、そのうえ、歌詞のひとつひとつ台詞の語尾のひとつひとつまで暗記している観客、だもんなー。
 はじめから減点法でしか観てくれないとわかっている客席を相手に演じなければならない難しさ。

 減点法だからなー、最初から「満点は存在しない」という。100点からスタートして、良いところは0点、悪ければ減点、さて、幕が下りる頃には何点残っているかしら? そんな客席のムード。
 ……気の毒だよなー。

 
 それでも。
 開演アナウンスでの、拍手は熱い。
 サスペンスフルでも減点法でも、たしかに愛のある空間だから。固唾をのむのも目線が意固地になったりしているのも、愛があるから。キャストへの、あるいは作品への。

 おめでとう。
 はじまる。

 その気持ちは、たしかだから。

 
 初日1回観ただけなんだが、とりあえず感想を残しておく。
 舞台は生き物、どんどん変わっていくモノだから。リピートすることで、自分の感想が変わっていくことがたのしみだ。

 
 トート@水くん。
 好きだ。
 ……理屈ではない。もともと好きなんだから、ナニがあろーと好きだ。
 キモッ!と思ったが、どんなに気持ち悪くても好きだ。
 メイク変だと思うし、フィナーレはカツラどうなのよアレ、とか、安直な組カラー尽くしは勘弁とか、いろいろいろいろ思ったが、それでもいいんだ、好きだから!!

 わたしはキモくて、その気色悪さからあちこち笑えて仕方なかったんだが、幕間に会ったデイジーちゃんが「エロいトート」と言っていたので、そーゆーもんなのか、とおどろいた。
 アレって、キモいんぢゃなく、「エロい」っていうものだったのか!(目からウロコ)
 そっかぁ。そーなんだぁ。
 言われてみればまあ、そんな気もする。
 ファンが「エロい」と思ってよろこんでいるなら、それがいちばんさ。
 わたしは気持ち悪さがたのしくて仕方ないんだけど。

 歌? 歌ですか?

 水夏希の、歌の出来映えを聞いてどーするよ?

 歌はアレに決まっているだろう!!(笑)
 声量のなさがいちばん気になった。ここはばーんと聴かせなきゃ!な、ところで歌としてのハッタリがきかないとつらいなと。
 ここで盛り上がるぞ!と、期待しているところでガクンと肩すかしされること数知れず(笑)。
 寿美礼サマが恋しくなったことは、ナイショです。今のわたしの最良の歌声はオサ様のドラマティック・ヴォイス(大声量)なので。

 マイクボリュームが抑えられているのかな? トートに関しては、もう少し上げて欲しいな。

 肩すかしだったことはたしかだけれど、そもそも演出がチガウせいかとも思う。
 ここぞ!というところをドラマティックに歌い上げるのではなく、わざと抑えめに静かに歌うことが、この「作品」のトートなのかもしれない。
 過去公演による先入観があるためとまどいが大きいけれど、柔軟に『エリザベート』を愉しみたい。

 トートの気持ち悪さがツボ。
 あの異次元生物感は、『エリザベート』という作品の新しい可能性だと思う。

 
 エリザベート@となみ。
 シシィが女の子だ、って、いいなあ。ーーこんな基本がウレシイって、どうなの(笑)。
 タカラヅカに何故「男役」と「娘役」があるかを再確認。ジェンヌは「女」ではなく、「男役」と「娘役(女役)」なんだねえぇ。

 「私だけに」を歌う姿を見て、愛しい少女だと思った。
 なんと愛すべき少女だろう。
 少女期の瑞々しい美しさ、魂の野生が華奢な身体からほとばしっている姿に、惹かれてならない。

 この愛すべき少女が、そのあとから心を閉ざし陶器のようなしんと冷たい美貌を刻んで生きていくことを思うと、切ない。
 1幕最後の鏡の間の美しさ。
 それを頂点に、彼女の美貌や存在感は薄くなっていく。
 闇に浸食されるように。

 トートの設定がこれまでのどの『エリザベート』ともチガウようだから、エリザベートもまたちがってくるのだろう。
 どう深化していくのかたのしみだー。

 
 どうしよう。
 コレ、書いていいもんだろうか?

