キムシンはずいぶんおとなしくなったなと思う。
 今回なんか、トンデモソングすらないしね。甲斐せんせじゃないから、あれほど耳に残る派手な曲を作れない、ってのもあるんだろうけど。

 昔ほど声高に説教しなくなったなあ、と。
 残念だわ(笑)。

 わたしはキムシンのキムシン節、自己主張の強さが好きですもの。

 おとなしくはなったけど。
 所詮キムシンなので、根底に流れるモノは変わってないなと。

 わたしが、好きなままだなと。

 『ドン・カルロス』 。ある家族の、物語。

 1キムシンファンとして観劇し、心に刺さったキーワードは、「無関心」だ。

 『ドン・カルロス』 は、プログラムでキムシン自身が述べているように、家族の物語だ。王家の姿を借りているけれど、別にめずらしくもない、社会生活の最小単位の話。

 登場人物たちはみな、互いにきちんと会話することができないためにすれ違い、悲劇へ発展していく。
 その根っこにあるのが、「無関心」なんだ。

 人間は不自由なモノで、実際に言葉をかわしたり、体験しなければ、理解しない・実感しないんだよ。
 原発の危険性を語られていたって、実際に事故が起こるまではスルーしていられたわけだし、テレビで被災地の映像を見て心を痛めているのと、実際にその場へ行ってナマの光景を見、人の声を聞くのでは、感じ方や考え方に差があるはずだし。
 腹を割って話し合わなきゃ本音なんか見えないし、自己完結しているだけじゃ、他人と関わることは出来ないし。

 この作品は、家族の再生の物語であり、主人公カルロス@キムの成長と恋の成就の物語であるわけだが、そこにもうひとつ、ネーデルラント問題が絡んでいる。
 本筋じゃないため、ネーデルラント問題とそれに関わるポーザ侯爵@ちぎの描き方が半端になってるのはアレだが、それでもネーデルラント問題は絶対に必要だった。

 物語の元凶は、フェリペ二世@まっつだ。
 このヲトメな男が、妻を愛しすぎ、その妻を失った傷から立ち直れずに心を閉ざしたことから、すべてがはじまっている。
 フェリペ二世は自分を守るために、「無関心」であろうとした。息子カルロスから、後妻イサベル@あゆみちゃんから、家族というものから。

 知らなければ、傷つかないで済む。

 出会わなければ別れもないのと同じ。ただの背景、通行人だと思えば、相手に傷つけられることはない。
 だからフェリペ二世は、無関心だった。

 それゆえにカルロスもイサベルも追い詰められ、傷つくのだけど、彼らの気持ちを知らないフェリペ二世は痛くもかゆくもない、だってなにも知らないから。知ろうとしないから。

 そのフェリペ二世の欠点を、社会の最小単位・家庭内の問題で終わらさず、国交レベルに広げたのが、ネーデルラント問題だ。
 フェリペ二世はネーデルラントに関心がない。知らないから、いくらでも冷酷になれる。

 戦争だってそうだよね。戦う兵士個人を知らないから、殺せる。
 もしも敵兵と会話し、寝食を共にし、人生や嗜好や思いを知ってしまったら、殺せなくなるよね?

 無関心であることの、罪。

 だからカルロスは言うんだ。
 友人たちからネーデルラントを救って欲しいと言われ、建前上それを断り、ひとりになったあとで。
 「ネーデルラントに行ったことがない」と。
 ほんとうの意味でネーデルラントのために働くなら、机上の正義感ではなく、実際に経験しなければ。
 ポーザ侯爵がクララ@あんりの死を経験として刻み、現実に動き出したように。
 名前だけ知る土地を救うのではない。そこへ行き、カルロスにとってのクララと出会うんだ。漠然とした大きな単位ではなく、個人と出会うんだ。それではじめて、正義感を超え、自分の望みとして行動できるだろう。

 無関心ゆえに冷酷なフェリペ二世が、一旦心を開いた相手には情け深い人物であるように。
 顔のない「敵」というモノなら殺せても、個人ならば殺せなくなるように。

 まず、踏み出そうよ。
 開こうよ。
 冷たくて平気なのは、スルーして平気なのは、知らないからだよ。

 そこにいるのが、わたしと同じ、泣いたり笑ったりする「人間」だってわかったら、傷つけられなくなるよ。
 助けたい、力になりたいって思うよ。

 特別でもなんでもない。それが、人間ってもんじゃん?

 心から心へ、命をつないで。


 ラストシーンにて、カルロスは愛するレオノール@みみと共に、ネーデルラントへ向かう。
 彼は「ネーデルラントを救うために行く」とは言わない。
 ただ「行く」とだけ言う。

 まだ彼はネーデルラントを知らない。
 ドイツ語訳の聖書にしたって、「こんなもの」扱いだ。
 知らずに判断は出来ない。まずその身で知って、どうするのかは、それからだ。

 書かれているのは、「家族」という、とても小さな単位。
 そこで学び、少年は外の世界へ旅立つ。
 家族も、国も、世界も、核は同じなんだ。


 家族の話と恋の話は完結したけど、ネーデルラントがなんの解決もないじゃん!てなもんかもしれないが、ネーデルラント問題はそーゆー扱いだからなー。
 「ネーデルラントに行ったことがない」カルロスが、「まずはネーデルラントだ」と行く先を決める。
 主軸がカルロスの成長である以上、彼という人物を書く上でのネーデルラントは、ちゃんと起承転結していると思うわ。

 カルロスは、「無関心」なままでは、いないの。

 ポーザ侯爵のように傷つくかもしれない。だけど、自分から向かうのよ。
 心を、開いて。

 家族に対して、そうしたように。


 小さな円が、いくつもの大きな円へつながっていく。
 波紋のように。

 これは家族の物語。
 小さな小さな単位からはじまって、同じ核を持った大きな円につながっていく物語だ。


 やっぱキムシンの書く物語は、好きだ。

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