今、心を開いて。@ドン・カルロス
2012年3月12日 タカラヅカ キムシンはずいぶんおとなしくなったなと思う。
今回なんか、トンデモソングすらないしね。甲斐せんせじゃないから、あれほど耳に残る派手な曲を作れない、ってのもあるんだろうけど。
昔ほど声高に説教しなくなったなあ、と。
残念だわ(笑)。
わたしはキムシンのキムシン節、自己主張の強さが好きですもの。
おとなしくはなったけど。
所詮キムシンなので、根底に流れるモノは変わってないなと。
わたしが、好きなままだなと。
『ドン・カルロス』 。ある家族の、物語。
1キムシンファンとして観劇し、心に刺さったキーワードは、「無関心」だ。
『ドン・カルロス』 は、プログラムでキムシン自身が述べているように、家族の物語だ。王家の姿を借りているけれど、別にめずらしくもない、社会生活の最小単位の話。
登場人物たちはみな、互いにきちんと会話することができないためにすれ違い、悲劇へ発展していく。
その根っこにあるのが、「無関心」なんだ。
人間は不自由なモノで、実際に言葉をかわしたり、体験しなければ、理解しない・実感しないんだよ。
原発の危険性を語られていたって、実際に事故が起こるまではスルーしていられたわけだし、テレビで被災地の映像を見て心を痛めているのと、実際にその場へ行ってナマの光景を見、人の声を聞くのでは、感じ方や考え方に差があるはずだし。
腹を割って話し合わなきゃ本音なんか見えないし、自己完結しているだけじゃ、他人と関わることは出来ないし。
この作品は、家族の再生の物語であり、主人公カルロス@キムの成長と恋の成就の物語であるわけだが、そこにもうひとつ、ネーデルラント問題が絡んでいる。
本筋じゃないため、ネーデルラント問題とそれに関わるポーザ侯爵@ちぎの描き方が半端になってるのはアレだが、それでもネーデルラント問題は絶対に必要だった。
物語の元凶は、フェリペ二世@まっつだ。
このヲトメな男が、妻を愛しすぎ、その妻を失った傷から立ち直れずに心を閉ざしたことから、すべてがはじまっている。
フェリペ二世は自分を守るために、「無関心」であろうとした。息子カルロスから、後妻イサベル@あゆみちゃんから、家族というものから。
知らなければ、傷つかないで済む。
出会わなければ別れもないのと同じ。ただの背景、通行人だと思えば、相手に傷つけられることはない。
だからフェリペ二世は、無関心だった。
それゆえにカルロスもイサベルも追い詰められ、傷つくのだけど、彼らの気持ちを知らないフェリペ二世は痛くもかゆくもない、だってなにも知らないから。知ろうとしないから。
そのフェリペ二世の欠点を、社会の最小単位・家庭内の問題で終わらさず、国交レベルに広げたのが、ネーデルラント問題だ。
フェリペ二世はネーデルラントに関心がない。知らないから、いくらでも冷酷になれる。
戦争だってそうだよね。戦う兵士個人を知らないから、殺せる。
もしも敵兵と会話し、寝食を共にし、人生や嗜好や思いを知ってしまったら、殺せなくなるよね?
無関心であることの、罪。
だからカルロスは言うんだ。
友人たちからネーデルラントを救って欲しいと言われ、建前上それを断り、ひとりになったあとで。
「ネーデルラントに行ったことがない」と。
ほんとうの意味でネーデルラントのために働くなら、机上の正義感ではなく、実際に経験しなければ。
ポーザ侯爵がクララ@あんりの死を経験として刻み、現実に動き出したように。
名前だけ知る土地を救うのではない。そこへ行き、カルロスにとってのクララと出会うんだ。漠然とした大きな単位ではなく、個人と出会うんだ。それではじめて、正義感を超え、自分の望みとして行動できるだろう。
無関心ゆえに冷酷なフェリペ二世が、一旦心を開いた相手には情け深い人物であるように。
顔のない「敵」というモノなら殺せても、個人ならば殺せなくなるように。
まず、踏み出そうよ。
開こうよ。
冷たくて平気なのは、スルーして平気なのは、知らないからだよ。
そこにいるのが、わたしと同じ、泣いたり笑ったりする「人間」だってわかったら、傷つけられなくなるよ。
助けたい、力になりたいって思うよ。
特別でもなんでもない。それが、人間ってもんじゃん?