 雪組『エリザベート』初日の、ええっと、率直な感想。
 ……いいのかな。なにしろあたし、雪全ツ『ベルサイユのばら』観て、ミズカルのことを「オカマ」と太字で書いた女だからな。ピュア水ファンは、わたしのブログ読みに来てないよね?

 水くんの、トート。

 気持ち悪かった。

 キショい……。
 このトート、キモイってば!!

 爬虫類というか、ヤモリみたい。ビジュアルとか、動きとか。
 顔色白すぎて、「塗りに失敗したセル画」みたい。本来別の色になるところも全部、同じ色で塗りつぶしちゃったみたいな。白目と肌色が同じ色で、輪郭だけ残ったマンガ絵。

 たぶん、演出家の意向なんだろう。トートがあまりにも異世界的。
 人間の動きをしない。

 ハンガリーとかウィーンのカフェとか、「その男、絶対異世界人だから、人間ぢゃないから、あんたらふつーにテーブル囲んだりしてんぢゃないわよ!」と、モブの人々に対してツッコミ入れちゃったよ。

 今までの、「公演を重ねるごとに人間くさくなるトート」を見慣れていたから。
 「人間」というカテゴリからはずれたトート像に、おどろいた。

 気持ち悪い。
 この人、絶対人間じゃない。
 わたしたちと同じ計算式で生きていない。

 そう思った。

 そして、それって、正しいんじゃないの? と、思ったんだ。

 水トートは、気持ち悪い。
 だけどソレこそが正しい。
 だって彼は、「死」なのだから。

 気持ち悪くて、わたしたちの理の外側にいて、あたりまえなんだ。

 水トートはわたしたちとチガウ理で生きる存在だから、エリザベートに対してちょっかいをかけるところひとつひとつが、気持ち悪い。彼の表情は、わたしたちの想像するなにものともちがい、「異質である」ことへの恐怖と嫌悪感が募る。

 エリザベートへの愛も、わたしたち人間が抱く・想像するものとはチガウ。
 これまでのトートが哀しみを感じていたところで怒りを表現していたり、舌を出して威嚇する蛇のようなおぞましさに満ちている。
 コレに愛されても、そりゃシシィは拒絶するわ……人間の男ぢゃないもん、存在も感性も。

 1幕終わりに「(エリザベートを)愛してる」と歌うことが、違和感。
 「愛してる」って……そんなふーにぜんぜん見えないんですけど。
 愛が見えない、のではなく、「トート」であるから、わたしたちと感性がチガウから、「愛」がチガウから、理解できないの。

 「異質」を演じるのはいい。正しいことだと思う。
 しかしコレ、どーするつもりだ?
 わたしたちは「人間」で、人間の感性以外は理解できないぞ? 異世界人をどれだけ完璧に演じてくれたって、求められてなければ猫に小判。
 今まで評判の良かったトート像は、「ただの人間」だったじゃん。外見だけ美しく、中身は人間。愛したり傷ついたりしていることがよーっくわかる、「人間の男とどこがチガウの?」なキャラクタの方が観客にはウケていた。
 や、だってここ「タカラヅカ」だし。「わかりやすい」ことが必要条件だし。

 一巡した『エリザベート』。
 「タカラヅカ」でやるべきことは一通りやってしまったはずの演目。最後の月組ではついに、「男役」がエリザベートを演じたりした。

 そして今また、最初の雪組に戻って。

 トートが、「死」になっていた。

 タカラヅカの男役ではなく、愛を語る理想の男ではなく、「死」。
 独特の動き、倫理観、感性、愛し方。
 人間の理解を超えた存在。

 一巡したのち、それでも再演する意味。
 それが、この気持ち悪いトートなんだと思う。

 いやあ、2幕の霊廟シーンがすごいねー。
 ルドルフの棺の上に立ったトート閣下。
 黒いコートの前をガバッとひろげて、シシィをソレで包むっつーか威嚇するっつーかするんだけど。

 変質者キターーッ!! って感じで、笑いツボ入っちゃったよー。
 それまであまりにもストーカーちっくだったしさー。机にねとっと寝そべっていたり銀橋に貼り付いて(変換ミスにあらず)いたり、変態ムード満点だったからさー。

 コート広げちゃいますか!! 変態の定番ゼスチャーしちゃいますか!!

 や、黒尽くめの静謐シーンから赤になるとは誰も思わず、視覚的インパクトの大きさは成功しているし、トートの変態……異質ぶりが現れていてすばらしい演出ですとも。

 トートが異質であることはわかった。気持ち悪さが演出意図であることもわかった。
 ただ、それゆえに「どーするつもりだ?」と首を傾げていた。異世界感覚のまま進められても、物語は終着しない。

 それが。

 その答えが。

 この、「変質者キターーッ!!」の直後に、あった。

 コートの前を広げて変態全開のトート閣下。
 息子を失い傷つききったシシィははじめて、自らトートに歩み寄る。「死なせて」と。

 トート閣下はルンルンでシシィを得ようとする。
 そのときに。

 トートは、シシィを拒絶する。

「まだ私を愛していない!」

 異質だったトート。
 人間の理とは別の次元にいたトート。ひたすら気持ち悪かったトート。

 それが。

 人間の女を愛した。

 死に逃げようとするシシィは、本来のシシィではない。死を拒絶し、自らの意志で「わたし」を貫き、苦しみ多き人生に敢然と立つのがエリザベートだ。
 トートが愛したのも、シシィがそーゆー女だったからだ。
 その彼女が、彼女らしさを失って死に逃げようとした。トートもそれでいいと思っていた。
 そう思って、口づけようとし……。

 拒絶した。
 シシィがシシィでないことに気づいて。

 トートが、変わった。

 異質だった、人間には理解できない感覚で愛していた、存在していた「死」が。
 「人間」を愛したゆえに、変わった。 

 や、それまでも愛していたさ。でもソレは、わたしたちにはわからない次元の愛し方だった。
 それが、わたしたちと同じ次元に来たの。「こちら側」に来たの。

 それまでの彼の愛は、勝手な愛だった。一方的に好き勝手にやっていただけ。
 それがはじめて、相手のことを見た、考えた。

 
 もしも彼に「翼」があったのなら、今この瞬間、千切れて落ちたかもしれない。

 
 「死」は、「人間」になった。
 恋をした。
 そして彼は、超越者から、ただの「男」になった。

「死は、逃げ場ではない」……この台詞を、今までの彼なら口にするはずがなかった。異質な彼は、こんな「人間くさい」台詞とは無縁な存在だった。
 だが、翼をなくし、「人間の男」に成り下がった彼ならば、この台詞を口にすることが相応しい。

 もちろんトートはこのあとも「死」であり続ける。べつに、物理的な能力を失ったわけじゃない。
 しかし彼の魂はもう「異質」ではない。わたしたちが理解できる範囲にいる。
 最終答弁でフランツに詰め寄られてうろたえるくらい、「ふつーの男」になっている。

 あまりに異質で気持ち悪かったトートが、真実の恋をして「人間」に変わる……。
 そのコントラストのあざやかさに、目眩がした。

 そうか、コレがやりたかったのか。

 「やりすぎ」なほど、気持ち悪いほどの爬虫類めいた仕草は、メイクは、ここにたどりつくための伏線だったのか。

 
 天使は恋をして地上に落とされる。
 それと同じように。

 「死」は恋をして、確実にナニかを失う。

 その不自由さが愛しい。
 「恋」をする前の彼は、あんなにたのしそうに、ゲーム感覚にシシィを追いつめていたのに。
 「恋」をしてから彼はもう、シシィの前に現れなくなったんだね。
 シシィが年老い、暗殺されるまで……最終答弁で結論を急かされるまで。