心から心へ、命をつないで。
ラストシーンにて、カルロスは愛するレオノール@みみと共に、ネーデルラントへ向かう。
彼は「ネーデルラントを救うために行く」とは言わない。
ただ「行く」とだけ言う。
まだ彼はネーデルラントを知らない。
ドイツ語訳の聖書にしたって、「こんなもの」扱いだ。
知らずに判断は出来ない。まずその身で知って、どうするのかは、それからだ。
書かれているのは、「家族」という、とても小さな単位。
そこで学び、少年は外の世界へ旅立つ。
家族も、国も、世界も、核は同じなんだ。
家族の話と恋の話は完結したけど、ネーデルラントがなんの解決もないじゃん!てなもんかもしれないが、ネーデルラント問題はそーゆー扱いだからなー。
「ネーデルラントに行ったことがない」カルロスが、「まずはネーデルラントだ」と行く先を決める。
主軸がカルロスの成長である以上、彼という人物を書く上でのネーデルラントは、ちゃんと起承転結していると思うわ。
カルロスは、「無関心」なままでは、いないの。
ポーザ侯爵のように傷つくかもしれない。だけど、自分から向かうのよ。
心を、開いて。
家族に対して、そうしたように。
小さな円が、いくつもの大きな円へつながっていく。
波紋のように。
これは家族の物語。
小さな小さな単位からはじまって、同じ核を持った大きな円につながっていく物語だ。
やっぱキムシンの書く物語は、好きだ。
今回なんか、トンデモソングすらないしね。甲斐せんせじゃないから、あれほど耳に残る派手な曲を作れない、ってのもあるんだろうけど。
昔ほど声高に説教しなくなったなあ、と。
残念だわ(笑)。
わたしはキムシンのキムシン節、自己主張の強さが好きですもの。
おとなしくはなったけど。
所詮キムシンなので、根底に流れるモノは変わってないなと。
わたしが、好きなままだなと。
『ドン・カルロス』 。ある家族の、物語。
1キムシンファンとして観劇し、心に刺さったキーワードは、「無関心」だ。
『ドン・カルロス』 は、プログラムでキムシン自身が述べているように、家族の物語だ。王家の姿を借りているけれど、別にめずらしくもない、社会生活の最小単位の話。
登場人物たちはみな、互いにきちんと会話することができないためにすれ違い、悲劇へ発展していく。
その根っこにあるのが、「無関心」なんだ。
人間は不自由なモノで、実際に言葉をかわしたり、体験しなければ、理解しない・実感しないんだよ。
原発の危険性を語られていたって、実際に事故が起こるまではスルーしていられたわけだし、テレビで被災地の映像を見て心を痛めているのと、実際にその場へ行ってナマの光景を見、人の声を聞くのでは、感じ方や考え方に差があるはずだし。
腹を割って話し合わなきゃ本音なんか見えないし、自己完結しているだけじゃ、他人と関わることは出来ないし。
この作品は、家族の再生の物語であり、主人公カルロス@キムの成長と恋の成就の物語であるわけだが、そこにもうひとつ、ネーデルラント問題が絡んでいる。
本筋じゃないため、ネーデルラント問題とそれに関わるポーザ侯爵@ちぎの描き方が半端になってるのはアレだが、それでもネーデルラント問題は絶対に必要だった。
物語の元凶は、フェリペ二世@まっつだ。
このヲトメな男が、妻を愛しすぎ、その妻を失った傷から立ち直れずに心を閉ざしたことから、すべてがはじまっている。
フェリペ二世は自分を守るために、「無関心」であろうとした。息子カルロスから、後妻イサベル@あゆみちゃんから、家族というものから。
知らなければ、傷つかないで済む。
出会わなければ別れもないのと同じ。ただの背景、通行人だと思えば、相手に傷つけられることはない。
だからフェリペ二世は、無関心だった。
それゆえにカルロスもイサベルも追い詰められ、傷つくのだけど、彼らの気持ちを知らないフェリペ二世は痛くもかゆくもない、だってなにも知らないから。知ろうとしないから。
そのフェリペ二世の欠点を、社会の最小単位・家庭内の問題で終わらさず、国交レベルに広げたのが、ネーデルラント問題だ。
フェリペ二世はネーデルラントに関心がない。知らないから、いくらでも冷酷になれる。
戦争だってそうだよね。戦う兵士個人を知らないから、殺せる。
もしも敵兵と会話し、寝食を共にし、人生や嗜好や思いを知ってしまったら、殺せなくなるよね?
無関心であることの、罪。
だからカルロスは言うんだ。
友人たちからネーデルラントを救って欲しいと言われ、建前上それを断り、ひとりになったあとで。
「ネーデルラントに行ったことがない」と。
ほんとうの意味でネーデルラントのために働くなら、机上の正義感ではなく、実際に経験しなければ。
ポーザ侯爵がクララ@あんりの死を経験として刻み、現実に動き出したように。
名前だけ知る土地を救うのではない。そこへ行き、カルロスにとってのクララと出会うんだ。漠然とした大きな単位ではなく、個人と出会うんだ。それではじめて、正義感を超え、自分の望みとして行動できるだろう。
無関心ゆえに冷酷なフェリペ二世が、一旦心を開いた相手には情け深い人物であるように。
顔のない「敵」というモノなら殺せても、個人ならば殺せなくなるように。
まず、踏み出そうよ。
開こうよ。
冷たくて平気なのは、スルーして平気なのは、知らないからだよ。
そこにいるのが、わたしと同じ、泣いたり笑ったりする「人間」だってわかったら、傷つけられなくなるよ。
助けたい、力になりたいって思うよ。
特別でもなんでもない。それが、人間ってもんじゃん?
心から心へ、命をつないで。
ラストシーンにて、カルロスは愛するレオノール@みみと共に、ネーデルラントへ向かう。
彼は「ネーデルラントを救うために行く」とは言わない。
ただ「行く」とだけ言う。
まだ彼はネーデルラントを知らない。
ドイツ語訳の聖書にしたって、「こんなもの」扱いだ。
知らずに判断は出来ない。まずその身で知って、どうするのかは、それからだ。
書かれているのは、「家族」という、とても小さな単位。
そこで学び、少年は外の世界へ旅立つ。
家族も、国も、世界も、核は同じなんだ。
家族の話と恋の話は完結したけど、ネーデルラントがなんの解決もないじゃん!てなもんかもしれないが、ネーデルラント問題はそーゆー扱いだからなー。
「ネーデルラントに行ったことがない」カルロスが、「まずはネーデルラントだ」と行く先を決める。
主軸がカルロスの成長である以上、彼という人物を書く上でのネーデルラントは、ちゃんと起承転結していると思うわ。
カルロスは、「無関心」なままでは、いないの。
ポーザ侯爵のように傷つくかもしれない。だけど、自分から向かうのよ。
心を、開いて。
家族に対して、そうしたように。
小さな円が、いくつもの大きな円へつながっていく。
波紋のように。
これは家族の物語。
小さな小さな単位からはじまって、同じ核を持った大きな円につながっていく物語だ。
やっぱキムシンの書く物語は、好きだ。