 「恋」をしたあとの彼は、不器用な少年のようで。

 シシィが最後、彼を受け入れるのがわかる。
 もう彼は彼女の前に現れなくなったけれど、見守っている意志は感じていただろうから。
 「死は逃げ場ではない」と、「人間の感覚」で語った……「人間」の淵まで堕ちてきた彼の愛を、たしかに感じただろうから。

 
 まちがいなく、ラヴストーリーだ。

 トートとシシィの。
 異世界と、現実世界の。

 だからこそ。

 水トートは、気持ち悪くて正解なんだ。

 このカタルシスにたどり着くために。

 
 や。
 マジでキモいんだってば(笑)。
 気色悪いんだってば。

 
 水夏希が好きです。

 あの爬虫類めいた外見と、それを裏切る人間的でホットな水先輩だからこそできる、彼だけの「トート像」だと思う。
 新しいトートを演じきった彼に、心からの拍手を。

 
 すずはるきが、いてくれてよかったっ。

 轟悠コンサート『LAVENDER MONOLOGUE』にて。

 『ハロー!ダンシング』のときも思ったけれど、ほんとすずがいてくれてよかった……この人がいないと、どーなっちゃうんだよほんと。

 と、いうのもだ。
 出演している宙組下級生たちの技術が低いので、職人すずが必要、とゆーことも、そりゃーある。
 でもさ、それ以前に宙下級生たちとトドロキの芸風の違いは、すでに異次元世界なのよ。
 同じ地平に立っていないのよ。別物すぎるのよ。『サザエさん』と『北斗の拳』を「だって、マンガなんだから同じでしょ」と言って、絵を切り張りしているくらい、無茶があるのよ。

 すずがいてよかった。
 『サザエさん』と『北斗の拳』の違和感を、すずがとりあえずデザイン力で埋めている感じ。ただ切り張りしただけじゃ、別物過ぎて見ていられないけど、加工したりなんだりすればなんとか同じフレームに入れても変ぢゃないか、こんなアートもありだよね、レベルには持っていってくれてる。
 ありがとう、すずはるき。

 すずが、かっこいいんだ。
 同じ衣装で踊っていたって、小僧っこどもとは存在がチガウさね。
 踊ってヨシ、歌ってヨシ、なにより美形で眼福。……いい男だ、すずはるき。若すぎない、こともいい。いい感じに大人だわ。

 そのうえ、女装まで披露だ。
 や、最近のすずは100%女装している気もするが。
 今回も美女となって「リリー・マルレーン」を気怠くドラマティックに熱唱。

 いっそ、トドの相手役としてねちこいラヴシーンとか見たかったよ……。

 この公演が盛り上がらない理由のひとつに、「2番手も相手役もいない」ということがある。
 いちおーすずが宙組出演者の中ではいちばん上の扱いを受けているれど、ちゃんとした「2番手」じゃないの。主役はトドひとり、あとはみんなただの共演者、つーかバックダンサー。
 きちんと組むところまでいっていない。
 娘役も、場面ごとにちがう子がちょっと絡む程度で、「相手役」はいない。アクセサリとしての扱いしか受けていない。

 みんな大して出番がないのよね。

 技術的に多少無理があってもいいから、誰かを2番手として、相手役として、がっちり組ませて欲しかった。
 トドロキと組むことでその下級生も勉強になるだろうし、作品的にも深みが出るのに。

 トドの相手役を務めた娘役はみんなトップスターになるから、半端な娘とは組ませられない、というのなら、すずはるきでよかったのに。
 ふたりで濃いぃ熱愛を、憎悪を、愛欲を表現してくれりゃあ、どれだけ盛り上がったろう。……かわいこちゃんなサワヤカるんるんショーだったから、すずが相手役でも「サワヤカなラベンダーの青春。ボクたち高校生! あはっ♪」てなコンセプトだったかもしれんけどな。(観たくねー)

 すずヒロイン、カチャ2番手で、どんなに無理があろうと本気で「作品」作ってくれてりゃあなあ。
 大人の男マフィア系@トドと、セクシーな恋人@すず、すずの弟でトドに反発する組織の下っ端・野心ギラギラ@カチャとか、いくらでもシチュエーションは作れるのになー。
 すずが男のままで、男の友情だのライバルだのやってくれても、ぜんぜんよかったのに。

 せっかくの共演者を、「アクセサリ」ではなく、真に「共演者」として使って欲しかった……。

 
 カチャは路線若手男役として、この公演の「華」ポジション。トドの歌の後ろで大人っぽいダンスをピンで踊ったり、がんばっていた。
 ショーでソロ場面を経験するのとしないのでは、成長度がぜんぜんチガウよね。カチャがこの経験を元にどーんといい男になってくれるといいな。

 
 ある意味すずよりカチャより、他の誰より目立つのは、言わずとしれた音乃いづみ。

 男装こえぇよ、兵士こえぇよ!(笑)

 目がギラギラして、ほんとに目立ちます。
 歌も安定、存在感もどっしりとして、どんどん別格女役の風格を身につけています。……いいのか、ソレで。
 せっかく実力のある人なんだから、もっと使われるかと思ったのに、そうでもなくて残念。や、いづみちゃんに限らずみんなバックダンサーに毛が生えた程度だったから、誰の扱いがいいってわけでもないんだけど。

 1部の1場面でのみトドの相手役を務めた娘さんが、すげーかわいい。有名人の娘さんだと新聞で見た記憶があるんだが……。
 とりあえず、顔はおぼえた。モブで踊っていても、目に付くぞっと。
 しかし、あんなに若いウチにトドの相手役なんかしたら、人生誤らないか心配だ……。現実の男性で、トドほど美しくエロい人はいないぞっと(笑)。
 若くてきれーな男の子ならいくらでもいるけれど、中年男であのレベルはねー。そして、少女のウチに大人の男にハマったりしたら、さらに大変だからさー。チャルさんに後ろから抱きしめられる役をやったリサちゃんの将来を心配したのと同じ感覚(笑)。

 大くんはじめとする『ハロー!ダンシング』メンバーは、『ハロダン』よりもよっぽどよかった。『ハロダン』は演出がよくないんだよなあ。キャストを魅力的に見せない。
 大くんもモブにいると、あのスタイルが栄えるよなー。「あ、あの子きれい」と素直に愛でられる。(ちょっとでも真ん中寄りに来ると、アレさ加減がすげー目に付いてしまうんだが……が、がんばれー)

 
 酒井せんせは、舞台の使い方はキレイ。
 セットも照明も衣装も、奥行きがあって安定していて華やかで、気持ちよく観ていられる。
 ただこの人、ほんとに「物語」が作れない人なんだよなあ……。
 視覚センスのよさを、物語センスの皆無っぷりで破壊されたのが、今回の作品だと思う。
 くやしいなあ。
 せっかく、めったにないトドのコンサートなのに……。5年ぶりなのに……。

 雪組とやる青年館でのコンサートも、遠征する気満々だったのに、演目がコレではもう観に行けないっすよ……。しくしくしく。

 
 あー、トド様の衣装はどれもすっげー金がかかってそうな衣装でした。
 兵士服、スーツなどをのぞけば、ほとんど全部、後ろがぞろりと長い大仰な服。
 ……豪華なんだけどね。似たテイストばっかなのは、アレが「轟悠」仕様ってことなのかなー。
 もう少し変化が欲しかったなぁ……。
 トド様、アレしか似合わない、ってわけでもないだろうに。いやむしろ、あんな横に広がる装飾過多な衣装ぢゃ、スタイル悪いのがさらに強調され……ゲフンゲフン。

 ダークで耽美なトド様に会いたかったなー。
 骨太で男らしいトド様にも、会いたかったなー。

 トドの美貌や持ち味を活かせる演出家と出会えることを、心から祈っております。


 わたしが演出家なら、轟悠になにをさせたいだろう。

 思わず、遠い目をして考え込んでしまった。
 少なくとも、『LAVENDER MONOLOGUE』のよーなことだけは、絶対にありえないっ。

 5年ぶりのトド様コンサート。
 もちろんわたしは、わくわく出かけた。ディナーショーはわたしのよーなびんぼー人には手が出ないけれど、コンサートなら観に行ける。ハコもバウホールと小さいし、濃密にトド様体験できるわ〜〜、と。

 それが。
 それなのに。

 なんで、こんなことに。

 
 はじめに明記するが、この作品はすべてにおいて、わたしの趣味ではなかった。
 わたしが心地よいと思うものではなかった。
 趣味嗜好の問題であり、善悪でも品質の問題でもない。わたしの嗜好に合わないからといって、駄作であるかどうかはわからない。

 ただ、わたしにとっては、憤慨するほどの駄作だった。
 
 5年ぶりのコンサートなんだよ? バウホールだよ? 期待するじゃん。いいものを見せてくれる、見たいものを見せてくれるんじゃないかって。
 芝居じゃなくコンサートなんだから、ある程度はたのしいものになる、歌とダンスだけなら失敗しようがない、って思うじゃないか。

 ……涙で前が見えません。

 なんだって、こんなことになってるんだ、酒井澄夫。
 ほんとうに、轟悠のことを考えたのか? ファンのことを考えたのか?
 手ぇ抜いた? どーでもいいと思って、なんかの使い回しでもした? 少なくとも、轟のために書き下ろしてないよな、この作品。アテ書きはしてないよな?

 轟悠に、今さら「少年」役をやらせるなんて、ありえない。

 沖田@『星影の人』の水夏希に続き、不自然に若者ぶるベテラン男役。『オクラホマ!』の悪夢再び。

 不自然に作った高い声、かわいこぶった話し方。
「18歳のボクは夢を見た……」
 一人称「ボク」かよ!! 漢字でもなくひらがなでもなくカタカナな発音、「ボク」。ボクちゃんとかそーゆー感じのかわいこぶり。

 かわいらしく、さわやかでとてもつなくダサい主題歌。そのうえ、ただ揺れるだけの、ダサい振付。

 わざとらしいかわいい声、かわいい歌い方。少年っぽい仕草。

 これが「轟悠」なの? みんなが求める「轟悠・男役23年目」の姿なの?

 何度も語っているが、「少年」ならば経験の少ないオンナノコにも、ある程度できる。
 しかし、「かっこいい大人の男」「色気のある中年男」はキャリアや技術がないとできない。
 専科に残ってまで男役を極めたトップ・オブ・トップスには、洟垂れ小僧が真似できないジャンルを見せて欲しいと思うのは、まちがっているのか?

 わたしが見たかったのは、「大人の男」だ。
 アイドルめいた若者や、ましてやかわいらしく揺れている少年ではない。

 ステージは2部構成で、1部はストーリー仕立てで2部がバラエティ・ショー。

 特に1部がひどかったのさ……。
 トドは少年からはじまり、いちおー彼の人生めいた展開をたどるのだが、とにかくすべてにおいて、「若い」。
 女の子と舞踏会で踊っていても、スーツでジャズを歌っていても、兵士となって戦場に行っても。
 年齢は10代から20代? なにもかも「若者」として演技をしている。
 青い、夢見がちな若者として演じられている。

 轟悠だから。
 スーツ姿の帽子を使ったダンスでも、戦場でのダンスも歌も、「大人の男」設定ならばそのように踊れる、歌える。
 いくらでもクサく、クドく表現できる人だ。

 なのにそうはせず、若者の演技を貫く。

 青さとかわいらしさとつまらない振付、そしてとってつけたよーな反戦が、目眩がするほどダサい……。
 そーだな、少年が戦場に行くんだから、反戦歌になるよなー、ははは。戦争はヨクナイコトデス、みんなヤメマショウ。

 ドラマティックに戦死したあとも、「ナーンチャッテ」って感じでかわいらしく「詩人のボクちゃん」になって終わるし。ナンチャッテなのかよ?!
 ダサい主題歌をかわいらしく歌って終わるし。振付、すべて若央りさだし。

 選曲も微妙。
 歌い上げ系、轟かせ系はなく、雰囲気重視。ニュアンスを愉しむ系。おとなしく「8分の力で歌えます」って感じ。魂からの熱唱!!なんてものはナイ。

 幕間は、なんかわたし放心してました。こんなにひでーもの見せられるとは思ってなくて。
 気を取り直してプログラム開いたら、読むところも眺めるところもなかったし。

 なんでぇ? 5年前のプログラムは、トド様のミニミニ写真集みたいになってたじゃん!! わたしはソレを期待して買ったのよ?! ふつーならプログラムなんて買わない人なのに、トドファンだからこそ買ったのに!

 2部はまだ、マシだったんだけどね……ただのバラエティ・ショーだったから。
 それでも、主題歌になると盛り下がるので後味が悪いったら。

 
 ただの嗜好の問題だから、他のトドファンのみなさんが、この構成を愉しんでいるなら、ソレはソレでいいのだと思う。
 少年トドを「イシちゃん、かわいー♪」と愛でているなら、ソレでいい。

 でも。

 アンコール曲が「チェ・タンゴ・チェ」だったのだわ。

 この曲がはじまるなり、客席の空気が変わった。
 それまで、ただおとなしく席についていた人たちの、温度が上がった。わたしよりセンター寄り後方に坐っていたnanaタン曰く、「観客が一斉に前のめりになった」。

 客が求めていた「轟悠」は、コレだったんぢゃん!!

 熱い熱い、絶唱。
 クドく濃く、糸を引きそうな「大人の男」。
 客席を練り歩き、セクシー爆発に目線をキメ、一本釣りしていく様にあちこちで声にならない悲鳴が上がる。
 嘆息に音が混ざる。
 至近距離で目線合わされた通路際の女性は撃沈。トドが通りすぎた後、顔を覆ってその場に崩れ落ちていた。
 あの「轟悠」に一本釣りされて、目の前で「チェ・タンゴ・チェ」歌われたらそりゃ崩れ落ちるだろうよ。

 轟悠、全開。
 こんなトドロキ、見たことナイ。

 大人の余裕で客たちを殺して回る。
 たのしそうに笑いを浮かべ、低い太いセクシーヴォイスを自在にあやつりながら、クドくクドく、濃ぃ〜くね〜っとりといやらしさを解放する。

 トドはいつもどこかストイックな人で。
 日本男児というか、「日本のお父さん」的な人で。ベタベタしたところを外に出さない硬質さがあるというか、や、今の時代ソレだけぢゃやっていけないだろう?と心配になるよーな、まあその、高嶺の花でありその分時代遅れ感のある人だった。
 こーゆー「あざとい」ことはしない人だった。

 なんだよー、こんなこともできんじゃん!!
 そして、ファンはソレを求めているんじゃん!!

 かわいい「少年」ではなく、あざといまでのセクシーな「大人の男」。

 抑えて歌うきれいな歌よりも、低音が響き渡る絶唱系。

 客がこんなにこんなによろこんで、空気変わって、温度上がっているのが、1時間半の演目のうちの、たった5分だけって、なにソレ。

 残り1時間25分はしーんとしている、って、なにソレ。

 なんだって、こんなことになってるんだ、酒井澄夫。
 ほんとうに、轟悠のことを考えたのか? ファンのことを考えたのか?
 トドが出ていればいい、なにかしていればいい、程度にしか考えてなかったんぢゃねーの?
 トドじゃなくても、他の誰かでもこの公演、ぜんぜんOKだよな。かわいい「少年」の一生なんだから、タニでもあさこでもできるよな?
 トドのためのアテ書きじゃないよな?

 トドのためのシーンは、アンコール1曲だけだよな?

 「チェ・タンゴ・チェ」で狂乱のまま終わっておきゃーいいのに、最後はまたあのダサ〜〜い主題歌で、みんな揃ってゆらゆら揺れるだけのダンスで幕。
 いやあ、盛り下がりました(笑)。


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